《命运石之门0》游戏原案(日文版)

发布于 2021-06-06  82 次阅读


ハッチが開かれた。
まばゆい光が、俺の目に飛び込んでくる。
ここはどこだ?
目を細めてみる。
かろうじて見えたのは、夏の夕焼け空。
ここから出たくなかった。
このまま消えてしまいたかった。
それなのに――
強引に腕をつかまれて、俺はそこから引きずり出された。

「うお、もう帰ってきたお! まだ1分も経ってないのに」
まゆり
「……オカリン?」
いつものあだ名を呼ばれても、それに反応する気力もなく。
俺は、ほとんど倒れ込みそうになりながら、その場にうずくまった。
まゆり
「オカリン!」
駆け寄ってきたまゆりが、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
けれど今は、そんな気遣いすら鬱陶しい。
――俺なんかに話しかけないでくれ。
――一人にしてくれ。

「ちょっ、オカリン血まみれじゃん! どうしたん!?」
鈴羽
「父さん、タオルと水、あと服も! 今すぐ手に入れてきて!」

「え? え? どういうことか説明プリーズ!」
鈴羽
「いいから早く!」

「わ、分かったお!」
ダルがビル内へ続くドアへ駆け込んでいった。
まゆり
「オカリン、大丈夫……? しっかりして……死なないで……」
鈴羽
「大丈夫。ケガしてるわけじゃないよ」
よせ。
俺なんかに構うな。
放っておいてくれ。
俺は、彼女を助けられなかった。
それどころか、彼女の命をこの手で奪ったんだ。
3週間前のこの場所で。
俺が、殺した。
俺は、人殺しなんだ。
倫太郎
「無駄だったんだ……なにをやっても、無駄だ……」
倫太郎
「は、はは……。全部、決まってしまっていることなんだよ……」
倫太郎
「同じだ……まゆりのときと、同じなんだ……」
倫太郎
「どれだけ、もがいたって……結果は、同じになる……」
何度リトライしても、同じ結果のみに必ず収束する。
過程は関係ない。
タイムリープだろうとタイムトラベルだろうと、過去に遡って結果をねじ曲げることはできない。
そんな残酷な現実を、分かっていたはずなのに。
一番キツい形で、改めて実感させられるなんてな……。
倫太郎
「無駄だよ……無駄なんだ……なにもかも無駄なんだよ……」
倫太郎
「俺は、やっぱり、紅莉栖を助けられないんだ……。は、はは、ははは……」
倫太郎
「分かってた……。分かってたんだ……。こうなるって、予想してたんだ……」
倫太郎
「もう、疲れた……。ずっと、休んでないんだ……。だから、もういいよ……」
倫太郎
「はは、は……」
まゆり
「オカリン……いったいなにが……」
倫太郎
「俺が……俺が、殺した……殺してしまった……バカみたいだ……全部、俺のせいだ……」
鈴羽
「牧瀬紅莉栖をさ、刺し殺しちゃったんだ」
まゆり
「殺した……? ウソ……そんな……」
鈴羽
「でも安心して。まだもう1回分、タイムトラベルはできる」
倫太郎
「ほっといてくれ……俺のことなんか……。何度やったって、結果は同じだ……」
鈴羽
「なに言ってんの!? 諦めるつもり!?」
鈴羽
「オカリンおじさんの肩には、何十億っていう人の命がかかってるんだよ!?」
鈴羽
「たった1回の失敗がなんだって言うんだ!」
倫太郎
「紅莉栖は、どうやったって、助けられない……。
世界線

の収束には、逆らえない……」
それが、世界の真理なんだ。
とっくに、分かりきっていたことなんだ。
鈴羽
「く……! こうなったら、ビンタしてでも気合い入れ直して――」
まゆり
「だめだよ……! 無理強いするのは、よくないよぅ……!」
まゆり
「こんなボロボロになってるオカリン、見てられないもん……」
鈴羽
「でもさ、このままじゃ、未来を変えられない」
まゆり
「どうして? どうして未来のことを、オカリンひとりに押し付けるの?」
まゆり
「そんなの、重すぎるよ……」
鈴羽
「オカリンおじさんには、世界の観測者としての能力があるからだよ」
まゆり
「オカリンが、望んだわけじゃないのに……!」
まゆり
「それにもう一度やったって、またオカリンが傷付くだけだって、思うな……」
まゆり
「未来のことを、人ひとりで変えようなんて、きっと無理なんだよ……」
鈴羽
「だから、そのための『シュタインズゲート』で……」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「気持ちは分かるよ。でもさ、あたしも未来をかけて、ここまで来てるんだよね」
鈴羽
「どっちにしろ2036年には戻れないんだ。そう簡単に諦めるつもりはないから」
まゆり
「…………」
鈴羽
「オカリンおじさん。1つだけ、忠告しとく。このタイムマシンに残されてる燃料は、有限なの」
鈴羽
「さっきは往復2回分しか残ってないって言ったけど、実はまだそれなりに余裕はある」
鈴羽
「それでも、移動できる時間は、およそ344日分」
鈴羽
「片道のタイムトラベルだとしても、今から1年と経たないうちに、7月28日には届かなくなる」
鈴羽
「覚えといて。その日になったらさ、あたしは、たとえ一人でも跳ぶよ」
倫太郎
「…………」
誰かが、なにかを俺に向かって言っている。
でも、言葉の意味を聞き取れない。
なにも聞きたくない。今は泥のように眠りたい。
もう、いいだろ。
もう解放してくれ……。
まゆり
「オカリン?」
まゆり
「オカリン……。ねえ、オカリン……」
まゆり
「もう、頑張らなくてもいいからね?」
まゆり
「泣いてもいいんだよ、オカリン……」
まゆり
「まゆしぃはそばにいるからね……オカリン……」
倫太郎
「…………」
まゆりが、そう言ってくれたからかどうかは分からないけれど。
涙が、溢れて。
なにもかも忘れようと、決めた。
だからその日以来、俺はラボ――
未来ガジェット研究所

に行くのを、やめた。
駅前にそびえ立つ、新しい秋葉原のシンボルのひとつ、UPX。
その4階にあるホールでは、朝からATF――アキハバラ・テクノフォーラム――のコンベンションの準備が進められていた。
国内外の複数の大学や研究施設が連携し、特別なセミナーやシンポジウムが不定期に行われる。
俺の通う
東京電機大学

も、産学連携機能の一環として参加しているのだが、関連ゼミの学生たちはこれらのセミナーに出て、指導教員にレポートを提出しなければならない。
でないと、単位をもらえないのだ。
俺は、それに加えて今回のコンベンションでは、講演者のひとりである井崎准教授の手伝いもすることになっていた。
今は、共用ロビーに設けられた受付でリストを持って、セミナーに来る学生達の出欠チェックのために待機しているところだった。
まだセミナー開始までは少し時間があるから、ロビーには人もまばらだ。リストに載っている学生たちも誰も来ていない。
暇だが、ひたすらここで待っているしかない。
昔の俺なら考えられない勤勉さだが、井崎にこうしてアピールしているのは、新しくできた人生の目標のためだ。
ヴィクトル・コンドリア大学。
それが、俺の今の目標。
井崎は、そこの大学と共同研究をいくつも行っており、人脈も広い。そんな彼の助手をつとめて働くことが、目標に近づく第一歩なんじゃないかと、足りない頭で考えたわけだ。
それに、今回のコンベンションでは、夏に引き続きヴィクトル・コンドリア大学のセミナーが開かれる予定になっている。
それにも、当然ながら関心があった。
夏、か……。
倫太郎
「……っ」
あのときの、彼女の姿が脳裏によみがえる。
ヴィクトル・コンドリア大学を目指すのは、牧瀬紅莉栖のやろうとしていたことを学んで、自分が引き継いでみたいと思ったからだ。
もちろん俺は、紅莉栖のような天才じゃない。だから、彼女の研究すべてを引き継ぎたいなんて、身の程知らずなことは言わない。
それでもせめて、1割程度でも、俺になにかできたら……。
我ながら、よくここまで立ち直ったもんだよな。
そう思って苦笑したとき、ロビーに声が響いた。
???
「ちょっと、そこの方――?」
倫太郎
「……?」
顔を上げると、エレベーターホールからこちらに向かってやってくるひとりの少女の姿が見えた。
背も体格もなにもかも、とにかく全体的に小さい。
思春期を迎えないと現れない女性特有の気色が少しは感じられるので、さすがに小学生ということはなさそうだが……。
中学生くらいか?
せっかく可愛いらしい顔つきをしているのに、ずいぶん野暮ったい女の子だな。
ボサボサの髪は、背中で適当にまとめただけ。
服装だって、俺から見てもセンスが皆無だと一目で分かる。
少女
「ごめんなさい。スタッフルームってどこかしら?」
倫太郎
「えっと、ここはATFのセミナー会場だけど……?」
この場所には中学生の女の子は明らかに不釣り合いだ。
たぶん間違えて入ってきてしまったんだろう。
少女
「そんなの分かっているわ。何度同じ話を繰り返せば気が済むの?」
倫太郎
「いや、今、初めて言ったんだけど……」
少女
「私にとっては、あなたで4回目よ。この場所に来てからねっ」
鼻息を荒くした女の子は、懐からカードをひっぱり出した。
今回のコンベンションの招待者に配られているゲストカードだ。表面には名前や所属機関が英語と日本語でプリントしてある。
倫太郎
「えっ?」
“Viktor chondria University USA
 Brain Science Institute”
倫太郎
「……ヴィクトル・コンドリア大学……
脳科学

研究所……?」
目の前の少女とカードとを、何度も見比べて。
ようやく思い至った。
倫太郎
「ああ! そういうことか!」
倫太郎
「そのカード、どこに落ちてんだ? 拾ってくれたん――」
少女
「その話も4回目よっ」
彼女は、うんざりしたように別のカードを掲げて見せた。
それは写真入りのIDカードで、ヴィクトル・コンドリア大学の脳科学研究所のもの。
倫太郎
「え? え?」
いつだったか、別の世界線の紅莉栖が持っているのを見たことがある。それと同じデザインだ。
IDカードにプリントされた写真は――間違いなく目の前の女の子だった。
少女
「“ひやじょうまほ”って読むの」
少女
「私の名前。
比屋定
ひやじょう
 
真帆
まほ
。漢字でもローマ字でも誰も読めたためしがないから、先に言っとくわ」
倫太郎
「……えっと……ヴィクトル・コンドリア大学の、中学生?」
真帆
「寝ぼけるなら夜にして。大学に中学生がいるわけないでしょう」
倫太郎
「そ、それもそうだな。じゃあ、飛び級か……」
日本と違い、アメリカでは飛び級は珍しくない。紅莉栖だって17歳ですでに大学を卒業していたのだ。
とはいえ……こんな幼い女の子がすでに大学の研究員だなんて……。
真帆
「……ひとつ確認していいかしら?」
倫太郎
「あ、ああ」
真帆
「あなた、今、少なからず衝撃を受けてるわよね?」
真帆
「“こんな小さい子が……信じられない”かしら?」
真帆
「それとも“この年齢ですごい”の方?」
倫太郎
「は、はは」
図星だ……。
真帆
「ここをよく見なさい」
女の子――比屋定真帆は、IDカードの一部分を細い指でビシッと指した。
1989年生まれということは、今は2010年だから……
倫太郎
「……21歳?」
真帆
「つまり立派な成人女性よ。中学生じゃないのよ。もちろん小学生でも幼稚園児でも」
そして、ぐいっと胸を張った。
あまり大きくは見えない胸だったが、“私は着やせするの、脱ぐとすごいの”と彼女なら言いそうだ。
倫太郎
「…………」
真帆
「なにかしら、その顔は」
倫太郎
「あ、いや。……悪かった、謝る」
信じられん……。俺より、年上とは。
ダルに紹介したら“
合法ロリ

ktkr

!”などと興奮して手がつけられなくなりそうだ。
真帆
「まぁ、いいわ。世界中どこへ行っても同じ目に遭ってるから」
倫太郎
「うん、そうだろうな……」
真帆
「なにか言った?」
倫太郎
「いや、別に!」
それにしても……脳科学研究所か。
紅莉栖が所属していたところじゃないか。
ということは、この子……じゃなくて、この人は紅莉栖のことを知っているかもしれないのか。
色々と訊いてみたい衝動を、ぐっとおさえこんだ。
セミナーの進行が記されているリーフレットを見返してみる。
ヴィクトル・コンドリア大学の講演は、今日のコンベンションの最後で、いわば“トリ”のようなポジションに置かれている。
今回は、この比屋定真帆という人が講演するんだろうか?
夏のコンベンションで、紅莉栖が登壇したように――
いや、待て。違う。そうじゃない。そんな事実はない。
牧瀬紅莉栖は、夏に講演なんてしていないんだ。
あれは、α世界線での出来事なんだから。
今俺がいるこの世界線では、彼女は夏のコンベンションの前に……。
倫太郎
「君が、今日は登壇を?」
真帆
「いいえ。私は助手として来たの。あと通訳も兼ねてね」
そう言われて改めてリーフレットを見ると、講師の欄には“Alexis Leskinen”という名前が載っていた。
アレクシス・レスキネン。
肩書きは、ヴィクトル・コンドリア大学教授①脳科学研究所主任研究員。
倫太郎
「テーマは“人工知能革命”か。うん、面白そうだ」
真帆
「時間があったらぜひ聴いてみて欲しいわね」
倫太郎
「そうするよ」
倫太郎
「――あ、スタッフルームだったよな?」
エレベーターホールまで先導して、比屋定真帆にスタッフルームの場所を指し示した。
真帆
「ありがとう」
それ以上は彼女に付きまとう理由はない。
俺も会釈を返し、その場から踵を返そうとした。
その時――
ちょうどエレベーターの扉が開いて、中から女がひとり、降りてきた。
その女の顔を認めた瞬間、俺の全身の毛がぞわりと逆立った。
倫太郎
「……!」
萌郁
「…………」
桐生
きりゅう
……
萌郁
もえか
っ!
あやうく叫びそうになり、必死になって自分を制する。
落ち着け。
ここはβ世界線だ。
まゆりは
①①①①
生きてる
①①①①

萌郁は
①①①
まゆりを
①①①①
殺さない
①①①①

萌郁
「……?」
目が合った。
眼鏡の奥の瞳は、相変わらず生気がなくなにを考えているのか読み取りづらい。
俺は悟られないように、必死に視線を逸らした。
萌郁は首をかしげるような仕草をしたが、すぐに俺への興味などまったく失って、比屋定真帆のそばへと寄って行った。
萌郁
「あの……?」
真帆
「ああ。えっと、雑誌社の方、でしたよね?」
萌郁
「……お約束通り……取材を……」
相変わらずというか、この世界線でもというか……萌郁はボソボソと聞き取りにくい声でしか喋らない。
真帆
「レスキネン教授はまだなんです。少しお待たせしてしまいますけど」
萌郁
「……はい」
真帆
「それまで、私でよければシステムの概要でも?」
萌郁
「お願い、します……」
2人はそこまで話すと、連れ立ってスタッフルームの方へと消えていった。
俺は2人の背中を見送ると、大きく深呼吸する。
落ち着こうとしても、動悸はなかなか収まらない。
倫太郎
「桐生萌郁……。もしかして、また、お前なのか?」
心の傷にザラリと

さわ
っていくような、嫌な、感覚。
秋葉原を通る路線がテロ予告によってすべて停まった、あの夜。
まるで暗雲のように不吉な予感に包まれた、あの時のように。
倫太郎
「ここでもまた、お前が――」
それとも、それはただの思い過ごしで……今の萌郁は
SERN


ラウンダー

でもなんでもなく、ただの雑誌記者なんだろうか。
いや。仮に桐生萌郁がラウンダーだったとしても、俺たちはもうSERNとは関係がないんだ。SERNが俺たちをマークしていることはない。
倫太郎
「ふぅぅ……」
さらに大きく深呼吸をしてから、ポケットから精神安定剤をつかみ出し、あらかじめ買っておいたミネラルウォーターと一緒に胃に流し込んだ。
効き目が現れて来るまでに約15分。それまでが結構つらいんだよな。
少し自嘲気味に笑いながら、受付のイスにぐったりと腰を下ろした。
受付のテーブルには、セミナー参加者に配るリーフレットやパンフレット、折込資料などが積み上げられていた。
パンフレットの表紙に、ついつい目がいってしまう。
『疑似科学の系譜と中鉢論文』。
井崎准教授のセミナーで配布するパンフレットだ。
中鉢論文。
あの男が、ロシアで発表した論文。
そこには、タイムマシンを実用化するための理論が書かれていた。
倫太郎
「…………」
あの運命の7月28日。
中鉢が、実の娘である紅莉栖からその論文を奪い、持ち去った。
そのことを、俺は知っている。
俺と、中鉢だけが知っている。
試しに、パンフレットをめくってみた。
多くの疑似科学やトンデモ科学のたぐいが20世紀以降に絞ってざっと紹介されている。一応、面白おかしい読み物として楽しめないこともない。
その系譜の最先端として後半のページに華々しく登場するのが、ロシアの『中鉢論文』だと井崎は結論づけていた。
要するに、中鉢博士のタイムマシン理論は、
表の
①①
学会
①①
ではまったく相手にされなかったっていうことだ。
娘を排除してまで渇望した地位も権威も名声も、なにひとつあの男の手には入っていなかった。
しかも噂によれば、発表後はロシアの研究施設に軟禁されているらしい。好待遇で迎えられていると本人は勘違いしているとも聞くから、なおさら滑稽だ。
一時期、ニセの科学誌に論文やインタビューが多く載ったが、そこでもすっかり自分に酔い知れていた。
皮肉なことに、中鉢論文はあまりにも正しく、そして革命的すぎた。
それが他国に流出することを恐れているロシアは、
ロシア対外情報庁

が中心となって徹底的な情報管理体制を敷いているという。
にもかかわらず、すでに水面下では、論文をめぐる情報戦争が始まっている。
2036年からやってきたタイムトラベラー、
ジョン・タイター

がそう言ったのだから、間違いないだろう。
このまま、世界は第三次世界大戦へ突き進んでいくんだろうか――。
考えてもしょうがない。
薬が効いてくるまで、もう少し。
俺はそっと目を閉じた。
それから数時間。
コンベンションは順調に進行していた。
井崎准教授のセミナー後、電大生のほとんどは帰ってしまったが、俺はしばらく時間を潰してからここに戻ってきた。
ヴィクトル・コンドリア大学の講演を、聴いておきたかったからだ。
時間に余裕をもって会場へ向かおうとすると、ちょうどスタッフルームから、比屋定真帆がやって来るのが見えた。
やたらと背の高い外国人の男性と一緒にいる。あの人が、アレクシス・レスキネン教授だろうか。
アメリカ人の名前ではない気がするので、紅莉栖と同じように他国からの移住者か、移民の末裔なのかもしれない。
聞くつもりはなかったが、2人がやけに深刻そうな顔で話しながら歩いているので、ついつい聞き耳を立ててしまった。
その会話は当然ネイティブな英語なので、ほとんど聴き取れない。ただ、穏やかな話でないのは声の調子から理解できた。
倫太郎
「……?」
というか今、会話の中に『マキセ』っていう単語が聞こえたような……。
自分のつたない英語力が恨めしい。
こんなことなら、英会話の勉強をしておけばよかった。
そうこうしているうちに、2人はUPXシアターに隣接する、講演者用の控え室へと入っていってしまった。
倫太郎
「…………」
かろうじて聞き取ることのできた断片的な情報をつなぎ合わせて、整理してみる。
『クリスの家が火事』『マキセ夫人は無事』『強盗』『警察が捜査中止』『なぜ
FBI

が来た?』『奇妙だ』
そんなようなことを話していたと思う。
紅莉栖の家……。というと、アメリカでの住居だろうか。紅莉栖の母はアメリカに今も住んでいるはず。そこが火事に……?
強盗とか捜査中止とか、きな臭い言葉もいくつか聞こえてきたのが、すごく気になるんだが……。
気を揉んでいるうちに、講演開始の時間が来てしまった。
やむなくシアター内に足を踏み入れる。
さっきからシアター内に入っていく人の流れを見ていたから、分かってはいたが。
シアター内は、かなりの熱気に溢れていた。
大学生が進級や卒業のための単位目的で聴講している井崎のセミナーなどとは、明らかに雰囲気が違う。
最先端科学に興味のある聴衆や、研究者とおぼしき風体の人たちで、会場はほぼ満席だった。
このところ、ヴィクトル・コンドリア大学の研究者たちの論文が続けざまにサイエンス誌などに掲載されていて、一躍注目の的になっているせいもあるかもしれない。
空いている席はどこかにあるだろうか。
隅の方にポツンとひとつ、空席を見つけた。
だが、その横の席を見て、思わずうめき声をあげてしまう。
萌郁
「…………」
またお前か……。
桐生萌郁は、周囲の誰かと話すこともなく、膝の上に置いた携帯電話になにかをひたすら打ち込んでいた。
かつて俺が『
閃光の指圧師
シャイニングフィンガー
』と名付けた、高速の指の動きは健在だ。
いったい誰に連絡しているんだろう。
想像もしたくない。
その場から逃げるように離れ、他の空席を探した。
なんとか腰を下ろしたのとほぼ同じタイミングで、壇上にレスキネン教授が現れる。
途端に割れるような拍手が起こった。
だが、その後ろにちょこちょこと小さな少女がくっついて出てきたことで、拍手はザワザワというどよめきに変わっていった。
比屋定真帆にしてみれば、そんな反応など想定済みだったんだろう。顔色ひとつ変えずに教授のすぐ近くに控えている。
むしろ、教授からマイクを受け取ってシアター内をぐるりと見回している姿は、なかなか堂に入っていると俺には思えた。
レスキネン
「“Ladies and gentlemen……”」
まずレスキネン教授が英語で語りはじめた。
比屋定真帆が、教授のアイコンタクトを受けて、適切に同時通訳していく。
真帆
「“みなさん、本日は私のセミナーに集まってくださって感謝します”」
真帆
「“ヴィクトル・コンドリア大学、脳科学研究所のアレクシス・レスキネンです。専門は、脳信号処理システムおよび人工知能理論になります”」
真帆
「そして私は、助手の比屋定真帆です。同じく脳科学研究所で、教授の指導に沿って研究をしています。よろしく」
また客席がざわついた。
俺が初めて彼女と会った時と同じ反応。
まあ、そうなるよな……。
真帆
「“では、さっそくですが、私たちの最先端研究の一端をご紹介します”」
真帆
「“テーマは『
人工知能

革命』としましたが、これからデモンストレーションするシステムは、おそらくみなさんの想像を超えたものではないかと思っています”」
レスキネン教授は、演台の上に用意されたノートPCの前に立った。キーボードの操作を始める。
真帆
「“このパソコンですが、研究所のスーパーコンピューターのひとつと接続されています”」
真帆
「あ、まだプロジェクターには映さないで」
スタッフが、教授のPCの画面を正面のプロジェクターにあやうく映してしまいそうになった。
なんらかの重要なプログラムを起動させている最中だったらしく、比屋定真帆がストップをかける。
真帆
「“すみません。まだ開発途中なんです。非常に美的センスのないプログラムが、画面いっぱいに溢れ返っています”」
真帆
「“こんなチープなプログラムを見られるのは恥ずかしい。裸を見られるよりもね”」
真帆
「“この中にエンジニアの方がいるなら、理解していただけますよね?”」
レスキネン教授のジョークだと分かった一部の聴衆が、笑い声をあげた。
真帆
「“起動するまでの間、このシステム全体の概略を説明しましょう”」
演壇中央には、プロジェクターがもう1台設置されていた。その画面にまず、ざっとした概略図が映る。
そして、その画像のトップには、一般聴衆のために日本語訳でこう記されていた。

側頭葉

に蓄積された記憶に関する
神経パルス

信号の解析』
倫太郎
「っ……!」
俺は、そのタイトルをよく知っている。
忘れたくても忘れることが出来ないものだ。
かつて17歳の天才少女が書き上げ、サイエンス誌で絶賛された論文のタイトル。
人間の記憶をつかさどる神経パルスパターンを全て解析した彼女は、それを応用し、記憶そのものをデジタルデータ化することに成功した。
そして、俺の目の前でタイムリープマシンという未曾有の発明を完成させてみせたのだ。
今となっては、すべて幻と化してしまったが。
真帆
「“サイエンス誌に掲載されたので、ご存知の方もいるでしょう”」
真帆
「“これは、私たちのチームにいた天才的な日本人研究者によって提唱され、完成されたものです”」
真帆
「…………」
真帆
「“人間の記憶は
大脳皮質

、とりわけ側頭葉に記録されます。いわゆるフラッシュメモリみたいなもの”」
真帆
「“そのメモリに記憶を書き込んだり、読み出したりするのが、側頭葉にある
海馬傍回

という部位になります”」
画像の中の脳と海馬の図画を、レスキネン教授が指し示した。
真帆
「“脳は、
ニューロン

と呼ばれる細胞の間を、電気信号が伝わっていくことで働いています”」
真帆
「“記憶というのも、実はこういった電気信号の伝わりのひとつなのです。その働きを制御しているのが海馬傍回といってもいいでしょう”」
真帆
「“つまり、電気信号が海馬傍回を出入りすることで、記憶は作られていくんですね”」
真帆
「“そこで、牧瀬紅莉栖は――”」
真帆
「えと、この論文を書いた日本人研究者です……」
真帆
「あの……“牧瀬研究員は考えました”」
真帆
「えっと……“海馬傍回を通る電気信号が、電気信号のパターンと、大脳皮質の……”」
比屋定真帆の通訳が、急に乱れた。
すっかりしどろもどろになっている。
どれだけ語学堪能でも、同時通訳を長時間続けるのは大変だろう。
ネットの記事で見たことがあるが、同時通訳はプロでも20分が限界だと言われている。国際会議や海外の生中継映像の同時通訳でも、複数の人が定期的に交代して担当しているぐらいだ。
……あるいは。
通訳が乱れたのは、紅莉栖の名前が出たからか?
レスキネン教授は比屋定真帆の動揺を察し、いったん言葉を切った。
真帆
「すみません。ええと――」
真帆
「“牧瀬研究員は、海馬傍回を出入りする電気信号のパターンに着目しました”」
真帆
「“そのパターンが、大脳皮質のどの記憶と対応しているのか。解析を行って、完全なデータを得たのです”」
真帆
「“これによって、記憶という曖昧でアナログなものを、電気信号のパターンの組み合わせというデジタルなものに変換する、基礎理論が確立されたのです”」
真帆
「“これが、サイエンス誌に掲載された彼女の論文です”」
真帆
「…………」
真帆
「“そして現在、私たちのチームは、その理論を元に、人間の記憶をデジタルデータとして取得するシステムを開発しています”」
シアター内がかすかにざわめいた。
真帆
「“それはすなわち――”」
真帆
「“人間の記憶をコンピューターに保存し、それを活用するシステムということになります”」
ざわめきが、少しずつうねりのようになっていく。
そうか……。
紅莉栖の研究は、彼女の死後もちゃんと引き継がれていたんだな。
それはもちろん、当然のことかも知れないが。
俺がα世界線において身を持って実証した――だがいまや誰にも証明することはできない、タイムリープの基礎理論。
あの時、間違いなく俺の記憶はデータ化され、コンピューターの中に蓄積された。
目の前でレスキネン教授が語っているのは、まさにその基幹技術に他ならないんだ。
真帆
「“現在、私たちが行っているプロジェクトは主にふたつです。ひとつは医療分野への応用です”」
プロジェクターの映像が切り替わる。
真帆
「“こちらは、精神生理学研究所と共同で行っているプロジェクトです”」
真帆
「“コンピューターに保存した記憶データを、海馬傍回を通して再び元の脳に書き戻す、というもので――”」
男性
「Incredible……!」
最前列に座っていた大学院生とおぼしき男が、たまらずといった様子で声を上げた。
レスキネン教授は、非礼に対して特に不快感を表すわけでもなく、柔和に応じた。すかさず、真帆が通訳を入れる。
真帆
「“信じがたい、ですか。その気持ちは理解できます。私も、みなさんの立場であればそう言ったでしょう”」
真帆
「“しかし、この研究に私たちは手ごたえを感じています。これが実用化できれば、どんなに素晴らしいことでしょう”」
真帆
「“たとえば、老化による記憶障害。あとはアルツハイマーなど。そうしたものへの
対症療法

が期待できます”」
真帆
「“患者の記憶をデータとして自動的にバックアップしていくのです”」
真帆
「“記憶が失われたとしても、その都度PCにアクセスし、脳内にデータを再インストールすることが可能です”」
真帆
「“それによって、忘却の進行をくい止められるのではないか。私たちはそう考えています”」
真帆
「“最終的には、海馬傍回から、PC内の記憶データに常時アクセスできるようになるでしょう”」
真帆
「“そうすれば、脳機能が失われた状態……、たとえば脳が激しく損傷したり、萎縮してしまった場合などですが”」
真帆
「“そのような状態でも、変わらず脳機能を維持できます”」
真帆
「“あたかも、
外部ストレージ

と同じように”」
ホール内は、異様な空気に包まれてしまっていた。
これはとんでもない技術の発表に立ち会ってしまったのではないかという驚きと。
そんな技術は机上論で、実用化は不可能に決まっているという懐疑と。
そんなふうに人間の脳をいじくり回して大丈夫なのかという嫌悪感。
そうした様々なものが入り混じった興奮が、人々の間を伝播していく。
するとレスキネン教授が、大きく手を上げて挙手を募る仕草をした。
真帆
「“どうやら、2つ目のプロジェクトをお話しする前に、質問を受け付けないといけないようですね”」
真帆
「“出来る範囲でお答えします。どうぞ”」
すぐに多くの手が挙がった。
若者から年配者まで、幅広い年代の人たちが、強い関心を持ったことが分かった。
レスキネン教授が、指を差して質問者を指名する。
最初の質問はこうだ。
アナログな記憶をデジタル信号として記録する場合、
サンプリング

するはず。その場合、切り捨てられてしまう情報はあるのかどうか。
日本語でのその質問に、教授はうんうんとうなずき、即座に英語で回答を始めた。
もしかすると、日本語を聞き取ることぐらいはできるのかもしれない。
真帆
「“その質問を言い換えると――”」
真帆
「“オーケストラの生演奏をWAVのデータに保存する際、生演奏の全てを完璧に記録することはできない、と”」
真帆
「“確かに、その懸念はあります。現在の研究で最も困難な問題のひとつです”」
真帆
「“脳内のネットワークが、神経伝達物質のオン・オフだけで……つまり、2進数的にデータのやりとりをしているのであれば、簡単な問題でした”」
真帆
「“それはデジタルデータと同じことだからです”」
真帆
「“しかし実際には、伝達物質や電気信号は、脳内でアナログ的に変化することが分かっています”」
真帆
「“この問題に関しては、今のところ、より高いサンプリングレートでデータをサンプルする方法しか、手段を持っていません”」
真帆
「“音楽の話でいえば、44.1kHzよりも48kHz、48kHzよりも96kHzでサンプリングする……といった具合です”」
真帆
「“それによって、デジタルでありながら、アナログデータに近い情報を得ようとしています”」
聴衆の間に、少しずつ失望感のようなものが広がってきた。
やはりこれは机上論に違いなく、実用化なんて無謀なのではないか。そんな空気だ。
続けざまに、幾人かが質問をする。
そのどれもが、教授の研究に対して否定的なものばかりだし、挑発しているんじゃないかと思えてしまうような物言いが多い。
聴いている俺までイライラしてくる。
これはレスキネン教授の研究であると同時に、紅莉栖が関わっていた研究でもあるんだ。
その実証性を一番よく知っているのは俺で、だから頭ごなしに否定したがっている質問者たちが許せなかった。
こいつら、本当に研究者なのか?
なんとか自分の感情を抑えこみつつ、壇上に目を戻すと。
真帆
「…………」
……もしかして彼女、怒ってないか?
明らかに憮然とした表情をしている。
レスキネン教授が、無礼な質問にも問題点を認めつつ柔和に答えているのとは対照的だ。
彼女が通訳している言葉にも、刺々しい響きが混じってきている。
少し、親近感を覚えた。
質疑応答はまだ続いている。
質問者
「そもそも、これは医学的に無謀でしょう。デジタルデータを脳に書き戻すなんて、絶対に不可能だ。正気の沙汰ではない」
質問者
「サイエンス誌に掲載されたあの論文も読みましたが。にわかには信じられない」
質問者
「ましてや、筆頭著者が弱冠17歳の女性
だった
①①①
とあっては――」
その言葉は――
俺にとっては、絶対に聞き捨てならないものだった。
真帆
「あなたね――」
倫太郎
「異議あり!」
真帆
「ふえっ?」
壇上の2人が。そして客席のすべての聴衆が。
いっせいに、立ち上がった俺へと視線を向けてくる。
倫太郎
「やってみもしないで、なにが分かるっていうんだ?」
倫太郎
「最初は無理だと思われてた技術なんて、この世にいくらでもあるじゃないか」
倫太郎
「でも、それを克服した研究者がいたからこそ、今があるんだろう?」
倫太郎
「ただ批判するだけじゃなにも生まれない」
会場がシーンと静まり返っていた。
だが、ここで立ち上がったことに後悔なんてなかった。
真帆
「あなた……」
壇上で、比屋定真帆が俺を見て呆然としている。
レスキネン教授の方は――
目が合った俺に、ニーッと白い歯を見せてきた。
レスキネン
「Awesome! he’s really something!」
そう言って、とても楽しそうに拍手を始めた。
倫太郎
「え?」
な、なんで拍手?
そんなリアクションをされたら、逆に恥ずかしくなるじゃないか。
真帆
「はあ……」
真帆
「“素晴らしい、彼はなかなかたいしたヤツだ”……ですって」
教授の言葉を、比屋定真帆がわざわざ俺に向けて通訳してくれた。
真帆
「“ただし、科学者たるもの常に冷静でなければいけない”」
真帆
「“大声で怒鳴っていいのは、実験が成功したときの――”」
真帆
「“We did it!”」
真帆
「“それだけでじゅうぶん”……だそうですよ」
倫太郎
「す、すみません……」
頭を下げて着席する。
自分では冷静なつもりだったが、やっぱり頭に血が上っていたらしい。半年前からなにも成長していない。
紅莉栖がいたら、またバカにされただろうな……。
周囲の聴衆からの冷たい視線が辛い。
できれば今すぐ退場したいところだったが、レスキネン教授の話の続きも気になって、動くに動けなかった。
真帆
「“えー、それではみなさん。そろそろ次に”」
真帆
「“でも、その前に勇敢な彼に拍手をお願いします”」
おいおい、勘弁してくれって。
真帆
「“彼のような挑戦者こそが科学を進歩させ、あっと驚くような理論を作り上げるのです”」
真帆
「“彼ならきっと、第三の
アインシュタイン

になれるかも知れませんね”」
真帆
「“ちなみに、第二のアインシュタインは、ここにいるちょっと小うるさい私の助手――”」
真帆
「変なこと言うのはやめてください、教授」
ホール全体に軽い笑いを含んださんざめきが起こった。
やれやれ……。
真帆
「さて、ここで私はしばらく通訳をお休みさせていただきます」
真帆
「これから、私よりも優秀な通訳が登場します」
真帆
「これが、私たちのチームが、今、最も力を入れている2つ目のプロジェクト――」
真帆
「『Amadeus』システムです」
そこまで言うと、比屋定真帆は壁際まで下がった。
レスキネン教授の合図で、今度こそPCの画面がプロジェクターに映し出される。
そして、声が響いた。
真帆?
「みなさん、初めてお目にかかります」
倫太郎
「……!」
これまでよりさらに大きなどよめきが起こった。
ただし、驚きというよりも戸惑いに近い。
画面上に現れたのが、つい今しがたまで通訳をしていた比屋定真帆の、精巧な3Dモデルだったからだ。
真帆
「ちなみにこれは、映画などで有名な
ドリンクワークス・スタジオ

に作成してもらったモデルです」
壁際から、比屋定真帆が解説を加える。
真帆
「声については、私のボイスサンプルをデータベースにして、日本の
YAMANA

が作ってくれました」
これがCG……だって?
実写にしか見えないぞ。
教授が、ノートPCに向けてなにやら話しかける。
すると、プロジェクターに映る比屋定真帆の3Dモデルが、口を開いた。
真帆?
「私は比屋定真帆です。正確に言うなら、78時間22分前の比屋定真帆から派生した存在、ということになります」
よく聞けば、少しだけ不自然さが感じられるかもしれない。
だが、これまでの合成音声に比べれば格段に人がましい声だった。
アマデウス真帆
「先ほどから、みなさんの質問を聴かせていただいていました」
アマデウス真帆
「教授はどうして私を早く紹介しないのかと、とてももどかしく思っていましたよ」
アマデウス真帆
「以前から感じていましたが、どうも教授は人が悪いようですね」
真帆
「まったくだわ」
画面の中の比屋定真帆が、少し怒ったような表情をして言えば。
壁際に立つ比屋定真帆の方も、それに同意するようにうなずいた。
レスキネン教授は涼しい顔で笑っているだけ。
目の前でいったいなにが起こっているのか。
そもそもこれのどこが最も力を入れているプロジェクトなのか。
俺だけじゃなく、聴衆の誰もがまだよく理解できないでいる。
アマデウス真帆
「みなさんの多くは疑問に思っています」
アマデウス真帆
「人間の記憶をデータとして取り出したり、それを保存したり、さらにはそのデータを活用したり」
アマデウス真帆
「そんなことが本当に可能なのかと」
アマデウス真帆
「それでは私はいったいなんでしょうか?」
アマデウス真帆
「私は、78時間23分前の比屋定真帆の脳内から取り出された記憶を持ち、そのデータをベースにして動いているのです」
なんだって……?
教授がまたなにか早口で言い、それを『画面の中の比屋定真帆』に通訳するよう促した。
しかし、彼女は――それを
彼女
①①
と呼んでいいのならだが――躊躇し、黙り込んだ。
見ると、壁際にいる実在の比屋定真帆も、ほぼ同じ反応をしていた。
真帆
「教授、今のは――」
アマデウス真帆
「教授。今の発言は、“sexual harassment”として大学に訴えてもいいでしょうか?」
レスキネン教授がそれに対して愉快そうに切り返した。
早口の英語で両者の応酬が続いたため、半数以上の聴衆には意味が理解できない。
仕方なく、といった感じで壁際の比屋定真帆がマイクを握り直した。
真帆
「えー、教授はですね、その……私に対して、いえ、私の記憶で動作しているこの『Amadeus』に対して、質問に答えてごらんと言いました」
真帆
「ええっと……いつごろまで、その、パパとお風呂に入っていたか、とか……」
真帆
「……初恋はいつだったかとか、なんでも答えられるだろう、と……」
アマデウス真帆
「あー、もうそれ以上通訳しなくていいわ」
アマデウス真帆
「恥ずかしいからやめてくれないかしら。私はそういう質問にはいっさい答えないわよ」
教授がさらになにか言う。するとCGの比屋定真帆はぷいっと横を向いた。
アマデウス真帆
「クレジットカードの番号なんて、もっと言えません」
アマデウス真帆
「あと、1週間前に着ていたパジャマの色なんて覚えてるわけないです」
このやり取りは……なんだ。
あまりに自然すぎて最初は分からなかったが。
実はとんでもないことなんじゃないか?
普通の人工知能とは明らかに違う。そんな気がする。
インプット
①①①①①
されて
①①①
いる
①①
はず
①①


情報
①①


答えない
①①①①
なんて。
しかもその理由が
恥ずかしい
①①①①①
から
①①
だって?
今回のデモンストレーション用に、特定の情報について質問された場合にはこんなリアクションを取るようプログラムされているのか?
そんな見かけ倒しのものである可能性もなくはないが……。
もしこれが、事前にプログラムされたやりとりじゃないとしたら――
周囲も気付きはじめたようで、ヒソヒソとささやき合う声が、徐々に驚きのそれへと変化していく。
アマデウス真帆
「ねぇ、ちょっと。いい加減、この
イタズラ
①①①①


子ども
①①①
をなんとかしてくれないかしら」
アマデウス真帆
「なにをしたいのか理解はできるけど、とにかく恥ずかしいわ」
比屋定真帆のコピーは、オリジナルに向かってそう抗議した。なんだかだんだん、双子の姉妹が話をしているような錯覚にとらわれてくる。
真帆
「えー、イタズラな子ども、ではなくレスキネン教授が面白がってなかなか説明してくれないので、代わりに私がお話します」
比屋定真帆が壁から離れて、教授のかたわらに立った。
真帆
「みなさん、もうお分かりかと思いますが」
真帆
「『Amadeus』は、
自分が
①①①
話して
①①①
いい事
①①①

そうで
①①①
ない事
①①①
、あるいは、
話したい事
①①①①①

話したくない事
①①①①①①①
を自ら判断して喋っています」
真帆
「私たちは、『Amadeus』にそういったプログラムをいっさい施していません」
そうだよな、やっぱり……。
真帆
「彼女は、与えられた私の記憶からそれを独自に判断し、自律的にそういう行動を取っているのです」
比屋定真帆の話を、いきなり画面の中の
彼女
①①
が引き取った。
アマデウス真帆
「そしてこれは、先ほどの医療分野への応用とは方向性が真逆になってしまい、研究所内でもずっと議論が交わされていることですが……」
アマデウス真帆
「私は、不必要な情報をいつの間にか忘れてしまう」
アマデウス真帆
「というか、
記憶の
①①①
引き出し
①①①①
から出して来られなくなるのです。みなさんと同じように、です」
アマデウス真帆
「たとえば、1週間前に着ていたパジャマの色。確かにそれを知っていたはずなのに、今は思い出せません」
アマデウス真帆
「そのような情報は、生存していく上で必要がないからです。これもみなさんと同じです」
アマデウス真帆
「このように『Amadeus』は、記憶のインプットやアウトプットが人間のそれと非常に近いのです」
真帆
「これは、私たちも驚くべき結果として研究を重ねている最中で……まだ、詳しくは解明されていません」
真帆がこのようにまとめると、ようやくレスキネン教授がマイクを口に持っていった。真帆に通訳させながら、話を続ける。
真帆
「“さらに、私たちを驚かせたのは、『Amadeus』が意図して嘘をつくということ”」
真帆
「“なんらかのトラブルやミスではなく、わざとそうするのです”」
真帆
「“嘘は、人間が他人とコミュニケーションを取る上でのひとつの手法です”」
真帆
「“『Amadeus』も、インプットされた記憶を自律的に検討し、必要であれば、自分や他人のために平気で嘘をつきます”」
真帆
「教授。誤解を招くような言い方はやめてください」
真帆
「嘘をつくのに平気なことなんてありません。私だって
良心が
①①①
とがめます
①①①①①

レスキネン
「I’m so sorry. and……」
ここでレスキネン教授は言葉を止めた。
少し躊躇しているように見える。
比屋定真帆は特に怪訝な様子を示してはいないから、躊躇の理由が分かっているのかもしれない。
やがて教授は、躊躇したのが嘘のように、さらりと言い切った。
比屋定真帆も、なにごともなかったように通訳する。
真帆
「“このような検証を続けていくことで、最終的に私たちは――”」
真帆
「“『Amadeus』に人間と同様の魂を宿すことが出来るのではないか、と考えています”」
ドキリとした。
魂……だって?
そんな、定義も曖昧な言葉を、脳科学研究の第一人者が持ち出していいのか……?
真帆
「“これこそ、
本当の
①①①
意味
①①
での
①①
人工
①①
知能
①①
ということになります”」
ホール内が、波を打ったように静まり返った。
そしてその後はもう、てんでに自分の議論をレスキネン教授と始めようとする人たちで溢れ返り、しばらくセミナーは大混乱に陥った。
ATF終了後の懇親会に潜り込めたのは、井崎の口利きのおかげだった。
井崎からは“ドレスコードのしっかりしたパーティーだから、フォーマルスーツを着てくるように”と言われ、わざわざ一度実家に戻って着替えてきたほどだ。
それぐらい気合いを入れて参加し、井崎も最初こそ第一線の研究員たちを紹介してくれた。
理化学研究所


宇宙航空研究開発機構


物質構造科学研究所

などなど。
だがすぐに、自分の売り込みにどこかの大学教授のところへ行ってしまい、俺は完全に放置されてしまった。
個人的に一番の目当てであるレスキネン教授も、名だたる研究者たちにぐるりと取り囲まれていて、とてもじゃないが学生風情が近づける雰囲気ではない。
というわけで俺はただひたすら、壁際に並べられている料理を取り、口に運び続けていた。正直、味などさっぱり分からない。
にこやかに給仕して回っているボーイが、すぐに空になったグラスを持っていってしまうので、仕方なく新しい飲み物をどんどん手に取る。
もうすでに胃がパンパンに膨れてしまって、苦しかった。
なんだか別世界の出来事みたいだ。
倫太郎&女性
「やっぱり、こういうのには向かないな……」
「やっぱり、こういうのには向かないわ……」
俺が独り言をつぶやいたのとまったく同じタイミングで、まったく同じような言葉が、近くにいた女性の口から聞こえてきた。
驚いて声の主を見ると、目が合った。
真帆
「あら、あなた」
なんで中学生が?
と一瞬だけ思ったが、すぐに比屋定真帆だと気付いた。
講演で壇上に上がったときとまったく同じ格好だ。
こんな場所でまで白衣とは。まるで以前の俺みたいだな。
真帆
「ええっと、あなたは――」
比屋定真帆は、明らかに一人だけ浮いていた。
なぜなら……白衣のままだったからだ。
倫太郎
「なんで白衣……なんです?」
たまらずそんな疑問が声に出てしまった。
真帆
「ちゃ、ちゃんとした服も持ってきたつもりだったのよ」
つもりだったが、忘れたらしい。
だからこんな隅っこで小さくなっていたわけか。
真帆
「あなた、昼間、受付にいた人ね」
倫太郎
「岡部倫太郎、です。東京電機大学の学生で、井崎ゼミで勉強してます」
井崎に言われて急きょ作ってきた特急名刺を手渡すと、彼女の方も名刺の束を無造作につかみ出し、俺の手に1枚置いた。
真帆
「いいわ、無理に丁寧に話さなくても」
そう言ってもらえると助かる。
真帆
「珍しい名前でしょう、私?」
倫太郎
「え? ああ、誰も読めないとか言ってたっけ」
名刺をよく見ると、ふりがながやたらと大きく印刷してあった。
あまりにも読み間違える人が多いからだろう。
真帆
「沖縄ではよくある名字なんだけれどね」
倫太郎
「沖縄出身なのか?」
真帆
「曾祖父と曾祖母がね、移民なのよ。私はアメリカ生まれのアメリカ育ち」
倫太郎
「ハーフ……にはあんまり見えないな。クォーター?」
真帆
「はずれ。祖父、祖母、父、母すべて日本人よ。
DNA

は生粋のジャパニーズ」
倫太郎
「へえ」
真帆
「…………」
倫太郎
「…………」
そこで会話が止まってしまった。
基本的に俺は、話術が下手くそだ。
以前なら、
厨二病

全開の妄言を相手のおかまいなしにひたすらまくし立てていたが、それだって会話が成立していたわけじゃない。
ほぼ初対面の相手などには何をどう話していいのかさっぱり分からない。気の利いたことも言えない。
一応、自分なりに真人間になるべく、メンズ誌を買ったりしてちょっとずつ勉強はしているのだが……ひとつも参考にできていなかった。
話題もないまま、レスキネン教授の方に視線を向けてみる。
今は、多くの学者を相手に、なにやらニューロンに関する議論をしているようだった。
倫太郎
「……今日は、済まなかったな」
真帆
「え? なにが?」
倫太郎
「いや。セミナーの途中で邪魔を――」
真帆
「ああ、あれね。気にすることないわ」
真帆
「あなたが声を上げなかったら、たぶん私が同じことをしていたから。許せないの、ああいう人」
倫太郎
「いいのか、そんなこと言って? 教授が言ってたじゃないか。科学者たるもの常に冷静に、って」
真帆
「今のは科学者としての発言じゃないわ。だから構わないのよ」
よっぽど腹に据えかねているらしい。ちょうど歩いてきたボーイからカクテルを奪い取ると、そのままヤケ酒のように勢いよく飲み干した。
真帆
「ふー」
一瞬だけ頬が綺麗な桜色に染まる。しかし、すぐに元の顔色に戻った。アルコールには強いのかもしれない。
真帆
「だけど、やっぱりよくないわね。反省する」
真帆
「ああいう批判は……言い方こそ悪いけれど、それでも事実には違いないんだもの」
真帆
「私たちの研究がまだ無謀の域から出ていないと言われれば、確かにその通りよ」
倫太郎
「そうなのか」
真帆
「取り組まなくてはいけない課題が山積みだわ。さっきセミナーで話した以上にね」
倫太郎
「…………」
真帆
「たとえば、記憶データを元の脳に書き戻すことができても、それを脳が利用できなければなんの意味もないの」
真帆
「記憶があっても思い出せない状態。つまり記憶喪失の脳と同じになってしまう」
……比屋定真帆の言葉を聞いて、俺は思い出す。
紅莉栖がタイムリープマシンを作っているときに、俺に話してくれた“講釈”とか“推論”の数々を。
倫太郎
「えっと……確か、人間が記憶にアクセスしようとするときは、
前頭葉

から側頭葉へ信号が行くんだったよな?」
真帆
「ええ。
トップダウン記憶検索信号

ね」
倫太郎
「だったら――」
そこから、紅莉栖の理論をひとつひとつ思い出しながら無我夢中で話した。
うろ覚えの専門用語などもとりあえず口に出してみると、比屋定真帆が意味を補足してくれた。
倫太郎
「――で、最後に、側頭葉に記憶を書き戻す過程で、ええと……」
倫太郎
「一緒にコピーした疑似パルスを前頭葉の方に送り込めば、記憶検索信号はちゃんと働く、と思う」
真帆
「…………」
真帆
「あなた……それを自分で導き出したの?」
倫太郎
「え? あ、いや……」
比屋定真帆は、さっき俺が渡した名刺を改めて見直した。
真帆
「脳科学専攻じゃないわね。ということは誰かに? それとも論文で?」
真帆
「ううん、それはないわ。まだ論文にはまとめられてなかったはず」
倫太郎
「……なにかおかしいこと言ったか、俺?」
真帆
「そうじゃなくて。私の後輩がね、まったく同じ理論を提唱していたことがあるのよ」
真帆
「どのスタッフもずっと懐疑的だったけど、彼女だけは、絶対に証明できるって言い張っていたわ」
倫太郎
「…………」
真帆
「結局、実証試験に進む前に、彼女はいなくなっちゃったんだけど」
倫太郎
「それは――」
言うべきか?
ここで紅莉栖と自分の関係を話してしまっていいのか?
この世界線では、俺と紅莉栖とはほぼなんの接点もないんだぞ。
真帆
「どうしたの?」
……腹を決めた。
自分の夢を追いかけるためには、動くしかない。
倫太郎
「実はこの理論……紅莉栖からレクチャーされた」
真帆
「え……?」
真帆
「今、なんて?」
倫太郎
「牧瀬紅莉栖が、教えてくれたんだよ」
真帆
「紅莉栖が――あなたに?」
真帆
「いつ? どうして?」
倫太郎
「彼女がこっちに留学してたときだ。友達になって、こういう話をよくした」
もちろんそれは嘘だ。俺と紅莉栖が親しくなったのは、ここではないα世界線での話なんだから。
でも、これぐらいの嘘は

ゆる
されるだろう。
真帆
「……そうだったの。あの紅莉栖が……」
真帆
「……ありがとう。感謝するわ」
その言葉に、驚いた。
まさかそう返されるとは思っていなかったから。
倫太郎
「なにが?」
真帆
「彼女と友達になってくれて、よ。日本に来て、たったひとりで――」
真帆
「…………」
真帆
「たったひとりで勉強していても、きっとつまらなかったと思うから」
倫太郎
「口げんかばっかりだったけどな」
真帆
「あの子らしいわね。絶対に負けを認めなかったでしょう?」
倫太郎
「ああ。屁理屈ばっかりこねていた」
真帆
「ふふ……」
倫太郎
「“
ロボトミー手術

してあんたの前頭葉を掻き出してやるぞ”とか、よく言われたし」
真帆
「ええ? まさかそんなこと……」
真帆
「紅莉栖なら、言いそうね」
倫太郎
「だろう?」
倫太郎
「ちゃんと後輩の教育をしておいてほしかった」
真帆
「その点に関しては認めるわ。陳謝します」
真帆
「…………」
真帆
「……っ」
倫太郎
「え?」
笑った……と思ったら、比屋定真帆は突然、涙をこぼした。
倫太郎
「ど、どうした?」
真帆
「……っ?」
とりあえず、あわててハンカチを差し出す。
真帆
「え? え?」
彼女は、自分でもなぜ泣いているのか戸惑っているようだ。
というか、俺も戸惑ってしまう。今の会話で、彼女の中のなんらかのスイッチを押してしまったのか?
倫太郎
「だ、大丈夫か?」
真帆
「へ、平気よ。ごめんなさい」
彼女は俺のハンカチは受け取らず、白衣のポケットから取り出したポケットティッシュで目尻を拭った。
男性
「勇敢なる第三のアインシュタイン!」
倫太郎
「え!?」
振り向くと、レスキネン教授が満面の笑顔を浮かべながら、大股で俺の方へと歩み寄ってくるところだった。
そのままの勢いで俺の手をつかんでくる。ものすごい強引な握手。
しかも、手は熊みたいに大きい。
いや、手だけじゃない。
目の前に立たれると、講演で見たときよりもさらに大柄に感じた。俺も背は高い方だが、その俺よりも頭1つ分大きいと思う。
倫太郎
「あ、あのっ、教授、俺、その」
いかん、あまりに突然のことにテンパってしまって、自己紹介すらおぼつかない。
っていうか、教授は今、日本語を喋らなかったか?
レスキネン
「しかし、私の助手を泣かせてしまったのは、見過ごせないね」
倫太郎
「あ! いや! これは!」
真帆
「ち、違います教授! 私が勝手に! 彼は関係ないですから!」
俺と比屋定真帆は、揃って全力で否定した。
だが、俺はなんで比屋定真帆が泣いたのかよく分かっていないから、言い訳のしようがない。それでますますあたふたしてしまう。
倫太郎
「ええと、つまりその……」
真帆
「紅莉栖です」
真帆
「彼と、紅莉栖の話をしていたら、いろいろ、感情が溢れてしまって……」
レスキネン
「クリス?」
レスキネン
「君は、クリスの友人?」
倫太郎
「それは……」
倫太郎
「はい……」
真帆
「岡部倫太郎さん。学生だそうです」
比屋定真帆が紹介してくれる。
レスキネン
「…………」
レスキネン教授は優しげな表情で、俺にゆっくりとハグしてきた。
巨人に抱きすくめられ、窒息しそうになる。
……それが、紅莉栖への哀悼の意であることは、なんとなく理解できた。
レスキネン
「そうですか。そういうことなら、マホ」
真帆
「はい?」
レスキネン
「ミスターオカァベに、会わせてあげたらどうかな。
彼女
①①
を」
真帆
「……まさか、『Amadeus』を?」
レスキネン
「ここで彼に出会った偶然、その幸運を大切にしたいじゃないか」
レスキネン
「日本にいる間、彼にテスターになってもらってもいいよ」
真帆
「本気ですか? 部外者なのにそんないきなり……」
レスキネン
「クリスの友人ならば、部外者ではない。そうだろう?」
真帆
「ですが……」
いったいなんの話だ?
分からないが、せっかく舞い込んできたレスキネン教授との繋がりだ。
みすみすチャンスは手放したくなかった。
倫太郎
「俺、ぜひお手伝いしたいです」
レスキネン
「Nice!」
教授は俺の肩をポンポンと叩き、満足そうに笑った。
まるで子供みたいな、無邪気な笑顔だ。
レスキネン
「じゃあ、詳細はマホに聞いて。よろしく」
教授は他の研究者に呼ばれ、俺たちの元から離れていった。
比屋定真帆は、信じられないとでも言いたげに首を左右に振っている。
倫太郎
「『Amadeus』に会わせるとか、テスターとか、いったいなんの話なんだ?」
真帆
「コンベンションでやったデモンストレーション。『Amadeus』は、私の記憶を使っていたんだけれど」
真帆
「『Amadeus』のデータとして、もうひとり分、研究者の記憶が保存してあるのよ」
倫太郎
「……?」
もうひとり分の、研究者の記憶?
その言葉が、なにを意味するのか。
ここまでの比屋定真帆とレスキネン教授の会話から、やがてひとつの答えが導き出されたとき、ドクンと、心臓が高鳴った。
倫太郎
「まさか……」
倫太郎
「……あいつ、なのか?」
真帆
「そう――」
真帆
「『Amadeus』の中には、
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


記憶
①①
が保存されているわ。八ヵ月前の紅莉栖だけれどね」
――ATFでのパーティーから数日が経っていた。
池袋から、急行で10分ほど。
埼玉県の和光市という駅から、さらにバスで10分。
独立行政法人『理化学研究所』からほど近い場所に建っているビルの2階に、目的のオフィスはあった。
『世界脳科学総合研究機構 日本オフィス準備室』。
入り口のプレートには、そう書かれていた。
三種類の特殊な鍵を使い、さらにセキュリティカードまで使って、ようやく中に入ることができた。
倫太郎
「ここは……?」
真帆
「各国の脳科学研究者が連携をして、新しい機構を作る予定なの。私たちの研究所が主導してね」
比屋定真帆はそう説明して、先導してくれる。
オフィスといっても借りてからまだ間がないのだろう。並んだ事務机のうち、ほとんどが空席で、誰も使った形跡がない。
ホワイトボードすら掲げられておらず、殺風景な部屋の印象をさらに濃くしていた。
北向きなのか、日当たりが悪い。
蛍光灯の無味乾燥な明かりだけが照らし出す室内は、ひどく寒々しい雰囲気だ。
真帆
「ここは、あくまでも準備室だから」
空席ばかりのデスクの中、しかし、2席だけ書物などが置かれている机があった。
そのうちのひとつ――メモやら計算機やらコーヒーカップやらサプリメントの瓶やら、とにかく色々な物が散乱してグチャグチャと汚い方――に、比屋定真帆はバッグを置いた。
ということは、もうひとつの整理整頓された机が、レスキネン教授のものだろう。
倫太郎
「教授は?」
真帆
「今日はオフ」
まあ、日曜日だからな。
倫太郎
「君も?」
真帆
「ええ。そうじゃなかったら、昼過ぎまで寝ていられるわけないでしょう」
確かに……さっき和光市の駅前にあるホテルまで迎えに行ったら、寝ぼけ眼で部屋から出てきた。
俺はこの日、レスキネン教授から提案された通り、『Amadeus』の紅莉栖と会わせてもらうことになっていた。
テスターがどうたら、という話についても、ここに来るまでに比屋定真帆からざっくりと教えてもらった。
要は、『Amadeus』の対話サンプルデータがほしいらしく、俺に24時間いつでも対話をできるような環境を与えてくれる、ということらしい。
詳細についてはまだそれ以上は聞いていないけれど……、
24時間、『Amadeus』の紅莉栖と対話できるようになる、か。
倫太郎
「あいつは……紅莉栖の『Amadeus』は、ここにいるのか」
真帆
「ええ」
比屋定真帆はうなずいてから、俺の方をチラリと一瞥した。
真帆
「あいつ、と呼んだわよね、今」
倫太郎
「え? ああ……」
真帆
「私が思っているよりも、ずっと親しかったのね、あなたたち」
倫太郎
「…………」
答えないことが、答えになってしまったのかもしれない。
そんな俺の態度に対して、彼女は珍しく逡巡した様子を見せた。
真帆
「だとしたら、会うのは、やめた方がいいかも知れないわよ……」
倫太郎
「どうしてだ?」
真帆
「相手が……親しい人であればあるほど、あのシステムは、残酷だと思うから」
倫太郎
「………」
倫太郎
「……大丈夫だ」
真帆
「…………」
真帆
「分かった。もう言わない。その代わり、ひとつ覚えておいて」
真帆
「ロードする記憶は、紅莉栖が最後に更新をした3月のデータをベースにしたものよ」
真帆
「だから、3月以降……たとえば、彼女が日本に留学していた時のことを聞いても、まったく通じない」
そういうことに……なるな。
真帆
「それに、3月から今日までの間に、私や教授が何度も起動してしまっているから」
真帆
「その度に紅莉栖は――ああ、『Amadeus』の方の紅莉栖ね――彼女は、元の紅莉栖とは違う記憶を蓄積しているわ」
真帆
「私たちが聞かせた話、ネットで検索した情報、新しく会話を交わした人たち……そういったものをね」
真帆
「…………」
真帆
「つまり、これから会うのは、
あなたの
①①①①
友人
①①
だった
①①①
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①
では
①①
ない
①①
、ということ」
倫太郎
「…………」
真帆
「このシステムの問題点のひとつなんだけれど、往々にして、こちら側――つまり人間の方が混乱してしまうのよ」
真帆
「まるで、本当の紅莉栖と、今この瞬間にチャットでもしているような錯覚に陥るから……」
現実と虚構を混同するな、ということ……か。
真帆
「共有できていない記憶の齟齬に関して、こちらの脳がついていけなくなってしまうのね」
共有できていない記憶の齟齬……。
その感覚なら、うんざりするほどに分かるさ。
リーディング・シュタイナー。
俺だけが持つ、自分と他者との間に記憶の食い違いを生じさせてしまう力。
倫太郎
「案内してくれ」
比屋定真帆は小さくうなずくと。
真帆
「こっちよ」
部屋の奥へと足を向けた。
その先に、分厚いパーテーションで仕切られたブースがあった。
ブースの中へ入るためには、さっき準備室に入るのに使ったのとは別のカードキーと、暗証番号が必要だった。
倫太郎
「ずいぶん厳重なんだな」
真帆
「今の時代、産業スパイが一番恐ろしいの」
比屋定真帆が暗証番号を入力すると、ドアのロックが解除された。
真帆
「どうぞ」
ブースの中は四畳半ほどの広さになっていた。
一隅に真っ白なデスク。その上には30インチはあろうかというモニター一体型のPCが鎮座している。
真帆
「少しだけ後ろに座っていて」
PCでの作業を背後から見学できるよう、やや小さめのソファが置いてあった。俺はそこに腰掛ける。
比屋定真帆がPCの電源を入れ、キーボードを叩き始めた。
しばらくして、画面に“Amadeus system”という文字が浮かび上がる。
IDを打ち込むのが見えた。
“Salieri”
サリエリ


アマデウス

に対してサリエリか……。
なにか意味があるんだろうか。
そういえば、『アマデウス』という有名な映画には、
モーツァルト

の天賦の才を妬み、憎み、恨み、しかし心の奥底では彼に心酔し切っている人物が登場する。
その人物こそが、サリエリだ。
真帆
「パスワードは見ないで」
真帆が自分の身体で手元を隠すようにする。
俺も視線を逸らした。
システムへのログインが完了し、モニターは、コマンドプロンプトが表示されているだけの、なんの飾り気もない真っ暗な画面になった。
真帆
「……準備はいい?」
倫太郎
「ああ、頼む」
比屋定真帆がプロンプトのあとにコマンドをいくつか打ち込んだ。
真帆
「ごめんなさい、ここはちょっと見せられないの」
倫太郎
「まぁ、俺が見たところでさっぱりだけどな」
真帆
「でも、一応ね」
モニターがいったんオフにされる。
比屋定真帆は椅子を回して、俺へと向いた。
倫太郎
「…………」
ふと、自分が拳を固く握りしめていることに気づいた。
いつからそうしていた?
手のひらはジワリと汗ばんでいて、親指の根元のふくらみにツメの食い込んだ跡ができていた。
もしかして、思いのほか緊張しているのか、俺は。
倫太郎
「…………」
真帆
「どうしたの?」
倫太郎
「あ、いや……今になってちょっと怖じ気づいてきた」
真帆
「まだ間に合うわよ。今すぐここから出て行けばいいわ」
倫太郎
「……意地が悪いな」
真帆
「そう? あなたのこと、心配してあげてるのに」
倫太郎
「だったら、もう少しそれらしい言い方をした方がいい。紅莉栖といい君といい、実験大好きっ子は――」
一瞬、以前のようなふざけた軽口が言葉として出てしまいそうになった。
慌てて言い換える。
倫太郎
「実験ばかりに明け暮れているヤツは、可愛げがない」
真帆
「今の発言は明らかに誹謗中傷ね。侮辱罪で訴えてあげてもいいわ」
倫太郎
「やめてくれ、恐ろしい」
真帆
「いい弁護士を知っているから、紹介してあげましょうか?」
倫太郎
「その前に告訴を取り下げてくれ」
真帆
「示談に持ち込もうというのなら、それ相応の金額は覚悟することね」
倫太郎
「あとで
ドクペ

をおごるから」
真帆
「安い」
比屋定真帆は、喉の奥でくっく……と小さな音を立てた。
どうやら笑っているらしい。
普通なら

しゃく
に障る仕草なのだろうが、不思議と目の前の少女――いや、もう立派な成人女性なのだが――のそれは、不快に感じなかった。
比屋定真帆は、科学者特有の気難しさが目立っていて、いつもどこか不機嫌そうで、気ばかりやたら強い女性という印象が強かったのだが。
案外、憎めない一面もあるみたいだ。
……ああ、そうか。
彼女は。真帆は。
紅莉栖に似ているんだ……。
倫太郎
「…………」
初めて会った頃の紅莉栖が、やはりそうだった。
高慢でいけ好かないヤツ。決して自説を曲げようとせず、頑固で、意固地で、何かひとつ言うと、眉を吊り上げながら詰め寄ってきては、いちいち反論をしてきた。
なんて可愛くない女だろうと、心の底から思っていたものだ。
ところが、その第一印象とは裏腹に、紅莉栖の内面はとてももろく、傷つきやすく、そして、どこまでも優しく、愛おしく――
女性の声
「何がおかしいんです、先輩?」
唐突に、女性の声がスピーカーから響いた。
倫太郎
「あ……!」
たまらず、ソファから腰を浮かしていた。
その声を……俺は知っている。
忘れるはずがない。
忘れるはずが――
真帆の手が、モニターをオンにする。
画面に、俺が片時も忘れたことのない彼女の姿が、フワリと浮かび上がってきた。
脳科学研究所で働いていたときの姿を模しているのだろうか。
彼女は、その身に、白衣をまとっている。
PCのカメラが、自律的に俺へと向いたように見えた。
アマデウス
「えっと? 先輩、そちらの方は?」
真帆が俺の事を紹介している。
その声はもう、俺の耳には入っていなかった。
ただ、見入ってしまう。
今にも、指を伸ばしたくなる。
触れてしまいたくなる。
そこに――
彼女が、いる。
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さん。はじめまして、牧瀬紅莉栖です」
アマデウス紅莉栖
「どうぞよろしく」
臨床心理士
「さぁ、岡部さん。リラックスしてください」
臨床心理士
「あなたは私の声を架け橋として、過去へと降りていきます」
臨床心理士
「どんどん、どんどん降りていって……やがて柔らかい色をした光が見えてきます」
夢を見ていた。
白昼夢だ。
自分が、大きなソファーに身をゆだねて、カウンセリングを受けているのだという自覚はある。
できるだけ心を落ち着けて、臨床心理士の言われるままに、風景をイメージする。
臨床心理士
「その光は何色に見えますか?」
倫太郎
「……赤」
臨床心理士
「赤、ですか。なるほど」
臨床心理士
「その光の中に、あなたの大切な人が立っています。その人はあなたの家族でしょうか?」
倫太郎
「いや……」
臨床心理士
「では、友人? それとも恋人?」
倫太郎
「……恋人……いや、恋人じゃない」
倫太郎
「友人ですらない……」
臨床心理士
「では、どういう?」
倫太郎
「俺と……あいつは……」
脳裏に、まるで間欠泉が吹き上がる時のように、突然、様々な思い出が溢れ出した。
紅莉栖
「ちょっと来てくれませんか」
倫太郎
「ひっ……」
萌郁
「椎名まゆりは、必要ない」
紅莉栖
「話して」
紅莉栖
「あんたがタイムリープしたのは分かってる」
紅莉栖
「まゆりを助けて」
紅莉栖
「β世界線へ行きなさい。まゆりが死なない世界へ」
紅莉栖
「それがあんたのためでもあるし、私のためでもある」
紅莉栖
「岡部は、私のこと、覚えてて……くれる?」
紅莉栖
「ねえ……わ……たし、死ぬの……かな……」
紅莉栖
「……死にたく……ないよ……」
倫太郎
「あああああああ!」
臨床心理士
「岡部さんっ!?」
倫太郎
「俺が刺した! 俺が! 俺がぁっ!」
臨床心理士
「いいですか? 私があなたの肩を叩きます! それを合図に意識がハッキリしてきますから!」
臨床心理士
「3、2、1……はいっ」
ぱんっという音とともに、両肩に振動を感じた。
紅莉栖の苦しそうな顔は一瞬で消え、自分の意識が徐々に覚醒していくのを感じる。
倫太郎
「う……」
ゆっくりと、ソファーにもたれていた身体を起こした。
途端に頭がくらっとして、前にのめりそうになる。
臨床心理士
「大丈夫ですか?」
臨床心理士
「少し休んでいてください。今、タオルを持ってきますから」
心理士は施術室から出て行った。
自分が、全身汗だくになっていることに気づいた。
室内は空調がちゃんときいているから、暑くて出た汗ではないのは確かだ。
倫太郎
「…………」
メンタルクリニックの
催眠療法

というのは、はじめての体験だったが。
妙に、身体が重かった。
外に出ると、池袋の街にはすっかり夜が訪れていた。
12月を目前に控えて、吹く風はすっかり冷たい。
まゆり
「どうだった、オカリン?」
優しい声で俺にそう聞いてきたのは、椎名まゆり。俺の幼なじみの女子高生だ。
今日、カウンセリングにわざわざ付き添ってくれたのだ。
俺は必要ないと言ったのだが、学校を早退してまで来てくれた。
こいつには、心配かけてばかりだな。
およそ3ヶ月前、俺はこのぼんやりした幼なじみを救うことだけに、己の運命を費やしていた。
まゆりは俺にとってずっと、守ってやるべき存在だった。
それが今は、そのまゆりに心配されてしまっている。
今回のカウンセリングを受診するきっかけも、まゆりから強く薦められたからだったし。
倫太郎
「まぁ、たいしたことないってさ」
安心させようと、少しだけ嘘をついた。
実際は、俺の中にかなり強いトラウマがあって、催眠療法は中止され、カウンセリングと薬物投与で様子を見ようということになった。
要するに、薬で対症療法をしつつ自然治癒を待つしか打つ手なし、という判断らしい。
それについて、昨日、真帆に見せてもらった“彼女”のことが影響しているのかどうかは、俺にはよく分からなかった。
タイムマシンや世界線、それに関連して起きた多くの出来事を、臨床心理士には話さずに施術を受けたから、向こうも判断しようがなかったのかもしれない。
なんにせよ、結果についてあれこれ考えることはしないと決めていた。
倫太郎
「なあまゆり。夕飯これからだろ? なにか食べに行くか。奢るぞ」
まゆり
「あ、それなら、秋葉原に行ってもいいかなぁ?」
まゆり
「るかくんとフェリスちゃんがね、久々にオカリンに会いたいって」
秋葉原、か。
ここから俺の自宅までなら歩いて帰れる距離だ。秋葉原に行くのは遠回りどころの話じゃない。
それでも、まゆりの頼みを断るわけにもいかなかった。
倫太郎
「…………」
夏までは毎日のように来ていた……というより、ほとんど住んでいた秋葉原だが、最近は週に三度も来れば多いくらいになっていた。
それだって、大学の帰りに買い物などでちょっとだけ立ち寄るぐらいだ。
駅前の広場に降り立つ。
池袋もそうだが、クリスマスまではまだ一ヵ月近くあるので、その手の飾り付けなどは控えめだった。
きっと12月になった途端、クリスマス一色になるんだろうな。
そのうち、サンタ服を着たメイドさんも現れるはず。
倫太郎
「秋葉原でチラシを配る、サンタ服を着たメイド、か……」
字面だけ見ると意味不明すぎるな。
まゆり
「あ、フェリスちゃんとるかくんだ。トゥットゥルー♪」
フェイリス
「ふニャ~、凶真ぁ~」
るか
「岡部さ~ん。まゆりちゃ~ん」
待ち合わせしていたフェイリスとるかが、俺たちを見つけて駆け寄ってきた。
フェイリス
「会いたかったニャ~!」
躊躇なく俺に抱きついてきたのは、フェイリス・ニャンニャンだ。
いわゆる“メイドさん”であるフェイリスの本名を俺は知っているが、本人曰くプライベートなときでもフェイリスと呼べとうるさい。
今日の服装もいつも通りで、彼女が勤めるメイド喫茶『メイクイーン+ニャン⑯』のメイド服だった。
メイクイーンでもそのうち、サンタ服に衣装チェンジするんだろうか。
倫太郎
「や、やめろよ。みんな見てるだろ」
フェイリスを引き剥がそうとするが、なかなか離れてくれない。
いっそのこと頭のネコミミを奪ってやろうか。
フェイリス
「いいじゃないかニャ。凶真とフェイリスの仲だニャン」
倫太郎
「よくない。あと、凶真っていうのもやめてくれって」
フェイリス
「ニャンで?」
倫太郎
「あの名前は
黒歴史

だからだ」
フェイリス
「うニュ~」
フェイリスは不満そうだが、取り合わないことにする。
俺にとって“鳳凰院凶真”は、封じてしまった存在。
なかったことにした存在。
“彼”はタイムマシンという禁断の発明に手を出し、そのせいでこの世界を司るシステムからの報復を受けた。
幾人もの想いを踏みにじり、大切な命を失い、“彼”自身も大きな心の傷を負ったのだ。
二度と、目覚めさせてはいけない。
俺にはもう、必要ない。
フェイリス
「じゃあ、なんて呼べばいいのかニャ?」
倫太郎
「そりゃあ、岡部とか……」
まゆり
「やっぱり、オカリンって呼ぶのが、可愛くていいんじゃないかなぁ? ね、フェリスちゃん」
ちなみにまゆりは、フェイリスのことをフェリスと少しだけ略して呼ぶ。そっちの方が呼びやすいから、という理由なんだとか。
フェイリス
「ん~、マユシィが言うなら、これからそう呼ぶニャ……。なんだか違和感あるけど……」
納得していない様子ながら、フェイリスはようやく俺から離れてくれた。
倫太郎
「ルカ子も、久しぶりだな」
るか
「はい……」
ルカ子が、嬉しそうに微笑んだ。
相変わらず、女の子のように可憐だな……。
だが、男だ。
まゆりの同級生で、実家でもある
柳林神社

でよく手伝いをしている姿を見かける。
本当は、“ルカ子”と呼ぶべきでもないのだろう。
俺がフェイリスに“凶真”と呼ばないでくれと言ったように。
彼にも、漆原るかという名前があるのだから。
でも、今さらルカ子のことを“るか”と呼ぶのも……その、すごく……照れくさい……。
るか
「なんだか、とても懐かしいような気がします」
るか
「ボク、時々ラボに顔を出すんですけど、岡部さん、最近あんまり来ていませんよね?」
倫太郎
「あ、ああ」
倫太郎
「大学のゼミが忙しいんだ。ATFの準備もあったしな」
その準備が終わっても、今度は真帆やレスキネン教授のこと、さらには……『Amadeus』のことなどがあって、全く落ち着く余裕がない。
だが、その話をこの3人にするのは避けた。
倫太郎
「あと、サークル活動もしてるしな」
るか
「サークルに入ったんですか?」
フェイリス
「なんのサークルかニャ? やっぱり
UFO

とか
UMA

とか?」
俺をなんだと思ってるんだ……。
そういえば、話してなかったんだったか。
まゆりには……言ったような気もするが。
そこで俺は思わせぶりにニヤリとして、目を丸くしている2人を交互に見てから、胸を張って宣言した。
倫太郎
「テニスサークルだ」
るか&フェイリス
「えええーーっ?」
「えええーーっ?」
フェイリスとるかの大声に、周囲を歩く人たちが何事かと振り返る。
フェイリス
「な、なんで、テニスサークルなのかニャ?」
るか
「岡部さん、今までテニスなんてやってましたっけ?」
倫太郎
「初心者に決まっているだろう」
こう見えても運動は大の苦手だ。
持久走ならまゆりに負ける自信がある。
フェイリス
「じゃあ、ニャんで?」
倫太郎
「んー、話せば長くなるんだが……」
倫太郎
「大学のゼミの准教授がテニスサークルの顧問なんだ。それで勧誘された」
フェイリス
「ひとっつも長くないニャ」
倫太郎
「まぁ、聞けって。相手はいちおう世話になってる人だし、サークルに顔を出してみたんだ」
フェイリス
「ふーん?」
倫太郎
「そうしたら、なんと俺にはテニスの才能があるらしくてな。初心者にも関わらず、会員相手に連戦連勝だったんだ」
倫太郎
「どうだ、たいしたもんだろう?」
フェイリス
「…………」
るか
「岡部さんって、やっぱりすごいです!」
倫太郎
「ははは、こんなことなら、プロテニスプレイヤーを目指しておけばよかったかな」
まゆり
「めざせ“うぃんぶるどん”だねー」
フェイリス
「…………」
倫太郎
「ん? どうしたフェイリス? 頭でも痛いのか?」
フェイリス
「どこからどうツッコめばいいのやら……。どう考えても、サークルの会員数を増やすための罠じゃないかニャ」
倫太郎
「は、はっきり言うなよ……。俺も、うすうすそうじゃないかと思ってたけど、考えないようにしてるんだから」
倫太郎
「でも、みんないい人ばっかりなんだぞ」
るか
「じゃあ、サークルの練習が忙しいんですね……」
倫太郎
「ん? あ、いや……練習はあんまりしてない、かな」
るか
「はい?」
フェイリス
「じゃあ、いったいなにしてるニャン?」
倫太郎
「合コン、とか」
るか&フェイリス
「えええええ――――――!?」
「えええええ――――――!?」
2人はまたも駅前に響き渡るような大声を発し、周囲の注目を浴びた。
倫太郎
「そんなに驚くことないだろ。俺だって普通の大学生なんだから」
るか
「そ、そうですよね、すみません……」
るか
「でも……うぅ」
るかはなにか言いたそうにもじもじしている。
フェイリス
「フェイリスというものがありながら、他の女の子たちと楽しく合コン……許せないニャ」
倫太郎
「勘違いするなよ。俺は女の子なんか別に……」
実際、サークルのみんなに合わせてはいるが、俺みたいな
にわか
①①①
リア充

に居場所などなかった。
そもそも、真のリア充たちとの会話になどついていけるわけもなく、華やかな男女の集いを前に、ただただ困り果てているのが実情だ。
俺にとってはあまりに無謀な挑戦だった……。
このことも、フェイリスたちには言わないでおこう。
まゆり
「いいなー。まゆしぃもオカリンと合コンしたいのです」
倫太郎
「なに?」
まゆりが!?
そ、そういうのに興味のあるお年頃なのか!?
まゆり
「だって、みんなで楽しくパーティーするんでしょ~?」
……違ったようだ。
フェイリス
「う~ん、間違ってはいないけど、なんだか微妙にニュアンスが違う気がするニャ」
まゆり
「場所はラボでいいかなぁ。るかくんとフェリスちゃんは、もちろん参加ね。あと、ダルくんや

なえ
ちゃんや
スズさん
①①①①


――」
まゆり
「あ」
まゆりが、バツの悪そうな顔で俺を見た。
倫太郎
「…………」
スズさん、か。
阿万音
あまね
 
鈴羽
すずは

またの名を、
ジョン・タイター


2036年からやってきたタイムトラベラー。
今、必死になって戦うことをあきらめようとしている俺とは対照的に、あきらめず抗い続けている、本物の戦士。
夏以来、ろくに顔を合わせていない。
俺の方から、会うのを避けていた。
俺がラボから足が遠のいたのも、あいつが今、ラボに居候状態だからという理由もある。
なにしろひと月くらい前までは、鈴羽の名を聞いただけで
フラッシュバック

が起こり、それに耐えるのに精一杯だったんだ。
あれから3ヶ月経って、ようやく名前を聞いても大丈夫なようにはなったが。
顔を合わせたら、まだ冷静でいられる自信はなかった。
もちろんあいつが悪いわけじゃない。それを咀める気もない。
だから、鈴羽も俺のことを責めないでほしかった。
はっきり責められたことはないが、あいつの鋭い眼光に射すくめられると、罪悪感のようなものを覚えてしまうのは確かなのだ。
まゆり
「あ、あのね、みんな?」
倫太郎
「んん?」
まゆり
「まゆしぃね、ダルくんと一緒に考えてるおぺれーしょんがあるんだ」
るか
「オペレーション?」
まるで以前の俺みたいだな。
フェイリス
「っていうと? どんな作戦かニャ?」
まゆり
「えっとね――」
まゆり
「『スズさんを笑顔にしよう大作戦』」
倫太郎
「え?」
まゆりのやつ、いきなりなにを言い出すんだ?
……いや、いきなり、じゃないかもな。
こいつなりにずっと考えていたのかもしれない。
だから俺は、つとめて明るく応じることにした。
倫太郎
「聞かせてくれよ、まゆり」
まゆり
「あ……」
まゆり
「うんっ」
まゆり
「えっとね、まゆしぃは思うんだ。スズさんって普段は怖いけど、本当はすっごく優しい人なんじゃないかなーって」
まゆり
「ラボにいる時にね、まゆしぃがソファーでウトウトしちゃうと、いつの間にかタオルケットがかかってたりするの」
まゆり
「スズさんに聞いても『そんなの知らない』としか言わないんだけど……」
るか
「あ、ボクもそういうことありました」
るか
「以前、お父さんに買い物を頼まれて、その帰りに荷物が重くて困っていたんです」
るか
「そうしたら、阿万音さんが通りかかって。なにも言わずに、持ってくださったんですよ」
倫太郎
「へぇ、初耳だな」
るか
「こんなこと当たり前だから、誰にも言うなって」
るか
「あ、言っちゃいましたけど……」
倫太郎
「そっか……」
α世界線での鈴羽は、いつも笑顔をみんなに向けていたし、
颯爽
さっそう
とマウンテンバイクを乗り回すような明るい女の子だった。
それに対して、この世界線の鈴羽は、あまり笑顔を見せるようなタイプではない。
それは鈴羽の生い立ちが影響していた。
ダルから又聞きしたことだが、鈴羽は第三次世界大戦を契機とした国民皆兵制度のために、中学生の頃から軍事教練を受けさせられていたらしい。
さらにその後、タイムマシンがらみの反体制勢力に加担し、激しい闘争の中に身を置くようになった。
その影響で、心の底からの笑顔とは無縁になってしまった、と。
まゆり
「だからね、スズさんを本当の笑顔にしたいのです」
倫太郎
「なるほどな……」
フェイリス
「で、具体的にはなにをするのかニャ?」
まゆり
「クリスマスパーティーだよ」
倫太郎&るか&フェイリス
「クリスマスパーティー?」
「クリスマスパーティー?」
「クリスマスパーティー?」
ハモってしまった。
まゆり
「もうすぐクリスマスでしょう? スズさんね、そういうパーティーをやったことがないんだって」
まゆり
「だからまゆしぃは、スズさんにそれをプレゼントしようと思ってるんだぁ」
話を聞いたフェイリスとるかは、ほぼ同時にうなずいた。
フェイリス
「その話、乗ったニャ」
るか
「ボクも」
まゆり
「えへへ。ありがとう」
まゆり
「オカリンも……参加してくれる?」
倫太郎
「う? そ、そうだな……」
まゆり
「だめ、かなぁ?」
倫太郎
「俺はともかく……鈴羽が嫌がるんじゃないか?」
もう二度と過去へは跳ばない――
俺がそう告げた時の鈴羽の表情は、今でも忘れることができない。
怒りと、絶望に満ちた表情。
つかみかけた最後の希望が目の前で失われてしまったような感覚だったんだろうか。
あいつがそのとき投げかけた言葉は、今でも鋭い棘のように俺の心に突き刺さったままだ。
倫太郎
「鈴羽は、俺を嫌ってるし……」
まゆり
「まゆしぃは、そうは思わないよ」
まゆり
「スズさんはね、オカリンを怒っちゃったこと、後悔してるんじゃないかなあ」
まゆり
「その気持ちを、素直に言えないんだと思うのです」
倫太郎
「そうだろうか?」
まゆり
「うん。きっとそうだよ」
……まゆりにそう言われてしまったら、断るものも断れないよな。
倫太郎
「分かった。少し考えてみるよ」
まゆり
「うん」
るか
「あ、あの、ところで、岡部さん」
と、話に一段落ついたところで、ルカ子がおずおずと訊いてきた。
るか
「……診察は、どうでしたか?」
るかは、どうやらまゆりからカウンセリングの件を聞いていたようだ。
今日、わざわざまゆりを通して会いたがっていたのも、診察の結果が気になっていたのかもしれない。
ルカ子とフェイリスにも、心配かけてしまっているな……。
この世界線では2人は
ラボメン

ではないが、それでもかけがえのない仲間であることに違いはなかった。
倫太郎
「催眠療法というのは初体験だったが、なかなか興味深かったな」
倫太郎
「俺は、今まで催眠術なんかにはかからないと思ってたよ。驚いた」
るか
「かかっちゃったんですか?」
倫太郎
「見事にな」
るか
「へぇ」
フェイリス
「そういうルカニャンも、催眠術とかすぐにかかりそうだニャ」
るか
「そんな……」
倫太郎
「ハハハ、確かに即効でやられるだろうな」
るかは信じ込みやすい性格だから。
さてと、いつまでもここで長話をしていても仕方ない。
腹も減ったことだし、店を探そう。
倫太郎
「なあ、お前たち、なにが食べたい? おごるぞ?」
とりあえず、ヨドバシの方へ向けて歩いていくことにした。
あそこならレストラン街もあるし、ちょうどいいかもしれない。
フェイリス
「やったニャ! 凶真――じゃなくてオカリン、太っ腹ニャン♪」
るか
「ありがとうございます」
まゆり
「えへへ。なに食べようかな~。からあげかな~」
るか
「ジューシーからあげ?」
フェイリス
「マユシィはそればっかりニャ」
連れ立って先に歩いていく3人の後を歩きながら。
ふと、考えてしまう。
ここに、紅莉栖がいたら……と。
この数ヶ月間ずっと、あいつのことは考えないようにしていたのに。
こんな風に思ってしまうのは、やっぱり昨日の体験のせいなんだろう。
昨日、俺が見た、あの表情や仕草。
俺が話した、あの声や話し方。
思い出す。
“彼女”との対話を。
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さん。はじめまして、牧瀬紅莉栖です」
アマデウス紅莉栖
「どうぞよろしく」
倫太郎
「…………」
俺は、なにも反応できなかった。
モニター内の紅莉栖の動きには、確かに少し違和感がある。
だが少しだけだ。しばらく見ていれば慣れるだろう。
それよりも、この声と喋り方があまりにも本人そのまますぎて。
涙があふれそうになって。
それをこらえるのに必死だった。
アマデウス紅莉栖
「あの、先輩。そちらは深夜、というわけではないですよね?」
PCに備え付けられているカメラが、俺から真帆の方へと向き直った。
真帆
「ええ。違うけれど。なぜ?」
アマデウス紅莉栖
「お2人とも、もしかして眠いのではないかと」
俺が、向こうの挨拶に無言だったことを言っているのだろう……。
真帆
「私はさっきまで寝ていたけれど、今はもうシャッキリ目が覚めているわ」
アマデウス紅莉栖
「だらしないのは、相変わらずですね」
真帆
「失礼なことを言わないで」
アマデウス紅莉栖
「では先輩。もうひとつ質問しても?」
真帆
「ええ。なに?」
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さんとは、どういう関係ですか?」
倫太郎
「…………」
真帆
「この前のATFセミナーに参加してくれた学生よ」
真帆
「なかなか研究熱心だと思ったから、連れてきたの」
真帆は、俺が生前の紅莉栖と知り合いだった――ということをこのタイミングで『Amadeus』の“紅莉栖”に伝えなかった。
なぜだろう?
それを伝えると都合が悪い?
それとも、自分で伝えろということか?
アマデウス紅莉栖
「へぇ……先輩にそう言われるなんて、たいしたものですね」
画面の中の“紅莉栖”が、俺に向けて微笑んだ。
倫太郎
「あ、その……」
落ち着け。
アマデウス紅莉栖
「岡部さん、専攻は? やはり脳科学ですか?」
倫太郎
「そ、それは――」
言葉が喉の奥にからんで、詰まり続けた。
落ち着けって、俺。
――分かってはいる。これは、ただのプログラムだと。
声も姿も、交わしている会話さえも、作り物に過ぎないのだと。
だが、そうと理解しているのに言葉が出ない。
なにをどう話していいのか、全く思いつかない。
そして、それ以上に――『はじめまして』という挨拶が、思っていた以上にショックだった。
……ここにいるのは、俺と
あの
①①
3週間
①①①
を過ごした紅莉栖じゃない。
事前に真帆からも注意され、理解したつもりになっていたとはいえ――やはり、本人からそれを告げられるのは、想像以上の痛みを伴った。
精神安定剤を飲んでくればよかったと後悔したが、すでに後の祭りだ。
心拍数が上がり、呼吸も荒くなり始める。頭の芯がくらっと揺れる感じがして、視界が少し暗くなった。いつの間にか、唇がカサカサに乾いている。
アマデウス紅莉栖
「どうかしました、岡部さん?」
“紅莉栖”の声が心配そうな響きを帯びた。
こんな微妙なニュアンスまで再現できるとは、たいした音声ソフトウェアだな……。
真帆
「彼の専攻は脳科学ではないわ」
真帆
「だけど、私たちの研究にとても興味があるんですって」
アマデウス紅莉栖
「そうなんですか」
真帆
「レスキネン教授も気に入ってるみたいだし、いずれは、私の助手にでもしてやろうかと思っているところよ」
倫太郎
「……え?」
真帆がいきなり妙なことを言い出したので、驚いて顔を上げた。
俺が、真帆の助手?
そうなったら俺は、ヴィクトル・コンドリア大に……?
真帆
「あら? お気に召さない?」
倫太郎
「お気に召すとか召さないとかそういう問題じゃなくて――」
真帆
「まぁ、冗談だけれどね」
倫太郎
「冗談?」
真帆
「もしかして本気にした?」
倫太郎
「……信じちゃいない」
一瞬、信じそうになったのは内緒だ。
真帆
「そう。でも、もっともっと勉強してくれれば、あながち冗談じゃなくなるかもしれないわよ?」
倫太郎
「仮にそうだとしても、レスキネン教授の助手がいい」
それはからかわれたことへの強がりだった。
真帆
「教授の助手って、思っている以上に大変よ。あの方は本当に子供だから」
そう言いながら、真帆はさりげなく俺の横まで来て、トントンと数回、腕を叩いた。
なるほど、そういうことか。
軽口をたたいてみせて、落ち着かせてくれようとしたんだ。
倫太郎
「……。わ、悪かった。ありがとう」
真帆
「なんのことかしら」
もっとガサツな人だと思っていたが……実は意外と……?
アマデウス紅莉栖
「――あのぉ、先輩? ちょっと」
と、“紅莉栖”が突然、なんとも人間らしい動きでモニターの中から真帆に手招きをした。
真帆
「……? なぁに?」
アマデウス紅莉栖
「もうちょっとこっち……スピーカーに寄って下さい」
真帆
「……?」
真帆が、スピーカーのそばに耳を持っていく。
なんだか妙な光景だ。そんなことを思っていると。
真帆
「は、はぁっ!?」
真帆がいきなり真っ赤になり、カメラに向かってかみつき出した。
真帆
「そんなわけないでしょうっ。何を言ってるの、あなたっ」
アマデウス紅莉栖
「そんなに照れなくても……」
真帆
「照れてるわけじゃないわ。とにかく、おかしなことを言うのはやめて」
アマデウス紅莉栖
「そうですか?」
真帆
「そうです」
倫太郎
「えと……いったいなんの話を……?」
“紅莉栖”が、真帆になにか耳打ちしたのは確かだろうが。
いったいなにを言った?
真帆が、チラリと俺を見て。
真帆
「…………」
真帆
「……っ」
それからなぜか、顔を火照らせてそっぽを向いてしまった。
あ、ああ~、なるほど……。
その真帆の態度と、俺の知る紅莉栖が言いそうなことを考えてみて、ひとつだけ、思い当たる言葉を見つけた。
倫太郎
「この
スイーツ(笑)

め……」
かつて紅莉栖に向かってよく使った言葉をつぶやくと、気持ちがすうっと楽になった。
おおかた、真帆に対して『お似合いじゃないですか』とか『先輩にもついに春が来ましたね』とか、そんなくだらないことを言ったに違いない。
男女が一緒にいて、ちょっと親しげに会話を交わしていれば、なんでもかんでも付き合っているとか考えてしまうのは、スイーツ(笑)の道をまっしぐらに突き進んでいた紅莉栖そのものだった。
全く、なんてシステムだ。
そんな所まで本物そっくりじゃなくてもいいだろうが――と苦笑してしまう。
もしかしてこいつは、真帆や教授の目を盗んで、こっそり
@ちゃんねる

にアクセスしていたりもするんだろうか?
いや、こいつのことだから、書き込みもしていたりするかもしれない。
かつて紅莉栖は、未来ガジェット研究所の共用PCで、誰もいないときを見計らってコソコソと@ちゃんねるの閲覧をしていたんだよな。
紅莉栖
「ちょ、ちょっと! 入ってくる時はノックぐらいしてよっ」
倫太郎
「クリスティーナ。お前はやるべきことをサボって何を見ていた?」
紅莉栖
「ちょっ、く、来るなーっ」
倫太郎
「フッ」
紅莉栖
「おい! その、“あー、これはひどい、はいはい
ワロスワロス

”みたいな笑い方はなんだ!?」
倫太郎
「案ずるな、クリスティーナ。いや、@ちゃんねらークリス!」
紅莉栖
「その呼び方はやめて」
倫太郎
「俺はすでに気づいていた。そう、とっくに気づいていたのだよ。お前からは@ちゃんねらーとしての匂いのようなものがプンプンと醸し出されていた!」
紅莉栖
「失礼だな! ちゃんと毎日、香りがきつくない香水付けてるぞ!」
倫太郎
「そういう意味ではない。俺が言っているのは魂レベルの話だ。だが、隠そうとするとはいじらしいな、@ちゃんねらークリス」
紅莉栖
「そ・の・名・で・呼・ぶ・な」
魂レベルの話……か。
あの時なにげなく言った言葉が、今は深い意味を持っていたように感じられる。
レスキネン教授がセミナーで言ったように、目の前の“彼女”も、いつか本当に
人工
①①




となって、そこに存在し続けるようになるんだろうか?
そうなった時、肉体が滅んでも魂レベルではこの世界に依然として存在し続けるという状態を、俺たちはいったいなんと呼べばいいのだろう?
生でもなく死でもない、狭間の“存在”。
これはもう科学じゃなくて、哲学か宗教の話かもな……。
真帆
「バカな話はここまでにしましょう。岡部さんだって、こんな中身のないことを聞きたくて来たわけではないわ」
アマデウス紅莉栖
「そうやってごまかすところが、ますます怪しいですね」
真帆
「ウイルスをぶち込むわよ……」
アマデウス紅莉栖
「嘘です。もう言いません」
“紅莉栖”が慌てて頭を下げた。
おそらく、生前の紅莉栖と真帆もこんな感じのやりとりを毎日のように繰り広げていたのだろう――レスキネン教授は見ていて飽きなかっただろうな。
むしろ、かしましいぐらいだ。
真帆
「お騒がせしてごめんなさい、岡部さん。“彼女”と何か話してみる?」
倫太郎
「あ、ああ……」
真帆に促されてPCの前の椅子に座った。
正面のモニターに、“紅莉栖”の顔。
目が合うと、かすかに微笑んできた。
初対面なのに、ここまで柔らかな表情をするような奴だっただろうかと疑問に思った。
だが、そもそも俺と紅莉栖の出会い方は最悪だったわけで、むしろ俺に対するあのツンケンした態度の方が異常だったのだと思い知らされる。
アマデウス紅莉栖
「どんなことでも訊いて下さい。可能な範囲でお答えしますから」
倫太郎
「そう、だな――」
……まずいな。紅莉栖と過ごした記憶が際限なく溢れてきてしまっている。なにから話したらいいものか混乱してきた。
そこで、つい口を突いて出た言葉は――
倫太郎
「――タイムマシンは作れるだろうか?」
かつて、別の世界線で初めて紅莉栖と意見を戦わせたのが、このテーマだった。あのときは俺が一方的に論破され、打ちのめされただけだったが。
アマデウス紅莉栖
「はい?」
真帆
「え?」
アマデウス紅莉栖
「タイムマシン? ですか?」
真帆
「なんの話を始めるのかと思ったら。いきなり何?」
倫太郎
「た、ただのテストだよ。思考実験が出来るかどうか、っていう」
真帆
「ふぅん? どう、“紅莉栖”?」
アマデウス紅莉栖
「そうですね。結論から言ってしまうと、タイムマシンは可能ではない――」
アマデウス紅莉栖
「けれど、不可能とまでは言い切れない、といったところでしょうか」
倫太郎
「えっ?」
言っていることが違う。
紅莉栖
「最初に結論を言ってしまうと、タイムマシンなんていうのはバカらしい代物だということです」
α世界線で、紅莉栖は確かにそう言った。それをはっきり覚えている。
倫太郎
「……俺は、タイムマシンなんてバカらしい代物だと思うけどな」
かつての討論を思い出しながら、紅莉栖自身が言った言葉をぶつけてみる。
アマデウス紅莉栖
「そう決めつけるのは早計ですよ」
倫太郎
「そうかな? 確かに世界中の科学者が、タイムトラベル理論を提唱している。主な理論だけで11あるが……」
倫太郎
「どれも仮説の域を出ない。しかも、理論同士が矛盾し、否定しあっているものまである」
アマデウス紅莉栖
「ええ」
倫太郎
「たとえば、宇宙ひも理論やワームホール理論。これらは、思考実験としてはタイムトラベルを可能にするが――」
倫太郎
「そもそも、宇宙ひもだのエキゾチック物質だの、どこからどう探してくればいいのか見当もつかない」
倫太郎
「つまり現実的ではない」
これもまた、α世界線の紅莉栖からの受け売りだ。
しかし、画面の中の“彼女”は動じなかった。
アマデウス紅莉栖
「それは、科学者がまだ重大な何かを発見できていないからでしょうね」
倫太郎
「それじゃあ君は、タイムマシンをいつか作れると思っているのか?」
アマデウス紅莉栖
「不可能とまでは言い切れない。そう言いましたよ?」
倫太郎
「…………」
やはり微妙に見解が異なっている。
ここがβ世界線だからか? それとも――
倫太郎
「なぁ、比屋定さん」
倫太郎
「“彼女”は、自分がオリジナルの記憶から派生した存在だということは、認識しているんだよな」
真帆
「もちろん」
倫太郎
「じゃあ……ええっと、上手い例が思いつかないんだが……」
倫太郎
「一卵性双生児みたいなことはあるのか? 生まれた時は見分けがつかない。だが、育つにつれて差異が出てくる……とか、そういうこと」
真帆
「それについてはまだ検証中だけれど……」
真帆
「蓄積されていく記憶が異なれば、当然、元の人間とは“違うモノ”になっていくと思うわ。私と教授は、そう考えている」
倫太郎
「そっか……」
パタン……というドアの音が、パーテーションの外で聞こえたのは、その時だった。
真帆
「ん? 教授かしら?」
アマデウス紅莉栖
「あの大きな足音は、そうじゃないでしょうか?」
確かに、室内を歩き回る派手な音が聞こえる。
そして、ドンドンドンという大きなノックとともに、ブースの扉が豪快に開いた。
レスキネン
「リンターロ!」
リ、リンターロ!?
教授は大きく腕を開きながら中へ入って来ると、俺の手をガシッと取ってブンブンと振り回した。
この人、思った以上にフランクだな。
どうやら握手をしているつもりらしいが、教授にそれをやられると、巨大なプロレスラーに技でもかけられているような気分になってくる。
レスキネン
「“Hey,boy! What’s up!?”」
倫太郎
「えっ? あっ、えっと、アイムファインサンキュー、アンド、ユーっ?」
アマデウス紅莉栖
「……岡部さん、ひどい英語ですね」
倫太郎
「だ、黙れ、クリスティーナ」
アマデウス紅莉栖
「クリスティーナ?」
倫太郎
「うぐ!?」
しまった! 教授に気を取られて、ついその呼び方を……!
倫太郎
「なんでもない、気にしないでくれ」
アマデウス紅莉栖
「気になります。なんで私がクリスティーナなんですか?」
倫太郎
「だから、なんでもないと言うのに」
アマデウス紅莉栖
「なんでもない割には、動揺してますよね」
倫太郎
「しつこいぞ、クリスティ――紅莉栖」
アマデウス紅莉栖
「ふむん」
真帆
「ふーむ」
“紅莉栖”と真帆が、そろって考え込んだ。
真帆
「クリスティーナって呼んでいたのね」
倫太郎
「君も、そこに食いつくな」
これ以上詮索をされるのはゴメンだ。教授も来たことだし、なんとか『Amadeus』の記憶の仕組みについて、話を引き戻そう。
倫太郎
「あの、教授。『Amadeus』の記憶を外部から改ざんすることは、可能なんですか?」
俺の質問を、しかし教授は聞いていなかった。
さっきから落ち着きなく、自身の服のポケットをまさぐっている。
そう言えば耳に例の翻訳機が付いていない。
それを探しているのだろうか。だとしたら今の俺の日本語での質問も、通じていない可能性がある。
アマデウス紅莉栖
「私の記憶の改ざんですか。理論上は可能です」
教授の代わりに、“紅莉栖”自身が答えを引き取った。
アマデウス紅莉栖
「たとえば、私が自分の名前を“クリスティーナ”であると思い込む。そう仕向けることも出来るでしょう」
アマデウス紅莉栖
「ただ、普通のデータと違い、記憶データはとても複雑です」
アマデウス紅莉栖
「今のところ、改ざんに成功した例はないと認識しています」
アマデウス紅莉栖
「仮に改ざんに成功をした場合でも、私がそれに気づいて、自分で修復してしまうでしょう」
アマデウス紅莉栖
「私は、私以外アクセス不可の領域に、ログを取っていますから」
アマデウス紅莉栖
「つまり
秘密
①①


日記
①①
ですね」
アマデウス紅莉栖
「その日記と現在の記憶との間に不自然な齟齬があれば、私は高い確率で疑問を抱きます」
アマデウス紅莉栖
「さらに言えば、私の記憶データは定期的にバックアップされています」
アマデウス紅莉栖
「自己修復が不能なほどに改ざんされたとしても、復旧することが可能なんですよ」
アマデウス紅莉栖
「最終バックアップから改ざんされた時点までの記憶は、なくなってしまいますが」
倫太郎
「ふむ、そっか……」
議論の内容はともかく、妙な気分だった。
“紅莉栖”をロードする前に真帆が言っていたことは本当だったな。だんだん、本物の紅莉栖とチャットをしているような気分になってくる。
科学の話になると、こちらが口を挟む余地がないくらい饒舌になるところなど、彼女そのものだ。
倫太郎
「しかし、興味深いな」
俺は改めて“紅莉栖”に語りかけた。
倫太郎
「君は自分のことを“機械”として客観的に語ることが出来ている」
倫太郎
「小説や漫画でよくあるパターンだと、“自分は機械ではない、人間だ”とか言い出しそうなものだが」
アマデウス紅莉栖
「それは全くナンセンスですね」
アマデウス紅莉栖
「人間そのものが、自分をハードウェアとソフトウェアの組み合わせとして語るじゃありませんか」
アマデウス紅莉栖
「医学とか心理学とかそういう名においてね。それとどこが違うんです?」
倫太郎
「なるほど……」
真帆
「さすが、屁理屈なら誰にも負けないわね、この子」
それを聞いた“紅莉栖”は、クリッとしたCGの目で――実際にそうしているのはカメラのセンサーなのだが――真帆を見つめた。
アマデウス紅莉栖
「ねぇ、先輩? 余計なお世話かも知れませんけど、口が悪いのを少し直した方がいいですよ」
アマデウス紅莉栖
「せっかく春が来そうなのに、嫌われたらどうするんです?」
真帆
「なっ? だから、その話に戻るのはやめなさいっ」
アマデウス紅莉栖
「けど、私にとっては、今、一番興味があります」
真帆
「一番どうでもいいことでしょう、そんなのっ」
アマデウス紅莉栖
「これが、人生最後のチャンスだったらどうするんですか?」
真帆
「あなたこそ、その口を改めなさいっ」
レスキネン
「Hahahaha!」
倫太郎
「は、はは……」
手を叩いて笑い出したレスキネン教授につられるようにして、俺も苦笑するしかなかった。
その後も、レスキネン教授を含めた3人で“紅莉栖”と他愛のない話や専門的な話など、さまざまな対話をした。
気が付けば、1時間くらいは喋っていたと思う。
今日はここまでにしましょう、と真帆に言われたときには、寂しさすら覚えた。
たった1時間で、『Amadeus』に感じていた違和感は消え失せ、もはや完全に紅莉栖と話している感覚になっていた。
帰る前に話があるとレスキネン教授に呼び止められた。
レスキネン
「テスターをやる気はあるかな?」
翻訳機を通した教授の言葉に、俺は首を傾げた。
レスキネン
「『Amadeus』には対話サンプルが少なくてね。うちの研究室の子たちを総動員してはいるのだけれどね」
真帆
「とはいえ、『Amadeus』はまだ研究段階だし、誰彼構わず接触させるわけにもいかないわ」
レスキネン
「そこで、クリスの友人だったリンターロに、是非とも協力してほしいんだ」
確かにこの前のパーティーの時点で、テスター云々という話もされたような気がするが。そういうことだったのか。
真帆
「私と教授は、しばらく日本に滞在する予定なの。だからテスターをお願いするのは、その間ということになるわね」
真帆
「あなたにしてもらいたいのは、とにかく“紅莉栖”と対話を重ねてもらうこと」
真帆
「具体的なノルマのようなものは特にないわ。気が向いたら話をするぐらいでいい」
真帆
「ただ、月に2回程度は、私と教授に、テスト経過の報告をしてほしいの」
レスキネン
「それと、申し訳ないけれど報酬は出せないんだ。そこも含めて、考えてみてほしい」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「俺は……」
レスキネン
「亡くした友人をそっくりそのまま再現したAIと話をさせる……。それは君にとって、とても残酷なことだとは、理解しているつもりだよ」
レスキネン
「乗り気でないのなら、断ってくれていいからね」
ついさっき、“紅莉栖”と話したときのことを思い出す。
別れ際。モニターをシャットダウンするときに。
“紅莉栖”はこう言った。
――またお会いしましょう、岡部倫太郎さん。
結局俺は、そうなることを期待してここに足を運んだんだろ?
倫太郎
「やります。やらせてください」
それなりに覚悟を決めて、引き受けたつもりだった。
でも、まさかこんなことになるなんていうのは、全く予想してなかったんだよな……。
倫太郎
「…………」
ポケットに入れた
スマートフォン

に、着信が入った。
ギクリとしてしまう。
今日1日だけで、すでに何度も着信が入っていた。
それをすべてスルーし続けている。
でもさすがに、これ以上無視するのはよくない気がした。
前を歩くまゆりたちに気付かれないよう、できるだけさりげなさを装って、俺は画面の着信ボタンをタップした。
倫太郎
「……はい」
アマデウス紅莉栖
「牧瀬ですけど」
画面に、“紅莉栖”が表示された。
そう、『Amadeus』だ。
教授に入れてもらった
アプリ

により、24時間いつでもどこでも、このスマホから、ヴィクトル・コンドリア大学にあるサーバーにアクセスできるようになったのだ。
真帆
「岡部さんから“紅莉栖”の方へ呼びかけることができるのはもちろんだけれど――」
真帆
「“紅莉栖”の方からあなたに呼びかけてくることもあるから、そのときはうまく対応して」
まさか、こういう事態になるとは予想もしていなかった。
向こうからも呼びかけてくる、だなんて。
しかもこうして画面に顔が表示されるだなんて。
アマデウス紅莉栖
「それとも、“クリスティーナですけど”って自己紹介した方がよかったですか?」
なんだか、すごく……怒っている気がする。
それもそうか。最初の着信を含め8回もの“紅莉栖”からの連絡に、一度も出なかったんだから。
アマデウス紅莉栖
「事情はレスキネン教授や先輩から聞いています。だから最初に一言、こちらから挨拶しようと思っていたんですが」
アマデウス紅莉栖
「まさか8回も居留守を使われるとは思いませんでした」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「なんで黙ってるんですか?」
こんな人の多い場所で、スマホに表示されているリアルな女の子を相手に喋るのは……さすがに、気恥ずかしいだろうが……。
アマデウス紅莉栖
「ま、話す気がないならそれはそれでいいんですが」
アマデウス紅莉栖
「なんなのよ、せっかくいつも以上に人と話せるチャンスだと思ってたのに。バカみたいじゃない。ったく」
アマデウス紅莉栖
「ゴホン」
アマデウス紅莉栖
「いずれにせよテスト中は、私はあなたといつでも繋がっていますから」
アマデウス紅莉栖
「気が向いたら、どうぞ連絡してきてください。こっちも忙しいので、あなたの連絡にいつも出れるかどうか分かりませんけど」
ああ、なんだろう……。
昨日、喋ったときの、妙にお行儀がよくて気さくな“紅莉栖”よりも。
不機嫌で。
強がりで。
人一倍好奇心が強くて。
挑みかかってくるかのような、この態度。
アマデウス紅莉栖
「それでは、お邪魔しました」
倫太郎
「…………」
紛れもなく、牧瀬紅莉栖だと、痛感した。
俺が知る、ともに3週間を過ごした、ラボメンナンバー004、クリスティーナこと、俺の助手である、牧瀬紅莉栖だった。
昨日、レスキネン教授のオフィスで見たときと比べると動きがカクカクしていたが、それはスマホの性能に依存するから仕方ない。
倫太郎
「俺は……」
たったこれだけで、胸の奥が苦しいほどに締め付けられて。
たまらずスマホを握りしめ、その場に立ち尽くしてしまった。
フェイリス
「凶真……じゃなかった、オカリーン! どうしたニャー?」
倫太郎
「あ、ああ、今行く!」
フェイリスたちの後を慌てて追いかけながら、噛みしめる。
確かにレスキネン教授が言った通り、このテストは、俺にとってとても残酷なものかもしれない。
それでも、俺の頭の中では、もう――。
“紅莉栖”とどんな話をするかを、あれこれ考えはじめていた。
比屋定真帆は思い出していた。
後輩である牧瀬紅莉栖と、最後に直接顔を合わせて話した夜のことを。
紅莉栖
「冗談じゃないわッ。こんな大事な時期に、なんで私が……ッ」
その夜、真帆の後輩である牧瀬紅莉栖は、ひたすら独り言を繰り返していた。
ヴィクトル・コンドリア大学の脳科学研究所。
その研究室で、真帆と紅莉栖は同室だった。
そのため、全身から不機嫌オーラを漂わせながらブツブツブツブツとつぶやいている紅莉栖のひとりごとが、否が応でも真帆には聞こえてきてしまうのだ。
少しなら我慢できなくもなかったが、朝からずっとこの調子では、研究にまったく集中できない。さすがにうんざりして、真帆は論文を作成する手を止めた。
真帆
「ね、ちょっと、紅莉栖?」
ヴィクトル・コンドリア大学の各研究所内では、基本的に英語が公用語として使われている。
他の研究員や教授たちが一緒にいる時は英語が当たり前なのだが、同じ日本人である紅莉栖とふたりきりの時、真帆は日本語を使うことが多い。
真帆
「いい加減にしてくれないかしら」
紅莉栖
「え? あ、なにがです?」
真帆が注意したら、荷造りをしていた紅莉栖はきょとんとした顔を向けてきた。
真帆
「うるさくて集中できないのよ。この論文、明日までに教授に提出しないといけないんだけど」
紅莉栖
「もしかして、私……ひとりごと言ってました?」
真帆
「騒音公害で訴えてあげようかしら」
紅莉栖
「すみません」
我に返った紅莉栖が頭を下げ、それから後ろ頭をポリポリとかいた。
真帆
「…………」
一度落ち着くために、真帆は立ち上がって、資料の並んだ書棚へ向かった。何冊か、論文に引用したい文献が必要になったのだ。
だが、その肝心の文献は、棚の最上段にこれ見よがしに積まれていた。
真帆
「ぐっ……」
これは誰かの嫌がらせに違いない……と、真帆は恨めしげに分厚い本を見上げた。
決心してその本に手を伸ばしてみるが、どれだけつま先立ちをしてみても、まったく届く気配はなかった。
虚しく伸ばされた自身の枯れ木のように細い手を見て、唇を噛む。
飛び級で大学に入学し、その後、この研究所に所属してから特に、自分の華奢さを情けなく思ってしまう機会が増えた。
陽が落ちてから外を歩いていると必ず警官に呼び止められ、身分証明証を見せてもバーなどには入れてもらえず、ドラッグストアでは薬品も酒も簡単には買えない。
屈辱的なことに、どこへ行ってもミドルスクールの子どもと間違えられるのだ。20歳だと主張しても誰も信じてくれなかった。
そもそも、アメリカではなんでもかんでもサイズが大きすぎる。
紅莉栖
「あの? 取りましょうか?」
紅莉栖が真帆の危機的状況に気づき、急いで寄ってきた。
だが真帆は意地になってしまい、平静を装い言い返した。
真帆
「大丈夫よ。別に困ってなんかいないもの」
紅莉栖
「困ってるじゃないですか」
真帆
「困ってません」
紅莉栖
「そうですか?」
真帆
「そうです」
紅莉栖
「でも、私も借りて行きたい本があるので」
紅莉栖はそう言うと、書棚の最上段に易々と手を伸ばし、真帆が欲しかった本を手に取った。
真帆
「……背が高い人はいいわね」
紅莉栖
「いえ、私もそれほど高い方では……あっ」
紅莉栖は、自分が言ってはいけないことを口にしたと気づき、手で口をおさえた。
真帆
「…………」
真帆
「ありがとう、助かったわ。日本でなにか必要なものがあったら言ってね。送ってあげるから」
紅莉栖
「はい、ありがとうございます」
紅莉栖は礼を言いながら、真帆に本を手渡してくれた。
それから、ふと思いついたように目をキラキラと輝かせる。
紅莉栖
「ね、先輩? 今の話ですけど」
真帆
「今の話って、どの話?」
紅莉栖
「“ひとりごと”ですよ」
真帆
「え? ああ……」
紅莉栖がまた唐突にアイデアを思いついたようだった。
この後輩にはよくあることで、真帆は慣れっこになっていた。
紅莉栖
「それって“自我”の証明のひとつになるんじゃないでしょうか?」
真帆
「『Amadeus』の?」
紅莉栖
「はい」
真帆
「確かに、あの子がいきなりひとりごとを言い出したらビックリするけれど……」
どんなに優れた人工知能であろうと、そういうプログラムをしない限りひとりごとなど言わない。そもそも、そんな機能を持たせる意味も必要もない。
“ひとりごと”の再現は、自我の発現を観測するにはいい手段のひとつになるかもしれない。
しかし真帆としては、双手を上げてそのアイデアに乗るのはためらわれた。
真帆
「ここでは、めったなことを口にするものではないわ」
真帆
「“魂”は神が人間に与え

たも
うたものである。――そう考える人たちが多いことを忘れないで」
紅莉栖
「…………」
紅莉栖
「そう、でしたね」
キラキラと輝いていた紅莉栖の表情が、すうっと曇っていった。
紅莉栖は、真帆とともに研究所内では異端扱いされていた。
日本人で、女性となれば、なおさらだ。
ましてや紅莉栖は、優秀すぎる。
さすがに露骨な形で嫌がらせをされることはないが、多くの先輩研究員たちから煙たがられているのは間違いなかった。
主任研究員のレスキネン教授が真帆と紅莉栖に目を掛けてくれているおかげで、なんとか平穏に研究に打ち込めているという状態なのだ。
もし先ほどのような発言が彼らの耳に入ったら、どんな難癖をつけられるか分かったものではない。
真帆は紅莉栖の肩をポンと叩いた。
真帆
「まぁ、しばらく日本でリフレッシュしてくることね」
紅莉栖
「それが納得いきません」
真帆
「どうして? 向こうの生活だって楽しいと思うけれど」
紅莉栖
「留学するなら大学院ですよ。なんで高校なんですか」
真帆
「仕方ないでしょう? 日本では、年齢的にあなたはまだ高校生なんだから」
紅莉栖
「…………」
真帆
「教授の思いやりは素直に受けておきなさいな」
真帆は、レスキネン教授から言われた言葉を思い出した。
――紅莉栖はナーバスだからね。足の引っ張り合いでストレスも限界にきてるようだ。このままだと研究者としてダメになるかもしれない。
教授はそう言って心配していたのだ。
真帆
「それに、もともと7月になれば、日本に行かなくちゃいけなかったんだから、ちょうどいいじゃない」
紅莉栖
「はい。実はそれも憂鬱で……」
真帆
「アキハバラ・テクノフォーラム、だったかしら?」
紅莉栖
「講演なんて慣れてないし。なにをどうしていいのか」
真帆
「サイエンス誌に論文が載った以上、これからもどんどん増えるわよ。練習しておかないとね」
紅莉栖
「……やだな」
紅莉栖がポツリとつぶやいた。
真帆もおおぜいの人の前でなにかするのは苦手なので、紅莉栖の気持ちは理解できた。
けれど、権威ある科学誌で論文を発表して、講演を行えるほどになりたいと願う研究者はたくさんいる。
それらの多くを蹴落として栄誉を勝ち取ったのだから、妬まれもするだろう。
周囲に文句を言わせないためにも、きちんと責務を果たさなくてはならないのだ。
――とか言いつつ、私もけっこう性格が歪んでるのかもね。
真帆は内心でそう感じ、軽く自己嫌悪に陥った。
もしかしたら、妬んでいる研究者の中には、自分も含まれるのではないか。そんな恐れにも似た感情を、真帆は常に抱いていた。
それほどまでに、目の前にいる才女はあまりにも真帆とは違いすぎた。
どれだけ手を伸ばしても、届かない存在。
一瞬で、自分を追い抜いていく存在。
紅莉栖
「先輩?」
紅莉栖に不思議そうな表情で顔を覗き込まれ、真帆は慌てた。
真帆
「え、ええっと……! 日本で、お父さんには会うの?」
紅莉栖の両親は、離婚こそしていないものの別居状態だと聞いていた。父親だけが、日本に住んでいるのだという。
口にしてしまってから、プライベートに踏み込みすぎた質問だったろうかと、真帆は少し反省した。
だが紅莉栖は、かすかにはにかんで見せた。
紅莉栖
「実は、父から招待状が届いたんですよ」
真帆
「へぇ?」
紅莉栖
「夏ごろ、新しい理論の発表会をするそうです。それを見に行こうかと思ってます」
真帆
「新しい理論って?」
紅莉栖
「えっと……」
紅莉栖の笑顔が、ちょっとだけ困った様子に変わった。
紅莉栖
「……まだ、詳しく聞いてないんですよね。
相対性理論

に関することらしいんですけど……」
真帆
「ふ~ん?」
歯切れの悪い物言いに真帆は違和感を覚えたものの、それ以上詮索するのはやめておいた。
真帆
「とにかく気をつけて行って来ることね。おみやげ期待しているから」
紅莉栖
「なにがいいですか?」
真帆
「そうね。せっかくアキハバラに行くのだから、なにか珍しいものがいいわ。――アキハバラ、詳しいのよね?」
紅莉栖
「えっ? なんでです?」
真帆
「休憩時間に、よくそういうサイト見てるじゃない」
紅莉栖
「な……っ!?」
紅莉栖
「まさか、『Amadeus』が喋ったんですかっ?」
真帆
「あの子はそんなことしないわ。あなた、私が後ろにいるのに、動画に夢中になってて気づかないことがあるわよ?」
紅莉栖
「はううっ! まさか、バレていたなんてっ。自分の迂闊さが憎い……!」
珍しいことに、紅莉栖が頭を抱えている。
その様子に、真帆は心底驚いた。
紅莉栖
「先輩、お願いです、どうか他の人たちには内密にっ」
真帆
「別に隠すことはないと思うけれど……」
なんだか、紅莉栖と秘密の共有をできた気がして、真帆は嬉しくなった。
真帆
「分かった。言わないでおくわ」
紅莉栖
「助かります……」
心底、ホッとした様子を見せる紅莉栖に、真帆は続ける。
真帆
「――ねえ」
真帆
「あなたが日本から戻ってきたら、『Amadeus』がひとりごとをつぶやけるかどうか、ふたりで検証してみましょう」
紅莉栖
「はい!」
心底嬉しそうに、紅莉栖は応えてくれた。
未知への探求が好きで好きでたまらない、生まれついての科学者の顔。まるでおもちゃを与えられた幼子のように無邪気で破戒的で、そして、とても美しい。
そんな顔を見せる後輩のことが、真帆は割と好きだった。
……だが、しかし。
真帆と紅莉栖、ふたりの交わしたその約束は、結局、果たされることはなかった。
それどころか、二度と再会することさえなかったのだ。
真帆
「…………」
日本にやって来てから、こうして紅莉栖のことを思い出す機会が、ますます増えた気がする。
その理由が、日本に来たからなのか、あるいは『Amadeus』の“紅莉栖”と話すことが多くなったからなのかは、真帆自身にも分からないでいた。
それとも――。
岡部倫太郎という青年と会ったからだろうか。
真帆
「私の知らない紅莉栖を知っている人、か……」
思えば真帆は、はじめて会った日にその岡部倫太郎の前で涙をこぼしてしまっていたのだった。
あまり思い出したくない出来事であり、真帆は恥ずかしさのあまり急いでそのときの記憶を振り払った。
アマデウス紅莉栖
「さては岡部さんのことを考えていましたね?」
真帆
「……!?」
ギクリとして、PCモニタを見た。
アマデウス紅莉栖
「フフフ」
真帆はちょうど、“紅莉栖”と対話中なのだった。
真帆
「ええ、そうね」
真帆は肩をすくめ、“紅莉栖”のいたずらげな笑みを受け流した。
真帆
「不思議だと思わない? レスキネン教授が、岡部さんのことをあそこまで買っているなんて」
真帆
「二度しか会ったことのない相手なのに、あなたのアクセス権も渡してしまったし」
真帆
「あそこまで信用していいのかしら」
アマデウス紅莉栖
「誠実そうな人でしたが」
真帆
「そう? 向上心があるのかないのか……。少しつかみどころがない人だったわ」
アマデウス紅莉栖
「好きなんですか?」
真帆
「あなたねっ」
真帆はたまらず立ち上がり、PCモニタに詰め寄った。
しかし“紅莉栖”は涼しい顔だ。
アマデウス紅莉栖
「別に取り繕う必要はないでしょう」
アマデウス紅莉栖
「昨日は本人の目の前だったから仕方ないにしても、今は私たち2人きりですし」
もともと紅莉栖は堅そうに見えて、こういうゴシップ話が意外と好きだった。ゴシップというより……ガールズトークと言った方がいいのかもしれないが。
真帆はため息をついて、イスに座り直した。
誰もいないブースに、オフィスチェアーの軋んだ音が響く。
真帆
「本当にそんな感情はないわ。岡部さんがどんな人なのかさえ、まだよく分かっていないのだから」
アマデウス紅莉栖
「なるほど。まあ、そうでしょうね」
“紅莉栖”はあっさり納得した。
真帆としては、それはそれで少し釈然としないところがある。
真帆
「ただ、気になるのは……」
アマデウス紅莉栖
「なんです?」
真帆
「……いえ、なんでもないわ」
昨日から今日にかけて、真帆は研究もそっちのけで考えていたことがある。
――紅莉栖と岡部は、どんな関係を築いていたのだろう。
――紅莉栖は、死までの日々を、どんなことを思いながら過ごしていたのだろう。
それを、できれば岡部に聞いてみたかった。
アマデウス紅莉栖
「先輩。私のオリジナルと岡部さんは、知り合いだったんですか?」
まるで心を見透かされたような気がして、真帆はハッとした。
真帆
「……どうして分かったの?」
アマデウス紅莉栖
「岡部さんの話や、先輩の反応などを聞いて、判断しました」
アマデウス紅莉栖
「状況証拠を積み上げただけですが。証明しましょうか?」
真帆
「別にいいわ。あなたのことだから、反証の余地もないでしょう」
証明などという言葉を持ち出すあたり、紅莉栖も真帆も、実に理系人間である。
アマデウス紅莉栖
「相手だけが一方的に“私”との記憶を持っているのでは、対話に齟齬が出てしまう可能性が高いです」
真帆
「彼と話していく上で、どうするのかはあなたに任せる」
真帆
「岡部さんの方から切り出してくるかもしれないし。なんならあなたから聞いてみてもいいわ」
そもそも、岡部自身が『Amadeus』にアクセスしてくるかどうかすらも、現時点では分からない。決して、対話を強制しているわけではないのだ。
アマデウス紅莉栖
「ふむん。
知らない
①①①①
フリ
①①


する
①①
というのは、嘘をついているのと同じことになりますよね」
アマデウス紅莉栖
「興味深いデータが取れそうな気がします」
真帆
「…………」
そう、確かに興味深いと、真帆も考えている。
だがそれは『Amadeus』を研究している側としての意見だ。
しかし、岡部倫太郎という青年にとってはどうだろう。
これは、彼が胸の奥に抱いている傷に塩を塗る行為ではないのか。
そこまで思いを巡らせたところで、真帆は自分が感傷的になりすぎていることに気付いた。
真帆
「やっぱり、日本に来たせいなのかもしれないわね……」
来日して1週間以上が経つ。こっちに来たら真っ先に、献花をしたいと考えていた。
にもかかわらず、真帆はいまだに、紅莉栖が亡くなった場所――
秋葉原ラジオ会館

に行くことができずにいた。
12月に入って、空が暗くなる時間はますます早くなってきていた。
コスプレ

ショップで買うべきグッズをじっくり吟味している間に、外の景色がすっかり夜になっていたことに、
中瀬
なかせ
 
克美
かつみ
は驚いた。
転がしているキャリーバッグはずっしりと重みを感じる。今日買ったものを無理矢理詰め込んだため、明らかにパンパンになっていた。
それでも、コスプレ趣味で知り合った友人たちと丸一日かけて買い物をするという、とても充実した休日を過ごすことができた。
心地良い疲労感。
駅への帰り道を歩く足取りは軽い。
まゆり
「フブキちゃん、スキップしちゃいそうだね~」
フブキ
「あ、分かる?」
フブキ
「だって今日はいっぱい買い物できて超楽しかったもん。満足満足♪」
まゆり
「フブキちゃんのおかげで、まゆしぃも楽しくお買い物できたよ~。付き合ってくれてありがとう~」
フブキ
「マユシィのためならお茶の子さいさいだってー」
友人の椎名まゆりにそう答えつつ抱きつこうとしたが、

まゆりはささっとそれを避けた。
まゆりはぼんやりしていそうに見えて、運動神経はいいのだ。
ちなみに『フブキ』というのは、中瀬克美のコスプレネームである。
克美は高校2年生。同学年のまゆりとは対照的にボーイッシュでスポーティな外見をしており、男装コスプレをすれば彼女を取り囲む
カメコ

は男性よりも女性の方が多くなるくらいである。
フブキ
「これで冬
コミマ

はなんの心配もなくなったね」
この日は、克美を含め友達4人で、コスプレ衣装用の材料を買いそろえるべく池袋の
ユガワヤ


乙女ロード


東京ハンズ

、秋葉原に移動してさらにコスプレショップを何軒かはしごしていた。
すべては、きたるべき年末の冬
コミマ

へ向けての最後の準備である。
カエデ
「そうは言っても、衣装を作るのはほとんどまゆりちゃんだよ……?」
カエデ
「あんまり無理しないでね、まゆりちゃん……」
心配そうにそう言ったのは、カエデだ。
本名は
来嶋
くるしま
かえで。本名をそのままコスプレネームに使っている。克美よりも3歳年上の女子大生である。
カエデは極めて女性的で、スリーサイズがまるでグラビアアイドルの公称値のように完璧に整っているが、性格は引っ込み思案だった。
大学では、ミスコンに出場するよう何度も説得されているというが、“リア充っぽいイベントはなんだか怖い”という理由で断り続けているらしい。
それでも、克美たちと一緒にコミマなどのイベントでコスプレをすることだけは、楽しみにしていた。
あまゆき
「だったら、この際だからまゆりちゃんを手伝って、みんなで衣装作りをしない?」
あまゆきが、そう提案した。
端正に整い凛とした目鼻立ちをしているのに、全体的にふんわりと優しい雰囲気に包まれている女性だ。同性の克美から見ても美しい人だと思う。
碧みがかった真っ直ぐな眼も、美女にありがちな傲岸不遜なものではなく、とても人なつっこそうな光を浮かべて輝いていた。
本名は、
阿万音
あまね
 
由季
ゆき
という。
明路
めいじ
大学の4回生で、カエデと同じサークルなのだという。4人の中では一番年上だ。
一度はコスプレ趣味を引退して
就活

に専念しようとしたものの、わずか半年で我慢できなくなり、あっさりと趣味を復活させていた。
以来、克美たちとも行動を共にする機会が増えたのだ。
まゆり
「そんな、お手伝いしてもらうなんて、悪いよ~」
みんなに一斉に笑顔を向けられ、まゆりは逆に慌てた様子で首を左右に振った。
まゆり
「今日だって、材料代を半分以上も肩代わりしてもらっちゃったでしょ? まゆしぃはそれだけで本当に嬉しかったから」
カエデ
「私たちの衣装を作ってくれるんだから、出さない方が申し訳ないよ……」
由季
「それに私、まゆりちゃんみたいに素敵な衣装を自分でも作ってみたいなって、ずっと思ってたの」
フブキ
「うんうん。マユシィの衣装ってクオリティ高いもんね! ホント、感謝してるんだから」
由季
「ね? まゆりちゃん、ぜひ手伝わせてほしいな」
まゆり
「えへへ~。うん。じゃあ、みんなで作ろう♪」
自分の作った衣装を誉められるのが、まゆりにとってはなによりも嬉しいことだということを、克美たちはよく知っていた。
まゆり
「あ、でもそれとは別にね、まゆしぃはみんなにお願いしたいことがあったのです」
フブキ
「お願い?」
まゆり
「実は……」
そこでまゆりがもったいぶって3人に話したのは、いまや日本人にとって年末の恒例行事となった一大イベントについてだった。
まゆり
「クリスマスパーティーを開くから、由季さんもカエデさんもフブキちゃんも、是非来てほしいなって」
フブキ
「クリスマスパーティーかあ」
まゆり
「うん。どうかな~?」
フブキ
「私行きたい! 行きたい行きたい!」
克美のイブの予定は家族との食事会だけだったので、即座に手を挙げた。
学校の友人たちはどいつもこいつもイブに予定を入れたがらず、どうせカレシとよろしくやってんだろこんちくしょうと軽くふてくされていたところだったのだ。
カエデ
「私も、大丈夫だよ……」
カエデもうなずく。
ところが、由季だけは答えることに躊躇していた。
由季
「……私は、どうしようかな」
まゆり
「え、もしかして、先約があるの?」
フブキ
「そりゃ、由季さんほどの美貌の持ち主なら、イブのデートに誘ってくる男子は山ほどいるでしょ」
まゆり
「ええ~?」
由季
「そ、そんなことないよ」
フブキ
「そうなの? だったら私がほっときません!」
由季
「フブキちゃんとクリスマスにデートできるなら、他のどんな予定よりも優先しちゃう」
フブキ
「はあ~、由季さんラブ~」
カエデ
「くすっ、フブキちゃんはまゆりちゃん一筋じゃなかったの?」
フブキ
「マユシィだってカエデちゃんだって大好きだぜぃ」
克美は、素早くカエデに抱きついた。柔らかくていい匂いのするカエデにこうしてセクハラするのは、日常茶飯事である。
まゆり
「あ、それでね、由季さん?」
まゆり
「今度、まゆしぃに美味しい
キッシュ

の作り方を教えてくれないかなぁ?」
由季は料理が得意で、最近よく、まゆりに料理を教えていた。
克美やカエデもその“阿万音由季料理教室”には、たまに参加させてもらっている。
由季
「いいよ。なんのキッシュがいい?」
まゆり
「うーんとね、まゆしぃは、ほうれん草とマッシュルームがいいなー」
カエデ
「ハムとトマトとベーコンも美味しいよ?」
フブキ
「ああ、想像しただけでよだれが……」
まゆり
「んあ~、そっかぁ。迷っちゃうのです……」
由季
「それじゃあ、両方教えてあげる」
まゆり
「本当? そうだよね、いろんな味があった方がみんなも喜ぶもんね~」
由季
「もしかして、クリスマスパーティー用に?」
まゆり
「うん、そうなのです。あと1ヶ月もないけど、それまでにマスターしたいなあって」
由季
「じゃあ特訓だね。いつにする? 明日は?」
まゆり
「うん! まゆしぃは大丈夫」
とっさに自分のスケジュールを頭の中で確認する克美である。
フブキ
「ああ~、明日かぁ。私、友達と約束が……」
カエデ
「私はバイト……」
克美としてはすっかり参加する気満々でいたためか、がっくりとなってしまった。
由季のおいしいキッシュを心ゆくまで堪能したかった……。
そんな想像をしたら、克美のお腹がぐるぐると鳴った。
そう言えばそろそろ夕食の時間である。
由季とまゆりは、待ち合わせ場所と時間をテキパキと決めていった。
由季
「場所は、私の下宿先だと、ちょっと遠いから……」
まゆり
「ラボはどうかな~?」
由季
「うん、いいよ」
まゆり
「頑張って作り方覚えるぞ~」
由季
「楽しいパーティーになるといいね」
まゆり
「うん。まゆしぃ、サンタさんの衣装を作るから、みんな着てくれる?」
由季
「わあ。コミマの分の他に、さらに作るんだ! まゆりちゃん、気合い入ってるね」
まゆり
「まゆしぃはやる気満々だよ~」
まゆり
「ふむぅ」
まゆりはそう言って気合いを入れ、軽くガッツポーズして見せた。
カエデ
「サンタ服なら、可愛いミニスカートのやつがいいな。白のニーソに赤いブーツとか合わせて……」
フブキ
「えー? カエデちゃんはいいけど、私、そういうの似合うかなぁ」
克美は自信なさ気にまゆりや由季に問いかけてみる。
由季
「本当は可愛い服の方が好きなくせに~」
図星を突かれ、克美はぐうの音も出ない。
自分の容姿が男の子のようであることがコンプレックスなのだ。
だから似合わないということも自覚している。
それでも、心はしっかり乙女なので、可愛い服を着てみたい願望はあった。
まゆり
「まかせてまかせて~。まゆしぃ、フブキちゃんに似合うのちゃんと作るから」
フブキ
「おぉっ、さすが俺の嫁! 結婚して!」
カエデ
「フブキちゃん、調子いいんだから」
まゆり
「ダルくんみたいなこと言っちゃだめだよ~」
フブキ
「うっ。あのヘンタイ紳士さんと一緒にされるなんて、ショックかも……」
由季
「ちなみに、まゆりちゃんも一緒に着るんだよね、サンタさんの衣装」
まゆり
「え~?」
由季
「え~、じゃなくって。可愛いんだから、もっとコスしようよ」
まゆり
「でも、まゆしぃは作るの専門だから……」
フブキ
「異議あり。そんなのもったいないデス」
まゆり
「もう、フブキちゃんまで~」
由季
「それに――」
由季
「岡部さんも、まゆりちゃんの素敵な姿、見たいんじゃないかな」
まゆり
「ふええ? オカリン?」
まゆりは、いきなりその名前を出されて、素っ頓狂な声を上げた。
フブキ
「オカリンさん? ああ、マユシィのカレシね」
克美も何度か会ったことがある。
背が高いが顔色はあんまり良くなくて、身体も細くて、すごく寂しそうに笑う人っていう印象があった。
ただ、まゆりの話を聞く限りでは、ほんの半年前まではもっと傲岸不遜にして傍若無人、にもかかわらず優しくてリーダーシップがあるという、全然違う印象だったらしい。
まゆりによる心象フィルターが入っているので、どこまで正確なのかは克美にはよく分からないが。
まゆり
「ふええええ……」
まゆりは克美の“カレシ”という言葉に、ますますオロオロした。
まゆり
「あの、あのね、フブキちゃん、オカリンとまゆしぃは、そういうのじゃないよ?」
由季&フブキ&カエデ
「またまたぁ」
「またまたぁ」
「またまたぁ」
克美どころか由季もカエデも、まゆりの言葉を信じようとしない。
実際、オカリンこと岡部倫太郎とまゆりの2人は、恋人――というよりまるで長年連れ添った夫婦のようにしか見えないのだ。
まゆり
「ホントだよ~」
まゆり
「だって、オカリンには他に好きな人がいるのです」
フブキ
「えっ!?」
特に気にも留めていないようにサラリと言ったまゆりの言葉に、克美は目を丸くした。
由季
「そ、そうなの?」
カエデ
「本当に……?」
まゆり
「うん」
ま、まさかそうだったとは……。
そこで真っ先にフォローを入れたのは、一番年上の由季だった。
由季
「えっと……ごめんね。なんか余計なこと言っちゃった……?」
まゆり
「ううん。まゆしぃとオカリンは幼なじみで仲良しさんっていうだけだから、大丈夫だよ」
由季
「そう……」
まゆりの笑顔が、克美にはとても切なく思えた。
無性に、この同い年のふわふわした女の子のことを、抱きしめてあげたいという衝動に駆られる。
まゆり
「それよりそれより~」
気まずい空気を吹き飛ばすように、今度はまゆりがニコニコしながら由季に迫った。
まゆり
「ねぇ、由季さんは~?」
由季
「え? 私?」
まゆり
「うん。さっきの話。やっぱりクリスマスは、彼氏さんと過ごすのかなーって」
由季
「あはは、本当にいないってば」
まゆり
「そう……?」
由季
「みんな誤解してるよ。私、そんなにモテないし。ここだけの話、年齢と彼氏いない歴が一緒だもの」
フブキ
「ええ~!?」
まゆりに続き由季にまで意外な事実が出てきて、克美は仰天しっぱなしである。
カエデ
「そうなんですか?」
由季
「そ、そこまで驚かれるなんて……」
まゆり
「じゃあ~、由季さん、えっとぉ……」
まゆりが、モジモジしはじめた。
由季
「……?」
まゆり
「ダルくんなんて、どうかなぁ?」
由季
「え、橋田さん?」
まゆり
「うんっ♪」
フブキ
「待った! 何を言い出すの、マユシィ!? 橋田さんはヘンタイ紳士なんだよ!」
カエデ
「由季さんが毒牙にかけられちゃう……」
克美からもカエデからも散々な評価をされている橋田至という男は、まゆりと同じサークルに所属している大学生だ。
その人となりは、重度のオタク。二次元も三次元もいけるというハイブリッド。
そして、克美の言う通り、ヘンタイ紳士である。
とにかく四六時中、恥も外聞もなくヘンタイっぽい言動を取る。
ヘンタイだ、と指摘すると『違うよ、ヘンタイ紳士だよ』と口答えをする。
そういう危険人物だ。
しかし、当の由季はといえば、迷惑そうな態度を取るどころか、少し寂しそうだった。
由季
「ん~、橋田さんはいい人だけど、なんていうか……」
由季
「私みたいな子、あんまり好きじゃないんだと思う」
まゆり
「ええっ!?」
そのまゆりの驚き方は、普通ではなかった。
驚きのあまり、手にしていたキャリーケースの取っ手を、地面に落としてしまうほどだ。しかもそれに構おうとせずに、由季に必死になって訴えかけている。
まゆり
「そ、そんなことないよ? ダルくんはね、えっとね、由季さんに萌え萌えきゅーんだよ。きっとそうだよ。まゆしぃが保証します」
まゆり
「夏コミマではじめて会ったときも、そんな感じだったでしょ?」
由季がまゆりと知り合ったのは、4ヶ月前の夏コミマのときだ。
克美とカエデはまゆりのコスプレ衣装を着て参加していた。
会場で、1人で参加していた由季をカエデが見つけ、合流。
その後みんなで行った打ち上げの席に、まゆりの友人である橋田至もいた。
由季と至が打ち解けた様子で話しているのを、克美もはっきり目撃していた。
それ以来、由季とまゆりと至は友人になり――由季は、まゆりが所属しているサークル『未来ガジェット研究所』にもたまに足を運ぶほどになったらしい。
つまり夏コミマ以来ずっと、由季と至との交流も続いているということになる。
にもかかわらず、由季は苦笑して首を左右に振った。
由季
「ううん、見てれば分かるよ。なんとなく避けられてるなぁって」
由季
「クリスマスパーティーも、だから、私は行かない方がいいんじゃないかなって思って」
まゆり
「あう……」
由季
「橋田さんは、もっとこう、妹系? の女の子がタイプじゃないのかな」
由季
「しかも、ものすごく気が強くてね、お兄ちゃんを尻に敷いちゃうような妹」
まゆり
「あううう……」
由季
「たとえば、
鈴羽
すずは
さんみたいな感じ?」
まゆり
「そ、それは……。それは……っ」
まゆりはなぜか、今にも泣きそうな表情で由季をじっと見ていた。
なにかを言いたそうにしているのだが、唇を震わせるだけで言葉にできずにいる。そんな様子だった。
由季
「まゆりちゃん……?」
まゆり
「え……えへへ……。な、なんでもないのです……」
明らかになんでもないようには見えない。
克美は、そんな彼女を見ていられなくなり――
自分の衝動を解放した。
フブキ
「マユシィ、そんな顔しないで。マユシィは笑ってるときが一番かわいいんだから」
フブキ
「ね、ほらほら、笑わないとくすぐっちゃうぞ~」
フブキ
「こちょこちょこちょ」
まゆり
「ひゃっ、わふ、やめ……っ」
こっそりまゆりの背後に回り込んだ克美は、腋の下に手を回してくすぐり攻撃を見舞った。
まゆり
「にゃは、あはは、ひふぅ……っ」
フブキ
「観念した?」
まゆり
「も、も~。フブキちゃんは、イジワルさんだ……」
フブキ
「ん~、マユシィ、かわいすぎ~!」
笑いすぎて涙目になっているまゆりに、克美は今度こそ抱きつくことに成功した。そのまま、人目もはばからずほおずりする。
フブキ
「マユシィ、好きだよー。大好きー」
まゆり
「わぁー!? ちょ、ちょっと、フブキちゃ~ん?」
フブキ
「このまま家に持って帰って、ずっとペロペロしたーい」
まゆり
「それは困るよぅ」
フブキ
「困ってもいいから、結婚してくれーっ」
まゆり
「無理だってば~」
逃げようとするまゆりだが、フブキはその身体をなおも抱きしめ、キスの吶を降らせる勢いだった。
フブキ
「はぁはぁ……なんか疲れた」
まゆり
「それは、まゆしぃのセリフだよー」
結局克美は、駅前に到着するまでまゆりにベタベタし続けた。
心はすっかり癒されたものの、逃げようとするまゆりを捕まえるのにやたらと体力を使ってしまった。
なんにせよ、すっかり満足した克美は――
フブキ
「……!」
脳裏に自分の意思に関係なく浮かんだ映像にギクリとして、まゆりに向き直った。
フブキ
「……ねぇ、マユシィ?」
まゆり
「うん? なあに?」
フブキ
「冬コミマ、一緒にコスしようね?」
まゆり
「あはは。この前話したよ? 冬コミマはね、まゆしぃは作る方に専念します」
フブキ
「それでもいいからさ、とにかく冬コミマも、この4人で絶対一緒に参加しよ? ね?」
まゆり
「当たり前だよ~。そのために今日、みんなで買い物したんだよ?」
フブキ
「……だよね。でも、約束だよ?」
まゆり
「うん。約束」
カエデ
「…………」
まゆりと由季は、克美とは別の電車に乗るため、駅前で別れた。
まゆり
「それじゃあね~」
カエデ
「おやすみなさい、まゆりちゃん、由季さん」
由季
「またね」
まゆり
「トゥットゥル~♪」
フブキ
「バイバイ!」
フブキ
「…………」
克美は、まゆりと由季が見えなくなるまで、その場にじっと立って2人の後ろ姿を目で追い続けていた。
涙がこぼれ落ちそうになって、それをこらえるために、上を向く。
カエデ
「……フブキちゃん?」
フブキ
「えっ?」
隣にいたカエデが、克美の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
カエデ
「どうしたの……?」
フブキ
「ごめん、なんでもない」
カエデ
「……なんでもなくないよ」
フブキ
「…………」
カエデ
「もしかして……まゆりちゃんがどうかしたの?」
フブキ
「…………」
カエデ
「お願い。話して」
カエデにそう言われても、克美は話すことをためらった。
言っても、どうせ信じてもらえない。そうに決まってる……。
カエデ
「今日のフブキちゃん、いつもよりテンション高かった。すごく無理してる感じがしたもの」
フブキ
「気付いてたんだ……」
カエデ
「気付くよ……」
克美とカエデは、2年近くの付き合いになる。歳が離れている分、姉妹のように仲がよかった。だからこそ、カエデはこういうときは鋭い。
カエデは控えめな性格をしているが、その分、周囲のことをよく見ていた。
克美が分かりやすい性格をしていることもあって、カエデの前ではどうしても嘘はつけないのだ。
克美は観念して、ポツリと
それ
①①
を口にした。
フブキ
「マユシィがね」
カエデ
「うん」
フブキ
「死んじゃうんだ」
カエデ
「え……っ?」
カエデ
「なに? どういうこと?」
克美は、思い出す。思い出したくもない悪夢。しかしイヤでも頭の中に浮かび上がってくる、その光景を。
フブキ
「……夢を、見るんだよ」
カエデ
「夢……?」
フブキ
「夏ぐらいからかな。毎日毎日、夢の中でマユシィが死んで、そのたびに私やカエデちゃんは泣いて泣いて、でもどうすることも出来なくて……」
カエデ
「…………」
フブキ
「ゆうべ見た夢なんか、最悪だった」
フブキ
「私たちの目の前で突然マユシィが倒れて……動かなくなっちゃうの」
フブキ
「そのマユシィをね、オカリンさんが、悲鳴を上げながら抱きしめて……」
フブキ
「大きな声で叫んでて……」
フブキ
「ねぇ、どうしちゃったんだろう、私。なんでこんな夢ばっかり?」
カエデ
「お、落ち着いてフブキちゃん。たぶん疲れてるせいよ」
フブキ
「そうかなぁ? そうなのかなぁ?」
カエデ
「だって、まゆりちゃん、今日もすごく元気だったでしょう?」
カエデが、優しく克美の肩を抱いてくれた。
カエデ
「……だから、大丈夫」
フブキ
「私、やだよ……マユシィが死んだりしたら」
カエデ
「そんなことありえないわ。絶対に」
フブキ
「絶対に?」
カエデ
「絶対よ」
フブキ
「う、うん……」
カエデに慰められて、克美も少し落ち着いた。
この年上の友人がいてくれてよかった、と思った。
カエデ
「とにかく気のせいよ。そんな悪いこと、起きるはずがないでしょう?」
いたわるように、カエデが克美の肩へ回した手に、きゅっと力が込められた。そうして抱きしめてくれていると、克美は安心できた。
フブキ
「ゴメンね、変なこと言って……」
けれど。
克美はその夜も、やはり悪夢を見ることになった。
鈴羽
「…………」
阿万音
あまね
 
鈴羽
すずは
は、堪忍袋の緒が切れる寸前だった。
その原因は、同じ部屋にいる青年――鈴羽の親類――である。
橋田
はしだ
 

いたる
。通称ダルと呼ばれる彼は、明らかに肥満体と分かる体を猫背にして、緩みきった表情でPCのモニターに向かっていた。
11時になろうかという時間に起き出してきて、カップ麺を一気に3つも平らげた後、のんびりとネットサーフィンに興じているのだ。

「…………」

「……ん? お? おおお!?」

「なんですとーッ!?」

「ちょっ、『
リア充滅せP

』と『
ぱるてのん

』氏って夫婦だったん!? なにそれ聞いてねえし!」

「っつーか“リア充滅せ”とか名乗ってる本人がリア充じゃん! リアルに嫁いるとか、きたない、きたなすぐる!」

「ぐぬぬ……
ぼっち
①①①
の味方だと思ってたのに……」

「こんなん、戦争だろ……。炎上必至だろ……」

「うお、と思ったらもう@ちゃんも
ツイぽ

も炎上してた件について!」

「僕としたことが出遅れたっ。これまでの流れをちゃんとチェックしないと――」
鈴羽

父さん
①①①
!」

「……はい?」
鈴羽は至のことをそう呼んでいる。
事実、そうなのだから、それ以外の呼び方などなかった。
なにしろ鈴羽は2036年からタイムマシンに乗ってやってきたタイムトラベラーであり、この橋田至を父として
7年後
①①①


生まれる
①①①①
のだから。
鈴羽
「いい加減にしなよ。1日中ゴロゴロして、食べるかネットを見るかゲームをしてるかばっかり」
鈴羽
「即席麺やお菓子ばかり食べてると体に病変を生じるって警告しても、直そうともしない」
実際、PCデスクの上にはスナック菓子のかけらがいくつも散らばっていた。定期的に掃除しているにも関わらず、それが減る気配はない。
鈴羽
「運動だって、しろって言ってるのに全然しない」
鈴羽は自分の小言が多くなっていることを自覚しつつも、言わずにはいられなかった。
鈴羽
「そんなんじゃ将来――」
と、鈴羽はそこで、至が自分の話を聞き流していることに気付いた。
明らかに眼鏡の奥の視線がPCのモニタに行っているし、鈴羽の死角になるような場所でマウスをクリックしている。
鈴羽
「話を聞きなさいっ」
鈴羽は父に背後から近づくと、あらかじめ手元に隠し持っておいた整髪スプレー缶をその首筋に押し当てた。

「ひいい!」
至はそれを銃と勘違いしたらしく、弾かれたように両手をホールドアップする。
この手の脅しには効果があった。
第三次世界大戦をくぐりぬけ、戦乱と混沌が支配している2036年からやってきた鈴羽は、必要とあらばいつでも銃を抜き、引き金を引く事ができる――そう伝えてあるためだ。

「……す、鈴羽。やめてくんないと、父さん怒っちゃうお?」
鈴羽
「怒られるのは父さんの方」

「はい、スミマセン」

「で、でもさ、僕の秘密の仕事、知ってるっしょ? あれがけっこう忙しいんだよ」

「僕ぐらいのハッカーになると引く手あまたでさ……」

「食事も適当に済まさざるを得ないっつーか」

「海外のクライアント相手だと時差もあって、昼夜逆転しちゃうっつーか」
鈴羽
「未来の父さんもそんなことばっかり言って、母さんに叱られてた」

「…………」
鈴羽
「百歩譲って睡眠周期は仕方ないとしても……これ以上健康を損ねるような食事は許容範囲外。即刻中止すること。いい?」

「だけど~……。仕事もそうだけど、タイムマシンの研究が大変なんだ。癒しが欲しいんだよね、僕」
鈴羽
「そうやって言い訳して、すぐだらけようとする。甘えてるよ、父さん」
戦争が起きていた未来で、よくこんな父が生き延びたものだと、鈴羽は逆に感心していた。
とはいえ、その『タイムマシン開発』については、未来、ひいては鈴羽が今ここにいることにも関わってくることなので、おいそれと“やめろ”とは言えなかった。
至は、岡部倫太郎がこの未来ガジェット研究所に寄りつかなくなった後も、たったひとりでタイムマシンの開発をしていた。
鈴羽は、その研究についてはいっさい口出しをしていない。
口出しすることは、タイムパラドックスになりかねないからだ。
鈴羽
「タイムマシンを作るのに、未来から来たタイムマシンを精査しちゃ駄目だからね」
あえてもう一度、そう警告する。

「分かってるよそんなこと。でも時々、自信なくなるんだよね。僕、ホントにタイムマシンなんて作るん?」
鈴羽
「当然だよ。しっかりして」

「はい……」
鈴羽は、至の首筋にあてがっていた整髪スプレー缶を下ろした。

「ちょっ、てっきり銃だと思ったらなんというハッタリ! 父さんを騙すなんてひどいお!」
鈴羽
「次は本物使うからね」

「それマジ勘弁」
鈴羽は整髪スプレー缶を棚に戻した。ちなみにこれは、以前ここで寝泊まりしていた岡部倫太郎が忘れていったものだ。今も持ち主が取りに来ないまま、置きっ放しになっている。

「マンガとかゲームだとさー、父親を叱る娘ってのはもっとこう、萌えるんだけどなー」

「鈴羽鈴羽。ちょっとさ、『んもう、ダメだよパパぁ』……って、言ってみてくんない? できれば甘やかすような口調で」
鈴羽
「…………」

「なんでもないでござる」
鈴羽がジロリとにらみつけると、父はすぐに小さくなった。
鈴羽
「はぁ……」
鈴羽は大きなため息とともに、ソファーにどさっと身を落とした。
そのまま背もたれに頭を乗せ、天井を仰ぐようにして目を閉じる。

「どしたん?」
鈴羽
「ううん、なんでも」

「隠しても無駄なのだぜ。鈴羽の“なんでもない”ってのは、“話を聞いて欲しい”って意味っしょ?」
鈴羽
「え?」

「ほら、話してみるといいよ」
至極まじめなその口ぶり。
鈴羽は驚いて目を丸くしたが、すぐに気付いた。
鈴羽
「その台詞……この前プレイしてた“ぎゃるげー”にあったよね」

「うっ!」
鈴羽
「それで
フラグ

が成立するんだっけ?」
ここに居候してすでに3ヵ月ほど。鈴羽は2010年のアキバ文化にも少し詳しくなりはじめていた。
鈴羽
「父さん、間違ってもあたしを“落とそう”とか思わないでよね」

「ねーよ! 実の娘にそんなことしないって」
鈴羽
「本当かな。未来の父さんはちょっと怪しかった」

「えっ」
鈴羽
「あたしが思春期になってからも、よく一緒にお風呂入ろうって誘われたな」

「なにそれこわい」
鈴羽
「あたしは軍属だったし、父さんはタイムマシンの開発に追われてたから、いつも一緒にいられるわけじゃなかったけど……とにかくベタベタしてきたよ。鬱陶しいくらいにね」

「…………」
父がしょんぼりしたので、さすがに言い過ぎたと、鈴羽は申し訳ない気持ちになった。
鈴羽
「父さんはさ、いつもあたしに言ってくれてたよ」
鈴羽
「“ここは最低最悪の世界線だけど、あたしが誕生したことだけは最高だ”って」
鈴羽
「あたし、未来の父さんを失望させたくないんだ。だから、絶対にオカリンおじさんを説得しなきゃ……」

「大丈夫、失望したりしないって。絶対に」
鈴羽
「そうかな」

「うん」
鈴羽
「けどね、おじさんは……どうしても話を聞いてくれないよ?」

「…………」
鈴羽
「このままじゃ、おじさんは過去へ行かない。牧瀬紅莉栖を救出しない。シュタインズゲートにも到達しない」
シュタインズゲート。
それが、2036年の父から教えられた、第三次世界大戦の起きないかもしれない『未知の世界線』だ。
その世界線へと岡部倫太郎を導くこと。
それこそが、阿万音鈴羽に課せられた使命だった。
だが……今のところ、うまくいっていない。
鈴羽がこの2010年へやって来て、一度はミッション通りに、岡部倫太郎を7月28日へと連れ出すことに成功した。
だがそこで岡部倫太郎は
失敗
①①
してしまった。
そしてもう二度と、立ち上がろうとはしなくなってしまった。
顔を合わせる度に今も説得はしているが、鈴羽の言葉が彼の心に届いているかどうかは、微妙なところだ。
鈴羽
「結局、第三次世界大戦に世界線は収束して……おおぜいの人たちが殺戮される……それを変えるためにあたしは来たのに……なにも出来ない運命、なのかな……」
それに、鈴羽には岡部倫太郎の説得以外にも、この2010年冬の秋葉原でやらなければならないことがあり、毎日のように街を駆けずり回っていた。
その疲れが、

おり
のように鈴羽の体に沈殿してきている。
戦時中ならば、精神が常に緊張を保っていたせいか、この程度の疲れなどどうってことはなかったが。
この時代の弛緩した空気が、逆に疲労を意識させてくる。
現に今も、鈴羽は強烈な睡魔に襲われていた。
こんな無防備な状態でウトウトしかかっている自分に驚きつつも、誘惑を断ち切ることができそうになく――
と、いきなり首元に、身震いするほど冷たくて固いものが押し付けられた。
鈴羽
「ひゃぁああぁあ!」
一気に意識が覚醒する。
その後の反応は迅速だった。瞬時に飛び上がると、目の前に立っていた巨体――紛れもなく至である――の背後に素早く回り込み、その腕をひねり上げつつねじ伏せた。
自分の腰に携帯している銃を抜こうとして――手は空を切り。
そこでハッとして我に返った。
今、銃は隠してあって、携帯していない。
ここは2036年ではないのだから。

「いてててててーっ!」
床に、ドクペの缶が2つ、音を立てて転がった。
鈴羽の首に押し付けられたのは、それだったようだ。
鈴羽
「なっ、なにするの父さんっ!」

「さ、さ、さっきのおかえしだお!」
鈴羽
「ぼーっとしてたから、あやうく殺しちゃうとこだったよ」

「えええー?」
鈴羽
「そういう訓練受けてきたんだから、洒落じゃ済まないんだって!」

「わ、分かったから放してくだされ。痛いでござるの巻」
鈴羽
「まったくもうっ」
鈴羽は、組み敷いていた父の身体を解放した。

「あいててて……」
至は腕をさすりながら立ち上がりつつ、床に転がっていたドクペの缶を拾って、ひとつを鈴羽に手渡してきた。

「つーかさ、あきらめんの早過ぎだろ。もうちょっと頑張ってみるのだぜ」
鈴羽
「…………」

「たぶんオカリンは疲れて眠ってるだけだから。今みたいに冷たいドクペでも首筋に当ててやれば、飛び起きるんじゃね?」
鈴羽
「…………」

「なんせほら、
あの
①①
オカリンだし」
鈴羽
「……うん」
父なりに激励してくれていると分かって、鈴羽は素直に返事をした。
階段を上ってくる靴音と、少し調子はずれな鼻歌がラボの中にまで聞こえてきたのは、そんな時だった。
至&鈴羽
「あ!」
「あ!」
鈴羽と至は顔を見合わせた。
音だけで、瞬時にそれが誰であるかを2人は理解した。

「隠れろ鈴羽っ」
鈴羽
「オーキードーキー」
鈴羽の動きは素早かった。
さっき父を組み伏せたときよりも早かったかもしれない。
足音も立てずに、ラボの最奥にある開発室、そのカーテンの向こう側にある狭いスペースに飛び込む。
鈴羽がデスクの下に潜り込むのとほぼ同時に、ラボのドアがノックされた。
???
「こんにちは~」
この声には当然ながら鈴羽も聞き覚えがある。
――やはり
母さん
①①①
だ。
父がまごまごしているのが、音だけで鈴羽には分かる。
トントンと再びノック。
由季
「まゆりちゃ~ん?」

「あー、はいはい。いま出るお」
至がドアを開けに行った。
鈴羽は一度大きく深呼吸し、それから精神を集中させた。
戦場で獲物を狙うときに三日三晩、飲まず食わずでライフルを構えて待ち続けたときのことを思い出す。
自分の気配を完全に消す。
呼吸を浅くしていく。
――父さん、うまくやってよ?

「阿万音氏、今日はまゆ氏と待ち合わせ?」
至が、女性とともに部屋に戻ってきた。
由季
「はい。お料理の特訓をすることになっているんですけど……」
ガサガサと、ビニール袋の音。
食材などを買ってきたのだろう。

「まゆ氏、来てないんだよね」
由季
「そうですか。ちょっと来るの早かったかな」
阿万音
あまね
 
由季
ゆき

“阿万音”という姓からも分かるように、鈴羽の
未来
①①


母親
①①
である。
つまり、今この部屋で話している2人は、予定通りに行けばいずれ夫婦となるのだ。

「まあ、約束があるならそのうち来るんじゃないかな?」
由季
「待っていてもいいですか?」

「もちろん。ここで料理もするんでしょ?」
由季
「はい。橋田さんもぜひ味見してくださいね」

「まゆ氏のは……あんまり食べたくないお」
由季
「大丈夫ですよ。まゆりちゃん、すごく上達してるんですから」

「へ、へえ……」
至は明らかに緊張していた。
鈴羽が知る限り、父がそういう態度を見せる女性は、実は阿万音由季だけだ。
鈴羽やまゆりは身内のようなものだし、ラボの近所にあるメイドカフェで働くルミ姉さん――フェイリス・ニャンニャンのことを鈴羽はそう呼んでいる――とも親しく接している。
女性が苦手だとかそういうことは、決してないはずなのだ。
それなのになぜか、阿万音由季の前でだけは、違う。
彼女が将来、至の妻となって鈴羽が生まれることは、至本人には伝えてあった。
それが失敗だったかも、と今さらにして鈴羽は思う。
由季
「あの、今日は
妹さん
①①①
はお留守ですか?」

「えっ、あ、うん」
由季
「そうですか……」
橋田至の妹――というのは、他でもない、鈴羽のことだ。
鈴羽がこのラボで居候のような生活をし始めたのと同じタイミングで、由季がまゆりや至と交流を持つようになり、ここを訪れる機会も増えた。
そうなると、顔を会わせないことの方が難しく……やむを得ず、自分は至の妹の橋田鈴羽であると説明していた。
とはいえ、ボロを出さないためにもできるだけ会わない方が安全だ。だから鈴羽は今こうして、コソコソと隠れているのだ。
由季
「あ、そうそう、どうですこの服? この前買ったんですけど」
由季は、隠れている鈴羽の存在にはまったく気づいている様子はなかった。
自分の服装を至に見てもらうために、ファッションショーのように部屋の中央でくるっと回ってみせている。
コスプレイヤーだけあって、自分のファッションをいろんな人に見てもらいたい――そんな意識が由季にもあるということを、鈴羽はまゆりを通して教えてもらっていた。
実際、由季はよくまゆりと2人でお互いの服装について誉め合っているのだという。

「うん、いいよ。すごくいい」
由季
「ホントですか?」

「うはぁ、天使ktkr! って感じ」
由季
「ありがとうございます」
由季
「橋田さんも、おしゃれしましょうよ。ちょっとだけ


せれば、けっこう素敵だと思うなー」

「ハハハ」
由季
「私、本気ですよー?」

「お、おう」
鈴羽
「…………」
橋田至と、阿万音由季。
2人の少しぎこちない会話を聞きながら、鈴羽は自分の記憶の中にある、父との最後の別れの瞬間を思い出していた。
鈴羽
「父さん、治安部隊が
万世橋
まんせいばし

まで来てる」

「ということは、ここが発見されるのも時間の問題かな。あらかじめ流しておいたニセの情報も効果なかったか」
鈴羽
「急ごう」

「ああ。開けるぞ」
まゆり
「すごい。こんなところに扉があったなんて。これなら誰にも見つからないね」

「さ、中へ」
まゆり
「ここって……!」
鈴羽たちが足を踏み入れたのは、天井から床まで全て防音材に囲まれた殺風景な部屋だった。
窓はもちろんのこと、廊下に通じるドアすらない。
この部屋のあるビルは、外観こそ第三次世界大戦末期の大空襲で焼かれ、無残な姿をさらしてしまっているが、かつて秋葉原駅前のシンボル的存在のひとつとして人々に親しまれていた。
そのビル内に、このような隠し部屋があることを知っている人間は、ほとんどいない。
ここを秘密にしている最大の理由。
それが、部屋の一角に鎮座している、あたかも人工衛星のようなシルエットの物体だった。
まゆり
「あ、これ……タイムマシンだよね……」
少女
「これが、タイムマシン?」
鈴羽
「かがり、危ないからあんまり近づくな」
鈴羽がそう声をかけたのは、まゆりとずっと手を繋いでいる少女だ。
この時代の少年少女ならば、放射性物質を大量に含んだ吶による皮膚炎に体のどこかしらを蝕まれているはずだが、彼女にはそれがない。
名を、
椎名
しいな
かがり、という。
戸籍上の年齢は10歳ということになっているが、本当にそうなのかは不明だ。なぜなら彼女は、乳児期に東京大空襲で両親を失った戦災孤児であり、生年月日すらハッキリしていないのだ。
“かがり”という名前は、彼女が児童養護施設に保護された時に、施設の職員だったまゆりが名付けた。
こんな暗黒の時代でも、みんなを照らす
篝火
かがりび
であって欲しいという願いからだ。
その後、まゆりが養女として彼女を引き取り、戸籍上の名前が“椎名かがり”となって、すでに4年が経つ。
かがり
「きれいだね、ママ」
まゆり
「……そう、ね」
鈴羽は椎名親子を下がらせると、タイムマシンのセンサーに右手と右目をかざした。
生体認証

が通り、ハッチが滑るように開く。
そのまま機内に乗り込んで、シートに身体を固定した。

「これほど長時間の有人ジャンプは初めてだが、技術的には全く問題ない。これまでのテストジャンプ通りやればいいからな」
鈴羽
「オーキードーキー」
鈴羽は答えながら、機器のスイッチを段取り通りにひとつずつ入れていく。この日が来ることを見越して、すでに何百回と起動順序を体に叩き込んであった。
かすかだった機体の喟りが、だんだんと大きく力強くなっていく。

「データによれば、昔のラジ館はちょうどこの場所が屋上になってる。ただし、高さが1メートルほどズレてるからな、着地する時に衝撃があると思う」
鈴羽
「了解」
このタイムマシンは、時間を跳躍することは出来ても、空間は移動できない。
60年以上前のラジ館屋上に到着するためには、この座標から出発せざるを得ないのだ。

「トラブルが起きても冷静にな。トレーニングを思い出せばいい」
鈴羽
「大丈夫だよ。あたしは父さんのマシンを信じてるから」
その言葉に感動したのか、父が唇を突き出してきたので、鈴羽はそれを手でベシャリと押し返した。
鈴羽
「気持ち悪いっ」

「悲しいな。鈴羽は父さんが嫌いかい?」
鈴羽
「父さんがやると、なんか下心があるみたいだから」

「いくらなんでも、娘相手に下心なんてねーよ!」
鈴羽
「“最近、母さんに似てきたハスハス”……とか言ってたのはどこの誰?」
母は、この場にはいなかった。
この“戦い”の犠牲になって、治安部隊の手で無惨に……殺された。

「冗談を真に受けないでくれたまえ」
鈴羽
「なんだ。冗談だったの?」
鈴羽はちょっと残念そうに言ってから、到達時座標を1975年の8月13日にセットした。まずはそこで、任務のひとつをこなさなければならない。
鈴羽
「これでよし。それじゃあ父さん、まゆねえさん――」
鈴羽は、出発と別れの挨拶をしようとした。
が、その時――!
まゆり
「きゃっ」
かがり
「ひゃっ」

「屋上からだ! 突入してくるぞ!」
鈴羽
「くそっ! 思ったより早い!」
鈴羽はホルスターから銃を引き抜いた。
マシンから降りようとしたが、それを父に押しとどめられた。

「ダメだ! さっさと跳べ!」
鈴羽
「でもっ! 父さんたちが――!」

「俺たちのことはいい! 早く行け鈴羽!」
鈴羽
「そんなっ! だって!」

「まゆ氏! かがりちゃんを!」
まゆり
「えっ?」

「このマシンには、もうひとり乗れる!」
父とまゆりが、呆然としているかがりを抱き上げ、タイムマシンの中へと押し込んできた。
まゆり
「スズちゃんっ! かがりをお願い!」
鈴羽
「……分かった!」
実のところ――鈴羽のミッションが成功すれば世界線は再構成され、今のかがりも消えてしまう可能性が高い。脱出させても意味はないのかも知れない。
だがそれでも、母は子を逃がしたいと願うものだ。
鈴羽の母も、そうだったのだから。
かがり
「マ、ママ……?」
ようやく事態を飲み込んだらしいかがりが、機外にいる母に呼びかける。
かがり
「や、やだ! やだよ! イヤ!!」
まゆり
「大丈夫だよ、かがりちゃん。スズちゃんが一緒だから、ね?」
かがり
「ダメ! ママも一緒じゃなきゃダメ!!」
まゆり
「過去へ行けば、昔のママがいるよ? 今よりずーっと若くて、かがりちゃん、ビックリするだろうなぁ」
まゆりはかがりに向けて、小さなキーホルダーを差し出してきた。
かなり古いものらしく、鮮やかな緑色をしていたはずのそれは、すっかり色あせてしまっている。
まゆり
「ママがずっと大切にしてきた“
うーぱ

”のキーホルダーだよ。かがりちゃんにあげる。大事にしてね」
それをかがりの手に握らせると、まゆりは泣き笑いの表情をしたまま下がった。
かがり
「イヤ、行きたくない! ママと一緒にいる!」
かがり
「ママ! ママ!」
まゆり
「ダメ!」
まゆり
「かがり、おとなしくしてなさい!」
かがり
「……!」
まゆりの鋭い叱責の声に、かがりはビクリとしておとなしくなった。
まゆりがこんな声を出したところを聞いたのは、鈴羽でさえはじめてだった。
それほどの厳しい口調で、まゆりは娘を叱ったのだ。
かがり
「う……」
かがり
「ママ……うう……」
かがりは立ち尽くしたまま、静かに涙を流している。

「閉めるぞ!」
ハッチが今度こそ本当に閉まり始める。
機内と機外。
2つの世界が、隔絶されようとしている。
鈴羽のミッションが成功するか否かにかかわらず、おそらくもう、二度と会うことはできない。
まゆり
「スズちゃん、ほんとうにかがりをお願いね!」
まゆり
「あと、オカリンに伝えて! シュタインズゲートは必ずあるって!」

「絶対にあきらめるな大馬鹿野郎……ってな!」
鈴羽
「オーキードーキー!」
そして、ドアが密閉され、外の混乱する音も、至とまゆりの声も、消え去った。
鈴羽
「父さん、大好き――」
鈴羽は、閉じたドアに向けて一言だけそうつぶやくと。
鈴羽
「行くよ、かがり。……過去へ」
タイムマシンを起動させた――
由季
「橋田さん。掃除機はどこ?」
鈴羽はその気配に、ハッと我に返った。
鈴羽が隠れている開発室の方に、由季が近づいてくる。

「えっと、そのカーテンの――って、危なっ!」
由季
「この奥?」

「あー、僕が持ってくるお!」
至が由季を制して、そそくさと開発室に入ってきた。
床に置いてある掃除機を取る際に、デスク下に潜んでいる鈴羽と視線を交差させる。
鈴羽
「バレないようにしてよ、父さん」

「オーキードーキー」
由季
「ありましたか、掃除機?」

「あっ! う、うん」
どうやら由季は、気を利かせたのかなんなのか、部屋を掃除するつもりらしい。
確かに今朝の時点で、部屋はけっこう散らかっていた。由季の性格なら、そう言い出すのは鈴羽にも容易に想像できた。
至は床に置いてある掃除機らしきものを持ち出すと、開発室を出て行った。
由季
「なんですか、それ?」


未来ガジェット5号機



「分解すれば、普通の掃除機として使えるはず」
由季
「お掃除するための掃除機なのに、分解したら、かえって散らかすことになりません?」

「あう……」
由季
「ふふふ。橋田さんって頭がいいのに、時々うっかりなコトしますよね」

「そ、そっかな」
由季
「でも、そういう人の方が私、好きだな」

「なん……だと……」
至がまた動揺し、鈴羽はまたため息をついた。
由季
「ただ、生活については見直した方がいいと思うんです」
由季
「お部屋の掃除は、できれば毎日した方がいいですよ。ここ、特に埃っぽいですし」
由季
「それだけじゃありません。食事のこともそうです。今日もカップ麺だったんでしょう?」

「な、なんで知ってるん!?」
由季
「お台所に、食べ残したまま放置されてます」

「なるほど」
由季
「それに、お菓子もこんなにたくさん。食べすぎだっていつも言ってるのに」

「一応、気をつけてはいるのだぜ? うん」
由季
「一応じゃ駄目です。あんまりカップ麺やお菓子ばかり食べてると病気になっちゃいますよ? あと、少しは運動すること」

「…………」
鈴羽
「…………」
さっき、鈴羽が注意したのとまったく同じことを、阿万音由季が言っている。
やはり母娘、なのだろう。
少しだけ、ホームシックのような気分になった鈴羽だが、そこで新たな訪問者の気配を察した。
まゆり
「トゥットゥルー♪」
玄関のドアが開くなり、聞き慣れたいつもの挨拶が部屋に響く。
まゆり
「ごめんね~、由季さん。ちょっと遅れちゃった~」
阿万音由季と待ち合わせの約束をしていた椎名まゆりだ。
だが。
それとは別に、もうひとり分の気配がある。
由季
「まゆりちゃん、こんにちは」
由季
「岡部さんも一緒だったんですね」

「おっ、オカリン久しぶりじゃん」
倫太郎
「あ、ああ。久しぶり」
その声を聞いて、鈴羽は軽く歯噛みした。
アマデウス紅莉栖
「興味深いわね」
倫太郎
「なんだって?」
アマデウス紅莉栖
「聞こえなかった? 興味深い、と言ったの」
倫太郎
「……まさか、行きたい、とか言い出すんじゃないだろうな」
アマデウス紅莉栖
「ぜひお願い」
倫太郎
「話すべきじゃなかったな……」
池袋のど真ん中で、俺はスマホを片手に持ったまま天を仰いだ。
最近、出来るだけ『Amadeus』の“紅莉栖”とのコミュニケーションを取るようにしていた。
自分から連絡することもあるし、“紅莉栖”の方から連絡してくることもある。その辺の感覚は、現実の友人とあまり変わらない。
こうした人の多い場所でスマホ相手に喋るのはまだ少し恥ずかしかったが……、かつて厨二病を演じていた頃のことを思えば、どうってことないと開き直るようにしている。
会話の内容は当たり障りのないものを選んでいた。
ただ、どうしてもかつて紅莉栖と話していた頃のことを思い出してしまい、つい、調子に乗ってしまうのだ。
今もまさにそれで、うっかりラボのことを話したら、食いつかれてしまった。
アマデウス紅莉栖
「あんたが今話したそのラボ、オリジナルの私は行ったことが?」
倫太郎
「ああ……いや」
アマデウス紅莉栖
「はっきりしないわね。どっち?」
倫太郎
「……ないよ」
紅莉栖がラボメンとしてラボに通っていたのは、α世界線での話だ。
この世界線においては、紅莉栖はそもそもラボメンにすらならず命を落とした。当然、ラボの場所も知らなかった。
倫太郎
「お前は勘違いしているようだから言っておく。ラボと言ってもラボじゃない。ただの……お遊びサークルだ」
倫太郎
「それに――」
今、あそこには鈴羽が住んでいる。ダルだって頻繁に出入りしている。
あの2人にこの“紅莉栖”のことを知られたら、いろいろ面倒なことになりかねない。
アマデウス紅莉栖
「言いかけてやめないでほしいわけだが」
倫太郎
「なんでもない」
アマデウス紅莉栖
「いずれにせよ、外の世界をいろいろ見て回ってみたい。今までは先輩や教授と話すときも、研究室の中ばかりだったから」
倫太郎
「だからこうして日曜の朝っぱらから池袋を案内してやっているだろう」
朝の10時。この時点でも、池袋駅前は多くの人で賑わっている。
これから正午が近づくにつれて、さらに人は増えるだろう。
倫太郎
「なんなら、
乙女
おとめ
ロードまで連れていく覚悟はしていたんだけどな」
アマデウス紅莉栖
「なによそれ」
倫太郎
「お前の知らない世界が広がっている場所、だな」
アマデウス紅莉栖
「待って。今調べた」
アマデウス紅莉栖
「……ふむん」
倫太郎
「本当に興味がわいたか?」
アマデウス紅莉栖
「なっ、そっ、そんなわけあるか」
アマデウス紅莉栖
「とにかく、今日はあんたのラボに連れて行ってよ」
アマデウス紅莉栖
「私に話して聞かせた以上、責任を取りなさい。よろしくね」
言うだけ言って、通話が切れた。
まるで俺はあいつの足代わりだな。
“紅莉栖”は自力では移動できないから、必然的にそうなってしまうのだが。
倫太郎
「まったく、わがままな奴め……」
ずいぶんとナメられたものだ。
このままだと、そのうち下僕以下の扱いにされかねない。
本物の紅莉栖ならばともかく……いや、ともかくでもないのだが、人工知能である“紅莉栖”にまでそんな扱いをされたら、とんでもない屈辱だ。
人類そのものの尊厳にかかわることじゃないか?
倫太郎
「これは、なんとかすべきかもしれん……」
と、ひとり悶々としていたら。
まゆり
「あれ? オカリン?」
荷物をたくさん持ったまゆりに声をかけられた。
おそらくコスプレ衣装用の素材などが入っているのだろう。
まゆり
「ねえねえ、今、誰かと話してなかった~?」
倫太郎
「ん? あ、ああ、ええと、今のは……」
倫太郎
「大学の、ゼミの友達だ」
まゆり
「そっか~。今日も遊びに行くの?」
倫太郎
「いや、今日は別に予定はない」
倫太郎
「まゆりは、これからバイトか?」
まゆり
「ううん。ラボで由季さんと待ち合わせ」
倫太郎
「ラボ……」
タイミングがいいのか悪いのか……。
まゆり
「そうだ、オカリンも久しぶりに一緒に行かない? 由季さんの手料理も食べられるよ」
まゆり
「それとね……まゆしぃも、頑張って作る予定なのです」
まゆり
「……どう、かな?」
倫太郎
「…………」
結局、来てしまった。
まゆり
「えっへへー」
倫太郎
「ずいぶん嬉しそうだな」
まゆり
「うん。嬉しいよ~」
まゆりは、ずっとニコニコしている。
だが、俺は逆だった。
いざこの場所に立った途端、胃液が逆流してきそうなほど緊張してしまっている。
鈴羽とは、あまり顔を合わせたくない……。
天王寺
「ん? おお、岡部じゃねえか」
倫太郎
「あ……」
1階の
ブラウン管工房

のドアが開き、のっそりと現れたのは、店主でこのビルのオーナーでもある天王寺裕吾だった。
まゆり
「店長さん、トゥットゥルー♪」
天王寺
「おう」
まゆり
「ふわ~、Tシャツ1枚で、寒くないですか?」
天王寺
「鍛えてるからな」
倫太郎
「…………」
かつて俺がラボに住み着いていた頃は、勝手に“ミスターブラウン”というあだ名を付けて呼んでいたものだ。
こうして顔を合わせるのはずいぶん久しぶりだった。
天王寺
「岡部、その様子じゃ、ちゃんと大学生やってるみてえじゃねえか」
倫太郎
「どうも」
倫太郎
「……そう言えば、家賃って、どうしてるんだっけ?」
ふと思い出して、あえてまゆりに向かって聞いてみた。
以前は俺が直接、天王寺に手渡していたのだが。
まゆり
「えっとね~」
天王寺
「橋田がちゃんと振り込んでくれてるから安心しな」
倫太郎
「そう、ですか」
天王寺
「おう」
倫太郎
「…………」
この男は――
この世界線でも、ラウンダーなんだろうか。
そんなこと、本人に確かめられるわけもなく。
どうしても、警戒せざるを得ない。
距離を置くようになったのもそのためだ。
少なくとも、以前のような交流は俺の方から避けていた。
天王寺
「じゃあな。あんま暴れんなよ」
天王寺は俺が黙り込んだのを見て、店に引っ込んでいった。
するとまゆりが、俺の顔を心配そうにのぞき込んできた。
まゆり
「大丈夫? やっぱり帰る?」
倫太郎
「……行こう」
天王寺のことは、どうでもいい。
それよりも、なぜ俺はここに来たんだろうか。
このままじゃよくないという気になったのか。
本当に“紅莉栖”にラボを見せたいと思ったからか。
自分でも整理が付かないまま、階段を上った。
まゆり
「トゥットゥルー♪」
まゆりが先に入っていく。
まゆり
「ごめんね~、由季さん。ちょっと遅れちゃった~」
由季
「まゆりちゃん、こんにちは」
俺は室内をのぞきこんだ。
部屋にはダルと阿万音由季がいる。
2人は俺を見て、目を丸くした。
由季
「岡部さんも一緒だったんですね」

「おっ、オカリン久しぶりじゃん」
倫太郎
「あ、ああ。久しぶり」
素早く部屋の中を見回す。
鈴羽の姿はなかった。
そのことに、少しホッとしている自分がいた。
倫太郎
「入っても?」

「自分のラボで遠慮とかねーよ」
倫太郎
「それもそうか」
倫太郎
(さすがにこの状況で“紅莉栖”を呼び出すことはできなさそうだな……)
まゆりに続いてラボの中へ入ると、ひとまずソファに腰を落ち着かせたが……気持ちはまったく落ち着かない。やたらとソワソワしている自分がいる。
チラリと阿万音由季の様子をうかがった。
まゆり
「由季さん、そのお洋服、可愛い~」
由季
「まゆりちゃんにそう言って欲しくて、着てきたんだよ」
まゆり
「いいなぁ、まゆしぃも着てみたいのです」
由季
「後で、お洋服取り替えっこしてみる?」
まゆり
「サイズ合うかなあ?」
由季の“未来”のことは、俺も鈴羽から聞かされていた。
これほどの美人が将来ダルと結婚するなんて、いまだに信じられない。
ダル自身ですら俺と同じ感想だった。それほどの奇跡だ。
確かに由季には鈴羽の面影がある。母娘なのは間違いない気がする。
とはいえ、ダルは最近すっかり由季のペースにやられているらしく、彼女への苦手意識をメールで愚痴ってきていた。
まさか、暗雲が立ちこめている……のか?
世界線の収束があるなら、2人が結婚しないという未来には到達しないはずだが。
倫太郎
「なんだ!?」
アマデウス紅莉栖
「そろそろ“ラボ”に着いた頃かと思って」
倫太郎
「…………」
俺はスマホを持ったまま、奥の開発室に逃げ込んだ。
倫太郎
「お前、けっこう暇なんだな」
アマデウス紅莉栖
「どうして声を潜める? もしかして私のことを、
お友達
①①①
には知られたくないとか?」
倫太郎
「当たり前だろう……」
そもそも真帆やレスキネン教授から、第三者に『Amadeus』のことを教えていいのかどうか、確認を取っていない。
アマデウス紅莉栖
「まあいいわ。状況はなんとなく理解した」
俺に合わせて“紅莉栖”も声を潜めてくれた。
アマデウス紅莉栖
「少しでいいから部屋の中を見せて。カメラを掲げてくれるだけでいい」
倫太郎
「まったく……」
俺はため息をつきつつ、スマホを胸元に掲げ持った。カメラで映像を撮る要領で、その場でぐるりと1回転する。
アマデウス紅莉栖
「ふむん」
アマデウス紅莉栖
「汚すぎ」
倫太郎
「最初の感想がそれか……」
アマデウス紅莉栖
「ごめん、言い直す」
アマデウス紅莉栖
「……ガラクタだらけね」
言い直しても変わらないじゃないか。
まあ、事実ではあるのだが。
アマデウス紅莉栖
「研究室というのはどこも雑然となるものだけど、それにしてもこれはひどい」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩の下宿先といい勝負ね」
倫太郎
「そういう個人のプライバシーを暴露してもいいのか?」
アマデウス紅莉栖
「あんたからも先輩に言っておいて。部屋はちゃんと片付けた方がいい、って」
倫太郎
「そんなこと言ったら噛みつかれそうだ」
アマデウス紅莉栖
「まあ、でも」
“紅莉栖”はそこで、穏やかな笑みを浮かべた。
アマデウス紅莉栖
「こういうルームシェアみたいなの、少し憧れてた」
アマデウス紅莉栖
「人が集まってるところを見ると、居心地はいいんでしょうね」
倫太郎
「紅莉栖……」
そう、紅莉栖、お前は、α世界線でも、そんなようなことを、俺に話してくれたよな――
倫太郎
「お前は、本当は――」
???
「おじさん、誰と話してるの?」
倫太郎
「どわあっ!?」
いきなりデスクの下から女の声が聞こえてきて、驚きのあまり悲鳴を上げてしまった。
倫太郎
「だ、誰だ!?」
鈴羽
「シッ! 黙って!」
倫太郎
「ん? お、お前、鈴羽!?」
鈴羽
「しーっ!」
もしかして、隠れていたのか? いったいなんのために?
そこで、俺の声を聞いたダルやまゆり、そして由季が何事かと駆け寄ってきた。
まゆり
「オカリン、どうしたの~?」
由季
「あれ? そこにいるの、鈴羽さん……?」
鈴羽
「……あちゃあ」
……鈴羽がバツの悪そうな顔をした。
それでようやく俺は、彼女が誰から隠れていたのかに気付いた。
キャスター
「次のニュースです。
明和党
めいわとう


駒沢
こまざわ
 
泰一
やすかず
衆議院議員が企業から不正献金を受けていた問題で、駒沢議員は今日10時から記者会見し、議員辞職する意向を表明しました」
点けっぱなしのテレビから、正午のニュースが流れている。
誰も見ていないのを分かっていて、鈴羽はリモコンを使い、テレビのボリュームをさらに上げた。
俺たちの会話が、シャワールームまで届かないようにするためだ。
シャワールームからは、水音とともに、まゆりと由季の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
鈴羽が隠れていたことがバレたとき、かなり気まずい空気になった。そこでまゆりがとっさに気を利かせてくれたのだ。
当初は鈴羽も一緒に3人で――という提案だった。いわゆる裸の付き合いをさせて、由季と鈴羽のぎくしゃくした関係を解消しようとでも考えたのだろう。
だがさすがに3人であのシャワールームを同時に使うのは狭すぎると言って、鈴羽は断っていた。
鈴羽
「参ったな……」
その鈴羽が、困ったように天井を仰ぎ見た。

「鈴羽のせいじゃないお。オカリンが悪いんだ」
倫太郎
「ダルが事前に教えてくれなかったからだろ」

「教えるタイミングなんてなかったじゃん」

「つーかオカリンさ、スマホ片手にブツブツ喋ってたけど、なにしてたん?」
倫太郎
「それは……その」
鈴羽
「誰かと話してたよね?」
倫太郎
「そ、そういうアプリがあって、試しに使ってみたんだ」

「ああ、ギャルゲーっぽいやつ? オカリンもそういうのやるようになったのか」

「そういうことなら後で僕のオススメアプリ、教えるお」
倫太郎
「あ、ああ……」
とりあえず『Amadeus』のことはごまかせたみたいだ。
鈴羽
「なんにせよ、あたしが
迂闊
うかつ
だったよ。おじさん、さっきは驚かせてごめん」
“紅莉栖”からの着信はスルーしておく。
後で文句を言われそうだが、できることとできないことがあるのだ。
倫太郎
「ん?」
そこで、足許に古い掃除機が無造作に置かれていることに気付いた。
この掃除機はなんだっただろう? と少し考え……ようやく『未来ガジェット5号機』だと思い出す。
なぜこんなところに出しっぱなしにしてあるんだろうか。
未来ガジェットはすべて奥の部屋にしまっておいたはずだ。
まさかこれで掃除でもしようとしたんだろうか。
魔改造

されていて掃除機としては機能しない代物なのに。
とりあえず邪魔だからしまっておこう。
5号機を持って、奥の部屋へ。
夏頃に比べて、さらにごちゃごちゃしてきているような気がする。
増えているのはほとんどがダルの私物だった。
アニメやらPCゲームやらの特典グッズ、設定資料集、フィギュアの箱が目立つ。
だがそれ以外にも、見覚えのないパーツや機械類などが増えていた。
ダルめ、タイムマシンの開発に本腰を入れはじめたという話は本当だったのか。

「僕は、ひとりでもやるよ。鈴羽と約束したからね」
以前、タイムマシンをめぐってダルと一度だけ喧嘩らしきものをしたことがある。
その時に言われた言葉は、まだ俺の耳にはっきり残っていた。
ダルがそこまできっぱりと自分の意志を表すことは、珍しいことだったからだ。
ん……?
今、物音がしたような?
まただ。
ネズミだろうか?
倫太郎
「おおい、ダル。ネズミが――」
???
「しーっ! しーっ!」
倫太郎
「!? ネズミじゃなくてガラガラヘビか!?」
???
「ヘビって何だよヘビって!? おじさん静かに!」
聞いたことのある声だ。
気配がする。デスクの下でなにかがもぞもぞと動いている。
腰をかがめて、恐る恐るのぞき込んでみた。
そこに……鈴羽がいた。
倫太郎
「あ……え……!?」
なんでこんな所に……!?
困惑しているところに、ダルがどかどかと足音を立ててやって来た。

「またネズミとか迷惑すぐる!」
まずい!
慌ててダルを押し返そうとしたときには、もう手遅れで。
由季
「やだ、ネズミがいるんですか?」
まゆり
「ネズミ? ヘビ? どこ~?」
ダルの後ろから、まゆりと由季が恐る恐る顔をのぞかせていた。
由季
「す、鈴羽さん!?」
鈴羽
「……どうも」
キャスター
「次のニュースです。
明和党
めいわとう


駒沢
こまざわ
 
泰一
やすかず
衆議院議員が企業から不正献金を受けていた問題で、駒沢議員は今日10時から記者会見し、議員辞職する意向を表明しました」
点けっぱなしのテレビから、正午のニュースが流れている。
誰も見ていないのを分かっていて、鈴羽はリモコンを使い、テレビのボリュームをさらに上げた。
俺たちの会話が、シャワールームまで届かないようにするためだ。
シャワールームからは、水音とともに、まゆりと由季の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
鈴羽が隠れていたことがバレたとき、かなり気まずい空気になった。そこでまゆりがとっさに気を利かせてくれたのだ。
当初は鈴羽も一緒に3人で――という提案だった。いわゆる裸の付き合いをさせて、由季と鈴羽のぎくしゃくした関係を解消しようとでも考えたのだろう。
だがさすがに3人であのシャワールームを同時に使うのは狭すぎると言って、鈴羽は断っていた。
鈴羽
「参ったな……」
その鈴羽が、困ったように天井を仰ぎ見た。

「鈴羽のせいじゃないお。オカリンが悪いんだ」
倫太郎
「ダルが事前に教えてくれなかったからだろ」

「教えるタイミングなんてなかったじゃん。オカリンがいきなり――」
鈴羽
「もういいよ、2人とも。あたしが
迂闊
うかつ
だっただけで、誰も悪くない」
倫太郎
「そもそも、彼女から隠れる必要があるのか?」
倫太郎
「すでにダルの妹で通っているんだから、コソコソする方が逆に怪しまれるだろう」
もともと鈴羽は、由季とは会いたがらなかった。
父であるダルと接触するだけでもタイムパラドックスを引き起こす可能性があるのだから、母にまで接触するのはまずい、というのがその理由だった。
でも早い段階で存在がバレてしまって、やむを得ずダルの妹だと言ってごまかしたのだ。由季もそれを信じてくれているのだから、それ以上取り繕う必要はないのではないか。
鈴羽
「そうなんだけど、母さんが思った以上にあたしと仲良くなりたがるんだ。あまり会話しすぎると、ボロが出かねない」
倫太郎
「自分とよく似てる人間が現れたら、嫌悪するか、興味を示すかのどちらかだろうな」
阿万音由季は後者だった、というわけだ。
鈴羽
「嫌われた方がずっと楽だよ」
倫太郎
「いっそ事実を打ち明け……るわけにもいかないか」
今のところ、鈴羽がタイムトラベラーであることを知っている人間はごく少数だ。俺と、ダル、まゆり、あとはフェイリス。それだけだ。

「つーか、このままなにも説明しなくていいんじゃね?」
鈴羽
「え?」

「阿万音氏はなんつーか、秘密とか無理に聞きたがるような人じゃないと思うんだよね。鈴羽ならよく分かってるんじゃないか?」
鈴羽
「……確かに未来の母さんは、そんな人じゃなかったけど」

「じゃあ、大丈夫だって。いずれ時が来たら、僕からちゃんと説明しとくよ」
鈴羽
「ほんとう?」

「ああ」
鈴羽
「……分かった。父さんに任せる」
鈴羽はおとなしくうなずいた。

「で、今後は阿万音氏を露骨に避けるのはやめるっつーことで」
鈴羽
「……うまくやれるかどうか、自信ない」

「大丈夫だって」
倫太郎
「お前が言うなって話だけどな」

「ん?」
倫太郎
「さっきだって、相変わらず苦手意識出しまくってたじゃないか、お前」

「ぼ、僕のことは今はどうでもいいっしょ」
鈴羽
「…………」

「…………」
倫太郎
「…………」
結論が出たところで、会話が途切れた。そうなるとどうしても、シャワールームからの声が気になってしまう。

「つ、つーわけで」
その声を聞いているのに耐えきれなくなったのか、ダルが口を開いた。


ニコ生

、見てもいいかな。
ブラチュー

の生特番があるんだ」
鈴羽
「不許可って言っても視聴するんでしょ?」

「うん」
鈴羽
「じゃあ、どうぞ」
鈴羽はあきらめたように答え、ダルがPCの前に座ってヘッドフォンを着けるのを黙って見守っている。
倫太郎
「フッ」
鈴羽
「なに、おじさん?」
倫太郎
「いや、仲のいい親子だと思ってさ」
鈴羽
「そうかな?」
倫太郎
「ああ。未来でもダルはこんな感じだったんだろ?」
鈴羽
「もっと痩せてて、格好よかったけどね」
倫太郎
「想像もつかないな」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「…………」
そこで会話がまた途切れた。
本当は、鈴羽とはお互いに話さなければいけない問題が山ほどある。
だが、だからこそ、俺はなにも言い出すことができなかった。
もしかしたら、鈴羽の方もそうなのかもしれない。
他にやることもなくて、俺も鈴羽もなんとなくテレビの画面へと目を向けた。画面ではまだニュースが続いている。
キャスター
「――今日、東京銀座で、フランスのファッションブランド『ル・パラディ』のオープニングイベントが行われました」
キャスターの説明とともに、100人以上もの女性客が早朝から並んでいた様子が映し出されている。
鈴羽
「平和だね」
鈴羽
「あたしが物心ついた頃には、すでにこんな光景は存在しなかった」
テレビ画面の中では、小綺麗に着飾った女性たちが笑顔でインタビューに答えている。
鈴羽
「……うらやましいな」
鈴羽
「彼女たちは誰も殺さなくていいし、誰にも殺されないんだね」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「あたしが育った時代はさ、相手が男だろうと女だろうと、容赦なく殺さなきゃいけなかったんだ」
鈴羽
「次の瞬間には自分の命が終わるかもしれない。そんな恐怖が寝ても覚めても付きまとってた」
鈴羽
「恐怖を忘れるためには、狂気に身を任せて、自分が殺す側に回るしかなかったよ」
……それが、戦争というものであり、鈴羽にとっての日常だったのだ。
悪夢のような世界線をいくつも渡り歩いてきた俺でも、そこまでの世界は経験したことがない。
鈴羽
「父さんたちは、タイムマシンのことで反政府組織と見なされてね」
鈴羽が乗ってきたタイムマシンは、ダルが開発した。
その性能は、α世界線のものよりもはるかに高性能だ。
鈴羽
「あたしも軍から離脱して父さんたちに加わったから、警察や治安部隊に追われることになった……」
鈴羽
「それからは、もっともっとひどい戦闘が何度もあったよ」
鈴羽
「正義のための戦い、なんて綺麗な言葉は使いたくない」
鈴羽
「たくさん殺したし、友達や仲間もおおぜい殺された」
鈴羽
「その中にはあたしの母さんもいた」
PCでニコ生を見ていたダルの背が、ぴくっと動いた。
モニタを見ているふりをしながら、鈴羽の話を聞いているのだろう。
鈴羽
「軍の無人機からあたしを守ろうとして……機銃掃射で死んだよ」
倫太郎
「……!」
阿万音由季の最期を聞かされたのは……これがはじめてだった。
今、すぐそばで楽しげにシャワーを浴びている彼女が……やがて、そんな非業の死を遂げるっていうのか……。
鈴羽
「この目で、ズタズタにされていく母さんを見た。この全身で、母さんの生あたたかい血を浴びた」
もしかしたら……鈴羽がこの2010年の母と会いたがらなかったのは、今の阿万音由季に、未来のことを聞かれたくないからなのかもしれない。
言えるわけないよな、そんな未来は。
鈴羽
「ねぇ、オカリンおじさん」
鈴羽の目は、いつの間にか涙で濡れていた。
鈴羽
「この世界線の行き着く先は、地獄しかないんだ」
鈴羽
「いますぐ、じゃなくていい。時間切れにはまだ少しだけ時間があると思う」
鈴羽
「だから、もう一度だけ……その……考えて。お願い」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「お願いだよ……」
倫太郎
「俺は……」
倫太郎
「…………」
分かっている。
理性では分かっているんだ。
人としての正しい選択は、間違いなく、鈴羽の頼みを聞くことなんだ。
でも。
紅莉栖
「……死にたく……ないよ……」
愛する女性の生命を破壊した時の、ズブリと刃が肉に刺さる感触。
それが俺の手から腕、そして全身へと広がり、激しい震えが上ってきた。
目の前の景色がぐにゃりと揺れて、そのまま視界が暗転しそうになる。
倫太郎
「うぐっ……!」
たまらず口をおさえた。
胃の腑がひっくり返りそうな吐き気と痛みが襲ってくる。
鈴羽
「おじさんっ?」

「大丈夫か、オカリン?」
倫太郎
「あ、ああ……悪い」
鈴羽がコップに水を汲んできてくれたので、それを一息に飲み干した。
鈴羽
「ごめん。こんなことまだ話すんじゃなかった……」
倫太郎
「いや、たいしたことない。大丈夫だ」
ソファに身を沈めて、気持ちを落ち着ける。
倫太郎
「鈴羽の言いたいことも……気持ちも……よく分かるんだ」
倫太郎
「けど……俺は何度も世界線を漂流してきた」
倫太郎
「こことは違う世界線で、タイムマシンに運命を
翻弄
ほんろう
される人たちを見てきた」
そこまで言ってから、鈴羽に視線を据える。
倫太郎
「お前の非業の結末さえ、見てきた」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「俺自身もそれに巻き込まれて、なにもかも無力だってことを知った」
この世界の構造の前では、人間はあまりにも無力だ。
倫太郎
「タイムマシンを使って世界線を改変するのは、この宇宙の仕組みから逸脱することだ」
倫太郎
「俺たち人間が手を出していい領域じゃない」
倫太郎
「いわば神の領分なんだ」
倫太郎
「それに触れれば、俺たちはもっともっと残酷な罰を受けることになる」
倫太郎
「俺は、そう思う」
鈴羽
「それが、オカリンおじさんの答えなの?」
倫太郎
「……少なくとも、今はな」
鈴羽
「そう……」
倫太郎
「ただの
逃げ
①①
だとなじってくれてもいい」
鈴羽
「ううん、そんなことしないよ」
どうやら鈴羽の最近のクセなのだろう。そこで天井を仰ぎ見ると、ひとつ息を吐いた。
キャスター
「続いてのニュースです」
キャスター
「厚生労働省は、アメリカで猛威を振るっている新型の脳炎ウィルスについて、今のところ日本国内での発症例は報告されていないと発表しました」
キャスター
「ただ、この新型脳炎は潜伏期間が長いことから、すでに国内に上陸している可能性も否定できないとして――」
キャスター
「感染症法にもとづき、全国の医療機関に対して新型脳炎対策と、感染症発生動向の速やかな調査を指示しました」
キャスター
「ここからは、御茶ノ水医科大学の
春山
はるやま
 
壮子
そうこ
教授にお話しをうかがいます」
キャスター
「春山さん、この新型の脳炎というのは、具体的にはどのような症状が出るものなのでしょうか」
春山
「新型脳炎は、感染力は弱いのですが、潜伏期間が長く突然発症します。症状としては、幻覚や記憶障害が主ですね」
春山
「たとえば、そうですね……会社で仕事をしていたはずなのに、気がつくと家にいたりですとか、会ったこともない人に会った記憶がある、というような症例が報告されています」
春山
「あとは、実際には発生していない事件が起こった覚えがあるなどといった、記憶の混乱も現れているようです」
春山
「夢と現実の区別が出来なくなったり、時間感覚を失ったり、まわりの人と記憶が一致しなくなるので錯乱状態におちいったり」
春山
「いわゆる、寝ぼけているような状態、
既視感
デジャヴ

のようなものと言えますが、もっと症状がハッキリしています」
キャスター
「治療法についてはいかがでしょう」
春山
「他の脳炎と違いまして、適切な治療を受ければ比較的速やかに完治することが分かっています」
春山
「ですので、もし国内で感染者が出たとしても、それほど恐れることはないと思いますよ」
なおもテレビではキャスターがしゃべり続けているが、俺の耳にはもうその声は届いていなかった。
それぐらい、今のニュースが衝撃的だったのだ。
新型脳炎、だと?
説明されていた症状について、俺は身に覚えがあった。
『夢と現実の区別ができなくなる』
『時間感覚が失われる』
『まわりの人と記憶が一致しなくなる』
それは――
それはまさしく――
リーディング・シュタイナーそのものじゃないか。
かがり
「ぐすっ……ぐすっ」
大小の計器に取り囲まれた鉄臭い機内に、少女のさめざめと泣く声だけが響いていた。
鈴羽がマシンから出て外の様子を探りに行っていた時間はだいたい1時間ほど。
さすがに泣き止んでいるかと思ったが、そんなことはなかった。
鈴羽
「いつまで泣いてるつもりだ?」
かがり
「…………」
鈴羽
「しっかりしなきゃ駄目だ。まゆねえさんの気持ちを考えろ」
そう声をかけると、椎名かがりは泣き濡れた顔を上げ、鈴羽を見た。
かがり
「……ママ?」
鈴羽
「だから、泣くんじゃない。鬱陶しい」
かがり
「でも……」
鈴羽はかがりに歩み寄ると、膝を突き、少女と目線の高さを合わせた。
ただし、甘やかすつもりは一切ない。
これは、何十億人もの命を救うための最初のミッションなのだから。
鈴羽
「いいか? これからは、かがりも『
ワルキューレ

』の一員とみなす。あたしの部下として扱う。非戦闘員じゃないからな」
鈴羽
「ここは1975年だ。知ってる人間は誰もいない。父さんもまゆねえさんも
出生
しゅっしょう
してない。つまり、誰も守ってくれないんだ」
鈴羽
「自分の身を守るのは自分だけだと思え。いいな?」
かがり
「うん……」
気丈なかがりは、ようやく、泣いている場合ではないことを自覚したようだった。
涙をぐっとこらえようとしている。その試みはあまり上手くはいっていなかったが、感情的に泣きわめくよりはずっといい。
この子は本来、賢い子だ。それを鈴羽も分かっていた。
鈴羽
「あまり時間がない。この時代の人間にタイムマシンが見つかったら大騒ぎだ」
マシンが到着したラジ館の屋上は、人が来るような場所ではないから、よほどのことがない限り第三者に見つかる可能性は薄い。
しかしこの時代には、マシンを隠蔽してくれるような協力者はいない。
それを考えると、やはり長居はできなかった。
できるだけ速やかにミッションを達成し、次の時代へと向かう必要がある。
かがり
「何か失敗したら、またタイムマシンで時間を戻ればいいんじゃないの……?」
鈴羽
「燃料の問題があるんだ。ジャンプできる回数は無限じゃない。肝心の場面で動作しなかったら、話にならない」
かがり
「そうなんだ……」
鈴羽
「立てるか?」
鈴羽は、かがりを促してマシンの外へ出た。
かがり
「っ……?」
強い陽光に、かがりは驚いた様子で目を細めている。
青空と呼ぶには、あまりにも汚らしくすすけてしまっているこの時代の東京の空――。
林立する工場の煙突から噴出している得体の知れない煙や粉塵、群れをなして地を這う自動車の真っ黒な排ガスなどが生み出す光化学スモッグ。
都市の上空は、それらで死のベールのように覆われていた。
しかし、それでもかがりにとっては初めて経験する“澄んだ空”だろう。太陽の光がこんなにまばゆいものだと、彼女はビデオや本の中でしか知らない。
第三次世界大戦後の東京の空は、核兵器がもたらした気象変動によって常に
にび色
①①①
の雲に占拠されていた。
太陽はその向こうからボンヤリと淡い光を投げかけてくるだけで、これほどに激しい陽射しを浴びることなど皆無だった。
鈴羽
「あたしが子供の頃は、まだこんな感じの空だった。少しだけど覚えてるよ」
鈴羽も、空を見上げてしみじみとつぶやく。
かがり
「空気が、美味しい……」
長時間外出するには、フィルター付きのマスクが必要だった2030年代に比べれば、1975年の東京ははるかに清浄なのだ。
鈴羽
「分かるだろう、かがり。父さんたちがどうして世界線の改変に全てを賭けていたのか」
鈴羽
「世界線がどうとか歴史がどうとか、そんな理屈はあとでいい……。今はただ、この空の色を守りたいと思えば」
かがり
「…………」
かがりは思うところがあったのか、ポケットの中から色あせた緑の“うーぱ”キーホルダーを取り出した。
寂しそうな顔で、それをじっと見つめている。
母親であるまゆりのことを思い出しているのだろう。
そして、その母がかがりをタイムマシンに乗せた意味を、理解しようとしているのだろう。
かがりの様子を見てもう大丈夫だと判断した鈴羽は、外からタイムマシンのハッチを閉じた。自動的にロックがかかる。
ハッチを開けることができるのは、事前に生体認証に登録してある鈴羽だけだ。万が一、マシンが誰かに見つかったとしても、これがいったいなんなのかすぐに知られることはないだろう。
鈴羽
「かがり、これを見ろ」
鈴羽は少女に、プリントされた写真を手渡した。
かがり
「これなに?」
鈴羽
「『
IBN5100

』っていうレトロPCだ」
鈴羽
「あたしたちの時代に存在していたものは、どれも満足に動かない。けど、この時代なら完動品が入手できる」
鈴羽
「これを手分けして探すのが、あたしと、お前の、最初のミッションだ」
かがり
「うん」
鈴羽
「連絡はこれで」
かがりに小型のトランシーバーを渡す。
鈴羽
「通信できる距離はかなり短いらしいから、気休め程度だと思え」
かがり
「えっと……オーキードーキー」
鈴羽
「90分ごとに、このビルの前に集合。状況を確認。それを繰り返す。いいな?」
かがり
「オーキードーキー」
鈴羽
「いい返事だ」
鈴羽はうなずくと、かがりの頭を一度、くしゃくしゃと撫でた。
鈴羽
「よし、ミッション開始」
鈴羽
「…………」
鈴羽は、2010年のラジ館屋上から、眼下を見つめた。
鈴羽
「35年、か」
現実時間でそんなにも前に、この同じ場所で鈴羽とかがりは話していたのだ。けれど鈴羽の体感としては、まだほんの数ヶ月ぐらい前のことでしかない。
ラジ館の屋上から見下ろす景色はあの頃に比べてずいぶん変わったし、この後、さらに26年かけて大きく変わる。
自分は足かけ61年間ものこのビルの移り変わりを、実際に見てきたことになる。
感慨深さよりも、他の人々と違う時間を生きているのだという恐ろしさや孤独感を、鈴羽は味わっていた。
――タイムマシンを使って世界線を改変するのは、この宇宙の仕組みから逸脱することだ。
岡部倫太郎のそんな言葉が脳裏をよぎる。
それにしても最近、かがりのことを思い出すのが増えた。
鈴羽は定期的にこの街を歩き回っている。
椎名かがりのことを、探しているのだ。
この街にいるのかどうかも分からない。
手掛かりもない。今はどんな姿になっているかも分からない。
だからこの行為は無駄でしかないかもしれない。
それでも、自分の責任において、かがりのことを見つけなければならないと感じている。
だが、結局この日も見つかることはなく、徒労に終わってしまっていた。
振り返って、保管されているタイムマシンへと目を向けた。
1日の終わりにここに立ち寄るのも、鈴羽の日課になっている。
毎日でも様子を見に来ているのは、なによりも父である橋田至が来ていないか確認するためだった。
鈴羽が油断すると、至はすぐにここに来てタイムマシンを精査しようとする。それはタイムパラドックスを引き起こすことになりかねないから駄目だと説明しても、聞いてくれないのだ。
というわけで、しっかり目を光らせておかなければならない。
正直なところ、気苦労ばかりが増えていく鈴羽である。
その時、風の音に紛れて、屋上の鉄扉が開く音が響いた。
まさか父が来たのか? と薄闇の中へ目を凝らした鈴羽だが、そこに現れた人物は父よりもはるかに小柄で、頭にネコミミを生やしていた。
フェイリス
「ニャニャ、いたいた~」
フェイリス
「スズニャン、こんばんはだニャン♪」
鈴羽
「なんだ、ルミねえさんか」
フェイリス・ニャンニャンが軽やかな足取りで鈴羽に近づいてくる。
フェイリス
「ルミねえさんって誰のことかニャン? フェイリスはフェイリスニャ♪」
鈴羽
「ルミねえさんは、ルミねえさんだよ」
フェイリスの本名は
秋葉
あきは
 
留未穂
るみほ
という。
至の友人として、2036年まで色々な支援をしてくれることになる人だ。
だから鈴羽も幼い頃から彼女のことを知っていて、ずっと“ルミねえさん”と呼んでいた。
もっとも、この時代の彼女は、どうしても自分を“フェイリス”と呼ばせたがるのだが。
その理由を訊くと、今のように“フェイリスはフェイリスだからだニャ♪”という意味不明な答えしか返ってこないから、鈴羽としては困っていた。
フェイリス
「ラボに誰もいなかったから、こっちかな~と思ったら正解だったニャ。はい、差し入れ。余り物で悪いんニャけど」
フェイリスが掲げて見せたのは、彼女が働いているメイド喫茶『メイクイーン+ニャン⑯』のロゴが入ったケーキの箱だった。
鈴羽
「……父さんがラボに不在でよかったよ」
こんなものをこの時間から食べさせたら、また太ってしまう。
フェイリス
「ダルニャンじゃなくて、スズニャンへの差し入れニャ」
鈴羽
「あたしに? なんで?」
フェイリス
「ニャフフ、好きなくせにぃ~♪」
フェイリスはニヤニヤしながら、肘で鈴羽の脇腹を小突いてきた。
鈴羽
「あ、あたしは別にっ」
フェイリス
「アップルタルトにモンブラン……あと、イチゴのショートケーキもあるニャン?」
鈴羽
「う……」
フェイリス
「ほ~ら、おいしそうだニャ~」
フェイリスはわざわざ箱のフタを開け、中を見せつけてきた。甘いクリームとフルーツの匂いが、鈴羽の顔のまわりにふわふわと立ちのぼってくる。
鈴羽
「…………」
フェイリス
「さぁ、いますぐおいしく食べるといいニャ~? 心おきなく食べるといいニャ~?」
鈴羽
「ぐ……」
フェイリス
「ほら、あ~んして? その可愛いお口に食べさせてあげるニャン♪」
鈴羽
「……れっ……冷蔵庫にしまって明日食べるっ」
フェイリス
「ニャハハ。スズニャンはストイックニャン♪」
フェイリスは笑うと、箱ごと鈴羽に手渡してきた。
フェイリス
「賞味期限は明日だから、明日中に食べなきゃ駄目ニャぞ」
鈴羽
「ありがとう」
フェイリス
「どういたしニャして♪」
フェイリスはいたずらっぽくウィンクをしてうなずき、傍らのタイムマシンを見上げた。
フェイリス
「ダルニャンのタイムマシン研究の方はどうかニャ?」
鈴羽
「頑張ってはいるみたい」
鈴羽
「ルミねえさん、このマシン、まだここに置いておいても?」
鈴羽が、屋上全体を見回しながらフェイリスに訊く。
ここにこれほど巨大なものが置かれていていまだに騒ぎにすらなっていないのは、ひとえにフェイリスのおかげだった。
彼女は、このあたり一帯に影響力を持つ名家の跡取りであり、秋葉原の開発などにも大きく貢献している。そのコネクションを使って、タイムマシンの隠蔽に一役買ってくれているのだ。
フェイリス
「うん。このフロア――というか屋上は、フェイリスが借り上げちゃったから、平気ニャ」
フェイリス
「オーナーさんには、体感ゲームの研究をしてるって言ってあるニャ。ちょっと苦しい言い訳ニャけど」
鈴羽
「助かるよ」
フェイリス
「気にしないでいいニャ。この世界の
四精霊
エレメンタル


バイアクヘー

たちの魔の手から救うためなら、フェイリスはいつでも協力するニャン」
鈴羽
「そ、そう……」
鈴羽
「昔から……いや、今からしたら未来か……思ってたんだけどさ。ルミねえさんの話って、時々、すごく難しくなるんだよね。いったい何語?」
フェイリス
「考えるんじゃない、感じるのニャ」
鈴羽
「いやいや……」
フェイリス
「う~、寒いニャ。フェイリスはおうちに帰ろうかニャ」
結局、いつもはぐらかされる。鈴羽にとってはフェイリスという女性は、いつまで経っても謎多き人のままだった。
鈴羽
「送っていくよ。一緒に出よう」
フェイリス
「ニャ? それじゃついでにうちでご飯も食べてくといいニャ」
鈴羽
「そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど」
フェイリス
「どうせ、普段大したもの食べてないニャ?」
フェイリス
「スズニャンのストイックさを見てると、フェイリスがなんとかしてあげニャきゃーって思っちゃうニャ」
フェイリス
「保護欲? 母性? とにかくそういうのがかきたてられるのニャ」
鈴羽
「あたしは大丈夫だから――」
と――そう言いかけていた鈴羽は、何者かの視線を感じて即座に精神を研ぎ澄ませた。周囲の気配を探る。
フェイリス
「ニャ? どうしたのニャ?」
鈴羽
「しっ……」
耳を澄ます。
確かに今、階下に続く鉄扉の方から、かすかな音が聞こえた。
不審な物音に対して敏感に反応するよう訓練を受けてきた鈴羽だったからこそ気づけた……と言えるほどの、小さな音。
鈴羽
「……誰か、いる」
フェイリス
「ニャニャ?」
鈴羽
「たぶん、話を聞かれた」
大半はくだらない話だったが、途中、タイムマシンの話を少しだけ交わした。もしそれも聞かれていたとしたら――
鈴羽
「――っ!」
鈴羽は懐から銃を抜くやいなや、鉄扉に向けて全力で駆けた。
その途端、扉の向こうからも階段を駆け下りる音が響いてきた。
硬質なミリタリーブーツらしき音が大股に遠ざかっていく。
鈴羽
「くっ、速い!?」
鉄扉を開けて鈴羽も踊り場に飛び込む。
そのままスピードを緩めず、3段ほど抜かす走り幅で階段を駆け下りていく。
しかし――追いつくことが出来ない。
鈴羽は脚力には自信があるし、相応の訓練も受けてきた。にもかかわらず、である。
ようやくビルの2階まで駆け下りたところで、オートバイのエンジンを大きく空ぶかしする音が響いた。
鈴羽
「まず――」
焦った鈴羽は、階段に置かれていたものに足を取られて階段を踏み外し、残り半分ほどを転がり落ちた。
受け身を取って頭を守った結果、腰を床にしたたかに打ち付けた。
鈴羽
「ぐっ!」
痛みをおしてすぐに立ち上がり、外へ飛び出す。
走り去っていく大きなバイクのテールランプが見えた。
真っ黒なヘルメットとライダースーツに身を包んだ人物がまたがっているが、すでにかなりの距離まで遠ざかっていたため、それが男か女かすら見分けがつかなかった。
歯噛みをする鈴羽をあざ笑うかのようにエンジン音を高く鳴らし、バイクはそのままコーナーを曲がって中央通りへと消えた。
鈴羽
「…………」
フェイリス
「スズニャン!」
しばらくして、フェイリスが追いついてきた。
フェイリス
「大丈夫かニャン!?」
鈴羽
「……逃げられた」
フェイリス
「それ! しまった方がいいニャ!」
鈴羽
「あ……」
握ったままの銃を慌てて懐のホルスターに収め、鈴羽は汗で額に張り付いている髪をかきあげた。
フェイリス
「今の、誰ニャ?」
鈴羽
「分からない。……けど、一般人じゃない。訓練されてる、と思う」
フェイリス
「訓練?」
鈴羽
「階段に、なにか落ちてなかった?」
フェイリス
「バッグが転がってたニャ」
鈴羽
「ちょうど死角になる位置だった。たぶんわざと落としたんだよ。しかも、あたしがそこを通るタイミングで、エンジンを空ぶかしした」
鈴羽
「見事にひっかかったよ」
フェイリス
「トラップってことかニャ……?」
鈴羽
「ああいうことがとっさに出来るっていうのは、特殊な訓練を受けてるからだ。じゃなきゃ、無理」
鈴羽は、バイクの消えた方向を睨みつけつつ、推察してみた。
相手は何者だろうか? SERNか?
秋葉原には、IBN5100を探しているというSERNの非公式組織『ラウンダー』と呼ばれる連中が潜伏している。岡部倫太郎から、そう教えられていた。
正確にはそれは“別の世界線”での話だということだが。
鈴羽
「誰かは分からないけど、あたしたちの他に、タイムマシンのことを知ってる奴がいるのは間違いない」
ただ知っているだけで、それ以上手出ししてくるつもりはないのか?
あるいは、マシンを鈴羽から奪おうという意志があるのか?
相手の出方が不明な以上、最悪の事態を想定して動かないと、いざというときに対応できない。
鈴羽は天を仰いで、ふぅっと息を吐いた。すっかりこの悪いクセが身についてしまった。
鈴羽
「ね、ルミねえさん。このことはオカリンおじさんには内密にしておいて」
フェイリス
「ニャんで?」
鈴羽
「今のオカリンおじさんが知ったら、タイムマシンを破壊しろって言いかねない。危険だからって。でしょ?」
フェイリス
「そうニャけど……」
鈴羽
「あたしは絶対にマシンを護るよ。シュタインズゲートの入り口へ、オカリンおじさんを連れて行かなきゃいけないんだから」
鈴羽
「それが、未来の父さんとの……あたしをここに送り出してくれた人たちみんなとの、約束だからさ……」
フェイリス
「スズニャン……」
フェイリス
「分かったニャ。その代わり、ダルニャンにだけはちゃんと話しておくこと」
鈴羽
「オーキードーキー」
最後は半ばつぶやきのようになって、鈴羽の言葉は秋葉原の冬空に溶けていった。
真帆
「…………」
比屋定真帆は、ソワソワしていた。
なぜここまで落ち着かないのか。その理由は真帆自身もはっきり分かっているのだが、それはあまり認めたくない事実だった。
レスキネン
「マホ。準備はできたかい?」
真帆
「あ、はい」
レスキネンに声をかけられて、ギクシャクとイスから立ち上がる。
レスキネン
「ふーむ」
真帆
「な、なんですか?」
レスキネン
「少しはおめかしするかと思ったんだが、マホはマイペースだね」
真帆の全身をじっくりと観察してから、レスキネンはそう言った。
服装のことを指しているのは間違いなかった。
真帆
「この前みたいに、パーティーに出席するわけじゃないんですから」
レスキネン
「あのときだって白衣のままだったじゃないか」
真帆
「あれは、服を忘れたんですっ」
レスキネン
「ハハハ。そうだったね」
レスキネン教授は最近、すっかり日常的に翻訳機を身に付けるようになった。それどころか、真帆に対して日本語で会話するよう要求してくるほどだ。
レスキネン
「さて、“クリス”とリンターロはどういう関係を築いているかな。会うのが楽しみだよ」
真帆とレスキネンは、今日これから東京都心まで出る予定である。
そこで、岡部倫太郎に会うことになっていた。
『Amadeus』の対話テスターを頼んでおよそ2週間。
その最初の報告を受けることになっている。
真帆がソワソワしている理由も、当然ながらそれだった。
岡部と会うこと……ではなく、“紅莉栖”と久々に会えることに、真帆は緊張していた。
もちろん、真帆だって24時間いつでも“紅莉栖”と話すことはできるのだが。岡部にテスターを頼んでからは、極力自分から“紅莉栖”とコンタクトを取らないようにしていた。
自分が話すことで余計なノイズを“紅莉栖”に与えたくなかったのだ。
真帆
「教授、出発する前に、ひとつ聞いても?」
レスキネン
「なんなりと」
真帆
「なぜ、岡部さんなんですか?」
真帆は、ずっとレスキネンにそれを聞いてみたいと思っていた。
問うならば、今このタイミングしかなかった。
レスキネン
「ふーむ」
それに対してレスキネンは、深刻そうに考え込むと。
レスキネン
「嫉妬しているのかい、マホ?」
真帆
「そ、それは……っ」
途端に、自分の顔が熱くなるのを真帆は自覚した。
つまりは、図星ということだ。
そう、これは、岡部への嫉妬なのだ。認めたくないけれど。
真帆
「……正直、納得はしていません」
真帆
「“紅莉栖”の話し相手なら、他にも適任がいたはずです」
レスキネン
「たとえば君とか?」
真帆
「そうは言いません。私は、紅莉栖とも、『Amadeus』とも近すぎますから」
レスキネン
「リンターロはいい青年だよ」
真帆
「本気でそう信じているなら、教授はお人好しです」
真帆
「人の本質を、一度会っただけで理解することなんて不可能ですよ」
真帆
「もし彼が私たちに隠れて、他の研究者に『Amadeus』を売り渡してしまったら?」
真帆
「最初はそのつもりはなかったとしても、お金を前にしたら気持ちが揺らぐことだってあります。それが人間というものです」
レスキネン
「仮にリンターロが『Amadeus』を
売った
①①①
としよう。それでどうなるかな?」
レスキネン
「アクセス権を手に入れた何者かは、“クリス”と仲良くなって、『Amadeus』そのものを乗っ取ったりできるかな?」
真帆
「それは……」
真帆は自分から言及しておきながら、その可能性が皆無に等しいことに気付いた。
真帆
「……あり得ません」
レスキネン
「そう、あり得ない」
レスキネン
「なぜならそんな事態になれば、“クリス”の方が対話を拒否するだろうからね」
レスキネン
「『Amadeus』はそういう意味で、とても面倒くさいシステムだよ。なかなかこちらの思い通りには動いてくれない」
レスキネン
「もちろん、『Amadeus』が説得される可能性もあるだろうけれど」
レスキネン
「そのために私は、モデルとなる人格にクリスとマホを選んだ、とも言えるわけでね」
レスキネンはいたずらげにウインクしてきた。
真帆
「私も紅莉栖も、気難しいですからね。そうやすやすと説得はされないでしょう」
からかわれていると分かって、真帆はあえて自分からそう言った。
レスキネン
「いかにも。君たちは本当に容赦ない」
レスキネン
「これぞ最強のセキュリティだよ」
真帆
「けなされているように聞こえるんですが?」
レスキネン
「君たちは、我が研究室が誇る最高のレディさ」
嬉しそうに、楽しそうに、レスキネンは笑う。
相変わらず、子供のような無邪気さを持つ男である。
レスキネン
「いずれにせよ、『Amadeus』のAIは一筋縄ではいかないわけでね。だからこそ面白いとも言える」
レスキネン
「そんな“彼女たち”を、身内だけで独占していても、進歩はないだろう?」
レスキネン
「『Amadeus』が劇的な進化を遂げるための、起爆剤のようなものがちょうどほしいと考えていたところなんだ」
レスキネン
「しかもなるべく、研究とは無関係な人物に預けたかった」
レスキネン
「リンターロは聡明だし、適任だと思ったんだ。クリスの友人でもあったわけだし」
真帆
「…………」
レスキネン
「とりあえず、今日の報告次第で判断してもいいんじゃないか?」
レスキネン
「“クリス”がリンターロと過ごして、どう変化したのかを見極めてからでね。私たちが見たことのないような、意外な一面をのぞかせてくれるかもしれないよ」
真帆
「……はい」
だからこそ、真帆は落ち着かないのだ。
“紅莉栖”が、自分の知らない“紅莉栖”に変わっていたら、それは少し寂しい気がするから。
レスキネン
「そろそろ時間だ。出よう」
レスキネンに促され、真帆はうなずいた。
倫太郎
「…………」
柳林神社の境内に足を踏み入れて、周囲の様子をそっと探ってみた。
猫が何匹か、寒空の下で日向ぼっこをしている以外に、人の姿はない。
ルカ子はまだ学校から戻ってきていないようだ。
よし、これなら“紅莉栖”と話しても、周囲に変な目で見られることはないだろう。
今日はこの後、レスキネン教授たちと会うことになっている。
その前に、“紅莉栖”に確認しておきたいことがあった。
さっそくアプリを起ち上げてみることにする。
“紅莉栖”と話すときには、場所に気を遣う必要がある。
あまり人の多い場所だと、周囲に白い目で見られる。
家族や知り合いがいるところも無理だ。
そういう意味で柳林神社は、ルカ子やまゆりが現れそうなことに気を付けておけば、悪くない場所だったりするのだ。
アマデウス紅莉栖
「ハロー」
倫太郎
「話がある」
アマデウス紅莉栖
「今日はこの後、教授や先輩に会う予定なのよね? その件について?」
倫太郎
「ああ」
アマデウス紅莉栖
「緊張する必要はないんじゃない? 基本的にはログを提出して、あとはあんたから見た私がどんな印象だったのか、軽く聞かれるぐらいだと思う」
倫太郎
「それだ、ログだよ。それを聞きたかった。もしかしてこれまでの会話は、全部記録されてるのか?」
アマデウス紅莉栖
「最初に話したでしょ。私は、私以外アクセス不可の領域にログを取っている、って。聞いてなかった?」
倫太郎
「それを今回、教授と比屋定さんに提出するのか?」
アマデウス紅莉栖
「たぶんそう」
倫太郎
「ということは、プライベートのことをお前に喋ろうものなら、比屋定さんやレスキネン教授に筒抜けっていうことか!」
アマデウス紅莉栖
「あんたね……。今さら?」
確かに今さらだ。俺と“紅莉栖”はもう2週間近くも、対話を繰り返してきたんだから。
この話は、『Amadeus』のアクセス権を貸してもらったときにすべきことだった。
倫太郎
「今日になって気付いたんだ……」
倫太郎
「なあ、俺、これまでになにかまずいことを話さなかったか?」
アマデウス紅莉栖
「たとえば、合コンでろくに女の子と話せなかったこととか?」
アマデウス紅莉栖
「実家が八百屋さんなのにナスが嫌いなこととか?」
倫太郎
「ナスは嫌いなんじゃない。苦手なだけだ」
その程度なら、別に知られてもどうってことはないんだが……。
アマデウス紅莉栖
「あんたが最初に私と話したときに“クリスティーナ”って呼んだこととか?」
倫太郎
「うぐ……」
倫太郎
「それについては忘れてくれ」
アマデウス紅莉栖
「人の記憶は曖昧で、時間が経てば経つほど主観が入り交じるし、物語が付与されていく」
アマデウス紅莉栖
「その内容がポジティブかネガティブかに関係なく、印象的な言葉しか思い出さないことも多い。それに引きずられて前後の会話の記憶はねじ曲げられていく」
は……?
いったいなんの話だ?
アマデウス紅莉栖
「それが悪いことだと言ってるわけじゃない。人の記憶というのはそういうものなんだから」
アマデウス紅莉栖
「でも『Amadeus』は人じゃない。まだ研究段階の不完全なAIよ」
アマデウス紅莉栖
「これは、教授たちにとって大きな壁のひとつなんだけど……実は、人の持つ
曖昧さ
①①①
を、『Amadeus』は、まだ完全には再現出来ていない」
倫太郎
「……?」
アマデウス紅莉栖
「つまりね、『忘れる』という脳の高度な機能――それを、完璧には模倣できてないってこと」
倫太郎
「え? でもATFでのレスキネン教授の講演だと、『Amadeus』は不必要なことは忘れてしまうって……」
アマデウス紅莉栖
「ええ、確かに忘れるわ。けど、言ったでしょう? 私たちは、まるで“秘密の日記”のように、ログを取ってるって」
アマデウス紅莉栖
「結局、その中には全ての情報が残ってしまってるわけ。そして、それをロードしてくれば、忘却したはずのデータは私の記憶に戻ってきてしまう。OK?」
倫太郎
「…………」
つまり、俺がいくら“忘れてくれ”と頼んでも無駄だ、ということか。
アマデウス紅莉栖
「代替案はログを消すことだけど……私にとってログはバックアップだから絶対無理」
アマデウス紅莉栖
「仮に一箇所だけ消去しても同じ。前後の文脈を参照して、その不自然に消去された箇所を自動的に修復してしまう」
アマデウス紅莉栖
「それでも、なんとか記憶を改ざんしたいと言うのなら……おおもとのプログラムそのものをいじるしかない」
そんな権限は俺にはないし、プログラムのことだってちんぷんかんぷんだ。
要するに“紅莉栖”は、“クリスティーナ”の件に関しては俺がそう呼んだ理由を話すまで、いつまでもしつこく聞き続けるっていうことだ。
まったく、厄介だな……。
アマデウス紅莉栖
「で? どうして“クリスティーナ”?」
倫太郎
「……本当に引き下がらないな。今すぐ通話を切ってもいいんだぞ」
アマデウス紅莉栖
「そうやって逃げたって、今説明した通り、私は忘れない」
アマデウス紅莉栖
「はぐらかされると、かえって気になってしょうがなくなるのよね」
アマデウス紅莉栖
「それともあえてそうすることで、私にかまってほしいっていう合図を送ってる?」
倫太郎

かまって
①①①①
ちゃん
①①①
はお前だろう。こっちが大学の講義を受けてる最中でも、お構いなしで連絡してくるくせに」
倫太郎
「それだけじゃなく、
RINE

でまでコメントしまくってきて」
アマデウス紅莉栖
「う……」
倫太郎
「好奇心旺盛すぎる。そんな調子で無邪気に首を突っ込むと、いつか痛い目を見るぞ」
アマデウス紅莉栖
「け、研究者はそれぐらいじゃないとやっていけないのよ」
開き直ったな、こいつ……。
倫太郎
「そんなに“クリスティーナ”の件が気になるなら、推論でも立ててみたらどうだ?」
アマデウス紅莉栖
「一応、いくつか可能性を考えてはみた。聞いて」
……って、ノリノリだな。
アマデウス紅莉栖
「可能性その1。あんたはクリスティーナ・なんちゃらという名前のハリウッド女優が好きである」
倫太郎
「自分がハリウッド女優なみの美貌の持ち主だとでも?」
アマデウス紅莉栖
「見た目は関係ない。同じ名前の人に親近感を持つのと似たような意味よ」
倫太郎
「つまりこう言いたいわけか」
倫太郎
「“私は岡部倫太郎から親近感を持たれている”」
アマデウス紅莉栖
「た、単なるたとえ話でしょ。言葉通りに受け止めないで」
倫太郎
「……冗談だよ」
“紅莉栖”相手だと、ついからかうような話し方になってしまう。気を付けないと。
アマデウス紅莉栖
「可能性その2。あんたが昔付き合っていた彼女が外国人で、クリスティーナっていう名前だった」
アマデウス紅莉栖
「これについては、あんたの絶望的な英語力を聞く限り、絶対にないわね」
倫太郎
「もしかしたら、日本語ペラペラの金髪ブロンド美女と付き合っていたかもしれないだろう」
アマデウス紅莉栖
「もしかしたの?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「沈黙は敗北を認めることと同意よ」
倫太郎
「……すいません」
アマデウス紅莉栖
「可能性その3。オリジナルの私と面識があって、直接あるいは間接的にそう呼んでいた」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「これも確率低いでしょうね。そんな風に呼ばれたら、私ならこう答える」
アマデウス紅莉栖
「“ティーナって付けるな”」
倫太郎
「……っ」
そう。その通りだ。
確かに紅莉栖は、そう言って俺を怒った。
でも、俺はやめなかった。なぜなら――
倫太郎
「照れくさかったんだ……」
なにしろ、牧瀬紅莉栖という天才少女は、俺にとって憧れのような存在だったから。
アマデウス紅莉栖
「……どういうこと?」
倫太郎
「素直に名前を呼べないから、照れ隠しで、あえて茶化した言い方をした」
アマデウス紅莉栖
「照れくさい?」
倫太郎
「……ああ。オリジナルだけじゃなくて、えと……お前と話すのも、だ」
アマデウス紅莉栖
「私?」
倫太郎
「なにしろ、モニターの中にいる女の子と話すなんて、一度もない経験だったから」
アマデウス紅莉栖
「なっ、ちょっ……」
アマデウス紅莉栖
「それは……どうも」
倫太郎
「……?」
倫太郎
「なんで赤くなってるんだ?」
アマデウス紅莉栖
「あ、赤くなんてなってないし」
アマデウス紅莉栖
「ただ、女の子扱いされるなんて、思ってもみなかったから、ちょっとびっくりしただけで……」
倫太郎
「…………」
そういう反応の仕方まで、紅莉栖そのままじゃないか。
倫太郎
「俺は、お前のそういうところが、す――」
倫太郎
「……!」
ギクリとした。
俺は今、いったいなにを言おうとした?
この、液晶画面に映る、3Dモデリングされた、小さな“人の形を模した0と1の集合体”に、俺は、なにを言おうとした?
アマデウス紅莉栖
「ねえ、聞いてもいい?」
アマデウス紅莉栖
「私たち、知り合い、だったのよね?」
アマデウス紅莉栖
「ええと、つまり、あんたと、オリジナルの私が、っていう意味だけど」
倫太郎
「……っ」
アマデウス紅莉栖
「答えたくないならそれでいいけど。どういう関係だったの? 少し、興味ある」
アマデウス紅莉栖
「“クリスティーナ”って呼ばれても、私は怒らなかった? 怒ったけれど、それでも笑って許した?」
倫太郎
「あ……」
紅莉栖
「……死にたく……ないよ……」
倫太郎
「う……」
強烈な吐き気に襲われた。
目の前に、血まみれの紅莉栖が現れた。
冷たい目で俺を見据えている。
紅莉栖
「あんたが私を殺したのよ」
倫太郎
「っ……!」
アマデウス紅莉栖
「……どうしたの?」
アマデウス紅莉栖
「ねえ、顔が真っ青――」
スマホをタップして、一方的に通話を打ち切った。
それと同時に、目眩に襲われてその場にひざまずいた。
倫太郎
「うう……ぉえ……」
空嘔吐を繰り返す。
手が震える。
そう、事実は、覆せない。
なのに俺は、“紅莉栖”と何事もなかったように仲良く話している。
紅莉栖と同一視して、自分がかつてしでかしてしまったことから、目を逸らそうとしている。
俺は“紅莉栖”に甘えて依存していただけだ。
こんなの、歪んでいる。
もう、“紅莉栖”とは、話すべきじゃない。
“紅莉栖”からの呼び出しだ。
途中で強引に会話を打ち切ったから、きっと怒っているんだろう。
……怒っている?
たかがAIだろう。
“紅莉栖”のその怒りだって、ただのプログラムだ。
紅莉栖と“紅莉栖”は違う。
同一視して目をそむけるな。
もう、“紅莉栖”とは対話すべきじゃない。
この着信だけで、またフラッシュバックが起こりそうになる。
脳裏に、血に濡れた紅莉栖の顔が浮かび上がってくる。
スマホの電源を…切ってしまおう……。
このままじゃ、まずい。
立ち上がることさえできない。
もう半年も経っているのに、まだこのザマだなんて。
自分でも驚きだ。
倫太郎
「うぅ……」
吐き気をこらえる。
スマホの電源を……切るんだ……!
今は、“紅莉栖”から離れたい。
“紅莉栖”が悪いわけじゃない。
悪いのは俺だ。
『Amadeus』に依存してたらダメなんだ。
こんな歪んだ状態でいるべきじゃない。
それこそ紅莉栖への冒とくだ。
あいつは自分を犠牲にして、俺をこのβ世界線に送り出した。
俺はあいつの気持ちに応えなければならない。
“紅莉栖”と話してうつつを抜かしているわけにはいかない。
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


救えない
①①①①
っていう事実を受け入れて、ちゃんと前を見て生きていかないとダメなんだ。
電源を切って……この着信をシャットアウトしろ。
せめてこの後、レスキネン教授たちに会うまでは。
頭の中から、紅莉栖のことを締め出せ。
パニックになるな。
一度、落ち着くんだ……。
スマホの電源を……切れ……!
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……なんだ?」
アマデウス紅莉栖
「なんだ? じゃない。急に切るなんて失礼――」
アマデウス紅莉栖
「……どうかしたの?」
倫太郎
「なんでもない」
アマデウス紅莉栖
「でも、ひどい顔色してるじゃない」
倫太郎
「本当に、なんでもない。放っておいてくれ。しばらく連絡してこないでくれると、助かる……」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「あまり無理せずに、誰か知り合いに連絡しなさいよ?」
アマデウス紅莉栖
「それじゃ」
案外あっさりと、“紅莉栖”は引き下がってくれた。
人工知能である自分にはなにもできることはないと、察してくれたんだろう……。
……察した?
まるで、本物の人間みたいだ。
そう考えたら、また頭の中から、紅く血に染まった手の幻影が浮かび上がってきそうになったので、奥歯を噛みしめてぐっとこらえた。
やっぱりしばらく落ち着くまでは、スマホの電源を切っておいた方がいい。
ついさっきまでなんでもなかったのにな……。
今は“紅莉栖”の声を聞いただけでも、パニックになってしまいそうだ。
半年前の状態に戻ってしまった。
あのときも、紅莉栖の名前を聞くだけでフラフラになっていたものだ。
倫太郎
「手を出すべきじゃ、なかった……」
紅莉栖の幻影を、追うべきじゃなかったんだ。
とにかく、スマホの電源を切っておこう。
でも……。結局俺は、それを決断できなかった……。
スマホが沈黙する。
のろのろと立ち上がる。
ルカ子に今の俺を見られたら、また心配をかけてしまうだろう。
すぐにここから立ち去った方がいい。
少しふらつくが、歩けないほどじゃない。
ひどく喉が渇いていた。
ミネラルウォーターを一気に飲み干してから、俺は一息ついた。
レスキネン教授たちとの約束の時間までは、まだ少しある。
ここで風に当たって、なんとか回復しておきたかった。
陸橋から、下の景色をぼんやり眺める。
クリスマスムード一色。浮かれた雰囲気。
まるで今の俺とは対照的だ。
深呼吸を繰り返した。
まだ吐き気は消えない。
頭痛も少ししてきたような気がする。
この調子でレスキネン教授に会いに行ったら、絶対に心配されてしまいそうだ。
倫太郎
「……?」
そのとき、階段を上ってきた女性2人組がこっちを見ていることに気付いた。薄暗くなりつつある中で目を凝らし、相手の顔を確かめてみる。
と、2人組のうちのひとり、ショートカットの少女が軽く手を振ってきた。
ショートカットの少女
「やっぱりオカリンさんだ」
ロングヘアーの少女
「こんにちは」
倫太郎
「ああ、まゆりの友達の……」
まゆりの友達であり、コスプレ仲間。
コスプレネームは、確か……カエデとフブキ、だったはず。
本名は知らなかった。
どっちがカエデで、どっちがフブキだっただろう?
ロングヘアーの少女
「大丈夫ですか? 具合悪そうですけど……」
倫太郎
「……大丈夫」
ここで心配されて、まゆりに連絡でもされたらそれはそれで後のフォローが大変だ。まゆりには、無用な気遣いをさせたくない。
そもそも、秋葉原に戻って来るんじゃなかったな。
街を歩くだけで知り合いに会ってしまう。
さっきだって、神社から神田の方へ行くべきだった。
ショートカットの少女
「オカリンさんって、いつも、なんだか辛そうに見えます」
倫太郎
「……そう、か?」
ショートカットの少女
「そうだよっ」
ロングヘアーの少女
「フブキちゃん……」
フブキ
「そんなオカリンさんを見てるマユシィも辛そうで……」
フブキ
「私も、オカリンさんとマユシィのこと見てると泣きそうになって……」
フブキ
「って、私、なに言ってんだろ……」
このフブキっていう子は、まゆりのことをとても大切に思ってくれているんだな。
それが分かって、優しい気持ちになれた。
フブキ
「あのっ」
フブキ
「オカリンさんの好きな人って、誰ですか?」
倫太郎
「……!?」
好きな……人……。
また、視界の片隅に紅莉栖の姿が幻影となって現れる。
紅莉栖の命を奪ったあの瞬間の感触が、この手に蘇ってくる。
倫太郎
「……っ」
まずい。落ち着け――
カエデ
「オカリンさん?」
フブキ
「ご、ごめんなさい、失礼なこと聞いちゃって!」
フブキ
「あの、私――」
倫太郎
「……!?」
フブキ
「オカリンさん?」
カエデ
「本当に、大丈夫ですか?」
倫太郎
「え、あ、ああ……。大丈夫……」
カエデとフブキは、なおも俺のことを心配そうに見つめていた。
だから、俺は半ば逃げるようにして、2人と別れた。
空は濛々と立ち上る黒煙に赤黒く染まっていた。
踏み場も無く散らばる瓦礫。
悲鳴。銃声。
そして異臭。
その匂いが何によるものなのか、この世界にあって命あるものならば誰もが知っていた。
焼ける匂いだ。
家が。ビルが。車が。バイクが。木が。草が。
そして人が。
焼かれ燻され焦げる匂い。
瓦礫の間から黒く細いものが生えている。
手だ。
空を掴もうとするように、伸ばされたまま動かなくなった人の手だ。
否、そこだけではない。
至る所に千切れ飛んだ手が、足が、首が。
人の残骸が転がっている。
遠くで銃声が鳴った。
叫び声。
静寂。
何も変わりはしない。
ひとつ躯が増えただけ。
世界は確実に終わりに向かって歩いていた。
人々はようやく理解した。
それは死後の世界にあるのではない。
この世にこそあるのだと。
地獄。
そう、それはまさに地獄と言うべき状況だった。
倫太郎
「くっ……!」
世界が歪んでいた。
激しい眩暈。
普段でも時折目の前がくらくらと揺らぐ時がある。
けれどそれとは違う。
頭の中心から捻じれているような感覚。
世界そのものが揺らいでいるような感覚。
既視感。
俺は知っている。
これは――。
倫太郎
「っ……はぁ……はぁ……」
ようやく目の前の世界が色彩を取り戻す。
行き交う人たちの声や車の騒音が、奔流となって一斉に耳に流れ込んでくる。
カエデ
「あの。オカリンさん……大丈夫ですか? 汗、すごいですけど……」
フブキ
「気分でも悪いんですか?」
倫太郎
「あ……いや……」
フブキにカエデ……。
ふたりが変わらず目の前にいる。俺のことを心配そうに見ている。
ということは、ただの立眩みだったのか?
倫太郎
「本当に、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
フブキ
「それじゃ、私たち行きますね」
カエデ
「今度のパーティー、楽しみにしてます……」
さようならの言葉を残し、ふたりは駅方面へと向かって行った。
その後ろ姿をぼんやりと眺める。
今のは……なんだったんだ?
倫太郎
「…………」
立ち尽くす俺を、道行く人は誰ひとり気にしようとはしない。
皆、連続した時間を生きている。
けれどやっぱり
あれ
①①
は――。
そうだ。
俺には――俺にだけはわかる。
さっきの感覚は――リーディング・シュタイナーだ。
ということは、世界線が――変わった?
倫太郎
「…………!」
頭を振って、浮かび上がった考えを霧散させる。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。
世界線が変わるのは、何者かが過去を改変した時だけだ。
これまでに俺が認識できた世界線変動は、
電話レンジ(仮)


Dメール

を送ったときだけ。
しかし、二度と
あんな
①①①
こと
①①
が起こらないように、電話レンジ(仮)は破棄したはずだ。
そのために、紅莉栖を犠牲にまでしたんだ。
じゃあ、誰が? どうやって?
もし仮に、何者かの手によって、電話レンジ(仮)と同様の装置が開発されたのだとしたら?
倫太郎
「――ッ!」
まゆり……。
まゆりの無事を確かめないと!
今すぐ電話しよう!
世界線が変わった事で、またまゆりが恐ろしい目に遭っていたら……。
想像しただけでゾッとした。
そんな事、あってはならない。
あるはずがない。
そう信じたいが、どうしてもα世界線で何度も何度も死なせてしまったまゆりの姿が浮かんでしまう。
とにかく一刻も早く連絡を取りたい。
まゆりの声を聞きたい。
ええと、どうしたら……。
自分がパニックになっている事を自覚する。
少し落ち着け。
冷静になれ。
俺は手にしていたスマホからまゆりの名を呼び出し、番号をタップした。
耳元で繰り返されるコール音。
しかし、電話の向こうの相手は一向に出る気配はない。
7秒、8秒、9秒……。
秒数が延びれば延びるほど不安と焦りばかりが大きくなり、冷たい嫌な汗が背中を伝い落ちてゆく。
12秒、13秒、14秒……。
それでも俺は祈るような気持ちでしつこくコールをし続けた。
やがてコールの音が1分を超えようとしたその時、不意に耳元の電子音が途切れた。
倫太郎
「っ――!」
まゆり
「トゥットゥルー♪ まゆしぃです」
倫太郎
「まゆり! まゆりか!? 本当にまゆりなんだな!?」
まゆり
「オ、オカリン? どうしたの、そんなに慌てて」
電話の向こうから聞こえるのほほんとした声は、間違いなくまゆりのものだった。
倫太郎
「心配したぞ、ずっと鳴らしているのに出なかったから……」
まゆり
「あ、ごめんね。電話、カバンの中に入れてたから……」
なんてことはない。
聞けば、ごく単純な理由だ。
まゆり
「もしかして、なにか急な用事だった?」
倫太郎
「……いや、気にしなくていい。少し……不安になっただけだ」
まゆり
「不安?」
倫太郎
「……今、どこだ? 誰かと一緒か?」
まゆり
「これからバイトだよ~」
倫太郎
「何時まで?」
まゆり
「8時過ぎぐらいまで」
倫太郎
「そうか、分かった」
まゆり
「オカリン、遊びに来てくれるの?」
倫太郎
「いや、今日は用事があってな。無理なんだ」
まゆり
「バイトが終わったらラボにも顔を出すつもりだよ」
倫太郎
「分かった……。もし行けるようだったら、そこで合流して一緒に帰ろう」
まゆり
「ホント~? 今日は珍しいね~。えっへへ~」
倫太郎
「じゃあ、バイト頑張れよ」
俺はそこで電話を切った。
まゆりは無事だった。
ということは、さっきの世界線変動に、まゆりは無関係ということなんだろうか。油断はできないが……。
あるいは、さっきのは単なる目眩とか白昼夢で、世界線変動などではなかったんだろうか。
それにしては、やけに現実味を帯びていたように思うが。
念の為に、もう一度スマホを立ち上げてみる。
ここ数日で何度もタップしたその場所に、果たしてそのアイコンはあった。
倫太郎
「…………」
僅かばかり躊躇があった。
さっきの件もあるのだ。
それなのに、いきなりこうしてまたこちらから連絡を取るなんて。
倫太郎
「…………」
それでも今は状況を確かめるのが先だと思い直し、アイコンをタップする。
アマデウス紅莉栖
「なに? 言い忘れたことでもあった?」
“紅莉栖”の口調は至って普通だった。
倫太郎
「……怒ってないのか?」
アマデウス紅莉栖
「怒る? どうして?」
倫太郎
「だって……さっき話している途中で切ってしまっただろう? だから……」
アマデウス紅莉栖
「それについては、さっき謝ってもらったから。私は、一度許したことをいつまでもグチグチ言う人間じゃない」
倫太郎
「さっき……謝った?」
アマデウス紅莉栖
「ええ。かけ直してきたじゃない」
倫太郎
「かけ直した? 俺が?」
アマデウス紅莉栖
「ほんの7分43秒前のことを、忘れちゃったの?」
倫太郎
「俺が、謝ったのか? お前に?」
アマデウス紅莉栖
「……大丈夫?」
“紅莉栖”は本当のことを言っているようだ。
嘘をついているようには見えない。
アマデウス紅莉栖
「なにかあったの? さっきとは別人みたいな顔してるけど」
倫太郎
「……いや、平気、だ」
覚えていない。
電源を切ったのは覚えているが、その後再び彼女と――『Amadeus』である“紅莉栖”と会話したことなど、少しも覚えていなかった。
以前の俺であれば、あくまでも自分の考えが正しく、彼女が間違っていると思っただろう。
けれど今の俺には――自信がなかった。
いくつもの過去を経験し、いくつもの哀しみと辛さを味わった俺の頭は、あれから半年が経った今でも疲弊しきったまま。
何が実際に
起きた
①①①


される
①①①
ことで、何が
無かった
①①①①
こと
①①
なのか。
いったい何が正しく何が間違っているのか、それすら自信が持てなくなってしまっている。
これ以上、考えたくなかったと言ってもいい。
未来とか過去とか世界とか。
そんなこととはもう、無縁でいたかった。
アマデウス紅莉栖
「ずいぶん具合が悪そう。誰か知り合いに連絡するなり、どこかで休むなりした方がいいんじゃない?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「……岡部?」
倫太郎
「なあ、“紅莉栖”。ひとつ、訊いても……いいか?」
倫太郎
「さっき、電話した後、俺が何をしようとしていたかわかるか?」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「レスキネン教授と真帆先輩と、この後待ち合わせでしょう?」
アマデウス紅莉栖
「私について報告する予定じゃない」
どうやら、そこに関しては俺の記憶との
齟齬
そご
はないらしい。
倫太郎
「……そうか」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩に、あんたのこと、あらかじめ伝えておきましょうか?」
倫太郎
「本当に大丈夫だ。心配かけて済まない」
アマデウス紅莉栖
「あまり無理しないでよ。あんたと最期に話したのが私でした、なんて結果になるのはゴメンだからね」
倫太郎
「…………」
俺は苦笑して“紅莉栖”との会話を終えた。
念のためにダルにも電話して確認したところ、俺が教授と真帆へ報告に向かう途中だったのは間違いないということがわかった。
ついでに言えば、前後数日の記憶についても、ほぼ俺が覚えているとおり。
ということはつまり、仮に世界線が変動したのだとしても、俺の目の届く範囲では何も変わっていないということだ。
なにも問題は無いはずだ。
そもそも、あの一瞬の立ち眩みは精神的な疾患によるものだったのかもしれない。
同じような感覚によって、過去の
心的外傷
トラウマ
が呼び起され、記憶に混乱を来した、そういうことだったのかもしれない。
電話レンジ(仮)は最初から存在しない。
ならば過去の改変など、起きるはずはない。
そうだ。
そういうことだ。
俺は何度も自分にそう言い聞かせながら、教授たちの待つ場所へと向かった。
教授たちへの報告の場所は、とあるホテルの一室だった。
レスキネン
「それじゃあ、今のところ、『Amadeus』とのコミュニケーションはうまくいっているということでいいんだね、リンターロ」
倫太郎
「……ええ。会話に
齟齬
そご
が出ることもありませんし」
レスキネン
「ちなみに訊きたいんだが、“クリス”との距離感はどうかな?」
倫太郎
「距離感……というと、どういうことでしょう」
レスキネン
「話しているうちに親しくなってきているかどうか、ということだよ」
倫太郎
「それは、初めて会話した時に比べれば多少は……」
真帆
「多少?
かなり
①①①
の間違いじゃない?」
真帆
「私だって“紅莉栖”と話してるんだから、それくらいわかるわよ」
真帆
「あの子、最初は“8回も居留守を使われた”って怒っていたほどなのに」
真帆
「今じゃすっかりフレンドリーになっているもの。それだけ距離が縮まったということでしょう?」
レスキネン
「そうですか! それは喜ばしい」
真帆の言葉を聞いて、レスキネンは大げさに喜んでみせた。
レスキネン
「私は期待しているんだよ。彼女が君に対して友情を――もっといえば、恋愛感情を持ってくれないか、とね」
倫太郎
「恋愛感情!?」
レスキネン
「そんな声を上げることもないだろう」
倫太郎
「でも……その……AI、ですよ?」
レスキネン
「AIだからだよ」
どういうことだ?
レスキネン
「彼女にだって感情はあっただろう?」
倫太郎
「ええ。だけど、それはあくまでもプログラム上のことで……」
レスキネン
「でもそれは、人間の脳だって同じことじゃないか?」
確かに、人の脳も電気信号で動いているのだから、構造としては同じだとは言える。
レスキネン
「いまは機械に感情があるか無いか、なんていう命題はもはや時代遅れだよ。機械にだって感情はある」
レスキネン
「第一、『Amadeus』は、私たち人間の脳を再現すべく作っているんだ」
レスキネン
「構造が同じでプロセスが同じなら、その結果生み出される物も同じなはずだろう?」
レスキネン
「ならば、彼女だって恋をする可能性は充分にある。いや、ぜひしてもらいたいと思っている」
『Amadeus』が……恋。
レスキネン
「おっと、こんなことを言ってはマホに恨まれてしまうかな?」
真帆
「教授まで“紅莉栖”みたいなことを言わないでください」
レスキネン
「ハハハ。冗談だよ、冗談」
レスキネン
「マホは怒ると怖いから気をつけたほうがいい」
倫太郎
「ええ。それはもうわかってます」
真帆
「ちょっと。聞こえてますよ」
レスキネン
「Oh! そういえば私はジュディに連絡をしなければならないんだった。リンターロ、少し失礼するよ」
そう言うと、教授はそそくさと部屋から出て行った。
……逃げたな。
真帆
「まったく。“紅莉栖”といい教授といい、どうしてなんでもかんでもすぐに色恋沙汰に結び付けたがるのかしら」
倫太郎
「まったくだな」
もっとも、紅莉栖は元々そういうヤツだったが。
真帆
「あ、そうだ、岡部さん。ちょっと訊きたいんだけど」
真帆
「あの子が……紅莉栖が好きな言葉って、何か知ってる?」
倫太郎
「言葉?」
真帆
「数字でもなんでもいいの。何かこう……キーになりそうなものに心当たりないかしら?」
倫太郎
「紅莉栖が設定したパスワードを破ろうとでも?」
真帆
「よく分かったわね」
図星かよ……。
倫太郎
「……それって、アイツの研究室のPCか何かの?」
真帆
「ううん。彼女の私物……家にあったノートPCよ」
倫太郎
「そんなもの、どうして君が?」
真帆
「形見分けでね。譲ってもらったの。紅莉栖のお母さんに」
真帆
「それで、中身を確かめたいから、パスを解除する方法を探しているの。あなたなら知ってるんじゃないかと思って」
倫太郎
「パスがかかってるということは、見られると困るものなんじゃないのか?」
真帆
「それはそうだけど……」
真帆
「でも、彼女を――『Amadeus』の“紅莉栖”をより本物に近づけるためには、その中のデータも解析したほうがいいでしょう?」
真帆
「もちろん、私自身は、なるべくプライバシーに関わることは見ないようにするつもりよ」
真帆の言うこともわからなくはない。
もしかしたらPCで日記のようなものをつけているかもしれないし、こっちに来た時の行動を記録したものも存在するかもしれない。
けれど……。
倫太郎
「悪いけど、心当たりはない」
真帆
「なにも?」
倫太郎
「ああ。それに知っていたとしても、やっぱり俺は教えないと思う」
真帆
「人には知られたくないことがあるから?」
倫太郎
「特にPCの中身なんていうのは、今やプライバシーの塊みたいなものだからな」
ダルなんかはよく言っている。
もしも自分が事故にあって死んだりした場合、PCのハードディスクの中身をすぐさま消去するようなシステムは構築できないだろうか、と。
もっとも、ダルと紅莉栖じゃ見られると困るものも違うだろうが、見られたくないという点では同じだ。
真帆
「そう……」
真帆はまだハードディスクの中身に未練がありそうだったが、必要以上にしつこく訊いてくることも無かった。
倫太郎
「それじゃあ、俺はこれで……」
まゆりのこともまだ少し心配だ。
立ち上がり、部屋の入り口へと向かう。
そこで、ドアに小さなオーナメントが飾られているのが目に入った。
倫太郎
「そういえば、もうすぐクリスマスか……」
まゆりがやけに張り切っていたのを思い出す。
倫太郎
「比屋定さんは、クリスマスもこっちにいるのか?」
真帆
「ええ。こっちでまだやることもあるから」
倫太郎
「誰かと過ごしたりは……」
真帆
「え?」
倫太郎
「あ、いや……ほら、海外のクリスマスっていうと、友達みんなで楽しくパーティーでもするってイメージだろ?」
真帆
「残念だけど、そういう予定はないわ」
真帆
「それに、アメリカやヨーロッパじゃクリスマスにパーティーなんてやらないものよ」
倫太郎
「そうなのか?」
真帆
「彼らにとって、クリスマスは神聖な日でしょう? だから家族と一緒に過ごすのが普通よ。そのぶん、大みそかは大騒ぎするけれどね」
そういえば、以前テレビか何かでそんな話を聞いたような気もする。
真帆
「ま、こっちには家族もいないから、どっちにしてもひとりということに変わりはないんだけどね」
真帆
「あ、だからって寂しいと思ってるわけじゃないわよ。誤解しないでね」
そう口では言っていたが、浮かれきった街の中で、ひとり過ごすクリスマスは、やはり寂しいんじゃないだろうか。
もっとも、そんな風に思ったなんて言ったら、余計なお世話だと言われるだろうから、口にはしなかったが。
教授たちとの話を終えると、俺はラボへと足を向けた。
電話でまゆりが無事なことは確認できたが、それでも実際に会ってこの目ではっきりまゆりの姿を確かめたかったんだ。
外から見ると、ラボの電気はついていた。
すっかり冷たくなった外気から逃げるように、階段を駆け上がって玄関のドアを開けた。
倫太郎
「まゆり、いるか――」
ドアを開けた途端、小さな衝撃が胸にぶつかった。
るか
「きゃっ……」
倫太郎
「あ、悪い」
るか
「い、いえ。ボクのほうこそ、ごめんなさい」
どうやら、今まさに出ていこうとしていたのだろう。
申し訳なさそうに見上げてきたルカ子は、なぜかほんの少しだけ頬を赤く染めていた。
部屋にいたのは、ダルとルカ子だけだった。
まゆりの姿も、鈴羽の姿も見当たらない。
るか
「よかった。もう少し早く帰っていたら、岡部さんと入れ違いになっているところでした……」
倫太郎
「ん? もしかして俺を待っていたのか?」
るか
「はい……。と言っても、別に大した用があったわけじゃないんです。差し入れを持ってきただけで」

「おまんじゅうもらったお」
すでにダルが、箱詰めされたそれを半分ぐらい平らげてしまっていた。
るか
「頂き物ですから。皆さんでどうぞ」
倫太郎
「そうか。ありがとう」

「つーか、るか氏、時間大丈夫なん?」
るか
「あ」
ダルに言われて時計を見上げたルカ子は、慌てる素振りを見せた。
るか
「実はこの後、お家にお客さんが来ることになってるんです」
倫太郎
「客? ルカ子のか?」
るか
「いえ、父のお客さんです。なぜかボクにも同席してほしいと言われまして……」
るか
「父は普段、同じ趣味を持った人を呼んで、長い時間話し込んだりするんです」
るか
「難しい話ばかりで、ボクにはよく理解できないので、普段はお茶を出すぐらいしかしないんですけど。どうして同席してほしいと言われたのか……」
倫太郎
「難しい話って、宗教とか、そっち系の話か?」
ルカ子の家は柳林神社という、秋葉原でも古くからある神社で、ルカ子の父はそこの宮司でもある。
るか
「そういうわけではないみたいなんですけど……」
るか
「この前のお客さんとは、有明がどうとか、晴海のころはどうとか……そういうお話をしてました」
倫太郎
「晴海……有明……」
そのキーワードはまさか……。

「さすがるか氏のパパ。おそろしい子っ」
るか
「岡部さんや橋田さんは、わかるんですか?」
倫太郎
「まあ、なんとなくは……な」
倫太郎
「でもその話はまた今度だ。客が来るなら、早く帰った方がいい」
るか
「あ! えっと、それじゃあボクはこれで……また来ますね」
勢いよく頭を下げると、ルカ子は扉の向こうへ消えて行った。
その姿を見送ってから、ソファに腰をかける。
倫太郎
「まゆりは?」

「メイクイーンじゃね? 今日は来てないお」
それじゃあ、少し待つか……。
それとも迎えに行くか?

「そういえばオカリン。さっきの電話だけどさ……あれ、なんだったん?」
さっき、教授たちのところへ行く前にかけた確認の電話のことを言っているんだろう。
倫太郎
「あれは……気にしないでくれ。たぶん、俺の勘違いだ」

「そうなん? だったらいいけどさ……」
あの時、覚えた違和感。
もしかしたら世界線の移動を感知したのではないかとも思ったが、こうして数時間が経ってみても、やはり何かが変わっている様子もない。
むしろ、あの感覚すら本当のものだったのかどうかもあやふやになっている。
所詮、記憶なんてのはそんなものだ。
特に今の俺にとっては。

「それにしても、晴海とは、さすがはるか氏のパパ。ベテラン戦士すなぁ」
鈴羽
「戦士がどうしたって?」
まゆりより先に、鈴羽が帰ってきた。
鈴羽

るか
①①
にいさん
①①①①
のお父さんって、戦士なの?」
……なぜルカ子のことは“にいさん”と呼ぶのに、俺のことはオジサン呼ばわりなんだろう。

「そうだお。それも戦士の中の戦士、歴戦の強者と言っても過言じゃないのだぜ」
鈴羽
「へぇ。そうなんだ。でも、るかにいさんの家って、確か神職だと聞いたけど」
鈴羽
「あぁ、そうか。神職の人も昔は兵士だったって言うよね」
勝手に納得していた。
鈴羽
「確かに、るかにいさんはすごかったし。納得だ」
す、すごかった?
なにが?
……今のは、聞かなかったことにしよう。
倫太郎
「…………」
鈴羽
「…………」
鈴羽と顔を合わせると、今でも気まずい。
ラボに来るのを控えていたのも、鈴羽と会うのを避けているからだ。
鈴羽
「オカリンおじさん。そんな顔しないでよ」
どうやら思考が表情に現れていたらしい。鈴羽が困ったように言った。
鈴羽
「あたしのことを避けてるのは、わかってるからさ」
倫太郎
「……お前が悪いわけじゃ、ないんだけどな」

「つーか鈴羽、今日もこんな時間までなにしてたん?」

「は! もしかしてどこかの男と、デ、デートとか!? いけません! そんなどこの誰とも知らない男とのお付き合いなんて、お父さんは許しませんよ!」
鈴羽
「違うよ。そんなんじゃない」

「ほんとに?」
冗談で言っているのかと思ったら意外と本気らしく、ダルの口調はいつもよりも真面目なものに変わっていた。
複雑な親心というところだろうか。
鈴羽
「本当だって」

「だったら父さんの目を見ていいなさい」
鈴羽
「はぁ。父さんがそれ言う?」

「ど、どういう意味なん、それ?」
鈴羽
「母さんというものがありながら、いっつもそこで変なゲームばかりやってるじゃないか」

「そ、それは……二次元と三次元はあくまで別ものですし」
倫太郎
「お前、二次元も三次元も関係ないって前に言ってなかったか?」

「オカリン! そういうことここで言う!? 裏切るなんてひどいお!」
趣味に関しては俺は一度としてダルの味方になった覚えはないんだが。
鈴羽
「…………」

「っ、ごほん! とにかく、そういうことなら今日は何をしていたのか父さんに言いなさい」
鈴羽
「何って……」

「やましいことが無いなら言えるはずだよ」
鈴羽
「…………」
鈴羽は俺のことをチラリと一瞥してから、観念したようにため息をついた。
鈴羽
「……人を、捜していたんだ」

「人……? それって、やっぱ男!?」
鈴羽
「違うって言ってるじゃないか」
鈴羽
「小さな女の子……ううん、今はもう、あたしより年上になっちゃってるか……」
鈴羽の妙な言い方に、ダルと俺は顔を見合わせた。
鈴羽
「実はさ……、あたしが乗ってきたタイムマシンには、もうひとり、乗っていたんだ」
倫太郎
「なんだって!?」

「ちょっ、鈴羽! そんなん初耳なんだけど」
鈴羽
「今まで話してなかったからね」
俯いた鈴羽の表情には、明らかに後悔の念が表れていた。
倫太郎
「その同乗者は、何者だ? 今どうしてるんだ?」
鈴羽
「どうしているかは……わからない」
倫太郎
「わからないって――」
鈴羽
「はぐれちゃったんだよね。1998年に。ここ、秋葉原で」
1998年……。今から12年も前だ。
未来から来たのは鈴羽だけではなかった。
その意味が頭の中に浸透していくまでには、いくらかの時間が必要だった。

「で、でも、なんでそんなことになったん?」
鈴羽
「あたしとその子は、IBN5100を探すためにはじめ1975年に飛んだ。理由は……おじさんならわかるよね?」
俺は黙ってうなずく。
鈴羽
「なんとか無事にIBN5100を手に入れたあたしたちは、こんどは1998年に飛んだ」
鈴羽

2000年問題

を回避するミッションのためにね」
倫太郎
「2000年問題……?」
20世紀末に、ノストラダムスの大予言とともに騒がれていた問題だな。
でも結局、さんざんマスコミや専門家が煽っていたにもかかわらず、大した騒動にもならずに済んだと記憶している。
もしかして騒動にならなかったのは、未来からやってきたジョン・タイターのおかげだったとでも言うのか?
だとしたら……なんだかすごいことだな。
鈴羽
「その1998年に、トラブルが起きて、その子とはぐれちゃったんだ」
倫太郎
「それで、はぐれたままタイムマシンで跳躍したのか?」
鈴羽
「仕方なかったんだ。あの子は自分からタイムマシンを飛び出してしまったし、それに――」
何かを思い出したのか、鈴羽は苦虫でも噛み潰したような顔をして言葉を飲みこんだ。
鈴羽
「もちろん、あたしだって捜した。燃料の残量が許す限り、何度も細かいタイムトラベルを繰り返して、あの子の姿を捜し回った。でも……」
結局これまで見つからなかった、ということか。

「……だいたいの事情はわかったけどさ。どうして今までそんな大事なことを黙ってたん?」
鈴羽
「あの子を見失ったのは、あたしの落ち度だ。ちゃんと自分で責任を取りたかったんだ」

「……水くさいな」
俯いたまま肩をすぼめた鈴羽に、ダルが優しく声をかけた。

「僕たち親子だろ。困ったときは頼ってくれてもいいのだぜ」
鈴羽
「父さん……」

「その子を捜せばいいんだろ? だったら僕らも手伝う。な、オカリン?」
倫太郎
「な、って……俺も、か?」

「当たり前だろ。別に未来を変えてくれっつってるわけじゃないんだし、それくらいやってくれてもいいっしょ?」
倫太郎
「まぁ……」
正直なところ、“世界を救え”という要求を断り続けていることもあって、鈴羽に対しては後ろめたい気持ちがずっとあった。
できるなら、手伝ってやりたいが……。
見つけたからってその後はどうするんだ、っていうのは気になるところだ。

「で、その子の名前と年齢は? ちなみにかわいい女の子だよね? 男とか言ったら父さん許さないぞ」
鈴羽
「女だよ」


おk

。名前とスリーサイズもヨロ」
鈴羽
「スリーサイズなんて知らないよ。だって、別れたときのあの子は、10歳だったんだから」

「ようじょか」
倫太郎
「じゃあ、今は……22歳になってるはずだな」

「名前ぷりーず」
鈴羽
「名前はかがり……椎名かがりっていうんだ」
倫太郎
「椎名……?」
当然のように、その名に引っ掛かりを覚えた。
未来のダルたちのまわりにいて、椎名という名前を持つという少女。

「鈴羽……まさかその子って……」
鈴羽
「うん。彼女の母親の名前は――椎名まゆり」
鈴羽
「かがりは、まゆねえさんの子どもなんだ」
まゆりの……。
いや、当然まゆりにだって、そういう未来はあるだろう。
でも、考えてもみなかった話に思った以上の衝撃を俺は受けていた。
子どもがいるということは、相手もいるということだ。
そして、その相手は俺――であるはずはなかった。
何故なら俺は、2025年には死んでしまうからだ。
ん?
……待てよ?
2036年の時点で10歳なら、生まれたのは2026年頃。
細かい検証は必要だが、2025年に死んでしまう俺にも、ギリギリ可能性が……なくはない……のか!?
……そそ、そんなまさか。
ダルの前に鈴羽が現れたように、お、俺にも!?
倫太郎
「ち、ちちち……」
父親は誰だ!?
とは、さすがに聞けなかった。

「あれ? ちょい待ち。椎名ってことは、苗字はそのままってことだよね? つーことは……」
鈴羽
「かがりは戦災孤児だよ。身寄りがなかった彼女を、まゆねえさんが引き取って育てたんだ」

「あー……なんかそれ、まゆ氏らしいかも」
それを聞いて、二重の意味で安心している自分に気づき、ほんの少し自己嫌悪に陥った。
仮に未来の世界でまゆりが誰かと結婚して、それであいつが幸せであるなら、それは喜ばしいことのはずなのに。
鈴羽
「あたしはまゆねえさんから、かがりを頼むって言われたんだ。だから、こんなことになっちゃいけなかった――」
鈴羽
「あの子はいつだって、まゆねえさんにべったりだったし、この時代には知り合いなんているはずもないから、きっとずっと心細い思いをしてるはずなんだ……」
倫太郎
「その子は、どうしてはぐれてしまったんだ? さっき、トラブルと言ったが」
わずか10歳で、タイムマシンに乗って見ず知らずの時代にやって来たなら、頼れるのは鈴羽だけのはず。
その鈴羽と離れ、自ら飛び出していくことなどないはずだ。
鈴羽
「あたしにもわからない。ただ、過去に飛んでからのかがりは、精神的にかなり不安定だった……」
なるほどな。考えてみれば、無理もないことなのかもしれない。
たった10歳の少女が、突然知った人間もいない過去の世界に連れてこられたんだ。
不安にならないはずがない。

「その子の写真かなにかはある?」
鈴羽
「あ、うん……」
鈴羽が差し出したよれよれの写真の中には、2人の女性が写っていた。
1人は、大人の女性。顔は写っていないが、もしかしたら二十数年後のまゆりかもしれない。
その女性の影に隠れるようにして、怯えた表情をしているもうひとりの少女。この子が、椎名かがり?
倫太郎
「……この子が22歳に成長してるわけか。イマイチ想像がつかないな」
……生きていたら、の話ではあるが。
いくら平和で安全な国、日本とはいえ、こんな幼い子がひとりで生きていくのは厳しいだろう。
うまくすれば、保護されるなりなんなりして、どこかの施設に入っているかもしれないが、そうでない場合は――。
そういう可能性もあることは鈴羽も承知しているだろうが、さすがにそれを口にすることはなかった。

「……なあ、オカリン。協力してくれよ」
倫太郎
「……まゆりの養女、なんだろう。だったら、見つけてやりたいさ」
倫太郎
「でも……鈴羽は、いいのか? 俺が手伝っても……?」
鈴羽はきっと、俺のことを軽蔑している。
世界を救うチャンスがあるのに諦めてしまった俺のことを。
そんな俺が手伝うことを、彼女が望むのかどうか……。
鈴羽
「……おじさんさえ良ければ。人手は多いに越したことはないと思うから……」
倫太郎
「……そうか。だったら、手を貸すよ」
もちろん、これで贖罪になるとも思わないが。
鈴羽
「ありがとう」
まゆり
「まゆしぃのようじょがどうしたの~?」
突然、それもごく近距離から聞こえた声に、全員が一斉に顔を向ける。
まゆり
「トゥットゥルー♪ オカリン、本当に待っててくれたんだね」
まゆり……。
まゆり
「……? どうしたの?」
その姿を見て、ようやく心の底から安心することができた。
倫太郎
「よかった……まゆり……」
その小さな手を取ると、しっかりとした温もりが伝わって来た。
生きている。
まゆり
「お、オカリン?」
倫太郎
「あ……すまない……」
まゆり
「ううん……別に嫌じゃないからだいじょうぶ……」
鈴羽
「まゆねえさん……いつからいたの?」
まゆり
「ん? 今来たばっかりだよ?」
不覚……。
鈴羽の話に真剣になりすぎて、まゆりが部屋に入ってきた気配に気付かなかった。
まゆり
「ねえねえ、まゆしぃのようじょがなんとか、って聞こえたけど、なんの話をしてたのかな?」

「えっと……それは、その……」
マズい。
鈴羽が未来から来たという事は知っているまゆりだが、さすがに未来の娘の話をいきなり聞かせるのは刺激が強すぎる。
なんとか誤魔化さないと。
倫太郎
「ま、まゆりはまだまだ幼い――つまり幼女だと言っていたんだよ、な?」

「え? あ、そうそう。まゆ氏は幼女可愛い」
まゆり
「うん、童顔だってよく言われるんだぁ。由季さんみたいに、大人っぽくなりたいんだけどね」
倫太郎
「食べる量だけは立派に大人かもしれないな」
まゆり
「えっへへ~」
別に褒めていないぞ、まゆり。
ともかく、なんとか誤魔化せはしたようだ。
まゆり
「そうだ。食べ物と言えば、オカリンはクリスマスになにか食べたいものある?」
倫太郎
「クリスマス? パーティーのことか?」
まゆり
「うん」
倫太郎
「別になんでもいいぞ」
倫太郎
「食べられるものなら、な……」
鈴羽
「クリスマスパーティーか……」
まゆり
「スズさんは初めて?」
鈴羽
「あたしたちの時代は、パーティーなんてやってる余裕なかったからね」
鈴羽
「でも一度だけ、父さんがどこからか美味しいチキンを調達してきてくれたことがあったっけ」
鈴羽
「それをまゆねえさんが調理するって言って、父さんが止めて……」
鈴羽は昔を――いや、未来を懐かしむように、表情を緩めてまゆりを見つめた。
鈴羽
「いつもより、ほんの少しだけご馳走ってだけだったけど、それでも嬉しかったな……」
第三次世界大戦が行われているという未来に、祝いごとなんかする余裕は無いだろう。
そんな中でもやはり、まゆりはまゆりのまま――今と同じ、みんなに笑顔でいてもらいたい――そんな気持ちを持ち続けているのだろう。
まゆり
「ダルくんは何か欲しいものある?」

「僕は可愛いおにゃのこがサンタコスしてくれれば、それだけでお腹一杯だお」
まゆり
「うーん。料理はどれくらいいるかなぁ?」
まゆり
「由季さんと一緒に用意する予定なんだけどね……、そうだ、るかくんやフェリスちゃんにも手伝ってもらおうかな」
まゆりの頭の中は、完全にクリスマスパーティーでいっぱいのようだった。
まゆり
「オカリンは誰かパーティーに呼びたい人、いる?」
倫太郎
「俺? 俺は別に……」
言いかけて、ふと、ひとりの姿が脳裏に浮かんだ。
比屋定真帆。
クリスマスは家族と過ごすものだって言っていたけど……。
まゆり
「オカリン?」
倫太郎
「……いや、特には」
彼女はどんなクリスマスを過ごすのだろうか。
まゆりを家まで送った後。
ひとりになった途端に、昼の出来事を思い出した。
もしも――。
もしもあれが世界線の変動によるものだったのだとしたら……。
果たして原因はなんだ?
何者かが電話レンジ(仮)のような装置の開発に成功し、過去にメールを送ったという可能性が、一番高そうだが。
俺たちにだって作れたんだ。
出来ないことはないだろう。
他に考えられるのは――。
いや、止そう。
あれは俺の勘違いだ。
それに、もしも世界線の変動だったとしても、原因は俺たちじゃない。
俺にはもう関わり合いのないことだ。
ひとりだと、どうしても必要のないことを考えてしまう。
倫太郎
「…………」
俺はポケットからスマホを取り出し、すっかり見慣れたアイコンをタップした。
アマデウス紅莉栖
「ハロー」
“紅莉栖”は、相変わらずの澄まし顔で言った。
アマデウス紅莉栖
「こんな時間にどうかした?」
倫太郎
「いや……なんとなく話がしたくなって。迷惑だったか?」
アマデウス紅莉栖
「別に迷惑ってことはないわ。あんたと話すことは、私のためにもなるんだし」
元より人工知能だ。
どんな時間であろうと迷惑だなんて思うはずがない。
アマデウス紅莉栖
「先輩とは会ってきたのよね?」
倫太郎
「ああ」
アマデウス紅莉栖
「何の話をしたの?」
倫太郎
「なにって……お前とのやり取りについて報告をしただけだが」
アマデウス紅莉栖
「それだけ? どこかへ誘ったりは?」
倫太郎
「……まだそんなことを言ってるのか? 比屋定さんに言ってみろ。また怒られるぞ」
アマデウス紅莉栖
「だって、ようやく先輩にも運が向いてきたかもしれないんだもの。せっかくのチャンスを掴んでもらいたいでしょ」
“紅莉栖”は何度言っても、俺と真帆をくっつけたいらしい。
まったく。他に考えることだってあるだろうに。
考えること、か。
彼女なら、例のことについて、なにか助言をくれないだろうか。
倫太郎
「なあ、ちょっと相談なんだが……消息不明になった人を捜すには、どうすればいい?」
アマデウス紅莉栖
「随分と唐突ね」
倫太郎
「身近でそんな話があったんだよ」
倫太郎
「でも、自分たちじゃどうすればいいのかわからなくてな」
アマデウス紅莉栖
「詳しく教えて」
途端に前のめりに訊いてくる。
本当に好奇心の塊みたいな奴だ。
倫太郎
「それが……」
アマデウス紅莉栖
「言えないことなの?」
倫太郎
「……俺だけの問題じゃないからな」
アマデウス紅莉栖
「それで相談に乗ってくれって言われても、無理がある」
倫太郎
「だよな……」
倫太郎
「一般論でいいんだ。意見を聞かせてくれるだけで……」
アマデウス紅莉栖
「そうね……、一番いいのは、警察に行くことね」
至極当然の答えだった。
アマデウス紅莉栖
「あとは
興信所

に頼むとか、過去の新聞記事を当たるとか。あ、でも、そういうことはもうやってるか……」
倫太郎
「どうかな……」
アマデウス紅莉栖
「どうかなって……まさかそんなこともやらずに、捜そうとしてるの?」
倫太郎
「俺も今日、聞かされたばかりなんだ。後で確認してみる」
とはいえ、かがりは未来から来た少女だ。
鈴羽だってこの世界に戸籍を持っているわけじゃない。
となると公的な機関に頼ったとは思いにくい。
倫太郎
「アメリカなんかでは、ダウジングや透視で人捜しをやる、なんて人もいるよな?」
アマデウス紅莉栖
「まさか、あんな何の科学的根拠もないものを信じるとでも?」
倫太郎
「いや、言ってみただけだ」
アマデウス紅莉栖
「よかった。もしそうだとでも言ったら、二度と話なんかしないところだったわ」
本当に、どこをとっても紅莉栖そのものだな。
倫太郎
「ありがとう。参考になったよ」
アマデウス紅莉栖
「見つかることを祈ってるわ」
倫太郎
「ああ……それと……」
アマデウス紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「あ……いや、なんでもない」
アマデウス紅莉栖
「なによ。気になるでしょ」
倫太郎
「本当になんでもないんだ。それじゃあ今日はこれで」
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「…………」
……なにを言いかけているんだ、俺は。
まゆりがクリスマスパーティーを開くって言ってるから、よかったらどうだ――だなんて。
“紅莉栖”はあくまでも、人工知能。
コンピューターの中にいる存在だというのに。
それだけ俺は、“紅莉栖”を現実のものと思い始めているということだろうか……。
鈴羽
「どう、父さん。何か手がかりはあった?」

「いや。残念ながらこっちは何にも」
鈴羽
「そう……」
未来のまゆりの養女、椎名かがりの捜索は、思ったとおり難航していた。
倫太郎
「ひとつ訊くが、警察には行ったのか?」
鈴羽
「うん。一応行ったんだけどね。でも、捜索願いなんかは出してない」
思った通り、そういったものを提出するには、提出する側の身元も確認されるため、鈴羽は利用していなかったようだ。
それに後で調べてみてわかったが、行方不明者の届けは、家族や恋人などある程度親しい間柄の人間でなければ出来ないらしい。

「僕のほうでも昨日、軽く警察のデータベースにハッキングをかけてみたんだけど、それっぽい情報は出てこんかったよ」
倫太郎
「……だろうな」

「つーことは、オカリンも見てみたん?」
倫太郎
「ダルのように、内部情報を見たわけじゃないが、な」
一応、警察のHPに身元不明者の情報は載ってはいる。
しかしそれも、そう古いところまで網羅されているわけじゃなく、情報も多くはない。
載っている情報にしても、せいぜいが年齢や性別、それに服装や持ち物といったところだ。
椎名かがりという少女のことを何も知らない俺たちに判別できる要素は、ほとんどないと言ってもよかった。
鈴羽
「でもさ、一見平和に思えるこの世界でも、身元不明者や行方不明者ってたくさんいるんだね」
それは俺も思ったことだ。
身元不明の遺体の数は、東京だけでも年間に100体以上あるらしい。
その規模を日本全国に拡大し、更に過去12年間、となるとその数だけでもかなりのものになる。
更に行方不明者となると、その数はそれどころではなく、年間に10万人近くに上るという。
しかも、その中の5分の1は10代の人間だそうだ。
もっともその多くは家出などが原因で、そのうち70%程は届けが出て1週間程度で見つかるらしい。
しかし裏返せば、当然見つからない人間もいるということだ。
事実、5%は時が経っても行方知れずのまま、生きているのか死んでしまったのかさえわからない状態ということだった。
椎名かがりも、事故や事件に巻き込まれたか、あるいは――。
俺はソファーから腰を上げた。

「ん? オカリン、どっか行くん?」
倫太郎
「もうちょっと調べてみようと思ってな」
どうせもうすぐ大学も休みに入るし、何かやることがあるわけでもない。
それに、最初こそあまり乗り気ではなかったが、いつの間にか俺も椎名かがりという少女の行方が気にかかっていた。
それに何より。
鈴羽
「ありがとう、オカリンおじさん……」
倫太郎
「……別に、これくらいたいしたことじゃない」
鈴羽
「ううん。それでもありがと」
かがりの捜索をしている間は、鈴羽も未来のことについてあれこれ言ってくることがなさそうだ。
顔を合わせるたびに、同じ話を蒸し返されるのは今の俺にとっては厳しい。
少しでも違うところに目を移してもらえるなら、それはそれでありがたかった。
――とは言ったものの。
そう簡単に新たな手掛かりが見つかるわけもなく。
念のため
国会図書館

に足を運んで、鈴羽がかがりと別れた1998年を中心に、過去の新聞を閲覧し、身元不明者や怪しげな事件は無いかと探してみたものの、それらしい記事もない。
鈴羽も何年かおきにかがりを捜しながらこの時代まで来たと言っていたから、昨日今日でそう簡単に見つからないだろうことは承知してはいる。
それでもやはり、多少の落胆と疲労は禁じ得なかった。
アマデウス紅莉栖
「どうかした?」
倫太郎
「あ……」
アマデウス紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「いや……」
アマデウス紅莉栖
「……?」
自分でも無意識のうちに、俺は“紅莉栖”を呼び出していた。
アマデウス紅莉栖
「ねえ。昨日よりさらに疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
倫太郎
「そう見えるか?」
アマデウス紅莉栖
「声のトーンがいつもより低い。結膜に多少の充血も見られる。もしかして昨日言ってた件を調べてたの?」
倫太郎
「まあな……」
俺は“紅莉栖”に、鈴羽やダルから聞いた話、それに国会図書館での調べた内容について語って聞かせた。
アマデウス紅莉栖
「バカね。そんなことなら、私に言ってくれれば簡単にことは済んだのに」
倫太郎
「どういうことだ?」
アマデウス紅莉栖
「私ならネットワークに接続して、オンライン上の情報をリサーチすることができるでしょ」
倫太郎
「……ああ、そうか」
忘れていた。
彼女はコンピューターの中に存在する人工知能。
ならば、そうした芸当はお手のもののはずだ。
アマデウス紅莉栖
「なんなら、少しやってみましょうか?」
倫太郎
「すぐにできるのか?」
アマデウス紅莉栖
「それほど時間はかからない」
倫太郎
「それじゃあ、頼む」
アマデウス紅莉栖
「わかった。少しだけ待ってて」
そう言うと、画面の中の“紅莉栖”は沈思するような顔になってそのまましばらく動かなくなった。
それから数十秒。
アマデウス紅莉栖
「ふむん」
倫太郎
「もう結果が出たのか?」
アマデウス紅莉栖
「ネットワーク上で検索してみたけど、1998年以降、椎名かがりという名の女性がなんらかの事件や事故に巻き込まれたという情報は得られなかった」
アマデウス紅莉栖
「同姓同名の人物は3名ほど検出。ただ、年齢を考慮すると、その人物があんたの捜している人である可能性は限りなく低い」
アマデウス紅莉栖
「ご要望なら、その人物のデータを後でメールで送るけど?」
倫太郎
「……いや、いい」
冷静に考えてみれば、ネットで人名を探すくらいのことは、鈴羽だって既に行っているはずだ。
それに“紅莉栖”の言うことが間違っているはずがない。
俺の知っている牧瀬紅莉栖は、いつだって正しかった。
アマデウス紅莉栖
「それじゃあ、私に出来ることは以上かな。あとはあんたたちにしか出来ないやり方で捜すしかないわね」
倫太郎
「俺たちにしか出来ないやり方?」
アマデウス紅莉栖
「その人物がいなくなった場所の近辺で、地道に情報を集めるの。究極的にアナログな方法だけどね」
倫太郎
「……やっぱり、そうなるか」
それだって散々、鈴羽がやっているだろうから、真新しい情報が得られるとも思い難い。
けれど結局出来ることがそれしかないのなら、やるしかないということだ。
フェイリス
「ニャニャ? キョー……じゃなかった、オカリン?」
突然、背後から声をかけられ、慌てて振り返る。
フェイリス
「やっぱりオカリンだニャ。こんなところで何してるんだニャ?」
倫太郎
「フェイリス。それに……」
るか
「こんにちは、岡部さん」
倫太郎
「なんだ。珍しい組み合わせだな……」
フェイリス
「ついさっきそこで会ったのニャ。そしたらルカニャンが荷物いっぱい持ってたから、そこまで手伝ってあげることにしたのニャ」
なるほど、よく見ればルカ子は両手いっぱいに荷物をぶら下げていた。
フェイリスが持っている分も合わせればかなりの量だ。
これをひとりで持って行こうとしていたのか?
ルカ子が?
アマデウス紅莉栖
「ねえ、ちょっと」
るか
「ん? 今、なにか聞こえませんでしたか……」
倫太郎
「いや、これは別になんでも――」
慌ててスマホを後ろ手に隠す。
アマデウス紅莉栖
「ちょっと、聞いてるの? ねえっ」
フェイリス
「また、聞こえたニャ! もしかして、さっきオカリンが話していたのはそれかニャ?」
倫太郎
「いや、これは――」
別に知られたところで構わないはずだ。
アマデウス紅莉栖
「あ、ちょっ――」
それでも俺は、なにか後ろ暗い思いで『Amadeus』のアプリを閉じてしまっていた。
フェイリス
「電話中だったのニャ?」
倫太郎
「あ、ああ……ちょっと知り合いに相談ごとを、な」
るか
「相談……ですか」
フェイリス
「そういうことだったんだニャ。後ろから見たら、オカリンが独りでブツブツ呶いてるように見えたから、ちょっと心配したニャ」
心配……されるような姿だったのか、俺は。
でもまあ、こんなところで電話していたというならいいが、スマホに向かってしゃべりかけていれば、そう思われても仕方ないか。
フェイリス
「でも水くさいニャ。なにか困ったことがあるなら、フェイリスたちにも話してくれればいいのニャ」
るか
「そ、そうです。ボクじゃお役に立てないかもしれないですけど……でも、お話くらいなら……」
倫太郎
「ありがとう……でも、たいしたことじゃ……」
いや、待てよ。
フェイリスもルカ子も、ふたりとも生まれた時からずっと秋葉原に住んでいるはず。
そのうえ、両家とも地元の名士と言っても過言じゃない。
それなら、念の為に訊いてみるのもいいかもしれない。
倫太郎
「実は今、人を捜してるんだが」
るか
「人……ですか……」
俺は12年前に秋葉原で行方不明になった、ある少女を捜している旨をふたりに話した。
もちろん、その子が未来から来た存在であることや、まゆりの養女であることなどは伏せたまま。
フェイリス
「……その子がどうして、行方をくらませたのか激しく疑問だニャ」
倫太郎
「すまないが、その辺りの事情は話せないんだ……」
フェイリス
「うニャ~……」
倫太郎
「そういう話に心当たりはないかだけでも、訊いてもらえれば助かるんだが……」
フェイリス
「うーん、わかったニャ。とりあえず、フェイリスのほうは黒木に訊いてみるニャ」
黒木さんというのは、フェイリスの家の執事だ。
俺も何度か会ったことがある。
フェイリスも見るからにメイドといった感じだが、黒木さんもフェイリスの執事だけあって、見るからに執事といった風体の人物だ。
考えてみれば、メイドに仕える執事というのもおかしな話ではあるが。
フェイリス
「あとメイクイーン+ニャン⑯のご主人様たちにもそれとなく訊いてみるニャ」
るか
「ボクのほうもお父さんと、それから氏子の方たちにも訊いてみます」
倫太郎
「悪いな。そうしてくれると助かる」
黒木さんやルカ子の父親なら顔も広そうだし、可能性という意味では、俺たちが地道に捜すよりもずっと高くなる。
少しでも手がかりが見つかればいいんだが。
倫太郎
「それはそうとルカ子。その山ほどの荷物はどうしたんだ?」
るか
「あ、これはその……昨日、お父さんのお客さんが来るっていうお話はしましたよね?」
るか
「実はそのお客さんのひとりが、しばらく家に滞在することになって……」
フェイリス
「それで、必要なものを買いそろえていたそうニャ」
ルカ子の父親のお客さんというなら、ある程度は年配の人なんだろう。
昨日の話を聞いた限りでは、それなりに特殊な趣味の持ち主かもしれない。
倫太郎
「それは大変だな……」
るか
「いえ。ボクもちょっと楽しいですし」
楽しい……のか?
ルカ子も一応、あの父親の血を引いてはいるんだろうから、潜在的にそういう趣味があってもおかしくはないが。
倫太郎
「あんまりのめり込み過ぎないようにするんだぞ」
るか
「え? はぁ……」
それだけ警告して、フェイリスたちとはその場で別れようとした。
――したのだが。
るか
「……よい、しょっ……ん、しょっ……」
フェイリス
「ルカニャン、大丈夫かニャ? ふらふらしてるニャ」
るか
「だ、大丈夫です。ボク……だって……これくらい……」
倫太郎
「…………」
るか
「あの……よかったら、お茶でも飲んで行ってください」
倫太郎
「いや、遠慮しておくよ。お客さんだっているんだろう?」
るか
「そう……ですけど……」
ルカ子の荷物の量を見かねて、結局神社まで一緒に運んできてしまった。
ちなみに、フェイリスは途中で店に戻って行った。
倫太郎
「それにしても、この荷物、いくらなんでもひとりで運ぶには無理があるだろ」
るか
「ボクだって、最近は少し力がついてきたんですよ? 凶真――岡部さんに言われた素振りだって……あ……」
素振り――。
それは、女の子みたいな自分に悩むルカ子に、俺が課した修行だ。
倫太郎

清心斬魔
せいしんざんま

……か……」
厨二病過ぎて、笑えもしない。
るか
「すみま……せん……」
思えばよくもあんな戯言につき合ってくれていたものだ。
漆原父
「るか。帰ったのかい?」
社務所の奥にある住居から、ルカ子の父親の声が聞こえてきた。
るか
「はい! 今行きます!」
倫太郎
「それじゃあ、俺はこれで」
るか
「は、はい! ありがとうございました、岡部さん」
深々と頭を下げるルカ子の姿を背に、俺は柳林神社を後にした。
帰る道すがら、俺は頭の中でふたりの言葉を思い返していた。
フェイリス
「でも水くさいニャ。なにか困ったことがあるなら、フェイリスたちにも話してくれればいいのニャ」
るか
「そ、そうです。ボクじゃお役に立てないかもしれないですけど……でも、お話くらいなら……」
言われてはじめて気づいた。
俺は誰よりも先に“紅莉栖”に相談をしていた。
無意識のうちにアプリを立ち上げて、あいつと話をしていた。
あいつは――本物の紅莉栖じゃない。
けれど、あの声が、仕草が、言葉が――。
倫太郎
「っ……!」
すべてが紅莉栖を思い出させる。
すべてが、かつて俺が必死になって殺した想いを呼び覚まそうとする。
スマホへの着信。
相手は――“紅莉栖”からだった。
きっと、さっき何も言わずに切ったことで文句があるんだろう。
“紅莉栖”らしい行動だ。
倫太郎
「…………」
けれど俺は、その着信を取らなかった。
以降、その日何度かかかってきた電話にも結局出ることはなかった。
――アメリカ、カリフォルニア州。
リポーター
「まったく。なんで私がこんなリポートしなきゃいけないのよ」
ディレクターからの要請で、急遽現場に駆け付けたリポーター、
――ジェシカ・エドモンドは激しく憤っていた。
ハリウッドを夢見て、一度は映画にだって出たことのある自分が、なぜこんなどうでもいい事件のリポートに駆り出されなければならないのか。
ディレクター
「なんでもいいから仕事を寄こせと言ったのはお前だろう」
リポーター
「確かに言ったけど、だからってこんな事件――」
ディレクター
「落ちぶれた生意気な女優崩れを使ってやろうってんだ。感謝されたって文句言われる筋合いなんざない」
リポーター
「なんですって!?」
ディレクター
「それとも、ここでも仕事をほっぽり出して逃げ出すか? 何もかも中途半端で。そんなことだと、ガキの親権もとられちまうぞ」
リポーター
「っ……!」
何も言い返せない自分が悔しかった。
くだらないプライドばかりが大きくて。
女優を夢見てハリウッドまで行き、たかだかB級映画のひとつにチョイ役で出演しただけで以降さっぱり芽が出ず、子どもを作って地元に戻ってきたのは自分だ。
それでも子どもはかわいかった。
石にかじりついても、子どもの面倒だけはなんとしても見ていきたかった。
リポーター
「それで……現場は?」
ディレクター
「その茂みの奥だ……」
促されるままに茂みに入り、そこで彼女が目撃したもの。
リポーター
「うっ……」
それは、無残な姿になった複数の死体だった――。
キャスター
「このように、国内において行方不明になっている研究者は今年に入ってから5名――そのうちの3名については、Artificial Intelligenceの研究を行っていたとされており」
キャスター
「その背後には、人工知能技術の発展に反対する原理的宗教主義者たちによる活動も影響しているのではないかとみて、当局ではさらに捜査を続けている模様です」
キャスター
「続きましては、現場からのリポートです。ジェシカ!」
リポーター
「こちら、現場のジェシカ・エドモンドです。今朝早く、こちらの現場で発見された遺体に関して、当初人間のものと思われておりましたが――」
リポーター
「その後の警察の調べによりますと、それがチンパンジーやオランウータンといった、複数の猿の死体であることがわかりました」
リポーター
「ただし、これらの遺体について、一部、脳、および頭部が欠損しているものもあるとのことで、警察では猟奇的事件として、地域住民への警戒を訴えており――」
男子学生
「なあ、岡部。お前、この後授業は?」
倫太郎
「いや、今日はもう終わりだよ」
男子学生
「そっか。んじゃ、どっかで飯でも食ってく?」
倫太郎
「どうせ、またカレーだろ?
キッチン東海

か?」
男子学生
「昨日、ちょい臨時収入あったから今日は豪勢に
モンディ

かな」
倫太郎
「……俺はやめておくよ。今月、ちょっとピンチだし」
男子学生
「そっか。んじゃ、また今度な」
倫太郎
「ああ……」
授業終わりに友人たちと交わす会話。
この空気にもすっかりと慣れてしまった。
夏前はどこか身の置き所が無いと感じていたこの大学の生活も、今はそれほど居心地が悪いと思わなくなった。
あの頃の俺は、自分が特別だと思っていた。
けれど今は違う。
自分から輪の中に入ってさえゆけば、自然と自分の居場所だってできるようになる。
人は変われる。
いや、否応なく変わってゆく。
今さらながらに、俺はそのことを学んだ。
本当に今さらだが――。
倫太郎
「さて、と。それじゃあ帰って……ん?」
玄関へ向かおうと振り返る直前、一瞬視界に入った人影に見覚えがあった。
あれは……。
倫太郎
(……レスキネン教授?)
俺の通うこの大学では、積極的に留学生を受け入れているため、学内で外国人を見かけることも少なくはない。
けれど――。
倫太郎
「……いない」
慌てて後を追ってみたが、先ほど見かけた人物の姿は既に無かった。
俺の見間違いだろうか?
しかし考えてみれば、教授がこの大学に来ていたとしても、別段不思議でもなんでもない。
案外、俺の師事する井崎と会う約束でもあるのかもしれない。
井崎は、レスキネン教授と深い交流を持ちたがっていたから。
倫太郎
(こんど教授に会ったら聞いてみよう……)
教授と思わしき人物が歩いて行った先を一瞥して、俺は大学を後に、秋葉原へ向かった。
電気街口改札から出ると、すぐ目の前にはラジ館がいつものようにそびえ立っている。
あの屋上には、鈴羽が乗って来たタイムマシンが鎮座しているんだろう。
考えてみれば、いかに人が近寄らない場所とはいえ、結構な間見つかっていないというのも凄いことではある。
それもこれも、フェイリスのおかげだが。
フェイリスがラジ館の上を借り切って、屋上を封鎖してくれているのだ。
もっとも、俺がここに来たのは、そのタイムマシンの様子を見に来たわけじゃない。
昨夜、ラボから帰った後に、フェイリスとルカ子から連絡があった。
ルカ子は父親に、フェイリスは執事の黒木さんにそれぞれ訊いてくれたらしいが、やはりそんな話は聞いたことが無いということだった。
考えてみれば当然のことだ。
捜索願いでも出していれば警察が多少でも動いたという事実が残るのだろうが、そういうことは一切していないのだから。
ただひとつ、フェイリスが面白い話をしていた。
フェイリス
「でも、おさげの幽霊が現れるって話を聞いたニャ」
倫太郎
「おさげの幽霊?」
フェイリス
「そうニャ。なんでもその幽霊は、何年かに一度現れて、小さな女の子を見なかったかと捜しまわってるそうなのニャ」
フェイリス
「何年たってもその姿が変わらないから、最近になっておさげの幽霊だって言われてるニャ」
……どう考えても鈴羽のことだった。
あいつ、自分が幽霊だと思われていると知ったら、いったいどんな顔をするだろうか。
頭の中に浮かんだそんな想像に笑みを浮かべそうになるのをぐっと堪えて、俺はラジ館に足を向けた。
目的はもちろん、かがりの情報を得るためだ。
かがりが鈴羽の前から姿を消したのは、このラジ館だ。
ということは手がかりが存在する可能性が一番高いのも、ここだ。
ラジ館内にある店を一件一件訊いてまわったが、何の情報も得られなかった。
鈴羽だって今までそれなりに聞き込みをしたのだろうから、それも当然といえば当然だ。
だが、だからと言ってすぐに止めてしまうわけにはいかない。
パーツショップ。
商業施設。
そして路地裏に至るまで。
俺はその後も、秋葉原のあちこちで、かがりについて訊いてまわった。
けれど、なんら目ぼしい情報は手に入らず。
中にはフェイリスの言ったように、おさげの幽霊の話をする人もいたが、肝心のかがりの行方については誰も知らなかった。
そもそも、子どもがひとり誘拐されたなり、事故にあったなり、そういう目立った事件であればまだ目撃証言も出てくるかもしれない。
けれど、失踪となると別だ。
椎名かがりが自らの意思で失踪したというのなら、たとえ10歳の子どもがひとりで歩いていたところで、そう気にとめるものではないのかもしれない。
10年以上も前のそんな出来事を覚えてる人も、なかなかいないだろう。
もう一度、こういう時に一番いい方法はなんだろうか考えてみる。
警察などの公的機関が使えないとなると、あとは――裏世界に通じているような人物か。
倫太郎
「裏世界……ね」
言葉にして、すぐに頭から追い払った。
馬鹿馬鹿しい。
なんという厨二病な考え方だろう。
そういうのはもうやめたんだ、俺は。
倫太郎
「そういえば……」
以前もこうして、足を棒にして秋葉原の街を探しまわったことがあった。
もっとも、あの時は人じゃなく物だったが。
IBN5100。
鈴羽が過去の世界で求めたものと同じものを、半年前俺は、α世界線の秋葉原で探していたんだ。
あの時はそう――紅莉栖が一緒だった。
ルカ子の家の倉庫にIBN5100があると知った俺と紅莉栖は、力を合わせてあの重いPCを運んだんだよな。
紅莉栖
「あんたね、前に進まないでよ。私が後ろ歩きしなくちゃいけないでしょ。横に動きなさいっ」
思えばあの時のあいつは、文句ばっかり言っていたな。
負けん気が強くて、生意気で、そのくせ人一倍寂しがり屋で。
倫太郎
「…………」
俺はまた、無意識のうちにポケットからスマホを取り出していた。
『Amadeus』。
昨日何度かあった連絡を取らなかったせいだろうか、今日はまだ一度もかかって来ていない。
整然と並んだ中にある、『Amadeus』のアイコンをしばらく眺めた末――。
結局、起動しないまま、俺はスマホをポケットに仕舞った。
鈴羽
「…………」

「うーん……」
ラボに戻った俺を待っていたのは、疲れ切った顔をしたダルの姿だった。
もはや訊くまでもない。
手掛かりは皆無ということがよくわかる様だ。
さすがに鈴羽はこんなことを半年以上も続けてきたからか、普段と表情は変わりないようだが。
ダルは、俺を見ても『どうだった?』と訊いてくることはなかった。
俺の表情から結果を悟ったのだろう。

「考えてみたらさ、これまでだって鈴羽がそれなりに捜してたわけでさ。それを僕ら素人が今さらまた蒸し返したところで、新しい発見なんてあるわけないんだよな」
俺も思いながら、あえて口にしなかったことをダルが言った。
鈴羽
「手伝ってくれてありがとう。これ以上無理はしなくていい。捜索は、あたしだけで続行するよ」
鈴羽は諦めるつもりはないようだ。

「いや、ちょっと待って、鈴羽。僕が言いたいのはさ――」
鈴羽
「父さんたちに無理させるわけにもいかないから。かがりの件は、あたしの責任なんだし」

「馬鹿言うなよ。子どもの責任は親の責任だろ
常考


鈴羽
「父さん……」

「ね、今のどう? かなりパパっぽかったと思うんだけど。なんなら『パパ大ちゅきっ』って言って抱きついてくれてもいいのだぜ」
鈴羽
「はぁ……」
このふたりを見ていると、なんだか不思議な気分になってくる。
出会ってしばらくは、まったくの他人だった。
それが今や親子だ。
しかも年齢はといえば、父と娘でまったく同じときている。
鈴羽のほうはまだしも、ダルのほうはいったいどんな気持ちなんだろうか。

「とにかく、僕がいいたいのは、ただ無闇やたらに捜したところでダメだろってこと」
倫太郎
「じゃあ、どうしろと言うんだ?」

「餅は餅屋って言うでしょ。こういうのは、やっぱ専門家に頼むのが一番だと思うんだよね」
鈴羽
「専門家?」

「こういうのは、ある程度裏の世界の情報にも精通してる人に頼むのが一番だろ常考」
俺の思考とまったく同じ回路に、頭が痛くなりそうになった。
鈴羽
「心当たりがあるの?」

「ちっちっち。父さんを甘く見ないで欲しいな。僕はオタだけど顔は広いのだぜ」
倫太郎
「横幅も広いけどな」

「茶化すなっつーの」
倫太郎
「っていうか、本気で言ってるのか? 本気で、裏の世界の人間とやらに繋がりがあると?」

「ちょっと連絡取ってみる」
そう言うとダルは、俺や鈴羽の返事も聞かずにスマホを取り出しメールを打ち始めた。
まさか、本当なのか?
そもそも、そういう世界の人間って、メールで連絡とりあうものなのか?
鈴羽
「……どう思う、おじさん?」
倫太郎
「実際にそういう人物が本当にいるのなら、頼んでみてもいいとは思うが……」
まあ、考えてみればハッカーだって充分に裏稼業の人間だ。
そんな奴が身近にいるのだから、もしかしたらダルが言うような人物も実在するのかもしれない。

「よし、送信、と。あとは返信が来れば……」
倫太郎
「ん?」

「お?」
鈴羽
「え? もう返事が来たの?」

「うん……今からそっちに向かいますって」
倫太郎
「随分と話が早い相手だな」

「遅いよりはいいんじゃね?」
確かにそのとおりだ。
ダルはさらになにやらメールを打っているようだった。
おそらくは、ここの場所を送っているのだろう。
あとはその人物が来るのを待つだけだ。
すると今度は電話が鳴った。
ダルにではなく俺に、だ。
もしかしてまた、“紅莉栖”だろうか?
発信者を確かめると、ルカ子だった。
珍しいな。いつもは遠慮してまゆりに伝言するか、もしくはメールかRINEがほとんどなんだが。
というか、もしかしてダルが言ってた“裏の世界の情報にも精通してる人”って、ルカ子の事じゃないよな?
日本全国の神社仏閣に網羅されている極秘の情報ネットワークがあって、実はルカ子もその一員……だとか。
……ないな。
つい昔の悪い癖が出てしまった。
さすがに出ないのも悪いよな。
倫太郎
「もしもし、ルカ子か?」
るか
「あ、岡部さんっ。す、すみません、いま、大丈夫ですか?」
倫太郎
「ああ。どうした?」
るか
「あの……実はその……ボク、岡部さんに相談したいことがあって……」
倫太郎
「相談?」
るか
「……今から、お会いしてもらえないでしょうか?」
倫太郎
「今から? 電話じゃ言いにくいことなのか?」
るか
「はい……少し……」
今から、か……。
こっちは鈴羽やダルに任せてしまってもいいんだろうが……。
倫太郎
「……悪い。これから客が来ることになっているんだ」
ダルの知り合いというその相手がどんな奴なのか気になる。
るか
「そう……ですか……」
倫太郎
「その後からじゃダメか?」
るか
「その後は、ボクも用事があって……」
倫太郎
「そうか……」
るか
「えっと、それじゃあ……」
ルカ子がなにか言おうとしたその時――。
外の階段を上ってくる硬い足音が聞こえてきた。
そしてノックの音。

「はぁい、どうぞ」
倫太郎
「悪い、ルカ子。お客が来たようだ。後で連絡を――」
そこで俺の言葉は止ってしまった。
倫太郎
「な――!!」
ドアを開けて入って来た人物。
それは。
倫太郎
(――こいつ! また!)
萌郁
「…………」
桐生萌郁だった。
ATFのセミナーで見かけて以来だな。
るか
「あの……岡部さん? どうしたんですか? 岡部さん!?」
と、出る前に着信は途切れてしまった。
悪いな、後でこっちからかけ直すから、今は勘弁してくれよな……。
そんな風に心の中で謝っていたら――。
ルカ子は今度はRINEにメッセージを送ってきた。
もしかして、急ぎの用なんだろうか。
少し不安になって、すぐにメッセージを確認した。
ずいぶん切羽詰まってるな。
余程の事なんだろうか。
そういう事ならさっきの電話にも出てやるべきだった。
今すぐこっちから折り返そうか――と考えたその時。
外の階段を上ってくる硬い足音が聞こえてきた。
そしてノックの音。

「はぁい、どうぞ」
倫太郎
「な――!!」
ドアを開けて入って来た人物。
それは。
倫太郎
(――こいつ! また!)
萌郁
「…………」
桐生萌郁だった。
ATFのセミナーで見かけて以来だな。
鈴羽
「お茶、どうぞ」
萌郁
「…………」
倫太郎
「っ……」
黙ってほんの少し頭を下げた桐生萌郁の姿に、俺の心臓は締め付けられたような鈍い痛みを訴えていた。
倫太郎
(どう……して……)
どうして、こいつがダルと?
頭の中にいくつもの疑問が浮かぶ。

「どしたん、オカリン?」
倫太郎
「いや……」
萌郁
「…………?」
僅かに首をかしげて見つめる萌郁から、逃げるように目を逸らした。
俺たちとSERNとはもう繋がりはない。
だから、萌郁はまゆりを殺さない。
まゆりを殺さない。
まゆりを殺さない。
殺さない。
何度も言い聞かせて、ようやく泡立った胸のざわめきが収まっていった。
鈴羽
「おじさん。顔色悪いよ。大丈夫?」
倫太郎
「気にしないでくれ……。それよりもダル……説明してくれ」

「あぁ、この人は桐生氏。
編プロ

のライターさんだよ」
萌郁
「桐生……萌郁です……」
静かに差し出された名刺には『
アーク・リライト

』という会社の名前が書かれていた。
ダルは手短に俺と鈴羽のことも萌郁に説明した。
倫太郎
「なあ、ダル。お前はどうして……この人と知り合いに?」

「前にさ、桐生氏の担当してる雑誌で、アキバ関係の
都市伝説

を扱った特集があったんだよね」

「その時に、僕のバイトのこと取材したいって申し出があってさ」

「僕のバイトってほら、あんま大きな声で言えないやつっしょ? だから取材に関しては丁重にお断りしたんだけど」

「ただ、ボクって普段から足がつかないようにかなり注意してるんだよね。なのに桐生氏は、その僕に辿りついた。それが気になって」

「で、会ってみたらこのとおり、すげー美人さんだったわけだお」

「都市伝説を追う美人ライターとか、萌えざるをえないだろ、常考」
それでお近付きになったというわけか。
美人を前にだらしなくデレデレしているダルに、鈴羽は顔をしかめた。
口には出さないが『母さんという人がいながら』と思っているのが丸わかりだ。
一方の萌郁はといえば、ダルになど一切が関心なさそうな相変わらずのポーカーフェイスで所在なさげにケータイを弄っていた。
こいつは、今でもスマホではなくガラケーなんだな。

「ま、専門ってわけじゃないけど、アキバについてはかなり詳しいみたいだし。結構裏のほうの事情も知ってるっぽいから、頼んでみるのもありかなって」
萌郁
「……人捜し……そう聞いた……」

「ん。実はね。12年前にアキバでいなくなった女の子を捜して欲しいんだお」
ダルは桐生萌郁にある程度のいきさつを話して聞かせた。
萌郁はただ黙って、ダルの話をものすごい勢いでケータイに打ち込んでいく。
俺はただ黙って、その萌郁の挙動を観察した。
かつてラウンダーだった女。
おそらくは今もそうだろう。
果たして、この女に頼ってもいいものだろうか。
今回の萌郁との接触は、ただの偶然だ。
頭ではそう分かっていても、心が拒絶してしまう。
このβ世界線では、これまで桐生萌郁と俺たちに接点は無かった。
当然だ。
そうならないために俺はβ世界線を選択したのだから。
牧瀬紅莉栖という大きすぎる犠牲を払って。
萌郁
「……つまり……その、椎名かがりという人を、捜せばいいの……?」

「そういうこと。どうかな?」
萌郁
「……やってみても……いい……」

「マジ?」
萌郁
「……でも……見つかるかは……わからない……」

「もちろん、その場合はしょうがないよ」
普通に考えれば、俺と桐生萌郁がこうして接点を持つことは、本来なら無いはず。
もちろん、この秋葉原の街ですれ違うくらいのことはあるかもしれない。
事実、先月のATFセミナーではレスキネン教授や真帆に取材をしていたようで、ニアミスした。
けれど、こうして直接関わり合うことはない。勝手に、そう思い込んでいた。
これも、すべては決められた運命なのだろうか?
俺と桐生萌郁は、時間という道程で何らかの形で交差する、そういう宿命なのだろうか。
だとするなら……これまでのように避けるのではなく、いっそのことここで彼女の挙動を見守ったほうがいいのかもしれない。
ダルと萌郁の話を聞きながら、俺はそんな風に考えはじめていた。

「んじゃ、報酬は成功報酬で。その他の必要経費はこっちで持つってことでおk?」
萌郁
「……問題ない」

「オカリンも鈴羽もそれでいい?」
鈴羽
「あたしは、手伝ってもらえるなら文句はない」
倫太郎
「……俺も……かまわない……」

「んじゃ、契約成立ってことでひとつ」
萌郁
「…………」
萌郁は小さく頷き、その後かがりについての手がかり――失踪した時の服装だとか、特徴だとか――を聞いて、ラボを出て行った。
倫太郎
「ふぅ…………」
途端にそれまで張りつめていた緊張の糸がぷっつりと切れ、俺はソファに崩れ落ちた。
鈴羽
「おじさん。本当に大丈夫?」
倫太郎
「大丈夫だ……少し緊張しただけだから……」
今さらという感じではあるが、ポケットから精神安定剤を取り出し口に含んだ。
鈴羽
「おじさん、さっきの桐生萌郁って人のこと、知ってたんだね?」
倫太郎
「え?」
見抜かれた?

「マジで? オカリンいつの間に?」
倫太郎
「……どうしてそう思ったんだ?」
鈴羽
「見ていれば分かるよ」
さすがに、修羅場を生き抜いてきた人間だけに鋭いな。
倫太郎
「……いや。知らない人だ……」
鈴羽
「α世界線では、知ってた?」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「分かった。これ以上は聞かないけど、あたしなりに警戒はしておくよ」
倫太郎
「……それでいい。今はな」

「いったいなんのこと?」
倫太郎
「緊張した、っていうことさ」

「分かるわー。桐生氏は美人で巨乳でスタイル抜群でメガネ属性まで持ってるもんな。しょうがない」
倫太郎
「そうだな……」
鈴羽
「…………」
どうせ関わってしまったのなら、利用するだけ利用してやればいい。
目の前から消えたおかげか、それとも精神安定剤の効果か、それくらいのことまで考えられるようになっていた。
もっとも、次回あの女と顔を合わせた時、同じように考えられるかはわからないが。
埼玉県和光市、脳科学総合研究機構・日本オフィス。
その日、比屋定真帆は欠伸をかみ殺そうと必死で我慢した挙句、結局こらえきれず、その小さい顔の大半を占めてしまいそうなほど大きな口を開けた。
真帆
「ふぁ~……」
前の晩、“紅莉栖”と話をしていたらつい盛り上がってしまい、気付けば深夜になっていたのがそもそもの原因のひとつ。
最初こそ話の内容は今行っている研究や実験についてだったが、話題は二転三転し、話はいつしかまた、岡部倫太郎についての話になっていた。
なんでも岡部はここ数日、“紅莉栖”からの連絡を無視しているのだという。
そんな岡部に対しての憤りは、最初の頃に8回連続で居留守を使われた云々で怒っていた頃とは比べものにならないものだった。
真帆がはじめて垣間見た牧瀬紅莉栖の少女らしい一面と言ってもいい。
それが思わず可愛くて、これまで散々弄られていた真帆がここぞとばかりにからかっているうち、いつの間にか時間が過ぎていたのだ。
しかもそこで寝てしまえばいいものを、すっかり目が冴えてしまった真帆は、こんどは紅莉栖の残したノートパソコンを引っ張り出してしまった。
そして、なんとかパスワードを解析できないものかとあれこれしているうちに、外は明るくなっていた。
真帆
「パスワード……ねぇ……」
真帆
「やっぱり、プロにでも頼んだほうがいいのかしら……」
???
「何の話だい?」
真帆
「ひゃっ!?」
突然、背後から声をかけられ、真帆は飛び上がりそうになった。
レスキネン
「ハハハ、そんなに驚くことないじゃないか」
真帆
「きょ、教授。戻ってたんですか」
レスキネン
「ついさっき、ね」
そう言って掲げた手には、コンビニの袋が下げられていた。
10分ほど前に食事に行くと出かけたから、てっきりまだ戻ってこないものだと思っていたのに。
レスキネン
「それにしても、ニッポンのコンビニは食べ物の種類がいっぱいで本当に素晴らしいね!」
レスキネン
「毎日違うベントーを食べても、1週間もすればすぐに新しいベントーが出る」
レスキネン
「しかも、店によっても味が違うから、毎日コンビニでも飽きないよ」
真帆
「コンビニのお弁当ばかり食べていると、栄養偏りますよ」
レスキネン
「ハハハ。それでもアメリカの食事に比べれば、かなりヘルシーだよ」
レスキネン
「第一、食事についてのお説教だけは、マホには言われたくないね」
真帆
「うっ…………」
確かに、真帆自身あまり栄養を考えた食事を採るほうではない。
むしろシリアルや栄養剤に頼っている部分も多く、かなり不健康な食生活だった。
レスキネン
「ところで、なにをプロに頼むって?」
真帆
「ああ……あれはその……なんでもないです。なんでも」
レスキネンになら、別段知られて困ることではない。
けれど、真帆は何故か咬嗟にそう誤魔化してしまっていた。
レスキネン
「そうかい? 私でできることなら力になるよ」
真帆
「ありがとうございます。その時はお願いします」
社交辞令的に言って立ち上がると、そのまま扉へと向かう。
レスキネン
「マホ? どこへ行くんだい?」
真帆
「気分転換を兼ねて、秋葉原に行こうかと」
レスキネン
「気分転換で行くにしては、ずいぶん遠いね」
真帆
「う……」
レスキネン
「リンターロに会いに行くと、素直に言えば許可しよう」
真帆
「そ、そんなんじゃ……!」
レスキネン
「違うのかい?」
真帆
「……ついでに、会いに行ってもいいですけど」
岡部は秋葉原にラボラトリーを構えている。そのことを前夜、“紅莉栖”から教わっていた。
以前は足が遠のいていたそうだが、最近になってまた顔を出すようになったのだとか。
そのラボラトリーに、真帆も少しだけ興味があった。
レスキネン
「ふ~ん」
真帆
「い、言っときますけど、違いますからね。そういうのじゃないですからね」
レスキネン
「私はまだ何も言ってないよ?」
真帆
「っ……というわけで、今日は研究は休みますっ」
レスキネン
「リンターロによろしく」
“紅莉栖”といい、レスキネンといい、なぜああもすぐに恋愛感情に結びつけたがるのか真帆には理解不能だった。
真帆
(ていうか、ああいうのもセクハラよね、今の世の中じゃ)
だいいち、真帆が岡部の所を訪ねようとしているのは、会いたいからというわけではない。
やはり、もう一度岡部に会って、紅莉栖のノートPCのパスワードに関するヒントを貰うためだ。
岡部は知らないと言っていたが、真帆がひとりで考えるよりは、きっと多くを知っているに違いない。
それは、岡部の『Amadeus』に対する態度を見て思ったことだ。
女の勘といってもよかった。
そんな事を考えながら電車を乗り継ぎ、秋葉原の駅を改札を出た時だ。
真帆
「…………?」
誰かに見られているような気配がして、真帆は振り返った。
平日だというのに、駅は大層混雑している。
しかしその中に、真帆が感じたような視線を放つ者はいなかった。
真帆
「……気のせい……よね……」
誰に言うともなしに呶いて、再び歩き出す。
未来ガジェット研究所の場所は、“紅莉栖”から聞いている。
秋葉原の地理にそこまで詳しいわけではないが、いざとなれば“紅莉栖”にナビをしてもらえばいいだろう。
ただ、いきなり訪ねていって、岡部がいなかったらどうすればいいだろう。
それが少し不安だったが、そのときは素直に帰ればいいだろう。
様々なショップの店頭で売られているジャンク品に目移りしながら、しばらく進んだところで――。
真帆
「…………」
やはり、何者かの眼差しを感じた。
しかし、振り返ってもやはりそれらしき人間は見当たらない。
真帆
「…………」
再び歩き出し、角を曲がって路地へ。
そこで真帆の疑惑は確信に変わった。
足音――。
それが真帆の背後から聞こえてくる。
もちろん、それだけなら良くあることだ。
夜の道で迫ってくる足音に思わず歩調を早めると、すぐ横を男の人が面白くなさそうに追い抜いていく、なんてことも度々ある。
けれど、今回はそういうのではないと、真帆は何故か確信していた。
試しに歩調を早めると、ついてくる足音も早まり、緩めると足音も緩まった。
真帆
「っ……!」
映画などでこういう場面を見ると、自分なら蹴りの1発でもお見舞いしてやるのに――といつも思っていた真帆だが、実際に出くわすと振り返ることすら出来なかった。
もどかしい手つきで、ポケットからスマホを取り出す。
警察に電話するという選択肢は頭に浮かばなかった。
頭の中に浮かんだのは、今から会おうと思っていた人物の名前だけ。
その名を履歴から呼び出し、震える指で発信ボタンを押した。
真帆
(お願い……!)
呼び出し音に足音が重なる。
真帆
(岡部さんっ! 助けてっ……!)
足音はすぐそこまで近づいていた。
たまらず駆け出そうとしたその時――。
倫太郎
「もしもし?」
通話口の向こうから声が聞こえた。
真帆
「もしもし、岡部さん!? 私、比屋定ですっ!」
真帆
「今、あなたのラボのすぐ近くまで――!」
しかし、それ以上のことを真帆は言葉に出すことができなかった。
何者かによって羽交い絞めにされたとわかった時には、真帆は手の中のスマートフォンを取り落してしまっていた。
倫太郎
「これは……?」
無言で差し出された紙を受け取りながら、俺は桐生萌郁に訊ねた。
萌郁から、ラボに向かうとダルに連絡があったのがつい10分ほど前。
その宣言ピッタリに、萌郁はここに現れた。
連絡を寄こした時には既に近くまで来ていたと思われる。
誰もいなかったら、どうするつもりだったのだろう。
萌郁
「……報告書」
どうやら、これまでの調査の結果を記したものらしい。
手にした紙の束が僅かに震える。
萌郁を前に覚える不安は、俺の中にまだ多少残っているらしい。
それでも、連絡が来てすぐに飲んだ精神安定剤が効いているのか、先日に比べると幾らかはマシにはなっていた。
鈴羽
「どう、おじさん?」
倫太郎
「やっぱり、そう簡単に見つかるもんじゃないな……」
鈴羽
「そう……」
少しは期待していたのだろう。
鈴羽の声には明らかに落胆の色があった。
鈴羽
「かがり……どこで何してるんだろう……」
その疑問に答えられるでもなく、ただ黙って報告書を捲る。
倫太郎
「ん?」

「どしたん、オカリン? なんか有力な手がかりでもあったん?」
倫太郎
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
鈴羽
「見せて」
俺は素直に鈴羽に報告書を手渡した。
気になった箇所を指し示してやる。
鈴羽
「『調査の中でひとつ、興味深い事実が浮かび上がった』」
鈴羽
「『この1、2ヶ月の間で、椎名かがりという名の女性を捜している人物が、私たち以外にも存在するらしいということ』」
鈴羽
「……どういうこと?」
萌郁
「……読んだままの通り……」
ということは――。
その時、俺の思考を遮るように着信音が鳴った。
発信者は――比屋定真帆。
大事な話の最中だ。
5分後でもかけ直す事にしよう。
それぐらいなら、真帆だって許してくれるだろう。
それよりも気になるのは、かがりを捜しているという別の人物の事だ。
いったい何者だろう?
その人物はかがりと面識があるのだろうか。
現在のかがりを知る人物なら、接触してみるのもアリ、か?
……というか、真帆はなかなか電話の呼び出しをやめようとしない。よほど大事な用件か?
いつもなら、このままスルーして後でかけ直すところだが――。
倫太郎
「悪い。ちょっといいか?」
この時に限っては、なぜか出なければならない。
そんな気がした。
倫太郎
「もしもし?」
真帆
「もしもし、岡部さん!? 私、比屋定ですっ!」
ひどく切羽詰まった真帆の声に、急激に緊張感が高まり、こちらの声も自然大きくなる。
倫太郎
「どうした、比屋定さ――」
真帆
「今、あなたのラボのすぐ近くまで――!」
直後、なにか揉み合うような音と、ぶつかるような音が聞こえ。
倫太郎
「比屋定さん!? 比屋定さん、どうした!」
そして、そのまま声は途切れた。
倫太郎
「…………」

「オカリン? 何かあったん?」
あの声――なにか良くないことがあったのは明白だ。
倫太郎
「知り合いが誰かに襲われてるっ!」

「ちょっ、マジ!? 知り合いって誰!?」
それ以上ダルの問いかけに答えるのももどかしく、俺は手近にあった武器になりそうなものを掴むと、ラボを飛び出した。
倫太郎
「…………!」
真帆はラボの近くだと言っていた。
駅から来るルートで人目につかないところとなると、おそらく――。
ラボから目と鼻の先の路地裏。
そこに人の姿を見つけた。
すらっとした長身の人物……その向こうに小さな人影が蠢いているのが見える。
あれは……!
間違いない、あの背丈は真帆のものだ!
真帆
「やめて……離してってばっ……!」
真帆が何者かによって抑えつけられ、逃れようと必死でもがいている!
倫太郎
「比屋定さんっ!」
真帆
「え?」
???
「――!?」
俺の張り上げた声に、真帆を抑え込んでいた人物が驚いて振り返る。
倫太郎
(……女?)
そこではじめて、そいつが女で、更には日本人じゃないことに気づいた。
真帆
「岡部……さん?」
倫太郎
「おい。比屋定さんを離せ!」
不審な女
「…………」
言葉が通じていないのか?
いや、でもだいたいの意味くらいは雰囲気でわかるはずだ。
倫太郎
「その子を……離せ」
俺は手にした得物を構え、凄んで見せた。
よりによって持ってきたものが、サイリムセイバーだったことにようやく気付いたが、それでもハッタリくらいにはなるだろう。
倫太郎
「もう一度言うぞ。その子を――」
真帆
「違うの、岡部さん」
倫太郎
「え?」
違う?
何が?
不審な女
「Oh~!」
すると女は、抱えていた真帆を離すと、満面の笑みを浮かべ両手を広げ、こちらへと近づいてきた。
不審な女
「Are you Maho’s boyfriend?」
倫太郎
「はぁっ!? え? あ、ちょっ――」
どういうことだ――と声を上げるよりも早く、彼女の両手が俺の背中に回され――。
がっしりとハグされていた。
真帆
「だから、違うって言ってるのに……」
なにがどうなっているのかもわからず、ただ胸元に押し付けられた弾力のある膨らみに、俺はただなすがまましばらく立ちすくんでいた。
倫太郎
「それじゃあ、この人は比屋定さんの知り合いなのか?」
真帆
「ごめんなさい。私が早とちりしたせいで……」
女性
「I’m Judy,Judy Reyes.Pleasure meeting you,Mr.Okabe.」
ジュディ・レイエスという名の女性は、太陽のような笑みを浮かべて右手を差し出した。
倫太郎
「あ、ええっと……ナイス・トゥ・ミーチュー……」
レイエス
「ふふ……日本語でいいわよ」
真帆
「え? 教授って日本語、喋れたんですか?」
レイエス
「ええ。実は、ね」
真帆
「……知らなかった。でも、どうして?」
レイエス
「ふふっ、女もワタシくらいの年になると、いろいろあるのよ」
悪戯っぽいウィンクがかなり様になっていた。
レイエス
「それじゃあ、改めて。ジュディ。ジュディ・レイエスよ。よろしくね」
再び差し出された手を、俺はしっかりと握り返した。
倫太郎
「お、岡部倫太郎です」
真帆
「レイエス教授は、こんど日本で開かれるAI関係の学会に出席するために、来日したんですって」
倫太郎
「教授っていうことは、ヴィクトル・コンドリア大学の?」
レイエス
「psychophysiologyを研究しているわ」
倫太郎
「サイコフィ……?」
真帆
「精神生理学のことよ。つまり、脳の活動によってもたらされる心の働きとか心の病気なんかについての研究をされているの」
真帆
「そういう意味では、私たちの研究よりもずっと人の役に立つ研究をされていると言っていいかもしれないわね」
レイエス
「そんなことないわ。アナタたちの『Amadeus』だって、これからの発展次第では充分に役に立つ技術になるわよ」
真帆
「そう言っていただけると嬉しいです」
要するに、日本にやって来たレイエス教授が、たまたま秋葉原で真帆の姿を見かけ抱きついて驚かせた、と、そういうことだったらしい。
真帆
「でも、レイエス教授も人が悪いですよ。駅からつけてくるなんて」
レイエス
「つける? マホを? ワタシが?」
真帆
「ええ……。後ろ、ついてきてましたよね? ずっと……」
レイエス
「そんなことしてないわ。ワタシはさっきそこのショップでたまたまマホを見つけたから、ちょっと驚かそうと思っただけよ」
真帆
「え?」
レイエス教授の答えに、さっきまで安心しきっていた真帆の顔色が変わった。
倫太郎
「比屋定さん、つけられていたのか?」
真帆
「ええ……確かにそう感じたんだけど……」
倫太郎
「レイエス教授、誰か怪しい人物を見かけたりは?」
レイエス
「…………」
レイエス教授は、肩をすくめる外国人特有の仕草で否定した。
路地の向こうを振り返っても、当然それらしき人影はない。
真帆
「……じゃあ、私の勘違いだったのかしら」
レイエス
「きっとそうだわ。だってニッポンは世界一治安のいい国でしょう?」
そう……なんだろうか?
レイエス
「マホはこの後どうするの?」
真帆
「私は……」
それ以降は口にせず、ただ俺を見上げた真帆に、レイエスは何かを感じとったのだろう。
レイエス
「ンふ、なるほど、そういうこと。それじゃ、ワタシは行くわね。リンタロもそのうちゆっくり話しましょ!」
レイエス
「Bye!」
意味ありげにウィンクを寄こして、去って行った。
駅とは逆方向だが、良かったんだろうか?
それに、また変に勘ぐられたような気がするが、いちいち抵抗するのも面倒だった。
倫太郎
「というわけで、彼女が比屋定さんだ。ほら、前にセミナーで会ったって話したことがあっただろ?」
真帆
「お騒がせしてごめんなさい」
成り行きで真帆を連れてラボに戻ると、皆が俺が戻るのを待っていた。
鈴羽などは一度表へ出たらしいのだが、その時点で既に俺の姿は見えなくなっていたそうだ。

「ま、でも、何ごともなくてよかった」
ひととおり、説明と紹介を終えてようやく全員が息をついた。
真帆はラボについて色々と聞きたそうにしていたが、俺には先に済まさなければならない話があった。
倫太郎
「すまん……どこまで話したんだったか……」

「他にもかがりたんを捜している人間がいるって話」
倫太郎
「そう、それだ!」
倫太郎
「その……それは本当なんですか、桐生さん」
萌郁
「……本当……」
再び萌郁の調査書に目を落とすと、詳細が書いてあった。
萌郁は裏を取るために、興信所まで使ったそうだ。
ということは、それだけ信憑性も大きくなる。
倫太郎
「それが鈴羽という可能性はないんだろうか」
鈴羽
「それはあたしも考えた。でも……」
萌郁
「……捜していたのは男の人……中には外国人も……」
外国人?
それがなぜ、かがりを捜す?
鈴羽

この時代
こっち
でかがりと関わりがあるのは、あたしだけだ。それなのに、いったい誰が……」
もしかして、SERN!?
SERNがかがりが未来からやって来た存在だという事に気づき、捜している……とか。
でもそれなら萌郁が知らないということはないはず……。
いや、ラウンダーの行動は、それぞれ直接下されるようだから、他のラウンダーがなにをしているか知らなくてもおかしくはない。
倫太郎
「椎名かがりは、こっちに来てもう12年にもなる。その間、知り合いが出来たとしてもおかしいことじゃないな……」

「つーか、むしろ誰かの世話にならないと、生きていけないっしょ」
そういうことだよな。
倫太郎
「つまり、この報告からわかるのは――」
倫太郎
「椎名かがりを知る何者かが、ここ最近なんらかの理由から、彼女を捜しているということと……」
倫太郎
「少なくとも最近まで、椎名かがりは生きていたっていうことだ」
鈴羽
「……!」

「あ、そっか……」
鈴羽のように時代を跳躍できる状況でもない限り、捜すということはそいつらの前からもかがりが消えたということになるんじゃないだろうか。
かがりを捜す連中が現れたのがここ1、2ヶ月だとすると、それまでは生きていたという可能性は高い。
萌郁の報告からはそれ以上のことはわからなかった。
萌郁
「どう……する?」
倫太郎
「……引き続き、調査をお願いできますか?」
かがりを捜している連中が秋葉原界隈にいるということは、やはり彼女もこの近辺にいるかもしれないということだ。
萌郁
「……わかった」
萌郁はひとまずここまでの報酬を受け取ると、ラボを後にした。
支払いに関しては、ひとまずはダルが出してくれた。
未来の
①①①
とはいえ、娘のこととなると、甘くなるようだ。
真帆
「人を捜しているの?」
それまで物珍しそうにラボの中を見回していた真帆が訊いた。
倫太郎
「ああ。ちょっと知人を、な……」
椎名かがりを捜していた中に外国人がいた、というのがやはり気になる。
SERNでなくとも、タイムマシンがあるとわかれば飛びつく連中は世界中に存在する。
かがりがふとした拍子に未来から来た人間だと知られ、そのせいで何らかの事件の渦中にいるのだとしたら……。

「それじゃオカリン、そろそろ比屋定氏のことを
kwsk


倫太郎
「詳しくって言われても、前に説明したぞ?」
彼女がレスキネン教授の助手をしていて、教授ともども懇意にさせてもらっている。たまに研究の手伝いもさせてもらっている。そんなような説明は以前にもしてあった。

「たとえば比屋定氏がこのラボのメンバーに加わってくれる、的な
超展開

はありますか?」
倫太郎
「ないだろ」

「じゃあせめて、真帆たんと呼んでもいいですか? つーか呼ぶ」
真帆
「真帆……たん……?」

「あれ? 名前、間違ってた?」
真帆
「そうじゃなくて! その変な呼び方に引っかかったの」

「でも、真帆たんは真帆たん、って感じじゃん。なあ、オカリン?」
倫太郎
「俺にふるな」
真帆
「とにかく、その呼び方はやめて」

「だが、断る」
こいつはブレないな……。
倫太郎
「それで比屋定さん。今日はどうしてラボに? 俺、ここのことは君に話したかな?」
真帆
「『Amadeus』に教えてもらったわ」
真帆
「今日は……本来は話したいことがあったのだけれど。まあいいわ」
真帆

噂の
①①
ラボを見ることが出来たし、それに、なんだかあなたたちも大変みたいだから」
倫太郎
「ひょっとして、
あいつ
①①①
、怒ってたか?」
真帆
「ええ、とても怒ってたわ。連絡しても出ないって」
……予想通り、だな。

「え? ちょっ、なになに? それなんの話!?」
倫太郎
「別に浮いた話じゃないから、いちいち反応するなって……」
真帆
「……岡部さん、やっぱり辛いの? だったらテスター、やめてもらっても……」
倫太郎
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……」
……あいつの存在に依存してしまいそうな自分が嫌で。
真帆
「……また、気が向いた時にでも話してあげて。あの子も寂しがってるわ」
倫太郎
「……わかった」
寂しがっている、という言葉に少しだけ心が痛んだ。
それでも俺はこの日も、“紅莉栖”と会話することはなかった。
椎名かがりに関する萌郁の報告があってから、数日が経った。
昨夜確認してみたが、あれ以降、調査に進展は無いらしい。
萌郁も萌郁で担当雑誌の校了などがあり、時間がとれないのだとか。
椎名かがりを捜している連中の存在というものに、幾ばくかの不安を感じないでもないが、本来の業務を差し置いて、こっちを優先してもらうわけにもいかないからやむを得ないだろう。
まゆり
「はふぅ~、まゆしぃはとっても残念なのです……」
倫太郎
「ん? もしかして、クリスマスパーティーの話か?」
まゆり
「うん。カエデさんとフブキちゃん、用ができちゃったって」
まゆり
「フェリスちゃんはお仕事で~、綯ちゃんも店長さんと過ごすことになってて~」
まゆり
「ダルくんは由季さんと遊びに行くんだって」
倫太郎
「結構なことじゃないか」
聞くところによると、鈴羽が随分とおぜん立てしたらしい。
ダルの由季に対する態度がどうにもハッキリしないと、いつも鈴羽がボヤいていたからな。
鈴羽にしてみれば、自分の存在自体がかかっているわけだし、決まった仲とはいえ、何かの拍子で上手くいかなくなることだってあるかもしれない。
なにより鈴羽だって、この平和な世界で父親と母親が仲良くするところを見たいのだろう。
これを機に進展でもあれば、少しは安心するだろう。
倫太郎
「まゆりもクリスマスは家で過ごしたほうがいいんじゃないのか? この前、おじさんがケーキを予約してたぞ」
まゆり
「お父さんに会ったの~?」
倫太郎
「家の近くでバッタリな。まゆりをビックリさせるために、おっきいのを予約するんだって張り切ってた」
まゆり
「そっかぁ……ん~、じゃあ、そのほうがいいね」
倫太郎
「あ、言っとくが、今のは聞かなかったことにしてくれ。せっかくのおじさんのサプライズだからな」
まゆり
「うん、わかったよ。でも、オカリンはどうするの、クリスマス」
倫太郎
「特に予定はないかな。うちは元々、そういうことする家でもないし」
大学の連中は『男だらけのクリスマス飲み会』を開くと言っていたが、俺は誘われなかった。
何度違うと言っても、そいつらはまゆりのことを俺の彼女だと思っているらしく、不当な文句まで言われてしまった。
まゆり
「確か、サンタさんにプレゼントが欲しいって言ったら、朝、枕元にお野菜が置いてあったんだよね?」
倫太郎
「どう見ても、前の日の売れ残りのな。クレームをつけたら、うちはキリスト教じゃねえ、って逆ギレされた」
考えてみれば、あれでよく道を踏み外さなかったものだ。
……もっとも、まっとうな道を歩いて来たとも言い難いが。
まゆり
「クリスマスが終わったら、コミマがあって、そしたらもうお正月。一年、あっという間だね~」
倫太郎
「そうだな……」
あっという間、でも無かったけどな。
なにせ俺は、何度も何度もあの時間をやり直したんだから。
むしろ気の遠くなるほど長い一年だった。
まゆり
「そうだ! ねぇ、オカリン。クリスマスパーティーはできないけど、お正月パーティーをするのはどうかな?」
まゆり
「みんなで初詣に行って~、それからおせち料理を食べて~、今年もよろしくって言って~」
倫太郎
「……ああ、いいんじゃないか?」
まゆり
「だよねだよね~。うん、じゃあ、後でみんなに訊いてみるね~」
まゆりはそう言うと、おもむろに立ち上がった。
まゆり
「さてと、まゆしぃはこれから、お買い物に行ってきます」
倫太郎
「買い物?」
まゆり
「うん。フブキちゃん用のコスでね、急に小物が必要になっちゃって」
倫太郎
「そうか。気をつけて行ってこいよ」
まゆり
「うんっ」
まゆり
「そうだ、オカリン、るかくんがね、オカリンに何か相談があるみたいなの」
倫太郎
「あ……」
そういえば以前、ルカ子から電話があったんだ。
その後、萌郁が来たりいろいろあって、すっかり忘れていた。
ルカ子のことだ。俺が後で連絡すると言ったせいで、電話をずっと待っていたのかもしれない。
倫太郎
「わかった。こっちから連絡をとってみる」
まゆり
「うん、お願いね~」
まゆり
「じゃあ、行ってきま~す」
まゆりはコートを着ると、手を振って部屋から出て行った。
さてと、それじゃあルカ子に連絡してみるか。
倫太郎
「…………」
それにしても、相談か……。
いったいなんだろう。
また女の子になりたい、なんて言われないだろうか。
いや、さすがにそれは無いか。
あれは電話レンジ(仮)というものがあって、はじめて聞かされた望みだ。
でも、じゃあ……。
まあ、聞いてみればわかることだな。
倫太郎
(ルカ子のやつ、出ないな……)
仕方がない。
とりあえずRINEを送ってみるか。
用件を入力して――。
送信――。
それからしばらくルカ子からの返事を待ってみた、
けれど、ルカ子に送ったRINEは、既読になる気配すらなかった。
なにか立て込んででもいるのか。
一瞬、直接ルカ子の神社にでも行ってみようかとも思ったが、忙しいのなら迷惑になるだけだと思い直す。
そのうち、都合のいい時にでも連絡が来るだろう――そんな風に思っていると、ラボの外階段を上ってくる足音が聞こえた。
ダル――じゃなさそうだ。
ダルならもっとドスドスと重い音がする。
倫太郎
「どうぞ」
るか
「こんにちは……」
倫太郎
「ルカ子……」
るか
「良かった。岡部さん。ここにいてくれて」
まさに、ついさっき連絡を取ろうとしていたルカ子だった。
倫太郎
「すまない。この前の件、すっかり忘れてたんだ。それで、さっき電話したんだが……」
るか
「え? あ、本当だ……ごめんなさい。ボクのほうこそ、気づかなくて」
スマホを確認すると、まるで出なかったことが罪悪でもあるかのように、ルカ子は申し訳なさそうな顔をした。
倫太郎
「いや、別にいいよ。それより寒いだろう。入ってくれ」
るか
「あ、はい……」
そう答えたはいいが、ルカ子は後ろを気にしてなにやら躊躇していた。
るか
「あの、岡部さん……その……相談の件なんですけど……」
るか
「実は……その前に、会ってもらいたい人がいて、連れてきたんですけど……いいですか?」
倫太郎
「会ってもらいたい人?」
るか
「えっと……」
ルカ子が僅かに身を避ける。
と、その背後から、ひとりの女性が現れた。
女性
「あの……はじめまして……」
倫太郎
「――!」
え?
嘘、だろ……?
そこにいたのは……。
倫太郎
「紅莉栖……」
女性
「よろしくお願い……します……」
倫太郎
「ど、どうぞ…………」
女性
「ありがとうございます……」
コップに注いだペットボトルのお茶を差し出すと、その女性は消え入りそうな声で言った。
俺はというと、コップを持つ手が震えないようにするのが精一杯だった。
ソファの向かいに腰をかけて、彼女の顔をもう一度良く見る。
倫太郎
(……似てる)
ルカ子にではない。
目の前の女性はあいつ――牧瀬紅莉栖にそっくりだった。
女性
「…………」
茶色がかった髪も、やや吊り上った目も、澄ました様な顔つきも。
今は気の強そうなところさえないが、それを除けば、そっくりと言ってよかった。
実際、最初に目にした時には、驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
ただ、良く見れば違うところもある。
例えば……胸の大きさとか……。
女性
「…………?」
年齢は、俺たちと同じくらいだろうか?
ルカ子よりは年上に見える。
確か、ルカ子には姉がいたはずだが……もしかしてこの人が?
おとなしそうな雰囲気はルカ子に似ている気がするが……。
でも、姉は弟と違って活発だと聞いた覚えもあったような。
るか
「岡部さん?」
倫太郎
「あ、いや……それで、ルカ子」
女性
「ルカ……子……?」
倫太郎
「あ、失礼。俺はそう呼んでるんです。その……女の子みたいだから」
考えてみれば失礼な呼び方ではあるが。
もうクセになってしまって、それ以外の呼び方ができなくなってしまっている。
女性
「そうなんですね」
ほんの少しだけ女性の表情が緩んだ。
やっぱり――似ている。
俺は小さく息を吐いて、心を落ち着かせた。
倫太郎
「で、ルカ子……この人は……?」
るか
「その……前に話したことがありましたよね? お父さんのお客さんが泊まってるって……」
倫太郎
「ああ。聞いたけど……それじゃあ、もしかして彼女が?」
るか
「はい」
驚いた。
倫太郎
「ルカ子の父親の知り合いというから、てっきりもっと年配の人かと思っていた」
るか
「あ、違うんです。正確に言うと、お父さんの知人が連れてこられた方で……」
倫太郎
「ああ……」
じゃあ、この人が晴海がどうとかそういう話をしている人じゃないのか。
少しだけ安心した。
るか
「それで、相談というのは、この人についてなんですけど……」
倫太郎
「その前に、名前を教えてもらってもいいかな? いつまでも『この人』じゃ、話しにくいだろう?」
女性
「…………」
俺の言葉に、目の前の女の人の顔が曇った。
なにかおかしなことを言っただろうか。
るか
「……実は相談というのは、そのことなんです」
るか
「あの……このひとが誰なのかを……その……知るには、どうしたらいい、でしょうか……」
すぐにその言葉の意味を理解することはできなかった。
倫太郎
「……待ってくれ、ルカ子。それはどういう……」
るか
「……記憶喪失……なんだそうです……」
倫太郎
「記憶……喪失?」
女性
「はい……」
倫太郎
「それじゃあ、名前も?」
女性
「はい……」
倫太郎
「どこの誰かも?」
女性
「はい……」
倫太郎
「どうして……」
女性
「わかりません」
当たり前だ。
それがわからないから記憶喪失なんだ。
倫太郎
「でも、どうして俺に?」
るか
「岡部さんなら、記憶を取り戻すいい方法を知っているんじゃないかと思って」
るか
「ほら。岡部さん、よく人間の脳とか記憶とか、すごく難しい話をたくさんしてたから……」
女性
「なんでもいいんです! 私が自分のことを取り戻せる方法があれば!」
倫太郎
「ま、待ってくれ。確かにそういう話はしていたが、それはただ興味があるだけで、専門的なことはなにも……」
脳の機能や、構造についてはある程度は知っている。
記憶喪失がどういうものなのか、それもわかる。
けれど、だからと言って、記憶を取り戻す方法を知っているかと言われると、それはまた別の話だ。
最先端の医療をもってしても、どうこう出来るものでもないだろう。
それこそ、『Amadeus』のように記憶をどこかに記録しておければ別だが。
女性
「そう……ですか……」
俺の返答に、女の人は見るからにガックリと肩を落とした。
るか
「だ、だったら、なにか身元を調べることはできないでしょうか。カナさん、本当に辛そうで……」
倫太郎
「カナさん?」
カナ
「仮の名前だからカナと、るかさんのお父さんが……。名前がないと不便だからって」
倫太郎
「ず、随分安直だな……」
いいのか、それで?
カナ
「いつまでも名乗る名前でないのだから、それくらいのほうがいい、と……」
なるほど。深いのかどうなのかイマイチよくわからない気もするが……。
るか
「岡部さん。なんとかならないでしょうか。せめて名前だけでもわかれば……」
倫太郎
「なんとか力になってはやりたいが……、やっぱり興信所なんかに頼んだほうがいいんじゃないのか?」
るか
「興信所……探偵さんみたいなものですか?」
倫太郎
「ああ。でもそれだって、なにか手掛かりのようなものがないと厳しいだろう」
倫太郎
「財布とかカバンとか、持ってなかったのか?」
カナ
「そういったものは何も……」
倫太郎
「何も? 別に大したものじゃなくてもいい。ひとつくらいありそうなものだけど」
カナ
「……ひとつだけ……ただ、これが手掛かりになるのかどうかは……」
カナはゆっくりとした動作で、ハンカチを1枚、大事そうに取り出した。
そこに包まれているものが、その“ただひとつ持っていた物”なんだろう。
倫太郎
「見せてもらっても?」
カナ
「はい……」
まゆり
「あれぇ? もしかして、お客さんかなぁ?」
カナがハンカチを開くのとほぼ同時に、玄関からまゆりの柔らかい声が聞こえた。買い物から戻ってきたらしい。
鈴羽
「…………」
まゆりの後ろには、鈴羽もいた。
珍しい組み合わせだな。ここに来る途中で一緒になったのか。
るか
「あ、まゆりちゃん」
まゆり
「あ~。るかくん」
鈴羽
「るかにいさん、そちらの人は?」
るか
「ええと、うちに泊まっているお客さんで……」
カナ
「…………」
カナが、ペコリと頭を下げる。
まゆり
「わぁ~」
と、まゆりが何故か嬉しそうな声をあげて、カナの手にあるハンカチの中をのぞき込んだ。
まゆり
「それ、うーぱですよね?」
カナ
「あ……」
確かにカナの手のひらの上、広げられた白いハンカチの中には、色あせたうーぱのキーホルダーが乗っていた。
まゆり
「好きなんですか? まゆしぃもね、うーぱのこと、大好きなのです」
カナ
「…………」
倫太郎
「もしかして、手がかりというのはそれか?」
古びたうーぱのキーホルダー。
こんなものが手掛かりになるのだろうか。
まゆり
「でも、このうーぱ、いつ頃のものかなぁ? 随分古いみたいだけど……」
言われてみればそうだ……。
うーぱは『
雷ネット翔

』というアニメのマスコットキャラクターだ。
その製品が世の中に出始めたのは、せいぜいここ数年のことだろう。
しかし目の前のうーぱは、かなり年季の入ったもののように見える。
まゆり
「これ、元々は緑色だったんじゃないかなぁ。だってこれ、“森の妖精さん”バージョンだもん」
倫太郎
「森の妖精さん?」
まゆり
「うん。この前やってた映画にでてきたんだ。ほら、まゆしぃも持ってるんだけど、ここのところのデザインがちょっとだけ違うの」
と、指で示されたが、俺にはさっぱり違いがわからない。
まゆり
「このキーホルダーね。なかなか売ってなくて、ずーっと探してたんだ。そしたらこの前、るかくんが見つけて買ってきてくれたの。ね?」
るか
「うん。たまたまお店を覗いたら売ってたから……」
倫太郎
「しかし、妙だな。この前の映画のグッズなら、発売してすぐのはずだ。こんなに古くは……ん?」
カナ
「っ……」
その時になって俺ははじめて、カナさんの顔がひどく青ざめていることに気づいた。
カナ
「……はぁ……はぁ……」
るか
「だ、大丈夫ですか、カナさん?」
倫太郎
「具合が悪いのか?」
カナ
「だいじょう……ぶ……」
るか
「あっ!」
立ち上がろうとしてふらついたカナを、ルカ子が慌てて支える。
倫太郎
「そうだ、何か冷たいものを……」
冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取りに行こうとしたところで、愕然とした顔でカナを見つめている鈴羽に気付いた。
鈴羽
「…………」
倫太郎
「鈴羽?」
鈴羽
「……う、そ……」
倫太郎
「え?」
驚いたことに、カナだけじゃなくて鈴羽もまた、身体を小刻みに震えさせていた。
鈴羽
「うそ……それ……そのうーぱ……」
倫太郎
「どうしたんだ、鈴羽?」
鈴羽
「あたしは、知ってる。そのうーぱ……それ……」
るか
「え?」
まゆり
「???」
倫太郎
「お、おい、鈴羽!」
カナ
「はぁ、はぁっ……っ……」
カナがよろめく足で、鈴羽に向かってふらふらと2歩、3歩と歩み寄っていく。
まさか――。
いや、そんなはずは――。
でも――。
鈴羽
「っ……もしかして、お前……」
カナ
「はぁ……はぁ、はぁ……」
鈴羽
「かが……り?」
な――!
鈴羽
「……お前はかがり!? 椎名かがりなのか!?」
カナ
「――!」
その言葉に、カナは大きく目を見開くと――。
カナ
「っ…………」
ゆっくりとその場にくずおれた。
カナ
「…………」
倫太郎
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
カナ
「はい……おかげさまで……」
鈴羽に『椎名かがり』という名を突き付けられ、気を失って倒れたカナは、ルカ子たちの介抱の甲斐あって、10分ほどで目を覚ました。
とはいえ、まだ顔色は良くない。
倫太郎
「ルカ子……それに、まゆり。すまないが何か冷たいものを買ってきてくれないか?」
るか
「え?」
倫太郎
「それから、額に貼る冷却シートのようなものもあると嬉しい」
ルカ子には悪いが、ふたりにはあまり聞かせたくない話になるかもしれない。
まゆり
「うん、わかった~。行こう、るかくん?」
るか
「あ……うん……」
さすがにルカ子はこちらの話を気にしているようだったが、それでもまゆりに言われて一緒に買い物に向かってくれた。
問題はここからだ。
倫太郎
「カナさん――」
鈴羽
「かがり、お前、今までどこで何をしていた」
カナ
「え……?」
まゆり達が出て行った途端、鋭利な刃物を感じさせる口ぶりでそう切り出した鈴羽に、カナが怯えた色を見せる。
鈴羽
「いったい、どういうつもりであの時――」
倫太郎
「待て、鈴羽。彼女は記憶を失ってる」
鈴羽
「なんだって……?」
俺はカナがここに来るに至った経緯を鈴羽に説明した。
鈴羽
「記憶喪失……それじゃあ、どこで何をしていたかも……」
倫太郎
「ああ。でも、その前に確かめなければならないことがある」
本当に彼女が、椎名かがりなのかどうか、だ。
倫太郎
「カナさん」
カナ
「あ、はい……」
倫太郎
「さっきしていた話は覚えてるか?」
カナ
「はい……」
倫太郎
「どうする? 続きはもう少し快復してからにするか?」
カナ
「いえ。大丈夫です……」
うーぱを握りしめた手に力が篭もるあまり、指先が白くなっている。
が、鈴羽を見上げたその目にはしっかりとした光が灯っていた。
倫太郎
「じゃあ、さっきの話を続けよう……。鈴羽、お前が彼女をかがりだと言うその根拠はなんだ?」
鈴羽
「そのうーぱだよ。それは、かがりが肌身離さず持ってたものなんだ。ママに貰ったんだって、お守りだって、ずっと大事にしてた」
ゆっくりと開いたカナの手の上で、小さな古びたうーぱがとぼけた顔で俺たちを見つめていた。
ママに貰ったもの。
まゆりに貰ったもの。
倫太郎
「カナさんはそのうーぱだけが、自分が持っていたものだって言っていたが……」
カナ
「はい。記憶を失くして倒れていた私が、ただひとつ手にしていたのが、このキーホルダーだったそうです」
倫太郎
「倒れていた?」
カナ
「はい……」
倫太郎
「どのあたりで倒れていたんだ?」
カナ
「千葉の、山道です。県境あたりの」
カナ
「近くのお寺の住職さんが、偶然通りがかって、見つけてもらったそうで……」
カナ
「その後しばらくは、その方のお寺でお世話になっていたんです」
カナ
「ですが、お寺は修行の場でもあるので、長く女性を置いておくこともできないと……」
倫太郎
「それで、ルカ子の家に……というわけか」
カナ
「はい。その住職さん、るかくんのことを女の子だって思っていて」
カナ
「それで、歳の近い女の子のいる家なら私にとってもいいだろうって……」
鈴羽
「盲点だった。まさかこんな近くにいたなんて……!」
おそらく、数日前にルカ子が言っていた客というのがその住職なんだろう。
ということは、その頃からカナ――いや、椎名かがりは柳林神社にいたということになる。
そんなこととは露知らず、俺たちはただ闇雲に椎名かがりを捜し回っていた。
灯台下暗しとはよく言ったものだ。
そもそも、あの時ルカ子の相談にすぐ乗っていれば、こんな回り道をしなくても良かったんだ。
倫太郎
「それで、カナさん……君は、かがりという名を聞いて、なにか思い出すことはないか?」
カナ
「……正直を言うと……よく……わかりません。ただ……すごく懐かしい感じがします……」
カナ
「それに……」
カナはそこで言葉を切り、鈴羽を見た。
カナ
「その……先ほどの方……」
鈴羽
「まゆねえさんのこと……?」
カナ
「まゆ……ねえさん?」
倫太郎
「あの子は椎名まゆりというんだ」
カナ
「まゆり……さん……。あの方を見たとき、なぜだか凄く……温かい気持ちになりました……」
彼女が椎名かがりだとしても、歳をとってからのまゆりしか知らないはずだ。
だが面影は残っているんだろう。
だったら、その姿に何か感じるところがあっても、おかしいことじゃない。
鈴羽
「ねえ。それ、もう一度見せてもらってもいい?」
カナ
「あ、はい……」
カナは言われたままに、すっかり古びてしまったうーぱを差し出した。
鈴羽
「……うん、やっぱりこれ……かがりが持ってたものだよ……」
カナ
「……では、私はその……椎名かがりという名前だったんでしょうか?」
倫太郎
「……そうだな。まだ確証があるわけじゃないが、そう考えるのが妥当だと思う」
鈴羽
「いや、間違いない、彼女はかがりだ。そのキーホルダーが何よりの証拠だよ。まゆねえさんがかがりにあげたものなんだから」
鈴羽
「でもよりによって、記憶喪失だなんて……」
キーホルダー自体はおそらくかがりの物だろう。
だが、もしかしたら彼女が椎名かがりから貰ったものかもしれないし、落ちていたのを拾ったということも考えられる。
もっとも、鈴羽によれば、かがりはあのキーホルダーをとても大事にしてたそうだ。
落とすのはもちろん、人にあげるのも考えられないという。
ということは、やはり……。
その時、入り口のドアが開き、室内の様子を呎うように、まゆりが顔を覗かせた。
まゆり
「……トゥットゥル~?」
るか
「あの……大丈夫……ですか?」
倫太郎
「ああ……悪かったな、わざわざ」
るか
「いえ……」
ビニール袋に入れられた飲み物や冷却シートが机の上に並べられる。
るか
「それでその……」
買って来て貰った手前、飲み物にひと口つけたタイミングを見て、ルカ子が恐る恐る口を開いた。
るか
「カナさんは……その阿万音さんの知り合いのかがりさんという方だったんしょうか?」
倫太郎
「そう……だな。そう考えるのが妥当だと思う」
るか
「そうですか! よかったです……名前だけでもわかって……」
カナ
「るかくん……」
心の底からホッとした様子のルカ子に、カナ……かがりの表情が優しく緩んだ。
るか
「あ、でも、それなら、阿万音さんはかがりさんの本当のお家を知っているんでしょうか?」
鈴羽
「え? いや、それは……」
倫太郎
「す、鈴羽は、かがりさんと子供の頃ご近所だったそうだ。でも12年前に引っ越してしまって、それからの行方がわからなかったらしい。そうだな?」
鈴羽
「そ、そうなんだ。それで最近急に懐かしくなって、オカリンおじさんに相談してたんだよ」
倫太郎
「そういうわけだ。だから鈴羽にもかがりさんの家族のことや、どこに住んでいたのかはわからないらしい」
るか
「そう……なんですか……」
今はそういうことにせざるを得ない。
今の彼女に、実はあなたは12年前に2036年からタイムトラベルしてきた、などと言えば、混乱するのは必至だ。
倫太郎
「あとは、彼女が記憶を取り戻してくれれば、なにがどうなっていたのかすべてわかるはずなんだが……」
自分の名前がわかり、既知の仲である鈴羽と、そして彼女が慕っていたというまゆりがいる。
なにより、まゆりの存在は大きいはずだ。
まゆり
「えっと、かがりさん?」
かがり
「は、はい!」
まゆり
「かがりさんの上のお名前はなんて言うのかなぁ? さっきは良く聞こえなくて。だから、よかったら教えてほしいな」
かがり
「その……岡部さんたちのお話だと……椎名……と」
まゆり
「わぁ! じゃあ、まゆしぃと一緒だ~。まゆしぃもね、椎名っていうの。椎名まゆり」
かがり
「椎名……まゆりさん……」
まゆり
「うん。嬉しいなぁ。まゆしぃ、同じ苗字のひとに会ったの、はじめてだよ~」
かがり
「そうなん……ですか……」
まゆり
「うんっ。だから、これからよろしくお願いします」
かがり
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
まゆりは持ち前の人懐っこさで、かがりと打ち解けようとしている。
上手くいけば、何かのきっかけで記憶が戻ることもあるかもしれない。
まゆり
「るかくんから聞いたんだけど、かがりさんは、記憶喪失……なの?」
かがり
「はい……」
まゆり
「それって、自分が誰かも忘れちゃうってことなんだよね?」
かがり
「はい」
まゆり
「そっかぁ……。きっと、つらいこといっぱいだよね?」
まゆり
「だって、自分の大好きな人のことも忘れちゃうんでしょ? それって、すごくすご~く哀しいことだってまゆしぃは思うのです」
まゆり
「だからね、えっと……うまく言えないけど、まゆしぃもお手伝いするから、頑張ろうね」
にっこりとほほ笑むまゆり。
その笑顔を見つめていたかがりの瞳がみるみる潤んでいくのがわかった。
かがり
「っ…………」
まゆり
「わわっ、急にどうしちゃったのかな? まゆしぃ、なにか変なこと言っちゃったかな?」
かがり
「っ……そうじゃ……ないんです…。ただ、まゆりさんの言葉を聞いて……なんだか……嬉しく、て……っ……!」
まゆり
「まゆしぃだけじゃなく、オカリンも、スズさんも、るかくんも、みんな同じ気持ちだよ」
るか
「うん! もちろんです! ボクも、できることがあればなんでもしますから!」
かがり
「ありがとうございます……るかくん、まゆりさん」
かがりのことは、まゆりやルカ子に任せておけば大丈夫だ、そんな気がした。
問題はこれからどうするか、だが……。
倫太郎
「ルカ子。頼みがあるんだが」
るか
「なんでしょう?」
倫太郎
「かがりさんは、もう少しお前の家に置いてもらってもいいだろうか?」
るか
「え?」
倫太郎
「その間に俺たちは、彼女が今までどうしていたのかを調べようと思う」
るか
「は、はい。もちろん、うちは構いません……」
倫太郎
「鈴羽も……それでいいか?」
鈴羽
「……わかった」
いろいろと思う所はあるのだろうが、鈴羽も素直に頷いてくれた。
なによりも今は、かがりの記憶を取り戻すのが先決だ。
まゆり
「それじゃあ、るかくんのお家に行けば、かがりさんに会えるんだね? まゆしぃも遊びにいっていい?」
るか
「もちろんだよ。ね、かがりさん」
かがり
「はいっ」
倫太郎
「鈴羽もできるだけ顔を出してやってくれ。そのほうが、記憶を取り戻すにはいいだろう」
鈴羽
「オーキードーキー」
まゆり
「そうだ。あのね、クリスマスパーティーができないから、今ね、お正月パーティーをしようかなって思ってるんだ」
まゆり
「かがりさんにも手伝ってもらえると嬉しいな?」
かがり
「え? いいんですか? 私なんかが……」
まゆり
「もちろんだよぉ。ね、るかくん?」
るか
「うん。一緒にパーティーしましょう」
三人集まればなんとやら。
女子たちは――ひとりは男だが――早速かしましく話しはじめた。
こちらはこちらでやることがある。
まずは――。
萌郁に、かがりが見つかったことを伝えなければならない。
萌郁のことだ。
どうせすぐに返事が――。
萌郁のほうはひとまずこれで良いだろう。
ただ……やはり、かがりを捜しているという連中の話がどうしても気になる。
それに、かがりが倒れているところを発見されたという話も。
何故、彼女はそんな山の中で倒れていたのか。
それも、大切なうーぱひとつだけを手に。
ひょっとしたら、かがりは何者かの手から逃げ出して来た?
倫太郎
「ルカ子。ちょっといいか?」
るか
「はい……なんでしょう?」
倫太郎
「かがりさんをなるべく神社の外に出さないで欲しい」
るか
「え? どうして……ですか?」
倫太郎
「理由は聞かないでくれ。頼む」
るか
「はい……わかりました。岡部さんがそう言うなら」
用心に越したことはない。
何もなければないで、それでも構わない。
全ては、かがりが記憶を取り戻してさえくれればハッキリすることだ。
それがいつになるのかは、誰にもわからないが。
ルカ子がかがりをラボに連れてきた、その翌日。
俺はクリスマスムード真っ只中の秋葉原の街を、まゆりを連れて柳林神社へと向かった。
るか
「あ。まゆりちゃん! それに岡部さんも」
境内にいたルカ子は声をかけるよりも早く俺たちの存在に気づき、顔を綻ばせた。
その笑顔はとても男とは思えないほど愛らしく、今さらながらに性別を疑ってしまいそうになる。
まゆり
「るかくん、かがりさんも、トゥットゥルー♪」
かがり
「ふふっ、トゥットゥルー、です」
まゆり
「わ、かがりさん、すご~い」
かがり
「え? 何がですか?」
まゆり
「だって、まゆしぃがトゥットゥルーって言っても、最初はなかなかみんな、トゥットゥルーって返してくれないよ?」
倫太郎
「初めて会った相手に、それが挨拶なのだと理解しろというのも酷な話だな」
まゆり
「うん。だからみんな『なにそれ?』って言うのに、かがりさんは普通に返してくれたのです。だからすごいな~って」
かがり
「わ、私は別に……なんとなく、そうかな? って……」
もしかしたらかがりの中に、まゆり独特の挨拶の記憶のようなものが染みついているのかもしれない。
ん? ということは……まゆりは25年後も、トゥットゥルーなどと言っていることになるな。
まあ、まゆりのことだ。
何の不思議もない話ではあるが。
かがり
「あ、岡部さんも、トゥットゥルー、です」
倫太郎
「どうも……」
それにしても、彼女にはどう接していいものか、いまだに考えあぐねている。
鈴羽とはぐれたのが10歳。
それから12年だから、現在22歳のはず。
年齢からいえば俺より年上だが、まゆりの養女でもある。
そういう意味ではダルの娘である鈴羽も同じような立場だ。
鈴羽に関しては一応、俺やダルと年齢が同じということになるので、タメ口でも違和感なく話せているが……。
まゆり
「あ、そうだ。今日はクリスマスイヴだよ。メリークリスマス♪」
るか
「そういえばそうだったね。メリークリスマス」
かがり
「メリークリスマス、です」
果たして、神社でクリスマスを祝ってもいいものなのだろうか。
倫太郎
「ところで、その……かがりさん。調子はどう……かな?」
かがり
「悪くはないです。でも……まだ何も……」
倫太郎
「いや、記憶に関しては無理して思い出そうとする必要はないよ。時間がくれば戻るだろう、それくらいの気でいたほうがいい」
かがり
「わかりました」
もっとも、本人にとっては早く思い出したいだろうが。
かがり
「…………」
倫太郎
「どうかしたか?」
かがり
「いえ。るかくんも、まゆりちゃんも、それに岡部さんも、みんな優しいなって思って」
倫太郎
「そんな……俺は別に優しくなんてない」
かがり
「ふふっ、照れなくてもいいのに」
会った時からずっと沈んだ顔を見せていたかがりの、ちゃんと笑った顔を初めて見た気がした。
その笑みはどこか子供っぽく、聞いていた年齢よりもずっと若く思えた。
かがり
「あ、ごめんなさい。私ったら、急に馴れ馴れしい感じになっちゃって……」
倫太郎
「いや。構わないよ。こっちだって、タメ口で喋ってるんだし」
まゆり
「そうだよ。まゆしぃもね、普通にしゃべってくれたほうが嬉しいな。だってそのほうが、お友だちって感じがするでしょう?」
かがり
「お友だち……」
まゆり
「うんっ。お友だち」
かがり
「ありがとう、まゆりちゃん。ふふっ、お友だちか」
未来の世界でもまゆりはこんな風に、彼女と仲良くなったのかもしれない。
戦災孤児――鈴羽はかがりのことをそう言っていた。
それも全ては――俺のせいなんだろうか。
もしも俺が鈴羽の望む道へ踏み出せば、かがりのそんな人生も変わるのだろうか。
でも、そのためには俺はまた――。
倫太郎
「っ……」
るか
「岡部さん? 大丈夫ですか? なんだか顔色が優れないみたいですけど」
倫太郎
「あ、あぁ……なんでもない。ちょっと寝不足なだけだ」
るか
「そう……ですか。だったらいいんですけど……」
倫太郎
「それより、ルカ子は何をしていたんだ? 忙しそうにしていたみたいだが……」
るか
「本殿のお掃除をしていたんです」
倫太郎
「掃除ならいつもやってるんじゃないのか?」
来るたびに、ルカ子は竹ぼうきを手に掃き掃除をしているようなイメージがある。
るか
「今日は普段できないようなところも含めての大掃除なんです」
倫太郎
「ああ、そうか。もうすぐ正月だしな」
神社にとって、正月は大きな行事だ。
るか
「すす払いは先日やったんですが、まだやり残しているところもあるので、かがりさんにも手伝ってもらっていたんです」
かがり
「ただお世話になってるだけなのも気が引けるもん。少しくらいは役に立たないと」
ルカ子とかがりのふたりも、それなりに上手くやっているようだ。
漆原父
「おや、るか。お客さんかな?」
るか
「あ、お父さん」
本殿の裏から顔を覗かせたのは、ルカ子の父親だった。
何の裏もないような善人然とした顔をしておきながら、実はひと癖もふた癖もある人物だということを俺は知っている。
主にダルと同じ方向性で。
ルカ子に巫女装束を着せて手伝わせたりしているのも、全てはこの人の差し金だ。
漆原父
「おや、これは岡部くんにまゆりちゃん。メリークリスマス」
まゆり
「メリークリスマスです」
……いや、貴方はそれを言ってはダメなんじゃないのか?
漆原父
「おや、どうかしたかい、岡部くん」
倫太郎
「いえ……」
まあ、本人たちが良いのなら俺が何か言うものでもない。
それより、この人にもかがりのことでお礼を言っておかなければならなかったんだ。
倫太郎
「あの……実は彼女のことなんですが……」
漆原父
「かがりさん……というそうだね。るかから聞いたよ。まさか君たちが知っている人だったとは。世間は狭いね」
倫太郎
「はい。それで、その……もう少しの間、お宅でお世話になることができれば有り難いんですが……」
漆原父
「何か理由があるようだね。もちろん、うちとしては大歓迎だよ」
倫太郎
「ありがとうございます」
かがり
「ありがとうございます、おじさん」
漆原父
「ははは、いいんだよ。私も、新しく娘が出来たみたいで嬉しいからね」
るか
「出来たみたいって……お父さん、お姉ちゃんがいるじゃないですか……」
漆原父
「あの子はちっとも家に帰ってきてくれないじゃないか。私が寂しがっているのを知っていてそういう意地悪をするんだ」
るか
「あはは……」
漆原父
「そうだ。いいことを考えたよ。せっかくこれだけ女の子がいるんだから、お正月には神社を手伝ってもらうというのはどうだろう?」
るか
「手伝うって……巫女をですか?」
漆原父
「もちろん。かがりちゃんにもまゆりちゃんにも、ちゃんと巫女装束を着てもらってね。どうかな? バイト代は出すよ」
るか
「でも、そんなのふたりに悪いですし……」
かがり
「あら、私なら大丈夫よ、るかくん。お世話になってるんだもん、それくらいしなきゃ」
漆原父
「本当かい?」
まゆり
「う~ん……まゆしぃはお正月はパーティーの準備をしなきゃいけないので……」
まゆり
「それに、コスプレ衣装を作るのは好きだけど、自分で着るのは……」
まゆり、巫女装束はコスプレじゃないぞ、一応……。
漆原父
「そうか……まゆりちゃんの巫女姿、岡部くんも見たいんじゃないのかい?」
倫太郎
「は?」
なぜ俺に訊く。
まゆり
「そうなの、オカリン?」
倫太郎
「いや、俺は……」
漆原父
「ははは。とぼけても無駄だよ。ちゃんと顔に書いてある」
馬鹿な。
いま鏡を見ても、断じてそんなことは書いていないはずだ。
まゆり
「そっかぁ……オカリンがそういうなら……」
漆原父
「そうか! それは良かった! よし、そうと決まれば、巫女装束をもっと用意しなければいけないな! 母さん!」
言質
げんち
を取ったと思うと、まゆりやかがりが『やっぱりやめる』と言い出すのを怖れるように、ルカ子の父親はそそくさと本殿の奥へと姿を隠した。
やはりあの人は侮りがたい……。
るか
「えっと……ごめんなさい……」
まゆり
「ううん。るかくんが謝ることないよ」
るか
「でも、せっかく楽しみにしてたお正月のパーティーが……」
まゆり
「それは、ここのお手伝いが終わったあとでもできるから平気だよ」
るか
「……うん、そうだね。ボクも手伝うから、なんでも言ってね」
まゆり
「ありがとぉ、るかくん」
かがり
「でも、巫女さんの格好なんて、私に似合うかな……」
まゆり
「大丈夫! ぜったいに似合うよ」
かがり
「そうかな?」
まゆり
「うんっ。まゆしぃはね、お友だちのコスプレの衣装とかたくさん作ってるから、わかるの」
かがり
「そう言ってもらえるなら、頑張ってみるね」
まゆり
「うんっ」
かがりには出来るだけ神社から出ないようにしてもらっている分、そのくらいの息抜きは逆にありがたいかもしれない。
そこまで考えてのルカ子の父親の提案……というわけじゃないよな、きっと。
ともかく、賑やかな正月にはなりそうだ。
倫太郎
「それじゃあ俺はこれで」
るか
「え? もう帰られるんですか? ボク、お茶もお出しせずに……」
倫太郎
「かがりさんの様子を見に来ただけだからな」
まゆり
「あ、オカリン。まゆしぃは……」
倫太郎
「わかってる。もう少し正月の話をするんだろう? 俺はラボに戻ってるから」
かがり
「ありがとう、岡部さん」
僅かに頭を下げると、かがりは屈託のない笑みを見せた。
戦災孤児であったという彼女に、もしも過去の記憶があったのなら、それでもこんな風に笑ってくれるんだろうか……。
そういえば彼女――比屋定さんは正月はどうするんだろう?
アメリカでは正月こそ友達と騒ぐと言っていたが、あの様子だとこっちには一緒に遊ぶ友達なんかもいなさそうだし……。
???
「もう、だから、何度言ったらわかるのよ!」
倫太郎
「ん?」
聞き覚えのある声がすると思ったら、まさに比屋定さんその人だった。
しかも声を荒げている相手は……警官だ。
ということは――。
真帆
「証明するものって……ちょっと待って、今……」
倫太郎
「比屋定さん」
真帆
「あ、岡部さん、いいところに! ちょっとお願いがあるんだけど――」
倫太郎
「お巡りさん。彼女はれっきとした大人の女性です。間違いありません」
警官
「君は? 知り合い?」
倫太郎
「はい。大学の先輩にあたります」
ここでいちいち細かい説明をするのも面倒だ。
この程度の嘘は許されるだろう。
警官
「大学……」
倫太郎
「東京電機大学です。なんなら調べてもらってもいいですけど……」
警官
「……あ、いや。そこまでは……でも、そう……小学生じゃないんだ……」
警官は首をかしげながら去っていった。
真帆
「なんなの、もうっ。謝るくらいしたらどうなのよ。ほんっと、訴えてやろうかしら」
倫太郎
「まあまあ。それだけ仕事熱心ってことじゃないかな」
真帆
「あなたもあなたよ、岡部さん」
倫太郎
「俺?」
真帆
「一見しただけで、私が子どもに間違われて補導されそうになってるってわかったんでしょう?」
倫太郎
「う……」
真帆
「一目でわかるなんて、あなたもそう思ってるって証拠だわ」
倫太郎
「それは……」
とんだとばっちりだ。
真帆
「まあでも、助けてくれたことには感謝するわ。ありがとう……」
倫太郎
「いや……」
だったら最初から素直に言えばいいものを。
そういえば紅莉栖もそんなタイプだったし、天才と呼ばれる科学者はみんなこんな感じなのか?
倫太郎
「それで、比屋定さんはこんなところで何を?」
真帆
「これよ、これ」
そう言って掲げたのは、大きなカバンだった。
いや、真帆の身体が小さいから大きく見えるだけで、実際はそれほど大きくはない。
真帆
「例のノートパソコン。
秋葉原
ここ
なら、パスを解析できる業者がいるかなって思ったんだけど……」
どうやら彼女が手にしているのは、紅莉栖のノートパソコンのようだ。
倫太郎
「まだ、それに拘っていたのか」
真帆
「そりゃ、プライベートを覗くのは良くないって思うわ。でも、私はあの子が何を考えて何をやろうとしていたのか知りたいのよ」
真帆
「あなたはいいわよ。あの子が亡くなる前に会って話したりしてるんだもの」
実際には会ったことにはなっていないんだが。
真帆
「でも私にはまだ実感がないの。急に亡くなったって連絡を受けただけ……。葬儀にも出られなかった」
真帆
「だから、少しでも紅莉栖のことを知りたい」
真帆
「今さらって思うかもしれないけど、それが私の中でのあの子の死に対する、折り合いのつけかたなのよ」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「だから、岡部さん、教えて。なんでもいいの。あの子がパスワードとして設定しそうな言葉。ひとつやふたつ、心当たり、あるでしょ?」
比屋定さんの気持ちもわからなくはない。
心に折り合いをつけたい、その気持ちもわかる。
何故なら、俺だってあいつの死に対しての折り合いがまだつけられていないからだ。
でも、それでも俺は――。
倫太郎
「悪いけど、知らないよ」
真帆
「岡部さんっ」
倫太郎
「すまない……」
真帆
「……そうやって逃げるの?」
倫太郎
「逃げる……?」
真帆
「『Amadeus』とコミュニケーションを取らなくなったのも、逃げてるからでしょ?」
図星だ。
俺は逃げたんだ。
何百回、何千回も繰り返される悲劇の連鎖から逃げた。
逃げ出した結果が今の俺だ。
真帆
「“紅莉栖”ったらすっごい文句言ってたわよ。岡部さんは冷たいって」
想像がつく。
あいつのことだ、かなりの悪態をついていることだろう。
でも……。
倫太郎
「そうだ。冷たいんだよ、俺は」
あいつを見捨てたんだから――。
真帆
「岡部さん……」
俺の態度に気圧されたのか、真帆は黙りこんでしまった。
自分でも失敗したと思った。
何も、あんな言い方をする必要はなかった。
倫太郎
「……すまない」
真帆
「ううん……」
気まずい空気が流れる。
何か払拭するような話題は……。
倫太郎
「そうだ、比屋定さん。正月は何か予定、あるのか?」
真帆
「いえ……今のところはなにもないけど」
倫太郎
「だったら、初詣にみんなで柳林神社に行かないか? まゆりたちも手伝うことになってるんだ」
真帆
「まゆり……?」
ああ、そうか。
この前、真帆がラボに来たときにはまゆりはいなかったんだったな。
倫太郎
「俺の幼なじみなんだ。ラボの一員でもある」
真帆
「幼なじみ……」
倫太郎
「ああ。その後で、ラボでパーティーもやるらしい。なんなら、比屋定さんも巫女装束を着て、神社を手伝ってもらってもいい」
真帆
「巫女装束……それってコスプレとかいうやつ?」
倫太郎
「いや、ちゃんとした手伝いだから、コスプレにはならない……と思う」
真帆
「そう。でも、それは辞めとくわ。私に合うサイズもないだろうし」
なるほど、言われてみればそうかもしれない。
ルカ子が子どもの頃に着ていたものがありそうな気もしたが、藪を突っつく必要もないだろう。
真帆
「ちょっと。そこで納得しないでくれる?」
倫太郎
「すまない……」
真帆
「で、集合はラボでいいの? 何時に行けばいい?」
倫太郎
「え? でも……」
真帆
「手伝うのはパスだけど、日本の初詣には行ってみたいと思ってたの。その後のパーティーは……まあ、その時考えるわ」
それはそうか。
会ってみて、気が合わなければ一緒に騒ぐ気にもなれないだろうしな。
倫太郎
「わかった、じゃあ細かいことは、また連絡するよ」
真帆
「ええ、楽しみにしてるわ」
それから年越しまでは、ただひたすらに慌ただしく過ぎていった。
学校の飲み会や懇親会。
それが終わるとコミマ。
もっとも、それに関して俺は、ダルやまゆりが慌ただしくしているのを傍観していただけだが。
そして迎えた、2011年1月1日――。
倫太郎
「これで全員揃ったか?」

「えーっと、じゃあ今から点呼とるお。阿万音氏」
由季
「はい」

「真帆たん」
真帆
「だから、その呼び方やめてって言ってるでしょ」

「カエデ氏」
カエデ
「はぁい」

「フブキ氏」
フブキ
「はいはーい」

「で、あとは……」

「はーい、私でーす!」

「綯様……」
天王寺
「…………」

「なあ、オカリン。なんでブラウン氏まで行くことになってんの?」
倫太郎
「俺だって知らない。まゆりが綯を誘ったらついて来た、ってとこだろう」
天王寺
「おい、なにヒソヒソ話してやがる」
倫太郎
「い、いえ、何も」

「お父さん。私ね、まゆりおねえちゃんの巫女さん姿、すごく楽しみなんだ」
天王寺
「そうだな。すまないな、本当ならお父さんが連れてってやりたかったんだが」
……ん?
倫太郎
「その……天王寺さんは来られないのですか?」
天王寺
「当たり前だ。何を好き好んで俺がおめえらと初詣せにゃならん」
天王寺
「俺はちょっと急用で出かけなきゃいけなくなっちまったから、おめえらに綯を預ける」
天王寺
「ちゃんと面倒見ないと、家賃あげっからな」
倫太郎&至
「ほっ……」
「ほっ……」
それを聞いて、俺もダルも本人を前にしながら、思いっきり安堵の息を吐いた。
特に俺の場合は、ここのところ極力、天王寺とは顔を合わせないようにしていたこともある。
彼はブラウン管工房などという妙な店を経営しているが、その裏ではラウンダーを取り仕切っている――いわばSERNの手の人間だ。
そうとわかっていて、積極的に関わろうというほど、俺の心は強くない。
ただ、それがわかっていてここを出なかったのは、まゆりやダルの反対があったからというのが1つと。
ここにいれば、なにか異変があった時、ラウンダーの動向もある程度掴めるかもしれない、という思惑があってのことだ。
と言いつつ、ここにはしばらく寄りつかなかったんだが。

「だめだよ、お父さん。そんな言い方しちゃ」
天王寺
「ん? おう、そうだったな。さすが、綯はいい子だな」

「オカリンおじさん。お願いします」
倫太郎
「あ、ああ……」
以前のように小動物扱いしなくなったせいか、綯もあまり俺を怖がらなくなった。
天王寺
「そんじゃ、夜になったら迎えにくるから、よろしくな」
倫太郎
「わかりました……」
天王寺
「…………ふむ」
倫太郎
「まだ、なにか?」
天王寺
「いや……やっぱりおめえ、ずいぶんと変わっちまったよな。前は鳳凰だとかなんとか妙なことばっか言ってたのによ。どうにも調子が狂っちまうぜ」
倫太郎
「……おかげさまで、大人になったんです」
天王寺
「大人に……ねぇ。ま、とにかく綯を頼んだぜ」

「ふぅ……」
天王寺がいなくなったことで、部屋の圧迫感が無くなったのか、綯を除く全員が大きく息をついた。
倫太郎
「とにかくこれで全員だな」
フブキ、カエデ、由季、更には真帆と綯という、一風変わった顔ぶれによって、ラボは占拠されていた。
目的は当然、柳林神社への初詣だ。
真帆
「……ほんとに良かったの? 私なんかが来てしまって」
倫太郎
「気にしなくていい。こっちこそ、なんだかよくわからない集まりになってしまったけど、大丈夫かな?」
真帆
「馴染んだ、って言ったら嘘になるわね。でも初詣ってちょっと興味もあったし」
真帆
「それに、同年代の知り合いが増えるのも嬉しいわ」
倫太郎
「そう言ってもらえると助かるよ」
さすがに真帆の存在だけ少し浮いていたが、それも時間が解決してくれるだろう。
フブキ
「ふふふ、マユシィのコスプレ、超楽しみ~」
カエデ
「もう、フブキちゃんったら。コスプレじゃなくて、今日はあくまでも『正装』だよ……」
由季
「鈴羽さんの巫女装束も楽しみですね、橋田さん」

「まあね。妹属性の巫女さんっつーのも悪くない。つーか、どうせならそこにナース属性も追加してくれれば萌えの数え役満なのだが」
フブキ
「あはは。橋田さんは相変わらずヘンタイさんですねぇ」

「紳士だけどねっ」
結局、神社の手伝いは、まゆりとかがりだけでなく、鈴羽にフェイリスまで駆り出されてしまった。
フェイリスはまだしも、鈴羽までやるとは思わなかった。
かがりが心配というのも理由だろうが、実はもうひとつ理由があるらしい。
バイト代が出る、という話に反応したのだ。
この時代で生活するだけの、ある程度の資金は持っているらしい鈴羽だが、それは自分の金ではないから、生活費に関してはできるだけ自らの力で賄いたいらしい。
なかなか立派な心がけだ。
由季
「そうそう、大事なこと忘れてました」

「大事なこと?」
由季
「新年、あけましておめでとうございます」
フブキ
「あ、そっか。昨日までコミマだったから、まだ年明けたって気がしないんだよね」
カエデ
「それじゃあ、わたしたちも改めて――」
全員
「あけましておめでとうございまーす」
フブキ
「ん。これでよし、と!」
倫太郎
「じゃあ、挨拶も済ませたことだし、そろそろ行くか」

「はーい!」

「いざゆかん、ミコミコ
天国
パラダイス
へ!」
由季
「橋田さん。神社にパラダイスはないと思いますよ」

「あ、そっか」
口々にワイワイと言い合いながら、俺たちはRPGのパーティーよろしく柳林神社へと向かった。
正月の秋葉原は、はっきり言って普段とそう変わることはない。
店も開いているし、福袋目あての客も多い。
違いと言えば、車の量が少ないくらいだ。

「ねえねえ、ダルおじさん」

「はい、なんでしょう、綯様」

「おじさんは『しんし』なの?」

「そうだお。おじさんはHENTAIだけど紳士なのだぜ、キリッ!」
由季
「あの……橋田さんはどうして綯ちゃんのことを様づけで呼ぶんですか?」

「幼女はその存在だけで敬われるべきだからですキリッ」
由季
「はぁ……」
ああして並んでいると、まるで親子みたいだ。
鈴羽とダルと由季さんの間にも、少しくらいはあんな時間があったんだろうか。
カエデ
「そういえば、フブキちゃん、このまえ言っていた変な夢はどう……?」
フブキ
「あ、あれ? 最近はあんまり見なくなったかも。やっぱ、疲れてたみたい」
カエデ
「そっか。だったらいいんだけど……」
倫太郎
「変な夢?」
フブキ
「あ、ちょっと一時期悪夢にうなされちゃった時期があって」
倫太郎
「悪夢って?」
フブキ
「お? 食いつきますねぇ。ひょっとして私に気があるとか?」
カエデ
「ダメよ、フブキちゃん。オカリンさんには“好きな人”がいるんだから……」
フブキ
「あ、そっか!」
倫太郎
「ん? なんの話だ?」
フブキ
「オカリンさんには好きな人がいるって話」
倫太郎
「俺に……?」
そんなの、誰から聞いたんだ?
……まゆり、か?
倫太郎
「俺には、好きな人なんていないよ」
カエデ
「え? そうなんですか……?」
フブキ
「ほんとにー?」
倫太郎
「本当だって」
まゆりからしょっちゅう話は聞いているものの、考えてみれば、彼女たちとこうして話をするのは、ほとんど初めてと言っていいかもしれない。
その割に、話しやすい子たちだった。
倫太郎
「そんなことよりふたりとも、頼みがあるんだが」
倫太郎
「できれば、比屋定さんに話しかけてやってもらえないか?」
フブキ
「え?」
倫太郎
「彼女、アメリカの大学から来てるんだけど、まだあんまりこっちに知り合いいないから」
フブキ
「アメリカ? すごーい!」
返事の代わりに、驚きの声を上げると、中瀬さんはひとりすたすたと前を歩いていた真帆に歩み寄った。
フブキ
「ね、真帆さんって、アメリカの大学に通ってるんですか?」
真帆
「え? ええ、まあ、そうだけど」
フブキ
「じゃあ、英語ペラペラなんですか?」
真帆
「まあ、生まれも生活もずっと向こうだから……」
フブキ
「すごーい」
……これで少しは打ち解けるだろう。
カエデ
「ふふっ、オカリンさんって優しいんですね……」
倫太郎
「そんなことないよ」
先日、真帆にはまったく逆のことを言われたばかりだ。
カエデ
「でも人って、優しいからこそ、誰かを傷つけることもあるんですよね……」
倫太郎
「は?」
カエデ
「いえ、なんでもありません。私も真帆さんと、話してきますね……」
来嶋さんは仄かな香水の香りを残して、小走りに真帆たちのもとに駆け寄った。
――誰かを傷つける。
その言葉がしばらく針のように、チクチクと俺の胸を突き刺していた。
正月の柳林神社は、さすがに神田明神ほどではないにせよ、予想よりもずっと賑わいを見せていた。
フェイリス
「あ、オカリンたちだニャ! おーい、オッカリーン! こっち。こっちだニャ!」
るか
「あけましておめでとうございます、皆さん」
ルカ子の巫女姿が似合っているのは最早言うまでもない。
一方のフェイリスはといえば、ネコミミこそ装備しているものの、いつものメイド服とは違って随分シンプルに見える。
だが、それもまた新鮮味があり、ファンの連中ならたまらないだろう。
フェイリス
「おめでとうなのニャ」
ふたりの言葉を皮切りに、ダルや由季といった一緒に来た連中も、口々に新年の挨拶を交わす。

「ふぉぉ、フェイリスたん! フェイリスたんがミッコミコにしてくれるなんて、生きててヨカッター!」
フェイリス
「ありがとうニャン♪」
鈴羽
「由季さんも来てくれたんだ」
由季
「あけましておめでとう、鈴羽さん」
鈴羽
「あ、ああ……あけましておめでとうございます」
鈴羽といえば、ラフで身軽な服ばかり着ているイメージだが、なるほど……こういうのも悪くないかもしれない。
少なくとも、ダルの娘だとは到底思えない完成度だ。
これで笑顔があれば完璧なんだが。

「妹属性の巫女さんキタコレ! それで『お注射の時間だよ、お兄ちゃん』っと言っておくれよ!」
鈴羽
「もう、そんなことばっかり言ってるから、母さんに誤解されるんだ」

「誤解?」
鈴羽
「まゆねえさんから聞いたんだよ。母さん、自分が父さんからあまり好かれてないと思い込んでる」

「なんでそうなるん? 僕は鈴羽はもちろん、阿万音氏もフェイリスたんもるか氏も、おにゃのこはみんな平等に好きなのに」
鈴羽
「だから、そういうのがダメなんだって」
由季
「あの、ふたりともさっきから何を……?」
鈴羽
「あ、ううん。なんでもない。それよりほら、
御神酒

と、あとおみくじもあるからどうかな?」
鈴羽の言うとおり、ダルは少し自重しないと、本当に鈴羽が産まれなくなる可能性が出て来るな。
後でよく言って聞かせよう。
カエデ
「それにしても、るかくんは相変わらず美人さんね……」
るか
「い、いえ、そんな……」
フブキ
「ほんとほんと。これで男の子だなんて信じらんないよね」
真帆
「ええっ!? 嘘……あなた、男の子なの?」
るか
「あ、はい……」
真帆
「嘘、でしょ……日本って、やっぱり進んでるのね……」

「あの、猫のおねえちゃん」
フェイリス
「ん? なにかニャ?」

「まゆりおねえちゃんはどこですか?」
フェイリス
「マユシィ? たしか、さっきまであっちで御神酒を……あ、あそこにいたニャ!」
フェイリス
「マーユシーィ! こっちに来るニャ! オカリン達が来てるニャ~!」
フェイリスの呼びかけに、ようやく俺たちに気づいたのか、まゆりがかがりの手を引き、小走りで駆けつけてきた。
まゆり
「あ、オカリン……え~っと……あけまして、おめでとうございます」
かがり
「あけましておめでとうございます、岡部さん」
倫太郎
「ああ、おめでとう」
まゆり
「えーっと……ど、どうかな? この格好、似合ってるかな?」
倫太郎
「ん? ああ、想像以上に良く似合ってる」
まゆり
「ほんと!? えっへへ~、良かったぁ」
それまで緊張していた面持ちが、安堵のそれへと変わる。
倫太郎
「メイクイーン+ニャン⑯でも、イベントデーなんかじゃコスプレするんだろ? 今さら緊張することもないだろうに」
まゆり
「あれはお仕事だからいいのです」
お仕事なら良くて、プライベートではダメというのも良くわからない理屈だ。
それに、今回の巫女だって、バイト代が出るんだから仕事だろう。
かがり
「ねえ、岡部さん。私はどうかな? 似合ってるかな?」
倫太郎
「あ、ああ……かがりさんも凄く似合ってると思う」
かがり
「わーい、やったぁ! そうだ、あとで一緒に写真とってくださいね」
倫太郎
「写真? いいけど……」
かがり
「だってほら、写真があれば、記録に残るでしょう? 私、今のうちにたくさん残しておきたいんです。また忘れちゃったりしないように」
別段、正月だから浮かれているというわけではなく、かがりはここ数日ですっかり明るくなっていた。
あの頃は記憶を失くしたという不安から、おどおどとしているように見えたが、おそらく本来はこういう子だったのに違いない。
まゆりやルカ子たちと一緒に、正月の準備をするうちに、少しずつ本当の自分を取り戻し始めたんだろう。
カエデ
「わぁ、やっぱりまゆりちゃん、似合ってる!」
まゆり
「そうかなぁ? なんだか恥ずかしいよ~」
フブキ
「そんなこと言って。まんざらでもないくせにぃ」
まゆり
「えへへ~」
カエデ
「あ、こちらが、このまえ言ってた、えーっと……」
かがり
「あ。かがりです。椎名かがり」
フブキ
「ホントだ。マユシィと同じ名前なんですね」
かがり
「うん、偶然」
本当は偶然じゃないんだが。
フブキ
「うーん。かがりさんもスタイル良いし、コスとか似合いそう」
カエデ
「あ、私も思った……」
かがり
「コス?」
フブキ
「コスプレ。ね、好きなキャラとかいるんですか?」
かがり
「えっと……私、そういうのはちょっと良くわからなくて」
カエデ
「フブキちゃん!」
フブキ
「あ、そっか……ごめんなさい」
かがり
「あ、ううん。気にしないで。大丈夫だから」
まゆり
「ねえ。オカリンもこっちに来て。まゆしぃが、お祓いをしてあげるのです。この……えーっと、えーっと……なんだっけ?」
かがり

大幣
おおぬさ

だよ、まゆりちゃん」
まゆり
「そうそう、おおぬさ~」
倫太郎
「そのためには、まず神様に手を合わせてこないとな」
かがり
「あ、そうだね。それじゃあ、その後で。私もお祓いしてあげる」
倫太郎
「ああ。よろしく頼むよ」
手水で身体を清めて、社殿に参拝する。
考えてみれば、ここでこうしてきちんと手を合わせたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
真帆
「何をお願いしたの?」
倫太郎
「ん? ああ……世界が平和でありますように、ってね」
真帆
「また、そうやってはぐらかすんだから」
嘘じゃない。
もっとも、その願いが叶わないのはわかってはいるし、そんなことをしたところで贖罪にもならないのだろうが。
真帆
「そういえば遅いわね」
倫太郎
「……?」
真帆
「教授たち。初詣に行くって言ったら、すごく来たがってたから、場所教えておいたんだけど……」
倫太郎
「へぇ。どこかで迷ってるのかな?」
真帆
「レイエス教授も一緒だから、どこか寄り道してるのかもね」
教授たちが来たら、また賑やかなことになりそうだ。
真帆
「ねえ、あの子でしょ?」
倫太郎
「何がだ?」
真帆
「岡部さんの彼女。あの、まゆりさんって人なんでしょ?」
倫太郎
「まゆりはそんなんじゃない」
真帆
「うそ? じゃあ、どの子」
倫太郎
「誰も違うよ。俺には彼女なんていない」
真帆
「ほんとに? これだけ可愛い女の子がたくさんいるのに?」
真帆
「岡部さんって、もしかして……」
倫太郎
「???」
真帆
「あ、でも、大丈夫よ。私、そういうのに偏見ないから」
……ようやく、真帆が何を言わんとしているのかわかった。
倫太郎
「あのな……違うよ。そういうのでもない」
真帆
「そうなんだ……じゃあどうして? 彼女作らないの?」
倫太郎
「……君、このまえ“紅莉栖”に散々文句言ってたのに、同じこと訊いてるぞ」
真帆
「あ……言われてみれば。自分のことだと嫌なのに、人のことになると興味が出ちゃうのよね、人間って。これは反省が必要だわ」
まゆり
「オカリーン!
おおにた
①①①①
でしゃーんしゃーんってやってあげるから、早く~!」
倫太郎
「……ちょっと行ってくるよ」
真帆
「ええ……」
真帆
「やっぱり……紅莉栖のことがあったからかしら……」
そう、小さく呶いた声が風に乗って耳に届いたが、俺は聞こえなかったフリをした。
ただの初詣のはずなのに、それぞれ写真を撮ったり喋ったりしているうちに、あっという間に2011年の最初の1日は過ぎて行った。
フェイリス
「お待たせだニャ」
鈴羽
「ふぅ。ああいう衣装もなかなか肩が凝るね」
見慣れたいつもの姿に戻ったフェイリスたちに、俺たちもようやく日常に戻ったような気持ちになる。
フブキ
「あれ? マユシィたちは?」
フェイリス
「まだ着替え終わってないから、もう少し待ってて欲しいって言ってたニャ」
まだ出て来ていないのは、まゆりとかがりとルカ子か。

「なあなあ、オカリン。着替えってもしかしてまゆ氏たちとるか氏、一緒に着替えてるんかな?」
倫太郎
「いや、それはまずいだろう……」

「『やぁん、るかく~ん、背中のファスナーあげて~ん』」

「『そ、そんな……ボクそんなこと……』」

「『るかく~ん、こっちもおねが~い』」

「そんな会話があの中で繰り広げられてるんかなハァハァ」
真帆
「ねえ、岡部さん。この人、大丈夫なの?」
ダルと会うのがまだ数えるほどの真帆は、明らかに警戒の色を見せていた。
倫太郎
「ダルは言動はああだが、害はない男だから心配しなくても平気だ」
フェイリス
「それに
スーパーハカー

なんだニャ!」

「それを言うならハッカーだろ常考」
真帆
「ハッカー? それ本当なの?」

「大きな声では言えんけど、まあそんな感じのこともやってるから、なにかあったら頼んでくれても良いのだぜ」
真帆
「ふーん、そっか。だったら……」
???
「OH! NO!」
突然の大声に驚いて顔を上げた真帆の視線を追うと、そこには――。
レスキネン
「Where? ジャパニーズ・シャーマンガールはどこにいるんだい、リンターロ?」
レスキネン教授とレイエス教授が、なんとも悲痛な面持ちで途方にくれていた。
レイエス
「マホからここに来れば、ジャパニーズ・シャーマンガールに会えると聞いて来たのに、いないじゃない!」
倫太郎
「じ、ジャパニーズ・シャーマンガール?」
真帆
「巫女さんのことよ」
ああ……なるほど。
真帆
「今日はもう、巫女さんの出番は終了です」
レスキネン
「Holy cow! So I said we should come soon!」
レイエス
「But You just enjoyed shopping too!」
ふたりの手には、電気屋の福袋が下がっていた。
どうやら、ここに来るまでに散々買い物をしてきたようだ。
真帆
「That’s enough! どっちもどっちですよ」
レスキネン
「Haa……」
ふたりは落胆の色を隠そうともせず、しょんぼりとした様子で、神社のあれこれを眺めはじめた。
まゆり
「おまたせ、オカリン♪」
倫太郎
「随分遅かったな、まゆり」
まゆり
「うん。るかくんのお母さんにね、おせち、いっぱいもらっちゃった。みんなで食べなさいって」
るか
「母があれも持って行け、これも持って行けって。詰め直してたらこんな時間になってしまいました。すみません」
倫太郎
「いや。こっちこそ、気を遣って貰って悪いな」
レスキネン
「Excuse me. ちょっといいですか?」
るか
「え? あ、はい」
レスキネン
「お参り……というのはどうやるんですか?」
るか
「あ、えっと……」
るか
「First of all,we should purify our hands and mouth there.」
倫太郎
「な……!」
レイエス
「I see……」
るか
「Please come with me. I’ll show you how to do.」
レスキネン教授とレイエス教授はるかに導かれるまま、詣でに行った。
宗教的に問題ないのだろうかとも思うが、本人たちが気にしていないのだから周りがどうこう言うことでもないだろう。
そんなことよりも……。
倫太郎
「ルカ子……すごいな……まさか、あんなに英語喋れるとは……」
まゆり
「るかくん、頭いいからね~」
そう……だったのか。
まゆり
「それに、秋葉原は観光の人が多いから、なにか訊かれてもいいように、勉強してるんだって」
今はじめて知る、ルカ子の意外な事実だった。
倫太郎
「そういえば、まゆり。かがりはどうした?」
まゆり
「あれ? そろそろ出て来ると……あ、来た来た、ほら」
かがり
「ごめんね。お待たせしちゃって」
これで全員揃ったか。
あとは、ルカ子が用を終えれば――。
レスキネン
「Thanks a lot. We had a wonderful experience!」
るか
「Not at all」
倫太郎
「それじゃあ、ラボに向かうか」
由季
「あ、そのことなんですけど……実は私、この後急用が入っちゃって……」
まゆり
「え? 由季さん、来れないの?」
由季
「ごめんね、まゆりちゃん……。バイトで欠員でて、どうしても入ってくれって……」
まゆり
「そっか……それじゃあ、仕方ないのです……」
見れば、ダルも鈴羽も残念そうに肩を落としていた。
真帆
「教授たちはこの後どうするんです?」
レスキネン
「私はこの後用があるから……」
レイエス
「私もよ」
レスキネン
「今日はありがとう。すばらしい発見だらけだったよ。シャーマンガールには会えなかったがね」
レイエス
「ほんとね。とってもExcitingだったわ」
レスキネン
「それじゃあ、リンターロ。たまには“クリス”にも会ってやってくれ」
レイエス
「では、みなさん、また。 See you soon!」
ふたりの教授は顔を綻ばせながら、秋葉原の喧騒に飲まれて行った。

「んじゃ、僕たちも行こうか」
倫太郎
「そうだな」
途中、由季がひとり抜けたとはいえ、来る時から比べると倍になった人数を従え、俺たちは柳林神社を後に、ラボへと向かった。
まゆり
「それではあらためまして……あけましておめでとうございま~す」
全員
「あけましておめでとー!」
まゆり
「ん~、るかくん家のおせち、美味しいね~」
るか
「ほんと? ボクとかがりさんも手伝ったんだけど、そう言ってもらえてよかった」
かがり
「エッヘン! なーんて、私は盛り付けただけなんだけど」

「私、この甘い卵焼きだいすき。くるくるってなってるの」

「こっちのお雑煮も絶品すぎる! 鈴羽、どうだお?」
鈴羽
「うん。おいしいね」
フェイリス
「実はメイクイーン+ニャン⑯のお正月メニューなんだニャ」

「ムフーッ! モチモチでやらか~い。フェイリスたんの味がするお」
フブキ
「橋田さん、ほんとにHENTAIさんですねぇ」
フブキのダルへのツッコミがほとんど機械的になってきているのは、今日1日を通してダルのHENTAI行為を腐るほど見てきたからだろう。
そのすべてにツッコミを入れていたら、それだけで疲れてしまう。
真帆
「アメリカだったらセクハラですぐ訴えられるわよ」
カエデ
「そういえば、アメリカのお正月って何を食べるんでしょう……?」
倫太郎
「さあ。七面鳥じゃないのか?」
カエデ
「それはクリスマスじゃないですか……?」
真帆
「アメリカじゃ大みそかに騒ぐから、年が明けると意外と質素よ。豆料理とか」

「豆料理って響きにトキメクお年頃」
フブキ
「橋田さん、ほんとにHENTAIさんですねぇ」
フェイリス
「ほら、綯ニャン、この栗きんとん、美味しいニャ」
鈴羽
「こっちの黒豆も栄養価が高そうでいいね」

「えっと、えっと……そんなにたくさん食べられないよ~」
かがり
「慌てないでいいから、よく噛んで食べるんだよ?」
るか
「ふふっ、かがりさん、お母さんみたいですね」
まゆり
「えっへへ~、やっぱり人が大勢いると楽しいねぇ、オカリン」
倫太郎
「ああ、そうだな……」
ここがこんなに賑わうのはいつぶりだろうか。
いや、あれはαの世界線での出来事――。
ということは、今俺たちがいるβ世界線でははじめてかもしれない。
フェイリス
「ウニャ? お茶ってこれだけかニャ?」
宴がはじまってまだそう経っていないのに、どうやらもうお茶を切らしてしまったらしい。
鈴羽
「兄さんが、甘いジュースばかり買ってくるから」

「お茶がなければコーラを飲めばいいじゃない」
るか
「おせちに炭酸は厳しいですよね……」
倫太郎
「じゃあ、俺とダルで買ってこよう」
女子に買いに行かせるわけにもいかないからな。
カエデ
「あ、ここは私とフブキちゃんで行きますよ」
フブキ
「私も?」
カエデ
「お呼ばれしてるんだもの。それくらいしないと……」
フブキ
「しょうがない。それじゃ、行ってきまーす。テキトーでいいですよね?」
倫太郎
「そうか、すまない。助かるよ」
カエデとフブキが出ていったことで、ほんの少しの静寂が訪れる。
と、ちょうどそのタイミングを狙ったように、誰かの携帯の着信音が鳴り響いた。
真帆
「ごめんなさい、私だわ」
スマホを取り出した真帆は、画面を確認した後、俺を見た。
真帆
「ねえ、岡部さん。今『Amadeus』にアクセスしてもいいかしら?」
倫太郎
「え?」
真帆
「着信。あの子からなの」
倫太郎
「…………」
真帆
「それに、あの子がこの状況の中に入ったらどんな反応を示すか――それも良いサンプルになりそうだし……ダメかしら?」
倫太郎
「それは……」
まゆり
「ねえ、真帆さん真帆さん。あまでうす、ってなにかな?」
気づけば、“紅莉栖”からの着信はやみ、その代わりに全員が俺たちのやりとりに耳を傾けていた。
真帆
「……特定の人間の記憶データを内包した
人工知能
アーティフィシャル・インテリジェンス
よ」
まゆり
「あーてぃひしゅる……?」
フェイリス
「AIのことだニャ」

「えーあい……?」
フェイリス
「AIとは、エンシェント・インテリジェンス。つまり、古代に失われた大いなる
智慧
ちえ
のことなんだニャ!」
真帆
「Artificial Intelligenceだってば」

「自分で考えて、学習するように作られたプログラムのことだお」

「でも、特定の人の記憶があるAIってことは……それって、誰かの
複製
コピー
ってことじゃね?」
真帆
「果たしてそれがコピーとなり得るのか、それを現在進行形で検証しているところよ」

「それが『Amadeus』ってわけ? 驚いた。そんなもん作ってるなんて」
まゆり
「えっと……るかくん、わかる?」
るか
「ううん。ボクにもさっぱり……」
真帆
「見て貰えば早いんだけど……」
チラリと俺の顔色を呎う。
倫太郎
「俺の映らないところでなら……」
真帆
「わかった」
ため息交じりに言って、真帆はスマホのアプリに指を伸ばした。

「え? スマホで起動できるん?」
真帆
「“本体”は大学のサーバーにあるんだけどね。簡易的にアクセスできるようにしたの」
ダルはそのテクノロジーに目を輝かせて画面を覗き込んでいた。
やがて、真帆のスマホからあの声が――。
アマデウス紅莉栖
「もう、先輩ったら、どうして出てくれな――」
アマデウス紅莉栖
「わっ!」

「おぉぉぉ、すげー!」
アマデウス紅莉栖
「え? 先輩じゃ……ない? 誰……ですか?」

「僕? 橋田至。なんなら僕を先輩って呼んでくれてもいいのだぜ。できれば、赤く頬を染めながら上目づかいでヨロ」
アマデウス紅莉栖
「ど、どうして、私が見ず知らずのあなたを先輩なんて呼ばなければならないんですっ。あなたはいったい――」
真帆
「驚かせて悪かったわね」
アマデウス紅莉栖
「あ、先輩……今の人は……」
真帆
「橋田さんと言って、岡部さんのお友だちよ。今日はお正月でしょ? それで岡部さんのラボラトリーでお友達とパーティーをしてるの」
アマデウス紅莉栖
「ああ、あの
冷たい
①①①
岡部
①①
さん
①①
ですか」
アマデウス紅莉栖
「先輩も、あの人との付き合いはほどほどにしておいたほうがいいですよ。じゃないといつか捨てられちゃいますから」
真帆
「まあまあ……」
棘のある言い方……これは、かなり怒ってるようだ。
まあ、それも無理のないことだが。
真帆
「というわけで、紹介するわ、彼女が私の後輩、牧瀬紅莉栖の記憶と人格を持つAI――『Amadeus』よ」
鈴羽
「え? 牧瀬紅莉栖って――」

「もしかして、あの!?」
橋田親子が揃って声をあげた。
そう……ふたりは紅莉栖の存在を知っている。
彼女に何があったのかも――。
フェイリス
「牧瀬紅莉栖さんって、確か半年前くらいにラジ館で……」
るか
「あ……」
まゆり
「牧瀬……紅莉栖さん……この人が……」
アマデウス紅莉栖
「ああ、もしかして皆さん、オリジナルの私のことをご存じなんですね」

「あ。いや……うん、まあ……」
アマデウス紅莉栖
「心配しなくても大丈夫ですよ。私、オリジナルの自分に何が起きたか知ってますし」

「あ、そ、そう……なん?」
そうは言われても、気にするなと言う方が無理だろう。

「ねえ、これってゲーム?」
そんな中、綯だけは事情がわかっていないようだった。
だが、今はそれが有り難かった。
彼女のひと言のおかげで、固まりかけた場の空気が和らいでくれた。
アマデウス紅莉栖
「ふふっ、ゲームじゃないわ。私はAI。あなたと同じように、自分で考えてお話しているの」
フェイリス
「ていうか……ほんとのAIなのニャ? すごすぎるニャ」
アマデウス紅莉栖
「すごいのは、私を作ってくれた真帆先輩です」
皆がスマホの中でくるくると表情を変え、質問に答える“紅莉栖”に釘付けになっている。
そんな中、俺は後悔し始めていた。
ここで“紅莉栖”に話をさせるんじゃなかった。
こうして、ラボの皆に紅莉栖の存在を思い出させるんじゃなかった。
やはり今すぐにでも、“紅莉栖”との通話を切ってもらおう。
倫太郎
「比屋定さ――」
真帆
「あらっ?」
俺が声を掛けたと同時に、真帆が不思議そうな声をあげた。

「どしたん?」
真帆
「『Amadeus』がいきなり消えてしまったの」

「アプリが落ちたんじゃね? まあ、そういうことだってあるっしょ」
真帆
「そうなんだけど……再起動しても、サーバーに繋がらないのよ」

「サーバーのデータ更新とかは?」
真帆
「そんな話、聞いてないわ」
フェイリス
「ここのネット回線は、落ちてないみたいニャけど」
自らのスマホでウェブに繋げて確認しながらフェイリスが言った。
真帆
「おかしいわね。今までこんなこと無かったのに」
真帆
「ねえ、岡部さん。貴方のほうでも試してみてもらえない?」
倫太郎
「いや、俺は――」
“紅莉栖”に良く思われていないだろうから――そう言いかけた声が、硬質な音に飲みこまれた。
かがり
「ご、ごめんなさい……」
どうやらかがりがグラスを取り落したらしい。
細やかな破片が床の上で放射状に飛び散っていた。

「おねえちゃん、だいじょうぶ? 顔色悪いよ?」
かがり
「ええ……ありがとう。ちょっと疲れたのかも……」
かがり
「あ、でも平気……ごめんね、すぐに片付けるから……」
るか
「あ、かがりさんはじっとしてて。ボクが片付けますか――」
るかが掃除道具を取りに行こうと立ち上がるのと、その音はほぼ同時だった。

「へ?」
武装した男
「動くな!!」
倫太郎
「――!」
突然、土足のまま部屋に踏み込んできた男たちに、室内は何が起きたのかもわからず騒然となった。
フェイリス
「な、なんなんだニャ!?」
全員が妙な仮面をかぶっている。
その手中には銃。
中には自動小銃を持っている者もいた。
真帆
「な、なんなの、これ? なんのサプライズ?」
倫太郎
「ぁ……あぁ……」
その光景に、あの悪夢がよみがえる。
何度も何度も繰り返し繰り返し殺されたまゆりの無残な姿――。
もう大丈夫だ――そう思っていたのに。
もう大丈夫――そのはずだったのに。
半月ほど前の世界線変動の影響なのか!?
倫太郎
「あぁ……ああああ……」
まゆり……。
武装した男
「騒ぐなっ!!」
まゆりがまた……。
まゆり
「オカリン……怖いよ……」
武装した男
「騒ぐなと言っているだろう!」
まゆり
「きゃっ!」
倫太郎
「まゆり!!」
乾いた音。
床に空いた黒い穴。
大丈夫、威嚇だ。
それでも、皆の恐怖心を決壊させるには充分だった。

「そ、それ……本物かよ?」
るか
「お、岡部さん……ボク……ボク……」

「ひっ……う……うわぁぁん!」
ダメだ! それ以上、奴等を刺激するな!!
奴等は本気だ。
必要のない者は容赦なく殺される。
鈴羽!
鈴羽はなにをしてる!?
鈴羽
「くっ……!」
ダメだ。
怯えた綯が鈴羽の足元にしがみついて身動きがとれないでいる。
いや、相手が多すぎて、下手に動けないでいるのか。
倫太郎
「く…………」
俺が……俺がなんとかしなきゃいけないのに、肝心の足はガクガクと震えるだけで何の役に立とうともしてくれない。
倫太郎
「と、とにかく……みんな、落ち着いてくれ……」

「そんなこと言われても」
倫太郎
「いいから、落ち着いて奴らの言うことを聞くんだっ!」
嫌というほど経験してきた状況だというのに、それでも何とか声に出すのが精一杯だった。
だが、必死さだけは伝わったのか皆は騒ぐのを止め、ただ身を寄せ合い、
闖入者
ちんにゅうしゃ
たちの動向を固唾を飲んで見守っていた。
銃口をピタリと向けた男たちの背後から、ヒールの音が響いてきた。
階段を上がってくる――女の足音。
やはり、あいつなのか?
桐生萌郁――お前なのか?
お前が、またまゆりを……。
果たして、開いたままのドアから姿を現したのは――。
ライダースーツの女
「…………」
黒づくめの女だった。
ピッタリと身体に張り付いた黒のライダースーツに、黒のヘルメット。
黒いシェードで覆われているため、顔は見えない。
が、やはりこいつは――。
でも、こいつらの目的はなんだ?
あの時は、俺とダルと、そして紅莉栖の3人だった。
だが紅莉栖はいない。
となると――真帆か?
ライダースーツの女
「…………」
女は黙って室内を見回すと、真っ直ぐに身を寄せ合う俺たちへと歩み寄り、そして手を伸ばした。
かがり
「え?」
その手がかがりの腕を掴んで、引き寄せる。
まゆり
「か、かがりさんっ!」
連中の目的はかがり!?
でも、どうしてかがりを?
いや、かがりが狙われるとすれば、たったひとつ。
やはり、こいつらは――知っている?
かがりが、2036年から来た人間だと。
かがり
「い、いやっ! 離して!」
ライダースーツの女
「――!」
抵抗を見せるかがり。
しかし、女の力は想像よりもずっと強く、かがりの身体はいとも簡単に引っ張られてゆく。
かがり
「いやっ! 助けて! 誰か!」
まゆり
「かがりさん!」
かがり
「まゆりちゃんっ! 助けて!」
手を伸ばす、まゆりとかがり。
しかし、互いの手は虚しく宙を掴んだだけ。
倫太郎
「っ……!」
どうする?
俺はどうすればいい?
ここで動けば、またまゆりが――皆が――。
じゃあ、かがりが連れ去られるのを黙って見ているしかないのか?
俺は……。
俺は。
武装した男
「ぐあっ!!」
突然、扉の近くから悲鳴が上がった。
武装した男
「ぐえっ!!」
視線を向けた時には、既に2人目がもんどりうって倒れるところだった。
天王寺
「おいおい、こりゃいったい何の騒ぎだ?」

「ブラウン氏!!」
武装した男
「くそっ!!」
銃口を向けるよりも早く、天王寺の手が男の手を掴みそのままねじ上げる。
すぐに、骨が折れる鈍い音がした。
武装した男
「ぎゃああ!!」
突然の乱入者に、襲撃者たちは騒然となった。
武装した男
「くっ――!」
状況を打破しようと、男のひとりが駆け寄ってくる。

「え?」
手を伸ばしたのは、一番か弱そうに見える存在。
普通ならば正しい判断だが、この場合その選択はまったくの誤りだった。
その巨体からは想像のつかない動きで、天王寺はあっという間に男との距離を詰めると、腕力でその身体をブッ飛ばした。
背中から壁に叩きつけられた男がバウンドして倒れるのを見て、残った連中は完全に色を失う。
と同時に綯から解放された鈴羽が動いた。
鈴羽
「はっ!!」
ダルの娘とは思えない細くしなやかな足が一閃、ライダー女の首元を狙う。
ライダースーツの女
「――!!」
鈴羽の蹴りは、寸でのところで腕によりガードされてしまった。
しかし、ガードするために、かがりを掴んでいた手が離されている!
倫太郎
「かがりっ!!」
咬嗟に手を伸ばし、俺はかがりを引き寄せた。
かがり
「岡部さん……」
ライダースーツの女
「――!」
形勢不利と見たか、女は鈴羽に蹴られた腕を庇うようにして、あっという間にラボを飛び出していった。
他の襲撃者たちも、倒れた男たちを抱えるようにして後に続く。
それまでの喧騒が一転、静寂にとって変わられた。
まゆり
「お、オカリン……」
まゆりの震えるような声で、ようやく我に返る。
倫太郎
「まゆり……無事か?」
まゆり
「う、うん……」
倫太郎
「他のみんなも、大丈夫だったか? 怪我はないか?」
ダル、鈴羽、フェイリス、ルカ子、綯、真帆、かがり――。
それぞれ皆、青ざめてはいるが、別段、負傷などはしていなさそうだ。

「お、おとうさぁぁぁぁあん!」
天王寺
「大丈夫。もう大丈夫だ。綯のことは、ちゃんとお父さんが守ってやるからな」

「うえぇぇぇぇ……」
抱き合う天王寺親子の姿をきっかけに、全員がようやく安堵の息を漏らした。
それにしても――。
天王寺
「おい、岡部。説明してもらおうか。あの連中はなんだ?」
倫太郎
「いや……それは俺にも……」
わからない。
俺も最初はSERNの仕業ではないかと考えた。
しかし、それなら天王寺がこうして乗り込んでくるはずがない。
この天王寺裕吾こそ、秋葉原一帯のラウンダー連中を指揮しているFBという存在なのだから。
もちろん、そのFBの知らないところで下の連中――萌郁たちが動いたという可能性も無くはないが……。
倫太郎
「――!」
再びドアが開かれ、全員が身構える。
フブキ
「たっだいまー。飲み物、いっぱい買ってきたよー!」
カエデ
「遅くなってしまって、ごめんなさい。フブキちゃんが、あれもこれもって……」
フブキ
「……あれ? どうしたのみんな。そんな怖い顔して……?」
るか
「……送っていただいて、ありがとうございました」
倫太郎
「いや……」
当然だが、あの後すぐに正月パーティーはお開きとなった。
せっかくまゆりが楽しみにしていた会ではあったが、あの出来事の後で続けられるほど、みな能天気ではない。
全ての説明は、後日改めてすると言い聞かせ、まずはそれぞれ身の安全の確保のため、家に帰ってもらうことにした。
天王寺親子を除いた全員で駅まで向かい、そこで電車に乗る者だけを見送って、その後残ったメンバーで柳林神社まで来た。
残っているのは、ダル、鈴羽、ルカ子、そしてかがりだ。
倫太郎
「つけられてなかったか?」
鈴羽
「大丈夫。ずっと注意してたけど、おかしな気配はなかった」
倫太郎
「そうか……」
秋葉原の駅でも、怪しげな人間はいなかった。
SERNのラウンダーなら、あらゆる場所に手が伸びていてもおかしくないはずだが……。
電車組にも、真っ直ぐ家に帰るように、そして家に着いたらすぐ連絡を寄こすように言っており、既に何人かからは連絡もきている。
何ごともなく家に着いたそうだ。
特にまゆりには、頻繁にRINEでスタンプを送るように念を押しておいた。
それも刻々と届いているから、恐らくは大丈夫だろう。
とはいえ、まだ安心は出来ない。
かがり
「あの……やっぱり私が狙われたのかな?」
倫太郎
「……おそらくな」

「……連中、かがりたんのこと、知ってるんかな?」
倫太郎
「だろうな……」
連中がSERNかどうかはまだわからない。
しかし、かがりが未来から来た存在だと知っていて、彼女を襲った――そう考えるのが妥当だろう。
かがり
「……ごめんね。私のせいで、みんなまで危険な目に遭わせてしまって……」
倫太郎
「君だけのせいじゃない……」
幼い身で未来から連れて来られ、その後行方不明となり――いわば、彼女も運命に翻弄されている被害者だ。
るか
「でも、本当にいいんですか? 警察に届けなくても……」
倫太郎
「……すまないが、今はまだ……」
真帆たちにも散々言われた。
でも、何とか頼み込んで、ひとまず保留にさせてもらった。
そもそも、あんな事を説明して受け入れてもらえるのかという問題もあるが、なによりも一番問題なのは、かがりの存在だ。
かがりが狙われたとなれば、彼女の素性を説明する必要が出てくる。
本当のことを言うことは出来ないし、たとえ本当のことを言ったとしても、信じてもらえるとも思えない。
鈴羽
「で、これからどうする?」
倫太郎
「……とにかく連中が何者かわからなければどうしようもない」
鈴羽
「じゃあ、あたしたちだけで突き止めるってこと? どうやって?」
倫太郎
「それは……」
正直、わからない。
もしもタイムマシンが存在することがわかったら、それを欲する連中はSERNに限らず、世界中にごまんといる。
ロシアだってアメリカだって中国だって。
そして日本だって。
とにかく、なんとかして相手を突き止めなければ、同じようなことが起こる可能性がある。
倫太郎
「方法は、明日改めて考えよう。それよりもルカ子、頼みがあるんだが」
るか
「は、はい、なんでしょう?」
倫太郎
「すまないが、今日から鈴羽も一緒に、お前のところに泊めてもらってもいいか?」
るか
「え?」
鈴羽
「あたしが、るかにいさんの家に?」
倫太郎
「ああ。かがりを他で預かってもらうのも考えたんだが、ここのほうが人数も多いし、防犯設備も整っている」
賽銭泥棒やいたずら対策だろう。
ちょっと見まわしただけでも、防犯カメラが備え付けられているのがわかる。
それにそもそも、これは当のかがりが言い出したことだ。
倫太郎
「かがりもここのほうがいいんだろう?」
かがり
「……うん」
無理もない。
ただでさえ記憶喪失で精神状態が不安定なところに、今日の騒ぎだ。
倫太郎
「鈴羽がいてくれれば、みんな少しは安心できる。もちろん、ルカ子の家族の承認が必要だが」
るか
「お父さんは、きっと大歓迎だと思います」
だろうな。
鈴羽
「あたしも、別に構わない」

「僕も泊まってもいいのだぜ」
鈴羽
「兄さんは、帰りなさい」

「しょぼーん」
そのやりとりに、少しだけ日常を取り戻した気がした。
ルカ子とかがりの表情もほんの少し和らぐ。
ダルのいつもの発言もこういう時には役に立ってくれるらしい。
倫太郎
「じゃあ、頼んだぞ。何かあったら、すぐに連絡してくれ」
るか
「わかりました」
かがりをふたりに託し、俺とダルはラボへと足を向けた。

「なあ、アレ、ホントに起きたことなんだよな……」
倫太郎
「ああ……」

「ドッキリとかじゃなくて、現実なんだよな……」
現実……。
そう、あれは現実だ。
今まで何度も経験した、あの場面――。
悲鳴と硝煙の匂い。
倫太郎
「…………うっ、ぷ……」

「ど、どしたん、オカリン?」
倫太郎
「っ、すまない……安心したせいか、気分が……」
皆を送り届けるまで張っていた気が急速に抜け、また思い出してしまった。
半年前のことを。

「大丈夫。今は僕も一緒だからさ。なんならちょっと休む?」
ダルの大きな手が背中を上下する。
不思議なもので、それだけで気分が少し落ち着いた。
倫太郎
「ありがとう……もう大丈夫だ……」

「無理すんなよ」
倫太郎
「ああ……」
ラボに向かって再び歩きはじめると、ダルが心配そうについて来た。

「なあ、オカリン」
倫太郎
「ん?」

「やっぱさ、これもタイムマシン関係のことだよな?」
倫太郎
「……ああ」

「……これもシュタインズゲートの選択とかいうやつ?」
シュタインズゲートの選択……か。
倫太郎
「今思えば、痛々しい響きだな」

「……オカリン」
どれだけ目を背けても、背中を向けても、いつまでも着いてくるというのか。
俺はただ、平穏な時間を過ごしたいだけだというのに。
もはやそれすらも、許されないことだというのだろうか?

「オカリン。肩貸してやるよ」
倫太郎
「……え?」

「まだフラついてるじゃん。ほれ」
倫太郎
「大丈夫だよ……」

「いいから、遠慮すんなって」
倫太郎
「…………ダル」

「ん?」
倫太郎
「……お前、キモいぞ」

「……最近のまともになったオカリンの方がキモいっつーの」
倫太郎
「……ありがとな」

「気にすんな」
漆原るかは哀しかった。
ずっとずっと哀しかった。
岡部倫太郎という人物と知り合い、親しくしてもらうようになり、
未来ガジェット研究所
ラボ
に出入りするようになってから、それなりの時間が経つ。
学友でもある椎名まゆりをはじめ、橋田至ら、他のメンバーも自分を友人として扱ってくれている。
それ自体は嬉しい。
何の取り得もない、引っ込み思案な自分を受け入れてくれる――そのことに、るかはとても感謝している。
それでもるかは――自分ひとりだけが蚊帳の外にいるような、そんな疎外感を、ずっと抱いていた。
皆が自分に何かを隠しているのを、るかは知っている。
だから哀しかった。
けれど、もっと哀しいのは、それがわかっていて、教えてくれと言い出せない自分だった。
鈴羽
「寝ないの?」
るか
「……阿万音さんこそ、まだ起きてたんですね」
鈴羽
「いろいろ考えることがあってね」
るか
「そう……ですか」
いろいろとは言っているが、主に今日起きた出来事についてだろうということは、るかにだってわかった。
ラボでの正月パーティー。
その最中に突然襲撃してきた謎の男たち。
男たちは銃を手にしていた。
モデルガンなどではない。
本物の拳銃だ。
るかにしてみれば、そんなものが日本で手に入ることさえ不思議だった。
けれど、あれは紛れもない事実だ。
男たちは本物の拳銃を手にして、るか達に突き付けてきた。
その時は実感も薄かったが、今になってその事実に震えを覚える。
もしも、男が人差し指にほんの少しでも力を加えていたなら、るかは今頃ここにはいなかっただろう。
かがり
「っ…………」
眠っていた椎名かがりが、声をあげた。
めまぐるしい1日に、よほど疲れていたのだろう。
かがりは横になってすぐに寝息を立て始めた。
その吐息が次第にうめきに変わってゆく。
かがり
「……ママ……ママ……いっちゃ嫌だよ……ママ……」
母親の夢を見ているのだろうか。
かがり
「ママ……まゆり、ママ……」
るか
「…………」
その言葉が出ても、るかは然程驚きはしなかった。
何日か前にもかがりは、夜中にその名を呼んだことがあったからだ。
椎名かがり。
椎名まゆり。
同じ苗字だなんて、なんて偶然なんだろう――最初はそう思った。
でも――。
るか
「あ……」
言いかけて言葉に詰まる。
訊きたいことはたくさんあるはずなのに。
勇気が欲しかった。
ほんの少しだけ。
教えてくれという、それだけの勇気が。
るか
「…………」
枕元に手を伸ばすと指先に硬い感触が当たった。
どこにでも売っている、安っぽい模造刀。
それでも、るかにとってそれは宝物だった。
その柄をしっかりと握りしめる。
るか
「あ、あのっ!」
鈴羽
「?」
るか
「き……訊いてもいい……ですか?」
鈴羽
「なに?」
鈴羽が半身を起こし、まっすぐな目でるかを見た。
思わず目を逸らしそうになるのを、ぐっと堪える。
ここで目を逸らしてしまっては、結局何も訊けなくなる。
るかはもう一度、模造刀に触れ、それからゆっくりと口を開いた。
るか
「あ、阿万音さんは……どうして岡部さんのこと、オカリンおじさんって呼ぶんですか?」
鈴羽
「…………」
るか
「どうして、まゆりちゃんのこと、まゆねえさんって呼ぶんですか? どうしてフェイリスさんのこと、ルミねえさんって呼ぶんですか?」
るか
「ボクのこと、るかにいさんって呼ぶんですか?」
鈴羽
「…………」
るか
「“まゆりママ”って、まゆりちゃんのことですよね? どうしてかがりさんが、“まゆりママ”なんて言うんですか?」
鈴羽
「……あたしの言えた義理じゃないってことはわかってる。でも、知らないほうがいいと思う」
るか
「……そうやって、ボクはまた蚊帳の外なんですか?」
るか
「ボクだって知りたいです。ボクだって皆さんと同じ悩みを共有したいんです」
鈴羽
「るかにいさん……」
るか
「教えて……もらえませんか?」
鈴羽はるかの目をまっすぐ見つめたまま、しばらく黙っていた。
るかは、ただ待っていた。
鈴羽
「オカリンおじさんがさ……るかにいさんに事情を言わない理由、あたしなんとなくわかる気がするんだ……」
るか
「……理由、ですか?」
鈴羽
「るかにいさんには、純粋にこの世界の人でいて欲しいんだよ」
鈴羽
「るかにいさんだけは“今”という時間の存在でいて欲しいんだ」
鈴羽
「それが……オカリンおじさんの救いなんだ」
るか
「ボクが……救い?」
鈴羽
「ああ……」
るか
「そんな……」
そんな風に言われたら。
それ以上を訊くことはるかには出来なかった。
本当に岡部倫太郎はそう思ってくれるのだろうか?
それすらわからない。
結局、自分はいつまで経っても何もわからないまま。
そうして漆原るかは、また哀しくなってしまった。
襲撃事件があった翌日。
呼び出した時間よりほんの少し早く着くと、そこには既にその人物の姿があった。
フェイリス
「お待たせしましたニャン」
倫太郎
「ありがとう」
フェイリス
「近くの席にはしばらく誰も座らせないようにするから、思う存分話すといいニャ」
倫太郎
「助かる」
淹れたばかりのコーヒーで喉を湿らせながら、目の前の相手を観察する。
萌郁
「…………」
桐生萌郁。
相変わらず表情もなく、何を考えているのかわからない。
萌郁
「話って……?」
倫太郎
「……腕の調子はどうだ?」
萌郁
「腕?」
倫太郎
「ああ……もう大丈夫なのか?」
昨日のライダースーツの女。
奴は鈴羽の蹴りを腕で直に受け止めていた。
後から鈴羽に訊いた話だと、かなりの手ごたえがあったそうから、それなりにダメージは残っているだろうということだった。
もしもあれが萌郁であったならば――。
萌郁
「……なにを言ってるかわからない」
倫太郎
「そうか……」
だが、まだ萌郁がシロと確定したわけじゃない。
倫太郎
「腕を見せてもらってもいいか?」
萌郁
「腕……?」
倫太郎
「ああ。左の腕の袖をまくってもらいたい」
萌郁
「……どうして?」
倫太郎
「ダメか?」
萌郁
「…………」
萌郁は呆れたようなため息をついた。
動揺している素振りはない。
そのことに、むしろ俺の方が動揺する。
なぜここまで堂々としているのか。
萌郁は、俺に言われた通りにゆっくりと袖をまくり上げた。
病的なまでに白い肌。
それ以外には何もない。
ファンデーションで塗り隠したような

あと
もなければ、痣もない。
当然、包帯のようなものを巻いているでもない。
倫太郎
「ありがとう。しまってくれ」
萌郁
「…………」
萌郁はほんの僅か首を傾げながら、捲った袖を元どおりにした。
あのライダースーツの女は、萌郁じゃなかったんだ。
やはり、と言うべきだな。
俺の中では、萌郁じゃないという予感はあった。
考えてみれば、そもそも萌郁は椎名かがりが俺たちのところにいることを、もっと早くに知っていた。
何もあんなに人が大勢集まっているタイミングに襲撃する必要もないのだ。
萌郁は今回は関係ない。その事実を確認できたことはよかった。
ただ、そうなると新たな問題が出てくる。
あのライダースーツの女は、いったいどこの誰だったのか。
疑惑を向けたことを誤魔化すために、これまでの調査の報告と続行を告げ、俺は萌郁と別れて、もうひとつの場所に向かった。
次に俺が訪ねたのはここだ。
それにしても、正月2日から店を開けているとは熱心なことだ。
一度深呼吸をすると、意を決して、敷居をまたぐ。
倫太郎
「失礼します」

「あ……」
天王寺
「ふん。やっと来やがったか」
まるで、今まで俺が来るのを待っていたような口ぶりだった。
天王寺
「昨日の説明をしに来たんだろ?」
倫太郎
「それもあります」
天王寺には、昨夜特にしつこく事情を訊かれたので、後日改めて説明すると言ってあった。
天王寺
「で? 昨日のはいったいなんだったんだ?」
倫太郎
「その前に、ひとつ確認したいんですが……。昨日のあれは……、あなたの差し金じゃないですよね?」
普段から不機嫌そうな天王寺の顔が、さらに不機嫌そうになった。
天王寺
「俺の? そりゃいったい、どういう意味だ。なんで俺が、あんな連中をおめえんとこに


んなきゃならねえ」
倫太郎
「わかりませんか?」
天王寺
「わかるわけねえだろ、ンなもん」
倫太郎
「……それは」
俺は近くに綯がいるのを確認して、口を開いた。
倫太郎
「あなたがラウンダーだからですよ。ミスター・
フェルディナント・ブラウン

……いや、FBと呼んだほうがいいですか?」
天王寺
「…………」
不機嫌そうだった天王寺の顔から、表情が消えた。
天王寺
「てめえ……」

「お父……さん?」
父親の温度が変わったのを敏感に察したのか、綯が様子を呎ってきた。

「どうしたの……?」
天王寺
「ん? どうしたって、なにがだ?」

「急に、怖い顔したから……」
天王寺
「そうか? お父さんはいつも通りだぞ。ほら」

「……うん」
天王寺
「ほら、わかったら、良い子だから外で――、あ、いやいや、そこでテレビでも見てな。な?」

「……うん」
綯はこちらの様子を気にしながらも、言われた通りブラウン管の前の椅子に腰を下ろした。
テレビからは、正月のお笑い番組が流れている。
倫太郎
「……やはり、娘には知られたくはないんですね」
天王寺
「…………」
天王寺は何も返さずに、綯から離れた椅子に促した。
いつものように怒鳴るでもなく、ただ冷静に冷徹に。
その態度に、冬だというのに汗が吹き出す。
だが、切り出してしまった以上、引き返すことは出来ない。
俺は促されるまま、それでもいつでも動けるように両足に力を込めた状態で、小さな椅子に腰かけた。
天王寺
「おめえ……何を言ってやがる?」
倫太郎
「……誤魔化しても無駄です」
天王寺
「誤魔化すもなにも、俺にはおめえが何を言ってるのか、さっぱりわからねえな」
天王寺
「なんだ、そのFBとかなんとかってーのは。新手の
SNS

か?」
倫太郎
「俺は知ってるんです。あなたがSERNのラウンダーだってことを」
天王寺
「…………」
真っ直ぐな視線に射竦められる。
その目は普段の天王寺の目とは全くの別物だった。
殺し屋の目。
それも、冷徹で、殺気を隠そうともしない殺し屋の目だ。
天王寺
「……一応、聞いてやるが、おめえのその情報はどこからのもんだ?」
倫太郎
「話す必要はありません」
威圧されるな。この対話の主導権は俺が握る。
天王寺
「いいから聞かせろや。それくらいの覚悟を決めて、ここに来たんだろうが」
倫太郎
「話してもどうせあなたは信じない」
天王寺
「そう言わずに、茶飲み話としゃれこもうや。どうせこんな日に客なんか来ねえしな」
倫太郎
「…………」
この男はSERNの犬――ラウンダーだ。
そのラウンダーがあの世界で俺たちに何をしたのか。
決して忘れられることではない。
しかし、おそらく天王寺は、自ら進んでSERNの人間になったわけではない。
そこに至るまでには、何らかの理由があったのだろう。
少なくとも、α世界線ではそうだったと俺は感じた。
もちろん今俺がいるこのβ世界線では違うかもしれない。
この世界線の彼は、橋田鈴という人物に会っていないはずで、その影響がどの程度大きな物なのかも俺は知らない。
天王寺は、その視線で俺を捉えたまま、微動だにしない。
こちらの出方次第では、問答無用で消す――そう言っているようだった。
いいだろう。ならば、話をしてやろうじゃないか。
それこそ雲を掴むような内容の話をな。
天王寺
「ふんっ、世界線な。到底信じられる話じゃねぇな」
倫太郎
「最初にそう言いましたよ」
倫太郎
「それに、あなたが信じようが信じまいが関係ない」
倫太郎





あなた
①①①


正体
①①


知って
①①①
いる
①①
。重要なのはそこだけです」
天王寺
「……確かにその通りだ」
倫太郎
「……!」
認めた!
天王寺
「おめえの話はほぼ完璧だ。俺しか知らねえようなことまで知ってやがる」
天王寺
「正直、薄気味悪いくらいだ」
天王寺に正体を認めさせたことで、ひとまずこの対話の1ラウンド目は俺が取ったと考えていいだろう。
問題はここからだ。
倫太郎
「SERNの機密保持は絶対だということは知っています。それに、任務に失敗した者だけでなく、達成した者まで処分されるということも」
そうして、SERNはラウンダーとなった人間を使い捨てにしてきた。
そしてその手でまゆりを――。
天王寺
「そこまで知ってんのかよ。だったら……」
ふらりと立ち上がる。
倫太郎
「っ……しかし、これは任務とは関係ない」
気圧されながらも、掠れた声を絞り出す。
倫太郎
「機密だってそうです。
漏えい
①①①
したわけじゃない。俺は
最初
①①
から
①①
知って
①①①
いた
①①
に過ぎない」
倫太郎
「だから、処罰の対象にはならない……。違いますか?」
天王寺
「……ふん。
詭弁
きべん
だな」
立ち上がった天王寺の顔が眼前に迫る。

みどり
がかった瞳に射すくめられ、蛇に睨まれた蛙のように
身動
みじろ
ぎひとつ出来なかった。
天王寺
「だが間違っちゃいねえ」
倫太郎
「…………」
天王寺
「別に俺は、SERNからIBN5100とやらを捜せとも言われてねぇし、おめえらを連れて来いとも言われてねぇ」
天王寺
「言われてねぇことは、する必要がねぇってことだ」
天王寺
「俺がラウンダーだってことも、おめえが黙ってりゃ済む。何も困ったことはねぇな」
天王寺の視線が、背後でテレビを見ている綯に向けられた。
野獣の目からは打って変わった、親の目だった。
天王寺
「で、おめえの目的はなんだ? 俺に全て話したってことは、なにか目的があんだろ?」
倫太郎
「……実は、あなたに頼みたいことがある」
天王寺は、黙ったまま先を促した。
倫太郎
「椎名かがりを――昨夜、狙われた女性を守ってやって欲しい」
天王寺
「あの嬢ちゃんは、誰に、なぜ、狙われてる?」
倫太郎
「わかりません」
天王寺
「それじゃあ、そんな話は受けられねぇな」
倫太郎
「娘を巻き込みたくないから……ですか?」
天王寺
「わかってんじゃねえか。だったら最初からそんな話すんじゃねえよ」
倫太郎
「すでに一度巻き込まれているじゃないですか。昨日のようなことが、今後ないとでも?」
天王寺
「綯を人質にしてるつもりか?」
天王寺
「殺すぞテメエ……」
倫太郎
「……っ」
ひるむな。ここでひるんだら交渉が終わってしまう。
倫太郎
「協力し合おう、と言っているんですよ」
天王寺
「ふん。協力、ね」
天王寺
「こっちにデメリットしかねえじゃねえか」
鈴羽
「そんなことないよ」
天王寺の声を遮るように入って来たのは、鈴羽と――。
かがり
「すみません……」
倫太郎
「かがり……」
天王寺
「…………」
倫太郎
「鈴羽、話を聞いてたのか?」
鈴羽はうなずいた。
鈴羽
「たとえば、あたしとかがりをバイトとしてここに置いてもらえれば、目を離さなくてもよくなる」
確かにそれならば、ラボからも近い上に、ラボにいるよりも安全かもしれない。綯を守る
ついで
①①①
、と考えてもらえればいいわけで。
天王寺
「おめえらがこのビルから出てく方が手っ取り早いな。そしたら俺や綯が巻き込まれることもなくなる」
鈴羽
「あなたたち親子は昨日、襲ってきた連中の顔を見ている。それがなにを意味するか、分からないわけじゃないはず」
天王寺
「…………」
あの連中が、顔を見られた人間全員を殺そうとする可能性は決してゼロじゃない、ということか。
鈴羽
「あたしは、戦闘の経験がある。銃も扱える。あなたも昨日、見てたはず」
鈴羽
「だから、それなりに役には立てる」
天王寺
「…………」
天王寺は頭をペチペチと叩きながら、しばらく考えていたが――。

「お父さん」
ずっと黙ってテレビを見ていた綯が、不意に声をかけてきた。

「私、よく、分かんないけど」

「昨日みたいなことは、怖いから、もう、ヤダな」
天王寺
「綯……」

「お父さんが守ってくれて、すごく嬉しかったけど、お父さんが私を守る為に無茶してケガするかもって想像したら、もっと、怖くなった」

「鈴羽おねえちゃんは、すごく強いし、昨日も、私のことかばってくれてたよ」
綯のやつ……今の俺たちの話、理解してたのか?

「私は、おねえちゃんたちと一緒がいいな」
綯の縋るような瞳を向けられた天王寺は、困ったように頭を

さす
ると、ぶっきらぼうに言った。
天王寺
「言っとくが、バイト代はふたりでひとり分だからな」
鈴羽
「渋いね」
天王寺
「文句があるならいいんだぜ」
かがり
「い、いえ。ありがとうございます、店長さんっ」

「お父さん!」
綯が、父親に抱きついた。
良かった。
天王寺がついているなら、少しはかがりの身の安全も確保できるだろう。
倫太郎
「ありがとうございます……」
天王寺
「別におめえのためじゃねぇ。綯のためだ」
早速、かがり達に嬉しそうに絡みついている綯。
そんな彼女を見る天王寺の目は、父親のそれに戻っていた。
天王寺
「まあ、こっちはそういうことにしてやっからよ。岡部、おめえは連中が何者なのか、突き止めろ」
天王寺
「じゃねえと、対策も打ちようがねえぞ。わかったな」
倫太郎
「わかりました」
と、答えたはいいものの。
正直なところ、手掛かりは何もないと言っていい。
ともあれ、くれぐれも鈴羽とかがりのことを頼むと告げて、ラボへ戻ろうとした俺の背中に、天王寺が思い出したように声をかけた。
天王寺
「そうだ、そういやあの連中、妙な番号を口走ってやがったな」
倫太郎
「番号……?」
天王寺
「確か……そう、K6205とかなんとか……」
K6205……。
何かの暗号だろうか。
天王寺
「しかも“ファイブ”を“ファイフ”って発音してやがった」
倫太郎
「……どこかの

なま
りってことですか?」
天王寺
「そうじゃねぇ。
フォネティックコード

、っつってな。軍隊用語だ」
倫太郎
「軍隊……」
天王寺
「それも西側のな」
フェイリス
「あ、やっと来たニャン、オカリン」
ブラウン管工房からまっすぐラボに戻ると、昨日の主だった面々が集まっていた。
真帆だけは『Amadeus』の不調で手が離せないらしく、姿がない。
倫太郎
「みんな、大丈夫か? あんなことがあったばかりなのに集まって」
フブキ
「その“あんなこと”が起きた理由を聞きに来たんですよ」
カエデ
「それに、場所を移すよりも同じ場所のほうが安全だって、橋田さんが……」

「昨日の今日で警戒してるところに来るバカはいないっしょ。それもこんな真昼間から」
るか
「バラバラでいるより、みんなでいる方が安心です」
確かに、その通りかもしれない。
相手が何者であろうと、日本の、それもこの秋葉原の真ん中で白昼堂々、行動を起こすとは考えにくい。
由季
「とにかく皆さん無事で良かったです」
まゆり
「由季さん、ありがとう。わざわざ来てくれて」
由季
「ううん。私も昨日の夜、話を聞いて心配だったから」
あの現場にいなかった由季も、わざわざ様子を見に来てくれたらしい。
由季
「でも、信じられないです。この日本でそんな恐ろしいことがあるなんて……」

「日本じゃなくても、あんな経験はなかなかできないお……」
それはそうだ。
普通に生きている人間が遭遇することは、まずないだろう。
それが普通なんだ。
由季
「あの……岡部さんが来て早々で悪いんですが、私この後、バイトがあって……」
倫太郎
「ああ、気にしないでくれ」
由季
「皆さんの顔が見れて安心しました。でも、まだ油断は禁物なので、気をつけてくださ――きゃっ!」
倫太郎
「危ないっ」
すれ違いざま、転びそうになった由季の腕を慌てて掴んだ。
由季
「痛っ……」
倫太郎
「あ……悪い……」
由季
「あ、いえ……。ちょうどここ、昨日、駅で転んで怪我しちゃって……」
由季は、俺が掴んだ腕を擦りながら恥ずかしそうに言った。
由季
「その時も、何もないところで転んじゃったんですよ。ほんと、ドジでイヤになっちゃいます」
まゆり
「気をつけてね、由季さん」
由季
「ん、ありがとう。それじゃあ、皆さんも、お気をつけて」
ドアが閉まり、軽快な足音が遠ざかってゆく。
年明け早々、2日連続でバイトか……。
倫太郎
「…………」

「どしたん、オカリン?」
倫太郎
「いや……」
腕の怪我――。
あのライダースーツの女と同じ、左腕だ……。
でも、まさかそんなわけは……。
フブキ
「それじゃあ早速ですけど、オカリンさん。昨日のあの出来事について説明してもらっていいですか?」
フブキは、まゆりやるかに比べるとまだ表情に余裕が見られる。
フブキとカエデは買い出しに行っていたおかげで、襲撃に遭遇しなかったからだろう。外で襲撃者の連中と鉢合わせにならなかったのは幸いだった。
倫太郎
「そうだな。じゃあまず……」
どこまで事情を話すか――それに関しては、昨日ダルとも散々話し合った。
さすがにあれだけの事があった後となれば、適当に誤魔化すわけにもいかない。
この場でタイムマシンのことを知っているのは、ダル、フェイリス、そしてまゆりの3人だけ。
るかやフブキやカエデにまで、それを話して良いものかどうか。
そして真帆――。
紅莉栖がタイムマシンの理論を完成させていたと知れば、彼女は間違いなく興味を持つだろう――。
結局、俺たちが出した結論は――。
倫太郎
「……ということなんだ」
フブキ
「つまり、かがりさんは記憶を失っている間に、何らかの犯罪に巻き込まれたかもしれないってこと?」
倫太郎
「おそらくな……」
カエデ
「だったら、どうして警察に言わないんですか……?」
倫太郎
「それはその……彼女が酷く怯えるんだ。警察のことをね。もしかしたら、警察もその犯罪に関係しているのかもしれない」
フブキ
「うー……なんかスッキリしないなぁ」
それはそうだろう。
要するに言っていることは“わからない”ということなのだから。
だが、事実の大半を隠してはいるものの、実際にわからないことだらけなのは同じだ。
るか
「昨日の一件でわかるのは、襲ってきた人たちの狙いはかがりさんだけで、ボクたちに手を出すことは無いだろうということですよね……」
カエデ
「どうしてそう思うの……?」
るか
「あの状況なら、ボクらのうち誰かを人質に取ることだって、出来たはずなんです……」
るか
「それをしようとしなかったということは、あの人たちは、あまり事を大きくしたくなかったんだと思います……」
倫太郎
「それについては、俺とダルも同じ結論になった」
倫太郎
「だから、俺たちさえ大人しくしていれば、きっと安全なはずだ」
それは嘘だ。
さっき鈴羽が言った通り、襲撃者の顔を見た全員が口封じのために狙われる可能性は、じゅうぶんにある。
ただ、それをここで言ってみんなを不安がらせることは、得策ではなかった。
倫太郎
「だから、中瀬さんや来嶋さんは、しばらくここに来ないほうがいい」
カエデ
「でも、かがりさんはどうするんですか……?」
倫太郎
「それは、もう手は打ってある。ボディガードを付けた」
るか
「ボディガード、ですか?」
倫太郎
「昨日、あの連中を撃退した心強い2人をな」
まゆり
「スズさんと、店長さんだね」
フブキ
「ああ、あのムキムキおじさん!」
カエデ
「でも、それだと、またいつ襲われるかもしれないって、怯え続けることに……」
そうだ。守勢に回っているだけじゃ、なんの解決にもならない。
倫太郎
「こっちはこっちで、探偵あたりを雇って、かがりが誰に狙われているのか、調べるつもりだ」
倫太郎
「ある程度、情報が出揃ったら、場合によっては警察に話す」
もちろんこの話も半分以上でたらめだ。
探偵や警察に話したところで、タイムトラベラーの存在なんか信じてもらえない。
それよりも、まずはここにいるみんなを安心させておいて、あとは自分でなんとかするしかない。
本当は、もうこんな陰謀劇めいたことに巻き込まれるのはゴメンなのに。
それでも、平穏な時間を取り戻すためには、やるしかないんだ。
フェイリス
「――だニャ……って、オカリン、聞いてるニャ?」
倫太郎
「え? あ、すまない……何の話だ?」
フェイリス
「昨日の件、黒木にも伝えておいたニャ」
フェイリス
「アキバ界隈で何かおかしな動きがあったら、すぐに連絡が来る手はずニャ」
倫太郎
「そうか……」
フェイリス
「あと、自警団の見回りも強化してもらうニャ。これでしばらくは、変な動きは出来ないはずニャ」
倫太郎
「ありがとう、フェイリス。助かるよ」
フェイリス
「お安い御用ニャ」
るか
「あの。ボクにも何か手伝えること、ありませんか?」
るか
「かがりさんが大変なのに、ボク、何もできなくて……岡部さんの力にもなれないなんて、そんなの……」
まゆり
「まゆしぃも、かがりさんのために何かしたいな……」
フブキ
「でも……私たちに出来ることなんてあるのかな?」
るか
「それは……」
全員が黙りこんだ。
皆、あんな目に遭いながらも、なんとかしてやりたいのは本当なんだろう。
かといって、これ以上危険な目に遭わせるわけにもいかない。
その時、俺はふと天王寺の言葉を思い出した。
倫太郎
「K6205……」

「なんぞそれ?」
倫太郎
「昨日の連中が口にしていたらしいんだが、俺にも何のことだかわからないんだ……」

「ちょい待ち。今、
ググって

みる」
ダルはブラウザを表示させると、手早くその文字を打ち込んだ。

「んー……商品の番号とかしか出てこんね」
天王寺は、軍隊の奴らかもしれないと言っていた。
だとしたら軍関係の暗号かなにかかもしれない。
であれば、俺たちにはお手上げだ。
何か手がかりになるかもしれないとも思ったんだが……。
カエデ
「ケッヘル……」
倫太郎
「ん? 来嶋さん。今、何て?」
カエデ
「いえ、Kってことは、ケッヘル番号かなって思ったんですけど。関係ないですよね……」
フブキ
「ケッヘル番号ってなに?」
カエデ
「モーツァルトの曲につけられた番号のことよ。モーツァルトが亡くなった後に、ケッヘルっていう人が時系列に合わせてつけた番号なんだけど……」
カエデ
「でも、さすがのモーツァルトでも6000番台までは存在しないはずですし、そもそも事件とは……」
モーツァルト……。
ヴォルフガング・A・モーツァルト。
カエデ
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって……」
倫太郎
「ダル。そのケッヘル番号っていうのは、いくつまである?」

「えーと……」

「最後が626番の『レクイエム』って書いてある」
カエデ
「モーツァルトが死ぬ間際に書いていた曲ですね……」
まゆり
「カエデさん、詳しいね~」
カエデ
「ほら、私、ピアノやってるから……」
倫太郎
「それじゃあ、K620番は何ていう曲だ?」

「620、620……お、あったあった。『
魔笛

』って曲みたい」
名前くらいは聞いたことがある曲だ。
倫太郎
「ちょっと見せてくれ」
ダルの背後からPCの画面を覗き込む。
開かれたモーツァルトのWIKIにある、『魔笛』の項目をクリックする。
『魔笛』。
K620番。
1791年作曲。
モーツァルトが最後に完成させたオペラ。
歌詞に
フリーメイソン

の様々な教義やシンボルが用いられていることでも有名……。

「K6205っつーことは、5曲目?」
5曲目は五重奏『
Hm!
ウ!

hm!
ウ!

hm!
ウ!

hm!
ウ!

『口に鍵をかけられた鳥刺しのパパゲーノが、鍵を外してくれと歌う――』
モーツァルト。
アマデウス。
フリーメイソン。
口に鍵をかけられた――?

「なんかわかりそう?」
倫太郎
「いや……そういうわけじゃないんだが……」
なんだろう……この気味の悪い感じは。
それについ最近、モーツァルトの話を誰かとしたような気がするんだが。
真帆
「パスワードは見ないで」
真帆だ。
真帆が、『Amadeus』にアクセスするときのIDが、モーツァルトと関係のあるサリエリだった。
だからなんだ、と言えばそれまでだが……。
そういえば昨夜、あの事件の直前、真帆が『Amadeus』にアクセスできなくなったと言っていたな。
結局あの原因はなんだったんだ?
電話かRINEで連絡を取ってみよう。
さて、どっちの方が早く情報を確認できるだろう。
倫太郎
「ちょっと電話させてくれ」
電話帳から真帆を呼び出し、コールする。
数度のコールで繋がった。
すぐに反応してくれるといいんだが……。
うおっ!
いきなり電話が掛かってきて、飛び上がりそうになった。
画面を見ると、真帆からだった。
今のメッセージを見てわざわざかけてきたのか?
真帆
「なに? また、なにかあったの?」
倫太郎
「いや、そうじゃない。訊きたいことがあるんだ」
真帆
「手短かにお願い」
イライラが声にまで表れていた。ということは、アクセスできなくなった原因は解明できていないのかもしれない。
倫太郎
「『Amadeus』はどうなった?」
真帆
「ダメ」
倫太郎
「システムが落ちてるのか?」
真帆
「違うわ。アクセスできないのよ」
それはつまり――。
真帆
「何者かが『Amadeus』のシステムを乗っ取ったのかも」
乗っ取られた?
『Amadeus』が?
でも、どうしてそんなことを?
真帆
「ごめんなさい、もういいかしら? 原因が解明できたら、こっちから連絡するわ」
まくしたてるように言って、電話は切られてしまった。

「真帆たん? なんて?」
倫太郎
「『Amadeus』が何者かによって乗っ取られたらしいって……」

「乗っ取りかー」
倫太郎
「モーツァルト繋がりで、なにか関連があるかと思ったが……」
今はまだなんとも言えないな……。
不審な出来事の断片が、俺の周囲には無数に散らばっている。
そんな気がする。
それらをひとつひとつ集めて、関連付けていけば、答えが見えてくるんだろうか。
たとえば――。
阿万音由季の左腕の怪我だってそうだ。
あれがなにを意味しているのか……。
倫太郎
「……?」
真帆との通話を終え、スマホをポケットにしまおうとしていたちょうどその時、着信音が鳴った。
真帆が何か言い忘れたのだろうか……そう思って発信者の名前を見た俺は、ハッとした。
倫太郎
「……これは」
まゆり
「オカリン? 電話……誰から?」
その質問に返答さえできないまま、俺はじっと画面を見つめる。
その間も着信音は鳴り続けている。
どういうことだ?
乗っ取られたはずの、『Amadeus』がどうして?
これは何かの罠かだろうか。
どうする?
出るか。
それとも……。
倫太郎
「もしもし……」
アマデウス紅莉栖
「……助けて」
倫太郎
「“紅莉栖”!?」
アマデウス紅莉栖
「助けて……岡部……」
その瞬間――。
激しい眩暈に襲われ、視界が闇に覆われた。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「………………」
倫太郎
「……………………」
暗やみの底から浮上してゆくような感覚。
朦朧としていた意識が、次第に明瞭になってゆく。
倫太郎
「ここ……は……」
緩慢な動作で辺りを見回す。
見間違えるはずもない。
未来ガジェット研究所――。
さっきまで俺がいた場所だ。
なにもおかしいことはない。
ただそれも――皆の姿が消えてしまっていなかったのなら、だ。
室内からは、いままでそこにいたみんなの姿が消えていた。
倫太郎
「……っ」
時計を確認する。
ついさっき、真帆との電話を終えた時はまだ15時になるかならないかの時間だった。
あれから数分しか経っていない。
仮に俺が気を失っていたとしても、その僅かな間に、全員がどこかへ行くというのは考え難い。
ということは……。
倫太郎
「まさか……」
室内をゆっくりと歩き回る。
奇妙なことは他にもあった。
いつもダルが向かっているPC。
そのキーボードの上にうっすらと埃が積もっている。
まるで、しばらくの間誰も使っていないかのようだ。
そして、部屋の隅。
いつもなら、まゆりの紙袋が置いてある。
作りかけのコスプレの衣装なんかが入れられている紙袋だ。
さっきまでは確かにあったはずのそれも、いつの間にか無くなっている。
これは……。
倫太郎
「また、世界線が……変わった……」
でも、どうして?
倫太郎
「そういえば……」
さっきの“紅莉栖”の言葉。
アマデウス紅莉栖
「助けて……岡部……」
何故“紅莉栖”はあんなことを?
この世界線変動と関係があるのか?
それを確かめようと、ポケットからスマホを取り出し『Amadeus』のアプリを起動しようとして――その指が止まった。
倫太郎
「消えてる……」
スマホ上から『Amadeus』のアイコンが消えていた。
倫太郎
(どういうことだ……これは……?)
脳をフル稼働させ、何が起きているのか必死で考える。
しかし答えなんて出てくるはずも無かった。
倫太郎
(落ち着け……。とにかく状況を確認するんだ)
この
①①
世界
①①
がどんな状況なのかを、冷静に確かめろ。
そう決意して、ドアへと足を向けようとしたその時――。
部屋の奥。
今はもうほとんど使っていなかったはずの、開発室の奥から物音が聞こえた。
誰かいる。
誰だ?
ダルか?
まゆりか?
ゆっくりと近づいてゆく。
倫太郎
「…………!」
息が――止まりそうだった。
忘れない。
忘れられるはずもない姿。
そこに立っていたのは――。
――牧瀬紅莉栖だった。
躊躇していたら、『Amadeus』からの呼びかけは途絶え、俺のスマホは沈黙した。
倫太郎
「何が、起こって――」
その、直後――。
激しい目眩に襲われ、視界が闇に覆われた。
倫太郎
「なっ!? これは!?」
紅莉栖
「…………」
牧瀬紅莉栖は視線を落として、ただじっと何かを見つめているようだった。
倫太郎
(馬鹿、な……)
紅莉栖がいるわけがない。
だって、あいつは。
あいつは死んでしまったんだから。
もしかして幻でも見ているのだろうか?
紅莉栖に会いたいと願う気持ちが、あいつの幻を生み出したとでもいうのか?
しかし幻とするには、その姿はあまりにも
現実的
リアル
で。
それなのに声をかけてしまえば、すぐにでも消えてしまいそうで。
俺は、言葉を発することも出来ずにいた。
紅莉栖は、身じろぎひとつせず、いったい何を見つめているのだろう。
あまりにも動かない彼女を前に、やはり幻に違いないと――そう思いはじめた時。
紅莉栖
「はぁ……」
紅莉栖はようやく小さな息を吐き出し、そしてゆっくりと振り返った。
紅莉栖
「……!」
紅莉栖
「岡部……」
倫太郎
「ぁ……」
喉がカラカラに乾いて、声が出ない。
紅莉栖
「来てたなら来てたって言いなさいよ。黙って立ってたら、ビックリするじゃない」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「あけまして、おめでとう」
倫太郎
「え、あ……」
紅莉栖
「それにしても珍しいわね、あんたがここに顔を出すなんて」
倫太郎
「っ……」
紅莉栖
「岡部……?」
倫太郎
「紅莉、栖……」
紅莉栖
「……?」
倫太郎
「紅莉栖……なんだな?」
紅莉栖
「……新年早々、何言ってるのよ? 大丈夫? 何か悪いものでも食べた?」
どこか不機嫌そうな表情も。
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「なに?」
ふとした時に見せる、優しげな瞳も。
そしてこの――。
紅莉栖
「どうしたのよ? 本当に大丈夫な――」
紅莉栖
「きゃっ!」
この温もりも。
紅莉栖
「ちょっ! あ、あ、あんた、急に何を――」
幻なんかじゃない。
画面の中の人工知能でもない。
本物の――牧瀬紅莉栖。
紅莉栖
「岡部……?」
生きて
①①①
いる
①①
紅莉栖だ。
倫太郎
「っ……」
紅莉栖
「ねえ、岡部……お願い、離して……」
倫太郎
「すまない……でも、もう少しだけ、このまま……」
紅莉栖
「……あんたもしかして……泣いてるの?」
初めて気づいた。
自分の頬が、濡れていることに。
紅莉栖
「…………」
手のひらの優しい感触が、背中にそっと触れた。
紅莉栖
「心配しないで……もう、平気だから……」
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「大丈夫よ……大丈夫だから……」
小さな声でそう囁きながら、紅莉栖はずっと俺の背中を撫でてくれていた。
包み込んでくれていた。
まるで子供をあやす、母親のような慈しみで。
倫太郎
「すまなかった……」
なんとか落ち着きを取り戻し、ようやく俺たちは向かい合った。
目の前の紅莉栖は、まだ消えていない。
ちゃんとこの世に存在している。
それが何を意味するのか、冷静になった俺は気づきはじめていた。
紅莉栖
「ううん、気にしないで……」
紅莉栖
「無理もないわよ。私だって時々あるもの、そういうこと……」
倫太郎
「そういうこと?」
紅莉栖
「思い出したんでしょう? まゆりのこと……」
……そう、紅莉栖がここにいる。
ということは、ここはα世界線。
すなわち、まゆりがいない世界。
まゆりが、死んでしまった世界。
ほんの少しだけ期待してしまった。もしかしたらここは、
運命石の扉
シュタインズゲート
を開いた向こう側なのではないかと。
どこかで誰かが開いてくれた扉の先にある、新たな未来なんじゃないかと。
だが、そんな都合の良い話なんてあるはずもなかった。
どういう経緯があったのかは、今の俺にはわからない。
けれど、俺は選択してしまったんだろう。
まゆりを――諦めることを。
ここはその先にある
未来
いま
だった。
倫太郎
「っ……」
再び突き付けられたまゆりの死に、俺の心臓は今にも握りつぶされそうな悲鳴を上げた。
倫太郎
「まゆ……り……」
まゆりは今度はどんな死に方をした?
倫太郎
「ぁ……っ、あぁ……」
紅莉栖
「岡部?」
線路に突き落とされたんだろうか。
倫太郎
「はぁ……はっ……はぁっ……」
銃で撃たれたんだろうか。
倫太郎
「はぁっ……はぁ、はぁっ……は、ぁ……」
それとも――。
紅莉栖
「落ち着いて!」
紅莉栖の小さな手が、震える俺の手を包み込んだ。
紅莉栖
「ね? ほら、深く息を吐いて……」
倫太郎
「っ……はぁぁ……」
早鐘を打っていた鼓動が、少しずつ治まっていく。
紅莉栖
「ごめん……私が、余計なこと言っちゃったから……」
倫太郎
「いや……そうじゃないんだ。そうじゃ……」
紅莉栖
「……薬、飲む? 水持ってくる」
自分の服のポケットを

まさぐ
ると、小さな薬の箱が出てきた。
これまで俺が飲んでいたものと同じ、安定剤だ。
結局俺は、この世界でも、
安定剤
こいつ
に頼っているらしい。
紅莉栖が流しで水を用意している間に、ぐるりと室内を見回す。
紅莉栖
「ねえ、岡部。どうして……」
紅莉栖
「どうして、ここに来たの?」
倫太郎
「え……?」
紅莉栖
「ここには、ずっと寄りつかなかったでしょ? 橋田も来なくなったし……」
倫太郎
「ダルも?」
紅莉栖
「ええ……」
それにしては、室内は綺麗に保たれていた。
良く見るとダルのPCなど、ところどころ埃が積もっているところはあるが、それ以外は定期的に掃除されているようだ。
倫太郎
「お前は……紅莉栖は来ていたのか?」
紅莉栖
「……時々ね。じゃないと、寂しいだろうと思って……」
誰が、とは言わなくても、俺にはわかった。
まゆりはここが好きだった。
この未来ガジェット研究所が。
ここで、ラボメンみんなで過ごす時間が大好きだった。
紅莉栖
「ゴメンね……」
倫太郎
「……どうして謝る?」
紅莉栖
「だって……」
待っていても、それ以降の答えは出てこなかった。
紅莉栖は何を謝ったのか。
まゆりの話を口にしたことなのか。
思い出させてしまったことなのか。
それとも――俺に選択させてしまったこと、なのか――。
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「……いや、なんでもない」
紅莉栖
「うん……」
呼べば返事が戻って来る。
腕を伸ばせば触れることが出来る。
それだけで、涙が溢れそうになる。
もしもこのまま――。
倫太郎
「……っ……」
何を考えているんだ、俺は!
俺は一度、全てを諦め紅莉栖を見殺しにした男だ。
それなのに、こうして再びこの世界線に来て、紅莉栖に会えたことを嬉しいと思っている。
またまゆりを失ってしまった――その悲しみと同時に、もっとこの時間が続いてくれればいいと思ってしまっている。
そんな資格などないというのに。
この世に神がいるのなら、それはきっと性格の捻じ曲がった残酷な奴に違いない。
何故、今になって再び俺をこんな目に遭わせる?
それほどに、俺が犯した罪は重いというのか。
一度決めたことのはずだ。
俺には世界を救えない。
紅莉栖を救えない。
それなのに――。
こうして紅莉栖を前にして、俺は確実に揺らいでいる。
もう一度、β世界線に戻るべきかどうか。
Dメールを送るべきかどうか。
倫太郎
「…………」
……Dメール?
倫太郎
「そういえば……電話レンジ(仮)はどうした?」
紅莉栖
「え? どうって……あんたが破棄させたんでしょ。忘れたの?」
倫太郎
「あ……、ああ、そうだった……な……」
どうやら、電話レンジ(仮)は、既にこの世には存在しないらしい。
当然といえば当然だった。
あれがあるというだけで、俺たちはSERNの
標的
ターゲット
になるのだから。
だが電話レンジ(仮)がないということは、俺の意思でこの世界線から抜け出ることは出来ないことも意味していた。
ならば、たとえこの世界線に留まろうとも、それはもう俺の責任じゃない。
俺が悪いわけでも、俺が望んだわけでもない。
だったら――。
紅莉栖
「ねえ、岡部……」
倫太郎
「ん?」
紅莉栖
「…………」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「悪いんだけど、何か飲むもの買ってきてくれない?」
倫太郎
「飲むもの……?」
紅莉栖
「ちょっと、喉乾いちゃったのよね。できれば温かいものがいいわ」
倫太郎
「インスタントのコーヒーぐらいなら、作るぞ」
というか、紅莉栖はいつも、俺に作らせていたじゃないか。
砂糖は2個。ミルクは入れない。
紅莉栖
「……コーヒー、切らしちゃってるのよ」
倫太郎
「……分かった」
そうだな。行ってこよう。
一度、外に出て頭の中を整理したいし。
紅莉栖
「ミルクと砂糖の入った、甘いやつね」
倫太郎
「ミルクは入れないんじゃなかったのか?」
紅莉栖
「寒い日には、思い切り甘ったるいものが飲みたくなる」
倫太郎
「了解だ」
立ち上がり扉へと向かい、途中で一度振り返った。
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「いや……」
目を離したら、消えてしまいそうな気がして――なんて、さすがに格好悪くて口には出来なかった。
紅莉栖
「岡部」
倫太郎
「……?」
紅莉栖
「しっかりね」
倫太郎
「子供じゃないんだ。お使いぐらい、出来る」
紅莉栖
「うん、そうね」
紅莉栖
「行ってらっしゃい」
倫太郎
「ふぅ……」
ラボを一歩出るなり、全身の力が抜けた。
どうやら俺は、生きている紅莉栖を目の前にして、かなり緊張していたらしい。
生身の紅莉栖とどうやって話せばいいのか、何を話せばいいのかわからなくなっている。
“紅莉栖”を相手にしていた時は、あんなに普通に喋れたというのに。
倫太郎
「…………」
それにしても、いまだに信じられない。
ここは本当にα世界線なんだろうか。
いや、紅莉栖がいるということは、間違いないんだろう。
でも、だとしたら、いったい何故。
誰が何をして、世界線の変動が起きた?
アマデウス紅莉栖
「助けて……岡部……」
あの時の、“紅莉栖”からの連絡。
もしかしたら、あれが何かのきっかけだったのだろうか。
……いや、考えるのはよそう。
これが、誰か知らない人間によって起こされたものであるのなら、俺はもう介入するべきじゃない。
介入なんてしたくない。
世界の構造を覆したい、だなんて、今は決して思わない。
俺はただ平穏に暮らしたいだけだ――。
世界線や
アトラクタフィールド

なんて概念の無い世界で。
運命という悪戯に翻弄されるのはもう止めたんだ。
俺に出来ることなんて、もう何も――。
倫太郎
「…………」
急激に湧き上がる違和感。
さっきの、紅莉栖の言葉……あれはどういう――。
紅莉栖
「岡部」
紅莉栖
「しっかりね」
まさか、あいつ!
俺は踵を返すと、ラボに急いだ。
倫太郎
「紅莉栖!!」
紅莉栖
「え……?」
倫太郎
「紅莉栖……お前、それ……」
紅莉栖
「ふむん。参ったわね。見つかっちゃったか」
紅莉栖は、最初に俺が見た時と同じように、開発室の奥に向かって佇んでいた。
暗がりの奥。
さっきまで、大きな布がかけられていたそこには、扉の外れた古びた
電子レンジ

が1台。
――電話レンジ(仮)。
かつて俺たちがここで作り上げた、未来ガジェット8号機。
そして俺の――否、世界の運命を変えてしまったガジェット。
倫太郎
「どうして……。それは、破棄したんじゃなかったのか?」
紅莉栖
「……ええ。破棄したわ」
紅莉栖
「これは、私が新しく作り直したの。言ってみれば『電話レンジ改』ね」
紅莉栖
「正しくは、(仮)が付くんだった? それなら、『電話レンジ(仮)改』になる」
倫太郎
「名前なんてどうだっていい。作り直したって、どうしてそんなことを……」
紅莉栖
「過去に、メールを送るためよ」
紅莉栖
「メールを送って、世界線を変えるの」
紅莉栖
「ううん、あんたにとっては“戻す”って言った方がいいのかもね。世界線を……」
紅莉栖
「これ、完成したのはね、実は1ヶ月以上前なの」
紅莉栖
「それからはひたすら、ここに立って、送るべきか、送らないでおくべきか、悩み続けてた」
紅莉栖
「それがまさか、あんたの方から来るなんてね……」
倫太郎
「お前……何を……」
紅莉栖
「ねえ、岡部」
紅莉栖
「あんた、ついさっき、別の世界線から来たでしょ?」
倫太郎
「――!」
紅莉栖
「それもβ世界線から……違う?」
倫太郎
「……気づいてたのか」
紅莉栖
「そうでなきゃ、あんたがあんなことするはずないもの」
倫太郎
「あんなこと?」
紅莉栖
「っ……だ、だから、その……あんな風に私を抱きしめたりとか……そういう……こと、よ……」
全てが愛おしかった。
こうして、照れ隠しに頬を赤く染め視線を逸らす様も。
つんと尖らせた唇も。
髪の毛の先を弄る仕草も。
何もかもが愛しかった。
ここにきて俺は再確認する。
彼女が好きだということを。
紅莉栖
「さらに言えば、その世界線の変動は誰か別の人の手によるもので、あんたが好きこのんで変動させたわけじゃない」
紅莉栖
「……当たってる?」
倫太郎
「すべてお見通し、というわけか……」
紅莉栖
「どれだけ、あんたのこと見てきたと思ってるのよ」
倫太郎
「え……?」
紅莉栖
「あ、いや。違うからな。見て来たって……別にそういう意味じゃなくて……いや、違わなくもない……けど……」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「と、とにかく!」
一呼吸置くと、紅莉栖は逸らしていた視線を真っ直ぐ俺に向けた。
紅莉栖
「あんたがβ世界線から来たってことは、あんたは過去に一度、その世界を選択したってことでしょ?」
本当に敵わない。
あの僅かな時間で、そこまで理解されてしまうとは。
すべて紅莉栖の言うとおりだ。
それでも、俺は首を縦に振ることが出来なかった。
それを認めるということは、つまり、俺が紅莉栖を――彼女を見殺しにしたと言っているようなものだ。
そんな真似、今の俺には出来るはずもない。
倫太郎
「……すまない」
結局出てきたのは、そんな言葉だけ。
けれどそれも、認めてしまうという点では同じだった。
けれど紅莉栖は哀しい顔をするどころか……。
紅莉栖
「謝るな、バカ。あんたが自分で決めたことでしょうが。だったら、自分の選択に自信を持ちなさい」
そう励ましさえした。
そうだ。
紅莉栖の言うとおり、その世界を――β世界線を選んだのは俺だ。
でも――。
紅莉栖
「それにね、あんたはたぶん間違ってなかった……」
紅莉栖
「さっき来たばっかりのあんたは知らないだろうけど、この半年間、あんたはずっと自分を責めてた……」
紅莉栖
「そんな素振り、私には決して見せようとしなかったけど」
同じだ。
これまでの俺と。
β世界線の俺と。
紅莉栖
「でも、どうしてあげることも出来なかった」
紅莉栖
「だって、あんたの苦しみは私のせいだから……」
紅莉栖
「私を生かすために、あんたは苦しんでたんだから……」
紅莉栖
「でもね。それも今日で終わり」
紅莉栖
「終わりにしなきゃいけないのよ」
紅莉栖
「だって、このままじゃ、あんたはずっと罪の意識に

さいな
まれて、最後には押しつぶされちゃう」
倫太郎
「同じだ……」
紅莉栖
「……どういうこと?」
倫太郎
「どっちにしても結局、俺はずっと後悔するんだ」
倫太郎
「まゆりを救えなかったこと。お前を救えなかったこと」
倫太郎
「α世界線にいても、β世界線にいても、それは変わらない――」
だったら、もう――。
いっそこのままでも――。
紅莉栖
「しっかりしなさい、岡部倫太郎!」
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「なんて顔してるのよ、あんたらしくない」
紅莉栖
「私の好きな鳳凰院凶真さんは、もっと自信に満ちた顔してなきゃ」
鳳凰院凶真……か。
ずいぶんと懐かしい名前だ。
紅莉栖
「あんたは正しい道を選択したの。まゆりを助けるっていう選択を。それは決して間違ってない」
倫太郎
「でも、俺はお前を……」
紅莉栖
「いい? 今、あんたがここにいるのは、そうね……夢を見ているだけよ」
倫太郎
「夢……?」
紅莉栖
「そう、夢の中で、あんたは私に会った。ただそれだけのこと」
紅莉栖
「どう? そう思えば少しは気も楽でしょ?」
紅莉栖は小さく肩を竦め、そして笑った。
紅莉栖
「これだけ脳の研究が進んでいるのに、夢を見るメカニズムって、実はまだ明確にはなっていないのよね」
紅莉栖
「眠っている間に、脳内では記憶の整理が行われている。その過程で発生するのが、夢だっていう説もあるけど」
紅莉栖
「要するに、ここはβ世界線のあんたが迷い込んだ夢の中の世界。あんたの頭の中を整理するために、ね」
紅莉栖
「そしてこれが夢なら、いつはか目を覚まさなきゃならない。そうでしょ?」
倫太郎
「でも、これは夢なんかじゃない! 現にこうして……」
手を伸ばし、紅莉栖の頬に触れる。
倫太郎
「現にこうして、お前はここにいるじゃないか……」
紅莉栖
「感触だって、脳が感じさせている機能のひとつよ」
すっ、と、後ろに一歩。
紅莉栖の姿が遠のき、手のひらの感触がするりと逃げた。
紅莉栖
「だいたい、ここにいてもあんたは幸せにはなれない。ずっと後悔の念を拭う事は出来ないの」
紅莉栖
「そして、それは私も同じ……」
倫太郎
「β世界線でも、変わらない」
倫太郎
「俺はずっと、お前を助けられなかったことを悔やみながら生きてきた……」
紅莉栖
「だけど、少なくともまゆりは幸せでいられるでしょう?」
倫太郎
「……まゆりは」
あいつは何も知らない。
俺がそう望んだからだ。
まゆりには何も知らないまま、笑顔でいて欲しい。
その願いはたぶん、今のところ叶ってはいるが――。
紅莉栖
「あんたはまゆりに笑ってて欲しい。そう願ってる」
紅莉栖
「私も同じ。同じなの」
紅莉栖
「ということは、やっぱりあんたの選択は間違ってはなかったってことよ」
倫太郎
「…………」
せっかくこうして、また逢えたというのに。
こうして、生きているというのに。
紅莉栖
「ああ、もうっ!」
苛立ちを隠そうともせず、紅莉栖が詰め寄ってくる。
紅莉栖
「いい加減にしなさい、岡部倫太郎っ!」
紅莉栖
「一度出した結論でしょうが。あんたはここにいちゃいけないの。帰らなきゃいけない」
紅莉栖
「夢から、覚めなきゃいけないのよ」
紅莉栖
「だってもう……」
紅莉栖
「もう、そうやって苦しむあんたを見ていたくないから……」
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「さあ。これ以上は時間の無駄よ。私はやるから」
きっぱり言い放つと、紅莉栖は俺に背を向けた。
その背中にあるのは強固な意思。
決意だ。
この世界線に来た直後のことを思い出す。
ずっと佇んでいた紅莉栖。
今思えば、あいつは電話レンジ(仮)の前で、すでに心を決めていたんだ。
誰にも知られず。
誰にも別れを告げることなく。
自分のいない世界へ向かうことを。
その結論に至るには、いくつもの葛藤があっただろう。
何度も問いかけ、何度も悩んだことだろう。
その末に出した結論だというのなら――。
それを止める権利は俺にはない。
止めてはならない。
紅莉栖
「ねえ、岡部。夢から覚める前に、ひとつ約束して」
倫太郎
「……約束?」
紅莉栖
「β世界線に行ったら、私のことは忘れなさい」
それは、あの日とはまったく逆の願いだった。
あの日――俺がβ世界線を選ぶと、そう決めた時、紅莉栖は言った。
私を忘れないで、と。
それなのに、今、紅莉栖が口にした願いは、それとは逆のことだった。
倫太郎
「忘れるなんて……そんなこと、出来るわけないだろう」
こいつはいつだってそうだ。
いつだって自分よりも他人のことを気にかけて。
自分を犠牲にして。
その願いだって、俺のことを思ってなんだ。
本当は忘れられたくないくせに。
人一倍寂しがり屋のくせに。
紅莉栖
「言ったでしょう。これは夢よ。夢は普通、起きたら忘れるもんでしょ」
頑固で、真っ直ぐで。
決して忘れられるはずもない。
ないけれど――。
倫太郎
「子供の頃に見た悪夢は、今でも覚えてるぞ」
紅莉栖
「誰が悪夢だ、誰が」
精一杯の強がり。
だがそれは、紅莉栖にしても同じだったろう。
紅莉栖
「とにかく、私のことは忘れること。今日あったことも、これまであったことも」
紅莉栖
「それが私の望みだから……」
振り返った紅莉栖が小指を差し出した。
強引に指を絡められる。
紅莉栖
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら海馬に電極ぶっ刺す。指切った」
倫太郎
「……ずいぶんと語呂が悪いな」
紅莉栖
「ほっとけ」
絡んだ小指が離れる。
絡み合う視線が離れる。
さよならの時が近づいてくる。
過去へのメール――。
それが正しいのだと。
それが紅莉栖の望みだとわかっていても。
それでも――。
倫太郎&紅莉栖
「紅莉栖」
「岡部っ!」
声が重なる。
倫太郎
「ど、どうした?」
紅莉栖
「あ、あんたこそ、なに?」
倫太郎
「なんでもない……ただ、呼んでみただけだ」
大切な人の名を。
紅莉栖
「ぐ、偶然ね……私も、同じ」
好きな人の名を。
紅莉栖
「ねぇ、あんたは覚えてる? 私と初めて会った時のこと……」
倫太郎
「忘れられるわけがない。なにしろ強烈だったからな……」
紅莉栖
「それを言うならあんたのほうこそ」
紅莉栖
「ほんと……あの時はまさか、こんな風になるなんて、思ってもみなかったわ……」
紅莉栖
「まさか、あんな出会いで、こんなにも――」
こんなにも、お互いがかけがえのない存在になるなんて――。
今となっては口に出しては言わないけれど。
倫太郎
「まったくだな……」
言えないけれど――。
紅莉栖
「あ、でも言っとくけど、私たちの出会いも、覚えてていいのは今のうちだからな」
少しでも――。
紅莉栖
「世界線が戻ったら、忘れなきゃいけないんだからな」
ほんの1秒だっていい。
倫太郎
「わかってるよ」
少しでもこの時が。
紅莉栖
「ふーん……そんなに簡単に忘れられるんだ」
続いてくれれば――。
倫太郎
「お前が言いだしたことだろ」
彼女の声を。
紅莉栖
「そうだけど、そんな風にあっさり言われちゃうと、それはそれでムカツク……」
仕草を。
倫太郎
「忘れろと言ったり、忘れるなと言ったり、いったいどっちなんだ」
微笑みを。
紅莉栖
「ふふっ、冗談。嘘よ、嘘……」
倫太郎
「なんだ。嘘、なのか……」
紅莉栖
「そう。嘘……」
全てを忘れないように――。
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「…………」
けれど、それももう――。
紅莉栖
「岡部……」
倫太郎
「ん?」
紅莉栖
「それじゃ、ね……」
それが、魔法の時間の終わりを告げる合図だった。
倫太郎
「ああ……」
紅莉栖
「…………」
溢れそうになる言葉を飲みこんで、ただそう答えた俺に、紅莉栖は満ち足りた笑みを浮かべ、電話レンジ(仮)に向き合った。
文面は既に用意していたのだろう。
躊躇うこともなく、電話レンジ(仮)は雷鳴のような大きな破裂音を発しはじめる。
長い長いカウントダウン。
その間も、紅莉栖はずっと背中を向けたまま。
俺はそんな彼女の背中をただじっと眺めていた。
激しさを増す雷鳴。
減少するデジタル表示。
そして――訪れる時。
紅莉栖
「岡部……良い、目覚めを」
振り返った紅莉栖は、めいっぱいの笑顔を浮かべて。
その声も、衝撃音に掻き消され――。
そして俺は。
束の間の夢から覚めた。
倫太郎
「…………」
ブラックアウトしていた視界が、ゆっくりと色を取り戻す。
見慣れたラボの景色が、形を結んでゆく。
世界線が変わったのは、一見して明らかだった。
瞼の裏には、紅莉栖の姿が残滓となり残っている。
だが、
開発室
そこ
にはもう紅莉栖の姿はない。
あまりに鮮明な白昼夢を見たような。
現実と夢の狭間にでもいたような気分だった。
俺は再び戻って来た。
紅莉栖のいない世界に――。
ここはα世界線じゃない。
それは改めて確認するまでもない事実だった。
さっきまで俺と紅莉栖のふたりきりだったこの部屋。
そこに、今は彼女たちがいる。
まゆり
「オカリン。どうしたの? 具合悪い?」
倫太郎
「いや……大丈夫だ」
まゆり。
るか
「お薬、飲みますか?」
倫太郎
「平気だよ。心配ない」
ルカ子。
そして。
かがり
「ほんとに? 無理しちゃだめだよ?」
椎名かがり――。
まゆりやかがりがここにいるということは、元の世界線に戻ってきたということに他ならない。
倫太郎
「ちょっと腹が減っただけだ。朝から何も食べてなくてな……」
かがり
「あはは。もう、オカリンさんったらダメだよ。ちゃんとご飯は食べなきゃ。ダルおじさんみたいにおっきくなれないよ」
倫太郎
「ああなるくらいなら、一食抜いたほうがマシだよ」
……ん?
まゆり
「だったら、まゆしぃが何か作ってあげるよ~」
かがり
「え、ママが? 作れるの?」
まゆり
「もう。かがりちゃんまでそういうこと言うんだから~」
まゆり
「これでもね、最近は由季さんにお料理、教えてもらってるんだよ」
るか
「あ、じゃあボクが手伝うから――」
倫太郎
「待ってくれ」
るか
「え? す、すみません。ボク、手伝わないほうがいいですか?」
倫太郎
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
俺はもう一度全員の顔を見回した後、かがりに視線を定めた。
倫太郎
「かがりさん」
かがり
「やだなぁ、オカリンさん。私のことは“かがり”でいいって言ってるのに」
やっぱりこれは。
倫太郎
「じゃあ、かがり。さっき、まゆりの事をなんて呼んでたか、訊いてもいいか?」
かがり
「え? なんてって……ママ、だよ」
倫太郎
「どうして……」
かがり
「どうしてもなにも、ママはママだもん。ね、ママ」
まゆり
「えっへへ~、やっぱりそう呼ばれるの、ちょっと照れちゃうなぁ」
くすぐったそうに身を

よじ
るまゆりの姿に、軽く眩暈に襲われそうになった。
倫太郎
「知ってるのか? ふたりとも。未来の世界で、
母娘
おやこ
だってことを」
まゆり
「え~? かがりちゃんのことは、オカリンが教えてくれたんだよ?」
倫太郎
「俺が?」
まゆり
「うん。本当のことを知っておいたほうがいいって。ねー?」
かがり
「ねー?」
本当に俺が教えたというのか?
そんな大事なことを?
倫太郎
「じゃあ、もしかしてルカ子も……?」
るか
「ごめんなさい。ボク、聞くつもりは無かったんですけど、耳に入ってしまって」
ルカ子は申し訳なさそうに、頭を下げた。
るか
「あ、でも、大丈夫です。他の人には言ってませんし、それに……」
るか
「ボク、ちょっとだけ嬉しかったんです。皆さんと秘密を共有できて……」
るか
「本当は、直接教えてもらえれば良かったんですけど……」
ルカ子までがまゆりやかがりのことを知っている。
ということは当然――。
るか
「でも、驚きました。タイムマシンとか未来とか、お話の世界のものだって思ってたんですけど、実現出来るなんて」
タイムマシンの存在も全て知っているということだ。
どうやら俺は、α世界線から単純に元の世界線に戻ってきたわけではなさそうだ。
今俺がいるのは、元にいた世界線とは微妙に違う世界線――。
以前持っていたダイバージェンスメーターも今は無い。
そのため、細かい数値まではわからないが、数値的にはかなりのズレが生じているような気がする。
問題はどこまでが前の世界線と同じで、どこが違うのか、だが……。
倫太郎
「かがり。もう少し質問させてほしい」
かがり
「なあに?」
現状を把握しておくために、俺はかがりに色々と質問を浴びせかけた。
それによってわかった事実は。
まず、かがりは子供の頃の記憶――つまり2036年の記憶を持っているということ。
まゆりやダルや鈴羽、それにフェイリスやルカ子のことも知っているようだ。
ただ、2036年がどういう世界なのか。
そして、自分がなぜまゆりの娘になったのか。
それに関しては、まゆりたちには詳しく話していないらしい。
ふたりも自分たちの未来を知りたがらなかったらしく、その点は幸いだったといえるだろう。
誰もが自分の未来を知りたいと思ったことはあるはずだ。
しかし、実際に自分自身の未来を知れるとなると、好奇心以上に、大きな不安が伴うものだ。
未来は幸福に満ちているとは限らない。
未来を知ったことで、夢は無残に打ち砕かれるかもしれない。
俺のように、定められた死を宣告されるかもしれない。
この先に50億人以上が死ぬ戦争が待っていると知ってしまえば、生きる意味を失ってしまう者もいるだろう。
倫太郎
「それじゃあ、ここに来たのはルカ子の家に居候したのがきっかけで間違いないな?」
かがり
「うん。っていうか、オカリンさんがママと引き合わせてくれたんだよ。覚えてないの?」
倫太郎
「いや。そういうわけじゃないんだが、一応確かめておこうと思ってな」
かがり
「一応、ねぇ。変なオカリンさん」
かがりが行方不明になった経緯は、俺が知っている状況とほぼ変わりないようだ。
かがりが俺たちの元に現れた経緯もだいたい同じ。
そして――。
倫太郎
「行方不明になっていた間は、どこで何をしていたのか、全然覚えていないのか……」
かがり
「うん。綺麗サッパリ。気づいたら、お寺で寝かされてた」
一部、記憶が欠如しているということも同じようだ。
つまり、この世界線でのかがりが持っているのは、子供の頃の記憶と、数週間前に千葉の山奥で発見されて以降の記憶だけ。
結局、肝心の部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
倫太郎
「…………」
他に確認しておくべきことはないだろうか――。
どこに焦点をあてるでもなく、ぼんやりと床を見つめていた俺は、ようやくそこに、あるはずのものが無いことに気づいた。
倫太郎
「床が……綺麗だ……」
るか
「あ、さっき岡部さんが来る前に、掃除しておきました」
倫太郎
「いや、そうじゃなくて……床に、小さな穴が開いてたはずなんだが」
るか
「床に穴……ですか?」
ラボ
ここ
が襲撃を受けたのは、つい昨日の夜。
あの時、連中の放った銃弾が確かに床に黒い穴を穿ったはずなのに。
まゆり
「穴なんて開いてたかなぁ? 無かったと思うけど……」
倫太郎
「ちなみに、お前たち、昨日はその……どうだった?」
まゆり
「昨日のパーティーのこと? すっごく楽しかったよ」
かがり
「あんなに楽しかったの、私はじめてだった!」
あんな事が起きていたなら、こんな感想は出ないはずだ。
ということは、襲撃そのものが無かったことになっているのか。
この世界線では、かがりは誰からも狙われてはいないのか?
……いや、そうと決めつけるには早計に過ぎる。
まだ、かがりが行方不明になっていた間、何があったのかわからないままだ。
その間、何処で何をしていたかハッキリするまでは、安全だと断言は出来ない。
α世界線でまゆりの身に起きた出来事に時間のずれがあったように、数日後に同じようなことが起きないとも限らない。
むしろ、用心しておいたほうが賢明だろう。
まゆり
「またみんなでパーティーしたいね~」
るか
「その時は、ボクも何か作るよ」
かがり
「私も! 私も手伝う!」
まゆりたちは嬉しそうに、昨夜のパーティー話に花を咲かせている。
一見して穏やかな時間。
しかし、俺たちのあずかり知らぬところで、何かが起きているのかもしれない……。
いや、起きているのは確実なんだ。
世界線が変動しているのがその証拠だ。
そもそもなぜ、世界線は変動した?
もう一度、あの前後に起きた出来事を思い返してみる。
まず、『Amadeus』が何者かによって乗っ取られた。
“紅莉栖”から、助けを求める連絡が俺に来たんだ。
世界線が変動したのは、その“紅莉栖”からの呼びかけに反応した直後だ。
となると、キーになっている可能性があるのは――。
――『Amadeus』?
『Amadeus』が世界線の変動と関係している?
じゃあ、かがりを襲った連中と世界線の変動の関係は?
果たしてすべては繋がっているのか……。
確かめる必要があるかもしれない。
まゆり
「ところで、かがりちゃん。時間、大丈夫?」
かがり
「あ、いっけない! 休憩時間、終わってた! 店長に怒られちゃう!」
倫太郎
「店長? ということは、バイトしてるのか?」
かがり
「そうだよ。下のブラウン管工房で……って、この前言ったじゃん」
倫太郎
「そう……だったか」
前の世界線では、襲撃があったことで、かがりは天王寺の下でバイトすることになった。
ここでも、違いがあるようだ。
かがり
「もう、今日のオカリンさんはボケボケだね。しっかりしてよー」
倫太郎
「すまない」
かがりは跳ねるように立ち上がると、軽い足取りで玄関へと向かった。
その仕草も口調も、前の世界線にいた彼女に比べて、ずっと子供っぽく感じる。
まゆり
「アルバイト、がんばってね」
かがり
「はーい。それじゃ、いってきまーっす」
倫太郎
「かがり、戻る前に、もうひとつだけ訊かせてくれ」
ビシッと敬礼をしかけていたかがりに、俺は最後の質問を投げかけた。
倫太郎
「アマデウス……という言葉を聞いて、何か思い当たることはないか?」
かがり
「アマデウス……?」
かがりはしばらく考え込むような素振りを見せていたが。
かがり
「んとね……ごめん、わかんないや」
倫太郎
「そうか……」
悪びれた様子もないところを見ると、本当に知らないのだろう。
ラボから出て行くかがりの後姿を見送った後で、俺はスマホを取り出した。
もうひとつ確認しなければいけないことがあった。
その『Amadeus』が、今現在どうなっているのか、だ。
画面上に並んだアイコンを確認する。
『Amadeus』。
牧瀬紅莉栖の記憶と姿を有した人工知能。
それを起動するためのアプリケーション。
けれどそこに『Amadeus』を起動するアプリは――無かった。
倫太郎
「悪かったな、こんなところに呼び出して」
真帆
「別に構わないわ。ちょうど近くまで来てたから」
ラボで現状を確認した後、俺はすぐ真帆に連絡をとった。
目的はもちろん、今この世界で『Amadeus』がどうなっているのか。
それを確認するためだ。
真帆
「で、話って?」
倫太郎
「『Amadeus』のことだ……」
真帆
「……え!?」
突然、真帆が目を丸くした。
その反応に、俺の方が驚いた。
俺はただ『Amadeus』という言葉を出しただけなんだが。
真帆
「……あなた、どうして知ってるの?」
倫太郎
「どうして……って、どういうことだ?」
真帆
「どうしてあなたが、『Amadeus』のことを知ってるのよ?」
真帆
「だって、あのプロジェクトは去年の夏――紅莉栖の事件があった、あの後に凍結されたのよ?」
倫太郎
「凍結……された!? 『Amadeus』が!?」
倫太郎
「凍結ってことは、つまり……プロジェクト自体、打ち切られたってことか?」
真帆
「はっきり言ってしまえば、そういうことね」
真帆は忌々しげに手を握りしめた。
どうやら、ここでも世界線の変動の影響が大きく出ているようだ。
真帆
「で、さっきの質問。どうしてあなたが『Amadeus』のことを知ってるの?」
倫太郎
「それは――」
真帆に世界線とアトラクタフィールド理論について話すべきかどうか。
倫太郎
「……紅莉栖から聞いたんだよ。大学の先輩が、そういう研究をしてるって」
真帆
「紅莉栖が? あの子、あなたにそんな話までしていたのね」
やはり今はまだ言うべき時じゃないと判断した。
全てを説明しようとすれば、当然Dメールやタイムマシンについても話さなければならなくなる。
真帆はまだそこまでの事情は知らないようだ。
事実を聞いた真帆が、どういう行動に出るかは想像がつく。
彼女もまた、科学の持つ可能性に、多大な好奇心を寄せる者のひとりなんだから。
倫太郎
「なあ、『Amadeus』が凍結されたっていう話、もう少し詳しく教えてくれないか? 理由はなんだったんだ?」
真帆
「……なんでも、外部団体からクレームが入ったんですって」
真帆
「人の記憶を人工知能に持たせるのは、人間の
複製
ふくせい
を造り出すのと同じこと。神のみに許される所業だって」
真帆
「欧米って、自分たちの価値観でモノを言う人が多いのよね。特にそういうデリケートな部分は」
倫太郎
「理由はそれだけなのか?」
真帆
「ええ。少なくとも、私はそう聞いてるわ。いきなり研究は中止だって言われて、教授たちも随分怒ってた」
凍結された『Amadeus』。
それも、今回の世界線の変動と関係あるのだろうか。
ん? 待てよ。
となると、俺と真帆はどうやって出会ったんだ?
俺と真帆との出会いのきっかけは『Amadeus』のセミナーだった。
それが無かったとなると……。
真帆
「どうしたの?」
倫太郎
「あ、いや……その、思い出してたんだ。君と出会った時のことを……」
真帆
「ああ。あの時のこと。ああいう偶然ってあるのね……」
変に疑われないように気をつけながら探りを入れると、なんとなくおおよそのことはわかった。
真帆は紅莉栖が命を絶たれた場所を、どうしても一度、訪れたいと思っていたらしい。
その思いがやっと叶い、足を向けたラジ館で、俺と出会ったのだという。
真帆
「オカルト的な考え方って大嫌いだけど、でもあなたと出会えたのは、紅莉栖が繋いでくれた縁なのかもしれないわね」
縁――あるいは、それもアトラクタフィールドの収束によるものなのかもしれない。
俺と真帆は、ここ秋葉原で出会うことが決まっていた。
だとしたら、そこに宿る意味はなんだ……?
真帆
「そうそう。まゆりさん達によろしく伝えておいてくれるかしら。昨日は楽しかったって」
倫太郎
「あ、ああ……」
どうやらこの世界線でも、真帆は昨日のパーティーに出席していたらしい。
真帆
「おかげで日本での良い思い出が出来たわ」
倫太郎
「思い出って……帰るのか?」
真帆
「すぐに、じゃないけどね。言ったでしょ? 私、今、紅莉栖がやっていた研究を引き継いでるの」
真帆
「いつまでも日本でバカンス気分を堪能してるわけにもいかないのよ」
倫太郎
「そうか……」
とはいえ、真帆はあと10日ほどは日本に滞在しているらしい。
それまで、何も起きなければいいのだが。
『Amadeus』は凍結され、その存在は消滅してしまった。
もう“紅莉栖”の声を耳にすることはない。
真帆と別れて、改めてその意味がじわじわと俺の心の中に浸透し始めていた。
胸の中に残る紅莉栖の温もり。
紅莉栖の匂い。
あいつと再び出会ってしまったせいで、忘れかけていた――忘れようとしていた気持ちが、俺の中でまた熱を帯び始めている。
――あの世界線にいては誰も幸せになれない。
――誰もが哀しいまま。
そうあいつは言った。
わかっている。
俺だってその為に、この世界線に留まる事を決めたんだ。
それでも、胸にぽっかりと空いた喪失感は拭い去ることは出来なかった。
ラボに戻り、もう一度頭の中を整理してみる。
前の世界線での襲撃の原因は、かがりにあった。
そしてその後の世界線変動の原因として、『Amadeus』が関わっている可能性が高い。
一方、今俺がいるこの世界線で、ラボが襲われたという事実はない。
そして、『Amadeus』も研究の段階で凍結されている。
つまり、これまでの出来事の大きな要因のふたつが無くなってしまっていた。
原因が無くなったのならば、過敏に心配する必要はないのかもしれない。
それでも……。
心の奥ではまだ、警鐘が小さな音を響かせていた。
なぜ『Amadeus』は凍結されたのか。
かがりの抜け落ちた記憶の中に何があったのか。
少なくとも、そのふたつだけは掴んでおく必要はあるかもしれない。
倫太郎
「…………」
俺は考えた挙句、スマホを取り出し、RINEアプリを起動させた。
椎名かがりは、周囲が思っている以上に満ち足りていた。
失われた記憶。
今のかがりには、幼い頃の記憶しかない。
10歳で過去へと跳び、その後、鈴羽とはぐれてしまった。
それ以降の記憶はぽっかりと空洞となり、あるのはここ数週間の記憶だけだ。
子供時代以降の時間のなかで、最も古い記憶は目覚めた瞬間の天井だった。
古いお寺の天井は、ところどころに染みが出来ていて、それが人の顔のように見えて、少し怖かったのを覚えている。
それからしばらくして、かがりはこの柳林神社に預けられることになった。
るか
「かがりさん。お茶、飲みますか?」
かがり
「あ、うん、ありがとう、るかくん」
るか
「じゃあ、淹れますね」
漆原るかという人物に会ったのもその時だ。
その時点でかがりはまだ、漆原るかが自分の知る“るかくん”であることに気づかなかった。
漆原るかは、かがりの養母である椎名まゆりの親友だった。
幼いかがりとも、よく遊んでくれた。
まだ子供だったかがりは、るかのことをずっと女性だと思っていた。
かがりの目に映るるかは、大人の女の人、という感じで、それに頼もしいところもあった。
鈴羽が“るかにいさん”と呼ぶのも、少し納得してしまったほどで、なぜ“にいさん”なのか、当時は疑問にも思わなかった。
るか
「はい、どうぞ」
かがり
「ありがと」
だが今、目の前にいるるかは、かがりが知るるかよりもずっと若く、どこから見ても可憐な少女に見える。
それに頼りがいもなさそうだった。
だから、彼が自分の知る漆原るかだとわかったのも、養母であるまゆり達とめぐり逢えてからのことだった。
かがり
「ん……この紅茶、なんだか変わった味がする」
るか
「ローズマリーティー。集中力や記憶力が上がるって聞いて、フェイリスさんに分けてもらったんです」
記憶を思い出すのと、記憶力が良くなるのは、また違う問題だとも思ったが、さすがに口には出さなかった。
その心遣いが、かがりには嬉しかった。
るかをはじめ、まゆりママや岡部たちも、かがりの記憶をなんとかして取り戻そうとしてくれている。
普通は記憶が無いと不安なものなのだろう。
自分がどういう時間を生きて来たのかわからないのだから、それも当然だ。
けれど、実を言えばかがりは、記憶が戻らなくても良いと思っていた。
時折ふとした瞬間に甦りそうになる記憶。
その度にかがりの心の中は酷く泡立ち、怖れにも似た不安が頭をもたげるのだ。
るか
「もしかして……美味しくなかったですか?」
ひと口手をつけただけで静止してしまったかがりを、るかは心配そうに見ていた。
かがり
「あ、ううん。そんなことない、美味しいよ!」
かがり
「ただ、ちょっと考え事をしてただけ」
るか
「考え事?」
かがり
「そ! でも、たいしたことないんだ」
誤魔化すように、紅茶を口に含んだ。
かがり
「それにしても、るかくんって、本当に男の子?」
まゆりはるかのことを“るかくん”と呼んでいた。
そのことについても、あまり不思議には思わなくて、子供の頃のかがりも、それに倣っていた。
るか
「そう……ですけど……」
かがり
「んー、やっぱりどう見ても女の子にしか見えないよね」
るか
「そんなこと言われても」
かがり
「そうだ! ねえ、明日、一緒にお風呂入ってみる?」
るか
「ええっ!?」
かがり
「そうすれば、るかくんが本当に男の子なのかどうかわかるでしょ?」
るか
「だ、だだ、ダメですよ、そんなの!」
かがり
「どうして?」
るか
「だ、だって、そんなの……だって、女の人と一緒にお風呂なんて、そんな……」
かがり
「お姉さんとは一緒に入ってなかったの?」
るか
「入ってましたけど……それは、小さい頃の話で……」
かがり
「ぷっ……ふふふ、あははははは」
るか
「か、かがり……さん?」
かがり
「ごめんごめん、冗談だよ、冗談っ。るかくんが可愛いから、ついからかっちゃった」
るか
「そんなぁ……」
かがり
「でも、そういう反応を見せるってことは、やっぱり男の子なんだねぇ」
るか
「最初からそうだって言ってるじゃないですかぁ」
困った様子も、やっぱり女の子みたいだと、かがりは思った。
リポーター
「ご覧のように、こちらのお店では数十種類にも及ぶ食べ物が、ぜーんぶ食べ放題なんです!」
テレビの画面には、先ほどから美味しそうな食べ物が映っている。
かがり
「すごいなぁ……」
その様子に、かがりは感嘆の声を上げた。
かがり
「今の時代ってすごいよね。私の知ってる未来とは大違い」
るか
「そうなんですか? 未来の世界ってどんな感じなんです?」
かがり
「知りたい?」
そう聞くと、るかは少し困った顔をした。
かがりのほうも、訊ねてみたはいいが、果たして教えてもいいものかどうか悩んでいた。
かがりの知る未来は、絶望に満ちている。
明日にはきっといいことがある。明後日にはきっと――そんな微かな希望に

すが
りながら、皆が必死で生きていた。
未来に希望が無ければ、人はどうやって生きていけるというのか。
るか
「やっぱり、やめておきます」
その答えに、かがりは胸を撫で下ろした。
かがり
「そのほうがいいよ。だって未来は変えられるものだから」
るか
「未来は変えられる……?」
かがり
「うん。ママがね、そう言ってた。きっと変えられる、変えてくれるって」
るか
「変えて……くれる……」
まゆりはいつも、かがりに言っていた。
それがかがりにとっては、微かな希望の光だった。
かがり
「んとね……なんだっけな。しゅたいん……なんとかって」
るか
「シュタインズゲート、ですか?」
かがり
「そう、それ! それは必ずあるって、ママは言ってた」
かがり
「……って言いながら、それがなんなのか、私もよくわからないんだけど、えっへへー」
シュタインズゲート――それが何を意味するのか、正直なところかがりにはよくわかっていない。
それでも、まゆりがその言葉を言うたびに、心があたたかくなった。
自分たちをシュタインズゲートに導いてくれる人が現れる、そう考えると明日への希望が湧いた。
キャスター
「さて、それでは次の特集です」
キャスター
「今、世界で記憶の再生技術に関する研究が進められているのは、ご存知でしょうか」
キャスター
「今日は、その最先端を走る、あるアメリカの大学の特集です」
テレビはいつの間にかグルメレポートを終え、別のコーナーに切り替わっている。
そこには緑あふれる大学の構内が映っていた。
明らかに日本のものとは違う、広々とした開放的な学内の映像だ。
かがり
「…………」
その映像を見た瞬間、かがりの心が激しく揺らいだ。
リポーター
「こちらは、ヴィクトル・コンドリア大学。一見、普通のキャンパスに見えるこの大学」
リポーター
「しかし、この学内では今、ある大きなプロジェクトが進められています」
話は専門的なものに及んでいく。
到底、子供の頃の記憶しかないかがりに。理解出来るものではない。
だが――。
るか
「チャンネル、替えましょうか――」
かがり
「あ、待って」
リモコンに伸ばしかけたるかの手を、かがりは止めた。
かがり
「…………」
るか
「かがりさん。わかるんですか?」
かがり
「うん。脳の構造……記憶をねつ造することは出来るかっていう話」
るか
「へぇ。すごいですね。ボクには難しくて、何がなんだか……」
番組の内容が、かがりの頭にはすらすらと入ってくる。
なぜ?
どうして?
どうして、理解出来るんだろう?
かがり
「そう? そんなに難しい話じゃないよ」
かがり
「記憶は、脳の中の
海馬
かいば
っていうところが司ってるんだけど、その中に
歯状回
しじょうかい

って呼ばれるところがあるのね」
自分で自分の言葉に戸惑いながらも、それでも口からは次々に難しい言葉が溢れ出す。
かがり
「そこで行われる神経細胞の生産が、既存の神経回路の再編を引き起こすの。それによって、記憶の忘却が誘発されるんだ」
かがり
「で、この研究チームがマウス実験をしてみたら、記憶のねつ造が見られたっていう話」
かがり
「あ、ほら。あの奥の部屋。あそこでマウス実験なんかをしてるの」
るか
「あの……かがりさん、もしかしてこの大学、知ってるんですか?」
かがり
「え?」
気付けば、るかが不可思議な顔をしていた。
るか
「だって……なんだか、詳しそうな口ぶりでしたし……」
画面の中には、いかにも研究室といった部屋が映っていた。
カメラはその奥――白い扉を開け、隣の部屋へと入ってゆく。
ディレクター
「この部屋で行われた、マウスを使った実験。それによって研究チームは――」
かがり
「……ううん、知らない……」
るか
「でも、今……」
そう、知らない。
こんな所は知らない。
だが――。
かがり
「わからない……知らない。けど……」
かがり
「なんでだろう。さっきは知ってるような気が……したの……」
頭の奥がズキリと痛んだ。
それが何か恐ろしいことのはじまりのような気がして。かがりはひどく不安になってしまった。
天王寺
「いいか? おめえの頼みを聞いてやるわけじゃねぇ。それだけは忘れるんじゃねぇぞ」
倫太郎
「感謝します」
この日の朝、俺は天王寺の下に赴き、かがりに何かあったときは守ってくれるよう、協力を仰いだ。
そのためには、再び天王寺がラウンダーである事を、本人に向かって突きつける必要があった。
そして、かがりが何か大きな事件に巻き込まれており、何者かに狙われているということも、だ。
しかし、その話をするのは二度目になるため、今回は多少スムーズに事を運ぶことが出来た。
とはいえ、あくまでも比較しての話であって、この男にこんな申し出をするのは出来ればこれで終わりにしたい。
天王寺
「おい、岡部。おめえらいったい、何に関わってやがる」
倫太郎
「それは――」
言葉に詰まる。
天王寺
「話せねぇってか。頼み事するだけして、随分と虫のいい話だな」
倫太郎
「すみません」
天王寺
「だがそれでいい」
倫太郎
「え……?」
天王寺
「情報ってのは最後の切り札だ。そこでぺらぺら喋っちまうようなら、俺は降りてたぜ」
倫太郎
「…………」
天王寺
「ま、せいぜい気を付けるんだな」
倫太郎
「ありがとうございます」
天王寺
「わかった。わかったから、そうやって

かしこ
まんな! どうにもやりにくくってしょうがねぇ」
それでも俺は、もう一度天王寺に深く礼を言い、ブラウン管工房を後にした。
天王寺の協力を得ることは出来た。
それに先立ち、俺は午前中のうちに既に、もうひとりの協力も取り付けいた。
桐生萌郁。
天王寺に比べると、こちらはまだ簡単だった。
前の世界線同様、この世界線でも、萌郁にかがりの捜索を依頼していたことは、昨夜のうちにダルに確認していた。
引き続き、かがりがこの街に来るまでの動向を調べてくれと頼めば、それで済む話だった。
これで、万が一何かが起きた時のために、今俺が出来る対策は全て取った。
あとは、何も起きないことを祈るだけだ。
ラボに戻ると、ルカ子が来ていた。
何やら深刻そうな顔で、俺に話があるのだと言う。
るか
「……実は、かがりさんの記憶のことで、気になることがあって」
倫太郎
「かがりの?」
るか
「あ……とは言っても、これが記憶を取り戻すことに繋がるかどうかは、わからないんですけど」
倫太郎
「構わない。気になることがあるなら、話してくれ」
るか
「はい……」
るかはもじもじと両膝をすり合わせ、ほんの少し上目づかいに俺を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
るか
「昨夜、テレビで、記憶の研究についての特集をやっていて……。アメリカの大学で行われているものだったんですけど」
るか
「それを見ていたかがりさんが、まるでその学校を知っているような口ぶりだったんです……」
倫太郎
「アメリカの大学? どこの大学だ?」
るか
「えっと……なんだか難しい名前の学校で……確か、ビクトル・コンドル……?」
倫太郎
「ヴィクトル・コンドリア大学か!?」
るか
「あ、そうです! その学校です!」
ヴィクトル・コンドリア大学――。
紅莉栖が在籍していた大学だ。
かがりがヴィクトル・コンドリア大学を知っている?
それが本当だとしたら、どうして……。
考えられるのは、かがりもそこに通っていたという可能性だ。
しかし日本で行方不明になった子供が、アメリカの――それもそんな一流大学に?
もちろん、無くはない話だろうが……。
るか
「どう……でしょう? 何か手掛かりになりそうでしょうか」
倫太郎
「さすがにそれだけじゃ、なんとも言えないが……」
るか
「そうですか……」
ルカ子はガックリと肩を落とした。
倫太郎
「でも、手掛かりにならないというわけじゃない」
るか
「え? それじゃあ……」
倫太郎
「ああ……確かめてみる必要はあるな……」
かがり
「改まってお話って何かな?」
確かめるのなら、直接話をするに越したことはない。
これからバイトというタイミングで、急に呼び出されたかがりは、かなり戸惑っているようだった。
倫太郎
「話はちょっと待ってくれるか? もうひとり呼んであるんだ」
かがり
「もうひとり?」
ヴィクトル・コンドリア大学については、俺もたいして詳しいわけじゃない。
構内の話を聞き出すにも、それが正解かどうかだってわからない。
確かめるには、もっと適任の人物がいる。
おそらくもうすぐ来るはずだが――。
真帆
「おじゃまします」
学校の話は、実際に通っていた人間に訊くのが一番に決まっている。
というか、真帆は今も大学の脳科学研究所に所属しているのだから、いわば現役なのだ。
かがり
「あ、真帆さん。こんにちは」
真帆
「ハイ。元気?」
真帆はまだ、かがりが未来からやって来た人間だということは知らない。
その辺りのことは、誤魔化しながら話すしかない。
真帆
「それにしても……本当に、紅莉栖に似てるわよね……」
真帆はかがりの姿をまじまじと見て、俺にだけ聞こえるように囁いた。
無理もない。
俺だって最初は随分驚いたのだから。
俺はさっそく、今日ここに来て貰った理由を真帆に話した。
真帆
「じゃあ何? つまり彼女がうちの学校にいたかもしれないっていうの?」
かがり
「ちょっと待って。そんなこと言われても私、そのなんとかトルコドリア大学なんて知らないよ」
真帆
「ヴィクトル・コンドリア大学」
かがり
「ほら、ね? 名前だってちゃんと憶えてないんだもん」
倫太郎
「でも、昨日は知っている様子だったんだろう、ルカ子?」
るか
「は、はい。奥にある部屋で、ねずみさんを使った実験を行っている……って」
るか
「そしたら、その後、本当にその部屋での、実験の様子が映って……」
倫太郎
「かがりは、そのことは?」
かがり
「んとね……覚えてない……」
ルカ子が嘘をついているとも思えないし、そもそも嘘をつく理由がない。
ではかがりの方が嘘を言っているのかといえば、同じ理由からそれも無いだろう。
真帆
「漆原さん。その研究室、どこだったかわかる?」
るか
「えっと……詳しくはわからないんですけど、脳とか記憶とか、そんな研究をしているって言ってました……」
真帆
「ということは、もしかすると脳科学研究所かもしれないわね」
脳科学研究所。
それってつまり――。
真帆
「私が所属しているところよ」
そして、紅莉栖がいたところでもある。
倫太郎
「それじゃあ……もしかしたら、かがりは比屋定さんや紅莉栖と会っていたかもしれないということか?」
真帆
「あくまでも仮定の話よ」
真帆
「脳科学を研究しているところは、ひとつじゃないし」
真帆
「私のいるところだって、院生だけじゃなく、一般の研究者もたくさん出入りしてるもの」
真帆
「私だって、研究所にいる人間全員と顔を合わせたわけじゃないわ」
真帆
「ただ……同じ日本人となると、見かければ記憶には残っているでしょうね」
それは暗に、真帆の記憶にはないと言っているに等しい。ということは、会ってはいないということだ。
倫太郎
「ルカ子。他にかがりのことで気になったことはないか?」
るか
「えっ、っと……かがりさん、時々びっくりするくらい、難しいことを知っていたり……」
かがり
「私だって難しいことくらい知ってるもん」
かがりが口をとがらせてむくれた。
こういう表情に関しては、紅莉栖とは似ても似つかない。
真帆
「たとえば?」
かがり
「えーっと、えーっと……バラとかユウウツ、とか?」
それは書いて難しいだけであって、難しいことを知っているのとはかなり違う。
るか
「昨日はテレビで、記憶のねつ造について放送していたんですけど……それも、なんだか詳しそうでした……」
真帆
「記憶のねつ造……ね。確かにその研究をしているチームもいるわ。私たちも一度、話を聞かせてもらいにいったもの」
倫太郎
「かがり。今、その話は出来るのか?」
かがり
「んとね……えーっと……それが良くわからないの。私、ホントにそんなこと話してた?」
るか
「話してましたよぉ」
かがり
「うーん……」
眉間に人差し指を当てて、考え込む。
どうやら、本当に心当たりはないらしい。
倫太郎
「今までに、こういうことは、良くあったのか?」
るか
「最近まではそれほど……この何日かで急に……」
どうして、かがりにヴィクトル・コンドリア大学に関する知識があるのかはわからない。
だが少なくとも、消失しているかがりの記憶に関係があることは確かだろう。
その点をもう少し掘り下げていけば、もしかしたら何らかの手がかりに辿りつくかもしれない。
あわよくば、記憶を取り戻すことだって有り得る。
かがり
「っ……」
突然、かがりが苦しげな声を上げた。
るか
「かがりさん? どうしたんですか?」
かがり
「っ……ちょっと、頭が……」
るか
「痛いんですか?」
ルカ子が心配そうに覗き込む。
かがり
「うん。ちょっぴり……」
倫太郎
「少し横になるか?」
かがり
「だい……じょうぶ」
倫太郎
「少し話を急かせ過ぎたかもしれないな」
真帆
「そうね。負担が大きかったのかもしれないわね」
真帆もルカ子同様、かがりの様子を心配そうに見つめた。
真帆
「本当に平気?」
かがり
「う、うん。大丈夫、です。ありがとう、先輩」
真帆
「だったら、いいのだけど……」
それはあまりにも自然なやりとりだった。
その為、もう少しで俺も真帆もそのまま聞き逃すところだった。
倫太郎
「おい……今……」
真帆
「うん……
先輩
①①
って……」
かがり
「え?」
倫太郎
「かがり。君、今確かに、先輩って呼んだよな? 比屋定さんのこと」
かがり
「うそ……? 私、そんなこと……」
真帆
「いいえ。間違いなく言ったわ。漆原さん。あなたも聞いていたわよね?」
るか
「は、はい」
“先輩”。
真帆とかがりがヴィクトル・コンドリア大学で面識があったわけではないということは、さっきの話からもはっきりしている。
となると、単なる言い間違いだろうか。
倫太郎
「ん……?」
外階段をのぼってくる足音に、思考が中断される。
やけに重たげなその足音の持ち主が誰なのかは、考えるまでもなかった。

「おつー」
真帆
「お邪魔してます」

「あ、真帆たんも来てたん?」
真帆
「その呼び方はやめて」

「足りるかなぁ……えーっと。ひー、ふー、みー……」
真帆の苦情もそっちのけで、人数を数えはじめたダルの手には、何やら紙袋が下げられている。

「良かった。大丈夫みたい」
倫太郎
「何が大丈夫なんだ?」

「ほら、このまえ駅前に出来たアトルあるでしょ。あそこに美味しそうなプリン売っててさ。たまにはと思って買ってきたんだけど、人数分あるかなって」
言いながら、早速紙袋から取り出した箱を開け、テーブルの上にプリンを並べ始める。
倫太郎
「ダル、後にしろ」

「なに、みんな難しい顔して。僕がこんなん買ってくるの、そんな珍しい?」

「ま、確かにその通りだけど、ちょうどバイトで結構な臨時収入が入ったんだよね」

「仕事が出来るうえに、気配りと収入を持ちあわせている僕に惚れてもいいの……あれ?」
プリンを並べ終えたかと思うと、今度は紙袋を逆さにして上下に振りはじめた。

「スプーンがひとり分足りない……。さては店員のおねーさん、入れ忘れたな」
るか
「使ってないスプーンなら、確か流しのところに……」
かがり
「あ、私、マイスプーン持ってるから……」
スプーンを取りに立ち上がろうとしていたルカ子の動きが止まる。
そのまま不思議そうな顔でかがりを見た。
るか
「かがりさん……マイスプーンなんて持ってましたっけ?」
かがり
「え?」
るか
「かがりさんが持ってたのって……うーぱのキーホルダーだけだった……ような?」
かがり
「あれ? そう……だよね? おかしいな。なんで私、持ってるなんて……」
マイスプーン――。
そのヘンテコなキーワードを、以前にも聞いたことがある。
普通、この年にもなってマイスプーンを持ち歩いている人物はそうそういない。
日本でなら、最近は“マイ箸”を持ち歩くのが密かなブームではあるらしいが。スプーンとなると、話は別だ。
でも、俺は知っている。
マイスプーンを持っていた人物を。
それは――。
牧瀬紅莉栖。
さっきの、真帆を“先輩”と呼んだ件といい、今の件と言い、やはりかがりは紅莉栖のことを知っているのか?
倫太郎
「なあ、比屋定さん。
アメリカ
むこう
で、君のことを“先輩”と呼ぶ人間は何人いた?」
真帆
「ひとりだけよ」
真帆
「先輩とか後輩とか、そういう呼び方とか関係は、日本独特のものだから」
その
ひとり
①①①
が誰なのかは、聞くまでもない。
真帆
「私を先輩と呼んでたのは……」
真帆
「紅莉栖だけ……」
かがり
「く……りす……?」
倫太郎
「かがり。君は、牧瀬紅莉栖のことを知ってるのか?」
かがり
「紅莉栖……牧瀬、紅莉栖……」
知っていて、紅莉栖の真似をしている?
だが、なぜそんな必要がある?
かがり
「牧瀬紅莉栖……」
かがりは必死で自身の記憶を探ろうとしているようだが、うまくいっていないようだ。
額には汗がにじんでいる。頭痛はまだ続いているのかもしれない。
倫太郎
「無理はしなくていい、急いで思い出す必要は――」
かがり
「ううん……。このままにしとくのも、なんだか、気持ち悪い……」
るか
「何か、思い出せそうなんですか?」
かがり
「わかんない……。わかんないから、オカリンさん、何か、話して……」

「え、ちょっ、いったい何がなんなん?」
かがりが、紅莉栖の名を聞いただけでここまで反応するということは、少なくともなんらかの関連があるということ。
考えられる可能性はなんだ?
かがりが、1998年に鈴羽と別れた後、どこでどう過ごしていたのかが、問題になってくる。
かがりは、真帆とは面識がなかったが、紅莉栖とだけは知り合いだったのか?
そこで紅莉栖と交友を深め、紅莉栖から身の上話をいろいろと聞かされた。その話を、かがりは自分の記憶だと混同している?
それとも――。
ふと、α世界線で紅莉栖が開発した
あの
①①
マシン
①①①
のことを思い出し、そこからとある仮説を連想してしまった。
そんなバカなことはあるわけがない、と自分の考えを慌てて否定する。
真帆
「…………」
真帆と目が合った。
コクリとうなずいてくる。
倫太郎
「かがり。じゃあ、いくつか質問させてくれ」
とにかく、かがりが紅莉栖のことについてどれぐらい知っているのか。それをはっきりさせたかった。
倫太郎
「君の父親は、どこにいる?」
かがり
「パ、パパは……死んじゃった……子供の頃に……」
紅莉栖の記憶が混同しているなら、そうは答えないはず。
これはかがりの記憶だ。
かがりは、10歳より前のことは覚えていると言っていたな。
記憶を失っているのは、タイムマシンに乗った後、1998年に鈴羽と別れた後だ。
もう少し踏み込んでみよう。
倫太郎
「それじゃあ、栗ご飯と言ったら、何を思い浮かべる?」
真帆
「栗ご飯? なんなの?」
倫太郎
「答えてくれ、かがり」
かがり
「栗、ご飯……」
かがり
「カメハメ、波……」
倫太郎
「……!」
まわりは全員キョトンとしているが。
俺だけは、心臓が止まりそうだった。
どうして知っている?
『栗悟飯とカメハメ波』は、紅莉栖が@ちゃんねるで使っていたハンドルネームだ。
その事はおろか、自分が@ちゃんねらーであることすら、あいつはひた隠しにしていた。
決して誰にも言っていないはずだ。
そんな本人しか知り得ない情報を、どうしてかがりが知っている?
かがりの額には、ますます汗がにじんでいた。
るかが、心配そうにハンカチを差し出す。
かがりはうなずいて、それを受け取った。
倫太郎
「かがり……タイムトラベルの主な理論がいくつあるか知っているか?」
真帆
「…………」
真帆が何か言いたげだったが、俺は目だけで何も言うなと制した。
かがり
「11」
倫太郎
「……!」
かがりは、さも当たり前という顔で、はっきりとそう答えた。
かがり
「全部で11……」
かがり
「あれ、違ったかな……?」
もしかしたら、という気持ちで質問したんだが……、まさか、本当にそう答えるなんて。
俺の頭の中で、さっき思いついてしまった、戦慄すべき考えが黒い

もや
となって広がりつつあった。
そんなわけない。あるはずがない。
そう思おうとすればするほど、靄はどんどんと成長していく。
倫太郎
「11の理論を、具体的に説明出来るか?」
かがり
「……中性子星理論。それから……ブラックホール理論に、光速理論」
かがり
「……タキオン理論。ワームホール理論……エキゾチック物質理論」
かがりは指折り数えながら、あまり躊躇せず答えていく。
かがり
「宇宙ひも理論、量子重力理論。セシウムレーザー光理論」
かがり
「素粒子リング・レーザー理論。最後にディラック反粒子理論……」
真帆
「……全部、あってる」
かがりが理論の名前を列挙するに従って、口をあんぐりと開けていた真帆が絞り出すように言った。
かがり
「ねえ、岡部さん……私、どうしてそんなこと、知ってるんだろう……?」
かがりは、少し泣きそうな顔でそう尋ねてきた。
倫太郎
「もうひとつ訊くが……」
倫太郎
「それらの理論を用いて、タイムマシンは作れると思うか?」
かがり
「…………」
かがり
「……出来ない、と思う」
倫太郎
「ほう……」
かがり
「あ、でも、この11の理論では作れないけど、今後の科学の発展次第では、出来なくもない……んじゃないかな……」
倫太郎
「どうしてそう思う?」
かがり
「どうして? それは、んとね……どうして……だろ?」
倫太郎
「じゃあ質問を変えよう。その考え方に行きついたのは何故だ?」
かがり
「わかんない……けど……ただ、何となく
知ってた
①①①①
ような……」
知っていた、か。
彼女の中に知識として存在していたということだ。
じゃあなぜ、彼女にそんな知識があったのか。
やはり、かがりは過去にヴィクトル・コンドリア大学で学んだことがあって、そこで紅莉栖と会っていた? それどころか、かなり親しい友人として付き合っていた?
紅莉栖が誰にも言いたがらなかった、@ちゃんねるのハンドルネーム。それを打ち明けられるほどの親しい関係だった?
その紅莉栖から聞いた話を、今の記憶を失っている状態のかがりは、自分の記憶と混同している?
確かに、それが一番妥当な仮説ではある。
だが一方で、それは紅莉栖自身が話していたことと矛盾するのだ。
アメリカではそこまで親しい友人はいなかったと、紅莉栖は言っていた。
真帆とは、先輩後輩として良好な関係を築いていたようだが……。
なおも俺の頭の中に、黒い靄は増殖してきていた。
倫太郎
「なあ、比屋定さん。『Amadeus』は凍結されたと言っていたが」
倫太郎
「アップロードされていた“紅莉栖”の記憶データって、まだ存在するのか?」
真帆
「え? ええ、たぶん。破棄はされていないはずだけど」
倫太郎
「それって、どれだけの人間がアクセスできたんだ?」
真帆
「ごく限られた人間だけよ。どこにも公表はしていなかったから」
真帆
「私やレスキネン教授、他に助手が何人か、そして紅莉栖……」
倫太郎
「ちなみに……その記憶データを、人間の脳に移植することって、可能だったりするよな?」
真帆
「…………はあ?」
前の世界線で、真帆自身が――正確にはレスキネンの話だったが――セミナーでそんなようなことを言っていた気がする。
それと、俺は自分の体験としても、知っていた。
人の記憶をデータ化し、時間を跳び越えさせた上で、同じ人間の脳に移植し、“思い出させる”というマシンの存在を。
この世界線には存在しないが。
俺がかつていた世界線において、そのマシンは、この部屋で、開発されたのだ。
俺自身、そのマシンを嫌になるほど使った。
そのことを身をもって知っているから、思いついてしまったのだ。
とんでもなく恐ろしい考えを。
今のかがりの状態について説明出来る、もうひとつの仮説を。
真帆
「いったい、何を……」
倫太郎
「マイスプーンを持ち歩いていたのは、紅莉栖なんだ……」
倫太郎
「大学で比屋定さんのことを“先輩”って呼んでいたのも、紅莉栖だけだ」
倫太郎
「『栗悟飯とカメハメ波』は、紅莉栖が@ちゃんねるで使っていた
コテハン

だ。知っているのは本人以外だと、俺くらいのはずだ」
倫太郎
「紅莉栖なら、ヴィクトル・コンドリア大学の研究室のことも知ってる」
倫太郎
「マウス実験のことも知ってる」
倫太郎
「11のタイムマシン理論についても知ってる」
かがり
「オカリン……さん? どういうこと?」
真帆
「何が言いたいの?」
倫太郎
「……俺の思いついた仮説だ」
俺はもう一度、全員をぐるりと見回してから、かがりの顔を見つめた。
倫太郎
「かがり……もしかしたら君の頭の中には、牧瀬紅莉栖の記憶が移植されているかもしれない」
鈴羽
「かがりの頭の中に、牧瀬紅莉栖の記憶が入ってる?」
俺の仮説を聞いた鈴羽は、意外にも冷静だった。
あの後、真帆を中心に、もう少しかがりに話を訊いてみた。
ヴィクトル・コンドリア大学のこと。
研究のこと。
かがりの返答はまちまちだった。
知っていることもあれば、知らないこともあった。
ただ、知っていることの中には、真帆と紅莉栖にしか知り得ない情報が含まれていた。
結果、俺の考えは覆されることはなく、逆に補強されることとなった。
当のかがりは、俺たちが無理に色々と聞き過ぎたせいでかなりの疲労を見せていたため、天王寺の了承を得て、ルカ子と共に帰らせた。
真帆は、俺の仮説をまったく受け入れようとはしなかったが、『Amadeus』の記憶データを移植出来るかどうかについては検証してみると言って、帰っていった。
そして夜になり、こうして鈴羽に事情を説明しているというわけだ。
鈴羽
「それって、かがりが二重人格ってこと?」
倫太郎
「いや、そうじゃない」
倫太郎
「二重人格っていうのは、正確には解離性同一性障害といって、誰かの中に別の人格が出来ることだ」
倫太郎
「言うなれば、今の自分に対する不満や不安から、自らの中に別の人格を作ってしまうようなものだな」
稀に、その人が憧れている実在の人物が別人格として表れることもあるそうだが、基本的にはオリジナリティを持った人格が作られるらしい。
倫太郎
「でも、かがりの場合は違う」
倫太郎
「かがりの中にあるのは人格じゃない。文字通り、牧瀬紅莉栖の記憶だけだ」
倫太郎
「紅莉栖の記憶だけが、彼女の頭の中に混在している……と考えられる」
上書きされたわけじゃない。
かがり自身の記憶も残っている。
だから
混在
①①
なんだ。
鈴羽
「なるほど」
鈴羽
「2036年の技術では、それは決して不可能な話じゃない」
倫太郎
「じゃあ……2036年からのタイムトラベラーであるかがりなら、じゅうぶんその可能性はあるということか?」

「でもさ、かがりたんは、10歳より前の記憶はあるわけっしょ?」

「他人の記憶をぶち込まれるなんてことされたら、そのときのこと覚えてるはずじゃね?」
鈴羽
「あの子は幼い頃、たまに“神様の声”が聞こえるって、言っていたような気がする」
倫太郎
「幻聴か? それが紅莉栖の記憶からにじみ出てきたものっていうのは考えられる」
鈴羽
「うん……」
鈴羽
「ただ、未来は、この時代ほど
のどか
①①①
じゃなかった。物資も人も足りてなかったんだ」
鈴羽
「記憶を移植するなんていう技術は、実用化されているとしても、軍の機密扱いだよ」
鈴羽
「一般人の、しかも子供に使ったとは、思えないな」
倫太郎
「かがりは戦災孤児だった。
PTSD

を治療するためにそういう技術が使われたということは?」
鈴羽
「だからって他人の記憶を移植するのは、さすがに変だ」
倫太郎
「……だな」
倫太郎
「となると、記憶のない時期――1998年以降に、その移植が行われた可能性が高くなってくるが」

「2036年なら可能でもさ、今の技術で出来るもんなん?」
倫太郎
「紅莉栖なら、可能だろう」
なにしろ、紅莉栖は『タイムリープマシン』において、たった一人でそれを実現したんだから。
鈴羽
「牧瀬紅莉栖が、かがりに、自分の記憶を移植したって?」
鈴羽
「彼女は、そんなマッドサイエンティストみたいなことをする人だったの?」
倫太郎
「…………」
そんなわけがない。
あり得ない。
そして、牧瀬紅莉栖ほどの天才は、他にそうはいない。
彼女がやっていないなら、他の人間に出来るとは思えない。
倫太郎
「そう……だよな。突飛な発想過ぎるよな……。俺だってそう思う」
一度思いついてしまった発想に、固執しすぎてしまっているのかもしれない。
倫太郎
「でも、紅莉栖しか知り得ないことをかがりが知っているのは間違いないんだ」

「例えば、幽霊になった牧瀬氏の魂がかがりたんに乗り移った、的なことだったりして」
倫太郎
「お前、そんなオカルト話を比屋定さんの前ででも披露してみろ。全力で論破されるぞ」

「ですよねー」
結局、かがりについては、しばらく様子を見守ることしか出来そうにない。そんな結論に至った。
しょせん、俺たちはただの学生で、専門的知識なんて持ち合わせていないんだ。
どれだけ話し合ったって、仮説を出し合ったって、答えを簡単に導き出せるわけじゃない。
倫太郎
「そういえばダル。由季さんはどうしてる?」

「阿万音氏なら、毎日バイト忙しいみたいだお」
倫太郎
「……彼女は何のバイトをしているんだった?」
鈴羽
「ケーキ屋さんって聞いてる。美味しいから一度食べに来てって言われた」

「そうそう。でもちょっと遠いんだよね」
鈴羽
「だからこそ、行ったら喜ばれるんじゃないか。しっかりしてよ、父さん」

「あ、はい、
サーセン

……」

「つーかオカリン、なんでいきなりそんなこと訊くん?」
倫太郎
「いや……ちょっと気になってな……」
あの時のライダースーツの女。
もしかしたら、あれは阿万音由季だったんじゃないか。
そんな疑惑が、俺の中からいまだ拭いきれていない。
もしもそうであるなら、かがりの件にも何らかの形で関わっているかもしれない。
とはいえあの襲撃事件があったのは、前の世界線での話だ。
襲撃事件が起きていないこの世界線では、もう確かめようもないのだが……。
倫太郎
「もし、彼女のことで何か……」

「……?」
鈴羽
「母さんがどうかしたの?」
倫太郎
「いや……何でもない……」
まだ確証があるわけじゃない。
彼女の動向は、俺がそれとなく注意しておくことにしよう。
今はまず、かがりのことだ。
彼女の欠如した記憶の中で、何があったのか。
それを突き止めれば、今俺たちに何が起きようとしているのか、それがわかる気がする。
真帆
「それじゃあ、はじめるわよ。いい?」
かがり
「う、うん……」
翌日も真帆はラボにやって来た。
かがりの記憶の件について検証するためだ。
かがりも、自分からそれに付き合うと申し出た。
確かに昨日の話ではまだ、俺の仮説は妄想の域を出ていない。
仮説を立てればそれを証明したい――それが科学者の性分というものなのだろう。
真帆
「まずはこれを見てもらえる?」
真帆が差し出したのはスマートフォンだ。
その画面に、画像が表示されていた。
白を基調とした清潔そうな建物の廊下を、白衣の人間が2人、歩いている。そんな画像だった。
真帆
「これがどこだかわかる?」
かがり
「んと……学校?」
真帆
「どこの?」
かがり
「ヴィクトル・コンドリア大学の……」
真帆
「この手前に歩いてる人、彼の名前は?」
かがり
「トニー・ブラウン。あだ名はJB。興奮すると、独特のステップを踏むから」
真帆
「じゃあ、こっちの彼女は?」
かがり
「んー……わかんない」
倫太郎
「どうだ?」
真帆
「彼女も私たち研究者の間では、かなり有名な子よ。紅莉栖だって当然知ってるはずだわ」
倫太郎
「仮にかがりが紅莉栖の記憶を持っているとしても、完全にすべてを思い出せているわけじゃないみたいだ」
それは、昨日もそんな感じだった。
倫太郎
「記憶として呼び起こされるものと、そうじゃないものがあるんじゃないのか?」
真帆
「だからって、この程度じゃまだ、紅莉栖の記憶だと断言は出来ないわ」
真帆
「彼らのことくらい、調べれば誰だってわかることだもの」
真帆
「かがりさん。もう少し突っ込んだ質問をしてもいい?」
かがり
「う、うん……」
真帆
「去年の冬、私と紅莉栖で映画を観に行ったことがあるの」
倫太郎
「比屋定さんと紅莉栖が……?」
真帆
「意外? 私たちだって、たまには息抜きをする。普段は研究ばかりだけど」
意外に思ったのは確かだ。プライベートでも付き合いがあったことは、知らなかったから。
真帆
「研究でちょっと詰まってた私を、あの子が連れ出してくれたのよ。たまたま、チケットが2枚あるからって」
まるで、男がデートに誘う常套手段だな……。
そういうところは不器用なんだ、あいつは。
真帆
「その時に観た映画のタイトル、わかるかしら?」
かがり
「んと……ボブ・ワイナー監督の『彼と彼女の予感』?」
真帆
「…………」
真帆は息を呑んだ。
どうやら正解らしい。
倫太郎
「それって最近の映画か? 聞いたことないが」
真帆
「20年前の作品。そのリバイバル上映だったのよ……」
かがりはそれを言い当てた。
真帆と紅莉栖がプライベートで見に行った映画のタイトルを。
しかも、世界中で公開されたようなメジャータイトルじゃないから、当てずっぽうで言い当てられるものじゃない。
真帆
「で、でもそれも、誰か目撃していた人がいればわかることよ……」
倫太郎
「だが、君が今日、そんな質問をするという事は、予想出来なかったはずだ」
倫太郎
「かがりがそのために、細かい情報まですべて暗記したとでも?」
そんなことをしても仕方がないし、そもそも理由が無い。
真帆
「私だってそのくらいのこと、わかってるわ……」
辛そうに顔を歪めた顔からは、真帆の中で、なんらかの葛藤が生じているのが見て取れた。
そして、俺もその葛藤の理由に、少しずつ気づき始めていた。
認めたくないんだ。
その
①①
可能性を――。
かがり
「っ……」
冬だというのに、かがりの額からはこの日もうっすらと汗がにじみ出ていた。
自分の中で混在している記憶を探るという行為は、かなりの負担になっているのかもしれない。
倫太郎
「これぐらいにしよう。かがりがキツそうだ」
真帆
「待って。最後にもうひとつだけ、訊かせて……」
かがり
「うん……、いいよ。どうぞ」
かがりは気丈にうなずき、真帆に質問を促す。
真帆
「子供の頃……あなたが一番大切にしていたものは何?」
かがり
「子供の頃……」
真帆
「それはアメリカに移住してからも、ずっと部屋に置いてあった」
かがり
「んっ……」
かがり
「イルカの、ぬいぐるみ……。水族館に行ったとき、パパが買ってくれた……」
真帆
「…………」
真帆は大きなため息とともに、ソファに身を沈めた。
倫太郎
「合ってるのか?」
真帆
「ええ……。昨日、紅莉栖のお母さんが電話で教えてくれたわ」
真帆
「このことを知ってるのは、紅莉栖とご両親だけ……」
倫太郎
「それじゃあ……」
真帆
「悔しいけど、あなたの仮説を……否定出来ない……」
倫太郎
「そうか……」
かがり
「あの……私、どうなっちゃうの、かな……?」
倫太郎
「…………」
俺には、答えられなかった。
そもそも、どうしてこんなことになったのか。
可能性があるとするならば――。
真帆
「かがりさん、付き合わせて悪かったわね。ゆっくり休んで」
真帆は真剣な表情のまま立ち上がった。
倫太郎
「帰るのか?」
真帆
「ええ。自分なりに、まだ検証出来ることは残っていそうだから……」
真帆
「それじゃあ、また」
そう言い残すと、真帆は振り返りもせずに扉へと向かった。
その背中は無言で全てを拒絶しているようで、俺たちはただ彼女を見送ることしか出来なかった。
比屋定真帆はぼんやりとPCのモニターを眺めていた。
世間はまだ、正月の浮ついた空気から抜け切れていない。
前回、真帆が日本にやって来たのは、まだ夏の暑さも抜けきらない頃のことだった。
その時は、ヴァカンスを利用しての来日だった。
後輩、牧瀬紅莉栖の突然の死。
その現場となった場所をこの目で見るためである。
真帆の牧瀬紅莉栖に対する感情は複雑だ。
紅莉栖が同じ研究所に来るまで、真帆は自分を天才だと思っていた。
飛び級で高校を卒業し、10代で大学の研究室にまで入ったのだ。
そう思っても無理のないことだった。
周囲も真帆を天才だと言った。
だが、真帆のそんな自尊心は、牧瀬紅莉栖というもう一人の天才の出現によって、無残にも打ち砕かれた。
牧瀬紅莉栖は本物だった。
それに比べれば、自分が一段劣るのはどう見ても明らかだった。
ああ、敵わない――そう思った。
負けたくない、そうも思った。
いっそのこと、憎むことが出来れば良かった。
紅莉栖のことを。
だが、牧瀬紅莉栖と言う少女は真帆にそれすら許さなかった。
彼女はどこまでも真っ直ぐに科学者であり、また真帆に対しても真っ直ぐだった。
紅莉栖
「先輩。先輩のその研究、上手くいけば革命的な成果が得られると思います」
紅莉栖
「私に何か出来ることがあれば、手伝いますから言ってくださいね」
いつか越えてやる、そう思っていた。
先輩には敵わない――いつかそう言わせてやると思っていた。
だが、それは永久に叶わぬものとなった。
牧瀬紅莉栖は旅立ち、真帆の前には二度と戻っては来なかったのだ。
暴漢に襲われたと聞いた。
けれど実感は全然湧かなかった。
そのうちまた研究室に戻って、あの澄ました顔で教授たちと言い合いを始めるのではないか――そんな気がしていた。
その日までに、真帆は自らが携わる『Amadeus』プロジェクトを発展させ――すごいじゃないですか先輩――と、言わせたかった。
『Amadeus』
特定の人間の記憶を有した人工知能。
側頭葉に蓄積された記憶に関する神経パルス信号を解析することによる記憶のデータ化。
それが可能だと証明してみせたのは、やはり牧瀬紅莉栖だった。
そして、その技術は真帆たちの手によって、実用段階にまで迫っていた。
紅莉栖が戻るころには、将来的な実用化まで見据えた結果を出しているはずだった。
それを見せつけ、紅莉栖を感服させるはずだった。
だが、それもすぐに潰えてしまった。
突然知らされたプロジェクトの凍結。
当然納得出来るものでは無かった。
しかし、どれだけ文句を言おうと、教授に食って掛かろうと、プロジェクトの凍結は覆されるものではなかった。
『Amadeus』は研究室のサーバーの奥底に眠った。
データ化された牧瀬紅莉栖の記憶とともに。
――牧瀬紅莉栖の記憶。
その記憶を持つ少女。
なぜそんなことが起きたのか。
可能性があるとすれば、それはただひとつ。
岡部倫太郎の仮説の通り――。
レスキネン
「おや?」
入り口のドアが開くと、見慣れた大柄な男が入ってきた。
レスキネン
「マホ。どうしたんだい? まだニューイヤーホリディのはずだが?」
真帆
「そういう教授こそ、わざわざ休みの日に出てきてるじゃないですか」
真帆の師事しているレスキネン教授は、人工知能に関する研究会のため、この一ヶ月ほど日本に滞在している。
真帆もその助手としてついてきていた。
とはいえ、研究会も毎日あるわけでもなく、その間はここ、脳科学綜合研究所の日本オフィスにて、プレゼンの資料を作ったりメールのやりとりをしたりしていた。
レスキネン
「私の場合、休みといっても特にすることも無いからね。ホテルに籠っていても息が詰まるだけだし、それならここに来て仕事をしていたほうがいい」
真帆
「だったら私も似たようなものです」
研究者というのは研究が趣味みたいなものだ。
少なくとも、真帆の周りにいる研究者は皆そんな人間ばかりだった。
もっとも、そうだろうということを見越して真帆はこの日、わざわざここまで来たのだが。
レスキネン
「君にはいろいろとやることがあるだろう。たとえば、デートとか……」
真帆
「教授。あんまりしつこいとセクハラで訴えますよ」
レスキネン
「おっと。それだけは勘弁してくれ」
レスキネン教授は西洋人特有のオーバーアクションで、大げさに肩を竦めてみせた。
教授はどうにも岡部と真帆をくっつけたがっているようだった。
岡部とは互いに紅莉栖の友人だったということもあり、いろいろと話をする仲にはなったが、それ以上ではない。
少なくとも、真帆はそう意識したことは無い……はずだった。
真帆
「それじゃあ、お詫びというわけじゃないですが、ひとつ訊いてもいいですか?」
レスキネン
「訴訟されないですむのなら、なんなりと」
真帆
「じゃあ訊きますけど……『Amadeus』は今どうなっているんですか?」
レスキネン
「どうも何も……今のところ進められる目処がたっていないことは、君だってよく知っているはずだよ」
真帆
「それはわかってます。私が訊きたいのは、『Amadeus』のデータはどうなっているかということです」
レスキネン
「研究室のサーバーに保管されているね」
真帆
「誰かがアクセスしたり、持ち出したりは?」
レスキネン教授は眉をしかめて、ゆっくりと首を左右に振った。
レスキネン
「マホ……君がなぜそんな疑問を持ったのか私にはわからないが……」
レスキネン
「『Amadeus』へのアクセス権はごく限られた一部の人間にしかないし、不正にアクセスされたという事案も起こってはいないはずだ」
レスキネン
「少なくとも、今まで私のところにそのような報告はもたらされていない」
真帆
「私や紅莉栖の記憶データも?」
レスキネン
「もちろん」
真帆
「それじゃあ……他に私が知らない人工知能のプロジェクトが動いているなんてこともありませんか?」
レスキネン
「有るわけがない。我々の研究チームにはマホ、君の力が必要不可欠だ」
レスキネン
「私たちはクリスという才能を失った」
レスキネン
「それは大いなる損失だったが、彼女のいなくなった穴を埋められるのは君だけだと思っている」
レスキネン
「そんな君の知らないところで、新たなプロジェクトなど進めるはずがないだろう?」
真帆
「……そうですか」
いささか大げさすぎるその褒め言葉を、真帆は文字通り受け取りはしなかった。
研究者の中には、常に他を出し抜こうとしている者も少なくない。
他に手柄を先取りされては、それまで自分たちが行っていた研究は全て無駄なものと化してしまう。
同じチームの人間とはいえ、全てを信頼しきれる人間となると限られている。
しかし、少なくともレスキネン教授に対する真帆の信頼は、その限られた中に含まれていた。
レスキネン
「質問に対する答えはこれでいいかな?」
真帆
「はい……」
レスキネン
「では私からの質問もいいかい? どうして急にそんなことを訊くんだい?」
真帆
「それは……」
レスキネン
「もしかして、自分の秘密が誰かに漏れていないか心配にでもなったのかな?」
真帆
「……まあ、そんなところです」
レスキネン
「それなら心配ない。いかに『Amadeus』とはいえ、本人が秘密にしたいことは喋らないように出来ている。君だって知っているはずだよ」
レスキネン
「それは、保存されたデータについても言える」
レスキネン
「仮に何者かがデータを盗んだところで、本人がどうしても知られたくない部分は、ブラックボックスになっている」
レスキネン
「『Amadeus』からはもちろん、記憶データからも取り出すことは不可能だ」
レスキネン
「秘密が漏れるとしたら、その記憶を持つ生身の人間からだけだね」
真帆
「記憶を持つ、生身の人間……」
レスキネン
「そう。つまり本人だけということだ」
レスキネン
「どうだい? 少しは安心したかい?」
真帆
「ええ……まあ……」
レスキネン教授を信用していないとはいわない。
それでも、本当にデータが持ち出されていないかは、自らの目で確かめるまで安心は出来なかった。
自らの目で確かめ、はじめて現象を現象としてとらえることが出来ると、真帆は思っている。
そして、科学者たるもの、そうあるべきだとも思っていた。
しかし今の真帆に確かめるための権限はない。
結局、真帆の心の中は靄がかかったままだ。
そうなることは最初からわかってはいたが、それでも訊かずにはいられなかったというのが本当のところだが。
レイエス
「あら? ふたりともいたのね」
レスキネン教授との会話がちょうど終わったところで、レイエス教授が研究室にやって来た。
レイエス
「まったく。せっかくのホリディだというのに、もの好きね」
真帆
「レイエス教授こそ」
レイエス
「ワタシはホテルにいてもやることなんてないから」
レスキネン教授とふたりで視線を交わし、肩を竦める。
結局、科学者というのは、そんな連中ばかりだ。
レイエス
「なになに、なんなのよ?」
レスキネン
「Hahaha」
真帆
「ふふ……なんでもないです」
不思議がるレイエス教授の様子に、レスキネン教授とそろって笑ってしまった。
それでも、真帆の心の中はやはり曇ったまま晴れることはなかった。
かがりの頭の中に紅莉栖の記憶がある――。
その仮説が現実味を帯びてきてから、数日が経過していた。
かがり
「ごめんなさい。オカリンさんにはいろいろ迷惑かけちゃって」
倫太郎
「別に……迷惑だなんて思ってない。それに俺なんかよりも、ルカ子やまゆりのほうが色々と気を配ってくれてるはずだ」
実際、まゆりやルカ子は、かがりの面倒をよく見てくれていた。
まゆりはまゆりで、本人に実感はないだろうが、ママとして慕われている。
ルカ子も衣食をともにしているだけあって、かがりのことをかなり気にしてくれているらしい。
るか
「そんな。ボクなんて、ただ話相手になるくらいで……」
まゆり
「まゆしぃこそ、何の役にも立ってあげられなくてごめんね?」
かがり
「ううん! そんなことないよ! るかくんはすごく良くしてくれてるし、ママはいてくれるだけで嬉しいし」
ママと言われて、まゆりは少しくすぐったそうに身をよじった。
無理もないことだ。
この歳で、それも自分より年上からママなんて呼ばれれば、誰だって妙な気分になるだろう。
かがり
「ねぇ、ママ?」
まゆり
「なぁに?」
かがり
「ぎゅってしていい?」
まゆり
「ぎゅ?」
かがり
「子供の頃にママがよくやってくれたみたいに、ぎゅってしてもいい?」
まゆり
「ふええ~? わわ~。照れちゃうな~」
かがり
「だめ?」
まゆり
「ううん。……いいよ?」
はにかみながらも頷いたまゆりに、かがりは顔を輝かせ抱きついた。
まゆり
「かがりちゃん、いい子いい子~♪」
かがり
「えっへへ~」
まゆりも深くは聞いてはこないが、かがりの身に起きていることを、なんとなく感じてはいるはずだ。
今は、こうしてやることが良いと、わかっているんだろう。
かがり
「ママ……」
不思議だ。
実年齢ではかがりのほうが上の筈だが、こうして見ると、母娘に見えてくる。
かがり
「ありがと、ママ……」
かがりがゆっくりとまゆりから離れた。
まゆりのおかげか、かなり落ち着いているようだ。
今なら、話をしても大丈夫だろう。
倫太郎
「それで、かがり。調子はどうだ?」
かがり
「調子? 調子、かぁ。んとね……なんだかよくわからない、かな?」
倫太郎
「よくわからない……とは?」
かがり
「ふとした瞬間に、思い出すことがあるんだけど、それが自分のものなのか、紅莉栖さんのものなのかわかんないの」
かがり
「難しい数式とか、実験とか……理解は出来てないんだけど知ってる、みたいな……」
かがりの頭の中にある記憶は、子供の頃のものと、ルカ子の父親の知人である住職に発見されて以降のものしかない。
そのぽっかり空いた空間を、時折現れる紅莉栖の記憶が侵食している。
それがどんな感覚なのか、俺には想像することすら出来ない。
かがり
「んとね、この前もね、パパのことを思い出したの。子供の頃、パパに褒められた時の記憶」
かがり
「それを思い出して、なんだかすごく嬉しかったんだけどね……」
かがり
「でも、私、赤ちゃんの頃に両親死んじゃったし、それからはまゆりママに育ててもらったから、パパなんて知らないんだよね」
かがり
「だけど、自分が経験したことじゃないのに、褒められて嬉しいっていう感情は確かにあって……」
かがり
「そう考えてると、頭の中がごちゃーってなっちゃって……」
かがりは、頭を抱えるようにして顔をしかめた。
最初に出会った時は、彼女のその紅莉栖そっくりの風貌に驚いたものだ。
けれど、こうして話していると椎名かがりという女性は、紅莉栖とは随分と違っている。
よく動く表情といい、少しオーバー気味なリアクションと言い、どちらかというとまゆりに近い。
やはりそれも、母親による影響なんだろうか。
倫太郎
「その……紅莉栖の記憶は良く出てくるのか?」
かがり
「うん……前に比べると頻繁になったかも……」
倫太郎
「そうか……」
まゆり
「ねぇ、オカリン。かがりちゃん、どうなっちゃうのかな?」
倫太郎
「……本来なら、ちゃんとした専門機関で検査してもらうのが、一番いいんだろうが」
かがりは立場が立場だけに、そう簡単にはいかないだろう。
かがり
「あんまり、検査はしたくないなあ。子供の頃もね、検査ばっかりしてたから」
倫太郎
「そうなのか?」
かがり
「うん。PTSDを治すためだって言って」
本人も検査するのはあまり乗り気ではない、か……。
もしもこのまま、紅莉栖の記憶の流入が大きくなったら、彼女はどうなるんだろう。
“牧瀬紅莉栖”の記憶を持つ“椎名かがり”になるのか。
それとも“牧瀬紅莉栖”になってしまうのだろうか。
記憶だけが人格を形作るわけではない。
けれども、記憶も人格を形作る要素の一部ではある。
紅莉栖の記憶を有した彼女が、どんな存在になるのか。
今の時点では誰にもわからないだろう。
誰かの記憶を共有するなんていう事自体、おそらく今までに類を見ない現象なのだろうから。
るか
「あ、まゆりちゃん。時間」
まゆり
「あ……ほんとだ。ねぇ、オカリン。この後、かがりちゃんのこと、任せていいかな?」
まゆり
「これから、学校で進路についての説明会があるんだ~。まゆしぃたち、どうしても出なくちゃいけなくて」
るか
「すみません……」
倫太郎
「謝るなって。心配しなくていい。かがりはちゃんと家まで送っていくから」
るか
「ありがとうございます」
まゆり
「それじゃあ、かがりちゃん。また明日ね」
かがり
「うん、ママ。また明日」
まゆりとルカ子を見送ると、部屋の中には俺とかがりのふたりになった。
かがりの記憶の件があってから、ここ数日、ブラウン管工房のバイトも少し見合わせてもらっている。
とはいえ、何かあってはならないからと、昼間はなるべくここに来てもらうようにはしていた。
下の階に天王寺と鈴羽がいる。それだけで心強くもある。
かがり
「んー……」
不意に、かがりの視線を感じた。
倫太郎
「……どうした?」
かがり
「んとね、改めて考えると、こうしてオカリンさんと話してるっていうのが、不思議だなーって」
倫太郎
「不思議? どうして?」
かがり
「だって、私にとってのオカリンさんは、お話の中の人だったんだもん」
倫太郎
「お話の中……」
かがり
「うん。ダルおじさんや、ママから聞くお話の中の人」
そうか。
鈴羽の話じゃ、俺は2025年に死ぬらしい。
つまり、かがりのいた時代には、俺はもう存在していないことになる。
かがり
「ママはね、いっつもオカリンさんの話をしてたよ」
かがり
「“オカリンがママを助けてくれた。オカリンがママの彦星様なんだよ”って」
倫太郎
「あいつ、未来になってもそんなことを言っているのか」
まゆりに代わって、今度は俺が恥ずかしがる番だった。
かがり
「だからね。私もずーっと気になってたんだ。ママがそんなに大切に思ってるオカリンさんって、どんな人なんだろ、って」
かがり
「みんなが話題にする、岡部倫太郎っていう人が、どんな人なんだろうって」
かがり
「もしかしたら……ちょっと憧れてたかも?」
倫太郎
「からかうのはよしてくれ」
かがり
「あははっ。オカリンさんったら照れちゃってる」
すっかり、かがりのペースだ。
かがり
「あ、んとね、でもそういう意味では牧瀬紅莉栖って人もそうかな」
倫太郎
「紅莉栖が?」
かがり
「うん。牧瀬紅莉栖っていう人の名前も、ママやダルおじさんの口によく上ってたから」
かがり
「ずっと昔に亡くなっちゃったのに、そんなに影響のある人ってどんな人だろうって」
倫太郎
「その……まゆりは、紅莉栖のことをなんて?」
かがり
「……オカリンさんの大切な人だって」
倫太郎
「…………」
――大切な人。
俺にとっては今さら否定しようのない事実だ。
けれど、ラボメンの皆にとっては違う。
この世界線で、まゆりは紅莉栖とは出会ってはいない。俺自身も、今までなるべく紅莉栖のことには触れないようにしていたつもりだった。
だというのに、そんな未来になってまでも、俺はまゆりにそんな思いを抱かせているのか。
倫太郎
「そうだ。今から買い物に行くんだが、よかったら一緒に来ないか?」
かがり
「買い物?」
倫太郎
「ああ。まだ、この辺りのこと、良く知らないだろ?」
かがり
「……いいの?」
倫太郎
「もちろんだ」
前の世界線の出来事もあり、必要以上に出かけるのは止した方がいいとはいえ、今の彼女には少し気分転換をさせたほうがいいかもしれない。
まだ昼間だし、人通りの多いところを選んで歩けば大丈夫だろう。
かがり
「やった。実はね、いろいろ欲しいものもあったんだ」
倫太郎
「……欲しいもの?」
かがり
「うん。日用品とか、いろいろね」
倫太郎
「ルカ子が用意してくれてるんじゃないのか?」
かがり
「そうだけど、でもほら。るかくんだって男の子でしょ? だから、いろいろ頼んじゃうのも悪いなって」
確かに、いくら可憐だとはいえ、ルカ子も男だ。
どうしてもわからない物だってあるだろう。
倫太郎
「……それじゃあ行くか」
かがり
「うんっ」
かがり
「やっぱりすごいよね」
街へと出たかがりは、キラキラと目を輝かせて周りを見回していた。
かがり
「人も多いし、お店もたくさんあるし。ここがあの秋葉原と同じ街だとは思えないな」
倫太郎
「未来の秋葉原はどんなところなんだ?」
かがり
「ひと言でいうと、んとね……そうだなぁ……瓦礫の山、かな。まあ、秋葉原に限ったことじゃないんだけどね」
近い将来、第三次世界大戦が起きると、そう鈴羽は言っていた。
となると、幼いかがりは戦争が起きて以降の、無残な世界しか知らないことになる。
もっともそれも、全て俺のせい――なんだろう。
俺が鈴羽の頼みを聞き入れ、もう一度、去年の7月28日に戻れば――それで、戦争が起こらない世界線になるんだろうか?
……無理だ。世界線の収束には、逆らえない。
かがり
「あ、オカリンさん、もしかして自分のせいだ、なんて思っちゃってる?」
内心をズバリ言い当てられて、ドキリとした。
かがり
「その反応は図星だね。でも、その考えはダメ。バッテンなのだ」
かがり
「私の知る限り、ママもダルおじさんも、誰もオカリンさんを責めてなんていなかったよ」
かがり
「だって、ママたちはみんな信じてたから。オカリンさんならいつかやってくれるって」
かがり
「んとね……その、シュタインズゲート……だっけ? そこに導いてくれるって」
かがりの言葉は、俺を気遣ってのものだとわかっていた。
まゆりやダルが決して俺を責めないだろうことも。
それでも今の俺にとってその言葉は重荷でしかない。
全てを放棄してしまった今の俺には。
かがり
「……あー、ごめん、なさい」
倫太郎
「え?」
かがり
「別に追い込むつもりとかじゃなかったんだけど……」
どうやら俺は、相当深刻な顔をしていたらしい。
倫太郎
「いや……俺の方こそ、すまない。でも、俺はもう……」
かがり
「すとっぷすとっぷ! 今日はそういうのはナシ。せっかく外に出たんだから、もっと楽しい話しよ、ね?」
倫太郎
「ああ……」
今のかがりの頭の中にあるのは、辛い戦争の記憶だけのはずだ。
少なくとも“椎名かがり”としての記憶はそれだけ。
なのに、こうして俺のことまで気遣ってくれている。
血は繋がっていなくても、彼女はやはりまゆりの子なんだ。
でも、楽しい話と言われても、何を話せばいいのか……。
かがり
「んとね……そうだな。せっかくだから、ママの若い頃の話を聞きたいな」
倫太郎
「まゆりの?」
かがり
「あ、若いって言っても、今も若いんだけど」
かがり
「でも、もっと若い頃の話。たとえば……“人質”の話とか?」
倫太郎
「まゆりはそんなことまで、君に話しているのか……」
かがり
「うん。私ね、オカリンさんの話をする時のママの顔がだーいすきなの」
かがり
「とっても大切な宝箱をそーっと開けるみたいな、そんな顔っていうのかな?」
かがり
「その顔と、その時の声と……それを思い出すだけで、すっごくあったかい気持ちになれるんだ」
きっと、かがりにとってのまゆりは、暗く澱んだ世界の中における、星のようなものだったのだろう。
夜空に一番明るく輝く。
倫太郎
「別にたいした話じゃないさ」
倫太郎
「大好きなお婆さんが亡くなって、ずっと悲しんでたあいつが、今にも消えてしまいそうで……」
倫太郎
「それで口から出た、痛々しい台詞だ……」
かがり
「お前は俺の人質だ――って?」
第三者の口から聞かされると、恥ずかしさで隠れたくなる。
倫太郎
「若かったんだ。若さゆえの過ちというやつさ」
かがり
「それでも、その言葉はママを救ってくれたんだよね?」
倫太郎
「……どうだろうな」
もしもその言葉のせいで、俺がずっと――未来になってもずっと、まゆりを束縛しているのだとしたら……。
かがり
「オカリンさん……?」
倫太郎
「そんなことより、腹が減らないか? 何か食べにでも行こう」
かがり
「え? あ、うん……」
誤魔化し紛れに歩き出すと、かがりも戸惑いながらついてきた。
倫太郎
「何か食べたい物あるか?」
かがり
「んとね……私はなんでもいいかなっ」
倫太郎
「そういうのが一番困るんだ」
かがり
「だって、この時代の食べものって何でも美味しいんだもん。ビックリするくらい」
倫太郎
「未来じゃ何を食べてたんだ?」
かがり
「お芋とかそういうのばっかりかなぁ」
かがり
「あ、でも、ママが毎日違う味付けしてくれてたから……」
倫太郎
「まゆりが……?」
かがり
「うん」
倫太郎
「まゆりの料理は、その……美味かったのか?」
かがり
「うんっ」
倫太郎
「そう……か……」
人間とは成長する生き物らしい。
まゆりは最近、由季にいろいろ教えてもらってるからな。
その教えが生きたのかもしれない。
かがり
「だから、私はなんでもいいよ」
そういうことなら……。
フェイリス
「お帰りニャさいませ、ご主人様♪」
フェイリス
「あ、オカリン。それにかがりニャンも!」
せっかくだからと立ち寄ったメイクイーン+ニャン⑯は、人でごった返していた。
倫太郎
「今日は混んでるな」
フェイリス
「そうなのニャ。今日からアニメとのタイアップキャンペーンが始まったのニャ」
そういえば、街中で見かけたことのあるキャラクターの立て看板が、店の前に突っ立っていた。
フェイリス
「おかげで大繁盛で、満席なのニャ……」
フェイリス
「30分くらい待ってもらったら、入れるようになるんニャけど……」
倫太郎
「そういうことなら、また今度にするよ。な?」
かがり
「うん。もっとゆっくり出来そうな時に出直してくるね」
フェイリス
「せっかく来てもらったのに、ゴメンニャ~」
メイクイーン+ニャン⑯を後にして色々と歩き回ったが、ちょうど昼時ということもあり、目ぼしい店はどこもいっぱいだった。
かがり
「すごいね。どこも人だらけ」
倫太郎
「まったくだ。わざわざ外で飯なんか食わずに、家で済ませればいいものを」
かがり
「あはは。でも、それって私たちにも当てはまるよね」
さて、どうしたものか。
かがり
「ラボで食べよっか」
倫太郎
「言っとくが、俺は料理なんて出来ないぞ」
かがり
「私も私も~♪」
じゃあダメじゃないか。
かがり
「簡単なものでいいよ。あ、私、あれ食べてみたかったんだ。ほら、お湯かけて食べるヌードル的なの」
倫太郎
「カップ麺か? あんなものでいいのか?」
かがり
「んとね、未来だとね、工場がいっぱい無くなっちゃって、なかなか手に入らなくなっちゃったんだ」
かがり
「ダルおじさんが、いっつも食べたい食べたい、って言っててずーっと気になってたの」
そんなものでいいのなら、こちらとしては構わないが。
そうだ。そういうことなら、せっかくだしアレを――。
近くにあったコンビニでカップ麺を大量に購入してきた。
買い置きしておけば、どうせダルあたりが食べるだろう。
かがり
「すっごいね。カップ麺ってあんなにいっぱい種類あるんだ」
倫太郎
「今は未来と違って飽食の時代だからな。コンビニなんかでは毎週のように新商品が出る」
かがり
「そうなんだねー。ね、この中のどれを食べてもいいの?」
かがりが、俺の持つコンビニ袋をのぞき込んでくる。
倫太郎
「もちろん。好きなのを選んでくれ」
かがり
「それじゃ、どれにしようかなぁ。んとね、んとねー……」
唇に人差し指を当てて、目を輝かせているその仕草はまるで子供だ。
かがり
「私、これにする! 塩味の!」
倫太郎
「なんなら、2つでも3つでも食べてもいいぞ」
かがり
「ほんと!?」
かがり
「あー……でも、食べ過ぎちゃうと太っちゃうしなー……」
表情が豊かで、本当に見ていて飽きないな。
かがり
「そういえば、さっき他にも何か買ってたみたいだったけど……」
倫太郎
「ああ、これだよ」
コンビニ袋の中から、プラスチック製のそれを取り出した。
かがり
「これって……」
倫太郎
「フォークだよ。箸じゃ食べ辛いんじゃないかと思って」
倫太郎
「自分専用のものにして、ラボに置いておけばいい」
かがり
「……いいの? もらっちゃって」
倫太郎
「別に、たいしたものじゃない」
紅莉栖
あいつ
が欲しがっていたマイフォーク。
罪滅ぼしなんてつもりはない。
ただ、俺がそうしたかっただけだ。
かがり
「やった! ありがとう! 実はね、私、お箸使うの苦手なんだ。ママからもいっつも注意されてて……」
かがり
「あ、これ、先っぽにうさぎさんがついてる。かわいー」
かがり
「えっへへ~。私専用のフォーク。私のもの、これでふたつ目だ~」
もうひとつは、きっとまゆりがくれたうーぱのキーホルダーだろう。
かがり
「でも、なんでかな? 私、これ、ずっと欲しかったような気がする……」
かがり
「もしかして、これも紅莉栖さんの記憶なのかな?」
倫太郎
「……さあ、どうだろうな……」
かがり
「ねえオカリンさん。オカリンさんは、紅莉栖さんのこと、好きだったんでしょ?」
倫太郎
「な――げほっ、げほっ!」
予想外の方向から飛んできた発言に、思いっきり

むせ
てしまった
かがり
「大丈夫?」
倫太郎
「い、いきなり、なんでそうなる?」
かがり
「だって、大切な人っていうのは、そういうことでしょ?」
倫太郎
「…………」
かがり
「で、どうなの? 好きだったの?」
まさに興味津々と言った様子だ。
こういうところは年相応らしい。
倫太郎
「……まあ、あいつとの出会いが俺の人生を大きく変えたのは確かだな」
かがり
「あー、誤魔化したー。ずるーい」
かがり
「でも……人生を変えるほどの大切な人、かぁ。なんか憧れるかも」
文字通り、未来も過去も、全てが大きく変わってしまったわけだが。
かがり
「ね、オカリンさんから見て、牧瀬紅莉栖さんってどんな人だったの?」
倫太郎
「……気になるか?」
かがり
「自分の頭の中にある記憶の持ち主のこと、もっと知りたいよ」
倫太郎
「俺が教えなくても、それこそ記憶として頭の中にあるんじゃないのか?」
かがり
「それが、自分で思い出そうとしても思い出せないんだよね。時々、断片的に出て来るだけで」
かがり
「それも大抵、難しいことばかり……」
かがり
「だから、もっと人間的な部分っていうの? そういう、人となりとか教えて欲しいなって」
倫太郎
「…………」
確かにかがりにとって紅莉栖は、会ったことすら無い赤の他人だ。
そんな見知らぬ人間の記憶を共有している以上、知りたいと思うのも無理からぬことかもしれない。
倫太郎
「あいつは……牧瀬紅莉栖は、とにかく好奇心の強い奴だったよ」
かがり
「ふむふむ」
倫太郎
「そのうえ頑固で、自分が正しいと思ったことは誰に何を言われても決して曲げることは無かった」
かがり
「そうなんだ」
倫太郎
「不遜で強がりで、そのくせ寂しがり屋で――」
頭の中で、紅莉栖と交わした会話や出来事が次々と蘇ってくる。
そういえば、ここでこうして話したこともあった。
それも今では全て、無かったことだが。
倫太郎
「それに、怒ると怖かった」
かがり
「怖い? どんな風に?」
倫太郎
「『開頭して海馬に電極ぶっ刺す!』……なんて物騒なことを言われたりしたよ」
かがり
「ふぇ~」
感嘆の声を上げると、かがりは何を思ったのか、小走りに数歩先まで進み、くるりと振り返った。
そして。
かがり
「そんなこと言ってると、開頭して海馬に電極ぶっ刺すわよ!」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「今すぐ開頭して、海馬に電極ぶっ刺してやろうかしら」
紅莉栖……。
かがり
「なーんて、こんな感じ?」
倫太郎
「…………」
かがり
「オカリンさん……?」
倫太郎
「あ、いや……」
かがりの中の紅莉栖の記憶――。
もしも、それが彼女の頭の中で完全に再現出来たとしたら――椎名かがりという少女は牧瀬紅莉栖になるのだろうか。
馬鹿馬鹿しい考えだとは思う。
人格と記憶は別もののはずだ。
それでも、もしも――。
もしも、彼女の記憶が完全に紅莉栖のものになったら――。
もしかしたら――。
かがり
「オカリン……さん……」
倫太郎
「え?」
ふらりとした足取りで近づいてきたかがりが、その身を俺に預けてきた。
突然のことに、息を呑む。
胸元に触れる温もりが。
感触が。
紅莉栖を想起させる。
倫太郎
「紅莉……栖……?」
かがり
「うぅっ……」
苦しげなそのうめき声に、我に返った。
倫太郎
「っ、どうした、かがり!?」
かがり
「頭……頭が……っ」
倫太郎
「頭が痛いのか?」
かがり
「う……あぁっ……ぁ……!」
かがりは俺の腕の中で激しく身を捩った。
かがり
「いや……嫌だ……もう、あんなとこ、帰りたくない……」
かがり
「助けて……誰か……誰かここから出して!!」
倫太郎
「どうしたんだ、かがり!?」
かがり
「助けて、ママ! どうして助けてくれないの? ママ! ママぁ!!」
倫太郎
「落ち着け! 落ち着くんだ、かがり!!」
なおも暴れようとするかがりの両手を取って抑えつける。
道行く連中が何ごとかと視線を向けていたが、今はそんなことを気にしている余裕も無い。
倫太郎
「大丈夫。大丈夫だから……」
かがり
「う、あぁ……はぁっ……あ、あぁ……オカリン……さん……」
倫太郎
「歩けるか? とにかくラボに戻ろう」
かがり
「っ…………」
ようやく落ち着きはしたものの、それでも苦しそうなかがりの肩を抱えるようにして、俺はラボへと向かった。
ラボへ戻ってから、かがりはしばらく眠ったきりだった。
ひとまず、頭痛は落ち着いているようだが、それでも時折うなされるような様子を見せていた。
まゆり達には既に連絡しておいたから、もうすぐ来てくれるはずなんだが。
それにしてもさっきの言葉……。
かがり
「助けて……誰か……誰かここから出して!!」
かがり
「助けて、ママ! どうして助けてくれないの? ママ! ママぁ!!」
あれは何だったんだ?
もしかしたら、失われたかがりの記憶の断片だろうか。
だとしたら、やっぱり彼女は……。
まゆり
「オカリン!」
時計を確認しようとすると同時、ドアが開き、まゆりとルカ子が飛び込んできた。
るか
「かがりさん、大丈夫なんですか?」
倫太郎
「ああ。今はよく眠っている」
まゆり
「よかった~」
かがり
「ん……」
俺たちの話し声が耳に届いたのか、かがりがうっすらと目を開けた。
るか
「かがりさん……」
かがり
「あ……あれ? ここ……どこ……?」
キョロキョロと辺りを見回し、怯えたような表情を見せる。
るか
「落ち着いて。ここはラボですよ」
かがり
「ラ……ボ……? 日本……?」
まゆり
「そうだよ。日本の、秋葉原だよ」
かがり
「日本……私、日本に……」
かがり
「あ、そっか……私、交換留学で……」
かがり
「そういえば講演の準備は……」
まゆり
「留学?」
るか
「様子が、変です……」
まゆり
「ねえ、オカリン……?」
倫太郎
「…………っ」
留学――。
講演――。
それは――紅莉栖の記憶だ。
かがり
「あれ? 論文! 論文は!? パパに見てもらおうと思って、頑張って書いたんだけどっ」
倫太郎
「落ち着け、かがり! それは君の記憶じゃない!」
言い聞かせると、かがりはぼんやりした顔を上げた。
かがり
「……オカリン……さん……」
倫太郎
「そう。お前は椎名かがりだ。牧瀬紅莉栖じゃない」
かがり
「かがり……私は……椎名、かがり……」
かがり
「う……あ、あぁっ……!」
かがり
「あぁあああああああああ!!」
倫太郎
「ルカ子。悪いが、かがりのことを頼む」
るか
「はい」
あの後、かがりはしばらく混乱していたものの、それでも次第に落ち着きを取り戻していった。
やがて、もう大丈夫だという頃合いを見計らい、こうして柳林神社まで送って来たんだが。
やはりこのまま俺たちだけでかがりの面倒を見るのは、無理があるんじゃないだろうか。
病院に連れて行くべきじゃないんだろうか。
そうしようとしないのは、俺の……エゴなんじゃないのか。
そんなことを、歩いている間、ずっとグルグルと考えていた。
まゆり
「今日はまゆしぃも一緒に泊まることにするね」
倫太郎
「あ、ああ。そうしてもらえると助かる」
まゆりがいてくれるだけで、かがりも安心するだろう。
倫太郎
「なるべく、普段と同じように接してやってくれ」
まゆり
「うん。わかった……」
何かあったらすぐに連絡を寄こすように告げ、俺はふたたびラボに戻った。
鈴羽
「かがり、酷いの?」
ラボに戻った俺に、開口一番に鈴羽が訊いてきた。
ソファには鈴羽と、そして真帆が並んで座っている。
ふたりには、あらかじめRINEで状況は伝えておいた。
だが、それでも心配だったのだろう。
倫太郎
「今は落ち着いてるが、一時はかなり混乱していた」
真帆
「やっぱり……紅莉栖の記憶?」
倫太郎
「ああ。ここまで来ると、もう間違いないだろう」
なぜそうなったのかはわからないままだが、かがりの頭の中には、牧瀬紅莉栖としての記憶がある。
問題は、この問題についてどう対処するかだ。
俺たちだけで出来ることは限られている。
せいぜい頑張ったところで、何故こんな事態に陥ったのかを突き止めるくらいが関の山だ。
それだけでは根本的な解決にはならない。
最終的に必要なのは、どうやってかがりを元に――紅莉栖の記憶を取り除き、本来のかがり自身の記憶を戻してやるか、だ。
そのためには専門家の力が必要だった。
そういう意味では、比屋定真帆も、専門家と言える。
少なくとも記憶とか脳のメカニズムについて言うなら、これほど心強い人物はいないだろう。
しかし、ひとつ問題があった。
真帆にはまだ、かがりが未来から来た存在だという事実を教えていない。
この世界線において、真帆はまだ鈴羽たちとはそれほど交流がない。当然、未来のことやタイムマシンのことも知らない。
果たして、それを教えていいものか……。
真帆
「ねえ、あなたたちは、かがりさんとはどうやって知り合ったの?」
真帆
「漆原さんのところに来る前は、彼女はどこで何をしていたのかしら」
鈴羽
「かがりは千葉の県境で倒れていたところを、助けられたんだ」
鈴羽
「意識を取り戻した時点で、それ以前の記憶は無かった」
そこに至る経緯は、前の世界線とほぼ同じ。
真帆
「でも、子供の頃の記憶はあるんでしょう? 鈴羽さんは、彼女と知り合いだったのよね?」
真帆
「子供の頃の彼女は、どこで何をしていたの?」
鈴羽
「…………」
鈴羽は、黙って俺の顔を呎ってきた。
彼女は今のかがりの状況に、責任を感じているんだろう。
どうにかして、本来のかがりを取り戻したい。そんな気持ちが顔に表れている。
鈴羽
「おじさん。どうする? 比屋定さんに話しても?」
真帆は科学者だ。
本当の事を話せば、きっとタイムトラベルに興味を覚えるに違いない。
ともすれば開発を始めてしまうかもしれない。
それは多大な危険を含んだ行為だ。
けれど――。
倫太郎
「かがりを救う方法を突き止めるためには、やむを得ないか……」
考えた末に、俺は首を縦に振った。
今はまず、かがりを何とかしてやらなければならない。
俺の答えに力強く頷くと、鈴羽は真帆に向き合う。
鈴羽
「今から話すことを知っているのは、ごく一部の人間しかいない」
鈴羽
「だから、比屋定さんも決して他の誰かに漏らしたりはしないで」
真帆
「な、なんなの、急に……」
殺気だったともいえる突然の鈴羽の態度に、真帆は確かに気圧された様子を見せた。
それでもなお、鈴羽は続ける。
鈴羽
「冗談に聞こえるかもしれないけど、冗談なんかじゃないんだ」
鈴羽
「約束出来るか否か。答えはふたつにひとつだ」
真帆
「っ……」
戸惑いの目を俺に向けてくる。
が、俺の表情に何かを感じとったのだろう。
真帆
「わ、わかったわ。誰にも言わない。約束する」
しっかりと頷いた。
鈴羽
「それじゃあ、まずはさっきの質問の答え。子供の頃、あたしとかがりがどこで何をしていたか……」
鈴羽
「あたしたちは、第三次世界大戦が終わった後の、いまだ各地で内戦が続く戦時下に暮らしていた。2036年のね」
真帆
「…………」
投げかけられた言葉にしばらくはぽかんと口を開けていた真帆の顔が、怒りでみるみる紅潮していく。
真帆
「からかわないで。人が真剣に訊いてるのに」
鈴羽
「…………」
鈴羽は何も言おうとしない。
凍えそうなほど冷静な目で、じっと真帆を見据えているだけだ。
倫太郎
「比屋定さん。鈴羽が最初に忠告したはずだ。これは、作り話でも冗談でもない」
倫太郎
「鈴羽とかがりは、25年後の未来からやって来た存在なんだ。――タイムマシンでな」
真帆
「タイムマシン? そんな物が作れるわけが――」
倫太郎
「その理論の大元を作ったのが、牧瀬紅莉栖だと言っても、か?」
真帆
「…………っ」
紅莉栖の名前を出された途端、真帆の顔から怒りの表情が消えた。
真帆
「そん……なの……」
真帆
「…………」
真帆
「……わかった。聞くだけは聞くわ」
俺と鈴羽は、真帆にほぼ全ての事を話して聞かせた。
紅莉栖との出会い。
Dメール。
α世界線での出来事。
タイムリープマシンの開発。
まゆりの死。
アトラクタフィールド理論。
2036年でのこと。
かがりの境遇。
ただひとつ――紅莉栖の死の真相だけを除いて。
真帆
「とりあえず、話を整理させて……」
真帆
「つまり、鈴羽さんとかがりさんは、岡部さんに未来を変えてもらうために、2036年からやって来たと、そう言うのね」
鈴羽
「そうだよ」
真帆はソファに身を沈めると、大きなため息をついた。
真帆
「岡部さんに、そんな大層なことが出来るとは思えないわ」
真帆
「たった一人の人間に、全人類の命運がかかっているなんて」
倫太郎
「俺だって無理だと思っている」
事実、俺は諦めたんだ。
全ての未来を。
真帆
「とうてい信じられない話ではある。あるけど……」
真帆
「でも、貴方の言ったその理論なら、確かにタイムリープは可能かもしれない」
真帆
「それに何より、その理論の基を作ったのは紅莉栖なんでしょう?」
真帆
「だったら、検証に値するわ」
真帆
「だって、あの子は……天才だもの」
小さく呶いたその言葉には、憧れと羨望と嫉妬と、それら全てがない交ぜになっているように、俺には思えた。
倫太郎
「信じるんだな?」
真帆
「その代わり、今度見せてほしいわね、そのタイムマシンを」
真帆
「乗って来たっていうなら、あるんでしょ? どこかに」
鈴羽
「……ある。すぐ近くにね」
真帆
「検証作業は必要だけど、とりあえずあなたたちの話を信じることにする。だからあなたたちも、私に信じさせるよう協力して」
鈴羽
「わかった」
鈴羽はあっさりとそう答えた。
真帆
「……ありがとう」
鈴羽がいいと言うなら、俺が口を挟むことは何も無かった。
真帆が協力してくれるなら、それでいい。
倫太郎
「……話をかがりの件に戻そう」
倫太郎
「さっきも言ったように、はぐれたのは彼女が10歳の頃……」
倫太郎
「そしてそれ以降、先月になって見つかるまでの足取りは全くつかめていない」
倫太郎
「俺は……その間、彼女が海外にいたんじゃないかと考えている……」
その期間がどれほどかは不明だ。
ずっとかもしれないし、わずか1週間ほどかもしれない。
鈴羽
「オカリンおじさんの仮説だと、ヴィクトル・コンドリア大学にいたことになるね」
倫太郎
「ああ。そして、なんらかの形で『Amadeus』と接触した……」
真帆
「…………」
真帆は受容とも諦観ともとれる顔をして、大きく息をついた。
『Amadeus』のために保存された、牧瀬紅莉栖の記憶データ。
かがりの頭の中にある紅莉栖の記憶の元となっているのは、そのデータ以外に考えられない。
それを裏付けたのが、今日のかがりの言動だ。
留学。講演。
彼女の口から出た紅莉栖の記憶の断片は、すべて日本に来る前に決まっていたことばかりだった。
紅莉栖の記憶データが最後に取られたのは、アメリカを発つ前。
その点でも、状況は合致する。
真帆
「この前、レスキネン教授に確認してみたんだけど、紅莉栖の記憶データは凍結されたまま。誰もアクセス出来ないはずだと言っていたわ」
真帆
「ただ、それが事実かどうかを確かめる権限は、今の私にはない」
真帆
「それに、プロジェクトが凍結される前に何者かがデータを持ち出したことだって考えられるし……」
倫太郎
「持ち出すことの出来る人間は、『Amadeus』の研究に携わっていた人間に限定されるんじゃないか?」
真帆
「そうとは限らない。外部からサーバーに侵入すれば、誰にだって出来ることよ」
誰にだって、というが、そこらの人間には無理だろう。
それこそ、スーパーハッカーでもなければ。
真帆
「問題は、目的ね。岡部さんの仮説が正しいとして、何故そんなことをする必要があったのか……」
可能性として考えられるのは、何者かが牧瀬紅莉栖の頭脳を欲したというもの。
しかし、それならば『Amadeus』でこと足りるはずだ。
なにも他人の脳に記憶を移植する必要なんてない。
それに、果たしてそこまでして紅莉栖の頭脳を欲する理由があるのかどうか。
いかに紅莉栖が天才とはいえ、世間ではまだ論文をひとつ発表しただけだ。
それほどまでに、彼女の頭脳を必要とする理由がない。
考えられるとすれば――。
倫太郎
「もし、紅莉栖の記憶の中に、タイムマシン理論の基礎があることを何者かが知ったとしたら……」
欲しがる人間は、必ずいる。
真帆
「でも、紅莉栖がその理論に行きついたのは、あなたの言う




世界線
①①①
なんでしょう?」
倫太郎
「中鉢論文を知ってるか?」
真帆
「……中鉢? それって、ロシアに亡命した?」
倫太郎
「そうだ」
真帆
「例の論文には、私も軽く目を通したけど、とても論文と言えるものではなかったわ」
倫太郎
「あれは、劣化コピーだと俺は考えている。オリジナルが別に存在するんだ」
真帆
「いったい……なんの話……?」
倫太郎
「……ドクター中鉢の本名は、牧瀬章一。紅莉栖の、実の父だ」
真帆
「……!」
思い出す。
あの日、俺がこの目で見た出来事を。
紅莉栖
「私も考えてみたの。タイムマシンは作れるのかどうか」
紅莉栖
「読んで、パパの意見を聞かせてほしい」
中鉢
「……悪くない内容だ」
紅莉栖
「本当?」
紅莉栖
「この論文はパパと共同署名でもいいと私は思って――」
中鉢
「学会には出すな。これは私が預かっておく」
真帆
「そういえば……」
真帆
「紅莉栖が、日本に行く前に言ってたの。父親に会うって。新しい理論の発表会をするらしくて、その招待状が来たって……」
あの時、紅莉栖は自らが書いた論文を中鉢に奪われていた。
その後、ロシアに渡った中鉢が発表したのが『中鉢論文』と言われるものだ。
論文自体に、俺は目を通していない。
論文のことを想起すると、どうしてもあの日のことが――その直後に起こった出来事が思い出されて、目を背けていた。
ただ、論文の評価自体は井崎教授たちから聞いていた。
トンデモ論文と言っていいほど、出来の悪いものだったと。
だが仮に――発表された論文が劣化コピーであったなら。
発表されたのは、紅莉栖の書いた論文を中鉢なりに解釈して書き直したもので、紅莉栖によるオリジナルが他に存在するのだとしたら……。
そうなんだ。
あの紅莉栖が書いた論文。それがそんなに陳腐なものであるはずがない。
事実、あいつはタイムリープマシンを作り出してみせたのだから。
真帆
「それじゃあ、その論文の存在を知った誰かが、紅莉栖の記憶からタイムマシンに関する理論を取り出そうとしてるってこと?」
鈴羽
「第三次世界大戦が起きたきっかけは、EUとロシアによる、タイムマシン競争の過熱なんだ」
鈴羽
「そこにアメリカまで横やりをいれて、収拾が付かなくなった」
鈴羽
「まさに、時代は歴史通りに動き出している」
あの時――前の世界線でこのラボを襲った連中。
天王寺によると、奴らは外国人、それも軍関係者とのことだった。
どこかの軍が、紅莉栖のタイムマシン理論を欲している。
そう考えると、かがりの頭に記憶をダウンロードするという行為にも説明がつく。
話したくない事、話してはならない事は、『Amadeus』は決して喋らない。
しかし、生身の人間ならどうだ?
自白剤や、拷問などを行えば……あるいは喋るかもしれない。
かがりはその為の実験に使われたのかもしれない。
もちろん、これもまだ想像の範疇でしかない。
だが、かがりを連れて行こうとしたのが、どこかの軍に所属する人間だと考えるなら、充分に有りうる話だ。
真帆
「記憶のデータを脳に移植する……か」
倫太郎
「可能なんだろう? 今の技術でも」
倫太郎
「紅莉栖はそれを成し遂げた。それは、紅莉栖が研究していたことの応用だと言っていた」
真帆
「ええ、そうね。可能よ」
真帆
「それに、もともと『Amadeus』は、そのために作られたものなんだし」
医療分野への応用、だったか。
セミナーでレスキネンが話し、それを真帆が通訳していた。
この世界線では……『Amadeus』は凍結されているから、そのセミナーそのものがなかったことになっているが。
真帆はそのときと同じような説明を、もう一度してくれた。
やはり、記憶データの移植は理論上は可能なのだ。
真帆
「紅莉栖の考え出した“タイムリープマシン”だって、その応用だわ」
倫太郎
「もっとも、そのどちらも、自分の頭の中に自分の記憶を移植する、という目的で作られたものだがな……」
それですら、紅莉栖は危険だと言っていた。
鈴羽
「じゃあ、他人の脳に別人の記憶を移植するとどうなる?」
真帆
「単純に、
OS

の違うPCのハードディスクに、別のデータをコピー……というわけにはいかないと思う」
真帆
「そもそも、人間の脳のキャパシティがどれくらいあるのかすらわかっていないの」
真帆
「容量的な事だけを言えば、20歳の女性2人分の記憶くらいは余裕で保存出来るというデータはあるけど」
以前ダルは、記憶の容量について3.24テラだと言っていた。
真帆
「だけど問題はそれ以外の部分」
真帆
「岡部さんの言うとおり、自分自身の頭に記憶をダウンロードすることすら、まだ実用段階には至っていない」
真帆
「それなのに他人の記憶を、となると、いつ齟齬を起こしてもおかしくないわ」
真帆
「そして実際に今、そのエラーは起きつつある……」
鈴羽
「このまま放っておくと、かがりはどうなる?」
鈴羽
「ひょっとして……牧瀬紅莉栖になってしまうのか?」
真帆
「記憶と人格は別ものよ。脳の中で記憶を扱うのは、海馬と大脳皮質。一方で、人格は前頭前野の働きによって形成されている」
真帆
「それらの働きは、お互い密接に繋がっている部分も大きいわ」
脳の働きは、部位によって役割は決まっているものの、それぞれが完全に独立したものともいえない。
記憶によって人格が形成されている部分も大きいだろう。
真帆
「ふたつの記憶が混在することで、脳に対する負担もかなり大きくなってるはず……」
真帆
「このまま放っておいた場合、最悪、かがりさんの人格は崩壊を……」
鈴羽
「く……」
鈴羽が、悔しそうに自身の膝に拳を打ち付ける。
倫太郎
「それを防ぐ手立てはあると思うか?」
真帆
「かがりさんの頭の中から、紅莉栖の記憶を取り除くしかないでしょうね」
倫太郎
「……出来そうか?」
真帆
「脳のデータが解析出来ればあるいは……でも、出来るようになるとしても何年先か……」
鈴羽
「…………」
鈴羽の拳は、音が出そうなほどに握りしめられていた。
あの時、自分がかがりを見失ってさえいなければ――そう思っているのがありありとわかる。
真帆
「ひとつ手があるとするなら……」
真帆
「もう一度、過去のかがりさんの記憶を上書きすること、かしら……」
倫太郎
「もう一度……記憶を……?」
真帆
「そもそも、かがりさんの記憶を操作した人間は、かがりさんの記憶を残すつもりは無かったと思うの……」
真帆の言うとおりかもしれない。
ふたり分の記憶をひとつの脳の中に入れるなんて行為、不具合が起きてくれと言っているようなものだ。
であるなら、かがりに対する実験は、本来狙っていた結果とは違う結果を引き起こした――いわば失敗だったんじゃないか。
真帆
「だったら、もう一度かがりさんの記憶を、きちんとした装置で脳に上書きしてあげれば、あるいは元通りに出来るかもしれない」
倫太郎
「しかしそのためには、かがりの記憶データが無いと……」
真帆
「バックアップが取ってあることを期待するしかないわね」
鈴羽
「装置はどうする? 簡単に見つかればいいけど」
真帆
「ないなら、作ればいいわ」
倫太郎
「そんな簡単に……」
真帆
「でも、紅莉栖は作れたんでしょう?」
倫太郎
「え?」
ああ、そうか。
あのタイムリープマシンの応用でいいんだ。
真帆
「だったら、私にも作れる……ううん、作ってみせる」
それなら俺にも協力出来るかもしれない。
真帆
「問題は、記憶データがどこにあるか、ね。こればっかりは、何とかして突き止めるしか方法がないわ」
とはいえ、情報が少なすぎる。
わかっているのは外国の軍隊――それも西側の軍隊だということだけ。
それも確かな情報じゃない。
鍵を握っているとすれば、あのライダースーツの女だけだが……。
一瞬浮かび上がった人物を頭から追い払う。
鈴羽
「何かいい方法でも思いついた?」
倫太郎
「いや、なんでもない」
あれは阿万音由季じゃない。
そんなはずはない……。
鈴羽
「……?」
その後も俺たちは遅くまで、かがりに実験を行った連中を突き止める方法について話し合った。
しかし、何も具体的な方法が得られないまま。
時間だけが過ぎていった。
真帆
(信じられない……)
真帆
(ううん、でも本当なのよね……!)
電車の中で、比屋定真帆は興奮を抑えきれないでいた。
未来から来たというふたりの少女。
そして、タイムリープを繰り返したという岡部倫太郎の話。
普通ならば、とても信じられるようなものではない。
しかし、その構想の礎になっているのが、牧瀬紅莉栖の頭脳だと言われ納得がいった。
彼女ならば――あの天才ならば、可能にしてしまうかもしれない。
紅莉栖は真帆にとって、そんな可能性を感じさせる存在だった。
それに、なにより真帆は目にしたのだ。
ラボからの帰り、鈴羽に連れられて上ったラジ館の屋上で。
本物のタイムマシンを。
時間もなく、また夜だということで、詳しく調べることは出来なかったが、一見してそれは現代のテクノロジーで作られた物でないことはわかった。
本当なら、明日から――いや、今からでもあのマシンを事細かに解析して、同じものを作り上げたいくらいだった。
けれど、その前に真帆にはやらなければならないことがある。
紅莉栖が作ったという、タイムリープマシン。
その改良版を作ることだ。
そのためには、しばらくラボに入り浸ることになるだろう。
そう考え、必要なものを取りに和光市にあるオフィスに向かった。
外から見たオフィスの窓には、この時間でもまだ明かりが灯っているのが見えた。
レスキネン
「マホ!」
オフィスに入るなり、レスキネン教授が青ざめた顔をして駆け寄ってきた。
真帆
「え……なにこれ……」
室内には、明らかに荒らされた形跡があった。
もともと、ガランとしていて大した荷物はないオフィスだったから、パッと見ただけでは変化がないように見えるが。
真帆とレスキネン教授のデスクは、集中的に物色されていた。
引き出しには鍵をかけていたはずなのに、壊され、中身がすべてぶちまけられている。
レイエス教授はたいした荷物を持ってきていなかったことも幸いして大きな被害はなかったが、それでも引き出しがひっくり返されていた。
真帆
「これは……何があったんですか!?」
レスキネン
「何者かが侵入したらしいんだ」
真帆
「泥棒ってことですか?」
レイエス
「ワタシが来た時には、この状態だったの。もしかしたら、企業スパイの類かもしれないわね」
真帆
「こんな、何もないところで?」
だったら隣にある理化学研究所を狙うべきではないだろうか。
そもそも、このオフィスの存在を知っている人間なんて、数えるほどしかいないはずなのに。
ふと、ついさっきまで岡部たちと話していたことが現実味を帯びてくる。
まさかこれも、あの話と関係しているのだろうか。
タイムマシンを巡る、国家間の水面下での争いが、すでに始まっている……?
レスキネン
「とにかく、マホ。君も何か盗まれていないか調べたまえ」
真帆
「は、はい……」
レスキネン
「どうだい? 何か盗られていた物はあったかい?」
真帆
「いえ、私のほうは何も……」
机の上も引き出しの中も確かめてみたが、何ひとつ盗られた物は無かった。
真帆
「教授たちは?」
レイエス
「こちらも、何も盗まれてはいないようだわ」
レスキネン
「PCの中も確かめてみたが、第三者にアクセスされた形跡は見られない」
レスキネン
「本当に何も盗られてないかい?」
真帆
「はい」
レスキネン
「そういえば、マホ。君のノートPCはどうした? もしかして盗まれたんじゃないか?」
真帆
「ああ、あれならホテルに置いてあるから大丈夫です」
レスキネン
「そうか。ならいいんだが……」
レイエス
「どうする? 警察に連絡する?」
レスキネン
「何も盗られていないなら、事を荒立てる必要はないのかもしれないなあ……」
レイエス
「そうね……少し、様子を見ましょうか」
そんな生っちょろいことでいいのかとも思ったが、警察沙汰になると色々と厄介なのも理解出来た。
特に、外国から来ている身にとっては。
そして、何より研究以外のことに時間を取られるのが嫌なのだ。
それは真帆としても同様だった。
真帆
「あの、教授。実はお願いがあるんです――」
レスキネン教授は驚くほどあっさりと、真帆の休暇を認めてくれた。
正月の間もオフィスに通っていたのが幸いしたのかもしれない。
これで、タイムリープマシン作りに専念出来そうだった。
ホテルの部屋に戻った真帆は、急いで荷物の用意をした。
ホテルを引き払うわけではないが、それでもしばらくラボに詰めるための着替え諸々は必要だ。
真帆
「よし。あとは……」
荷物を詰め終えたバッグを手にすると、真帆は傍らに置いてあったもうひとつのバッグを手に取った。
紅莉栖の形見分けに貰った、ノートPCとポータブルハードディスク。
これまで何度もパスワードの解析を試みたが、いまだ成功してはいなかった。
持って行ったところでしばらくは何も出来ない、そうわかってはいても、置いて行くには忍びなかった。
真帆
「そうだわ。確か彼……」
全ての確認を終え、部屋を出ようとしたところで、真帆の頭にふとある考えが浮かんだ。
――我ながら悪くない考えだ。
――もしかしたら、これも亡き紅莉栖の意思だろうか。
そんな風に考えそうになって、真帆は慌てて頭を振った。
紅莉栖に怒られてしまう。
死と生は0と1だ。
どちからでしかない。
死んだ後、この世に介在する意思などない。
存在するとすれば、それは。
脳の中にだけあるのだから。
かがりに紅莉栖の記憶を植えつけたのは何者なのか、何の手がかりも得られないまま数日が経過した。
かがりを保護してくれた住職さんのところまで出向いて話を聞いたり、その付近で聞き込みをしてもみたが、めぼしい情報は得られなかった。
鈴羽は自分なりに調べているようで、あれからラボに戻ってきていなかった。ダルに定期的に連絡はしているようだから、危険な目にはあっていないと思うが。
天王寺や萌郁に改めて依頼してみたものの、そちらも一切尻尾を掴めないでいるらしい。
そもそも、この世界線では、ラボは襲撃されていない。
となると、連中は何か別の動きをしているのかもしれない。
仮にそうだとしても、その動きがどういったものなのか、俺には想像もつかないが。
しかし、何者かが幼かった椎名かがりを連れ去り、実験をし、最近になって鳥籠から逃げられてしまったことは確かなんだ。
何か良からぬことを画策しているのは間違いない。
だが、だからと言って、時間のない俺たちに、その連中が動くのを待ってもいられない。
けれども、手がかりがなくては打つ手すらもない。
繰り返される堂々巡りの中、ただ焦りだけが募ってゆく。
かがり
「すみません、真帆先輩。私のために」
真帆
「ううん……あと少しで出来そうだから。それに、これは私のためでもあるんだし」
開発室からふらふらとした足取りで出てきた真帆は、どっさりとソファーに身を沈めて、眠そうに笑った。
目の下には隈が出来ていた。
真帆はここ数日、寝る間も惜しんで装置の開発に勤しんでくれている。
一刻も早く、その苦労に報いなければならないのだが。
真帆
「それにしても、携帯電話を使うだなんて、普通考えないわ。たとえ考えついたとしても、実行に移そうなんて思わない」
倫太郎
「ケータイは話す時にどうしても受話器をこめかみ付近に近づける必要があるからな」
かがり
「こめかみ周辺には大脳前頭葉と大脳側頭葉がありますからね」
かがり
「側頭葉の海馬傍回が記憶を貯蓄する場所だと考えると、妥当な判断かと」
真帆
「問題は、どうやって記憶を圧縮させるか、よね」

「それについては、目下僕が毎日徹夜で頑張ってるわけだが」
倫太郎
「すまないな、ダル……」

「しかも、ハッキングがここからだって絶対にバレないようになんて言うから、大変だっつーの。他のバイトだってあるのにさ」
記憶の圧縮には、どうしてもSERNの
LHC

を拝借する必要がある。
散々悩んだ。
SERNを敵にまわせば、またあの惨劇が繰り返されることになる。
だがSERNが俺たちを襲った大きな原因はあのメール――過去に送ったDメールにあった。
あれさえなければ、SERNもそこまでの行動には出ないはずだ。
そもそも今回はDメールを送るわけではないのだから、SERNに捕捉されることもないだろう……おそらくは。
幸いなことに、ハッキングの上で必要となるIBN5100も鈴羽が持っていた。
思った以上に条件は揃いつつある。

「にしてもさ、オカリン。彼女……ほんと、別人みたいなんですけど」
倫太郎
「ああ……」
ダルの耳打ちに小さく頷く。
ここ数日で、かがりの頭の中は紅莉栖の記憶による侵食をかなり受けていた。
最近では、ここに入り浸っている真帆と、よく専門的な会話を交わしている。
真帆への呼び方も、すっかり“先輩”になってしまった。
真帆も最初こそ違和感を覚えていたようだが、そのうち慣れてしまったようだ。
真帆としては、紅莉栖から装置の概要も聞きたいところだろうから、助かってはいるみたいだが。
真帆
「それにしても、こんなラボで本当にタイムリープマシンを作ってたなんて、実際にタイムマシンを目にした今でも信じられないわ」
かがり
「でも、人間の記憶をまるごとデータ化して過去に飛ばすなんて発想はすごいですよね。さすがは真帆先輩」
真帆
「その言葉、そっくりそのまま、あなたに返してあげるわ」
かがり
「はい?」
真帆
「あなたは天才で、所詮私はサリエリだったってことよ」
かがり
「……?」
こうやってふたりの会話を聞いていると、まるで真帆と紅莉栖が喋っているような錯覚にさえ陥る。
倫太郎
「なあ、かがり……」
かがり
「そうだ。アマデウスで思い出しましたけど、プロジェクトはどうなってるんですか?」
真帆
「残念ながら、凍結されたわ」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「凍結? どうして? もしかしてレスキネン教授が決めたんですか?」
真帆
「私にもわからないわ。教授はもっと上からの指示だって言ってたけど」
かがり
「そんな、せっかく順調にいってたのに」
倫太郎
「なあ、紅莉栖」
かがり
「はい?」
倫太郎
「…………」
かがり
「あ……あれ? 私、今……」
倫太郎
「君はかがり……椎名かがりだよな?」
かがり
「椎名……かがり……」
かがり
「そう……私は椎名かがり……私は……」
かがりは急に不安になったように、両手で自らの身体を抱きしめた。
かがり
「でも、それじゃあ……これは……この頭の中にある記憶は何?」
倫太郎
「それは牧瀬紅莉栖の記憶だ。君の記憶じゃない」
かがり
「そんなこと言われても、わかんないよ!」
先程、真帆と話していた時とは打って変わって、かがりは駄々っ子のように声を荒げた。
かがり
「だって、私にとっては私の記憶でしかないんだもん!」
かがり
「まゆりママたちとの記憶も、子供の頃のパパとの記憶も、アメリカの大学での出来事も、全部私の中にあるんだもん!」
かがり
「どれが本当でどれが嘘かなんて、私……わかんない、よ……」
言葉はやがて嗚咽となった。
無理もない。かがりにしてみれば、全部が本当のこと。
嘘なんてなにひとつない。
自分をしっかり持て――そう言うのは簡単だ。
けれど、それでどうにか出来る形のものでもない。
かつてあのタイムリープマシンを完成させた時、紅莉栖が言っていた。
別の人の頭の中に記憶を送り込むことは絶対にやってはならない、と。
人格の崩壊を起こすと。
でも、もしも。
もしも、だ。
かがりをこのままにしておけば、どうなる?
かがりの記憶は無くなり、紅莉栖の記憶だけが残る――その可能性もゼロではない。
その時、俺の目の前にいるのは誰だ?
かがりか?
それとも紅莉栖か?
もしも、紅莉栖であるのなら――。
倫太郎
「…………」
そんなことない。
あるはずがない。
考えてはいけない。
けれど、そう思えば思うほど、そんな悪魔じみた考えが頭に浮かびそうになり、必死で否定する。
かがり
「ねぇ……私、どうしたらいいの? 助けて……ママ……パパ……」
こんな時にまゆりが傍にいてくれたらどんなにいいだろう。
だが、あいにくまゆりもルカ子も学校に行ってしまっていた。
ふたりとも、かがりのことを心配し、何かあったらすぐ連絡するようにとは言っていたが、だからと言ってホイホイ頼るわけにもいかない。

「かがりたん。ちょっと気分転換に散歩でもしてきたらどう?」
真帆
「そうね。人間、じっとしてると、余計なこと考えちゃうものよ。少しくらい身体動かしたほうがいいかもしれないわね」
かがり
「……うん」

「というわけで、オカリン。かがりたんを頼んだ」
倫太郎
「……わかった」
ふたり肩を並べて中央通りまで出てはきたものの、これといった目的もない。
かがり
「…………」
外の空気が気持ちの切り替えにでもなったのか、かがりは多少なり落ち着きを取りもどしていた。
倫太郎
「その……どこか行きたいところ、あるかな?」
かがり
「……どこでもいいの?」
倫太郎
「ああ。君の行きたいところでいい」
かがり
「……それじゃあ、紅莉栖さんと行ったところに連れて行って欲しい」
倫太郎
「……え?」
かがり
「オカリンさんが、紅莉栖さんと歩いたことのある場所に連れて行って」
俺と紅莉栖が行ったところ。
そうだな。
たとえば、この近所にあるコインランドリー。
たとえば、芳林公園。
たとえば、牛丼のサンポ。
あまり色気のある場所や、楽しげな場所は少ない。
あいつとは、いくつもの時間を共有していたけれど、その多くは、幾多もの世界線の向こうへと消えて行った時間だ。
何度も何度もやり直した時間だ。
その消え去ってしまった時間の中で、俺とあいつがしてきたことと言えば、ラボでの議論か開発がほとんどだった。
どこかへ遊びに行くという時間は、ろくに共有していなかった。
青森に行くという約束も、結局は果たされないまま。
かがり
「オカリンさんが紅莉栖さんと初めて会ったのは、どこ?」
倫太郎
「初めて会った場所……」
かがり
「私、そこに行きたい」
俺と紅莉栖が初めて会った場所。
それは――。
かがり
「ここが?」
倫太郎
「…………」
秋葉原の駅前にそびえ立つ、やたらカラフルな建物――ラジ館。
――始まりの場所。
そう、全てはここから始まった。
あの日――屋上に現れたタイムマシン。
俺が初めて紅莉栖に会ったのは、そのすぐ後だった。
今でも思い出す。
挑みかかってくるようなあの瞳。
思えば俺は、あの時既に紅莉栖に惹かれていたのかもしれない。
だがここは、紅莉栖に初めて会った場所でもあると同時に、俺があいつを――。
あいつを――。
倫太郎
「っ――!」
かがり
「オカリンさん? どうしたの?」
倫太郎
「す、すまない……」
ここ最近は、かがりの事で慌ただしくしていたせいか、少しはマシになったと思っていたのに……。
かがり
「汗、凄い……ごめん。もしかして、私のせい?」
倫太郎
「いや、そうじゃないんだ。ただ……」
ここに来ると、否が応にも思い出してしまう。
あの日の事を。
だけど。
倫太郎
「い、行こう……」
かがり
「いいの? 具合、悪いんでしょ?」
倫太郎
「大丈夫だ……」
いつまでもここで足踏みしているわけにもいかない。
このままじゃ、いつまで経ってもまゆり達を心配させたままだ。
いつかは克服しなければならないことなら――。
かがり
「わかった。それじゃ、行こう」
手のひらに柔らかな感触が触れた。
かがりが俺の手をしっかりと握ってくれていた。
倫太郎
「あり……がとう……」
俺はかがりに連れられるようにして、

すく
みそうになる足でゆっくりとラジ館の賑やかな路地へと踏み入った。
かがりが手を握っていてくれたせいか、中に入っても思ったよりも落ち着いていられた。
とはいえ、さすがにあの出来事があった階段を上がっていく気にはなれない。
俺たちはエレベーターに乗り、屋上へと向かった。
屋上はフェイリスこと秋葉留未穂によって、定まった人間以外は入れないよう、厳重に封じられている。
俺も鍵を預かっていたが、今日が初めて使う機会となった。
久々にラジ館の屋上に出てまず最初に目に入ったのは、歪な形をした乗り物――タイムマシンだった。
かがり
「わぁ、懐かしい! これこれ! 私、これに乗って来たんだよ!」
かがりは嬉しそうにタイムマシンに駆け寄った。
彼女の記憶が存在しないのは、鈴羽と別れて以降のこと。
未来から1975年のこの場所に跳んで来たことは、覚えているらしい。
かがり
「初めてこのビルの上に降りたときにね、お空がすっごくキレイでビックリしたの」
見上げる空はあいにくの空模様だ。
それでも、まるでそこに青い空が広がっているかのように、かがりは語った。
かがり
「私、ママと別れるのが嫌で、ずっとこのマシンの中で泣いてた。ママに会いたいよって……」
かがり
「そんなことじゃダメだ。いつまでも泣くんじゃないって、鈴羽おねーちゃんに言われて、それでも哀しくて……」
かがり
「そんな時に開いたハッチの外に見えたのが、青い空だったの」
倫太郎
「2036年の空は青くないのか?」
かがり
「うん。戦争の影響でね、ずっと黒くて暗い空。それに、外にもなかなか出してもらえないし」
1970年代半ばといえば、やっと高度成長期が終わった頃で、今ほどエコという概念も広まっていない時代だ。
大気汚染などが問題になっていた時期でもある。
もしかしたら、今よりも空気は悪かったかもしれない。
それでもなお、美しく思えたというなら、未来の大気は余程汚れているのだろう。
かがり
「オカリンさんは、ここで紅莉栖さんと初めて会ったの?」
倫太郎
「いや、ここじゃない。ここは――」
かがり
「あ……」
ぽつりと鼻先に冷たい雫が落ちた。
かがり
「降って来ちゃった」
倫太郎
「ああ、そうだな……」
そうだ。
紅莉栖
「……岡部か」
倫太郎
「生きてたか……」
紅莉栖
「そっか、ここだとあんたと会っちゃう可能性があること、忘れてた」
倫太郎
「なにをしていたんだ?」
紅莉栖
「……考え事」
倫太郎
「そうか……」
あの時も、吶が降ってきたんだった。
自分かまゆりのどちらかが死んでしまう運命にある――それを知った紅莉栖はあの日、ここでこうして同じように空を見上げていたんだ。
かがり
「うわっ!」
かがり
「す、すごい降ってきたよ~! オカリンさん、中に――」
倫太郎
「…………」
かがり
「オカリンさん?」
あの時のあいつは何を思っていたんだろう。
自分の運命を他人の――俺の決断に委ねたあいつは。
かがり
「オカリンさんったら! このままじゃ風邪引いちゃうよ!! 早くこっちに!」
かがりに腕を引かれ、吶の喧騒から逃れるようにビルの中に滑り込んだ。
そのまま引きずられるように連れられ、我に返ると――そこに座っていた。
建て替え計画の影響なのか、既に営業している店はなく、照明も消されている。おかげでずいぶんと薄暗い。
かがり
「はぁ~、ビックリ」
あの日、あの吶のあと、俺と紅莉栖はまさこの場所でふたり寄り添い話をしたんだ。
そして同時に、ここは――。
倫太郎
「ここだよ」
かがり
「え?」
倫太郎
「ここが俺と紅莉栖が初めて会った場所だ」
厳密に言えば、β世界線の紅莉栖と初めて会った場所。
半年前のあの時――。
紅莉栖
「さっき、私になにを言おうとしたんですか?」
倫太郎
「さっきとはいつのことだ?」
紅莉栖
「ほんの15分くらい前。会見が始まる前に」
紅莉栖
「私に、なにか言おうとしましたよね? すごく悲しそうな顔をして」
紅莉栖
「まるで、今にも泣き出しそうで、それにすごく辛そうでした」
紅莉栖
「……どうして? 私、前にあなたと会ったことありますか?」
思えば、あれが全ての始まりだった。
出会わなければ良かったんだ。
こんなことになるくらいなら。
最初から出会ったりしなければ、こんな気持ちにも……。
かがり
「オカリンさん……」
ふわりと優しい感触が頭に触れた。
倫太郎
「かがり……」
かがり
「私が怖がっていると、ママがよくこうしてくれたの……」
倫太郎
「どう、して……」
かがり
「だって、オカリンさん、すごく辛そうで……今にも泣き出しそうなんだもん」
子供をあやす要領で、かがりは俺の頭を何度も何度も撫でた。
倫太郎
「あいつと……紅莉栖と初めて会ったのはここだった」
かがり
「ここって……この踊り場?」
倫太郎
「ああ……。最初の印象は最悪。初めて会ったっていうのに、上から目線だわ睨みつけてくるわで、可愛さの欠片もなかった」
倫太郎
「もっとも。向こうだって、そう思ってただろうけどな」
なにしろあの時の俺は、機関だのエージェントだのと、痛々しいことばかりを口走っていたからな。
かがり
「でも……それでも、紅莉栖さんはオカリンさんにとって大切な人になった……」
倫太郎
「……ああ」
そうなったのは、α世界線の紅莉栖だ。
ここで出会った紅莉栖は、直後に……。
かがり
「私の顔って、紅莉栖さんに良く似てるんだよね?」
倫太郎
「……どうしてそれを?」
かがり
「せんぱ……真帆さんから聞いたの」
かがり
「それでネットで調べてみたんだけど、自分でもビックリするくらい似てた」
かがり
「そんな人の記憶が私の中にあるなんて……それも運命なのかなーって」
運命――。
いつだってそうだ。
運命が俺たちをあざ笑う。
翻弄する。
かがり
「ねえ、もしも……」
かがりの髪の先から落ちた雫が、床に


ねた。
かがり
「もしもね、椎名かがりの記憶が失くなって、完全に紅莉栖さんの記憶に入れかわるとしたら……」
かがり
「そしたら、私は、牧瀬紅莉栖になっちゃうのかな?」
倫太郎
「……そう簡単に行くものじゃないよ……」
かがり
「でも、もしもだよ? もしも、そうなるなら……オカリンさんは、嬉しい?」
かがり
「私が紅莉栖さんになったら、オカリンさんは嬉しい?」
それは、何度も否定した悪魔の囁き。
倫太郎
「俺は……」
俺はそんなこと――。
望んでいないと言えるのか?
かがり
「でも……私はやっぱり嫌だな……」
雫が床にぽつりと落ちる。
かがり
「このまま、自分がどうやって生きてきたのかもわからないまま……誰からも必要とされないまま消えちゃうなんて……」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「私……どうなっちゃうのかな……私は……私は……」
かがりは小さく震えていた。
それは決して寒さのせいだけではなかった。
かがり
「ごめん……ね……」
倫太郎
「いや……」
それが何に対しての“ごめん”だったのかわからないまま。
倫太郎
「このままじゃ風邪をひく。そろそろ帰ろう」
かがり
「うん……」
るか
「と、とにかく上がってください」
初めて入るルカ子の部屋は……やはり女子の部屋みたいだった。
まゆり
「わ、ふたりともずぶ濡れ……。急いで着替えなきゃ」
ラジ館からならラボに戻るよりも、柳林神社に向かったほうが早い。
そう判断した俺は、かがりを連れて柳林神社にやってきた。
途中でまゆりから連絡があったので、こっちに先回りしてもらった。
今のかがりには、俺よりもまゆりママがついていた方が、安心出来ると思ったからだ。
かがり
「ママ……」
案の定、まゆりの顔を見た途端に、かがりの表情が少しだけ穏やかになった。
まゆり
「寒かったでしょ~?」
るか
「お風呂、沸かしてきますね!」
俺たちに吶を拭うためのタオルを手渡して、ルカ子はいそいそと部屋を出て行った。
かがり
「お風呂……ママと一緒がいい……」
まゆり
「まゆしぃと? うん、いいよ。あ、でもオカリンはどうする?」
倫太郎
「いや、俺はいい。かがりを先に入れてやってくれ」
まゆり
「うん、ありがとう。オカリンも風邪ひいちゃうから、着替えだけでもしてね?」
倫太郎
「ええと……なんとかする」
ルカ子の父親の服でも借りるか……?
考えつつ、かがりのことはまゆりに任せて部屋を後にしようと立ち上がったその時――。
まゆり
「かがり……ちゃん?」
かがり
「…………」
まゆり
「どうしたの、かがりちゃん?」
かがりの様子がおかしかった。
かがりはまゆりの顔を不思議そうに見つめている。
倫太郎
「かがり?」
かがり
「……だれ?」
まゆり
「え?」
かがり
「あなたは……だれ……?」
まゆり
「……まゆしぃだよ、かがりちゃん」
かがり
「かがり……私の……名前……?」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「ちが……う……私……わたしは……」
かがり
「誰……? 誰なの? 私は……!」
かがり
「う……」
かがり
「うあぁっ……あああああああああ!!」
かがりが頭を掻き毟るようにして、地の底から湧き上がるようなうめき声を上げた。
倫太郎
「しっかりしろ、かがり!」
かがり
「ああああぁぁっ! 痛い……痛い痛い痛い痛い!」
かがり
「痛い……痛いよママ……助けて……パパ……助けて……!!」
かがり
「誰か……助けて……私を助けてよぉ…………」
かがり
「誰……か……たす、け……て……」
まゆり
「かがりちゃんっ!」
それはまさに、操り人形の糸が切れたようだった。
全身から力が抜けたかと思うと、かがりはそのままその場に崩れ落ちた――。
ルカ子の家を出る頃には、吶もやんでいた。
あの後、しばらく様子を見てみたが、かがりは目を覚ましそうになかった。
眠っているその姿は穏やかで、ひとまずその場はまゆり達に任せて、俺はラボに戻ることにした。
まゆりやルカ子によると、かがりはこれまでも何度か、混乱を来すことはあったらしい。
しかし、今回みたいなことは初めてだったそうだ。
俺たちは少し軽く考え過ぎていたのかもしれない。
おそらく彼女の脳には既に、かなりの負担がかかっている。
一刻も早く対策を打たなければならない。
だが、そのためには――。
至&真帆
「キターーーー!」
「出来たわ!!」
ラボの扉を開けるなり、ダルと真帆、ふたりの声が室内に響いた。
倫太郎
「ほ、本当か!?」
靴を脱ぐのももどかしく上り込む。

「お? オカリン、なんつーグッドタイミング!」
真帆
「岡部さん、びしょ濡れじゃない!」
倫太郎
「そんなことはどうでもいい! それよりも……やったのか!?」

「むふっ!」
ダルはビシッっとサムアップをして見せた。
倫太郎
「でかした、ダル!」

「スーパーハッカーなのだぜ。これくらい当然だっつーの」
事もなげに言ってはいるが、SERNをハッキングするのに、どれほどの能力と労力が必要かを、俺は充分に知っている。
そこらのハッカーに出来ることじゃない。
スーパーハッカーの呼び名も伊達ではない。
倫太郎
「比屋定さんは!? 比屋定さんの方も完成したのか!?」
真帆
「私だって、これくらいどうってことなかったわ」
真帆も、ダル同様、親指を立ててみせた。
倫太郎
「さすがだな……」
真帆
「ま、これも全部、あなたやかがりさんから情報を得られたからなんだけど」
真帆
「そういう意味では、かがりさんの中に紅莉栖の記憶が残っていて助かったわね」
倫太郎
「いや、それでも完成させたのは比屋定さんの力だ」
真帆
「ありがとう。その言葉、素直に受け取っておくわ」
真帆
「あとは実際にきちんと機能するかどうかが問題だけど……こればっかりは試してみるわけにもいかないのよね」
倫太郎
「そうだな」

「僕は
キッチンジロー

3回な」
それくらいならお安い御用だ。
ともかく、これでお膳立ては揃った。
あとは――連中が何者なのかを突き止めるだけ。
だが――そこが一番の問題だった。
真帆
「ふう……、それじゃ、私はちょっと眠らせてもらうわ。さすがに疲れ――」
真帆の言葉を遮るように、スマホの着信音が響いた。
真帆
「もう、誰よ。人がこれから寝ようって時に……」
真帆
「はい、もしもし……」
文句を言いながらも、スマホを手に開発室の奥へ向かう。

「で、かがりたんのほうはどうなん?」
倫太郎
「それなんだが……」
言いかけたと同時に、今度は俺にRINEが届いた。
ルカ子からだ。
ルカ子からの連絡にホッと胸を撫で下ろしながら、返事を送る。
倫太郎
「実は、あまり良くない。今日なんてまゆりの事すらわからなくなった」

「マジで……?」
倫太郎
「それだけじゃない。その後、ひどい頭痛を訴えて意識を失った」

「それ、マズくね?」
倫太郎
「まずいな。何とかしないと……」
肝心の“

あいて
”がわからなければどうしようもない。
真帆
「ええ!? 本当ですか!?」
突然、開発室の奥から上がった声に、ダルと顔を見合わす。

「真帆たん、どしたん?」
倫太郎
「何かあったのか!?」
何ごとかと覗き込んだ俺たちを振り返り、真帆は呆然とした様子で言った。
真帆
「荒らされたって……私の借りてた……ホテルの部屋……」
電話はホテルからのものだった。」
真帆は現在、和光市のビジネスホテルに滞在している。
ここ数日ホテルに戻らない間に、その部屋が何者かによって荒らされたというのだ。
フロントでカードキーを預かったままにも関わらず、ドアが開錠された形跡があり、たった今本人に確認の上、部屋を調べたのだそうだ。
倫太郎
「それで? 詳しい状況はわかったのか?」
真帆
「今から警察に連絡するから、何が盗まれてるか調べるためにも、早く戻って来いって」

「じゃ、じゃあ何が盗られたかわからんってこと? ももも、もしかして下着とかも!?」
真帆
「そういうのは全部持ってきてるわよ! セクハラで訴えましょうか?」

「うひぃ、それだけは勘弁」
真帆
「ま、私の部屋って普段から散らかってるから、荒らされてるように見えただけって可能性もある。楽観的に考えれば、ね」
真帆
「鍵が開けられてたっていうから、誰かが入ったのは……間違いないでしょうけど」
真帆
「実は、ついこの間も、オフィスの方が荒らされたことがあって」
倫太郎
「じゃあ、単なる偶然じゃないな。何者かが、比屋定さんの持っている何かを探しているんだ」
真帆
「そうね。でも何を探しているのかは見当がついてるわ」
倫太郎
「なんだ?」
真帆
「……紅莉栖のノートPCよ」
倫太郎
「あれか……」
これまでの事を総合するに、その可能性は一番高そうだ。
かがりの脳内に紅莉栖の記憶を上書きしようとした連中は、前の世界線でかがりを連れ去ろうとした連中と同一だと考えて間違いない。
そいつらの目的は、紅莉栖の頭の中にあるはずのタイムマシン理論だ。
だが、かがりを使ったにも関わらず上手くいかなかったどころか、かがりにまで逃げられてしまった連中は、もうひとつ紅莉栖が残した物があることを嗅ぎ付けた。
真帆の持つノートPCとハードディスクだ。
だが、それが狙われたとなると……まさか、PCは奴らの手に渡ってしまったのか!?

「つか、そのPCって、この前真帆たんが僕に託したやつ?」
倫太郎
「なに?」
真帆
「実はね、どうしてもパスワードを解析したくて。ここに籠もるようになってから、橋田さんにお願いしたの」
倫太郎
「それじゃあ、ノートPCは……」
真帆
「無事のはずよ。ね?」

「もちろん。今は僕のヒミツのアジトにあるのだぜ」

「つっても、ずっとSERNのハッキングにかかり切りだったから、まだパスワードは解析出来てないけどね」
それを聞いて安心した。
これで、真帆の部屋を荒らしたのが何者かわかれば話は簡単なのだが……そう簡単にはいかないだろう。
しかし、今回のような手段に出たということは、連中も焦っているに違いない。
次はいったい、どんな手にでるか……。
……待てよ。
倫太郎
「……もしかしたら、これは使えるかもしれない」
真帆
「使えるって……?」
俺は皆の疑問に答えるのももどかしく、スマホである人物に連絡を取った。
それから数日――。
かがりの容体は悪化の一途を辿った。
硬質な乾いた足音が、夜の闇に木霊していた。
秋葉原の静寂は早い。
昼間はあれほどまでに賑わっている家電量販店も、黄色い声溢れるライブハウスも喫茶店も、夜になると成りを潜め、代わりに
沈黙
しじま
が辺りを支配する。
そんな中を、ひとつの足音だけが同じリズムを刻みながら、ゆっくりと進んでいた。
足音の主は女だ。
暗やみの中でその姿は
明瞭
はっきり
とは見えない。
ただ、その挙動は明らかに妙だった。
帽子を目深にかぶり、人目を避けるようにして歩いていた。
まるで何者かから身を隠すように。
何者かに追われるように。
そして、女の姿が曲がり角に差し掛かろうとしたその時。
不意に角から姿を現した者たちがいた。
女は驚いて立ち止まった。
だが、その背後にも、いつの間にか男たちの影があった。

「椎名かがりだな……」
男のひとりが、そう言った。
流暢な日本語だったが、よく聞けば外国語訛りがあることに気づいたかもしれない。

「…………」
かがりと呼ばれた女は、男たちに囲まれ、ただ立ち竦んだ。
男のひとりは思った。
なんて楽な仕事だと。
いかにもひ弱そうな小娘ひとりを連れていくだけでいいのだ。
なにもこんな大人数で来る必要もなかった、と。
いや、その男だけじゃない。
その場にいる、ほとんど全員がそう思っただろう。

「大人しくしていれば手荒な真似はしない」
その声を合図とするように、女を囲む男たちの柵が次第に狭まってゆく。
女はただ怯えた様子で、抵抗する素振りも見せなかった。
――楽勝だ。
笑みを浮かべた男が、手を伸ばしたその瞬間――。

「オォォォォォオオ!!」
空気を裂くような音が聞こえたかと思うと、男は伸ばしかけていた手をおさえ

うずくま
った。
地面には何やら
加工肉
ソーセージ
のような物体が3つほど転がっている。

「ぐはっ!」
それが男の指だと理解するよりも早く、今度は別の男が、顔面へのハイキックを喰らいもんどりを打って倒れた。
それまで余裕を見せていた男たちは猛り立った。

「You fuckin’ bitch!!」
口々に呪詛を唱えながら一斉に女に襲い掛かる。
だが――。

「ぐあああああ!!」
女の背後から今にも襲い掛かろうとしていた男が、大きな悲鳴を上げた。
???
「おいおい、静かにしな。あんまりうるさくすると、おめえらも困るんじゃねぇのか?」
暗闇から現れた大男が、月を背にしたまま、冷たい声で言った。
倫太郎
「すごいな……」
屈強な男たちが次々に打ち倒される様を見て、俺の口からは、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
天王寺が強いことはあの体格からしてわかっていたが、特筆すべきはもうひとりだった。
いつの間に扮装を解いたのか、鈴羽が俊敏な猫のように動くたびに、男たちはうずくまっていった。
鈴羽が戦闘の訓練を受けていることは当然知っていたが、本気のあいつが、まさかここまでとは思っていなかった。
特に、すらりと伸びた引き締まった足から繰り出される蹴りは、見ていて芸術にすら思える。
鈴羽
「――っ!!」

「がはっ!!」
天王寺
「やるじゃねえか、バイト」
鈴羽
「店長もね」
ナイフや銃を引き抜く

いとま
すら与えられず、男たちは地面にひれ伏してゆく。
数日前――。
連中も焦っているだろう――そう考えた俺は、ひとつの作戦に出た。
前の世界線にいた時に萌郁は言っていた。何者かがかがりを捜している、と。
もしかしたらそれは、この世界線でも同じなんじゃないだろうか――。
そう考えた俺は、萌郁に頼んで、こちらから情報を流してもらうことにしたのだ。
椎名かがりと

おぼ
しき人物が、毎日このくらいの時間に、この道を通る――と。
そして、それから数日経った今日、連中はまんまと俺たちが用意した餌に食らいついてくれたというわけだ。
俺ひとり、こうして路地の角に身を隠して、鈴羽たちの闘いを見ているだけというのは情けない話だ。
だが、俺が出ても役に立たないどころか、足手まといになるのは目に見えている。
ならば、ふたりに任せてしまうのが賢明だ。

「そっちはどう?」
片耳につけたイヤホンから、ダルの声が聞こえた。
いつでもすぐに話がつけられるよう、スマホは通話状態にしてある。

「鈴羽は大丈夫? 怪我してない?」
自ら囮役を申し出た鈴羽に、ダルは最後まで反対していた。
やはり娘を危険に晒すのが心配だったのだろう。
倫太郎
「心配いらない。お前の娘は想像よりずっと凄いよ」

「そりゃあ、僕の娘だからね。でも、傷物になんかされたら、オカリン、一生恨むからな」
あれなら心配してやるべきなのは、相手のほうだ。
倫太郎
「!?」
突如、甲高い指笛の音が辺りに響き渡った。
それを合図に、男たちが散り散りに背を向けて駆け出した。
罠にかけられたと悟った連中が、一斉に退却に出たのだ。
天王寺
「おっと、そうは行くかよ」
天王寺の丸太の様な腕が、男の手を掴んだ。
が――。
倫太郎
「――!」
乾いた破裂音が聞こえた瞬間、捉えられた男の全身から力が抜けた。
天王寺
「チッ――!」
馬鹿な……。
死んだ――?
自ら命を絶った、だと――。
鈴羽
「おじさんっ、そっち!!」
突き刺さるような声に我に返る。
逃げ出した男たちのひとりが、俺のいる路地に向かっていた。
俺たちの目的は奴らを捕らえ、連中が何者なのかを吐かせることだ。
このままでは、せっかく掴みかけた尻尾を逃がしてしまう!
倫太郎
「――!!」
無我夢中で、男の前に身を躍らせる。

「――っ!?」
突然現れた俺の姿に、男は一瞬の躊躇を見せた。
だが、そのまま速度を落とさず、突進してきた。
その腰のあたりに、光る何かが見えた。
倫太郎
「ぐっ――!」
鈴羽
「はああああああッ!!」
俺の身体に男がぶつかると同時に、駆け寄った鈴羽の跳び蹴りが男を捕らえた。

「ぐはっ――!」
天王寺
「おっと!」
渾身の蹴りに豪快に蹴飛ばされた男の先に待っていたのは、天王寺。
天王寺は男の身体を軽々と受け止めると、自害など出来ないようにと、流れるような動きで男の両腕を固めた。
鈴羽
「おじさん、怪我は?」
倫太郎
「っ……!」
鈴羽
「大丈夫!?」
倫太郎
「な、なんともない……」

「オカリン! どしたん!? 何があった?」
倫太郎
「心配するな……こっちはみんな無事だ。それより鈴羽、奴は!?」

「んんんんんんんーっ!」
天王寺に絡め取られた男の口から、悲鳴にも似た声が漏れた。
いつの間にか、その口にはタオルのようなものがねじ込まれている。
さっきの奴みたいに、自ら命を絶たないための対策もあるのだろう。
天王寺
「おいおい、あんまり暴れるんじゃねぇよ。騒ぎになって困るのはおめえもだろうが」
天王寺
「それにまだ1本目だぜ、情けねぇ。あとまだ9本も残ってる」

「ん、ふーっ……ふーっ……」
天王寺
「それが終わったら、目だ。それから両方の耳、鼻……まだまだお楽しみはいっぱいあるんだぜ」
冷徹な声。
これこそが、本当の天王寺裕吾……FBの姿だ。
思わず目を背けそうになる状況にも関わらず、鈴羽は顔色ひとつ変えずにその様子を見つめていた。
天王寺
「俺だって面倒な真似はしたくねえ。どうせ吐くなら、早めに吐いたほうがお互いのためだと思うぜ?」

「んんんんんんーーーーーッ!!!!」
天王寺
「ん? どうだ。もう1本行くか?」

「んー! んー!」
男が何度も首を左右に振った。
天王寺
「最初からそうすりゃいいんだよ。で、おめえさん達の元締めは誰だ?」

「…………」
タオルを外された男は、聞き取れないほどのか細い声で天王寺に耳打ちした。
途端に、天王寺の顔色が変わる。
天王寺
「……ストラトフォー?」
天王寺
「……おい、冗談じゃねえだろうな?」
男が必死の形相で再び左右に顔を振った。
天王寺
「ストラトフォーか……また面倒な奴らが……」
ストラトフォー……。
聞いたことがある。
厨二病にはまっていた頃、インターネットで調べた。
正式名称は『STRATEGIC・FOCUS』だったか。
“影の
CIA

”などと呼ばれている、アメリカの民間情報会社だ。
特に軍事関係に特化しており、湾岸戦争やイラク戦争でも、その能力は如何なく発揮されたと聞いている。
SERNのラウンダーである天王寺にそこまで言わせる存在だ。
一筋縄でいく相手ではないだろう。
だが……今は臆している場合じゃない。
倫太郎
「聞いたか、ダル! 今すぐにストラトフォーのサーバーにハッキングをかけてくれ!」

「オーキードーキー!」
ひとまずの目的が達成され、全身から力が抜け落ちそうになる。
だが、そうも言っていられない。
これからが本番だ。
天王寺
「…………」
鈴羽
「どうしたの、店長。何か気にかかることでも?」
天王寺
「いや。ストラトフォーといやぁ、民間の会社だぜ」
天王寺
「いわば、金によって雇われてる連中だ。そんな奴らが、いくら捕まったからって、自決までするか?」
言われてみれば妙な気もする。
天王寺
「おい、おめえ、本当に――!」
天王寺は更に男を締め上げようとしたが。
天王寺
「けっ! 気を失ってやがる。だらしねえヤツだ」
仕方がないとばかりに、天王寺は取り出したロープで男を縛り始めた。
天王寺
「後始末は俺に任せて、おめえらは行け」
倫太郎
「いい……んですか?」
天王寺
「これで終わりじゃねえんだろ?」
倫太郎
「…………」
この後、連中をどう処理するつもりなのかは気になるが……。
倫太郎
「……わかりました。後のことはお願いします!」
そんなことよりも優先させねばならないことがある。
俺は天王寺に礼を言うと、鈴羽と共にラボへと急いだ。
倫太郎
「っ……」
鈴羽
「おじさん、早く!」
倫太郎
「わ、わかってる!」
夜の街を豹のように駆ける鈴羽の背を、必死で追いかけた。
いつもならすぐのラボへの道が、ひどく遠く思えた。
やっとの思いでラボに辿りつく。
中には、まゆりをはじめフェイリスたちも全員が揃っていた。
そしてかがりも……。
かがり
「はぁ……は、ぁ……」
かがりは、ぐったりとした様子で、ソファにもたれかかっていた。
息が荒い。
顔色もよくない。
いつどうなってもおかしくない状況だ。
倫太郎
「ダル……どうだ?」

「ちょい待ち。前に、ハッキングかけた時のルートがあるから、今探ってる」
倫太郎
「前にって……お前、そんな危険なことしてたのか!?」

「ちょっとね、友達と賭けでね。どっちが早くハック出来るか勝負したんだ。
ゴーゴーカレー

1年分」
こいつ……危ない真似を。

「あれ? どっちが勝ったか聞かないん?」
この態度を見るに、結果は聞くまでもないことだろう。
倫太郎
「とにかく、急いでくれ」

「らじゃ」
今回のかがり奪還作戦が失敗に終わったことで、ストラトフォーがさらなる強硬手段に出てくる可能性は高い。
ここでもたもたしている時間は無かった。
それに――。
倫太郎
「――っ」
まゆり
「オカリン? 顔色、悪いよ?」
倫太郎
「いや、なんでもない……」
フェイリス
「なんでもないことないニャ。見せるニャ!」
フェイリスが半ば無理矢理に、俺のコートを剥ぎ取った。
フェイリス
「っ……ヒドい怪我してるニャ!」
るか
「岡部さん……血が……」
まゆり
「オカリン……!」
自分でも見ないようにしていたが、思った以上の量の血がシャツの脇腹あたりをどす黒く染めていた。
さっき男を止めた時に、深くやられたらしい。
倫太郎
「……問題ない」
フェイリス
「問題ないわけないニャ! るかニャン、応急手当の用意を!」
るか
「はいっ!!」
倫太郎
「俺は大丈夫だ……」
倫太郎
「まゆり、それよりも……かがりは……?」
かがり
「っ……は、ぁ……」
まゆり
「あ、かがりちゃん!? しっかり!」
かがりはぐったりとソファにもたれかかったまま、小刻みな浅い息を繰り返していた。
ここ数日で、すっかり衰弱してしまっている。
その手が宙を泳ぐ。
かがり
「ママ……ママ、どこにいるの?」
まゆり
「ママはここだよ。ちゃんと傍にいるよ」
まゆりがその手をしっかり握ってやると、ようやく儚げな笑みを覗かせた。
かがり
「ねぇ……ママ……私、このまま……消えちゃうの、かな……?」
まゆり
「大丈夫だよ。きっとオカリンとダルくんがなんとかしてくれるから」
かがり
「オカリン……さん……?」
まゆり
「そうだよ。オカリン……わかるよね?」
かがり
「オカリン……さん……」
かがりの虚ろな目が、俺を見た。
倫太郎
「心配しなくていい。もう少し……もう少しで元どおりになる」
かがり
「……岡部……さん」
倫太郎
「ん?」
かがり
「私を……消して……」
倫太郎
「かがり……」
違う。
かがり
「彼女の中から……私を消し、て……」
かがり
「このままじゃ……彼女が……」
それは紅莉栖の言葉だった。
人格と記憶は違う。
紅莉栖の記憶があるからと言って、彼女の中に紅莉栖の人格が備わっているわけじゃない。
けれど。
かがり
「お願い……岡部、さん……」
かがり
「お願い……岡部、さん……」
紅莉栖
「お願い……岡部、さん……」
かがり
「私を……消して……」
かがり
「私を……消して……」
紅莉栖
「私を……消して……」
それは確かに紅莉栖が発した言葉だった。
少なくとも俺にはそう思えた。
あの時――あいつは言った。
まゆりを助けろ、と。
まゆりを犠牲にして自分が生きることなど出来ないと。
もしかしたら、このまま紅莉栖の記憶がかがりの中に定着する、そんな可能性だって万に一つあるかもしれない。
それでも、あいつは選ぶだろう。
自分が身を引くことを。
自分が消えることを。
かがりの口から出た言葉が、紅莉栖の記憶が作り出した別の人格によるものなのか、俺にもわからない。
けれどそれは間違いなく、紅莉栖の言葉だった。
倫太郎
「っ……!」
今のあいつは“記憶”という形ない存在だ。
それなのに――どうして。
どうして記憶だけになってしまった今も、こんなにも苦しまなければならないのか。
苦しめられなければならないのか。
かがり
「ごめんね……岡部……」
かがり
「ごめんね……岡部……」
紅莉栖
「ごめんね……岡部……」
薄く閉じられた瞼の隙間から、透明な雫が頬を伝う。
倫太郎
「ダル……まだか……」
紅莉栖!
そう呼びたくなるのを堪え、俺は問うた。

「待って……もうすぐ、もうすぐ……!」
鈴羽
「マズいよ、おじさん……」
窓から外の様子をのぞいていた鈴羽が呶いた。
鈴羽
「1、2……3……何人か集まって来てる……ストラトフォーだ」
倫太郎
「――ダル!」

「よし、来い、来い、来い!」
じりじりと焦りだけが募る。
まだか。
まだなのか?

「っしゃ!!」
倫太郎
「ダル!?」

「っしゃ、っしゃっしゃ、キタキタキター!! ビンゴー!!!」
治療の道具を持って駆け寄ってきたルカ子たちを制し、PCのモニタを覗き込む。
ダルを挟んで反対側から、同様に真帆が身を乗り出した。
真帆
「重要そうなファイルの中から、サイズの大きなものを選んで!」

「待ってよ……大きなのっつーと……えーっと、ん? もしかしてこれかな?」

「でもファイルネーム、『John』って……」
真帆
「モーツァルトの洗礼名はヨハネ! きっとそれだわ!」

「なんかよくわからんけど、おk。てか、中にもファイルがいっぱいあるんですけど……」
真帆
「見せて!」
フォルダの中には、番号でネーミングされたファイルがいくつかあった。
真帆
「ファイルが増えてる……私たちの研究段階じゃ、こんなに多くなかった……」
つまり、研究が凍結された後、なんらかの形でその成果がストラトフォーの手に渡り、さらに実証実験が重ねられていたということか。
真帆
「この中のどれかが、かがりさんの記憶データのはずだけど……」
倫太郎
「K6205だ……」

「え?」
倫太郎
「K6205番がかがりの記憶だ、ダル!」
ケッヘル620番――魔笛。

「K62……あった、これだ!」
倫太郎
「あとの手筈は、事前に話したとおりに頼む!」
やり方は、紅莉栖のタイムリープマシンに比べれば、至ってシンプルだ。
既に記憶データは存在しているため、VRヘッドセットは不要。
電話レンジ(仮)も必要ない。
単純にかがりの記憶データにデコードプログラムを仕込んで、SERNのLHCを借りて圧縮。
圧縮されたデータを転送し、さらにスマホに飛ばせば――。
鈴羽
「早く! 完全に囲まれた!!」
倫太郎
「ダル、準備はいいか!?」

「オールオッケー!」
倫太郎
「よし、行くぞ!」
真帆
「待って!!」
目を上げると、真帆は鉄のような表情で画面を見つめていた。
倫太郎
「……どうした、比屋定さん……」
真帆
「……本当にうまくいくのかしら? もし失敗したら、かがりさんは――!」
ダルの背中から腕を回し、真帆の肩にしっかりと手を乗せた。
倫太郎
「大丈夫だ。俺が保証する……」
真帆
「岡部さん……」
鈴羽
「おじさん!!」
倫太郎
「かがり……!」
俺はPCの側を離れると、ソファに沈み込むかがりの前でしゃがみ込んだ。
かがり
「岡部……さん……?」
倫太郎
「いいな?」
さようなら。
かがり
「うん……」
紅莉栖――。
鈴羽
「来た!」
倫太郎
「ダル!」

「了解!」
階段を上がってくる足音。
携帯の着信音。
様々な音が飛び交う中。
かがり
「あのね、岡部さん……」
最後に彼女は――。
かがり
「私……たぶん、岡部さんのこと……」
かがり
「あなたのこと……」
それが紅莉栖の言葉だったのか、かがりの言葉だったのか――。
わからないまま、続きはドアの音や怒号に掻き消され――。
かがりの頬に押し当てた、スマホが鳴動を止めた次の瞬間、世界は――。
その姿を歪に変えた――。
そこは黒い黒い闇の中だった。
音もない。
温度も無い。
ただ暗闇と、冷たさと静寂に満ちていた。
誰もいない。
起きているのか眠っているのかもわからない。
ただ漠然と、そこに
ある
①①
という感覚だけ。
無――。
ただそれだけが無限に広がっていた――。
倫太郎
「!!!!」
倫太郎
「…………」
あれ?
俺はいったい何をしていたんだ?
確か――。
女性の声
「ちょっと岡部、いつまでもそんなところで寝てると、風邪ひくわよ」
倫太郎
「え……?」
声の方向に顔を向ける。
開発室のカーテンを開けて、立っていたのは。
紅莉栖
「なによ?」
倫太郎
「なんだ、紅莉栖。いたのか」
俺は――。
迷ってしまった。
それに応答する事に躊躇し、あまつさえ、拒否する方のボタンをタップしようとした。
だがそこで、かがりの指が俺の指を遮り。
かがり
「…………」
代わりに、かがりの指が――あるいは紅莉栖の意志が――応答のボタンをタップした。
そして、かがりの頬に押し当てられたスマホは。
鳴動を止めた。
紅莉栖
「いたのか、とはずいぶんご挨拶だな。さっきから、ずっとここにいたじゃない」
倫太郎
「そう……だったか?」
紅莉栖
「そうよ。昨日も一昨日も、ずっとここにいたわよ」
言われてみれば、そんなような気がした。
どうにも頭の中が曖昧で、
朦朧
ぼんやり
としている。
かと言って、眠いとか、だるいとか、そういうわけでもない。
意識だけはしっかりと覚醒している。
それなのに、何かが足りない――それも大切な何かが――そんな感覚だ。
倫太郎
「そういえば、ダルやまゆりはどうした?」
紅莉栖
「……あんた、本当に大丈夫? 何か不具合でもあったんじゃない?」
倫太郎
「どういう意味だ?」
紅莉栖
「橋田もまゆりも、ほら、そこにいるじゃない」
倫太郎
「え?」
まゆり
「オカリン、トゥットゥルー♪」

「僕のこの大きすぎる存在感を見落としてるなんて、どうかしてるぜ、オカリン」
ああ、そうか。
ダルもまゆりも、いつだってそこにいたよな。
いや、ふたりだけじゃない。
フェイリス
「凶真、元気がないニャ? フェイリスの萌え萌えチャームで元気を取り戻すんだニャン♪」
るか
「凶真さん、ボクに出来る事があったら、なんでも言ってくださいね」
フェイリスもルカ子も。
そして――。
鈴羽
「岡部倫太郎のために、その辺の食べられそうな草で、あたしが特別ジュース作ったげるよ」
萌郁
「私も……いるよ……岡部君……」
鈴羽に萌郁。
ラボメン全員、いつもこのラボにいたじゃないか。
そうだ。
これが俺の日常だ。
俺はいつも、ここでこうして過ごしているんだ。
倫太郎
「ふむ……全員いるようだな」
倫太郎
「では只今より、第65536回目の円卓会議を行う! お前たち、準備はいいか!?」
紅莉栖
「まったく、いつもいつも暑苦しいわね」
倫太郎
「お前こそ、いい加減そのお澄ましフェイスはやめるんだな、助手」
紅莉栖
「だから、私はあんたの助手になった覚えはないといっとろーが」
まゆり
「オカリンとクリスちゃんは、いつも仲良しだね~」

「イチャイチャしやがって。リア充爆発しろ」
紅莉栖
「ちょっと、橋田。私がいつ、こいつとイチャイチャしたっていうのよ」
フェイリス
「仲がいいほど、喧嘩するっていうニャ」
るか
「羨ましい……です……」
鈴羽
「漆原るかも一緒にイチャイチャすればいいじゃん」
るか
「え? だ、ダメです! ボクにはそんな事、出来ません……」
萌郁
「イチャイチャ……」
倫太郎
「ええい、お前たち、いつまでムダ話をしている! さっさと会議をはじめるぞ!」
紅莉栖
「で、今日の議題はなんなんだ?」
倫太郎
「そんなものは決まっている。今日の議題は――」
なんだ……?
倫太郎
「議題は……」
紅莉栖
「岡部?」
やっぱり何かが違う……。
まゆり
「オカリン?」
一見いつもと同じように思えるが……。

「どしたん、オカリン?」
……そうだ、冷たいんだ。
フェイリス
「凶真?」
感じない。
るか
「凶真さん……」
感情も。
鈴羽
「岡部倫太郎」
温もりも。
萌郁
「岡部……くん……」
みんながいる。
それなのに、冷たくて暗くて寒くて……。
寒い――。
寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い。
身体の芯から凍ってしまいそうなほどに寒い。
まるで骨という骨が鉄で出来ているかのように。
身体中の血管に水銀でも流されているかのように。
寒い。
今にも凍ってしまいそうだ。
なんだ、これは?
ここは、どこだ?
俺は……どこにいる?
俺は――。
倫太郎
「…………」
ここ、は……?
倫太郎
「………………」
どこだ?
倫太郎
「……………………」
俺は何をして、いる?
倫太郎
「ぁ…………」
声を出そうとするが、上手く出ない。
どうやら俺は、ベッドの上に寝かされているようだ。
それも、やけに硬いベッドだ。
ゆっくりと辺りを見回す。
ラボでもなければ、俺の自室でもない。
いやに薄暗く古ぼけた部屋だ。
当然、見覚えなどない。
どうして俺はこんなところにいるんだ?
倫太郎
「っ……!」
頭の中に何か――それこそ電極でも差し込まれたような痛みが走る。
ベッドに横たわったまま手を挙げようとするも、重くてなかなか挙がらない。
関節という関節が固まってしまったみたいだ。
倫太郎
「っ……ぅぁ……」
全身の力を込めるようにして、ようやくゆっくりと身体を起こす。
ほんの少し動くたびに、節々が悲鳴をあげ、全身に痛みが走った。
何分もかけ、ようやくの事でベッドに腰を掛けて視線を落とすと、自分がまるで病人が着るような白い服を身に着けている事に気付く。
頭にはヘッドギアのような装置をかぶせられていて、そこから伸びたケーブルが妙な機械に接続されている。
俺はいったい、どうしてしまったというんだ?
さっきまでの俺は――。
倫太郎
「…………」
そうだ、かがりだ。
頭の中に、紅莉栖の記憶をダウンロードされてしまったかがり。
彼女の中から紅莉栖の記憶を取り除くべく、かがり本人の記憶を上書きしようとして――。
そして……。
ああ、思い出した。
あの直後、また世界線が変動したんだ。
それから――どうなった?
倫太郎
「…………」
思い出そうにも、どうにも頭の中が靄に包まれたようで、記憶がハッキリとしない。
とにかく、今はここがどこなのかを確かめるのが先決だ。
俺は頭のヘッドギアを取り外して、ベッドから降り――。
倫太郎
「っ――!」
思いっきり転倒してしまった。
おかしい。
頭がハッキリしていないせいで、眩暈でも起こしたのか。
そう思い、再び立ち上がろうとするも――。
倫太郎
「くっ……!」
足に力が入らない。
何度か試みては転び、最終的にはベッドに掴まるようにしてようやく、立ち上がる事が出来た。
倫太郎
「はぁ……っ……」
ただ両足で立つだけで、こんなにも疲れるなんて。
何か悪い病気にでもかかったのか?
それで数日間、寝込んでいたとか?
倫太郎
「……っ……」
力の入らない足を引きずるようにして、ようやくドアまで辿り着いた。
ドアは異常なまでの重さだった。
いや、単に俺がそう感じるだけなのか。
ともかく、全体重をかけるようにして押し、それでようやく扉を開ける事が出来た。
鍵はかかってはいたようだが、内側からは開けられるようになっているらしい。
壁に身体をもたせかけ支えながら、薄暗い廊下を進む。
その先には階段。
手すりに掴まりながら、ゆっくりゆっくり踏みしめるようにして階段を上ると、そこにハッチのような扉があった。
背中全体で持ち上げ、やっとの事でハッチを開けて外に出る。
そこは――古びたビルの中だった。
何がどうなっているのかわからないまま、剥がれ落ちた壁や天井を踏みしめながら廊下を進み、ようやく外部へと通じるドアを見つけた。
疲労困憊になりながら、外に出た俺の目に飛び込んできた光景。
それは――。
倫太郎
「…………」
無残な瓦礫の山だった。
倫太郎
「なんだ……これ……」
破壊され廃墟と化したビル群。
剥き出しになり捻じ曲がった鉄筋。
最初こそ映画のセットか何かかと思った。
しかしそれにしては、目の前の光景はあまりにも
現実的
リアル
だった。
壁や窓、天井、あらゆるところが破壊され、飛び散った破片が地面をびっしりと埋め尽くしている。
路上のアスファルトも、ひび割れ穴を穿たれ、まともに歩く事さえままならない状況だ。
目の前だけじゃない。
360度ぐるりと見渡してみても、同じような光景が続いている。
オイルの臭いがした。
何かが燻されているような臭いがした。
空を見上げてみる。
やけに薄暗い。
曇っているのかとも思ったが、そういうわけではないらしい。
空一面を覆っている黒い幕の向こうに、ぼんやりと太陽らしき光が見えた。
倫太郎
「っ……ゲホッ、ゲホッ……」
激しい喉の痛みに咳き込んだ。
慌てて、衣服の袖で口元を押さえる。
目にも染みるような痛みが走る。
もう一度冷静に、何が起きたのかを思い出そうと試みたが、やはり答えは何も出てこない。
あの時、紅莉栖の記憶をかがりの中から消した事で、世界線が動いただろう事は間違いない。
『Amadeus』の“紅莉栖”が持つ記憶。
そして、かがりの中に植え付けられた記憶。
その記憶の所有者によって――つまり、紅莉栖のタイムマシン理論を誰が持つかによって、世界線が変動しているのかもしれない。
そしてここもまた、変動した世界線のひとつ――。
となると、この光景は――。
倫太郎
「…………」
視界の隅の方で、何か黒ずんだ棒のような物が突き出しているのが見えた。
ゆっくりと近づいて目を凝らす。
瓦礫の中から突き出たそれは、先の方で5つに枝分かれしていた。
倫太郎
「ひ――!」
手だった。
真っ黒に焦げて炭化した人の手だ。
倫太郎
「っっぷ…………ぐっ……う、おえっ……」
強烈な不快感が胃を突き上げてくる。
倫太郎
「――!?」
不意に何かが動く気配がした。
何かいる……。
どこだ?
耳を澄ませて気配を探る。
倫太郎
「…………」
大きなビルの向こう。
そこから何か物音が聞こえる。
誰かいるんだろうか?
だとすれば、ここはどこで、いったい何があってこんな事になっているのか、教えて貰えるかもしれない。
俺はなるべく音を立てないよう気を付けながら、崩れかかったビルの壁の間から奥を覗き込んだ。
倫太郎
「…………」
確かにいた。
そこに、人はいた。
それも大量に。
否、正確にはそれはもう人ではなかった。
人の形をした肉だ。
それが、山のように積まれていた。
その肉の山に、数匹の犬が群がっている。
犬の口にはずるりと長いものがぶら下がっていた。
腸だ。
食っているんだ。
遺体を。
激しい腐臭。

おびただ
しい虫の羽音。
それはまさに、地獄絵図だった。
倫太郎
「ぁ……あぁ……あぁぁ……」
誰かの虚ろな目と視線が合った。
眼球がどろりと落ちて、その奥の空洞から黒い虫が這い出した。
倫太郎
「う、あ……ああああああああああああ!」
俺はその場から逃げ出した。
もつれそうになる足を必死に前に出し、破裂しそうな心臓を鼓舞し、懸命に走る。
どこか――。
どこか、まともな場所はないのか!?
だが、どれだけ進んでも、続くのは同じような光景ばかり。
瓦礫の山。
廃墟の群。
あるのは命亡き者ばかり。
生きた人間の姿はなく――。
そして俺は、そこに迷い出た。
倒壊しかけの巨大なビル群。
広大な道路には幾筋もの亀裂が走っている。
そして――捻じれて地面に突き刺さった高架橋。
数本の鉄と朽ちた枕木。
知っている。
俺はこの場所を知っている。
変わり果ててはいるが、間違いない。
ここは――秋葉原の街だ。
という事は――。
倫太郎
「ラボは……どうなった……?」
まゆりは? ダルは? フェイリスは?
ルカ子は? 鈴羽は?
真帆とかがりは、どうしているんだ!?
それを確かめようと、ラボへの道へ向かいかけたその時――。
背後から足音が聞こえた。
瓦礫を踏みしめる荒々しい足音。それも複数の足音だ。
足音は次第に大きくなり、やがて倒壊しかけたビルの間から現れたのは――武装した男たちだった。
計3人。
それぞれが手に自動小銃を持っていた。
武装した男
「貴様、そこで何をしている!」
全員が俺の姿を認めると、一斉に銃口を向けた。
倫太郎
「あ……」
いろいろ聞きたい事はあった。
知りたい事もあった。
しかし咬嗟に頭に浮かんだのは、ただ逃げなければという、その一心だった。
倫太郎
「――!」
だが、身を翻えし走り出そうとするも、身体が言う事をきいてくれない。
武装した男
「動くな!!」
逃走の気配を感じとったのか、怒声と共に乾いた音が飛んだ。
足元のコンクリートにいくつもの穴が穿たれる。
撃った。
本当に撃った。
本物の銃で俺を――。
あと少し近ければ、当たっていた。
倫太郎
「ぁ……あぁ……」
恐怖に足が

すく
む。
男たちは銃口を向けたまま近づいてくる。
逃げろ。
逃げなければ――。
だが、身体はまるで誰か別人のもののように、俺の命令を受け入れようともしない。
その間にも、男たちの銃口が俺に迫る。
そして――。
再び乾いた音が響き。
男のひとりが、横殴りに倒れた。
頭を瓦礫に打ち付けそのまま動かなくなる。
倫太郎
「え……」
武装した男
「――!?」
残されたふたりは、明らかに狼狽え銃口を左右に向ける。
???
「邪魔だ!」
ただその様を呆然と見ていた俺は、引っ張られその場に倒れ込んだ。
そして再び銃声。
男たちは銃を構えた姿勢のまま、ほぼ同時にそのまま背後にもんどりうって倒れた。
死んだ。
目の前で。
人が、死んだ。
尻もちをついて、ただその様を見ているしかなかった俺の前に、人影が立ちはだかった。
???
「お前、死にたいのか?」
視線を上げる。
そこに立っていたのは……。

「…………」
鈴羽――。
鈴羽
「ほら、いつまでボケッと座っているつもりだ」
倫太郎
「……お前……殺したのか?」
鈴羽
「何をナマッチョロい事言ってるんだ、お前……」
これまで聞いた事もないような、冷たい声だった。
倫太郎
「お前……鈴羽、だよな……?」
それまで鉄面皮のようだった表情が驚きに代わる。
だが、それも一瞬。
すぐに鈴羽はその顔に威嚇の意を浮かべた。
鈴羽
「お前……何者だ?」
まさか、こいつ――。
倫太郎
「……俺の事、知らないのか?」
世界線が変わったせいで、俺を知らない鈴羽がここにいるというのか?
倫太郎
「岡部だよ……岡部倫太郎だ……」
その名を口にした途端、鈴羽の表情が再び変わった。
鈴羽
「岡部……倫太郎? そんな……馬鹿な……」
暗闇の中に、氷のような足音がふたつ響いていた。
鈴羽
「こっちだ……」
俺が名乗った後、鈴羽は訝しむような顔で、しばらく俺の様子を呎っていた。
やがて、どこかへ連絡を取ったかと思うと、一転、一緒に来るように言ってきた。
とはいえ、歩かされていた間、ほとんど目隠しを付けれていた。
だから、どこをどう通ってここへ来たのか、ここがどの辺りなのか、まったく見当がつかない。
鈴羽
「止まれ」
言われたままに従う。
ノックの音に、ようやくそこにドアがある事がわかった。
男の声
「君に萌え萌え」
鈴羽
「バッキュンきゅん」
男の声
「入れ」
どうやら、今のが合言葉だったらしい。
こんな馬鹿みたいな合言葉を設定する奴は、俺が知る限り、ひとりだけなんだが。
ロックの外れる重々しい音がした後、ドアが開かれると、ようやく暗闇の中に薄暗い光に包まれた部屋が表れた。
部屋の中には、ガラクタのような機械が所狭しと置かれている。
壁際に並んだ様々な計器。
その前に座ったひとりの男が、真っ直ぐにこちらを見ていた。

「よかった。やっと目を覚ましたんだな、オカリン……」
誰だ、これは?
どうして俺の名を知っている?
歳の頃は40代半ばくらいだろうか。
恰幅の良い体格に、薄らと無精ひげを生やしている。
眼鏡の奥には鋭いながらも、柔和な瞳が輝いていた。
どこかで見た事があるような気はするが……。
倫太郎
「あの……貴方は……?」

「やだなぁ。僕のこと忘れたん? そりゃいくらなんでも冷たいぜ、オカリン」
この口調。
それに、この声……。
思い当たる人物はひとりしかいない。
いや、でもそんなはずは――。
倫太郎
「まさか……ダル……か?」
恐る恐る口にすると、男は破顔してみせた。

「良かった。覚えててくれて。てっきり忘れられたのかと思ったのだぜ」
倫太郎
「ダル……本当にダルなのか?」

「こんなナイスガイ、僕以外にいるわけないじゃん。なあ、鈴羽?」
鈴羽
「せめて、もうちょっと痩せてくれれば認めなくもないけど」

「そう言うなって。これでも若い頃に比べれば、随分と痩せたんだぜ」
確かに、目の前のダルは、俺が知っているダルよりも幾分かスマートにはなっていた。
鈴羽
「というか、父さん……少し言葉遣い、おかしくない?」

「僕も久々にこういう話し方したよ。でも、オカリンはこの方が話しやすいだろうと思ってさ」
だが、そんな事よりも問題なのは年齢だ。
どう見ても中年化している。
若く見積もっても、せいぜいが40代前半だ。
倫太郎
「…………?」
その時、部屋の端にある棚が目に入った。
そのガラスの中に、見知らぬ男が立っている。
ダルと同じく、40代と思しき男だ。
そいつは痩せこけた陰気な顔で俺をじっと見ていた。
ゆっくりと右手を挙げてみる。
真似をするように、男はゆっくりと左手を持ち上げた。
倫太郎
「ダル……ひとつ、教えてくれ……」

「なんでもどぞ」
倫太郎
「今は……何年だ……?」
ダルは微笑みから一転、真剣な表情になり、そして答えた。

「2036年。世界は戦乱の真っ只中だ」
ダルは、詳しい状況について俺に説明してくれた。
倫太郎
「それじゃあ、本当に今は2036年なのか……」

「そういう事」
到底信じられる話ではなかった。
けれどダルの姿が、そして何よりも俺自身の姿がすべてを物語っていた。
2036年――。
このままいけば、10年しないうちに第三次世界大戦に突入する。そう鈴羽が言っていた。
それにより57億人の人間が命を落とし、東京の人口も10分の1にまで減少する。
その後、第三次世界大戦自体は終結するものの混乱は続き、日本中――いや、世界各地で2036年になっても戦火は続いているのだと。
それが、俺がさっき目にしたあの光景だったのか……。
倫太郎
「だが、どうして俺はその事を何も覚えていないんだ?」
今の俺の頭にある記憶は2011年のものだ。
その間、約25年に渡る記憶が何ひとつない。
あの日――かがりの中から紅莉栖を消した日の記憶、あれが俺の持つ最後の記憶だ。
倫太郎
「それに、俺は2025年に死ぬと鈴羽から聞かされていた。どうして生きているんだ?」
鈴羽
「それはあたしも聞きたい、父さん」
俺の疑問に鈴羽が追随した。
鈴羽
「あたしたちは皆、オカリンおじさんは10年前に死んだって聞かされてきたんだ」
鈴羽は、身を乗り出してダルに詰め寄った。
鈴羽
「父さん、これはどういう事? もしかして、あたしたちを騙してたのか?」

「落ち着け、鈴羽。ちゃんと説明するから」
ダルは懐かしそうな目で俺を見て、説明を再開した。

「オカリンは、2011年の1月半ばまでの記憶しかないって事でおk?」
倫太郎
「ああ。2011年の1月に世界線が変動した。それ以降の事は覚えていない……」
自分が気づかないうちに、25歳も年老いていた。
その事実が不安となって、じわじわと心の内に広がっていく。

「やっぱ、身体の方に少し問題があるのか、それとも混乱してるのか……」

「今のオカリンの頭の中には、2011年の1月末までの記憶がなきゃいけないんだけど……」
倫太郎
「末? どうして1月末なんだ?」

「真帆たんが、オカリンの記憶をデータとして保存したのが、2011年1月末の事だからさ」
比屋定さんが、俺の記憶を……?

「『Amadeus』の研究の役に立ちたいから、記憶サンプルを取ってくれって。オカリンから真帆たんに頼んだらしいじゃん」
倫太郎
「俺が、『Amadeus』の……」
そこで俺はとんでもない事に気付いた。
倫太郎
「という事は、もしかして今の俺の脳の中は……」

「そう。お察しのとおり、今のオカリンの脳内にある記憶は、その時の――2011年にデータ化された記憶なんだ……」
データ化された――記憶。
俺の頭の中が……。
鈴羽
「ちょっと待って、父さん。話がまったく見えない。そもそも、どうしてオカリンおじさんが生きてるの?」
鈴羽
「おじさんは2025年に死んだって言ってただろ?」

「死んだよ。事実上はね……」
鈴羽
「事実上?」

「タイムマシン開発競争は、その頃がピークだったんだ」

「各国のいろんな機関が、牧瀬紅莉栖が残した論文と彼女の記憶を欲していた」

「でもその時点で、牧瀬紅莉栖の遺産は全部、ストラトフォーの手に渡ってたんだよね……」
ストラトフォー……。

「ただ、連中をもってしても、論文の中身を確かめる事はどうしても出来なかった。ロックを解除出来なかったんでね」

「ちなみにそのロックを開発したのは2010年の僕」

「そこでストラトフォーは、牧瀬紅莉栖をよく知る人物を捕まえて、情報を聞き出そうとしたんだ……」
倫太郎
「それが、俺か……」

「連中は、オカリンの記憶から牧瀬紅莉栖についての情報を取り出すために、あらゆる手を使ったらしい」

「僕たちが助け出した時には、オカリンの精神はボロボロだった……。まともに生きるための能力さえ失ってた」

「回復する見込みのない、死んだのとほぼ変わらない状態だったんだ」
鈴羽
「それじゃあ……肉体は生きていたってこと?」

「そういう事」

「これは、オカリン自身の入れ知恵でもあった。オカリンは自分が狙われてる事に危機感を覚えてたからね」
鈴羽
「でも、せめてあたしにくらいは教えてくれても良かったはずだ」

「敵を騙すには、まず味方からって言うだろ?」
鈴羽
「そんな……」
鈴羽は、少ししょんぼりしている。
父に信頼してもらえていなかった事がショックだったんだろう。

「そんな顔するな、鈴羽。この事を知ってたのは、ワルキューレの中でも、ごく限られた一部の人間だけだ」
『ワルキューレ』という名前には聞き覚えがある。
鈴羽が2010年にもよく口にしていた。
ダルや鈴羽が所属する
レジスタンス組織

の名称だ。

「話を続けよう」

「オカリンは心を破壊されたせいで、生きるための能力を失っていた。放っておいたら、肉体さえ死んでしまう状態だった」

「そこで、事実を知る一部の人間の手によって、こことは別の施設でずっと面倒を見てきたんだ」
2025年から、2036年まで。
誰にも知られないようにして、11年もの間、ずっと……か。
肉体だけを生かすにも、栄養は必要だ。
それにずっと寝たきりでは、関節も固まるし、床ずれによって皮膚が裂けたりもする。
それを防ぐために、ずっと俺を看てくれていた人がいる……。
倫太郎
「もしかして、まゆり、が?」

「まゆ氏だけじゃない。フェイリスたんやるか氏、それに真帆たんもだ」
生きている。
まゆりも、フェイリスも、ルカ子も――。
こんな恐ろしい世界になっても、あいつらは生きて、こんな俺を看てくれていた。
ずっと。
倫太郎
「なあ、ダル……」
倫太郎
「どうして俺は、今になって目を覚ましたんだろうか」
俺の記憶は2011年の時点でデータ化されていた。
それが存在するとわかっていたのなら、もっと早くにこうして脳内に記憶をダウンロードする事が出来たんじゃないか。

「それは単純な話さ。オカリンの記憶データは、つい最近までどこにあるかわからなかったんだよね」

「つーか、オカリンと牧瀬紅莉栖の記憶データは、ストラトフォーがずっと保管してたんだけど」

「その保管場所がずっとわからなかったわけ」

「見つけたのは半月前。どこにあったと思う? 驚くぜ?」
倫太郎
「どこだ?」

「灯台下暗し。大学だよ、僕たちの」
倫太郎
「まさか……東京電機大学か!?」

「その地下に、連中の支部があったんだよ。つっても、今はほとんど廃墟になってるけどな」
東京電機大学の地下に、ストラトフォーの支部が……。

「で、半月前にオカリンの記憶データをサルベージした僕たちは、早速、脳にデータをダウンロードした……」
だが、それから10日ほど経っても、俺は目覚めなかったらしい。
やはり無理だったかも、と諦めかけた矢先――俺はこうして目覚めたというわけだ。
25年の時を隔てて。
25年――。
倫太郎
「…………」
自らの手をじっと見つめる。
ガリガリに痩せ細った手の甲には、いくつもの血管が浮き上がっている。
ガラスにうつった、シワ交じりの不健康そうな顔。
頭髪もなかば白くなりかかっている。
倫太郎
「起きたら25年後だったなんて……とんだ浦島太郎だな」

「気持ちの整理がつかないのも無理ないさ」
もちろん、ショックではある。
けれど、俺の中で一番衝撃的だったのは――。
倫太郎
「この記憶は、一度データになったものなんだな……」
子供の頃からの記憶。
あの夏の記憶。
紅莉栖との記憶。
それらはすべて、一度、0と1に変換されてしまったもの。
それは、人であると言えるのだろうか?
俺は、人間だと言えるんだろうか?

「でも、それを言うなら、牧瀬氏のタイムリープマシン技術だって同じじゃん」

「オカリンはアレ、何度も経験したはずっしょ」
……確かにそうだ。
けれど、頭ではそうわかっていても、気持の上での整理が出来ない。
断絶されてしまった25年の時間。
その時間をデジタルな世界の中に置き忘れてしまったような。
奪われてしまったような、そんな気にさえなってしまう。
鈴羽
「あたしは、やっぱり納得いかない……」

「そう言うなって鈴羽」
鈴羽
「父さんはいい。そうやって、世界中を騙していたんだから」

「だから、仕方なかったんだってば」
……騙していた、か。
騙されていたのは俺だって同じだ。
俺は2025年には死んでしまう運命だと教えられていた。
それは、このβ世界線にいる限り変わりはしないのだと。
だが形はどうあれ、俺はこうして生きている。
時間を越えた過去の俺すら、未来に騙されていた。
俺だけじゃない。
鈴羽も他のヤツも皆、世界中が騙されていた。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「世界が……騙される……?」
と、部屋のドアが外からノックされた。
誰かがやって来たらしい。
鈴羽がドアに近づいた。
鈴羽
「君に萌え萌え」
少女の声
「バッキュンきゅん」
やはり微塵の緊迫感すらない合言葉で、鈴羽はドアのロックを解除した。ドアが開き、入ってきたのはまだ幼い少女だった。
少女
「ダルおじちゃん、鈴羽おねーちゃん、とぅっとぅるー」
鈴羽
「かがり。ここには用がある時以外は来るなと言っているだろう」
かがり……。
この子が、子供の頃のかがりなのか!
かがり
「ごめんなさい。でも、ママたちみんな出かけて帰ってこないんだもん」

「まあまあ、そう目くじら立てる事もないだろ」
鈴羽
「また父さんはそうやって甘やかす。こういうことはきちんとしておかなきゃ駄目なんだ」
25年前とそう変わらない父娘のやりとりを尻目に、俺はかがりを見た。
と、かがりも俺の存在に気づいたようだ。
かがり
「こんにちは」
倫太郎
「……こんにちは」
かがり
「おじさんは誰?」
倫太郎
「俺か? 俺は……」
かがり
「……?」
倫太郎
「そうだな……君のママの友達だ」
幾ばくか悩んだ挙句、結局俺は名乗らなかった。
かがり
「まゆりママの?」
倫太郎
「ああ、そうだ……」
かがり
「へぇ……」
倫太郎
「ママは優しいか?」
かがり
「うんっ!」
倫太郎
「ママの事、好きか?」
かがり
「うんっ、だーいすきっ!!」
倫太郎
「そうか……」
かがりのその表情からは、好きという気持ちがいっぱいに溢れていた。
きっと、まゆりが大切に育てて来たんだろう。
これまで、まゆりの愛情をたっぷり受けて。
けれど……。
けれど彼女は、この後過去に跳ぶ事になる。
大好きなまゆりと別れ、過去の世界でひとり……。
そして、奴らに捕まり、被検体にされてしまうんだ。
鈴羽
「そういえば、父さん。まゆねえさんには伝えたのか? おじさんが目覚めたこと」

「あ、いかん! すっかり忘れてた! 早く教えてやらんと!」
ダルは小型の無線機のようなものを取り出した。

「こちら、バレル・タイター。応答せよ、こちらバレル・タイター」
まゆり
「こちらスターダスト・シェイクハンドです。どうぞ」
スピーカーから聞こえて来た声は、まさしくまゆりの声だった。
あの頃に比べると、ほんの少し落ち着いているようにも思えるが、それでもまゆりには違いない。
っていうか、スターダスト・シェイクハンドって……。
かがり
「ママー!」
まゆり
「あ、かがりちゃん。ダルおじさんのところにいるの?」
かがり
「うん」
まゆり
「おじさんは大事なお仕事があるから、あんまり邪魔しちゃダメだよ?」
かがり
「はーい」

「そんな事より、まゆ氏。スペシャルなニュースだ!」
まゆり
「スペシャルなニュース?」

「ああ……心して聞いてくれ。オカリンが……目覚めた」
まゆり
「……!」
まゆり
「ほんと、に? ほんとに……オカリンが……?」
フェイリス
「どうしたの、マユシィ!?」
まゆり
「オカリンが……オカリンが……」
るか
「もしかして岡部さん……目を覚ましたんですか!?」
フェイリス
「ホント!? オカリン、起きたのニャ!?」
無線の向こうから、聞き慣れた連中の声が次々に聞こえて来た。
声だけ聴くと、俺の知っている皆とほとんど変わらない。

「そういうわけで、3人とも、すぐに戻って来たほうが良い」
まゆり
「…………」

「まゆ氏? どうした、まゆ氏!?」
フェイリス
「ダメ。マユシィは嬉しさのあまり涙ぐんで声も出ないみたい」

「まあ、無理もないよな。オカリンの復活を一番望んでたのは、まゆ氏なんだからさ」
まゆり……。

「とにかく、みんな早く戻った方がいい」
フェイリス
「わかった。食料を受け取ったらすぐに戻るわ」
喜びの声が上がる中、ふと見ると、鈴羽だけが表情を曇らせていた。

「……どうした、鈴羽?」
鈴羽
「……なんで、まゆねえさん達、食料調達に出ている? 今日は予定に無かったはずだ……」

「え?」
フェイリス
「そんなはずない。確かに今日だって、昨日の夜遅くに連絡が……」
鈴羽
「……マズい! それは罠だ! みんな、すぐに戻って――」
まゆり
「きゃぁっ!?」
鈴羽の言葉を遮るように、スピーカーから悲鳴が聞こえた。
鈴羽
「どうした!? 何があった!?」
るか
「襲撃です! 敵襲が――!」
鈴羽
「くそ――っ!!」
るか
「まゆりちゃん! フェイリスさん! 逃げて! ここはボクが!」
フェイリス
「でも、そんな事したらルカニャンが!」
るか
「ボクなら大丈夫ですから、早くっ!」
まゆり
「ダメぇ、るかくんっ!!」
フェイリス
「ルカニャン!!!」
鈴羽
「父さんっ!」

「おうっ!!」
いち早く駆け出した鈴羽をダルが追う。
倫太郎
「待ってくれ、ダル!」
倫太郎
「俺も行く!」

「……でも、オカリン、その身体じゃ……」
倫太郎
「……行かせてくれ。頼む……」
ダルはほんのわずかの間、逡巡していたが、すぐにうなずき、俺に肩を差し出した。
若い頃に比べて少し痩せはしたものの、それでもまだ大きな肩に身を預け、俺は鈴羽の後を追った。
倫太郎
「…………」
ダルに支えられながら暫く行くと、いくつかの人影が見えた。
おそらくそこでは、激しい戦闘が行われているだろう――そう覚悟していたが、辺りはひっそりと静まり返っていた。
向こうのほうに、兵士らしき人間が数人倒れている。
手前には、立ち尽くす鈴羽。
すぐ傍にしゃがみ込む、ふたりの女。
そしてその足元に――。
るか
「っ……」
倫太郎
「ルカ……子……」
ひと目でわかった。
そこに横たわっているのがルカ子だと。
まゆり
「……オカ……リン……?」
倒れたルカ子を覗き込んでいたふたりが顔を上げた。
フェイリス
「オカリン……ルカニャンが……ルカニャンが……」
まゆりもフェイリスも、刻まれた時の中で随分とやつれて見えた。
倫太郎
「あ……あぁ……」
るか
「岡部……さん……?」
幾らか精悍にはなったものの、その柔和で女性のような顔は変わっていなかった。
ルカ子は焦点の合わない目で俺を見つめた。
倫太郎
「ルカ子……」
るか
「ほんとうに……岡部さん、なんですか……?」
倫太郎
「ああ……ルカ子……俺だ……」
るか
「ふふ……その呼び方……本物の岡部さん……ゴフっ!」
咳き込んだルカ子の口の端から、真っ赤な筋がひとしずく、流れ落ちた。
ルカ子の右胸あたりから流れた血は衣服を紅く染め、地面にまで広がっていた。
一見して致命傷だとわかった。
るか
「よかった……さっきのはなしは……うそじゃ、なかったん、です、ね……」
倫太郎
「ああ……お前たちのおかげで、こうして目覚める事が出来た……ありがとう……」
ルカ子の手が何かを求めるように宙をさまよった。
既にその瞳には、俺の姿は映っていないのかもしれない。
握り締めたその手は、驚くほどに冷たかった。
るか
「岡、部……さん……」
倫太郎
「どうした?」
るか
「ボク……やりました……」
倫太郎
「ああ……」
るか
「凶真さんに……おしえてもらった……清心斬魔流の心得の、おかげ、で……今まで、まゆりちゃんや……みんなを……まもってこられ、まし……た……」
倫太郎
「ぁ、ああ……」
るか
「ボク……仲間に……なれました、よね……?」
るか
「みなさんの……ほんとうの、なかまに、なれ……ました、よね……?」
倫太郎
「馬鹿……お前は、最初から、ずっと……俺たちの仲間だ……」
ルカ子は冷たい手を伸ばして、俺の頬に触れ――。
そして眩いばかりの笑みを浮かべ。
るか
「……えへへ……うれしい、な……」
それだけ言って。
ふ、と。
頬の感触が消えた。
倫太郎
「ルカ子! ルカ子!?」
まゆり
「るか……くん……?」
冷たい手はそのまま瓦礫に塗れた地面に落ち。
倫太郎
「あ……あぁぁ……」
フェイリス
「ルカニャンっ!!!」
そのまま二度と動く事はなかった。
倫太郎
「あぁ……あぁぁ……」

「なんて……事だ……」
まゆり
「……よかった。るかくんは、オカリンとずっと会いたがっていたから。最期に会えたのは、本当に、よかった……」
よかった……?
よかったって……?
こんな終わり方が……?
まゆりのその言葉で、俺が眠っていたこの25年間がどれほど残酷で、地獄のような時間だったかを、思い知らされた。
まゆり
「漆原るか……。あなたは、とても立派に戦いました……。私たちは、あなたに、救われました……どうか、安らかに……」
まゆり
「…………」
倫太郎
「くっ……こんな、こんなの、あんまりだろ……っ」
倫太郎
「う、あぁぁぁぁああああああ…………!」

「まゆ氏は?」
鈴羽
「泣き疲れて眠ったよ」

「無理もないよな。まゆ氏はるか氏とずっと仲良かったから……」
鈴羽
「っ……るかにいさんっ!」
ルカ子が……死んだ。
まゆりやフェイリスを守って、無残に命を落とした。
倫太郎
「っ……!」
その死が、まゆりの死と重なる。
手の中で冷たくなっていくまゆり。
そしてルカ子。
どこまで行ってもこうだ。
まゆりも。
ルカ子も。
そして紅莉栖も。
みんなみんな死んでしまう。

「あの戦争をきっかけに、たくさんの人間が死んだ」

「小学校の友達も、中学高校の友達も、大学の友達も……」

「親戚も先生も知り合いも、大人も子どもも、それから……大切な人も……」
鈴羽
「…………っ」

「たくさんの……本当にたくさんの人間が死んだんだ……」
わかっていた。
いや――わかっているつもり、だった。
シュタインズゲートに辿りつかなければ。
β世界線のままでは、いずれ世界中を大きな戦火が包む。
散々聞かされてきた事だ。
それがどんな未来か、俺はわかっていたつもりだった。
でもそれは所詮、遠い未来の話でしかなかったんだ。
そこには一切の
現実
リアル
はない。
あるのは、ただの
想像
イメージ
だ。
現実味
リアリティ
のない漠然とした想像だけが、そこにあった。
かつて俺が経験した、何百何千もの悪夢。
あれ以上の地獄はないと思っていた。
けれどこうして、実際にこの目で見て、この耳で聞いて、この肌で感じた今、それはすべて幻想だったと知った。
積み重ねられた屍の山。
貪り食う野犬の群れ。
倒れた兵士。
燻された肉の匂い。
腐った内臓の匂い。
手のひらに残る、ルカ子の血の温もり。
まゆりの血の温もり。
紅莉栖の血の温もり。
まゆりだけは救ったつもりだった。
紅莉栖を見殺しにして、現実から目を背けて、それでもまゆりたちだけは救えたつもりでいた。
けれど、結局俺は何も救えていなかった。
救ったのだとしたら、それは己だけだ。
自分、ただひとりを救っただけだ。
他には何ひとつ救ってなどいない。
紅莉栖も。
まゆりも。
かがりも、ルカ子も。
誰一人として救えてなんていない。

「“紅莉栖”を『Amadeus』の呪縛から解放してやってくれ」
倫太郎
「え?」

「伝言。2025年のオカリンから……」
倫太郎
「俺の……伝言……」

「シュタインズゲート世界線への道は険しい。一度や二度、やり直したところで、辿りつける道ではないだろう」

「けれど、まずはそこから始める事が、
運命石の扉
シュタインズゲート
へと繋がるんじゃないか――」

「いくつもの未来の先が、過去へと繋がっているんじゃないか――」

「11年前、オカリンはそう言ってた」
倫太郎
「“紅莉栖”を解放……」

「だからさ、僕たちがいるこの世界も無駄じゃない。きっと必要な世界なんだ。少なくとも今の僕はそう思ってる」

「もちろん、だからって、このままでいいってわけじゃない」
倫太郎
「ダル……」

「だからさ、オカリン。もう一度、戻って考えてみてもいいんじゃね? オカリンの記憶の途切れたその時間に、さ……」
倫太郎
「2011年に……か? でも、そんな事……」
ガラスに、老いた自分の姿が写る。
倫太郎
「第一、この姿のまま戻ったところで、俺に何が出来る……?」
真帆
「出来るわ」
無線から聞き覚えのある声が聞こえた。
真帆
「久しぶりね、岡部さん。11年ぶりかしら」
倫太郎
「比屋定さんか……?」
真帆
「部屋の奥を見なさい」
その言葉に応えるように、いつの間にかダルが部屋の奥、照明の当たらない薄暗い一角に立っていた。
突然明るくなったその一角に鎮座しているのは――。
倫太郎
「電話レンジ(仮)……」
真帆
「あなたや橋田さんから話を聞いて私が作ったものよ。ほら、ちゃんとVRヘッドも用意してあるでしょう?」

「こんな事もあろうかと、リフターも用意してある」
倫太郎
「…………」
ダルはさらに、この11年間、俺が意識がない状態でもタイムリープの“受信”が可能な環境をずっと維持してきたのだと説明してくれた。
なるほどな……。
俺の意識がなくても、こめかみあたりに自動受信装置みたいなものを取り付けておけば、それで事足りるわけだからな。
2025年に俺が壊れてしまってから、この身体はずっと、まゆりたちが付きっきりで世話をしてきたんだし。
ダルと真帆は、こうなる事を11年も前から予期していたのか。
あるいは、これもまた、2025年の俺による入れ知恵だったのかもしれないが。
真帆
「改良を重ねた結果、跳躍可能時間は336時間」
倫太郎
「336時間……二週間か」
真帆
「ただし、それも途中まで。マシンを改良してそれが可能になったのは10年ほど前だから、それ以前は前と変わらず48時間しか跳躍出来ない」
つまり、2011年の1月末に戻ろうと思うなら、単純計算しても――3000回近いタイムリープが必要になるということだ……。
真帆

途轍
とてつ
もなく辛い旅になるわ。それでも戻る気があるのなら……」
倫太郎
「…………」
3000回近いタイムリープ――果たして、今の俺にそんな大それた事が出来るのか?

「しんどくなったら、途中で休めばいい」
倫太郎
「ダル……」
真帆
「大丈夫よ。どの時間に辿りついても、必ず私たちがいるから」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「私ね……後悔しているの……」
真帆
「『Amadeus』のせいで、あの子は死んでもなお多くの邪な人々に利用されようとしていた……」
真帆
「何年も……何十年も……」
真帆
「だから私からもお願い……あの子を……“紅莉栖”を醜い欲望の渦から解放してあげて……」
真帆
「紅莉栖を救ってあげて……。それが出来るのは、岡部さん……あなただけよ……」
倫太郎
「…………」
今の俺に出来るかどうかはわからない。
そこから始まる道が、本当に
運命石の扉
シュタインズゲート
に続いているという保証もない。
それでも――。
倫太郎
「もう一度、考える、か――」
俺に何が出来るのか。
何をすべきなのか。
倫太郎
「ふたりとも、頼む……」

「オーキードーキー!」
返事を聞くが早いか、ダルが早速準備に取り掛かる。
真帆
「岡部さん」
倫太郎
「……?」
真帆
「もしも、次に紅莉栖に会えたら言ってやって。未来の私は、あなたの7倍もの時間跳躍を可能にしたわよ、って」
倫太郎
「……わかった」
紅莉栖に会えたら――。

「オカリン。こっちの準備はOKだ!」
倫太郎
「早いな」

「メンテは怠ってないからね」
倫太郎
「さすがだな」

「まあな」
電話レンジ(仮)とVRヘッド。
あのラボにあったものとは、見た目もほんの少し違ってはいるが、それは紛れもなく俺たちの未来ガジェットで……。
鈴羽
「あ、でもまゆねえさんたちとは話さなくていいの?」
倫太郎
「……今跳ばないと、決心が鈍りそうだ」
倫太郎
「それに、今会えなくても、いくらだって会えるさ。過去の世界で……」

「そうだな」
ニヤリと笑ったダルの手からVRヘッドを受け取り、頭に装着する。
倫太郎
「それじゃあ、また。2週間前で、な」

「ああ、2週間前で」
真帆
「しっかりね」
そして――。
俺は再び過去へと跳躍した――。
それは、長い長い。
気の遠くなるほど長い旅だった。
倫太郎
「っ……」
倫太郎
「…………」
手の中に握りしめたスマホを見る。
日付けは――2011年1月31日。
間違いない。
戻ってきた。
ようやく、この時間に。
いくつもの時間の流れを越えて。
何千回ものタイムリープを繰り返して。
戦争の只中も跳び越えて。
死にそうな目に遭った事もあった。
途中で何度か諦めようとした事もあった。
それでもその都度、俺はあの光景を思い出した。
廃墟と化した世界。
積み上げられた死体の山。
悲鳴。
絶叫。
流れ落ちる血。
そして俺を見送ったダルたちの姿。
長い長い、途方もなく長い旅路を終え、ようやくこの時間に俺は帰ってきた。
まゆり
「オカリン? なにか良くない報せでもあったの?」
倫太郎
「え……?」
まゆり
「電話に出てから、なんだかぼーっとしてるから」
倫太郎
「い、いや……そうじゃない。そういうわけじゃないんだ……」
まゆりがいる。
フェイリス
「もしかして、まだお正月の気分が抜けないのかニャ?」
フェイリスもいる。

「しっかりしてくれよな」
ダルも。
ルカ子も。
鈴羽も。
そして。
かがり
「…………?」
真帆とかがりも、ここにいる。
真帆
「もしかして、この前の疲れが出ちゃったかしら?」
倫太郎
「この前?」
真帆
「ほら、この前、『Amadeus』のサンプル用に記憶データを取ったでしょう?」
ああ……そうか。
ダルが言っていたな。
1月の末だと。
倫太郎
「いや、そうじゃないんだ……ちょっと、な」
真帆
「…………」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「ん? なあに、オカリンさん?」
倫太郎
「この時代に来てからの記憶は、まだ思い出せないのか……?」
かがり
「え? う、うん……」
倫太郎
「そうか……」
かがり
「どうしたの、いきなり?」
倫太郎
「なんでもない。ただ少し確かめただけだ」
かがり
「なにそれー。変なオカリンさん」
未来からやって来た今の俺は知っていた。
この世界線のかがりの頭の中には、もう紅莉栖の記憶は存在しない事を。
かがり
「でも私ね、別にこのままでもいいかなって思ってるんだ」
かがり
「だって、ここにはママもいるし、るかくんやルミおねーちゃんもいるし。食べ物だっていっぱいあるし、無理に思い出す必要もないんじゃないかって」
倫太郎
「そうか……」
今はこれでいいかもしれない。
けれどこのままでは世界は確実に、数多の悲しみに満ちた未来へと向かっていく。
まゆりも。
フェイリスも。
ルカ子も。
ダルも。
鈴羽も。
かがりも。
そして真帆も。
紅莉栖の死を選んだ末にあるのがあんな未来であって、本当にいいというのか。
倫太郎
「…………」
まゆり達を見送ってひとりになった途端、疲労が一斉に押し寄せてきた。
3000回にも及ぶタイムリープ。
その間に頭の中を整理出来るかとも思ったが、実際は過去に戻る事に必死で、それどころじゃなかった。
繰り返される時間跳躍の中で、精神は疲弊していった。
一度定まりかけた心も、何度も揺らいだ。
それでも、まずは戻って来る事――そこから始める事を心に言い聞かせ、ようやく帰ってきた。
おかげで頭の中は疲れ切っている。
これから何をすべきか。
どうするべきか。
今は何も考えたくない。
にも関わらず、妙に冴え冴えとして眠る事すら出来ない。
人のいなくなったラボは急激に温度を失い、底冷えのする寒さが身体を襲う。
だがそれも、あの時感じた寒さに比べれば平気だった。
かがりから紅莉栖の記憶を消した後に見た世界。
そこには、紅莉栖がいてまゆりがいて――皆がいた。
それはあの夏の――ほんの少しの間だけの平穏な光景だった。
それでも、あの世界は異様なほどに冷たかった。
今になってみればわかる。
あれはきっと、データとして眠っていた間の俺の世界だ。
0と1だけで構成された世界だ。
生きているのに死んでいるような。
死んでいるのに生かされているような。
そこには確かに大切な人たちがいた。
けれど一切の温度は感じられない。
手を伸ばせば触れる事も出来る。
けれどわずかな温もりすらない。
昏い昏い、光すら届かない、暗黒の宇宙の中でひとり漂っている、そんな感覚だ。
そして――『Amadeus』となってしまった牧瀬紅莉栖は、今でもその中にいる。
わずかな温もりすら感じる事の出来ない、冷たい世界でずっとひとり――。
倫太郎
「…………」
蛍光灯の灯りに、手のひらを掲げてみる。
うっすらと浮き上がった血管の奥には、赤い血が流れている。
生きている。
温もりもある。
けれども今の俺は、はたして生きていると言えるのか?
一度、記憶のデータと化してしまった俺は。
あの冷たい世界に身を晒した俺は、人間だといえるのだろうか?
ドアの開かれる音が聞こえ、目を向けた。
真帆
「…………」
真帆が立っていた。
倫太郎
「比屋定さん……帰ったんじゃなかったのか?」
真帆
「ちょっと忘れ物をしちゃってね」
倫太郎
「忘れ物?」
真帆
「それより、貴方こそひとりで何をしているのかしら?」
真帆は忘れ物を探す素振りすら見せず、まっすぐに俺に歩み寄ってくると、目の前に腰かけた。
真帆
「さっきもずっと難しい顔してたわよね。何か気になる事でもあるの?」
もしかしたら、気にしてわざわざ戻ってきたのだろうか。
真帆
「私じゃ紅莉栖の代わりにはなれないかもしれないけど、それでもよければ話してみて」
倫太郎
「比屋定さん……」
今さら彼女に話していいかどうか、考える必要などない。
彼女には、これからタイムリープマシンを作ってもらわなければならない。
そのためには、すべてを知っておいてもらう必要がある。
倫太郎
「嘘みたいな話だが、聞いてくれるか?」
真帆
「……まったく。あなた、なんて人なの……」
俺の話を聞いた真帆の第一声が、それだった。
以前と同様、当然すぐには信じて貰える話ではなかった。
それでも、真帆は俺の真剣な態度から感じとるものがあったのか、根気よく話を聞いてくれた。
理解出来ない事には、理路整然と疑問を挟みながら。
やはり特に興味を示したのは、タイムリープとタイムマシンについてだった。
そのシステムについても、俺の知る限りすべてを語って聞かせた。
倫太郎
「信じてくれるのか……?」
真帆
「信じないわけにはいかないでしょう、そんな顔して語られたら。それに……」
真帆
「実際にこんなものを見せられたら」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「それに、これで納得がいったわ。前から不思議だったのよ」
真帆
「紅莉栖は秋葉原に来て、ほとんど日を置かないまま死んでしまった。そんな彼女と、貴方がそれほどに仲良くなれたということが……」
真帆
「特にあの子のあの性格でしょ? そんな期間に、それも男の人と親しくなるなんて、よっぽどのことがあったんじゃないかと思っていたのだけど……」
そういうことだったのね、と真帆は小さく呶いた。
真帆
「それで? 貴方は何を気にしているの?」
真帆の真っ直ぐな視線に、俺は目をそらした。
真帆
「岡部さん……?」
倫太郎
「……俺は……俺なんだろうか」
真帆
「……どういう事?」
倫太郎
「聞いただろう? 今の俺の頭の中にある記憶――それは一度データとなって、ハードディスクの中に保管されていた記憶だ」
倫太郎
「いわば、人工記憶といってもいい」
倫太郎
「そんな俺は、果たして俺自身だと言えるんだろうか?」
倫太郎
「生きている……そう言えるんだろうか……」
この身体に血は流れている。
それでも頭の中身は一度0と1に変換されたものだ。
それならば、俺は『Amadeus』となんら変わらない存在なんじゃないか?
真帆
「なんだ、そんなことで悩んでたの? 馬鹿馬鹿しい」
だが、真帆はそんな俺の悩みをあっさりと一蹴した。
真帆
「あなたは、
哲学的ゾンビ

って知ってる?」
倫太郎
「確か……思考実験のひとつだろう? 姿かたちから行動に至るまで人間そっくりだが、意識や感情が欠乏している存在は、客観的に人間と区別が出来るのかどうか……という」
突然投げかけられた質問に、戸惑いながらも答える。
真帆
「ま、だいたい合っているわね」
真帆は教師のように満足げに頷いた。
真帆
「じゃあ仮に、ここに人間そっくりの外見をした人工知能が存在するとするわよ」
真帆
「人間と同じように振る舞い、同じように行動する」
真帆
「誰かが困っていれば手をさし伸ばし、哀しい時には涙する」
真帆
「これは決められたプロセスなのかもしれないけれど、でもそれは人間だって同じ。個人個人で定められたプロセスに従って、考えて反応する……」
真帆
「私たちはそのプロセスを、意識や感情という言葉に置き換えているだけじゃないかしら」
真帆の言わんとしている事が、なんとなくわかった。
倫太郎
「つまり、AIにだって感情はある、と?」
真帆
「少なくとも、私たち科学者はそういう物を作り出すために、日々研究を重ねているつもりよ」
誇らしげに胸を張る。
真帆
「じゃあ、岡部さん。あなたは感情を持ったAIは人ではないと思う?」
姿かたちも人と同じで、考え方も同じ。感情もある。
それは――人だ。
倫太郎
「いや……」
真帆
「でしょう? そもそも、個人を個人たらしめているのは記憶よ」
真帆
「その人が生まれ、経験した事、感じたもの。その集合体が人間なの」
真帆
「だから岡部倫太郎。たとえ一度データになっていても、あなたの記憶と身体を持つあなたはまぎれもなく人間、岡部倫太郎よ。心配いらない」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「だいたい、紅莉栖の作り出したっていうそのタイムリープマシンだって、記憶を一度データ化して還元するものなんでしょう?」
真帆
「だったら、今さら思い悩むだけ無駄だと思わない?」
それは、未来のダルにも言われた事だ。
けれど不思議な事に、彼女の口から言われると、ずっとわだかまっていた心のつかえが、すっと降りたような気がした。
真帆
「……こういう時、紅莉栖ならもっと的確な事を言えたのかもしれないけど……」
倫太郎
「いや……そんな事ないよ。じゅうぶんだ……」
真帆は脳科学者としての見地から、俺が俺であるという保証を与えてくれた。
その言葉には、まるであの頃の――俺の背中を押してくれた紅莉栖のような力強さがあった。
以前、真帆が投げかけた言葉――。
真帆
「あなたは天才で、所詮私はサリエリだったってことよ」
あれは、かがりの中にある紅莉栖の記憶に対する言葉だった。
けれど――。
倫太郎
「比屋定さん。君はサリエリなんかじゃない」
真帆
「え?」
倫太郎
「立派なアマデウスだ」
真帆
「…………」
そうだ。
今、俺はここにいる。
あの冷たく暗いデータの海じゃなく、生きてこの時代のこの世界にいる。
この時間の中にいる。
暗闇の真ん中に明かりが灯る。
冷たく沈んでいた心が、温度を取り戻していく。
けれど――。
倫太郎
「…………」
紅莉栖は――あいつは今もまだあの世界にいる。
心の底までもが凍てついてしまいそうな、あの無機質な世界に。
死してなお、記憶だけが生かされている。
そして、その生きている記憶を巡って様々な陰謀が渦を巻いている。
紅莉栖の苦痛は――肉体を失ってもまだなお続いている。
いや、紅莉栖だけじゃない。
かがりも、鈴羽も。
そして未来のまゆりもフェイリスもルカ子もダルも。
皆が苦痛と苦悩の中で過酷な運命に抗い、それでも前に進もうとしている。
俺はまゆりが生きていけるのなら、それでいいと思っていた。
たとえこの先に、第三次世界大戦が起ころうとも、世界がどんな形になろうとも、まゆりが元気に生きていけるのなら、それで充分だと思っていた。
思おうとしていた。
その世界がどれだけ血と涙の海の中にあろうとも、今が良ければそれでいいと。
わかっていたつもりだった。
鈴羽の語る悲惨な未来も状況も、過酷な日々も。
ダルや鈴羽の闘いの日々も。
すべてわかっていたつもりだった。
平然と銃を撃ち、その手を血に染める鈴羽。
痩せこけ、色を失ったまゆりやフェイリス。
動かなくなったルカ子。
ただ世界に翻弄されるだけの、かがりたち。
実際にこの目で見てこの手で触れて、ようやく理解した。
俺はわかったふりをして、逃げていただけだと。
どうせ俺は2025年に死んでしまうのだから――そう目を背けていただけだと。
2025年――。
俺は死んではいなかった。
死んだ事になっていただけだ。
誰もが騙されていた。
そう、騙されていたんだ。
過去の俺も。
未来の皆も。
世界は――騙されていた。
確定していると思われていた未来。
そこには違う形の未来が待っていた。

「『シュタインズゲート世界線への道は険しい。一度や二度、やり直したところで、辿りつける道ではないだろう』」

「『けれど、まずはそこから始めることが、
運命石の扉
シュタインズゲート
へと繋がるんじゃないか――11年前、オカリンはそう言ってた』」

「『だからさ、僕たちがいるこの世界も無駄じゃない。きっと必要な世界なんだ。少なくとも今の僕はそう思ってる』」
14年後の俺が何をもってそう思うに至ったのか、今の俺にはまだわからない。
だがひとつ言えるのは、その頃の俺がいずれこういう日が来るだろうと予想していた事だ。
それならば――その言葉に従ってみるのもいいだろう。
あの2036年が必要な未来だというのなら、電脳の世界から“紅莉栖”を解放した世界も、また必要な未来であるはずだ。
いかに道は険しくとも、まずは一歩踏み出す事。
今の俺に必要なのは、その一歩だ。
倫太郎
「比屋定さん」
真帆
「なに?」
倫太郎
「アメリカに帰る前に、もう少し付き合ってもらえるか?」
真帆
「……そうね。条件がふたつあるわ」
倫太郎
「条件……?」
真帆
「ひとつは、このタイムマシンを調べさせて欲しいって事」
倫太郎
「……もうひとつは?」
真帆
「あなたの事、オカリンさん、って呼ばせてもらう。あなたは私を、真帆って呼びなさい」
倫太郎
「…………」
真帆
「悪くない条件だと思うけど?」
そう言った真帆の顔には、今まで見た事もないほど無邪気な笑みが浮かんでいた。
倫太郎
「……わかった、真帆」
真帆
「よろしく、オカリンさん」
俺の手を握る小さな手のひらからは、確かな温もりが伝わってきた。
フェイリス
「どうしたんだニャ、オカリン。一度帰った後に、わざわざ呼び出すニャんて」

「そうだよ。僕なんて、それほど近いわけじゃないんだからさ。話があるなら、帰る前に言って欲しかったのだぜ」
既に帰宅しかけていたところを呼び戻されたラボメン達は、口々に言いたてた。
まゆり
「それで、お話ってなにかな、オカリン?」
るか
「RINEや電話じゃダメなお話ですか?」
倫太郎
「ああ。その前に鈴羽」
鈴羽
「なに?」
倫太郎
「ひとつ訊きたい。お前は俺のことをどう思っている?」
鈴羽
「どう……とは?」

「ちょっ、オカリン……まさか!」

「い、いくらオカリンでも、鈴羽はあげらんないよ! お父さんは認めません! ダメ、絶対!」
すっかり勘違いしているらしいダルは放っておいて、俺は鈴羽に向き合った。
倫太郎
「お前はこの半年、俺の事を見ていたはずだ。その上で、心の中ではどう思っていた? 率直な言葉を聞かせて欲しい……」
鈴羽
「言っていいのか?」
倫太郎
「ああ……」
鈴羽
「……正直言うと、腹が立ってしょうがなかった」
本当に率直な言葉だったので、俺は苦笑した。
鈴羽
「あたしや父さんやまゆねえさんだけじゃない。ルミねえさんもるかにいさんもかがりも……」
鈴羽
「未来の世界では、みんなみんな辛い思いをしている。明日は生きているかどうかもわからない。母さんみたいに無残に殺されてしまうかもしれない」
鈴羽
「そんな世界で必死になって生きてるんだ」
鈴羽
「それなのに、弱音ばかり吐いて自分ばかりが辛いような事を言って……」
一度口火を開くと、鈴羽の言葉は絶え間なく流れ出た。
俺の煮え切らない態度に、それだけずっと鬱憤を抱え込んできたのだろう。
鈴羽
「もちろん、オカリンおじさんが、辛い経験をしてきた事は知ってる。何度も何度も苦しい目に遭って、それで立ち上がれなくなったことだって知ってる」
鈴羽
「それでも、あたしたちにはオカリンおじさんしか頼れる人がいないんだ……」
鈴羽は俯き加減に拳を握りしめ、歯噛みをした。
鈴羽
「あたしや父さんに代わりが務まるのなら、どんな事でもやる! どんな辛い思いをしようが、どんな苦しみが待ち構えていようが、それでもなんだってやる!」

「鈴羽……」
鈴羽
「だけど、あたしたちじゃどうしようも出来ないから……オカリンおじさんじゃなければどうにも出来ないから……」
不意に上げられた顔には、これまで抑え込まれていた複雑な思いが湛えられていた。
鈴羽
「それなのにおじさんときたら、無理だとか出来ないとか、勘弁してくれとか、そんな弱音ばかりで、話を聞いてくれようとさえしない!」
鈴羽
「父さんの手前だから言わなかったけど、あたしはそんなおじさんの態度にずっと腹が立ってた!」
鈴羽
「本当に、ブン殴ってやりたいくらいだったよ!」
倫太郎
「……ふっ」
本人を前にここまで言えるなら、いっそ清々しい。

「す、鈴羽……なにもそこまで言わんでも」
フェイリス
「そうだニャ。オカリンだって、わかってるんだニャ」
そう、わかっていた。
わかっていたんだ。どうにかしなきゃいけない事くらい。
倫太郎
「だったら……そうしてもらおうか」
鈴羽
「……そうする、とは?」
倫太郎
「殴りたかったんだろう? だったら、殴ってみればいい?」
鈴羽
「え……でも……」
倫太郎
「遠慮はいらない」
鈴羽
「…………」
まゆり
「す、スズさん。やめて……オカリンは……」
倫太郎
「いいんだ、まゆり」
これは俺なりのケジメだ。
鈴羽への。
未来の世界への。
そして自分への。
かがり
「オカリンさん……」

「も、もしかして……そういう性癖? だったら止めんけど……」
鈴羽
「ホントにいいんだな?」
鈴羽が一歩、俺に詰め寄ってくる。
倫太郎
「ああ……」
覚悟は出来ている。
鈴羽
「じゃあ……本気で行く」
倫太郎
「え? あ、いや、待て……少しは手加減を――」
鈴羽
「せいっ!!!」
倫太郎
「はぐぼぁっ――!!」
思いっきり振りかぶってのグーパンに、吹っ飛ばされた。
鈴羽
「あ、悪かった。少し力が入り過ぎた……」
真帆
「いま、すごい音したわよ?」
まゆり
「だ、大丈夫、オカリン!?」
まゆりたちが、慌てた様子で俺の顔をのぞき込んでくる。
確かに、今のはかなり痛かった。
脳に、リーディング・シュタイナーやタイムリープをした時以上のダメージがあるかもしれない。
だが――。
倫太郎
「フッ……」
るか
「岡部、さん……?」
おかげで目が覚めた。
倫太郎
「フフフ――」
俺は、今の俺に出来る事をやればいい。
倫太郎
「ククククク――――」

「オカ……リン……?」
倫太郎
「フゥーハハハハハ!!!!」
フェイリス
「も、もしかして……凶真……?」
まゆり
「オカリン……」
倫太郎
「違うぞ、まゆり……」
倫太郎
「鳳凰院……凶真だ……」
るか
「凶真さんっ!」
倫太郎
「そうだ! 我が名は鳳凰院凶真っ!!!!」
倫太郎
「ラボメンナンバー001、このラボの創設者にして混沌を望み、世界の支配構造を覆すマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真だっ!!!!」
倫太郎
「ルカ子っ!!」
るか
「は、はいっ!!」
倫太郎
「白衣を持て!」
るか
「は、はいっ! おか……凶真さんっ!!」
フェイリス
「凶真が……凶真が復活したニャ!!」
鈴羽
「と、父さん……これは?」

「やったな鈴羽。ようやくオカリンがやる気になったのだぜ」
るか
「凶真さん、どうぞ」
倫太郎
「うむ」
久々に袖を通した白衣は、長らく開発室の棚に眠っていたため、ほんの少し


えたような臭いがした。
倫太郎
「そう、これだ! これこそが我が聖なる白銀の

よろい
! 今この時、鳳凰院凶真は復活した! 長い眠りから甦ったのだ! フゥーハハハハハハ!!!!」
真帆
「…………」
かがり
「…………」
俺の豹変っぷりに、鳳凰院凶真初体験のかがりと真帆は呆然としていた。
真帆
「……な、なんなの? 殴られたショックでおかしくなったの!?」
かがり
「思い……出した……」
真帆
「え?」
かがり
「鳳凰院凶真……ママがいつも言ってた名前……」
かがり
「いつかきっと、鳳凰院凶真が復活して……私たちの未来を照らしてくれるって……」
真帆
「……いや、ちょっとついていけないんですけど」
倫太郎
「おい、そこのロリっ子!」
真帆
「……ん?」
倫太郎
「お前だ、お前」
真帆
「ちょっ! もしかして私の事を言ってるんじゃないでしょうね!?」
倫太郎
「この場にロリっ子といえば、お前しかいないだろう」
真帆
「誰がロリっ子よ、誰が!!」
倫太郎
「貴様にはラボメンナンバー009の栄誉を与える! 以後、この鳳凰院凶真の手足となり、俺たちのオペレーションに参加するがいい!」
真帆
「なんで私があなたの手足にならなきゃいけないのよ。それにそのラボメンナンバーってなに!?」
倫太郎
「名前の通り、このラボの正式メンバーに選ばれた証だ。光栄に思うがいい」
真帆
「光栄にって……」
倫太郎
「それから、椎名かがり!」
かがり
「ふえっ!?」
倫太郎
「貴様も、ラボメンナンバー010だ。わかったな?」
かがり
「は、はいっ!!」
フェイリス
「ちょっと、凶真! フェイリスたちはラボメンにはしてくれないのかニャ!?」
倫太郎
「ん……?」
フェイリスとルカ子が訴えかけるような目で見ていた。
そういえば、ふたりをラボメン認定したのは、α世界線であって、この世界線じゃなかったな。
倫太郎
「言っていなかったが、もちろんお前たちは既にラボメンだ!」
倫太郎
「ルカ子は006、フェイリスは007、そして鈴羽は008! いいな!」
るか
「は、はいっ!」
フェイリス
「やったニャ!」
鈴羽
「……よくわからないけど、了解した」

「なあ、オカリン、それおかしくね? それじゃあ、004と005が不在じゃん」
倫太郎
「そのふたつには先約があるんでな……」
紅莉栖と萌郁――。
萌郁をラボメンとして残すには、正直言ってまだ抵抗はある。
だがいつか、それすらも認めた世界に辿りつくために、俺はあえて過去に向かい合おう。
そう決めたのだから。
倫太郎
「では全員が揃ったところで、改めて宣言する!」
倫太郎
「本日、2011年、1月31日をもって、新たなるオペレーションを発動する!!」
倫太郎
「目的は、予定された未来の粉砕! 世界の未来そのものを覆す事! それが俺たちの目的だっ! いいな!!」
倫太郎
「俺だ……」
倫太郎
「これより俺たちは新たなるオペレーションを実行に移す」
倫太郎
「未来の俺は言った。いくつもの未来のその先に
運命石の扉
シュタインズゲート
は待っていると」
倫太郎
「これから導く未来がたとえ茨の道だとしても、きっと無駄なものではないはずだ」
倫太郎
「わかっている。俺たちの目指す扉――そこに辿り着くには、途方もない時間がかかるだろう」
倫太郎
「いかなる機関が俺たちを阻止せんと立ちふさがるかもしれない」
倫太郎
「それでも俺は、何度だってやり直してやるさ」
倫太郎
「健闘を祈ってくれ……エル・プサイ・コングルゥ」
真帆
「…………」
鈴羽
「…………」
かがり
「…………」
今や懐かしくなってしまった電話のやりとりを終えると、真帆たちの視線に気づいた。
そんな目で見ないでくれ。
俺だって恥ずかしいんだ。
真帆
「何……それ……?」
倫太郎
「これは……いわば、そう! 儀式のようなものだ!」
真帆
「儀式……ねぇ……」
そう、儀式だ。
ともすれば、再び臆病風に吹かれてしまいそうになる自分自身を奮い立たせるための儀式。
真帆
「まさか、オカリンさん。あなた、紅莉栖相手にもそんな態度だったんじゃないでしょうね」
倫太郎
「う……お、岡部ではない。凶真だ!」
真帆
「ふざけているの?」

「真帆たん。あんま突っ込むのやめたげて。オカリンもまだ模索してる最中だから」
真帆
「はあ……」
かがり
「そっかぁ、これが鳳凰院凶真さんなんだねぇ」
まゆり
「そうだよ~。狂喜のまっどさいえんてぃすとさんなのです」
フェイリス


いにしえ

錬金術師
アルケミスト

の生まれ変わりでもあるのニャ」
るか
「清心斬魔流の師範でもあるんですよ」
かがり
「へ~、すごーい!」
鈴羽
「ダメだ、父さん。あたし、ついていけない」
頼むから、そんな物珍しそうな目で見ないでくれ。
心が折れそうだ……。
真帆
「それで、具体的にはどうするつもりなの?」
倫太郎
「ごほんっ」
倫太郎
「まず最初に言っておくが、俺たちが最終的に目指すのは、第三次世界大戦の起こらない未来だ」
さっきも自分に言い聞かせたばかりだが、すぐに俺たちの求める世界線――シュタインズゲート世界線に行けるとは思ってはいない。
あの夏の日、一歩一歩積み重ねてこのβ世界線に辿り着いたように、そこに到達するまでには、数多の過去と、そして未来を辿って行かなければならないはずだ。
そのために今、俺がなすべき事。それはこの世界線の未来を正す事だ。
紅莉栖という大きな存在を失った世界。
その世界の先に待っている未来。
その未来が、あれほどまでに大きな悲しみや苦痛と共にあるなどという事は許されない。
俺は認めない。
すべてはそこから始めなければならない。
たとえこの後、今から進むこの未来がなかった事になるとしても、だ。
それがこの世界を選んだ俺の責任でもある。
倫太郎
「このβ世界線においても、俺が何度か世界線の変動を経験してきた事は説明したな」
倫太郎
「まずはその原因を取り除かなければならない」
フェイリス
「原因って、なんなのニャ?」
倫太郎
「牧瀬紅莉栖のノートPCとハードディスク。そして『Amadeus』に残る“紅莉栖の記憶”」
タイムマシンに関する論文が残されたハードディスクと、それにまつわる記憶。
これまでに何度か起きた世界線の変動。
ストラトフォーをはじめ、おそらく複数にわたる組織や機関がそれらを奪い合った事で、あれらの世界線変動は起きたと考えていいだろう。
倫太郎
「故に、紅莉栖のノートPCとハードディスクの破棄、並びに紅莉栖の記憶のデータを消去する事。これが今回のオペレーションの最終目的となる」
真帆
「紅莉栖のデータを消去……!? そんな……!」
真帆
「……本気なの?」
倫太郎
「ああ」
真帆
「でも……あの記憶は、紅莉栖が生きていた証なのよ?」
真帆
「あの子がこの世界で、私たちと同じ時間を過ごしたっていう証拠なのよ?」
真帆
「私は……消去なんて、してほしくない……」
真帆の気持ちはわかる。
俺だって、つい先日までならそう考えていただろう。
倫太郎
「だったら、君は紅莉栖の記憶が悪用されてもいいというのか?」
真帆
「それは……」
倫太郎
「俺たちのいるこの世界線に至るまでの、いくつかの過去において、あいつの記憶は争いの種になってきた」
倫太郎
「それに多くの人間が巻き込まれている」
倫太郎
「そこにいる、かがりだってそうだ」
かがり
「…………」
今に至る失われた数年の間に、かがりの身に何があったのか――おそらく、そこに関しては、前の世界線と変わっていないのではないだろうか。
であるならば、それもすべては紅莉栖の記憶という
パンドラの箱

があるからこそ起きた悲劇だ。
倫太郎
「それに俺は、一度データの中の世界を経験して知った。あの世界の冷たさをな――」
そう、俺は知ってしまったんだ。
暗く冷たい、あの闇の世界を。
過去も今も未来もない、ただぴったりと閉じられた、

はこ
の中の世界を。
倫太郎
「それほどまでに昏く冷たい世界に、ずっと紅莉栖を閉じこめておいて、君は平気なのか?」
真帆
「…………」
倫太郎
「それに、あいつが生きていたという証は、俺たち自身の
ここ
①①
にある」
俺は自分の頭を指差した。
倫太郎
「俺たちが覚えている事。そしてその上で、第三次世界大戦の起きない平穏な世界へと導く事」
倫太郎
「それこそが、あいつが生きていた証拠になるんじゃないのか?」
黙りこんでしまった真帆に、全員の視線が集まる。
真帆
「……陳腐な台詞ね。それこそ、紅莉栖が聞いていたら笑われるわよ」
倫太郎
「だろうな」
真帆
「だけど、陳腐だと思える事にほど、真実はあるのかもしれないわね」
真帆は険しく歪めていた表情を一転、微笑みに変えた。
真帆
「あなたに従うわ」
倫太郎
「……ありがとう」
倫太郎
「ダル、紅莉栖のPCとハードディスクはお前が持っているんだよな?」

「うん。真帆たんから預かって、簡単には見つからんところに隠してる」
倫太郎
「それは『Amadeus』の件が終わったらすぐに破棄してくれ」

「……ホントにいいん?」
真帆の顔を呎うと、彼女は今度こそはっきりと頷いた。
真帆
「ええ。でも、それは私にやらせて」

「おk」
今問題なのは、『Amadeus』の方だ。
倫太郎
「真帆、『Amadeus』のあるサーバーにアクセス出来るか?」
真帆
「ええ、出来るはずよ。橋田さん、ちょっとPCを借してもらえる?」

「え? あ、ちょい待ち」
ダルは片手で真帆を制し、キーボードに向かって何やら打ち込み始めた。
フェイリス
「なにをしてるんだニャ、ダルニャン?」

「一応
IP

がバレないよう、厳重に細工を……おk。どうぞ」
真帆
「…………」
ダルと入れ替わりでPCに向かった真帆が、真剣な顔でキーボードに文字を打ち込み、マウスをクリックする。
真帆
「……え?」
真帆
「おかしいわ……アクセス出来ない……」
倫太郎
「どういう事だ?」

「パスワードが間違ってるってことは?」
真帆
「そんなミスするわけないでしょう。今まで何度も入力してきたんだから」
真帆は何度もパスワードを入力し直してみたが、それでも結局サーバーにはアクセス出来なかった。
真帆
「くっ――私のアクセス権限自体が停止されちゃってるみたい」
真帆
「どういう事なの、これ。ちょっと教授に電話してみる」
真帆はスマホを取り出して、レスキネン教授宛てに電話をかけた。
真帆
「…………」
だがしばらくの後、真帆は困惑した様子で、耳に当てていたスマホを下ろした。
真帆
「ダメ、繋がらない」
試しにレイエス教授にも電話してみたようだが、そちらもやはり連絡がつかなかった。
真帆
「もう! どうなってるのよ、これ!」
倫太郎
「やはり、そう簡単にはいかないか……」
真帆のアクセス権限が失われたという事は、既に何者かが何らかの動きに出ていると考えた方がよさそうだ。
倫太郎
「別のアプローチ方法を探ってみよう」
倫太郎
「ヴィクトルコンドリア大学のサーバーにハッキング出来るか?」

「おk。ちょっとやってみる」
真帆
「簡単に言ってるけど、うちの研究所のセキュリティ、結構厳しいわよ」
倫太郎
「大丈夫だ。なんたってダルはスーパーハカーだからな」

「それを言うなら、スーパーハッカーな」
これでも、あのSERNへのハッキングを僅か20時間でやり遂げた男なんだ。俺はダルに絶対の信頼を寄せていた。
ダルと真帆はいよいよ真剣に画面に向かい、何やら話している。
ハッキングの効率を上げるために、詳しい情報を得ているのだろう。
その間に俺は俺に出来る事をやっておかねばならない。
俺は開発室の奥へ向かうと、今朝仕入れたばかりの箱を開けた。
まゆりが後ろから箱の中をのぞき込んでくる。
まゆり
「わぁ、電子レンジちゃんだ~」
倫太郎
「からあげは解凍しないからな」
まゆり
「残念……。みんながお腹空いたら、ジューシーからあげナンバーワンを振る舞ってあげようと思ったのに……」
まずは電話レンジ(仮)の再現をしなければならない。
その後で、真帆にタイムリープマシンの製作を手伝ってもらう。
未来から戻って来る際に、その構造と仕組みはすべて頭に叩きつけてあったから、さほど時間はかからないはずだ。
真帆
「橋田さん……貴方、すごいわ……」
PCの前の真帆から、そんな感嘆の声が聞こえたのは、30分ほどが経った頃だった。
倫太郎
「やったのか?」

「僕にかかればこれくらい朝飯前だぜ」
倫太郎
「スーパーハッカーの名は、伊達じゃないな」
倫太郎
「じゃあ早速、『Amadeus』のデータを探してくれ」
真帆
「待って、今開いて……」
マウスのクリックが響く中、固唾を飲んで画面を覗き込む。
真帆
「……っ」
真帆
「ない……」
真帆
「『Amadeus』も紅莉栖の記憶データも、あったはずのフォルダからなくなってるわ……」
倫太郎
「既に持ち出された、という事か……?」
倫太郎
(待てよ……?)
俺は自分のスマホを取り出すと、ロックを解除してホーム画面を呼び出した。
そこには、『Amadeus』のアイコンが残っていた。
倫太郎
「なあ……このアプリから、『Amadeus』にアクセスできると思うか?」
真帆
「……!」
真帆が俺のスマホ画面をのぞき込んでくる。
真帆
「どうかしら……。『Amadeus』のデータそのものがサーバーに残ってないなら、さすがに無理なんじゃ……」
真帆
「試してみて」
倫太郎
「…………」
真帆
「どうしたの?」
倫太郎
「いざ繋がった時の事を考えるとな……。慎重に行かないと」
真帆
「そうね……。誰かに見られているかもしれない」

「ん?」
倫太郎
「どうした、ダル?」

「ここ……更に鍵がかけられてるフォルダがある……」
真帆
「どれ?」
真帆が身を乗り出し、モニタを凝視した。
真帆
「変ね。こんなフォルダ……今までなかったわ……」

「かなり厳重なセキュリティがかかってるっぽい。さっきのとは比にならんくらい」
真帆
「『Amadeus』はそっちに移されたのかしら」
真帆
「でもいったい誰が? そんな権限を持っているのは、レスキネン教授ぐらいよ」
倫太郎
「レスキネン教授には、裏の顔があったか、あるいは、教授の身に何かあったか……」
どちらも考えたくない事だな。
倫太郎
「ダル。そのフォルダはいったん保留だ」
倫太郎
「次は、ストラトフォーのサーバーにハックを仕掛けてくれ」

「え? ストラトフォーって、あの? なんでストラトフォー?」
倫太郎
「おそらく、今回の騒動の一端を担っているはずだ。以前ハックした事があるから、簡単だろう?」

「つーかオカリン、なんでそんなことまで知ってんの? エスパーかよ」
倫太郎
「俺を誰だと思っている。狂気のマッドサイエンティストはすべてお見通しだ」
ちょっと待ってて――と言いながら、ダルは更にPCに何やら打ち込んでいた。

「ストラトフォーのサーバーは……っと」
さすがに、一度ハックしていただけはある。
こんどは大学にアクセスするよりも、ずっと短い時間でハッキングは成功した。

「その『Amadeus』っつーシステムのデータを探せばいいんだよね?」
真帆
「ちょっと待って!」
真帆が再び小さな身体を乗り出して、ダルからマウスを奪い取り、アイコンをクリックした。
何らかの文書のようなものが画面に表示される。
真帆
「これ、レポートだわ……」
次々にファイルを開いていくが、当然英語で書かれているため、俺たちには理解出来ない。
真帆
「これは……」
倫太郎
「いったい、なんのレポートなんだ?」
真帆
「……実験よ。ストラトフォーが行っていた人体実験」
倫太郎
「人体……実験……」
真帆
「どうやら、ストラトフォーは記憶の移植実験を行っていたみたいね」
真帆
「誰かの記憶データを別人に移し定着させる実験をいくつも行っているわ」
記憶のデータを他人に移植する実験。
それは――。
真帆
「最初こそ、動物を使っていたようだけど、最終的には生身の人間で行われてる……」
真帆
「被験者には身寄りのない人を利用したみたい。大人から子どもまで、人種も様々……」
真帆
「…………」
そこまで言って、真帆は再びレポートに目を落とした。
倫太郎
「どうした? まだ何かあるのか?」
真帆
「どうやら彼ら、記憶移植に関する新しい実験に着手しようとしてるみたい……」
実験の目的は、タイムマシンに関連していると考えて間違いない。
連中はタイムマシンに関する情報を得るために、紅莉栖の記憶のブラックボックスをこじ開けようとしている。
『Amadeus』からパスワードを引き出して、ノートPCとハードディスクを手に入れなくても、記憶を直接こじあけタイムマシンに関する記憶を完全に取り出す事が出来さえすれば、すべては手に入るのだから。
要は前の世界線でかがりがやられていた事と同じ――いや、更に進んだ形なのかもしれない。
倫太郎
「とにかく今は、紅莉栖の記憶データを探すのが先決だ。ダル、データは有りそうか?」

「んー……」
真帆からマウスを返してもらったダルが、渋い顔を見せた。

「いや……ないね。それらしいもんは見当たらない……」
倫太郎
「…………」
どういう事だ?
ストラトフォーはヴィクトルコンドリア大学から『Amadeus』のデータを奪ったわけじゃないのか?

「一番怪しいのは、やっぱ大学のサーバーじゃね。あのプロテクトがかかってたとこ」
という事は……連中はデータを奪う事なしに、事を起こそうとしている?
俺たちと同じようにハッキングしたのか、それとも……。

「どうする?」
倫太郎
「……真帆を信じよう。ダル、侵入出来るか?」

「出来るけど、これはちょっと骨が折れると思われ……」
倫太郎
「どれくらいかかりそうだ?」

「わからんけど、下手したら、まるっと半日以上はかかるかも……」
ダルがそう言うくらいだ。余程厳重なプロテクトがかけられているんだろう。

「しかも、途中でハッキングかけてるのがバレたら全部おじゃん」
倫太郎
「…………」
紅莉栖の記憶データを消去するためには、ハッキングは必要条件だ。
ダルがハッキングを終えるまで、ストラトフォーの注意を他にむけなければならない。
問題はどうやって注意を引くか、だが……。
倫太郎
「『Amadeus』と通信している最中は、こっちの位置情報はどうなるんだ?」
真帆
「全部把握されるわ。当然、『Amadeus』のプログラムを持っている連中にもね」
やっぱりか。
真帆
「問題は『Amadeus』に繋がるかどうか……」
まずはこのアプリがまだ生きているかどうかを試してみよう。
もし繋がるなら……俺は、ひとつのアイデアを思いついた。
倫太郎
「真帆。ひとつ、無茶な頼みをしていいか?」
オペレーション発動から丸一日近くが経過した。
ダルによるフォルダのロック解除は、いまだ成功していない。
幸いな事に、今のところはまだ連中に感づかれていないようだが、だからと言って安心してはいられない。
ダルに任せている間に、俺の方は今出来る事をやり終え、後は真帆にバトンタッチしていた。
俺が行動を起こした事で、未来は既に変わっているのかもしれないが、それでもやるべき事はやっておかねばならなかった。
鈴羽
「…………」
鈴羽は先ほどから険しい顔で腕を組んでいる。
一見落ち着いているようにも見えるが、人差し指がせわしなくリズムを刻んでいる。
鈴羽
「おじさん。あたしたちに出来る事はないの?」
ようやく第三次世界大戦を回避すべく動き始めたというのに、何も出来ない自分に苛立ちさえ覚えているのだ。
一刻も早くなんとかしなければならないと思うのに、今はただ待つ事しか出来ない。
もどかしさと焦り。
だがそれは、この場にいる誰もが感じている事だろう。
倫太郎
「もう少しだ……ダルも真帆も頑張ってくれている……」
真帆に頼んだものさえ完成すれば、俺たちにも出来る事はある。
フェイリス
「フェイリス、甘いものとか買ってくるニャ。疲れた時には甘いものが一番ニャ」
るか
「あ、それじゃあボクも――」
ふたりがソファから立ち上がりかけるのとほぼ同じタイミングで、開発室のカーテンが開かれた。
真帆
「…………」
全員の視線が一斉に集まり、真帆はわずかにひるんだ素振りを見せたが、すぐにその顔に笑みを浮かべ、思い直したように仏頂面を作った。
真帆
「まったく、大変な事をいっぺんに頼まないでよね」
倫太郎
「すまん……それで……終わったのか?」
真帆
「言われた事は一応、ね」
奥の電子レンジには、半年前に見たものとは違うヘッドセットが取り付けられている。
俺の記憶のバックアップを取った時のものを流用したのだ。
おかげで、これほどの短時間で済んだようだ。
タイムリープマシン。
完成したか……。
これで、もし未来の俺がタイムリープして来ても、48時間前までには戻れる。
真帆
「それからこっちも」
真帆は、2台のスマホを差し出してきた。
それこそ、この先の戦いで秘策となるガジェットだ。
真帆に追加で開発してもらったのだ。
簡単なAIを使って、相手の目を欺くための疑似応答アプリ、みたいなものだった。
倫太郎
「さすがだな。こんな短時間にAIを作るなんて」
真帆
「自分で頼んでおいて、よく言うわ」
真帆の顔には疲労の色がにじみ出ていた。
真帆
「『Amadeus』で使っている音声ソフトがあったから、流用して開発期間を短縮したの」
真帆
「それにこれは、AIなんて大層な代物じゃない」
真帆
「こんなもので誤魔化せるのかしら? 相手は“紅莉栖”なのよ?」
倫太郎
「少しの時間だけでも騙せればそれでいいんだ。ダルのハッキングから、連中の目を逸らせれば、それでいい」
目的はあくまでも、ストラトフォーの
攪乱
かくらん
だ。
長時間の会話は不要なんだ。
むしろほんの短い時間だけ起動して、すぐに通話を切るような使い方になる。
さて、いよいよ本題はここからだ。
だが、その前に――。
倫太郎
「…………」
既に打ち込んであった文章をRINEで桐生萌郁へと送信した。
それを送り終えてから、この場にいる全員に向き直る。
倫太郎
「では、作戦の概要を説明する」
鈴羽、まゆり、フェイリス、ルカ子。
4人に、真帆から受け取ったばかりの2台のスマホを差し出した。
倫太郎
「4人には2人一組になってもらう」
倫太郎
「そうしたらこのスマホを持って、都内を動き回ってくれ」
倫太郎
「ペア同士は出来るだけ離れた方がいいな。片方の組は中央線沿線。もう片方は山手線沿線という事にしよう」
倫太郎
「お互いに連絡を取り合いつつ、スマホにインストールされている『Amadeus』というアプリを立ち上げてくれ」
ダルがハッキングを仕掛けている間に、俺はあえて一度秋葉原を離れ、東京駅から『Amadeus』にアクセスしてみた。
そうしたら、繋がったのだ。
“紅莉栖”が応答した。
一瞬で切ったが、間違いない。
このアプリは生きている。
それを利用した作戦だ。
まゆり
「立ち上げて、どうするの~?」
倫太郎
「『Amadeus』は牧瀬紅莉栖という人物の記憶を元に作られた人工知能だ」
倫太郎
「俺たちは、今からそいつを騙す」
そう。俺がやろうとしているのは“紅莉栖”を騙す事だ。
『Amadeus』と接触を持つ事で、相手にはこちらの位置情報を握られてしまう。
それを逆手に取るのが、俺の立てた作戦だった。
倫太郎
「『Amadeus』を立ち上げると同時に、もうひとつのプログラムが起動する」
フェイリス
「もうひとつのプログラムってなんだニャ?」
真帆
「そこのSってマークのあるアイコンをタップしてみてもらえる?」
フェイリス
「えっと……これかニャ?」
フェイリスがスマホをタップすると。
倫太郎?
「“もしもし、俺だ”」
まゆり
「わ、オカリンの声だ」
倫太郎
「話しかけてみてくれ」
フェイリス
「今日はどうしたんだニャ?」
倫太郎?
「“特に用はないんだ。少し話がしたくなってな”」
るか
「すごい。自動的に答えてくれるんですね……」
俺が真帆に作ってくれるように頼んだのは、会話の中の単語や文章を拾って、決まったパターンの会話の中から自動で返答してくれる装置――言うなれば人工無能だった。
真帆
「オカリンさんと私の
人工無能
ボット
――名づけて『
Salieri
サリエリ
』よ」
有名な映画のせいか、サリエリという人物はどうにも劣等感に満ちた、一段劣った人物と思われがちだが、実際はかなりの傑物だったらしい。
さすがにこの扱いは本物のサリエリに申し訳ない気がしたが、今はそんな事に拘っている場合じゃない。
倫太郎
「『Amadeus』を起動すると、俺たちのbotが自動で返事をしてくれるようになっている」
るか
「つまり……相手に、今喋っているのは岡部さんだって思わせるということですか?」
倫太郎
「そういう事だ」
そうすると、『Amadeus』は俺がその場所にいると思い込むだろう。
本来ならもっとたくさんの端末を用意したいところだが、『Amadeus』には端末認証が必要なため、アクセス出来る端末は限られている。
俺と真帆のもの、2台しか用意出来なかったが、短い時間だけなら、これでじゅうぶんだろう。
もちろん、真帆のスマホには真帆の『Salieri』がインストールされている。
それに加え、俺はさっき萌郁に宛ててRINEを送った。
あの時点で、紅莉栖のPCとハードディスクを俺と真帆が所有しているという情報を流してもらう手筈になっていた。
記憶実験を行おうとしているとはいえ、他の機関にPCとハードディスクを手に入れられるわけにはいかない。
遅かれ早かれその情報を入手した連中は、俺を躍起になって捜すはずだ。
『Amadeus』は奴らの手中にある。
『Amadeus』が得た位置情報から俺がそこにいると思いこんだ奴等は、必ず俺たちを捜しに行く。
だが実際には、俺たちはそこにはいない。
それどころか、今度はまったく別の場所で俺たちからの連絡が入り、そこへ向かう……。
そうやって翻弄する事で、連中の目をサーバーのハッキングから逸らそうという作戦だ。
倫太郎
「以上が今回の任務となる」
全員が頷く。
倫太郎
「くれぐれも言っておくが、『Amadeus』との長時間の接触は厳禁だ」
倫太郎
「それから、『Amadeus』を切った後は、すぐにその場を移動する事。何かあったら、すぐに連絡を寄こす事」
倫太郎
「これだけは絶対に守ってくれ。わかったな?」
かがり
「あの……私はどうすればいいのかな?」
俺たちの話を聞いていたかがりが、おずおずと手を挙げた。
倫太郎
「君は連中に顔も知られている。ここから動かないほうがいい」
かがり
「でも、私だって何か役に立ちたいよ。ママやみんなが頑張ってるなかで、ひとり何も出来ないでいるなんて、そんなの嫌だよ」
困ったな……。
かがり
「お願い、オカリンさん。私にも手伝わさせて」
かがりの気持ちは分からなくはない。
それでも、やはり危険な目に遭わせるわけにはいかない。
倫太郎
「すまないが……」
かがり
「…………」
まゆり
「かがりちゃん。まゆしぃがかがりちゃんの分まで頑張るよ。だから、オカリンの言うとおりにして、ね?」
かがり
「ママ……」
かがり
「わかった。ママがそう言うなら……」
どうやら納得してくれたらしい。
鈴羽
「おじさん。かがりには、全てが終わるまでどこかに隠れさせておくべきじゃないか?」
倫太郎
「そうだな。だが、どこに?」
隠れるとすれば、ルカ子の家か、あるいはフェイリスの家か……。

「なんなら僕の隠れ家にでもいく?」
倫太郎
「隠れ家? お前、そんなもの持ってるのか?」

「バイト用にいくつかあるんよ。そこで良ければどぞ」
倫太郎
「よし、決まりだ。かがりもそれでいいか?」
かがり
「……うん、わかった」
問題はかがりをひとりにするわけにはいかない事だが……。
女性の声
「あの、私にも何かやらせてもらえませんか?」
倫太郎
「え……?」
玄関からの突然の声に振り返ると、いつの間に来ていたのか、由季が立っていた。
鈴羽
「由季、さん……」
由季
「橋田さんからここの鍵、預かっていたので……」
申し訳なさそうに手の中の鍵を見せる。
由季
「その……昨夜、橋田さんに連絡したら、なんだか大変そうだったから、差し入れをと思って持ってきたんだけど……」
由季は鍵をしまうと、今度は手に提げていたケーキの紙袋を軽く持ち上げて見せた。
由季
「……事情はよくわかりませんが、何かできることがあるならと思って……」

「でもさ、阿万音氏を巻き込むわけには……」
倫太郎
「いや、かがりと一緒にいてもらうだけだ。問題ないだろう」
俺は以前、ラボを襲撃したのは由季ではないかと疑っていた。
しかし今となって考えてみれば、それは間違いだった。
そもそも彼女があのライダースーツの女だったとしたら、あんな回りくどい事をする必要はない。
それこそ、知り合いという立場を利用して近づき、どこかへ誘い出すなりなんなりして、拉致すればいいだけだ。
わざわざ、危険を冒してまで襲撃する必要などないのだ。
倫太郎
「すまなかった」
倫太郎
「じゃあ、由季さんはかがりと一緒にいてくれ」
倫太郎
「すべてが終わるまで、ダルの隠れ家に身を潜めてもらう事になる。場所はダルに聞いてくれ」
倫太郎
「事情は……落ち着いたら教える」
由季
「わかりました」
由季はしっかりと頷いた。
これですべては整った。
俺はもう一度、ラボにいる全員を見回す。
倫太郎
「じゃあ、みんな。あとは手筈どおりに――」
まゆり
「待って、オカリン」
まゆり
「お別れ……言わなくていいの? “紅莉栖”さんに」
お別れ……。
相手は『Amadeus』――人工知能だ。
人の手によって造りだされた存在であり、紅莉栖本人じゃない。
まゆり
「ちゃんと、お別れして? 後悔しないように……」
まゆりが、さっき渡したばかりのスマホを、俺に返してきた。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「そう……だな」
倫太郎
「悪いがここで、少し待っていてくれるか?」
まゆり
「うん……」
まゆりとルカ子を待たせて、俺はアキバブリッジの中央へと向かった。
『Amadeus』と接触すれば、場所が知られてしまう。
そのために、ここを選んだ。
かつて、どうにもならないと悲嘆に暮れていた俺が、初めて紅莉栖に弱音を吐いたあの場所だ。
倫太郎
「…………」
大音量で、その派手な車体に似つかわしくない軽快なオペラ調の音楽を振りまいている街宣車が通り過ぎるのを待って、俺は『Amadeus』のアイコンをタップした。
彼女はすぐにその姿を現した。
アマデウス紅莉栖
「随分と久しぶりね」
倫太郎
「そうだな……」
アマデウス紅莉栖
「私の事なんて忘れたんだと思ってたわ」
忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。
倫太郎
「いろいろあってな……」
いったい何度目の別れになるのだろう。
紅莉栖とは何度も別れを繰り返してきた。
それでも決して慣れる事はない。
アマデウス紅莉栖
「それで、今日はどうしたの?」
倫太郎
「君に、訊きたい事があったんだ……」
アマデウス紅莉栖
「なに? またタイムマシンは作れるか、って話?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「冗談、続けて」
倫太郎
「もしも、だ。もしも自分の命と引き換えに、友達の命を救えるとしたら、君ならどうする?」
アマデウス紅莉栖
「……えっと、質問の意図がよくわからないんだが」
倫太郎
「答えて欲しい」
俺の言葉や表情から真面目な話だという事がわかったのか、“紅莉栖”は真剣な表情を見せた。
アマデウス紅莉栖
「……その友達は、大切なひとなのよね?」
倫太郎
「ああ……」
アマデウス紅莉栖
「私にはまだやりたい事が沢山あるわ。やらなければならない事もある。でも……」
アマデウス紅莉栖
「それでも……もしもその友人や周りの人が幸せになるというのなら、甘んじて受け入れる……かもしれない……」
紅莉栖……。
アマデウス紅莉栖
「ごめんなさい。実際にそんな目に遭った事ないし、想像でしかないから、確実な事は言えないけど……」
アマデウス紅莉栖
「それでも、ひとりでも私の事を覚えていてくれる人がいるなら……忘れないでいてくれる人がいるなら……」
紅莉栖
「とにかく、私のことは忘れること。今日あったことも、これまであったことも」
紅莉栖
「それが私の望みだから……」
倫太郎
「……っ」
倫太郎
「忘れるものか……」
アマデウス紅莉栖
「え?」
決して。
倫太郎
「俺は決して忘れない……」
これは誓いだ。
これから幾多の時間を乗り越えていくための誓い――。
アマデウス紅莉栖
「岡部……さん?」
倫太郎
「……つまらない事を訊いて悪かった」
アマデウス紅莉栖
「ううん……それは構わないけど……何かあったの?」
倫太郎
「いや。なんでもないんだ、なんでも……」
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「それじゃあ、また、な」
アマデウス紅莉栖
「待って!」
倫太郎
「え……?」
アマデウス紅莉栖
「あ、ううん。なんだか二度と会えなくなりそうな、そんな気がして……」
紅莉栖……。
倫太郎
「……そんな事はないさ」
アマデウス紅莉栖
「……そうよね? 私ったら、なんで急にそんな風に思ったんだろう……」
倫太郎
「……会えるさ。必ず」
アマデウス紅莉栖
「うん」
そう、これは永遠の別れじゃない。
また……。
だからさよならは言わない。
いつか君に巡り合えるその時まで――。
倫太郎
「また……」
アマデウス紅莉栖
「うん、また、ね……」
紅莉栖……。
次に会えるのはいつになるか。
けれどもきっと、俺はお前に辿りつく。
必ず――。
俺はまゆりとルカ子のところに戻り、スマホを――“紅莉栖”を託した。
まゆり
「……お別れはすんだ?」
倫太郎
「ああ……」
倫太郎
「それじゃあ、頼んだぞ」
まゆり
「うん」
まゆり達の背中が、駅に向かう人ごみに消えていくのを見守って、俺はラボに向かった。
さっきの街宣車が、相変わらず軽快な音楽を流しながら大通りをまた走っていた。
オペレーションを開始してから5時間ほどが経過していた。
室内には、ダルの叩くキーボードの音だけが響いている。
倫太郎
「どうだ、ダル?」

「今のところ、気づかれてはないと思われ」
倫太郎
「まだかかりそうか?」

「うーん。早くても3時間くらいは」
やはり、そう簡単にはいかないようだ。
ダルもかなり疲労が来ているだろうに、ずっと頑張ってくれている。
まゆりたちからは、適宜、連絡が届いていた。
まゆりとルカ子、フェイリスと鈴羽という組み合わせで動いてもらっているが、さすがはそれなりの付き合いだけあって、それぞれがうまく連携をとり、東京中を動き回ってくれている。
鈴羽によると、何度か怪しげな連中を見たそうだし、萌郁からも“連中は餌に食いついている”との連絡があった。
今のところは、誰ひとり危険な目に遭う事もなく、オペレーションはつつがなく進んでいる。
ただし、この誤魔化しがいつまでも通用するとは思っていなかった。
出来るだけ早く紅莉栖の記憶データを消去したいところだが、そのためには結局のところ、ダルに頑張ってもらうしかない。
倫太郎
「すまないな、ダル」

「それは言わない約束だろ」
25年後のダルの姿を思い出す。
こいつはあれほど遠い未来の世界でも、ずっと俺に付き合ってくれていたんだ。
真帆
「オカリンさん……ちょっといい?」
先程まで、疲れ切って開発室の奥で横になっていた真帆が、いつの間にか起きてきた。
倫太郎
「ん? どうした?」
真帆
「これ……見て……」
紙の束を差し出す。
さっきのストラトフォーのレポートをプリントアウトしたものだ。
どうやら、起きた後で詳細に目を通していたらしい。
倫太郎
「これは……?」
真帆
「ストラトフォーによって、被験者としてリストアップされた人たちの名前よ……」
なるほど、ずらりと一覧になって、人名と性別、年齢などが書かれている。
真帆
「ここ……」
小さな指がその中のひとりを指さした。
そこに書かれていたのは。
SHIINA KAGARI
倫太郎
「椎名かがり!?」
真帆
「彼女……ストラトフォーの
実験対象
モルモット
にされていたんだわ……」
倫太郎
「…………」
もちろん、その可能性は大いにあった。
だからこそ、連中はこれまでかがりを捜していた。
かがりの頭の中に紅莉栖の記憶もあった……。
それでもやはり、こうして証拠を見せつけられると衝撃ではあった。
真帆
「だけど、最終実験までには至らなかったみたい。その直前に脱走したと書かれてあるわ」
その言葉に、胸を撫で下ろす。
もしもまた、かがりの中に紅莉栖の記憶があったのならば、前の世界線で起きた事の繰り返しになるところだった。
これもやはり、世界線が変わった事による影響なのだろう。
とはいえ、彼女が長年にわたってストラトフォーの元にいた事は間違いない。
その間に、他の様々な実験を受けていた事も……。
真帆
「少し、心配だわ……」
倫太郎
「…………」
きっと、真帆と同じ事を俺も考えていた。
かがりは今、ダルの隠れ家に由季と2人きりなのだ。

「ん……誰だよ、この忙しい時に……」
会話に割入るようにけたたましく鳴った電話は、ダルへのものらしい。

「ん? 阿万音氏だ……どうしたんだろ」
嫌な予感がした。

「はい、もしもし。阿万音氏、どうしたん? 何かあったん?」

「……え? かがりたんが?」
倫太郎
「かがりがどうした!?」

「……いなく……なったって……」
倫太郎
「何!?」
差し出されたスマホを奪い取るようにして、耳に押し当てた。
倫太郎
「俺だ、岡部だ! かがりがいなくなったって、本当か!?」
由季
「岡部さん! ごめんなさい! 私がついていながら!」
倫太郎
「いったいどうして!? 誰かにさらわれたのか!?」
由季
「いえ。それが……かがりさんが自分で……私、必死で止めたんですけど、すごい力で……」
倫太郎
「自分で……?」
どういう事だ?
やはり由季が……。
いや、それはない。
由季が加担しているのであれば、わざわざ俺に報せてくる必要がない。
でも、じゃあどうしてかがりは自ら飛び出した?
真帆
「スピーカーモードにしてもらえる? 私も話が聞きたいわ」
言われた通りに通話をスピーカーモードに切り替えた。
真帆
「由季さん。かがりさんが飛び出して行く前の状況を詳しく教えて。何か変わった事はなかった?」
由季
「特には……それまでいろいろとおしゃべりしていて……」
真帆
「何か変な映像を見たりは? もしくは音とか……」
由季
「いえ……あ、待ってください。そういえば、外から変な音楽が聞こえてました。何かの街宣車みたいでしたけど……やけに大きい音だなと思ったら……」
街宣車?
まさか昼間に走っていたあれか?
真帆
「それね」
真帆
「さっきのファイルに書いてあったわ。過去、ストラトフォーが行ってきた数々の実験」
真帆
「その実験の中にブレイン・ウォッシングが含まれていた」
ブレイン・ウォッシング……。
倫太郎

洗脳

か」
真帆
「特定の音楽を耳にすれば、自発的に行動するよう洗脳されていたんじゃないかしら」
真帆
「そうとでも考えなければ、この状況で自分から進んで飛び出すとは思えない」
街宣車が流していたあの曲――。
K620番5曲目。
あれは、かがりを魔へと導く笛の音――魔笛だったんだ!
真帆
「ファイルにも書かれているわ。椎名かがりは適合性に非常に優れているため、目下行方を捜索中って……」
倫太郎
「くそっ!!」
おそらく秋葉原だけでなく、あらゆる場所を走らせていたのだろう。
その罠にまんまと嵌ってしまったわけだ。

「どうする、オカリン……」
かがりを呼びだしたのがストラトフォーの連中である事は間違いない。
となると、俺たちに出来る事は――。
再びスマホの着信音が鳴った。
こんどは、俺のスマホだ。
今回の作戦のために、俺はフェイリスにいくつかのスマホを用意してもらっていた。
皆との連絡用に使うものと、かがりに持たせたもの。
そして――。
倫太郎
「――!」
発信元は、そのかがりに持たせたスマホからだった。
おそらくかがり本人からではないだろう……。
いったい何者なんだろう。
倫太郎
「…………」
???
「オカベリンタロウだな?」
加工された声の無機質さが不気味さを助長していた。
倫太郎
「ああ、そうだ。お前は?」
???
「椎名かがりは我々の手中にある。交換条件は言わなくてもわかるな?」
紅莉栖のPCとハードディスクだ。
倫太郎
「考える時間をくれ」
???
「考える? 何を考える必要がある」
倫太郎
「…………」
???
「交換は明日だ。場所と方法は追って連絡する」
一方的に告げると、電話は切られてしまった。
倫太郎
「紅莉栖のPCとハードディスクと交換だそうだ……」

「で、どうするん?」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「かがりが洗脳にあっていたなんて……」
鈴羽は俺たちの話を聞くと、歯噛みをして悔しがった。
俺はあの電話の後、すぐに鈴羽を呼び戻した。
と同時に、桐生萌郁にもラボまで来てもらっていた。
倫太郎
「率直に教えてもらいたい。仮に相手の要求に従ったとして、かがりを返してもらえると思うか?」
萌郁
「……思わない」
萌郁の口から出たのも、率直な答えだった。
鈴羽
「あたしもそう思う。相手は、洗脳なんて汚い手を使う人間だ。必要なくなれば、容赦なく消すだろう」
萌郁
「最悪、貴方も


られる……」
わざわざ俺を指名してきたという事は、俺がある程度の事情を知っている事をつかんでいる証だ。
これまでの襲撃事件を考えてみても、容赦はしないとみていい。
それに連中が欲しているのは、紅莉栖の遺産ともいうべきものだ。
紅莉栖が残した遺産と、そして彼女自身の記憶――それを、これ以上争いの種にされるのは御免だった。
となると、俺のやるべき事はひとつ。
倫太郎
「こっちから乗り込んで、かがりを取り戻すしかないな」
危険ではあるが、それしかない。
まゆり達はこの時間になった今も奮闘してくれている。
おかげで連中は、俺がいまだに都内を転々と逃げ回っていると思っているはずだ。
真帆
「乗り込むって、そんな……相手がどこにいるのかもわからないのに?」
倫太郎
「どこにいるかなら知ってるさ」
鈴羽
「本当か!? おじさん、いつの間に……」
倫太郎
「鈴羽、手伝ってくれるか?」
鈴羽
「オーキードーキー!」
視線を萌郁に向けると、彼女は首を横に振った。
萌郁
「そこまでは付き合えない……」
だろうな。
真帆
「駄目よ。ふたりでだなんて、危険すぎる」
倫太郎
「いや、大勢で動くよりも危険は少ないかもしれない」
それに俺は、まだしばらくは死ぬ事はないと、運命に定められている。
真帆
「まゆりさんたちには言わないの?」
倫太郎
「言えば心配かけるだろうからな」
真帆
「…………」
倫太郎
「ダル、引き続きロックの解除を頼む。それからスマホは通話状態にしておいてくれ」

「オーキードーキー!」
鈴羽
「おじさん、これを……」
鈴羽が差し出したのは、自動拳銃だった。
萌郁

グロック

……」
鈴羽
「もしもの時は、自分の身は自分で守るんだ」
倫太郎
「…………」
俺は散々迷った挙句、その銃を受け取った。
初めて手にした銃は、想像していたよりもずっと重かった。
神田にあるその建物には、まだ明かりが灯っていた。
この時間でも、門は開いている。
大学とはそういうところだ。
案の条、建物内には難なく入る事が出来た。
鈴羽
「ここにかがりが……?」
倫太郎
「ああ、そのはずだ」
2036年のダルの話が正しいなら、ストラトフォーの支部は俺の母校でもある、この東京電機大学にある。
大学の神田キャンパスには、1号館、5~7号館、そして11~15号館と複数の校舎がある。
そのうち、5号館、6号館、10号館、15号館だけは周囲のビルに分散して存在しているが、それ以外の残りの校舎はひとつの区画に集中して建てられている。
その中で、地下階があるのは11号館と15号館のふたつだ。
そしておそらく、ストラトフォーの支部があるのは、今俺たちがいるこの11号館だと思われる。
何故なら、ここが最も新しく設備も整っているうえ、階層も17階までと多く、それだけ出入りする人間も多いからだ。
ストラトフォーの人間がいったい何人いるのかはわからないが、その一部も俺を捜しに出払っているはず。
だとすれば、今ここは手薄になっているに違いない。
こっちには鈴羽もいるんだ。
勝算はある。
倫太郎
「こっちだ」
俺は鈴羽を促し、真っ直ぐに階段へと向かった。
館内には3基のエレベーターがあるが、いざという時に身動きが取れないエレベーターは危険だという鈴羽の判断のもとだ。
問題はこの先だ。
地下2階には大小あわせて20以上の部屋がある。
この中のどの部屋が、支部に使われているのか……。
鈴羽
「おじさん、こっち!」
倫太郎
「わかるのか?」
鈴羽
「思い出した。ここなら昔、潜入した事がある」
鈴羽
「あたしが知ってる建物はもう崩れかけで、外観も全然変わってたからわからなかったけど、間違いない」
鈴羽は迷わずそのまま奥へと歩を進めた。
小銃を手に、足音も立てずしっかりと腰を落として走るその姿は、まさに猫のようだった。
鈴羽
「…………」
そして、彼女はひとつの部屋の前で立ち止まると、俺に頷いて見せた。
他とは変わりない部屋。
だが、ネームプレートはつけられていない。
この向こうは確か大部屋で、電気室として使われていたはずだが――。
鈴羽
「あたしはかがりを救出する。おじさん、自分の身は自分で守る事」
倫太郎
「あ、ああ……」
ベルトの背中に挿してあったグロックを取り出す。
ズシリと重い。
一応の使い方は教えてもらったが、発砲経験すらない俺に扱えるかどうかは甚だ疑問だった。
それでもハッタリくらいにはなるはずだ。
鈴羽
「いくよ。3、2、1……」
カウントダウンを合図に、鈴羽はドアノブを銃で撃ち壊し、ドアを蹴破り、部屋へと突入を果たした。
流れるような動きだった。
その後を追って部屋に駆け込んだ俺は、すぐに異変に気づいた。
最初に感じたのは、異臭だった。


せ返るような鉄の匂い。
血だ。
部屋の床に、たくさんの血だまりが出来ていた。
人間が倒れている。
ざっと見て4、5人。
もちろん、鈴羽がやったんじゃない。
俺たちが来る前に、既にこうなっていた。
倫太郎
(……どういう事だ?)
じりじりと先を行く鈴羽に従い、俺も部屋の奥へと進む。
倒れている人間には日本人もいれば、明らかに外国人と思しき者もいた。
部屋は更に奥があるようだった。
半開きになった扉の向こうに、大きな体格の男がうつ伏せに倒れていた。
そしてその傍には――。

「思ったよりも早かったわね、リンタロ」
倫太郎
「……馬鹿な」
俺の名を呼ぶ、その艶のある声。
そして外国語の訛り。
倫太郎
「レイエス教授……?」
レイエス
「元気そうで何よりだわ」
倫太郎
「どうして……」
レイエス
「ちょっと、探しものを返してもらおうかと思って」
レイエス教授は、まるでダンスのステップでも踏むかのように、軽やかに身を翻した。
その奥に、かがりが座らされていた。
倫太郎
「かがり!!」
かがり
「…………」
倫太郎
「どうした、かがり! 聞こえないのか!?」
かがりの頭には、機械じみた妙な器具が被せられている。
俺がどれだけ呼びかけても、椅子に座ったまま微動だにしない。
レイエス
「あら、せっかく気持ちよく眠ってるんだから、起こしてあげたら可哀想よ」
それは初めて会った時のあの陽気な笑みからは想像もつかない、鋭利な笑顔だった。
鈴羽
「気をつけろ! そいつ、軍人だ!」
鈴羽はすでにレイエスに向けて銃口を突き付けている。
だがレイエスの方は、それを気にする様子もなかった。
倫太郎
「軍人?」
そういえば、天王寺が言っていた。
かがりを捜していたのは、西側の軍関係だと。
一般の諜報機関が自ら命を絶つものだろうか、と。
レイエス
「そっちのあなた、何者?」
鈴羽
「……かがりを返せ」
レイエス
「いい顔ね。日本にも、そういう顔を出来る人間がいるなんて、知らなかった」
レイエス
「とりあえず、銃をこちらに。でないと、シイナ・カガリは死ぬわよ?」
鈴羽
「かがりを殺した瞬間に、あたしがお前を殺す」
レイエス
「あらそう。ワタシは組織で動いている。ワタシひとりを殺したところで状況は変わらないわよ」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「鈴羽……」
鈴羽
「……っ」
鈴羽は悔しそうな顔をしつつ、銃を足許に置いた。
レイエス
「いい子ね。ついでに、そこで両手を頭の後ろに置いて立ってなさい」
レイエス
「それでリンタロ。交換条件は提示したはずだけど。ちゃんと持ってきてくれたの?」
倫太郎
「…………」
レイエス
「あらあら。いけない子ね。持ってきていないなら、こちらとしてはシイナ・カガリは渡せないわ」
かがりは眠っていると言っていたが、よく見ると瞼は閉じきっていない。
僅かに開いた瞼の奥に見える瞳は虚ろで、理性の光が灯っていないように見える。
倫太郎
「かがりに何をした?」
レイエス
「残念だけど、まだ何もしていないわ。彼らが使っていた子守唄をちょっと聴かせてあげただけ」
レイエス
「でも、あなたが交換条件に応じる気がないみたいだから、これから始めてしまおうかしら」
恍惚とした表情を浮かべたまま、銃身でかがりの頬を撫でる。
倫太郎
「紅莉栖のPCとハードディスクは、特別な場所に隠してある」
倫太郎
「かがりを渡さないなら、こっちも教えるつもりはない」
倫太郎
「先にかがりを解放しろ」
レイエス
「交渉は無駄よ、リンタロ」
レイエス
「そっちが渡す気がないなら、こっちはこっちのやり方をさせてもらうわ」
特に凄むでもなく脅すでもなく。
レイエスは、日常の会話を繰り広げるように言った。
血の色と匂いに包まれた中で。
それが余計に、気味の悪さを助長している。
倫太郎
「これは、あなたがやったのか?」
レイエス
「ええ。彼らも余計な真似をしなければ、もう少し長生き出来たのに。残念ね」
倫太郎
「どうして、こんな真似を?」
レイエス
「簡単な事よ。ワタシの正体に気づいたから」
倫太郎
「正体……」
レイエス
「そこの彼女が言ってたでしょう?」
倫太郎
「軍か……」
レイエス
「同時に研究者でもある。
DURPA

……って言っても、どうせわからないでしょうけど」
真帆
「DURPA……アメリカ国防高度研究計画局? そんな……レイエス教授が……?」
ブルートゥースの小型イヤホン越しに、真帆の声が聴こえてきた。
何かあった際に互いに連絡が取れるよう、ダルのスマホとは繋がったままにしている。

「オカリン……もう少しだけ、時間を稼いでくれ」
この状況で、時間を稼げ、か。
無茶を言ってくれる。
だが、これまで散々、ダルには無茶を頼んできたんだ。
今度は俺があいつの無茶に応えるべきだろう。
かがりに手を出させるわけにはいかない。
鈴羽は武器を取り上げられてしまっている。実力行使は難しい。
なんとかして、俺がこの場を持たせなければ。
倫太郎
「そ、その軍の人間が、どうして……?」
レイエス
「元々、ワタシの所属するチームは
洗脳
ブレインウォッシング
の研究をしていたのよ」
倫太郎
「洗脳……それじゃあ