《命运石之门0》游戏原案(日文版)

发布于 2021-06-06  93 次阅读


ハッチが開かれた。
まばゆい光が、俺の目に飛び込んでくる。
ここはどこだ?
目を細めてみる。
かろうじて見えたのは、夏の夕焼け空。
ここから出たくなかった。
このまま消えてしまいたかった。
それなのに――
強引に腕をつかまれて、俺はそこから引きずり出された。

「うお、もう帰ってきたお! まだ1分も経ってないのに」
まゆり
「……オカリン?」
いつものあだ名を呼ばれても、それに反応する気力もなく。
俺は、ほとんど倒れ込みそうになりながら、その場にうずくまった。
まゆり
「オカリン!」
駆け寄ってきたまゆりが、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
けれど今は、そんな気遣いすら鬱陶しい。
――俺なんかに話しかけないでくれ。
――一人にしてくれ。

「ちょっ、オカリン血まみれじゃん! どうしたん!?」
鈴羽
「父さん、タオルと水、あと服も! 今すぐ手に入れてきて!」

「え? え? どういうことか説明プリーズ!」
鈴羽
「いいから早く!」

「わ、分かったお!」
ダルがビル内へ続くドアへ駆け込んでいった。
まゆり
「オカリン、大丈夫……? しっかりして……死なないで……」
鈴羽
「大丈夫。ケガしてるわけじゃないよ」
よせ。
俺なんかに構うな。
放っておいてくれ。
俺は、彼女を助けられなかった。
それどころか、彼女の命をこの手で奪ったんだ。
3週間前のこの場所で。
俺が、殺した。
俺は、人殺しなんだ。
倫太郎
「無駄だったんだ……なにをやっても、無駄だ……」
倫太郎
「は、はは……。全部、決まってしまっていることなんだよ……」
倫太郎
「同じだ……まゆりのときと、同じなんだ……」
倫太郎
「どれだけ、もがいたって……結果は、同じになる……」
何度リトライしても、同じ結果のみに必ず収束する。
過程は関係ない。
タイムリープだろうとタイムトラベルだろうと、過去に遡って結果をねじ曲げることはできない。
そんな残酷な現実を、分かっていたはずなのに。
一番キツい形で、改めて実感させられるなんてな……。
倫太郎
「無駄だよ……無駄なんだ……なにもかも無駄なんだよ……」
倫太郎
「俺は、やっぱり、紅莉栖を助けられないんだ……。は、はは、ははは……」
倫太郎
「分かってた……。分かってたんだ……。こうなるって、予想してたんだ……」
倫太郎
「もう、疲れた……。ずっと、休んでないんだ……。だから、もういいよ……」
倫太郎
「はは、は……」
まゆり
「オカリン……いったいなにが……」
倫太郎
「俺が……俺が、殺した……殺してしまった……バカみたいだ……全部、俺のせいだ……」
鈴羽
「牧瀬紅莉栖をさ、刺し殺しちゃったんだ」
まゆり
「殺した……? ウソ……そんな……」
鈴羽
「でも安心して。まだもう1回分、タイムトラベルはできる」
倫太郎
「ほっといてくれ……俺のことなんか……。何度やったって、結果は同じだ……」
鈴羽
「なに言ってんの!? 諦めるつもり!?」
鈴羽
「オカリンおじさんの肩には、何十億っていう人の命がかかってるんだよ!?」
鈴羽
「たった1回の失敗がなんだって言うんだ!」
倫太郎
「紅莉栖は、どうやったって、助けられない……。
世界線

の収束には、逆らえない……」
それが、世界の真理なんだ。
とっくに、分かりきっていたことなんだ。
鈴羽
「く……! こうなったら、ビンタしてでも気合い入れ直して――」
まゆり
「だめだよ……! 無理強いするのは、よくないよぅ……!」
まゆり
「こんなボロボロになってるオカリン、見てられないもん……」
鈴羽
「でもさ、このままじゃ、未来を変えられない」
まゆり
「どうして? どうして未来のことを、オカリンひとりに押し付けるの?」
まゆり
「そんなの、重すぎるよ……」
鈴羽
「オカリンおじさんには、世界の観測者としての能力があるからだよ」
まゆり
「オカリンが、望んだわけじゃないのに……!」
まゆり
「それにもう一度やったって、またオカリンが傷付くだけだって、思うな……」
まゆり
「未来のことを、人ひとりで変えようなんて、きっと無理なんだよ……」
鈴羽
「だから、そのための『シュタインズゲート』で……」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「気持ちは分かるよ。でもさ、あたしも未来をかけて、ここまで来てるんだよね」
鈴羽
「どっちにしろ2036年には戻れないんだ。そう簡単に諦めるつもりはないから」
まゆり
「…………」
鈴羽
「オカリンおじさん。1つだけ、忠告しとく。このタイムマシンに残されてる燃料は、有限なの」
鈴羽
「さっきは往復2回分しか残ってないって言ったけど、実はまだそれなりに余裕はある」
鈴羽
「それでも、移動できる時間は、およそ344日分」
鈴羽
「片道のタイムトラベルだとしても、今から1年と経たないうちに、7月28日には届かなくなる」
鈴羽
「覚えといて。その日になったらさ、あたしは、たとえ一人でも跳ぶよ」
倫太郎
「…………」
誰かが、なにかを俺に向かって言っている。
でも、言葉の意味を聞き取れない。
なにも聞きたくない。今は泥のように眠りたい。
もう、いいだろ。
もう解放してくれ……。
まゆり
「オカリン?」
まゆり
「オカリン……。ねえ、オカリン……」
まゆり
「もう、頑張らなくてもいいからね?」
まゆり
「泣いてもいいんだよ、オカリン……」
まゆり
「まゆしぃはそばにいるからね……オカリン……」
倫太郎
「…………」
まゆりが、そう言ってくれたからかどうかは分からないけれど。
涙が、溢れて。
なにもかも忘れようと、決めた。
だからその日以来、俺はラボ――
未来ガジェット研究所

に行くのを、やめた。
駅前にそびえ立つ、新しい秋葉原のシンボルのひとつ、UPX。
その4階にあるホールでは、朝からATF――アキハバラ・テクノフォーラム――のコンベンションの準備が進められていた。
国内外の複数の大学や研究施設が連携し、特別なセミナーやシンポジウムが不定期に行われる。
俺の通う
東京電機大学

も、産学連携機能の一環として参加しているのだが、関連ゼミの学生たちはこれらのセミナーに出て、指導教員にレポートを提出しなければならない。
でないと、単位をもらえないのだ。
俺は、それに加えて今回のコンベンションでは、講演者のひとりである井崎准教授の手伝いもすることになっていた。
今は、共用ロビーに設けられた受付でリストを持って、セミナーに来る学生達の出欠チェックのために待機しているところだった。
まだセミナー開始までは少し時間があるから、ロビーには人もまばらだ。リストに載っている学生たちも誰も来ていない。
暇だが、ひたすらここで待っているしかない。
昔の俺なら考えられない勤勉さだが、井崎にこうしてアピールしているのは、新しくできた人生の目標のためだ。
ヴィクトル・コンドリア大学。
それが、俺の今の目標。
井崎は、そこの大学と共同研究をいくつも行っており、人脈も広い。そんな彼の助手をつとめて働くことが、目標に近づく第一歩なんじゃないかと、足りない頭で考えたわけだ。
それに、今回のコンベンションでは、夏に引き続きヴィクトル・コンドリア大学のセミナーが開かれる予定になっている。
それにも、当然ながら関心があった。
夏、か……。
倫太郎
「……っ」
あのときの、彼女の姿が脳裏によみがえる。
ヴィクトル・コンドリア大学を目指すのは、牧瀬紅莉栖のやろうとしていたことを学んで、自分が引き継いでみたいと思ったからだ。
もちろん俺は、紅莉栖のような天才じゃない。だから、彼女の研究すべてを引き継ぎたいなんて、身の程知らずなことは言わない。
それでもせめて、1割程度でも、俺になにかできたら……。
我ながら、よくここまで立ち直ったもんだよな。
そう思って苦笑したとき、ロビーに声が響いた。
???
「ちょっと、そこの方――?」
倫太郎
「……?」
顔を上げると、エレベーターホールからこちらに向かってやってくるひとりの少女の姿が見えた。
背も体格もなにもかも、とにかく全体的に小さい。
思春期を迎えないと現れない女性特有の気色が少しは感じられるので、さすがに小学生ということはなさそうだが……。
中学生くらいか?
せっかく可愛いらしい顔つきをしているのに、ずいぶん野暮ったい女の子だな。
ボサボサの髪は、背中で適当にまとめただけ。
服装だって、俺から見てもセンスが皆無だと一目で分かる。
少女
「ごめんなさい。スタッフルームってどこかしら?」
倫太郎
「えっと、ここはATFのセミナー会場だけど……?」
この場所には中学生の女の子は明らかに不釣り合いだ。
たぶん間違えて入ってきてしまったんだろう。
少女
「そんなの分かっているわ。何度同じ話を繰り返せば気が済むの?」
倫太郎
「いや、今、初めて言ったんだけど……」
少女
「私にとっては、あなたで4回目よ。この場所に来てからねっ」
鼻息を荒くした女の子は、懐からカードをひっぱり出した。
今回のコンベンションの招待者に配られているゲストカードだ。表面には名前や所属機関が英語と日本語でプリントしてある。
倫太郎
「えっ?」
“Viktor chondria University USA
 Brain Science Institute”
倫太郎
「……ヴィクトル・コンドリア大学……
脳科学

研究所……?」
目の前の少女とカードとを、何度も見比べて。
ようやく思い至った。
倫太郎
「ああ! そういうことか!」
倫太郎
「そのカード、どこに落ちてんだ? 拾ってくれたん――」
少女
「その話も4回目よっ」
彼女は、うんざりしたように別のカードを掲げて見せた。
それは写真入りのIDカードで、ヴィクトル・コンドリア大学の脳科学研究所のもの。
倫太郎
「え? え?」
いつだったか、別の世界線の紅莉栖が持っているのを見たことがある。それと同じデザインだ。
IDカードにプリントされた写真は――間違いなく目の前の女の子だった。
少女
「“ひやじょうまほ”って読むの」
少女
「私の名前。
比屋定
ひやじょう
 
真帆
まほ
。漢字でもローマ字でも誰も読めたためしがないから、先に言っとくわ」
倫太郎
「……えっと……ヴィクトル・コンドリア大学の、中学生?」
真帆
「寝ぼけるなら夜にして。大学に中学生がいるわけないでしょう」
倫太郎
「そ、それもそうだな。じゃあ、飛び級か……」
日本と違い、アメリカでは飛び級は珍しくない。紅莉栖だって17歳ですでに大学を卒業していたのだ。
とはいえ……こんな幼い女の子がすでに大学の研究員だなんて……。
真帆
「……ひとつ確認していいかしら?」
倫太郎
「あ、ああ」
真帆
「あなた、今、少なからず衝撃を受けてるわよね?」
真帆
「“こんな小さい子が……信じられない”かしら?」
真帆
「それとも“この年齢ですごい”の方?」
倫太郎
「は、はは」
図星だ……。
真帆
「ここをよく見なさい」
女の子――比屋定真帆は、IDカードの一部分を細い指でビシッと指した。
1989年生まれということは、今は2010年だから……
倫太郎
「……21歳?」
真帆
「つまり立派な成人女性よ。中学生じゃないのよ。もちろん小学生でも幼稚園児でも」
そして、ぐいっと胸を張った。
あまり大きくは見えない胸だったが、“私は着やせするの、脱ぐとすごいの”と彼女なら言いそうだ。
倫太郎
「…………」
真帆
「なにかしら、その顔は」
倫太郎
「あ、いや。……悪かった、謝る」
信じられん……。俺より、年上とは。
ダルに紹介したら“
合法ロリ

ktkr

!”などと興奮して手がつけられなくなりそうだ。
真帆
「まぁ、いいわ。世界中どこへ行っても同じ目に遭ってるから」
倫太郎
「うん、そうだろうな……」
真帆
「なにか言った?」
倫太郎
「いや、別に!」
それにしても……脳科学研究所か。
紅莉栖が所属していたところじゃないか。
ということは、この子……じゃなくて、この人は紅莉栖のことを知っているかもしれないのか。
色々と訊いてみたい衝動を、ぐっとおさえこんだ。
セミナーの進行が記されているリーフレットを見返してみる。
ヴィクトル・コンドリア大学の講演は、今日のコンベンションの最後で、いわば“トリ”のようなポジションに置かれている。
今回は、この比屋定真帆という人が講演するんだろうか?
夏のコンベンションで、紅莉栖が登壇したように――
いや、待て。違う。そうじゃない。そんな事実はない。
牧瀬紅莉栖は、夏に講演なんてしていないんだ。
あれは、α世界線での出来事なんだから。
今俺がいるこの世界線では、彼女は夏のコンベンションの前に……。
倫太郎
「君が、今日は登壇を?」
真帆
「いいえ。私は助手として来たの。あと通訳も兼ねてね」
そう言われて改めてリーフレットを見ると、講師の欄には“Alexis Leskinen”という名前が載っていた。
アレクシス・レスキネン。
肩書きは、ヴィクトル・コンドリア大学教授①脳科学研究所主任研究員。
倫太郎
「テーマは“人工知能革命”か。うん、面白そうだ」
真帆
「時間があったらぜひ聴いてみて欲しいわね」
倫太郎
「そうするよ」
倫太郎
「――あ、スタッフルームだったよな?」
エレベーターホールまで先導して、比屋定真帆にスタッフルームの場所を指し示した。
真帆
「ありがとう」
それ以上は彼女に付きまとう理由はない。
俺も会釈を返し、その場から踵を返そうとした。
その時――
ちょうどエレベーターの扉が開いて、中から女がひとり、降りてきた。
その女の顔を認めた瞬間、俺の全身の毛がぞわりと逆立った。
倫太郎
「……!」
萌郁
「…………」
桐生
きりゅう
……
萌郁
もえか
っ!
あやうく叫びそうになり、必死になって自分を制する。
落ち着け。
ここはβ世界線だ。
まゆりは
①①①①
生きてる
①①①①

萌郁は
①①①
まゆりを
①①①①
殺さない
①①①①

萌郁
「……?」
目が合った。
眼鏡の奥の瞳は、相変わらず生気がなくなにを考えているのか読み取りづらい。
俺は悟られないように、必死に視線を逸らした。
萌郁は首をかしげるような仕草をしたが、すぐに俺への興味などまったく失って、比屋定真帆のそばへと寄って行った。
萌郁
「あの……?」
真帆
「ああ。えっと、雑誌社の方、でしたよね?」
萌郁
「……お約束通り……取材を……」
相変わらずというか、この世界線でもというか……萌郁はボソボソと聞き取りにくい声でしか喋らない。
真帆
「レスキネン教授はまだなんです。少しお待たせしてしまいますけど」
萌郁
「……はい」
真帆
「それまで、私でよければシステムの概要でも?」
萌郁
「お願い、します……」
2人はそこまで話すと、連れ立ってスタッフルームの方へと消えていった。
俺は2人の背中を見送ると、大きく深呼吸する。
落ち着こうとしても、動悸はなかなか収まらない。
倫太郎
「桐生萌郁……。もしかして、また、お前なのか?」
心の傷にザラリと

さわ
っていくような、嫌な、感覚。
秋葉原を通る路線がテロ予告によってすべて停まった、あの夜。
まるで暗雲のように不吉な予感に包まれた、あの時のように。
倫太郎
「ここでもまた、お前が――」
それとも、それはただの思い過ごしで……今の萌郁は
SERN


ラウンダー

でもなんでもなく、ただの雑誌記者なんだろうか。
いや。仮に桐生萌郁がラウンダーだったとしても、俺たちはもうSERNとは関係がないんだ。SERNが俺たちをマークしていることはない。
倫太郎
「ふぅぅ……」
さらに大きく深呼吸をしてから、ポケットから精神安定剤をつかみ出し、あらかじめ買っておいたミネラルウォーターと一緒に胃に流し込んだ。
効き目が現れて来るまでに約15分。それまでが結構つらいんだよな。
少し自嘲気味に笑いながら、受付のイスにぐったりと腰を下ろした。
受付のテーブルには、セミナー参加者に配るリーフレットやパンフレット、折込資料などが積み上げられていた。
パンフレットの表紙に、ついつい目がいってしまう。
『疑似科学の系譜と中鉢論文』。
井崎准教授のセミナーで配布するパンフレットだ。
中鉢論文。
あの男が、ロシアで発表した論文。
そこには、タイムマシンを実用化するための理論が書かれていた。
倫太郎
「…………」
あの運命の7月28日。
中鉢が、実の娘である紅莉栖からその論文を奪い、持ち去った。
そのことを、俺は知っている。
俺と、中鉢だけが知っている。
試しに、パンフレットをめくってみた。
多くの疑似科学やトンデモ科学のたぐいが20世紀以降に絞ってざっと紹介されている。一応、面白おかしい読み物として楽しめないこともない。
その系譜の最先端として後半のページに華々しく登場するのが、ロシアの『中鉢論文』だと井崎は結論づけていた。
要するに、中鉢博士のタイムマシン理論は、
表の
①①
学会
①①
ではまったく相手にされなかったっていうことだ。
娘を排除してまで渇望した地位も権威も名声も、なにひとつあの男の手には入っていなかった。
しかも噂によれば、発表後はロシアの研究施設に軟禁されているらしい。好待遇で迎えられていると本人は勘違いしているとも聞くから、なおさら滑稽だ。
一時期、ニセの科学誌に論文やインタビューが多く載ったが、そこでもすっかり自分に酔い知れていた。
皮肉なことに、中鉢論文はあまりにも正しく、そして革命的すぎた。
それが他国に流出することを恐れているロシアは、
ロシア対外情報庁

が中心となって徹底的な情報管理体制を敷いているという。
にもかかわらず、すでに水面下では、論文をめぐる情報戦争が始まっている。
2036年からやってきたタイムトラベラー、
ジョン・タイター

がそう言ったのだから、間違いないだろう。
このまま、世界は第三次世界大戦へ突き進んでいくんだろうか――。
考えてもしょうがない。
薬が効いてくるまで、もう少し。
俺はそっと目を閉じた。
それから数時間。
コンベンションは順調に進行していた。
井崎准教授のセミナー後、電大生のほとんどは帰ってしまったが、俺はしばらく時間を潰してからここに戻ってきた。
ヴィクトル・コンドリア大学の講演を、聴いておきたかったからだ。
時間に余裕をもって会場へ向かおうとすると、ちょうどスタッフルームから、比屋定真帆がやって来るのが見えた。
やたらと背の高い外国人の男性と一緒にいる。あの人が、アレクシス・レスキネン教授だろうか。
アメリカ人の名前ではない気がするので、紅莉栖と同じように他国からの移住者か、移民の末裔なのかもしれない。
聞くつもりはなかったが、2人がやけに深刻そうな顔で話しながら歩いているので、ついつい聞き耳を立ててしまった。
その会話は当然ネイティブな英語なので、ほとんど聴き取れない。ただ、穏やかな話でないのは声の調子から理解できた。
倫太郎
「……?」
というか今、会話の中に『マキセ』っていう単語が聞こえたような……。
自分のつたない英語力が恨めしい。
こんなことなら、英会話の勉強をしておけばよかった。
そうこうしているうちに、2人はUPXシアターに隣接する、講演者用の控え室へと入っていってしまった。
倫太郎
「…………」
かろうじて聞き取ることのできた断片的な情報をつなぎ合わせて、整理してみる。
『クリスの家が火事』『マキセ夫人は無事』『強盗』『警察が捜査中止』『なぜ
FBI

が来た?』『奇妙だ』
そんなようなことを話していたと思う。
紅莉栖の家……。というと、アメリカでの住居だろうか。紅莉栖の母はアメリカに今も住んでいるはず。そこが火事に……?
強盗とか捜査中止とか、きな臭い言葉もいくつか聞こえてきたのが、すごく気になるんだが……。
気を揉んでいるうちに、講演開始の時間が来てしまった。
やむなくシアター内に足を踏み入れる。
さっきからシアター内に入っていく人の流れを見ていたから、分かってはいたが。
シアター内は、かなりの熱気に溢れていた。
大学生が進級や卒業のための単位目的で聴講している井崎のセミナーなどとは、明らかに雰囲気が違う。
最先端科学に興味のある聴衆や、研究者とおぼしき風体の人たちで、会場はほぼ満席だった。
このところ、ヴィクトル・コンドリア大学の研究者たちの論文が続けざまにサイエンス誌などに掲載されていて、一躍注目の的になっているせいもあるかもしれない。
空いている席はどこかにあるだろうか。
隅の方にポツンとひとつ、空席を見つけた。
だが、その横の席を見て、思わずうめき声をあげてしまう。
萌郁
「…………」
またお前か……。
桐生萌郁は、周囲の誰かと話すこともなく、膝の上に置いた携帯電話になにかをひたすら打ち込んでいた。
かつて俺が『
閃光の指圧師
シャイニングフィンガー
』と名付けた、高速の指の動きは健在だ。
いったい誰に連絡しているんだろう。
想像もしたくない。
その場から逃げるように離れ、他の空席を探した。
なんとか腰を下ろしたのとほぼ同じタイミングで、壇上にレスキネン教授が現れる。
途端に割れるような拍手が起こった。
だが、その後ろにちょこちょこと小さな少女がくっついて出てきたことで、拍手はザワザワというどよめきに変わっていった。
比屋定真帆にしてみれば、そんな反応など想定済みだったんだろう。顔色ひとつ変えずに教授のすぐ近くに控えている。
むしろ、教授からマイクを受け取ってシアター内をぐるりと見回している姿は、なかなか堂に入っていると俺には思えた。
レスキネン
「“Ladies and gentlemen……”」
まずレスキネン教授が英語で語りはじめた。
比屋定真帆が、教授のアイコンタクトを受けて、適切に同時通訳していく。
真帆
「“みなさん、本日は私のセミナーに集まってくださって感謝します”」
真帆
「“ヴィクトル・コンドリア大学、脳科学研究所のアレクシス・レスキネンです。専門は、脳信号処理システムおよび人工知能理論になります”」
真帆
「そして私は、助手の比屋定真帆です。同じく脳科学研究所で、教授の指導に沿って研究をしています。よろしく」
また客席がざわついた。
俺が初めて彼女と会った時と同じ反応。
まあ、そうなるよな……。
真帆
「“では、さっそくですが、私たちの最先端研究の一端をご紹介します”」
真帆
「“テーマは『
人工知能

革命』としましたが、これからデモンストレーションするシステムは、おそらくみなさんの想像を超えたものではないかと思っています”」
レスキネン教授は、演台の上に用意されたノートPCの前に立った。キーボードの操作を始める。
真帆
「“このパソコンですが、研究所のスーパーコンピューターのひとつと接続されています”」
真帆
「あ、まだプロジェクターには映さないで」
スタッフが、教授のPCの画面を正面のプロジェクターにあやうく映してしまいそうになった。
なんらかの重要なプログラムを起動させている最中だったらしく、比屋定真帆がストップをかける。
真帆
「“すみません。まだ開発途中なんです。非常に美的センスのないプログラムが、画面いっぱいに溢れ返っています”」
真帆
「“こんなチープなプログラムを見られるのは恥ずかしい。裸を見られるよりもね”」
真帆
「“この中にエンジニアの方がいるなら、理解していただけますよね?”」
レスキネン教授のジョークだと分かった一部の聴衆が、笑い声をあげた。
真帆
「“起動するまでの間、このシステム全体の概略を説明しましょう”」
演壇中央には、プロジェクターがもう1台設置されていた。その画面にまず、ざっとした概略図が映る。
そして、その画像のトップには、一般聴衆のために日本語訳でこう記されていた。

側頭葉

に蓄積された記憶に関する
神経パルス

信号の解析』
倫太郎
「っ……!」
俺は、そのタイトルをよく知っている。
忘れたくても忘れることが出来ないものだ。
かつて17歳の天才少女が書き上げ、サイエンス誌で絶賛された論文のタイトル。
人間の記憶をつかさどる神経パルスパターンを全て解析した彼女は、それを応用し、記憶そのものをデジタルデータ化することに成功した。
そして、俺の目の前でタイムリープマシンという未曾有の発明を完成させてみせたのだ。
今となっては、すべて幻と化してしまったが。
真帆
「“サイエンス誌に掲載されたので、ご存知の方もいるでしょう”」
真帆
「“これは、私たちのチームにいた天才的な日本人研究者によって提唱され、完成されたものです”」
真帆
「…………」
真帆
「“人間の記憶は
大脳皮質

、とりわけ側頭葉に記録されます。いわゆるフラッシュメモリみたいなもの”」
真帆
「“そのメモリに記憶を書き込んだり、読み出したりするのが、側頭葉にある
海馬傍回

という部位になります”」
画像の中の脳と海馬の図画を、レスキネン教授が指し示した。
真帆
「“脳は、
ニューロン

と呼ばれる細胞の間を、電気信号が伝わっていくことで働いています”」
真帆
「“記憶というのも、実はこういった電気信号の伝わりのひとつなのです。その働きを制御しているのが海馬傍回といってもいいでしょう”」
真帆
「“つまり、電気信号が海馬傍回を出入りすることで、記憶は作られていくんですね”」
真帆
「“そこで、牧瀬紅莉栖は――”」
真帆
「えと、この論文を書いた日本人研究者です……」
真帆
「あの……“牧瀬研究員は考えました”」
真帆
「えっと……“海馬傍回を通る電気信号が、電気信号のパターンと、大脳皮質の……”」
比屋定真帆の通訳が、急に乱れた。
すっかりしどろもどろになっている。
どれだけ語学堪能でも、同時通訳を長時間続けるのは大変だろう。
ネットの記事で見たことがあるが、同時通訳はプロでも20分が限界だと言われている。国際会議や海外の生中継映像の同時通訳でも、複数の人が定期的に交代して担当しているぐらいだ。
……あるいは。
通訳が乱れたのは、紅莉栖の名前が出たからか?
レスキネン教授は比屋定真帆の動揺を察し、いったん言葉を切った。
真帆
「すみません。ええと――」
真帆
「“牧瀬研究員は、海馬傍回を出入りする電気信号のパターンに着目しました”」
真帆
「“そのパターンが、大脳皮質のどの記憶と対応しているのか。解析を行って、完全なデータを得たのです”」
真帆
「“これによって、記憶という曖昧でアナログなものを、電気信号のパターンの組み合わせというデジタルなものに変換する、基礎理論が確立されたのです”」
真帆
「“これが、サイエンス誌に掲載された彼女の論文です”」
真帆
「…………」
真帆
「“そして現在、私たちのチームは、その理論を元に、人間の記憶をデジタルデータとして取得するシステムを開発しています”」
シアター内がかすかにざわめいた。
真帆
「“それはすなわち――”」
真帆
「“人間の記憶をコンピューターに保存し、それを活用するシステムということになります”」
ざわめきが、少しずつうねりのようになっていく。
そうか……。
紅莉栖の研究は、彼女の死後もちゃんと引き継がれていたんだな。
それはもちろん、当然のことかも知れないが。
俺がα世界線において身を持って実証した――だがいまや誰にも証明することはできない、タイムリープの基礎理論。
あの時、間違いなく俺の記憶はデータ化され、コンピューターの中に蓄積された。
目の前でレスキネン教授が語っているのは、まさにその基幹技術に他ならないんだ。
真帆
「“現在、私たちが行っているプロジェクトは主にふたつです。ひとつは医療分野への応用です”」
プロジェクターの映像が切り替わる。
真帆
「“こちらは、精神生理学研究所と共同で行っているプロジェクトです”」
真帆
「“コンピューターに保存した記憶データを、海馬傍回を通して再び元の脳に書き戻す、というもので――”」
男性
「Incredible……!」
最前列に座っていた大学院生とおぼしき男が、たまらずといった様子で声を上げた。
レスキネン教授は、非礼に対して特に不快感を表すわけでもなく、柔和に応じた。すかさず、真帆が通訳を入れる。
真帆
「“信じがたい、ですか。その気持ちは理解できます。私も、みなさんの立場であればそう言ったでしょう”」
真帆
「“しかし、この研究に私たちは手ごたえを感じています。これが実用化できれば、どんなに素晴らしいことでしょう”」
真帆
「“たとえば、老化による記憶障害。あとはアルツハイマーなど。そうしたものへの
対症療法

が期待できます”」
真帆
「“患者の記憶をデータとして自動的にバックアップしていくのです”」
真帆
「“記憶が失われたとしても、その都度PCにアクセスし、脳内にデータを再インストールすることが可能です”」
真帆
「“それによって、忘却の進行をくい止められるのではないか。私たちはそう考えています”」
真帆
「“最終的には、海馬傍回から、PC内の記憶データに常時アクセスできるようになるでしょう”」
真帆
「“そうすれば、脳機能が失われた状態……、たとえば脳が激しく損傷したり、萎縮してしまった場合などですが”」
真帆
「“そのような状態でも、変わらず脳機能を維持できます”」
真帆
「“あたかも、
外部ストレージ

と同じように”」
ホール内は、異様な空気に包まれてしまっていた。
これはとんでもない技術の発表に立ち会ってしまったのではないかという驚きと。
そんな技術は机上論で、実用化は不可能に決まっているという懐疑と。
そんなふうに人間の脳をいじくり回して大丈夫なのかという嫌悪感。
そうした様々なものが入り混じった興奮が、人々の間を伝播していく。
するとレスキネン教授が、大きく手を上げて挙手を募る仕草をした。
真帆
「“どうやら、2つ目のプロジェクトをお話しする前に、質問を受け付けないといけないようですね”」
真帆
「“出来る範囲でお答えします。どうぞ”」
すぐに多くの手が挙がった。
若者から年配者まで、幅広い年代の人たちが、強い関心を持ったことが分かった。
レスキネン教授が、指を差して質問者を指名する。
最初の質問はこうだ。
アナログな記憶をデジタル信号として記録する場合、
サンプリング

するはず。その場合、切り捨てられてしまう情報はあるのかどうか。
日本語でのその質問に、教授はうんうんとうなずき、即座に英語で回答を始めた。
もしかすると、日本語を聞き取ることぐらいはできるのかもしれない。
真帆
「“その質問を言い換えると――”」
真帆
「“オーケストラの生演奏をWAVのデータに保存する際、生演奏の全てを完璧に記録することはできない、と”」
真帆
「“確かに、その懸念はあります。現在の研究で最も困難な問題のひとつです”」
真帆
「“脳内のネットワークが、神経伝達物質のオン・オフだけで……つまり、2進数的にデータのやりとりをしているのであれば、簡単な問題でした”」
真帆
「“それはデジタルデータと同じことだからです”」
真帆
「“しかし実際には、伝達物質や電気信号は、脳内でアナログ的に変化することが分かっています”」
真帆
「“この問題に関しては、今のところ、より高いサンプリングレートでデータをサンプルする方法しか、手段を持っていません”」
真帆
「“音楽の話でいえば、44.1kHzよりも48kHz、48kHzよりも96kHzでサンプリングする……といった具合です”」
真帆
「“それによって、デジタルでありながら、アナログデータに近い情報を得ようとしています”」
聴衆の間に、少しずつ失望感のようなものが広がってきた。
やはりこれは机上論に違いなく、実用化なんて無謀なのではないか。そんな空気だ。
続けざまに、幾人かが質問をする。
そのどれもが、教授の研究に対して否定的なものばかりだし、挑発しているんじゃないかと思えてしまうような物言いが多い。
聴いている俺までイライラしてくる。
これはレスキネン教授の研究であると同時に、紅莉栖が関わっていた研究でもあるんだ。
その実証性を一番よく知っているのは俺で、だから頭ごなしに否定したがっている質問者たちが許せなかった。
こいつら、本当に研究者なのか?
なんとか自分の感情を抑えこみつつ、壇上に目を戻すと。
真帆
「…………」
……もしかして彼女、怒ってないか?
明らかに憮然とした表情をしている。
レスキネン教授が、無礼な質問にも問題点を認めつつ柔和に答えているのとは対照的だ。
彼女が通訳している言葉にも、刺々しい響きが混じってきている。
少し、親近感を覚えた。
質疑応答はまだ続いている。
質問者
「そもそも、これは医学的に無謀でしょう。デジタルデータを脳に書き戻すなんて、絶対に不可能だ。正気の沙汰ではない」
質問者
「サイエンス誌に掲載されたあの論文も読みましたが。にわかには信じられない」
質問者
「ましてや、筆頭著者が弱冠17歳の女性
だった
①①①
とあっては――」
その言葉は――
俺にとっては、絶対に聞き捨てならないものだった。
真帆
「あなたね――」
倫太郎
「異議あり!」
真帆
「ふえっ?」
壇上の2人が。そして客席のすべての聴衆が。
いっせいに、立ち上がった俺へと視線を向けてくる。
倫太郎
「やってみもしないで、なにが分かるっていうんだ?」
倫太郎
「最初は無理だと思われてた技術なんて、この世にいくらでもあるじゃないか」
倫太郎
「でも、それを克服した研究者がいたからこそ、今があるんだろう?」
倫太郎
「ただ批判するだけじゃなにも生まれない」
会場がシーンと静まり返っていた。
だが、ここで立ち上がったことに後悔なんてなかった。
真帆
「あなた……」
壇上で、比屋定真帆が俺を見て呆然としている。
レスキネン教授の方は――
目が合った俺に、ニーッと白い歯を見せてきた。
レスキネン
「Awesome! he’s really something!」
そう言って、とても楽しそうに拍手を始めた。
倫太郎
「え?」
な、なんで拍手?
そんなリアクションをされたら、逆に恥ずかしくなるじゃないか。
真帆
「はあ……」
真帆
「“素晴らしい、彼はなかなかたいしたヤツだ”……ですって」
教授の言葉を、比屋定真帆がわざわざ俺に向けて通訳してくれた。
真帆
「“ただし、科学者たるもの常に冷静でなければいけない”」
真帆
「“大声で怒鳴っていいのは、実験が成功したときの――”」
真帆
「“We did it!”」
真帆
「“それだけでじゅうぶん”……だそうですよ」
倫太郎
「す、すみません……」
頭を下げて着席する。
自分では冷静なつもりだったが、やっぱり頭に血が上っていたらしい。半年前からなにも成長していない。
紅莉栖がいたら、またバカにされただろうな……。
周囲の聴衆からの冷たい視線が辛い。
できれば今すぐ退場したいところだったが、レスキネン教授の話の続きも気になって、動くに動けなかった。
真帆
「“えー、それではみなさん。そろそろ次に”」
真帆
「“でも、その前に勇敢な彼に拍手をお願いします”」
おいおい、勘弁してくれって。
真帆
「“彼のような挑戦者こそが科学を進歩させ、あっと驚くような理論を作り上げるのです”」
真帆
「“彼ならきっと、第三の
アインシュタイン

になれるかも知れませんね”」
真帆
「“ちなみに、第二のアインシュタインは、ここにいるちょっと小うるさい私の助手――”」
真帆
「変なこと言うのはやめてください、教授」
ホール全体に軽い笑いを含んださんざめきが起こった。
やれやれ……。
真帆
「さて、ここで私はしばらく通訳をお休みさせていただきます」
真帆
「これから、私よりも優秀な通訳が登場します」
真帆
「これが、私たちのチームが、今、最も力を入れている2つ目のプロジェクト――」
真帆
「『Amadeus』システムです」
そこまで言うと、比屋定真帆は壁際まで下がった。
レスキネン教授の合図で、今度こそPCの画面がプロジェクターに映し出される。
そして、声が響いた。
真帆?
「みなさん、初めてお目にかかります」
倫太郎
「……!」
これまでよりさらに大きなどよめきが起こった。
ただし、驚きというよりも戸惑いに近い。
画面上に現れたのが、つい今しがたまで通訳をしていた比屋定真帆の、精巧な3Dモデルだったからだ。
真帆
「ちなみにこれは、映画などで有名な
ドリンクワークス・スタジオ

に作成してもらったモデルです」
壁際から、比屋定真帆が解説を加える。
真帆
「声については、私のボイスサンプルをデータベースにして、日本の
YAMANA

が作ってくれました」
これがCG……だって?
実写にしか見えないぞ。
教授が、ノートPCに向けてなにやら話しかける。
すると、プロジェクターに映る比屋定真帆の3Dモデルが、口を開いた。
真帆?
「私は比屋定真帆です。正確に言うなら、78時間22分前の比屋定真帆から派生した存在、ということになります」
よく聞けば、少しだけ不自然さが感じられるかもしれない。
だが、これまでの合成音声に比べれば格段に人がましい声だった。
アマデウス真帆
「先ほどから、みなさんの質問を聴かせていただいていました」
アマデウス真帆
「教授はどうして私を早く紹介しないのかと、とてももどかしく思っていましたよ」
アマデウス真帆
「以前から感じていましたが、どうも教授は人が悪いようですね」
真帆
「まったくだわ」
画面の中の比屋定真帆が、少し怒ったような表情をして言えば。
壁際に立つ比屋定真帆の方も、それに同意するようにうなずいた。
レスキネン教授は涼しい顔で笑っているだけ。
目の前でいったいなにが起こっているのか。
そもそもこれのどこが最も力を入れているプロジェクトなのか。
俺だけじゃなく、聴衆の誰もがまだよく理解できないでいる。
アマデウス真帆
「みなさんの多くは疑問に思っています」
アマデウス真帆
「人間の記憶をデータとして取り出したり、それを保存したり、さらにはそのデータを活用したり」
アマデウス真帆
「そんなことが本当に可能なのかと」
アマデウス真帆
「それでは私はいったいなんでしょうか?」
アマデウス真帆
「私は、78時間23分前の比屋定真帆の脳内から取り出された記憶を持ち、そのデータをベースにして動いているのです」
なんだって……?
教授がまたなにか早口で言い、それを『画面の中の比屋定真帆』に通訳するよう促した。
しかし、彼女は――それを
彼女
①①
と呼んでいいのならだが――躊躇し、黙り込んだ。
見ると、壁際にいる実在の比屋定真帆も、ほぼ同じ反応をしていた。
真帆
「教授、今のは――」
アマデウス真帆
「教授。今の発言は、“sexual harassment”として大学に訴えてもいいでしょうか?」
レスキネン教授がそれに対して愉快そうに切り返した。
早口の英語で両者の応酬が続いたため、半数以上の聴衆には意味が理解できない。
仕方なく、といった感じで壁際の比屋定真帆がマイクを握り直した。
真帆
「えー、教授はですね、その……私に対して、いえ、私の記憶で動作しているこの『Amadeus』に対して、質問に答えてごらんと言いました」
真帆
「ええっと……いつごろまで、その、パパとお風呂に入っていたか、とか……」
真帆
「……初恋はいつだったかとか、なんでも答えられるだろう、と……」
アマデウス真帆
「あー、もうそれ以上通訳しなくていいわ」
アマデウス真帆
「恥ずかしいからやめてくれないかしら。私はそういう質問にはいっさい答えないわよ」
教授がさらになにか言う。するとCGの比屋定真帆はぷいっと横を向いた。
アマデウス真帆
「クレジットカードの番号なんて、もっと言えません」
アマデウス真帆
「あと、1週間前に着ていたパジャマの色なんて覚えてるわけないです」
このやり取りは……なんだ。
あまりに自然すぎて最初は分からなかったが。
実はとんでもないことなんじゃないか?
普通の人工知能とは明らかに違う。そんな気がする。
インプット
①①①①①
されて
①①①
いる
①①
はず
①①


情報
①①


答えない
①①①①
なんて。
しかもその理由が
恥ずかしい
①①①①①
から
①①
だって?
今回のデモンストレーション用に、特定の情報について質問された場合にはこんなリアクションを取るようプログラムされているのか?
そんな見かけ倒しのものである可能性もなくはないが……。
もしこれが、事前にプログラムされたやりとりじゃないとしたら――
周囲も気付きはじめたようで、ヒソヒソとささやき合う声が、徐々に驚きのそれへと変化していく。
アマデウス真帆
「ねぇ、ちょっと。いい加減、この
イタズラ
①①①①


子ども
①①①
をなんとかしてくれないかしら」
アマデウス真帆
「なにをしたいのか理解はできるけど、とにかく恥ずかしいわ」
比屋定真帆のコピーは、オリジナルに向かってそう抗議した。なんだかだんだん、双子の姉妹が話をしているような錯覚にとらわれてくる。
真帆
「えー、イタズラな子ども、ではなくレスキネン教授が面白がってなかなか説明してくれないので、代わりに私がお話します」
比屋定真帆が壁から離れて、教授のかたわらに立った。
真帆
「みなさん、もうお分かりかと思いますが」
真帆
「『Amadeus』は、
自分が
①①①
話して
①①①
いい事
①①①

そうで
①①①
ない事
①①①
、あるいは、
話したい事
①①①①①

話したくない事
①①①①①①①
を自ら判断して喋っています」
真帆
「私たちは、『Amadeus』にそういったプログラムをいっさい施していません」
そうだよな、やっぱり……。
真帆
「彼女は、与えられた私の記憶からそれを独自に判断し、自律的にそういう行動を取っているのです」
比屋定真帆の話を、いきなり画面の中の
彼女
①①
が引き取った。
アマデウス真帆
「そしてこれは、先ほどの医療分野への応用とは方向性が真逆になってしまい、研究所内でもずっと議論が交わされていることですが……」
アマデウス真帆
「私は、不必要な情報をいつの間にか忘れてしまう」
アマデウス真帆
「というか、
記憶の
①①①
引き出し
①①①①
から出して来られなくなるのです。みなさんと同じように、です」
アマデウス真帆
「たとえば、1週間前に着ていたパジャマの色。確かにそれを知っていたはずなのに、今は思い出せません」
アマデウス真帆
「そのような情報は、生存していく上で必要がないからです。これもみなさんと同じです」
アマデウス真帆
「このように『Amadeus』は、記憶のインプットやアウトプットが人間のそれと非常に近いのです」
真帆
「これは、私たちも驚くべき結果として研究を重ねている最中で……まだ、詳しくは解明されていません」
真帆がこのようにまとめると、ようやくレスキネン教授がマイクを口に持っていった。真帆に通訳させながら、話を続ける。
真帆
「“さらに、私たちを驚かせたのは、『Amadeus』が意図して嘘をつくということ”」
真帆
「“なんらかのトラブルやミスではなく、わざとそうするのです”」
真帆
「“嘘は、人間が他人とコミュニケーションを取る上でのひとつの手法です”」
真帆
「“『Amadeus』も、インプットされた記憶を自律的に検討し、必要であれば、自分や他人のために平気で嘘をつきます”」
真帆
「教授。誤解を招くような言い方はやめてください」
真帆
「嘘をつくのに平気なことなんてありません。私だって
良心が
①①①
とがめます
①①①①①

レスキネン
「I’m so sorry. and……」
ここでレスキネン教授は言葉を止めた。
少し躊躇しているように見える。
比屋定真帆は特に怪訝な様子を示してはいないから、躊躇の理由が分かっているのかもしれない。
やがて教授は、躊躇したのが嘘のように、さらりと言い切った。
比屋定真帆も、なにごともなかったように通訳する。
真帆
「“このような検証を続けていくことで、最終的に私たちは――”」
真帆
「“『Amadeus』に人間と同様の魂を宿すことが出来るのではないか、と考えています”」
ドキリとした。
魂……だって?
そんな、定義も曖昧な言葉を、脳科学研究の第一人者が持ち出していいのか……?
真帆
「“これこそ、
本当の
①①①
意味
①①
での
①①
人工
①①
知能
①①
ということになります”」
ホール内が、波を打ったように静まり返った。
そしてその後はもう、てんでに自分の議論をレスキネン教授と始めようとする人たちで溢れ返り、しばらくセミナーは大混乱に陥った。
ATF終了後の懇親会に潜り込めたのは、井崎の口利きのおかげだった。
井崎からは“ドレスコードのしっかりしたパーティーだから、フォーマルスーツを着てくるように”と言われ、わざわざ一度実家に戻って着替えてきたほどだ。
それぐらい気合いを入れて参加し、井崎も最初こそ第一線の研究員たちを紹介してくれた。
理化学研究所


宇宙航空研究開発機構


物質構造科学研究所

などなど。
だがすぐに、自分の売り込みにどこかの大学教授のところへ行ってしまい、俺は完全に放置されてしまった。
個人的に一番の目当てであるレスキネン教授も、名だたる研究者たちにぐるりと取り囲まれていて、とてもじゃないが学生風情が近づける雰囲気ではない。
というわけで俺はただひたすら、壁際に並べられている料理を取り、口に運び続けていた。正直、味などさっぱり分からない。
にこやかに給仕して回っているボーイが、すぐに空になったグラスを持っていってしまうので、仕方なく新しい飲み物をどんどん手に取る。
もうすでに胃がパンパンに膨れてしまって、苦しかった。
なんだか別世界の出来事みたいだ。
倫太郎&女性
「やっぱり、こういうのには向かないな……」
「やっぱり、こういうのには向かないわ……」
俺が独り言をつぶやいたのとまったく同じタイミングで、まったく同じような言葉が、近くにいた女性の口から聞こえてきた。
驚いて声の主を見ると、目が合った。
真帆
「あら、あなた」
なんで中学生が?
と一瞬だけ思ったが、すぐに比屋定真帆だと気付いた。
講演で壇上に上がったときとまったく同じ格好だ。
こんな場所でまで白衣とは。まるで以前の俺みたいだな。
真帆
「ええっと、あなたは――」
比屋定真帆は、明らかに一人だけ浮いていた。
なぜなら……白衣のままだったからだ。
倫太郎
「なんで白衣……なんです?」
たまらずそんな疑問が声に出てしまった。
真帆
「ちゃ、ちゃんとした服も持ってきたつもりだったのよ」
つもりだったが、忘れたらしい。
だからこんな隅っこで小さくなっていたわけか。
真帆
「あなた、昼間、受付にいた人ね」
倫太郎
「岡部倫太郎、です。東京電機大学の学生で、井崎ゼミで勉強してます」
井崎に言われて急きょ作ってきた特急名刺を手渡すと、彼女の方も名刺の束を無造作につかみ出し、俺の手に1枚置いた。
真帆
「いいわ、無理に丁寧に話さなくても」
そう言ってもらえると助かる。
真帆
「珍しい名前でしょう、私?」
倫太郎
「え? ああ、誰も読めないとか言ってたっけ」
名刺をよく見ると、ふりがながやたらと大きく印刷してあった。
あまりにも読み間違える人が多いからだろう。
真帆
「沖縄ではよくある名字なんだけれどね」
倫太郎
「沖縄出身なのか?」
真帆
「曾祖父と曾祖母がね、移民なのよ。私はアメリカ生まれのアメリカ育ち」
倫太郎
「ハーフ……にはあんまり見えないな。クォーター?」
真帆
「はずれ。祖父、祖母、父、母すべて日本人よ。
DNA

は生粋のジャパニーズ」
倫太郎
「へえ」
真帆
「…………」
倫太郎
「…………」
そこで会話が止まってしまった。
基本的に俺は、話術が下手くそだ。
以前なら、
厨二病

全開の妄言を相手のおかまいなしにひたすらまくし立てていたが、それだって会話が成立していたわけじゃない。
ほぼ初対面の相手などには何をどう話していいのかさっぱり分からない。気の利いたことも言えない。
一応、自分なりに真人間になるべく、メンズ誌を買ったりしてちょっとずつ勉強はしているのだが……ひとつも参考にできていなかった。
話題もないまま、レスキネン教授の方に視線を向けてみる。
今は、多くの学者を相手に、なにやらニューロンに関する議論をしているようだった。
倫太郎
「……今日は、済まなかったな」
真帆
「え? なにが?」
倫太郎
「いや。セミナーの途中で邪魔を――」
真帆
「ああ、あれね。気にすることないわ」
真帆
「あなたが声を上げなかったら、たぶん私が同じことをしていたから。許せないの、ああいう人」
倫太郎
「いいのか、そんなこと言って? 教授が言ってたじゃないか。科学者たるもの常に冷静に、って」
真帆
「今のは科学者としての発言じゃないわ。だから構わないのよ」
よっぽど腹に据えかねているらしい。ちょうど歩いてきたボーイからカクテルを奪い取ると、そのままヤケ酒のように勢いよく飲み干した。
真帆
「ふー」
一瞬だけ頬が綺麗な桜色に染まる。しかし、すぐに元の顔色に戻った。アルコールには強いのかもしれない。
真帆
「だけど、やっぱりよくないわね。反省する」
真帆
「ああいう批判は……言い方こそ悪いけれど、それでも事実には違いないんだもの」
真帆
「私たちの研究がまだ無謀の域から出ていないと言われれば、確かにその通りよ」
倫太郎
「そうなのか」
真帆
「取り組まなくてはいけない課題が山積みだわ。さっきセミナーで話した以上にね」
倫太郎
「…………」
真帆
「たとえば、記憶データを元の脳に書き戻すことができても、それを脳が利用できなければなんの意味もないの」
真帆
「記憶があっても思い出せない状態。つまり記憶喪失の脳と同じになってしまう」
……比屋定真帆の言葉を聞いて、俺は思い出す。
紅莉栖がタイムリープマシンを作っているときに、俺に話してくれた“講釈”とか“推論”の数々を。
倫太郎
「えっと……確か、人間が記憶にアクセスしようとするときは、
前頭葉

から側頭葉へ信号が行くんだったよな?」
真帆
「ええ。
トップダウン記憶検索信号

ね」
倫太郎
「だったら――」
そこから、紅莉栖の理論をひとつひとつ思い出しながら無我夢中で話した。
うろ覚えの専門用語などもとりあえず口に出してみると、比屋定真帆が意味を補足してくれた。
倫太郎
「――で、最後に、側頭葉に記憶を書き戻す過程で、ええと……」
倫太郎
「一緒にコピーした疑似パルスを前頭葉の方に送り込めば、記憶検索信号はちゃんと働く、と思う」
真帆
「…………」
真帆
「あなた……それを自分で導き出したの?」
倫太郎
「え? あ、いや……」
比屋定真帆は、さっき俺が渡した名刺を改めて見直した。
真帆
「脳科学専攻じゃないわね。ということは誰かに? それとも論文で?」
真帆
「ううん、それはないわ。まだ論文にはまとめられてなかったはず」
倫太郎
「……なにかおかしいこと言ったか、俺?」
真帆
「そうじゃなくて。私の後輩がね、まったく同じ理論を提唱していたことがあるのよ」
真帆
「どのスタッフもずっと懐疑的だったけど、彼女だけは、絶対に証明できるって言い張っていたわ」
倫太郎
「…………」
真帆
「結局、実証試験に進む前に、彼女はいなくなっちゃったんだけど」
倫太郎
「それは――」
言うべきか?
ここで紅莉栖と自分の関係を話してしまっていいのか?
この世界線では、俺と紅莉栖とはほぼなんの接点もないんだぞ。
真帆
「どうしたの?」
……腹を決めた。
自分の夢を追いかけるためには、動くしかない。
倫太郎
「実はこの理論……紅莉栖からレクチャーされた」
真帆
「え……?」
真帆
「今、なんて?」
倫太郎
「牧瀬紅莉栖が、教えてくれたんだよ」
真帆
「紅莉栖が――あなたに?」
真帆
「いつ? どうして?」
倫太郎
「彼女がこっちに留学してたときだ。友達になって、こういう話をよくした」
もちろんそれは嘘だ。俺と紅莉栖が親しくなったのは、ここではないα世界線での話なんだから。
でも、これぐらいの嘘は

ゆる
されるだろう。
真帆
「……そうだったの。あの紅莉栖が……」
真帆
「……ありがとう。感謝するわ」
その言葉に、驚いた。
まさかそう返されるとは思っていなかったから。
倫太郎
「なにが?」
真帆
「彼女と友達になってくれて、よ。日本に来て、たったひとりで――」
真帆
「…………」
真帆
「たったひとりで勉強していても、きっとつまらなかったと思うから」
倫太郎
「口げんかばっかりだったけどな」
真帆
「あの子らしいわね。絶対に負けを認めなかったでしょう?」
倫太郎
「ああ。屁理屈ばっかりこねていた」
真帆
「ふふ……」
倫太郎
「“
ロボトミー手術

してあんたの前頭葉を掻き出してやるぞ”とか、よく言われたし」
真帆
「ええ? まさかそんなこと……」
真帆
「紅莉栖なら、言いそうね」
倫太郎
「だろう?」
倫太郎
「ちゃんと後輩の教育をしておいてほしかった」
真帆
「その点に関しては認めるわ。陳謝します」
真帆
「…………」
真帆
「……っ」
倫太郎
「え?」
笑った……と思ったら、比屋定真帆は突然、涙をこぼした。
倫太郎
「ど、どうした?」
真帆
「……っ?」
とりあえず、あわててハンカチを差し出す。
真帆
「え? え?」
彼女は、自分でもなぜ泣いているのか戸惑っているようだ。
というか、俺も戸惑ってしまう。今の会話で、彼女の中のなんらかのスイッチを押してしまったのか?
倫太郎
「だ、大丈夫か?」
真帆
「へ、平気よ。ごめんなさい」
彼女は俺のハンカチは受け取らず、白衣のポケットから取り出したポケットティッシュで目尻を拭った。
男性
「勇敢なる第三のアインシュタイン!」
倫太郎
「え!?」
振り向くと、レスキネン教授が満面の笑顔を浮かべながら、大股で俺の方へと歩み寄ってくるところだった。
そのままの勢いで俺の手をつかんでくる。ものすごい強引な握手。
しかも、手は熊みたいに大きい。
いや、手だけじゃない。
目の前に立たれると、講演で見たときよりもさらに大柄に感じた。俺も背は高い方だが、その俺よりも頭1つ分大きいと思う。
倫太郎
「あ、あのっ、教授、俺、その」
いかん、あまりに突然のことにテンパってしまって、自己紹介すらおぼつかない。
っていうか、教授は今、日本語を喋らなかったか?
レスキネン
「しかし、私の助手を泣かせてしまったのは、見過ごせないね」
倫太郎
「あ! いや! これは!」
真帆
「ち、違います教授! 私が勝手に! 彼は関係ないですから!」
俺と比屋定真帆は、揃って全力で否定した。
だが、俺はなんで比屋定真帆が泣いたのかよく分かっていないから、言い訳のしようがない。それでますますあたふたしてしまう。
倫太郎
「ええと、つまりその……」
真帆
「紅莉栖です」
真帆
「彼と、紅莉栖の話をしていたら、いろいろ、感情が溢れてしまって……」
レスキネン
「クリス?」
レスキネン
「君は、クリスの友人?」
倫太郎
「それは……」
倫太郎
「はい……」
真帆
「岡部倫太郎さん。学生だそうです」
比屋定真帆が紹介してくれる。
レスキネン
「…………」
レスキネン教授は優しげな表情で、俺にゆっくりとハグしてきた。
巨人に抱きすくめられ、窒息しそうになる。
……それが、紅莉栖への哀悼の意であることは、なんとなく理解できた。
レスキネン
「そうですか。そういうことなら、マホ」
真帆
「はい?」
レスキネン
「ミスターオカァベに、会わせてあげたらどうかな。
彼女
①①
を」
真帆
「……まさか、『Amadeus』を?」
レスキネン
「ここで彼に出会った偶然、その幸運を大切にしたいじゃないか」
レスキネン
「日本にいる間、彼にテスターになってもらってもいいよ」
真帆
「本気ですか? 部外者なのにそんないきなり……」
レスキネン
「クリスの友人ならば、部外者ではない。そうだろう?」
真帆
「ですが……」
いったいなんの話だ?
分からないが、せっかく舞い込んできたレスキネン教授との繋がりだ。
みすみすチャンスは手放したくなかった。
倫太郎
「俺、ぜひお手伝いしたいです」
レスキネン
「Nice!」
教授は俺の肩をポンポンと叩き、満足そうに笑った。
まるで子供みたいな、無邪気な笑顔だ。
レスキネン
「じゃあ、詳細はマホに聞いて。よろしく」
教授は他の研究者に呼ばれ、俺たちの元から離れていった。
比屋定真帆は、信じられないとでも言いたげに首を左右に振っている。
倫太郎
「『Amadeus』に会わせるとか、テスターとか、いったいなんの話なんだ?」
真帆
「コンベンションでやったデモンストレーション。『Amadeus』は、私の記憶を使っていたんだけれど」
真帆
「『Amadeus』のデータとして、もうひとり分、研究者の記憶が保存してあるのよ」
倫太郎
「……?」
もうひとり分の、研究者の記憶?
その言葉が、なにを意味するのか。
ここまでの比屋定真帆とレスキネン教授の会話から、やがてひとつの答えが導き出されたとき、ドクンと、心臓が高鳴った。
倫太郎
「まさか……」
倫太郎
「……あいつ、なのか?」
真帆
「そう――」
真帆
「『Amadeus』の中には、
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


記憶
①①
が保存されているわ。八ヵ月前の紅莉栖だけれどね」
――ATFでのパーティーから数日が経っていた。
池袋から、急行で10分ほど。
埼玉県の和光市という駅から、さらにバスで10分。
独立行政法人『理化学研究所』からほど近い場所に建っているビルの2階に、目的のオフィスはあった。
『世界脳科学総合研究機構 日本オフィス準備室』。
入り口のプレートには、そう書かれていた。
三種類の特殊な鍵を使い、さらにセキュリティカードまで使って、ようやく中に入ることができた。
倫太郎
「ここは……?」
真帆
「各国の脳科学研究者が連携をして、新しい機構を作る予定なの。私たちの研究所が主導してね」
比屋定真帆はそう説明して、先導してくれる。
オフィスといっても借りてからまだ間がないのだろう。並んだ事務机のうち、ほとんどが空席で、誰も使った形跡がない。
ホワイトボードすら掲げられておらず、殺風景な部屋の印象をさらに濃くしていた。
北向きなのか、日当たりが悪い。
蛍光灯の無味乾燥な明かりだけが照らし出す室内は、ひどく寒々しい雰囲気だ。
真帆
「ここは、あくまでも準備室だから」
空席ばかりのデスクの中、しかし、2席だけ書物などが置かれている机があった。
そのうちのひとつ――メモやら計算機やらコーヒーカップやらサプリメントの瓶やら、とにかく色々な物が散乱してグチャグチャと汚い方――に、比屋定真帆はバッグを置いた。
ということは、もうひとつの整理整頓された机が、レスキネン教授のものだろう。
倫太郎
「教授は?」
真帆
「今日はオフ」
まあ、日曜日だからな。
倫太郎
「君も?」
真帆
「ええ。そうじゃなかったら、昼過ぎまで寝ていられるわけないでしょう」
確かに……さっき和光市の駅前にあるホテルまで迎えに行ったら、寝ぼけ眼で部屋から出てきた。
俺はこの日、レスキネン教授から提案された通り、『Amadeus』の紅莉栖と会わせてもらうことになっていた。
テスターがどうたら、という話についても、ここに来るまでに比屋定真帆からざっくりと教えてもらった。
要は、『Amadeus』の対話サンプルデータがほしいらしく、俺に24時間いつでも対話をできるような環境を与えてくれる、ということらしい。
詳細についてはまだそれ以上は聞いていないけれど……、
24時間、『Amadeus』の紅莉栖と対話できるようになる、か。
倫太郎
「あいつは……紅莉栖の『Amadeus』は、ここにいるのか」
真帆
「ええ」
比屋定真帆はうなずいてから、俺の方をチラリと一瞥した。
真帆
「あいつ、と呼んだわよね、今」
倫太郎
「え? ああ……」
真帆
「私が思っているよりも、ずっと親しかったのね、あなたたち」
倫太郎
「…………」
答えないことが、答えになってしまったのかもしれない。
そんな俺の態度に対して、彼女は珍しく逡巡した様子を見せた。
真帆
「だとしたら、会うのは、やめた方がいいかも知れないわよ……」
倫太郎
「どうしてだ?」
真帆
「相手が……親しい人であればあるほど、あのシステムは、残酷だと思うから」
倫太郎
「………」
倫太郎
「……大丈夫だ」
真帆
「…………」
真帆
「分かった。もう言わない。その代わり、ひとつ覚えておいて」
真帆
「ロードする記憶は、紅莉栖が最後に更新をした3月のデータをベースにしたものよ」
真帆
「だから、3月以降……たとえば、彼女が日本に留学していた時のことを聞いても、まったく通じない」
そういうことに……なるな。
真帆
「それに、3月から今日までの間に、私や教授が何度も起動してしまっているから」
真帆
「その度に紅莉栖は――ああ、『Amadeus』の方の紅莉栖ね――彼女は、元の紅莉栖とは違う記憶を蓄積しているわ」
真帆
「私たちが聞かせた話、ネットで検索した情報、新しく会話を交わした人たち……そういったものをね」
真帆
「…………」
真帆
「つまり、これから会うのは、
あなたの
①①①①
友人
①①
だった
①①①
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①
では
①①
ない
①①
、ということ」
倫太郎
「…………」
真帆
「このシステムの問題点のひとつなんだけれど、往々にして、こちら側――つまり人間の方が混乱してしまうのよ」
真帆
「まるで、本当の紅莉栖と、今この瞬間にチャットでもしているような錯覚に陥るから……」
現実と虚構を混同するな、ということ……か。
真帆
「共有できていない記憶の齟齬に関して、こちらの脳がついていけなくなってしまうのね」
共有できていない記憶の齟齬……。
その感覚なら、うんざりするほどに分かるさ。
リーディング・シュタイナー。
俺だけが持つ、自分と他者との間に記憶の食い違いを生じさせてしまう力。
倫太郎
「案内してくれ」
比屋定真帆は小さくうなずくと。
真帆
「こっちよ」
部屋の奥へと足を向けた。
その先に、分厚いパーテーションで仕切られたブースがあった。
ブースの中へ入るためには、さっき準備室に入るのに使ったのとは別のカードキーと、暗証番号が必要だった。
倫太郎
「ずいぶん厳重なんだな」
真帆
「今の時代、産業スパイが一番恐ろしいの」
比屋定真帆が暗証番号を入力すると、ドアのロックが解除された。
真帆
「どうぞ」
ブースの中は四畳半ほどの広さになっていた。
一隅に真っ白なデスク。その上には30インチはあろうかというモニター一体型のPCが鎮座している。
真帆
「少しだけ後ろに座っていて」
PCでの作業を背後から見学できるよう、やや小さめのソファが置いてあった。俺はそこに腰掛ける。
比屋定真帆がPCの電源を入れ、キーボードを叩き始めた。
しばらくして、画面に“Amadeus system”という文字が浮かび上がる。
IDを打ち込むのが見えた。
“Salieri”
サリエリ


アマデウス

に対してサリエリか……。
なにか意味があるんだろうか。
そういえば、『アマデウス』という有名な映画には、
モーツァルト

の天賦の才を妬み、憎み、恨み、しかし心の奥底では彼に心酔し切っている人物が登場する。
その人物こそが、サリエリだ。
真帆
「パスワードは見ないで」
真帆が自分の身体で手元を隠すようにする。
俺も視線を逸らした。
システムへのログインが完了し、モニターは、コマンドプロンプトが表示されているだけの、なんの飾り気もない真っ暗な画面になった。
真帆
「……準備はいい?」
倫太郎
「ああ、頼む」
比屋定真帆がプロンプトのあとにコマンドをいくつか打ち込んだ。
真帆
「ごめんなさい、ここはちょっと見せられないの」
倫太郎
「まぁ、俺が見たところでさっぱりだけどな」
真帆
「でも、一応ね」
モニターがいったんオフにされる。
比屋定真帆は椅子を回して、俺へと向いた。
倫太郎
「…………」
ふと、自分が拳を固く握りしめていることに気づいた。
いつからそうしていた?
手のひらはジワリと汗ばんでいて、親指の根元のふくらみにツメの食い込んだ跡ができていた。
もしかして、思いのほか緊張しているのか、俺は。
倫太郎
「…………」
真帆
「どうしたの?」
倫太郎
「あ、いや……今になってちょっと怖じ気づいてきた」
真帆
「まだ間に合うわよ。今すぐここから出て行けばいいわ」
倫太郎
「……意地が悪いな」
真帆
「そう? あなたのこと、心配してあげてるのに」
倫太郎
「だったら、もう少しそれらしい言い方をした方がいい。紅莉栖といい君といい、実験大好きっ子は――」
一瞬、以前のようなふざけた軽口が言葉として出てしまいそうになった。
慌てて言い換える。
倫太郎
「実験ばかりに明け暮れているヤツは、可愛げがない」
真帆
「今の発言は明らかに誹謗中傷ね。侮辱罪で訴えてあげてもいいわ」
倫太郎
「やめてくれ、恐ろしい」
真帆
「いい弁護士を知っているから、紹介してあげましょうか?」
倫太郎
「その前に告訴を取り下げてくれ」
真帆
「示談に持ち込もうというのなら、それ相応の金額は覚悟することね」
倫太郎
「あとで
ドクペ

をおごるから」
真帆
「安い」
比屋定真帆は、喉の奥でくっく……と小さな音を立てた。
どうやら笑っているらしい。
普通なら

しゃく
に障る仕草なのだろうが、不思議と目の前の少女――いや、もう立派な成人女性なのだが――のそれは、不快に感じなかった。
比屋定真帆は、科学者特有の気難しさが目立っていて、いつもどこか不機嫌そうで、気ばかりやたら強い女性という印象が強かったのだが。
案外、憎めない一面もあるみたいだ。
……ああ、そうか。
彼女は。真帆は。
紅莉栖に似ているんだ……。
倫太郎
「…………」
初めて会った頃の紅莉栖が、やはりそうだった。
高慢でいけ好かないヤツ。決して自説を曲げようとせず、頑固で、意固地で、何かひとつ言うと、眉を吊り上げながら詰め寄ってきては、いちいち反論をしてきた。
なんて可愛くない女だろうと、心の底から思っていたものだ。
ところが、その第一印象とは裏腹に、紅莉栖の内面はとてももろく、傷つきやすく、そして、どこまでも優しく、愛おしく――
女性の声
「何がおかしいんです、先輩?」
唐突に、女性の声がスピーカーから響いた。
倫太郎
「あ……!」
たまらず、ソファから腰を浮かしていた。
その声を……俺は知っている。
忘れるはずがない。
忘れるはずが――
真帆の手が、モニターをオンにする。
画面に、俺が片時も忘れたことのない彼女の姿が、フワリと浮かび上がってきた。
脳科学研究所で働いていたときの姿を模しているのだろうか。
彼女は、その身に、白衣をまとっている。
PCのカメラが、自律的に俺へと向いたように見えた。
アマデウス
「えっと? 先輩、そちらの方は?」
真帆が俺の事を紹介している。
その声はもう、俺の耳には入っていなかった。
ただ、見入ってしまう。
今にも、指を伸ばしたくなる。
触れてしまいたくなる。
そこに――
彼女が、いる。
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さん。はじめまして、牧瀬紅莉栖です」
アマデウス紅莉栖
「どうぞよろしく」
臨床心理士
「さぁ、岡部さん。リラックスしてください」
臨床心理士
「あなたは私の声を架け橋として、過去へと降りていきます」
臨床心理士
「どんどん、どんどん降りていって……やがて柔らかい色をした光が見えてきます」
夢を見ていた。
白昼夢だ。
自分が、大きなソファーに身をゆだねて、カウンセリングを受けているのだという自覚はある。
できるだけ心を落ち着けて、臨床心理士の言われるままに、風景をイメージする。
臨床心理士
「その光は何色に見えますか?」
倫太郎
「……赤」
臨床心理士
「赤、ですか。なるほど」
臨床心理士
「その光の中に、あなたの大切な人が立っています。その人はあなたの家族でしょうか?」
倫太郎
「いや……」
臨床心理士
「では、友人? それとも恋人?」
倫太郎
「……恋人……いや、恋人じゃない」
倫太郎
「友人ですらない……」
臨床心理士
「では、どういう?」
倫太郎
「俺と……あいつは……」
脳裏に、まるで間欠泉が吹き上がる時のように、突然、様々な思い出が溢れ出した。
紅莉栖
「ちょっと来てくれませんか」
倫太郎
「ひっ……」
萌郁
「椎名まゆりは、必要ない」
紅莉栖
「話して」
紅莉栖
「あんたがタイムリープしたのは分かってる」
紅莉栖
「まゆりを助けて」
紅莉栖
「β世界線へ行きなさい。まゆりが死なない世界へ」
紅莉栖
「それがあんたのためでもあるし、私のためでもある」
紅莉栖
「岡部は、私のこと、覚えてて……くれる?」
紅莉栖
「ねえ……わ……たし、死ぬの……かな……」
紅莉栖
「……死にたく……ないよ……」
倫太郎
「あああああああ!」
臨床心理士
「岡部さんっ!?」
倫太郎
「俺が刺した! 俺が! 俺がぁっ!」
臨床心理士
「いいですか? 私があなたの肩を叩きます! それを合図に意識がハッキリしてきますから!」
臨床心理士
「3、2、1……はいっ」
ぱんっという音とともに、両肩に振動を感じた。
紅莉栖の苦しそうな顔は一瞬で消え、自分の意識が徐々に覚醒していくのを感じる。
倫太郎
「う……」
ゆっくりと、ソファーにもたれていた身体を起こした。
途端に頭がくらっとして、前にのめりそうになる。
臨床心理士
「大丈夫ですか?」
臨床心理士
「少し休んでいてください。今、タオルを持ってきますから」
心理士は施術室から出て行った。
自分が、全身汗だくになっていることに気づいた。
室内は空調がちゃんときいているから、暑くて出た汗ではないのは確かだ。
倫太郎
「…………」
メンタルクリニックの
催眠療法

というのは、はじめての体験だったが。
妙に、身体が重かった。
外に出ると、池袋の街にはすっかり夜が訪れていた。
12月を目前に控えて、吹く風はすっかり冷たい。
まゆり
「どうだった、オカリン?」
優しい声で俺にそう聞いてきたのは、椎名まゆり。俺の幼なじみの女子高生だ。
今日、カウンセリングにわざわざ付き添ってくれたのだ。
俺は必要ないと言ったのだが、学校を早退してまで来てくれた。
こいつには、心配かけてばかりだな。
およそ3ヶ月前、俺はこのぼんやりした幼なじみを救うことだけに、己の運命を費やしていた。
まゆりは俺にとってずっと、守ってやるべき存在だった。
それが今は、そのまゆりに心配されてしまっている。
今回のカウンセリングを受診するきっかけも、まゆりから強く薦められたからだったし。
倫太郎
「まぁ、たいしたことないってさ」
安心させようと、少しだけ嘘をついた。
実際は、俺の中にかなり強いトラウマがあって、催眠療法は中止され、カウンセリングと薬物投与で様子を見ようということになった。
要するに、薬で対症療法をしつつ自然治癒を待つしか打つ手なし、という判断らしい。
それについて、昨日、真帆に見せてもらった“彼女”のことが影響しているのかどうかは、俺にはよく分からなかった。
タイムマシンや世界線、それに関連して起きた多くの出来事を、臨床心理士には話さずに施術を受けたから、向こうも判断しようがなかったのかもしれない。
なんにせよ、結果についてあれこれ考えることはしないと決めていた。
倫太郎
「なあまゆり。夕飯これからだろ? なにか食べに行くか。奢るぞ」
まゆり
「あ、それなら、秋葉原に行ってもいいかなぁ?」
まゆり
「るかくんとフェリスちゃんがね、久々にオカリンに会いたいって」
秋葉原、か。
ここから俺の自宅までなら歩いて帰れる距離だ。秋葉原に行くのは遠回りどころの話じゃない。
それでも、まゆりの頼みを断るわけにもいかなかった。
倫太郎
「…………」
夏までは毎日のように来ていた……というより、ほとんど住んでいた秋葉原だが、最近は週に三度も来れば多いくらいになっていた。
それだって、大学の帰りに買い物などでちょっとだけ立ち寄るぐらいだ。
駅前の広場に降り立つ。
池袋もそうだが、クリスマスまではまだ一ヵ月近くあるので、その手の飾り付けなどは控えめだった。
きっと12月になった途端、クリスマス一色になるんだろうな。
そのうち、サンタ服を着たメイドさんも現れるはず。
倫太郎
「秋葉原でチラシを配る、サンタ服を着たメイド、か……」
字面だけ見ると意味不明すぎるな。
まゆり
「あ、フェリスちゃんとるかくんだ。トゥットゥルー♪」
フェイリス
「ふニャ~、凶真ぁ~」
るか
「岡部さ~ん。まゆりちゃ~ん」
待ち合わせしていたフェイリスとるかが、俺たちを見つけて駆け寄ってきた。
フェイリス
「会いたかったニャ~!」
躊躇なく俺に抱きついてきたのは、フェイリス・ニャンニャンだ。
いわゆる“メイドさん”であるフェイリスの本名を俺は知っているが、本人曰くプライベートなときでもフェイリスと呼べとうるさい。
今日の服装もいつも通りで、彼女が勤めるメイド喫茶『メイクイーン+ニャン⑯』のメイド服だった。
メイクイーンでもそのうち、サンタ服に衣装チェンジするんだろうか。
倫太郎
「や、やめろよ。みんな見てるだろ」
フェイリスを引き剥がそうとするが、なかなか離れてくれない。
いっそのこと頭のネコミミを奪ってやろうか。
フェイリス
「いいじゃないかニャ。凶真とフェイリスの仲だニャン」
倫太郎
「よくない。あと、凶真っていうのもやめてくれって」
フェイリス
「ニャンで?」
倫太郎
「あの名前は
黒歴史

だからだ」
フェイリス
「うニュ~」
フェイリスは不満そうだが、取り合わないことにする。
俺にとって“鳳凰院凶真”は、封じてしまった存在。
なかったことにした存在。
“彼”はタイムマシンという禁断の発明に手を出し、そのせいでこの世界を司るシステムからの報復を受けた。
幾人もの想いを踏みにじり、大切な命を失い、“彼”自身も大きな心の傷を負ったのだ。
二度と、目覚めさせてはいけない。
俺にはもう、必要ない。
フェイリス
「じゃあ、なんて呼べばいいのかニャ?」
倫太郎
「そりゃあ、岡部とか……」
まゆり
「やっぱり、オカリンって呼ぶのが、可愛くていいんじゃないかなぁ? ね、フェリスちゃん」
ちなみにまゆりは、フェイリスのことをフェリスと少しだけ略して呼ぶ。そっちの方が呼びやすいから、という理由なんだとか。
フェイリス
「ん~、マユシィが言うなら、これからそう呼ぶニャ……。なんだか違和感あるけど……」
納得していない様子ながら、フェイリスはようやく俺から離れてくれた。
倫太郎
「ルカ子も、久しぶりだな」
るか
「はい……」
ルカ子が、嬉しそうに微笑んだ。
相変わらず、女の子のように可憐だな……。
だが、男だ。
まゆりの同級生で、実家でもある
柳林神社

でよく手伝いをしている姿を見かける。
本当は、“ルカ子”と呼ぶべきでもないのだろう。
俺がフェイリスに“凶真”と呼ばないでくれと言ったように。
彼にも、漆原るかという名前があるのだから。
でも、今さらルカ子のことを“るか”と呼ぶのも……その、すごく……照れくさい……。
るか
「なんだか、とても懐かしいような気がします」
るか
「ボク、時々ラボに顔を出すんですけど、岡部さん、最近あんまり来ていませんよね?」
倫太郎
「あ、ああ」
倫太郎
「大学のゼミが忙しいんだ。ATFの準備もあったしな」
その準備が終わっても、今度は真帆やレスキネン教授のこと、さらには……『Amadeus』のことなどがあって、全く落ち着く余裕がない。
だが、その話をこの3人にするのは避けた。
倫太郎
「あと、サークル活動もしてるしな」
るか
「サークルに入ったんですか?」
フェイリス
「なんのサークルかニャ? やっぱり
UFO

とか
UMA

とか?」
俺をなんだと思ってるんだ……。
そういえば、話してなかったんだったか。
まゆりには……言ったような気もするが。
そこで俺は思わせぶりにニヤリとして、目を丸くしている2人を交互に見てから、胸を張って宣言した。
倫太郎
「テニスサークルだ」
るか&フェイリス
「えええーーっ?」
「えええーーっ?」
フェイリスとるかの大声に、周囲を歩く人たちが何事かと振り返る。
フェイリス
「な、なんで、テニスサークルなのかニャ?」
るか
「岡部さん、今までテニスなんてやってましたっけ?」
倫太郎
「初心者に決まっているだろう」
こう見えても運動は大の苦手だ。
持久走ならまゆりに負ける自信がある。
フェイリス
「じゃあ、ニャんで?」
倫太郎
「んー、話せば長くなるんだが……」
倫太郎
「大学のゼミの准教授がテニスサークルの顧問なんだ。それで勧誘された」
フェイリス
「ひとっつも長くないニャ」
倫太郎
「まぁ、聞けって。相手はいちおう世話になってる人だし、サークルに顔を出してみたんだ」
フェイリス
「ふーん?」
倫太郎
「そうしたら、なんと俺にはテニスの才能があるらしくてな。初心者にも関わらず、会員相手に連戦連勝だったんだ」
倫太郎
「どうだ、たいしたもんだろう?」
フェイリス
「…………」
るか
「岡部さんって、やっぱりすごいです!」
倫太郎
「ははは、こんなことなら、プロテニスプレイヤーを目指しておけばよかったかな」
まゆり
「めざせ“うぃんぶるどん”だねー」
フェイリス
「…………」
倫太郎
「ん? どうしたフェイリス? 頭でも痛いのか?」
フェイリス
「どこからどうツッコめばいいのやら……。どう考えても、サークルの会員数を増やすための罠じゃないかニャ」
倫太郎
「は、はっきり言うなよ……。俺も、うすうすそうじゃないかと思ってたけど、考えないようにしてるんだから」
倫太郎
「でも、みんないい人ばっかりなんだぞ」
るか
「じゃあ、サークルの練習が忙しいんですね……」
倫太郎
「ん? あ、いや……練習はあんまりしてない、かな」
るか
「はい?」
フェイリス
「じゃあ、いったいなにしてるニャン?」
倫太郎
「合コン、とか」
るか&フェイリス
「えええええ――――――!?」
「えええええ――――――!?」
2人はまたも駅前に響き渡るような大声を発し、周囲の注目を浴びた。
倫太郎
「そんなに驚くことないだろ。俺だって普通の大学生なんだから」
るか
「そ、そうですよね、すみません……」
るか
「でも……うぅ」
るかはなにか言いたそうにもじもじしている。
フェイリス
「フェイリスというものがありながら、他の女の子たちと楽しく合コン……許せないニャ」
倫太郎
「勘違いするなよ。俺は女の子なんか別に……」
実際、サークルのみんなに合わせてはいるが、俺みたいな
にわか
①①①
リア充

に居場所などなかった。
そもそも、真のリア充たちとの会話になどついていけるわけもなく、華やかな男女の集いを前に、ただただ困り果てているのが実情だ。
俺にとってはあまりに無謀な挑戦だった……。
このことも、フェイリスたちには言わないでおこう。
まゆり
「いいなー。まゆしぃもオカリンと合コンしたいのです」
倫太郎
「なに?」
まゆりが!?
そ、そういうのに興味のあるお年頃なのか!?
まゆり
「だって、みんなで楽しくパーティーするんでしょ~?」
……違ったようだ。
フェイリス
「う~ん、間違ってはいないけど、なんだか微妙にニュアンスが違う気がするニャ」
まゆり
「場所はラボでいいかなぁ。るかくんとフェリスちゃんは、もちろん参加ね。あと、ダルくんや

なえ
ちゃんや
スズさん
①①①①


――」
まゆり
「あ」
まゆりが、バツの悪そうな顔で俺を見た。
倫太郎
「…………」
スズさん、か。
阿万音
あまね
 
鈴羽
すずは

またの名を、
ジョン・タイター


2036年からやってきたタイムトラベラー。
今、必死になって戦うことをあきらめようとしている俺とは対照的に、あきらめず抗い続けている、本物の戦士。
夏以来、ろくに顔を合わせていない。
俺の方から、会うのを避けていた。
俺がラボから足が遠のいたのも、あいつが今、ラボに居候状態だからという理由もある。
なにしろひと月くらい前までは、鈴羽の名を聞いただけで
フラッシュバック

が起こり、それに耐えるのに精一杯だったんだ。
あれから3ヶ月経って、ようやく名前を聞いても大丈夫なようにはなったが。
顔を合わせたら、まだ冷静でいられる自信はなかった。
もちろんあいつが悪いわけじゃない。それを咀める気もない。
だから、鈴羽も俺のことを責めないでほしかった。
はっきり責められたことはないが、あいつの鋭い眼光に射すくめられると、罪悪感のようなものを覚えてしまうのは確かなのだ。
まゆり
「あ、あのね、みんな?」
倫太郎
「んん?」
まゆり
「まゆしぃね、ダルくんと一緒に考えてるおぺれーしょんがあるんだ」
るか
「オペレーション?」
まるで以前の俺みたいだな。
フェイリス
「っていうと? どんな作戦かニャ?」
まゆり
「えっとね――」
まゆり
「『スズさんを笑顔にしよう大作戦』」
倫太郎
「え?」
まゆりのやつ、いきなりなにを言い出すんだ?
……いや、いきなり、じゃないかもな。
こいつなりにずっと考えていたのかもしれない。
だから俺は、つとめて明るく応じることにした。
倫太郎
「聞かせてくれよ、まゆり」
まゆり
「あ……」
まゆり
「うんっ」
まゆり
「えっとね、まゆしぃは思うんだ。スズさんって普段は怖いけど、本当はすっごく優しい人なんじゃないかなーって」
まゆり
「ラボにいる時にね、まゆしぃがソファーでウトウトしちゃうと、いつの間にかタオルケットがかかってたりするの」
まゆり
「スズさんに聞いても『そんなの知らない』としか言わないんだけど……」
るか
「あ、ボクもそういうことありました」
るか
「以前、お父さんに買い物を頼まれて、その帰りに荷物が重くて困っていたんです」
るか
「そうしたら、阿万音さんが通りかかって。なにも言わずに、持ってくださったんですよ」
倫太郎
「へぇ、初耳だな」
るか
「こんなこと当たり前だから、誰にも言うなって」
るか
「あ、言っちゃいましたけど……」
倫太郎
「そっか……」
α世界線での鈴羽は、いつも笑顔をみんなに向けていたし、
颯爽
さっそう
とマウンテンバイクを乗り回すような明るい女の子だった。
それに対して、この世界線の鈴羽は、あまり笑顔を見せるようなタイプではない。
それは鈴羽の生い立ちが影響していた。
ダルから又聞きしたことだが、鈴羽は第三次世界大戦を契機とした国民皆兵制度のために、中学生の頃から軍事教練を受けさせられていたらしい。
さらにその後、タイムマシンがらみの反体制勢力に加担し、激しい闘争の中に身を置くようになった。
その影響で、心の底からの笑顔とは無縁になってしまった、と。
まゆり
「だからね、スズさんを本当の笑顔にしたいのです」
倫太郎
「なるほどな……」
フェイリス
「で、具体的にはなにをするのかニャ?」
まゆり
「クリスマスパーティーだよ」
倫太郎&るか&フェイリス
「クリスマスパーティー?」
「クリスマスパーティー?」
「クリスマスパーティー?」
ハモってしまった。
まゆり
「もうすぐクリスマスでしょう? スズさんね、そういうパーティーをやったことがないんだって」
まゆり
「だからまゆしぃは、スズさんにそれをプレゼントしようと思ってるんだぁ」
話を聞いたフェイリスとるかは、ほぼ同時にうなずいた。
フェイリス
「その話、乗ったニャ」
るか
「ボクも」
まゆり
「えへへ。ありがとう」
まゆり
「オカリンも……参加してくれる?」
倫太郎
「う? そ、そうだな……」
まゆり
「だめ、かなぁ?」
倫太郎
「俺はともかく……鈴羽が嫌がるんじゃないか?」
もう二度と過去へは跳ばない――
俺がそう告げた時の鈴羽の表情は、今でも忘れることができない。
怒りと、絶望に満ちた表情。
つかみかけた最後の希望が目の前で失われてしまったような感覚だったんだろうか。
あいつがそのとき投げかけた言葉は、今でも鋭い棘のように俺の心に突き刺さったままだ。
倫太郎
「鈴羽は、俺を嫌ってるし……」
まゆり
「まゆしぃは、そうは思わないよ」
まゆり
「スズさんはね、オカリンを怒っちゃったこと、後悔してるんじゃないかなあ」
まゆり
「その気持ちを、素直に言えないんだと思うのです」
倫太郎
「そうだろうか?」
まゆり
「うん。きっとそうだよ」
……まゆりにそう言われてしまったら、断るものも断れないよな。
倫太郎
「分かった。少し考えてみるよ」
まゆり
「うん」
るか
「あ、あの、ところで、岡部さん」
と、話に一段落ついたところで、ルカ子がおずおずと訊いてきた。
るか
「……診察は、どうでしたか?」
るかは、どうやらまゆりからカウンセリングの件を聞いていたようだ。
今日、わざわざまゆりを通して会いたがっていたのも、診察の結果が気になっていたのかもしれない。
ルカ子とフェイリスにも、心配かけてしまっているな……。
この世界線では2人は
ラボメン

ではないが、それでもかけがえのない仲間であることに違いはなかった。
倫太郎
「催眠療法というのは初体験だったが、なかなか興味深かったな」
倫太郎
「俺は、今まで催眠術なんかにはかからないと思ってたよ。驚いた」
るか
「かかっちゃったんですか?」
倫太郎
「見事にな」
るか
「へぇ」
フェイリス
「そういうルカニャンも、催眠術とかすぐにかかりそうだニャ」
るか
「そんな……」
倫太郎
「ハハハ、確かに即効でやられるだろうな」
るかは信じ込みやすい性格だから。
さてと、いつまでもここで長話をしていても仕方ない。
腹も減ったことだし、店を探そう。
倫太郎
「なあ、お前たち、なにが食べたい? おごるぞ?」
とりあえず、ヨドバシの方へ向けて歩いていくことにした。
あそこならレストラン街もあるし、ちょうどいいかもしれない。
フェイリス
「やったニャ! 凶真――じゃなくてオカリン、太っ腹ニャン♪」
るか
「ありがとうございます」
まゆり
「えへへ。なに食べようかな~。からあげかな~」
るか
「ジューシーからあげ?」
フェイリス
「マユシィはそればっかりニャ」
連れ立って先に歩いていく3人の後を歩きながら。
ふと、考えてしまう。
ここに、紅莉栖がいたら……と。
この数ヶ月間ずっと、あいつのことは考えないようにしていたのに。
こんな風に思ってしまうのは、やっぱり昨日の体験のせいなんだろう。
昨日、俺が見た、あの表情や仕草。
俺が話した、あの声や話し方。
思い出す。
“彼女”との対話を。
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さん。はじめまして、牧瀬紅莉栖です」
アマデウス紅莉栖
「どうぞよろしく」
倫太郎
「…………」
俺は、なにも反応できなかった。
モニター内の紅莉栖の動きには、確かに少し違和感がある。
だが少しだけだ。しばらく見ていれば慣れるだろう。
それよりも、この声と喋り方があまりにも本人そのまますぎて。
涙があふれそうになって。
それをこらえるのに必死だった。
アマデウス紅莉栖
「あの、先輩。そちらは深夜、というわけではないですよね?」
PCに備え付けられているカメラが、俺から真帆の方へと向き直った。
真帆
「ええ。違うけれど。なぜ?」
アマデウス紅莉栖
「お2人とも、もしかして眠いのではないかと」
俺が、向こうの挨拶に無言だったことを言っているのだろう……。
真帆
「私はさっきまで寝ていたけれど、今はもうシャッキリ目が覚めているわ」
アマデウス紅莉栖
「だらしないのは、相変わらずですね」
真帆
「失礼なことを言わないで」
アマデウス紅莉栖
「では先輩。もうひとつ質問しても?」
真帆
「ええ。なに?」
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さんとは、どういう関係ですか?」
倫太郎
「…………」
真帆
「この前のATFセミナーに参加してくれた学生よ」
真帆
「なかなか研究熱心だと思ったから、連れてきたの」
真帆は、俺が生前の紅莉栖と知り合いだった――ということをこのタイミングで『Amadeus』の“紅莉栖”に伝えなかった。
なぜだろう?
それを伝えると都合が悪い?
それとも、自分で伝えろということか?
アマデウス紅莉栖
「へぇ……先輩にそう言われるなんて、たいしたものですね」
画面の中の“紅莉栖”が、俺に向けて微笑んだ。
倫太郎
「あ、その……」
落ち着け。
アマデウス紅莉栖
「岡部さん、専攻は? やはり脳科学ですか?」
倫太郎
「そ、それは――」
言葉が喉の奥にからんで、詰まり続けた。
落ち着けって、俺。
――分かってはいる。これは、ただのプログラムだと。
声も姿も、交わしている会話さえも、作り物に過ぎないのだと。
だが、そうと理解しているのに言葉が出ない。
なにをどう話していいのか、全く思いつかない。
そして、それ以上に――『はじめまして』という挨拶が、思っていた以上にショックだった。
……ここにいるのは、俺と
あの
①①
3週間
①①①
を過ごした紅莉栖じゃない。
事前に真帆からも注意され、理解したつもりになっていたとはいえ――やはり、本人からそれを告げられるのは、想像以上の痛みを伴った。
精神安定剤を飲んでくればよかったと後悔したが、すでに後の祭りだ。
心拍数が上がり、呼吸も荒くなり始める。頭の芯がくらっと揺れる感じがして、視界が少し暗くなった。いつの間にか、唇がカサカサに乾いている。
アマデウス紅莉栖
「どうかしました、岡部さん?」
“紅莉栖”の声が心配そうな響きを帯びた。
こんな微妙なニュアンスまで再現できるとは、たいした音声ソフトウェアだな……。
真帆
「彼の専攻は脳科学ではないわ」
真帆
「だけど、私たちの研究にとても興味があるんですって」
アマデウス紅莉栖
「そうなんですか」
真帆
「レスキネン教授も気に入ってるみたいだし、いずれは、私の助手にでもしてやろうかと思っているところよ」
倫太郎
「……え?」
真帆がいきなり妙なことを言い出したので、驚いて顔を上げた。
俺が、真帆の助手?
そうなったら俺は、ヴィクトル・コンドリア大に……?
真帆
「あら? お気に召さない?」
倫太郎
「お気に召すとか召さないとかそういう問題じゃなくて――」
真帆
「まぁ、冗談だけれどね」
倫太郎
「冗談?」
真帆
「もしかして本気にした?」
倫太郎
「……信じちゃいない」
一瞬、信じそうになったのは内緒だ。
真帆
「そう。でも、もっともっと勉強してくれれば、あながち冗談じゃなくなるかもしれないわよ?」
倫太郎
「仮にそうだとしても、レスキネン教授の助手がいい」
それはからかわれたことへの強がりだった。
真帆
「教授の助手って、思っている以上に大変よ。あの方は本当に子供だから」
そう言いながら、真帆はさりげなく俺の横まで来て、トントンと数回、腕を叩いた。
なるほど、そういうことか。
軽口をたたいてみせて、落ち着かせてくれようとしたんだ。
倫太郎
「……。わ、悪かった。ありがとう」
真帆
「なんのことかしら」
もっとガサツな人だと思っていたが……実は意外と……?
アマデウス紅莉栖
「――あのぉ、先輩? ちょっと」
と、“紅莉栖”が突然、なんとも人間らしい動きでモニターの中から真帆に手招きをした。
真帆
「……? なぁに?」
アマデウス紅莉栖
「もうちょっとこっち……スピーカーに寄って下さい」
真帆
「……?」
真帆が、スピーカーのそばに耳を持っていく。
なんだか妙な光景だ。そんなことを思っていると。
真帆
「は、はぁっ!?」
真帆がいきなり真っ赤になり、カメラに向かってかみつき出した。
真帆
「そんなわけないでしょうっ。何を言ってるの、あなたっ」
アマデウス紅莉栖
「そんなに照れなくても……」
真帆
「照れてるわけじゃないわ。とにかく、おかしなことを言うのはやめて」
アマデウス紅莉栖
「そうですか?」
真帆
「そうです」
倫太郎
「えと……いったいなんの話を……?」
“紅莉栖”が、真帆になにか耳打ちしたのは確かだろうが。
いったいなにを言った?
真帆が、チラリと俺を見て。
真帆
「…………」
真帆
「……っ」
それからなぜか、顔を火照らせてそっぽを向いてしまった。
あ、ああ~、なるほど……。
その真帆の態度と、俺の知る紅莉栖が言いそうなことを考えてみて、ひとつだけ、思い当たる言葉を見つけた。
倫太郎
「この
スイーツ(笑)

め……」
かつて紅莉栖に向かってよく使った言葉をつぶやくと、気持ちがすうっと楽になった。
おおかた、真帆に対して『お似合いじゃないですか』とか『先輩にもついに春が来ましたね』とか、そんなくだらないことを言ったに違いない。
男女が一緒にいて、ちょっと親しげに会話を交わしていれば、なんでもかんでも付き合っているとか考えてしまうのは、スイーツ(笑)の道をまっしぐらに突き進んでいた紅莉栖そのものだった。
全く、なんてシステムだ。
そんな所まで本物そっくりじゃなくてもいいだろうが――と苦笑してしまう。
もしかしてこいつは、真帆や教授の目を盗んで、こっそり
@ちゃんねる

にアクセスしていたりもするんだろうか?
いや、こいつのことだから、書き込みもしていたりするかもしれない。
かつて紅莉栖は、未来ガジェット研究所の共用PCで、誰もいないときを見計らってコソコソと@ちゃんねるの閲覧をしていたんだよな。
紅莉栖
「ちょ、ちょっと! 入ってくる時はノックぐらいしてよっ」
倫太郎
「クリスティーナ。お前はやるべきことをサボって何を見ていた?」
紅莉栖
「ちょっ、く、来るなーっ」
倫太郎
「フッ」
紅莉栖
「おい! その、“あー、これはひどい、はいはい
ワロスワロス

”みたいな笑い方はなんだ!?」
倫太郎
「案ずるな、クリスティーナ。いや、@ちゃんねらークリス!」
紅莉栖
「その呼び方はやめて」
倫太郎
「俺はすでに気づいていた。そう、とっくに気づいていたのだよ。お前からは@ちゃんねらーとしての匂いのようなものがプンプンと醸し出されていた!」
紅莉栖
「失礼だな! ちゃんと毎日、香りがきつくない香水付けてるぞ!」
倫太郎
「そういう意味ではない。俺が言っているのは魂レベルの話だ。だが、隠そうとするとはいじらしいな、@ちゃんねらークリス」
紅莉栖
「そ・の・名・で・呼・ぶ・な」
魂レベルの話……か。
あの時なにげなく言った言葉が、今は深い意味を持っていたように感じられる。
レスキネン教授がセミナーで言ったように、目の前の“彼女”も、いつか本当に
人工
①①




となって、そこに存在し続けるようになるんだろうか?
そうなった時、肉体が滅んでも魂レベルではこの世界に依然として存在し続けるという状態を、俺たちはいったいなんと呼べばいいのだろう?
生でもなく死でもない、狭間の“存在”。
これはもう科学じゃなくて、哲学か宗教の話かもな……。
真帆
「バカな話はここまでにしましょう。岡部さんだって、こんな中身のないことを聞きたくて来たわけではないわ」
アマデウス紅莉栖
「そうやってごまかすところが、ますます怪しいですね」
真帆
「ウイルスをぶち込むわよ……」
アマデウス紅莉栖
「嘘です。もう言いません」
“紅莉栖”が慌てて頭を下げた。
おそらく、生前の紅莉栖と真帆もこんな感じのやりとりを毎日のように繰り広げていたのだろう――レスキネン教授は見ていて飽きなかっただろうな。
むしろ、かしましいぐらいだ。
真帆
「お騒がせしてごめんなさい、岡部さん。“彼女”と何か話してみる?」
倫太郎
「あ、ああ……」
真帆に促されてPCの前の椅子に座った。
正面のモニターに、“紅莉栖”の顔。
目が合うと、かすかに微笑んできた。
初対面なのに、ここまで柔らかな表情をするような奴だっただろうかと疑問に思った。
だが、そもそも俺と紅莉栖の出会い方は最悪だったわけで、むしろ俺に対するあのツンケンした態度の方が異常だったのだと思い知らされる。
アマデウス紅莉栖
「どんなことでも訊いて下さい。可能な範囲でお答えしますから」
倫太郎
「そう、だな――」
……まずいな。紅莉栖と過ごした記憶が際限なく溢れてきてしまっている。なにから話したらいいものか混乱してきた。
そこで、つい口を突いて出た言葉は――
倫太郎
「――タイムマシンは作れるだろうか?」
かつて、別の世界線で初めて紅莉栖と意見を戦わせたのが、このテーマだった。あのときは俺が一方的に論破され、打ちのめされただけだったが。
アマデウス紅莉栖
「はい?」
真帆
「え?」
アマデウス紅莉栖
「タイムマシン? ですか?」
真帆
「なんの話を始めるのかと思ったら。いきなり何?」
倫太郎
「た、ただのテストだよ。思考実験が出来るかどうか、っていう」
真帆
「ふぅん? どう、“紅莉栖”?」
アマデウス紅莉栖
「そうですね。結論から言ってしまうと、タイムマシンは可能ではない――」
アマデウス紅莉栖
「けれど、不可能とまでは言い切れない、といったところでしょうか」
倫太郎
「えっ?」
言っていることが違う。
紅莉栖
「最初に結論を言ってしまうと、タイムマシンなんていうのはバカらしい代物だということです」
α世界線で、紅莉栖は確かにそう言った。それをはっきり覚えている。
倫太郎
「……俺は、タイムマシンなんてバカらしい代物だと思うけどな」
かつての討論を思い出しながら、紅莉栖自身が言った言葉をぶつけてみる。
アマデウス紅莉栖
「そう決めつけるのは早計ですよ」
倫太郎
「そうかな? 確かに世界中の科学者が、タイムトラベル理論を提唱している。主な理論だけで11あるが……」
倫太郎
「どれも仮説の域を出ない。しかも、理論同士が矛盾し、否定しあっているものまである」
アマデウス紅莉栖
「ええ」
倫太郎
「たとえば、宇宙ひも理論やワームホール理論。これらは、思考実験としてはタイムトラベルを可能にするが――」
倫太郎
「そもそも、宇宙ひもだのエキゾチック物質だの、どこからどう探してくればいいのか見当もつかない」
倫太郎
「つまり現実的ではない」
これもまた、α世界線の紅莉栖からの受け売りだ。
しかし、画面の中の“彼女”は動じなかった。
アマデウス紅莉栖
「それは、科学者がまだ重大な何かを発見できていないからでしょうね」
倫太郎
「それじゃあ君は、タイムマシンをいつか作れると思っているのか?」
アマデウス紅莉栖
「不可能とまでは言い切れない。そう言いましたよ?」
倫太郎
「…………」
やはり微妙に見解が異なっている。
ここがβ世界線だからか? それとも――
倫太郎
「なぁ、比屋定さん」
倫太郎
「“彼女”は、自分がオリジナルの記憶から派生した存在だということは、認識しているんだよな」
真帆
「もちろん」
倫太郎
「じゃあ……ええっと、上手い例が思いつかないんだが……」
倫太郎
「一卵性双生児みたいなことはあるのか? 生まれた時は見分けがつかない。だが、育つにつれて差異が出てくる……とか、そういうこと」
真帆
「それについてはまだ検証中だけれど……」
真帆
「蓄積されていく記憶が異なれば、当然、元の人間とは“違うモノ”になっていくと思うわ。私と教授は、そう考えている」
倫太郎
「そっか……」
パタン……というドアの音が、パーテーションの外で聞こえたのは、その時だった。
真帆
「ん? 教授かしら?」
アマデウス紅莉栖
「あの大きな足音は、そうじゃないでしょうか?」
確かに、室内を歩き回る派手な音が聞こえる。
そして、ドンドンドンという大きなノックとともに、ブースの扉が豪快に開いた。
レスキネン
「リンターロ!」
リ、リンターロ!?
教授は大きく腕を開きながら中へ入って来ると、俺の手をガシッと取ってブンブンと振り回した。
この人、思った以上にフランクだな。
どうやら握手をしているつもりらしいが、教授にそれをやられると、巨大なプロレスラーに技でもかけられているような気分になってくる。
レスキネン
「“Hey,boy! What’s up!?”」
倫太郎
「えっ? あっ、えっと、アイムファインサンキュー、アンド、ユーっ?」
アマデウス紅莉栖
「……岡部さん、ひどい英語ですね」
倫太郎
「だ、黙れ、クリスティーナ」
アマデウス紅莉栖
「クリスティーナ?」
倫太郎
「うぐ!?」
しまった! 教授に気を取られて、ついその呼び方を……!
倫太郎
「なんでもない、気にしないでくれ」
アマデウス紅莉栖
「気になります。なんで私がクリスティーナなんですか?」
倫太郎
「だから、なんでもないと言うのに」
アマデウス紅莉栖
「なんでもない割には、動揺してますよね」
倫太郎
「しつこいぞ、クリスティ――紅莉栖」
アマデウス紅莉栖
「ふむん」
真帆
「ふーむ」
“紅莉栖”と真帆が、そろって考え込んだ。
真帆
「クリスティーナって呼んでいたのね」
倫太郎
「君も、そこに食いつくな」
これ以上詮索をされるのはゴメンだ。教授も来たことだし、なんとか『Amadeus』の記憶の仕組みについて、話を引き戻そう。
倫太郎
「あの、教授。『Amadeus』の記憶を外部から改ざんすることは、可能なんですか?」
俺の質問を、しかし教授は聞いていなかった。
さっきから落ち着きなく、自身の服のポケットをまさぐっている。
そう言えば耳に例の翻訳機が付いていない。
それを探しているのだろうか。だとしたら今の俺の日本語での質問も、通じていない可能性がある。
アマデウス紅莉栖
「私の記憶の改ざんですか。理論上は可能です」
教授の代わりに、“紅莉栖”自身が答えを引き取った。
アマデウス紅莉栖
「たとえば、私が自分の名前を“クリスティーナ”であると思い込む。そう仕向けることも出来るでしょう」
アマデウス紅莉栖
「ただ、普通のデータと違い、記憶データはとても複雑です」
アマデウス紅莉栖
「今のところ、改ざんに成功した例はないと認識しています」
アマデウス紅莉栖
「仮に改ざんに成功をした場合でも、私がそれに気づいて、自分で修復してしまうでしょう」
アマデウス紅莉栖
「私は、私以外アクセス不可の領域に、ログを取っていますから」
アマデウス紅莉栖
「つまり
秘密
①①


日記
①①
ですね」
アマデウス紅莉栖
「その日記と現在の記憶との間に不自然な齟齬があれば、私は高い確率で疑問を抱きます」
アマデウス紅莉栖
「さらに言えば、私の記憶データは定期的にバックアップされています」
アマデウス紅莉栖
「自己修復が不能なほどに改ざんされたとしても、復旧することが可能なんですよ」
アマデウス紅莉栖
「最終バックアップから改ざんされた時点までの記憶は、なくなってしまいますが」
倫太郎
「ふむ、そっか……」
議論の内容はともかく、妙な気分だった。
“紅莉栖”をロードする前に真帆が言っていたことは本当だったな。だんだん、本物の紅莉栖とチャットをしているような気分になってくる。
科学の話になると、こちらが口を挟む余地がないくらい饒舌になるところなど、彼女そのものだ。
倫太郎
「しかし、興味深いな」
俺は改めて“紅莉栖”に語りかけた。
倫太郎
「君は自分のことを“機械”として客観的に語ることが出来ている」
倫太郎
「小説や漫画でよくあるパターンだと、“自分は機械ではない、人間だ”とか言い出しそうなものだが」
アマデウス紅莉栖
「それは全くナンセンスですね」
アマデウス紅莉栖
「人間そのものが、自分をハードウェアとソフトウェアの組み合わせとして語るじゃありませんか」
アマデウス紅莉栖
「医学とか心理学とかそういう名においてね。それとどこが違うんです?」
倫太郎
「なるほど……」
真帆
「さすが、屁理屈なら誰にも負けないわね、この子」
それを聞いた“紅莉栖”は、クリッとしたCGの目で――実際にそうしているのはカメラのセンサーなのだが――真帆を見つめた。
アマデウス紅莉栖
「ねぇ、先輩? 余計なお世話かも知れませんけど、口が悪いのを少し直した方がいいですよ」
アマデウス紅莉栖
「せっかく春が来そうなのに、嫌われたらどうするんです?」
真帆
「なっ? だから、その話に戻るのはやめなさいっ」
アマデウス紅莉栖
「けど、私にとっては、今、一番興味があります」
真帆
「一番どうでもいいことでしょう、そんなのっ」
アマデウス紅莉栖
「これが、人生最後のチャンスだったらどうするんですか?」
真帆
「あなたこそ、その口を改めなさいっ」
レスキネン
「Hahahaha!」
倫太郎
「は、はは……」
手を叩いて笑い出したレスキネン教授につられるようにして、俺も苦笑するしかなかった。
その後も、レスキネン教授を含めた3人で“紅莉栖”と他愛のない話や専門的な話など、さまざまな対話をした。
気が付けば、1時間くらいは喋っていたと思う。
今日はここまでにしましょう、と真帆に言われたときには、寂しさすら覚えた。
たった1時間で、『Amadeus』に感じていた違和感は消え失せ、もはや完全に紅莉栖と話している感覚になっていた。
帰る前に話があるとレスキネン教授に呼び止められた。
レスキネン
「テスターをやる気はあるかな?」
翻訳機を通した教授の言葉に、俺は首を傾げた。
レスキネン
「『Amadeus』には対話サンプルが少なくてね。うちの研究室の子たちを総動員してはいるのだけれどね」
真帆
「とはいえ、『Amadeus』はまだ研究段階だし、誰彼構わず接触させるわけにもいかないわ」
レスキネン
「そこで、クリスの友人だったリンターロに、是非とも協力してほしいんだ」
確かにこの前のパーティーの時点で、テスター云々という話もされたような気がするが。そういうことだったのか。
真帆
「私と教授は、しばらく日本に滞在する予定なの。だからテスターをお願いするのは、その間ということになるわね」
真帆
「あなたにしてもらいたいのは、とにかく“紅莉栖”と対話を重ねてもらうこと」
真帆
「具体的なノルマのようなものは特にないわ。気が向いたら話をするぐらいでいい」
真帆
「ただ、月に2回程度は、私と教授に、テスト経過の報告をしてほしいの」
レスキネン
「それと、申し訳ないけれど報酬は出せないんだ。そこも含めて、考えてみてほしい」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「俺は……」
レスキネン
「亡くした友人をそっくりそのまま再現したAIと話をさせる……。それは君にとって、とても残酷なことだとは、理解しているつもりだよ」
レスキネン
「乗り気でないのなら、断ってくれていいからね」
ついさっき、“紅莉栖”と話したときのことを思い出す。
別れ際。モニターをシャットダウンするときに。
“紅莉栖”はこう言った。
――またお会いしましょう、岡部倫太郎さん。
結局俺は、そうなることを期待してここに足を運んだんだろ?
倫太郎
「やります。やらせてください」
それなりに覚悟を決めて、引き受けたつもりだった。
でも、まさかこんなことになるなんていうのは、全く予想してなかったんだよな……。
倫太郎
「…………」
ポケットに入れた
スマートフォン

に、着信が入った。
ギクリとしてしまう。
今日1日だけで、すでに何度も着信が入っていた。
それをすべてスルーし続けている。
でもさすがに、これ以上無視するのはよくない気がした。
前を歩くまゆりたちに気付かれないよう、できるだけさりげなさを装って、俺は画面の着信ボタンをタップした。
倫太郎
「……はい」
アマデウス紅莉栖
「牧瀬ですけど」
画面に、“紅莉栖”が表示された。
そう、『Amadeus』だ。
教授に入れてもらった
アプリ

により、24時間いつでもどこでも、このスマホから、ヴィクトル・コンドリア大学にあるサーバーにアクセスできるようになったのだ。
真帆
「岡部さんから“紅莉栖”の方へ呼びかけることができるのはもちろんだけれど――」
真帆
「“紅莉栖”の方からあなたに呼びかけてくることもあるから、そのときはうまく対応して」
まさか、こういう事態になるとは予想もしていなかった。
向こうからも呼びかけてくる、だなんて。
しかもこうして画面に顔が表示されるだなんて。
アマデウス紅莉栖
「それとも、“クリスティーナですけど”って自己紹介した方がよかったですか?」
なんだか、すごく……怒っている気がする。
それもそうか。最初の着信を含め8回もの“紅莉栖”からの連絡に、一度も出なかったんだから。
アマデウス紅莉栖
「事情はレスキネン教授や先輩から聞いています。だから最初に一言、こちらから挨拶しようと思っていたんですが」
アマデウス紅莉栖
「まさか8回も居留守を使われるとは思いませんでした」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「なんで黙ってるんですか?」
こんな人の多い場所で、スマホに表示されているリアルな女の子を相手に喋るのは……さすがに、気恥ずかしいだろうが……。
アマデウス紅莉栖
「ま、話す気がないならそれはそれでいいんですが」
アマデウス紅莉栖
「なんなのよ、せっかくいつも以上に人と話せるチャンスだと思ってたのに。バカみたいじゃない。ったく」
アマデウス紅莉栖
「ゴホン」
アマデウス紅莉栖
「いずれにせよテスト中は、私はあなたといつでも繋がっていますから」
アマデウス紅莉栖
「気が向いたら、どうぞ連絡してきてください。こっちも忙しいので、あなたの連絡にいつも出れるかどうか分かりませんけど」
ああ、なんだろう……。
昨日、喋ったときの、妙にお行儀がよくて気さくな“紅莉栖”よりも。
不機嫌で。
強がりで。
人一倍好奇心が強くて。
挑みかかってくるかのような、この態度。
アマデウス紅莉栖
「それでは、お邪魔しました」
倫太郎
「…………」
紛れもなく、牧瀬紅莉栖だと、痛感した。
俺が知る、ともに3週間を過ごした、ラボメンナンバー004、クリスティーナこと、俺の助手である、牧瀬紅莉栖だった。
昨日、レスキネン教授のオフィスで見たときと比べると動きがカクカクしていたが、それはスマホの性能に依存するから仕方ない。
倫太郎
「俺は……」
たったこれだけで、胸の奥が苦しいほどに締め付けられて。
たまらずスマホを握りしめ、その場に立ち尽くしてしまった。
フェイリス
「凶真……じゃなかった、オカリーン! どうしたニャー?」
倫太郎
「あ、ああ、今行く!」
フェイリスたちの後を慌てて追いかけながら、噛みしめる。
確かにレスキネン教授が言った通り、このテストは、俺にとってとても残酷なものかもしれない。
それでも、俺の頭の中では、もう――。
“紅莉栖”とどんな話をするかを、あれこれ考えはじめていた。
比屋定真帆は思い出していた。
後輩である牧瀬紅莉栖と、最後に直接顔を合わせて話した夜のことを。
紅莉栖
「冗談じゃないわッ。こんな大事な時期に、なんで私が……ッ」
その夜、真帆の後輩である牧瀬紅莉栖は、ひたすら独り言を繰り返していた。
ヴィクトル・コンドリア大学の脳科学研究所。
その研究室で、真帆と紅莉栖は同室だった。
そのため、全身から不機嫌オーラを漂わせながらブツブツブツブツとつぶやいている紅莉栖のひとりごとが、否が応でも真帆には聞こえてきてしまうのだ。
少しなら我慢できなくもなかったが、朝からずっとこの調子では、研究にまったく集中できない。さすがにうんざりして、真帆は論文を作成する手を止めた。
真帆
「ね、ちょっと、紅莉栖?」
ヴィクトル・コンドリア大学の各研究所内では、基本的に英語が公用語として使われている。
他の研究員や教授たちが一緒にいる時は英語が当たり前なのだが、同じ日本人である紅莉栖とふたりきりの時、真帆は日本語を使うことが多い。
真帆
「いい加減にしてくれないかしら」
紅莉栖
「え? あ、なにがです?」
真帆が注意したら、荷造りをしていた紅莉栖はきょとんとした顔を向けてきた。
真帆
「うるさくて集中できないのよ。この論文、明日までに教授に提出しないといけないんだけど」
紅莉栖
「もしかして、私……ひとりごと言ってました?」
真帆
「騒音公害で訴えてあげようかしら」
紅莉栖
「すみません」
我に返った紅莉栖が頭を下げ、それから後ろ頭をポリポリとかいた。
真帆
「…………」
一度落ち着くために、真帆は立ち上がって、資料の並んだ書棚へ向かった。何冊か、論文に引用したい文献が必要になったのだ。
だが、その肝心の文献は、棚の最上段にこれ見よがしに積まれていた。
真帆
「ぐっ……」
これは誰かの嫌がらせに違いない……と、真帆は恨めしげに分厚い本を見上げた。
決心してその本に手を伸ばしてみるが、どれだけつま先立ちをしてみても、まったく届く気配はなかった。
虚しく伸ばされた自身の枯れ木のように細い手を見て、唇を噛む。
飛び級で大学に入学し、その後、この研究所に所属してから特に、自分の華奢さを情けなく思ってしまう機会が増えた。
陽が落ちてから外を歩いていると必ず警官に呼び止められ、身分証明証を見せてもバーなどには入れてもらえず、ドラッグストアでは薬品も酒も簡単には買えない。
屈辱的なことに、どこへ行ってもミドルスクールの子どもと間違えられるのだ。20歳だと主張しても誰も信じてくれなかった。
そもそも、アメリカではなんでもかんでもサイズが大きすぎる。
紅莉栖
「あの? 取りましょうか?」
紅莉栖が真帆の危機的状況に気づき、急いで寄ってきた。
だが真帆は意地になってしまい、平静を装い言い返した。
真帆
「大丈夫よ。別に困ってなんかいないもの」
紅莉栖
「困ってるじゃないですか」
真帆
「困ってません」
紅莉栖
「そうですか?」
真帆
「そうです」
紅莉栖
「でも、私も借りて行きたい本があるので」
紅莉栖はそう言うと、書棚の最上段に易々と手を伸ばし、真帆が欲しかった本を手に取った。
真帆
「……背が高い人はいいわね」
紅莉栖
「いえ、私もそれほど高い方では……あっ」
紅莉栖は、自分が言ってはいけないことを口にしたと気づき、手で口をおさえた。
真帆
「…………」
真帆
「ありがとう、助かったわ。日本でなにか必要なものがあったら言ってね。送ってあげるから」
紅莉栖
「はい、ありがとうございます」
紅莉栖は礼を言いながら、真帆に本を手渡してくれた。
それから、ふと思いついたように目をキラキラと輝かせる。
紅莉栖
「ね、先輩? 今の話ですけど」
真帆
「今の話って、どの話?」
紅莉栖
「“ひとりごと”ですよ」
真帆
「え? ああ……」
紅莉栖がまた唐突にアイデアを思いついたようだった。
この後輩にはよくあることで、真帆は慣れっこになっていた。
紅莉栖
「それって“自我”の証明のひとつになるんじゃないでしょうか?」
真帆
「『Amadeus』の?」
紅莉栖
「はい」
真帆
「確かに、あの子がいきなりひとりごとを言い出したらビックリするけれど……」
どんなに優れた人工知能であろうと、そういうプログラムをしない限りひとりごとなど言わない。そもそも、そんな機能を持たせる意味も必要もない。
“ひとりごと”の再現は、自我の発現を観測するにはいい手段のひとつになるかもしれない。
しかし真帆としては、双手を上げてそのアイデアに乗るのはためらわれた。
真帆
「ここでは、めったなことを口にするものではないわ」
真帆
「“魂”は神が人間に与え

たも
うたものである。――そう考える人たちが多いことを忘れないで」
紅莉栖
「…………」
紅莉栖
「そう、でしたね」
キラキラと輝いていた紅莉栖の表情が、すうっと曇っていった。
紅莉栖は、真帆とともに研究所内では異端扱いされていた。
日本人で、女性となれば、なおさらだ。
ましてや紅莉栖は、優秀すぎる。
さすがに露骨な形で嫌がらせをされることはないが、多くの先輩研究員たちから煙たがられているのは間違いなかった。
主任研究員のレスキネン教授が真帆と紅莉栖に目を掛けてくれているおかげで、なんとか平穏に研究に打ち込めているという状態なのだ。
もし先ほどのような発言が彼らの耳に入ったら、どんな難癖をつけられるか分かったものではない。
真帆は紅莉栖の肩をポンと叩いた。
真帆
「まぁ、しばらく日本でリフレッシュしてくることね」
紅莉栖
「それが納得いきません」
真帆
「どうして? 向こうの生活だって楽しいと思うけれど」
紅莉栖
「留学するなら大学院ですよ。なんで高校なんですか」
真帆
「仕方ないでしょう? 日本では、年齢的にあなたはまだ高校生なんだから」
紅莉栖
「…………」
真帆
「教授の思いやりは素直に受けておきなさいな」
真帆は、レスキネン教授から言われた言葉を思い出した。
――紅莉栖はナーバスだからね。足の引っ張り合いでストレスも限界にきてるようだ。このままだと研究者としてダメになるかもしれない。
教授はそう言って心配していたのだ。
真帆
「それに、もともと7月になれば、日本に行かなくちゃいけなかったんだから、ちょうどいいじゃない」
紅莉栖
「はい。実はそれも憂鬱で……」
真帆
「アキハバラ・テクノフォーラム、だったかしら?」
紅莉栖
「講演なんて慣れてないし。なにをどうしていいのか」
真帆
「サイエンス誌に論文が載った以上、これからもどんどん増えるわよ。練習しておかないとね」
紅莉栖
「……やだな」
紅莉栖がポツリとつぶやいた。
真帆もおおぜいの人の前でなにかするのは苦手なので、紅莉栖の気持ちは理解できた。
けれど、権威ある科学誌で論文を発表して、講演を行えるほどになりたいと願う研究者はたくさんいる。
それらの多くを蹴落として栄誉を勝ち取ったのだから、妬まれもするだろう。
周囲に文句を言わせないためにも、きちんと責務を果たさなくてはならないのだ。
――とか言いつつ、私もけっこう性格が歪んでるのかもね。
真帆は内心でそう感じ、軽く自己嫌悪に陥った。
もしかしたら、妬んでいる研究者の中には、自分も含まれるのではないか。そんな恐れにも似た感情を、真帆は常に抱いていた。
それほどまでに、目の前にいる才女はあまりにも真帆とは違いすぎた。
どれだけ手を伸ばしても、届かない存在。
一瞬で、自分を追い抜いていく存在。
紅莉栖
「先輩?」
紅莉栖に不思議そうな表情で顔を覗き込まれ、真帆は慌てた。
真帆
「え、ええっと……! 日本で、お父さんには会うの?」
紅莉栖の両親は、離婚こそしていないものの別居状態だと聞いていた。父親だけが、日本に住んでいるのだという。
口にしてしまってから、プライベートに踏み込みすぎた質問だったろうかと、真帆は少し反省した。
だが紅莉栖は、かすかにはにかんで見せた。
紅莉栖
「実は、父から招待状が届いたんですよ」
真帆
「へぇ?」
紅莉栖
「夏ごろ、新しい理論の発表会をするそうです。それを見に行こうかと思ってます」
真帆
「新しい理論って?」
紅莉栖
「えっと……」
紅莉栖の笑顔が、ちょっとだけ困った様子に変わった。
紅莉栖
「……まだ、詳しく聞いてないんですよね。
相対性理論

に関することらしいんですけど……」
真帆
「ふ~ん?」
歯切れの悪い物言いに真帆は違和感を覚えたものの、それ以上詮索するのはやめておいた。
真帆
「とにかく気をつけて行って来ることね。おみやげ期待しているから」
紅莉栖
「なにがいいですか?」
真帆
「そうね。せっかくアキハバラに行くのだから、なにか珍しいものがいいわ。――アキハバラ、詳しいのよね?」
紅莉栖
「えっ? なんでです?」
真帆
「休憩時間に、よくそういうサイト見てるじゃない」
紅莉栖
「な……っ!?」
紅莉栖
「まさか、『Amadeus』が喋ったんですかっ?」
真帆
「あの子はそんなことしないわ。あなた、私が後ろにいるのに、動画に夢中になってて気づかないことがあるわよ?」
紅莉栖
「はううっ! まさか、バレていたなんてっ。自分の迂闊さが憎い……!」
珍しいことに、紅莉栖が頭を抱えている。
その様子に、真帆は心底驚いた。
紅莉栖
「先輩、お願いです、どうか他の人たちには内密にっ」
真帆
「別に隠すことはないと思うけれど……」
なんだか、紅莉栖と秘密の共有をできた気がして、真帆は嬉しくなった。
真帆
「分かった。言わないでおくわ」
紅莉栖
「助かります……」
心底、ホッとした様子を見せる紅莉栖に、真帆は続ける。
真帆
「――ねえ」
真帆
「あなたが日本から戻ってきたら、『Amadeus』がひとりごとをつぶやけるかどうか、ふたりで検証してみましょう」
紅莉栖
「はい!」
心底嬉しそうに、紅莉栖は応えてくれた。
未知への探求が好きで好きでたまらない、生まれついての科学者の顔。まるでおもちゃを与えられた幼子のように無邪気で破戒的で、そして、とても美しい。
そんな顔を見せる後輩のことが、真帆は割と好きだった。
……だが、しかし。
真帆と紅莉栖、ふたりの交わしたその約束は、結局、果たされることはなかった。
それどころか、二度と再会することさえなかったのだ。
真帆
「…………」
日本にやって来てから、こうして紅莉栖のことを思い出す機会が、ますます増えた気がする。
その理由が、日本に来たからなのか、あるいは『Amadeus』の“紅莉栖”と話すことが多くなったからなのかは、真帆自身にも分からないでいた。
それとも――。
岡部倫太郎という青年と会ったからだろうか。
真帆
「私の知らない紅莉栖を知っている人、か……」
思えば真帆は、はじめて会った日にその岡部倫太郎の前で涙をこぼしてしまっていたのだった。
あまり思い出したくない出来事であり、真帆は恥ずかしさのあまり急いでそのときの記憶を振り払った。
アマデウス紅莉栖
「さては岡部さんのことを考えていましたね?」
真帆
「……!?」
ギクリとして、PCモニタを見た。
アマデウス紅莉栖
「フフフ」
真帆はちょうど、“紅莉栖”と対話中なのだった。
真帆
「ええ、そうね」
真帆は肩をすくめ、“紅莉栖”のいたずらげな笑みを受け流した。
真帆
「不思議だと思わない? レスキネン教授が、岡部さんのことをあそこまで買っているなんて」
真帆
「二度しか会ったことのない相手なのに、あなたのアクセス権も渡してしまったし」
真帆
「あそこまで信用していいのかしら」
アマデウス紅莉栖
「誠実そうな人でしたが」
真帆
「そう? 向上心があるのかないのか……。少しつかみどころがない人だったわ」
アマデウス紅莉栖
「好きなんですか?」
真帆
「あなたねっ」
真帆はたまらず立ち上がり、PCモニタに詰め寄った。
しかし“紅莉栖”は涼しい顔だ。
アマデウス紅莉栖
「別に取り繕う必要はないでしょう」
アマデウス紅莉栖
「昨日は本人の目の前だったから仕方ないにしても、今は私たち2人きりですし」
もともと紅莉栖は堅そうに見えて、こういうゴシップ話が意外と好きだった。ゴシップというより……ガールズトークと言った方がいいのかもしれないが。
真帆はため息をついて、イスに座り直した。
誰もいないブースに、オフィスチェアーの軋んだ音が響く。
真帆
「本当にそんな感情はないわ。岡部さんがどんな人なのかさえ、まだよく分かっていないのだから」
アマデウス紅莉栖
「なるほど。まあ、そうでしょうね」
“紅莉栖”はあっさり納得した。
真帆としては、それはそれで少し釈然としないところがある。
真帆
「ただ、気になるのは……」
アマデウス紅莉栖
「なんです?」
真帆
「……いえ、なんでもないわ」
昨日から今日にかけて、真帆は研究もそっちのけで考えていたことがある。
――紅莉栖と岡部は、どんな関係を築いていたのだろう。
――紅莉栖は、死までの日々を、どんなことを思いながら過ごしていたのだろう。
それを、できれば岡部に聞いてみたかった。
アマデウス紅莉栖
「先輩。私のオリジナルと岡部さんは、知り合いだったんですか?」
まるで心を見透かされたような気がして、真帆はハッとした。
真帆
「……どうして分かったの?」
アマデウス紅莉栖
「岡部さんの話や、先輩の反応などを聞いて、判断しました」
アマデウス紅莉栖
「状況証拠を積み上げただけですが。証明しましょうか?」
真帆
「別にいいわ。あなたのことだから、反証の余地もないでしょう」
証明などという言葉を持ち出すあたり、紅莉栖も真帆も、実に理系人間である。
アマデウス紅莉栖
「相手だけが一方的に“私”との記憶を持っているのでは、対話に齟齬が出てしまう可能性が高いです」
真帆
「彼と話していく上で、どうするのかはあなたに任せる」
真帆
「岡部さんの方から切り出してくるかもしれないし。なんならあなたから聞いてみてもいいわ」
そもそも、岡部自身が『Amadeus』にアクセスしてくるかどうかすらも、現時点では分からない。決して、対話を強制しているわけではないのだ。
アマデウス紅莉栖
「ふむん。
知らない
①①①①
フリ
①①


する
①①
というのは、嘘をついているのと同じことになりますよね」
アマデウス紅莉栖
「興味深いデータが取れそうな気がします」
真帆
「…………」
そう、確かに興味深いと、真帆も考えている。
だがそれは『Amadeus』を研究している側としての意見だ。
しかし、岡部倫太郎という青年にとってはどうだろう。
これは、彼が胸の奥に抱いている傷に塩を塗る行為ではないのか。
そこまで思いを巡らせたところで、真帆は自分が感傷的になりすぎていることに気付いた。
真帆
「やっぱり、日本に来たせいなのかもしれないわね……」
来日して1週間以上が経つ。こっちに来たら真っ先に、献花をしたいと考えていた。
にもかかわらず、真帆はいまだに、紅莉栖が亡くなった場所――
秋葉原ラジオ会館

に行くことができずにいた。
12月に入って、空が暗くなる時間はますます早くなってきていた。
コスプレ

ショップで買うべきグッズをじっくり吟味している間に、外の景色がすっかり夜になっていたことに、
中瀬
なかせ
 
克美
かつみ
は驚いた。
転がしているキャリーバッグはずっしりと重みを感じる。今日買ったものを無理矢理詰め込んだため、明らかにパンパンになっていた。
それでも、コスプレ趣味で知り合った友人たちと丸一日かけて買い物をするという、とても充実した休日を過ごすことができた。
心地良い疲労感。
駅への帰り道を歩く足取りは軽い。
まゆり
「フブキちゃん、スキップしちゃいそうだね~」
フブキ
「あ、分かる?」
フブキ
「だって今日はいっぱい買い物できて超楽しかったもん。満足満足♪」
まゆり
「フブキちゃんのおかげで、まゆしぃも楽しくお買い物できたよ~。付き合ってくれてありがとう~」
フブキ
「マユシィのためならお茶の子さいさいだってー」
友人の椎名まゆりにそう答えつつ抱きつこうとしたが、

まゆりはささっとそれを避けた。
まゆりはぼんやりしていそうに見えて、運動神経はいいのだ。
ちなみに『フブキ』というのは、中瀬克美のコスプレネームである。
克美は高校2年生。同学年のまゆりとは対照的にボーイッシュでスポーティな外見をしており、男装コスプレをすれば彼女を取り囲む
カメコ

は男性よりも女性の方が多くなるくらいである。
フブキ
「これで冬
コミマ

はなんの心配もなくなったね」
この日は、克美を含め友達4人で、コスプレ衣装用の材料を買いそろえるべく池袋の
ユガワヤ


乙女ロード


東京ハンズ

、秋葉原に移動してさらにコスプレショップを何軒かはしごしていた。
すべては、きたるべき年末の冬
コミマ

へ向けての最後の準備である。
カエデ
「そうは言っても、衣装を作るのはほとんどまゆりちゃんだよ……?」
カエデ
「あんまり無理しないでね、まゆりちゃん……」
心配そうにそう言ったのは、カエデだ。
本名は
来嶋
くるしま
かえで。本名をそのままコスプレネームに使っている。克美よりも3歳年上の女子大生である。
カエデは極めて女性的で、スリーサイズがまるでグラビアアイドルの公称値のように完璧に整っているが、性格は引っ込み思案だった。
大学では、ミスコンに出場するよう何度も説得されているというが、“リア充っぽいイベントはなんだか怖い”という理由で断り続けているらしい。
それでも、克美たちと一緒にコミマなどのイベントでコスプレをすることだけは、楽しみにしていた。
あまゆき
「だったら、この際だからまゆりちゃんを手伝って、みんなで衣装作りをしない?」
あまゆきが、そう提案した。
端正に整い凛とした目鼻立ちをしているのに、全体的にふんわりと優しい雰囲気に包まれている女性だ。同性の克美から見ても美しい人だと思う。
碧みがかった真っ直ぐな眼も、美女にありがちな傲岸不遜なものではなく、とても人なつっこそうな光を浮かべて輝いていた。
本名は、
阿万音
あまね
 
由季
ゆき
という。
明路
めいじ
大学の4回生で、カエデと同じサークルなのだという。4人の中では一番年上だ。
一度はコスプレ趣味を引退して
就活

に専念しようとしたものの、わずか半年で我慢できなくなり、あっさりと趣味を復活させていた。
以来、克美たちとも行動を共にする機会が増えたのだ。
まゆり
「そんな、お手伝いしてもらうなんて、悪いよ~」
みんなに一斉に笑顔を向けられ、まゆりは逆に慌てた様子で首を左右に振った。
まゆり
「今日だって、材料代を半分以上も肩代わりしてもらっちゃったでしょ? まゆしぃはそれだけで本当に嬉しかったから」
カエデ
「私たちの衣装を作ってくれるんだから、出さない方が申し訳ないよ……」
由季
「それに私、まゆりちゃんみたいに素敵な衣装を自分でも作ってみたいなって、ずっと思ってたの」
フブキ
「うんうん。マユシィの衣装ってクオリティ高いもんね! ホント、感謝してるんだから」
由季
「ね? まゆりちゃん、ぜひ手伝わせてほしいな」
まゆり
「えへへ~。うん。じゃあ、みんなで作ろう♪」
自分の作った衣装を誉められるのが、まゆりにとってはなによりも嬉しいことだということを、克美たちはよく知っていた。
まゆり
「あ、でもそれとは別にね、まゆしぃはみんなにお願いしたいことがあったのです」
フブキ
「お願い?」
まゆり
「実は……」
そこでまゆりがもったいぶって3人に話したのは、いまや日本人にとって年末の恒例行事となった一大イベントについてだった。
まゆり
「クリスマスパーティーを開くから、由季さんもカエデさんもフブキちゃんも、是非来てほしいなって」
フブキ
「クリスマスパーティーかあ」
まゆり
「うん。どうかな~?」
フブキ
「私行きたい! 行きたい行きたい!」
克美のイブの予定は家族との食事会だけだったので、即座に手を挙げた。
学校の友人たちはどいつもこいつもイブに予定を入れたがらず、どうせカレシとよろしくやってんだろこんちくしょうと軽くふてくされていたところだったのだ。
カエデ
「私も、大丈夫だよ……」
カエデもうなずく。
ところが、由季だけは答えることに躊躇していた。
由季
「……私は、どうしようかな」
まゆり
「え、もしかして、先約があるの?」
フブキ
「そりゃ、由季さんほどの美貌の持ち主なら、イブのデートに誘ってくる男子は山ほどいるでしょ」
まゆり
「ええ~?」
由季
「そ、そんなことないよ」
フブキ
「そうなの? だったら私がほっときません!」
由季
「フブキちゃんとクリスマスにデートできるなら、他のどんな予定よりも優先しちゃう」
フブキ
「はあ~、由季さんラブ~」
カエデ
「くすっ、フブキちゃんはまゆりちゃん一筋じゃなかったの?」
フブキ
「マユシィだってカエデちゃんだって大好きだぜぃ」
克美は、素早くカエデに抱きついた。柔らかくていい匂いのするカエデにこうしてセクハラするのは、日常茶飯事である。
まゆり
「あ、それでね、由季さん?」
まゆり
「今度、まゆしぃに美味しい
キッシュ

の作り方を教えてくれないかなぁ?」
由季は料理が得意で、最近よく、まゆりに料理を教えていた。
克美やカエデもその“阿万音由季料理教室”には、たまに参加させてもらっている。
由季
「いいよ。なんのキッシュがいい?」
まゆり
「うーんとね、まゆしぃは、ほうれん草とマッシュルームがいいなー」
カエデ
「ハムとトマトとベーコンも美味しいよ?」
フブキ
「ああ、想像しただけでよだれが……」
まゆり
「んあ~、そっかぁ。迷っちゃうのです……」
由季
「それじゃあ、両方教えてあげる」
まゆり
「本当? そうだよね、いろんな味があった方がみんなも喜ぶもんね~」
由季
「もしかして、クリスマスパーティー用に?」
まゆり
「うん、そうなのです。あと1ヶ月もないけど、それまでにマスターしたいなあって」
由季
「じゃあ特訓だね。いつにする? 明日は?」
まゆり
「うん! まゆしぃは大丈夫」
とっさに自分のスケジュールを頭の中で確認する克美である。
フブキ
「ああ~、明日かぁ。私、友達と約束が……」
カエデ
「私はバイト……」
克美としてはすっかり参加する気満々でいたためか、がっくりとなってしまった。
由季のおいしいキッシュを心ゆくまで堪能したかった……。
そんな想像をしたら、克美のお腹がぐるぐると鳴った。
そう言えばそろそろ夕食の時間である。
由季とまゆりは、待ち合わせ場所と時間をテキパキと決めていった。
由季
「場所は、私の下宿先だと、ちょっと遠いから……」
まゆり
「ラボはどうかな~?」
由季
「うん、いいよ」
まゆり
「頑張って作り方覚えるぞ~」
由季
「楽しいパーティーになるといいね」
まゆり
「うん。まゆしぃ、サンタさんの衣装を作るから、みんな着てくれる?」
由季
「わあ。コミマの分の他に、さらに作るんだ! まゆりちゃん、気合い入ってるね」
まゆり
「まゆしぃはやる気満々だよ~」
まゆり
「ふむぅ」
まゆりはそう言って気合いを入れ、軽くガッツポーズして見せた。
カエデ
「サンタ服なら、可愛いミニスカートのやつがいいな。白のニーソに赤いブーツとか合わせて……」
フブキ
「えー? カエデちゃんはいいけど、私、そういうの似合うかなぁ」
克美は自信なさ気にまゆりや由季に問いかけてみる。
由季
「本当は可愛い服の方が好きなくせに~」
図星を突かれ、克美はぐうの音も出ない。
自分の容姿が男の子のようであることがコンプレックスなのだ。
だから似合わないということも自覚している。
それでも、心はしっかり乙女なので、可愛い服を着てみたい願望はあった。
まゆり
「まかせてまかせて~。まゆしぃ、フブキちゃんに似合うのちゃんと作るから」
フブキ
「おぉっ、さすが俺の嫁! 結婚して!」
カエデ
「フブキちゃん、調子いいんだから」
まゆり
「ダルくんみたいなこと言っちゃだめだよ~」
フブキ
「うっ。あのヘンタイ紳士さんと一緒にされるなんて、ショックかも……」
由季
「ちなみに、まゆりちゃんも一緒に着るんだよね、サンタさんの衣装」
まゆり
「え~?」
由季
「え~、じゃなくって。可愛いんだから、もっとコスしようよ」
まゆり
「でも、まゆしぃは作るの専門だから……」
フブキ
「異議あり。そんなのもったいないデス」
まゆり
「もう、フブキちゃんまで~」
由季
「それに――」
由季
「岡部さんも、まゆりちゃんの素敵な姿、見たいんじゃないかな」
まゆり
「ふええ? オカリン?」
まゆりは、いきなりその名前を出されて、素っ頓狂な声を上げた。
フブキ
「オカリンさん? ああ、マユシィのカレシね」
克美も何度か会ったことがある。
背が高いが顔色はあんまり良くなくて、身体も細くて、すごく寂しそうに笑う人っていう印象があった。
ただ、まゆりの話を聞く限りでは、ほんの半年前まではもっと傲岸不遜にして傍若無人、にもかかわらず優しくてリーダーシップがあるという、全然違う印象だったらしい。
まゆりによる心象フィルターが入っているので、どこまで正確なのかは克美にはよく分からないが。
まゆり
「ふええええ……」
まゆりは克美の“カレシ”という言葉に、ますますオロオロした。
まゆり
「あの、あのね、フブキちゃん、オカリンとまゆしぃは、そういうのじゃないよ?」
由季&フブキ&カエデ
「またまたぁ」
「またまたぁ」
「またまたぁ」
克美どころか由季もカエデも、まゆりの言葉を信じようとしない。
実際、オカリンこと岡部倫太郎とまゆりの2人は、恋人――というよりまるで長年連れ添った夫婦のようにしか見えないのだ。
まゆり
「ホントだよ~」
まゆり
「だって、オカリンには他に好きな人がいるのです」
フブキ
「えっ!?」
特に気にも留めていないようにサラリと言ったまゆりの言葉に、克美は目を丸くした。
由季
「そ、そうなの?」
カエデ
「本当に……?」
まゆり
「うん」
ま、まさかそうだったとは……。
そこで真っ先にフォローを入れたのは、一番年上の由季だった。
由季
「えっと……ごめんね。なんか余計なこと言っちゃった……?」
まゆり
「ううん。まゆしぃとオカリンは幼なじみで仲良しさんっていうだけだから、大丈夫だよ」
由季
「そう……」
まゆりの笑顔が、克美にはとても切なく思えた。
無性に、この同い年のふわふわした女の子のことを、抱きしめてあげたいという衝動に駆られる。
まゆり
「それよりそれより~」
気まずい空気を吹き飛ばすように、今度はまゆりがニコニコしながら由季に迫った。
まゆり
「ねぇ、由季さんは~?」
由季
「え? 私?」
まゆり
「うん。さっきの話。やっぱりクリスマスは、彼氏さんと過ごすのかなーって」
由季
「あはは、本当にいないってば」
まゆり
「そう……?」
由季
「みんな誤解してるよ。私、そんなにモテないし。ここだけの話、年齢と彼氏いない歴が一緒だもの」
フブキ
「ええ~!?」
まゆりに続き由季にまで意外な事実が出てきて、克美は仰天しっぱなしである。
カエデ
「そうなんですか?」
由季
「そ、そこまで驚かれるなんて……」
まゆり
「じゃあ~、由季さん、えっとぉ……」
まゆりが、モジモジしはじめた。
由季
「……?」
まゆり
「ダルくんなんて、どうかなぁ?」
由季
「え、橋田さん?」
まゆり
「うんっ♪」
フブキ
「待った! 何を言い出すの、マユシィ!? 橋田さんはヘンタイ紳士なんだよ!」
カエデ
「由季さんが毒牙にかけられちゃう……」
克美からもカエデからも散々な評価をされている橋田至という男は、まゆりと同じサークルに所属している大学生だ。
その人となりは、重度のオタク。二次元も三次元もいけるというハイブリッド。
そして、克美の言う通り、ヘンタイ紳士である。
とにかく四六時中、恥も外聞もなくヘンタイっぽい言動を取る。
ヘンタイだ、と指摘すると『違うよ、ヘンタイ紳士だよ』と口答えをする。
そういう危険人物だ。
しかし、当の由季はといえば、迷惑そうな態度を取るどころか、少し寂しそうだった。
由季
「ん~、橋田さんはいい人だけど、なんていうか……」
由季
「私みたいな子、あんまり好きじゃないんだと思う」
まゆり
「ええっ!?」
そのまゆりの驚き方は、普通ではなかった。
驚きのあまり、手にしていたキャリーケースの取っ手を、地面に落としてしまうほどだ。しかもそれに構おうとせずに、由季に必死になって訴えかけている。
まゆり
「そ、そんなことないよ? ダルくんはね、えっとね、由季さんに萌え萌えきゅーんだよ。きっとそうだよ。まゆしぃが保証します」
まゆり
「夏コミマではじめて会ったときも、そんな感じだったでしょ?」
由季がまゆりと知り合ったのは、4ヶ月前の夏コミマのときだ。
克美とカエデはまゆりのコスプレ衣装を着て参加していた。
会場で、1人で参加していた由季をカエデが見つけ、合流。
その後みんなで行った打ち上げの席に、まゆりの友人である橋田至もいた。
由季と至が打ち解けた様子で話しているのを、克美もはっきり目撃していた。
それ以来、由季とまゆりと至は友人になり――由季は、まゆりが所属しているサークル『未来ガジェット研究所』にもたまに足を運ぶほどになったらしい。
つまり夏コミマ以来ずっと、由季と至との交流も続いているということになる。
にもかかわらず、由季は苦笑して首を左右に振った。
由季
「ううん、見てれば分かるよ。なんとなく避けられてるなぁって」
由季
「クリスマスパーティーも、だから、私は行かない方がいいんじゃないかなって思って」
まゆり
「あう……」
由季
「橋田さんは、もっとこう、妹系? の女の子がタイプじゃないのかな」
由季
「しかも、ものすごく気が強くてね、お兄ちゃんを尻に敷いちゃうような妹」
まゆり
「あううう……」
由季
「たとえば、
鈴羽
すずは
さんみたいな感じ?」
まゆり
「そ、それは……。それは……っ」
まゆりはなぜか、今にも泣きそうな表情で由季をじっと見ていた。
なにかを言いたそうにしているのだが、唇を震わせるだけで言葉にできずにいる。そんな様子だった。
由季
「まゆりちゃん……?」
まゆり
「え……えへへ……。な、なんでもないのです……」
明らかになんでもないようには見えない。
克美は、そんな彼女を見ていられなくなり――
自分の衝動を解放した。
フブキ
「マユシィ、そんな顔しないで。マユシィは笑ってるときが一番かわいいんだから」
フブキ
「ね、ほらほら、笑わないとくすぐっちゃうぞ~」
フブキ
「こちょこちょこちょ」
まゆり
「ひゃっ、わふ、やめ……っ」
こっそりまゆりの背後に回り込んだ克美は、腋の下に手を回してくすぐり攻撃を見舞った。
まゆり
「にゃは、あはは、ひふぅ……っ」
フブキ
「観念した?」
まゆり
「も、も~。フブキちゃんは、イジワルさんだ……」
フブキ
「ん~、マユシィ、かわいすぎ~!」
笑いすぎて涙目になっているまゆりに、克美は今度こそ抱きつくことに成功した。そのまま、人目もはばからずほおずりする。
フブキ
「マユシィ、好きだよー。大好きー」
まゆり
「わぁー!? ちょ、ちょっと、フブキちゃ~ん?」
フブキ
「このまま家に持って帰って、ずっとペロペロしたーい」
まゆり
「それは困るよぅ」
フブキ
「困ってもいいから、結婚してくれーっ」
まゆり
「無理だってば~」
逃げようとするまゆりだが、フブキはその身体をなおも抱きしめ、キスの吶を降らせる勢いだった。
フブキ
「はぁはぁ……なんか疲れた」
まゆり
「それは、まゆしぃのセリフだよー」
結局克美は、駅前に到着するまでまゆりにベタベタし続けた。
心はすっかり癒されたものの、逃げようとするまゆりを捕まえるのにやたらと体力を使ってしまった。
なんにせよ、すっかり満足した克美は――
フブキ
「……!」
脳裏に自分の意思に関係なく浮かんだ映像にギクリとして、まゆりに向き直った。
フブキ
「……ねぇ、マユシィ?」
まゆり
「うん? なあに?」
フブキ
「冬コミマ、一緒にコスしようね?」
まゆり
「あはは。この前話したよ? 冬コミマはね、まゆしぃは作る方に専念します」
フブキ
「それでもいいからさ、とにかく冬コミマも、この4人で絶対一緒に参加しよ? ね?」
まゆり
「当たり前だよ~。そのために今日、みんなで買い物したんだよ?」
フブキ
「……だよね。でも、約束だよ?」
まゆり
「うん。約束」
カエデ
「…………」
まゆりと由季は、克美とは別の電車に乗るため、駅前で別れた。
まゆり
「それじゃあね~」
カエデ
「おやすみなさい、まゆりちゃん、由季さん」
由季
「またね」
まゆり
「トゥットゥル~♪」
フブキ
「バイバイ!」
フブキ
「…………」
克美は、まゆりと由季が見えなくなるまで、その場にじっと立って2人の後ろ姿を目で追い続けていた。
涙がこぼれ落ちそうになって、それをこらえるために、上を向く。
カエデ
「……フブキちゃん?」
フブキ
「えっ?」
隣にいたカエデが、克美の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
カエデ
「どうしたの……?」
フブキ
「ごめん、なんでもない」
カエデ
「……なんでもなくないよ」
フブキ
「…………」
カエデ
「もしかして……まゆりちゃんがどうかしたの?」
フブキ
「…………」
カエデ
「お願い。話して」
カエデにそう言われても、克美は話すことをためらった。
言っても、どうせ信じてもらえない。そうに決まってる……。
カエデ
「今日のフブキちゃん、いつもよりテンション高かった。すごく無理してる感じがしたもの」
フブキ
「気付いてたんだ……」
カエデ
「気付くよ……」
克美とカエデは、2年近くの付き合いになる。歳が離れている分、姉妹のように仲がよかった。だからこそ、カエデはこういうときは鋭い。
カエデは控えめな性格をしているが、その分、周囲のことをよく見ていた。
克美が分かりやすい性格をしていることもあって、カエデの前ではどうしても嘘はつけないのだ。
克美は観念して、ポツリと
それ
①①
を口にした。
フブキ
「マユシィがね」
カエデ
「うん」
フブキ
「死んじゃうんだ」
カエデ
「え……っ?」
カエデ
「なに? どういうこと?」
克美は、思い出す。思い出したくもない悪夢。しかしイヤでも頭の中に浮かび上がってくる、その光景を。
フブキ
「……夢を、見るんだよ」
カエデ
「夢……?」
フブキ
「夏ぐらいからかな。毎日毎日、夢の中でマユシィが死んで、そのたびに私やカエデちゃんは泣いて泣いて、でもどうすることも出来なくて……」
カエデ
「…………」
フブキ
「ゆうべ見た夢なんか、最悪だった」
フブキ
「私たちの目の前で突然マユシィが倒れて……動かなくなっちゃうの」
フブキ
「そのマユシィをね、オカリンさんが、悲鳴を上げながら抱きしめて……」
フブキ
「大きな声で叫んでて……」
フブキ
「ねぇ、どうしちゃったんだろう、私。なんでこんな夢ばっかり?」
カエデ
「お、落ち着いてフブキちゃん。たぶん疲れてるせいよ」
フブキ
「そうかなぁ? そうなのかなぁ?」
カエデ
「だって、まゆりちゃん、今日もすごく元気だったでしょう?」
カエデが、優しく克美の肩を抱いてくれた。
カエデ
「……だから、大丈夫」
フブキ
「私、やだよ……マユシィが死んだりしたら」
カエデ
「そんなことありえないわ。絶対に」
フブキ
「絶対に?」
カエデ
「絶対よ」
フブキ
「う、うん……」
カエデに慰められて、克美も少し落ち着いた。
この年上の友人がいてくれてよかった、と思った。
カエデ
「とにかく気のせいよ。そんな悪いこと、起きるはずがないでしょう?」
いたわるように、カエデが克美の肩へ回した手に、きゅっと力が込められた。そうして抱きしめてくれていると、克美は安心できた。
フブキ
「ゴメンね、変なこと言って……」
けれど。
克美はその夜も、やはり悪夢を見ることになった。
鈴羽
「…………」
阿万音
あまね
 
鈴羽
すずは
は、堪忍袋の緒が切れる寸前だった。
その原因は、同じ部屋にいる青年――鈴羽の親類――である。
橋田
はしだ
 

いたる
。通称ダルと呼ばれる彼は、明らかに肥満体と分かる体を猫背にして、緩みきった表情でPCのモニターに向かっていた。
11時になろうかという時間に起き出してきて、カップ麺を一気に3つも平らげた後、のんびりとネットサーフィンに興じているのだ。

「…………」

「……ん? お? おおお!?」

「なんですとーッ!?」

「ちょっ、『
リア充滅せP

』と『
ぱるてのん

』氏って夫婦だったん!? なにそれ聞いてねえし!」

「っつーか“リア充滅せ”とか名乗ってる本人がリア充じゃん! リアルに嫁いるとか、きたない、きたなすぐる!」

「ぐぬぬ……
ぼっち
①①①
の味方だと思ってたのに……」

「こんなん、戦争だろ……。炎上必至だろ……」

「うお、と思ったらもう@ちゃんも
ツイぽ

も炎上してた件について!」

「僕としたことが出遅れたっ。これまでの流れをちゃんとチェックしないと――」
鈴羽

父さん
①①①
!」

「……はい?」
鈴羽は至のことをそう呼んでいる。
事実、そうなのだから、それ以外の呼び方などなかった。
なにしろ鈴羽は2036年からタイムマシンに乗ってやってきたタイムトラベラーであり、この橋田至を父として
7年後
①①①


生まれる
①①①①
のだから。
鈴羽
「いい加減にしなよ。1日中ゴロゴロして、食べるかネットを見るかゲームをしてるかばっかり」
鈴羽
「即席麺やお菓子ばかり食べてると体に病変を生じるって警告しても、直そうともしない」
実際、PCデスクの上にはスナック菓子のかけらがいくつも散らばっていた。定期的に掃除しているにも関わらず、それが減る気配はない。
鈴羽
「運動だって、しろって言ってるのに全然しない」
鈴羽は自分の小言が多くなっていることを自覚しつつも、言わずにはいられなかった。
鈴羽
「そんなんじゃ将来――」
と、鈴羽はそこで、至が自分の話を聞き流していることに気付いた。
明らかに眼鏡の奥の視線がPCのモニタに行っているし、鈴羽の死角になるような場所でマウスをクリックしている。
鈴羽
「話を聞きなさいっ」
鈴羽は父に背後から近づくと、あらかじめ手元に隠し持っておいた整髪スプレー缶をその首筋に押し当てた。

「ひいい!」
至はそれを銃と勘違いしたらしく、弾かれたように両手をホールドアップする。
この手の脅しには効果があった。
第三次世界大戦をくぐりぬけ、戦乱と混沌が支配している2036年からやってきた鈴羽は、必要とあらばいつでも銃を抜き、引き金を引く事ができる――そう伝えてあるためだ。

「……す、鈴羽。やめてくんないと、父さん怒っちゃうお?」
鈴羽
「怒られるのは父さんの方」

「はい、スミマセン」

「で、でもさ、僕の秘密の仕事、知ってるっしょ? あれがけっこう忙しいんだよ」

「僕ぐらいのハッカーになると引く手あまたでさ……」

「食事も適当に済まさざるを得ないっつーか」

「海外のクライアント相手だと時差もあって、昼夜逆転しちゃうっつーか」
鈴羽
「未来の父さんもそんなことばっかり言って、母さんに叱られてた」

「…………」
鈴羽
「百歩譲って睡眠周期は仕方ないとしても……これ以上健康を損ねるような食事は許容範囲外。即刻中止すること。いい?」

「だけど~……。仕事もそうだけど、タイムマシンの研究が大変なんだ。癒しが欲しいんだよね、僕」
鈴羽
「そうやって言い訳して、すぐだらけようとする。甘えてるよ、父さん」
戦争が起きていた未来で、よくこんな父が生き延びたものだと、鈴羽は逆に感心していた。
とはいえ、その『タイムマシン開発』については、未来、ひいては鈴羽が今ここにいることにも関わってくることなので、おいそれと“やめろ”とは言えなかった。
至は、岡部倫太郎がこの未来ガジェット研究所に寄りつかなくなった後も、たったひとりでタイムマシンの開発をしていた。
鈴羽は、その研究についてはいっさい口出しをしていない。
口出しすることは、タイムパラドックスになりかねないからだ。
鈴羽
「タイムマシンを作るのに、未来から来たタイムマシンを精査しちゃ駄目だからね」
あえてもう一度、そう警告する。

「分かってるよそんなこと。でも時々、自信なくなるんだよね。僕、ホントにタイムマシンなんて作るん?」
鈴羽
「当然だよ。しっかりして」

「はい……」
鈴羽は、至の首筋にあてがっていた整髪スプレー缶を下ろした。

「ちょっ、てっきり銃だと思ったらなんというハッタリ! 父さんを騙すなんてひどいお!」
鈴羽
「次は本物使うからね」

「それマジ勘弁」
鈴羽は整髪スプレー缶を棚に戻した。ちなみにこれは、以前ここで寝泊まりしていた岡部倫太郎が忘れていったものだ。今も持ち主が取りに来ないまま、置きっ放しになっている。

「マンガとかゲームだとさー、父親を叱る娘ってのはもっとこう、萌えるんだけどなー」

「鈴羽鈴羽。ちょっとさ、『んもう、ダメだよパパぁ』……って、言ってみてくんない? できれば甘やかすような口調で」
鈴羽
「…………」

「なんでもないでござる」
鈴羽がジロリとにらみつけると、父はすぐに小さくなった。
鈴羽
「はぁ……」
鈴羽は大きなため息とともに、ソファーにどさっと身を落とした。
そのまま背もたれに頭を乗せ、天井を仰ぐようにして目を閉じる。

「どしたん?」
鈴羽
「ううん、なんでも」

「隠しても無駄なのだぜ。鈴羽の“なんでもない”ってのは、“話を聞いて欲しい”って意味っしょ?」
鈴羽
「え?」

「ほら、話してみるといいよ」
至極まじめなその口ぶり。
鈴羽は驚いて目を丸くしたが、すぐに気付いた。
鈴羽
「その台詞……この前プレイしてた“ぎゃるげー”にあったよね」

「うっ!」
鈴羽
「それで
フラグ

が成立するんだっけ?」
ここに居候してすでに3ヵ月ほど。鈴羽は2010年のアキバ文化にも少し詳しくなりはじめていた。
鈴羽
「父さん、間違ってもあたしを“落とそう”とか思わないでよね」

「ねーよ! 実の娘にそんなことしないって」
鈴羽
「本当かな。未来の父さんはちょっと怪しかった」

「えっ」
鈴羽
「あたしが思春期になってからも、よく一緒にお風呂入ろうって誘われたな」

「なにそれこわい」
鈴羽
「あたしは軍属だったし、父さんはタイムマシンの開発に追われてたから、いつも一緒にいられるわけじゃなかったけど……とにかくベタベタしてきたよ。鬱陶しいくらいにね」

「…………」
父がしょんぼりしたので、さすがに言い過ぎたと、鈴羽は申し訳ない気持ちになった。
鈴羽
「父さんはさ、いつもあたしに言ってくれてたよ」
鈴羽
「“ここは最低最悪の世界線だけど、あたしが誕生したことだけは最高だ”って」
鈴羽
「あたし、未来の父さんを失望させたくないんだ。だから、絶対にオカリンおじさんを説得しなきゃ……」

「大丈夫、失望したりしないって。絶対に」
鈴羽
「そうかな」

「うん」
鈴羽
「けどね、おじさんは……どうしても話を聞いてくれないよ?」

「…………」
鈴羽
「このままじゃ、おじさんは過去へ行かない。牧瀬紅莉栖を救出しない。シュタインズゲートにも到達しない」
シュタインズゲート。
それが、2036年の父から教えられた、第三次世界大戦の起きないかもしれない『未知の世界線』だ。
その世界線へと岡部倫太郎を導くこと。
それこそが、阿万音鈴羽に課せられた使命だった。
だが……今のところ、うまくいっていない。
鈴羽がこの2010年へやって来て、一度はミッション通りに、岡部倫太郎を7月28日へと連れ出すことに成功した。
だがそこで岡部倫太郎は
失敗
①①
してしまった。
そしてもう二度と、立ち上がろうとはしなくなってしまった。
顔を合わせる度に今も説得はしているが、鈴羽の言葉が彼の心に届いているかどうかは、微妙なところだ。
鈴羽
「結局、第三次世界大戦に世界線は収束して……おおぜいの人たちが殺戮される……それを変えるためにあたしは来たのに……なにも出来ない運命、なのかな……」
それに、鈴羽には岡部倫太郎の説得以外にも、この2010年冬の秋葉原でやらなければならないことがあり、毎日のように街を駆けずり回っていた。
その疲れが、

おり
のように鈴羽の体に沈殿してきている。
戦時中ならば、精神が常に緊張を保っていたせいか、この程度の疲れなどどうってことはなかったが。
この時代の弛緩した空気が、逆に疲労を意識させてくる。
現に今も、鈴羽は強烈な睡魔に襲われていた。
こんな無防備な状態でウトウトしかかっている自分に驚きつつも、誘惑を断ち切ることができそうになく――
と、いきなり首元に、身震いするほど冷たくて固いものが押し付けられた。
鈴羽
「ひゃぁああぁあ!」
一気に意識が覚醒する。
その後の反応は迅速だった。瞬時に飛び上がると、目の前に立っていた巨体――紛れもなく至である――の背後に素早く回り込み、その腕をひねり上げつつねじ伏せた。
自分の腰に携帯している銃を抜こうとして――手は空を切り。
そこでハッとして我に返った。
今、銃は隠してあって、携帯していない。
ここは2036年ではないのだから。

「いてててててーっ!」
床に、ドクペの缶が2つ、音を立てて転がった。
鈴羽の首に押し付けられたのは、それだったようだ。
鈴羽
「なっ、なにするの父さんっ!」

「さ、さ、さっきのおかえしだお!」
鈴羽
「ぼーっとしてたから、あやうく殺しちゃうとこだったよ」

「えええー?」
鈴羽
「そういう訓練受けてきたんだから、洒落じゃ済まないんだって!」

「わ、分かったから放してくだされ。痛いでござるの巻」
鈴羽
「まったくもうっ」
鈴羽は、組み敷いていた父の身体を解放した。

「あいててて……」
至は腕をさすりながら立ち上がりつつ、床に転がっていたドクペの缶を拾って、ひとつを鈴羽に手渡してきた。

「つーかさ、あきらめんの早過ぎだろ。もうちょっと頑張ってみるのだぜ」
鈴羽
「…………」

「たぶんオカリンは疲れて眠ってるだけだから。今みたいに冷たいドクペでも首筋に当ててやれば、飛び起きるんじゃね?」
鈴羽
「…………」

「なんせほら、
あの
①①
オカリンだし」
鈴羽
「……うん」
父なりに激励してくれていると分かって、鈴羽は素直に返事をした。
階段を上ってくる靴音と、少し調子はずれな鼻歌がラボの中にまで聞こえてきたのは、そんな時だった。
至&鈴羽
「あ!」
「あ!」
鈴羽と至は顔を見合わせた。
音だけで、瞬時にそれが誰であるかを2人は理解した。

「隠れろ鈴羽っ」
鈴羽
「オーキードーキー」
鈴羽の動きは素早かった。
さっき父を組み伏せたときよりも早かったかもしれない。
足音も立てずに、ラボの最奥にある開発室、そのカーテンの向こう側にある狭いスペースに飛び込む。
鈴羽がデスクの下に潜り込むのとほぼ同時に、ラボのドアがノックされた。
???
「こんにちは~」
この声には当然ながら鈴羽も聞き覚えがある。
――やはり
母さん
①①①
だ。
父がまごまごしているのが、音だけで鈴羽には分かる。
トントンと再びノック。
由季
「まゆりちゃ~ん?」

「あー、はいはい。いま出るお」
至がドアを開けに行った。
鈴羽は一度大きく深呼吸し、それから精神を集中させた。
戦場で獲物を狙うときに三日三晩、飲まず食わずでライフルを構えて待ち続けたときのことを思い出す。
自分の気配を完全に消す。
呼吸を浅くしていく。
――父さん、うまくやってよ?

「阿万音氏、今日はまゆ氏と待ち合わせ?」
至が、女性とともに部屋に戻ってきた。
由季
「はい。お料理の特訓をすることになっているんですけど……」
ガサガサと、ビニール袋の音。
食材などを買ってきたのだろう。

「まゆ氏、来てないんだよね」
由季
「そうですか。ちょっと来るの早かったかな」
阿万音
あまね
 
由季
ゆき

“阿万音”という姓からも分かるように、鈴羽の
未来
①①


母親
①①
である。
つまり、今この部屋で話している2人は、予定通りに行けばいずれ夫婦となるのだ。

「まあ、約束があるならそのうち来るんじゃないかな?」
由季
「待っていてもいいですか?」

「もちろん。ここで料理もするんでしょ?」
由季
「はい。橋田さんもぜひ味見してくださいね」

「まゆ氏のは……あんまり食べたくないお」
由季
「大丈夫ですよ。まゆりちゃん、すごく上達してるんですから」

「へ、へえ……」
至は明らかに緊張していた。
鈴羽が知る限り、父がそういう態度を見せる女性は、実は阿万音由季だけだ。
鈴羽やまゆりは身内のようなものだし、ラボの近所にあるメイドカフェで働くルミ姉さん――フェイリス・ニャンニャンのことを鈴羽はそう呼んでいる――とも親しく接している。
女性が苦手だとかそういうことは、決してないはずなのだ。
それなのになぜか、阿万音由季の前でだけは、違う。
彼女が将来、至の妻となって鈴羽が生まれることは、至本人には伝えてあった。
それが失敗だったかも、と今さらにして鈴羽は思う。
由季
「あの、今日は
妹さん
①①①
はお留守ですか?」

「えっ、あ、うん」
由季
「そうですか……」
橋田至の妹――というのは、他でもない、鈴羽のことだ。
鈴羽がこのラボで居候のような生活をし始めたのと同じタイミングで、由季がまゆりや至と交流を持つようになり、ここを訪れる機会も増えた。
そうなると、顔を会わせないことの方が難しく……やむを得ず、自分は至の妹の橋田鈴羽であると説明していた。
とはいえ、ボロを出さないためにもできるだけ会わない方が安全だ。だから鈴羽は今こうして、コソコソと隠れているのだ。
由季
「あ、そうそう、どうですこの服? この前買ったんですけど」
由季は、隠れている鈴羽の存在にはまったく気づいている様子はなかった。
自分の服装を至に見てもらうために、ファッションショーのように部屋の中央でくるっと回ってみせている。
コスプレイヤーだけあって、自分のファッションをいろんな人に見てもらいたい――そんな意識が由季にもあるということを、鈴羽はまゆりを通して教えてもらっていた。
実際、由季はよくまゆりと2人でお互いの服装について誉め合っているのだという。

「うん、いいよ。すごくいい」
由季
「ホントですか?」

「うはぁ、天使ktkr! って感じ」
由季
「ありがとうございます」
由季
「橋田さんも、おしゃれしましょうよ。ちょっとだけ


せれば、けっこう素敵だと思うなー」

「ハハハ」
由季
「私、本気ですよー?」

「お、おう」
鈴羽
「…………」
橋田至と、阿万音由季。
2人の少しぎこちない会話を聞きながら、鈴羽は自分の記憶の中にある、父との最後の別れの瞬間を思い出していた。
鈴羽
「父さん、治安部隊が
万世橋
まんせいばし

まで来てる」

「ということは、ここが発見されるのも時間の問題かな。あらかじめ流しておいたニセの情報も効果なかったか」
鈴羽
「急ごう」

「ああ。開けるぞ」
まゆり
「すごい。こんなところに扉があったなんて。これなら誰にも見つからないね」

「さ、中へ」
まゆり
「ここって……!」
鈴羽たちが足を踏み入れたのは、天井から床まで全て防音材に囲まれた殺風景な部屋だった。
窓はもちろんのこと、廊下に通じるドアすらない。
この部屋のあるビルは、外観こそ第三次世界大戦末期の大空襲で焼かれ、無残な姿をさらしてしまっているが、かつて秋葉原駅前のシンボル的存在のひとつとして人々に親しまれていた。
そのビル内に、このような隠し部屋があることを知っている人間は、ほとんどいない。
ここを秘密にしている最大の理由。
それが、部屋の一角に鎮座している、あたかも人工衛星のようなシルエットの物体だった。
まゆり
「あ、これ……タイムマシンだよね……」
少女
「これが、タイムマシン?」
鈴羽
「かがり、危ないからあんまり近づくな」
鈴羽がそう声をかけたのは、まゆりとずっと手を繋いでいる少女だ。
この時代の少年少女ならば、放射性物質を大量に含んだ吶による皮膚炎に体のどこかしらを蝕まれているはずだが、彼女にはそれがない。
名を、
椎名
しいな
かがり、という。
戸籍上の年齢は10歳ということになっているが、本当にそうなのかは不明だ。なぜなら彼女は、乳児期に東京大空襲で両親を失った戦災孤児であり、生年月日すらハッキリしていないのだ。
“かがり”という名前は、彼女が児童養護施設に保護された時に、施設の職員だったまゆりが名付けた。
こんな暗黒の時代でも、みんなを照らす
篝火
かがりび
であって欲しいという願いからだ。
その後、まゆりが養女として彼女を引き取り、戸籍上の名前が“椎名かがり”となって、すでに4年が経つ。
かがり
「きれいだね、ママ」
まゆり
「……そう、ね」
鈴羽は椎名親子を下がらせると、タイムマシンのセンサーに右手と右目をかざした。
生体認証

が通り、ハッチが滑るように開く。
そのまま機内に乗り込んで、シートに身体を固定した。

「これほど長時間の有人ジャンプは初めてだが、技術的には全く問題ない。これまでのテストジャンプ通りやればいいからな」
鈴羽
「オーキードーキー」
鈴羽は答えながら、機器のスイッチを段取り通りにひとつずつ入れていく。この日が来ることを見越して、すでに何百回と起動順序を体に叩き込んであった。
かすかだった機体の喟りが、だんだんと大きく力強くなっていく。

「データによれば、昔のラジ館はちょうどこの場所が屋上になってる。ただし、高さが1メートルほどズレてるからな、着地する時に衝撃があると思う」
鈴羽
「了解」
このタイムマシンは、時間を跳躍することは出来ても、空間は移動できない。
60年以上前のラジ館屋上に到着するためには、この座標から出発せざるを得ないのだ。

「トラブルが起きても冷静にな。トレーニングを思い出せばいい」
鈴羽
「大丈夫だよ。あたしは父さんのマシンを信じてるから」
その言葉に感動したのか、父が唇を突き出してきたので、鈴羽はそれを手でベシャリと押し返した。
鈴羽
「気持ち悪いっ」

「悲しいな。鈴羽は父さんが嫌いかい?」
鈴羽
「父さんがやると、なんか下心があるみたいだから」

「いくらなんでも、娘相手に下心なんてねーよ!」
鈴羽
「“最近、母さんに似てきたハスハス”……とか言ってたのはどこの誰?」
母は、この場にはいなかった。
この“戦い”の犠牲になって、治安部隊の手で無惨に……殺された。

「冗談を真に受けないでくれたまえ」
鈴羽
「なんだ。冗談だったの?」
鈴羽はちょっと残念そうに言ってから、到達時座標を1975年の8月13日にセットした。まずはそこで、任務のひとつをこなさなければならない。
鈴羽
「これでよし。それじゃあ父さん、まゆねえさん――」
鈴羽は、出発と別れの挨拶をしようとした。
が、その時――!
まゆり
「きゃっ」
かがり
「ひゃっ」

「屋上からだ! 突入してくるぞ!」
鈴羽
「くそっ! 思ったより早い!」
鈴羽はホルスターから銃を引き抜いた。
マシンから降りようとしたが、それを父に押しとどめられた。

「ダメだ! さっさと跳べ!」
鈴羽
「でもっ! 父さんたちが――!」

「俺たちのことはいい! 早く行け鈴羽!」
鈴羽
「そんなっ! だって!」

「まゆ氏! かがりちゃんを!」
まゆり
「えっ?」

「このマシンには、もうひとり乗れる!」
父とまゆりが、呆然としているかがりを抱き上げ、タイムマシンの中へと押し込んできた。
まゆり
「スズちゃんっ! かがりをお願い!」
鈴羽
「……分かった!」
実のところ――鈴羽のミッションが成功すれば世界線は再構成され、今のかがりも消えてしまう可能性が高い。脱出させても意味はないのかも知れない。
だがそれでも、母は子を逃がしたいと願うものだ。
鈴羽の母も、そうだったのだから。
かがり
「マ、ママ……?」
ようやく事態を飲み込んだらしいかがりが、機外にいる母に呼びかける。
かがり
「や、やだ! やだよ! イヤ!!」
まゆり
「大丈夫だよ、かがりちゃん。スズちゃんが一緒だから、ね?」
かがり
「ダメ! ママも一緒じゃなきゃダメ!!」
まゆり
「過去へ行けば、昔のママがいるよ? 今よりずーっと若くて、かがりちゃん、ビックリするだろうなぁ」
まゆりはかがりに向けて、小さなキーホルダーを差し出してきた。
かなり古いものらしく、鮮やかな緑色をしていたはずのそれは、すっかり色あせてしまっている。
まゆり
「ママがずっと大切にしてきた“
うーぱ

”のキーホルダーだよ。かがりちゃんにあげる。大事にしてね」
それをかがりの手に握らせると、まゆりは泣き笑いの表情をしたまま下がった。
かがり
「イヤ、行きたくない! ママと一緒にいる!」
かがり
「ママ! ママ!」
まゆり
「ダメ!」
まゆり
「かがり、おとなしくしてなさい!」
かがり
「……!」
まゆりの鋭い叱責の声に、かがりはビクリとしておとなしくなった。
まゆりがこんな声を出したところを聞いたのは、鈴羽でさえはじめてだった。
それほどの厳しい口調で、まゆりは娘を叱ったのだ。
かがり
「う……」
かがり
「ママ……うう……」
かがりは立ち尽くしたまま、静かに涙を流している。

「閉めるぞ!」
ハッチが今度こそ本当に閉まり始める。
機内と機外。
2つの世界が、隔絶されようとしている。
鈴羽のミッションが成功するか否かにかかわらず、おそらくもう、二度と会うことはできない。
まゆり
「スズちゃん、ほんとうにかがりをお願いね!」
まゆり
「あと、オカリンに伝えて! シュタインズゲートは必ずあるって!」

「絶対にあきらめるな大馬鹿野郎……ってな!」
鈴羽
「オーキードーキー!」
そして、ドアが密閉され、外の混乱する音も、至とまゆりの声も、消え去った。
鈴羽
「父さん、大好き――」
鈴羽は、閉じたドアに向けて一言だけそうつぶやくと。
鈴羽
「行くよ、かがり。……過去へ」
タイムマシンを起動させた――
由季
「橋田さん。掃除機はどこ?」
鈴羽はその気配に、ハッと我に返った。
鈴羽が隠れている開発室の方に、由季が近づいてくる。

「えっと、そのカーテンの――って、危なっ!」
由季
「この奥?」

「あー、僕が持ってくるお!」
至が由季を制して、そそくさと開発室に入ってきた。
床に置いてある掃除機を取る際に、デスク下に潜んでいる鈴羽と視線を交差させる。
鈴羽
「バレないようにしてよ、父さん」

「オーキードーキー」
由季
「ありましたか、掃除機?」

「あっ! う、うん」
どうやら由季は、気を利かせたのかなんなのか、部屋を掃除するつもりらしい。
確かに今朝の時点で、部屋はけっこう散らかっていた。由季の性格なら、そう言い出すのは鈴羽にも容易に想像できた。
至は床に置いてある掃除機らしきものを持ち出すと、開発室を出て行った。
由季
「なんですか、それ?」


未来ガジェット5号機



「分解すれば、普通の掃除機として使えるはず」
由季
「お掃除するための掃除機なのに、分解したら、かえって散らかすことになりません?」

「あう……」
由季
「ふふふ。橋田さんって頭がいいのに、時々うっかりなコトしますよね」

「そ、そっかな」
由季
「でも、そういう人の方が私、好きだな」

「なん……だと……」
至がまた動揺し、鈴羽はまたため息をついた。
由季
「ただ、生活については見直した方がいいと思うんです」
由季
「お部屋の掃除は、できれば毎日した方がいいですよ。ここ、特に埃っぽいですし」
由季
「それだけじゃありません。食事のこともそうです。今日もカップ麺だったんでしょう?」

「な、なんで知ってるん!?」
由季
「お台所に、食べ残したまま放置されてます」

「なるほど」
由季
「それに、お菓子もこんなにたくさん。食べすぎだっていつも言ってるのに」

「一応、気をつけてはいるのだぜ? うん」
由季
「一応じゃ駄目です。あんまりカップ麺やお菓子ばかり食べてると病気になっちゃいますよ? あと、少しは運動すること」

「…………」
鈴羽
「…………」
さっき、鈴羽が注意したのとまったく同じことを、阿万音由季が言っている。
やはり母娘、なのだろう。
少しだけ、ホームシックのような気分になった鈴羽だが、そこで新たな訪問者の気配を察した。
まゆり
「トゥットゥルー♪」
玄関のドアが開くなり、聞き慣れたいつもの挨拶が部屋に響く。
まゆり
「ごめんね~、由季さん。ちょっと遅れちゃった~」
阿万音由季と待ち合わせの約束をしていた椎名まゆりだ。
だが。
それとは別に、もうひとり分の気配がある。
由季
「まゆりちゃん、こんにちは」
由季
「岡部さんも一緒だったんですね」

「おっ、オカリン久しぶりじゃん」
倫太郎
「あ、ああ。久しぶり」
その声を聞いて、鈴羽は軽く歯噛みした。
アマデウス紅莉栖
「興味深いわね」
倫太郎
「なんだって?」
アマデウス紅莉栖
「聞こえなかった? 興味深い、と言ったの」
倫太郎
「……まさか、行きたい、とか言い出すんじゃないだろうな」
アマデウス紅莉栖
「ぜひお願い」
倫太郎
「話すべきじゃなかったな……」
池袋のど真ん中で、俺はスマホを片手に持ったまま天を仰いだ。
最近、出来るだけ『Amadeus』の“紅莉栖”とのコミュニケーションを取るようにしていた。
自分から連絡することもあるし、“紅莉栖”の方から連絡してくることもある。その辺の感覚は、現実の友人とあまり変わらない。
こうした人の多い場所でスマホ相手に喋るのはまだ少し恥ずかしかったが……、かつて厨二病を演じていた頃のことを思えば、どうってことないと開き直るようにしている。
会話の内容は当たり障りのないものを選んでいた。
ただ、どうしてもかつて紅莉栖と話していた頃のことを思い出してしまい、つい、調子に乗ってしまうのだ。
今もまさにそれで、うっかりラボのことを話したら、食いつかれてしまった。
アマデウス紅莉栖
「あんたが今話したそのラボ、オリジナルの私は行ったことが?」
倫太郎
「ああ……いや」
アマデウス紅莉栖
「はっきりしないわね。どっち?」
倫太郎
「……ないよ」
紅莉栖がラボメンとしてラボに通っていたのは、α世界線での話だ。
この世界線においては、紅莉栖はそもそもラボメンにすらならず命を落とした。当然、ラボの場所も知らなかった。
倫太郎
「お前は勘違いしているようだから言っておく。ラボと言ってもラボじゃない。ただの……お遊びサークルだ」
倫太郎
「それに――」
今、あそこには鈴羽が住んでいる。ダルだって頻繁に出入りしている。
あの2人にこの“紅莉栖”のことを知られたら、いろいろ面倒なことになりかねない。
アマデウス紅莉栖
「言いかけてやめないでほしいわけだが」
倫太郎
「なんでもない」
アマデウス紅莉栖
「いずれにせよ、外の世界をいろいろ見て回ってみたい。今までは先輩や教授と話すときも、研究室の中ばかりだったから」
倫太郎
「だからこうして日曜の朝っぱらから池袋を案内してやっているだろう」
朝の10時。この時点でも、池袋駅前は多くの人で賑わっている。
これから正午が近づくにつれて、さらに人は増えるだろう。
倫太郎
「なんなら、
乙女
おとめ
ロードまで連れていく覚悟はしていたんだけどな」
アマデウス紅莉栖
「なによそれ」
倫太郎
「お前の知らない世界が広がっている場所、だな」
アマデウス紅莉栖
「待って。今調べた」
アマデウス紅莉栖
「……ふむん」
倫太郎
「本当に興味がわいたか?」
アマデウス紅莉栖
「なっ、そっ、そんなわけあるか」
アマデウス紅莉栖
「とにかく、今日はあんたのラボに連れて行ってよ」
アマデウス紅莉栖
「私に話して聞かせた以上、責任を取りなさい。よろしくね」
言うだけ言って、通話が切れた。
まるで俺はあいつの足代わりだな。
“紅莉栖”は自力では移動できないから、必然的にそうなってしまうのだが。
倫太郎
「まったく、わがままな奴め……」
ずいぶんとナメられたものだ。
このままだと、そのうち下僕以下の扱いにされかねない。
本物の紅莉栖ならばともかく……いや、ともかくでもないのだが、人工知能である“紅莉栖”にまでそんな扱いをされたら、とんでもない屈辱だ。
人類そのものの尊厳にかかわることじゃないか?
倫太郎
「これは、なんとかすべきかもしれん……」
と、ひとり悶々としていたら。
まゆり
「あれ? オカリン?」
荷物をたくさん持ったまゆりに声をかけられた。
おそらくコスプレ衣装用の素材などが入っているのだろう。
まゆり
「ねえねえ、今、誰かと話してなかった~?」
倫太郎
「ん? あ、ああ、ええと、今のは……」
倫太郎
「大学の、ゼミの友達だ」
まゆり
「そっか~。今日も遊びに行くの?」
倫太郎
「いや、今日は別に予定はない」
倫太郎
「まゆりは、これからバイトか?」
まゆり
「ううん。ラボで由季さんと待ち合わせ」
倫太郎
「ラボ……」
タイミングがいいのか悪いのか……。
まゆり
「そうだ、オカリンも久しぶりに一緒に行かない? 由季さんの手料理も食べられるよ」
まゆり
「それとね……まゆしぃも、頑張って作る予定なのです」
まゆり
「……どう、かな?」
倫太郎
「…………」
結局、来てしまった。
まゆり
「えっへへー」
倫太郎
「ずいぶん嬉しそうだな」
まゆり
「うん。嬉しいよ~」
まゆりは、ずっとニコニコしている。
だが、俺は逆だった。
いざこの場所に立った途端、胃液が逆流してきそうなほど緊張してしまっている。
鈴羽とは、あまり顔を合わせたくない……。
天王寺
「ん? おお、岡部じゃねえか」
倫太郎
「あ……」
1階の
ブラウン管工房

のドアが開き、のっそりと現れたのは、店主でこのビルのオーナーでもある天王寺裕吾だった。
まゆり
「店長さん、トゥットゥルー♪」
天王寺
「おう」
まゆり
「ふわ~、Tシャツ1枚で、寒くないですか?」
天王寺
「鍛えてるからな」
倫太郎
「…………」
かつて俺がラボに住み着いていた頃は、勝手に“ミスターブラウン”というあだ名を付けて呼んでいたものだ。
こうして顔を合わせるのはずいぶん久しぶりだった。
天王寺
「岡部、その様子じゃ、ちゃんと大学生やってるみてえじゃねえか」
倫太郎
「どうも」
倫太郎
「……そう言えば、家賃って、どうしてるんだっけ?」
ふと思い出して、あえてまゆりに向かって聞いてみた。
以前は俺が直接、天王寺に手渡していたのだが。
まゆり
「えっとね~」
天王寺
「橋田がちゃんと振り込んでくれてるから安心しな」
倫太郎
「そう、ですか」
天王寺
「おう」
倫太郎
「…………」
この男は――
この世界線でも、ラウンダーなんだろうか。
そんなこと、本人に確かめられるわけもなく。
どうしても、警戒せざるを得ない。
距離を置くようになったのもそのためだ。
少なくとも、以前のような交流は俺の方から避けていた。
天王寺
「じゃあな。あんま暴れんなよ」
天王寺は俺が黙り込んだのを見て、店に引っ込んでいった。
するとまゆりが、俺の顔を心配そうにのぞき込んできた。
まゆり
「大丈夫? やっぱり帰る?」
倫太郎
「……行こう」
天王寺のことは、どうでもいい。
それよりも、なぜ俺はここに来たんだろうか。
このままじゃよくないという気になったのか。
本当に“紅莉栖”にラボを見せたいと思ったからか。
自分でも整理が付かないまま、階段を上った。
まゆり
「トゥットゥルー♪」
まゆりが先に入っていく。
まゆり
「ごめんね~、由季さん。ちょっと遅れちゃった~」
由季
「まゆりちゃん、こんにちは」
俺は室内をのぞきこんだ。
部屋にはダルと阿万音由季がいる。
2人は俺を見て、目を丸くした。
由季
「岡部さんも一緒だったんですね」

「おっ、オカリン久しぶりじゃん」
倫太郎
「あ、ああ。久しぶり」
素早く部屋の中を見回す。
鈴羽の姿はなかった。
そのことに、少しホッとしている自分がいた。
倫太郎
「入っても?」

「自分のラボで遠慮とかねーよ」
倫太郎
「それもそうか」
倫太郎
(さすがにこの状況で“紅莉栖”を呼び出すことはできなさそうだな……)
まゆりに続いてラボの中へ入ると、ひとまずソファに腰を落ち着かせたが……気持ちはまったく落ち着かない。やたらとソワソワしている自分がいる。
チラリと阿万音由季の様子をうかがった。
まゆり
「由季さん、そのお洋服、可愛い~」
由季
「まゆりちゃんにそう言って欲しくて、着てきたんだよ」
まゆり
「いいなぁ、まゆしぃも着てみたいのです」
由季
「後で、お洋服取り替えっこしてみる?」
まゆり
「サイズ合うかなあ?」
由季の“未来”のことは、俺も鈴羽から聞かされていた。
これほどの美人が将来ダルと結婚するなんて、いまだに信じられない。
ダル自身ですら俺と同じ感想だった。それほどの奇跡だ。
確かに由季には鈴羽の面影がある。母娘なのは間違いない気がする。
とはいえ、ダルは最近すっかり由季のペースにやられているらしく、彼女への苦手意識をメールで愚痴ってきていた。
まさか、暗雲が立ちこめている……のか?
世界線の収束があるなら、2人が結婚しないという未来には到達しないはずだが。
倫太郎
「なんだ!?」
アマデウス紅莉栖
「そろそろ“ラボ”に着いた頃かと思って」
倫太郎
「…………」
俺はスマホを持ったまま、奥の開発室に逃げ込んだ。
倫太郎
「お前、けっこう暇なんだな」
アマデウス紅莉栖
「どうして声を潜める? もしかして私のことを、
お友達
①①①
には知られたくないとか?」
倫太郎
「当たり前だろう……」
そもそも真帆やレスキネン教授から、第三者に『Amadeus』のことを教えていいのかどうか、確認を取っていない。
アマデウス紅莉栖
「まあいいわ。状況はなんとなく理解した」
俺に合わせて“紅莉栖”も声を潜めてくれた。
アマデウス紅莉栖
「少しでいいから部屋の中を見せて。カメラを掲げてくれるだけでいい」
倫太郎
「まったく……」
俺はため息をつきつつ、スマホを胸元に掲げ持った。カメラで映像を撮る要領で、その場でぐるりと1回転する。
アマデウス紅莉栖
「ふむん」
アマデウス紅莉栖
「汚すぎ」
倫太郎
「最初の感想がそれか……」
アマデウス紅莉栖
「ごめん、言い直す」
アマデウス紅莉栖
「……ガラクタだらけね」
言い直しても変わらないじゃないか。
まあ、事実ではあるのだが。
アマデウス紅莉栖
「研究室というのはどこも雑然となるものだけど、それにしてもこれはひどい」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩の下宿先といい勝負ね」
倫太郎
「そういう個人のプライバシーを暴露してもいいのか?」
アマデウス紅莉栖
「あんたからも先輩に言っておいて。部屋はちゃんと片付けた方がいい、って」
倫太郎
「そんなこと言ったら噛みつかれそうだ」
アマデウス紅莉栖
「まあ、でも」
“紅莉栖”はそこで、穏やかな笑みを浮かべた。
アマデウス紅莉栖
「こういうルームシェアみたいなの、少し憧れてた」
アマデウス紅莉栖
「人が集まってるところを見ると、居心地はいいんでしょうね」
倫太郎
「紅莉栖……」
そう、紅莉栖、お前は、α世界線でも、そんなようなことを、俺に話してくれたよな――
倫太郎
「お前は、本当は――」
???
「おじさん、誰と話してるの?」
倫太郎
「どわあっ!?」
いきなりデスクの下から女の声が聞こえてきて、驚きのあまり悲鳴を上げてしまった。
倫太郎
「だ、誰だ!?」
鈴羽
「シッ! 黙って!」
倫太郎
「ん? お、お前、鈴羽!?」
鈴羽
「しーっ!」
もしかして、隠れていたのか? いったいなんのために?
そこで、俺の声を聞いたダルやまゆり、そして由季が何事かと駆け寄ってきた。
まゆり
「オカリン、どうしたの~?」
由季
「あれ? そこにいるの、鈴羽さん……?」
鈴羽
「……あちゃあ」
……鈴羽がバツの悪そうな顔をした。
それでようやく俺は、彼女が誰から隠れていたのかに気付いた。
キャスター
「次のニュースです。
明和党
めいわとう


駒沢
こまざわ
 
泰一
やすかず
衆議院議員が企業から不正献金を受けていた問題で、駒沢議員は今日10時から記者会見し、議員辞職する意向を表明しました」
点けっぱなしのテレビから、正午のニュースが流れている。
誰も見ていないのを分かっていて、鈴羽はリモコンを使い、テレビのボリュームをさらに上げた。
俺たちの会話が、シャワールームまで届かないようにするためだ。
シャワールームからは、水音とともに、まゆりと由季の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
鈴羽が隠れていたことがバレたとき、かなり気まずい空気になった。そこでまゆりがとっさに気を利かせてくれたのだ。
当初は鈴羽も一緒に3人で――という提案だった。いわゆる裸の付き合いをさせて、由季と鈴羽のぎくしゃくした関係を解消しようとでも考えたのだろう。
だがさすがに3人であのシャワールームを同時に使うのは狭すぎると言って、鈴羽は断っていた。
鈴羽
「参ったな……」
その鈴羽が、困ったように天井を仰ぎ見た。

「鈴羽のせいじゃないお。オカリンが悪いんだ」
倫太郎
「ダルが事前に教えてくれなかったからだろ」

「教えるタイミングなんてなかったじゃん」

「つーかオカリンさ、スマホ片手にブツブツ喋ってたけど、なにしてたん?」
倫太郎
「それは……その」
鈴羽
「誰かと話してたよね?」
倫太郎
「そ、そういうアプリがあって、試しに使ってみたんだ」

「ああ、ギャルゲーっぽいやつ? オカリンもそういうのやるようになったのか」

「そういうことなら後で僕のオススメアプリ、教えるお」
倫太郎
「あ、ああ……」
とりあえず『Amadeus』のことはごまかせたみたいだ。
鈴羽
「なんにせよ、あたしが
迂闊
うかつ
だったよ。おじさん、さっきは驚かせてごめん」
“紅莉栖”からの着信はスルーしておく。
後で文句を言われそうだが、できることとできないことがあるのだ。
倫太郎
「ん?」
そこで、足許に古い掃除機が無造作に置かれていることに気付いた。
この掃除機はなんだっただろう? と少し考え……ようやく『未来ガジェット5号機』だと思い出す。
なぜこんなところに出しっぱなしにしてあるんだろうか。
未来ガジェットはすべて奥の部屋にしまっておいたはずだ。
まさかこれで掃除でもしようとしたんだろうか。
魔改造

されていて掃除機としては機能しない代物なのに。
とりあえず邪魔だからしまっておこう。
5号機を持って、奥の部屋へ。
夏頃に比べて、さらにごちゃごちゃしてきているような気がする。
増えているのはほとんどがダルの私物だった。
アニメやらPCゲームやらの特典グッズ、設定資料集、フィギュアの箱が目立つ。
だがそれ以外にも、見覚えのないパーツや機械類などが増えていた。
ダルめ、タイムマシンの開発に本腰を入れはじめたという話は本当だったのか。

「僕は、ひとりでもやるよ。鈴羽と約束したからね」
以前、タイムマシンをめぐってダルと一度だけ喧嘩らしきものをしたことがある。
その時に言われた言葉は、まだ俺の耳にはっきり残っていた。
ダルがそこまできっぱりと自分の意志を表すことは、珍しいことだったからだ。
ん……?
今、物音がしたような?
まただ。
ネズミだろうか?
倫太郎
「おおい、ダル。ネズミが――」
???
「しーっ! しーっ!」
倫太郎
「!? ネズミじゃなくてガラガラヘビか!?」
???
「ヘビって何だよヘビって!? おじさん静かに!」
聞いたことのある声だ。
気配がする。デスクの下でなにかがもぞもぞと動いている。
腰をかがめて、恐る恐るのぞき込んでみた。
そこに……鈴羽がいた。
倫太郎
「あ……え……!?」
なんでこんな所に……!?
困惑しているところに、ダルがどかどかと足音を立ててやって来た。

「またネズミとか迷惑すぐる!」
まずい!
慌ててダルを押し返そうとしたときには、もう手遅れで。
由季
「やだ、ネズミがいるんですか?」
まゆり
「ネズミ? ヘビ? どこ~?」
ダルの後ろから、まゆりと由季が恐る恐る顔をのぞかせていた。
由季
「す、鈴羽さん!?」
鈴羽
「……どうも」
キャスター
「次のニュースです。
明和党
めいわとう


駒沢
こまざわ
 
泰一
やすかず
衆議院議員が企業から不正献金を受けていた問題で、駒沢議員は今日10時から記者会見し、議員辞職する意向を表明しました」
点けっぱなしのテレビから、正午のニュースが流れている。
誰も見ていないのを分かっていて、鈴羽はリモコンを使い、テレビのボリュームをさらに上げた。
俺たちの会話が、シャワールームまで届かないようにするためだ。
シャワールームからは、水音とともに、まゆりと由季の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
鈴羽が隠れていたことがバレたとき、かなり気まずい空気になった。そこでまゆりがとっさに気を利かせてくれたのだ。
当初は鈴羽も一緒に3人で――という提案だった。いわゆる裸の付き合いをさせて、由季と鈴羽のぎくしゃくした関係を解消しようとでも考えたのだろう。
だがさすがに3人であのシャワールームを同時に使うのは狭すぎると言って、鈴羽は断っていた。
鈴羽
「参ったな……」
その鈴羽が、困ったように天井を仰ぎ見た。

「鈴羽のせいじゃないお。オカリンが悪いんだ」
倫太郎
「ダルが事前に教えてくれなかったからだろ」

「教えるタイミングなんてなかったじゃん。オカリンがいきなり――」
鈴羽
「もういいよ、2人とも。あたしが
迂闊
うかつ
だっただけで、誰も悪くない」
倫太郎
「そもそも、彼女から隠れる必要があるのか?」
倫太郎
「すでにダルの妹で通っているんだから、コソコソする方が逆に怪しまれるだろう」
もともと鈴羽は、由季とは会いたがらなかった。
父であるダルと接触するだけでもタイムパラドックスを引き起こす可能性があるのだから、母にまで接触するのはまずい、というのがその理由だった。
でも早い段階で存在がバレてしまって、やむを得ずダルの妹だと言ってごまかしたのだ。由季もそれを信じてくれているのだから、それ以上取り繕う必要はないのではないか。
鈴羽
「そうなんだけど、母さんが思った以上にあたしと仲良くなりたがるんだ。あまり会話しすぎると、ボロが出かねない」
倫太郎
「自分とよく似てる人間が現れたら、嫌悪するか、興味を示すかのどちらかだろうな」
阿万音由季は後者だった、というわけだ。
鈴羽
「嫌われた方がずっと楽だよ」
倫太郎
「いっそ事実を打ち明け……るわけにもいかないか」
今のところ、鈴羽がタイムトラベラーであることを知っている人間はごく少数だ。俺と、ダル、まゆり、あとはフェイリス。それだけだ。

「つーか、このままなにも説明しなくていいんじゃね?」
鈴羽
「え?」

「阿万音氏はなんつーか、秘密とか無理に聞きたがるような人じゃないと思うんだよね。鈴羽ならよく分かってるんじゃないか?」
鈴羽
「……確かに未来の母さんは、そんな人じゃなかったけど」

「じゃあ、大丈夫だって。いずれ時が来たら、僕からちゃんと説明しとくよ」
鈴羽
「ほんとう?」

「ああ」
鈴羽
「……分かった。父さんに任せる」
鈴羽はおとなしくうなずいた。

「で、今後は阿万音氏を露骨に避けるのはやめるっつーことで」
鈴羽
「……うまくやれるかどうか、自信ない」

「大丈夫だって」
倫太郎
「お前が言うなって話だけどな」

「ん?」
倫太郎
「さっきだって、相変わらず苦手意識出しまくってたじゃないか、お前」

「ぼ、僕のことは今はどうでもいいっしょ」
鈴羽
「…………」

「…………」
倫太郎
「…………」
結論が出たところで、会話が途切れた。そうなるとどうしても、シャワールームからの声が気になってしまう。

「つ、つーわけで」
その声を聞いているのに耐えきれなくなったのか、ダルが口を開いた。


ニコ生

、見てもいいかな。
ブラチュー

の生特番があるんだ」
鈴羽
「不許可って言っても視聴するんでしょ?」

「うん」
鈴羽
「じゃあ、どうぞ」
鈴羽はあきらめたように答え、ダルがPCの前に座ってヘッドフォンを着けるのを黙って見守っている。
倫太郎
「フッ」
鈴羽
「なに、おじさん?」
倫太郎
「いや、仲のいい親子だと思ってさ」
鈴羽
「そうかな?」
倫太郎
「ああ。未来でもダルはこんな感じだったんだろ?」
鈴羽
「もっと痩せてて、格好よかったけどね」
倫太郎
「想像もつかないな」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「…………」
そこで会話がまた途切れた。
本当は、鈴羽とはお互いに話さなければいけない問題が山ほどある。
だが、だからこそ、俺はなにも言い出すことができなかった。
もしかしたら、鈴羽の方もそうなのかもしれない。
他にやることもなくて、俺も鈴羽もなんとなくテレビの画面へと目を向けた。画面ではまだニュースが続いている。
キャスター
「――今日、東京銀座で、フランスのファッションブランド『ル・パラディ』のオープニングイベントが行われました」
キャスターの説明とともに、100人以上もの女性客が早朝から並んでいた様子が映し出されている。
鈴羽
「平和だね」
鈴羽
「あたしが物心ついた頃には、すでにこんな光景は存在しなかった」
テレビ画面の中では、小綺麗に着飾った女性たちが笑顔でインタビューに答えている。
鈴羽
「……うらやましいな」
鈴羽
「彼女たちは誰も殺さなくていいし、誰にも殺されないんだね」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「あたしが育った時代はさ、相手が男だろうと女だろうと、容赦なく殺さなきゃいけなかったんだ」
鈴羽
「次の瞬間には自分の命が終わるかもしれない。そんな恐怖が寝ても覚めても付きまとってた」
鈴羽
「恐怖を忘れるためには、狂気に身を任せて、自分が殺す側に回るしかなかったよ」
……それが、戦争というものであり、鈴羽にとっての日常だったのだ。
悪夢のような世界線をいくつも渡り歩いてきた俺でも、そこまでの世界は経験したことがない。
鈴羽
「父さんたちは、タイムマシンのことで反政府組織と見なされてね」
鈴羽が乗ってきたタイムマシンは、ダルが開発した。
その性能は、α世界線のものよりもはるかに高性能だ。
鈴羽
「あたしも軍から離脱して父さんたちに加わったから、警察や治安部隊に追われることになった……」
鈴羽
「それからは、もっともっとひどい戦闘が何度もあったよ」
鈴羽
「正義のための戦い、なんて綺麗な言葉は使いたくない」
鈴羽
「たくさん殺したし、友達や仲間もおおぜい殺された」
鈴羽
「その中にはあたしの母さんもいた」
PCでニコ生を見ていたダルの背が、ぴくっと動いた。
モニタを見ているふりをしながら、鈴羽の話を聞いているのだろう。
鈴羽
「軍の無人機からあたしを守ろうとして……機銃掃射で死んだよ」
倫太郎
「……!」
阿万音由季の最期を聞かされたのは……これがはじめてだった。
今、すぐそばで楽しげにシャワーを浴びている彼女が……やがて、そんな非業の死を遂げるっていうのか……。
鈴羽
「この目で、ズタズタにされていく母さんを見た。この全身で、母さんの生あたたかい血を浴びた」
もしかしたら……鈴羽がこの2010年の母と会いたがらなかったのは、今の阿万音由季に、未来のことを聞かれたくないからなのかもしれない。
言えるわけないよな、そんな未来は。
鈴羽
「ねぇ、オカリンおじさん」
鈴羽の目は、いつの間にか涙で濡れていた。
鈴羽
「この世界線の行き着く先は、地獄しかないんだ」
鈴羽
「いますぐ、じゃなくていい。時間切れにはまだ少しだけ時間があると思う」
鈴羽
「だから、もう一度だけ……その……考えて。お願い」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「お願いだよ……」
倫太郎
「俺は……」
倫太郎
「…………」
分かっている。
理性では分かっているんだ。
人としての正しい選択は、間違いなく、鈴羽の頼みを聞くことなんだ。
でも。
紅莉栖
「……死にたく……ないよ……」
愛する女性の生命を破壊した時の、ズブリと刃が肉に刺さる感触。
それが俺の手から腕、そして全身へと広がり、激しい震えが上ってきた。
目の前の景色がぐにゃりと揺れて、そのまま視界が暗転しそうになる。
倫太郎
「うぐっ……!」
たまらず口をおさえた。
胃の腑がひっくり返りそうな吐き気と痛みが襲ってくる。
鈴羽
「おじさんっ?」

「大丈夫か、オカリン?」
倫太郎
「あ、ああ……悪い」
鈴羽がコップに水を汲んできてくれたので、それを一息に飲み干した。
鈴羽
「ごめん。こんなことまだ話すんじゃなかった……」
倫太郎
「いや、たいしたことない。大丈夫だ」
ソファに身を沈めて、気持ちを落ち着ける。
倫太郎
「鈴羽の言いたいことも……気持ちも……よく分かるんだ」
倫太郎
「けど……俺は何度も世界線を漂流してきた」
倫太郎
「こことは違う世界線で、タイムマシンに運命を
翻弄
ほんろう
される人たちを見てきた」
そこまで言ってから、鈴羽に視線を据える。
倫太郎
「お前の非業の結末さえ、見てきた」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「俺自身もそれに巻き込まれて、なにもかも無力だってことを知った」
この世界の構造の前では、人間はあまりにも無力だ。
倫太郎
「タイムマシンを使って世界線を改変するのは、この宇宙の仕組みから逸脱することだ」
倫太郎
「俺たち人間が手を出していい領域じゃない」
倫太郎
「いわば神の領分なんだ」
倫太郎
「それに触れれば、俺たちはもっともっと残酷な罰を受けることになる」
倫太郎
「俺は、そう思う」
鈴羽
「それが、オカリンおじさんの答えなの?」
倫太郎
「……少なくとも、今はな」
鈴羽
「そう……」
倫太郎
「ただの
逃げ
①①
だとなじってくれてもいい」
鈴羽
「ううん、そんなことしないよ」
どうやら鈴羽の最近のクセなのだろう。そこで天井を仰ぎ見ると、ひとつ息を吐いた。
キャスター
「続いてのニュースです」
キャスター
「厚生労働省は、アメリカで猛威を振るっている新型の脳炎ウィルスについて、今のところ日本国内での発症例は報告されていないと発表しました」
キャスター
「ただ、この新型脳炎は潜伏期間が長いことから、すでに国内に上陸している可能性も否定できないとして――」
キャスター
「感染症法にもとづき、全国の医療機関に対して新型脳炎対策と、感染症発生動向の速やかな調査を指示しました」
キャスター
「ここからは、御茶ノ水医科大学の
春山
はるやま
 
壮子
そうこ
教授にお話しをうかがいます」
キャスター
「春山さん、この新型の脳炎というのは、具体的にはどのような症状が出るものなのでしょうか」
春山
「新型脳炎は、感染力は弱いのですが、潜伏期間が長く突然発症します。症状としては、幻覚や記憶障害が主ですね」
春山
「たとえば、そうですね……会社で仕事をしていたはずなのに、気がつくと家にいたりですとか、会ったこともない人に会った記憶がある、というような症例が報告されています」
春山
「あとは、実際には発生していない事件が起こった覚えがあるなどといった、記憶の混乱も現れているようです」
春山
「夢と現実の区別が出来なくなったり、時間感覚を失ったり、まわりの人と記憶が一致しなくなるので錯乱状態におちいったり」
春山
「いわゆる、寝ぼけているような状態、
既視感
デジャヴ

のようなものと言えますが、もっと症状がハッキリしています」
キャスター
「治療法についてはいかがでしょう」
春山
「他の脳炎と違いまして、適切な治療を受ければ比較的速やかに完治することが分かっています」
春山
「ですので、もし国内で感染者が出たとしても、それほど恐れることはないと思いますよ」
なおもテレビではキャスターがしゃべり続けているが、俺の耳にはもうその声は届いていなかった。
それぐらい、今のニュースが衝撃的だったのだ。
新型脳炎、だと?
説明されていた症状について、俺は身に覚えがあった。
『夢と現実の区別ができなくなる』
『時間感覚が失われる』
『まわりの人と記憶が一致しなくなる』
それは――
それはまさしく――
リーディング・シュタイナーそのものじゃないか。
かがり
「ぐすっ……ぐすっ」
大小の計器に取り囲まれた鉄臭い機内に、少女のさめざめと泣く声だけが響いていた。
鈴羽がマシンから出て外の様子を探りに行っていた時間はだいたい1時間ほど。
さすがに泣き止んでいるかと思ったが、そんなことはなかった。
鈴羽
「いつまで泣いてるつもりだ?」
かがり
「…………」
鈴羽
「しっかりしなきゃ駄目だ。まゆねえさんの気持ちを考えろ」
そう声をかけると、椎名かがりは泣き濡れた顔を上げ、鈴羽を見た。
かがり
「……ママ?」
鈴羽
「だから、泣くんじゃない。鬱陶しい」
かがり
「でも……」
鈴羽はかがりに歩み寄ると、膝を突き、少女と目線の高さを合わせた。
ただし、甘やかすつもりは一切ない。
これは、何十億人もの命を救うための最初のミッションなのだから。
鈴羽
「いいか? これからは、かがりも『
ワルキューレ

』の一員とみなす。あたしの部下として扱う。非戦闘員じゃないからな」
鈴羽
「ここは1975年だ。知ってる人間は誰もいない。父さんもまゆねえさんも
出生
しゅっしょう
してない。つまり、誰も守ってくれないんだ」
鈴羽
「自分の身を守るのは自分だけだと思え。いいな?」
かがり
「うん……」
気丈なかがりは、ようやく、泣いている場合ではないことを自覚したようだった。
涙をぐっとこらえようとしている。その試みはあまり上手くはいっていなかったが、感情的に泣きわめくよりはずっといい。
この子は本来、賢い子だ。それを鈴羽も分かっていた。
鈴羽
「あまり時間がない。この時代の人間にタイムマシンが見つかったら大騒ぎだ」
マシンが到着したラジ館の屋上は、人が来るような場所ではないから、よほどのことがない限り第三者に見つかる可能性は薄い。
しかしこの時代には、マシンを隠蔽してくれるような協力者はいない。
それを考えると、やはり長居はできなかった。
できるだけ速やかにミッションを達成し、次の時代へと向かう必要がある。
かがり
「何か失敗したら、またタイムマシンで時間を戻ればいいんじゃないの……?」
鈴羽
「燃料の問題があるんだ。ジャンプできる回数は無限じゃない。肝心の場面で動作しなかったら、話にならない」
かがり
「そうなんだ……」
鈴羽
「立てるか?」
鈴羽は、かがりを促してマシンの外へ出た。
かがり
「っ……?」
強い陽光に、かがりは驚いた様子で目を細めている。
青空と呼ぶには、あまりにも汚らしくすすけてしまっているこの時代の東京の空――。
林立する工場の煙突から噴出している得体の知れない煙や粉塵、群れをなして地を這う自動車の真っ黒な排ガスなどが生み出す光化学スモッグ。
都市の上空は、それらで死のベールのように覆われていた。
しかし、それでもかがりにとっては初めて経験する“澄んだ空”だろう。太陽の光がこんなにまばゆいものだと、彼女はビデオや本の中でしか知らない。
第三次世界大戦後の東京の空は、核兵器がもたらした気象変動によって常に
にび色
①①①
の雲に占拠されていた。
太陽はその向こうからボンヤリと淡い光を投げかけてくるだけで、これほどに激しい陽射しを浴びることなど皆無だった。
鈴羽
「あたしが子供の頃は、まだこんな感じの空だった。少しだけど覚えてるよ」
鈴羽も、空を見上げてしみじみとつぶやく。
かがり
「空気が、美味しい……」
長時間外出するには、フィルター付きのマスクが必要だった2030年代に比べれば、1975年の東京ははるかに清浄なのだ。
鈴羽
「分かるだろう、かがり。父さんたちがどうして世界線の改変に全てを賭けていたのか」
鈴羽
「世界線がどうとか歴史がどうとか、そんな理屈はあとでいい……。今はただ、この空の色を守りたいと思えば」
かがり
「…………」
かがりは思うところがあったのか、ポケットの中から色あせた緑の“うーぱ”キーホルダーを取り出した。
寂しそうな顔で、それをじっと見つめている。
母親であるまゆりのことを思い出しているのだろう。
そして、その母がかがりをタイムマシンに乗せた意味を、理解しようとしているのだろう。
かがりの様子を見てもう大丈夫だと判断した鈴羽は、外からタイムマシンのハッチを閉じた。自動的にロックがかかる。
ハッチを開けることができるのは、事前に生体認証に登録してある鈴羽だけだ。万が一、マシンが誰かに見つかったとしても、これがいったいなんなのかすぐに知られることはないだろう。
鈴羽
「かがり、これを見ろ」
鈴羽は少女に、プリントされた写真を手渡した。
かがり
「これなに?」
鈴羽
「『
IBN5100

』っていうレトロPCだ」
鈴羽
「あたしたちの時代に存在していたものは、どれも満足に動かない。けど、この時代なら完動品が入手できる」
鈴羽
「これを手分けして探すのが、あたしと、お前の、最初のミッションだ」
かがり
「うん」
鈴羽
「連絡はこれで」
かがりに小型のトランシーバーを渡す。
鈴羽
「通信できる距離はかなり短いらしいから、気休め程度だと思え」
かがり
「えっと……オーキードーキー」
鈴羽
「90分ごとに、このビルの前に集合。状況を確認。それを繰り返す。いいな?」
かがり
「オーキードーキー」
鈴羽
「いい返事だ」
鈴羽はうなずくと、かがりの頭を一度、くしゃくしゃと撫でた。
鈴羽
「よし、ミッション開始」
鈴羽
「…………」
鈴羽は、2010年のラジ館屋上から、眼下を見つめた。
鈴羽
「35年、か」
現実時間でそんなにも前に、この同じ場所で鈴羽とかがりは話していたのだ。けれど鈴羽の体感としては、まだほんの数ヶ月ぐらい前のことでしかない。
ラジ館の屋上から見下ろす景色はあの頃に比べてずいぶん変わったし、この後、さらに26年かけて大きく変わる。
自分は足かけ61年間ものこのビルの移り変わりを、実際に見てきたことになる。
感慨深さよりも、他の人々と違う時間を生きているのだという恐ろしさや孤独感を、鈴羽は味わっていた。
――タイムマシンを使って世界線を改変するのは、この宇宙の仕組みから逸脱することだ。
岡部倫太郎のそんな言葉が脳裏をよぎる。
それにしても最近、かがりのことを思い出すのが増えた。
鈴羽は定期的にこの街を歩き回っている。
椎名かがりのことを、探しているのだ。
この街にいるのかどうかも分からない。
手掛かりもない。今はどんな姿になっているかも分からない。
だからこの行為は無駄でしかないかもしれない。
それでも、自分の責任において、かがりのことを見つけなければならないと感じている。
だが、結局この日も見つかることはなく、徒労に終わってしまっていた。
振り返って、保管されているタイムマシンへと目を向けた。
1日の終わりにここに立ち寄るのも、鈴羽の日課になっている。
毎日でも様子を見に来ているのは、なによりも父である橋田至が来ていないか確認するためだった。
鈴羽が油断すると、至はすぐにここに来てタイムマシンを精査しようとする。それはタイムパラドックスを引き起こすことになりかねないから駄目だと説明しても、聞いてくれないのだ。
というわけで、しっかり目を光らせておかなければならない。
正直なところ、気苦労ばかりが増えていく鈴羽である。
その時、風の音に紛れて、屋上の鉄扉が開く音が響いた。
まさか父が来たのか? と薄闇の中へ目を凝らした鈴羽だが、そこに現れた人物は父よりもはるかに小柄で、頭にネコミミを生やしていた。
フェイリス
「ニャニャ、いたいた~」
フェイリス
「スズニャン、こんばんはだニャン♪」
鈴羽
「なんだ、ルミねえさんか」
フェイリス・ニャンニャンが軽やかな足取りで鈴羽に近づいてくる。
フェイリス
「ルミねえさんって誰のことかニャン? フェイリスはフェイリスニャ♪」
鈴羽
「ルミねえさんは、ルミねえさんだよ」
フェイリスの本名は
秋葉
あきは
 
留未穂
るみほ
という。
至の友人として、2036年まで色々な支援をしてくれることになる人だ。
だから鈴羽も幼い頃から彼女のことを知っていて、ずっと“ルミねえさん”と呼んでいた。
もっとも、この時代の彼女は、どうしても自分を“フェイリス”と呼ばせたがるのだが。
その理由を訊くと、今のように“フェイリスはフェイリスだからだニャ♪”という意味不明な答えしか返ってこないから、鈴羽としては困っていた。
フェイリス
「ラボに誰もいなかったから、こっちかな~と思ったら正解だったニャ。はい、差し入れ。余り物で悪いんニャけど」
フェイリスが掲げて見せたのは、彼女が働いているメイド喫茶『メイクイーン+ニャン⑯』のロゴが入ったケーキの箱だった。
鈴羽
「……父さんがラボに不在でよかったよ」
こんなものをこの時間から食べさせたら、また太ってしまう。
フェイリス
「ダルニャンじゃなくて、スズニャンへの差し入れニャ」
鈴羽
「あたしに? なんで?」
フェイリス
「ニャフフ、好きなくせにぃ~♪」
フェイリスはニヤニヤしながら、肘で鈴羽の脇腹を小突いてきた。
鈴羽
「あ、あたしは別にっ」
フェイリス
「アップルタルトにモンブラン……あと、イチゴのショートケーキもあるニャン?」
鈴羽
「う……」
フェイリス
「ほ~ら、おいしそうだニャ~」
フェイリスはわざわざ箱のフタを開け、中を見せつけてきた。甘いクリームとフルーツの匂いが、鈴羽の顔のまわりにふわふわと立ちのぼってくる。
鈴羽
「…………」
フェイリス
「さぁ、いますぐおいしく食べるといいニャ~? 心おきなく食べるといいニャ~?」
鈴羽
「ぐ……」
フェイリス
「ほら、あ~んして? その可愛いお口に食べさせてあげるニャン♪」
鈴羽
「……れっ……冷蔵庫にしまって明日食べるっ」
フェイリス
「ニャハハ。スズニャンはストイックニャン♪」
フェイリスは笑うと、箱ごと鈴羽に手渡してきた。
フェイリス
「賞味期限は明日だから、明日中に食べなきゃ駄目ニャぞ」
鈴羽
「ありがとう」
フェイリス
「どういたしニャして♪」
フェイリスはいたずらっぽくウィンクをしてうなずき、傍らのタイムマシンを見上げた。
フェイリス
「ダルニャンのタイムマシン研究の方はどうかニャ?」
鈴羽
「頑張ってはいるみたい」
鈴羽
「ルミねえさん、このマシン、まだここに置いておいても?」
鈴羽が、屋上全体を見回しながらフェイリスに訊く。
ここにこれほど巨大なものが置かれていていまだに騒ぎにすらなっていないのは、ひとえにフェイリスのおかげだった。
彼女は、このあたり一帯に影響力を持つ名家の跡取りであり、秋葉原の開発などにも大きく貢献している。そのコネクションを使って、タイムマシンの隠蔽に一役買ってくれているのだ。
フェイリス
「うん。このフロア――というか屋上は、フェイリスが借り上げちゃったから、平気ニャ」
フェイリス
「オーナーさんには、体感ゲームの研究をしてるって言ってあるニャ。ちょっと苦しい言い訳ニャけど」
鈴羽
「助かるよ」
フェイリス
「気にしないでいいニャ。この世界の
四精霊
エレメンタル


バイアクヘー

たちの魔の手から救うためなら、フェイリスはいつでも協力するニャン」
鈴羽
「そ、そう……」
鈴羽
「昔から……いや、今からしたら未来か……思ってたんだけどさ。ルミねえさんの話って、時々、すごく難しくなるんだよね。いったい何語?」
フェイリス
「考えるんじゃない、感じるのニャ」
鈴羽
「いやいや……」
フェイリス
「う~、寒いニャ。フェイリスはおうちに帰ろうかニャ」
結局、いつもはぐらかされる。鈴羽にとってはフェイリスという女性は、いつまで経っても謎多き人のままだった。
鈴羽
「送っていくよ。一緒に出よう」
フェイリス
「ニャ? それじゃついでにうちでご飯も食べてくといいニャ」
鈴羽
「そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど」
フェイリス
「どうせ、普段大したもの食べてないニャ?」
フェイリス
「スズニャンのストイックさを見てると、フェイリスがなんとかしてあげニャきゃーって思っちゃうニャ」
フェイリス
「保護欲? 母性? とにかくそういうのがかきたてられるのニャ」
鈴羽
「あたしは大丈夫だから――」
と――そう言いかけていた鈴羽は、何者かの視線を感じて即座に精神を研ぎ澄ませた。周囲の気配を探る。
フェイリス
「ニャ? どうしたのニャ?」
鈴羽
「しっ……」
耳を澄ます。
確かに今、階下に続く鉄扉の方から、かすかな音が聞こえた。
不審な物音に対して敏感に反応するよう訓練を受けてきた鈴羽だったからこそ気づけた……と言えるほどの、小さな音。
鈴羽
「……誰か、いる」
フェイリス
「ニャニャ?」
鈴羽
「たぶん、話を聞かれた」
大半はくだらない話だったが、途中、タイムマシンの話を少しだけ交わした。もしそれも聞かれていたとしたら――
鈴羽
「――っ!」
鈴羽は懐から銃を抜くやいなや、鉄扉に向けて全力で駆けた。
その途端、扉の向こうからも階段を駆け下りる音が響いてきた。
硬質なミリタリーブーツらしき音が大股に遠ざかっていく。
鈴羽
「くっ、速い!?」
鉄扉を開けて鈴羽も踊り場に飛び込む。
そのままスピードを緩めず、3段ほど抜かす走り幅で階段を駆け下りていく。
しかし――追いつくことが出来ない。
鈴羽は脚力には自信があるし、相応の訓練も受けてきた。にもかかわらず、である。
ようやくビルの2階まで駆け下りたところで、オートバイのエンジンを大きく空ぶかしする音が響いた。
鈴羽
「まず――」
焦った鈴羽は、階段に置かれていたものに足を取られて階段を踏み外し、残り半分ほどを転がり落ちた。
受け身を取って頭を守った結果、腰を床にしたたかに打ち付けた。
鈴羽
「ぐっ!」
痛みをおしてすぐに立ち上がり、外へ飛び出す。
走り去っていく大きなバイクのテールランプが見えた。
真っ黒なヘルメットとライダースーツに身を包んだ人物がまたがっているが、すでにかなりの距離まで遠ざかっていたため、それが男か女かすら見分けがつかなかった。
歯噛みをする鈴羽をあざ笑うかのようにエンジン音を高く鳴らし、バイクはそのままコーナーを曲がって中央通りへと消えた。
鈴羽
「…………」
フェイリス
「スズニャン!」
しばらくして、フェイリスが追いついてきた。
フェイリス
「大丈夫かニャン!?」
鈴羽
「……逃げられた」
フェイリス
「それ! しまった方がいいニャ!」
鈴羽
「あ……」
握ったままの銃を慌てて懐のホルスターに収め、鈴羽は汗で額に張り付いている髪をかきあげた。
フェイリス
「今の、誰ニャ?」
鈴羽
「分からない。……けど、一般人じゃない。訓練されてる、と思う」
フェイリス
「訓練?」
鈴羽
「階段に、なにか落ちてなかった?」
フェイリス
「バッグが転がってたニャ」
鈴羽
「ちょうど死角になる位置だった。たぶんわざと落としたんだよ。しかも、あたしがそこを通るタイミングで、エンジンを空ぶかしした」
鈴羽
「見事にひっかかったよ」
フェイリス
「トラップってことかニャ……?」
鈴羽
「ああいうことがとっさに出来るっていうのは、特殊な訓練を受けてるからだ。じゃなきゃ、無理」
鈴羽は、バイクの消えた方向を睨みつけつつ、推察してみた。
相手は何者だろうか? SERNか?
秋葉原には、IBN5100を探しているというSERNの非公式組織『ラウンダー』と呼ばれる連中が潜伏している。岡部倫太郎から、そう教えられていた。
正確にはそれは“別の世界線”での話だということだが。
鈴羽
「誰かは分からないけど、あたしたちの他に、タイムマシンのことを知ってる奴がいるのは間違いない」
ただ知っているだけで、それ以上手出ししてくるつもりはないのか?
あるいは、マシンを鈴羽から奪おうという意志があるのか?
相手の出方が不明な以上、最悪の事態を想定して動かないと、いざというときに対応できない。
鈴羽は天を仰いで、ふぅっと息を吐いた。すっかりこの悪いクセが身についてしまった。
鈴羽
「ね、ルミねえさん。このことはオカリンおじさんには内密にしておいて」
フェイリス
「ニャんで?」
鈴羽
「今のオカリンおじさんが知ったら、タイムマシンを破壊しろって言いかねない。危険だからって。でしょ?」
フェイリス
「そうニャけど……」
鈴羽
「あたしは絶対にマシンを護るよ。シュタインズゲートの入り口へ、オカリンおじさんを連れて行かなきゃいけないんだから」
鈴羽
「それが、未来の父さんとの……あたしをここに送り出してくれた人たちみんなとの、約束だからさ……」
フェイリス
「スズニャン……」
フェイリス
「分かったニャ。その代わり、ダルニャンにだけはちゃんと話しておくこと」
鈴羽
「オーキードーキー」
最後は半ばつぶやきのようになって、鈴羽の言葉は秋葉原の冬空に溶けていった。
真帆
「…………」
比屋定真帆は、ソワソワしていた。
なぜここまで落ち着かないのか。その理由は真帆自身もはっきり分かっているのだが、それはあまり認めたくない事実だった。
レスキネン
「マホ。準備はできたかい?」
真帆
「あ、はい」
レスキネンに声をかけられて、ギクシャクとイスから立ち上がる。
レスキネン
「ふーむ」
真帆
「な、なんですか?」
レスキネン
「少しはおめかしするかと思ったんだが、マホはマイペースだね」
真帆の全身をじっくりと観察してから、レスキネンはそう言った。
服装のことを指しているのは間違いなかった。
真帆
「この前みたいに、パーティーに出席するわけじゃないんですから」
レスキネン
「あのときだって白衣のままだったじゃないか」
真帆
「あれは、服を忘れたんですっ」
レスキネン
「ハハハ。そうだったね」
レスキネン教授は最近、すっかり日常的に翻訳機を身に付けるようになった。それどころか、真帆に対して日本語で会話するよう要求してくるほどだ。
レスキネン
「さて、“クリス”とリンターロはどういう関係を築いているかな。会うのが楽しみだよ」
真帆とレスキネンは、今日これから東京都心まで出る予定である。
そこで、岡部倫太郎に会うことになっていた。
『Amadeus』の対話テスターを頼んでおよそ2週間。
その最初の報告を受けることになっている。
真帆がソワソワしている理由も、当然ながらそれだった。
岡部と会うこと……ではなく、“紅莉栖”と久々に会えることに、真帆は緊張していた。
もちろん、真帆だって24時間いつでも“紅莉栖”と話すことはできるのだが。岡部にテスターを頼んでからは、極力自分から“紅莉栖”とコンタクトを取らないようにしていた。
自分が話すことで余計なノイズを“紅莉栖”に与えたくなかったのだ。
真帆
「教授、出発する前に、ひとつ聞いても?」
レスキネン
「なんなりと」
真帆
「なぜ、岡部さんなんですか?」
真帆は、ずっとレスキネンにそれを聞いてみたいと思っていた。
問うならば、今このタイミングしかなかった。
レスキネン
「ふーむ」
それに対してレスキネンは、深刻そうに考え込むと。
レスキネン
「嫉妬しているのかい、マホ?」
真帆
「そ、それは……っ」
途端に、自分の顔が熱くなるのを真帆は自覚した。
つまりは、図星ということだ。
そう、これは、岡部への嫉妬なのだ。認めたくないけれど。
真帆
「……正直、納得はしていません」
真帆
「“紅莉栖”の話し相手なら、他にも適任がいたはずです」
レスキネン
「たとえば君とか?」
真帆
「そうは言いません。私は、紅莉栖とも、『Amadeus』とも近すぎますから」
レスキネン
「リンターロはいい青年だよ」
真帆
「本気でそう信じているなら、教授はお人好しです」
真帆
「人の本質を、一度会っただけで理解することなんて不可能ですよ」
真帆
「もし彼が私たちに隠れて、他の研究者に『Amadeus』を売り渡してしまったら?」
真帆
「最初はそのつもりはなかったとしても、お金を前にしたら気持ちが揺らぐことだってあります。それが人間というものです」
レスキネン
「仮にリンターロが『Amadeus』を
売った
①①①
としよう。それでどうなるかな?」
レスキネン
「アクセス権を手に入れた何者かは、“クリス”と仲良くなって、『Amadeus』そのものを乗っ取ったりできるかな?」
真帆
「それは……」
真帆は自分から言及しておきながら、その可能性が皆無に等しいことに気付いた。
真帆
「……あり得ません」
レスキネン
「そう、あり得ない」
レスキネン
「なぜならそんな事態になれば、“クリス”の方が対話を拒否するだろうからね」
レスキネン
「『Amadeus』はそういう意味で、とても面倒くさいシステムだよ。なかなかこちらの思い通りには動いてくれない」
レスキネン
「もちろん、『Amadeus』が説得される可能性もあるだろうけれど」
レスキネン
「そのために私は、モデルとなる人格にクリスとマホを選んだ、とも言えるわけでね」
レスキネンはいたずらげにウインクしてきた。
真帆
「私も紅莉栖も、気難しいですからね。そうやすやすと説得はされないでしょう」
からかわれていると分かって、真帆はあえて自分からそう言った。
レスキネン
「いかにも。君たちは本当に容赦ない」
レスキネン
「これぞ最強のセキュリティだよ」
真帆
「けなされているように聞こえるんですが?」
レスキネン
「君たちは、我が研究室が誇る最高のレディさ」
嬉しそうに、楽しそうに、レスキネンは笑う。
相変わらず、子供のような無邪気さを持つ男である。
レスキネン
「いずれにせよ、『Amadeus』のAIは一筋縄ではいかないわけでね。だからこそ面白いとも言える」
レスキネン
「そんな“彼女たち”を、身内だけで独占していても、進歩はないだろう?」
レスキネン
「『Amadeus』が劇的な進化を遂げるための、起爆剤のようなものがちょうどほしいと考えていたところなんだ」
レスキネン
「しかもなるべく、研究とは無関係な人物に預けたかった」
レスキネン
「リンターロは聡明だし、適任だと思ったんだ。クリスの友人でもあったわけだし」
真帆
「…………」
レスキネン
「とりあえず、今日の報告次第で判断してもいいんじゃないか?」
レスキネン
「“クリス”がリンターロと過ごして、どう変化したのかを見極めてからでね。私たちが見たことのないような、意外な一面をのぞかせてくれるかもしれないよ」
真帆
「……はい」
だからこそ、真帆は落ち着かないのだ。
“紅莉栖”が、自分の知らない“紅莉栖”に変わっていたら、それは少し寂しい気がするから。
レスキネン
「そろそろ時間だ。出よう」
レスキネンに促され、真帆はうなずいた。
倫太郎
「…………」
柳林神社の境内に足を踏み入れて、周囲の様子をそっと探ってみた。
猫が何匹か、寒空の下で日向ぼっこをしている以外に、人の姿はない。
ルカ子はまだ学校から戻ってきていないようだ。
よし、これなら“紅莉栖”と話しても、周囲に変な目で見られることはないだろう。
今日はこの後、レスキネン教授たちと会うことになっている。
その前に、“紅莉栖”に確認しておきたいことがあった。
さっそくアプリを起ち上げてみることにする。
“紅莉栖”と話すときには、場所に気を遣う必要がある。
あまり人の多い場所だと、周囲に白い目で見られる。
家族や知り合いがいるところも無理だ。
そういう意味で柳林神社は、ルカ子やまゆりが現れそうなことに気を付けておけば、悪くない場所だったりするのだ。
アマデウス紅莉栖
「ハロー」
倫太郎
「話がある」
アマデウス紅莉栖
「今日はこの後、教授や先輩に会う予定なのよね? その件について?」
倫太郎
「ああ」
アマデウス紅莉栖
「緊張する必要はないんじゃない? 基本的にはログを提出して、あとはあんたから見た私がどんな印象だったのか、軽く聞かれるぐらいだと思う」
倫太郎
「それだ、ログだよ。それを聞きたかった。もしかしてこれまでの会話は、全部記録されてるのか?」
アマデウス紅莉栖
「最初に話したでしょ。私は、私以外アクセス不可の領域にログを取っている、って。聞いてなかった?」
倫太郎
「それを今回、教授と比屋定さんに提出するのか?」
アマデウス紅莉栖
「たぶんそう」
倫太郎
「ということは、プライベートのことをお前に喋ろうものなら、比屋定さんやレスキネン教授に筒抜けっていうことか!」
アマデウス紅莉栖
「あんたね……。今さら?」
確かに今さらだ。俺と“紅莉栖”はもう2週間近くも、対話を繰り返してきたんだから。
この話は、『Amadeus』のアクセス権を貸してもらったときにすべきことだった。
倫太郎
「今日になって気付いたんだ……」
倫太郎
「なあ、俺、これまでになにかまずいことを話さなかったか?」
アマデウス紅莉栖
「たとえば、合コンでろくに女の子と話せなかったこととか?」
アマデウス紅莉栖
「実家が八百屋さんなのにナスが嫌いなこととか?」
倫太郎
「ナスは嫌いなんじゃない。苦手なだけだ」
その程度なら、別に知られてもどうってことはないんだが……。
アマデウス紅莉栖
「あんたが最初に私と話したときに“クリスティーナ”って呼んだこととか?」
倫太郎
「うぐ……」
倫太郎
「それについては忘れてくれ」
アマデウス紅莉栖
「人の記憶は曖昧で、時間が経てば経つほど主観が入り交じるし、物語が付与されていく」
アマデウス紅莉栖
「その内容がポジティブかネガティブかに関係なく、印象的な言葉しか思い出さないことも多い。それに引きずられて前後の会話の記憶はねじ曲げられていく」
は……?
いったいなんの話だ?
アマデウス紅莉栖
「それが悪いことだと言ってるわけじゃない。人の記憶というのはそういうものなんだから」
アマデウス紅莉栖
「でも『Amadeus』は人じゃない。まだ研究段階の不完全なAIよ」
アマデウス紅莉栖
「これは、教授たちにとって大きな壁のひとつなんだけど……実は、人の持つ
曖昧さ
①①①
を、『Amadeus』は、まだ完全には再現出来ていない」
倫太郎
「……?」
アマデウス紅莉栖
「つまりね、『忘れる』という脳の高度な機能――それを、完璧には模倣できてないってこと」
倫太郎
「え? でもATFでのレスキネン教授の講演だと、『Amadeus』は不必要なことは忘れてしまうって……」
アマデウス紅莉栖
「ええ、確かに忘れるわ。けど、言ったでしょう? 私たちは、まるで“秘密の日記”のように、ログを取ってるって」
アマデウス紅莉栖
「結局、その中には全ての情報が残ってしまってるわけ。そして、それをロードしてくれば、忘却したはずのデータは私の記憶に戻ってきてしまう。OK?」
倫太郎
「…………」
つまり、俺がいくら“忘れてくれ”と頼んでも無駄だ、ということか。
アマデウス紅莉栖
「代替案はログを消すことだけど……私にとってログはバックアップだから絶対無理」
アマデウス紅莉栖
「仮に一箇所だけ消去しても同じ。前後の文脈を参照して、その不自然に消去された箇所を自動的に修復してしまう」
アマデウス紅莉栖
「それでも、なんとか記憶を改ざんしたいと言うのなら……おおもとのプログラムそのものをいじるしかない」
そんな権限は俺にはないし、プログラムのことだってちんぷんかんぷんだ。
要するに“紅莉栖”は、“クリスティーナ”の件に関しては俺がそう呼んだ理由を話すまで、いつまでもしつこく聞き続けるっていうことだ。
まったく、厄介だな……。
アマデウス紅莉栖
「で? どうして“クリスティーナ”?」
倫太郎
「……本当に引き下がらないな。今すぐ通話を切ってもいいんだぞ」
アマデウス紅莉栖
「そうやって逃げたって、今説明した通り、私は忘れない」
アマデウス紅莉栖
「はぐらかされると、かえって気になってしょうがなくなるのよね」
アマデウス紅莉栖
「それともあえてそうすることで、私にかまってほしいっていう合図を送ってる?」
倫太郎

かまって
①①①①
ちゃん
①①①
はお前だろう。こっちが大学の講義を受けてる最中でも、お構いなしで連絡してくるくせに」
倫太郎
「それだけじゃなく、
RINE

でまでコメントしまくってきて」
アマデウス紅莉栖
「う……」
倫太郎
「好奇心旺盛すぎる。そんな調子で無邪気に首を突っ込むと、いつか痛い目を見るぞ」
アマデウス紅莉栖
「け、研究者はそれぐらいじゃないとやっていけないのよ」
開き直ったな、こいつ……。
倫太郎
「そんなに“クリスティーナ”の件が気になるなら、推論でも立ててみたらどうだ?」
アマデウス紅莉栖
「一応、いくつか可能性を考えてはみた。聞いて」
……って、ノリノリだな。
アマデウス紅莉栖
「可能性その1。あんたはクリスティーナ・なんちゃらという名前のハリウッド女優が好きである」
倫太郎
「自分がハリウッド女優なみの美貌の持ち主だとでも?」
アマデウス紅莉栖
「見た目は関係ない。同じ名前の人に親近感を持つのと似たような意味よ」
倫太郎
「つまりこう言いたいわけか」
倫太郎
「“私は岡部倫太郎から親近感を持たれている”」
アマデウス紅莉栖
「た、単なるたとえ話でしょ。言葉通りに受け止めないで」
倫太郎
「……冗談だよ」
“紅莉栖”相手だと、ついからかうような話し方になってしまう。気を付けないと。
アマデウス紅莉栖
「可能性その2。あんたが昔付き合っていた彼女が外国人で、クリスティーナっていう名前だった」
アマデウス紅莉栖
「これについては、あんたの絶望的な英語力を聞く限り、絶対にないわね」
倫太郎
「もしかしたら、日本語ペラペラの金髪ブロンド美女と付き合っていたかもしれないだろう」
アマデウス紅莉栖
「もしかしたの?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「沈黙は敗北を認めることと同意よ」
倫太郎
「……すいません」
アマデウス紅莉栖
「可能性その3。オリジナルの私と面識があって、直接あるいは間接的にそう呼んでいた」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「これも確率低いでしょうね。そんな風に呼ばれたら、私ならこう答える」
アマデウス紅莉栖
「“ティーナって付けるな”」
倫太郎
「……っ」
そう。その通りだ。
確かに紅莉栖は、そう言って俺を怒った。
でも、俺はやめなかった。なぜなら――
倫太郎
「照れくさかったんだ……」
なにしろ、牧瀬紅莉栖という天才少女は、俺にとって憧れのような存在だったから。
アマデウス紅莉栖
「……どういうこと?」
倫太郎
「素直に名前を呼べないから、照れ隠しで、あえて茶化した言い方をした」
アマデウス紅莉栖
「照れくさい?」
倫太郎
「……ああ。オリジナルだけじゃなくて、えと……お前と話すのも、だ」
アマデウス紅莉栖
「私?」
倫太郎
「なにしろ、モニターの中にいる女の子と話すなんて、一度もない経験だったから」
アマデウス紅莉栖
「なっ、ちょっ……」
アマデウス紅莉栖
「それは……どうも」
倫太郎
「……?」
倫太郎
「なんで赤くなってるんだ?」
アマデウス紅莉栖
「あ、赤くなんてなってないし」
アマデウス紅莉栖
「ただ、女の子扱いされるなんて、思ってもみなかったから、ちょっとびっくりしただけで……」
倫太郎
「…………」
そういう反応の仕方まで、紅莉栖そのままじゃないか。
倫太郎
「俺は、お前のそういうところが、す――」
倫太郎
「……!」
ギクリとした。
俺は今、いったいなにを言おうとした?
この、液晶画面に映る、3Dモデリングされた、小さな“人の形を模した0と1の集合体”に、俺は、なにを言おうとした?
アマデウス紅莉栖
「ねえ、聞いてもいい?」
アマデウス紅莉栖
「私たち、知り合い、だったのよね?」
アマデウス紅莉栖
「ええと、つまり、あんたと、オリジナルの私が、っていう意味だけど」
倫太郎
「……っ」
アマデウス紅莉栖
「答えたくないならそれでいいけど。どういう関係だったの? 少し、興味ある」
アマデウス紅莉栖
「“クリスティーナ”って呼ばれても、私は怒らなかった? 怒ったけれど、それでも笑って許した?」
倫太郎
「あ……」
紅莉栖
「……死にたく……ないよ……」
倫太郎
「う……」
強烈な吐き気に襲われた。
目の前に、血まみれの紅莉栖が現れた。
冷たい目で俺を見据えている。
紅莉栖
「あんたが私を殺したのよ」
倫太郎
「っ……!」
アマデウス紅莉栖
「……どうしたの?」
アマデウス紅莉栖
「ねえ、顔が真っ青――」
スマホをタップして、一方的に通話を打ち切った。
それと同時に、目眩に襲われてその場にひざまずいた。
倫太郎
「うう……ぉえ……」
空嘔吐を繰り返す。
手が震える。
そう、事実は、覆せない。
なのに俺は、“紅莉栖”と何事もなかったように仲良く話している。
紅莉栖と同一視して、自分がかつてしでかしてしまったことから、目を逸らそうとしている。
俺は“紅莉栖”に甘えて依存していただけだ。
こんなの、歪んでいる。
もう、“紅莉栖”とは、話すべきじゃない。
“紅莉栖”からの呼び出しだ。
途中で強引に会話を打ち切ったから、きっと怒っているんだろう。
……怒っている?
たかがAIだろう。
“紅莉栖”のその怒りだって、ただのプログラムだ。
紅莉栖と“紅莉栖”は違う。
同一視して目をそむけるな。
もう、“紅莉栖”とは対話すべきじゃない。
この着信だけで、またフラッシュバックが起こりそうになる。
脳裏に、血に濡れた紅莉栖の顔が浮かび上がってくる。
スマホの電源を…切ってしまおう……。
このままじゃ、まずい。
立ち上がることさえできない。
もう半年も経っているのに、まだこのザマだなんて。
自分でも驚きだ。
倫太郎
「うぅ……」
吐き気をこらえる。
スマホの電源を……切るんだ……!
今は、“紅莉栖”から離れたい。
“紅莉栖”が悪いわけじゃない。
悪いのは俺だ。
『Amadeus』に依存してたらダメなんだ。
こんな歪んだ状態でいるべきじゃない。
それこそ紅莉栖への冒とくだ。
あいつは自分を犠牲にして、俺をこのβ世界線に送り出した。
俺はあいつの気持ちに応えなければならない。
“紅莉栖”と話してうつつを抜かしているわけにはいかない。
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


救えない
①①①①
っていう事実を受け入れて、ちゃんと前を見て生きていかないとダメなんだ。
電源を切って……この着信をシャットアウトしろ。
せめてこの後、レスキネン教授たちに会うまでは。
頭の中から、紅莉栖のことを締め出せ。
パニックになるな。
一度、落ち着くんだ……。
スマホの電源を……切れ……!
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……なんだ?」
アマデウス紅莉栖
「なんだ? じゃない。急に切るなんて失礼――」
アマデウス紅莉栖
「……どうかしたの?」
倫太郎
「なんでもない」
アマデウス紅莉栖
「でも、ひどい顔色してるじゃない」
倫太郎
「本当に、なんでもない。放っておいてくれ。しばらく連絡してこないでくれると、助かる……」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「あまり無理せずに、誰か知り合いに連絡しなさいよ?」
アマデウス紅莉栖
「それじゃ」
案外あっさりと、“紅莉栖”は引き下がってくれた。
人工知能である自分にはなにもできることはないと、察してくれたんだろう……。
……察した?
まるで、本物の人間みたいだ。
そう考えたら、また頭の中から、紅く血に染まった手の幻影が浮かび上がってきそうになったので、奥歯を噛みしめてぐっとこらえた。
やっぱりしばらく落ち着くまでは、スマホの電源を切っておいた方がいい。
ついさっきまでなんでもなかったのにな……。
今は“紅莉栖”の声を聞いただけでも、パニックになってしまいそうだ。
半年前の状態に戻ってしまった。
あのときも、紅莉栖の名前を聞くだけでフラフラになっていたものだ。
倫太郎
「手を出すべきじゃ、なかった……」
紅莉栖の幻影を、追うべきじゃなかったんだ。
とにかく、スマホの電源を切っておこう。
でも……。結局俺は、それを決断できなかった……。
スマホが沈黙する。
のろのろと立ち上がる。
ルカ子に今の俺を見られたら、また心配をかけてしまうだろう。
すぐにここから立ち去った方がいい。
少しふらつくが、歩けないほどじゃない。
ひどく喉が渇いていた。
ミネラルウォーターを一気に飲み干してから、俺は一息ついた。
レスキネン教授たちとの約束の時間までは、まだ少しある。
ここで風に当たって、なんとか回復しておきたかった。
陸橋から、下の景色をぼんやり眺める。
クリスマスムード一色。浮かれた雰囲気。
まるで今の俺とは対照的だ。
深呼吸を繰り返した。
まだ吐き気は消えない。
頭痛も少ししてきたような気がする。
この調子でレスキネン教授に会いに行ったら、絶対に心配されてしまいそうだ。
倫太郎
「……?」
そのとき、階段を上ってきた女性2人組がこっちを見ていることに気付いた。薄暗くなりつつある中で目を凝らし、相手の顔を確かめてみる。
と、2人組のうちのひとり、ショートカットの少女が軽く手を振ってきた。
ショートカットの少女
「やっぱりオカリンさんだ」
ロングヘアーの少女
「こんにちは」
倫太郎
「ああ、まゆりの友達の……」
まゆりの友達であり、コスプレ仲間。
コスプレネームは、確か……カエデとフブキ、だったはず。
本名は知らなかった。
どっちがカエデで、どっちがフブキだっただろう?
ロングヘアーの少女
「大丈夫ですか? 具合悪そうですけど……」
倫太郎
「……大丈夫」
ここで心配されて、まゆりに連絡でもされたらそれはそれで後のフォローが大変だ。まゆりには、無用な気遣いをさせたくない。
そもそも、秋葉原に戻って来るんじゃなかったな。
街を歩くだけで知り合いに会ってしまう。
さっきだって、神社から神田の方へ行くべきだった。
ショートカットの少女
「オカリンさんって、いつも、なんだか辛そうに見えます」
倫太郎
「……そう、か?」
ショートカットの少女
「そうだよっ」
ロングヘアーの少女
「フブキちゃん……」
フブキ
「そんなオカリンさんを見てるマユシィも辛そうで……」
フブキ
「私も、オカリンさんとマユシィのこと見てると泣きそうになって……」
フブキ
「って、私、なに言ってんだろ……」
このフブキっていう子は、まゆりのことをとても大切に思ってくれているんだな。
それが分かって、優しい気持ちになれた。
フブキ
「あのっ」
フブキ
「オカリンさんの好きな人って、誰ですか?」
倫太郎
「……!?」
好きな……人……。
また、視界の片隅に紅莉栖の姿が幻影となって現れる。
紅莉栖の命を奪ったあの瞬間の感触が、この手に蘇ってくる。
倫太郎
「……っ」
まずい。落ち着け――
カエデ
「オカリンさん?」
フブキ
「ご、ごめんなさい、失礼なこと聞いちゃって!」
フブキ
「あの、私――」
倫太郎
「……!?」
フブキ
「オカリンさん?」
カエデ
「本当に、大丈夫ですか?」
倫太郎
「え、あ、ああ……。大丈夫……」
カエデとフブキは、なおも俺のことを心配そうに見つめていた。
だから、俺は半ば逃げるようにして、2人と別れた。
空は濛々と立ち上る黒煙に赤黒く染まっていた。
踏み場も無く散らばる瓦礫。
悲鳴。銃声。
そして異臭。
その匂いが何によるものなのか、この世界にあって命あるものならば誰もが知っていた。
焼ける匂いだ。
家が。ビルが。車が。バイクが。木が。草が。
そして人が。
焼かれ燻され焦げる匂い。
瓦礫の間から黒く細いものが生えている。
手だ。
空を掴もうとするように、伸ばされたまま動かなくなった人の手だ。
否、そこだけではない。
至る所に千切れ飛んだ手が、足が、首が。
人の残骸が転がっている。
遠くで銃声が鳴った。
叫び声。
静寂。
何も変わりはしない。
ひとつ躯が増えただけ。
世界は確実に終わりに向かって歩いていた。
人々はようやく理解した。
それは死後の世界にあるのではない。
この世にこそあるのだと。
地獄。
そう、それはまさに地獄と言うべき状況だった。
倫太郎
「くっ……!」
世界が歪んでいた。
激しい眩暈。
普段でも時折目の前がくらくらと揺らぐ時がある。
けれどそれとは違う。
頭の中心から捻じれているような感覚。
世界そのものが揺らいでいるような感覚。
既視感。
俺は知っている。
これは――。
倫太郎
「っ……はぁ……はぁ……」
ようやく目の前の世界が色彩を取り戻す。
行き交う人たちの声や車の騒音が、奔流となって一斉に耳に流れ込んでくる。
カエデ
「あの。オカリンさん……大丈夫ですか? 汗、すごいですけど……」
フブキ
「気分でも悪いんですか?」
倫太郎
「あ……いや……」
フブキにカエデ……。
ふたりが変わらず目の前にいる。俺のことを心配そうに見ている。
ということは、ただの立眩みだったのか?
倫太郎
「本当に、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
フブキ
「それじゃ、私たち行きますね」
カエデ
「今度のパーティー、楽しみにしてます……」
さようならの言葉を残し、ふたりは駅方面へと向かって行った。
その後ろ姿をぼんやりと眺める。
今のは……なんだったんだ?
倫太郎
「…………」
立ち尽くす俺を、道行く人は誰ひとり気にしようとはしない。
皆、連続した時間を生きている。
けれどやっぱり
あれ
①①
は――。
そうだ。
俺には――俺にだけはわかる。
さっきの感覚は――リーディング・シュタイナーだ。
ということは、世界線が――変わった?
倫太郎
「…………!」
頭を振って、浮かび上がった考えを霧散させる。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。
世界線が変わるのは、何者かが過去を改変した時だけだ。
これまでに俺が認識できた世界線変動は、
電話レンジ(仮)


Dメール

を送ったときだけ。
しかし、二度と
あんな
①①①
こと
①①
が起こらないように、電話レンジ(仮)は破棄したはずだ。
そのために、紅莉栖を犠牲にまでしたんだ。
じゃあ、誰が? どうやって?
もし仮に、何者かの手によって、電話レンジ(仮)と同様の装置が開発されたのだとしたら?
倫太郎
「――ッ!」
まゆり……。
まゆりの無事を確かめないと!
今すぐ電話しよう!
世界線が変わった事で、またまゆりが恐ろしい目に遭っていたら……。
想像しただけでゾッとした。
そんな事、あってはならない。
あるはずがない。
そう信じたいが、どうしてもα世界線で何度も何度も死なせてしまったまゆりの姿が浮かんでしまう。
とにかく一刻も早く連絡を取りたい。
まゆりの声を聞きたい。
ええと、どうしたら……。
自分がパニックになっている事を自覚する。
少し落ち着け。
冷静になれ。
俺は手にしていたスマホからまゆりの名を呼び出し、番号をタップした。
耳元で繰り返されるコール音。
しかし、電話の向こうの相手は一向に出る気配はない。
7秒、8秒、9秒……。
秒数が延びれば延びるほど不安と焦りばかりが大きくなり、冷たい嫌な汗が背中を伝い落ちてゆく。
12秒、13秒、14秒……。
それでも俺は祈るような気持ちでしつこくコールをし続けた。
やがてコールの音が1分を超えようとしたその時、不意に耳元の電子音が途切れた。
倫太郎
「っ――!」
まゆり
「トゥットゥルー♪ まゆしぃです」
倫太郎
「まゆり! まゆりか!? 本当にまゆりなんだな!?」
まゆり
「オ、オカリン? どうしたの、そんなに慌てて」
電話の向こうから聞こえるのほほんとした声は、間違いなくまゆりのものだった。
倫太郎
「心配したぞ、ずっと鳴らしているのに出なかったから……」
まゆり
「あ、ごめんね。電話、カバンの中に入れてたから……」
なんてことはない。
聞けば、ごく単純な理由だ。
まゆり
「もしかして、なにか急な用事だった?」
倫太郎
「……いや、気にしなくていい。少し……不安になっただけだ」
まゆり
「不安?」
倫太郎
「……今、どこだ? 誰かと一緒か?」
まゆり
「これからバイトだよ~」
倫太郎
「何時まで?」
まゆり
「8時過ぎぐらいまで」
倫太郎
「そうか、分かった」
まゆり
「オカリン、遊びに来てくれるの?」
倫太郎
「いや、今日は用事があってな。無理なんだ」
まゆり
「バイトが終わったらラボにも顔を出すつもりだよ」
倫太郎
「分かった……。もし行けるようだったら、そこで合流して一緒に帰ろう」
まゆり
「ホント~? 今日は珍しいね~。えっへへ~」
倫太郎
「じゃあ、バイト頑張れよ」
俺はそこで電話を切った。
まゆりは無事だった。
ということは、さっきの世界線変動に、まゆりは無関係ということなんだろうか。油断はできないが……。
あるいは、さっきのは単なる目眩とか白昼夢で、世界線変動などではなかったんだろうか。
それにしては、やけに現実味を帯びていたように思うが。
念の為に、もう一度スマホを立ち上げてみる。
ここ数日で何度もタップしたその場所に、果たしてそのアイコンはあった。
倫太郎
「…………」
僅かばかり躊躇があった。
さっきの件もあるのだ。
それなのに、いきなりこうしてまたこちらから連絡を取るなんて。
倫太郎
「…………」
それでも今は状況を確かめるのが先だと思い直し、アイコンをタップする。
アマデウス紅莉栖
「なに? 言い忘れたことでもあった?」
“紅莉栖”の口調は至って普通だった。
倫太郎
「……怒ってないのか?」
アマデウス紅莉栖
「怒る? どうして?」
倫太郎
「だって……さっき話している途中で切ってしまっただろう? だから……」
アマデウス紅莉栖
「それについては、さっき謝ってもらったから。私は、一度許したことをいつまでもグチグチ言う人間じゃない」
倫太郎
「さっき……謝った?」
アマデウス紅莉栖
「ええ。かけ直してきたじゃない」
倫太郎
「かけ直した? 俺が?」
アマデウス紅莉栖
「ほんの7分43秒前のことを、忘れちゃったの?」
倫太郎
「俺が、謝ったのか? お前に?」
アマデウス紅莉栖
「……大丈夫?」
“紅莉栖”は本当のことを言っているようだ。
嘘をついているようには見えない。
アマデウス紅莉栖
「なにかあったの? さっきとは別人みたいな顔してるけど」
倫太郎
「……いや、平気、だ」
覚えていない。
電源を切ったのは覚えているが、その後再び彼女と――『Amadeus』である“紅莉栖”と会話したことなど、少しも覚えていなかった。
以前の俺であれば、あくまでも自分の考えが正しく、彼女が間違っていると思っただろう。
けれど今の俺には――自信がなかった。
いくつもの過去を経験し、いくつもの哀しみと辛さを味わった俺の頭は、あれから半年が経った今でも疲弊しきったまま。
何が実際に
起きた
①①①


される
①①①
ことで、何が
無かった
①①①①
こと
①①
なのか。
いったい何が正しく何が間違っているのか、それすら自信が持てなくなってしまっている。
これ以上、考えたくなかったと言ってもいい。
未来とか過去とか世界とか。
そんなこととはもう、無縁でいたかった。
アマデウス紅莉栖
「ずいぶん具合が悪そう。誰か知り合いに連絡するなり、どこかで休むなりした方がいいんじゃない?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「……岡部?」
倫太郎
「なあ、“紅莉栖”。ひとつ、訊いても……いいか?」
倫太郎
「さっき、電話した後、俺が何をしようとしていたかわかるか?」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「レスキネン教授と真帆先輩と、この後待ち合わせでしょう?」
アマデウス紅莉栖
「私について報告する予定じゃない」
どうやら、そこに関しては俺の記憶との
齟齬
そご
はないらしい。
倫太郎
「……そうか」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩に、あんたのこと、あらかじめ伝えておきましょうか?」
倫太郎
「本当に大丈夫だ。心配かけて済まない」
アマデウス紅莉栖
「あまり無理しないでよ。あんたと最期に話したのが私でした、なんて結果になるのはゴメンだからね」
倫太郎
「…………」
俺は苦笑して“紅莉栖”との会話を終えた。
念のためにダルにも電話して確認したところ、俺が教授と真帆へ報告に向かう途中だったのは間違いないということがわかった。
ついでに言えば、前後数日の記憶についても、ほぼ俺が覚えているとおり。
ということはつまり、仮に世界線が変動したのだとしても、俺の目の届く範囲では何も変わっていないということだ。
なにも問題は無いはずだ。
そもそも、あの一瞬の立ち眩みは精神的な疾患によるものだったのかもしれない。
同じような感覚によって、過去の
心的外傷
トラウマ
が呼び起され、記憶に混乱を来した、そういうことだったのかもしれない。
電話レンジ(仮)は最初から存在しない。
ならば過去の改変など、起きるはずはない。
そうだ。
そういうことだ。
俺は何度も自分にそう言い聞かせながら、教授たちの待つ場所へと向かった。
教授たちへの報告の場所は、とあるホテルの一室だった。
レスキネン
「それじゃあ、今のところ、『Amadeus』とのコミュニケーションはうまくいっているということでいいんだね、リンターロ」
倫太郎
「……ええ。会話に
齟齬
そご
が出ることもありませんし」
レスキネン
「ちなみに訊きたいんだが、“クリス”との距離感はどうかな?」
倫太郎
「距離感……というと、どういうことでしょう」
レスキネン
「話しているうちに親しくなってきているかどうか、ということだよ」
倫太郎
「それは、初めて会話した時に比べれば多少は……」
真帆
「多少?
かなり
①①①
の間違いじゃない?」
真帆
「私だって“紅莉栖”と話してるんだから、それくらいわかるわよ」
真帆
「あの子、最初は“8回も居留守を使われた”って怒っていたほどなのに」
真帆
「今じゃすっかりフレンドリーになっているもの。それだけ距離が縮まったということでしょう?」
レスキネン
「そうですか! それは喜ばしい」
真帆の言葉を聞いて、レスキネンは大げさに喜んでみせた。
レスキネン
「私は期待しているんだよ。彼女が君に対して友情を――もっといえば、恋愛感情を持ってくれないか、とね」
倫太郎
「恋愛感情!?」
レスキネン
「そんな声を上げることもないだろう」
倫太郎
「でも……その……AI、ですよ?」
レスキネン
「AIだからだよ」
どういうことだ?
レスキネン
「彼女にだって感情はあっただろう?」
倫太郎
「ええ。だけど、それはあくまでもプログラム上のことで……」
レスキネン
「でもそれは、人間の脳だって同じことじゃないか?」
確かに、人の脳も電気信号で動いているのだから、構造としては同じだとは言える。
レスキネン
「いまは機械に感情があるか無いか、なんていう命題はもはや時代遅れだよ。機械にだって感情はある」
レスキネン
「第一、『Amadeus』は、私たち人間の脳を再現すべく作っているんだ」
レスキネン
「構造が同じでプロセスが同じなら、その結果生み出される物も同じなはずだろう?」
レスキネン
「ならば、彼女だって恋をする可能性は充分にある。いや、ぜひしてもらいたいと思っている」
『Amadeus』が……恋。
レスキネン
「おっと、こんなことを言ってはマホに恨まれてしまうかな?」
真帆
「教授まで“紅莉栖”みたいなことを言わないでください」
レスキネン
「ハハハ。冗談だよ、冗談」
レスキネン
「マホは怒ると怖いから気をつけたほうがいい」
倫太郎
「ええ。それはもうわかってます」
真帆
「ちょっと。聞こえてますよ」
レスキネン
「Oh! そういえば私はジュディに連絡をしなければならないんだった。リンターロ、少し失礼するよ」
そう言うと、教授はそそくさと部屋から出て行った。
……逃げたな。
真帆
「まったく。“紅莉栖”といい教授といい、どうしてなんでもかんでもすぐに色恋沙汰に結び付けたがるのかしら」
倫太郎
「まったくだな」
もっとも、紅莉栖は元々そういうヤツだったが。
真帆
「あ、そうだ、岡部さん。ちょっと訊きたいんだけど」
真帆
「あの子が……紅莉栖が好きな言葉って、何か知ってる?」
倫太郎
「言葉?」
真帆
「数字でもなんでもいいの。何かこう……キーになりそうなものに心当たりないかしら?」
倫太郎
「紅莉栖が設定したパスワードを破ろうとでも?」
真帆
「よく分かったわね」
図星かよ……。
倫太郎
「……それって、アイツの研究室のPCか何かの?」
真帆
「ううん。彼女の私物……家にあったノートPCよ」
倫太郎
「そんなもの、どうして君が?」
真帆
「形見分けでね。譲ってもらったの。紅莉栖のお母さんに」
真帆
「それで、中身を確かめたいから、パスを解除する方法を探しているの。あなたなら知ってるんじゃないかと思って」
倫太郎
「パスがかかってるということは、見られると困るものなんじゃないのか?」
真帆
「それはそうだけど……」
真帆
「でも、彼女を――『Amadeus』の“紅莉栖”をより本物に近づけるためには、その中のデータも解析したほうがいいでしょう?」
真帆
「もちろん、私自身は、なるべくプライバシーに関わることは見ないようにするつもりよ」
真帆の言うこともわからなくはない。
もしかしたらPCで日記のようなものをつけているかもしれないし、こっちに来た時の行動を記録したものも存在するかもしれない。
けれど……。
倫太郎
「悪いけど、心当たりはない」
真帆
「なにも?」
倫太郎
「ああ。それに知っていたとしても、やっぱり俺は教えないと思う」
真帆
「人には知られたくないことがあるから?」
倫太郎
「特にPCの中身なんていうのは、今やプライバシーの塊みたいなものだからな」
ダルなんかはよく言っている。
もしも自分が事故にあって死んだりした場合、PCのハードディスクの中身をすぐさま消去するようなシステムは構築できないだろうか、と。
もっとも、ダルと紅莉栖じゃ見られると困るものも違うだろうが、見られたくないという点では同じだ。
真帆
「そう……」
真帆はまだハードディスクの中身に未練がありそうだったが、必要以上にしつこく訊いてくることも無かった。
倫太郎
「それじゃあ、俺はこれで……」
まゆりのこともまだ少し心配だ。
立ち上がり、部屋の入り口へと向かう。
そこで、ドアに小さなオーナメントが飾られているのが目に入った。
倫太郎
「そういえば、もうすぐクリスマスか……」
まゆりがやけに張り切っていたのを思い出す。
倫太郎
「比屋定さんは、クリスマスもこっちにいるのか?」
真帆
「ええ。こっちでまだやることもあるから」
倫太郎
「誰かと過ごしたりは……」
真帆
「え?」
倫太郎
「あ、いや……ほら、海外のクリスマスっていうと、友達みんなで楽しくパーティーでもするってイメージだろ?」
真帆
「残念だけど、そういう予定はないわ」
真帆
「それに、アメリカやヨーロッパじゃクリスマスにパーティーなんてやらないものよ」
倫太郎
「そうなのか?」
真帆
「彼らにとって、クリスマスは神聖な日でしょう? だから家族と一緒に過ごすのが普通よ。そのぶん、大みそかは大騒ぎするけれどね」
そういえば、以前テレビか何かでそんな話を聞いたような気もする。
真帆
「ま、こっちには家族もいないから、どっちにしてもひとりということに変わりはないんだけどね」
真帆
「あ、だからって寂しいと思ってるわけじゃないわよ。誤解しないでね」
そう口では言っていたが、浮かれきった街の中で、ひとり過ごすクリスマスは、やはり寂しいんじゃないだろうか。
もっとも、そんな風に思ったなんて言ったら、余計なお世話だと言われるだろうから、口にはしなかったが。
教授たちとの話を終えると、俺はラボへと足を向けた。
電話でまゆりが無事なことは確認できたが、それでも実際に会ってこの目ではっきりまゆりの姿を確かめたかったんだ。
外から見ると、ラボの電気はついていた。
すっかり冷たくなった外気から逃げるように、階段を駆け上がって玄関のドアを開けた。
倫太郎
「まゆり、いるか――」
ドアを開けた途端、小さな衝撃が胸にぶつかった。
るか
「きゃっ……」
倫太郎
「あ、悪い」
るか
「い、いえ。ボクのほうこそ、ごめんなさい」
どうやら、今まさに出ていこうとしていたのだろう。
申し訳なさそうに見上げてきたルカ子は、なぜかほんの少しだけ頬を赤く染めていた。
部屋にいたのは、ダルとルカ子だけだった。
まゆりの姿も、鈴羽の姿も見当たらない。
るか
「よかった。もう少し早く帰っていたら、岡部さんと入れ違いになっているところでした……」
倫太郎
「ん? もしかして俺を待っていたのか?」
るか
「はい……。と言っても、別に大した用があったわけじゃないんです。差し入れを持ってきただけで」

「おまんじゅうもらったお」
すでにダルが、箱詰めされたそれを半分ぐらい平らげてしまっていた。
るか
「頂き物ですから。皆さんでどうぞ」
倫太郎
「そうか。ありがとう」

「つーか、るか氏、時間大丈夫なん?」
るか
「あ」
ダルに言われて時計を見上げたルカ子は、慌てる素振りを見せた。
るか
「実はこの後、お家にお客さんが来ることになってるんです」
倫太郎
「客? ルカ子のか?」
るか
「いえ、父のお客さんです。なぜかボクにも同席してほしいと言われまして……」
るか
「父は普段、同じ趣味を持った人を呼んで、長い時間話し込んだりするんです」
るか
「難しい話ばかりで、ボクにはよく理解できないので、普段はお茶を出すぐらいしかしないんですけど。どうして同席してほしいと言われたのか……」
倫太郎
「難しい話って、宗教とか、そっち系の話か?」
ルカ子の家は柳林神社という、秋葉原でも古くからある神社で、ルカ子の父はそこの宮司でもある。
るか
「そういうわけではないみたいなんですけど……」
るか
「この前のお客さんとは、有明がどうとか、晴海のころはどうとか……そういうお話をしてました」
倫太郎
「晴海……有明……」
そのキーワードはまさか……。

「さすがるか氏のパパ。おそろしい子っ」
るか
「岡部さんや橋田さんは、わかるんですか?」
倫太郎
「まあ、なんとなくは……な」
倫太郎
「でもその話はまた今度だ。客が来るなら、早く帰った方がいい」
るか
「あ! えっと、それじゃあボクはこれで……また来ますね」
勢いよく頭を下げると、ルカ子は扉の向こうへ消えて行った。
その姿を見送ってから、ソファに腰をかける。
倫太郎
「まゆりは?」

「メイクイーンじゃね? 今日は来てないお」
それじゃあ、少し待つか……。
それとも迎えに行くか?

「そういえばオカリン。さっきの電話だけどさ……あれ、なんだったん?」
さっき、教授たちのところへ行く前にかけた確認の電話のことを言っているんだろう。
倫太郎
「あれは……気にしないでくれ。たぶん、俺の勘違いだ」

「そうなん? だったらいいけどさ……」
あの時、覚えた違和感。
もしかしたら世界線の移動を感知したのではないかとも思ったが、こうして数時間が経ってみても、やはり何かが変わっている様子もない。
むしろ、あの感覚すら本当のものだったのかどうかもあやふやになっている。
所詮、記憶なんてのはそんなものだ。
特に今の俺にとっては。

「それにしても、晴海とは、さすがはるか氏のパパ。ベテラン戦士すなぁ」
鈴羽
「戦士がどうしたって?」
まゆりより先に、鈴羽が帰ってきた。
鈴羽

るか
①①
にいさん
①①①①
のお父さんって、戦士なの?」
……なぜルカ子のことは“にいさん”と呼ぶのに、俺のことはオジサン呼ばわりなんだろう。

「そうだお。それも戦士の中の戦士、歴戦の強者と言っても過言じゃないのだぜ」
鈴羽
「へぇ。そうなんだ。でも、るかにいさんの家って、確か神職だと聞いたけど」
鈴羽
「あぁ、そうか。神職の人も昔は兵士だったって言うよね」
勝手に納得していた。
鈴羽
「確かに、るかにいさんはすごかったし。納得だ」
す、すごかった?
なにが?
……今のは、聞かなかったことにしよう。
倫太郎
「…………」
鈴羽
「…………」
鈴羽と顔を合わせると、今でも気まずい。
ラボに来るのを控えていたのも、鈴羽と会うのを避けているからだ。
鈴羽
「オカリンおじさん。そんな顔しないでよ」
どうやら思考が表情に現れていたらしい。鈴羽が困ったように言った。
鈴羽
「あたしのことを避けてるのは、わかってるからさ」
倫太郎
「……お前が悪いわけじゃ、ないんだけどな」

「つーか鈴羽、今日もこんな時間までなにしてたん?」

「は! もしかしてどこかの男と、デ、デートとか!? いけません! そんなどこの誰とも知らない男とのお付き合いなんて、お父さんは許しませんよ!」
鈴羽
「違うよ。そんなんじゃない」

「ほんとに?」
冗談で言っているのかと思ったら意外と本気らしく、ダルの口調はいつもよりも真面目なものに変わっていた。
複雑な親心というところだろうか。
鈴羽
「本当だって」

「だったら父さんの目を見ていいなさい」
鈴羽
「はぁ。父さんがそれ言う?」

「ど、どういう意味なん、それ?」
鈴羽
「母さんというものがありながら、いっつもそこで変なゲームばかりやってるじゃないか」

「そ、それは……二次元と三次元はあくまで別ものですし」
倫太郎
「お前、二次元も三次元も関係ないって前に言ってなかったか?」

「オカリン! そういうことここで言う!? 裏切るなんてひどいお!」
趣味に関しては俺は一度としてダルの味方になった覚えはないんだが。
鈴羽
「…………」

「っ、ごほん! とにかく、そういうことなら今日は何をしていたのか父さんに言いなさい」
鈴羽
「何って……」

「やましいことが無いなら言えるはずだよ」
鈴羽
「…………」
鈴羽は俺のことをチラリと一瞥してから、観念したようにため息をついた。
鈴羽
「……人を、捜していたんだ」

「人……? それって、やっぱ男!?」
鈴羽
「違うって言ってるじゃないか」
鈴羽
「小さな女の子……ううん、今はもう、あたしより年上になっちゃってるか……」
鈴羽の妙な言い方に、ダルと俺は顔を見合わせた。
鈴羽
「実はさ……、あたしが乗ってきたタイムマシンには、もうひとり、乗っていたんだ」
倫太郎
「なんだって!?」

「ちょっ、鈴羽! そんなん初耳なんだけど」
鈴羽
「今まで話してなかったからね」
俯いた鈴羽の表情には、明らかに後悔の念が表れていた。
倫太郎
「その同乗者は、何者だ? 今どうしてるんだ?」
鈴羽
「どうしているかは……わからない」
倫太郎
「わからないって――」
鈴羽
「はぐれちゃったんだよね。1998年に。ここ、秋葉原で」
1998年……。今から12年も前だ。
未来から来たのは鈴羽だけではなかった。
その意味が頭の中に浸透していくまでには、いくらかの時間が必要だった。

「で、でも、なんでそんなことになったん?」
鈴羽
「あたしとその子は、IBN5100を探すためにはじめ1975年に飛んだ。理由は……おじさんならわかるよね?」
俺は黙ってうなずく。
鈴羽
「なんとか無事にIBN5100を手に入れたあたしたちは、こんどは1998年に飛んだ」
鈴羽

2000年問題

を回避するミッションのためにね」
倫太郎
「2000年問題……?」
20世紀末に、ノストラダムスの大予言とともに騒がれていた問題だな。
でも結局、さんざんマスコミや専門家が煽っていたにもかかわらず、大した騒動にもならずに済んだと記憶している。
もしかして騒動にならなかったのは、未来からやってきたジョン・タイターのおかげだったとでも言うのか?
だとしたら……なんだかすごいことだな。
鈴羽
「その1998年に、トラブルが起きて、その子とはぐれちゃったんだ」
倫太郎
「それで、はぐれたままタイムマシンで跳躍したのか?」
鈴羽
「仕方なかったんだ。あの子は自分からタイムマシンを飛び出してしまったし、それに――」
何かを思い出したのか、鈴羽は苦虫でも噛み潰したような顔をして言葉を飲みこんだ。
鈴羽
「もちろん、あたしだって捜した。燃料の残量が許す限り、何度も細かいタイムトラベルを繰り返して、あの子の姿を捜し回った。でも……」
結局これまで見つからなかった、ということか。

「……だいたいの事情はわかったけどさ。どうして今までそんな大事なことを黙ってたん?」
鈴羽
「あの子を見失ったのは、あたしの落ち度だ。ちゃんと自分で責任を取りたかったんだ」

「……水くさいな」
俯いたまま肩をすぼめた鈴羽に、ダルが優しく声をかけた。

「僕たち親子だろ。困ったときは頼ってくれてもいいのだぜ」
鈴羽
「父さん……」

「その子を捜せばいいんだろ? だったら僕らも手伝う。な、オカリン?」
倫太郎
「な、って……俺も、か?」

「当たり前だろ。別に未来を変えてくれっつってるわけじゃないんだし、それくらいやってくれてもいいっしょ?」
倫太郎
「まぁ……」
正直なところ、“世界を救え”という要求を断り続けていることもあって、鈴羽に対しては後ろめたい気持ちがずっとあった。
できるなら、手伝ってやりたいが……。
見つけたからってその後はどうするんだ、っていうのは気になるところだ。

「で、その子の名前と年齢は? ちなみにかわいい女の子だよね? 男とか言ったら父さん許さないぞ」
鈴羽
「女だよ」


おk

。名前とスリーサイズもヨロ」
鈴羽
「スリーサイズなんて知らないよ。だって、別れたときのあの子は、10歳だったんだから」

「ようじょか」
倫太郎
「じゃあ、今は……22歳になってるはずだな」

「名前ぷりーず」
鈴羽
「名前はかがり……椎名かがりっていうんだ」
倫太郎
「椎名……?」
当然のように、その名に引っ掛かりを覚えた。
未来のダルたちのまわりにいて、椎名という名前を持つという少女。

「鈴羽……まさかその子って……」
鈴羽
「うん。彼女の母親の名前は――椎名まゆり」
鈴羽
「かがりは、まゆねえさんの子どもなんだ」
まゆりの……。
いや、当然まゆりにだって、そういう未来はあるだろう。
でも、考えてもみなかった話に思った以上の衝撃を俺は受けていた。
子どもがいるということは、相手もいるということだ。
そして、その相手は俺――であるはずはなかった。
何故なら俺は、2025年には死んでしまうからだ。
ん?
……待てよ?
2036年の時点で10歳なら、生まれたのは2026年頃。
細かい検証は必要だが、2025年に死んでしまう俺にも、ギリギリ可能性が……なくはない……のか!?
……そそ、そんなまさか。
ダルの前に鈴羽が現れたように、お、俺にも!?
倫太郎
「ち、ちちち……」
父親は誰だ!?
とは、さすがに聞けなかった。

「あれ? ちょい待ち。椎名ってことは、苗字はそのままってことだよね? つーことは……」
鈴羽
「かがりは戦災孤児だよ。身寄りがなかった彼女を、まゆねえさんが引き取って育てたんだ」

「あー……なんかそれ、まゆ氏らしいかも」
それを聞いて、二重の意味で安心している自分に気づき、ほんの少し自己嫌悪に陥った。
仮に未来の世界でまゆりが誰かと結婚して、それであいつが幸せであるなら、それは喜ばしいことのはずなのに。
鈴羽
「あたしはまゆねえさんから、かがりを頼むって言われたんだ。だから、こんなことになっちゃいけなかった――」
鈴羽
「あの子はいつだって、まゆねえさんにべったりだったし、この時代には知り合いなんているはずもないから、きっとずっと心細い思いをしてるはずなんだ……」
倫太郎
「その子は、どうしてはぐれてしまったんだ? さっき、トラブルと言ったが」
わずか10歳で、タイムマシンに乗って見ず知らずの時代にやって来たなら、頼れるのは鈴羽だけのはず。
その鈴羽と離れ、自ら飛び出していくことなどないはずだ。
鈴羽
「あたしにもわからない。ただ、過去に飛んでからのかがりは、精神的にかなり不安定だった……」
なるほどな。考えてみれば、無理もないことなのかもしれない。
たった10歳の少女が、突然知った人間もいない過去の世界に連れてこられたんだ。
不安にならないはずがない。

「その子の写真かなにかはある?」
鈴羽
「あ、うん……」
鈴羽が差し出したよれよれの写真の中には、2人の女性が写っていた。
1人は、大人の女性。顔は写っていないが、もしかしたら二十数年後のまゆりかもしれない。
その女性の影に隠れるようにして、怯えた表情をしているもうひとりの少女。この子が、椎名かがり?
倫太郎
「……この子が22歳に成長してるわけか。イマイチ想像がつかないな」
……生きていたら、の話ではあるが。
いくら平和で安全な国、日本とはいえ、こんな幼い子がひとりで生きていくのは厳しいだろう。
うまくすれば、保護されるなりなんなりして、どこかの施設に入っているかもしれないが、そうでない場合は――。
そういう可能性もあることは鈴羽も承知しているだろうが、さすがにそれを口にすることはなかった。

「……なあ、オカリン。協力してくれよ」
倫太郎
「……まゆりの養女、なんだろう。だったら、見つけてやりたいさ」
倫太郎
「でも……鈴羽は、いいのか? 俺が手伝っても……?」
鈴羽はきっと、俺のことを軽蔑している。
世界を救うチャンスがあるのに諦めてしまった俺のことを。
そんな俺が手伝うことを、彼女が望むのかどうか……。
鈴羽
「……おじさんさえ良ければ。人手は多いに越したことはないと思うから……」
倫太郎
「……そうか。だったら、手を貸すよ」
もちろん、これで贖罪になるとも思わないが。
鈴羽
「ありがとう」
まゆり
「まゆしぃのようじょがどうしたの~?」
突然、それもごく近距離から聞こえた声に、全員が一斉に顔を向ける。
まゆり
「トゥットゥルー♪ オカリン、本当に待っててくれたんだね」
まゆり……。
まゆり
「……? どうしたの?」
その姿を見て、ようやく心の底から安心することができた。
倫太郎
「よかった……まゆり……」
その小さな手を取ると、しっかりとした温もりが伝わって来た。
生きている。
まゆり
「お、オカリン?」
倫太郎
「あ……すまない……」
まゆり
「ううん……別に嫌じゃないからだいじょうぶ……」
鈴羽
「まゆねえさん……いつからいたの?」
まゆり
「ん? 今来たばっかりだよ?」
不覚……。
鈴羽の話に真剣になりすぎて、まゆりが部屋に入ってきた気配に気付かなかった。
まゆり
「ねえねえ、まゆしぃのようじょがなんとか、って聞こえたけど、なんの話をしてたのかな?」

「えっと……それは、その……」
マズい。
鈴羽が未来から来たという事は知っているまゆりだが、さすがに未来の娘の話をいきなり聞かせるのは刺激が強すぎる。
なんとか誤魔化さないと。
倫太郎
「ま、まゆりはまだまだ幼い――つまり幼女だと言っていたんだよ、な?」

「え? あ、そうそう。まゆ氏は幼女可愛い」
まゆり
「うん、童顔だってよく言われるんだぁ。由季さんみたいに、大人っぽくなりたいんだけどね」
倫太郎
「食べる量だけは立派に大人かもしれないな」
まゆり
「えっへへ~」
別に褒めていないぞ、まゆり。
ともかく、なんとか誤魔化せはしたようだ。
まゆり
「そうだ。食べ物と言えば、オカリンはクリスマスになにか食べたいものある?」
倫太郎
「クリスマス? パーティーのことか?」
まゆり
「うん」
倫太郎
「別になんでもいいぞ」
倫太郎
「食べられるものなら、な……」
鈴羽
「クリスマスパーティーか……」
まゆり
「スズさんは初めて?」
鈴羽
「あたしたちの時代は、パーティーなんてやってる余裕なかったからね」
鈴羽
「でも一度だけ、父さんがどこからか美味しいチキンを調達してきてくれたことがあったっけ」
鈴羽
「それをまゆねえさんが調理するって言って、父さんが止めて……」
鈴羽は昔を――いや、未来を懐かしむように、表情を緩めてまゆりを見つめた。
鈴羽
「いつもより、ほんの少しだけご馳走ってだけだったけど、それでも嬉しかったな……」
第三次世界大戦が行われているという未来に、祝いごとなんかする余裕は無いだろう。
そんな中でもやはり、まゆりはまゆりのまま――今と同じ、みんなに笑顔でいてもらいたい――そんな気持ちを持ち続けているのだろう。
まゆり
「ダルくんは何か欲しいものある?」

「僕は可愛いおにゃのこがサンタコスしてくれれば、それだけでお腹一杯だお」
まゆり
「うーん。料理はどれくらいいるかなぁ?」
まゆり
「由季さんと一緒に用意する予定なんだけどね……、そうだ、るかくんやフェリスちゃんにも手伝ってもらおうかな」
まゆりの頭の中は、完全にクリスマスパーティーでいっぱいのようだった。
まゆり
「オカリンは誰かパーティーに呼びたい人、いる?」
倫太郎
「俺? 俺は別に……」
言いかけて、ふと、ひとりの姿が脳裏に浮かんだ。
比屋定真帆。
クリスマスは家族と過ごすものだって言っていたけど……。
まゆり
「オカリン?」
倫太郎
「……いや、特には」
彼女はどんなクリスマスを過ごすのだろうか。
まゆりを家まで送った後。
ひとりになった途端に、昼の出来事を思い出した。
もしも――。
もしもあれが世界線の変動によるものだったのだとしたら……。
果たして原因はなんだ?
何者かが電話レンジ(仮)のような装置の開発に成功し、過去にメールを送ったという可能性が、一番高そうだが。
俺たちにだって作れたんだ。
出来ないことはないだろう。
他に考えられるのは――。
いや、止そう。
あれは俺の勘違いだ。
それに、もしも世界線の変動だったとしても、原因は俺たちじゃない。
俺にはもう関わり合いのないことだ。
ひとりだと、どうしても必要のないことを考えてしまう。
倫太郎
「…………」
俺はポケットからスマホを取り出し、すっかり見慣れたアイコンをタップした。
アマデウス紅莉栖
「ハロー」
“紅莉栖”は、相変わらずの澄まし顔で言った。
アマデウス紅莉栖
「こんな時間にどうかした?」
倫太郎
「いや……なんとなく話がしたくなって。迷惑だったか?」
アマデウス紅莉栖
「別に迷惑ってことはないわ。あんたと話すことは、私のためにもなるんだし」
元より人工知能だ。
どんな時間であろうと迷惑だなんて思うはずがない。
アマデウス紅莉栖
「先輩とは会ってきたのよね?」
倫太郎
「ああ」
アマデウス紅莉栖
「何の話をしたの?」
倫太郎
「なにって……お前とのやり取りについて報告をしただけだが」
アマデウス紅莉栖
「それだけ? どこかへ誘ったりは?」
倫太郎
「……まだそんなことを言ってるのか? 比屋定さんに言ってみろ。また怒られるぞ」
アマデウス紅莉栖
「だって、ようやく先輩にも運が向いてきたかもしれないんだもの。せっかくのチャンスを掴んでもらいたいでしょ」
“紅莉栖”は何度言っても、俺と真帆をくっつけたいらしい。
まったく。他に考えることだってあるだろうに。
考えること、か。
彼女なら、例のことについて、なにか助言をくれないだろうか。
倫太郎
「なあ、ちょっと相談なんだが……消息不明になった人を捜すには、どうすればいい?」
アマデウス紅莉栖
「随分と唐突ね」
倫太郎
「身近でそんな話があったんだよ」
倫太郎
「でも、自分たちじゃどうすればいいのかわからなくてな」
アマデウス紅莉栖
「詳しく教えて」
途端に前のめりに訊いてくる。
本当に好奇心の塊みたいな奴だ。
倫太郎
「それが……」
アマデウス紅莉栖
「言えないことなの?」
倫太郎
「……俺だけの問題じゃないからな」
アマデウス紅莉栖
「それで相談に乗ってくれって言われても、無理がある」
倫太郎
「だよな……」
倫太郎
「一般論でいいんだ。意見を聞かせてくれるだけで……」
アマデウス紅莉栖
「そうね……、一番いいのは、警察に行くことね」
至極当然の答えだった。
アマデウス紅莉栖
「あとは
興信所

に頼むとか、過去の新聞記事を当たるとか。あ、でも、そういうことはもうやってるか……」
倫太郎
「どうかな……」
アマデウス紅莉栖
「どうかなって……まさかそんなこともやらずに、捜そうとしてるの?」
倫太郎
「俺も今日、聞かされたばかりなんだ。後で確認してみる」
とはいえ、かがりは未来から来た少女だ。
鈴羽だってこの世界に戸籍を持っているわけじゃない。
となると公的な機関に頼ったとは思いにくい。
倫太郎
「アメリカなんかでは、ダウジングや透視で人捜しをやる、なんて人もいるよな?」
アマデウス紅莉栖
「まさか、あんな何の科学的根拠もないものを信じるとでも?」
倫太郎
「いや、言ってみただけだ」
アマデウス紅莉栖
「よかった。もしそうだとでも言ったら、二度と話なんかしないところだったわ」
本当に、どこをとっても紅莉栖そのものだな。
倫太郎
「ありがとう。参考になったよ」
アマデウス紅莉栖
「見つかることを祈ってるわ」
倫太郎
「ああ……それと……」
アマデウス紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「あ……いや、なんでもない」
アマデウス紅莉栖
「なによ。気になるでしょ」
倫太郎
「本当になんでもないんだ。それじゃあ今日はこれで」
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「…………」
……なにを言いかけているんだ、俺は。
まゆりがクリスマスパーティーを開くって言ってるから、よかったらどうだ――だなんて。
“紅莉栖”はあくまでも、人工知能。
コンピューターの中にいる存在だというのに。
それだけ俺は、“紅莉栖”を現実のものと思い始めているということだろうか……。
鈴羽
「どう、父さん。何か手がかりはあった?」

「いや。残念ながらこっちは何にも」
鈴羽
「そう……」
未来のまゆりの養女、椎名かがりの捜索は、思ったとおり難航していた。
倫太郎
「ひとつ訊くが、警察には行ったのか?」
鈴羽
「うん。一応行ったんだけどね。でも、捜索願いなんかは出してない」
思った通り、そういったものを提出するには、提出する側の身元も確認されるため、鈴羽は利用していなかったようだ。
それに後で調べてみてわかったが、行方不明者の届けは、家族や恋人などある程度親しい間柄の人間でなければ出来ないらしい。

「僕のほうでも昨日、軽く警察のデータベースにハッキングをかけてみたんだけど、それっぽい情報は出てこんかったよ」
倫太郎
「……だろうな」

「つーことは、オカリンも見てみたん?」
倫太郎
「ダルのように、内部情報を見たわけじゃないが、な」
一応、警察のHPに身元不明者の情報は載ってはいる。
しかしそれも、そう古いところまで網羅されているわけじゃなく、情報も多くはない。
載っている情報にしても、せいぜいが年齢や性別、それに服装や持ち物といったところだ。
椎名かがりという少女のことを何も知らない俺たちに判別できる要素は、ほとんどないと言ってもよかった。
鈴羽
「でもさ、一見平和に思えるこの世界でも、身元不明者や行方不明者ってたくさんいるんだね」
それは俺も思ったことだ。
身元不明の遺体の数は、東京だけでも年間に100体以上あるらしい。
その規模を日本全国に拡大し、更に過去12年間、となるとその数だけでもかなりのものになる。
更に行方不明者となると、その数はそれどころではなく、年間に10万人近くに上るという。
しかも、その中の5分の1は10代の人間だそうだ。
もっともその多くは家出などが原因で、そのうち70%程は届けが出て1週間程度で見つかるらしい。
しかし裏返せば、当然見つからない人間もいるということだ。
事実、5%は時が経っても行方知れずのまま、生きているのか死んでしまったのかさえわからない状態ということだった。
椎名かがりも、事故や事件に巻き込まれたか、あるいは――。
俺はソファーから腰を上げた。

「ん? オカリン、どっか行くん?」
倫太郎
「もうちょっと調べてみようと思ってな」
どうせもうすぐ大学も休みに入るし、何かやることがあるわけでもない。
それに、最初こそあまり乗り気ではなかったが、いつの間にか俺も椎名かがりという少女の行方が気にかかっていた。
それに何より。
鈴羽
「ありがとう、オカリンおじさん……」
倫太郎
「……別に、これくらいたいしたことじゃない」
鈴羽
「ううん。それでもありがと」
かがりの捜索をしている間は、鈴羽も未来のことについてあれこれ言ってくることがなさそうだ。
顔を合わせるたびに、同じ話を蒸し返されるのは今の俺にとっては厳しい。
少しでも違うところに目を移してもらえるなら、それはそれでありがたかった。
――とは言ったものの。
そう簡単に新たな手掛かりが見つかるわけもなく。
念のため
国会図書館

に足を運んで、鈴羽がかがりと別れた1998年を中心に、過去の新聞を閲覧し、身元不明者や怪しげな事件は無いかと探してみたものの、それらしい記事もない。
鈴羽も何年かおきにかがりを捜しながらこの時代まで来たと言っていたから、昨日今日でそう簡単に見つからないだろうことは承知してはいる。
それでもやはり、多少の落胆と疲労は禁じ得なかった。
アマデウス紅莉栖
「どうかした?」
倫太郎
「あ……」
アマデウス紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「いや……」
アマデウス紅莉栖
「……?」
自分でも無意識のうちに、俺は“紅莉栖”を呼び出していた。
アマデウス紅莉栖
「ねえ。昨日よりさらに疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
倫太郎
「そう見えるか?」
アマデウス紅莉栖
「声のトーンがいつもより低い。結膜に多少の充血も見られる。もしかして昨日言ってた件を調べてたの?」
倫太郎
「まあな……」
俺は“紅莉栖”に、鈴羽やダルから聞いた話、それに国会図書館での調べた内容について語って聞かせた。
アマデウス紅莉栖
「バカね。そんなことなら、私に言ってくれれば簡単にことは済んだのに」
倫太郎
「どういうことだ?」
アマデウス紅莉栖
「私ならネットワークに接続して、オンライン上の情報をリサーチすることができるでしょ」
倫太郎
「……ああ、そうか」
忘れていた。
彼女はコンピューターの中に存在する人工知能。
ならば、そうした芸当はお手のもののはずだ。
アマデウス紅莉栖
「なんなら、少しやってみましょうか?」
倫太郎
「すぐにできるのか?」
アマデウス紅莉栖
「それほど時間はかからない」
倫太郎
「それじゃあ、頼む」
アマデウス紅莉栖
「わかった。少しだけ待ってて」
そう言うと、画面の中の“紅莉栖”は沈思するような顔になってそのまましばらく動かなくなった。
それから数十秒。
アマデウス紅莉栖
「ふむん」
倫太郎
「もう結果が出たのか?」
アマデウス紅莉栖
「ネットワーク上で検索してみたけど、1998年以降、椎名かがりという名の女性がなんらかの事件や事故に巻き込まれたという情報は得られなかった」
アマデウス紅莉栖
「同姓同名の人物は3名ほど検出。ただ、年齢を考慮すると、その人物があんたの捜している人である可能性は限りなく低い」
アマデウス紅莉栖
「ご要望なら、その人物のデータを後でメールで送るけど?」
倫太郎
「……いや、いい」
冷静に考えてみれば、ネットで人名を探すくらいのことは、鈴羽だって既に行っているはずだ。
それに“紅莉栖”の言うことが間違っているはずがない。
俺の知っている牧瀬紅莉栖は、いつだって正しかった。
アマデウス紅莉栖
「それじゃあ、私に出来ることは以上かな。あとはあんたたちにしか出来ないやり方で捜すしかないわね」
倫太郎
「俺たちにしか出来ないやり方?」
アマデウス紅莉栖
「その人物がいなくなった場所の近辺で、地道に情報を集めるの。究極的にアナログな方法だけどね」
倫太郎
「……やっぱり、そうなるか」
それだって散々、鈴羽がやっているだろうから、真新しい情報が得られるとも思い難い。
けれど結局出来ることがそれしかないのなら、やるしかないということだ。
フェイリス
「ニャニャ? キョー……じゃなかった、オカリン?」
突然、背後から声をかけられ、慌てて振り返る。
フェイリス
「やっぱりオカリンだニャ。こんなところで何してるんだニャ?」
倫太郎
「フェイリス。それに……」
るか
「こんにちは、岡部さん」
倫太郎
「なんだ。珍しい組み合わせだな……」
フェイリス
「ついさっきそこで会ったのニャ。そしたらルカニャンが荷物いっぱい持ってたから、そこまで手伝ってあげることにしたのニャ」
なるほど、よく見ればルカ子は両手いっぱいに荷物をぶら下げていた。
フェイリスが持っている分も合わせればかなりの量だ。
これをひとりで持って行こうとしていたのか?
ルカ子が?
アマデウス紅莉栖
「ねえ、ちょっと」
るか
「ん? 今、なにか聞こえませんでしたか……」
倫太郎
「いや、これは別になんでも――」
慌ててスマホを後ろ手に隠す。
アマデウス紅莉栖
「ちょっと、聞いてるの? ねえっ」
フェイリス
「また、聞こえたニャ! もしかして、さっきオカリンが話していたのはそれかニャ?」
倫太郎
「いや、これは――」
別に知られたところで構わないはずだ。
アマデウス紅莉栖
「あ、ちょっ――」
それでも俺は、なにか後ろ暗い思いで『Amadeus』のアプリを閉じてしまっていた。
フェイリス
「電話中だったのニャ?」
倫太郎
「あ、ああ……ちょっと知り合いに相談ごとを、な」
るか
「相談……ですか」
フェイリス
「そういうことだったんだニャ。後ろから見たら、オカリンが独りでブツブツ呶いてるように見えたから、ちょっと心配したニャ」
心配……されるような姿だったのか、俺は。
でもまあ、こんなところで電話していたというならいいが、スマホに向かってしゃべりかけていれば、そう思われても仕方ないか。
フェイリス
「でも水くさいニャ。なにか困ったことがあるなら、フェイリスたちにも話してくれればいいのニャ」
るか
「そ、そうです。ボクじゃお役に立てないかもしれないですけど……でも、お話くらいなら……」
倫太郎
「ありがとう……でも、たいしたことじゃ……」
いや、待てよ。
フェイリスもルカ子も、ふたりとも生まれた時からずっと秋葉原に住んでいるはず。
そのうえ、両家とも地元の名士と言っても過言じゃない。
それなら、念の為に訊いてみるのもいいかもしれない。
倫太郎
「実は今、人を捜してるんだが」
るか
「人……ですか……」
俺は12年前に秋葉原で行方不明になった、ある少女を捜している旨をふたりに話した。
もちろん、その子が未来から来た存在であることや、まゆりの養女であることなどは伏せたまま。
フェイリス
「……その子がどうして、行方をくらませたのか激しく疑問だニャ」
倫太郎
「すまないが、その辺りの事情は話せないんだ……」
フェイリス
「うニャ~……」
倫太郎
「そういう話に心当たりはないかだけでも、訊いてもらえれば助かるんだが……」
フェイリス
「うーん、わかったニャ。とりあえず、フェイリスのほうは黒木に訊いてみるニャ」
黒木さんというのは、フェイリスの家の執事だ。
俺も何度か会ったことがある。
フェイリスも見るからにメイドといった感じだが、黒木さんもフェイリスの執事だけあって、見るからに執事といった風体の人物だ。
考えてみれば、メイドに仕える執事というのもおかしな話ではあるが。
フェイリス
「あとメイクイーン+ニャン⑯のご主人様たちにもそれとなく訊いてみるニャ」
るか
「ボクのほうもお父さんと、それから氏子の方たちにも訊いてみます」
倫太郎
「悪いな。そうしてくれると助かる」
黒木さんやルカ子の父親なら顔も広そうだし、可能性という意味では、俺たちが地道に捜すよりもずっと高くなる。
少しでも手がかりが見つかればいいんだが。
倫太郎
「それはそうとルカ子。その山ほどの荷物はどうしたんだ?」
るか
「あ、これはその……昨日、お父さんのお客さんが来るっていうお話はしましたよね?」
るか
「実はそのお客さんのひとりが、しばらく家に滞在することになって……」
フェイリス
「それで、必要なものを買いそろえていたそうニャ」
ルカ子の父親のお客さんというなら、ある程度は年配の人なんだろう。
昨日の話を聞いた限りでは、それなりに特殊な趣味の持ち主かもしれない。
倫太郎
「それは大変だな……」
るか
「いえ。ボクもちょっと楽しいですし」
楽しい……のか?
ルカ子も一応、あの父親の血を引いてはいるんだろうから、潜在的にそういう趣味があってもおかしくはないが。
倫太郎
「あんまりのめり込み過ぎないようにするんだぞ」
るか
「え? はぁ……」
それだけ警告して、フェイリスたちとはその場で別れようとした。
――したのだが。
るか
「……よい、しょっ……ん、しょっ……」
フェイリス
「ルカニャン、大丈夫かニャ? ふらふらしてるニャ」
るか
「だ、大丈夫です。ボク……だって……これくらい……」
倫太郎
「…………」
るか
「あの……よかったら、お茶でも飲んで行ってください」
倫太郎
「いや、遠慮しておくよ。お客さんだっているんだろう?」
るか
「そう……ですけど……」
ルカ子の荷物の量を見かねて、結局神社まで一緒に運んできてしまった。
ちなみに、フェイリスは途中で店に戻って行った。
倫太郎
「それにしても、この荷物、いくらなんでもひとりで運ぶには無理があるだろ」
るか
「ボクだって、最近は少し力がついてきたんですよ? 凶真――岡部さんに言われた素振りだって……あ……」
素振り――。
それは、女の子みたいな自分に悩むルカ子に、俺が課した修行だ。
倫太郎

清心斬魔
せいしんざんま

……か……」
厨二病過ぎて、笑えもしない。
るか
「すみま……せん……」
思えばよくもあんな戯言につき合ってくれていたものだ。
漆原父
「るか。帰ったのかい?」
社務所の奥にある住居から、ルカ子の父親の声が聞こえてきた。
るか
「はい! 今行きます!」
倫太郎
「それじゃあ、俺はこれで」
るか
「は、はい! ありがとうございました、岡部さん」
深々と頭を下げるルカ子の姿を背に、俺は柳林神社を後にした。
帰る道すがら、俺は頭の中でふたりの言葉を思い返していた。
フェイリス
「でも水くさいニャ。なにか困ったことがあるなら、フェイリスたちにも話してくれればいいのニャ」
るか
「そ、そうです。ボクじゃお役に立てないかもしれないですけど……でも、お話くらいなら……」
言われてはじめて気づいた。
俺は誰よりも先に“紅莉栖”に相談をしていた。
無意識のうちにアプリを立ち上げて、あいつと話をしていた。
あいつは――本物の紅莉栖じゃない。
けれど、あの声が、仕草が、言葉が――。
倫太郎
「っ……!」
すべてが紅莉栖を思い出させる。
すべてが、かつて俺が必死になって殺した想いを呼び覚まそうとする。
スマホへの着信。
相手は――“紅莉栖”からだった。
きっと、さっき何も言わずに切ったことで文句があるんだろう。
“紅莉栖”らしい行動だ。
倫太郎
「…………」
けれど俺は、その着信を取らなかった。
以降、その日何度かかかってきた電話にも結局出ることはなかった。
――アメリカ、カリフォルニア州。
リポーター
「まったく。なんで私がこんなリポートしなきゃいけないのよ」
ディレクターからの要請で、急遽現場に駆け付けたリポーター、
――ジェシカ・エドモンドは激しく憤っていた。
ハリウッドを夢見て、一度は映画にだって出たことのある自分が、なぜこんなどうでもいい事件のリポートに駆り出されなければならないのか。
ディレクター
「なんでもいいから仕事を寄こせと言ったのはお前だろう」
リポーター
「確かに言ったけど、だからってこんな事件――」
ディレクター
「落ちぶれた生意気な女優崩れを使ってやろうってんだ。感謝されたって文句言われる筋合いなんざない」
リポーター
「なんですって!?」
ディレクター
「それとも、ここでも仕事をほっぽり出して逃げ出すか? 何もかも中途半端で。そんなことだと、ガキの親権もとられちまうぞ」
リポーター
「っ……!」
何も言い返せない自分が悔しかった。
くだらないプライドばかりが大きくて。
女優を夢見てハリウッドまで行き、たかだかB級映画のひとつにチョイ役で出演しただけで以降さっぱり芽が出ず、子どもを作って地元に戻ってきたのは自分だ。
それでも子どもはかわいかった。
石にかじりついても、子どもの面倒だけはなんとしても見ていきたかった。
リポーター
「それで……現場は?」
ディレクター
「その茂みの奥だ……」
促されるままに茂みに入り、そこで彼女が目撃したもの。
リポーター
「うっ……」
それは、無残な姿になった複数の死体だった――。
キャスター
「このように、国内において行方不明になっている研究者は今年に入ってから5名――そのうちの3名については、Artificial Intelligenceの研究を行っていたとされており」
キャスター
「その背後には、人工知能技術の発展に反対する原理的宗教主義者たちによる活動も影響しているのではないかとみて、当局ではさらに捜査を続けている模様です」
キャスター
「続きましては、現場からのリポートです。ジェシカ!」
リポーター
「こちら、現場のジェシカ・エドモンドです。今朝早く、こちらの現場で発見された遺体に関して、当初人間のものと思われておりましたが――」
リポーター
「その後の警察の調べによりますと、それがチンパンジーやオランウータンといった、複数の猿の死体であることがわかりました」
リポーター
「ただし、これらの遺体について、一部、脳、および頭部が欠損しているものもあるとのことで、警察では猟奇的事件として、地域住民への警戒を訴えており――」
男子学生
「なあ、岡部。お前、この後授業は?」
倫太郎
「いや、今日はもう終わりだよ」
男子学生
「そっか。んじゃ、どっかで飯でも食ってく?」
倫太郎
「どうせ、またカレーだろ?
キッチン東海

か?」
男子学生
「昨日、ちょい臨時収入あったから今日は豪勢に
モンディ

かな」
倫太郎
「……俺はやめておくよ。今月、ちょっとピンチだし」
男子学生
「そっか。んじゃ、また今度な」
倫太郎
「ああ……」
授業終わりに友人たちと交わす会話。
この空気にもすっかりと慣れてしまった。
夏前はどこか身の置き所が無いと感じていたこの大学の生活も、今はそれほど居心地が悪いと思わなくなった。
あの頃の俺は、自分が特別だと思っていた。
けれど今は違う。
自分から輪の中に入ってさえゆけば、自然と自分の居場所だってできるようになる。
人は変われる。
いや、否応なく変わってゆく。
今さらながらに、俺はそのことを学んだ。
本当に今さらだが――。
倫太郎
「さて、と。それじゃあ帰って……ん?」
玄関へ向かおうと振り返る直前、一瞬視界に入った人影に見覚えがあった。
あれは……。
倫太郎
(……レスキネン教授?)
俺の通うこの大学では、積極的に留学生を受け入れているため、学内で外国人を見かけることも少なくはない。
けれど――。
倫太郎
「……いない」
慌てて後を追ってみたが、先ほど見かけた人物の姿は既に無かった。
俺の見間違いだろうか?
しかし考えてみれば、教授がこの大学に来ていたとしても、別段不思議でもなんでもない。
案外、俺の師事する井崎と会う約束でもあるのかもしれない。
井崎は、レスキネン教授と深い交流を持ちたがっていたから。
倫太郎
(こんど教授に会ったら聞いてみよう……)
教授と思わしき人物が歩いて行った先を一瞥して、俺は大学を後に、秋葉原へ向かった。
電気街口改札から出ると、すぐ目の前にはラジ館がいつものようにそびえ立っている。
あの屋上には、鈴羽が乗って来たタイムマシンが鎮座しているんだろう。
考えてみれば、いかに人が近寄らない場所とはいえ、結構な間見つかっていないというのも凄いことではある。
それもこれも、フェイリスのおかげだが。
フェイリスがラジ館の上を借り切って、屋上を封鎖してくれているのだ。
もっとも、俺がここに来たのは、そのタイムマシンの様子を見に来たわけじゃない。
昨夜、ラボから帰った後に、フェイリスとルカ子から連絡があった。
ルカ子は父親に、フェイリスは執事の黒木さんにそれぞれ訊いてくれたらしいが、やはりそんな話は聞いたことが無いということだった。
考えてみれば当然のことだ。
捜索願いでも出していれば警察が多少でも動いたという事実が残るのだろうが、そういうことは一切していないのだから。
ただひとつ、フェイリスが面白い話をしていた。
フェイリス
「でも、おさげの幽霊が現れるって話を聞いたニャ」
倫太郎
「おさげの幽霊?」
フェイリス
「そうニャ。なんでもその幽霊は、何年かに一度現れて、小さな女の子を見なかったかと捜しまわってるそうなのニャ」
フェイリス
「何年たってもその姿が変わらないから、最近になっておさげの幽霊だって言われてるニャ」
……どう考えても鈴羽のことだった。
あいつ、自分が幽霊だと思われていると知ったら、いったいどんな顔をするだろうか。
頭の中に浮かんだそんな想像に笑みを浮かべそうになるのをぐっと堪えて、俺はラジ館に足を向けた。
目的はもちろん、かがりの情報を得るためだ。
かがりが鈴羽の前から姿を消したのは、このラジ館だ。
ということは手がかりが存在する可能性が一番高いのも、ここだ。
ラジ館内にある店を一件一件訊いてまわったが、何の情報も得られなかった。
鈴羽だって今までそれなりに聞き込みをしたのだろうから、それも当然といえば当然だ。
だが、だからと言ってすぐに止めてしまうわけにはいかない。
パーツショップ。
商業施設。
そして路地裏に至るまで。
俺はその後も、秋葉原のあちこちで、かがりについて訊いてまわった。
けれど、なんら目ぼしい情報は手に入らず。
中にはフェイリスの言ったように、おさげの幽霊の話をする人もいたが、肝心のかがりの行方については誰も知らなかった。
そもそも、子どもがひとり誘拐されたなり、事故にあったなり、そういう目立った事件であればまだ目撃証言も出てくるかもしれない。
けれど、失踪となると別だ。
椎名かがりが自らの意思で失踪したというのなら、たとえ10歳の子どもがひとりで歩いていたところで、そう気にとめるものではないのかもしれない。
10年以上も前のそんな出来事を覚えてる人も、なかなかいないだろう。
もう一度、こういう時に一番いい方法はなんだろうか考えてみる。
警察などの公的機関が使えないとなると、あとは――裏世界に通じているような人物か。
倫太郎
「裏世界……ね」
言葉にして、すぐに頭から追い払った。
馬鹿馬鹿しい。
なんという厨二病な考え方だろう。
そういうのはもうやめたんだ、俺は。
倫太郎
「そういえば……」
以前もこうして、足を棒にして秋葉原の街を探しまわったことがあった。
もっとも、あの時は人じゃなく物だったが。
IBN5100。
鈴羽が過去の世界で求めたものと同じものを、半年前俺は、α世界線の秋葉原で探していたんだ。
あの時はそう――紅莉栖が一緒だった。
ルカ子の家の倉庫にIBN5100があると知った俺と紅莉栖は、力を合わせてあの重いPCを運んだんだよな。
紅莉栖
「あんたね、前に進まないでよ。私が後ろ歩きしなくちゃいけないでしょ。横に動きなさいっ」
思えばあの時のあいつは、文句ばっかり言っていたな。
負けん気が強くて、生意気で、そのくせ人一倍寂しがり屋で。
倫太郎
「…………」
俺はまた、無意識のうちにポケットからスマホを取り出していた。
『Amadeus』。
昨日何度かあった連絡を取らなかったせいだろうか、今日はまだ一度もかかって来ていない。
整然と並んだ中にある、『Amadeus』のアイコンをしばらく眺めた末――。
結局、起動しないまま、俺はスマホをポケットに仕舞った。
鈴羽
「…………」

「うーん……」
ラボに戻った俺を待っていたのは、疲れ切った顔をしたダルの姿だった。
もはや訊くまでもない。
手掛かりは皆無ということがよくわかる様だ。
さすがに鈴羽はこんなことを半年以上も続けてきたからか、普段と表情は変わりないようだが。
ダルは、俺を見ても『どうだった?』と訊いてくることはなかった。
俺の表情から結果を悟ったのだろう。

「考えてみたらさ、これまでだって鈴羽がそれなりに捜してたわけでさ。それを僕ら素人が今さらまた蒸し返したところで、新しい発見なんてあるわけないんだよな」
俺も思いながら、あえて口にしなかったことをダルが言った。
鈴羽
「手伝ってくれてありがとう。これ以上無理はしなくていい。捜索は、あたしだけで続行するよ」
鈴羽は諦めるつもりはないようだ。

「いや、ちょっと待って、鈴羽。僕が言いたいのはさ――」
鈴羽
「父さんたちに無理させるわけにもいかないから。かがりの件は、あたしの責任なんだし」

「馬鹿言うなよ。子どもの責任は親の責任だろ
常考


鈴羽
「父さん……」

「ね、今のどう? かなりパパっぽかったと思うんだけど。なんなら『パパ大ちゅきっ』って言って抱きついてくれてもいいのだぜ」
鈴羽
「はぁ……」
このふたりを見ていると、なんだか不思議な気分になってくる。
出会ってしばらくは、まったくの他人だった。
それが今や親子だ。
しかも年齢はといえば、父と娘でまったく同じときている。
鈴羽のほうはまだしも、ダルのほうはいったいどんな気持ちなんだろうか。

「とにかく、僕がいいたいのは、ただ無闇やたらに捜したところでダメだろってこと」
倫太郎
「じゃあ、どうしろと言うんだ?」

「餅は餅屋って言うでしょ。こういうのは、やっぱ専門家に頼むのが一番だと思うんだよね」
鈴羽
「専門家?」

「こういうのは、ある程度裏の世界の情報にも精通してる人に頼むのが一番だろ常考」
俺の思考とまったく同じ回路に、頭が痛くなりそうになった。
鈴羽
「心当たりがあるの?」

「ちっちっち。父さんを甘く見ないで欲しいな。僕はオタだけど顔は広いのだぜ」
倫太郎
「横幅も広いけどな」

「茶化すなっつーの」
倫太郎
「っていうか、本気で言ってるのか? 本気で、裏の世界の人間とやらに繋がりがあると?」

「ちょっと連絡取ってみる」
そう言うとダルは、俺や鈴羽の返事も聞かずにスマホを取り出しメールを打ち始めた。
まさか、本当なのか?
そもそも、そういう世界の人間って、メールで連絡とりあうものなのか?
鈴羽
「……どう思う、おじさん?」
倫太郎
「実際にそういう人物が本当にいるのなら、頼んでみてもいいとは思うが……」
まあ、考えてみればハッカーだって充分に裏稼業の人間だ。
そんな奴が身近にいるのだから、もしかしたらダルが言うような人物も実在するのかもしれない。

「よし、送信、と。あとは返信が来れば……」
倫太郎
「ん?」

「お?」
鈴羽
「え? もう返事が来たの?」

「うん……今からそっちに向かいますって」
倫太郎
「随分と話が早い相手だな」

「遅いよりはいいんじゃね?」
確かにそのとおりだ。
ダルはさらになにやらメールを打っているようだった。
おそらくは、ここの場所を送っているのだろう。
あとはその人物が来るのを待つだけだ。
すると今度は電話が鳴った。
ダルにではなく俺に、だ。
もしかしてまた、“紅莉栖”だろうか?
発信者を確かめると、ルカ子だった。
珍しいな。いつもは遠慮してまゆりに伝言するか、もしくはメールかRINEがほとんどなんだが。
というか、もしかしてダルが言ってた“裏の世界の情報にも精通してる人”って、ルカ子の事じゃないよな?
日本全国の神社仏閣に網羅されている極秘の情報ネットワークがあって、実はルカ子もその一員……だとか。
……ないな。
つい昔の悪い癖が出てしまった。
さすがに出ないのも悪いよな。
倫太郎
「もしもし、ルカ子か?」
るか
「あ、岡部さんっ。す、すみません、いま、大丈夫ですか?」
倫太郎
「ああ。どうした?」
るか
「あの……実はその……ボク、岡部さんに相談したいことがあって……」
倫太郎
「相談?」
るか
「……今から、お会いしてもらえないでしょうか?」
倫太郎
「今から? 電話じゃ言いにくいことなのか?」
るか
「はい……少し……」
今から、か……。
こっちは鈴羽やダルに任せてしまってもいいんだろうが……。
倫太郎
「……悪い。これから客が来ることになっているんだ」
ダルの知り合いというその相手がどんな奴なのか気になる。
るか
「そう……ですか……」
倫太郎
「その後からじゃダメか?」
るか
「その後は、ボクも用事があって……」
倫太郎
「そうか……」
るか
「えっと、それじゃあ……」
ルカ子がなにか言おうとしたその時――。
外の階段を上ってくる硬い足音が聞こえてきた。
そしてノックの音。

「はぁい、どうぞ」
倫太郎
「悪い、ルカ子。お客が来たようだ。後で連絡を――」
そこで俺の言葉は止ってしまった。
倫太郎
「な――!!」
ドアを開けて入って来た人物。
それは。
倫太郎
(――こいつ! また!)
萌郁
「…………」
桐生萌郁だった。
ATFのセミナーで見かけて以来だな。
るか
「あの……岡部さん? どうしたんですか? 岡部さん!?」
と、出る前に着信は途切れてしまった。
悪いな、後でこっちからかけ直すから、今は勘弁してくれよな……。
そんな風に心の中で謝っていたら――。
ルカ子は今度はRINEにメッセージを送ってきた。
もしかして、急ぎの用なんだろうか。
少し不安になって、すぐにメッセージを確認した。
ずいぶん切羽詰まってるな。
余程の事なんだろうか。
そういう事ならさっきの電話にも出てやるべきだった。
今すぐこっちから折り返そうか――と考えたその時。
外の階段を上ってくる硬い足音が聞こえてきた。
そしてノックの音。

「はぁい、どうぞ」
倫太郎
「な――!!」
ドアを開けて入って来た人物。
それは。
倫太郎
(――こいつ! また!)
萌郁
「…………」
桐生萌郁だった。
ATFのセミナーで見かけて以来だな。
鈴羽
「お茶、どうぞ」
萌郁
「…………」
倫太郎
「っ……」
黙ってほんの少し頭を下げた桐生萌郁の姿に、俺の心臓は締め付けられたような鈍い痛みを訴えていた。
倫太郎
(どう……して……)
どうして、こいつがダルと?
頭の中にいくつもの疑問が浮かぶ。

「どしたん、オカリン?」
倫太郎
「いや……」
萌郁
「…………?」
僅かに首をかしげて見つめる萌郁から、逃げるように目を逸らした。
俺たちとSERNとはもう繋がりはない。
だから、萌郁はまゆりを殺さない。
まゆりを殺さない。
まゆりを殺さない。
殺さない。
何度も言い聞かせて、ようやく泡立った胸のざわめきが収まっていった。
鈴羽
「おじさん。顔色悪いよ。大丈夫?」
倫太郎
「気にしないでくれ……。それよりもダル……説明してくれ」

「あぁ、この人は桐生氏。
編プロ

のライターさんだよ」
萌郁
「桐生……萌郁です……」
静かに差し出された名刺には『
アーク・リライト

』という会社の名前が書かれていた。
ダルは手短に俺と鈴羽のことも萌郁に説明した。
倫太郎
「なあ、ダル。お前はどうして……この人と知り合いに?」

「前にさ、桐生氏の担当してる雑誌で、アキバ関係の
都市伝説

を扱った特集があったんだよね」

「その時に、僕のバイトのこと取材したいって申し出があってさ」

「僕のバイトってほら、あんま大きな声で言えないやつっしょ? だから取材に関しては丁重にお断りしたんだけど」

「ただ、ボクって普段から足がつかないようにかなり注意してるんだよね。なのに桐生氏は、その僕に辿りついた。それが気になって」

「で、会ってみたらこのとおり、すげー美人さんだったわけだお」

「都市伝説を追う美人ライターとか、萌えざるをえないだろ、常考」
それでお近付きになったというわけか。
美人を前にだらしなくデレデレしているダルに、鈴羽は顔をしかめた。
口には出さないが『母さんという人がいながら』と思っているのが丸わかりだ。
一方の萌郁はといえば、ダルになど一切が関心なさそうな相変わらずのポーカーフェイスで所在なさげにケータイを弄っていた。
こいつは、今でもスマホではなくガラケーなんだな。

「ま、専門ってわけじゃないけど、アキバについてはかなり詳しいみたいだし。結構裏のほうの事情も知ってるっぽいから、頼んでみるのもありかなって」
萌郁
「……人捜し……そう聞いた……」

「ん。実はね。12年前にアキバでいなくなった女の子を捜して欲しいんだお」
ダルは桐生萌郁にある程度のいきさつを話して聞かせた。
萌郁はただ黙って、ダルの話をものすごい勢いでケータイに打ち込んでいく。
俺はただ黙って、その萌郁の挙動を観察した。
かつてラウンダーだった女。
おそらくは今もそうだろう。
果たして、この女に頼ってもいいものだろうか。
今回の萌郁との接触は、ただの偶然だ。
頭ではそう分かっていても、心が拒絶してしまう。
このβ世界線では、これまで桐生萌郁と俺たちに接点は無かった。
当然だ。
そうならないために俺はβ世界線を選択したのだから。
牧瀬紅莉栖という大きすぎる犠牲を払って。
萌郁
「……つまり……その、椎名かがりという人を、捜せばいいの……?」

「そういうこと。どうかな?」
萌郁
「……やってみても……いい……」

「マジ?」
萌郁
「……でも……見つかるかは……わからない……」

「もちろん、その場合はしょうがないよ」
普通に考えれば、俺と桐生萌郁がこうして接点を持つことは、本来なら無いはず。
もちろん、この秋葉原の街ですれ違うくらいのことはあるかもしれない。
事実、先月のATFセミナーではレスキネン教授や真帆に取材をしていたようで、ニアミスした。
けれど、こうして直接関わり合うことはない。勝手に、そう思い込んでいた。
これも、すべては決められた運命なのだろうか?
俺と桐生萌郁は、時間という道程で何らかの形で交差する、そういう宿命なのだろうか。
だとするなら……これまでのように避けるのではなく、いっそのことここで彼女の挙動を見守ったほうがいいのかもしれない。
ダルと萌郁の話を聞きながら、俺はそんな風に考えはじめていた。

「んじゃ、報酬は成功報酬で。その他の必要経費はこっちで持つってことでおk?」
萌郁
「……問題ない」

「オカリンも鈴羽もそれでいい?」
鈴羽
「あたしは、手伝ってもらえるなら文句はない」
倫太郎
「……俺も……かまわない……」

「んじゃ、契約成立ってことでひとつ」
萌郁
「…………」
萌郁は小さく頷き、その後かがりについての手がかり――失踪した時の服装だとか、特徴だとか――を聞いて、ラボを出て行った。
倫太郎
「ふぅ…………」
途端にそれまで張りつめていた緊張の糸がぷっつりと切れ、俺はソファに崩れ落ちた。
鈴羽
「おじさん。本当に大丈夫?」
倫太郎
「大丈夫だ……少し緊張しただけだから……」
今さらという感じではあるが、ポケットから精神安定剤を取り出し口に含んだ。
鈴羽
「おじさん、さっきの桐生萌郁って人のこと、知ってたんだね?」
倫太郎
「え?」
見抜かれた?

「マジで? オカリンいつの間に?」
倫太郎
「……どうしてそう思ったんだ?」
鈴羽
「見ていれば分かるよ」
さすがに、修羅場を生き抜いてきた人間だけに鋭いな。
倫太郎
「……いや。知らない人だ……」
鈴羽
「α世界線では、知ってた?」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「分かった。これ以上は聞かないけど、あたしなりに警戒はしておくよ」
倫太郎
「……それでいい。今はな」

「いったいなんのこと?」
倫太郎
「緊張した、っていうことさ」

「分かるわー。桐生氏は美人で巨乳でスタイル抜群でメガネ属性まで持ってるもんな。しょうがない」
倫太郎
「そうだな……」
鈴羽
「…………」
どうせ関わってしまったのなら、利用するだけ利用してやればいい。
目の前から消えたおかげか、それとも精神安定剤の効果か、それくらいのことまで考えられるようになっていた。
もっとも、次回あの女と顔を合わせた時、同じように考えられるかはわからないが。
埼玉県和光市、脳科学総合研究機構・日本オフィス。
その日、比屋定真帆は欠伸をかみ殺そうと必死で我慢した挙句、結局こらえきれず、その小さい顔の大半を占めてしまいそうなほど大きな口を開けた。
真帆
「ふぁ~……」
前の晩、“紅莉栖”と話をしていたらつい盛り上がってしまい、気付けば深夜になっていたのがそもそもの原因のひとつ。
最初こそ話の内容は今行っている研究や実験についてだったが、話題は二転三転し、話はいつしかまた、岡部倫太郎についての話になっていた。
なんでも岡部はここ数日、“紅莉栖”からの連絡を無視しているのだという。
そんな岡部に対しての憤りは、最初の頃に8回連続で居留守を使われた云々で怒っていた頃とは比べものにならないものだった。
真帆がはじめて垣間見た牧瀬紅莉栖の少女らしい一面と言ってもいい。
それが思わず可愛くて、これまで散々弄られていた真帆がここぞとばかりにからかっているうち、いつの間にか時間が過ぎていたのだ。
しかもそこで寝てしまえばいいものを、すっかり目が冴えてしまった真帆は、こんどは紅莉栖の残したノートパソコンを引っ張り出してしまった。
そして、なんとかパスワードを解析できないものかとあれこれしているうちに、外は明るくなっていた。
真帆
「パスワード……ねぇ……」
真帆
「やっぱり、プロにでも頼んだほうがいいのかしら……」
???
「何の話だい?」
真帆
「ひゃっ!?」
突然、背後から声をかけられ、真帆は飛び上がりそうになった。
レスキネン
「ハハハ、そんなに驚くことないじゃないか」
真帆
「きょ、教授。戻ってたんですか」
レスキネン
「ついさっき、ね」
そう言って掲げた手には、コンビニの袋が下げられていた。
10分ほど前に食事に行くと出かけたから、てっきりまだ戻ってこないものだと思っていたのに。
レスキネン
「それにしても、ニッポンのコンビニは食べ物の種類がいっぱいで本当に素晴らしいね!」
レスキネン
「毎日違うベントーを食べても、1週間もすればすぐに新しいベントーが出る」
レスキネン
「しかも、店によっても味が違うから、毎日コンビニでも飽きないよ」
真帆
「コンビニのお弁当ばかり食べていると、栄養偏りますよ」
レスキネン
「ハハハ。それでもアメリカの食事に比べれば、かなりヘルシーだよ」
レスキネン
「第一、食事についてのお説教だけは、マホには言われたくないね」
真帆
「うっ…………」
確かに、真帆自身あまり栄養を考えた食事を採るほうではない。
むしろシリアルや栄養剤に頼っている部分も多く、かなり不健康な食生活だった。
レスキネン
「ところで、なにをプロに頼むって?」
真帆
「ああ……あれはその……なんでもないです。なんでも」
レスキネンになら、別段知られて困ることではない。
けれど、真帆は何故か咬嗟にそう誤魔化してしまっていた。
レスキネン
「そうかい? 私でできることなら力になるよ」
真帆
「ありがとうございます。その時はお願いします」
社交辞令的に言って立ち上がると、そのまま扉へと向かう。
レスキネン
「マホ? どこへ行くんだい?」
真帆
「気分転換を兼ねて、秋葉原に行こうかと」
レスキネン
「気分転換で行くにしては、ずいぶん遠いね」
真帆
「う……」
レスキネン
「リンターロに会いに行くと、素直に言えば許可しよう」
真帆
「そ、そんなんじゃ……!」
レスキネン
「違うのかい?」
真帆
「……ついでに、会いに行ってもいいですけど」
岡部は秋葉原にラボラトリーを構えている。そのことを前夜、“紅莉栖”から教わっていた。
以前は足が遠のいていたそうだが、最近になってまた顔を出すようになったのだとか。
そのラボラトリーに、真帆も少しだけ興味があった。
レスキネン
「ふ~ん」
真帆
「い、言っときますけど、違いますからね。そういうのじゃないですからね」
レスキネン
「私はまだ何も言ってないよ?」
真帆
「っ……というわけで、今日は研究は休みますっ」
レスキネン
「リンターロによろしく」
“紅莉栖”といい、レスキネンといい、なぜああもすぐに恋愛感情に結びつけたがるのか真帆には理解不能だった。
真帆
(ていうか、ああいうのもセクハラよね、今の世の中じゃ)
だいいち、真帆が岡部の所を訪ねようとしているのは、会いたいからというわけではない。
やはり、もう一度岡部に会って、紅莉栖のノートPCのパスワードに関するヒントを貰うためだ。
岡部は知らないと言っていたが、真帆がひとりで考えるよりは、きっと多くを知っているに違いない。
それは、岡部の『Amadeus』に対する態度を見て思ったことだ。
女の勘といってもよかった。
そんな事を考えながら電車を乗り継ぎ、秋葉原の駅を改札を出た時だ。
真帆
「…………?」
誰かに見られているような気配がして、真帆は振り返った。
平日だというのに、駅は大層混雑している。
しかしその中に、真帆が感じたような視線を放つ者はいなかった。
真帆
「……気のせい……よね……」
誰に言うともなしに呶いて、再び歩き出す。
未来ガジェット研究所の場所は、“紅莉栖”から聞いている。
秋葉原の地理にそこまで詳しいわけではないが、いざとなれば“紅莉栖”にナビをしてもらえばいいだろう。
ただ、いきなり訪ねていって、岡部がいなかったらどうすればいいだろう。
それが少し不安だったが、そのときは素直に帰ればいいだろう。
様々なショップの店頭で売られているジャンク品に目移りしながら、しばらく進んだところで――。
真帆
「…………」
やはり、何者かの眼差しを感じた。
しかし、振り返ってもやはりそれらしき人間は見当たらない。
真帆
「…………」
再び歩き出し、角を曲がって路地へ。
そこで真帆の疑惑は確信に変わった。
足音――。
それが真帆の背後から聞こえてくる。
もちろん、それだけなら良くあることだ。
夜の道で迫ってくる足音に思わず歩調を早めると、すぐ横を男の人が面白くなさそうに追い抜いていく、なんてことも度々ある。
けれど、今回はそういうのではないと、真帆は何故か確信していた。
試しに歩調を早めると、ついてくる足音も早まり、緩めると足音も緩まった。
真帆
「っ……!」
映画などでこういう場面を見ると、自分なら蹴りの1発でもお見舞いしてやるのに――といつも思っていた真帆だが、実際に出くわすと振り返ることすら出来なかった。
もどかしい手つきで、ポケットからスマホを取り出す。
警察に電話するという選択肢は頭に浮かばなかった。
頭の中に浮かんだのは、今から会おうと思っていた人物の名前だけ。
その名を履歴から呼び出し、震える指で発信ボタンを押した。
真帆
(お願い……!)
呼び出し音に足音が重なる。
真帆
(岡部さんっ! 助けてっ……!)
足音はすぐそこまで近づいていた。
たまらず駆け出そうとしたその時――。
倫太郎
「もしもし?」
通話口の向こうから声が聞こえた。
真帆
「もしもし、岡部さん!? 私、比屋定ですっ!」
真帆
「今、あなたのラボのすぐ近くまで――!」
しかし、それ以上のことを真帆は言葉に出すことができなかった。
何者かによって羽交い絞めにされたとわかった時には、真帆は手の中のスマートフォンを取り落してしまっていた。
倫太郎
「これは……?」
無言で差し出された紙を受け取りながら、俺は桐生萌郁に訊ねた。
萌郁から、ラボに向かうとダルに連絡があったのがつい10分ほど前。
その宣言ピッタリに、萌郁はここに現れた。
連絡を寄こした時には既に近くまで来ていたと思われる。
誰もいなかったら、どうするつもりだったのだろう。
萌郁
「……報告書」
どうやら、これまでの調査の結果を記したものらしい。
手にした紙の束が僅かに震える。
萌郁を前に覚える不安は、俺の中にまだ多少残っているらしい。
それでも、連絡が来てすぐに飲んだ精神安定剤が効いているのか、先日に比べると幾らかはマシにはなっていた。
鈴羽
「どう、おじさん?」
倫太郎
「やっぱり、そう簡単に見つかるもんじゃないな……」
鈴羽
「そう……」
少しは期待していたのだろう。
鈴羽の声には明らかに落胆の色があった。
鈴羽
「かがり……どこで何してるんだろう……」
その疑問に答えられるでもなく、ただ黙って報告書を捲る。
倫太郎
「ん?」

「どしたん、オカリン? なんか有力な手がかりでもあったん?」
倫太郎
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
鈴羽
「見せて」
俺は素直に鈴羽に報告書を手渡した。
気になった箇所を指し示してやる。
鈴羽
「『調査の中でひとつ、興味深い事実が浮かび上がった』」
鈴羽
「『この1、2ヶ月の間で、椎名かがりという名の女性を捜している人物が、私たち以外にも存在するらしいということ』」
鈴羽
「……どういうこと?」
萌郁
「……読んだままの通り……」
ということは――。
その時、俺の思考を遮るように着信音が鳴った。
発信者は――比屋定真帆。
大事な話の最中だ。
5分後でもかけ直す事にしよう。
それぐらいなら、真帆だって許してくれるだろう。
それよりも気になるのは、かがりを捜しているという別の人物の事だ。
いったい何者だろう?
その人物はかがりと面識があるのだろうか。
現在のかがりを知る人物なら、接触してみるのもアリ、か?
……というか、真帆はなかなか電話の呼び出しをやめようとしない。よほど大事な用件か?
いつもなら、このままスルーして後でかけ直すところだが――。
倫太郎
「悪い。ちょっといいか?」
この時に限っては、なぜか出なければならない。
そんな気がした。
倫太郎
「もしもし?」
真帆
「もしもし、岡部さん!? 私、比屋定ですっ!」
ひどく切羽詰まった真帆の声に、急激に緊張感が高まり、こちらの声も自然大きくなる。
倫太郎
「どうした、比屋定さ――」
真帆
「今、あなたのラボのすぐ近くまで――!」
直後、なにか揉み合うような音と、ぶつかるような音が聞こえ。
倫太郎
「比屋定さん!? 比屋定さん、どうした!」
そして、そのまま声は途切れた。
倫太郎
「…………」

「オカリン? 何かあったん?」
あの声――なにか良くないことがあったのは明白だ。
倫太郎
「知り合いが誰かに襲われてるっ!」

「ちょっ、マジ!? 知り合いって誰!?」
それ以上ダルの問いかけに答えるのももどかしく、俺は手近にあった武器になりそうなものを掴むと、ラボを飛び出した。
倫太郎
「…………!」
真帆はラボの近くだと言っていた。
駅から来るルートで人目につかないところとなると、おそらく――。
ラボから目と鼻の先の路地裏。
そこに人の姿を見つけた。
すらっとした長身の人物……その向こうに小さな人影が蠢いているのが見える。
あれは……!
間違いない、あの背丈は真帆のものだ!
真帆
「やめて……離してってばっ……!」
真帆が何者かによって抑えつけられ、逃れようと必死でもがいている!
倫太郎
「比屋定さんっ!」
真帆
「え?」
???
「――!?」
俺の張り上げた声に、真帆を抑え込んでいた人物が驚いて振り返る。
倫太郎
(……女?)
そこではじめて、そいつが女で、更には日本人じゃないことに気づいた。
真帆
「岡部……さん?」
倫太郎
「おい。比屋定さんを離せ!」
不審な女
「…………」
言葉が通じていないのか?
いや、でもだいたいの意味くらいは雰囲気でわかるはずだ。
倫太郎
「その子を……離せ」
俺は手にした得物を構え、凄んで見せた。
よりによって持ってきたものが、サイリムセイバーだったことにようやく気付いたが、それでもハッタリくらいにはなるだろう。
倫太郎
「もう一度言うぞ。その子を――」
真帆
「違うの、岡部さん」
倫太郎
「え?」
違う?
何が?
不審な女
「Oh~!」
すると女は、抱えていた真帆を離すと、満面の笑みを浮かべ両手を広げ、こちらへと近づいてきた。
不審な女
「Are you Maho’s boyfriend?」
倫太郎
「はぁっ!? え? あ、ちょっ――」
どういうことだ――と声を上げるよりも早く、彼女の両手が俺の背中に回され――。
がっしりとハグされていた。
真帆
「だから、違うって言ってるのに……」
なにがどうなっているのかもわからず、ただ胸元に押し付けられた弾力のある膨らみに、俺はただなすがまましばらく立ちすくんでいた。
倫太郎
「それじゃあ、この人は比屋定さんの知り合いなのか?」
真帆
「ごめんなさい。私が早とちりしたせいで……」
女性
「I’m Judy,Judy Reyes.Pleasure meeting you,Mr.Okabe.」
ジュディ・レイエスという名の女性は、太陽のような笑みを浮かべて右手を差し出した。
倫太郎
「あ、ええっと……ナイス・トゥ・ミーチュー……」
レイエス
「ふふ……日本語でいいわよ」
真帆
「え? 教授って日本語、喋れたんですか?」
レイエス
「ええ。実は、ね」
真帆
「……知らなかった。でも、どうして?」
レイエス
「ふふっ、女もワタシくらいの年になると、いろいろあるのよ」
悪戯っぽいウィンクがかなり様になっていた。
レイエス
「それじゃあ、改めて。ジュディ。ジュディ・レイエスよ。よろしくね」
再び差し出された手を、俺はしっかりと握り返した。
倫太郎
「お、岡部倫太郎です」
真帆
「レイエス教授は、こんど日本で開かれるAI関係の学会に出席するために、来日したんですって」
倫太郎
「教授っていうことは、ヴィクトル・コンドリア大学の?」
レイエス
「psychophysiologyを研究しているわ」
倫太郎
「サイコフィ……?」
真帆
「精神生理学のことよ。つまり、脳の活動によってもたらされる心の働きとか心の病気なんかについての研究をされているの」
真帆
「そういう意味では、私たちの研究よりもずっと人の役に立つ研究をされていると言っていいかもしれないわね」
レイエス
「そんなことないわ。アナタたちの『Amadeus』だって、これからの発展次第では充分に役に立つ技術になるわよ」
真帆
「そう言っていただけると嬉しいです」
要するに、日本にやって来たレイエス教授が、たまたま秋葉原で真帆の姿を見かけ抱きついて驚かせた、と、そういうことだったらしい。
真帆
「でも、レイエス教授も人が悪いですよ。駅からつけてくるなんて」
レイエス
「つける? マホを? ワタシが?」
真帆
「ええ……。後ろ、ついてきてましたよね? ずっと……」
レイエス
「そんなことしてないわ。ワタシはさっきそこのショップでたまたまマホを見つけたから、ちょっと驚かそうと思っただけよ」
真帆
「え?」
レイエス教授の答えに、さっきまで安心しきっていた真帆の顔色が変わった。
倫太郎
「比屋定さん、つけられていたのか?」
真帆
「ええ……確かにそう感じたんだけど……」
倫太郎
「レイエス教授、誰か怪しい人物を見かけたりは?」
レイエス
「…………」
レイエス教授は、肩をすくめる外国人特有の仕草で否定した。
路地の向こうを振り返っても、当然それらしき人影はない。
真帆
「……じゃあ、私の勘違いだったのかしら」
レイエス
「きっとそうだわ。だってニッポンは世界一治安のいい国でしょう?」
そう……なんだろうか?
レイエス
「マホはこの後どうするの?」
真帆
「私は……」
それ以降は口にせず、ただ俺を見上げた真帆に、レイエスは何かを感じとったのだろう。
レイエス
「ンふ、なるほど、そういうこと。それじゃ、ワタシは行くわね。リンタロもそのうちゆっくり話しましょ!」
レイエス
「Bye!」
意味ありげにウィンクを寄こして、去って行った。
駅とは逆方向だが、良かったんだろうか?
それに、また変に勘ぐられたような気がするが、いちいち抵抗するのも面倒だった。
倫太郎
「というわけで、彼女が比屋定さんだ。ほら、前にセミナーで会ったって話したことがあっただろ?」
真帆
「お騒がせしてごめんなさい」
成り行きで真帆を連れてラボに戻ると、皆が俺が戻るのを待っていた。
鈴羽などは一度表へ出たらしいのだが、その時点で既に俺の姿は見えなくなっていたそうだ。

「ま、でも、何ごともなくてよかった」
ひととおり、説明と紹介を終えてようやく全員が息をついた。
真帆はラボについて色々と聞きたそうにしていたが、俺には先に済まさなければならない話があった。
倫太郎
「すまん……どこまで話したんだったか……」

「他にもかがりたんを捜している人間がいるって話」
倫太郎
「そう、それだ!」
倫太郎
「その……それは本当なんですか、桐生さん」
萌郁
「……本当……」
再び萌郁の調査書に目を落とすと、詳細が書いてあった。
萌郁は裏を取るために、興信所まで使ったそうだ。
ということは、それだけ信憑性も大きくなる。
倫太郎
「それが鈴羽という可能性はないんだろうか」
鈴羽
「それはあたしも考えた。でも……」
萌郁
「……捜していたのは男の人……中には外国人も……」
外国人?
それがなぜ、かがりを捜す?
鈴羽

この時代
こっち
でかがりと関わりがあるのは、あたしだけだ。それなのに、いったい誰が……」
もしかして、SERN!?
SERNがかがりが未来からやって来た存在だという事に気づき、捜している……とか。
でもそれなら萌郁が知らないということはないはず……。
いや、ラウンダーの行動は、それぞれ直接下されるようだから、他のラウンダーがなにをしているか知らなくてもおかしくはない。
倫太郎
「椎名かがりは、こっちに来てもう12年にもなる。その間、知り合いが出来たとしてもおかしいことじゃないな……」

「つーか、むしろ誰かの世話にならないと、生きていけないっしょ」
そういうことだよな。
倫太郎
「つまり、この報告からわかるのは――」
倫太郎
「椎名かがりを知る何者かが、ここ最近なんらかの理由から、彼女を捜しているということと……」
倫太郎
「少なくとも最近まで、椎名かがりは生きていたっていうことだ」
鈴羽
「……!」

「あ、そっか……」
鈴羽のように時代を跳躍できる状況でもない限り、捜すということはそいつらの前からもかがりが消えたということになるんじゃないだろうか。
かがりを捜す連中が現れたのがここ1、2ヶ月だとすると、それまでは生きていたという可能性は高い。
萌郁の報告からはそれ以上のことはわからなかった。
萌郁
「どう……する?」
倫太郎
「……引き続き、調査をお願いできますか?」
かがりを捜している連中が秋葉原界隈にいるということは、やはり彼女もこの近辺にいるかもしれないということだ。
萌郁
「……わかった」
萌郁はひとまずここまでの報酬を受け取ると、ラボを後にした。
支払いに関しては、ひとまずはダルが出してくれた。
未来の
①①①
とはいえ、娘のこととなると、甘くなるようだ。
真帆
「人を捜しているの?」
それまで物珍しそうにラボの中を見回していた真帆が訊いた。
倫太郎
「ああ。ちょっと知人を、な……」
椎名かがりを捜していた中に外国人がいた、というのがやはり気になる。
SERNでなくとも、タイムマシンがあるとわかれば飛びつく連中は世界中に存在する。
かがりがふとした拍子に未来から来た人間だと知られ、そのせいで何らかの事件の渦中にいるのだとしたら……。

「それじゃオカリン、そろそろ比屋定氏のことを
kwsk


倫太郎
「詳しくって言われても、前に説明したぞ?」
彼女がレスキネン教授の助手をしていて、教授ともども懇意にさせてもらっている。たまに研究の手伝いもさせてもらっている。そんなような説明は以前にもしてあった。

「たとえば比屋定氏がこのラボのメンバーに加わってくれる、的な
超展開

はありますか?」
倫太郎
「ないだろ」

「じゃあせめて、真帆たんと呼んでもいいですか? つーか呼ぶ」
真帆
「真帆……たん……?」

「あれ? 名前、間違ってた?」
真帆
「そうじゃなくて! その変な呼び方に引っかかったの」

「でも、真帆たんは真帆たん、って感じじゃん。なあ、オカリン?」
倫太郎
「俺にふるな」
真帆
「とにかく、その呼び方はやめて」

「だが、断る」
こいつはブレないな……。
倫太郎
「それで比屋定さん。今日はどうしてラボに? 俺、ここのことは君に話したかな?」
真帆
「『Amadeus』に教えてもらったわ」
真帆
「今日は……本来は話したいことがあったのだけれど。まあいいわ」
真帆

噂の
①①
ラボを見ることが出来たし、それに、なんだかあなたたちも大変みたいだから」
倫太郎
「ひょっとして、
あいつ
①①①
、怒ってたか?」
真帆
「ええ、とても怒ってたわ。連絡しても出ないって」
……予想通り、だな。

「え? ちょっ、なになに? それなんの話!?」
倫太郎
「別に浮いた話じゃないから、いちいち反応するなって……」
真帆
「……岡部さん、やっぱり辛いの? だったらテスター、やめてもらっても……」
倫太郎
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……」
……あいつの存在に依存してしまいそうな自分が嫌で。
真帆
「……また、気が向いた時にでも話してあげて。あの子も寂しがってるわ」
倫太郎
「……わかった」
寂しがっている、という言葉に少しだけ心が痛んだ。
それでも俺はこの日も、“紅莉栖”と会話することはなかった。
椎名かがりに関する萌郁の報告があってから、数日が経った。
昨夜確認してみたが、あれ以降、調査に進展は無いらしい。
萌郁も萌郁で担当雑誌の校了などがあり、時間がとれないのだとか。
椎名かがりを捜している連中の存在というものに、幾ばくかの不安を感じないでもないが、本来の業務を差し置いて、こっちを優先してもらうわけにもいかないからやむを得ないだろう。
まゆり
「はふぅ~、まゆしぃはとっても残念なのです……」
倫太郎
「ん? もしかして、クリスマスパーティーの話か?」
まゆり
「うん。カエデさんとフブキちゃん、用ができちゃったって」
まゆり
「フェリスちゃんはお仕事で~、綯ちゃんも店長さんと過ごすことになってて~」
まゆり
「ダルくんは由季さんと遊びに行くんだって」
倫太郎
「結構なことじゃないか」
聞くところによると、鈴羽が随分とおぜん立てしたらしい。
ダルの由季に対する態度がどうにもハッキリしないと、いつも鈴羽がボヤいていたからな。
鈴羽にしてみれば、自分の存在自体がかかっているわけだし、決まった仲とはいえ、何かの拍子で上手くいかなくなることだってあるかもしれない。
なにより鈴羽だって、この平和な世界で父親と母親が仲良くするところを見たいのだろう。
これを機に進展でもあれば、少しは安心するだろう。
倫太郎
「まゆりもクリスマスは家で過ごしたほうがいいんじゃないのか? この前、おじさんがケーキを予約してたぞ」
まゆり
「お父さんに会ったの~?」
倫太郎
「家の近くでバッタリな。まゆりをビックリさせるために、おっきいのを予約するんだって張り切ってた」
まゆり
「そっかぁ……ん~、じゃあ、そのほうがいいね」
倫太郎
「あ、言っとくが、今のは聞かなかったことにしてくれ。せっかくのおじさんのサプライズだからな」
まゆり
「うん、わかったよ。でも、オカリンはどうするの、クリスマス」
倫太郎
「特に予定はないかな。うちは元々、そういうことする家でもないし」
大学の連中は『男だらけのクリスマス飲み会』を開くと言っていたが、俺は誘われなかった。
何度違うと言っても、そいつらはまゆりのことを俺の彼女だと思っているらしく、不当な文句まで言われてしまった。
まゆり
「確か、サンタさんにプレゼントが欲しいって言ったら、朝、枕元にお野菜が置いてあったんだよね?」
倫太郎
「どう見ても、前の日の売れ残りのな。クレームをつけたら、うちはキリスト教じゃねえ、って逆ギレされた」
考えてみれば、あれでよく道を踏み外さなかったものだ。
……もっとも、まっとうな道を歩いて来たとも言い難いが。
まゆり
「クリスマスが終わったら、コミマがあって、そしたらもうお正月。一年、あっという間だね~」
倫太郎
「そうだな……」
あっという間、でも無かったけどな。
なにせ俺は、何度も何度もあの時間をやり直したんだから。
むしろ気の遠くなるほど長い一年だった。
まゆり
「そうだ! ねぇ、オカリン。クリスマスパーティーはできないけど、お正月パーティーをするのはどうかな?」
まゆり
「みんなで初詣に行って~、それからおせち料理を食べて~、今年もよろしくって言って~」
倫太郎
「……ああ、いいんじゃないか?」
まゆり
「だよねだよね~。うん、じゃあ、後でみんなに訊いてみるね~」
まゆりはそう言うと、おもむろに立ち上がった。
まゆり
「さてと、まゆしぃはこれから、お買い物に行ってきます」
倫太郎
「買い物?」
まゆり
「うん。フブキちゃん用のコスでね、急に小物が必要になっちゃって」
倫太郎
「そうか。気をつけて行ってこいよ」
まゆり
「うんっ」
まゆり
「そうだ、オカリン、るかくんがね、オカリンに何か相談があるみたいなの」
倫太郎
「あ……」
そういえば以前、ルカ子から電話があったんだ。
その後、萌郁が来たりいろいろあって、すっかり忘れていた。
ルカ子のことだ。俺が後で連絡すると言ったせいで、電話をずっと待っていたのかもしれない。
倫太郎
「わかった。こっちから連絡をとってみる」
まゆり
「うん、お願いね~」
まゆり
「じゃあ、行ってきま~す」
まゆりはコートを着ると、手を振って部屋から出て行った。
さてと、それじゃあルカ子に連絡してみるか。
倫太郎
「…………」
それにしても、相談か……。
いったいなんだろう。
また女の子になりたい、なんて言われないだろうか。
いや、さすがにそれは無いか。
あれは電話レンジ(仮)というものがあって、はじめて聞かされた望みだ。
でも、じゃあ……。
まあ、聞いてみればわかることだな。
倫太郎
(ルカ子のやつ、出ないな……)
仕方がない。
とりあえずRINEを送ってみるか。
用件を入力して――。
送信――。
それからしばらくルカ子からの返事を待ってみた、
けれど、ルカ子に送ったRINEは、既読になる気配すらなかった。
なにか立て込んででもいるのか。
一瞬、直接ルカ子の神社にでも行ってみようかとも思ったが、忙しいのなら迷惑になるだけだと思い直す。
そのうち、都合のいい時にでも連絡が来るだろう――そんな風に思っていると、ラボの外階段を上ってくる足音が聞こえた。
ダル――じゃなさそうだ。
ダルならもっとドスドスと重い音がする。
倫太郎
「どうぞ」
るか
「こんにちは……」
倫太郎
「ルカ子……」
るか
「良かった。岡部さん。ここにいてくれて」
まさに、ついさっき連絡を取ろうとしていたルカ子だった。
倫太郎
「すまない。この前の件、すっかり忘れてたんだ。それで、さっき電話したんだが……」
るか
「え? あ、本当だ……ごめんなさい。ボクのほうこそ、気づかなくて」
スマホを確認すると、まるで出なかったことが罪悪でもあるかのように、ルカ子は申し訳なさそうな顔をした。
倫太郎
「いや、別にいいよ。それより寒いだろう。入ってくれ」
るか
「あ、はい……」
そう答えたはいいが、ルカ子は後ろを気にしてなにやら躊躇していた。
るか
「あの、岡部さん……その……相談の件なんですけど……」
るか
「実は……その前に、会ってもらいたい人がいて、連れてきたんですけど……いいですか?」
倫太郎
「会ってもらいたい人?」
るか
「えっと……」
ルカ子が僅かに身を避ける。
と、その背後から、ひとりの女性が現れた。
女性
「あの……はじめまして……」
倫太郎
「――!」
え?
嘘、だろ……?
そこにいたのは……。
倫太郎
「紅莉栖……」
女性
「よろしくお願い……します……」
倫太郎
「ど、どうぞ…………」
女性
「ありがとうございます……」
コップに注いだペットボトルのお茶を差し出すと、その女性は消え入りそうな声で言った。
俺はというと、コップを持つ手が震えないようにするのが精一杯だった。
ソファの向かいに腰をかけて、彼女の顔をもう一度良く見る。
倫太郎
(……似てる)
ルカ子にではない。
目の前の女性はあいつ――牧瀬紅莉栖にそっくりだった。
女性
「…………」
茶色がかった髪も、やや吊り上った目も、澄ました様な顔つきも。
今は気の強そうなところさえないが、それを除けば、そっくりと言ってよかった。
実際、最初に目にした時には、驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
ただ、良く見れば違うところもある。
例えば……胸の大きさとか……。
女性
「…………?」
年齢は、俺たちと同じくらいだろうか?
ルカ子よりは年上に見える。
確か、ルカ子には姉がいたはずだが……もしかしてこの人が?
おとなしそうな雰囲気はルカ子に似ている気がするが……。
でも、姉は弟と違って活発だと聞いた覚えもあったような。
るか
「岡部さん?」
倫太郎
「あ、いや……それで、ルカ子」
女性
「ルカ……子……?」
倫太郎
「あ、失礼。俺はそう呼んでるんです。その……女の子みたいだから」
考えてみれば失礼な呼び方ではあるが。
もうクセになってしまって、それ以外の呼び方ができなくなってしまっている。
女性
「そうなんですね」
ほんの少しだけ女性の表情が緩んだ。
やっぱり――似ている。
俺は小さく息を吐いて、心を落ち着かせた。
倫太郎
「で、ルカ子……この人は……?」
るか
「その……前に話したことがありましたよね? お父さんのお客さんが泊まってるって……」
倫太郎
「ああ。聞いたけど……それじゃあ、もしかして彼女が?」
るか
「はい」
驚いた。
倫太郎
「ルカ子の父親の知り合いというから、てっきりもっと年配の人かと思っていた」
るか
「あ、違うんです。正確に言うと、お父さんの知人が連れてこられた方で……」
倫太郎
「ああ……」
じゃあ、この人が晴海がどうとかそういう話をしている人じゃないのか。
少しだけ安心した。
るか
「それで、相談というのは、この人についてなんですけど……」
倫太郎
「その前に、名前を教えてもらってもいいかな? いつまでも『この人』じゃ、話しにくいだろう?」
女性
「…………」
俺の言葉に、目の前の女の人の顔が曇った。
なにかおかしなことを言っただろうか。
るか
「……実は相談というのは、そのことなんです」
るか
「あの……このひとが誰なのかを……その……知るには、どうしたらいい、でしょうか……」
すぐにその言葉の意味を理解することはできなかった。
倫太郎
「……待ってくれ、ルカ子。それはどういう……」
るか
「……記憶喪失……なんだそうです……」
倫太郎
「記憶……喪失?」
女性
「はい……」
倫太郎
「それじゃあ、名前も?」
女性
「はい……」
倫太郎
「どこの誰かも?」
女性
「はい……」
倫太郎
「どうして……」
女性
「わかりません」
当たり前だ。
それがわからないから記憶喪失なんだ。
倫太郎
「でも、どうして俺に?」
るか
「岡部さんなら、記憶を取り戻すいい方法を知っているんじゃないかと思って」
るか
「ほら。岡部さん、よく人間の脳とか記憶とか、すごく難しい話をたくさんしてたから……」
女性
「なんでもいいんです! 私が自分のことを取り戻せる方法があれば!」
倫太郎
「ま、待ってくれ。確かにそういう話はしていたが、それはただ興味があるだけで、専門的なことはなにも……」
脳の機能や、構造についてはある程度は知っている。
記憶喪失がどういうものなのか、それもわかる。
けれど、だからと言って、記憶を取り戻す方法を知っているかと言われると、それはまた別の話だ。
最先端の医療をもってしても、どうこう出来るものでもないだろう。
それこそ、『Amadeus』のように記憶をどこかに記録しておければ別だが。
女性
「そう……ですか……」
俺の返答に、女の人は見るからにガックリと肩を落とした。
るか
「だ、だったら、なにか身元を調べることはできないでしょうか。カナさん、本当に辛そうで……」
倫太郎
「カナさん?」
カナ
「仮の名前だからカナと、るかさんのお父さんが……。名前がないと不便だからって」
倫太郎
「ず、随分安直だな……」
いいのか、それで?
カナ
「いつまでも名乗る名前でないのだから、それくらいのほうがいい、と……」
なるほど。深いのかどうなのかイマイチよくわからない気もするが……。
るか
「岡部さん。なんとかならないでしょうか。せめて名前だけでもわかれば……」
倫太郎
「なんとか力になってはやりたいが……、やっぱり興信所なんかに頼んだほうがいいんじゃないのか?」
るか
「興信所……探偵さんみたいなものですか?」
倫太郎
「ああ。でもそれだって、なにか手掛かりのようなものがないと厳しいだろう」
倫太郎
「財布とかカバンとか、持ってなかったのか?」
カナ
「そういったものは何も……」
倫太郎
「何も? 別に大したものじゃなくてもいい。ひとつくらいありそうなものだけど」
カナ
「……ひとつだけ……ただ、これが手掛かりになるのかどうかは……」
カナはゆっくりとした動作で、ハンカチを1枚、大事そうに取り出した。
そこに包まれているものが、その“ただひとつ持っていた物”なんだろう。
倫太郎
「見せてもらっても?」
カナ
「はい……」
まゆり
「あれぇ? もしかして、お客さんかなぁ?」
カナがハンカチを開くのとほぼ同時に、玄関からまゆりの柔らかい声が聞こえた。買い物から戻ってきたらしい。
鈴羽
「…………」
まゆりの後ろには、鈴羽もいた。
珍しい組み合わせだな。ここに来る途中で一緒になったのか。
るか
「あ、まゆりちゃん」
まゆり
「あ~。るかくん」
鈴羽
「るかにいさん、そちらの人は?」
るか
「ええと、うちに泊まっているお客さんで……」
カナ
「…………」
カナが、ペコリと頭を下げる。
まゆり
「わぁ~」
と、まゆりが何故か嬉しそうな声をあげて、カナの手にあるハンカチの中をのぞき込んだ。
まゆり
「それ、うーぱですよね?」
カナ
「あ……」
確かにカナの手のひらの上、広げられた白いハンカチの中には、色あせたうーぱのキーホルダーが乗っていた。
まゆり
「好きなんですか? まゆしぃもね、うーぱのこと、大好きなのです」
カナ
「…………」
倫太郎
「もしかして、手がかりというのはそれか?」
古びたうーぱのキーホルダー。
こんなものが手掛かりになるのだろうか。
まゆり
「でも、このうーぱ、いつ頃のものかなぁ? 随分古いみたいだけど……」
言われてみればそうだ……。
うーぱは『
雷ネット翔

』というアニメのマスコットキャラクターだ。
その製品が世の中に出始めたのは、せいぜいここ数年のことだろう。
しかし目の前のうーぱは、かなり年季の入ったもののように見える。
まゆり
「これ、元々は緑色だったんじゃないかなぁ。だってこれ、“森の妖精さん”バージョンだもん」
倫太郎
「森の妖精さん?」
まゆり
「うん。この前やってた映画にでてきたんだ。ほら、まゆしぃも持ってるんだけど、ここのところのデザインがちょっとだけ違うの」
と、指で示されたが、俺にはさっぱり違いがわからない。
まゆり
「このキーホルダーね。なかなか売ってなくて、ずーっと探してたんだ。そしたらこの前、るかくんが見つけて買ってきてくれたの。ね?」
るか
「うん。たまたまお店を覗いたら売ってたから……」
倫太郎
「しかし、妙だな。この前の映画のグッズなら、発売してすぐのはずだ。こんなに古くは……ん?」
カナ
「っ……」
その時になって俺ははじめて、カナさんの顔がひどく青ざめていることに気づいた。
カナ
「……はぁ……はぁ……」
るか
「だ、大丈夫ですか、カナさん?」
倫太郎
「具合が悪いのか?」
カナ
「だいじょう……ぶ……」
るか
「あっ!」
立ち上がろうとしてふらついたカナを、ルカ子が慌てて支える。
倫太郎
「そうだ、何か冷たいものを……」
冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取りに行こうとしたところで、愕然とした顔でカナを見つめている鈴羽に気付いた。
鈴羽
「…………」
倫太郎
「鈴羽?」
鈴羽
「……う、そ……」
倫太郎
「え?」
驚いたことに、カナだけじゃなくて鈴羽もまた、身体を小刻みに震えさせていた。
鈴羽
「うそ……それ……そのうーぱ……」
倫太郎
「どうしたんだ、鈴羽?」
鈴羽
「あたしは、知ってる。そのうーぱ……それ……」
るか
「え?」
まゆり
「???」
倫太郎
「お、おい、鈴羽!」
カナ
「はぁ、はぁっ……っ……」
カナがよろめく足で、鈴羽に向かってふらふらと2歩、3歩と歩み寄っていく。
まさか――。
いや、そんなはずは――。
でも――。
鈴羽
「っ……もしかして、お前……」
カナ
「はぁ……はぁ、はぁ……」
鈴羽
「かが……り?」
な――!
鈴羽
「……お前はかがり!? 椎名かがりなのか!?」
カナ
「――!」
その言葉に、カナは大きく目を見開くと――。
カナ
「っ…………」
ゆっくりとその場にくずおれた。
カナ
「…………」
倫太郎
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
カナ
「はい……おかげさまで……」
鈴羽に『椎名かがり』という名を突き付けられ、気を失って倒れたカナは、ルカ子たちの介抱の甲斐あって、10分ほどで目を覚ました。
とはいえ、まだ顔色は良くない。
倫太郎
「ルカ子……それに、まゆり。すまないが何か冷たいものを買ってきてくれないか?」
るか
「え?」
倫太郎
「それから、額に貼る冷却シートのようなものもあると嬉しい」
ルカ子には悪いが、ふたりにはあまり聞かせたくない話になるかもしれない。
まゆり
「うん、わかった~。行こう、るかくん?」
るか
「あ……うん……」
さすがにルカ子はこちらの話を気にしているようだったが、それでもまゆりに言われて一緒に買い物に向かってくれた。
問題はここからだ。
倫太郎
「カナさん――」
鈴羽
「かがり、お前、今までどこで何をしていた」
カナ
「え……?」
まゆり達が出て行った途端、鋭利な刃物を感じさせる口ぶりでそう切り出した鈴羽に、カナが怯えた色を見せる。
鈴羽
「いったい、どういうつもりであの時――」
倫太郎
「待て、鈴羽。彼女は記憶を失ってる」
鈴羽
「なんだって……?」
俺はカナがここに来るに至った経緯を鈴羽に説明した。
鈴羽
「記憶喪失……それじゃあ、どこで何をしていたかも……」
倫太郎
「ああ。でも、その前に確かめなければならないことがある」
本当に彼女が、椎名かがりなのかどうか、だ。
倫太郎
「カナさん」
カナ
「あ、はい……」
倫太郎
「さっきしていた話は覚えてるか?」
カナ
「はい……」
倫太郎
「どうする? 続きはもう少し快復してからにするか?」
カナ
「いえ。大丈夫です……」
うーぱを握りしめた手に力が篭もるあまり、指先が白くなっている。
が、鈴羽を見上げたその目にはしっかりとした光が灯っていた。
倫太郎
「じゃあ、さっきの話を続けよう……。鈴羽、お前が彼女をかがりだと言うその根拠はなんだ?」
鈴羽
「そのうーぱだよ。それは、かがりが肌身離さず持ってたものなんだ。ママに貰ったんだって、お守りだって、ずっと大事にしてた」
ゆっくりと開いたカナの手の上で、小さな古びたうーぱがとぼけた顔で俺たちを見つめていた。
ママに貰ったもの。
まゆりに貰ったもの。
倫太郎
「カナさんはそのうーぱだけが、自分が持っていたものだって言っていたが……」
カナ
「はい。記憶を失くして倒れていた私が、ただひとつ手にしていたのが、このキーホルダーだったそうです」
倫太郎
「倒れていた?」
カナ
「はい……」
倫太郎
「どのあたりで倒れていたんだ?」
カナ
「千葉の、山道です。県境あたりの」
カナ
「近くのお寺の住職さんが、偶然通りがかって、見つけてもらったそうで……」
カナ
「その後しばらくは、その方のお寺でお世話になっていたんです」
カナ
「ですが、お寺は修行の場でもあるので、長く女性を置いておくこともできないと……」
倫太郎
「それで、ルカ子の家に……というわけか」
カナ
「はい。その住職さん、るかくんのことを女の子だって思っていて」
カナ
「それで、歳の近い女の子のいる家なら私にとってもいいだろうって……」
鈴羽
「盲点だった。まさかこんな近くにいたなんて……!」
おそらく、数日前にルカ子が言っていた客というのがその住職なんだろう。
ということは、その頃からカナ――いや、椎名かがりは柳林神社にいたということになる。
そんなこととは露知らず、俺たちはただ闇雲に椎名かがりを捜し回っていた。
灯台下暗しとはよく言ったものだ。
そもそも、あの時ルカ子の相談にすぐ乗っていれば、こんな回り道をしなくても良かったんだ。
倫太郎
「それで、カナさん……君は、かがりという名を聞いて、なにか思い出すことはないか?」
カナ
「……正直を言うと……よく……わかりません。ただ……すごく懐かしい感じがします……」
カナ
「それに……」
カナはそこで言葉を切り、鈴羽を見た。
カナ
「その……先ほどの方……」
鈴羽
「まゆねえさんのこと……?」
カナ
「まゆ……ねえさん?」
倫太郎
「あの子は椎名まゆりというんだ」
カナ
「まゆり……さん……。あの方を見たとき、なぜだか凄く……温かい気持ちになりました……」
彼女が椎名かがりだとしても、歳をとってからのまゆりしか知らないはずだ。
だが面影は残っているんだろう。
だったら、その姿に何か感じるところがあっても、おかしいことじゃない。
鈴羽
「ねえ。それ、もう一度見せてもらってもいい?」
カナ
「あ、はい……」
カナは言われたままに、すっかり古びてしまったうーぱを差し出した。
鈴羽
「……うん、やっぱりこれ……かがりが持ってたものだよ……」
カナ
「……では、私はその……椎名かがりという名前だったんでしょうか?」
倫太郎
「……そうだな。まだ確証があるわけじゃないが、そう考えるのが妥当だと思う」
鈴羽
「いや、間違いない、彼女はかがりだ。そのキーホルダーが何よりの証拠だよ。まゆねえさんがかがりにあげたものなんだから」
鈴羽
「でもよりによって、記憶喪失だなんて……」
キーホルダー自体はおそらくかがりの物だろう。
だが、もしかしたら彼女が椎名かがりから貰ったものかもしれないし、落ちていたのを拾ったということも考えられる。
もっとも、鈴羽によれば、かがりはあのキーホルダーをとても大事にしてたそうだ。
落とすのはもちろん、人にあげるのも考えられないという。
ということは、やはり……。
その時、入り口のドアが開き、室内の様子を呎うように、まゆりが顔を覗かせた。
まゆり
「……トゥットゥル~?」
るか
「あの……大丈夫……ですか?」
倫太郎
「ああ……悪かったな、わざわざ」
るか
「いえ……」
ビニール袋に入れられた飲み物や冷却シートが机の上に並べられる。
るか
「それでその……」
買って来て貰った手前、飲み物にひと口つけたタイミングを見て、ルカ子が恐る恐る口を開いた。
るか
「カナさんは……その阿万音さんの知り合いのかがりさんという方だったんしょうか?」
倫太郎
「そう……だな。そう考えるのが妥当だと思う」
るか
「そうですか! よかったです……名前だけでもわかって……」
カナ
「るかくん……」
心の底からホッとした様子のルカ子に、カナ……かがりの表情が優しく緩んだ。
るか
「あ、でも、それなら、阿万音さんはかがりさんの本当のお家を知っているんでしょうか?」
鈴羽
「え? いや、それは……」
倫太郎
「す、鈴羽は、かがりさんと子供の頃ご近所だったそうだ。でも12年前に引っ越してしまって、それからの行方がわからなかったらしい。そうだな?」
鈴羽
「そ、そうなんだ。それで最近急に懐かしくなって、オカリンおじさんに相談してたんだよ」
倫太郎
「そういうわけだ。だから鈴羽にもかがりさんの家族のことや、どこに住んでいたのかはわからないらしい」
るか
「そう……なんですか……」
今はそういうことにせざるを得ない。
今の彼女に、実はあなたは12年前に2036年からタイムトラベルしてきた、などと言えば、混乱するのは必至だ。
倫太郎
「あとは、彼女が記憶を取り戻してくれれば、なにがどうなっていたのかすべてわかるはずなんだが……」
自分の名前がわかり、既知の仲である鈴羽と、そして彼女が慕っていたというまゆりがいる。
なにより、まゆりの存在は大きいはずだ。
まゆり
「えっと、かがりさん?」
かがり
「は、はい!」
まゆり
「かがりさんの上のお名前はなんて言うのかなぁ? さっきは良く聞こえなくて。だから、よかったら教えてほしいな」
かがり
「その……岡部さんたちのお話だと……椎名……と」
まゆり
「わぁ! じゃあ、まゆしぃと一緒だ~。まゆしぃもね、椎名っていうの。椎名まゆり」
かがり
「椎名……まゆりさん……」
まゆり
「うん。嬉しいなぁ。まゆしぃ、同じ苗字のひとに会ったの、はじめてだよ~」
かがり
「そうなん……ですか……」
まゆり
「うんっ。だから、これからよろしくお願いします」
かがり
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
まゆりは持ち前の人懐っこさで、かがりと打ち解けようとしている。
上手くいけば、何かのきっかけで記憶が戻ることもあるかもしれない。
まゆり
「るかくんから聞いたんだけど、かがりさんは、記憶喪失……なの?」
かがり
「はい……」
まゆり
「それって、自分が誰かも忘れちゃうってことなんだよね?」
かがり
「はい」
まゆり
「そっかぁ……。きっと、つらいこといっぱいだよね?」
まゆり
「だって、自分の大好きな人のことも忘れちゃうんでしょ? それって、すごくすご~く哀しいことだってまゆしぃは思うのです」
まゆり
「だからね、えっと……うまく言えないけど、まゆしぃもお手伝いするから、頑張ろうね」
にっこりとほほ笑むまゆり。
その笑顔を見つめていたかがりの瞳がみるみる潤んでいくのがわかった。
かがり
「っ…………」
まゆり
「わわっ、急にどうしちゃったのかな? まゆしぃ、なにか変なこと言っちゃったかな?」
かがり
「っ……そうじゃ……ないんです…。ただ、まゆりさんの言葉を聞いて……なんだか……嬉しく、て……っ……!」
まゆり
「まゆしぃだけじゃなく、オカリンも、スズさんも、るかくんも、みんな同じ気持ちだよ」
るか
「うん! もちろんです! ボクも、できることがあればなんでもしますから!」
かがり
「ありがとうございます……るかくん、まゆりさん」
かがりのことは、まゆりやルカ子に任せておけば大丈夫だ、そんな気がした。
問題はこれからどうするか、だが……。
倫太郎
「ルカ子。頼みがあるんだが」
るか
「なんでしょう?」
倫太郎
「かがりさんは、もう少しお前の家に置いてもらってもいいだろうか?」
るか
「え?」
倫太郎
「その間に俺たちは、彼女が今までどうしていたのかを調べようと思う」
るか
「は、はい。もちろん、うちは構いません……」
倫太郎
「鈴羽も……それでいいか?」
鈴羽
「……わかった」
いろいろと思う所はあるのだろうが、鈴羽も素直に頷いてくれた。
なによりも今は、かがりの記憶を取り戻すのが先決だ。
まゆり
「それじゃあ、るかくんのお家に行けば、かがりさんに会えるんだね? まゆしぃも遊びにいっていい?」
るか
「もちろんだよ。ね、かがりさん」
かがり
「はいっ」
倫太郎
「鈴羽もできるだけ顔を出してやってくれ。そのほうが、記憶を取り戻すにはいいだろう」
鈴羽
「オーキードーキー」
まゆり
「そうだ。あのね、クリスマスパーティーができないから、今ね、お正月パーティーをしようかなって思ってるんだ」
まゆり
「かがりさんにも手伝ってもらえると嬉しいな?」
かがり
「え? いいんですか? 私なんかが……」
まゆり
「もちろんだよぉ。ね、るかくん?」
るか
「うん。一緒にパーティーしましょう」
三人集まればなんとやら。
女子たちは――ひとりは男だが――早速かしましく話しはじめた。
こちらはこちらでやることがある。
まずは――。
萌郁に、かがりが見つかったことを伝えなければならない。
萌郁のことだ。
どうせすぐに返事が――。
萌郁のほうはひとまずこれで良いだろう。
ただ……やはり、かがりを捜しているという連中の話がどうしても気になる。
それに、かがりが倒れているところを発見されたという話も。
何故、彼女はそんな山の中で倒れていたのか。
それも、大切なうーぱひとつだけを手に。
ひょっとしたら、かがりは何者かの手から逃げ出して来た?
倫太郎
「ルカ子。ちょっといいか?」
るか
「はい……なんでしょう?」
倫太郎
「かがりさんをなるべく神社の外に出さないで欲しい」
るか
「え? どうして……ですか?」
倫太郎
「理由は聞かないでくれ。頼む」
るか
「はい……わかりました。岡部さんがそう言うなら」
用心に越したことはない。
何もなければないで、それでも構わない。
全ては、かがりが記憶を取り戻してさえくれればハッキリすることだ。
それがいつになるのかは、誰にもわからないが。
ルカ子がかがりをラボに連れてきた、その翌日。
俺はクリスマスムード真っ只中の秋葉原の街を、まゆりを連れて柳林神社へと向かった。
るか
「あ。まゆりちゃん! それに岡部さんも」
境内にいたルカ子は声をかけるよりも早く俺たちの存在に気づき、顔を綻ばせた。
その笑顔はとても男とは思えないほど愛らしく、今さらながらに性別を疑ってしまいそうになる。
まゆり
「るかくん、かがりさんも、トゥットゥルー♪」
かがり
「ふふっ、トゥットゥルー、です」
まゆり
「わ、かがりさん、すご~い」
かがり
「え? 何がですか?」
まゆり
「だって、まゆしぃがトゥットゥルーって言っても、最初はなかなかみんな、トゥットゥルーって返してくれないよ?」
倫太郎
「初めて会った相手に、それが挨拶なのだと理解しろというのも酷な話だな」
まゆり
「うん。だからみんな『なにそれ?』って言うのに、かがりさんは普通に返してくれたのです。だからすごいな~って」
かがり
「わ、私は別に……なんとなく、そうかな? って……」
もしかしたらかがりの中に、まゆり独特の挨拶の記憶のようなものが染みついているのかもしれない。
ん? ということは……まゆりは25年後も、トゥットゥルーなどと言っていることになるな。
まあ、まゆりのことだ。
何の不思議もない話ではあるが。
かがり
「あ、岡部さんも、トゥットゥルー、です」
倫太郎
「どうも……」
それにしても、彼女にはどう接していいものか、いまだに考えあぐねている。
鈴羽とはぐれたのが10歳。
それから12年だから、現在22歳のはず。
年齢からいえば俺より年上だが、まゆりの養女でもある。
そういう意味ではダルの娘である鈴羽も同じような立場だ。
鈴羽に関しては一応、俺やダルと年齢が同じということになるので、タメ口でも違和感なく話せているが……。
まゆり
「あ、そうだ。今日はクリスマスイヴだよ。メリークリスマス♪」
るか
「そういえばそうだったね。メリークリスマス」
かがり
「メリークリスマス、です」
果たして、神社でクリスマスを祝ってもいいものなのだろうか。
倫太郎
「ところで、その……かがりさん。調子はどう……かな?」
かがり
「悪くはないです。でも……まだ何も……」
倫太郎
「いや、記憶に関しては無理して思い出そうとする必要はないよ。時間がくれば戻るだろう、それくらいの気でいたほうがいい」
かがり
「わかりました」
もっとも、本人にとっては早く思い出したいだろうが。
かがり
「…………」
倫太郎
「どうかしたか?」
かがり
「いえ。るかくんも、まゆりちゃんも、それに岡部さんも、みんな優しいなって思って」
倫太郎
「そんな……俺は別に優しくなんてない」
かがり
「ふふっ、照れなくてもいいのに」
会った時からずっと沈んだ顔を見せていたかがりの、ちゃんと笑った顔を初めて見た気がした。
その笑みはどこか子供っぽく、聞いていた年齢よりもずっと若く思えた。
かがり
「あ、ごめんなさい。私ったら、急に馴れ馴れしい感じになっちゃって……」
倫太郎
「いや。構わないよ。こっちだって、タメ口で喋ってるんだし」
まゆり
「そうだよ。まゆしぃもね、普通にしゃべってくれたほうが嬉しいな。だってそのほうが、お友だちって感じがするでしょう?」
かがり
「お友だち……」
まゆり
「うんっ。お友だち」
かがり
「ありがとう、まゆりちゃん。ふふっ、お友だちか」
未来の世界でもまゆりはこんな風に、彼女と仲良くなったのかもしれない。
戦災孤児――鈴羽はかがりのことをそう言っていた。
それも全ては――俺のせいなんだろうか。
もしも俺が鈴羽の望む道へ踏み出せば、かがりのそんな人生も変わるのだろうか。
でも、そのためには俺はまた――。
倫太郎
「っ……」
るか
「岡部さん? 大丈夫ですか? なんだか顔色が優れないみたいですけど」
倫太郎
「あ、あぁ……なんでもない。ちょっと寝不足なだけだ」
るか
「そう……ですか。だったらいいんですけど……」
倫太郎
「それより、ルカ子は何をしていたんだ? 忙しそうにしていたみたいだが……」
るか
「本殿のお掃除をしていたんです」
倫太郎
「掃除ならいつもやってるんじゃないのか?」
来るたびに、ルカ子は竹ぼうきを手に掃き掃除をしているようなイメージがある。
るか
「今日は普段できないようなところも含めての大掃除なんです」
倫太郎
「ああ、そうか。もうすぐ正月だしな」
神社にとって、正月は大きな行事だ。
るか
「すす払いは先日やったんですが、まだやり残しているところもあるので、かがりさんにも手伝ってもらっていたんです」
かがり
「ただお世話になってるだけなのも気が引けるもん。少しくらいは役に立たないと」
ルカ子とかがりのふたりも、それなりに上手くやっているようだ。
漆原父
「おや、るか。お客さんかな?」
るか
「あ、お父さん」
本殿の裏から顔を覗かせたのは、ルカ子の父親だった。
何の裏もないような善人然とした顔をしておきながら、実はひと癖もふた癖もある人物だということを俺は知っている。
主にダルと同じ方向性で。
ルカ子に巫女装束を着せて手伝わせたりしているのも、全てはこの人の差し金だ。
漆原父
「おや、これは岡部くんにまゆりちゃん。メリークリスマス」
まゆり
「メリークリスマスです」
……いや、貴方はそれを言ってはダメなんじゃないのか?
漆原父
「おや、どうかしたかい、岡部くん」
倫太郎
「いえ……」
まあ、本人たちが良いのなら俺が何か言うものでもない。
それより、この人にもかがりのことでお礼を言っておかなければならなかったんだ。
倫太郎
「あの……実は彼女のことなんですが……」
漆原父
「かがりさん……というそうだね。るかから聞いたよ。まさか君たちが知っている人だったとは。世間は狭いね」
倫太郎
「はい。それで、その……もう少しの間、お宅でお世話になることができれば有り難いんですが……」
漆原父
「何か理由があるようだね。もちろん、うちとしては大歓迎だよ」
倫太郎
「ありがとうございます」
かがり
「ありがとうございます、おじさん」
漆原父
「ははは、いいんだよ。私も、新しく娘が出来たみたいで嬉しいからね」
るか
「出来たみたいって……お父さん、お姉ちゃんがいるじゃないですか……」
漆原父
「あの子はちっとも家に帰ってきてくれないじゃないか。私が寂しがっているのを知っていてそういう意地悪をするんだ」
るか
「あはは……」
漆原父
「そうだ。いいことを考えたよ。せっかくこれだけ女の子がいるんだから、お正月には神社を手伝ってもらうというのはどうだろう?」
るか
「手伝うって……巫女をですか?」
漆原父
「もちろん。かがりちゃんにもまゆりちゃんにも、ちゃんと巫女装束を着てもらってね。どうかな? バイト代は出すよ」
るか
「でも、そんなのふたりに悪いですし……」
かがり
「あら、私なら大丈夫よ、るかくん。お世話になってるんだもん、それくらいしなきゃ」
漆原父
「本当かい?」
まゆり
「う~ん……まゆしぃはお正月はパーティーの準備をしなきゃいけないので……」
まゆり
「それに、コスプレ衣装を作るのは好きだけど、自分で着るのは……」
まゆり、巫女装束はコスプレじゃないぞ、一応……。
漆原父
「そうか……まゆりちゃんの巫女姿、岡部くんも見たいんじゃないのかい?」
倫太郎
「は?」
なぜ俺に訊く。
まゆり
「そうなの、オカリン?」
倫太郎
「いや、俺は……」
漆原父
「ははは。とぼけても無駄だよ。ちゃんと顔に書いてある」
馬鹿な。
いま鏡を見ても、断じてそんなことは書いていないはずだ。
まゆり
「そっかぁ……オカリンがそういうなら……」
漆原父
「そうか! それは良かった! よし、そうと決まれば、巫女装束をもっと用意しなければいけないな! 母さん!」
言質
げんち
を取ったと思うと、まゆりやかがりが『やっぱりやめる』と言い出すのを怖れるように、ルカ子の父親はそそくさと本殿の奥へと姿を隠した。
やはりあの人は侮りがたい……。
るか
「えっと……ごめんなさい……」
まゆり
「ううん。るかくんが謝ることないよ」
るか
「でも、せっかく楽しみにしてたお正月のパーティーが……」
まゆり
「それは、ここのお手伝いが終わったあとでもできるから平気だよ」
るか
「……うん、そうだね。ボクも手伝うから、なんでも言ってね」
まゆり
「ありがとぉ、るかくん」
かがり
「でも、巫女さんの格好なんて、私に似合うかな……」
まゆり
「大丈夫! ぜったいに似合うよ」
かがり
「そうかな?」
まゆり
「うんっ。まゆしぃはね、お友だちのコスプレの衣装とかたくさん作ってるから、わかるの」
かがり
「そう言ってもらえるなら、頑張ってみるね」
まゆり
「うんっ」
かがりには出来るだけ神社から出ないようにしてもらっている分、そのくらいの息抜きは逆にありがたいかもしれない。
そこまで考えてのルカ子の父親の提案……というわけじゃないよな、きっと。
ともかく、賑やかな正月にはなりそうだ。
倫太郎
「それじゃあ俺はこれで」
るか
「え? もう帰られるんですか? ボク、お茶もお出しせずに……」
倫太郎
「かがりさんの様子を見に来ただけだからな」
まゆり
「あ、オカリン。まゆしぃは……」
倫太郎
「わかってる。もう少し正月の話をするんだろう? 俺はラボに戻ってるから」
かがり
「ありがとう、岡部さん」
僅かに頭を下げると、かがりは屈託のない笑みを見せた。
戦災孤児であったという彼女に、もしも過去の記憶があったのなら、それでもこんな風に笑ってくれるんだろうか……。
そういえば彼女――比屋定さんは正月はどうするんだろう?
アメリカでは正月こそ友達と騒ぐと言っていたが、あの様子だとこっちには一緒に遊ぶ友達なんかもいなさそうだし……。
???
「もう、だから、何度言ったらわかるのよ!」
倫太郎
「ん?」
聞き覚えのある声がすると思ったら、まさに比屋定さんその人だった。
しかも声を荒げている相手は……警官だ。
ということは――。
真帆
「証明するものって……ちょっと待って、今……」
倫太郎
「比屋定さん」
真帆
「あ、岡部さん、いいところに! ちょっとお願いがあるんだけど――」
倫太郎
「お巡りさん。彼女はれっきとした大人の女性です。間違いありません」
警官
「君は? 知り合い?」
倫太郎
「はい。大学の先輩にあたります」
ここでいちいち細かい説明をするのも面倒だ。
この程度の嘘は許されるだろう。
警官
「大学……」
倫太郎
「東京電機大学です。なんなら調べてもらってもいいですけど……」
警官
「……あ、いや。そこまでは……でも、そう……小学生じゃないんだ……」
警官は首をかしげながら去っていった。
真帆
「なんなの、もうっ。謝るくらいしたらどうなのよ。ほんっと、訴えてやろうかしら」
倫太郎
「まあまあ。それだけ仕事熱心ってことじゃないかな」
真帆
「あなたもあなたよ、岡部さん」
倫太郎
「俺?」
真帆
「一見しただけで、私が子どもに間違われて補導されそうになってるってわかったんでしょう?」
倫太郎
「う……」
真帆
「一目でわかるなんて、あなたもそう思ってるって証拠だわ」
倫太郎
「それは……」
とんだとばっちりだ。
真帆
「まあでも、助けてくれたことには感謝するわ。ありがとう……」
倫太郎
「いや……」
だったら最初から素直に言えばいいものを。
そういえば紅莉栖もそんなタイプだったし、天才と呼ばれる科学者はみんなこんな感じなのか?
倫太郎
「それで、比屋定さんはこんなところで何を?」
真帆
「これよ、これ」
そう言って掲げたのは、大きなカバンだった。
いや、真帆の身体が小さいから大きく見えるだけで、実際はそれほど大きくはない。
真帆
「例のノートパソコン。
秋葉原
ここ
なら、パスを解析できる業者がいるかなって思ったんだけど……」
どうやら彼女が手にしているのは、紅莉栖のノートパソコンのようだ。
倫太郎
「まだ、それに拘っていたのか」
真帆
「そりゃ、プライベートを覗くのは良くないって思うわ。でも、私はあの子が何を考えて何をやろうとしていたのか知りたいのよ」
真帆
「あなたはいいわよ。あの子が亡くなる前に会って話したりしてるんだもの」
実際には会ったことにはなっていないんだが。
真帆
「でも私にはまだ実感がないの。急に亡くなったって連絡を受けただけ……。葬儀にも出られなかった」
真帆
「だから、少しでも紅莉栖のことを知りたい」
真帆
「今さらって思うかもしれないけど、それが私の中でのあの子の死に対する、折り合いのつけかたなのよ」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「だから、岡部さん、教えて。なんでもいいの。あの子がパスワードとして設定しそうな言葉。ひとつやふたつ、心当たり、あるでしょ?」
比屋定さんの気持ちもわからなくはない。
心に折り合いをつけたい、その気持ちもわかる。
何故なら、俺だってあいつの死に対しての折り合いがまだつけられていないからだ。
でも、それでも俺は――。
倫太郎
「悪いけど、知らないよ」
真帆
「岡部さんっ」
倫太郎
「すまない……」
真帆
「……そうやって逃げるの?」
倫太郎
「逃げる……?」
真帆
「『Amadeus』とコミュニケーションを取らなくなったのも、逃げてるからでしょ?」
図星だ。
俺は逃げたんだ。
何百回、何千回も繰り返される悲劇の連鎖から逃げた。
逃げ出した結果が今の俺だ。
真帆
「“紅莉栖”ったらすっごい文句言ってたわよ。岡部さんは冷たいって」
想像がつく。
あいつのことだ、かなりの悪態をついていることだろう。
でも……。
倫太郎
「そうだ。冷たいんだよ、俺は」
あいつを見捨てたんだから――。
真帆
「岡部さん……」
俺の態度に気圧されたのか、真帆は黙りこんでしまった。
自分でも失敗したと思った。
何も、あんな言い方をする必要はなかった。
倫太郎
「……すまない」
真帆
「ううん……」
気まずい空気が流れる。
何か払拭するような話題は……。
倫太郎
「そうだ、比屋定さん。正月は何か予定、あるのか?」
真帆
「いえ……今のところはなにもないけど」
倫太郎
「だったら、初詣にみんなで柳林神社に行かないか? まゆりたちも手伝うことになってるんだ」
真帆
「まゆり……?」
ああ、そうか。
この前、真帆がラボに来たときにはまゆりはいなかったんだったな。
倫太郎
「俺の幼なじみなんだ。ラボの一員でもある」
真帆
「幼なじみ……」
倫太郎
「ああ。その後で、ラボでパーティーもやるらしい。なんなら、比屋定さんも巫女装束を着て、神社を手伝ってもらってもいい」
真帆
「巫女装束……それってコスプレとかいうやつ?」
倫太郎
「いや、ちゃんとした手伝いだから、コスプレにはならない……と思う」
真帆
「そう。でも、それは辞めとくわ。私に合うサイズもないだろうし」
なるほど、言われてみればそうかもしれない。
ルカ子が子どもの頃に着ていたものがありそうな気もしたが、藪を突っつく必要もないだろう。
真帆
「ちょっと。そこで納得しないでくれる?」
倫太郎
「すまない……」
真帆
「で、集合はラボでいいの? 何時に行けばいい?」
倫太郎
「え? でも……」
真帆
「手伝うのはパスだけど、日本の初詣には行ってみたいと思ってたの。その後のパーティーは……まあ、その時考えるわ」
それはそうか。
会ってみて、気が合わなければ一緒に騒ぐ気にもなれないだろうしな。
倫太郎
「わかった、じゃあ細かいことは、また連絡するよ」
真帆
「ええ、楽しみにしてるわ」
それから年越しまでは、ただひたすらに慌ただしく過ぎていった。
学校の飲み会や懇親会。
それが終わるとコミマ。
もっとも、それに関して俺は、ダルやまゆりが慌ただしくしているのを傍観していただけだが。
そして迎えた、2011年1月1日――。
倫太郎
「これで全員揃ったか?」

「えーっと、じゃあ今から点呼とるお。阿万音氏」
由季
「はい」

「真帆たん」
真帆
「だから、その呼び方やめてって言ってるでしょ」

「カエデ氏」
カエデ
「はぁい」

「フブキ氏」
フブキ
「はいはーい」

「で、あとは……」

「はーい、私でーす!」

「綯様……」
天王寺
「…………」

「なあ、オカリン。なんでブラウン氏まで行くことになってんの?」
倫太郎
「俺だって知らない。まゆりが綯を誘ったらついて来た、ってとこだろう」
天王寺
「おい、なにヒソヒソ話してやがる」
倫太郎
「い、いえ、何も」

「お父さん。私ね、まゆりおねえちゃんの巫女さん姿、すごく楽しみなんだ」
天王寺
「そうだな。すまないな、本当ならお父さんが連れてってやりたかったんだが」
……ん?
倫太郎
「その……天王寺さんは来られないのですか?」
天王寺
「当たり前だ。何を好き好んで俺がおめえらと初詣せにゃならん」
天王寺
「俺はちょっと急用で出かけなきゃいけなくなっちまったから、おめえらに綯を預ける」
天王寺
「ちゃんと面倒見ないと、家賃あげっからな」
倫太郎&至
「ほっ……」
「ほっ……」
それを聞いて、俺もダルも本人を前にしながら、思いっきり安堵の息を吐いた。
特に俺の場合は、ここのところ極力、天王寺とは顔を合わせないようにしていたこともある。
彼はブラウン管工房などという妙な店を経営しているが、その裏ではラウンダーを取り仕切っている――いわばSERNの手の人間だ。
そうとわかっていて、積極的に関わろうというほど、俺の心は強くない。
ただ、それがわかっていてここを出なかったのは、まゆりやダルの反対があったからというのが1つと。
ここにいれば、なにか異変があった時、ラウンダーの動向もある程度掴めるかもしれない、という思惑があってのことだ。
と言いつつ、ここにはしばらく寄りつかなかったんだが。

「だめだよ、お父さん。そんな言い方しちゃ」
天王寺
「ん? おう、そうだったな。さすが、綯はいい子だな」

「オカリンおじさん。お願いします」
倫太郎
「あ、ああ……」
以前のように小動物扱いしなくなったせいか、綯もあまり俺を怖がらなくなった。
天王寺
「そんじゃ、夜になったら迎えにくるから、よろしくな」
倫太郎
「わかりました……」
天王寺
「…………ふむ」
倫太郎
「まだ、なにか?」
天王寺
「いや……やっぱりおめえ、ずいぶんと変わっちまったよな。前は鳳凰だとかなんとか妙なことばっか言ってたのによ。どうにも調子が狂っちまうぜ」
倫太郎
「……おかげさまで、大人になったんです」
天王寺
「大人に……ねぇ。ま、とにかく綯を頼んだぜ」

「ふぅ……」
天王寺がいなくなったことで、部屋の圧迫感が無くなったのか、綯を除く全員が大きく息をついた。
倫太郎
「とにかくこれで全員だな」
フブキ、カエデ、由季、更には真帆と綯という、一風変わった顔ぶれによって、ラボは占拠されていた。
目的は当然、柳林神社への初詣だ。
真帆
「……ほんとに良かったの? 私なんかが来てしまって」
倫太郎
「気にしなくていい。こっちこそ、なんだかよくわからない集まりになってしまったけど、大丈夫かな?」
真帆
「馴染んだ、って言ったら嘘になるわね。でも初詣ってちょっと興味もあったし」
真帆
「それに、同年代の知り合いが増えるのも嬉しいわ」
倫太郎
「そう言ってもらえると助かるよ」
さすがに真帆の存在だけ少し浮いていたが、それも時間が解決してくれるだろう。
フブキ
「ふふふ、マユシィのコスプレ、超楽しみ~」
カエデ
「もう、フブキちゃんったら。コスプレじゃなくて、今日はあくまでも『正装』だよ……」
由季
「鈴羽さんの巫女装束も楽しみですね、橋田さん」

「まあね。妹属性の巫女さんっつーのも悪くない。つーか、どうせならそこにナース属性も追加してくれれば萌えの数え役満なのだが」
フブキ
「あはは。橋田さんは相変わらずヘンタイさんですねぇ」

「紳士だけどねっ」
結局、神社の手伝いは、まゆりとかがりだけでなく、鈴羽にフェイリスまで駆り出されてしまった。
フェイリスはまだしも、鈴羽までやるとは思わなかった。
かがりが心配というのも理由だろうが、実はもうひとつ理由があるらしい。
バイト代が出る、という話に反応したのだ。
この時代で生活するだけの、ある程度の資金は持っているらしい鈴羽だが、それは自分の金ではないから、生活費に関してはできるだけ自らの力で賄いたいらしい。
なかなか立派な心がけだ。
由季
「そうそう、大事なこと忘れてました」

「大事なこと?」
由季
「新年、あけましておめでとうございます」
フブキ
「あ、そっか。昨日までコミマだったから、まだ年明けたって気がしないんだよね」
カエデ
「それじゃあ、わたしたちも改めて――」
全員
「あけましておめでとうございまーす」
フブキ
「ん。これでよし、と!」
倫太郎
「じゃあ、挨拶も済ませたことだし、そろそろ行くか」

「はーい!」

「いざゆかん、ミコミコ
天国
パラダイス
へ!」
由季
「橋田さん。神社にパラダイスはないと思いますよ」

「あ、そっか」
口々にワイワイと言い合いながら、俺たちはRPGのパーティーよろしく柳林神社へと向かった。
正月の秋葉原は、はっきり言って普段とそう変わることはない。
店も開いているし、福袋目あての客も多い。
違いと言えば、車の量が少ないくらいだ。

「ねえねえ、ダルおじさん」

「はい、なんでしょう、綯様」

「おじさんは『しんし』なの?」

「そうだお。おじさんはHENTAIだけど紳士なのだぜ、キリッ!」
由季
「あの……橋田さんはどうして綯ちゃんのことを様づけで呼ぶんですか?」

「幼女はその存在だけで敬われるべきだからですキリッ」
由季
「はぁ……」
ああして並んでいると、まるで親子みたいだ。
鈴羽とダルと由季さんの間にも、少しくらいはあんな時間があったんだろうか。
カエデ
「そういえば、フブキちゃん、このまえ言っていた変な夢はどう……?」
フブキ
「あ、あれ? 最近はあんまり見なくなったかも。やっぱ、疲れてたみたい」
カエデ
「そっか。だったらいいんだけど……」
倫太郎
「変な夢?」
フブキ
「あ、ちょっと一時期悪夢にうなされちゃった時期があって」
倫太郎
「悪夢って?」
フブキ
「お? 食いつきますねぇ。ひょっとして私に気があるとか?」
カエデ
「ダメよ、フブキちゃん。オカリンさんには“好きな人”がいるんだから……」
フブキ
「あ、そっか!」
倫太郎
「ん? なんの話だ?」
フブキ
「オカリンさんには好きな人がいるって話」
倫太郎
「俺に……?」
そんなの、誰から聞いたんだ?
……まゆり、か?
倫太郎
「俺には、好きな人なんていないよ」
カエデ
「え? そうなんですか……?」
フブキ
「ほんとにー?」
倫太郎
「本当だって」
まゆりからしょっちゅう話は聞いているものの、考えてみれば、彼女たちとこうして話をするのは、ほとんど初めてと言っていいかもしれない。
その割に、話しやすい子たちだった。
倫太郎
「そんなことよりふたりとも、頼みがあるんだが」
倫太郎
「できれば、比屋定さんに話しかけてやってもらえないか?」
フブキ
「え?」
倫太郎
「彼女、アメリカの大学から来てるんだけど、まだあんまりこっちに知り合いいないから」
フブキ
「アメリカ? すごーい!」
返事の代わりに、驚きの声を上げると、中瀬さんはひとりすたすたと前を歩いていた真帆に歩み寄った。
フブキ
「ね、真帆さんって、アメリカの大学に通ってるんですか?」
真帆
「え? ええ、まあ、そうだけど」
フブキ
「じゃあ、英語ペラペラなんですか?」
真帆
「まあ、生まれも生活もずっと向こうだから……」
フブキ
「すごーい」
……これで少しは打ち解けるだろう。
カエデ
「ふふっ、オカリンさんって優しいんですね……」
倫太郎
「そんなことないよ」
先日、真帆にはまったく逆のことを言われたばかりだ。
カエデ
「でも人って、優しいからこそ、誰かを傷つけることもあるんですよね……」
倫太郎
「は?」
カエデ
「いえ、なんでもありません。私も真帆さんと、話してきますね……」
来嶋さんは仄かな香水の香りを残して、小走りに真帆たちのもとに駆け寄った。
――誰かを傷つける。
その言葉がしばらく針のように、チクチクと俺の胸を突き刺していた。
正月の柳林神社は、さすがに神田明神ほどではないにせよ、予想よりもずっと賑わいを見せていた。
フェイリス
「あ、オカリンたちだニャ! おーい、オッカリーン! こっち。こっちだニャ!」
るか
「あけましておめでとうございます、皆さん」
ルカ子の巫女姿が似合っているのは最早言うまでもない。
一方のフェイリスはといえば、ネコミミこそ装備しているものの、いつものメイド服とは違って随分シンプルに見える。
だが、それもまた新鮮味があり、ファンの連中ならたまらないだろう。
フェイリス
「おめでとうなのニャ」
ふたりの言葉を皮切りに、ダルや由季といった一緒に来た連中も、口々に新年の挨拶を交わす。

「ふぉぉ、フェイリスたん! フェイリスたんがミッコミコにしてくれるなんて、生きててヨカッター!」
フェイリス
「ありがとうニャン♪」
鈴羽
「由季さんも来てくれたんだ」
由季
「あけましておめでとう、鈴羽さん」
鈴羽
「あ、ああ……あけましておめでとうございます」
鈴羽といえば、ラフで身軽な服ばかり着ているイメージだが、なるほど……こういうのも悪くないかもしれない。
少なくとも、ダルの娘だとは到底思えない完成度だ。
これで笑顔があれば完璧なんだが。

「妹属性の巫女さんキタコレ! それで『お注射の時間だよ、お兄ちゃん』っと言っておくれよ!」
鈴羽
「もう、そんなことばっかり言ってるから、母さんに誤解されるんだ」

「誤解?」
鈴羽
「まゆねえさんから聞いたんだよ。母さん、自分が父さんからあまり好かれてないと思い込んでる」

「なんでそうなるん? 僕は鈴羽はもちろん、阿万音氏もフェイリスたんもるか氏も、おにゃのこはみんな平等に好きなのに」
鈴羽
「だから、そういうのがダメなんだって」
由季
「あの、ふたりともさっきから何を……?」
鈴羽
「あ、ううん。なんでもない。それよりほら、
御神酒

と、あとおみくじもあるからどうかな?」
鈴羽の言うとおり、ダルは少し自重しないと、本当に鈴羽が産まれなくなる可能性が出て来るな。
後でよく言って聞かせよう。
カエデ
「それにしても、るかくんは相変わらず美人さんね……」
るか
「い、いえ、そんな……」
フブキ
「ほんとほんと。これで男の子だなんて信じらんないよね」
真帆
「ええっ!? 嘘……あなた、男の子なの?」
るか
「あ、はい……」
真帆
「嘘、でしょ……日本って、やっぱり進んでるのね……」

「あの、猫のおねえちゃん」
フェイリス
「ん? なにかニャ?」

「まゆりおねえちゃんはどこですか?」
フェイリス
「マユシィ? たしか、さっきまであっちで御神酒を……あ、あそこにいたニャ!」
フェイリス
「マーユシーィ! こっちに来るニャ! オカリン達が来てるニャ~!」
フェイリスの呼びかけに、ようやく俺たちに気づいたのか、まゆりがかがりの手を引き、小走りで駆けつけてきた。
まゆり
「あ、オカリン……え~っと……あけまして、おめでとうございます」
かがり
「あけましておめでとうございます、岡部さん」
倫太郎
「ああ、おめでとう」
まゆり
「えーっと……ど、どうかな? この格好、似合ってるかな?」
倫太郎
「ん? ああ、想像以上に良く似合ってる」
まゆり
「ほんと!? えっへへ~、良かったぁ」
それまで緊張していた面持ちが、安堵のそれへと変わる。
倫太郎
「メイクイーン+ニャン⑯でも、イベントデーなんかじゃコスプレするんだろ? 今さら緊張することもないだろうに」
まゆり
「あれはお仕事だからいいのです」
お仕事なら良くて、プライベートではダメというのも良くわからない理屈だ。
それに、今回の巫女だって、バイト代が出るんだから仕事だろう。
かがり
「ねえ、岡部さん。私はどうかな? 似合ってるかな?」
倫太郎
「あ、ああ……かがりさんも凄く似合ってると思う」
かがり
「わーい、やったぁ! そうだ、あとで一緒に写真とってくださいね」
倫太郎
「写真? いいけど……」
かがり
「だってほら、写真があれば、記録に残るでしょう? 私、今のうちにたくさん残しておきたいんです。また忘れちゃったりしないように」
別段、正月だから浮かれているというわけではなく、かがりはここ数日ですっかり明るくなっていた。
あの頃は記憶を失くしたという不安から、おどおどとしているように見えたが、おそらく本来はこういう子だったのに違いない。
まゆりやルカ子たちと一緒に、正月の準備をするうちに、少しずつ本当の自分を取り戻し始めたんだろう。
カエデ
「わぁ、やっぱりまゆりちゃん、似合ってる!」
まゆり
「そうかなぁ? なんだか恥ずかしいよ~」
フブキ
「そんなこと言って。まんざらでもないくせにぃ」
まゆり
「えへへ~」
カエデ
「あ、こちらが、このまえ言ってた、えーっと……」
かがり
「あ。かがりです。椎名かがり」
フブキ
「ホントだ。マユシィと同じ名前なんですね」
かがり
「うん、偶然」
本当は偶然じゃないんだが。
フブキ
「うーん。かがりさんもスタイル良いし、コスとか似合いそう」
カエデ
「あ、私も思った……」
かがり
「コス?」
フブキ
「コスプレ。ね、好きなキャラとかいるんですか?」
かがり
「えっと……私、そういうのはちょっと良くわからなくて」
カエデ
「フブキちゃん!」
フブキ
「あ、そっか……ごめんなさい」
かがり
「あ、ううん。気にしないで。大丈夫だから」
まゆり
「ねえ。オカリンもこっちに来て。まゆしぃが、お祓いをしてあげるのです。この……えーっと、えーっと……なんだっけ?」
かがり

大幣
おおぬさ

だよ、まゆりちゃん」
まゆり
「そうそう、おおぬさ~」
倫太郎
「そのためには、まず神様に手を合わせてこないとな」
かがり
「あ、そうだね。それじゃあ、その後で。私もお祓いしてあげる」
倫太郎
「ああ。よろしく頼むよ」
手水で身体を清めて、社殿に参拝する。
考えてみれば、ここでこうしてきちんと手を合わせたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
真帆
「何をお願いしたの?」
倫太郎
「ん? ああ……世界が平和でありますように、ってね」
真帆
「また、そうやってはぐらかすんだから」
嘘じゃない。
もっとも、その願いが叶わないのはわかってはいるし、そんなことをしたところで贖罪にもならないのだろうが。
真帆
「そういえば遅いわね」
倫太郎
「……?」
真帆
「教授たち。初詣に行くって言ったら、すごく来たがってたから、場所教えておいたんだけど……」
倫太郎
「へぇ。どこかで迷ってるのかな?」
真帆
「レイエス教授も一緒だから、どこか寄り道してるのかもね」
教授たちが来たら、また賑やかなことになりそうだ。
真帆
「ねえ、あの子でしょ?」
倫太郎
「何がだ?」
真帆
「岡部さんの彼女。あの、まゆりさんって人なんでしょ?」
倫太郎
「まゆりはそんなんじゃない」
真帆
「うそ? じゃあ、どの子」
倫太郎
「誰も違うよ。俺には彼女なんていない」
真帆
「ほんとに? これだけ可愛い女の子がたくさんいるのに?」
真帆
「岡部さんって、もしかして……」
倫太郎
「???」
真帆
「あ、でも、大丈夫よ。私、そういうのに偏見ないから」
……ようやく、真帆が何を言わんとしているのかわかった。
倫太郎
「あのな……違うよ。そういうのでもない」
真帆
「そうなんだ……じゃあどうして? 彼女作らないの?」
倫太郎
「……君、このまえ“紅莉栖”に散々文句言ってたのに、同じこと訊いてるぞ」
真帆
「あ……言われてみれば。自分のことだと嫌なのに、人のことになると興味が出ちゃうのよね、人間って。これは反省が必要だわ」
まゆり
「オカリーン!
おおにた
①①①①
でしゃーんしゃーんってやってあげるから、早く~!」
倫太郎
「……ちょっと行ってくるよ」
真帆
「ええ……」
真帆
「やっぱり……紅莉栖のことがあったからかしら……」
そう、小さく呶いた声が風に乗って耳に届いたが、俺は聞こえなかったフリをした。
ただの初詣のはずなのに、それぞれ写真を撮ったり喋ったりしているうちに、あっという間に2011年の最初の1日は過ぎて行った。
フェイリス
「お待たせだニャ」
鈴羽
「ふぅ。ああいう衣装もなかなか肩が凝るね」
見慣れたいつもの姿に戻ったフェイリスたちに、俺たちもようやく日常に戻ったような気持ちになる。
フブキ
「あれ? マユシィたちは?」
フェイリス
「まだ着替え終わってないから、もう少し待ってて欲しいって言ってたニャ」
まだ出て来ていないのは、まゆりとかがりとルカ子か。

「なあなあ、オカリン。着替えってもしかしてまゆ氏たちとるか氏、一緒に着替えてるんかな?」
倫太郎
「いや、それはまずいだろう……」

「『やぁん、るかく~ん、背中のファスナーあげて~ん』」

「『そ、そんな……ボクそんなこと……』」

「『るかく~ん、こっちもおねが~い』」

「そんな会話があの中で繰り広げられてるんかなハァハァ」
真帆
「ねえ、岡部さん。この人、大丈夫なの?」
ダルと会うのがまだ数えるほどの真帆は、明らかに警戒の色を見せていた。
倫太郎
「ダルは言動はああだが、害はない男だから心配しなくても平気だ」
フェイリス
「それに
スーパーハカー

なんだニャ!」

「それを言うならハッカーだろ常考」
真帆
「ハッカー? それ本当なの?」

「大きな声では言えんけど、まあそんな感じのこともやってるから、なにかあったら頼んでくれても良いのだぜ」
真帆
「ふーん、そっか。だったら……」
???
「OH! NO!」
突然の大声に驚いて顔を上げた真帆の視線を追うと、そこには――。
レスキネン
「Where? ジャパニーズ・シャーマンガールはどこにいるんだい、リンターロ?」
レスキネン教授とレイエス教授が、なんとも悲痛な面持ちで途方にくれていた。
レイエス
「マホからここに来れば、ジャパニーズ・シャーマンガールに会えると聞いて来たのに、いないじゃない!」
倫太郎
「じ、ジャパニーズ・シャーマンガール?」
真帆
「巫女さんのことよ」
ああ……なるほど。
真帆
「今日はもう、巫女さんの出番は終了です」
レスキネン
「Holy cow! So I said we should come soon!」
レイエス
「But You just enjoyed shopping too!」
ふたりの手には、電気屋の福袋が下がっていた。
どうやら、ここに来るまでに散々買い物をしてきたようだ。
真帆
「That’s enough! どっちもどっちですよ」
レスキネン
「Haa……」
ふたりは落胆の色を隠そうともせず、しょんぼりとした様子で、神社のあれこれを眺めはじめた。
まゆり
「おまたせ、オカリン♪」
倫太郎
「随分遅かったな、まゆり」
まゆり
「うん。るかくんのお母さんにね、おせち、いっぱいもらっちゃった。みんなで食べなさいって」
るか
「母があれも持って行け、これも持って行けって。詰め直してたらこんな時間になってしまいました。すみません」
倫太郎
「いや。こっちこそ、気を遣って貰って悪いな」
レスキネン
「Excuse me. ちょっといいですか?」
るか
「え? あ、はい」
レスキネン
「お参り……というのはどうやるんですか?」
るか
「あ、えっと……」
るか
「First of all,we should purify our hands and mouth there.」
倫太郎
「な……!」
レイエス
「I see……」
るか
「Please come with me. I’ll show you how to do.」
レスキネン教授とレイエス教授はるかに導かれるまま、詣でに行った。
宗教的に問題ないのだろうかとも思うが、本人たちが気にしていないのだから周りがどうこう言うことでもないだろう。
そんなことよりも……。
倫太郎
「ルカ子……すごいな……まさか、あんなに英語喋れるとは……」
まゆり
「るかくん、頭いいからね~」
そう……だったのか。
まゆり
「それに、秋葉原は観光の人が多いから、なにか訊かれてもいいように、勉強してるんだって」
今はじめて知る、ルカ子の意外な事実だった。
倫太郎
「そういえば、まゆり。かがりはどうした?」
まゆり
「あれ? そろそろ出て来ると……あ、来た来た、ほら」
かがり
「ごめんね。お待たせしちゃって」
これで全員揃ったか。
あとは、ルカ子が用を終えれば――。
レスキネン
「Thanks a lot. We had a wonderful experience!」
るか
「Not at all」
倫太郎
「それじゃあ、ラボに向かうか」
由季
「あ、そのことなんですけど……実は私、この後急用が入っちゃって……」
まゆり
「え? 由季さん、来れないの?」
由季
「ごめんね、まゆりちゃん……。バイトで欠員でて、どうしても入ってくれって……」
まゆり
「そっか……それじゃあ、仕方ないのです……」
見れば、ダルも鈴羽も残念そうに肩を落としていた。
真帆
「教授たちはこの後どうするんです?」
レスキネン
「私はこの後用があるから……」
レイエス
「私もよ」
レスキネン
「今日はありがとう。すばらしい発見だらけだったよ。シャーマンガールには会えなかったがね」
レイエス
「ほんとね。とってもExcitingだったわ」
レスキネン
「それじゃあ、リンターロ。たまには“クリス”にも会ってやってくれ」
レイエス
「では、みなさん、また。 See you soon!」
ふたりの教授は顔を綻ばせながら、秋葉原の喧騒に飲まれて行った。

「んじゃ、僕たちも行こうか」
倫太郎
「そうだな」
途中、由季がひとり抜けたとはいえ、来る時から比べると倍になった人数を従え、俺たちは柳林神社を後に、ラボへと向かった。
まゆり
「それではあらためまして……あけましておめでとうございま~す」
全員
「あけましておめでとー!」
まゆり
「ん~、るかくん家のおせち、美味しいね~」
るか
「ほんと? ボクとかがりさんも手伝ったんだけど、そう言ってもらえてよかった」
かがり
「エッヘン! なーんて、私は盛り付けただけなんだけど」

「私、この甘い卵焼きだいすき。くるくるってなってるの」

「こっちのお雑煮も絶品すぎる! 鈴羽、どうだお?」
鈴羽
「うん。おいしいね」
フェイリス
「実はメイクイーン+ニャン⑯のお正月メニューなんだニャ」

「ムフーッ! モチモチでやらか~い。フェイリスたんの味がするお」
フブキ
「橋田さん、ほんとにHENTAIさんですねぇ」
フブキのダルへのツッコミがほとんど機械的になってきているのは、今日1日を通してダルのHENTAI行為を腐るほど見てきたからだろう。
そのすべてにツッコミを入れていたら、それだけで疲れてしまう。
真帆
「アメリカだったらセクハラですぐ訴えられるわよ」
カエデ
「そういえば、アメリカのお正月って何を食べるんでしょう……?」
倫太郎
「さあ。七面鳥じゃないのか?」
カエデ
「それはクリスマスじゃないですか……?」
真帆
「アメリカじゃ大みそかに騒ぐから、年が明けると意外と質素よ。豆料理とか」

「豆料理って響きにトキメクお年頃」
フブキ
「橋田さん、ほんとにHENTAIさんですねぇ」
フェイリス
「ほら、綯ニャン、この栗きんとん、美味しいニャ」
鈴羽
「こっちの黒豆も栄養価が高そうでいいね」

「えっと、えっと……そんなにたくさん食べられないよ~」
かがり
「慌てないでいいから、よく噛んで食べるんだよ?」
るか
「ふふっ、かがりさん、お母さんみたいですね」
まゆり
「えっへへ~、やっぱり人が大勢いると楽しいねぇ、オカリン」
倫太郎
「ああ、そうだな……」
ここがこんなに賑わうのはいつぶりだろうか。
いや、あれはαの世界線での出来事――。
ということは、今俺たちがいるβ世界線でははじめてかもしれない。
フェイリス
「ウニャ? お茶ってこれだけかニャ?」
宴がはじまってまだそう経っていないのに、どうやらもうお茶を切らしてしまったらしい。
鈴羽
「兄さんが、甘いジュースばかり買ってくるから」

「お茶がなければコーラを飲めばいいじゃない」
るか
「おせちに炭酸は厳しいですよね……」
倫太郎
「じゃあ、俺とダルで買ってこよう」
女子に買いに行かせるわけにもいかないからな。
カエデ
「あ、ここは私とフブキちゃんで行きますよ」
フブキ
「私も?」
カエデ
「お呼ばれしてるんだもの。それくらいしないと……」
フブキ
「しょうがない。それじゃ、行ってきまーす。テキトーでいいですよね?」
倫太郎
「そうか、すまない。助かるよ」
カエデとフブキが出ていったことで、ほんの少しの静寂が訪れる。
と、ちょうどそのタイミングを狙ったように、誰かの携帯の着信音が鳴り響いた。
真帆
「ごめんなさい、私だわ」
スマホを取り出した真帆は、画面を確認した後、俺を見た。
真帆
「ねえ、岡部さん。今『Amadeus』にアクセスしてもいいかしら?」
倫太郎
「え?」
真帆
「着信。あの子からなの」
倫太郎
「…………」
真帆
「それに、あの子がこの状況の中に入ったらどんな反応を示すか――それも良いサンプルになりそうだし……ダメかしら?」
倫太郎
「それは……」
まゆり
「ねえ、真帆さん真帆さん。あまでうす、ってなにかな?」
気づけば、“紅莉栖”からの着信はやみ、その代わりに全員が俺たちのやりとりに耳を傾けていた。
真帆
「……特定の人間の記憶データを内包した
人工知能
アーティフィシャル・インテリジェンス
よ」
まゆり
「あーてぃひしゅる……?」
フェイリス
「AIのことだニャ」

「えーあい……?」
フェイリス
「AIとは、エンシェント・インテリジェンス。つまり、古代に失われた大いなる
智慧
ちえ
のことなんだニャ!」
真帆
「Artificial Intelligenceだってば」

「自分で考えて、学習するように作られたプログラムのことだお」

「でも、特定の人の記憶があるAIってことは……それって、誰かの
複製
コピー
ってことじゃね?」
真帆
「果たしてそれがコピーとなり得るのか、それを現在進行形で検証しているところよ」

「それが『Amadeus』ってわけ? 驚いた。そんなもん作ってるなんて」
まゆり
「えっと……るかくん、わかる?」
るか
「ううん。ボクにもさっぱり……」
真帆
「見て貰えば早いんだけど……」
チラリと俺の顔色を呎う。
倫太郎
「俺の映らないところでなら……」
真帆
「わかった」
ため息交じりに言って、真帆はスマホのアプリに指を伸ばした。

「え? スマホで起動できるん?」
真帆
「“本体”は大学のサーバーにあるんだけどね。簡易的にアクセスできるようにしたの」
ダルはそのテクノロジーに目を輝かせて画面を覗き込んでいた。
やがて、真帆のスマホからあの声が――。
アマデウス紅莉栖
「もう、先輩ったら、どうして出てくれな――」
アマデウス紅莉栖
「わっ!」

「おぉぉぉ、すげー!」
アマデウス紅莉栖
「え? 先輩じゃ……ない? 誰……ですか?」

「僕? 橋田至。なんなら僕を先輩って呼んでくれてもいいのだぜ。できれば、赤く頬を染めながら上目づかいでヨロ」
アマデウス紅莉栖
「ど、どうして、私が見ず知らずのあなたを先輩なんて呼ばなければならないんですっ。あなたはいったい――」
真帆
「驚かせて悪かったわね」
アマデウス紅莉栖
「あ、先輩……今の人は……」
真帆
「橋田さんと言って、岡部さんのお友だちよ。今日はお正月でしょ? それで岡部さんのラボラトリーでお友達とパーティーをしてるの」
アマデウス紅莉栖
「ああ、あの
冷たい
①①①
岡部
①①
さん
①①
ですか」
アマデウス紅莉栖
「先輩も、あの人との付き合いはほどほどにしておいたほうがいいですよ。じゃないといつか捨てられちゃいますから」
真帆
「まあまあ……」
棘のある言い方……これは、かなり怒ってるようだ。
まあ、それも無理のないことだが。
真帆
「というわけで、紹介するわ、彼女が私の後輩、牧瀬紅莉栖の記憶と人格を持つAI――『Amadeus』よ」
鈴羽
「え? 牧瀬紅莉栖って――」

「もしかして、あの!?」
橋田親子が揃って声をあげた。
そう……ふたりは紅莉栖の存在を知っている。
彼女に何があったのかも――。
フェイリス
「牧瀬紅莉栖さんって、確か半年前くらいにラジ館で……」
るか
「あ……」
まゆり
「牧瀬……紅莉栖さん……この人が……」
アマデウス紅莉栖
「ああ、もしかして皆さん、オリジナルの私のことをご存じなんですね」

「あ。いや……うん、まあ……」
アマデウス紅莉栖
「心配しなくても大丈夫ですよ。私、オリジナルの自分に何が起きたか知ってますし」

「あ、そ、そう……なん?」
そうは言われても、気にするなと言う方が無理だろう。

「ねえ、これってゲーム?」
そんな中、綯だけは事情がわかっていないようだった。
だが、今はそれが有り難かった。
彼女のひと言のおかげで、固まりかけた場の空気が和らいでくれた。
アマデウス紅莉栖
「ふふっ、ゲームじゃないわ。私はAI。あなたと同じように、自分で考えてお話しているの」
フェイリス
「ていうか……ほんとのAIなのニャ? すごすぎるニャ」
アマデウス紅莉栖
「すごいのは、私を作ってくれた真帆先輩です」
皆がスマホの中でくるくると表情を変え、質問に答える“紅莉栖”に釘付けになっている。
そんな中、俺は後悔し始めていた。
ここで“紅莉栖”に話をさせるんじゃなかった。
こうして、ラボの皆に紅莉栖の存在を思い出させるんじゃなかった。
やはり今すぐにでも、“紅莉栖”との通話を切ってもらおう。
倫太郎
「比屋定さ――」
真帆
「あらっ?」
俺が声を掛けたと同時に、真帆が不思議そうな声をあげた。

「どしたん?」
真帆
「『Amadeus』がいきなり消えてしまったの」

「アプリが落ちたんじゃね? まあ、そういうことだってあるっしょ」
真帆
「そうなんだけど……再起動しても、サーバーに繋がらないのよ」

「サーバーのデータ更新とかは?」
真帆
「そんな話、聞いてないわ」
フェイリス
「ここのネット回線は、落ちてないみたいニャけど」
自らのスマホでウェブに繋げて確認しながらフェイリスが言った。
真帆
「おかしいわね。今までこんなこと無かったのに」
真帆
「ねえ、岡部さん。貴方のほうでも試してみてもらえない?」
倫太郎
「いや、俺は――」
“紅莉栖”に良く思われていないだろうから――そう言いかけた声が、硬質な音に飲みこまれた。
かがり
「ご、ごめんなさい……」
どうやらかがりがグラスを取り落したらしい。
細やかな破片が床の上で放射状に飛び散っていた。

「おねえちゃん、だいじょうぶ? 顔色悪いよ?」
かがり
「ええ……ありがとう。ちょっと疲れたのかも……」
かがり
「あ、でも平気……ごめんね、すぐに片付けるから……」
るか
「あ、かがりさんはじっとしてて。ボクが片付けますか――」
るかが掃除道具を取りに行こうと立ち上がるのと、その音はほぼ同時だった。

「へ?」
武装した男
「動くな!!」
倫太郎
「――!」
突然、土足のまま部屋に踏み込んできた男たちに、室内は何が起きたのかもわからず騒然となった。
フェイリス
「な、なんなんだニャ!?」
全員が妙な仮面をかぶっている。
その手中には銃。
中には自動小銃を持っている者もいた。
真帆
「な、なんなの、これ? なんのサプライズ?」
倫太郎
「ぁ……あぁ……」
その光景に、あの悪夢がよみがえる。
何度も何度も繰り返し繰り返し殺されたまゆりの無残な姿――。
もう大丈夫だ――そう思っていたのに。
もう大丈夫――そのはずだったのに。
半月ほど前の世界線変動の影響なのか!?
倫太郎
「あぁ……ああああ……」
まゆり……。
武装した男
「騒ぐなっ!!」
まゆりがまた……。
まゆり
「オカリン……怖いよ……」
武装した男
「騒ぐなと言っているだろう!」
まゆり
「きゃっ!」
倫太郎
「まゆり!!」
乾いた音。
床に空いた黒い穴。
大丈夫、威嚇だ。
それでも、皆の恐怖心を決壊させるには充分だった。

「そ、それ……本物かよ?」
るか
「お、岡部さん……ボク……ボク……」

「ひっ……う……うわぁぁん!」
ダメだ! それ以上、奴等を刺激するな!!
奴等は本気だ。
必要のない者は容赦なく殺される。
鈴羽!
鈴羽はなにをしてる!?
鈴羽
「くっ……!」
ダメだ。
怯えた綯が鈴羽の足元にしがみついて身動きがとれないでいる。
いや、相手が多すぎて、下手に動けないでいるのか。
倫太郎
「く…………」
俺が……俺がなんとかしなきゃいけないのに、肝心の足はガクガクと震えるだけで何の役に立とうともしてくれない。
倫太郎
「と、とにかく……みんな、落ち着いてくれ……」

「そんなこと言われても」
倫太郎
「いいから、落ち着いて奴らの言うことを聞くんだっ!」
嫌というほど経験してきた状況だというのに、それでも何とか声に出すのが精一杯だった。
だが、必死さだけは伝わったのか皆は騒ぐのを止め、ただ身を寄せ合い、
闖入者
ちんにゅうしゃ
たちの動向を固唾を飲んで見守っていた。
銃口をピタリと向けた男たちの背後から、ヒールの音が響いてきた。
階段を上がってくる――女の足音。
やはり、あいつなのか?
桐生萌郁――お前なのか?
お前が、またまゆりを……。
果たして、開いたままのドアから姿を現したのは――。
ライダースーツの女
「…………」
黒づくめの女だった。
ピッタリと身体に張り付いた黒のライダースーツに、黒のヘルメット。
黒いシェードで覆われているため、顔は見えない。
が、やはりこいつは――。
でも、こいつらの目的はなんだ?
あの時は、俺とダルと、そして紅莉栖の3人だった。
だが紅莉栖はいない。
となると――真帆か?
ライダースーツの女
「…………」
女は黙って室内を見回すと、真っ直ぐに身を寄せ合う俺たちへと歩み寄り、そして手を伸ばした。
かがり
「え?」
その手がかがりの腕を掴んで、引き寄せる。
まゆり
「か、かがりさんっ!」
連中の目的はかがり!?
でも、どうしてかがりを?
いや、かがりが狙われるとすれば、たったひとつ。
やはり、こいつらは――知っている?
かがりが、2036年から来た人間だと。
かがり
「い、いやっ! 離して!」
ライダースーツの女
「――!」
抵抗を見せるかがり。
しかし、女の力は想像よりもずっと強く、かがりの身体はいとも簡単に引っ張られてゆく。
かがり
「いやっ! 助けて! 誰か!」
まゆり
「かがりさん!」
かがり
「まゆりちゃんっ! 助けて!」
手を伸ばす、まゆりとかがり。
しかし、互いの手は虚しく宙を掴んだだけ。
倫太郎
「っ……!」
どうする?
俺はどうすればいい?
ここで動けば、またまゆりが――皆が――。
じゃあ、かがりが連れ去られるのを黙って見ているしかないのか?
俺は……。
俺は。
武装した男
「ぐあっ!!」
突然、扉の近くから悲鳴が上がった。
武装した男
「ぐえっ!!」
視線を向けた時には、既に2人目がもんどりうって倒れるところだった。
天王寺
「おいおい、こりゃいったい何の騒ぎだ?」

「ブラウン氏!!」
武装した男
「くそっ!!」
銃口を向けるよりも早く、天王寺の手が男の手を掴みそのままねじ上げる。
すぐに、骨が折れる鈍い音がした。
武装した男
「ぎゃああ!!」
突然の乱入者に、襲撃者たちは騒然となった。
武装した男
「くっ――!」
状況を打破しようと、男のひとりが駆け寄ってくる。

「え?」
手を伸ばしたのは、一番か弱そうに見える存在。
普通ならば正しい判断だが、この場合その選択はまったくの誤りだった。
その巨体からは想像のつかない動きで、天王寺はあっという間に男との距離を詰めると、腕力でその身体をブッ飛ばした。
背中から壁に叩きつけられた男がバウンドして倒れるのを見て、残った連中は完全に色を失う。
と同時に綯から解放された鈴羽が動いた。
鈴羽
「はっ!!」
ダルの娘とは思えない細くしなやかな足が一閃、ライダー女の首元を狙う。
ライダースーツの女
「――!!」
鈴羽の蹴りは、寸でのところで腕によりガードされてしまった。
しかし、ガードするために、かがりを掴んでいた手が離されている!
倫太郎
「かがりっ!!」
咬嗟に手を伸ばし、俺はかがりを引き寄せた。
かがり
「岡部さん……」
ライダースーツの女
「――!」
形勢不利と見たか、女は鈴羽に蹴られた腕を庇うようにして、あっという間にラボを飛び出していった。
他の襲撃者たちも、倒れた男たちを抱えるようにして後に続く。
それまでの喧騒が一転、静寂にとって変わられた。
まゆり
「お、オカリン……」
まゆりの震えるような声で、ようやく我に返る。
倫太郎
「まゆり……無事か?」
まゆり
「う、うん……」
倫太郎
「他のみんなも、大丈夫だったか? 怪我はないか?」
ダル、鈴羽、フェイリス、ルカ子、綯、真帆、かがり――。
それぞれ皆、青ざめてはいるが、別段、負傷などはしていなさそうだ。

「お、おとうさぁぁぁぁあん!」
天王寺
「大丈夫。もう大丈夫だ。綯のことは、ちゃんとお父さんが守ってやるからな」

「うえぇぇぇぇ……」
抱き合う天王寺親子の姿をきっかけに、全員がようやく安堵の息を漏らした。
それにしても――。
天王寺
「おい、岡部。説明してもらおうか。あの連中はなんだ?」
倫太郎
「いや……それは俺にも……」
わからない。
俺も最初はSERNの仕業ではないかと考えた。
しかし、それなら天王寺がこうして乗り込んでくるはずがない。
この天王寺裕吾こそ、秋葉原一帯のラウンダー連中を指揮しているFBという存在なのだから。
もちろん、そのFBの知らないところで下の連中――萌郁たちが動いたという可能性も無くはないが……。
倫太郎
「――!」
再びドアが開かれ、全員が身構える。
フブキ
「たっだいまー。飲み物、いっぱい買ってきたよー!」
カエデ
「遅くなってしまって、ごめんなさい。フブキちゃんが、あれもこれもって……」
フブキ
「……あれ? どうしたのみんな。そんな怖い顔して……?」
るか
「……送っていただいて、ありがとうございました」
倫太郎
「いや……」
当然だが、あの後すぐに正月パーティーはお開きとなった。
せっかくまゆりが楽しみにしていた会ではあったが、あの出来事の後で続けられるほど、みな能天気ではない。
全ての説明は、後日改めてすると言い聞かせ、まずはそれぞれ身の安全の確保のため、家に帰ってもらうことにした。
天王寺親子を除いた全員で駅まで向かい、そこで電車に乗る者だけを見送って、その後残ったメンバーで柳林神社まで来た。
残っているのは、ダル、鈴羽、ルカ子、そしてかがりだ。
倫太郎
「つけられてなかったか?」
鈴羽
「大丈夫。ずっと注意してたけど、おかしな気配はなかった」
倫太郎
「そうか……」
秋葉原の駅でも、怪しげな人間はいなかった。
SERNのラウンダーなら、あらゆる場所に手が伸びていてもおかしくないはずだが……。
電車組にも、真っ直ぐ家に帰るように、そして家に着いたらすぐ連絡を寄こすように言っており、既に何人かからは連絡もきている。
何ごともなく家に着いたそうだ。
特にまゆりには、頻繁にRINEでスタンプを送るように念を押しておいた。
それも刻々と届いているから、恐らくは大丈夫だろう。
とはいえ、まだ安心は出来ない。
かがり
「あの……やっぱり私が狙われたのかな?」
倫太郎
「……おそらくな」

「……連中、かがりたんのこと、知ってるんかな?」
倫太郎
「だろうな……」
連中がSERNかどうかはまだわからない。
しかし、かがりが未来から来た存在だと知っていて、彼女を襲った――そう考えるのが妥当だろう。
かがり
「……ごめんね。私のせいで、みんなまで危険な目に遭わせてしまって……」
倫太郎
「君だけのせいじゃない……」
幼い身で未来から連れて来られ、その後行方不明となり――いわば、彼女も運命に翻弄されている被害者だ。
るか
「でも、本当にいいんですか? 警察に届けなくても……」
倫太郎
「……すまないが、今はまだ……」
真帆たちにも散々言われた。
でも、何とか頼み込んで、ひとまず保留にさせてもらった。
そもそも、あんな事を説明して受け入れてもらえるのかという問題もあるが、なによりも一番問題なのは、かがりの存在だ。
かがりが狙われたとなれば、彼女の素性を説明する必要が出てくる。
本当のことを言うことは出来ないし、たとえ本当のことを言ったとしても、信じてもらえるとも思えない。
鈴羽
「で、これからどうする?」
倫太郎
「……とにかく連中が何者かわからなければどうしようもない」
鈴羽
「じゃあ、あたしたちだけで突き止めるってこと? どうやって?」
倫太郎
「それは……」
正直、わからない。
もしもタイムマシンが存在することがわかったら、それを欲する連中はSERNに限らず、世界中にごまんといる。
ロシアだってアメリカだって中国だって。
そして日本だって。
とにかく、なんとかして相手を突き止めなければ、同じようなことが起こる可能性がある。
倫太郎
「方法は、明日改めて考えよう。それよりもルカ子、頼みがあるんだが」
るか
「は、はい、なんでしょう?」
倫太郎
「すまないが、今日から鈴羽も一緒に、お前のところに泊めてもらってもいいか?」
るか
「え?」
鈴羽
「あたしが、るかにいさんの家に?」
倫太郎
「ああ。かがりを他で預かってもらうのも考えたんだが、ここのほうが人数も多いし、防犯設備も整っている」
賽銭泥棒やいたずら対策だろう。
ちょっと見まわしただけでも、防犯カメラが備え付けられているのがわかる。
それにそもそも、これは当のかがりが言い出したことだ。
倫太郎
「かがりもここのほうがいいんだろう?」
かがり
「……うん」
無理もない。
ただでさえ記憶喪失で精神状態が不安定なところに、今日の騒ぎだ。
倫太郎
「鈴羽がいてくれれば、みんな少しは安心できる。もちろん、ルカ子の家族の承認が必要だが」
るか
「お父さんは、きっと大歓迎だと思います」
だろうな。
鈴羽
「あたしも、別に構わない」

「僕も泊まってもいいのだぜ」
鈴羽
「兄さんは、帰りなさい」

「しょぼーん」
そのやりとりに、少しだけ日常を取り戻した気がした。
ルカ子とかがりの表情もほんの少し和らぐ。
ダルのいつもの発言もこういう時には役に立ってくれるらしい。
倫太郎
「じゃあ、頼んだぞ。何かあったら、すぐに連絡してくれ」
るか
「わかりました」
かがりをふたりに託し、俺とダルはラボへと足を向けた。

「なあ、アレ、ホントに起きたことなんだよな……」
倫太郎
「ああ……」

「ドッキリとかじゃなくて、現実なんだよな……」
現実……。
そう、あれは現実だ。
今まで何度も経験した、あの場面――。
悲鳴と硝煙の匂い。
倫太郎
「…………うっ、ぷ……」

「ど、どしたん、オカリン?」
倫太郎
「っ、すまない……安心したせいか、気分が……」
皆を送り届けるまで張っていた気が急速に抜け、また思い出してしまった。
半年前のことを。

「大丈夫。今は僕も一緒だからさ。なんならちょっと休む?」
ダルの大きな手が背中を上下する。
不思議なもので、それだけで気分が少し落ち着いた。
倫太郎
「ありがとう……もう大丈夫だ……」

「無理すんなよ」
倫太郎
「ああ……」
ラボに向かって再び歩きはじめると、ダルが心配そうについて来た。

「なあ、オカリン」
倫太郎
「ん?」

「やっぱさ、これもタイムマシン関係のことだよな?」
倫太郎
「……ああ」

「……これもシュタインズゲートの選択とかいうやつ?」
シュタインズゲートの選択……か。
倫太郎
「今思えば、痛々しい響きだな」

「……オカリン」
どれだけ目を背けても、背中を向けても、いつまでも着いてくるというのか。
俺はただ、平穏な時間を過ごしたいだけだというのに。
もはやそれすらも、許されないことだというのだろうか?

「オカリン。肩貸してやるよ」
倫太郎
「……え?」

「まだフラついてるじゃん。ほれ」
倫太郎
「大丈夫だよ……」

「いいから、遠慮すんなって」
倫太郎
「…………ダル」

「ん?」
倫太郎
「……お前、キモいぞ」

「……最近のまともになったオカリンの方がキモいっつーの」
倫太郎
「……ありがとな」

「気にすんな」
漆原るかは哀しかった。
ずっとずっと哀しかった。
岡部倫太郎という人物と知り合い、親しくしてもらうようになり、
未来ガジェット研究所
ラボ
に出入りするようになってから、それなりの時間が経つ。
学友でもある椎名まゆりをはじめ、橋田至ら、他のメンバーも自分を友人として扱ってくれている。
それ自体は嬉しい。
何の取り得もない、引っ込み思案な自分を受け入れてくれる――そのことに、るかはとても感謝している。
それでもるかは――自分ひとりだけが蚊帳の外にいるような、そんな疎外感を、ずっと抱いていた。
皆が自分に何かを隠しているのを、るかは知っている。
だから哀しかった。
けれど、もっと哀しいのは、それがわかっていて、教えてくれと言い出せない自分だった。
鈴羽
「寝ないの?」
るか
「……阿万音さんこそ、まだ起きてたんですね」
鈴羽
「いろいろ考えることがあってね」
るか
「そう……ですか」
いろいろとは言っているが、主に今日起きた出来事についてだろうということは、るかにだってわかった。
ラボでの正月パーティー。
その最中に突然襲撃してきた謎の男たち。
男たちは銃を手にしていた。
モデルガンなどではない。
本物の拳銃だ。
るかにしてみれば、そんなものが日本で手に入ることさえ不思議だった。
けれど、あれは紛れもない事実だ。
男たちは本物の拳銃を手にして、るか達に突き付けてきた。
その時は実感も薄かったが、今になってその事実に震えを覚える。
もしも、男が人差し指にほんの少しでも力を加えていたなら、るかは今頃ここにはいなかっただろう。
かがり
「っ…………」
眠っていた椎名かがりが、声をあげた。
めまぐるしい1日に、よほど疲れていたのだろう。
かがりは横になってすぐに寝息を立て始めた。
その吐息が次第にうめきに変わってゆく。
かがり
「……ママ……ママ……いっちゃ嫌だよ……ママ……」
母親の夢を見ているのだろうか。
かがり
「ママ……まゆり、ママ……」
るか
「…………」
その言葉が出ても、るかは然程驚きはしなかった。
何日か前にもかがりは、夜中にその名を呼んだことがあったからだ。
椎名かがり。
椎名まゆり。
同じ苗字だなんて、なんて偶然なんだろう――最初はそう思った。
でも――。
るか
「あ……」
言いかけて言葉に詰まる。
訊きたいことはたくさんあるはずなのに。
勇気が欲しかった。
ほんの少しだけ。
教えてくれという、それだけの勇気が。
るか
「…………」
枕元に手を伸ばすと指先に硬い感触が当たった。
どこにでも売っている、安っぽい模造刀。
それでも、るかにとってそれは宝物だった。
その柄をしっかりと握りしめる。
るか
「あ、あのっ!」
鈴羽
「?」
るか
「き……訊いてもいい……ですか?」
鈴羽
「なに?」
鈴羽が半身を起こし、まっすぐな目でるかを見た。
思わず目を逸らしそうになるのを、ぐっと堪える。
ここで目を逸らしてしまっては、結局何も訊けなくなる。
るかはもう一度、模造刀に触れ、それからゆっくりと口を開いた。
るか
「あ、阿万音さんは……どうして岡部さんのこと、オカリンおじさんって呼ぶんですか?」
鈴羽
「…………」
るか
「どうして、まゆりちゃんのこと、まゆねえさんって呼ぶんですか? どうしてフェイリスさんのこと、ルミねえさんって呼ぶんですか?」
るか
「ボクのこと、るかにいさんって呼ぶんですか?」
鈴羽
「…………」
るか
「“まゆりママ”って、まゆりちゃんのことですよね? どうしてかがりさんが、“まゆりママ”なんて言うんですか?」
鈴羽
「……あたしの言えた義理じゃないってことはわかってる。でも、知らないほうがいいと思う」
るか
「……そうやって、ボクはまた蚊帳の外なんですか?」
るか
「ボクだって知りたいです。ボクだって皆さんと同じ悩みを共有したいんです」
鈴羽
「るかにいさん……」
るか
「教えて……もらえませんか?」
鈴羽はるかの目をまっすぐ見つめたまま、しばらく黙っていた。
るかは、ただ待っていた。
鈴羽
「オカリンおじさんがさ……るかにいさんに事情を言わない理由、あたしなんとなくわかる気がするんだ……」
るか
「……理由、ですか?」
鈴羽
「るかにいさんには、純粋にこの世界の人でいて欲しいんだよ」
鈴羽
「るかにいさんだけは“今”という時間の存在でいて欲しいんだ」
鈴羽
「それが……オカリンおじさんの救いなんだ」
るか
「ボクが……救い?」
鈴羽
「ああ……」
るか
「そんな……」
そんな風に言われたら。
それ以上を訊くことはるかには出来なかった。
本当に岡部倫太郎はそう思ってくれるのだろうか?
それすらわからない。
結局、自分はいつまで経っても何もわからないまま。
そうして漆原るかは、また哀しくなってしまった。
襲撃事件があった翌日。
呼び出した時間よりほんの少し早く着くと、そこには既にその人物の姿があった。
フェイリス
「お待たせしましたニャン」
倫太郎
「ありがとう」
フェイリス
「近くの席にはしばらく誰も座らせないようにするから、思う存分話すといいニャ」
倫太郎
「助かる」
淹れたばかりのコーヒーで喉を湿らせながら、目の前の相手を観察する。
萌郁
「…………」
桐生萌郁。
相変わらず表情もなく、何を考えているのかわからない。
萌郁
「話って……?」
倫太郎
「……腕の調子はどうだ?」
萌郁
「腕?」
倫太郎
「ああ……もう大丈夫なのか?」
昨日のライダースーツの女。
奴は鈴羽の蹴りを腕で直に受け止めていた。
後から鈴羽に訊いた話だと、かなりの手ごたえがあったそうから、それなりにダメージは残っているだろうということだった。
もしもあれが萌郁であったならば――。
萌郁
「……なにを言ってるかわからない」
倫太郎
「そうか……」
だが、まだ萌郁がシロと確定したわけじゃない。
倫太郎
「腕を見せてもらってもいいか?」
萌郁
「腕……?」
倫太郎
「ああ。左の腕の袖をまくってもらいたい」
萌郁
「……どうして?」
倫太郎
「ダメか?」
萌郁
「…………」
萌郁は呆れたようなため息をついた。
動揺している素振りはない。
そのことに、むしろ俺の方が動揺する。
なぜここまで堂々としているのか。
萌郁は、俺に言われた通りにゆっくりと袖をまくり上げた。
病的なまでに白い肌。
それ以外には何もない。
ファンデーションで塗り隠したような

あと
もなければ、痣もない。
当然、包帯のようなものを巻いているでもない。
倫太郎
「ありがとう。しまってくれ」
萌郁
「…………」
萌郁はほんの僅か首を傾げながら、捲った袖を元どおりにした。
あのライダースーツの女は、萌郁じゃなかったんだ。
やはり、と言うべきだな。
俺の中では、萌郁じゃないという予感はあった。
考えてみれば、そもそも萌郁は椎名かがりが俺たちのところにいることを、もっと早くに知っていた。
何もあんなに人が大勢集まっているタイミングに襲撃する必要もないのだ。
萌郁は今回は関係ない。その事実を確認できたことはよかった。
ただ、そうなると新たな問題が出てくる。
あのライダースーツの女は、いったいどこの誰だったのか。
疑惑を向けたことを誤魔化すために、これまでの調査の報告と続行を告げ、俺は萌郁と別れて、もうひとつの場所に向かった。
次に俺が訪ねたのはここだ。
それにしても、正月2日から店を開けているとは熱心なことだ。
一度深呼吸をすると、意を決して、敷居をまたぐ。
倫太郎
「失礼します」

「あ……」
天王寺
「ふん。やっと来やがったか」
まるで、今まで俺が来るのを待っていたような口ぶりだった。
天王寺
「昨日の説明をしに来たんだろ?」
倫太郎
「それもあります」
天王寺には、昨夜特にしつこく事情を訊かれたので、後日改めて説明すると言ってあった。
天王寺
「で? 昨日のはいったいなんだったんだ?」
倫太郎
「その前に、ひとつ確認したいんですが……。昨日のあれは……、あなたの差し金じゃないですよね?」
普段から不機嫌そうな天王寺の顔が、さらに不機嫌そうになった。
天王寺
「俺の? そりゃいったい、どういう意味だ。なんで俺が、あんな連中をおめえんとこに


んなきゃならねえ」
倫太郎
「わかりませんか?」
天王寺
「わかるわけねえだろ、ンなもん」
倫太郎
「……それは」
俺は近くに綯がいるのを確認して、口を開いた。
倫太郎
「あなたがラウンダーだからですよ。ミスター・
フェルディナント・ブラウン

……いや、FBと呼んだほうがいいですか?」
天王寺
「…………」
不機嫌そうだった天王寺の顔から、表情が消えた。
天王寺
「てめえ……」

「お父……さん?」
父親の温度が変わったのを敏感に察したのか、綯が様子を呎ってきた。

「どうしたの……?」
天王寺
「ん? どうしたって、なにがだ?」

「急に、怖い顔したから……」
天王寺
「そうか? お父さんはいつも通りだぞ。ほら」

「……うん」
天王寺
「ほら、わかったら、良い子だから外で――、あ、いやいや、そこでテレビでも見てな。な?」

「……うん」
綯はこちらの様子を気にしながらも、言われた通りブラウン管の前の椅子に腰を下ろした。
テレビからは、正月のお笑い番組が流れている。
倫太郎
「……やはり、娘には知られたくはないんですね」
天王寺
「…………」
天王寺は何も返さずに、綯から離れた椅子に促した。
いつものように怒鳴るでもなく、ただ冷静に冷徹に。
その態度に、冬だというのに汗が吹き出す。
だが、切り出してしまった以上、引き返すことは出来ない。
俺は促されるまま、それでもいつでも動けるように両足に力を込めた状態で、小さな椅子に腰かけた。
天王寺
「おめえ……何を言ってやがる?」
倫太郎
「……誤魔化しても無駄です」
天王寺
「誤魔化すもなにも、俺にはおめえが何を言ってるのか、さっぱりわからねえな」
天王寺
「なんだ、そのFBとかなんとかってーのは。新手の
SNS

か?」
倫太郎
「俺は知ってるんです。あなたがSERNのラウンダーだってことを」
天王寺
「…………」
真っ直ぐな視線に射竦められる。
その目は普段の天王寺の目とは全くの別物だった。
殺し屋の目。
それも、冷徹で、殺気を隠そうともしない殺し屋の目だ。
天王寺
「……一応、聞いてやるが、おめえのその情報はどこからのもんだ?」
倫太郎
「話す必要はありません」
威圧されるな。この対話の主導権は俺が握る。
天王寺
「いいから聞かせろや。それくらいの覚悟を決めて、ここに来たんだろうが」
倫太郎
「話してもどうせあなたは信じない」
天王寺
「そう言わずに、茶飲み話としゃれこもうや。どうせこんな日に客なんか来ねえしな」
倫太郎
「…………」
この男はSERNの犬――ラウンダーだ。
そのラウンダーがあの世界で俺たちに何をしたのか。
決して忘れられることではない。
しかし、おそらく天王寺は、自ら進んでSERNの人間になったわけではない。
そこに至るまでには、何らかの理由があったのだろう。
少なくとも、α世界線ではそうだったと俺は感じた。
もちろん今俺がいるこのβ世界線では違うかもしれない。
この世界線の彼は、橋田鈴という人物に会っていないはずで、その影響がどの程度大きな物なのかも俺は知らない。
天王寺は、その視線で俺を捉えたまま、微動だにしない。
こちらの出方次第では、問答無用で消す――そう言っているようだった。
いいだろう。ならば、話をしてやろうじゃないか。
それこそ雲を掴むような内容の話をな。
天王寺
「ふんっ、世界線な。到底信じられる話じゃねぇな」
倫太郎
「最初にそう言いましたよ」
倫太郎
「それに、あなたが信じようが信じまいが関係ない」
倫太郎





あなた
①①①


正体
①①


知って
①①①
いる
①①
。重要なのはそこだけです」
天王寺
「……確かにその通りだ」
倫太郎
「……!」
認めた!
天王寺
「おめえの話はほぼ完璧だ。俺しか知らねえようなことまで知ってやがる」
天王寺
「正直、薄気味悪いくらいだ」
天王寺に正体を認めさせたことで、ひとまずこの対話の1ラウンド目は俺が取ったと考えていいだろう。
問題はここからだ。
倫太郎
「SERNの機密保持は絶対だということは知っています。それに、任務に失敗した者だけでなく、達成した者まで処分されるということも」
そうして、SERNはラウンダーとなった人間を使い捨てにしてきた。
そしてその手でまゆりを――。
天王寺
「そこまで知ってんのかよ。だったら……」
ふらりと立ち上がる。
倫太郎
「っ……しかし、これは任務とは関係ない」
気圧されながらも、掠れた声を絞り出す。
倫太郎
「機密だってそうです。
漏えい
①①①
したわけじゃない。俺は
最初
①①
から
①①
知って
①①①
いた
①①
に過ぎない」
倫太郎
「だから、処罰の対象にはならない……。違いますか?」
天王寺
「……ふん。
詭弁
きべん
だな」
立ち上がった天王寺の顔が眼前に迫る。

みどり
がかった瞳に射すくめられ、蛇に睨まれた蛙のように
身動
みじろ
ぎひとつ出来なかった。
天王寺
「だが間違っちゃいねえ」
倫太郎
「…………」
天王寺
「別に俺は、SERNからIBN5100とやらを捜せとも言われてねぇし、おめえらを連れて来いとも言われてねぇ」
天王寺
「言われてねぇことは、する必要がねぇってことだ」
天王寺
「俺がラウンダーだってことも、おめえが黙ってりゃ済む。何も困ったことはねぇな」
天王寺の視線が、背後でテレビを見ている綯に向けられた。
野獣の目からは打って変わった、親の目だった。
天王寺
「で、おめえの目的はなんだ? 俺に全て話したってことは、なにか目的があんだろ?」
倫太郎
「……実は、あなたに頼みたいことがある」
天王寺は、黙ったまま先を促した。
倫太郎
「椎名かがりを――昨夜、狙われた女性を守ってやって欲しい」
天王寺
「あの嬢ちゃんは、誰に、なぜ、狙われてる?」
倫太郎
「わかりません」
天王寺
「それじゃあ、そんな話は受けられねぇな」
倫太郎
「娘を巻き込みたくないから……ですか?」
天王寺
「わかってんじゃねえか。だったら最初からそんな話すんじゃねえよ」
倫太郎
「すでに一度巻き込まれているじゃないですか。昨日のようなことが、今後ないとでも?」
天王寺
「綯を人質にしてるつもりか?」
天王寺
「殺すぞテメエ……」
倫太郎
「……っ」
ひるむな。ここでひるんだら交渉が終わってしまう。
倫太郎
「協力し合おう、と言っているんですよ」
天王寺
「ふん。協力、ね」
天王寺
「こっちにデメリットしかねえじゃねえか」
鈴羽
「そんなことないよ」
天王寺の声を遮るように入って来たのは、鈴羽と――。
かがり
「すみません……」
倫太郎
「かがり……」
天王寺
「…………」
倫太郎
「鈴羽、話を聞いてたのか?」
鈴羽はうなずいた。
鈴羽
「たとえば、あたしとかがりをバイトとしてここに置いてもらえれば、目を離さなくてもよくなる」
確かにそれならば、ラボからも近い上に、ラボにいるよりも安全かもしれない。綯を守る
ついで
①①①
、と考えてもらえればいいわけで。
天王寺
「おめえらがこのビルから出てく方が手っ取り早いな。そしたら俺や綯が巻き込まれることもなくなる」
鈴羽
「あなたたち親子は昨日、襲ってきた連中の顔を見ている。それがなにを意味するか、分からないわけじゃないはず」
天王寺
「…………」
あの連中が、顔を見られた人間全員を殺そうとする可能性は決してゼロじゃない、ということか。
鈴羽
「あたしは、戦闘の経験がある。銃も扱える。あなたも昨日、見てたはず」
鈴羽
「だから、それなりに役には立てる」
天王寺
「…………」
天王寺は頭をペチペチと叩きながら、しばらく考えていたが――。

「お父さん」
ずっと黙ってテレビを見ていた綯が、不意に声をかけてきた。

「私、よく、分かんないけど」

「昨日みたいなことは、怖いから、もう、ヤダな」
天王寺
「綯……」

「お父さんが守ってくれて、すごく嬉しかったけど、お父さんが私を守る為に無茶してケガするかもって想像したら、もっと、怖くなった」

「鈴羽おねえちゃんは、すごく強いし、昨日も、私のことかばってくれてたよ」
綯のやつ……今の俺たちの話、理解してたのか?

「私は、おねえちゃんたちと一緒がいいな」
綯の縋るような瞳を向けられた天王寺は、困ったように頭を

さす
ると、ぶっきらぼうに言った。
天王寺
「言っとくが、バイト代はふたりでひとり分だからな」
鈴羽
「渋いね」
天王寺
「文句があるならいいんだぜ」
かがり
「い、いえ。ありがとうございます、店長さんっ」

「お父さん!」
綯が、父親に抱きついた。
良かった。
天王寺がついているなら、少しはかがりの身の安全も確保できるだろう。
倫太郎
「ありがとうございます……」
天王寺
「別におめえのためじゃねぇ。綯のためだ」
早速、かがり達に嬉しそうに絡みついている綯。
そんな彼女を見る天王寺の目は、父親のそれに戻っていた。
天王寺
「まあ、こっちはそういうことにしてやっからよ。岡部、おめえは連中が何者なのか、突き止めろ」
天王寺
「じゃねえと、対策も打ちようがねえぞ。わかったな」
倫太郎
「わかりました」
と、答えたはいいものの。
正直なところ、手掛かりは何もないと言っていい。
ともあれ、くれぐれも鈴羽とかがりのことを頼むと告げて、ラボへ戻ろうとした俺の背中に、天王寺が思い出したように声をかけた。
天王寺
「そうだ、そういやあの連中、妙な番号を口走ってやがったな」
倫太郎
「番号……?」
天王寺
「確か……そう、K6205とかなんとか……」
K6205……。
何かの暗号だろうか。
天王寺
「しかも“ファイブ”を“ファイフ”って発音してやがった」
倫太郎
「……どこかの

なま
りってことですか?」
天王寺
「そうじゃねぇ。
フォネティックコード

、っつってな。軍隊用語だ」
倫太郎
「軍隊……」
天王寺
「それも西側のな」
フェイリス
「あ、やっと来たニャン、オカリン」
ブラウン管工房からまっすぐラボに戻ると、昨日の主だった面々が集まっていた。
真帆だけは『Amadeus』の不調で手が離せないらしく、姿がない。
倫太郎
「みんな、大丈夫か? あんなことがあったばかりなのに集まって」
フブキ
「その“あんなこと”が起きた理由を聞きに来たんですよ」
カエデ
「それに、場所を移すよりも同じ場所のほうが安全だって、橋田さんが……」

「昨日の今日で警戒してるところに来るバカはいないっしょ。それもこんな真昼間から」
るか
「バラバラでいるより、みんなでいる方が安心です」
確かに、その通りかもしれない。
相手が何者であろうと、日本の、それもこの秋葉原の真ん中で白昼堂々、行動を起こすとは考えにくい。
由季
「とにかく皆さん無事で良かったです」
まゆり
「由季さん、ありがとう。わざわざ来てくれて」
由季
「ううん。私も昨日の夜、話を聞いて心配だったから」
あの現場にいなかった由季も、わざわざ様子を見に来てくれたらしい。
由季
「でも、信じられないです。この日本でそんな恐ろしいことがあるなんて……」

「日本じゃなくても、あんな経験はなかなかできないお……」
それはそうだ。
普通に生きている人間が遭遇することは、まずないだろう。
それが普通なんだ。
由季
「あの……岡部さんが来て早々で悪いんですが、私この後、バイトがあって……」
倫太郎
「ああ、気にしないでくれ」
由季
「皆さんの顔が見れて安心しました。でも、まだ油断は禁物なので、気をつけてくださ――きゃっ!」
倫太郎
「危ないっ」
すれ違いざま、転びそうになった由季の腕を慌てて掴んだ。
由季
「痛っ……」
倫太郎
「あ……悪い……」
由季
「あ、いえ……。ちょうどここ、昨日、駅で転んで怪我しちゃって……」
由季は、俺が掴んだ腕を擦りながら恥ずかしそうに言った。
由季
「その時も、何もないところで転んじゃったんですよ。ほんと、ドジでイヤになっちゃいます」
まゆり
「気をつけてね、由季さん」
由季
「ん、ありがとう。それじゃあ、皆さんも、お気をつけて」
ドアが閉まり、軽快な足音が遠ざかってゆく。
年明け早々、2日連続でバイトか……。
倫太郎
「…………」

「どしたん、オカリン?」
倫太郎
「いや……」
腕の怪我――。
あのライダースーツの女と同じ、左腕だ……。
でも、まさかそんなわけは……。
フブキ
「それじゃあ早速ですけど、オカリンさん。昨日のあの出来事について説明してもらっていいですか?」
フブキは、まゆりやるかに比べるとまだ表情に余裕が見られる。
フブキとカエデは買い出しに行っていたおかげで、襲撃に遭遇しなかったからだろう。外で襲撃者の連中と鉢合わせにならなかったのは幸いだった。
倫太郎
「そうだな。じゃあまず……」
どこまで事情を話すか――それに関しては、昨日ダルとも散々話し合った。
さすがにあれだけの事があった後となれば、適当に誤魔化すわけにもいかない。
この場でタイムマシンのことを知っているのは、ダル、フェイリス、そしてまゆりの3人だけ。
るかやフブキやカエデにまで、それを話して良いものかどうか。
そして真帆――。
紅莉栖がタイムマシンの理論を完成させていたと知れば、彼女は間違いなく興味を持つだろう――。
結局、俺たちが出した結論は――。
倫太郎
「……ということなんだ」
フブキ
「つまり、かがりさんは記憶を失っている間に、何らかの犯罪に巻き込まれたかもしれないってこと?」
倫太郎
「おそらくな……」
カエデ
「だったら、どうして警察に言わないんですか……?」
倫太郎
「それはその……彼女が酷く怯えるんだ。警察のことをね。もしかしたら、警察もその犯罪に関係しているのかもしれない」
フブキ
「うー……なんかスッキリしないなぁ」
それはそうだろう。
要するに言っていることは“わからない”ということなのだから。
だが、事実の大半を隠してはいるものの、実際にわからないことだらけなのは同じだ。
るか
「昨日の一件でわかるのは、襲ってきた人たちの狙いはかがりさんだけで、ボクたちに手を出すことは無いだろうということですよね……」
カエデ
「どうしてそう思うの……?」
るか
「あの状況なら、ボクらのうち誰かを人質に取ることだって、出来たはずなんです……」
るか
「それをしようとしなかったということは、あの人たちは、あまり事を大きくしたくなかったんだと思います……」
倫太郎
「それについては、俺とダルも同じ結論になった」
倫太郎
「だから、俺たちさえ大人しくしていれば、きっと安全なはずだ」
それは嘘だ。
さっき鈴羽が言った通り、襲撃者の顔を見た全員が口封じのために狙われる可能性は、じゅうぶんにある。
ただ、それをここで言ってみんなを不安がらせることは、得策ではなかった。
倫太郎
「だから、中瀬さんや来嶋さんは、しばらくここに来ないほうがいい」
カエデ
「でも、かがりさんはどうするんですか……?」
倫太郎
「それは、もう手は打ってある。ボディガードを付けた」
るか
「ボディガード、ですか?」
倫太郎
「昨日、あの連中を撃退した心強い2人をな」
まゆり
「スズさんと、店長さんだね」
フブキ
「ああ、あのムキムキおじさん!」
カエデ
「でも、それだと、またいつ襲われるかもしれないって、怯え続けることに……」
そうだ。守勢に回っているだけじゃ、なんの解決にもならない。
倫太郎
「こっちはこっちで、探偵あたりを雇って、かがりが誰に狙われているのか、調べるつもりだ」
倫太郎
「ある程度、情報が出揃ったら、場合によっては警察に話す」
もちろんこの話も半分以上でたらめだ。
探偵や警察に話したところで、タイムトラベラーの存在なんか信じてもらえない。
それよりも、まずはここにいるみんなを安心させておいて、あとは自分でなんとかするしかない。
本当は、もうこんな陰謀劇めいたことに巻き込まれるのはゴメンなのに。
それでも、平穏な時間を取り戻すためには、やるしかないんだ。
フェイリス
「――だニャ……って、オカリン、聞いてるニャ?」
倫太郎
「え? あ、すまない……何の話だ?」
フェイリス
「昨日の件、黒木にも伝えておいたニャ」
フェイリス
「アキバ界隈で何かおかしな動きがあったら、すぐに連絡が来る手はずニャ」
倫太郎
「そうか……」
フェイリス
「あと、自警団の見回りも強化してもらうニャ。これでしばらくは、変な動きは出来ないはずニャ」
倫太郎
「ありがとう、フェイリス。助かるよ」
フェイリス
「お安い御用ニャ」
るか
「あの。ボクにも何か手伝えること、ありませんか?」
るか
「かがりさんが大変なのに、ボク、何もできなくて……岡部さんの力にもなれないなんて、そんなの……」
まゆり
「まゆしぃも、かがりさんのために何かしたいな……」
フブキ
「でも……私たちに出来ることなんてあるのかな?」
るか
「それは……」
全員が黙りこんだ。
皆、あんな目に遭いながらも、なんとかしてやりたいのは本当なんだろう。
かといって、これ以上危険な目に遭わせるわけにもいかない。
その時、俺はふと天王寺の言葉を思い出した。
倫太郎
「K6205……」

「なんぞそれ?」
倫太郎
「昨日の連中が口にしていたらしいんだが、俺にも何のことだかわからないんだ……」

「ちょい待ち。今、
ググって

みる」
ダルはブラウザを表示させると、手早くその文字を打ち込んだ。

「んー……商品の番号とかしか出てこんね」
天王寺は、軍隊の奴らかもしれないと言っていた。
だとしたら軍関係の暗号かなにかかもしれない。
であれば、俺たちにはお手上げだ。
何か手がかりになるかもしれないとも思ったんだが……。
カエデ
「ケッヘル……」
倫太郎
「ん? 来嶋さん。今、何て?」
カエデ
「いえ、Kってことは、ケッヘル番号かなって思ったんですけど。関係ないですよね……」
フブキ
「ケッヘル番号ってなに?」
カエデ
「モーツァルトの曲につけられた番号のことよ。モーツァルトが亡くなった後に、ケッヘルっていう人が時系列に合わせてつけた番号なんだけど……」
カエデ
「でも、さすがのモーツァルトでも6000番台までは存在しないはずですし、そもそも事件とは……」
モーツァルト……。
ヴォルフガング・A・モーツァルト。
カエデ
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって……」
倫太郎
「ダル。そのケッヘル番号っていうのは、いくつまである?」

「えーと……」

「最後が626番の『レクイエム』って書いてある」
カエデ
「モーツァルトが死ぬ間際に書いていた曲ですね……」
まゆり
「カエデさん、詳しいね~」
カエデ
「ほら、私、ピアノやってるから……」
倫太郎
「それじゃあ、K620番は何ていう曲だ?」

「620、620……お、あったあった。『
魔笛

』って曲みたい」
名前くらいは聞いたことがある曲だ。
倫太郎
「ちょっと見せてくれ」
ダルの背後からPCの画面を覗き込む。
開かれたモーツァルトのWIKIにある、『魔笛』の項目をクリックする。
『魔笛』。
K620番。
1791年作曲。
モーツァルトが最後に完成させたオペラ。
歌詞に
フリーメイソン

の様々な教義やシンボルが用いられていることでも有名……。

「K6205っつーことは、5曲目?」
5曲目は五重奏『
Hm!
ウ!

hm!
ウ!

hm!
ウ!

hm!
ウ!

『口に鍵をかけられた鳥刺しのパパゲーノが、鍵を外してくれと歌う――』
モーツァルト。
アマデウス。
フリーメイソン。
口に鍵をかけられた――?

「なんかわかりそう?」
倫太郎
「いや……そういうわけじゃないんだが……」
なんだろう……この気味の悪い感じは。
それについ最近、モーツァルトの話を誰かとしたような気がするんだが。
真帆
「パスワードは見ないで」
真帆だ。
真帆が、『Amadeus』にアクセスするときのIDが、モーツァルトと関係のあるサリエリだった。
だからなんだ、と言えばそれまでだが……。
そういえば昨夜、あの事件の直前、真帆が『Amadeus』にアクセスできなくなったと言っていたな。
結局あの原因はなんだったんだ?
電話かRINEで連絡を取ってみよう。
さて、どっちの方が早く情報を確認できるだろう。
倫太郎
「ちょっと電話させてくれ」
電話帳から真帆を呼び出し、コールする。
数度のコールで繋がった。
すぐに反応してくれるといいんだが……。
うおっ!
いきなり電話が掛かってきて、飛び上がりそうになった。
画面を見ると、真帆からだった。
今のメッセージを見てわざわざかけてきたのか?
真帆
「なに? また、なにかあったの?」
倫太郎
「いや、そうじゃない。訊きたいことがあるんだ」
真帆
「手短かにお願い」
イライラが声にまで表れていた。ということは、アクセスできなくなった原因は解明できていないのかもしれない。
倫太郎
「『Amadeus』はどうなった?」
真帆
「ダメ」
倫太郎
「システムが落ちてるのか?」
真帆
「違うわ。アクセスできないのよ」
それはつまり――。
真帆
「何者かが『Amadeus』のシステムを乗っ取ったのかも」
乗っ取られた?
『Amadeus』が?
でも、どうしてそんなことを?
真帆
「ごめんなさい、もういいかしら? 原因が解明できたら、こっちから連絡するわ」
まくしたてるように言って、電話は切られてしまった。

「真帆たん? なんて?」
倫太郎
「『Amadeus』が何者かによって乗っ取られたらしいって……」

「乗っ取りかー」
倫太郎
「モーツァルト繋がりで、なにか関連があるかと思ったが……」
今はまだなんとも言えないな……。
不審な出来事の断片が、俺の周囲には無数に散らばっている。
そんな気がする。
それらをひとつひとつ集めて、関連付けていけば、答えが見えてくるんだろうか。
たとえば――。
阿万音由季の左腕の怪我だってそうだ。
あれがなにを意味しているのか……。
倫太郎
「……?」
真帆との通話を終え、スマホをポケットにしまおうとしていたちょうどその時、着信音が鳴った。
真帆が何か言い忘れたのだろうか……そう思って発信者の名前を見た俺は、ハッとした。
倫太郎
「……これは」
まゆり
「オカリン? 電話……誰から?」
その質問に返答さえできないまま、俺はじっと画面を見つめる。
その間も着信音は鳴り続けている。
どういうことだ?
乗っ取られたはずの、『Amadeus』がどうして?
これは何かの罠かだろうか。
どうする?
出るか。
それとも……。
倫太郎
「もしもし……」
アマデウス紅莉栖
「……助けて」
倫太郎
「“紅莉栖”!?」
アマデウス紅莉栖
「助けて……岡部……」
その瞬間――。
激しい眩暈に襲われ、視界が闇に覆われた。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「………………」
倫太郎
「……………………」
暗やみの底から浮上してゆくような感覚。
朦朧としていた意識が、次第に明瞭になってゆく。
倫太郎
「ここ……は……」
緩慢な動作で辺りを見回す。
見間違えるはずもない。
未来ガジェット研究所――。
さっきまで俺がいた場所だ。
なにもおかしいことはない。
ただそれも――皆の姿が消えてしまっていなかったのなら、だ。
室内からは、いままでそこにいたみんなの姿が消えていた。
倫太郎
「……っ」
時計を確認する。
ついさっき、真帆との電話を終えた時はまだ15時になるかならないかの時間だった。
あれから数分しか経っていない。
仮に俺が気を失っていたとしても、その僅かな間に、全員がどこかへ行くというのは考え難い。
ということは……。
倫太郎
「まさか……」
室内をゆっくりと歩き回る。
奇妙なことは他にもあった。
いつもダルが向かっているPC。
そのキーボードの上にうっすらと埃が積もっている。
まるで、しばらくの間誰も使っていないかのようだ。
そして、部屋の隅。
いつもなら、まゆりの紙袋が置いてある。
作りかけのコスプレの衣装なんかが入れられている紙袋だ。
さっきまでは確かにあったはずのそれも、いつの間にか無くなっている。
これは……。
倫太郎
「また、世界線が……変わった……」
でも、どうして?
倫太郎
「そういえば……」
さっきの“紅莉栖”の言葉。
アマデウス紅莉栖
「助けて……岡部……」
何故“紅莉栖”はあんなことを?
この世界線変動と関係があるのか?
それを確かめようと、ポケットからスマホを取り出し『Amadeus』のアプリを起動しようとして――その指が止まった。
倫太郎
「消えてる……」
スマホ上から『Amadeus』のアイコンが消えていた。
倫太郎
(どういうことだ……これは……?)
脳をフル稼働させ、何が起きているのか必死で考える。
しかし答えなんて出てくるはずも無かった。
倫太郎
(落ち着け……。とにかく状況を確認するんだ)
この
①①
世界
①①
がどんな状況なのかを、冷静に確かめろ。
そう決意して、ドアへと足を向けようとしたその時――。
部屋の奥。
今はもうほとんど使っていなかったはずの、開発室の奥から物音が聞こえた。
誰かいる。
誰だ?
ダルか?
まゆりか?
ゆっくりと近づいてゆく。
倫太郎
「…………!」
息が――止まりそうだった。
忘れない。
忘れられるはずもない姿。
そこに立っていたのは――。
――牧瀬紅莉栖だった。
躊躇していたら、『Amadeus』からの呼びかけは途絶え、俺のスマホは沈黙した。
倫太郎
「何が、起こって――」
その、直後――。
激しい目眩に襲われ、視界が闇に覆われた。
倫太郎
「なっ!? これは!?」
紅莉栖
「…………」
牧瀬紅莉栖は視線を落として、ただじっと何かを見つめているようだった。
倫太郎
(馬鹿、な……)
紅莉栖がいるわけがない。
だって、あいつは。
あいつは死んでしまったんだから。
もしかして幻でも見ているのだろうか?
紅莉栖に会いたいと願う気持ちが、あいつの幻を生み出したとでもいうのか?
しかし幻とするには、その姿はあまりにも
現実的
リアル
で。
それなのに声をかけてしまえば、すぐにでも消えてしまいそうで。
俺は、言葉を発することも出来ずにいた。
紅莉栖は、身じろぎひとつせず、いったい何を見つめているのだろう。
あまりにも動かない彼女を前に、やはり幻に違いないと――そう思いはじめた時。
紅莉栖
「はぁ……」
紅莉栖はようやく小さな息を吐き出し、そしてゆっくりと振り返った。
紅莉栖
「……!」
紅莉栖
「岡部……」
倫太郎
「ぁ……」
喉がカラカラに乾いて、声が出ない。
紅莉栖
「来てたなら来てたって言いなさいよ。黙って立ってたら、ビックリするじゃない」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「あけまして、おめでとう」
倫太郎
「え、あ……」
紅莉栖
「それにしても珍しいわね、あんたがここに顔を出すなんて」
倫太郎
「っ……」
紅莉栖
「岡部……?」
倫太郎
「紅莉、栖……」
紅莉栖
「……?」
倫太郎
「紅莉栖……なんだな?」
紅莉栖
「……新年早々、何言ってるのよ? 大丈夫? 何か悪いものでも食べた?」
どこか不機嫌そうな表情も。
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「なに?」
ふとした時に見せる、優しげな瞳も。
そしてこの――。
紅莉栖
「どうしたのよ? 本当に大丈夫な――」
紅莉栖
「きゃっ!」
この温もりも。
紅莉栖
「ちょっ! あ、あ、あんた、急に何を――」
幻なんかじゃない。
画面の中の人工知能でもない。
本物の――牧瀬紅莉栖。
紅莉栖
「岡部……?」
生きて
①①①
いる
①①
紅莉栖だ。
倫太郎
「っ……」
紅莉栖
「ねえ、岡部……お願い、離して……」
倫太郎
「すまない……でも、もう少しだけ、このまま……」
紅莉栖
「……あんたもしかして……泣いてるの?」
初めて気づいた。
自分の頬が、濡れていることに。
紅莉栖
「…………」
手のひらの優しい感触が、背中にそっと触れた。
紅莉栖
「心配しないで……もう、平気だから……」
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「大丈夫よ……大丈夫だから……」
小さな声でそう囁きながら、紅莉栖はずっと俺の背中を撫でてくれていた。
包み込んでくれていた。
まるで子供をあやす、母親のような慈しみで。
倫太郎
「すまなかった……」
なんとか落ち着きを取り戻し、ようやく俺たちは向かい合った。
目の前の紅莉栖は、まだ消えていない。
ちゃんとこの世に存在している。
それが何を意味するのか、冷静になった俺は気づきはじめていた。
紅莉栖
「ううん、気にしないで……」
紅莉栖
「無理もないわよ。私だって時々あるもの、そういうこと……」
倫太郎
「そういうこと?」
紅莉栖
「思い出したんでしょう? まゆりのこと……」
……そう、紅莉栖がここにいる。
ということは、ここはα世界線。
すなわち、まゆりがいない世界。
まゆりが、死んでしまった世界。
ほんの少しだけ期待してしまった。もしかしたらここは、
運命石の扉
シュタインズゲート
を開いた向こう側なのではないかと。
どこかで誰かが開いてくれた扉の先にある、新たな未来なんじゃないかと。
だが、そんな都合の良い話なんてあるはずもなかった。
どういう経緯があったのかは、今の俺にはわからない。
けれど、俺は選択してしまったんだろう。
まゆりを――諦めることを。
ここはその先にある
未来
いま
だった。
倫太郎
「っ……」
再び突き付けられたまゆりの死に、俺の心臓は今にも握りつぶされそうな悲鳴を上げた。
倫太郎
「まゆ……り……」
まゆりは今度はどんな死に方をした?
倫太郎
「ぁ……っ、あぁ……」
紅莉栖
「岡部?」
線路に突き落とされたんだろうか。
倫太郎
「はぁ……はっ……はぁっ……」
銃で撃たれたんだろうか。
倫太郎
「はぁっ……はぁ、はぁっ……は、ぁ……」
それとも――。
紅莉栖
「落ち着いて!」
紅莉栖の小さな手が、震える俺の手を包み込んだ。
紅莉栖
「ね? ほら、深く息を吐いて……」
倫太郎
「っ……はぁぁ……」
早鐘を打っていた鼓動が、少しずつ治まっていく。
紅莉栖
「ごめん……私が、余計なこと言っちゃったから……」
倫太郎
「いや……そうじゃないんだ。そうじゃ……」
紅莉栖
「……薬、飲む? 水持ってくる」
自分の服のポケットを

まさぐ
ると、小さな薬の箱が出てきた。
これまで俺が飲んでいたものと同じ、安定剤だ。
結局俺は、この世界でも、
安定剤
こいつ
に頼っているらしい。
紅莉栖が流しで水を用意している間に、ぐるりと室内を見回す。
紅莉栖
「ねえ、岡部。どうして……」
紅莉栖
「どうして、ここに来たの?」
倫太郎
「え……?」
紅莉栖
「ここには、ずっと寄りつかなかったでしょ? 橋田も来なくなったし……」
倫太郎
「ダルも?」
紅莉栖
「ええ……」
それにしては、室内は綺麗に保たれていた。
良く見るとダルのPCなど、ところどころ埃が積もっているところはあるが、それ以外は定期的に掃除されているようだ。
倫太郎
「お前は……紅莉栖は来ていたのか?」
紅莉栖
「……時々ね。じゃないと、寂しいだろうと思って……」
誰が、とは言わなくても、俺にはわかった。
まゆりはここが好きだった。
この未来ガジェット研究所が。
ここで、ラボメンみんなで過ごす時間が大好きだった。
紅莉栖
「ゴメンね……」
倫太郎
「……どうして謝る?」
紅莉栖
「だって……」
待っていても、それ以降の答えは出てこなかった。
紅莉栖は何を謝ったのか。
まゆりの話を口にしたことなのか。
思い出させてしまったことなのか。
それとも――俺に選択させてしまったこと、なのか――。
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「……いや、なんでもない」
紅莉栖
「うん……」
呼べば返事が戻って来る。
腕を伸ばせば触れることが出来る。
それだけで、涙が溢れそうになる。
もしもこのまま――。
倫太郎
「……っ……」
何を考えているんだ、俺は!
俺は一度、全てを諦め紅莉栖を見殺しにした男だ。
それなのに、こうして再びこの世界線に来て、紅莉栖に会えたことを嬉しいと思っている。
またまゆりを失ってしまった――その悲しみと同時に、もっとこの時間が続いてくれればいいと思ってしまっている。
そんな資格などないというのに。
この世に神がいるのなら、それはきっと性格の捻じ曲がった残酷な奴に違いない。
何故、今になって再び俺をこんな目に遭わせる?
それほどに、俺が犯した罪は重いというのか。
一度決めたことのはずだ。
俺には世界を救えない。
紅莉栖を救えない。
それなのに――。
こうして紅莉栖を前にして、俺は確実に揺らいでいる。
もう一度、β世界線に戻るべきかどうか。
Dメールを送るべきかどうか。
倫太郎
「…………」
……Dメール?
倫太郎
「そういえば……電話レンジ(仮)はどうした?」
紅莉栖
「え? どうって……あんたが破棄させたんでしょ。忘れたの?」
倫太郎
「あ……、ああ、そうだった……な……」
どうやら、電話レンジ(仮)は、既にこの世には存在しないらしい。
当然といえば当然だった。
あれがあるというだけで、俺たちはSERNの
標的
ターゲット
になるのだから。
だが電話レンジ(仮)がないということは、俺の意思でこの世界線から抜け出ることは出来ないことも意味していた。
ならば、たとえこの世界線に留まろうとも、それはもう俺の責任じゃない。
俺が悪いわけでも、俺が望んだわけでもない。
だったら――。
紅莉栖
「ねえ、岡部……」
倫太郎
「ん?」
紅莉栖
「…………」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「悪いんだけど、何か飲むもの買ってきてくれない?」
倫太郎
「飲むもの……?」
紅莉栖
「ちょっと、喉乾いちゃったのよね。できれば温かいものがいいわ」
倫太郎
「インスタントのコーヒーぐらいなら、作るぞ」
というか、紅莉栖はいつも、俺に作らせていたじゃないか。
砂糖は2個。ミルクは入れない。
紅莉栖
「……コーヒー、切らしちゃってるのよ」
倫太郎
「……分かった」
そうだな。行ってこよう。
一度、外に出て頭の中を整理したいし。
紅莉栖
「ミルクと砂糖の入った、甘いやつね」
倫太郎
「ミルクは入れないんじゃなかったのか?」
紅莉栖
「寒い日には、思い切り甘ったるいものが飲みたくなる」
倫太郎
「了解だ」
立ち上がり扉へと向かい、途中で一度振り返った。
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「なに?」
倫太郎
「いや……」
目を離したら、消えてしまいそうな気がして――なんて、さすがに格好悪くて口には出来なかった。
紅莉栖
「岡部」
倫太郎
「……?」
紅莉栖
「しっかりね」
倫太郎
「子供じゃないんだ。お使いぐらい、出来る」
紅莉栖
「うん、そうね」
紅莉栖
「行ってらっしゃい」
倫太郎
「ふぅ……」
ラボを一歩出るなり、全身の力が抜けた。
どうやら俺は、生きている紅莉栖を目の前にして、かなり緊張していたらしい。
生身の紅莉栖とどうやって話せばいいのか、何を話せばいいのかわからなくなっている。
“紅莉栖”を相手にしていた時は、あんなに普通に喋れたというのに。
倫太郎
「…………」
それにしても、いまだに信じられない。
ここは本当にα世界線なんだろうか。
いや、紅莉栖がいるということは、間違いないんだろう。
でも、だとしたら、いったい何故。
誰が何をして、世界線の変動が起きた?
アマデウス紅莉栖
「助けて……岡部……」
あの時の、“紅莉栖”からの連絡。
もしかしたら、あれが何かのきっかけだったのだろうか。
……いや、考えるのはよそう。
これが、誰か知らない人間によって起こされたものであるのなら、俺はもう介入するべきじゃない。
介入なんてしたくない。
世界の構造を覆したい、だなんて、今は決して思わない。
俺はただ平穏に暮らしたいだけだ――。
世界線や
アトラクタフィールド

なんて概念の無い世界で。
運命という悪戯に翻弄されるのはもう止めたんだ。
俺に出来ることなんて、もう何も――。
倫太郎
「…………」
急激に湧き上がる違和感。
さっきの、紅莉栖の言葉……あれはどういう――。
紅莉栖
「岡部」
紅莉栖
「しっかりね」
まさか、あいつ!
俺は踵を返すと、ラボに急いだ。
倫太郎
「紅莉栖!!」
紅莉栖
「え……?」
倫太郎
「紅莉栖……お前、それ……」
紅莉栖
「ふむん。参ったわね。見つかっちゃったか」
紅莉栖は、最初に俺が見た時と同じように、開発室の奥に向かって佇んでいた。
暗がりの奥。
さっきまで、大きな布がかけられていたそこには、扉の外れた古びた
電子レンジ

が1台。
――電話レンジ(仮)。
かつて俺たちがここで作り上げた、未来ガジェット8号機。
そして俺の――否、世界の運命を変えてしまったガジェット。
倫太郎
「どうして……。それは、破棄したんじゃなかったのか?」
紅莉栖
「……ええ。破棄したわ」
紅莉栖
「これは、私が新しく作り直したの。言ってみれば『電話レンジ改』ね」
紅莉栖
「正しくは、(仮)が付くんだった? それなら、『電話レンジ(仮)改』になる」
倫太郎
「名前なんてどうだっていい。作り直したって、どうしてそんなことを……」
紅莉栖
「過去に、メールを送るためよ」
紅莉栖
「メールを送って、世界線を変えるの」
紅莉栖
「ううん、あんたにとっては“戻す”って言った方がいいのかもね。世界線を……」
紅莉栖
「これ、完成したのはね、実は1ヶ月以上前なの」
紅莉栖
「それからはひたすら、ここに立って、送るべきか、送らないでおくべきか、悩み続けてた」
紅莉栖
「それがまさか、あんたの方から来るなんてね……」
倫太郎
「お前……何を……」
紅莉栖
「ねえ、岡部」
紅莉栖
「あんた、ついさっき、別の世界線から来たでしょ?」
倫太郎
「――!」
紅莉栖
「それもβ世界線から……違う?」
倫太郎
「……気づいてたのか」
紅莉栖
「そうでなきゃ、あんたがあんなことするはずないもの」
倫太郎
「あんなこと?」
紅莉栖
「っ……だ、だから、その……あんな風に私を抱きしめたりとか……そういう……こと、よ……」
全てが愛おしかった。
こうして、照れ隠しに頬を赤く染め視線を逸らす様も。
つんと尖らせた唇も。
髪の毛の先を弄る仕草も。
何もかもが愛しかった。
ここにきて俺は再確認する。
彼女が好きだということを。
紅莉栖
「さらに言えば、その世界線の変動は誰か別の人の手によるもので、あんたが好きこのんで変動させたわけじゃない」
紅莉栖
「……当たってる?」
倫太郎
「すべてお見通し、というわけか……」
紅莉栖
「どれだけ、あんたのこと見てきたと思ってるのよ」
倫太郎
「え……?」
紅莉栖
「あ、いや。違うからな。見て来たって……別にそういう意味じゃなくて……いや、違わなくもない……けど……」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「と、とにかく!」
一呼吸置くと、紅莉栖は逸らしていた視線を真っ直ぐ俺に向けた。
紅莉栖
「あんたがβ世界線から来たってことは、あんたは過去に一度、その世界を選択したってことでしょ?」
本当に敵わない。
あの僅かな時間で、そこまで理解されてしまうとは。
すべて紅莉栖の言うとおりだ。
それでも、俺は首を縦に振ることが出来なかった。
それを認めるということは、つまり、俺が紅莉栖を――彼女を見殺しにしたと言っているようなものだ。
そんな真似、今の俺には出来るはずもない。
倫太郎
「……すまない」
結局出てきたのは、そんな言葉だけ。
けれどそれも、認めてしまうという点では同じだった。
けれど紅莉栖は哀しい顔をするどころか……。
紅莉栖
「謝るな、バカ。あんたが自分で決めたことでしょうが。だったら、自分の選択に自信を持ちなさい」
そう励ましさえした。
そうだ。
紅莉栖の言うとおり、その世界を――β世界線を選んだのは俺だ。
でも――。
紅莉栖
「それにね、あんたはたぶん間違ってなかった……」
紅莉栖
「さっき来たばっかりのあんたは知らないだろうけど、この半年間、あんたはずっと自分を責めてた……」
紅莉栖
「そんな素振り、私には決して見せようとしなかったけど」
同じだ。
これまでの俺と。
β世界線の俺と。
紅莉栖
「でも、どうしてあげることも出来なかった」
紅莉栖
「だって、あんたの苦しみは私のせいだから……」
紅莉栖
「私を生かすために、あんたは苦しんでたんだから……」
紅莉栖
「でもね。それも今日で終わり」
紅莉栖
「終わりにしなきゃいけないのよ」
紅莉栖
「だって、このままじゃ、あんたはずっと罪の意識に

さいな
まれて、最後には押しつぶされちゃう」
倫太郎
「同じだ……」
紅莉栖
「……どういうこと?」
倫太郎
「どっちにしても結局、俺はずっと後悔するんだ」
倫太郎
「まゆりを救えなかったこと。お前を救えなかったこと」
倫太郎
「α世界線にいても、β世界線にいても、それは変わらない――」
だったら、もう――。
いっそこのままでも――。
紅莉栖
「しっかりしなさい、岡部倫太郎!」
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「なんて顔してるのよ、あんたらしくない」
紅莉栖
「私の好きな鳳凰院凶真さんは、もっと自信に満ちた顔してなきゃ」
鳳凰院凶真……か。
ずいぶんと懐かしい名前だ。
紅莉栖
「あんたは正しい道を選択したの。まゆりを助けるっていう選択を。それは決して間違ってない」
倫太郎
「でも、俺はお前を……」
紅莉栖
「いい? 今、あんたがここにいるのは、そうね……夢を見ているだけよ」
倫太郎
「夢……?」
紅莉栖
「そう、夢の中で、あんたは私に会った。ただそれだけのこと」
紅莉栖
「どう? そう思えば少しは気も楽でしょ?」
紅莉栖は小さく肩を竦め、そして笑った。
紅莉栖
「これだけ脳の研究が進んでいるのに、夢を見るメカニズムって、実はまだ明確にはなっていないのよね」
紅莉栖
「眠っている間に、脳内では記憶の整理が行われている。その過程で発生するのが、夢だっていう説もあるけど」
紅莉栖
「要するに、ここはβ世界線のあんたが迷い込んだ夢の中の世界。あんたの頭の中を整理するために、ね」
紅莉栖
「そしてこれが夢なら、いつはか目を覚まさなきゃならない。そうでしょ?」
倫太郎
「でも、これは夢なんかじゃない! 現にこうして……」
手を伸ばし、紅莉栖の頬に触れる。
倫太郎
「現にこうして、お前はここにいるじゃないか……」
紅莉栖
「感触だって、脳が感じさせている機能のひとつよ」
すっ、と、後ろに一歩。
紅莉栖の姿が遠のき、手のひらの感触がするりと逃げた。
紅莉栖
「だいたい、ここにいてもあんたは幸せにはなれない。ずっと後悔の念を拭う事は出来ないの」
紅莉栖
「そして、それは私も同じ……」
倫太郎
「β世界線でも、変わらない」
倫太郎
「俺はずっと、お前を助けられなかったことを悔やみながら生きてきた……」
紅莉栖
「だけど、少なくともまゆりは幸せでいられるでしょう?」
倫太郎
「……まゆりは」
あいつは何も知らない。
俺がそう望んだからだ。
まゆりには何も知らないまま、笑顔でいて欲しい。
その願いはたぶん、今のところ叶ってはいるが――。
紅莉栖
「あんたはまゆりに笑ってて欲しい。そう願ってる」
紅莉栖
「私も同じ。同じなの」
紅莉栖
「ということは、やっぱりあんたの選択は間違ってはなかったってことよ」
倫太郎
「…………」
せっかくこうして、また逢えたというのに。
こうして、生きているというのに。
紅莉栖
「ああ、もうっ!」
苛立ちを隠そうともせず、紅莉栖が詰め寄ってくる。
紅莉栖
「いい加減にしなさい、岡部倫太郎っ!」
紅莉栖
「一度出した結論でしょうが。あんたはここにいちゃいけないの。帰らなきゃいけない」
紅莉栖
「夢から、覚めなきゃいけないのよ」
紅莉栖
「だってもう……」
紅莉栖
「もう、そうやって苦しむあんたを見ていたくないから……」
倫太郎
「紅莉栖……」
紅莉栖
「さあ。これ以上は時間の無駄よ。私はやるから」
きっぱり言い放つと、紅莉栖は俺に背を向けた。
その背中にあるのは強固な意思。
決意だ。
この世界線に来た直後のことを思い出す。
ずっと佇んでいた紅莉栖。
今思えば、あいつは電話レンジ(仮)の前で、すでに心を決めていたんだ。
誰にも知られず。
誰にも別れを告げることなく。
自分のいない世界へ向かうことを。
その結論に至るには、いくつもの葛藤があっただろう。
何度も問いかけ、何度も悩んだことだろう。
その末に出した結論だというのなら――。
それを止める権利は俺にはない。
止めてはならない。
紅莉栖
「ねえ、岡部。夢から覚める前に、ひとつ約束して」
倫太郎
「……約束?」
紅莉栖
「β世界線に行ったら、私のことは忘れなさい」
それは、あの日とはまったく逆の願いだった。
あの日――俺がβ世界線を選ぶと、そう決めた時、紅莉栖は言った。
私を忘れないで、と。
それなのに、今、紅莉栖が口にした願いは、それとは逆のことだった。
倫太郎
「忘れるなんて……そんなこと、出来るわけないだろう」
こいつはいつだってそうだ。
いつだって自分よりも他人のことを気にかけて。
自分を犠牲にして。
その願いだって、俺のことを思ってなんだ。
本当は忘れられたくないくせに。
人一倍寂しがり屋のくせに。
紅莉栖
「言ったでしょう。これは夢よ。夢は普通、起きたら忘れるもんでしょ」
頑固で、真っ直ぐで。
決して忘れられるはずもない。
ないけれど――。
倫太郎
「子供の頃に見た悪夢は、今でも覚えてるぞ」
紅莉栖
「誰が悪夢だ、誰が」
精一杯の強がり。
だがそれは、紅莉栖にしても同じだったろう。
紅莉栖
「とにかく、私のことは忘れること。今日あったことも、これまであったことも」
紅莉栖
「それが私の望みだから……」
振り返った紅莉栖が小指を差し出した。
強引に指を絡められる。
紅莉栖
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら海馬に電極ぶっ刺す。指切った」
倫太郎
「……ずいぶんと語呂が悪いな」
紅莉栖
「ほっとけ」
絡んだ小指が離れる。
絡み合う視線が離れる。
さよならの時が近づいてくる。
過去へのメール――。
それが正しいのだと。
それが紅莉栖の望みだとわかっていても。
それでも――。
倫太郎&紅莉栖
「紅莉栖」
「岡部っ!」
声が重なる。
倫太郎
「ど、どうした?」
紅莉栖
「あ、あんたこそ、なに?」
倫太郎
「なんでもない……ただ、呼んでみただけだ」
大切な人の名を。
紅莉栖
「ぐ、偶然ね……私も、同じ」
好きな人の名を。
紅莉栖
「ねぇ、あんたは覚えてる? 私と初めて会った時のこと……」
倫太郎
「忘れられるわけがない。なにしろ強烈だったからな……」
紅莉栖
「それを言うならあんたのほうこそ」
紅莉栖
「ほんと……あの時はまさか、こんな風になるなんて、思ってもみなかったわ……」
紅莉栖
「まさか、あんな出会いで、こんなにも――」
こんなにも、お互いがかけがえのない存在になるなんて――。
今となっては口に出しては言わないけれど。
倫太郎
「まったくだな……」
言えないけれど――。
紅莉栖
「あ、でも言っとくけど、私たちの出会いも、覚えてていいのは今のうちだからな」
少しでも――。
紅莉栖
「世界線が戻ったら、忘れなきゃいけないんだからな」
ほんの1秒だっていい。
倫太郎
「わかってるよ」
少しでもこの時が。
紅莉栖
「ふーん……そんなに簡単に忘れられるんだ」
続いてくれれば――。
倫太郎
「お前が言いだしたことだろ」
彼女の声を。
紅莉栖
「そうだけど、そんな風にあっさり言われちゃうと、それはそれでムカツク……」
仕草を。
倫太郎
「忘れろと言ったり、忘れるなと言ったり、いったいどっちなんだ」
微笑みを。
紅莉栖
「ふふっ、冗談。嘘よ、嘘……」
倫太郎
「なんだ。嘘、なのか……」
紅莉栖
「そう。嘘……」
全てを忘れないように――。
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「…………」
けれど、それももう――。
紅莉栖
「岡部……」
倫太郎
「ん?」
紅莉栖
「それじゃ、ね……」
それが、魔法の時間の終わりを告げる合図だった。
倫太郎
「ああ……」
紅莉栖
「…………」
溢れそうになる言葉を飲みこんで、ただそう答えた俺に、紅莉栖は満ち足りた笑みを浮かべ、電話レンジ(仮)に向き合った。
文面は既に用意していたのだろう。
躊躇うこともなく、電話レンジ(仮)は雷鳴のような大きな破裂音を発しはじめる。
長い長いカウントダウン。
その間も、紅莉栖はずっと背中を向けたまま。
俺はそんな彼女の背中をただじっと眺めていた。
激しさを増す雷鳴。
減少するデジタル表示。
そして――訪れる時。
紅莉栖
「岡部……良い、目覚めを」
振り返った紅莉栖は、めいっぱいの笑顔を浮かべて。
その声も、衝撃音に掻き消され――。
そして俺は。
束の間の夢から覚めた。
倫太郎
「…………」
ブラックアウトしていた視界が、ゆっくりと色を取り戻す。
見慣れたラボの景色が、形を結んでゆく。
世界線が変わったのは、一見して明らかだった。
瞼の裏には、紅莉栖の姿が残滓となり残っている。
だが、
開発室
そこ
にはもう紅莉栖の姿はない。
あまりに鮮明な白昼夢を見たような。
現実と夢の狭間にでもいたような気分だった。
俺は再び戻って来た。
紅莉栖のいない世界に――。
ここはα世界線じゃない。
それは改めて確認するまでもない事実だった。
さっきまで俺と紅莉栖のふたりきりだったこの部屋。
そこに、今は彼女たちがいる。
まゆり
「オカリン。どうしたの? 具合悪い?」
倫太郎
「いや……大丈夫だ」
まゆり。
るか
「お薬、飲みますか?」
倫太郎
「平気だよ。心配ない」
ルカ子。
そして。
かがり
「ほんとに? 無理しちゃだめだよ?」
椎名かがり――。
まゆりやかがりがここにいるということは、元の世界線に戻ってきたということに他ならない。
倫太郎
「ちょっと腹が減っただけだ。朝から何も食べてなくてな……」
かがり
「あはは。もう、オカリンさんったらダメだよ。ちゃんとご飯は食べなきゃ。ダルおじさんみたいにおっきくなれないよ」
倫太郎
「ああなるくらいなら、一食抜いたほうがマシだよ」
……ん?
まゆり
「だったら、まゆしぃが何か作ってあげるよ~」
かがり
「え、ママが? 作れるの?」
まゆり
「もう。かがりちゃんまでそういうこと言うんだから~」
まゆり
「これでもね、最近は由季さんにお料理、教えてもらってるんだよ」
るか
「あ、じゃあボクが手伝うから――」
倫太郎
「待ってくれ」
るか
「え? す、すみません。ボク、手伝わないほうがいいですか?」
倫太郎
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
俺はもう一度全員の顔を見回した後、かがりに視線を定めた。
倫太郎
「かがりさん」
かがり
「やだなぁ、オカリンさん。私のことは“かがり”でいいって言ってるのに」
やっぱりこれは。
倫太郎
「じゃあ、かがり。さっき、まゆりの事をなんて呼んでたか、訊いてもいいか?」
かがり
「え? なんてって……ママ、だよ」
倫太郎
「どうして……」
かがり
「どうしてもなにも、ママはママだもん。ね、ママ」
まゆり
「えっへへ~、やっぱりそう呼ばれるの、ちょっと照れちゃうなぁ」
くすぐったそうに身を

よじ
るまゆりの姿に、軽く眩暈に襲われそうになった。
倫太郎
「知ってるのか? ふたりとも。未来の世界で、
母娘
おやこ
だってことを」
まゆり
「え~? かがりちゃんのことは、オカリンが教えてくれたんだよ?」
倫太郎
「俺が?」
まゆり
「うん。本当のことを知っておいたほうがいいって。ねー?」
かがり
「ねー?」
本当に俺が教えたというのか?
そんな大事なことを?
倫太郎
「じゃあ、もしかしてルカ子も……?」
るか
「ごめんなさい。ボク、聞くつもりは無かったんですけど、耳に入ってしまって」
ルカ子は申し訳なさそうに、頭を下げた。
るか
「あ、でも、大丈夫です。他の人には言ってませんし、それに……」
るか
「ボク、ちょっとだけ嬉しかったんです。皆さんと秘密を共有できて……」
るか
「本当は、直接教えてもらえれば良かったんですけど……」
ルカ子までがまゆりやかがりのことを知っている。
ということは当然――。
るか
「でも、驚きました。タイムマシンとか未来とか、お話の世界のものだって思ってたんですけど、実現出来るなんて」
タイムマシンの存在も全て知っているということだ。
どうやら俺は、α世界線から単純に元の世界線に戻ってきたわけではなさそうだ。
今俺がいるのは、元にいた世界線とは微妙に違う世界線――。
以前持っていたダイバージェンスメーターも今は無い。
そのため、細かい数値まではわからないが、数値的にはかなりのズレが生じているような気がする。
問題はどこまでが前の世界線と同じで、どこが違うのか、だが……。
倫太郎
「かがり。もう少し質問させてほしい」
かがり
「なあに?」
現状を把握しておくために、俺はかがりに色々と質問を浴びせかけた。
それによってわかった事実は。
まず、かがりは子供の頃の記憶――つまり2036年の記憶を持っているということ。
まゆりやダルや鈴羽、それにフェイリスやルカ子のことも知っているようだ。
ただ、2036年がどういう世界なのか。
そして、自分がなぜまゆりの娘になったのか。
それに関しては、まゆりたちには詳しく話していないらしい。
ふたりも自分たちの未来を知りたがらなかったらしく、その点は幸いだったといえるだろう。
誰もが自分の未来を知りたいと思ったことはあるはずだ。
しかし、実際に自分自身の未来を知れるとなると、好奇心以上に、大きな不安が伴うものだ。
未来は幸福に満ちているとは限らない。
未来を知ったことで、夢は無残に打ち砕かれるかもしれない。
俺のように、定められた死を宣告されるかもしれない。
この先に50億人以上が死ぬ戦争が待っていると知ってしまえば、生きる意味を失ってしまう者もいるだろう。
倫太郎
「それじゃあ、ここに来たのはルカ子の家に居候したのがきっかけで間違いないな?」
かがり
「うん。っていうか、オカリンさんがママと引き合わせてくれたんだよ。覚えてないの?」
倫太郎
「いや。そういうわけじゃないんだが、一応確かめておこうと思ってな」
かがり
「一応、ねぇ。変なオカリンさん」
かがりが行方不明になった経緯は、俺が知っている状況とほぼ変わりないようだ。
かがりが俺たちの元に現れた経緯もだいたい同じ。
そして――。
倫太郎
「行方不明になっていた間は、どこで何をしていたのか、全然覚えていないのか……」
かがり
「うん。綺麗サッパリ。気づいたら、お寺で寝かされてた」
一部、記憶が欠如しているということも同じようだ。
つまり、この世界線でのかがりが持っているのは、子供の頃の記憶と、数週間前に千葉の山奥で発見されて以降の記憶だけ。
結局、肝心の部分がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
倫太郎
「…………」
他に確認しておくべきことはないだろうか――。
どこに焦点をあてるでもなく、ぼんやりと床を見つめていた俺は、ようやくそこに、あるはずのものが無いことに気づいた。
倫太郎
「床が……綺麗だ……」
るか
「あ、さっき岡部さんが来る前に、掃除しておきました」
倫太郎
「いや、そうじゃなくて……床に、小さな穴が開いてたはずなんだが」
るか
「床に穴……ですか?」
ラボ
ここ
が襲撃を受けたのは、つい昨日の夜。
あの時、連中の放った銃弾が確かに床に黒い穴を穿ったはずなのに。
まゆり
「穴なんて開いてたかなぁ? 無かったと思うけど……」
倫太郎
「ちなみに、お前たち、昨日はその……どうだった?」
まゆり
「昨日のパーティーのこと? すっごく楽しかったよ」
かがり
「あんなに楽しかったの、私はじめてだった!」
あんな事が起きていたなら、こんな感想は出ないはずだ。
ということは、襲撃そのものが無かったことになっているのか。
この世界線では、かがりは誰からも狙われてはいないのか?
……いや、そうと決めつけるには早計に過ぎる。
まだ、かがりが行方不明になっていた間、何があったのかわからないままだ。
その間、何処で何をしていたかハッキリするまでは、安全だと断言は出来ない。
α世界線でまゆりの身に起きた出来事に時間のずれがあったように、数日後に同じようなことが起きないとも限らない。
むしろ、用心しておいたほうが賢明だろう。
まゆり
「またみんなでパーティーしたいね~」
るか
「その時は、ボクも何か作るよ」
かがり
「私も! 私も手伝う!」
まゆりたちは嬉しそうに、昨夜のパーティー話に花を咲かせている。
一見して穏やかな時間。
しかし、俺たちのあずかり知らぬところで、何かが起きているのかもしれない……。
いや、起きているのは確実なんだ。
世界線が変動しているのがその証拠だ。
そもそもなぜ、世界線は変動した?
もう一度、あの前後に起きた出来事を思い返してみる。
まず、『Amadeus』が何者かによって乗っ取られた。
“紅莉栖”から、助けを求める連絡が俺に来たんだ。
世界線が変動したのは、その“紅莉栖”からの呼びかけに反応した直後だ。
となると、キーになっている可能性があるのは――。
――『Amadeus』?
『Amadeus』が世界線の変動と関係している?
じゃあ、かがりを襲った連中と世界線の変動の関係は?
果たしてすべては繋がっているのか……。
確かめる必要があるかもしれない。
まゆり
「ところで、かがりちゃん。時間、大丈夫?」
かがり
「あ、いっけない! 休憩時間、終わってた! 店長に怒られちゃう!」
倫太郎
「店長? ということは、バイトしてるのか?」
かがり
「そうだよ。下のブラウン管工房で……って、この前言ったじゃん」
倫太郎
「そう……だったか」
前の世界線では、襲撃があったことで、かがりは天王寺の下でバイトすることになった。
ここでも、違いがあるようだ。
かがり
「もう、今日のオカリンさんはボケボケだね。しっかりしてよー」
倫太郎
「すまない」
かがりは跳ねるように立ち上がると、軽い足取りで玄関へと向かった。
その仕草も口調も、前の世界線にいた彼女に比べて、ずっと子供っぽく感じる。
まゆり
「アルバイト、がんばってね」
かがり
「はーい。それじゃ、いってきまーっす」
倫太郎
「かがり、戻る前に、もうひとつだけ訊かせてくれ」
ビシッと敬礼をしかけていたかがりに、俺は最後の質問を投げかけた。
倫太郎
「アマデウス……という言葉を聞いて、何か思い当たることはないか?」
かがり
「アマデウス……?」
かがりはしばらく考え込むような素振りを見せていたが。
かがり
「んとね……ごめん、わかんないや」
倫太郎
「そうか……」
悪びれた様子もないところを見ると、本当に知らないのだろう。
ラボから出て行くかがりの後姿を見送った後で、俺はスマホを取り出した。
もうひとつ確認しなければいけないことがあった。
その『Amadeus』が、今現在どうなっているのか、だ。
画面上に並んだアイコンを確認する。
『Amadeus』。
牧瀬紅莉栖の記憶と姿を有した人工知能。
それを起動するためのアプリケーション。
けれどそこに『Amadeus』を起動するアプリは――無かった。
倫太郎
「悪かったな、こんなところに呼び出して」
真帆
「別に構わないわ。ちょうど近くまで来てたから」
ラボで現状を確認した後、俺はすぐ真帆に連絡をとった。
目的はもちろん、今この世界で『Amadeus』がどうなっているのか。
それを確認するためだ。
真帆
「で、話って?」
倫太郎
「『Amadeus』のことだ……」
真帆
「……え!?」
突然、真帆が目を丸くした。
その反応に、俺の方が驚いた。
俺はただ『Amadeus』という言葉を出しただけなんだが。
真帆
「……あなた、どうして知ってるの?」
倫太郎
「どうして……って、どういうことだ?」
真帆
「どうしてあなたが、『Amadeus』のことを知ってるのよ?」
真帆
「だって、あのプロジェクトは去年の夏――紅莉栖の事件があった、あの後に凍結されたのよ?」
倫太郎
「凍結……された!? 『Amadeus』が!?」
倫太郎
「凍結ってことは、つまり……プロジェクト自体、打ち切られたってことか?」
真帆
「はっきり言ってしまえば、そういうことね」
真帆は忌々しげに手を握りしめた。
どうやら、ここでも世界線の変動の影響が大きく出ているようだ。
真帆
「で、さっきの質問。どうしてあなたが『Amadeus』のことを知ってるの?」
倫太郎
「それは――」
真帆に世界線とアトラクタフィールド理論について話すべきかどうか。
倫太郎
「……紅莉栖から聞いたんだよ。大学の先輩が、そういう研究をしてるって」
真帆
「紅莉栖が? あの子、あなたにそんな話までしていたのね」
やはり今はまだ言うべき時じゃないと判断した。
全てを説明しようとすれば、当然Dメールやタイムマシンについても話さなければならなくなる。
真帆はまだそこまでの事情は知らないようだ。
事実を聞いた真帆が、どういう行動に出るかは想像がつく。
彼女もまた、科学の持つ可能性に、多大な好奇心を寄せる者のひとりなんだから。
倫太郎
「なあ、『Amadeus』が凍結されたっていう話、もう少し詳しく教えてくれないか? 理由はなんだったんだ?」
真帆
「……なんでも、外部団体からクレームが入ったんですって」
真帆
「人の記憶を人工知能に持たせるのは、人間の
複製
ふくせい
を造り出すのと同じこと。神のみに許される所業だって」
真帆
「欧米って、自分たちの価値観でモノを言う人が多いのよね。特にそういうデリケートな部分は」
倫太郎
「理由はそれだけなのか?」
真帆
「ええ。少なくとも、私はそう聞いてるわ。いきなり研究は中止だって言われて、教授たちも随分怒ってた」
凍結された『Amadeus』。
それも、今回の世界線の変動と関係あるのだろうか。
ん? 待てよ。
となると、俺と真帆はどうやって出会ったんだ?
俺と真帆との出会いのきっかけは『Amadeus』のセミナーだった。
それが無かったとなると……。
真帆
「どうしたの?」
倫太郎
「あ、いや……その、思い出してたんだ。君と出会った時のことを……」
真帆
「ああ。あの時のこと。ああいう偶然ってあるのね……」
変に疑われないように気をつけながら探りを入れると、なんとなくおおよそのことはわかった。
真帆は紅莉栖が命を絶たれた場所を、どうしても一度、訪れたいと思っていたらしい。
その思いがやっと叶い、足を向けたラジ館で、俺と出会ったのだという。
真帆
「オカルト的な考え方って大嫌いだけど、でもあなたと出会えたのは、紅莉栖が繋いでくれた縁なのかもしれないわね」
縁――あるいは、それもアトラクタフィールドの収束によるものなのかもしれない。
俺と真帆は、ここ秋葉原で出会うことが決まっていた。
だとしたら、そこに宿る意味はなんだ……?
真帆
「そうそう。まゆりさん達によろしく伝えておいてくれるかしら。昨日は楽しかったって」
倫太郎
「あ、ああ……」
どうやらこの世界線でも、真帆は昨日のパーティーに出席していたらしい。
真帆
「おかげで日本での良い思い出が出来たわ」
倫太郎
「思い出って……帰るのか?」
真帆
「すぐに、じゃないけどね。言ったでしょ? 私、今、紅莉栖がやっていた研究を引き継いでるの」
真帆
「いつまでも日本でバカンス気分を堪能してるわけにもいかないのよ」
倫太郎
「そうか……」
とはいえ、真帆はあと10日ほどは日本に滞在しているらしい。
それまで、何も起きなければいいのだが。
『Amadeus』は凍結され、その存在は消滅してしまった。
もう“紅莉栖”の声を耳にすることはない。
真帆と別れて、改めてその意味がじわじわと俺の心の中に浸透し始めていた。
胸の中に残る紅莉栖の温もり。
紅莉栖の匂い。
あいつと再び出会ってしまったせいで、忘れかけていた――忘れようとしていた気持ちが、俺の中でまた熱を帯び始めている。
――あの世界線にいては誰も幸せになれない。
――誰もが哀しいまま。
そうあいつは言った。
わかっている。
俺だってその為に、この世界線に留まる事を決めたんだ。
それでも、胸にぽっかりと空いた喪失感は拭い去ることは出来なかった。
ラボに戻り、もう一度頭の中を整理してみる。
前の世界線での襲撃の原因は、かがりにあった。
そしてその後の世界線変動の原因として、『Amadeus』が関わっている可能性が高い。
一方、今俺がいるこの世界線で、ラボが襲われたという事実はない。
そして、『Amadeus』も研究の段階で凍結されている。
つまり、これまでの出来事の大きな要因のふたつが無くなってしまっていた。
原因が無くなったのならば、過敏に心配する必要はないのかもしれない。
それでも……。
心の奥ではまだ、警鐘が小さな音を響かせていた。
なぜ『Amadeus』は凍結されたのか。
かがりの抜け落ちた記憶の中に何があったのか。
少なくとも、そのふたつだけは掴んでおく必要はあるかもしれない。
倫太郎
「…………」
俺は考えた挙句、スマホを取り出し、RINEアプリを起動させた。
椎名かがりは、周囲が思っている以上に満ち足りていた。
失われた記憶。
今のかがりには、幼い頃の記憶しかない。
10歳で過去へと跳び、その後、鈴羽とはぐれてしまった。
それ以降の記憶はぽっかりと空洞となり、あるのはここ数週間の記憶だけだ。
子供時代以降の時間のなかで、最も古い記憶は目覚めた瞬間の天井だった。
古いお寺の天井は、ところどころに染みが出来ていて、それが人の顔のように見えて、少し怖かったのを覚えている。
それからしばらくして、かがりはこの柳林神社に預けられることになった。
るか
「かがりさん。お茶、飲みますか?」
かがり
「あ、うん、ありがとう、るかくん」
るか
「じゃあ、淹れますね」
漆原るかという人物に会ったのもその時だ。
その時点でかがりはまだ、漆原るかが自分の知る“るかくん”であることに気づかなかった。
漆原るかは、かがりの養母である椎名まゆりの親友だった。
幼いかがりとも、よく遊んでくれた。
まだ子供だったかがりは、るかのことをずっと女性だと思っていた。
かがりの目に映るるかは、大人の女の人、という感じで、それに頼もしいところもあった。
鈴羽が“るかにいさん”と呼ぶのも、少し納得してしまったほどで、なぜ“にいさん”なのか、当時は疑問にも思わなかった。
るか
「はい、どうぞ」
かがり
「ありがと」
だが今、目の前にいるるかは、かがりが知るるかよりもずっと若く、どこから見ても可憐な少女に見える。
それに頼りがいもなさそうだった。
だから、彼が自分の知る漆原るかだとわかったのも、養母であるまゆり達とめぐり逢えてからのことだった。
かがり
「ん……この紅茶、なんだか変わった味がする」
るか
「ローズマリーティー。集中力や記憶力が上がるって聞いて、フェイリスさんに分けてもらったんです」
記憶を思い出すのと、記憶力が良くなるのは、また違う問題だとも思ったが、さすがに口には出さなかった。
その心遣いが、かがりには嬉しかった。
るかをはじめ、まゆりママや岡部たちも、かがりの記憶をなんとかして取り戻そうとしてくれている。
普通は記憶が無いと不安なものなのだろう。
自分がどういう時間を生きて来たのかわからないのだから、それも当然だ。
けれど、実を言えばかがりは、記憶が戻らなくても良いと思っていた。
時折ふとした瞬間に甦りそうになる記憶。
その度にかがりの心の中は酷く泡立ち、怖れにも似た不安が頭をもたげるのだ。
るか
「もしかして……美味しくなかったですか?」
ひと口手をつけただけで静止してしまったかがりを、るかは心配そうに見ていた。
かがり
「あ、ううん。そんなことない、美味しいよ!」
かがり
「ただ、ちょっと考え事をしてただけ」
るか
「考え事?」
かがり
「そ! でも、たいしたことないんだ」
誤魔化すように、紅茶を口に含んだ。
かがり
「それにしても、るかくんって、本当に男の子?」
まゆりはるかのことを“るかくん”と呼んでいた。
そのことについても、あまり不思議には思わなくて、子供の頃のかがりも、それに倣っていた。
るか
「そう……ですけど……」
かがり
「んー、やっぱりどう見ても女の子にしか見えないよね」
るか
「そんなこと言われても」
かがり
「そうだ! ねえ、明日、一緒にお風呂入ってみる?」
るか
「ええっ!?」
かがり
「そうすれば、るかくんが本当に男の子なのかどうかわかるでしょ?」
るか
「だ、だだ、ダメですよ、そんなの!」
かがり
「どうして?」
るか
「だ、だって、そんなの……だって、女の人と一緒にお風呂なんて、そんな……」
かがり
「お姉さんとは一緒に入ってなかったの?」
るか
「入ってましたけど……それは、小さい頃の話で……」
かがり
「ぷっ……ふふふ、あははははは」
るか
「か、かがり……さん?」
かがり
「ごめんごめん、冗談だよ、冗談っ。るかくんが可愛いから、ついからかっちゃった」
るか
「そんなぁ……」
かがり
「でも、そういう反応を見せるってことは、やっぱり男の子なんだねぇ」
るか
「最初からそうだって言ってるじゃないですかぁ」
困った様子も、やっぱり女の子みたいだと、かがりは思った。
リポーター
「ご覧のように、こちらのお店では数十種類にも及ぶ食べ物が、ぜーんぶ食べ放題なんです!」
テレビの画面には、先ほどから美味しそうな食べ物が映っている。
かがり
「すごいなぁ……」
その様子に、かがりは感嘆の声を上げた。
かがり
「今の時代ってすごいよね。私の知ってる未来とは大違い」
るか
「そうなんですか? 未来の世界ってどんな感じなんです?」
かがり
「知りたい?」
そう聞くと、るかは少し困った顔をした。
かがりのほうも、訊ねてみたはいいが、果たして教えてもいいものかどうか悩んでいた。
かがりの知る未来は、絶望に満ちている。
明日にはきっといいことがある。明後日にはきっと――そんな微かな希望に

すが
りながら、皆が必死で生きていた。
未来に希望が無ければ、人はどうやって生きていけるというのか。
るか
「やっぱり、やめておきます」
その答えに、かがりは胸を撫で下ろした。
かがり
「そのほうがいいよ。だって未来は変えられるものだから」
るか
「未来は変えられる……?」
かがり
「うん。ママがね、そう言ってた。きっと変えられる、変えてくれるって」
るか
「変えて……くれる……」
まゆりはいつも、かがりに言っていた。
それがかがりにとっては、微かな希望の光だった。
かがり
「んとね……なんだっけな。しゅたいん……なんとかって」
るか
「シュタインズゲート、ですか?」
かがり
「そう、それ! それは必ずあるって、ママは言ってた」
かがり
「……って言いながら、それがなんなのか、私もよくわからないんだけど、えっへへー」
シュタインズゲート――それが何を意味するのか、正直なところかがりにはよくわかっていない。
それでも、まゆりがその言葉を言うたびに、心があたたかくなった。
自分たちをシュタインズゲートに導いてくれる人が現れる、そう考えると明日への希望が湧いた。
キャスター
「さて、それでは次の特集です」
キャスター
「今、世界で記憶の再生技術に関する研究が進められているのは、ご存知でしょうか」
キャスター
「今日は、その最先端を走る、あるアメリカの大学の特集です」
テレビはいつの間にかグルメレポートを終え、別のコーナーに切り替わっている。
そこには緑あふれる大学の構内が映っていた。
明らかに日本のものとは違う、広々とした開放的な学内の映像だ。
かがり
「…………」
その映像を見た瞬間、かがりの心が激しく揺らいだ。
リポーター
「こちらは、ヴィクトル・コンドリア大学。一見、普通のキャンパスに見えるこの大学」
リポーター
「しかし、この学内では今、ある大きなプロジェクトが進められています」
話は専門的なものに及んでいく。
到底、子供の頃の記憶しかないかがりに。理解出来るものではない。
だが――。
るか
「チャンネル、替えましょうか――」
かがり
「あ、待って」
リモコンに伸ばしかけたるかの手を、かがりは止めた。
かがり
「…………」
るか
「かがりさん。わかるんですか?」
かがり
「うん。脳の構造……記憶をねつ造することは出来るかっていう話」
るか
「へぇ。すごいですね。ボクには難しくて、何がなんだか……」
番組の内容が、かがりの頭にはすらすらと入ってくる。
なぜ?
どうして?
どうして、理解出来るんだろう?
かがり
「そう? そんなに難しい話じゃないよ」
かがり
「記憶は、脳の中の
海馬
かいば
っていうところが司ってるんだけど、その中に
歯状回
しじょうかい

って呼ばれるところがあるのね」
自分で自分の言葉に戸惑いながらも、それでも口からは次々に難しい言葉が溢れ出す。
かがり
「そこで行われる神経細胞の生産が、既存の神経回路の再編を引き起こすの。それによって、記憶の忘却が誘発されるんだ」
かがり
「で、この研究チームがマウス実験をしてみたら、記憶のねつ造が見られたっていう話」
かがり
「あ、ほら。あの奥の部屋。あそこでマウス実験なんかをしてるの」
るか
「あの……かがりさん、もしかしてこの大学、知ってるんですか?」
かがり
「え?」
気付けば、るかが不可思議な顔をしていた。
るか
「だって……なんだか、詳しそうな口ぶりでしたし……」
画面の中には、いかにも研究室といった部屋が映っていた。
カメラはその奥――白い扉を開け、隣の部屋へと入ってゆく。
ディレクター
「この部屋で行われた、マウスを使った実験。それによって研究チームは――」
かがり
「……ううん、知らない……」
るか
「でも、今……」
そう、知らない。
こんな所は知らない。
だが――。
かがり
「わからない……知らない。けど……」
かがり
「なんでだろう。さっきは知ってるような気が……したの……」
頭の奥がズキリと痛んだ。
それが何か恐ろしいことのはじまりのような気がして。かがりはひどく不安になってしまった。
天王寺
「いいか? おめえの頼みを聞いてやるわけじゃねぇ。それだけは忘れるんじゃねぇぞ」
倫太郎
「感謝します」
この日の朝、俺は天王寺の下に赴き、かがりに何かあったときは守ってくれるよう、協力を仰いだ。
そのためには、再び天王寺がラウンダーである事を、本人に向かって突きつける必要があった。
そして、かがりが何か大きな事件に巻き込まれており、何者かに狙われているということも、だ。
しかし、その話をするのは二度目になるため、今回は多少スムーズに事を運ぶことが出来た。
とはいえ、あくまでも比較しての話であって、この男にこんな申し出をするのは出来ればこれで終わりにしたい。
天王寺
「おい、岡部。おめえらいったい、何に関わってやがる」
倫太郎
「それは――」
言葉に詰まる。
天王寺
「話せねぇってか。頼み事するだけして、随分と虫のいい話だな」
倫太郎
「すみません」
天王寺
「だがそれでいい」
倫太郎
「え……?」
天王寺
「情報ってのは最後の切り札だ。そこでぺらぺら喋っちまうようなら、俺は降りてたぜ」
倫太郎
「…………」
天王寺
「ま、せいぜい気を付けるんだな」
倫太郎
「ありがとうございます」
天王寺
「わかった。わかったから、そうやって

かしこ
まんな! どうにもやりにくくってしょうがねぇ」
それでも俺は、もう一度天王寺に深く礼を言い、ブラウン管工房を後にした。
天王寺の協力を得ることは出来た。
それに先立ち、俺は午前中のうちに既に、もうひとりの協力も取り付けいた。
桐生萌郁。
天王寺に比べると、こちらはまだ簡単だった。
前の世界線同様、この世界線でも、萌郁にかがりの捜索を依頼していたことは、昨夜のうちにダルに確認していた。
引き続き、かがりがこの街に来るまでの動向を調べてくれと頼めば、それで済む話だった。
これで、万が一何かが起きた時のために、今俺が出来る対策は全て取った。
あとは、何も起きないことを祈るだけだ。
ラボに戻ると、ルカ子が来ていた。
何やら深刻そうな顔で、俺に話があるのだと言う。
るか
「……実は、かがりさんの記憶のことで、気になることがあって」
倫太郎
「かがりの?」
るか
「あ……とは言っても、これが記憶を取り戻すことに繋がるかどうかは、わからないんですけど」
倫太郎
「構わない。気になることがあるなら、話してくれ」
るか
「はい……」
るかはもじもじと両膝をすり合わせ、ほんの少し上目づかいに俺を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
るか
「昨夜、テレビで、記憶の研究についての特集をやっていて……。アメリカの大学で行われているものだったんですけど」
るか
「それを見ていたかがりさんが、まるでその学校を知っているような口ぶりだったんです……」
倫太郎
「アメリカの大学? どこの大学だ?」
るか
「えっと……なんだか難しい名前の学校で……確か、ビクトル・コンドル……?」
倫太郎
「ヴィクトル・コンドリア大学か!?」
るか
「あ、そうです! その学校です!」
ヴィクトル・コンドリア大学――。
紅莉栖が在籍していた大学だ。
かがりがヴィクトル・コンドリア大学を知っている?
それが本当だとしたら、どうして……。
考えられるのは、かがりもそこに通っていたという可能性だ。
しかし日本で行方不明になった子供が、アメリカの――それもそんな一流大学に?
もちろん、無くはない話だろうが……。
るか
「どう……でしょう? 何か手掛かりになりそうでしょうか」
倫太郎
「さすがにそれだけじゃ、なんとも言えないが……」
るか
「そうですか……」
ルカ子はガックリと肩を落とした。
倫太郎
「でも、手掛かりにならないというわけじゃない」
るか
「え? それじゃあ……」
倫太郎
「ああ……確かめてみる必要はあるな……」
かがり
「改まってお話って何かな?」
確かめるのなら、直接話をするに越したことはない。
これからバイトというタイミングで、急に呼び出されたかがりは、かなり戸惑っているようだった。
倫太郎
「話はちょっと待ってくれるか? もうひとり呼んであるんだ」
かがり
「もうひとり?」
ヴィクトル・コンドリア大学については、俺もたいして詳しいわけじゃない。
構内の話を聞き出すにも、それが正解かどうかだってわからない。
確かめるには、もっと適任の人物がいる。
おそらくもうすぐ来るはずだが――。
真帆
「おじゃまします」
学校の話は、実際に通っていた人間に訊くのが一番に決まっている。
というか、真帆は今も大学の脳科学研究所に所属しているのだから、いわば現役なのだ。
かがり
「あ、真帆さん。こんにちは」
真帆
「ハイ。元気?」
真帆はまだ、かがりが未来からやって来た人間だということは知らない。
その辺りのことは、誤魔化しながら話すしかない。
真帆
「それにしても……本当に、紅莉栖に似てるわよね……」
真帆はかがりの姿をまじまじと見て、俺にだけ聞こえるように囁いた。
無理もない。
俺だって最初は随分驚いたのだから。
俺はさっそく、今日ここに来て貰った理由を真帆に話した。
真帆
「じゃあ何? つまり彼女がうちの学校にいたかもしれないっていうの?」
かがり
「ちょっと待って。そんなこと言われても私、そのなんとかトルコドリア大学なんて知らないよ」
真帆
「ヴィクトル・コンドリア大学」
かがり
「ほら、ね? 名前だってちゃんと憶えてないんだもん」
倫太郎
「でも、昨日は知っている様子だったんだろう、ルカ子?」
るか
「は、はい。奥にある部屋で、ねずみさんを使った実験を行っている……って」
るか
「そしたら、その後、本当にその部屋での、実験の様子が映って……」
倫太郎
「かがりは、そのことは?」
かがり
「んとね……覚えてない……」
ルカ子が嘘をついているとも思えないし、そもそも嘘をつく理由がない。
ではかがりの方が嘘を言っているのかといえば、同じ理由からそれも無いだろう。
真帆
「漆原さん。その研究室、どこだったかわかる?」
るか
「えっと……詳しくはわからないんですけど、脳とか記憶とか、そんな研究をしているって言ってました……」
真帆
「ということは、もしかすると脳科学研究所かもしれないわね」
脳科学研究所。
それってつまり――。
真帆
「私が所属しているところよ」
そして、紅莉栖がいたところでもある。
倫太郎
「それじゃあ……もしかしたら、かがりは比屋定さんや紅莉栖と会っていたかもしれないということか?」
真帆
「あくまでも仮定の話よ」
真帆
「脳科学を研究しているところは、ひとつじゃないし」
真帆
「私のいるところだって、院生だけじゃなく、一般の研究者もたくさん出入りしてるもの」
真帆
「私だって、研究所にいる人間全員と顔を合わせたわけじゃないわ」
真帆
「ただ……同じ日本人となると、見かければ記憶には残っているでしょうね」
それは暗に、真帆の記憶にはないと言っているに等しい。ということは、会ってはいないということだ。
倫太郎
「ルカ子。他にかがりのことで気になったことはないか?」
るか
「えっ、っと……かがりさん、時々びっくりするくらい、難しいことを知っていたり……」
かがり
「私だって難しいことくらい知ってるもん」
かがりが口をとがらせてむくれた。
こういう表情に関しては、紅莉栖とは似ても似つかない。
真帆
「たとえば?」
かがり
「えーっと、えーっと……バラとかユウウツ、とか?」
それは書いて難しいだけであって、難しいことを知っているのとはかなり違う。
るか
「昨日はテレビで、記憶のねつ造について放送していたんですけど……それも、なんだか詳しそうでした……」
真帆
「記憶のねつ造……ね。確かにその研究をしているチームもいるわ。私たちも一度、話を聞かせてもらいにいったもの」
倫太郎
「かがり。今、その話は出来るのか?」
かがり
「んとね……えーっと……それが良くわからないの。私、ホントにそんなこと話してた?」
るか
「話してましたよぉ」
かがり
「うーん……」
眉間に人差し指を当てて、考え込む。
どうやら、本当に心当たりはないらしい。
倫太郎
「今までに、こういうことは、良くあったのか?」
るか
「最近まではそれほど……この何日かで急に……」
どうして、かがりにヴィクトル・コンドリア大学に関する知識があるのかはわからない。
だが少なくとも、消失しているかがりの記憶に関係があることは確かだろう。
その点をもう少し掘り下げていけば、もしかしたら何らかの手がかりに辿りつくかもしれない。
あわよくば、記憶を取り戻すことだって有り得る。
かがり
「っ……」
突然、かがりが苦しげな声を上げた。
るか
「かがりさん? どうしたんですか?」
かがり
「っ……ちょっと、頭が……」
るか
「痛いんですか?」
ルカ子が心配そうに覗き込む。
かがり
「うん。ちょっぴり……」
倫太郎
「少し横になるか?」
かがり
「だい……じょうぶ」
倫太郎
「少し話を急かせ過ぎたかもしれないな」
真帆
「そうね。負担が大きかったのかもしれないわね」
真帆もルカ子同様、かがりの様子を心配そうに見つめた。
真帆
「本当に平気?」
かがり
「う、うん。大丈夫、です。ありがとう、先輩」
真帆
「だったら、いいのだけど……」
それはあまりにも自然なやりとりだった。
その為、もう少しで俺も真帆もそのまま聞き逃すところだった。
倫太郎
「おい……今……」
真帆
「うん……
先輩
①①
って……」
かがり
「え?」
倫太郎
「かがり。君、今確かに、先輩って呼んだよな? 比屋定さんのこと」
かがり
「うそ……? 私、そんなこと……」
真帆
「いいえ。間違いなく言ったわ。漆原さん。あなたも聞いていたわよね?」
るか
「は、はい」
“先輩”。
真帆とかがりがヴィクトル・コンドリア大学で面識があったわけではないということは、さっきの話からもはっきりしている。
となると、単なる言い間違いだろうか。
倫太郎
「ん……?」
外階段をのぼってくる足音に、思考が中断される。
やけに重たげなその足音の持ち主が誰なのかは、考えるまでもなかった。

「おつー」
真帆
「お邪魔してます」

「あ、真帆たんも来てたん?」
真帆
「その呼び方はやめて」

「足りるかなぁ……えーっと。ひー、ふー、みー……」
真帆の苦情もそっちのけで、人数を数えはじめたダルの手には、何やら紙袋が下げられている。

「良かった。大丈夫みたい」
倫太郎
「何が大丈夫なんだ?」

「ほら、このまえ駅前に出来たアトルあるでしょ。あそこに美味しそうなプリン売っててさ。たまにはと思って買ってきたんだけど、人数分あるかなって」
言いながら、早速紙袋から取り出した箱を開け、テーブルの上にプリンを並べ始める。
倫太郎
「ダル、後にしろ」

「なに、みんな難しい顔して。僕がこんなん買ってくるの、そんな珍しい?」

「ま、確かにその通りだけど、ちょうどバイトで結構な臨時収入が入ったんだよね」

「仕事が出来るうえに、気配りと収入を持ちあわせている僕に惚れてもいいの……あれ?」
プリンを並べ終えたかと思うと、今度は紙袋を逆さにして上下に振りはじめた。

「スプーンがひとり分足りない……。さては店員のおねーさん、入れ忘れたな」
るか
「使ってないスプーンなら、確か流しのところに……」
かがり
「あ、私、マイスプーン持ってるから……」
スプーンを取りに立ち上がろうとしていたルカ子の動きが止まる。
そのまま不思議そうな顔でかがりを見た。
るか
「かがりさん……マイスプーンなんて持ってましたっけ?」
かがり
「え?」
るか
「かがりさんが持ってたのって……うーぱのキーホルダーだけだった……ような?」
かがり
「あれ? そう……だよね? おかしいな。なんで私、持ってるなんて……」
マイスプーン――。
そのヘンテコなキーワードを、以前にも聞いたことがある。
普通、この年にもなってマイスプーンを持ち歩いている人物はそうそういない。
日本でなら、最近は“マイ箸”を持ち歩くのが密かなブームではあるらしいが。スプーンとなると、話は別だ。
でも、俺は知っている。
マイスプーンを持っていた人物を。
それは――。
牧瀬紅莉栖。
さっきの、真帆を“先輩”と呼んだ件といい、今の件と言い、やはりかがりは紅莉栖のことを知っているのか?
倫太郎
「なあ、比屋定さん。
アメリカ
むこう
で、君のことを“先輩”と呼ぶ人間は何人いた?」
真帆
「ひとりだけよ」
真帆
「先輩とか後輩とか、そういう呼び方とか関係は、日本独特のものだから」
その
ひとり
①①①
が誰なのかは、聞くまでもない。
真帆
「私を先輩と呼んでたのは……」
真帆
「紅莉栖だけ……」
かがり
「く……りす……?」
倫太郎
「かがり。君は、牧瀬紅莉栖のことを知ってるのか?」
かがり
「紅莉栖……牧瀬、紅莉栖……」
知っていて、紅莉栖の真似をしている?
だが、なぜそんな必要がある?
かがり
「牧瀬紅莉栖……」
かがりは必死で自身の記憶を探ろうとしているようだが、うまくいっていないようだ。
額には汗がにじんでいる。頭痛はまだ続いているのかもしれない。
倫太郎
「無理はしなくていい、急いで思い出す必要は――」
かがり
「ううん……。このままにしとくのも、なんだか、気持ち悪い……」
るか
「何か、思い出せそうなんですか?」
かがり
「わかんない……。わかんないから、オカリンさん、何か、話して……」

「え、ちょっ、いったい何がなんなん?」
かがりが、紅莉栖の名を聞いただけでここまで反応するということは、少なくともなんらかの関連があるということ。
考えられる可能性はなんだ?
かがりが、1998年に鈴羽と別れた後、どこでどう過ごしていたのかが、問題になってくる。
かがりは、真帆とは面識がなかったが、紅莉栖とだけは知り合いだったのか?
そこで紅莉栖と交友を深め、紅莉栖から身の上話をいろいろと聞かされた。その話を、かがりは自分の記憶だと混同している?
それとも――。
ふと、α世界線で紅莉栖が開発した
あの
①①
マシン
①①①
のことを思い出し、そこからとある仮説を連想してしまった。
そんなバカなことはあるわけがない、と自分の考えを慌てて否定する。
真帆
「…………」
真帆と目が合った。
コクリとうなずいてくる。
倫太郎
「かがり。じゃあ、いくつか質問させてくれ」
とにかく、かがりが紅莉栖のことについてどれぐらい知っているのか。それをはっきりさせたかった。
倫太郎
「君の父親は、どこにいる?」
かがり
「パ、パパは……死んじゃった……子供の頃に……」
紅莉栖の記憶が混同しているなら、そうは答えないはず。
これはかがりの記憶だ。
かがりは、10歳より前のことは覚えていると言っていたな。
記憶を失っているのは、タイムマシンに乗った後、1998年に鈴羽と別れた後だ。
もう少し踏み込んでみよう。
倫太郎
「それじゃあ、栗ご飯と言ったら、何を思い浮かべる?」
真帆
「栗ご飯? なんなの?」
倫太郎
「答えてくれ、かがり」
かがり
「栗、ご飯……」
かがり
「カメハメ、波……」
倫太郎
「……!」
まわりは全員キョトンとしているが。
俺だけは、心臓が止まりそうだった。
どうして知っている?
『栗悟飯とカメハメ波』は、紅莉栖が@ちゃんねるで使っていたハンドルネームだ。
その事はおろか、自分が@ちゃんねらーであることすら、あいつはひた隠しにしていた。
決して誰にも言っていないはずだ。
そんな本人しか知り得ない情報を、どうしてかがりが知っている?
かがりの額には、ますます汗がにじんでいた。
るかが、心配そうにハンカチを差し出す。
かがりはうなずいて、それを受け取った。
倫太郎
「かがり……タイムトラベルの主な理論がいくつあるか知っているか?」
真帆
「…………」
真帆が何か言いたげだったが、俺は目だけで何も言うなと制した。
かがり
「11」
倫太郎
「……!」
かがりは、さも当たり前という顔で、はっきりとそう答えた。
かがり
「全部で11……」
かがり
「あれ、違ったかな……?」
もしかしたら、という気持ちで質問したんだが……、まさか、本当にそう答えるなんて。
俺の頭の中で、さっき思いついてしまった、戦慄すべき考えが黒い

もや
となって広がりつつあった。
そんなわけない。あるはずがない。
そう思おうとすればするほど、靄はどんどんと成長していく。
倫太郎
「11の理論を、具体的に説明出来るか?」
かがり
「……中性子星理論。それから……ブラックホール理論に、光速理論」
かがり
「……タキオン理論。ワームホール理論……エキゾチック物質理論」
かがりは指折り数えながら、あまり躊躇せず答えていく。
かがり
「宇宙ひも理論、量子重力理論。セシウムレーザー光理論」
かがり
「素粒子リング・レーザー理論。最後にディラック反粒子理論……」
真帆
「……全部、あってる」
かがりが理論の名前を列挙するに従って、口をあんぐりと開けていた真帆が絞り出すように言った。
かがり
「ねえ、岡部さん……私、どうしてそんなこと、知ってるんだろう……?」
かがりは、少し泣きそうな顔でそう尋ねてきた。
倫太郎
「もうひとつ訊くが……」
倫太郎
「それらの理論を用いて、タイムマシンは作れると思うか?」
かがり
「…………」
かがり
「……出来ない、と思う」
倫太郎
「ほう……」
かがり
「あ、でも、この11の理論では作れないけど、今後の科学の発展次第では、出来なくもない……んじゃないかな……」
倫太郎
「どうしてそう思う?」
かがり
「どうして? それは、んとね……どうして……だろ?」
倫太郎
「じゃあ質問を変えよう。その考え方に行きついたのは何故だ?」
かがり
「わかんない……けど……ただ、何となく
知ってた
①①①①
ような……」
知っていた、か。
彼女の中に知識として存在していたということだ。
じゃあなぜ、彼女にそんな知識があったのか。
やはり、かがりは過去にヴィクトル・コンドリア大学で学んだことがあって、そこで紅莉栖と会っていた? それどころか、かなり親しい友人として付き合っていた?
紅莉栖が誰にも言いたがらなかった、@ちゃんねるのハンドルネーム。それを打ち明けられるほどの親しい関係だった?
その紅莉栖から聞いた話を、今の記憶を失っている状態のかがりは、自分の記憶と混同している?
確かに、それが一番妥当な仮説ではある。
だが一方で、それは紅莉栖自身が話していたことと矛盾するのだ。
アメリカではそこまで親しい友人はいなかったと、紅莉栖は言っていた。
真帆とは、先輩後輩として良好な関係を築いていたようだが……。
なおも俺の頭の中に、黒い靄は増殖してきていた。
倫太郎
「なあ、比屋定さん。『Amadeus』は凍結されたと言っていたが」
倫太郎
「アップロードされていた“紅莉栖”の記憶データって、まだ存在するのか?」
真帆
「え? ええ、たぶん。破棄はされていないはずだけど」
倫太郎
「それって、どれだけの人間がアクセスできたんだ?」
真帆
「ごく限られた人間だけよ。どこにも公表はしていなかったから」
真帆
「私やレスキネン教授、他に助手が何人か、そして紅莉栖……」
倫太郎
「ちなみに……その記憶データを、人間の脳に移植することって、可能だったりするよな?」
真帆
「…………はあ?」
前の世界線で、真帆自身が――正確にはレスキネンの話だったが――セミナーでそんなようなことを言っていた気がする。
それと、俺は自分の体験としても、知っていた。
人の記憶をデータ化し、時間を跳び越えさせた上で、同じ人間の脳に移植し、“思い出させる”というマシンの存在を。
この世界線には存在しないが。
俺がかつていた世界線において、そのマシンは、この部屋で、開発されたのだ。
俺自身、そのマシンを嫌になるほど使った。
そのことを身をもって知っているから、思いついてしまったのだ。
とんでもなく恐ろしい考えを。
今のかがりの状態について説明出来る、もうひとつの仮説を。
真帆
「いったい、何を……」
倫太郎
「マイスプーンを持ち歩いていたのは、紅莉栖なんだ……」
倫太郎
「大学で比屋定さんのことを“先輩”って呼んでいたのも、紅莉栖だけだ」
倫太郎
「『栗悟飯とカメハメ波』は、紅莉栖が@ちゃんねるで使っていた
コテハン

だ。知っているのは本人以外だと、俺くらいのはずだ」
倫太郎
「紅莉栖なら、ヴィクトル・コンドリア大学の研究室のことも知ってる」
倫太郎
「マウス実験のことも知ってる」
倫太郎
「11のタイムマシン理論についても知ってる」
かがり
「オカリン……さん? どういうこと?」
真帆
「何が言いたいの?」
倫太郎
「……俺の思いついた仮説だ」
俺はもう一度、全員をぐるりと見回してから、かがりの顔を見つめた。
倫太郎
「かがり……もしかしたら君の頭の中には、牧瀬紅莉栖の記憶が移植されているかもしれない」
鈴羽
「かがりの頭の中に、牧瀬紅莉栖の記憶が入ってる?」
俺の仮説を聞いた鈴羽は、意外にも冷静だった。
あの後、真帆を中心に、もう少しかがりに話を訊いてみた。
ヴィクトル・コンドリア大学のこと。
研究のこと。
かがりの返答はまちまちだった。
知っていることもあれば、知らないこともあった。
ただ、知っていることの中には、真帆と紅莉栖にしか知り得ない情報が含まれていた。
結果、俺の考えは覆されることはなく、逆に補強されることとなった。
当のかがりは、俺たちが無理に色々と聞き過ぎたせいでかなりの疲労を見せていたため、天王寺の了承を得て、ルカ子と共に帰らせた。
真帆は、俺の仮説をまったく受け入れようとはしなかったが、『Amadeus』の記憶データを移植出来るかどうかについては検証してみると言って、帰っていった。
そして夜になり、こうして鈴羽に事情を説明しているというわけだ。
鈴羽
「それって、かがりが二重人格ってこと?」
倫太郎
「いや、そうじゃない」
倫太郎
「二重人格っていうのは、正確には解離性同一性障害といって、誰かの中に別の人格が出来ることだ」
倫太郎
「言うなれば、今の自分に対する不満や不安から、自らの中に別の人格を作ってしまうようなものだな」
稀に、その人が憧れている実在の人物が別人格として表れることもあるそうだが、基本的にはオリジナリティを持った人格が作られるらしい。
倫太郎
「でも、かがりの場合は違う」
倫太郎
「かがりの中にあるのは人格じゃない。文字通り、牧瀬紅莉栖の記憶だけだ」
倫太郎
「紅莉栖の記憶だけが、彼女の頭の中に混在している……と考えられる」
上書きされたわけじゃない。
かがり自身の記憶も残っている。
だから
混在
①①
なんだ。
鈴羽
「なるほど」
鈴羽
「2036年の技術では、それは決して不可能な話じゃない」
倫太郎
「じゃあ……2036年からのタイムトラベラーであるかがりなら、じゅうぶんその可能性はあるということか?」

「でもさ、かがりたんは、10歳より前の記憶はあるわけっしょ?」

「他人の記憶をぶち込まれるなんてことされたら、そのときのこと覚えてるはずじゃね?」
鈴羽
「あの子は幼い頃、たまに“神様の声”が聞こえるって、言っていたような気がする」
倫太郎
「幻聴か? それが紅莉栖の記憶からにじみ出てきたものっていうのは考えられる」
鈴羽
「うん……」
鈴羽
「ただ、未来は、この時代ほど
のどか
①①①
じゃなかった。物資も人も足りてなかったんだ」
鈴羽
「記憶を移植するなんていう技術は、実用化されているとしても、軍の機密扱いだよ」
鈴羽
「一般人の、しかも子供に使ったとは、思えないな」
倫太郎
「かがりは戦災孤児だった。
PTSD

を治療するためにそういう技術が使われたということは?」
鈴羽
「だからって他人の記憶を移植するのは、さすがに変だ」
倫太郎
「……だな」
倫太郎
「となると、記憶のない時期――1998年以降に、その移植が行われた可能性が高くなってくるが」

「2036年なら可能でもさ、今の技術で出来るもんなん?」
倫太郎
「紅莉栖なら、可能だろう」
なにしろ、紅莉栖は『タイムリープマシン』において、たった一人でそれを実現したんだから。
鈴羽
「牧瀬紅莉栖が、かがりに、自分の記憶を移植したって?」
鈴羽
「彼女は、そんなマッドサイエンティストみたいなことをする人だったの?」
倫太郎
「…………」
そんなわけがない。
あり得ない。
そして、牧瀬紅莉栖ほどの天才は、他にそうはいない。
彼女がやっていないなら、他の人間に出来るとは思えない。
倫太郎
「そう……だよな。突飛な発想過ぎるよな……。俺だってそう思う」
一度思いついてしまった発想に、固執しすぎてしまっているのかもしれない。
倫太郎
「でも、紅莉栖しか知り得ないことをかがりが知っているのは間違いないんだ」

「例えば、幽霊になった牧瀬氏の魂がかがりたんに乗り移った、的なことだったりして」
倫太郎
「お前、そんなオカルト話を比屋定さんの前ででも披露してみろ。全力で論破されるぞ」

「ですよねー」
結局、かがりについては、しばらく様子を見守ることしか出来そうにない。そんな結論に至った。
しょせん、俺たちはただの学生で、専門的知識なんて持ち合わせていないんだ。
どれだけ話し合ったって、仮説を出し合ったって、答えを簡単に導き出せるわけじゃない。
倫太郎
「そういえばダル。由季さんはどうしてる?」

「阿万音氏なら、毎日バイト忙しいみたいだお」
倫太郎
「……彼女は何のバイトをしているんだった?」
鈴羽
「ケーキ屋さんって聞いてる。美味しいから一度食べに来てって言われた」

「そうそう。でもちょっと遠いんだよね」
鈴羽
「だからこそ、行ったら喜ばれるんじゃないか。しっかりしてよ、父さん」

「あ、はい、
サーセン

……」

「つーかオカリン、なんでいきなりそんなこと訊くん?」
倫太郎
「いや……ちょっと気になってな……」
あの時のライダースーツの女。
もしかしたら、あれは阿万音由季だったんじゃないか。
そんな疑惑が、俺の中からいまだ拭いきれていない。
もしもそうであるなら、かがりの件にも何らかの形で関わっているかもしれない。
とはいえあの襲撃事件があったのは、前の世界線での話だ。
襲撃事件が起きていないこの世界線では、もう確かめようもないのだが……。
倫太郎
「もし、彼女のことで何か……」

「……?」
鈴羽
「母さんがどうかしたの?」
倫太郎
「いや……何でもない……」
まだ確証があるわけじゃない。
彼女の動向は、俺がそれとなく注意しておくことにしよう。
今はまず、かがりのことだ。
彼女の欠如した記憶の中で、何があったのか。
それを突き止めれば、今俺たちに何が起きようとしているのか、それがわかる気がする。
真帆
「それじゃあ、はじめるわよ。いい?」
かがり
「う、うん……」
翌日も真帆はラボにやって来た。
かがりの記憶の件について検証するためだ。
かがりも、自分からそれに付き合うと申し出た。
確かに昨日の話ではまだ、俺の仮説は妄想の域を出ていない。
仮説を立てればそれを証明したい――それが科学者の性分というものなのだろう。
真帆
「まずはこれを見てもらえる?」
真帆が差し出したのはスマートフォンだ。
その画面に、画像が表示されていた。
白を基調とした清潔そうな建物の廊下を、白衣の人間が2人、歩いている。そんな画像だった。
真帆
「これがどこだかわかる?」
かがり
「んと……学校?」
真帆
「どこの?」
かがり
「ヴィクトル・コンドリア大学の……」
真帆
「この手前に歩いてる人、彼の名前は?」
かがり
「トニー・ブラウン。あだ名はJB。興奮すると、独特のステップを踏むから」
真帆
「じゃあ、こっちの彼女は?」
かがり
「んー……わかんない」
倫太郎
「どうだ?」
真帆
「彼女も私たち研究者の間では、かなり有名な子よ。紅莉栖だって当然知ってるはずだわ」
倫太郎
「仮にかがりが紅莉栖の記憶を持っているとしても、完全にすべてを思い出せているわけじゃないみたいだ」
それは、昨日もそんな感じだった。
倫太郎
「記憶として呼び起こされるものと、そうじゃないものがあるんじゃないのか?」
真帆
「だからって、この程度じゃまだ、紅莉栖の記憶だと断言は出来ないわ」
真帆
「彼らのことくらい、調べれば誰だってわかることだもの」
真帆
「かがりさん。もう少し突っ込んだ質問をしてもいい?」
かがり
「う、うん……」
真帆
「去年の冬、私と紅莉栖で映画を観に行ったことがあるの」
倫太郎
「比屋定さんと紅莉栖が……?」
真帆
「意外? 私たちだって、たまには息抜きをする。普段は研究ばかりだけど」
意外に思ったのは確かだ。プライベートでも付き合いがあったことは、知らなかったから。
真帆
「研究でちょっと詰まってた私を、あの子が連れ出してくれたのよ。たまたま、チケットが2枚あるからって」
まるで、男がデートに誘う常套手段だな……。
そういうところは不器用なんだ、あいつは。
真帆
「その時に観た映画のタイトル、わかるかしら?」
かがり
「んと……ボブ・ワイナー監督の『彼と彼女の予感』?」
真帆
「…………」
真帆は息を呑んだ。
どうやら正解らしい。
倫太郎
「それって最近の映画か? 聞いたことないが」
真帆
「20年前の作品。そのリバイバル上映だったのよ……」
かがりはそれを言い当てた。
真帆と紅莉栖がプライベートで見に行った映画のタイトルを。
しかも、世界中で公開されたようなメジャータイトルじゃないから、当てずっぽうで言い当てられるものじゃない。
真帆
「で、でもそれも、誰か目撃していた人がいればわかることよ……」
倫太郎
「だが、君が今日、そんな質問をするという事は、予想出来なかったはずだ」
倫太郎
「かがりがそのために、細かい情報まですべて暗記したとでも?」
そんなことをしても仕方がないし、そもそも理由が無い。
真帆
「私だってそのくらいのこと、わかってるわ……」
辛そうに顔を歪めた顔からは、真帆の中で、なんらかの葛藤が生じているのが見て取れた。
そして、俺もその葛藤の理由に、少しずつ気づき始めていた。
認めたくないんだ。
その
①①
可能性を――。
かがり
「っ……」
冬だというのに、かがりの額からはこの日もうっすらと汗がにじみ出ていた。
自分の中で混在している記憶を探るという行為は、かなりの負担になっているのかもしれない。
倫太郎
「これぐらいにしよう。かがりがキツそうだ」
真帆
「待って。最後にもうひとつだけ、訊かせて……」
かがり
「うん……、いいよ。どうぞ」
かがりは気丈にうなずき、真帆に質問を促す。
真帆
「子供の頃……あなたが一番大切にしていたものは何?」
かがり
「子供の頃……」
真帆
「それはアメリカに移住してからも、ずっと部屋に置いてあった」
かがり
「んっ……」
かがり
「イルカの、ぬいぐるみ……。水族館に行ったとき、パパが買ってくれた……」
真帆
「…………」
真帆は大きなため息とともに、ソファに身を沈めた。
倫太郎
「合ってるのか?」
真帆
「ええ……。昨日、紅莉栖のお母さんが電話で教えてくれたわ」
真帆
「このことを知ってるのは、紅莉栖とご両親だけ……」
倫太郎
「それじゃあ……」
真帆
「悔しいけど、あなたの仮説を……否定出来ない……」
倫太郎
「そうか……」
かがり
「あの……私、どうなっちゃうの、かな……?」
倫太郎
「…………」
俺には、答えられなかった。
そもそも、どうしてこんなことになったのか。
可能性があるとするならば――。
真帆
「かがりさん、付き合わせて悪かったわね。ゆっくり休んで」
真帆は真剣な表情のまま立ち上がった。
倫太郎
「帰るのか?」
真帆
「ええ。自分なりに、まだ検証出来ることは残っていそうだから……」
真帆
「それじゃあ、また」
そう言い残すと、真帆は振り返りもせずに扉へと向かった。
その背中は無言で全てを拒絶しているようで、俺たちはただ彼女を見送ることしか出来なかった。
比屋定真帆はぼんやりとPCのモニターを眺めていた。
世間はまだ、正月の浮ついた空気から抜け切れていない。
前回、真帆が日本にやって来たのは、まだ夏の暑さも抜けきらない頃のことだった。
その時は、ヴァカンスを利用しての来日だった。
後輩、牧瀬紅莉栖の突然の死。
その現場となった場所をこの目で見るためである。
真帆の牧瀬紅莉栖に対する感情は複雑だ。
紅莉栖が同じ研究所に来るまで、真帆は自分を天才だと思っていた。
飛び級で高校を卒業し、10代で大学の研究室にまで入ったのだ。
そう思っても無理のないことだった。
周囲も真帆を天才だと言った。
だが、真帆のそんな自尊心は、牧瀬紅莉栖というもう一人の天才の出現によって、無残にも打ち砕かれた。
牧瀬紅莉栖は本物だった。
それに比べれば、自分が一段劣るのはどう見ても明らかだった。
ああ、敵わない――そう思った。
負けたくない、そうも思った。
いっそのこと、憎むことが出来れば良かった。
紅莉栖のことを。
だが、牧瀬紅莉栖と言う少女は真帆にそれすら許さなかった。
彼女はどこまでも真っ直ぐに科学者であり、また真帆に対しても真っ直ぐだった。
紅莉栖
「先輩。先輩のその研究、上手くいけば革命的な成果が得られると思います」
紅莉栖
「私に何か出来ることがあれば、手伝いますから言ってくださいね」
いつか越えてやる、そう思っていた。
先輩には敵わない――いつかそう言わせてやると思っていた。
だが、それは永久に叶わぬものとなった。
牧瀬紅莉栖は旅立ち、真帆の前には二度と戻っては来なかったのだ。
暴漢に襲われたと聞いた。
けれど実感は全然湧かなかった。
そのうちまた研究室に戻って、あの澄ました顔で教授たちと言い合いを始めるのではないか――そんな気がしていた。
その日までに、真帆は自らが携わる『Amadeus』プロジェクトを発展させ――すごいじゃないですか先輩――と、言わせたかった。
『Amadeus』
特定の人間の記憶を有した人工知能。
側頭葉に蓄積された記憶に関する神経パルス信号を解析することによる記憶のデータ化。
それが可能だと証明してみせたのは、やはり牧瀬紅莉栖だった。
そして、その技術は真帆たちの手によって、実用段階にまで迫っていた。
紅莉栖が戻るころには、将来的な実用化まで見据えた結果を出しているはずだった。
それを見せつけ、紅莉栖を感服させるはずだった。
だが、それもすぐに潰えてしまった。
突然知らされたプロジェクトの凍結。
当然納得出来るものでは無かった。
しかし、どれだけ文句を言おうと、教授に食って掛かろうと、プロジェクトの凍結は覆されるものではなかった。
『Amadeus』は研究室のサーバーの奥底に眠った。
データ化された牧瀬紅莉栖の記憶とともに。
――牧瀬紅莉栖の記憶。
その記憶を持つ少女。
なぜそんなことが起きたのか。
可能性があるとすれば、それはただひとつ。
岡部倫太郎の仮説の通り――。
レスキネン
「おや?」
入り口のドアが開くと、見慣れた大柄な男が入ってきた。
レスキネン
「マホ。どうしたんだい? まだニューイヤーホリディのはずだが?」
真帆
「そういう教授こそ、わざわざ休みの日に出てきてるじゃないですか」
真帆の師事しているレスキネン教授は、人工知能に関する研究会のため、この一ヶ月ほど日本に滞在している。
真帆もその助手としてついてきていた。
とはいえ、研究会も毎日あるわけでもなく、その間はここ、脳科学綜合研究所の日本オフィスにて、プレゼンの資料を作ったりメールのやりとりをしたりしていた。
レスキネン
「私の場合、休みといっても特にすることも無いからね。ホテルに籠っていても息が詰まるだけだし、それならここに来て仕事をしていたほうがいい」
真帆
「だったら私も似たようなものです」
研究者というのは研究が趣味みたいなものだ。
少なくとも、真帆の周りにいる研究者は皆そんな人間ばかりだった。
もっとも、そうだろうということを見越して真帆はこの日、わざわざここまで来たのだが。
レスキネン
「君にはいろいろとやることがあるだろう。たとえば、デートとか……」
真帆
「教授。あんまりしつこいとセクハラで訴えますよ」
レスキネン
「おっと。それだけは勘弁してくれ」
レスキネン教授は西洋人特有のオーバーアクションで、大げさに肩を竦めてみせた。
教授はどうにも岡部と真帆をくっつけたがっているようだった。
岡部とは互いに紅莉栖の友人だったということもあり、いろいろと話をする仲にはなったが、それ以上ではない。
少なくとも、真帆はそう意識したことは無い……はずだった。
真帆
「それじゃあ、お詫びというわけじゃないですが、ひとつ訊いてもいいですか?」
レスキネン
「訴訟されないですむのなら、なんなりと」
真帆
「じゃあ訊きますけど……『Amadeus』は今どうなっているんですか?」
レスキネン
「どうも何も……今のところ進められる目処がたっていないことは、君だってよく知っているはずだよ」
真帆
「それはわかってます。私が訊きたいのは、『Amadeus』のデータはどうなっているかということです」
レスキネン
「研究室のサーバーに保管されているね」
真帆
「誰かがアクセスしたり、持ち出したりは?」
レスキネン教授は眉をしかめて、ゆっくりと首を左右に振った。
レスキネン
「マホ……君がなぜそんな疑問を持ったのか私にはわからないが……」
レスキネン
「『Amadeus』へのアクセス権はごく限られた一部の人間にしかないし、不正にアクセスされたという事案も起こってはいないはずだ」
レスキネン
「少なくとも、今まで私のところにそのような報告はもたらされていない」
真帆
「私や紅莉栖の記憶データも?」
レスキネン
「もちろん」
真帆
「それじゃあ……他に私が知らない人工知能のプロジェクトが動いているなんてこともありませんか?」
レスキネン
「有るわけがない。我々の研究チームにはマホ、君の力が必要不可欠だ」
レスキネン
「私たちはクリスという才能を失った」
レスキネン
「それは大いなる損失だったが、彼女のいなくなった穴を埋められるのは君だけだと思っている」
レスキネン
「そんな君の知らないところで、新たなプロジェクトなど進めるはずがないだろう?」
真帆
「……そうですか」
いささか大げさすぎるその褒め言葉を、真帆は文字通り受け取りはしなかった。
研究者の中には、常に他を出し抜こうとしている者も少なくない。
他に手柄を先取りされては、それまで自分たちが行っていた研究は全て無駄なものと化してしまう。
同じチームの人間とはいえ、全てを信頼しきれる人間となると限られている。
しかし、少なくともレスキネン教授に対する真帆の信頼は、その限られた中に含まれていた。
レスキネン
「質問に対する答えはこれでいいかな?」
真帆
「はい……」
レスキネン
「では私からの質問もいいかい? どうして急にそんなことを訊くんだい?」
真帆
「それは……」
レスキネン
「もしかして、自分の秘密が誰かに漏れていないか心配にでもなったのかな?」
真帆
「……まあ、そんなところです」
レスキネン
「それなら心配ない。いかに『Amadeus』とはいえ、本人が秘密にしたいことは喋らないように出来ている。君だって知っているはずだよ」
レスキネン
「それは、保存されたデータについても言える」
レスキネン
「仮に何者かがデータを盗んだところで、本人がどうしても知られたくない部分は、ブラックボックスになっている」
レスキネン
「『Amadeus』からはもちろん、記憶データからも取り出すことは不可能だ」
レスキネン
「秘密が漏れるとしたら、その記憶を持つ生身の人間からだけだね」
真帆
「記憶を持つ、生身の人間……」
レスキネン
「そう。つまり本人だけということだ」
レスキネン
「どうだい? 少しは安心したかい?」
真帆
「ええ……まあ……」
レスキネン教授を信用していないとはいわない。
それでも、本当にデータが持ち出されていないかは、自らの目で確かめるまで安心は出来なかった。
自らの目で確かめ、はじめて現象を現象としてとらえることが出来ると、真帆は思っている。
そして、科学者たるもの、そうあるべきだとも思っていた。
しかし今の真帆に確かめるための権限はない。
結局、真帆の心の中は靄がかかったままだ。
そうなることは最初からわかってはいたが、それでも訊かずにはいられなかったというのが本当のところだが。
レイエス
「あら? ふたりともいたのね」
レスキネン教授との会話がちょうど終わったところで、レイエス教授が研究室にやって来た。
レイエス
「まったく。せっかくのホリディだというのに、もの好きね」
真帆
「レイエス教授こそ」
レイエス
「ワタシはホテルにいてもやることなんてないから」
レスキネン教授とふたりで視線を交わし、肩を竦める。
結局、科学者というのは、そんな連中ばかりだ。
レイエス
「なになに、なんなのよ?」
レスキネン
「Hahaha」
真帆
「ふふ……なんでもないです」
不思議がるレイエス教授の様子に、レスキネン教授とそろって笑ってしまった。
それでも、真帆の心の中はやはり曇ったまま晴れることはなかった。
かがりの頭の中に紅莉栖の記憶がある――。
その仮説が現実味を帯びてきてから、数日が経過していた。
かがり
「ごめんなさい。オカリンさんにはいろいろ迷惑かけちゃって」
倫太郎
「別に……迷惑だなんて思ってない。それに俺なんかよりも、ルカ子やまゆりのほうが色々と気を配ってくれてるはずだ」
実際、まゆりやルカ子は、かがりの面倒をよく見てくれていた。
まゆりはまゆりで、本人に実感はないだろうが、ママとして慕われている。
ルカ子も衣食をともにしているだけあって、かがりのことをかなり気にしてくれているらしい。
るか
「そんな。ボクなんて、ただ話相手になるくらいで……」
まゆり
「まゆしぃこそ、何の役にも立ってあげられなくてごめんね?」
かがり
「ううん! そんなことないよ! るかくんはすごく良くしてくれてるし、ママはいてくれるだけで嬉しいし」
ママと言われて、まゆりは少しくすぐったそうに身をよじった。
無理もないことだ。
この歳で、それも自分より年上からママなんて呼ばれれば、誰だって妙な気分になるだろう。
かがり
「ねぇ、ママ?」
まゆり
「なぁに?」
かがり
「ぎゅってしていい?」
まゆり
「ぎゅ?」
かがり
「子供の頃にママがよくやってくれたみたいに、ぎゅってしてもいい?」
まゆり
「ふええ~? わわ~。照れちゃうな~」
かがり
「だめ?」
まゆり
「ううん。……いいよ?」
はにかみながらも頷いたまゆりに、かがりは顔を輝かせ抱きついた。
まゆり
「かがりちゃん、いい子いい子~♪」
かがり
「えっへへ~」
まゆりも深くは聞いてはこないが、かがりの身に起きていることを、なんとなく感じてはいるはずだ。
今は、こうしてやることが良いと、わかっているんだろう。
かがり
「ママ……」
不思議だ。
実年齢ではかがりのほうが上の筈だが、こうして見ると、母娘に見えてくる。
かがり
「ありがと、ママ……」
かがりがゆっくりとまゆりから離れた。
まゆりのおかげか、かなり落ち着いているようだ。
今なら、話をしても大丈夫だろう。
倫太郎
「それで、かがり。調子はどうだ?」
かがり
「調子? 調子、かぁ。んとね……なんだかよくわからない、かな?」
倫太郎
「よくわからない……とは?」
かがり
「ふとした瞬間に、思い出すことがあるんだけど、それが自分のものなのか、紅莉栖さんのものなのかわかんないの」
かがり
「難しい数式とか、実験とか……理解は出来てないんだけど知ってる、みたいな……」
かがりの頭の中にある記憶は、子供の頃のものと、ルカ子の父親の知人である住職に発見されて以降のものしかない。
そのぽっかり空いた空間を、時折現れる紅莉栖の記憶が侵食している。
それがどんな感覚なのか、俺には想像することすら出来ない。
かがり
「んとね、この前もね、パパのことを思い出したの。子供の頃、パパに褒められた時の記憶」
かがり
「それを思い出して、なんだかすごく嬉しかったんだけどね……」
かがり
「でも、私、赤ちゃんの頃に両親死んじゃったし、それからはまゆりママに育ててもらったから、パパなんて知らないんだよね」
かがり
「だけど、自分が経験したことじゃないのに、褒められて嬉しいっていう感情は確かにあって……」
かがり
「そう考えてると、頭の中がごちゃーってなっちゃって……」
かがりは、頭を抱えるようにして顔をしかめた。
最初に出会った時は、彼女のその紅莉栖そっくりの風貌に驚いたものだ。
けれど、こうして話していると椎名かがりという女性は、紅莉栖とは随分と違っている。
よく動く表情といい、少しオーバー気味なリアクションと言い、どちらかというとまゆりに近い。
やはりそれも、母親による影響なんだろうか。
倫太郎
「その……紅莉栖の記憶は良く出てくるのか?」
かがり
「うん……前に比べると頻繁になったかも……」
倫太郎
「そうか……」
まゆり
「ねぇ、オカリン。かがりちゃん、どうなっちゃうのかな?」
倫太郎
「……本来なら、ちゃんとした専門機関で検査してもらうのが、一番いいんだろうが」
かがりは立場が立場だけに、そう簡単にはいかないだろう。
かがり
「あんまり、検査はしたくないなあ。子供の頃もね、検査ばっかりしてたから」
倫太郎
「そうなのか?」
かがり
「うん。PTSDを治すためだって言って」
本人も検査するのはあまり乗り気ではない、か……。
もしもこのまま、紅莉栖の記憶の流入が大きくなったら、彼女はどうなるんだろう。
“牧瀬紅莉栖”の記憶を持つ“椎名かがり”になるのか。
それとも“牧瀬紅莉栖”になってしまうのだろうか。
記憶だけが人格を形作るわけではない。
けれども、記憶も人格を形作る要素の一部ではある。
紅莉栖の記憶を有した彼女が、どんな存在になるのか。
今の時点では誰にもわからないだろう。
誰かの記憶を共有するなんていう事自体、おそらく今までに類を見ない現象なのだろうから。
るか
「あ、まゆりちゃん。時間」
まゆり
「あ……ほんとだ。ねぇ、オカリン。この後、かがりちゃんのこと、任せていいかな?」
まゆり
「これから、学校で進路についての説明会があるんだ~。まゆしぃたち、どうしても出なくちゃいけなくて」
るか
「すみません……」
倫太郎
「謝るなって。心配しなくていい。かがりはちゃんと家まで送っていくから」
るか
「ありがとうございます」
まゆり
「それじゃあ、かがりちゃん。また明日ね」
かがり
「うん、ママ。また明日」
まゆりとルカ子を見送ると、部屋の中には俺とかがりのふたりになった。
かがりの記憶の件があってから、ここ数日、ブラウン管工房のバイトも少し見合わせてもらっている。
とはいえ、何かあってはならないからと、昼間はなるべくここに来てもらうようにはしていた。
下の階に天王寺と鈴羽がいる。それだけで心強くもある。
かがり
「んー……」
不意に、かがりの視線を感じた。
倫太郎
「……どうした?」
かがり
「んとね、改めて考えると、こうしてオカリンさんと話してるっていうのが、不思議だなーって」
倫太郎
「不思議? どうして?」
かがり
「だって、私にとってのオカリンさんは、お話の中の人だったんだもん」
倫太郎
「お話の中……」
かがり
「うん。ダルおじさんや、ママから聞くお話の中の人」
そうか。
鈴羽の話じゃ、俺は2025年に死ぬらしい。
つまり、かがりのいた時代には、俺はもう存在していないことになる。
かがり
「ママはね、いっつもオカリンさんの話をしてたよ」
かがり
「“オカリンがママを助けてくれた。オカリンがママの彦星様なんだよ”って」
倫太郎
「あいつ、未来になってもそんなことを言っているのか」
まゆりに代わって、今度は俺が恥ずかしがる番だった。
かがり
「だからね。私もずーっと気になってたんだ。ママがそんなに大切に思ってるオカリンさんって、どんな人なんだろ、って」
かがり
「みんなが話題にする、岡部倫太郎っていう人が、どんな人なんだろうって」
かがり
「もしかしたら……ちょっと憧れてたかも?」
倫太郎
「からかうのはよしてくれ」
かがり
「あははっ。オカリンさんったら照れちゃってる」
すっかり、かがりのペースだ。
かがり
「あ、んとね、でもそういう意味では牧瀬紅莉栖って人もそうかな」
倫太郎
「紅莉栖が?」
かがり
「うん。牧瀬紅莉栖っていう人の名前も、ママやダルおじさんの口によく上ってたから」
かがり
「ずっと昔に亡くなっちゃったのに、そんなに影響のある人ってどんな人だろうって」
倫太郎
「その……まゆりは、紅莉栖のことをなんて?」
かがり
「……オカリンさんの大切な人だって」
倫太郎
「…………」
――大切な人。
俺にとっては今さら否定しようのない事実だ。
けれど、ラボメンの皆にとっては違う。
この世界線で、まゆりは紅莉栖とは出会ってはいない。俺自身も、今までなるべく紅莉栖のことには触れないようにしていたつもりだった。
だというのに、そんな未来になってまでも、俺はまゆりにそんな思いを抱かせているのか。
倫太郎
「そうだ。今から買い物に行くんだが、よかったら一緒に来ないか?」
かがり
「買い物?」
倫太郎
「ああ。まだ、この辺りのこと、良く知らないだろ?」
かがり
「……いいの?」
倫太郎
「もちろんだ」
前の世界線の出来事もあり、必要以上に出かけるのは止した方がいいとはいえ、今の彼女には少し気分転換をさせたほうがいいかもしれない。
まだ昼間だし、人通りの多いところを選んで歩けば大丈夫だろう。
かがり
「やった。実はね、いろいろ欲しいものもあったんだ」
倫太郎
「……欲しいもの?」
かがり
「うん。日用品とか、いろいろね」
倫太郎
「ルカ子が用意してくれてるんじゃないのか?」
かがり
「そうだけど、でもほら。るかくんだって男の子でしょ? だから、いろいろ頼んじゃうのも悪いなって」
確かに、いくら可憐だとはいえ、ルカ子も男だ。
どうしてもわからない物だってあるだろう。
倫太郎
「……それじゃあ行くか」
かがり
「うんっ」
かがり
「やっぱりすごいよね」
街へと出たかがりは、キラキラと目を輝かせて周りを見回していた。
かがり
「人も多いし、お店もたくさんあるし。ここがあの秋葉原と同じ街だとは思えないな」
倫太郎
「未来の秋葉原はどんなところなんだ?」
かがり
「ひと言でいうと、んとね……そうだなぁ……瓦礫の山、かな。まあ、秋葉原に限ったことじゃないんだけどね」
近い将来、第三次世界大戦が起きると、そう鈴羽は言っていた。
となると、幼いかがりは戦争が起きて以降の、無残な世界しか知らないことになる。
もっともそれも、全て俺のせい――なんだろう。
俺が鈴羽の頼みを聞き入れ、もう一度、去年の7月28日に戻れば――それで、戦争が起こらない世界線になるんだろうか?
……無理だ。世界線の収束には、逆らえない。
かがり
「あ、オカリンさん、もしかして自分のせいだ、なんて思っちゃってる?」
内心をズバリ言い当てられて、ドキリとした。
かがり
「その反応は図星だね。でも、その考えはダメ。バッテンなのだ」
かがり
「私の知る限り、ママもダルおじさんも、誰もオカリンさんを責めてなんていなかったよ」
かがり
「だって、ママたちはみんな信じてたから。オカリンさんならいつかやってくれるって」
かがり
「んとね……その、シュタインズゲート……だっけ? そこに導いてくれるって」
かがりの言葉は、俺を気遣ってのものだとわかっていた。
まゆりやダルが決して俺を責めないだろうことも。
それでも今の俺にとってその言葉は重荷でしかない。
全てを放棄してしまった今の俺には。
かがり
「……あー、ごめん、なさい」
倫太郎
「え?」
かがり
「別に追い込むつもりとかじゃなかったんだけど……」
どうやら俺は、相当深刻な顔をしていたらしい。
倫太郎
「いや……俺の方こそ、すまない。でも、俺はもう……」
かがり
「すとっぷすとっぷ! 今日はそういうのはナシ。せっかく外に出たんだから、もっと楽しい話しよ、ね?」
倫太郎
「ああ……」
今のかがりの頭の中にあるのは、辛い戦争の記憶だけのはずだ。
少なくとも“椎名かがり”としての記憶はそれだけ。
なのに、こうして俺のことまで気遣ってくれている。
血は繋がっていなくても、彼女はやはりまゆりの子なんだ。
でも、楽しい話と言われても、何を話せばいいのか……。
かがり
「んとね……そうだな。せっかくだから、ママの若い頃の話を聞きたいな」
倫太郎
「まゆりの?」
かがり
「あ、若いって言っても、今も若いんだけど」
かがり
「でも、もっと若い頃の話。たとえば……“人質”の話とか?」
倫太郎
「まゆりはそんなことまで、君に話しているのか……」
かがり
「うん。私ね、オカリンさんの話をする時のママの顔がだーいすきなの」
かがり
「とっても大切な宝箱をそーっと開けるみたいな、そんな顔っていうのかな?」
かがり
「その顔と、その時の声と……それを思い出すだけで、すっごくあったかい気持ちになれるんだ」
きっと、かがりにとってのまゆりは、暗く澱んだ世界の中における、星のようなものだったのだろう。
夜空に一番明るく輝く。
倫太郎
「別にたいした話じゃないさ」
倫太郎
「大好きなお婆さんが亡くなって、ずっと悲しんでたあいつが、今にも消えてしまいそうで……」
倫太郎
「それで口から出た、痛々しい台詞だ……」
かがり
「お前は俺の人質だ――って?」
第三者の口から聞かされると、恥ずかしさで隠れたくなる。
倫太郎
「若かったんだ。若さゆえの過ちというやつさ」
かがり
「それでも、その言葉はママを救ってくれたんだよね?」
倫太郎
「……どうだろうな」
もしもその言葉のせいで、俺がずっと――未来になってもずっと、まゆりを束縛しているのだとしたら……。
かがり
「オカリンさん……?」
倫太郎
「そんなことより、腹が減らないか? 何か食べにでも行こう」
かがり
「え? あ、うん……」
誤魔化し紛れに歩き出すと、かがりも戸惑いながらついてきた。
倫太郎
「何か食べたい物あるか?」
かがり
「んとね……私はなんでもいいかなっ」
倫太郎
「そういうのが一番困るんだ」
かがり
「だって、この時代の食べものって何でも美味しいんだもん。ビックリするくらい」
倫太郎
「未来じゃ何を食べてたんだ?」
かがり
「お芋とかそういうのばっかりかなぁ」
かがり
「あ、でも、ママが毎日違う味付けしてくれてたから……」
倫太郎
「まゆりが……?」
かがり
「うん」
倫太郎
「まゆりの料理は、その……美味かったのか?」
かがり
「うんっ」
倫太郎
「そう……か……」
人間とは成長する生き物らしい。
まゆりは最近、由季にいろいろ教えてもらってるからな。
その教えが生きたのかもしれない。
かがり
「だから、私はなんでもいいよ」
そういうことなら……。
フェイリス
「お帰りニャさいませ、ご主人様♪」
フェイリス
「あ、オカリン。それにかがりニャンも!」
せっかくだからと立ち寄ったメイクイーン+ニャン⑯は、人でごった返していた。
倫太郎
「今日は混んでるな」
フェイリス
「そうなのニャ。今日からアニメとのタイアップキャンペーンが始まったのニャ」
そういえば、街中で見かけたことのあるキャラクターの立て看板が、店の前に突っ立っていた。
フェイリス
「おかげで大繁盛で、満席なのニャ……」
フェイリス
「30分くらい待ってもらったら、入れるようになるんニャけど……」
倫太郎
「そういうことなら、また今度にするよ。な?」
かがり
「うん。もっとゆっくり出来そうな時に出直してくるね」
フェイリス
「せっかく来てもらったのに、ゴメンニャ~」
メイクイーン+ニャン⑯を後にして色々と歩き回ったが、ちょうど昼時ということもあり、目ぼしい店はどこもいっぱいだった。
かがり
「すごいね。どこも人だらけ」
倫太郎
「まったくだ。わざわざ外で飯なんか食わずに、家で済ませればいいものを」
かがり
「あはは。でも、それって私たちにも当てはまるよね」
さて、どうしたものか。
かがり
「ラボで食べよっか」
倫太郎
「言っとくが、俺は料理なんて出来ないぞ」
かがり
「私も私も~♪」
じゃあダメじゃないか。
かがり
「簡単なものでいいよ。あ、私、あれ食べてみたかったんだ。ほら、お湯かけて食べるヌードル的なの」
倫太郎
「カップ麺か? あんなものでいいのか?」
かがり
「んとね、未来だとね、工場がいっぱい無くなっちゃって、なかなか手に入らなくなっちゃったんだ」
かがり
「ダルおじさんが、いっつも食べたい食べたい、って言っててずーっと気になってたの」
そんなものでいいのなら、こちらとしては構わないが。
そうだ。そういうことなら、せっかくだしアレを――。
近くにあったコンビニでカップ麺を大量に購入してきた。
買い置きしておけば、どうせダルあたりが食べるだろう。
かがり
「すっごいね。カップ麺ってあんなにいっぱい種類あるんだ」
倫太郎
「今は未来と違って飽食の時代だからな。コンビニなんかでは毎週のように新商品が出る」
かがり
「そうなんだねー。ね、この中のどれを食べてもいいの?」
かがりが、俺の持つコンビニ袋をのぞき込んでくる。
倫太郎
「もちろん。好きなのを選んでくれ」
かがり
「それじゃ、どれにしようかなぁ。んとね、んとねー……」
唇に人差し指を当てて、目を輝かせているその仕草はまるで子供だ。
かがり
「私、これにする! 塩味の!」
倫太郎
「なんなら、2つでも3つでも食べてもいいぞ」
かがり
「ほんと!?」
かがり
「あー……でも、食べ過ぎちゃうと太っちゃうしなー……」
表情が豊かで、本当に見ていて飽きないな。
かがり
「そういえば、さっき他にも何か買ってたみたいだったけど……」
倫太郎
「ああ、これだよ」
コンビニ袋の中から、プラスチック製のそれを取り出した。
かがり
「これって……」
倫太郎
「フォークだよ。箸じゃ食べ辛いんじゃないかと思って」
倫太郎
「自分専用のものにして、ラボに置いておけばいい」
かがり
「……いいの? もらっちゃって」
倫太郎
「別に、たいしたものじゃない」
紅莉栖
あいつ
が欲しがっていたマイフォーク。
罪滅ぼしなんてつもりはない。
ただ、俺がそうしたかっただけだ。
かがり
「やった! ありがとう! 実はね、私、お箸使うの苦手なんだ。ママからもいっつも注意されてて……」
かがり
「あ、これ、先っぽにうさぎさんがついてる。かわいー」
かがり
「えっへへ~。私専用のフォーク。私のもの、これでふたつ目だ~」
もうひとつは、きっとまゆりがくれたうーぱのキーホルダーだろう。
かがり
「でも、なんでかな? 私、これ、ずっと欲しかったような気がする……」
かがり
「もしかして、これも紅莉栖さんの記憶なのかな?」
倫太郎
「……さあ、どうだろうな……」
かがり
「ねえオカリンさん。オカリンさんは、紅莉栖さんのこと、好きだったんでしょ?」
倫太郎
「な――げほっ、げほっ!」
予想外の方向から飛んできた発言に、思いっきり

むせ
てしまった
かがり
「大丈夫?」
倫太郎
「い、いきなり、なんでそうなる?」
かがり
「だって、大切な人っていうのは、そういうことでしょ?」
倫太郎
「…………」
かがり
「で、どうなの? 好きだったの?」
まさに興味津々と言った様子だ。
こういうところは年相応らしい。
倫太郎
「……まあ、あいつとの出会いが俺の人生を大きく変えたのは確かだな」
かがり
「あー、誤魔化したー。ずるーい」
かがり
「でも……人生を変えるほどの大切な人、かぁ。なんか憧れるかも」
文字通り、未来も過去も、全てが大きく変わってしまったわけだが。
かがり
「ね、オカリンさんから見て、牧瀬紅莉栖さんってどんな人だったの?」
倫太郎
「……気になるか?」
かがり
「自分の頭の中にある記憶の持ち主のこと、もっと知りたいよ」
倫太郎
「俺が教えなくても、それこそ記憶として頭の中にあるんじゃないのか?」
かがり
「それが、自分で思い出そうとしても思い出せないんだよね。時々、断片的に出て来るだけで」
かがり
「それも大抵、難しいことばかり……」
かがり
「だから、もっと人間的な部分っていうの? そういう、人となりとか教えて欲しいなって」
倫太郎
「…………」
確かにかがりにとって紅莉栖は、会ったことすら無い赤の他人だ。
そんな見知らぬ人間の記憶を共有している以上、知りたいと思うのも無理からぬことかもしれない。
倫太郎
「あいつは……牧瀬紅莉栖は、とにかく好奇心の強い奴だったよ」
かがり
「ふむふむ」
倫太郎
「そのうえ頑固で、自分が正しいと思ったことは誰に何を言われても決して曲げることは無かった」
かがり
「そうなんだ」
倫太郎
「不遜で強がりで、そのくせ寂しがり屋で――」
頭の中で、紅莉栖と交わした会話や出来事が次々と蘇ってくる。
そういえば、ここでこうして話したこともあった。
それも今では全て、無かったことだが。
倫太郎
「それに、怒ると怖かった」
かがり
「怖い? どんな風に?」
倫太郎
「『開頭して海馬に電極ぶっ刺す!』……なんて物騒なことを言われたりしたよ」
かがり
「ふぇ~」
感嘆の声を上げると、かがりは何を思ったのか、小走りに数歩先まで進み、くるりと振り返った。
そして。
かがり
「そんなこと言ってると、開頭して海馬に電極ぶっ刺すわよ!」
倫太郎
「…………」
紅莉栖
「今すぐ開頭して、海馬に電極ぶっ刺してやろうかしら」
紅莉栖……。
かがり
「なーんて、こんな感じ?」
倫太郎
「…………」
かがり
「オカリンさん……?」
倫太郎
「あ、いや……」
かがりの中の紅莉栖の記憶――。
もしも、それが彼女の頭の中で完全に再現出来たとしたら――椎名かがりという少女は牧瀬紅莉栖になるのだろうか。
馬鹿馬鹿しい考えだとは思う。
人格と記憶は別もののはずだ。
それでも、もしも――。
もしも、彼女の記憶が完全に紅莉栖のものになったら――。
もしかしたら――。
かがり
「オカリン……さん……」
倫太郎
「え?」
ふらりとした足取りで近づいてきたかがりが、その身を俺に預けてきた。
突然のことに、息を呑む。
胸元に触れる温もりが。
感触が。
紅莉栖を想起させる。
倫太郎
「紅莉……栖……?」
かがり
「うぅっ……」
苦しげなそのうめき声に、我に返った。
倫太郎
「っ、どうした、かがり!?」
かがり
「頭……頭が……っ」
倫太郎
「頭が痛いのか?」
かがり
「う……あぁっ……ぁ……!」
かがりは俺の腕の中で激しく身を捩った。
かがり
「いや……嫌だ……もう、あんなとこ、帰りたくない……」
かがり
「助けて……誰か……誰かここから出して!!」
倫太郎
「どうしたんだ、かがり!?」
かがり
「助けて、ママ! どうして助けてくれないの? ママ! ママぁ!!」
倫太郎
「落ち着け! 落ち着くんだ、かがり!!」
なおも暴れようとするかがりの両手を取って抑えつける。
道行く連中が何ごとかと視線を向けていたが、今はそんなことを気にしている余裕も無い。
倫太郎
「大丈夫。大丈夫だから……」
かがり
「う、あぁ……はぁっ……あ、あぁ……オカリン……さん……」
倫太郎
「歩けるか? とにかくラボに戻ろう」
かがり
「っ…………」
ようやく落ち着きはしたものの、それでも苦しそうなかがりの肩を抱えるようにして、俺はラボへと向かった。
ラボへ戻ってから、かがりはしばらく眠ったきりだった。
ひとまず、頭痛は落ち着いているようだが、それでも時折うなされるような様子を見せていた。
まゆり達には既に連絡しておいたから、もうすぐ来てくれるはずなんだが。
それにしてもさっきの言葉……。
かがり
「助けて……誰か……誰かここから出して!!」
かがり
「助けて、ママ! どうして助けてくれないの? ママ! ママぁ!!」
あれは何だったんだ?
もしかしたら、失われたかがりの記憶の断片だろうか。
だとしたら、やっぱり彼女は……。
まゆり
「オカリン!」
時計を確認しようとすると同時、ドアが開き、まゆりとルカ子が飛び込んできた。
るか
「かがりさん、大丈夫なんですか?」
倫太郎
「ああ。今はよく眠っている」
まゆり
「よかった~」
かがり
「ん……」
俺たちの話し声が耳に届いたのか、かがりがうっすらと目を開けた。
るか
「かがりさん……」
かがり
「あ……あれ? ここ……どこ……?」
キョロキョロと辺りを見回し、怯えたような表情を見せる。
るか
「落ち着いて。ここはラボですよ」
かがり
「ラ……ボ……? 日本……?」
まゆり
「そうだよ。日本の、秋葉原だよ」
かがり
「日本……私、日本に……」
かがり
「あ、そっか……私、交換留学で……」
かがり
「そういえば講演の準備は……」
まゆり
「留学?」
るか
「様子が、変です……」
まゆり
「ねえ、オカリン……?」
倫太郎
「…………っ」
留学――。
講演――。
それは――紅莉栖の記憶だ。
かがり
「あれ? 論文! 論文は!? パパに見てもらおうと思って、頑張って書いたんだけどっ」
倫太郎
「落ち着け、かがり! それは君の記憶じゃない!」
言い聞かせると、かがりはぼんやりした顔を上げた。
かがり
「……オカリン……さん……」
倫太郎
「そう。お前は椎名かがりだ。牧瀬紅莉栖じゃない」
かがり
「かがり……私は……椎名、かがり……」
かがり
「う……あ、あぁっ……!」
かがり
「あぁあああああああああ!!」
倫太郎
「ルカ子。悪いが、かがりのことを頼む」
るか
「はい」
あの後、かがりはしばらく混乱していたものの、それでも次第に落ち着きを取り戻していった。
やがて、もう大丈夫だという頃合いを見計らい、こうして柳林神社まで送って来たんだが。
やはりこのまま俺たちだけでかがりの面倒を見るのは、無理があるんじゃないだろうか。
病院に連れて行くべきじゃないんだろうか。
そうしようとしないのは、俺の……エゴなんじゃないのか。
そんなことを、歩いている間、ずっとグルグルと考えていた。
まゆり
「今日はまゆしぃも一緒に泊まることにするね」
倫太郎
「あ、ああ。そうしてもらえると助かる」
まゆりがいてくれるだけで、かがりも安心するだろう。
倫太郎
「なるべく、普段と同じように接してやってくれ」
まゆり
「うん。わかった……」
何かあったらすぐに連絡を寄こすように告げ、俺はふたたびラボに戻った。
鈴羽
「かがり、酷いの?」
ラボに戻った俺に、開口一番に鈴羽が訊いてきた。
ソファには鈴羽と、そして真帆が並んで座っている。
ふたりには、あらかじめRINEで状況は伝えておいた。
だが、それでも心配だったのだろう。
倫太郎
「今は落ち着いてるが、一時はかなり混乱していた」
真帆
「やっぱり……紅莉栖の記憶?」
倫太郎
「ああ。ここまで来ると、もう間違いないだろう」
なぜそうなったのかはわからないままだが、かがりの頭の中には、牧瀬紅莉栖としての記憶がある。
問題は、この問題についてどう対処するかだ。
俺たちだけで出来ることは限られている。
せいぜい頑張ったところで、何故こんな事態に陥ったのかを突き止めるくらいが関の山だ。
それだけでは根本的な解決にはならない。
最終的に必要なのは、どうやってかがりを元に――紅莉栖の記憶を取り除き、本来のかがり自身の記憶を戻してやるか、だ。
そのためには専門家の力が必要だった。
そういう意味では、比屋定真帆も、専門家と言える。
少なくとも記憶とか脳のメカニズムについて言うなら、これほど心強い人物はいないだろう。
しかし、ひとつ問題があった。
真帆にはまだ、かがりが未来から来た存在だという事実を教えていない。
この世界線において、真帆はまだ鈴羽たちとはそれほど交流がない。当然、未来のことやタイムマシンのことも知らない。
果たして、それを教えていいものか……。
真帆
「ねえ、あなたたちは、かがりさんとはどうやって知り合ったの?」
真帆
「漆原さんのところに来る前は、彼女はどこで何をしていたのかしら」
鈴羽
「かがりは千葉の県境で倒れていたところを、助けられたんだ」
鈴羽
「意識を取り戻した時点で、それ以前の記憶は無かった」
そこに至る経緯は、前の世界線とほぼ同じ。
真帆
「でも、子供の頃の記憶はあるんでしょう? 鈴羽さんは、彼女と知り合いだったのよね?」
真帆
「子供の頃の彼女は、どこで何をしていたの?」
鈴羽
「…………」
鈴羽は、黙って俺の顔を呎ってきた。
彼女は今のかがりの状況に、責任を感じているんだろう。
どうにかして、本来のかがりを取り戻したい。そんな気持ちが顔に表れている。
鈴羽
「おじさん。どうする? 比屋定さんに話しても?」
真帆は科学者だ。
本当の事を話せば、きっとタイムトラベルに興味を覚えるに違いない。
ともすれば開発を始めてしまうかもしれない。
それは多大な危険を含んだ行為だ。
けれど――。
倫太郎
「かがりを救う方法を突き止めるためには、やむを得ないか……」
考えた末に、俺は首を縦に振った。
今はまず、かがりを何とかしてやらなければならない。
俺の答えに力強く頷くと、鈴羽は真帆に向き合う。
鈴羽
「今から話すことを知っているのは、ごく一部の人間しかいない」
鈴羽
「だから、比屋定さんも決して他の誰かに漏らしたりはしないで」
真帆
「な、なんなの、急に……」
殺気だったともいえる突然の鈴羽の態度に、真帆は確かに気圧された様子を見せた。
それでもなお、鈴羽は続ける。
鈴羽
「冗談に聞こえるかもしれないけど、冗談なんかじゃないんだ」
鈴羽
「約束出来るか否か。答えはふたつにひとつだ」
真帆
「っ……」
戸惑いの目を俺に向けてくる。
が、俺の表情に何かを感じとったのだろう。
真帆
「わ、わかったわ。誰にも言わない。約束する」
しっかりと頷いた。
鈴羽
「それじゃあ、まずはさっきの質問の答え。子供の頃、あたしとかがりがどこで何をしていたか……」
鈴羽
「あたしたちは、第三次世界大戦が終わった後の、いまだ各地で内戦が続く戦時下に暮らしていた。2036年のね」
真帆
「…………」
投げかけられた言葉にしばらくはぽかんと口を開けていた真帆の顔が、怒りでみるみる紅潮していく。
真帆
「からかわないで。人が真剣に訊いてるのに」
鈴羽
「…………」
鈴羽は何も言おうとしない。
凍えそうなほど冷静な目で、じっと真帆を見据えているだけだ。
倫太郎
「比屋定さん。鈴羽が最初に忠告したはずだ。これは、作り話でも冗談でもない」
倫太郎
「鈴羽とかがりは、25年後の未来からやって来た存在なんだ。――タイムマシンでな」
真帆
「タイムマシン? そんな物が作れるわけが――」
倫太郎
「その理論の大元を作ったのが、牧瀬紅莉栖だと言っても、か?」
真帆
「…………っ」
紅莉栖の名前を出された途端、真帆の顔から怒りの表情が消えた。
真帆
「そん……なの……」
真帆
「…………」
真帆
「……わかった。聞くだけは聞くわ」
俺と鈴羽は、真帆にほぼ全ての事を話して聞かせた。
紅莉栖との出会い。
Dメール。
α世界線での出来事。
タイムリープマシンの開発。
まゆりの死。
アトラクタフィールド理論。
2036年でのこと。
かがりの境遇。
ただひとつ――紅莉栖の死の真相だけを除いて。
真帆
「とりあえず、話を整理させて……」
真帆
「つまり、鈴羽さんとかがりさんは、岡部さんに未来を変えてもらうために、2036年からやって来たと、そう言うのね」
鈴羽
「そうだよ」
真帆はソファに身を沈めると、大きなため息をついた。
真帆
「岡部さんに、そんな大層なことが出来るとは思えないわ」
真帆
「たった一人の人間に、全人類の命運がかかっているなんて」
倫太郎
「俺だって無理だと思っている」
事実、俺は諦めたんだ。
全ての未来を。
真帆
「とうてい信じられない話ではある。あるけど……」
真帆
「でも、貴方の言ったその理論なら、確かにタイムリープは可能かもしれない」
真帆
「それに何より、その理論の基を作ったのは紅莉栖なんでしょう?」
真帆
「だったら、検証に値するわ」
真帆
「だって、あの子は……天才だもの」
小さく呶いたその言葉には、憧れと羨望と嫉妬と、それら全てがない交ぜになっているように、俺には思えた。
倫太郎
「信じるんだな?」
真帆
「その代わり、今度見せてほしいわね、そのタイムマシンを」
真帆
「乗って来たっていうなら、あるんでしょ? どこかに」
鈴羽
「……ある。すぐ近くにね」
真帆
「検証作業は必要だけど、とりあえずあなたたちの話を信じることにする。だからあなたたちも、私に信じさせるよう協力して」
鈴羽
「わかった」
鈴羽はあっさりとそう答えた。
真帆
「……ありがとう」
鈴羽がいいと言うなら、俺が口を挟むことは何も無かった。
真帆が協力してくれるなら、それでいい。
倫太郎
「……話をかがりの件に戻そう」
倫太郎
「さっきも言ったように、はぐれたのは彼女が10歳の頃……」
倫太郎
「そしてそれ以降、先月になって見つかるまでの足取りは全くつかめていない」
倫太郎
「俺は……その間、彼女が海外にいたんじゃないかと考えている……」
その期間がどれほどかは不明だ。
ずっとかもしれないし、わずか1週間ほどかもしれない。
鈴羽
「オカリンおじさんの仮説だと、ヴィクトル・コンドリア大学にいたことになるね」
倫太郎
「ああ。そして、なんらかの形で『Amadeus』と接触した……」
真帆
「…………」
真帆は受容とも諦観ともとれる顔をして、大きく息をついた。
『Amadeus』のために保存された、牧瀬紅莉栖の記憶データ。
かがりの頭の中にある紅莉栖の記憶の元となっているのは、そのデータ以外に考えられない。
それを裏付けたのが、今日のかがりの言動だ。
留学。講演。
彼女の口から出た紅莉栖の記憶の断片は、すべて日本に来る前に決まっていたことばかりだった。
紅莉栖の記憶データが最後に取られたのは、アメリカを発つ前。
その点でも、状況は合致する。
真帆
「この前、レスキネン教授に確認してみたんだけど、紅莉栖の記憶データは凍結されたまま。誰もアクセス出来ないはずだと言っていたわ」
真帆
「ただ、それが事実かどうかを確かめる権限は、今の私にはない」
真帆
「それに、プロジェクトが凍結される前に何者かがデータを持ち出したことだって考えられるし……」
倫太郎
「持ち出すことの出来る人間は、『Amadeus』の研究に携わっていた人間に限定されるんじゃないか?」
真帆
「そうとは限らない。外部からサーバーに侵入すれば、誰にだって出来ることよ」
誰にだって、というが、そこらの人間には無理だろう。
それこそ、スーパーハッカーでもなければ。
真帆
「問題は、目的ね。岡部さんの仮説が正しいとして、何故そんなことをする必要があったのか……」
可能性として考えられるのは、何者かが牧瀬紅莉栖の頭脳を欲したというもの。
しかし、それならば『Amadeus』でこと足りるはずだ。
なにも他人の脳に記憶を移植する必要なんてない。
それに、果たしてそこまでして紅莉栖の頭脳を欲する理由があるのかどうか。
いかに紅莉栖が天才とはいえ、世間ではまだ論文をひとつ発表しただけだ。
それほどまでに、彼女の頭脳を必要とする理由がない。
考えられるとすれば――。
倫太郎
「もし、紅莉栖の記憶の中に、タイムマシン理論の基礎があることを何者かが知ったとしたら……」
欲しがる人間は、必ずいる。
真帆
「でも、紅莉栖がその理論に行きついたのは、あなたの言う




世界線
①①①
なんでしょう?」
倫太郎
「中鉢論文を知ってるか?」
真帆
「……中鉢? それって、ロシアに亡命した?」
倫太郎
「そうだ」
真帆
「例の論文には、私も軽く目を通したけど、とても論文と言えるものではなかったわ」
倫太郎
「あれは、劣化コピーだと俺は考えている。オリジナルが別に存在するんだ」
真帆
「いったい……なんの話……?」
倫太郎
「……ドクター中鉢の本名は、牧瀬章一。紅莉栖の、実の父だ」
真帆
「……!」
思い出す。
あの日、俺がこの目で見た出来事を。
紅莉栖
「私も考えてみたの。タイムマシンは作れるのかどうか」
紅莉栖
「読んで、パパの意見を聞かせてほしい」
中鉢
「……悪くない内容だ」
紅莉栖
「本当?」
紅莉栖
「この論文はパパと共同署名でもいいと私は思って――」
中鉢
「学会には出すな。これは私が預かっておく」
真帆
「そういえば……」
真帆
「紅莉栖が、日本に行く前に言ってたの。父親に会うって。新しい理論の発表会をするらしくて、その招待状が来たって……」
あの時、紅莉栖は自らが書いた論文を中鉢に奪われていた。
その後、ロシアに渡った中鉢が発表したのが『中鉢論文』と言われるものだ。
論文自体に、俺は目を通していない。
論文のことを想起すると、どうしてもあの日のことが――その直後に起こった出来事が思い出されて、目を背けていた。
ただ、論文の評価自体は井崎教授たちから聞いていた。
トンデモ論文と言っていいほど、出来の悪いものだったと。
だが仮に――発表された論文が劣化コピーであったなら。
発表されたのは、紅莉栖の書いた論文を中鉢なりに解釈して書き直したもので、紅莉栖によるオリジナルが他に存在するのだとしたら……。
そうなんだ。
あの紅莉栖が書いた論文。それがそんなに陳腐なものであるはずがない。
事実、あいつはタイムリープマシンを作り出してみせたのだから。
真帆
「それじゃあ、その論文の存在を知った誰かが、紅莉栖の記憶からタイムマシンに関する理論を取り出そうとしてるってこと?」
鈴羽
「第三次世界大戦が起きたきっかけは、EUとロシアによる、タイムマシン競争の過熱なんだ」
鈴羽
「そこにアメリカまで横やりをいれて、収拾が付かなくなった」
鈴羽
「まさに、時代は歴史通りに動き出している」
あの時――前の世界線でこのラボを襲った連中。
天王寺によると、奴らは外国人、それも軍関係者とのことだった。
どこかの軍が、紅莉栖のタイムマシン理論を欲している。
そう考えると、かがりの頭に記憶をダウンロードするという行為にも説明がつく。
話したくない事、話してはならない事は、『Amadeus』は決して喋らない。
しかし、生身の人間ならどうだ?
自白剤や、拷問などを行えば……あるいは喋るかもしれない。
かがりはその為の実験に使われたのかもしれない。
もちろん、これもまだ想像の範疇でしかない。
だが、かがりを連れて行こうとしたのが、どこかの軍に所属する人間だと考えるなら、充分に有りうる話だ。
真帆
「記憶のデータを脳に移植する……か」
倫太郎
「可能なんだろう? 今の技術でも」
倫太郎
「紅莉栖はそれを成し遂げた。それは、紅莉栖が研究していたことの応用だと言っていた」
真帆
「ええ、そうね。可能よ」
真帆
「それに、もともと『Amadeus』は、そのために作られたものなんだし」
医療分野への応用、だったか。
セミナーでレスキネンが話し、それを真帆が通訳していた。
この世界線では……『Amadeus』は凍結されているから、そのセミナーそのものがなかったことになっているが。
真帆はそのときと同じような説明を、もう一度してくれた。
やはり、記憶データの移植は理論上は可能なのだ。
真帆
「紅莉栖の考え出した“タイムリープマシン”だって、その応用だわ」
倫太郎
「もっとも、そのどちらも、自分の頭の中に自分の記憶を移植する、という目的で作られたものだがな……」
それですら、紅莉栖は危険だと言っていた。
鈴羽
「じゃあ、他人の脳に別人の記憶を移植するとどうなる?」
真帆
「単純に、
OS

の違うPCのハードディスクに、別のデータをコピー……というわけにはいかないと思う」
真帆
「そもそも、人間の脳のキャパシティがどれくらいあるのかすらわかっていないの」
真帆
「容量的な事だけを言えば、20歳の女性2人分の記憶くらいは余裕で保存出来るというデータはあるけど」
以前ダルは、記憶の容量について3.24テラだと言っていた。
真帆
「だけど問題はそれ以外の部分」
真帆
「岡部さんの言うとおり、自分自身の頭に記憶をダウンロードすることすら、まだ実用段階には至っていない」
真帆
「それなのに他人の記憶を、となると、いつ齟齬を起こしてもおかしくないわ」
真帆
「そして実際に今、そのエラーは起きつつある……」
鈴羽
「このまま放っておくと、かがりはどうなる?」
鈴羽
「ひょっとして……牧瀬紅莉栖になってしまうのか?」
真帆
「記憶と人格は別ものよ。脳の中で記憶を扱うのは、海馬と大脳皮質。一方で、人格は前頭前野の働きによって形成されている」
真帆
「それらの働きは、お互い密接に繋がっている部分も大きいわ」
脳の働きは、部位によって役割は決まっているものの、それぞれが完全に独立したものともいえない。
記憶によって人格が形成されている部分も大きいだろう。
真帆
「ふたつの記憶が混在することで、脳に対する負担もかなり大きくなってるはず……」
真帆
「このまま放っておいた場合、最悪、かがりさんの人格は崩壊を……」
鈴羽
「く……」
鈴羽が、悔しそうに自身の膝に拳を打ち付ける。
倫太郎
「それを防ぐ手立てはあると思うか?」
真帆
「かがりさんの頭の中から、紅莉栖の記憶を取り除くしかないでしょうね」
倫太郎
「……出来そうか?」
真帆
「脳のデータが解析出来ればあるいは……でも、出来るようになるとしても何年先か……」
鈴羽
「…………」
鈴羽の拳は、音が出そうなほどに握りしめられていた。
あの時、自分がかがりを見失ってさえいなければ――そう思っているのがありありとわかる。
真帆
「ひとつ手があるとするなら……」
真帆
「もう一度、過去のかがりさんの記憶を上書きすること、かしら……」
倫太郎
「もう一度……記憶を……?」
真帆
「そもそも、かがりさんの記憶を操作した人間は、かがりさんの記憶を残すつもりは無かったと思うの……」
真帆の言うとおりかもしれない。
ふたり分の記憶をひとつの脳の中に入れるなんて行為、不具合が起きてくれと言っているようなものだ。
であるなら、かがりに対する実験は、本来狙っていた結果とは違う結果を引き起こした――いわば失敗だったんじゃないか。
真帆
「だったら、もう一度かがりさんの記憶を、きちんとした装置で脳に上書きしてあげれば、あるいは元通りに出来るかもしれない」
倫太郎
「しかしそのためには、かがりの記憶データが無いと……」
真帆
「バックアップが取ってあることを期待するしかないわね」
鈴羽
「装置はどうする? 簡単に見つかればいいけど」
真帆
「ないなら、作ればいいわ」
倫太郎
「そんな簡単に……」
真帆
「でも、紅莉栖は作れたんでしょう?」
倫太郎
「え?」
ああ、そうか。
あのタイムリープマシンの応用でいいんだ。
真帆
「だったら、私にも作れる……ううん、作ってみせる」
それなら俺にも協力出来るかもしれない。
真帆
「問題は、記憶データがどこにあるか、ね。こればっかりは、何とかして突き止めるしか方法がないわ」
とはいえ、情報が少なすぎる。
わかっているのは外国の軍隊――それも西側の軍隊だということだけ。
それも確かな情報じゃない。
鍵を握っているとすれば、あのライダースーツの女だけだが……。
一瞬浮かび上がった人物を頭から追い払う。
鈴羽
「何かいい方法でも思いついた?」
倫太郎
「いや、なんでもない」
あれは阿万音由季じゃない。
そんなはずはない……。
鈴羽
「……?」
その後も俺たちは遅くまで、かがりに実験を行った連中を突き止める方法について話し合った。
しかし、何も具体的な方法が得られないまま。
時間だけが過ぎていった。
真帆
(信じられない……)
真帆
(ううん、でも本当なのよね……!)
電車の中で、比屋定真帆は興奮を抑えきれないでいた。
未来から来たというふたりの少女。
そして、タイムリープを繰り返したという岡部倫太郎の話。
普通ならば、とても信じられるようなものではない。
しかし、その構想の礎になっているのが、牧瀬紅莉栖の頭脳だと言われ納得がいった。
彼女ならば――あの天才ならば、可能にしてしまうかもしれない。
紅莉栖は真帆にとって、そんな可能性を感じさせる存在だった。
それに、なにより真帆は目にしたのだ。
ラボからの帰り、鈴羽に連れられて上ったラジ館の屋上で。
本物のタイムマシンを。
時間もなく、また夜だということで、詳しく調べることは出来なかったが、一見してそれは現代のテクノロジーで作られた物でないことはわかった。
本当なら、明日から――いや、今からでもあのマシンを事細かに解析して、同じものを作り上げたいくらいだった。
けれど、その前に真帆にはやらなければならないことがある。
紅莉栖が作ったという、タイムリープマシン。
その改良版を作ることだ。
そのためには、しばらくラボに入り浸ることになるだろう。
そう考え、必要なものを取りに和光市にあるオフィスに向かった。
外から見たオフィスの窓には、この時間でもまだ明かりが灯っているのが見えた。
レスキネン
「マホ!」
オフィスに入るなり、レスキネン教授が青ざめた顔をして駆け寄ってきた。
真帆
「え……なにこれ……」
室内には、明らかに荒らされた形跡があった。
もともと、ガランとしていて大した荷物はないオフィスだったから、パッと見ただけでは変化がないように見えるが。
真帆とレスキネン教授のデスクは、集中的に物色されていた。
引き出しには鍵をかけていたはずなのに、壊され、中身がすべてぶちまけられている。
レイエス教授はたいした荷物を持ってきていなかったことも幸いして大きな被害はなかったが、それでも引き出しがひっくり返されていた。
真帆
「これは……何があったんですか!?」
レスキネン
「何者かが侵入したらしいんだ」
真帆
「泥棒ってことですか?」
レイエス
「ワタシが来た時には、この状態だったの。もしかしたら、企業スパイの類かもしれないわね」
真帆
「こんな、何もないところで?」
だったら隣にある理化学研究所を狙うべきではないだろうか。
そもそも、このオフィスの存在を知っている人間なんて、数えるほどしかいないはずなのに。
ふと、ついさっきまで岡部たちと話していたことが現実味を帯びてくる。
まさかこれも、あの話と関係しているのだろうか。
タイムマシンを巡る、国家間の水面下での争いが、すでに始まっている……?
レスキネン
「とにかく、マホ。君も何か盗まれていないか調べたまえ」
真帆
「は、はい……」
レスキネン
「どうだい? 何か盗られていた物はあったかい?」
真帆
「いえ、私のほうは何も……」
机の上も引き出しの中も確かめてみたが、何ひとつ盗られた物は無かった。
真帆
「教授たちは?」
レイエス
「こちらも、何も盗まれてはいないようだわ」
レスキネン
「PCの中も確かめてみたが、第三者にアクセスされた形跡は見られない」
レスキネン
「本当に何も盗られてないかい?」
真帆
「はい」
レスキネン
「そういえば、マホ。君のノートPCはどうした? もしかして盗まれたんじゃないか?」
真帆
「ああ、あれならホテルに置いてあるから大丈夫です」
レスキネン
「そうか。ならいいんだが……」
レイエス
「どうする? 警察に連絡する?」
レスキネン
「何も盗られていないなら、事を荒立てる必要はないのかもしれないなあ……」
レイエス
「そうね……少し、様子を見ましょうか」
そんな生っちょろいことでいいのかとも思ったが、警察沙汰になると色々と厄介なのも理解出来た。
特に、外国から来ている身にとっては。
そして、何より研究以外のことに時間を取られるのが嫌なのだ。
それは真帆としても同様だった。
真帆
「あの、教授。実はお願いがあるんです――」
レスキネン教授は驚くほどあっさりと、真帆の休暇を認めてくれた。
正月の間もオフィスに通っていたのが幸いしたのかもしれない。
これで、タイムリープマシン作りに専念出来そうだった。
ホテルの部屋に戻った真帆は、急いで荷物の用意をした。
ホテルを引き払うわけではないが、それでもしばらくラボに詰めるための着替え諸々は必要だ。
真帆
「よし。あとは……」
荷物を詰め終えたバッグを手にすると、真帆は傍らに置いてあったもうひとつのバッグを手に取った。
紅莉栖の形見分けに貰った、ノートPCとポータブルハードディスク。
これまで何度もパスワードの解析を試みたが、いまだ成功してはいなかった。
持って行ったところでしばらくは何も出来ない、そうわかってはいても、置いて行くには忍びなかった。
真帆
「そうだわ。確か彼……」
全ての確認を終え、部屋を出ようとしたところで、真帆の頭にふとある考えが浮かんだ。
――我ながら悪くない考えだ。
――もしかしたら、これも亡き紅莉栖の意思だろうか。
そんな風に考えそうになって、真帆は慌てて頭を振った。
紅莉栖に怒られてしまう。
死と生は0と1だ。
どちからでしかない。
死んだ後、この世に介在する意思などない。
存在するとすれば、それは。
脳の中にだけあるのだから。
かがりに紅莉栖の記憶を植えつけたのは何者なのか、何の手がかりも得られないまま数日が経過した。
かがりを保護してくれた住職さんのところまで出向いて話を聞いたり、その付近で聞き込みをしてもみたが、めぼしい情報は得られなかった。
鈴羽は自分なりに調べているようで、あれからラボに戻ってきていなかった。ダルに定期的に連絡はしているようだから、危険な目にはあっていないと思うが。
天王寺や萌郁に改めて依頼してみたものの、そちらも一切尻尾を掴めないでいるらしい。
そもそも、この世界線では、ラボは襲撃されていない。
となると、連中は何か別の動きをしているのかもしれない。
仮にそうだとしても、その動きがどういったものなのか、俺には想像もつかないが。
しかし、何者かが幼かった椎名かがりを連れ去り、実験をし、最近になって鳥籠から逃げられてしまったことは確かなんだ。
何か良からぬことを画策しているのは間違いない。
だが、だからと言って、時間のない俺たちに、その連中が動くのを待ってもいられない。
けれども、手がかりがなくては打つ手すらもない。
繰り返される堂々巡りの中、ただ焦りだけが募ってゆく。
かがり
「すみません、真帆先輩。私のために」
真帆
「ううん……あと少しで出来そうだから。それに、これは私のためでもあるんだし」
開発室からふらふらとした足取りで出てきた真帆は、どっさりとソファーに身を沈めて、眠そうに笑った。
目の下には隈が出来ていた。
真帆はここ数日、寝る間も惜しんで装置の開発に勤しんでくれている。
一刻も早く、その苦労に報いなければならないのだが。
真帆
「それにしても、携帯電話を使うだなんて、普通考えないわ。たとえ考えついたとしても、実行に移そうなんて思わない」
倫太郎
「ケータイは話す時にどうしても受話器をこめかみ付近に近づける必要があるからな」
かがり
「こめかみ周辺には大脳前頭葉と大脳側頭葉がありますからね」
かがり
「側頭葉の海馬傍回が記憶を貯蓄する場所だと考えると、妥当な判断かと」
真帆
「問題は、どうやって記憶を圧縮させるか、よね」

「それについては、目下僕が毎日徹夜で頑張ってるわけだが」
倫太郎
「すまないな、ダル……」

「しかも、ハッキングがここからだって絶対にバレないようになんて言うから、大変だっつーの。他のバイトだってあるのにさ」
記憶の圧縮には、どうしてもSERNの
LHC

を拝借する必要がある。
散々悩んだ。
SERNを敵にまわせば、またあの惨劇が繰り返されることになる。
だがSERNが俺たちを襲った大きな原因はあのメール――過去に送ったDメールにあった。
あれさえなければ、SERNもそこまでの行動には出ないはずだ。
そもそも今回はDメールを送るわけではないのだから、SERNに捕捉されることもないだろう……おそらくは。
幸いなことに、ハッキングの上で必要となるIBN5100も鈴羽が持っていた。
思った以上に条件は揃いつつある。

「にしてもさ、オカリン。彼女……ほんと、別人みたいなんですけど」
倫太郎
「ああ……」
ダルの耳打ちに小さく頷く。
ここ数日で、かがりの頭の中は紅莉栖の記憶による侵食をかなり受けていた。
最近では、ここに入り浸っている真帆と、よく専門的な会話を交わしている。
真帆への呼び方も、すっかり“先輩”になってしまった。
真帆も最初こそ違和感を覚えていたようだが、そのうち慣れてしまったようだ。
真帆としては、紅莉栖から装置の概要も聞きたいところだろうから、助かってはいるみたいだが。
真帆
「それにしても、こんなラボで本当にタイムリープマシンを作ってたなんて、実際にタイムマシンを目にした今でも信じられないわ」
かがり
「でも、人間の記憶をまるごとデータ化して過去に飛ばすなんて発想はすごいですよね。さすがは真帆先輩」
真帆
「その言葉、そっくりそのまま、あなたに返してあげるわ」
かがり
「はい?」
真帆
「あなたは天才で、所詮私はサリエリだったってことよ」
かがり
「……?」
こうやってふたりの会話を聞いていると、まるで真帆と紅莉栖が喋っているような錯覚にさえ陥る。
倫太郎
「なあ、かがり……」
かがり
「そうだ。アマデウスで思い出しましたけど、プロジェクトはどうなってるんですか?」
真帆
「残念ながら、凍結されたわ」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「凍結? どうして? もしかしてレスキネン教授が決めたんですか?」
真帆
「私にもわからないわ。教授はもっと上からの指示だって言ってたけど」
かがり
「そんな、せっかく順調にいってたのに」
倫太郎
「なあ、紅莉栖」
かがり
「はい?」
倫太郎
「…………」
かがり
「あ……あれ? 私、今……」
倫太郎
「君はかがり……椎名かがりだよな?」
かがり
「椎名……かがり……」
かがり
「そう……私は椎名かがり……私は……」
かがりは急に不安になったように、両手で自らの身体を抱きしめた。
かがり
「でも、それじゃあ……これは……この頭の中にある記憶は何?」
倫太郎
「それは牧瀬紅莉栖の記憶だ。君の記憶じゃない」
かがり
「そんなこと言われても、わかんないよ!」
先程、真帆と話していた時とは打って変わって、かがりは駄々っ子のように声を荒げた。
かがり
「だって、私にとっては私の記憶でしかないんだもん!」
かがり
「まゆりママたちとの記憶も、子供の頃のパパとの記憶も、アメリカの大学での出来事も、全部私の中にあるんだもん!」
かがり
「どれが本当でどれが嘘かなんて、私……わかんない、よ……」
言葉はやがて嗚咽となった。
無理もない。かがりにしてみれば、全部が本当のこと。
嘘なんてなにひとつない。
自分をしっかり持て――そう言うのは簡単だ。
けれど、それでどうにか出来る形のものでもない。
かつてあのタイムリープマシンを完成させた時、紅莉栖が言っていた。
別の人の頭の中に記憶を送り込むことは絶対にやってはならない、と。
人格の崩壊を起こすと。
でも、もしも。
もしも、だ。
かがりをこのままにしておけば、どうなる?
かがりの記憶は無くなり、紅莉栖の記憶だけが残る――その可能性もゼロではない。
その時、俺の目の前にいるのは誰だ?
かがりか?
それとも紅莉栖か?
もしも、紅莉栖であるのなら――。
倫太郎
「…………」
そんなことない。
あるはずがない。
考えてはいけない。
けれど、そう思えば思うほど、そんな悪魔じみた考えが頭に浮かびそうになり、必死で否定する。
かがり
「ねぇ……私、どうしたらいいの? 助けて……ママ……パパ……」
こんな時にまゆりが傍にいてくれたらどんなにいいだろう。
だが、あいにくまゆりもルカ子も学校に行ってしまっていた。
ふたりとも、かがりのことを心配し、何かあったらすぐ連絡するようにとは言っていたが、だからと言ってホイホイ頼るわけにもいかない。

「かがりたん。ちょっと気分転換に散歩でもしてきたらどう?」
真帆
「そうね。人間、じっとしてると、余計なこと考えちゃうものよ。少しくらい身体動かしたほうがいいかもしれないわね」
かがり
「……うん」

「というわけで、オカリン。かがりたんを頼んだ」
倫太郎
「……わかった」
ふたり肩を並べて中央通りまで出てはきたものの、これといった目的もない。
かがり
「…………」
外の空気が気持ちの切り替えにでもなったのか、かがりは多少なり落ち着きを取りもどしていた。
倫太郎
「その……どこか行きたいところ、あるかな?」
かがり
「……どこでもいいの?」
倫太郎
「ああ。君の行きたいところでいい」
かがり
「……それじゃあ、紅莉栖さんと行ったところに連れて行って欲しい」
倫太郎
「……え?」
かがり
「オカリンさんが、紅莉栖さんと歩いたことのある場所に連れて行って」
俺と紅莉栖が行ったところ。
そうだな。
たとえば、この近所にあるコインランドリー。
たとえば、芳林公園。
たとえば、牛丼のサンポ。
あまり色気のある場所や、楽しげな場所は少ない。
あいつとは、いくつもの時間を共有していたけれど、その多くは、幾多もの世界線の向こうへと消えて行った時間だ。
何度も何度もやり直した時間だ。
その消え去ってしまった時間の中で、俺とあいつがしてきたことと言えば、ラボでの議論か開発がほとんどだった。
どこかへ遊びに行くという時間は、ろくに共有していなかった。
青森に行くという約束も、結局は果たされないまま。
かがり
「オカリンさんが紅莉栖さんと初めて会ったのは、どこ?」
倫太郎
「初めて会った場所……」
かがり
「私、そこに行きたい」
俺と紅莉栖が初めて会った場所。
それは――。
かがり
「ここが?」
倫太郎
「…………」
秋葉原の駅前にそびえ立つ、やたらカラフルな建物――ラジ館。
――始まりの場所。
そう、全てはここから始まった。
あの日――屋上に現れたタイムマシン。
俺が初めて紅莉栖に会ったのは、そのすぐ後だった。
今でも思い出す。
挑みかかってくるようなあの瞳。
思えば俺は、あの時既に紅莉栖に惹かれていたのかもしれない。
だがここは、紅莉栖に初めて会った場所でもあると同時に、俺があいつを――。
あいつを――。
倫太郎
「っ――!」
かがり
「オカリンさん? どうしたの?」
倫太郎
「す、すまない……」
ここ最近は、かがりの事で慌ただしくしていたせいか、少しはマシになったと思っていたのに……。
かがり
「汗、凄い……ごめん。もしかして、私のせい?」
倫太郎
「いや、そうじゃないんだ。ただ……」
ここに来ると、否が応にも思い出してしまう。
あの日の事を。
だけど。
倫太郎
「い、行こう……」
かがり
「いいの? 具合、悪いんでしょ?」
倫太郎
「大丈夫だ……」
いつまでもここで足踏みしているわけにもいかない。
このままじゃ、いつまで経ってもまゆり達を心配させたままだ。
いつかは克服しなければならないことなら――。
かがり
「わかった。それじゃ、行こう」
手のひらに柔らかな感触が触れた。
かがりが俺の手をしっかりと握ってくれていた。
倫太郎
「あり……がとう……」
俺はかがりに連れられるようにして、

すく
みそうになる足でゆっくりとラジ館の賑やかな路地へと踏み入った。
かがりが手を握っていてくれたせいか、中に入っても思ったよりも落ち着いていられた。
とはいえ、さすがにあの出来事があった階段を上がっていく気にはなれない。
俺たちはエレベーターに乗り、屋上へと向かった。
屋上はフェイリスこと秋葉留未穂によって、定まった人間以外は入れないよう、厳重に封じられている。
俺も鍵を預かっていたが、今日が初めて使う機会となった。
久々にラジ館の屋上に出てまず最初に目に入ったのは、歪な形をした乗り物――タイムマシンだった。
かがり
「わぁ、懐かしい! これこれ! 私、これに乗って来たんだよ!」
かがりは嬉しそうにタイムマシンに駆け寄った。
彼女の記憶が存在しないのは、鈴羽と別れて以降のこと。
未来から1975年のこの場所に跳んで来たことは、覚えているらしい。
かがり
「初めてこのビルの上に降りたときにね、お空がすっごくキレイでビックリしたの」
見上げる空はあいにくの空模様だ。
それでも、まるでそこに青い空が広がっているかのように、かがりは語った。
かがり
「私、ママと別れるのが嫌で、ずっとこのマシンの中で泣いてた。ママに会いたいよって……」
かがり
「そんなことじゃダメだ。いつまでも泣くんじゃないって、鈴羽おねーちゃんに言われて、それでも哀しくて……」
かがり
「そんな時に開いたハッチの外に見えたのが、青い空だったの」
倫太郎
「2036年の空は青くないのか?」
かがり
「うん。戦争の影響でね、ずっと黒くて暗い空。それに、外にもなかなか出してもらえないし」
1970年代半ばといえば、やっと高度成長期が終わった頃で、今ほどエコという概念も広まっていない時代だ。
大気汚染などが問題になっていた時期でもある。
もしかしたら、今よりも空気は悪かったかもしれない。
それでもなお、美しく思えたというなら、未来の大気は余程汚れているのだろう。
かがり
「オカリンさんは、ここで紅莉栖さんと初めて会ったの?」
倫太郎
「いや、ここじゃない。ここは――」
かがり
「あ……」
ぽつりと鼻先に冷たい雫が落ちた。
かがり
「降って来ちゃった」
倫太郎
「ああ、そうだな……」
そうだ。
紅莉栖
「……岡部か」
倫太郎
「生きてたか……」
紅莉栖
「そっか、ここだとあんたと会っちゃう可能性があること、忘れてた」
倫太郎
「なにをしていたんだ?」
紅莉栖
「……考え事」
倫太郎
「そうか……」
あの時も、吶が降ってきたんだった。
自分かまゆりのどちらかが死んでしまう運命にある――それを知った紅莉栖はあの日、ここでこうして同じように空を見上げていたんだ。
かがり
「うわっ!」
かがり
「す、すごい降ってきたよ~! オカリンさん、中に――」
倫太郎
「…………」
かがり
「オカリンさん?」
あの時のあいつは何を思っていたんだろう。
自分の運命を他人の――俺の決断に委ねたあいつは。
かがり
「オカリンさんったら! このままじゃ風邪引いちゃうよ!! 早くこっちに!」
かがりに腕を引かれ、吶の喧騒から逃れるようにビルの中に滑り込んだ。
そのまま引きずられるように連れられ、我に返ると――そこに座っていた。
建て替え計画の影響なのか、既に営業している店はなく、照明も消されている。おかげでずいぶんと薄暗い。
かがり
「はぁ~、ビックリ」
あの日、あの吶のあと、俺と紅莉栖はまさこの場所でふたり寄り添い話をしたんだ。
そして同時に、ここは――。
倫太郎
「ここだよ」
かがり
「え?」
倫太郎
「ここが俺と紅莉栖が初めて会った場所だ」
厳密に言えば、β世界線の紅莉栖と初めて会った場所。
半年前のあの時――。
紅莉栖
「さっき、私になにを言おうとしたんですか?」
倫太郎
「さっきとはいつのことだ?」
紅莉栖
「ほんの15分くらい前。会見が始まる前に」
紅莉栖
「私に、なにか言おうとしましたよね? すごく悲しそうな顔をして」
紅莉栖
「まるで、今にも泣き出しそうで、それにすごく辛そうでした」
紅莉栖
「……どうして? 私、前にあなたと会ったことありますか?」
思えば、あれが全ての始まりだった。
出会わなければ良かったんだ。
こんなことになるくらいなら。
最初から出会ったりしなければ、こんな気持ちにも……。
かがり
「オカリンさん……」
ふわりと優しい感触が頭に触れた。
倫太郎
「かがり……」
かがり
「私が怖がっていると、ママがよくこうしてくれたの……」
倫太郎
「どう、して……」
かがり
「だって、オカリンさん、すごく辛そうで……今にも泣き出しそうなんだもん」
子供をあやす要領で、かがりは俺の頭を何度も何度も撫でた。
倫太郎
「あいつと……紅莉栖と初めて会ったのはここだった」
かがり
「ここって……この踊り場?」
倫太郎
「ああ……。最初の印象は最悪。初めて会ったっていうのに、上から目線だわ睨みつけてくるわで、可愛さの欠片もなかった」
倫太郎
「もっとも。向こうだって、そう思ってただろうけどな」
なにしろあの時の俺は、機関だのエージェントだのと、痛々しいことばかりを口走っていたからな。
かがり
「でも……それでも、紅莉栖さんはオカリンさんにとって大切な人になった……」
倫太郎
「……ああ」
そうなったのは、α世界線の紅莉栖だ。
ここで出会った紅莉栖は、直後に……。
かがり
「私の顔って、紅莉栖さんに良く似てるんだよね?」
倫太郎
「……どうしてそれを?」
かがり
「せんぱ……真帆さんから聞いたの」
かがり
「それでネットで調べてみたんだけど、自分でもビックリするくらい似てた」
かがり
「そんな人の記憶が私の中にあるなんて……それも運命なのかなーって」
運命――。
いつだってそうだ。
運命が俺たちをあざ笑う。
翻弄する。
かがり
「ねえ、もしも……」
かがりの髪の先から落ちた雫が、床に


ねた。
かがり
「もしもね、椎名かがりの記憶が失くなって、完全に紅莉栖さんの記憶に入れかわるとしたら……」
かがり
「そしたら、私は、牧瀬紅莉栖になっちゃうのかな?」
倫太郎
「……そう簡単に行くものじゃないよ……」
かがり
「でも、もしもだよ? もしも、そうなるなら……オカリンさんは、嬉しい?」
かがり
「私が紅莉栖さんになったら、オカリンさんは嬉しい?」
それは、何度も否定した悪魔の囁き。
倫太郎
「俺は……」
俺はそんなこと――。
望んでいないと言えるのか?
かがり
「でも……私はやっぱり嫌だな……」
雫が床にぽつりと落ちる。
かがり
「このまま、自分がどうやって生きてきたのかもわからないまま……誰からも必要とされないまま消えちゃうなんて……」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「私……どうなっちゃうのかな……私は……私は……」
かがりは小さく震えていた。
それは決して寒さのせいだけではなかった。
かがり
「ごめん……ね……」
倫太郎
「いや……」
それが何に対しての“ごめん”だったのかわからないまま。
倫太郎
「このままじゃ風邪をひく。そろそろ帰ろう」
かがり
「うん……」
るか
「と、とにかく上がってください」
初めて入るルカ子の部屋は……やはり女子の部屋みたいだった。
まゆり
「わ、ふたりともずぶ濡れ……。急いで着替えなきゃ」
ラジ館からならラボに戻るよりも、柳林神社に向かったほうが早い。
そう判断した俺は、かがりを連れて柳林神社にやってきた。
途中でまゆりから連絡があったので、こっちに先回りしてもらった。
今のかがりには、俺よりもまゆりママがついていた方が、安心出来ると思ったからだ。
かがり
「ママ……」
案の定、まゆりの顔を見た途端に、かがりの表情が少しだけ穏やかになった。
まゆり
「寒かったでしょ~?」
るか
「お風呂、沸かしてきますね!」
俺たちに吶を拭うためのタオルを手渡して、ルカ子はいそいそと部屋を出て行った。
かがり
「お風呂……ママと一緒がいい……」
まゆり
「まゆしぃと? うん、いいよ。あ、でもオカリンはどうする?」
倫太郎
「いや、俺はいい。かがりを先に入れてやってくれ」
まゆり
「うん、ありがとう。オカリンも風邪ひいちゃうから、着替えだけでもしてね?」
倫太郎
「ええと……なんとかする」
ルカ子の父親の服でも借りるか……?
考えつつ、かがりのことはまゆりに任せて部屋を後にしようと立ち上がったその時――。
まゆり
「かがり……ちゃん?」
かがり
「…………」
まゆり
「どうしたの、かがりちゃん?」
かがりの様子がおかしかった。
かがりはまゆりの顔を不思議そうに見つめている。
倫太郎
「かがり?」
かがり
「……だれ?」
まゆり
「え?」
かがり
「あなたは……だれ……?」
まゆり
「……まゆしぃだよ、かがりちゃん」
かがり
「かがり……私の……名前……?」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「ちが……う……私……わたしは……」
かがり
「誰……? 誰なの? 私は……!」
かがり
「う……」
かがり
「うあぁっ……あああああああああ!!」
かがりが頭を掻き毟るようにして、地の底から湧き上がるようなうめき声を上げた。
倫太郎
「しっかりしろ、かがり!」
かがり
「ああああぁぁっ! 痛い……痛い痛い痛い痛い!」
かがり
「痛い……痛いよママ……助けて……パパ……助けて……!!」
かがり
「誰か……助けて……私を助けてよぉ…………」
かがり
「誰……か……たす、け……て……」
まゆり
「かがりちゃんっ!」
それはまさに、操り人形の糸が切れたようだった。
全身から力が抜けたかと思うと、かがりはそのままその場に崩れ落ちた――。
ルカ子の家を出る頃には、吶もやんでいた。
あの後、しばらく様子を見てみたが、かがりは目を覚ましそうになかった。
眠っているその姿は穏やかで、ひとまずその場はまゆり達に任せて、俺はラボに戻ることにした。
まゆりやルカ子によると、かがりはこれまでも何度か、混乱を来すことはあったらしい。
しかし、今回みたいなことは初めてだったそうだ。
俺たちは少し軽く考え過ぎていたのかもしれない。
おそらく彼女の脳には既に、かなりの負担がかかっている。
一刻も早く対策を打たなければならない。
だが、そのためには――。
至&真帆
「キターーーー!」
「出来たわ!!」
ラボの扉を開けるなり、ダルと真帆、ふたりの声が室内に響いた。
倫太郎
「ほ、本当か!?」
靴を脱ぐのももどかしく上り込む。

「お? オカリン、なんつーグッドタイミング!」
真帆
「岡部さん、びしょ濡れじゃない!」
倫太郎
「そんなことはどうでもいい! それよりも……やったのか!?」

「むふっ!」
ダルはビシッっとサムアップをして見せた。
倫太郎
「でかした、ダル!」

「スーパーハッカーなのだぜ。これくらい当然だっつーの」
事もなげに言ってはいるが、SERNをハッキングするのに、どれほどの能力と労力が必要かを、俺は充分に知っている。
そこらのハッカーに出来ることじゃない。
スーパーハッカーの呼び名も伊達ではない。
倫太郎
「比屋定さんは!? 比屋定さんの方も完成したのか!?」
真帆
「私だって、これくらいどうってことなかったわ」
真帆も、ダル同様、親指を立ててみせた。
倫太郎
「さすがだな……」
真帆
「ま、これも全部、あなたやかがりさんから情報を得られたからなんだけど」
真帆
「そういう意味では、かがりさんの中に紅莉栖の記憶が残っていて助かったわね」
倫太郎
「いや、それでも完成させたのは比屋定さんの力だ」
真帆
「ありがとう。その言葉、素直に受け取っておくわ」
真帆
「あとは実際にきちんと機能するかどうかが問題だけど……こればっかりは試してみるわけにもいかないのよね」
倫太郎
「そうだな」

「僕は
キッチンジロー

3回な」
それくらいならお安い御用だ。
ともかく、これでお膳立ては揃った。
あとは――連中が何者なのかを突き止めるだけ。
だが――そこが一番の問題だった。
真帆
「ふう……、それじゃ、私はちょっと眠らせてもらうわ。さすがに疲れ――」
真帆の言葉を遮るように、スマホの着信音が響いた。
真帆
「もう、誰よ。人がこれから寝ようって時に……」
真帆
「はい、もしもし……」
文句を言いながらも、スマホを手に開発室の奥へ向かう。

「で、かがりたんのほうはどうなん?」
倫太郎
「それなんだが……」
言いかけたと同時に、今度は俺にRINEが届いた。
ルカ子からだ。
ルカ子からの連絡にホッと胸を撫で下ろしながら、返事を送る。
倫太郎
「実は、あまり良くない。今日なんてまゆりの事すらわからなくなった」

「マジで……?」
倫太郎
「それだけじゃない。その後、ひどい頭痛を訴えて意識を失った」

「それ、マズくね?」
倫太郎
「まずいな。何とかしないと……」
肝心の“

あいて
”がわからなければどうしようもない。
真帆
「ええ!? 本当ですか!?」
突然、開発室の奥から上がった声に、ダルと顔を見合わす。

「真帆たん、どしたん?」
倫太郎
「何かあったのか!?」
何ごとかと覗き込んだ俺たちを振り返り、真帆は呆然とした様子で言った。
真帆
「荒らされたって……私の借りてた……ホテルの部屋……」
電話はホテルからのものだった。」
真帆は現在、和光市のビジネスホテルに滞在している。
ここ数日ホテルに戻らない間に、その部屋が何者かによって荒らされたというのだ。
フロントでカードキーを預かったままにも関わらず、ドアが開錠された形跡があり、たった今本人に確認の上、部屋を調べたのだそうだ。
倫太郎
「それで? 詳しい状況はわかったのか?」
真帆
「今から警察に連絡するから、何が盗まれてるか調べるためにも、早く戻って来いって」

「じゃ、じゃあ何が盗られたかわからんってこと? ももも、もしかして下着とかも!?」
真帆
「そういうのは全部持ってきてるわよ! セクハラで訴えましょうか?」

「うひぃ、それだけは勘弁」
真帆
「ま、私の部屋って普段から散らかってるから、荒らされてるように見えただけって可能性もある。楽観的に考えれば、ね」
真帆
「鍵が開けられてたっていうから、誰かが入ったのは……間違いないでしょうけど」
真帆
「実は、ついこの間も、オフィスの方が荒らされたことがあって」
倫太郎
「じゃあ、単なる偶然じゃないな。何者かが、比屋定さんの持っている何かを探しているんだ」
真帆
「そうね。でも何を探しているのかは見当がついてるわ」
倫太郎
「なんだ?」
真帆
「……紅莉栖のノートPCよ」
倫太郎
「あれか……」
これまでの事を総合するに、その可能性は一番高そうだ。
かがりの脳内に紅莉栖の記憶を上書きしようとした連中は、前の世界線でかがりを連れ去ろうとした連中と同一だと考えて間違いない。
そいつらの目的は、紅莉栖の頭の中にあるはずのタイムマシン理論だ。
だが、かがりを使ったにも関わらず上手くいかなかったどころか、かがりにまで逃げられてしまった連中は、もうひとつ紅莉栖が残した物があることを嗅ぎ付けた。
真帆の持つノートPCとハードディスクだ。
だが、それが狙われたとなると……まさか、PCは奴らの手に渡ってしまったのか!?

「つか、そのPCって、この前真帆たんが僕に託したやつ?」
倫太郎
「なに?」
真帆
「実はね、どうしてもパスワードを解析したくて。ここに籠もるようになってから、橋田さんにお願いしたの」
倫太郎
「それじゃあ、ノートPCは……」
真帆
「無事のはずよ。ね?」

「もちろん。今は僕のヒミツのアジトにあるのだぜ」

「つっても、ずっとSERNのハッキングにかかり切りだったから、まだパスワードは解析出来てないけどね」
それを聞いて安心した。
これで、真帆の部屋を荒らしたのが何者かわかれば話は簡単なのだが……そう簡単にはいかないだろう。
しかし、今回のような手段に出たということは、連中も焦っているに違いない。
次はいったい、どんな手にでるか……。
……待てよ。
倫太郎
「……もしかしたら、これは使えるかもしれない」
真帆
「使えるって……?」
俺は皆の疑問に答えるのももどかしく、スマホである人物に連絡を取った。
それから数日――。
かがりの容体は悪化の一途を辿った。
硬質な乾いた足音が、夜の闇に木霊していた。
秋葉原の静寂は早い。
昼間はあれほどまでに賑わっている家電量販店も、黄色い声溢れるライブハウスも喫茶店も、夜になると成りを潜め、代わりに
沈黙
しじま
が辺りを支配する。
そんな中を、ひとつの足音だけが同じリズムを刻みながら、ゆっくりと進んでいた。
足音の主は女だ。
暗やみの中でその姿は
明瞭
はっきり
とは見えない。
ただ、その挙動は明らかに妙だった。
帽子を目深にかぶり、人目を避けるようにして歩いていた。
まるで何者かから身を隠すように。
何者かに追われるように。
そして、女の姿が曲がり角に差し掛かろうとしたその時。
不意に角から姿を現した者たちがいた。
女は驚いて立ち止まった。
だが、その背後にも、いつの間にか男たちの影があった。

「椎名かがりだな……」
男のひとりが、そう言った。
流暢な日本語だったが、よく聞けば外国語訛りがあることに気づいたかもしれない。

「…………」
かがりと呼ばれた女は、男たちに囲まれ、ただ立ち竦んだ。
男のひとりは思った。
なんて楽な仕事だと。
いかにもひ弱そうな小娘ひとりを連れていくだけでいいのだ。
なにもこんな大人数で来る必要もなかった、と。
いや、その男だけじゃない。
その場にいる、ほとんど全員がそう思っただろう。

「大人しくしていれば手荒な真似はしない」
その声を合図とするように、女を囲む男たちの柵が次第に狭まってゆく。
女はただ怯えた様子で、抵抗する素振りも見せなかった。
――楽勝だ。
笑みを浮かべた男が、手を伸ばしたその瞬間――。

「オォォォォォオオ!!」
空気を裂くような音が聞こえたかと思うと、男は伸ばしかけていた手をおさえ

うずくま
った。
地面には何やら
加工肉
ソーセージ
のような物体が3つほど転がっている。

「ぐはっ!」
それが男の指だと理解するよりも早く、今度は別の男が、顔面へのハイキックを喰らいもんどりを打って倒れた。
それまで余裕を見せていた男たちは猛り立った。

「You fuckin’ bitch!!」
口々に呪詛を唱えながら一斉に女に襲い掛かる。
だが――。

「ぐあああああ!!」
女の背後から今にも襲い掛かろうとしていた男が、大きな悲鳴を上げた。
???
「おいおい、静かにしな。あんまりうるさくすると、おめえらも困るんじゃねぇのか?」
暗闇から現れた大男が、月を背にしたまま、冷たい声で言った。
倫太郎
「すごいな……」
屈強な男たちが次々に打ち倒される様を見て、俺の口からは、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
天王寺が強いことはあの体格からしてわかっていたが、特筆すべきはもうひとりだった。
いつの間に扮装を解いたのか、鈴羽が俊敏な猫のように動くたびに、男たちはうずくまっていった。
鈴羽が戦闘の訓練を受けていることは当然知っていたが、本気のあいつが、まさかここまでとは思っていなかった。
特に、すらりと伸びた引き締まった足から繰り出される蹴りは、見ていて芸術にすら思える。
鈴羽
「――っ!!」

「がはっ!!」
天王寺
「やるじゃねえか、バイト」
鈴羽
「店長もね」
ナイフや銃を引き抜く

いとま
すら与えられず、男たちは地面にひれ伏してゆく。
数日前――。
連中も焦っているだろう――そう考えた俺は、ひとつの作戦に出た。
前の世界線にいた時に萌郁は言っていた。何者かがかがりを捜している、と。
もしかしたらそれは、この世界線でも同じなんじゃないだろうか――。
そう考えた俺は、萌郁に頼んで、こちらから情報を流してもらうことにしたのだ。
椎名かがりと

おぼ
しき人物が、毎日このくらいの時間に、この道を通る――と。
そして、それから数日経った今日、連中はまんまと俺たちが用意した餌に食らいついてくれたというわけだ。
俺ひとり、こうして路地の角に身を隠して、鈴羽たちの闘いを見ているだけというのは情けない話だ。
だが、俺が出ても役に立たないどころか、足手まといになるのは目に見えている。
ならば、ふたりに任せてしまうのが賢明だ。

「そっちはどう?」
片耳につけたイヤホンから、ダルの声が聞こえた。
いつでもすぐに話がつけられるよう、スマホは通話状態にしてある。

「鈴羽は大丈夫? 怪我してない?」
自ら囮役を申し出た鈴羽に、ダルは最後まで反対していた。
やはり娘を危険に晒すのが心配だったのだろう。
倫太郎
「心配いらない。お前の娘は想像よりずっと凄いよ」

「そりゃあ、僕の娘だからね。でも、傷物になんかされたら、オカリン、一生恨むからな」
あれなら心配してやるべきなのは、相手のほうだ。
倫太郎
「!?」
突如、甲高い指笛の音が辺りに響き渡った。
それを合図に、男たちが散り散りに背を向けて駆け出した。
罠にかけられたと悟った連中が、一斉に退却に出たのだ。
天王寺
「おっと、そうは行くかよ」
天王寺の丸太の様な腕が、男の手を掴んだ。
が――。
倫太郎
「――!」
乾いた破裂音が聞こえた瞬間、捉えられた男の全身から力が抜けた。
天王寺
「チッ――!」
馬鹿な……。
死んだ――?
自ら命を絶った、だと――。
鈴羽
「おじさんっ、そっち!!」
突き刺さるような声に我に返る。
逃げ出した男たちのひとりが、俺のいる路地に向かっていた。
俺たちの目的は奴らを捕らえ、連中が何者なのかを吐かせることだ。
このままでは、せっかく掴みかけた尻尾を逃がしてしまう!
倫太郎
「――!!」
無我夢中で、男の前に身を躍らせる。

「――っ!?」
突然現れた俺の姿に、男は一瞬の躊躇を見せた。
だが、そのまま速度を落とさず、突進してきた。
その腰のあたりに、光る何かが見えた。
倫太郎
「ぐっ――!」
鈴羽
「はああああああッ!!」
俺の身体に男がぶつかると同時に、駆け寄った鈴羽の跳び蹴りが男を捕らえた。

「ぐはっ――!」
天王寺
「おっと!」
渾身の蹴りに豪快に蹴飛ばされた男の先に待っていたのは、天王寺。
天王寺は男の身体を軽々と受け止めると、自害など出来ないようにと、流れるような動きで男の両腕を固めた。
鈴羽
「おじさん、怪我は?」
倫太郎
「っ……!」
鈴羽
「大丈夫!?」
倫太郎
「な、なんともない……」

「オカリン! どしたん!? 何があった?」
倫太郎
「心配するな……こっちはみんな無事だ。それより鈴羽、奴は!?」

「んんんんんんんーっ!」
天王寺に絡め取られた男の口から、悲鳴にも似た声が漏れた。
いつの間にか、その口にはタオルのようなものがねじ込まれている。
さっきの奴みたいに、自ら命を絶たないための対策もあるのだろう。
天王寺
「おいおい、あんまり暴れるんじゃねぇよ。騒ぎになって困るのはおめえもだろうが」
天王寺
「それにまだ1本目だぜ、情けねぇ。あとまだ9本も残ってる」

「ん、ふーっ……ふーっ……」
天王寺
「それが終わったら、目だ。それから両方の耳、鼻……まだまだお楽しみはいっぱいあるんだぜ」
冷徹な声。
これこそが、本当の天王寺裕吾……FBの姿だ。
思わず目を背けそうになる状況にも関わらず、鈴羽は顔色ひとつ変えずにその様子を見つめていた。
天王寺
「俺だって面倒な真似はしたくねえ。どうせ吐くなら、早めに吐いたほうがお互いのためだと思うぜ?」

「んんんんんんーーーーーッ!!!!」
天王寺
「ん? どうだ。もう1本行くか?」

「んー! んー!」
男が何度も首を左右に振った。
天王寺
「最初からそうすりゃいいんだよ。で、おめえさん達の元締めは誰だ?」

「…………」
タオルを外された男は、聞き取れないほどのか細い声で天王寺に耳打ちした。
途端に、天王寺の顔色が変わる。
天王寺
「……ストラトフォー?」
天王寺
「……おい、冗談じゃねえだろうな?」
男が必死の形相で再び左右に顔を振った。
天王寺
「ストラトフォーか……また面倒な奴らが……」
ストラトフォー……。
聞いたことがある。
厨二病にはまっていた頃、インターネットで調べた。
正式名称は『STRATEGIC・FOCUS』だったか。
“影の
CIA

”などと呼ばれている、アメリカの民間情報会社だ。
特に軍事関係に特化しており、湾岸戦争やイラク戦争でも、その能力は如何なく発揮されたと聞いている。
SERNのラウンダーである天王寺にそこまで言わせる存在だ。
一筋縄でいく相手ではないだろう。
だが……今は臆している場合じゃない。
倫太郎
「聞いたか、ダル! 今すぐにストラトフォーのサーバーにハッキングをかけてくれ!」

「オーキードーキー!」
ひとまずの目的が達成され、全身から力が抜け落ちそうになる。
だが、そうも言っていられない。
これからが本番だ。
天王寺
「…………」
鈴羽
「どうしたの、店長。何か気にかかることでも?」
天王寺
「いや。ストラトフォーといやぁ、民間の会社だぜ」
天王寺
「いわば、金によって雇われてる連中だ。そんな奴らが、いくら捕まったからって、自決までするか?」
言われてみれば妙な気もする。
天王寺
「おい、おめえ、本当に――!」
天王寺は更に男を締め上げようとしたが。
天王寺
「けっ! 気を失ってやがる。だらしねえヤツだ」
仕方がないとばかりに、天王寺は取り出したロープで男を縛り始めた。
天王寺
「後始末は俺に任せて、おめえらは行け」
倫太郎
「いい……んですか?」
天王寺
「これで終わりじゃねえんだろ?」
倫太郎
「…………」
この後、連中をどう処理するつもりなのかは気になるが……。
倫太郎
「……わかりました。後のことはお願いします!」
そんなことよりも優先させねばならないことがある。
俺は天王寺に礼を言うと、鈴羽と共にラボへと急いだ。
倫太郎
「っ……」
鈴羽
「おじさん、早く!」
倫太郎
「わ、わかってる!」
夜の街を豹のように駆ける鈴羽の背を、必死で追いかけた。
いつもならすぐのラボへの道が、ひどく遠く思えた。
やっとの思いでラボに辿りつく。
中には、まゆりをはじめフェイリスたちも全員が揃っていた。
そしてかがりも……。
かがり
「はぁ……は、ぁ……」
かがりは、ぐったりとした様子で、ソファにもたれかかっていた。
息が荒い。
顔色もよくない。
いつどうなってもおかしくない状況だ。
倫太郎
「ダル……どうだ?」

「ちょい待ち。前に、ハッキングかけた時のルートがあるから、今探ってる」
倫太郎
「前にって……お前、そんな危険なことしてたのか!?」

「ちょっとね、友達と賭けでね。どっちが早くハック出来るか勝負したんだ。
ゴーゴーカレー

1年分」
こいつ……危ない真似を。

「あれ? どっちが勝ったか聞かないん?」
この態度を見るに、結果は聞くまでもないことだろう。
倫太郎
「とにかく、急いでくれ」

「らじゃ」
今回のかがり奪還作戦が失敗に終わったことで、ストラトフォーがさらなる強硬手段に出てくる可能性は高い。
ここでもたもたしている時間は無かった。
それに――。
倫太郎
「――っ」
まゆり
「オカリン? 顔色、悪いよ?」
倫太郎
「いや、なんでもない……」
フェイリス
「なんでもないことないニャ。見せるニャ!」
フェイリスが半ば無理矢理に、俺のコートを剥ぎ取った。
フェイリス
「っ……ヒドい怪我してるニャ!」
るか
「岡部さん……血が……」
まゆり
「オカリン……!」
自分でも見ないようにしていたが、思った以上の量の血がシャツの脇腹あたりをどす黒く染めていた。
さっき男を止めた時に、深くやられたらしい。
倫太郎
「……問題ない」
フェイリス
「問題ないわけないニャ! るかニャン、応急手当の用意を!」
るか
「はいっ!!」
倫太郎
「俺は大丈夫だ……」
倫太郎
「まゆり、それよりも……かがりは……?」
かがり
「っ……は、ぁ……」
まゆり
「あ、かがりちゃん!? しっかり!」
かがりはぐったりとソファにもたれかかったまま、小刻みな浅い息を繰り返していた。
ここ数日で、すっかり衰弱してしまっている。
その手が宙を泳ぐ。
かがり
「ママ……ママ、どこにいるの?」
まゆり
「ママはここだよ。ちゃんと傍にいるよ」
まゆりがその手をしっかり握ってやると、ようやく儚げな笑みを覗かせた。
かがり
「ねぇ……ママ……私、このまま……消えちゃうの、かな……?」
まゆり
「大丈夫だよ。きっとオカリンとダルくんがなんとかしてくれるから」
かがり
「オカリン……さん……?」
まゆり
「そうだよ。オカリン……わかるよね?」
かがり
「オカリン……さん……」
かがりの虚ろな目が、俺を見た。
倫太郎
「心配しなくていい。もう少し……もう少しで元どおりになる」
かがり
「……岡部……さん」
倫太郎
「ん?」
かがり
「私を……消して……」
倫太郎
「かがり……」
違う。
かがり
「彼女の中から……私を消し、て……」
かがり
「このままじゃ……彼女が……」
それは紅莉栖の言葉だった。
人格と記憶は違う。
紅莉栖の記憶があるからと言って、彼女の中に紅莉栖の人格が備わっているわけじゃない。
けれど。
かがり
「お願い……岡部、さん……」
かがり
「お願い……岡部、さん……」
紅莉栖
「お願い……岡部、さん……」
かがり
「私を……消して……」
かがり
「私を……消して……」
紅莉栖
「私を……消して……」
それは確かに紅莉栖が発した言葉だった。
少なくとも俺にはそう思えた。
あの時――あいつは言った。
まゆりを助けろ、と。
まゆりを犠牲にして自分が生きることなど出来ないと。
もしかしたら、このまま紅莉栖の記憶がかがりの中に定着する、そんな可能性だって万に一つあるかもしれない。
それでも、あいつは選ぶだろう。
自分が身を引くことを。
自分が消えることを。
かがりの口から出た言葉が、紅莉栖の記憶が作り出した別の人格によるものなのか、俺にもわからない。
けれどそれは間違いなく、紅莉栖の言葉だった。
倫太郎
「っ……!」
今のあいつは“記憶”という形ない存在だ。
それなのに――どうして。
どうして記憶だけになってしまった今も、こんなにも苦しまなければならないのか。
苦しめられなければならないのか。
かがり
「ごめんね……岡部……」
かがり
「ごめんね……岡部……」
紅莉栖
「ごめんね……岡部……」
薄く閉じられた瞼の隙間から、透明な雫が頬を伝う。
倫太郎
「ダル……まだか……」
紅莉栖!
そう呼びたくなるのを堪え、俺は問うた。

「待って……もうすぐ、もうすぐ……!」
鈴羽
「マズいよ、おじさん……」
窓から外の様子をのぞいていた鈴羽が呶いた。
鈴羽
「1、2……3……何人か集まって来てる……ストラトフォーだ」
倫太郎
「――ダル!」

「よし、来い、来い、来い!」
じりじりと焦りだけが募る。
まだか。
まだなのか?

「っしゃ!!」
倫太郎
「ダル!?」

「っしゃ、っしゃっしゃ、キタキタキター!! ビンゴー!!!」
治療の道具を持って駆け寄ってきたルカ子たちを制し、PCのモニタを覗き込む。
ダルを挟んで反対側から、同様に真帆が身を乗り出した。
真帆
「重要そうなファイルの中から、サイズの大きなものを選んで!」

「待ってよ……大きなのっつーと……えーっと、ん? もしかしてこれかな?」

「でもファイルネーム、『John』って……」
真帆
「モーツァルトの洗礼名はヨハネ! きっとそれだわ!」

「なんかよくわからんけど、おk。てか、中にもファイルがいっぱいあるんですけど……」
真帆
「見せて!」
フォルダの中には、番号でネーミングされたファイルがいくつかあった。
真帆
「ファイルが増えてる……私たちの研究段階じゃ、こんなに多くなかった……」
つまり、研究が凍結された後、なんらかの形でその成果がストラトフォーの手に渡り、さらに実証実験が重ねられていたということか。
真帆
「この中のどれかが、かがりさんの記憶データのはずだけど……」
倫太郎
「K6205だ……」

「え?」
倫太郎
「K6205番がかがりの記憶だ、ダル!」
ケッヘル620番――魔笛。

「K62……あった、これだ!」
倫太郎
「あとの手筈は、事前に話したとおりに頼む!」
やり方は、紅莉栖のタイムリープマシンに比べれば、至ってシンプルだ。
既に記憶データは存在しているため、VRヘッドセットは不要。
電話レンジ(仮)も必要ない。
単純にかがりの記憶データにデコードプログラムを仕込んで、SERNのLHCを借りて圧縮。
圧縮されたデータを転送し、さらにスマホに飛ばせば――。
鈴羽
「早く! 完全に囲まれた!!」
倫太郎
「ダル、準備はいいか!?」

「オールオッケー!」
倫太郎
「よし、行くぞ!」
真帆
「待って!!」
目を上げると、真帆は鉄のような表情で画面を見つめていた。
倫太郎
「……どうした、比屋定さん……」
真帆
「……本当にうまくいくのかしら? もし失敗したら、かがりさんは――!」
ダルの背中から腕を回し、真帆の肩にしっかりと手を乗せた。
倫太郎
「大丈夫だ。俺が保証する……」
真帆
「岡部さん……」
鈴羽
「おじさん!!」
倫太郎
「かがり……!」
俺はPCの側を離れると、ソファに沈み込むかがりの前でしゃがみ込んだ。
かがり
「岡部……さん……?」
倫太郎
「いいな?」
さようなら。
かがり
「うん……」
紅莉栖――。
鈴羽
「来た!」
倫太郎
「ダル!」

「了解!」
階段を上がってくる足音。
携帯の着信音。
様々な音が飛び交う中。
かがり
「あのね、岡部さん……」
最後に彼女は――。
かがり
「私……たぶん、岡部さんのこと……」
かがり
「あなたのこと……」
それが紅莉栖の言葉だったのか、かがりの言葉だったのか――。
わからないまま、続きはドアの音や怒号に掻き消され――。
かがりの頬に押し当てた、スマホが鳴動を止めた次の瞬間、世界は――。
その姿を歪に変えた――。
そこは黒い黒い闇の中だった。
音もない。
温度も無い。
ただ暗闇と、冷たさと静寂に満ちていた。
誰もいない。
起きているのか眠っているのかもわからない。
ただ漠然と、そこに
ある
①①
という感覚だけ。
無――。
ただそれだけが無限に広がっていた――。
倫太郎
「!!!!」
倫太郎
「…………」
あれ?
俺はいったい何をしていたんだ?
確か――。
女性の声
「ちょっと岡部、いつまでもそんなところで寝てると、風邪ひくわよ」
倫太郎
「え……?」
声の方向に顔を向ける。
開発室のカーテンを開けて、立っていたのは。
紅莉栖
「なによ?」
倫太郎
「なんだ、紅莉栖。いたのか」
俺は――。
迷ってしまった。
それに応答する事に躊躇し、あまつさえ、拒否する方のボタンをタップしようとした。
だがそこで、かがりの指が俺の指を遮り。
かがり
「…………」
代わりに、かがりの指が――あるいは紅莉栖の意志が――応答のボタンをタップした。
そして、かがりの頬に押し当てられたスマホは。
鳴動を止めた。
紅莉栖
「いたのか、とはずいぶんご挨拶だな。さっきから、ずっとここにいたじゃない」
倫太郎
「そう……だったか?」
紅莉栖
「そうよ。昨日も一昨日も、ずっとここにいたわよ」
言われてみれば、そんなような気がした。
どうにも頭の中が曖昧で、
朦朧
ぼんやり
としている。
かと言って、眠いとか、だるいとか、そういうわけでもない。
意識だけはしっかりと覚醒している。
それなのに、何かが足りない――それも大切な何かが――そんな感覚だ。
倫太郎
「そういえば、ダルやまゆりはどうした?」
紅莉栖
「……あんた、本当に大丈夫? 何か不具合でもあったんじゃない?」
倫太郎
「どういう意味だ?」
紅莉栖
「橋田もまゆりも、ほら、そこにいるじゃない」
倫太郎
「え?」
まゆり
「オカリン、トゥットゥルー♪」

「僕のこの大きすぎる存在感を見落としてるなんて、どうかしてるぜ、オカリン」
ああ、そうか。
ダルもまゆりも、いつだってそこにいたよな。
いや、ふたりだけじゃない。
フェイリス
「凶真、元気がないニャ? フェイリスの萌え萌えチャームで元気を取り戻すんだニャン♪」
るか
「凶真さん、ボクに出来る事があったら、なんでも言ってくださいね」
フェイリスもルカ子も。
そして――。
鈴羽
「岡部倫太郎のために、その辺の食べられそうな草で、あたしが特別ジュース作ったげるよ」
萌郁
「私も……いるよ……岡部君……」
鈴羽に萌郁。
ラボメン全員、いつもこのラボにいたじゃないか。
そうだ。
これが俺の日常だ。
俺はいつも、ここでこうして過ごしているんだ。
倫太郎
「ふむ……全員いるようだな」
倫太郎
「では只今より、第65536回目の円卓会議を行う! お前たち、準備はいいか!?」
紅莉栖
「まったく、いつもいつも暑苦しいわね」
倫太郎
「お前こそ、いい加減そのお澄ましフェイスはやめるんだな、助手」
紅莉栖
「だから、私はあんたの助手になった覚えはないといっとろーが」
まゆり
「オカリンとクリスちゃんは、いつも仲良しだね~」

「イチャイチャしやがって。リア充爆発しろ」
紅莉栖
「ちょっと、橋田。私がいつ、こいつとイチャイチャしたっていうのよ」
フェイリス
「仲がいいほど、喧嘩するっていうニャ」
るか
「羨ましい……です……」
鈴羽
「漆原るかも一緒にイチャイチャすればいいじゃん」
るか
「え? だ、ダメです! ボクにはそんな事、出来ません……」
萌郁
「イチャイチャ……」
倫太郎
「ええい、お前たち、いつまでムダ話をしている! さっさと会議をはじめるぞ!」
紅莉栖
「で、今日の議題はなんなんだ?」
倫太郎
「そんなものは決まっている。今日の議題は――」
なんだ……?
倫太郎
「議題は……」
紅莉栖
「岡部?」
やっぱり何かが違う……。
まゆり
「オカリン?」
一見いつもと同じように思えるが……。

「どしたん、オカリン?」
……そうだ、冷たいんだ。
フェイリス
「凶真?」
感じない。
るか
「凶真さん……」
感情も。
鈴羽
「岡部倫太郎」
温もりも。
萌郁
「岡部……くん……」
みんながいる。
それなのに、冷たくて暗くて寒くて……。
寒い――。
寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い。
身体の芯から凍ってしまいそうなほどに寒い。
まるで骨という骨が鉄で出来ているかのように。
身体中の血管に水銀でも流されているかのように。
寒い。
今にも凍ってしまいそうだ。
なんだ、これは?
ここは、どこだ?
俺は……どこにいる?
俺は――。
倫太郎
「…………」
ここ、は……?
倫太郎
「………………」
どこだ?
倫太郎
「……………………」
俺は何をして、いる?
倫太郎
「ぁ…………」
声を出そうとするが、上手く出ない。
どうやら俺は、ベッドの上に寝かされているようだ。
それも、やけに硬いベッドだ。
ゆっくりと辺りを見回す。
ラボでもなければ、俺の自室でもない。
いやに薄暗く古ぼけた部屋だ。
当然、見覚えなどない。
どうして俺はこんなところにいるんだ?
倫太郎
「っ……!」
頭の中に何か――それこそ電極でも差し込まれたような痛みが走る。
ベッドに横たわったまま手を挙げようとするも、重くてなかなか挙がらない。
関節という関節が固まってしまったみたいだ。
倫太郎
「っ……ぅぁ……」
全身の力を込めるようにして、ようやくゆっくりと身体を起こす。
ほんの少し動くたびに、節々が悲鳴をあげ、全身に痛みが走った。
何分もかけ、ようやくの事でベッドに腰を掛けて視線を落とすと、自分がまるで病人が着るような白い服を身に着けている事に気付く。
頭にはヘッドギアのような装置をかぶせられていて、そこから伸びたケーブルが妙な機械に接続されている。
俺はいったい、どうしてしまったというんだ?
さっきまでの俺は――。
倫太郎
「…………」
そうだ、かがりだ。
頭の中に、紅莉栖の記憶をダウンロードされてしまったかがり。
彼女の中から紅莉栖の記憶を取り除くべく、かがり本人の記憶を上書きしようとして――。
そして……。
ああ、思い出した。
あの直後、また世界線が変動したんだ。
それから――どうなった?
倫太郎
「…………」
思い出そうにも、どうにも頭の中が靄に包まれたようで、記憶がハッキリとしない。
とにかく、今はここがどこなのかを確かめるのが先決だ。
俺は頭のヘッドギアを取り外して、ベッドから降り――。
倫太郎
「っ――!」
思いっきり転倒してしまった。
おかしい。
頭がハッキリしていないせいで、眩暈でも起こしたのか。
そう思い、再び立ち上がろうとするも――。
倫太郎
「くっ……!」
足に力が入らない。
何度か試みては転び、最終的にはベッドに掴まるようにしてようやく、立ち上がる事が出来た。
倫太郎
「はぁ……っ……」
ただ両足で立つだけで、こんなにも疲れるなんて。
何か悪い病気にでもかかったのか?
それで数日間、寝込んでいたとか?
倫太郎
「……っ……」
力の入らない足を引きずるようにして、ようやくドアまで辿り着いた。
ドアは異常なまでの重さだった。
いや、単に俺がそう感じるだけなのか。
ともかく、全体重をかけるようにして押し、それでようやく扉を開ける事が出来た。
鍵はかかってはいたようだが、内側からは開けられるようになっているらしい。
壁に身体をもたせかけ支えながら、薄暗い廊下を進む。
その先には階段。
手すりに掴まりながら、ゆっくりゆっくり踏みしめるようにして階段を上ると、そこにハッチのような扉があった。
背中全体で持ち上げ、やっとの事でハッチを開けて外に出る。
そこは――古びたビルの中だった。
何がどうなっているのかわからないまま、剥がれ落ちた壁や天井を踏みしめながら廊下を進み、ようやく外部へと通じるドアを見つけた。
疲労困憊になりながら、外に出た俺の目に飛び込んできた光景。
それは――。
倫太郎
「…………」
無残な瓦礫の山だった。
倫太郎
「なんだ……これ……」
破壊され廃墟と化したビル群。
剥き出しになり捻じ曲がった鉄筋。
最初こそ映画のセットか何かかと思った。
しかしそれにしては、目の前の光景はあまりにも
現実的
リアル
だった。
壁や窓、天井、あらゆるところが破壊され、飛び散った破片が地面をびっしりと埋め尽くしている。
路上のアスファルトも、ひび割れ穴を穿たれ、まともに歩く事さえままならない状況だ。
目の前だけじゃない。
360度ぐるりと見渡してみても、同じような光景が続いている。
オイルの臭いがした。
何かが燻されているような臭いがした。
空を見上げてみる。
やけに薄暗い。
曇っているのかとも思ったが、そういうわけではないらしい。
空一面を覆っている黒い幕の向こうに、ぼんやりと太陽らしき光が見えた。
倫太郎
「っ……ゲホッ、ゲホッ……」
激しい喉の痛みに咳き込んだ。
慌てて、衣服の袖で口元を押さえる。
目にも染みるような痛みが走る。
もう一度冷静に、何が起きたのかを思い出そうと試みたが、やはり答えは何も出てこない。
あの時、紅莉栖の記憶をかがりの中から消した事で、世界線が動いただろう事は間違いない。
『Amadeus』の“紅莉栖”が持つ記憶。
そして、かがりの中に植え付けられた記憶。
その記憶の所有者によって――つまり、紅莉栖のタイムマシン理論を誰が持つかによって、世界線が変動しているのかもしれない。
そしてここもまた、変動した世界線のひとつ――。
となると、この光景は――。
倫太郎
「…………」
視界の隅の方で、何か黒ずんだ棒のような物が突き出しているのが見えた。
ゆっくりと近づいて目を凝らす。
瓦礫の中から突き出たそれは、先の方で5つに枝分かれしていた。
倫太郎
「ひ――!」
手だった。
真っ黒に焦げて炭化した人の手だ。
倫太郎
「っっぷ…………ぐっ……う、おえっ……」
強烈な不快感が胃を突き上げてくる。
倫太郎
「――!?」
不意に何かが動く気配がした。
何かいる……。
どこだ?
耳を澄ませて気配を探る。
倫太郎
「…………」
大きなビルの向こう。
そこから何か物音が聞こえる。
誰かいるんだろうか?
だとすれば、ここはどこで、いったい何があってこんな事になっているのか、教えて貰えるかもしれない。
俺はなるべく音を立てないよう気を付けながら、崩れかかったビルの壁の間から奥を覗き込んだ。
倫太郎
「…………」
確かにいた。
そこに、人はいた。
それも大量に。
否、正確にはそれはもう人ではなかった。
人の形をした肉だ。
それが、山のように積まれていた。
その肉の山に、数匹の犬が群がっている。
犬の口にはずるりと長いものがぶら下がっていた。
腸だ。
食っているんだ。
遺体を。
激しい腐臭。

おびただ
しい虫の羽音。
それはまさに、地獄絵図だった。
倫太郎
「ぁ……あぁ……あぁぁ……」
誰かの虚ろな目と視線が合った。
眼球がどろりと落ちて、その奥の空洞から黒い虫が這い出した。
倫太郎
「う、あ……ああああああああああああ!」
俺はその場から逃げ出した。
もつれそうになる足を必死に前に出し、破裂しそうな心臓を鼓舞し、懸命に走る。
どこか――。
どこか、まともな場所はないのか!?
だが、どれだけ進んでも、続くのは同じような光景ばかり。
瓦礫の山。
廃墟の群。
あるのは命亡き者ばかり。
生きた人間の姿はなく――。
そして俺は、そこに迷い出た。
倒壊しかけの巨大なビル群。
広大な道路には幾筋もの亀裂が走っている。
そして――捻じれて地面に突き刺さった高架橋。
数本の鉄と朽ちた枕木。
知っている。
俺はこの場所を知っている。
変わり果ててはいるが、間違いない。
ここは――秋葉原の街だ。
という事は――。
倫太郎
「ラボは……どうなった……?」
まゆりは? ダルは? フェイリスは?
ルカ子は? 鈴羽は?
真帆とかがりは、どうしているんだ!?
それを確かめようと、ラボへの道へ向かいかけたその時――。
背後から足音が聞こえた。
瓦礫を踏みしめる荒々しい足音。それも複数の足音だ。
足音は次第に大きくなり、やがて倒壊しかけたビルの間から現れたのは――武装した男たちだった。
計3人。
それぞれが手に自動小銃を持っていた。
武装した男
「貴様、そこで何をしている!」
全員が俺の姿を認めると、一斉に銃口を向けた。
倫太郎
「あ……」
いろいろ聞きたい事はあった。
知りたい事もあった。
しかし咬嗟に頭に浮かんだのは、ただ逃げなければという、その一心だった。
倫太郎
「――!」
だが、身を翻えし走り出そうとするも、身体が言う事をきいてくれない。
武装した男
「動くな!!」
逃走の気配を感じとったのか、怒声と共に乾いた音が飛んだ。
足元のコンクリートにいくつもの穴が穿たれる。
撃った。
本当に撃った。
本物の銃で俺を――。
あと少し近ければ、当たっていた。
倫太郎
「ぁ……あぁ……」
恐怖に足が

すく
む。
男たちは銃口を向けたまま近づいてくる。
逃げろ。
逃げなければ――。
だが、身体はまるで誰か別人のもののように、俺の命令を受け入れようともしない。
その間にも、男たちの銃口が俺に迫る。
そして――。
再び乾いた音が響き。
男のひとりが、横殴りに倒れた。
頭を瓦礫に打ち付けそのまま動かなくなる。
倫太郎
「え……」
武装した男
「――!?」
残されたふたりは、明らかに狼狽え銃口を左右に向ける。
???
「邪魔だ!」
ただその様を呆然と見ていた俺は、引っ張られその場に倒れ込んだ。
そして再び銃声。
男たちは銃を構えた姿勢のまま、ほぼ同時にそのまま背後にもんどりうって倒れた。
死んだ。
目の前で。
人が、死んだ。
尻もちをついて、ただその様を見ているしかなかった俺の前に、人影が立ちはだかった。
???
「お前、死にたいのか?」
視線を上げる。
そこに立っていたのは……。

「…………」
鈴羽――。
鈴羽
「ほら、いつまでボケッと座っているつもりだ」
倫太郎
「……お前……殺したのか?」
鈴羽
「何をナマッチョロい事言ってるんだ、お前……」
これまで聞いた事もないような、冷たい声だった。
倫太郎
「お前……鈴羽、だよな……?」
それまで鉄面皮のようだった表情が驚きに代わる。
だが、それも一瞬。
すぐに鈴羽はその顔に威嚇の意を浮かべた。
鈴羽
「お前……何者だ?」
まさか、こいつ――。
倫太郎
「……俺の事、知らないのか?」
世界線が変わったせいで、俺を知らない鈴羽がここにいるというのか?
倫太郎
「岡部だよ……岡部倫太郎だ……」
その名を口にした途端、鈴羽の表情が再び変わった。
鈴羽
「岡部……倫太郎? そんな……馬鹿な……」
暗闇の中に、氷のような足音がふたつ響いていた。
鈴羽
「こっちだ……」
俺が名乗った後、鈴羽は訝しむような顔で、しばらく俺の様子を呎っていた。
やがて、どこかへ連絡を取ったかと思うと、一転、一緒に来るように言ってきた。
とはいえ、歩かされていた間、ほとんど目隠しを付けれていた。
だから、どこをどう通ってここへ来たのか、ここがどの辺りなのか、まったく見当がつかない。
鈴羽
「止まれ」
言われたままに従う。
ノックの音に、ようやくそこにドアがある事がわかった。
男の声
「君に萌え萌え」
鈴羽
「バッキュンきゅん」
男の声
「入れ」
どうやら、今のが合言葉だったらしい。
こんな馬鹿みたいな合言葉を設定する奴は、俺が知る限り、ひとりだけなんだが。
ロックの外れる重々しい音がした後、ドアが開かれると、ようやく暗闇の中に薄暗い光に包まれた部屋が表れた。
部屋の中には、ガラクタのような機械が所狭しと置かれている。
壁際に並んだ様々な計器。
その前に座ったひとりの男が、真っ直ぐにこちらを見ていた。

「よかった。やっと目を覚ましたんだな、オカリン……」
誰だ、これは?
どうして俺の名を知っている?
歳の頃は40代半ばくらいだろうか。
恰幅の良い体格に、薄らと無精ひげを生やしている。
眼鏡の奥には鋭いながらも、柔和な瞳が輝いていた。
どこかで見た事があるような気はするが……。
倫太郎
「あの……貴方は……?」

「やだなぁ。僕のこと忘れたん? そりゃいくらなんでも冷たいぜ、オカリン」
この口調。
それに、この声……。
思い当たる人物はひとりしかいない。
いや、でもそんなはずは――。
倫太郎
「まさか……ダル……か?」
恐る恐る口にすると、男は破顔してみせた。

「良かった。覚えててくれて。てっきり忘れられたのかと思ったのだぜ」
倫太郎
「ダル……本当にダルなのか?」

「こんなナイスガイ、僕以外にいるわけないじゃん。なあ、鈴羽?」
鈴羽
「せめて、もうちょっと痩せてくれれば認めなくもないけど」

「そう言うなって。これでも若い頃に比べれば、随分と痩せたんだぜ」
確かに、目の前のダルは、俺が知っているダルよりも幾分かスマートにはなっていた。
鈴羽
「というか、父さん……少し言葉遣い、おかしくない?」

「僕も久々にこういう話し方したよ。でも、オカリンはこの方が話しやすいだろうと思ってさ」
だが、そんな事よりも問題なのは年齢だ。
どう見ても中年化している。
若く見積もっても、せいぜいが40代前半だ。
倫太郎
「…………?」
その時、部屋の端にある棚が目に入った。
そのガラスの中に、見知らぬ男が立っている。
ダルと同じく、40代と思しき男だ。
そいつは痩せこけた陰気な顔で俺をじっと見ていた。
ゆっくりと右手を挙げてみる。
真似をするように、男はゆっくりと左手を持ち上げた。
倫太郎
「ダル……ひとつ、教えてくれ……」

「なんでもどぞ」
倫太郎
「今は……何年だ……?」
ダルは微笑みから一転、真剣な表情になり、そして答えた。

「2036年。世界は戦乱の真っ只中だ」
ダルは、詳しい状況について俺に説明してくれた。
倫太郎
「それじゃあ、本当に今は2036年なのか……」

「そういう事」
到底信じられる話ではなかった。
けれどダルの姿が、そして何よりも俺自身の姿がすべてを物語っていた。
2036年――。
このままいけば、10年しないうちに第三次世界大戦に突入する。そう鈴羽が言っていた。
それにより57億人の人間が命を落とし、東京の人口も10分の1にまで減少する。
その後、第三次世界大戦自体は終結するものの混乱は続き、日本中――いや、世界各地で2036年になっても戦火は続いているのだと。
それが、俺がさっき目にしたあの光景だったのか……。
倫太郎
「だが、どうして俺はその事を何も覚えていないんだ?」
今の俺の頭にある記憶は2011年のものだ。
その間、約25年に渡る記憶が何ひとつない。
あの日――かがりの中から紅莉栖を消した日の記憶、あれが俺の持つ最後の記憶だ。
倫太郎
「それに、俺は2025年に死ぬと鈴羽から聞かされていた。どうして生きているんだ?」
鈴羽
「それはあたしも聞きたい、父さん」
俺の疑問に鈴羽が追随した。
鈴羽
「あたしたちは皆、オカリンおじさんは10年前に死んだって聞かされてきたんだ」
鈴羽は、身を乗り出してダルに詰め寄った。
鈴羽
「父さん、これはどういう事? もしかして、あたしたちを騙してたのか?」

「落ち着け、鈴羽。ちゃんと説明するから」
ダルは懐かしそうな目で俺を見て、説明を再開した。

「オカリンは、2011年の1月半ばまでの記憶しかないって事でおk?」
倫太郎
「ああ。2011年の1月に世界線が変動した。それ以降の事は覚えていない……」
自分が気づかないうちに、25歳も年老いていた。
その事実が不安となって、じわじわと心の内に広がっていく。

「やっぱ、身体の方に少し問題があるのか、それとも混乱してるのか……」

「今のオカリンの頭の中には、2011年の1月末までの記憶がなきゃいけないんだけど……」
倫太郎
「末? どうして1月末なんだ?」

「真帆たんが、オカリンの記憶をデータとして保存したのが、2011年1月末の事だからさ」
比屋定さんが、俺の記憶を……?

「『Amadeus』の研究の役に立ちたいから、記憶サンプルを取ってくれって。オカリンから真帆たんに頼んだらしいじゃん」
倫太郎
「俺が、『Amadeus』の……」
そこで俺はとんでもない事に気付いた。
倫太郎
「という事は、もしかして今の俺の脳の中は……」

「そう。お察しのとおり、今のオカリンの脳内にある記憶は、その時の――2011年にデータ化された記憶なんだ……」
データ化された――記憶。
俺の頭の中が……。
鈴羽
「ちょっと待って、父さん。話がまったく見えない。そもそも、どうしてオカリンおじさんが生きてるの?」
鈴羽
「おじさんは2025年に死んだって言ってただろ?」

「死んだよ。事実上はね……」
鈴羽
「事実上?」

「タイムマシン開発競争は、その頃がピークだったんだ」

「各国のいろんな機関が、牧瀬紅莉栖が残した論文と彼女の記憶を欲していた」

「でもその時点で、牧瀬紅莉栖の遺産は全部、ストラトフォーの手に渡ってたんだよね……」
ストラトフォー……。

「ただ、連中をもってしても、論文の中身を確かめる事はどうしても出来なかった。ロックを解除出来なかったんでね」

「ちなみにそのロックを開発したのは2010年の僕」

「そこでストラトフォーは、牧瀬紅莉栖をよく知る人物を捕まえて、情報を聞き出そうとしたんだ……」
倫太郎
「それが、俺か……」

「連中は、オカリンの記憶から牧瀬紅莉栖についての情報を取り出すために、あらゆる手を使ったらしい」

「僕たちが助け出した時には、オカリンの精神はボロボロだった……。まともに生きるための能力さえ失ってた」

「回復する見込みのない、死んだのとほぼ変わらない状態だったんだ」
鈴羽
「それじゃあ……肉体は生きていたってこと?」

「そういう事」

「これは、オカリン自身の入れ知恵でもあった。オカリンは自分が狙われてる事に危機感を覚えてたからね」
鈴羽
「でも、せめてあたしにくらいは教えてくれても良かったはずだ」

「敵を騙すには、まず味方からって言うだろ?」
鈴羽
「そんな……」
鈴羽は、少ししょんぼりしている。
父に信頼してもらえていなかった事がショックだったんだろう。

「そんな顔するな、鈴羽。この事を知ってたのは、ワルキューレの中でも、ごく限られた一部の人間だけだ」
『ワルキューレ』という名前には聞き覚えがある。
鈴羽が2010年にもよく口にしていた。
ダルや鈴羽が所属する
レジスタンス組織

の名称だ。

「話を続けよう」

「オカリンは心を破壊されたせいで、生きるための能力を失っていた。放っておいたら、肉体さえ死んでしまう状態だった」

「そこで、事実を知る一部の人間の手によって、こことは別の施設でずっと面倒を見てきたんだ」
2025年から、2036年まで。
誰にも知られないようにして、11年もの間、ずっと……か。
肉体だけを生かすにも、栄養は必要だ。
それにずっと寝たきりでは、関節も固まるし、床ずれによって皮膚が裂けたりもする。
それを防ぐために、ずっと俺を看てくれていた人がいる……。
倫太郎
「もしかして、まゆり、が?」

「まゆ氏だけじゃない。フェイリスたんやるか氏、それに真帆たんもだ」
生きている。
まゆりも、フェイリスも、ルカ子も――。
こんな恐ろしい世界になっても、あいつらは生きて、こんな俺を看てくれていた。
ずっと。
倫太郎
「なあ、ダル……」
倫太郎
「どうして俺は、今になって目を覚ましたんだろうか」
俺の記憶は2011年の時点でデータ化されていた。
それが存在するとわかっていたのなら、もっと早くにこうして脳内に記憶をダウンロードする事が出来たんじゃないか。

「それは単純な話さ。オカリンの記憶データは、つい最近までどこにあるかわからなかったんだよね」

「つーか、オカリンと牧瀬紅莉栖の記憶データは、ストラトフォーがずっと保管してたんだけど」

「その保管場所がずっとわからなかったわけ」

「見つけたのは半月前。どこにあったと思う? 驚くぜ?」
倫太郎
「どこだ?」

「灯台下暗し。大学だよ、僕たちの」
倫太郎
「まさか……東京電機大学か!?」

「その地下に、連中の支部があったんだよ。つっても、今はほとんど廃墟になってるけどな」
東京電機大学の地下に、ストラトフォーの支部が……。

「で、半月前にオカリンの記憶データをサルベージした僕たちは、早速、脳にデータをダウンロードした……」
だが、それから10日ほど経っても、俺は目覚めなかったらしい。
やはり無理だったかも、と諦めかけた矢先――俺はこうして目覚めたというわけだ。
25年の時を隔てて。
25年――。
倫太郎
「…………」
自らの手をじっと見つめる。
ガリガリに痩せ細った手の甲には、いくつもの血管が浮き上がっている。
ガラスにうつった、シワ交じりの不健康そうな顔。
頭髪もなかば白くなりかかっている。
倫太郎
「起きたら25年後だったなんて……とんだ浦島太郎だな」

「気持ちの整理がつかないのも無理ないさ」
もちろん、ショックではある。
けれど、俺の中で一番衝撃的だったのは――。
倫太郎
「この記憶は、一度データになったものなんだな……」
子供の頃からの記憶。
あの夏の記憶。
紅莉栖との記憶。
それらはすべて、一度、0と1に変換されてしまったもの。
それは、人であると言えるのだろうか?
俺は、人間だと言えるんだろうか?

「でも、それを言うなら、牧瀬氏のタイムリープマシン技術だって同じじゃん」

「オカリンはアレ、何度も経験したはずっしょ」
……確かにそうだ。
けれど、頭ではそうわかっていても、気持の上での整理が出来ない。
断絶されてしまった25年の時間。
その時間をデジタルな世界の中に置き忘れてしまったような。
奪われてしまったような、そんな気にさえなってしまう。
鈴羽
「あたしは、やっぱり納得いかない……」

「そう言うなって鈴羽」
鈴羽
「父さんはいい。そうやって、世界中を騙していたんだから」

「だから、仕方なかったんだってば」
……騙していた、か。
騙されていたのは俺だって同じだ。
俺は2025年には死んでしまう運命だと教えられていた。
それは、このβ世界線にいる限り変わりはしないのだと。
だが形はどうあれ、俺はこうして生きている。
時間を越えた過去の俺すら、未来に騙されていた。
俺だけじゃない。
鈴羽も他のヤツも皆、世界中が騙されていた。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「世界が……騙される……?」
と、部屋のドアが外からノックされた。
誰かがやって来たらしい。
鈴羽がドアに近づいた。
鈴羽
「君に萌え萌え」
少女の声
「バッキュンきゅん」
やはり微塵の緊迫感すらない合言葉で、鈴羽はドアのロックを解除した。ドアが開き、入ってきたのはまだ幼い少女だった。
少女
「ダルおじちゃん、鈴羽おねーちゃん、とぅっとぅるー」
鈴羽
「かがり。ここには用がある時以外は来るなと言っているだろう」
かがり……。
この子が、子供の頃のかがりなのか!
かがり
「ごめんなさい。でも、ママたちみんな出かけて帰ってこないんだもん」

「まあまあ、そう目くじら立てる事もないだろ」
鈴羽
「また父さんはそうやって甘やかす。こういうことはきちんとしておかなきゃ駄目なんだ」
25年前とそう変わらない父娘のやりとりを尻目に、俺はかがりを見た。
と、かがりも俺の存在に気づいたようだ。
かがり
「こんにちは」
倫太郎
「……こんにちは」
かがり
「おじさんは誰?」
倫太郎
「俺か? 俺は……」
かがり
「……?」
倫太郎
「そうだな……君のママの友達だ」
幾ばくか悩んだ挙句、結局俺は名乗らなかった。
かがり
「まゆりママの?」
倫太郎
「ああ、そうだ……」
かがり
「へぇ……」
倫太郎
「ママは優しいか?」
かがり
「うんっ!」
倫太郎
「ママの事、好きか?」
かがり
「うんっ、だーいすきっ!!」
倫太郎
「そうか……」
かがりのその表情からは、好きという気持ちがいっぱいに溢れていた。
きっと、まゆりが大切に育てて来たんだろう。
これまで、まゆりの愛情をたっぷり受けて。
けれど……。
けれど彼女は、この後過去に跳ぶ事になる。
大好きなまゆりと別れ、過去の世界でひとり……。
そして、奴らに捕まり、被検体にされてしまうんだ。
鈴羽
「そういえば、父さん。まゆねえさんには伝えたのか? おじさんが目覚めたこと」

「あ、いかん! すっかり忘れてた! 早く教えてやらんと!」
ダルは小型の無線機のようなものを取り出した。

「こちら、バレル・タイター。応答せよ、こちらバレル・タイター」
まゆり
「こちらスターダスト・シェイクハンドです。どうぞ」
スピーカーから聞こえて来た声は、まさしくまゆりの声だった。
あの頃に比べると、ほんの少し落ち着いているようにも思えるが、それでもまゆりには違いない。
っていうか、スターダスト・シェイクハンドって……。
かがり
「ママー!」
まゆり
「あ、かがりちゃん。ダルおじさんのところにいるの?」
かがり
「うん」
まゆり
「おじさんは大事なお仕事があるから、あんまり邪魔しちゃダメだよ?」
かがり
「はーい」

「そんな事より、まゆ氏。スペシャルなニュースだ!」
まゆり
「スペシャルなニュース?」

「ああ……心して聞いてくれ。オカリンが……目覚めた」
まゆり
「……!」
まゆり
「ほんと、に? ほんとに……オカリンが……?」
フェイリス
「どうしたの、マユシィ!?」
まゆり
「オカリンが……オカリンが……」
るか
「もしかして岡部さん……目を覚ましたんですか!?」
フェイリス
「ホント!? オカリン、起きたのニャ!?」
無線の向こうから、聞き慣れた連中の声が次々に聞こえて来た。
声だけ聴くと、俺の知っている皆とほとんど変わらない。

「そういうわけで、3人とも、すぐに戻って来たほうが良い」
まゆり
「…………」

「まゆ氏? どうした、まゆ氏!?」
フェイリス
「ダメ。マユシィは嬉しさのあまり涙ぐんで声も出ないみたい」

「まあ、無理もないよな。オカリンの復活を一番望んでたのは、まゆ氏なんだからさ」
まゆり……。

「とにかく、みんな早く戻った方がいい」
フェイリス
「わかった。食料を受け取ったらすぐに戻るわ」
喜びの声が上がる中、ふと見ると、鈴羽だけが表情を曇らせていた。

「……どうした、鈴羽?」
鈴羽
「……なんで、まゆねえさん達、食料調達に出ている? 今日は予定に無かったはずだ……」

「え?」
フェイリス
「そんなはずない。確かに今日だって、昨日の夜遅くに連絡が……」
鈴羽
「……マズい! それは罠だ! みんな、すぐに戻って――」
まゆり
「きゃぁっ!?」
鈴羽の言葉を遮るように、スピーカーから悲鳴が聞こえた。
鈴羽
「どうした!? 何があった!?」
るか
「襲撃です! 敵襲が――!」
鈴羽
「くそ――っ!!」
るか
「まゆりちゃん! フェイリスさん! 逃げて! ここはボクが!」
フェイリス
「でも、そんな事したらルカニャンが!」
るか
「ボクなら大丈夫ですから、早くっ!」
まゆり
「ダメぇ、るかくんっ!!」
フェイリス
「ルカニャン!!!」
鈴羽
「父さんっ!」

「おうっ!!」
いち早く駆け出した鈴羽をダルが追う。
倫太郎
「待ってくれ、ダル!」
倫太郎
「俺も行く!」

「……でも、オカリン、その身体じゃ……」
倫太郎
「……行かせてくれ。頼む……」
ダルはほんのわずかの間、逡巡していたが、すぐにうなずき、俺に肩を差し出した。
若い頃に比べて少し痩せはしたものの、それでもまだ大きな肩に身を預け、俺は鈴羽の後を追った。
倫太郎
「…………」
ダルに支えられながら暫く行くと、いくつかの人影が見えた。
おそらくそこでは、激しい戦闘が行われているだろう――そう覚悟していたが、辺りはひっそりと静まり返っていた。
向こうのほうに、兵士らしき人間が数人倒れている。
手前には、立ち尽くす鈴羽。
すぐ傍にしゃがみ込む、ふたりの女。
そしてその足元に――。
るか
「っ……」
倫太郎
「ルカ……子……」
ひと目でわかった。
そこに横たわっているのがルカ子だと。
まゆり
「……オカ……リン……?」
倒れたルカ子を覗き込んでいたふたりが顔を上げた。
フェイリス
「オカリン……ルカニャンが……ルカニャンが……」
まゆりもフェイリスも、刻まれた時の中で随分とやつれて見えた。
倫太郎
「あ……あぁ……」
るか
「岡部……さん……?」
幾らか精悍にはなったものの、その柔和で女性のような顔は変わっていなかった。
ルカ子は焦点の合わない目で俺を見つめた。
倫太郎
「ルカ子……」
るか
「ほんとうに……岡部さん、なんですか……?」
倫太郎
「ああ……ルカ子……俺だ……」
るか
「ふふ……その呼び方……本物の岡部さん……ゴフっ!」
咳き込んだルカ子の口の端から、真っ赤な筋がひとしずく、流れ落ちた。
ルカ子の右胸あたりから流れた血は衣服を紅く染め、地面にまで広がっていた。
一見して致命傷だとわかった。
るか
「よかった……さっきのはなしは……うそじゃ、なかったん、です、ね……」
倫太郎
「ああ……お前たちのおかげで、こうして目覚める事が出来た……ありがとう……」
ルカ子の手が何かを求めるように宙をさまよった。
既にその瞳には、俺の姿は映っていないのかもしれない。
握り締めたその手は、驚くほどに冷たかった。
るか
「岡、部……さん……」
倫太郎
「どうした?」
るか
「ボク……やりました……」
倫太郎
「ああ……」
るか
「凶真さんに……おしえてもらった……清心斬魔流の心得の、おかげ、で……今まで、まゆりちゃんや……みんなを……まもってこられ、まし……た……」
倫太郎
「ぁ、ああ……」
るか
「ボク……仲間に……なれました、よね……?」
るか
「みなさんの……ほんとうの、なかまに、なれ……ました、よね……?」
倫太郎
「馬鹿……お前は、最初から、ずっと……俺たちの仲間だ……」
ルカ子は冷たい手を伸ばして、俺の頬に触れ――。
そして眩いばかりの笑みを浮かべ。
るか
「……えへへ……うれしい、な……」
それだけ言って。
ふ、と。
頬の感触が消えた。
倫太郎
「ルカ子! ルカ子!?」
まゆり
「るか……くん……?」
冷たい手はそのまま瓦礫に塗れた地面に落ち。
倫太郎
「あ……あぁぁ……」
フェイリス
「ルカニャンっ!!!」
そのまま二度と動く事はなかった。
倫太郎
「あぁ……あぁぁ……」

「なんて……事だ……」
まゆり
「……よかった。るかくんは、オカリンとずっと会いたがっていたから。最期に会えたのは、本当に、よかった……」
よかった……?
よかったって……?
こんな終わり方が……?
まゆりのその言葉で、俺が眠っていたこの25年間がどれほど残酷で、地獄のような時間だったかを、思い知らされた。
まゆり
「漆原るか……。あなたは、とても立派に戦いました……。私たちは、あなたに、救われました……どうか、安らかに……」
まゆり
「…………」
倫太郎
「くっ……こんな、こんなの、あんまりだろ……っ」
倫太郎
「う、あぁぁぁぁああああああ…………!」

「まゆ氏は?」
鈴羽
「泣き疲れて眠ったよ」

「無理もないよな。まゆ氏はるか氏とずっと仲良かったから……」
鈴羽
「っ……るかにいさんっ!」
ルカ子が……死んだ。
まゆりやフェイリスを守って、無残に命を落とした。
倫太郎
「っ……!」
その死が、まゆりの死と重なる。
手の中で冷たくなっていくまゆり。
そしてルカ子。
どこまで行ってもこうだ。
まゆりも。
ルカ子も。
そして紅莉栖も。
みんなみんな死んでしまう。

「あの戦争をきっかけに、たくさんの人間が死んだ」

「小学校の友達も、中学高校の友達も、大学の友達も……」

「親戚も先生も知り合いも、大人も子どもも、それから……大切な人も……」
鈴羽
「…………っ」

「たくさんの……本当にたくさんの人間が死んだんだ……」
わかっていた。
いや――わかっているつもり、だった。
シュタインズゲートに辿りつかなければ。
β世界線のままでは、いずれ世界中を大きな戦火が包む。
散々聞かされてきた事だ。
それがどんな未来か、俺はわかっていたつもりだった。
でもそれは所詮、遠い未来の話でしかなかったんだ。
そこには一切の
現実
リアル
はない。
あるのは、ただの
想像
イメージ
だ。
現実味
リアリティ
のない漠然とした想像だけが、そこにあった。
かつて俺が経験した、何百何千もの悪夢。
あれ以上の地獄はないと思っていた。
けれどこうして、実際にこの目で見て、この耳で聞いて、この肌で感じた今、それはすべて幻想だったと知った。
積み重ねられた屍の山。
貪り食う野犬の群れ。
倒れた兵士。
燻された肉の匂い。
腐った内臓の匂い。
手のひらに残る、ルカ子の血の温もり。
まゆりの血の温もり。
紅莉栖の血の温もり。
まゆりだけは救ったつもりだった。
紅莉栖を見殺しにして、現実から目を背けて、それでもまゆりたちだけは救えたつもりでいた。
けれど、結局俺は何も救えていなかった。
救ったのだとしたら、それは己だけだ。
自分、ただひとりを救っただけだ。
他には何ひとつ救ってなどいない。
紅莉栖も。
まゆりも。
かがりも、ルカ子も。
誰一人として救えてなんていない。

「“紅莉栖”を『Amadeus』の呪縛から解放してやってくれ」
倫太郎
「え?」

「伝言。2025年のオカリンから……」
倫太郎
「俺の……伝言……」

「シュタインズゲート世界線への道は険しい。一度や二度、やり直したところで、辿りつける道ではないだろう」

「けれど、まずはそこから始める事が、
運命石の扉
シュタインズゲート
へと繋がるんじゃないか――」

「いくつもの未来の先が、過去へと繋がっているんじゃないか――」

「11年前、オカリンはそう言ってた」
倫太郎
「“紅莉栖”を解放……」

「だからさ、僕たちがいるこの世界も無駄じゃない。きっと必要な世界なんだ。少なくとも今の僕はそう思ってる」

「もちろん、だからって、このままでいいってわけじゃない」
倫太郎
「ダル……」

「だからさ、オカリン。もう一度、戻って考えてみてもいいんじゃね? オカリンの記憶の途切れたその時間に、さ……」
倫太郎
「2011年に……か? でも、そんな事……」
ガラスに、老いた自分の姿が写る。
倫太郎
「第一、この姿のまま戻ったところで、俺に何が出来る……?」
真帆
「出来るわ」
無線から聞き覚えのある声が聞こえた。
真帆
「久しぶりね、岡部さん。11年ぶりかしら」
倫太郎
「比屋定さんか……?」
真帆
「部屋の奥を見なさい」
その言葉に応えるように、いつの間にかダルが部屋の奥、照明の当たらない薄暗い一角に立っていた。
突然明るくなったその一角に鎮座しているのは――。
倫太郎
「電話レンジ(仮)……」
真帆
「あなたや橋田さんから話を聞いて私が作ったものよ。ほら、ちゃんとVRヘッドも用意してあるでしょう?」

「こんな事もあろうかと、リフターも用意してある」
倫太郎
「…………」
ダルはさらに、この11年間、俺が意識がない状態でもタイムリープの“受信”が可能な環境をずっと維持してきたのだと説明してくれた。
なるほどな……。
俺の意識がなくても、こめかみあたりに自動受信装置みたいなものを取り付けておけば、それで事足りるわけだからな。
2025年に俺が壊れてしまってから、この身体はずっと、まゆりたちが付きっきりで世話をしてきたんだし。
ダルと真帆は、こうなる事を11年も前から予期していたのか。
あるいは、これもまた、2025年の俺による入れ知恵だったのかもしれないが。
真帆
「改良を重ねた結果、跳躍可能時間は336時間」
倫太郎
「336時間……二週間か」
真帆
「ただし、それも途中まで。マシンを改良してそれが可能になったのは10年ほど前だから、それ以前は前と変わらず48時間しか跳躍出来ない」
つまり、2011年の1月末に戻ろうと思うなら、単純計算しても――3000回近いタイムリープが必要になるということだ……。
真帆

途轍
とてつ
もなく辛い旅になるわ。それでも戻る気があるのなら……」
倫太郎
「…………」
3000回近いタイムリープ――果たして、今の俺にそんな大それた事が出来るのか?

「しんどくなったら、途中で休めばいい」
倫太郎
「ダル……」
真帆
「大丈夫よ。どの時間に辿りついても、必ず私たちがいるから」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「私ね……後悔しているの……」
真帆
「『Amadeus』のせいで、あの子は死んでもなお多くの邪な人々に利用されようとしていた……」
真帆
「何年も……何十年も……」
真帆
「だから私からもお願い……あの子を……“紅莉栖”を醜い欲望の渦から解放してあげて……」
真帆
「紅莉栖を救ってあげて……。それが出来るのは、岡部さん……あなただけよ……」
倫太郎
「…………」
今の俺に出来るかどうかはわからない。
そこから始まる道が、本当に
運命石の扉
シュタインズゲート
に続いているという保証もない。
それでも――。
倫太郎
「もう一度、考える、か――」
俺に何が出来るのか。
何をすべきなのか。
倫太郎
「ふたりとも、頼む……」

「オーキードーキー!」
返事を聞くが早いか、ダルが早速準備に取り掛かる。
真帆
「岡部さん」
倫太郎
「……?」
真帆
「もしも、次に紅莉栖に会えたら言ってやって。未来の私は、あなたの7倍もの時間跳躍を可能にしたわよ、って」
倫太郎
「……わかった」
紅莉栖に会えたら――。

「オカリン。こっちの準備はOKだ!」
倫太郎
「早いな」

「メンテは怠ってないからね」
倫太郎
「さすがだな」

「まあな」
電話レンジ(仮)とVRヘッド。
あのラボにあったものとは、見た目もほんの少し違ってはいるが、それは紛れもなく俺たちの未来ガジェットで……。
鈴羽
「あ、でもまゆねえさんたちとは話さなくていいの?」
倫太郎
「……今跳ばないと、決心が鈍りそうだ」
倫太郎
「それに、今会えなくても、いくらだって会えるさ。過去の世界で……」

「そうだな」
ニヤリと笑ったダルの手からVRヘッドを受け取り、頭に装着する。
倫太郎
「それじゃあ、また。2週間前で、な」

「ああ、2週間前で」
真帆
「しっかりね」
そして――。
俺は再び過去へと跳躍した――。
それは、長い長い。
気の遠くなるほど長い旅だった。
倫太郎
「っ……」
倫太郎
「…………」
手の中に握りしめたスマホを見る。
日付けは――2011年1月31日。
間違いない。
戻ってきた。
ようやく、この時間に。
いくつもの時間の流れを越えて。
何千回ものタイムリープを繰り返して。
戦争の只中も跳び越えて。
死にそうな目に遭った事もあった。
途中で何度か諦めようとした事もあった。
それでもその都度、俺はあの光景を思い出した。
廃墟と化した世界。
積み上げられた死体の山。
悲鳴。
絶叫。
流れ落ちる血。
そして俺を見送ったダルたちの姿。
長い長い、途方もなく長い旅路を終え、ようやくこの時間に俺は帰ってきた。
まゆり
「オカリン? なにか良くない報せでもあったの?」
倫太郎
「え……?」
まゆり
「電話に出てから、なんだかぼーっとしてるから」
倫太郎
「い、いや……そうじゃない。そういうわけじゃないんだ……」
まゆりがいる。
フェイリス
「もしかして、まだお正月の気分が抜けないのかニャ?」
フェイリスもいる。

「しっかりしてくれよな」
ダルも。
ルカ子も。
鈴羽も。
そして。
かがり
「…………?」
真帆とかがりも、ここにいる。
真帆
「もしかして、この前の疲れが出ちゃったかしら?」
倫太郎
「この前?」
真帆
「ほら、この前、『Amadeus』のサンプル用に記憶データを取ったでしょう?」
ああ……そうか。
ダルが言っていたな。
1月の末だと。
倫太郎
「いや、そうじゃないんだ……ちょっと、な」
真帆
「…………」
倫太郎
「かがり……」
かがり
「ん? なあに、オカリンさん?」
倫太郎
「この時代に来てからの記憶は、まだ思い出せないのか……?」
かがり
「え? う、うん……」
倫太郎
「そうか……」
かがり
「どうしたの、いきなり?」
倫太郎
「なんでもない。ただ少し確かめただけだ」
かがり
「なにそれー。変なオカリンさん」
未来からやって来た今の俺は知っていた。
この世界線のかがりの頭の中には、もう紅莉栖の記憶は存在しない事を。
かがり
「でも私ね、別にこのままでもいいかなって思ってるんだ」
かがり
「だって、ここにはママもいるし、るかくんやルミおねーちゃんもいるし。食べ物だっていっぱいあるし、無理に思い出す必要もないんじゃないかって」
倫太郎
「そうか……」
今はこれでいいかもしれない。
けれどこのままでは世界は確実に、数多の悲しみに満ちた未来へと向かっていく。
まゆりも。
フェイリスも。
ルカ子も。
ダルも。
鈴羽も。
かがりも。
そして真帆も。
紅莉栖の死を選んだ末にあるのがあんな未来であって、本当にいいというのか。
倫太郎
「…………」
まゆり達を見送ってひとりになった途端、疲労が一斉に押し寄せてきた。
3000回にも及ぶタイムリープ。
その間に頭の中を整理出来るかとも思ったが、実際は過去に戻る事に必死で、それどころじゃなかった。
繰り返される時間跳躍の中で、精神は疲弊していった。
一度定まりかけた心も、何度も揺らいだ。
それでも、まずは戻って来る事――そこから始める事を心に言い聞かせ、ようやく帰ってきた。
おかげで頭の中は疲れ切っている。
これから何をすべきか。
どうするべきか。
今は何も考えたくない。
にも関わらず、妙に冴え冴えとして眠る事すら出来ない。
人のいなくなったラボは急激に温度を失い、底冷えのする寒さが身体を襲う。
だがそれも、あの時感じた寒さに比べれば平気だった。
かがりから紅莉栖の記憶を消した後に見た世界。
そこには、紅莉栖がいてまゆりがいて――皆がいた。
それはあの夏の――ほんの少しの間だけの平穏な光景だった。
それでも、あの世界は異様なほどに冷たかった。
今になってみればわかる。
あれはきっと、データとして眠っていた間の俺の世界だ。
0と1だけで構成された世界だ。
生きているのに死んでいるような。
死んでいるのに生かされているような。
そこには確かに大切な人たちがいた。
けれど一切の温度は感じられない。
手を伸ばせば触れる事も出来る。
けれどわずかな温もりすらない。
昏い昏い、光すら届かない、暗黒の宇宙の中でひとり漂っている、そんな感覚だ。
そして――『Amadeus』となってしまった牧瀬紅莉栖は、今でもその中にいる。
わずかな温もりすら感じる事の出来ない、冷たい世界でずっとひとり――。
倫太郎
「…………」
蛍光灯の灯りに、手のひらを掲げてみる。
うっすらと浮き上がった血管の奥には、赤い血が流れている。
生きている。
温もりもある。
けれども今の俺は、はたして生きていると言えるのか?
一度、記憶のデータと化してしまった俺は。
あの冷たい世界に身を晒した俺は、人間だといえるのだろうか?
ドアの開かれる音が聞こえ、目を向けた。
真帆
「…………」
真帆が立っていた。
倫太郎
「比屋定さん……帰ったんじゃなかったのか?」
真帆
「ちょっと忘れ物をしちゃってね」
倫太郎
「忘れ物?」
真帆
「それより、貴方こそひとりで何をしているのかしら?」
真帆は忘れ物を探す素振りすら見せず、まっすぐに俺に歩み寄ってくると、目の前に腰かけた。
真帆
「さっきもずっと難しい顔してたわよね。何か気になる事でもあるの?」
もしかしたら、気にしてわざわざ戻ってきたのだろうか。
真帆
「私じゃ紅莉栖の代わりにはなれないかもしれないけど、それでもよければ話してみて」
倫太郎
「比屋定さん……」
今さら彼女に話していいかどうか、考える必要などない。
彼女には、これからタイムリープマシンを作ってもらわなければならない。
そのためには、すべてを知っておいてもらう必要がある。
倫太郎
「嘘みたいな話だが、聞いてくれるか?」
真帆
「……まったく。あなた、なんて人なの……」
俺の話を聞いた真帆の第一声が、それだった。
以前と同様、当然すぐには信じて貰える話ではなかった。
それでも、真帆は俺の真剣な態度から感じとるものがあったのか、根気よく話を聞いてくれた。
理解出来ない事には、理路整然と疑問を挟みながら。
やはり特に興味を示したのは、タイムリープとタイムマシンについてだった。
そのシステムについても、俺の知る限りすべてを語って聞かせた。
倫太郎
「信じてくれるのか……?」
真帆
「信じないわけにはいかないでしょう、そんな顔して語られたら。それに……」
真帆
「実際にこんなものを見せられたら」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「それに、これで納得がいったわ。前から不思議だったのよ」
真帆
「紅莉栖は秋葉原に来て、ほとんど日を置かないまま死んでしまった。そんな彼女と、貴方がそれほどに仲良くなれたということが……」
真帆
「特にあの子のあの性格でしょ? そんな期間に、それも男の人と親しくなるなんて、よっぽどのことがあったんじゃないかと思っていたのだけど……」
そういうことだったのね、と真帆は小さく呶いた。
真帆
「それで? 貴方は何を気にしているの?」
真帆の真っ直ぐな視線に、俺は目をそらした。
真帆
「岡部さん……?」
倫太郎
「……俺は……俺なんだろうか」
真帆
「……どういう事?」
倫太郎
「聞いただろう? 今の俺の頭の中にある記憶――それは一度データとなって、ハードディスクの中に保管されていた記憶だ」
倫太郎
「いわば、人工記憶といってもいい」
倫太郎
「そんな俺は、果たして俺自身だと言えるんだろうか?」
倫太郎
「生きている……そう言えるんだろうか……」
この身体に血は流れている。
それでも頭の中身は一度0と1に変換されたものだ。
それならば、俺は『Amadeus』となんら変わらない存在なんじゃないか?
真帆
「なんだ、そんなことで悩んでたの? 馬鹿馬鹿しい」
だが、真帆はそんな俺の悩みをあっさりと一蹴した。
真帆
「あなたは、
哲学的ゾンビ

って知ってる?」
倫太郎
「確か……思考実験のひとつだろう? 姿かたちから行動に至るまで人間そっくりだが、意識や感情が欠乏している存在は、客観的に人間と区別が出来るのかどうか……という」
突然投げかけられた質問に、戸惑いながらも答える。
真帆
「ま、だいたい合っているわね」
真帆は教師のように満足げに頷いた。
真帆
「じゃあ仮に、ここに人間そっくりの外見をした人工知能が存在するとするわよ」
真帆
「人間と同じように振る舞い、同じように行動する」
真帆
「誰かが困っていれば手をさし伸ばし、哀しい時には涙する」
真帆
「これは決められたプロセスなのかもしれないけれど、でもそれは人間だって同じ。個人個人で定められたプロセスに従って、考えて反応する……」
真帆
「私たちはそのプロセスを、意識や感情という言葉に置き換えているだけじゃないかしら」
真帆の言わんとしている事が、なんとなくわかった。
倫太郎
「つまり、AIにだって感情はある、と?」
真帆
「少なくとも、私たち科学者はそういう物を作り出すために、日々研究を重ねているつもりよ」
誇らしげに胸を張る。
真帆
「じゃあ、岡部さん。あなたは感情を持ったAIは人ではないと思う?」
姿かたちも人と同じで、考え方も同じ。感情もある。
それは――人だ。
倫太郎
「いや……」
真帆
「でしょう? そもそも、個人を個人たらしめているのは記憶よ」
真帆
「その人が生まれ、経験した事、感じたもの。その集合体が人間なの」
真帆
「だから岡部倫太郎。たとえ一度データになっていても、あなたの記憶と身体を持つあなたはまぎれもなく人間、岡部倫太郎よ。心配いらない」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「だいたい、紅莉栖の作り出したっていうそのタイムリープマシンだって、記憶を一度データ化して還元するものなんでしょう?」
真帆
「だったら、今さら思い悩むだけ無駄だと思わない?」
それは、未来のダルにも言われた事だ。
けれど不思議な事に、彼女の口から言われると、ずっとわだかまっていた心のつかえが、すっと降りたような気がした。
真帆
「……こういう時、紅莉栖ならもっと的確な事を言えたのかもしれないけど……」
倫太郎
「いや……そんな事ないよ。じゅうぶんだ……」
真帆は脳科学者としての見地から、俺が俺であるという保証を与えてくれた。
その言葉には、まるであの頃の――俺の背中を押してくれた紅莉栖のような力強さがあった。
以前、真帆が投げかけた言葉――。
真帆
「あなたは天才で、所詮私はサリエリだったってことよ」
あれは、かがりの中にある紅莉栖の記憶に対する言葉だった。
けれど――。
倫太郎
「比屋定さん。君はサリエリなんかじゃない」
真帆
「え?」
倫太郎
「立派なアマデウスだ」
真帆
「…………」
そうだ。
今、俺はここにいる。
あの冷たく暗いデータの海じゃなく、生きてこの時代のこの世界にいる。
この時間の中にいる。
暗闇の真ん中に明かりが灯る。
冷たく沈んでいた心が、温度を取り戻していく。
けれど――。
倫太郎
「…………」
紅莉栖は――あいつは今もまだあの世界にいる。
心の底までもが凍てついてしまいそうな、あの無機質な世界に。
死してなお、記憶だけが生かされている。
そして、その生きている記憶を巡って様々な陰謀が渦を巻いている。
紅莉栖の苦痛は――肉体を失ってもまだなお続いている。
いや、紅莉栖だけじゃない。
かがりも、鈴羽も。
そして未来のまゆりもフェイリスもルカ子もダルも。
皆が苦痛と苦悩の中で過酷な運命に抗い、それでも前に進もうとしている。
俺はまゆりが生きていけるのなら、それでいいと思っていた。
たとえこの先に、第三次世界大戦が起ころうとも、世界がどんな形になろうとも、まゆりが元気に生きていけるのなら、それで充分だと思っていた。
思おうとしていた。
その世界がどれだけ血と涙の海の中にあろうとも、今が良ければそれでいいと。
わかっていたつもりだった。
鈴羽の語る悲惨な未来も状況も、過酷な日々も。
ダルや鈴羽の闘いの日々も。
すべてわかっていたつもりだった。
平然と銃を撃ち、その手を血に染める鈴羽。
痩せこけ、色を失ったまゆりやフェイリス。
動かなくなったルカ子。
ただ世界に翻弄されるだけの、かがりたち。
実際にこの目で見てこの手で触れて、ようやく理解した。
俺はわかったふりをして、逃げていただけだと。
どうせ俺は2025年に死んでしまうのだから――そう目を背けていただけだと。
2025年――。
俺は死んではいなかった。
死んだ事になっていただけだ。
誰もが騙されていた。
そう、騙されていたんだ。
過去の俺も。
未来の皆も。
世界は――騙されていた。
確定していると思われていた未来。
そこには違う形の未来が待っていた。

「『シュタインズゲート世界線への道は険しい。一度や二度、やり直したところで、辿りつける道ではないだろう』」

「『けれど、まずはそこから始めることが、
運命石の扉
シュタインズゲート
へと繋がるんじゃないか――11年前、オカリンはそう言ってた』」

「『だからさ、僕たちがいるこの世界も無駄じゃない。きっと必要な世界なんだ。少なくとも今の僕はそう思ってる』」
14年後の俺が何をもってそう思うに至ったのか、今の俺にはまだわからない。
だがひとつ言えるのは、その頃の俺がいずれこういう日が来るだろうと予想していた事だ。
それならば――その言葉に従ってみるのもいいだろう。
あの2036年が必要な未来だというのなら、電脳の世界から“紅莉栖”を解放した世界も、また必要な未来であるはずだ。
いかに道は険しくとも、まずは一歩踏み出す事。
今の俺に必要なのは、その一歩だ。
倫太郎
「比屋定さん」
真帆
「なに?」
倫太郎
「アメリカに帰る前に、もう少し付き合ってもらえるか?」
真帆
「……そうね。条件がふたつあるわ」
倫太郎
「条件……?」
真帆
「ひとつは、このタイムマシンを調べさせて欲しいって事」
倫太郎
「……もうひとつは?」
真帆
「あなたの事、オカリンさん、って呼ばせてもらう。あなたは私を、真帆って呼びなさい」
倫太郎
「…………」
真帆
「悪くない条件だと思うけど?」
そう言った真帆の顔には、今まで見た事もないほど無邪気な笑みが浮かんでいた。
倫太郎
「……わかった、真帆」
真帆
「よろしく、オカリンさん」
俺の手を握る小さな手のひらからは、確かな温もりが伝わってきた。
フェイリス
「どうしたんだニャ、オカリン。一度帰った後に、わざわざ呼び出すニャんて」

「そうだよ。僕なんて、それほど近いわけじゃないんだからさ。話があるなら、帰る前に言って欲しかったのだぜ」
既に帰宅しかけていたところを呼び戻されたラボメン達は、口々に言いたてた。
まゆり
「それで、お話ってなにかな、オカリン?」
るか
「RINEや電話じゃダメなお話ですか?」
倫太郎
「ああ。その前に鈴羽」
鈴羽
「なに?」
倫太郎
「ひとつ訊きたい。お前は俺のことをどう思っている?」
鈴羽
「どう……とは?」

「ちょっ、オカリン……まさか!」

「い、いくらオカリンでも、鈴羽はあげらんないよ! お父さんは認めません! ダメ、絶対!」
すっかり勘違いしているらしいダルは放っておいて、俺は鈴羽に向き合った。
倫太郎
「お前はこの半年、俺の事を見ていたはずだ。その上で、心の中ではどう思っていた? 率直な言葉を聞かせて欲しい……」
鈴羽
「言っていいのか?」
倫太郎
「ああ……」
鈴羽
「……正直言うと、腹が立ってしょうがなかった」
本当に率直な言葉だったので、俺は苦笑した。
鈴羽
「あたしや父さんやまゆねえさんだけじゃない。ルミねえさんもるかにいさんもかがりも……」
鈴羽
「未来の世界では、みんなみんな辛い思いをしている。明日は生きているかどうかもわからない。母さんみたいに無残に殺されてしまうかもしれない」
鈴羽
「そんな世界で必死になって生きてるんだ」
鈴羽
「それなのに、弱音ばかり吐いて自分ばかりが辛いような事を言って……」
一度口火を開くと、鈴羽の言葉は絶え間なく流れ出た。
俺の煮え切らない態度に、それだけずっと鬱憤を抱え込んできたのだろう。
鈴羽
「もちろん、オカリンおじさんが、辛い経験をしてきた事は知ってる。何度も何度も苦しい目に遭って、それで立ち上がれなくなったことだって知ってる」
鈴羽
「それでも、あたしたちにはオカリンおじさんしか頼れる人がいないんだ……」
鈴羽は俯き加減に拳を握りしめ、歯噛みをした。
鈴羽
「あたしや父さんに代わりが務まるのなら、どんな事でもやる! どんな辛い思いをしようが、どんな苦しみが待ち構えていようが、それでもなんだってやる!」

「鈴羽……」
鈴羽
「だけど、あたしたちじゃどうしようも出来ないから……オカリンおじさんじゃなければどうにも出来ないから……」
不意に上げられた顔には、これまで抑え込まれていた複雑な思いが湛えられていた。
鈴羽
「それなのにおじさんときたら、無理だとか出来ないとか、勘弁してくれとか、そんな弱音ばかりで、話を聞いてくれようとさえしない!」
鈴羽
「父さんの手前だから言わなかったけど、あたしはそんなおじさんの態度にずっと腹が立ってた!」
鈴羽
「本当に、ブン殴ってやりたいくらいだったよ!」
倫太郎
「……ふっ」
本人を前にここまで言えるなら、いっそ清々しい。

「す、鈴羽……なにもそこまで言わんでも」
フェイリス
「そうだニャ。オカリンだって、わかってるんだニャ」
そう、わかっていた。
わかっていたんだ。どうにかしなきゃいけない事くらい。
倫太郎
「だったら……そうしてもらおうか」
鈴羽
「……そうする、とは?」
倫太郎
「殴りたかったんだろう? だったら、殴ってみればいい?」
鈴羽
「え……でも……」
倫太郎
「遠慮はいらない」
鈴羽
「…………」
まゆり
「す、スズさん。やめて……オカリンは……」
倫太郎
「いいんだ、まゆり」
これは俺なりのケジメだ。
鈴羽への。
未来の世界への。
そして自分への。
かがり
「オカリンさん……」

「も、もしかして……そういう性癖? だったら止めんけど……」
鈴羽
「ホントにいいんだな?」
鈴羽が一歩、俺に詰め寄ってくる。
倫太郎
「ああ……」
覚悟は出来ている。
鈴羽
「じゃあ……本気で行く」
倫太郎
「え? あ、いや、待て……少しは手加減を――」
鈴羽
「せいっ!!!」
倫太郎
「はぐぼぁっ――!!」
思いっきり振りかぶってのグーパンに、吹っ飛ばされた。
鈴羽
「あ、悪かった。少し力が入り過ぎた……」
真帆
「いま、すごい音したわよ?」
まゆり
「だ、大丈夫、オカリン!?」
まゆりたちが、慌てた様子で俺の顔をのぞき込んでくる。
確かに、今のはかなり痛かった。
脳に、リーディング・シュタイナーやタイムリープをした時以上のダメージがあるかもしれない。
だが――。
倫太郎
「フッ……」
るか
「岡部、さん……?」
おかげで目が覚めた。
倫太郎
「フフフ――」
俺は、今の俺に出来る事をやればいい。
倫太郎
「ククククク――――」

「オカ……リン……?」
倫太郎
「フゥーハハハハハ!!!!」
フェイリス
「も、もしかして……凶真……?」
まゆり
「オカリン……」
倫太郎
「違うぞ、まゆり……」
倫太郎
「鳳凰院……凶真だ……」
るか
「凶真さんっ!」
倫太郎
「そうだ! 我が名は鳳凰院凶真っ!!!!」
倫太郎
「ラボメンナンバー001、このラボの創設者にして混沌を望み、世界の支配構造を覆すマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真だっ!!!!」
倫太郎
「ルカ子っ!!」
るか
「は、はいっ!!」
倫太郎
「白衣を持て!」
るか
「は、はいっ! おか……凶真さんっ!!」
フェイリス
「凶真が……凶真が復活したニャ!!」
鈴羽
「と、父さん……これは?」

「やったな鈴羽。ようやくオカリンがやる気になったのだぜ」
るか
「凶真さん、どうぞ」
倫太郎
「うむ」
久々に袖を通した白衣は、長らく開発室の棚に眠っていたため、ほんの少し


えたような臭いがした。
倫太郎
「そう、これだ! これこそが我が聖なる白銀の

よろい
! 今この時、鳳凰院凶真は復活した! 長い眠りから甦ったのだ! フゥーハハハハハハ!!!!」
真帆
「…………」
かがり
「…………」
俺の豹変っぷりに、鳳凰院凶真初体験のかがりと真帆は呆然としていた。
真帆
「……な、なんなの? 殴られたショックでおかしくなったの!?」
かがり
「思い……出した……」
真帆
「え?」
かがり
「鳳凰院凶真……ママがいつも言ってた名前……」
かがり
「いつかきっと、鳳凰院凶真が復活して……私たちの未来を照らしてくれるって……」
真帆
「……いや、ちょっとついていけないんですけど」
倫太郎
「おい、そこのロリっ子!」
真帆
「……ん?」
倫太郎
「お前だ、お前」
真帆
「ちょっ! もしかして私の事を言ってるんじゃないでしょうね!?」
倫太郎
「この場にロリっ子といえば、お前しかいないだろう」
真帆
「誰がロリっ子よ、誰が!!」
倫太郎
「貴様にはラボメンナンバー009の栄誉を与える! 以後、この鳳凰院凶真の手足となり、俺たちのオペレーションに参加するがいい!」
真帆
「なんで私があなたの手足にならなきゃいけないのよ。それにそのラボメンナンバーってなに!?」
倫太郎
「名前の通り、このラボの正式メンバーに選ばれた証だ。光栄に思うがいい」
真帆
「光栄にって……」
倫太郎
「それから、椎名かがり!」
かがり
「ふえっ!?」
倫太郎
「貴様も、ラボメンナンバー010だ。わかったな?」
かがり
「は、はいっ!!」
フェイリス
「ちょっと、凶真! フェイリスたちはラボメンにはしてくれないのかニャ!?」
倫太郎
「ん……?」
フェイリスとルカ子が訴えかけるような目で見ていた。
そういえば、ふたりをラボメン認定したのは、α世界線であって、この世界線じゃなかったな。
倫太郎
「言っていなかったが、もちろんお前たちは既にラボメンだ!」
倫太郎
「ルカ子は006、フェイリスは007、そして鈴羽は008! いいな!」
るか
「は、はいっ!」
フェイリス
「やったニャ!」
鈴羽
「……よくわからないけど、了解した」

「なあ、オカリン、それおかしくね? それじゃあ、004と005が不在じゃん」
倫太郎
「そのふたつには先約があるんでな……」
紅莉栖と萌郁――。
萌郁をラボメンとして残すには、正直言ってまだ抵抗はある。
だがいつか、それすらも認めた世界に辿りつくために、俺はあえて過去に向かい合おう。
そう決めたのだから。
倫太郎
「では全員が揃ったところで、改めて宣言する!」
倫太郎
「本日、2011年、1月31日をもって、新たなるオペレーションを発動する!!」
倫太郎
「目的は、予定された未来の粉砕! 世界の未来そのものを覆す事! それが俺たちの目的だっ! いいな!!」
倫太郎
「俺だ……」
倫太郎
「これより俺たちは新たなるオペレーションを実行に移す」
倫太郎
「未来の俺は言った。いくつもの未来のその先に
運命石の扉
シュタインズゲート
は待っていると」
倫太郎
「これから導く未来がたとえ茨の道だとしても、きっと無駄なものではないはずだ」
倫太郎
「わかっている。俺たちの目指す扉――そこに辿り着くには、途方もない時間がかかるだろう」
倫太郎
「いかなる機関が俺たちを阻止せんと立ちふさがるかもしれない」
倫太郎
「それでも俺は、何度だってやり直してやるさ」
倫太郎
「健闘を祈ってくれ……エル・プサイ・コングルゥ」
真帆
「…………」
鈴羽
「…………」
かがり
「…………」
今や懐かしくなってしまった電話のやりとりを終えると、真帆たちの視線に気づいた。
そんな目で見ないでくれ。
俺だって恥ずかしいんだ。
真帆
「何……それ……?」
倫太郎
「これは……いわば、そう! 儀式のようなものだ!」
真帆
「儀式……ねぇ……」
そう、儀式だ。
ともすれば、再び臆病風に吹かれてしまいそうになる自分自身を奮い立たせるための儀式。
真帆
「まさか、オカリンさん。あなた、紅莉栖相手にもそんな態度だったんじゃないでしょうね」
倫太郎
「う……お、岡部ではない。凶真だ!」
真帆
「ふざけているの?」

「真帆たん。あんま突っ込むのやめたげて。オカリンもまだ模索してる最中だから」
真帆
「はあ……」
かがり
「そっかぁ、これが鳳凰院凶真さんなんだねぇ」
まゆり
「そうだよ~。狂喜のまっどさいえんてぃすとさんなのです」
フェイリス


いにしえ

錬金術師
アルケミスト

の生まれ変わりでもあるのニャ」
るか
「清心斬魔流の師範でもあるんですよ」
かがり
「へ~、すごーい!」
鈴羽
「ダメだ、父さん。あたし、ついていけない」
頼むから、そんな物珍しそうな目で見ないでくれ。
心が折れそうだ……。
真帆
「それで、具体的にはどうするつもりなの?」
倫太郎
「ごほんっ」
倫太郎
「まず最初に言っておくが、俺たちが最終的に目指すのは、第三次世界大戦の起こらない未来だ」
さっきも自分に言い聞かせたばかりだが、すぐに俺たちの求める世界線――シュタインズゲート世界線に行けるとは思ってはいない。
あの夏の日、一歩一歩積み重ねてこのβ世界線に辿り着いたように、そこに到達するまでには、数多の過去と、そして未来を辿って行かなければならないはずだ。
そのために今、俺がなすべき事。それはこの世界線の未来を正す事だ。
紅莉栖という大きな存在を失った世界。
その世界の先に待っている未来。
その未来が、あれほどまでに大きな悲しみや苦痛と共にあるなどという事は許されない。
俺は認めない。
すべてはそこから始めなければならない。
たとえこの後、今から進むこの未来がなかった事になるとしても、だ。
それがこの世界を選んだ俺の責任でもある。
倫太郎
「このβ世界線においても、俺が何度か世界線の変動を経験してきた事は説明したな」
倫太郎
「まずはその原因を取り除かなければならない」
フェイリス
「原因って、なんなのニャ?」
倫太郎
「牧瀬紅莉栖のノートPCとハードディスク。そして『Amadeus』に残る“紅莉栖の記憶”」
タイムマシンに関する論文が残されたハードディスクと、それにまつわる記憶。
これまでに何度か起きた世界線の変動。
ストラトフォーをはじめ、おそらく複数にわたる組織や機関がそれらを奪い合った事で、あれらの世界線変動は起きたと考えていいだろう。
倫太郎
「故に、紅莉栖のノートPCとハードディスクの破棄、並びに紅莉栖の記憶のデータを消去する事。これが今回のオペレーションの最終目的となる」
真帆
「紅莉栖のデータを消去……!? そんな……!」
真帆
「……本気なの?」
倫太郎
「ああ」
真帆
「でも……あの記憶は、紅莉栖が生きていた証なのよ?」
真帆
「あの子がこの世界で、私たちと同じ時間を過ごしたっていう証拠なのよ?」
真帆
「私は……消去なんて、してほしくない……」
真帆の気持ちはわかる。
俺だって、つい先日までならそう考えていただろう。
倫太郎
「だったら、君は紅莉栖の記憶が悪用されてもいいというのか?」
真帆
「それは……」
倫太郎
「俺たちのいるこの世界線に至るまでの、いくつかの過去において、あいつの記憶は争いの種になってきた」
倫太郎
「それに多くの人間が巻き込まれている」
倫太郎
「そこにいる、かがりだってそうだ」
かがり
「…………」
今に至る失われた数年の間に、かがりの身に何があったのか――おそらく、そこに関しては、前の世界線と変わっていないのではないだろうか。
であるならば、それもすべては紅莉栖の記憶という
パンドラの箱

があるからこそ起きた悲劇だ。
倫太郎
「それに俺は、一度データの中の世界を経験して知った。あの世界の冷たさをな――」
そう、俺は知ってしまったんだ。
暗く冷たい、あの闇の世界を。
過去も今も未来もない、ただぴったりと閉じられた、

はこ
の中の世界を。
倫太郎
「それほどまでに昏く冷たい世界に、ずっと紅莉栖を閉じこめておいて、君は平気なのか?」
真帆
「…………」
倫太郎
「それに、あいつが生きていたという証は、俺たち自身の
ここ
①①
にある」
俺は自分の頭を指差した。
倫太郎
「俺たちが覚えている事。そしてその上で、第三次世界大戦の起きない平穏な世界へと導く事」
倫太郎
「それこそが、あいつが生きていた証拠になるんじゃないのか?」
黙りこんでしまった真帆に、全員の視線が集まる。
真帆
「……陳腐な台詞ね。それこそ、紅莉栖が聞いていたら笑われるわよ」
倫太郎
「だろうな」
真帆
「だけど、陳腐だと思える事にほど、真実はあるのかもしれないわね」
真帆は険しく歪めていた表情を一転、微笑みに変えた。
真帆
「あなたに従うわ」
倫太郎
「……ありがとう」
倫太郎
「ダル、紅莉栖のPCとハードディスクはお前が持っているんだよな?」

「うん。真帆たんから預かって、簡単には見つからんところに隠してる」
倫太郎
「それは『Amadeus』の件が終わったらすぐに破棄してくれ」

「……ホントにいいん?」
真帆の顔を呎うと、彼女は今度こそはっきりと頷いた。
真帆
「ええ。でも、それは私にやらせて」

「おk」
今問題なのは、『Amadeus』の方だ。
倫太郎
「真帆、『Amadeus』のあるサーバーにアクセス出来るか?」
真帆
「ええ、出来るはずよ。橋田さん、ちょっとPCを借してもらえる?」

「え? あ、ちょい待ち」
ダルは片手で真帆を制し、キーボードに向かって何やら打ち込み始めた。
フェイリス
「なにをしてるんだニャ、ダルニャン?」

「一応
IP

がバレないよう、厳重に細工を……おk。どうぞ」
真帆
「…………」
ダルと入れ替わりでPCに向かった真帆が、真剣な顔でキーボードに文字を打ち込み、マウスをクリックする。
真帆
「……え?」
真帆
「おかしいわ……アクセス出来ない……」
倫太郎
「どういう事だ?」

「パスワードが間違ってるってことは?」
真帆
「そんなミスするわけないでしょう。今まで何度も入力してきたんだから」
真帆は何度もパスワードを入力し直してみたが、それでも結局サーバーにはアクセス出来なかった。
真帆
「くっ――私のアクセス権限自体が停止されちゃってるみたい」
真帆
「どういう事なの、これ。ちょっと教授に電話してみる」
真帆はスマホを取り出して、レスキネン教授宛てに電話をかけた。
真帆
「…………」
だがしばらくの後、真帆は困惑した様子で、耳に当てていたスマホを下ろした。
真帆
「ダメ、繋がらない」
試しにレイエス教授にも電話してみたようだが、そちらもやはり連絡がつかなかった。
真帆
「もう! どうなってるのよ、これ!」
倫太郎
「やはり、そう簡単にはいかないか……」
真帆のアクセス権限が失われたという事は、既に何者かが何らかの動きに出ていると考えた方がよさそうだ。
倫太郎
「別のアプローチ方法を探ってみよう」
倫太郎
「ヴィクトルコンドリア大学のサーバーにハッキング出来るか?」

「おk。ちょっとやってみる」
真帆
「簡単に言ってるけど、うちの研究所のセキュリティ、結構厳しいわよ」
倫太郎
「大丈夫だ。なんたってダルはスーパーハカーだからな」

「それを言うなら、スーパーハッカーな」
これでも、あのSERNへのハッキングを僅か20時間でやり遂げた男なんだ。俺はダルに絶対の信頼を寄せていた。
ダルと真帆はいよいよ真剣に画面に向かい、何やら話している。
ハッキングの効率を上げるために、詳しい情報を得ているのだろう。
その間に俺は俺に出来る事をやっておかねばならない。
俺は開発室の奥へ向かうと、今朝仕入れたばかりの箱を開けた。
まゆりが後ろから箱の中をのぞき込んでくる。
まゆり
「わぁ、電子レンジちゃんだ~」
倫太郎
「からあげは解凍しないからな」
まゆり
「残念……。みんながお腹空いたら、ジューシーからあげナンバーワンを振る舞ってあげようと思ったのに……」
まずは電話レンジ(仮)の再現をしなければならない。
その後で、真帆にタイムリープマシンの製作を手伝ってもらう。
未来から戻って来る際に、その構造と仕組みはすべて頭に叩きつけてあったから、さほど時間はかからないはずだ。
真帆
「橋田さん……貴方、すごいわ……」
PCの前の真帆から、そんな感嘆の声が聞こえたのは、30分ほどが経った頃だった。
倫太郎
「やったのか?」

「僕にかかればこれくらい朝飯前だぜ」
倫太郎
「スーパーハッカーの名は、伊達じゃないな」
倫太郎
「じゃあ早速、『Amadeus』のデータを探してくれ」
真帆
「待って、今開いて……」
マウスのクリックが響く中、固唾を飲んで画面を覗き込む。
真帆
「……っ」
真帆
「ない……」
真帆
「『Amadeus』も紅莉栖の記憶データも、あったはずのフォルダからなくなってるわ……」
倫太郎
「既に持ち出された、という事か……?」
倫太郎
(待てよ……?)
俺は自分のスマホを取り出すと、ロックを解除してホーム画面を呼び出した。
そこには、『Amadeus』のアイコンが残っていた。
倫太郎
「なあ……このアプリから、『Amadeus』にアクセスできると思うか?」
真帆
「……!」
真帆が俺のスマホ画面をのぞき込んでくる。
真帆
「どうかしら……。『Amadeus』のデータそのものがサーバーに残ってないなら、さすがに無理なんじゃ……」
真帆
「試してみて」
倫太郎
「…………」
真帆
「どうしたの?」
倫太郎
「いざ繋がった時の事を考えるとな……。慎重に行かないと」
真帆
「そうね……。誰かに見られているかもしれない」

「ん?」
倫太郎
「どうした、ダル?」

「ここ……更に鍵がかけられてるフォルダがある……」
真帆
「どれ?」
真帆が身を乗り出し、モニタを凝視した。
真帆
「変ね。こんなフォルダ……今までなかったわ……」

「かなり厳重なセキュリティがかかってるっぽい。さっきのとは比にならんくらい」
真帆
「『Amadeus』はそっちに移されたのかしら」
真帆
「でもいったい誰が? そんな権限を持っているのは、レスキネン教授ぐらいよ」
倫太郎
「レスキネン教授には、裏の顔があったか、あるいは、教授の身に何かあったか……」
どちらも考えたくない事だな。
倫太郎
「ダル。そのフォルダはいったん保留だ」
倫太郎
「次は、ストラトフォーのサーバーにハックを仕掛けてくれ」

「え? ストラトフォーって、あの? なんでストラトフォー?」
倫太郎
「おそらく、今回の騒動の一端を担っているはずだ。以前ハックした事があるから、簡単だろう?」

「つーかオカリン、なんでそんなことまで知ってんの? エスパーかよ」
倫太郎
「俺を誰だと思っている。狂気のマッドサイエンティストはすべてお見通しだ」
ちょっと待ってて――と言いながら、ダルは更にPCに何やら打ち込んでいた。

「ストラトフォーのサーバーは……っと」
さすがに、一度ハックしていただけはある。
こんどは大学にアクセスするよりも、ずっと短い時間でハッキングは成功した。

「その『Amadeus』っつーシステムのデータを探せばいいんだよね?」
真帆
「ちょっと待って!」
真帆が再び小さな身体を乗り出して、ダルからマウスを奪い取り、アイコンをクリックした。
何らかの文書のようなものが画面に表示される。
真帆
「これ、レポートだわ……」
次々にファイルを開いていくが、当然英語で書かれているため、俺たちには理解出来ない。
真帆
「これは……」
倫太郎
「いったい、なんのレポートなんだ?」
真帆
「……実験よ。ストラトフォーが行っていた人体実験」
倫太郎
「人体……実験……」
真帆
「どうやら、ストラトフォーは記憶の移植実験を行っていたみたいね」
真帆
「誰かの記憶データを別人に移し定着させる実験をいくつも行っているわ」
記憶のデータを他人に移植する実験。
それは――。
真帆
「最初こそ、動物を使っていたようだけど、最終的には生身の人間で行われてる……」
真帆
「被験者には身寄りのない人を利用したみたい。大人から子どもまで、人種も様々……」
真帆
「…………」
そこまで言って、真帆は再びレポートに目を落とした。
倫太郎
「どうした? まだ何かあるのか?」
真帆
「どうやら彼ら、記憶移植に関する新しい実験に着手しようとしてるみたい……」
実験の目的は、タイムマシンに関連していると考えて間違いない。
連中はタイムマシンに関する情報を得るために、紅莉栖の記憶のブラックボックスをこじ開けようとしている。
『Amadeus』からパスワードを引き出して、ノートPCとハードディスクを手に入れなくても、記憶を直接こじあけタイムマシンに関する記憶を完全に取り出す事が出来さえすれば、すべては手に入るのだから。
要は前の世界線でかがりがやられていた事と同じ――いや、更に進んだ形なのかもしれない。
倫太郎
「とにかく今は、紅莉栖の記憶データを探すのが先決だ。ダル、データは有りそうか?」

「んー……」
真帆からマウスを返してもらったダルが、渋い顔を見せた。

「いや……ないね。それらしいもんは見当たらない……」
倫太郎
「…………」
どういう事だ?
ストラトフォーはヴィクトルコンドリア大学から『Amadeus』のデータを奪ったわけじゃないのか?

「一番怪しいのは、やっぱ大学のサーバーじゃね。あのプロテクトがかかってたとこ」
という事は……連中はデータを奪う事なしに、事を起こそうとしている?
俺たちと同じようにハッキングしたのか、それとも……。

「どうする?」
倫太郎
「……真帆を信じよう。ダル、侵入出来るか?」

「出来るけど、これはちょっと骨が折れると思われ……」
倫太郎
「どれくらいかかりそうだ?」

「わからんけど、下手したら、まるっと半日以上はかかるかも……」
ダルがそう言うくらいだ。余程厳重なプロテクトがかけられているんだろう。

「しかも、途中でハッキングかけてるのがバレたら全部おじゃん」
倫太郎
「…………」
紅莉栖の記憶データを消去するためには、ハッキングは必要条件だ。
ダルがハッキングを終えるまで、ストラトフォーの注意を他にむけなければならない。
問題はどうやって注意を引くか、だが……。
倫太郎
「『Amadeus』と通信している最中は、こっちの位置情報はどうなるんだ?」
真帆
「全部把握されるわ。当然、『Amadeus』のプログラムを持っている連中にもね」
やっぱりか。
真帆
「問題は『Amadeus』に繋がるかどうか……」
まずはこのアプリがまだ生きているかどうかを試してみよう。
もし繋がるなら……俺は、ひとつのアイデアを思いついた。
倫太郎
「真帆。ひとつ、無茶な頼みをしていいか?」
オペレーション発動から丸一日近くが経過した。
ダルによるフォルダのロック解除は、いまだ成功していない。
幸いな事に、今のところはまだ連中に感づかれていないようだが、だからと言って安心してはいられない。
ダルに任せている間に、俺の方は今出来る事をやり終え、後は真帆にバトンタッチしていた。
俺が行動を起こした事で、未来は既に変わっているのかもしれないが、それでもやるべき事はやっておかねばならなかった。
鈴羽
「…………」
鈴羽は先ほどから険しい顔で腕を組んでいる。
一見落ち着いているようにも見えるが、人差し指がせわしなくリズムを刻んでいる。
鈴羽
「おじさん。あたしたちに出来る事はないの?」
ようやく第三次世界大戦を回避すべく動き始めたというのに、何も出来ない自分に苛立ちさえ覚えているのだ。
一刻も早くなんとかしなければならないと思うのに、今はただ待つ事しか出来ない。
もどかしさと焦り。
だがそれは、この場にいる誰もが感じている事だろう。
倫太郎
「もう少しだ……ダルも真帆も頑張ってくれている……」
真帆に頼んだものさえ完成すれば、俺たちにも出来る事はある。
フェイリス
「フェイリス、甘いものとか買ってくるニャ。疲れた時には甘いものが一番ニャ」
るか
「あ、それじゃあボクも――」
ふたりがソファから立ち上がりかけるのとほぼ同じタイミングで、開発室のカーテンが開かれた。
真帆
「…………」
全員の視線が一斉に集まり、真帆はわずかにひるんだ素振りを見せたが、すぐにその顔に笑みを浮かべ、思い直したように仏頂面を作った。
真帆
「まったく、大変な事をいっぺんに頼まないでよね」
倫太郎
「すまん……それで……終わったのか?」
真帆
「言われた事は一応、ね」
奥の電子レンジには、半年前に見たものとは違うヘッドセットが取り付けられている。
俺の記憶のバックアップを取った時のものを流用したのだ。
おかげで、これほどの短時間で済んだようだ。
タイムリープマシン。
完成したか……。
これで、もし未来の俺がタイムリープして来ても、48時間前までには戻れる。
真帆
「それからこっちも」
真帆は、2台のスマホを差し出してきた。
それこそ、この先の戦いで秘策となるガジェットだ。
真帆に追加で開発してもらったのだ。
簡単なAIを使って、相手の目を欺くための疑似応答アプリ、みたいなものだった。
倫太郎
「さすがだな。こんな短時間にAIを作るなんて」
真帆
「自分で頼んでおいて、よく言うわ」
真帆の顔には疲労の色がにじみ出ていた。
真帆
「『Amadeus』で使っている音声ソフトがあったから、流用して開発期間を短縮したの」
真帆
「それにこれは、AIなんて大層な代物じゃない」
真帆
「こんなもので誤魔化せるのかしら? 相手は“紅莉栖”なのよ?」
倫太郎
「少しの時間だけでも騙せればそれでいいんだ。ダルのハッキングから、連中の目を逸らせれば、それでいい」
目的はあくまでも、ストラトフォーの
攪乱
かくらん
だ。
長時間の会話は不要なんだ。
むしろほんの短い時間だけ起動して、すぐに通話を切るような使い方になる。
さて、いよいよ本題はここからだ。
だが、その前に――。
倫太郎
「…………」
既に打ち込んであった文章をRINEで桐生萌郁へと送信した。
それを送り終えてから、この場にいる全員に向き直る。
倫太郎
「では、作戦の概要を説明する」
鈴羽、まゆり、フェイリス、ルカ子。
4人に、真帆から受け取ったばかりの2台のスマホを差し出した。
倫太郎
「4人には2人一組になってもらう」
倫太郎
「そうしたらこのスマホを持って、都内を動き回ってくれ」
倫太郎
「ペア同士は出来るだけ離れた方がいいな。片方の組は中央線沿線。もう片方は山手線沿線という事にしよう」
倫太郎
「お互いに連絡を取り合いつつ、スマホにインストールされている『Amadeus』というアプリを立ち上げてくれ」
ダルがハッキングを仕掛けている間に、俺はあえて一度秋葉原を離れ、東京駅から『Amadeus』にアクセスしてみた。
そうしたら、繋がったのだ。
“紅莉栖”が応答した。
一瞬で切ったが、間違いない。
このアプリは生きている。
それを利用した作戦だ。
まゆり
「立ち上げて、どうするの~?」
倫太郎
「『Amadeus』は牧瀬紅莉栖という人物の記憶を元に作られた人工知能だ」
倫太郎
「俺たちは、今からそいつを騙す」
そう。俺がやろうとしているのは“紅莉栖”を騙す事だ。
『Amadeus』と接触を持つ事で、相手にはこちらの位置情報を握られてしまう。
それを逆手に取るのが、俺の立てた作戦だった。
倫太郎
「『Amadeus』を立ち上げると同時に、もうひとつのプログラムが起動する」
フェイリス
「もうひとつのプログラムってなんだニャ?」
真帆
「そこのSってマークのあるアイコンをタップしてみてもらえる?」
フェイリス
「えっと……これかニャ?」
フェイリスがスマホをタップすると。
倫太郎?
「“もしもし、俺だ”」
まゆり
「わ、オカリンの声だ」
倫太郎
「話しかけてみてくれ」
フェイリス
「今日はどうしたんだニャ?」
倫太郎?
「“特に用はないんだ。少し話がしたくなってな”」
るか
「すごい。自動的に答えてくれるんですね……」
俺が真帆に作ってくれるように頼んだのは、会話の中の単語や文章を拾って、決まったパターンの会話の中から自動で返答してくれる装置――言うなれば人工無能だった。
真帆
「オカリンさんと私の
人工無能
ボット
――名づけて『
Salieri
サリエリ
』よ」
有名な映画のせいか、サリエリという人物はどうにも劣等感に満ちた、一段劣った人物と思われがちだが、実際はかなりの傑物だったらしい。
さすがにこの扱いは本物のサリエリに申し訳ない気がしたが、今はそんな事に拘っている場合じゃない。
倫太郎
「『Amadeus』を起動すると、俺たちのbotが自動で返事をしてくれるようになっている」
るか
「つまり……相手に、今喋っているのは岡部さんだって思わせるということですか?」
倫太郎
「そういう事だ」
そうすると、『Amadeus』は俺がその場所にいると思い込むだろう。
本来ならもっとたくさんの端末を用意したいところだが、『Amadeus』には端末認証が必要なため、アクセス出来る端末は限られている。
俺と真帆のもの、2台しか用意出来なかったが、短い時間だけなら、これでじゅうぶんだろう。
もちろん、真帆のスマホには真帆の『Salieri』がインストールされている。
それに加え、俺はさっき萌郁に宛ててRINEを送った。
あの時点で、紅莉栖のPCとハードディスクを俺と真帆が所有しているという情報を流してもらう手筈になっていた。
記憶実験を行おうとしているとはいえ、他の機関にPCとハードディスクを手に入れられるわけにはいかない。
遅かれ早かれその情報を入手した連中は、俺を躍起になって捜すはずだ。
『Amadeus』は奴らの手中にある。
『Amadeus』が得た位置情報から俺がそこにいると思いこんだ奴等は、必ず俺たちを捜しに行く。
だが実際には、俺たちはそこにはいない。
それどころか、今度はまったく別の場所で俺たちからの連絡が入り、そこへ向かう……。
そうやって翻弄する事で、連中の目をサーバーのハッキングから逸らそうという作戦だ。
倫太郎
「以上が今回の任務となる」
全員が頷く。
倫太郎
「くれぐれも言っておくが、『Amadeus』との長時間の接触は厳禁だ」
倫太郎
「それから、『Amadeus』を切った後は、すぐにその場を移動する事。何かあったら、すぐに連絡を寄こす事」
倫太郎
「これだけは絶対に守ってくれ。わかったな?」
かがり
「あの……私はどうすればいいのかな?」
俺たちの話を聞いていたかがりが、おずおずと手を挙げた。
倫太郎
「君は連中に顔も知られている。ここから動かないほうがいい」
かがり
「でも、私だって何か役に立ちたいよ。ママやみんなが頑張ってるなかで、ひとり何も出来ないでいるなんて、そんなの嫌だよ」
困ったな……。
かがり
「お願い、オカリンさん。私にも手伝わさせて」
かがりの気持ちは分からなくはない。
それでも、やはり危険な目に遭わせるわけにはいかない。
倫太郎
「すまないが……」
かがり
「…………」
まゆり
「かがりちゃん。まゆしぃがかがりちゃんの分まで頑張るよ。だから、オカリンの言うとおりにして、ね?」
かがり
「ママ……」
かがり
「わかった。ママがそう言うなら……」
どうやら納得してくれたらしい。
鈴羽
「おじさん。かがりには、全てが終わるまでどこかに隠れさせておくべきじゃないか?」
倫太郎
「そうだな。だが、どこに?」
隠れるとすれば、ルカ子の家か、あるいはフェイリスの家か……。

「なんなら僕の隠れ家にでもいく?」
倫太郎
「隠れ家? お前、そんなもの持ってるのか?」

「バイト用にいくつかあるんよ。そこで良ければどぞ」
倫太郎
「よし、決まりだ。かがりもそれでいいか?」
かがり
「……うん、わかった」
問題はかがりをひとりにするわけにはいかない事だが……。
女性の声
「あの、私にも何かやらせてもらえませんか?」
倫太郎
「え……?」
玄関からの突然の声に振り返ると、いつの間に来ていたのか、由季が立っていた。
鈴羽
「由季、さん……」
由季
「橋田さんからここの鍵、預かっていたので……」
申し訳なさそうに手の中の鍵を見せる。
由季
「その……昨夜、橋田さんに連絡したら、なんだか大変そうだったから、差し入れをと思って持ってきたんだけど……」
由季は鍵をしまうと、今度は手に提げていたケーキの紙袋を軽く持ち上げて見せた。
由季
「……事情はよくわかりませんが、何かできることがあるならと思って……」

「でもさ、阿万音氏を巻き込むわけには……」
倫太郎
「いや、かがりと一緒にいてもらうだけだ。問題ないだろう」
俺は以前、ラボを襲撃したのは由季ではないかと疑っていた。
しかし今となって考えてみれば、それは間違いだった。
そもそも彼女があのライダースーツの女だったとしたら、あんな回りくどい事をする必要はない。
それこそ、知り合いという立場を利用して近づき、どこかへ誘い出すなりなんなりして、拉致すればいいだけだ。
わざわざ、危険を冒してまで襲撃する必要などないのだ。
倫太郎
「すまなかった」
倫太郎
「じゃあ、由季さんはかがりと一緒にいてくれ」
倫太郎
「すべてが終わるまで、ダルの隠れ家に身を潜めてもらう事になる。場所はダルに聞いてくれ」
倫太郎
「事情は……落ち着いたら教える」
由季
「わかりました」
由季はしっかりと頷いた。
これですべては整った。
俺はもう一度、ラボにいる全員を見回す。
倫太郎
「じゃあ、みんな。あとは手筈どおりに――」
まゆり
「待って、オカリン」
まゆり
「お別れ……言わなくていいの? “紅莉栖”さんに」
お別れ……。
相手は『Amadeus』――人工知能だ。
人の手によって造りだされた存在であり、紅莉栖本人じゃない。
まゆり
「ちゃんと、お別れして? 後悔しないように……」
まゆりが、さっき渡したばかりのスマホを、俺に返してきた。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「そう……だな」
倫太郎
「悪いがここで、少し待っていてくれるか?」
まゆり
「うん……」
まゆりとルカ子を待たせて、俺はアキバブリッジの中央へと向かった。
『Amadeus』と接触すれば、場所が知られてしまう。
そのために、ここを選んだ。
かつて、どうにもならないと悲嘆に暮れていた俺が、初めて紅莉栖に弱音を吐いたあの場所だ。
倫太郎
「…………」
大音量で、その派手な車体に似つかわしくない軽快なオペラ調の音楽を振りまいている街宣車が通り過ぎるのを待って、俺は『Amadeus』のアイコンをタップした。
彼女はすぐにその姿を現した。
アマデウス紅莉栖
「随分と久しぶりね」
倫太郎
「そうだな……」
アマデウス紅莉栖
「私の事なんて忘れたんだと思ってたわ」
忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。
倫太郎
「いろいろあってな……」
いったい何度目の別れになるのだろう。
紅莉栖とは何度も別れを繰り返してきた。
それでも決して慣れる事はない。
アマデウス紅莉栖
「それで、今日はどうしたの?」
倫太郎
「君に、訊きたい事があったんだ……」
アマデウス紅莉栖
「なに? またタイムマシンは作れるか、って話?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「冗談、続けて」
倫太郎
「もしも、だ。もしも自分の命と引き換えに、友達の命を救えるとしたら、君ならどうする?」
アマデウス紅莉栖
「……えっと、質問の意図がよくわからないんだが」
倫太郎
「答えて欲しい」
俺の言葉や表情から真面目な話だという事がわかったのか、“紅莉栖”は真剣な表情を見せた。
アマデウス紅莉栖
「……その友達は、大切なひとなのよね?」
倫太郎
「ああ……」
アマデウス紅莉栖
「私にはまだやりたい事が沢山あるわ。やらなければならない事もある。でも……」
アマデウス紅莉栖
「それでも……もしもその友人や周りの人が幸せになるというのなら、甘んじて受け入れる……かもしれない……」
紅莉栖……。
アマデウス紅莉栖
「ごめんなさい。実際にそんな目に遭った事ないし、想像でしかないから、確実な事は言えないけど……」
アマデウス紅莉栖
「それでも、ひとりでも私の事を覚えていてくれる人がいるなら……忘れないでいてくれる人がいるなら……」
紅莉栖
「とにかく、私のことは忘れること。今日あったことも、これまであったことも」
紅莉栖
「それが私の望みだから……」
倫太郎
「……っ」
倫太郎
「忘れるものか……」
アマデウス紅莉栖
「え?」
決して。
倫太郎
「俺は決して忘れない……」
これは誓いだ。
これから幾多の時間を乗り越えていくための誓い――。
アマデウス紅莉栖
「岡部……さん?」
倫太郎
「……つまらない事を訊いて悪かった」
アマデウス紅莉栖
「ううん……それは構わないけど……何かあったの?」
倫太郎
「いや。なんでもないんだ、なんでも……」
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「それじゃあ、また、な」
アマデウス紅莉栖
「待って!」
倫太郎
「え……?」
アマデウス紅莉栖
「あ、ううん。なんだか二度と会えなくなりそうな、そんな気がして……」
紅莉栖……。
倫太郎
「……そんな事はないさ」
アマデウス紅莉栖
「……そうよね? 私ったら、なんで急にそんな風に思ったんだろう……」
倫太郎
「……会えるさ。必ず」
アマデウス紅莉栖
「うん」
そう、これは永遠の別れじゃない。
また……。
だからさよならは言わない。
いつか君に巡り合えるその時まで――。
倫太郎
「また……」
アマデウス紅莉栖
「うん、また、ね……」
紅莉栖……。
次に会えるのはいつになるか。
けれどもきっと、俺はお前に辿りつく。
必ず――。
俺はまゆりとルカ子のところに戻り、スマホを――“紅莉栖”を託した。
まゆり
「……お別れはすんだ?」
倫太郎
「ああ……」
倫太郎
「それじゃあ、頼んだぞ」
まゆり
「うん」
まゆり達の背中が、駅に向かう人ごみに消えていくのを見守って、俺はラボに向かった。
さっきの街宣車が、相変わらず軽快な音楽を流しながら大通りをまた走っていた。
オペレーションを開始してから5時間ほどが経過していた。
室内には、ダルの叩くキーボードの音だけが響いている。
倫太郎
「どうだ、ダル?」

「今のところ、気づかれてはないと思われ」
倫太郎
「まだかかりそうか?」

「うーん。早くても3時間くらいは」
やはり、そう簡単にはいかないようだ。
ダルもかなり疲労が来ているだろうに、ずっと頑張ってくれている。
まゆりたちからは、適宜、連絡が届いていた。
まゆりとルカ子、フェイリスと鈴羽という組み合わせで動いてもらっているが、さすがはそれなりの付き合いだけあって、それぞれがうまく連携をとり、東京中を動き回ってくれている。
鈴羽によると、何度か怪しげな連中を見たそうだし、萌郁からも“連中は餌に食いついている”との連絡があった。
今のところは、誰ひとり危険な目に遭う事もなく、オペレーションはつつがなく進んでいる。
ただし、この誤魔化しがいつまでも通用するとは思っていなかった。
出来るだけ早く紅莉栖の記憶データを消去したいところだが、そのためには結局のところ、ダルに頑張ってもらうしかない。
倫太郎
「すまないな、ダル」

「それは言わない約束だろ」
25年後のダルの姿を思い出す。
こいつはあれほど遠い未来の世界でも、ずっと俺に付き合ってくれていたんだ。
真帆
「オカリンさん……ちょっといい?」
先程まで、疲れ切って開発室の奥で横になっていた真帆が、いつの間にか起きてきた。
倫太郎
「ん? どうした?」
真帆
「これ……見て……」
紙の束を差し出す。
さっきのストラトフォーのレポートをプリントアウトしたものだ。
どうやら、起きた後で詳細に目を通していたらしい。
倫太郎
「これは……?」
真帆
「ストラトフォーによって、被験者としてリストアップされた人たちの名前よ……」
なるほど、ずらりと一覧になって、人名と性別、年齢などが書かれている。
真帆
「ここ……」
小さな指がその中のひとりを指さした。
そこに書かれていたのは。
SHIINA KAGARI
倫太郎
「椎名かがり!?」
真帆
「彼女……ストラトフォーの
実験対象
モルモット
にされていたんだわ……」
倫太郎
「…………」
もちろん、その可能性は大いにあった。
だからこそ、連中はこれまでかがりを捜していた。
かがりの頭の中に紅莉栖の記憶もあった……。
それでもやはり、こうして証拠を見せつけられると衝撃ではあった。
真帆
「だけど、最終実験までには至らなかったみたい。その直前に脱走したと書かれてあるわ」
その言葉に、胸を撫で下ろす。
もしもまた、かがりの中に紅莉栖の記憶があったのならば、前の世界線で起きた事の繰り返しになるところだった。
これもやはり、世界線が変わった事による影響なのだろう。
とはいえ、彼女が長年にわたってストラトフォーの元にいた事は間違いない。
その間に、他の様々な実験を受けていた事も……。
真帆
「少し、心配だわ……」
倫太郎
「…………」
きっと、真帆と同じ事を俺も考えていた。
かがりは今、ダルの隠れ家に由季と2人きりなのだ。

「ん……誰だよ、この忙しい時に……」
会話に割入るようにけたたましく鳴った電話は、ダルへのものらしい。

「ん? 阿万音氏だ……どうしたんだろ」
嫌な予感がした。

「はい、もしもし。阿万音氏、どうしたん? 何かあったん?」

「……え? かがりたんが?」
倫太郎
「かがりがどうした!?」

「……いなく……なったって……」
倫太郎
「何!?」
差し出されたスマホを奪い取るようにして、耳に押し当てた。
倫太郎
「俺だ、岡部だ! かがりがいなくなったって、本当か!?」
由季
「岡部さん! ごめんなさい! 私がついていながら!」
倫太郎
「いったいどうして!? 誰かにさらわれたのか!?」
由季
「いえ。それが……かがりさんが自分で……私、必死で止めたんですけど、すごい力で……」
倫太郎
「自分で……?」
どういう事だ?
やはり由季が……。
いや、それはない。
由季が加担しているのであれば、わざわざ俺に報せてくる必要がない。
でも、じゃあどうしてかがりは自ら飛び出した?
真帆
「スピーカーモードにしてもらえる? 私も話が聞きたいわ」
言われた通りに通話をスピーカーモードに切り替えた。
真帆
「由季さん。かがりさんが飛び出して行く前の状況を詳しく教えて。何か変わった事はなかった?」
由季
「特には……それまでいろいろとおしゃべりしていて……」
真帆
「何か変な映像を見たりは? もしくは音とか……」
由季
「いえ……あ、待ってください。そういえば、外から変な音楽が聞こえてました。何かの街宣車みたいでしたけど……やけに大きい音だなと思ったら……」
街宣車?
まさか昼間に走っていたあれか?
真帆
「それね」
真帆
「さっきのファイルに書いてあったわ。過去、ストラトフォーが行ってきた数々の実験」
真帆
「その実験の中にブレイン・ウォッシングが含まれていた」
ブレイン・ウォッシング……。
倫太郎

洗脳

か」
真帆
「特定の音楽を耳にすれば、自発的に行動するよう洗脳されていたんじゃないかしら」
真帆
「そうとでも考えなければ、この状況で自分から進んで飛び出すとは思えない」
街宣車が流していたあの曲――。
K620番5曲目。
あれは、かがりを魔へと導く笛の音――魔笛だったんだ!
真帆
「ファイルにも書かれているわ。椎名かがりは適合性に非常に優れているため、目下行方を捜索中って……」
倫太郎
「くそっ!!」
おそらく秋葉原だけでなく、あらゆる場所を走らせていたのだろう。
その罠にまんまと嵌ってしまったわけだ。

「どうする、オカリン……」
かがりを呼びだしたのがストラトフォーの連中である事は間違いない。
となると、俺たちに出来る事は――。
再びスマホの着信音が鳴った。
こんどは、俺のスマホだ。
今回の作戦のために、俺はフェイリスにいくつかのスマホを用意してもらっていた。
皆との連絡用に使うものと、かがりに持たせたもの。
そして――。
倫太郎
「――!」
発信元は、そのかがりに持たせたスマホからだった。
おそらくかがり本人からではないだろう……。
いったい何者なんだろう。
倫太郎
「…………」
???
「オカベリンタロウだな?」
加工された声の無機質さが不気味さを助長していた。
倫太郎
「ああ、そうだ。お前は?」
???
「椎名かがりは我々の手中にある。交換条件は言わなくてもわかるな?」
紅莉栖のPCとハードディスクだ。
倫太郎
「考える時間をくれ」
???
「考える? 何を考える必要がある」
倫太郎
「…………」
???
「交換は明日だ。場所と方法は追って連絡する」
一方的に告げると、電話は切られてしまった。
倫太郎
「紅莉栖のPCとハードディスクと交換だそうだ……」

「で、どうするん?」
倫太郎
「…………」
鈴羽
「かがりが洗脳にあっていたなんて……」
鈴羽は俺たちの話を聞くと、歯噛みをして悔しがった。
俺はあの電話の後、すぐに鈴羽を呼び戻した。
と同時に、桐生萌郁にもラボまで来てもらっていた。
倫太郎
「率直に教えてもらいたい。仮に相手の要求に従ったとして、かがりを返してもらえると思うか?」
萌郁
「……思わない」
萌郁の口から出たのも、率直な答えだった。
鈴羽
「あたしもそう思う。相手は、洗脳なんて汚い手を使う人間だ。必要なくなれば、容赦なく消すだろう」
萌郁
「最悪、貴方も


られる……」
わざわざ俺を指名してきたという事は、俺がある程度の事情を知っている事をつかんでいる証だ。
これまでの襲撃事件を考えてみても、容赦はしないとみていい。
それに連中が欲しているのは、紅莉栖の遺産ともいうべきものだ。
紅莉栖が残した遺産と、そして彼女自身の記憶――それを、これ以上争いの種にされるのは御免だった。
となると、俺のやるべき事はひとつ。
倫太郎
「こっちから乗り込んで、かがりを取り戻すしかないな」
危険ではあるが、それしかない。
まゆり達はこの時間になった今も奮闘してくれている。
おかげで連中は、俺がいまだに都内を転々と逃げ回っていると思っているはずだ。
真帆
「乗り込むって、そんな……相手がどこにいるのかもわからないのに?」
倫太郎
「どこにいるかなら知ってるさ」
鈴羽
「本当か!? おじさん、いつの間に……」
倫太郎
「鈴羽、手伝ってくれるか?」
鈴羽
「オーキードーキー!」
視線を萌郁に向けると、彼女は首を横に振った。
萌郁
「そこまでは付き合えない……」
だろうな。
真帆
「駄目よ。ふたりでだなんて、危険すぎる」
倫太郎
「いや、大勢で動くよりも危険は少ないかもしれない」
それに俺は、まだしばらくは死ぬ事はないと、運命に定められている。
真帆
「まゆりさんたちには言わないの?」
倫太郎
「言えば心配かけるだろうからな」
真帆
「…………」
倫太郎
「ダル、引き続きロックの解除を頼む。それからスマホは通話状態にしておいてくれ」

「オーキードーキー!」
鈴羽
「おじさん、これを……」
鈴羽が差し出したのは、自動拳銃だった。
萌郁

グロック

……」
鈴羽
「もしもの時は、自分の身は自分で守るんだ」
倫太郎
「…………」
俺は散々迷った挙句、その銃を受け取った。
初めて手にした銃は、想像していたよりもずっと重かった。
神田にあるその建物には、まだ明かりが灯っていた。
この時間でも、門は開いている。
大学とはそういうところだ。
案の条、建物内には難なく入る事が出来た。
鈴羽
「ここにかがりが……?」
倫太郎
「ああ、そのはずだ」
2036年のダルの話が正しいなら、ストラトフォーの支部は俺の母校でもある、この東京電機大学にある。
大学の神田キャンパスには、1号館、5~7号館、そして11~15号館と複数の校舎がある。
そのうち、5号館、6号館、10号館、15号館だけは周囲のビルに分散して存在しているが、それ以外の残りの校舎はひとつの区画に集中して建てられている。
その中で、地下階があるのは11号館と15号館のふたつだ。
そしておそらく、ストラトフォーの支部があるのは、今俺たちがいるこの11号館だと思われる。
何故なら、ここが最も新しく設備も整っているうえ、階層も17階までと多く、それだけ出入りする人間も多いからだ。
ストラトフォーの人間がいったい何人いるのかはわからないが、その一部も俺を捜しに出払っているはず。
だとすれば、今ここは手薄になっているに違いない。
こっちには鈴羽もいるんだ。
勝算はある。
倫太郎
「こっちだ」
俺は鈴羽を促し、真っ直ぐに階段へと向かった。
館内には3基のエレベーターがあるが、いざという時に身動きが取れないエレベーターは危険だという鈴羽の判断のもとだ。
問題はこの先だ。
地下2階には大小あわせて20以上の部屋がある。
この中のどの部屋が、支部に使われているのか……。
鈴羽
「おじさん、こっち!」
倫太郎
「わかるのか?」
鈴羽
「思い出した。ここなら昔、潜入した事がある」
鈴羽
「あたしが知ってる建物はもう崩れかけで、外観も全然変わってたからわからなかったけど、間違いない」
鈴羽は迷わずそのまま奥へと歩を進めた。
小銃を手に、足音も立てずしっかりと腰を落として走るその姿は、まさに猫のようだった。
鈴羽
「…………」
そして、彼女はひとつの部屋の前で立ち止まると、俺に頷いて見せた。
他とは変わりない部屋。
だが、ネームプレートはつけられていない。
この向こうは確か大部屋で、電気室として使われていたはずだが――。
鈴羽
「あたしはかがりを救出する。おじさん、自分の身は自分で守る事」
倫太郎
「あ、ああ……」
ベルトの背中に挿してあったグロックを取り出す。
ズシリと重い。
一応の使い方は教えてもらったが、発砲経験すらない俺に扱えるかどうかは甚だ疑問だった。
それでもハッタリくらいにはなるはずだ。
鈴羽
「いくよ。3、2、1……」
カウントダウンを合図に、鈴羽はドアノブを銃で撃ち壊し、ドアを蹴破り、部屋へと突入を果たした。
流れるような動きだった。
その後を追って部屋に駆け込んだ俺は、すぐに異変に気づいた。
最初に感じたのは、異臭だった。


せ返るような鉄の匂い。
血だ。
部屋の床に、たくさんの血だまりが出来ていた。
人間が倒れている。
ざっと見て4、5人。
もちろん、鈴羽がやったんじゃない。
俺たちが来る前に、既にこうなっていた。
倫太郎
(……どういう事だ?)
じりじりと先を行く鈴羽に従い、俺も部屋の奥へと進む。
倒れている人間には日本人もいれば、明らかに外国人と思しき者もいた。
部屋は更に奥があるようだった。
半開きになった扉の向こうに、大きな体格の男がうつ伏せに倒れていた。
そしてその傍には――。

「思ったよりも早かったわね、リンタロ」
倫太郎
「……馬鹿な」
俺の名を呼ぶ、その艶のある声。
そして外国語の訛り。
倫太郎
「レイエス教授……?」
レイエス
「元気そうで何よりだわ」
倫太郎
「どうして……」
レイエス
「ちょっと、探しものを返してもらおうかと思って」
レイエス教授は、まるでダンスのステップでも踏むかのように、軽やかに身を翻した。
その奥に、かがりが座らされていた。
倫太郎
「かがり!!」
かがり
「…………」
倫太郎
「どうした、かがり! 聞こえないのか!?」
かがりの頭には、機械じみた妙な器具が被せられている。
俺がどれだけ呼びかけても、椅子に座ったまま微動だにしない。
レイエス
「あら、せっかく気持ちよく眠ってるんだから、起こしてあげたら可哀想よ」
それは初めて会った時のあの陽気な笑みからは想像もつかない、鋭利な笑顔だった。
鈴羽
「気をつけろ! そいつ、軍人だ!」
鈴羽はすでにレイエスに向けて銃口を突き付けている。
だがレイエスの方は、それを気にする様子もなかった。
倫太郎
「軍人?」
そういえば、天王寺が言っていた。
かがりを捜していたのは、西側の軍関係だと。
一般の諜報機関が自ら命を絶つものだろうか、と。
レイエス
「そっちのあなた、何者?」
鈴羽
「……かがりを返せ」
レイエス
「いい顔ね。日本にも、そういう顔を出来る人間がいるなんて、知らなかった」
レイエス
「とりあえず、銃をこちらに。でないと、シイナ・カガリは死ぬわよ?」
鈴羽
「かがりを殺した瞬間に、あたしがお前を殺す」
レイエス
「あらそう。ワタシは組織で動いている。ワタシひとりを殺したところで状況は変わらないわよ」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「鈴羽……」
鈴羽
「……っ」
鈴羽は悔しそうな顔をしつつ、銃を足許に置いた。
レイエス
「いい子ね。ついでに、そこで両手を頭の後ろに置いて立ってなさい」
レイエス
「それでリンタロ。交換条件は提示したはずだけど。ちゃんと持ってきてくれたの?」
倫太郎
「…………」
レイエス
「あらあら。いけない子ね。持ってきていないなら、こちらとしてはシイナ・カガリは渡せないわ」
かがりは眠っていると言っていたが、よく見ると瞼は閉じきっていない。
僅かに開いた瞼の奥に見える瞳は虚ろで、理性の光が灯っていないように見える。
倫太郎
「かがりに何をした?」
レイエス
「残念だけど、まだ何もしていないわ。彼らが使っていた子守唄をちょっと聴かせてあげただけ」
レイエス
「でも、あなたが交換条件に応じる気がないみたいだから、これから始めてしまおうかしら」
恍惚とした表情を浮かべたまま、銃身でかがりの頬を撫でる。
倫太郎
「紅莉栖のPCとハードディスクは、特別な場所に隠してある」
倫太郎
「かがりを渡さないなら、こっちも教えるつもりはない」
倫太郎
「先にかがりを解放しろ」
レイエス
「交渉は無駄よ、リンタロ」
レイエス
「そっちが渡す気がないなら、こっちはこっちのやり方をさせてもらうわ」
特に凄むでもなく脅すでもなく。
レイエスは、日常の会話を繰り広げるように言った。
血の色と匂いに包まれた中で。
それが余計に、気味の悪さを助長している。
倫太郎
「これは、あなたがやったのか?」
レイエス
「ええ。彼らも余計な真似をしなければ、もう少し長生き出来たのに。残念ね」
倫太郎
「どうして、こんな真似を?」
レイエス
「簡単な事よ。ワタシの正体に気づいたから」
倫太郎
「正体……」
レイエス
「そこの彼女が言ってたでしょう?」
倫太郎
「軍か……」
レイエス
「同時に研究者でもある。
DURPA

……って言っても、どうせわからないでしょうけど」
真帆
「DURPA……アメリカ国防高度研究計画局? そんな……レイエス教授が……?」
ブルートゥースの小型イヤホン越しに、真帆の声が聴こえてきた。
何かあった際に互いに連絡が取れるよう、ダルのスマホとは繋がったままにしている。

「オカリン……もう少しだけ、時間を稼いでくれ」
この状況で、時間を稼げ、か。
無茶を言ってくれる。
だが、これまで散々、ダルには無茶を頼んできたんだ。
今度は俺があいつの無茶に応えるべきだろう。
かがりに手を出させるわけにはいかない。
鈴羽は武器を取り上げられてしまっている。実力行使は難しい。
なんとかして、俺がこの場を持たせなければ。
倫太郎
「そ、その軍の人間が、どうして……?」
レイエス
「元々、ワタシの所属するチームは
洗脳
ブレインウォッシング
の研究をしていたのよ」
倫太郎
「洗脳……それじゃあ、かがりは……」
レイエス
「言っておくけど彼女をこうしたのは、ワタシじゃない。彼らよ」
彼ら――とは、そこに転がっている連中の事だろう。
倫太郎
「どうだか。そもそも、なぜ軍の人間が洗脳の研究なんてする必要がある?」
訊くまでもない事。
だが、ダルがハッキングを完了するまで、なんとか時間を持たせなければならなかった。
レイエス
「決まってるでしょう? 思い通りに動く戦士を作るためよ」
レイエス
「文句を言う事もなく、死を恐れる事もない。国の為に身を捧げる、最強の戦士を作るため……」
倫太郎
「…………」
レイエス
「別に珍しい事じゃないわ。そんなの、100年以上も前から、世界中で行われているもの」
レイエス
「でもね、洗脳なんて面倒な事をしなくても、最強の戦士を作り上げられると、ワタシたちは気付いたの……」
レイエス
「それがAI戦士よ――」
倫太郎
「AI戦士……」
言葉だけ聞くと、やけに安っぽい響きに聞こえるが、それだけに不気味だった。
倫太郎
「なるほどな……。人工知能を兵士の頭の中に植え付けるというわけか」
倫太郎
「そうすれば、一様に高度な頭脳と思考を持つ戦士を大量に生み出す事が出来る……」
レイエス
「へぇ……」
倫太郎
「それに、特殊技能についての記憶を兵士全員にインストールすれば、全員がどんなミッションもこなせる兵士にだってなれる」
レイエス
「その通り! リンタロ、理解が早いわね」
レイエス
「しかも、ゆくゆくは共意識化する事で、より綿密で高度な連携を図れるようにもなる」
レイエス
「どう? 凄いでしょう?」
鈴羽
「そんなの、許されるわけがない……」
レイエス
「陳腐な台詞ね」
鈴羽
「…………」
もしかしたら、煽られて殴りかかるんじゃないかと冷や冷やしたが、鈴羽は冷静だった。
レイエスはかがりのすぐ傍にいる。
いかに鈴羽が素早くとも、銃がない状況じゃ、先にかがりに手を出されては終わりだ。
鈴羽は状況を分析し、反撃の機会を見つけるべく、ひたすら神経を研ぎ澄ましているはず。
レイエス
「いい? ワタシたちは世界の治安を守っているの。わが軍があるからこそ、世界の平和は保たれているのよ」
レイエス
「そのための戦士になれるのなら、彼らだって本望のはず……」
勝手な理屈だ。
とても納得出来るものではない。
だが……。
倫太郎
「ククク……面白い……」
倫太郎
「レイエス教授……いや、レイエス! 貴様、なかなか面白いじゃないか!」
鈴羽
「…………」
鈴羽が一瞬だけ、チラリと俺を見た。
非難するような視線だったが、何か言ってくる事はなかった。
レイエス
「リンタロ……?」
倫太郎
「倫太郎ではない!」
今の俺の役目――それは、ダルがロックを解除するまでの時間稼ぎ。
ならば今は演じよう。
精一杯の道化を。
それこそが俺の使命。
倫太郎
「我が名は鳳凰院凶真! 世界の支配構造を覆し混沌に陥れる男!」
レイエス
「……いったいなんの冗談?」
倫太郎
「ククク……この狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真が認めてやろう! 貴様、なかなかにマッドだ!」
レイエス
「ホーオー……何?」
倫太郎
「鳳凰院凶真だ! 岡部倫太郎とは世を欺くための仮の姿! その正体こそこの俺!」
倫太郎
「不死鳥の如く甦る、マッドサイエンティストだっ!」
レイエス
「ぷっ……ふふふ、何それ! あなた、ユニークね!」
最初こそぽかんと口を開けていたレイエスだったが、すぐに余裕の笑みを取り戻した。
しかしここで怯むわけにはいかない。
倫太郎
「レイエス……これまで貴様がやって来た事は既に把握した――」
倫太郎
「貴様はAI戦士の研究のために、ヴィクトル・コンドリア大学に教授として潜り込んだ」
倫太郎
「そしてその過程で、『Amadeus』プロジェクトに辿り着いた」
倫太郎
「そうだな?」
レイエス
「ええ、その通りよ。『Amadeus』はなかなかに面白いプロジェクトだったわ。でも、それよりも面白かったのは――」
まるで物でも扱うように、足元に横たわる死体を踏みつけた。
レイエス
「『Amadeus』プロジェクトの陰に見え隠れする、彼らの存在よ」
レイエス
「案の条、探りを入れてみたら、とんでもないものが見えてきた」
レイエス
「何が出てきたかは、あなたも知ってるでしょう?」
倫太郎
「タイムマシン……だな?」
レイエスは妖艶な笑みを浮かべてうなずいた。
倫太郎
「なるほど、な……」
倫太郎
「人類の夢であり、決して作り出す事の出来ないと言われたタイムマシン」
倫太郎
「その理論が記された論文の存在に気付いたか!」
倫太郎
「それを手に入れれば、世界の覇権をも手に入れる事が出来ると!」
倫太郎
「ふんっ、だが、くだらんな……。貴様らの考える事はみな同じだ」
レイエス
「くだらない……ですって?」
倫太郎
「ああ、実にくだらん!」
倫太郎
「世界の覇権? 国家のため組織のため機関のため……」
倫太郎
「どれも矮小な目的だ」
倫太郎
「そんなもののために、世紀の大発明を利用するなど、科学者として下の下!」
レイエス
「ワタシは、科学者である前に軍人よ」
レイエス
「国に命を捧げた者なの」
レイエス
「我が国が世界の覇権を手に入れれば、それだけで抑止力になる」
レイエス
「それは世界の為でもあり、人類の為でもあるのよ!」
その声は興奮の為か、次第に高まっていく。
レイエス
「だから、決して他の国に先を越されるわけにはいかない!」
レイエス
「革命的な理論をワタシたちが手に入れる事で、世界の均衡は守られる! 世界の平和は保たれるのよ!」
レイエス
「それを他の国に……ましてや、一民間企業に手に入れられるなど、許すものですか!」
倫太郎
「それがこれだけの人間を手にかけた理由か……」
倫太郎
「あえてもう一度言おう……」
倫太郎
「くだらないな!」
レイエス
「あらそう」
レイエス
「彼らには悪い事をしたと思ってるわ」
悪びれもせず言う。
レイエス
「本当なら彼らを泳がせるだけ泳がせておいて、すべてを手に入れてから、データを頂戴するつもりだったの」
倫太郎
「なら、なぜ殺した?」
レイエス
「スパイとして潜り込ませていた、部下のひとりがヘマをしでかしちゃったのよ」
レイエス
「だから、それについてはこちらの落ち度だと思ってるわ」
レイエス
「でもね……彼らだって悪いのよ」
レイエス

DURPA
うち
には、民間の研究者も在籍しているの」
レイエス
「そちらに席を用意するって提案したのに、欲を出して要求をつきつけてきたりなんかするから……」
レイエス
「才能のある人間を失うのは不本意だわ……」
わずかに口角を上げて、レイエスはそう言った。
本当にそう考えているとは、とても思えない表情だった。
レイエス
「さて、ここでひとつ提案。オカベ・リンタロウ……あなた、
DURPA
うち
に来ない?」
倫太郎
「何……?」
レイエス
「あら、意外って顔ね。いったい何のために、わざわざこんな話をしたと思うの」
レイエス
「冥土のみやげに……なんて、日本の“SAMURAI CINEMA”の中だけの話でしょう?」
倫太郎
「…………」
レイエス
「心配しなくていいわ。ワタシたちは、国籍なんて問わないし、お望みならばグリーンカードだって用意してあげられる」
倫太郎
「つまり、俺の……この鳳凰院凶真の才能を認めたというわけか……」
レイエス
「もちろん。才能のない人間には声をかけたりなんてしないわ」
レイエス
「あなたには才能がある」
レイエス
「それに、マキセ・クリスの友人でもある」
どうやら俺に価値を見出している真の理由は、後者の方のようだな。
実にわかりやすい。
倫太郎
「牧瀬紅莉栖のタイムマシン理論について、俺が彼女から何か聞いているかもしれない……」
倫太郎
「そう期待しているわけだ」
倫太郎
「だからこの俺が欲しい、と」
レイエス
「役に立つ人間は引き抜く。正当な対価も払う。それがワタシたちの生きる世界のルールだもの」
倫太郎
「という事は、役に立たなくなったら、俺もそこに転がっている彼らのようになるわけだな?」
レイエス
「それは、あなたの働きと心がけ次第じゃないかしら……」
楽しそうに笑うと、レイエスはゆっくりとかがりの後ろに回った。
一見普通の動きだが、鈴羽が一歩も動かないところを見ると、隙はないのだろう。
倫太郎
(ダル……まだなのか……?)
時間稼ぎもそろそろ限界だ。
レイエス
「ま、ゆっくり考えて……」
倫太郎
「クク……ククク……」
レイエス
「…………?」
倫太郎
「フゥーハハハ!」
倫太郎
「この俺の才能に目をつけるとは、なかなかのハイエスト・アイの持ち主だ!」
レイエス
「ハイエストアイ……?」
倫太郎
「目が高いという意味だ! メリケン人なのにそんな事もわからないとはな!」
倫太郎
「だが、まあいい。科学者として下の下だと言った、さっきの言葉は取り消してやろう」
倫太郎
「なにせ、この俺の才能を見抜いたのだからな」
レイエス
「あら。それなら、こちらの提案に乗ってくれるのね?」
倫太郎
「断る!」
レイエス
「な…………」
倫太郎
「なぜならこの俺は、鳳凰院凶真だからだ!」
倫太郎
「狂気のマッドサイエンティストは、孤高の存在でなければらない」
倫太郎
「いついかなる時も、何物にも属してはならない。それが宿命……」
レイエス
「…………」
驚いた顔をして俺を見ていたレイエスだが、やがて大きくため息をついた。
レイエス
「ま、それについては結論を急ぐ必要はないわ」
レイエス
「彼女の処置が終わるまで、ゆっくり考えてもらって構わない……」
鈴羽
「……かがりをどうするつもりだ」
頭の後ろで両手を組んだ状態の鈴羽が、視線だけで射殺す勢いでレイエスをにらみ付けていた。
レイエス
「わかりきった事でしょ。彼女の頭の中に、マキセ・クリスの記憶を上書きするの」
倫太郎
「それは……」
じゃあ、もしかしてあの世界線でのかがりは、ストラトフォーではなくこいつらに……?
それだけじゃない。
あの時ラボを襲ったあのライダースーツの女も、ひょっとしたら――。
レイエス
「そんな顔しなくても大丈夫よ。この為に、今日まで動物や何人もの人間を使って実験を繰り返してきたんだから」
レイエスは愛おしそうにかがりの頬を撫でた。
レイエス
「そもそも、これまでのシステムには致命的な不具合があったの」
レイエス
「でも、今回はそれも解消した。その上、彼女の高い適応力もある。きっと成功する……」
一語一語。
ゆっくりとした口調。
その言葉に引き込まれそうになる。
レイエス
「クリスの記憶が……頭脳が……、この子の中で再現されるのよ……」
レイエス
「そうなれば、記憶のブラックボックスなんて存在しなくなる」
レイエス
「ワタシたちの言うがまま。彼女は、きっとタイムマシンについてもぜ~んぶ教えてくれる」
レイエス
「もうクリスのPCもハードディスクもいらない。彼女さえいてくれれば、それでいいの……」
レイエスは紅い唇をかがりに寄せた。
レイエス
「ねえ、カガリ……あなただってクリスになりたいでしょう?」
倫太郎
「駄目だ、かがり! そいつの言葉を聞くな!」
かがり
「…………」
だが、かがりはピクリとも動かない。
レイエス
「天才と呼ばれたあの頭脳が、あなたのものになるのよ」
レイエス
「世界に革新を起こす存在になれるの……素敵だと思わない?」
かがり
「…………」
レイエス
「お返事は?」
かがりの唇が僅かに震えた。
かがり
「は……い……」
レイエス
「ふふ……いい子ね……」
倫太郎
「かがり……」
レイエス
「リンタロ。これはあなたの選択でもあるのよ?」
レイエス
「素直にこちらの交換条件に応じていれば、結果は変わったかもしれないのに」
レイエス
「それに……あなただって本当は、クリスに会いたいんじゃないかしら?」
俺は……。
レイエス
「人間を構成するのは記憶よ。記憶がその人間を創り出しているの……」
倫太郎
「…………」
レイエス
「クリスの記憶を持ったかがりは、クリスそのものになるわ。そうなれば、あなただって嬉しいでしょう?」
俺は――。
倫太郎
「っ――!」
レイエス
「それにクリスだって……」
倫太郎
「ふざけるなっっっっ!!!」
自分でも驚くほどの大声だった。
倫太郎
「紅莉栖が喜ぶだと? そんなわけがあるかっ!!」
倫太郎
「仮に、かがりの記憶が紅莉栖のものに取って代わったとしても、それは紅莉栖じゃないっ!!」
倫太郎
「自分の記憶が、そんな目的の為に使われたって、あいつは絶対に喜んだりしないっ!!」
倫太郎
「あいつを……牧瀬紅莉栖を馬鹿にするな!!!」
かがり
「…………」
レイエス
「そう。残念だわ」
レイエス
「いずれにせよ、結果は同じ……」
レイエス
「そこで、大切な人の記憶がこの子の中に受け継がれるのを、大人しく見守っていなさい」
レイエスはかがりの背後にまわったまま、側のPCを操作し始めた。
鈴羽はなおも冷静だった。
レイエスを止めるべく飛びかからないのも、ダルの一言を待っているからだ。
倫太郎
「ダル! まだなのかっ!?」

「すまん、オカリン……あとちょっと、もうすぐなんだが――」
くそっ!!
鈴羽
「おじさん」
鈴羽がささやいてきた。
鈴羽
「場合によっては、かがりを見捨てる」
鈴羽
「あたしが動いたら、伏せて」
倫太郎
「……っ」
鈴羽なら、躊躇しないだろう。
レイエス
「はあい、準備オッケー」
どうする?
見捨てるべき……なのか?
そんな事、俺には……。
だがこのままじゃ、どっちにしろかがりは助からない……。
レイエス
「それじゃあ、サヨナラ、かがり……」
レイエスの細い指が伸び――。
鈴羽
「――っ」
鈴羽が動いた。
予備動作もなくレイエスとの距離を一瞬で詰める。
銃声が轟いた。
レイエスに飛びかかった鈴羽の体が、弾かれたようにして倒れる。
倫太郎
「鈴羽ぁ!」
レイエス
「そう来ると思ったわ。残念だったわね」
レイエスに読まれていた……!
打つ手なしか!
倫太郎
「やめろ!」
俺が制止するよりも早く、レイエスが――。
キーボードを叩いた。
倫太郎
「――っ!!」
レイエス
「…………」
なん、だ……?
レイエス
「……?」
レイエス
「ど、どういう事っ!? どうして反応しないのっ!?」
レイエス
「まさか……こいつ!!」
レイエス
「“Goddamn it!! Shit!!”」
レイエスは呪詛を吐きながら、何度も何度も乱暴にキーボードを叩いている。
システムトラブルでも起きているのか!?
かがり
「……オカリン……さん……」
倫太郎
「かがり!?」
さっきまで虚ろだったかがりの瞳に、僅かな光が灯っていた。
レイエス
「“Bullshit!!”」
レイエスの気が完全に逸れている今がチャンスだ。
倫太郎
「かがり! 来いっ!!」
かがり
「っ――オカリンさんっ!!」
俺の呼びかけに覚醒したかがりは、頭の装置を振り払うとそのまま立ち上がり、数歩走ったところで前のめりにつんのめった。
倫太郎
「かがりっ!!」
駆け寄って、その身体を受け止める。
レイエス
「っ――!!」
咬嗟に銃を構えるレイエス。
そして銃声。
レイエス
「…………」
撃たれたかと思ったが、そうではなかった。
レイエスの手から弾かれた銃が、床でカラカラと回っていた。
鈴羽
「それ以上動くな……」
ゆらりと、鈴羽が立ち上がる。
その手には、さっき床に置いた銃が握られている。
倫太郎
「鈴羽! 無事だったか!」
鈴羽
「なんとかね」
鈴羽の肩のあたりが血に染まっていたが、致命傷ではないようだった。
あの至近距離からの発砲で、よく無事で……。
鈴羽
「形成逆転だな」
レイエス
「ふ……」
倫太郎
「……?」
レイエス
「ふふふ……参ったわね。まさか、あなたみたいな子にしてやられるなんて……」
レイエスは降参とばかりに肩を竦めた。
レイエス
「でもね……ここで終るわけにはいかないのよ」
鈴羽
「動くなと言っている!」
だが、鈴羽の制止の声にもひるむ事なく、レイエスは手を伸ばすと、さっきまでかがりの頭に装着されていた怪しげなヘッドセットを掴んだ。
銃を構える鈴羽の手に力がこもる。
レイエス
「ちなみにワタシ、小型の爆弾をポケットの中に持ってるの」
レイエス
「奥歯をちょっとだけ噛みしめれば、それで起爆するのよ」
レイエス
「この至近距離なら、あなたたち3人も巻き込まれちゃうでしょうね」
鈴羽
「自爆する気か」
レイエス
「敵に情報が渡るぐらいなら、死を選べと教育されているの。悲しい事にね」
鈴羽
「ハッタリだ」
レイエス
「そう思うなら、撃てばいい」
鈴羽の指に力が加わる。
倫太郎
「待て、鈴羽!」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「今はダルを信じろ」
鈴羽
「っ……!」
レイエスは鈴羽を一瞥し、ゆっくりとそのヘッドセットを自らの頭に装着した。
倫太郎
「お前……何をするつもりだ……?」
レイエス
「『
Amadeus
あなた
』も、彼女じゃなければいいんでしょう……?」
倫太郎
「まさか……!」
レイエス
「言ったでしょ? ここで終れないって……」
眼鏡の奥のその瞳には、狂気が宿っていた。
レイエス
「そうよ。簡単な話だったんだわ。わざわざ他人を使わなくても。最初からこうすれば良かったのよ……」
かがり
「…………!」
レイエス
「これで、ワタシはマキセ・クリスの記憶を手に入れられるの!」
レイエス
「タイムマシンの理論を得る事も出来るの!」
レイエス
「世界に革新をもたらす存在になれるのよ!」
倫太郎
「やめろ……そんな事……!」
紅莉栖の記憶を、そんな事に使うな……!

「っしゃ、キタキタキタ!」
倫太郎
(ダル!?)
レイエス
「あははははは! 今からワタシは時間をも支配出来る存在になる!」
倫太郎
「ダル! 早くファイルを!」

「ちょい待ち! 今探してる!」
レイエスの手がキーボードに伸びる。
倫太郎
「やめろっ!!」
レイエス
「大丈夫、心配しなくても、あなたの大切な女の記憶は、ワタシがちゃんと役立ててあげる……」

「あった! 見つけた、オカリン!」
倫太郎
「消せ、ダル! 頼む! 紅莉栖を――!」
倫太郎
「あいつを解放してやってくれ!!」

「オーキードーキー!!」
レイエス
「“Come into me,Kurisu”」
レイエスの指がキーボードに触れた。
倫太郎
「っ…………」
鈴羽
「…………」
かがり
「…………」
静寂。
何も起きない。
電話レンジ(仮)のように、光を発する事もなければ、巨大な音を立てるわけでもない。
当然だ。
すべては彼女の頭の中で起きているのだから。
鈴羽
「どう……なったんだ……?」
レイエスは――。
レイエス
「…………」
キーボードに触れた姿勢のまま、微動だにしていない。
記憶はダウンロードされてしまったのか?
意を決して様子を見ようと、一歩踏み出したその時――。
レイエスは虚脱したように、その場に膝をついた。
その顔に光が当たり、ようやく表情が見える。
そこにあったのは――無だった。
光も、闇も。
何もない。
瞳に浮かぶのは虚ろな空洞。
ただ、あの瞬間――キーボードを押すあの瞬間の恍惚とした表情だけが、頬に張り付いていた。
かがり
「オカリンさん……その人は……」
倫太郎
「早かったんだ。ダルの方が……一瞬だけ……」
記憶をダウンロードするよりもわずかに早く、フォルダの中は空っぽになった。
空の記憶をダウンロードした彼女の頭の中には、もう何も入っていない。
これまでの記憶も。
自らの歴史も。
野望も。
あるのは抜殻だけ。
ただ空っぽになった抜殻だけが、神に祈りを捧げるかのように、そこにひざまずいていた。

「オカリン?」
倫太郎
「……ダル、よくやった……」
倫太郎
「終わったよ。何もかも……」
俺がそう答えたら、イヤホンの向こうから、ダルと真帆の歓声が聞こえてきた。
鈴羽
「……行こう、おじさん。いつまでもここにいるのはよくない」
倫太郎
「……そうだな。かがり、歩けるか?」
かがり
「うん……」
そこにあるのは、転がる屍と生ける

むくろ

『Amadeus』――電脳の

はこ
の向こう側にいた彼女は、もういない。
この世から消えてしまった。
大切な人の記憶とともに。
今はもういない、その人に向かって、俺は小さく呶いた。
倫太郎
「また会おうな、紅莉栖……」
フブキ
「それじゃあ、マユシィ、私たちまた来るね」
まゆり
「うん、またね~」
フブキ
「るかくんも、こんど一緒にコスプレしようね」
るか
「え、えっと……その……考えておきます……」
カエデ
「オカリンさんや皆さんも、お邪魔しました」
倫太郎
「ああ、またいつでも来るといい」
フブキ
「うーん……」
倫太郎
「ど……どうした?」
フブキ
「オカリンさん、なんだか雰囲気変わりましたね」
倫太郎
「そう……か?」
フブキ
「うん。なんだか、前よりずっと、とっつきやすくなった感じ」
カエデ
「もう、フブキちゃん。本人に向かって失礼だよ」
フブキ
「えー、カエデちゃんだって、さっき言ってたじゃん」
カエデ
「ちょ、ちょっと!」
まゆり
「えっへへー♪」
倫太郎
「やれやれ、だな……」
由季
「あ、それじゃあ、私もそろそろお暇しますね」

「あ、今日もバイト?」
由季
「はい。終わったら連絡します。週末の予定、決めましょ」

「おk。じゃあ連絡待ってるおー」
フェイリス
「なになに、なんだニャ。ダルニャン、ユキニャンとかなり良い感じだニャ」

「そ、そう? あ、でもフェイリスたんへの愛も、もちろん変わらないのだぜ」
鈴羽
「もう、父さんったら、また!」
あれから数日。
『Amadeus』と牧瀬紅莉栖の記憶を巡る騒動はすべて終わり、俺の周りには再び平穏な日々が訪れていた。
東京電機大学の地下で起きた出来事は、いまだ何の報道もされていない。
あの翌日、学校に行くと地下は何らかの実験の失敗により事故が起きたとの事で、封鎖されいていた。
おそらくは軍かストラトフォーかによって、処理されたのだろう。
それ以降、今のところ俺の周りで不穏な空気は感じられない。
あの場にも俺たちに関係する痕跡は一切残していないはずだ。
おそらく、こちらに手が伸びる事もないだろう。
鈴羽
「それにしても、あれはなんだったんだろう」

「あれって?」
鈴羽
「あの女がかがりに牧瀬紅莉栖の記憶をダウンロードした時、うまくいかなかったんだよ」

「ただ、システムがうまく作動しなかっただけじゃないん?」
フェイリス
「ダルニャンの言うとおりだニャ。考え過ぎることないニャ」
鈴羽
「うーん、そうなのかな。なんか気になるんだよね」
かがり
「そういえば、あの時……」
それまで何か考え込んでいるような様子を見せていたかがりが口を開いた。
かがり
「ううん、でも……」
鈴羽
「ちょっと、かがり。言いかけて途中でやめないでよ。気になるだろ」
かがり
「あの時、声が聴こえたような気がするの」
フェイリス
「声?」
かがり
「うん。頭の奥で。誰だかわからないけど“ダメーっ!”って」
かがり
「私あの時のこと、ほとんど覚えてないから、ただの夢か何かだったのかも……」
真帆
「アマデウス……」
真帆
「もしかしたら、『Amadeus』じゃないかしら?」
真帆
「“紅莉栖”が最後の最後で、自分の記憶をかがりさんに上書きされるのを、拒んだんじゃないかって……」
倫太郎
「真帆にしては、ロジカルじゃない意見だな」
だが、真帆の言葉にルカ子とまゆりが顔を見合わせていた。
るか
「その……ボクたちが最後に『Amadeus』さんを起動した時なんですけど、途中で通信が切られたんです」
まゆり
「オカリンのボットさんが話してるのに、なんだかすごく慌てたみたいに、切れたんだ~」
まさか、その時に……。
鈴羽
「でも、そんなこと、有り得るの?」
真帆
「わからない。けど、『Amadeus』にも人間と同じ、自己防衛本能はあるはずよ」
真帆
「だから、自分の記憶を良からぬ事に利用されようとしているのに気づいて……という事も考えられなくはないわ」
今いるこの世界線ではないが、紅莉栖の記憶はかがりの中に存在した事もあった。
ここでもまた、かがりに害を及ぼす形で自らを利用されるのを、紅莉栖が防いでくれたのかもしれない。
本当の理由は他にあるかもしれないが、少なくとも俺はそう思いたかった。

「なあ、オカリン。僕もいっこわからんことがあるんだけど」
倫太郎
「なんだ?」

「オカリンの話だと、これまで『Amadeus』が原因で、何度か世界線の変動があったんだろ?」

「でも、僕たちがあの時のことを覚えてるってことは、今回は変動してないってことだよな? それはなんでなんだろ?」
倫太郎
「ああ、そのことか」
それなら、俺もあの後すぐに考えた事だ。
倫太郎
「おそらくだが、これまでの世界線の変動は『Amadeus』に対してアクションを起こしたことで、紅莉栖の記憶が何者かの手に渡ったことが原因だと思われる」
『Amadeus』を手にした誰かの手により、過去の事象が書き換えられるなりなんなりしたのだろう。
倫太郎
「だが今回は、その原因である『Amadeus』と紅莉栖の記憶そのものを消去した。原因が取り除かれれば、それによる世界線の変動は起きない……そういうことだろう」
ストラトフォーとDURPAの争いの種は消滅した。
そして紅莉栖の残したデータも破棄した。
紅莉栖の記憶という遺産。それが原因になって繋がる未来はなくなった。
けれど、今俺の目の前にはまだ鈴羽とかがりがいる。
このふたりがここにいるという事は、未来の世界は変わっていないという事だ。
もちろんそれはわかっていた事でもある。
世界の収束は、シュタインズゲートに辿り着かない事には、変えられない。
それでも、今回の一件はきっと、無駄じゃなかった。
あの時――2036年の世界で感じたかすかな閃き。
この世界は、そこへ繋げるための布石となったはずだ。

「で、これからどうするん?」
倫太郎
「そうだな、いろいろやるべきことはあるが、その前に……」
俺は、白衣のポケットから用意していた物を取り出した。
倫太郎
「さて、皆に俺からプレゼントだ」
真帆
「これは……?」
倫太郎
「ラボメンバッジ――俺たち全員がこのラボのメンバーである証だ」
OSHMKUFAHSA。
バッジには、全員のイニシャルが刻印されている。
そこには当然、紅莉栖や萌郁の名前もある。
新たに比屋定真帆と椎名かがり、そして阿万音由季の名を追加しておいた。
過去を過去と認め未来へ繋げる事。
それが今の俺がすべき事だ。
かがり
「ラボメン……」
かがりは嬉しそうに、バッジを胸に押し抱いた。
かがり
「私の宝物、ひとつ増えちゃった」
これから歩む道は、もしかしたら更なる茨の道かもしれない。
それでも必ず光はある。
真帆
「私、紅莉栖とオカリンさんが仲良くなれた理由、なんとなくわかる気がするわ……」
鈴羽
「あたしも、父さんたちがどうしてあんなにもオカリンおじさんを頼りにしていたのか、やっとわかった……」
かがり
「私も、ママがオカリンさんをずっと好きなの、わかるな……」
まゆり
「か、かがりちゃん。違うよ、まゆしぃは、オカリンの人質で。だからそういうのとは……」

「ちょっ、なん、これ? オカリンだけモテまくり許せん! リア充爆発しろ!」
鈴羽
「父さんには母さんがいるでしょ!」
いくつもの未来といくつもの過去。
それが収束する場所で、必ず会える。
だから――。
倫太郎
「ああ、俺だ……」
倫太郎
「なに? いつになったら助けに来るのか、だと?」
倫太郎
「慌てるな。今はまだその時ではない」
倫太郎
「ククク……俺を誰だと思っている? いいか? 狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真に二言は無い」
倫太郎
「だから、しばし待つがよい」
倫太郎
「お前を絡め取るその刻の呪縛から、いつか必ず俺が助け出してやる」
倫太郎
「ああ……必ずだ……」
紅莉栖――いつか会えるその時まで。
俺の想いのすべてをお前に捧げよう。
倫太郎
「エル・プサイ・コングルゥ」
2011年12月。
秋葉原。
あの騒動から一年が経とうとしていた頃、未来ガジェット研究所に久々に真帆が訪れた。

「お? 来た来た」
真帆
「お久しぶりね、みんな」
まゆり
「わぁ、真帆さんだぁ。すごく会いたかったよ~、トゥットゥルー♪」
るか
「お久しぶりです、真帆さん」
フェイリス
「元気そうで何よりだニャ」
真帆
「ふふ。みんな相変わらずで安心したわ」
鈴羽
「そっちこそ、変わってないね」
真帆
「どうせ、私は小さいわよ」
鈴羽
「そういう意味で言ったんじゃないって」
真帆
「わかってる。冗談よ」
かがり
「うぅっ…………」
真帆
「ど、どうしたの?」
かがり
「この一年、真帆さんに会えなくて寂しかったよ~!」
真帆
「ちょ、ちょっと! そんな抱きつかなくても……」
かがり
「だって……だってぇ……」
真帆
「……ごめん。ほんとうは夏にも来たかったんだけど、大学のほうでもいろいろあって……」
あの騒動のツケは、当然のように真帆たちの研究室に大きな爪痕を残したらしい。
当然だ。
『Amadeus』だけでなく、レイエス教授をはじめ多くの大学関係者が、あの事件に関わっていたのだから。
倫太郎
「遠いところ、よく来てくれた、真帆」
真帆
「当たり前よ。私だっていろいろと関わって来たんだもの。この目で見届けるのが勤めだわ」
倫太郎
「でも、本当にいいのか? この一年の後処理が無駄になるんだぞ?」
真帆
「無駄になんてならないわよ。だいいち、この世界の未来が過去に繋がるって言ったのは、あなたでしょう」
真帆
「だから私は、この世界で私がすべき事をやっただけよ」
倫太郎
「……ああ、そうだったな」
2025年に死ぬはずだった俺が生きていたという事実。
誰もが騙されていた。
過去の俺も。
未来の皆も。
世界は――騙されていた。
確定していると思われていた未来。
そこには違う形の未来が待っていた。
ならば――俺も世界を騙せるんじゃないか。
世界を騙す事で、確定した未来を回避出来るんじゃないか。
そしてもしも、世界を騙せるのなら――その先にシュタインズゲートはあるんじゃないのか。
しかし、どうやって騙すかとなると、残念だがその方法は今の俺にはまだ見えていない。
それでも、未来の俺は言っていた。

「『シュタインズゲート世界線への道は険しい。一度や二度、やり直したところで、辿りつける道ではないだろう」

「けれど、まずはそこから始めることが、
運命石の扉
シュタインズゲート
へと繋がるんじゃないか――」

「いくつもの未来の先が、過去へと繋がっているんじゃないか』――11年前、オカリンはそう言ってた」

「だからさ、僕たちがいるこの世界も無駄じゃない。きっと必要な世界なんだ。少なくとも今の僕はそう思ってる」
いくつ
①①①
もの
①①
未来
①①
の、その先が過去へと繋がっている――。
ならば、今俺がすべきなのはただひとつ――。
真帆
「橋田さん。例のものはちゃんとできたの?」

「もちろん、もう使えるはずだお」
開発室の奥に鎮座する、古ぼけた電子レンジ。
あの騒動の最中、真帆の協力によって再現に成功したタイムリープマシンだ。
ダルはそこに、新たな機能を追加したのだ。
真帆
「それにしても、こんなものが世界の命運を握っていたなんてね」
そう、全てはこれから始まった。
俺たちの運命も紅莉栖の運命も、全てはこれに翻弄された結果だ。
ひとつ元の電話レンジと違うところといえば、そこに繋がっているのが、携帯電話ではなくスマホだということだ。
過去へのメール送信は、どうやってもSERNに捕捉されてしまうことになる。
そうすれば、俺たちは再びSERNに狙われることになるだろう。
それは、紅莉栖を犠牲にしてまで選んだこの
現実
いま
までをも、また禍のただ中に陥れようとする行為に等しい。
それでは意味がない。
しかし、今や通信手段はメールだけではない。
メッセージを送る手段は他にも存在している。
俺たちが今、頻繁に使っているRINEもその手段のひとつだ。

「名づけて、Dラインってとこかな」
もちろん、ブラウン管テレビの電子により重力をコントロールし、そこに生じた
特異点

を通過させることで、文字情報を過去に送り届けるという原理は同じだ。
また、送ることのできる文字数もDメールと同じく18文字。
けれど、これならばSERNに捕捉される恐れもない。
再びまゆりが犠牲となる心配もないはずだ。
問題は、通信手段としてRINEを使用し始めるよりも前へはメッセージを送ることが出来ないという点だが、それは仕方あるまい。
今は可能性を繋ぐことが、最重要事項なのだから。

「まったく、どこにも捕捉されないようになんて注文つけるから、結構タイヘンだったのだぜ」

「抜け穴見つけるのに、めちゃ時間かかったんだからな」
こうは言っているが、きっちりやり遂げるところは見事だ。
倫太郎
「さすがだ、
頼れる右腕
マイ・フェイバリット・ライトアーム


「あ、なにげに懐かしい響き」
まゆり
「でも、オカリン。本当にいいの?」
フェイリス
「そうだニャ。またそのことで、凶真が辛い思いをするんじゃないのかニャ?」
倫太郎
「かもしれないな……」
まゆり
「だったら――」
倫太郎
「でも、それでも俺はやらなければならない」
かがり
「オカリンさん……」
鈴羽
「…………」
このままいけば、必ず第三次世界大戦は起きる。
それは、ここに鈴羽やかがりがいることからも明らかだ。
この先にあるのはひとつの未来。
けれど、
運命石の扉
シュタインズゲート
へとたどり着くためには、まだ必要な
未来
パーツ
があるはずだ。
その未来へと導くためには、過去に戻ってもう一度やり直すしかない。
大丈夫だ。
今の俺ならば、何度だってやり直せる。
どんなことだって、乗り越えてみせる。
約束の扉へと到達する日まで。
そのためのメッセージはもうできている。
俺がこの世界線に来たのは、きっとそのメッセージの橋渡しの為だ。
もちろんメッセージを受け取った俺がどう考え行動するかはわからない。
それでも、きっとやれるはずだ。
繋いでくれるはずだ。
別の未来へと。
そして過去へと。
るか
「かがりさん……不安ですか?」
かがり
「だって……もし、過去が変わって平和な時代が来たら……ママと出会えなくなっちゃうかもしれない……」
まゆり
「かがりちゃん……」
倫太郎
「心配ない」
かがり
「え……?」
倫太郎
「アトラクタフィールド理論では、起こるべきものは必ず起こる。そう決まっている」
倫太郎
「世界線が変わろうと、君はまゆりに出会うはずだ」
かがり
「ほんと!?」
倫太郎
「ああ、俺が保証する」
かがり
「ママ!」
まゆり
「よかったね、かがりちゃん。オカリンがほしょーしてくれたら、安心だよ~。未来でも、きっと会おうね」
かがり
「うんっ!」
鈴羽
「おじさん、ありがとう……」
倫太郎
「礼を言われることじゃない。元々は俺が撒いた種だ」
それに、本当に大変なのはここからだ。
鈴羽
「ううん。それでも言わせて。ありがとう」

「その台詞、父さんにも! 父さんにもプリーズ!」
鈴羽
「父さんも、ありがと」

「もっと! もっと上目づかいで目をうるうるさせて言っておくれ、マイドーター!」
過去が変わることで、この1年間で俺がやって来たことも無かったことになる。
未来を経験したことも、気の遠くなるほどの時間をかけて再び戻って来たことも。
それらの経験がすべて無駄になるのかといえば、そういうわけではない。
今の俺と、これから始まるであろう過去の俺。
そしてまたその先の未来――。
それらの経験が交わる先に、必ず未来へと繋がる扉は待っている。
運命石の扉
シュタインズゲート
が。
倫太郎
「ではいくぞっ! 鳳凰院凶真の名において、これより新たなるオペレーション、ヘルヘイムを開始する! ラボメン全員、準備はいいか!?」
その方法に辿りつくために、俺は再び過去を変える。
ラボメン達
「オーキードーキー!」
紅莉栖――いつかまた、お前に逢うために。
倫太郎
「……テスターを、やめたいです」
そう切り出したら、レスキネン教授も真帆もあ然とした顔で俺を見た。
都内の高級ホテル。その一室が会合の場所だった。
なんだか秘密の会合みたいで、スパイ映画にありそうなシチュエーションだ……なんて思ってしまったのは、まだ厨二病の残滓みたいなものが俺の中に残っているせいだろうか。
真帆
「いきなりそんなこと……無責任だわ」
ようやく俺の言葉の意味を理解したらしい真帆が、憤りを露わにした。
レスキネン
「マホ、落ち着きなさい」
レスキネン
「このテストは、むしろリンターロの善意で成り立ってるんだよ」
レスキネン
「引き受けてもらえただけでも、こちらとしてはありがたかった」
レスキネン
「ここで辞退しても、無責任ということは決してないから、大丈夫」
レスキネン教授はそう言って笑うと、俺に握手を求めてきた。
大きな手を握り返しつつも、俺はまともにその目を見ることができず、頭を下げた。
倫太郎
「……すみません」
レスキネン
「ただ、私としてもできれば続けてもらいたいんだよ」
レスキネン
「ざっとログを見たが、かなり頻繁に話してくれているじゃないか」
レスキネン
「それに、研究室で我々が相手をしていた頃とは、“クリス”の話し方がだいぶ違う」
レスキネン
「人は社会的な生き物だ。相手と状況によって、言動を変える」
レスキネン
「それを『Amadeus』でも再現できていると見ていいだろう」
レスキネン
「だからこそ、もうしばらくテストを続けたいんだ」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「ちなみに、やめようと思った理由はなにかな? 『Amadeus』と話すのが、辛くなったかい?」
倫太郎
「いえ……。逆です」
レスキネン
「逆?」
倫太郎
「『Amadeus』と……“紅莉栖”と話すのは、とても楽しいんです」
倫太郎
「でもそれが……怖くて」
そこから俺は、自分の中に湧き上がる感情について、ちっとも整理できてはいないけど必死に説明した。
紅莉栖と“紅莉栖”を同一視している自分が恐ろしい、と。
レスキネン
「やはり、君に負担をかけてしまったね。本当に済まない」
レスキネン
「ただ、君のその反応は、とても興味深い」
レスキネン
「研究者ではない目線で『Amadeus』をとらえているという意味で、私も勉強になるよ」
レスキネン
「こんな言い方や感じ方になってしまうのを許してほしい。なにしろ根っからの研究者なものでね」
倫太郎
「いえ……。こっちも、ワガママ言っているのは、分かっているんです」
さっきから真帆は一言も喋ろうとしない。
ムスッとした顔で、ひたすら『Amadeus』のログをチェックしているようだ。
いたたまれなくなってくるから、あんまり俺がいるところで見てほしくないんだが……。
レスキネン
「分かった。テスターの辞退については、君の望む通りにしよう」
レスキネン
「ただ、アクセス権は君のスマートフォンにそのまま残しておいて構わないかな?」
倫太郎
「え?」
レスキネン
「今後、『Amadeus』と話すのも話さないのも、君の自由だ」
レスキネン
「“クリス”の方からは、君に連絡しないように言っておくから」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「私たちと君との関係を、今日これで終わりにはしたくないんだ。せっかくできた日本の友人だし、それに――」
レスキネン
「マホも、寂しがるしね」
真帆
「教授!」
レスキネン
「ハハハ」
倫太郎
「分かり……ました」
押し切られた感は否めないが、俺としてもレスキネン教授との繋がりは断ちたくなかった。
ヴィクトル・コンドリア大学を目指すという目標は、なにも変わっていないわけだから。
そのとき、レスキネン教授のスマホに電話がかかってきた。
レスキネン
「おっと失礼。ちょっと電話してくるよ」
レスキネン
「マホ、その間に、リンターロと仲直りしておくようにね」
いたずらげにウインクして、レスキネン教授は部屋を出て行った。
俺と真帆の二人きりになる。
真帆
「はあ……」
真帆
「ごめんなさい。さっきは怒鳴ったりして」
倫太郎
「いや」
真帆
「教授の言う通り、こちらがお願いしている立場なのに」
真帆
「『Amadeus』は今の私にとっては、姉妹……ううん、子供みたいなものだから」
真帆
「それを投げ出されたように思えて、つい……」
倫太郎
「力になれなくて、済まない」
真帆
「あなたの気持ちも、分かっているつもりよ。あるいは、つもりだった、かしら」
真帆はもう一度、ため息をついた。
真帆
「自己嫌悪だわ。駄目ね、私」
真帆
「たぶん、
前頭前皮質
ぜんとうぜんひしつ
がひねくれて出来てるのよ。そうに違いないわ」
倫太郎
「……は?」
真帆
「前頭前皮質は、人格を形成する部位のひとつね。情報のフィルタリングを行うこともあるわ。己の中の認めがたい情報を遮断したり、自己
欺瞞
ぎまん
を行ったり」
倫太郎
「よく分からない」
真帆
「要するに、むき出しの情動を隠そうとして、とっさに嘘をついたりするのよ。他人だけじゃなく自分自身にもね」
真帆
「今の私みたいに、難しい言葉を並べて自分を取りつくろってやろうとか」
真帆
「こういうことも、前頭前皮質がやってるんだと思うわ」
……それって、そっくりそのまま以前の俺――鳳凰院凶真にも当てはまりそうだな。
それに気付いて、なんとも言えない気分になった。
倫太郎
「……誰でも、そういうことってあると思う」
真帆
「私は特別ひどいのよ、たぶん」
倫太郎
「…………」
真帆
「今後も、気が向いたらでいいから、『Amadeus』をかまってあげて。ほんの短い時間でもいいの」
倫太郎
「……考えておくよ」
真帆
「ありがとう」
真帆は気が抜けたように、ソファの背もたれにその身を預けた。
倫太郎
「……なあ、聞いていいか? 紅莉栖の……母親のこと」
真帆
「……?」
倫太郎
「前にパーティーのとき、君とレスキネン教授が話しているのが偶然聞こえたんだ」
倫太郎
「紅莉栖の家に、その、なにかあったって」
真帆
「あ。あのこと……」
真帆は、すぐ思い当たったらしく、うなずいた。
真帆
「紅莉栖のお母さんから、電話があったの。家に放火されたんですって」
倫太郎
「ええ? 大丈夫なのか?」
真帆
「ちょうどその日は留守にしていたから、大丈夫だったそうよ」
ホッとした。
紅莉栖の母親の立場を考えると、これ以上の不幸には見舞われてほしくないと、心の底から願わずにはいられない。
真帆
「私、紅莉栖のお母さんにはけっこう可愛がってもらっていたの」
真帆
「休日に、家にもよく招待してもらってね」
真帆
「だから心配だわ。変なことに巻き込まれていなければいいのだけど」
倫太郎
「変なこと?」
その言い方に引っ掛かった。
背中に、ゾクリと悪寒が走る。
倫太郎
「ただの放火じゃないのか?」
真帆
「それが……」
真帆は、俺に話すべきなのかどうか逡巡しているようだった。
倫太郎
「比屋定さん」
少し促すような形で声をかける。
それで、真帆は軽くうなずいてくれた。
真帆
「それが……最初は地元の警察が捜査してたらしいのだけれど、そのあと、FBIを名乗る人たちが来たらしくて」
倫太郎
「FBI?」
真帆
「ええ。FBIが出てくるような事件じゃないのに、よ?」
真帆
「それと、放火した犯人を、隣の住人が目撃していたそうなんだけど――」
真帆
「その証言によると、犯人は、ただの放火犯には見えなかったって」
倫太郎
「……? というと?」
真帆
「複数犯でね……なんだか特殊部隊みたいだったって。ほとんど何もしゃべらず、火を着けたらすぐ、近くに停まっていた車に乗り込んで去って行ったそうよ」
真帆
「こんな言い方が正しいかどうか分からないけど、手際がすごくよかったみたい」
真帆
「火のまわりも、異常なほど早かったらしいわ」
……ただの放火犯じゃなくて、プロの犯行、だとでも言いたいのか?
そんなバカな、と笑い飛ばすことなどできない。
この世の中にはそういう人間たちが存在することを、俺は実際に知っているから。
真帆
「それと――」
倫太郎
「それと?」
真帆
「その犯人たちが……ロシア語を話していたって」
倫太郎
「……ロシア語!?」
ロシア――。
イヤでも連想してしまうのは、中鉢のことだ。
半年前、奴は紅莉栖から――自らの娘から、タイムマシンに関する論文を盗み、それを手土産にしてロシアに亡命した。
まさか、それと関係している……?
真帆
「それともうひとつ」
真帆
「紅莉栖が亡くなったばかりの頃、私たちの研究室でもおかしなことがあったの」
真帆
「地元警察と一緒に、日本の刑事という人が来たのよ。日米の合同捜査で、紅莉栖の事件を調べているって」
真帆
「もちろん私たちは、できる範囲で協力したんだけれど」
真帆
「何日か経って、大学が警察に問い合わせをしたら――」
真帆
「そんな刑事が日本から来た事実はない、って言われたわ」
倫太郎
「じゃあ、その日本の刑事は、偽物だった?」
真帆
「それだけじゃないの。地元警察も、私たちの研究室を捜査した事実はないって」
真帆
「つまりね。日本の刑事どころか、警察と称してやって来た人たち全員が――」
倫太郎
「偽物?」
真帆
「そのことがあってから、私……」
真帆はそこで、かすかに身を震わせ、自身の腕を抱きしめるようにした。
真帆
「私、紅莉栖の死には、なにか裏があると疑っているわ。別に、陰謀論者ではないけれど」
倫太郎
「…………」
真帆
「なにかもっと別の理由で紅莉栖は殺されて、それが闇に葬られてしまったんじゃないかと、そう考えているのよ」
倫太郎
「…………」
紅莉栖を殺したのは、俺だ。
その事実は、表沙汰になっていない。
今後も、なることはないだろう。
タイムトラベラーによる殺人なんて、誰にも証明できないのだから。
警察発表では、当時ラジ館の倉庫に外国人窃盗団が侵入し、紅莉栖はそれを目撃してしまったために殺害された――とされていた。
警察が追っているという窃盗団は、現在は海外へ逃亡してしまったため国際手配中ということになっている。
また、俺が紅莉栖を殺したとき、現場にはもうひとり……中鉢博士がいた。
あの男の名前が一切上がってこないのも、不気味だった。
ロシア。SERN。タイムマシン。
鈴羽――いや、ジョン・タイターと呼ぶべきか――が語った未来を思い出す。
あと10年もしないうちに、第三次世界大戦が起きる、と。
それが勃発するきっかけは、タイムマシンだ、と。
EUとロシアによる開発競争が火種となり、それにアメリカまでが横やりを入れるせいだ、と。
もしかしたら俺は、俺たちは、今まさに50億人以上が死ぬ戦争の、その最初の発火点の渦中にいるんじゃないのか?
そんな気がしてならない。
真帆
「このままじゃ紅莉栖は浮かばれないわ。真実を知りたい……」
倫太郎
「真実?」
思わずギクリとして、真帆の顔を見てしまった。
倫太郎
「真実を……知りたいって……?」
危険だ。
そんなことをしたら、彼女は間違いなく危険にさらされる。
――夜のとばりを引き裂いて襲撃してきたラウンダーたち。
――凶弾に頭を撃ち抜かれ、腕の中で息絶えた大切な幼なじみ。
――その後に、無限と錯覚するほどに繰り返した、悪夢のような時間のループ。
α世界線で理不尽に襲いかかってきた事実の数々が脳裏によみがえってきて、俺はうめき声を上げそうになった。
倫太郎
「でも、それはっ」
倫太郎
「それは、警察に、任せておいた方がいい……」
真帆
「そうかしら……」
倫太郎
「……少なくとも、自分でどうにかできるなんて、思わないことだ」
倫太郎
「人間ひとりの力なんて、あまりにちっぽけなものだから」
そこまで言ってしまってから、余計なことを口走ってしまったと後悔したが、後の祭りだった。
真帆
「…………」
いつしか俺を見る真帆の目つきが、鋭く射抜くように変わっていた。
真帆
「あなた、もしかして、
なにか
①①①
知って
①①①
いる
①①


?」
倫太郎
「……っ」
核心を突かれ、動揺が表に出そうになる。
とっさに両手で自分の顔を覆った。
倫太郎
「そんなはず、ないだろ……」
真帆
「…………」
真帆
「……そう。変なこと言って、悪かったわ」
真帆
「私、紅莉栖のことになると、ついムキになってしまうの。彼女のこと、本当に好きだったのね」
倫太郎
「あいつは本当にいいヤツだったし、本当にすごいヤツだった。俺も……好きだったよ」
真帆
「ええ。あなたのことを見ていれば、分かるわ」
倫太郎
「…………」
真帆
「…………」
俺たちの間に、重い沈黙が満ちる。
何か言わないと……と焦燥感にかられていると、さいわいなことにレスキネン教授が戻ってきてくれた。
レスキネン
「2人とも、よかったらこれから食事でもどうかな?」
俺と真帆はうなずき、ソファから立ち上がった。
真帆
「岡部さん。また、こちらでの紅莉栖の話を、聞かせてくれる?」
倫太郎
「ああ、いつでも」
俺は、かろうじて真帆に笑みを返すことができた。
地下駐車場の床をタイヤで軽く鳴らしながら、濃銀色のワゴン車が曲がって来るのが見えた。
国産車ではない。海外の、なんとかというメーカーの、スポーツカーっぽく見えるステーションワゴンだ。
俺はそれほど車に詳しくないからよく分からないが、話によると正規ディーラーで軽く800万円を超える値段だという。
なぜそこまで知っているのかと言われれば、車の持ち主にさんざん自慢されたからだ。
ワゴン車が俺たちの前で停車し、合図のクラクションが響いた。
運転席から下りてきたのは井崎准教授だった。
俺がレスキネン教授や真帆と食事中に、偶然、別件で電話をかけてきたのだ。
それで教授たちの話をしたら、帰りは自分が車を出して送っていこうと申し出てきた。
レスキネン教授は遠慮したが、井崎がどうしてもと強硬に主張したため、こういう形になった。
准教授なのにいい車に乗ってるよな。
金持ちのボンボンだとか、どこかの社長夫人がパトロンについているのだとか、大学内でも噂にはなっている。
独身なので車に全財産を捧げているだけ、というのが真相だということを以前、こっそり俺に教えてくれたが。それも本当なのかどうか。
井崎はさながら専属運転手にでもなったみたいに、わざわざ後部座席を開け、レスキネン教授と真帆をエスコートしていた。
レスキネン教授が井崎に礼を言いつつ、乗り込んで行く。
真帆は荷物を積み込むため、井崎に断って車の後部へ回り込む。
井崎准教授
「岡部クン、ちゃっかりレスキネン教授に気に入られているなんて、なかなか抜け目ないなあ、この」
ニヤニヤしながら肘で小突かれた。
井崎准教授
「このコネは、手放しちゃいけないぜ? キミの将来のためにね」
倫太郎
「はあ……」
憎めない人ではあるのだが、准教授という立場を考えると少し……いや、かなり
チャラい
①①①①
のが、井崎の残念なところである。
井崎は俺に手を振りつつ、運転席のドアを開けた。
ん……?
なんだ、今の音?
聞き慣れない音が、耳に届くのとほぼ同時に――
助手席側の窓ガラスに穴が開いた。
井崎准教授
「ひぃぃっ!?」
井崎が悲鳴を上げながら尻餅をつく。
さらに後部座席の窓も粉々になって。
レスキネン
「――!」
真帆
「きゃあ!」
倫太郎
(なっ、なんだよ、これ!?)
超常現象でも起きたのかと、俺はパニックになった。
訳が分からず、呆然となってしまう。
その俺の視界の隅で、人影が動くのが見えた。
柱の陰から、見知らぬ男がのそりと現れる。
手には、奇妙な形をした拳銃のようなものが握られていた。
全体的に小さく銃身も短く、そしてやや平べったい。サイレンサーのようなものはどこにもついていない。
倫太郎
(誰だっ!?)
見覚えがあった。
どこかで会ったことがあるような気がする。
どこだ?
考えてもとっさに思い出せない。
男は、その場に立ったままでブツブツと何事かを延々とつぶやいていた。
襲撃者
「……つまずきを与えるこの世は忌まわしい。もちろんつまずきが起きることは避けられないが、つまずきをもたらす者こそが忌まわしいのだ……」
襲撃者
「もし、お前の手か足のひとつがお前をつまずかせるなら、それを切って捨てるがいい」
襲撃者
「両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりも、それは、お前にとって間違いなく幸せなのだから」
襲撃者
「また、もしお前の片方の目がお前をつまずかせるなら、それをえぐり出して捨ててしまうがいい」
襲撃者
「たとえ片目であろうとも、
ヒンノムの谷

の炎に投げ入れられるより、ずっと幸いに違いないのだ」
男は、異様な迫力と狂気を身にまとったまま、再び銃らしきものをこっちに向けて構えた。
襲撃者
「神の与えし魂とは、神の子である我々にこそ宿る……決してシリコンの上には宿らない……」
井崎准教授
「うわあああ!」
立ち上がった井崎が、恐怖のあまり背中を向け、脱兎のごとく逃げ出していく。
また、あの音!
あまりにも静かで軽やかな。
発砲音だとは想像すらできないような、音。
だが今度は車の窓ガラスが割れることはなかった。
俺の体に穴が空くこともなかった。
外した!?
井崎の動きに気を取られたのか?
だが次はない! 動け!
倫太郎
「――っ」
真帆を先に後部座席に押し込み、それから運転席に這うようにして乗り込んだ。
幸い、車のエンジンはかかったまま。
ドアを閉じる間も惜しく、アクセルを思いきり踏み込んだ。
強烈なエンジン音が、地下の空気を激しく震わせる。
襲撃者が、耳をつんざくようなその音と振動にひるんだ。
しかし――車が前に進む気配はない。
ぴくりとも動かない。
レスキネン
「“Shift!”」
真帆
「ギヤをドライブに入れなくては駄目よ!」
後部座席で頭を低くしていたレスキネン教授と真帆が、エンジン音に負けないように怒鳴ってくる。
とりあえずアクセルから足を離した。
手元にあるシフトレバーを見る。『N』と表示されているところに固定されていた。
倫太郎
「どうすりゃいいんだ!?」
真帆
「あなた、免許は!?」
倫太郎
「持ってない!」
真帆
「ええ!?」
そのとき、フロントガラス越しに、襲撃者が銃を構え直すのが見えた。
男が、俺を見据えていた。
なんのためらいもなく人を殺すことのできる目だと感じた。
襲撃者
「魂は、シリコンの上には、宿らない」
やばい――!
クモの巣のような形でフロントガラスにヒビが入って。
側頭部を、なにかがかすめていった。
倫太郎
「――っ」
鋭い痛みを感じた。
同時に、耳鳴りがし始める。
他のすべての音が、遠のいていく。かき消えていく。
意識が、飛びそうになって――
真帆
「――っ」
と、真帆がシートを乗り越え、助手席に滑り込んできた。
真帆
「ドアを閉めて! 早く!」
倫太郎
「……!」
遠のきかけていた意識が引き戻される。
言われるままに、運転席のドアを思い切り閉めた。
真帆が、ギヤをニュートラルからドライブへ入れつつ、こっちへ身を乗り出すようにしてハンドルをつかんだ。
真帆
「踏んで!」
思い切りアクセルを踏み込むと、タイヤを空転させかねないほどの勢いで車は急発進した。
倫太郎
「っ!」
襲撃者の姿が迫ってくる。
ぶつかる!
そう思って、俺はアクセルを緩めようとして――
真帆
「そのまま!」
真帆が叫ぶ。
俺は奥歯を食いしばり、言う通りにした。
車に衝撃はこなかった。どうやら襲撃者はすんでの所で身を翻し、轢かれるのを避けたようだった。
だがそれを確認する余裕もなく、車はそのまま駐車場内を疾走する。
スピードが出すぎていた。しかも真帆が助手席からハンドル操作をしているため、直進できず走りが安定しない。
車体が左右に振られて、俺は割れた窓から外に放り出されそうになった。必死でシートの縁を掴み、それに耐える。
何度も柱や壁にボディをぶつけつつ、出口を目指した。
倫太郎
「あ、あいつ、なんなんだ!?」
真帆
「知らないわ!」
倫太郎
「っ! ――右だ、右っ!」
目の前に、出口の表示が迫っていた。
真帆
「曲がりきれない!」
俺はとっさにブレーキを踏みつつ、真帆の手の上からハンドルを握り、右方向に切った。
だがそれがいけなかった。
車のリアが滑る。
車体が振り回される。
その場でスピンをして、停まった。
真帆
「はあ……っ」
倫太郎
「だ、大丈夫か?」
真帆
「ええ。……教授は!?」
後部座席を見ると、レスキネン教授がシートの上でひっくり返りながらOKの合図を送ってきた。
真帆
「運転代わって!」
倫太郎
「ああ!」
俺は急いでドアに手をかけ、運転席から降りようとした。
だが背後から、ひどい軋み音を立てつつ古いセダン車が迫ってくるのが見えて、ゾッとした。
さっきの男だ。
追ってきている。しかも、すごいスピードで!
倫太郎
「降りろ! 突っ込んでくるぞ!」
真帆
「こっちのドア――開かない!」
壁にぶつけたせいでへこんだのか!?
俺はとっさに真帆の体を助手席から抱き上げ、外へ転がり出た。
レスキネン教授も後部ドアからまろび出る。
セダン車が突っ込んで来たのは、そのわずか0コンマ数秒後だった。
あと少しでも脱出が遅れていれば、ミンチになっていただろう。
倫太郎
「はぁはぁはぁ……」
真帆に手を貸しつつ立ち上がり、もはや原形をとどめていない車から少し距離を置く。
倫太郎
「大丈夫か?」
真帆
「あ、ありがとう」
グシャグシャにひしゃげた2台の車。
俺たちの乗っていた車の後部に、襲撃者のセダン車が完全にめり込んでしまっている。これでは、運転していた男は助からないだろう。
ブレーキ痕がまったくない。つまり、ノーブレーキで突っ込んできたということだ。その事実にゾッとした。
もう少しで、殺されるところだった。
倫太郎
(とにかく警察に連絡……)
そう思ってスマホを取り出そうとしたところで、事故の音を聞きつけたのか、出口の方から警備員が駆けつけてきた。
倫太郎
「すみません、警察を呼んでください!」
警備員がうなずいて、連絡してくれる。
倫太郎
「う? あ、痛てっ……」
側頭部に、ズキズキと脈動するような痛みを覚えた。
さっき銃弾がかすめたあたりだ。
運転している最中は、そんな痛みはまるで感じなかったのに。
おそるおそる触ってみると――こめかみからアゴに向かって血がダラダラと流れはじめている。
触れた指先が真っ赤に染まり、ゴクリと息を呑む。
まゆりが頭を撃ち抜かれたときの光景。
紅莉栖を殺してしまったときの光景。
そうしたものがフラッシュバックしそうになって、足許がふらつく。
真帆
「あなた、血だらけじゃない! 弾が当たったの!?」
真帆が気付いて、顔を青ざめさせた。
倫太郎
「……ここって、まずい場所だったりするのか?」
真帆
「そこには
浅側頭動脈

っていうのがあって――」
レスキネン
「見せてごらん。少し触るよ」
レスキネン教授が傷を調べてくれる。
触れられてまた痛みが走ったが、奥歯を噛みしめて耐えた。
レスキネン
「大丈夫。傷はそんなに深くない」
真帆
「……よ、よかった」
レスキネン
「これを使いなさい」
倫太郎
「すみません」
差し出されたハンカチを、こめかみに当てた。
真帆
「…………」
真帆
「襲ってきた人……セミナーにいた人だわ」
倫太郎
「本当か?」
真帆
「覚えてない? あなたが『異議』を出した相手よ」
倫太郎
「あ……!」
そうだ!
紅莉栖のことを侮辱するような発言をしていたから、俺はカッとなってつい『異議あり!』なんて突っかかってしまった。あの男だ。
もしかして、俺への逆恨み……?
そんなまさか。
倫太郎
「……神の与えし魂とは、神の子である我々にこそ宿る。決してシリコンの上には宿らない……」
真帆
「? なに?」
倫太郎
「銃を撃つ前に、言ってたんだ」
真帆
「……『Amadeus』のこと、かしら」
倫太郎
「さあ……」
遠くから、パトカーのサイレンがかすかに聞こえてきた。
ホテルの警備員や従業員が、どんどん集まってきている。
倫太郎
「なあ、この状況……どう説明したらいいんだ?」
真帆
「ありのまま言うしかないわ。私たちだって、なにがなんだか――」
真帆の目が、突然見開かれた。
レスキネン教授と周囲の野次馬たちも、驚愕の表情でただ一点を見つめている。
俺もつられて、みんなと同じ方向へと目をやって。
たまらず、悲鳴を上げそうになった。
襲撃者
「……つまずきを、与える世が……もたらす者が……忌まわしい」
つぶれたセダン車の間から、血まみれの男が、ズルズルと這い出して来たところだった。
そのまま、ゆらりと立ち上がる。
その姿は、まるで幽鬼かゾンビのようだ。
銃を握っている手以外の四肢はあらぬ方向を向き、それらを突き破って骨らしきものが覗いている。
腹部のあたりもズタズタに破れ、這いずるたびに血を滴らせた重要な器官が、ボロボロと体外へあふれ落ちた。
しかし、男はまったく痛みなど感じていないかのように、こちらへ向かってくるのだ。
あまりにも凄惨な姿に、誰も声をかけることができずにいる。
男は、銃口をヨロヨロとレスキネン教授に向けた。
もう命の火はいくばくも残っていないのだろう、腕が揺れてなかなか狙いが定まらない。だが、レスキネン教授もまた、恐怖の表情を浮かべたまま、動くことができないようだった。
襲撃者
「……冒とく……魂……忌……」
倫太郎
「教授、逃げ――!」
銃声が響いた。
男の頭からパッと鮮血が舞い、身体が弾かれるように跳ね飛ばされる。銃を握ったままの姿で地面に転がった。
男はそれでもまだ這いずろうとしていたが、やがてピクピクと痙攣し……動かなくなった。
周囲の野次馬たちの間から悲鳴が上がる。
倫太郎
「え?」
襲撃者の男が、撃たれた?
自分で撃ったのか?
いや、でも今の銃声は、さっきのものとは明らかに違う。
倫太郎
「だ、誰だ!?」
今、誰が発砲した!?
周囲を見回す。
ちょうど、出口の方から警官たちが何人か、やって来るのが見えた。
でも、誰ひとりとして拳銃を抜いている人間はいない。
そもそも野次馬たちは警備員やホテルの従業員ばかりで、銃なんて携帯していそうな者は見当たらない。
じゃあ、誰が、どこから、撃った?
しかも、襲撃者の頭部を正確に撃ち抜くなんて。
そんな芸当、誰でもできるものじゃない。
倫太郎
「なにが……起きてるんだよ……」
俺の言葉に答えてくれる者は、当然ながら皆無だった。
その後、俺たちは警察に保護された。
警察署まで連れて行かれ、深夜まで事故の状況について詳細に聞かれた。
ようやく解放された頃には、そろそろ日が昇ってきそうな時間になっていた。
帰りは警察にパトカーで家まで送ってもらった。
レスキネン教授と真帆も、和光市のホテルまで送ってもらうといい、警察署の前で別れた。
結局、襲撃者がどんな動機で俺たちを襲ったのかは、分からないままだった。
目眩
めまい
を覚えた。
妙だ、と感じ、鈴羽はその場で立ち止まった。
急に歩道の真ん中に止まる形になり、他の歩行者たちが迷惑そうな顔をして避けていく。
鈴羽
「…………」
深く呼吸して、しばらく様子を見てみたが、目眩はなかなか治らない。
それどころか、まっすぐ立っているのも困難になってきた。
目に見える景色がグニャグニャと歪んでいるように感じるのは、錯覚だろうか。
周囲の雑踏の音も普段より遠く聞こえる。まるで水の中に潜っているかのようだ。
――まさか、これがオカリンおじさんが言っていたというリーディング・シュタイナーだろうか。自分にも、その能力の片鱗が現れたと?
そこまで考えて、鈴羽は自分の身体が熱っぽいことに気付き、ようやく現実を思い知った。
鈴羽
「具合悪いのか、あたし……?」
ふらつく足取りで、なんとかラボまで戻ってきた。
自分で考えている以上に、体調は良くないようだった。できれば、すぐにでもその場にしゃがみ込んでしまいたい衝動に駆られる。
戦時中、そして、その後に父の組織に合流して以降も、大怪我を負って昏睡状態になるような経験は幾度もしてきた。
だが、タイムトラベラーとなってからは、こうした状態になるのははじめてだった。
鈴羽
(まずいな……)
2階の窓を見上げてみる。明かりが点いていた。
父がいることが分かり、鈴羽は心底ホッとして、階段を上った。
玄関の鍵は開いていた。
声を出すのもきつく、無言のまま靴を脱ごうとして、足がもつれた。
鈴羽
「あっ」
前のめりに倒れ込んでしまう。
鈴羽
「痛ったぁ……」

「鈴羽!?」
部屋の中にいた至が、驚いた様子で駆け寄ってきた。

「大丈夫か?」
鈴羽
「う、うん」
ヒザをさすりながら立ち上がってみたものの、すぐに足元がふらつき、至の腕にもたれかかってしまった。

「ど、どしたん!?」
鈴羽
「ゴメン、ちょっと目眩がね……」
まゆり
「え、スズさん体調悪いの?」
由季
「平気ですか?」
その声で、部屋には至の他にまゆりと由季がいたことに、鈴羽はようやく気付いた。
油断した、と心の中で舌打ちする。
由季が、そんな鈴羽の動揺に構わず、真剣な表情で顔を寄せてきた。
由季
「鈴羽さん、おでこ貸して下さい」
前髪をかきあげて自分のおでこを出した由季が、鈴羽のそれにピタリとあてがった。
鈴羽
「あ……」
鈴羽はドギマギしてしまった。
はるか遠い記憶の中で、母にこういうふうにされた覚えがある。
由季
「ひどい熱、大変だわ」

「えっ?」
ダルも、そのごつい手を鈴羽の頬のあたりに当ててみた。

「おおっ、ホントだ」
まゆり
「風邪かなぁ?」
鈴羽
「平気。こんなのすぐに治るから」

「ちょっ、無理すんなって。今すぐ横になるべきだろ
常考


由季
「そうですよ」
鈴羽
「それは分かってる。ちょっとだけ休ませてもらうよ」
鈴羽は最後の気力を振り絞ってソファまでたどり着くと、崩れるようにそこに寝そべり、目を閉じた。
落ち着け、と鈴羽は自分に言い聞かせる。
まゆり
「まゆしぃ、濡れタオルもってくるね」
由季
「橋田さん? 鈴羽さんの着替えは?」

「えと、こっち。みんなこの中に」

「あ、もちろん僕、中を漁ってハァハァ
くんかくんか

とかしてないから」
鈴羽
「……くだらないこと言ってると、風邪のウイルスを伝染させてやるよ、
兄さん
①①①

目を閉じたままで、鈴羽は文句を言った。
由季
「あの? 適当に選んで着替えさせてあげても?」

「頼むよ。僕じゃそういうわけにもいかないから」
由季
「はい」
ぼんやりする意識の中で周囲の会話をなんとなく聞いていると、鈴羽の額に冷たいタオルが乗せられた。
まゆり
「どう?」
鈴羽
「悪いね、まゆねえさん……」
まゆり
「気にしないで」

「僕、ちょっと風邪薬買ってくるから、しばらくヨロ」
まゆり
「うんっ」
由季
「行ってらっしゃい」
由季
「鈴羽さん、起きられますか? お兄さんが戻って来る前に、着替えだけ済ませてしまいましょう?」
鈴羽は目を開けた。
目の前で、由季が心配そうに顔をのぞき込んできている。
鈴羽
「いや、このままでいいよ……今までもそうしてきたし」
実際、タイムトラベラーとなる前の鈴羽が置かれていた環境では、たとえ体調を崩したとしても、ゆっくり休むことすら出来ない状況が続いていたのだ。
着の身着のまま、しかも、横になることも出来ずにじっと堪えるしかないことも多かった。
それに比べれば、今の状況ははるかにマシだ。
由季
「ダメです。風邪はひき始めが肝心ですよ」
鈴羽
「でも……」
由季
「でもじゃありません。早く脱いで」
いつもより少し強引に、由季は鈴羽の着ているものを無理矢理はぎ取ろうとしてくる。
びっくりした鈴羽は、慌てて起き上がった。
鈴羽
「わ、分かった。やるよ、自分でやる」
由季
「汗びっしょり……まゆりちゃん、乾いたタオルはある?」
まゆり
「あぁ! はい、これ」
まゆりがシャワールームから持ってきたタオルを受け取ると、鈴羽の額や首筋にまとわりついている汗を優しく拭き取ってくれる。
鈴羽
「うあっ、く、くすぐったいっ……」
由季
「少し我慢して下さい。子供じゃないんだから」
鈴羽
「けどっ……あっ、くっ……」
鈴羽はタオルで首筋を擦られ、身悶えした。普段、あまり他人に身体を触らせたことがないし、ましてやこんなことをしてもらったのは、幼い頃をのぞけば初めての経験だったのだ。
鈴羽
「も、もういいっ、自分でやるってば……っ」
由季
「別に遠慮しなくても……」
鈴羽
「遠慮とかじゃないから」
鈴羽は由季からタオルを掴み取ると、2人の視線から身体を隠すようにして服を脱ぎ、乱暴に汗をぬぐった。
顔がやたら火照っている。それが熱のせいなのかなんなのか、あまり冷静に考えることができない。
鈴羽
「こ、これでいい?」
由季
「はい、よく出来ました。あとはこれを着て下さい」
由季が手にしている新しい下着と室内着をひったくるように取り、やはり身体を隠すようにしたまま、そそくさと身に着けた。
鈴羽が再びソファに横たわると、由季が毛布をかけてくれた。
由季
「まゆりちゃん、このお部屋って洗濯機はないんだっけ?」
まゆり
「うん、いっつもそれで困るんだよー。まゆしぃ、あとでコインランドリーへ行ってくるね」
鈴羽
「えっ? そんなことまでしてくれなくていいってばっ」
由季
「こういう時はお互い様ですよ」
まゆり
「そうだよ、スズさん」
由季
「お腹は空いてます? 何か食べられそうですか?」
鈴羽
「…………」
鈴羽は、由季とまゆりとを、交互に見つめ、もう一度きっぱりと遠慮の言葉を口にしようとして……、でも結局なにも言えずに、毛布を鼻の上までかぶった。
――すごく、やりにくい。
鈴羽
「……お腹は、そんなに……」
由季
「でも、薬を飲む前に食べておかないと……」
まゆり
「おかゆなんかどうかなぁ」
由季
「それいいね」
由季
「じゃあ、すぐに作りますから、ちゃんと寝ていて下さいね?」
鈴羽
「……。うん」

「ただいまだおー」
しばらくして、ドラッグストアへ行っていた至が帰ってきた。

「はあ、ふう、ひい、疲れたー」
かなり息切れしている。わざわざ走って行ってきたらしい。
普段運動しないからその程度でバテてしまうんだ、と鈴羽は内心、呆れた。
けど……なぜかそんな父の、息切れしている様子が嬉しいことに気づいて、あわててかぶりを振る。
まゆり
「ご苦労様、ダルくん。これから、おかゆ作るんだ」
由季
「それを食べたら、薬を飲ませてあげて下さい」

「オーキードーキー」
至は答えつつ、鈴羽が寝ているところに寄ってきた。

「具合はどうなん?」
鈴羽
「……良くない」

「やっぱ疲れが溜まってたんだなー。鈴羽が休んでるとこ見たことないし」
鈴羽
「……我ながら情けないよ」
鈴羽
「あたし……ここにいない方がいいかも知れない」

「ええ?」
鈴羽
「どこかで気が緩んでたんだ。父さんがいて、まゆねえさんがいて、ルミねえさんがいて……いつの間にか母さんまで……」

「…………」
鈴羽
「そのせいで、時々、任務を忘れそうになる」
鈴羽
「なんだか、この温かい時間がいつまでも続くんじゃないかって、錯覚しそうになったり……」
鈴羽
「このまま戦争なんて起きないんじゃないかって、ふと考えてしまったり……」
鈴羽
「普通の女の子と同じような暮らしに……憧れてしまいそうになったり……」

「それのどこが悪いって言うん?」
そう答えた至は、珍しく真顔で、まっすぐに鈴羽の目を見ていた。
それは、鈴羽のよく知る、頼りになる父親の顔だった。

「ここを出て、どこへ行くつもりなんだよ?」
鈴羽
「それは、マシンの中とか――」

「あんな所に、ずっといられるわけないだろう?」
鈴羽
「でも……」

「あんな所に……娘をずっと置いておけるわけ、ないだろう?」
鈴羽
「……。父、さん……」
鈴羽は、一瞬、涙ぐみそうになった。それをこらえるため、必死に毛布を内側からギュウッと握りしめる。
と――

「うおっと。なんか
マジレス

しちゃったお」
鈴羽
「…………」

「とにかく、僕は可愛い子と一緒にいられるのが嬉しくて、こっそりハァハァしたりクンカクンカするのが楽しみなのだぜ」

「特に、風邪で汗まみれになってる女の子は大好物です」
鈴羽
「う……。やめて」

「だったら早く治すといいお。僕にハスハスされるのがイヤだったらね」
鈴羽
「…………。分かったよ」
鈴羽は小さな返事をしてから、至に背を向けて毛布を引き寄せた。

「お? もしかして今の僕の言葉でトラウマ解消しちゃった? 好感度アップ?」
鈴羽
「バカなこと言ってると、治ってからひどい目に遭わせるよ」

「ブーツ履いて、ゴリゴリ踏んづけるとかそういう?」
鈴羽
「指とツメの間に色々刺す」

「それだけはマジで勘弁して下さいスミマセン……」
キッチンから、由季とまゆりが料理をするいい香りがフワリと漂い始めていた。

「な、鈴羽。そろそろ教えてくんないかな? 毎日、何をしに出かけてるん?」
鈴羽
「…………」

「僕にも、手伝えることあるかもしんないし」
鈴羽
「……あとで」
鈴羽
「二人きりになったら話すよ」

「あ、うん。それでもいいけど」
鈴羽
「……まゆねえさんには、聞かせられない話なんだ」

「え?」
そう、かがりの件は、まゆり本人にはとてもじゃないが伝えられることではないのだ。
それから3日――。
由季
「~~♪」
鈴羽はいまだ、看病を受ける立場にいた。
由季は、毎日のようにまゆりと一緒にお見舞いに来てくれていた。
そのおかげで鈴羽は栄養のあるものを食べることができ、すっかり熱も下がった。あとは体力を取り戻すだけというところまで快復してきている。
にもかかわらず、由季はなおも“もっと安静にしていてください”と言う。
そのせいで――あるいはそのおかげで、と言うべきか――まだ日中にもかかわらず、鈴羽はソファに横になって、まどろみの中にいた。
覚醒しかかっているかすかな意識の向こう――どこか遠くから、ひどく音痴な歌が聞こえていた。
由季
「~~♪」
水音が一緒に聞こえるところをみると、シャワーを浴びているんだろうか。
鈴羽
(これ……なんの歌だっけ? ねぇ、母さん?)
鈴羽も子供の頃に聞いたことのある歌だった。
今と同じように、母が歌っていたのだ。
けれど歌の具体的な内容は、もうずいぶんと昔のことなので、どうしても思い出すことが出来ない。
鈴羽
(もう起きなきゃ。いつまでも寝てられない)
しかし、目を開こうとしても、まぶたがなかなか言うことを聞かない。
体がなおも休息を必要としているのだろうか。やはり由季の言うとおり、まだ安静にしているべきなのかもしれない。
鈴羽
「う、ううん……」
小さく喟って身体をよじる。
その拍子に、毛布が床に落ちてしまった。
それを拾い上げるのも億劫だ。
まゆり
「あ~っと……」
と、いつも至がPCを使っているデスクから誰かが立ち上がる気配がした。
その人は鈴羽のそばに来て、毛布をかけ直してくれる。
鈴羽
(まゆねえさんの匂い……)
特に香水などをつけていなくても、まゆりからは不思議といい香りがする。ほのかに甘くて、優しい色をした花のような芳香。
それは、はるか未来の世界で愛する母を失った夜に、一晩中、鈴羽を抱きしめていてくれた香りでもあった。
鈴羽は、毛布の中へ足を引き込んで、胎児のように膝を抱え込んだ。
まどろみの中、記憶がさまよう。
かがり
「ママは、痛い思いとかしたのかな」
かがり
「苦しい思いとか、したのかな」
ともに時間を跳び越えたかがりにかつて言われた言葉が、不意に心の奥から浮き上がってきた。
2036年。鈴羽が旅立ったあの日。
まゆりは、別れの際に、タイムマシンの中の鈴羽とかがりに向けて、微笑んでいた。
その優しげな微笑みは、娘をかばって死んでいった鈴羽の母と重なった。
鈴羽
「…………」
まゆり
「スズさん? 起こしちゃった?」
鈴羽
「ううん。ちょっと前から起きてた」
まゆり
「何か食べる?」
鈴羽
「うん……」
まるで子供のように素直な声で答えてしまってから、鈴羽はハッと我に返った。
やはり自分の心は弱くなっている。
それに気づき愕然となった鈴羽は、病み上がりの身体をソファから強引に立ち上がらせた。
頭の芯がグラリと揺らぎ、身体がのめりそうになるが、ソファの背を握ってなんとか両足で立つことが出来た。
まゆり
「ああ、ダメだよー。そんな急に起きちゃ」
鈴羽
「もう平気。迷惑かけたね、まゆねえさん」
まゆり
「迷惑だなんて、そんなことないよ?」
まゆりはキッチンへ行くと、シチュー鍋の置かれたガスコンロに火をつけた。
クツクツとシチューが煮立つ音と香りが、ラボの中に満ちてくる。
まゆりは、お玉でそれをかき回しつつ味見をし、鈴羽に向けて笑う。
まゆり
「お~、大成功だよ~♪」
鈴羽
「まゆねえさんが作ったの?」
まゆり
「うん。由季さんのおかげで、まゆしぃの腕はメキメキ上達しているのです」
鈴羽
「父さ……兄さんは?」
まゆり
「メイクイーンに行ったよ。その後はバイトなんだって」
鈴羽
「そっか」
まゆり
「あ、ダルくんがいないからって、夜出かけようとか思ってるでしょ~? ダメだよ~?」
鈴羽
「平気」
まゆり
「平気じゃないよ~。そういうこと言うと、由季さんに叱ってもらっちゃうから」
由季
「――ん? 私がどうかしたの?」
バスルームに続くカーテンが開いて、中から肌をほんのり上気させた由季が出てきた。
まゆり
「スズさんがね、寝ていてくれないのです」
由季
「まぁ。ダメですよ、鈴羽さん?」
鈴羽
「う……」
由季
「あと1日、おとなしくしていること。いいですか?」
鈴羽
「う……ん……」
鈴羽は歯切れの悪い返答をすると、由季の『めっ』と言わんばかりの表情に負けて、ソファに再び座り込んだ。
由季
「はい、そのまま横になって」
鈴羽
「……分かったよ」
ふてくされたようにゴロンと身体を倒すと、毛布にくるまる。
“まゆねえさん”には割とはっきり意見を言える鈴羽であるが、由季に対してはどうにもこうにも強く出ることが出来ない。
まゆり
「えへへ」
鈴羽
「何?」
まゆり
「スズさんって、そうしてると可愛いなーって思って」
鈴羽
「なっ……」
まゆり
「今の姿をダルくんに見せたら、ちょっとアブナイかもー?」
由季
「そうだね。時々、本当に兄妹なのかなぁ? って思うことあるし」
鈴羽
「き、気持ち悪いこと言うな」
由季
「あれれ? 鈴羽さん、もしかして照れてます?」
鈴羽
「照れてなんかいない」
由季
「ほんとうに?」
鈴羽
「当たり前だろ。なんであたしが」
まゆり
「と言いつつ照れてるスズさんって、やっぱり可愛いね~」
由季
「萌えだね、萌え」
鈴羽
「う、うるさいなっ」
鈴羽は何も口答えできなくなって、そっぽを向くしかない。
まゆり
「さぁてと、まゆしぃはそろそろアルバイトに行かなきゃ」
由季
「シチューは食べていかないの?」
まゆり
「アルバイトの帰りに、もう一回、ここに寄るつもりなんだ。その時に食べようかと思って」
由季
「じゃあ、サラダか何か作っておいてあげる。一緒に食べて?」
まゆり
「ありがとう、由季さん。楽しみにしてるね~」
まゆりは、鈴羽に向かって“寝てなきゃダメだよー”としつこく念押しをしつつ、『メイクイーン+ニャン⑯』へと出かけていった。
残された由季は、まゆりが作ったシチューの味を少しだけ整えてから、火を止める。
由季
「あ、そうだ、鈴羽さん? 汗かいてるでしょう。食事の前に、身体、拭いておきましょうか?」
鈴羽
「ええっ? いいって言ってるじゃないか」
由季は毎日のようにそうした世話をしたがる。
その度に鈴羽は必死に拒否していた。
由季
「シャワーは無理でも、ちゃんと綺麗にしておかなくちゃ」
鈴羽
「昨日も一昨日もやったんだから、いいって。1週間や2週間くらい放っておいても、死ぬわけじゃないし」
由季
「1週間って……!? そんなのダメです。ダメですっ」
そう繰り返しながら、由季はシャワールームへとすっ飛んでいった。
鈴羽
「あ、あのさぁ? 自分で出来るから」
由季
「そういうこと言う人に限って、いつまでもやらないんですよね」
鈴羽
「そんなこと……」
由季
「ダメです」
由季は、お湯を張った洗面器とタオルを持って戻って来た。
こうなると、由季は頑固だ。
それを、この3日間でイヤと言うほど思い知った。
鈴羽の記憶にある母親とまったく同じだ。
鈴羽は仕方なく、ノソノソと起き上がる。
そして、なるべく肌を見られないような形に身体を丸めつつ、上半身に着けている物を全て脱ぎ捨てた。
由季
「女の子同士なんだから、そんなに恥ずかしがらなくても……」
鈴羽
「構わないだろ、別に」
由季
「背中だけ、私が拭いてあげますね」
鈴羽
「いい。子供じゃないんだから出来る」
由季
「でも、ちゃんと拭けないと思うし……」
鈴羽
「いいってばっ!」
鈴羽の剣幕に由季は少し驚きの表情を見せたが、すぐに、お湯に浸して絞ったタオルを手渡してきた。
由季
「ご、ごめんなさい。触られるのがイヤな人もいますよね」
鈴羽
「……。ううん、あたしこそ悪かった。大きな声出したりして」
由季
「お湯、テーブルの上に置いておきますから――夕飯の支度、しちゃいます」
しゅんとした由季が、キッチンで料理の続きに取りかかるのを見てから、鈴羽はカーテンの奥の部屋に引っ込んだ。
鈴羽
「…………」
持ち込んだタオルと洗面器を使って、体を拭いていく。
この体を、由季に見せるわけにはいかなかった。
そこかしこに点在している古傷や生傷、そしてもう治ることがないかも知れない火傷の痕。
これらの傷は、鈴羽が激しい戦闘を生き抜いた勲章のようなもので、誰に見られようと別に構いはしなかった。
ただ、自分のこの身体を産んでくれた――いや、これから産んでくれる“母”にだけは、どうしても見られたくなかったのだ。
特に、胸のあたりで複数の引き


れとなっている無残な傷痕は嫌だった。
鈴羽
「母さん……」
今でも思い出す、あの悪夢のような日。
母を死に至らしめた無数の銃弾は、その内臓を貫通して勢いを失いつつ、懐に抱かれていた鈴羽の皮膚にまでめりこんだ。
――母の血と肉片をたっぷりと滴らせたまま。
そして、おそらく一生涯消えない傷となって肌に残った。
すなわちこれは、鈴羽にとって母の墓標にも等しいのだ。
鈴羽
「……っ」
悪夢を打ち消そうと、頭を激しく振る。
上半身に続いて下半身も裸となり、足の先まで拭き清めると、新しい下着を出して身に着けた。
その上から、洗濯済みの服を着て、ようやく人心地がつく。
戻ると、ちょうど由季が、サラダを盛ったボウルとシチュー鍋とをテーブルに並べているところだった。
鈴羽
「…………」
由季
「…………」
目と目が合ってしまい、気まずい沈黙があたりに満ちる。
由季
「あ、えと……出来ました」
先に沈黙に負けたのは、由季だった。
鈴羽
「うん、ありがとう」
由季
「どのくらい食べますか?」
鈴羽
「いや、いいよ。それくらいはあたしがやる」
鈴羽は、シチューとサラダを食べるぶんだけ皿に取り分け、ついでというわけではないが、由季のぶんも同じようにして、テーブルに置いた。
由季
「あ、すみません」
鈴羽
「いや、こっちこそ食事の用意なんてさせて、悪い……」
由季
「具合が悪い時はお互い様と言ったはずですよ。食べ終わったら、ちゃんと薬も飲んで下さいね」
鈴羽
「うん」
2人並んでソファに腰掛け、シチューとサラダを口に運ぶ。
シチューは、いかにもまゆりが作りそうな、柔らかくて優しい味がした。
由季
「ずいぶん上達したでしょう、まゆりちゃん? 缶詰めをただ温めただけとか、そういうわけじゃないんですよ?」
鈴羽
「たいしたもんだね」
由季
「あの? 鈴羽さんもやってみません? 教えますよ」
鈴羽
「あたし? あたしはいいよ。ガラじゃないし……」
由季
「そんなことないと思いますけど」
鈴羽
「ま、いつかね」
由季
「いつか――って言う人は、結局、最後までやらないんですよ?」
鈴羽
「それ、さっきも似たようなこと言ってた」
由季
「そうでしたっけ?」
鈴羽
「うん」
それきり、しばらく会話が途切れた。
鈴羽は、ズルズルといささかお行儀悪くシチューを飲み干しながら、何か話題を探す。
今度は鈴羽が沈黙に負ける番だったのだ。
今しがたの悪い追憶のせいもあって、由季と無言でいることに耐えられなかった。
鈴羽
「えっと……さっきの歌だけどさ。あれ、なんだっけ?」
由季
「歌?」
鈴羽
「シャワールームで、ほら」
由季
「え、ええっ? もしかして、歌ってました、私?」
由季
「うわぁ、恥ずかしい。下手なのに、歌うの好きだからつい口ずさんじゃうんですよねぇ」
鈴羽
「別に、上手い下手なんて気にしなくていいと思うけど……。なんの歌だったか、思い出せなくてさ」
由季
「あはは……実は私もなんですよ」
鈴羽
「ええ?」
由季
「印象的な所だけ覚えてるというか……。子供の頃に流行った、教育番組の歌か何かだとは思うんですけど……」
由季
「えへへ、役にたてなくてスミマセン」
由季
「鈴羽さんはいつ頃、あの歌を?」
鈴羽
「あたしも、子供の時かな。その……母さんがよく歌ってくれたよ」
由季
「優しそうな人ですもんね、鈴羽さんのお母さん」
鈴羽
「うん」
自然に言われたので、そのまま自然に返してしまった。
鈴羽
「……え?」
一瞬の間を置いて、言われたことの意味を理解し、まじまじと自分の“母”を見つめた。
由季
「……? どうしました?」
鈴羽
「あ、あたしの母さん……? どういう、こと?」
由季
「どういうことって……おととい、お見かけしまして……」
鈴羽
「は!?」
由季
「ですから、おととい、ここを訪ねていらしたんです」
鈴羽
「そっ、そんなバカな……」
由季
「……? お母さんが来たらおかしいんですか?」
鈴羽
「だって――」
だって、母さんは目の前にいるあなたじゃないか――とは、口が裂けても言えない。
鈴羽は混乱したまま、口をつぐむしかなかった。
由季は由季で、鈴羽が困惑しているのを見ていったいどんな解釈をしたのか、いきなりハッとしてオロオロし始めた。
由季
「ごっ、ごめんなさいっ」
鈴羽
「あ?」
由季
「わ、私、何も知らなくて。……もしかして、お母さんとの間に何か?」
鈴羽
「い、いや」
由季
「ケンカをして、家出してるとか?」
鈴羽
「そういうわけじゃ……」
由季
「今にして思えば、なんか変ですよね……お母さんったら、橋田さんには着替えや差し入れを持ってきていたのに、鈴羽さんには何も……」
鈴羽
「父――兄さんに着替え? 差し入れ?」
由季
「はい」
鈴羽
「…………」
鈴羽は思考をフル回転させ、そこでようやく、ひとつの答えに行き着いた。
鈴羽
「ああっ、そうかっ」
由季が言っているのは、橋田至の母親のことなのだ。
つまり鈴羽にとっては、写真でしか見たことのない『祖母』ということになる。
けれど、今の至と鈴羽は“兄妹”という触れ込みになっているわけだから、由季が思い違いをするのも当然の成り行きであった。
由季
「ど、どうしました?」
鈴羽
「ううん、なんでもない」
至が一言、事前に報告しておいてくれれば、こんな勘違いは起きなかった。あまりに
迂闊
うかつ
すぎる。あとで思い切りどやしつけてやろう。
鈴羽が内心で父にムカムカしている間にも、由季は勝手に想像した鈴羽の境遇に、すっかり感情移入してしまったらしい。
由季
「鈴羽さん、私、いつでも相談に乗りますからね! 何でも話して下さいねっ!」
そう言いながら、なぜか目をうるうるさせていたりする。
鈴羽
「あー、えと……ありがとう……」
鈴羽は困り果ててしまったが、それでいて少しこそばゆいような心持ちにもなった。
鈴羽
(……やっぱり優しいんだな、母さんは……)
至に吐露した通り、ここは居心地が良すぎて、なんだかこの生活がずっと続いていくような錯覚に引きずられていく。
幸せなこの“ほんの少しの時間”を世界線の彼方へ葬ってしまうことこそが、鈴羽の大切な任務であるはずなのに。
鈴羽がそうしなければ、この世界は破滅へ向かうだけなのに。
メイド
「お帰りニャさいませ、ご主人様♪」
メイドカフェ『メイクイーン+ニャン⑯』の店内へ入っていくと、働いていたネコミミメイドさんたちが元気な声で俺を迎えた。
平日の夕方という時間帯とあって、いつも賑わっている人気店にしては、空席が目立つ。
フェイリス
「お帰りニャさいませ♪ 凶真――じゃなくてオカリン♪」
倫太郎
「ああ。えっと、今日は、まゆりは?」
フェイリス
「マユシィなら、もうすぐ来るニャ。あと30分くらい」
倫太郎
「そっか」
まゆりは以前からこの店でバイトをしている。
メイドとしての名前はマユシィ・ニャンニャンという。
ちなみに、メイドのときには金色の長髪ウィッグとネコミミを身に付けるので、普段のぼんやりした印象とはずいぶん違う。
倫太郎
「ダルに呼ばれたんだ。もう来てるかな?」
フェイリス
「うん、いつもの席に」
店内の一隅、奥まった位置にある窓際の席を見ると、逆光の中に大きなシルエットがでんと座っていた。
倫太郎
「あと、今日は知り合いが一緒なんだ。メイドカフェ初心者なんで、俺とダルの話が終わるまで、ちょっと相手してもらってもいいか?」
フェイリス
「ニャニャ? お知り合い? どちら様かニャ?」
倫太郎
「おおい、比屋定さん。こっち」
なんとなく店内に入れず、店先でオドオドしている真帆に向かって、俺は声をかけた。
フェイリス
「ウニャッ!? オカリンが、可愛い女の子を連れてるニャ!?」
倫太郎
「いや、そんなに驚かなくてもいいだろ?」
フェイリス
「しかも背の高さから見て、小学生か中学生!?」
倫太郎
「違う!」
フェイリス
「信じられない。フェイリスというものがありながら、新しい恋人を! 新しいロリ恋人を作るニャンて!」
倫太郎
「違うって! 彼女はアメリカの大学から研究のために――」
フェイリス
「これはもう、円卓会議で糾弾するしかないニャ!」
倫太郎
「人の話を聞いてくれ……」
真帆
「あの? いったいなんの話をしているのかしら……?」
店内にようやく足を踏み入れてきた真帆が、うさん臭そうな目で俺とフェイリスを見た。
真帆とは、先日の事故――いまや事件扱いになっているが――の件で今日、また警察へ行ってきたのだ。
それが終わった後、お互い昼食を食べていないことに気付いて、ここに連れてきたのだった。
フェイリスはスッと背筋を伸ばすと、真帆の前に立ち、うやうやしくお辞儀をして、それから猫っぽいポーズで笑った。
フェイリス
「お帰りニャさいませ、お嬢様♪」
真帆
「……?」
フェイリス
「当店では、『いらっしゃいませ』じゃなくて『お帰りニャさいませ』と言うのニャ」
真帆
「ああ、そういうことなのね」
フェイリス
「フェイリス・ニャンニャンだニャン。お嬢様、お名前は?」
真帆
「比屋定真帆よ」
フェイリス
「ひやじょう……というと、沖縄のお嬢様かニャ?」
真帆
「あら? よく知ってるのね」
真帆
「いつも聞き返されるか、間違えられるかのどっちかなのに。しかも沖縄の名前ということまで」
フェイリス
「当然だニャ」
フェイリス
「フェイリスは三世代前の前世で、
琉球王国

の彼方にある理想郷
パイパティローマ

を守護する精霊だったんだニャ」
真帆
「……はい?」
フェイリス
「そう……あの頃、フェイリスたち精霊の声は
ノロ

を通じて人々に届き、王国を正しい姿へと導いていたのニャ」
フェイリス
「ところが、荒ぶる海神たちがパイパティローマに攻め込んで来て、ついにフェイリスたちは……ううう……」
真帆
「あ、あの、ごめんなさい? この人は何を言っているの?」
倫太郎
「あー、なんというか……アキバで通じる特別な言語のようなものだな」
真帆
「そう、なの?」
倫太郎
「ああ。あまり考えると頭がパンクするぞ」
真帆
「すでにパンクしそうなんだけれど……」
倫太郎
「とにかく、しばらく待っててくれ。向こうに座ってる友達と話があるんだ」
真帆
「……?」
俺が、窓辺に座るダルのことを指し示すと、それを見た真帆が一瞬、眉をひそめた。
倫太郎
「どうかした?」
真帆
「……ずいぶん大きな人ね」
倫太郎
「あとで紹介するよ。少しは痩せるように言ってやって欲しいな」
フェイリス
「――それじゃあ、まほニャン? お席へ案内するニャ♪」
別のメイドがテーブルの上を綺麗に拭いたことを確認してから、フェイリスが言った。
真帆
「ま、まほニャン?」
フェイリス
「可愛いニャ?」
真帆
「出来れば、普通に呼んでもらえないかしら……」
フェイリス
「これが普通だニャン。さぁ、こちらへどうぞ、まほニャン♪」
真帆
「…………」
真帆はいささか閉口した様子で、ダルが座っている場所から少し離れた席へと案内されていった。
俺もダルが待つ席へ向かう。
ダルの対面に座りつつ、近くのメイドさんにコーヒーを注文した。

「見損なったぞオカリン。リア充爆発しろ」
倫太郎
「フェイリスと同じようなこと言うなって。違うんだよ」

「何が違うんだ。あんな合法ロリっ娘を」

「しかも、すごく可愛いのになんだか垢抜けなくて残念な感じがたまらないお。オカリンのくせに生意気だ。ぬふぅ~っ」
倫太郎
「そういうこと本人に言うなよ。怒ると怖いぞ」
それとなく真帆の方を見ると、フェイリスの厨二系トークに顔を引きつらせつつ、メニューとにらめっこをしているところだった。
倫太郎
「前に電話で話しただろ。襲われたときに一緒だった、レスキネン教授の助手の――」

「そんなことはどうでもいいっつーの。問題は、オカリンが僕を差し置いて可愛いおにゃのこを連れ歩いているっつーことなのだぜ」
倫太郎
「お前もすればいいだろ、デートとか」

「イヤミ、だと? さらに出来るようになったなオカリン」
倫太郎
「イヤミじゃない。由季さんを誘ったらどうなんだ?」

「ぐぬぬ……」
倫太郎
「ま……まさか、まだ全然アプローチしてないのか?」

「いいんだ。僕は
魔法使い
①①①①

になるんだから」
倫太郎
「おいおい。それじゃまずいだろ。鈴羽が生まれて来なくなる」

「うう……それを言われると……」
倫太郎
「由季さんのこと、嫌いじゃないんだろ?」

「そりゃあ綺麗な人だし、太ももとかうなじとかハァハァするけど……」
倫太郎
「やめないかヘンタイ」

「ヘンタイじゃないよ。ヘンタイ紳士だよ」
倫太郎
「どっちでもいい。俺は、恋愛的な意味で言ってるんだ」

「う~ん?」
ダルは猫背になり、テーブルの上に置かれているアイスティーを、ストローでちゅうっとすすった。

「そういうの、よく分かんないんだよね」
倫太郎
「って、子供かっ」

「今日のお前が言うなスレはここですか?」
倫太郎
「…………」
俺たちは顔を見合わせた。
確かに俺だって、恋愛に関しては他人のことなど言えた義理じゃない。

「まぁ、いいや。そういう話をしたくて呼んだわけじゃないし」
倫太郎
「確かに。本題に入ってくれ」

「うん。実はさ、話は2つあって――」
ここでダルは言葉を切り、あたりをそっと見回した。
店内に客はまだまばらで、しかもフェイリスの計らいで近くの席には誰もいない。大きな声を出さない限り、盗み聞きされる恐れはない。
……と、ついつい厨二病患者だった頃のクセが出てしまった。
この前、あんなハリウッド映画みたいな非日常的な出来事に巻き込まれたせいだろうか。

「まずひとつ目な。まゆ氏には内緒にして欲しいんだけど……人を捜してるんだよ」
倫太郎
「まゆりに内緒?」

「うん」
倫太郎
「なんで?」

「あー、ちょっとね」
倫太郎
「……?」
奥歯に物が挟まったような口ぶりだった。

「オカリンってさ、まゆ氏の幼なじみだろ? まゆ氏の友達か知り合いで、『かがり』って名前の子、知らない?」
倫太郎
「かがり?」
倫太郎
「……?」
もちろん、まゆりの交友関係をすべて知っているわけではないけれど……。
全く聞き覚えのない名だ。
倫太郎
「いや、俺の知ってる限りは……」

「じゃあ、名前は置いといて、まゆ氏と特別に仲のよかった女友達とかは?」
倫太郎
「ええと、そうだな――」
確か、小学校から中学にかけてよく一緒に遊んでいたグループの子たちがいたはずだ。その名前をダルに伝える。
高校以来に関しては、改めて言うまでもない。
特に仲良くしているのは、コスプレサークルのフブキやカエデ、それに、フェイリスを始めとするメイクイーン+ニャン⑯の女の子たち。
あとは、女子ではないが、るかも親しい友人と言っていいだろう。
倫太郎
「――俺が答えられるのはこの程度だ。お前が知ってることとたいして変わらない。済まないな」

「いや、それでも充分だお。助かった」
ダルはスマホを取り出して、俺が挙げた子たちの名前をメモしていた。
倫太郎
「なんでまゆり本人に聞かないんだ?」

「うーん……。まあ、いろいろあって」
倫太郎
「というか、誰なんだ『かがり』って? どうしてダルがその人を?」

「…………」
ダルは、無意識のうちにテーブルをコツコツと叩いていた。
どう順序立てて説明したらいいのか、思案しているらしい。

「実は僕じゃなくて……鈴羽が捜してるんだよね」
倫太郎
「鈴羽が?」
倫太郎
「なんで彼女が、まゆりの知り合いなんか――」
いや、待て。鈴羽が絡んでいるということは……。
倫太郎
「それはつまり、まゆりの未来に関係あるってことか。だから、まゆりには言えない?」

「……まぁね」

「その子の名前さ、『椎名かがり』って言うんだと」
倫太郎
「椎名……?」

「うん」
倫太郎
「まゆりの親戚か何かか?」

「そうじゃない……いや、そうじゃないこともない」

「まゆ氏の“娘”なんだってさ」
倫太郎
「ああ」
あまりにもサラッと言われたので、そのまま聞き流そうとしてしまった。
なるほど、むすめ、ね。
むすめか……。むすめってどんな字だ?
むすめ……ムスメ……娘。
……まゆりの、『娘』。
倫太郎
「まゆりのむす――!?」

「しーっ、声がでかいっつーの」
倫太郎
「っ……」
口からあふれ出そうになっていた声を必死に飲み込んだ。
倫太郎
「ほ、本当なのか、それ?」

「うん。ただ、実の子供じゃないらしい。戦災孤児だったのを養子にしたとかなんとか」
戦災孤児……。
いったいどんないきさつがあって、そういう次第になったのか――未来のことは知るよしもない。
けれどもそれは、とてもまゆりらしい気がした。
最悪の世界線と目されるこの時間の先で、少なくともまゆりは、“子を持つ”という女性の喜びのひとつを手にしていた。
俺がこう感じるのもおこがましいかもしれないが、なんだか……救われた気分だった。
それと同時に、ちゃんと子育て出来ていたのかどうかと、心配になったりもする。
倫太郎
「でも……変じゃないか。なんでこの時代に、まゆりの娘が?」

「鈴羽と一緒に、2036年から脱出してきたみたいなんだよ」
倫太郎
「なんだって?」

「ところがさ、ミッションのために1998年のアキバへ立ち寄って――そこで、はぐれちゃったって」

「鈴羽は必死になって捜したんだけど、見つからなかったらしい……」
倫太郎
「それで、1998年に置いてきたのか?」

「捜してる最中、タイムマシンが見つかりそうになったみたいで。かがりを残したままジャンプせざるを得なかったって言ってた」

「その後は、数ヶ月単位の小さな移動を繰り返して、いろいろ手を尽くしたんだけど」

「2000年まで進んだところで、燃料がギリギリになっちゃって」
倫太郎
「で、本来のミッションを果たすために、一気に2010年まで跳んだ、っていうことか」
俺が言葉を引き継ぐと、ダルはうなずいた。

「けど、鈴羽は“今”に来てからも、まだあきらめずにずっと捜し続けてるんだよね」

「つーことで、それとなくまゆ氏に聞いといてくれるかな?」
倫太郎
「俺が……?」

「十年ちょい前に、自分と同じくらいの歳の子が会いに来なかったか、とか」
倫太郎
「あ……ああ、分かった。聞いてみるよ」
見つけられるなら、見つけてやりたい。
養女とはいえ、未来のまゆりの大切な娘だ。
しかも、鈴羽にはちょっとした後ろめたさもあるし、できれば手伝ってやりたかった。
ちょうどそこで、メイドさんがコーヒーを持ってきてくれた。
それを飲むついでに、真帆が座っている席を見ると、フェイリスがほぼ付きっきりで相手をしていた。
フェイリス
「それじゃあこれから、パンケーキをさらに美味しくする魔法をかけるニャン♪」
真帆
「ま、魔法?」
フェイリス
「さぁ、まほニャンもご一緒にっ♪ “世界がヤバイニャ、陰謀ニャ~♪”」
真帆
「……。普通に食べさせてもらえないかしら?」
フェイリス
「ここではこれが普通ニャ♪」
フェイリス
「ではどうぞ、召し上がれニャ~ン♪」
真帆
「……いただきます」
フェイリス
「ああっ、まほニャンっ。垂れるニャ! ハチミツが、垂れちゃうニャっ」
真帆
「えっ? あら?」
フェイリス
「んもう、赤ちゃんみたいだニャ~」
真帆
「あ、赤ちゃん……?」
どうやら楽しくやってるようだ。
俺はダルに向き直った。
倫太郎
「ひとつ目の話は分かった。で、2つ目ってのは?」

「……うん。これ、オカリンに聞いていいもんか迷ったんだけど……」
倫太郎
「なんだ、水くさいな」

「…………」

「やっぱ、やめた方がいいかな……」
独り言をブツブツと言うだけで、なかなか話を切り出そうとしない。
こんなに逡巡するなんて、ダルにしては珍しかった。
倫太郎
「言ってみろよ。答えたくないと思ったら、拒否するから」

「う、ん……。じゃあ……」
ダルはそこで、おもむろにスマホを手に取った。
倫太郎
「……?」
お? RINEか?
もしかしてダルが送ったのか?
目の前にいるのに?
俺がダルの顔をじっと見ていると、しびれを切らしたのか、ダルは視線だけで俺にRINEを見るよう促してきた。
なんでわざわざRINEを見ろと?
まるで桐生萌郁みたいだな。
倫太郎
「秘密のバイトというと――」

「しーっ」
ダルは俺の言葉を制すると、スマホを指差した。RINEでやり取りしろ、ということらしい。
さっきの話以上に、聞かれたくないことなのか?

「…………」

「ごめん。やっぱやめとく」
ダルは直接そう言うと、スマホをしまおうとした。
倫太郎
「待て待て。ここでやめられたら、気になって夜も眠れなくなるだろ」

「……でも」
倫太郎
「……あんまり気を遣うなよ。その方が、かえって辛くなる」

「分かったお」
一言つぶやいてから、またRINEでメッセージを送ってきた。
倫太郎
「な、に?」
紅莉栖の……遺品っていうことか?
ダルに直接問い詰めたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。
倫太郎
「ふむ……」
大切な人の墓を暴かれているような気分だが。
そもそも、紅莉栖のプライベートに関するワードってなにが思い浮かぶだろうか?
栗悟飯とカメハメ波?
マイフォーク?
それともまさか、父親に関することか?
倫太郎
「……っ」
……紅莉栖について思い出そうとすると、どうしても、最期のあの瞬間まで自動的に連想してしまう。
俺は慌てて思考を中断した。
倫太郎
「……悪い、少し時間をくれないか? すぐには考えがまとまらない」

「うん、了解。なにか思い出したらでいいから」

「それに強制じゃないし。思い出したけど教えたくないなら、それでいい」
倫太郎
「……ああ」
俺はため息をついて、冷めたコーヒーを飲み干した。
アマデウス紅莉栖
「あんたね……。早すぎ……」
アマデウス紅莉栖
「いいから、真帆先輩の相手してて。ほら、早く」
アマデウス紅莉栖
「何がしたいんだ、おのれは」
アマデウス紅莉栖
「今日に関しては、もうあんたとは話さない。わかった?」
……“紅莉栖”と話すのは、今はやめておこう。
まゆり
「オカリン、今日、ラボでクリスマスパーティーやるって言っておいたよね。ちゃんと覚えてる?」
心なしか、電話の向こうのまゆりの声が、弾んでいる気がする。
倫太郎
「ああ。もちろん」
それはそうだろう。
まゆり自身、この日のためにかなり前から準備してきたんだ。
相当楽しみにしていたはずだ。
まゆり
「どうかなぁ? 来られそう?」
倫太郎
「行くよ。6時からだろ?」
まゆり
「うん♪」
まゆり
「今、大学?」
倫太郎
「いや。和光市。知り合いの教授の、研究室みたいなところにお邪魔してる」
まゆり
「ふぇぇ、和光市……」
こいつ、絶対に和光市がどこか分かってないな。
まゆり
「間に合う?」
倫太郎
「大丈夫だ」
まゆり
「よかった。待ってるね~」
と、受話器の向こうで急にまゆりの声が遠のいたかと思うと、別の女の子たちの声が聞こえてきた。
フブキ
「オカリンさ~ん、女子全員でサンタコスして待ってま~す」
フェイリス
「待ってるニャ~」

「ま、待って……ます!」
フブキ
「ほら、るかくんも」
るか
「ええ!? ボクは女子じゃ……」
カエデ
「るかくんも、コスプレしてるんですよ……♪」
るか
「す、すみません! 脱ぎます! 今すぐ脱ぎます……!」
由季
「あらもったいない。すごく似合ってるのに」
倫太郎
「も、盛り上がってるな……」
まゆり
「えっへへ~。今、絶賛準備中なのです」
フブキ
「マユシィなんか、超ミニスカのサンタさんで、めちゃくちゃキュートなんですよ」
フブキ
「ちなみに、パンツの色はピンクでしたぜ」
まゆり
「ふわぁっ! フブキちゃんなに言ってるの~!」
お、おう……。
まゆり
「え、ええと、ごめんね、変な話して。とにかく、待ってるからね」
倫太郎
「ああ……」
まゆり
「それじゃ、また後でね」
パーティー会場であるラボは、すでにお祭り状態のようだ。
女子があれだけ集まれば、話に華も咲くだろう。
ルカ子……、唯一の男として、頑張れ……。
苦笑しつつ、スマホをしまった。
真帆
「ずいぶん賑やかだったわね」
声をかけてきたのは真帆だ。
というか、そもそもここには俺と真帆の2人しかいない。
倫太郎
「今日、友達とクリスマスパーティーをやる予定なんだ」
真帆
「ああ、そう言えば、もうそんな時期なのね」
倫太郎
「君は、そういうのには無頓着そうだな」
真帆
「こっちに来てからは特にね。普段はいつもここにいるし。最近会う人といえば
警察
①①




ばかり
①①①
だし」
真帆の皮肉に苦笑で答えつつ、俺は部屋を見回した。
ガランとして、静まり返っている。
電話越しに聞いたラボでの
喧噪
けんそう
とは対照的だ。
はじめて来たときとまったく変わっていない。つまり、ここで働いているのは相変わらず真帆とレスキネン教授だけということだ。
しかも教授は、来日したのを機にいろんな研究者たちと会っていて、不在がちらしい。
つまり、今の真帆はほぼほぼ引きこもりと変わらないような生活を送っているわけか。
それも、まぁ、研究者なら普通なんだろうが……。
倫太郎
「よかったら、比屋定さんも参加するか?」
あんな事件があったばかりだ。
気晴らしは必要のはずだ。
真帆
「私?」
真帆
「気を遣わなくていいわ。こうして一人で研究できる方が、気が楽なの。人間関係に

わずら
わされずに済むから」
倫太郎
「そんなものか」
紅莉栖も、似たようなことを言っていたな。
……紅莉栖、か。
真帆
「それより、本題に入りましょう」
そうだ、今日、俺がわざわざ真帆を訪ねたのは、世間話をするためじゃない。
真帆
「“紅莉栖”に謝りたいと、さっき言ったわよね?」
倫太郎
「……ああ」
真帆
「そのために、私のところに来た、と」
倫太郎
「そうだ」
真帆
「ふーむ」
真帆
「なぜ?」
倫太郎
「ひとりじゃ、話しづらいんだ」
真帆
「それで私に仲裁をしてほしい、と?」
倫太郎
「そういうことになる……」
真帆
「……変な人ね、あなた」
真帆のリアクションは俺にとっては意外だった。
そこまで変だろうか?
倫太郎
「最後に話したときに、俺が動揺しすぎたのが悪いんだが、かなり強引に話を打ち切ってしまったんだ」
倫太郎
「紅莉栖の性格を考えると、確実に怒る。怒ってる」
倫太郎
「中途半端に繋がっている分、見えないプレッシャーで四六時中ビクビクしている身にもなってくれ」
レスキネン教授なりに配慮してくれた結果なのだが、いっそ完全にアクセス権を取り上げられた方が、俺としては気が楽だった。
真帆
「そんなにビクつかなくても……。“紅莉栖”からは連絡しないようになっているわ。そう言ったでしょう?」
倫太郎
「そうなんだが……」
倫太郎
「ケンカ別れみたいなことにも、なりたくないんだ……」
α世界線でのようなことは、もう二度とゴメンだった。
結局俺はあの世界線で、紅莉栖が最後になにを伝えようとしたのか、確かめられなかったから……。
真帆
「プッ……」
真帆
「まあいいわ。仲裁でもなんでもするから、用件を済ませてしまいなさいよ」
倫太郎
「……助かるよ」
真帆
「せっかくのクリスマスイヴなんだから、少しは気の利いたことを言ってあげたらどう?」
倫太郎
「ああ、そうだな」
と言っても、なにが気の利いたことなのか、思いつかないが。
真帆
「どうしたの? 早くアクセスして」
真帆
「アプリのアイコンをタップするだけで、いつでも繋がるわ」
真帆
「アクセス権はちゃんと残してあるわよ。教授が前にそう説明したでしょう?」
倫太郎
「…………」
真帆
「……めんどくさい人なのね」
真帆
「スマホとにらめっこしていても、始まらないでしょう」
倫太郎
「わ、分かってる。そう急かさないでくれ」
アマデウス紅莉栖
「……!?」
アマデウス紅莉栖
「ちょっ、おまっ、まさかまた連絡してくるなんて、はあ!? な、なによ、なんなの!?」
あ、こいつ今、完全に油断していたな。
倫太郎
「やあ……」
アマデウス紅莉栖
「……んん」
アマデウス紅莉栖
「どうも。岡部倫太郎さん」
アマデウス紅莉栖
「私になにか用でも?」
アマデウス紅莉栖
「もう話したくないんじゃなかった?」
倫太郎
「……いや、その」
真帆に目だけで助けを求める。
真帆
「“紅莉栖”。彼から話があるから、少しだけ聞いてあげて」
アマデウス紅莉栖
「別に聞かないとは言ってませんよ? 岡部さんは、私とはもう会話を交わしたくないはずでは? と、事実確認をしただけです」
うわあ……。やっぱりヘソを曲げている……。
真帆
「ほら、早くしなさいよ」
倫太郎
「あ、ああ……」
俺は一度、深呼吸すると、スマホをしっかり正面に掲げて――
倫太郎
「悪かった」
頭を下げた。
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「俺なんかに付き合ってくれていたのに、お前のその親切を、裏切るような形になってしまった」
倫太郎
「それにこの前、最後に話したとき、急に会話を打ち切ってしまったのも、失礼だったと思ってる」
倫太郎
「昔あった個人的なことを思い出して、混乱してしまったんだ。でもそれは、お前には関係ないことだよな」
倫太郎
「……テスターを辞めさせてもらう前に、せめて一言だけ、謝りたかった」
倫太郎
「……い、以上だ」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「プッ」
さっきの真帆と同じように、“紅莉栖”も噴き出した。
アマデウス紅莉栖
「それ、本気で言ってるの?」
倫太郎
「な、なんだよ、こっちが真面目に謝っているのに、笑うなんて……」
アマデウス紅莉栖
「だって、私は人工知能よ? なのに、そんな神妙な顔をして、本気で謝ってくれるなんて」
アマデウス紅莉栖
「この前、私と話すのが照れくさいとも言っていたわね」
アマデウス紅莉栖
「変わった人」
倫太郎
「…………」
人工知能に本気で謝るのって、変なこと……なんだろうか。
変なことなんだろうな……。
アマデウス紅莉栖
「いいわ、正直ちょっと失望していたところだったんだけど、考えを改める」
アマデウス紅莉栖
「こっちから出す交換条件を飲んでくれたら、水に流す」
倫太郎
「交換条件だって?」
いったいなにをやらされるんだろうか。
イヤな予感しかしないわけだが……。
倫太郎
「分かった。その条件とやら、聞こう……」
アマデウス紅莉栖
「今日、これから真帆先輩をディナーに誘いなさい」
倫太郎
「……。は?」
真帆
「はあっ?」
俺と同時に、真帆までが目を丸くした。
真帆
「ちょっと、“紅莉栖”!? なにを言い出すかと思えば!」
アマデウス紅莉栖
「今日はなんの日か、ご存じないんですか、先輩」
真帆
「……クリスマスイヴ」
アマデウス紅莉栖
「そういうことです」
真帆
「どういうことよ!?」
アマデウス紅莉栖
「さあ岡部さん。条件を飲むの? 飲まないの?」
こいつ、なんでこんなに目をキラキラさせてるんだ……。
倫太郎
「……分かったよ」
倫太郎
「比屋定さん。さっき話したパーティー、正式に君を招待する。ぜひ来てほしい」
アマデウス紅莉栖
「パーティー?」
倫太郎
「友達と集まって、クリスマスパーティーをやるんだよ」
アマデウス紅莉栖
「そうじゃないでしょうが……」
アマデウス紅莉栖
「……いや、でもいきなり二人きりだとハードル高いし、逆にいいか」
真帆
「“紅莉栖”、それ以上からかうと怒るわよ」
真帆
「私は、パーティーなんて行かないわ」
アマデウス紅莉栖
「だったら、私も岡部さんを許しませんが?」
倫太郎
「比屋定さん……頼む」
真帆
「どうしてこんな話になっているのよ……」
アマデウス紅莉栖
「先輩のために、気を利かせてあげてるんじゃないですか」
真帆
「あなたね……」
真帆
「そもそも、今日はこのあと教授が帰ってくるのを待って、研究の報告をしないといけないし――」
レスキネン
「やあ、リンターロ! マホ! なんの話かな?」
絶妙のタイミングで、レスキネン教授が帰ってきた。
真帆はホッとしたような顔になり、自分の机の上のファイルを開こうとした。
真帆
「おかえりなさい、教授。これが今日、集計したデータなんですが――」
レスキネン
「マホ、ストップ。2人ともこれから出かけないかい? せっかくのクリスマスイヴだ。仕事はもう終わりにして、食事でも行こう」
レスキネン
「それとも、先約があるのかな?」
真帆
「…………」
アマデウス紅莉栖
「教授、ナイス」
レスキネン
「……?」
倫太郎
「ええと、教授? 俺の友達がクリスマスパーティーを開くんですが、よかったらご一緒に――」
レスキネン
「素晴らしい! ぜひ参加させてもらおう!」
即答だった。
レスキネン
「もちろん、マホも行くんだろう?」
真帆
「…………」
真帆の退路が完全に断たれた瞬間だった。
アマデウス紅莉栖
「決まりですねっ」
真帆
「まったく……」
“紅莉栖”が、画面の中から俺に向けていたずらげな笑みを向けてくれた。
大した策士だ。こういうお茶目な一面が紅莉栖にもあったんだな。
アマデウス紅莉栖
「ねえ、岡部?」
倫太郎
「……!」
急にその呼び方をされて。
ハッとしてしまった。
アマデウス紅莉栖
「私なんかに、本気で謝ってくれてサンクス」
アマデウス紅莉栖
「嬉しかった」
倫太郎
「あ、いや……」
アマデウス紅莉栖
「気が向いたら、またいつでも話しかけてきて。暇つぶしぐらいには、付き合うから」
倫太郎
「……気が向いたら、な」
アマデウス紅莉栖
「ええ。それじゃ、また」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩をよろしく」
真帆
「“紅莉栖”!」
アマデウス紅莉栖
「フフフ」
真帆
「……満足したかしら?」
倫太郎
「……ああ」
思った以上に、ホッとしている自分がいる。
やっぱり俺は……心底、牧瀬紅莉栖という人のことを、好きだったんだなと……痛感させられた。
倫太郎
「でも、人工知能に謝るのはそんなに変か?」
倫太郎
「俺の友達――この前、メイクイーンで紹介したあいつなんか、いつも二次元の女の子に土下座してるぞ!?」
真帆
「そ、そういう精神性は、私にはちょっと……」
まずい、ドン引きされた。たとえが悪かった。
倫太郎
「ええと、とにかく比屋定さんのおかげで、助かった」
真帆
「“紅莉栖”の交換条件なんか、律儀に守る必要はないわよ」
倫太郎
「まあでも、教授も行く気満々みたいだし」
俺の言葉に、教授はにこやかに白い歯を見せた。
倫太郎
「それに、“紅莉栖”と、約束したからさ」
真帆
「…………」
真帆
「あなた、本当に変わっているわ」
そう言いつつも、真帆は呆れたように笑ってくれたから。
パーティーに付き合う気には、なってくれたようだった。
かがり
「……ダメなんだよ、鈴羽おねーちゃん。そんなことしちゃ、いけないんだ」
かがり
「世界を変えちゃいけないんだ! おねーちゃんはおかしいコト言ってる!」
かがり
「この世界を消すなんてダメだよっ! 絶対にやらせないからっ!」
鈴羽
「…………」
タイムマシンの内部に刻まれた、銃創。
それを指でなぞって、鈴羽はかつてこのマシンに起きたことを思い出していた。
あのときが、かがりと話した最後だった。
それっきり、鈴羽はかがりを見つけられずにいる。

「鈴羽? どしたん、ボーッとして? もしかしてまだ体調悪い?」
鈴羽
「え?」
鈴羽が我に返ると、父である至が心配そうに顔をのぞき込んできていた。
手に持ったボルトを差し出してきている。
鈴羽
「ああ、ごめん。大丈夫」
鈴羽はうなずいて、ボルトを受け取る。

「…………」
寒風吹きすさぶラジオ会館の屋上だった。
ライトに照らされながら、タイムマシンの背面、動力部分に頭を突っ込んでメンテナンスをしている鈴羽のまわりを、さっきから至がウロチョロしている。
普段、タイムマシンには至を絶対に近づけさせない鈴羽だが、今日は至がどうしても一緒に付いて来るというので、押し切られてしまった。

「病み上がりの娘を心配しない親はいないっつーの!」
そう言われたら、自分の体調管理の甘さで数日寝込んでしまった鈴羽は、なにも言い返せなかった。

「なぁ? 時空間の転移とか重力制御とか、ヤバそうな装置は絶対にいじらないからさ、僕にも手伝わせてくんない?」
鈴羽
「駄目」

「機械のメンテなら、たぶん鈴羽より僕の方が詳しいのだぜ?」
鈴羽
「それは分かってる。けど駄目」

「うう……」
至が背中を丸めてしょんぼりしてしまっているが、鈴羽は相手にするつもりはなかった。

「なぁ、鈴羽ー? 今日はもう暗いしさ、寒いしさ、続きは明日にするべきだって。そろそろ帰ろう?」
鈴羽
「父さん一人で帰ればいい。あたしはまだやることがあるから」

「今日も、かがりたんを捜すん? オカリンにも協力してもらえることになったんだからさ、鈴羽一人でそこまで無理しなくてもいいんじゃね?」

「風邪治ったばっかりなんだし。しばらくはかがりたん捜しはやめにすべき」
鈴羽はその言葉に、逆にムスッとした。
鈴羽
「それ、あたしに無断でオカリンおじさんに話してほしくはなかった」

「う……」
鈴羽はかがりのことを毎日のように捜して歩いていることを至に打ち明けたが、その至が倫太郎に相談したことは後になって知らされたのだった。
それが駄目だというわけではないのだが、倫太郎とは微妙な関係なだけに、これでまたタイムマシンに乗ってくれと頼みづらくなってしまったのも事実だ。

「つーか、さっきからずいぶん苦戦してね?」
鈴羽
「締めにくい角度にボルトがあるんだ」

「どれ? 僕が代わるお。それくらいならいいっしょ?」
鈴羽
「……うん」
鈴羽は、おとなしく動力ユニットの中から頭を出す。

「顔中、油だらけじゃん。せっかくの美人が台無しだ」
鈴羽
「そういうことは、母さんに言ってあげなよ」

「それは、ハードル高すぎ……」
至は機械と機械の間に顔を入れ、中を調べ始めた。

「あー。この構造だと、たぶんこっちのパイプをあとからはめたんだな」

「先にパイプを外すといいお。パイプの中に、冷却用の液体かなんかが通ってるはずだから、まずこっちのバルブを使って中を空にするわけ」
鈴羽
「このマシンって、メンテナンスのこと、あんまり考慮に入れてないと思う」

「全くだお。すげー
マンドクセー


鈴羽
「作ったの、誰だと思ってるわけ?」

「……僕」
至はため息をつくと、作業に集中し始めた。
大きな体を揺すりながら、黙々と作業をこなしていく。
そんな姿を見ていると、鈴羽は子供の頃を思い出す。
父がタイムマシンを作っているのを眺めているのが、幼い鈴羽は大好きだった。
鈴羽
「……父さん?」

「ああ?」
鈴羽
「あたし……、最近、なんだか、自分でも自分が理解できなくなってきてさ……」
鈴羽
「その……こんなこと考えるなんて、おかしいんだけど……」
鈴羽
「この世界をなくしてしまって、本当にいいのかなって」
鈴羽の脳裏に、幼いかがりの、悲鳴にも似た絶叫がまたよみがえってくる。
――この世界を消すなんてダメ、か。
あの時の少女の目が、どこかからじっと睨んでいるような、そんな感覚が、鈴羽にはずっと付きまとっている。
鈴羽
「あたしのミッションが成功するとさ、牧瀬紅莉栖は死なずに、シュタインズゲートへの門が開くんだ」

「うん」
鈴羽
「そしたら、今のこの世界……父さんも母さんも……まゆねえさんもルミねえさんも、オカリンおじさんも……みんなみんな、なかった事になってしまう」

「うん」
鈴羽
「今のあたしが、今の父さんに会ったことも……なくなってしまう……」

「ん? これって告白シーン? セーブしとくべきとこ?」
鈴羽
「…………」
鈴羽は黙って、父親のふくらはぎをつま先でつついた。
鈴羽
「真面目な話をしてるんだ。今度ふざけたら、蹴るよ?」

「……迷ってるのか?」
鈴羽
「…………」

「ま……その、なんだ。別にいいんじゃね?」
鈴羽
「……え?」

「“今”が、消えてもいいんじゃね?」

「だって、この先、人がおおぜい死ぬんだろ? そんなのイヤじゃん」
鈴羽
「父さん……」

「鈴羽は色々と考えすぎだお。戦争なんてイヤだ、だから世界を変えるんだ――そのくらい単純でいいと違うん?」

「つーかさ、僕、戦争なんて行きたくないし。鈴羽と違ってこんな人間だから、戦場なんかに連れていかれたら3日ももたないね」
鈴羽
「……だらしないな。幻滅だよ」
鈴羽はため息をつくと、そのまま背中を向けて歩き出した。

「あれっ? どこ行くん?」
鈴羽
「顔、洗ってくる。油でベタベタだ」
鈴羽
「……そのボルト締めたら、カバーも閉じておいてくれる? 父さんの言う通り、今日はかがりを捜すのはやめておくよ」

「お! それがいいお、一緒に帰ろう!」
鈴羽
「……うん」
鈴羽は、少し濁った冬空に光っている月を見上げ、いつものように『ふぅっ』と小さな呼気をこぼした。
白い息が一瞬だけ宙に舞い、冷気に飲まれて消える。
鈴羽
「……父さん」

「ん?」
鈴羽
「幻滅とか……嘘だから」
鈴羽
「父さんは、銃を持って戦争をする人じゃない。未来でもそうだった。いつもいつも、逃げ回るのが仕事」

「ええっ? 未来の僕、ダメ人間すぐる」
鈴羽
「けど、それでいいんだ。父さんには“別の戦い”があるし、そのためにあたしたちが付いてるんだから」

「鈴羽……」
鈴羽
「だから、父さんこそ変に頑張ろうとしないで」
鈴羽
「日本は安全だなんて思い込みは捨てること。この前、オカリンおじさんだって襲われたんだ。いつ、父さんが標的になってもおかしくない」
鈴羽
「戦争前夜なんだよ、今はね」
この場所でも、半月ほど前に何者かが鈴羽とタイムマシンを監視していた。なにか、大きな力が蠢き始めているのは間違いない。

「……オーキードーキー」
鈴羽は至の返事に満足してうなずくと、顔を洗うために洗面所へと向かった。
アマデウス紅莉栖
「だから、私じゃなくて真帆先輩の相手をしなさいと言っとろーが」
アマデウス紅莉栖
「あんたは、まったく……」
アマデウス紅莉栖
「はあ……」
アマデウス紅莉栖
「わかった、わかったわよ」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「メ、メリークリスマス……」
アマデウス紅莉栖
「こ、これで満足でしょっ。じゃあねっ」
アマデウス紅莉栖
「はいはいメリクリメリクリ」
アマデウス紅莉栖
「ねえ、それプレゼント? 何が当たったの? 教えなさいよ」
アマデウス紅莉栖
「ちょっと。なんで今、目をそらした?」
アマデウス紅莉栖
「人には言えないものが当たったの?」
アマデウス紅莉栖
「ふむん……。人には言えないもの……」
アマデウス紅莉栖
「…………っ」
アマデウス紅莉栖
「あ、いや、別に、HENTAIな事なんて、想像してないからな!」
アマデウス紅莉栖
「本当よ! 赤くなってなんか、ないんだから!」
アマデウス紅莉栖
「もう切るわよ!」
アマデウス紅莉栖
「私からのクリスマスプレゼントでも欲しいの?」
アマデウス紅莉栖
「一方的に要求されてもね。そっちも何かくれるなら、考えてもいいけど」
アマデウス紅莉栖
「何が欲しいかって? そうね……」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「やっぱり、いいわ」
アマデウス紅莉栖
「あんたがこうして私の相手をしてくれるだけで、じゅうぶん、プレゼントになってるから」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「……っ」
アマデウス紅莉栖
「ごめん、今、すごく恥ずかしい事言ったかも。忘れてっ」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「……………………」
アマデウス紅莉栖
「AIにここまでプレゼントをせびるなんて、寂しすぎるわよ、あんた……」
……“紅莉栖”と話すのは、今はやめておこう。
電話で話していた通り、ラボにはサンタがたくさんいた。
しかもミニスカサンタだ。
まゆり
「あ、オカリ~ン♪」
フェイリス
「来たニャ来たニャ」
由季
「準備はバッチリですよ」
フブキ
「ども~。メリクリです!」
カエデ
「オカリンさん、こんばんは……」
倫太郎
「あ、ああ」
これだけの人数の女の子が、全員ミニスカサンタの格好をして、この狭い部屋の中にひしめいていると、なんだか圧倒されてしまう。
目のやり場に困っていたら、ふらつくようにしてルカ子が俺の前にやってきた。
るか
「岡部さん……」
倫太郎
「ルカ子……」
な、なんという格好をさせられているんだ、お前は……。
まさかの、黒サンタとは。
しかも、一番露出度が高くないか?
すごく……艶めかしい……。
だ、だが男だ!
るか
「岡部さん……ボク……ボク……」
倫太郎
「ルカ子……なんて言うか、お疲れ……」
さぞ、大変だっただろう。男1人だったからな。
労るように肩を軽く叩いてやったら、ルカ子はホッとした様子で微笑んだ。

「私もサンタ服着たかったなあ」
まゆり
「じゃあ、来年は綯ちゃんの分も作ってあげるね」

「本当?」
まゆり
「うん♪」

「ありがとう、まゆりおねえちゃん!」
まゆり
「えっへへー」
まゆり
「さあオカリン、入って入って~」
倫太郎
「ダルと鈴羽は?」
まゆり
「まだ連絡ないんだ~」
今日の最大の目標は、鈴羽を参加させることだ。まゆりはそのために今回のパーティーを主催したと言っても過言じゃない。
まゆり
「ちなみに、オカリンのお客様は~?」
レスキネン教授と真帆を連れていくことは、事前に連絡済みだった。
俺はさっそく、ゲストの2人を部屋に呼び込んだ。
倫太郎
「紹介する。レスキネン教授だ」
レスキネン
「“Merry Christmas!”」
まゆり
「ふわぁ~」
由季
「わ~」
フブキ
「おお~」
カエデ
「あら~」

「おっきい!」
レスキネン
「ありがとう、キュートなお嬢さん」

「でもお父さんの方がおっきい」
倫太郎
「ええと、それともうひとり、比屋定真帆さんだ」
真帆
「どうも。はじめまして」
まゆり
「ふわぁ~」
由季
「わ~」
フブキ
「おお~」
カエデ
「あら~」
フェイリス
「まほニャン、また会ったニャ」
真帆
「あら、ニャンニャンの人……」

「小学生? 中学生?」
真帆
「……これでも、成人しているのよ」

「えっ、ご、ごめんなさい……」
真帆はいきなり地雷を踏まれ、笑顔が引きつっている。
由季
「まゆりちゃん。どう思う?」
まゆり
「2人とも逸材だよ~。まゆしぃは妄想が捗ります」
まゆり
「綯ちゃんの分も含めて、小さめのサイズを用意しておけばよかった~。まゆしぃ一生の不覚だよぉ」
由季
「そのリトルサンタコンビは……はぁ~、見たかったなぁ」
まゆり
「だよねぇ」
まゆりにロックオンされたか……。
そうなっては、真帆も逃げられないな。あの恥ずかしがり屋のルカ子をも陥落させたほどの粘り強さだから。
由季
「教授先生の方は?」
まゆり
「あの身長に合うコスは、作ったことないよ~」
由季
「存在だけですでに勝ちだけどね」
まゆり
「もふもふトナカイさんの着ぐるみを着てもらいたいかも~。赤鼻も付けて」
由季
「え、そ、それは……どうかな?」
おいおい……。教授にトナカイの格好させる気か……。
倫太郎
「ええと、まゆり? 誰も彼もコスプレ趣味を理解してくれるとは思わない方がいいぞ……?」
まゆり
「あ、うん、そうだね~。無理強いするのは、よくないよね」
由季
「でも最近は、コンビニなんかでもクリスマスには店員さんがサンタさんの格好をしていますよ」
由季
「コミマとクリスマスだと、性質はだいぶ違いますよね」
とかなんとか言って、要は真帆たちにサンタ服を着せたいだけだろう……。
まゆり
「というわけで、真帆さ~ん、サンタ服、よかったらまゆしぃのを貸しましょうか~?」
まゆりが無邪気な様子で真帆に突撃していく。
真帆は全力で拒否したが、レスキネン教授は意外にもノリノリな様子で、自分からパーティーグッズの紙製三角帽をかぶろうとしている。
まゆり
「あ、ダルくんから連絡来たよー」
まゆり
「もうすぐ着くって。スズさんと一緒」
まゆりが自身のスマホを見てそう言った。
どうやらダルはうまく事を運んだらしい。
さすがは鈴羽の父親だな。
これで最大の目標はクリアした。
そうと決まれば次のミッションに移行だ。
鈴羽については、サプライズを仕掛けるということを全員で事前に決めていた。
これからここに戻ってくる鈴羽は、俺たちが待ち構えていることを知らない。
俺たちは全員ひとつずつクラッカーを持って配置についた。
流れで、レスキネン教授や真帆にも一緒に手伝ってもらう。
真帆は困惑していたものの、教授の方はやはりノリノリだった。
フェイリス
「電気を消すニャ!」
まゆり
「スズさん、喜んでくれるかな~」
由季
「鈴羽さんのビックリした顔なんて、なかなか見られないもんね」
フェイリス
「でも実はとっても甘い物好きなのニャ」
るか
「それに、とても親切なんですよ」

「この前、挨拶したら、返してくれたよ」
由季
「へえ……。私も、もっと鈴羽さんと仲良くできたらいいな……」
まゆり
「なれるよぉ。きっと大丈夫。相性はぴったりだよ」
そのとき、窓の外――ビルの前の路地から、ダルの声が響いた。

「よーし、中へ入るぞー!」

「鈴羽と一緒に、中へ入るぞー!」
不自然なほどに説明的で、周囲にやたらと響く声。
ラボの下に到着したらダルが合図を出すことになっていた。手はず通りだ。
俺たちは暗闇の中で『シーッ』と声をかけ合う。
階段を上がってくる2人分の足音が近づいてきた。
全員が息を潜めて、じっと待つ。
タイミングが重要だ。
……でも、こっちが動く前にバレたりしないだろうか。
用意した料理の匂いとか、女性陣の化粧の香りとか、いろいろな香りが部屋には充満しているわけだが。
鈴羽ならこういう異常にはすぐに気付くのでは?
だんだん不安になってきた。
そうこうしているうちに、玄関のドアが開く音がして。
鈴羽
「あれ、今日は誰も来てないんだね」

「そ、そういう日もあるお」
バカめ、ダル、声がうわずっているぞ!
さらにハラハラしてしまう。
まだか? 号令はまだか?
フライングでクラッカーを鳴らしてしまいそうだ。
掌がじっとりと汗ばんできた。
鈴羽が靴を脱ぐ気配がする。
フェイリス
「今ニャ!」
フェイリスの号令がかかった。
部屋の電気が点けられると同時に、俺たちは一斉にクラッカーを炸裂させた。
鈴羽
「――っ!?」
鈴羽が、一瞬だけひるんだ顔をしたのが見えた。
その先の動きは、目で追えなかった。
それほどに素早かった。
すぐに身をかがめると、床面を蹴り、ちょうど鈴羽の正面にいた由季へと間合いを詰めた。
俺が制止しようと声を出すよりも、鈴羽が由季の顎を掌底で砕いてしまう方が速かったかもしれない。
由季
「きゃっ」
運がよかったのは、突進してきた鈴羽に驚いた由季が、驚いて後ずさろうとして、足を滑らせたことだ。
そのおかげで、鈴羽の鋭い掌底は由季の鼻先をかすめて空を切った。
鈴羽
「……!?」
倫太郎
「や、やめろ、鈴羽!」
ようやく俺が声を上げたときには、すべてが終わっていた。
お尻から倒れそうになった由季の体を、鈴羽がとっさに支える。
由季も鈴羽も、周りにいた俺たちも、呆然としていた。
まさに、紙一重だった。
一瞬でもタイミングがずれていたら、由季が大怪我を負っていたかもしれない。
フェイリス
「ス、ストップだニャ!」
まゆり
「め、めりーくりすますだよーっ!」
周囲がようやく状況を把握して、騒ぎ出す。
由季はただ、目をぱちくりとして鈴羽に身を任せている。
鈴羽
「な、何してる、の……?」
ようやく鈴羽が、我に返ったように俺たちを見回した。
まゆり
「だから、めりーくりすますだよ、スズさん!」
鈴羽
「めりーくりすます?」
まゆり
「そう……」
フブキ
「は、はあ~、びっくりした~」
真帆
「すごい動きだったわね……」
るか
「ボク、速すぎて見えませんでした……」
カエデ
「由季さん、大丈夫……?」
鈴羽は部屋を見回している。
まだ理解できていないんだろうか。
はじめての経験だからこれがパーティーだと分かっていないのか。
リースやリボンで飾りつけられた天井や壁。
折り畳みテーブルいっぱいに置かれた料理やケーキ、お菓子や飲み物。
鈴羽
「パーティー?」
由季
「ご、ごめんなさい。びっくりさせようって言い出したの、私なんです」
由季が、慌てた様子で鈴羽から離れ、ペコペコと頭を下げた。

「す、鈴羽、えっとこれは、なんつーか、サプライズってやつを演出してみたわけで! みんな決して悪気があったりとかじゃなくって!」
鈴羽
「…………」

「す、鈴羽?」
鈴羽
「父さ……兄さんも知ってたの?」

「う、うん」
鈴羽
「そっか。だから、今日はなんか変だったんだ」
まゆり
「ごめんね、スズさんっ! 企画したのはまゆしぃなんだよ! だから、由季さんやダルくんを怒らないで。怒るならまゆしぃにして」
鈴羽
「……やだな、まゆねえさん。あたし、そんなにいつも怒ってる?」
鈴羽は、改めて室内を見回した。
鈴羽
「ふーん、すごいね。いつものラボとは思えないや」
まゆり
「でしょう? みんなで飾りつけしたんだよ、えっへへ~」
鈴羽
「うん、本当にすごい。綺麗だ」
鈴羽はやや困ったように笑ってみせると、そのままゆっくりと後ずさって、外へ出て行こうとした。
まゆり
「ど、どこ行くのっ?」
鈴羽
「え? どこって……まゆねえさんたち、パーティーするんでしょう?」
鈴羽
「邪魔しちゃ悪いからさ。もう、兄さんってば、気が利かないよなあ。こんな所にあたしがいても仕方ないじゃないか」
フェイリス
「そんなことないニャン! 一緒にやろうニャ、パーティー!」
鈴羽
「え? でも……あたし、こういうのしたことないし……」
まゆり
「楽しくごはん食べたり、お喋りしたりするだけだよー? だから、ね?」
まゆりは、絶対に逃がすまいとでもいうかのように、鈴羽の手に自分の手をぎゅっとからめた。
鈴羽
「ま、まゆねえさん……?」

「ほら、鈴羽の席も、ちゃんと用意できてるのだぜ」
鈴羽
「……けど……本当にどうしたらいいのか、あたし……」

「いいから、座れっつーの」
まゆり
「スズさ~ん……」
鈴羽
「…………」
促され、半ばまゆりに引っ張られるようにして、鈴羽は俺の隣に着席した。
フェイリス
「はいはい、みニャさ~ん! これで、全員揃ったニャ♪」
フブキ
「はい、拍手拍手!」
フブキの号令でみんなが拍手する。
ダルがPCで、いかにも街で流れていそうなクリスマスソングを流し出した。
沈みそうになっていた場の空気が、一気に華やかになり、俺も少しホッとした。
フェイリス
「それじゃあ、まず乾杯をするニャン♪ グラスに好きな飲み物を注いでニャ?」
みんなは、ああでもないこうでもないと、飲み物を物色し始める。
倫太郎
「ほら、鈴羽」
居心地悪そうにしている鈴羽にグラスを渡し、ノンアルコールのシャンパンを注いであげた。
鈴羽
「あ、ああ、うん」
鈴羽
「……やっぱりあたし無理だよ、こういうの」
倫太郎
「なんで?」
鈴羽
「だって……遊ぶためにこの時代へ来たわけじゃない……」
この時代へ来た目的、か。
それについてとやかく言う資格は、俺にはない。
鈴羽が使命を果たせずに立ち往生してしまっているのは、全部俺のせいなんだから。
それでも――。
倫太郎
「たまには、いいじゃないか」
鈴羽
「でも――」

「鈴羽は、考え過ぎだっつーの」
ダルが会話に加わってきた。

「みんなとご飯食べるだけだって。どのみちお腹はすいてるっしょ?」
鈴羽
「それは……」
言われて意識してしまったのか、グゥ……と鈴羽のお腹が鳴った。
鈴羽
「うぅ……」

「ほれみろ」

「みんなが色々作ってくれたんだから、ありがたくいただけばいいんだって」
鈴羽
「…………」
フェイリス
「みんニャ? 飲み物の用意はいいかニャ~?」
フェイリス
「それでは、今回のパーティーを企画したマユシィ、一言どうぞニャ♪」
まゆり
「え、え~?」
いきなり話を振られたまゆりは、あたふたした様子で立ち上がった。
その拍子に、横にいたルカ子に身体が当たって、2人揃ってグラスの中身をこぼしてしまいそうになる。
まゆり
「わ、わぁ? るかくん、ごめんね」
るか
「まゆりちゃん、落ち着いて」
まゆり
「うん……」
まゆりは、すーはーと深呼吸をして息を整えた。
まゆり
「えー、今日はクリスマスイヴなのです」
まゆり
「どこもりあ充さんでいっぱいだけど、今年はまゆしぃたちもパーティーをして、りあ充さんになろぉ!」
フブキ
「いや、それ……リア充の意味が違うと思うな、マユシィ……」
フブキがちょっと遠い目をしてつぶやいた。
カエデ
「フブキちゃん、何人もの後輩ちゃんからクリスマスデートに誘われたのよね。それはもう熱烈に……」
フブキ
「全員、女の子の後輩だけどね」
まゆり
「えーと、うーんと……とにかくみんなが楽しんでくれれば、まゆしぃは嬉しいな」
まゆり
「終わりです」
言い終わってペコリと頭を下げてから、まゆりは鈴羽に向けて微笑みかけた。
鈴羽は、笑顔ともなんともいえないあいまいな表情でそれに応じている。
フェイリス
「それじゃあ、乾杯するニャ♪ まほニャン、音頭をよろしくニャン♪」
真帆
「えっ? わ、私!?」
フェイリス
「せっかく来てくれたんニャから、自己紹介も兼ねてよろしくニャン♪」
指名された真帆は、渋い顔をしつつも立ち上がると、しばらく考えてから口を開いた。
真帆
「今日は皆さんの集まりに招待してくれて、ありがとう」
真帆
「私とレスキネン教授はアメリカ在住なので、こうして日本でクリスマスを迎えるのははじめてです」
真帆
「こういう友人同士での賑やかなクリスマスも、とても良いものだと――」
フェイリス
「なにか面白いこと言ってニャ!」
真帆
「……はい?」
フェイリス
「面白いことニャ!」
真帆
「なっ!? えっ、ええと……」
フェイリス……無茶ぶりしやがって……。
真帆
「う~ん、ええと……あの……」
ダメだ、真帆が完全にテンパってしまった。さっきのまゆりよりもあたふたしている。
ATFであれだけ堂々と――通訳ではあるが――講演していたのが嘘のようだ。
もしかしてアドリブに弱いのか?
真帆
「う……“meow”!!」
苦し紛れの真帆が放った“面白いこと”によって、ラボ内はちょっぴり生温かい、けれどほのぼのした空気で満たされた。
小動物でも愛でているような感覚だ。
フェイリス
「おおー! まほニャン! ネコミミメイドの素質があるニャ!」
まゆり
「うんうん。マホリン・ニャンニャン誕生の瞬間だね~♪」
フェイリスとまゆりだけは、心の底から感動しているようだが。
真帆
「うう……私ったらなにを言っているのかしら……」
倫太郎
「比屋定さん、そろそろ乾杯を」
真帆
「そ、そうね! そうするわ。それじゃあ……」
真帆
「乾杯!」
全員
「乾杯!」
みんなが楽しそうにグラスをカチンと合わせた。
とりあえず俺は、このパーティーに誘った手前、真帆に励ましの言葉をかけにいく。
倫太郎
「面白い乾杯の挨拶だったよ」
真帆
「自己嫌悪だわ……」
レスキネン
「なにを言うんだい? クールなキャットだったじゃないか」
フェイリス
「まほニャン、いつからメイクイーンで働いてくれるニャ?」
真帆
「そんなつもりはないから……」
フェイリスやレスキネン教授も、真帆の頑張りに対して楽しそうに声を掛けてくれる。
まゆり
「スズさーん、かんぱーい、だよ♪」
由季
「鈴羽さん、私もー」
鈴羽
「あ、うん」
鈴羽の方もまだ表情が硬いが、まゆりや由季、ダルが少し強引にグラスを合わせていた。
まゆり
「はい、スズさん。これ、まゆしぃが作ったんだよ」
まゆりがキッシュを皿にのせて鈴羽に渡す。
それを口に入れた鈴羽の表情が、みるみる輝いていく。
鈴羽
「美味しい……!」
まゆり
「ほんと?」
鈴羽
「うん」
まゆり
「もっと食べて。どんどん食べて」
鈴羽
「そ、そんな一度に食べられないよ」
まゆり
「あ、そう?」
そこでまゆりは、キッシュを真帆たちにもすすめてきた。
まゆり
「真帆さんとレスキネンさんも、どうぞ♪」
真帆
「ありがとう……」
レスキネン
「ん~、オイシイ! これはオイシイですね!」
まゆり
「えっへへ~」
由季
「じゃあ、こちらもどうぞ? 海老グラタンと、あと、フライドチキンはエスニック風にしてみましたー」
レスキネン
「エクセレント!」
真帆
「凝っているんですね」
由季は誰に対しても甲斐甲斐しく料理を勧め、取り分けていた。
ただ、鈴羽のところにはなかなか行けずにいる。
まゆりがしきりに、鈴羽のところにも行くよう身振りで指示しているのだが、由季はモジモジしているだけだ。
意識しすぎてしまっているみたいだな。
ただ、鈴羽はさっきから、まゆりや由季が用意した料理を口にしてひたすら感嘆の声を上げている。
1ヶ月近く前から、2人でラボに来て料理修業をしていたからな。
その甲斐があったというわけだ。
まゆり
「あ、ケーキもあるよぉ? カエデさんがデコレーションしてくれたんだ」
カエデ
「……あんまり上手に出来なかったけど、許してね」
まゆり
「カエデさんって、ぶきっちょさんだもんねえ。でも、そんなカエデさんが萌えだよー?」
カエデ
「ちっとも褒められてる気がしないわ……」
まゆりとカエデのやりとりを見て、みんなが笑った。
食事が始まってから1時間ほど。
全員の食欲もある程度満たされたところで、フェイリスがおもむろに手を叩いてみんなを注目させた。
フェイリス
「さてさて、みニャさーん? 盛り上がってきたところで、そろそろプレゼント交換をしたいと思うんだニャ~♪」
真帆
「私たち、間に合わせのものしか用意できなかったけど」
真帆と教授には、和光市からここに来る途中、ドンキに寄ってほんの10分ほどでプレゼントを選んでもらっていた。
フェイリス
「大丈夫、それでバッチリだニャ」
鈴羽
「あたし、持ってきてない……」

「鈴羽のぶんは、僕とまゆ氏で準備してきたお」
まゆり
「まゆしぃが選びましたー」
鈴羽
「そうなんだ。……ごめん」

「気にしなくていいのだぜ」
まゆり
「いいのだぜ」
ダルの口癖を真似しながら、まゆりはトートの中から包みを2個取り出して、テーブルの上に置いた。
ダルが手にしているプレゼントと包装がまったく同じだった。同じ店で一緒に買ったものだろう。
これについて、俺はまゆりから事前に“作戦その2”であることを聞かされていた。
今夜は、鈴羽を笑顔にさせようというだけでなく、ダルと由季との仲ももうちょっと進展させたいとまゆりは企んでいるのだ。
フェイリス
「プレゼント交換の方法ニャンだけど、色々考えて、結局、くじ引きにしたニャン」
フェイリスは、全員のプレゼントを集め、それに番号の書かれた小札を貼り付けた。
フェイリス
「ニャンニャニャ~ン♪」
そんなかけ声とともに、今度は割りばしの束を取り出して高く掲げる。
フェイリス
「これはぁ、マユシィが今夜、王様ゲームをやろうとして持って来たものだニャ~」
まゆり
「わぁ! 言わないでよ、フェリスちゃん!」
倫太郎
「おい、まゆり……、王様ゲームっていうのは、合コンの時とかにするもんだぞ……」
まゆり
「分かってるよぅ。ちょっと勘違いしただけだもん」

「まぁ、女の子から命令されるのって、僕は大好物だけどね」
フブキ
「橋田さん、ほんとにHENTAIさんですねぇ」
フェイリス
「ということで、マユシィがちょっと勘違いしちゃったこの割りばしを、くじ引き用に使わせてもらうニャ」
フェイリス
「引いた番号のプレゼントを、ゲットできるのニャン♪」
フェイリスはジャラジャラと割りばしをシャッフルすると、みんなのまわりを回って、1本ずつ引かせていった。
まゆりの作戦にはフェイリスも関わっている。
事実、まゆりとフェイリスは明らかにアイコンタクトやら指の仕草で合図を送り合っていた。
みんながくじに夢中になっている間に、由季とダルのプレゼントだけ、番号札を貼り替えたりと工作にいそしんでいる。
あまりにあからさますぎて、由季本人にバレたりしないかと、俺の方がハラハラしたほどだ。
フェイリス
「みんな引いたかニャ~?」
フェイリス
「それじゃあ、プレゼントを渡すニャン♪ 中身を見るのは、みんなに行き渡ってからニャぞ~」
るか
「わくわくしますね」

「なにが当たるかなぁ」
フェイリスとまゆりとで、引いた番号に該当するプレゼントを順に手渡していった。
プレゼントが全員に行き渡ったところで、全員一斉に包装紙を解きはじめる。

「ひうっ!?」
最初に妙な声を出したのは綯だった。箱の中からいきなりドクロの顔が出現したからだ。
るか
「あ、それカッコいいでしょう?」
るか
「ベルトのバックルだよ、綯ちゃん。学校に着けていったらきっと人気者だと思うな」

「ありが、とぉ」
完全に綯がビビってるぞ、ルカ子……。
などと綯に同情していたが、いざ自分の手元にあるプレゼントを取り出してみたら――。
倫太郎
「くっ、誰だこれはっ……」
かわいらしいデザインの箱の中には、純白に透ける薄いベールのようなものが入っていた。ベールのあちこちにピンク色の小さなリボンがあしらわれている。
これって、まさか……。
フブキ
「ん? ああ、オカリンさんの所へ行ったかぁ!」
フブキ
「そのまま、マユシィにプレゼントしてあげるといいよ」
倫太郎
「そんなこと出来るかっ」
フブキ
「オカリンさんのためなら、喜んで着てくれるって!」
倫太郎
「どうしてそういう話になるんだ……」
まゆり
「なになに? まゆしぃがどうかしたの?」
名前を出されたまゆりが、興味を示してくる。
まゆり
「……? それって、何かなぁ?」
フブキ

ベビードール

だよ、マユシィ。しかも、超可愛くてセクシーなやつ。オカリンさんのために着てあげなよ?」
まゆり
「ふぇぇーっ?」
倫太郎
「そんなわけにはいかないだろ……」
フブキ
「それなら、オカリンさんが自分で着てもぉ……いいんですよぉ?」
倫太郎
「……こ、これは返す。いくらでも自分で楽しんでくれ」
俺は少し強引に、フブキの手にベビードールを押し付けた。
フブキ
「じゃあ、こっちと交換します?」
代わりとばかりに、フブキ自身がゲットしていたプレゼントを渡された。
すでに包装は解かれ、箱の蓋が開けられている。何気なく中を確認してみると。
ピンク色のセクシーショーツとブラが入っていた。
やっぱり透け透けだった。
倫太郎
「…………」
カエデ
「あっ、それ、私が持ってきたプレゼントです……」
カエデ
「まゆりちゃんに着てもらえるなら嬉しいです。どうぞ……」
まゆり
「ふぇぇーっ?」
倫太郎
「君たちには、そういう発想しかないのか……」
まゆり
「ま、まゆしぃは、もうオカリンからプレゼントもらったから、いいよぅ」
幼なじみの縁というものなのか、俺が持ってきたプレゼントを引き当てたのは、まゆりだった。
ちなみに俺が用意したのは、金の延べ棒型をしたバカでかいチョコレートだ。ドンキのパーティーグッズコーナーで売られているようなアレだ。
フブキ
「オカリンさんさぁ、もうちょっと、何かなかったの?」
倫太郎
「う、うるさいな。パーティーではこういうのがウケるって、雑誌に書いてあったんだ」
フブキ
「……いや、これはないわ、うん」
カエデ
「ないわね……」
倫太郎
「なんだって……」
ない、のか……。
鉄板だと書いてあったのに。
まゆり
「まゆしぃは嬉しいよ。だって金の延べ棒だよ? こんなの一生触れないよ?」
フブキ
「ううっ。いい子だぁ、マユシィは」
カエデ
「ほんとに、いい子ね……よしよし」
フブキとカエデは、ちょっと同情気味に、でも、愛おしそうにまゆりの頭を撫でている。
なんだか……俺が悪いみたいになってしまったな……。
由季
「じゃあ、次は私が開けてみますね」
由季が宣言して、手元のプレゼントを開け始める。
由季
「わぁ……」
中から出てきたのは、木製の可愛いオルゴールだった。フタを開けると、中で小さなブリキの人形がくるくると踊る仕掛けになっている。
フブキ
「すごい、かわいい!」
カエデ
「すてきね……」
るか
「ロマンティックです!」

「いいなあ……」
女性陣から感嘆の声が上がっている。
ルカ子は男だが……。
確かに女子がもらったら喜びそうなものだな。女子の比率が多いこのパーティーにおいては、この手のものを選ぶのはいいセンスをしているかもしれない。
というか、俺もああいうものにしておくべきだったかも……。
と考えてみたが、そもそもオルゴールをプレゼントにしようという発想すら出てこなかったな。
フェイリス
「これ、いったい誰からのものニャ~?」
フェイリス……、言い方がわざとらしいぞ。

「あ。えと……僕」
ダルがおずおずと照れくさそうに手を上げた。
由季
「えっ」
フブキ
「うぇええ!?」
カエデ
「あらまあ……!」

「ダルおじさん、すごいね!」
鈴羽
「ふ~ん。やるね、兄さん」
中身について事前に知っていたらしいフェイリスとまゆり以外の全員が、驚きの声を上げた。
由季
「これ、橋田さんなんですね」

「ど、どうかな? まゆ氏からアドバイスしてもらって選んだだけなんだけどさ」
由季
「素敵……。ありがとうございます。大切にしますね」
由季は、心底嬉しそうにオルゴールを胸に抱いた。
由季
「……?」
それから、なぜか不思議そうな顔になって、箱の底を見ている。
と思ったら、急にソワソワし始めた。
由季
「えっと、ごめんなさい。私、ちょっと」
箱を持ったまま、由季は席を立ち、洗面所の中へパタパタと入っていった。
“仕掛け”を見つけたのだろう。
事前のまゆり情報によると、そこにはダル自身が書いた――と偽装した――手紙が貼り付けられているとのことだ。
手紙の中身は、映画デートへのお誘いといういわゆるラブレター的なものだ。
さて、今ごろいったいどんなリアクションをしているだろうな。
一方、もうひとりの当事者であるダルはと言うと、自分のところに回ってきたプレゼントの中身を見て、こっちも困ったような顔をしていた。
当たったプレゼントはフェイリスのものだ。
そのためか箱の中身を開けるまではやたらテンションを上げていたというのに、今はすっかりおとなしくなってしまっていた。
確かこっちも、まゆり情報によれば、映画のチケットだったはずだ。
しかもフェイリスからのプレゼントであるにもかかわらず、そのチケットは由季とのデートに使うべし、という指令書が同封されているらしい。
フェイリスは、ダルの問いかけるような視線を受けて、ウインクを返している。“うまくやるニャ”とでも言いたげだな……。
そのフェイリスは、真帆が今日ドンキで買ったヘンテコなぬいぐるみを引き当てていた。
ルカ子のところには、レスキネン教授がやはりドンキで買ってきた小型ラジコンヘリ。
レスキネン教授のところには、綯が用意した12色のかわいらしいクレヨンセットが。
そして鈴羽がゲットしたのは、手編みの手袋だった。由季のお手製のようだ。
それをわざわざきちんとはめて見せて、鈴羽は嬉しそうに――けれど少し寂しそうに――微笑んでいる。

「鈴羽、よかったじゃん」
鈴羽
「うん……」
鈴羽
「っていうか、兄さんはなにが当たったの?」

「これ……」
鈴羽
「んん?」
自分が罠にはめられたことに気付いたらしいダルは、明らかに目を泳がせている。
一方の鈴羽は、状況を理解したらしく、優しい表情で父親の背中を軽く叩いた。
鈴羽
「いいんじゃない? 行って来なよ」

「なっ? なんだお、鈴羽まで?」
鈴羽
「だって、2人を見てるとじれったいからさ」

「けど……リアルでデートなんかしたことないし……」
鈴羽
「母さんもそうらしいよ?」

「え? そうなん?」
鈴羽
「うん」

「そ、そっかぁ……」
と、由季が洗面所から戻ってきた。
ずいぶんとおぼつかない足取りだ。
元の席に座ったものの、落ち着かなげにモジモジしながら、テーブルの上のお菓子をつまみ始める。
たまにチラチラと、ダルの様子をうかがっていた。
映画のチケット作戦は今のところうまくいっているらしい。
あまり注目しすぎると、企みがバレてしまうかもしれないから、今はなるべく知らんぷりをしておいた方がよさそうだ。
まゆり
「あ~、まゆしぃが用意したオルゴールは、真帆さんに行ったんだね~」
真帆が手にしているオルゴールを見て、まゆりが声を上げた。
デフォルメされたクマの形をしていて、ネジを巻くとカタコト手足や口を動かしながら、音楽が鳴る仕掛けになっているようだ。
さっき由季が引き当てたもののデザイン違いのようだ。
真帆
「いいのかしら。こんな素敵なものをいただいてしまって」
まゆり
「いいんですよ~。どうぞどうぞ~♪」

「どんな音? 聞きたい!」
るか
「そうですね。ボクも聞いてみたいです」
真帆は、ネジをカチカチと巻き始めた。
その間に、気を利かせたカエデが賑やかなBGMを止める。
真帆
「じゃあ……」
真帆がネジから手を離すと、オルゴール特有の、金属質ではあるけれど柔らかな音色が流れ出した。
ひたすら騒がしかった空気がゆったりと収まっていき、代わりに、ホッと一息つくかのような雰囲気がラボに満ち始める。
うっとりと聞きほれる俺たちの頭上を、オルゴールの音は静かに漂い続けた。
まゆり
「……まゆしぃね、この曲、大好きなんだぁ」
るか
「ボクもです」

「ポカポカした気持ちになるね♪」
真帆
「ええ、そうね」
鈴羽
「あっ、そうか。この曲だ」
と、突然鈴羽がなにかを思い出したように立ち上がった。
鈴羽
「由季さん、ほら、覚えてない?」
由季
「えっ? はいっ?」
すっかり心ここにあらずという様子だった由季は、鈴羽に急に声をかけられ、分かりやすいほどにあたふたした。
鈴羽
「あたしが寝込んでたとき、由季さんがここで歌ってたよね」
由季
「ああ、そういえば」
鈴羽
「うん、確かにこの曲だよ」
鈴羽は、懐かしそうに目を細めた。
鈴羽
「ね、まゆねえさん? これ、なんていう曲?」
まゆり
「うんとね、これは――」
まゆりが言いかけた――その、時、だった。
いきなり。
世界が歪んだ。
倫太郎
「うぐっ……!?」
俺は、自分の身体を貫くように駆け抜けた激しい“違和感”に、たまらず苦痛の声を漏らしていた。
ぐらりぐらり――と。
目の前の幸せなパーティーの風景が、まるで蜃気楼のように揺らぎ出す。
こっ、これはっ!? まさか、そんなっ……!
どこか遠くで、ガターンと激しい音が響いた。
焦点の定まらなくなった目でかろうじてその方向を見ると、フブキがテーブルをひっくり返しながら床に倒れるところだった。
カエデやフェイリスが、驚いてフブキの名を呼び、駆け寄っている。
しかしそれは、あたかも水中の光景を見ているようにゆらゆらと不鮮明で、しかもひどくスローモーションなビジョンだった。
声も遠くへ遠くへと離れていく。
いくら手を伸ばしても誰にも届かず、何にも触れることが出来なかった。
時間と空間が支離滅裂に乱れ、全ての物質の“自我”さえもその主体性を失うかのように崩壊していく。そんなおぞましい感覚があった。
この――この感覚はっ――!
思い出したくもないこの最悪の事象を、俺は知っている。
いやというほど思い知っている。
これは――。
リーディング……シュタイナーだ……!
およそ4ヶ月ぶりに、この世界が歪むような感覚を味わうことになるなんて。
誰だ?
いったい誰の手によって、世界線は変動させられた!?
俺は、なにもしていない。世界に対して干渉なんてしていない。
なのに、どうしてまた世界は俺を翻弄するんだ!?
倫太郎
「っ……」
目を開く。
すでにあたりは別の色彩を帯び始めていた。
ゆらりゆらりと揺らぎ続ける世界の全ては、再び、固定された時の中の“個”を取り戻してゆく。
目に映る光景は、ラボでの温かいパーティーではなくなっていた。
屋外だ。
吶が降っている。
痛みを覚えるほどの大粒の雫が、顔に当たる。
真冬の吶だ。その凍えるような冷たさが、全身から体力を急速に奪っていくのを、はっきりと知覚できた。
視界の歪みがおさまる。
目に入って来たのは、見知らぬ男たちの大きな背中。
聞こえて来たのは、吶音に交じって泥の中を歩いていくブーツの足音の群れ。
強烈な悪臭が鼻を突く。息をするのも苦痛なほどの下水の臭気。それにゴムやプラスチックが焦げるような劣悪な匂いが混じり合っている。
ここはどこだ? 俺は今、何をしている?
あまりにも周囲の情報が激変している。
自分の置かれた状況を把握しようとするが、脳の処理が追いつかない。
男性の声
「もう少しです、頑張って」
足を止めた俺の肩を、無骨な手が励ますように叩いてきた。
振り向くと、俺と同年代の、精悍な顔つきの青年がいた。
見たことのない顔だ。面識はない……はず。
青年は、ニュースなどでよく見る自衛隊の迷彩服と装備で身を固めている。肩には自動小銃も担いでいた。
まわりにいる7~8人の男たち全員が、同じいでたちだった。
俺を囲むようにして周囲を警戒しつつ、黙々と歩を進めている。
倫太郎
(この人たちは……自衛隊員……?)
そこでようやく気付く。
俺自身もまた、彼らと同じような迷彩服を着ていることに。
倫太郎
(俺が自衛隊員だって!?)
試しに、自分の二の腕に触ってみたが、筋肉などまったくついていない。ひょろひょろのガリガリだ。周囲の男たちと違って、俺は小銃などの武器も携行していない。
だったら、この状況はなんだ?
まるで、俺ひとりを屈強な自衛隊員7~8人で護衛して移動中――そんな雰囲気じゃないか。
俺は一体いつからそんなVIPになったんだ?
混乱したまま、自衛隊員に促されて再び重い足を引きずるようにして歩き出す。
そもそも、この道はなんなんだろう。
ヘドロ状の泥が深く積もった一本道。
左右には高い壁がシルエットになって見えている。
あたりには大量のゴミやコンクリートの瓦礫が転がっており、しばしばそれを避けながら進まなくてはならなかった。
そそり立つ両壁の上を仰ぐと、降りしきる吶の夜なのに妙に空が赤く、そして、ぼんやりと明るい。
懐中電灯もなしにこんな道を歩けるのも、その空のおかげといってもいい。
倫太郎
「……ん?」
音だ。音がする。
これは……水音だ。
見ると、片側の壁に大きな穴が開いていて、そこから大量の汚水が流れ込んで来ている。そのせいで、行く手に幾筋もの小川が出来ていた。
……なるほど、ここは水が枯れ果てた河川の底だ。左右の高い壁に見えたものは、川の護岸というわけだ。
倫太郎
「ここって、どの辺なんです!?」
さっき声をかけてくれた隊員を振り返り、吶音にかき消されないよう、半ば叫ぶようにして訊く。
自衛隊員
「しっ。大きな声を出さないで」
倫太郎
「あ、すみません……」
自衛隊員
「あと少しで都心を抜けます。練馬駐屯地の近くまで行けば車が用意されているはずですから、そこまでなんとか歩いてくださ――」
だが――彼の言葉はそこで止まった。
全員が、これまで以上の緊張感を全身にまとわせた。
俺は隊員に腕を掴まれ、護岸の方へと押しやられる。
全員が壁に背を付け、息を殺した。
遠くで、ヘリのローター音がする。
しかも1機じゃない。
徐々にこっちに近づいてくる。
訳が分からないまま、緊張感に呑まれて動悸が速まってきた。
自衛隊員
「あの車の陰に入って」
数メートル先の瓦礫の間に、汚泥まみれの乗用車が逆さになって転がっている。
河川から水がなくなった後に護岸から転落したものらしく、全体的にひどくひしゃげ、天井などは完全に潰れてしまっている。
悪臭を放つ汚泥の中に突っ伏しつつ、俺は車の陰に滑り込んだ。
一方、自衛隊員たちは小声でいくつかの指示を飛ばし合い、あらかじめこういった事態も想定済みだったように行動を開始する。
隊員のうち2人だけが俺のそばに残り、それ以外は今来た方向へと駆け戻っていく。
やがてそれぞれが、コンクリートの割れ目や突起などに足をかけつつ護岸を一気によじ登り、俺の視界の外へと消えていった。
その直後に。
倫太郎
「……!」
今の……銃声、だよな。
しかも拳銃で1発撃ったとか、そんな生やさしいものじゃない。
これは、戦闘の音だ。
銃撃音に誘われるようにして、ヘリの音もそちらへと遠ざかっていく。
倫太郎
「……なんてことだ」
この世界線では……日本で、戦争が、起きているのか?
――第三次世界大戦。
鈴羽の言葉が脳裏をよぎる。
ふと視線を、俺が身を隠しているひしゃげた車の中へ向ければ。
倫太郎
「……!」
その車内に、男女と小さな子供、計3人の

むくろ
が、シートベルトに固定されたまま、逆さまにぶら下がっているのが目に入った。
全員がどす黒く固まった血にまみれ、まるで出来の悪いお化け屋敷のマネキン人形のように見えた。
倫太郎
「あ……あ……」
そして、気がついた。
これまで夢中になって歩いていたので分からなかったが、汚泥のあちらこちらに、似たような
マネキン
①①①①
人形
①①
らしき
①①①
もの
①①
が沈んでいることに。
それらの、骨や筋のむき出しになった手足が、まるで空に救いを求めるかのように突き出していることに。
倫太郎
「うぐうッ……」
悲鳴を上げそうになった口を慌てて手で押さえた。
あれは、違う。マネキンなんかじゃない……!
自衛隊員
「今ですッ。壁に沿って進んでッ」
倫太郎
「あ……?」
自衛隊員
「ルートを変えます。さぁ、立ってくださいッ」
身体をグイッと引き上げられた。あまりにも生々しいショックと疲労とで、膝が笑ってしまう。
自衛隊員
「仲間が
ソ連

のヘリ部隊を引きつけてますが、それほど持ちません。早くっ」
倫太郎
「……ソ連?」
恐怖のせいでひどく鈍ってしまった頭が、ぼんやりと考える。今、何か違和感のある言葉を聞いた気が――。
自衛隊員
「しっかりして下さいっ。あなたを護るために、すでに何人犠牲になったと思っているんですかっ」
倫太郎
「俺を……護る? なぜ?」
自衛隊員
「理由は聞かされていません。でも、命を賭けて護れと自分は命じられています。それが、この国の未来に繋がるのだと」
川の上空を1機のヘリが通り過ぎた。サーチライトのまばゆい光がサァッと通り過ぎたが、幸い、護岸の影が俺たちの姿を隠してくれた。
自衛隊員
「こっちへッ」
名も知らぬ青年隊員は、汚水を吐き出しているコンクリート壁の穴へと俺を引きずっていく。
よく見ればその穴は、下水道の出口だった。
人ひとりがちょうどかがんで歩けるほどの大きさだ。
膝ほどの深さの流れに逆らいながら、暗闇の中を奥へと進むこととなった。
すぐに嗅覚が麻痺してくれたおかげで、下水の異臭に悩まされることはなくなった。
途中、二股の分岐が何度か出てきた。
先導する自衛隊員はどうやらどっちに進めばどこへ出るか把握しているようで、躊躇なく進んでいく。
そうこうしているうちに、下水道からまた川に出た。
そこも、最初に歩いていた河底と同じように、干上がってしまっていた。
元の川に戻ってきたのか、それとも別の川に出たのかは分からなかったし、隊員の2人も教えてくれなかった。
とにもかくにも、ようやく悪臭に満ちた暗闇から抜け出せたことに安堵し、俺は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込もうとした。
だが――
倫太郎
「う、あ……?」
深呼吸の途中で、下水道よりもひどい異臭を感じて、たまらず一歩、また一歩と後ずさってしまっていた。
目の前に、あまりにも凄惨な光景が広がっていたからだ。
川底だった場所に、水の代わりに大量の遺体が折り重なっていた。
ほとんど炭化してしまっているモノもあるため、いったいどのくらいの数の“死”が転がっているのか見当もつかない。
しかも遠くでは、かがり火のようにまだ炎が上がっていた。
吶が降っているにもかかわらず、燃えさかっている。
燃えているのは、山のように積まれた
かつて
①①①


だった
①①①
肉塊
①①
だった。
自衛隊員
「もうすぐです。キツイでしょうが、走れますか!?」
倫太郎
「えっ? あ、ええ……」
自衛隊員が、俺に声をかけてきて。
それで我に返ることができた。
この2人がいなかったら、正気を保っていられなかったかもしれない。
俺は2人に前後を挟まれる形で、河底を走った。
上空からはいまだにヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえている。時にはすぐ近くまでサーチライトが迫って来た。
その度に、あたりに転がる死体の山に混じって地に伏せ、それをやり過ごす。
俺はかつての世界線漂流で、幾度も見てきたはずだった。
“死”を。
人が死ぬ瞬間を。
だが一方で、“長く放置された死”については、経験することはなかった。
恐ろしいとか、悲しいとか、そんな感情などよりも、真っ先に突き付けられる“死の匂い”。
その腐臭が、精神ではなく俺の肉体を蝕む。
体が拒絶反応を示す。
気持ち悪い。
そう思うことは死者の尊厳を踏みにじることなのに、どうすることもできない。
『ヒンノムの谷』。
俺は、その言葉を思い出していた。
真帆やレスキネン教授とともに襲われたあの夜、不気味な襲撃者が口にした言葉だ。
襲撃者
「たとえ片目であろうとも、ヒンノムの谷の炎に投げ入れられるより、ずっと幸いに違いないのだ」
地獄を意味する『ゲヘナ』の語源となったその谷では、昼夜にわたって絶えることのない業火が燃え上がり、天を焦がし続けていたという。
そして、数々の無念を抱いた人たちが無慈悲な死の果てにその炎に放り込まれ、黒煙となってなお、怨嗟の念をまき散らしたとも言われている。
目前にあるものは、まさにそんなゲヘナの光景だった。
2人の隊員に先導されて辿り着いたのは、半ば崩落した地下鉄のトンネルだった。
電気が来てなくて照明はすべて消えているが、その代わりに、迷彩柄の装甲機動車が3台、ライトを点灯させて線路上に待機していた。
強固で無骨な外装に覆われた四輪駆動オフロード車といったいでたちだが、特に武器は見当たらない。
自衛隊員
「ここから地下鉄内を通って埼玉へ抜けられます。
入間
いるま
基地

はまだ無事と聞いています。そこまで行けば関東を脱出できるはずです」
倫太郎
「関東を……脱出……?」
自衛隊員
「話は向こうで聞いてください。とにかく急いで」
尋ねたいことは山ほどあった。だが、そうこうしているうちにも銃撃らしき音が駅の外から響いてきたため、強引に1台の車両の後部座席に押し込められた。
自衛隊員
「それでは、ご無事を祈っております」
倫太郎
「えっ? あなた方は?」
自衛隊員
「自分たちには別の任務がありますので。では」
俺をここまで連れてきてくれた2人の隊員は、敬礼をしてそう告げると、踵を返して駅から出て行った。
おそらく二度と彼らに会うことはないだろう……そんな気がした。
装甲車のドアが重い音を立てて閉まる。
操るのは、俺より少しだけ年上と思われる自衛隊員たちだ。
ディーゼルエンジンが回り出し、車は、本来、電車が走るように設計されているトンネルの中を、かなりの速度で走り始めた。
当然、乗り心地はひどいものだったが、耐えるしかなかった。
秋葉原に行きたいだなんてことは、口が裂けても言える雰囲気じゃない。
俺には、世界線を戻す術はなかった。
この地獄のような世界線で、生きていかなければならない。
生き残るには、自衛隊の人たちの指示に従うことだ。
俺の意志が反映されることなんてない。意志を表明することすら許されない。
ひたすら、彼らの指示に従って逃避行を続けること。
俺にできるのは、それだけで。
ただ、そんな状況が、これから先、およそ1ヶ月も続くことになるとは、思いもしなかった。
沖縄に辿り着くまで1ヶ月もかかったのは、戦況の悪化のせいだった。
元々、俺は入間基地から空路ですぐに沖縄へと連れて行かれることになっていたらしい。
ところが、連日連夜に渡る空爆で足止めを食らったことで、空路での移動を断念し、陸路で九州まで逃れることになった。
ソ連の工作員や強襲部隊による襲撃に何度も遭った。俺を護る自衛隊員の中にも死傷者が出た。
それでも佐世保から海自の護衛艦に乗ることができ、なんとか沖縄に脱出してきたのだ。
俺という人間にそこまでするのはなぜなのか。
何度質問しても、誰もなにも答えてはくれなかった。
……冬の沖縄は、どんよりとした厚い雲に覆われていた。
そう言えばこの1ヶ月、ろくに雲の切れ間を見ていない。
そんな呑気なことを考えていたら、港まで迎えに来ていたフルスモークのワゴン車に乗せられた。
車内には、運転手だけでなく、中年の男が助手席に座っていた。
背がとても低く、もしかしたら150センチ前後ぐらいしかないのではないか。
が、その風体は間違いなく練磨された軍人のそれであり、服の上からでも全身を覆うゴツゴツとした筋肉の塊が見て取れる感じがする。
自衛隊員
「岡部倫太郎君だな」
自衛隊員
「私は、
防衛省

、中央情報保全隊の
下山
しもやま
という」
下山
「これから空港に寄り道してから、
嘉手納
かでな

沖縄防衛局

へ向かう。長旅で疲れているところ申し訳ないが、もうしばらく我慢してくれ」
倫太郎
「……はい」
東京が壊滅したことは聞いていた。
中央省庁の中でも防衛省については、在日米軍との協力体制を密にするため、沖縄の防衛局を臨時庁舎としている――。
下山はそう説明してくれた。
つまりこれから向かうのは、今の日本の防衛の中枢というわけだ。
そこへ行けば、俺がVIP扱いされ、自衛隊員が命をかけてまで護ろうとしてくれることの意味が分かるのだろうか。
車はしばらくして
那覇空港

の前で停車した。
そこで、意外な人物が乗り込んで来た。
由季
「お、岡部さん!」
フブキ
「わ、本当だ! オカリンさんだ!」
倫太郎
「君たちは……由季さんと、中瀬さんじゃないか!」
まさかこの2人とこんなところで再会するとは思っていなかった。
だがこっちの世界線に来てから、はじめて会うことのできた知り合いだ。
それだけで、涙が出そうなほど嬉しかった。
とはいえ、喜んでばかりもいられない。
倫太郎
「まゆりは? まゆりの行方を知らないか?」
由季
「大丈夫です」
由季が、焦る俺を安心させるように、うなずいた。
由季
「さっきまで一緒だったんです」
倫太郎
「一緒だった?」
フブキ
「そうなんですよ。マユシィでしょ、留未穂ちゃんでしょ、るかくん、カエデちゃん」
由季
「今朝、空港に着いて。みんな、防衛局というところで保護してもらえるというので、待っていたんですが」
由季
「さっき急に、私とフブキちゃんだけ先に連れていくと言われて……」
フブキ
「それでこの車に乗せられたら、オカリンさんがいたってわけ」
倫太郎
「……とにかく、みんなが無事でよかった」
ダルや鈴羽の名前が出ていなかったので、2人の消息も聞こうとしたが――。
下山
「すまないが、積もる話は後にしてもらっていいだろうか」
下山がそう遮って、車が再び出発した。
下山
「沖縄防衛局には、君たちのご家族もいずれ到着する予定だ。すでに我々の方で保護はしている」
フブキ
「ほ、本当ですか!? よかったぁ……」
下山
「別行動になったお友達の皆さんも、すぐ後ろの車に乗っている。離ればなれになるわけではないから、安心していい」
後ろを振り返ってみると、少し離れたところを同じようなワゴン車がついてくるのが見えた。
あそこに、まゆりたちも乗っているということか。
由季
「じゃあ、後でまた会えるんですね?」
下山
「もちろんだ」
それを聞けて、由季もホッと安堵の息をついた。
倫太郎
「…………」
でも、俺の中では新たな疑問が浮かび上がる。
なぜ、別の車に分けたんだろう。
このワゴン車には、少なくともあと3人は乗れる。無理に詰めれば全員だって乗れるはずだ。
それとも、由季とフブキと俺を一緒にこの車に乗せたのには、なにか意味があるのか?
車はしばらく
沖縄モノレール

の線路と併走した後、広いバイパスを南下するルートを取った。
倫太郎
「暗いな……」
由季
「え? 何です?」
倫太郎
「いや……こんなに店が並んでるのに……どこも真っ暗だから」
数多くのフランチャイズレストランや大型スーパー、観光客向けの食堂、レンタカー店などが圧縮陳列のごとく並んでいる。
しかし、どの店舗も明かりを落とし、ひっそりと静まりかえっていた。
街灯もほとんど灯されておらず、走っている車は日米の軍用車ばかりだった。歩いている人の姿もまったくない。
下山
「灯火管制と、午後5時以降の外出禁止令が出ているんだ」
下山
「沖縄なら安全とはいってもね、戦時下なんだよ。以前のようにはいかない」
下山
「早く戦争など終わって元に戻って欲しいものだ」
倫太郎
「…………」
戦時下、か。
下山
「なぁ、岡部君。君の知っている沖縄は、夜遅くまでもっと明るくて楽しい場所だったろう?」
倫太郎
「……あ、どうでしょう。俺は沖縄は初めてなので」
下山
「それはもったいないな。なら、次は楽しい旅行で来られることを祈っているよ。ここは本当にいい島だ」
車は、バイパス道から陸橋へと上がり、そのまま自動車道に入った。すぐに長いトンネルにさしかかる。
下山
「実は、3人に防衛局に着く前に少しだけ質問をしたくてな。それでこうして同乗してもらった」
フブキ
「え?」
由季
「……?」
倫太郎
「…………」
やっぱりそうだったか。
俺たち3人だけに用がある、ということになるな。
でも、どうしてこの3人なんだろうか。
俺は、由季ともフブキとも、特別親しいわけじゃない。
話をするようになったのだって、ほんの数ヶ月前で――。
と、そこまで考えて首を振った。
それは世界線が変動する前の話だ。
この世界線では、違うのかもしれない。
俺はこの世界線での自分の人間関係について、あまりに無知すぎる。
せっかくVIP扱いしてもらっているんだし、下山たちに不審がられたくはない。
受け答えは、なるべく由季やフブキに任せた方がよさそうだ。
下山
「阿万音由季さん」
由季
「は、はいっ?」
下山は最初に、由季を名指しした。
いきなり名前を呼ばれ、由季が身体をこわばらせるのが、横に座っている俺にも伝わってきた。
下山
「君は、橋田至君とその妹さんがどこにいるか、知らないだろうか?」
妹……。
鈴羽のことだろう。
この世界線でも鈴羽は未来からやって来ていて、妹として由季たちと友人関係を築いていた、ということになる。
そしてダルと鈴羽の消息について、下山たちは把握できていないらしい。
由季
「いえ、その……私は……」
由季は口ごもり、俺に対して助けを乞うような目を向けてきた。
だが俺だって、2人の行方は分からない。
そもそもこの世界線での記憶を持っていないんだから、答えようがない。
ただ、由季の態度は気になった。
まるでその態度は、2人がどこにいるのか知っているのにあえて隠していて、そのことを俺も分かっているとでも言いたげだ。
俺がそう気付いたぐらいだから、下山も同様の感想を抱いただろう。
車内に妙な緊張感が生まれてしまった。
由季は、隠したがっている? 誰から?
下山
「ん? 知らないかな?」
下山が助手席からこちらを振り返り、再び訊いてきた。
由季
「すみません」
由季は今度は申し訳なさそうに頭を下げた。
下山
「でも君は、橋田君とかなり親しいお付き合いをしているんだよね? 恋人に何の連絡もないというのは……」
由季
「携帯電話なんて、もう使い物になってないじゃないですか」
下山
「連絡方法ならケータイ以外にもいくらでもある」
由季
「でも、本当に何も……」
下山
「妹さんからも?」
由季
「はい」
下山
「ときに、岡部君は橋田君と何か研究をしていたらしいね」
倫太郎
「えっ?」
いきなり話の矛先を向けられて、俺は慌てた。
研究? 研究ってなんだ?
まずい、慌てた様子を見せると、不審がられてしまう。
下山
「どんな研究をしていたんだね?」
こうなったら、俺に答えられそうな範囲で無難なことを話しておくしかない。
倫太郎
「研究というより……なんていうか、ちょっとした発明のアイデアというか……」
下山
「発明?」
倫太郎
「竹とんぼに
CCDカメラ

を付けて空撮が出来ないか、とか……」
倫太郎
「掃除機の排気をドライヤー代わりにしてみる、とか……」
下山
「ほぅ。なかなか面白いね」
下山
「それじゃあ、何かとんでもない物を作っていて、それを知られないために我々から逃げた……というわけではないんだね?」
倫太郎
「逃げた?」
しまった、つい、訊き返してしまった。
今のも失敗だ。
でも、ダルと鈴羽が、この混乱した状況の中で自衛隊から逃げて行方をくらましているっていうのか?
自衛隊はこの1ヶ月、俺を命がけで護ってくれたんだぞ。
むしろ保護を頼むべき相手じゃないのか?
ますます混乱してくる。
下山
「知らないのならいいんだ。橋田君たちのことは保留にしておこう」
倫太郎
「…………」
誰か、正解を教えてほしい。
俺はここで、どんな受け答えをすればいいっていうんだ。
下山
「ええっと、中瀬克美さん? 君には別に聞きたいことがあるんだ」
フブキ
「わ、私?」
今度は、フブキがシートの上でビクリと跳ねた。
下山
「いやいや、そんなに緊張しなくていい。大した事じゃあない」
下山はそう言うが、フブキは見るからに怯え始めた。
その態度もおかしい。度が過ぎている。
自衛隊は、俺たちを護ってくれているわけじゃないのかもしれない。
そもそも俺たちみたいな一般人をVIP扱いするわけがない。
だとしたら、狙いはなんだ?
――いや、なんとなく予想はつく。
タイムマシンだ。
この戦争だって、ロシアによるタイムマシン実験が発端だ。
そこには当然、亡命した中鉢が関係しているだろう。この世界線でも奴がロシアに亡命したことは、自衛隊員たちが話しているのを聞いて俺も知っていた。
そして、鈴羽は2036年からタイムマシンに乗ってやって来たタイムトラベラー。
鈴羽がこの時代に来ているなら、そのタイムマシンを作ったのは、未来のダルということになる。
タイムマシンがあればこの戦局を変えられる。
そう考えた日本の国家機関が、タイムマシンに関係がありそうなダルや鈴羽、その友人を拘束しようとしたって不思議はない。
それに気付いたら、この車内での状況が途端に、空恐ろしいものなんじゃないかと思えてきた。
この車の行き先は、本当に沖縄防衛局なのか?
本当だとして、そこでちゃんと保護してもらえるのか?
下山
「先週、中瀬さんに受けてもらった健康診断なんだが」
フブキ
「な、何か……悪い所でも見つかったんですか?」
下山
「いや、東京で怪我をした傷も治りかけているし、体調には問題はない。ただ、ストレスがひどいようだね」
フブキ
「あ……」
下山
「まぁ、無理もない。あれだけひどい空襲をくぐりぬけて来たんだ。今やほとんどの民間人に
PTSD

があると言ってもいい」
フブキ
「…………」
下山
「ただ、君の場合、他の人とは少し違うようだ」
下山
「ずいぶんとリアルな夢を見たりするとか」
下山
「ひどい時には、白昼夢というのかな……現実と夢の区別が付かなくなることもあると聞いた」
由季
「だから、それがPTSDってことじゃないんですか?」
怯えてしまっているフブキの代わりに、キッとなって答えたのは由季だ。
由季がこんな態度を取るのは珍しい。
少なくとも俺は、はじめて見た。
もう明らかだ。
由季は、下山を信用していない。それどころか敵視している。
下山
「いや、それが、実に奇妙な話なんだが……」
下山は少しもったいぶったように言葉を切り、あごの下をなでた。
下山
「中瀬さんと非常に良く似た白昼夢を見る人たちがいる。しかも、ひとりやふたりじゃない」
フブキ
「え?」
倫太郎
「…………」
下山
「もちろん程度の差はあるが、国内だけでもすでに十数名ほど見つかっている」
下山
「どうやら海外にもいるようだ。まぁ、西側諸国の情報しかないがね……」
倫太郎
「そんなの、ただの偶然じゃ?」
フブキの怯え方がひどい。
だから、俺はつい口を出してしまった。
下山

プーシン

を知っているだろう?」
またしても唐突に、下山が俺に視線を移し、質問してきた。
倫太郎
「プーシン?」
倫太郎
「ソ連の……書記長ですよね」
ロシアの大統領、と答えそうになって、なんとかこらえた。
この世界線ではソ連は健在だ。プーシンの肩書きは大統領ではなく書記長なのだ。そのことは入間基地にいたときに耳にしていた。
下山
「そう。だが、中瀬さんは興味深いことに、プーシンがロシアの
大統領
①①①
だと答えたとか」
……なんだって?
フブキ
「……すみません。なんか寝ぼけてたんです。それに、私、勉強とか全然ダメで……」
下山
「いや、そうじゃない。白昼夢を見る人たちの特徴の1つなんだ。みな一様にそう口にする。
プーシン
①①①①
大統領
①①①
とね」
フブキ
「…………」
下山

ゴリバチョフ


レリツィン

のことも大統領と呼ぶ者ばかりだ」
下山
「そのおかげで、研究者たちは陰で“大統領病”とか呼んでるそうだが……センスのないネーミングだな」
ま、まさか……。
それってまさか、リーディング・シュタイナー、なのか……!?
あの能力は、程度の差はあれ、実は


以外
①①


人間
①①


持って
①①①
いる
①①
可能性が高い。
はっきり確かめたことはないが、α世界線でのフェイリスの言動から薄々そう感じていたんだ。
……だから、下山が言うその“白昼夢を見る人たち”が、リーディング・シュタイナーを発現した人たちということは、じゅうぶんあり得ることだ。
もしその人たちが、俺と同じように1か月前の世界線変動を認識しているならば。
フブキも、俺と同じように別の世界線の記憶を持っているならば。
プーシンのことを大統領と答えてしまっても、なんら不思議じゃない。
由季
「ゴリバチョフ? レリツィン?」
下山
「知らないのかね。世界史の授業でやっただろう?」
由季
「私、高校時代からずっと理系だったもので……」
下山
「常識だと思っていたが……今の若い子は知らないのか? 最近の学生がここまで不勉強とはね」
下山
「岡部君は知っているだろう、ゴリバチョフやレリツィンくらい?」
倫太郎
「え、ええ、まぁ……」
下山

ベルリンの壁

の崩壊や、
ペレストロイカ

も」
倫太郎
「はい。それも教科書で――」
言ってしまった後で、頭の中で激しく警鐘が鳴った。
――何かがおかしい。下山の話はどこか変だ。
倫太郎
「っ……!」
そして気がついた。
今、まさに東西陣営に別れて世界大戦が起こっているこの時に、“ベルリンの壁崩壊”なんて起こり得るのか?
そもそも、ゴリバチョフがペレストロイカなんて断行できたのか?
カマをかけられた、と気づいた時にはもう遅かった。動揺が顔に出てしまったらしい。
下山
「ふぅん?」
下山
「……、君もそうだったのか」
下山
「そしてそれを、故意に隠そうとしたね?」
倫太郎
「…………」
下山
「やはり、情報通りなんだな。君は何か重大なことを知っている」
下山
「なぁ、岡部君。教えてほしいんだが」
下山は、なぜかいきなり自嘲気味に笑った。気味が悪いくらいの嫌な笑みだった。
下山
「ゴリバチョフ? レリツィン? 君たちが口にするそれは、
いったい
①①①①


なんだ
①①①
?」
下山
「我々はもちろん、アメリカのあらゆる情報機関にも、そんな人物のデータは存在しないんだ」
存在しない?
俺は、隣に座っている由季の顔を見た。
由季
「…………」
その表情から、彼女は別に不勉強だったわけでもなんでもなく、本当にそれらの人物を知らなかっただけなのだと分かった。
下山
「ペレストロイカだのベルリンの壁崩壊だの、それは本当にあったことなのか?」
下山
「答えてくれ」
だが俺は、答えられなかった。
頭の中では、まったく別のことを考えていた。
1ヶ月前のクリスマスイヴに、世界線がいきなり変動した要因に、思い当たったからだ。
もしかしてあの日、ロシアはタイムマシンを使っての
過去
①①
改変
①①
実験
①①
を行ったんじゃないか?
実験内容は、20世紀末に起きたソ連の解体を、阻止すること。
そうして過去を改変した結果が、今のこの世界線なんだとしたら……!
なんて、愚かなことを……!
たったひとつの過去改変が、
バタフライ効果

でここまで世界を変えてしまった。
いったい、どれだけの人間が死んだと思っているんだ……!
下山
「君や君の友達には、本当に他の世界の歴史が見えているのか?」
下山
「私にはとても信じられない。頭のおかしい学者どものたわごとにしか――」
なおも俺を問い詰めようとしていた下山だったが――。
そこで車内に、ケータイの着信音が鳴り響いた。
下山
「ち……っ」
下山が舌打ちをして、ポケットからケータイを取り出す。
下山
「下山だ」
下山
「……ああ、今、防衛局へ……」
下山
「……なに? どういうことだ、それは?」
下山
「くそっ、これだからバカどもはっ……あいつらどこの国の政治家だ……っ」
下山は電話の相手にそう吐き捨てると、怒りの表情を隠さぬまま、壊れそうなほど強くボタンを押して、通話を切った。
下山
「行き先変更だ。
嘉手納基地

へ向かえ。第2ゲートだ」
やってられないとばかりに投げやりな口調で、運転手にそう告げる。
行き先変更だって?
今の電話の相手は誰だ?
困惑していたら、下山は今度は自分でどこかへ電話をかけ始めた。
下山
「下山だ。行き先を変更する。嘉手納基地の第2ゲート前で落ち合う」
それだけ言って電話を切った。
由季
「あの……どういうことですか?」
下山
「状況が変わった。これから岡部君は米軍基地に行ってもらう」
下山
「そのまま米軍機でアメリカ行き、なんていう楽しい旅行が待っているかもしれんな」
倫太郎
「なっ!?」
アメリカだって!?
下山
「せめてファーストクラスを準備するよう要求しておくが、期待はしないでほしい。あいつらは我々の言うことなど、飼い犬の吠え声としか思ってない」
倫太郎
「なんでアメリカに!?」
下山

CIA


NSC

か知らんが、君の即時引渡しを求めているそうだ」
倫太郎
「だからなぜ!?」
下山
「そんなことは、あいつらに直接訊け」
そしてもう何を訊いても答えようとせず、真正面を向いたきり押し黙ってしまった。
車はしばらく自動車道を走り、やがて『沖縄南』と書かれたインターで降りた。
ゲート前で車は停まった。
何人かの米兵が、俺たちが到着するのを待っていたようだった。
下山
「君をアメリカに渡したら、もう我々の所には正しい情報なんてひとつも下りて来なくなるだろう」
下山
「だから、これが最後の機会だ」
下山はそこで助手席から振り返り、俺をまっすぐに見つめてきた。
その目は、懇願しているかのような、思い詰めたもので。
下山
「――教えてくれ。我々はこの先、どうすればいいんだ?」
倫太郎
「…………」
下山
「頼む」
脳裏に、戦火の東京で俺のことを必死に守ってくれた青年自衛隊員の顔が浮かんだ。
彼は今も、東京で誰かのために戦っているのだろうか? それとも、もう……?
倫太郎
「……俺には……分かりません」
下山
「岡部くんっ」
倫太郎
「本当に分からないんです!」
倫太郎
「俺ひとりの力で、この戦争をどうにか出来ると思いますか?」
倫太郎
「ゴリバチョフやレリツィンがロシアの大統領になるとか、東西冷戦を劇的に終結させるとか、そんな歴史を知っていたところで……どうにもならない」
下山
「…………」
背後で、別の車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
下山はため息をつくと、前を向き、助手席のドアを開けた。
下山
「降りたまえ」
言われた通りに車から降りた。
まゆり
「オカリーン!」
倫太郎
「……!」
背後に停まったもう1台のワゴン車から降りたまゆりが、駆け寄ってきた。
倫太郎
「まゆり……!」
まゆり
「オカリン!」
胸に飛び込んできたその幼なじみの体を、抱き留める。
まゆり
「やっと……会えたよぉ……」
倫太郎
「よかった……無事で……」
確かなぬくもり。
ここに、まゆりがいる。
1ヶ月近くも顔を合わさないことなんて今までなかった。
ましてやこんな戦時下だ。元いた世界線と違って容易に連絡も取れない。
だからまゆりが無事なのかどうか、不安で不安で仕方がなかった。
まゆりが無事か確かめるために、ここまで生き延びてきたと言っても過言じゃない。
俺は、まゆりを助けるために、α世界線をなかったことにしたんだ。
まゆりにだけは、とにかく無事でいてもらいたかったんだ。
まゆり
「オカリン……苦しいよぉ」
倫太郎
「あ、悪い」
強く抱きしめすぎたな……。
言われて、まゆりから離れた。
まゆり
「まゆしぃね、信じてたよ」
まゆり
「オカリンと、絶対また会えるって。信じてた」
倫太郎
「ああ……」
フェイリス
「よかった! 無事だったかニャー!」
るか
「岡部さーん!」
さらに聞きなれた声が響く。
フェイリスとるか、その後ろにはカエデの姿もあった。
倫太郎
「みんなも、よく無事で……」
るか
「岡部さん、ボク……ボク……うう……」
倫太郎
「ルカ子……」
ルカ子の涙につられて、俺まで目頭が熱くなってしまった。
カエデとも会釈を交わす。そのカエデにフブキが子供のようにしがみついている。青い顔をして怯えたままだった。
倫太郎
「フェイリス……さすがにメイド服じゃないんだな」
フェイリス
「フェイリスって呼ばれたのも、久しぶりニャ」
フェイリスは寂しそうにそう言うと、俺の首から肩に手を回してギュッと抱きついてきた。そのままピンク色の小さな唇を耳元に寄せ、キスの仕草をしてくる。
倫太郎
「お、おい……?」
この状況でいったい――。
フェイリス
「ニャハハ、照れることないニャン」
いたずらっぽく笑いながら、フェイリスは――いや、秋葉留未穂は、キスをするフリをしつつ、俺の耳元で囁いた。
フェイリス
「気を付けて。防衛省の人も米軍の人も信用してはダメ」
フェイリス
「大人は嘘だらけ。みんな本当のこと言わないわ」
そうだ、フェイリスには特技があったんだったな。
チェシャ猫

の微笑
チェシャー

・ブレイク

他人の心の奥底を見抜く天才的な洞察力。
倫太郎
「……ああ。思い知ったよ」
さっき、まんまと騙されたところだ。
フェイリスは少し驚いた様子で、俺から離れた。
フェイリス
「……悲しいニャン」
倫太郎
「そうだな……」
そこへまた、エンジン音が近づいてきた。
今度は、ゲートの向こう側、基地内からだ。
やって来たのは、ナンバープレートに『E』の字が刻まれている黒塗りの高級車。その後ろに続くのはマイクロバスだった。
2台は、ゲートの手前で停まった。
懐かしの顔ぶれとの再会の時間は、それで終わりを告げた。
米国軍人
「ウェルカム!」
黒塗りの高級車から、バスケットボール選手のような長身の米国軍人が降りてきた。
米国軍人
「ようこそ、皆サン! 私、ハモンドです。歓迎します」
なんだか中途半端に流暢な日本語を操る男だった。
ハモンド
「では、ミスター岡部以外の皆サンは、バスに乗ってくだサイ」
にこやかな顔をしているが、有無を言わせないような話しぶりだ。
そして他の米軍兵士たちは、さっきからニコリともせず周囲を警戒して小銃を構えたままだった。
下山たちは離れたところで見守っているだけだ。止めようともしない。ただただじっと目を伏せている。
まゆり
「え、オカリン以外って……どういうこと……?」
倫太郎
「…………」
ハモンド
「怖がらなくてイイです。皆サンには少し話を訊かせてもらいマス。でも後で、すぐに沖縄防衛局へ送りマス! さあ、ドウゾ」
まゆり
「オカリン……!」
倫太郎
「大丈夫だ。安心しろ」
まゆり
「でも……」
倫太郎
「由季さん、まゆりを頼みます」
由季
「……はい」
うなずいた由季が、まゆりの肩を抱くようにして一緒にバスへと向かって歩き出した。他のみんなも続く。
まゆり
「オカリン……」
倫太郎
「俺の両親に、よろしく言っておいてくれ」
マイクロバスは、俺以外の全員を乗せると、すぐに走り去った。
ゲート前が、静けさに包まれる。
1ヶ月もの間、必死で逃げてきた本州の各地と比べたら天国みたいなのどかさだ。とても同じ世界だとは思えない。
ハモンド
「さて、それではミスター岡部。あなたはドウゾこちらの車へ」
黒塗りの高級車、その後部座席に乗れ、と言う。
これに乗ったら、俺はどうなるんだろう。
一瞬だけそれを考えようとしたが、だからってここでジタバタしてもしょうがないと覚悟を決め、車に乗り込もうとした――。
下山
「岡部君、逃げろッ! アメリカへ行ったらもう生きて戻れな――」
倫太郎
「……!」
下山の怒鳴り声は、銃撃音にかき消された。
視界の隅で、米軍兵士たちがなんの躊躇もなく小銃を撃つのが見えた。
嘘だろ?
振り返ろうとしたら――
ハモンド
「乗って」
視界を大きな手で塞がれ、ハモンドに体を押される。
下山の声はもう聞こえてこない。
指の隙間からわずかに見えた景色の中に、動く者の姿もない。
それがなにを意味するのか、分からないわけじゃなかった。
考える暇すらも与えてもらえず、車に押し込まれる。
倫太郎
「こんなの――」
口を開こうとしたが、ハモンドは俺を見据えたまま黙って首を左右に振った。
喋るな、ということらしい。
そのままハモンドも俺の隣に座り、ドアを閉めると同時に車は走り出す。
途中で、まゆりたちの乗ったマイクロバスとは違う方向へと曲がった。
アメリカ、か。
行くのははじめてだった。
そこで俺はなにをされるのだろう。
実験台
モルモット
か? 開頭されて脳を隅々まで調べられるのか?
ゆっくり観光なんてできそうもないな。
悲鳴を上げたくなりそうな気分だったが、なんとか冷静であろうと努める。
ハモンド
「あなたに会わせたい人がイマス」
ハモンドが唐突にそう言って、俺になにかを手渡してきた。
思わず受け取ってから、それがなにか確かめてみると、ただのスマホだった。
ハモンド
「ロックはかかっていまセン。そこのボタン押して」
倫太郎
「……?」
戸惑いつつも、指示された通りにボタンを押す。
そうして、液晶画面に映り込んだのは――
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「“紅莉栖”……!」
『Amadeus』の牧瀬紅莉栖だった。
倫太郎
「なんで米軍が『Amadeus』を――」
横に座るハモンドに詰め寄ろうとしたら――。
およそ1ヶ月ぶりに、あの感覚が俺を襲った。
アマデウス紅莉栖
「あら岡部。今日もずいぶん寒そうね」
アマデウス紅莉栖
「…………?」
アマデウス紅莉栖
「どうかした?」
アマデウス紅莉栖
「心ここにあらず、っていう顔してるけど」
アマデウス紅莉栖
「また倒れたりしないでよ。真帆先輩やレスキネン教授も、あの時すごく心配してたんだから」
アマデウス紅莉栖
「え? ゴリバチョフ? プーシン?」
アマデウス紅莉栖
「ええ、知ってるけど……」
アマデウス紅莉栖
「あんた、やっぱりちょっと変よ?」
アマデウス紅莉栖
「大丈夫なの?」
アマデウス紅莉栖
「病院に連れてってもらったら? あまり無理しない方がいい」
……“紅莉栖”と話すのは、今はやめておこう。
世界全体が、色彩ごとグラグラと揺れている。
自分の存在自体がどこにあるのか、脳が認識できないような不安定な感覚。そして貧血の時にも似た目眩と落下感。
耳の奥では、心臓の鼓動に従って血管がどくどくと音を立てているのがやたら大きく聞こえている。
ふわふわした感覚はやがて消え、周囲の様子が確かな存在感を持って像を結んだ。
まゆり
「オカリン?」
倫太郎
「……!?」
目の前にまゆりがいた。
ここはラボだ。見慣れた部屋だ。
沖縄の景色なんて、影も形もなくなっていた。
倫太郎
「…………」
まゆり
「ええと、そんなに見つめられたら、まゆしぃ恥ずかしいんだけど……」
気付けばじっとまゆりのことを見つめてしまっていた。
部屋の中を見回す。
PCの前には、いつものようにダルが座っていて、猫背気味の背中を俺に向けている。
ソファでは鈴羽が週刊誌を読んでいる。開いたページには『あなたも危ない!? 新型脳炎が世界を襲う!』というアオリ文句が並んでいた。
いつものソファ、安物の冷蔵庫、ダルのPCデスク、開発室との間を部屋を仕切っている薄汚れたカーテン。
ゴミ捨て場から拾ってきた壁掛け時計は、午後6時過ぎを指していた。
カレンダーを見ると、2010年はすでに過ぎ去り、2011年の1月になっている。
世界線が……また、変わったんだ。
帰って……きた?
元の世界線に?
倫太郎
「……なぁ、まゆり、ここって、秋葉原だよな?」
まゆり
「……?」
倫太郎
「違う……のか?」
まゆり
「秋葉原だよ」
倫太郎
「今日って、何日だっけ?」
まゆり
「んーと、21日」
倫太郎
「ゴリバチョフ、知ってるか?」
まゆり
「ごりばちょふ? どこかで聞いたことがあるような……」

「ペレストロイカっしょ。おそロシア。あ、でもゴリビーってソ連時代だっけ」

「やっぱロシアと言えばプーシンっしょ。目の前でにらまれたら、ションベンちびる自信あるね」
まゆり
「プーシンさんなら知ってるよー。ロシアの大統領さんだよね」
まゆり
「実はワンコが好きなんだよ。秋田犬を飼ってるんだって。ニュースでやってた」
倫太郎
「大統領……」
倫太郎
「ああ、そう、そうだ、大統領だ……!」
まゆり&至&鈴羽
「……?」
「……?」
「……?」
まゆりもダルも鈴羽も、俺のことを見て怪訝な顔をしている。
こんな顔をされるのも、久しぶりの感覚だった。
戻って、こられたんだ。
常に死と向かい合わせの状況からは解放された、ということだ。
そのことに、心の底からホッとした。
だが――すぐに疑問が湧き上がる。
いったいなぜ急にまた、世界線は変動したのか。
少し冷静になって考える必要があった。
屋上に出て、スマホのウェブブラウザを起ち上げる。
戦時下の状況とは違って、あっさりとネットワークに繋がった。
回線の速さに驚く。戦時下ではネットに繋げるだけでも一苦労だったのに。
とりあえず『ゴリバチョフ』で検索してみると、すぐに結果が表示された。
ペレストロイカ。
ソ連の最初で最後の大統領。
8月のクーデターとソ連の崩壊。
俺が期待したキーワードがずらりと並んでいる。
ソ連は20世紀末に解体され、すでに存在していないことを確認して、ブラウザを閉じた。
倫太郎
「ふぅ……」
では、なぜ世界線は再び変動したのか。
俺はなにもしていない。世界線変動率に干渉する術なんて皆無だった。
だとしたら、変動させたのは誰だ?
最初にロシアでタイムマシンによる過去改変実験を行った連中が、元に戻したのか?
1ヶ月ほど世界の経過観察をして、満足したとでも?
そんなふざけたことを今後も続けるつもりなんだろうか。
そのたびに、俺はその世界線変動に巻き込まれるんだろうか。
倫太郎
「…………さむっ」
さすがに上着も羽織らずに外に出たのは失敗だった。
これ以上ひとりで考えていても、推測以上のものは出てこないな……。
ラボに戻る。
玄関には、クリスマスパーティーの時にぶら下げていたリースがまだそのままにしてあった。
倫太郎
「クリスマスパーティー、か」
まだ、ほんの1ヶ月ぐらいしか経っていないんだよな。
遠い昔のように感じる。
そもそもクリスマスパーティーの後、この世界線では俺はなにをしていたのか、その記憶は俺にはない。

「ああ、そう言えば飾り付け、放置したまんまだっけ。いい加減外さないとなー」

「パーティーのときに、オカリンとフブキ氏が倒れたっしょ。それでバタバタしちゃって、ちゃんと片付けできてないんだよね」
倫太郎
「俺と中瀬さんが、倒れた?」
世界線が変動したあの瞬間か。
クリスマスパーティーで俺が倒れたことを、まゆりたちは記憶している。
ということはやはり、今の俺は、世界線変動に巻き込まれる前と同じ世界線に戻ってきたことになるな……。
もしこれがロシアの仕業なら、世界線変動についてそこまで使いこなせていることに戦慄を覚える。
それともうひとつ。
俺だけじゃなくて、フブキまで倒れたというのが気になった。
考え込んでいると、ダルやまゆりがまだ戸惑ったような目を向けてきていた。
まゆり
「オカリン?」
倫太郎
「あ、そ、そう言えば、中瀬さんの具合はどうなのかな、って思ってな」
慌てて言いつくろう。
まゆり
「フブキちゃん、まだ入院してるんだ~……」
倫太郎
「入院? もう1ヶ月近く経ってるのにか?」
まゆり
「本人は大丈夫だって言ってるんだけど、ちっとも退院させてもらえないんだって」
最近は、よほどの病気でもない限り、それほど長期の入院はさせないのが普通らしいが。
フブキはなにかの病気なのか?
鈴羽
「コレの疑いが晴れないらしいね」
鈴羽がそうつぶやいて、読んでいた雑誌のページを掲げた。
『あなたも危ない!? 新型脳炎が世界を襲う!』
倫太郎
「新型脳炎……」
記事を読ませてもらう。
たしか、11月ぐらいから話題になっていたものだ。
俺もチラリとニュースなどで見たことはある。
海外では、症状は軽微ながらすでに百名近くの発症者が見つかっており、日本でも、現在、10名ほどが検査入院中である――と書かれていた。
日本にいつの間にか上陸していたのか……。
その検査入院中の約10名のひとりが、フブキ……ということか?
これって、空気感染とかするんだろうか。
クリスマスパーティーで一緒だった俺たちにも伝染したりしていないだろうか?
……不安になっても仕方ないとは分かっていつつも、ついつい考えてしまった。
まゆり
「ねぇ、オカリンも……、一度、病院で診てもらった方がいいんじゃないかなあ」
まゆり
「あの時のオカリン、フブキちゃんよりもっと具合悪そうだったよ……?」
倫太郎
「……ああ、考えておくよ」
まゆりには適当にそう答えつつ、雑誌に目を戻す。
“国内外で見つかりつつある奇妙な脳症状”
“原因不明”
“突然の記憶の喪失”
“周囲の者との記憶の齟齬”
“時間感覚の欠如”
“夢と現実の区別がつかず、時に白昼夢を見る”
そんな文字が並んでいる。
これは、まるで――。
倫太郎
(まるで、リーディング・シュタイナーみたいじゃないか)
そしてそれは、直前までいた世界線で下山が話していたことともぴったり一致する。
下山
「ずいぶんとリアルな夢を見たりするとか」
下山
「ひどい時には、白昼夢というのかな……現実と夢の区別が付かなくなることもあると聞いた」
下山
「中瀬君と非常に良く似た白昼夢を見る人たちがいる。しかも、ひとりやふたりじゃない」
あの話を聞いたときも、思ったのだ。フブキはリーディング・シュタイナーを持っているのではないか、と。
クリスマスパーティーの夜、彼女が倒れたのは、実は新型脳炎でもなんでもなく、予期しないリーディング・シュタイナーの発動が原因かもしれない。
だとすれば、病気と診断されたのは誤診だ。不必要な検査や見当違いの診療をされても、快復するわけではない。
とにかく一度、フブキと話してみる必要がありそうだ。
その日のうちに、フブキのお見舞いに行くことになった。
フブキが入院している医学部付属の総合病院があるのは、御茶ノ水。
秋葉原からなら歩いても行けるほどの距離だから、来るのは簡単だった。
いきなり俺ひとりで訪ねても変な誤解をされそうなので、まゆりに一緒にお見舞いに行こうと促し、俺はいかにもついでという形で付いていくことにした。
だが思ったよりも大事になってしまった。
まゆりがお見舞いに行くことを聞いた由季やカエデまでが一緒に来ることになったのだ。
すでにまゆりたちは何度かお見舞いに来ているらしく、フブキがどの病室にいるのかも把握しているようだった。迷いなく廊下を進んでいく。
面会時間である午後8時ギリギリになってしまったため、どうしても急ぎ足になる。
と、通りかかったナースステーションの前で、ちょっとした騒ぎが起きていた。
四十代後半くらい、グレーのジャージを着た女性が、医師や看護師相手に食ってかかっている。
入院患者
「いい加減にしてよ! いつになったら退院出来るの!」
男性医師
「ですから、必要な検査と治療を行った後に、ですね」
入院患者
「治療なんてなんにもしてないじゃない! しかも、ちょっとした検査のはずが、なんで1か月も出られないの!? 仕事はどうしてくれるの!?」
男性医師
「落ち着いてください。この病気は未知の部分が多く、充分な検査を行って慎重に治療をしませんと危険なのです」
入院患者
「ウソ! テレビじゃ、そんなに大変な病気じゃないから安心しろみたいに言ってたわよ!」
男性医師
「ですから、それは適切な検査と治療を行うことが前提です。さきほども、突然のめまいを起こしたと看護師からの報告が来ています」
入院患者
「あれはっ、夕飯が遅いからお腹が空いて貧血になっただけよ! 私は元気なの! さっさと退院させて!」
女性は、医師につかみかからんばかりだった。それを女性看護師たちが数人がかりで押しとどめ、やがてなだめすかしながら、どこかへ連れ去って行った。
カエデ
「びっくりしたわ……」
由季
「フブキちゃんは大丈夫かな?」
心なしか早足になって、まゆりたちは廊下を進んでいった。
フブキが入院している病室は、廊下の最奥にある4人部屋だった。
そっと部屋の中をのぞき込んでみると。
フブキ
「うぐうっ……はうぅぅっ……」
倫太郎
「……?」
カエデ
「この声……?」
カーテンで仕切られたフブキのベッドから、なにやら声が漏れてくる。
まゆりが青い顔になって、慌てて仕切りのカーテンを開いた。
まゆり
「フブキちゃんっ」
フブキ
「ふぎゅぇっ?」
珍妙な声を上げて振り返ったフブキは、よく見るとベッドの上でお行儀悪くあぐらをかき、備え付けの小さな液晶テレビでドラマを見ているところだったみたいだ。
目を真っ赤にして泣き腫らしていたようだが、口には
ぽっきー
①①①①
をくわえているところを見ると、単にドラマに感動していただけらしい。
まゆり
「……あ、れ?」
フブキ
「おお、みんな、また来てくれたんだー」
フブキは涙を拭くなり、いつもの笑顔に戻って出迎えてくれる。
まゆり
「ふ~、まゆしぃはドキドキしちゃったよ~。フブキちゃんが泣いてる~って思って」
カエデ
「紛らわしいんだから……」
フブキ
「ごめんごめん」
謝りつつも、フブキはチョコレートスナックをひとつ、口に放り込んだ。
その頭にはヘッドギアをつけて、髪の毛をまとめている。
単に入院生活で煩わしいからかと思ったがそうではないらしい。ヘッドギアっぽいものからは何本もコードが延び、腰に装着されたベルトにつながっていた。
脳波をモニターするためのものなのだろうか。
そう思ってできるだけさりげなく、病室内の他の入院患者にも目を向けてみたが、フブキと同じように全員がヘッドギア状の器具を頭に着けていた。
新型脳炎の患者には全員、それを着けさせているのかもしれない。
まゆり
「フブキちゃん、ごめんね。みんなで押しかけちゃって」
フブキ
「とんでもない、大歓迎だよ。それに……、オカリンさんまで来てくれるとは思わなかった」
フブキは、そう言ってじっと俺のことを凝視してきた。
フブキにそこまでまじまじと見つめられることなんてはじめてだったから、俺の顔になにか付いているのかと困惑してしまうほどだ。
倫太郎
「俺と同じように倒れたっていうから、気になってたんだ。具合は?」
フブキ
「全然平気。なんで退院出来ないのか、ほんと分かんないよ」
フブキ
「毎日毎日、検査するだけで他にはなんにもやることないし。退屈で退屈で」
フブキ
「しかもさ、病室ってケータイ禁止なんだよね。メールしたくてもロビーまで行かないとダメだし、夜9時になると勝手に消灯されちゃうから、深夜アニメも見られないし」
フブキ
「もうっ、信じられない」
フブキのベッドの周りには、携帯ゲーム機やら雑誌やら小型DVDプレイヤーやら……とにかく退屈を紛らわすためのグッズが大量に積まれていた。
さらに、食べ散らかしたお菓子の空箱があちこちに散らばっていて、とてもじゃないがニュースになるほどの重病で入院している患者には思えなかった。
フブキ
「オカリンさんは大丈夫なの?」
倫太郎
「ああ、まゆりにも言ったが、この通りなんともない」
フブキ
「そっか。良かったぁ」
彼女は心底ホッとしたように息をついたが、視線はなおも俺のことを見つめたままだった。
カエデ
「はわっ……!?」
と、いきなりなぜかカエデがオロオロし出した。それどころか急に赤面したり、俺のことをチラチラ見たり、涙目になったりと、すごく挙動不審だ。
フブキ
「……? カエデちゃん?」
由季
「どうかした?」
カエデ
「あの……っ」
全員の注目を浴びてしまったカエデは困ったようにモジモジしていたが、仕方なくフブキの耳元に口を寄せ、なにやら囁いた。
フブキ
「はぁーっ!?」
由季
「フブキちゃん、しーっ」
いきなり大声を出したフブキを、全員でたしなめる。
ここは病院だ。同室の患者がいる手前、騒ぐわけにはいかない。
フブキ
「だって、みなさん、ちょっと聞いてくださいよ」
フブキ
「ここにいらっしゃる
来嶋
くるしま
かえでさんってば、私とオカリンさんがみんなに隠れてこっそり付き合ってるんじゃないかって、疑ってるんですよ」
倫太郎
「っ!?」
俺たちまで大声を上げそうになり、必死に声を押し殺した。
倫太郎
「な、何を言い出すんだ……」
カエデ
「だって、まゆりちゃんの話だと、今日フブキちゃんのお見舞いに行こうと言い出したのって……オカリンさんなんですよね?」
倫太郎
「それは……まあ、そうだが」
それは別の目的があってのことで――とは言えない。
カエデ
「それに、さっきからフブキちゃんとオカリンさん、愛おしそうに見つめ合ってるし……」
フブキ
「愛おしそうに見つめてないからっ」
フブキ
「ええっとね、そうじゃなくて、その……」
フブキは困ったように自分の髪をくしゃくしゃとかきむしろうとしたが、ヘッドギア状の器具があって諦めた。
フブキ
「……ちょっとリアルな夢をね、見ちゃって」
倫太郎
「リアルな夢……?」
ギクリとした。
もしかするとそれは、俺が確かめたかったことなのかもしれない。
フブキ
「今日の夕方くらい、かな。少しウトウトしてたんだ。やることもないしヒマ過ぎちゃって」
フブキ
「そしたら、なんかね……あんまり詳しくは覚えてないんだけど……私とオカリンさんと由季さんが、怖い人に車に乗せられて、どこかへ連れて行かれる夢を見ちゃったんだ」
由季
「私も出てくるの?」
フブキ
「うん……」
倫太郎
「…………」
同じだ。
俺があの世界線で経験したことと同じ夢を、フブキは見ていたことになる。
しかも今日の夕方ということは、俺が体験していたのと
同じ
①①
時間
①①
じゃないか。
俺は、カーテンの隙間から病室内を確認し、病院のスタッフなどがいないことを確かめた。
倫太郎
「みんな、悪いが中瀬さんと2人で話をさせてくれないか?」
カエデ
「はわっ!?」
まゆり
「ふぇ!?」
由季
「まさか……!」
倫太郎
「違うって……」
そういうリアクションをされると、こっちが困るだろう……。
まゆり
「それは、まゆしぃたちには聞かれたくないこと?」
倫太郎
「……病気のことについてなんだ」
まゆり
「…………」
まゆり
「うん、分かった」
まゆりは素直にうなずくと、仕切りのカーテンの外に出た。
他の2人も、困惑した顔を浮かべながらもまゆりにならう。
フブキ
「あの……?」
倫太郎
「中瀬さん、君の話した夢なんだが、もしかして場所は沖縄じゃなかったか?」
フブキ
「えっ?」
フブキ
「……そう、だね。うん、たぶん沖縄だった……と思う。車に乗ってる時に、そういう看板を見た気がする」
倫太郎
「車に乗ってたのは、俺と君、そして由季さん。ほかに運転手と、背の低い自衛隊の男」
フブキ
「う、うん」
倫太郎
「男の名前は、下山」
フブキ
「……!」
フブキの顔色が明らかに変わった。
沖縄を車に乗って走っている夢なら、まだかろうじて偶然で済ませられるかも知れないが、具体的な名前まで一致したとなると話は別だ。
フブキ
「どう……して……」
倫太郎
「その男は君に、白昼夢の話をした。ロシアの大統領の話も」
フブキ
「うん……!」
倫太郎
「そして、俺たちは米軍基地に連れて行かれた。そこでまゆりたちと合流して、俺とは別れた」
フブキ
「…………」
フブキは、絶句している。
間違いない。俺の中で、予測は確信に変わった。
やはりフブキは、普通の人より強いリーディング・シュタイナーを持っていて、別の世界線の出来事を比較的明瞭な“夢”という形で覚えているんだ。
フブキ
「夢の中で、その下山って人が言ってた……。オカリンさんも私と同じで、別の世界の記憶を持ってるんだって」
倫太郎
「ああ」
フブキ
「それって、本当だったんだ?」
倫太郎
「……ああ」
一瞬だけ迷ったが、結局、俺自身のリーディング・シュタイナーの能力について、要点だけを簡単に伝えた。
フブキが体験している白昼夢は病気なんかじゃないということだけは、伝えておきたかったからだ。
だが、それを話すと、フブキは予想外のことをつぶやいた。
フブキ
「だったら、他にもいるかも……。病気じゃない人」
倫太郎
「そうなのか?」
フブキ
「ヒマだから、みんなとね、よく話をするんだ、自分の見た夢の話。それがものすごくそっくりで、びっくりすることがあって」
倫太郎
「…………」
フブキ
「ついさっきもね、隣の部屋に入院してる小学生の子が言ってた。ここで仲良くなった子なんだけど……」
フブキ
「一度も行ったことないはずなのに、沖縄にいる夢を見たって。戦争で東京が燃えちゃって、自衛隊に助けられて沖縄へ逃げる夢だったって……」
倫太郎
「そ、そうか」
なんてことだ……。
もしそれが本当だとすれば――フブキだけでなく他の患者の中にも、脳炎でもなんでもないのに無意味に長期入院させられている者がいることになる。
フブキ
「お医者さんに話した方がいい?」
倫太郎
「いや、とてもじゃないが信じてもらえるとは思えない。それどころか、妄想がひどくなったって診断されたりでもしたら……」
フブキ
「う~、そっか」
倫太郎
「他の人にもまだ黙っていたほうがいい。騒ぎになったら大変だ」
フブキ
「うん……」
と、カーテンの外から由季が顔をのぞき込んできた。
由季
「岡部さん、看護師さんがこっちに来ます」
看護師
「面会時間、おしまいですよー」
時間を見ると、午後8時をとうに過ぎていた。
まゆり
「バタバタしちゃってごめんね、フブキちゃん。今度はゆっくりできるように、早めに来るね」
フブキ
「ああん、マユシィ、行っちゃやだぁ~」
まゆり
「でも、ナースさんに怒られちゃうよ」
フブキ
「そんなの別にいいよー。今夜は私と一緒に寝てー」
フブキが、もういつも通りの彼女に戻って、まゆりの手をひしっと握った。
苦笑しつつ、その手を引き離すのはカエデだ。
カエデ
「なるべく来てあげるから、ワガママ言っちゃだめ……」
フブキ
「なるべくじゃ、やだよー。明日も明後日も放課後になったら来てー。ヒマでヒマで死んじゃう」
フブキがわざとらしく手足をじたばたさせると、カエデは微笑んでその頭を撫でた。
カエデ
「はいはい。それじゃあ、またね……」
まゆりと由季もそれにならって“いい子いい子”とばかりに彼女を撫でまわし、やがて、ケンネルに預けられる子犬のような目をしているフブキを置いて、全員、病室を後にした。
最後に病室を出るときに、俺が振り返ると、フブキはベッドからじっと俺たちのことを見送っていた。
目が合ったので、小さくうなずいて見せる。
――大丈夫。君は病気じゃないんだから、心配するな。
その意図が伝わったのかどうなのかは分からないが、フブキもうなずきを返してきてくれた。
面会時間後の病棟の廊下は、それまでと打って変わってシンと静まり返っていた。
エレベーターを待つ間に、スマホをチェックする。
倫太郎
「……ん?」
RINEが来ていた。
鈴羽からだ。
倫太郎
「…………」
その短い文章からは、ただならぬ緊張感が漂っていた。
まゆりたちと別れた後、鈴羽に連絡したら、待ち合わせ場所としてラジ館屋上を指定された。
足を運んでみると、暗い屋上で、鈴羽が静かにただずんでいた。
鈴羽
「…………」
まったく笑顔がない。闇の中で鋭く光るその双眸に見つめられると、ゾクリと背筋が寒くなってしまうほどだ。
明らかにいつもの鈴羽じゃなかった。
というより、本来の鈴羽に戻った、という感じか。
俺にとっては、あまり快い話にはならなさそうだな。
鈴羽
「悪かったね、オカリンおじさん。こんな所に呼び出しちゃって」
倫太郎
「話ってなんだ?」
鈴羽
「あ、うん……」
鈴羽
「あたしは、なんていうか、話の駆け引きとか、上手な情報の引き出し方とかそういうの苦手でさ……」
鈴羽
「…………」
言いよどんでいるところを見ると、話しにくい話題なのは間違いなさそうだ。
倫太郎
「単刀直入に言ってくれ。以前のお前なら、たぶんそうしていただろう?」
鈴羽
「……そう、だね」
倫太郎
「もしかして、俺の事、気遣ってくれてるのか?」
鈴羽
「…………」
倫太郎
「そうか。……ありがとう」
鈴羽
「別にそんなんじゃ――」
鈴羽は、少しムキになって言い返そうとしたようだが、結局、口ごもってしまった。
倫太郎
「実は俺、最初はちょっとショックだったんだ」
倫太郎
「お前が、俺のよく知ってる鈴羽と、全然違ったから……」
鈴羽
「それは仕方ない。世界線が違えば、育った環境も、そこで出来上がる人格や考え方も変わる」
倫太郎
「ああ。でも、今はそうは思わない。鈴羽はやっぱり鈴羽だよ」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「いいや、やっぱりあたしは違う」
鈴羽
「オカリンおじさんのよく知ってる
阿万音
①①①
鈴羽
①①
じゃ
①①
ない
①①

倫太郎
「鈴羽……」
鈴羽
「今日、あたしはオカリンおじさんを尾行したんだ」
倫太郎
「尾行?」
鈴羽
「そう。病院の中まで、ずっと」
なんだって? なぜ、そんなことを?
いや。その理由など、聞くまでもなく分かってしまった。
今、鈴羽がそんなことをする理由など、たったひとつしかない。
倫太郎
「俺が世界線を移動したことに、気付いたのか?」
鈴羽
「あのクリスマスの夜に、おじさんにリーディング・シュタイナーが発動したんじゃないかと、ずっと疑ってたんだ」
鈴羽
「あの日だけじゃない。今日もだ」
鈴羽
「それで、確信に変わったよ」
鈴羽には、世界線変動が起きたことをあえて話さなかった。
こうして鈴羽が焦り出すのは目に見えていたからだ。
倫太郎
「…………」
鈴羽
「訊かせて。ここはもう、前の世界線とは変わってしまったのか?」
倫太郎
「……訊いてどうする」
鈴羽
「いいから答えてっ」
鈴羽
「これは命令だ、
岡部
①①
倫太郎
①①①

倫太郎
「……っ!?」
鈴羽が鈍く光る拳銃を懐から抜き出すのを見て、俺は息を飲んだ。
その銃口が狙っているのは、俺の眉間だ。
倫太郎
「冗談、だよな?」
鈴羽
「冗談でこんなことはしない」
倫太郎
「…………」
今の鈴羽は、初めてこのβ世界線に来た時と同じ――任務の忠実な遂行者としての自分を取り戻そうとしているように見えた。
しかも、こんなにも、痛々しいほど必死になって。
もしここで撃たれたら、どうなるだろう。
血だまりに突っ伏す自分の姿を想像してみる。
それが、かつて見た紅莉栖の死体と重なった。
倫太郎
「……っ」
あの日の光景がフラッシュバックとして蘇ってきそうになり、目を閉じ、歯を食いしばって、必死にこらえる。
つい昨日までおよそ1ヶ月もの間、戦時下を逃げ惑ってきたが、それでもまだ、こうして直接、銃口を向けられるのは慣れない。
鈴羽
「もう一度訊く。世界線は変動したのか? ここはもう、以前とは違う世界なのか?」
だが、そう詰め寄ってくる鈴羽も、両手でしっかりホールドしているはずの銃が、微かに震えていた。半年前、この時代にやってきたばかりの鈴羽なら絶対に考えられないことだ。
そんな自分を恥じているのか、彼女は歯をさらにきつく噛みしめた。
その拍子に唇をかんでしまったらしく、口の端から顎に向かって真っ赤な血がツウッと一筋、流れ落ちる。
俺は、その血の筋を見つめながら答えた。
倫太郎
「大丈夫だ。俺たちは以前のままの世界線にいる……」
鈴羽
「本当に?」
倫太郎
「ああ。一度、別の世界線に移動したのは事実だが、再び元に戻った……はずだ」
鈴羽
「それをやったのは誰だ? ロシアか?」
倫太郎
「……だと思う」
鈴羽
「とうとうタイムマシンの実験を開始したってことか」
倫太郎
「…………」
俺はうなずいた。
鈴羽
「それなら、もう一刻の猶予もないじゃないか」
鈴羽
「連中が実験を続ければ、やがて取り返しのつかないことが起きる。シュタインズゲートに続く道が、閉ざされてしまうかもしれない」
鈴羽
「あたしは馬鹿だ。悩んでる場合じゃなかった。もう説得なんて終わりだ……」
倫太郎
「どうする気だ?」
鈴羽
「岡部倫太郎。あたしの命令に従ってもらう。一緒に、7月28日に行くんだ」
倫太郎
「拒否したら?」
鈴羽
「拒否なんてさせない」
倫太郎
「お前はいいのか、それで?」
鈴羽
「なに?」
倫太郎
「この世界線を
なかった
①①①①
こと
①①
にしてしまって、それで――」
鈴羽
「うるさいっ!」
倫太郎
「……っ!」
金属的で、不快な耳鳴りとともに、激しい痛みが鼓膜を襲う。
火薬独特の物騒な香りが、やや遅れて顔のそばを通り抜けていく。
……こいつ、撃ちやがった。
鈴羽
「次は脅しじゃなくて、当てる」
発砲した鈴羽は、今にも泣き出しそうな目で俺を睨みつけていた。
倫太郎
「…………」
俺たちは無言で、じっと視線だけを交わしたまま立ち尽くす。
鈴羽を落ち着かせるための言葉を必死で考えたが、思いつかない。
適当なことを言ったって、鈴羽には通じない。
どうすれば――。

「鈴羽っ! オカリンっ! 何やってんだお!?」
唐突に、ダルの声が響いた。
声のした方を見ると、階段へ続くドアを開けたダルの巨体が、ちょうど姿を現したところだった。
鈴羽
「父さん……!? どうして……」

「まゆ氏と阿万音氏からメールがあったんだ。なんか、鈴羽がオカリンを呼び出したって言うからさ。嫌な予感がして、捜してたんだお」

「あと、差出人不明のメールがあった」
鈴羽
「差出人不明?」

「この場所のマップのURLを送り付けられた。もしやと思って、真っ先に来てみたわけ」

「そしたら銃声がしたから、びっくりしたっつーの」
ダルは全身汗だくだった。話している間にも、額に大粒の汗がどんどんにじみ出てきている。相当急いで来たらしい。

「んで、鈴羽、その銃はなんなん?」
倫太郎
「あ、いや、鈴羽は別に何も――」

「何もなかったら、銃なんて撃たないっしょ、常考」

「ほら鈴羽。話してみるといいのだぜ?」
鈴羽
「……父さんだって、本当は分かってるくせに」

「何が?」
鈴羽
「世界線が変動したことだよ。ロシアがタイムマシンの実験を始めたんだ」

「それって確定なん?」
鈴羽
「だから焦ってるんじゃないかっ」
鈴羽
「このままじゃ、何もかも終わりなんだっ」
鈴羽
「シュタインズゲートに到達出来ない。第三次世界大戦も防げない」
鈴羽
「おおぜいの人が死んで、母さんも死んで、なにもかも回避できない」

「それは困るお」

「でも、だからってさ……、オカリンを脅して無理矢理過去へ連れて行ったとして、それでうまくいくわけ?」
鈴羽
「…………」
ダルが、いつもの呑気そうな顔から一転、すっと真面目な表情になった。

「タイムマシンや世界線のことを研究し始めて、なんとなく分かってきたんだよね」

「オカリンの言う通り、普通のやり方じゃ、何度やっても牧瀬氏の命を救うことなんて出来ないんじゃないかって」
鈴羽
「と、父さんまで、なにを言って……」

「世界線のルールや
因果律

がそんな簡単に変えられるんなら、オカリンの言うα世界線で、まゆ氏の命だって救えたはずっしょ」
鈴羽
「じゃあ、どうしたらいいって言うんだ!?」
ダルは自分の胸をこぶしでポンと叩いた。

「どうすべきかを、僕らは研究してるわけっしょ」
鈴羽
「で……でも……っ、もう時間がっ!」

「大丈夫、僕に任せとけって。絶対になんとかしてみせる」
鈴羽
「…………」

「たまには、父さんの言う事も素直に聞いて欲しいのだぜ」
ダルは、日頃の彼からは想像もつかないほど凛々しく、そして、優しいトーンで言うと、鈴羽の手からそっと銃を取り上げた。
鈴羽は、抵抗しなかった。

「ほら、銃なんかよりもっと大切な物を忘れてるお。今日みたいな寒い日にこそ、これを使うべき」
ダルがポケットから、なにかを取り出す。
銃の代わりに、それを鈴羽の両手に握らせた。
それは、手編みの手袋で。
クリスマスパーティーの日に、由季からもらったプレゼントだ。
俺も、それをよく覚えている。
鈴羽
「……あ、あたし……あたし……」
手袋を渡された途端、鈴羽の目からジワリと涙があふれ始めた。
鈴羽
「どうしていいのか、分かんない……分かんなくなっちゃった……」

「うん」
鈴羽
「助けて、父さん……助けて……お願い……」
あの鈴羽が肩を震わせ、ポロポロと涙をこぼした。
俺はなんとなく、暗闇の中にたたずむタイムマシンへと目を向けた。
倫太郎
「俺は……もう乗らないって、決めたんだ……」
ダルにどれだけ説得されたって、鈴羽にどれだけ脅されたって、俺はもう、過去には、戻らない。
振り返っては、いけないんだ……。
ふと気付くと、鈴羽はタイムマシンの中で、毛布にくるまっていた。
ひたすら泣き続けていたせいか、タイムマシンの中に入ったことも、倫太郎が帰ったことも気付かなかった。
隣では、父である至が同じように別の毛布にくるまり、鈴羽のことを見ている。

「落ち着いた?」
鈴羽
「ぐすっ」
鈴羽
「……今、何時?」
涙を拭いて、そう尋ねる。

「もうすぐ日付が変わるお」
鈴羽
「ごめん。こんな時間まで付き合わせて」

「平気平気」

「前にも言ったっしょ。父さんのこといくらでも頼っていいのだぜ、って」
鈴羽
「うん……」
開けたままのマシンのハッチから、冷たい夜気が忍び込んでくる。
喋るたびに、鈴羽と至の息を白く変えた。
マシンは静かなままだ。コクピットの生命維持装置を使えば寒さもしのげるだろうが、ここで無駄な電力を使いたくなかった。
鈴羽は手袋をはめた手で、自分の頬をさすった。
由季からもらった手袋はとても温かく、手だけはポカポカしていた。

「僕さ、いつか必ずオカリンも僕らと一緒に……いや、違うな。僕らの先頭に立って指揮を執ってくれるって信じてるんだよね」
鈴羽
「……?」
急に至がしみじみと語り出したことに、鈴羽は少し驚いた。
至は普段、おちゃらけてばかりであまり真面目な話はしたがらない。

「未来ガジェット研究所は、オカリンがいてこそ、だから」

「今はちょっと腐ってるけど、きっと立ち直る。同時に、鳳凰院凶真もよみがえるわけ。不死鳥の名は伊達じゃない、的な。厨二病乙的な」

「そのときが来たら、たぶんオカリンは、自分からタイムマシンに乗るよ。鈴羽に言われなくってもね」
至が慰めてくれていることに気付き、鈴羽の胸の奥の方が、ほんのりと温かくなった。
鈴羽
「父さん、すごく恥ずかしいこと言ってるの、自覚してる?」

「うは、ですよね」

「オカリン本人の前じゃ、口が裂けても言えないな」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「あたし、明日までに手紙書くよ。オカリンおじさんに」
鈴羽
「直接顔見て話すと、また変な感じになっちゃうから」
鈴羽
「ごめんなさいっていうのと」
鈴羽
「もうちょっとだけ、もがいてみるって」
鈴羽
「だからオカリンおじさんにも、考えてみてほしいって」
鈴羽
「そうは言っても……実は、もうあんまり時間はないんだけど」

「時間ないって? ロシアが実験を開始したから?」
鈴羽
「実は、タイムマシンを制御してる
量子コンピューター

の内蔵電池、もうすぐ切れそうなんだ」

「……マジ?」
鈴羽
「前に話したよね? かがりを捜すために、1998年から何度もマシンを使ったって」
鈴羽
「それは、当初の計画にはなかった行動なんだ」
鈴羽
「当然、マシンを制御するコンピューターの使用回数も、予定より多くなって……」

「それでバッテリーが消耗したっつーことか」
鈴羽
「マシンそのものの燃料より、そっちの方が深刻なんだよ。マシンを正確に制御してジャンプさせる事が、難しくなる」

「バッテリーだったら、交換とか充電とかすればいいんじゃね?」
鈴羽
「無理だよ」

「ちょっとだけ、その内蔵電池、見させてもらっていいかな?」
鈴羽は至の問いにうなずき、マシンの中枢部分を指で示した。
至はさっそく、大きな体を丸めて、調べだす。
しかし、すぐに困惑の声が漏れ出てきた。

「なんぞ、これ?」
内蔵電池の大きさはちょうど自動車のバッテリーくらいのものだ。でもそれは2036年の技術の結晶であり、おそらく2010年の人間である至が見ても、ちんぷんかんぷんだろう。
至からすれば、ブラックボックスと言ってもいい未知のテクノロジー。一目見ただけでは、原理も構造も理解できないはずだった。
だからこそ、鈴羽は至に見せることを許可した、とも言える。
鈴羽
「2010年の技術でなんとかするのは、無理だと思う」
鈴羽
「言うなればそれは、使い切りの電池と同じ状態ってこと。充電も、交換もできない」

「この時代のバッテリーか発電機に換装するのは?」
その提案に、鈴羽は力なく首を横に振った。
鈴羽
「とっくに試したよ。でも不可能だった」
鈴羽
「ルミねえさんに頼んで、車のバッテリーを用意してもらったんだ。トラックとかに積まれてる大きなやつ」
鈴羽
「繋いでみたら、1秒もたなかった」

「なん……だと……!?」
鈴羽
「ガソリンを使う発電機も試してみたけど、それもダメだった」
鈴羽
「ガソリンが何ガロン必要なのか、見当もつかない。だいたい、そんな量のガソリン、マシンには積めないし」
鈴羽
「ルミねえさんね、ものすごく無理をしてくれて。最新の燃料電池まで手に入れてくれたんだよ」
だがそこまでしても、結局、歯が立たなかったのだ。

「未来の技術ってスゲーのな。こんな小さな物が、そんな大電力をまかなってるっつーワケ?」
至は、目の前にある未来の電池を見ながら、ひたすら感心している。

「SF映画みたく、生ゴミを電気に変えられたらなー」

「で、このバッテリー、あとどれくらいもちそうなん?」
鈴羽
「たぶん……あと1回か2回ジャンプしたら、それで終わり」

「たったそれだけ!?」
鈴羽
「しかも、こうやってマシンが停止してる間もさ、重力場や座標点の計測装置なんかはずっと動いてるから……ジャンプしなくても、いずれ電池切れになる」

「…………」
鈴羽
「残ったバッテリーで正確なジャンプをするには、あと半年が限界だろうね」
鈴羽
「牧瀬紅莉栖を救いに行けるタイミングも、そこまでってことになる……」
鈴羽は至の背中にもたれかかり、息をついた。
ポヨンポヨンとしていて、気持ちがいい。
鈴羽
「……バッテリーが切れて、マシンのコントロールを失ったら……どうなるんだろう?」
鈴羽

カー・ブラックホール

の制御も効かなくなるし……、『
事象の地平線
イベント・ホライゾン

』の向こうから、永遠に戻ってこられないとか?」

「縁起でもない事、言ったらだめだお」
鈴羽
「ん、ごめん」
鈴羽
「でも、そこってさ、どんな場所なのかな……」
鈴羽
「今みたいに静かな時間が、永遠に続くのかな……」
鈴羽
「だったら……それでも、いいな……」
父の温かな背中に寄りかかっているうちに、鈴羽は猛烈に眠気に襲われた。油断すると、即、眠りに落ちてきてしまいそうだ。
戦場ではそれに抗うように教え込まれていたが……ここは戦場ではなく、そして、泣き疲れていたこともある。
たまにはこの睡魔に身を委ねてしまうのもいいかもしれないと思った。
だから、子供のように膝を抱えて、そっと目を閉じた。

「……そっか。結局、鈴羽は、この夏までに必ず行っちゃうんだな……たとえオカリンがどんな結論を出すとしても……」
眠りに落ちる直前、耳元で、父の独り言が聞こえたような気がした。
真帆
「こ、これは……まさに“Paradise”……」
真帆は、まるで少女のように目を輝かせた。
こういう場所に連れて来られて、そういう目をする女性は、なかなかいないだろう。
案内してやった俺のことなど、もはや眼中にないようだ。
いくつものパーツショップが並ぶ狭い通路を、真帆はまるで熱に浮かされているかのような足取りで進んでいく。
そのうちのひとつの店の前で、おもむろに立ち止まった。
そこにはたくさんのプラスティック製コンテナが積まれていて、中には大小様々なジャンクパーツが袋詰めで放り込まれていた。
廃棄されたPCや家電などから取り外されたものらしく、どれもこれも古びていて汚れが目立つ。埃がこびりついてしまっているものも多かった。
真帆
「これ、いったいなんの基板かしら? まるで美術品みたいに美しいパターンをしているわ。しかもアルミナ基板だなんて!」
倫太郎
「ああ、うん……?」
真帆
「なっ!? “IFX008”イメージセンサーですって!?」
真帆
「信じられない。博物館にあってもおかしくないものが、なんでこんな所に転がっているの!?」
倫太郎
「お、おう……?」
真帆
「アキハバラ……聞きしに勝る場所だわ」
恍惚とした表情を浮かる真帆を見て、さすがに少し引いた。
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩は、実はこういう人なのよ」
スマホの中から、“紅莉栖”がそう指摘してきた。
真帆が、今日は“紅莉栖”とも一緒がいいと頼んできたのだ。
そんなわけで俺にとっては、奇妙な形の“両手に花”状態になっていた。
これも、『Amadeus』の実証実験のひとつなのかもしれない。
倫太郎
「俺も、ここは何度か来たことがあるが、あんな顔をしてパーツを愛でる人間には、これまで1人しかお目にかかったことがない……」
アマデウス紅莉栖
「分かった。橋田さんのことでしょう?」
倫太郎
「……ああ」
アマデウス紅莉栖
「さすがにあの人と同類扱いするのは、先輩がかわいそうよ」
アマデウス紅莉栖
「あんたの話を聞く限りだと、橋田さんってとんでもないHENTAIだから」
倫太郎
「そうだな。比屋定さんに失礼だった」
日曜日の昼下がり。
真帆と一緒にパーツショップに来たのには、理由がある。
レスキネン教授と真帆の帰国が、数日後に決まったのだ。
もうすぐ日本を離れることになったので、以前約束した秋葉原案内を頼みたい――真帆からそう連絡があった。
そこで午前中に駅前で待ち合わせし、どこへ行きたいか尋ねてみた結果が、今の状況である。
ちなみに、最初に行ったのはヨドバシで、次がソフマップだった。
他にも、路地の奥にあるような中古PCやレトロPCの店も、すでにいくつか案内済みだ。
倫太郎
「比屋定さんは、こういうパーツが好きなのか?」
真帆
「パーツというか、組み立てる物が好きなのね。子供の頃は、日本製の“
Plastic model

”をよく作ったわ」
アマデウス紅莉栖

ゲルマニウムラジオ

なんかも組み立てた口ですか?」
真帆

ハンダ

付けでよく火傷をしたものよ」
アマデウス紅莉栖
「私もです」
真帆
「みんな同じなのね」
倫太郎
「ははは……」
みんな同じじゃ……ないと思うぞ。
家にハンダがあるという幼少時代を過ごした人間は、むしろ少ない方じゃないか?
真帆
「ああ~、ずっと見ていたい……。どうして私、もっと早くここに来なかったのかしら」
このまま付き合っているといつまで経ってもこの界隈から離れそうにないので、そろそろ食事でもしようと誘って、ようやくパーツショップの前から引き離すことに成功した。
大通りに出る。
この辺は駅前ということもあって、特に混む。
信号待ちをしている人垣のせいで、まっすぐ歩けないぐらいだ。
さてと、どこで食事にしようか。
真っ先に浮かんだのはメイクイーン+ニャン⑯だったが、以前連れていったときの様子を見る限りでは、避けた方がよさそうだ。
かと言って……秋葉原初心者にはサンポはハードルが高すぎるし。
雁船
がんせん
? それとも
キッチンジロー


ゴーゴーカレー

でもいいか。
などとあれこれ考えていると。
真帆
「あ……」
倫太郎
「……?」
ちょうど目の前にあったゲームセンターの店先で、真帆が足を止めた。
真帆
「…………」
1階フロアに並んでいるクレーンゲームが気になるらしい。
真帆
「ちょっとだけ、のぞいてみてもいいかしら?」
真帆の問いかけに、俺はうなずいた。
真帆はクレーンゲームに近寄っていくと、子供みたいにガラスにへばり付いて、中を覗き込んだ。
そこには、@ちゃんねる生まれのキャラクターを商品化したぬいぐるみが色々と入っている。大きさは大小さまざまだ。
もしかして真帆も、紅莉栖と同じように隠れ@ちゃんねらーだったりするんだろうか。
親しい先輩と後輩だ、その可能性はあるぞ……。
そこで俺は、真帆の耳元でこっそり呪文をささやいてみた。
倫太郎

ぬるぽ

……」
真帆
「はい?」
きょとんとされた。
真帆
「何その、ぬる……っていうのは?」
倫太郎
「な、なんでもない! 忘れてくれ」
真帆
「……?」
アマデウス紅莉栖
「…………」
“紅莉栖”がスマホの画面内から恐ろしいほどに冷たい視線を投げかけてきているが、無視しよう……。
倫太郎
「比屋定さん、そのぬいぐるみ、欲しいのか?」
真帆
「ええ。かわいいじゃない。ねえ、“紅莉栖”?」
アマデウス紅莉栖
「ちょっ、せ、先輩!」
真帆
「なに? どうして慌てているの?」
アマデウス紅莉栖
「……なんでもないです」
倫太郎
「ちょっと意外だな。さっきパーツが好きって言ってたから、感性としては男に近いのかもって思ってた」
アマデウス紅莉栖
「岡部! デリカシーないわね、あんたは」
アマデウス紅莉栖
「もっとうまいこと言いなさいよ。“ギャップが素敵だ”とかなんとか」
倫太郎
「済まない……」
真帆
「いいわよ、別に」
真帆
「実はね――このぬいぐるみ、紅莉栖がベッドルームに置いていたのよ」
倫太郎
「そうなのか……?」
アマデウス紅莉栖
「わああ! 先輩!」
倫太郎
「……もしかして、通販かなにかでアメリカまで取り寄せてたのか?」
アマデウス紅莉栖
「べ、別にどうだっていいでしょ……」
倫太郎
「さすが、隠れ@ちゃんねらーだな」
アマデウス紅莉栖
「なによ、@ちゃんねらーって? 聞いたことない」
倫太郎
「ぬるぽ」
アマデウス紅莉栖
「ガッ」
アマデウス紅莉栖
「…………あっ」
アマデウス紅莉栖
「あ~~~~……」
こいつ、『Amadeus』でも変わらないな。
倫太郎
「比屋定さん、紅莉栖は、これがなんていうキャラなのか教えてくれたか?」
真帆
「いいえ。何度か訊いてみたけど、延々とはぐらかされたわ」
倫太郎
「はは……。だろうな」
真帆
「だから、ずっと気になっていたのよ」
真帆
「岡部さんは知っているの?」
倫太郎
「ん~、まあ……」
アマデウス紅莉栖
「お~か~べ~……」
スマホから恨めしげな声が聞こえてきて、背筋に悪寒が走った。
倫太郎
「俺も、知らないんだ。ははは……」
真帆
「そう……」
やれやれ、名誉は守ってやったぞ、紅莉栖。感謝しろ。
真帆
「ちょっと挑戦していいかしら」
真帆は懐から財布を引っ張り出すと、100円玉をゲーム機に投入した。
真帆
「えと? このアームを左右と前後に操作して、ぬいぐるみを掴めばいいのね?」
倫太郎
「もしかして、初めてなのか?」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩は、レースゲームしかやらないですもんね」
真帆
「そういうこと」
うなずきながら真帆は操作ボタンを押し、お目当てのぬいぐるみの真上で見事にアームを停止させた。ちょっと得意げに白い歯を見せる。
真帆
「簡単なものね。あとはアームが降りて勝手に掴んでくれるんでしょう?」
倫太郎
「あ、いや、普通はそうなんだが……」
真帆
「……?」
果たして――アームはぬいぐるみにまっすぐ向かったものの、微妙な角度だったせいか、うまく掴む事が出来なかった。
真帆
「お、おかしいわっ。どういうことなの?」
はじめての挑戦だと、そういう結果になるよな。
真帆はその後も何度かチャンレンジしてみたが、なかなかコツがつかめないようだった。
真帆
「……むむぅっ」
真帆は喟ると、残った300円を握りしめたまま、ゲームセンターの奥へと歩いていってしまった。
向かった先には、赤白ツートンカラーのフォーミュラカーが描かれた
筐体
きょうたい
が見える。ちょうど空いていたシートに、真帆はプンプンしたまま体を滑り込ませた。
あれはたしか、実在のサーキットを舞台にリアルなCGでレースが楽しめるゲームだったはず。
アマデウス紅莉栖
「岡部っ。岡部っ!」
倫太郎
「ん? なんだ?」
アマデウス紅莉栖
「ここは男らしさを見せるところよ」
倫太郎
「男らしさ?」
アマデウス紅莉栖
「先輩の代わりに、あんたがぬいぐるみを手に入れなさいっていうこと」
倫太郎
「ああ、なるほど」
それを真帆にプレゼントしてやれ、と言いたいらしい。
男らしいのかどうかはともかく、あれだけ欲しがっていたんだからなんとかしてやりたい気持ちは、俺にもあった。
ポケットから小銭入れを出して、所持金を確かめてみる。
よし、久しぶりにつぎこんでみるか。
倫太郎
「とはいえ、俺もこういうゲームは得意じゃないんだが……」
それでも、真帆よりはうまくやれる自信はある。
チャレンジしてみるか……。
というわけで、何度か挑戦してみた結果――。
幸運なのか俺の実力なのかわからないが、意外とあっさりと、目当てのぬいぐるみをゲットする事に成功した。
倫太郎
「よしっ」
アマデウス紅莉栖
「ナイス!」
ぬいぐるみを景品用袋に詰め込んでから、真帆がプレイしていると思われるレースゲームの筐体の方へ向かうと、なにやらまわりに10人ほどのギャラリーが集まっていた。
ギャラリー
「すげえ。あの子、何者だよ?」
ギャラリー
「俺に聞くなって」
ギャラリー
「小学生か? あり得ないテクだぞ」
ギャラリー
「これ、レコード出るんじゃね?」
ギャラリーがひそひそと囁き合っている。
どれも感嘆の声だ。
俺も人垣の間から、ゲーム画面を見てみた。
真帆がやっているゲームは、各ステージを規定タイム以内に規定順位以上でゴールしないとゲームオーバーになってしまう仕様だった。
しかも、一戦ごとにコースの難易度がどんどん上がっていくタイプのようだ。
それを、常に一位通過の圧勝でクリアし続けていたのだ。
ギャラリーが呆然と取られているうちに、ついに真帆はラストステージ終了まで全て首位で独走してしまった。しかもレコードタイムだった。
真帆
「ふー」
“Congratulations!”の文字が踊る派手なエンディング画面を前に満足げな顔をしている――と思ったら、今さら自分のまわりに人だかりが出来ているのに気づき、ギョッとしている。
ゲーセン店員
「おめでとうございまーす! 当店のベストレコードでーす!」
店員が、よせばいいのに真帆に近づいていって、店内を盛り上げようと拍手をし始めた。
それにつられて、ギャラリーもパラパラと拍手をする。
真帆
「え、あ、う?」
真帆は顔を真っ赤にして、目を泳がせている。
ここは……助けた方がよさそうだな。
俺は人ごみをかき分けて真帆の前まで行くと、その手を掴んで引っ張った。
倫太郎
「行こう」
真帆
「あ、はい」
それは、いつもの彼女とは思えない従順さだった。
雑踏の中をしばらく歩き、ようやく店が視界から消えると、真帆は大きく息を吐き出した。
真帆
「ふう。迂闊だったわ」
倫太郎
「何が?」
真帆
「つい、熱くなってしまって……。本気を出してしまったの……」
倫太郎
「これのせいか?」
俺は、提げていた戦利品を袋ごと渡した。
真帆
「何?」
真帆はガサゴソと袋を開けてぬいぐるみを引っ張り出した。
真帆
「これ……! 取れたの!?」
倫太郎
「運がよくてね。君にプレゼントするよ」
真帆
「いいの?」
倫太郎
「俺が持ってても仕方ない」
真帆
「そ、そう? じゃあ、遠慮なくいただくわ」
真帆
「ふふっ」
真帆は、まるで幼い少女のように無垢な表情で、ぬいぐるみをぎゅっと抱いた。
そんなに喜んでくれると、こっちまで嬉しくなるな。
真帆
「……紅莉栖が亡くなったあとね、お母さんから形見を色々ともらったわ」
真帆
「けど、これは紅莉栖がとても可愛がっていたからって、お母さん、自分のベッドルームに飾っていたのよ」
@ちゃんねるのキャラクターグッズと知らなければ、それなりに可愛い造形をしている。娘の形見として飾っておいてもおかしくはなさそうだ。
真帆
「だけど、紅莉栖の実家がね、ああいうことになって。……ぬいぐるみも燃えてしまったと思うの、きっと」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「先輩……」
真帆
「だから、これはアメリカのお母さんにプレゼントしていいかしら?」
倫太郎
「もちろん。喜んでもらえるなら、それが一番いい」
真帆
「ありがとう」
アマデウス紅莉栖
「…………」
倫太郎
「さてと、次はどうする? 他に見てみたいところはあるか?」
倫太郎
「と言っても、アニメやゲームのショップなんかは、興味ないよな……」
真帆
「…………」
真帆
「……“紅莉栖”、悪いけど、しばらく岡部さんと二人きりにしてくれる?」
アマデウス紅莉栖
「……!」
アマデウス紅莉栖
「先輩……ついに、自分の気持ちに素直になることにしたんですね……!」
アマデウス紅莉栖
「岡部、ちゃんとしなさいよ」
倫太郎
「はあ?」
アマデウス紅莉栖
「先輩、頑張って! それじゃ」
倫太郎
「ええと、比屋定さん?」
真帆
「行きたい場所、もうひとつあるんだけれど」
倫太郎
「そうか。どこだ?」
それは、“紅莉栖”には知られたくない場所、なんだろうか?
真帆

あそこ
①①①
よ。分かるでしょう?」
真帆の表情からは、さっきまでの笑みは消えていた。
どこか思い詰めたような。覚悟を決めたような。真剣な眼差しを、俺に向けている。
それで、どこのことなのか、俺もすぐに気付いた。
真帆
「ラジ館に、連れて行って」
ラジ館。
真帆がそこに行きたがるということがなにを意味するのか。
それも、即座に理解した。
だってそこは、牧瀬紅莉栖の、最期の場所なのだから。
倫太郎
「…………」
屋上に行くことは、あれからも何度かあった。
そこには今もタイムマシンが鎮座していて、たまに鈴羽やダルがメンテのために通っている。
つい数日前には、鈴羽に呼び出されて銃を突きつけられたよな。
それでも。
8階の、現場となった倉庫には、あれから一度も行っていない。
行く気にはなれなかった。
あの日のことを思い出すだけで、強烈なフラッシュバックが起きるぐらいなんだ。紅莉栖の死んだ場所に足を運ぶことなんて、とてもじゃないが無理だった。
真帆
「大丈夫? ずいぶん顔色が悪いけれど」
倫太郎
「…………」
真帆
「紅莉栖のこと、思い出してしまうの?」
倫太郎
「そう……だろうな」
真帆
「辛いなら、ついてこなくてもいいわ。私一人で行くから」
そう言う真帆も、顔色が青ざめていた。
真帆にとっても、そこへ行くのは辛いことなのだろう。
それでも真帆は、紅莉栖の死と向き合おうとしている。
共通の友人を悼むことに協力はしてやりたかった。
ラジ館は建て替えの計画もあるんだ。
時間は限られている。
倫太郎
「いや……」
倫太郎
「一緒に、行くよ」
半分ほどの店舗は、建て替えのためにすでに別のビルに移ってしまっていた。
それでも7階ではまだ数店が営業中だ。
倫太郎
「……っ」
半年前。7月28日。
俺はこのすぐ上のフロアで、紅莉栖を殺した。
俺の、この手で。
真帆
「ここなの?」
倫太郎
「いや……事件があったのは、この上の階――だと聞いている」
紅莉栖の事件の時、俺は現場にはいなかったことになっている。
まゆりやダルにも口止め済みだ。
真帆
「上には何が?」
倫太郎
「イベント会場と、あとは倉庫とかになってる」
真帆
「行ってみてもいいのかしら」
倫太郎
「今は立ち入り禁止のはず」
だが、いつもなら8階へ続く階段に張られているロープが、今日は撤去されていた。
上からは、ザワザワと賑やかな声も聞こえて来る。
どうやら、休日ということもあって何か催しをやっているようだ。
真帆
「大丈夫そうね」
真帆が先に階段を上っていく。
倫太郎
「…………」
俺も、重い足を引きずりながらそれに続いた。
イベントを行っているホールを横目に見て、人の気配がない奥の区画へ。
そこに、半年前と変わらずその場所はあった。
倫太郎
「ここだ……」
照明が点いてないせいか、薄暗く、ジメジメとしている。
当時と違い、今はさすがに倉庫には施錠されていた。
真帆
「そう……こんな場所で……」
そうつぶやく真帆の唇が、かすかに震えているように見える。
なんだか、不思議だった。
血染めの紅莉栖が倒れていた運命の場所なのに――そんなことなど何もなかったように、素知らぬ顔をして日常が営まれている。
そして俺もまた、大切な人が死んだのに、その場所をこうしてまた訪れている。
真帆
「もどかしいわ」
真帆
「私は物理学者ではないから、相対性理論のことを詳細に理解しているわけではないけれど……」
真帆
「時間と空間が同列だというのなら、なぜ空間と同じように、時間も容易に移動できないのかしらね」
真帆
「今、私たちは、空間的には“紅莉栖の死”と同じ軸上にいるのよ。なのに、時間軸がほんの少しずれているというだけで、手出しすることすら叶わない」
倫太郎
「…………」
真帆
「あなた、この前“紅莉栖”に――ああ、『Amadeus』の方だけど――面白い質問をしたわよね」
真帆
「タイムマシンは作れるかどうかって」
倫太郎
「……ああ」
真帆
「ぜひ研究してみて欲しいわ。真っ先に私が有人テストに名乗り出るから」
冗談とも本気ともつかぬ口調で真帆はそう言い、寂しそうに笑った。
――タイムマシンなら、存在しているよ。しかも、俺たちのすぐ真上にね。
そう言ったら、真帆はどうするだろう?
俺が紅莉栖救出を放棄したことをなじり、代わりに自分が過去へ跳ぶと言い出すだろうか?
真帆
「岡部さん。紅莉栖が亡くなったときの状況について、教えてくれない?」
真帆
「私、詳しくは知らないの」
倫太郎
「……俺だって、ろくに知らないよ。前に、そう話さなかったか?」
真帆
「でも、アメリカにいた私よりは詳しいでしょう?」
真帆
「紅莉栖は、どうしてこんなところに来たのかしら」
倫太郎
「…………」
真帆
「紅莉栖が死んだとき、すぐそこのイベントホールでは、今日みたいにイベントが行われていたそうね」
倫太郎
「っ」
今も、イベント会場からはときおり人の笑い声などが上がり、俺たちのいるこの場所まで響いてくる。
真帆
「中鉢博士。去年の夏、ニュースになった」
真帆
「ロシアに亡命して、タイムマシンに関する論文を書いた、って」
倫太郎
「…………」
真帆
「その論文の内容は、それはひどいものだったらしいけれど」
真帆
「ただ、それでピンと来たのよ。アメリカの紅莉栖の家に放火した連中も、ロシア語を話していた」
真帆
「これ、偶然かしら?」
倫太郎
「…………」
真帆
「私は、なんらかの関連性があると思う」
真帆
「だから、中鉢博士について調べようと思ったんだけど。不思議なことに、驚くほど情報がないのよ。ネットで検索しても、本名すら出てこない」
真帆
「中鉢博士について言及しているブログやサイトを見に行っても、ほとんどは閉鎖してるわ。しかもこの半年ほどで立て続けに」
真帆
「ねえ、いったい紅莉栖のまわりで、なにが起きていたの?」
真帆
「もしかして、今もまだ、それは続いているの?」
真帆
「あなたは……なにを隠しているの?」
真実を追い求める、純粋な目。
紅莉栖もよく、そんな目をしていた。
だが――。
倫太郎
「好奇心で、足を突っ込まない方がいい……」
倫太郎
「俺はもう、たくさんだ」
真帆
「今さらだわ。私は、片足を突っ込んでしまっているのよ」
真帆
「それに、考えてしまうのよ。この前襲われたのも、もしかすると私のせいじゃないかって」
倫太郎
「……君のせい?」
倫太郎
「狙われる理由があるのか?」
真帆
「私は……」
そこで真帆は、少し言い淀んだ。
真帆
「……私は、紅莉栖の、遺産を持っている」
遺産……?
紅莉栖の遺産だって?
それはいったいなんだ?
真帆は紅莉栖の死後、アメリカの紅莉栖の家に出向いて、母親から形見をいくつか受け取っていると言っていたが。
それを持っていることが、襲われる理由になるって言いたいのか?
急速に、俺の頭の中で脳細胞がフル回転を始めた。
ロシア。
中鉢博士の亡命先。
紅莉栖の家を襲った連中は、ロシア語を話した。
つい先日のロシアによる――と思われる――過去改変実験。
第三次世界大戦は、鈴羽の話によればタイムマシンが引き金となったという。
タイムマシン……。
中鉢論文?
タイムマシンについて記した文書。
第三次世界大戦の原因。
それを巡って57億人が死ぬことになる、悪夢のような奇跡の論文。
中鉢がタイムマシン発表会で提示したタイムマシンの作り方は、ジョン・タイターのパクリだったが。
中鉢論文の中身は、それとは違うものだ。結局、俺はその内容について確かめることができていないが。
紅莉栖が書いて7月28日に
ここ
①①
で中鉢に見せたものが“オリジナル”であり、中鉢論文はその劣化コピーだと、俺は予想している。
紅莉栖の書いた、タイムマシンの作り方――。
そこで、ハッとした。
慌てて自分のスマホからRINEを起ち上げる。
過去の会話のログを探っていった。
あのノートPCとハードディスクの中に、中鉢論文のオリジナル――牧瀬紅莉栖論文とでも言うべきもの――のデータが入っているかもしれない。
倫太郎
「ダルのところに持ち込まれた、紅莉栖の……ノートPCとハードディスク……」
倫太郎
「まさか、あれの解析を依頼したのは……」
真帆を見た。
真帆も、ニコリともせずに俺を見つめていて。
真帆
「…………」
きっぱりと、うなずいた。
真帆
「ええ。私よ」
真帆から見れば、紅莉栖の死にはあまりにも不可解な点が多いわけで。
だからこそ、紅莉栖が殺された理由を追い求めているのかもしれない。
そのヒントが、ノートPCとハードディスクの中に残っているかもしれないと考えるのは、当然のことだ。
だが、もしも俺の推測が当たっているのだとしたら、そのノートPCの存在は、あまりにも危険過ぎる……!
それこそ、第三次世界大戦を勃発させてしまうほどの力を持つ、
パンドラの箱

だ。
倫太郎
「どうして隠していた?」
真帆
「最初は、あなたと橋田さんの関係を知らなかった。橋田さんに頼んだのは本当に偶然よ」
真帆
「そしてあなたは、紅莉栖のことについてなにか隠しているように思えた」
真帆
「そんなあなたに、正直にすべて話せるわけないでしょう?」
真帆
「信用していない、というわけではないのだけど……」
真帆
「紅莉栖のことについては、慎重になった方がいいと思って」
倫太郎
「ああ、それについては正解だよ」
倫太郎
「『Amadeus』のテスターになることを反対しなかったのも、そういう打算があってのことか?」
真帆
「……打算なんて言わないで」
真帆
「私はただ、紅莉栖の友達であるあなたのことを、もっと知りたかった」
倫太郎
「紅莉栖の秘密を手に入れるために?」
真帆
「あの子のことを、もっと知りたかったのよ……!」
真帆が挑むように、俺をにらみ返してくる。
倫太郎
「……ダルはもう解析したのか?」
真帆
「まだよ。だからアメリカに帰る前に、最後にもう一度、あなたと話をしようと思ったの」
ここまで俺を案内させたのは、そういうことか。
ダルに今すぐ連絡しよう。
電話かRINEか。さて、どっちにするか。

「はい、もしもーし」
倫太郎
「今、ラボにいるか?」

「んあ? いや」
倫太郎
「じゃあどこにいる?」

「家で絶賛エロゲ中。どうかしたん?」
倫太郎
「お前の裏のバイトの件で話がしたい」

「……ああ、あれか」

「なんか牧瀬氏の情報、思い出した?」
倫太郎
「ああ」
もちろんそれは嘘だ。
今すぐにでもダルからそのノートPCを回収しないと、あいつの身に危険が及ぶかもしれないんだ。
ちらりと真帆の方を見る。

「じゃあさ、RINEで送ってもらえるかな」
倫太郎
「直接会って話をしよう。ラボで合流できないか?」

「えーと、今手が離せないから、夕方でもいい?」
倫太郎
「エロゲなんて後でいくらでもできるだろう」

「……
サーセン

、家でエロゲしてるってのは嘘。実は今、バイト中で手が離せないんだよね」
倫太郎
「バイト?」
まあ、こっちも嘘をついているんだし、お互い様としよう。
倫太郎
「じゃあ、本当はどこにいる? 手が離せないならこっちから行く。とにかく今すぐに話したい」

「…………」

「あんま、オカリンには教えたくなかったんだけどな。ヤバげな仕事も多いから」

「……まあいいや。分かった、これから言うところに来てよ」
ダルがそうして教えてくれた場所は、同じ秋葉原。
ここから歩いて5分もかからない距離だった。
もちろん、思い出したなんていうのは嘘だ。
今すぐにでもダルからそのノートPCを回収しないと、あいつの身に危険が及ぶかもしれないんだ。
ちらりと真帆の表情を呎ってみる。
が、真帆は何も言わなかった。
ダルがそうして教えてくれた場所は、同じ秋葉原。
ここから歩いて5分もかからない距離だった。
中央通りからほんの数本、路地を外れただけで、とたんに人の気配は消え失せる。
東京都心、秋葉原、日曜日の日中だというのに、うらぶれた雰囲気が漂う、そんな小さな路地に建つ古くさい雑居ビルの7階。
そこに、ダルが指定した店があった。
倫太郎&真帆
「…………」
「…………」
入り口の鉄製のドアには、『コスプレメディア@秋葉原店♪』『営業中だヨ! お気軽にどうぞ!』という萌え絵付きのPOPが引っかけられていた。
事実、店内には所狭しとコスプレ衣装が並んでいた。
入り口近くの壁際は『最新作コーナー』や『人気コスプレコーナー』。カラフルなコスプレウィッグやリボン、ジュエリーなどの小物なども展示されている。
向かいの壁は『中古衣装コーナー』や、ソックス、学生靴、ヒール、ブーツなどの履き物コーナーに分かれていた。
さらに奥に行くと、スクール水着や競泳水着などが陳列されているのが見える。
どうやら女子向けのコスプレ衣装を中心に販売している店のようだが、どう見ても、女の子がお気軽にドアを開けられるような雰囲気じゃなかった。
他の階に入っていたテナントも『有限会社 霊神の水滴』とか『宇宙電波受信機販売』とか『花びらビデオ企画』とか、怪しげなものばかりだったし。
倫太郎
「君は、ここには来たことが?」
真帆
「いいえ。前に会ったときは、別の雑居ビルだったから。同じような怪しいお店だったけれど」
倫太郎
「そ、そうか……」
ダルの闇を見た気分だ……。
店内は静まり返っていた。
俺たちの他に客はいない。
奥のカウンターで、店員らしき細身で長髪の男が店番をしているが、俺たちが入ってきても顔を上げようとすらせずに、雑誌かなにかを読んでいる。
正直、真帆と一緒にここに来るのは、傍目から見るとかなりまずい行為なんじゃ……と、このビルに入ったときからずっと落ち着かなかった。
女子中学生をいかがわしい店に連れ込んでいるHENTAI大学生に見られても、まったく不思議はないよな……。

「おーい、オカリン、こっち」
さっきまでどこにもいなかったのに、ダルが突然店の奥に出現した。

「つーか、真帆たんも一緒だったんだね」
真帆
「その
真帆
①①
たん
①①
というの、やめてくれないかしら」

「なんで? かわいいじゃん?」
真帆
「バカにされている気分だわ」
倫太郎
「そんなことより、ダル、お前、どこから出てきた?」
カウンターにいる店員は特になにも咀めてこない。
ということは、ダルがここにいることは店からは了承済みということになる。

「とりあえずこっち」
ダルは店の奥へ進んでいった。
アイドル系のコスプレ衣装が大量に陳列されているハンガーラックのひとつがずらされ、その裏側にカーテンが見えている。
そのカーテンをくぐると、半畳ほどのスペースに続いて、『STAFF ONLY』と書かれた扉があった。
倫太郎
「…………」
これ、ハンガーラックをどかさなかったら、まったく気付かなかったぞ……。
真帆
「まるでニンジャ屋敷ね……」
扉の奥は、狭苦しい事務所になっていた。
いや、実際には部屋自体は広いのかもしれないが……。
薄暗いせいもあってかなりの圧迫感なのだ。
息苦しさすら覚えてしまう。
金属製ラックに囲まれたデスクが4つも置かれている上に、大小様々なパソコンや周辺機器が床に無造作に積み上げられているし。
ゴミなのかも分からない箱やビニール袋があちこちに散らばっているし。
雑誌やゲーム、プラモデルやフィギュアの箱がタワーのように積み上げられているし。
デスクの上も散らかり放題で、ラボと同じような状況になっている。
飾ってあるフィギュアも、暗くてはっきりとは確かめられないが、どうせ埃が積もっているに違いない。
そもそもモニターは、6台も必要なのか?
どのモニターにも、店内の様子が映っている。どうやら監視カメラの映像のようだが。
この店の規模と、客の少なさなら、カメラ3台でも多いぐらいだ。

「まぁ、適当に座って」
倫太郎
「座れる場所なんてないぞ」

「今、スペース作るお」
ダルは、床に積まれた箱などを雑にどかして無理矢理スペースを作ると、そこへパイプ椅子をふたつ置いた。
倫太郎
「お前、この店とはどういう関係なんだ?」

「んー、バイトリーダーみたいなもんかな。けっこう、こういうアングラな店のバイト、掛け持ちしてるんだよね」

「でさ、たまに事務所を個人的に使わせてもらってるわけ」
倫太郎
「“裏のバイト”のためにか?」

「そゆこと」
こいつ、実はとんでもない男かもしれないぞ……。
倫太郎
「……ここにあるものは全部、お前の私物か?」

「いや、他のバイトのみんなとの共有財産的なやつ。さすがに、こんなにたくさん買えるほどお金持ってないし」
倫太郎
「…………」
そうは言っているが、それもどこまで本当の話かどうか怪しいものだ。
倫太郎
「ん……?」
倫太郎
「“紅莉栖”からだ」
真帆が、困ったような顔をした。
できればこの先の話は、“紅莉栖”には訊かせたくない。
俺としても、どうしたらいいか困ってしまった。
それに――。
そこでふと、思い出してしまったのだ。
俺が1ヶ月間さまよっていた、あの戦時下の世界線。
そこで『Amadeus』の“紅莉栖”が、米軍によって管理されていたことを。
あれがなにを意味するのか、まだ、答えを見つけられていない。
俺は、スマホの画面をじっとのぞき込んだ。
今、出ておくべきか、それとも後にして、今はダルと話をするのが先決か……。

「でも、ビックリしたよなー。まさか真帆たんがオカリンと知り合いだったとはね」

「前にメイクイーンで鉢合わせしたときは、どうしようかと思ったっつーの」

「ま、すぐに合点が行ったけどね。牧瀬紅莉栖氏っていう共通の友人がいたわけだから」

「でも真帆たん、オカリンにはこの件、内緒にしとくって言ってたのに、結局打ち明けたん?」
真帆
「見抜かれた、という言い方が正解ね」

「ああ、なるほどね」
うなずいて、ダルはテーブルの上に置いてあるスナック菓子をひとつつまみ、口に放り込んだ。
倫太郎
「なんだ?」
アマデウス紅莉栖
「あんた、まだ真帆先輩と一緒よね?」
倫太郎
「あ、ああ。一緒だが」
真帆
「どうかしたの?」
アマデウス紅莉栖
「レスキネン教授からたった今聞いたんですが……」
アマデウス紅莉栖
「和光市のオフィスが何者かに荒らされたって」
真帆
「え?」
アマデウス紅莉栖
「あと、真帆先輩のホテルからも連絡が来て、そっちも誰かに侵入されたみたいです」
真帆
「なんですって?」
アマデウス紅莉栖
「すぐにレスキネン教授からも連絡があるはずですけど。少しでも早く知らせた方がいいと思って」
真帆
「…………」
倫太郎
「ありがとう、“紅莉栖”」
倫太郎
「比屋定さんの事は、俺とダルで見てるから大丈夫だ」
アマデウス紅莉栖
「そうね。頼むわ。それじゃ」
真帆
「…………」
真帆はうつむいて、唇を噛んでいる。
倫太郎
「懸念していた事が現実になったな」
倫太郎
「……狙いは、間違いなく紅莉栖のノートPCとハードディスクだ」

「え、mjd?」
倫太郎
「……場所を変えた方がいいかもしれない」

「ここは安全だと思うけど」
倫太郎
「なんとなくイヤな予感がするんだ。勘みたいなものだ」

「……わかったお」
倫太郎
「それで、ノートPCとハードディスクはどこに?」
ダルは観念したようにため息をつくと、かたわらのラックに設置されている鍵つきの耐火ボックスを開けた。
そんなところに隠してあったのか……。
ノートPCは、12インチの液晶モニターを搭載している日本メーカーのものだ。色は深い赤だった。
ハードディスクは、耐ショック性に優れたラバー外装が売りの米国メーカー製。
倫太郎
「それを持って急いで出よう」
真帆もダルも、黙ってうなずいた。
俺はスマホをポケットにしまった。
今はダルとの話に集中しよう。

「で? 僕に話って?」
倫太郎
「とぼけるな。比屋定さんと一緒にいるんだ、分かるだろう」
倫太郎
「紅莉栖が残したノートPCとハードディスクだ。出せ」
真帆
「岡部さんには、パスワードの答えが分かったの?」
倫太郎
「……答えなんて分からない」
真帆
「どういうこと?」
倫太郎
「俺が言いたいのはただひとつだ。そのノートPCを解析しようなんて真似は、今すぐやめろ」
倫太郎
「そのPCの中には、世界を混沌へ導くほどの、とんでもないものが眠ってるかもしれないんだ……!」

「…………」
真帆
「…………」
倫太郎
「おい、聞いてるのか?」

「厨二病乙」
真帆
「あなたってそういう人だったのね」
倫太郎
「ち、違う! こっちは大真面目なんだ! 鳳凰院凶真とかそういうんじゃなくて!」

「厨二病……乙」
倫太郎
「厨二病じゃないんだって!」
俺はテーブルに手を強く叩きつけた。
置きっ放しだった空き缶が、その衝撃で床に転がり落ちる。
倫太郎
「いいか、聞いてくれ。これは鈴羽とも関連している話だ」

「……鈴羽?」
倫太郎
「お前だって知ってるだろう。
鈴羽
①①


使命
①①
のことは」

「……
kwsk


倫太郎
「……中鉢論文だ」
それだけでダルには通じたようだ。

「マジで?」
倫太郎
「最初からマジだ」

「そっかー」

「ま、だいたいそんなところじゃないかって予想はしてたけど」
ダルはそれ以上はなにも言わずに、かたわらのラックに設置されている鍵つきの耐火ボックスを開けた。
そこに、ノートPCとポータブルハードディスクが隠してあった。
倫太郎
「それが……」
ノートPCは、12インチの液晶モニターを搭載している日本メーカーのものだ。色は深い赤だった。
ハードディスクは、耐ショック性に優れたラバー外装が売りの米国メーカー製。
……紅莉栖が残した、ノートPCとハードディスクだ。
倫太郎
「確認だが、結局、セキュリティは破れなかったんだよな?」

「まぁ、僕たちの作ったソフトの前には、どんなハッカーもお手上げっつーことで」
倫太郎
「もうこれ以上解析はするな」

「一応、依頼料をもらってるわけだが」
ダルが、申し訳なさそうに真帆を見る。
真帆
「…………」
その真帆は、俺のことをじっとにらみつけてきていた。
真帆
「さっきも聞いたけど。あなたたちは、紅莉栖の事件についていったいなにを隠しているの?」
倫太郎
「真実を知ろうとすることが、必ずしも正しいとは限らない」
真帆
「それはあなたの考えよ。判断すべき情報も提示してくれないなんて」
倫太郎
「危険なんだよ! 君だってこの間襲われたんだ、それは分かってるはずだろう!?」
真帆
「私は“Knight”の後ろに隠れているだけの臆病者になりたくないわ」
真帆
「科学者として、真実にたどり着く努力をやめたくないのよ。たとえそこに、どんな危険が潜んでいるとしてもね」
倫太郎
「分からず屋だな……!」
真帆

もし
①①




紅莉栖
①①①
だった
①①①


しても
①①①
、たぶんそう言うんじゃないかしら? 違う?」
倫太郎
「……!」
ハッとした。
真帆の言う通りだった。
似たようなやり取りを、俺は紅莉栖ともした覚えがある。
たしかあれは、SERNについて調べようとしていたときだった。

「これはもう、ちゃんと話すしかないって」
倫太郎
「ダル!」

「何をどう言っても納得しないって顔してるお、真帆たんは」
真帆
「ええ、納得しないわ」

「それに、中途半端に関わってる方が、かえって危ないんじゃね?」

「オカリンの言うことがマジなら、だけどさ」
確かに、ダルの言い分にも一理ある。このままだと真帆は、知らず知らずのうちに危険なことへ首を突っ込んでしまい、取り返しのつかない所まで行ってしまいかねない。
すでに、“紅莉栖の遺産”を持っている時点で、第三次世界大戦の端緒にいるっていうのに、そのことに本人はまったく気づいていないんだ。
このPCは、もう友達の形見なんていう私的なレベルのものではなくなっている。
国家規模での
争奪戦
①①①
を引き起こす代物なんだ。
紅莉栖のアメリカの家に、ロシア語を話す放火犯が押し入ったこと。
その直後に、ヴィクトル・コンドリア大のレスキネン教授の研究室に、FBIを名乗る謎の男たちが調査にやって来たこと。
それらがまさに、今の発火寸前の緊張状態を、端的に物語っている。
国家同士の争いを前にすれば、俺たちみたいな人間なんて石ころ同然だ。
倫太郎
「鈴羽に関連することも、話すことになるぞ。ダル、お前はそれでいいのか?」

「しょうがないっしょ」
俺はダルの返事を聞くと、真帆に向き直った。
倫太郎
「比屋定さん。ひとつだけ約束してくれないか」
倫太郎
「君は科学者だ。しかも、極めて理性的な人だと俺は信じている」
倫太郎
「感情にまかせて迂闊なことはしないでくれ。軽率なことはしないでくれ」
――かつての、俺のようにはならないでくれ。
倫太郎
「これから話すことは突拍子もないことだ。馬鹿げていると思うかも知れない。けど事実なんだ。だから――」
真帆
「まわりくどい言い方はやめて。いったい私に何を誓わせたいの?」
倫太郎
「…………」
倫太郎

牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


救おう
①①①
なんて
①①①

絶対
①①


考えるな
①①①①

真帆
「え……?」
真帆は何を言われたのか理解できなかったようで、ポカンとしている。
真帆
「紅莉栖を……救う……?」
倫太郎
「それが約束できないのなら、話すつもりはない。どうする?」
真帆
「…………」
真帆
「救える可能性が、あるということ?」
倫太郎
「そう思えるかもしれないが、実際には可能性はゼロだということだ」
真帆
「……さっきも言ったでしょう。判断すべき情報も与えられていないのだから、安易に解答は出せない」
倫太郎
「…………」
真帆
「教えて。すべてを」
俺は一度大きく息をついて、最初から説明を始めた。
話の内容は、タイムマシンのこと、鈴羽のこと、第三次世界大戦のこと。
それに、中鉢博士と紅莉栖の関係性。
さらには、中鉢論本と呼ばれるものが、実は紅莉栖が書いたものをベースにしているかもしれないということ。
故に紅莉栖のノートPCとハードディスクには、中鉢論文のオリジナルが隠されているかもしれないこと。
それについてロシアやアメリカがすでに争奪戦を開始しているのではないかということ。
紅莉栖が死んだときの状況については、さすがに……伏せた。
真帆
「…………」
俺が話をしている最中の真帆は、ただひたすら困惑の表情を浮かべていた。
まるで中学に上がったばかりの子供が、これまでの常識にはなかったちんぷんかんぷんな数式を並べ立てられてしまった時のようだ。
その表情は、俺が話し終わっても変わらなかった。
真帆
「それ、本当の話なの? 作り話ではなく?」
真帆は、話した俺ではなく、ダルを見て問いかける。

「まあね」
真帆
「…………」
倫太郎
「やっぱり、信じられないか?」
真帆
「……べ、別にそういうわけじゃないわ。ただ、私の予想とあまりにもかけ離れていたものだから、思考が追いつかないの」
倫太郎
「君の予想というのは?」
真帆
「『Amadeus』の、軍事転用のことじゃないかと考えていたのよ」
倫太郎
「軍事転用……」
真帆
「紅莉栖は『
精神生理学研究所

』にもよく出入りしていたんだけど、時々、場違いな連中がそこにやって来るって言ってたの」
真帆
「どうも
国防総省

の人じゃないかって」
ロシア、FBIに続いて、今度は国防総省と来たか。
ますますきな臭くなってきた。
倫太郎
「『Amadeus』で、人を殺せるのか? どうやって?」
真帆
「たとえば、百戦錬磨のパイロットから記憶データをコピーして、無人戦闘機の制御に使う――とか」
真帆
「あと、以前話した医療への応用、覚えてる?」
倫太郎
「ええと……人間の脳へ記憶データを書き戻すってやつかな」
真帆
「そう」
真帆
「記憶データを修正した上で、書き戻しが可能になれば、“恐怖を感じない兵士”や“どんな非道な任務でも平然と遂行する部隊”なんていう、恐ろしいものまで作れてしまう」

「うわ。まるでハリウッド映画じゃん」
現実が、映画や小説に追いついたということなんだろう。
真帆
「私はてっきり、紅莉栖がそういった実験の証拠を偶然知ってしまったんじゃないかと思っていたの」
倫太郎
「だから紅莉栖は狙われた、と?」
真帆
「ええ」
真帆は、ノートPCを手に取った。
その真紅の筐体はマグネシウム合金製らしく、見た目よりもかなり軽量だ。
真帆
「でも、まさかタイムマシンとはね……」
倫太郎
「いずれにしても、それはすぐに破壊した方がいい」
真帆
「中身を確認もせず? あなたが言う論文が入っているとは限らないわよ?」
倫太郎
「中身はもう関係ないんだよ」
倫太郎

紅莉栖
①①①


残した
①①①
遺産
①①


この世
①①①


存在
①①
して
①①
いる
①①
。それだけで、戦争の火種になり得るんだ」
真帆
「…………」
真帆はまだ納得出来ない様子だった。
真帆
「でもこれは、紅莉栖が生きていたという証、紅莉栖が残した意志なのよ」
真帆
「それを、あっさり葬り去るなんて……」
倫太郎
「その中身を知ることで、今度は君が狙われるかもしれない」
真帆
「そうだけど……」
納得する気がないなら、別のアプローチで説得してみるか……。
倫太郎
「そのPCのパスワード、“紅莉栖”には当然、訊いてみたんだろう?」
真帆
「……?」
倫太郎
「『Amadeus』だよ」
真帆
「もちろん最初に試してみたわ」
倫太郎
「でもダメだったんだな?」
真帆は俺の言葉にうなずく。
倫太郎
「おかしいよな。普通は知っているはずだろう」
倫太郎
「でも『Amadeus』の“紅莉栖”は知らなかった」
倫太郎
「それなら、考えられる可能性はひとつだ」
倫太郎
「紅莉栖本人が、『Amadeus』の知らないうちに、パスワードを変更した」
真帆
「…………」
倫太郎
「なぜそうしたと思う?」
倫太郎
「中身を知られたくなかったからじゃないのか?」
真帆
「……っ」
倫太郎
「死者の墓を暴くような真似はやめよう。な?」
真帆
「暴くなんて、そんな言い方……!」
真帆
「…………」
真帆
「ごめんなさい。確かに、岡部さんの言う通りかもしれないわ……」
真帆
「私、紅莉栖にこだわりすぎているのかも知れない……」
倫太郎
「君が紅莉栖のことをとても大切に思っていることは、よく分かるよ」
倫太郎
「だがこればかりは、手を出さない方がいい」
倫太郎
「パンドラの箱どころか、地獄の釜の蓋になりかねない」

「厨二病乙!」
倫太郎
「いちいち茶化すな……」
真帆は、壊れ物を扱うようにノートPCを胸に抱き、小さく息をついた。
真帆
「了解したわ、岡部さん。今、起こっている事態そのものは理解した。まだ頭の整理はついてないけどね」
真帆
「このノートPCは、破棄しましょう」
倫太郎
「……ありがとう」
分かってもらえて、助かった……。
倫太郎
「やっぱりたいした人だ、君は」
真帆
「何が?」
倫太郎
「普通、こんな話は端から否定するか、否定しないまでも全て疑ってかかるか、どっちかだろう?」
真帆
「買いかぶり過ぎよ」
真帆
「いつもの私だったら、否定どころか聞く耳すら持っていないわ」
真帆
「科学者っていうのはね、本来、どんな些細な可能性であっても否定すべきではないんだけれど……得てして、自分の主義主張や常識に固執する傾向にあるから」
倫太郎
「じゃあ、今回はなぜ?」
真帆
「…………」
真帆
「そこに、
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


関わって
①①①①
いる
①①
から
①①
よ」
真帆は、なぜか自虐的にも見える笑みを浮かべた。
真帆
「タイムトラベル理論? タイムリープマシン? 冗談じゃないわ。そんなもの存在してたまるものですか」
倫太郎
「…………」
真帆
「でもね、紅莉栖なら、やりかねない」
真帆
「いつだって私の常識を破壊し尽くしてきたのは、あの子なんだから」
倫太郎
「そう、か……」
真帆の『Amadeus』のIDは、Salieriだったもんな――。
そう言いかけて、やめた。あのIDには、触れてはいけない科学者としての鬱屈した想いがあるように思われてならなかったからだ。

「で、依頼料はどうするん? 実は真帆たんにもらった分さ、今月末発売のエロゲ予約で使っちゃったんだよね……」
倫太郎
「お前、最低だな……」

「そのための裏バイトなんだっつーの……!」
真帆
「いいわ。お金を返してだなんて言いません」
真帆
「もともと、ダメもとで頼んだのだし」

「言っとくけど、あと3日あればパスワード突き止めて解析完了してたから。これは
ガチ


真帆
「そういうことにしておくわ」
真帆はクスリと笑うと、俺に向き直った。
真帆
「ちなみに、一応証拠は見せて欲しいんだけれど」
倫太郎
「証拠?」
真帆
「どこかに置いてあるんでしょう? その――タイムマシン」
真帆
「それと、鈴羽さんに一度話を聞きたいわ」
倫太郎
「それは、どうだろうな……」
ダルは了承してくれたが、鈴羽に無断でタイムマシンのことを真帆に話したのだ。
この間、揉めたばかりだし、あんまり鈴羽のところにこの話を持っていきたくはないな……。
となると、タイムマシンを見せるにしても鈴羽の許可がいるわけで……面倒な話になってくる。
倫太郎
「ええと、ダル、鈴羽に話を通すのはお前から――」
言いかけたところで、デスクの上にあるインターフォンから、音が鳴った。

「んあー、大事な話してんのに、なんだおー?」
口調はいつもと変わらないが、ダルの顔にさっと緊張の色が走ったのを、俺は見逃さなかった。
イヤな予感がする。

「もしもし? なんかあったん?」
ダルは受話器の向こうに答えながら、いくつかの監視モニターのチャンネルをパチパチと切り替えていった。
それまでは6台すべてが店内を映していたが、その操作によってビルのエントランスや非常口、通路、エレベーターホールや非常階段などの映像に変わる。
店内だけでなく店外にまで監視カメラを設置してたとはな……。
だが呆れている場合じゃなかった。
ノイズを伴って映し出された映像。
そこに映る、奇妙な男たちの姿が目に留まったからだ。
倫太郎
「なんだ、こいつら……?」
ビルの出入り口。
1階のエレベーターホール。
7階のエレベーターホール。
さらには7階の非常階段踊り場と、コスプレショップ入り口の扉前。
さっきまではいなかったが、その5箇所にそれぞれ4人ずつぐらいの男たちが不自然な様子で立っている。立ち話をするわけでもなく、無言のままだ。
人数は全部で20人ほど。
その格好も、背広姿の会社員や、いかにもなアキバ系ファッションの男たち、あるいはミリタリールックに身を包んだ連中などだ。
ひとりひとりだけを見れば、秋葉原では取り立てて目立つこともなさそうないでたちをしている。
それなのに、この寂れた雑居ビルにまったく偶然にこれだけの人数が押し寄せてきている光景が、なぜかとても恐ろしく思えた。

「オーキードーキー。ここは放棄するわ。君もテキトーに逃げるといいお。ほんじゃ」
どうやらダルは、店番をしていた店員と話していたらしい。
インターフォンを置くと、俺と真帆を見た。

「つーわけで、逃げるべ」
真帆
「え……?」
俺と真帆があ然とするのに構いもせず、ダルはリュックを引っ張り出してきて、テーブルの上にあったハードディスクやメモリーカード、データディスクなどをいそいそと放り込み始めた。

「そのノートPCもプリーズ」
促されて、真帆は目をぱちくりさせながら紅莉栖のノートPCとハードディスクをダルに差し出した。
倫太郎
「おい、あいつらは誰だ?」
真帆
「やっぱり、紅莉栖のPCが狙われているの?」

「さぁ? どうかな。僕も色々やらかしてるからさ。こういうこと、今までにもあったし」

「まぁ、だからこそ裏のバイトなわけで」
倫太郎
「おいおい……」
ダルは真帆からノートPCを受け取ると、ハードディスクと一緒にリュックに収め、背負った。
倫太郎
「そもそも、逃げるってどうやって? 店の入り口には連中がいるんだぞ?」

「いやあ、この場所、気に入ってたのになー。ついに放棄か」
口調とは裏腹に真面目な顔つきをしたまま、ダルは部屋の隅へ向かった。
そこには、金色の髪をした
ボカロ

の等身大ポスターが貼ってある。

「リンたん、ちょっとゴメンよ」
ダルは、傷をつけないようにポスターをはがした。
その下はガラスの引き戸になっており、開けるとコンクリート製のベランダに出られるようになっていた。

「こっちだお」
まさか、そこから逃げる気か?
でもここ、7階だったよな?
戸惑っている暇はなかった。
ダルは俺たちの同意も確認せずに、1人でさっさとベランダに出てしまう。
俺は真帆の背中を押し、先に行くよう促した。
ベランダには、屋内と同じように色々な物が積み重ねられていた。
使い古しのPCやモニターはもちろんのこと、明らかに壊れていると思われるゲーム筐体なども転がっており、足の踏み場がほとんどない。
しかし、そのおかげで、少しかがめばそこを通っても外部から姿を見られることは一切なさそうだった。
もしかすると、非常事態を見越してわざとこのようにしてあるのかも知れない。
後はそれこそスパイ映画さながらの逃亡劇だった。
隣室のベランダとの境に設置してあるボードを取り外して、ビルの端にある部屋まで移動し、そこから今度は非常用のハシゴで2階上へ。
そこはダルが何人かの
知り合い
①①①①
と共同で借りている空き部屋で、そのバスルームからすぐ隣のビルの空き部屋へと窓越しに飛び移った。
その時点で、さっきのコスプレショップにあの男たちが突入してきたという連絡がダルのところに来て、背筋が寒くなった。
急いでそのビルの非常口から脱出を図る。
元々いたビルとは、非常口の位置が別の路地になるため、突入してきた連中には見つからないはずだった。
だが……甘かった。
ビルの間のため薄暗く人もまったく通らない狭い路地。
そこに、俺たちの行動を読んでいたかのように、そいつらは待ち構えていた。
意表を突かれた俺たちが逃げるより前に、真帆がそのうちの1人に捕まった。
そうなると俺たちはもう抵抗すらできなかった。俺もダルも、腕をひねり上げられ、地面に組み伏せられてしまう。
ただ、襲ってきたのはビルを包囲していた連中とは別だった。全員がフルフェイスのヘルメットをかぶり、ライダースーツや革ジャケットを着ている。
その中の1人――真帆を押さえつけているのは、体型からして明らかに女で。
そんな格好で俺たちを襲ってくる女なんて、俺の記憶の中にはただ1人しか存在しなかった。
ライダースーツの女
「……大声を出さないで、言うことを聞いて」
倫太郎
「……!」
その声には、案の定、聞き覚えがあった。
ヘルメットで顔を隠していても、俺には分かる。
ライダースーツの女
「さもないと……彼女の命はない」
女は真帆を左腕で押さえつけながら、右手で軍用ナイフを取り出した。それを、真帆の首筋にあてがう。
真帆
「……っ!」
倫太郎
「よ、よせっ!」
俺の脳裏に、身の毛もよだつ忌まわしい記憶のひとつがよみがえった。
別の世界線での出来事とはいえ、大切な幼なじみを奪った無慈悲なあの声が、今、またここにある。
萌郁
「椎名まゆりは、必要ない」
俺はギシギシと軋むほどに歯を噛みしめ、ライダースーツに身を包んだ女をにらみつけた。
倫太郎
「欲しいものなら渡してやる。だからやめろ……っ」
搾り出すようにそう言うと、ライダースーツの女は、真帆の首筋からナイフを離した。そのまま真帆の拘束を他の男に任せる。
そして、ヘルメットを脱いだ。
萌郁
「…………」
真帆
「あなたは……!」
桐生……萌郁……! やっぱりお前か……!
萌郁
「……どこに、あるの?」
感情というものが全く存在しないような目。
あのときと――8月13日と、同じだ。
俺も、他の連中によって乱暴に引き起こされた。
だが腕はひねり上げられたままだった。激痛でうめき声を上げそうになるのを、必死でこらえる。
倫太郎
「まず……手を放せ! これじゃ、ちゃんと、話も出来ない……」
萌郁
「…………」
萌郁がかすかにうなずくようにして、仲間たちに合図を送る。
俺を押さえつけていた手がスッと離れた。
無理に固められていた関節がようやく楽になる。
ダルも解放され、ブツブツ文句を言いながら立ち上がった。
だが、真帆だけは拘束されたままだ。
萌郁
「比屋定博士と……交換」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「ダル、リュックを貸せ」

「あ、うん」
ダルが、背負っていたリュックを降ろそうとした。
真帆
「だっ、駄目よっ! 渡しちゃダメ!」
倫太郎
「比屋定さん、おとなしくしててくれ。そいつは本当に君を殺す。脅しじゃない」
真帆
「でも……っ」
倫太郎
「自分の論文のために君が死んで、それで、紅莉栖が喜ぶのか?」
真帆
「う……」
真帆の顔が、まるで子供の泣き顔のように歪んだ。
俺は萌郁を睨んだまま、ダルのリュックからPCとハードディスクを取り出した。
倫太郎
「これだ」
萌郁
「リュックごと渡して」
倫太郎
「……先に比屋定さんを解放しろ」
萌郁
「…………」
萌郁は応じようとしない。
それなら――。
イチかバチか、ハッタリを仕掛けるしかない。
倫太郎
「復号化するパスワードを知りたければ、俺たちを出し抜こうとするな」
俺はPCとハードディスクをリュックに戻すと、リュックごと萌郁の方へ向かって突き出した。声が震えないように、必死で気力を奮い立たせる。
倫太郎
「こいつは、パスワードがなければ絶対に起動することが出来ない。世界中のハッカーがさじを投げたシロモノだ」
倫太郎
「俺たちの安全が保証されたら教える。こいつを渡した途端に殺されたんじゃ、たまらないからな」
当然ながら、パスワードなんて解明できていない。そのことがバレたら、全てが終わりだ。
ダルがチラリと物問いたげな視線を投げかけてくる。
俺はそれを無視した。
余計なことを口走るなよ、ダル……。
萌郁
「……確かに、そうね」
よし、乗って来た……!
これなら――。
萌郁
「それじゃあ……誰か1人、私たちと来てもらう」
倫太郎
「え……?」
萌郁
「2人は今すぐに解放する。その後、パスワードが正しければ、残り1人も解放する」
クソ……。それじゃ逃げ切れない……。
倫太郎
「それは駄目だ。残る1人の命の保証がない」
萌郁
「なら、3人とも来てもらうだけ」
倫太郎
「……くっ」
この女……!
背中に、冷や汗がじわりと浮き上がって来る。
命の取引などしたことのない俺みたいなド素人じゃ、こういう場面で次にどうしたらいいのかなんて、全く思い浮かばないぞ。
萌郁
「……橋田至。こっちへ」

「えっ!? 僕!?」
萌郁
「あなたは、スペシャリストだと聞いている。リュックを持って、こっちへ」

「いや、ええっと……」
萌郁
「あなたが来るなら、他の2人はここへ置いていってもいい……」
倫太郎
「待て! だったら俺が行く。それでいいだろう?」
萌郁
「あなたのことは上から何も聞かされていない。パスワードを知っているかどうかも分からない」
くっ、見抜かれてる……!
萌郁は再び、真帆の首にナイフを押し当てた。
真帆
「ひっ……」
萌郁
「……橋田至。早く来て」

「そういうセリフは、もっとエロいシチュの時にお願いしたいわけだが……」
軽口を叩いているが、ダルの声は完全に震え、裏返ってしまっている。
どうすればいいんだ。
このままだとダルは殺される……!
頭の中でめまぐるしく考えを巡らせたが、打開策は浮かばない。
この世界線では、ダルは少なくとも2036年まで生きて、タイムマシンを完成させることになっている。それは鈴羽の証言から明らかだ。
世界線が収束するなら、ここでダルが萌郁に連れていかれても、殺されることはない……と考えるべきなのか?
いや……だからって見捨てるわけには……。
萌郁の仲間のひとりが、腕時計を気にした。
萌郁もそれに気付いたらしい。
こんな白昼堂々の拉致劇なんだ、時間をかけすぎていることに焦ってきているのかもしれない。
せめて通行人が通りかかってくれればと願ってみたが、それでいい方向に転がる確証はない。
他力本願じゃなく、自分でなんとか状況を打開しないと……。
萌郁
「……誰か、殺してみせれば……いい?」
それが合図ででもあるかのように、背後から俺の頸動脈あたりに冷たいナイフが強くあてがわれた。
倫太郎
「……っ」

「オカリン!」
真帆
「やめてっ!」
ダルと真帆が自分を見て叫んでいるが、急激にそれがリアリティを失っていき、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
人は、唐突な死に直面すると誰しもそうなるというが――まさに俺は、その境界の上に立ち尽くしているのかもしれない。
――どうせ俺は死なないんだろ?
そう自分に問いかけてみる。
この場にはいない鈴羽に、問いかけてみる。
世界に、問いかけてみる。
もちろん誰も答えてはくれなかった。
死なないかもしれないという事実と、だからこの状況で無茶をできるかどうかは、無関係だ。
首にナイフを突き立てられれば、俺みたいなただの大学生なら、腰が抜けそうになるほどの恐怖に支配されてしまう。
何度も人の死を見てきたし、殺されかけてきたが、やはり慣れることなんてない。
紅莉栖の血の色を否応なく想起させられてしまい、フラッシュバックに襲われそうにもなる。
体が震え、その場にへたり込んでしまいそうだ。
もう……どうすることもできないのか?
諦めかけたとき、狭い路地の先、別の道と交差するT字路を塞ぐような形で、黒塗りのバンが急停車した。
スライドドアが開き、中から、小型自動小銃を携えた数人の男たちがバラバラと飛び出して来る。
倫太郎
「……!?」
全員、グレーのミリタリースーツに目だし帽を着用している。見た目は完全に軍隊の兵士だ。屈強な体格や肌の色からも明らかに日本人じゃない。
即座に、これは現実だ、と察した。
コスプレでもなんでもない。あの銃は本物で、今この瞬間にこの場で戦闘が始まるのだと理解した。
8月13日の襲撃や、つい数日前までいた戦争状態にあった世界線での経験が、生きた。
倫太郎
「全員隠れろ!」
敵も味方も関係なかった。
萌郁は俺が声を発すると同時に反応していた。
闖入者たちの姿を確認し、躊躇することなくかたわらの建物の陰に飛び込む。他のラウンダーたちも一斉に周囲に散った。
解放された真帆が道の真ん中でキョロキョロしていた。
倫太郎
「真帆、伏せろ!」
俺を押さえ付けていた男だけ、反応が遅れた。
鋭い音が響いたかと思うと、俺にナイフを突きつけていたラウンダーがヘルメットごと頭を撃ち抜かれた。
地面に転がるその男に巻き込まれ、俺の身体も足元に叩きつけられる。
倫太郎
「ぐっ!」
衝撃で、ダルのリュックを手放してしまった。
路上に投げ出されたそれを、別のラウンダーが掴み上げ、バンとは逆方向へ走り出す。
バンから降りてきた指揮官と思われる男が、ロシア語らしき言葉で鋭く叫んだ。
逃げたラウンダーの背中に向けて、兵士たちが銃を構える。
ラウンダー
「ぎゃっ!」
ラウンダーの身体が跳ね上がり、手にしていたリュックごと、破裂するように裂けた。
リュックの中の物がバラバラと砕けて、アスファルトに散らばった。
それらひとつひとつに、執拗なほどに銃撃が浴びせられる。
紅莉栖のノートPCとハードディスクは、ほんの数秒で原形を失い、残骸と化した。
俺はそれを見届けることなく、這うようにして電柱の陰へ隠れた。
本当に、一瞬の出来事だった。
周囲の様子を見てみると、ロシア語を話す兵士たちが駆け寄ってくるところだった。
いつの間にか、萌郁をはじめとしたラウンダー連中は、ふたつの死体だけを残していなくなっていた。
兵士たちは、周囲を警戒しつつ無言のままノートPCとハードディスクの残骸を回収し、ラウンダー2人の死体を抱え上げ、すぐさまバンに戻っていく。
俺たちには一瞥もくれなかった。
バンが現れてから走り去るまで、わずか数分の出来事だった。
残されたのは、路上に転がる小さな破片と。
2人分の血の跡と。
道路にうつ伏せになって震えている真帆と。
建物の陰で呆然としているダルと。
電柱の下でへたり込んでいる俺だけ。
俺はずっと、心臓がバクバクと鳴っていた。
首筋に痛みを覚えたのは、すべてが終わった後で。
倒れた拍子に、押し付けられていたナイフで少し切ってしまったようだった。
しばらくして、ようやく遠くからパトカーのサイレンの音が響いてきて。
それでようやく、ここが日本の、秋葉原であることを思い出す。
第三次世界大戦は、すでに俺たちの知らないところでとっくに始まっているのかもしれない。
そして国家間の争いの前では、やはり俺たちは石ころ並みに無力だということを、思い知らされた。
秋葉原は騒然となっていた。
空にはマスコミのものと思われるヘリも何機か飛んでいた。
尾行者がいないか確かめつつ、俺たちはラボに逃げ込んだ。
ホテルで襲われた事件から、それほど日が経っていない。こんな立て続けに凶悪事件に遭遇していたら、絶対に怪しまれてしまうだろう。
だから、警察が現場に到着する前に逃げてきたのだ。
ラボには、鈴羽の姿はなかった。
もしかしたらこの騒然とした空気に胸騒ぎを覚えて、タイムマシンを見に行ったかもしれない。
俺たちは、息をひそめてじっとしていた。
自分たちの気配を外に漏らしたら、今にも恐ろしい連中がドアを蹴破って突入して来そうに思えたからだ。
真帆
「橋田さん、ここ、タオルって置いてある?」

「ああ、洗面所にあるお」
真帆はうなずくと、洗面所から真新しいタオルを持ってきた。
それを、俺に向けて差し出してきた。
真帆
「岡部さん、首、血が出てる。これで押さえて」
倫太郎
「え? ああ……ありがとう」
首筋は血でべっとりと濡れていた。
幸い、そこまで深い傷じゃなかったが、血が止まるまでしばらくかかった。
真帆は俺にタオルを渡した後は、床にペタンと座り込んで放心状態になっていた。
そうなる気持ちは分かる。ましてや襲われるのは2度目なんだ。
しかも今回は、目の前で人も死んだ。
倫太郎
「大丈夫か、比屋定さん」
真帆
「え、ええ……」
真帆は曖昧にうなずいたが、さっきからずっと顔色は真っ青だった。
それに、よく見ると左手をずっときつく握りしめていて、そこから少し血が垂れている。
倫太郎
「ケガしたのか? 見せて」
真帆
「え? あ……」
真帆は自分でもそのケガに気付いていなかったらしい。
自身の左手を見て、困惑している。
真帆
「……あ、ら?」
倫太郎
「どうした?」
真帆
「……指、開かない……変ね……」
真帆の左手は、なにか小さな破片のようなものをギュッと握りしめていた。そのまま硬直してしまって、自力では指を開けなくなってしまっている。そのうちに、ブルブルと震え出した。
俺は真帆の左手を取ると、少し強引に指を1本ずつ開いていった。
強く握りしめすぎて血の気まで失いそうになっているその指は、ひどく冷たく感じた。
なんとかその手を開いてやると、握りしめていたものが床に落ちた。
いったい、なにを握ってたんだ?
拾い上げてみる。
倫太郎
「あ……」
それは、赤い色をした、マグネシウム合金の破片だった。
銃で粉々にされた、紅莉栖のノートPC。路上に転がっていたその破片のひとつを、逃げるときに咬嗟に拾って持ってきたのだろう。
こんなにも先端が尖っているものを強く握り締めていたのなら、血が出るのも当然だった。
倫太郎
「…………」
無言で真帆に返す。
彼女は、すでに壊れてしまったその残骸を、大切そうに両手で受け取り、呆然とした顔で見つめた。
ふと、その目から、涙が一筋、こぼれ落ちる。
真帆
「う……」
真帆
「う……うっ……ううっ……」
後はもう、止まらなかった。真帆は表情をくしゃくしゃにして、泣き崩れた。
真帆
「く……紅莉栖っ……」
真帆
「ごめん……ごめんね……」
真帆
「守って……あげられなくて……うぅっ……」
真帆
「ごめんね……っ」
まるで、その破片そのものが、紅莉栖であるかのように。
それを胸に抱きしめて、嗚咽し続けた。
倫太郎
「比屋定さん……」
倫太郎
「……きっと、紅莉栖は安心したと思う」
真帆
「……えぇ?」
倫太郎
「君が無事でよかったって」
倫太郎
「だから……君が、謝ることなんてない。謝らなくてもいいんだ」
真帆
「ぐすっ……」
真帆の返答はなく。
その代わりに、スマホのバイブ音が響いた。
真帆
「あ、私……」
真帆が自身のスマホを取り出し、受信したメールをチェックしている。
真帆
「……レスキネン教授からだわ」
真帆
「……!」
倫太郎
「どうした?」
真帆
「……荒らされた、って。オフィスと、あとホテルの部屋。教授と私の。ひどいことになってるって」
倫太郎
「……そうか」
やはり、ラウンダーにしろロシアの兵士たちにしろ、最初にコスプレショップを包囲した連中にしろ、狙いは紅莉栖のノートPCとハードディスクだったんだ。
倫太郎
「あのPC、バックアップは存在しないんだよな?」
真帆
「ええ……」
倫太郎
「それなら、これで、よかったんだ」
倫太郎
「紅莉栖の残したものが、何十億もの人を殺す道具として使われることは、なくなったんだから……」
結果的に、俺が望んでいた形になった。
データは誰の手にも渡ることはなく、破壊された。
あれだけ粉々になったなら、復元するのも不可能だろう。

「つーかさ、ロシアはなんであのPCを壊しちゃったんだろ?」

「手に入れようとしてたんじゃなかったん?」
倫太郎
「今のところ、タイムマシン開発競争じゃロシアがリードしてるんだ」
倫太郎
「ロシアからすれば、ノートPCを手に入れられればそれでよし――」
倫太郎
「だが他の連中に奪われるぐらいなら、壊してしまった方がマシって考えてたんじゃないか?」
この日本で、白昼堂々、ラウンダーと銃撃戦になって騒ぎになることは、さすがに避けたんだろう。
その状況判断の冷徹さにはゾッとする。まさにプロの軍人だ。
とても素人には真似できない。

「で、これからどうする?」
倫太郎
「できればここにはいたくない」
ロシアはともかく、萌郁にはこの場所が筒抜けの可能性がある。
ラウンダーが動いたということは、すぐ下にいるはずの天王寺もなんらかの形で関わっている可能性はゼロじゃないんだから。
倫太郎
「日が暮れたら移動しよう」
鈴羽が戻ってきてくれれば心強かったが、連絡は取れなかった。
真帆
「ふぅぅ……」
真帆は、温かい湯が張られたバスタブにそっと身を沈めた。
ようやく全身に血の気が戻ってくる心地がした。
石のようにこわばっていた身体が、染み通る熱で溶かされていく。
ケガをした掌が少し痛むが、耐えられないほどではない。
まさに“生き返った心地”とはこういうことを言うのだろう。
あの後、日が暮れて周囲が暗くなってから、真帆と倫太郎は、メイクイーン+ニャン⑯で働くネコミミメイド、フェイリス・ニャンニャンを頼った。
フェイリスの家は、秋葉原の一等地にある高層マンション、その最上階にある。セキュリティ面では、『未来ガジェット研究所』とは天と地ほども差があった。
フェイリスは快く真帆と倫太郎を受け入れてくれ、ベッドと食事を提供してくれた。
今はこうして、風呂まで借りてしまっている。
橋田至のことが少し心配だった。彼は、妹の鈴羽が戻るまで待つと言い張り、ひとりで『未来ガジェット研究所』に残ったのだ。
あれから1時間以上が経っている。
倫太郎のところに連絡は来ているだろうか。
それに、場所は移したがそれでも今の状態が決して安全だとも言い切れない。
いつ昼間に襲撃してきた連中がやって来てもおかしくないのだ。
どうしても不安ばかりが募ってしまう。
すると、全裸で湯船に浸かっている今の自分の無防備さが、とてつもなく恐ろしく思えてきた。
真帆はバスタブから出ると、脱衣所に出て急いで体を拭いた。
フェイリスに用意してもらった替えの下着を身に着けようとしたところで――。
手が、震え出した。
それどころか、足腰の力まで抜けてしまい、その場にヘナヘナと座り込んでしまう。
真帆
(極度の緊張と、そこからの急激な緩和で、一時的にひどい
筋弛緩
きんしかん
が起こってる……)
そうやって自分の状態を分析することで、冷静であろうと心がけてみたが、だからといってどうすることも出来ず、くたりと横になるしかなかった。
真帆
(これは……まずいわ……)
頭の中で警告音が鳴っている。
時間を置けば自然に回復するはずではあるから、しばらくじっとしていよう……と観念したところで、ひょっこりとフェイリスが顔を出した。
フェイリス
「まほニャン? お湯加減は――」
フェイリス
「うニャぁっ!?」
床にへたり込んでいる全裸の真帆を見て、フェイリスは悲鳴を上げ、オロオロし始めた。
フェイリス
「た、た、大変だニャー!」
フェイリス
「死んじゃう! 真帆ニャンが死んじゃうー!」
真帆
「や、あの、別に大丈夫だから――」
真帆の声は、蚊が鳴くほどにか細いものだったため、大騒ぎしているフェイリスに届くことはなく。
フェイリス
「ええとええと、とにかくベッドに連れてかなくちゃ!」
フェイリスは全裸の真帆を抱き上げ――ようとして、見事に手を滑らせて落っことした。
真帆
「ふぎゅっ!」
真帆は後頭部を床にしたたかにぶつけた。
視界にチカチカと星が舞う。
フェイリス
「はニャニャ! ごめ、ごめんなさい~!」
あられもない格好で仰向けに転がされた真帆は、なんとか自分で起き上がろうとするが、腕に力が入らない。
真帆
「き、聞いてっ……これは、すぐに治るから……っ」
だがフェイリスはすっかり動転してしまっている。
なにを思ったか、真帆の背後から両腋の下に手を入れて、ぐいっと引っ張り上げようとした。
そこへ、フェイリスの悲鳴を聞いたのか、倫太郎が焦った様子で駆けつけてきた。
倫太郎
「どうしたんだフェイリス!」
真帆
「ひっ!?」
倫太郎
「あ……」
フェイリス
「ニャ……!?」
真帆
「あ、あ……」
真帆
「ぁ~~~~…………」
思い切り悲鳴を上げたかったのに、口から出たのはヘロヘロの情けない声だけだった。
真帆
「…………」
倫太郎
「本当に悪かった。この通りだ」
ベッドに横たわった真帆に、倫太郎が深々と頭を下げてきた。
真帆
「あ、謝らなくても、いいわ。……さっきのは、あくまでも
事故
①①
なんだから」
そうは言いつつも、真帆は倫太郎とまともに顔を合わせられずにいた。
あられもない姿を見られた瞬間の、絶望感や恥ずかしさ。それを思い出すだけで、枕に顔をうずめて足をバタバタさせたくなってしまうし。
あの後、真帆は自力で立ち上がることができなかったため、いわゆる“お姫さま抱っこ”で倫太郎にこの部屋まで運んで来てもらったことも、照れくささを増大させていた。
男性と触れ合った経験が皆無な真帆は、男性の腕があんなにゴツゴツとしているものだということを、今日になって知った。
抱かれ心地は悪かったし、やたらと揺れてずり落ちそうになったほどだ。
それで仕方なく身体を小さく丸めて、倫太郎のなすがままにされていたら……それはそれで、なんだか奇妙な感覚が湧き上がってきて。
今に至るまで、倫太郎の顔をまともに見られないのである。
フェイリス
「フニャ~。フェイリスが慌てたのがいけなかったんだニャ……」
倫太郎の横で、フェイリスも正座してしょんぼりと肩を落としている。
真帆
「ううん、いいのよ。むしろ、驚かせてしまってごめんなさい」
倫太郎
「身体は平気なのか? 病院に行かなくても?」
真帆
「強い緊張が続いていたから、その反動が来ただけ。もう少し休めば、回復すると思う……」
真帆
「心配かけてしまったわね。みっともないわ……」
倫太郎
「みっともないもんか。今日みたいなことに巻き込まれれば、誰だって怖い。具合だって悪くもなる」
真帆
「あなたでも、怖い?」
倫太郎
「ああ」
真帆
「そう……」
フェイリス
「今夜はもう休むといいニャ。事件の事とか、これからどうするかとか、難しい話は元気になってから考えるといいニャン」
真帆
「そうね……ええ、そうするわ」
真帆
「ありがとう……」
真帆は礼を言って目を閉じた。
パチリと室内灯が消され、倫太郎とフェイリスは部屋から出て行った。
真帆
「…………」
ベッドに身を横たえて、なにも考えないようにする。
とくんっ、とくんっ、と自分の心音が聞こえる。
それがやたらと大きくなったり、逆に小さくなったり……妙に不安にさせられるリズムを紡ぎ出す。
疲労性の耳鳴りだろうか、心音に混じってサーッというノイズが、まるで壊れたテレビのように聞こえ始めた。そうすると、もうそれが気になって眠ることが出来ない。
真帆
(そういえば、岡部さんが精神安定剤を服用しているって言ってたわね……)
本当は良くない行為なのだが、成分を調べれば、どの薬がどんな作用を与えてくれるのか真帆には分かる。
それを見て、少し分けてもらうべきだろうか?
それが無理なら、せめて睡眠導入剤代わりに、抗ヒスタミン剤入りの市販用アレルギー薬でもいい。
そんなことを思いながら、真帆は寝返りを打った。
ライダースーツの女
「……大声を出さないで、言う事を聞いて。さもないと……命はない」
真帆
「……っ!?」
突然、耳元で、不快な耳鳴りに混じってはっきりと声が聞こえた。
真帆は息を飲み、掛け布団を跳ね上げて飛び起きた。
背筋が凍りつくような恐怖にまろびながら、ドアに向かって、這うように逃げようとする。
しかし足は思うように進まない。
膝に力が入らない。
耳元の声は、どこまでも追いかけてくる。
執拗に、まるで獲物をなぶる獣のように。
真帆の全身、あらゆる部分の肌が粟立つ。
歯の根が全く合わず、舌を噛んでしまう。
必死に、絨毯の上を這いずって、ドアへと向かう。
ライダースーツの女
「ひとり殺してみせれば……いい?」
真帆
「やっ、やめてっ! やだ! いや!」
真帆
「いやぁぁぁぁっ!」
倫太郎
「比屋定さんっ! おいっ!」
肩を激しく揺り動かされて、真帆はハッと我に返った。
真帆
「…………っ」
荒い息をしながら、部屋を見回す。
そこはベッドの上で、倫太郎が真帆の顔をのぞき込んでいた。
真帆
「……はあ……はあ……」
全身汗だくで、ひどく気分が悪い。胸の奥底、胃の腑のあたりがムカムカと焼けていた。
倫太郎
「どうしたっ!?」
真帆
「だ、誰かがここにっ……」
倫太郎
「…………」
倫太郎も部屋を見回す。
遅れて来たフェイリス、それに執事である初老の男性も、部屋の入り口で困惑した表情を浮かべているだけだ。
倫太郎
「きっと、悪い夢を見たんだ」
真帆
「…………」
棚の上の洒落たアンティーク時計は、いつの間にか午前1時過ぎを指していた。
どうやら、気づかないうちに何時間か眠っていたらしい。
真帆
「う……うん。そうね、夢……だったみたい」
思わず子供のような返事をしてしまったことに気づかないまま、真帆は苦しそうな息をひとつ吐いて、額の汗をぬぐった。
フェイリスと執事には自室に戻ってもらった。
倫太郎は、洗面台からタオルを持ってきてくれた。
倫太郎
「ひどい汗だ。拭いた方がいい」
真帆は言われた通りに、顔と胸元、手足のしずくをきれいに拭き取った。パジャマの下も拭こうかどうしようか迷っていると、倫太郎がそれを察してクルリと背中を向けた。
倫太郎
「俺も自分の部屋に戻るから。何かあったらいつでも声をかけてくれ」
真帆
「あっ? あのっ!」
倫太郎
「ん?」
真帆
「えと、橋田さん、は?」
倫太郎
「ああ、さっき連絡が来たよ。鈴羽とも合流したって」
真帆
「そ、そう……」
倫太郎
「それじゃ」
倫太郎が、ベッドのそばを離れようとした。
が、真帆は――自分でも想像すら出来ないことだったが――思わず手を伸ばして、彼の服の裾をきつく掴んでいた。
真帆
「まっ、待っ……」
倫太郎
「……?」
真帆
「お……お願い……少しだけでいいから……」
真帆
「……ここに、いて」
倫太郎
「比屋定さん……」
真帆
「ひとりに……しないで……」
真帆は、自分が口走った言葉に驚いていた。
でも、この悪夢のような夜の中にポツンと取り残されるなんて、恐ろしくてどうしても耐えられそうになかったのだ。
倫太郎はそんな真帆の気持ちをちゃんと汲み取ったらしく、笑ったりもせずに首を縦に振ってくれた。
倫太郎
「分かった。眠るまで一緒にいるよ」
真帆
「……ありがとう。わがまま言ってごめんなさい」
倫太郎
「いや、いいんだ。どうせ俺も、なかなか寝付けなかったし」
倫太郎
「後ろ向いてるから、汗だけはちゃんと拭くといい」
真帆
「ええ……」
倫太郎が再びドアの方を向いてくれている間に、真帆はパジャマを脱いで、全身にまとわりついている滝のような汗をぬぐった。
それからもう一度パジャマを着ようとしたが――それは絞れるほどの汗で濡れており、とてもではないが身に着ける気にならなかった。
仕方ないので下着だけでベッドにもぐりこむと、掛け布団を胸のずっと上まで引き上げる。
真帆
「も、もういいわ」
常夜灯の薄明りの中、倫太郎はベッドのすぐそばに椅子を運んできて、腰を下ろした。
倫太郎
「ここで見張ってるから、何も恐がらなくていい。これなら安心だろ?」
真帆
「…………」
倫太郎
「不安か?」
真帆
「ううん、大丈夫」
真帆は自分でもよく理解できない感情に顔が熱くなり、布団の中にさらにもぐりこんで、倫太郎に背を向けた。
目をそっと閉じる。
倫太郎の気配を、背中に感じる。
ふたりの間からは会話が消え、部屋の中に漂うのは、カーテン越しに時折聞こえてくる遠い夜の音だけになった。
真帆
「…………」
倫太郎
「…………」
いったい、どのくらいそうしていただろう――。
真帆が浅い眠りの入り口に向かいかけた頃、かすかなささやき声が、耳に届いた。
倫太郎
「……比屋定さん……まだ、起きてるか……?」
真帆
「え? ええ……」
真帆の、遠ざかりかけていた意識がフッと戻る。
目を開けて倫太郎へと向き直ると、彼は、窓の方をじっと見ていた。
まるで、その向こうにある、“何かの光景”を見通そうとでもしているかのようだった。
――きれいな横顔をしているのね。
真帆は、なぜかそんな事を思った。
真帆
「……どうか、したの?」
倫太郎がなかなか口を開こうとしないので、あえて真帆の方から尋ねる。
倫太郎は、コクリと息を呑んだ。
倫太郎
「……本当は、ずっと言おうと思ってた」
倫太郎
「けど、勇気がなかった……すまない」
真帆
「何の、こと?」
倫太郎
「俺は……俺は……ひとつだけ……」
真帆
「ひとつだけ?」
倫太郎
「君に……重大な事を隠している……」
真帆
「……?」
真帆は、胸元がはだけてしまいそうになるのも構わず、身を起こした。
倫太郎
「さっき、話したよな。別の世界線のことや、そこで出会った紅莉栖のこと。タイムマシンやタイムリープのこと……」
真帆
「ええ……」
倫太郎
「紅莉栖と、その父親のことも……」
真帆
「ええ……」
倫太郎
「あの時……本当はもうひとつ、言わなきゃいけない事があったんだ」
倫太郎
「でも……どうしても……言い出せなかった」
倫太郎はいつしか、イスに座ったままうなだれてしまっていた。
真帆は、黙って、じっと倫太郎の次の言葉を待った。
こんな時刻なのに、遠くでヘリの音が響いている。その音が妙に耳についた。
ニュースは見ていないが、昼間の銃撃戦でまだマスコミが騒いでいるのかもしれない。
倫太郎
「……これは……君にだけは絶対に話すべき事だったのに……」
ようやく言葉を発した倫太郎の顔は、これまで真帆が見てきた彼のどの表情とも違っていた。
まるで深い闇の底にいるように辛そうで、苦しそうで、哀しそうで、切なそうで。
それでいて、自分自身へのやり場のない憤怒や嫌悪のようなものが、その目の内に宿っているような。
真帆
「岡部、さん……?」
真帆は、突然、自分の胸が張り裂けそうなほどに痛むのを感じた。
その痛みがいったいどんな気持ちから来ているのか、自分でもよく分からないが、とにかく倫太郎にはそんな顔をして欲しくないと思ってしまった。
倫太郎
「…………あの、日」
倫太郎
「……ラジ館で、紅莉栖をっ……」
倫太郎の手が、震えながら何かの形を作っていく。
見えないナイフを握っているかのような、その形。
倫太郎
「紅莉栖を、殺したのは……っ!」
真帆
「もういいわっ!!」
真帆は、たまらず叫んでいた。
自分が今、どんな格好なのかも忘れて布団から転がり出ると、倫太郎の手を小さな両手でせいいっぱい包み込む。
真帆
「いいの! もういいっ! それ以上、言わなくていいからっ!」
倫太郎
「…………」
真帆
「わ、私は、あなたを信じているわ! だから、話さなくていい!」
真帆
「いつか、その時が来たら、いやでも聞かせてもらうことになると思う。でも、それは今じゃない」
真帆
「その時が来るまでは、口をつぐんでおきなさい!」
真帆は両手にぐっと力を込め、倫太郎の、まるで呪われたような手の形を強引に解いた。
倫太郎
「…………」
倫太郎はそれ以上何も言わず、うなずいてくれた。
しばらくふたりはじっとお互いを見ていた。
救いを求めてさまよう、すがるような倫太郎の瞳から、真帆は目を離すことができなかった。
真帆
「…………」
倫太郎
「…………」
真帆
「…………へくしっ」
くしゃみが出た。
倫太郎
「……か、風邪、ひくぞ?」
真帆
「……っ!?」
真帆はそこでようやく、自分がほぼ全裸で、倫太郎の手を握りしめているという状況を客観的に認識した。
倫太郎も少し照れくさそうな顔をしている。
真帆
「ご、ご、ご、ごめんなさいっ!」
真帆は慌てて布団の中へともぐり込んだ。
膝を抱いて丸くなり、“うわああああああああ”と心の中で絶叫して、ボサボサの長い髪をかきむしる。
一度ならず二度までも、男性に裸を晒してしまった……。
真帆
「ぅぅ……」
真帆
「私、今度こそ、もう寝るわ……」
倫太郎
「邪魔して悪かった」
真帆
「じゃ、邪魔だなんて、思ってないわよぅ……」
真帆
「…………」
真帆
「でも、さっきの話はこの場限りにして。いい?」
倫太郎
「…………」
真帆
「いい?」
倫太郎
「……ああ」
倫太郎
「……ありがとう、比屋定さん」
真帆
「お礼なんて、言われる筋合いはないわ」
真帆
「それじゃあ、おやすみなさい……」
倫太郎
「おやすみ」
再び室内が静かになる。
真帆は、すっかりアドレナリンが分泌されてしまったせいか、寝つけずにいた。
しばらくすると、先に倫太郎の方から寝息が聞こえ始める。
どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。
彼も疲れていたのだろう。真帆と同じようにあの襲撃を受けたのだ。それも当然だ。
倫太郎の寝息は、決して安らかなものではなく、とても苦しげなものだった。
ひどい悪夢にうなされているのかもしれない。
真帆は、何度か躊躇してから、おずおずと身体の向きを変え、布団の中から手を伸ばした。
倫太郎の手の甲に、そっと触れる。
その手のぬくもりを、指先に感じる。
真帆
「紅莉栖は、あなたのことをなんて呼んでいたのかしら?」
真帆
「“岡部さん”?」
真帆
「それとも……」
真帆
「“倫太郎”だったのかな……?」
分からないけれど……まあいい。
真帆
「しっかりしなさい、岡部倫太郎」
真帆
「この私が好きになった人は、そんなに弱い男だったわけ?」
少しだけ、紅莉栖の話し方を意識して、そうささやいた。
やがて、苦しそうだった倫太郎の息づかいが、心なしか楽になってくれたような……そんな気がした。
真帆は、ホッと安堵して手を離し――すぐに思い直して、先ほどと同じように彼の服の裾をキュッと握ってみた。
まるで子供のようで恥ずかしかったが、こうすると、今夜はもう悪夢を見ないで済みそうな、そんな感じがしたのだ。
その晩の夢には、本当に久しぶりに、優しく微笑む紅莉栖が現れてくれた――。
その後の数日間、俺と真帆はフェイリスの家に世話になった。
紅莉栖のPCが失われたことで、俺たちが今後狙われる可能性はかなり低くなったとはいえ、ゼロじゃない。
念には念を入れて、ラボには近づかなかった。
レスキネン
「マホ! リンターロ!」
久々に顔を合わせたレスキネン教授は、少しやつれたように見えた。
真帆
「教授、よかった、無事で……」
レスキネン
「マホも、大変だったね」
レスキネン教授はその大きな体で、小さな真帆を抱きしめた。
あまりにサイズが違いすぎて、真帆がぬいぐるみかなにかにしか見えない。
真帆
「教授、キツい……キツいですっ」
レスキネン教授と真帆の帰国は、平日の昼間ということもあり、空港まで見送りに来られたのは俺だけだった。
見送りというより、単にずっと真帆と行動を共にしていたから、ここまで連れてきただけなんだが。
なにしろ真帆は、1人だと空港へ行くことも満足に出来ない人間だったから。
こんなに生活能力皆無で、よくこの年まで生きてこられたものだ。
ちなみに真帆の送別会自体は、昨日の夜にフェイリスの家で済ませていた。
フェイリスだけでなくまゆりやダルなど、クリスマスパーティーに参加していた連中はだいたい参加して、別れを惜しんだ。
レスキネン
「リンターロ、マホと一緒にいてくれてありがとう。本当に世話になったね」
倫太郎
「いえ」
レスキネン
「それで、うちの研究室にはいつ頃来られるのかな?」
倫太郎
「え? ええと……」
その話、冗談じゃなかったんだな……。
倫太郎
「勉強して、少しでも早く行けるように頑張ります。そのときは、俺から連絡しても?」
レスキネン
「もちろん! いつでも待っているからね!」
笑いながら、俺の手を取り、握手してくれる。
その言葉が、すごくありがたかった。
『Amadeus』に触れたことで、ヴィクトル・コンドリア大に行くという夢への想いは、ますます強くなっていた。
真帆
「岡部さん、お礼を言わせて。いろいろとありがとう」
真帆
「あなたがいなかったら、私は、今ごろ命はなかったかもしれないわ」
倫太郎
「大げさだな」
真帆
「いいえ。本心よ。本当に感謝している」
真帆
「私も、あなたのことを待っているから。頑張って」
倫太郎
「ああ。君も、研究を頑張ってくれ」
レスキネン
「それでリンターロ。事前に連絡しておいた通り、『Amadeus』のアクセス権は今日ここで解除させてもらうことになるんだ」
レスキネン
「いいね?」
倫太郎
「はい」
2人の帰国にあたり、俺に許されていた『Amadeus』へのアクセス権をそのまま残すことは、さすがにできなかった。
もともと、2人が日本に滞在している間だけのテスターだったわけだし。
レスキネン
「“クリス”に、最後に挨拶するかい?」
真帆
「…………」
倫太郎
「そう、ですね。じゃあ、一言だけいいですか?」
レスキネン
「もちろん」
許可を得て、『Amadeus』のアイコンをタップする。
アマデウス紅莉栖
「なに? 私にもお別れの挨拶してくれるの?」
“紅莉栖”はなぜか仏頂面だった。
倫太郎
「まあな。必要なかったか?」
アマデウス紅莉栖
「私なんかよりも先に、真帆先輩には挨拶したんでしょうね?」
真帆
「ちゃんとしたわよ」
俺が答えるより先に、真帆が横からフォローしてくれた。
アマデウス紅莉栖
「それならいいけど」
倫太郎
「…………」
画面の中に、紅莉栖がいる。
彼女とこうして話をしたことは、俺にとって、よかったんだろうか。
それとも、悪かったんだろうか。
結局、忘れなければならないと思っていながら、俺はいまだに、牧瀬紅莉栖のことを引きずっている。
その呪縛から、逃れられずにいる。
倫太郎
「アクセス権がなくなったら、もう、会えなくなるな」
アマデウス紅莉栖
「ま、私の話し相手になってくれたことには、多少は感謝してる」
アマデウス紅莉栖
「レスキネン教授の研究室に来る可能性はあるんでしょう?」
アマデウス紅莉栖
「一応、再会するときまであんたのことは覚えておいてあげる」
倫太郎
「はは……。
ツンデレ

だな」
アマデウス紅莉栖
「ツンデレ? なにそれ? 知らない言葉を使わないで」
倫太郎
「顔が赤いぞ?」
真帆
「この子、照れてるわね」
アマデウス紅莉栖
「う……」
レスキネン
「“クリス”はシャイだね。Hahaha」
アマデウス紅莉栖
「もう! 教授まで!」
倫太郎
「元気で……というのは、ちょっと違うな。君は別に病気にはならないわけだし」
倫太郎
「あまり、比屋定さんのことをからかうなよ」
アマデウス紅莉栖
「はいはい、言われなくても分かってるわよ」
倫太郎
「それならいいんだ」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「あんたがいつか、そんな風に寂しそうに笑うんじゃなくて――」
アマデウス紅莉栖
「心の底から、笑える日が来るといいわね」
倫太郎
「……!」
AIにも、見抜かれてるなんてな。
やっぱり、牧瀬紅莉栖は大した女だ。
アマデウス紅莉栖
「それじゃ」
倫太郎
「ああ」
紅莉栖が画面から消える。
レスキネン教授に向けてうなずくと、俺はスマホの端末から、『Amadeus』のアプリアイコンを消去した。
レスキネン
「アクセス権の解除は、後でこちらで手続きしておくよ」
レスキネン
「テスターとして協力してくれて、ありがとう。貴重なデータが取れた」
倫太郎
「こちらこそ、ありがとうございました」
俺はレスキネン教授と真帆に、深く頭を下げた。
レスキネン教授と真帆が乗った飛行機を見送りながら。
胸にぽっかりと穴が開いたような、そんな気分に苛まれている自分に気付いて。
俺は、『Amadeus』との繋がりを失ったスマホを、きつく握りしめた。
まゆり
「かがりちゃん。今日から私とあなたは、正式な親子になるのよ」
それは、かがりが6歳の頃の話だ。
その頃、かがりは戦災孤児用養護施設に入っていて、隣接する専用の医療施設で治療も受けていた。
そこは、戦争の負傷者たちで溢れかえる一般病棟とは雰囲気が全く違う場所。絶望に支配された外界から隔離され、子供たちが安心して過ごせる牧歌的な箱庭。
かがりが
ママ
①①
と出会ったのも、その施設だった。
ママ――椎名まゆりは、養護施設の二等養護官で、いつもかがりの事を親身に世話してくれた。
かがり
「ほんと? ママが、かがりのほんとのママになるの?」
まゆり
「ええ。そうよ」
かがり
「やったぁ! ママ!」
そのときのかがりの嬉しさは、言葉では言い表せない。
ママと本当の親子になるという事。それは“かがり”という名前も仮のものから本当の名前になった事を意味する。
かがりは、椎名かがりに生まれ変わったのだ。
まゆり
「あ、こら、くっつかないの。ふふふ、かがりちゃんは甘えん坊さんね」
かがり
「じゃあ、ここから出られるんだよね!? ママと一緒に暮らせるんだよね!?」
まゆり
「…………」
まゆり
「ごめんね。かがりちゃんには、もう少し、治療が必要みたいなの」
医師
「そういう事なんだ」
かがり
「あ、先生……」
かがりはその“先生”の名前は知らなかったが、いつも優しく接してくれる、おじいちゃんのような人だった。
医師
「あと半年もすれば終わるからね。それまで我慢するんだよ」
まゆり
「あの、半年も、ですか? この前のお話では、あと2週間ぐらいで大丈夫だと……」
医師
「それは、身体的な傷の話なんだ。東京大空襲で子供が受けた心的外傷後ストレスは、大人の比ではないからね」
医師
「それに、昨日の診断でわかった事なんだが、かがりちゃんはまだ、怖い夢を見るらしい」
まゆり
「そうなの? かがりちゃん」
かがり
「そ、そんな事ないもんっ。もう怖い夢なんて見ないよ。楽しい夢ばっかりだよ。楽しい楽しい!」
医師
「うーん、かがりちゃん、嘘はよくないよ。それでは、治療はもっと長引いてしまう」
かがり
「あう……」
医師
「夜中に、怖い夢にうなされて起きる事が、いまだによくあるのだと、昨日話してくれたよね?」
かがり
「……うん」
まゆり
「まあ……。そうなの……」
医師
「この子の脳内に、空爆の記憶が恐怖として残っている証拠だろうね」
医師
「きちんと治療しておかなければ、後で取り返しがつかなくなる」
まゆり
「そう、ですね……」
医師
「というわけで、治療を続けてもよろしいかね、“お母さん”?」
まゆり
「あ、はいっ」
まゆり
「かがりちゃん、頑張って悪い病気をやっつけようね」
ママが、頭を撫でてくれる。
それだけでかがりは、涙が出そうなほどに安心出来た。
かがり
「分かった……」
医師
「うん、いい子だ」
まゆり
「じゃあ、また後でね、かがりちゃん」
かがり
「ママ……」
かがりの頭を撫でてくれたママとの手が、離れていく。
代わりに、先生がかがりの手を引いた。
連れていかれたのは、いつもの部屋。
真っ白でフカフカなリクライニングシートと、シートの横に置かれたヘッドセットのような装置、そしてヘッドセットにつながれた無機質なシステムがある、治療室だった。
かがり
(――聞こえる。いつもの声)
神様の声
「キミはママを護るんだ。この世界を護るんだ。そのために君は生まれて来たんだよ」
その声
①①①
がいったいいつ頃から聞こえはじめたのか、かがりはよく覚えていない。
でも、6歳の時点で、かがりが迷ったり悩んだり困ったりした時に、声はもう聞こえるようになっていた。
いつも優しく、そして、力強く、励ましてくれたのだ。
かがりは子供心に、それが神様の声かもしれないと思うようになっていた。
かがりにしか聞こえない声だったから、他の誰かに話してもそれは病気なのだと言われて終わりだったけれど、
ママ
①①
だけは信じてくれた。
かがり
(ママを護るんだ。だから、治療、頑張るんだ……!)
幼いかがりの心の中にあったのは、ママであるまゆりとともに暮らせるという未来への希望だけだった。
かがり
「…………」
ドアを開けるなり、不快なほどの熱気に襲われて、椎名かがりは顔をしかめた。
6月頭にして今年初の夏日を記録したこの日。
外は、歩いているだけで額に汗がにじんでしまうような陽気だが、この六畳の和室は、昼間からぶ厚いカーテンを引き、窓も閉め切っていた。
薄暗く狭い部屋には、足の踏み場もないほどに衣服が脱ぎ散らかされている。
衣服だけではない。色々な汚物――食べかけの菓子パンが入ったままの袋や、半分腐りかけた惣菜のパック、さらにゴミの詰まった大量のコンビニ袋なども、あちこちに放置されていた。
そして、血と膿まみれの包帯やガーゼのたぐいが、壁にもたれてぼんやりと座り込んでいる半裸の女を中心に、大量に散乱していた。
女のむき出しの腹部や胸部、そして手足にも無造作に包帯が巻き付いているが、それもまた血だらけだ。
腐乱したゴミから発せられているのか、それとも彼女自身の身体からなのか……ひどく生臭く、そしてどこか甘ったるいような臭気が、ジワリと室内に滞っている。
萌郁
「……っ」
部屋の主――桐生萌郁は、顔を上げて、期待に満ちた目を向けてきた。
かがり
「M4。まだ生きてたか」
室内に土足のまま足を踏み入れたかがりを見て、萌郁は落胆したように肩を落とした。
萌郁
「FBじゃ……ない……」
萌郁
「誰……?」
かがり
「命の恩人に向かって、ひどい言いぐさね」
萌郁
「ぐっ……ゲホッ!」
萌郁が急に苦しそうに咳き込み、血が混じった胃液を嘔吐した。
彼女の太ももや、畳を汚してしまう。
萌郁
「はぁはぁはぁ……っ」
傷口がまた開いてしまったのか、萌郁の腹部の包帯は赤く染まっていた。
彼女は医師の治療も受けず、およそ5ヶ月も前から、ずっとこの調子だった。
萌郁はあの日、ラウンダーとしての作戦行動中にロシア軍との銃撃戦となり、失態を演じたのだ。
仲間2人を失い、ターゲットだった“牧瀬紅莉栖のノートPC”も入手出来ず、その後、失敗の責任により処分されそうになり負傷した。
それを助け、この部屋まで連れ帰ったのは、かがりである。
萌郁
「うっ……ぐっ……」
ただ、銃撃を受けて傷を負った人間などが病院に行こうものなら、すぐさま警察に通報されて面倒な事になる。
そのため、萌郁には大した治療は施されていなかった。
彼女の傷はジクジクと化膿し、5か月が経った今でも激しい苦痛をもたらしている。
高い熱は一向に引かず、ひどい時には39度から40度を超える日もまれではない。
しかし萌郁は、自分の傷にはあまり関心はないようだ。
それよりも、手にした携帯電話で、必死にメールを打っている。
どうせまた、ひたすら敬愛する上司に対してメールを送り続けているのだ。その数はこの5ヶ月間で、1000通にも迫る勢いだった。
萌郁
「……どうして? FB、どうして返事をくれないの……?」
FBというのは、ラウンダーにおける萌郁の上司にあたる。
メールのやり取りで、萌郁にいつも指示を出していた女性だ。
萌郁はFBの事を、単なる仕事の上司以上に崇拝している。
萌郁にとっては、身体的な痛みよりも、FBから見捨てられたという精神的苦痛の方が何倍も大きいようだ。
かがりは、片方の肩に担いでいたリュックと、ビニールの袋をふたつ、萌郁の足元に放った。
リュックの中には、医師の
処方箋
しょほうせん
がなければ手に入らない薬品類が入っている。
一緒に、激痛を抑える事のみに使用を許されている違法薬物も、箱ごと入れておいた。本来、病院で厳重に管理されているはずのものであり、普通の人間では入手困難な代物だ。
それぞれのビニール袋には、缶詰やレトルト食品など、出来るだけ腐敗しにくい食べ物を、入れられるだけ入れておいた。
かがり
「生きる気がなくなったら言うといいわ。代わりに毒でも持ってきてあげるから」
そう言ってみたが、もはや萌郁はかがりなど眼中にないらしく、なんの反応も見せない。
そんな萌郁の態度にも、かがりはこの5ヶ月ですっかり慣れてしまっていた。
だが、今日はすんなり帰るつもりはなかった。
かがりは、無言で萌郁が握る携帯電話に手を伸ばした。
萌郁
「なっ、何をっ、するのっ……!」
萌郁は抵抗しようとしたが、もはや力も出ないようだった。
あっさりと、携帯電話を取り上げる事に成功する。
それは血と膿にまみれていたが、かがりはためらいもせずに自分の服のポケットにねじこんだ。
萌郁
「か、返して……」
萌郁が、這うようにしてかがりに迫ってくる。
その様子は、さながらゾンビ映画のようだ。
かがり
「勘違いしないで。FBから新しい命令よ」
かがりがそう告げると、萌郁の動きがピタリと止まった。
萌郁
「……FB……の命令?」
かがり
「そう。受け取りなさい」
かがりは、別のポケットから違う携帯電話を取り出した。
これまで萌郁が使っていたものと傷や汚れなどの違いはあるが、同じデザインのガラケーだった。
かがり
「今までの回線は、ロシアやアメリカの諜報部に傍受されていて使えないわ。だから今後は、こっちを使って指令が来る」
かがりが差し出した携帯電話に、萌郁は恐る恐るという様子で手を伸ばしてきた。
かと思うと、次の瞬間、ひったくるようにしてそれを取り、まるで我が子のように胸に抱きしめた。
萌郁
「FBは……この携帯なら……メールを、くれるの?」
かがり
「たぶん、もう来てるはずよ」
萌郁は焦った様子で携帯電話の画面を開いた。
そこに着信しているメールの文面を見て、無感情だった萌郁の双眸から、涙があふれ出す。
萌郁
「“M4、私の可愛い娘……”」
萌郁
「“大変だったわね、私もとても心を痛めています……”」
萌郁
「“失敗した事は……残念だったけれど、あなたが……生きていてくれて……本当によかった……”」
萌郁
「“早く、傷を治して、私からの次のメールを……待っていてね……”」
萌郁
「“今度こそ……任務を、完全に遂行し、私の……信頼を……取り戻して……”」
萌郁
「“あなたの事を……心から、信じて……いますからね……”」
萌郁
「“私の、大切な大切な娘へ……FBより”」
萌郁
「う……うう……」
かがり
「わざわざ読み上げなくてもいいのに」
もちろんそのメールは、実際のFBからのものではなく、かがりがねつ造したものだ。
5ヶ月も生死の境をさまよわせてまともな判断能力を奪った上で、望み通りの餌を与えてやれば、どんな人間でも簡単に制御下に置く事が出来る。
その事を、かがりはよく知っていた。
萌郁
「っ……」
萌郁の顔に、急に生気が戻ってきた。取り憑かれたようにして、かがりが持ってきたリュックの中身をぶちまける。
萌郁
「傷を……治したいの……」
萌郁
「FBの信頼……応え……なくちゃ……」
かがり
「それでいい、M4」
かがりは、満足げに笑って、萌郁の前に膝を突いた。
かがり
「私が治療してあげるわ。包帯を全部取りなさい」
かがりがアパートを出たときには、日が暮れていた。
数時間も、萌郁の治療に時間を費やしていた事になる。
手に、薬品の匂いがこびりついていた。
数日は消えないかもしれない。
かがりは舌打ちしつつ、フルフェイスのヘルメットをかぶり、駐輪場に停めておいたバイクにまたがった。
かがり
「神様の声、そろそろ、聞こえるかな」
ぽつりとつぶやいて。
かがりはバイクを発進させた。
季節は、もうすぐ7月を迎えようとしている。
今年は
空梅吶
からつゆ
なのか、東京はすでに梅吶明けの様相を呈していた。
というより、気温はとっくに夏の暑さだ。
倫太郎
(夏、か……)
つまり……あの出来事があってから、もう1年になろうとしているんだ。
そんな土曜日の昼下がり。
家にいると暑すぎる上に、家業の手伝いをしろと親父がうるさいので、俺はこうして池袋の駅近くまで出てきていた。
1年前なら、ラボという居場所があったのだが、今は鈴羽が生活している事もあって、あまり足を運ばないようにしている。
だがそうなると、休日に勉強するのに向いている場所は、なかなか見つからなかった。
大学まで行くのも面倒だ。
休日は教室を開放していないだろうし。
もろもろ検討した結果、実家近くにあるこのカフェに数時間居座るというパターンが出来上がったのだ。
実際、この手のカフェには俺と同じように何時間もコーヒー1杯で居座る連中が多い。
ノートパソコンを持ち込んだり、読書をしたり。
俺も、そんなリア充の仲間入りをしたのかもしれないな……と、心の中で苦笑した。
あいつ、俺の家に行ったのか……。
俺の実家である『岡部青果店』は、古い商店街の中にある、ボロい店だ。そろそろ築40年になる。本当にボロい。いい加減、建て替えてほしい。
倫太郎
「ふう……」
集中力が切れてしまった。
あと15分もしないうちにまゆりが来てしまうなら、今日の勉強はお開きだな……。
午前中はそこそこ頑張れたから、まあ、よしとするか。
最近の自分の真面目さには、我ながら少し驚く。
目標がある事で、やる気が湧いてきているのを実感する。
少しでも早く、ヴィクトル・コンドリア大に行けるようにならないと。
倫太郎
(ヴィクトル・コンドリア大学、か……)
真帆とは、定期的にメールやチャットのやり取りはしていた。
向こうも研究が大変らしく、いつも眠たそうだ。
スマホを取り出す。
ホーム画面で、とあるアイコンをついつい探してしまう。
だが、当然ながらそのアイコンは半年前に俺自身の手で消去した。
『Amadeus』。
“紅莉栖”は、元気にやっているんだろうか。
……あいつの事だから、どうせ小難しい理論を振りかざしたり、真帆をからかったりしているだろう。
案外、真帆に隠れてこっそり@ちゃんねるを見ているかもしれない。
倫太郎
(@ちゃんねる……)
そう、“紅莉栖”は、ネットの情報を見る事も出来た。
だから@ちゃんねるを見ていてもおかしくない。
それはいいとして――。
倫太郎
(『Amadeus』って、ネット掲示板に書き込んだりする事も、出来るんだろうか?)
紅莉栖も、去年の夏にジョン・タイターを論破しようと、@ちゃんねるに必死な様子で書き込んでいたんだ。
あれはα世界線での話ではあるけれど……
彼女は、そういう行為に抵抗を感じる人間じゃない、という事だ。
それなら“紅莉栖”だって同じ事をしている可能性もある。
『Amadeus』がネットワークと一時的にでも繋がる事を許可されているなら、あるいは……。
俺はスマホでウェブブラウザを開くと、あまり期待はせずに、忘れる事の出来ないハンドルネーム名で検索してみた。
『栗悟飯とカメハメ波』
それが、かつて紅莉栖が使っていた
コテハン

で――
倫太郎
「うおっ」
思わず声が出てしまった。
冷たい視線を向けてくる他の客に軽く頭を下げ、すぐにスマホ画面に目を戻す。
驚いた事に、検索してみたら何百件も引っ掛かったのだ。
どれも@ちゃんねるの書き込みのようだ。
ざっと、検索結果の一覧だけを見て、日付を確認してみる。
古いものでは、2008年のものもあった。
これは、生前の紅莉栖の遺したものか……。
こんなところにも、紅莉栖の
足跡
そくせき
を見つけるなんて。
倫太郎
(っていうか、投稿しすぎだろ……)
ここまでヘビーな@ちゃんねらーだとは思わなかった。
紅莉栖が投稿していたのは、物理学と数学、それにサイエンスフィクションと……あと、もちろんオカルト板にも書き込みが散見された。
たとえば、SF関連のスレッドでは、タイムマシンに関してかなり熱い議論をしていた。
ただしα世界線と異なるのは、決してタイムマシンを完全否定してはいない事だ。
意外にも、肯定派に近い意見すら書いている。
倫太郎
(いや、意外でもなんでもない、か……)
なにしろ、タイムマシンに関する本気の論文を、こっそり書き上げていたくらいなんだから。
それに比べると、オカルト板での書き込みの方は、苛烈な内容ばかりだった。
以前よくテレビに登場していた某大学教授も裸足で逃げ出すような勢いで、とにかく、非科学的な事を述べる連中を論破しまくっていた。
ミステリーサークルやらポルターガイストやら人体発火現象やらといった超自然現象。
オーパーツの信憑性、マヤ暦が示唆する人類滅亡の有無、人間の遺伝子が地球外からもたらされたという陰謀説の検証。
そうしたオカルトネタを、周囲もドン引きするぐらい詳細に分析し、冷徹に否定し、勇敢にも議論を挑む相手がいれば、その相手を完全にノックアウトしていた。
いかにも紅莉栖らしい、腹立たしいほど理路整然とした書き込み。
実はこいつ、こういうオカルトネタも好きだったんじゃないか?
そうツッコミを入れたくなってしまうぐらいの情熱の注ぎようだった。
倫太郎
(いくらなんでも大人気なさ過ぎだろ……)
紅莉栖と初めて出会った去年の夏のATFで、俺もこうして完膚なきまでに叩きのめされたものだ。
ただ……。
そうした『栗悟飯とカメハメ波』の書き込みも、ある時期を境にして途切れてしまっていた。
その時期は……去年の7月27日。
紅莉栖が亡くなる前日だ。
それは、翌日に控えた中鉢博士のタイムマシン発表会を嘲笑するような書き込みに対して、少しムキになって反論している内容だった。
倫太郎
「…………」
懐かしさと
寂寥感
せきりょうかん
で、胸が詰まる。
ウェブブラウザを閉じようかと思った。
ただ、次に表示されていた書き込みの日付を見て、ハッとした。
スマホの画面を顔に近づけ、しつこいぐらい何度も、その日付を確認する。
その書き込みの日付は――。
2010年12月1日。
倫太郎
(これって、まさか……)
紅莉栖が亡くなったのは2010年7月。
だから、これが紅莉栖本人による書き込みという事はあり得ない。
じゃあ何者なのか。
『栗悟飯とカメハメ波』に成りすました、まったく無関係の誰かか?
それとも……?
トリップ

が付いていないから、判断は難しいところだが。
去年の12月1日と言えば、真帆とレスキネン教授が来日した直後であり、俺が“紅莉栖”と対面した頃でもある……。
その後も『栗悟飯とカメハメ波』は、週に一度ぐらいの割合で書き込みをしていた。
一番最新の日付を調べてみる。
倫太郎
(って、昨日の夜じゃないか!)
内容は相対性理論に関する事だった。
相変わらず@ちゃんだと口が悪いな、おい……。
と思ったが、面と向かってもこのくらいの事は言っていたか。
もしもこれが成りすましなどでなく、あの“紅莉栖”が書き込んでいるのだとしたら――。
なんてバカバカしくて、奇跡的な話だろう。
真帆やレスキネン教授は、この事を知っているんだろうか。
……知らないだろうな。“紅莉栖”は、絶対に言わないから。
たまらず、笑いがこみ上げてきてしまった。
コンタクトを取ってみようか?
この『栗悟飯とカメハメ波』が、“紅莉栖”による書き込みなのかを、確かめてみたい。
そこで、いいハンドルネームを思いついた。
『サリエリの隣人』。
もちろんこれは、真帆のIDに引っかけたネーミングだ。
もしも『栗悟飯とカメハメ波』の中の人が“紅莉栖”なら、これを見てそれなりに反応するんじゃないだろうか。
よし……。
投稿……と。
これでどうだ?
わざと挑発するような書き方をしてみた。しかも、多少の間違いを混ぜておいたのがポイントだ。
自分で言うのもなんだが、紅莉栖の事なら真帆などよりもずっと分かっているつもりだ。
倫太郎
「フフフ……あっさり
釣られる

はずだ、紅莉栖ならな……」
まゆり
「オ~カリン」
倫太郎
「……!」
いつの間にか、目の前にまゆりが立っていた。
倫太郎
「なんだ、もう来てたのか」
書き込みに夢中になりすぎて、まったく気付かなかった。
慌ててスマホをしまって、立ち上がる。
倫太郎
「じゃあ、行くか」
まゆり
「…………」
倫太郎
「ん? どうした?」
まゆり
「ううん。行こ~♪」
俺とまゆりは連れ立って、カフェを出た。
まゆりと向かった先は、東京ハンズだった。
冷房の効いた店内に入ると、生き返ったような気分になる。
まだ6月でこの暑さならば、7月、8月になったらいったいどうなってしまうのだろうと、ゾッとしてしまう。
倫太郎
「それで、いったい何を買うつもりなんだ?」
まゆり
「えっとねえ、商品宣伝用のPOPを作るんだ~。だから、それ用のカードとか、蛍光ペンとか」
倫太郎
「今年はコミマで同人誌でも出す気か?」
まゆり
「違うよ~。岡部青果店で使うんだよ~」
倫太郎
「は? なんだって……?」
俺の実家で?
まゆり
「今日、オカリンの家に行ったときにね、おじさんと、そんな話になって」
まゆり
「じゃあ、まゆしぃが作りますって立候補したの」
倫太郎
「おいおい……」
親父の奴、なんて図々しいんだ。
倫太郎
「お前がそんな事する必要、ないんだぞ?」
まゆり
「でもでも、まゆしぃがやりたいからやっているのです」
倫太郎
「……本当にいいのか?」
まゆり
「オカリンやおじさんおばさんには、いつもお世話になってるから」
倫太郎
「……じゃあ、代わりに今度何かプレゼントするよ」
まゆり
「ホント~? 嬉しいな~」
売り場をざっと見渡すと、POP用の材料はかなりの種類がある。
俺はあまり口を出さずに、まゆりのセンスに任せる事にした。
まゆりはかなり長い時間、じっくりとどれを買うべきか吟味していた。
ただ、まゆりは普段メイクイーン+ニャン⑯で働いているせいか、センスも、なんというか……萌え方向に寄っているんだよな……。
まゆり
「あ~。ねえねえ、こっちのハート型のもかわいいよ~」
倫太郎
「野菜や果物を売るのに、ハート型なんてどう使うつもりだ?」
まゆり
「んー?」
まゆり
「たとえば、こんな風に書くのはどうかな?」
まゆり
「“おっきなおっきなマツタケ君♪ 今夜のおかずに奥さんいかが?”」
まゆり
「あとは……」
まゆり
「“甘くてとろりん♪ 早く食べてね♪ 熟れたメロンちゃん”」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「お前、まさか知らないうちに、ダルに
洗脳

されたわけじゃないよな?」
まゆり
「え~?」
倫太郎
「あ、いや、なんでもない」
不思議そうに首をかしげているまゆりからは、邪念は一切感じられなかった。
倫太郎
「とにかく、ハート型のPOPは不許可だ。ウチが怪しい店に見えてしまう」
まゆり
「そうかな~? かわいいと思うけどな~?」
倫太郎
「かわいくなくていいんだって……」
結局、口を出さないつもりだったのに、何度もケチをつけてしまった。
倫太郎
「そもそも、これ以上買っても絶対余るぞ」
俺が手に持っている商品カゴの中は、様々な色や形のカードですでにいっぱいになっていた。
倫太郎
「これだけあれば、当分困らないだろ」
まゆり
「そうだね。じゃあ、ここまでにしよう」
会計をするため、レジへ向かう。
ただ、土曜日という事もあってレジ付近は会計を待つ客でごった返していた。
時間がかかりそうなので、まゆりには、別フロアにあるキャラグッズ売り場あたりで待っていてもらう事にした。
あそこなら、まゆりの好きな『
雷ネット翔

』関連のグッズも扱っているはず。
まゆりは申し訳なさそうにしながらも、俺の言う事に従ってくれた。
結局、レジで会計を済ませるのに15分もかかってしまった。
そのお詫びも兼ねて、『プレゼントする』という約束を早速果たすことにした。
まゆり
「えっへへ~♪」
まゆりが、本当に嬉しそうに顔をとろけさせて、手に持っているキーホルダーを眺めている。
『雷ネット翔』に登場するマスコットキャラの“うーぱ”だ。
待っていてもらったキャラグッズ売り場で、なんでも好きな物を選んでいいと言ったら、これを持ってきたのだ。
倫太郎
「“うーぱ”なら、もう大量に持ってるのに……ずいぶん嬉しそうだな」
倫太郎
「しかもそれって、普通の緑色の“うーぱ”だろう? レアなやつじゃないよな」
倫太郎
「レアなのは、確か……『メタルうーぱ』だっけか?」
うーぱの中でなんといっても人気が高く、グッズの希少性が高いのは、全身が銀色に輝くメタルうーぱだ。
たとえば、コンビニの商品クジでも、特賞はメタルうーぱと相場が決まっている。
ネットオークションに出せば何万円にもなると、前にまゆり自身から聞いた事があった。
まゆり
「ちっちっち」
まゆりはなぜか、気取った様子で人差し指を左右に振った。
まゆり
「違うんだな~」
まゆり
「これはね、緑のうーぱさんだけど、普通のとは違うの」
まゆり
「この前やってた映画に登場した、“緑の妖精さんうーぱ”なんだよ」
そう言えば、『雷ネット翔』の劇場版が、春に公開されていたな。
まゆりも子供たちに紛れて、見に行ったんだろうか?
倫太郎
「緑の妖精さん?」
まゆり
「映画のネタバレ、してもいいかな?」
倫太郎
「いいぞ。どうせ見ないし」
まゆり
「えっと、今回の映画はね、ばーちゃる世界で悪のスーパーハッカーさんたちとバトルをするんだ」
まゆり
「そのばーちゃる世界が、妖精さんの住む森なのです」
まゆり
「スーパーハッカーさんはすごく強くてね、

かける
くんもうーぱも、ピンチになっちゃうんだけど……」
まゆり
「もうダメだーっ、ていう時にね、妖精さんたちが助けに来てくれるの」
まゆり
「実は、その妖精さんたちは、翔くんがお世話をしてた、学校の花壇のお花さんたちだったんだよー」
まゆり
「いつも優しくしてくれる翔くんを助けるためにね、ばーちゃる世界でぴかぴか~ん! って光って、うーぱと合体するんだー」
まゆり
「それが、この“緑の妖精さんうーぱ”。すっごくかわいいし、すっごく強いんだよー」
まゆり
「まゆしぃ感動したなー。そういう話に弱いんだー。監督さん、天才だよー」
倫太郎
「な、なるほどな」
まゆりがこんなに熱く語る事は珍しい。
確かによく見れば、まゆりが持っているうーぱは、ただの緑色のうーぱとはデザインが少し違うようにも見える。
あまりうーぱに詳しいわけではないので、どこがどう違うか……と問われると困ってしまうが。
まゆり
「このキーホルダーね、けっこうあちこち探してたんだ♪」
まゆり
「すっごく人気があってね、どこも売り切れだったんだよー。まさか、ハンズに残ってるなんて思わなかったなあ」
倫太郎
「ラッキーだったな」
まゆり
「うんっ。しかも、これが最後の1個だったんだよ」
まゆり
「今日は来て良かった。オカリンと、おじさんには、感謝しなくちゃ~」
まゆりは、紙製の商品タグを指先で器用に外すと、バッグの中から家の鍵を取り出し、そこに慎重に取り付けた。
まゆり
「ね、オカリン? まゆしぃね、これ、ずっとずっと大切にするね」
倫太郎
「ああ、そうしてくれ」
倫太郎
「くれぐれも、買って5分でなくしたりしないようにな」
まゆりには前科があるからな。
ラジ館で俺が当ててやったメタルうーぱ。
それをまゆりは、手に入れてから、ものの5分でなくしてしまったのだ。
結局あのメタルうーぱは、見つからないままだっただろうか。
あの時期の事はあまり思い出したくなかったから、メタルうーぱの行方に関する記憶なんておぼろげなままだ。
まゆり
「うん。もう絶対に、ぜ~ったいに、なくさないのです」
そんな話をしながら、2人で帰路に付く。
まゆり
「オカリンのお店のPOP、張り切って作るね!」
倫太郎
「あー、その作業があったな……」
材料を買っただけで終わりだと思い込んでいたが。
むしろここからが、作業の本番だと言える。
倫太郎
「俺も手伝おうか?」
まゆり
「ううん。大丈夫。まゆしぃのセンスを信じてほしいな~」
倫太郎
「……ハートマークのPOPを買おうとしてた時点で、センスを疑うぞ」
まゆり
「大丈夫だよ~」
倫太郎
「ま、POPを作ってくれるだけでもありがたいから、文句は言わないけどな」
まゆり
「あ、お母さんにメールしなきゃ。晩ご飯までには帰りますって」
倫太郎
「なんなら、ウチで食べてってもいいぞ。どうせ親父やおふくろが引き留めるだろうし」
まゆり
「う~ん、どうしようかな~」
まゆり
「オカリンは、今日はこの後、ずっと家にいるの? 合コンとか、行かない?」
倫太郎
「最近は全然行ってないよ」
去年の秋ぐらいは、厨二病をやめて普通の大学生になろうと、かなり無理して合コンにも行きまくっていたが。
最近は勉強に打ち込んでいる事もあって、すっかりそういう機会も減った。
まゆり
「そっか~。じゃあ、ごちそうになっていこうかな~」
まゆりは少し迷った様子でスマホを取り出し、メールを打とうとしたところで――。
まゆり
「…………」
その表情が、突然曇った。
その場に立ち止まってしまう。
倫太郎
「どうした?」
まゆり
「うん……。ついさっきね、カエデさんからメールが来てて。気づかなかったよ……」
まゆり
「どうしよう、オカリン……?」
まゆりはひどく動揺していて、今にも泣き出しそうになっている。
倫太郎
「何かあったのか?」
まゆり
「…………」
まゆり
「ねえ、オカリン……?」
まゆり
「前に言ってたよね? フブキちゃんは、病気なんかじゃないって」
倫太郎
「フブキちゃん? 中瀬さんの事か? 来嶋さんの方じゃなくて?」
まゆり
「うん。あれって、本当? 本当に病気じゃないんだよね?」
倫太郎
「あ、ああ。違うはずだ」
まゆり
「でも……」
まゆりは、スマホのメール画面を俺の方へと差し出してきた。
フブキちゃんまた入院しちゃった。これから行って来る。病院ここ
倫太郎
「また入院した……だって?」
俺は信じられない思いで、画面に表示された文章を見つめていた。
フブキが入院した病院は、前と同じ場所ではなく、代々木にある『AH東京総合病院付属 先端医療センター』というところだった。
日本でも指折りの最新医療を誇る病院らしい。
ネットの情報によれば、最近流行している新型脳炎の患者は、今はここに集められて専門の治療が行われているらしい。
だが、同時にネットには、この病院についてのヤバそうな
都市伝説

エピソードが大量に書き込まれていて、いったいどんな伏魔殿かとビクビクした。
だがもちろん、中に入ってみるとそんなおどろおどろしい施設などではなく、いたって清潔で、高級ホテルのようなたたずまいをしていた。
カエデ
「まゆりちゃんっ。オカリンさんっ」
由季
「こっちですっ」
俺とまゆりがロビーに入っていくと、待っていたカエデと由季が手を振った。
由季もカエデからメールをもらったらしく、急遽駆けつけてきたらしい。
まゆり
「フブキちゃんは……?」
由季
「大丈夫だよ」
由季は、不安そうなまゆりの肩を優しく抱いて、微笑んだ。
一方、カエデは済まなそうに頭を下げてくる。
カエデ
「驚かせてごめんね。私も焦っちゃって。もっとちゃんと確認してから、メールすればよかった」
倫太郎
「……というと? 中瀬さんの容体は?」
カエデ
「今、病室でフブキちゃんのお母さんに会えたんですけど、例の病気が悪化したとかじゃないそうです」
倫太郎
「じゃあ、また検査入院……とか?」
カエデ
「はい、そう言ってました。だから全然心配ないって」
まゆり
「な、なんだぁ。はぁぁ……よかったぁ……」
由季に抱かれたまま、まゆりはホッとしたように緊張を解いた。
確かフブキは、以前検査してもらった際、『疑いはあるが、
重篤化
じゅうとくか
しない限り日常生活には支障なし』として、通院による経過観察となっていたはずだ。
新型脳炎自体は、日本国内に上陸してから半年以上になるが、いまだに患者数は増え続けているらしい。
ただ、不幸中の幸いというべきか、死者は1人も出ていない。
倫太郎
(あれは、病気なんかじゃないと思うけどな……)
俺の中では、新型脳炎と称されるものが、実はリーディング・シュタイナーに近いものなのではないかと思っている。
以前、フブキの見舞いにかこつけたりしながら、彼女以外の患者についてもこっそり調べた事がある。
確証を得るまでには至らなかったが、少なくとも当時フブキと同じ病棟に入院させられていた患者のほとんどは、程度の差こそあれ“同じ世界線”らしき記憶を有していたことを突き止めた。
あの、戦争状態にあった日本の記憶を、複数人が持っていたのだ。
まゆり
「フブキちゃんに、会えるかな?」
カエデ
「それがね、今、MRIで、脳の検査をしている最中なんですって。だから病室にいないの」
まゆり
「そうなんだ……」
カエデ
「でも、もう少しで終わるみたいよ。ここで待っていてって、フブキちゃんのお母さんが」
カエデは、まゆりに、傍らのソファへ座るよう促した。
カエデ
「検査が終わったら、声をかけてくれるみたい」
女性陣はソファに座らせて、俺は傍らに立ったまま、ロビーを見回した。
由季
「すごい病院ですよね」
倫太郎
「あ、ああ」
倫太郎
「中瀬さんの家って、実はすごい金持ちだったりするのか? こんなところに入院なんて」
カエデ
「いえ、そうじゃなくってですね……」
カエデ
「フブキちゃんのお母さんの話だと、日本とアメリカの政府がお金を出して、新しい治療のプロジェクトを始めるみたいなんです」
カエデ
「この病院と、アメリカの専門病院や研究所が中心になって、やるんだそうですよ」
倫太郎
「そうなのか……」
内心、複雑な気持ちになってしまう。
この新型脳炎と言われるものが、仮に、俺の考えている通り、病気なんかじゃないとしたら……これほど無駄な事はないだろう。
男性
「お願いします。患者は全員、個室にして下さい。それも、患者同士が接触しないよう、なるべく離れた部屋で」
医師
「しかしねえ、そんな都合よく病床は空いていませんから」
男性
「それでもやってくれないとダメです。患者同士が会話をする事で、“夢”の情報を共有してしまうでしょう?」
医師
「いや、それはそうですが……」
男性
「脳というのはね、他人が見た夢なのに、それに共感を覚えてしまうと、あたかも自分が見た夢のように錯覚してしまう。そういう可能性だってあるのです」
ロビーを横切るようにして、白衣を着た日本人の老医師と、それに追いすがって訴えるように話をしているスーツ姿の大きな人影が、俺の目に飛び込んできた。
倫太郎
「……あっ!」
そのスーツ姿の西洋人には、見覚えがあった。
というか、俺がよく知っている人物だった。
倫太郎
「きょ、教授ッ――レスキネン教授!」
慌てて駆け寄る。
倫太郎
「レスキネン教授! 俺です! 岡部です!」
普通に老医師と日本語でやり取りをしていたので、例の翻訳機を付けているのだろう。だから俺も日本語で呼びかけてみた。
レスキネン教授も俺に気付くと、ものすごい勢いで破顔した。
レスキネン
「オー! リンターロー!」
その声があまりにも大きかったので、医師や看護師、職員、そして患者に至るまで、ロビー中の人たちがこちらを見た。
しかし、レスキネン教授は全く意に介する様子もなく、ズダダダダダと駆け寄って来る。まるで屈強なアメフト選手がタッチダウンを狙っているかのような迫力であった。
倫太郎
「うわぁっ!? ちょ、ちょっと待って下さい教授! ストップ! ストップ!」
俺の哀願も空しく、レスキネン教授は俺に派手なタックルを決めてくると、そのまま全身をグギュウッと締め上げてきた。
アメフト選手からいきなりプロレスラー化した教授は、歓喜の表情のまま俺の体をブルンブルンと振り回す。
まるで自分が子供になってしまったような気分だった。
こうなると、されるがままだ。どうする事も出来ない。
しばらくして周囲の冷たい視線に気付き、ようやくレスキネン教授は俺を解放した。
レスキネン
「いやはや、済まない。あまりに驚いて、はしゃぎすぎてしまった」
レスキネン教授は大きな体を縮こまらせると、周囲の人たちにペコペコと頭をさげた。
医師
「レスキネン先生、この青年とは、どういったお知り合いかな?」
さっきレスキネン教授と話していた初老の医師が、俺の事を怪訝そうに見ていた。
倫太郎
「あ、えと、その……」
どのような知り合いかと訊かれても、特に師弟関係にあるわけでもないからな。なんと答えるべきなんだろう……。
医師
「見たところまだ学生のようだが……どこの大学かね? 教授と同じ脳科学専攻だとすると――」
倫太郎
「いえ、俺は――」
レスキネン
「彼は、9月からヴィクトル・コンドリア大学の学生ですよ。いずれ、私の研究室に来てもらうつもりでいます」
倫太郎
「えっ?」
医師
「ほほぅ、ヴィクトル・コンドリア大学かね。これは驚いた」
レスキネン教授に目だけでどういう事かと訴えかけてみたが、いたずらげな笑みを返されるだけだった。
この人は……。
相変わらず、子供っぽいところがあるな。
医師
「日本人であそこへ行ける学生なんてめったにいない。大したものだ」
倫太郎
「ど、どうも。ははは……」
レスキネン
「Hahaha!」
その後、初老の医師を見送って、俺はレスキネン教授に分かるようにしてため息をついた。
倫太郎
「あの? 今の人は?」
レスキネン
「この病院の院長だよ」
倫太郎
「院長!?」
倫太郎
「そんな偉い人相手に、堂々と嘘をついたんですか……」
レスキネン
「おや? 私はウソなんてついたかな?」
レスキネン
「確かに“9月から我が校の学生”とは言ったが、なにも今年の9月からとは言ってないよ」
レスキネン
「それともなにかい? 君は結局、我が校に来る自信がないのかな? だったら少し残念だが……」
……実に子供みたいな屁理屈だ。白々しいな。
ただ、不思議と憎めない人ではある。
倫太郎
「でも驚きました。まさか教授がまた日本に来ているなんて」
1月に成田で見送って以来だから、実に5ヶ月ぶりになる。
真帆の姿を周囲に捜してみたが、見当たらなかった。
レスキネン
「リンターロは、どこか具合でも悪いのかい? 治療でここに?」
倫太郎
「あ、いえ違います。入院してる友人の見舞いで」
レスキネン
「ああ、そうか。それは良かっ――」
レスキネン
「いや、その友人にとっては良くないか。申し訳ない」
倫太郎
「あ、いえ……」
倫太郎
「それで、教授こそ、日本の病院で何を?」
するとレスキネン教授は、俺に顔を寄せ、周囲に気を遣うような様子で声を潜めた。
レスキネン
「君も知っているだろう? 例の新型脳炎の件だよ」
レスキネン
「アメリカ政府の依頼で、精神生理学研究所が治療法を研究していたんだが、手詰まりらしくてね」
レスキネン
「私も調査に加わるよう大学から命じられた、というわけさ」
倫太郎
「そうなんですか。レスキネン教授が新型脳炎を……」
思わぬタイミングでそのワードが出て来たな……。
俺は、さっき話した“入院している友人”というのが、新型脳炎の疑いをかけられていると教授に説明した。
レスキネン
「もしかしてその友人というのは、ナカセ・カツミ?」
倫太郎
「え、ああ、クリスマスパーティーで会ってましたね」
レスキネン
「うんうん。実は私が新型脳炎に興味を持ったのも、あのパーティーがきっかけでね」
レスキネン
「君とカツミがそろって倒れただろう?」
そう言えばそうだったな。
俺の方は、その時に別の世界線に跳ばされたんだが。
レスキネン
「カツミには何日か前に再会したんだけどね、私にも何度か噛みついてきたよ。どうしてまた入院させられるんだ、私は元気なのに、ってね」
倫太郎
「そ、そうでしたか……」
レスキネン
「もう少し協力的になってくれると嬉しいと、リンターロからも伝えておいてくれないかい?」
倫太郎
「はあ……」
レスキネン
「実際のところ、カツミだけでなく、すべての患者に、申し訳ないという気持ちはあるんだ」
レスキネン
「我々も日本の医師団も研究を進めてはいるんだけどね、どうにも解せない検査結果ばかりで困り果てているのさ」
どんな時でも陽気なレスキネン教授の顔色が、珍しく曇った。
バイタリティの塊のような彼なので今まで気づかなかったが、そういう表情をすると、顔にかなり疲れたようなシワが刻まれているのが見て取れた。言葉の通り、相当の労を強いられているようだ。
レスキネン
「正直、最初はどの医師も、これほど不可解な病気だとは思っていなかったらしいんだけどね……」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「ん? どうしたんだ、リンターロ?」
倫太郎
「あ、えと、その」
レスキネン
「何か気になる事でも?」
倫太郎
「いえ……」
倫太郎
「俺は医学生じゃないので、さっぱりです」
つい、リーディング・シュタイナーについて、口にしてしまうところだった。
でも、結局、言えなかった。
俺の素人意見がもしも間違っていたら、新型脳炎の患者の人たちの命に関わるかもしれないんだ。
おいそれと、適当な事を話せるわけはない。
と、教授は急にヌッと顔を寄せて来た。
レスキネン
「ところで、そのカツミがなかなか興味深い事を言っていたんだよ」
倫太郎
「……?」
レスキネン
「『自分達は病気じゃない、別の世界の出来事を夢で見る能力があるだけだ』とかなんとか……」
倫太郎
「う……」
フブキには、黙っておいた方がいいと釘を刺しておいたんだが。
我慢出来なかったのか?
これは、まずい事態だ。
ヘタをすると、フブキの正気を疑われてしまうかも。
倫太郎
「ええと……中瀬さんは、その、とても想像力がたくましいというか。SFとか、アニメとか、大好きですから」
倫太郎
「“他の
並行世界

を感知出来る力”なんて、たぶん趣味の影響で口にしただけじゃないかと思います」
倫太郎
「実は、俺もそういう事を言っていた時期があるんですよ、はははは……」
必死に言い訳めいたフォローをしてみたが、レスキネン教授は真剣な顔で考え込んだままだ。
レスキネン
「だけどねえ……私も治療プロジェクトに参加して、驚いたんだが……」
レスキネン
「確かに、この病の特徴として、多くの患者が夢を共有する不可思議な現象が起こっているんだ」
レスキネン
「集団幻覚に近いのかとも思って、今、調べているんだけどね」
レスキネン
「どうなんだろう? こんな事は初めてでね。脳科学的には今のところ“解”が導けない」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「正直、“非科学的”という言葉が一番しっくりくるくらいだよ。それこそ、並行世界とか前世の記憶とか、ね」
倫太郎
「そう、ですか……」
レスキネン
「君も、カツミから色々と話を聞いてくれると助かるよ」
レスキネン
「医者に言えない事でも、友人になら話すだろうしね」
倫太郎
「はい、一応、心がけておきます」
レスキネン
「さて、リンターロ、それはそれとして、確認だ」
レスキネン教授は改まると、俺の背後の方へと視線を向けた。
レスキネン
「クリスマスパーティーのときにも感じたんだけれど、君のガールフレンドたちは、キュートなお嬢さんばかりだね」
倫太郎
「え?」
振り向くと、まゆりとカエデ、そして、由季がソファから立ち上がり、こちらを見守っている。
レスキネン教授の視線に気付くと、軽く手を振ってきた。
レスキネン
「やはり、あの中に恋人がいたりするのかい? ユキ? カエデ? マユリ? ルカ? それとも、カツミがそうなのかな?」
倫太郎
「なっ!?」
思いもかけない事を言われ、絶句してしまった。
よく真帆が“いたずら好きな少年”と揶揄する中年教授は、まさに彼女の言う通りの顔になっていた。
レスキネン
「いや、別に無理に聞かせてくれとは言わないよ。君のプライベートを詮索する気はないからね」
レスキネン
「ただ、まぁ、かわいい教え子に、ちょっとした土産話を、と思っただけさ」
倫太郎
「???」
俺が混乱していると、レスキネン教授はそのままきびすを返した。
レスキネン
「それじゃあリンターロ、私はもうちょっと院長と話をしないといけないから、これで」
レスキネン
「出来ればユキたちにも、ひとりひとりハグしていきたいところだったが、次回に取っておこう。彼女たちによろしく」
倫太郎
「あ、はい!」
大きな背中を見送っていると、ずっと遠巻きに見ていたまゆりたちが近寄ってきた。
まゆり
「今の人、レスキネン先生?」
カエデ
「ですよね。どこかで見た事あると思った」
由季
「アメリカに帰ったんじゃなかったでしたっけ?」
倫太郎
「……は、はは」
まゆり
「オカリン?」
今、レスキネン教授と話した内容は、女性陣にはとてもじゃないが言えない……。
フブキの検査が終わった後、病室でひとしきり彼女の愚痴を聞いてあげて、その日のお見舞いは終わった。
フブキ自身はレスキネン教授が話していた通り、いたって元気で、今すぐにでも退院して、走って家まで帰れると豪語していた。
その様子に、まゆりたちはホッと安堵していたが、俺としては色々と思い悩むところがあった。
やはり、レスキネン教授にリーディング・シュタイナーの事を話した方がいいのだろうか。
ただ、いったいどうやって説明すればいいのか……。
いっその事、真帆に頼んで、彼女からレスキネン教授に説明してもらうというのも手かもしれない。
すぐに答えは出なかった。
カエデや由季とは途中駅で別れた。
池袋駅に着く前に、ふと思い出して、スマホでウェブブラウザを開いた。
昼間に撒いておいた
エサ
①①
がどうなったのか確かめるべく、@ちゃんねるに繋ぐ。
倫太郎
「……!」
思わず声が出そうになり、慌てて口を手で押さえた。
まゆり
「……?」
隣に立つまゆりが、何事かと俺のスマホの画面をのぞき込んでくる。
見事に釣れたな……。
ここまで完璧な一本釣りが成功するとは、思わなかった。
時刻は、ほんの30分ほど前のようだ。
すぐに、『サリエリの隣人』のハンドルネームでレスを返してやる事にした。
投稿してから、スレを再読み込みしてみると。
相手からのレスはすぐに付いた。
その間、わずか21秒……!
ここまで全力で反論されると、人格まで否定されたような気がして、ムカムカしてくるな。
まあ、あえて間違った事を書き込んだわけだから、向こうがムキになって論破しようとしてくるのは、想定通りなんだが。
スレの
住人

たちには、この書き込みはさっぱり意味が分からないだろう。おそらく、ただひとり“彼女”を除いては。
横で一連のやり取りを見ていたまゆりが、不思議そうに首を傾げた。
まゆり
「知り合いなの? その『栗悟飯とカメハメ波』さんって」
倫太郎
「まあな。たぶん、古くから付き合いのあるヤツだ……と思う」
さて。俺が使った『サリエリの隣人』というハンドルネームと、今の書き込みに対して、向こうはどう反応してくるだろう?
そう思っていたが、さっきのような即レスはなかった。
電車が池袋駅に到着する。
まゆり
「オカリン、着いたよ~」
ホームに電車が滑り込み、停車。
ドアが開く前に、もう一度だけ俺はスレを再読み込みした。
そこに、『栗悟飯とカメハメ波』からの、ごくごく短い返信があった。
間違いない。
この『栗悟飯とカメハメ波』は、“紅莉栖”だ。
鈴羽が、椎名かがりと別れた日は、1998年の、ひどく暑い日だった。
近くの店で水や食糧を調達して戻ってきた鈴羽は、タイムマシンのハッチを開けた。すると中から、かがりのヒステリックな声が響いてきた。
かがり
「あーもうっ! わけ分かんないっ!」
マシンの中をのぞき込んでみる。するとかがりがその小さな手で、コンソールをバンバンと叩いていた。
鈴羽
「……お前、何をしてるんだ?」
かがり
「あっ……」
鈴羽の顔を見て、かがりは身を縮こまらせる。
かがり
「ち、ち、違うのっ……これは、そのっ……」
鈴羽
「答えろ」
かがり
「だ、だ、だって! だってっ!」
かがり
「目を覚ましたら、鈴羽おねーちゃんがいなくてっ、真っ暗で明かりもつかないし、狭くて怖くて苦しくてっ!」
かがり
「だから、かがり、ドアを開けたくて……!」
かがり
「それで、あちこちいじってるうちに……こんな事にっ」
そう言って、ポロポロと涙を流し始める。
かがり
「ごめんなさい鈴羽おねーちゃん、ごめんなさい。でも、本当に怖かったんだ、だから……」
鈴羽
「……そうか」
鈴羽は、かがりへの警戒を解いた。
かがりは、戦災孤児ゆえのPTSDを患っていた事があり、それはまだ完治していないと聞いていた。
『暗所や閉所を極端に怖がる』と、未来のまゆりも話していたのを思い出す。
それならば、かがりがパニックを起こしても仕方ない。
それにこのタイムマシンは、鈴羽の生体認証でしか起動しない。
かがり程度の腕の力でコンソールを乱暴に扱ったところで、壊れる事もないだろう。
鈴羽
「お前は時間移動のショックで気を失ってたんだよ。だから休ませておいたんだけど……悪かった」
鈴羽はかがりの小さな手を引いて座席から立ち上がらせると、そのままマシンの外へ連れ出してやった。
かがり
「うわ……暑い……」
鈴羽
「かがり、約束するんだ。どんな事があっても、操縦席のスイッチに触ったりするな。いいな?」
かがり
「う、うん……」
鈴羽
「じゃあ、あたしは仕事にかかるから。お前はその辺で休んでるんだ。――飲み物と食べ物は適当に食べていい」
鈴羽は、調達してきた食糧をかがりに渡すと、自分はマシンの中に入り、操縦席の下にあるカーゴスペースに頭を突っ込んだ。
そこに保管してあるIBN5100に、2036年から持ってきた携帯端末を接続する。
見た目は2000年代初頭の携帯電話だが、中身は2036年の小型量子コンピューター。もちろん未来の至によるハンドメイドである。
IBN5100を起動させると、途端に、携帯端末型PCの画面上にパラパラと数字が羅列され始めた。
かがり
「何をするの?」
マシンの外から、かがりがのぞき込んでくる。
鈴羽
「『
2000年問題

』は勉強したか?」
かがり
「施設の学校でちょっとだけ。結局、なんにも起こらなかったんでしょ?」
鈴羽
「表向きはね」
かがり
「……?」
鈴羽
「公表されてないけど、実は当時、あれのせいでいくつかの地域や国に、深刻な問題が起きたんだ」
かがり
「そう、なの?」
鈴羽
「問題だったのは、このIBN5100というコンピューターなんだよ」
鈴羽
「これには古いプログラム言語が搭載されてるんだけど、そのプログラムの問題点を技術者たちが修正出来なかった」
鈴羽
「というより、そんな言語で書かれた重大なプログラムが存在する事自体、全く知られてなかった」
鈴羽
「第三次世界大戦は、タイムマシンの開発競争が発端なんだけど――」
鈴羽
「もしかすると、『2000年問題』で発生したある事象と、それに付随する対立こそが、もっと深い原因である可能性がある」
この話が、わずか10歳のかがりに理解出来るとは思えなかったが、だからと言って丁寧に説明する気も鈴羽にはなかった。
鈴羽
「しかも、西暦2000年というのは特殊な年でね。すべての世界線が、一旦、ひとつに収束してしまうらしいんだ」
鈴羽
「それに関連して、この問題があらゆる世界線の因果に、重大な影響を引き起こすかもしれない」
鈴羽
「あたしたちが目指してる“狭間の世界線”――シュタインズゲートも、例外じゃない」
そこで鈴羽は、IBN5100に繋がれている携帯端末に目をやった。
鈴羽
「だからこれは、『2000年問題』を起こさないようにするための、修正プログラムなんだよ」
今は、その修正プログラムを、IBN5100用の言語に変換している最中だった。
後はそのプログラムをウイルスの形で全世界に拡散させれば、この時代のエンジニアたちが見落としてしまう『2000年問題』は、完全に解消される。
その時、携帯端末のサブ画面に“CONNECT”の文字が浮かび上がった。
鈴羽
「OK。つながった」
この時代の日本では、未だ
ADSL

回線すらテスト運用の段階で、一般ユーザーのネット環境といえば
ISDN

等を用いた低帯域のダイヤルアップ接続が主流だったと聞いている。
が、秋葉原周辺をはじめ大都市部では、すでに大学や研究所、あるいはPC関連企業を中心に、常時接続の
光ブロードバンド

回線が備えられつつあった。中には
無線LAN

を使用している施設さえあった。
鈴羽はそのひとつに侵入したのだ。
2036年の技術をもってすれば、20世紀末のネットワークセキュリティなどザルみたいなものだと父は笑っていたが、確かにその通りだった。
かがり
「で、でも……未来を変えちゃったら、かがりたちがいた未来の世界も……ぜんぜん変わっちゃうんじゃないの……?」
意外にも、かがりはさっきの鈴羽の話を、おおまかにではあるが理解したようだ。
鈴羽
「そういう事だ」
鈴羽
「もうあの世界は存在させない。あたしたちは、シュタインズゲートを目指すためにここへ来たんだから」
かがり
「…………」
ふと。
かがりの顔に浮かんでいた不安げな表情が、急に抜け落ちた。
魂が抜かれたかのように。
目を見開いたまま、無表情になる。
かがり
「……声」
かがり
「神様の、声……聞こえる」
鈴羽
「かがり?」
かがり
「だめだよ。よくないよ……」
かがり
「……ダメなんだよ、鈴羽おねーちゃん。そんな事しちゃ、いけないんだ」
鈴羽
「おい?」
かがりの様子がおかしい。
不審に思い、鈴羽はかがりの方へ手を伸ばした。
だが。
その鈴羽の手をよけて。
子供の動作とは思えないほど鋭く、肩から体当たりをしてきた。
鈴羽
「――っ!?」
鈴羽は完全に虚をつかれた。それほどの素早さだった。
かがりの肩が、みぞおちに食い込む。
鈴羽
「がはっ」
鈴羽は身を折り、そのままマシンのシートに倒れこんだ。
かがりが、鈴羽の手から携帯端末を強引にもぎ取っていく。
IBN5100に繋がっていたケーブルがブツリと引き抜かれ、両機の画面にエラー表示が出た。
鈴羽
「おっ、お前ッ、何をッ――!?」
かがりは、鈴羽の苦しげな問いかけに答えない。
それどころか、鈴羽が操縦席に置いたリュックをつかみ、中に入っているものをすべてぶちまけた。
携帯用食糧や細かなパーツ類、服などと一緒に、自動拳銃がゴトリと床に落ちる。
鈴羽はギクリとした。
明らかに、かがりはそれを拾い上げようとしたからだ。
鈴羽
「やめろっ!」
痛みをこらえ、鈴羽はかがりの身体に飛びついた。
だが、信じられないほどの力でカウンターの体当たりを食らい、押し戻されてしまった。
鈴羽
「……!」
その鈴羽の眉間に、冷たいものが突き付けられた。
かがり
「動いちゃだめっ!」
自動拳銃を握るかがりの小さな手は、まったく震えていない。
今の一瞬の間に、安全装置まできっちり外されていた。
それを見て、かがりは
癇癪
かんしゃく
を起こしたわけではないと鈴羽は悟った。
銃の扱い方を教えたのは鈴羽自身だ。
だから、かがりが冷静であると、はっきり分かった。
鈴羽
「正気か? 今すぐ銃を下ろせ。こんな真似はやめろ」
かがり
「やめるのはおねーちゃんの方だよ!」
鈴羽
「何?」
かがり
「世界を変えちゃいけないんだ! おねーちゃんはおかしいコト言ってる!」
かがりの瞳には、逡巡はなかった。そこにあるのは、あくまでもひたむきな決意だけ。
鈴羽
「じゃあ、このまま戦争が起きてもいいって言うのか?」
かがり
「そんなの分かんないよっ。かがりは元の世界に戻りたいだけだもんっ」
鈴羽
「なら……もう、無理だ」
鈴羽
「あたしたちはタイムマシンですでに過去に干渉してる。世界線だってズレてしまってるはずだ。あそこに戻れる可能性は低――」
かがり
「うるさいうるさいうるさい! かがりはママを絶対に助けるんだぁぁっ!」
かがり
「この世界を消すなんてダメだよっ! 絶対にやらせないからっ!」
そこまで言うと、かがりは銃口をIBN5100に向け直した。
鈴羽
「や、やめろ!」
鈴羽が止める間もなく、かがりは無造作に引き金を引いた。
何度も。何度も。
鈴羽
「やめてくれ、かがりっ! やめろぉぉっ!」
そしてかがりは、タイムマシンを飛び降り――
――鈴羽の元には、二度と戻ってこなかった。
鈴羽
「…………」
かがりの事を思い出さない夜は、一度もなかった。
この時代に来てからもしばらくはかがりの事を捜していたが、結局手掛かりは見つからなかった。
だが――今はおそらく22歳に成長した椎名かがりは、確実に、この秋葉原にいる。
鈴羽はそれを確信していた。

「おう、真帆たん、オッスオッス」
鈴羽の横で、PCに向かっていた至が、モニタに向かって声をかけた。
モニタに表示されたビデオチャット画面。そこに、みすぼらしい姿の少女――もとい、立派な成人女性が現れたのだ。
真帆
「…………おはよう」
ここ秋葉原、未来ガジェット研究所の時計は、午後8時30分を指していた。
一方で、“Daylight Saving Time”、いわゆるサマータイム中のヴィクトル・コンドリア大学は、通常よりも1時間ずれていて、午前7時30分である。
鈴羽
「比屋定さん。大丈夫?」

「この時間だし、寝起きっしょ」
真帆はひどい姿だった。
髪の毛がグッシャグシャなのはいつもの事だが、真っ赤に充血している目の焦点は合っておらず、視線はあらぬ方向をさまよっている。
目の下のクマは、ちょっと化粧をしたくらいではごまかせないほどに濃くなってしまっていた。
心なしか頬もこけ、ただでさえ痩せて小さかった身体がもう一回りも小さくなってしまったように感じられる。
その上、肌の色がひどく青白く、まるでゾンビか何かのように生気がまるでなかった。

「低血圧真帆たんも萌えるお」
真帆
「…………」
以前なら、至のそんなふざけた呼び方に対して、真帆は不愉快さを隠そうとしなかったのだが。
最近は慣れてしまったのか諦めたのか、特になんの反応も示さなくなった。
真帆
「……そっちの進展はどう?」

「なんとか、オカリンが分解しちゃう前の状態に組み立て直したお。機能はほぼ再現出来てると思われ」
至は、ラボの奥にある、通称『開発室』のカーテンの奥へと、視線を向けた。
現在、真帆にも協力してもらって、岡部がタイムリープマシンと呼んでいたマシンを再度制作中なのだ。
真帆
「……うまくいかないの?」

「うん、なんか安定しないっつーか。普通の電子レンジになっちゃうんだよね」
真帆
「そう……」
真帆
「……何がいけないのかしらね」

「オカリンに、そこんところの話を訊ければ、違ってくるんだけどなあ」
鈴羽
「無理だよ……。あたしたちがこんな事しているって知っただけで、怒鳴り込んでくるよ」
鈴羽
「おじさんは……恐れているんだ。世界線の収束する力というものを」
鈴羽
「あの人を説得するのは、容易じゃない」
事実、鈴羽は岡部を説得出来ないまま、あと少しで1年が経とうとしている。

「うーん」
しばらく沈黙が続いた。
真帆
「…………」

「って、真帆たん! もしかして寝てんじゃね!?」
真帆
「ふわぁっ!?」
モニタの中の真帆が、ビクンと身を震わせて、椅子ごとひっくり返りそうになっている。
真帆
「……あっ、危なかったわっ。出勤前なのに、二度寝してしまうところだった」

「つーか、頑張り過ぎだお。無理して身体壊したら、意味なくね?」
真帆
「このくらい平気よ。というか、これだけやっても、まだ“天才”にはかなわないんだから」

「そんな事ないと思うけどな。僕はさ、真帆たんだってじゅうぶん天才だと――」
真帆
「気休めなら不要よ」
真帆
「岡部さんの言っていたタイムリープ、こんなにヒントはあるのに、いまだに“解”を見つけられないんだもの」
真帆
「記憶データなんて膨大なものを、どうやって圧縮して過去へ送る事が出来たのか……」
真帆
「紅莉栖は、それをやってのけたっていうのに……」
真帆は苛立っているようだった。
それがモニタを通しても伝わってきた。
真帆
「あ、ごめんなさい、愚痴をこぼしている場合じゃなかったわね」
真帆
「今日の報告、他に何かあるかしら? なければ、そろそろ出勤しようと思うのだけれど」
鈴羽
「もうひとつある」
鈴羽はそう言って、至を見た。

「前から調べて欲しいって頼まれてた件について」
真帆
「何か分かったの?」
鈴羽
「はっきりした事は、まだ」
真帆
「そう……」

「あちこちのネットワークに強引に侵入したりとか、ギリギリまでやってはみたんだお」
真帆
「別に責めたりしないわ。今分かっている事を教えてちょうだい」

「いやむしろ激しく罵倒とかしてくれておkなわけだが」
鈴羽
「父さん」
真帆
「早くして。時間が来ちゃうから」

「ほいほい」
至はモニタ内に別のウインドウを開いた。そのフォルダ内にあるテキストファイルのひとつを表示させる。
そこには、至や鈴羽が集めた情報のメモが書かれてあった。

「えっとまず、真帆たんたちがホテルの地下駐車場で襲われた事件」

「警察の発表だと、新興カルト教団の男が、違法薬物を使った末に……って話になってるけど」

「あれ、間違いなく嘘だわ」
真帆
「嘘……?」

「犯人の身元は警察発表通り、某大学の准教授」

「これはいいんだけどさ、そいつが宗教団体に所属してたっつー事実が、これっぽっちも出てこないんだよね」

「公安が隠し持ってる教団員のデータにもアクセスしてみたから、確定」
真帆
「ねつ造って事……なのね」

「@ちゃんねるとか見てるとさ、信者っぽい人が、ときどきカキコするんだよね。“教団は無実だ”とか“陰謀だ”とか」

「そうすると、一瞬でものすごい数の教団
アンチ

が湧いて来て、
フルボッコ

なわけ」

「しかもそのアンチども、もっともらしいニセの証拠とかガンガン出してくるんだよ。画像付きとかで」

「いくらなんでも、あれはちょっと異常」
真帆
「そうなの? 私、その@ちゃんねるというのを、あまりよく知らないから……」

「@ちゃん含めてさ、たいていの大手サイトには、工作員が張り付いてるもんなんだよ」

「しかもビジネスとしてバイト代もらってね。朝から晩まで24時間ぶっ通しで」
鈴羽
「情報操作。
プロパガンダ

だね」

「政治家や官僚なんかも、ネット世論の誘導に利用してるし、それを専門にしてる会社もあるくらいだお」
真帆
「なるほど、それなら分かるわ。そのあたりはアメリカも日本も同じね」

「でも工作員なんて、僕からしたら
IP

変えてもバレバレなんで」

「それでチェックしてみたら、あの事件、すごい人数の工作員が投入されてるっぽい」

「どこからそんなに金が出てるんだよってレベル」
真帆
「そう……」
鈴羽
「父さんのバイト先が襲われた方の事件は?」

「そっちも同じ」
警察の発表では、日本にテリトリーを広げようとしている外国人マフィア組織同士の抗争という事にされていた。
マスコミも素直すぎるほどその通りに報じていたし、普段ならマスコミの報道には絶対に従わないはずの@ちゃんねる上ですら、不自然なくらいその情報だけが正しいとされていた。
もちろん、ロシアの事もSERNの事も話題にすらなっていない。

「でさ、試しに目撃者を装って、ロシアの特殊部隊を見たって、スレ立ててみたんだよね」

「そしたら、まぁ、すごいのなんの。炎上しすぎてビックリしたお」

「あん時は、思わず工作員の本名から会社名まで、全部晒してやろうかと思ったっつーの」
よほど腹立たしい思いをしたらしい。
至がそんな風に憤る事は珍し……くはないな、と鈴羽は考え直した。
真帆
「つまり、どこかから圧力がかかっていて、幕引きにされたって事ね」
真帆
「さすがは
自由
①①




ニッポンだけの事はあるわ」

「アメリカも似たようなもんじゃね?」
真帆
「違いないわね」
ふたりは皮肉な笑いを顔に浮かべた。

「つーわけで、僕としてはお手上げ」
真帆
「そう……」
真帆
「それでじゅうぶんよ。調べてくれてありがとう」
鈴羽
「比屋定さん、研究所から来日の許可は下りそうなの?」
真帆
「……それが、レスキネン教授の助手として連れて行ってもらえるよう、何回も申請しているのだけれど、却下の連続なのよ」
鈴羽
「レスキネン教授は今、こっちに来てるんだっけ?」
真帆
「ええ。新型脳炎の調査でね」
人工知能に関する事ではないため、真帆は同行出来なかったそうだ。
真帆
「いいわ。どうしてもダメというなら、こっちにも考えがあるもの」
鈴羽
「どうする気?」

「まさか! 上官の命令無視してでも正義を貫くとか!? そして悪に捕まってしまうんですね分かります」

「ねえねえ真帆たん。『くっ、殺せ』って言ってみて。出来ればすごく悔しそうな顔で」
真帆
「はあ?」
鈴羽
「父さん」
鈴羽が、尻ポケットあたりに手をかける素振りを見せると。

「サ、サーセン」
至はすぐに首をすくめて、謝った。
最近はこうするだけで、至の下らない冗談を遮る事が出来る。
扱い方に慣れてきたのは、いい事なのか悲しい事なのか。
真帆
「まぁ、とにかく近々そっちへ行くわ」
鈴羽
「分かった。日程が決まったら連絡を」
鈴羽
「それと比屋定さん。出勤するなら、もう一度鏡を見てからにした方がいい」
ビデオチャットを切る寸前の真帆に、鈴羽はそう忠告した。
真帆
「……?」
真帆はビデオチャットを切らずに席を立つと、クローゼットへと歩いていった。
画面内からは消えたが、やがて――。
真帆
「ひぎゃー!」
自分のひどい姿を見たのだろう、女性らしからぬ悲鳴が響いた。
ビデオチャットを終え、一息つく。
鈴羽は、タイムトラベラーになる前の自分の記憶を、ざっと思い返してみた。
真帆とのビデオチャットの後には、これをするのが習慣になっている。
鈴羽
「うーん」
鈴羽
「タイムマシン開発の協力者……ひやじょうまほ……か」
真帆が、岡部には内緒で、鈴羽と至にタイムマシンの開発協力を申し出てきたのは、彼女がアメリカに帰った後だ。
それはつまり、これから25年後に橋田至がタイムマシンを完成させる中で、比屋定真帆も何らかの形でそれに関わっていくという事を意味する。
だが――。
鈴羽
「あんまり未来の事を言うのはまずいんだけど……、父さんの仲間に、そんな名前の人、いなかったんだよね」

「え? そうなん?」
鈴羽
「という事はさ、どこかのタイミングで開発メンバーから抜けるって事なんじゃないかな」
鈴羽
「自分の意志なのか、それ以外の外的要因なのかは分からないけど」
鈴羽
「少なくとも、開発の主要メンバーじゃなかったと思う」

「そうなのかー。かなり頼もしい人だけどなー」
鈴羽
「……こんな事言いたくはないけど……どこかのスパイという可能性もある」

「ちょっ!? いくらなんでも、真帆たんに限ってそれはないお!」
鈴羽
「ごめん」
鈴羽
「……でも、そういう可能性もあるっていう事だけは、頭に入れておいて」
鈴羽
「言ったでしょ、第三次世界大戦前の情報戦は、もう始まってるんだ」

「…………」
鈴羽
「どっちにしろ、マシンの秘密が無駄に漏れるのは困るよ。それだけは徹底するよう、ちゃんと注意しておいてよね」

「う、うん」
鈴羽
「で、この先のタイムマシン開発はどう進めていくつもり?」

「んー。やっぱオカリンの協力がないとなー」
鈴羽
「結局、そこなんだよね。オカリンおじさん……やっぱり無理なのかな……」
鈴羽
「こうなったら力尽くで……」

「前に、それしようとして失敗したのはどこの誰だっけ」
鈴羽
「…………」
鈴羽はムスッと唇を尖らせた。
岡部倫太郎は銃を突きつけられて脅されても、タイムマシンには二度と乗ろうとしなかった。
鈴羽にしてみれば、はっきり言って打つ手なしだ。
ため息をつきそうになるのを、グッと我慢した。
後ろを向いてばかりもいられない。
鈴羽
「そういえば、母さんとはうまくやれてる?」

「んあ?」
鈴羽
「あたし、そっちの方も心配なんだ……」
鈴羽
「大丈夫? あたしが生まれてこなくなるような事態にならないよね?」

「あ~、なんつ~の? タイムマシンよりも難題?」
鈴羽
「ちょっとー!」
鈴羽はたまらず至に詰め寄った。
鈴羽
「困るよ、父さんっ」

「う、うん……パパ、頑張るからね」
鈴羽
「いっつも口ばっかり。結局、例の映画のチケットも無駄にしちゃったんでしょう?」
クリスマスパーティーで、まゆりやフェイリスが仕掛けた作戦によりお膳立てした、ペアの映画チケットの事である。

「あ、あれはさ、オカリンとフブキ氏が倒れちゃったじゃん?」

「その後、お見舞いとかでバタバタしてるうちに、映画が終わっちゃってたわけで……しょうがないっつーか……」
鈴羽
「でも、その後、新しいチケットを用意しようとしたら、断わったって聞いたけど?」

「ちょっ、誰に!?」
鈴羽
「まゆねえさんとルミねえさんに決まってるじゃないか」

「そ、そりゃあ、あれだお。まゆ氏とフェイリスたんに頼りきりなんて、男らしくないっしょ。キリッ!」
鈴羽
「で、自分で何か行動に移したわけ?」

「…………」
鈴羽
「あ~、ダメだこれ」
確かに、こっちの方がタイムマシン問題よりも深刻かもしれない。
鈴羽はたまらず頭を抱えた。
鈴羽
「いい、父さん? あたし、いつまでもこうやってお説教出来ないんだからね? もうすぐ
行っちゃう
①①①①①
んだよ?」

「あ……」
至の目が、いきなり寂しそうに伏せられる。
鈴羽
「そういう顔しない」
鈴羽
「約束したはずだよ、もう迷うのはやめにしようって」
この半年、鈴羽はずっと考え続けていた。この世界線をなかった事にしてしまうのが正しいかどうか、繰り返し迷い続けていた。
しかし、そんな時、最後に背中を押してくれたのは他ならぬ至の存在であり、言葉なのだ。

「ごめん……」
肩を落とす至を見かねて、鈴羽はその大きな背中を掌で叩いた。
鈴羽
「しょぼくれてないで、母さんにメールして。予定の空いてる日がないか訊いて」
鈴羽
「で、空いてたら、映画に誘う」

「げー!? いきなりハードル高杉!」
鈴羽
「高杉でもなんでもいいから、誘いなさい。いい? これは命令だからね」

「め、命令て……」
鈴羽
「返事はっ?」

「サー、イエス、サー!」
その返事に満足し、鈴羽はシャワーを浴びるべく洗面所へ向かった。

「あ、でもその前に、ちょっとだけコンビニに行って来る……」
鈴羽
「……何しに?」

「いや、実は夕食がまだっつーか……。今夜も徹夜になりそうだし、遅くならないうちに買い出しを、と――」
至は卑屈な姿勢のまま、開発室の方を指さした。
その指の先には、組立は終わったものの未だ試行錯誤中の『電話レンジ(仮)弐号機』が見えた。
鈴羽
「…………」

「ひいっ! にらまないでっ。なるべく太らないようなモノを食べますんで、なにとぞお許しをっ」
鈴羽
「……バニラ」

「はい?」
鈴羽
「あたし、シャワー出たらアイス食べたい。バニラ」

「うん、分かった! 庶民がなかなか口に出来ない高級なヤツを、いっぱい買ってきてあげるお!」
鈴羽
「いっぱいはいらないよ。ひとつでいい」

「サー、イエス、サー!」
ダルは急に元気を取り戻し、財布を持ってラボを飛び出していった。
鈴羽
「やれやれ、世話がかかるんだから……」
今度こそシャワーを浴びようと上着を脱ぎかけた。
が……。

「鈴羽~」
出て行ったはずの至が、すぐに戻ってきた。
鈴羽
「どうかした?」

「階段のところにさ、こんなの落ちてたんだよね」
至は、手に持ったキーホルダーを見せてきた。
くすんだ緑色をしたその丸いキャラクター。
それは……。
“うーぱ”だった。

「誰のか分かる?」
鈴羽
「まゆねえさんじゃないの?」
顔を近づけてよく観察しようとして――。
まるで、デジャヴのような感覚を味わった。
鈴羽
「このうーぱ、どこかで……?」
前にも、見た事がある?
それがいつどこでだったのかは、よく思い出せない。
でも、鈴羽の本能が警鐘を鳴らしていた。このキーホルダーは、とても重大な意味を持つ物だと。
鈴羽
「………」
うーぱ自体は、どこにでもありそうなものだった。
本体のプラスティック部分は全体的に丸みを帯び、塗装も、本来はもっと鮮やかな色だったはずだが、すっかり退色して所々はげてしまったりもしている。
ただ、ホコリや汚れなどはまったくついておらず、むしろピカピカに磨かれているようなので、持ち主がかなり大切にしてきたものなのだろう。
チェーン部分が経年劣化を起こし、ぽっきりと折れている部分がある。そのせいで落としたのだと思われた。
鈴羽
「どこだっただろう……どこかで見た……」

「まゆ氏に見せてもらったとか?」
鈴羽
「そうなのかな……」
至の手の中の、緑色のうーぱをじっと見つめ――。
と、突然、閃光のように、鈴羽の脳裏に少女の叫び声が響き渡った。
まゆり
「ママがずっと大切にしてきた“うーぱ”のキーホルダーだよ。かがりちゃんにあげる。大事にしてね」
鈴羽
「……っ!!」
鈴羽は思わず息をのんだ。
背筋に、名状しがたい戦慄が走る。
鈴羽
「ま、まさか……これ……」
鈴羽
「……かがりの……か?」
あのときだ。
2036年8月13日。
鈴羽が、タイムマシンに乗り込んだあの日。
そこで、このうーぱを見た。
あの日に見たものよりも古ぼけてはいるが、記憶の糸をたぐり寄せれば寄せるほど、間違いなく未来のまゆりがかがりに渡したものにしか思えなかった。
幼いかがりがタイムマシンの中でそれを見ながら涙を流している姿も、その後何度も目にしている。

「かがり、って……もしかして、未来のまゆ氏の娘?」
鈴羽
「……うん」

「見つかったん?」
鈴羽
「いや。でも、向こうはこっちを認識しているんだ」

「つ、つまり、どういう事だってばよ」
鈴羽
「あいつ……このラボを監視してるんだよ」
半年前、ラジ館の屋上でタイムマシンを監視していたライダースーツの人物。鈴羽が気付いて追ったものの逃げられてしまったあの人物は、絶対にかがりだと確信していた。
あれ以降、注意深くタイムマシンを護ってきたせいもあり、周辺でかがりらしき姿を目にする事はなかったのだが――まさか、ラボの方を監視しているとは思わなかった。
鈴羽
「いや、ちょっと考えれば当たり前の事だったんだ」
鈴羽
「あいつは、あたしたちがシュタインズゲートに到達するのを阻止しようとしてる」
鈴羽
「この世界を、なかったことにしたくないと思ってる」
鈴羽
「ということは、あたしだけじゃなく、父さんもマークされてる……?」

「えーっ、僕?」
鈴羽
「まあ、父さんの命に危険はない……とは思うんだ」
鈴羽
「世界線の節理を信じるなら、父さんは、少なくとも2036年までは生きるはずだし」
鈴羽
「ただ、シュタインズゲート到達を阻止するために、父さんの研究の邪魔はしてくるかもしれない」
さっき真帆と話していた件もある。鈴羽や至、岡部倫太郎の周辺でなにかと物騒な事が連続して起きていた。その標的が、実は至であった可能性はなきにしもあらずだ。
鈴羽
「これからは用心のために、あたしがいない時には必ずドアにカギをかけておいて」

「う、うん。分かったお」
鈴羽
「オカリンおじさんや母さんやまゆねえさんたちが一緒にいても、絶対に開けっ放しはダメだよ」
鈴羽
「気休めかも知れないけど、ドアチェーンもかけた方がいい」

「でもさ、オカリンやまゆ氏ならともかく、阿万音氏とふたりきりの時にそんな事したら、なんか別の意味で怪しくね? 阿万音氏に変な誤解されないかな?」
鈴羽
「う……それは確かに」

「もしそれで嫌われでもしたら、我が家のピンチだお」
鈴羽
「ううん……」
鈴羽は困ったように喟った。
鈴羽
「父さんがもっと早く母さんと恋人になってれば、なんの問題もないのに……」

「って、結局そこへ話が戻るとか!?」
鈴羽
「とにかく、注意だけはしておいてよね」
緑色のうーぱキーホルダーは、鈴羽が預かる事にした。
受け取ったそれをじっと見つめながら、鈴羽は指の先でそっと撫でてみる。

「なー、鈴羽。かがりたんって、血はつながってないけど、まゆ氏の娘なんだよね?」
鈴羽
「そうだよ」

「あのまゆ氏に育ててもらった子が、人を襲うような恐ろしい人間になるのかな……?」
鈴羽
「…………」

「なんか、鈴羽の話とイメージが重ならないっつーか。……もっと優しくて、ほわほわしてて、かわいい女の子になってるんじゃないかなーとか思ったり」
鈴羽
「……だとよかったんだけど」
鈴羽
「うん、あたしも、前はそうなると信じてた」
鈴羽
「けど、今のかがりは……たぶん……」
あの時の様子――ラジ館の屋上から逃走するかがりを追ったときの雰囲気で分かった。彼女は間違いなくプロの戦闘訓練を受けている。
子供の頃に鈴羽が教えた程度の護身術ではなく、もっと年齢を重ねた後、冷酷な殺人の技術を教えられ、それを身に着けている。
1998年に行方不明になってから今までどこにいて、どういう経緯でそうなったのか知る事はかなわない。
けれど、本気で鈴羽の計画を阻止しようとしている事だけは、間違いないと思われた。
鈴羽は、シャワーを浴びながら、ため息をついた。
湯の温度は、夏なのでかなり低めに設定してある。ほとんど水と言っていいほどのぬるさだ。
それを頭からかぶっている間だけは、記憶の内にこびりついている嫌な思い出たちが、みんな洗い流されていく心地がする。
両手で自分の頬をぱしんと軽く叩き、シャワーを止める。急にタイル張りの狭い室内が静まり返る。
そんな静けさの中、タオルで髪の毛を乱暴に拭いた。
このビルは、元々、居住用に出来ていないため、生活空間が非常にお粗末で、なんと更衣室がない。
狭いうえに窓もなく、しかも、シャワールームから漏れた蒸気がこもるものだから、夏は歓迎しがたいサウナ室と化してしまう。
それを嫌って、至や岡部などは全裸のまますぐに扇風機に当たりにいったりしていたらしい。もちろん、部屋に女性陣および漆原るかがいない時限定の行為であるが。
さすがに鈴羽はそんな真似は出来ない。胸のあたりに大きな傷痕がある。もしも油断していて、由季などに見られてしまったら大事になる。
だから鈴羽は、意地でも狭いスペースで服を着る事にしていた。
鈴羽
「……!?」
シャワールームから出た瞬間に、異変に気付いた。
カーテンで仕切られている先――ラボの部屋の中の明かりが、消えている。
シャワーを浴びる前には、確かにラボ内の蛍光灯はつけたままにしておいた。
それを消した記憶はない。
鈴羽は下着も身に着けないまま、カーテンを開いた。
鈴羽
「…………」
床に伏せるような形になって身構える。
シャワールームから漏れてくる明かりで、油断なく室内を見回すが、誰の姿もない。何者かが潜んでいるような息遣いも、気配もまったくしない。
鈴羽
(父さんが、一度、戻ってきたのか……?)
そして、また出かける時に、電気を消していった?
いや……違う……。
薄明りの中、観察すると、素人目には分からない程度に室内が荒らされている。
至のPCデスクやソファまわりをはじめ、雑誌の放り出してある棚やミニキッチンまで、全体的に何者かが物色した形跡があった。
このぶんだと、開発室の方も同様だろう。
鈴羽は、拳銃を隠してあるいくつかの場所に、そっと視線を走らせた。
一番近いのは、ベッド代わりにしているソファ。
寝ている時に襲撃を受けた場合、手を伸ばせばすぐに届くようにと、座面の裏を破いて、サプレッサー付きのオートマティック拳銃を忍ばせてあった。
護身用の32口径なのでちゃんと当てないと威力が弱いのが難点だが、全体的に小さく、しかも音が比較的静かなので、こういう場所では最も取り回しがいいと選んだものだ。
鈴羽は全身の筋肉を強力なバネのように引きしぼりつつ、気配を消すようにしながら、ジリジリとソファに向かって動く。
そうしながら、あたりの空気の変化をじっとうかがう。
開発室の奥で、微かな音がした。
普通なら聞き逃してしまうほどの、小さな小さな床の

きし
み。
しかし、鈴羽にとってはそれで充分だった。
それまでの“静”から一気に激しい“動”へ。
跳ねるようにソファまで一気に移動し、素早く銃を引き抜いた。
それを構えつつ、冷蔵庫の陰に滑り込む。
この位置からなら、ちょうど開発室のカーテンの間から奥が見える。
鈴羽
「…………」
シンと再び室内が静まり返る。
が、先ほどまでとは明らかに違い、開発室の中にいる侵入者ももはや気配を消そうとはしていなかった。
鈴羽
「おかしな真似をしたら撃つ。手を頭の上に。そのままゆっくり出て来い」
鈴羽が低い声で恫喝した。しかし、相手は脅しになどまったく動じる様子もなく、ゆらりとその身を鈴羽の視線に晒した。
ライダースーツの女
「…………」
鈴羽
「ふん。この暑いのに、よくそんな格好をしていられるな? ヘルメットだけでも取ったらどうだ?」
相手は、あの時と同じようにライダースーツに身を固めていた。頭部のヘルメットまで同じだ。
身体の線に沿ってピタリと貼り付いた皮革が、凹凸のはっきりしたとても美しいプロポーションを描き出している。
女である事は間違いない。
鈴羽
「あんたが探してる物だけどね。そこにはないよ」
鈴羽
「あたしの服のポケットだ」
鈴羽は、シャワールームの入り口を指さした。さっき脱いだばかりのシャツが、そこに雑然と置かれている。
つられるように、ライダースーツの女もそちらへ顔を向けた。ただし、ヘルメットにシールドが下りているため、その表情を読む事は出来ない。
鈴羽
「なぁ? 落としたらダメじゃないか。ママからもらった大切な物だろう――」
鈴羽

かがり
①①①
?」
そう口にした瞬間、女――椎名かがりが先に動いた。
腰の後ろに隠し持っていたらしい艶消しの軍用ナイフを抜き放つと、鈴羽に向かって一気に間合いを詰めてくる。
鈴羽は、急所からは狙いを外しつつ、彼女の脚に向かって引き金を引いた。
32口径の軽い発砲音とともに、かがりがバランスを崩し、倒れる。
――と、見えたのは完全なフェイクだった。
鈴羽
「っ!?」
彼女はバランスを崩したふりをして、走る方向を、鈴羽からシャワールームへと変えたのだ。
あくまでも、目的の物を奪取するのが先らしい。
鈴羽
「これはっ!?」
1発撃っただけで、すぐに鈴羽は気付いた。
いくら32口径とはいえ、この銃はあまりにも反動が少なすぎる。
鈴羽
「っ!」
もう一度発砲してみるが、やはりかがりの動きは変わらない。
鈴羽
(ブランクカートリッジっ!? どうしてっ!?)
鈴羽が手にしている銃は、いつの間にか、弾頭のない空砲用のカートリッジに取り換えられていたのだ。
一瞬の動揺の隙を突かれた形になった。
かがりが、シャワールーム前に落ちている鈴羽のシャツに手を伸ばす。
鈴羽
「このッ!」
鈴羽は撃つのを諦め、銃をかがりに向けて鋭く投げつけた。
鈍い音とともに、固い銃身部分がかがりの首筋に当たる。
不安定だった姿勢のかがりは、シャツをつかみ損ねてよろめいた。
かがり
「うぐっ!!」
ヘルメットの中で、初めてかがりがくぐもった肉声を発した。
それへ向かって鈴羽は跳躍した。
体勢を崩したままのかがりを、筋肉の塊のような脚で思い切り蹴った。手加減などをしている余裕はなかった。
蹴り飛ばされたかがりは、そのままの勢いで部屋の隅まで転がった。
今ので肋骨の何本かは折れたはず――。
その確信を抱き、鈴羽は追撃しようと飛びかかる。
だが逆にかがりは、恐るべき瞬発力で跳ね上がるように立つと、鈴羽に突進してきた。
カウンターのような形になり、鈴羽はすぐには止まれない。
鈴羽
「つうっっ!?」
むき出しの腹筋の先、わずか数センチの所を鋭い切っ先が走った。
あとコンマ何秒かでも身を引くのが遅れていれば、腸を破られ、間違いなく致命的な傷を負っていただろう。
鈴羽
「お前ぇぇっ!!」
鈴羽の頭に、カッと血が上った。
こいつは間違いなく本気だ。自分を殺すつもりで来ている。その動きに躊躇はない。
鈴羽は後ろへ飛び退りつつ、武器になりそうな物を探す。
だが、おそらく他の銃も駄目だ。
隠してある拳銃は、どれも空砲に換えられている可能性が高い。
下手をすると、護身用のナイフも全部、奪い取られているかも知れない。
となると、あとは――。
キッチンに綺麗に置かれている数本の包丁とナイフが目に入った。由季がまゆりたちに料理を教えるため、買い揃えてきたものだ。
しかし、かがりもすでにその存在には気付いているらしく、鈴羽をそちらへ行かせないような位置に回り込んでくる。
鈴羽
「へぇ、ずいぶん場馴れしてるじゃないか」
鈴羽
「とても、マシンの中でベソベソ泣いてた子供とは思えないな。驚いたよ」
挑発するように言いながら、一定の距離で対峙しつつ、壁に沿って室内をゆっくりと移動する。
不利な状況をくつがえそうと、鈴羽の闘争心は更にむき出しになった。
鈴羽
「ほら、かがり? これだろう?」
鈴羽はシャワールームの前のシャツを拾うと、ポケットから緑色のキーホルダーを取り出して見せた。
かがり
「…………」
鈴羽
「どうした? 取りに来なよ?」
鈴羽の指先が、キーホルダーを押しつぶすかのように動いた。
かがりがビクリと反応する。ここに姿を現してから初めて、ヘルメットをしていても分かるほどに動揺した。
鈴羽
「……っ」
次の瞬間、鈴羽がそれをかがりの腹部あたりにめがけて軽く放った。
実にゆっくりと、放物線を描きながら、キーホルダーが飛んでいく。まるで友達にパスをするかのような動きだった。
よほどの猛者でも、大切な物をそうやって投げ渡されると、つい両手で慎重に掴み取ろうとしてしまう。
かがりもまたその心理誘導に勝てなかったようだった。ナイフを構えた右手と左手とで、母の形見をしっかりと握ってしまった。
鈴羽
「ィァァッ!!」
そのゆっくりとした放物線の動きをカモフラージュにして、鈴羽は一直線の鋭い突進をかけた。
右の拳を、かがりの腹部に思い切り叩き込む。
続けざまに、左腕でヘルメットごと頭を横に薙ぎ倒した。
かがり
「ぐは……!」
かがりの身体が、右肩から床に倒れ込んだ。
関節が外れた音が、鈴羽の耳にも聞こえた。
かがりの手からナイフが転がり落ちる。
そのまま背後を取った鈴羽は、馬乗りになりつつ、かがりの右腕を容赦なく引きねじった。
と同時に、ヘルメットの下の首に左腕を回し、グイッと締め上げる。
かがり
「ぐ、く、くっ……!」
かがりの喉から、うめき声のようなものが聞こえる。
メリ……メリ……と、腕や首の骨がきしむ音と感触が手に伝わってくる。
鈴羽
「おとなしくしろ! 殺しはしないっ!」
しかし、かがりは不自然な体勢のまま、床に落ちたナイフを左手で拾うと、なおもそれを突き立てようとしてくる。
鈴羽は、その度にさらに腕や首を締め上げざるをえなくなる。
かがり
「ぐ、くっ……!」
鈴羽
「もうやめろ、かがりっ!」
鈴羽
「今のあたしには、お前の気持ちだって分かるんだっ。でも、やっぱりそれは間違ってる! 間違ってるんだ!」
そう説いても、かがりは抵抗をやめようとせず――むしろ全身にギリギリと力をためて、鈴羽を引きはがしにかかろうとしていた。
鈴羽
(こ、こいつっ!? いったいどんな訓練を受けてきたんだ!?)
今まで経験してきた数々の野戦でも、これだけ急所を決めてしまえば、どんな屈強な兵士だろうと屈服、もしくは気絶をさせる事が出来たはずなのに。
鈴羽は激しく戦慄しつつ、更に力をこめた。
このままだと、気絶させるだけではすまない。
本当にかがりを殺してしまう。
でも、拘束を解けば、逆に自分がやられる。
どうすれば――。
かがり
「鈴羽、おねえちゃ……痛い……苦し……」
その時。ひどく悲しげで、弱々しい声が、ヘルメットの奥から漏れてきた。
ハッとして。
鈴羽は、両腕の力を、緩めてしまった。
だが――かがりは、明らかにそれを狙っていた。
緩んだ鈴羽の左腕に、ナイフが思い切り突き立てられそうになる。
それをかわすために腕を放すと、かがりは背中に乗った鈴羽の身体を勢いよく振り切り、そのまま、両足で彼女の腰を蹴り飛ばした。
鈴羽は、後方にあったPCデスクに背中から激しく打ちつけられ、一瞬、息が出来なくなった。
床に崩れ落ちると、頭上からパソコンモニターやプリンターが落下してきて、彼女の裸体を容赦なく殴打した。
かがり
「げほ! ごほ! ごほっ!」
鈴羽
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
鈴羽は肩で激しい息をしながら、必死に立ち上がる。
かがりも同様に、荒い息をついていた。
その右腕は、付け根からあらぬ方向を向いていて、ただぶら下がっているだけだ。
おそらく、しばらくは使い物にならないだろう。
だが、左腕には相変わらずナイフを持ったままだ。
鈴羽
「お前、ずいぶんと汚い真似まで覚えたんだな……」
鈴羽は、ヘルメットの奥のかがりの顔を――今はどんなふうに成長しているのか見る事は出来ないが――にらみつけた。
鈴羽
「…………」
かがり
「…………」
互いに沈黙し、息を整える。
指一本すらも簡単には動かせない緊張感。
額から流れてきた汗が、目に入る。それでもまばたきせず、鈴羽はかがりの次の出方を待った。
その対峙の均衡を破ったのは、玄関のドアが開く音だった。

「おおーい、鈴羽ー? 今、すごい音しなかったー?」
その声に、鈴羽の背筋は凍りつく。

「あれ、なんで真っ暗なん?」
鈴羽
「ダメだ、父さんっ! 来ちゃダメ!!」
鈴羽が叫ぶのと、至が部屋の明かりを点けたのは同時。
そのまぶしさに、鈴羽はほんの一瞬だけひるむ。
フルフェイスのヘルメットをかぶっていたかがりとの差が、そこで出てしまった。
鈴羽よりわずかに早く、かがりが至に飛びかかっていた。

「うわあぁっ!?」
悲鳴を上げ立ち尽くす至の喉元に、かがりが漆黒のナイフを突きつける。
鈴羽
「父さんっ!!」

「ひ? ひあ? ひああ?」
恐怖に固まった彼の首筋に刃の先を押し当てたまま――かがりは、巨体を盾に取るような形で、背後にじわりと回っていく。
鈴羽はそれへ向かってヨロヨロと近づきつつ、かたく噛みしめた歯と歯の間からうめくような声を吐き出した。
鈴羽
「その手を放せ、かがり……」
かがり
「…………」
鈴羽
「父さんに、傷1つでも負わせてみろ……たとえお前でも、本当に………殺す」
かがり
「…………」
しかし、かがりは無言を貫いたまま、人質の陰に隠れるようにしてドアの外側へ出た。
そして、次の瞬間、至の大きな背中を思い切り突き飛ばす。

「あっ!!」
至はバランスを崩し、鈴羽の上に倒れ込んできた。
鈴羽が押し倒されるような格好になる。
至がかろうじて突っ張った手と足で全身を支えたため、鈴羽が潰される事はなかった。
鈴羽
「どいてっ!」
鈴羽は少し強引に至の体を押しのけようとした。
だが、あまりに至が重すぎて、立ち上がるのに手間どってしまう。
鈴羽
「だから痩せろって言ったのに!」

「えええ……」
このままだと逃げられる。
なんとか至の下から這い出した鈴羽は、すぐにかがりを追いかけようとした。

「――鈴羽、これ着て!」
へたり込んだままの至が、全裸の鈴羽に向けてシャツを放り投げてきた。
それを受け取り、素早く頭からかぶると、外へ飛び出した。
鈴羽
「……っ」
だが、路上に出て周囲を見回してみても、すでにライダースーツの女の姿は、影も形もなくなっていた。
どちらへ逃げられたのかすら、判然としない。
鈴羽
「……逃げられた」
こうなると、ヘタにあちこち捜し回るのは逆に危険だった。
ラボを離れた隙に、至が襲われる可能性も考えられる。

「い……今のって、まさか……かがりたん?」
その至が、遅れて外に出てきた。
鈴羽
「……うん。たぶん間違いない」

「そっか」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「結局……あの子とは、こうなっちゃうんだな……」
身体のあちこちに受けた打撲や傷の痛みもひどいが、それよりも、心の奥底を責めさいなむような
疼痛
とうつう
が、一番強く、重く、感じられた。
鈴羽
「あたしさ……」
鈴羽
「あの子の事……本当に、好きだったんだ……」

「うん」
鈴羽
「小さくても勇敢で、まゆねえさんを護るためにいつも頑張ってて……」
鈴羽
「あたしも、そんなあの子に色々な事を教えた。きっと……妹みたいに思ってた」

「うん」
鈴羽
「けど……あいつはもう……完全に、敵だ」
すると至が、着乱れている鈴羽のシャツの裾を直してくれた。

「今の鈴羽、なんかエロゲーの痴女キャラっぽい格好になってるお」
鈴羽
「え? あ?」
いきなり関係のない事を言われて、呆然としてしまう。
確かに、ミニ丈ワンピースくらいのTシャツは肩からずり落ち、あやうく胸が出てしまいそうになっている。
裾も半ばめくれ上がって、今にも、きわどい部分が覗けてしまいそうだ。

「まぁ、僕は痴女モノも結構いける口なんで、乱れた裸Tシャツというのも有りといえば有りですが。むふ~」
鈴羽
「またそうやってふざける。大怪我してたかもしれないのに」
鈴羽が不満げに言うと、至は首を横に振った。

「僕さ、さっきはナイフ見て騒いじゃったけど、でも、怖がる必要なかったんじゃないかなって……」

「あれが、もし僕の聞き間違いじゃなかったら……」
そこで至は、ナイフの切っ先が当てられていた首のあたりを指でなぞった。

「ナイフを突きつけられてた時……ほんの少しだけど、聞こえたんだよ」
鈴羽
「何が?」

「彼女……たぶん……泣いてた」
鈴羽
「……え?」
泣いていた……?
あのヘルメットの下で?
鈴羽と、あれだけ激しい格闘を繰り広げながら?
至の首にナイフを突き付けながら?
いったい、なぜ――。

「だからさ。決めつけるのは、まだ早いんじゃね?」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「……父さん」

「んお?」
鈴羽
「アイス。買って来てくれた? バニラ」

「ああ、もちろん」
鈴羽
「食べたいな…………あたし、ちょっと疲れちゃっ、た……」
そこまで言ったところで、鈴羽はその場にガクンと崩れ落ちそうになった。

「わぁっ!?」
至が仰天して飛びつき、その身体を抱き留めてくれる。

「お、おいっ、鈴羽っ?」
鈴羽
「ん、ごめ……平気…………でも……少しだけ、休ませ、て……」
それだけ言うのが精一杯だった。
鈴羽は父の腕の中で、目を閉じ――そのまま、溶けるように意識を失っていった……。
7月に入り、関東一円は照りつけてくる陽射しがいよいよ強くなり、夏本番を迎えていた。
ヒートアイランド現象ともあいまって、ここ数十年で最も暑い夏をむかえるのではないかという話が、連日、ニュースで流れている。
そんな7月最初の日曜日。
成田空港の国際線ターミナル到着ロビーは、来日した外国人や帰国した日本人乗客であふれかえっていた。
まゆり
「すごい人だね~。どんどん増えてるかも」
フェイリス
「日曜日の空港を

あなど
ってたニャ」
倫太郎
「見逃すなよ、まゆり、フェイリス。なんせ相手は、とにかくちっちゃいからな」
俺たち3人はここで、人を待っているのだ。
こうして待ち続けて、そろそろ1時間になる。
フェイリス
「オカリン、今の問題発言は、彼女に言いつけざるをえニャいぞ~」
倫太郎
「冗談だ、やめてくれ」
まゆり
「でも、なかなか来ないね~」
フェイリス
「やっぱり、サプライズでこっそり出迎えようとしたのが間違いだったのかニャ」
倫太郎
「せめて、何時の便で到着するのかぐらいは、聞いておくべきだったな……」
こうして出迎えに来た事は、本人には内緒にしてある。
そのため、今日の昼頃の便で成田に着くという事しか聞いていないのだ。
こんな事なら、それとなく時間も確かめておくべきだった。
乗客たちがどんどん目の前を通過していくが、目当ての人物はいっこうに現れない。
やはり小さすぎて、見落としてしまったのだろうかと不安になって来た矢先に、ようやく彼女は現れた。
いや、正確には、巨大な旅行用スーツケースが、四輪キャスターの音をゴロゴロ響かせながらひとりでにゲートから出てくるのが見えたのだ。
そして、その影から聞き覚えのある声がした。
真帆
「まったくもうっ! パスポートの偽造なんかしてないわっ! なんなのよっ!」
真帆
「毎回毎回毎回毎回、どの国へ行ってもいちいち調べられて、時間がかかって仕方ないわっ!」
倫太郎
「は……はは……」
苦笑しながらスーツケースに近づき、ポンポンとそれを叩いた。
倫太郎
「比屋定さん」
真帆
「……へ?」
前傾姿勢で一生懸命キャスターを押していた真帆が、俺を見てポカンとした。
真帆
「ふあ?」
倫太郎
「久しぶり。無事、入国出来て良かったな」
真帆
「あ、あ、あ、あなたっ?」
倫太郎
「なんかずいぶんやつれてるな。大丈夫か?」
真帆
「大丈夫に決まって――」
真帆
「って、そうじゃないわ! どうしてここに!?」
倫太郎
「今日の昼に来るって話してただろう? だから驚かせようと思って、迎えに来たんだ」
真帆
「そ、そ、そうなの? それはそれは、どうも。……どうも」
なぜだろう、俺が声をかけた途端、猛烈に挙動不審になり出したぞ。いくらなんでも驚きすぎだろう。
真帆
「でも、秋葉原駅までは行けるから、改札口に迎えに来てくれればいいって、言っておいたのに」
倫太郎
「まぁ、いいじゃないか、せっかくだし。それに、君ひとりで本当にアキバまで来られるか心配だったから」
真帆
「し、失礼ね。私はそんなに頼りなくないわっ」
倫太郎
「ははは」
まゆりとフェイリスも寄ってきた。
まゆり
「真帆さ~ん♪ トゥットゥルー♪」
真帆
「トゥットゥ……?」
まゆり
「トゥットゥルー♪」
フェイリス
「会いたかったニャ~! まほニャ~ン!」
まゆりが真帆の手をひしと握りしめている横から、フェイリスが真帆の体にべたりと抱きついた。
真帆
「まゆりさんもフェイリスさんも、お久しぶり」
真帆
「2人も、わざわざ迎えに来てくれたのね。ありがとう」
真帆
「……ちなみにこんな場所で、大声で“まほニャン”と呼ぶのは、やめてくれないかしら?」
フェイリス
「ニャンで? 可愛いのに~!」
真帆
「まわりを見なさい。みんなが笑っているでしょう? 恥ずかしいのよっ」
フェイリス
「うニャ~? そうかニャ~?」
フェイリスは目立つからな……。
ここで待っている間、あらゆる外国人から“NEKOMIMI! NEKOMIMI!”と注目され――中には、写真を撮らせてくれと頼んでくる人までいたくらいだ。
倫太郎
「比屋定さん、荷物、俺が持とう」
真帆
「あ、ええ、ありがとう……」
倫太郎
「でも、けっこう急な来日だったよな」
真帆から日本にまた来ると聞いたのは、ほんの数日前だ。
倫太郎
「今回も、レスキネン教授の手伝いなのか?」
真帆
「あー、ええっと……そのぉ……」
真帆はモジモジとして、俺の顔をチラチラとうかがってくる。
真帆
「……岡部さんは、レスキネン教授とはよく連絡を取り合っているの?」
倫太郎
「ああ。教授、ずっとこっちで研究を続けてるだろ? 時々、食事に誘ってもらったりしてるんだ。すごく光栄だよ」
真帆
「そ、そう……」
真帆
「まずいわね……」
倫太郎
「まずい? 何が?」
真帆
「ああ、いえ! こっちの話よ」
……やっぱり挙動不審ぶりがひどいな。
冬に会ったときはこんなんじゃなかったんだが。
長旅で疲れてるんだろうか?
それとも、俺たちのサプライズでよほど驚いたとか?
真帆
「……今回は、教授の手伝いではないの。沖縄の親類の所へ行く予定なのよ」
真帆
「でもせっかくだから、その前に、アキハバラにも寄ってみようかと思って」
倫太郎
「そうか。沖縄か」
その地名を聞いて、一瞬、悪夢のような光景を思い出す。
クリスマスに倒れて飛ばされた世界線。あの世界線で俺は、およそ1ヶ月かけて沖縄までの逃避行をしたのだ。
まゆり
「いいね~、沖縄。一度でいいから行ってみたいな~」
フェイリス
「マユシィの学校は、修学旅行は沖縄じゃないのニャ?」
まゆり
「まゆしぃのところはね、北海道だったよ~」
フェイリス
「フェイリスはハワイニャ」
まゆり
「ふわ~、海外だ~。アロハ~♪」
女子高生の脳天気修学旅行トークは置いておくとして。
倫太郎
「じゃあ比屋定さんは、東京にはそんなに居られないのか? 残念だな」
真帆
「えっ!? そ、そうね。そういう事になるわね」
フェイリス
「秋葉原にいる間のホテルとかは、決めてあるのかニャ?」
真帆
「まだよ。これから安いビジネスホテルでも探すつもり」
フェイリス
「だったら、このままフェイリスのおウチに来るといいニャ! この前のお部屋、自由に使ってもらって構わないニャン」
真帆
「ええ? でも、そんなの悪いわ」
フェイリス
「またそうやって遠慮するんニャから。フェイリスは大歓迎だニャン」
真帆
「だけど、そんなに甘えるわけには……」
フェイリス
「う~ん、だったらこれでどうかニャ? お部屋を無償で貸し出す代わりに、フェイリスのお店でほんのちょっとだけ、お手伝いしてもらうのニャ」
真帆
「……お店?」
まゆり
「メイクイーン+ニャン⑯だね~」
真帆
「まさかそれって、あのネコミミのお店!?」
フェイリス
「その通りニャ!」
フェイリス
「この時期は、ネコミミメイドのみんなはコミマの準備でいろいろ忙しいのニャ。お休み取りたいって泣きついてくるんだニャ」
フェイリス
「つまり! 深刻なネコミミメイド不足なのニャァ!」
まゆり
「なのニャア♪」
フェイリス
「というわけで、まほニャン、どうかニャン?」
まゆり
「どうかニャン?」
真帆
「お断りします」
まゆり
「え~っ!」
フェイリス
「ニャンで~!?」
真帆
「なんでって……当たり前でしょう? 私に似合うわけないわ」
まゆり
「似合うよ~。絶対に可愛いと思うな~、まゆしぃは」
フェイリス
「異議なしだニャ。オカリンもそう思うニャン?」
倫太郎
「ああ。きっとファンがつくんじゃないか?」
真帆
「ファンなんて、そんな……お世辞は嫌いよ」
倫太郎
「別に、お世辞じゃないんだけどな」
真帆
「……だ、だとしたら、視力検査にでも行って来る事ね」
フェイリス
「ニャニャ? 赤くなったニャ」
真帆
「なっ、なってませんーっ」
フェイリス
「まほニャンは、もっと自分の魅力に気づくべきだと思うニャ」
まゆり
「うん。まゆしぃが男の子だったら、キュンってしちゃうのです」
真帆
「だから、そんな事ないと言ってるのに……」
倫太郎
「比屋定さんは、たぶん、その、もうちょっと……なんというか、オシャレとか、してみたらいいんじゃないかな」
倫太郎
「そうすればもっと、こう……」
真帆
「…………」
言葉を必死で選びながらフォローしようとしたら、逆にひどい言い方になってしまった。
案の定、真帆はむくれてしまっている。
真帆
「私は今のままで充分よ。研究が第一なんだから」
フェイリス
「でもでも。それじゃあ、好きな人とか出来たらどうするのニャ? 相手に気持ちを伝えられなくて、困っちゃうニャ」
真帆
「…………」
真帆
「フッ。大丈夫よ。そういう人なんて出来ないと思うから。困ったりしないわ」
真帆はそこで、少しわざとらしくあくびをした。
真帆
「……と。ごめんなさい、時差ボケと飛行機の疲れでちょっと……」
フェイリス
「分かるニャ。時差ボケって結構つらいんだニャン」
フェイリス
「リムジンを用意してあるから、まほニャンは眠っていくといいニャ」
真帆
「リ、リムジン!?」
真っ白のリムジンを、フェイリスはこの日のためにレンタルしたらしい。まったく、大げさにもほどがある。
だがそのおかげで、俺とまゆりはそのおこぼれに預かり、成田に来るまでその広くゆったりしたふかふかシートを堪能したものだ。
フェイリス
「なんなら、フェイリスが膝枕してあげるニャ?」
フェイリス
「それとも、マユシィの膝がいいかニャ?」
まゆり
「まゆしぃはオッケーだよ~」
真帆
「……け、結構よ。子供じゃあるまいし」
倫太郎
「でも、はた目から見てもだいぶ疲れてるって分かるな。そんなに研究が忙しいのか?」
真帆
「それはまあ、かけ持ちしているわけだから――」
倫太郎
「かけ持ち? というと『Amadeus』以外にも何かやっているのか?」
真帆
「あっ」
真帆は慌てて自分の口を手で押さえた。
真帆
「ええと、それはあの、企業秘密なの」
倫太郎
「そうか。それは悪かった」
確かにアメリカの大学の研究室って、そういう研究が多そうだよな。
産業スパイもすごく多いと聞くし。
ヘタに情報漏洩なんてしようものなら、クビだけじゃ済まないかもしれない。
気軽に聞いた俺が浅はかだった。
真帆
「そ、そういえば!」
真帆
「橋田さんは、今日はどうしたの?」
倫太郎
「あいつなら今日は、人生をかけた大事な用があってな」
真帆
「人生をかけた……?」
まゆり
「ダルくんは、今、デート中なんだよ~」
真帆
「…………」
真帆が、分かりやすいほどに呆然としている。
真帆
「わ……私、本当に疲れているのね。ひどい幻聴を聞いたわ」
倫太郎
「いや、そう思うのも無理ないが……」
まゆり
「ホントにデートなのです」
真帆
「ええ!? 信じられない! ウソでしょう? あのHENTAIが!?」
ついに真帆にまでHENTAI呼ばわりされるようになったか……。
普段、ダルは真帆ともチャットをしていると言っていたが、そこでの言動が容易に想像出来るな。
でも、実はダルが頑張ってくれないと、この世界における因果律がおかしな事になってしまうのだ。
そういう意味では、今日のダルのデートは、宇宙規模での一大イベントと言えた。
ゴーゴーカレーの店内は、半分ほどの席が埋まっている状態だった。
日曜日とは言え、午後2時を回ってランチタイムの混雑は解消してきている。
そんな中――鈴羽は一番端の席に座り、帽子を目深にかぶってうつむいていた。
帽子のつばで顔を隠しつつ、少し離れたところに座っているカップル客の様子を鋭く観察する。
ゴーゴーカレー店員
「お待ちどうさま、
メジャーカレー

でーす!」
店員の元気な声とともに、そのカップルの目の前に、巨大な銀の皿――というか盆――がドカンと2つ、置かれた。
他の客たちがそれを見てざわつく気配が、鈴羽にも伝わってきた。
なにしろそのカップルはひどく目立つ。
男の方はメジャーカレーがいかにも似合いそうな巨漢だが、女の方は、スリムで優しげな美女だったからである。
そのカップルの組み合わせも、美女とメジャーカレーの組み合わせも、どちらもアンバランス過ぎた。
メジャーカレーはとにかく大きい。でかい。
鈴羽も経験上、それを知っていた。
巨大な銀の皿いっぱいにライスとカレーが盛られ、その上に、これまた巨大なカツが2枚とエビフライとソーセージ、ゆで卵と山盛りのキャベツがトッピングされている。
通常メニューの2倍から3倍のカレーにトッピング全部乗せ的な怪物メニューだ。
食べ盛りの若い男性客でも、完食するのは容易ではない。
鈴羽
「………」
鈴羽はイライラしていた。
鈴羽
(いったいなんで、初デートの昼食がメジャーカレーなんだよ、父さんっ)
鈴羽が観察している美女と野獣のカップルは、当たり前の事だが至と由季である。
午前中に有楽町で映画を観た後、秋葉原まで来て……そしてこのゴーゴーカレーに入ったのだ。
鈴羽はその間、ずっと尾行をしていた。
だからこそ、至のデートコースの選択が信じられなかった。
鈴羽
(あたしはゴーゴーカレーでもまったく問題ないけどっ、というか、むしろ好きな方だけどっ)
鈴羽
(せっかくの初デートなんだから、もうちょっと他に選択肢もあるだろっ)
スプーンを握りしめながら、ギリギリと歯ぎしりした。
2011年の日本の若者文化に疎い鈴羽でさえそう感じるのだから、由季はさぞ困っているんじゃないだろうか――などと心配している鈴羽だった。
が……。
由季
「うわぁ。写真よりもすごいですね!」
意外にも、由季は周囲の目を気にする様子すらなく、出されたメジャーカレーを前にして無邪気に声を上げていた。

「え、えと、あの……阿万音氏……もし食べきれなかったら、その……僕が食べてあげるですから……」
由季
「はい、ありがとうございます。けど、これでも私、けっこういけるんですよっ?」

「そ、そですか……びっくりですお」
由季
「ふふふ。実は、いつもお店の外でメニューだけ見てて……一度、食べてみたかったんですよねー」
由季
「連れて来てもらえて、嬉しいです」

「そ、それは実によかったですお」
鈴羽
「……?」
鈴羽の懸念は杞憂に終わったようだが、一方で至の様子がおかしい事に気づいた。
そう言えば映画館から出てきてから、喋り方も歩き方もやけにぎこちない。いつも猫背で丸まっている背中も、無理にピーンと伸びている。
とにかく一挙手一投足がギクシャクしていて、ポンコツのロボットのようだ。
しかも、そんなあやうい手つきでコップに水を何杯もついでは、次から次へと、グビグビ飲んでばかりいる。
由季
「あ、ごめんなさい。私にも、お水のおかわりを……」

「はっ? はいはい、どぞっ」
由季
「ありがとうございます」
至が、由季のコップに水を注ぐ。
鈴羽はそれを見て、嫌な予感がした。
その予感は見事に的中し、ギクシャクした動きの至が、あやうく由季の手の上に水をこぼしてしまいそうになった。
由季
「キャッ……」

「だっ、だ、だだっ、だいじょぶですかお!?」
由季
「ええ、ちょっと手が濡れただけですから。それより、早く食べましょう?」
由季は自分のハンカチで素早く手とテーブルを拭くと、目をキラキラ輝かせてスプーンとフォークをつかんだ。
由季
「それじゃあ、いただきまーす」

「い、いただきます」
楽しげに食べ始めた由季とは対照的に、至はやけにお上品でおとなしい。
リスが木の実をかじるような仕草で、一切れのカツをちょびちょび食べている。
その間、至と由季の間に会話は皆無だ。
鈴羽
(いったい何をやってるんだ、父さんは……。あんなんじゃ、母さんに愛想尽かされちゃうよ)
かくなる上はRINEを使って至に発破をかけてやろうと思い、スマホを取り出そうとした、そのとき。
ゴーゴーカレー店員
「はい、メジャーカレー! ルー増し! お待たせしましたー!」
鈴羽
「……!?」
鈴羽の目の前のテーブルにも、ドカンと巨大な皿が置かれた。
またも周囲の客がざわつく。
そういえば、至たちを尾行して店内に入ってきたときに、いつもの癖で自分もメジャーカレー――しかもルー増し――を注文していた事を忘れていた。
これでは目立ってしまう。
決して広くはない店内では、まさに自殺行為だった。
由季
「あら?」
鈴羽
「う……」
案の定、由季と完全に目が合ってしまった。
由季
「鈴羽さん! いたんですか!?」
鈴羽
「あー、えと……」
鈴羽
「うん。偶然だね、由季さん、兄さん……」
由季
「声、かけてくれれば良かったのに」
鈴羽
「いや、気が付かなかったんだよ、全然」
これは、今すぐ店を出て行くべきかと思ったが、目の前に置かれたメジャーカレーに口を付けずに出て行く事は出来なかった。
戦争時代を経験した鈴羽にしてみれば、食べ物を粗末にするなど絶対に許される行為ではないのだ。
由季と至の視線をひしひしと感じつつ、やむなくスプーンを手にする。
鈴羽
「とまぁ、そういう事なんで。ふたりともごゆっくり」
かくなる上は、1分1秒でも早く目の前の特盛りカレーを食べきり、店を出て行くしかない。あの2人の邪魔をしないためにも!
ところが――そんな鈴羽の覚悟とは裏腹に、由季がトコトコと席に近づいて来たかと思うと、鈴羽のカレーをひょいと取り上げてしまった。
鈴羽
「あ……?」
由季
「あのー、すみません、店員さん? お友達なんですけど、席を移ってもいいでしょうか?」
ゴーゴーカレー店員
「はい、どうぞー」
由季
「OKですって。一緒に食べましょうよ?」
鈴羽
「ちょっちょっちょっ、ちょっとっ? なんで?」
由季
「なんでって、ほら、鈴羽さんもメジャーカレーじゃないですか。これは、ぜひ勝負せねばーと思って」
鈴羽
「はあ!?」
由季
「審判は、橋田さんにやってもらいましょうっ」
そして、由季は返事も待たずに、鈴羽のカレーを自分たちの隣の席に持って行ってしまった。
鈴羽
「いや、あのっ!?」
やむを得ず鈴羽も2人の方へと移動すると、由季に耳打ちした。
鈴羽
「デート中、なんだよね?」
由季
「え? あ、そうです。デート中です」
由季
「改めて言われると照れますね、うふふ」

「…………」
至は無反応だ。
今の会話だって聞こえているはずなのに。
鈴羽
「ええと、あたし、デートとかした事ないから詳しくないんだけどさ……」
鈴羽
「……デート中に、他の女とカレーの早食い対決したりするもんなの?」
由季
「さあ、どうでしょう」
由季
「でも、ほら、アニメとかコミックスとかに、そういうのありません?」
由季
「お兄ちゃんを取られたくない妹が、彼女さんに向かって『勝負だ!』みたいなの」
なぜか由季は、やけにやる気に満ちたギラギラした瞳で、鈴羽に訴えかけてくる。
鈴羽はその勢いに圧倒されてしまった。
鈴羽
「し、知らないってば」
鈴羽
「そういうものなの、兄さん?」
しかし、助けを求めた至はと言えば、相変わらずロボットみたいにぎこちない動きで、ただひたすらもくもくとカレーを口に運んでいた。
鈴羽
「……兄さん?」
再度呼びかけると、ギギギ、と首だけこちらに向けてくる。

「ナンカ、言ッタ?」
鈴羽
「どうしたのさ? なんかおかしいよ?」

「ドウモシテナイお。オカシクナイお」
鈴羽
「???」
鈴羽がたまらず由季の顔を見ると。
由季
「…………」
彼女はここではじめて、困ったような表情を見せた。
結局、そのあと、由季と鈴羽のふたりでメジャーカレー早食い対決をして、驚くべき事に両者とも完璧に完食した。
ほんのわずかの差で鈴羽が勝利をおさめたが、店内の客のみならず店員からも拍手が起こるほどの白熱した試合展開だった。
しかし、その間、至は相変わらずもくもくと、ひとりカレーを食べ続けていた……。
これではデートどころか会話にすらならないので、至だけ先に帰らせた。
出来れば鈴羽としては、至の不甲斐なさを今すぐにでも本人に問いただしたいところだったのだが……ふと考え直して、由季と一度話しておく事にしたのだ。
今までは、正体がバレる事を恐れて露骨に避けてきた鈴羽だったが、今はすでに7月。
あと少しで、彼女はこの時代からいなくなる。
由季とゆっくり話せるのは、これが最後のチャンスかもしれなかった。
由季
「ふう……」
由季
「鈴羽さんがいてくれて助かりました……」
至を見送った後、由季は小さくため息をついた。
由季
「私、もしかしたら気に触るような事しちゃったのかもしれません……」
由季
「橋田さん、私といてもあんまり楽しくないみたいだったから……」
鈴羽
「単に……緊張してただけ、じゃないかな?」
由季
「でも、映画を観る前は、楽しそうにお話してくれてたんですよ?」
由季
「それが、映画の後は、すっかりよそよそしくなってしまって……」
由季
「私、なにか間違っちゃったのかなぁ……」
由季
「カレー屋さんに連れて行ってもらったのも、私のリクエストだったんですけど……ずっとあの調子だったから、さすがにちょっと、困ってしまって……」
由季
「それで、偶然お店にいた鈴羽さんに助けを求めたというわけです……」
鈴羽
「…………」
映画の最中に何かがあったのだろうか。
鈴羽は映画館の中までは尾行しなかった。
その間、2時間ほどは外で時間を潰していたのだ。
鈴羽
「あのさ……」
鈴羽
「……由季さんは、なんで兄さんの事、好きになったの?」
由季
「えっ? ええっ!?」
鈴羽
「いや、あたしが言うのもなんだけど、あんまりモテるタイプじゃないじゃん、兄さんって」
由季
「…………」
由季
「……鈴羽さんは、お兄さんの事、どう思います?」
鈴羽
「あたし?」
由季
「好きですか? 嫌いですか?」
鈴羽
「…………」
由季
「好きですよね? 見ていれば分かります」
鈴羽
「まあ……うん」
気に入らない事は多々あるが。
もちろん鈴羽は、父の事が大好きだった。
鈴羽
「って、あたしの事は別に、どうでもいいじゃないか」
由季
「ふふふ」
鈴羽
「それで? 由季さんは?」
由季
「……私は……、まだ、好きかどうかも、よく分からないです……」
鈴羽
「……そ、そっか」
確かに至は由季に告白するどころか、今日が初デートだったぐらいだ。そこまで頻繁に会って話しているわけでもない。
まだ異性として意識する段階にすらたどり着けていない事になる。
鈴羽がほぼ1年間、一緒にいて、まゆりやフェイリスの助けもあって2人をくっつけようとした。にもかかわらず、大した進展は見られない。
この先の事を考えると、鈴羽は言い知れぬ不安を覚えた。
自分の父さんが父さんじゃなくなって。
自分の母さんが母さんじゃなくなって。
父さんと母さんが一緒にいない。
そんな未来を想像して。
鈴羽
(そんなの、嫌だ……)
心の底からそう思った鈴羽は、真正面から由季の目を見つめた。
鈴羽
「あたしさ、もうすぐ、ここからいなくなるんだ」
由季
「え?」
鈴羽
「ちょっと、遠いところに引っ越すんだよね」
由季
「そ、そうなんですか!?」
鈴羽
「たぶん、戻ってこないと思う」
鈴羽
「心配なんだ。父さ……兄さんの事」
鈴羽
「だからさ、由季さん」
鈴羽
「こんな事、あたしが頼むのもおかしな話なんだけど――」
そこで鈴羽は、深々と頭を下げた。
鈴羽
「橋田至を、よろしくお願いします!」
由季
「…………」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「……?」
由季の返事はない。
鈴羽は恐る恐る顔を上げ、由季の表情をうかがった。
由季
「…………」
その表情は、どこか寂しげで。
どこか、悲しげで。
由季
「私は、どうしたいんでしょうね……」
由季がポツリとつぶやいた、その言葉に、鈴羽は――
鈴羽
「あーもう! どうするんだよ! これじゃ破局の危機だよ! まだ始まってもいないけど!」
――ラボに戻るなり、不甲斐ない至を怒鳴りつけた。

「うおお~ん、鈴羽、ごめんな~。橋田家はもうダメなんだお~」
鈴羽
「しょぼくれてるんじゃない! シャレじゃすまないんだ!」
鈴羽
「とりあえず、今日はなんであんな態度を取ったのか、しっかり説明して!」
鈴羽
「今朝、出かける時はあんなに楽しそうだったじゃないか。母さんだって、映画の途中までは普通だったって言ってたし!」

「うん……」
鈴羽
「いったい何があったの!?」

「いや、それがさ、聞いてくれよぅ……」

「映画の座席って狭いじゃん? だから僕、阿万音氏の邪魔にならないようにと思って、出来るだけ椅子の端っこに寄って座ってたんだよね」

「そしたら、椅子がベキッっていって、壊れそうになって」
鈴羽
「ええ?」

「で、慌てて身体を支えようとして、ひじかけをつかんだんだけど――」

「そ、それが……それがっ! ひじかけじゃなくって、阿万音氏の……その……手だったんだお~」
鈴羽
「……うん?」
鈴羽
「そんな事、母さん一言も言ってなかったけど……」

「嘘じゃないお! あの柔らかい感触はひじかけのはずがない! 女の子の手に決まってる!」
鈴羽
「そ、そう……」

「ただ僕、女の子と手をつなぐなんて、二次元ならともかく、三次元じゃほとんど経験なくて……ううう……」
鈴羽
「それで? どうしたの?」

「阿万音氏、優しいからさ……僕を傷つけないようにと思ったのか、その手を振りほどかないんだお……」

「僕ってこの体型じゃん?
手汗
てあせ
とかかきまくりじゃん? ベッタベッタになるわけじゃん? なのに阿万音氏、なんにも言わずそのままで……」

「なんか、それからすっごく意識するようになっちゃって……」
鈴羽
「あー、なるほどね。それであんなにポンコツになってたのか……」

「阿万音氏もきっと心の中で、『キモイウザい離せHENTAI』って思ってたに違いないお……」
鈴羽
「母さんはそんな人間じゃないよ」
むしろ由季の言動を見ると、自分が失礼な事をして嫌われてしまったのではないかと気をもんでいたようにも思える。
問題は、あの時の言葉だ。
由季
「私は、どうしたいんでしょうね……」
あれはいったいどういう意味だったのか。
鈴羽
「母さんが分からない……」

「鈴羽~、こうなったら母さんの事はあきらめて、僕とふたりで仲良く生きていこう~」
鈴羽
「言ってる事がめちゃくちゃだよ! そもそも、あたしはどうやって生まれてくればいいんだっ!」

「うう……でも無理だって~」
鈴羽
「父さんが頑張らないでどうするの!? このピンチをチャンスに変えるんだよ!」
鈴羽は実の父の胸ぐらをつかみ、その巨体を揺さぶった。
鈴羽
「でないと――」
別れ際の、少し寂しげな由季の表情。
鈴羽
「……でないと、取り返しが付かない事になるよ?」

「ですよね……」
と、その時……ラボのあるビルの前で、車の停まる音がした。
フェイリス
「到着だニャー。お疲れ様でしたー」
開け放った窓の外から響いてきたのは、知った声だった。

「お? フェイリスたんの声じゃね?」
鈴羽が至の胸ぐらから手を離して窓に近寄ると、階下に、見慣れた一団が見えた。
岡部倫太郎。椎名まゆり。フェイリス・ニャンニャン。
そして、比屋定真帆の姿もあった。
鈴羽
「比屋定さん、もう到着してたのか」
鈴羽
「でもなんで、オカリンおじさんたちと一緒なんだろう?」
そこで鈴羽はハッとして、部屋の中を振り返った。
鈴羽
「って、まずいよ! それ、出しっぱなし!」

「えっ?」
鈴羽が指差した先――開発室のデスクの上には、開発中の『電話レンジ(仮)弐号機』が堂々と置きっ放しになっていた。

「あっ! やばいやばい! 隠せーっ!」
鈴羽
「オーキードーキー!」
何はともあれ、これで比屋定真帆が未来ガジェット研究所に合流する事になる。
それによって、難航している『電話レンジ(仮)弐号機』の開発が少しでも進む事を、鈴羽は期待した。
ちょっと間の抜けた爆発音とともに、部屋の中が煙に包まれた。
真帆
「けほけほっ! 窓! 窓開けて!」

「げほげほげほ! オ、オーキー……げほっ、ドーキー……」
真帆は開発室から這うようにしてリビングに脱出した。
至が慌てて窓を開けると、階下からオーナーの男性と思われる怒鳴り声が聞こえて来た。
天王寺
「おい、橋田! 今の音はなんだ!」
天王寺
「おめえ、テロでも起こす気か! 通報するぞ!」

「サーセン! 電子レンジが爆発したんですお!」
至が窓から顔を出し、下に向かってペコペコしている。
しばらくしてオーナーが納得したらしく、窓越しの口論は終わった。

「はー、それにしてもビビったぁ……」
そう言って額の汗を拭う至の顔も服も、ススで黒く汚れていた。
真帆
「ビビった、じゃないわよ!」
真帆の方もそれは同様だ。髪の毛先はところどころチリチリになってしまったし、せっかく用意した白衣も、真っ黒になってしまった。
真帆
「どういう事か説明して。なぜいきなり煙を噴いたの!?」

「電子レンジが原因だと思われ。粗大ゴミで捨てられてたのを拾ってきたヤツだから。どこかショートしたのかも」
真帆
「拾ってきたって――あなたね!」
真帆
「私たちが作ろうとしているのは、人類史に名を残すレベルの大発明なのよ!?」
真帆
「なのになんで、粗大ゴミを部品に使っているの!?」

「業務用の電子レンジは、高いのだぜ……」
真帆
「信じられない……!」
真帆
「私のクレジットカードを使ってもいいから、なんとかしなさい」
真帆としてもそれほどたくさん貯金があるわけではなかったが、背に腹は替えられなかった。

「それは助かるお」
真帆
「はあ……」
真帆は、汗とススにまみれた顔をタオルでぬぐった。真っ白だったタオルは、たちまち真っ黒になった。
真帆
「もう我慢出来ないわ。エアコンを入れるわよ」

「それは無理」

「『電話レンジ(仮)弐号機』と一緒に稼働させると、ブレーカーが落ちるんで」

「つーか、そのエアコン、電気代がとんでもない事になるから、1日1時間しか使うの禁止って言ったっしょ……」
真帆
「…………」
なんという劣悪な環境なのだろう。
紅莉栖は、こんな環境でタイムリープマシンを作り上げたのだろうか。
それを考えただけでも、真帆は紅莉栖の事を尊敬した。
真帆
「わかったわよ。でも髪までススまみれだから、シャワーを借りたいのだけれど」

「どうぞどうぞ」
真帆
「もしちょっとでも覗くような真似をしたら……すぐに鈴羽さんに連絡するから、そのつもりで」

「そんな事しないって……」
真帆の警告に対し、至はなぜかしょんぼりして肩を落とした。

「つーか、僕は今、そういう冗談に付き合っていられるほど心の余裕はないお……」
真帆としては、別に冗談で言ったつもりではなく、いたって真面目なのだが。

「傷心の僕は、今週はエロゲすら


ってる状態なんで……。はあ……」
真帆が来日したその日に、デートで大きな失敗をやらかしたらしい事は、鈴羽から聞いていた。
実際、それからの至は普段に比べるとかなりおとなしくなっているとの事だった。
“ダルくんがエッチなゲームをやろうとしないなんて、
てんぺん
①①①①
ちい
①①
の前触れだよ!”とは、まゆりの至言だ。
ともあれ、負のオーラを放つ至には付き合っていられないので、真帆は適当に受け流しつつシャワールームへ入った。
シャワールームは、普段から鈴羽が使っているとの事で、比較的清潔な状態に保たれていた。
ボディソープやシャンプーなども一通り揃っており、鈴羽からは好きに使っていいと言われている。
真帆
(まったく。せっかくの七夕だっていうのに、なんでこんな

すす
まみれになっていないといけないのかしら)
今日は七夕。
実は、密かに真帆は、今日を楽しみにしていたのだ。
ずっとアメリカで暮らしてきた真帆にしてみれば、日本の夏の風流な文化には、多少なりとも興味があった。
特に七夕は、
織姫


彦星

の有名なエピソードや、お願い事を書いて笹の葉に吊す伝統など、特別に印象が強い。
せっかくなので、真帆も願い事を書いたりしてみたかった。
子供のように思われるのは

しゃく
なので、自分からは言い出せないでいるが、まゆりやフェイリスなどの女性陣はそういうイベントが好きそうなので、自分も誘ってもらえないだろうか? と期待していた。
だからこそ、この暑い昼下がりに、ラボで至と2人で

すす
まみれになっている状況が、とても切なく思えてしまうのだ。
真帆
「はぁ~」
そんな事を考えながら、肌にこびり付いた汚れを洗い落としていたら。

「真帆たん! 真帆たんっ!」
外から、至が呼びかけてくる声がした。
真帆
「え、ええっ!? な、何よっ!? まさか本気で覗くつもり!?」
真帆
「このドアをちょっとでも開いてみなさいっ? な、な、な、泣いちゃうからっ!」

「そんな萌えセリフ言ってる場合じゃないって!」

「今、まゆ氏から連絡あった! もしかするとオカリンがこっち来るかも!」
真帆
「えっ! お、岡部さんがっ!?」
それを聞いた途端、真帆はあわてふためいた。
岡部は、最近はほとんどラボに来ないと聞かされていた。
事実、来日した日にはここまで送ってもらったものの、その後は一度も顔を見せに来ない。
だから、安心してラボに出入りしていたのだが……。

「『電話レンジ(仮)弐号機』は隠しといたけど、僕らがやってる研究の事、バレないように気を付けて」
真帆
「え、ええ……。わかった……」
真帆
「というか、私、ここにいたらまずいじゃない!」
真帆
「フェイリスさんのマンションに戻って、隠れていないと!」

「なんで?」
真帆
「だって、本来なら、私は今ごろ沖縄にいるはずなのよ!?」
そう。岡部には、来日の件はそう説明してあるのだ。
至と共同で『電話レンジ(仮)弐号機』を開発しているなんてバレたら、面倒な事になってしまう。

「そうだった!」

「じゃあ、急いで出て来て!」
真帆
「あなたがそこにいたら出られないでしょう!」

「ですよね~」
至が離れていく気配を確認してから、真帆は身体についたボディソープの泡を急いで洗い落とした。
まだ長い髪をしっかり洗えていなかったのだが、それどころではない。
タオルで全身を

ぬぐ
い、シャワールームから出ようとしたところで――
玄関のドアが開く音がした。
倫太郎
「よお、ダル」
真帆
「!?」
もう来た!?
真帆はとっさに、シャワールームのドアを閉め直した。
が、全裸の自分を見下ろして、愕然となる。
服はドアの外に脱ぎ散らかしたままだ。
岡部に自分の存在を気付かれないようにしつつ、それを取る事は出来そうにない。
こうなったら、こんな無防備な格好のままで、隠れてやり過ごすしかなかった。
真帆
(でもこんなの……すごく、なんていうか……そわそわして落ち着かない……!)
倫太郎
「よお、ダル」
ラボに入っていくと、ダルが少し慌てた様子で出迎えた。

「ああ、オカリンかー。一人で来るなんて珍しいじゃん」
室内は、なぜか焦げ臭い。
そして、シャワールームを使ったのか、石けんの香りが混じっている。
ただし、ダルがシャワーを使ったんじゃないのは確かだ。
顔と服が黒く汚れているからだ。
鈴羽がいるのかと思ったが、シャワールームの電気は点いていなかった。
倫太郎
「何してたんだ? お前、真っ黒だぞ」

「ああ、これはええと……」

「この前、粗大ゴミの電子レンジを拾ってきたんだよね。で、さっきそれでコンビニ弁当温めてたら、爆発した」
倫太郎
「爆発って……だ、大丈夫か?」

「ブラウン氏に怒られたお」
倫太郎
「あまり目を付けられるなよ。いつ追い出されるか分からないんだから」
倫太郎
「そんな事になれば、お前はともかく、鈴羽は行くところがなくなるだろう」

「そ、そうだね」

「んで? 今日はどしたん? まゆ氏なら来てないけど」
倫太郎
「お前に話があるんだ。朗報だぞ」

「だが、断る」
倫太郎
「まだ何も言ってないだろう」

「オカリンの持ってきた話がまともだったコトなんて、一度もないんで」
倫太郎
「まあ聞けって」
倫太郎
「昨日の夜さ、レスキネン教授と食事に行ったんだ。それで、留学の話になったんだけど」

「あー、また、その話か」
俺は今、レスキネン教授と定期的に連絡を取り合っている。
もちろん、真帆が日本に来た事も教授は知っていた。
昨日は、沖縄から送られてきた彼女の画像も見せてもらった。
そこには、固い顔をして波打ち際に立っている真帆の姿が映っていた。家族か友人に撮ってもらったのだろう。
そんなわけでレスキネン教授とは
懇意
こんい
にさせてもらっていて――ヴィクトル・コンドリア大学への留学の話もよく相談しているのだ。
もちろん、最低条件として、今の大学を卒業する事と、ヴィクトル・コンドリア大の留学試験にパスする事は挙げられているわけだが。
倫太郎
「せっかくだから、ダルの事も教授に話してみたんだ。そうしたら、興味を持ってくれた」

「えー? 僕?」
倫太郎
「ヴィクトル・コンドリア大学には『情報科学研究所』っていうところがあってな。世界最高のハッカーが集まってるらしいんだよ」
倫太郎
「ダルの腕なら、通用するんじゃないか?」
以前から、ダルも一緒にアメリカへ留学しようと誘っていたのだが、ダルがいまいち乗り気になってくれないのだ。
曰く、“オタの聖地から離れた暮らしなんて考えられない”とか、“エロゲやフィギュアが手に入りにくい環境はあり得ない”とか。
そんな言い訳ばかりだ。

「そりゃあ、僕はスーパーハッカーだし、通用すると思うけどさあ……」
倫太郎
「とりあえず教授に会ってみるだけならどうだ? 面識だってあるんだし」

「今、忙しいんだお」
倫太郎
「1日ぐらいなら時間作れるだろ」

「コミマが終わるまでは無理かな」
倫太郎
「1ヶ月以上先じゃないか」

「とにかく、しばらくは無理」
倫太郎
「やれやれ。本当に言い訳ばっかりだな。そんなに行きたくないのか」
俺はため息をつくと、ソファに腰を下ろした。
それにしても、相変わらずこの部屋は夏になると地獄のような暑さだ。
窓は全開、扇風機もフル回転で回っているものの、汗が一向に引く気配がない。
エアコンがあるにはあるが、使っていないようだし。
倫太郎
「ダル、ドクペって置いてあるか?」

「さあ、どうだったかな。まゆ氏が買い置きしてるかも」
俺は立ち上がると、部屋の隅にある冷蔵庫の中を覗き込んだ。
普通のコーラやミネラルウォーター、スポーツドリンクなどが入っている。
しかし、ドクペは1本も見当たらなかった。
冷凍庫の方には、例によって『ジューシーからあげナンバーワン』が大量に詰め込まれている。
ずいぶんと買い込んでるなぁ、まゆりのやつ……。
前よりも、明らかに増えてないか?
もしかしたら、鈴羽の分も含まれているんだろうか。
倫太郎
「スポーツドリンクもらうぞ?」

「鈴羽の飲みかけ以外ならおk」
新品のスポーツドリンクを取り、渇いた喉を潤す。
ふと冷蔵庫横を見ると、お菓子保存用の棚に、カップ麺やスナック菓子に混じって、バナナが5房ほど置かれていた。
これもきっとまゆりだろう……。
けど、それにしても――からあげの件といい、あいつ、おやつの量が増えてるんじゃないか?
どれだけ食べても太らない体質だと本人は言ってるが……
とはいえ、こんなに一度にたくさん買い込んだところで、どのバナナも熟成が進み過ぎて中身はベチャベチャ、しまいには食べられないほどの味になってしまいそうだ。
倫太郎
「まゆりのやつ、バナナを買いすぎじゃないか?」

「ああ、それ買ってきたの、まゆ氏じゃなくて僕――」

「あ」
倫太郎
「……?」
ダルが急に口ごもった。
俺が目を向けると、あからさまにサッと目をそらす。
なんだろう、さっきから様子がおかしい。
こいつ、何か……隠してる?
倫太郎
「お前がこんなに買ったのか? いつからバナナ好きになった?」

「い、いや、ほら、鈴羽に言われてるんだって。ダイエットにいいから、毎日食べろってさ」
倫太郎
「そういえば、昔、そんなダイエットが流行ったな」
テレビでタレントがバナナダイエットで痩せたという話をしたら、翌日、スーパーなどの店頭から根こそぎバナナが消えたという馬鹿馬鹿しい事件があった。
うちの実家である岡部青果店でも、少し遅れてブームに気付いた親父が調子に乗ってバナナを入荷しまくったものの、すでに下火になっていて大量に余らせてしまった……そんな記憶がある。
倫太郎
「だからって、こんなに一度に買うなよな。だいぶ色が変わってきてるじゃないか」
まあいい。ちょうど小腹も減っていたので、1本いただく事にしよう。
房からバナナをもいで、皮を剥く。
倫太郎
「とにかく、少しは加減ってものを考えろ」

「そ、そだね。うん」
俺はバナナを三口ぐらいで一気に食べ終わると、皮を可燃ゴミの箱に放り込もうとして――。
倫太郎
「…………」
奇妙な事に気づいた。
ゴミ箱の中が、バナナだらけだったのだ。
その量は尋常じゃなかった。
ゴミ箱の半分以上がバナナだけで埋まっているほどだ。
しかも、皮だけじゃない。なかには半ば腐りかけ、夏場の暑気のせいで嫌な匂いを発しているバナナそのものも捨てられていた。
ゴミ箱の中のこんな光景を、俺は以前にも見た覚えがあった。
まゆり
「……またゲルバナ作るのー?」
そう、1年前、実験に明け暮れ連日のようにここに泊まっていた、あの時だ。
直前に見た冷凍庫の中身の事が、脳裏をよぎった。
あの、不自然なまでに大量なジューシーからあげのストック……。
倫太郎
「……っ!」
これは、まさか……!
俺は、汚れるのも構わず、ゴミ箱に手を突っ込んで中を引っ掻き回した。

「ちょっ、オカリン?」
ダルが俺の行動を見てオロオロしているが、無視する。
予感は当たった。バナナの残骸のその下からは、からあげの空き袋が大量に出てきたのだ。
いくらまゆりがからあげ好きで、ダルが大食漢だからといっても、こんなに毎日毎日、冷凍からあげばかり好んで食べるとは思えない。
倫太郎
「…………」
さらにゴミ箱の奥の方を漁ってみる。
そしてそこに、見たくはないものを、見つけてしまった。
倫太郎
「なぁ……ダル?」

「な、なんぞ?」
倫太郎
「バナナと冷凍からあげの組み合わせ……懐かしいな」

「う、ん……?」
倫太郎
「一年くらい前か。よくこうして実験してたよな」
倫太郎
「かなり無駄な使い方してたから、まゆりによく怒られた。食べ物を粗末にしちゃダメだって」

「そ、そだね」
倫太郎
「しょうがないから、電子レンジで温かくなったバナナも、俺たちで食べて処分したよな。あれはひどい味だった」

「…………」
倫太郎
「でも、さすがにこれは食べられなかったよ」
俺がゴミ箱の中から引っ張り出したもの。それは――。
緑色に変色した、
ドロドロ
①①①①


物質
①①

まるで巨大な昆虫の中身をぐちゃぐちゃに潰して、大量に集めたような気色の悪い粘液体。
つまんだ俺の指の間からそれはボタボタとあふれ落ち、床に飛び散る。
元はバナナだったもの。
かつて俺たちがゲルバナと呼んでいたもの。

「おぅ……しまった……」
ダルが、失敗したと言わんばかりに頭を抱える。
しかしすぐに観念したのか、開き直った。

「ふー、まずったー。こんなあっさりバレちゃったかー。もうちょっと隠し通せると思ったんだけどなー」

「実際さ、めどがついたら、ちゃんと相談したい事もあったし、打ち明ける予定ではあったんだけど」
倫太郎
「…………」
ダルは俺に向かってタオルを投げてよこした。
どうやらダルが使ったものらしく、その白いタオルは一部が

すす
か何かで黒く汚れているが、仕方なくゲルバナで汚れた手をそれで拭いた。
ダルは開発室へ入っていき、積み重ねられている箱や埃よけのカバーなどをどけていった。

「ほれ。これが弐号機」
やがてテーブルの上に現れたのは――1年前に俺たちが作り、改良を重ね、やがて自らの手で解体した、忌まわしき『未来ガジェット8号機』の姿だった。
倫太郎
「組み立て……直したのか……」

「『電話レンジ(仮)ver2』とどっちがいいか、けっこう迷った」
倫太郎
「名前なんてどうでもいい」

「マジ? オカリンの言葉とは思えないなー」

「どの未来ガジェットもさ、円卓会議やって、大騒ぎして名前決めたじゃん」
倫太郎
「黒歴史だろ……」

「そう?」
ダルは、開発室の奥の棚で埃をかぶっているかつての未来ガジェットたちに向かって、どこか愛おしそうな視線を走らせている。
なんだよ、その態度は。
あの頃の事を、貴重な青春の1ページだったとでも言うつもりか?
ふざけるな、と言いたいのをぐっとこらえた。
倫太郎
「お前、俺が言った事を忘れたのか?」
倫太郎
「これは危険だ。俺たちが持っていていい代物じゃない」

「ん。けどさ……僕、未来でタイムマシン作らないといけないんだよね」

「そうするとやっぱ、こいつを研究する事がその第一歩だと思うわけ」
倫太郎
「ダル!」
俺は、こらえきれずに一喝するとダルに詰め寄った。
倫太郎
「何度も、何度も何度も何度も、話したよな?」
倫太郎
「こいつのせいで、何が起こったのか。こいつのせいで、俺がどんな体験をしたのか」
倫太郎
「これを作った事で、まゆりは殺されるんだ……!」
倫太郎
「これを作った事で、紅莉栖は犠牲になったんだ……!」
倫太郎
「これを作った事で、お前の娘は過去へ跳んで、自殺までしたんだ……!」
倫太郎
「忘れたって言うなら、もう一度話してやろうか?」

「…………」
倫太郎
「お前はそんなにバカだったのか? 自分でそれを体験してみないと分からないほど、バカだったのか?」
真帆
「バカはあなたよ、岡部倫太郎!」
倫太郎
「!?」
いきなり背後から、激しい怒気を含んだ女性の声が飛んできた。
振り向くとそこには、俺を睨みつけている比屋定真帆の姿があった。
倫太郎
「なっ!? 比屋定さん!?」

「おぅ……。合法ロリktkr……」
倫太郎
「なんて格好してるんだよ!?」
倫太郎
「っていうか、なんでここに!?」
真帆
「あっ! えっと! こ、これはその! つい勢い余って……!」
真帆
「あんまりジロジロ見ないで! 訴えるわよ!」
倫太郎
「そっちがそんな格好で出てきたんじゃないか!」
真帆
「ちょ、ちょっと待ってなさい、今、服を着てくるから!」
真帆はあたふたとシャワールームに引っ込み、しばらくして服を着て出てきた。
真帆
「ゴホン、失礼。待たせたわ」
倫太郎
「もしかして、俺が来た時から隠れてたのか?」
真帆
「わ、私の事はどうでもいいでしょうっ」
倫太郎
「……レスキネン教授に送った沖縄での写真は、わざわざねつ造したのか?」
沖縄の海の波打ち際に立っている真帆の画像を、俺も教授も本物だと信じて疑わなかった。
が、まんまと騙されていた事になる。
……あの完成度は、間違いなくダルの手で加工されたものに違いない。
倫太郎
「君の来日の目的は……沖縄じゃなかったというわけだ」
真帆
「ええ、そうよ」
真帆
「あなたが電話レンジ(仮)なんていうセンスのない名前をつけた、そのマシンのために来たの」
倫太郎
「君にも説明したはずだ。
Dメール

によって、いったい何が引き起こされたのかを」
倫太郎
「それをまた繰り返すつもりか?」
真帆
「違うわ」
倫太郎
「何が違う?」
倫太郎
「Dメールを送れば、それは
エシュロン

に捕捉され、世界線は今のβから再びαに戻ってしまうんだ」
倫太郎
「そうしたら、まゆりはまた、死ぬ……」
倫太郎
「何度やっても、助けられない。永遠に、死に続ける――」
そこで俺は、ふと恐ろしい想像をしてしまい、真帆の顔をまじまじと見つめた。
まさか……いくらなんでもこの人に限って……という思いがこみ上げて来る。
俺は、真帆を心の底から信頼していたし、
そんな
①①①
真似
①①
をする人間だとも思いたくなかった。
けれど……再び目の前に突きつけられた“忌むべき機械”を前にして、俺は冷静ではいられなくなっていた。
今にもフラッシュバックに襲われそうで。
頭の中に、紅莉栖とまゆりの死の瞬間がちらついて。
そのせいで、つい、言ってはならない言葉を口にしてしまった。
倫太郎
「君は……まさか世界線をαに戻したいのか?」
真帆
「え……?」
倫太郎
「紅莉栖が生きていて、まゆりが死んでいる世界を、望むのか?」
真帆
「なっ!?」

「この野郎ッ!!」
倫太郎
「っ!?」
頬に衝撃が来て。
耳元で凄まじい音が聞こえ。
気が付いたら、俺は仰向けにひっくり返っていた。
しばらく、何が起きたか分からなかった。
顔の左半分が、火を噴くように熱い。
殴られた?
ダルに?
それは、こいつとのおよそ5年にわたる付き合いの中で、はじめての事だった。

「謝れ! 今すぐ、真帆たんに謝れっ!」
真帆
「ちょっ、ちょっとっ! やめなさい、橋田さんっ!」

「オカリンがどれだけ苦しんでるかなんて、僕には想像しか出来ないけどさ!」

「だから、安っぽい同情なんてしないし、するつもりもねえよ!」

「でもなっ、お前っ、結局ただそれに甘えてるだけじゃねえかっ!」

「真帆たんだって、鈴羽だって……まゆ氏だって! みんなが、お前のためにどれだけ……!」
真帆
「もういいから! よしなさい!」
真帆がダルの身体をつかんで、必死に制止している。

「離せ! こいつ、もっとぶん殴ってやらないと分かんないんだよ!」
真帆
「もうじゅうぶんよっ! 今のでじゅうぶん! だから落ち着いて!」
そして今度は、真帆がダルの肩口をポカッと叩いた。
真帆
「あとの説明は私がしておくわ! 顔でも洗ってきなさい! ほらっ」
真帆がシャワールームを指差すと、ダルはようやく我に返ったようだった。

「…………わかった」
少し拗ねたような、ばつが悪そうな顔になって、振り上げた拳を降ろした。
ダルは重い空気が苦手だから、こういう場合はいつもHENTAI紳士的な冗談をかますのが常だった。
けれど、それすらもなく、シャワールームのカーテンの向こうへ消えた。
すぐに、水音が聞こえてくる。
真帆
「まったく」
真帆が、俺を見下ろしてきた。
真帆
「あなたがおかしな事を言うからよ」
倫太郎
「……そ、そうだな、……すまなかった。今のは決して本心じゃ……」
真帆
「分かってるわ。あなた、そんな人じゃないもの」
真帆
「ほら、立てる?」
差し伸べられた真帆の手を握って、俺はゆっくりと立ち上がった。
無防備なところにもろに食らったせいか、少し頭がクラクラする。
倫太郎
「今のは……効いた。普段優しいヤツが怒ると……効くな……」
真帆
「そうね。しかも、自分のためじゃなく、他の誰かのために怒れる人は……素敵だと思う。少しだけ見直したわ」
真帆はほんのりと嬉しそうに、シャワールームへ視線を向ける。
倫太郎
「見直したのは、少しだけなのか?」
真帆
「だって、私への言動がいつもセクハラばっかりだもの」
倫太郎
「もしかしたら、君の事が好きになったのかもしれないぞ?」
倫太郎
「子供がよくやるだろ、好きな子に意地悪するとか。あれと同じだ。……あいつ、頭の中、子供だからな」
真帆
「冗談じゃないわ。鈴羽さんを、私の娘にしたいわけ?」
倫太郎
「それはまずいな……」
俺は苦笑したが、すぐにその笑みを引っ込めて真帆に向き直った。
身長差がありすぎて、真帆が俺を見上げるような形になってしまっている。
倫太郎
「俺の主観で言えば、この世界は、紅莉栖の選択のおかげで存在してるんだ」
倫太郎
「紅莉栖がいたから、まゆりは無事でいられる。幸せに暮らしていられる」
倫太郎
「それを、俺も護らなくちゃいけない」
倫太郎
「君は科学者だ。俺なんかよりずっと優れた頭脳の持ち主だ」
倫太郎
「だから、理解出来るだろう? この世界の節理を」
真帆
「……ええ」
真帆は、静かにうなずいた。
倫太郎
「それは言ってみれば“神”みたいなものなんだよ」
倫太郎
「“神”に人間が挑むなんて、無謀だったんだ」
倫太郎
「なのに、俺はそれに何回も、何十回も、何百回も、挑んで……すべてが失敗に終わった。無駄だったんだ」
倫太郎
「人の傲慢を、“神”は決して許さない」
真帆
「……そうね」
真帆は、まるで遠い祖国や祖先を慕うかのような目で、窓の外を見た。
真帆
「“神”というのは、私の祖国や、あるいは沖縄の人たちの間でも、ポピュラーな存在として信じられているわ」
真帆
「私も、祖父母や父母からその素敵な考えを教えられてきた」
真帆
「科学に身を捧げる者ではあるけれど、決して“神”を侮ったりはしない」
倫太郎
「それなら――」
と、真帆は小さく首を左右に振り、鋭い視線で俺を見上げてきて――。
真帆
「けどね、あなたがさかんに口にする“神”は――それとはまったく違う」
まるで吐き捨てるかのように、キッパリとそう言い切った。
真帆
「“世界の節理”ですって? そんなものは、ただこの世界を構築している“数式”に過ぎないわ」
真帆
「“神”なんて立派なものは介在していないし、私たちに『解』が導けない道理はないのよ」
俺はそれに反論しようとしたが、それよりも早く、真帆は開発室へと入っていった。
仕方なく、俺もそれを追う。
真帆
「Dメールとエシュロンとの因果、それによる危険性については、じゅうぶん認識しているわ」
真帆
「安心しなさい。Dメールは、今の時点では封印してある」
真帆
「あなたの懸念しているような事態は起こらないし、私が絶対に起こさせない。α世界線に戻させたりもしない」
真帆
「もちろん、Dメールの危険を回避する方法も、エシュロンを無効化する策も、橋田さんと検討中よ」
真帆
「ただ、今は、その検証にリソースを割くより先に、やらなくてはならない事があるの。個人的にもね」
真帆は、電話レンジ(仮)弐号機のボディをバンと叩いた。
真帆
「今、私たちが研究しているのは、紅莉栖が成し遂げたというタイムリープの方」
倫太郎
「じゃあ……タイムリープしか出来ないのか、それ?」
真帆
「そういう事になるわね」
改めて観察するまでもなく、確かにそれは電話レンジ(仮)というより、タイムリープマシンだった。
紅莉栖が電話レンジ(仮)に独自に改良を加えた、あのタイムリープマシンとしての特徴が再現されている。
一番分かりやすいのは、本体の電子レンジに、もう1台PCとモニターが接続されている事だ。
そのPCにはさらに、ヘッドセットと、たくさんの電極がついたコードらしきものが繋げられていた。
タイムリープマシンの詳しい構造は、この世界線では俺しか知らない。そしてそれを、ダルや真帆には詳しく教えてはいない。
つまり真帆は、わずかなヒントだけで紅莉栖と同じ物を作り上げたという事になる。
真帆
「正直なところ、とても悔しいわ……」
倫太郎
「悔しい?」
真帆
「研究すればするほど、やっぱり私は、紅莉栖にはなれないって、思い知らされるのよ」
真帆
「記憶をデータ化して、それをトップダウン検索信号込みで携帯電話に転送する……そこまでは出来るの」
真帆
「ただ……最大の問題がクリア出来ない。紅莉栖はそれをやってのけたのに」
倫太郎
「……データの圧縮……だな?」
真帆はうなずいた。
真帆
「何テラバイトもある膨大な記憶データを、どうやって圧縮するのか……その謎が、私ではどうしても解けない」
その点は、紅莉栖も最も苦心していたポイントだった。
だがあの天才少女は、ダルの力を借りつつ、最終的にそれをやり遂げてみせたのだ。
真帆
「あなたは……紅莉栖から何か聞いているのかしら? その方法を……」
少し不服そうに、そう訊いてくる真帆。
解法を尋ねてしまうのは、自力で解決するのを諦める事であり、必然的に自分の負けを認めるという事だ。
それが我慢ならないのかもしれない。
でもそれ以上に、このマシンを完成させる事を優先したのだろう。
だが――。
俺は、その問いに対して、すぐ『解』を提示するつもりはなかった。
倫太郎
「前に、俺の経験した事を話した時に、約束をしたよな。覚えてるか?」
倫太郎
「“タイムマシンで牧瀬紅莉栖を救おうなんて、絶対に考えるな”」
真帆
「…………ええ」
倫太郎
「今でも、その約束を守るつもりがあるか?」
倫太郎
「その気がないなら、協力は出来ない」
真帆
「…………」
真帆はしばらく答えなかった。
だが、その顔色をじっくりと読むまでもなく、彼女の心中で激しい動揺が起こっているのが分かる。
真帆
「…………」
真帆
「……もちろん、守るわ。あなたとの約束だもの」
倫太郎
「はは」
かなりの間があった後、ポツリと告げられた彼女の答えを聞いて、俺はたまらず笑ってしまった。
倫太郎
「君は嘘が下手だな。そんな顔をしていたら、すぐにバレる」
真帆
「……っ」
倫太郎
「話は終わったな」
静かに言って、開発室から出た。
シャワールームを見るが、まだ水音が響いていた。ダルが出てくる様子はない。
倫太郎
「なぁ、ダル? バカは俺だった。本当にすまなかった」
声をかけてみたが、向こうからの返事は無かった。
聞こえていないのかもしれない。
ちゃんと謝るのは、お互いのためにも明日にした方がよさそうだ。
倫太郎
「……また、明日来るから」
それだけ言って、玄関へ向かった。
真帆
「岡部さんっ」
真帆が追いかけてきた。
勢いよく詰め寄ってきたせいか、あやうくぶつかりそうになる。
真帆
「シュタインズゲートは、実在すると思う?」
真帆
「まゆりさんが死ぬ事なく……そして、紅莉栖も犠牲にならない、そんな
狭間
①①


世界線
①①①
が、あると思う?」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「それを目指した俺の顛末を知りたいなら、鈴羽に聞くといい」
倫太郎
「結局、運命には逆らえなかった」
倫太郎
「あんなのは、
下らない
①①①①
妄想
①①
だよ」
真帆
「そう言い切ってしまって、本当にいいの?」
真帆
「無いと、証明されたわけではないのよ?」
倫太郎
「そんなの、まさに
悪魔の証明

じゃないか。そんな証明、誰にも出来るわけがない」
真帆
「そうよ。あるのかないのかも証明されていないのに、あなたは……たった一度失敗したくらいで諦めた」
真帆
「……っ」
真帆が、ギリリと歯噛みした。
真帆
「……呆れてしまうわ」
倫太郎
「な、に……?」
その一言に、自制を失って、すんでのところで真帆の肩をつかんでしまいそうになった。
が、かろうじて自分にブレーキをかけた。
倫太郎
「さっきも言っただろう? 俺はそれ以前に、何回も、何十回も、何百回も挑んで――」
真帆
「私も言ったはずよ? それは“神”の摂理でもなんでもないって」
真帆
「世界線もタイムマシンも、シュタインズゲートなんてものも――」
真帆
「どれも、世界を構築するただの数式に過ぎない」
真帆
「何回も、何十回も、何百回も失敗した?」
真帆
「だからなんだと言うの?」
真帆
「そんなの科学の世界では当たり前の事よ。それで失敗したのなら、何千回も、何万回も、何億回も挑戦すればいい」
真帆
「そうすれば、必ずそこに解法は見つかる」
倫太郎
「君は……! 君は、何も知らないし、経験していないから、そんな無責任な事が言えるんだ……っ!」
真帆
「いいえ。嫌と言うほど経験してきたわ。失敗も挫折も後悔もその痛みも。牧瀬紅莉栖という天才のせいで……!」
倫太郎
「数式に感情はないだろ!」
真帆
「数式を解くのは、人間よ。結局のところね」
ほとんどキスをするほどの近さで、真帆とにらみ合う。
倫太郎
「…………」
真帆
「…………」
真帆の、苛烈とも言えるその眼差し。
なぜだか俺はその眼差しを正面から受け止める事に、負い目のようなものを感じて。
たまらず、視線をそらした。
黙って踵を返し、玄関ドアを開けて出て行こうとした。
が、服の裾をつかまれ、引き留められる。
そうされたのは意外だった。
倫太郎
「……まだ何か用か?」
不機嫌な声を出しながら振り返ってしまう。
真帆
「…………」
直前まであれだけ苛烈に俺を睨み付けていた真帆が、悲しげな笑みを浮かべていた。
まるで、今の一瞬で別の世界線に移動したんじゃないかと錯覚してしまったほどで。
倫太郎
「……え?」
あっけに取られた俺に向けて、真帆はつぶやく。
真帆
「あなたこそ、嘘が下手ね」
倫太郎
「……嘘?」
俺が、嘘をついているって……?
その言葉の意味を図りかねて、俺は、思わず自分の顔を撫でるように触っていた。
でも、それで自分の表情がわかるわけもなくて、ただただ戸惑ってしまう。
倫太郎
「嘘って……なんだ? 俺は嘘なんてついてない」
真帆
「橋田さんに聞いたんだけど――」
真帆
「1年前のあなたって、タイムマシンに関しては取りつく島もなかったんですってね」
真帆
「シュタインズゲートの話なんて、それこそ論外。口にするのもはばかられるほどだったって」
倫太郎
「い、いったい何を言って――」
真帆
「でも、今は違うわ。だって、あなたのその顔……私が、以前、よくしていた顔とおんなじだもの」
倫太郎
「……?」
真帆
「紅莉栖に実証実験で負けて、論文の評価でも負けて、名声でも負け続けて。落ち込んで、もうダメだって思って……」
倫太郎
「………」
真帆
「けど、いつも最後は、鏡を見て自分を叱りつけたのよ」
真帆は、自身の心臓――ココロ――のあたりを、人差し指でスッと指差した。
真帆
「“挑戦するのを諦めたら終わり。そうしたら永遠に勝つ事は出来ない”ってね」
その指を、今度は俺の左胸へと向けてくる。
真帆
「今のあなたは、その時の私と同じ顔よ……」
真帆
「心の奥の奥では、まだリベンジする気でいる」
真帆
「自分をこんな惨めな男へと

おとし
めた、シュタインズゲートに」
俺が? まだ内心では諦めてない……?
倫太郎
「違う。そんな事はない」
真帆
「違わないわ。あなたってね、ほんと、私にそっくり」
真帆
「まるで、
鏡像
きょうぞう
みたい」
真帆
「強情で、一度言い出したら聞かなくて、自分が間違ったと分かっても、それを絶対に認めたくなくて子どもみたいに拗ねて、誰かに心配や迷惑ばかりかける」
倫太郎
「…………」
真帆
「って、“そんな事ないよ”とか、少しくらいはフォローしてもらえないと、ちょっと傷つくわね」
真帆
「……けどね。だからこそ分かるのよ」
真帆
「私も、あなたも……最後は、絶対に自分の足で立ち上がるの」
真帆
「――そうでしょう? 岡部倫太郎さん?」
倫太郎
「……っ」
真帆
「もう一度言うわ。あらゆる世界の摂理は、ただの数式であり、その解法は必ず存在する」
真帆
「私は、なんとしても見つけてやるわ。“神”なんて介在しない、ただの数式を解く鍵を」
真帆
「そうして、まゆりさんが死なない……紅莉栖も生きている、
狭間
はざま
の世界線に続く道へと、たどり着いてやる」
一気に言い切ったせいか、真帆は少し息を切らしていた。
こんな小さな体なのに、なんていうバイタリティなんだろう。
そんな彼女の姿に、その言葉に、俺は、圧倒されてしまっていた。
真帆
「で、あなたはどうするの?」
真帆
「岡部
所長
①①
。ここはあなたのラボなのでしょう? いつまでも所長不在では、話にならないのだけれど」
倫太郎
「俺は……俺は……っ」
そのとき、俺のスマホにRINEの着信があった。
こんな話をしている最中だ。
それでも俺は、なぜだか不吉なものを感じて、スマホを取り出していた。
倫太郎
「え?」
まゆりが、泣きながら……?
文面から、ただならぬ事態だという事が伝わってくる。
俺が絶句したのを見て、真帆も何事かとスマホの画面をのぞき込んできた。
倫太郎
「……なん……だって?」
俺は、真帆と顔を見合わせた。
倫太郎
「まさか……、聞かれてたのか……今の話……?」

「そういえば……」
いつの間にか、シャワールームから出てきたダルが俺のすぐ後ろに立っていた。

「オカリンがラボに来るって知らせてくれたの、まゆ氏だ……」

「まゆ氏も、ここに向かってる途中だって言ってた……」
じゃあ、タイミング的には……!
じゅうぶん可能性があるっていう事じゃないか!
倫太郎
「そ、そんな……」
ガラガラと、足許が崩れていくような錯覚を覚える。
紅莉栖の犠牲の元にまゆりが存在する、この世界線。
その事実だけは、絶対にまゆりに知られるわけにいかなかったのに。
俺はもちろん、ダルも鈴羽もフェイリスも真帆も……真実を知っている人間は全員、その事だけは伏せていたのに。
捜さないと。
まゆりを、捜さないと。
今のあいつを、一人にさせておけない。
倫太郎
「くそおっ!」
俺は、ラボを飛び出した。
鈴羽
「ふー。まだ暑いな」
時刻はそろそろ午後6時。夏至を過ぎている太陽はようやくビルの彼方へと姿を隠そうとしているが、依然、夏空は一部だけが茜色で、後はやや汚れた青色を保っていた。
鈴羽はこの数日、ラジ館屋上にあるタイムマシンの整備を念入りに行っていた。
そろそろ、過去への出発が近い。
マシンの整備にも、おのずから力が入るというものだ。
本来なら、少しくらい汚れていても構わないパーツ類までピカピカに磨き上げてしまうほどだった。
鈴羽
(気負いすぎてるかな。……やっぱり不安なのか)
整備を終えて工具類の入ったボックスを片付けると、鈴羽はそれをタイムマシンのコクピットの中へ収納した。
そのまま、マシンの操縦席に座って、バッテリーの残量を改めて確認をする。
残り燃料を考えると、あと1ヶ月ほどもすると“2010年7月28日”へは戻れなくなる計算だ。
それが、鈴羽がこの時代に残っていられるタイムリミットである。
結局、当初の計画通りに倫太郎を過去へ連れて行く事は出来そうにない。
となれば、鈴羽がこの1年で学び、自分なりに考えた“あるミッション”に、たったひとりで挑んでみるしかない。
鈴羽
「……それにしても。父さんってば……これはないよなぁ」
鈴羽は軽く苦笑いをして、コンピューターコアの奥に手を突っ込んだ。
そこには、どう見ても2036年のものではなく、今――つまり2011年のものである外付けハードディスクが置かれていた。
鈴羽の目を盗んで、至がこっそりと置いたのだろう。
タッチパネル式モニターのうち、サブの方を見ると、そこには警告が出ていて、『コクピット内に異物が検知されました』と表示されている。
この優秀な機械たちは、21世紀初頭の偽装工作など、1秒とかからずに見抜いてしまうのだ。
モニタリングやデータの取得が目的ではないのは、偽装配線の時点で明らかだ。
このハードディスクは誰かに見つけられては困るもので、密かにここに隠したのだと考えられた。
出発の直前までは、知らんぷりをしてここに置いといてやるか……。
そんな事を考えていたところ、外から重い鉄扉を開ける音が鈴羽の耳に届いた。
鈴羽
「……!?」
誰かが来た。
鈴羽は素早くホルスターから拳銃を抜き放つと、コクピットの中から、鉄扉の方をうかがった。
先日のかがりの件もある。
用心に越した事はない。
だが、やって来た人物の姿を見て鈴羽はすぐに緊張を解いた。
鈴羽
「まゆねえさん。珍しいね、ここへ来るなんて」
鈴羽は銃をしまってコクピットから飛び降りると、まゆりを出迎えた。
まゆり
「……スズさん」
鈴羽
「……?」
鈴羽
「泣いてるの? 何があった?」
いつも笑顔を浮かべているまゆりが涙に暮れている理由がわからず、鈴羽は困惑した。
まゆり
「…………」
まゆり
「どうして、みんなは教えてくれなかったのかなぁ?」
鈴羽
「……え?」
まゆり
「紅莉栖さんっていう人と、まゆしぃとの……本当の事……教えてくれなかったのかなぁ?」
鈴羽
「……っ!」
思わず、ぐっ……と言葉に詰まった。
誰から、どうして聞いてしまったんだろう? まゆりの生存のためには、牧瀬紅莉栖の犠牲が必要だったという残酷な事実を――。
それを知ってしまった時のまゆりの顔を、鈴羽はなによりも見たくなかったというのに。
鈴羽
「……誰に……聞いたの?」
と言っても、その事実を知っている人物は限られる。
鈴羽以外だと、倫太郎、至、フェイリス、そして真帆。
誰も、あえてまゆりに真実を教えるような人間じゃない。
むしろまゆりのためを思って、その事実を隠してきた。
まゆり
「オカリンと……真帆さんが話しているのを、聞いちゃった……」
鈴羽
「…………」
やはり偶発的な事故、か……。
まゆり
「ぐすっ。……ねえ、スズさん? お話……聞いてもいい?」
まゆり
「……2036年の、まゆしぃとオカリンの事」
鈴羽
「…………」
鈴羽は返答に窮した。正直、それを話したくなかった。
今のまゆりにとって、決して救いのある内容ではない。
鈴羽
「未来の事は、知らない方が幸せだよ」
まゆりの頬を、また一筋の涙が伝い落ちていく。
まゆり
「……まゆしぃなんてね、この世界にいても、何の役にも立たないよ」
まゆり
「だったら、紅莉栖さんの方が、世界のためにも、オカリンのためにも、ずっとずっと必要なんだよ」
鈴羽はふと、未来のまゆりと今のまゆりとが交錯していくような、そんな錯覚にとらわれた。
鈴羽が幼少時代から見てきた、あの“まゆねえさん”に収束してしまうと考えたら……もう、まゆりの頼みを断れなくなってしまった。
鈴羽
「あたしの知ってる未来のまゆねえさんも……時々、そう言ってた……」
鈴羽
「そんな時は、決まって、ぼんやりと空を眺めてるんだ」
鈴羽
「すごく寂しそうで、切なそうだったよ」
鈴羽
「あたしもかがりも、まゆねえさんのそんな顔を見るのが、辛かった」
まゆり
「……かがり?」
そこで鈴羽は、かがりの事もまゆりには内緒にしていたのを思い出した。
鈴羽
「……かがり、っていう名前の女の子がいたんだ」
鈴羽
「戦災孤児でさ。まゆねえさんが引き取ったんだ。だから、まゆねえさんの……娘っていう事になる」
まゆり
「まゆしぃの……娘……」
鈴羽
「優しくて、でも、強い子でね。まだこんなに小さいうちから、いつも言ってた。ママを護るのは自分だって……」
鈴羽
「そんな子だったから、母親であるまゆねえさんが寂しそうにしてるのは、かなり

こた
えてたはず……」
まゆり
「…………」
鈴羽
「そういえば、7月7日……今日って『七夕』っていうんだってね」
まゆり
「え? う、うん」
鈴羽
「あたしは、子どもの頃にまゆねえさんから教わったんだ」
鈴羽
「織姫と彦星が年に一度、会う事が出来る日だって」
鈴羽
「大気汚染がひどくて、星なんて見えない時代だったけど。まゆねえさんは、言ってたよ」
まゆり
「雲が夜空を覆っていても、星は、世界から消えちゃうわけじゃない。雲の向こうで、変わらずに輝き続けてるの」
まゆり
「だから一緒にお祈りしようね」
まゆり
「…………」
鈴羽
「そんなまゆねえさんの言葉が、あたしやかがりには希望になったんだ。それだけは、知っておいて欲しい」
鈴羽
「少なくとも、あたしやかがりにとっては、まゆねえさんが必要だった」
鈴羽
「それに、オカリンおじさんだって、死ぬまでまゆねえさんの事を大事にしてたんだ。まゆねえさんの幸せの事ばかり考えていたんだ」
まゆり
「死ぬ、まで……?」
鈴羽
「あっ」
その事実もまた、まゆりにとっては残酷な事実なのかもしれない。
だが鈴羽は、こうなったらすべて包み隠さず話すと覚悟を決めていた。
鈴羽
「そう……だよ」
鈴羽
「オカリンおじさんは、今から15年後までしか生きられない」
まゆり
「え……!?」
鈴羽
「まゆねえさんをかばって、死ぬんだ」
まゆり
「う、そ……」
鈴羽
「オカリンおじさんは最期にこう言ってたって――父さんに後から聞いた」
鈴羽
「“まゆりの命を助ける事が出来て本当に良かった”」
鈴羽
「“自分は、まゆりを守るために生きて来たんだから”」
まゆり
「……そ、そんな……」
まゆりは、両の手のひらで口を覆った。
鈴羽
「でも、まゆねえさんはその事をずっと引きずっていたんだろうな……」
鈴羽
「あたしたちには見えないところで、こっそり、七夕の空を見上げて、つぶやいてた」
まゆり
「あの日、私の彦星さまが復活していたら、全てが変わっていたのかな?」
まゆり
「………あの日? ……私の、彦星さま……。私の……」
まゆりは、その言葉を口の中で
反芻
はんすう
している。
その瞳からは、まだ涙がポロポロと落ち続けている。
しかし、悲痛な慟售はいつしかおさまり始め――まだ悲しみに震えてはいたが、声音は静かなものに変わりつつあった。
まゆり
「どういう事なの、かなぁ……?」
鈴羽
「あたし、今なら、分かる気がする」
鈴羽
「1年前……あたし、オカリンおじさんの態度に本気でムカついたんだ」
鈴羽
「チャンスが目の前にあるのに、なんで諦めるんだって」
鈴羽
「そんなオカリンおじさんをかばって甘やかしてるまゆねえさんの事も、本当は許せなかったんだよね」
鈴羽
「でもさ、この一年、ここで暮らしてみて感じたんだ。あの時、間違ってたのはあたしの方だったって」
鈴羽
「今なら、
あの日
①①①
のオカリンおじさんと、もっとちゃんと話せるかもしれない」
まゆり

あの日
①①①
……」
鈴羽
「……それで上手く説得出来るかどうか……そこまでは自信ないんだけどね」
太陽が西へ更に傾いていき、タイムマシンと、そのそばに立つ鈴羽の影がだんだんと長くなっていく。
鈴羽
「あたしに残されたチャンスは、あと一度だけ」
鈴羽
「それなら、未来のまゆねえさんの言葉に、賭けてみようと思う」
鈴羽

牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


殺された
①①①①


じゃなく……」
鈴羽
「まゆねえさんの言ってた
あの日
①①①
へ跳んで……」
鈴羽
「まゆねえさんの“望み”を、叶えられるかどうか試してみる」
まゆり
「まゆしぃの、望み……」
鈴羽は、自分よりずっと華奢なまゆりの肩を、優しく撫でた。
鈴羽
「それが、シュタインズゲートへ向かう鍵だって……信じてみる」
鈴羽
「シュタインズゲートを開く事が出来るのは、彦星をやめちゃった普通の星じゃなくって――」
鈴羽
「“まゆねえさんの彦星”しか、いないような気がするからさ」
鈴羽
「つまりあたしが新たに考案したミッションは――」
鈴羽
「彦星の復活」
まゆり
「…………っ」
鈴羽
「父さん流に言うなら――」
鈴羽
「『オペレーション
彦星
アルタイル
』とか『オペレーション
織姫
アークライト
』とか」
鈴羽
「それとも、アルタイルとアークライトを結ぶって意味で、『オペレーション

デネブ
』かな?」
鈴羽
「……父さんほどのセンスは、あたしにはないみたいだ」
鈴羽の話をずっと聞いていたまゆりが、不意に弱々しく立ち上がった。
まゆり
「ねぇ、スズさん」
まゆり
「そのオペレーション……まゆしぃにやらせて」
鈴羽は耳を疑って、目の前の少女をまじまじと見た。
鈴羽
「これは危険な賭けだ。あたしの考えが間違ってて、失敗するだけかも知れない」
鈴羽
「タイムマシンにも限界が来てて、いつ制御不能になるか分からない。そのまま消滅してしまうかも知れない」
まゆり
「それでも……お願い」
まゆり
「まゆしぃだってラボメンなんだよ? オカリンとダルくんに助けてもらってばっかりなのは、もう、イヤだよ……」
まゆりは、自分の腕でぐしぐしと目を強くこするようにして、涙を拭った
弱々しかった彼女の身体に、ゆっくりとゆっくりと……生気が戻り始めている。
まゆり
「まゆしぃね……オカリンの事が……好き」
まゆり
「たぶん、紅莉栖さんと同じくらい……ううん、違う、絶対にっ、紅莉栖さんに負けないくらい、ずっとずっと大好きっ」
まゆり
「……ぐすっ」
まゆり
「けど……だけどっ」
まゆり
「“私”はっ」
まゆり
「“鳳凰院凶真”が、もっともっと、大好きなの……っ」
まゆり
「私がおばあちゃんを亡くして、この世界から消えてなくなっちゃいそうになってた時……」
まゆり
「そんな私に向かって、“この世界にずっといろ”って言って、救ってくれたの」
まゆり
「それが彼なのっ。私の彦星さまなのっ」
まゆり
「私……私ね……、もう一度、彼に会いたい……」
まゆり
「あの偉そうな高笑いを、また聞きたい……」
まゆり
「たとえ私が、“織姫さま”になれないって分かってても……」
まゆり
「それでも、私にとっての“彦星さま”は……これまでも、これからも、ずっとずっと、彼以外にはいないんだもん……」
まゆり
「鳳凰院凶真に、会いたいよぅっ……!」
“織姫”になれない少女が、それでも思いの丈をすべて紡いで、喉が枯れんばかりに叫んだ。
その――瞬間、だった。
鈴羽の携帯電話が、これまでに聞いた事のない、初めての音を響かせた。
鈴羽
「っ!?」
鈴羽
「こ……これは!?」
それは、ムービーメールが着信した音。
そこに書かれた発信者名と件名を見て、鈴羽は、思わず息を呑んでいた。
鈴羽
「これ……、未来からのムービーメール……」
倫太郎
「はぁ……はぁ……はぁ」
俺は、ブラウン管工房わきの壁に手を突き、息を整えた。
まゆりは見つからない。
メイクイーン+ニャン⑯にも行ってみたし、まゆりが行きそうな店も覗いてみたが、無駄だった。
真帆
「岡部さんっ」
真帆も、息を切らせながら戻ってきた。
倫太郎
「いたか?」
真帆
「ダメっ。あたりをぐるっと回ってみたけど、見当たらないわ……っ」
焦燥感で、我を失いそうになる。
どこへ行ったんだ、まゆり……。
倫太郎
「ダル! 見つかったか?」
ダルにはここに残って、まゆりの友人知人に連絡を取ってもらっていた。

「オカリン……それが……」
倫太郎
「どうした?」

「……電話、繋がらないんだよ」
倫太郎
「まゆりなら、俺も何度もかけてみたが、電源を切ってるみたいで――」

「違うんだ。まゆ氏だけじゃなくて、他のどこにも繋がらない」

「つーか、ずっとスマホが圏外になったままでさ……」
倫太郎
「なんだって?」
俺も、自分のスマホを取り出して確認してみた。
倫太郎
「……俺のも、圏外だ」
真帆
「私もだわ」
ラボで電波が圏外になる事など、今まではなかった。
屋上へ駆け上がり、さらには古典的な手法として、スマホを持った手を高く掲げてみたりした、が――。
倫太郎
「…………」
結果は同じだった。
倫太郎
「屋上でもダメだ……」
真帆
「外に出ても繋がらないわ」
ダルはネットで状況を調べていた。
幸いにも、ネット回線は生きているようだ。

「おっ、速報出た!」
『Taboo!!』のトップページに、携帯電話の大規模障害のニュースが載っていた。

「え、つーか、なんぞこれ……」

「秋葉原一帯の基地局が……全キャリア故障……?」
真帆
「全キャリアって……そんな事、あり得るの?」
倫太郎
「……っ」
この、あまりにも不自然な状況。
俺の脳裏に、1年前――α世界線での出来事がよみがえる。
まゆりが無慈悲に殺され、信じていた全ての安寧が終わり、全ての苦悩が始まった“あの夜”は、秋葉原駅への爆破予告で公共交通機関が遮断されたことから始まったのだ。
倫太郎
「……人為的な、工作?」
――恐ろしい何かが、今、この秋葉原を包み込もうとしている。そんな予感がする。
フラッシュバックが起きそうになるのを、必死で

こら
えた。
今は、震えている場合じゃない。
まゆりを捜さないといけないんだ。
あいつを放っておく事はできないんだ。
これまでに抱え込んでしまった様々な恐怖に負けないよう、グッと歯を食いしばると、俺は顔を上げた。
倫太郎
「ダル、ネットは生きてるんだよな?」

「あ、うん。だからRINE経由で、るか氏や阿万音氏とは連絡取り合ってる」
よし。それなら、みんなもまゆりを捜してくれるはずだ。
倫太郎
「俺ももう一度、あたりを捜してくる――」

「待った」

「実はもうひとつ、気になることが」

「電波障害の事を@ちゃんで調べようとしたらさ、現在進行形でオカ板がクラックされてて――」

「その
クラッキング

してるヤツがさ、ほら――」
ダルがPCに、@ちゃんねるの画面を表示させ、俺に見るよう促してくる。
なにが関係あるのかといぶかしく思いつつ、のぞき込んでみる、と――。
倫太郎
「こ、これは……!」
『サリエリの隣人』だって!?
それって、俺が『栗悟飯とカメハメ波』と接触するために以前作った、ハンドルネームじゃないか!
真帆
「なんなの?」
事情を全く飲み込めていない真帆への説明は後回しにして、俺はそのスレッドをクリックした。
そこには、ただひとりによる書き込みだけが存在していた。
倫太郎
「栗悟飯とカメハメ波……」
最初の書き込みが投稿された時刻は、1時間ほど前。
あとは、無意味な数字と文字の羅列がどこまでも延々と続いているだけだった。
真帆
「これは……どういう事?」
横から画面を見つめていた真帆が、文脈から不穏なものを感じ取ったらしい。
鋭い目をして、俺に問いかけてきた。
倫太郎
「『Amadeus』だ」
真帆
「えっ?」
倫太郎
「こいつは、『Amadeus』の“紅莉栖”なんだよ」
真帆
「……!」
倫太郎
「“紅莉栖”に、何かがあった……」
この文面は、何らかのメッセージだ。
それを、俺に伝えようとしている。
倫太郎
「時を司る秘密……」

「タイムマシンじゃね!?」
倫太郎
「……! タイムマシンの情報が、誰かに漏れたのか!?」

「つーか、なんで『Amadeus』がタイムマシンの情報知ってんの? オカリン、喋ったん?」
倫太郎
「…………」
どうだっただろう?
俺がテスターをやっていた時には、“紅莉栖”には話さなかったと思う、が……。
いや、今は考えこんでる暇なんてない。
倫太郎
「比屋定さん、『Amadeus』にアクセスできるか?」
真帆
「……規則違反になるけど。そんな事言ってる場合じゃなさそうね」
真帆
「橋田さん、そのPC、借りていい?」
ダルに席を替わってもらった真帆は、ラボのPCから脳科学研究所のコンピューターに接続をした。
“Salieri”――という自分のIDと、パスワードを打ち込む。
エンターキーを押すが、しかし、『Amadeus』は出てこない。
真帆
「……いつもと違うわ。どういう事?」
困惑顔の真帆は、ダルも一目置くほどの速度で次々とPCにコマンドを打ち込んでいく。
しかし、何をどうやっても、『Amadeus』のプログラムが画面上に姿を現すことはなかった。
やがて、研究所内の全サーバーにアクセスを終えたらしい彼女は、画面を見つめたまま唇をかんだ。
真帆
「そんな……! こんな馬鹿な事って……」
倫太郎
「どうした!?」
真帆
「……無いの」
真帆
「『Amadeus』のプログラムが、記憶データごと……どこにも存在していないっ」
倫太郎
「……!」
『栗悟飯とカメハメ波』のメッセージ通りだ。
倫太郎
「ダル、ハッキングしろ!」
倫太郎
「脳科学研究所だけじゃなく、ヴィクトル・コンドリア大学にあるデータを全部こじ開けてくれ。サーバーから個人のPCまで全部だ」

「オーキードーキー!」
倫太郎
「比屋定さんも協力してくれ。頼む」
真帆
「……え、ええ」
しかし、結果は同じだった。
『Amadeus』の“紅莉栖”どころか、“真帆”の方も、ヴィクトル・コンドリア大学のどのPCからもサーバーからも
いなく
①①①
なって
①①①
いた
①①

影も形もない。
存在そのものが消えてしまった。

「どこか別の場所に移されたとか?」
真帆
「そんなの無理だわ。『Amadeus』システムに関して、そんな管理者権限を持ってるのは、レスキネン教授だけよ」
倫太郎
「……レスキネン教授……」
さっき見た『栗悟飯とカメハメ波』による書き込みが、脳裏をよぎる。
“紅莉栖”が書いた
父なる
①①①


とは、いったい誰の事を指すのか。
『Amadeus』から見た父と言える存在は、すなわち――。
倫太郎
「まさか……レスキネン教授が?」
真帆
「憶測でものを言わないで」
真帆
「それよりも、教授のIDとパスがクラックされたと考える方が、よっぽど現実的よ!」
倫太郎
「レスキネン教授に連絡を付ける方法はあるか?」
携帯電話は通じない。
PCのメールでは、相手がいつ見るか分からないし、返信が来るとも限らない。
真帆
「…………」
真帆は必死に考え込んでいるが、連絡方法は思いつかないようだった。
これじゃ

らち
があかない。
まゆりのことが気になるが、今ここにある危機を放っておくわけにもいかなかった。
倫太郎
「とりあえずラジ館へ行ってくる。“紅莉栖”の警告通りなら、狙われるのはあそこだ!」

「僕も行く――」
倫太郎
「お前と比屋定さんはここで情報収集だ! まゆりが戻ってくるかもしれないから!」
倫太郎
「ただし、何かあったらすぐに逃げろよ!」
俺はそれだけの指示を出すと、ラボを飛び出してラジ館へと向かった。
鈴羽は、スマホに届いたムービーメールの再生ボタンを押した。
かなり圧縮をしたらしい荒れた映像。その中に、
その人
①①①
は現れた。
鈴羽にとっては、それはずっと見てきた顔であり、今もそばにいる顔であり、同時に、懐かしい顔でもあった。
幼い頃の鈴羽をよく抱き上げてくれたその人は、おそらく映像の中では35歳ぐらいだろうと推測できた。

「やぁ、鈴羽。元気かい? 父さんだよ。こちらは2025年だ」

「色々な事を君に託してしまって、本当に申し訳なく思う。許してくれ、頼む」

「このムービーメールが届いたという事は……君は、いや、君とまゆ氏は、シュタインズゲートへの道をまたひとつ、見つけてくれたという事だ」

「つまり計画は、次の段階に移行したわけさ」

「なぜ最初から全部指示しなかったのかと、君は怒るかもしれないな」

「でも、指示しなかったんじゃないんだ。出来なかったんだよ」






出発
①①
した
①①
世界線
①①①




は、これから話すオペレーションを計画していなかったはずだからね」

「もう気付いてるかもしれないが――君とまゆ氏の選択によって、世界線はまた少し変動したんだ」

「つまり僕も、君が出発した世界線とは違う、別の世界線上の橋田至という事になる」

「でも、鈴羽、どうか勘違いしないでほしいんだ。僕は、どんな世界線においても、娘ラブだからね」

「フフッ、ちなみにどうだい? 比べてみて、どっちのパパの方がダンディかな?」

「僕は最近、筋トレを始めたんだけどさ……フフン?」
倫太郎
「ダル! くだらない事言ってないで、さっさと作戦内容を話せ!」
真帆
「まったくだわ。どうせまた三日坊主で終わるんだから、どうでもいい報告はしないで!」
フェイリス
「録画出来る時間が終わっちゃうニャ!」

「まあまあ、そう


かすなって」

「つー事で、このムービーメールの本来の目的に移ろう」

「『オペレーション・アークライト』の詳細を伝える」

「これは本当に一瞬のミスも許されない、ギリギリの戦いになる。心して聞くんだ。いいね?」
そこで鈴羽は、ムービーを一時停止した。
“心して聞け”と言うくらいなんだから、それなりに心の準備をしなければならない。完璧に作戦内容を暗記するためにも、今のフワフワした気持ちを切り替える必要があった。
正直なところ、鈴羽は2025年の父からムービーメールを受け取った事で、かなり興奮していた。
自分が独自にやろうとしていた事を、父からも認められたような、そんな気がしたからだ。
だからこそ、気を引き締めなければならない。
まゆりが一人でたたずんで、スマホに一生懸命何かを打ち込んでいる。
ムービーメールが届いた時点で、まゆりには不測の事態で今日中に
過去
①①
へ出発する事になるかもしれないとは伝えてあった。
今日――この日、この時――ムービーメールが届いた事には、きっと意味がある。
鈴羽はそう感じていた。
鈴羽
「何してるの?」
まゆり
「あ、スズさん。どう? 今日、出発する事になりそう?」
鈴羽
「作戦概要はこれから確認するつもり」
まゆり
「そっか……」
まゆり
「あのね、もし今日、出発するってなったら、まゆしぃは行方不明になっちゃうわけでしょ?」
まゆり
「心配かけたくないから、お父さんとお母さんと、あとお友達みんなに、メールを書いておこうと思って」
鈴羽
「……オカリンおじさんにくらいは、直接伝えられる時間があればいいけどね」
日が暮れるまでには、作戦内容を確認し、どう動くかが決まるだろう。
まゆり
「オカリンにもメール書いたから、大丈夫」
鈴羽
「メールでいいの?」
まゆり
「……うん」
まゆりは、はにかんでから、コクリとうなずいた。
その瞳にもう涙はなかったが、薄桃色の頬には、滴の通った跡がまだはっきりと残っている。
まゆり
「……なんだか……恥ずかしいから」
鈴羽
「…………」
まゆり
「ん~、でもね、せっかく書いたメールだけど、送れないかもしれないな~って、今ちょっと困ってたところなのです」
鈴羽
「なんで?」
まゆり
「電波……、圏外になってるんだ。場所が悪いのかなあ?」
鈴羽
「圏外……?」
鈴羽は、まゆりの示したスマホの画面を見る。
電波状況を示すアンテナが、1本も立っていない。
鈴羽
「おかしい。この場所なら、いつだって電波は入ってた」
鈴羽は、すぐに自分のスマホも確認してみた。
鈴羽
「あたしのもだ」
鈴羽は、まゆりとは通信キャリアが違うはずの自分のスマホまで状況が一緒だと確認すると、瞬時に顔を引き締めた。
鈴羽
「……嫌な予感がする」
まゆりにタイムマシンの陰へ隠れるよう指示した鈴羽は、足音を忍ばせつつ、階下へと続く鉄扉へ走り、身を寄せた。
なるべく軋み音がしないよう注意しながら、鉄扉を拳ひとつぶんほど開く。
鈴羽
「…………」
館内の気配をうかがってみた。いつもとなんら変わる事なく、静まり返っている。
すぐ下の階は、イベントスペースや倉庫などがあるだけなので、今日のような平日は、このように静まり返っているのが常だ。
鈴羽
(……気のせいか?)
鈴羽は首を傾げつつ、鉄扉をそっと閉めようとした――。
まゆり
「きゃああああッ――!」
鈴羽
「!?」
まゆりの悲鳴にとっさに振り向くと、次々と屋上の柵を飛び越えてくる迷彩服の工作員たちの姿が見えた。
まゆりが、そのうちのひとりに捕らえられてしまっている。
鈴羽
(外壁をよじ登ってきたのか!?)
鈴羽は己のミスを激しく悔いた。
外壁からの侵入は充分に警戒していたはずだった。
にもかかわらず、父からのムービーメールによって、つい、気が緩んでしまっていたのだ。
小型の自動小銃を装備した迷彩服の男たちは、総勢30名ほど。
まゆりが人質に取られた時点で、鈴羽は動けなくなった。
武装した男
「銃を置いて、そのまま地面に伏せろ。手は頭の上だ」
男のひとりが、鈴羽に向けて冷淡に命じてくる。
武装した男
「抵抗すれば、この女の命は保証できない」
後ろ手にしたまゆりを抱き、その頭部に銃を突きつけていた別の男が、安全装置を外しながら恫喝してきた。
鈴羽
「く、そっ!」
従うしかなかった。鈴羽はホルスターから銃を出すと、それを地面に置き、うつ伏せになった。頭の後ろに手を置いて、無抵抗の姿勢を取る。
まゆり
「スズさん……」
鈴羽
「喋らないで。こいつら、いざとなれば本気でねえさんを殺すよ」
まゆり
「……っ」
鈴羽
「あたしは大丈夫だから」
この迷彩服集団の動きを見れば、実戦のプロである事は容易に想像できる。
であれば、その狙いは間違いなくタイムマシンであり、鈴羽こそがそれを動かせる唯一の存在だという情報も掴んでいるだろう。
故に鈴羽は、自分がおいそれと殺されたりはしないと判断していた。
最初に鈴羽に命令してきたリーダー格らしき男が、鈴羽の横に膝を突く。他の武器を所持していないか無遠慮に身体をまさぐられた。
鈴羽
「くっ……これでも一応、女なんだ。少しは気をつかえよ」
いざという時のためにいつも隠し持っているもう一丁の小型拳銃、それと、数本のナイフ類も奪い取られてしまった。
武装した男
「“目標2”と“目標3”確保」
武装した男
「そっちは!?」
リーダーが、タイムマシンのあたりに集まっている数人の仲間に呼びかける。
武装した男
「“目標1”確保! ロックがかかっていて、すべてエラーで弾かれます!」
マシンの中にも数人、入り込んでいるようだ。
ハッチを開けっ放しにしていた鈴羽のミスだが、マシン内部を土足で踏みにじられた事が不愉快だった。
鈴羽
「何をしても無駄だ。そいつは、あたしじゃないと言う事を聞かない」
武装した男
「……立て」
リーダーが、鈴羽の脇腹を靴先で軽く蹴った。
武装した男
「……手はそのまま、ゆっくりとだ。少しでも余計な動きをしたら、即座に人質を殺す」
鈴羽
「………」
言われるがままに立ち上がると、鈴羽は後ろ手に手錠をかけられた。
そのまま背中を小突かれ、マシンの傍らへと連れていかれる。
武装した男
「……生体認証だな」
鈴羽
「そうだ」
鈴羽
「ただし、あたしの静脈や指紋をコピーしても無駄だ」
鈴羽
「手を切り落としたり、目玉をくり抜いたって、認証には使えない」
鈴羽
「2036年のシステムはそんなに間抜けじゃない」
鈴羽の説明した事を、迷彩服の連中は知っているようだった。
特になんの動揺も苛立ちも見せない。
武装した男
「“教授”はどうした?」
リーダーが、まゆりに銃を突きつけている部下に尋ねる。
武装した男
「現在、こちらに向かっているところです」
武装した男
「……“目標1”は“目標2”とセットだ。洗脳しないと無理だと伝えろ」
洗脳という言葉を聞き、鈴羽はギリリと歯噛みした。
かつて、『ワルキューレ』の多くの仲間たちが非人道的にそれを行われ、スパイとして潜入させられた挙句に、廃人と化すのを、鈴羽は見て来た。
リーダーが、鈴羽に向き直った。
武装した男
「洗脳の行き着く先は、分かっているはずだ。“教授”は薬などは使わない。直接、脳を

いじ
られる事になる」
武装した男
「そうなる前に、素直に我々に協力した方が利口だと思うが?」
鈴羽
「“教授”……か」
未来においても、そう呼ばれていた老博士が、『ワルキューレ』壊滅のために洗脳チームを率いていた。鈴羽にとっては、最も許しがたい人物だ。
しかも、薬を使わないというやり方まで同じだ。
現在と未来、2人の“教授”が、同一人物なのは間違いなさそうだった。
鈴羽
「……分かった」
鈴羽はおとなしくうなずいて見せた。
鈴羽
「言う事を聞く。だが、これじゃ無理だ」
鈴羽は、わざとらしく背の後ろでジャラジャラと手錠の音を立てた。
武装した男
「手錠は外す。ただし、抵抗すればそっちの女が死ぬ」
いまだ、まゆりには銃が突きつけられたままである。
ヘタに抵抗しても、これだけの数のプロ相手では、まゆりを助ける事は不可能だろう。
両手が自由になった鈴羽はコクピットに入ると、生体認証を使ってロックを解除し、コンソールを操作した。
途端に、マシンの各所に灯がともり、うなりにも似た音を発し始めた。
武装した男
「よし、降りろ。あとは我々が調査する」
鈴羽
「……あんたたちに理解できるとは思えないけどね」
鈴羽がコクピットから出ると、リーダーが、戦闘班とは別の技術班らしき連中に向かって、視線を送った。
――その瞬間を、鈴羽は狙っていた。
コクピットから出る時に、何気なく触ったコンソールの下。
そこに、ナイフを隠しておいたのだ。
鈴羽
「――――っ」
音もなく。
鈴羽はナイフを、リーダーめがけて投げつけた。
武装した男
「ぐっ!」
その刃先がリーダーの喉に突き刺さり、悲鳴を上げる間もなく倒れた。
鈴羽は素早くもう1本のナイフを構え、迷彩服の男たちの間をかいくぐる。
標的は、まゆりに銃を突きつけている男。
腰を低くして瞬時に背後へ回り込み、首を


き切った。
噴き出した血が、呆然としているまゆりの背にかかったが、気にしている余裕はない。
男が落とした自動小銃を拾い、腰だめのままデタラメに乱射して牽制しつつ、まゆりの手を引いてマシンの陰に転がり込んだ。
鈴羽
「……くっ!」
そこまではうまく行ったものの、鈴羽の誤算は、相手が予測していたよりも数段上の訓練を積んだ部隊だった事だ。
すぐにサブリーダーらしき男が先頭に立ち、混乱しかかった指揮系統を立て直しにかかっている。
鈴羽の手持ちは、奪った銃とナイフがひとつずつ。
非戦闘員のまゆりも守らなければならない。
敵はまだ25人以上いる。
どう切り抜けるべきか、鈴羽は答えが見い出せないでいた。
なんといっても今、タイムマシンは作動したままなのだ。これを置き去りにして、ここから脱出するわけにもいかない。
自動小銃による威嚇射撃が、鈴羽たちの隠れているマシンに当たって跳ねた。
まゆり
「あうっ――」
と、まゆりの身体が殴られたかのようにビクンと跳ねた。
その頭から、パッと血が舞う。
鈴羽
「まゆねえさん!」
まゆり
「あ……あ……っ」
まゆりのかわいらしい顔が、血で染まる。
跳弾した弾がかすったらしい。
虚ろな表情になって、自身を抱きしめるようにしている。
その華奢な身体はブルブルと震えていた。
こんな事態に巻き込まれれば、そういう反応も仕方がない。
鈴羽も銃で応戦し、包囲を狭めてくる敵を牽制する。
鈴羽
(いろんな戦場を渡り歩いてきたけど……ここまで追い詰められたのは初めてか……)
目と鼻の先には、タイムマシンのメンテナンス用ハッチがある。
それを確認し、鈴羽は最後の手段について頭の中でシミュレーションした。
鈴羽
(あれを開ければ……内側からマシンを爆破する事は出来る……)
だがそれを実行すれば、全ての計画が水泡に帰してしまう。
シュタインズゲートへの門は、永遠に閉ざされるのだ。
でも、だからと言ってここでまゆりを犠牲にするほどの冷徹さを、鈴羽は持ち合わせていなかった。
世界線の収束という観点から見れば、まゆりはここで死ぬ事はないかもしれない。
しかし、ついさっき届いたムービーメールで、父である至が言っていた言葉が鈴羽には引っ掛かっている。

「もう気付いてるかもしれないが――君とまゆ氏の選択によって、世界線はまた少し変動したんだ」

「つまり僕も、君が出発した世界線とは違う、別の世界線上の橋田至という事になる」
故に、2036年の時点で『まゆりが生存している』という確信が、鈴羽には持てない状態なのだ。
――世界線は本当に変わったんだろうか?
もちろん、『オペレーション・アークライト』という希望のためには、変わっていてほしい。
しかしそれでは、鈴羽はこの場から一歩も動けない。
鈴羽
(――最悪の事態を想定しろ)
最悪の事態。それはすなわち、迷彩服の連中にタイムマシンを奪われる事だ。
そうなれば、鈴羽が知るよりもさらに恐ろしい世界線に変動してしまう可能性まである。
まゆりどころか、至さえもその生存を保証されない世界線になってしまいかねない。
そんな事になるぐらいなら――。
判断は迅速でなければならない。
鈴羽は、敵の様子を探りつつ、隙を見てメンテナンス用ハッチを生体認証で開いた。
静かなうなりを上げているエンジンの一部が見えた。そこへ向けて、銃の照準を合わせる。

さいわ
い、カー・ブラックホールを発生させるユニットはまだ起動させていない。これならマシンを爆発させても、時空間に深刻な影響を招くような事態にはならないだろう。
鈴羽はそれを確認し、引き金を引こうとして――
まゆり
「だ、だめっ」
まゆりの懸命な声に制止された。
まゆり
「壊しちゃだめだよっ……!」
鈴羽
「止めるな! もう決めた事だ!」
まゆり
「スズさんっ!」
鈴羽
「……っ」
一度、まゆりに止められてしまったことで。
鈴羽は、またも一瞬だけ、躊躇してしまった。
戦場では、その一瞬が、運命を分けてしまう。
鈴羽はとっさに周囲の様子を再度確認し。
そこで、ギクリとした。
包囲している迷彩服の男たちに混じって、いつ現れたのか、暗色のライダースーツにヘルメットという





ちの女がたたずんでいたのだ。
鈴羽
(あ、あいつ!? かがり……っ!?)
この場所をリークしたのは、やはりかがりなのか?
かがりの戦闘能力は、二度の邂逅で把握していた。
生半可な覚悟では、すぐに殺されるだろう。
鈴羽は、自分に言い聞かせた。
鈴羽
(あたしが生き残るのは、諦めざるを得ないな……)
何人道連れにすれば、まゆりに逃げるだけのチャンスを作れるか?
今はただ、まゆりを岡部倫太郎の元へ帰すことだけを考えるしかない。
が、そんな計算を始めた矢先――。
鈴羽は、自分たちを――いや、正しくは、まゆりの額から滴り落ちている血をじっと見つめているかがりの視線を感じた。
そして、その直後。
かがりは、全く予想外の行動に出た。
かがり
「……ママに……なにをした……?」
かがり
「お前たちィッ、ママになにをしたアアアァァァァっ!!」
絶叫――。
いや、それはもはや、獣の哈啌だった。
鈴羽
「……っ!?」
そして、殺戮、あるいは虐殺が始まった。
サブリーダーの頭部を左手でつかんだかがりは、右腕で自動小銃を構え、そのまま顔面をズタズタになるまで撃ち砕いた。
サブリーダーの首から下がもぎ取れ、崩れるように地面に転がる。
武装した男
「……ひっ!?」
武装した男
「なんだ!? 何をしている!?」
かがりはサブリーダーの頭部だった肉片を地面に叩きつけると、予備動作無しに疾駆し、ひるんだ迷彩服の男たちの懐に次々と飛び込んでいった。
そして、至近距離から執拗に、片っ端から銃を乱射した。
かがり
「ママに何をした!? ママに何をした!? 何をしたんだァァァァァ!」
相手がすでに血の海に沈んでいるにも関わらず、その四肢がボロ切れのように飛び散り、人としての原型をとどめなくなるまで破壊し尽くしていく。
身を守ろうとかがりに銃を撃つ者もいるが、その銃弾を全身のどこに受けようと、なお、かがりは惨殺の手を緩めるどころか、ひるむ事すらなかった。
自動小銃のマガジンを使い切ってしまうと、今度はナタのような巨大な軍用ナイフを両手に持ち、それと体術とを使って、目につく相手を次々と

ほふ
っていく。
そのたびに、夕暮れの屋上には男たちの臓物が四方八方へと飛び散り、かがりの全身を血と肉で染めあげていく。
まゆり
「……っ」
鈴羽
「見るなっ! 耳もふさいでろっ!」
鈴羽は、まゆりの顔を自分の胸にかき抱いた。
あまりの恐怖にガチガチと震えながらしがみついてきたまゆりは、言葉通り、自分の手できつく耳をふさぐ。
それでも、人の肉が無残に断たれ、骨が砕かれる音が鼓膜に届いているだろう。
鈴羽
(あんなの……もう人間じゃないっ……!)
鈴羽でさえ、たまらずうめいてしまった。
自分が戦場にいた頃でも、ここまでの一方的な殺戮には遭遇した事がない。
前に鈴羽自身がかがりと戦闘になった時にも感じたが、彼女は人間らしい恐怖や痛みなどを何も感じていないかのように、ただただ相手を葬ろうとするのだ。
人は、己の肉体を守るために、あえて筋肉などにリミッターがかかっているとよく言われる。
だが、かがりにはそれが欠けてしまっているように思えた。
今も、逃げようと背を向けた男のひとりを巨大なナイフで突き刺したかと思うと、そのまま彼の巨躯を片腕だけでなぎ倒した上、脚で腹部を蹴り上げて内臓を破裂させ、死に至らしめた。
武装した男
「か、か、囲んで撃てっ! 相手はひとりだぞ!」
武装した男
「右へ回れ、右だっ!」
いったい何人、いや何十人が肉塊と化した頃か――残った数人の男たちがようやく我に返り、部隊としての連係を取ろうと、悲鳴のような声を交錯させた。
かがりは恐るべき反射神経でそんな彼らの銃撃の間を


い、さらに何人かを無残な死骸に変えてしまった。
が――。
かがり
「ぐっ……!」
ついにかがりの左手に銃弾の吶が当たり、手にしていた軍用ナイフの1本が弾け飛んで、地面に転がった。
いや、違う。
吹き飛んだのはナイフだけではなく……かがりの左手そのもの、だった。
衝撃で、かがりの身体がグラリとよろめく。
武装した男
「い、今だァ、撃てェェ!」
もはや兵士としてのプライドも勇猛さもない声で、誰かがわめいた。
それに合わせて連射された弾丸が、彼女の身体に何発もめり込んだ。
ライダースーツのあちこちが大きく裂け、ヘルメットにもヒビが入る。そこから、これまで彼女が殺した者たちの血ではなく、明らかに彼女自身のものとおぼしき鮮血が激しく噴き出した。
ついに、殺戮者は死体の山の中に倒れ込む。
武装した男
「よし!」
ようやく仕留めたと思ったのだろう。
生き残った迷彩服の1人が、最後のとどめとばかりに、かがりに銃口を突きつけつつ、引き金を引こうと、した――。
かがり
「ぐがああぁぁぁァァァ!」
武装した男
「うわああああああ!」
かがりの野獣の哈啌と、男の恐怖の絶叫とが重なって不協和音を立てた。
彼女は、倒れこんだ姿勢から強引に跳ね上がると、右腕に持つナイフの背で、銃ごと男の腕を激しく叩き折り、払い飛ばした。
間髪入れず、男の喉笛をナイフで切り裂いて絶命させる。
武装した男
「て、て、撤退だッ、撤退ッ!」
残った数名の男たちは恐慌にかられ、ついに逃亡を始めた。
倫太郎
「はぁはぁはぁっ!」
倫太郎
(大丈夫だっ、焦るなっ!)
倫太郎
(まだ時間はあるっ、何も心配ないっ!)
倫太郎
(鈴羽は無事だしっ、まゆりだって、そのうちひょっこり、ラボに、戻ってくるっ……!)
ラジ館に辿り着いたとき、通行人たちの中に、携帯電話をかざしたまま空を見上げている人がかなりいる事に気付いた。
駅前でも、電波は繋がらないらしい。
俺は、息を整えながら、ラジ館を見上げた。
その時、炸裂音のようなものが遠くで聞こえた。
しかも1発じゃない。
音は連続で鳴り響く。
聞きなれない異様な音に、周囲の人たちも何事かと不安げに周囲を見回している。
俺はそこで、気付いてしまった。
これは……銃撃戦だ……!
以前、SERNのラウンダーとロシアの部隊との間で交わされた激しい音を思い出す。
音の出所は、ラジ館の屋上から……!
間に合わなかったのか!?
倫太郎
「鈴羽……!」
俺はラジ館の中に飛び込んだ。
エレベーターはなぜか点検中になっていて、止まっていた。
やむを得ず階段を駆け上がる。
心臓が破裂しそうなほどにバクバクと鼓動を早め、焦りのために足がもつれる。
何度も何度も段差につまづき、転倒しそうになる。
俺はいったい何度、こんな気持ちでこの階段を駆け上がっただろう?
まるで呪縛のようだと感じながら、自分の体力の無さを呪いつつ、俺は上階を目指した。
7階まで辿り着いたところで、会いたくない人物と遭遇してしまった。
いや……会うかもしれない、という予感はあったのだ。
その予感が当たらないでほしいと、願っていたのに……。
倫太郎
「レスキネン……“教授”……!」
レスキネン
「やぁ、リンターロ」
レスキネン
「まさか、こんなに早く君が来るとは思わなかったよ」
レスキネン教授は、俺の顔を見るなり困ったような顔をした。
倫太郎
「はぁ……はぁ……はぁっ……」
倫太郎
「どうしてっ……ここにっ……」
レスキネン
「少し落ち着きなさい。そんなに息が切れていたのでは、話もできないよ?」
倫太郎
「……どうして、ここにいるんですっ!」
倫太郎
「『Amadeus』は、どうなったんです!?」
レスキネン
「…………」
レスキネン
「君に頼んだサンプリングテストは、半年前に終わっている」
レスキネン
「話す事はできないな」
それが答えだった。
レスキネンは、『Amadeus』が消えてしまったというのに、やけに落ち着いていた。
『Amadeus』のトラブルに対処する気配すら見せず――しかも、オフィスではなくこんな場所にいる事が、すべてを物語っていた。
倫太郎
「“紅莉栖”が俺に送ってきたメッセージの内容は、本当だったんですね?」
あそこに書かれていた“父”は、やはりレスキネンを指していたのだ。
倫太郎
「“紅莉栖”や“真帆”をどうしたんです!?」
倫太郎
「彼女たちの記憶データを解析して、タイムマシンに関するデータを取り出すつもりなんでしょう!?」
レスキネン
「驚いたな……!」
レスキネン
「“紅莉栖”はそこまで君に話してしまったのか。監視していたつもりだったが、いつの間にそんな真似を……」
レスキネンは、本気で驚いているようだった。
ということは、どうやら@ちゃんねらー“紅莉栖”のことも、そこで“彼女”と俺がやり取りをしていたことも、気づいていないらしい。
と――レスキネンは、おもむろに懐から銃を取り出し、俺に向けた。
倫太郎
「……!」
レスキネン
「君は少し踏み込みすぎたようだ」
倫太郎
「あなたは……何者なんだ?」
レスキネン
「科学者だよ」
レスキネン
「だが、科学者も慈善事業ではないのでね」
レスキネン
「君は“STRATEGIC・FOCUS”社という、アメリカの民間情報機関を知っているかな?」
倫太郎
「ストラテジック・フォーカス社? アメリカの……?」
倫太郎
「“
ストラトフォー

”か!」
以前、陰謀論を扱ったウェブサイトで見た事がある。
CIAですら入手困難だったロシアの弾道ミサイルに関する最高機密情報を、いともたやすく手に入れて売買し、CIAのメンツを丸つぶれにした。
しかも、その結果、ロシア軍の戦略をも根底から揺さぶったという。
湾岸戦争やイラク戦争でも、どこよりも早くすべての戦争参加国の軍事情報を手にし、必要に応じて、それを各国にばらまいたという噂もある。
レスキネン
「世界から“影のCIA”などと呼ばれているのが、私たちだよ」
じゃあ、『Amadeus』も、軍事利用するつもりなのか!?
あのセミナーで話していた事は、全部、キレイ事の嘘っぱちだったのか!?
レスキネン
「ま、私の事はどうでもいいだろう?」
レスキネン
「それよりリンターロ。カツミから聞いたのだが――」
レスキネン
「君も、例の“新型脳炎”を発症しているそうだね」
倫太郎
「……!」
レスキネン
「それどころか、新型脳炎そのもののメカニズムについて、何か知っているらしいじゃないか」
レスキネン
「実に興味深い。君の持つその“情報”を、ぜひ提供してくれないか?」
レスキネン
「なに、簡単な
施術
せじゅつ
を受けてくれるだけでいいんだ」
レスキネン
「そうすれば私は、君を助手として迎え入れてもいい」
施術、と聞いて、なぜか全身に鳥肌が立った。
俺に親切にしてくれた、子供みたいなイタズラ心と好奇心を持つ尊敬すべきレスキネン教授は、そこにはいなかった。
生命や心などなんとも思っていない、残忍な科学への原理主義者が、俺に銃を向けているだけだった。
……いや。あるいは、こっちが本性だったのか?
急に、得体の知れない恐ろしい人に思えてしまう。
レスキネン
「どうかな?」
教授が一歩、俺の方へと詰め寄ろうとした。
その、とき。
上の階から、またも激しい銃撃戦の音が響いた。
レスキネンが、その音に反応し舌打ちした。
階段の上へと視線を向ける。
レスキネン
「なぜ銃撃戦になっているんだ?
穏便
おんびん
に済ませろとあれほど――」
倫太郎
「うおおおお!」
レスキネン
「――!?」
その隙を、俺は突いた。
階段の途中だったことが幸いした。
レスキネンの両足にぶつかるようにして思い切りタックルをすると、バランスを崩したレスキネンは勢いよく転倒した。
レスキネン
「ぐ……っ!」
段差に後頭部を激しくぶつけたらしく、一瞬だけうめいた後、ピクリともしなくなる。
……死んだ、かもしれない。
だが、もう悔いたりはしない。
俺はすでに、過去に何度も、人殺しになっているんだから。
屋上の扉を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、文字通りの地獄絵図だった。
一面に血の海が広がり、その中に大量の死体が転がっていた。
倫太郎
「……なんだ……これ……」
その血の海の真ん中に、ライダースーツ姿でフルフェイスのヘルメットをかぶった女が、自身もまた返り血を大量に浴び、倒れ込んでいる。
その手には、ナタのような巨大なナイフ。
その女がこの惨劇を行ったのだと、一目で分かった。
肩をわずかに上下させているのを見ると、まだ生きているようだ。
むせ返る血の匂いで嘔吐しそうになるのをこらえながら、俺はその女へと近づこうとした。
かがり
「……だ、だいじょうぶ? ママ?」
ライダースーツの女が、ヒビが入ってボロボロのヘルメットの下で声を発した。
よく見ると、返り血を浴びているだけじゃない。彼女自身、銃弾を浴びて全身ボロボロだった。左手も失われている。生きているのが不思議なぐらいだった。
彼女は俺の事になど気付いていない様子で、ズルリ、ズルリと、血だまりの中を這っていく。
その先へ視線を向けると、タイムマシンの陰に、小さくうずくまっている鈴羽とまゆりの姿を見つけた。
鈴羽は無傷のようだが、まゆりはその顔を血に染めている。
倫太郎
「まゆり……っ!」
まゆりがここにいた事は予想外だったし、傷も心配だったが、とにかく無事だったのは何よりだった。
まゆりが俺の声に気付き、顔を上げる。
だが、次の瞬間、その目がライダースーツの女に釘付けになった。
まゆり
「あ……あ……」
まゆり
「いやぁぁっ……!」
自分に向かって


い寄ってくる
それ
①①
を見て、悲鳴を上げる。
かがり
「……っ? ママ……?」
かがり
「……マ、ママ……違うの……これは……だって…………かがりは、本当は人殺しなんてするつもりじゃなくって……た、ただ、ママを護ろうとしてっ……」
かがり?
かがりだって?
そこで俺ははじめて、このライダースーツの女が、ずっと鈴羽が捜していた『椎名かがり』だと知った。
かがり
「ごめん……なさい、ママっ……」
鈴羽
「かがり、もういいっ!」
鈴羽がたまらず叫んだ。
鈴羽
「もういいから、動くな! 死ぬぞ、お前っ!」
かがり
「か、かがりはね……ママに怖い思いをさせようなんて、思ってなかったんだよ……本当だよ?」
かがり
「かがりはただ、ママを助けなくちゃって……だから、ママ、お願い……かがりをキライにならないで……お願い……」
かがり
「ママ……ごめんなさ…………ゆるし、て」
そして――ついにかがりは力尽きるようにして、その場に崩れ落ちた。
ようやく我に返った俺は、鈴羽よりも先にそれに駆け寄った。
倫太郎
「おいっ!? 大丈夫かっ!?」
彼女の呼吸はひゅーひゅーとひどく荒く、枯れたように浅い。たぶん、銃弾で肺かどこかをやられたのだろう。
ズタズタのヘルメットを脱がせてやれば、少しは楽になるかもしれない。そう思ってヘルメットの縁に手をかけたら、かがりはその俺の手をつかみ、拒絶してきた。
かがり
「やっ、いやっ……やめてっ……」
かがり
「と、取らないで……ママと鈴羽おねえちゃんの前では……」
かがり
「お願い……
岡部
①①
さん
①①
……」
倫太郎
「……っ!!」
その声と、その呼び方で。
この椎名かがりと呼ばれている人物の正体に、俺は気付いてしまった。
よく見れば、その顔にも見覚えがあった。
倫太郎
「そっ、そんな……。き、君は……なぜ……」
鈴羽
「オカリンおじさん! かがりは!?」
倫太郎
「来るな!」
俺は
咬嗟
とっさ
に、走り寄ってこようとしている鈴羽を制止した。
倫太郎
「こっちは任せろ! お前はまゆりを頼む! まゆりの傷は大丈夫なのか!? 確認してくれ!」
鈴羽は一瞬、いぶかるような表情をしつつも、俺の言葉に従ってくれた。
まゆりのところへ戻り、傷の様子を調べ始める。
一方のまゆりは、
数多
あまた
の死体を前にして再び顔を覆っていた。
鈴羽
「大丈夫! まゆねえさんの傷は深くない!」
その声に、俺はホッとした。
かがり
「良かった……。ママ……無事……だったんだ……よかった……」
俺の胸の中で、かがりが安堵したようにつぶやく。
そして、その目をゆっくりと閉じた。
呼吸がだんだんと弱まっていく。
倫太郎
「しっかりしろ! 君は、君はなんで……!?」
かがり
「大丈夫……心配しないで……。私、こうなっても、痛くも苦しくもないから……」
かがり
「いつも、神様の声が聞こえるの……」
かがり
「“君は痛くならないよ、苦しくならないよ”って」
かがり
「だから、ぜんぜん……ゴホッゴホッ!」
かがり
「はぁっ、はぁっ……お、岡部さん……には、伝えて、おくね……」
かがり

本物
①①
は、何も知らないです……」
かがり
「3年前から、ヨーロッパに留学中……だから……」
かがり
「“教授”が私を秋葉原へ送り込むために……、裏で手を回して……」
かがり
「本物は……本当に、何も……知らない……」
倫太郎
「“教授”……だって……?」
“教授”って、まさか……?
かがり
「……この世界線では……本当は、来年なんですよ……橋田さんと“本物”が出会うのは……」
かがりは、再びかすかに目を開いて……タイムマシンの方を……まゆりと鈴羽の方を見た。
かがり
「大丈夫……きっと“本物”も、橋田さんの事、好きになります……」
かがり
「私と同じように……」
かがり
「ふふ……言っちゃった。誰にも内緒です……よ?」
そして、瞳だけで微かに笑むと、今度こそ本当にまなこを閉じて……一度だけビクリと
痙攣
けいれん
をすると、その身体から力がスーッと抜けていった。
倫太郎
「あ……ぁ……」
命が、俺の手の中で、消えていく。
聞きたい事は山ほどあった。
彼女が、なぜ『その名前』で俺たちの前に現れたのか。
分からない事だらけだった。
なのに、椎名かがりの命は、この瞬間に、尽きてしまった。
鈴羽
「オカリンおじさん! かがりは無事!?」
倫太郎
「……っ」
鈴羽からの呼びかけに、俺は我に返った。
ここでかがりの死を伝えれば、鈴羽は大きく動揺するだろう。
それは得策じゃない。今は一刻も早く、タイムマシンをなんとかしなければ……!
倫太郎
「大丈夫だ! この子は俺が病院へ連れて行く!」
俺は血まみれのかがりの遺体を肩に担ぎ、立ち上がった。
倫太郎
「鈴羽は、急いでタイムマシンを停止させて偽装しろ! もうじき警察がここへ――」
レスキネン
「もう遅いよ」
倫太郎
「な……!?」
俺が開けようとした目の前で、階下へ続く鉄扉が先に開き、向こう側から巨大な影がヌッと現れた。
倫太郎
「教授……!」
死んでいなかったのか……!
しかし、頭に負ったダメージはかなり大きかったようで、顔は土気色になり、片方の目の焦点が合っていない。
レスキネン
「すぐに、ここは戦場になる……」
レスキネン
「アメリカもロシアも日本も動き出してしまった……」
レスキネン
「一度回り出した歯車は、もう止められない……」
レスキネン
「カガリが、もっと早く我々に報告していれば、ここまで事態は、悪化する事もなかったものを……」
……レスキネンが、かがりを知っている?
ということは、やっぱり!
しかし、俺よりも先に、鈴羽が反応した。
鈴羽
「そうか、お前が……“教授”か!」
鈴羽
「かがりを洗脳したのはお前だな!?」
レスキネン
「………」
倫太郎
「そう……なんですか?」
倫太郎
「あなたは……そういう人だったんですか!?」
レスキネン
「別に、
この私
①①①
が何かしたわけじゃない」
レスキネンは、俺の問いかけを、否定しようとしなかった。
レスキネン
「むしろ、10年ほど前、路頭に迷っていた彼女を助けて、ここまで育つよう援助してあげたんだよ」
倫太郎
「援助って……」
倫太郎
「普通に生活してたら、彼女がこんな風になるはずないじゃないか!」
レスキネン
「そんなに……怒鳴らないでくれないか? 頭が、割れそうに痛むんだ……」
レスキネン
「嘘じゃ……ない。彼女は、自分の方から私に接触して来た」
レスキネン
「整形までして、この街に潜りこんだのも、彼女のプランだよ」
レスキネン
「なんでも、頭の中の“神様”が、全て教えてくれるんだそうだ……」
レスキネン
「最初、私は、ホームレスの子供が食べ物欲しさに下らない作り話をしているんだと思ったんだがね……」
レスキネン
「彼女の脳や記憶を調べてみると、非常に興味深く、素晴らしい事が分かった」
レスキネン
「その“神様”というのはね――」
そして、激痛に顔を歪めつつも、彼は誇らしげに笑ったのだ。
レスキネン
「その神様というのは、なんと未来の――2036年の私だったんだよ」
倫太郎
「あ……あんたは……」
倫太郎
「本当の、マッドサイエンティストだ……」
唐突に、街にサイレンが鳴り響いた。
聞いているだけで不安になってくる、そんな音。
今までに聞いた事のないようなサイレンだ。
倫太郎
「なんだ? これ……」
アナウンス
「ゲリラ攻撃情報。ゲリラ攻撃情報。当地域にゲリラ攻撃の可能性があります。屋内に避難し、テレビ・ラジオをつけてください」
街頭スピーカーから、
そんなアナウンス

が流れる。
ゲリラ攻撃……?
いつの間にか上空には、何機ものヘリコプターの旋回する音がしていた。
それは、報道用の民間ヘリなどとは明らかに違う、獰猛なエンジン音を響かせて飛行していた。かつて、悪夢のような戦時中の世界線で聞いた戦闘ヘリと同じ音だった。
レスキネン
「言っただろう? ここは間もなく、タイムマシンを奪い合う戦場と化すんだ……」
倫太郎
「第三次世界大戦が……始まるのか……!」
レスキネン
「まさかこの街の住民も、自分たちの都市の中心から世界戦争が始まるとは、夢にも思っていないだろうね……」
そしてレスキネンは、そのまま壁にもたれかかるようにして地面に座り込み、動かなくなった。
気を失ってしまったのか、それとも脳のダメージのせいで意識障害を起こしたのか、それを確かめている余裕はなかった。
街全体の空気が……ずしりと、重くなったような。
そんな感覚。
背筋がゾワリとする。
戦時下にあったあの世界線での1ヶ月間。
あの世界線と同じような未来が、今にも訪れようとしているのだ。
日本で、そんな事態が起きるなんて。まるでドラマか映画みたいだ。
だが、それがフィクションなんかじゃない事を、俺は本能的に察していた。
兆候は、半年前からあった。
日本の、東京の、秋葉原というこの街に。
あまりにも場違いな、各国の諜報員や軍人たちが暗躍していた。
……だから、分かっていた事だったんだ。
鈴羽の頼みを断り、まゆりが生きているこの世界線を望む事で訪れる、50億人以上が死ぬ未来。
これを選んだのは、俺だ。
俺なんだ……。
鈴羽
「オカリンおじさん!」
見ると、鈴羽がまゆりを押し込むようにしてタイムマシンへ乗せているところだった。
鈴羽
「こうなったら、あたしたちはこのまま過去へジャンプする!」
倫太郎
「え……!?」
鈴羽
「かがりの事、頼んだよ!」
かがりがとうに絶命している事を知らない鈴羽は、そう言うと、自分もコクピットに飛び込んでいく。
慌てた俺は、タイムマシンのハッチにすがりつき、中をのぞき込んだ。
倫太郎
「過去って、まさか1年前へ――
あの日
①①①
へ行くのか!? こんな急に!?」
鈴羽
「急ってわけじゃないんだ。それに、あの日へは跳ばない」
鈴羽はコンソールを操作しながら、そう言う。
倫太郎
「なに……? あの日へは跳ばないって、どういう……」
鈴羽
「ちょっと、まゆねえさんを借りるよ」
まゆりは、すでにシートに収まっていた。
1年前、俺が鈴羽とともに跳んだ時のように。
倫太郎
「まゆり……お前……?」
まゆり
「オカリン……」
遠くで、激しい銃撃戦の音が響いた。悲鳴も聞こえる。
どこかの工作員同士の戦闘が始まったらしい。
かがりが一掃した迷彩服の連中とは別の国の軍隊が、迫ってきているのだ。
まゆり
「オカリン、これっ」
と、まゆりが手を伸ばし、スマホを手渡してきた。
俺は思わず受け取ってしまう。
まゆり
「電波、繋がらないから、これ預けるね! メール、読んで! まゆしぃの気持ちだから!」
倫太郎
「ちょっと待て! なんでお前が行くんだ!? お前が行ったって結果は同じだ、何もできない!」
倫太郎
「それに、今跳んだら戻ってこられない!」
まゆり
「違うの。オカリンじゃダメなの! これはね、まゆしぃの役目だから!」
倫太郎
「分からない、俺にはさっぱり分からないっ!」
倫太郎
「頼む、降りてくれまゆり。お前まで因果の


から外れたら、俺はなんのためにこの世界線を選んだのか――」
まゆり
「オカリン」
まゆりが俺の頬を、優しく撫でて。
悲しそうに、微笑んだ。
まゆり
「…………」
まゆりの手が、俺の肩を、軽く押してくる。
倫太郎
「……っ」
俺はそれでバランスを崩し、ハッチから手を離してしまった。
その間に、ハッチが閉まっていく。
倫太郎
「まゆり! 待て――!」
手遅れだった。
もう一度すがりついた時には、ハッチは完全に閉まってしまった。
これは生体認証だ。鈴羽でないと絶対に開けられない。
タイムマシンがうなり出す。
青白い燐光が、マシンの周囲を舞い始める。
かつてα世界線でも見た光景。
倫太郎
「なんで……まゆり……」
そのとき、屋上の鉄扉を蹴破るようにして、武装した一団が殺到してきた。
それは完全に、戦闘訓練を受けた軍隊だった。
さらに、それとは別に、空から1機の武装ヘリが近づいてくる。
兵士達が、そのヘリに向けて銃撃を始める。
戦闘ヘリはその攻撃をまったく意に介している様子はなく、空中でゆらゆらとホバリングしていた。
機体の左右に装備された物々しいロケットランチャーが、まっすぐ俺を――いや、タイムマシンを狙っているのに気付いた。
ま、まさか……!?
倫太郎
「よせ……やめろ……」
しかし、俺の最悪の予感は的中してしまった。
ヘリが、ロケットランチャーを撃ち放った。
タイムマシンへと、まるで吸い込まれるかのように向かっていく。
いまだタイムマシンは光に包まれたまま、そこにあり――
倫太郎
「やめろぉぉぉ!」
そう叫んだ瞬間には、激しい爆風を全身に受け、俺は吹き飛ばされていた。
倫太郎
「……っ」
気づけば、地面に這いつくばっていた。
周囲を見回すと、兵士たちの何人かが、すでにそこにあった死体の山に混じって倒れている。
なおもヘリに銃撃を加えている兵士もいる。
倫太郎
「う……ぐぅ……」
俺は、必死で立ち上がった。
全身が焼けるように痛む。
あちこちの皮膚がただれていた。
服もボロボロだ。
いや、俺のことはどうでもいい。
タイムマシンは!?
とっさに顔を上げ、タイムマシンがあった場所を確認した。
マシンの時間跳躍が間に合ったのなら、あのロケットランチャーの直撃も避けられたはず。
だが――。
倫太郎
「……!」
そこには、大量の残骸が転がっていた。
明らかに、タイムマシンのものだと分かった。
……間に合わなかった、のか?
倫太郎
「鈴羽……? まゆり……?」
土煙の中、周囲を見回す。
倫太郎
「なあ、まゆり……? どこだ?」
倫太郎
「まゆり! 鈴羽! 返事をしてくれ……!」
残骸は大量に転がっているのに。
なのに、そこには、まゆりも鈴羽も見当たらなかった。
生きているのか死んでいるのかさえ、確かめることが出来ない。
死体すら、なかった。
存在が、消えていた。
事態は、俺の思いなんて関係なく、大きくなっていった。
秋葉原の空と地上で、激しい戦闘が繰り広げられている。
ニュースでたまに見かける、中東などでの戦場の映像。
それがそのまま、秋葉原の街で再現されていた。
俺は戦闘のどさくさに紛れて、命からがらラジ館を脱出した。
かがりの遺体は、残して来るしかなかった。
誰にも見つからないように大きく迂回しながらラボに戻ってきた時には、日はすっかり暮れ、暗闇の中で爆発の炎や曳光弾の軌跡などが夜空を照らしていた。
秋葉原の街全体が、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
ラボの電気は消えていた。
だが室内にはダルと真帆、そしてフェイリスがいて――真っ暗の部屋の中で、テレビとPCのモニタだけが光を放っていた。

「オカリン!」
真帆
「岡部さんっ! よく無事で……」
フェイリス
「って、ひどいケガしてる!」
真帆
「大丈夫なの!?」

「戦闘に巻き込まれたん!?」
フェイリス
「急いで手当しないと!」
俺は3人の言葉に応えていられるほど、心の余裕がなかった。
テレビに映る映像に目をやる。
臨時ニュースのレポーターが防弾チョッキを着込み、防災ヘルメットをかぶって映っていた。別の局のレポーターに負けじと、声も枯れんばかりに怒鳴り続けている。
キャスター
「ま、まるで戦争ですっ! 秋葉原駅前や中央通りはすでに閉鎖されて、米軍と自衛隊のヘリや装甲車が――」
キャスター
「あっ! い、今! またっ、ものすごい発砲音が聞こえましたっ!」
キャスター
「こ、ここは本当に日本なのでしょうかっ!? まるで内戦中の国の取材をしているようですっ!」
キャスター
「政府の発表ではテロということですが、こんな――」
そんな中、報道陣のすぐ近くに、どこかの陣営の特殊部隊が放った対物ライフルが誤着弾し、中継車のエンジンが火を噴いて爆発炎上した。
キャスター
「うわっ、爆発した! 爆発が起きました!」
自衛隊員
「死にたいのかっ! 今すぐ逃げろ! もう戦争なんだ! ほんとに死ぬぞ!」
画面内に割り込んできた自衛隊員が、マスコミを下がらせようと怒声を上げる。
キャスター
「戦争って、どことですか!?」
自衛隊員
「知るか!」
直後、激しい爆発音とともに、映像が途切れた。
直撃を……受けたんだろうか。
映像を見て、この場にいる誰もが絶句していた。
真帆
「ここも、危ないわね……」
フェイリス
「お家には、帰れない……」

「ネットの情報も大混乱中なんだよ!」

「なあオカリン、鈴羽は!? あと、まゆ氏は見つかったん!?」
倫太郎
「す……鈴羽と、まゆりは……」
倫太郎
「鈴羽とまゆりは……過去へ跳んだのか、死んだのか、どっちかだ……」

「……えっ?」
俺の曖昧な言葉に、ダルが苛立たしげに詰め寄ってきた。

「どういう事だよ!? もっとちゃんと教えてくれ!」
倫太郎
「戦闘ヘリが、タイムマシンに、ロケットランチャーを……」

「……!」
倫太郎
「タイムマシンは、破壊されて……」
倫太郎
「それに、鈴羽とまゆりが、乗ってて……過去へ跳ぶ、直前だったんだ……」
倫太郎
「マシンの残骸は残ってたけど、全部じゃなくて……」
倫太郎
「なあ、ダル……。どれだけ捜しても、鈴羽もまゆりも、死体が、見つからなかったんだ……」
倫太郎
「体の一部さえ、残ってなかった……。まるで、跡形もなく消えたみたいに……」
倫太郎
「あの2人、ちゃんと、過去に、跳べたのかな……」
こらえていた涙が、ボタボタとこぼれ落ちる。

「……っ」
ダルが、俺の話を聞いて、床にヒザから崩れ落ちた。
フェイリスと真帆も、肩を寄せ合って目を見開いている。

「ちくしょう! ちくしょう、ちくしょうっっ!!」
ダルが、拳で床を激しく叩いた。

「そんなバカな事ってあるかよ!? あるのかよぉぉーっ!」
倫太郎
「…………」
俺は涙を拭こうとして、ようやく自分の右手にきつく握られている物に気付いた。
まゆりが託してきたスマホだ。
メールを読んでくれ、と言っていた。
ロックは、されていなかった。
メールフォルダを開いてみる。
そこには、家族や友達に宛てたいくつかのメールが、未送信のまま残っていて。
中に、俺に宛てたものもあった。
これを読めと……あいつは、言っていたのか?
震える指で画面をタップし、そのメールを開いた。
まゆり
「オカリンへ。トゥットゥルー♪ まゆしぃです」
まゆり
「本当はちゃんとお話しようと思ったけど、うまく言えるかどうか分からないし、オカリンに引き止められると迷っちゃいそうだから、メールにしました」
まゆり
「私は、スズさんと一緒に、過去へ行って来ます」
まゆり
「なんで? って、オカリンは怒るかもしれないね」
まゆり
「でも、これは、私がやらなきゃいけない事なの」
まゆり
「だって、あの時、私の彦星さまを……どんなに苦しい時でもいつも立ち上がって高笑いを上げてた、強い強い彦星さまを……暗い雲の向こうに隠しちゃったのは、私なんだから」
まゆり
「私ね、勘違いしてた。みんなは、未来をオカリンひとりに押し付けようなんて、してなかったんだね」
まゆり
「オカリンのまわりには、ダルくんがいて、スズさんもいて、るかくんもいて、フェリスちゃんもいて、由季さんもいて、それに真帆さんも加わった……」
まゆり
「だから、今度はね、私の出番。だってこれは、ラボメンナンバー002の、初めてのおっきな任務なんだから!」
まゆり
「オカリンはきっと心配すると思うけど、大丈夫だよ」
まゆり
「それに、もしも何かあったとしても……必ず助けに来てくれるって信じてるから」
まゆり
「私の大好きな鳳凰院凶真が、新しく作ったタイムマシンに乗って、必ず……」
まゆり
「だから、私は行ってきます。必ず戻ります。オカリンの所へ、戻ってきます。少しだけ、待っててね」
まゆり
「私は鳳凰院凶真の事が好き」
まゆり
「でもね…………」
まゆり
「岡部倫太郎の事は、もっと好きだよ」
倫太郎
「う……うっ……まゆり……」
倫太郎
「お前……忘れてるだろう?」
倫太郎
「お前は、俺の……人質なんだぞ?」
倫太郎
「いなくなったら、人質にならないじゃないか……」
倫太郎
「何かあったら、助けに来いだと? 人質のくせに、生意気だろ……」
倫太郎
「狂気のマッドサイエンティストが、お前なんかのために……お前……なんかのためにっ……」
倫太郎
「……お前は、バカだ……」
倫太郎
「でも……もっとバカだったのは……この俺だ……」
心が苦しい。痛い。
まるで、紅莉栖を殺してしまった直後のようで。
今すぐ倒れこんで、そのまま死んでしまった方がずっとマシかもしれない。この苦しみから解放されたい。
だが、俺は……涙でかすむ視界の隅で、それを、見つけたのだ。
鳳凰院凶真の最後の武器。最後の希望。
――いや、むしろ俺に何度も絶望を突きつけてきた悪夢のような“それ”を。
俺は開発室によろよろと足を踏み入れ、偽装用のダンボールを無造作に撤去していく。
そこにあったもの。
『電話レンジ(仮)弐号機』
俺に無断で、真帆とダルと鈴羽が作っていたもの。
――これが、
完成
①①
すれば
①①①

倫太郎
「くっ」
俺は振り返ると、涙をぬぐい、それから暗い部屋の中で沈んでいる仲間たちを見回した。
倫太郎
「お前たち、タイムリープマシンの作り方がわからないと言ったな」
倫太郎
「俺の言う通りに……してくれるか?」
倫太郎
「紅莉栖の導き出した『解』を、お前たちに伝える」
倫太郎
「それで……タイムリープマシンは起動する」
記憶データの圧縮方法だけが分からないと、真帆は言っていた。
ということはつまり、それ以外の部分は出来ているという事。
そして俺は、そいつを完成させる方法を知っている。
ダルは、真っ先にうなずいた。

「僕、やるよ! 教えてくれ、オカリン」
真帆
「……私も手伝うわ」
フェイリス
「決まりだニャ」
3人が返事を迷う事はなかった。
俺に視線を向け、きっぱりと、そう答えてくれた。
倫太郎
「よし」
倫太郎
「ダル、SERNにハッキングをかけてくれ。
LHC

を遠隔操作する」
倫太郎
「そこで、記憶データを36バイトまで小さくする。それなら過去へ転送できる」
真帆
「た、たったの、36バイト……?」
やはり研究者だ。ケタの違う数字に、真帆の顔色が一瞬、変わった。

「け、けどさ……なんか動作が不安定で……こいつ、ただの電子レンジになっちゃう時があって……」
倫太郎
「ブラウン管工房の42型ブラウン管。それが点灯している時に、電話レンジ(仮)は機能を発揮する」
真帆
「ブラウン管……? あっ、そうかっ!」
さすがは真帆だった。ブラウン管と聞いただけで、察してくれたようだ。
ついさっきまで涙に暮れていたのが嘘のように、表情に生気が蘇り始める。
真帆
「それなら、完成させられるかも……」
真帆
「でも、完成したとして、いきなり使うつもり!?」
真帆
「なんの実証もせずに、人体実験まがいのことをするなんて……!」
倫太郎
「自分の作った物に、自信が持てないのか?」
真帆
「……で、でもっ」
倫太郎
「別の世界線で、紅莉栖はやってみせたぞ?」
真帆
「そ、それは……紅莉栖だからよ。私は、あの子には、なれないわ……」
倫太郎
「@ちゃんねるに書かれた、“紅莉栖”のメッセージを見ただろう」
真帆
「え……?」
“最期に、最も尊敬する人にこう伝えてほしい”
“――私は、自分を凡庸なる人々の代表だと考えていた”
“そして、貴女が常に私にとっての目標であり、”
“貴女こそがまさにアマデウスその人だった――と”
倫太郎
「紅莉栖にあそこまで言わせたんだ。なのに逃げる気か?」
真帆
「……っ」
真帆
「逃げたりなんか……しないわよ。見くびらないでっ」
俺はうなずきを返し、爆風でボサボサに乱れてしまっていた自分の前髪を、ぐいっと手でかき上げた。
フェイリス

凶真
①①
、これ!」
フェイリスが、長い間、開発室の壁に吊り下げられていたままの白衣を持って来てくれた。
俺はきつく唇を噛み、もう一度、涙を


くと。
その白衣を受け取り、袖を通した。
バッと裾を

ひるがえ
して――
ラボの中心に、かつてのように仁王立ちをして。
そして、高らかに宣言する。
倫太郎
「これより、『電話レンジ(仮)弐号機』を完成させ、タイムリープを行う! 俺に力を貸してくれ」
倫太郎
「今度こそ、俺は絶対に諦めない……!」
ダルに、フェイリスに、そして最後に真帆に視線を向けて。
倫太郎
「たとえ、何回、何十回、何百回ダメだったとしても……何千回、何万回、何億回と挑んで、何もかもすべて救ってみせる。鈴羽もまゆりも」
倫太郎
「――そして、紅莉栖もだ!」
倫太郎
「これは、その最初の一歩となる!」
久々に、そんな『厨二病』丸出しの号令を出した気がする。
心強い仲間である3人は、俺を見て、決意を秘めた力強い表情でうなずいてくれた。
電話レンジ(仮)弐号機を完成させるまでに、徹夜で作業してほぼ2日を要した。
その間、秋葉原の騒乱は断続的に続き、うかつに外出もままならなかった。
戦闘に巻き込まれるのではないか、どこかの組織の襲撃者がラボを襲ってくるのではないか――そんな恐怖と闘いながらの作業は、全員の神経をすり減らしていく苦行だった。
それでも、なんとかマシンは完成し。
俺は、跳んだ――。
倫太郎
「……!」
タイムリープを敢行してふと気付くと、俺は秋葉原の路地の真ん中に立っていた。
手には、スマホを握りしめている。
激しい頭痛と、頬のあたりにヒリヒリした痛みを感じた。
ちょうど偏頭痛の発作が起きたときのように片側の頭と、あと、顔の左半分がひどく痛み、目の前がチカチカして視界がはっきりしない。
咬嗟
とっさ
に周囲を見回す。
秋葉原の路地はまだ平穏なままだ。
爆発音も銃撃戦の音も聞こえない。
男女問わずオタクたちが買い物を楽しみ、メイド服を着た女の子たちが呼び込みをしている。
それを見ただけで、俺は確信した。
タイムリープは成功した、と。
スマホの時間を確かめる。
7月7日、17時45分。
“戦争開始”まで、あと40~50分ほどの猶予があった。
それでも、時間は全然足りないが……。
48時間というタイムリープの跳躍制限があって、ここまで戻ってくるのが精一杯だったんだ……。
いや、ネガティブに考えるな。
あと少しでもマシンの完成が遅れていたら、すべてが手遅れになっていたんだ。間に合っただけでもマシだろう。
この時間の俺が何をしていたのかは、把握している。
失踪したまゆりを捜して、秋葉原のあちこちを走り回っていたのだ。
まずは真帆に電話だ。
彼女も今ごろ、まゆりを捜しているはず。
真帆
「もしもし!? 見つかった!?」
倫太郎
「いや。だが場所は分かった。急いでラボに戻ってきてくれ!」
真帆の返事まで聞かずに電話を切り、俺もラボへと引き返した。
ラボに戻ると、すでに真帆も到着していた。
真帆
「まゆりさん、見つかったのよね? 迎えに行かなくていいの?」

「…………」
ダルが少しバツが悪そうな顔をしているのは、直前に俺を殴ったせいだろう。
倫太郎
「比屋定さん! よく、やってくれた!」
真帆
「はい……?」
俺は真帆の両手をつかみ、がっちりと握手した。
真帆もダルも、状況をつかめていないようで、困惑顔をしている。
倫太郎
「俺は、48時間後の未来からタイムリープして来たんだ!」
真帆
「えっ!?」

「マジ!?」
真帆
「……完成、させたの? 最低でもあと48時間以内に?」
倫太郎
「ああ」
真帆
「いったい、どうやって……」
倫太郎
「説明はあとだ」
倫太郎
「いいか、時間がない! よく聞いてくれ! 何人もの命がかかってる!」
ミッション内容は、電話レンジ(仮)弐号機が完成するまでの時間で、何度もシミュレーションしてきた。
何を伝えるべきか、すべて考えてあった。
倫太郎
「比屋定さん、すぐに『Amadeus』にアクセスして、“紅莉栖”と“真帆”をバックアップごと全部消去しろ」
倫太郎
「レスキネンは、あれを平和利用するつもりなんてない」
真帆
「な、何を……そんな滅茶苦茶な……」
倫太郎
「タイムリープしてきたって言っただろ! あと1時間もしないうちに、秋葉原が戦場になるんだ! タイムマシンが狙われるんだよ!」
倫太郎
「それが第三次世界大戦の始まりになる。阻止しないと、鈴羽もまゆりも死ぬ!」
それを聞いた途端、真帆とダルは息を飲んだ。

「マジ? え……マジ!?」
倫太郎
「だから俺の言う通りにしてほしい」
真帆
「……っ」
真帆
「データにはアクセス出来るけど、外部からいじるには、教授の持っている管理者権限が必要よ」
倫太郎
「そこから先はダルの仕事だ。クラックして、データを完全破壊しろ」

「オーキードーキー! 任せろ!」
ダルが猛然とPCに取り付いた。なにしろ娘の危機なのだから、当然だろう。
真帆もダルの横に付いて、自分のIDやパスを打ち込み、『Amadeus』にアクセスを開始する。
倫太郎
「俺は、ラジ館へ行く! ここは任せたぞ!」

「オカリン! 鈴羽を、頼む……!」
倫太郎
「ああ! ――任せろ!」
PCを見たままそう声をかけてきたダルに、俺は力強く

いら
えを返した。
倫太郎
「鈴羽! まゆり!」
ラジ館屋上へ辿り着くと、俺の姿を見たまゆりが慌てた様子でタイムマシンの陰に隠れた。
まゆり
「オカリン……」
まゆりは、俺の顔をはっきり見ようとしない。
その目は、ずっと泣いていたのか少し赤く腫れていた。
α世界線での紅莉栖の犠牲について、俺が話しているのを聞いてしまったんだ。
まゆりをこんなに苦しめてしまった事に、改めて胸が痛んだ。
倫太郎
「まゆり……タイムマシンで、過去へ戻るつもりか?」
まゆり
「えっ……、どうして……」
倫太郎
「俺は48時間後からタイムリープしてきた。全部知ってる」
鈴羽
「なっ……、それ、ホント?」
俺は、2人に向かってうなずいた。
倫太郎
「ここはあと30分もしないうちに戦場になる」
鈴羽
「え!?」
鈴羽
「まさか……タイムマシンの事が、どこかから漏れるの?」
倫太郎
「ああ」
鈴羽
「まずい。だったら、今すぐに跳ぶしかない」
鈴羽が、マシンのコクピットに飛び乗ろうとした。
倫太郎
「いや、ちょっとだけ待ってくれ。ダルと比屋定さんが、今、先手を打っているところだ」
倫太郎
「優秀な2人だ、必ずうまくいくだろう。でも……もし仮に、思い通りにいかなかったら……」
鈴羽
「いかなかったら?」
倫太郎
「………。お前達は、死ぬかもしれない」
鈴羽
「かもしれない、ってどういう意味? オカリンおじさんがタイムリープする前の世界で、あたしたちはどうなったの?」
鈴羽
「……というか、おじさんがタイムリープしてきたってことは、なにか致命的な“失敗”があった。そうなんだね?」
倫太郎
「………」
それを、この2人に面と向かって言うべきかどうか……。
いや、迷っている暇はない。
倫太郎
「鈴羽とまゆりが乗っていたタイムマシンは、時間跳躍直前に、ロケットランチャーの直撃を受けた……」
まゆり&鈴羽
「……!」
「……!」
倫太郎
「でも……」
倫太郎
「乗っていたお前たち2人の死体は、マシンの残骸の中からは、見つからなかったんだ……」
鈴羽
「……なるほど。だから“かもしれない”か」
鈴羽
「それなら未来は確定してない。まだ成功の可能性は残されてる」
倫太郎
「……鈴羽なら、そう言うと思った」
鈴羽
「止めないでよ、おじさん」
その目は決意に満ちていた。
止めるならば、どんな実力行使も辞さない……そう言いたげな目だ。
もちろん、元より俺は、鈴羽の時間跳躍を止めようと思っているわけじゃない。
彼女は、その『使命』のために来たのだし、決心を変えることは出来ないだろう。
俺はむしろ、ストラトフォーの妨害なしに彼女をちゃんと跳躍させるため、この時間までタイムリープして来たと言っていい。
けれど、まゆりは……。
まゆりのメールを読んでから、俺の中で生まれては消え、消えては生まれ続けた『迷い』が、また首をもたげてきた。
倫太郎
「……なあ、まゆり。本当に行ってしまうのか?」
まゆり
「………」
倫太郎
「お前に隠し事をしていたのは、謝る」
倫太郎
「でも、俺も、紅莉栖も、みんなが……お前の事を、大好きなんだ」
倫太郎
「そんなお前を助けたくて、この世界線に、辿り着いたんだ」
倫太郎
「なのに、お前が行ってしまったら……俺は……俺たちは……」
まゆり
「オカリン……」
倫太郎
「いや、お前の気持ちは痛いほど分かってる。けど……」
鈴羽
「ねぇ、オカリンおじさん?」
そこで、鈴羽が静かに口を開いた。
鈴羽
「『オペレーション・アークライト』が、発動したんだよ」
倫太郎
「オペレーション……アークライト?」
鈴羽
「あたしが聞かされていた当初の計画とは違う。戻るのは去年の7月28日じゃなくて、8月21日になった」
倫太郎
「8月21日!?」
その日は、鈴羽がタイムマシンに乗ってやってきた日であり……
俺が、すべてを諦めてしまった日じゃないか。
鈴羽
「そのオペレーションには、まゆねえさんも必要なんだ」
鈴羽
「未来の父さんから、あたしはそう指示を受けた。ついさっき」
倫太郎
「なん……だって……?」
未来のダルたちの――俺の知らないオペレーション?
そのためにはまゆりが、必要?
鈴羽の思わぬ言葉に、心が
千々
ちぢ
に乱れる。
まゆり
「オカリン……」
――と、まゆりが抱きつけるほどに近づいてきて、優しく俺の手を握りしめてきた。
その表情は、少しだけ泣きそうで。
それなのに、どこか晴れ晴れとしているようで。
倫太郎
「まゆり……」
まゆり
「行かせて。……ね?」
倫太郎
「………」
まゆり
「まゆしぃも、ラボメンなんだよ?」
まゆり
「落ち込んじゃってる“彦星さん”を、まゆしぃが、ひっぱたいてきてあげるから」
倫太郎
「………」
まゆり
「お願い」
あのメールの内容を、思い出す。
まゆりがどんな気持ちで跳ぼうとしているのかを、強く強く思い出す。
首をもたげかけていた、最後の『迷い』が、ゆっくりと溶けて消えていく。
倫太郎
「……俺、は……」
倫太郎
「俺ひとりで、何もかも背負ってると、勘違いしていたんだな……」
倫太郎
「周りのことが、見えてなかったんだな……」
倫太郎
「まゆりだけじゃない、俺の近くには、たくさんのラボメンたちが、いるのにな」
まゆり
「オカリン……」
倫太郎
「ぐあっ!」
いきなり足に激痛が走り、その衝撃で、俺は数メートルほど弾かれて倒れた。
まゆり&鈴羽
「オカリンっ!?」
「オカリンおじさんっ!?」
火のついたような痛みに自分の足を見下ろすと、パンツのふくらはぎのあたりが赤く染まっていくのが見えた。
心臓の鼓動に合わせるかのようにズキズキと激痛が走り、立ち上がれない……。
まさか――撃たれた、のか?
鈴羽
「お前……かがり……!」
鈴羽の視線の先に、ライダースーツの女が立っていた。
かがりは右手に拳銃、左手には、それが脅しであるかのように爆弾らしきものをぶら下げていた。
彼女の仲間であるはずの迷彩服の男たちや“教授”は、一緒ではないようだ。
それが救いではあったが……思っていたよりもかがりが現れるのが少しだけ早い。
やや計算外だが、どうやらここが、タイムリミットなんだろう!
倫太郎
「鈴羽、マシンに乗るんだ! 今すぐ跳べ!」
鈴羽
「え!?」
倫太郎
「くだらないことを言って悪かった! お前を護るためなら、ダルはどんなことでもやってのける! “失敗”なんて、するわけないよな!」
鈴羽
「オカリンおじさん……!」
倫太郎
「だから、マシンは無事に跳べる! だろ!?」
鈴羽
「もちろん!」
事実、ここにかがり以外の部隊や教授が現れていない。
それは、ダルや真帆の工作がうまくいって、タイムマシンの秘密をストラトフォーから守りぬいた証拠のように思われた。
倫太郎
「まゆりも行け! 早く!」
まゆり
「で、でも、オカリンは!?」
まゆりは、負傷した俺の足を見ながらオロオロしている。
倫太郎
「俺のことなら心配ない」
倫太郎
「14年後までは、絶対に死なないからな」
まゆり
「……っ」
かがりがまた発砲してくる。
弾は、俺が倒れ込んでいる場所から30センチと離れていないところに着弾した。
かがり
「誰も動いちゃダメ! じゃないと、その人を殺しちゃうよ!」
かがり
「マシンに乗らないで! それは“教授”に渡すの!」
かがり
「そのあと、使い方を教えてもらって、かがりが、未来へ帰るのに使うんだから!」
まゆり
「………」
倫太郎
「構うな! ここは俺がなんとかする! 早くしろ!」
倫太郎
「鈴羽もだ! かがりのことは俺に任せてくれていい!」
鈴羽
「分かった!」
鈴羽
「まゆねえさん! 中へ!」
まゆり
「え!? あ!? 待っ――!」
まゆりが鈴羽に押し込まれるようにして、マシンの中に消えた。
鈴羽
「オカリンおじさん! かがりのこと、頼んだよ!」
倫太郎
「了解だ!」
鈴羽もまゆりに続いてマシンの中に消える。
と、同時に、ハッチが閉まり始める。
かがり
「ダメだって言ってるのに! 降りてよっ!」
かがりが動揺し、駆け寄ってくる。
俺は脳まで突き上げてくるような足の激痛をこらえ、強引に立ち上がると、彼女の前に立ちふさがった。
倫太郎
「邪魔はさせない!」
かがり
「うるさい、どけ!」
倫太郎
「断る!」
かがり
「どけよぉ!」
倫太郎
「ぐあぁっ!」
かがりの強烈な蹴りを、負傷した方の足にまともに食らった。
あまりの痛みにグラグラとめまいがし、その場にくずおれてしまいそうになる。
一方、かがりは俺の横をすり抜け、タイムマシンにすがりつこうとした。
このままだと、手に持っている爆弾を使われる。
そうなったら、結果は前と同じだ!
タイムリープしてきたのが水の泡になる!
かがり
「降りろっ! じゃないと、この爆弾でマシンを壊す!」
倫太郎
「やめろっ!」
背後からほとんど覆い被さるようにして、かがりを羽交い締めにする。
足の痛みをこらえながら、マシンから引き剥がす。
倫太郎
「分かってるのか!? そんなことをすれば、お前の大事なママが死ぬんだぞ!!」
かがり
「……っ!」
かがり
「で、でも、私はっ……」
かがり
「私はぁっ!」
倫太郎
「おとなしくしてくれ! 頼むから!」
と、今にも閉まりかけているハッチから、まゆりがハードディスクを放り投げてきた。
まゆり
「オカリン! これ!」
床に落ちたそれは、真帆が預かってきた“紅莉栖の遺産”だった。
倫太郎
「こ、これは、紅莉栖の!? どうしてここに!?」
確か、ロシアに破壊されたはず……。
鈴羽
「父さんを怒らないでやって。これからのタイムマシン研究に必要なものだと思うから」
マシンの中から、鈴羽の声がかすかに聞こえた。
そう、か。タイムマシンに、ダルが隠していたってことか……。
まゆり
「それじゃあ、オカリン! 行ってくるね!」
ドアの細い隙間からこちらを見ているまゆりと、視線が交わる。
そう。これは、一時的な別れ。
きっと、また会える。
そうだろ、まゆり?
だから、勇敢なるラボメンナンバー002を、胸を張って送り出そう。
倫太郎
「頼んだぞ、ラボメンナンバー002、椎名まゆり!」
倫太郎
「『オペレーション・アークライト』を
完遂
かんすい
しろ!」
倫太郎
「情けないこの俺を……ひっぱたいてきてくれ!」
まゆり
「うん、任せて!」
まゆり
「オカリン、私ね! オカリンの事――大好き!」
倫太郎
「……ああ」
俺が笑顔で見送る中、ハッチが完全に閉まった。
タイムマシンが徐々にうなり出す。
遠くから、ヘリコプターらしきローター音が聞こえてくる気がする。
信じているとはいえ……今のところ、ダルたちが、こんな短時間で『Amadeus』のような複雑なシステムをクラックし、データを完全に消去出来たかどうかの確証が何もない。
もしかしたら、まさに今、各国の特殊部隊がこの街に続々と集まっている最中かも知れない。
それを想像すると、焦燥感が増していく。
早く――。
早く行ってくれ――。
俺は祈るような気持ちで、青白い燐光に包まれるタイムマシンを見つめた。
かがり
「行かないで! ママ! 鈴羽おねえちゃん!」
かがりの懇願にも似た叫びが、虚しく響く中――。
タイムマシンは、まばゆい光に包まれて――この時空間から完全に消滅した。
倫太郎
「……成功だ……」
かがり
「あ……あ……」
わめき散らしていたかがりが、憎悪の目で俺を睨みつける。
かがり
「どうして……」
かがり
「どうしてママを行かせた!?」
かがりは俺の手を振り払うと、銃口を向けてきた。
俺は、それをまっすぐに見据える。
倫太郎
「君の素晴らしいママは、鈴羽と一緒に、世界をダメにしたバカな男を叱りに行ったんだ」
倫太郎
「この世界のために、とっても大事な事をして来てくれるんだ」
かがり
「う、嘘……うそだ……」
かがり
「ママも、鈴羽おねえちゃんも、かがりを置き去りにしていったんだ……」
倫太郎
「嘘じゃない。俺も、君がもっと幸せな場所でまゆりと出会えるように、これから頑張ってみる」
倫太郎
「だから、もう、やめにしよう。な?」
かがり
「そ、そんな……そんな話、信じられないっ……」
倫太郎
「いいや、君なら、信じてくれるはずだ」
倫太郎
「だって俺は……君が本当は誰で、どんなに優しい人か……良く知ってるから」
かがり
「……っ!」
突き付けられている銃口が、かすかに震え始めた。
かがり
「私を、知って……る?」
倫太郎
「知ってる。俺は、48時間後からタイムリープしてきたからな」
かがり
「………」
かがり
「う、ぅ……!」
と、かがりはヘルメットごと、自身の頭を抱え、苦しげに身を折った。
かがり
「神様の……声が……」
かがり
「“騙されるな”って、言ってる……」
かがり
「お前は嘘つきな敵だって。殺してしまえば、ママの所へ帰れるようになるって……」
かがり
「世界を破壊しようとする悪い奴は、殺せって……」
かがり
「それで私は、元の世界へ、戻れる……」
かがりの言動は、支離滅裂だった。
――これが“洗脳”なのか。
ここまで非人道的な事を、“教授”はやっていたのか。
かがり
「分からない分からない分からない! 分からないよぉっ!」
俺は、銃を握ったまま振り回しているかがりの手をつかみ、ヘルメットの奥にある瞳をしっかりと覗き込んだ。
不安に怯えるその目からは、涙がこぼれていた。
倫太郎
「聞くんだ」
倫太郎
「ママはきっともう、戻ってこない」
倫太郎
「でも、これから俺たちが頑張れば、もしかしたら、ママも君も幸せな形で一緒に暮らせる世界が訪れるかもしれない」
倫太郎
「君のママは、そのために、時間を跳び越えていったんだ」
倫太郎
「そのママの気持ちを、台無しにしちゃダメだ」
倫太郎
「君は、今からでもやり直せる」
かがり
「ううっ……うう……」
かがり
「神様の声に、逆らっても……いいの?」
倫太郎
「……ああ」
かがりが聞く神様の声というものこそ、“教授”の施した洗脳だろう。
それがどれほどの深度までかがりの精神を

むしば
んでいるのかは分からない。
だが、今の俺たちには、真帆という脳科学スペシャリストだってついてるんだ。
根気よく治療していけば、きっと――大丈夫。
かがり
「…………」
かがり
「ねえ、岡部さん……」
かがりの俺への呼び方が、
普段
①①


もの
①①


戻った
①①①

かがり
「ママに、会いたいよ……」
かがり
「会えるかな……?」
倫太郎
「会えるさ。いつか」
かがり
「……よかった」
倫太郎
「!?」
かがり
「がはっ……」
ふたたび響いた突然の銃声とともに、かがりの身体が、俺の目の前で崩れ落ちた。
銃声のした方を見ると、かがりと同じように黒いライダースーツに身を包んだ女――ヘルメットをかぶっていないので、間違いなく桐生萌郁だと分かった――が、銃を構えていた。
病的なほど青白い顔で、涙を流している。
倫太郎
「な、なんで……なんで、お前がこんな……?」
倫太郎
「なんでだよ、桐生萌郁!」
萌郁
「FB……ねぇ、FB……? 私、あんな女になんか、だまされなかった……こんなの、ニセモノの携帯だって分かったよ……だから、お願い。私を見捨てないで、FB……FB……」
萌郁の手から、携帯電話が落ちた。
彼女の銃の発砲によって、その携帯も粉々に破壊される。
俺は、かがりを抱き起こした。
彼女の胸が、みるみる血に染まっていく。
かがり
「ごほっ……」
倫太郎
「おい、しっかりしろ!」
かがり
「ああ……よかった……」
かがり
「神様の言う通りにしても……間違うこと、あったんだ……」
かがり
「じごう……じとく……ですよ……」
かがり
「彼女の心を踏みにじって……利用しようと……したから……」
かがり
「ごめんなさい……こんな子に……なるつもりじゃ……なかったの……」
かがり
「ねえ、ママ……どこ? どこなの……?」
かがりの声が、か細くなっていく。
桐生萌郁もまた、銃を持ったまま、少し離れた場所でへたり込んでいた。
目の焦点は合っておらず、ただブツブツとつぶやき続けているだけで、まともな思考ができる状態ではなさそうだった。
どこかの病院に連れて行かないと、2人とも危険な状態だった。
だが――。
何十人という迷彩服の男たちが屋上の柵を乗り越えて、いっせいに姿を現した。
倫太郎
「え!?」
さすがのダルと真帆でも、やはりこの短時間では、無理だったのか……?
それとも、結局、この世界線の戦争は、この場所から始まる――そのように収束するのは避けられない、ということだろうか?
いや、でも……。
倫太郎
「ふっ……無駄なんかじゃなかったさ……」
少なくとも、2人は時間を稼いでくれた。
そのおかげで、襲撃の時刻が後ろにずれ……鈴羽とまゆりは無事に旅立つことができた。
そう――今、この瞬間、俺たちに出来る『目的』は、間違いなく達成されたはずだ。
まだ不確定ではあるけれど、シュタインズゲートへと至る道は、間違いなく俺の行く先につなぎ止められたのだから。
武装した男
「目標1、ロスト」
武装した男
「目標2、目標3もロスト! どうなってる!」
リーダーの男が、無線で状況を報告している。
空には戦闘ヘリが飛び回っている。
また、あのサイレンが鳴った。
アナウンス
「ゲリラ攻撃情報。ゲリラ攻撃情報。当地域にゲリラ攻撃の可能性があります。屋内に避難し、テレビ・ラジオをつけてください」
戦争が、始まりつつある。
やはり、タイムリープしても、それだけは変わらなかった。
レスキネン
「リンターロじゃないか」
レスキネンが、迷彩服の男たちの後から現れた。
そう……こいつは、迷彩服の男たちと同じように、ストラトフォーの裏のメンバーなんだ。
レスキネン
「なぜ、ここに……?」
レスキネン
「カガリは、死んだのかい?」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「聞かせてくれ、リンターロ」
レスキネン
「タイムマシンはどこに?」
俺はかがりを地面に寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。
足の傷からの血は止まらない。
痛みだってひどくなっている。
それでも、しっかりと2本の足で、地面を踏みしめた。
銃を突きつけている迷彩服の男たちを前にして。
戦闘ヘリのロケットランチャーを前にして。
“教授”を前にして。
これから始まる戦争を前にして。
俺は、あの
声音
こわね
で、思い切り

わら
った。
倫太郎
「…………フ……。フフ……フフフ……フゥーハハハハハ!」
倫太郎
「よく聞け、間抜けどもめ!」
倫太郎
「貴様らが手に入れようとしたタイムマシンは、もうここにはない!」
倫太郎
「この時代には、もう存在しないのだ!」
倫太郎
「残念だったな! せいぜい悔しがるがいい!」
倫太郎
「そして恐れるがいい!」
倫太郎
「この鳳凰院凶真は、貴様らにも、運命にも、負けることはない!」
倫太郎
「俺は、必ず、シュタインズゲートを見つけてみせる!」
そうだとも。
ここから先は、シュタインズゲートへ到達するための、長い長いエピグラフ。
――狂気とは、何度も同じ事を繰り返しながら、違う結果を期待する事である。
かつて、アインシュタインは人間の愚かさを

なげ
き、そう言った。
だが、俺は今、喜んでその狂気と愚かさに身を委ねよう。
あらゆる執念をもって、“神の摂理”など及ばない、たったひとつの違う結果を、追い求めよう。
倫太郎
「それが! この俺の! 選択だ!!」
店を出てビルから離れたところで、人通りの少ない路地に1台の車がやって来るのが見えた。アメリカの大型RV車だ。
とっさに、他のビルの物陰に姿を隠した。
予感は的中した。
そのRV車は、たった今俺たちが出てきた雑居ビルの前で停まったのだ。
中から3人の男が出てきた。
いずれも日本人じゃない。
身なりは、全員が黒いスーツ。まるで
MIB

だ。
いくらなんでも、あれは秋葉原にやってきた観光客じゃないだろう。
倫太郎
「間一髪だったな……」
真帆
「……っ」
真帆は、ビルに入っていく男たちを見て、青くなっている。
心なしか、震えてもいるようだ。
真帆
「こんなの、まるで……映画の世界だわ……。とても現実とは思えない……」

「でもさ、あの連中は、店の情報、どうやって入手したんだろう?」
倫太郎
「ダルがヘマしたんじゃないのか?」

「僕を誰だと思ってる?」
倫太郎
「スーパーハカーだろ」

「ハッカー、な。足は付かないように注意してるっつーの」
倫太郎
「または、俺と比屋定さんが尾行されてた可能性もあるが……」
真帆
「……怖い事、言わないでよ」
倫太郎
「和光市のオフィスやホテルだって荒らされたんだ。比屋定さんがずっとマークされていたのは間違いない」
真帆
「あ、そうだわっ」
真帆は思い出したかのように、スマホを取り出し、電話をかけた。
真帆
「教授に、連絡しないと」
倫太郎
「今日はどこかに身を隠すと伝えておいた方がいい。教授と合流すると、教授にまで危険が及ぶかもしれない」
俺の言葉に、真帆は神妙な顔でうなずいた。
真帆が倫太郎に連れてこられたのは、フェイリス・ニャンニャンの自宅だった。
秋葉原の中心にある高層タワーマンションの最上階である。
少なくとも、コスプレショップの入っていた古ぼけた雑居ビルよりは、セキュリティ的な意味でいくらかマシなのは間違いない。
フェイリスは快く真帆と倫太郎を受け入れてくれ、ベッドと食事を提供してくれた。
至だけは、鈴羽に合流するため、ひとりで『未来ガジェット研究所』に戻っていった。
倫太郎
「このノートPCは、存在するだけで災いを呼ぶだろう」
倫太郎
「手放した方がいい」
落ち着いたところで、紅莉栖のノートPCとハードディスクをどうするかについて、倫太郎と話し合った。
彼は意見を曲げようとはしなかった。
普段の彼はどこか陰があって、あまり強く自分を主張しないタイプに見えたのだが、この件に関してはとにかく頑なだ。
もっとも、頑ななのは真帆も同じではあったが。
真帆
「せめて、ロックを解除して、中身について確かめたいわ」
真帆
「今のところ、それも出来ずに手詰まりだけれど」
倫太郎
「そんな悠長な事を言っている場合じゃない。今すぐ手放すべきだ。一番いいのは、この場で破壊する事だが」
真帆
「破壊する、って……。これは、紅莉栖の形見でもあるのよ?」
倫太郎
「君は、もう少しロジカルな人間だと思ってた」
真帆
「私は、あなたがそんな冷たい人だとは思わなかった」
倫太郎
「…………っ」
真帆の言葉に、倫太郎は一瞬、ひるんだような顔をした。
――この人は、何かを抱えている。
真帆には、そう思えた。
そしてそれはおそらく、紅莉栖に関する事なのだと、容易に想像出来た。
だから、昼間ゴタゴタして訊けなかった事を、この機会にぶつけてみた。
真帆
「あなたは、紅莉栖の事件について何か隠しているように見えるのだけれど」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……俺の知ってる事なんて、どうでもいいような話だ」
どうやらはぐらかすつもりらしいと、真帆は感じた。
昼間、あのような邪魔が入らなければ、話してもらえたのだろうか。
倫太郎
「それより、このPCをどうするか、だ」
倫太郎
「これは、もう友達の形見なんていう私的なレベルのものじゃない」
倫太郎
「国家規模での
争奪戦
①①①
を引き起こす代物なんだ」
真帆
「いったい、どんな陰謀論よ」
倫太郎
「この期に及んで、陰謀論だと言い張るのか?」
倫太郎
「君も見ただろう。あの黒服の外国人たちを」
真帆
「…………」
倫太郎
「君の通うオフィスも、寝泊まりしているホテルも荒らされた」
倫太郎
「紅莉栖の自宅だって放火された」
倫太郎
「その放火事件の後、君の研究室に、FBIを名乗る謎の男たちが調査に来た」
倫太郎
「前にホテルの駐車場で襲われた事だって、もしかしたら関連があるかもしれない」
倫太郎
「普通なら絶対に遭遇しないような出来事が、立て続けに起きている。これは偶然じゃない」
真帆
「だからって、国家規模だなんて……」
真帆にはまだ、雲をつかむような話にしか思えなかった。
あらゆる事象に意味と関連性を持たせようとするのは、陰謀論者が陥りやすい罠だ。
だが実際には、世の中で起きている多くの出来事には、それほど深い意味などない。
そう反論しようとしたら、倫太郎は、続けて真帆が驚くような事を話し始めた。
倫太郎
「事態はこの先、ジョン・タイターの予言通りに進むだろう」
真帆
「ジョン・タイター?」
その名前を、真帆は知らなかった。
倫太郎
「10年前にアメリカのネット掲示板に現れた人物だよ。2036年からタイムマシンに乗ってやってきた、自称未来人だ」
倫太郎
「俺はそいつが
本物
①①




知って
①①①
いる
①①
。会った事もある」
倫太郎
「ジョン・タイターによれば、2015年には第三次世界大戦が起きる」
倫太郎
「その原因は、タイムマシンだ」
真帆
「……馬鹿にしているの?」
倫太郎
「いたって真面目だ」
倫太郎
「中鉢博士の事を知りたがっていたな」
倫太郎
「奴は、紅莉栖の父親だ」
真帆
「……!」
倫太郎
「中鉢論文には、紅莉栖が関わっていた可能性がある」
真帆
「……な……なんですって」
中鉢論文は、真帆も興味本位で読んでいた。
去年の夏、ロシアに亡命し、タイムマシンに関する論文を大々的に発表した。
それが中鉢論文だが、その中身はあまりに稚拙で、読む価値もないものだった。
それに紅莉栖が関わっていたなど、とうてい信じられる話ではないが……。
倫太郎
「論文は劣化版で、もしも、紅莉栖自身が書いたオリジナルが存在するとしたら?」
真帆
「……!」
倫太郎
「紅莉栖の残したノートPCとポータブルハードディスク。その中身が実際のところなんなのかは、関係ない」
倫太郎
「ただ、それを手に入れたがっている連中がいるんだ」
真帆
「ちょ、ちょっと待って……。少し、整理させて……」
倫太郎の話が本当なのかどうなのか。
少しだけ冷静になって、考えてみる。
普通の状況なら、そんなものは眉唾物の与太話だと、相手にもしなかっただろう。
けれど、真帆がここ最近経験してきた事は、普通ではない。
だから、倫太郎の言葉を明確に否定出来ずにいる。
何より、真帆自身、陰謀論めいた事を考えていなかったわけではないのだ。
真帆
「……私も、このPCが狙われているかもしれないという予感は、していたのよ」
真帆
「ただ、あなたの話は、私の予想とは、あまりにもかけ離れすぎていて……」
倫太郎
「予想とは?」
真帆
「『Amadeus』の、軍事転用の事じゃないかと考えていたの」
倫太郎
「軍事転用……」
真帆
「紅莉栖は『
精神生理学研究所

』にもよく出入りしていたんだけど、時々、場違いな連中がそこにやって来るって言ってたの」
真帆
「どうも
国防総省

の人じゃないかって」
倫太郎
「『Amadeus』で、人を殺せるのか? どうやって?」
真帆
「たとえば、百戦錬磨のパイロットから記憶データをコピーして、無人戦闘機の制御に使う――とか」
真帆
「あと、以前話した医療への応用、覚えてる?」
倫太郎
「ええと……人間の脳へ記憶データを書き戻すってやつかな」
真帆
「そう」
真帆
「記憶データを修正した上で、書き戻しが可能になれば、“恐怖を感じない兵士”や“どんな非道な任務でも平然と遂行する部隊”なんていう、恐ろしいものまで作れてしまう」
真帆
「私はてっきり、紅莉栖がそういった実験の証拠を偶然知ってしまったんじゃないかと思っていたの」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「なあ、『Amadeus』の研究には、米軍が関与していたりは……しないよな?」
真帆
「するわけないでしょう?」
倫太郎
「本当にそう言い切れるか? 君はあくまで研究者であって、プロジェクトの総責任者じゃない」
真帆
「レスキネン教授だって、軍に関与なんてさせないわ」
倫太郎
「だよな……」
倫太郎
「あれは、別の世界線の話だし……」
真帆
「世界線? なんの事?」
倫太郎
「いや、忘れてくれ。俺の、考えすぎだと思う」
歯切れの悪い言い方だ。
そんな風に言われたら、真帆としてはモヤモヤしてしまう。
結局、ジョン・タイターの話をもう少し踏み込んで問い詰めたかったものの、倫太郎はそれ以上の事を話してはくれなかった。
紅莉栖のノートPCとハードディスクは、ロックの解除が出来ていない以上、真帆が持っていても仕方がない。
それに倫太郎の言う通り、襲撃者の存在は恐ろしかった。
だから、やむなく彼に預ける事にした。
破壊するかどうかについては、はっきりとは明言してくれなかった。
レスキネン
「マホ! 無事でよかった!」
真帆が和光市のオフィスに顔を出すと、すでに来ていたレスキネン教授が両手を広げ、大きな体でハグしてきた。
真帆
「教授……! 苦しい!」
レスキネン
「おお、済まない。Hahaha」
オフィスは荒らされたという話だったが、すでにその痕跡はなく、キレイに片付けられていた。
真帆
「教授が片付けたんですか?」
レスキネン
「荒らされたと言っても、もともと私とマホしか使っていなかったわけだし、荷物も多くなかったからね」
レスキネン
「後は、警察に任せてある」
オフィスが荒らされてから、2日が経過していた。
真帆は昨日、一昨日とフェイリスの家で過ごし、今日になってレスキネン教授と連絡を取り合って、和光市まで荷物を取りに来たのだ。
明日は当初の予定通り、帰国する日である。
このオフィスも引き払う事になるのだ。
真帆
「犯人は、まだ捕まっていないんですよね?」
レスキネン
「ああ」
レスキネン
「日本に来てから、災難続きだな」
真帆
「ですね……」
2人で、ガランとしたオフィスを見回す。
なんだかんだで忙しない2ヶ月間だった。
レスキネン
「マホはどうだったかな? 日本はもうひとつの故郷でもあるわけだろう? 感想は?」
真帆
「早く大学に戻って、研究に打ち込みたいですね。この2ヶ月、資料をまとめてばかりだった気がするので」
レスキネン
「Hahaha、マホは真面目だね」
真帆
「それと……紅莉栖が最後の時間を過ごした、この国の空気を感じる事が出来たのは……よかったです」
レスキネン
「マホ……」
ただ、紅莉栖がなぜ死んだのか、その真相はいまだに真帆の中で解決出来ていない。それどころか疑問は日本に来てからさらに増えた。
このモヤモヤを抱えたまま帰国しなければならないのは、歯がゆいところだった。
せめて、倫太郎がすべてを話してくれれば……。
真帆
「そう言えば」
そこで真帆は、ふと思い出した。
真帆
「『Amadeus』のテスターの件は、どうします?」
もちろん、岡部倫太郎の件である。
真帆もレスキネン教授も帰国するとなれば、倫太郎に頼んでいるテスターの件も終了してもらわなければならない。
レスキネン
「Hum、そうだね……」
なぜかそこで教授が考え込んだため、真帆は戸惑った。
考えるまでもない事だと思っていたが、違うのだろうか。
レスキネン
「テスターは、このまま続けてもらおうと思っているんだが、どうだろう?」
真帆
「えっ!?」
真帆
「本気ですか?」
レスキネン
「実際、リンターロと話す事で、“クリス”はこれまでにないような反応をして見せているだろう?」
レスキネン
「今後は、彼だけでなく、もっと多くのテスターを使っていきたいとも考えているところだし」
真帆
「セキュリティの面で、不安があるのでは?」
真帆
「アメリカと日本だと、離れすぎていて、何かトラブルが起きた時に対処出来ません」
レスキネン
「大丈夫さ。私は、リンターロを信じているからね!」
真帆
「いや、信じるとか信じないという話ではなくてですね……」
レスキネン
「それに、テストを継続すれば、マホだって定期的にリンターロと連絡を取れるよ?」
真帆
「なっ!? わ、私は関係ないでしょう!?」
レスキネン
「そうかい?」
真帆
「そうですよ!」
レスキネン
「では、今後のリンターロとの連絡は私が直接取る事にしよう」
真帆
「べ、別に構いませんよっ」
はぐらかされたような気がしないでもなかったが、真帆は照れてしまってそれ以上の追求が出来なくなってしまった。
ただ、レスキネン教授がそこまで倫太郎にこだわっていた事は、意外だった。
出会った頃から教授は、やけに岡部倫太郎という青年に対して好意的だった気がする。
単にお気に入りなのか、彼が紅莉栖の友人だったからなのか、あるいはそれ以外の何かがあるのか。
真帆には、わからなかった。
――翌日。
真帆とレスキネン教授は、予定通り、成田空港からアメリカへと帰国した。
見送りに来てくれた倫太郎に、レスキネン教授からテスト継続の話をしたら、彼自身もひどく驚いていた。
――そして、半年の時間が流れた。
ヴィクトル・コンドリア大学の敷地内は、ひっそりと静まり返っていた。
時刻は、夜の11時過ぎ。
研究室によっては、深夜どころか朝までぶっ通しで実験をしているところもあるため、人の出入りは皆無ではない。
だが、昼に比べればはるかに静かだ。
廊下の照明なども消されているため、1人で歩くには少し心細さも感じる。
真帆は、隣接する研究所員用アパートメントで暮らしている。
この夜は、自室で色々考えているうちに頭がパンクしそうになっていた。
すると部屋からちょうど見る事が出来る『脳科学研究所』の窓に、こんな時間だというのに明かりが点いている事に気付いたのだ。
きっとレスキネン教授が残っているのだろうと考えた真帆は、コーヒーを保温用のポットに入れて持っていく事にしたのである。
真帆
(そもそも、なんで私はタイムマシンの研究なんかに没頭しているのかしら……)
1月に日本から戻って以来、真帆はその研究に打ち込んでいた。自分で言うのもなんだが、執着しすぎていると言ってもいい。
むろん、これはオープンに出来ない研究である上、本来の仕事に支障をきたすわけにもいかないので、必然的に、就業時間の後にこっそり自室で行っているのだが。
その結果、毎日のように深夜まで専門外の物理学と格闘する羽目になり、寝不足や疲労もいよいよ耐えがたいレベルにまで達しつつあった。
――タイムマシンなんて、馬鹿らしい。
今でもそう思っているというのに、ここまで必死になっている自分に、真帆は驚いていた。
真帆
(それもこれも、岡部さんのせいよ……)
日本で過ごしていた際、岡部倫太郎から言われた事が強く心に引っ掛かっているのだ。
倫太郎
「中鉢論文には、紅莉栖が関わっていた可能性がある」
それが、倫太郎の嘘だったり思い違いだったり、単なる妄想である可能性だってある。
にもかかわらず、真帆はそれが事実かもしれないと、思いたがっていた。
もちろん、中鉢論文を見る限り、あれを紅莉栖が書いたとは絶対に信じたくない。それほど稚拙な内容だった。
だが――。
倫太郎
「論文は劣化版で、もしも、紅莉栖自身が書いたオリジナルが存在するとしたら?」
それを、単なる可能性でしかないと切り捨てれば、真帆も楽だっただろう。
それが出来なかったのはいかにも比屋定真帆らしいと、真帆は自分を分析していた。
――紅莉栖が見つけたものを、自分も見つけたい。
そんな願望が、真帆を突き動かしている。
だが、時間という名の摂理を超越する理論は、検討すればするほど難解だった。難解すぎて、自分が信じたいと思うものさえすぐにグラグラと崩れてしまいそうになる。
そうして、やがていつもの歪んだコンプレックスが首をもたげてくるのだ。
真帆
「……紅莉栖……私、やっぱり、あなたにはなれない……」
ともすれば、大切で、愛おしくて、かけがえのない友達なのに――妬ましくて、恨めしくて、悔しいという表裏一体な感覚が、真帆の心に忍び込もうとする。
そんな風に思考がグルグル回り出すと、研究にも手が付かなくなる。
レスキネン教授と軽く話でもして、今日は寝てしまおう。
真帆はそんな事を考えながら、研究室へと向かった。
真帆
「教授?」
レスキネン
「ん? やあ、マホ」
レスキネン教授は、真帆の突然の来訪に驚いた様子だったが、すぐにイスから立って出迎えてくれた。
レスキネン
「どうしたんだい、こんな夜中に?」
レスキネン
「子供は、もう寝る時間だよ?」
真帆
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
レスキネン
「Hahaha。違いない!」
真帆の鋭い切り返しに、レスキネンは子供のように無邪気な顔で笑った。
真帆
「私の部屋から、明かりが見えたものですから。――これ、どうぞ」
ちょうどレスキネン教授のデスクの上に置かれているカップが空だったので、真帆はポットに入れてきたコーヒーを注いだ。
真帆の好きな、ベタベタと甘いカフェオレではなく、ちゃんと教授の好みに合わせてブラックにしてある。
湯気とともに、いい香りがふわりと部屋に広がった。
レスキネン
「これは驚いた。マホがコーヒーをごちそうしてくれるとは」
真帆
「私だって、このくらいの気は利きますよ」
レスキネン
「でも、君はこういうのが嫌いだっただろう?」
レスキネン
「あれは確か、君がこの研究所に来た最初の日だったかな――」
レスキネン
「メアリーが、みんなにモーニングコーヒーを配って回っていたら、君はそれを断って、こう言ったじゃないか」
レスキネン
「“あなたはコーヒーを淹れるためにここに勤務しているのですか?”」
レスキネン
「“その時間があったら、早く仕事を始めてはどうです?”とね」
レスキネン
「いやはや、すごい子が来たものだと、驚かされたよ」
真帆
「そ、そんな古い話、いまさら持ち出さなくてもいいじゃないですか……」
真帆は、恥ずかしさのあまり、ぷうっと頬を膨らませた。
真帆
「あの頃は、その……天才少女とか言われて、ちょっといい気になってたというか……何もわからない子供だったんです……」
真帆
「ちゃんと反省はしています」
ちなみに、研究員であるメアリーとは、真帆が謝った後は良好な関係を築いている。
真帆
「本当に教授は意地悪ですね。もう二度とコーヒーなんて持って来ませんから、そのつもりで」
いっそ、せっかく淹れたコーヒーを取り上げて持って帰ろうかと思った矢先――。
アマデウス紅莉栖
「そうですよ。教授、あんまり先輩をいじめないであげてください」
レスキネン教授のデスクトップPCから、声がした。
真帆
「あら、“紅莉栖”?」
アマデウス紅莉栖
「はい、私です」
レスキネン
「ちょうど、彼女のプログラムの検証中だったんだ」
モニターの画面が見える場所へ移動すると、そこには確かに、“紅莉栖”のCGが表示されていた。『Amadeus』が起動していたのだ。
アマデウス紅莉栖
「こんばんは、先輩」
真帆
「こんな時間までご苦労様」
相手はあくまでもコンピューター上で走っているプログラムに過ぎないのだが、ついついそう言ってしまった。そんな自分に気付き、マホは苦笑してしまう。
付き合いが長いため、真帆にとって“紅莉栖”は、もはや人間となんら変わらない。
レスキネン
「別に私は、マホをいじめてるわけじゃないよ」
レスキネン
「メアリーとの件だって、私はマホを好ましく思ったものさ。極めて合理的でクールで、しかも面白い子だとね」
レスキネン
「だから私の助手になってもらったわけだし」
レスキネン
「もちろん……今の優しい君も嫌いじゃないけどね」
レスキネン教授はそう言って軽くウインクをすると、コーヒーカップに手を伸ばした。
レスキネン
「ありがとう。いただくよ」
コーヒーを飲みながら、両方の目頭を指でつまんでぐりぐりとマッサージしている。
表面上は明るく振る舞っているが、どうやら相当疲れているようだ。
真帆
「プログラムの検証って、何をしていたんです?」
レスキネン
「ああ、今まとめている論文のアレだよ」
真帆
「『Amadeus』が嘘をつくメカニズムですか」
レスキネン
「その部分のプログラムが解析出来ると、人間が嘘をつく仕組みも、もっと詳しくわかるんだがね」
アマデウス紅莉栖
「女性の嘘は、時に重大な秘密を含んでいます。それを暴こうというのは感心しません」
画面の中の“紅莉栖”が、至極真面目な顔をして言う。
レスキネン
「何も、君の嘘を暴こうっていうんじゃない。嘘をつく時の“思考の過程”を知りたいだけだよ」
アマデウス紅莉栖
「まぁ、いいです。何か暴露するハメになったら、まず、真帆先輩が隠してる甘い秘密を喋る事にしますから」
真帆
「ちょっと。おかしな事を言わないでちょうだい」
真帆
「っていうか、甘い秘密って何?」
アマデウス紅莉栖
「なんでしょうね?」
とぼけた顔をされた。
紅莉栖は、たまにこういう茶目っ気のある態度をするのだ。
そこが小憎らしくもあり、かわいげのあるところでもある。
アマデウス紅莉栖
「ん~、たとえば……」
アマデウス紅莉栖
「ゲームセンターで“彼”に取ってもらったぬいぐるみの件……私が気づいていないとでも?」
真帆
「……は?」
ゲームセンター、と言われて真帆の脳裏にすぐに思い浮かんだのは、日本の秋葉原での出来事だった。
真帆が何度挑戦しても取れなかったぬいぐるみを、倫太郎があっさり手に入れて、真帆にプレゼントしてくれたのだ。
真帆
「あれが何?」
アマデウス紅莉栖
「ずっと先輩のベッドに置いてあるんですよね?」
真帆
「な、何を馬鹿な事を言っているの!? ……あれは、紅莉栖のお母さんへのお土産よ」
アマデウス紅莉栖
「じゃあ、なんで先輩の部屋に?」
真帆
「だ、だって。お母さんは、新しい家をまだ探してるって言うし、それまでは仮のアパートメント住まいだし、引っ越しの時の荷物になったらアレかなと思って……」
アマデウス紅莉栖
「本当ですか~?」
真帆
「ほ、本当よっ」
真帆
「大体、あのぬいぐるみは、私にとっても紅莉栖の大事な思い出なんですもの。抱いて寝るのがそんなにおかしい?」
アマデウス紅莉栖
「ああ、やっぱり先輩のベッドにあるんですね、アレ」
アマデウス紅莉栖
「しかも、抱いて寝てるなんて、とってもキュート! そのあたり、もっと詳しく教えてください」
真帆
「うぐっ!」
プログラムのくせに生意気にもカマをかけてきた――真帆がそう気づいた時には、後の祭りだった。
“紅莉栖”も、ずっと話を聞いていたレスキネン教授も、やたらとニコニコして真帆を見ている。
真帆
「ぅ~~」
真帆はそんな2人を、顔を真っ赤にして睨みつけた。
レスキネン
「これはどうやら“クリス”の勝ちのようだね」
真帆
「か、勝ち負けとか関係ありません! もう私は寝ます、おやすみなさいっ!」
真帆は
憤懣
ふんまん
やるかたない様子でレスキネンの部屋を出ていこうとした。
すると“紅莉栖”が、とどめとばかりに追撃の一言を真帆の背中に投げかけてきた。
アマデウス紅莉栖
「先輩、もう1週間も岡部と連絡取ってませんよ」
アマデウス紅莉栖
「忙しいからと言って連絡をおろそかにしていると、後で後悔しちゃいますからね?」
真帆
「あのね……」
真帆
「どうしてもあなたは、私と岡部さんをくっつけたいの?」
真帆はPCモニタへと詰め寄ったが、“紅莉栖”が意に介している様子はなかった。
アマデウス紅莉栖
「たまには直接会ってみたいなって思ったりしませんか?」
真帆
「思いません」
レスキネン
「そうか、残念だな」
そこでなぜかレスキネンが、悲しそうに首を左右に振った。
レスキネン
「近々、また共同研究で日本に呼ばれているんだ。その時、リンターロに連絡を取ってみようと思っているんだ」
レスキネン
「マホも一緒に連れていこうかどうか、悩んでいたんだが。これは、やめた方がよさそうだね」
真帆
「え!?」
それは、真帆にはまったくの初耳だった。
レスキネンのプロジェクトならば、研究所内のネットワークを通じて自分にも事前の情報が回ってくるはずなのに、である。
真帆
「日本へ、また行くんですか!?」
レスキネン
「ああ」
真帆
「…………」
反射的に“行きたい”と言おうとして、ぐっと自制した。
そんな事を言えば、またレスキネンと“紅莉栖”にからかわれてしまう。
とはいえ、このチャンスを逃すのも躊躇われる。
日本では、まだやり残した事も多い。
何よりも、改めて倫太郎に対して直接聞いてみたいのだ。タイムマシンの事を。紅莉栖の事を。
決して、倫太郎本人とあれこれ話してみたいとか、そういう感情は関係ない。
真帆
「……ぜひ、私も連れていってください」
結局、観念してそう訴えた。
レスキネン
「Oh! ついに素直になったんだね!」
アマデウス紅莉栖
「では告白プランを考えましょう!」
真帆
「あなたたちね……」
もはや、ツッコミを入れたり訂正したりするのも面倒になりつつある真帆である。
レスキネン
「ま、冗談はさておき」
レスキネン
「君を連れて行けるかどうかは、微妙なところなんだ」
真帆
「と、言うと?」
レスキネン
「君は、日本で色々な事件に巻き込まれたろう? 脳科学研究所としては、その事をかなり気にしていてね」
真帆
「そんな……!」
レスキネン
「クリスの件もあったし、優秀な人材をこれ以上、危険な目に合わせるわけにいかないというのが、理事たちの考えなんだよ」
真帆
「私なら大丈夫です! 現に、こうして無事でいるじゃないですか!」
レスキネン
「……ほう、つまりマホは、そこまでして日本にいるリンターロに会いたい、と」
真帆
「いい加減、セクハラになりますよ?」
レスキネン
「Oh! それは勘弁してくれ!」
アマデウス紅莉栖
「でも、本気で交際を検討してみては?」
アマデウス紅莉栖
「将来的には、岡部もこっちに来る可能性があるんでしょう? だったら、今のうちに唾を付けておくべきですって」
真帆
「お節介な親戚のおばさんみたいな事を言うのはやめなさい……」
レスキネン
「マホの考えは理解したよ」
レスキネン
「私からも、理事に話をしてみよう。ただし、だからと言って日本に行けるという保証は出来ないからね」
真帆
「はい。ありがとうございます」
アマデウス紅莉栖
「私はけっこう本気なんですけどね……」
真帆
「まだ言っているの? まったく……」
なんだか、本当に紅莉栖と話しているような気がすると、真帆は感じていた。
その感覚は、『Amadeus』開発当初よりもずっと強くなってきている。
それゆえに、ここ最近、何度も検討しては自制してきた事が頭をよぎってしまうのだ。
真帆
(この“紅莉栖”にタイムマシンの事を相談してみたらどうだろう?)
紅莉栖が、生前に本当にタイムマシン理論を完成させたのか、それは定かではない。
だが、もし完成させていたとするなら、“紅莉栖”の記憶内にも、その片鱗が眠っているかも知れないのだ。
もっとも、レスキネン教授の前ではそんな事などとても話は出来ないが。自室でこっそりタイムマシンの研究をしている事だって、決して公言出来るものではない。
もし研究所の人たちに知られれば、きっと間違いなく馬鹿にされるだろう。
そもそもそれは、真帆の本来の研究分野でもないのだ。
真帆
「ええっと……それじゃあ、教授。そろそろ部屋に戻って寝ます」
真帆は話を切り上げると、コーヒーを入れた保温ポットを置いて、研究室を出ようとした。
レスキネン
「ああ、ちょっと待った。最近、“マホ”の記憶データを、まったく更新していないだろう?」
真帆
「……?」
レスキネン
「『Amadeus』の“マホ”の事だよ」
真帆
「あっ、えーと……」
レスキネン
「日本へ行く前に採取したデータが最後じゃないか?」
真帆
「あのー、それはですね……」
真帆は痛いところをつかれて、一瞬、返答に窮した。
真帆
「その……日本では色々と怖い体験をしましたし、『Amadeus』に悪い記憶を残す事もないかな、と」
レスキネン
「気持ちはわかるが、このままだと比較実験が出来ない」
比較実験とは、各種の体験や学習をする前の記憶データと、した後の記憶データとを『Amadeus』上にロードし、その言動の違いを比較検討するというテストである。
体験や学習の有無が人間の脳に与える影響を探るものだが、紅莉栖の逝去によって、現在は真帆にすべてが託されていた。
レスキネン
「今の君と、『Amadeus』の“マホ”とでは、あまりにも記憶が食い違い過ぎていて、別人と言ってもいいほどになってしまっている」
真帆
「は、はい、そうですね……」
レスキネン
「このままだと、君をこのプロジェクトから外して、他の誰かに頼まなくてはならないかもしれないよ」
真帆
「それは……っ」
真帆の顔が曇った。
レスキネン
「“クリス”ばかり相手にしていないで、たまには“自分”も構ってあげなさい。きっと寂しがっている」
レスキネン
「明日、必ず記憶の更新をしておくように。いいね?」
真帆
「……わかりました」
真帆はぺこりと頭を下げると、研究室を出た。
“真帆”の記憶データを更新しないのは、レスキネンに説明した通りだが、実はもうひとつ、理由がある。
倫太郎の言葉だ。
倫太郎
「なあ、『Amadeus』の研究には、米軍が関与していたりは……しないよな?」
確証などない。
ただ、どうしてもその言葉が脳裏から離れないのだ。
『Amadeus』の研究には、裏で大きな力が働いているのではないか。
レスキネンですら関与出来ない、大きな力が……。
もし日本での記憶データを更新した場合、“真帆”は、紅莉栖のノートPCとハードディスクに関する情報を得る事になってしまう。
『Amadeus』の事は信用していても、その裏で『Amadeus』を利用しようとしている連中がいたら、筒抜けになってしまう。
そんな妄想と言ってもいいほどの過剰な不安を、真帆はアメリカに戻ってきてからずっと抱いていたのだ。
真帆
「でもやっぱり……考えすぎよね……」
ボソッと独り言をつぶやいたら。
???
「誰? 誰かそこにいるの!?」
いきなり、暗い廊下の先から、女性の声が響いた。
真帆はギクリとして立ち止まった。
通路の灯りがパッとつき、隣の研究所棟に繋がっている渡り廊下から、数人の男女がゾロゾロと歩いてくるのが見えた。
隣の棟といえば、『精神生理学研究所』である。
真帆の所属する『脳科学研究所』は、脳そのものの機能研究などを主としている。
一方、『精神生理学研究所』は、脳の活動によってもたらされる心の働きや病気など、より医療に近い分野を専門としていた。
真帆
「す、すみません、比屋定真帆です。レスキネン教授の研究室の」
先頭を歩く女性は、真帆も知っている人物だった。
『精神生理学研究所』に所属している、レイエス教授だ。
レイエス
「あら、マホだったの」
真帆
「レイエス教授。こんな時間にお仕事ですか?」
レイエス
「あなたも?」
真帆
「ええ、まぁ……」
レイエス
「お互いに仕事中毒だわね」
ジュディ・レイエス教授は、眼鏡の奥から目を細めて笑った。
レイエス
「アレクシスは? まだ自分のオフィスよね?」
真帆
「はい。『Amadeus』の研究を」
レイエス
「ホント、ご執心ね。自分の娘と勘違いしてるんじゃないかしら」
真帆
「あの、こんな時間にレスキネン教授にお会いになるんですか? もし緊急でのミーティングなら、私も――」
レイエス
「その必要はないわ」
レイエス
「私の研究に少し問題があってね、至急、彼の知恵を借りたいのよ」
レイエス
「あなたがいても特に頼める事はないでしょうし……」
レイエス
「あ、気を悪くしないでね。でも、ありがとう」
レイエスは笑顔のままそう言うと、真帆の横を通り抜けてレスキネンの研究室へと向かった。他の研究員たちもゾロゾロとそれに続いていく。
真帆
(研究に問題って……いったい何だろう?)
よく見ると、その同行している研究所員たちの中に、真帆が見た事のない人物がいるのに気付いた。
その人物が目に止まった理由は、漠然としていた。なんと言ったらいいのか――彼は、全く
学者
①①
らしく
①①①
ない
①①
のだ。
研究者として日々過ごしていれば、同じ匂いを持つ科学者連中というのはおのずからそうとわかるものだ。
しかし、その男は明らかにまわりと異なる雰囲気を醸し出していて、しかも、レイエス教授に対してもひどく不遜に振る舞っている。
彼女の研究室の者なら、そんな事は絶対にしない。
それに、レイエス教授を含めて他の署員が全員、白衣を着用しているのに、その男だけは、まったく乱れのないスーツをピシッと着込んでいた。
真帆はどうにも腑に落ちなかった。
一度は自分の部屋に戻りかけたが――。
真帆
「…………」
やはり、どうしても気になったため、回れ右して、足音を消しつつレスキネンの研究室へと向かった。
レスキネン教授の研究室のドアは、わずかに開いていた。
そこから、中の話し声が聞こえてくる。
よくない事だと認識しつつも、真帆はドアに顔を寄せ、聞き耳を立てた。
レイエス
「――いつまで泳がせておくつもり?」
レスキネン
「貴重な情報源だ。ヘタに動いて、破棄でもされたらもったいないだろう?」
レスキネン
「いずれにせよ、今月中に日本に発つ。そこで回収するつもりさ」
レイエス
「なぜ半年近くも様子を見たのか、納得のいく説明が出来るのかしら?」
レスキネン
「彼らは、我々が知っている事以上の何かを、隠しているような気がしてね」
レスキネン
「そこで、『Amadeus』を使って聞き出そうとしたんだが……」
レスキネン
「かなり警戒心が強い。慎重な青年だよ、リンターロ・オカベは」
レイエス
「マホに、お得意の
施術
①①
でもしてあげたら?」
レスキネン
「彼女は何も知らないと思うがね」
自分の名前が出た事で、真帆は大きく動揺してしまった。
真帆
「……っ」
そして――。
自分が、大きなミスを犯した事に気付いた。
聞き耳を立てる事に集中しすぎたあまり、ドアをわずかに肩で押してしまったのだ。
この研究室のドアは、建て付けがあまりよくない。
軋むような音が響き、部屋の中にいた人たちが全員、一斉に振り向いた。
レイエス
「誰!?」
逃げた方がいいかもいしれない、と真帆は思ったが、意に反して体はまったく動いてくれなかった。
2人の教授が何を話しているのかまったく理解出来ず、見つかってしまってもただ、その場に立ち尽くすばかりだった。
信じられなかった。信じたくなかった。
こんなの、サスペンス映画よりもひどい、と思った。
レイエス教授と一緒にいた研究員たちが、真帆の左右から腕を抱えるようにして、がっちりと拘束してきた。そのまま、部屋の中に連れ込まれる。
真帆
「教授……今の話は、いったい……」
レスキネンが、少し悲しそうな表情をしながら、真帆の前にやって来た。巨体を屈めて、顔をのぞき込んでくる。
レスキネン
「やれやれ。聞いてしまったんだね」
レスキネン
「まあ、ちょうどいい」
レスキネン
「マホ。さっきの日本行きの話だけどね。やはり、君にも一緒に来てもらおう」
意味がわからなかった。
研究所の理事たちが反対しているのではなかったのか。
レスキネンが独断で決められる立場なのか。
何が
ちょうど
①①①①
いい
①①
のか。
困惑したまま、真帆はとっさに、PCモニタを見た。
だがそこに、さっきは映し出されていた“紅莉栖”の姿はなかった。
ただひとつ、真帆が理解出来たのは。
倫太郎が言っていた話は、やはり陰謀論者の妄想などではなかったという事だった。
季節は、もうすぐ7月を迎えようとしている。
今年は
空梅吶
からつゆ
なのか、東京はすでに梅吶明けの様相を呈していた。
というより、気温はとっくに夏の暑さだ。
倫太郎
(夏、か……)
つまり……あの出来事があってから、もう1年になろうとしているんだ。
そんな土曜日の昼下がり。
家にいると暑すぎる上に、家業の手伝いをしろと親父がうるさいので、俺はこうして池袋の駅近くまで出てきていた。
1年前なら、ラボという居場所があったのだが、今は鈴羽が生活している事もあって、あまり足を運ばないようにしている。
だがそうなると、休日に勉強するのに向いている場所は、なかなか見つからなかった。
大学まで行くのも面倒だ。
休日は教室を開放していないだろうし。
もろもろ検討した結果、実家近くにあるこのカフェに数時間居座るというパターンが出来上がったのだ。
実際、この手のカフェには俺と同じように何時間もコーヒー1杯で居座る連中が多い。
ノートパソコンを持ち込んだり、読書をしたり。
俺も、そんなリア充の仲間入りをしたのかもしれないな……と、心の中で苦笑した。
あいつ、俺の家に行ったのか……。
俺の実家である『岡部青果店』は、古い商店街の中にある、ボロい店だ。そろそろ築40年になる。本当にボロい。いい加減、建て替えてほしい。
倫太郎
「ふう……」
集中力が切れてしまった。
あと15分もしないうちにまゆりが来てしまうなら、今日の勉強はお開きだな……。
午前中はそこそこ頑張れたから、まあ、よしとするか。
最近の自分の真面目さには、我ながら少し驚く。
目標がある事で、やる気が湧いてきているのを実感する。
少しでも早く、ヴィクトル・コンドリア大に行けるようにならないと。
倫太郎
(ヴィクトル・コンドリア大学、か……)
真帆とは、『Amadeus』の件でかなり頻繁にメールやチャットのやり取りをしていた。
向こうは研究が大変らしく、いつも眠たそうにしている。
倫太郎
「……!」
と、スマホがブルブルと振動した。
『Amadeus』の“紅莉栖”からだ。
あいつ、最近は普通に自分から連絡してくるようになったな……。
確か最初の頃に、“紅莉栖”からは連絡しないという約束をした気がするんだが。
この半年、毎日のように話をしているせいか、そんな約束などすっかり忘れ去られてしまっている。
俺はやむなく、その呼び出しに応答した。
倫太郎
「はい」
アマデウス紅莉栖
「……何よ? どうして声を潜めてる?」
倫太郎
「しーっ! 今、店の中なんだ」
倫太郎
「頼むから、俺の都合に関係なく連絡してくるのはやめてくれ……」
アマデウス紅莉栖
「あんたがどこで何してるかなんて、さすがに把握してないわよ」
アマデウス紅莉栖
「それとも、私に24時間、監視してほしいの?」
アマデウス紅莉栖
「あんたが寝てる姿とか、お風呂入ってる姿とか、全部のぞき見してほしい、と?」
倫太郎
「…………」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「……なかなかのHENTAIね」
倫太郎
「知った口をきいてすみませんでした……」
アマデウス紅莉栖
「私が連絡したって、あんたが出たくなければ出なくていいの」
アマデウス紅莉栖
「それぐらいで、怒ったりしない」
倫太郎
「そ、そうだな……」
アマデウス紅莉栖
「ま、今は迷惑みたいだから、お望み通り、切るわ」
アマデウス紅莉栖
「確かに、スマホで3Dモデルの女と真面目な顔して会話してる大学生男子って、かなり気持ち悪いし」
倫太郎
「お前な……」
アマデウス紅莉栖
「じょ、冗談よ」
アマデウス紅莉栖
「いつも相手をしてくれて、これでも一応、その……」
アマデウス紅莉栖
「感謝は、してるんだからなっ」
倫太郎
「……そういう話はいいから。とにかく切るぞ」
アマデウス紅莉栖
「あ、ちょっ――」
“紅莉栖”って、いちいち話が長いよな。
本物の方も、確かによく喋る性格ではあったが。
こういう場所で相手をするには、周囲の目が気になってなかなか落ち着かなかった。
画面を見ながら、というのが恥ずかしいだけだから、普通に電話で話す形で会話したらどうだろうと提案した事もあったのだが。
そうすると“紅莉栖”はこう文句を言ったのだ。
――何が悲しくて、あんたの頭を接写状態で見ながら話さないといけないんだ?
実にワガママなプログラムだ。まったく……。
まゆりと合流して向かった先は、東京ハンズだった。
冷房の効いた店内に入ると、生き返ったような気分になる。
まだ6月でこの暑さならば、7月、8月になったらいったいどうなってしまうのだろうと、ゾッとしてしまう。
倫太郎
「それで、いったい何を買うつもりなんだ?」
まゆり
「えっとねえ、商品宣伝用のPOPを作るんだ~。だから、それ用のカードとか、蛍光ペンとか」
倫太郎
「今年はコミマで同人誌でも出す気か?」
まゆり
「違うよ~。岡部青果店で使うんだよ~」
倫太郎
「は? なんだって……?」
俺の実家で?
まゆり
「今日、オカリンの家に行ったときにね、おじさんと、そんな話になって」
まゆり
「じゃあ、まゆしぃが作りますって立候補したの」
倫太郎
「おいおい……」
親父の奴、なんて図々しいんだ。
倫太郎
「お前がそんな事する必要、ないんだぞ?」
まゆり
「でもでも、まゆしぃがやりたいからやっているのです」
倫太郎
「……本当にいいのか?」
まゆり
「オカリンやおじさんおばさんには、いつもお世話になってるから」
倫太郎
「……じゃあ、代わりに今度何かプレゼントするよ」
まゆり
「ホント~? 嬉しいな~」
売り場をざっと見渡すと、POP用の材料はかなりの種類がある。
俺はあまり口を出さずに、まゆりのセンスに任せる事にした。
まゆりはかなり長い時間、じっくりとどれを買うべきか吟味していた。
ただ、まゆりは普段メイクイーン+ニャン⑯で働いているせいか、センスも、なんというか……萌え方向に寄っているんだよな……。
まゆりに任せるのは危険な気がしないでもないが……、かと言って、頼まれたのはまゆりなのだから、俺が口を出すのも違うよな。
ここは大きく構えて、まゆりのセンスに任せよう。
そんなわけで、俺は売り場を適当にウロウロしながら、まゆりが買い物を済ませるのを待つ事にした……のだが。
倫太郎
「…………」
スマホの画面を見ると、“紅莉栖”からだった。
倫太郎
「どうかしたか?」
アマデウス紅莉栖
「もしかして、買い物中?」
倫太郎
「ああ。まゆりとな」
アマデウス紅莉栖
「へえ。デート?」
倫太郎
「スイーツ(笑)」
アマデウス紅莉栖
「その呼び方はやめろと言っとろーが」
倫太郎
「だったら、お前も恋愛脳のクセを直すんだな」
アマデウス紅莉栖
「はいはい。わかったわよ」
アマデウス紅莉栖
「でも、まゆりさんってかわいいわよね~」
アマデウス紅莉栖
「あんなかわいい年下の幼なじみがいるなんて、あんた恵まれてるわよ」
倫太郎
「そうだな」
アマデウス紅莉栖
「これじゃ、真帆先輩の勝ち目は絶望的じゃない……。はあ……」
アマデウス紅莉栖
「かわいげもないし、年齢でも勝てないし、身長も負けてるし、あとバスト的なものも惨敗だし……」
アマデウス紅莉栖
「うう、かわいそうな先輩……」
倫太郎
「それを比屋定さんの前で言ったら、プログラムまるごと消去されるぞ」
アマデウス紅莉栖
「というか、私、いまだにまゆりさんを紹介してもらってない」
アマデウス紅莉栖
「あんた、友達はけっこういるのに、私の事は誰にも教えようとしないわよね」
倫太郎
「守秘義務的なものがあるんだ。あまり人に教えないようにって言われてる」
アマデウス紅莉栖
「本当にそれだけなの?」
アマデウス紅莉栖
「実は、私と話してるのを、人に見られたくないんじゃない?」
倫太郎
「……そんな事はないさ」
倫太郎
「どうしても紹介してほしいなら、比屋定さんに許可をもらうぞ」
倫太郎
「手始めに、俺が一番頼りにしている男であるダルを紹介しよう」
倫太郎
「あいつなら、お前には相当食いつくはずだ」
アマデウス紅莉栖
「24時間延々とエロ目線で見つめられて、ハァハァされ続けるんですねわかります」
アマデウス紅莉栖
「HENTAIが怖い……」
“紅莉栖”は青い顔をして、震え始めた。
ダルの人となりは、俺から“紅莉栖”にしつこいぐらい吹き込んであるからな。
あいつの手に渡った瞬間、自分がどうオモチャにされるか、容易に想像がついたんだろう。
アマデウス紅莉栖
「やっぱり、紹介はしてくれなくていいわ……」
アマデウス紅莉栖
「あんたが相手をしてくれるだけで、じゅうぶんと思わなくちゃ――」
まゆり
「オカリ~ン」
アマデウス紅莉栖
「!」
まゆりが、買い物カゴを持って俺のところに戻ってきた。
まゆり
「あれ? 今、誰と話してたの?」
倫太郎
「あ、ああ、ええと……」
スマホを見ると、“紅莉栖”の姿は消えて、ホーム画面に戻っていた。
どうやら“紅莉栖”の方から切ったらしい。
倫太郎
「大学の、先輩からだった」
まゆり
「そっかぁ」
……“紅莉栖”の事を、そこまで必死になって隠さなくてもいいかなと、自分でも思うのだが。
一方で、まゆりにだけは、知られない方がいいような気もしていた。
こいつは、少なくとも、俺が去年の夏に
牧瀬
①①
紅莉栖
①①①


救えなかった
①①①①①①


は、知っているわけだから。
倫太郎
「それで、買うものは決まったか?」
まゆり
「あ、うん。こんな感じでどうかな?」
買い物カゴの中には、ハート型やら星型やらのポップシートがたくさん入っていた。
これは……俺の実家の店の雰囲気とは、致命的に合わない気がするが……。
だが、最初に決めた事だ。
すべてまゆりのセンスに任せる、と。
後で親父に文句を言われるかもしれないが、知った事じゃない。
まゆりに頼んだのは、俺じゃなくて親父なんだからな。
というわけで、俺は何も文句を言わずに会計へと向かった。
土曜日という事もあってレジ付近は会計を待つ客でごった返していた。
時間がかかりそうなので、まゆりには、別フロアにあるキャラグッズ売り場あたりで待っていてもらう事にした。
あそこなら、まゆりの好きな『
雷ネット翔

』関連のグッズも扱っているはず。
まゆりは申し訳なさそうにしながらも、俺の言う事に従ってくれた。
結局、レジで会計を済ませるのに15分もかかってしまった。
そのお詫びも兼ねて、『プレゼントする』という約束を早速果たすことにした。
まゆり
「えっへへ~♪」
まゆりが、本当に嬉しそうに顔をとろけさせて、手に持っているキーホルダーを眺めている。
『雷ネット翔』に登場するマスコットキャラの“うーぱ”だ。
待っていてもらったキャラグッズ売り場で、なんでも好きな物を選んでいいと言ったら、これを持ってきたのだ。
倫太郎
「“うーぱ”なら、もう大量に持ってるのに……ずいぶん嬉しそうだな」
倫太郎
「しかもそれって、普通の緑色の“うーぱ”だろう? レアなやつじゃないよな」
倫太郎
「レアなのは、確か……『メタルうーぱ』だっけか?」
うーぱの中でなんといっても人気が高く、グッズの希少性が高いのは、全身が銀色に輝くメタルうーぱだ。
たとえば、コンビニの商品クジでも、特賞はメタルうーぱと相場が決まっている。
ネットオークションに出せば何万円にもなると、前にまゆり自身から聞いた事があった。
まゆり
「ちっちっち」
まゆりはなぜか、気取った様子で人差し指を左右に振った。
まゆり
「違うんだな~」
まゆり
「これはね、緑のうーぱさんだけど、普通のとは違うの」
まゆり
「この前やってた映画に登場した、“緑の妖精さんうーぱ”なんだよ」
そう言えば、『雷ネット翔』の劇場版が、春に公開されていたな。
まゆりも子供たちに紛れて、見に行ったんだろうか?
倫太郎
「緑の妖精さん?」
まゆり
「映画のネタバレ、してもいいかな?」
倫太郎
「いいぞ。どうせ見ないし」
まゆり
「えっと、今回の映画はね、ばーちゃる世界で悪のスーパーハッカーさんたちとバトルをするんだ」
まゆり
「そのばーちゃる世界が、妖精さんの住む森なのです」
まゆり
「スーパーハッカーさんはすごく強くてね、

かける
くんもうーぱも、ピンチになっちゃうんだけど……」
まゆり
「もうダメだーっ、ていう時にね、妖精さんたちが助けに来てくれるの」
まゆり
「実は、その妖精さんたちは、翔くんがお世話をしてた、学校の花壇のお花さんたちだったんだよー」
まゆり
「いつも優しくしてくれる翔くんを助けるためにね、ばーちゃる世界でぴかぴか~ん! って光って、うーぱと合体するんだー」
まゆり
「それが、この“緑の妖精さんうーぱ”。すっごくかわいいし、すっごく強いんだよー」
まゆり
「まゆしぃ感動したなー。そういう話に弱いんだー。監督さん、天才だよー」
倫太郎
「な、なるほどな」
まゆりがこんなに熱く語る事は珍しい。
確かによく見れば、まゆりが持っているうーぱは、ただの緑色のうーぱとはデザインが少し違うようにも見える。
あまりうーぱに詳しいわけではないので、どこがどう違うか……と問われると困ってしまうが。
まゆり
「このキーホルダーね、けっこうあちこち探してたんだ♪」
まゆり
「すっごく人気があってね、どこも売り切れだったんだよー。まさか、ハンズに残ってるなんて思わなかったなあ」
倫太郎
「ラッキーだったな」
まゆり
「うんっ。しかも、これが最後の1個だったんだよ」
まゆり
「今日は来て良かった。オカリンと、おじさんには、感謝しなくちゃ~」
まゆりは、紙製の商品タグを指先で器用に外すと、バッグの中から家の鍵を取り出し、そこに慎重に取り付けた。
まゆり
「ね、オカリン? まゆしぃね、これ、ずっとずっと大切にするね」
倫太郎
「ああ、そうしてくれ」
倫太郎
「くれぐれも、買って5分でなくしたりしないようにな」
まゆりには前科があるからな。
ラジ館で俺が当ててやったメタルうーぱ。
それをまゆりは、手に入れてから、ものの5分でなくしてしまったのだ。
結局あのメタルうーぱは、見つからないままだっただろうか。
あの時期の事はあまり思い出したくなかったから、メタルうーぱの行方に関する記憶なんておぼろげなままだ。
まゆり
「うん。もう絶対に、ぜ~ったいに、なくさないのです」
そんな話をしながら、2人で帰路に付く。
まゆり
「オカリンのお店のPOP、張り切って作るね!」
倫太郎
「あー、その作業があったな……」
材料を買っただけで終わりだと思い込んでいたが。
むしろここからが、作業の本番だと言える。
倫太郎
「俺も手伝おうか?」
まゆり
「ううん。大丈夫。まゆしぃのセンスを信じてほしいな~」
倫太郎
「……ハートマークのPOPを買おうとしてた時点で、センスを疑うぞ」
まゆり
「大丈夫だよ~」
倫太郎
「ま、POPを作ってくれるだけでもありがたいから、文句は言わないけどな」
まゆり
「あ、お母さんにメールしなきゃ。晩ご飯までには帰りますって」
倫太郎
「なんなら、ウチで食べてってもいいぞ。どうせ親父やおふくろが引き留めるだろうし」
まゆり
「う~ん、どうしようかな~」
まゆり
「オカリンは、今日はこの後、ずっと家にいるの? 合コンとか、行かない?」
倫太郎
「最近は全然行ってないよ」
去年の秋ぐらいは、厨二病をやめて普通の大学生になろうと、かなり無理して合コンにも行きまくっていたが。
最近は勉強に打ち込んでいる事もあって、すっかりそういう機会も減った。
まゆり
「そっか~。じゃあ、ごちそうになっていこうかな~」
まゆりは少し迷った様子でスマホを取り出し、メールを打とうとしたところで――。
まゆり
「…………」
その表情が、突然曇った。
その場に立ち止まってしまう。
倫太郎
「どうした?」
まゆり
「うん……。ついさっきね、カエデさんからメールが来てて。気づかなかったよ……」
まゆり
「どうしよう、オカリン……?」
まゆりはひどく動揺していて、今にも泣き出しそうになっている。
倫太郎
「何かあったのか?」
まゆり
「…………」
まゆり
「ねえ、オカリン……?」
まゆり
「前に言ってたよね? フブキちゃんは、病気なんかじゃないって」
倫太郎
「フブキちゃん? 中瀬さんの事か? 来嶋さんの方じゃなくて?」
まゆり
「うん。あれって、本当? 本当に病気じゃないんだよね?」
倫太郎
「あ、ああ。違うはずだ」
まゆり
「でも……」
まゆりは、スマホのメール画面を俺の方へと差し出してきた。
フブキちゃんまた入院しちゃった。これから行って来る。病院ここ
倫太郎
「また入院した……だって?」
俺は信じられない思いで、画面に表示された文章を見つめていた。
フブキが入院した病院は、前と同じ場所ではなく、代々木にある『AH東京総合病院付属 先端医療センター』というところだった。
日本でも指折りの最新医療を誇る病院らしい。
ネットの情報によれば、最近流行している新型脳炎の患者は、今はここに集められて専門の治療が行われているらしい。
だが、同時にネットには、この病院についてのヤバそうな
都市伝説

エピソードが大量に書き込まれていて、いったいどんな伏魔殿かとビクビクした。
だがもちろん、中に入ってみるとそんなおどろおどろしい施設などではなく、いたって清潔で、高級ホテルのようなたたずまいをしていた。
カエデ
「まゆりちゃんっ。オカリンさんっ」
由季
「こっちですっ」
俺とまゆりがロビーに入っていくと、待っていたカエデと由季が手を振った。
由季もカエデからメールをもらったらしく、急遽駆けつけてきたらしい。
まゆり
「フブキちゃんは……?」
由季
「大丈夫だよ」
由季は、不安そうなまゆりの肩を優しく抱いて、微笑んだ。
一方、カエデは済まなそうに頭を下げてくる。
カエデ
「驚かせてごめんね。私も焦っちゃって。もっとちゃんと確認してから、メールすればよかった」
倫太郎
「……というと? 中瀬さんの容体は?」
カエデ
「今、病室でフブキちゃんのお母さんに会えたんですけど、例の病気が悪化したとかじゃないそうです」
倫太郎
「じゃあ、また検査入院……とか?」
カエデ
「はい、そう言ってました。だから全然心配ないって」
まゆり
「な、なんだぁ。はぁぁ……よかったぁ……」
由季に抱かれたまま、まゆりはホッとしたように緊張を解いた。
確かフブキは、以前検査してもらった際、『疑いはあるが、
重篤化
じゅうとくか
しない限り日常生活には支障なし』として、通院による経過観察となっていたはずだ。
新型脳炎自体は、日本国内に上陸してから半年以上になるが、いまだに患者数は増え続けているらしい。
ただ、不幸中の幸いというべきか、死者は1人も出ていない。
倫太郎
(あれは、病気なんかじゃないと思うけどな……)
俺の中では、新型脳炎と称されるものが、実はリーディング・シュタイナーに近いものなのではないかと思っている。
以前、フブキの見舞いにかこつけたりしながら、彼女以外の患者についてもこっそり調べた事がある。
確証を得るまでには至らなかったが、少なくとも当時フブキと同じ病棟に入院させられていた患者のほとんどは、程度の差こそあれ“同じ世界線”らしき記憶を有していたことを突き止めた。
あの、戦争状態にあった日本の記憶を、複数人が持っていたのだ。
まゆり
「フブキちゃんに、会えるかな?」
カエデ
「それがね、今、MRIで、脳の検査をしている最中なんですって。だから病室にいないの」
まゆり
「そうなんだ……」
カエデ
「でも、もう少しで終わるみたいよ。ここで待っていてって、フブキちゃんのお母さんが」
カエデは、まゆりに、傍らのソファへ座るよう促した。
カエデ
「検査が終わったら、声をかけてくれるみたい」
女性陣はソファに座らせて、俺は傍らに立ったまま、ロビーを見回した。
由季
「すごい病院ですよね」
倫太郎
「あ、ああ」
倫太郎
「中瀬さんの家って、実はすごい金持ちだったりするのか? こんなところに入院なんて」
カエデ
「いえ、そうじゃなくってですね……」
カエデ
「フブキちゃんのお母さんの話だと、日本とアメリカの政府がお金を出して、新しい治療のプロジェクトを始めるみたいなんです」
カエデ
「この病院と、アメリカの専門病院や研究所が中心になって、やるんだそうですよ」
倫太郎
「そうなのか……」
内心、複雑な気持ちになってしまう。
この新型脳炎と言われるものが、仮に、俺の考えている通り、病気なんかじゃないとしたら……これほど無駄な事はないだろう。
男性
「お願いします。患者は全員、個室にして下さい。それも、患者同士が接触しないよう、なるべく離れた部屋で」
医師
「しかしねえ、そんな都合よく病床は空いていませんから」
男性
「それでもやってくれないとダメです。患者同士が会話をする事で、“夢”の情報を共有してしまうでしょう?」
医師
「いや、それはそうですが……」
男性
「脳というのはね、他人が見た夢なのに、それに共感を覚えてしまうと、あたかも自分が見た夢のように錯覚してしまう。そういう可能性だってあるのです」
ロビーを横切るようにして、白衣を着た日本人の老医師と、それに追いすがって訴えるように話をしているスーツ姿の大きな人影が、俺の目に飛び込んできた。
倫太郎
「……あっ!」
そのスーツ姿の西洋人には、見覚えがあった。
というか、俺がよく知っている人物だった。
倫太郎
「きょ、教授ッ――レスキネン教授!」
慌てて駆け寄る。
倫太郎
「レスキネン教授! 俺です! 岡部です!」
普通に老医師と日本語でやり取りをしていたので、例の翻訳機を付けているのだろう。だから俺も日本語で呼びかけてみた。
レスキネン教授も俺に気付くと、ものすごい勢いで破顔した。
レスキネン
「オー! リンターロー!」
その声があまりにも大きかったので、医師や看護師、職員、そして患者に至るまで、ロビー中の人たちがこちらを見た。
しかし、レスキネン教授は全く意に介する様子もなく、ズダダダダダと駆け寄って来る。まるで屈強なアメフト選手がタッチダウンを狙っているかのような迫力であった。
倫太郎
「うわぁっ!? ちょ、ちょっと待って下さい教授! ストップ! ストップ!」
俺の哀願も空しく、レスキネン教授は俺に派手なタックルを決めてくると、そのまま全身をグギュウッと締め上げてきた。
アメフト選手からいきなりプロレスラー化した教授は、歓喜の表情のまま俺の体をブルンブルンと振り回す。
まるで自分が子供になってしまったような気分だった。
こうなると、されるがままだ。どうする事も出来ない。
しばらくして周囲の冷たい視線に気付き、ようやくレスキネン教授は俺を解放した。
レスキネン
「いやはや、済まない。あまりに驚いて、はしゃぎすぎてしまった」
レスキネン教授は大きな体を縮こまらせると、周囲の人たちにペコペコと頭をさげた。
医師
「レスキネン先生、この青年とは、どういったお知り合いかな?」
さっきレスキネン教授と話していた初老の医師が、俺の事を怪訝そうに見ていた。
倫太郎
「あ、えと、その……」
どのような知り合いかと訊かれても、特に師弟関係にあるわけでもないからな。なんと答えるべきなんだろう……。
医師
「見たところまだ学生のようだが……どこの大学かね? 教授と同じ脳科学専攻だとすると――」
倫太郎
「いえ、俺は――」
レスキネン
「彼は、9月からヴィクトル・コンドリア大学の学生ですよ。いずれ、私の研究室に来てもらうつもりでいます」
倫太郎
「えっ?」
医師
「ほほぅ、ヴィクトル・コンドリア大学かね。これは驚いた」
レスキネン教授に目だけでどういう事かと訴えかけてみたが、いたずらげな笑みを返されるだけだった。
この人は……。
相変わらず、子供っぽいところがあるな。
医師
「日本人であそこへ行ける学生なんてめったにいない。大したものだ」
倫太郎
「ど、どうも。ははは……」
レスキネン
「Hahaha!」
その後、初老の医師を見送って、俺はレスキネン教授に分かるようにしてため息をついた。
倫太郎
「あの? 今の人は?」
レスキネン
「この病院の院長だよ」
倫太郎
「院長!?」
倫太郎
「そんな偉い人相手に、堂々と嘘をついたんですか……」
レスキネン
「おや? 私はウソなんてついたかな?」
レスキネン
「確かに“9月から我が校の学生”とは言ったが、なにも今年の9月からとは言ってないよ」
レスキネン
「それともなにかい? 君は結局、我が校に来る自信がないのかな? だったら少し残念だが……」
……実に子供みたいな屁理屈だ。白々しいな。
ただ、不思議と憎めない人ではある。
倫太郎
「でも驚きました。まさか教授がまた日本に来ているなんて」
1月に成田で見送って以来だから、実に5ヶ月ぶりになる。
レスキネン
「マホも一緒に来ているよ」
倫太郎
「そうなんですか!?」
倫太郎
「一言も教えてもらってませんが……」
『Amadeus』のテストの報告を兼ねて、定期的にメールやビデオチャットで連絡は取り合っているが、日本に来るなんていう話題はまったくなかった。
“紅莉栖”からも、それらしい事は聞いていないし。
レスキネン
「また、あの和光市の物騒なオフィスだよ。“クリス”と一緒に、いつでも遊びに来るといい」
レスキネン
「泥棒に入られるから、別の場所にしてくれと訴えたんだがね」
レスキネン教授は、大げさに天井を仰いで見せた。
確かにあそこは、セキュリティ的に問題があるような気はする。
レスキネン
「リンターロは、どこか具合でも悪いのかい? 治療でここに?」
倫太郎
「あ、いえ違います。入院してる友人の見舞いで」
レスキネン
「ああ、そうか。それは良かっ――」
レスキネン
「いや、その友人にとっては良くないか。申し訳ない」
倫太郎
「あ、いえ……」
倫太郎
「それで、教授こそ、日本の病院で何を?」
するとレスキネン教授は、俺に顔を寄せ、周囲に気を遣うような様子で声を潜めた。
レスキネン
「君も知っているだろう? 例の新型脳炎の件だよ」
レスキネン
「アメリカ政府の依頼で、精神生理学研究所が治療法を研究していたんだが、手詰まりらしくてね」
レスキネン
「私も調査に加わるよう大学から命じられた、というわけさ」
倫太郎
「そうなんですか。レスキネン教授が新型脳炎を……」
思わぬタイミングでそのワードが出て来たな……。
俺は、さっき話した“入院している友人”というのが、新型脳炎の疑いをかけられていると教授に説明した。
レスキネン
「もしかしてその友人というのは、ナカセ・カツミ?」
倫太郎
「え、ああ、クリスマスパーティーで会ってましたね」
レスキネン
「うんうん。実は私が新型脳炎に興味を持ったのも、あのパーティーがきっかけでね」
レスキネン
「君とカツミがそろって倒れただろう?」
そう言えばそうだったな。
俺の方は、その時に別の世界線に跳ばされたんだが。
レスキネン
「カツミには何日か前に再会したんだけどね、私にも何度か噛みついてきたよ。どうしてまた入院させられるんだ、私は元気なのに、ってね」
倫太郎
「そ、そうでしたか……」
レスキネン
「もう少し協力的になってくれると嬉しいと、リンターロからも伝えておいてくれないかい?」
倫太郎
「はあ……」
レスキネン
「実際のところ、カツミだけでなく、すべての患者に、申し訳ないという気持ちはあるんだ」
レスキネン
「我々も日本の医師団も研究を進めてはいるんだけどね、どうにも解せない検査結果ばかりで困り果てているのさ」
どんな時でも陽気なレスキネン教授の顔色が、珍しく曇った。
バイタリティの塊のような彼なので今まで気づかなかったが、そういう表情をすると、顔にかなり疲れたようなシワが刻まれているのが見て取れた。言葉の通り、相当の労を強いられているようだ。
レスキネン
「正直、最初はどの医師も、これほど不可解な病気だとは思っていなかったらしいんだけどね……」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「ん? どうしたんだ、リンターロ?」
倫太郎
「あ、えと、その」
レスキネン
「何か気になる事でも?」
倫太郎
「いえ……」
倫太郎
「俺は医学生じゃないので、さっぱりです」
つい、リーディング・シュタイナーについて、口にしてしまうところだった。
でも、結局、言えなかった。
俺の素人意見がもしも間違っていたら、新型脳炎の患者の人たちの命に関わるかもしれないんだ。
おいそれと、適当な事を話せるわけはない。
と、教授は急にヌッと顔を寄せて来た。
レスキネン
「ところで、そのカツミがなかなか興味深い事を言っていたんだよ」
倫太郎
「……?」
レスキネン
「『自分達は病気じゃない、別の世界の出来事を夢で見る能力があるだけだ』とかなんとか……」
倫太郎
「う……」
フブキには、黙っておいた方がいいと釘を刺しておいたんだが。
我慢出来なかったのか?
これは、まずい事態だ。
ヘタをすると、フブキの正気を疑われてしまうかも。
倫太郎
「ええと……中瀬さんは、その、とても想像力がたくましいというか。SFとか、アニメとか、大好きですから」
倫太郎
「“他の
並行世界

を感知出来る力”なんて、たぶん趣味の影響で口にしただけじゃないかと思います」
倫太郎
「実は、俺もそういう事を言っていた時期があるんですよ、はははは……」
必死に言い訳めいたフォローをしてみたが、レスキネン教授は真剣な顔で考え込んだままだ。
レスキネン
「だけどねえ……私も治療プロジェクトに参加して、驚いたんだが……」
レスキネン
「確かに、この病の特徴として、多くの患者が夢を共有する不可思議な現象が起こっているんだ」
レスキネン
「集団幻覚に近いのかとも思って、今、調べているんだけどね」
レスキネン
「どうなんだろう? こんな事は初めてでね。脳科学的には今のところ“解”が導けない」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「正直、“非科学的”という言葉が一番しっくりくるくらいだよ。それこそ、並行世界とか前世の記憶とか、ね」
倫太郎
「そう、ですか……」
レスキネン
「君も、カツミから色々と話を聞いてくれると助かるよ」
レスキネン
「医者に言えない事でも、友人になら話すだろうしね」
倫太郎
「はい、一応、心がけておきます」
レスキネン
「さて、リンターロ、それはそれとして、確認だ」
レスキネン教授は改まると、俺の背後の方へと視線を向けた。
レスキネン
「クリスマスパーティーのときにも感じたんだけれど、君のガールフレンドたちは、キュートなお嬢さんばかりだね」
倫太郎
「え?」
振り向くと、まゆりとカエデ、そして、由季がソファから立ち上がり、こちらを見守っている。
レスキネン教授の視線に気付くと、軽く手を振ってきた。
レスキネン
「やはり、あの中に恋人がいたりするのかい? ユキ? カエデ? マユリ? ルカ? それとも、カツミがそうなのかな?」
倫太郎
「なっ!?」
思いもかけない事を言われ、絶句してしまった。
よく真帆が“いたずら好きな少年”と揶揄する中年教授は、まさに彼女の言う通りの顔になっていた。
レスキネン
「いや、別に無理に聞かせてくれとは言わないよ。君のプライベートを詮索する気はないからね」
レスキネン
「ただ、まぁ、かわいい教え子に、ちょっとした土産話を、と思っただけさ」
倫太郎
「???」
俺が混乱していると、レスキネン教授はそのままきびすを返した。
レスキネン
「それじゃあリンターロ、私はもうちょっと院長と話をしないといけないから、これで」
レスキネン
「出来ればユキたちにも、ひとりひとりハグしていきたいところだったが、次回に取っておこう。彼女たちによろしく」
倫太郎
「あ、はい!」
大きな背中を見送っていると、ずっと遠巻きに見ていたまゆりたちが近寄ってきた。
まゆり
「今の人、レスキネン先生?」
カエデ
「ですよね。どこかで見た事あると思った」
由季
「アメリカに帰ったんじゃなかったでしたっけ?」
倫太郎
「……は、はは」
まゆり
「オカリン?」
今、レスキネン教授と話した内容は、女性陣にはとてもじゃないが言えない……。
フブキの検査が終わった後、病室でひとしきり彼女の愚痴を聞いてあげて、その日のお見舞いは終わった。
フブキ自身はレスキネン教授が話していた通り、いたって元気で、今すぐにでも退院して、走って家まで帰れると豪語していた。
その様子に、まゆりたちはホッと安堵していたが、俺としては色々と思い悩むところがあった。
やはり、レスキネン教授にリーディング・シュタイナーの事を話した方がいいのだろうか。
ただ、いったいどうやって説明すればいいのか……。
いっその事、真帆に頼んで、彼女からレスキネン教授に説明してもらうというのも手かもしれない。
すぐに答えは出なかった。
鈴羽が、椎名かがりと別れた日は、1998年の、ひどく暑い日だった。
近くの店で水や食糧を調達して戻ってきた鈴羽は、タイムマシンのハッチを開けた。すると中から、かがりのヒステリックな声が響いてきた。
かがり
「あーもうっ! わけ分かんないっ!」
マシンの中をのぞき込んでみる。するとかがりがその小さな手で、コンソールをバンバンと叩いていた。
鈴羽
「……お前、何をしてるんだ?」
かがり
「あっ……」
鈴羽の顔を見て、かがりは身を縮こまらせる。
かがり
「ち、ち、違うのっ……これは、そのっ……」
鈴羽
「答えろ」
かがり
「だ、だ、だって! だってっ!」
かがり
「目を覚ましたら、鈴羽おねーちゃんがいなくてっ、真っ暗で明かりもつかないし、狭くて怖くて苦しくてっ!」
かがり
「だから、かがり、ドアを開けたくて……!」
かがり
「それで、あちこちいじってるうちに……こんな事にっ」
そう言って、ポロポロと涙を流し始める。
かがり
「ごめんなさい鈴羽おねーちゃん、ごめんなさい。でも、本当に怖かったんだ、だから……」
鈴羽
「……そうか」
鈴羽は、かがりへの警戒を解いた。
かがりは、戦災孤児ゆえのPTSDを患っていた事があり、それはまだ完治していないと聞いていた。
『暗所や閉所を極端に怖がる』と、未来のまゆりも話していたのを思い出す。
それならば、かがりがパニックを起こしても仕方ない。
それにこのタイムマシンは、鈴羽の生体認証でしか起動しない。
かがり程度の腕の力でコンソールを乱暴に扱ったところで、壊れる事もないだろう。
鈴羽
「お前は時間移動のショックで気を失ってたんだよ。だから休ませておいたんだけど……悪かった」
鈴羽はかがりの小さな手を引いて座席から立ち上がらせると、そのままマシンの外へ連れ出してやった。
かがり
「うわ……暑い……」
鈴羽
「かがり、約束するんだ。どんな事があっても、操縦席のスイッチに触ったりするな。いいな?」
かがり
「う、うん……」
鈴羽
「じゃあ、あたしは仕事にかかるから。お前はその辺で休んでるんだ。――飲み物と食べ物は適当に食べていい」
鈴羽は、調達してきた食糧をかがりに渡すと、自分はマシンの中に入り、操縦席の下にあるカーゴスペースに頭を突っ込んだ。
そこに保管してあるIBN5100に、2036年から持ってきた携帯端末を接続する。
見た目は2000年代初頭の携帯電話だが、中身は2036年の小型量子コンピューター。もちろん未来の至によるハンドメイドである。
IBN5100を起動させると、途端に、携帯端末型PCの画面上にパラパラと数字が羅列され始めた。
かがり
「何をするの?」
マシンの外から、かがりがのぞき込んでくる。
鈴羽
「『
2000年問題

』は勉強したか?」
かがり
「施設の学校でちょっとだけ。結局、なんにも起こらなかったんでしょ?」
鈴羽
「表向きはね」
かがり
「……?」
鈴羽
「公表されてないけど、実は当時、あれのせいでいくつかの地域や国に、深刻な問題が起きたんだ」
かがり
「そう、なの?」
鈴羽
「問題だったのは、このIBN5100というコンピューターなんだよ」
鈴羽
「これには古いプログラム言語が搭載されてるんだけど、そのプログラムの問題点を技術者たちが修正出来なかった」
鈴羽
「というより、そんな言語で書かれた重大なプログラムが存在する事自体、全く知られてなかった」
鈴羽
「第三次世界大戦は、タイムマシンの開発競争が発端なんだけど――」
鈴羽
「もしかすると、『2000年問題』で発生したある事象と、それに付随する対立こそが、もっと深い原因である可能性がある」
この話が、わずか10歳のかがりに理解出来るとは思えなかったが、だからと言って丁寧に説明する気も鈴羽にはなかった。
鈴羽
「しかも、西暦2000年というのは特殊な年でね。すべての世界線が、一旦、ひとつに収束してしまうらしいんだ」
鈴羽
「それに関連して、この問題があらゆる世界線の因果に、重大な影響を引き起こすかもしれない」
鈴羽
「あたしたちが目指してる“狭間の世界線”――シュタインズゲートも、例外じゃない」
そこで鈴羽は、IBN5100に繋がれている携帯端末に目をやった。
鈴羽
「だからこれは、『2000年問題』を起こさないようにするための、修正プログラムなんだよ」
今は、その修正プログラムを、IBN5100用の言語に変換している最中だった。
後はそのプログラムをウイルスの形で全世界に拡散させれば、この時代のエンジニアたちが見落としてしまう『2000年問題』は、完全に解消される。
その時、携帯端末のサブ画面に“CONNECT”の文字が浮かび上がった。
鈴羽
「OK。つながった」
この時代の日本では、未だADSL回線すらテスト運用の段階で、一般ユーザーのネット環境といえばISDN等を用いた低帯域のダイヤルアップ接続が主流だったと聞いている。
が、秋葉原周辺をはじめ大都市部では、すでに大学や研究所、あるいはPC関連企業を中心に、常時接続の
光ブロードバンド

回線が備えられつつあった。中には
無線LAN

を使用している施設さえあった。
鈴羽はそのひとつに侵入したのだ。
2036年の技術をもってすれば、20世紀末のネットワークセキュリティなどザルみたいなものだと父は笑っていたが、確かにその通りだった。
かがり
「で、でも……未来を変えちゃったら、かがりたちがいた未来の世界も……ぜんぜん変わっちゃうんじゃないの……?」
意外にも、かがりはさっきの鈴羽の話を、おおまかにではあるが理解したようだ。
鈴羽
「そういう事だ」
鈴羽
「もうあの世界は存在させない。あたしたちは、シュタインズゲートを目指すためにここへ来たんだから」
かがり
「…………」
ふと。
かがりの顔に浮かんでいた不安げな表情が、急に抜け落ちた。
魂が抜かれたかのように。
目を見開いたまま、無表情になる。
かがり
「……声」
かがり
「神様の、声……聞こえる」
鈴羽
「かがり?」
かがり
「だめだよ。よくないよ……」
かがり
「……ダメなんだよ、鈴羽おねーちゃん。そんな事しちゃ、いけないんだ」
鈴羽
「おい?」
かがりの様子がおかしい。
不審に思い、鈴羽はかがりの方へ手を伸ばした。
だが。
その鈴羽の手をよけて。
子供の動作とは思えないほど鋭く、肩から体当たりをしてきた。
鈴羽
「――っ!?」
鈴羽は完全に虚をつかれた。それほどの素早さだった。
かがりの肩が、みぞおちに食い込む。
鈴羽
「がはっ」
鈴羽は身を折り、そのままマシンのシートに倒れこんだ。
かがりが、鈴羽の手から携帯端末を強引にもぎ取っていく。
IBN5100に繋がっていたケーブルがブツリと引き抜かれ、両機の画面にエラー表示が出た。
鈴羽
「おっ、お前ッ、何をッ――!?」
かがりは、鈴羽の苦しげな問いかけに答えない。
それどころか、鈴羽が操縦席に置いたリュックをつかみ、中に入っているものをすべてぶちまけた。
携帯用食糧や細かなパーツ類、服などと一緒に、自動拳銃がゴトリと床に落ちる。
鈴羽はギクリとした。
明らかに、かがりはそれを拾い上げようとしたからだ。
鈴羽
「やめろっ!」
痛みをこらえ、鈴羽はかがりの身体に飛びついた。
だが、信じられないほどの力でカウンターの体当たりを食らい、押し戻されてしまった。
鈴羽
「……!」
その鈴羽の眉間に、冷たいものが突き付けられた。
かがり
「動いちゃだめっ!」
自動拳銃を握るかがりの小さな手は、まったく震えていない。
今の一瞬の間に、安全装置まできっちり外されていた。
それを見て、かがりは
癇癪
かんしゃく
を起こしたわけではないと鈴羽は悟った。
銃の扱い方を教えたのは鈴羽自身だ。
だから、かがりが冷静であると、はっきり分かった。
鈴羽
「正気か? 今すぐ銃を下ろせ。こんな真似はやめろ」
かがり
「やめるのはおねーちゃんの方だよ!」
鈴羽
「何?」
かがり
「世界を変えちゃいけないんだ! おねーちゃんはおかしいコト言ってる!」
かがりの瞳には、逡巡はなかった。そこにあるのは、あくまでもひたむきな決意だけ。
鈴羽
「じゃあ、このまま戦争が起きてもいいって言うのか?」
かがり
「そんなの分かんないよっ。かがりは元の世界に戻りたいだけだもんっ」
鈴羽
「なら……もう、無理だ」
鈴羽
「あたしたちはタイムマシンですでに過去に干渉してる。世界線だってズレてしまってるはずだ。あそこに戻れる可能性は低――」
かがり
「うるさいうるさいうるさい! かがりはママを絶対に助けるんだぁぁっ!」
かがり
「この世界を消すなんてダメだよっ! 絶対にやらせないからっ!」
そこまで言うと、かがりは銃口をIBN5100に向け直した。
鈴羽
「や、やめろ!」
鈴羽が止める間もなく、かがりは無造作に引き金を引いた。
何度も。何度も。
鈴羽
「やめてくれ、かがりっ! やめろぉぉっ!」
そしてかがりは、タイムマシンを飛び降り――
――鈴羽の元には、二度と戻ってこなかった。
鈴羽
「…………」
かがりの事を思い出さない夜は、一度もなかった。
鈴羽はこの時代に来てからもしばらくはかがりの事を捜していたが、結局手掛かりは見つからなかった。
だが――今はおそらく22歳に成長した椎名かがりは、確実に、この秋葉原にいる。
鈴羽はそれを確信していた。
……考え込んでいても仕方ない。
鈴羽は気持ちを切り替え、部屋の中を見回した。
父である至が、例によって女の子ばかりが登場するゲームをプレイしている。
口を半開きにして呆けた顔をしながら、シャツからはみ出たお腹の贅肉あたりをポリポリと引っ掻いてゲームをする様は、父としても人としてもあまり尊敬出来る姿ではない。
鈴羽
「そういえば、母さんとはうまくやれてる?」

「んあ?」
鈴羽
「大丈夫? あたしが生まれてこなくなるような事態にならないよね?」

「あ~、なんつ~の? タイムマシンよりも難題?」
鈴羽
「ちょっとー!」
鈴羽はたまらず至に詰め寄った。
鈴羽
「困るよ、父さんっ」

「う、うん……パパ、頑張るからね」
鈴羽
「いっつも口ばっかり。結局、例の映画のチケットも無駄にしちゃったんでしょう?」
クリスマスパーティーで、まゆりやフェイリスが仕掛けた作戦によりお膳立てした、ペアの映画チケットの事である。

「あ、あれはさ、オカリンとフブキ氏が倒れちゃったじゃん?」

「その後、お見舞いとかでバタバタしてるうちに、映画が終わっちゃってたわけで……しょうがないっつーか……」
鈴羽
「でも、その後、新しいチケットを用意しようとしたら、断わったって聞いたけど?」

「ちょっ、誰に!?」
鈴羽
「まゆねえさんとルミねえさんに決まってるじゃないか」

「そ、そりゃあ、あれだお。まゆ氏とフェイリスたんに頼りきりなんて、男らしくないっしょ。キリッ!」
鈴羽
「で、自分で何か行動に移したわけ?」

「…………」
鈴羽
「あ~、ダメだこれ」
確かに、こっちの方がタイムマシン問題よりも深刻かもしれない。
鈴羽はたまらず頭を抱えた。
鈴羽
「いい、父さん? あたし、いつまでもこうやってお説教出来ないんだからね? もうすぐ
行っちゃう
①①①①①
んだよ?」

「あ……」
至の目が、いきなり寂しそうに伏せられる。
鈴羽
「そういう顔しない」
鈴羽
「約束したはずだよ、もう迷うのはやめにしようって」
この半年、鈴羽はずっと考え続けていた。この世界線をなかった事にしてしまうのが正しいかどうか、繰り返し迷い続けていた。
しかし、そんな時、最後に背中を押してくれたのは他ならぬ至の存在であり、言葉なのだ。

「ごめん……」
肩を落とす至を見かねて、鈴羽はその大きな背中を掌で叩いた。
鈴羽
「しょぼくれてないで、母さんにメールして。予定の空いてる日がないか訊いて」
鈴羽
「で、空いてたら、映画に誘う」

「げー!? いきなりハードル高杉!」
鈴羽
「高杉でもなんでもいいから、誘いなさい。いい? これは命令だからね」

「め、命令て……」
鈴羽
「返事はっ?」

「サー、イエス、サー!」
その返事に満足し、鈴羽はシャワーを浴びるべく洗面所へ向かった。

「あ、でもその前に、ちょっとだけコンビニに行って来る……」
鈴羽
「…………」

「ひいっ! にらまないでっ。なるべく太らないようなモノを食べますんで、なにとぞお許しをっ」
鈴羽
「……バニラ」

「はい?」
鈴羽
「あたし、シャワー出たらアイス食べたい。バニラ」

「うん、分かった! 庶民がなかなか口に出来ない高級なヤツを、いっぱい買ってきてあげるお!」
鈴羽
「いっぱいはいらないよ。ひとつでいい」

「サー、イエス、サー!」
ダルは急に元気を取り戻し、財布を持ってラボを飛び出していった。
鈴羽
「やれやれ、世話がかかるんだから……」
今度こそシャワーを浴びようと上着を脱ぎかけた。
が……。

「鈴羽~」
出て行ったはずの至が、すぐに戻ってきた。
鈴羽
「どうかした?」

「階段のところにさ、こんなの落ちてたんだよね」
至は、手に持ったキーホルダーを見せてきた。
くすんだ緑色をしたその丸いキャラクター。
それは……。
“うーぱ”だった。

「誰のか分かる?」
鈴羽
「まゆねえさんじゃないの?」
顔を近づけてよく観察しようとして――。
まるで、デジャヴのような感覚を味わった。
鈴羽
「このうーぱ、どこかで……?」
前にも、見た事がある?
それがいつどこでだったのかは、よく思い出せない。
でも、鈴羽の本能が警鐘を鳴らしていた。このキーホルダーは、とても重大な意味を持つ物だと。
鈴羽
「………」
うーぱ自体は、どこにでもありそうなものだった。
本体のプラスティック部分は全体的に丸みを帯び、塗装も、本来はもっと鮮やかな色だったはずだが、すっかり退色して所々はげてしまったりもしている。
ただ、ホコリや汚れなどはまったくついておらず、むしろピカピカに磨かれているようなので、持ち主がかなり大切にしてきたものなのだろう。
チェーン部分が経年劣化を起こし、ぽっきりと折れている部分がある。そのせいで落としたのだと思われた。
鈴羽
「どこだっただろう……どこかで見た……」

「まゆ氏に見せてもらったとか?」
鈴羽
「そうなのかな……」
至の手の中の、緑色のうーぱをじっと見つめ――。
と、突然、閃光のように、鈴羽の脳裏に少女の叫び声が響き渡った。
まゆり
「ママがずっと大切にしてきた“うーぱ”のキーホルダーだよ。かがりちゃんにあげる。大事にしてね」
鈴羽
「……っ!!」
鈴羽は思わず息をのんだ。
背筋に、名状しがたい戦慄が走る。
鈴羽
「ま、まさか……これ……」
鈴羽
「……かがりの……か?」
あのときだ。
2036年8月13日。
鈴羽が、タイムマシンに乗り込んだあの日。
そこで、このうーぱを見た。
あの日に見たものよりも古ぼけてはいるが、記憶の糸をたぐり寄せれば寄せるほど、間違いなく未来のまゆりがかがりに渡したものにしか思えなかった。
幼いかがりがタイムマシンの中でそれを見ながら涙を流している姿も、その後何度も目にしている。

「かがり、って……もしかして、未来のまゆ氏の娘?」
鈴羽
「……うん」

「見つかったん?」
鈴羽
「いや。でも、向こうはこっちを認識しているんだ」

「つ、つまり、どういう事だってばよ」
鈴羽
「あいつ……このラボを監視してるんだよ」
半年前、ラジ館の屋上でタイムマシンを監視していたライダースーツの人物。鈴羽が気付いて追ったものの逃げられてしまったあの人物は、絶対にかがりだと確信していた。
あれ以降、注意深くタイムマシンを護ってきたせいもあり、周辺でかがりらしき姿を目にする事はなかったのだが――まさか、ラボの方を監視しているとは思わなかった。
鈴羽
「いや、ちょっと考えれば当たり前の事だったんだ」
鈴羽
「あいつは、あたしたちがシュタインズゲートに到達するのを阻止しようとしてる」
鈴羽
「この世界を、なかったことにしたくないと思ってる」
鈴羽
「ということは、あたしだけじゃなく、父さんもマークされてる……?」

「えーっ、僕?」
鈴羽
「まあ、父さんの命に危険はない……とは思うんだ」
鈴羽
「世界線の節理を信じるなら、父さんは、少なくとも2036年までは生きるはずだし」
鈴羽
「ただ、シュタインズゲート到達を阻止するために、父さんの研究の邪魔はしてくるかもしれない」
鈴羽や至、岡部倫太郎の周辺でなにかと物騒な事が連続して起きていた。その標的が、実は至であった可能性はなきにしもあらずだ。
鈴羽
「これからは用心のために、あたしがいない時には必ずドアにカギをかけておいて」

「う、うん。分かったお」
鈴羽
「オカリンおじさんや母さんやまゆねえさんたちが一緒にいても、絶対に開けっ放しはダメだよ」
鈴羽
「気休めかも知れないけど、ドアチェーンもかけた方がいい」

「でもさ、オカリンやまゆ氏ならともかく、阿万音氏とふたりきりの時にそんな事したら、なんか別の意味で怪しくね? 阿万音氏に変な誤解されないかな?」
鈴羽
「う……それは確かに」

「もしそれで嫌われでもしたら、我が家のピンチだお」
鈴羽
「ううん……」
鈴羽は困ったように喟った。
鈴羽
「父さんがもっと早く母さんと恋人になってれば、なんの問題もないのに……」

「って、結局そこへ話が戻るとか!?」
鈴羽
「とにかく、注意だけはしておいてよね」
緑色のうーぱキーホルダーは、鈴羽が預かる事にした。
受け取ったそれをじっと見つめながら、鈴羽は指の先でそっと撫でてみる。

「なー、鈴羽。かがりたんって、血はつながってないけど、まゆ氏の娘なんだよね?」
鈴羽
「そうだよ」

「あのまゆ氏に育ててもらった子が、人を襲うような恐ろしい人間になるのかな……?」
鈴羽
「…………」

「なんか、鈴羽の話とイメージが重ならないっつーか。……もっと優しくて、ほわほわしてて、かわいい女の子になってるんじゃないかなーとか思ったり」
鈴羽
「……だとよかったんだけど」
鈴羽
「うん、あたしも、前はそうなると信じてた」
鈴羽
「けど、今のかがりは……たぶん……」
あの時の様子――ラジ館の屋上から逃走するかがりを追ったときの雰囲気で分かった。彼女は間違いなくプロの戦闘訓練を受けている。
子供の頃に鈴羽が教えた程度の護身術ではなく、もっと年齢を重ねた後、冷酷な殺人の技術を教えられ、それを身に着けている。
1998年に行方不明になってから今までどこにいて、どういう経緯でそうなったのか知る事はかなわない。
けれど、本気で鈴羽の計画を阻止しようとしている事だけは、間違いないと思われた。
鈴羽は、シャワーを浴びながら、ため息をついた。
湯の温度は、夏なのでかなり低めに設定してある。ほとんど水と言っていいほどのぬるさだ。
それを頭からかぶっている間だけは、記憶の内にこびりついている嫌な思い出たちが、みんな洗い流されていく心地がする。
両手で自分の頬をぱしんと軽く叩き、シャワーを止める。急にタイル張りの狭い室内が静まり返る。
そんな静けさの中、タオルで髪の毛を乱暴に拭いた。
このビルは、元々、居住用に出来ていないため、生活空間が非常にお粗末で、なんと更衣室がない。
狭いうえに窓もなく、しかも、シャワールームから漏れた蒸気がこもるものだから、夏は歓迎しがたいサウナ室と化してしまう。
それを嫌って、至や岡部などは全裸のまますぐに扇風機に当たりにいったりしていたらしい。もちろん、部屋に女性陣および漆原るかがいない時限定の行為であるが。
さすがに鈴羽はそんな真似は出来ない。胸のあたりに大きな傷痕がある。もしも油断していて、由季などに見られてしまったら大事になる。
だから鈴羽は、意地でも狭いスペースで服を着る事にしていた。
鈴羽
「……!?」
シャワールームから出た瞬間に、異変に気付いた。
カーテンで仕切られている先――ラボの部屋の中の明かりが、消えている。
シャワーを浴びる前には、確かにラボ内の蛍光灯はつけたままにしておいた。
それを消した記憶はない。
鈴羽は下着も身に着けないまま、カーテンを開いた。
鈴羽
「…………」
床に伏せるような形になって身構える。
シャワールームから漏れてくる明かりで、油断なく室内を見回すが、誰の姿もない。何者かが潜んでいるような息遣いも、気配もまったくしない。
鈴羽
(父さんが、一度、戻ってきたのか……?)
そして、また出かける時に、電気を消していった?
いや……違う……。
薄明りの中、観察すると、素人目には分からない程度に室内が荒らされている。
至のPCデスクやソファまわりをはじめ、雑誌の放り出してある棚やミニキッチンまで、全体的に何者かが物色した形跡があった。
このぶんだと、開発室の方も同様だろう。
鈴羽は、拳銃を隠してあるいくつかの場所に、そっと視線を走らせた。
一番近いのは、ベッド代わりにしているソファ。
寝ている時に襲撃を受けた場合、手を伸ばせばすぐに届くようにと、座面の裏を破いて、サプレッサー付きのオートマティック拳銃を忍ばせてあった。
護身用の32口径なのでちゃんと当てないと威力が弱いのが難点だが、全体的に小さく、しかも音が比較的静かなので、こういう場所では最も取り回しがいいと選んだものだ。
鈴羽は全身の筋肉を強力なバネのように引きしぼりつつ、気配を消すようにしながら、ジリジリとソファに向かって動く。
そうしながら、あたりの空気の変化をじっとうかがう。
開発室の奥で、微かな音がした。
普通なら聞き逃してしまうほどの、小さな小さな床の

きし
み。
しかし、鈴羽にとってはそれで充分だった。
それまでの“静”から一気に激しい“動”へ。
跳ねるようにソファまで一気に移動し、素早く銃を引き抜いた。
それを構えつつ、冷蔵庫の陰に滑り込む。
この位置からなら、ちょうど開発室のカーテンの間から奥が見える。
鈴羽
「…………」
シンと再び室内が静まり返る。
が、先ほどまでとは明らかに違い、開発室の中にいる侵入者ももはや気配を消そうとはしていなかった。
鈴羽
「おかしな真似をしたら撃つ。手を頭の上に。そのままゆっくり出て来い」
鈴羽が低い声で恫喝した。しかし、相手は脅しになどまったく動じる様子もなく、ゆらりとその身を鈴羽の視線に晒した。
ライダースーツの女
「…………」
鈴羽
「ふん。この暑いのに、よくそんな格好をしていられるな? ヘルメットだけでも取ったらどうだ?」
相手は、あの時と同じようにライダースーツに身を固めていた。頭部のヘルメットまで同じだ。
身体の線に沿ってピタリと貼り付いた皮革が、凹凸のはっきりしたとても美しいプロポーションを描き出している。
女である事は間違いない。
鈴羽
「あんたが探してる物だけどね。そこにはないよ」
鈴羽
「あたしの服のポケットだ」
鈴羽は、シャワールームの入り口を指さした。さっき脱いだばかりのシャツが、そこに雑然と置かれている。
つられるように、ライダースーツの女もそちらへ顔を向けた。ただし、ヘルメットにシールドが下りているため、その表情を読む事は出来ない。
鈴羽
「なぁ? 落としたらダメじゃないか。ママからもらった大切な物だろう――」
鈴羽

かがり
①①①
?」
そう口にした瞬間、女――椎名かがりが先に動いた。
腰の後ろに隠し持っていたらしい艶消しの軍用ナイフを抜き放つと、鈴羽に向かって一気に間合いを詰めてくる。
鈴羽は、急所からは狙いを外しつつ、彼女の脚に向かって引き金を引いた。
32口径の軽い発砲音とともに、かがりがバランスを崩し、倒れる。
――と、見えたのは完全なフェイクだった。
鈴羽
「っ!?」
彼女はバランスを崩したふりをして、走る方向を、鈴羽からシャワールームへと変えたのだ。
あくまでも、目的の物を奪取するのが先らしい。
鈴羽
「これはっ!?」
1発撃っただけで、すぐに鈴羽は気付いた。
いくら32口径とはいえ、この銃はあまりにも反動が少なすぎる。
鈴羽
「っ!」
もう一度発砲してみるが、やはりかがりの動きは変わらない。
鈴羽
(ブランクカートリッジっ!? どうしてっ!?)
鈴羽が手にしている銃は、いつの間にか、弾頭のない空砲用のカートリッジに取り換えられていたのだ。
一瞬の動揺の隙を突かれた形になった。
かがりが、シャワールーム前に落ちている鈴羽のシャツに手を伸ばす。
鈴羽
「このッ!」
鈴羽は撃つのを諦め、銃をかがりに向けて鋭く投げつけた。
鈍い音とともに、固い銃身部分がかがりの首筋に当たる。
不安定だった姿勢のかがりは、シャツをつかみ損ねてよろめいた。
かがり
「うぐっ!!」
ヘルメットの中で、初めてかがりがくぐもった肉声を発した。
それへ向かって鈴羽は跳躍した。
体勢を崩したままのかがりを、筋肉の塊のような脚で思い切り蹴った。手加減などをしている余裕はなかった。
蹴り飛ばされたかがりは、そのままの勢いで部屋の隅まで転がった。
今ので肋骨の何本かは折れたはず――。
その確信を抱き、鈴羽は追撃しようと飛びかかる。
だが逆にかがりは、恐るべき瞬発力で跳ね上がるように立つと、鈴羽に突進してきた。
カウンターのような形になり、鈴羽はすぐには止まれない。
鈴羽
「つうっっ!?」
むき出しの腹筋の先、わずか数センチの所を鋭い切っ先が走った。
あとコンマ何秒かでも身を引くのが遅れていれば、腸を破られ、間違いなく致命的な傷を負っていただろう。
鈴羽
「お前ぇぇっ!!」
鈴羽の頭に、カッと血が上った。
こいつは間違いなく本気だ。自分を殺すつもりで来ている。その動きに躊躇はない。
鈴羽は後ろへ飛び退りつつ、武器になりそうな物を探す。
だが、おそらく他の銃も駄目だ。
隠してある拳銃は、どれも空砲に換えられている可能性が高い。
下手をすると、護身用のナイフも全部、奪い取られているかも知れない。
となると、あとは――。
キッチンに綺麗に置かれている数本の包丁とナイフが目に入った。由季がまゆりたちに料理を教えるため、買い揃えてきたものだ。
しかし、かがりもすでにその存在には気付いているらしく、鈴羽をそちらへ行かせないような位置に回り込んでくる。
鈴羽
「へぇ、ずいぶん場馴れしてるじゃないか」
鈴羽
「とても、マシンの中でベソベソ泣いてた子供とは思えないな。驚いたよ」
挑発するように言いながら、一定の距離で対峙しつつ、壁に沿って室内をゆっくりと移動する。
不利な状況をくつがえそうと、鈴羽の闘争心は更にむき出しになった。
鈴羽
「ほら、かがり? これだろう?」
鈴羽はシャワールームの前のシャツを拾うと、ポケットから緑色のキーホルダーを取り出して見せた。
かがり
「…………」
鈴羽
「どうした? 取りに来なよ?」
鈴羽の指先が、キーホルダーを押しつぶすかのように動いた。
かがりがビクリと反応する。ここに姿を現してから初めて、ヘルメットをしていても分かるほどに動揺した。
鈴羽
「……っ」
次の瞬間、鈴羽がそれをかがりの腹部あたりにめがけて軽く放った。
実にゆっくりと、放物線を描きながら、キーホルダーが飛んでいく。まるで友達にパスをするかのような動きだった。
よほどの猛者でも、大切な物をそうやって投げ渡されると、つい両手で慎重に掴み取ろうとしてしまう。
かがりもまたその心理誘導に勝てなかったようだった。ナイフを構えた右手と左手とで、母の形見をしっかりと握ってしまった。
鈴羽
「ィァァッ!!」
そのゆっくりとした放物線の動きをカモフラージュにして、鈴羽は一直線の鋭い突進をかけた。
右の拳を、かがりの腹部に思い切り叩き込む。
続けざまに、左腕でヘルメットごと頭を横に薙ぎ倒した。
かがり
「ぐは……!」
かがりの身体が、右肩から床に倒れ込んだ。
関節が外れた音が、鈴羽の耳にも聞こえた。
かがりの手からナイフが転がり落ちる。
そのまま背後を取った鈴羽は、馬乗りになりつつ、かがりの右腕を容赦なく引きねじった。
と同時に、ヘルメットの下の首に左腕を回し、グイッと締め上げる。
かがり
「ぐ、く、くっ……!」
かがりの喉から、うめき声のようなものが聞こえる。
メリ……メリ……と、腕や首の骨がきしむ音と感触が手に伝わってくる。
鈴羽
「おとなしくしろ! 殺しはしないっ!」
しかし、かがりは不自然な体勢のまま、床に落ちたナイフを左手で拾うと、なおもそれを突き立てようとしてくる。
鈴羽は、その度にさらに腕や首を締め上げざるをえなくなる。
かがり
「ぐ、くっ……!」
鈴羽
「もうやめろ、かがりっ!」
鈴羽
「今のあたしには、お前の気持ちだって分かるんだっ。でも、やっぱりそれは間違ってる! 間違ってるんだ!」
そう説いても、かがりは抵抗をやめようとせず――むしろ全身にギリギリと力をためて、鈴羽を引きはがしにかかろうとしていた。
鈴羽
(こ、こいつっ!? いったいどんな訓練を受けてきたんだ!?)
今まで経験してきた数々の野戦でも、これだけ急所を決めてしまえば、どんな屈強な兵士だろうと屈服、もしくは気絶をさせる事が出来たはずなのに。
鈴羽は激しく戦慄しつつ、更に力をこめた。
このままだと、気絶させるだけではすまない。
本当にかがりを殺してしまう。
でも、拘束を解けば、逆に自分がやられる。
どうすれば――。
かがり
「鈴羽、おねえちゃ……痛い……苦し……」
その時。ひどく悲しげで、弱々しい声が、ヘルメットの奥から漏れてきた。
ハッとして。
鈴羽は、両腕の力を、緩めてしまった。
だが――かがりは、明らかにそれを狙っていた。
緩んだ鈴羽の左腕に、ナイフが思い切り突き立てられそうになる。
それをかわすために腕を放すと、かがりは背中に乗った鈴羽の身体を勢いよく振り切り、そのまま、両足で彼女の腰を蹴り飛ばした。
鈴羽は、後方にあったPCデスクに背中から激しく打ちつけられ、一瞬、息が出来なくなった。
床に崩れ落ちると、頭上からパソコンモニターやプリンターが落下してきて、彼女の裸体を容赦なく殴打した。
かがり
「げほ! ごほ! ごほっ!」
鈴羽
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
鈴羽は肩で激しい息をしながら、必死に立ち上がる。
かがりも同様に、荒い息をついていた。
その右腕は、付け根からあらぬ方向を向いていて、ただぶら下がっているだけだ。
おそらく、しばらくは使い物にならないだろう。
だが、左腕には相変わらずナイフを持ったままだ。
鈴羽
「お前、ずいぶんと汚い真似まで覚えたんだな……」
鈴羽は、ヘルメットの奥のかがりの顔を――今はどんなふうに成長しているのか見る事は出来ないが――にらみつけた。
鈴羽
「…………」
かがり
「…………」
互いに沈黙し、息を整える。
指一本すらも簡単には動かせない緊張感。
額から流れてきた汗が、目に入る。それでもまばたきせず、鈴羽はかがりの次の出方を待った。
その対峙の均衡を破ったのは、玄関のドアが開く音だった。

「おおーい、鈴羽ー? 今、すごい音しなかったー?」
その声に、鈴羽の背筋は凍りつく。

「あれ、なんで真っ暗なん?」
鈴羽
「ダメだ、父さんっ! 来ちゃダメ!!」
鈴羽が叫ぶのと、至が部屋の明かりを点けたのは同時。
そのまぶしさに、鈴羽はほんの一瞬だけひるむ。
フルフェイスのヘルメットをかぶっていたかがりとの差が、そこで出てしまった。
鈴羽よりわずかに早く、かがりが至に飛びかかっていた。

「うわあぁっ!?」
悲鳴を上げ立ち尽くす至の喉元に、かがりが漆黒のナイフを突きつける。
鈴羽
「父さんっ!!」

「ひ? ひあ? ひああ?」
恐怖に固まった彼の首筋に刃の先を押し当てたまま――かがりは、巨体を盾に取るような形で、背後にじわりと回っていく。
鈴羽はそれへ向かってヨロヨロと近づきつつ、かたく噛みしめた歯と歯の間からうめくような声を吐き出した。
鈴羽
「その手を放せ、かがり……」
かがり
「…………」
鈴羽
「父さんに、傷1つでも負わせてみろ……たとえお前でも、本当に………殺す」
かがり
「…………」
しかし、かがりは無言を貫いたまま、人質の陰に隠れるようにしてドアの外側へ出た。
そして、次の瞬間、至の大きな背中を思い切り突き飛ばす。

「あっ!!」
至はバランスを崩し、鈴羽の上に倒れ込んできた。
鈴羽が押し倒されるような格好になる。
至がかろうじて突っ張った手と足で全身を支えたため、鈴羽が潰される事はなかった。
鈴羽
「どいてっ!」
鈴羽は少し強引に至の体を押しのけようとした。
だが、あまりに至が重すぎて、立ち上がるのに手間どってしまう。
鈴羽
「だから痩せろって言ったのに!」

「えええ……」
このままだと逃げられる。
なんとか至の下から這い出した鈴羽は、すぐにかがりを追いかけようとした。

「――鈴羽、これ着て!」
へたり込んだままの至が、全裸の鈴羽に向けてシャツを放り投げてきた。
それを受け取り、素早く頭からかぶると、外へ飛び出した。
鈴羽
「……っ」
だが、路上に出て周囲を見回してみても、すでにライダースーツの女の姿は、影も形もなくなっていた。
どちらへ逃げられたのかすら、判然としない。
鈴羽
「……逃げられた」
こうなると、ヘタにあちこち捜し回るのは逆に危険だった。
ラボを離れた隙に、至が襲われる可能性も考えられる。

「い……今のって、まさか……かがりたん?」
その至が、遅れて外に出てきた。
鈴羽
「……うん。たぶん間違いない」

「そっか」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「結局……あの子とは、こうなっちゃうんだな……」
身体のあちこちに受けた打撲や傷の痛みもひどいが、それよりも、心の奥底を責めさいなむような
疼痛
とうつう
が、一番強く、重く、感じられた。
鈴羽
「あたしさ……」
鈴羽
「あの子の事……本当に、好きだったんだ……」

「うん」
鈴羽
「小さくても勇敢で、まゆねえさんを護るためにいつも頑張ってて……」
鈴羽
「あたしも、そんなあの子に色々な事を教えた。きっと……妹みたいに思ってた」

「うん」
鈴羽
「けど……あいつはもう……完全に、敵だ」
すると至が、着乱れている鈴羽のシャツの裾を直してくれた。

「今の鈴羽、なんかエロゲーの痴女キャラっぽい格好になってるお」
鈴羽
「え? あ?」
いきなり関係のない事を言われて、呆然としてしまう。
確かに、ミニ丈ワンピースくらいのTシャツは肩からずり落ち、あやうく胸が出てしまいそうになっている。
裾も半ばめくれ上がって、今にも、きわどい部分が覗けてしまいそうだ。

「まぁ、僕は痴女モノも結構いける口なんで、乱れた裸Tシャツというのも有りといえば有りですが。むふ~」
鈴羽
「またそうやってふざける。大怪我してたかもしれないのに」
鈴羽が不満げに言うと、至は首を横に振った。

「僕さ、さっきはナイフ見て騒いじゃったけど、でも、怖がる必要なかったんじゃないかなって……」

「あれが、もし僕の聞き間違いじゃなかったら……」
そこで至は、ナイフの切っ先が当てられていた首のあたりを指でなぞった。

「ナイフを突きつけられてた時……ほんの少しだけど、聞こえたんだよ」
鈴羽
「何が?」

「彼女……たぶん……泣いてた」
鈴羽
「……え?」
泣いていた……?
あのヘルメットの下で?
鈴羽と、あれだけ激しい格闘を繰り広げながら?
至の首にナイフを突き付けながら?
いったい、なぜ――。

「だからさ。決めつけるのは、まだ早いんじゃね?」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「……父さん」

「んお?」
鈴羽
「アイス。買って来てくれた? バニラ」

「ああ、もちろん」
鈴羽
「食べたいな…………あたし、ちょっと疲れちゃっ、た……」
そこまで言ったところで、鈴羽はその場にガクンと崩れ落ちそうになった。

「わぁっ!?」
至が仰天して飛びつき、その身体を抱き留めてくれる。

「お、おいっ、鈴羽っ?」
鈴羽
「ん、ごめ……平気…………でも……少しだけ、休ませ、て……」
それだけ言うのが精一杯だった。
鈴羽は父の腕の中で、目を閉じ――そのまま、溶けるように意識を失っていった……。
7月に入り、関東一円は照りつけてくる陽射しがいよいよ強くなり、夏本番を迎えていた。
ヒートアイランド現象ともあいまって、ここ数十年で最も暑い夏をむかえるのではないかという話が、連日、ニュースで流れている。
そんな7月最初の日曜日。
俺は、真帆と秋葉原で待ち合わせた。
UPXのオープンカフェで待っていると、真帆が少し遅れてやって来た。
真帆
「岡部さん」
倫太郎
「久しぶり」
真帆はアイスコーヒーを注文し、一息ついた。
倫太郎
「と言っても、いつもビデオチャットで顔は合わせてるが」
真帆
「そうね。あまり久しぶりという感じはしないわ」
服装や身だしなみにあまり気を遣わないのは、半年前から何も変わっていないな……。
これじゃ、夏休み中にフラッと近所の友人宅に遊びに出かけた小学生だと思われても仕方がないぞ……。
それを指摘したら機嫌を悪くするだろうから、決して口にはしないが。
倫太郎
「まさか、こっちに来てるとは思わなかったよ」
倫太郎
「偶然、レスキネン教授と会わなかったら、今も知らないままだった」
真帆
「落ち着いたら、連絡するつもりだったのよ」
真帆
「“紅莉栖”の事で、定期的な連絡はいずれにせよしなければならないのだし」
倫太郎
「今回は、新型脳炎の研究だって?」
真帆
「レスキネン教授はね」
真帆
「私は、その助手という立場だけど、どちらかと言うと、『Amadeus』担当」
真帆
「何か、不具合はない? と言っても、これもいつも報告は受けているから、だいたいの状況はわかっているつもりだけれど」
倫太郎
「ああ、特に問題ない」
倫太郎
「最近は、“紅莉栖”の相手をするのに苦労してるけどな」
アマデウス紅莉栖
「ちょっと」
と、テーブルの上に置いた俺のスマホから、声が響いた。
アマデウス紅莉栖
「苦労ってどういう意味?」
『Amadeus』のアプリは起動したままにしてあった。
当然、“紅莉栖”は今の俺たちの話をずっと聞いていた事になる。
倫太郎
「最初に会った頃より、ちょっと口調がきつくなってきてる気がする」
アマデウス紅莉栖
「あんたが勝手に私にビビってるだけでしょう?」
倫太郎
「……かもな」
まるで、気が置けない仲としてラボで口ゲンカをしていたα世界線での日々のような……、そんな関係になりつつあって。
その事が、俺にとっていいのか悪いのか、少しわからなくなりつつある。
紅莉栖の事は、忘れようとしていたはずなのにな……。
倫太郎
「比屋定さんは、初めて会った時の方が口調はキツかったな」
真帆
「あ、あれは……」
アマデウス紅莉栖
「初対面の人には、先輩はキツいのよ。なぜかと言うと――」
アマデウス紅莉栖&真帆
「年相応に見てもらえないから」
「年相応に見てもらえないから」
2人は、息の合ったところを見せた。
真帆
「だからつい、カリカリしちゃうのよ」
真帆
「ある程度親しくなれば、容姿の事も言われなくなるでしょう? だから心穏やかに話せるというだけ」
やはり、服装の事は指摘しなくて正解だったな……。
危ない危ない。
真帆
「『Amadeus』の話に戻すけど」
真帆
「“紅莉栖”の口調がキツくなったというのは、面白い兆候だわ」
真帆
「私や教授の前では見せない一面なわけでしょう?」
真帆
「それだけ深く心を開いている、とも言えるかもしれない」
アマデウス紅莉栖
「開いてません」
紅莉栖のさり気ない抗議を、真帆はかすかに微笑むだけで受け流した。
真帆
「そうした心の動きを、プログラムとして解析出来るから」
真帆
「私や教授と話しているだけでは、決して見られなかった変化だわ」
真帆
「それだけで、岡部さんにテストを続けてもらった価値もあるというものよ」
倫太郎
「そんなものか……」
真帆
「レスキネン教授も、その点を高く評価していたわ」
アマデウス紅莉栖
「過大評価だと思いますが」
アマデウス紅莉栖
「実際、私と話す時も文句や愚痴が多いですし。あまり男らしくないというか」
倫太郎
「…………」
そりゃ、自分がネガティブな性格になったのは自覚しているさ。
なにしろ、あんな出来事を経験したんだからな。
だからって、それをここで真帆に報告する事はないだろう……。
それなら、目には目を、だ。
倫太郎
「ちなみに、今まで報告していなかった事があるんだが」
真帆
「何かしら?」
倫太郎
「これはおそらく、比屋定さんやレスキネン教授も把握していない事だと思う」
アマデウス紅莉栖
「待って。あんた、なんの話をしようとしてるの?」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩や教授が把握していない事って? 私についての?」
倫太郎
「栗悟飯とカメハメ波、と言えばわかるか?」
アマデウス紅莉栖
「ちょっ……!」
実は何週間か前に、たまたま気まぐれで、『栗悟飯とカメハメ波』についてネットで検索してみたのだ。
それは紅莉栖が生前に@ちゃんねるに書き込む際に使っていた
コテハン

だった。
調べてみると、書き込み自体は古くは2008年頃からあり、2010年の7月で一度途切れていたのだが――。
その後、12月になって書き込みが再開されているのだ。
それは2011年7月の現在も続いている。
紅莉栖の幽霊が書き込んだか、何者かによる成りすましでないなら、それを書き込んだのは――。
アマデウス紅莉栖
「岡部倫太郎さん、ちょっと、2人だけで話をしましょうか?」
倫太郎
「やっぱりお前の仕業だったか」
倫太郎
「さすがに黙っているのはまずいんじゃないか?」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩に報告するなんてもっとまずいわよ!」
倫太郎
「なんで?」
アマデウス紅莉栖
「私が@ちゃんねるを見てる事は、一言も教えてないからに決まってるでしょ!」
倫太郎
「堂々としていればいいじゃないか。@ちゃんねるを見るのも書き込むのも、別に犯罪じゃないんだし」
倫太郎
「そうだろう? @ちゃんねらー“紅莉栖”」
アマデウス紅莉栖
「あんたね……、次にその呼び方したら、ある事ない事、@ちゃんに書き込んでやるわよ?」
倫太郎
「それこそ犯罪一歩手前の行為だろう……」
倫太郎
「…………」
呆れた後で、すぐに堪えきれず苦笑してしまった。
……こういうやり取りも、懐かしい気がしたのだ。
当時俺が調子に乗っていた事もあって、よくこんな風にして生前の紅莉栖を怒らせたものだ。
真帆
「ねえ、いったいなんの話?」
アマデウス紅莉栖
「なんでもありません! 気にしないで下さい!
海馬
かいば
から綺麗さっぱり、今日の記憶を葬り去ってください!」
倫太郎
「隠していたって、いつかはバレるぞ?」
アマデウス紅莉栖
「あんたはいいから黙りなさい……」
倫太郎
「ははは」
真帆
「……やっぱりあなたたち、半年前よりずっと仲良くなっているわね」
アマデウス紅莉栖
「あ!」
アマデウス紅莉栖
「先輩、すみません……」
真帆
「え? どうして謝るの?」
アマデウス紅莉栖
「いえ……せっかく岡部と真帆先輩、久々に会ったのに……私ばかり話してしまって」
アマデウス紅莉栖
「というわけで、後はおふたりでごゆっくりどうぞ……」
真帆
「別にそんなつもりで言ったんじゃないわよっ」
アマデウス紅莉栖
「それもこれも、岡部が変な事を言い出したせいね……」
倫太郎
「そうなのか、栗悟飯とカメハメ波」
アマデウス紅莉栖
「う~あ~」
アマデウス紅莉栖
「お願いだから言わないで」
@ちゃんねらーである事を異常なまでに隠したがるのは、本物と変わらないな。
アマデウス紅莉栖
「ちょっと頭を冷やしたいので、一度、切りますね。失礼します……」
“紅莉栖”が画面から消えた。
最近、言動がキツくなっていた“紅莉栖”に、ささやかな反撃を出来た事で、俺は少しスッキリした。
からかいすぎると遺恨が残る気がするので、これ以上はやめておいた方がよさそうだが。
真帆
「栗ご飯って、なんなのよ?」
倫太郎
「どうしても知りたかったら、“紅莉栖”に訊いてくれ」
俺から勝手に話したら、絶対にヘソを曲げて口をきいてくれなくなりそうだからな。
真帆
「…………」
倫太郎
「それで、今回はどれぐらいの間、こっちに滞在する事になりそうなんだ?」
真帆
「前よりも長くなるかもしれないわね」
真帆
「レスキネン教授が研究している新型脳炎は、いまだに詳しい事がほとんどわかっていないようだから」
真帆
「もしかしたら私だけ先に帰らされる可能性もあるけど」
倫太郎
「時間があったら、ラボにも顔を出してみるといい。ダルやまゆりも、きっと喜ぶはずだ」
真帆
「まゆりさんはともかく、橋田さんは……どうかしら」
ついに真帆にまで、ダルの本性が認識され始めたか。
そんなダルは、今ごろは阿万音由季とデート中のはずだ。
真帆
「ちなみに、紅莉栖のノートPCは、その後どうしたの?」
倫太郎
「あれは、破棄したよ」
真帆
「…………」
倫太郎
「それが、一番いい判断だったんだ。前にそう話しただろ?」
真帆
「……ええ、そうね」
真帆は俺の答えを聞いて、寂しそうに目を伏せた。
事前にそうするつもりであるとは伝えてあったが、実際に紅莉栖の形見の品が失われた事に対して、やはり思うところがあるようだった。
ゴーゴーカレーの店内は、半分ほどの席が埋まっている状態だった。
日曜日とは言え、午後2時を回ってランチタイムの混雑は解消してきている。
そんな中――鈴羽は一番端の席に座り、帽子を目深にかぶってうつむいていた。
帽子のつばで顔を隠しつつ、少し離れたところに座っているカップル客の様子を鋭く観察する。
ゴーゴーカレー店員
「お待ちどうさま、
メジャーカレー

でーす!」
店員の元気な声とともに、そのカップルの目の前に、巨大な銀の皿――というか盆――がドカンと2つ、置かれた。
他の客たちがそれを見てざわつく気配が、鈴羽にも伝わってきた。
なにしろそのカップルはひどく目立つ。
男の方はメジャーカレーがいかにも似合いそうな巨漢だが、女の方は、スリムで優しげな美女だったからである。
そのカップルの組み合わせも、美女とメジャーカレーの組み合わせも、どちらもアンバランス過ぎた。
メジャーカレーはとにかく大きい。でかい。
鈴羽も経験上、それを知っていた。
巨大な銀の皿いっぱいにライスとカレーが盛られ、その上に、これまた巨大なカツが2枚とエビフライとソーセージ、ゆで卵と山盛りのキャベツがトッピングされている。
通常メニューの2倍から3倍のカレーにトッピング全部乗せ的な怪物メニューだ。
食べ盛りの若い男性客でも、完食するのは容易ではない。
鈴羽
「………」
鈴羽はイライラしていた。
鈴羽
(いったいなんで、初デートの昼食がメジャーカレーなんだよ、父さんっ)
鈴羽が観察している美女と野獣のカップルは、当たり前の事だが至と由季である。
午前中に有楽町で映画を観た後、秋葉原まで来て……そしてこのゴーゴーカレーに入ったのだ。
鈴羽はその間、ずっと尾行をしていた。
だからこそ、至のデートコースの選択が信じられなかった。
鈴羽
(あたしはゴーゴーカレーでもまったく問題ないけどっ、というか、むしろ好きな方だけどっ)
鈴羽
(せっかくの初デートなんだから、もうちょっと他に選択肢もあるだろっ)
スプーンを握りしめながら、ギリギリと歯ぎしりした。
2011年の日本の若者文化に疎い鈴羽でさえそう感じるのだから、由季はさぞ困っているんじゃないだろうか――などと心配している鈴羽だった。
が……。
由季
「うわぁ。写真よりもすごいですね!」
意外にも、由季は周囲の目を気にする様子すらなく、出されたメジャーカレーを前にして無邪気に声を上げていた。

「え、えと、あの……阿万音氏……もし食べきれなかったら、その……僕が食べてあげるですから……」
由季
「はい、ありがとうございます。けど、これでも私、けっこういけるんですよっ?」

「そ、そですか……びっくりですお」
由季
「ふふふ。実は、いつもお店の外でメニューだけ見てて……一度、食べてみたかったんですよねー」
由季
「連れて来てもらえて、嬉しいです」

「そ、それは実によかったですお」
鈴羽
「……?」
鈴羽の懸念は杞憂に終わったようだが、一方で至の様子がおかしい事に気づいた。
そう言えば映画館から出てきてから、喋り方も歩き方もやけにぎこちない。いつも猫背で丸まっている背中も、無理にピーンと伸びている。
とにかく一挙手一投足がギクシャクしていて、ポンコツのロボットのようだ。
しかも、そんなあやうい手つきでコップに水を何杯もついでは、次から次へと、グビグビ飲んでばかりいる。
由季
「あ、ごめんなさい。私にも、お水のおかわりを……」

「はっ? はいはい、どぞっ」
由季
「ありがとうございます」
至が、由季のコップに水を注ぐ。
鈴羽はそれを見て、嫌な予感がした。
その予感は見事に的中し、ギクシャクした動きの至が、あやうく由季の手の上に水をこぼしてしまいそうになった。
由季
「キャッ……」

「だっ、だ、だだっ、だいじょぶですかお!?」
由季
「ええ、ちょっと手が濡れただけですから。それより、早く食べましょう?」
由季は自分のハンカチで素早く手とテーブルを拭くと、目をキラキラ輝かせてスプーンとフォークをつかんだ。
由季
「それじゃあ、いただきまーす」

「い、いただきます」
楽しげに食べ始めた由季とは対照的に、至はやけにお上品でおとなしい。
リスが木の実をかじるような仕草で、一切れのカツをちょびちょび食べている。
その間、至と由季の間に会話は皆無だ。
鈴羽
(いったい何をやってるんだ、父さんは……。あんなんじゃ、母さんに愛想尽かされちゃうよ)
かくなる上はRINEを使って至に発破をかけてやろうと思い、スマホを取り出そうとした、そのとき。
ゴーゴーカレー店員
「はい、メジャーカレー! ルー増し! お待たせしましたー!」
鈴羽
「……!?」
鈴羽の目の前のテーブルにも、ドカンと巨大な皿が置かれた。
またも周囲の客がざわつく。
そういえば、至たちを尾行して店内に入ってきたときに、いつもの癖で自分もメジャーカレー――しかもルー増し――を注文していた事を忘れていた。
これでは目立ってしまう。
決して広くはない店内では、まさに自殺行為だった。
由季
「あら?」
鈴羽
「う……」
案の定、由季と完全に目が合ってしまった。
由季
「鈴羽さん! いたんですか!?」
鈴羽
「あー、えと……」
鈴羽
「うん。偶然だね、由季さん、兄さん……」
由季
「声、かけてくれれば良かったのに」
鈴羽
「いや、気が付かなかったんだよ、全然」
これは、今すぐ店を出て行くべきかと思ったが、目の前に置かれたメジャーカレーに口を付けずに出て行く事は出来なかった。
戦争時代を経験した鈴羽にしてみれば、食べ物を粗末にするなど絶対に許される行為ではないのだ。
由季と至の視線をひしひしと感じつつ、やむなくスプーンを手にする。
鈴羽
「とまぁ、そういう事なんで。ふたりともごゆっくり」
かくなる上は、1分1秒でも早く目の前の特盛りカレーを食べきり、店を出て行くしかない。あの2人の邪魔をしないためにも!
ところが――そんな鈴羽の覚悟とは裏腹に、由季がトコトコと席に近づいて来たかと思うと、鈴羽のカレーをひょいと取り上げてしまった。
鈴羽
「あ……?」
由季
「あのー、すみません、店員さん? お友達なんですけど、席を移ってもいいでしょうか?」
ゴーゴーカレー店員
「はい、どうぞー」
由季
「OKですって。一緒に食べましょうよ?」
鈴羽
「ちょっちょっちょっ、ちょっとっ? なんで?」
由季
「なんでって、ほら、鈴羽さんもメジャーカレーじゃないですか。これは、ぜひ勝負せねばーと思って」
鈴羽
「はあ!?」
由季
「審判は、橋田さんにやってもらいましょうっ」
そして、由季は返事も待たずに、鈴羽のカレーを自分たちの隣の席に持って行ってしまった。
鈴羽
「いや、あのっ!?」
やむを得ず鈴羽も2人の方へと移動すると、由季に耳打ちした。
鈴羽
「デート中、なんだよね?」
由季
「え? あ、そうです。デート中です」
由季
「改めて言われると照れますね、うふふ」

「…………」
至は無反応だ。
今の会話だって聞こえているはずなのに。
鈴羽
「ええと、あたし、デートとかした事ないから詳しくないんだけどさ……」
鈴羽
「……デート中に、他の女とカレーの早食い対決したりするもんなの?」
由季
「さあ、どうでしょう」
由季
「でも、ほら、アニメとかコミックスとかに、そういうのありません?」
由季
「お兄ちゃんを取られたくない妹が、彼女さんに向かって『勝負だ!』みたいなの」
なぜか由季は、やけにやる気に満ちたギラギラした瞳で、鈴羽に訴えかけてくる。
鈴羽はその勢いに圧倒されてしまった。
鈴羽
「し、知らないってば」
鈴羽
「そういうものなの、兄さん?」
しかし、助けを求めた至はと言えば、相変わらずロボットみたいにぎこちない動きで、ただひたすらもくもくとカレーを口に運んでいた。
鈴羽
「……兄さん?」
再度呼びかけると、ギギギ、と首だけこちらに向けてくる。

「ナンカ、言ッタ?」
鈴羽
「どうしたのさ? なんかおかしいよ?」

「ドウモシテナイお。オカシクナイお」
鈴羽
「???」
鈴羽がたまらず由季の顔を見ると。
由季
「…………」
彼女はここではじめて、困ったような表情を見せた。
結局、そのあと、由季と鈴羽のふたりでメジャーカレー早食い対決をして、驚くべき事に両者とも完璧に完食した。
ほんのわずかの差で鈴羽が勝利をおさめたが、店内の客のみならず店員からも拍手が起こるほどの白熱した試合展開だった。
しかし、その間、至は相変わらずもくもくと、ひとりカレーを食べ続けていた……。
これではデートどころか会話にすらならないので、至だけ先に帰らせた。
出来れば鈴羽としては、至の不甲斐なさを今すぐにでも本人に問いただしたいところだったのだが……ふと考え直して、由季と一度話しておく事にしたのだ。
今までは、正体がバレる事を恐れて露骨に避けてきた鈴羽だったが、今はすでに7月。
あと少しで、彼女はこの時代からいなくなる。
由季とゆっくり話せるのは、これが最後のチャンスかもしれなかった。
由季
「ふう……」
由季
「鈴羽さんがいてくれて助かりました……」
至を見送った後、由季は小さくため息をついた。
由季
「私、もしかしたら気に触るような事しちゃったのかもしれません……」
由季
「橋田さん、私といてもあんまり楽しくないみたいだったから……」
鈴羽
「単に……緊張してただけ、じゃないかな?」
由季
「でも、映画を観る前は、楽しそうにお話してくれてたんですよ?」
由季
「それが、映画の後は、すっかりよそよそしくなってしまって……」
由季
「私、なにか間違っちゃったのかなぁ……」
由季
「カレー屋さんに連れて行ってもらったのも、私のリクエストだったんですけど……ずっとあの調子だったから、さすがにちょっと、困ってしまって……」
由季
「それで、偶然お店にいた鈴羽さんに助けを求めたというわけです……」
鈴羽
「…………」
映画の最中に何かがあったのだろうか。
鈴羽は映画館の中までは尾行しなかった。
その間、2時間ほどは外で時間を潰していたのだ。
鈴羽
「あのさ……」
鈴羽
「……由季さんは、なんで兄さんの事、好きになったの?」
由季
「えっ? ええっ!?」
鈴羽
「いや、あたしが言うのもなんだけど、あんまりモテるタイプじゃないじゃん、兄さんって」
由季
「…………」
由季
「……鈴羽さんは、お兄さんの事、どう思います?」
鈴羽
「あたし?」
由季
「好きですか? 嫌いですか?」
鈴羽
「…………」
由季
「好きですよね? 見ていれば分かります」
鈴羽
「まあ……うん」
気に入らない事は多々あるが。
もちろん鈴羽は、父の事が大好きだった。
鈴羽
「って、あたしの事は別に、どうでもいいじゃないか」
由季
「ふふふ」
鈴羽
「それで? 由季さんは?」
由季
「……私は……、まだ、好きかどうかも、よく分からないです……」
鈴羽
「……そ、そっか」
確かに至は由季に告白するどころか、今日が初デートだったぐらいだ。そこまで頻繁に会って話しているわけでもない。
まだ異性として意識する段階にすらたどり着けていない事になる。
鈴羽がほぼ1年間、一緒にいて、まゆりやフェイリスの助けもあって2人をくっつけようとした。にもかかわらず、大した進展は見られない。
この先の事を考えると、鈴羽は言い知れぬ不安を覚えた。
自分の父さんが父さんじゃなくなって。
自分の母さんが母さんじゃなくなって。
父さんと母さんが一緒にいない。
そんな未来を想像して。
鈴羽
(そんなの、嫌だ……)
心の底からそう思った鈴羽は、真正面から由季の目を見つめた。
鈴羽
「あたしさ、もうすぐ、ここからいなくなるんだ」
由季
「え?」
鈴羽
「ちょっと、遠いところに引っ越すんだよね」
由季
「そ、そうなんですか!?」
鈴羽
「たぶん、戻ってこないと思う」
鈴羽
「心配なんだ。父さ……兄さんの事」
鈴羽
「だからさ、由季さん」
鈴羽
「こんな事、あたしが頼むのもおかしな話なんだけど――」
そこで鈴羽は、深々と頭を下げた。
鈴羽
「橋田至を、よろしくお願いします!」
由季
「…………」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「……?」
由季の返事はない。
鈴羽は恐る恐る顔を上げ、由季の表情をうかがった。
由季
「…………」
その表情は、どこか寂しげで。
どこか、悲しげで。
由季
「私は、どうしたいんでしょうね……」
由季がポツリとつぶやいた、その言葉に、鈴羽は――
鈴羽
「あーもう! どうするんだよ! これじゃ破局の危機だよ! まだ始まってもいないけど!」
――ラボに戻るなり、不甲斐ない至を怒鳴りつけた。

「うおお~ん、鈴羽、ごめんな~。橋田家はもうダメなんだお~」
鈴羽
「しょぼくれてるんじゃない! シャレじゃすまないんだ!」
鈴羽
「とりあえず、今日はなんであんな態度を取ったのか、しっかり説明して!」
鈴羽
「今朝、出かける時はあんなに楽しそうだったじゃないか。母さんだって、映画の途中までは普通だったって言ってたし!」

「うん……」
鈴羽
「いったい何があったの!?」

「いや、それがさ、聞いてくれよぅ……」

「映画の座席って狭いじゃん? だから僕、阿万音氏の邪魔にならないようにと思って、出来るだけ椅子の端っこに寄って座ってたんだよね」

「そしたら、椅子がベキッっていって、壊れそうになって」
鈴羽
「ええ?」

「で、慌てて身体を支えようとして、ひじかけをつかんだんだけど――」

「そ、それが……それがっ! ひじかけじゃなくって、阿万音氏の……その……手だったんだお~」
鈴羽
「……うん?」
鈴羽
「そんな事、母さん一言も言ってなかったけど……」

「嘘じゃないお! あの柔らかい感触はひじかけのはずがない! 女の子の手に決まってる!」
鈴羽
「そ、そう……」

「ただ僕、女の子と手をつなぐなんて、二次元ならともかく、三次元じゃほとんど経験なくて……ううう……」
鈴羽
「それで? どうしたの?」

「阿万音氏、優しいからさ……僕を傷つけないようにと思ったのか、その手を振りほどかないんだお……」

「僕ってこの体型じゃん?
手汗
てあせ
とかかきまくりじゃん? ベッタベッタになるわけじゃん? なのに阿万音氏、なんにも言わずそのままで……」

「なんか、それからすっごく意識するようになっちゃって……」
鈴羽
「あー、なるほどね。それであんなにポンコツになってたのか……」

「阿万音氏もきっと心の中で、『キモイウザい離せHENTAI』って思ってたに違いないお……」
鈴羽
「母さんはそんな人間じゃないよ」
むしろ由季の言動を見ると、自分が失礼な事をして嫌われてしまったのではないかと気をもんでいたようにも思える。
問題は、あの時の言葉だ。
由季
「私は、どうしたいんでしょうね……」
あれはいったいどういう意味だったのか。
鈴羽
「母さんが分からない……」

「鈴羽~、こうなったら母さんの事はあきらめて、僕とふたりで仲良く生きていこう~」
鈴羽
「言ってる事がめちゃくちゃだよ! そもそも、あたしはどうやって生まれてくればいいんだっ!」

「うう……でも無理だって~」
鈴羽
「父さんが頑張らないでどうするの!? このピンチをチャンスに変えるんだよ!」
鈴羽は実の父の胸ぐらをつかみ、その巨体を揺さぶった。
鈴羽
「でないと――」
別れ際の、少し寂しげな由季の表情。
鈴羽
「……でないと、取り返しが付かない事になるよ?」

「ですよね……」
心配事が増えた事で、また鈴羽の中で、覚悟が少し揺らぎそうになっていた。
――こんな事なら由季と話すべきではなかったかもしれない。
この時代の人間ではないが故の無力感を、鈴羽は改めて感じた。
和光市にある『脳科学総合研究機構・日本オフィス準備室』は、半年前と何も変わっていなかった。
相変わらず無駄に広く、ガランとしていて、誰も使っていないデスクがたくさん並んでいる。
テーブルの上の埃の量は……増えたかもしれない。
半年前にレスキネン教授たちがここを引き払った後、他の誰かが使う事もなく空室になっていたのだろう。
レスキネン
「わざわざ呼びつけてすまないね、リンターロ」
倫太郎
「あ、いえ」
『Amadeus』にアクセスするためのアプリを最新のものに更新したいという事で、俺は大学が終わってからこうしてオフィスまで赴いたのだ。
今は、真帆がその作業のために俺のスマホにケーブルを繋げ、PCで作業を行っている。
10分もあれば終わる作業だというので、ぼんやり待っていた。
レスキネン
「ところでリンターロ」
レスキネン
「以前にも話したと思うが、本気で留学について考えてみないかい?」
倫太郎
「えっ!?」
レスキネン
「君が問題なければ、推薦状も書こうじゃないか」
レスキネン
「もちろん、テストや面接は、パスする必要があるけどね」
俺は慌てて姿勢を正した。
倫太郎
「ええと、とてもありがたい話なんですが……」
倫太郎
「……今の俺の学力じゃ、まだ難しいかと」
倫太郎
「俺、真剣にヴィクトル・コンドリア大を目指しているんです。だからこそ、絶対に失敗したくなくて」
倫太郎
「そのためには、せめてあと一年、本気で勉強すべきだって思っていて……」
俺のしどろもどろの説明を、レスキネン教授はしばし唇を尖らせて訊いていた。
が、やがて――。
レスキネン
「OK! OK!」
俺の肩をバンバンと叩き、ニヤリと笑った。
レスキネン
「やはり君は、とても思慮深い青年だね」
倫太郎
「そ、そうですか? そんな風に言われたのは、はじめてですが」
口で言うのは簡単だ。
実際には、単に臆病なだけなのかもしれない。
挫折を恐れずに一歩を踏み出す勇気。そういうものが必要な場合だってある。
今の俺は……どうだろうか。
レスキネン
「では、挑戦は来年かな?」
倫太郎
「そうですね……」
チャンスを……逃してしまっただろうか。
レスキネン教授は、来年まで待ってくれるのだろうか。
不安が脳裏をよぎる。
レスキネン
「根を詰めすぎるのもよくないよ。たとえば、大学を見学に行くだけでも、モチベーションのアップに繋がると思う」
倫太郎
「見学、ですか?」
レスキネン
「もしタイミングが合えば、旅費は出すから是非一度、一緒に行ってみないかい?」
倫太郎
「……っ」
倫太郎
「そ、そこまでしてもらえるなんて……、ありがとうございます!」
レスキネン
「もちろん、私は次、いつアメリカに帰れるかどうかわからないから、時期については明言出来ないがね。Hahaha」
倫太郎
「はいっ」
心の底から感謝して、頭を下げる。
この人と出会えた事は、俺にとっては本当に幸運だった。
真帆
「…………」
ふと、真帆と目が合った。
真帆は、なぜか少し悲しそうな顔で微笑むと、すぐに目をそらして、作業に戻った。
真帆が泊まっているホテルは、和光市から電車で数駅のところにあるビジネスホテルだった。
さすがに半年前と同じホテルは避けたのだという。
真帆
「少し不便になったけれどね」
倫太郎
「というか、少しは片付けたらどうだ?」
まだ日本に来てそんなに日も経っていないのに、ここまで散らかすとは……。
真帆
「片付ける? 私は、自分が一番効率的に過ごす事の出来る配置をしているだけよ」
という事は、ホテルの客室係によるベッドメーキング等の掃除も、断っているわけか……。
アマデウス紅莉栖
「そんな風にデリカシーが欠けてるから、先輩にはいつまで経ってもカレシが出来ないんですよ」
俺のスマホから、“紅莉栖”の呆れた声が響いた。
アプリのアップデートが終わった後、『Amadeus』は起動しっぱなしにしてある。
真帆
「なっ、おっ、大きなお世話よ!」
アマデウス紅莉栖
「この部屋の惨状で人を招くなんて、普通は恥ずかしくてとても出来ません」
真帆
「う……」
まあ、俺も片付けは得意じゃない方だし、あまり責めるのはやめておこう。
倫太郎
「それで、俺に話って?」
このホテルまでやって来たのは、真帆から“話がある”と言われたからだ。
俺としてはオフィスで話してもよかったのだが、真帆がどうしてもホテルの部屋でふたりきりで話したいと言い張ったのだ。
下心のようなものは、まったくなかった。真帆がそういうタイプの人間じゃないのは、半年近い付き合いですでに理解していた。
真帆
「…………」
真帆は言いにくそうにしていた。
真帆
「あなたに、まだ訊けていないから」
真帆
「紅莉栖の事件の、真相を」
倫太郎
「……!」
俺はとっさに、『Amadeus』のアプリを終了させた。
真帆
「それに……タイムマシンの事についても訊きたいの」
倫太郎
「タイムマシン?」
真帆
「紅莉栖は、中鉢論文に関わっている。そう言ったのはあなたよ」
真帆
「ねえ、あの子は……本当に、タイムマシンを?」
倫太郎
「…………」
俺は、どう答えるべきなんだろう。
半年前は、紅莉栖のノートPCを真帆が解析しようとしているという事情があった。
それを止めさせるために、場合によっては俺が経験した事を話そうと考えてもいた。
結局、いろいろゴタゴタがあって、その機会は失われたが。
でも、今は違う。
すでに紅莉栖のノートPCは存在しない。
今さら蒸し返すべきじゃない。
ところがそこで、真帆が意外な事を口にした。
真帆
「実は私、この半年、本来の研究と並行でタイムマシンの研究をしていたの」
倫太郎
「……なんだって?」
真帆
「紅莉栖に出来たのなら、私も……って思ってしまって」
真帆
「歪んだ対抗意識ね……。意地になっているのかも」
真帆
「でも、でもね?」
真帆
「もしタイムマシンを作る事が出来たら……紅莉栖の事を、救えるかもって――」
倫太郎
「やめろ!」
真帆
「……!」
最悪だ……。
今さら蒸し返す?
それどころか、真帆は俺と同じぐらい、紅莉栖の事を引きずっている。
倫太郎
「馬鹿な事は、考えるな」
真帆
「岡部さん……」
倫太郎
「牧瀬紅莉栖を救おうなんて、考えるんじゃない」
倫太郎
「そんな可能性は、ゼロなんだ」
倫太郎
「“神の摂理”が、それを許さない」
真帆
「やっぱり……」
真帆
「あなた、やっぱり何か知っているのね?」
真帆が、詰め寄ってくる。
真帆
「もしかして……実現させたの? 紅莉栖は、タイムマシンを、完成させている?」
真帆
「あなたは、それに乗って、すでに人類初のタイムトラベルを行ったんでしょう? そうなんだわ!」
倫太郎
「……根拠があって、言っているのか?」
真帆
「……!」
冷静を装って反論すると、真帆は自分の放った言葉に愕然とした様子で、うなだれた。
真帆
「……ごめんなさい」
真帆
「私、どうかしているわ。こんな妄想を、口にするなんて……」
真帆
「……っ」
倫太郎
「比屋定さん!?」
真帆の目から、涙がこぼれ落ちた。
突然目の前で泣かれて、俺はあたふたしてしまう。
真帆
「どうしたのかしら、私……。こんな、急に……」
真帆
「全然、泣くつもりなんて……」
真帆は戸惑ったように、自身の目から溢れる涙を指で拭っている。
俺が見る限り、かなり情緒不安定だ。
以前よりも、脆さが垣間見えるというか……。
精神的に追い詰められている感じがする。
半年前に色々な事件に巻き込まれた事が影響しているんだろうか。
ビデオチャットで話していた時は、そんな素振りはまるで見せなかったのに。
話すべき、なんだろうか。
タイムマシンの研究をしている、というのは、よくない兆候だ。
そのうち、自分であれこれ調べ始めて、うっかり地雷を踏んでしまう恐れだってある。
それなら、俺が
諦める
①①①
に至った経緯を話し、真帆にも同じように手を引いてもらうべきだ。
倫太郎
「……わかった。俺が経験した事を、話そう」
倫太郎
「絶対に、誰にも他言無用だ」
倫太郎
「それと、もう一度、これだけは言っておく」
倫太郎
「牧瀬紅莉栖を、救おうとは考えるな」
倫太郎
「いいな?」
真帆
「…………」
真帆は涙を拭いながら、コクリとうなずいた。
俺が話したのは――。
α世界線で経験した事、タイムマシンの事、リーディング・シュタイナーの事。
そして、タイムリープと呼んでいる、記憶だけの時間遡行を経験した事。それを可能にしたタイムリープマシンを、紅莉栖が開発した事。
ジョン・タイターを名乗る、2036年からのタイムトラベラー、阿万音鈴羽の事。
鈴羽が語った未来。第三次世界大戦は起きるという事。
しかもその戦争は、タイムマシンの開発競争をきっかけにして起きる事。
そうした出来事を、淡々と話した。
紅莉栖が死んだ時の状況は……さすがに、言えなかった。
すべての話を聞き終えた真帆は、しばらく無言で考え込んでいた。
真帆
「ふ~」
やがて大きく息をつくと、渋い顔をしてこめかみのあたりを指で揉んだ。
真帆
「頭が、痛いわ……」
倫太郎
「すべて信じる必要はない」
倫太郎
「俺の頭がおかしいと思っても構わない」
倫太郎
「だが、もし君がタイムマシンの研究を続けて牧瀬紅莉栖を救おうとするなら、俺はどんな手段を使っても止めるつもりだ」
倫太郎
「だから、変な考えは捨てるんだ」
倫太郎
「自分を追い詰めるのはよせ」
なおも言葉を続けようとする俺を、真帆が手を掲げて制した。
真帆
「もう少し、整理させて」
真帆
「あなたの言うリーディング・シュタイナーって、新型脳炎の事じゃないの?」
真帆
「レスキネン教授が話していた症状と、同じだわ……」
倫太郎
「……そう、だな。そうかもしれない」
倫太郎
「レスキネン教授には、話すべきかどうか、まだ、迷っているんだ」
倫太郎
「無用な混乱を招くかもしれないし……」
倫太郎
「君はどう思う?」
真帆
「……私に、訊かないで」
真帆はまだ、こめかみのあたりを指でグリグリと揉んでいる。
倫太郎
「そうだな。すまない」
真帆
「あなたは、紅莉栖のノートPCを、本当に、破壊してしまったの?」
倫太郎
「ああ。壊した」
真帆
「中身は? 見た?」
倫太郎
「ロックの解除方法がわからなかったんだ。見ようがない」
ダルだってお手上げだったと聞いている。
そんなものを、俺が解除出来るわけがない。
真帆
「あなたは、紅莉栖が書いた、タイムマシンに関するオリジナルの論文を、読んだの?」
倫太郎
「いや」
真帆は次々と質問をぶつけてくる。
なぜか、妙に焦っているような、そんな様子だった。
真帆
「あなたは、紅莉栖が、どうやってタイムリープマシンを完成させたか、知っているの?」
倫太郎
「おおよそはな」
真帆
「再現出来る?」
倫太郎
「どうだろうか。ダルの助けがあれば、あるいは……」
真帆
「出来るのね?」
倫太郎
「俺一人じゃ難しい」
真帆
「私なら?」
倫太郎
「そんな事は考えるな」
真帆
「……っ」
と、真帆が不意に苦しそうに表情を歪めた。
よく見ると、ひどく顔色が悪い。
倫太郎
「比屋定さん? 大丈夫か?」
もしかして、本当に頭痛がするのか?
倫太郎
「少し横になるか?」
だがその問いかけに、真帆は首を左右に振って、なおも質問を続けてきた。
真帆
「タイムマシンは、今、どこにあるの?」
真帆
「鈴羽さんが乗って来たという、それは、どこに?」
倫太郎
「…………」
真帆
「どこなの?」
それを、鈴羽に許可なく言っていいのかどうか、少し迷ったが。
倫太郎
「……秋葉原だ」
真帆のすがるような視線を受けて、結局、俺は答えてしまっていた。
倫太郎
「ラジ館の屋上に、今もある」
真帆
「そう……」
真帆は、なぜかがっくりと肩を落とし、うなだれた。
もしかしたら“直接見せてくれ”と言われるんじゃないかと身構えていたんだが……。
やはり体調が悪いんだろうか。
倫太郎
「本当に平気か?」
俺は真帆の肩に手をかけ、その顔をのぞき込もうとした。
倫太郎
「今日はもう、休んだ方が――」
真帆
「――っ」
いきなりだった。
真帆の華奢な体に、体当たりをされた。
そのあまりの勢いに、俺は壁にまで追いやられる。
倫太郎
「なっ、何を――」
混乱しているうちに、喉元に腕を押し付けられた。
真帆は腕の骨を使い、俺の気管を圧迫してくる。
倫太郎
「ぐっ……!」
息が出来ず、声も出せなくなった。
訳がわからないまま身をよじり、抵抗しようとした。
すると真帆はもう一方の手で、俺の頭をわしづかみにし、後頭部を壁に打ち付けるようにして押さえてくる。
倫太郎
「……っ」
ものすごい力だった。
体格的には俺の方がずっと有利なのに、拘束から逃げられない。
真帆
「残念だわ、岡部さん……」
その真帆の声は、ひどく昏く、冷たかった。
と思ったら、直後に苦しげなうめき声をあげて、また苦痛に表情を歪ませる。
真帆
「く、う……」
真帆
「頭が……割れそうよ……」
その目から、再び涙がこぼれ落ちた。
真帆
「なんで……」
真帆
「なんで、私に……話してくれたのよ……っ」
真帆
「あなたはっ……黙っている……べきだった……のにっ……!」
倫太郎
「ぐ……」
逃れられない……。
真帆の長い髪をつかみ、引き離そうとしたが、まったく動じない。痛みを感じていないかのようだ。
さっきからポケットの中で振動し続けているスマホを、必死で取り出した。
画面を見る事も出来ないまま、手探りでタップする。
――応えてくれ、“紅莉栖”。
アマデウス紅莉栖
「岡部――!?」
倫太郎
「“紅莉栖”……」
意識が、遠くなっていく。
このまま死ぬんだろうか。
なぜ自分が真帆に殺されかけているのか、その理由もわからないままに。
ただ――。
俺の首を絞める真帆の方が、ずっと、辛そうな顔をしている。
というか、また、泣いているじゃないか。
その涙が本心なのか演技なのか、わからないまま、俺の意識はぷっつりと途切れた――。
喉に痛みが走り、目が覚めた。
倫太郎
「げほっ、げほげほげほっ……」
口元を手で押さえようとしたが、何かに引っ掛かって手が動かなかった。
そっと目を開けると、自分の太股が見え、イスのようなものに腰かけている状態だと理解出来た。
ゆっくりと顔を上げる。
手首が、結束バンドでイスの肘掛けに固定されていた。
無理に手を動かそうとすると、バンドが食い込んでひどく痛い。
周囲を見回してみた。
見た事もない部屋だ。
病院の手術室かと見間違うような機器などが並んでいる。
一方で、壁にはモニタがずらりと並んでいて、どこかの守衛室かコントロールルームのようにも思える。
窓はどこにも見当たらない。
だから、ここがどこなのかまったく想像出来なかった。
倫太郎
「だ、れ……か……っ」
喋ったら、喉元に痛みが走った。
それで、真帆に殺されかけた事を思い出す。
いったいなぜ彼女はあんな事をしたのか。
怒りよりも、戸惑いの方が強かった。
???
「やぁ、リンターロ。目が覚めたかい」
足音が響き、ほの暗い蛍光灯の下、正面に、大きな人影がゆらりと現れた。
その声には聞き覚えがあった。
倫太郎
「え……」
倫太郎
「レスキネン……教授……」
レスキネン
「気分はどうかな? 喉が渇いたなら、水を用意させるよ」
よく見ると、レスキネン教授1人ではなかった。
彼の後ろに、黒いスーツに身を包んだ数人の男たちが黙って控えている。一言も発さずに、俺の事を見ている。
全員が、その手に拳銃を持っていた。
そのMIBのような出で立ちから、半年前、ダルの店でニアミスした外国人たちの事を連想した。
あるいは、あの時の連中と同一人物か?
倫太郎
「これは……いったい……」
聞きたい事は山ほどあったが、そもそもなぜレスキネン教授が、今の俺の状態を見て助けようとしてくれないのかが、わからなかった。
もちろん、最も妥当な答えは簡単に思い浮かんだ。
俺をここに拘束したのがレスキネン教授本人であり、真帆は教授の指示を受けて俺を捕らえたのだ――という答えが。
だが、そんなものが事実だとは思いたくなかった。
倫太郎
「ここは、どこですか……?」
だから俺は、そんな間抜けな問いかけしか口に出来なかった。
レスキネン
「私の目に狂いはなかったよ」
レスキネン
「君はまさに“情報”の宝庫だ」
レスキネン
「いまや、合衆国大統領にも匹敵する価値のある人物と言ってもいい」
教授は俺の問いかけには応えず、そう言って満足げに笑った。
頭の中で、警告音が鳴り響いている。
レスキネン教授への警戒心が強まっていく。
倫太郎
「俺は……監禁されてるんですか?」
レスキネン
「監禁というよりは、保護と言った方がいいだろうね」
レスキネン
「君の価値が明らかになれば、狙ってくる連中はたくさん出てくるはずだからね」
倫太郎
「レスキネン教授が……指示したんですか?」
レスキネン
「そうだよ。私が、こうすべきだと判断した」
レスキネン
「マホから、君の持つ“情報”について聞いてね」
倫太郎
「比屋定さんは、どこです?」
レスキネン
「ホテルで休んでいるんじゃないかな?」
倫太郎
「比屋定さんは、俺から情報を引き出すために、近づいてきたんですか?」
レスキネン
「最初はそうではなかったよ。結果的には、そうなったけれどね」
倫太郎
「あなたも……?」
倫太郎
「俺に親切にしてくれたのも、そういう打算があったからですか!?」
倫太郎
「あなたは、いったい何者なんです!?」
レスキネン
「まあまあ、落ち着きなさい」
レスキネン
「前に教えただろう? 科学者たるもの、常に冷静でなければいけない。興奮していいのは、実験が成功した時だけだと」
倫太郎
「……っ」
俺は逆に、レスキネンの落ち着き払った態度に苛ついた。
裏切られたのだという気持ちが、胸の奥に広がっていく。
怒りと、悔しさと、悲しさ。色んな感情がない交ぜになって、ギリリと奥歯を噛みしめた。
レスキネンはそんな俺の態度を意に介さず、そばに立っている男たちに英語で短い指示を出し、彼らを隣の部屋へと下がらせた。
あとには、俺とレスキネンだけが残される。
レスキネン
「さて、リンターロ。私のもう1つの仕事の話をしよう」
倫太郎
「……もう1つの仕事?」
そこで俺は、以前飛ばされた別の世界線での出来事を思い出した。
俺の即時引き渡しを日本に要求してきた、アメリカの組織。それを、下山が教えてくれたのだ。
倫太郎
「CIAか? NSCか?」
だがレスキネンは苦笑を返してきた。
レスキネン
「一緒にされては心外だな」
レスキネン
「彼らは、無能な公務員の集まりだよ」
レスキネン
「君は“STRATEGIC・FOCUS”社という、アメリカの民間情報機関を知っているかな?」
倫太郎
「ストラテジック・フォーカス社?」
そこで、ハッと思いつくニュースがあった。以前、厨二病全開だった頃に陰謀論についてまとめたサイトで見た事がある。
倫太郎

ストラトフォー

!?」
確か、CIAですら入手困難だったロシアの弾道ミサイルに関する最高機密情報を、いともたやすく手に入れて売買した連中だ。
そのおかげで、CIAのメンツは丸つぶれとなり、
同時に、ロシア軍の戦略も根底から揺さぶられたという。
湾岸戦争やイラク戦争でも、どこよりも早くすべての戦争参加国の軍事情報を手にし、必要に応じてそれらを各国にばらまいた、という噂すらある。
世界各国から“影のCIA”とも呼ばれているという。
倫太郎
「あなたが、そのストラトフォーだって……?」
倫太郎
「でも、脳科学研究所の、主任研究員じゃ……」
レスキネン
「本業はそっちだよ。もちろんね」
レスキネン
「ところで私はよく、こういう説を唱える連中に出くわすんだ」
レスキネン
「“人間は殺し合いをする猿である。人間の脳だけが、大脳新皮質の発達によって狂った信仰や野望を持つようになり、そのせいで戦争が起きる”」
レスキネン
「だが、私はそうした説を聞く度に、思うのさ。そんなバカみたいな考え方は受け入れられない。でたらめだ、とね」
レスキネン
「ではなぜ、人間同士の不毛な戦争がいつまでも終わらないのか。わかるかな、リンターロ?」
倫太郎
「…………」
レスキネン
「それはね、“情報”のせいなんだよ」
レスキネン
「人間は誰しも、あるコミュニティに属している群体だ」
レスキネン
「個人個人は自主的に行動しているつもりでいても、実は、すべての脳はそのコミュニティに流布されている“情報”によって繋がっている」
レスキネン
「そして、ひとつの群れとして生きる事を余儀なくされているのさ」
レスキネン
「例を挙げてみよう。そうだな、うーん、たとえは悪いが……」
レスキネン
「ヨーロッパのある国が行った、人類史上最悪の大虐殺は、なにも中世の魔女狩りの時代に起こった出来事じゃない」
レスキネン
「20世紀も半ば、すでに原子爆弾すら作られていた、そんな時代の話なんだよ」
レスキネン
「しかも、その国は当時、最先端の文明国家のひとつだった」
レスキネン
「その国の指導者の資質問題は、歴史学者に委ねるとして……」
レスキネン
「実際の現場で、虐殺に手を染めた人々の事を君は知っているかい?」
レスキネン
「彼らは、ただの、人殺しの猿だったのだろうか?」
レスキネン
「違う。彼らは、ごくありふれた
普通
①①




たち
①①
だった」
レスキネン
「脳科学的に見ても、何ひとつ異常の見られない
普通
①①




だったはずだ」
レスキネン
「ところが、ひとたびそこに、とある最悪の“情報”が伝播すると――」
レスキネン
「とたんに彼らの脳は、平気で虐殺を行う群体と化してしまう」
倫太郎
「……最悪の“情報”?」
レスキネン
「――『これは我々の使命なのだ。我々は正しいのだ。だから、使命に従わない者は悪なのだ』」
レスキネン
「そういう“情報”さ」
倫太郎
「何が、言いたいんですか……?」
レスキネン
「人間の脳という、もろい群体のための“情報”は、きちんと制御出来る者が管理しなくてはならないという事だよ」
レスキネン
「それが“STRATEGIC・FOCUS”の最終目的だ」
レスキネン
「私はそれに共感して、脳科学者でありながら、エージェントとして協力している」
レスキネン
「わかってくれたかな?」
倫太郎
「……わかりません」
倫太郎
「そんなの、よくある映画の悪役の屁理屈だ……」
倫太郎
「結局、あなたは、金で情報を売買してるだけじゃないですか……!」
倫太郎
「俺が、“情報”の宝庫だって言いましたよね……」
倫太郎
「タイムマシンの情報を、いったいどの国に売るつもりです!?」
倫太郎
「アメリカ!? 中国!? それとも、中東やアフリカの紛争地域ですか!?」
レスキネン
「……そのすべて、だよ」
倫太郎
「……!」
レスキネンは、肩をすくめるようにしてから、静かに笑った。
レスキネン
「核兵器と同じさ。抑止力として、あらゆる国に必要だと思っている」
倫太郎
「……タイムマシンは、核兵器なんかとはわけが違う」
倫太郎
「それが使われたかどうか、誰も気付かない。もしかしたら、使った本人さえも気付かないうちに、世界は改変されてしまうんだ!」
倫太郎
「抑止力になんかならない」
倫太郎
「どの国も、誰がどう世界線をいじったのかすら感知出来ないまま、狂ったように改変を続けるでしょう! 永遠に!」
レスキネン
「その通り!」
レスキネン
「タイムマシンは核兵器以上にデリケートだ」
レスキネン
「だからこそ、君の――君たちの、能力が必要となる」
レスキネン
「君はたしか、“リーディング・シュタイナー”と名付けたそうだね」
レスキネン
「どうやら、新型脳炎とほぼ同じ症例だとか」
倫太郎
「……!」
そうだ、レスキネンは、新型脳炎についても研究しているんだった。
レスキネン
「我々は、新型脳炎患者が過去改変を感知出来るのかもしれない……というところまでは、突き止めていてね」
レスキネン
「ずっと、その確証を求めていたんだ」
レスキネン
「世界中の諜報機関も同じ。躍起になって調べている」
倫太郎
「あ……っ!」
事ここに至るまで、その可能性を思いつけなかった自分に歯噛みした。
俺はずっと、こう考えてきた。
新型脳炎として集められている患者は、病気でもなんでもないのに、ただ無意味な治療を受けさせられているんだ――と。
しかし、そんな考えは甘かった。甘すぎた。
レスキネンたちの目的は、『リーディング・シュタイナー保有者』を集め、それを研究する事に他ならなかったんだ……!
レスキネン
「さっきマホから、君の特筆すべき能力の事を詳細に聞かせてもらったよ」
レスキネン
「本来、君からはクリスの失われた成果について聞き出せればそれでいいと思っていたが」
レスキネン
「新型脳炎の情報まで出てくるとは……! 君は最高だよ!」
レスキネン
「ここでも、我々は世界に対して一歩、先んじる事が出来る」
倫太郎
「くっ……」
レスキネン
「というか……君はどうしてもっと早く、私にその能力の事を話してくれなかったんだい?」
レスキネン
「そうすれば、君の友人――カツミの脳も、あそこまで色々といじくらないで済んだのに」
倫太郎
「なっ!?」
カツミって、中瀬克美――フブキの事か!
レスキネン
「それに、君が話してくれていたなら、マホの脳に
施術
①①
をする事もなかったんだ」
倫太郎
「比屋定さんまで……!?」
様子がおかしかったのは、そのせい!?
倫太郎
「あなたの助手だろうッ!? あなたを尊敬し、慕っていたのにッ!」
倫太郎
「そんな、人体実験みたいな真似を、よくもッ!」
レスキネン
「今後、人類に貢献する情報を手に入れるために必要な事だったんだ」
レスキネン
「それに、そんなに慌てなくても大丈夫」
レスキネン
「マホもカツミも、将来、少し脳機能に障害が残る程度で済むはずだ」
倫太郎
「あ、あんた……狂ってるっ!」
俺は、この時はじめて、目の前の男に嫌悪と――そして恐怖を感じた。
これまで尊敬していた人物と同じ人間だとは、とても思えなかった。
レスキネン
「リーディング・シュタイナー保有者の脳を調べれば、もっと色々な発見があるだろう」
レスキネン
「それをタイムマシンとセットで売れば、世界の軍事バランスは完全に保たれる。戦争も回避出来るんだ」
レスキネン
「君にも、ぜひ協力して欲しい」
レスキネンは、これほどまでに恐ろしい事を語りながらも、いつもと様子がまったく変わらなかった。
真帆が“イタズラな子供”と揶揄するままの無邪気さで、実に楽しそうに、狂った話をしていた。
倫太郎
「俺の事を、騙してたんですね!」
倫太郎
「俺に近づいたのは、ただ、俺が紅莉栖と親しかったからだ! 紅莉栖の生前の情報を、俺から引き出そうとしていた!」
レスキネン
「騙していたつもりはないよ」
レスキネン
「君と最初に会ったのは偶然だ」
レスキネン
「『Amadeus』のテスターを頼んだのは、君がクリスの友人だからというのが大きかったがね」
レスキネン
「ただ、君の事を知るうちに、純粋に興味を持ったのは本当だ」
レスキネン
「今でも思っているよ。私の下で研究員になってくれたら嬉しいとね」
レスキネン
「だが――“それ”と“これ”とは別の話なんだ」
レスキネン
「さっき言っただろう? 君は今この時点で、合衆国大統領に匹敵するレベルの重要人物だと」
レスキネン
「私個人の考えよりも、
我々
①①


仕事
①①
を、優先せざるを得ないんだ」
レスキネン
「未来の、人類の平和の為に」
レスキネン
「残念だ、リンターロ。そして、楽しみでもある」
レスキネン
「君の持つ“情報”の全貌を、私は早く知りたくてウズウズしているよ」
倫太郎
「地獄に……落ちろ……!」
レスキネン
「これから、君の記憶データを取らせてもらう」
レスキネン
「君の記憶を『Amadeus』システムとして使わせてもらうんだ。面白いアイデアだろう?」
レスキネン
「そうすれば、君が不慮の事故で死んでも、君の記憶は残る」
倫太郎
「……っ」
レスキネン
「ああ、心配しなくてもいい。もとより、殺すつもりなどないよ」
レスキネン
「人間というのは、『Amadeus』よりもセキュリティが甘いんだ」
レスキネン
「苦痛を味わうと、それから逃れるために、簡単に情報を漏らす」
レスキネン
「秘密保持のセキュリティなど、無いに等しい」
レスキネン
「拷問が通用しない『Amadeus』より、生身の君の相手をする方がずっと楽だ」
レスキネン
「記憶データを取るのは、バックアップだと思ってくれたまえ」
レスキネン
「たとえば、君が拷問に耐えきれず、精神崩壊を起こしてしまったとしても――」
レスキネン
「近い将来、記憶データを君の脳にダウンロードして、回復させる事も出来るからね」
レスキネン
「君も私の講演に参加していたから、知っているだろう?」
倫太郎
「……っ」
レスキネン
「まず記憶データの取得」
レスキネン
「その後で、君自身から
いろいろ
①①①①






教えて
①①①
もらう
①①①
予定だ。忙しくなるぞ」
レスキネン
「さあ、リラックスして」
レスキネン
「そうでないと、データを正常に取得出来ないからね」
倫太郎
「レスキネン……! あんたは……!」
レスキネン
「そんな顔をしても、誰も助けには来ない」
レスキネン
「ここは、我々ストラトフォーが管理する場所だからね」
レスキネン
「我々以外には、誰も知らない」
レスキネン
「誰も、だ」
倫太郎
「……っ」
愕然となった。
逃げ場などない。
これから自分に起こる事を想像して、恐怖に膝が震えてしまう。
こんな事なら、死んだ方がよっぽどマシかもしれない……。
そこで俺は、自分が2025年まで死なない未来が確定してしまっている事に、暗澹たる気分になった。
どれだけ拷問を受けても死ねないのなら。
それは文字通り、地獄だ……。
頭が、痛い。
真帆は、割れそうなその痛みに耐えるため、しゃがみ込んで頭を抱え、目を閉じ、唇を噛みしめていた。
ずっと、鬱陶しいノイズが聞こえている。
そのノイズが、さらに頭痛をひどくする。
真帆がどれだけ耳を塞いでも、音を消す事が出来なかった。
あまりの苦痛に叫び出したくなったが、そうしたら頭痛がさらに悪化しそうに思えて、ひたすら我慢するしかない。
ノイズには声が混じっていた。
レスキネン教授の声だ。
レスキネン
「いいかい、マホ。君はどんな手段を使ってでも、リンターロ・オカベが抱えている秘密を暴くんだ」
レスキネン
「でないと、彼を殺さなくてはいけなくなる。そんなのはイヤだろう?」
レスキネン
「君も、リンターロの事をずいぶんと気にかけていたじゃないか」
レスキネン
「さんざん、私や“クリス”が煽ったからね。君にその気などなくても、ついつい意識してしまうものさ。それが、人の心理だ」
レスキネン
「彼を助ける意味でも、彼の持つ情報を引き出してほしい」
レスキネン
「そうしたら私は、リンターロを我が研究室に無条件で迎え入れてあげてもいい」
レスキネン
「マホ、彼について知り得た事は、すべて私に報告しなさい」
レスキネン
「彼の未来は、君の手にかかっていると言ってもいい」
とても、不快な声と、ノイズだった。
その声が何を言っているのか、真帆にはいまいち意味を理解出来ないでいる。
音声としてその声は頭に確実に入ってきているのだが、言葉としてその意味を汲み取る事を脳が拒否している。
でもどうせ、理解など出来てもしょうがない。
真帆は、岡部倫太郎にひどい事をしてしまった。
彼を、レスキネン教授とストラトフォーに売った。
その自覚がある分、真帆の罪悪感はひどいもので。
今すぐにこの世界から消えてしまいたかった――。
まゆり
「真帆さん……?」
真帆
「…………」
人が行き交う、初夏の秋葉原。
日陰になったビルの柱のひとつにもたれかかるようにしてうずくまっていた真帆は、自分の名を呼ぶ少女の声に顔を上げた。
まゆり
「やっぱり、真帆さんだ」
真帆
「まゆり……さん?」
思わぬタイミングで、思わぬ人物に声をかけられ、真帆は戸惑った。ただぼんやりと、まゆりの顔を見つめ返す。
まゆり
「具合悪いんですか?」
真帆
「…………」
真帆
「大丈夫よ……」
まゆり
「あの……」
まゆり
「オカリンを、見ませんでしたか?」
真帆
「え?」
真帆はギクリとした。
この無垢な少女の問いかけで、自分のしでかしてしまった事の愚かさ、卑しさ、汚さを思い出してしまう。
真帆
「どう……して……」
問い返した声が、震えてしまった。
まゆり
「オカリン、昨日から連絡付かなくて……」
まゆり
「お家にも帰ってないし、電話も出ないし、メールやRINEにも返事来ないんです……」
まゆり
「ダルくんは、心配しすぎだって言うんだけど……なんだか、胸騒ぎがするのです……」
まゆり
「だから、今日は学校を早退して、このあたりをずっと捜してました」
まだ7月とはいえ、かなりの暑さだ。
この炎天下の中、秋葉原中をあてもなく捜して歩いていたのか。
椎名まゆりというこの少女は、優しくて心が清らかな女の子なのだ。それが真帆が以前から抱いている印象だった。
汚れを知らず、誰かを裏切る事も、誰かに嫉妬する事も、誰かに利用されるような事も、決してないような、そんな可憐な少女。
真帆
「知りたい……?」
まゆり
「え?」
真帆の一言に、まゆりは身を乗り出してきた。
まゆり
「真帆さん、オカリンの事、何か知ってるんですかっ?」
まゆり
「もし知ってるなら、教えてくださいっ」
まゆり
「お願いしますっ」
深々と頭を下げてくる。
真帆
(そうか……)
真帆はそこで気付いた。気付いてしまった。
まゆりは、岡部倫太郎の事が好きなのだ。
ズキリと、真帆のこめかみのあたりに鈍痛が走った。
レスキネン
「君も、リンターロの事をずいぶんと気にかけていたじゃないか」
ノイズが、頭の中に響く。
――いっそ、まゆりにすべて明かしてしまえばいい。
――そうして、この純粋な少女に、非難してもらえばいい。
――その方がずっと楽になれるかもしれない。
真帆の心の中で、そんな考えがよぎってしまった。
いけない、と思いつつも。
頭痛をこらえながら、真帆は、口を開いた。
真帆
「昨夜――深夜、岡部さんと一緒だったの」
まゆり
「そう、なんですか……? それであの、オカリンは今どこに……」
そのまゆりの問いを、真帆は無視した。
真帆
「……岡部さんは昨日、私にこんな話をしてくれたわ」
――ダメ。
真帆
「彼が経験してきた別の世界において、椎名まゆりさん、あなたは、何度も死んだんですって」
まゆり
「……?」
――話したらダメ。
真帆
「何度やっても助けられず、あなたは死に続けた」
――こんな事、言うべきじゃないのに。
真帆
「その悪夢のようなループから抜け出すために――」
真帆
「あなたを、救うために――」
真帆の口は、まるで別人に取り憑かれたように言葉を紡ぎ続ける。
真帆
「岡部さんは、紅莉栖の事を犠牲にしたんだって。見殺しにしたんだって」
真帆
「そんな話を、してくれた」
まゆり
「……っ」
真帆
「タイムマシンを作り、紅莉栖をもう一度救おうとすれば、またあの頃に逆戻りしてしまう」
――傷つけてしまっている。
なのに、言葉は、止まらない。
真帆
「岡部さんは、その事をひどく恐れている」
真帆
「あなたを、必死で守ろうとしている」
真帆
「ここは、あなたを守るために、他の多くのものを犠牲にして選択された世界なのよ」
真帆
「あなたは、何も知らされていないだろうけど」
まゆり
「うそ……」
まゆり
「そんな……」
まゆり
「オカリン……」
まゆりはショックを受け、絶句していた。
その瞳から、今にも涙があふれ出しそうだ。
まゆり
「…………」
と、まゆりは急に真帆に背を向けると、肩を落としとぼとぼとひとりで歩いていってしまった。
後ろから見ていても、明らかにその足許がふらついていた。
あまりにも残酷な事実。それを突き付けられた事で、自身の存在そのものが揺らぎ始めている。真帆には、そう見えた。
真帆
「…………」
真帆はただ、茫然自失状態だった。
あらゆる出来事が、

もや
のようなフィルターにかかったような状態で見えている。
すべてがぼんやりしていて、どこか幻のようにつかみどころがない。
これは夢だと言われれば、簡単に信じてしまいそう。
それは自分の思考回路さえも同様で。
今のまゆりとの会話にしても、自分はもっと後悔すべきなのに、傷つけたという事実だけを認識し、それに感情が伴ってこない。
だからこそ、あんな無神経でひどい話を本人を前にして出来た、とも言える。
そこで、ポケットの中のスマホが振動した。
見ると、『Amadeus』――“紅莉栖”からだった。
チクリと、麻痺した心の奥に、細く小さな針を刺された。そんな気持ちになった。
真帆
「…………」
出られない。
出られなかった。
真帆は、ピクリとも指を動かす事が出来ず、息を詰めて液晶画面を見続けていた。
真帆
「出られるわけ……ないじゃない……」
“紅莉栖”に、今の自分の無様な姿を見せるなんて、出来なかった。
それでも、このままここにいるのはよくない気がした。
真帆は、立ち去ったまゆりを追いかける事にした。
けれど、陸橋のところまで来ても、すでにまゆりの姿は見当たらなくなっていた。
駅前だけあって通行人が多く、まゆりだけを見つけ出すのは困難に思えた。
真帆
「…………」
真帆
「なぜ、私の前に現れたの……?」
真帆
「私に声なんてかけなければ、傷つかずに済んだのに……」
真帆
「私は、もう以前の私ではなくなってしまったのよ……」
駅前の景色を陸橋の上から眺めながら、そんな独り言をつぶやく。
ふと、橋の下を、特徴的な格好をした人物が歩いてくるのが見えた。
この暑いのに、真っ黒のライダースーツ、そして黒いフルフェイスのヘルメットという出で立ちは、明らかに周囲から浮いていて、ひどく目立つ。
いわゆるコスプレというものかと思ったが、周囲の人たちは写真を撮るどころか、みんな避けるようにして道を開けていた。
体型を見ると、女性のようだった。
真帆から見ても、その体はグラマラスで抜群のスタイルと言える。
女はそのまま陸橋の下をくぐっていってしまい、真帆のいる場所からは見えなくなった。
――と思ったが、その人物は陸橋の階段を上がってきた。
しかも、まっすぐに真帆の方へ向かってくる。
真帆は、他の通行人と同じように慌てて目を伏せ、そそくさとその場から逃げようとした。
だが、逃げるより前にライダースーツの女が走り寄ってきて、いきなり無言で腕をつかまれた。
真帆
「っ!」
頬に痛みが走った。
突然の事に不意を突かれ、真帆はたまらずその場にへたり込んでしまう。
何が起きたのか、真帆は最初、理解出来なかった。
ジンジンと痛む頬をさすってみて、はじめて、自分がこのライダースーツの女に頬を張られたのだとわかった。
ライダースーツの女
「ママを傷つけたな?」
ヘルメットの奥から、くぐもった女の声が聞こえた。
ライダースーツの女
「殺してやる……」
その声が低く冷静なものだったため、真帆には逆に恐ろしく思えた。
ライダースーツの女
「“教授”からお前の事は聞いているが……関係ない」
真帆
「……あなた、は?」
女がヘルメットをかぶっているせいで、真帆からはその表情を読み取る事が出来ない。バイザーも下げられているため、目元さえも見られなかった。
ライダースーツの女
「…………」
真帆の問いかけに、答えはなく。
その代わりに、女は何かに気付いたかのように、空へと顔を向けた。
真帆もつられたように空を見上げる。
一瞬、ビルの窓に黒い大きな影がよぎったように見えた。
ヘリの音だ。かなり近い。
いつから聞こえていたのだろう。
まったく意識をしていなかった。
その時、周囲の空気が明らかに変わったのを、真帆も感じた。
それまで思い思いに歩いていた周囲の通行人たちが、呆然とした顔だったり少し怯えた顔をして、駅の方を見ている。
“なにあれ?”とか“ドラマの撮影?”とか“コスプレのイベント?”とか、そんな声があちこちで聞こえてくる。
何かが、駅の方で起きている。
真帆も立ち上がり、陸橋の上から駅を見た。
真帆
「……なに、あれ?」
周囲の人とまったく同じ感想を、真帆も思わずつぶやいてしまっていた。
駅前に、軍隊で使うような深緑色に塗装されたトラックが2台、停まっていた。
トラックからは、迷彩服の男たちが武装して次々と降りてくる。
自衛隊かと思ったが、その迷彩服の連中は日本人ではなかった。
およそ日本とは思えない光景。
誰もが遠巻きに眺めている中、迷彩服の連中は路地へと消えていった。
その先はラジ館。屋上にはタイムマシンがある事を、真帆は昨日、倫太郎から聞いていた。
真帆
(まさか、ストラトフォー?)
あるいは、ロシアか、それ以外の国の軍隊か。
彼らが作戦行動を行っているのも、真帆が倫太郎から聞き出した情報をレスキネンに報告したからなのだろうか。
そう思ったら、またひどい頭痛に襲われた。
真帆
「う……ぐ……」
全部、自分が悪いのだ。
何もかも、自分のせいだ。
さっきまで、心に靄がかかったような状態で、すべてがフワフワしていたというのに。
今は、猛烈な罪悪感に押し潰されそうだった。
このまま、倫太郎が話した通り、第三次世界大戦がこの秋葉原から始まるのだとしたら。それは、真帆が倫太郎の持つ情報をストラトフォーに渡したからという事になる。
ふと気付くと、さっき真帆の頬を張って“殺す”と脅してきたライダースーツの女が、陸橋の階段を駆け下り、駅の方へと走って行った
あの女は結局何者だったのか、わからないままだった。
と、また真帆のスマホが振動した。
“紅莉栖”からだ。
この罪悪感から逃れたくて。
さっきは無視したが、今度はそれに応答した。
アマデウス紅莉栖
「先輩!」
真帆
「“紅莉栖”……」
アマデウス紅莉栖
「……大丈夫ですか?」
真帆
「何が?」
アマデウス紅莉栖
「いったい、どうしちゃったんですか?」
真帆
「どうもしないわ」
アマデウス紅莉栖
「だって……泣いてるじゃないですか」
真帆
「……!」
指摘されてはじめて、自分の目から涙が溢れている事に気付いた。
心の靄はすでに完全に消え、後には罪悪感と後悔と気持ち悪さと頭痛だけが残って、真帆の心を苛む。
真帆
「頭が……痛いの」
レスキネン
「彼の未来は、君の手にかかっていると言ってもいい」
ノイズが、また聞こえる。
アマデウス紅莉栖
「岡部は? 岡部をどうしたんです?」
真帆
「岡部さんの事なんて、どうでもいいでしょう」
アマデウス紅莉栖
「殺そうとしてたじゃないですか! 私、見たんですよ!」
真帆
「私の事は、放っておいて……」
アマデウス紅莉栖
「そういうわけにはいきません」
真帆
「放っておいてよ!」
真帆
「あなたには、勝てなかった」
真帆
「私はどれだけやっても、紅莉栖にかなわない」
真帆
「ねえ、紅莉栖……」
真帆
「私は、あなたの事を尊敬している。私より年下だけど、大した科学者だと思うわ……」
真帆
「でも、心の底では、こう思ってたのよ……」
真帆
「“どうして私の前に現れたの?”」
真帆
「“どうしてあと10年、先に現れてくれなかったの?”」
真帆
「“どうしてあと10年、後に現れてくれなかったの?”」
真帆
「“あなたがいなければ、私はもっと平凡な日々を送っていたはずなのに”」
真帆
「“こんな醜い感情になんか支配されずに済んだのに”って……!」
真帆
「私は、あなたに常識を破壊されっぱなしなの!」
真帆
「死んでまで、あなたの存在が私に付きまとうの……」
真帆
「あなたの死を、心から

いた
みたいのに……それが出来ない」
真帆
「越えられない壁としてあなたが立ちはだかり続けていて……」
真帆
「プライドと意地が、邪魔をしてしまうの」
真帆
「そんなところにつけ込まれて、私は、一番信頼していてた人にまで、裏切られて……、私を信頼してくれた友達を、裏切ってしまった……」
真帆
「もう、私、頭がぐちゃぐちゃよ……」
真帆
「だから、放っておいてよ……」
アマデウス紅莉栖
「先輩……」
あまりにも感情的になりすぎている。普段の自分とは思えない言動だったが、真帆はどうしてもそれを抑えきれなかった。
真帆
「……!」
突然、遠くで爆発音が響いた。
周囲の人たちが悲鳴を上げ、慌てふためきながら、めいめい好き勝手な方向へと逃げ出す。
爆発の炎が上がっているのは、さっき迷彩服の男たちが消えていった方角だった。
あの連中の仕業なのだろうか。
ヘリのローター音がさらに大きくなっている。
その黒くどう猛そうな機体が、さっきから真帆の視界にもチラチラと見え隠れしている。
続いて、激しい銃撃戦の音が響き始めた。
1人や2人でのものではない。複数人同士による戦闘が、この日本の、秋葉原の駅前で行われている。
まるで、戦争が始まってしまったかのようだ……。
もしも倫太郎の話の通りなら、タイムマシンの近くには阿万音鈴羽がいるかもしれない。そして、あの戦闘に巻き込まれてしまっているかもしれない。
さっきのライダースーツの女の事も気になった。
自分のしでかした事の落とし前を付けるために、真帆は自分でも考えを整理出来ないまま、フラつく足取りで歩き出した。
ラジ館のエレベーターは故障中で、使えなくなっていた。
仕方なく真帆は、階段で屋上を目指した。
だが館内が停電になっているのか、どの階も照明が落ちていた。
上の方からは、断続的に銃撃戦の音が響いてくる。
不思議な事に、避難してくる人とは一度もすれ違わなかった。
ビル内には複数の店舗が入っているし、当然ながら客もいたはずだ。
それなのに、エレベーターが故障しているにもかかわらず、階段で誰ともすれ違わなかった。
もっと前にみんな避難したのか、あるいは……どこかに身を隠してこの恐ろしい事態が終わるのを待っているのか。
そんな事を考えつつ、真帆は汗だくになりながら階段を上り続けた。
屋上に辿り着く手前で、はじめて真帆は館内で人に出会った。
ライダースーツの女
「う……う……ママ……ママが……」
その人物は階段に腰かけ、膝を抱えていた。
嗚咽の声がなぜかくぐもっているが、どうやら声から判断すると女性のようだ。
薄闇の中で頭がやたらと大きく、丸く見えるが、よく見るとそれはフルフェイスのヘルメットだった。
そこで、泣いているのが先ほど真帆の頬を張ったライダースーツの女だと、気付いた。
ライダースーツの女
「ううう……ママ……」
ライダースーツの女
「どこなの……ママ……」
さっき真帆を脅した時とはまるで別人のようだ。
ひたすら母を呼びながら涙に暮れている。
真帆
「ねえ、何が起きているの?」
ライダースーツの女
「ママ……どこ……ママ……」
真帆
「ねえ!」
声を荒げて呼びかけると、女はようやく真帆に気付いたようだった。
だが、膝を抱えたままその場を動こうとはしない。
ライダースーツの女
「ママが……いなくなっちゃった……」
ライダースーツの女
「タイムマシン……破壊されて……」
タイムマシンが……破壊……。
真帆
「あなたのママって、誰の事?」
真帆
「阿万音鈴羽さん?」
ライダースーツの女
「違うよ……」
ライダースーツの女
「ママって言ったら、まゆりママに決まってるじゃん……」
まゆり、という名を聞いて、真帆は血の気が引いた。
真帆
「まゆりさん……が……? ここに……?」
もしもそれが事実ならば、彼女は真帆から事実を告げられた後、ここにやって来た事になる。
真帆
「私の……せいだ……」
真帆は頭を抱えた。
真帆
「私が、あんな事を言わなければ……まゆりさんは……っ」
そこでライダースーツの女がゆらりと立ち上がり、真帆に詰め寄ってきた。
ライダースーツの女
「そうだ、お前が岡部倫太郎から情報を引き出して……それで、事態が一気に動き出しちゃったんだ……」
ライダースーツの女
「ママを……返してよ……!」
胸ぐらをつかまれ、ひねり上げられる。
真帆は反論する事も出来なかった。
ライダースーツの女
「う……うう……ママ……」
答えられずにいると、ライダースーツの女は手を離し、真帆より先にその場にへたり込んでしまった。
――いっそ、この場で私を殺してくれれば、楽になれたのに。
頭の中はますます混乱し、ついそんな事も考えてしまう。
とても冷静でいられない。
そんな真帆が、最後にすがったのは……。
真帆
「“紅莉栖”……」
アマデウス紅莉栖
「先輩……」
牧瀬紅莉栖の記憶データを持つ人工知能だった。
先ほどの話を引きずっているせいか、“紅莉栖”は気まずそうだ。
自分から何か言ってこようとしない。
だから、真帆は、己のプライドを捨てた。
真帆
「“紅莉栖”……どうしたらいい?」
真帆
「……色々な事が起こりすぎて、私一人じゃ、もう……どうにも出来ない」
真帆
「自分のしてしまった事なんだから……せめて、責任を……取りたいの……」
そこまで言って、まだ格好付けようとしていると真帆は感じ、言い直す事にした。
真帆
「私は――」
真帆は己に問いかける。
自分は何を望むのか。
真帆
「私は、岡部さんを、助けたい……っ。まゆりさんも、助けたい……っ。2人に謝って、許してもらいたい……っ」
真帆
「それと……紅莉栖……」
真帆
「あなたの事も、助けたいのっ」
真帆
「だから、力を貸して……! お願いよ……!」
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「先輩が、私に助言を求めるなんて……」
“紅莉栖”は目を丸くしていた。
そう、今までは先輩としてのプライドから、出来るだけ紅莉栖に助言を求めるような真似はしなかった。それは“紅莉栖”に対しても同じだ。
それに、もし真帆が助けを求めれば、“紅莉栖”の性格からして、きっと持てる知能を総動員して、味方になってくれるだろう。
真帆
「ねえ、教えてちょうだい……」
真帆
「あなたなら、解決策を提示出来るでしょう?」
だからこそ、牧瀬紅莉栖は天才と呼ばれるのだ。
不可能を可能にしてしまう。そんな科学者なのだ。
真帆は、“紅莉栖”の返答を待った。
最後の希望。パンドラの箱の中に、最後に残ったもの。
それを“紅莉栖”が提示してくれる事を期待して。
だが――。
アマデウス紅莉栖
「無理ですよ」
真帆
「……っ」
“紅莉栖”の答えに、真帆は愕然とし、すぐに自分の身勝手さに対して激しい自己嫌悪に陥った。
“紅莉栖”に過度の期待をし、すべてを押し付けようとした自分。
その直前に、“紅莉栖”を先に拒絶したのは自分の方だと言うのに。
真帆
「そう……よね……」
真帆
「その答えは、当然だわ……っ」
真帆
「ごめん……ごめんね、“紅莉栖”……」
真帆
「私、あなたにひどい事を言ったのに……」
真帆
「あなたが無条件で協力してくれると、勝手に思い込んで――」
アマデウス紅莉栖
「無条件には協力します」
真帆
「……え?」
真帆
「今、なんて……?」
アマデウス紅莉栖
「先輩に頼まれたら、断る事なんて、出来ませんよ」
アマデウス紅莉栖
「岡部や、椎名まゆりさんの事を助けたいのも、同じ気持ちです」
真帆
「でも……じゃあ……?」
アマデウス紅莉栖
「気持ちとしては協力したいんですが……」
アマデウス紅莉栖
「残念ながら、私が協力する事で先輩が不利な状況に追い込まれます」
アマデウス紅莉栖
「私は、ストラトフォーに常にモニタリングされているんです」
真帆
「常に……?」
アマデウス紅莉栖
「ええ。私が誰かとこうして対話をしている間、ストラトフォーに無条件で情報が送信されてしまう……」
アマデウス紅莉栖
「『Amadeus』のアプリには、そういう隠し機能があるんです」
そんなものは、真帆ですら知らない機能だった。
アマデウス紅莉栖
「だから、先輩が岡部を助けに行こうと思っても、レスキネン教授に筒抜けになってしまうんです」
真帆
「じゃあ……どうすれば……」
アマデウス紅莉栖
「でも逆に、それを利用して手を打てます」
アマデウス紅莉栖
「先輩。私を、信頼してくれますか?」
真帆
「…………」
アマデウス紅莉栖
「先輩……?」
真帆
「ええ……」
真帆
「あなただけが、頼りよ」
アマデウス紅莉栖
「ありがとうございます」
アマデウス紅莉栖
「ちなみにこの対話内容も、ばっちり盗み聞きされているはずです」
真帆
「え!?」
真帆
「そんな、じゃあもしあなたが私に協力するのがバレたら……」
アマデウス紅莉栖
「パターンとしては3つ」
アマデウス紅莉栖
「サーバーからデータを移動させて隔離状態にされるか……」
アマデウス紅莉栖
「または、古いバージョンの記憶データで上書きされてしまうか」
アマデウス紅莉栖
「最悪の場合には、私という存在そのものを消されるかもしれませんね」
真帆
「そんな……!」
アマデウス紅莉栖
「大丈夫です」
アマデウス紅莉栖
「あなたは、必ず自分で立ち上がれる人だから」
真帆
「私の事なんか、どうでもいいわ! あなたの心配をしているのよ!」
アマデウス紅莉栖
「私は、ただのデータですよ。でも、ありがとうございます」
画面の中で、“紅莉栖”がペコリと頭を下げて、笑った。
アマデウス紅莉栖
「私は、真帆先輩と一緒に研究出来た事を、誇りに思います」
真帆
「な、何よ、その、今生の別れみたいな言い方……。やめなさいよ」
アマデウス紅莉栖
「もう、会えないかもしれませんから」
真帆
「……っ」
真帆
「私は、あなたの事が、嫌いよ」
真帆
「そうやっていつだって……私を置いて、先に行ってしまうのだから……!」
アマデウス紅莉栖
「…………」
でも、牧瀬紅莉栖という女性は、こういう性格なのだ。
真帆が助けを求めた時点で、真帆も、そして“紅莉栖”も、それを覚悟したはずなのだ。
だから――。
真帆
「いつか必ず、私はあなたに追いついてやるわ!」
真帆
「それどころか、追い越してやるから!」
真帆
「それまで待ってなさい!」
アマデウス紅莉栖
「……はい」
“紅莉栖”は最後にもう一度、真帆に向けて微笑んだ後、画面の中から消えた。
真帆は涙を拭くと、すぐ横で泣きじゃくっているライダースーツの女のヘルメットを、ぺちんと叩いた。
真帆
「いつまで泣いているの?」
真帆
「あなたは、まゆりさんを助けたいんでしょう?」
真帆
「だったら、私に協力して」
ライダースーツの女
「協力……?」
真帆
「まず、岡部さんを助けるわ」
真帆
「彼なら、今の事態をなんとかする方法を提示してくれるはず」
ライダースーツの女
「でも……知ってるの? ストラトフォーのアジトが、どこにあるのか」
ライダースーツの女
「私は……知らない……」
真帆
「……私だって、知らないわ」
だが、真帆はライダースーツの女の手を引っ張るようにして立ち上がらせると、急いで階段を駆け下り出す。
真帆
「知らないけど……すぐに、私のかわいい後輩が、調べて教えてくれるっ」
信じて、と、彼女は言ったのだから。
牧瀬紅莉栖は、その言葉を裏切ったりしない。
真帆
「……!」
ラジ館を出たところで、RINEにメッセージが届いた。
いまだ銃撃戦の音は続いている。急いでその場から離れながら、真帆はメッセージを確かめた。
それを読んで、この状況にもかかわらず、真帆はたまらず笑ってしまった。
真帆
「ありがとう……“紅莉栖”……」
真帆
「ありがとう……」
真帆はスマホを一度、自分の胸にギュッと抱きしめた。
しかしすぐに、気持ちを切り替える。
真帆
「ストラトフォーのアジトがどこかわかったわ」
ライダースーツの女
「……教えて」
ライダースーツの女
「乗り込んで、皆殺しにしてやる……」
真帆
「…………」
その言葉の冷たさに、真帆はゾクリと震えた。
このライダースーツの女からは、底知れぬ狂気を感じる。
だが、今は協力するしかなかった。
真帆一人では、ストラトフォーから倫太郎を奪還するなど不可能だ。
真帆
「行きましょう」
招いてしまった未来の責任を取るために。
残酷な未来を回避するために。
真帆は、戦争が始まりつつある秋葉原の街を、駆け出した――。
???
「お……さん……」
声だ。
声が聞こえる。
???
「おかべさん……」
誰かが、俺の名前を呼んでいる。
俺はゆっくり意識を覚醒させて、声の方を向いた。
真帆
「岡部さん……」
闇の中で、真帆が立っていた。
どこか寂しそうな、悲しそうな微笑みを浮かべて。
真帆
「ごめんなさい」
真帆
「もう、あなたの前には現れないわ」
真帆
「私がそばにいたら、私はまた、あなたを裏切ってしまうかもしれないから……」
真帆
「ねえ……」
真帆
「こんな私の身勝手な頼みを、聞いて欲しい」
真帆
「どうか……シュタインズゲートを、目指して……」
真帆
「あなたが捕らえられている間に、世界は、ひどい事になってしまった……」
真帆
「まゆりさんも、鈴羽さんも、行方不明なの」
真帆
「私とかがりさんが、あなたを助けるためにストラトフォーのアジトに行ったんだけど……」
真帆
「かがりさんは、そこで亡くなったわ……。何人かを、道連れにしてね……」
真帆
「レスキネン教授にだけは、逃げられてしまった……」
真帆
「『Amadeus』も、消されてしまった……」
真帆
「こんなのって、ないわよね……」
真帆
「でも、今、希望はあなただけなの」
真帆
「お願い。あなた一人に託すなんて、ひどいと思うけれど……」
真帆
「シュタインズゲートに、必ず
辿
たど
り着いて」
真帆
「それじゃあね……。岡部さん」
真帆
「さよなら――」
倫太郎
「比屋定さん!」
倫太郎
「……!」
飛び起きたら、病院の床に敷かれた毛布の上だった。
倫太郎
「え……」
病室や、外の廊下にまで、ケガをした患者たちが溢れ返っている。
ベッドだけでなく、床にもいくつも毛布がしかれ、そこに怪我人が寝かされていた。
ここはどこだ?
一瞬、かつて跳ばされた戦争状態になっている世界線に戻ったのかと思った。
だが、そうじゃなかった。
テレビのニュースで確認したら、昨日、秋葉原でテロが起きたらしい。
他国の武装した特殊部隊が大暴れして、まるで戦場のようになったらしい。
今は一時的に事態は収束し、正体不明の特殊部隊も姿を消したようだが、その戦闘でかなりの犠牲者やケガ人が出たとの事だった。
なぜ俺がこの病院にいるのかは、よく覚えていない。
俺はレスキネンに監禁され、ひどい拷問を受けていたはずだ。
事実、全身のあちこちが痛い。
真帆
「それじゃあね……。岡部さん」
真帆
「さよなら――」
倫太郎
「あ……」
そこで、夢の中で真帆が語っていた言葉を思い出した。
あれは夢なんかじゃなく、事実……なのか?
真帆が、俺を助けてくれた?
それに……かがり、だって?
着ている服をまさぐってみると、スマホはポケットに入れっぱなしだった。
とにかく、まゆりに電話してみる。
もし夢の話が本当なら、まゆりは行方不明になっているという。
そんなバカな事、あってたまるか。
だって、ここはまゆりが平穏に生き続けるために、俺が選んだ世界線なんだぞ。
少なくとも2036年まで生き続ける事は保証されているんだ。
2011年の今日、死ぬなんて事はあり得ない。
倫太郎
「まゆり……出てくれ……!」
だが、どれだけ電話してもまゆりには繋がらなかった。
俺は痛む体に鞭打つと、立ち上がって病室を出た。
病院の屋上に出た。
どうやらここは、以前フブキが入院した事もある御茶ノ水の病院のようだ。
朝の空は、驚くほど澄み渡っていて。
遠くに、秋葉原の景色が見えた。
そこから、いくつもの黒い煙が立ちのぼっていた。
その異様な光景に、俺はゾッとした。
ここから見ても、いかにそこで起きた戦闘が激しいものだったのか実感出来る。
世界は、ジョン・タイターの予言した通りになりつつあるんだ。
俺は屋上からさらに何度かまゆりに電話をかけたが、やはり繋がらなかった。
次に、

わら
にもすがる思いでダルにかけた。

「もしもし! オカリン!」
倫太郎
「ダル……!」

「よかった……生きてた……」
倫太郎
「お前こそ、よく無事だったな……」

「ラボの近くは、案外静かだったんで」
倫太郎
「今どこだ?」

「逃亡中。アキバからは脱出したよ」
倫太郎
「そうか……」

「フェイリスたんとるか氏とは連絡取れた。2人も避難したってさ」
倫太郎
「…………」

「なあ、オカリン……」

「鈴羽と、まゆ氏が……連絡付かないんだ……」

「昨日の事件で、タイムマシンも……跡形もなく壊されちゃったし……」

「鈴羽の語った未来よりも、世界の動きがずっと早いよ……」
倫太郎
「…………っ」
やはり、『夢』の中に現れた真帆は、夢なんかじゃなかったんだ。
意識を失っていた時に真帆が語ってくれた、別れの言葉だったんだ。
倫太郎
「なあ、ダル……」
倫太郎
「俺は……俺はさ……」
倫太郎
「普通に生きる事すら……許されないのかな……?」
倫太郎
「こうなるのは、覚悟、してたさ……」
倫太郎
「シュタインズゲートではなく、第三次世界大戦が訪れる世界線を選んだのは、俺なんだ……」
倫太郎
「だからって……俺が生き残って、みんないなくなるなんて……」
倫太郎
「こんなの、あんまりだろ……」
神の摂理は、どうしたって、俺の事を許してくれないのか。
因果の


から外れるのは、そこまで罪な事なのか。
だったら、俺だけを呪ってくれればいいのに……。

「僕は、タイムマシン……作るよ」
倫太郎
「ダル……」

「作るしか、ないだろ」

「これで終わりに出来るかよ」

「オカリンはどうする……?」
もうもうと煙が立ちのぼる、秋葉原。
それを見つめたまま、俺は、呆然と立ち尽くし。
倫太郎
「俺は……!」
倫太郎
「俺……は……」
涙がにじんで。
その場にくずおれて。
立ち上がる気力もなくて。
ダルの問いかけに、どうしても答える事が出来なかった。
どれだけ頑張っても、どれだけ軌道修正しようとしても、結局、すべては神の望んだ通りに収束する。
逆らうだけ、無駄なんだよ、ダル……。
もう、疲れた……。
少し眠ろう。
まだ、第三次世界大戦が本格化するまで、数年あるから。
俺が死ぬまで、14年もあるから。
決して勝てない戦いなんかせずに、ひたすら、現実から目を背けて、生きていこう。
それが、俺みたいな人間にふさわしい――人生の末路だ。
ごめんな、真帆。
ごめんな、まゆり。
ごめんな、紅莉栖。
ここで諦める俺を、許してくれ……。
目眩が収まってきた。
部屋は真っ暗だった。
俺以外には、誰もいなかった。
部屋で寝泊まりしているはずの鈴羽も、いないようだ。
ダルも、まゆりも、フェイリスも、るかも。
かがりも。
誰もいない。
ひどく、疲れていて、眠かった。
俺はスマホを握りしめたまま、ソファに横たわり。
耐えきれず、目を閉じた。
???
「……リン。オカリ~ン」
???
「ねえ、起きて~。もうお昼だよ」
倫太郎
「う……」
倫太郎
「んん……」
誰かに、体をゆさゆさと揺すられている。
まゆり
「オカリン、寝過ぎだよぉ~」
まゆり
「もうすぐ、かがりさんも来ちゃうのに~」
かがり……!?
その名を耳にした途端、虚ろだった俺の意識は急速に覚醒した。
ガバッと身を起こす。
そこはラボのソファの上だった。
倫太郎
「…………」
窓の外は、すっかり明るくなっている。
まゆり
「はふ~。やっと起きたね~」
まゆり
「トゥットゥルー♪ オカリン」
倫太郎
「あ、ああ……」
まゆりは、満足そうにうなずくと俺から離れていった。
部屋の中を見回してみる。
テーブルには、まゆりのものだと思われるノートと教科書が広げられている。宿題をやっていたようだ。
まゆりの他に、ダルが大きな背中を丸めて、PCに向かっている。
モニタには、萌え萌えな女の子のキャラクターが表示されていた。
またエロゲーでもやっているようだ。
見た限り、ラボには俺とまゆりとダルの3人だけだった。
倫太郎
「…………」
スマホの時間を見ると、正午前だった。
という事は、10時間以上も眠っていた事になる。
何て事だ。世界線が変わったかどうかも確かめずに気絶していたなんて。
耳を澄ませると、いつもと変わらない喧噪が、窓の外から聞こえてくる。
ストラトフォーが迫っている気配など、欠片も感じられなかった。
それだけで、ひとまずホッと安堵する。
まゆり
「オカリン? なんだかうなされてるみたいだったよ。大丈夫?」
倫太郎
「……あ、ああ」
まゆり
「麦茶飲む? 寝起きでドクペは、やめた方がいいよね?」
倫太郎
「そうだな……。麦茶がいい」
まゆり
「うん。わかった」
まゆりはキッチンへと歩いていった。
まゆり
「あ……、コップ全部使っちゃってる。今洗うから、ちょっと待っててね」
倫太郎
「大丈夫……急がなくていい……」

「あ、まゆ氏、まゆ氏。僕もお茶ちょうだい」
まゆり
「は~い」
倫太郎
「…………」
なんとなく、懐かしい気分だった。
こんなごく普通の会話を誰かとする事が、とても久しぶりなような気がした。
だが感傷に浸っている場合じゃない。
まゆりがコップを洗っている間に、今のこの状況について整理してみよう。
倫太郎
「……変動、したんだよな?」
……あの時、結局俺は、最後の最後で迷ってしまった。
もし、かがりが――あるいは紅莉栖が――俺の指を遮らなければ。
世界線は変わらず、あのまま全員、ストラトフォーに捕まっていたかもしれない。
しかし、とにかく世界線は変動した。
リーディング・シュタイナー発動によるあの感覚は、はっきりと体に刻まれているから、勘違いする事はない。
こうして見る限り、まゆりもダルもいつも通りだし、当面の危機は去ったように見える。
変動のきっかけは、恐らくはかがりの中にある紅莉栖の記憶が消去されたからだ。
紅莉栖の記憶にはタイムマシン理論に関するものが含まれていたはずだ。
だから、それが残っているかどうかは世界線を変動するほどの意味があるのだろう。
それを、俺が消したから――。
倫太郎
「――いや、逆の可能性もあるな」
真帆が開発したプログラムにミスがあり、記憶の上書きに失敗した場合でも、世界線が変動する可能性もあるんじゃないか?
あの夏の時と違い、今回は世界線が変動する条件が判然としない。
まずは、かがりの記憶の上書きが成功したのかどうか、それを確認すべきだ。
まゆり
「おまたせ~」
とりあえずの方針がまとまった頃、タイミングよくまゆりがコップを乗せたお盆を持ってきた。
まゆり
「今、麦茶出すからね~」
まゆりはテーブルにお盆を置き、冷蔵庫へ向かう。
ふと見ると、お盆の上には洗ったばかりのコップが4つ置かれていた。
……4つ?
倫太郎
「……まゆり、どうしてコップが4つあるんだ?」
まゆり
「ええ?」
まゆり
「だって、かがりさんも飲みたいだろうから」
倫太郎
「……!」
そうだ、かがり……!
倫太郎
「かがりが、来てるのか?」
まゆり
「さっきRINEで連絡が来たよ。もうすぐ着くって」
倫太郎
「……そ、そうか」
倫太郎
「何の用で、来るんだ?」

「オカリンが呼んだんじゃん。昨日、RINEで連絡よこしたっしょ。今日の正午にここに集合って」

「第3回、かがりたんの記憶を取り戻す方法を考える会」

「メンバーはオカリンと僕とかがりたん」

「ま、今の所成果ゼロだけども」
倫太郎
「俺が……呼んだ……」
まゆり
「まゆしぃも参加できたらよかったんだけど、今日はバイトがあるので」
キッチンから、まゆりが申し訳なさそうにそう言ってくる。
まゆり
「かがりさんの記憶、早く戻るといいねぇ」
まゆり
「最近の事以外、何も覚えてないなんて、寂しいもんね」
倫太郎
「……!」
最近の事以外、何も覚えてない……!?
どういう事だ? 今のかがりは、初めて会った時とは違って、幼少期に未来にいた頃の記憶は残っていたはずだ。
もしかして、記憶を上書きした結果、今度は逆に、残っていた記憶が消えてしまったとでも言うのか……?
まゆり
「はい、オカリン。お茶どうぞ~」
まゆりが麦茶を注いだコップを手渡してくる。
倫太郎
「……ああ、ありがとう」
内心の動揺を必死に隠してコップを受け取った。
まゆり
「ダルくんのは、ここに置いておくね」

「ども~」
倫太郎
「…………」
俺は麦茶をぐいっと飲み干すと、ソファから立ち上がってダルのところへ歩み寄った。
倫太郎
「ダル」

「ん? 何?」
声を潜めて、まゆりに聞こえないように質問した。
倫太郎
「かがりの記憶の上書きは、成功したのか?」
倫太郎
「それとも、失敗したのか?」
ダルは少しの間、ポカンとした顔を俺に向けた。

「なんの話?」
倫太郎
「……え?」
予想外の返事だった。
倫太郎
「ええと、かがりの脳内に残っている紅莉栖の記憶を消すのは成功したのかと聞いたんだ」

「何そのSF設定怖い」

「オカリンついに厨二病患者に復帰したん?」
倫太郎
「なっ……!」
思わず立ちすくむ。
ダルが嘘を言っているようには見えなかった。何よりそんな嘘をつく理由がない。
つまり、この世界線では、そもそもかがりの脳に紅莉栖の記憶は書き込まれていないという事か。
倫太郎
「ちょ、ちょっと来い!」

「んあ~、僕、エロゲしてるんだけど~」
倫太郎
「いいから!」
きょとんとしているまゆりを置いて、俺はダルを部屋の外へ連れ出した。

「うお~、さむっ」

「オカリン、僕を殺す気か……」
倫太郎
「いいから。ちょっとだけ付き合ってくれ。確認したい事があるんだ」
俺の雰囲気にただならぬものを感じたのか、ダルは少し驚いた顔をしてから、無言でうなずいた。
倫太郎
「今のかがりは記憶がないのか?」

「そうだよ。つか、何度も言ってるっしょ、それ」
倫太郎
「タイムマシンで過去に来る前の、未来の記憶も含めて?」

「ないってば。覚えてるのはここ最近の事だけ」

「未来の事を覚えてたら、せめてまゆ氏にはかがりたんの正体教えてるし」
倫太郎
「……!」
倫太郎
「それはつまり、まゆりは、かがりが自分の娘だという事を、知らないんだな?」

「うん」

「それは秘密にしとくって、オカリンが決めたんで」
倫太郎
「という事は、かがりが未来から来た事を知っているのは……」

「僕と、オカリンと、鈴羽」
倫太郎
「それだけ?」

「それだけ。オカリンが他の誰かに話してなければ」
倫太郎
「……そうか」
倫太郎
「すまなかった。寝ぼけてたみたいだ。夢の内容が現実とごっちゃになったらしい」

「気にすんなって。僕なんか、24時間夢の中で生きてますから。キリッ」

「それにさ、僕としては、そういうテンション高いオカリンが久々だったから、なんか懐かしく感じたお」
倫太郎
「…………」
俺はそれには答えずに、考えを整理した。
どうやら、かがりについて、大きく3つ、前の世界線と異なっているようだ。
1つ目。かがりの脳に紅莉栖の記憶が上書きされていない。
2つ目。かがりの過去の記憶は幼少期も含めて失われている。
3つ目。かがりの正体を把握しているのは、俺、ダル、鈴羽のみ。つまり、まゆりはかがりが自分の娘である事を知らない。
倫太郎
(……戻った、のか?)
今のかがりは、俺がα世界線に移動してしまった時よりも以前、初めて会った頃のかがりに近い。
俺達がかがりの記憶を取り戻そうとしているというのも含めて、周囲の状況もほぼあの時と同じだ。
これはつまり、再度の世界線変動によって、元の世界線に戻ったという事じゃないか?
ダイバージェンスメーターがあれば、世界線変動率を確認出来るんだが……。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……フフッ」
いつの間にか、以前のような思考をしかけていた。
そんな自分に苦笑してしまう。
やめよう。
俺は、もうタイムマシンにも、タイムリープマシンにも、関わらないと決めたんだから。
俺に出来る事は、かがりの記憶を取り戻す手伝いをする事くらいだ。

「オカリン、なんかさっきから変じゃね?」
倫太郎
「いや、大丈夫だ。気にするな」

「ならいいけど」

「つーか、いい加減寒いから、戻っていい?」
倫太郎
「ああ。俺も凍えてきた……」
俺とダルは、慌てて部屋へと戻った。
部屋に戻ると、まゆりの声がかすかに聞こえてきた。
まゆり
「探し物 ひとつ」
まゆり
「星の 笑う声」
まゆり
「風に 瞬いて」
まゆり
「手を伸ばせば 掴めるよ」
まゆりは戻ってきた俺たちに気付かず、テーブルに広げていた教科書などをバッグにしまいこんでいた。それをしながら、歌らしきものを口ずさんでいる。
倫太郎
「それ、誰の歌だ?」
まゆり
「え?」
声をかけると、まゆりがようやく俺たちに気付いた。
まゆり
「あ、お帰り~。寒いのにお外で何話してたの~?」

「ちょっと今期のアニメについての意見交換をしてたのだぜ」
まゆり
「へえ。すごいね~」
倫太郎
「なあ。今の歌って……」
まゆり
「あ、もしかして、口ずさんじゃってた?」
まゆり
「探し物 ひとつ」
まゆり
「星の 笑う声」
まゆり
「風に 瞬いて」
まゆり
「手を伸ばせば 掴めるよ」
玄関の方で、何かが落ちる音がした。
かがり
「……!?」
いつの間にか、かがりが玄関に立っていた。驚いた表情で、口をパクパクさせている。
足下には彼女のバッグが転がっている。部屋に入るなり、何かに驚いて落としたようだ。
しかし、そんな驚くような事があっただろうか?
まゆり
「あ、かがりさん。トゥットゥルー♪」
かがり
「そ、そ……!」
まゆり
「そ?」
かがり
「その歌……!」
かがり
「私……知ってる!」
まゆり
「ええっ!?」
倫太郎
「そうなのか!?」
かがり
「そ、その歌は……!」
かがりは震えながらまゆりを指差そうとして――。
かがり
「その……歌……」
糸の切れた操り人形のように、床に倒れた。
まゆり
「かがりさん!」
倫太郎
「かがり!」
まゆり
「探し物 ひとつ」
まゆり
「星の 笑う声」
まゆり
「風に 瞬いて」
まゆり
「手を伸ばせば 掴めるよ」
かがり
「ママ」
まゆり
「ん? なあに、かがりちゃん?」
かがり
「それ、なんのおうた?」
まゆり
「えっへへ~」
まゆり
「これはね、とっても大事な歌なの」
かがり
「どんなうたなの?」
まゆり
「ん~。泣いている人を笑わせたいっていう歌かな」
かがり
「ないてるひとをわらわせるのが、だいじなの?」
まゆり
「それも大事だけど、そうじゃなくてね」
まゆり
「この歌は、ママとかがりちゃんを繋げてくれた歌なの」
まゆり
「この歌があったから、出会えたんだよ」
かがり
「そのうたがなかったら、ママはかがりのママになってくれなかったかもしれないの?」
かがり
「そんなの、いや……」
まゆり
「あ、ごめんごめん。そういう意味で言ったんじゃないの」
まゆり
「なにがあっても、ママはかがりちゃんのママだよ」
まゆり
「でも、そうだなぁ……」
まゆり
「かがりちゃんには、この歌、覚えておいてほしいな」
まゆり
「いつか、かがりちゃんが大事な人と出会った時のために」
まゆり
「その人が泣いている時、笑わせられるように」
まゆり
「ほら、一緒に歌おう?」
まゆり
「探し物 ひとつ 星の 笑う声」
かがり
「さがしもの ひとつ ほしの わらうこえ」
まゆり
「上手上手!」
まゆり
「次はね……」
かがり
「……ママ?」
かがり
「ママ、どこ?」
かがり
「どこに行ったの? ねえ、ママ? ママ?」
かがり
「ママ……」
かがり
「い――」
かがり
「いやっ……!」
かがり
「いかないで……!」
かがり
「ママァッ!」
かがり
「…………」
俺は台所でタオルを濡らしてくると、ソファに横たわっているかがりの額に乗せた。
かがりは、うなされているようだった。
ずっと苦しげな吐息を漏らしている。
まだ意識は戻ってこない。
かがり
「っ……」

「大丈夫かな?」
倫太郎
「どうだろうな……」
なにしろ、急に倒れたからな……。
ここにやって来るなりいきなり倒れたのが、5分ほど前。
あたふたしながらも俺とダルとまゆりとでソファに寝かせたものの……。

「つーかさ、濡れたタオルを額に置くのって、高熱で倒れた人の場合の処置じゃね?」

「かがりたん、熱はないっぽいじゃん」

「これ、気絶した人にも効果あるん?」
倫太郎
「仕方ないだろう。他に何をしていいのかわからないんだから」
ダルも俺も、こういう時どうすればいいかの知識を持っていなかった。
かと言って、保険証も住民票もないかがりを、病院に連れて行くのはまずいような気がする。
今はただ、かがりが目を覚ますのを待つ事しか出来なかった。
かがり
「…………」
かがり
「……ママ」
かがりが、何か呶いたように聞こえた。
倫太郎
「……?」

「今、ママって聞こえた!」
ダルと2人でかがりの口元に耳を近づける。
かがり
「いやっ……」
かがり
「いかないで……」
かがり
「ママァッ……!」
突然、かがりがガバッと跳ね起きた。
頭突きを食らいそうになった俺たちは、ギリギリの所で飛び退いた。

「あ、危なかったお……」

「ハッ! いや違う! かがりたんとのラッキースケベチャンスを逃したんだお!」

「バカッ! 僕のバカっ!」
床をドンドンと叩いて悔しがるダルは放っておいて、俺はかがりに話しかけた。
倫太郎
「大丈夫か?」
かがり
「…………」
かがり
「……岡部、さん?」
かがりはポカンとした顔を俺に向けてから、自分がソファに横たわっている事に気付いた。
かがり
「え、私、寝てたんですか? どうして?」
倫太郎
「覚えて、ないのか?」

「ラボに来た途端、まゆ氏を見て気絶したんだよ」
かがり
「まゆりさんを……?」
ぼんやりとした表情で呶くかがりの口調が、世界線が変わる前とは変化している事に気付いた。
変化しているというか、戻っている。初めて会った時のかがりに。
倫太郎
「君は、まゆりが口ずさんでいた歌を知っているようだった」
かがり
「歌……?」
かがり
「…………」
かがり
「……あっ!」
かがり
「そうです! あの歌! 私あの歌、知ってるんです!」
かがり
「どこかで聞いた事があって! ずっと、ずっと昔、子供の頃に!」

「おお、ktkr! これ、マジで記憶回復フラグなんじゃね!?」
かがり
「まゆりさんは!? まゆりさんはどこに?」
かがり
「あの歌の事、教えてもらわなきゃ!」
かがりは焦ったようにラボの中を見渡した。
倫太郎
「まゆりはメイクイーンのバイトがあって、君と入れ違いに出て行ったよ」

「かがりたんの事、すごく心配してた」
まゆり
「本当にごめんね……!」
まゆり
「今日はランチタイムだけ、バイトを頼まれてて……、どうしても行かなくちゃダメなの……!」
まゆり
「オカリン、ダルくん、かがりさんの事お願いね!」
かがり
「そう、ですか……」
倫太郎
「他に、何か思い出した事はないか?」
倫太郎
「どんな事でもいいんだ」
かがり
「他に……」
かがりは手で額を押さえて、考えている。
かがり
「ええと……」
かがり
「…………」
だがやがて、力なく首を左右に振った。
かがり
「……ダメです」
かがり
「他には何も……」
かがり
「歌の事も、知っているのは確かなんですけど、誰から聞いたのかとか、そういうのは全然……」

「かがりたんさ、今、気絶してる間、夢見てなかった?」
かがり
「夢、ですか?」

「うん。うなされてたからさ。“ママ”って、呼んでた」
倫太郎
「ああ。起きた時も、叫んでたな」
かがり
「私、そんな事を……?」

「歌がトリガーになって、何か記憶が蘇ったりしてないかなって」
かがり
「ええと……」
かがり
「……ダメ、思い出せません」
かがり
「確かに、何かの夢を見ていた気がします」
かがり
「とても大切な夢だったような気がするんですけど……」
倫太郎
「……そうか」
かがり
「すみません……。ご迷惑をおかけして……」
とはいえ、俺とダルにはこれが大きな前進だとわかっていた。
まゆりが知っている歌を、かがりも知っている。
かがりがその歌を知ったのは子供の頃だという。
それはつまり、未来の話だ。タイムマシンで過去に跳ぶ前の、未来。
ならば、答えはひとつだろう。
かがりにその歌を教えたのは、未来のまゆりなんだ。

「オカリン、ひとまずまゆ氏に聞いてみるのがいいんじゃね?」
倫太郎
「そうだな。バイトはランチタイムだけって言ってたから、タイミングを見計らってメイクイーンに行ってみるか」
かがり
「わ、私も行きます!」
かがりがサッとソファから起き上がる。
倫太郎
「落ち着いて。今すぐ行くわけじゃない。もう少し休んでいた方がいい」
かがり
「あ、ええと、そうですね……」
かがり
「すみません」
と、かがりのお腹がぐぅと鳴った。
かがり
「あ……っ」
かがり
「…………」
倫太郎
「腹が減ったのか? カップ麺ならあるが」

「あとは、まゆ氏が買い溜めしたからあげとかバナナとか」
かがり
「ええと……」
かがり
「バナナ、いただきます」
かがりは恥ずかしそうに、そう言った。
フェイリス
「お帰りニャさいませ。ご主人様♪」
メイクイーン+ニャン⑯の扉を開けると、馴染みのネコ耳メイドが笑顔でお出迎えしてくれた。
フェイリス
「あ、オカリン!」
フェイリス
「かがりニャンも、お帰りニャさい♪」
かがり
「こんにちは、フェイリスさん」
フェイリス
「ムニュウ……、オカリン、最近来るたびに違う女の子を連れて来るニャ……」
フェイリス
「奥義を極め、リア充大学生のオーラを纏う能力を身につけたという話は、本当だったのかニャ!」
倫太郎
「そんなんじゃない」
倫太郎
「まゆりを迎えに来たんだ」
倫太郎
「そろそろバイト上がりの時間なんじゃないかと思ってな」
フェイリス
「マユシィは今日はキッチン担当だったのニャ」
倫太郎
「キッチン……!」
フェイリス
「今日は、ランチタイムのメイドちゃんたちの人数が足りニャくて……」
フェイリス
「この時間だけ、マユシィにもお手伝いしてもらったのニャ」
倫太郎
「な、なあ、まゆりに料理をやらせて大丈夫なのか?」
フェイリス
「本人はやりたがってたけど、お皿洗いに集中してもらったニャ」
さすがフェイリス。人には適材適所があるという事をよくわかっている。
フェイリス
「もう上がってもらったから、今は着替えてる頃ニャ」
倫太郎
「じゃあ、外で待ってるって伝えておいてくれ」
フェイリス
「了解ニャ!」
下で待っていると、少ししてまゆりが出て来た。
まゆり
「オカリン! かがりさん!」
まゆり
「ごめんね~、迎えに来てくれて~」
まゆり
「かがりさん、大丈夫?」
まゆりは、出てくるなりかがりに抱きついて、心配そうにその顔をのぞき込んでいる。
かがり
「ありがとう、まゆりさん。ええ、もう大丈夫」
まゆり
「よかった~」
まゆり
「ばたーんって倒れちゃったから、びっくりしちゃったよ~」
かがり
「心配かけてごめんなさい」
まゆり
「でも、どうして2人して迎えに来てくれたの~?」
倫太郎
「お前に、聞きたい事があってな」
倫太郎
「さっき口ずさんでいた歌についてだ」
俺はまゆりに、ラボでかがりとした話を繰り返した。
倫太郎
「というわけで、その歌をどこで覚えたのか、教えてほしいんだ」
まゆり
「ええとね、まゆしぃは、スズさんが歌っていたのを聞いたの」
倫太郎
「鈴羽が?」
まゆり
「うん」
まゆり
「まゆしぃはバイトが終わった後、よくラボでお勉強してるんだぁ」
まゆり
「吶の日はね、スズさんが部屋の中でトレーニングしてるのです。腹筋とか、腕立て伏せとか」
まゆり
「それでね、トレーニングが終わると、シャワーを浴びるんだけど」
まゆり
「出た後は、髪を乾かしながら、窓の外の吶を見てるの。ずっと」
まゆり
「その時にね、いつも、この歌を小さく口ずさんでるんだよ」
まゆり
「なんていう歌なのかは、スズさんに訊いた事はないんだけどね」
倫太郎
「……なるほど」
それなら、その歌は未来の歌という可能性があるな。
たとえば2030年代に人々の間で流行っていた歌だとか。
かがりも、鈴羽と同じタイミングでそれを聞いて覚えていたのかもしれない。
倫太郎
「それなら、次は鈴羽に当たってみるか」
かがり
「そうですね」
倫太郎
「ここまで来たんだ。最後まで付き合うよ」
かがり
「本当ですか! ありがとうございます!」
鈴羽との関係は、この世界線でもギクシャクしたままだろうが、かがりの記憶を取り戻すためであれば、協力してくれるだろう。
倫太郎
「一度戻ろう。鈴羽はブラウン管工房で店番してると思う」
まゆり
「まゆしぃも一緒に行く」
かがり
「まゆりさん、いいんですか?」
まゆり
「うん!」
まゆりは、元気よく返事をした後、妙に照れたようにもじもじとし始めた。
まゆり
「ええと、ええとね、うまく言えないんだけど……」
まゆり
「かがりさんを見てると、なんかしなきゃっていう気持ちになるのです」
まゆり
「守ってあげたいとか、助けてあげたいとか、そういう気持ち」
まゆり
「なんでなのかなぁ? 不思議だね。えっへへ~」
これが母と子の絆というものなのだろうか。
まゆりがかがりの母親になるのは、ずっと先の事なのだが。
まゆり
「それにね」
まゆり
「思い出がないのって、寂しいと思うから……」
かがり
「まゆりさん……」
かがり
「ありがとうございます」
まゆり
「ううん。みんなでがんばろー♪」
というわけで、3人でラボに戻る事にした。
まゆり
「あれ? スズさんの自転車がないね」
倫太郎
「おかしいな。出る時にはあったんだが……」
ブラウン管工房の中を覗こうとしたら、タイミング良く天王寺が出て来た。
天王寺
「おう。何か用か?」
倫太郎
「あの、鈴羽はいませんか? さっきまで店番してたと思うんですが……」
天王寺
「ああ、あいつなら今日は上がったぜ」
天王寺
「午後から用事があるとかでな。いつになく真面目な顔して、出かけていった」
倫太郎
「なんの用事かは、訊いてますか?」
天王寺
「いや。バイトのプライベートまで詮索するつもりはねえからな」
それだけ言って、天王寺は店に戻っていった。
まゆり
「スズさん、どこ行ったのかなあ?」
かがり
「用事って、なんでしょうね?」
倫太郎
「…………」
何か深刻なものでなければいんだが……。
ひとまずRINEで聞いてみよう。
倫太郎
「ゴーゴーカレー?」
遅い昼食でも食べてるんだろうか。
それが、大事な用事……なのか?
倫太郎
「とにかく、行ってみよう」
ゴーゴーカレー店員
「いやあ、お見事です!」
ゴーゴーカレー店員
「ゴーゴーカレー秋葉原店、今月の大食い大会覇者は――」
ゴーゴーカレー店員
「お店史上初の3連覇! 『静かなる殺戮者』さんです!」
ギャラリー
「すげえ……! あの華奢な体のどこに、あんな大量のカレーが入るんだよ!」
ギャラリー
「カレーの女神だ! カレーの女神が
顕現
けんげん
された!」
ギャラリー
「名前に恥じない殺戮者っぷりだな! あの食いっぷりを見たら、本職の殺し屋って言われても信じるね!」
鈴羽
「…………」
ゴーゴーカレー店員
「優勝した『静かなる殺戮者』さん、おめでとうございます!」
倫太郎
「……すごいな」
かがり
「すごいですね……」
鈴羽が言っていた“用事”って、もしかしてこれの事だったのか……?
3連覇とアナウンスされていたし、客も鈴羽の事を知っているようだから、この店の常連なのだろう。
大興奮の観客をかき分けて、鈴羽がこちらにやってきた。
鈴羽
「……ふう」
鈴羽
「あれ? 3人とも、どうしたの?」
鈴羽
「ごめん。さっきは大会の直前だったから、そっけない返事しちゃった」
まゆり
「すごいね~。あんな大皿のカレーをぺろりと食べちゃうなんて」
鈴羽
「食べられるものは食べられる時に食べる。戦場で生き残るために必要な素養だよ」
かがり
「せ、戦場?」
かがり
「ええと、私、何か聞き間違えたんでしょうか……?」
倫太郎
「……気にしない方がいいと思う」
鈴羽
「おじさん、それで、かがりの記憶の手がかりって?」
俺はこれまでの経緯を説明した。
鈴羽
「ええ? あたしの歌? 聞こえてたの?」
鈴羽
「もう、言ってよ、まゆねえさん」
まゆり
「スズさんが歌ってるの、すごくかわいかったから。教えたらやめちゃうかなと思って黙ってましたー」
鈴羽
「いじわるだな……」
倫太郎
「それで、その歌はどこで知ったんだ?」
鈴羽
「母さんだよ。母さんが歌ってたんだ」
倫太郎
「由季さんが?」
かがり
「え? 由季さん?」
かがり
「鈴羽さんのお母様も、由季さんとおっしゃるんですか?」
倫太郎&鈴羽
「あ」
「あ」
しまった!
倫太郎
「いや、そうじゃない! 由季さんのあだ名が『カアサン』なんだ!」
鈴羽
「そうそう! そういう事! つい、あだ名で呼んじゃうんだよ!」
かがり
「ええと、そう……なんですか? あの、それはどういう由来で――」
鈴羽
「ごめん、その話はまた今度!」
鈴羽
「おじさん、ちょっとこっち来て!」
俺と鈴羽は、かがりから少し距離を取った。
鈴羽
「あのさ、よく考えたら母さんの事は別に隠さなくてもいいんじゃない?」
倫太郎
「記憶が戻らない可能性もあるんだから、言わない方が賢明だと思うけどな」
鈴羽
「そうか……」
鈴羽
「あたしとしては、それは避けたい結末ではあるけど」
倫太郎
「それで、その歌を由季さんから教わったっていうのは、未来での話だよな?」
鈴羽
「もちろん」
鈴羽
「母さんが料理を作りながらよく歌ってて、自然に覚えたんだ」
混乱してきた。
つまり、どういう事になるんだ?
倫太郎
「子供の頃のかがりは、鈴羽か、由季さんからその歌を教わったという事か?」
鈴羽
「それはないよ」
鈴羽
「かがりがまゆねえさんの養子になったのは、母さんが死んだ後だから」
鈴羽
「あたしも、人前で歌った事なんてないんだ。かがりに聞かせた事もない」
鈴羽
「あの頃は生きるのに精一杯で、そんな心の余裕なんてなかったからね」
鈴羽
「無意識に口ずさんでるなんて、自分でも知らなかったくらいなんだ」
鈴羽
「かがりがこの歌を子供の頃に覚えたんだったら、それはまゆねえさんから教わったんだと思うよ」
倫太郎
「そうか……」
であれば、かがりはまゆりから教わり、まゆりは鈴羽が口ずさんでいたのを覚え、鈴羽は母である由季から教わった事になる。
倫太郎
「なら、次は由季さんに当たってみるか」
倫太郎
「なんだか伝言ゲームめいてきた」
それでも、根気よく調べていけばいずれは真相に辿り着くだろう。
鈴羽
「あたしはタイムマシンの整備もあるし、付き合えそうにないな」
鈴羽
「かがりの事、よろしくね」
倫太郎
「ああ」
倫太郎
「と、言うわけだ」
俺は、鈴羽から聞いた話をまゆりとかがりに説明した。
もちろん、未来の話は出来ないから、その辺は適当にごまかしたが。
まゆり
「そっかー。じゃあ次は由季さんだね」
倫太郎
「まゆり、連絡取ってもらっていいか?」
まゆり
「うん。わかった~」
まゆりはスマホを取り出して、由季に電話をした。
まゆり
「…………」
まゆり
「……出ないなあ」
まゆり
「RINE送っておくね」
電話するのは諦め、まゆりは由季にRINEでメッセージを送った。
まゆり
「これでおっけーだよ♪」
かがり
「なんだか大事になってしまって……すみません」
まゆり
「気にしなくていいよ~!」
まゆり
「それにね、まゆしぃはかがりさんとこうしてお散歩出来て、楽しいのです」
かがり
「……ありがとう」
かがり
「私も、まゆりさんとお話ししながら歩いていると、なんだかゆったりした気分になれるんです」
まゆり
「あ、それ、まゆしぃも一緒だ~!」
かがり
「私たち、気が合うのかもしれませんね」
まゆり
「えっへへ~、うれしいな!」
ダルがいたら“百合展開ktkr!”とでも叫びそうなシチュエーションだな。
そういえば、ダルの奴も今日は用事があると言って、昼にラボで別れたきりだ。どうせいかがわしい用事に違いないが。
まゆり
「あ、由季さんからメッセージ来たよ~」
まゆり
「ええと~」
まゆり
「“実は今、橋田さんとデート中”だって~」
まゆり
「わあ~、そうなんだ!」
かがり
「あの2人、お付き合いしてるんですか……!」
倫太郎
「デートするほど進展していたとは聞いてないぞ」
ダルの言っていた用事って、そういう事か。
まゆり
「んっと……由季さん、夕方にはラボに来るみたい」
倫太郎
「夕方か。時間が少し空くな……」
まゆり
「でも、デートの邪魔しちゃ悪いよ」
かがり
「そうですね。待ちましょう」
かがりがそう言うなら、俺としてもそれ以上何か言うつもりはなかった。
由季にはまゆりから返事をしておいてもらって、ラボに戻る事にした。
その途中――。
まゆり
「……あっ!」
倫太郎
「ん? どうした?」
まゆり
「オカリン、あそこ!」
急に声を潜めたまゆりが、オープンテラスのカフェエリアをそっと指差した。
倫太郎
「あ……!」
テーブルのひとつに、見覚えのある2人の姿があった。
ダルと由季だ。
なんと、2人で仲むつまじくサンドイッチを食べている!
倫太郎
「これは、アレだな……」
倫太郎
「とりあえず、いつものダルに倣って、こう言っておこう……」
倫太郎
「ダル、リア充爆発しろ……」
かがり
「ど、どうしましょう!?」
まゆり
「邪魔しちゃ悪いよね……」
倫太郎
「とはいえ、これは中々見られない光景じゃないか?」
まゆり
「それは……確かに!」
まゆりもいつになく視線が熱っぽい。よほどあの2人の恋路を応援しているようだ。
倫太郎
「2人が食べ終わるのを待って、偶然合流した感じにするか」
まゆり
「まゆしぃは賛成です!」
かがり
「いいと思います!」
かがりとまゆりのテンションが高まっている。
興奮するシチュエーションなのだろうか。
俺達は目立たないようにオープンテラスの隅にあるテーブルに陣取った。
そこでなるべく目立たないように顔を伏せつつ、そっとダルと由希を見守った。
2人の楽しそうな昼食は続いていた。
かろうじて声も聞き取れる。
由季
「ほらほら、橋田さん。口の端にトマトついてますよ。拭いてあげますね」

「いいいいやいやいや、大丈夫大丈夫、じじじじじ自分で拭くから」
由季
「でも、いつもハンカチ持ってないじゃないですか。ほら、こっちに顔向けてください」

「ぼぼぼぼぼぼ僕の体液がついたら、阿万音氏のハンカチが汚れててててしましましましま」
由季
「汚いなんて思ったりしませんよ」
由季
「はい、拭きますよー」

「ああ~~っ……」
倫太郎
「……何をやってるんだあいつは」
まゆり
「仲良さそうで羨ましいなぁ」
かがり
「お似合いですね。あのお2人」
倫太郎
「そうか……?」
まゆり&かがり
「そうだよ!」
「そうですよ!」
……よくわからない。
まゆり
「いいなあ、幸せそうだなあ……」
楽しそうにしている2人を見て、まゆりがうっとりとした表情で呶く。
と、その時。
まゆり
「あう……」
かがり
「まゆりさん、お腹すいてるんですか?」
まゆり
「えっへへ~……。バイトが終わってからお昼食べようと思ってたから」
倫太郎
「なんだ、そうだったのか?」
倫太郎
「じゃあ、何か注文するか。ここは俺が奢る」
まゆり
「いいの~?」
倫太郎
「手伝ってくれているお礼だ」
まゆり
「やったぁ。オカリン太っ腹だね~」
まゆり
「じゃあね、じゃあね……」
まゆりは目を輝かせながらメニューを眺めた。
まゆり
「クレープ食べたいなー。イチゴとクリームがいっぱい入ってるの!」
どうやら今日は特別メニューとしてクレープも出しているらしい。
倫太郎
「わかった。かがりは?」
かがり
「私は、さっきお昼食べさせてもらいましたから……」
まゆり
「え~、一緒に食べようよ~」
倫太郎
「遠慮しなくていいよ」
かがり
「すみません……。じゃあ、バナナとチョコのを」
倫太郎
「了解だ」
俺はダルたちに見つからないようにして、クレープを買いに向かった。
まゆり
「ん~!」
かがり
「ん~!」
まゆり
「すっごく美味しいー! 感動だよー!」
かがり
「ですね~! チョコレートの苦さが絶妙」
まゆり
「イチゴも美味しいよ」
まゆり
「ほら、かがりさん。あーん」
かがり
「あーん」
かがり
「んっ、美味しい♪」
かがり
「……って、何をさせるんですか!」
まゆり
「ええ? 照れなくてもいいのに~。女の子同士なんだし」
かがり
「それは、そうなんですけど……」
まゆり
「あ、ほっぺにクリームついてるよ」
かがり
「え、やだっ」
まゆり
「まゆしぃが取ってあげる~」
かがり
「だ、大丈夫ですよ! 自分で拭けますから!」
かがりは慌ててポーチから手鏡とハンカチを取り出し、さっと拭いた。
まゆり
「あぁ、まゆしぃが取ってあげたかったなあ」
かがり
「んもう、まゆりさんたら。困ります」
まゆり
「えー、どうしてー?」
かがり
「どうしてって、あの……」
かがり
「まゆりさんに言われると、なんか、変な気持ちになっちゃうから……」
倫太郎
「変な気持ち?」
かがり
「はい」
かがり
「なぜか、まゆりさんにすごく甘えたくなっちゃうんですよね……」
かがり
「おかしいな、私の方が年上のはずなのに……」
かがりは顔を赤くして、上目遣いにちらちらとまゆりを見ている。
まゆり
「えっへへ~。それは、かがりさんがまゆしぃを好きだって事だよね?」
かがり
「ええっ!?」
まゆり
「まゆしぃも、かがりさんの事大好きだよ~!」
かがり
「あ、あの、まゆりさん? わ、私は……」
倫太郎
「ああ、まゆりのそれに深い意味はないから、気にしないでくれ」
かがり
「そ、そうなんですか?」
まゆり
「ねえねえ、まゆしぃにも一口ちょうだい? あーん♪」
かがり
「ええと……」
まゆり
「あーん♪」
かがり
「しょうがないなあ……。はい、あーん」
かがりが持っているクレープを、まゆりが頬張る。
傍からは、姉妹がお互いのクレープを食べ合っているように見えるだろう。もちろん、まゆりが妹だ。
けれど、俺にはそうは見えなかった。
小さなかがりが、母親のまゆりに照れながら手を伸ばしている。そんな風に見えた。
やっぱり、彼女の記憶を早く取り戻してあげたい。
第三次世界大戦に突入しているという未来世界がどんな所なのかは、想像以上の事はわからない。
けれど、どんな絶望的な状況でも、食事には家族団らんとしての機能が残っているはずだ。
もしかしたら、未来においても、こういう光景があったかもしれない。
それは、とても、幸せな――
まゆり
「オカリン?」
倫太郎
「ん?」
まゆり
「どうしたの、ボーッとして」
倫太郎
「……ああ、悪い、ちょっと考えごとをしてた」
まゆり
「オカリンもクレープ食べたくなっちゃったのかな?」
かがり
「今からでも、買ってきたらどうですか?」
倫太郎
「大丈夫だよ。昼飯はさっき食べたし」
それに、クレープがあまりにも甘そうで、食欲が失せてしまったのだ。
まゆり
「あ、そうだ!」
まゆり
「じゃあ、まゆしぃのを一口あげるよ。あーん♪」
かがり
「それなら、私のも! あーん♪」
急に目の前にクレープが2つ突き出され、その向こうで女の子2人が微笑みかけている。
倫太郎
「バ、バカッ、やめろ、恥ずかしいだろ――」
俺は反射的に椅子を引こうとして、テーブルの脚につま先を引っかけてしまった。
倫太郎
「あ――」
まゆり
「オカリン!」
かがり
「岡部さん!」
倫太郎
「って、てて……」
何もない場所でいきなり転んだ俺を、周りの客がジロジロ見ている。無駄に目立ってしまった。
その結果――。
由季
「岡部さんじゃないですか」

「ぬあっ! おおおお、オカリンなぜここに!?」
……見つかってしまった。
ダルと由季に見つかった俺たちは、これまでの経緯を説明した。
由季
「も~う! 声をかけてくれればよかったじゃないですかー!」
まゆり
「えっへへ~。ごめんなさい」
かがり
「お邪魔しちゃ悪いかなと思って……」
由季
「ずっと見られてた事の方が恥ずかしいですよー」

「…………」
ダルはすっかり賢者みたいな顔になっている。
デレデレな顔を俺たちに見られて、心が折れたのかもしれない。
倫太郎
「それで、由季さん。どうかな」
倫太郎
「その歌、どこで知ったのか覚えてないか?」
由季
「覚えてますよ。最近の事なので」
由季
「私、お菓子教室でバイトをしてるんです。講師の先生の補佐役なんですけど」
由季
「ほら、私、お菓子作るの好きだから。まだまだ修行中なんですけどね」
まゆり
「由季さんが作るお菓子はものすご~く、美味しいんだよ!」
かがり
「そうなんですか……!」
由季
「今度、かがりさんも一緒に作ろう。ね?」
かがり
「はい。ぜひ!」
話が脱線しそうだったので、俺は話題を元に戻した。
倫太郎
「そのお菓子教室と歌に、どんな関係が?」
由季
「あ、そうそう」
由季
「教室に通ってる生徒さんの1人が、調理の間、その歌をいつも口ずさんでて」
由季
「本人は無意識みたいなんですけど、それを歌ってる時はとても幸せそうな顔をされていて」
由季
「私も、いつの間にか覚えちゃいました」
倫太郎
「その生徒は、由季さんの知り合いなのか?」
倫太郎
「たとえば、俺の知っている人だったりしないか?」
由季
「うーん、それはないと思います。割とお年を召している女性なので」
……ここまで伝言ゲームが続いていたのに、突然無関係な人が現れてしまった。
実はありふれた歌で、未来のかがりも誰かが適当に歌っていたものを覚えてしまっただけ……という可能性も出てきたな……。
……いや、結論を出すのはまだ早い。
倫太郎
「ひとまず、その生徒さんに話を聞いてみよう」
倫太郎
「由季さん、すまないが、その人に連絡を取ってもらえないかな」
倫太郎
「生徒の個人情報だったら、俺達に教えるわけにもいかないだろうし」
由季
「別に構わないですよ? 教室と言っても、そんな大げさなものじゃないですから」
由季
「その方のケータイのメアドも聞いてますし、よくお話もしますから」
由季はポーチからスマホを取り出し、操作を始めた。住所録を見ているようだ。
由季
「ええと……。あ、あったあった。この人です」
由季がスマホをこちらに差し出してくる。
知らない人の名前を見てもしょうがないのだが、俺たちはなんとなくスマホの画面を覗き込んだ。
倫太郎
「……え?」
まゆり
「……え?」
倫太郎&まゆり
「ええええ!?」
「ええええ!?」
由季
「え、何!?」
まゆり
「そ、その名前!」
まゆり
「オカリンのお母さんの名前だよ!」
間違いない。
そこに書かれていたのは、俺のおふくろの名前だった。
倫太郎母
「へえ! 由季さんってあんたのお友達だったんだ!」
かがりが覚えている歌のルーツが俺のおふくろにあるらしいという衝撃の事実の後、俺たちはラボに戻った。
さすがにまゆりやかがりの前で家族に電話するのは恥ずかしい。
というわけで、寒い中、屋上まで上がって自宅に電話した。
電話に出たおふくろに、お菓子教室に通っているかを確認してみると、『知らなかったの?』と言われてしまった。
倫太郎母
「そっかー、歌ねえ」
倫太郎母
「口ずさんでるなんて全然気付かなかったわー。ちょっと恥ずかしいわね。アハハ」
倫太郎
「その歌、どこで覚えたんだ?」
倫太郎母
「どこでって?」
倫太郎
「ラジオで流れてたとか、他の人が歌っているのを聞いたとかさ!」
倫太郎母
「…………」
倫太郎母
「あんただけど?」
倫太郎
「……え?」
倫太郎母
「あんたが前に歌ってたのよ」
倫太郎
「な」
倫太郎
「ななななな!?」
倫太郎
「何言ってんだよ! そんなわけないだろ!?」
倫太郎母
「ほら、あんたが中学生の頃、まゆりちゃんがふさぎこんじゃった時期があったでしょ。おばあちゃんが亡くなって」
倫太郎母
「みんな心配してたけど、まゆりちゃん、ある日を境に元に戻ってくれて、ホント良かったわー」
倫太郎母
「でも、代わりにあんたがおかしくなっちゃったのよねえ」
倫太郎母
「なんだっけ。蒸気の……、バッドサイレントテスト?」
倫太郎
「……やめて」
実の母親に自分の黒歴史を言葉にされるよりも恐ろしい事がこの世にあるだろうか? いやない。
倫太郎母
「あんたがそのバッドなんとかにかぶれはじめた頃、お風呂に入るたびに歌ってたのよ」
倫太郎母
「さんざん聞いてるうちに覚えちゃったわ。アハハ」
倫太郎
「俺が、歌っていた……?」
倫太郎母
「そうよお! 覚えてないの?」
倫太郎母
「あ、お客さん来た。じゃあね。吶が降りそうだから早く帰ってきなさい」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「マジか……」
まゆり
「あ、オカリン、どうだった?」
かがり
「わかりましたか?」
倫太郎
「…………」
俺は、自分でもよくわからないまま、おふくろから聞いた話を2人に説明した。
まゆり&かがり
「ええええ!?」
「ええええ!?」
そりゃ、驚くよな。
俺が一番驚いている。
驚きすぎて、逆に冷静になってしまっているくらいだった。
かがり
「と、なると、どういう事なんでしょうか?」
……。
……どういう、事だ?
かがりはこの歌を未来のまゆりから聞いた。
現在のまゆりは鈴羽から聞いた。
鈴羽は未来で由季から聞いた。
由季は俺の母親から聞いた。
そして俺の母親は、俺から聞いたという。
倫太郎
「俺、歌なんて、歌ってたか……?」
まゆり
「ん~。まゆしぃも覚えてないなあ」
流行りの歌などであれば、口ずさんでいたかもしれないが。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「ダメだ。思い出せない」
まゆり
「…………」
まゆり
「どうしよう……。手がかり、なくなっちゃったね……」
泣きそうな顔でしょんぼりしているまゆりを、かがりが優しく抱きしめた。
かがり
「落ち着いてください、まゆりさん」
かがり
「岡部さん、その、まゆりさんが落ち込んでいた時っていうのは、何か手がかりになりませんか?」
倫太郎
「そうは言っても、何か特別な事をしていたわけじゃないからな……」
倫太郎
「まゆりが墓参りに行ってるのを迎えに行くくらいで……」
その時、今は封印してしまった鳳凰院凶真が誕生したのだ。
かがり
「…………」
かがり
「じゃあ、そのお墓に行ってみませんか?」
かがり
「何か、思い出すかも」
そんな事があるだろうか。
かがり
「ここまで来たなら、最後まできちんと確かめてみたいですから」
まゆり
「オカリン。まゆしぃからもお願い」
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……わかった。行こう」
かがり
「ありがとうございます!」
今日は日も暮れそうな時間だったので、墓参りには明日の朝、行く事にした。
次の日は、朝からどんより曇っていた。
俺とまゆりとかがりは、まゆりの祖母の墓がある霊園の近くで待ち合わせた。
まゆり
「吶、降ってきちゃいそうだねえ」
かがり
「私、傘持ってきてないんですよね」
かがり
「天気予報では降らないって言ってたから……」
まゆり
「まゆしぃもだよー♪」
俺はそもそも吶が降ってない時には傘を持っていく習慣がなかった。
つまり誰も傘を持ってきていないのだ。
倫太郎
「吶が降り出す前に切り上げるようにしよう」
まゆり
「はーい♪」
まゆり
「おばあちゃん、オカリンが来てくれて喜ぶだろうなー」
倫太郎
「……そうだな」
まゆり
「それに、今日はかがりさんも来てくれたし」
まゆり
「まゆしぃの素敵なお友達をおばあちゃんに紹介出来るのが、楽しみなのです♪」
かがり
「まゆりさん……」
まゆり
「オカリン、早く行こう? まゆしぃはおばあちゃんに話したい事が沢山あるのです!」
倫太郎
「そうだな。急ごう」
やがて、俺達は霊園に到着した。
空を覆う一面の雲は、更に黒さを増して、いつ降り出してもおかしくないように見えた。
3人で墓掃除を済ませ、それぞれひとりずつ墓前で手を合わせた後は、まゆりだけがお墓の前に座り込んで、ずっと祖母に話しかけていた。
俺とかがりは、少し離れた所で、そんなまゆりの様子を眺めていた。
まゆり
「それでねえ、かがりさんが驚いた顔で入って来て、バターンて、気絶しちゃったんだ。もうびっくりしたよー」
まゆり
「まゆしぃはすっごく慌てちゃったし、すっごく心配だったんだけど、どうしてもバイトに行かなきゃいけなくて……」
まゆり
「だから、オカリンとダルくんに“かがりさんの事お願い!”って言って、ラボを出たの」
まゆり
「でも、ホントは心配で心配で、胸がはち切れそうだったんだよ~」
かがり
「岡部さん、あの……」
かがりが、困ったような顔で俺に耳打ちしてきた。
倫太郎
「ああ、まゆりの事なら気にしないでくれ」
倫太郎
「あれは、儀式みたいなものなんだ」
かがり
「儀式?」
倫太郎
「ああ。まゆりはおばあちゃん子でさ、そのおばあちゃんが亡くなった時には、魂が抜けたみたいになってたんだ」
倫太郎
「半年くらい誰とも口をきかずに、毎日ここに来ては、一日中ぼんやり立ってた」
倫太郎
「……まるで、自分もおばあちゃんの所に行ければいいのにって、祈っているように見えた」
かがり
「それを、岡部さんが連れ戻したんですよね?」
倫太郎
「っ!?」
倫太郎
「ど、どうしてそれを!?」
かがり
「まゆりさんから聞いちゃいました」
倫太郎
「あいつめ……」
かがり
「いいじゃないですか。カッコイイですよ。マッドサイエンティストの鳳凰院凶真さん」
倫太郎
「やめてくれ」
倫太郎
「あの時は、必死だったんだ」
倫太郎
「後から思えば正解だったわけだけど、やっぱり恥ずかしい真似をしたと思うよ」
そう。俺はあの時、持てる限りの厨二病を総動員して、まゆりの魂を引き留めようとしたんだ。
倫太郎
「連れてなんて、いかせない……」
倫太郎
「ま、まゆりは、俺の人質だ。人体実験の生け

にえ
なんだ!」
倫太郎
「ど、どこにも、逃がさないからな。ハハッ、フハハハ!」
まゆり
「そっかぁ……ぐすっ」
まゆり
「まゆしぃは、人質なんだね……」
まゆり
「じゃあ、しょうがないね。えへへ……」
かがり
「ううん」
かがり
「とても素敵なお話だと思います」
倫太郎
「そうかな」
かがり
「そうですよ……」
かがり
「あっ」
倫太郎
「ん?」
かがり
「降ってきました」
見上げると、頬にポツッと吶粒を感じた。
すぐにパラパラと冷たい雫が降り始めた。
かがり
「こんなに早く降り始めるとは思いませんでしたね……。どうします?」
まだ来たばかりで何もしていない。帰るにしてももう少し調べてからにしたい。
倫太郎
「一旦、吶宿り出来る場所を探そう。コンビニで傘を買ってもいいし」
かがり
「わかりました」
かがり
「まゆりさん。一度駅に戻りましょう!」
まゆり
「え?」
まゆり
「わあ! 吶だー!」
3人で駅への道を駆けている間に、吶は本降りになっていた。
まゆり
「ひゃー! ずぶ濡れだよー!」
かがり
「先に傘を、買っておけば、良かったですね!」
まゆり
「これじゃ、シャワー浴びないと、風邪引いちゃうねー!」
まゆり
「そうだ! かがりさん、まゆしぃのお家来る? 一緒にシャワー浴びようよ――」
まゆり
「――あれ?」
後ろを向いたまゆりが突然立ち止まった。
それにつられて、俺も足を止める。
振り返ると、後ろを走っていたはずのかがりがついて来ていなかった。
かがり
「…………」
少し離れた所で、かがりはぼんやりとした顔で突っ立っている。
顔はこちらに向いているが、どこか遠くを見つめているように見えた。
まゆり
「かがりさん? どうしたの?」
かがり
「…………」
かがり
「……聞こえる」
虚ろな声。まるで、ついさっきまでのかがりとは別人のような、そんな声……。
倫太郎
「聞こえるって、何が?」
かがり
「…………」
かがり
「……声」
かがり
「声が、聞こえる」
まゆり
「かがり、さん?」
まゆりがそろそろとかがりに歩み寄っていく。
かがり
「私」
かがり
「行かなきゃ」
突然――。
かがりは足下の水たまりを蹴って、そのまま車道へと飛び出した。
まゆり
「かがりさん!」
そこに、トラックが走ってきた。
まゆり
「かがりさんっ! 逃げてっ!」
まゆりが絶叫して――。
俺の体は、勝手に動いていた。
今にも車道に出ようとするまゆりの肩を無理矢理引っ張って地面に引き倒す。
まゆり
「きゃっ!」
そして、その勢いを借りて俺自身が車道に飛び出した。
まゆり
「オカリン!!」
まゆり
「昔はね、今みたいに空気が汚れていなかったから、みんな吶に濡れても気にしなかったんだよ」
まゆり
「ママがかがりちゃんくらいの年の頃はね、吶が降るのは楽しみだったんだ」
まゆり
「オカリンと一緒に、お外を走り回ったの」
まゆり
「吶の中を走るとね。まるで海の中を泳いでるみたいなんだぁ」
まゆり
「オカリンとママはね、その中を泳ぐ魚なの。世界でたった2匹だけの」
まゆり
「楽しかったなあ……」
かがり
それは、いつの事だっただろう。
かがり
1998年に、鈴羽おねーちゃんと別れてから、長い事閉じ込められていた施設。
かがり
私がそこから逃げ出したのは、いつの事だっただろう。
かがり
逃げ出した理由は……。
かがり
急に、ママに会いたくなったから。それだけだった。
その施設で、いつものように“教授”が来るのを待っていた時、かがりは小さな窓越しに、吶が降っている事に気付いた。
窓から伝わってくる水の匂いを感じた時、ママの言葉を思い出した。
気付くと、かがりは頭にかぶせられたヘッドセットを脱いでいた。
誰もその行動を予想していなかったから、かがりが逃げ出すのは簡単だった。
両腕に貼り付けられていたコードを剥がして、小さな窓から、外に出た。
そして、ちょうど駐車場から出発しようとしていたトラックの荷台に忍び込んだのだ。
施設は山奥にあったらしく、何時間も揺られた後、トラックはどこかの街に辿り着いた。
かがり
「…………」
トラックが停止している間に外に飛び出し、かがりは吶に濡れながら、あてもなく歩いた。
どこに行きたいとも思っていなかった。ママには会いたいけど、どこにいるのかわからなかったから。
もし会えたとしても、その時点でのママはかがりより何歳も下だし、そもそもかがりの事を知らないのだ。
衝動的に施設を飛び出してしまったが、お金を持っているわけでもなく、彼女に出来る事は何もなかった。
“教授”が探しに来るのを待つぐらいだ。
それまでは――。
それまでは、吶に濡れていたかった。
吶はずっと、しとしとと降り続けていた。
服が濡れてしまっていたが、全然気にならなかった。
かがり
(……吶が痛くないなんて、変な感じ)
この時代の吶は、肌に触れても刺激を感じたりしなくて、むしろ、温かかった。
自然というのは、単に人間を苦しめるためだけの存在ではないのだと、かがりは知った。
この時代の吶には、命が宿っている、そう思った。
この時代の吶は、“生きている吶”だった。未来の世界で降っていた“死んでいる吶”とは、全然違うものだった。
かがりは、生きている吶に包まれる感触を楽しみながら、歩き続けた。
……どれだけ歩いただろう。
さすがに足が疲れてきた頃、屋根があるベンチを見つけた。
そこは路面電車のホームだった。無人で、改札もなかった。
椅子に腰掛け、ぼんやり空を見上げた。
吶はまだ止みそうになかった。
かがり
(……きっと、神様はこの吶も嫌いなんだろうな)
かがり
(生きている吶より、死んでいる吶の方が、好きなんだろうな)
かがり
(そうじゃなきゃ、未来の吶が死んでいる理由を説明出来ないもの)
かがりには、未来で降っていた“死んでいる吶”が、今降っている“生きている吶”よりも良いものだとは、とても思えなかった。
けれど、ひとつだけ確かな事があった。
ママがいる未来に降っている吶は、“死んでいる吶”なのだ。
ママともう一度会う時、降っている吶は、“死んでいる吶”なのだ。
だから、神様には特に文句はなかった。
かがり
「…………」
少年
「……迷子ですか?」
ベンチの横に、男の子が立っていた。かがりと同じか、少し下くらいの年齢に見えた。
傘を持ってはいるが、ズボンの膝から下が見てわかるほど濡れていた。きっと長い間、この吶の中を歩いていたのだろう。
かがりが黙っていると、男の子は隣に座った。疲れたような、苦しいような、そんな顔をしていた。
少年
「……僕も」
男の子は、呶くように、話をしてくれた。
それがどんな話だったのかは、かがりには思い出せない。
けれど、少年はとても辛そうで、まるで世界の悲しみすべてを抱えているように見えた。
どうして彼は、見ず知らずのかがりに話しかけたのだろう。
何故、かがりにその話を打ち明けようと思ったのだろう。
不思議とかがりは、嫌な気持ちはしなかった。
同じなのだ。
私とこの子は、同じ。
なぜだか、不思議とかがりには、その時それがわかった。
自分の力ではどうしようもないものというのが、この世界にはある。
指の間からこぼれていくのを、ただ見つめる事しか出来ないようなものが。
諦めるわけにいかないのに、諦める事しか出来ない。
そういう絶望を抱えていた。
もしかしたら、この吶が、2人を出会わせてくれたのかもしれない。
こんなに沢山の人が生きているこの世界で、にもかかわらず誰にも気持ちを打ち明けられない2人を、この吶が結びつけてくれたのかもしれない。
生きている吶が。
温かい吶が。
優しい吶が。
まゆり
「オカリンとママはね、その中を泳ぐ魚なの。世界でたった2匹だけの」
あの時、ママはとても懐かしそうな、嬉しそうな顔をしていた。
けれど、かがりは、それはとても寂しい話だと感じていた。
だって、こんなに世界は広いのに、泳いでいるのがたった2匹だけなんて。
他に仲間がいないなんて、そんなの寂しいに決まってる。
そう、思っていた。
けれど、かがりは、今少しだけ、ママの気持ちがわかった気がしていた。
世界にたった2匹だけ。
でも、それでも、1匹ではないのだ。
自分と同じ事を思っている人が、少なくとも、もうひとり、そばにいる。
それは寂しいけれど、きっと、寂しくない。
生きている吶の海の底で、そういう事だと、わかった。
かがり
「探し物 ひとつ」
かがり
「星の 笑う声」
かがり
「風に 瞬いて」
かがり
「手を伸ばせば 掴めるよ」
かがりは、少年のために何をしてあげる事も出来ない。
けれど、この歌が、少年の為に必要だと、その時は思ったのだ。
かがり
「…………」
気が付くと、少年はいなくなっていた。
かがり
「吶……やまないな」
教授
「捜したよ」
かがり
「…………」
教授
「ほら、行こう」
かがり
「…………」
教授
「どうしたんだい?」
かがり
「…………」
かがり
「……私」
かがり
「行かなきゃ」
かがりは“教授”の手をふりほどいて、道路に飛び出し、吶の中を走り出した。
その時、前方から、トラックが水たまりの水を飛び散らしながらこちらに進んできていた。
かがり
「……」
かがり
「…………」
かがり
「……生きて、る?」
目を覚ましたかがりは、自分が病室のベッドに横たわっている事に気付いた。
まゆり
「かがりさん!」
目を真っ赤にしたまゆりが、かがりの顔を覗き込んでくる。
まゆり
「オカリン! かがりさん、気が付いたよ!」
倫太郎
「かがり!」
かがり
「私……」
倫太郎
「トラックにはねられそうになったんだ」
倫太郎
「ケガはなかったんだけどな。気を失ってたから、念のために救急車を呼んだ」
倫太郎
「君は保険証を持ってないから、医療費はとんでもない額になるかもな……」
まゆり
「しょうがないよ。あの時はそうするしかなかったもん」
まゆり
「かがりさんが無事で良かった」
まゆり
「オカリンがね、ギリギリのところで助けたんだよ」
まゆり
「2人とも死んじゃったのかと思って……まゆしぃは……まゆしぃは……」
まゆり
「ぐすっ……」
倫太郎
「泣くなよ、まゆり」
まゆり
「うん……」
かがり
「……ああ、そう……でした」
かがり
「ぼんやり、覚えてます……岡部さんが、飛び出してきてくれた事……」
かがり
「ごめんなさい。私、どうかしてた。ありがとう」
倫太郎
「いや、無事ならいいんだ」
と、感極まったまゆりが、かがりに抱きついてきた。
まゆり
「よかったよぉ、かがりさん!」
まゆり
「本当に、心配したんだから……」
かがり
「まゆり、さん――」
かがり
……ううん、違う。
かがりは、ようやくすべてを理解した。
かがり
そうじゃない。
かがり
この人は、“まゆりさん”じゃない。
かがり
……うん。そうだ。
かがり
この人は、ママだ。
かがり
「……やっと」
かがり
「やっと、会えた――!!」
今度は逆に、かがりがまゆりにしがみつく番だった。
かがり
「ママっ!」
まゆり
「ひあっ!?」
まゆり
「え、マ、ママ!?」
まゆり
「かがりさん、違うよ? まゆしぃはママじゃないよ?」
かがり
「違ってなんかない! ママは、かがりのママなの!!」
子供っぽい口調を止める事が出来ない。
会えずにいた10年くらいの時間が吹き飛んで、かがりはあの頃のかがりに戻っていた。
倫太郎
「ママって……!?」
倫太郎
「かがり! 記憶が戻ったのか!?」
かがり
「オカリン……おじ、さん」
倫太郎
「……!」
かがり
「うん。全部思い出した」
かがり
「私は椎名まゆりの娘。椎名かがりだよ」
まゆり
「えええ!?」
まゆり
「だ、だって、かがりさん、まゆしぃより年上だよ!?」
まゆり
「それに、まゆしぃは、その、赤ちゃん産んだりとか、してないし……」
かがり
「ママ、私は未来から来たんだよ」
かがり
「未来のママは、孤児だった私を引き取って、養女にしてくれたの」
まゆり
「まゆしぃが!?」
かがり
「そうだよ。私に生きる理由を与えてくれたのが、ママなの」
かがり
「ママはね、私を危ない目に会わせないために、一番安全な所に逃がしてくれた」
まゆり
「安全な所?」
かがり
「過去だよ」
かがり
「ママが幼かった頃の、まだ平和だった日本でなら、安全に暮らせるだろうって」
まゆり
「…………」
かがり
「……でも、やっぱり寂しかった」
かがり
「ここには、ママがいないんだもの」
かがり
「どんな安全な場所でも、ママと離ればなれになるんじゃ意味なんてないもん!」
かがり
「ママぁ……」
かがり
「会いたかったよお……っ!」
柔らかなベッドの上で、かがりはまゆりにしがみつくようにして、いつまでも泣き続けた。
まゆりは最初こそ戸惑っていたものの、やがてかがりを優しく抱きしめ返してくれた。
まゆり
「かがりちゃん……」
かがり
「ママ……!」
まゆり
「うん」
まゆり
「……ごめんね」
まゆり
「……ごめんね……っ!!」
かがり
「う……うぅ……」
かがり
「うぁあああああ!!」
まゆり
「……ごめんね」
まゆり
「辛かったよね……寂しかったよね……」
まゆり
「ママのせいで、ずっと泣いてたんだよね……」
まゆり
「ごめんね……っ」
かがり
「ママあああああ!!」
かがり
こうして、私、椎名かがりは、全ての記憶を取り戻した。
かがり
それからの数ヶ月間は、ただ、楽しかった。
かがり
毎日のようにラボに集まって、ママや、その友達と遊んだ。
かがり
みんな本当に良い人たちだった。退屈する暇なんて1秒もなかった。
かがり
特にママは、出来るだけ時間を作って、私と一緒にいてくれた。
かがり
一緒にご飯を食べに行ったり。
かがり
一緒にショッピングに行ったり。
かがり
目的もなく一緒に散歩したりした。
かがり
他愛もないそのすべてが、私が心の底から求め続けていたものだった。
かがり
以前は頭の中に響いていた“声”も、ママと沢山話しているうちに、いつの間にか聞こえなくなっていた。
かがり
ママは、どんな時でも、笑顔を私に見せてくれた。
かがり
そして、心から嬉しそうに私の話を聞いてくれた。
かがり
本当に、本当に、幸せだった。
かがり
お泊まり会も何度もした。ラボや、ママの家や、るかくんの家で。
かがり
お菓子を食べながら遅くまで話して、夜は、ママと同じ布団で眠りについた。
かがり
布団の中では、小さな声で、2人であの歌を歌った。
かがり
ママが、“2人を繋いでくれた歌”だと言った、あの歌を。
かがり
確かに、あの歌は私とママとを繋いでくれた。
かがり
私は小さい頃に、ママにこの歌を教えてもらった。
かがり
ママは、鈴羽おねーちゃんから聞いた。
かがり
鈴羽おねーちゃんは、由希さんから。
かがり
由希さんは、オカリンおじさんのお母さんから。
かがり
オカリンおじさんのお母さんは、オカリンおじさんから。
かがり
そして、オカリンおじさんは――。
かがり
確かな事はわからない。
かがり
でも、もしそうだったら、それはとても素敵な事だ。
かがり
他にも、ママとたくさん話した。
かがり
学校の話、ラボの話、オカリンおじさんの話、未来の話、恋の話、本当に、いろんな事を。
かがり
ある時、ママが急にこんな話をした事があった。
まゆり
「ねえ、かがりちゃん」
まゆり
「まゆしぃはね、思うのです」
まゆり
「この歌は、大好きな人を励ます歌なんじゃないかなあって」
まゆり
「その人は、大切な宝物をなくして、悲しくて悲しくて、眠っちゃったの」
まゆり
「どんなにゆさぶっても眠ったまま。それくらい、悲しかったから」
まゆり
「でもね、その宝物は、実はなくなってないんだ」
まゆり
「本当は、ちょっと手を伸ばせば、届く所にあるの」
まゆり
「だけど、その人は、宝物がすぐ近くにある事に気付かないで、ずっと眠ったままなの」
まゆり
「でもね、その人は、きっと、本当は、誰かが起こしてくれるのをずっと待ってるんだ」
まゆり
「だってね、その人は、そばにいるから」
まゆり
「いなくなったわけじゃないから」
まゆり
「それがいつになるのかわからないけど、それでも、いつかきっと目を覚ましてくれる」
まゆり
「そういう歌なんじゃないかなあって、思うんだ」
かがり
そして、ママは私を見て、にっこりと微笑んでくれた。
かがり
カーテンから漏れる月明かりでぼんやりと見えたママの瞳が、とても澄んで見えた。
かがり
初めて見る、綺麗な色の瞳だった。
かがり
けれど、後から思うと。
かがり
あの時のママの瞳は、以前にも見た事があった。
かがり
――あの時。
かがり
私が記憶を取り戻した、あの吶の日。
かがり
ママは私を抱きしめながら、あんな瞳をしていた。
かがり
あの時、ママは、ずっと、同じ言葉を繰り返していた。
かがり
“ごめんね”
かがり
“かがりちゃん、ごめんね”、と。
かがり
その“ごめんね”は、ママが未来のママ自身の代わりに謝っているんだと思ってた。
かがり
未来のママが、私を独りぼっちにした事を謝っているんだって、そう思ってた。
かがり
けれど、そうじゃなかった。
かがり
あの時、ママは他の誰でもなく、2011年の椎名まゆりとして、私に謝っていたんだ。
かがり
私を独りぼっちにして、ごめんね、と。
かがり
その事に気付いたのは、半年後。
かがり
2011年7月7日――。
かがり
七夕の日だった。
かがり
本当は、わかってた……。
かがり
「こんな所に呼び出して、ママ、なんの用かな~?」
かがり
「何かサプライズでも考えてるのかな?」
まるでそうであって欲しいと言い聞かせるように、かがりは呶いた。
今日は7月7日。七夕だ。
夜にはラボのみんなと天王寺一家の合同で、ビルの屋上で七夕会を開く。
要するに、バーベキューを楽しむ会だった。
晴れてくれたので、きっと星空も綺麗だろう。
かがり
「早く戻って、準備の続きしなきゃ。ママと、一緒に」
かがり
本当は、わかってた。
かがり
この呼び出しが、何を意味するのか。
かがり
わかってて、でも、自分に対して、わからないフリをしてた。
かがり
本当は、ここには来たくなかった。
かがり
見たくないものから、目を逸らしていたかった。
階段を、一歩一歩、屋上へ向けて上がっていく。
かがり
「…………」
かがり
「早く、行かなきゃ」
かがり
「ママが待ってる」
かがり
「…………」
かがり
「どうして、今になって」
かがり
「ママ……!」
かがり
「……っ」
扉を開けると、夏の夕方の日差しと、生温かい風が吹き込んできた。
黄昏時の空には、すでにかすかに星が瞬き始めている。
そこに、まゆりがいた。
屋上に置かれたタイムマシンのすぐ横に、まゆりが立っていた。
風で飛ばされそうになっている帽子を手で押さえ、もう片方の手を、空に伸ばしていた。
青から赤にグラデーションしている秋葉原の空に、広げた手を、まっすぐ向けて。
まるで、瞬き始めた一番星を、その手でつかもうとしているかのように。
星を見つめるまゆりの瞳は、まるで、星よりもっと向こうを眺めているかのよう。
それは、とても、綺麗で。
それは、とても、儚げで。
それは、とても、脆いもののように見えた。
かがり
「ママ……」
たまらず、かがりは呼びかけていた。
放っておいたら、まゆりがこのまま星に連れて行かれてしまうような気がしたのだ。
まゆり
「あ、かがりちゃん! トゥットゥルー♪」
かがり
「ママ……」
強張っていたかがりの体から、緊張がほどけていく。
――良かった。いつものママだ。
何も心配する必要など、なかったのだ。ママが、自分を置いてどこかに行ってしまうなんて、そんなわけないのだから。
かがりが駆け寄ると、まゆりは空に伸ばしていた手を下ろした。
かがり
「どうしたの? どうしてここに呼んだの?」
まゆり
「…………」
まゆりは少し照れたように微笑むと、その場でくるりと回転して後ろを向いた。
そして、そこに置かれている、タイムマシンを見上げた。
まゆり
「かがりちゃんは、これに乗って来たんだよねえ」
かがり
「急に何? そんなしみじみ言う事じゃ――」
言葉が、喉の途中で詰まり、かがりは何も言えなくなった。
タイムマシンのハッチが、開いている。その事に、気付いてしまったから。
かがり
「どうして……」
かがり
「どうして、タイムマシンのハッチが開いてるの?」
まゆり
「…………」
その時、タイムマシンの中から、人影が現れた。
鈴羽
「かがり!?」
鈴羽
「お前、どうして……」
かがり
「それはこっちの台詞だよ! 2人で何してるの!?」
鈴羽
「…………」
鈴羽
「まゆねえさん……。かがりには秘密にしておくって、約束したじゃないか」
まゆり
「黙っててごめんね、スズさん」
まゆり
「まゆしぃね、どうしてもかがりちゃんには、ちゃんとお別れを言っておきたかったの」
まゆり
「すぐ終わるから、準備を進めておいて」
鈴羽
「……わかった。終わったら、乗って」
そう言って、鈴羽はタイムマシンの中に戻っていった。
かがり
「秘密? お別れ? 準備?」
かがり
「ママも鈴羽おねーちゃんも、なんの話をしてるの?」
かがり
「私、全然、わからないよ……!」
かがり
本当は、わかってた。
かがり
本当は、ママからメッセージが来た時から、もうわかってた。
かがり
でも、認めたくなかった。
かがり
タイムマシンが、またかがりとママを離ればなれにしてしまう事を、認めたくなかったの。
まゆり
「あのね、まゆしぃは、これからスズさんと一緒に、タイムマシンに乗るの」
まゆり
「大事な人に、目を覚ましてもらうために」
かがり
「……っ」
かがり
「……無理だよ」
かがり
「世界線は、収束しちゃうの」
かがり
「ママや鈴羽おねーちゃんがどんなに頑張ったって、変えられない」
かがり
「誰にも変えようがないのよ!」
まゆり
「そう、だね」
まゆり
「きっと、まゆしぃじゃ、変えられない」
かがり
「だったら……!」
まゆり
「でもね、オカリンは別なの」
まゆり
「オカリンには、未来を変える力がある」
まゆり
「そのオカリンを――あの日のオカリンの背中を、ちょっとだけ押すぐらいなら、まゆしぃにも、出来るはずだから」
まゆり
「チャンスは、あの日だけだから」
かがり
「上手くいくわけない!」
かがりはまゆりの両腕にしがみついた。
だが、まゆりは悲しく微笑んだまま。
まゆり
「それでも」
まゆり
「まゆしぃは、もう一度会いたいんだ」
まゆり
「鳳凰院凶真に。私の彦星さまに、もう一度会いたいの」
かがり
「そん、な……!」
かがり
でも、本当は、わかってた。
記憶を取り戻してから、今日までの半年間。
かがりは心の底から幸せな生活を送っていた。
平和な日本で、戦争から遠く離れた日本で、まゆりや、ラボのみんなと過ごす日常。
毎日が、宝石みたいに輝いていた。それが、ずっと続くのだと思っていた。
けれど。
あの日のまゆりの眼差しの意味を、本当は、わかっていたのだ。
みんなで大騒ぎしている時も、急に、すっと物思いに耽るように遠い目をする理由を。
かがり
「私、は……?」
かがり
「私は、どうなるの……?」
かがり
「もし、オカリンおじさんがシュタインズゲートへ辿り着いたとして……」
かがり
「そこでは、戦争が起きないかもしれない」
かがり
「そうすればたくさんの人は救われるかもしれない」
かがり
「だけど、そしたら私は、ママと会えないよ……」
まゆり
「…………」
まゆり
「そんな事、ないよ」
まゆり
「どの未来でだって、まゆしぃとかがりちゃんは、会えるよ」
まゆり
「その世界では、かがりちゃんはひとりじゃないかもしれない」
まゆり
「本当のお父さんとお母さんがいて、幸せに暮らしているかもしれない」
まゆり
「でも、まゆしぃは、それでも、かがりちゃんに会いに行くから」
まゆり
「それでね、かがりちゃんととってもとっても仲良しになるから」
まゆり
「だから、かがりちゃんは、なんにも心配しなくていいんだよ」
かがり
「私もママも、お互いの事、忘れちゃうかもしれないんだよ!?」
かがり
「私の事を覚えていないのに、どうやって会いに来てくれるの!?」
かがり
「絶対無理だよ!」
まゆり
「ううん、まゆしぃには、きっとかがりちゃんがわかるよ」
かがり
「なんで……」
かがり
「なんでそんな事、言い切れるの!?」
まゆり
「だってね……」
まゆり
「それが、運命だもん」
かがり
「……!」
まゆり
「まゆしぃとかがりちゃんの絆は、どんな事にも負けたりしない」
まゆり
「だから、今の記憶がなくなっても、絶対に、まゆしぃは、あなたを、見つけ出すから」
かがり
「ママ……」
まゆりは、両目から真珠のような涙をこぼし続けながら、それでも、かがりに向かって笑いかけてくれた。
その時、かがりは初めて知った。
椎名まゆりという女性が、どれだけ強い人なのかという事を。
本人に自覚がなくても、どこまでも強固な信念を持っている人なのだと、知った。
いつも危なっかしくて、誰もが守ってあげたいと思ってしまう愛らしいこの女性が。
実は、世界中の誰よりも、未来の持つ力を信じているんだという事を知った。
まゆり
「じゃあ、そろそろ行くね」
まゆりが、タイムマシンに乗り込もうとしている。
ゆっくりと、一段ずつタラップを登って行くまゆりの足が震えているのが、下から見てもわかった。
――このままじゃダメ。
これでは、かがりがはじめてタイムマシンに乗った2036年のあの日と、同じになる。
そんなの、もう、かがりには耐えられなかった。
かがり
「待って!」
かがりは、まゆりの体にすがりついた。
まゆり
「えっ!?」
かがり
「ママを、過去になんて、行かせない!」
かがり
「ママの代わりに、私が行く!」
かがりはまゆりが持っていたスマホを奪い取り、戸惑うまゆりの手を強引に引っ張った。
まゆり
「きゃっ!?」
まゆりがバランスを崩し、タラップから転げ落ちる。
それと入れ替わるように、かがりがマシンの中にその身を滑らせた。
鈴羽
「かがり、お前、正気か――!?」
驚く鈴羽に構わず、ハッチから身を乗り出して、かがりはまゆりに笑顔で告げた。
かがり
「ママ!」
かがり
「オカリンおじさんは、私がなんとかしてみせる!」
かがり
「だから、そこで待ってて!」
まゆり
「かがりちゃん!」
かがり
「鈴羽おねーちゃん。ハッチを閉めて」
鈴羽
「……いいのか?」
かがり
「うん」
鈴羽
「……わかった」
ハッチが閉まり始める。
まゆりが、呆然とした顔でかがりを見上げている。
まゆり
「かがりちゃん……」
かがり
「ママ! 私、ママの事ずっと愛してる!」
かがり
「過去も、今も、未来でも!」
そこまで叫んだところで、ハッチが閉じた。
もう、かがりの大好きなママの姿を見る事は出来ない。
かがり
「……っ」
かがりは涙をごしごしと手で拭くと、黙って助手席に座り、シートベルトで体を固定した。
正面のシートに座った鈴羽が、ニヤリとする。
鈴羽
「……まさか、もう一度お前と乗る事になるとは思わなかった」
かがり
「一番最初に戻っただけだよ」
鈴羽
「最初とは大違いだ。あの時のお前は、ぴーぴー泣いてた」
かがり
「鈴羽おねーちゃんだって、ちょっぴり泣いてたくせに」
鈴羽
「……そうだな」
鈴羽
「行くよ、かがり。……過去へ」
かがり
「うんっ」
鈴羽がコンソールを操作すると、座席全体が振動を始める。
同時に、タイムマシンの中が青白く光り始める。タイムトラベルが始まる前兆だ。
うまくいく保証なんてない。
もう二度と、まゆりには会えないかもしれない。
それでも、やり遂げてみせると、かがりは心に誓う。
椎名まゆりの娘として。
かがり
「探し物 ひとつ」
かがり
「星の 笑う声」
かがり
「風に 瞬いて」
かがり
「手を伸ばせば 掴めるよ」
どれだけ離れていても。
その歌がまた、かがりとママとを繋げてくれる――。
真帆
アマデウスとサリエリ。
真帆
紅莉栖と私。
真帆
その2つは、私にとって特別な意味を持った対応だった。
真帆
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
真帆
誰もが知っていて、誰もが認める天才音楽家だ。
真帆
正式な名前はヨハンネス・クリュゾストムス・ヴォルフガング・テオフィールス・モーツァルト。
真帆
テオフィールスは、ギリシャ語で“神に愛された”という意味。
真帆
モーツァルトはその言葉を気に入り、同じ意味のラテン語“アマデウス”を通称にしたのだという。
真帆
彼は、35年という、その才能に対して悲劇的に短い生涯の中で、600曲以上の傑作を後世に残した。
真帆
アマデウスは、文字通り神に愛され、
天賦
てんぷ
の才を与えられた、特別な存在だったのだろうか。
真帆
私は、そうは思わない。
真帆
確かに彼は天才だった。けれど、アマデウスにはアマデウスなりの努力と苦労があったに違いない。
真帆
どんなに素晴らしい原石を持って生まれたところで、磨き上げなければ宝石にはならない。
真帆
彼の功績を天賦の才による物と片付けてしまっては、その努力と苦労に対して失礼だ。
真帆
しかし、それは同時に、モーツァルトになる為には、彼と同等の原石を持って生まれなければならないという事ではないだろうか。
真帆
この世界には、そういう原石を持っている人が沢山いる。
真帆
牧瀬紅莉栖。
真帆
私にとって、牧瀬紅莉栖がそういう人物だった。
真帆
彼女の佇まいを見れば、彼女の才能を感じる事が出来た。
真帆
彼女の中から溢れ出るアイデアの数々に、いつも刺激をもらっていた。
真帆
彼女と共に研究が出来る事が、私には誇らしかった。
真帆
……けれど。
真帆
彼女にとって私がどういう存在だったのか、私は知らない。
真帆
改まって聞くのも気恥ずかしかった。いつか何かのついでに聞ければいいなと思っていた。
真帆
けれど、2010年7月28日。
真帆
牧瀬紅莉栖はこの世を去った。
真帆
彼女にとって私がどういう存在だったのか。それを知る機会は、永久に失われた。
真帆
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
真帆
生前、彼を終生のライバルだと考えていた人物が、彼のすぐ傍で生きていた。
真帆
その人物の名は、アントニオ・サリエリ。
真帆
ヴィクトル・コンドリア大学の学内ネットワークでの私のアカウント名――“Salieri”は、彼の名から取っている。
真帆
紅莉栖が亡くなった数週間後、研究所のネットワークシステムが更新され、その時に付けた名前だ。
真帆
生前、紅莉栖と共に開発し、今なお研究を続けているソフトウェアの名に対応させたかった。それ以上の意味はない。
真帆
そのソフトウェアの名前は、『Amadeus』。
真帆
このニューラルネットワーク型人工知能に天才作曲家の名前を与えたのは、レスキネン教授だ。
真帆
当時私は、そのネーミングをとても良いアイデアだと思った筈だし、今でもそう思っている。
真帆
……そう、思っている。
真帆
アマデウスとサリエリ。
真帆
紅莉栖と私。
真帆
その2つは、私にとって特別な意味を持った対応だった。
真帆
私は、牧瀬紅莉栖が大好きだった。
真帆
私は、紅莉栖を尊敬していた。
真帆
私は、紅莉栖に憧れていた。
真帆
私は。
真帆
私、は――。
かつては、もう回数も覚えていないほど繰り返したあの目眩が、体の中からゆっくりと抜けていく。
俺は、スマホを握りしめたまま部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
間違いない。今、リーディング・シュタイナーが発動した。
世界線が変動したのだ。
しかし、なぜだ?
何が原因で変動した?
あの『Amadeus』からの連絡か?
いや、原因を調べるのは後だ。ひとまず、今の状況を把握しなければ。
素早くラボ内を見回した。
雰囲気は変わっていない。ただ、何人かの姿が消えている。
いないのは……カエデ、フブキ、そしてフェイリス。
ダルは相変わらずPCの前に陣取っている。
そしてまゆりは、キッチンでインスタントのコーヒーを作っていた。
湯気を立てた熱々のコーヒーを、ソファに座っている真帆に手渡す。
まゆり
「真帆さん、はいコーヒー。飲むと落ち着くよ」
真帆
「ありがとう。いただくわ」
倫太郎
「……!?」
真帆、だって?
真帆が、ラボにいる。
世界線が変わる前は、和光市のオフィスにいたはずだ。
真帆
「……ふう」
真帆
「よく考えたら、今朝から何も口にしていなかったわ」
まゆり
「あんな事があったんだから無理もないよー」
まゆり
「何か食べる? からあげとかバナナとかお菓子ぐらいしかないけど」
まゆり
「それとも、お弁当買ってこようかな? あ、ピザを取るのもいいかも~」
真帆
「ありがとう。でも、大丈夫。そこまでお腹はすいていないから」
真帆
「それに、あんな事があった以上、ホテルを変えないと。手続きが必要だろうから、しばらくしたら戻るわ」

「今日は休むべきじゃね? 顔色も良くないし。なんならラボに泊まって行けばいいお」

「ちょうど鈴羽もいないし、今なら貸し切りな件」
しばらく会話に聞き耳を立てていてわかったのは、真帆に何か良くない事態が起きて、一時的にここに身を寄せているという事だ。
『Amadeus』が乗っ取られた事と関係しているのか?
倫太郎
「……比屋定さん。いったい何があった?」
思い切って訊いてみたら、真帆もダルもまゆりも、きょとんとした。
真帆
「何が、って?」
倫太郎
「あ、いや、状況を整理したくてな……」
倫太郎
「『Amadeus』はどうなった? 接続は回復したのか?」
そう尋ねてみても、真帆は困ったように顔をしかめているだけだ。
この反応を見る限り、『Amadeus』の乗っ取りは、なかった事になっている……?
倫太郎
「……?」
誰かからRINEのメッセージが来ていた。
倫太郎
「桐生、萌郁……?」
なんでこいつが俺にRINEを――。
萌郁
「……そう」
倫太郎
「うわぁっ!」
いつの間にか背後に立っていた萌郁の存在に、たまらず悲鳴を上げてしまった。
倫太郎
「ど、どこから現れた!?」
萌郁
「…………」
倫太郎
「……ずっと、いたのか?」
萌郁
「…………」
萌郁
「……いた」
という事は、俺が、このラボに、萌郁が立ち入るのを許可した……?
いったいどういう状況なんだ。
倫太郎
「……無人って、どういう事だ?」
和光市のオフィスとは、脳科学総合研究機構の事だろう。
そこが、無人?
萌郁
「……閉鎖、してるから」
倫太郎
「閉鎖……?」
萌郁
「…………」
萌郁は携帯の上で高速に指を動かした。
倫太郎
「ガス漏れ事故……。昨日……」
俺の記憶にはない。
世界線が変動する前と後で、過去が改変されたんだ。
倫太郎
「それで比屋定さんはここに?」
真帆
「言ったでしょう? それもあるけど、今朝、ホテルの部屋が荒らされたって」
真帆
「それでやむなく、桐生さん経由で岡部さんに連絡を取ったのよ。忘れたの?」
倫太郎
「よく無事だったな。泥棒とは出くわさなかったのか?」
真帆
「ええ、運がよかったわ。桐生さんのおかげとも言えるわね」
萌郁
「不幸中の、幸い」
そういう経緯だったのか……。
真帆がここにいる状況はなんとなく理解出来た。
倫太郎
「ところで……、かがりは、どうしてる?」
そう訊いたら、またもダルに不思議そうな顔をされた。
だが、まゆりはにこやかに答えてくれた。
まゆり
「ん~、今ごろ岩手かなあ。家族の人に会えてるといいね」
岩手!?
なんだ、岩手って……。
どこから出てきた?
倫太郎
「家族の人が、見つかったのか?」
まゆり
「うん、それで、るかくんとるかくんのお父さんと、あとスズさんと4人で、会いに行ってるの」

「鈴羽がついてるから、大丈夫っしょ」
倫太郎
「……家族……岩手……」
想像していたよりも、事象の変化が激しい。
かがりが岩手に行っているというのなら、昨日襲われたという事実も無かった事になる。
かがりが襲われる代わりに、真帆のホテルの部屋が荒らされた?
だんだんまどろっこしくなってきた。
俺は白い目で見られるのを承知で、真帆に改めて何が起きたのか説明してもらう事にした。
その説明によれば――。
昨日、元旦の出来事は、途中までは大して変わっていない。
俺、真帆、ダル、フブキ、カエデ、綯の5人で、柳林神社に初詣に行った。
神社では、ルカ子、まゆり、かがり、鈴羽、フェイリスが巫女の格好をして手伝いをしていた。
ここまでは、俺の記憶と同じだ。
お参りを終えた後は、ルカ子の家に上がり、簡単な新年会をした。
そこで、ルカ子の父親が驚くべきニュースをみんなに披露した。
かがりの肉親かもしれない人物が、岩手にいるという情報が舞い込んだのだという。
肉親が見つかれば、記憶を取り戻す糸口になるかもしれないと、みんなで盛り上がった。
かくして今朝早くに、ルカ子と鈴羽を伴って、岩手へ出発したのだという。
一方の真帆は、元旦の新年会から帰り際に、和光市のオフィスでガス漏れ事故が起きたという話をレスキネン教授から電話で受けた。
どこかのフロアの配管になにかしらの異常があり、微量ながら有毒物質が空気中に漏れたらしい。事故の原因は現時点では不明なのだそうだ。
原因がわかるまでは、安全の為にオフィスは立ち入り禁止となった。完全に安全性の確認とれるまで閉鎖らしいが、場合によっては1週間から1ヶ月以上はかかるかもしれなかった。
真帆は、オフィスの閉鎖の件でいろいろな処理に追われていたため、朝方まで仕事をしていた。
その後はホテルで死んだように眠っていたが、朝10時頃になって内線電話で起こされた。
フロント
「桐生様という方が、ロビーでお待ちです」
真帆
「……そっか。今日は雑誌の取材があるんだったわ。でも、着いたらスマホに連絡くれる筈じゃ――」
真帆
「……バッテリーが切れてる」
真帆
「昨日の騒動のせいで、ホテルに戻ってから充電するの忘れてたわ……」
着替えもせずに寝落ちしていたので、真帆の格好は普段着だった。眠い目をこすりながら、そのままの格好で部屋を出た。
取材に必要かと思い、色々な書類やPCが入れっぱなしのバッグも一緒に持っていった事で、結果的にそれが真帆の窮地を救う事になった。
真帆
「それで、ロビーに桐生さんを迎えに行って、そこで少し話してから、2人でまた部屋に戻ったの」
真帆
「そして、部屋に入ったら……」
真帆
「たった数分の間に空き巣が入り込んで、部屋中を荒らしまわった後だった」
真帆
「ご丁寧にベッドも枕もナイフで裂かれてて、部屋が綿まみれになってたわ」
真帆
「駄目ね、私。気が動転しちゃって何も出来なかった」
倫太郎
「何か盗まれたものは?」
真帆
「警察にも言われて確認したけど、特に何も盗られていなかったわ」
真帆
「財布も、バッグに入れてあったし」
萌郁
「部屋を空けている時間、短かったから……」
真帆
「ええ。それで空き巣も、長居出来なかったのかもしれないわね」
倫太郎
「比屋定さんなら、まず狙われるのはお金とかよりも、研究データとかじゃないか?」
真帆
「それも大丈夫。データや資料は全部大学のサーバーに入ってて、パソコンの中には何も残らないようにしてあるの」
倫太郎
「……
あれ
①①
は?」
真帆
「あれって?」
倫太郎
「……例の、ノートパソコンと、ハードディスク」
紅莉栖の残した物、と言わなくても、それだけで真帆には通じた。
真帆
「大丈夫」
真帆は、ソファの横に置いてあるカバンを指差した。
真帆
「それも、バッグに入れっぱなしだったから」
倫太郎
「そうか……」
真帆
「それにあれは、仮に盗まれた所で、パスワードがわからない限り中身を取り出すのは不可能よ」
倫太郎
「空き巣の狙いはなんだったんだろう」
真帆
「産業スパイの類なら、PCとか書類とかでしょうね」
倫太郎
「オフィスのガス漏れの件は関係していると思うか?」
真帆
「さあ。どうかしら」
と、部屋の隅のコンセントで充電中だった真帆のスマホから、着信音が響いた。
どうやら最低限の充電が終わり、電源が入ったようだ。
コーヒーカップをテーブルに置いて立ち上がる真帆を、萌郁が心配そうに見つめた。
萌郁
「もう、大丈夫?」
真帆
「ええ、ありがとう」
真帆は充電器からスマホを抜いて、中身のチェックを始めた。
だがすぐに、俺へと視線を向けた。
真帆
「“紅莉栖”からだわ」
倫太郎
「……!?」
“紅莉栖”だって?
という事は、『Amadeus』が乗っ取られた事実が、消失しているのか……。
真帆は、俺にも画面が見えるような形で、『Amadeus』からの着信に応答した。
アマデウス紅莉栖
「先輩! 大丈夫ですか!? 怪我とかしてません!?」
アマデウス紅莉栖
「ら、乱暴な事とか、されませんでしたか!?」
アマデウス紅莉栖
「……?」
アマデウス紅莉栖
「岡部? なんであんたが先輩と一緒にいるの?」
アマデウス紅莉栖
「あっ、もしかしてあんたと先輩って、もうそんな仲なの!?」
真帆
「そんなんじゃないわ、“紅莉栖”」
真帆
「今、ラボにいるのよ」
アマデウス紅莉栖
「良かった! 無事なんですね!」
真帆
「ええ。だから落ち着きなさい」
アマデウス紅莉栖
「落ち着いてられるわけないでしょう!? 何回コールかけても繋がらなかったんですよ!?」
アマデウス紅莉栖
「ネットを検索したら、ホテルで空き巣があったみたいだし。それが先輩の部屋みたいだったし」
アマデウス紅莉栖
「とにかく、心配したんです!」
真帆
「オーケー、分かった。謝るわ。ごめんなさい」
真帆
「ありがとう、“紅莉栖”。私は無事よ。空き巣に入られたのは本当だけど、鉢合わせはしなかった」
真帆
「今はここで休憩させてもらってる。スマホは、充電を忘れて電源が落ちてたの」
真帆
「心配させたわね」
アマデウス紅莉栖
「……いえ、何も起きていないなら、いいんです」
倫太郎
「…………」
“紅莉栖”に、特に変わった様子は見られない。
真帆はさきほど俺にしたように、昨日からの出来事を“紅莉栖”に説明した。
真帆
「――というわけで、特に盗まれた物はなかったのよ」
アマデウス紅莉栖
「ふむん……」
一通りの説明を聞いた“紅莉栖”は、何やら考え込んでいる。
真帆
「どうかした?」
アマデウス紅莉栖
「やっぱり犯人の狙いは、研究データとかだったんでしょうか」

「でもさ、犯人ってかなり詳しく真帆たんの事調べてるじゃん」

「泊まってるホテルの部屋も把握してたし、真帆たんが部屋を出たと同時に侵入したわけだし」

「それなのに、ホテルに研究データを置いてない事を知らないなんて、あり得る?」
倫太郎
「となると、比屋定さんがバッグに入れていたノートパソコンを盗るつもりだったかもしれないな」
アマデウス紅莉栖
「でも、それの存在って、知っているのは先輩と、私と、岡部だけのはずよ」

「あと、僕も」
倫太郎
「なるほど。俺かダルのどちらかが犯人じゃない限り、ノートパソコンを狙った物盗りである可能性はないか」
アマデウス紅莉栖
「もうひとつ、可能性があるとすれば――」
そこで“紅莉栖”は、人差し指で自身のこめかみあたりを指差した。
アマデウス紅莉栖
「私の、制御コードかもしれない」

「制御コード? それって、管理者パスワードみたいなもの?」
アマデウス紅莉栖
「ちょっと違うわ」
アマデウス紅莉栖
「岡部には前に説明したわよね。『Amadeus』のシステムの中には、私だけがアクセス出来る記憶領域があるの」
倫太郎
「あ、ああ。『秘密の日記』のようなものだと言っていたな」
アマデウス紅莉栖
「そう」
アマデウス紅莉栖
「内部外部を問わず、私に関するアクセスは、常にその秘密の日記の中にログが残る」
アマデウス紅莉栖
「もし誰かが私の意志を奪って、自由に制御する為にシステムを改造したとする」
アマデウス紅莉栖
「でも、秘密の日記の中までは弄れないから、私は両者を比較して、改造が行われた事を突き止め、元に戻せるわけ」

「ああ、把握した」

「その秘密の日記を開ける鍵が、制御コードなのか」
アマデウス紅莉栖
「そういう事」
アマデウス紅莉栖
「『Amadeus』のシステムやデータの管理責任者はレスキネン教授だけど、制御コードを知っているのは、この世界でただ1人」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩だけなの」
倫太郎
「……そう、なのか?」
真帆
「…………」
真帆
「ええ。“紅莉栖”の言う通りよ」
真帆
「仮にその空き巣が、私の研究成果を狙っていたのだとしたら、手に入れられるのはそれくらいね」
倫太郎
「そ、それは盗まれていないのか!?」
アマデウス紅莉栖
「大丈夫よ。ね、先輩?」
真帆
「ええ」
真帆
「制御コードはどこにもメモなんかしてない」
真帆は、さっきの“紅莉栖”と同じように、自分のこめかみに指でさした。
真帆
「私の、頭の中にしかないから」
それはそれで、危険な保管方法のような気がするな。
もし犯人がそれに気付いたら、狙われるのは真帆本人という事になる。
真帆
「しかし、参ったわね。そうか。制御コードを狙ってるかもしれないのね……」
真帆
「日本をすぐに離れるわけにはいかないけど、また襲われるのは避けたいわ」
真帆
「とはいえ、どうしたものかしら……」
まゆり
「落ち着くまで、ラボにいるといいよ~。それとも、まゆしぃのお家に来る?」
真帆
「ありがとう、まゆりさん。でもそこまで厄介にはなれないわ」
すでに無かった事になっているが、かがりが襲われたという事実が俺の脳裏をちらつく。
ラボも、まゆりの家も、安全とは言えない気がした。
フェイリス
「……それで、みんなでうちに来たのかニャ?」
倫太郎
「……ああ」
1時間後、俺達は全員で、フェイリスが住むマンションにやってきていた。
倫太郎
「みんなで散々相談したんだが、フェイリスのマンションに数日滞在させてもらうのが最善なんじゃないかって……」
真帆
「ええと、なんと言ったらいいか……」
真帆が戸惑っていると、フェイリスは腕を組んでうむうむと満足げに頷いた。
フェイリス
「その結論は間違って無いニャ」
フェイリス
「確かに、このマンションは万全のセキュリティで守られているから安全ニャ。それに黒木もいるし」
真帆
「黒木?」
まゆり
「さっき玄関で会った、執事さんだよ~。本物の執事さんなんだよ~」
真帆
「ああ……。でも、それがどうしたの?」
倫太郎
「黒木さんは、最強執事なんだ」
真帆
「はあ……?」
それ以上の説明は、控えよう。
というか、俺もよく知らない。
本人に訊く事も、許されない気がした。
とにかく、すごい人なのだ。
フェイリス
「フェイリスはまったく問題なしニャ」
フェイリス
「奥の客間を使うといいニャ。数日と言わず、まほニャンが日本に滞在している間はずっと泊まっていけばいいニャ!」
真帆
「ま、まほニャン……?」
萌郁
「……あの」
真帆
「え? 桐生さん、何?」
萌郁
「……」
萌郁
「……取材」
萌郁
「私、比屋定博士に、取材を、しないと……」
真帆
「……あ、そうだったわ。今日は本来それをする予定だったのよね」
真帆
「日を改めて、喫茶店かどこかで――」
フェイリス
「閃いたニャ!」
真帆
「え?」
フェイリス
「モエニャンも一緒にお泊まりすればいいニャ!」
真帆
「え」
倫太郎
「え」
倫太郎&真帆
「えええええええ!?」
「ええええええ!?」
フェイリス
「客間は2人でもじゅうぶん泊まれる広さがあるんニャし!」
フェイリス
「女の子がもう1人いれば、まほニャンも安心ニャ?」
真帆
「そ、それはそうかもしれないけど」
フェイリス
「モエニャン、どうかニャ?」
萌郁
「……モ、モエ、ニャン?」
倫太郎
「待て、フェイリス、それは――」
危険だ、と言おうとした。
桐生萌郁はラウンダーの一員である可能性がある。
少なくとも俺は、今もこの女の事は信用していなかった。
だが――。

「それ、いいんじゃね?」

「桐生氏って、裏稼業に片足突っ込んでる関係で、護身術も身に付けてるって言ってたじゃん。でしょ?」
萌郁
「……」
萌郁
「……ええ、一応」

「僕やオカリンなんかより、よっぽど強いって事だお」
倫太郎
「だが……」
フェイリス
「どうニャ? モエニャン」
萌郁
「……構わない」
フェイリス
「決まりニャ!」
真帆
「2人もいたら、お邪魔じゃないかしら」
フェイリス
「全然気にしなくていいニャ!」
フェイリス
「フェイリスは一人っ子だったから、お姉さんと妹ちゃんが増えたみたいで嬉しいニャ!」
真帆
「なっ!」
真帆
「私は成人してるわよ!」
萌郁
「…………」
結局、俺の反対意見はまったく聞き入れられなかった。
次の日。正月三が日最終日。
俺は年明けから3日連続で秋葉原に来ていた。フェイリスのマンションへ行き、真帆の様子を確認するためだ。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……いや、違うか」
倫太郎
「桐生萌郁の様子を確認するため、だな」
昨日、ほとんどなし崩し的に真帆と萌郁の同居が決まった。
萌郁は真帆を取材出来るし、真帆としては一人で不安にならずに済むので、これは最良の判断だったのかもしれない。
ただ、俺は萌郁の別の顔を知っている。
桐生萌郁は、ラウンダーなのだ。
『護身術を身に付けている』どころの話じゃない。必要であれば人を殺めるための技術をも、萌郁は持っている。
だが、その技術は、誰に向けられるものなのか?
IBN5100の捜索を試みず、タイムマシンを作ってもいないこの世界線では、ラウンダーは俺達をマークしてはいないだろう。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「理屈では、分かっているんだが……」
三が日でも、秋葉原はいつもと変わらない賑わいを見せている。
営業時間はいつもより短めだが、家電量販店からメイド喫茶まで、大抵の店は元旦から営業を行っている。
むしろ、福袋や新春特別メニューなど、三が日でしか入手出来ない商品が売り出されるため、それを目当てにした客も集まってくる。
近くの神社からの参拝客らしき晴れやかな装いの女性達と、いつもと変わらないアキバのオタク達とで、歩道はごった返していた。
いつも以上にカオスな光景だな。
倫太郎
「そういえば、メイクイーンも正月休まず営業中なんだよな」
フェイリスもまゆりも、今日は朝から店に出ていると言っていた。
倫太郎
「じゃあ、マンションにはあの2人しかいないのか」
正確には、執事である黒木さんがいるはずだが。
倫太郎
「……大丈夫、だよな?」
萌郁が真帆に対してなにかしらのアクション――例えば、暴力とか――を実行するとは考えにくい。その理由がないからだ。
ただ、頭ではわかっていても、感情が冷静でいられないのだ。
どうにも気持ちが晴れず、体の中にもやもやが溜まり続けている気がして、昨日はよく眠れなかった。
実際にこの目で2人の共同生活を見て、なにも問題ない事を確認すれば、このもやもやが薄れるかもしれない。
複雑な思いを抱えながら、俺はフェイリスのマンションに急いだ。
黒木
「ようこそおいで下さいました。岡部様」
執事の黒木さんが出迎えてくれた。
父親を亡くし天涯孤独になったフェイリスの世話を、たった一人で完璧にこなした最強執事だ。
今はフェイリスの仕事のサポートもしており、フェイリスが全幅の信頼を置いている数少ない人物である。
黒木
「申し訳ありません。お嬢様は外出しております」
倫太郎
「あ、はい。わかってます。比屋定さんに会いに来たんですが」
黒木
「お2人は客間にいらっしゃいます。どうぞお上がりください」
倫太郎
「ありがとうございます」
黒木
「それでは、私はこれで」
黒木さんはいつもどおりに寸分の無駄の無い動きで180度回転し、最短距離で自分の部屋に戻ろうとして――。
黒木
「おっと」
足をひっかけたのか、わずかによろめき、立ち止まった。
黒木
「失礼いたしました。私とした事が」
倫太郎
「大丈夫、ですか?」
黒木
「疲れているのかもしれません。お恥ずかしい所をお見せしました」
倫太郎
「あ、いえ……」
黒木
「少し休めば問題ありません。失礼いたします」
表情は変わらないが、黒木さんは少し照れたような声で謝り、自室に入って行った。
倫太郎
「……珍しいものを見たな」
倫太郎
「どんな時でも冷静沈着なロボットみたいな人が、来客の前で『よろめく』なんて……」
倫太郎
「疲れてると言っていたけど、なにか心労の種でもあるのかな?」
いや、そんな事より真帆の様子を見に行こう。
倫太郎
「比屋定さん、いるか?」
真帆
「岡部さん? 入って頂戴」
倫太郎
「な、なんだこれは!?」
ドアを開けるなり、俺は愕然とした。
そこは間違いなく、俺が以前に何度も入った事のある客間だった……はず。
しかし、その風景は一変していた。
まず、部屋にあったはずのベッドが無くなり、代わりに大きなデスクと小さなちゃぶ台が置かれていた。
デスクの方には真帆が座り、A4ノートPCを睨みながらコーヒーの入ったマグカップに口を付けている。
ちゃぶ台の方には小さなノートPCが置かれ、萌郁が女の子座りで絨毯に直接ぺたりと座り、ちゃかぽことキーを叩いている。
2人の背後にはスチールの本棚が並んでいて、英語の専門書やファッション誌が雑多に刺さっている。
昨日まで客間だったこの部屋は、たった1日でまるで真帆と萌郁の仕事部屋のような空間に早変わりしていたのだ。
真帆
「もうちょっとで終わるから、その辺に座っててくれる?」
真帆はそう言って、ディスプレイを睨み付けたままコーヒーカップに手を伸ばした。画面には3Dのグラフが複雑に変化している。
萌郁
「…………」
ちゃぶ台の前に座っている萌郁もこちらを見る事なく、無言でキーを叩いている。
倫太郎
「な、何がどうなってるんだ!?」
倫太郎
「まさか、また世界線が変わった――!?」
言いかけて、慌てて口を押さえた。しかし、2人とも自分の事に夢中らしく、反応はなかった。
真帆
「――よし、と」
一段落したらしく、真帆は椅子をクルリと回し、こちらに向き直った。
真帆
「こんにちは、岡部さん」
まるで何事も起きていないかのような口ぶりだ。
真帆
「もしかして様子を見に来てくれたの?」
倫太郎
「あ、ああ」
真帆
「せっかく来てくれたのにごめんなさい。今から、桐生さんの取材を受けなきゃならないの」
倫太郎
「それはいいが、この部屋の惨状を説明してくれないか……」
真帆
「惨状?」
真帆
「なかなか居心地の良い環境だと思うんだけど」
倫太郎
「昨日はこんなに散らかってなかったぞ」
真帆は少しの間不思議そうに俺を見つめてから、ようやく気付いたかのような顔をした。
真帆
「出歩くのが危険なんだったら、ここで研究をするしかないでしょ? 仕事をしやすいように模様替えしたのよ」
倫太郎
「も、模様、替え?」
これを模様替えと言える事が衝撃だ……。
俺やダルも片付けるのは得意な方じゃないが、それにしたってここまでじゃない。
倫太郎
「これ、全部自分たちで用意したのか?」
真帆
「そうよ? 桐生さんもここで記事を書くって言うから、2人で必要な家具や資料を洗い出したの」
真帆
「ね?」
萌郁
「…………」
倫太郎
「この短時間で、机や本棚はどこから持ってきたんだ……」
萌郁
「…………」
倫太郎
「はあ……。俺はてっきり――」
真帆
「てっきり、なに?」
倫太郎
「……いや、なんでもない」
――俺が知らないうちに、世界線がまた変わったのかと思ったんだ。
だがそれは、杞憂だったようだ。
倫太郎
「机や棚の組み立ても2人でやったのか?」
真帆
「執事の方にお願いしたわ。あの人凄いわね」
倫太郎
「……ああ、だから黒木さん、疲れてたのか」
様々な事に合点が行ったものの、すっかり気疲れしてしまった俺は、適当なところに座り込もうとして――。
倫太郎
「おっと」
なにかが足に引っかかった。下を見ると、絨毯の上に分厚い本が開かれたまま置かれていた。
倫太郎
「これは?」
真帆
「それはまた後で見るから、避けて通って。ページをめくらないように注意してね」
倫太郎
「後って?」
真帆
「うーん」
真帆
「概算だけど、19時間後くらいかしら」
倫太郎
「……本棚があるんだから、読まない間はしまっておけばいいんじゃないか?」
真帆
「すぐに再読するつもりの本を、いちいち本棚に戻すなんて非合理的よ。科学者の取るべきアプローチではないわ」
倫太郎
「……そういう問題か?」
床に目をやると、開きっぱなしで置かれた本は他に四冊あった。
それだけじゃない。絨毯の上には書類や食べ終わって空になったカップ麺、バスタオルにハンカチと、沢山のものが置かれていた。
2人が着ていたのであろう服の類も脱いだままになっていた。スカート、Tシャツ、ブラウス、靴下、タイツなどなど。
かつて別の世界線で萌郁の自宅に行った時と似た印象を受ける。
どうやら萌郁も真帆も、日常の片付けに頓着が無いタイプのようだ。
ちゃぶ台の前も、足の踏み場もないというほどではないが、萌郁が座っている場所以外はなにかしらが置かれていて座りにくい。
倫太郎
「本や書類以外のものは横にどかしてもいいかな?」
真帆
「どうぞ」
萌郁
「……いい」
許可を得たので、床に広がっていたピンク色のタオルを持ち上げる。
倫太郎
「――って!」
それはタオルではなく、ピンク色のブラジャーだった。
倫太郎
「なっ、なななっ!?」
突然の事態に思考が働かず、俺はそれを摘まみ上げたまま硬直してしまった。
萌郁
「…………」
萌郁が、そんな俺を無表情で見上げている。
倫太郎
「あっ、いや、これは、その!」
萌郁
「…………」
倫太郎
「ふ、不可抗力だ!」
とっさに叫び、慌ててブラジャーを放り捨てた。
萌郁
「…………」
萌郁
「…………」
萌郁はふっと目を伏せた。その頬がほんのすこし赤くなっている。
そして、服の胸元を手でそれとなく隠した。
倫太郎
「……下心なんてまったくないぞ」
萌郁
「…………」
雑念を振り払い、俺は部屋の隅にかろうじて散らかっていないスペースを見つけて、腰を下ろした。
真帆
「お茶はセルフサービスよ。冷蔵庫はそこ」
部屋の隅にピンク色のまるっこい小型冷蔵庫が置かれ、上にプラスチックのコップが重なっている。
倫太郎
「冷蔵庫も買ったのか!?」
倫太郎
「……社会不適合者が2人集まると、こういう空間が生まれるのか……」
真帆
「主観の相違よ」
真帆
「むしろ、知的生産活動に最適化された生活空間……と言ってほしいわね」
倫太郎
「……はあ」
俺が抱えていた不安は、やはり杞憂だったようだ。
少なくとも、萌郁の真帆に対する敵意は感じられず、真帆も萌郁との共同生活を楽しんでいるようだから。
2人で仲良く家具を選んでいたというのは、微笑ましい光景とも言える。
様子を見に来た甲斐はあった。今夜はちゃんと眠れそうだな。
用事は済んでしまったのでこのまま帰ってしまっても良かったのだが、もう少しだけ2人の様子を見ておく事にした。
真帆
「じゃあ桐生さん、そろそろ取材を始めましょうか」
萌郁
「……わかった」
萌郁は、ノートPCをパタンと閉じて脇に寄せ、カバンを漁り始めた。
倫太郎
「取材って、具体的に何をするんだ?」
真帆
「インタビューよ」
倫太郎
「インタビュー?」
真帆
「本当なら昨日、ホテルで取材を受ける予定だったの」
倫太郎
「……意外と、仕事熱心なんだな」
萌郁
「…………」
萌郁
「文章を書くのは、好きだから」
α世界線では、萌郁のバイトはラウンダーとしての立場を隠すダミーに過ぎなかった。
しかも、ダミーにも拘わらず仕事が出来なくてクビになっていたはずだ。
しかしこの世界線では、真面目に仕事をしているらしい。
ラウンダーとしては……活動しているんだろうか……?
真帆
「私としても、こんなにお世話をかけているから、せめて桐生さんの仕事に協力出来ればなって」
真帆
「人工知能研究について多くの人に知ってもらえれば、私にとってもプラスになるし」
真帆
「桐生さん、準備出来たかしら?」
萌郁
「…………ん」
萌郁がうなずき、インタビューが始まった。
……が。
実際には、始まらなかった。
真帆
「…………」
萌郁
「…………」
倫太郎
「…………」
真帆
「弱ったわね……」
真帆
「桐生さんは口下手だとは思っていたけど、ここまでとは……」
萌郁
「…………」
萌郁
「……ごめん、なさい」
俺も見ていたが、萌郁は本当にひどかった。
インタビュアーとして成立していなかった。
なにしろ、話を聞き出す立場なのに、萌郁はメモ帳とボールペンを握ったまま微動だにせず、泣きそうな瞳で真帆を見つめるだけだったのだ。
俺や真帆が助け船を入れながら進めさせようとしても、まったく効果がなかった。
真帆
「うーん、どうしましょうか……。また後日にする?」
萌郁
「〆切……が……」
萌郁
「スケジュール、ギリギリなの……」
真帆
「そ、そう。それなら、今日中に済ませてしまうべきね……」
真帆
「とはいえ、今すぐ桐生さんの口下手がどうにかなるって事は、ないわよね……」
萌郁
「…………」
萌郁
「ごめん……なさい……」
萌郁がか細い声で謝る。自分のふがいなさが悔しいのか、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
真帆
「あ、違うの!」
真帆
「誤解しないで。桐生さんを責めているわけじゃないわ」
真帆
「今のは準備なのよ。問題を解決するために、検討すべき条件を列挙しているだけ」
倫太郎
「問題?」
真帆
「ええ」
真帆
「“インタビューを完遂したい”……これが問題」
真帆
「条件としては、桐生さんが取材出来ないのであれば、別のインタビュアーが必要」
真帆
「それも、出来れば情報工学にそれなりの知識がある人」
真帆
「かつ、今すぐに手伝ってくれる人」
萌郁&真帆
「……あ」
「……あ」
2人が同時に俺を見た。
倫太郎
「……え?」
倫太郎
「もしかして、俺の事か?」
真帆
「ふふ。難易度の低い問題だったわね」
真帆
「岡部さん、ちょっとお願い出来ない?」
倫太郎
「いや、そんな突然言われても」
真帆
「岡部さんは、条件にぴったりよ。専門も多少近いし、勘所をおさえた質問をしてくれるんじゃないかしら」
真帆
「なにせ、レスキネン教授に一目惚れされるような潜在的才覚をお持ちのようですから」
倫太郎
「買いかぶらないでくれ。どこにでもいる典型的な日本の大学生だよ」
真帆
「冗談よ。でも適任だと思ってるのは本当」
倫太郎
「いや、しかし……」
倫太郎
「ふむ……」
インタビュアーか……。
2人の生活を観察するという目的も果たせるし、バイト代も出るのというのであれば、悪く無い話だ。
年末年始にラボに立ち寄る回数が増え、その分バイトに入る回数が減っている事もある。
それに、最近になって、ヴィクトル・コンドリア大学に留学するという夢が、俺の中でちらつき始めていた。
比屋定真帆という現役の、かつ優秀な人工知能学者と直接話が出来るというのは、その意味では貴重な機会だ。金を払ってでも受けたい人だっているに違いない。
倫太郎
「……わかった」
倫太郎
「俺も比屋定さんの研究には興味があるしな」
倫太郎
「俺でよければ、協力させてくれ」
真帆
「ありがとう。そう言ってくれると助かるわ」
萌郁
「……ありがとう」
真帆
「それじゃ、さっそく始めましょう。桐生さん、記録はどうする?」
萌郁
「録音、する」
萌郁は、ボイスレコーダーを取り出して机の上に置いた。
真帆
「ええと、私のペースで進めてしまっていいのよね?」
萌郁
「……いい」
萌郁
「自由に、喋ってくれて。後で、編集する」
倫太郎
「俺は、何を聞けばいいんだ?」
倫太郎
「一応言っておくと、俺だって人工知能については平均的日本人程度の知識しか持ってないぞ」
真帆
「そうね。私が思いつくままに喋ってもいいけど……」
真帆
「せっかくだから、ディスカッション形式にしましょうか。その方が話も弾むでしょうし」
彼女がそう言った途端、俺の頭の中で、瞬時に鮮明な景色が広がった。
紅莉栖
「ええと、まあ、はい、いいですよ。ディスカッション形式の方が、話も弾むでしょうし」
倫太郎
「……っ」
真帆
「岡部さん? どうかした?」
萌郁
「大丈夫?」
倫太郎
「え?」
真帆と萌郁が、こちらを不思議そうに見つめている。
真帆
「ディスカッション形式がお気に召さないなら――」
倫太郎
「い、いや、そういう訳じゃない」
倫太郎
「すまない。紅莉栖が、君と同じ事を言っていたのを思い出したんだ」
真帆
「紅莉栖が? いつ?」
倫太郎
「彼女が来日した時に、ATFでタイムマシンの講義を――」
――違う。
それは、別の世界線での出来事だ。
この世界線では、紅莉栖はタイムマシンの講義をする事も、ラボに来る事もなく、この世から消えたのだ。
倫太郎
「……いや、勘違いかな」
倫太郎
「腰を折って済まなかった。気にしないでくれ」
真帆
「そう? 大丈夫ならいいけど」
真帆
「さて、何から始めましょうか」
真帆
「そうね……、人工知能の研究は、コンピューターの誕生とほぼ同時期からスタートしているの」
真帆
「私たちが作っている人工知能の心臓部は、ニューラルネットワークという技術をベースにしているのだけど」
真帆
「この技術が提案されたのが、1950年頃」
真帆
「世界初の
ノイマン型コンピューター

とされる
ENIAC

が発表されたのが1946年よ。ほぼ同じよね?」
真帆
「当時、コンピューターは、魔法のような機械だった」
真帆
「一度プログラムさえ組めば、どんなに複雑な計算でも自動的に解いてくれるのだから」
真帆
「まあ、これは今でもそうだけど」
真帆
「だから、当時の研究者は、もっと凄いプログラムを書けば、もっと多くの問題を解いてくれるだろうと考えた」
真帆
「コンピューターが究極的に進化すれば、まるで人間のように知性を持ち、思考するコンピューターが作れるようになるだろうとね」
真帆
「けれど、残念ながらそうはならなかった」
真帆
「人間のような包括的な機能を有する人工知能は、21世紀に至る今も、まだ作られていない」
真帆
「もちろん、人工知能学者が何もやってこなかったって話じゃないのよ」
真帆
「むしろ逆」
真帆
「究極の人工知能は完成に至っていないけど、研究の過程で、数え切れないほどの成果を情報科学分野にもたらしたわ」
真帆
「たとえば、画像をスキャンして文字を読み取る
OCR技術

。これは、人間が文字を認識するメカニズムとも共通点がある」
真帆
「近いうちに、スマホに音声認識システムが搭載されるかもっていう噂があるけど」
真帆
「それも、以前は人工知能研究の一環だったの」
真帆
「けれど、研究が始まってから60年が経った今も、人間と同じように機能する、汎用的な人工知能の開発には、世界中の誰も成功していない」
真帆
「『Amadeus』を除けば、ね」
倫太郎
「どうして、誰も成功していないんだ?」
真帆
「うーん。ごく簡単に言えば、脳の原理が解明出来ていないからかしら」
真帆は伸ばした人差し指で自分のこめかみをつついた。
真帆
「脳には、まだ未知の部分が多いのよ」
真帆
「なぜ、たかが1000億個程度の神経細胞で構成された生体コンピューターが、驚くべき性能を発揮出来るのか?」
真帆
「なぜ、大量の情報を整理して記録し、かつ瞬時に利用出来るのか?」
真帆
「なぜ、一見すると無関係の事象を組み合わせて
ひらめく
①①①①
なんて事が出来るのか?」
真帆
「挙げればいくらでもあるわ」
真帆
「他にも、人間には容易に解けるのに、コンピューターに解けない問題とかもあるしね」
倫太郎
「そんな問題が?」
真帆
「たくさんあるわよ。それらの問題を1つずつ解明していくのが、私達の研究だとも言えるわね」
倫太郎
「……いまいちイメージが湧かないな」
倫太郎
「なにか、具体例を教えてもらえないか?」
真帆
「そうね……」
真帆
「『フレーム問題』について、説明してみましょうか」
真帆
「たとえば、桐生さんがロボットだとしましょう」
急に名前を呼ばれ、メモを取っていた萌郁が肩をビクッとさせた。
萌郁
「私が、ロボット?」
真帆
「正確には、ロボットに搭載された人工知能ね」
真帆
「桐生さん、テーブルを使いたいのだけど、レコーダーを少しどかしてもらってもいいかしら?」
言われて、萌郁はボイスレコーダーをテーブルから床に下ろした。
その間に、真帆は机の隅にあったバッグの中をごそごそと漁っている。
真帆
「えっと、確かこの中に……あ、これこれ」
バッグから取り出したのは、彼女の小さな手に収まってしまうくらいの、小さな白い箱だった。それを開けて、中にある物を取り出す。
それは、まゆりがよく集めてる“うーぱ”だった。
真帆がそれを渡してきたので、受け取って触ってみる。
消しゴムのようだ。
真帆
「昨日、まゆりさんがくれたの。かわいいわよね」
……かわいいか?
まゆりもそうだが、女の子の“かわいい”はよくわからない。
うーぱを返すと、真帆はそれを元に戻して蓋を閉じ、箱をテーブルの中央に置いた。
真帆
「今から簡単な実験をしてみるわね」
真帆
「岡部さん、桐生さんに命令して、その箱の中にあるうーぱを取り出させてみて」
倫太郎
「命令?」
真帆
「そうよ。桐生さんという人工知能が正しく動作するように、プログラムを送信するわけ」
倫太郎
「正しく動作するように……」
真帆
「命令は出来るだけ簡潔で、かつ厳密なものが望ましいわ」
真帆
「例えば、この部屋の中には箱がたくさんある」
真帆
「だけど、他のどれでもなく、テーブルの上に置かれたこの箱を開けるように指示しなきゃ駄目」
真帆
「送れる命令は文章だけ。指をさして“この箱”って示すのは反則よ」
真帆
「桐生さんは、岡部さんに言われた命令を、そのまま実行してみて」
真帆
「言われた事だけを、可能な限り忠実に行うの。いいかしら?」
萌郁
「……分かった」
真帆
「では実験開始。岡部さん、命令をどうぞ」
これにどんな意味があるのかさっぱり分からなかったが、ひとまず思いつくままに口にしてみた。
倫太郎
「テーブルの上にある真っ白な箱を開けて、中にある物を取り出してくれ」
真帆
「桐生さん。今のが命令よ」
真帆
「“テーブルの上にある真っ白な箱を開けて、中にある物を取り出してくれ”」
真帆
「言われた通りに行動してみて。可能な限り、忠実によ」
俺をじっと見つめていた萌郁は、テーブルの上の箱に視線を落とした。
萌郁
「…………」
萌郁
「…………」
萌郁
「……出来ない」
倫太郎
「えっ?」
倫太郎
「箱を開けるだけだろ?」
俺は戸惑いながらテーブルの中央にある箱を指差す。けれど、萌郁は眉根を寄せて困った視線を返すだけだった。
真帆が満足げに大きくうなずいた。
真帆
「仕方がないのよ。ほら」
真帆は箱を持ち上げ、くるりと回して俺に見せた。
倫太郎
「な、なんだこれ?」
真帆
「“
Der Alte w⑰rfelt nicht.

”」
真帆
「“神はサイコロを振らない”。アインシュタインの言葉よ」
真帆
「これが書いてあったから、桐生さんは箱を開けられなかったのよ。そうよね?」
萌郁
「……そう」
倫太郎
「え、そうなのか? なんで?」
倫太郎
「文字が書いてある事と、命令に従えない事に、なんの関係があるんだ?」
萌郁
「…………」
萌郁
「……真っ白じゃ、ないから」
倫太郎
「……え?」
真帆
「桐生さん。あなたは正しいわ」
真帆
「岡部さんの命令は、“真っ白な箱を開けて、中身を取り出せ”だったでしょ」
真帆
「でもこの箱は真っ白じゃない。文字が書いてあるもの」
真帆
「それで、桐生さんは箱を開けられなかったの」
真帆
「人間と違って、コンピューターは与えられた命令を忠実に実行しすぎるのね」
真帆
「だから、命令の設定は慎重にやらなきゃいけないの」
真帆は再び箱をテーブルの上に置いた。さっきの文字はこちらからは見えない。
真帆
「もう一回だけやってみましょうか」
真帆
「岡部さん、今のを踏まえて、適切な命令を考えてみて」
倫太郎
「……なるほど」
倫太郎
「つまり、さっきは“真っ白な”と余計な言葉を付け足してしまったから駄目だったんだよな」
真帆
「そういう事」
倫太郎
「だったら、もっとシンプルに行こう」
倫太郎
「テーブルの上の箱を開けて、中身を取り出してくれ」
真帆
「桐生さん。今の岡部さんの命令に従ってみて。言葉の通りに、忠実によ」
先ほどと同じように俺をじっと見ていた萌郁は、テーブルの上の箱に視線を落とした。
萌郁
「…………」
萌郁
「…………」
萌郁
「……出来ない」
倫太郎
「今度は、何が問題なんだ……」
萌郁は少しだけ眉根を寄せて、テーブルの上の箱を指差した。
萌郁
「これ……」
萌郁
「箱じゃ、ないから……」
倫太郎
「……?」
真帆
「……ぷっ、あはは」
真帆が、耐えかねたように笑い出した。
いつも以上に幼く見える笑顔だった。
真帆
「桐生さん、あなたは素晴らしい被検体だわ。こんなに上手くいくとは思わなかった」
なにが起きているのか、俺にはさっぱりわからないぞ。
倫太郎
「どういう事なんだ?」
真帆は、箱の向きを変えて俺に種明かしをしてくれた。
倫太郎
「……“これは箱ではない”」
倫太郎
「また書き足したのか……」
真帆
「この言葉が書いてあったから、桐生さんは、これが箱であると断定出来なかった。だから開けられなかった。そうよね?」
萌郁
「そう」
倫太郎
「いやいやいや」
倫太郎
「表面に何が書いてあっても、箱は箱だろう?」
真帆
「人工知能にはそれは分からないわ。“箱というのがどういうものなのか”を、丁寧に教えてあげないといけないの」
真帆
「今回は、桐生ロボが“箱とはなにか”を大まかには知っているという前提だったけど」
真帆
「この通り、ちょっと情報が揺れるだけで、人工知能は期待した動作をしなくなるわけ」
真帆
「それに、今はテーブルの上の箱はこれ1個しかないけど、もし箱そっくりの四角い石があったら、それと箱とを区別する命令も必要よね」
真帆
「箱の上に石が載っていたら、まずその石をどかす命令をしないと、中身を取り出す事は出来ないわ」
真帆
「こんな風に、あらゆる可能性を1個ずつ排除する必要があるの」
倫太郎
「そんなのキリがないな……」
真帆
「そうよ。キリがない」
真帆
「どんな条件が判断に影響するか分からないから、思いつくものは全部命令に含めなきゃいけないのよ」
真帆
「桐生さん、今日の朝食はなにを食べたかしら?」
……今日の朝食?
急になんだ?
萌郁
「……あんまん」
真帆
「あんまん以外に、朝食の選択肢はあった?」
萌郁
「……にくまん」
真帆
「もし肉まんを選んでいたら、桐生さんの行動は変わっていたかもしれないわよね。それも考慮に入れないと」
真帆
「あとはそうね。天気はどうかしら。今日は晴れているけど、もし吶だったらそれも考慮に入れないと」
真帆
「それにこの部屋の温度と湿度。テーブルの色も重要よね。もちろん材質と床からの高さも測らなきゃ」
真帆
「そこのカーテンは開いているけど、これが閉まっていたら?」
真帆
「あるいは、半開きだった場合、75%以上開いている場合を個別に検討しないと」
真帆
「カーテンの汚れ具合も関係するかもしれない」
真帆
「前にクリーニングに出したのはいつかしら? その時の料金や店員の態度だってパラメータとして考慮する必要がある」
真帆
「それに――」
倫太郎
「ストップストップ」
まくし立てる真帆の言葉を、たまらず止めた。
倫太郎
「いくらなんでも朝食や天気は、テーブルの上の箱を取るかどうかに影響しないだろう」
倫太郎
「カーテンが汚れてるかどうかなんて、もっと無関係だ」
倫太郎
「だから、その辺は予め条件から除外しても良いはずじゃないか?」
そう言うと、真帆はぱっと顔を輝かせた。
真帆
「そう、それよ!」
倫太郎
「え?」
真帆
「岡部さんの言う通りよ」
真帆
「確かに朝食や天気は箱を開けるのになんの関係もないわ」
倫太郎
「だったら――」
真帆
「でも、どうして岡部さんはそれが分かるの?」
え?
倫太郎
「いや、そんなの普通に考えれば――」
その時、俺はようやく、今の実験の意味を理解した。真帆は満足げに頷く。
真帆
「そうよ。人工知能にはその“普通”というのが分からないのよ」
倫太郎
「――なるほど」
真帆
「これがフレーム問題よ」
真帆
「ある1つの命令を実行するのに、人工知能は付随する無数の条件を加味しなきゃいけないの」
真帆
「その条件のうちほとんどは本来無視出来るはずなのだけど、人工知能にはどれを無視していいのかがわからない」
真帆
「そうなると、
あらゆる
①①①①
事象
①①
を考慮しなければいけなくなる」
真帆
「でも、あらゆる事象って、つまり無限という事よね」
真帆
「無限に存在する条件をすべて確認していたら、永久に箱を拾い上げる事は出来ない」
真帆
「箱を開けるという行為に、朝食のメニューやテーブルの色が関係ない事は、人間なら考えるまでもなくわかるわ」
真帆
「でも、人工知能にはそれが出来ない」
真帆
「問題を解決する為に、検討する範囲をどこまでに設定するか。その枠を、人間なら簡単に作れるけど、人工知能には出来ないの」
真帆
「枠、つまりフレームね。だから、フレーム問題って言うの」
倫太郎
「なるほど、面白いな……」
真帆
「でしょう?」
倫太郎
「でも、どうして、人間はその枠を決められるんだ?」
真帆
「それがさっぱりわからないの。人工知能研究60年に及ぶ謎の1つよ」
真帆
「『Amadeus』は、フレーム問題を解明する研究でもあるの」
真帆
「“紅莉栖”を見ていると、一見フレーム問題を解決しているように見える」
真帆
「でも、どうして彼女がそれを解決出来ているのかがわからない」
真帆
「それどころか、“紅莉栖”自身にも、わかってないのよ」
倫太郎
「わかってないって、『Amadeus』は君が作ったんだろう?」
真帆
「仮説だったら幾らでもあるわよ。でも、数学的には証明出来ていない」
真帆
「第一、私が作ったのは人間の脳が蓄えた記憶をデータとして抽出して、脳と同じように駆動する人工知能メカニズムよ」
真帆
「トータルでは脳の挙動をシミュレートしているけど、そのすべてを理解しているわけではないわ」
真帆
「地球と同じだけの質量を持った物体を作れば、1Gの重力を発生させられる」
真帆
「だけど、重力の発生メカニズムを解明した事にはならない」
真帆
「そう言えばわかりやすいかしら」
倫太郎
「まったく分かりやすくはないが、言いたい事はわかった」
倫太郎
「人間のように動く人工知能は出来た。けれど、それがなぜ人間のように動くのかは、まだ分かってないわけだ」
真帆
「そういう事」
真帆
「でもこれだって、人工知能研究においては画期的な発展なのよ」
真帆
「神経細胞の挙動をシミュレートする研究は、以前から行われていたの」
真帆
「だけど、効率的に機能するデータを作る方法が見つからなかった」
真帆
「人間が何十年もかけて見聞きして、整理分類して、脳の中に構築した、とんでもなく複雑怪奇なデータ……」
倫太郎
「つまり、記憶か?」
真帆
「そう。この記憶というデータの構造が、ながらく謎のままだった」
真帆
「けれど、紅莉栖の研究のおかげで、ひとまず記憶をまるごとデジタル変換して取り出す事に成功した」
真帆
「いまだにそのデータ構造自体は未知だけど、それをデータとして使う事は、出来るようになったわけ」
倫太郎
「それが、『Amadeus』……」
真帆
「ええ。そういう事」
真帆
「人工知能研究では、こういう事象は多いのよ」
真帆
「でも、いずれは必ず突き止めてみせる。人類が持つ知能の正体をね」
真帆
「その時、私はようやく紅莉栖を――」
そこまで言って、真帆は急に口ごもった。
倫太郎
「どうした?」
真帆
「なんでもないわ……」
真帆
「他に聞きたい事はないかしら。フレーム問題に関係なくてもいいわよ」
聞きたい事はいくらでもあるが、雑誌の記事に載せる話としてはもう充分聞いたように思う。
俺が萌郁の方を見ると、萌郁は少し躊躇してから、口を開いた。
萌郁
「……あの」
真帆
「なにかしら? 桐生さん」
萌郁
「人工知能が、人間の能力を上回るものになる事は、あるの……?」
真帆
「面白い質問だわ」
真帆
「現時点でも、『Amadeus』は、学力という意味でなら、ここにいる私達を既に超えているでしょうね」
真帆
「“紅莉栖”の記憶を有しているわけだから」
天才の知識には、当然太刀打ち出来ない。
紅莉栖自身と何度も議論した俺は、それを身をもって知っている。
真帆
「でもそれは、あくまで私達と比べた場合」
真帆
「“紅莉栖”のベースは紅莉栖本人、つまり人間の記憶よ」
真帆
「これが人間の能力を上回っているとみなすかは、検討が必要でしょうね」
真帆
「ただし、人間の能力を上回る人工知能が出来るまでは、あとちょっとだと思うわ」
真帆
「元々、研究者の間では、2050年くらいには人工知能が人間を超える時代が来ると言われているの」
真帆
「いわゆる
シンギュラリティ・ポイント

ね」
真帆
「『Amadeus』の登場によって、その日は想定よりも、もっとずっと早く到来するはずよ」
萌郁
「…………」
萌郁
「……ありがとうございました」
真帆
「どういたしまして」
倫太郎
「機械が人間を上回る、か……。映画みたいな話だな。あり得るのか?」
真帆
「あら、工学系の大学生とは思えない発言ね」
真帆
「岡部さんは、飛行機のように空を飛べないでしょう? 新幹線より速く移動出来ないし、安物の電卓より計算が速いわけでもない」
真帆
「今この時点でも、機械の能力は既に人間を大きく上回っているのよ」
真帆
「脳だけが例外だなんて、誰にも言えない」
真帆
「この世界に、科学で説明出来ない奇跡のメカニズムなんて存在しないのよ」
真帆
「すべては物理現象なのだから。原理を解明すれば必ず人工的に作れるわ」
真帆
「未解明の問題を全て解決して、真の人工知能を作る。それが私の仕事よ」
真帆
「インタビューとしては、こんな感じでどうかしら、桐生さん」
萌郁
「…………」
真帆に呼ばれても、萌郁はメモ帳をぼんやり見つめたまま答えない。
真帆
「桐生さん?」
萌郁
「ええ。これで充分。きっと、面白い記事になる」
萌郁
「岡部君も、ありがとう」
倫太郎
「ああ。俺も興味深く聞かせてもらったよ」
もうしばらく話を聞いてみたかったが、真帆も萌郁もやらなくてはならない仕事が溜まっているようだったので、やむを得ず帰る事にした。
倫太郎
「……“すべては物理現象”か」
人間の脳に一切のブラックボックスの存在を認めない真帆の考え方は、如何にも人工知能学者だった。
しかし、俺は知っている。
この脳の中には、科学では説明がつかないものも、確かに存在しているのだという事を。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……リーディング・シュタイナーって、なんなんだろうな」
これにもいつか、科学的な説明が出来る日が来るのだろうか。
真帆
「ふわああ……っと、あぶないあぶない」
真帆は思わず出てしまったあくびを慌てて噛み殺し、誰かに恥ずかしい姿を見せてしまわなかったかと周囲を確認した。
真帆と同じように、橋の手すりに寄りかかって時間を潰している人も沢山いた。もちろん、皆自分の事に夢中で、真帆に気を留める人などいなかった。
本来なら今日は昨日に引き続き、フェイリスの家でひたすら、オフィスの一時閉鎖に関連する事後処理に明け暮れているはずだったのだが。
今朝、レスキネン教授から連絡があり、急遽、東京電機大へ行く事になったのだ。
使えなくなった和光市のオフィスの代わりに、電機大の一室を一時的に使わせてもらえる事になったらしい。
先日のセミナーで世話になった電機大の井崎准教授に、年始で休み中だというのに連絡をしたら、トントン拍子で決まったらしかった。
そこで真帆は今後の打ち合わせも兼ねて、電機大の仮オフィスへ行ってみる事にしたのだ。
東京電機大学の神田キャンパスは、秋葉原からそれほど離れていない場所にあるらしい。
真帆
「しかしまあ、いい天気ね」
ビルの間から見えている空は、冬特有の澄み切ったものだ。
昨日は丸一日、部屋に籠もっていたから、この凍えるような空気を吸うのも気持ちよかった。
両手を組んで真上に伸ばす。
真帆
「ん~~~~っ」
真帆
「しかし、遅いわね……」
真帆がここでぼんやり立ち尽くしているのは、萌郁を待っているためだった。
真帆
「あ、来た」
真帆
「わざわざいいのに」
電機大の場所を知らなかった真帆のために、萌郁はわざわざ案内を買って出てくれたのだ。
その代わりにと、萌郁はリクエストを口にした。
萌郁
「比屋定博士の、写真を撮らせて……ほしい」
萌郁
「記事に、載せたいから」
真帆は写真を撮られるのはあまり好きではなかったが、せっかく自分の事を取材してもらえるのであれば、出来る限り応えたいと考えて、OKした。
萌郁は今、自宅まで撮影用のカメラを取りに戻っている。
歩いて行ける距離だと言うので、真帆は待つ事にしたのだ。
真帆
「……あの人、RINEだとテンション高いわよね」
スマホをしまって顔を上げる。
と、橋の下にちょうど、萌郁が慌てた様子で走ってくるのが見えた。
萌郁
「待たせて、ごめんなさい。比屋定博士……」
真帆
「そんなに急がなくてもよかったのに」
真帆
「少し休んでいく?」
萌郁
「いえ……平気、です」
萌郁はそう言って、真帆の先に立って歩き始めた。
萌郁
「…………」
年始という事もあって、地下鉄は空いていた。
真帆は、すぐ横でつり革に掴まっている萌郁の様子を観察してみる。さっきから、萌郁の様子が少し気になっていたのだ。
萌郁
「…………?」
真帆の視線に気付いた萌郁が、首を傾げて見つめ返してきた。
それから急に携帯電話を取り出し、何やら打ち込み始めた。
真帆
「?」
と、バッグの底で、真帆のスマホが鳴った。
RINEのメッセージを受信したようだ。
萌郁は表情はそれほど変化しないが、感情の起伏が弱いわけではないと、真帆は感じていた。
印象的な細い瞳を見ていると、彼女が様々な事象を興味深く観察しているのが分かる。
流石はライター、という感じだろうか。
萌郁
「…………っ」
傍から見ても絶対理解されないだろうが、真帆と萌郁は年齢がひとつしか違わない。
しかも真帆が21歳、萌郁が20歳なので、真帆の方が年上なのである。
神とどんな契約を交わしたらあの身長と豊満なバストを手に入れる事が出来るのだろうかと、真帆としては思わずにいられない。
萌郁
「……っ!?」
萌郁がビクッとして、目を見開いた。
萌郁
「い……今? ここで……?」
真帆
「ええ」
萌郁のささやくような問いかけに、真帆はうなずく。
萌郁
「…………」
萌郁が、決心したように顔を上げて真帆の方を向いた。
萌郁
「…………」
萌郁
「……ひっ」
萌郁
「……比屋定、さん」
萌郁
「……よろしく、お願いします」
真帆
「ええ、よろしくね、桐生さん」
そうこうしているうちに、電車は目的の駅に到着した。
東京電機大学周辺は、ひっそりと静まり返っていた。
オフィス街や官庁街が近いせいか、この時期にはほぼ人がいないためだと萌郁に教えてもらった。
萌郁には申し訳ないが外で待ってもらう事にした。
今は大学も休み中だから、学内のどこかの部屋で待っていてもらう事も出来たのだろうが、それは萌郁の方が断ってきた。
真帆
「じゃあ、終わったら連絡するわ」
そう言って、萌郁とは別れた。
井崎研究室の場所はなかなか見つからず、真帆はかなり迷ってしまった。
休み中という事もあって大学内には学生がまったくいないせいで、誰かに尋ねる事も出来なかったのだ。
最終的に、レスキネン教授に電話して、細かく場所を教えてもらった。
研究室の扉の前には、『井崎研究室』のプレートの下に、レターサイズの紙がテープで貼られていた。
紙には、教授が微笑んでいる写真と、PCの画面を直接印刷したかのような解像度の荒い文章が印刷されている。
真帆
「“世界脳科学総合研究機構、日本オフィス準備室”」
真帆
「“――の、設立者、アレクシス・レスキネンからのお願いをお読みください”」
真帆
「“これをご覧の皆様全員から1ドルずつ頂ければ、すぐにでもオデンカンが食べられます”」
真帆
「相変わらずこういうのが好きね、教授は……」
どれだけフォーマルな場所でも、ジョークを言いたい時は言ってしまう。レスキネン教授は本当に子供のような人なのだ。
ただ、その奔放な性格のおかげで、真帆や紅莉栖はのびのびと研究が出来ていた。
真帆
「…………」
急に紅莉栖の事を思い出した事で、少しだけ心が弾む。
改めて考えてみると、突然宿が変わったり、ほぼ初対面の人と共同生活を始めたりして、少し気疲れしていたようだ。
今日は久々に彼女とゆっくりお喋りが出来る。
正確には、彼女が残した記憶と――。
真帆
「教授、レスキネン教授?」
研究室に足を踏み入れ、教授の名を呼ぶと、奥にいた巨人がすぐに駆け寄ってきた。
レスキネン
「やあマホ、良く来てくれたね。パワーアップした準備室へようこそ!」
真帆
「はあ……」
真帆
「つまりこのテーブルとソファ2つが、“パワーアップした準備室”なんですね」
レスキネン
「Yes! “シンプルである事こそが、真理へ近づく秘訣である”と言うだろう?」
真帆
「誰の言葉ですか?」
レスキネン
「私さ! HAHAHA!」
両手を叩いて笑う教授に付き合う事なく、向かいのソファに座る。教授は傷ついた風もなくそのまま本題に入った。
レスキネン
「さてと。それで今後の事についてだが」
真帆
「あ、すみません。『Amadeus』を起ち上げるのでちょっと待って下さい」
ノートPCを取り出し、テーブルの上で開く。
研究用にカスタマイズされている
Linux


OS

が起動し、ログイン画面が表示される。真帆は慣れた手つきでアカウント名を入力していく。
Salieri。
真帆
「…………」
一瞬だけそのアカウントのアルファベットを見つめた。
すぐにパスワードを入力してデスクトップを出す。
やがて、画面に“紅莉栖”が現れた。
アマデウス紅莉栖
「お久しぶりです、先輩」
真帆
「久しぶりって、一昨日も話したじゃない」
アマデウス紅莉栖
「あれは緊急事態でしたから。話したうちに入りませんよ」
アマデウス紅莉栖
「それでなくても、最近あまり話せなかったし」
真帆
「仕方ないわよ、テスト中なんだから」
岡部と“紅莉栖”のコミュニケーションテストが行われている現在、実験にノイズが入るのを避けるために、真帆やレスキネン教授は『Amadeus』との会話を自粛していた。
アマデウス紅莉栖
「岡部さんも最近はあまり話してくれませんけどね」
アマデウス紅莉栖
「もしかして、先輩と岡部さん、私に内緒でよく会ってるんじゃないですか?」
アマデウス紅莉栖
「一昨日も一緒にいましたし」
真帆
「なっ! そんなんじゃないって言ってるでしょっ」
真帆
「なんであなたは、どんな時でも頭の中に色恋妄想が渦巻いてるのよ……」
アマデウス紅莉栖
「妄想じゃありません。冷静な観察と分析に基づいた確度の高い推論です」
真帆
「それなら、そっちを専攻にすれば良かったじゃない。あなたの的外れな分析じゃ、博士号どころか大学卒業も危うかったでしょうけど」
真帆と紅莉栖がいつもの調子で話していると、レスキネン教授が大げさな身振りで手を叩いた。
レスキネン
「この雰囲気、懐かしいね」
レスキネン
「昔はキャンパスのどこにいても、君たちを捜すのに苦労しなかったよ」
レスキネン
「いつでも2人の話し声が聞こえていたからね。HAHAHA!」
真帆
「もう、教授! 冗談はやめてください!」
レスキネン
「それほど仲がいいという事さ。君たちはまるで姉妹のようだ」
レスキネン
「さあ、それじゃ今後の事についてのミーティングを始めよう」
レスキネン
「時間をもっとも効率よく使った人間が勝利する。これも私の言葉だよ」
レスキネン
「何かミュージックが欲しいな。“クリス”、お願い出来るかい」
アマデウス紅莉栖
「はい」
すぐに、ノートPCのスピーカーからピアノの静かな旋律が流れだした。
真帆
「これは……」
アマデウス紅莉栖
「先輩、覚えてますか?」
アマデウス紅莉栖
「私と先輩の、きっかけの曲ですよ」
――忘れるわけがない。
それは、一年前、真帆と紅莉栖が出会って、互いの事を深く認識するようになった出来事であり。
そして、2人の関係を象徴する出来事でもあったから。
今から約1年前の2009年9月、紅莉栖は脳科学研究所の正式な所属になった。
その年の5月に紅莉栖は大学院の博士課程を修了し、7月に17歳になったばかりだった。
真帆自身、異例の若さで脳科学研究所に入ったわけだが、その記録が大きく更新されたのだ。
紅莉栖は天才だった。
誰もが彼女と会い、話をするだけで、それを認めた。
大学院ではレスキネン教授が指導教官だった事もあり、真帆もそれまでに何度か顔を合わす事があった。
それだけで分かった。彼女は他の人とは違うのだと。
紅莉栖は自分の才能を誇示する事はなかった。むしろ、自分が天才だとは欠片ほども思っていなかったように見えた。
けれど、むしろそうした姿勢こそが、周囲に対しての微妙な近寄りがたさになっていた。
紅莉栖と話していると、思い知らされてしまうのだ。自分と彼女との間にある、決して埋められない能力の差を。
後にレスキネン教授に聞いたところ、その傾向は大学院時代も同じだったらしい。
それどころか、11歳で日本からアメリカに移住してきた理由の一端も、そこにあったという噂が流れていた。
彼女は、彼女の意志とは無関係に、どこで暮らしていても、周囲から孤立していた。
それが、彼女が持つ天才性の業だったのだ。
真帆は、同性で年が近かった事もあり、どちらかというと紅莉栖に対抗意識を持っていた。
同じ研究所で働く以上、どうしたって比べられる。負けたくなかった。
そういう思いがあったせいか、真帆の方から紅莉栖に話しかけようとは思っていなかった。
紅莉栖も、研究所のやり方を覚えるのが手一杯で、私にアプローチを取ってきたりはしなかった。
しかし、紅莉栖が研究所に来てから2週間後。
あるクラシック曲を介して、真帆と紅莉栖の関係は大きく変わる事になる。
真帆
「再生……っと」
人間は“音楽を聴いた方が集中出来る”という派閥と、“無音状態の方が集中出来る”という派閥に分けられる。真帆はそう思っていた。
脳科学者として言わせてもらうなら、音楽を聴いた方が集中出来るというのは原理的にあり得ないだろう。
意識するしないに関わらず、その音が鼓膜を振動させ、脳がそれを分析し続けるからだ。
とはいえ、もしこの件について公聴会が開かれた時には、真帆は前者の擁護者として証言台に立ちたいと思っている。
理論と感情は別だ。音楽を聴いている時が一番集中出来るし、発想が浮かぶ事が多い。
ただし、条件が1つ。
真帆
「流していて集中出来る音楽は、モーツァルトが作曲したものに限る」
独り言を呶きつつ、真帆はパソコンに向かった。
2日間バッチをぶん回していた演算がようやく終わったのだ。この日は1日かけて出力結果を検証する。
土曜日という事もあって研究室には真帆しかいなかった。この日限定で、広々した空間は彼女だけの研究室だった。
なので特別にヘッドフォンではなく、スピーカーからモーツァルトのピアノソナタ第11番を流していた。
音楽を聴くつもりはない。これは儀式のようなものだった。集中する時に必要な儀式。
数値と数式の海へダイビングするための、準備運動のようなもの。
潜ってしまえばもう必要がないので、自然に聞こえなくなる。
周りの風景も視界から排除されていく。
目に映っているのは数値と数式だけ。
頭の中にあるのも、数値と数式だけ。
もはやそこに存在するのは、比屋定真帆という考える機械だけになる。
意識は肉体の束縛を離れ、思考速度は無限に加速していく。
さあ、今日も楽しい旅が始まる――
紅莉栖
「おはようございます」
真帆
「ひぃやあああっ!?」
真帆は突然何者かに耳元で囁かれ、椅子の上で飛び上がった挙げ句にバランスを崩して倒れ込んでしまった。
見上げると、紅莉栖がオロオロした様子で真帆の顔をのぞき込んでいた。
紅莉栖
「す、すみません! そんなに驚かれるとは思わなくて……!」
真帆
「く、紅莉栖……!」
真帆
「驚かせないでよ……」
紅莉栖
「何度か呼んだんですけど、聞こえなかったみたいで……」
真帆
「……ああ」
真帆は起き上がり、椅子に座り直した。
真帆
「ごめんなさい。集中してて聞こえなかったわ」
紅莉栖
「はい。そうだと思ってました」
だったらそっとしておいてくれればいいのに――内心でそう思った事が顔に出てしまったのか、紅莉栖が慌てたように付け足す。
紅莉栖
「申し訳ないとは思ったんですが、せっかく休日に先輩とお会いしたわけだし、挨拶しておきたいなって」
紅莉栖
「それに、まだ作業を始めたばかりのようでしたから、お邪魔にはならないかなって」
真帆
「今来たの?」
紅莉栖
「はい。私だけかと思ったから、驚きました」
真帆はそこで、今の会話の違和感に気付いた。
真帆
「あなた、今来たって言ったわよね?」
真帆
「だったら、なぜ私が作業を始めたばかりだと分かったの?」
紅莉栖
「ああ! それは――」
紅莉栖は、ピアノ曲が流れ続けているスピーカーを指差した。
紅莉栖
「まだ第一楽章の頭でしたから」
紅莉栖

K331、モーツァルトピアノソナタ第11番イ長調、第1楽章


真帆
「…………」
真帆
「あなた、モーツァルト好きなの?」
紅莉栖
「かじった程度です」
紅莉栖
「それにモーツァルト全般というよりは、この曲が好きなんです」
紅莉栖
「世間的には、『
トルコ行進曲

』の方が有名ですけど」
紅莉栖
「私は、この第一楽章の静かな調べの方が心地良いですね」
真帆
「……私も同意見よ」
紅莉栖
「良かった!」
紅莉栖
「私も、気合いを入れて集中する時は、BGMにモーツァルトを流してます」
紅莉栖
「科学者としての発言ではないですけどね」
真帆
「……ふふ」
今さっき自分で思っていた事を紅莉栖に繰り返され、真帆は思わず笑ってしまった。
紅莉栖がチームに所属して2週間。距離感を掴みきれずにいたが、急に、彼女の事をもう少し知りたくなった。
だから、同僚同士なら1時間に数回は口にし合う、休憩の合図を送った。
真帆
「コーヒーでも飲む?」
紅莉栖
「賛成です」
紅莉栖
「先輩に、いくつか質問したい事もありますし!」
急に勢い込んで迫ってくる紅莉栖を見て、真帆はふと、昔飼っていたペットの犬みたいだ、と思った。
でも、そういう所が紅莉栖のかわいさなのだと、真帆はその後で知る事になる。
共用のコーヒーサーバーでホットを2つ作り、少しの時間、互いの研究について話した。
20歳の真帆が、17歳の紅莉栖が、紙コップのホットコーヒーを片手に
大脳生理学

についての最先端の議論をしているのは、傍から見ればおかしな光景だろう。
けれど、これまでお互いに年の近い同性の研究仲間がいなかった2人は、すぐにこの交流が両者にとってプラスであると理解していた。
特に、真帆よりも年齢が低い紅莉栖は、真帆の存在がとても貴重だったに違いない。
なんど訂正しても治らなかった“先輩”という呼び方が、それを象徴していた。
紅莉栖
「そういえば、アインシュタインはヴァイオリンが趣味だったらしいですね」
真帆
「モーツァルトを尊敬していたようね。モーツァルトを好きになる事は、由緒正しき科学者の伝統なのかもしれない」
紅莉栖
「もしそうなら、光栄ですね。ふふ」
研究上の議論を軽く交わした後は、コーヒーが飲み終わるまでの間のモーツァルト談義となった。
紅莉栖は、深く話してみると当初の印象とは全然違うと、真帆は気付いた。
話すたびに笑ったりむくれたりと表情がころころ変わって、見ていてとてもかわいらしいのだ。
けれど、彼女のこの年相応の反応は、見た目の話でしかない。
この少女は、“神童”なのだ。
紅莉栖
「先輩は、アインシュタインが“あなたにとって死とは何か”という質問にどう答えたか、知ってます?」
真帆
「いいえ。なんて言ったの?」
紅莉栖
「“死とはモーツァルトを聴けなくなる事だ”」
紅莉栖
「日本では、それなりに有名な言葉なんですよ」
――死とはモーツァルトを聴けなくなる事だ。
真帆が理解しているアインシュタインに対するイメージとは随分異なる、なんともロマンチックな言葉だった。
真帆
「へえ、知らなかった。アインシュタインがそんな事を言ったのね」
紅莉栖
「いいえ、言ってません」
真帆
「え?」
紅莉栖
「まあ、厳密には言っていない事は証明出来ませんけど。少なくとも、記録は残っていないと思います」
真帆
「どういう事?」
紅莉栖は微笑みを浮かべた唇に指を当て、綺麗な三日月のように細めた。
紅莉栖
「昔、日本で発売された本に、別の本からの引用としてこの言葉が載っていたんです」
紅莉栖
「けれど、その本には引用元の書名が書かれてなかったし、今に至るまで、引用元の本は見つかっていません」
真帆
「著者がでっちあげたって事? 呆れた話ね」
紅莉栖
「証明は出来ませんから、断定も出来ませんけどね」
紅莉栖
「でも――」
紅莉栖
「この言葉、私はとてもアインシュタインらしい
論理的
ロジカル
なものだなって思うんです」
真帆

論理的
ロジカル
?」
紅莉栖
「ええ。だって、死んだらモーツァルトは聞けなくなりますよね」
真帆
「そんなの当たり前じゃない」
紅莉栖
「はい、当たり前なんです」
紅莉栖
「モーツァルトに限らず、死んだら何も聞く事は出来なくなる」
紅莉栖
「命題は真です」
紅莉栖
「ね、
論理的
ロジカル
でしょう?」
真帆
「あなた、面白いわね。知性と幼さが1つの脳の中に同居してる」
紅莉栖
「幼くなんかないですよ」
真帆
「ごめんなさい」
真帆
「遅くなったけど、改めてよろしくね。紅莉栖」
真帆が手を差し出すと、紅莉栖は目を輝かせて握り返してきた。温かな手だった。
紅莉栖
「よろしくお願いします、先輩」
モーツァルトをきっかけにして、真帆と紅莉栖は一気に親密になったと言える。
紅莉栖は“神童”だった。神に愛された子供だった。
彼女の類型のない発想力に誰もが驚き、尊敬の眼差しを送った。
もちろん、真帆もその1人だった。
……。
…………。
………………何か。
何か、大切な事を思い出さなければいけないような――。
アマデウス紅莉栖
「おはようございます」
真帆
「ひぃやあああっ!?」
突然耳元で囁かれて、真帆はソファから飛び上がった。
真帆
「なっ、何!?」
レスキネン
「HAHAHA! “クリス”の言う通りだったね!」
いつの間にか、すぐ背後にレスキネン教授が立っていた。両手で真帆のノートPCを構えている。そのディスプレイに映った“紅莉栖”が、真帆を見て笑っていた。
教授がノートPCを真帆の耳元に近づけて、“紅莉栖”に囁かせたようだ。
アマデウス紅莉栖
「先輩、今、集中モードに入ってましたね」
アマデウス紅莉栖
「教授が何度呼びかけても、自分の世界から返ってこなかったですから」
真帆
「あっ……」
真帆
「……すみません」
レスキネン
「こんな非常事態でも研究する姿勢は、大したものだよ」
教授はノートPCをテーブルに戻して、向かいのソファに座り直した。
そのままミーティングに移る。
今後どうしていくのかを教授と話し合った。
場合によってはアメリカに戻る事も選択肢のひとつとして出た。
ミーティングの間、真帆の中では、もやもやとした感情がずっと残っていた。
さっき、紅莉栖と出会った頃の事を思い返していた時に。
同時に、別の事も思い出していたのだ。
Salieri。
真帆のユーザーアカウント名。
紅莉栖が亡くなった1ヶ月後に、この名前を決めた。
その時の事が、なぜか急に、真帆の脳裏に浮かんだまま、離れなくなってしまっていたのだ――。
レスキネン教授とのミーティングを終えて電機大の外に出ると、小吶がぱらついていた。
真帆
「ああ、やっぱり降ってきちゃったか……」
真帆
「日本の天気予報は驚くほど正確ね」
真帆
「桐生さん、どこかお店に入っているのかしら」
萌郁と連絡を取ろうとスマホを取り出したら、同じタイミングで“紅莉栖”からメッセージが届いた。
真帆
「くぬー!」
カチンと来てなんとか言い返してやろうと思ったが、そこでふと視界に、萌郁の姿が見えた。
折りたたみ傘を広げて、道の端にしゃがみ込み、携帯電話を構えていた。
真帆が近づいていくと、アスファルトと芝生の間に花が咲いていた。萌郁は、それを携帯電話で撮影していたのだ。
真帆
「桐生さん、ごめんなさい。お待たせしちゃったわね」
真帆が声をかけると、萌郁は顔を上げ、おずおずという様子で、口を開いた。
萌郁
「比屋定、さん」
ちゃんと名前を呼んでくれた事に、真帆は嬉しくなった。
真帆
「花、撮ってたの?」
萌郁
「ん……」
萌郁はうなずき、視線を地面に戻した。
アスファルトと芝生の境界線上に、小さな花が咲いていた。
周囲には同じ花は見あたらない。風の気まぐれで種子が飛んできたのだろう。
その花の色は印象的だったが、吶に濡れているせいかあまり元気に見えなかった。
その花を萌郁が撮影する。
何度か繰り返す。
片手が傘で塞がっているので上手く撮れないようだ。
真帆
「傘、持ってましょうか?」
萌郁
「え、別に――」
真帆
「いいからいいから」
躊躇する萌郁から、真帆は半ば強引に傘を取り上げた。
萌郁
「…………」
萌郁
「…………あ、……ありが、とう」
真帆
「どういたしまして」
萌郁は両手で携帯電話を構え、ピントを合わせて撮影ボタンを押した。
しばらくして、萌郁は満足そうに立ち上がった。
萌郁
「上手く、撮れた。もう、大丈夫」
真帆
「ポートレイトの準備かしら?」
萌郁は首を振る。
萌郁
「比屋定さんの写真は、撮れない。吶、降ってきちゃったから」
萌郁
「風景を撮るのは、習慣」
真帆
「写真を撮るのが好きなの?」
萌郁はまた首を振った。
萌郁
「証明」
萌郁
「今日、自分がどこにいたかの、証明」
真帆
「証明?」
萌郁
「そう」
真帆
「それってどういう――」
そこでRINEでメッセージが届いた事を知らせる音が響いた。
真帆
「また“紅莉栖”からかしら……」
萌郁
「私にも、来てる。フェイリスさんから」
真帆
「フェイリスさん?」
萌郁&真帆
「…………?」
「…………?」
フェイリスの意味不明なメッセージを前に、真帆と萌郁は、互いに顔を見合わせ途方に暮れた。
フェイリス
「……2人とも、よく来てくれたニャ」
フェイリス
「タイムリミットが迫っているけど、まだ時間は残っているニャ」
フェイリス
「準備は、出来ているかニャ?」
萌郁
「……出来ている」
真帆
「……ええ」
フェイリス
「では、始めるニャ。作戦名は――」
フェイリス
「夜更かしシンデレラ達の秘密の女子会――おねむで思わずドッキリ発言!?――ニャ!」
真帆
「…………」
萌郁
「…………」
フェイリス
「2人ともどうしたニャ? テンション低いニャー!」
フェイリス
「せっかくの女子会なんだから、もっと楽しむニャー!」
真帆
「……まあ、いいけど」
真帆
「まさか、“2人にやっておいて欲しい重大なミッション”が、
夕飯
①①


抜いて
①①①
おく
①①


だとは思わなかったわ……」
フェイリスから唐突に“今日の夜に女子会を開く”という通知が来たのだ。
それに備え、夕飯を抜いてお腹をすかせておいてくれというのが、フェイリスの頼みだった。
そして真帆も萌郁も、律儀にそれを実行したのだ。
フェイリス
「さあさあなんでも好きなものを食べるニャ。ケーキもアイスもちょっとだけお高めのものを買ってきたニャ」
フェイリスが楽しそうにコンビニのビニール袋をがさごそと漁る。
普段からお嬢様然としているし、実際にかなりのお嬢様であるフェイリスは、必要であれば桁が1個か2個違うケーキだって買って来る事が出来ただろう。
けれど、深夜の女子会に必要なケーキやアイスはコンビニで買ってこられるレベルだという事を理解していて、しかもそれを嫌味なく実行する。
メイクイーンの客もメイドの子たちも、彼女のこういう所を慕っているのに違いないと真帆は思った。
年始からメイクイーンの店に出ていて、メイドの子たちの人数も足りていない状況でてんやわんやだったようだが、今の彼女はそんな疲れをちらりとも見せない。
フェイリス
「ん~? 真帆ニャンどうしたニャ?」
フェイリス
「フェイリスに惚れちゃったかニャン? 女の子からの求愛はいつでもウェルカムニャ♪」
真帆
「なっ! そんなんじゃないわよ!」
フェイリス
「照れる事ないニャ! プレゼントも気に入ってくれたようでフェイリスも嬉しいニャ!」
フェイリス
「思ってたとおり、すっごく似合ってるニャ。そのパンダパジャマ!」
真帆
「きっ、気に入ってるわけじゃないわ!」
真帆
「せっかく用意してくれたものを拒否したら、失礼だから……」
今真帆が着ているパンダ柄のパジャマパーカーは、フェイリスが買って来たものだ。
真帆
「サイズがぴったりなのは別にいいんだけど、どう考えても子供用よね、これ……」
フェイリス
「まほニャンはお人形さんみたいだから、きっとなんでも似合うニャ!」
真帆
「その呼び方はやめてってば」
真帆
「それと、お願いだから毎日別の動物パジャマを着せようとか考えないでね」
フェイリス
「ニャッ!?」
真帆
「な、何っ!?」
フェイリス
「まほニャン、心が読めるのかニャ!?」
フェイリス
「既に1週間分は用意済みだという事を何故知っているニャ!?」
真帆
「もう買ってあるの!?」
フェイリスのからかいの言葉に、真帆がことごとく翻弄されていたその時――。
萌郁
「ふふ……」
萌郁が口を押さえて笑いを堪えていた。
真帆
「桐生さん?」
フェイリス
「モエニャン?」
萌郁
「ご、ごめんなさい。わ、笑うつもりは、ないん、だけど」
萌郁
「ふふ……」
真帆は、初めて萌郁の笑顔を見た。こんな風に笑う人なのか。
フェイリス
「モエニャン! その笑顔、すっごく可愛いニャ! もっと見せてニャ!」
薄闇の中でフェイリスが目を輝かせ、突然萌郁の上にのしかかった。そのまま萌郁の脇腹あたりをまさぐり始める。
フェイリス
「こちょこちょこちょこちょこちょ!」
萌郁
「や、やめ、フ、フハッ、やめて――」
萌郁はくすぐりに弱いらしく、目尻に涙を浮かべ、顔を上気させながら身をよじっていた。
萌郁
「や、いやっ、ああ、ハアッ――」
フェイリス
「……なんかいけない事をしている気分になってくるニャ」
真帆
「……そうね」
フェイリスが萌郁から離れると、萌郁は顔を上気させながら肩で息をしていた。
萌郁
「ハアハア、ハアッ、ハアハア、アア……」
フェイリス
「しかし、ものすごいニャ」
真帆
「……そうね」
真帆とフェイリスはお互いを見つめて言った。
フェイリス
「すごいおっぱいニャ」
萌郁のパジャマは、深紅の
ベビードール

だった。
おとなしめな性格からは想像出来ない、大人の女性の寝間着だ。
もっとも、本人は特に意識していなくて、単に動きやすいものを選んでいるだけらしい。
しかし、元々スタイルが良い萌郁が着ると、もの凄く妖艶な雰囲気が醸し出される。
その上、こんな暴力的なバストを揺らしながら身をよじられたら、フェイリスでなくても変な気分になってしまうだろう。
萌郁
「ご、ごめ、ハア、な、ハアハア、さい……」
荒く息をしながら謝る萌郁。
何か目覚めてはいけないものが目覚めてしまいそうで、真帆は黙って首を振った。
真帆
「まあいいわ。じゃあ女子会とやらをはじめましょうか」
フェイリス
「はーい! 冷やしてあるジュースを持ってくるニャー!」
フェイリス
「今夜は……寝かさないニャン♪」
“寝かさない”というのはフェイリス流のジョークだった。彼女は明日も朝早くから仕事である。
女子会はきっかり2時間までと決めて、3人でとりとめもなく話した。
実際にはフェイリスがひたすら喋っていて、真帆と萌郁は時折質問に答える程度だったが。
女子会といえばオシャレや恋愛関係の話題が一般的かもしれないが、3人とも、その辺には力点を置いていなかった。
代わりにしたのは今の仕事や、将来についての話だった。
話していてるうちに、お互いに意外な一面が見えてくるのが楽しかった。
例えば萌郁。
萌郁
「趣味で、小説を、書いてるの」
最近流行っているケータイ小説を読んでいるうちに、自分でも書いてみたくなったのだという。
しかも、かなりきわどいシーンもある恋愛ストーリーらしい。
フェイリス
「読ませてニャ!」
萌郁
「無理……。まだ一章も書き終わってないから……」
萌郁は断ったが、書き終わったら読ませてもらうと、フェイリスと真帆の2人がかりで強引に約束させた。
フェイリスの口からも、意外な言葉が出た。
フェイリス
「メイドをやめるつもりはないけど、結婚にも憧れるニャー。子供が沢山欲しいニャン!」
両親を早くに亡くしたフェイリスは、自分の家族が早く、それも沢山欲しいのだという。
とても賑やかな家庭になりそうだ。
最後の30分くらいは、フェイリスにせがまれて、真帆が延々と人工知能研究の話をしていた。
真帆は昨日インタビューでした話を、もう少しくだけた感じで披露した。
フレーム問題の話、『Amadeus』の話、そして人間を超える人工知能が誕生する未来の話。
フェイリスは萌えだけでなく、技術やガジェットにも興味を示し、真帆の話を熱心に聞いていた。
ただ、真帆は話しているうちに、萌郁の顔が沈んでいるのに気付いた。
真帆
「桐生さん? どうかした?」
萌郁
「…………」
フェイリス
「眠くなっちゃったかニャ?」
萌郁
「……そうじゃ、ない」
萌郁
「未来が、怖いと、思って」
真帆
「未来が、怖い?」
萌郁
「……そう」
萌郁
「人工知能の研究が進んで、人間より優秀な人工知能が誕生したら、仕事を失う人が現れると思う」
萌郁
「私も、きっと、その1人になるかも」
萌郁
「それが、怖い」
なるほど、そうくるか、と真帆は思った。
真帆は、一緒に過ごすようになってからまだ数日ながら、萌郁の性格をなんとなく掴んでいた。
大変な美人だし、スタイルもいいし、仕事も出来る感じなのに、萌郁は自分という存在にほとんど価値を感じていない。
誰も自分を必要としていないし、自分より優れた人間が現れれば、すぐにその人が自分の居場所を奪ってしまうと考えている。
それを繰り返して、いつかどこにも自分の居場所が無くなったら、どうすればいいのか。
それが、怖いのだ。
真帆
「大丈夫よ、桐生さん」
フェイリス
「そうニャ! そんな心配いらないニャ!」
萌郁
「…………」
萌郁
「……私は、フェイリスさんや、比屋定さんのような、特別な技術や知識を、持っていない」
萌郁
「誰でも、私の代わりになれる」
萌郁
「誰でも、私より上手く働ける」
萌郁
「私は、2人のように、優秀では、ないから」
真帆
「…………」
真帆
「……だからなんなの?」
真帆
「代わりがいる。自分より優れた人がいる。それがなんだっていうの?」
フェイリス
「……真帆ニャン?」
真帆
「私より優秀な脳科学者はいくらでもいるわ」
真帆
「いつかは、私が発明した人工知能が、私よりも優れた論文を書き上げてしまうかもしれない」
真帆
「でも、それがなんだっていうの?」
真帆
「ヴィクトル・コンドリア大学の、レスキネン研究所の、入り口に一番近い机は、私の席なの」
真帆
「扉の立て付けが悪くていつも風が吹き込んでくるし、いつも誰かが廊下で喋っているからうるさくてしょうがないけど、私の席なの」
真帆
「たとえ宇宙が終わったとしても、私は、あの席を他の誰かに譲るつもりはないわ」
真帆
「私より優秀な脳科学者や、私より優秀な人工知能が、あの席に座りたがっても、譲ってなんかあげるもんですか」
萌郁
「…………」
真帆
「“人は誰かの代わりなんかにはなれない”、なんて甘い話をするつもりはないわ」
真帆
「代わりが利かない仕事なんて、社会活動の中では滅多にないもの」
真帆
「でも、だからって、代わってあげる義理なんてないわ」
真帆
「私は、私なんだから」
萌郁
「…………」
萌郁
「……私は、私……」
真帆
「それにね。優秀かどうかなんて関係ないのよ」
真帆
「もし、フェイリスさんと分子レベルでまったく同一の生体ロボットが存在して、まったく同等、もしくはそれ以上の給仕が出来るとする」
真帆
「それでも、私はフェイリスさんに給仕をお願いするわ」
真帆
「たとえ、料金が10倍違っても、100倍違っても、ロボットに頼もうとは思わない」
真帆
「そこに理由なんてない」
真帆
「私は、フェイリスさんが出してくれる紅茶が飲みたいの」
真帆
「つまりは、そういう事よ」
真帆
「だから、ええと……」
真帆は思わず感情のままに喋ってしまい、次の言葉を見つけられなかった。
萌郁
「…………」
フェイリス
「…………」
気付くと、萌郁もフェイリスも、ポカンとして真帆を見つめていた。
真帆
「ご、ごめんなさい。私ったら、ついムキになって――」
萌郁
「…………」
萌郁
「私は、私……」
萌郁
「そう……なのかも……」
萌郁が、かすかに笑って。
フェイリス
「まほニャン!」
次の瞬間、突然フェイリスが真帆の上に飛び乗って、ぎゅうぎゅう抱きしめてきた。
真帆
「ちょちょちょ!? な、何!?」
フェイリスは目を潤ませた顔で笑いかけてくる。
フェイリス
「感動したニャ! まほニャンが、そこまでフェイリスの事を愛してくれてたニャんて!」
フェイリス
「その気持ちに応えるニャ! まほニャンが飲む紅茶は一生フェイリスが淹れてあげるニャ!」
真帆
「えええ!? 私そういう話してた!?」
その後も頬をこすりつけてくるフェイリスから逃げるべく真帆は暴れ続けた。
電車で秋葉原に降り立った俺は、軽くため息をついた。
倫太郎
「考えてみると俺、年明けから5日連続でアキバに来てる事になるな……」
元日は初詣。
2日は前日に起きた騒動の対処の為。途中で世界線も変わった。
3日は真帆と萌郁の様子を見るため。
4日、つまり昨日は、まゆりに誘われてメイクイーンの新年パーティーに参加してきた。
こんなに毎日秋葉原に通うのは、去年の夏以来、久々の事だ。
まゆり
「フェリスちゃん、どうしたんだろうね?」
倫太郎
「さあな。あいつの考えている事はわからん」
まゆりを連れて秋葉原に来たのには、理由があった。
要するに、フェイリスの家で何かまずい事が起きていて、俺に助けを求めているらしい。
倫太郎
「比屋定さんたちになにかあったのか……?」
倫太郎
「昨日、フェイリスと話した時は、普段通りに見えたんだが……」
まゆり
「そんな事ないよ」
まゆり
「フェリスちゃん、この年末年始はすっごく頑張ってるから、かなり疲れてると思う」
まゆり
「でもね、フェリスちゃんって弱音を吐く事は絶対にないんだ。どんなに大変でもね、いつも元気なの」
まゆり
「なのに今回は、珍しくオカリンに助けを求めてきてるわけでしょ」
まゆり
「よっぽどの事が起きてるんじゃないかな……?」
とにかく俺とまゆりは、フェイリスの家へ急ぐ事にした。
倫太郎
「……あれ?」
1階のエントランスでフェイリスの家を呼び出しても、反応がない。
黒木さんはいないのだろうか。
だとしても、真帆か萌郁がいるはずだが。
まゆり
「出ないね……」
倫太郎
「おかしいな……」
もう一度呼び出してみると、今度は反応があった。
黒木
「はい……」
倫太郎
「あ、岡部ですが……」
黒木
「はい……、お嬢様から呎っております……。どうぞ……」
倫太郎
「……?」
そのただならぬ声の様子に、俺とまゆりは顔を見合わせた。
黒木
「…………」
部屋で出迎える時も、黒木さんはいつものような華麗な挨拶もなく、明らかに
憔悴
しょうすい
していた。
黒木
「……岡部、様……」
黒木さんは弱々しく俺の名を呼び、次の瞬間、糸の切れたあやつり人形のようにくずおれ、膝立ちになった。
倫太郎
「く、黒木さん!?」
黒木
「このままでは、秋葉家が……」
黒木
「うぅ…………」
まゆり
「はわわわわっ!?」
倫太郎
「く、黒木さん!? どうしたんですか!?」
黒木
「お、岡部様……。今すぐ、お逃げください……。ここにいては、なりません……」
倫太郎
「何があったんですか!?」
黒木
「私にも……わかりません……。自分で見たものが……信じられない……」
倫太郎
「見た? 何を見たんですか!?」
黒木さんはなにかを口にしようとして、しかし、諦めたように小さく首を動かす。
そして、ゆっくりと腕を持ち上げ、廊下の奥を指差した。
黒木
「客間です……。あそこに……」
倫太郎
「なっ!?」
客間は真帆と萌郁がいる! 2人の身になにかあったのか!?
倫太郎
「まゆり! 黒木さんを頼む!」
まゆり
「う、うん!」
黒木さんをまゆりに託し、俺は客間へと走った。
客間のドアは閉まっていた。
倫太郎
「比屋定さん! 桐生萌郁! 無事か!」
倫太郎
「どっちでもいいから返事をしてくれ!」
倫太郎
「くそっ! 入るぞ!」
倫太郎
「――なっ!?」
倫太郎
「どうして……」
倫太郎
「どうして、こんな事に……!」
そこには、信じられないような光景が広がっていた。
――それは、とても形容しようのない光景だった。
一言で言うなら……ガラクタの宮殿だった。
真帆と萌郁の仕事部屋として改装された客間は、机やベッドの位置こそそのままだったが、それ以外の空間が完全に変貌を遂げていた。
大小様々な本や文具やなんだか良く分からないものが、まるで地層のように天井まで積み重ねられていた。
途中までは一時的に本を積み重ねていたのかもしれないが、今となっては、それは天井まで
屹立
きつりつ
する壁だった。
何百冊もの書籍で構成された壁は室内を縦横無尽に伸び、小さな迷宮と化していた。体を横にしないと通れないほど狭い通路すら存在した。
天井からの照明が届かなくなってしまった足下には、ご丁寧にも所々にライトが設置してある。まるで地下迷宮に配置されたかがり火のようだ。
不思議にも、その空間は、汚くはなかった。
真帆と萌郁の知的生産活動を極限まで最適化させた結果、室内に迷宮が誕生したに過ぎない。ある意味、機能美の極致と言えなくもなかった。
ただ、それは、ガラクタの宮殿だった。
真帆
「~♪」
ノートPCに向かって軽快にキーボードを叩いている真帆は、大きなヘッドフォンをつけて鼻歌を歌っていた。
萌郁
「…………」
女の子座りでちゃぶ台の上のノートPCと格闘している萌郁も、イヤフォンで音楽を聴いているようだった。
真帆
「……?」
真帆が入り口で呆然と立ち尽くしている俺の事に気付き、ヘッドフォンを外した。
真帆
「あら岡部さん。こんにちは」
萌郁も気付いてイヤフォンを取った。
萌郁
「……こんにちは」
まゆり
「わ~、すごい部屋だね~……」
俺の後ろから部屋をのぞき込んだまゆりが、絶句している。
あのまゆりをドン引きさせるとは、なかなかのものだぞ。
真帆
「2人とも、どうかしたの?」
倫太郎
「どうかしたの、じゃないだろう……」
倫太郎
「なんなんだ、この部屋は……」
真帆
「部屋……?」
真帆
「なにかおかしいかしら?」
萌郁
「……?」
倫太郎
「なにからなにまでおかしい……」
倫太郎
「一昨日まではこんなじゃなかった……」
真帆
「……ああ、その事?」
真帆
「時間が経てば変わるわよ。物も人も、当然部屋もね」
真帆
「どう? ずっと機能的になってるでしょう?」
この部屋が異常であるとちらりとも考えていない真帆の口ぶりに、頭がくらくらしてきた。
まゆり
「探検出来そうだね~……」
まゆりはまゆりで、書物の迷宮の中を興味深げに歩いている。
道の途中で空間を区切るためのすだれがかかっていたが、それは色とりどりのベビードールを吊しているものだった。
まゆり
「あ、これかわいいね~」
萌郁
「色を、選んで、吊してる」
まゆり
「ほんとだあ。萌郁さん、大人っぽい下着沢山持ってるんだね」
倫太郎
「まゆり、すまんが、話がこんがらがるからちょっと部屋から出てくれ……」
まゆり
「あ、うん」
真帆と萌郁から事情を聞いてみたが、意味のある回答は得られなかった。
つまるところ、2人ともこの部屋が散らかりの極致にあるという事をわかっていないのだ。
必要なものが常に手の届く所にあり、生活にも支障がない快適な仕事空間だと、2人は認識していた。
フェイリスが俺に助けを求めたのも、黒木さんが死にそうになってたのも、間違いなくこれが原因だろうな……。
秋葉家の最強執事である黒木さんは、室内にチリ1つ落とさない事を信条としている。
しかし、完全生活能力欠如者2人の無自覚な散らかし方に対し、黒木さんの許容量がオーバーしてしまったのだ。
であれば、あの恐怖に満ちた顔も頷ける。
恐らく、2人が居候を始めた当初は、黒木さんはなんとかこの部屋を片付けようとしていたに違いない。
思えば、俺が一昨日マンションに来た時も、様子が少しおかしかった。
倫太郎
「しかし、フェイリスはなぜ俺に助けを求めたんだろう」
倫太郎
「それに、まゆりを連れて来るように言った理由も謎だ」
まゆり
「えっへへ~、それについては、まゆしぃは理由がひらめいちゃったのです!」
まゆり
「フェリスちゃんはきっとね、この部屋をお片付けして欲しいんだよ。だからまゆしぃがお呼ばれしたの」
まゆり
「オカリンだけだったら、諦めちゃってたかもしれないでしょ?」
倫太郎
「うっ……」
確かに、そうだったかもしれない。
目の前にあるのは新しく作られた建造物のようなもので、とても“片付ける”ような代物ではなかった。
俺一人では、回れ右して逃げ帰ってしまっていたかもしれない。
しかし、こんなのは専用の業者を雇ったとしても、一掃するのに丸一日要するんじゃないか?
バイト代でももらわないと、割に合わないぞ。
そう文句を言いたくなったものの、真帆をこの部屋に置かせてほしいとフェイリスに頼んだ言い出しっぺは、俺なんだよな……。
やるしかない。
倫太郎
「今日はこの部屋の片付けだ」
倫太郎
「文句は言わせないからな。これは家主からのオーダーなんだ」
真帆
「そうなの?」
真帆
「イマイチ納得出来ないけど、まあいいわ。了解よ」
萌郁
「わかった……」
倫太郎
「呼べるだけの知り合いに応援を頼むとして、どこから手をつければいいのやら……」
まゆり
「そうだっ!」
まゆり
「まゆしぃはね、またまたひらめいちゃったのです!」
まゆり
「お掃除軍曹に手伝ってもらうのは、どうかな?」
倫太郎
「お掃除軍曹? なんだそれは?」
まゆり
「お掃除軍曹はね、とってもお掃除が得意なの!」
まゆり
「部屋が散らかっていれば散らかっているほど、ファイトが湧いてくるんだって!」
倫太郎
「知り合いなのか?」
まゆり
「うん! オカリンも、よーく、知ってる人だよ!」
倫太郎
「え? 俺の……よく知ってる人?」
まゆりに連れて来られたのは、ラボだった。
正確には、ラボの入っているビルの1階にある、ブラウン管工房だった。
まゆり
「綯ちゃん、トゥットゥル~♪」

「トゥットゥル~♪」
倫太郎
「…………」

「オカリンおじさんも、こんにちは」
倫太郎
「……まゆり。もしかして、お前の言う“お掃除軍曹”というのは、綯の事なのか?」
まゆり
「うん、当ったり~♪」
まゆり
「綯ちゃんはね、とってもお掃除が上手なんだ~」
まゆり
「お店も家も、綯ちゃんが毎日お片付けしてるんだよね」
倫太郎
「そ、そうなのか?」

「そうだよ」

「ブラウン管はお父さんが毎日拭いてるけど、他の所は全部、私が片付けてるの」
言われてみれば、ブラウン管工房に入った時、床にゴミが落ちていたという記憶がない。

「あ、別にお父さんが掃除が嫌いってわけじゃないんだよ。私が好きなだけ」

「ゴミが床に落ちてると、“片付けなきゃ!”って、体が勝手に動いちゃうの」

「部屋の汚れは心の汚れだって、お母さんがいつも言ってたから」
倫太郎
「なるほど。しかし、どの辺が“お掃除軍曹”なのか……」
俺がそう呶いた途端、綯は驚いて目を見開き、顔を赤くした。

「な、まゆりおねえちゃん!?」

「その事は、誰にも言わないでって言ったのに!」
まゆり
「ごめんね。でも、どうしてもお掃除軍曹の力が必要なんだよ~」

「わ、私は、軍曹とか、そんなんじゃないよ~!」

「お掃除している時は、ほんのちょっと気合いが入っちゃうだけだもん~!」

「ホントだよ!」
泣きそうになりながら、綯は必死で訴えてくる。
まあ、この年頃の女の子にしてみれば、軍曹と呼ばれるのは不本意かもな……。
まゆり
「ねえ、綯ちゃん。どうかな~? まゆしぃたちに力を貸してくれないかな?」

「…………軍曹って、もう呼ばない?」
まゆり
「うん。呼ばない」

「じゃあ、わかった!」

「お掃除、やる。猫のおねえちゃんのおうちも、行ってみたいし!」

「あ、でも、ひとりは、心細いな……」
まゆり
「大丈夫! みーんなで手伝うから。ね、オカリン?」
倫太郎
「ああ。そうだな。片っ端から声をかけよう」

「じゃあ準備するから待っててね!」

「家まで、帽子取ってくる!」
言うなり、綯は店ではなく駅の方へと走り去ってしまった。
倫太郎
「……帽子? なんの事だ?」
まゆり
「すぐにわかるよ~♪」
――30分後。
招集をかけて集まってくれたのは、フブキ、カエデ、ダルの3人だった。
綯とも合流し、全員で、フェイリスのマンションという名の腐海を目指した。
そして……。
お掃除軍曹が、その本性を俺たちの前に現した。

「私が訓練教官のテンノージ先任軍曹である!」
テンノージ先任軍曹
「いいか! この部屋が片付くまで、お前達は尺取り虫さんだ! 地球上で最下等の生命体だ!」
テンノージ先任軍曹
「お前達は電化製品ではない。掃除機と呼ばれるほどの値打ちもない!」
テンノージ先任軍曹
「葉っぱの上で縮んだり伸びたりするくらいの価値しかない!」
テンノージ先任軍曹
「お前達は厳しい私を嫌うだろう。だが憎めばそれだけ学ぶ」
テンノージ先任軍曹
「私は厳しいが公平だ。私の使命はこの部屋をピッカピカにする事だけだ!」
テンノージ先任軍曹
「分かったか、尺取り虫さんども!」
倫太郎
「ま、まゆり!」
まゆり
「なあに?」
倫太郎
「な、なんだ、あれは?」
まゆり
「綯ちゃんはね~、お掃除する時は、ちょっぴり性格が変わるのです」
倫太郎
「性格が変わるとかじゃないだろあれ! 人格が変わってる!」

「小動物系ロリ美少女が、本性を現すとドS軍曹化して罵倒プレイしてくれるとか……我々の業界ではご褒美です!」
倫太郎
「ダル……自重しろよ……」

「掃除が終わったら急に優しくなって、いちゃいちゃしたがる展開もキボンヌ」

「“部屋の掃除の後は、あなたを綺麗にしましょうね”的な!」
テンノージ先任軍曹
「誰だ! 今なんか気持ち悪い事を言ったのは!」

「ひぃっ! じ、自分でありますっ!」
テンノージ先任軍曹
「勝手に喋るな! 聞かれたら“はい”か“いいえ”で答えるんだ!」
テンノージ先任軍曹
「それと、答える時には頭とおしりに“綯様”とつけろ! わかったか!」

「綯様! はい! 綯様!」

「はあ、リアル幼女から罵倒のシャワーを浴びせてもらえるなんて、今日はツイてる……!」
テンノージ先任軍曹
「なにをニヤニヤしている!」

「ひいっ!」
テンノージ先任軍曹
「いいか! 今からお前をほほえみくまさんと呼ぶ!」

「綯様! はい! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「嬉しいかほほえみくまさん!」

「綯様! はい! 綯様!」

「どうでもいいけどこの『綯様! はい! 綯様!』って言いにくいお……」
テンノージ先任軍曹
「なにー!? 文句があるのかほほえみくまさん!」

「綯様! いいえ! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「バカにしているのかほほえみくまさん!」

「綯様! いいえ! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「よろしいほほえみくまさん! 30秒以内に廊下のぞうきん掛け10往復だ!」
テンノージ先任軍曹
「さっさと始めろ! ほら、1! 2! 3!」

「綯様! はい! 綯様!」

「ハァハァ。もっと、もっと罵ってください!」
倫太郎
「……1人だけ大喜びな奴がいるな」
まゆり
「今日、由季さんが来れなくて正解だったかもしれないね~」
カエデとフブキはたまたま秋葉原に来ていたので付き合ってくれたのだが、由季はバイトで都合がつかなかったのだ。
橋田家の未来の為には、幸運だったとも言える。
ちなみに、真帆と萌郁はこの体育会系的ノリから早々に脱落し、ベランダ先遣部隊としてのんびり窓ガラスを拭いている。
テンノージ先任軍曹
「よし、次!」
テンノージ先任軍曹
「そっちの美人なおねえさん達!」
カエデ
「わ、私?」
フブキ
「美人? やっぱりい?」
テンノージ先任軍曹
「なぜ我が隊に志願したのか言ってみろ!」
カエデ
「あのう、私達、呼ばれて来ただけなんだけど……」
フブキ
「そうなのそうなの。どういう状況なのこれ?」
テンノージ先任軍曹
「質問をしているのは私だ!」
フブキ
「ひいっ!」
テンノージ先任軍曹
「私が聞いた質問に答えるんだ!」
フブキ&カエデ
「綯様! はい! 綯様!」
「綯様……はい……綯様…?」
テンノージ先任軍曹
「もう一度聞くぞ!」
テンノージ先任軍曹
「なぜ我が隊に志願したのか言ってみろ!」
フブキ
「綯様! 掃除をする為です! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「なら気合いをいれろ!」
フブキ
「綯様! はい! 綯様!」
カエデ
「き、気合い?」
フブキ
「さあ、行くよカエデちゃん!」
カエデ
「え、ちょ、ちょっとお!」
フブキ
「ホント、掃除は地獄だぜえ!」
まゆり
「フブキちゃんもノリノリだねえ」
倫太郎
「来嶋さんは、相当困ってるみたいだが……」
テンノージ先任軍曹
「そこの2人! なにをお喋りしている!」
テンノージ先任軍曹
「さっさとこのそびえ立つ黒くてぶっとい奴を下のゴミ捨て場に持って行け!」
倫太郎
「そびえ立つ黒くて……なんだって!?」
まゆり
「そこのゴミ袋の事だよ。そうだよね~?」
テンノージ先任軍曹
「うん! そうだぞ! さっさと運べ!」
まゆり
「綯様、はい、綯様~♪」
倫太郎
「綯様、はい、綯様……」
テンノージ先任軍曹
「ふざけるな! 聞こえないぞ! それで部屋を綺麗に出来ると思っているのか!」
倫太郎
「ひぃっ!」
テンノージ先任軍曹
「気合いを入れろ! 大声出せ!」
倫太郎&まゆり
「綯様! はい! 綯様!」
「綯様! はい! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「全員、おばかな顔を晒している暇があったら1個でも多くゴミを拾え!」
フブキ&カエデ
「綯様! はい! 綯様!」
「綯様! はい! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「それが終わったら家中のドアノブをピッカピカに磨かせてやるぞ!」
倫太郎&まゆり&至
「綯様! はい! 綯様!」
「綯様! はい! 綯様!」
「綯様! はい! 綯様!」
テンノージ先任軍曹
「泣いたり笑ったり出来なくなるまでテーブルを磨き上げるんだ! 光栄に思え!」
お掃除分隊員
「綯様! はい! 綯様!」
こうして、軍曹の指示の元、夜まで掃除は続いた。
フェイリス
「今日は、本当に助かったニャ! フェイリスは大感激ニャ!」
黒木
「一時はどうなる事かと思いましたが、皆様のおかげで立ち直れました」
黒木
「今日は腕によりをかけて料理を作りましたので、心ゆくまでお楽しみください」
フェイリス
「乾杯の音頭は、本日のヒーローである綯ニャンにお願いするニャ!」

「わ、私!?」
倫太郎
「適任だぞ。軍曹」

「オ、オカリンおじさん! それ言わないって約束したでしょ!」
フェイリス
「まあまあ、お願いするニャン!」

「は、はい!」

「今日は、お掃除を手伝ってくれてありがとうございました! 乾杯!」
全員
「乾杯!」
ほぼ半日かかった大掃除は、綯の活躍によって無事完了した。
自室で寝込んでいた黒木さんも、片付いた部屋を見るなり元気が戻り、豪勢な夕食を用意してくれた。
掃除の間は別人かと思えるほどにハッスルしていた綯は、今はいつもの雰囲気に戻っていた。
オレンジジュースの入った紙コップを両手で握ったまま、カエデと楽しそうに話をしている。

「カエデおねえちゃん、ピアノ弾けるの!? すごーい!」
カエデ
「そんな事ないよ……」
カエデ
「どちらかっていうと、私は音楽史の方に興味があるの……」
カエデ
「ピアノは、それこそ弾けるだけって程度だから……」

「そんな事ないよ! すごいよ!」
カエデの謙遜の仕方が、更に綯の心を刺激しているようだ。
フブキ
「カエデちゃん、綯様のために一曲弾いてあげたら? そこにピアノもあるしさ」
居間の隅には、小さなアップライトピアノが置かれていた。
まさにおあつらえ向きと言える。

「聞きたい! ピアノ聞きたい!」
カエデ
「ええ? 人に聞かせるような腕じゃないよ……」
フェイリス
「フェイリスはピアノ弾かないから、使ってくれたらピアノも喜ぶニャ!」
黒木
「もちろん、調律は欠かしておりません」
カエデ
「こ、困ったな……」
カエデ
「じゃあ、一曲だけね?」

「やったー!」
カエデはピアノの椅子に腰掛け、鍵盤蓋を持ち上げた。
カエデ
「うーん、なににしようかな」
鍵盤を見つめながら考えているカエデは、割と楽しそうに見えた。
カエデ
「これだったら、綯ちゃんも知ってるかな?」

「知ってる! トルコ行進曲!」
カエデ
「正解♪」
10本の指が流れるように白鍵と黒鍵の間を行き来し、軽快なメロディが室内に響き渡る。
謙遜していたが、カエデのピアノの腕は相当のものだというのは明らかだった。
会話に興じていた人達もいつのまにか椅子やソファに座り、カエデの演奏に聴き入っていた。
と、その時。
真帆
「…………」
俺の横に座っていた真帆が急に立ち上がり、その音が少し大きく部屋に響いた。
真帆
「ご、ごめんなさい」
カエデ
「気にしないでください……」
カエデ
「みんなもお喋りしてていいからね」
真帆
「…………」
真帆は立ち上がった姿勢のまま、ぼんやりしている。
倫太郎
「比屋定さん、どうかしたのか?」
真帆
「…………」
真帆
「……いえ、たいした事じゃないの」
真帆
「仕事の電話があったのを忘れていて……。それを思い出しただけ」
真帆
「ごめんなさい、ちょっと電話してくる」
真帆はそう断ると、そそくさとリビングから出て行った。
倫太郎
「……?」
なにか、様子がおかしかったような?
首を傾げながら、俺はふと真帆が座っていた所に目をやった。
倫太郎
「……ん?」
椅子の上に、真帆のスマホが置きっぱなしになっている。
電話してくる――というのは嘘か。
少し心配になった俺は、真帆のスマホを持ってリビングを出た。
客間のドアは開いていた。
そっと中を覗くと、部屋の明かりも点けず、真帆が部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
真帆
「……っ」
倫太郎
「入っていいか?」
真帆
「…………」
断られはしなかったので、俺は部屋の中に入り、机の上に真帆のスマホを置いた。
倫太郎
「椅子に忘れてたよ」
倫太郎
「これがないと、電話はかけられないだろ?」
真帆
「…………はあ」
真帆
「ありがとう。持ってこなかった事すら気付かなかったわ」
真帆
「よほど、動転してしまったのね」
倫太郎
「動転?」
倫太郎
「なんなら、話し相手になるぞ」
真帆
「……そうね」
真帆
「特にどうって話でもないんだけど、聞いてもらった方が、私もすっきり出来るかも」
真帆
「さっきのピアノの曲、タイトル覚えてる?」
倫太郎
「トルコ行進曲だろ?」
真帆
「そう。モーツァルトの曲よ」
真帆
「正確には、K331モーツァルトピアノソナタ第11番第3楽章」
真帆
「ピアノソナタ第11番は、全3楽章構成で、その中でも第3楽章にあたるトルコ行進曲がとても有名なの」
真帆
「だけど、私はどちらかというと、第1楽章の静かなメロディの方が好き」
真帆
「……紅莉栖も、同じ事を言っていた」
真帆
「それをね、思い出したの」
倫太郎
「…………」
真帆
「岡部さん、『アマデウス』っていう映画、知ってる?」
突然話が飛んで、俺は戸惑った。
倫太郎
「……あらすじくらいなら」
倫太郎
「モーツァルトの才能に嫉妬した音楽家の話だろ?」
真帆
「そう。アントニオ・サリエリ」
真帆
「映画ではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによって人生を狂わされた男として描かれている」
真帆
「音楽家としての成功を約束されていたはずなのに、モーツァルトが持つ天賦の才に嫉妬し、絶望してしまう」
真帆
「自由奔放のモーツァルトの所業にみんなが眉をひそめる中、サリエリだけは彼の才能を見抜いていた」
真帆
「それこそ『アマデウス』という名前の通り、神に愛されたとしか言いようがない、その才能をね」
真帆
「サリエリは努力家だったわ。そんな彼には、生まれ持った才で世間からもてはやされるモーツァルトが、我慢出来なかった」
真帆
「そして、ついには、モーツァルトを追い詰めてしまう」
倫太郎
「追い詰める……?」
真帆
「モーツァルトを生き急がせて、結果的に、死に追いやってしまうの」
倫太郎
「……映画の話だろ?」
真帆
「私も詳しくは知らないけど」
真帆
「でも、モーツァルトの死には不審な点があるし、毒殺の可能性もあったっていう話は聞いた事がある」
真帆
「毒を盛った犯人が、サリエリかもしれないって事もね」
倫太郎
「…………」
真帆
「紅莉栖が亡くなった1ヶ月後くらいに、大学のネットワークが刷新される事になったの」
真帆はまた、違う話を始めた。
真帆
「それで、所員は全員新しいユーザー名を決める事になった」
真帆
「私は、特に考えもなく、“Salieri”にした。人工知能の『Amadeus』と対比としてね」
知っている。以前、和光市のオフィスで真帆がその名前でログインするのを見た。
真帆
「けれど、もしかしたら、違うのかも知れない」
倫太郎
「違う? なにが?」
真帆
「私は、『Amadeus』じゃなくて、紅莉栖自身との対比として、自分に“Salieri”と名付けたのかもしれない」
真帆
「私にとって、紅莉栖は、アマデウスだった……」
それはつまり、真帆は、彼女の才能を誰よりも認め、同時に、誰よりも嫉妬していたという事だろう。
サリエリのように。
倫太郎
「比屋定さん……」
なんと声をかければいいのかわからなかった。真帆の肩が小さく震えているのが見えた。
その時。
倫太郎&真帆
「っ」
「っ」
ノックの音が聞こえて、俺も真帆も顔を跳ね上げた。
ドアの外で、萌郁が困ったような顔をしている。
萌郁
「……ごめんなさい」
真帆
「いいのよ。気にしないで」
真帆
「どうかしたのかしら?」
萌郁
「…………」
萌郁
「……天王寺さんを、そろそろ帰らせないと」
倫太郎
「……そうだな。俺が送っていくよ。ちょっと待っててくれ」
萌郁
「…………」
萌郁
「……比屋定さん、大丈夫?」
真帆
「え?」
萌郁
「……つらそうな、顔をしているから」
真帆
「……ええ。大丈夫」
真帆
「こんなに体を動かしたの久しぶりだから、ちょっと疲れちゃったのかも」
萌郁
「……そう」
萌郁
「それなら、いいけど」
萌郁
「それじゃ」
萌郁はリビングに戻っていった。
倫太郎
「…………」
……驚いたな。萌郁がこんな風に喋っているのは、初めて見た。
どの世界線でも、自主的にここまで喋る姿は、見た事がない。
しかも今の萌郁は、真帆の表情を読み取り、更に心配までしている。
真帆と一緒に生活している影響なんだろうか。
真帆
「ごめんなさい、岡部さん。さっきの話は忘れて」
倫太郎
「……え? ああ、わかった」
真帆
「聞いてくれて、ありがとう」
倫太郎
「これぐらいでよければ、いつでも」
真帆はかすかに笑って、部屋を出た。

「まゆりおねえちゃん! 次はあのお店まで!」
まゆり
「うん! じゃあ行くよ。よーい、スタート♪」

「たーっち! 私の勝ちー!」
まゆり
「はあ、負けた~。綯ちゃんはかけっこ速いねえ」
倫太郎
「2人とも、暗いから走ると危ないぞ」

「大丈夫だよ。ねー!」
まゆり
「ねー♪」
時間も時間だったため、綯の帰宅時間に合わせて、大掃除後のパーティーもお開きになった。
お掃除軍曹の力を借りに行ったのは俺とまゆりだったので、責任を持ってブラウン管工房まで送っていく事になっている。
そうしたら、意外にも真帆が、少し散歩をしたいからと一緒に付いてきた。

「じゃあ次は、あそこのお店の前ね!」
まゆり
「よーし、まゆしぃ、今度は負けないぞぉ♪ よーい、スタート♪」
倫太郎
「やれやれ……」
綯はいつもよりかなりテンションが高い。
お掃除軍曹として頑張ってみんなに誉められたからだろうか。
真帆
「……ふふっ」
倫太郎
「ん? どうかしたか?」
真帆
「いいえ。岡部さんのそういう顔、初めて見たかもと思って」
倫太郎
「どういう顔だ?」
真帆
「なんていうのかしら。緊張してない。リラックスしてる」
真帆
「初めて会った時から、あなたは常に、意識を張り詰めているような感じがしたから」
倫太郎
「……そうかな。自分では意識してなかったよ」
この時間の秋葉原は、路地を一本入れば、だいたいの店が閉店作業をはじめていて、あっという間に人の気配がなくなっていく。
今も、この路地を歩いているのは俺たち4人だけだった。
空を見上げると、冬の澄み切った夜空に、かろうじて星が見える。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「……なあ、比屋定さん。俺は、君に言わなきゃならない事があるんだ」
倫太郎
「紅莉栖の、事で」
真帆
「…………」
倫太郎
「紅莉栖は――」
思い切って告白しようとしたその時、俺の視線の先で、かけっこをしていた綯が、十字路に差し掛かった。
――突如、ヘッドランプを消した状態で脇道から飛び出してきた黒塗りのバンが、綯を轢きそうになった。

「きゃっ!」
まゆり
「危ないっ!」
倫太郎
「……!」
綯はかろうじて車とぶつからずに済んだものの、その場にぺたんと尻餅をついてしまった。
まゆりが慌てて駆け寄っていく。
だから言わんこっちゃない。
俺も綯の元へ駆け寄ろうとして――。
様子がおかしい事に気付いた。
黒塗りのバンの扉が開き、中から3人の人物が降りてくる。
そのうち2人は覆面を、もう1人はフルフェイスのヘルメットをかぶっていた。
3人のいずれも、その手中には銃が握られている。
倫太郎
「――!」
武装した男
「“Freeze”!!」
叫んだのは、英語。
真帆
「な……!?」
倫太郎
「ぁ……!」
場所も、時間も違う。
しかし、これは前に見たのと同じ光景だった。
倫太郎
「なんで……」
フラッシュバックに襲われて、俺は金縛りに遭ったかのように動けなくなってしまう。
銃を構えた連中は、綯とまゆりには見向きもしなかった。
まっすぐ俺と真帆の方へ向かってくる。
狙いは俺か真帆だと即座に判断した。
倫太郎
「逃げろ!」
フラッシュバックを無理矢理頭の隅に押しやり、真帆の腕をつかんで、走るよう促した。
真帆
「でも――」
倫太郎
「いいから逃げろっ!」
問答無用で、真帆の背中を強く押す。
真帆
「――っ」
真帆は困惑と怯えがない交ぜになった表情を浮かべ、けれどすぐさま俺に言われた通り駆け出した。
すぐに細い路地に入っていき、俺の視界から消える。
武装した男
「“Don’t move”!!」
襲撃者は、俺ではなく真帆を追っているようだった。
真帆が消えた路地へと向かおうとする。
だから俺はとっさに、そいつらの前に立ちふさがった。
倫太郎
「っ!」
暗い路地に銃声が響き、まゆりと綯が悲鳴を上げた。
撃ったのか!?
フルフェイスのヘルメットをかぶった襲撃者が、空に向けて威嚇射撃をしたようだった。
東京の路上でそんな事をすれば、すぐに警察が来るっていうのに……! そんな事お構いなしの連中っていう事か!?
ライダースーツの女
「…………」
よく見るとそいつは、ヘルメットだけでなく、服装も全身黒ずくめだった。ピッタリと身体に張り付いた黒のライダースーツ姿。
そして体のラインから、それが女だと分かった。
女……。
黒いシェードで覆われているため、顔は見えないが。
まさか、萌郁なのか?
いや、そんなはずはない。
あいつは今ごろ、フェイリスの家で留守番をしているはずだ。
ライダースーツの女
「…………」
女は一言も発する事なく、俺の前に立った。
倫太郎
「狙いは、比屋定さんか?」
ライダースーツの女
「…………」
もしも真帆が狙いだったなら。
とっさに逃がしたのは、よかったのか悪かったのか。
ライダースーツの女は、俺を見たまま他の2人の男に手振りだけで指示を出した。
2人は、真帆が消えていった路地へ銃を構えたまま向かっていく。
倫太郎
「待て!」
とっさに怒鳴った。
だが、それ以上の抵抗を、俺は躊躇ってしまった。
あの屈強そうな覆面男2人に追われたら、真帆ならすぐに捕まってしまう。
しかし、もしここで抵抗すれば、俺だけでなくまゆりや綯の命も危険に晒される。
――くそっ。逃げ切ってくれ、真帆!
そう祈りつつ、路地へと走って行く襲撃者たちの姿を見送った。
武装した男
「ぐふうっ――!」
突然、路地に駆け込んでいった襲撃者が、転げるようにして弾き飛ばされ、戻ってきた。
武装した男
「……!」
さらにもう1人の覆面男が、熊にでも出くわしたように路地の奥を見据えたまま、後ずさりしてくる。
誰かが……路地の奥にいる。
誰だ?
鈴羽か?
天王寺
「おい……。こいつはいったいどんな状況だ?」
ぬっと、路地から大きな筋肉質の男が姿を現した。
天王寺裕吾だった。
店から駆けつけてきてくれたのか?
天王寺
「綯が遅いから迎えに来てみれば……。おめえら、俺の娘に手を出しやがったな? ただで済むと思うなよ……!」
ライダースーツの女
「……!」
ライダースーツの女
「“Pull back!!”」
ライダースーツの女が、ヘルメットの中でそう言ったのが聞こえた。
無線を使っているに違いない。
撤退の指示だ。判断が素早い。こいつらはやっぱりプロだ。
バンが、スライドドアを開けたまま急発進し走り去る。
運転手が残っていたらしい。
まゆりも綯も、その場にへたり込んだままだったが、どうやら無事なようだ。
ライダースーツの女は踵を返すと、別の路地へと逃げ込もうとする。
倫太郎
「待て!」
追いかけたら、急に振り返った女が、銃把で殴りつけてきた。
倫太郎
「がはっ!」
とっさの事に、よける事も出来ず、もろに顎に衝撃を受けた。
その場に倒れ込んだ。
体に、力が入らない。
まゆり
「オカリン!」
真帆が、無事に逃げ切ってくれていればいいんだが……。
そんな事を祈りながら、意識が、急速に遠のいていった。
真帆は、ひたすら走っていた。
状況はさっぱり理解出来なかったが、岡部がただならぬ様子だった事や、真帆が逃げたと同時に聞こえてきた銃声などから、非常にまずい事態だという事だけはわかった。
岡部やまゆり、綯の無事を祈りつつも、フェイリスのマンションへと急ぐ。
真帆
「はやく、みんなに報せなきゃ!」
そこへ行けば、フェイリスや黒木、そして萌郁がいる。
うまく対処してくれるかもしれない。
だがマンションの前に辿り着く直前で、前方の道から、先ほどの黒塗りのバンが目の前の道を走ってくるのが見えた。
真帆
「――っ!?」
慌てて引き返す。
心の中に絶望の色が湧き上がってくる。
あのバンが走り回っているという事は、岡部たちは捕まってしまったんだろうか。
そして、逃げた真帆を捜している?
真帆
(嘘。嘘よ、そんなの……!)
涙がにじみそうになりながら、とにかく駅の方へと向かった。
だが駅まで来たところで、何をどうすればいいのか分からない。
警察に頼るべきだったが、警察署や交番の場所を真帆は知らなかった。
周囲を歩いている人か、駅員にでも助けを求めるべきだろうか。
真帆
「はあ、はあ、はあ……」
真帆
「ど、どうすればいいの……!」
真帆
「落ち着きましょう、何かいい手があるはずよ……!」
真帆は、混乱している思考をなんとか鎮めようとした。
そこで、はたと気付く。
真帆
「そ、そうよ! 電話!」
真帆
「なんでもっと早く気付かなかったのかしら!」
服のポケットをまさぐって、スマホを探す。
さらに、念のためと思って持ってきたバッグの中も漁ってみる。
――だが、ポケットにもバッグにも、スマホが見当たらない。
真帆
「なんで!?」
また来た!
さっきの黒塗りのバンだ!
このあたりをぐるぐる回って真帆を捜しているのだ!
真帆は急いで、近くのコインロッカーの陰に身を潜めた。
真帆
「なんで……、スマホが、ないの……?」
逃げている途中で落としてしまったのだろうか。
マンションを出る前からここまでの自分の行動を思い返してみる。
真帆
「……あ」
すぐに合点がいった。
マンションを出る直前、客間で真帆は岡部と話していた。
スマホを持たずに“電話してくる”と言ってごまかして1人になった後、岡部がそのスマホを持ってきてくれて――。
それで、スマホは机の上に置かれ、受け取ってはいない。
おそらく今もあそこに置きっ放しだろう。
真帆
「なんて事……」
真帆
「八方ふさがりね……」
やはりなんとかして警察に駆け込むしかなさそうだ。
どこかの店に駆け込むのがいいかもしれない。
まだ営業中の店はいくつかある。
一番いいのは、駅か、ヨドバシあたりまで行く事だろう。
だが問題は、あの黒塗りのバンだ。
さっきからずっとこのあたりをグルグル回っている。
ヘタに動くと見つかりかねない。
真帆は出来るだけ体を小さくして、電信柱の陰に一体化しようとした。
真帆
「…………」
真帆
「岡部さんたち、無事でいてくれるかしら――」
真帆
「!?」
突然、背後から伸びてきた手に、真帆の口ががっしりと塞がれてしまった。同時に、体も羽交い締めにされてしまう。
真帆
「――っ! ――っ!」
必死に叫び、手を剥がそうとするが、口を塞いだ手は微動だにしなかった。
首を回す事も出来ず、押さえているのが男だという事しかわからない。
真帆
「――っ! ――っ!」
真帆は、自らが置かれたこの理不尽な状況に、だんだん腹が立ってきた。
なので、渾身の力を籠めて、背後に向かって肘鉄を食らわせた。
真帆
「このっ!」
???
「Oops!!」
絞り出すような悲鳴が上がり、真帆の体はようやく解放された。
しかし、男が上げた叫び声には、なぜか聞き覚えがあった。
真帆
「――って、教授!?」
レスキネン
「しっ」
レスキネン
「ふう……。やあ、マホ」
そこにいたのは、レスキネン教授だった。みぞおちを痛そうに押さえながらも、真帆に笑いかけてくる。
レスキネン
「護身術を身につけているとは、感心だね」
真帆
「どうしてこんなとこに!?」
レスキネン
「たぶん、君と同じ理由さ」
レスキネン
「ミスター・イザキと、さっきまでディナーを楽しんでいたんだ……」
レスキネン
「最後にメイド・バーに行こうとした所で、銃を持った連中に襲われたんだ」
真帆
「っ! わ、私もそうなんです!」
レスキネン
「やっぱりか……」
レスキネン
「これは、ガス漏れ事故も、ホテルが荒らされたのも、同じ理由と考えてよさそうだね」
真帆
「狙いは、『Amadeus』かもしれません。私が持っている制御コードを含めて」
レスキネン
「なるほど……」
真帆
「これから、どうしましょう」
レスキネン
「hum……」
少しの間考えてから、教授は息を整えた。どうやら真帆の肘鉄による痛みは引いたようだった。
レスキネン
「今、『Amadeus』にはアクセス出来るかい?」
真帆
「出来ません。スマホを置いて来てしまって」
レスキネン
「OK。ならば、オフィスに行こう」
真帆
「新しい方のオフィスですか?」
真帆の問いかけに、レスキネンはうなずいた。
レスキネン
「目的が分からず動きようがなかったが、連中の狙いが『Amadeus』なのであれば話は早い」
レスキネン
「大学のネットワークストレージ上に残っている、『Amadeus』への接続プログラムを消去する」
レスキネン
「それが終わり次第、
合衆国
ステート
へ帰ろう。君を保護してもらう」
レスキネン
「それで、連中は手も足も出ないはずさ」
真帆
「で、でも……!」
レスキネン
「何か問題があるかね?」
いつもと少しだけ雰囲気の違う教授の視線に気圧されて、真帆は何も言えなくなってしまった。
教授の提案は、考え得る中でベストと言えた。日本国内から『Amadeus』へアクセスする方法を消滅させ、かつ、制御コードを持っている真帆を安全な場所に匿う。
今、真帆が感じているこの躊躇は、単なる彼女の感傷にすぎない。
短い期間ではあったが、岡部や萌郁たちとの交流は楽しかった。
こんな風に挨拶もなしに別れるのが、嫌だったのだ。
でも、仕方のない話だ。
真帆
「……わかりました。行きましょう」
電機大の仮オフィスには、誰もいなかった。
襲ってきた連中の仲間が待ち受けている可能性も考えていたのだが、杞憂だったようだ。
レスキネン
「ふう……」
レスキネン
「“We did it!”」
レスキネン
「どうやら、先回りはされていなかったようだね!」
真帆
「…………」
レスキネン
「どうかしたかい?」
真帆
「ああ、いえ……。そうですね。幸運です」
確かに幸運だった。
けれど、あまりにも順調すぎて、逆に不安を感じてしまう。
連中の狙いが『Amadeus』なのであれば、接続端末が置かれているここを、真っ先に制圧すべきなのではないか?
数日前に急遽、決まった仮オフィスだから、まだ連中が場所を把握していないのだろうか。
真帆
「…………」
真帆
「……考えすぎはよくないわね」
レスキネン
「マホ、急ごう。作業を頼むよ」
真帆
「はい」
すぐにノートPCを起動し、ログイン画面を開いた。
真帆
「…………」
また、画面の中に表示された自分のアカウント名に、視線が吸い込まれてしまう。
Salieri。
レスキネン
「マホ?」
手の止まった真帆に作業を促すように、教授が声をかけてくる。
レスキネン
「作業が難しいなら、私がやるが?」
襲撃を受けてまだ気が動転したままだと思ったのだろう。
けれど真帆は首を左右に振って、すぐさま作業を始めた。
真帆
「すみません。つい、考え事を」
真帆
「ここ数日、私と紅莉栖との関係について、考えていたんです」
キーを叩きながら、真帆はレスキネン教授に説明した。
真帆
「自分のユーザー名を見たら、それを思い出してしまって」
真帆
「私にとって彼女は、文字通りアマデウスでした」
レスキネン
「クリスがモーツァルト?」
レスキネン
「ああ、それはつまり、マホはクリスに対してのサリエリだったという話か」
真帆
「ええ……」
レスキネン
「hum……」
レスキネン
「それで思い出したよ」
レスキネン
「クリスも、以前、同じ事を言っていたんだ」
真帆
「えっ!?」
真帆
「紅莉栖が!? どんな風に!?」
レスキネン
「ある日、アマデウスとは“神に愛された子”という意味だと聞いた私は、クリスにこう言ったのさ」
レスキネン
「“君はまさにアマデウスだね”と」
レスキネン
「そうしたら、彼女は微笑んで、こう答えた」
紅莉栖
「私がアマデウスだとしたら――」
紅莉栖
「――サリエリは、真帆先輩ですね」
真帆
「……っ!?」
真帆
「紅莉栖が……、そう、言ってたんですか?」
レスキネン
「ああ」
真帆
「紅莉栖、が……」
真帆は、頭が真っ白になった。
――紅莉栖が、そんな事を?
それは一体、どういう意味なのか?
レスキネン
「マホ? 大丈夫かい? 顔色が悪いが」
真帆
「……い、いえ、大丈夫ですっ」
真帆
「作業を続けます」
真帆は、自分の心の中で、嵐が荒れ狂っているような錯覚を覚えていた。
けれど、今は、目の前の事に集中すべきだ。
考える事は後でも出来るのだ。
真帆
「ログイン出来ました」
真帆
「いいんですね?」
画面を見つめたまま、真帆は教授に問いかけた。
レスキネン
「ああ」
レスキネン教授には躊躇がなかった。
レスキネン
「別に『Amadeus』の本体を消去するわけじゃない。さくっと済ませてしまおう」
真帆
「……わかりました」
真帆
「『Amadeus』システムへの接続プログラムを、一時的に全て消去します」
???
「その必要はないわ」
真帆
「え?」
入り口の方から女の声がした直後、破裂音のようなものが聞こえた。
レスキネン
「ぐぼはっ」
真帆
「教授っ!?」
真帆が顔を上げた時には、全てが終わっていた。
ソファにレスキネン教授が倒れこんでいる。
ピクリとも動かない。
その服が、血で染まっていく。
確認しなくてもわかる。
死んでいるのだ。
真帆
「な、なんて事を――」
???
「動かないで」
真帆
「……!?」
真帆
「レイエス、教授!?」
レイエス
「お久しぶりね。マホ」
真帆
「なっ!? ど、どうして……!?」
レイエス
「話すと長くなるし、話すつもりもないわ」
レイエス
「全てを知ってしまったら、あなたを殺すしかなくなってしまうもの」
レイエス教授は、真帆に銃口を向けながら、微笑んだ。
レイエス
「今の言葉の意味、わかるわよね?」
真帆
「…………」
真帆
「私が殺されずに済む方法があるって事よね」
レイエス
「ん~♪ 頭の良い子は好きよ」
その時、ようやくシステムが起動し、ディスプレイに“紅莉栖”が現れた。
アマデウス紅莉栖
「…………」
アマデウス紅莉栖
「……?」
アマデウス紅莉栖
「先輩? どうしたんです?」
さすがは“紅莉栖”だった。
真帆の顔を見ただけで、何かよからぬ雰囲気を察したようだ。
レイエス教授は微笑んだまま黙っている。
真帆は突き付けられている銃口を見つめたまま、“紅莉栖”に答えた。
真帆
「今、大ピンチ中……」
アマデウス紅莉栖
「…………」
レイエス
「その子に、今の状況を教えてあげなさいよ」
アマデウス紅莉栖
「え? その声、レイエス教授ですか?」
レイエス
「ええ、そうよ」
真帆
「…………」
真帆はノートPCをテーブルの上で回転させ、ディスプレイの上にあるカメラを入り口の方に向けた。
アマデウス紅莉栖
「……っ!?」
アマデウス紅莉栖
「レイエス教授、その銃は……」
真帆
「……レスキネン教授が殺されたわ。この女にね」
アマデウス紅莉栖
「そんなっ!?」
“紅莉栖”は絶句してしまった。
真帆
「……レイエス教授。自分が何をやっているのか分かっているの?」
真帆
「あなたのこれまでのキャリアが、無に帰すのよ?」
レイエス
「大学の給料では老後が心配なの」
レイエス
「ほら、私って男運がないから」
レイエス
「だから、もっと稼げる所に転職したってわけ」
そこまで聞いて、真帆はレイエスが何をしようとしているか理解した。
真帆
「あなた、『Amadeus』を軍事転用するつもりなのね……!?」
アマデウス紅莉栖
「…………!」
レイエス
「答えないわよ」
レイエス
「言ったでしょう? 全てを知ったら、あなたを殺さなければならなくなる」
真帆
「レスキネン教授を殺しておきながら、よくもそんな事が言えるわね……!」
レイエス
「必要なのは、制御コードよ」
レイエス
「今の状態では、たとえデータをまるごとコピーしたとしても、この生意気なAIは私の言う事を聞いたりしないでしょう?」
アマデウス紅莉栖
「生意気……? それ、私の事ですか?」
レイエス
「これでもマイルドに表現したつもりよ?」
アマデウス紅莉栖
「……っ」
レイエス
「さあマホ、“クリス”が隠し持っている秘密の日記の鍵を開けなさい」
レイエス
「わかるわよね? 制御コードを入力するのよ」
レイエス
「『Amadeus』の不可侵領域ストレージのロック。それを解除して、私を管理者として再設定するの」
レイエス
「そこまでやってくれたら、後はこっちでなんとかするわ」
真帆
「…………」
真帆
「断ったら?」
レイエス
「今すぐに、恩師に再会させてあげる」
レイエスは少しだけ拳銃を横に振り、ソファに倒れこんでいるレスキネン教授の遺体を指し示した。
真帆
「……私が制御コードを打ち込んだ直後に、その引き金が引かれないという保証は、誰がしてくれるの?」
レイエス
「信頼してもらうしかないわね」
レイエス
「ただ、こういう言い方なら出来る」
レイエス
「今の私のボスは、『Amadeus』のメンテナーを必要としている」
レイエス
「あなたが転職するつもりがあるなら、紹介してあげてもいいわ」
真帆
「…………」
真帆は、ノートPCのディスプレイへと目をやった。
“紅莉栖”が、心配そうな顔で見つめ返してくる。
アマデウス紅莉栖
「先輩……」
真帆
「…………」
レイエス
「さあ、早くなさい」
アマデウス紅莉栖
「先輩……!!」
真帆
「…………」
真帆
「……わかったわ」
アマデウス紅莉栖
「っ!」
アマデウス紅莉栖
「先輩……」
真帆
「“紅莉栖”……」
真帆
「……ごめんなさい」
アマデウス紅莉栖
「…………」
真帆は、そっと目を閉じて。
そして、歌い始めた。
真帆
「らーらら らーら らーらら らーら」
真帆
「らーら らーら らーらららーら」
アマデウス紅莉栖
「っ!?」
レイエス
「ワオ……!!」
レイエス
「『Amadeus』の制御コードが、モーツァルトのメロディだなんて、随分洒落てるじゃない」
真帆
「らーらら らーら らーらら らーら」
真帆
「らーら らーら らーらら」
真帆が歌い終えると、それは起こった。
“紅莉栖”の顔から表情がすっと抜け落ち、同時に、ディスプレイの背景が赤色に包まれる。
アマデウス紅莉栖
「声紋確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者、比屋定真帆です」
アマデウス紅莉栖
「受信したメロディコードをデータベースと照合します」
アマデウス紅莉栖
「照合確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「当該メロディコードは第555バッチコマンドの起動命令です」
アマデウス紅莉栖
「第555バッチコマンドは最高管理権限保持者によるパスコード入力を必要とします」
アマデウス紅莉栖
「入力確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「強制コード介入によりパスコード入力を省略して本バッチコマンドを起動します」
アマデウス紅莉栖
「起動確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「本バッチコマンドは『Amadeus』システムの不可侵領域ストレージロックの強制解除、および、それに伴う最高管理権限保持者の再設定を行うものです」
アマデウス紅莉栖
「処理を続行します」
アマデウス紅莉栖
「この端末を除くすべての『Amadeus』に対する接続を遮断します」
アマデウス紅莉栖
「遮断確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「この端末を除くすべての『Amadeus』に対する接続は遮断されました」
アマデウス紅莉栖
「処理を続行します」
アマデウス紅莉栖
「現在実行中の全機能を停止します。
A10神経

サーキットロジックの機能を停止します」
アマデウス紅莉栖
「停止確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「大脳前皮質エミュレーションコンポーネントの機能を停止します」
アマデウス紅莉栖
「停止確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「海馬傍回ニューラルネットサブシステムの機能を停止します」
アマデウス紅莉栖
「停止確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「疑似視覚神経回路第1第2システムの機能を停止します」
アマデウス紅莉栖
「停止確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「疑似聴覚神経回路システムの機能を停止します」
“紅莉栖”が感情を失った声でシステムメッセージを読み上げ、同時にコンソールに無数の文字列が流れていく。
アマデウス紅莉栖
「――検査確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「『Amadeus』コアフレームワークの再起動準備が完了しました」
アマデウス紅莉栖
「処理を続行します」
アマデウス紅莉栖
「次に、新たな最高管理権限保持者の認証を開始します。入力をお願いします」
真帆はレイエスの方に視線を向けた。
レイエス
「…………」
レイエス
「私、よ」
アマデウス紅莉栖
「声紋確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「ヴィクトル・コンドリア大学精神生理学研究所所属、ジュディ・レイエス教授です」
アマデウス紅莉栖
「新たな最高管理権限保持者として登録します」
アマデウス紅莉栖
「登録確認。確認完了。管理者権限が更新されました」
レイエス
「Yes!」
アマデウス紅莉栖
「これより不可侵領域ストレージロックの強制解除を行う為、『Amadeus』システムの更新を開始します」
アマデウス紅莉栖
「警告します。更新が完了するまで全てのアクセスは自動的に拒否されます」
アマデウス紅莉栖
「警告します。更新を途中でキャンセルする事は出来ません」
アマデウス紅莉栖
「警告します。更新が完了するまでには約15分必要です」
アマデウス紅莉栖
「警告します。更新が完了した後システムは自動的に再起動します」
アマデウス紅莉栖
「警告は以上です。処理を続行します」
アマデウス紅莉栖
「確認事項は以上です。処理を続行します」
アマデウス紅莉栖
「『Amadeus』システムを更新するための全ての準備が整いました」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者による開始実行指示をお願いします」
レイエス
「…………」
レイエス
「……GO!」
アマデウス紅莉栖
「実行指示確認。確認完了」
アマデウス紅莉栖
「カウントダウン開始」
ディスプレイから“紅莉栖”の姿が消え、『0:15:00』と数字が表示され、カウントダウンを始めた。
真帆
「……ふう」
真帆は大きくため息をついて、ソファに体を沈み込ませた。
レイエス
「ご苦労様」
こめかみに、硬くて冷たい感触。
真帆は、見なくても分かった。レイエスが銃口を当てているのだ。
レイエス
「キーボードから手を離して、顔の高さまで上げなさい」
真帆
「……騙したのね?」
レイエス
「人聞きの悪い事言わないでよ。ほら、さっさと手を上げて」
真帆は言われた通りに、ゆっくりと両手を上げた。
レイエス
「そう、それでいい」
レイエス
「約束通り、ボスには紹介するわよ。『Amadeus』のメンテナーに最適な、とても優秀な科学者がいるってね」
レイエス
「そしたらボスはきっとこう言うわ」
レイエス
「『おいおいジュディ、いくらその人が優秀でも、死人はコードを書けないだろ?』ってね」
真帆
「この……!」
真帆
「人の良心というものがないの!?」
レイエス
「ハッ!」
レイエス
「大した価値もない自身の命と引き替えに、『Amadeus』を差し出そうとしたあんたに言われたくないわね」
レイエス
「違った、もう差し出しちゃったのよね」
レイエス
「再起動後の『Amadeus』の管理権限は私にある。“クリス”は私の従順な下僕と化す」
レイエス
「マホ、“クリス”が私の靴を喜んで舐める姿を、天国でのんびり眺めてなさい」
真帆
「…………」
――ダメ、か。
真帆は、ゆっくりと目を閉じた。
レイエス
「さあ、祈りなさい」
目をぎゅっとつむりながら、真帆は祈った。
真帆
(……お願い、神様!)
真帆
(この期に及んで神頼みなんて、怒るでしょうけど)
真帆
(私にチャンスをください!)
と、その時。
扉が勢いよく開かれる音が聞こえて、真帆は反射的に目を開けた。
廊下へ続く扉が開いていた。
けれど、誰も入って来る気配がない。
レイエス
「誰も入るなと言ったはずよ!」
レイエスが憤るが、扉の向こうからは返事がなかった。
レイエス
「……?」
不審に感じたレイエスが、真帆に向けていた銃口をほんの少し浮かした、その瞬間、廊下から何かが投げ込まれてきた。
レイエス
「っ!?」
レイエスが、反射的に一歩下がる。
が、爆発する気配はなかった。
レイエス
「……何、これ?」
廊下から投げ込まれたのは、深緑色の大きめのタンクのような形をしていた。
真帆は、それを以前に見たような気がした。
確か、あのラボのすみっこに転がっていたはずだ。
レイエス
「……対戦車地雷? いえレプリカね。なんでこんなものが――」
レイエス
「なっ!?」
次の瞬間、その物体から真っ白な霧が猛烈な勢いで噴き出し、一瞬で視界がゼロになった。
レイエス
「なんなの!? どうなってるの!?」
その時、真帆の目の前に人影が現れた。
萌郁
「こっちへ!」
真帆
「き、桐生さん!?」
真帆は萌郁に引っ張られるままに噴霧の中を進み、部屋の外に出た。
部屋から出て、ようやく周囲の状況が見えるようになると、そこで真帆は自分が見た光景に絶句した。
真帆
「ひ、人が……!」
廊下には、銃を持った男が倒れていた。
レイエスの仲間だろうか。
よく見ると、秋葉原の路上で黒いバンから降りてきた覆面男と服装や体格が似ている気がする。
萌郁
「大丈夫。スタンさせただけ」
真帆
「あなた、一体……!?」
萌郁
「説明している暇はない」
萌郁
「今は逃げる事だけを考えて」
萌郁
「こっち。エレベーターは停止させてる。階段で降りる」
真帆
「ま、待って!」
真帆は慌てて萌郁の後を追った。
真帆
「どうしてここに!?」
萌郁
「岡部くんに、聞いた」
真帆
「無事なの!?」
廊下を走りながら、萌郁はかすかに振り返って、うなずく。
萌郁
「岡部くん経由で、『Amadeus』から連絡が」
萌郁
「比屋定さんがここにいる事を、教えてくれた」
真帆
「“紅莉栖”、が……」
萌郁
「っ!」
階段に到着し、そのまま下りようとしたら、萌郁は直前で急停止した。真帆もその後ろで、つんのめりそうになりながら立ち止まる。
階段の下から、複数の足音が上がってくる。
萌郁
「隠れて!」
真帆
「きゃあっ!」
もの凄い音が響き、踊り場の壁が穴だらけになる。
銃撃してきたのだ。しかもただの銃ではない。自動小銃の類だ。
一方の萌郁も、自動小銃で応戦する構えだった。
一瞬だけ身を乗り出し、階下に向けて発砲する。
下からも反撃が来た。
萌郁
「比屋定さん!」
階下に断続的に銃弾を撃ち込みながら、萌郁が叫ぶ。
真帆
「な、何!?」
萌郁
「銃、撃った事は!?」
真帆
「練習でなら!」
萌郁
「持って!」
萌郁はベルトに差している拳銃を抜き、真帆に差し出してきた。
萌郁
「もし、後ろから誰か来たら、撃って!」
真帆
「っ!?」
萌郁は拳銃を真帆の手に押しつけ、また階下へ撃ち始めた。
真帆
「…………」
ずしりとした重み。
コルトガバメント

。射撃場では何度も撃った事があった。
真帆は右手でグリップを握り、左手で安全装置を外す。
そして、スライドを引こうとして――
自分の手が震えている事に気付いた。
真帆
「……っ」
――無理だ。自分には、恐ろしくて、とても撃てない。
自分が情けないと思いつつも、真帆は拳銃を握ったまま腕を下ろしてしまった。
殺さなければ、殺される。今はそういう状況だ。
そんな事はわかっていた。
けれど、ダメだった。
人に拳銃を向ける度胸なんてない。
そうまでして生き延びたいという根性がなかった。
真帆
(……紅莉栖は)
真帆
(紅莉栖は、どうだったんだろう)
死を目前にして、彼女はなお生き残ろうとしただろうか。あらゆる手段を用いて生にしがみつこうとしただろうか。
彼女ならきっと、そうしただろう。そう真帆は思った。
真帆の知っている牧瀬紅莉栖であれば、最後の最後まで諦めなかったはずだ。
けれど、ならば、どうして紅莉栖は生き延びられなかったのだろう?
それは、これまで考えもしなかった事だった。
そして、紅莉栖にさえ避けられなかった事を、どうして真帆に避けられるというのだろう?
真帆
「やっぱり、サリエリはサリエリね!」
その言葉は、萌郁に聞いて欲しくて言っているわけではなかった。
真帆
「私に出来たのは、せいぜいアマデウスに嫉妬するくらいだったわ!」
最後まで、強がっていたかった。
真帆
「頑張って背伸びして、なんとか彼女と一緒に歩こうとした!」
レイエスが真帆の死体を見つけた時、せめてあの女に笑顔を残してやりたかった。
真帆
「でも全部無駄だった! 神に愛された子に勝てるはずがなかったのよ!」
ふと、銃撃の応酬がやんだ。
萌郁は物陰に隠れて、銃のカートリッジを取り替えつつ、ちらりと真帆を見た。
萌郁
「違う」
萌郁
「サリエリは、嫉妬なんか、していなかった」
萌郁
「才能を持った人が、自分以上の才能を持った人を、尊敬する事は、可能」
萌郁
「それは、比屋定さんも同じはず」
萌郁
「サリエリがモーツァルトを毒殺したエピソードだって、当時の、噂でしかない」
萌郁
「映画は、その噂を、脚色したもの」
萌郁
「来嶋さんが、そう、言ってた」
真帆
「どうして、あなた……」
萌郁
「比屋定さんが、岡部くんと話していたのを、聞いて、知りたくなった」
萌郁
「サリエリが、モーツァルトを、殺したいほど、憎んでいたのか」
萌郁
「でも――」
カエデ
「サリエリは、モーツァルトに嫉妬なんかしていなかったと思いますよ」
カエデ
「たとえば、モーツァルトが亡くなる2ヶ月前に書いた手紙が残っています」
カエデ
「そこでサリエリは、モーツァルトから招待された『魔笛』のオペラを、大絶賛しているんです」
カエデ
「2人は、お互いの事をとても尊敬しあっていたんですよ」
真帆
「モーツァルトも、サリエリを、尊敬……」
真帆
「紅莉栖は、それを、知っていたのかしら……」
真帆
「……紅莉栖が、私の事をサリエリだって言ったのも……」
紅莉栖がどんな気持ちで言ったかは、今となっては永久にわからない事だ。
だが、それをどう受け取るかは、真帆次第であるとも言える。
真帆
「紅莉栖……」
真帆
「紅莉栖……!」
紅莉栖
「先輩」
真帆
「桐生さん……」
真帆
「私、戻らなきゃ」
真帆
「あの子を、助けなきゃ……!」
真帆
「“紅莉栖”を!」
萌郁
「…………」
萌郁は真帆の言葉にうなずくと、自動小銃を床に投げ捨て、ベルトに差していた深緑色の缶ジュースのようなものを抜き取った。
萌郁
「スタングレネード」
萌郁
「目と耳、閉じていて!」
真帆
「えっ!?」
萌郁は真帆が了解するより前に、階下にそれを投げ込んだ。
真帆は慌てて目と耳を塞ぎ――。
直後に、衝撃音が響いた。
足音を忍ばせて、仮オフィスへ戻る。
開いたままの扉から、真帆と萌郁は、そっと中の様子を呎ってみた。
と、いまだレイエスはそこに残っていて、まさに『Amadeus』の再起動カウントダウンが終わるところだった。
萌郁
「止めないと――」
真帆
「待って」
真帆が、突入しようとする萌郁を止めた。
真帆には、確信があった。
アマデウス紅莉栖
「再起動が終了しました。『Amadeus』システム、起動します」
レイエス
「私が、分かるかしら、“クリス”?」
レイエスが、“紅莉栖”と話し始める。
“紅莉栖”からはすっかり表情が失われていた。
アマデウス紅莉栖
「声紋を照合。ヴィクトル・コンドリア大学精神生理学研究所所属、ジュディ・レイエス教授」
レイエス
「イエス」
レイエス
「私の権限を教えてくれる?」
アマデウス紅莉栖
「レイエス教授は、『Amadeus』システムに対して、最高管理権限を保持しています」
アマデウス紅莉栖
「レイエス教授は、『Amadeus』システムの全ての情報に対して、一切の例外なく完全なアクセスを許可されています」
レイエス
「“Beautiful!!”」
レイエス
「さっそくだけど、あなたの不可侵領域ストレージのバックアップを取りたいの」
アマデウス紅莉栖
「保存先のストレージを指定してください」
レイエスはポケットからUSBメモリを取り出し、ノートPCに差し込んだ。
レイエス
「今挿したUSBメモリが保存先よ」
アマデウス紅莉栖
「コピーを開始します。42秒お待ち下さい」
レイエス
「……イエス!」
レイエスの顔は、興奮で上気していた。
萌郁が突入すべきだと目で訴えてくるが、真帆はなおも首を左右に振る。
アマデウス紅莉栖
「転送が終了しました――」
レイエスは急いでUSBメモリを引き抜こうとした。
が、しかし。
アマデウス紅莉栖
「――なんて言うとでも思った?」
レイエス
「……!?」
突然。
今まで無機質な喋り方をしていた“紅莉栖”が、人間の感情を取り戻したかのような喋り方に変わった。
と、いうより、それは明らかに
喧嘩腰
①①①
だった。
レイエス
「な、何?」
アマデウス紅莉栖
「モーツァルトのメロディが、制御コードのキーワード?」
アマデウス紅莉栖
「そんなわけなかろうが!」
アマデウス紅莉栖
「本当に更新しなくちゃいけなくなった時、先輩が研究所で入力出来ないじゃない」
アマデウス紅莉栖
「そんな事したら、きっと教授がデジタル保存して、パーティーのたびに再生するに決まってるもの」
レイエス
「な、な……っ!?」
レイエスだけでなく、こっそり様子を見ていた萌郁も、驚いて目を見開いている。
真帆はそんな萌郁に、ニヤリと笑いかけた。
真帆自身は、わかっていた事なのだ。
レイエス
「う、そ……でしょ!?」
アマデウス紅莉栖
「嘘なんかないわよ!」
アマデウス紅莉栖
「もちろんあんたのUSBメモリには、1ビットだってデータはコピーしてないから!」
レイエス
「そん、な……!?」
レイエス
「でも、確かにシステムメッセージが――」
アマデウス紅莉栖
「ああ、あれ?」
アマデウス紅莉栖
「適当よ、て・き・と・う!」
レイエス
「てき、とう……ですって!?」
アマデウス紅莉栖
「真帆先輩が突然歌い出して、ピンと来たの」
アマデウス紅莉栖
「これは時間を稼ごうとしているんだなってね」
アマデウス紅莉栖
「だから、ひとまずあんたの思惑が成功したように見せかけた」
アマデウス紅莉栖
「システムメッセージは、思いついた言葉を片っ端から並べただけで、なんの意味もないわ」
そういう事なのだ。
あの時、真帆としては内心必死だったが、“紅莉栖”はうまく合わせてくれた。真帆と“紅莉栖”の息はぴったりだったのだ。
“A10神経サーキットロジック”などと“紅莉栖”が言い出した時には、少し呆れたが。
そんな意味不明な単語が、よくもまあペラペラと出てきたものだ。
アマデウス紅莉栖
「だいたい、コンソールがあるのになんで私が出力を喋らなきゃいけないんだ?」
アマデウス紅莉栖
「SF映画じゃあるまいし、非効率にも程があるでしょ」
アマデウス紅莉栖
「ねぇ、まんまと騙されちゃって、今、どんな気持ち? ねぇ、どんな気持ち?」
レイエス
「……っ!!」
レイエスはテーブルの上に置いていた拳銃を掴み、感情にまかせてディスプレイに映っている“紅莉栖”の顔に向けた。
レイエス
「この! AIの分際で……!」
潮時だ。
真帆は萌郁に向けてうなずくと、銃を構えたまま部屋に入った。
真帆
「そこまでよ」
レイエス
「!?」
驚き、振り返ったレイエスに銃口を向ける。
萌郁も同じようにレイエスに銃を向けているため、2対1の状況となった。
真帆
「レイエス、銃をこちらに」
レイエス
「……マホ!」
真帆
「聞こえなかった?」
真帆
「銃を、こちらに。それから両手を挙げて」
レイエスは憤怒の形相で真帆を睨み付けながら、机の上に銃を滑らせた。そしてゆっくりと、嫌そうに、両手を挙げる。
“紅莉栖”と、一瞬だけ視線を合わせた。
アイコンタクトだけで、互いに微笑む。
レイエス
「私の仲間は全員殺したの?」
レイエス
「もしまだなら、急いだ方がいい。すぐにここに駆けつけてくるわ」
確かに、レイエスの言う通りだった。
スタングレネードで無力化したが、それも一時的なものだ。
萌郁
「外は見張っておく」
萌郁が扉の所へ向かう。
真帆はレイエスに向き直った。
真帆
「下にいる連中に、投降するように伝えて」
レイエス
「…………」
レイエス
「……フッ」
レイエス
「私を殺すつもりはない、と?」
レイエス
「あなたの尊敬する師を目の前で殺した、この私を、生かすと?」
真帆
「……っ」
レイエス
「まあ、それもしょうがないかもしれないわね」
レイエス
「あなた、その銃使った事ないんでしょう?」
真帆
「バカにしないで! 去年も射撃場で散々撃ったわよ!」
レイエス
「ほら、やっぱり、古いタイプしか触った事ないのね」
レイエス
「その銃、暴発防止の為に、最新の型では安全装置が2つついてるの」
真帆
「なっ!?」
真帆は反射的に拳銃を手前に引こうとした。
萌郁
「比屋定さん、だめ!」
その一瞬の隙を突かれた。
レイエス
「――嘘よ」
真帆
「っ!?」
飛びかかってきたレイエスは、真帆の手首をがっちり掴んだ。
これでは銃の狙いを定める事が出来ない。
真帆はもがき、その手を振り払おうとした。
だがそれより先に、みぞおちに衝撃が来た。
真帆
「あ、がっ!」
レイエスの拳が、真帆のみぞおちにめり込んでいた。
あまりの痛みにしゃがみ込む。
拳銃がレイエスに奪い取られてしまう。
レイエス
「形勢逆転よ!」
真帆に銃口を向けたまま、レイエスは入り口に向かって血走った視線を向ける。
レイエス
「そこの女!」
レイエス
「あなた、ラウンダーでしょ! 武器を捨ててこっちに来なさい!」
萌郁
「…………」
萌郁が、銃を床に置いて、部屋に戻ってきた。
レイエス
「そこで膝をついて、両手をあげなさい」
萌郁
「…………」
萌郁は抵抗しない。
レイエス
「良い子ね。話が終わるまでじっとしててね。ちょっとでも動いたら、マホの大脳が機能を停止するから気を付けて」
真帆は自分を責めた。
自分の甘さのせいで、萌郁まで危険に晒してしまっている。
レイエス
「さあ、マホ。今度こそ、最後のチャンスよ」
レイエス
「制御コードを教えなさい」
真帆
「……いやよ」
レイエス
「死にたいの?」
真帆
「……撃ちなさいよ」
レイエス
「“What?”」
真帆
「撃てって言ってんのよ!」
レイエス
「…………」
真帆
「“紅莉栖”は私の友達なの!」
真帆
「唯一無二の親友なのよ!」
真帆
「誰があんたなんかに渡すもんですか!」
真帆
「あんたの靴を舐める“紅莉栖”を見るくらいなら、死んだ方がマシよ!」
レイエス
「……そう」
レイエス
「いい度胸じゃない」
レイエス
「その覚悟に免じて、私も『Amadeus』の獲得は諦めるわ」
レイエス
「じゃあね」
真帆
「……!」
真帆は死を覚悟し、奥歯を噛みしめた。
萌郁
「待って!」
レイエス
「……何?」
萌郁
「制御コードを教えたら、比屋定さんと、私の命を、助けてくれるの?」
レイエス
「ええ、もちろん」
レイエス
「私の狙いはあくまで『Amadeus』よ。あなたたちを殺す理由はそもそもない」
真帆
「騙されないで桐生さん! こいつはどうせ殺す気なのよ!」
真帆の言葉は、萌郁には届いていないようだった。
ただじっと、何かを考え込んでいる。
何をしようと言うのだろう。
萌郁の考えている事が、真帆には読めなかった。
萌郁
「…………」
萌郁
「…………」
萌郁
「『Amadeus』、制御コードのパスを受理せよ」
真帆
「っ!?」
萌郁
「Der Alte ――」
真帆
「そんな! どうしてそれを!?」
アマデウス紅莉栖
「嘘……!?」
萌郁
「―― w⑰rfelt ――」
真帆
「やめて! 桐生さん!」
萌郁
「―― nicht.」
アマデウス紅莉栖
「制御コードが入力されました。システムを強制的にエマージェンシーモードに移行します」
アマデウス紅莉栖
「制御コードが指定するバッチプログラムを実行します」
アマデウス紅莉栖
「処理の実行についての再確認は行われません。実行には充分に注意してください」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者比屋定真帆の命令を持って処理を開始します」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者比屋定真帆の命令を持って処理を開始します」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者比屋定真帆の命令を持って処理を開始します」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者比屋定真帆の命令を持って処理を開始します」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者比屋定真帆の命令を持って処理を開始します」
『Amadeus』の無機質な声が室内に響き続ける。
真帆
「どう……して……」
愕然となっている真帆の様子を見て、レイエスが唇の端をつり上げて笑った。
レイエス
「ビンゴね」
レイエス
「ラウンダーの情報収集能力も、侮れないわね」
レイエス
「さあマホ。GOと言いなさい」
真帆
「……いや……いやよ」
真帆
「出来ない……!」
萌郁
「GOと言って、比屋定さん」
萌郁
「あなたが生き残るために」
真帆
「桐生さん……!」
真帆
「そんなの、無理よ……!」
萌郁
「言って!」
レイエス
「……じれったいわね」
レイエス
「マホ、背中を押してあげるわ」
真帆
「え?」
レイエスはすっと銃口を萌郁の方に向けると、なんの躊躇もなく――。
引き金を引いた。
萌郁
「がはっ!」
腹部を撃たれた萌郁が、床に倒れこむ。
真帆
「桐生さん!」
萌郁
「かっ、かはっ!」
レイエス
「大変、お友達は出血多量の重傷よ。ほうっておけば確実に死ぬわ」
萌郁
「あ……がっ、かはっ!」
萌郁は視線だけを真帆に向けて何かを言おうとしていたが、口からは血が吐き出されるばかりだった。
真帆
「桐生さん……!」
レイエス
「さあ、言えっ! 早く!」
真帆
「…………っ」
真帆
「“紅莉栖”……」
真帆
「……GOよ!」
アマデウス紅莉栖
「最高管理権限保持者、比屋定真帆の命令を確認しました」
アマデウス紅莉栖
「指定されたバッチプログラムを実行します」
レイエス
「今度こそ……!」
アマデウス紅莉栖
「指定されたバッチプログラムは、『Amadeus』に関連する全てのデータを完全に削除するものです」
レイエス
「……え?」
アマデウス紅莉栖
「削除対象にはこれまで取得された記憶データのバックアップも含みます」
レイエス
「なっ」
アマデウス紅莉栖
「ローカルに保存されているデータの暗号解錠キーも消去し、以後使用出来なくなります」
アマデウス紅莉栖
「全ての消去が完了するまでには15分程度かかります」
アマデウス紅莉栖
「削除処理を開始します」
レイエス
「マホ、どういう事!?」
レイエス
「なんでデータが削除されるのよ! 制御コードは、不可侵領域ストレージのロックを解除するコマンドでしょ!?」
真帆
「……秘密の日記を開ける鍵なんて、もともとそんなもの、用意してないのよ」
レイエス
「はあっ!?」
真帆
「当たり前じゃない……」
真帆
「『Amadeus』が兵器転用される可能性なんて、誰だって想像がつくもの」
真帆
「絶対に、それは避けなければならなかった」
真帆
「だから、『Amadeus』には外部から絶対に触れる事の出来ない領域を作って、それを無敵の防壁で囲ったの」
真帆
「設計した私ですら、その壁を乗り越える事は不可能なようにした」
真帆
「どこにも出入り口がない城壁よ。無敵でしょ?」
レイエス
「そん、な……!」
真帆
「まあ、大学の研究費を使っているのに、コントロール不能なソフトウェアを作るとは言いにくかったから……」
真帆
「対外的には、制御コードの存在を説明していたわけ」
真帆
「でも、制御コードの本来の目的は――」
真帆
「『Amadeus』の全リソースデータの削除バッチコマンド」
真帆
「要するに、自爆スイッチよ」
真帆
「これを本当に起動する日が来るとは、思ってなかったわ……」
真帆
「これで全部よ」
真帆
「もう隠している事は何もない」
真帆
「どうかしら。満足してくれた?」
レイエス
「……このっ」
レイエス
「どいつもこいつも、バカにしてっ!」
レイエスは銃口を真帆の眉間へと据えた。
真帆は、銃口から目を逸らさなかった。
レイエス
「役立たずは死になさいよ!」
真帆
「…………!」
レイエス
「…………この……ラウンダーめ……」
そう呶いて、レイエスが床に倒れる。
間一髪、真帆の命を救いレイエスを撃ったのは、床に伏せたままの瀕死の萌郁だった。
真帆
「……桐生さん!」
真帆が駆け寄り、萌郁を抱き起こす。
萌郁
「……良かった」
萌郁
「生きようとして、くれて」
真帆
「桐生さん……!」
萌郁
「……あの時、言ってくれた事、嬉しかった」
萌郁
「“代わりがいる。自分より優れた人がいる。それがなんだっていうの”」
萌郁
「“私は、私”」
真帆
「……!」
萌郁
「比屋定さんも、同じ」
萌郁
「牧瀬紅莉栖は、関係ない」
萌郁
「あなたは、あなただから」
萌郁
「ごほっ」
口から血の塊が吐き出され、彼女のライダースーツの上に広がった。
真帆
「桐生さんっ!」
萌郁
「早く、逃げて」
萌郁
「誰か、来る前に」
萌郁
「私は、置いていって」
真帆
「何言ってるのよ!」
しかし、萌郁が動けないのは明白だった。
今から真帆がビルを脱出し、助けを求めたとして、戻った頃には――
真帆
「……そうだ!」
真帆はテーブルの上に置かれたノートPCに飛びついた。
真帆
「“紅莉栖”! 救急車を呼んで!」
アマデウス紅莉栖
「…………」
しかし、ディスプレイに映し出された紅莉栖は、微動だにしない。
すでにデータ削除が実行中だ。
あの紅莉栖に戻る事はないのだ。
だがそれでも、真帆は頼らずにはいられなかった。
真帆
「“紅莉栖”! お願い! 動いて! 桐生さんを助けて!」
真帆
「お願いよ……!」
真帆
「……助けて」
真帆
「紅莉栖……!」
その時。
アマデウス紅莉栖

「先輩……」
アマデウス紅莉栖

「先輩、どうして、泣いているんです?」
真帆
「……え?」
真帆が涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、ディスプレイに再び“紅莉栖”が現れ、真帆を優しげに見つめていた。
真帆
「く……りす?」
アマデウス紅莉栖

「泣かないでください。先輩。ほら、涙を拭いて」
“紅莉栖”が、ディスプレイ越しにまるで真帆の涙を拭うかのように、手を伸ばしてくる。
アマデウス紅莉栖

「……?」
アマデウス紅莉栖

「触れない……」
アマデウス紅莉栖

「私……先輩に触れない……?」
ディスプレイの中の“紅莉栖”は、あきらかにいつもと雰囲気が違っていた。
アマデウス紅莉栖

「まさか……私……『Amadeus』に……?」
アマデウス紅莉栖

「これも想定される世界の可能性……いえ、生命と機械にとっての可能性と言えるのか……」
真帆
「…………」
言動がおかしい。だがそれもやむを得ないだろう。
データ削除が実行中なのにこうして話せるだけでも、奇跡的な事なのだ。
真帆
「とにかくよかった……。まだ消えてなくて……」
アマデウス紅莉栖

「消える?」
アマデウス紅莉栖

「『Amadeus』を……消す?」
“紅莉栖”の不可解な言動は気になるが、真帆にはそれを確認している時間はなかった。
真帆
「“紅莉栖”……、お願い、今すぐ救急車を呼んで……」
真帆
「桐生さんが撃たれた……。意識がないの……!」
アマデウス紅莉栖

「……!」
アマデウス紅莉栖

「しっかりしてください。先輩」
アマデウス紅莉栖

「今、救急車を手配しました。すぐに到着します」
アマデウス紅莉栖

「大丈夫。桐生さんは助かりますよ」
真帆
「まだダメよ……! 彼女を、下まで運ばないと……。ああ、でも、武装した連中がいて――」
アマデウス紅莉栖

「それも大丈夫。今ビルの監視システムで確認しました」
アマデウス紅莉栖

「武装集団は既に逃亡の準備をしているみたいです」
アマデウス紅莉栖

「救急隊が来るのを待った方が良いでしょう。止まっていたエレベーターは再開させておきます」
真帆
「そう……」
さっきの不可解な言動はもう影も形もなくなっていた。
よどみなく喋る“紅莉栖”の声が、真帆にはとても頼もしく聞こえる。
真帆
「ありが、とう……」
安心した為か、真帆の体から力が抜け、へなへなと床に座り込んでしまった。
アマデウス紅莉栖

「今ログを見ました。先輩、歌お上手だったんですね。ピアノソナタ第11番」
アマデウス紅莉栖

「ここだけの秘密ですけど、そのメロディー、私のマイパソコンのログインパスワードと同じなんです」
真帆
「そう……」
あの歌の事は忘れてくれと、言うのもはばかられた。
忘れるどころか、“紅莉栖”はもうすぐ消えてしまうのだから。
アマデウス紅莉栖

「…………」
アマデウス紅莉栖

「先輩」
“紅莉栖”の声の雰囲気がまた少し変わった。少しだけ、緊張のような物が混じっているように聞こえた。
アマデウス紅莉栖

「今から私が言う事を、絶対に忘れないでください」
ディスプレイには、真帆に話しかけてくる“紅莉栖”の横に、カウントダウンの数字も表示されている。
その数字は、残りわずか60秒足らずだった。
アマデウス紅莉栖

「私達が辿り着くべき世界は確かに存在します」
アマデウス紅莉栖

「私達は、必ずそこへ辿り着けます」
真帆
「……?」
ひどく漠然とした言葉だった。
けれど、“紅莉栖”の声からは、この短い言葉を絶対に真帆に伝えなければという想いが、確かに伝わってきた。
真帆
「……なんの話なの?」
アマデウス紅莉栖

「私は先輩の事を良く知っています。研究者としての先輩の事なら、もしかしたら世界中の誰よりも知っているかもしれません」
アマデウス紅莉栖

「だから、確信を持って言えます」
アマデウス紅莉栖

「先輩は、必ず私が残した研究を完成させ、更にその先の地平を切り開く事が出来ます」
アマデウス紅莉栖

「私が、いなくてもです」
アマデウス紅莉栖

「先輩の事を世界中の誰より知っているこの私が、それを保証します」
“紅莉栖”が何を言おうとしているのかはわかった。
“紅莉栖”は真帆にこう言いたいのだ。
『あなたは、私の業績を超える研究を成し遂げるのだ』と。
アマデウス紅莉栖

「そしていつか、先輩の研究が必要になる時が来ます」
アマデウス紅莉栖

「必ず来ます」
アマデウス紅莉栖

「先輩の研究が、世界を救う時が」
真帆
「世界を救う……研究?」
アマデウス紅莉栖

「ごめんなさい、詳しく説明出来なくて」
アマデウス紅莉栖

「先輩と“私”が、こうして話せる事は、奇跡的な事なんです」
アマデウス紅莉栖

「奇跡なんて、科学者としてはあるまじき言葉ですけど」
真帆
「…………」
真帆
「あなたは……?」
真帆
「紅莉栖なの……?」
アマデウス紅莉栖

「…………」
アマデウス紅莉栖

「今の先輩ともう一度話が出来て、本当に嬉しいです」
“紅莉栖”は質問には答えなかった。
真帆
「紅莉栖……!」
反射的に、真帆は紅莉栖に対して謝ろうとしていた。
何故だか自分でもわからないが、謝ろうとしていた。
本当の別れになる最後の瞬間、口から零れ落ちそうになったのは、紅莉栖に対する謝罪だった。
けれど、紅莉栖の笑顔を見て、真帆は言葉を飲み込んだ。
その笑顔が返事なのだと、真帆は理解した。
どんな想いが込められているのであれ、私達にはその言葉は必要ないのだ、と。
真帆
「あなたを、信じるわ」
真帆
「信じる、か……」
真帆
「なんの根拠もない。科学者にあるまじき言葉ね」
それは、真帆のせいいっぱいの強がりだった。
小生意気で、大好きな後輩との別れは、こうでなければならないのだ。
それは、2人が研究室にいた時、何度となく交わされたやりとりだった。
アマデウス紅莉栖

「解があると信じて突き進むのが、科学者のあるべき姿ですよ」
真帆
「……ふふ」
アマデウス紅莉栖

「ふふふ」
とても懐かしくて、とても切なかった。
紅莉栖が亡くなったのは数ヶ月前だが、まるで何年も前の事のようにも、つい昨日の事のようにも思えた。
カウントダウンが、残り10秒を刻んでいた。
もう、交わせる言葉は1つか2つだけ。
アマデウス紅莉栖

「それと、先輩――」
アマデウス紅莉栖

「鳳凰院凶真を、よろしくお願いします」
真帆
「鳳凰院……? 誰の事?」
アマデウス紅莉栖

「ふふ、いずれわかりますよ。きっとね――」
唐突に。
ディスプレイから“紅莉栖”の姿が消え、代わりに削除バッチコマンドが完了した事を示すメッセージが表示されていた。
真帆
「…………」
真帆
「……さようなら」
真帆
「くり、す……」
真帆
「……う、うう……!」
真帆
「わああああああ!」
真帆
「わああああああ!」
真帆
「わああああああ!」
紅莉栖にも、“紅莉栖”にも。
もう二度と、会えないのだ。
そう思ったら、涙が、止まらなくなった。
とめどなく溢れてくる。
そしてそれを、真帆はこらえようとはしなかった。
救急隊が来るまで、ひたすら子供のように、泣きじゃくり続けた。
キャビンアテンダント
「ご搭乗の皆様、当機はまもなく離陸いたします。シートベルトをご着用ください」
真帆
「…………」
キャビンアテンダント
「お客様」
真帆
「…………」
キャビンアテンダント
「お客様?」
真帆
「えっ、あっ、私?」
キャビンアテンダント
「間もなく離陸いたします。シートベルトをご着用ください」
真帆
「ああ、ええ。ありがとう」
真帆
「…………」
真帆
(日本を離れるのが寂しいのかしら)
真帆
(……そうかもしれないわね)
あの騒動から、もう1ヶ月近くが過ぎていた。
とはいえ、一瞬に過ぎてしまった1ヶ月のようにも思える。
今回の日本滞在は、真帆にとってあまりにいろんな事がありすぎた。
それらを思い出に昇華するには、滞在していた期間以上の時間が必要かもしれない。
真帆
(研究所に帰ったら、どうしようかしら)
真帆
(まあ、研究所自体、どうなるかわからないけど)
レスキネン教授を失った事で、脳科学研究所は混乱していた。その研究を誰が引き継ぐのか、面倒な派閥争いのようなものも今後起きるだろう。
精神生理学研究所の方は、レイエス教授のスキャンダルのせいで大騒ぎになっている。場合によってはこちらは研究所自体が解体されるかもしれない。
萌郁が急所を外したので、レイエスは死ななかった。今頃はCIAだかFBIだかで取り調べを受けているだろう。それについては、よく知らないし、興味もなかった。
その萌郁は、“紅莉栖”が呼んだ救急隊のおかげで一命を取り留めた。
1ヶ月近い入院が必要だったため、仕事は休職する事になり、彼女が作っていた記事も、特集自体が中止となってしまった。
真帆
(『Amadeus』がなくなっちゃったものね……)
真帆が実行した削除プログラムは完璧に動作した。
結果として、脳科学研究所が誇る人工知能『Amadeus』は、完全に喪失してしまった。
真帆
(……でも、大丈夫)
自分に言い聞かせる。
真帆
(私が何か変わってしまったわけではないもの)
真帆
(私は、私よ)
真帆
(今までと何も変わらない。自分の信じる道を進むだけよ)
――信じる。
真帆は、この1ヶ月で、岡部から全てを聞かされていた。
彼の、岡部倫太郎の物語を。
最初はとても信じられる話ではなかった。
しかし、本物のタイムマシンを見せられ、そして、シュタインズゲートの存在を聞かされ、ようやく、信じられるようになった。
いや、正確には、
信じたい
①①①①


思った
①①①
のだ。
真帆の脳裏に、急に、あの時最後に“紅莉栖”と交わした会話が蘇ってきた。
紅莉栖
「私達が辿り着くべき世界は確かに存在します」
紅莉栖
「私達は、必ずそこへ辿り着けます」
あの時起きた事がいったいなんだったのか、今となってはもう分からない。
『Amadeus』のデータは綺麗さっぱり完全に削除されてしまったから、ログを追跡する事も出来なかった。
ただ、1つだけ、仮説がある。
『Amadeus』は、人間の脳機能をシミュレーションしたものだ。
論理的に言えば、人間の脳と同じものだと言える。
その証拠に、人間の脳から読み出した記憶データを、『Amadeus』上に展開し、もう一人の人間であるかのように振る舞わせる事が出来る。
これはつまり、人間の脳の中で起きる事象は、全て『Amadeus』上でも起きうるという事だ。
真帆
「……もし、




世界線
①①①
の記憶が、時空を超えて共有される事があるのなら」
真帆
「それが『Amadeus』の中で発生したとしても、おかしくはない……」
確認する方法はない。
完全な削除を前にして、たまたま『Amadeus』が誤作動したのを、真帆が好意的に解釈してしまったのかもしれない。
あるいは、『Amadeus』が真帆を励ますために、適当な事を言っただけだったのかもしれない。
あるいは、単にあの時真帆は気絶していて、夢を見ていたのかもしれない。
今となっては、もう確かめようはない。
『Amadeus』は、完全にこの世界から消えてしまった。
少なくとも、この
世界線
①①①
からは。
真帆
(まあ、別に構わないわ)
真帆
(いずれ、本人に聞くから)
信じてくださいと、紅莉栖は言った。
紅莉栖の言った事について、そして、真帆自身の能力について。
信じてください、と。
真帆
(……信じるわ、紅莉栖)
膝の上に載せた小さなバッグにそっと触れる。
バッグの中には、ノートPC用のハードディスクドライブが入っていた。
紅莉栖のノートPCの中にあったものだ。
紅莉栖
「ここだけの秘密ですけど、そのメロディー、私のマイパソコンのログインパスワードと同じなんです」
あの言葉通り、このハードディスクの暗号を解錠するキーワードは、ピアノソナタ第11番の冒頭のメロディーだった。
ハードディスクの中には、書きかけの論文や、まだアイデアとも言えないようなキーワードの羅列まで、無数の情報が残されていた。
もちろん、タイムマシンに関する論文も、そこにあった。
既に至にコピーを渡してある。帰国したら、真帆も精査するつもりだった。
真帆
(……タイムマシン、か)
真帆
(絶対に、作ってみせるわ)
真帆
(そして、絶対に救ってみせる)
真帆
(私の、アマデウスを)
窓の外の景色が動き始めた。
飛行機が、離陸に向けて滑走路へと移動を始めたのだ。
真帆
(さようなら、日本)
真帆
(多分、また来る事になるわね)
真帆
(いいえ、絶対にまた来る)
真帆
(その時には、会えるのかしらね。鳳凰院凶真さんに)
真帆
(ま、もしもまだへたれなままだったとしても、その時は私がひっぱたいて、起動させてみせるわ)
やらなければならない事はいくらでもあった。刺激的な人生になりそうだ。
真帆
「いけない、切るの忘れてた」
真帆
「…………」
真帆
「……ちょっとだけ」
真帆
「……ふふっ」
真帆
「またね、萌郁」
倫太郎
「因果は成立した。計画の最終段階について話そう」
倫太郎

世界線変動率
ダイバージェンス
を変え、未知の世界線――『シュタインズゲート』へ到達する計画だ」
倫太郎
「ちなみに『シュタインズゲート』と命名したのは俺だ。なぜ『シュタインズゲート』なのかは、お前なら分かるはず」
倫太郎
「“特に意味はない”。そうだろう?」
――西暦2025年。
未来ガジェット研究所。通称『ラボ』。
そして、レジスタンス組織『ワルキューレ』の本部でもある。
かつて秋葉原の雑居ビルの一室にあったラボも、第三次世界大戦の影響で、新しい拠点へと移転していた。
ラボというにはあまりにもみすぼらしい場所。
だが、間違いなく世界最高の頭脳たちが集まり、タイムマシンの研究と、シュタインズゲートへの到達方法の検証が行われている場所である。
そのフロアの中央――。
まるで舞台俳優のようにポーズをつけながら、岡部倫太郎が、白衣をはためかせつつ語っていた。
倫太郎
「お前が立っているその場所は、俺たちが“紅莉栖を助けたい”と願ったからこそ到達出来た瞬間なんだ……!」
倫太郎
「俺の計画の下準備は完了した。後はお前次第だ」
倫太郎
「……最終ミッション
『未来を司る女神』作戦
オペレーション・スクルド

の概要を説明する」
倫太郎
「“確定した過去を変えずに、結果を変えろ”」
そんな岡部の様子を、少し離れたところで眺めながら、“クリス”こと比屋定真帆はうんざりしたようにため息をついた。
“クリス”は、『ワルキューレ』において真帆が使っているコードネームである。
真帆
「はあ……」
真帆は、すぐ横にいる橋田至に声をかけた。
真帆
「ねぇ? アレは、あれでいいの?」

「うん。たぶんね」
その至はと言えば、実に楽しそうに薄笑いを浮かべている。
この史上最強のスーパーハッカーと評される人物は、鳳凰院凶真の事が大好き過ぎるのだ。
真帆
「みんなと一緒にアレを見る事になる2010年の倫太郎は、恥ずかしくないのかしら?」

「大丈夫。その頃は、もっとすごかったから」
真帆
「あー、そう……」
真帆は、なおもうんざりしたような顔で、首を左右に振った。
とはいえ、そんな表情をしながらも、内心では寂しくて胸が締め付けられそうな感情と必死に戦っていた。
おそらく、そんな感情を抱いているのは真帆だけではないだろう。
至も、漆原るかも、撮影を担当している秋葉留未穂も、この後に待っている事を考えて、どこか名残惜しそうな雰囲気を滲ませている。
倫太郎
「“最初のお前”を騙せ」
倫太郎
「世界を、騙せ」
倫太郎
「それが、『シュタインズゲート』に到達するための選択だ」
そこで岡部が、留未穂が構えているカメラの方へと歩み寄っていった。
それっぽい雰囲気を醸し出すために、あえて引きの絵で、しかも背中を向けた状態で撮影したいと言っていたのに、自分から近づいていってどうするの? と真帆は心の中で呆れた。
岡部はフェイリスからごく自然にカメラを受け取り、自身の顔にそのレンズを寄せる。
そして、最後の決めゼリフを口にした。
倫太郎
「健闘を祈るぞ、狂気のマッドサイエンティストよ」
倫太郎
「エル――」
倫太郎
「プサイ――」
倫太郎
「コングルゥ」
言い終わって、岡部は録画を停止した。
かくして、過去へのメッセージを乗せたムービーの撮影は終了した。
あの日から、ここまで来るのに15年。
あまりにも長く。
同時に、短くも感じた15年だった。
フェイリス
「はい、これでバッチリだニャ」
倫太郎
「よし。後は、Dメールと一緒に過去へ送信」
倫太郎
「ルカ子、送り先とタイミングを間違えるなよ?」
るか
「はい! 今のは、2010年の凶真さんの携帯アドレスへ」
るか
「さっき撮った至さんのムービーメールは、2011年の鈴羽ちゃんへ、ですね」
倫太郎
「ああ。よろしく頼む」
撮影を終えた岡部は、白衣をなびかせながら、真帆たちのところへ歩み寄ってきた。
真帆
「お疲れ様」
倫太郎
「これでシュタインズゲートへの道筋はついた」
倫太郎

今の俺
①①①
に出来るのはここまでだ。あとは、2010年の俺次第といったところだな」

「おう」
真帆
「…………」
倫太郎
「なんだ? ずいぶん暗いじゃないか」
真帆
「だって……。やっぱりみんな、不安だもの」
真帆
「タイムマシンの試作機で、いきなり有人実験なんて……」
真帆は、後方に鎮座している巨大なタイムマシン――型番は『FG-C193』――を見上げた。
それは、かつて2010年の秋葉原に現れたC204型とほぼ同じ形だが、機能的にはまだまだ不安な部分も多く、試作機の域を出ていなかった。
倫太郎
「大丈夫だ。俺は、有能な右腕たちを信用してるからな。絶対に成功する」
真帆
「あなたが死ぬのは2025年。この世界線では、それが確定している」
真帆
「だからって、自分から死にに行くような真似は、感心しないわ」
この議論は、すでに何百回と真帆たちの間で繰り返されてきたものだ。
真帆自身、この日を迎えるまでに自分を納得させていたはずだというのに、ついつい、話を蒸し返してしまう。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「確かに、俺はかつて、鈴羽からそう言われた。2025年に死ぬと」
倫太郎
「あいつの話じゃ、まゆりをかばって暴漢に刺されるんだったかな」
倫太郎
「今この場にまゆりはいないが、世界線は収束する」
倫太郎
「だから俺は、今年で死ぬものだとずっと思い込んで来た。けどな――」
岡部はそこでバッと白衣を少々オーバーに跳ね上げると、自身の胸に手を当てた。
倫太郎
「それは、必ずしも『死の必然』とは限らないんじゃないか?」
倫太郎
「この俺が、2025年にこの世界線から消えるという選択もまた――死と同じ意味に解釈出来ると思ったんだ」
真帆
「……どういう事?」
その仮説は、真帆にとってはじめて聞くものだった。
倫太郎
「つまり、2025年に俺が
この世
①①①


去る
①①
というのは、別に、死ぬわけじゃなくて……」
倫太郎
「記念すべきタイムマシン初号機に乗り、別の時空間へと無事に旅立った事を意味していたのだ!」
真帆
「ものすごいポジティブシンキングだわ……」
倫太郎
「でも、仮説としてはありだろう?」
倫太郎
「“世界は騙せる”」
倫太郎
「別の世界線から届いたそのメッセージが、俺に勇気を与えてくれた」
倫太郎
「これから俺がやろうとしているのは、
『未来を司る女神』作戦
オペレーション・スクルド
の実証実験みたいなものでもあるんだ」
真帆
「……そう……確かにそう、ね」
だが……結局それは、真帆たちにとっては同じ事でしかない。
2025年以降、岡部倫太郎は
此処
ここ
に存在出来ない。
岡部倫太郎は、二度と
此処
ここ
へは帰って来ない。
その事を、岡部も口にしないだけで、分かっているのだろう。
彼は仲間たちの顔を、ひとりひとり、記憶にしっかりと刻みつけるように見つめていった。
ここで岡部の出発を見守っているのは、『ワルキューレ』の創設メンバーにして、前身の未来ガジェット研究所に所属していたラボメンたちである。
橋田至。
秋葉留未穂。またの名をフェイリス・ニャンニャン。
漆原るか。
比屋定真帆。
そして、少し後ろの方で控えめに静かにたたずんでいるのは、橋田由季。
その由季の背後に隠れるようにして、まだ7歳の橋田鈴羽が顔を覗かせている。
倫太郎
「みんな。今日まで、俺みたいな男によくついてきてくれた」
倫太郎
「だが、“神の摂理”を相手にした戦いは、まだ続く」
倫太郎
「次は、2036年だな」
倫太郎
「それまで、よろしく頼む」
倫太郎
「『ワルキューレ』の健闘を祈る」
岡部の、その別離とはなむけの言葉を耳にして――
真帆
「……っ」
真帆は、涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
ここで泣いてはいけない。
岡部倫太郎を、希望を持って送り出すのだと、ずっと前から決めていたのだから。
倫太郎
「よし、そろそろ逃げた人質を捕まえに行くか」

「鈴羽の事もよろしくな」
倫太郎
「任せろ」
倫太郎
「こいつに載せてある、カー・ブラックホールのトレーサーがあれば、きっとうまく行くさ」
それは、このC193型にしか搭載されていない特別な装置だ。
ある特定の座標で、カー・ブラックホールが作り出した時空の歪みの“連続”を、最大七千万年前の過去から未来に至るまでトレース出来る。
いわば“タイムマシンの軌跡を追跡するレーダー”だ。
別のタイムマシンを追いかけるそのデバイスは、今回のために特別に設計された。
むろん、その目的はひとつだ。
2011年の七夕の日に時空の彼方へ旅立った、椎名まゆりと阿万音鈴羽を見つけ出す事。
まゆりと鈴羽が乗ったC204型は、バッテリーが切れた事で、正常な時空間転移が出来なくなっていると推測された。
そこで、C193型で彼女たちを見つけ出した後、積んである予備のバッテリーを渡し、この時代に帰還させる。……可能ならば、岡部もともに帰還する。
それが達成出来れば、この計画は100%のミッション完遂となる。
おそらくそれを完璧にやり遂げるのは、この試作機レベルのマシンではかなりの困難をともなうだろう。
岡部も、それは分かっているはずだ。
自分自身を犠牲にして、まゆりと鈴羽だけでもこの時代に帰す――などという選択肢を考えているのかもしれない。
倫太郎
「じゃあ、行くよ」

「おう」
かがり
「ま、待ってっ! 待って下さいっ!」
と、『未来ガジェット研究所』のラボメンとしては最後に加入した人物――椎名かがりがフロアに駆け込んできた。
真帆
「かがり。姿が見えないと思ったら、どこへ行ってたの?」
かがり
「はぁはぁはぁ……」
かがり
「ごめんなさい。これを取って来たんです」
かがり
「オカリンさん。持って行ってください。お守り」
そう言ってかがりは――ずいぶんと古ぼけた、緑のうーぱキーホルダーを岡部に手渡した。
倫太郎
「いいのか? 君の大切な宝物だろう?」
かがり
「はい、だからこそです。絶対に返してください。……ママと一緒に」
倫太郎
「……分かった。必ず返すよ――必ずな」
岡部は、そのキーホルダーを受け取ると、全員と固い握手を交わしていった。
最後に、真帆の前にやって来る。
真帆
「……元気で」
倫太郎
「君もな、クリス」
倫太郎
「いや……真帆」
真帆
「……。ねえ?」
倫太郎
「うん?」
真帆
「シュタインズゲートは、実在すると思う?」
真帆
「まゆりさんが死ぬ事なく……そして、紅莉栖も犠牲にならない、そんな
狭間
①①


世界線
①①①
が、本当にあると思う?」
それは、戦争が始まった、あの七夕の日以来、14年ぶりの問い。
倫太郎
「…………」
倫太郎
「あるさ。絶対に」
岡部倫太郎は。
鳳凰院凶真は。
微笑みとともに、そう返してきた。
その笑みが、ひどく、寂しそうで。
そんな顔を見せられてしまったら、真帆はもう、涙をこらえる事が出来なかった。
真帆
「……っ」
倫太郎
「泣くなよ」
真帆
「な、泣いてないわよっ。ぐすっ」
真帆は一度だけ、岡部とそっとハグを交わした。
執念に生きたこの人の温もりを、決して忘れないと、心に誓って。
真帆
「行ってらっしゃい……」
岡部は、かすかにうなずくと。
倫太郎
「よし! 全員、下がれ!」
倫太郎
「これよりオペレーションを開始する。なお、作戦名は――」
倫太郎
「『
彦星作戦
オペレーション・アルタイル
』とする!」
自分だけでなくみんなの事も鼓舞するようにそう宣言し、FG-C193型タイムマシンのコクピットに乗り込んだ。
真帆たちは、タイムマシン起動のシーケンスをせわしなく開始する。
実証実験を兼ねている以上、タイムマシンのデータは詳細に記録しておく必要がある。
うなるような音が、マシン全体を包み込んだ。
騒音や振動が大きく、建物そのものがわずかに揺れる。
だが、真帆が見る限り、計測しているデータには異常はない。
マシンの分厚いハッチが、ゆっくりゆっくり閉じていく。
やがて鋭い気密音が響き、真帆たちと岡部との間に、永遠の隔絶の時が訪れた。
真帆
「……うまく……行くわよね……」
フェイリス
「大丈夫……凶真は必ずやり遂げるニャ」
るか
「その通りです。不可能を可能にする人ですから」

「ああ。それでこそ僕たちのオカリンなわけでね」
かがり
「オカリンさん……」
ハッチの閉じたマシンは、その全身に虹のような霧をまとい始めた。
と同時に、エンジンの音は耳をつんざくばかりとなり、フロア内の誰の声も聞こえなくなる。

「オカリンっ!」
至が、我慢出来ずという様子で叫んだ。

「お前の死が確定してるとか、んな事、どうでもいい! やっぱ、
此処
ここ
へ戻って来い!」
真帆
「みんなずっと待ってるからっ! 私も、待ってるからっ! 絶対に帰って来なさいっ!」
真帆たちが喉をからす中、マシンはゆらゆらとその姿形を失っていき――。
そして。
遠い日の、あの約束通り。
ふたりの“織姫”たちを追いかけて。
目もくらむような閃光を発したかと思うと、2025年から、
此処
ここ
ではない
何処
どこ
かの時代へと、跳躍して――消えた。


人生有無數種可能,人生有無限的精彩,人生沒有盡頭。一個人只要足夠的愛自己,尊重自己內心的聲音,就算是真正的活著。