十月もなかばを過ぎたばかりだというのに、その日は北寄りの風が強かった。街は日没を待って徐々に色彩を失い、がらんとした高層ビルの隅や、人気のない路地裏で、枯葉が上空に巻き上げられた。人々は砂や埃に目を細め、追い立てられるように家路を急いでいる。"魔王"は、しかめ面で行き過ぎる人間の群れを眺めながら、本格的な冬の到来を予感していた。長きに渡る雌伏のときは、終わりを告げようとしている。知能犯罪において、確実な成功を収めるためには、慎重に完璧な計画を練り上げ、それを大胆不敵に断行しなければならない。時期、場所、犠牲者の選択にも万全を期して望む。絶対の条件が整うまで、"魔王"は、幾年もの月日を準備に費やしていた,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
魔王が望むのは、力に対する力の闘争である。水が上から下に流れるように、弱いものは強いものになびいていく。ならば、圧倒的な力で支配してやろう。己の目的を達成するためには、水流の秩序を破壊することもいとわない。人は外道の逆恨みと、罪人の詭弁だとあざ笑うかもしれない。けれど、人々が"魔王の罪を憎み、"魔王"という人間を軽蔑したとしても、"魔王"の信念の中の真理にはある程度共感するものがあるはずだ。それが証拠に、"魔王"は必要十分な資力と、手駒のように動く"こどもたち"を手に入れた。彼らは犯罪計画を実行に移すために必要な役者であり、"魔王"との悪魔的な契約に縛られた信奉者だった,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
――戦いのときは近い。お父さん、お父さん、"魔王"がそこにいるよ――,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
少女は大発展を遂げた町並みに、少なからず驚いていた。少女がもっと幼かったころには、四車線の道路も山のように高いビルもなかった。感嘆のため息は、スクランブル交差点を雑然と行きかう人々に踏みつけられて消えていった。少女の手には焦げ茶色の革張りのケースがあった。年季が入ったケースの中身は、腕のいい職人の手によって作られた国産バイオリンだった。ストラドやガルネリのような神格化された価値はないが、少女にとっては命の次に大切な魂の名器だった。持ち手をしっかりと握り締めると、痛烈な感情が沸きあがった。母の、形見亡くなった母を思うと、少女の心に火が募る。不屈の闘志と揺るぎなき自信がみなぎってくる。少女は力強くコンクリートの地面を蹴った。足取りは緩まない。宿願を果たすまでは。"魔王"を自らの手で打ち倒すまでは――,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
;セリフにはキャラ名を表示させません。
;代わりにウィンドウの左下に顔を表示してください。
;黒画面
#text_off
;背景 主人公自室 昼
京介,「…………」
目覚めはいつも7時ちょうど。
朝食はいつもシリアルと牛乳。
いつものように新聞を読む。
広すぎる窓から人口一千万の富万別市の街を眺めると、ついに、いつものおれが出来上がる。
さて、今日は学園だ。
ここ三日ほど面倒ごとにつき合わされて休んでいたが、学園はとても楽しみな時間だ。
さっさと準備をして出かけようか。
……ん?
こんな朝早くから客?
どんなアポも入れていないはずだが……。
;がちゃっと受話器を取る音
京介,「もしもし……」
モニターに映っている顔には見覚えがあるような気がする。
椿姫,「……あ、浅井さんのお宅ですよね?」
京介,「失礼ですが、どちら様ですか?」
椿姫,「あ、え、えっと、美輪です。美輪椿姫です」
京介,「…………」
椿姫,「浅井京介くんのクラスメイトで、クラス委員をしています」
京介,「ああ、椿姫か」
椿姫,「え? 浅井くん?」
京介,「そうだよ。わからなかったか?」
最近のインターホンはとても声の通しがいい。
椿姫,「いつもと声色が違うから、お父さんかと思った」
京介,「いや、おれもうっかり椿姫の顔を忘れてたよ」
椿姫,「え? 嘘だよね? 一年生のときからずっと同じクラスだったじゃない?」
……ウソじゃあない。
どうもまだ、頭が切り替わっていないな。
京介,「それより、どうしたんだ?」
椿姫,「うん、ここのところずっとカゼで休んでたでしょ? だからどうしたのかなあって……」
京介,「もう、心配ないよ。いま下に降りて行くから。一緒に登校しよう」
椿姫,「あ、うんっ!」
椿姫の声がうれしそうに弾んだ。
椿姫,「おっはよっ」
椿姫は、一緒にいてすがすがしい感じのする少女だ。
椿姫,「初めて来たけど、浅井くんてすごいところに住んでるんだね」
京介,「すごい?」
椿姫,「超高級マンションじゃない。ここって、前にテレビにも出てたよね? どんなお金持ちが住んでるんだろう、みたいな特集で」
京介,「まあ、一人で住むには少し広いかな」
椿姫,「えーっ、一人で住んでるの?」
京介,「ボンボンだからな」
苦笑する。
京介,「椿姫の家は、東区だったか?」
椿姫,「そうだよ。ここみたいにセレブな町じゃなくて、畑ばっかりでなんにもないよ……」
京介,「なんにもないなら、静かでいいじゃないか」
椿姫,「最近はね、外国の人がたくさん来ててちょっと活発になってきてるんだけどね」
京介,「知ってる。スキー場があるからだろ? 雪質の良さがオーストラリア人に口コミで広がって、ちょっとした観光地になってるって話だ」
椿姫,「あ、うん」
京介,「いまじゃ、坪五十万っていうじゃないか。まあ、いくらホテルやレストランができても、請負先はゼネコンだから地元は潤わないんだろうが……」
椿姫,「あ、うんうん……」
京介,「…………」
……椿姫とこんな話をしても仕方がない。
椿姫,「浅井くんってなんだかリッチだよね」
京介,「ボンボンだからな」
椿姫,「日記に書いておこうっと、浅井くんはリッチって……」
椿姫がいつも大事そうに抱えている日記。
京介,「お前、日記は常に肌身離さずって感じだよな。なんかワケありなのか?」
椿姫,「メモメモ」
京介,「聞けよ」
椿姫,「朝七時に浅井くんの家にやってきました。浅井くんの家はとてもリッチなのでした。今日は天気が良くて○です」
京介,「……とっとと学園行くぞ」
おれたちは並んで歩き出す。
;背景 学園門 昼
学園までは歩いて十五分。
椿姫,「ここ自由ヶ咲学園は、その名の通りとても自由な校風が特徴です。個性的な学生が多く、若手のミュージシャンやアイドルなどの芸能人も多く通っているのでした」
椿姫,「華やかな反面、成績が悪くても簡単に卒業できるので、学園とは名ばかりの芸能スクールだと言われています」
椿姫,「実際、浅井くんはよく休みます。でも、花音ちゃんはスケートがあるからよく休むのはわかるけど、浅井くんはわたしと同じ一般人のはずなんです」
椿姫,「うーん、浅井くんって謎の多い人だなあ……○」
……なんだかわからんが、この学園の解説が終わったようだ。
京介,「おい、椿姫」
椿姫,「あ、ごめん。わたしブツブツ言ってた?」
京介,「おれがよく休むのはさ……ほら、前にも言ったろ?」
椿姫,「あ、病気なんだっけ?」
京介,「違うから」
椿姫は首を傾げる。
京介,「パパの仕事を少し手伝ってるんだよ。たまに海外にも行くしね」
椿姫,「そんな話初めて聞いたよ」
京介,「そうだっけ?」
椿姫,「間違いないよ。だって、浅井くんのことならなんでも日記に書いてあるはずだもの」
京介,「なんか怖いな、お前……」
椿姫,「でも、いいこと聞いちゃったな、メモメモ……」
京介,「またメモする……」
椿姫,「浅井くんは、お父さんをパパって言うのでした……欧米か○」
京介,「いいじゃないかよ。骨川さんだって、パパって言うじゃないか」
椿姫,「骨川さんって…………ああ、あのアニメの?」
京介,「骨川さんはおれの理想なんだ」
……うーん、なんか調子出てきたな。
栄一,「おはよー」
京介,「おう、栄一」
椿姫,「彼は相沢栄一くん。見ての通りとても美少年です。冬場でも半ズボンとか履きます。年上の女の人から人気絶大です。わたしともとっても仲良しなのでした○」
……なんだかわからんが、新たな登場人物の解説が終わったようだ。
栄一,「昨日からとっても寒いね。ボク、朝起きたら雪が降ってるんじゃないかなって、ワクワクしてたんだー」
子犬のような笑顔。
栄一,「ねえねえ椿姫ちゃん、昨日発売したCUNCUN読んだ?」
CUNCUNとは、女性向けファッション誌のことだ。
椿姫,「ううん、まだ見てないよ」
栄一,「じゃあ、貸してあげるね。今月はね、アロマの特集やってるんだよ。あと、今度西区にオープンするお菓子のお店の記事も出てたよー」
栄一はこの手の女性ウケする話題を豊富に持っている。
椿姫,「栄一くんって、悪い意味じゃなくて、わたしよりかわいいよね」
栄一,「えへへ、女の子っぽいかな?」
椿姫,「でも、そこがいいところだと思うな。話しやすいよ」
栄一,「ありがとー」
いつも思うが、栄一の笑顔は完璧である。
栄一,「あ、そうそう」
栄一が再びまぶしいくらいに白い歯を見せつける。
栄一,「なんかね、今日、転入生が来るんだって」
京介,「うちのクラスに?」
こんな時期にか……。
まあ、うちの学園は、デビューするために引越しさせられた地方のアイドルとかが、いきなり編入してきたりするからな。
栄一,「女の子らしいよ。かわいい子だといいねっ」
椿姫,「毎日休まず来てくれる子だといいな。年末になると仕事が忙しいみたいで、みんないなくて寂しいし……」
京介,「花音は、今日は来るみたいだぞ」
椿姫,「あ、ホント? もう、アメリカから帰ってきたんだ?」
京介,「カナダ、な。昨日の夜、連絡があった」
栄一,「すごいよね。再来年のオリンピックに出られるかもしれないんだもんね」
京介,「まあ、これからの成績次第だな」
椿姫,「そっかあ、帰ってくるんだ……花音ちゃんに会いたいなあ……」
まるで恋人でも待ち焦がれるよう。
……いいヤツだな。
椿姫,「そうだ、忘れてた。わたしちょっと、先生に呼ばれてたんだ」
京介,「おいおい、ちゃんと日記に書いておけよ」
椿姫,「ごめん、先に行くねっ」
栄一,「じゃあ、あとでねー」
椿姫は足早に校舎に入っていった。
京介,「…………」
栄一,「…………」
しばし、栄一と目を合わせる。
栄一,「けっ……!」
京介,「な、なんだよ?」
栄一,「ちきしょー、あのアマぁ……」
京介,「え?」
栄一,「なにが、悪い意味じゃなくて、わたしよりかわいい、だよ。どういう意味だよまったく……」
京介,「いや、悪気はないって意味だろ」
栄一,「オレがかわいいだと? ざけやがって」
京介,「いやいや、お前も、えへへーとか笑ってただろうが……」
栄一,「あー、マジムカつくぜ。オレがあと二年若かったらマウント取ってるところだ」
京介,「おいおい、椿姫は友達だろ? マウントは勘弁してやれって」
栄一,「ダチでも親でも関係ねえよ。オレ、マジすげえよ、キレたら見境ナッシングだぜ?」
……すげえ頭の弱そうな発言だな。
;/追加/ 背景 学園廊下
そんなこんなでチャイムが鳴った。
栄一,「くっくっく、今日もメス豚どもの相手をしてやるかね……」
女教師,「相沢くん、早く教室に入りなさい」
栄一,「あ、はーい!」
……すげえ変わり身の早さだな。
;背景 教室 昼
;// 上記のチャイム終了待ち
三十人ほどのクラスだが、欠席が五人ほどいる。
椿姫,「今日は、白鳥さんがお休みか……」
京介,「椿姫は、白鳥とも仲がいいんだっけ?」
椿姫,「ううん、特別仲がいいわけじゃないけど……どうしたの?」
京介,「ああ、いや……おれもあの子と仲良くしたいなーと」
椿姫,「いいことだねっ」
白鳥……白鳥水羽……忘れっぽいおれでも、彼女にだけは注意を割いているつもりだ。
今日は休みか……残念だ……。
ふと気づくと、廊下が騒がしい。
栄一,「どうしたんだろ?」
花音,「じゃじゃーん、おはよーだよー!」
椿姫,「あ、花音ちゃんっ!」
花音の登場に、教室が沸く。
花音,「やあやあ、みんな元気してたー?」
我が義理の妹ながら、声がでかい。
椿姫,「花音ちゃん久しぶりー。カナダはどうだった?」
花音,「んー、カナダ?」
花音,「えっとねー」
京介,「…………」
;笑顔
花音,「カナダっていう感じだったなー」
我が義理の妹ながら、とてもゆるい。
椿姫,「そ、そっかあ……」
花音,「でもねでもね、四回転飛べるようになったよー!」
イエーイという感じだった。
栄一,「すごーい! フィギュアスケートの四回転ジャンプって世界でもそうそうできる人いないって聞いたよ?」
花音,「でもねでもね、着地で転んじゃうんだよー!」
イエーイという感じだった。
栄一,「そ、そっかあ……」
花音,「兄さん兄さんっ!」
京介,「な、なんだよ、テンション高いな……」
花音,「今日兄さんのおうち泊まりに行ってもいい?」
京介,「えっ?」
ぎょっとする。
栄一,「あー、始まった。花音ちゃんの甘えん坊将軍」
椿姫,「花音ちゃんはお兄ちゃん子だからなあ……」
花音,「ねえ、いいかないいかな?」
京介,「待て。今日はまずい……」
今日でなくてもまずいんだが……。
花音,「なんで?」
京介,「そんなじっと見つめるなよ……」
花音,「なんでなんでどうして?」
栄一,「京介、追い込まれてるな……」
栄一が心なしか黒い笑みを浮かべているように見える。
京介,「はっきりいうが、ベッドが一つしかないんだ」
花音,「んー? 一緒に寝ればいいと思うよ」
おいおい……。
京介,「いやだから、よく考えろよ。いまさら三文ドラマにもならんだろうが、血のつながっていない妹と一夜を過ごすっていうのは……」
花音,「んー?」
京介,「なあ、ほら……栄一、なんとか言ってくれ」
栄一,「ぼ、ボク……そういうの恥ずかしくてわかんない……」
……この野郎。
京介,「とにかくダメだって。普通に家に帰れよ。パパも会いたがってるから」
花音,「ヤダ」
京介,「困ったな……」
;SE 携帯
と、そのとき、天意を得たかのようにおれの携帯が鳴る。
椿姫,「あ、浅井くん、携帯電話は学園に持ってきちゃダメって前にも……」
かまわず電話に出る。
;// 上記携帯を停止
京介,「あ、もしもし……」
京介,「あー、ミキちゃんっ! この前の遊園地、楽しかったね」
花音,「んー?」
椿姫,「え?」
京介,「うん、いまは学園。え? なに? また会いたい? うんうん、おれもおれも……」
花音,「……誰かな?」
椿姫,「友達じゃないかな? 浅井くんって、学園の外に友達多いみたいだし」
栄一,「京介君って、けっこうモテるんだよねー、いいなー」
花音,「むー……」
京介,「……じゃあ、またあとでかけなおすね。はいはい、じゃあねー」
通話を切って、花音の顔を見る。
花音,「だあれ?」
京介,「ちょっとした友達だよ」
花音,「ちょっとしたって?」
栄一,「彼女?」
京介,「えっ? ああ、いや、なんていうのかな……」
花音,「むー、なんか怒った。わたしがカナダに行ってる間に、兄さんが兄さんじゃなくなった」
京介,「いや、まあ、若いうちは遊んどけっていうだろ?」
花音,「遊んどけってなんだよー! 兄さんがそんな薄っぺらい人だとは思わなかった!」
椿姫,「あ、浅井くんって、彼女さんいたんだね。知らなかった……」
京介,「いや、彼女じゃないよ……」
栄一,「へー、ボクも知らなかったなー。今度紹介してねー」
花音,「兄さん覚悟してねっ」
京介,「な、なんだよ……」
花音,「もう知らないっ!」
ぷいっとそっぽを向いて、席についた。
椿姫,「衝撃です。浅井くんに彼女がいました○」
京介,「はは……」
やっぱり学園はいいな、気楽で……。
;場転
京介,「おい、栄一」
栄一,「なあに?」
京介,「転入生が来ないまま授業が始まったぞ」
栄一は一番後ろの席なのをいいことに、教科書のかわりに雑誌を読んでいた。
栄一,「……んー、おかしいねー」
京介,「ほんとに今日来る予定だったのか?」
栄一,「ノリコちゃんに聞いたから間違いないよー」
ノリコちゃんとは学園の女教師で、たぶんウソだろうが、栄一とは禁断の関係にあるらしい。
栄一,「気になるの?」
京介,「だって、女だろ?」
栄一,「『だって、女だろ?』 いいねー。その一言で京介の下半身の軽薄さがわかろうってもんだ」
京介,「転入生にはいろいろと不安があるだろ? 学園に馴染めるかな……とか、友達できるかな……とか」
栄一,「え? だから?」
京介,「おとしやすいってことさ」
栄一,「さすがはミスター腹黒」
京介,「お前に言われたくはないが、褒め言葉として受け取っておこう」
おれと栄一はガッついているという点で、仲がいい。
栄一,「あ、京介。おれのシャーペン知らね?」
栄一は、きょろきょろしながら机の上を漁っている。
京介,「ニュートンを知らんか?」
栄一,「なんだって?」
京介,「アイザックニュートン」
栄一,「オレ、相沢栄一」
京介,「うん、そう。そうだな。とにかくシャーペンなら机の下に落ちてるぞ」
栄一,「アイザックってなに?」
京介,「有名人」
栄一,「なんなのその、新型モ○ルスーツみたいなの」
京介,「だから理科の有名人だってば」
栄一,「オレ、有名人は福沢諭吉が好き」
京介,「お金が好きってことか?」
栄一,「ちげーよ。超かっこいいじゃん、あの人」
京介,「どこがだよ。ちょっと紹介してくれよ」
栄一,「いやだって、すげー平等な人で、すげー言葉残してて、マジすげーじゃん」
京介,「スゲーばっかりで、わからん」
栄一,「とにかくスゲーんだって」
……こいつは広告代理店には勤められんだろうな。
栄一,「もちろん金も好きだけどなー」
京介,「金ね……」
;// 追加:SEチャイム
栄一,「あ、なんかおしゃべりしてたら授業終わったみたいだぞ。毎度のことながら、うちの学園の授業ってほとんど崩壊してるよなー」
……福沢諭吉、か。
京介,「…………」
……ファックザワ、め。
;背景 屋上 昼
十月だけあって、屋上はかなり寒い。
椿姫,「花音ちゃん、ご飯食べないの?」
花音,「減量してるんだよー」
フィギュアスケートの選手は、体重が五百グラム増えただけでジャンプの質が変わるそうだ。
椿姫,「栄一くんは、今日もお菓子だけ?」
栄一,「ボク、チョコレートだけあれば生きていけるよー」
かわいいキャラを作ろうとしているのかわからないが、おれは栄一がお菓子以外の何かを口にしているのを見たことがない。
椿姫,「浅井くんは……電話中か……」
かくいうおれは、休み時間になったら電話に忙しい。
椿姫,「うぅ……なんだかひとりぼっちでご飯を食べてる気がする椿姫なのでした」
椿姫は、しょんぼりと、手の込んだ弁当を箸でつついていた。
京介,「ふう……」
椿姫,「あ、電話終わった?」
花音,「誰と電話してたんだよー?」
花音の機嫌は朝から直っていないようだ。
京介,「変な勘違いするなよ、花音。今度、お前の家にくる家政婦さんだよ」
花音,「家政婦さん?」
京介,「ああ、お前も顔を合わせることになるんだからな。小島さんていうんだ。気のいい人だよ」
花音,「どうして兄さんが、そういうことするの?」
京介,「パパに頼まれてたんだよ。花音が帰ってきて家が騒がしくなるだろうからって」
花音,「うん、わかった。わたし、練習で、家に帰るの夜遅くなるけど、もし会ったら挨拶しとくねー」
椿姫,「浅井くんの実家ってどこにあるの?」
京介,「南区だよ」
椿姫は怪訝そうな顔をした。
椿姫,「どうしてわざわざ浅井くんだけ別に住んでるの?」
花音,「学園に近いからだって。ねー、兄さん?」
京介,「朝、弱くってね……」
そのとき栄一がぼそりと言った。
栄一,「プ……女を連れ込むためだろうが」
椿姫,「え? 何か言った?」
栄一,「んーん。チョコおいしー」
栄一をあとでとっちめてやろうと思ったときだった。
;ハルの立ち絵を表示
京介,「あれ?」
思わず指をさしてしまった。
花音,「うん?」
栄一,「うわー、髪がすごい長いね」
長いというより多い。
ハル,「…………」
じっとこっちを見ている。
いや、さっきからずっと見ていたようだ。
もっと正確にいうならば、おれを……。
花音,「誰かな? わたし、見たことないよ」
京介,「お前はだいぶ学園に来てないからな」
椿姫,「知ってるの?」
京介,「いや、知らん」
椿姫,「んー、下級生かな?」
そのとき栄一が勢いよく手を上げた。
栄一,「はい! ボクわかった! わかっちゃったよ!」
花音,「なにがー?」
栄一,「あの髪の長い女の子の正体!」
やたら誇らしげだった。
;SE 携帯
おれの携帯が鳴る。
京介,「ああ、すまん……」
花音,「むー、また電話だー!」
京介,「怒るなって。さっきと同じ人だから」
花音,「あ、家政婦さん?」
;// 上記携帯音を止める
電話に出る。
携帯の向こうから、おばさんの声が返ってきた。
京介,「やあ、どうも、あなたが小島さんですね……」
まったく、花音にも困ったもんだ。
初めて出会ったガキのころからずっとおれにつきまといやがって……。
椿姫,「学園に携帯電話持ってきてないのって、私くらいなのかな?」
花音,「うちって、規則ゆるゆるだからねー」
栄一,「ねえボクの話を聞いてよ!」
栄一はあの髪の長い少女について語りたいようだった。
京介,「ふう……」
おれといえば、家政婦とてきとうに話をつけて、通話を切った。
ハル,「おい……」
背後から声がした。
京介,「え?」
振り返ると、大きな瞳が、伸び放題の髪のすきまからこちらをうかがっていた。
ハル,「ウソだろう?」
京介,「は?」
吸い込まれそうなくらいに、澄んだ目。
ハル,「気のいい人って、言わなかったか?」
口元がかすかな微笑をたずさえているように見えた。
京介,「なにが言いたいんだ?」
ハル,「あなたは、家政婦さんは気のいい人だって言ってたけど、もう一度電話がかかってきたときに、『あなたが小島さんですね』って言った」
おれは押し黙った。
ハル,「つまり、小島という家政婦とはいま初めて話をしたということになる。なのにどうして気のいい人だって知ってたんだ?」
京介,「…………」
ハル,「わたしが言いたいのは、あなたは最初、家政婦と電話をしていたわけではないということ」
こいつ……。
椿姫,「え、浅井くん? あれ?」
花音,「ん? んんー?」
事態をよく呑みこめていないのが二人……。
栄一,「だから、ボクの話を聞いてってば!」
いや、三……。
京介,「いきなりなにを言われてるのかわからないけど、家政婦を紹介してくれた人が、気のいい人だって言ってたんだよ」
ハル,「ほう……」
まさかとは思うが、この妙な女が……。
栄一,「この子がきっと転校生なんだよー!」
;がっと場転
ハル,「…………」
初日にいきなり遅刻してきた転校生が、おれたちのクラスの前に立っている。
ハル,「…………」
ずっとうつむいている。
椿姫,「はい、それじゃあ、自己紹介お願いします」
クラス委員の椿姫が、教壇に立って、臨時ホームルームの司会をつとめていた。
ハル,「え?」
椿姫,「あ、緊張しなくていいんだよ。まずは名前からねっ」
ハル,「あ、はあ……」
かなりやる気がなさそうだった。
ハル,「名前、すか……」
ぼそぼそとしゃべっていて、声を聞き取りづらい。
花音,「変わってる子みたいだねー」
栄一,「とりあえず髪が長いよね」
京介,「異様な雰囲気があるよな……」
椿姫は困ったようにもう一度繰り返す。
椿姫,「あの、名前を……」
ハル,「……言わなきゃ、ダメすか?」
椿姫,「あ、うん。なんて呼べばいいかわからないじゃない?」
ハル,「はあ……そっすね」
ため息ばかりついている。
ハル,「ビン・ラディンです」
椿姫,「え、えっ?」
ハル,「知らないの?」
ムキになったように言った。
花音,「んー、なんか、調子おかしくなる子だね」
栄一,「とりあえず髪が長いよね」
椿姫の額にいやな感じの汗が見えた。
椿姫,「あの……ほんと、お願いします……」
ハル,「名前はまあ、そっすね……」
椿姫,「う、うん……」
ハル,「昔から勇者とか呼ばれてました」
椿姫,「え? 勇者?」
ハル,「おい勇者、勇者パン買って来いよとか言ってもらえたら、もう、それだけでおもしろいんじゃないでしょうか?」
椿姫,「あの、宇佐美さんいい加減に……」
ハル,「だから宇佐美ビンラディンだって言ったじゃないすか」
椿姫,「えっ?」
ハル,「あ、ヤバ、だじゃれ」
ハル,「だじゃれ言っちゃった」
ハル,「サム、私、キモサブ……」
椿姫,「……うぅ」
ハル,「あの……ヴァイオリンやってるんすよ、私、唐突ッスけど……」
椿姫,「え、あ、はい……」
ようやく自己紹介をする気になったのだろうか。
ハル,「ほらあの、よくバンドのメンバーが捕まると新聞で変な名前の呼び方されるじゃないすか。『今日未明、佐藤ボーカルを逮捕』みたいな。佐藤ボーカル、みたいな変な呼び方ありますよね?」
ハル,「私の場合宇佐美だから、『宇佐美ヴァイオリン』とか記事にされるんすかね?」
ハル,「だったらもし、犯人がピッコロ奏者だったらどうなるんすかね? 宇佐美ピッコロとかになるんすかね? ただでさえ逮捕されて悪いやつなのに、名前のあとにピッコロってついたらもっと悪そうじゃないすか?」
椿姫,「…………」
栄一,「…………」
花音,「…………」
クラスの誰も、何も答えられない。
ハル,「はあ……」
また、勝手にため息をついた。
ハル,「あの、みなさん……」
ハル,「自分基本鬱キャラですけど、仲良くしてみてください。まれにかわいいとこ見せるかもしれません」
ハル,「宇佐美、ハルでした……」
なんだかどっと疲れたな……。
宇佐美ハルか……。
新手のお笑い芸人なのかな。
;背景 教室 夕方
午後は数学の抜き打ちのテストがあった。
抜き打ちのくせに進路にかかわるほど重要な試験らしい。
花音,「んー、難しいよぉ……」
花音がぶつぶつ言いながら頭を叩いていた。
ハル,「…………」
謎の転入生宇佐美ハルは、おれの前の席に座っていた。
座っている姿勢が素晴らしく良い。
背すじをピンと伸ばし、ひっきりなしにペンを動かしている。
栄一,「おい、京介……」
隣の席の栄一が声をひそめた。
栄一,「転入生、答案になんか変なこと書いてるぞ?」
栄一の角度からだと見えるらしい。
京介,「なに書いてるんだ?」
栄一,「わかんねえ、王国、とか見えた」
京介,「は?」
いまは世界史の授業ではない。
栄一,「え? 国連VSわたし、って、え?」
京介,「ちょっと、なに言ってんだ栄一?」
栄一,「いや、オレじゃなくて、転入生が……」
栄一の顔が引きつる。
栄一,「うわ、なんか絵描いてる。あ、ペンギン? ペンギンに名前つけてる……ペリー、得意技は開国……なんか、変なキャラ設定があるっぽい……」
京介,「さ、さすがに気になってきたな……」
ハル,「おい……」
不意に、宇佐美が後ろを振り返った。
ハル,「見るな」
京介,「え?」
ハル,「覗き見しただろう?」
京介,「いや、おれは……」
ハル,「重要な企画書なんだ」
京介,「き、企画書?」
宇佐美の目つきはとても鋭い。
京介,「ああ、ひょっとして、キャラクターグッズの草案とかまとめてるのか? それともゲームかなにか……?」
ハル,「そんなみみっちいものじゃない」
みみっちいって……。
京介,「じゃあ、なんなんだよ」
ハル,「教えてやらない」
京介,「……あ、そう」
なんだかわからんが、宇佐美を怒らせてしまったようだ。
ハル,「…………」
京介,「…………」
ハル,「……知りたくないのか?」
京介,「いや、とくに……」
ハル,「そうか……」
なんだかわからんが、宇佐美をがっかりさせてしまったようだ。
ハル,「…………」
京介,「なんだ?」
こちらを値踏みするような目で見つめてくる。
そのときチャイムが鳴った。
花音,「ふー、終わったー。ぜんぜん解けなかったよー」
椿姫,「花音ちゃん、テストの時間にしゃべっちゃだめだよ」
テストから解放され、みんな、緊張がゆるんだようだ。
栄一,「ねえねえ……」
栄一が、かわいい声でおれと宇佐美の間に入ってくる。
ハル,「…………」
栄一,「ボク、相沢栄一っていうんだ」
ハル,「…………」
栄一,「宇佐美さん、髪すごい綺麗だね。さらさらじゃない。どこの美容室通ってるの?」
ハル,「…………」
宇佐美は黙ったまま、栄一をにらむように見ている。
栄一,「どしたの? ボクもね、エステとか行くんだよ。男の子だけど、いまは男の子だからこそ美容にも気を使わなきゃって思うんだー」
ハル,「美容?」
栄一,「そう、美容」
ハル,「美容室?」
栄一,「うん……あ、でも、宇佐美さんこの街に引っ越して来たばかりだから、美容室とか知らないのかな?」
ハル,「知らない」
栄一,「じゃあ、ボクが教えてあげるよ。中央区にね、有名なスタイリストがいるお店があってさ、芸能人もよく通ってるんだよ」
ハル,「ふーん」
……興味なさそうだった。
椿姫,「宇佐美さん」
椿姫がニコニコとおれたちの輪に入ってきた。
椿姫,「さっきはたいした紹介もしてあげられなくて、ごめんね」
椿姫は本当に気のいい女の子である。
椿姫,「ごめんね。わたしクラス委員なんだけど、足りないところがあって。宇佐美さんも緊張してたんだよね?」
椿姫は本当に優しい女の子である。
椿姫,「よかったら、帰る前にちょっとおしゃべりしない?」
ハル,「帰っていいすか?」
椿姫,「はうっ!」
撃沈。
栄一,「……あははっ。ちょっとぐらいいいじゃない?」
ハル,「すみませんエテ吉さん」
栄一,「栄一」
ハル,「ご無礼」
栄一,「ていうかなんで敬語なの?」
ハル,「地元がまあ、そういう言葉なんで。自分、内地の人間じゃないんで」
椿姫,「あ、遠くから来たんだね。たいへんだったねー」
京介,「どこから?」
ハル,「は?」
京介,「……いや、どこの出身なんだ?」
ハル,「ほっ……」
ハル,「北極?」
京介,「ふざけるなよ、あんなところに人が住めるか」
ハル,「じゃあ南極?」
京介,「じゃあ、じゃねえだろ。極端なこと言うなよ」
ハル,「まあ両極端っていうのは、こういう瞬間に生まれた言葉なんでしょうね」
椿姫,「……な、なんで勝ち誇ったように言うんだろ……」
ハル,「それじゃ、ホント、すみませんけど……」
椿姫,「あ、ごめんね。引き止めちゃって」
ハル,「…………」
椿姫,「ん? どうしたの?」
ハル,「ひょっとして、わたしと友達になりたいのか?」
栄一,「……なんでいきなりタメ口?」
ハル,「なりたいのか?」
椿姫,「う、うんうん。仲良くしようよっ」
ハル,「じゃあ明日からでいいか?」
椿姫,「え? 明日から?」
ハル,「今日はまだ心の準備ができてない」
椿姫,「じゅ、準備とかいるんだ。わかったよ……」
ハル,「悪いな、じゃあ……」
宇佐美は背すじを伸ばして去っていった。
京介,「ふう……」
栄一,「うーん、疲れるな……」
おれと栄一は顔を見合わせる。
椿姫,「やった! 宇佐美さんと友達になれたっ!」
椿姫だけが、能天気にはしゃいでいた。
;背景 廊下 夕方
花音,「兄さん、のんちゃん練習あるからマッハで帰るねっ」
花音は、機嫌のいいとき、自分のことをのんちゃんと呼ぶ。
京介,「今日も十時くらいまでリンクにいるんだな?」
花音,「見に来てよ」
京介,「そのつもりだよ。ママにも会いたいしな」
ママ……つまり、おれの母親のことだ。
母は、とても珍しいことに、自分の娘である花音のコーチをしている。
花音,「七時くらいに来てよ。リンクサイドで一緒にご飯食べよー?」
おもむろにおれの腕をつかんでくる。
花音,「ねっ、いいでしょいいでしょ?」
ぶんぶんと振ってくる。
花音は、ボディランゲージが激しい。
京介,「わかったわかった。七時な……」
;// クエイク終了
花音,「いひひっ、うれしいなぁっ」
おれの胸に顔をうずめてくる。
京介,「……おいおい、ここは学園であって、人の目とかもあるわけでさ……」
花音,「のんちゃん、気にしないよっ」
京介,「まあ、お前はそういうヤツだよな……」
そういうヤツだからこそ、大勢の観客を前にして演技ができるのかな。
花音,「じゃあねー」
軽くジャンプして去っていった。
椿姫,「ねえ、浅井くん」
京介,「どうした?」
椿姫,「もう、帰る?」
京介,「うん」
椿姫,「そっかそっか、そうなんだ」
京介,「は?」
椿姫,「あ、ああ、えっと……」
なにやら落ち着かない様子の椿姫。
京介,「……なんか用か?」
椿姫,「ひ、ヒマ?」
京介,「ヒマといえばヒマだけど……」
椿姫,「そ、そうなんだ……え、えっと……ちょっと待って」
京介,「日記見てんじゃねえよ。なんなんだよ?」
椿姫,「だ、だから、一緒に遊ばない?」
……なんだ、そんなことか。
京介,「花音と約束があるから、六時くらいまでだったらいいぞ」
椿姫,「あ、うんうん。わたしも遅くなるのよくないから」
京介,「ただ遊ぶのに、なんでそんなにおっかなびっくりなんだ?」
椿姫,「だって、浅井くんを放課後誘うのって、すごい緊張するんだもの」
京介,「そうか?」
椿姫,「いっつも、すごい速さで帰るでしょう? きっと忙しいんじゃないかなって思ってたんだ」
京介,「そんな気を使わんでも……」
椿姫,「でも良かった。これで浅井くんともうちょっと仲良しになれるねっ」
屈託なく笑った。
ホント、いいヤツだなぁ……。
;背景 学園門 夕方
十一月に入って、日が落ちるのがとても早くなった。
京介,「おや?」
椿姫,「あ、栄一くんだね」
栄一は校門に寄りかかって、女教師とおしゃべりしていた。
椿姫,「なにしてるんだろ?」
京介,「どうやら、栄一はあの先生が好きらしいぞ」
椿姫,「あ、そうなんだ……へー、栄一くんってやっぱり年上の人が好きなんだねっ」
栄一,「それでね、ノリコ先生。聞いてよ」
どうやら、くどいているらしい。
栄一,「ボクね、うさぎ飼ってるんだー」
女教師,「かわいいわねー」
栄一,「ぴょんたんっていうんだー、かわいいでしょ?」
女教師,「うんうん、かわいいかわいい」
気持ち悪い会話だな……。
女教師,「そういえば子犬も飼ってるんだっけ?」
栄一,「うんうん、マルチーズ。かわいいよね」
女教師,「かわいいかわいい」
栄一,「熱帯魚もいるし、インコも飼ってるんだよー」
栄一の家は、動物王国なんだよな。
栄一,「よかったら、今日見に来ない?」
女教師,「相沢くんのおうちに?」
栄一,「うんうん、一緒に夕飯食べようよー。ボク、料理得意なんだよー」
女教師,「ええー。どうしようかしら。今週、当直なのよね。遅くなるけどいい?」
栄一,「来てよ、来てよ。ヘンなことしないから」
女教師,「ヘンなこと?」
栄一,「え、あ、な、なんでもないよー……(くっそー、クチが滑ったぜー、待て待て慌てんな、取り乱すな、ここで余裕見せとけ、余裕のオレちゃんみせてやれ)」
……放っておくか。
京介,「椿姫、行こうぜ」
椿姫,「うんっ、栄一くんの恋が実るといいねっ」
;背景 繁華街1 夕方
若者の町ってのは、どうしても夕方から夜にかけて気質が荒くなる。
富万別市の中央区、そのセントラル街。
ファーストフードに、喫茶店、カラオケボックスと、家に帰りたくない子供が時間を潰すには最適な店がそろっている。
椿姫,「うわー、すごい人だね。迷子になっちゃいそうだよ」
京介,「おのぼりさんか、お前は」
椿姫,「セントラル街なんて、怖くてめったに来れないよ。しかも学園帰りに寄り道するなんてなんだか悪い子みたいだよ」
京介,「絵に描いたようなマジメちゃんだな、お前は」
たしかに、少し路地に入ればクラブやスタジオがたくさんあるし、さらに裏道を行けばラブホテル街にたどり着く。
椿姫,「浅井くんは、よく来るの?」
京介,「おれ?」
……どう答えるべきかな。
学園でのおれは、授業をよくさぼり、成績も運動もそこそこにできて、クールぶっているが女好きという底の浅いキャラで通っている……。
京介,「……たまに、買い物にくることはあるかな」
椿姫,「ひとりで?」
京介,「どうして?」
椿姫,「あ、いや、浅井くんって学園の外に友達多そうだから」
京介,「ひとりのときもあれば、ひとりじゃないときもあるよ」
……。
椿姫,「なにか、クラブにでも入ってるの?」
……どうもこいつは……。
京介,「クラブって、社交ダンスとか、ボクシングとか?」
……最近になっておれのことを知りたがるようになったな。
椿姫,「ごめんね、せんさくしてるみたいで。でも、ずっと同じクラスなのに、浅井くんのことよく知らないから」
……ずっと同じクラスなのに、どうしていままではおれに近づいて来なかったんだ?
京介,「はは……正直いうと、ナンパに明け暮れてるんだよ」
……ちょっとだけ軽蔑させてやるか。
京介,「なんていうのかな、おれってプチギャル男ちゃんだから」
……学園の友達とは、気楽に、つかず離れずの関係がいい。
京介,「あ、悪い。椿姫はおれみたいなナンパくんは嫌いだよな?」
すると、椿姫は笑った。
椿姫,「そんなことないよっ」
京介,「…………」
椿姫,「ナンパな人はちょっと怖い感じするけど、それはわたしがそういう人をよく知らないからだと思うんだ」
おれは、じっと椿姫の顔を見る。
椿姫,「よく知りもしないのに決めつけるのは、よくないことでしょ?」
椿姫の笑顔には一点の偽りもなさそうだ。
椿姫,「だから、浅井くんのことよく知るまでは、嫌いになんかならないよっ」
京介,「……そうか」
純粋で正直で優しい人間……そういうふうに思っておいて間違いなさそうだな。
京介,「まあまあ、立ち話もなんだし、どっか入ろうぜ?」
椿姫,「案内してくれるの?」
京介,「喫茶店でいいか?」
椿姫,「なんか緊張するなー」
京介,「もしかして初めて?」
椿姫,「持っていかなきゃいけないものとかある? メモとか」
京介,「メモはいらん。ついてこい」
;背景 喫茶店
喫茶「ラピスラズリ」は、セントラル街にオープンしているにしては小洒落た店だ。
静かで客層も悪くない。
マジメな椿姫を連れて行くにふさわしい。
椿姫,「うわ、コーヒー一杯900円もするんだねっ!」
庶民的なヤツだなぁ……。
京介,「椿姫って、ふだんはなにして遊んでるんだ?」
椿姫,「公園でブランコとか、かな」
京介,「は? お子様か?」
椿姫,「変かな?」
京介,「変、じゃないが……」
椿姫,「砂場でお城作ったりもするよ?」
……まさか、寂しいヤツなのか、こいつ……。
京介,「いや、買い物とかカラオケとかあるだろ? 年齢相応の遊びが」
椿姫,「買い物はたまにするよ。日記帳はいくら買ってもすぐなくなるし」
京介,「メモしすぎるからだ」
椿姫,「浅井くんは、なにか趣味とかないの?」
京介,「おれ?」
……どう答えるかな。
京介,「女遊び」
椿姫,「え? どういう遊び?」
京介,「嘘だよ。わからんならいいや」
椿姫,「なんだろ、かくれんぼとかかな?」
……なんでそういうガキの遊びばっかり……。
京介,「強いて言えば音楽かな」
つい、本当のことを口にしてしまった。
椿姫,「あ、わたし、ヴィジュアル系大好きだよ」
京介,「濃いのが好きなんだな。おれが好きなのはクラシック」
椿姫,「クラシック? へー、いいこと聞いちゃった」
京介,「またメモする」
椿姫,「いいからいいから、特に誰が好きなの?」
京介,「……J・S・バッハかな」
椿姫,「え? ごめん、もう一回」
京介,「だから、バッハだって」
椿姫,「ああ、バッハだね。名前の前に英語がついてたから誰かと思った」
京介,「バッハってのは、いっぱいいるの。バッハ一族だから。一般にバッハっていうと、いまおれが言ったヨハン・ゼバスティアン・バッハのこと。大バッハともいうんだけどな」
椿姫,「…………」
いきなり口を閉ざす椿姫。
京介,「どした? 日記もしまっちゃって」
椿姫,「ううん、なんだか浅井くんの楽しそうな顔を初めてみたような気がして……」
京介,「楽しそうな顔?」
椿姫,「あ、ごめん、へんなこと言って」
知識をひけらかして、得意そうだったということか……?
椿姫,「でも、今日は浅井くんの意外な一面を見れてうれしいなっ。楽しいなっ」
……いや、こいつはそういう女じゃないな。
椿姫,「今度、CD貸してもらってもいいかな?」
京介,「ああ……明日、バッハの新譜が出るんだ。新譜といっても、大全集みたいなもんで、編曲や指揮者に海外の有名なアーティストを使ってるっていうシロモノなんだがな」
椿姫,「楽しみにしてるんだね」
京介,「まあね……正直、すげー楽しみにしてた。発売日を指折り数えて待ち焦がれていたといっても過言じゃない」
椿姫,「なら、また明日、一緒に買い物しない?」
京介,「……また明日ってことは、もう帰るのか?」
椿姫,「うん、ごめん。最近、陽が暮れるのが早いでしょ? 明日は、もうちょっと遅くまで遊べると思うから」
……ぜんぜん遊んでないが、まあいいか。
京介,「じゃあ出よう。勘定は一緒に払うとしよう」
椿姫,「わたし、紅茶頼んだから、950円だね」
千円札をおれに手渡してくる。
京介,「おう、五十円玉が……」
京介,「ないな。すまん。小銭がないや」
椿姫,「あ、いいよいいよ」
京介,「いや、札をくずしてくるから」
椿姫,「いいよ、今日はつきあってもらったし」
手のひらを向けて、遠慮している。
京介,「ダメだって」
椿姫,「律儀だなあ。本当にいいんだよ……五十円くらい」
おれは椿姫を見据えた。
京介,「だめだと、言っている」
椿姫,「え?」
京介,「たかが五十円でも、金は金だ」
椿姫の笑顔がひきつる。
京介,「……わかったな?」
椿姫は言った。
よく知りもしないのに決めつけるのはよくないことだと。
だが、おれは知っている。
金を軽んじる人間は、皆すべからく悪だ。
…………。
……。
;背景 繁華街2 夜
おれは椿姫を地下鉄の駅まで送っていった。
京介,「気をつけて帰れよ」
椿姫,「うん、また明日ね」
京介,「明日?」
椿姫,「もう、とぼけないでよ。CD買いに来るんでしょう?」
言葉に詰まる。
京介,「……そうだったな」
椿姫,「わたしも日記買うから、ちょっとつきあってくれるとうれしいな」
京介,「ちょっと、急用ができるかもしれないけど、それまでだったらいいよ」
椿姫,「急用が、できる?」
京介,「ああ、ちょっと日本語おかしいか」
椿姫,「電話がかかってくるかもしれないのかな?」
京介,「電話?」
椿姫,「浅井くんの電話ってなんだかいっつも鳴っているイメージがあるよ?」
……本当に、おれに興味があるようだな。
京介,「まあ、たぶんだいじょうぶだと思うよ」
椿姫,「そう?」
にっこりと笑って手を振った。
椿姫,「それじゃあ」
京介,「おう……」
椿姫は地下鉄の階段を下りていった。
京介,「さて……」
帰って対応しなければならない業務がいくつかあったな。
歩き出したとき、何かがひっかかった。
時刻は六時。
……そういえば、今日、これから何か約束をしていなかっただろうか。
;此处设置选择变量---------------------------------------------------------------------------
;選択肢
;花音と……
;何もない
@exlink txt="花音と……" target="*select1_1" exp="f.flag_kanon+=1"
@exlink txt="何もない" target="*select1_2"
花音と……
何もない
;花音と……を選んだ場合 フラグ+1
花音と……。
……たしか、スケートリンクがどうとか……。
京介,「…………」
まあいい……忘れているなら、たいした用事じゃないってことだ。
;何もない……を選んだ場合
……約束なんてないな。
帰るとしよう。
椿姫,「浅井くん!」
京介,「んっ?」
;// 上記駆け足終了待ち
椿姫,「よかった、まだ帰ってなかったんだね」
京介,「どうした? 走ってきて」
椿姫は息を整えて言った。
椿姫,「……えっと、電話番号教えてもらってもいいかな?」
おれは小さく笑った。
京介,「なんだ、そんなことか」
さらっと、番号を言う。
椿姫,「ありがとうっ」
京介,「椿姫のは?」
椿姫,「わたし、携帯電話持ってないから」
京介,「え? いまどき?」
椿姫,「なんか、いらないかなって」
京介,「不便だろ? 今度一緒に買いに行こうぜ」
椿姫,「いいよいいよ。家の電話で十分だから」
いまどき珍しい女の子なんだな。
椿姫,「じゃあ、電話するから、出てねっ」
京介,「おう……」
椿姫は、今度こそ去っていった。
京介,「しかし……」
椿姫のヤツ……どうして最近になっておれに興味を持ち始めたのかな。
なんにせよ、あまり深くつきあうのはよそう……。
セントラル街の雑踏を抜けて、家路についた。
おれは忘れっぽいとよく言われる。
だが、金のにおいのする場でミスはしない。
ヘマをするのは、いつもおれより無能な連中だ。
帰宅したおれは、書斎にこもって電話を受けていた。
京介,「お電話で失礼します。あなたが、小谷商事の社長様でいらっしゃいますか?」
電話の向こうから、怒気を含んだ中年の声が返ってきた。
小谷,「小谷だ。お前はなんだ!?」
おれの声が若いので、向こうもなめられていると思ったようだ。
京介,「浅井京介です。以後、お見知りおきを」
小谷,「浅井京介……」
声がしぼんでいく。
小谷,「そうか、お前が浅井権三の懐刀か」
懐刀、か。
昔は小判鮫だの、親の七光りだの、いろいろ言われていたが、おれも偉くなったな。
小谷,「浅井興業のブレーンが出てきたのなら話は早い。そっちが勝手に食ったウチの縄張りについて、どうおとしまえをつけてくれるんだ?」
浅井興業は警察庁から指定を受ける広域暴力団・関東総和連合系であり、おれの養父、浅井権三は、総和連合の最高幹部の一人だ。
警察の頂上壊滅作戦に遭って以後、ヤクザが暴力で覇権を争う時代ではなくなった。
崩壊しかけた全国の暴力団は、共存平和路線をとって、表看板を合法に切り替えた。
総和連合の先頭に立って、裏社会から表社会への転換を図ったのが浅井興業だ。
京介,「おとしまえ……とは、穏やかではありませんね」
合法とはいえ、浅井興業は総和連合のれっきとした舎弟企業だ。
総和連合は、浅井興業をトップに、金融、不動産、建設、風俗営業、それにホテルやアミューズメントパーク、ゴルフ場などにも委託営業している。
年商の総計は、巨大商社にも匹敵するはずだ。
小谷,「中央区にあるクラブとホテル。あそこはウチが独占でやっていたはずだがな?」
だが、たまに連合内でも商業圏――連中はシマと呼ぶが――がぶつかり合うこともあって、いまみたいにこわもてが怒鳴りつけてくることがある。
マーケットのシェア争いなんて、ビジネスでは当たり前のはずなのに、古臭い考えのヤクザはおとしまえをつけろと言う。
京介,「申し訳ありませんが、件のクラブとホテルが、御社の独占マーケットだという認識はありませんでした」
小谷,「バカやろう! あそこはウチがもう十年もケツ持ってるんだよ! 知らねえわけねえだろうが!」
……ああ、知っているさ。
あのホテルとクラブが、あんたのところの営業収入のなかでも、大きな比重を占めているってこともな。
京介,「多年に渡る固定取引先だとしても、この世に変わらぬものなどないのです。そんなものがあれば、別れる男女などいないはずでしょう?」
小谷,「なんだと?」
向こうの息が荒くなった。
京介,「小谷さん。あなたはなにか勘違いされていらっしゃいませんか。今回の一件は御社のマーケットが荒らされたのではなく、我々のマーケットが拡大しただけのことなのです」
京介,「いわば我々の営業努力が、御社より勝っていたというだけであって、これは正当な企業活動です。ビジネスでシェアを獲得したりエントリーするのに挨拶や名乗りを上げる必要がありますか?」
そのとき、電話の向こうで、何か物が壊れる音がした。
おおかた、ガキになめられて腹が立ったから、机でも蹴飛ばしたのだろう。
小谷,「おい、小僧。ウチだって総和連合のフロント企業なんだよ。いわばウチと浅井興業は兄弟みてえなもんだ」
京介,「それで?」
小谷,「ふざけんな、兄弟のシマ食い荒らすような真似しやがって。てめえ、筋者の息子のくせして仁義ってもんを知らねえのか!」
京介,「私は、杯を受けているわけではありませんので」
それに、浅井権三は、おれに仁義など教えなかった。
浅井権三に教わったのは、電話の向こうのマヌケのように、弱みを見せた獲物を食らう姿勢だ。
京介,「ところで、話は変わりますが、おたくの会社はずいぶんと儲けていらっしゃるようですね」
小谷,「ああっ!?」
京介,「不正を働いていらっしゃるのでしょう?」
小谷,「てめえ、言葉には気をつけろよ、どこにそんなネ証タ拠があがってんだ」
京介,「少し、おたくの企業活動を調べさせてもらいました。所得隠蔽のための裏取引の契約書や、架空名義預金がかなりあるようですが、これを警察に届ければ、面白いことになるでしょうね」
小谷,「でたらめ抜かすな!」
そのとき、おれは獲物がひるんだ気配を見逃さなかった。
京介,「いまからその調査リポートをファックスでお送りしましょうか?」
相手の顔が蒼白になるのが目に浮かぶ。
小谷,「お、脅す気か?」
京介,「とんでもありません。私はあくまで正常かつ合法的な商談がしたいだけなのです。今回は中央区のホテルとクラブについて、御社の納得が得られればそれだけで幸いです」
屈辱を押し殺したうめき声が返ってきた。
止めを刺した手ごたえがあった。
証拠はこっちが持っている。
あとは、骨の髄まで絞りつくしてやればいい。
京介,「それでは、今後ともよろしくお願いいたします」
電話を置くと、おれはメールをチェックして、すぐにまた電話をつかむ。
京介,「京介です、お世話になっております」
……浅井権三と出会ってから、おれはずっとこんな毎日を過ごしている。
京介,「例の昭和物産の手形についてお電話したのですが……」
……浅井興業の正式な社員でもないおれの指図で、巨額の金が動く。
京介,「ええ、決算書は拝見しましたよ。ただ、あれは……」
……学園生の身分に過ぎないおれの判断で、会社が潰れたり人が不幸になったりする。
京介,「はい……一般に企業というものは三枚の決算書を用意するものです……」
……おれが短い人生で唯一学んだことといえば、金だけは絶対だということだ。
京介,「一枚は株主用、一枚は銀行用、そしてもう一枚は取引先です。それぞれ書かれている内容に差があるのは、おわかりでしょう?」
……皆、金のために生きているから、金に振り回される。
京介,「ええ、そうですね……私が思うに、あの会社にはもう体力がないんでしょう……ええ……」
……金の前では、年齢も性別も職業も関係ない。
京介,「いえいえ、こんな助言でよかったらいくらでも……ええ……」
……誰もが、おれを恐れ、敬う。
――だが、まだ足りない。
もっと力が欲しい。
いまは浅井興業だけだが、そのうち総和連合全体も飲み込んでやる。
連合に手が届けば、表の社会にも影響を与えることができる。
政治屋も大企業の取締役も各界の著名人もおれの前にひざまずく。
欲しいのは、闇の黒ク サ ー"幕としての地位だ。
それはまるで……。
『君は、勇者になるんだね。だったら僕は……』
京介,「…………」
まるで、なんだ?
こめかみが軋むようにうずいた。
どうかしたのかと、電話の向こうで声がした。
京介,「いえ、なんでもありません。今後とも浅井京介をよろしくお願いいたします」
;黒画面
おれはそそくさと通話を切った。
学園でもそうだが、おれは、たいして金にならないような日常の出来事を、すぐに忘れてしまう。
リビングで少し休憩をして、外出用のコートに手を伸ばす……。
その日の記憶は、そこで途切れている。
…………。
……。
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;背景 マンション入り口 昼
冬の風が眠気を一気に吹き飛ばす。
今日も学園だ。
学園は何も考えなくていいから楽しい。
花音,「兄さんっ!」
京介,「っ!」
不意に、マンションの塀の影から花音が飛び出してきた。
花音,「兄さんもうお前ホントこんちくしょー!」
京介,「あででっ!」
腕をつかまれて、二の腕の肉をつねられた。
京介,「あ、朝からなんだよ!」
花音,「なんだよ、って、こっちがなんだよだよ!」
口を尖らせた。
花音,「兄さんには、ホントまいっちゃうぞー」
京介,「わかった、わかったから、手を放せ!」
花音,「なにがわかったんだよー!?」
京介,「ええっ?」
探るような目でにらんでくる。
京介,「……ごめん、わからん」
花音,「約束したでしょ!」
京介,「……約束……?」
花音,「やっぱり忘れてるんだ! わたしが練習してるからスケートリンクに来てねって言ったじゃない!」
……そういえば、昨日の放課後にそんな約束をしたかもしれない。
京介,「ああ、アレな……ごめんごめん」
言い訳を考えなければ。
花音,「どうしてくれる、どうしてくれる!?」
京介,「いや、本当にごめん。実は、昨日、財布落としちゃってさ。探してたんだよ」
花音,「どこで?」
京介,「セントラル街」
花音,「なにしにセントラル街行ってたの?」
京介,「椿姫と遊んでた」
花音,「バッキーと? なんで?」
……バッキーとは椿姫のことである。
京介,「そんな質問攻めにしなくても……遊んでたんだよ」
花音のご機嫌はかなり斜めなようだ。
花音,「それにしたって、電話一本くらい入れてくれてもいいでしょ?」
京介,「悪い悪い。ホント悪い」
花音,「頭なでてくれたら許してあげる」
京介,「……おう」
花音はとにかく体に触れられると喜ぶ。
花音,「えへへ……」
一瞬にしてご機嫌が直った。
花音,「ヨシヨシ、許してあげる、許してあげるっ」
頭を撫でられている側が、ヨシヨシ、とか言っている。
花音,「今日こそは、練習見に来てくれるんだよね?」
京介,「わかったわかった絶対いく」
覚えておかなきゃな。
花音,「よし、じゃあ一緒にガッコ行こうねっ!」
当然のようにくっついてくる。
京介,「おい、腕を絡めてくるな……」
;背景 学園校門 昼
寒いからか、コートを羽織っている学生もちらほら見かける。
栄一,「先生聞いてよ。それでねっ」
校門までたどり着くと、昨日の放課後と同じような光景が待ち構えていた。
栄一,「ボク、スポーツも得意なんだー」
栄一が、例のノリコとかいう女教師にアタックしている。
……とはいえ、スポーツが得意だったような覚えはないが。
栄一め、すぐばれる嘘はいかんぞ。
栄一,「とくに、サーフィンかなー」
……夏までに練習しておく気か?
栄一,「(クク……こういうのを予定嘘っていうんだよ、嘘も真実にすれば嘘にならないっつーの、ぎゃは)」
なかなかに小ざかしい嘘だ。
花音,「うっそだー!」
突如花音が、騒ぎ出した。
栄一,「えっ?」
女教師,「どうしたの、浅井さん?」
花音は有名人であるからして、教師も含め、学園で知らない人間はいない。
……と、そんな細かいことはいいとして、栄一の顔が一気に引きつっていく。
花音,「のんちゃん知ってるよ、エイちゃん、泳げないじゃない」
栄一,「な、なに言ってるんだよ?」
栄一,「(こ、このアマ、よけいなことを……!)」
花音,「だって、今年、みんなで海行ったよね? そんとき、エイちゃん、溺れちゃってガボガボ言ってたよー
栄一,「(泳げねえってのに、オメーが面白いからドーンとかいうノリでオレを海に突き飛ばしたんだろうが!
女教師,「え、栄一くん? なにブツブツ言ってるのかしら?」
栄一,「な、なんでもないよなんでもないよ」
花音,「どう見ても何かある顔してるぞー?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべる花音。
栄一,「あ、あははっ、やだなー、花音ちゃん。あれから泳げるように特訓したんだよ」
花音,「ホントかなー? ホントかなー? どこのプールで特訓したのかなー?」
まあ、嘘だろうな……。
栄一は、どうやってこの場を切り抜けるんだろうか。
栄一,「ぼ、ボク、日直だから、先に行くねー」
おいおい、逃げちゃダメだろ。
花音,「エイちゃん、今日、日直じゃないでしょー? 待てー!」
追いかける花音。
初冬の寒さにも負けず、学園は平和だ。
;背景 教室 昼
栄一と花音を追って教室についた。
栄一,「はあっ、ひいっ、はあっ……」
走り疲れたのか、栄一はグロッキーになっていた。
花音,「兄さん、兄さんっ」
一方、花音はぜんぜん元気である。
花音,「のんちゃん、授業が始まるまで寝るねっ」
京介,「ああ、早朝練習で疲れてるんだろ?」
花音,「ううん、昨日ね、パパリンと夜遅くまでお話してたから」
権三と……?
京介,「パパ、何か言ってたか?」
花音,「がんばって、オリンピック行けって。パパ、とっても優しかったよー」
京介,「……そうか」
思うところがやまほどあるが、学園にいるうちは考えるのをよそう。
京介,「そういえば、いま気づいたんだが、そのバッグはなんだ?」
花音は鞄とは別に、手提げのバッグを持っていた。
花音,「体操着が入ってるんだよ」
今日は体育の授業があったな。
京介,「ブランド物のバッグじゃないか?」
花音,「兄さんが買ってくれたんじゃない」
京介,「ああ、そうだったな」
花音,「じゃ、のんちゃん、寝るー」
席について、マンガみたいな早さで寝息を立て始めた。
栄一,「……おい、京介」
振り返ると、栄一がやさぐれていた。
栄一,「いまのオレの気持ち、わかるだろう?」
京介,「え?」
栄一,「あのアマ、花音はよぉっ、なんつーの、おめえの妹だから、いままで大目に見てきた感はあるんだよ、
寛大なオレちゃんはよー」
京介,「お、おう……」
栄一,「でもマジ限界っつーか、あんま調子こいてオレの狩りを邪魔されっと、リアルにトサカにくるっつーか
京介,「いや、でも、お前の狩りの仕方にも問題があったんじゃねえかな……」
栄一,「うるせえ、今日は部活だかんな」
京介,「え? 部活? おれ、帰宅部だけど?」
栄一,「てめえ、なに寝言こいてんだよ、秘密結社作っただろうが、誓い立てただろうが、オレとお前で宇宙征
服するんだろうが」
……うーん、なんか、そんなくだらない遊びをしていた気もするな。
栄一,「忘れたとは言わさねえぞ」
京介,「ああ、なんとなく思い出した。理科準備室だったな?」
言うと、栄一は邪悪な笑顔を見せた。
栄一,「おう、放課後な……」
教室を出て行った。
おれはクラスメイトの顔を見渡す。
どうやら、白鳥は今日も休みのようだ。
そろそろホームルームが始まるな。
椿姫,「ふーっ、間に合ったー」
京介,「珍しいな。遅刻ぎりぎりなんて」
話しかけると椿姫は、照れくさそうに笑った。
椿姫,「夜更かししてたら寝坊しちゃってね」
京介,「どうせ夜中まで日記書いてたんだろ?」
椿姫,「え? なんでわかるの?」
京介,「わかるだろ」
椿姫,「昨日は、浅井くんと遊んだから、たくさん書きたくなっちゃったんだよ」
京介,「今日もだよな?」
椿姫,「あ、覚えててくれたんだ」
京介,「さすがにな。でも、ちょっと栄一と用事あるから、先に行っててくれないか?」
椿姫,「いいよ。昨日行った喫茶店で待ち合わせしよう」
京介,「なにかあったら、携帯に連絡くれ。メモしてあるんだろ?」
椿姫,「うん、ばっちり」
爽やかに歯を見せた。
椿姫,「それにしても、今日も、白鳥さんお休みみたいだね」
京介,「おう、なにか聞いてないか?」
椿姫は残念そうに首を振る。
椿姫,「宇佐美さんも来てないし」
京介,「宇佐美ハルか……転入二日目なのにな」
椿姫,「宇佐美さんにも、電話番号聞こうっと。今日から友達になってくれるって言ってたし」
京介,「……今日から友達って、なんか変な感じだよな」
椿姫,「そんなことないよ、宇佐美さん、きっと恥ずかしがりやさんなんだよ」
京介,「いつも思うんだが、お前の善のオーラには驚かされるな」
椿姫,「え?」
京介,「まあいい、そろそろ授業が始まるぞ」
おれたちは席に着いた。
;背景 屋上 昼
けっきょく昼休みになるまで宇佐美は姿を見せなかった。
京介,「あー、ミキちゃん、うんうんっ、この前はサンクスね」
おれは電話中。
花音,「エイちゃん、うそはよくないぞー」
栄一,「だから、うそじゃないってば。もう勘弁してよー」
栄一がプリンを食べながら泣きべそをかいている。
花音,「お菓子ばっかり食べてるから、性格が曲がっていくんだぞー」
栄一,「毎日違うお菓子食べてるからいいのっ!」
花音,「そんなのわけわかんないよ」
栄一,「いいのっ、ボクのポリシーなのっ! 昨日はチョコで今日はプリンなのっ!」
そういえば、栄一は毎日毎日多種多様のデザートを口にしている。
椿姫,「今日もいいお天気です。みんな仲良しでグッドです○」
みんな思い思いに昼休みを過ごしている。
花音,「じゃあ、今度の日曜日に温水プール行こうよ」
栄一,「こ、今度の日曜日はペットのエサを買いに行くからダメ」
椿姫,「花音ちゃん、栄一くんを信じてあげなよ……って、あれ?」
椿姫が急に目を丸くした。
椿姫,「あれ、宇佐美さんじゃない?」
栄一,「あ、ホントだ」
助け舟を得たとばかりに、栄一が飛びつく。
栄一,「あの髪型からして間違いないよ」
花音,「おーい、うさみーん!」
花音は、勝手に人のあだ名をつける。
ハル,「…………」
宇佐美もこちらに気づいたようだ。
ようやくおれも通話を終える。
ナンパくんを演じるのも大変だ。
花音,「うさみん、こっち来なよー」
みんなして手を振る。
ハル,「…………」
のろのろと、探るような足取りで近づいてくる。
お化けみたいな髪が不規則に揺れる。
ハル,「あ、ども……」
花音,「うさみん、いつ来たの?」
ハル,「さっきッス。基本朝とか脆弱なんで」
栄一,「どうして屋上にいるの?」
ハル,「は?」
栄一,「……いや、は、じゃなくて……昨日もここで会ったよね?」
ハル,「いや深い意味はないスけど……高いところとか好きなんで」
そのとき椿姫はずいっと前に進み出た。
椿姫,「宇佐美さん、宇佐美さんっ」
ハル,「……え?」
椿姫,「今日からお友達だよねっ?」
すごいうれしそうな椿姫。
ハル,「誰すか?」
椿姫,「はうっ!」
撃沈。
ハル,「って、あ、すいません。思い出した」
椿姫,「思い出してくれた?」
ハル,「うむ」
すっと、胸を張った。
ハル,「わたしは宇佐美ハルだ。お前の名は?」
栄一,「……なんかすごい凛々しい」
椿姫,「つ、椿姫です」
ハル,「よし、椿姫か。覚えたぞ」
花音,「あ、のんちゃん、のんちゃんもっ。わたし花音っ!」
ハル,「いいだろう。花音だな。覚えた」
栄一,「あ、ボク、ボクも、ボク栄一!」
ハル,「あ、いや、一日二人が限界なんで」
栄一,「ちょっとちょっと!」
ハル,「椿姫、花音、いいか、わたしのことは勇者と呼べ」
椿姫,「え?」
花音,「んー?」
ハル,「不満か?」
椿姫,「不満、じゃなくて……」
花音,「なんでー?」
ハル,「理由はとくにない。だが、いままでわたしの仲間になった人間には必ずそう呼ばせている」
花音,「なんかよくわかんないけど、いいよー」
椿姫,「わたしもいいよ、それで友達になれるんなら」
花音,「勇者っ、勇者っ」
椿姫,「勇者さん勇者さん」
なんか異様な光景だな……。
ハル,「…………」
なんかうっとりしてる……。
ハル,「うん、わたしはいまとても気分がいい。よって、お前たちにも役職を与えよう」
役職?
ハル,「椿姫、お前は僧侶だ」
椿姫,「え? 僧侶? なにをする人なの?」
ハル,「癒し系だ」
椿姫,「癒し系?」
花音,「バッキーにぴったりだよー。ねえねえ、のんちゃんは?」
ハル,「お前は戦士だ」
花音,「おおー、戦士っ! 強いぞー」
栄一,「ぼ、ボクはボクは!? ボク、魔法使いがいいっ!」
ハル,「エテ吉さんはスライムとかがいいんじゃないスかね」
栄一,「ちょっと仲間に入れてよ!」
ハル,「いやなんか、エテ吉さんてゲルっぽいじゃないスか」
栄一,「(こ、このアマァ……!)」
花音,「ねえねえ、兄さんは?」
京介,「おれ?」
椿姫,「あ、宇佐美さん、彼は浅井くんっていうんだよ」
椿姫がわざわざ紹介してくれた。
ハル,「そうだな……」
全身をまじまじと見つめてくる。
京介,「な、なんだよ……?」
ハル,「……え?」
何かに気づいたように、顔をこわばらせた。
ハル,「……まさか……」
花音,「どしたの?」
ハル,「…………」
宇佐美の表情からは何も読み取れない。
考えをめぐらせているようでいて、頭のなかが空白になっているような無表情が続く。
花音,「ねえ、兄さんはなにかな? やっぱり遊び人かな?」
ハル,「いや……」
宇佐美の口が動きかけたとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
京介,「はは……なんか知らんが、よろしくな」
握手を求めて手を差し伸べる。
ハル,「…………」
京介,「どうしたんだよ、前世で会ったことあるか?」
ハル,「一ついいか?」
神妙な顔。
ハル,「浅井は、ただの学園生じゃないな?」
京介,「占いでもやってるのか? どこにでもいる学園生だっての」
不気味な女だな……。
ハル,「いまどきの学生が、友達になろうというときに握手なんて照れくさいことをするか?」
……言われてみればそうだ。
京介,「いまどきの女学生がいきなり勇者って呼べとか言うか?」
……つい、ビジネスの癖が出てしまったな。
ハル,「それは、そすね」
口元がつりあがる。
……なにが面白いんだ?
京介,「さあ、とっとと教室に戻ろうぜ。次は体育だ」
花音,「あ、そうだった。急がなきゃ!」
椿姫,「花音ちゃん、体動かすの大好きだもんね」
花音,「今日はバレーボールだー!」
椿姫,「宇佐美さん、行こうっ」
花音はすごい勢いで走り去っていった。
京介,「宇佐美は急がなくていいのか?」
ハル,「…………」
黙っておれを見ている。
……無視するか。
京介,「じゃあな……」
屋上をあとにした。
宇佐美の視線が、いつまでも背中にへばりついているような気がした。
;背景 職員室 昼
;// 上記のチャイム終了待ち
授業の合間の休み時間。
おれは職員室に呼び出されていた。
学園でのおれは、あまり目立たないように、それでいて教師や生徒からの評判は悪くならないような微妙な立ち回りをしている。
ただ、出席日数が思わしくないから、教師から呼び出しがかかることもある。
とくに、昨日抜き打ちテストをかましてくれた数学教師からは目をつけられている。
数学教師,「おい、浅井。先生はな、お前はもっとできるんじゃないかと思ってるんだ」
京介,「いや、おれはおれなりにがんばってるつもりですが?」
数学教師,「昨日のテストにしてもそうだ。お前、わざと答えを間違えてないか?」
京介,「んなわけないじゃないですかー」
数学教師,「まあいい。ちょっとこの問題解いてみろ」
乱雑に散らかった先生の机に、一枚の問題用紙がある。
先生は、関数の曲線を指で叩いていた。
京介,「え? いまですか?」
数学教師,「早くしろ。補習だと思え」
……どうやら、抜き打ちテストの結果は思わしくなかったようだな。
京介,「わかりましたよ……やれやれ……」
鉛筆を握り問題に向かう。
京介,「ええと……ここがこうだから……」
数学教師,「浅井なら簡単だろう?」
おれの挙動を探るようにじっと見つめてくる。
京介,「そんな見ないでくださいよ……って、あっ!」
数学教師,「なんだ?」
鉛筆の芯が折れた。
京介,「なんだ、じゃないですよ、先生。この机ちょっとデコボコしすぎじゃないですかね?」
よく見れば、小さな穴がたくさん開いていたり、カッターでつけたような傷が無数にあったりした。
数学教師,「教師の机ってのは、使い込むもんなんだよ」
京介,「……んな熱血漢みたいなキャラ作んないでくださいよ。文字がぶれて、おまけに紙に穴まで開いちゃったじゃないすかー」
数学教師,「ぐちぐち言ってないで、とっととやれ……」
京介,「はあ……休み時間終わっちゃいますよ……」
その後、数学教師はおれを解放しようとしなかった。
しかし、なんの苦にもならない。
仕事のことを思えば、学園は天国だ。
;黒画面
……。
…………。
授業は全て終わって放課後になり、おれは学園の理科準備室に忍び込んだ。
理科準備室は通常鍵がかかっている。
だが、おれは、いつだったか先生から鍵を預かったときに一日だけ失敬して、合鍵を作っておいたのだ。
この場はおれと栄一のテリトリー。
秘密の部活の始まりである。
栄一が廊下で入室の許可を待っている。
京介,「クビ」
栄一,「解雇されること」
京介,「乳首」
栄一,「胸部中央に覇を唱えた突起」
京介,「生首」
栄一,「とても怖い」
京介,「ワナビー」
栄一,「イェー」
合言葉の確認は済んだ。
京介,「よかろう、入れ」
栄一,「神、お久しぶりでございます」
京介,「うむ、半年ぶりくらいか」
栄一,「いや一ヶ月ぶりくらいです。神は本当に忘れっぽいですね」
京介,「無礼な。私は無限の時間を生きているから、時間にはちょっとアバウトなのだ」
栄一,「は、申し訳ございません、神」
栄一がひざまずく。
栄一,「ていうか、神。相変わらずダサい被り物してますね」
京介,「うるさい愚民だな。お前がかぶれとか言ったんじゃねえか」
栄一,「そうでしたっけ?」
京介,「とぼけたこと言ってると、神、怒るぞ」
栄一,「申し訳ございません、たびたび助けていただいたご恩は一生忘れません」
京介,「そうだな、お前がいまあるのは、私のおかげだ」
栄一,「はい。ノリコ先生の電話番号を教えてくれたのも神でした」
京介,「おう」
栄一,「ノリコ先生がお酒好きというネタを教えてくれたのも神でした」
京介,「わかればいい」
栄一,「でもいまだにノリコ先生とねんごろな関係になれないんですが?」
京介,「それはお前のせい」
栄一,「まあいいです。ではさっそく、今回のお願いなんですが」
京介,「うむ、聞こうではないか。神に不可能はない」
栄一が頭を垂れた。
栄一,「気に入らない人間がいるのです」
京介,「うむ……悲しいかな、人間は人間であるというだけで誰かを憎まずにいられんものだ」
栄一,「そいつは、あろうことか、人の恋路を土足で踏み荒らしやがったのです」
京介,「ほう……それは許せぬな」
栄一,「どうか、神。そいつに神の裁きを。復讐の鉄槌を!」
京介,「よかろう、その者の名は?」
栄一,「花音です」
京介,「え?」
栄一,「浅井花音です」
京介,「いや、ちょっと待てよ」
栄一,「どうしたんですか、神? あなたはいままで数々の悪の手口をボクに教えてくれたじゃないですか?」
京介,「いや、それとこれとは話が別……」
栄一,「ばれずに女子トイレを覗き見する方法とか、ばれずに早弁する方法とか、こっそり職員室に忍び込む方法とか」
京介,「だから、ちょっと待てって」
栄一,「ボクはもういいかげん頭にきたんですよ。あいつが邪魔をしなければ、とっくにノリコはボクのものになってるはずなんです」
京介,「いやそれ、逆恨みだから。ていうか、花音はおれの義理の……」
栄一,「神は神でしょ? 唯一神でしょ! 妹とかいるわけないでしょ!」
どうやらマジで花音に仕返ししてやりたいらしいな。
京介,「落ち着け。たしかに花音はノリとテンションで生きているところはある。だが、決して悪いやつではないのだ」
栄一,「えー」
京介,「えー、じゃねえよ」
栄一,「あー」
京介,「あー、じゃねえよ。ガキかお前は」
栄一,「ち……お前にかわいいキャラでぶりっ子しても無駄だったな」
京介,「本性知ってるからな」
栄一,「どうしてもダメですか?」
京介,「うん、無理」
栄一,「くーっ! もういいよチクショー!」
京介,「はい、じゃあもう、お開きな。神、忙しいし」
;背景 廊下 夕方
被り物を準備室の棚にしまって、廊下に出てきた。
栄一,「てめえがこんな薄情なヤツだとは思わなかった」
京介,「復讐はいかんよ、復讐は」
いまにも床に唾を吐きそうな顔をしている。
京介,「女の子だったら、また紹介してやるって」
栄一,「ヤダ! 年上で大卒で年収一千万じゃないとヤダ!」
京介,「無理だから」
……いや、無理なことはないか。
だが、そういった女性を紹介するには、おれも裏の顔をさらす必要がある。
栄一,「つまんねーから、ゲーセン行こうぜ」
京介,「あ、えっとな……」
栄一,「なんだよ、どうせお前は授業終わったらセントラル街でナンパに明け暮れてるんだろ?」
京介,「いや、椿姫と約束があるのよ」
栄一,「はぁっ? んな約束、お前のいつもの忘れっぽいキャラですっぽかせや」
京介,「CD買うのつき合ってくれるんだよ。それに椿姫とは昨日も遊んだし、もしかしてこれから新しい恋が始まるかもしれんぞ」
栄一,「ホント、頭がピンクなヤツはこれだから困るぜ」
京介,「まあまあ、約束は約束だからさ」
栄一,「ったく、お前はチャラ男くんのくせして、妙に義理堅いっていうか、友情にあついっていうか、主人公属性つけてっから腹立つんだよなー」
おれは満足する。
京介,「はは……また明日なー」
学園でのおれの評価が、ほぼ、おれの思惑通りになっていることに。
栄一,「オレも帰ってうさぎに慰めてもらおうっと」
嘘もつき続けてみれば、真実のように他人には見えるってわけか……。
;背景 繁華街1 夜
セントラル街に着いたときには、すでに街はネオンの光で溢れていた。
けっこう遅くなってしまったみたいだ。
活気だった人ごみをかきわけて、喫茶『ラピスラズリ』に向かう。
;背景 喫茶店
ウェイター,「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
ウェイターが挨拶の声とともに、指をひとつ立てた。
京介,「いや、待ち合わせをしてるんですが……」
店内を見渡しても、椿姫の姿がない。
京介,「すみません、自由ヶ咲学園の制服を着た女の子が来ませんでしたか?」
ウェイターは若干首を傾げる。
京介,「……日記を持ち歩いているような感じの……」
ウェイター,「ああ、はいはい、いらっしゃってましたよ」
京介,「帰りましたか?」
ウェイター,「男性の方といっしょに見えられて、ついさっき、またいっしょに店を出て行かれましたよ」
……どういうことだ……まさか……。
京介,「……男は、どんな様子でした?」
ウェイター,「女の子にしきりに話しかけてましたね。色黒で体が大きくて、ジャケットを羽織ってましたよ」
……間違いない、キャッチだ。
セントラル街に一人で来た椿姫を狙って声をかけたんだろう。
普通、路上のキャッチはすぐに獲物を事務所につれていかない。
こういった雰囲気のいい喫茶店でだべりながら、女の子のランクを吟味する。
京介,「まったく、世間知らずなヤツだな……」
……良くてキャバクラの誘い、悪くてAVってところか。
おれは入ってきたばかりのドアを再び押した。
;背景 繁華街1 夜
セントラル街で営業しているスカウト会社は、小さいのも含めると四つある。
そのどれもが、浅井権三の組の庇護を受けている。
浅井興業の名前も、当然知っている。
こんなことで借りを作りたくはないが、やむをえないか……。
おれは携帯電話を駆使する。
京介,「浅井興業の者です。つい今しがた、そちらの事務所に椿姫という女の子はやってきませんでしたか? ええ、自由ヶ咲学園の制服を……」
…………。
……。
;場転
一時間後。
椿姫,「あ、浅井くんっ!」
雑居ビルの薄暗い階段を下りてきた。
京介,「おおー、探したぞー。お前、ケータイとか持ってないから、ホント探したぞー」
キャッチに捕まった椿姫だが、とくに落ち込んでいる様子は見えない。
京介,「……なにがあったんだ?」
我ながら白々しい。
椿姫,「なんだかね、写真を撮らせて欲しいって頼まれてたの。ファッション雑誌のカメラマンの人に声をかけられてね」
京介,「へえ……すごいな、お前かわいいもんな」
椿姫,「そんなことないよ、ありがとねっ」
この笑顔が、危くエロ雑誌に掲載されるところだったな。
京介,「でも、おれと待ち合わせしてるんだから、知らない人について行っちゃダメじゃん」
椿姫,「ごめん、それはホントにごめんね。でも、その人すっごく熱心にお話してて、断るのもかわいそうで……浅井くんに連絡して相談しようと思ってたんだよ」
椿姫,「でも、セントラル街って公衆電話がぜんぜんないんだね、そしたら、その人が事務所に来てくれれば電話を貸してくれるって……」
しかし、こいつは人を疑うということを知らんのだろうか……。
京介,「で、写真は撮られたのか?」
椿姫,「ううん、一枚も。なんだか急に帰っていいって言われて、丁寧に出口まで見送ってもらったよ」
浅井興業の名前を出せば、対応も丁寧になるってもんだ。
椿姫,「わたし、審査落ちしちゃったみたいだねっ」
苦笑するしかない。
京介,「まあいいや。とっととバッハを買いに行かせてくれ」
椿姫,「あ、うん。ごめんね、待たせちゃって」
;場転
……。
…………。
買い物を終えて、ぶらぶらと街をうろついていた。
椿姫,「浅井くん、どうして二枚も同じCD買ったの?」
京介,「ふふふ、わからんか?」
椿姫,「え? なんだかわからないけど、ごめん」
二枚のCDを見つめながら、おれは語る。
京介,「一枚は保存用なんだ。ぜったいに開封しないで部屋に飾っておくのさ」
椿姫,「へえっ、本当に好きなんだねっ。わたしバッハは、G線上のアリアと、トッカータとフーガくらいしかわからないよ」
京介,「まあ、その辺はメジャーだからな。このCDの目玉はシャコンヌさ」
椿姫,「シャコンヌ?」
京介,「正確には『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調』の第5曲っていうんだがな、ヴァイオリンだけで演奏するからものすごく難度の高い曲なんだ」
椿姫,「え、ぱるてぃーた?」
京介,「このシャコンヌは色々と編曲されててさ、特にブゾーニのピアノ編曲が有名だと思うんだが、おれとしてはいまいちでね」
椿姫,「ぶぞーに?」
京介,「とはいえバッハはね、ポリフォニックな曲もいいんだが、やっぱりエールとか小フーガみたいに精密で厳格じゃなくても旋律の良さを味わえる曲がいいとも思うんだ」
椿姫,「あ、うんうん……」
京介,「そういった意味ではフランス組曲が一番かな。奏者はチェンバロだったらレオンハルトなんだが、ピアノだったらちょっと迷うところなんだよな」
椿姫,「へえー、そうなんだー」
京介,「かくいうおれもマニアじゃないからさ、教会カンタータとか敷居が高いのはいまひとつ趣がわからないんだよね」
椿姫,「(あ、浅井くんってちょっとマニアックなところあるんだな……)」
…………。
……。
;背景 繁華街2 夜
椿姫,「今日もありがとうねっ、かわいい日記も買えたし、楽しかったよ」
京介,「けっきょくバッハのなにがいいかっていうとさ……」
椿姫,「(ま、まだ続くんだ!?)」
どうやらいつの間にか、駅までたどりついたらしい。
京介,「あ、しまった。花音と約束してたんだ」
さすがに二度も無視したらキレられる。
椿姫,「そうなんだ。ごめんね、遅くまでつき合わせて」
;SE 携帯
京介,「いや……って、携帯が……」
椿姫,「あ、鳴ってるね、花音ちゃんかな?」
;// 上記携帯停止
電話を取る。
京介,「もしもし……あー、ミキちゃん、こんばんは!」
椿姫,「…………」
京介,「うん、うんうんっ、あー、そう、そっかあ、今度ご飯いっしょしようねー」
椿姫,「…………」
京介,「はいはい、じゃあ、またねー」
たいしたことのない用事だった。
京介,「悪い椿姫、じゃあ、この辺でな」
椿姫,「あ、浅井くん浅井くん」
緊張しているのか、椿姫の唇が締まった。
京介,「どした?」
椿姫,「……えっと……」
京介,「ん?」
椿姫,「CD貸してくれるとうれしいな」
京介,「おお、いいぞ。一通り聞き終わったらな。あさってには貸してやろうじゃないか」
……それだけかな?
椿姫,「じゃあ……また明日学園でね」
……何か含みがあるような気がするが、まあいいか。
椿姫と別れ、おれはスケートリンクに向かう。
;背景 スケートリンク練習会場概観 夜
セントラル街から電車で二駅。
中央区にあるアイススケートセンターは、一般滑走用のリンクの他に、アイスホッケーとフィギュアスケート用のリンクもあって、しかも通年滑走可能という贅沢な建物だった。
マスコミに注目を浴びつつある花音のこともあって、富万別市もスポーツ施設の充実に力を入れているようだ。
時刻は六時半。
そろそろ一般客を締め出して、貸切練習している時間だろう。
;背景 スケートリンク練習会場観客席
家族は事情を打ち明ければ、入場できる。
もちろん、厳しい練習に明け暮れる選手達に混じって、リンクに入ることは許されないが。
おれは客席に座って、練習風景を眺めることにした。
花音,「あ、兄さんだー!」
リンクから能天気な声が上がる。
コーチの姿も見えないし、どうやらいまは休憩中みたいだな。
花音,「兄さん、見て見てっ!」
花音がジャンパーも羽織らずに滑っていた。
京介,「おーい、なに遊んでるんだー」
花音,「遊んでないよ、コンパルソリーだよー」
コンパルソリーは氷の上に定められた図形を描く規定種目だ。
もっとも、テレビ受けしないという理由で、現在は競技種目からは外されている。
花音,「もうちょっとで終わるから、待っててねー」
片足だけで滑り、円を描きながら、その間にターンをしたりカーブの方向を変えたりして、図形を氷上にトレースしていく。
展開がスローというか華やかさがないので、観ているおれは正直退屈なのだが、花音に言わせれば大切な技術がいろいろと詰まっているんだそうだ。
花音,「終わりーっ!」
京介,「休み時間も練習するなんて、偉いぞ」
花音,「えへへ、こういうのも見せちゃうぞー」
花音は顔だけこちらに向けながら、後ろ向きに滑走を続ける。
リンクに緩やかな曲線が平行に描かれていく。
京介,「おお、なんか知らんが、上手くなったんじゃないか?」
てきとーに褒めておく。
花音,「くるくるっと回っちゃうぞー」
そのままスピンをやり始める。
が、勢いが足りなかったようで、すぐに回転が止まる。
京介,「おお、なんか知らんが、いい感じじゃないか?」
花音,「兄さん、あんまりてきとーなこと言ってるとのんちゃん怒るぞー?」
京介,「いや、おれは審査員じゃないから、細かいことはよくわからんよ」
京介,「でも、お前ちょっと痩せたよな?」
花音,「うんっ、おかげでもうちょっと高く飛べるようになったんだー」
160センチという身長に、均整の取れた体つき。
なにより手足が長いということが、フィギュアスケートをやる上で、とても有利に働くらしい。
花音,「うおぉぉっ!」
軽くジャンプしたときに、体勢をひねったらしい。
京介,「おいおい、調子に乗って転んで怪我するなよー」
花音,「怪我したら兄さんが助けてくれるんだよねっ?」
言いながら、客席まで寄ってきた。
;背景 スケートリンク練習会場観客席
京介,「寒くないか?」
花音,「うん、平気平気っ」
京介,「それって、ひょっとして大会用の衣装じゃないのか?」
花音,「そうだよ?」
京介,「いま着てていいのか?」
花音,「大会近いからねー。衣装で練習するときもあるんだよ」
花音は、一ヵ月半後にオリンピック選考を兼ねた大事な試合を一つ控えている。
花音,「でも、本当は兄さんに見てもらいたかったからなんだー」
腕を伸ばして抱きついてくる。
京介,「って、危ねえっ!」
花音,「なにがー?」
京介,「足元見ろ! 切っ先の鋭いエッジがいままさにおれの足を踏まんとしてるじゃねえか!」
花音,「あはは、踏んじゃえ踏んじゃえっ!」
しゃれにならん女だな……。
京介,「そういえば、ママは?」
花音,「コーチ? コーチはいま、会議してるって」
京介,「忙しいのかな? ちょっと顔出そうと思ってるんだが」
花音,「なんだかね、のんちゃんカナダに行ってたでしょう? 外国での練習が終わって、今後どういうふうにのんちゃんを伸ばすのかっていう話し合いしてるみたい」
京介,「お前はどういうふうに伸びていきたいんだ?」
花音,「知らない。でも、絶対オリンピック行くよー」
無邪気なもんだな。
花音,「ねえねえ、のんちゃんの人気者計画聞いてよ」
京介,「計画?」
花音,「もっともっと有名になって、もっとたくさんの人にのんちゃんのこと見てもらうんだー」
京介,「おう、それで?」
花音,「終わりだけど?」
京介,「すげえアバウトだけど、花音らしくてよしとする」
花音はニコニコしながら、またリンクに向かった。
花音,「さてさて、じゃあ、兄さんにも四回転ジャンプを見せてやろうじゃないかー」
京介,「おおっ、ループだったな?」
クワドラブルルッツは、女子フィギュアスケートの公式試合において、世界でもまだ誰も成功していない。
ジャンプするだけならともかく、着氷することができないのだ。
花音,「いままでぜんぶ転んじゃってるんだけど、兄さんの前ならきっとできるっ」
京介,「おいおい、無理ならやめておけよ。転んだら痛いだろ?」
花音,「だって、成功したらもっと人気者になれるよー」
京介,「成功すればな」
花音,「みんな新しい技が大好きなんだよ。だから、がんばってぜいったい成功させるんだー」
花音は勢いよく氷上に足を滑らせていった。
;SE 携帯
……む?
花音,「兄さん、いっくよー!?」
京介,「ちょっと待って、電話が……」
またミキちゃんかな……面倒だないいかげん……。
;// 上記携帯音を停止
京介,「はい、もしもし……」
けれど、相手の声に息を呑んだ。
花音,「兄さん、まーだー?」
花音の姿は、もう、目に映らない。
花音,「やっちゃうぞー、ジャンプしちゃうぞー、よそ見してても知らないぞー?」
おれは通話を終えて、花音にひと言だけ告げる。
京介,「すまん、用事ができた」
花音,「え? ちょっとちょっとっ!」
花音が地団太を踏んで、リンクの氷が削られる音が響く。
思考を切り替える。
なにも考えなくていい表の時間は終わりだ。
浅井権三からの呼び出しがかかったのだから……。
;黒画面
;背景 南区住宅街 夜
富万別市の南区は、新築の一戸建てが並ぶ閑静な高級住宅街だ。
どの家屋も、日本とは思えないほど敷地が広い。
人気は驚くほど少なく、たまに自転車で巡回をしている警察官とすれ違うくらいだった。
豪勢な門にはたいてい警備会社のプレートが掲げられていて、ケチな空き巣のつけいる隙はない。
南区には、この巨大都市の支配者層が住むのにふさわしい物々しさがあった。
;背景 権三の家の門 夜
一時間ほどで、権三の家にたどり着いた。
……いつ帰ってきても、緊張する。
;インターホンの音
京介,「…………」
;// インターホン終了待ち
インターホンを押すと、しばらく待って女中の声が返ってきた。
京介,「京介です。お義父さんは、ご在宅ですか?」
;ゆっくりと黒フェード。
…………。
……。
;黒画面
さらに数分待たされて、おれは家の中に入ることを許された。
敷地内に黒塗りの高級車が二台停まっていた。
鯉のいる池を眺めながら長い廊下を渡る。
途中、権三の部下に出くわし、軽い挨拶を交わす。
権三は、客人と会食中ということだった。
間に入って、一緒に酒を飲めと命じられた。
……つきあうしかないな。
客間の前までやってきた。
部屋の明かりが障子越しにぼんやりと漏れている。
話し声は聞こえない。
けれど、勢いよく酒をあおって喉が鳴る音がする。
障子の向こうに、間違いなく、あいつがいる。
京介,「失礼します。京介です」
間があった。
浅井権三,「おう……」
獣のいななきを思わせる、深いため息があった。
京介,「失礼してよろしいでしょうか?」
客が来ているというが、あいつの他に人の気配を感じられない。
浅井権三,「入れ」
;背景 権三宅居間 夜 明かりアリ
;// 権三登場のイベントCGに差し替え
すぐに異変を察知した。
浅井権三,「よく来たな」
贅沢な料理の数々が、畳の上に散乱している。
京介,「ご無沙汰しております」
和室には、やはり客らしき男がいた。
頭から血を流して、テーブルに突っ伏している。
おれは平静を装って、生きているのか死んでいるのかわからない男を眺めた。
浅井権三,「調子はどうだ?」
京介,「とくに問題はありません」
問題はない。
おれの父……浅井権三の前で、血を見るのには慣れている。
テーブルの端に、よじれた名刺があった。
毎夕テレビ・第一企画部・エグゼクティブプロデューサーとある。
名前は聞いたことがある。
毎週月曜日のゴールデンタイムに、視聴率20%越えのトレンディドラマを生み出し続けている局の大物プロデューサーだ。
仕事や私生活での武勇伝にはことかかず、芸能界でこの男に尾を振らない人間はいないという。
浅井権三,「どうした? 気になるのか?」
京介,「いいえ」
名刺を交わしたということは、権三とこのプロデューサーは初対面だったわけだ。
浅井権三,「こいつは、調子に乗りすぎた」
京介,「お義父さんもおかわりなく……」
花音は、容貌のいいフィギュアスケート選手として名を馳せていて、いくつかのテレビCMにも出演している。
調子に乗りすぎた……ということは、なにか契約関係でもめたのだろうか。
いずれにせよ、うちの親父は、初対面の、しかもそれなりに地位のある人間を暴力の海に沈めたのだ。
ガキのころは、どうして権三の無法が通るのかと不思議に思ったものだ。
プロデューサー,「……う、ぁ……」
どうやらまだ生きているらしい。
プロデューサー,「……お前、私に、こ、こんなことをして、許されると思ってるのか?」
浅井権三,「…………」
権三は、男を見つめながら、この上なく旨そうに刺身にしゃぶりついている。
プロデューサー,「べ、弁護士に……い、いや、警察に突き出して……お前らみたいなクズを……社会的に抹殺……」
浅井権三,「…………」
権三は、愉しそうに笑う。
浅井権三,「二十になる娘がいるんだろう?」
また旨そうに酒を煽った。
浅井権三,「…………」
おれには権三の考えていることがわかる。
遅いのだ。
机上の論理で物を考える人間は、やれ警察に駆け込めだの、弁護士に相談しろと当たり前のことしか言わない。
だが、それでは遅い。
警察はなにか起こってからしか動かないし、弁護士は四六時中そばにいてくれるわけではない。
浅井権三,「娘がソープに沈められてから、うちのどうでもいいような若いのが懲役くらったとして、お前は満足なのか?」
脅しではない。
浅井権三の配下には、一発手柄を狙うチンピラがいくらでもいる。
刑務所に入れられるのを名誉と思っているような獣たちだ。
彼らは五分先の未来も考えぬ無鉄砲さで、上の命令を喜んで遂行していく。
浅井権三,「まあ、座って刺身でも食っていけ」
季節の刺身は、ところどころ血で滲んでいた。
京介,「おいしそうなフグですね。いただきます」
虫の息をしている男の隣に座り、箸をつまんだ。
プロデューサー,「……きゅ、救急車……」
浅井権三,「飲むか?」
京介,「いえ、酒は……」
プロデューサー,「た、たすけ、て……」
浅井権三,「九州の焼酎でな。なかなかいける」
京介,「へえ……」
プロデューサー,「う、うぅぅ……」
人が、死にかけている。
その脇で、おれたちは腹を満たす。
浅井京介と浅井権三の関係は、そういうものだ。
京介,「それで、今日はどういったご用件でしょうか?」
恐る恐る本題を切り出すが、権三は首を傾げる。
浅井権三,「雌の匂いがするな」
京介,「え?」
……なにを言ってるんだ?
浅井権三,「女でもつくったか?」
京介,「いえ……」
権三はおれの一言一句を見逃すまいと、威圧するような視線をぶつけてくる。
おれは唾を飲み込む。
京介,「美輪椿姫というクラスメイトと二日ほど遊んでいますが、どうということはありません。金の匂いのしない女なので、とくに興味もありませんし」
浅井権三,「…………」
権三は、まだ、おれを見据えている。
身長は百九十センチに届くだろうか。
巨体のいたるところに威圧感が滲み出ている。
京介,「なにか?」
浅井権三,「その女ではないな」
京介,「…………」
椿姫ではなく別の女が、おれの周りにいると言いたいのだろうか?
浅井権三,「花音に会った」
京介,「ええ、聞いています」
権三は勢いよく酒をあおる。
浅井権三,「花音は、郁子と違って威勢がいいな」
郁子とは花音の母親だ。
おれが学園や花音の前ではママと呼び、フィギュアスケートのコーチをしている人物だ。
けれど、郁子は、権三が若いときに作った愛人なのだ。
つまり、花音は権三の一人娘ではあるが、愛人の子に過ぎない。
権三の正妻は、しばらく前に他界していて、おれも顔を合わせたことがない。
この事実を花音は知らないし、権三と郁子は別居している。
京介,「花音はたしかに、郁子さんよりお養父さんに似ているかもしれませんね」
わがままで自由なところが……。
浅井権三,「あれは、金になる娘だ」
京介,「ええ……」
フィギュアスケートのオリンピック候補選手。
出版社やプロダクションからのアプローチはあとを絶たない。
これで、正式にオリンピック出場が決まれば、海外のメディアも花音を取り上げるようになる。
京介,「いや、本当に、将来が楽しみですね。うちもフロント企業の体裁を保っている以上、イメージアップを図るために、花音を広報に起用しようかと思っているんです」
おれの提案に権三は満足そうにうなずく。
浅井権三,「花音のことだが……」
深い毛が密生している拳がゆっくりと開く。
ざわついたいやな空気がこちらに忍び寄る。
浅井権三,「いいか、京介」
名前を呼ばれて、おれの不安は最高潮に至る。
浅井権三,「犯しておけ」
京介,「…………」
一瞬、目の前の大男がおぞましい怪物に見えた。
浅井権三,「雌を従順にさせるには、食うのが一番だ」
どこの世界に、こんな親がいるというのか。
愛人の子とはいえ、実の娘である。
それを犯せなどと、正気を疑う。
浅井権三,「花音にはもっと稼いでもらわねばならん。雄はまだ利害で動く頭を持っているが、雌は違う。わかるか?」
おれは、曖昧にうなずく。
浅井権三,「やり口はなんでもいい。恋愛をしているふりをしてもいいし、将来的に籍を作ってもいい。重要なのは肉体関係を持つことだ。雌はそういうことにこだわり、縛られる生き物だ」
京介,「わ、わかりました……いずれ……」
頭が麻痺する。
いつも、この怪物を前にすると、正常な思考が妨げられる。
浅井権三,「それから……」
声が一段と低くなる。
浅井権三,「『坊や』とかいうガキの集団を知ってるか?」
京介,「たしか、最近セントラル街で幅を利かせてきたイベサーでしたね?」
イベサーとは、クラブのイベントやパーティなどで客寄せをする集団のことだ。
お祭り好きのチンピラみたいな連中だが、ルックスがずば抜けてよかったり、ダンスやDJの腕前もかなりのものであったりと、下手な芸能人よりも集客力に優れている場合がある。
京介,「お養父さんのところで、面倒を見るおつもりですか?」
イベサーも規模が大きくなれば、ヤクザがケツを持つ。
トラブルがあった場合に間に入ってやるかわりに、毎月いくらかの上納金を得るのだ。
けれど、権三のごつい眉が跳ねた。
浅井権三,「連中は覚せい剤を回してる」
京介,「……まさか」
冷や汗が出る。
イベサーごときが覚せい剤の販売に手を染める。
許されないことだ。
もちろん、法律で禁止されているからではない。
この富万別市で出回っている覚せい剤は、すべて、浅井権三が四代目組長を務める園山組が取り仕切っている。
おれは表の仕事を主に任されているだけであって、権三がどういった流通経路で覚せい剤を供給しているのか知らない。
だが、重要なのは、素人が権三の縄張りに土足で踏み込んできたということだ。
浅井権三,「しかも、どうやら、うちが回しているものより、質がいいらしい」
京介,「……おかしな話ですね」
浅井権三,「いま、人をやって『坊や』の幹部を捕まえに行かせているところだ」
権三の組織の機動力と情報網があればガキの一人や二人探し出すのは簡単なはずだ。
京介,「なるほどわかりました。蛇足になるでしょうが、僕もそれとなく探りを入れてみるとします」
深々と頭を下げる。
浅井権三,「頼んだぞ、息子よ」
京介,「はい。いま僕があるのは、すべてお養父さんのおかげです」
それから、夜が更けるまで権三の酒のつきあいをしていた。
不幸なテレビ屋がその後どうなったのか、おれは知らない。
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;背景 学園門
今週は毎日学園に来られて気分がいい。
おれにとって学園は、ストレスのない自由な空間だ。
栄一,「おう、京介ー」
友達もたくさんいる。
栄一,「なあ、昨日の件、考えてくれたか?」
京介,「え? 昨日の件?」
栄一,「てめえ、ざけんな、オメーの不肖の妹のことだろうが」
……まだ根にもってんのか。
京介,「栄一、もうちょっと大人になれよ。女ならいくらでもいるじゃないか」
栄一,「うるせえ、ノリコ先生からメールが来たんだよ。やっぱり栄一くんとはつきあえないってな」
京介,「うんうん、残念だったな。あれくらいで愛想をつかされるんなら、つきあわなくて正解だったんじゃないか?」
栄一,「ちきしょー、それもこれも全部花音のせいだ!」
ちっちゃな拳を丸めて憤慨している。
花音,「のんちゃんがどうかしたー?」
栄一,「げっ!」
花音,「エイちゃん、なにがのんちゃんのせいなの?」
栄一,「な、なんでもないよ。いやー、花音ちゃんはいつも元気がいいねっ。ボクにも元気を分けて欲しいなっ」
ちっちゃな拳が、もみ手に変わる。
京介,「花音、今日も体育か?」
花音,「すごい楽しみっ。明日は、クラス対抗でバレーボールの試合するから、朝はみんなで集まって練習するんだー」
花音は、おれがプレゼントしたというバッグを肩に下げていた。
なかに、体操着が入っているのだという。
花音,「じゃあねー」
軽快な足取りで先に行ってしまった。
栄一,「くそう、気に入らねえわ、あの頭の悪そうな笑顔がいっそう気に入らないぜ」
京介,「お前もだいぶ頭悪そうだけどな……」
くだらないおしゃべりを繰り広げながら、校舎に入った。
;背景 廊下 昼
早めに登校したせいか、廊下にはあまり人がいない。
廊下の向こうから、ひたひたと妖怪じみた足取りでやってくる女の子がいた。
ハル,「あ、ども……」
京介,「よう。早いんだな」
ハル,「そっすかね?」
目も合わせようとしない。
栄一,「あ、宇佐美さん宇佐美さんっ」
ハル,「はい」
栄一,「今日は、ボクも友達にしてくれるんだよねっ? 一日二人まで、とか言ってたよね?」
ハル,「いや、一つのコミュニティに二人までなんで。学園じゃ椿姫と花音でもうぎりぎり限界なんで」
栄一,「ひどいよ……」
ハル,「すんません、意地悪してるわけじゃないんすけど、自分、そういう戒めとか多いんで、勇者ですし」
栄一,「まともに口を利いてくれるだけでもいいんだけど?」
京介,「おれは先に行ってるぞ」
おれはどうも、宇佐美が苦手だ。
ハル,「…………」
宇佐美はおれを観察するように見つめてくる。
本当に、妙な女だ。
;黒画面
教室に入って、思わずはっとする。
ここ数日姿を見せなかった人物が窓辺にいたからだ。
京介,「やあ、おはよう」
気さくに声をかける。
京介,「白鳥さんも朝早いんだね」
水羽,「…………」
黙って教室の誰の目にも触れないような花に水をやっている。
京介,「白鳥さん偉いね。朝早くに来て花に水をやってるのって、いつも白鳥さんでしょ?」
おれが、白鳥水羽に声をかけるのには理由がある。
京介,「ていうか、久しぶりじゃない? おれもよく学園さぼるけど、白鳥さんはどうして休んでるのかな? カゼ?」
白鳥は学園の理事長の娘だ。
この学園の理事長は、とある土建関係の企業の社長でもある。
そしてその企業は、日本有数の老舗商社、山王物産の子会社なのだ。
『ペン先からロケットまで』を扱うといわれる総合商社山王物産はこの富万別市に本拠をかまえ、社員をあらゆる事業に展開して街の経済の根底に根づいている。
裏の道を歩けば総和連合に当たり、表の道を行けば山王に当たるといわれるほどに、影響力は大きい。
つまり、この街で金を動かす以上、白鳥水羽と仲良くなっておいて損はないということだ。
おれはいつもしている通りに、ひょうきんな笑顔を作る。
京介,「ねえ、白鳥さん。電話番号とか聞いていい? たまにみんなで遊ぼうよ」
すると、白鳥の水差しを持つ手が止まる。
水羽,「……浅井くん」
京介,「うん?」
水羽,「浅井くんは、お花が好き?」
京介,「え、どうかな……好きでも嫌いでもないけど。花見には行く程度かな」
水羽,「好きなものは何?」
京介,「女の子」
言い切って、笑っておくのも忘れない。
京介,「冗談だよ。クラシックかな。昨日もCDを買いにいったんだ」
水羽,「クラシックね……それだけ?」
京介,「え? 趣味のこと? 他にはゲーセンくらいかな」
水羽,「お金は好き?」
わずかだが、白鳥の語気が強まったような気がする。
京介,「お金はまあ、そうだな……おれ、ボンボンだからさ、よくわかんないな」
半笑いで頭をかいていると、水羽がぴしりと言った。
水羽,「残念……」
まるで穏やかな水面に波紋が広がるよう。
水羽,「嫌いと答えたら、あなたを責めるつもりだったのに」
……なんだ、この女……?
京介,「はは……なに言ってるの? じゃあ白鳥さんは、お金が好きなのかな?」
けれど、白鳥はおれの軽口には取り合わない。
水羽,「私は、あなたを知っているわ」
京介,「……知っている?」
水羽,「ずいぶんと高そうな車に乗っているのね」
たしかに、おれは外国産の高級車を一台持っている。
京介,「だから、ボンボンだからさ、パパが買ってくれたんだよ」
しかし、なぜ知っている?
水羽,「ずいぶんと人相の悪そうな人たちを連れまわしているのね」
京介,「…………」
街で偶然見られたか……。
学園の連中には浅井興業のことがわからぬよう、細心の注意を払って行動しているつもりだったが……。
水羽,「あなたは自分の倍くらいの年齢の人たちをアゴで使っていたわ」
京介,「えっと、どこでそんな……」
水羽,「南区の住宅街。あなたのお養父さんの屋敷の近くに、私の家もあるの」
京介,「なるほど……」
とぼけても無駄なようだ。
理事長の娘だからな。
その気になれば学園生の素性を探ることもできるはずだ。
京介,「それで?」
おれは薄く笑う。
京介,「おれが浅井興業で存外な大金を動かしていると知ったお前は、どうするんだ?」
水羽,「それが、あなたの本性?」
京介,「なんだっていい」
水羽,「どうしてあなたは、学園ではひょうきんな仮面をかぶっているの?」
京介,「誰でも悪いことしてますだなんて、自分からは言わないものだろう?」
水羽,「悪いことをしている自覚はあるのね?」
京介,「たとえ話の揚げ足を取るなんて、性格の悪さが出るからやめたほうがいい」
水羽,「浅井くんって、本当はずいぶんと頭が回るのね。勝てそうにないわ」
白鳥は無表情を崩さない。
……少し、面倒だな。
おれが貴重な時間を割いて学園に通うのは、ストレス発散のためでもあるが、それ以上に、闇社会の住人に顔を知られないようにするためだ。
おれは、取引はほとんど電話かメールで済まし、商談のときも滅多に人前に顔を出さない。
こういう商売では、顔が割れれば命を狙われることもある。
おれの顔を知っているのは権三を含め、組の幹部などわずかな人間だけだ。
だから、白鳥の口は封じなければ。
京介,「このことは黙っていてくれないか?」
水羽,「…………」
京介,「頼むよ」
白鳥は答えない。
京介,「わかった。いくら欲しいんだ?」
水羽,「……っ」
初めて白鳥の顔に色が浮かんだ。
;背景 学園教室
水羽,「私は、あなたが嫌い。それだけが言いたかったの」
京介,「待て、逃げるな」
おれは白鳥の行く手をさえぎる。
京介,「百でいいか?」
水羽,「本気で言っているの?」
京介,「他人を信用するには金しかない」
水羽,「かわいそうな人ね」
京介,「同情してもらってけっこう。おれを安心させてくれ」
一歩詰め寄る。
白鳥の端正な口元が震えている。
水羽,「……みんな見てるわよ?」
京介,「お前をクドいているということにする」
水羽,「馬鹿なことを……」
京介,「クラスのみんなは、おれをただのひょうきんなナンパくんだと思っている」
そういうふうに演じてきた。
京介,「お前はどうだ? 滅多にクラスに顔を出さずに、友達の一人もいないんじゃないか? 誰がお前の味方をする?」
水羽,「……っ」
震えていた唇が歪む。
京介,「仲良くしよう、な?」
水羽,「……もう、離れて」
授業開始を告げるチャイムが鳴る。
京介,「また今度、じっくりと話をしようじゃないか」
水羽,「…………」
白鳥は今度こそ逃げるようにおれの脇をすり抜けていった。
気が強そうに振舞ってはいるが、しょせんは歳相応の少女だということだ。
さて、学園を楽しむとしよう。
;背景 屋上 昼
;// 上記チャイム終了待ち
今日は、ミキちゃんからの電話もない。
屋上には、椿姫、花音、おれ、栄一、そして少し離れたところに宇佐美がいた。
花音,「お昼だー、今日はたくさん食べるぞー」
花音は購買で大量にパンを買っていた。
椿姫,「花音ちゃん、今日も体育で大活躍だったもんね。お腹空いたでしょ?」
花音,「ここんところずっとお昼抜いてたからねー」
栄一,「ボクのお菓子も食べる? セントラル街の有名なプリンだよ。自分で食べるために買ったんだけど、特別にわけてあげる」
……花音への恨みはおさまったのかな?
椿姫,「あ、ファンキーのプリンだ。おいしそうだね」
ファンキーとは、女学生に人気の洋菓子店だ。
栄一,「(クク、賞味期限切れだっつーの。こんなんで許してやるオレマジ寛大じゃね?)」
……さすがに止めよう。
花音,「のんちゃん、プリン嫌い」
栄一,「え? ほんとっ? 花音ちゃんって、甘いもの好きそうじゃない?」
花音,「人は見かけによらないっていう格言があるんだよ?」
栄一,「(チキショー、たいていの女は甘いもんで釣れるっつーのによー。つーか、格言とか調子こいてんじゃねえぞヴォケ。)」
花音,「エイちゃん食べないの?」
栄一,「ボクはいいよ」
花音,「なんで? 甘いもの好きでしょ? いつもバクバク食べてるじゃない?」
栄一,「ハハハ、男子三日会わざればっていうでしょ?」
花音,「言わないよ」
栄一,「そ、そんな断言しないでよ」
花音,「のんちゃんの言うこと、ぜったい正しいよ。ぜったい合ってるよ、ねえ兄さん?」
京介,「そうだな。とりあえず、プリンは栄一が食えよ」
栄一,「い、いいったら。椿姫ちゃん食べなよ?」
椿姫,「ごめんね、わたしもうお腹いっぱいだから」
栄一,「じゃ、じゃあ宇佐美さんは?」
おれたちのやりとりを遠巻きに眺めていた宇佐美がぼそりと言う。
ハル,「プリンって、持って三日くらいすかね?」
椿姫,「うーん、二日以内に食べるのがいいと思うな」
ハル,「じゃあ、自分、甘いものは好きなほうなんすけど、賞味期限切れなのは勘弁スね」
栄一,「えっ?」
目が点になる栄一。
ハル,「いやまあ、あてずっぽうすけどね」
ハル,「あの、自分、セントラル街でバイトしてるんすよ、唐突ッスけど」
ハル,「だからわかるんすけど、そのファンキーでしたっけ? たしかおとといは定休日でしたよね?」
栄一,「お、おととい? それがどうしたの? 昨日買ったプリンだよ? なにか変かな?」
ハル,「ちょっとおかしくないすかね?」
栄一,「な、なにが?」
ハル,「エテ吉さんは、毎日違うお菓子を食べるんすよね? 昨日言ってましたよね、ポリスィーとか?」
栄一,「ポリスィーじゃなくて、ポリシー!」
ハル,「まあ、なんでもいいんスけど」
栄一,「なんでもいいなら無駄に発音ひねらないでよ!」
ハル,「重要なのは昨日もプリン食べてたってことっスよ、あなた」
そういえばそうだったな……。
栄一,「だから?」
ハル,「今日は昨日と同じお菓子を食べないんなら、今日食べるために昨日と同じプリンを買いに行くっていうのはポリスィー的にちょっとおかしくないすか?」
栄一,「い、いや、だから……花音ちゃんにあげようと思って、買いに行ったんだよ、うん、そう」
ハル,「自分で食べるために買ったって、さっき妙にもったいつけて言ってませんでしたっけ?」
栄一,「……そ、それは……だから……」
栄一、死す。
京介,「そうだな、昨日プリン食ってたもんな。そのプリンはおとといは店が休みだった以上、それより前に買ったってことになるな」
花音,「エイちゃん……まさか賞味期限切れてるの知ってて……?」
椿姫,「そ、そんなことないよね? 知らなかったよね?」
みんなして栄一の顔を覗きこむように近づく。
栄一,「つ、通販でっ、通販で買ったんだよ!」
……この発言で有罪を認めたようなものである。
栄一,「(か、神、助けてくれー!)」
京介,「無理だから」
栄一,「く、うぅぅ……」
すごすごと引き下がる栄一だった。
椿姫,「そ、そういえば浅井くん、CD聞いた?」
話題を変えようとする椿姫は、本当にいいヤツだ。
栄一がかわいそうだし、のってやるとするか。
京介,「フフ……これか? まだ聞いてないぞ」
おれは制服のポケットにしまっておいたバッハを取り出して掲げる。
椿姫,「え? どうして未開封なの? あんなに楽しみにしてたじゃない?」
京介,「わかってないな、椿姫」
花音,「どうして大事そうにポッケに入れて、学園に持ってきてるの?」
京介,「お前にはわからんだろうな、花音」
軽く咳払い。
京介,「たしかにこのバッハは、おれが楽しみに楽しみにしていたCDだ。それはもう一日千秋の思いで恋焦がれてやまなかったアイテムだ」
椿姫,「う、うん……?」
京介,「だが、ここで、あえて、一日寝かすんだ」
花音,「ほえ?」
京介,「わからんだろうな、女には、この感覚が。耐えて耐えて我慢して我慢しつくすからこそ、その後のエクスタシーは計り知れないものなのだ」
ハル,「ただの、マゾじゃないすか」
京介,「なんとでも言え。とにかくおれは、今日一日、この荒行に耐えねばならんのだ」
まったく、我ながらよだれが出そうだぜ……。
花音,「へー、ちょっと貸して」
京介,「あっ……」
ひったくられた。
京介,「お、おい、返せよ」
花音,「ちょっと見せてよ、いいでしょ?」
京介,「……ちょ、ちょっとだけだぞ? いいか、ぜったい封を開けるなよ? ぜったいだぞ?」
;// CDのラッピングを破る音
ビリビリビリー(←ラッピングを破る音)。
;// 上記終了待ち
京介,「って、おい! 開けんなっつってんだろーが!」
花音,「まあまあ、中のブックレット読んでみたかったんだよ」
京介,「くっ、そ、それは、おれも読みたくて読みたくて人を殺しかねないほど読みたくて……!」
景色がぐにゃーっと歪んでいく。
花音,「うわー、やっぱり買ったばっかりだから、CDもピカピカだねーっ」
京介,「こ、こらー! 神のCDを指でクルクル回すなー!」
花音,「でへへへっ……」
花音が邪悪な笑みを浮かべている。
いかん、アレは、栄一をいぢめるときの目だ。
花音,「ねえ兄さん……」
ヤバい……。
花音,「バキってしてもいい?」
京介,「ぜったいだめっ! ぜったいだめっ!」
椿姫,「か、花音ちゃん、さすがに割ったら冗談じゃすまないよ?」
京介,「そ、そうだ椿姫! もっと言え! ぜったいだめだっ!」
椿姫,「ぜ、ぜったいだめだよっ!」
花音,「どうしよっかなー? 兄さんが困ってる、兄さんが困ってるよー」
ハル,「…………」
京介,「おい、宇佐美っ! なにをしている!? お前も止めろっ!」
ハル,「あ、はい。ぜったいだめだー……」
京介,「栄一、お前もだっ! なにすっとぼけてやがんだ! ヤツを、あのいたずらっ子をどうにかしろぉっ!」
栄一,「お、おう。ぜったいやめろー……」
花音,「ぬふふふふっ!」
花音が両手でCDをつかむ。
細長い指先に力が込められるのがはっきりと見える。
花音,「兄さん、おととい約束すっぽかしたよね?」
京介,「う、ああ……」
花音,「兄さん、昨日もいきなり帰っちゃったよね?」
京介,「や、やめっ……!!!」
花音,「えいっ!」
京介,「やめろあああぁぁぁあぁぁあぁぁぁっ!」
飛び出していた。
獲物を捕らえる豹のようなすばやい動き。
驚いた花音ともみ合う。
指先が、CDに触れた。
一度、しっかりとつかんだ。
しかし、するりと抜けていく。
もう一度腕を伸ばした。
屋上の床にCDが落ちた。
…………。
……。
絶望のあまり、視界が暗くなった。
がっくりと屋上の地面に膝をつく。
盤面をくまなくチェックする。
そこには、糸くずのような引っかき傷が……。
京介,「うぅあああああああああっ!」
お先真っ暗である。
おれが耐えに耐えて我慢していたバッハに傷がついたのだ。
花音,「兄さん、兄さんっ」
トントンと肩を叩かれる。
京介,「か、花音……」
花音,「んー?」
京介,「おれに、なにか言うことはないか?」
けれど、悪魔っ子はにっこりと笑う。
花音,「割るつもりはなかったんだよ」
京介,「……っ!」
花音,「でも、みんなしてぜったいダメ、ぜったいダメって言うだもん。ぜったいって十回くらい言ってたもん。これって、フリっていうヤツだよね?」
……お、おれはダチョウ倶○部じゃねえんだよ。
ハル,「まあ、フリと言えばフリでしたね」
くっ!
椿姫,「げ、元気だしてよ、浅井くん。そんな悲しい顔しないで。また一緒に買いにいけばいいじゃない?」
ふざけんな!
栄一,「はは、花音ちゃんもひどいなー。でも京介くんもオトナになろうねっ」
っのやろおぉっ!
花音,「みんなおもしろかったみたいだし、兄さん人気者だねっ」
……こ、このアマァぁぁッッ――――!!!
許さん、絶対に許さんぞー!
…………。
……。
……。
…………。
京介,「我々は生きているっ!」
京介,「復讐するは我にありっ!」
京介,「おれが天下に背こうとも、天下がおれに背くのは許さん!」
放課後の理科準備室。
おれは、雄叫びを上げていた。
京介,「おい、愚民!」
栄一,「あ、はい」
京介,「貴様の願いを聞いてやろうではないか」
栄一,「え、えっと……なんでしたっけ?」
京介,「忘れてんじゃねえよ、花音だよ、花音に決まってんだろうが!」
栄一,「か、神……落ち着いてくださいよ」
京介,「ヤツは調子に乗りすぎた。その昔、人間が天まで届く塔を作らんとしたとき、神もいいかげんキレた。それぐらいおれも怒っている」
栄一,「でも、たかが妹のいたずらじゃないすか?」
京介,「家族で殺しあう神様なんていくらでもいるわ!」
栄一,「ほ、本気なんですか?」
京介,「おめーよー。わかるか? たとえば夜中の一時から並んで朝十時にようやくゲットしたゲームをよー、おもしろいからとかいうノリで傷モノにされたらおめーどうよ?」
栄一,「ま、また買えばいいじゃないすか?」
京介,「黙れボケー! お前は自分のモノが壊されてないからそんなことが言えるんだ!」
栄一,「いや、神も昨日はぜんぜんおれにかまってくれなかったじゃないすか?」
京介,「とにかく花音には相応の裁きを下さねばならん」
栄一,「わ、わかりましたよ。どうするんですか?」
京介,「クク……すでに策はある」
栄一,「え? さすがですね、神」
京介,「おれは自分のもっとも楽しみにしているモノをぶち壊された」
栄一,「はあ……」
京介,「目には目をだ。花音のもっとも楽しみにしていることはなんだ?」
栄一,「え、お昼ご飯とかですかね?」
京介,「ちげーよ、ボケ! てきとーなこと言ってんじゃねえよ」
栄一,「だって、ボク今日お昼食べてなくて……」
京介,「体育だ体育!」
栄一,「あー」
京介,「明日はバレーボールのクラス対抗試合らしいじゃねえか」
栄一,「ですね」
京介,「それが中止となれば、花音もおおいに落胆することだろうな」
栄一,「なるほどわかりました。闇討ちしてケガさせるんですよね?」
京介,「おまえはなにもわかってない」
栄一,「あ、違うんすか?」
おれは頭脳を巡らせる。
京介,「おれはもっと壮大に怒りをぶつける」
栄一,「は?」
;理科準備室 夕方
おれはかぶりものを脱いだ。
栄一,「おい、京介。もっと具体的に教えてくれよ」
京介,「簡単なことだよ」
もっともらしく咳払いをする。
京介,「これから職員室に忍び込んで、体育用具室の鍵を失敬してくるのさ」
栄一,「体育用具室?」
京介,「体育用具室には体育用具が……要するに、バレーボールがあるだろ?」
栄一,「なるほど。鍵がなかったらボールが取れないな」
京介,「明日のバレーボール大会とやらが中止になると思わないか?」
栄一がしきりにうなずいた。
栄一,「お前、すっげー悪だな」
京介,「ああ、明日一日は、全学年で大迷惑だろうな」
栄一,「なにもそこまでしなくてもよくねえか?」
急に怖気づいたようだ。
栄一,「たとえば、花音の体操服を隠すとか、そういう策でもいいじゃねえか?」
京介,「それだと容疑者がしぼられやすい。真っ先にお前とおれが疑われるぞ?」
栄一,「ていうか、ヤバくね? バレたらどうするんだよ」
京介,「バレなければいい。バレなければ犯罪じゃない」
栄一,「クズの理屈じゃねえか……」
京介,「お前にクズとか言われたくない」
口元を吊り上げる。
京介,「で、だ……」
栄一,「まあ、わかったよ。とっとと職員室行こうぜ」
京介,「待てや。いま職員室に行ったって、先生もたくさんいるだろ」
京介,「それに、体育用具室の鍵だって、いまの時間は部活の顧問の先生が持ってるに違いない」
栄一,「じゃあ、どうするんだよ?」
一息ついて言った。
京介,「九時になれば部活が終わって、体育用具室の鍵も職員室に戻される」
京介,「先生方も、特に仕事がなければ九時くらいまでには帰る」
京介,「職員室に残ってるのは、戸締りの確認を割り当てられた当番の先生だけだ」
そこで栄一が手を叩く。
栄一,「あ、今週の当番はノリコ先生だ」
京介,「そうだ」
栄一,「ノリコ先生を計画に抱きこんで、鍵をゲットするんだな?」
京介,「抱き込めるわけねえだろ。教師が鍵を盗んだりしたら大問題だって」
栄一,「いや、ノリコはオレのいいなりだから」
京介,「…………」
栄一,「……ごめん、嘘」
京介,「話を続けるぞ」
眉間を指で揉んだ。
京介,「九時を過ぎたら、職員室に行って、ノリコ先生が一人でいる姿を確認する」
栄一,「一人じゃなかったら?」
京介,「まずだいじょうぶだと思うが、そのときはまた別の手を考える」
栄一,「わかった。それで?」
京介,「お前がノリコを職員室の外におびきだす」
京介,「そのすきに、おれが職員室に忍び込んで鍵を盗んでくる」
栄一,「鍵がどこにあるかわかるのか?」
京介,「数学教師の机があるだろ? その後ろの壁にずらーっと並んでかけられてるよ」
栄一,「ああ、見たことあるな」
京介,「ついでにマスターキーも盗んでくる。たしか、同じ場所にあったはずだ」
京介,「じゃあ、わかったな? 一分もあれば終わるから、それくらいの時間は稼げよ」
栄一,「あ、ちょっと待って」
京介,「なんだ?」
栄一,「役割を変えてくれよ」
なんだか困ったような顔をしている。
京介,「……おれが、ノリコ先生をおびきだすのか?」
栄一,「うん……」
かわいらしく唇をすぼめた。
京介,「お前、壮絶にふられたの?」
栄一,「いや、そこまでひどいこと言われたわけじゃないけど」
京介,「どんなことだよ?」
栄一,「栄一くんって、嘘つきなんだねって」
深刻そう……。
京介,「傷ついちゃってるわけ?」
栄一,「顔を合わしたらテンパりそう」
京介,「…………」
栄一,「お前の口から、オレがどんなに誠実キャラか教えてやってくれよ」
京介,「無茶を言うなよ……」
しかし、な……。
おれがノリコ先生と顔を合わせるのは、ちょっと嫌だな。
おれが、夜遅くまで学園に残っていたという証言が出るのは、後々面倒なことになりそうだ。
椿姫も言っていたが、おれは放課後になると、真っ先に帰宅するキャラで通ってる。
できるだけ、不自然な行動は避けたい……。
栄一,「な? 頼むって」
京介,「わかったよ。しゃーねーな」
栄一,「さすが神。一生ついていくぜ」
京介,「お前がどれだけ浅はかでゲスなヤツかじっくり語っておくわ」
栄一,「ちょっとちょっと!」
おれは軽く舌打ちする。
京介,「いいか、注意しておくぞ」
栄一,「なんだ?」
京介,「鍵を盗みに入る九時前後の時間、お前は、学園の誰にも見つかってはならない」
栄一,「どうして?」
京介,「ちょっとは考えろよ」
頭を小突く。
京介,「職員室から鍵がなくなったであろう時間はすぐに割り出される」
京介,「部活が終わる九時くらいから、明日の朝までの間だな」
京介,「つまり、その間に学園にいた人間全てが、容疑者なんだ」
京介,「当然、おれも疑われる」
京介,「疑われるが、おれはノリコ先生と一緒にいるから問題ない」
栄一,「あ、そっか。もし誰かに見つかったら、どうして夜遅くまで学園にいたのかって、疑われちゃうもんな」
京介,「わかったな。お前は、今日、少なくとも九時前には下校してたってことにしなくちゃならねえんだ」
栄一,「オッケー、わかったよー」
京介,「まあ、時間が来るまで、ここで隠れていればいいさ」
おれは計画に不備がないかどうか、再確認する。
……もし、体育用具室の鍵とマスターキー以外にも、体育用具室を開ける手段があったらどうだ……?
まさか、推理小説みたいに鍵をぶっ壊して中に入ったりしないだろうが……。
まあいいか、しょせんはお遊びだしな。
鍵は、ことがすんだら、学園の郵便受けの中にでも入れておくか。
栄一,「ヒヒヒ、これで花音も残念賞ってヤツじゃねえか。気分いいねえ」
すっかり勝ち馬に乗った気分の栄一だった。
理科準備室に差し込む西日が、いっそう色を濃くしていった。
;背景 学園廊下 夜(明かりなし)
九時十分に、おれたちは行動を開始した。
明かりが消えた廊下は冷え切った空気が充満している。
京介,「それじゃ、お前はトイレの用具入れのなかにでも隠れろ」
栄一,「わかった。ノリコ先生を外におびき出したら、オレのケータイに電話くれるんだったな?」
京介,「気づかれずに電話する。もちろん、音が鳴らないようにしておけよ?」
栄一,「まかせとけって」
京介,「窓辺には立つなよ? 外から見られないとも限らんからな」
栄一,「まかせとけっての。京介は心配性だなー」
……なんか不安になってきたな。
京介,「じゃあ、頼んだぞ。無事に鍵を盗んだら連絡くれ」
栄一,「オーケーオーケー、そっこー連絡するっての」
京介,「そっこーじゃまずい。鍵を盗み、誰にも見つからないように学園からだいぶ離れてから連絡しろ」
栄一,「へいへいっ」
あくまで軽い調子の栄一。
京介,「よし、行ってくる」
栄一,「ノリコ先生にちゃんと根回ししといてくれよ?」
栄一の軽口を背に、おれは職員室に向かった。
;背景 職員室 夜 (明かりあり)
思惑通り、職員室にはノリコ先生だけが残っていた。
京介,「こんばんは、先生。ちょっといいですか?」
突然声をかけられて驚いたように身をすくめたが、すぐに大人びた笑顔を向けてきた。
女教師,「浅井くん、だったわね……? 遅くまで勉強してるのね」
京介,「いやいや」
女教師,「あなたのことは聞いてるわよ。出席日数はおもわしくないみたいだけど、成績も優秀で女の子からの評判もいいみたいじゃない?」
なかなか気さくな先生だな。
京介,「あの、ちょっとお話が……」
言いながら、おれはさりげなく鍵のありかを確認する。
栄一に指示したとおり、数学教師の机の後ろの壁にずらりと並んでいた。
女教師,「どうしたのかしら?」
さて、きっちりと、職員室の外におびきださないとな。
京介,「あ、ちょっとここじゃ、話しづらいんですよね」
女教師,「どうして? ここじゃだめ? 誰もいないわよ?」
不審がられるのも予想済みだ。
京介,「……栄一のことで、ちょっとお見せしたいものが」
女教師,「栄一くん……?」
ノリコ先生の顔が強張る。
女教師,「見せたいものって……?」
京介,「ちょっと、教室までついてきてもらえませんかね?」
女教師,「え?」
京介,「お願いします。来てもらえればわかります」
軽く頭を下げる。
京介,「おれ、あいつから先生のことは聞いてるんですよ」
拳を握り、声を震わせる。
京介,「栄一って、バカで腹黒いところあるんすけど、悪いヤツじゃないんですよ」
友達想いの好青年を演じる。
京介,「だから……あの、お願いします」
しばらく間があって、ノリコ先生は椅子から立ち上がった。
女教師,「……しかたないわね」
……まずは予定通り。
;背景 学園廊下 夜(明かりなし)
廊下に出ると、ポケットのなかで素早くケータイを操作する。
……栄一め、ちゃんとやれよ。
;背景 学園教室 夜(明かりあり)
京介,「えっと、こっちです」
ノリコ先生を先導して教室までやってきた。
京介,「実は、栄一の机を見てやってほしいんですよ」
女教師,「机……?」
京介,「はい、見てもらえばわかります。あれです」
先生は緊張した面持ちで、栄一の机のそばまで向かう。
おれは、でたらめをしゃべる。
京介,「どうです?」
女教師,「え?」
京介,「いや、だから、たくさん書いてあるじゃないですか?」
女教師,「なにが? まっさらで傷ひとつない綺麗な机じゃない?」
おれは目を見開く。
京介,「え? 何も書いてないですか?」
女教師,「書いてないわ」
京介,「え、えっと……おかしいな……」
おろおろと目線をさまよわせる。
京介,「栄一のヤツ、いつ、消したのかな……」
女教師,「浅井くん、どういうことか説明してもらえる?」
京介,「実は、栄一って、いつも先生のこと思ってるみたいで……なんていうんすかね、愛の言葉、みたいな? 好きだ、とか、そういうこと机にたくさん書き連ねてるんすよ」
真っ赤な嘘だが、あとで、どうとでも言いつくろえる。
女教師,「……本当なの?」
京介,「はい。あいつ、意外にシャイっつーか、純情なところあるんですよね」
女教師,「そう……」
京介,「すみません。ぜひ見てもらいたかったんですが」
ノリコ先生はくすりと笑みを漏らした。
女教師,「まあいいわ。浅井くんが友達想いなのはわかったから」
京介,「いや、そんなんじゃないんですよ……」
本当に、そんなんじゃない。
京介,「でも、本当に無駄骨でしたね。せっかくクラスのみんながいなくなるまで待ってたんですが……」
さりげなく、こんな時間まで残っている事情を裏付ける。
京介,「ただ、栄一のこと、もう一度考えてやってくださいよ」
栄一のフォローも忘れない。
女教師,「気持ちはわかったわ。でも、私、本当は他に好きな人がいるのよ」
京介,「あ、そすか」
哀れ、栄一。
女教師,「ごめんなさいね」
京介,「いや……」
そろそろ栄一もことを終えたころだろう。
京介,「それじゃ、失礼します。変な用事につき合わせてしまってすみませんでした」
ノリコ先生は微笑んで、おれを見送ってくれた。
;背景 繁華街1 夜
活気のある街とはいえ、今夜はひどく冷え込んでいる。
栄一,「おう、京介、待たせたなー」
哀れな栄一がやってきた。
京介,「首尾はどうだ?」
栄一,「ばっちりだ」
鍵を二本、目の前に掲げてみせた。
無事にマスターキーも手に入れたようだ。
鍵はおれが預かっておく。
京介,「誰にも見られなかっただろうな?」
栄一,「だいじょうぶだって」
京介,「職員室でよけいなことをしてきてないだろうな? たとえばノリコ先生の机を漁るとか」
栄一,「し、してねえって」
京介,「お前な、ばれたら停学もありうるんだぞ?」
栄一,「信用しろよ」
不安が残るなあ……。
京介,「まあいい。明日が楽しみだな……」
栄一,「クックック、そうだな……」
セントラル街の雑踏に紛れながら、おれたちはほくそえむ。
明日の三時限目が体育だったな……。
花音の慌てふためく姿が目に浮かぶ。
栄一,「……ていうか、寒くね? 雪降るんじゃないのコレ?」
栄一は鼻をすすりながら、耳まで赤くして震えている。
栄一,「帰るわ、カゼ引きそうだし……」
京介,「あ、ちょっと待て栄一」
せっかくセントラル街に来たんだし、聞いておくか。
京介,「お前さ、『坊や』っていうイベサー知ってるか?」
栄一は小首をかしげる。
栄一,「あー、いま超有名だよね。あいつらがやるイベントは当日チケット買えないって話じゃん。いまじゃ、どこのハコからも引っ張りだこだって」
京介,「幹部の名前って、わかるか?」
栄一,「なんか六人いるって聞いたよ?」
京介,「リーダーは?」
栄一,「あー、よく知らんね。たださ……」
京介,「ただ?」
栄一,「リーダーは人前には出ないんだって。普通、イベントやる前にはトップが挨拶するもんだけど、そういうのもないみたいだし」
京介,「誰も会ったことがないのか?」
栄一,「さすがに幹部は顔知ってるんじゃないかな? でもなんでそんなこと知りたがるの?」
京介,「いや、ちょっといま攻略中の女の子がクラブとか好きでさ」
栄一,「へー……京介みたいなチャラ男なら、オレに聞かないでも知ってるかと思ってた」
京介,「いやいや、サンクスな」
トップは人前には顔を出さない、か。
だが、六人いるという幹部なら、誰かが顔を合わせていることだろう。
なら、話は早そうだな。
権三の組織が、幹部の一人でも捕まえて問いただせば、トップについて口を割る。
権三にとっては、顔に泥を塗られたようなものだから、尋問は苛烈を極めるだろう。
おれの出る幕もなさそうだ。
栄一,「じゃあ、また明日なー」
京介,「おう、明日はちょっと遅れていくけどな。朝一で病院に行かなくちゃならないんだよ」
栄一,「え? 精神科とか?」
栄一は冗談で言う。
京介,「そうそう……」
けれど、おれは、本当にその手の人間に会いに行っている。
栄一,「いいなー、京介は、オレもいっぱい孕ませたいぜー」
産婦人科に行くのだと、勘違いしているようだ。
栄一は、今度こそ駅のほうに足を向けていった。
あいつも、外見だけなら天使のようにかわいいんだがな……。
京介,「…………」
さて、頭を切り替えるか。
おれは二つ三つ、電話をかけながら、カイシャのことを考える。
表の看板を掲げている以上、警察の目を欺くためもあって、おれは非合法な仕事に手を染めていない。
ホテルやスナック、バーやクラブなどに、つまみやおしぼり、氷、トイレットペーパー、観葉植物や調度品の絵画などを納品する。
一つ一つの商品は小さいが、まとまると大きな利益になる。
このセントラル街は若者の街として発展が著しい。
浅井興業のようなフロント企業にとっては、利権の宝庫といえる。
セントラル街では、浅井興業が最も多く利権を獲得しているが、近頃は関西の組織が再び目をつけ始めているから、用心しなくてはな。
京介,「……ええ、業界全体の売り上げは、市場がいわゆるあなた方の言葉でいう『混み合っている』ほうが伸びるものですから、あまり、小谷商事さんを潰しすぎるのもよくないんですよ」
……他に、なにか懸案事項があっただろうか。
京介,「ええ……私の父は怪物と恐れられていますが、浅井興業はモンスターじゃありませんから。全てを滅ぼして喜ぶのはコンピューターゲームのなかの魔王くらいでしょう」
……そういえば、白鳥水羽だったな。
京介,「はい、いつもありがとうございます。それから別件ですが……」
……白鳥も、おれみたいなガキがヤクザの下で働いていると知って軽蔑しただろうな。
いわゆる堅気、まっとうな仕事をしている人たちは、皆、おれの存在を知ったとき驚きを隠せないようだ。
だが、暴力団がガキを使うのは珍しい話ではない。
若く、体力があり、無知で向こう見ず。
なにより、なにかしでかしたとしても法律が守ってくれる。
暴力の尖兵として、これ以上の人材があるだろうか。
少し違うのは、権三はおれをただの鉄砲玉にはしなかったということだ。
体を張る代わりに頭を使わせられた。
出会ったときから食べ物や着る物など、生活に必要なものすべてをとどこおりなく与えられ、学園にも通わせてもらった。
望むものはなんでも買ってもらうことができた。
ただし、おれにかかった金を、権三は逐一数字に残していた。
食費はもちろん、住まわせてもらった六畳和室の部屋代、机などの備品、流しっぱなしにしてしまった水道代からたった一枚のティッシュペーパーまで、生活のあらゆる出来事を金に換算させられた。
その額面に、さらに、とんでもない利率の利息をつけて返せと迫られるのだから、それはそれは頭を使わされたものだ……。
京介,「はい、それでは、失礼いたします……」
通話を終えて、ぼんやりと街灯の下にたたずむ。
世の中のほとんどのことは、金で解決する。
たとえばこのセントラル街。
街並みを眺めていると、金のかかっていない景色を見つけるほうが難しい。
飛び交う携帯電話、ブランド物の洋服を着た女、年末が近づくと工事を始めるコンクリートの路面……。
初冬の寒空すら、山王物産の息のかかったビル群に呑まれそうな勢いだった。
京介,「踏み潰してやる……」
ぼそりと言った、そのときだった。
ハル,「寒いすね……」
京介,「……っ!?」
いつの間にそこにいたのか。
宇佐美がおれの眼前に忍び寄っていた。
京介,「おう……宇佐美じゃないか、お前もけっこう遊んでるんだな?」
ハル,「あ、違います。昼間も言いましたけど、バイトです、バイトの帰りです」
京介,「へえ、なんのバイトしてるんだ?」
ハル,「それであの、ちょっとお願いなんすけど……」
京介,「人の話を聞かないヤツだな……」
……どうも好かん。
ハル,「あ、すいません。自分、よく人をダウンな気分にさせるみたいなんで。ダウナー系の界隈ではブイブイいわせてるほうなんで」
京介,「…………」
ハル,「いやあの、ホントは人ごみとか苦手なんすよ。背すじとか丸まっちゃって下見て歩いてるもんだから、歩道の白線とかずっと数えちゃうんすよ」
京介,「……だからなんだよ?」
ハル,「あ、果物屋です。自分、主にバナナ売ってます」
京介,「もういいよ、わかったよ、お願いってなんだ?」
宇佐美は軽く頭をかいた。
ハル,「携帯電話、貸してもらえませんか?」
京介,「携帯? 持ってないのか?」
ハル,「はい、自分、電話とか苦手なんで」
京介,「電話というか、コミュニケーションそのものが苦手みたいだな?」
ハル,「いやそれはないっす」
……身の程を知らない女だな。
ハル,「あの、バイト先に財布忘れちゃって、早く連絡しないとお店閉められちゃうと思うんで、すいません唐突で」
京介,「…………」
なんだか嫌な予感がするな。
このトリッキーな女なら、唐突にものすごい長電話をし始めたり、いきなりおれの携帯のメモリを調べかねん。
京介,「……ああ、悪いけどさ」
ハル,「はい?」
京介,「おれも、いま持ってないんだ」
ハル,「持ってない?」
宇佐美は心底意外そうに目を丸くした。
京介,「一時間くらい前に、落としちゃったみたいでさ。いま探してるところなんだ」
動物を思わせる純粋そうな目が、二度、三度と瞬いた。
ハル,「それは嘘だ」
京介,「……なに?」
宇佐美の視線が、ゆっくりとおれの目から右へ移ろっていく。
ハル,「寒いですよね?」
京介,「…………」
ハル,「わたしなんか、耳まで真っ赤です」
……なるほどな。
ハル,「けれど、あなたは左の耳しか赤くない。これはつまり、ついさっきまで、何かが右の耳に触れていたということだ」
……こいつ、妙に鋭いところがあるな。
京介,「わかったわかった。悪かった。ちょっと意地悪してみたかっただけなんだ。そんなに睨まんでくれよ」
ハル,「あ、いえいえ、自分も冗談です。右の耳だけ寒さに強い体質なんで、とか言われたらギャグで終わってるところでした」
京介,「……ごめんな」
使い慣れた薄っぺらい笑顔を作った。
ハル,「……いえいえ」
宇佐美も気味の悪い笑みを浮かべた。
携帯を差し出すと、宇佐美はすぐさま電話をかけ始めた。
ハル,「あ、バイトの宇佐美です……ええ、さらさらロングヘアの宇佐美です、店長まだいらっしゃってたんですね、よかったっす……」
また、やる気のなさそうな態度に戻ってしまった。
つくづく、変わった女の子だな……。
周りにいる人間を落ち着かせない天才というか……。
それとも、おれだけか?
宇佐美に見つめられていると、心の奥底まで見透かされるようだ。
ハル,「あ、どうも、終わりました」
京介,「おう、財布あったか?」
ハル,「ありましたありました。店が終わって、バナナを冷蔵庫にしまうときに、落としちゃったみたいっすね。店長が拾っておいてくれましたよ」
京介,「どんくさいヤツだな……」
ハル,「バイトでもかなりどやされてますよ、自慢じゃないすけど」
また気だるそうに頭をかく。
ハル,「それじゃ、このたびはお手数おかけしまして……」
背を向けようとした宇佐美に言った。
京介,「本当は、なんのバイトしてるんだ?」
ハル,「はい?」
宇佐美が振り返る。
少しうれしそうな顔をしているように見えるのは、おれの気のせいだろうか。
京介,「果物屋で働いてるってのは嘘だろう?」
……まったく。
ハル,「どういうことすかね?」
……なにが目的なんだ。
京介,「バナナは風味が落ちるから冷蔵庫に入れたりはしない。売り物ならなおさらだ」
……こいつはきっと、それを知っていてなお、おれにかまをかけてきている。
ハル,「あ、そうっすね。その通りっす。ばれちゃいましたか。浅井さんって、賢いっスね、なにげない会話のなかで嘘を見抜くなんて」
……ふざけたことを。
京介,「はは……まったく宇佐美は面白いヤツだなー」
……要するに、最初からおれに携帯を借りる用事なんてなかったということだ。
ハル,「あ、いやいや、ホントすいません、バイト先は内緒ってことで、ひとつお願いします」
……なぜ、おれに近づいてきたのだろうか。
ハル,「でも、せっかく浅井さんとたくさんお話できましたし、せっかくついでにひとつだけいいすかね?」
……きた。
京介,「ん? どしたー?」
……これが本題だ。
ハル,「いやたいしたことじゃないんすけど……」
直後、宇佐美はゆっくりと背すじを伸ばした。
ハル,「"魔王"、知らないか?」
京介,「は……?」
あまり聞きなれない単語に、耳を疑ってしまう。
けれど、宇佐美は凛々しいまでの顔つきで、おれを見据えてくる。
京介,「魔王って、なんだ? ゲームか?」
ハル,「ゲームといえば、ゲームかもしれない」
京介,「意味がわからんよ。ゲームの攻略ならネットで検索した方がいいんじゃないか?」
ハル,「インターネットで所在がわかるほど、簡単な敵じゃない」
京介,「敵……?」
ハル,「敵だ」
さきほどまでの、のらりくらりとした雰囲気がまったくない。
ハル,「わからないか?」
京介,「知るわけがないだろう」
ハル,「わたしは魔王を追ってこの街に来たんだ」
京介,「……本気で言っているのか?」
だとしたら、少々頭がおかしいとしか思えない。
ハル,「用件はそれだけだ」
京介,「え?」
ハル,「わたしは魔王を探している。それを、お前に知っておいてもらいたかった」
京介,「…………」
何も言い返せない。
だが、宇佐美の瞳には、決意を越えて、憎しみすら宿っている。
ハル,「邪魔をしたな……」
すっと踵を返すと、そのままセントラル街の雑踏に消えていった。
京介,「…………」
宇佐美が"魔王"とやらを探している。
誰か、特定の人物のことを指しているのか。
……なにかが引っかかる。
宇佐美はおかしな女だが、頭がきれることは間違いなさそうだ。
ではなぜ、そんな正気を疑われるような話を真面目に語るのか。
しかも、おれに……。
京介,「帰るか……」
考えがまとまるはずもなかった。
ただ、宇佐美ハル……自称勇者様だったな。
強きをくじき弱きをたすく、正義の存在。
そんな人間がこの世に一人でもいればぜひお目にかかりたいものだ。
冗談でも気に入らない。
おれは、勇者になるくらいなら魔王になりたい……。
;場転
;ノベル形式へ
;背景 繁華街2
富万別市、中央区のセントラルオフィスは夜の闇に沈んでいた。建ち並ぶ高層ビルは冷ややかさを備え、住民のいない街を見事に演出している。野犬やホームレスの類さえ、夜のセントラルオフィスを敬遠していた。一区画に、何百という数の有力企業のオフィスが顔を並べ、日中は、各界のセレブリティが出没する人気スポットとして脚光を浴びていた。一部の経済誌には、富万別市のセントラルオフィスは東京丸の内に次いで日本経済の根幹を担っているとの評価もあった。
その中心にそびえ立つ、ひときわ高い建物があった。地上五十階、地下六階の超高層タワービルである。富万別市の全景を睥睨するように設計されているのは、なかの会社の社風に通じるところがあった。それは、日本有数の総合商社、山王物産の本社ビルだった。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
眠りについたセントラルオフィスにあって、この商社だけは休みを与えられない。世界各地の駐在員からの情報を、二十四時間体制で処理しなければならないのだ。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
そのビルの最深部に"魔王"の姿があった。あるはずのない地下七階。隠された一室だった。山王物産の内部にありながら、一部のごく限られた社員にしか立ち入りを許されていない。存在すらも一般の人間には知らされていない部屋だった。万全の保安設備が敷かれていた。監視カメラに、金属探知機の類までが整っている。唯一の出入り口は地上一階への直通エレベーターのみである。有事には三重の強化ガラスが室内とエレベーターとを遮断するという念の入りようだった。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
染谷,「この部屋では、たとえ人が死んだとしても、秘密裏に処理されるのでしょうな」
ひとりの男が言った。ダブルのスーツに身を包んだ、中年の男。整った頭に若干の白髪が見える。胸につけた山王物産の社章バッジが薄暗い蛍光灯に鈍い光を反射させた。
染谷,「こんな時間に呼び出してすまないね。だが、私だって時間を割いているということを理解してもらいたい」
声は、痛烈な自負を含んでいた。男の名は染谷。専務取締役にして経営企画室室長という、社内では圧倒的な実力者だった。染谷の指図ひとつで日経平均が変動し、軽い一言で首をつる人間すらいた。
だが、"魔王"は、ただ憮然として部屋の壁に背を預けていた。
染谷,「君が、経営企画室の影のブレーンとして我々に意見するようになって、そろそろ一年になるかね?」
"魔王"はうなずきもせず、平然と構えている。
染谷,「はじめはどこの馬の骨かと思ったよ。社長の推薦とはいえ、設立八十年の歴史を誇る山王物産に、よそ者が紛れ込んでいるのだからね」
前置きが長いのは、商社マンとしての性なのだろうか。"魔王"は無感動に染谷を眺めている。
染谷,「たしかに、君の活躍は目覚しい。君のおかげで、我が社はそれまで寡占市場だった軍事産業に食い込むことができた。また、大幅な人員削減によっていわゆる大企業病からの脱却を計ることもできた。さらに……」
賛辞はいつまでも続くと思われた。だが、"魔王"はそのあとに続く染谷の本音を予期していた。"魔王"はついに重い口を開いた。
「私の力は、もう不要だとおっしゃりたいのでしょう?」
静かな声は核心をついていたようだ。染谷は、しばらく気圧されたように押し黙った。
「私の指図であなた方は動き、莫大な利益を得た」
染谷,「……あ、ああ」
「だが同時に、とても世間に公表できないような計画も断行してしまった」
染谷,「……我が社は、多くのリスクを抱え込んでしまったのだよ」
「私のせいで?」
染谷,「君の、その悪魔的な頭脳のせいで、だ」
染谷の唇が震えた。"魔王"は知っている。染谷がいかに巨大商社の権力者であろうとも、それは社内における権力にすぎないということに。"魔王"が提唱してきた犯罪行為の前では一介の素人にすぎないのだ。
染谷,「率直に言おう。南米に飛んでもらいたい」
「暖かいですな」
"魔王"は薄く笑った。染谷は取り繕うように言った。
染谷,「そこでしばらく身を隠して、ほとぼりが冷めるのを待ってもらいたいのだ」
「暖かいですな」"魔王"は二度、繰り返した。
染谷,「そう、暖かい場所だよ。現地では、豪勢な社宅を用意してある。苦労はさせないつもりだ……」
"魔王"はゆっくりと首を振った。
「違います」
染谷,「な、なにが、違うのかね?」
「あなたが温室育ちだと言いたいのですよ」
染谷は舌を噛んだような表情になった。
「私を本当に邪魔だというならば、もっとやり方があるでしょう」
染谷,「やり方、だと?」
そのとき、直通エレベーターの扉が開いた。白衣の男が入ってきた。染谷の口元が歪んだ。救いを求めるような目で、男を迎え入れる。
染谷,「紹介しよう。こちらは桑島君……」
二十代半ばの青年だった。色白で体も小さいが、目つきだけが異様にぎらついている。企業より大学の研究室にいそうなタイプだった。
染谷,「我が社の新しいコンサルタントだ。ボストンで勉強していたのを無理を言ってきてもらったのだ」
「私の後任というわけか」
桑島,「大学ではゲーム理論を学んでました」
桑島がハスキーな声で言った。
桑島,「"魔王"と呼ばれているそうですから、どんな方かと楽しみにしてましたが、意外とお若いんですね。ぼくは二十六ですが、ひょっとしてそれより下ですか?」
「ゲーム理論の専門家にしては、自分の情報をぺらぺらとしゃべる……」
桑島,「あなたのことは、染谷室長から聞いてますよ」
"魔王"は染谷を一瞥した。それだけで、染谷の顔に恐怖が広がる。
染谷,「く、桑島くんはすでに社内の人間だ。君のことを話してもかまわんだろう?」
「社内の人間? なるほど。山王物産ほどの大企業が、私のような得たいの知れない人間の手を借り続けるのは、居心地が悪いのでしょうな」
桑島,「覇権交代というわけですよ。山王はこれからぼくの手でクリーンに生まれ変わるんです」
過剰な自信に満ち溢れた言葉だった。"魔王"はこの手の尊大な若者が嫌いではなかった。かわいいぼうやだ……そう思って笑みをこぼした。
桑島,「なんだ、ぼくのどこがおかしいんだ?」
「君は秀才であるのかもしれない。だが、実績はまだないのだろう?」
桑島は鼻を鳴らした。
桑島,「いいか、企業戦略は理論だ。実績なんてあとからついてくる。最新の理論を持つぼくが、華々しい功績をあげるであろうことは、すでに数値的には証明されているんだ」
「頼もしいな……」
"魔王"はゆっくりと、桑島のそばに歩み寄った。
「ひとつ、ゲームをしよう」
桑島,「ゲーム?」
「君が勝てば、私は潔く身を引こう。採用試験と受け取ってもらってもかまわない」
桑島は語るに落ちたと言わんばかりに、笑みを作った。
桑島,「いいでしょう。で、どんなゲームですか?」
"魔王"は不意に、左手を桑島の目の前に突き出した。五本の指を伸ばし、手のひらを向けている。
「君も同じように指を広げてくれ」
桑島は言われたとおりに左手を差し出した。
#text_off
「ここに、私と君の分を足して十本の指がある」
桑島,「"魔王"といえども、指は五本なのですね」
桑島はせせら笑うが、魔王は静かに言った。
「ルールは簡単だ。これから我々は交互に、空いている右手を使って、この十本の指を折っていく」
桑島,「逐次手番ゲームですか。かなりの得意分野ですよ」
「自分の番が来たら、指を二本折ってもいいし、一本折ってもいい。ただし、指は私と君のを交互に折らなければならない」
桑島,「一本、あるいは二本ですね。最終的に、最後の指を折ったプレイヤーが勝ちというわけですか?」
「察しが良いな。なにか質問は?」
その瞬間、桑島は低く笑った。笑いを噛み殺したいのだが、相手が愚か過ぎて耐えられないといった様子だった。
#text_off
桑島,「提案ですがね、魔王」
「なにかな?」
桑島,「ぼくが先攻でいいですか?」
"魔王"はうなずいた。了承の意を得た桑島は、よりいっそう口角を吊り上げた。
「その代わり、私からも提案だ」
桑島,「なんでもどうぞ」
「各プレイヤーに与えられる制限時間は二十秒としようか」
桑島,「二十秒? 十秒もいりませんよ」
「十秒でいいのか?」
桑島,「ええ」
「本当に?」
桑島,「しつこいな。さっさとやりましょうよ」
#text_off
"魔王"と桑島は向かいあった。お互いに左手の手のひらを向かい合わせ、指を伸ばす。
桑島,「では、ゲームを開始しますよ。ぼくが先攻でしたね」
#text_off
言いながら、桑島は自分の親指を右手で折った。
桑島,「まずは一本ですね」
この場合は、"魔王"の小指を折ったプレイヤーの勝ちとなる。
#text_off
"魔王"は自分の親指を折った。さらに桑島の人指し指も折る。
「君の番だ。制限時間は十秒だったな」
桑島,「ふん……」
#text_off
桑島は余裕の表情で、"魔王"の人指し指を折った。
「一本でいいのかな?」
桑島,「ええ。ぼくの勝利は決まっていますから」
#text_off
"魔王"は次も指を二本折った。桑島の中指と自らの中指の順である。直後、桑島が吹き出した。
桑島,「笑わせないでくださいよ、"魔王"」
「どうした?」
桑島,「これは、いわゆる先に十と言ったもん勝ちのゲームだ。必勝法は、中学生でも知っていますよ」
笑いに痙攣する指で、桑島は自分の薬指に触れた。
桑島,「ぼくのこの薬指は、ゲームにおける七番目の指です。このゲームは後ろから解いていけばいいのです。自分が十本目を折るためには、七本目を折れば勝利が確定します」
「ほう……」
桑島,「七を折るためには四を、四を折るためには一を。つまり、先攻を取ったプレイヤーが必ず勝つんですよ」
"魔王"は黙って桑島の解説に耳を傾けていた。
桑島,「なぜならぼくが七本目の指を折った場合、"魔王"は八本目のみ、あるいは八本目と九本目の指を折ることしかできませんからね。"魔王"が八本目のみを折った場合、ぼくは九、十と。"魔王"が八本目と九本目を折った場合、ぼくは十本目を折ることができます」
#text_off
桑島は、そこで、ようやく七本目の指――自分の薬指を折った。
「君の語りが長いので、制限時間はとっくに過ぎてしまった」
"魔王"は冷静に言った。
「君の負けだと言いたいところだが、一度は許そう」
桑島,「さすがは"魔王"。寛大な処置をありがとうございます」
「だが、二度はない。ゲームを続ける」
桑島,「ゲーム続行ですって? ぼくの説明が理解できなかったのですか?」
残る指は、三本。
八本目――"魔王"の薬指。
九本目――桑島の小指。
そして十本目――"魔王"の小指である。
桑島,「あなたは馬鹿ですか? ぼくが七本目の指を折った以上、どうやったって、あなたの負けなんですよ?」
「勝負というものは、最後までわからない」
#text_off
"魔王"は自分の薬指を折った。次に、桑島の小指に手をかける。
桑島,「……わからない人だな。染谷室長、これでぼくを認めてくれますよね?」
桑島が約束された勝利に酔い、染谷に媚びたその直後だった。
桑島,「――いっ!!!」
突如、桑島が鋭く鳴いた。なにが起こったのかわからないのだろう。けれど、驚愕の表情は徐々に苦悶の色を帯びてきた。
#text_off
桑島,「ひ、ひぃっ、な、なにをっ!?」
狼狽する桑島とは対照的に、"魔王"はわずかばかりも動じた様子がない。
「綺麗に折れたろう?」
桑島,「……う、ああ」
「実際に経験したことがあればわかるだろうが、小指が折れても、さほど、苦痛はないものだ」
桑島の顔は蒼白になっていた。自分の指がありえない方向に曲がっている。研究畑の桑島にとって、信じられない衝撃だったに違いない。
"魔王"は、たしかに指を折ったのだ。
「さて、君の番だ。制限時間は十秒でいいんだったな?」
桑島の返事はなかった。膝を折り、なすすべもなく痛みに震えていた。
「どうした? 二度はないと言ったはずだぞ。十本目、私の小指を折れば君の勝利ではないか?」
桑島,「た、助けて……!」
もはや桑島の頭に、ゲームのことなど欠片もないようだった。
勝負はあった。"魔王"は腕を下ろし、眼下にひざまずく弱小動物のような男に言った。
「君が戦略家として使い物になるかどうかは、初手で見極めがついていた」
"魔王"は勝ち誇るでもなく、続けた。
「君の言うとおり、このゲームは、先攻を取った者が必ず勝つゲームだ。誰でも知っているが、誰でも知っているからこそ、裏を読まなければならなかった」
手の甲を額に当てながら、桑島の顔は激しく歪んでいた。敗北を悟っているのだ。
「君はまず、初手で私の親指をへし折るべきだったのだ。小指と違って親指はかなりこたえる。だから私は二十秒の制限時間を提案した。指を骨折した苦痛と衝撃に耐えるのに、二十秒程度の時間が欲しかったのだ」
桑島,「そ、そんな……なんのためらいもなく人の指を折るなんて……」
「なんのためらいもなく人を傷つけることができなければ、企業戦略家は務まらない。我々の一言で、会社が倒産し、一家が離散し、自殺する。まともな常識のある人間にとっては、抵抗感のある仕事だ」
そのときになって、"魔王"は染谷を見た。染谷は置物のように部屋の隅に棒立ちになっていた。
「染谷室長、おわかりか?」
染谷,「……う、うむ」
染谷の額に脂汗が滲んでいた。いまさらながらに"魔王"の恐ろしさを思い知ったようだ。
「私が邪魔者で、企業にとって不必要だと判断したのならば、南米に飛ばすなどという暴挙はやめたほうがいい」
「…………」
「それは非常に手ぬるい選択だ。なぜなら私にはまだ、この会社を使ってやるべきことがある。私が会社にもたらした利益に見合うだけの報酬を受け取っていない。不当な扱いを与えられるのならば、私は全力を持って山王物産に復讐するでしょう」
染谷,「わ、わかった……」
染谷はうろたえながら両手を挙げる。"魔王"は詰め寄った。
「あなたはおっしゃったでしょう? この地下室ではたとえ死人が出ても、秘密裏に処理されるのだと」
染谷,「わかったと言っているじゃないか……」
「私を殺しなさい。それが一番確実ですよ」
染谷,「や、やめてくれ!」
"魔王"は人間がどうすれば従うのかを熟知していた。"魔王"はなんのためらいもなく人を傷つけることができる。けれど、染谷や桑島にはできない。こういう決定的な差を見せつけてやるのだ。偉大なる暴力の、その圧倒的な支配力を……。
染谷,「悪魔め……」
染谷の皮肉は、"魔王"にとって賛辞に過ぎなかった。
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;黒画面
臨床心理学のカウンセラーと呼ばれる連中に捕まると、ちょっとやそっとじゃ解放してもらえない。
端的にいうと、心に問題の少しもない人間などいないからだ。
先生方は、おれから言わせれば、ただの"不満"にすぎないことに、ご大層な病名をつけたがる。
幸いにして、おれはまだ病院送りにはされていない。
だが、一時間に五千円のカウンセリング料は高すぎる。
本を読めばわかるような説教でお茶を濁すだけで金が入る。
魔法のようにぼろい商売だ。
京介,「また、昔の話を申し上げればよろしいんですか?」
オフィス街のビルの五階にフロアを構える臨床心理研究所。
待合室を抜けた先にあるカウンセリング室で、おれは担当の先生と向かい合っていた。
十五坪以上の幅広いスペースに、ゆったりとしたリラクゼーションソファ、明るい色調の風景画、茶系で統一された書棚や調度品が整えられている。
さりげなく流れる落ち着いた音楽からも、患者の心を癒す目的があるのはあきらかだ。
秋元,「もう、十回目くらいになるかな?」
穏やかな口調の秋元さんは、ふくよかな体を白衣につつみ、いつも暖かいまなざしを注いでくる。
秋元氏のプロフィールは、複数出版されている本の巻末で確認済みだ。
写真では一見して白い子豚といった印象の男も、アメリカ留学経験を武器に、都内有名大学の非常勤講師と大学付属病院の精神科顧問を勤める相当なエリートだ。
秋元,「京介くん、いまだからこそ、本当のことを話すけれどね」
前置きが長いのは、もはや愛嬌と受け取れるほどに慣れてしまった。
秋元,「一年前くらいかな。ちょうど、君が初めて私のもとを尋ねてきたときだね。正直なところ、私は君の話を半信半疑に聞いていたんだ」
京介,「そうですか」
秋元,「君は、なんと言ってきたんだっけ?」
自分がわかっていることを、何度も患者自身に話させるのが秋元氏の仕事らしい。
京介,「僕は、僕と同世代の青年と比べて、どうやら価値観が違うようなのです」
京介,「みんなは、人を信じ、偉い人物を尊敬し、友人を助け、親を敬えと言っています。けれど僕はそうは思わない」
京介,「人の心はお金で買える。誰もが利益で動き、自分のことだけを考えているのだと」
秋元氏は脂肪にたるんだ首を深く縦に振った。
秋元,「人間には、誰しも良い自分と悪い自分が共存しているんだよ」
秋元,「幼児は犬猫をかわいそうだと思って拾ってあげる優しい一面と、蛙の口に爆竹を入れるような残酷な一面も持ち合わせているよね?」
秋元,「けれど、成長して情緒が整ってくると、悪い自分を理性で抑えられるようになる」
秋元,「君はいままで、例えば人を殴ってやりたいとか思ったことはないかい?」
京介,「ありますね。返すあてもなく金を借りるヤツなんて、殺してやりたいとすら思います」
秋元,「けれど、実際には殺さない……そうだよね?」
京介,「はい」
また満足そうにうなずいた。
秋元,「うん、ここが境目なんだ。君が人格障害を持つ患者ではないことを示す、ボーダーラインなんだ」
京介,「僕としては、ただの思春期の悩みにすぎないことだとも思うのですが……?」
秋元,「アメリカのとある大学教授がね、思春期におけるホルモンバランスの変化が、いわゆる不良少年を作り出す原因ではないということを実験で証明しているんだ」
京介,「けれど、実際に僕は不良少年と呼ばれても仕方がないようなことをしています」
秋元氏とは権三の紹介で知り合った。
だから、秋元氏はある程度、浅井興業でのおれの立ち位置を知っている。
秋元,「つまり、君が人の心は金で買えると思うようになってしまったのは、それなりの理由があるということだよ」
京介,「それなりの理由とは?」
秋元,「それを、いまからじっくりと探っていこうじゃないか」
京介,「はい……」
本当に、ぼろい商売だな……尊敬してしまう。
おれが金を払ってカウンセリングを受けるのには、もちろん、理由がある。
秋元氏のように精神科医の資格を持つ人間に"ある証明書"を書いてもらい、それなりの手続きを踏む。
すると、出席日数や必須単位などの、学園を卒業するために必要な条件が大幅に緩和されるのだ。
よく学園をさぼり、授業もまっとうに受けていないおれにとっては、とてもありがたい話だ。
当然、金はかかるが、おれは時間を買っているという感覚で、ひと月に一度ほど、ここを訪れることにしている。
もちろんおれは、秋元氏が疑うような人格障害なんて持ち合わせちゃいないが……。
秋元,「じゃあ、今日は、君がいまのお父さん、浅井権三さんに引き取られたいきさつについて、聞いてみてもいいかな?」
京介,「長くなってしまいますが、かまいませんか?」
秋元,「うん。ゆっくりで、かまわないよ?」
壁にかかった時計を見る。
あと十五分で一時間だ。
かいつまんで話さなければ延長料金を取られるな……。
京介,「簡単に言うと、僕の前の父が借金をしていたからです」
負債総額は五千万だったか……。
主な債権者は銀行やノンバンク、消費者金融だったが、まずいのは、権三の組とかかわりのある闇金にまで金を借りたことだった。
おれと母と父は、権三の組のチンピラに激しいプレッシャーをかけられた。
もともと抵当権のついていた一戸建ての家からは、家具、家電などがすべて持ち出され、物という物がなくなった。
いまでこそわかるが、そういった押収品はバッタ屋と呼ばれる小売業者が叩いて買ってくれるのだ。
京介,「母は病気がちでしてね。ベッドがないので、よく冬服を敷布団にして寝ていました。しかし、当時の僕が考えているほど、信用貸しというのは甘い生き物ではありませんでした」
たしかに、暴力団新法で、警察が民事に介入できるようにはなった。
被害者の会と呼ばれる対策コミュニティもあるし、インターネット上には、闇金の手口が事細かに掲載されている。
が、そんなもの、連中は屁とも思っていない。
一つ潰されればまた次が、それも潰されればまた新しい金貸しが、いくらでも兵隊を送り込んでくる。
一時期流行った自己破産など、破産を申し立ててから免責が決定するまで一年近くの時間を要する。
その間に、身柄を抑えられれば終わりだ。
自宅、実家、知人の家、近郊のホテル、タクシー会社、新聞の販売所、日雇いの工事現場……。
カモに逃げられるのは、恥以外の何者でもない。
面子というものを異常なまでに気にする連中は、執拗に追い込みをかけ、獲物を必ず捕まえる。
京介,「母の実家に逃げていた僕らは、あっさりと捕まりました。北海道にまで追いかけてくるとは、本当に驚きました」
京介,「やつらは母にまで手を上げようとしました。それをかばって、顔が曲がるくらい殴られました」
京介,「それからですね浅井権三とのつき合いが始まったのは」
再び時計を見る。
そろそろ一時間経つ。
学園にも行きたいし、とっとと退散するとしよう。
秋元,「なるほどね。よくわかったよ」
京介,「そうですか、では……」
秋元,「もう終わりにするかい?」
京介,「ええ、ちょっと用事もありますし」
秋元,「わかったよ。ただ浅井くん……」
秋元氏は柔和そうな目尻をいっそう下げた。
秋元,「いまの話だけで君という人間を理解するには、少々難しいね。たとえば、浅井権三さんはどうして債務者の息子である君を養子にしたんだい?」
京介,「先生、すみません、時間が……」
秋元,「ああ、いいんだよ。少しくらい。君が、いつも一時間きっかりで帰るのは知っているからね。お金を気にしているんだろう?」
……さすがに、人相手の商売をしているだけあって、見る目はあるようだ。
京介,「……では、もう少しだけ」
秋元,「ありがとう」
おれはため息をついて言った。
京介,「モノになる、と言われたんです」
秋元,「権三さんに?」
京介,「チンピラにぼこぼこにされても、怯えた様子がなかったそうです」
秋元,「度胸が据わっていたんだね」
京介,「何も考えていなかっただけでしょう」
秋元,「なんにしても、ヤクザに見込まれるなんて、たいした男だよ、君は」
……暖かい人だな。
いままで何度か、こういう人に出会った。
けれど、おれは何も感じない。
立派な人など、何も信用できない。
大学の講師や病院顧問の肩書きがあるエリートだろうと、金は要求する。
いまのように、時間がきても少しくらい料金をまけてくれることはある。
しかしそれも、余裕を見せて相手を懐柔させようとする手口なのではないか。
おれは動機に利害関係がなければ納得しない。
たとえ腹の底が知れても、わかりやすいほうについていく。
だからおれは浅井権三の息子になったのだろう。
あれほどわかりやすい悪漢は、そういない。
京介,「権三は暖かい部屋と毎日三食の飯を与え、中学校を卒業させてくれました」
京介,「僕が将来は商社で働きたいといえば、金持ちだけが通える専門の学習塾に通わせてくれましたし、体を鍛えたいと言えば、ボクシングのコーチを紹介してくれました」
京介,「しかし、それは、もちろん、親心とか善意とかいう類のものではありませんでした」
京介,「権三は、僕にそういったことをしながら、いつも最後には必ずこう言うのです」
京介,「『いいか、京介。俺がお前にモノや金を与えるのは、お前を俺の手駒にするためだ』」
そのとき秋元氏の顔が一瞬だけ翳った。
京介,「『いつかお前が俺の寝首をかこうと思ったとき、一瞬でも迷いが生じるように仕向けているのだ』とね」
秋元,「……噂には聞いていたが、強烈なお父さんだね」
京介,「わかりやすくていいと思いませんか?」
おれの問いに、返事はなかった。
京介,「それでは、そろそろ……」
秋元,「ああ、最後にいいかな?」
京介,「なんです?」
秋元,「君は、友達なんかから、よく忘れっぽいと、言われたりしていないかな?」
おれは眉をひそめる。
京介,「……友達との約束をすっぽかすことはありますね」
秋元,「そう」
いままで一番深くうなずいた。
京介,「なにか?」
秋元,「いや、君のように忙しい若者なら、うっかりすることもあるのだろうね」
明らかに、本音を隠している言い回しだった。
だが、こうやって、次回へのつなぎを作っておきたいのだろう。
秋元,「じゃあ、次回、また都合がついたら連絡をください」
京介,「今日も、本当にありがとうございました」
腰を上げ、退室する。
;黒画面
廊下の受け付けで料金を払ったとき、不意にめまいが襲ってきた。
京介,「…………」
気持ちを切り替えていこう。
;背景 学園校門 昼
……おれが忘れっぽいだって?
恨みだけは忘れんよ。
おれの命の次くらいに大切なバッハの新譜を、ノリでキズモノにされた恨みだけは。
花音め……思い知るがいい。
;背景 屋上 昼
花音,「兄さん聞いてよ聞いてよーっ」
登校したときには、すでに昼休みの時間だった。
花音が、口をへの字に曲げて騒いでいる。
花音,「バレーボールできなかったんだよー」
どうやら、計画はうまくいったようだ。
京介,「え? なんで?」
笑いをこらえながら聞いた。
椿姫,「なんだかね、体育用具室の鍵が無くなっちゃったみたいなの」
花音,「もー、ホント、どこやっちゃったんだよー!」
鍵はすでに学園の業務用の郵便受けに入れておいた。
栄一,「そっかー、それは残念だったねーっ」
栄一も邪な目を輝かせていた。
ハル,「けっきょく、マラソンになったんすよね。この寒空のなかマラソンとか、思わず転校してやろうかと思いましたよ」
京介,「なんだ、宇佐美も楽しみにしてたのか?」
ハル,「あ、いえ。自分、基本スポーツ苦手なんで。バレーボールみたいなボール関係は特に」
京介,「球技というより、集団競技そのものが苦手そうだな」
ハル,「いやそれはないっす」
……身の程を知らない女だな。
椿姫,「でも、花音ちゃん、今度の体育の時間に延期になっただけだから」
花音,「のんちゃん、来週から三日間合宿だもん。ガッコ来られないもん」
京介,「残念だなー」
栄一,「残念残念っ」
おれは栄一と顔を見合わせて、勝利の余韻を味わった。
栄一,「しっかし、誰が鍵を隠したんだろーなー」
……っ!
おれが驚きに言葉を失ったのと、宇佐美が口を開いたのはほぼ同時だった。
ハル,「どういうことすか?」
けれど栄一はいまだにニタニタしたままだ。
栄一,「いや、だから、あの鍵を盗んだのは誰なんだろうなーって」
ハル,「盗まれた?」
栄一,「うんうんっ」
ハル,「盗まれたなんて誰も言ってないっすよ」
栄一,「え?」
まずい、な……。
ハル,「なんで盗まれたと思ったんすか?」
栄一,「え? い、いや、な、なーんとなく……ハハハ」
花音,「んー?」
椿姫,「え? 宇佐美さん? 栄一くん?」
宇佐美は栄一に詰め寄る。
ハル,「エテ吉さん」
栄一,「え、栄一だって」
ハル,「エテ吉さんは、体育用具室の鍵を実際に見たり使ったりしたことはありますか?」
まずい……まずいぞ。
栄一,「鍵? 見たことなんて……ないよー。鍵なんて先生が持ってるもんだからねー」
ハル,「なら、さっきはどうして『あの鍵』って言ったんですか?」
栄一,「へ?」
ハル,「言いましたよね? 『あの』鍵を盗んだのは誰なんだろうなーとか」
ハル,「普通は『その鍵』って言いませんかね? 実際に見たこともなくて、話に聞いただけのモノに対して、『あの』とか、使いますかね?」
栄一,「そ、それは、言葉のアヤってヤツじゃない……?」
花音,「エイちゃんが盗んだのかー!?」
花音が腕を振り上げた。
栄一,「ちょ、ちょっとボクじゃないよー!」
椿姫,「か、花音ちゃん、落ち着いて!」
ハル,「…………」
花音,「待てーっ!」
栄一,「あ、あわわっ!」
逃げる栄一、追う花音。
ハル,「浅井さん」
宇佐美がいつの間にかおれを見つめていた。
ハル,「昨日はども」
京介,「おう……」
……嫌な予感がする。
ハル,「聡明な浅井さんは、どう思います?」
京介,「いや、おれ聡明じゃないし……」
まさかこいつ、おれのことを疑っているのか?
ち……。
この計画は、疑われないこと、容疑者を絞られないことが、最大の利点なんだ。
それを栄一のボケがあっさりとボロを出しやがって……。
ハル,「これって、ばれたら、シビアにまずいですよね?」
京介,「そうだな……もし、栄一がやったんだとしたら、停学になったりしてなー」
ハル,「ですよね、うちのクラスだけじゃなくて、この学園全部の体育の授業で用具室が使えなくなってしまったんすから」
京介,「…………」
ハル,「ただ、エテ吉さんって、邪悪な心の持ち主ではありますけど、チキンはチキンだと思うんすよ。スライムですし」
……やはり、おれを疑っている。
バレれば停学。
小悪党の栄一は、そんな危険を冒さない。
京介,「なんだよ、おれが、共犯だとでも言いたいのか?」
宇佐美の口元が吊り上がる。
ハル,「浅井さんには動機がありますからね」
京介,「ほー、どんな?」
ハル,「CDに傷つけられましたよね?」
ハル,「お返しに、花音が楽しみにしてたバレーボールが中止になったら、愉快じゃないすか?」
お見通しか。
京介,「待てよ、おれだって、チキンだって」
ハル,「そすかね?」
京介,「花音に復讐したいなら、花音だけをこらしめる手段を考えるって。学園全体が迷惑するような、そんなテロリストみたいなことするかよ」
ハル,「木を隠すなら森のなか、ていうかペンギンを隠すなら群れのなかと言います」
言わない。
ハル,「容疑者をしぼりこませないために、犯罪の規模を大きくする。なかなか手の込んだことをしてくれますね?」
京介,「だから、おれじゃないっての。おれのせいで今日の体育が潰れるなんて、ひどすぎるじゃねえか」
ハル,「今日の?」
……しまった!
ハル,「どうして『今日の』なんすかね? 明日になったら鍵は発見されてるんすかね? まるで鍵が今日中に見つかることがわかってるような発言じゃないすか?」
……いや、待て、言い逃れはできる。
京介,「さすがに明日も体育が中止になるなんてありえないだろ。学園だって対処するだろうさ」
京介,「だいたい、おれは鍵が今日中に見つかるなんて、言ってない。今日の体育が潰れると言ったんだ。妙な誘導はやめろよ」
宇佐美はまた小さく笑う。
ハル,「それはそうかもしれませんね」
京介,「わかってくれたか?」
ハル,「理解できないこともありませんが、まだまだ納得できるほどじゃない、と思いました」
しばし見つめ合う。
慌てることはない。
証拠はないんだ。
鍵もそろそろ見つかって、騒ぎも鎮火する。
栄一が夜九時に職員室にいたという証拠でもあがらない限り、この事件は闇に葬られる。
椿姫,「そろそろ休み時間終わるよ?」
京介,「ああ、寒いし、教室に戻ろうぜ」
椿姫,「花音ちゃんも、もういいじゃない?」
花音は栄一を捕まえてネクタイを引っ張っていた。
栄一,「う、うぐぐ、ボクじゃない、ボクじゃないよー!」
花音,「どうしてくれる! どうしてくれる!」
椿姫,「宇佐美さんも……浅井くんはみんなが迷惑するようなことする人じゃないよ?」
ハル,「私は正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると言いたいだけだ」
椿姫,「で、でも、お友達なんだし、疑っちゃダメだよ……」
ハル,「友達が間違っているのに、間違っていると言わないのは、悪だ」
合理的な女だな。
腹の底に不快感を覚える。
何者なんだ、いったい……?
ハル,「ていうか、椿姫、私のことは勇者と呼べと言ったろう!?」
なんか妙なところでキレてるし……。
椿姫,「ご、ごめんね、宇佐美さん」
ハル,「だから、ちげーだろうが!」
椿姫,「あ、あわわ……」
……昼休みが終わる。
;背景 教室 昼
五時限目の数学の授業中。
そろそろ授業が終わろうかというとき、クラス全体がどよめきだした。
あの熱血数学教師が、先日のテストを返却しはじめたからだ。
花音,「やったー、赤点免れたよー!」
バレーボールができなかったことも、すでに忘れているかのような明るい声が上がる。
椿姫,「浅井くん、どうだった?」
京介,「ぼちぼちかな……80点だったよ」
ハル,「自分、100点でした」
呼ばれてもいないのに、宇佐美が言い放った。
椿姫,「うわ、すごーい! 転入初日の試験だったのに……」
京介,「前の学園はうちより授業、進んでたのか?」
ハル,「…………」
なぜか、頬を赤らめた。
京介,「な、なんだよ、急に黙るなよ」
ハル,「ここで、まぐれだ、とか言うと、ちょっとかっこいいんじゃないかと思ってます……」
……気味の悪いヤツだな。
栄一,「あ、先生!」
不意に隣の栄一が手を上げた。
栄一,「先生、ここあってますよ!?」
とことこと可愛らしい足取りで、数学教師のもとへ向かう。
数学教師,「なんだ相沢……?」
栄一,「ここ、あってるのに、バツつけられてるんですよ」
数学教師,「お、すまんすまん。たしかにあってるな」
栄一,「ふー、これで、ぎりぎり赤点脱出ですよ」
数学教師,「もっと勉強しろっ」
舌を出した栄一に軽くゲンコツ。
そんなやりとりを見て、何も知らないクラスの女子が、かわいいーとか笑う。
数学教師は退室し、授業が終わった。
花音,「エイちゃん、ずるしたんじゃないだろーなー?」
栄一,「してないよ、もうー」
花音,「ホントかなー? 1を4に書き直したり、3を8に書き直したりしてないかなー?」
栄一,「花音ちゃん、いいかげん、ボクを信じてよー」
京介,「おい栄一、見せてみろよ」
五行にわたる数式に、バツの上にマルがつけられている。
採点ミスがあったのは、花音の言うような安易にごまかせるような箇所ではなかった。
ハル,「浅井さん、鍵が見つかったそうですよ」
京介,「急に話しかけてくるなよ」
ハル,「というわけで、自分、職員室に聞き込みに行ってきます」
京介,「なにが、というわけで、だ」
宇佐美は猿のようなすばしっこさで教室から出て行った。
栄一,「京介っ」
栄一が小声で話しかけてくる。
栄一,「だ、だいじょうぶなんだろうな?」
京介,「……あわてるな」
栄一,「でもよう。あの宇佐美って女はオレたちを疑ってるんだぜ?」
京介,「お前がこれ以上ヘタなことを言わなければ、ぜったいだいじょうぶだ」
栄一,「ば、バレたら停学だよな?」
京介,「栄一よー、コレが火サスだったら、お前ぜったいおれに殺されてるぞ?」
栄一,「く、口封じかよ!」
京介,「わかったな? 次に宇佐美になにか聞かれたら、狂ったフリでもしてごまかせ。とにかく何もしゃべるな」
栄一,「わかった。急に腹が痛くなることにする」
京介,「モロ怪しいが、もう怪しまれてるから、それでよしとする」
……宇佐美め。
おれの計画、見破れるものなら見破ってみろ。
;背景 教室 夕方
強い西日が教室に差し込んでいる。
本日最後の授業中、宇佐美はおれの前の席でじっとしていた。
ハル,「…………」
ぴくりとも動かない。
京介,「おい、宇佐美」
ハル,「…………」
京介,「おいっ、無視するなよ」
ハル,「犯行時刻がわかったんすよ」
背を向けたままぼそりと言う。
京介,「いつだ?」
ハル,「昨日、最後まで残っていた先生に聞きました」
京介,「ノリコ先生だな?」
宇佐美は軽くうなずく。
ハル,「昨日の夜八時半、バトミントン部の先生が部活で使用していた鍵を戻しにきたところまでは、体育用具室の鍵は確実に職員室にあったそうです」
おれが職員室に入ったのは夜九時だ。
京介,「ということは、鍵は、夜八時半以降になくなったということになるな。それで?」
ハル,「今日の朝一番にバトミントン部の先生が朝練習のために体育用具室を開けようとしたそうなんです」
ハル,「そのときには、鍵はもうなかったんです。昨晩八時半にはちゃんとあったはずの鍵が、朝には盗まれていた。どうしてでしょうね?」
京介,「とことん盗まれたってことにしたいんだな?」
ハル,「体育用具室の鍵だけがなくなっているんならともかく、マスターキーまでなくなっていたんです」
ハル,「昨日、マスターキーを使用した先生は誰もいないそうです。ずっと職員室にあったそうです」
なるほどな……マスターキーは紛失したというより、盗難にあったと考えるほうが自然だ。
ハル,「犯人は、間違いなく、体育用具室を使えないようにしたかったのです」
京介,「……そうなるな」
ハル,「犯行時刻は、昨日の夜八時半から十時までです。十時にノリコ先生が職員室に施錠をしましたから」
京介,「その間、職員室にはノリコ先生以外に誰かいたのか?」
ハル,「ノリコ先生の話を聞く限りでは、誰もいなかったそうです」
京介,「じゃあ、ノリコ先生が犯人なんじゃないかなー?」
すると、宇佐美はやや不機嫌な声を出した。
ハル,「ノリコ先生に限らず教師が犯人なら、犯行のチャンスはいくらでもあります。わざわざ自分しか職員室にいない時間を選んで鍵を盗む必要はありません」
……無駄だったか。
なにしろ動機がない。
体育用具室の鍵を盗んで、教師にどんな得があるというのか。
ハル,「浅井さんは、昨日の夜、なにしてたんすか?」
京介,「昨日の夜……?」
……これは罠だ。
宇佐美はノリコ先生に事情を聞いている。
ノリコ先生は、昨晩のことを話しているだろう。
ヘタに嘘をついたら突っ込まれる。
京介,「実は、栄一のことで、ノリコ先生と話をしてたんだ」
ハル,「聞いてます。何時ごろでしたっけ?」
九時過ぎ、と言いたいところだが、腕時計もしていないおれが時刻を正確に言い当てるのも若干不自然だ。
京介,「さあ、覚えてないな……八時くらいかな?」
ハル,「九時過ぎだったそうですよ?」
京介,「わかっているなら、聞くなよ」
ハル,「どうして、そんな時間に? ノリコ先生に用があるなら、もうちょっと早い時間でもかまわないでしょう?」
さすがに不審に思ったか。
ハル,「浅井さんは、放課後になるとマッハで帰ることで有名みたいじゃないすか?」
京介,「栄一のプライベートなことだから、ノリコ先生以外の誰にも聞かせたくないし、見られたくなかったんだ」
ハル,「六時でも七時でもよかったじゃないすか? それぐらいの時間なら誰もクラスに残っていないでしょう?」
京介,「教室にクラスメイトは、いないな。だが、職員室には、他の先生が残っていた」
そこで、宇佐美が、少し黙った。
ハル,「まあいいっす。浅井さんは、友達想いらしいすからね」
かわしたが、問題は次だ……。
ハル,「問題は、エテ吉さんの机ですよ」
やはりそこを突いてきたか。
ハル,「なんかノリコ先生への愛の詩が書かれていたはずだったとか?」
京介,「ああ、そのはずだったんだが、な」
ハル,「でも、自分、エテ吉さんが、机に落書きしてるのを見たことないすよ?」
京介,「お前は転入してきたばかりだからな」
ハル,「はい。そうだと思って、他の人にも聞いてみましたが、やっぱり見たことないとみなさんおっしゃります」
……やむをえないな。
京介,「わかったよ。実は作り話なんだ」
ハル,「……そうきましたか」
なんとでも言え。
京介,「おれはとにかく、栄一とノリコ先生をくっつけたかったんだよ。だから、嘘でもいいから、栄一がノリコ先生を想っているってことにしたかったんだ」
ハル,「浅井さんらしくないすね」
京介,「なにがだ?」
ハル,「浅井さんなら、もっとうまくやるでしょう? 落書きを実際に書いておくとか、いろいろできたはずです」
……その通りだ。
京介,「お前はおれをかいかぶってんだよ」
まさか、ここまで追求を受けるとは思わなかったな。
まあいい……ミスはミスだが、致命的なミスではない。
ハル,「なんにせよ、自分、こう思ってます」
宇佐美が後ろを振り向いた。
ハル,「あなたはノリコ先生を教室までおびき出したんです。そのすきにエテ吉さんが職員室に忍び込んで、鍵を盗んだんです」
正解だが……。
京介,「ふう……困ったな」
おれは余裕の笑みを浮かべる。
京介,「そこまで言うんなら、なにか証拠でもあるんだろうな?」
宇佐美が押し黙る。
京介,「おい、どうした? 推理ごっこもそのへんにしておけよ」
直後、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
その音に弾かれるように、宇佐美が不意に立ち上がった。
ハル,「証拠すか……」
クラス中の視線が、宇佐美に集まる。
宇佐美の顔は、少女とは思えないほど凛々しく、覇気に満ち溢れていた。
ハル,「もちろん、ある」
栄一,「えっ?」
椿姫,「なに?」
ハル,「昨日の夜、エテ吉さんが、職員室にいたという証拠が」
京介,「な、に……?」
まさか栄一が、夜の校舎を徘徊している姿をうっかり誰かに目撃されたのか?
……いや、いくら宇佐美がかぎまわっていたのだとしても、さっきの休み時間だけで目撃者を探し当てられるとは思えない。
……では、なんだ?
ハル,「エテ吉さん」
栄一,「え? え? ぼ、ボク、なにも知らないよ!?」
ハル,「ちょっといいすかね?」
栄一,「あ、お、お腹が! うああ、持病の盲腸がっ、あああっ!」
猿芝居が始まる。
椿姫,「え、栄一くん! だいじょうぶっ!?」
騙されるのは椿姫だけ。
花音,「なになにどうしたのー?」
水羽,「…………」
花音だけじゃなく、白鳥まで騒ぎを遠巻きに見ている。
栄一,「い、いたいいたいっ、痛くて、ボク、なにもしゃべれないよー!」
ハル,「…………」
宇佐美は、栄一にはかまわず、栄一の机のなかを漁り始めた。
京介,「おい、なにをして……?」
ハル,「ありました」
宇佐美が掲げたもの。
それは、さっき返してもらった数学のテストの答案用紙だった。
ハル,「これが、証拠です」
おれは目を凝らして栄一の答案を調べる。
そして、背筋に戦慄が走るのを自覚した。
ハル,「気づきましたか?」
なんてことだ……。
ハル,「やはり、浅井さんは聡明すね」
なぜ、さっき気づかなかったのか!
ハル,「エテ吉さん、この問題、本当は間違えていたんでしょう?」
栄一,「え、えっ? どういうこと?」
花音,「うさみん、そこは、採点ミスだったんじゃないの?」
ハル,「違う」
きっぱりと言い切った。
ハル,「これは、本当に間違っていた。エテ吉さんが、正解に書き直したんだ」
花音,「答案を返してもらったときに、答えをずるして直したっていうの?」
椿姫,「そ、そんなことしないよ、ねえ、栄一くん?」
栄一,「し、してないよ!」
そのとき、意外な声が上がった。
水羽,「してないわ。私、見てたもの」
言いながら、おれに視線を投げる。
白鳥は、栄一の右、おれより三つ離れた席に座っている。
栄一を見てたというより、栄一の隣の席のおれを見ていたと言いたいのか?
水羽,「相沢くんが、へんなそぶりを見せていないことは確かよ」
けれど、宇佐美は首を振る。
ハル,「誰も、さっき書き直したとは言ってません」
水羽,「え?」
花音,「じゃあ、いつー?」
……ダメだ。
ハル,「昨日の夜九時過ぎ」
……この窮地。
ハル,「誰もいない職員室で」
……何か、策は?
ハル,「この答案をよく見てください。答えが直された箇所だけ、文字が崩れていませんか?」
花音,「あ、ホントだ。小さな穴も開いてるね」
椿姫,「で、でも、それが、なんなのかな? それでどうして栄一くんが昨日の夜に職員室にいたことになるの?」
宇佐美がうなずいた。
ハル,「知っての通り、テストというものは、必ず自分の机で答えを記入します。床や他人の机では書けません」
ハル,「けれど、エテ吉さんの机は、傷ひとつありません。綺麗なもんです」
ハル,「ならどうして、こんなに文字がぶれたり、紙が破れて穴が開いたりしているのか? おかしいと思ったんです」
ハル,「この答案は、別の場所、別の机か床で書かれたのではないかと」
ハル,「……どこで、書かれたのか?」
おれは、つい二日前のことを思い出す。
;背景 職員室 昼 セピア調
;// 上のほうのチャイム鳴ってたら流石にここで止めよう
……。
京介,「わかりましたよ……やれやれ……」
鉛筆を握り問題に向かう。
京介,「ええと……ここがこうだから……」
数学教師,「浅井なら簡単だろう?」
おれの挙動を探るようにじっと見つめてくる。
京介,「そんな見ないでくださいよ……って、あっ!」
数学教師,「なんだ?」
鉛筆の芯が折れた。
京介,「なんだ、じゃないですよ、先生。この机ちょっとデコボコしすぎじゃないですかね?」
よく見れば、小さな穴がたくさん開いていたり、カッターでつけたような傷が無数にあったりした。
数学教師,「教師の机ってのは、使い込むもんなんだよ」
京介,「……んな熱血漢みたいなキャラ作んないでくださいよ。文字がぶれて、おまけに紙に穴まで開いちゃったじゃないすかー」
…………。
……。
;背景 教室 昼
ハル,「答えは、職員室の数学教師の机にありました」
くそ、栄一め……。
職員室でよけいなことをするなと言ったのに!
無駄だと思うが、聞いてみるか。
京介,「昨日の晩とは限らないだろう? おとといかもしれないし、日中にこっそり職員室に忍び込んで答えを書き直しておいたのかもしれない」
ハル,「あの熱血教師に聞きました。テストの採点は、昨日の夜八時くらいに終わったんだそうです」
ハル,「つまり、エテ吉さんが、自分の答案の得点を見ることができたのは、そのあとなんです」
自分の答えが間違っていると気づけなければ、正解に書き直すことは不可能だ。
椿姫,「で、でもでも、栄一くんが、職員室にいたっていうのは、たしかなことなのかもしれないけど、その場で鍵を盗んだとは限らないんじゃ……?」
栄一,「そ、そうだよ、ボクはやってない、それでもボクはやってないよ!」
ハル,「苦しすぎると思いませんか? 犯行時刻に、あなた以外の誰も職員室にいなかったんすよ? 鍵を盗めたのはあなたしかいないんです」
……終わりだ。
栄一,「ぐ、うぅうう……!」
栄一が、救いを求めるまなざしを向けてくる
京介,「……当然、おれも怪しまれるわけだな?」
ハル,「はい。エテ吉さんが職員室に忍び込んだ正確な時間は、ノリコ先生がエテ吉さんの姿を見ていない以上、浅井さんがノリコ先生をおびきだしていたときしか考えられません」
さすがというしかない。
栄一,「き、京介、おいっ!?」
京介,「お前の頭の程度を考えに入れておかなかったおれの負けだ」
おれはため息をついて首を振った。
栄一,「京介ぇえっ!」
栄一の怨嗟の声がざわめきだったクラスに響き渡る。
栄一,「ふざけんなこの野郎! オメーを信じてたのによー!」
京介,「うっさいわボケー! お前が全部悪いんじゃねえか!」
取っ組み合いが始まった。
栄一,「お前なんか神じゃない、クズだー!」
京介,「誰がクズかー!?」
花音,「に、兄さんっ!?」
椿姫,「ちょ、ちょっと、ケンカは……」
ハル,「醜い仲間割れが始まりましたね」
花音,「そ、そんな、兄さんが悪者だったなんて……」
水羽,「…………」
椿姫,「せ、先生呼んでくるねっ……!」
走り去る椿姫、唖然とする花音。
おれと栄一の乱闘はいつまでも続いた。
水羽,「宇佐美さん、あなたって、実は賢いのね?」
ハル,「…………」
水羽,「どうしたの? 赤くなってるわよ?」
ハル,「いや、こういうとき、証明終了、とか言うと、かっこいいんじゃないかと思ってます……」
…………。
……。
;背景 学園校門 夜
その後、おれと栄一は職員室に呼び出された。
栄一,「あー、教頭にこってり絞られたなー」
椿姫と花音は、おれたちが説教をくらっている間、待っていてくれたようだ。
椿姫,「停学にならなかっただけよかったね」
京介,「ふん、おれの普段の素行の良さのたまものだ」
花音,「反省しなきゃだめだぞー?」
京介,「お前もだ。お前がおれのCDをいじらなければ、こんなことにはならなかったんだ」
花音,「もう、兄さんは根に持つ人だなー」
京介,「うるさい、とっととスケートの練習に行けっ」
花音,「はいはい、また来週ねーっ」
椿姫,「わたしも帰るねっ」
足早に去っていく二人だった。
栄一,「けっ」
京介,「ったく」
栄一,「あばよっ」
京介,「おう」
しゃくれ顔で帰っていく栄一だった。
さて……明日は土曜か。
飲み屋や風俗が繁盛する週末は、浅井興業でもなにかとトラブルが起きる。
さっさと帰って、仕事の整理でもするか。
;背景 自室 夜 明かりあり
京介,「冗談じゃありませんよ」
通話しながら制服を脱いで、私服に着替える。
京介,「南区の屋敷と土地があるだろうが。奇跡みたいに抵当のひとつもついていない。借金まみれのあんたにしてはおかしな話じゃないか?」
ゲスな経営者は、たとえ自分の会社が火の車になろうとも、私財にだけは手をつけない。
京介,「おい、遊んでるんじゃないんだ」
電話の向こうから悲痛な声が返ってくる。
いまはやめてくれと。
娘の結婚式なのだと。
まるで鬼だと、おれを罵る。
おれは何も感じず、口だけを動かす。
京介,「娘の幸せをいい気分で祝えないのは、おれのせいか?」
相手は、ただ、うめく。
おれは興味を失い、事務的に最後通告を押しつけた。
長電話を終え、書斎に入る。
パソコンを起動して、いくつかのニュースや、妙な値動きをしている株の銘柄をチェックする。
とくにおかしなことはないな……。
うちの学園の資本元である白鳥建設の株価も安定している。
メールのチェックも終わったし、今日はバッハでも聞いて早めに寝るとするか……。
京介,「うん?」
一通の見慣れないメールがあった。
スパムメールだろうか?
こういうメールは、内容を確認せずに削除するのが基本だった。
けれど、件名が心に引っかかった。
『The Devil』。
悪魔……いや、魔王か。
京介,「魔王からの手紙か、面白そうだ……」
マウスを操作してメールの内容を確認してみる。
;全画面表示で
『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』
;もとに戻す
……なんだ?
たった一行のわけのわからない文。
まあ、わけがわからないからこそ迷惑メールなんだ。
おれはメールソフトを閉じて、背すじを伸ばす。
バッハのCDを手にとって、ケースを開封する。
京介,「…………」
プラスチックのケースにかかった指が止まる。
……魔王?
シューベルトの『魔王』、か?
たしかに、『魔王』の和訳された詩には、さっきの一文と同じ意味の箇所がある。
不意に、軽い頭痛を覚えた。
;背景 繁華街1 セピア調
ハル,「"魔王"、知らないか?」
;背景 主人公自室
……偶然か?
ただの迷惑メールにしては、ちょっとタイミングが面白いな。
今度宇佐美に会ったら、話の種にでもしてやるか。
;SE携帯電話
ん……電話だ。
;// 携帯電話止め
京介,「はい、もしもし」
特に相手の番号を確認しなかった。
京介,「もしもし?」
返事がない。
京介,「……誰だ?」
低い声で聞いた。
椿姫,「あ、浅井くんだよね?」
京介,「椿姫か……びっくりさせるなよ」
椿姫,「びっくりしたのはこっちだよ」
京介,「はあ?」
椿姫,「浅井くんって、ぜんぜん声色が違うときがあるよね?」
京介,「そうか?」
自分で意識したことがない。
椿姫,「うんうん、この前、浅井くんのおうちに行ったときも、そうだったよ」
京介,「自分の声は、自分じゃよくわからん」
椿姫,「別人みたいだよ。ちょっと怖かった」
京介,「まあいいや。どうしておれの携帯電話の番号を知ってる?」
椿姫,「えっ? この前教えてくれたじゃない?」
……そういえばそうだったな。
京介,「悪い悪い。忘れてた」
椿姫,「もう、ホント忘れっぽいんだから……」
京介,「そんなことより、どうかしたのか?」
時計を見ると、すでに深夜の二時を回っていた。
椿姫,「ううん、今日は大変だったね」
京介,「今日?」
椿姫,「体育用具室の鍵……」
京介,「ああ……教頭先生にたっぷりとお灸をすえられたな」
椿姫,「花音ちゃんのこと、まだ怒ってる?」
京介,「いや、もうぜんぜん。あれはただのお遊びだよ」
ほっとしたようなため息が返ってきた。
椿姫,「そっか。よかった。心配してたんだよ」
京介,「なんだよ、そんなことで電話してきたのか?」
椿姫,「花音ちゃんもね、ちょっぴり反省してるって言ってたよ」
京介,「へえ……あのわがままで能天気な花音が、人に頭を下げるなんて珍しいな」
椿姫,「きっと浅井くんだからだよ」
くすくすと笑った。
京介,「で、なんの用なんだ?」
椿姫,「え?」
京介,「ん?」
椿姫,「いや、用事なんてないよ」
京介,「本当か?」
椿姫,「どうして?」
京介,「あ、いや……」
そうか……椿姫はただ、おれが心配だっただけか。
しかし、椿姫はおれを心配して、いったいどんな利益を得ようとしているのか。
おれの好感を得て、椿姫のなにが満足するというのか。
利害関係なしで人間は動かない。
椿姫,「浅井くん?」
京介,「いや、すまん。ちょっと寝てた」
椿姫,「もうっ、ひどいよぉ……日記にメモしとこ」
京介,「はは……」
妥当な推測としては、椿姫がおれに友人以上の感情を抱いているという線だ。
最近になっておれのことを知りたがるようになった説明もそれでつく。
しかし、それはただのうぬぼれかもしれないし、なんにせよ金にならない女に興味はない。
寝よう。
明日は朝一で、権三と会食だ。
京介,「わかった。わざわざありがとな」
椿姫,「ううん、浅井くんと電話できてうれしかったよ」
本当に、うれしそう。
京介,「…………」
椿姫,「どうしたの? 眠い?」
京介,「いや……」
……いるわけがない。
京介,「お休み。また今度、遊ぼうな」
椿姫の返事を待たずに、通話をきった。
;背景 主人公自室
月あたり六十五万の賃貸マンション。
十八階からの眺望は素晴らしく、富万別市の全景がうかがえる。
浅井権三の庇護のもと、分不相応の大金を手に入れた。
鼻につく小僧との陰口は、いつの間にか、鬼子という評価に落ち着いた。
京介,「いるわけがない……」
もし、神のように善良な人間がいるというのならば、なぜ助けてくれなかったのか。
あのとき、なぜ手を差し伸べてくれなかったのか。
一枚の写真を手に取った。
収納の奥深くに、誰の目にも触れられぬよう隠している。
額縁にもいれず、ぞんざいに扱っていた一枚の古ぼけた写真。
若い、母の姿。
おれが、撮ってあげたのだ。
京介,「…………」
写真を眺めながら携帯電話を操作する。
おれは膝を折り、恐縮する思いで通話がつながるのを待った。
十回目のコールのあと……。
京介,「もしもし、お母さん?」
母は、相変わらずだった。
京介,「うんっ、がんばってるよ。はは、心配しないで……」
母は、矢継ぎ早に話しかけてくる。
京介,「あー、そうそう。仕送り、届いたよ」
京介,「うん、五万も入ってた。ありがとうね」
京介,「……そうだね、冬服とか買うよ。でも、あんまり気を使わないでくれよ」
京介,「彼女? 彼女はいないけど……まあ、友達はけっこういるよ」
京介,「そっちはもう雪かな?」
京介,「そっか、こっちも、そろそろ降るんじゃないかな」
母は、急におとなしくなって、おれの声に耳を傾けている様子だった。
京介,「……それじゃ、元気でね。また連絡するよ」
;背景 主人公自室 夜
通話を終えて、おれは部屋の隅にある小型の金庫に近づいた。
暗証番号を入力し、鉄製の扉を開く。
一万円札の束が、おれを出迎える。
ざっと五千万はあるだろうか。
税金を抜けたあとの金額として、個人が自由に使える額としてはそれなりのものだ。
これを渡せる機会があるのだろうか。
真面目に働いて稼いだお金として、受け取ってもらえるだろうか。
息子の出世を喜ぶ姿が見られるのだろうか。
京介,「……お母さん……」
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;権三宅 居間
京介,「……見つからない?」
浅井権三,「おう」
朝の権三はいつも不機嫌そうだ。
肉食獣のような巨躯を持て余すように、気だるげに身を起こす。
京介,「例のイベサー……たしか幹部は六人いるという話でしたが?」
浅井権三,「全員捕まえた」
京介,「それで?」
浅井権三,「覚せい剤の仕事は、トップが完全に仕切っているらしい」
権三は、どういうわけか、おれの前でいわゆるヤクザの言葉遣いをしない。
よく組のことをカイシャ、ハジキのことを拳銃、デコスケのことを刑事と言う。
浅井権三,「幹部六人、誰もトップの人間のことは知らんという」
京介,「おかしな話ですね」
しかし、浅井権三の尋問を受けて口を割らない人間がこの世にいるとは思えない。
京介,「では、彼ら幹部たちは、どうやってそのトップから指示を受けているんでしょうか?」
浅井権三,「メールが届くらしい」
京介,「メール……?」
権三は軽くうなずいた。
浅井権三,「調べさせたところ、海外の転送サービスを間に幾重にもかませたフリーメールらしい」
京介,「それは……なかなか用意周到ですね」
警察の力でも借りない限り、トップの身元を割り出すのは難しそうだ。
京介,「何者なんですかね、そのトップは?」
浅井権三,「“魔王”、と呼ばれているらしい」
京介,「え?」
浅井権三,「魔王、だ」
また、魔王、か……。
浅井権三,「心当たりがあるな?」
権三は、おれのわずかな心境の変化も見逃さない。
京介,「実は、昨晩、僕の仕事用の電子メールアドレスに“The Devil”という人間から、わけのわからないメールが届きました」
浅井権三,「なにが、どう、わけがわからないんだ?」
京介,「内容が、ただ『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』とそれだけで……」
浅井権三,「その文面、お前はどう解釈する?」
権三は、必ずといっていいほど与えられた情報についての解釈や見解を聞きたがる。
こうやって、自分で物事を考える習性をつけさせるのだ。
京介,「ご存知でしょうが、『魔王』というクラシックの名曲があります」
京介,「さっきの一文は、その詩からの引用ではないかと思っています」
浅井権三,「それで?」
京介,「それ以上は、見当がつきませんが……」
京介,「詩の内容は、親子が馬に乗って道を急いでいるところに魔王が現れて、子供をさらっていくというものなのですが……」
京介,「その魔王と呼ばれるトップが、子供を使って覚せい剤を回していたというあたり、きなくさいものを感じますね」
そこで、権三が薄く笑った。
浅井権三,「親子というのは、俺とお前のことか?」
京介,「…………」
浅井権三,「すると、お前は死ぬことになるな」
詩によれば、さらわれた子供は魔王に魂を奪われて死んでしまう……。
浅井権三,「だが、さらわれた子供はその後、悪魔の娘と結ばれて魔界で暮らすという説もあったな」
どっちにしろ、ごめんこうむりたい話だ。
浅井権三,「いずれにせよ、捕まえねばならんな」
京介,「そうですね。イベサーなんて、しょせんは捨て駒でしょう。黒幕を探し出さなけれ……っ」
思わず閉口した。
浅井権三,「……クク」
なにやら愉快そう。
自分の縄張りを荒らされるという大失態。
権三にとっては、総和連合における地位にも影響する。
面子を潰されて、怒り狂っているのだと思っていた。
浅井権三,「京介……」
京介,「は、はい……?」
浅井権三,「俺が世間からなんと言われているか知っているな?」
京介,「ええ……」
浅井権三,「言ってみろ」
徹底した利己主義と、際限なき暴力の追求によって弱者を食いつぶす……。
京介,「獣の王、と」
実際、浅井権三が園山組の四代目を襲名してから、総和連合は一気に勢力を拡大した。
台湾や中国のマフィアを退け、関西の組織を歓楽街から駆逐した。
浅井権三,「いいか、京介……」
浅井権三,「この世には、二種類の生き物しかいない」
京介,「…………」
浅井権三,「人間と、家畜だ」
何度も教えられた。
金を使うのが、人間。
金に使われるのが、家畜だ。
浅井権三,「魔王がガキという家畜を使って金を稼いだというのであれば、魔王は人間だ」
猛禽類のような目。
浅井権三,「人間を食うのは楽しみだ……」
魔王は、権三にとって、実に歯ごたえのありそうな獲物らしい。
京介,「わかりました。僕も魔王についてアンテナを張り巡らせておくとします」
退席したい気分のおれを、権三は引き止める。
浅井権三,「ヤツは案外近くにいるぞ」
京介,「なぜです?」
野生の勘か?
浅井権三,「メールが届いたのだろう?」
京介,「そうですね……」
浅井権三,「魔王は少なくとも、お前のメールアドレスを知っている」
京介,「たしかに、僕のメールアドレスを知っているのは、組の幹部や取引先など、浅井興業の関係者のみですね」
もちろん、無作為にばら撒かれたただの迷惑メールという線もないではないが……。
……魔王はどうやら、おれに近しい人物のようだな。
浅井権三,「あるいは、京介こそが、魔王か?」
京介,「ご冗談を……」
けれど、権三は、あてずっぽうのような軽い冗談を言う男ではない。
浅井権三,「話によれば、見事にうちの流通の穴をついて、上質の覚せい剤を回されていたらしい」
浅井権三,「内部犯を疑うほど、組の情報が漏れていたらしい」
京介,「待ってください。僕は、裏の仕事についてはノータッチですよ」
浅井権三,「だが、その気になれば調べられるだろう。お前がいつも使っている情報屋は、裏の仕事にも手を貸している」
京介,「困りましたね。息子の僕があなたを裏切るとでも……?」
言い切って、己のうかつさに虫唾が走った。
浅井権三,「軽く一億は稼いだか?」
権三は、利害関係でしか人を信用しない。
浅井権三,「いいぞ京介。嘘は大きければ大きいほどいい」
親子の関係など、なんの意味があるというのか。
京介,「申し訳ありませんでした」
悪寒を覚えた。
京介,「急ぎ、魔王を見つけ出します」
権三は、おれを疑うことで、おれという家畜の尻を叩いているのだ。
急がなければ……。
人間の役に立たない家畜の運命など、決まっている。
おれの切迫した顔に満足したのか、権三は深くうなずいた。
浅井権三,「頼んだぞ、息子よ」
分を知った家畜。
獣の王にとって、おれは、その程度の生き物でしかない。
;背景 繁華街昼 1
……。
…………。
権三の屋敷からの帰り道。
おれは頭を回しながら、雑踏を歩いていた。
京介,「とはいえ……」
魔王の手がかりといえば、昨日に届いた一通のメールぐらいのもの。
浅井興業の関係者を洗うといっても、取引先やその関連企業、さらにその末端の従業員まで含めると、その数は相当なものだ。
徐々に探りを入れてみるとしても、いますぐに魔王を割り出すのは不可能だろうな。
権三の血に沸いた目を思い出す。
……急がなければ、おれも危うい。
京介,「…………」
ぼんやりと商店街を見渡す。
カップルや親子連れの姿が目立つ。
手をつないで笑いあう男女、はしゃぐ子供とそれをたしなめる母親。
誰もが楽しげに休日を過ごしている。
だが、おれにはどれもこれもくだらない景色に見える。
京介,「……む?」
そのとき、やけにでかい着ぐるみが目についた。
どうやら化粧品店のセールらしい。
大変なアルバイトに違いない。
しげしげと眺める。
;--------------------------------这是分界线---------------------------------------------------
ペンギン,「…………」
ペンギンだった。
最近よく宣伝されている、化粧水やヘアスプレー用にデザインされたキャラクターだ。
ペンギン,「…………」
しかし、まったく動かない。
愛嬌もない。
ただまったりと、道にたたずんでいる。
ペンギン,「……ふわぁ……」
中からあくびが聞こえる。
ペンギン,「あったかいなぁ……」
ぜんぜん仕事をしない。
ペンギン,「しあわせぇ……」
ふてぶてしいペンギンだな。
子供1,「おい、あれ見てみろよ!」
子供2,「あ、ペンギンだ!」
不意に、子供たちが集まってきた。
ペンギン,「わ、わわわっ……!」
子供1,「おい、脱げよ!」
取り囲まれたペンギン。
ペンギン,「う、わわわ、や、やめてぇ……」
子供2,「脱げよ脱げよ! 出てこいよ!」
子供1,「どうせ中身入ってんだろー?」
ぐっちゃにされている。
ペンギン,「い、いたた、ひ、ひっぱらないで……」
子供1,「おらおらーっ! 偽物ペンギンなんだろー!?」
ペンギン,「あ、わわわっ、や、やめて、やめてっ」
子供2,「出てこいよ、出てこいよー!」
子供たちは容赦なく着ぐるみをはいでいく。
ペンギン,「は、はわわっ、や、破れちゃう、破れちゃうっ!」
子供1,「あははは、もうちょっとだー!」
ペンギン,「や、やめてよっ! こ、コレ、徹夜で作ったの! い、いやあっ!」
子供2,「わははっ、ペンギンがなんか言ってるぜー!」
ペンギン,「やめてやめてやめてーっ!」
びりびりびりぃっ!
;黒画面
ハル,「あ……」
京介,「お……?」
あれは……。
ハル,「ぐ……」
ハル,「うぅぅ……四畳半の部屋で、寂しい気持ちになりながらミシンで縫ったのに……」
ハル,「が、がきんちょどもがぁ……」
子供1,「うわわ、お化け!」
子供2,「髪、超なげー!」
ハル,「き、きさまらー!」
ハル,「絶対に許さんぞー!」
子供1,「わー!」
ハル,「がおー!!!」
……あれは、宇佐美だ。
子供2,「逃げろー!」
ハル,「待てーっ!」
クモの子を散らしたように逃げる子供たち。
ハル,「二度と生き返らぬよう、はらわたを食い尽くしてくれるわー!」
鬼の形相で追いかけるペンギン。
着ぐるみのくせに、かなり速い。
京介,「ていうか、なんなんだ……?」
唖然としていると、宇佐美と子供たちはあさっての方向に走り去っていった。
…………。
……。
;背景 繁華街1 夕方
一時間ほどして日が傾いてきたころに、宇佐美が戻ってきた。
ハル,「……くそぅ、がきどもがぁ。こっちがペンギンだと思ってなめやがってぇ!」
京介,「おい……」
ハル,「うぅ……かなりの力作だったのに……」
ぼろぼろになったペンギンの着ぐるみを抱きすくめる。
京介,「おい、宇佐美」
ハル,「……ん?」
ようやくおれに気づいたようだ。
ハル,「浅井さんじゃないすか」
京介,「これがお前のバイトか?」
ハル,「時給700円です。恥ずかしいところ見られちゃいましたね」
言葉とは裏腹に、なにも恥ずかしそうではない。
京介,「商店街で着ぐるみ着てバイトとはね……学園の許可は得ているのか?」
ハル,「ええ、まあ。自分、わけありなんで」
京介,「わけあり?」
ハル,「アルバイトしないと、おそらく餓死しちゃうんすよ」
京介,「……金がないのか?」
一人暮らしなんだろうか……。
ハル,「金がないわけではないんですが、今晩の夕食おごってもらえませんかね?」
京介,「は?」
ハル,「すいません、唐突で」
京介,「なんでおれがお前に飯をおごらなきゃならんのだ?」
ハル,「浅井さんって、リッチで評判らしいじゃないすか」
京介,「評判?」
ハル,「椿姫に聞きました。ボンボンだそうですね」
京介,「ケチでも評判だぞ」
ハル,「しかし、あなたはわたしに用事がある。違いますか?」
京介,「なぜそう思うんだ?」
ハル,「あてずっぽうですよ」
宇佐美はまた言葉とは裏腹に、確信めいた口調で話す。
ハル,「お金を大切にする方は、たいてい時間にもうるさいです」
ハル,「現にあなたは、いつも電話をしながら昼食をとり、学園が終わればすぐに帰宅します」
ハル,「そんなあなたですが、わたしががきんちょどもを追いかけ回している間、ずっとここで待っていた」
たしかに、一時間ほど、ここで、ぼうっとしていたな。
ハル,「ただ、見てのとおりいまはバイト中なんですよ。六時になったら終わりますんで」
京介,「……なるほど。それで夕食に誘ってきたのか」
ハル,「察しが良くて助かります」
おれは、宇佐美に相談したかったのかもしれないな。
魔王について……。
京介,「まあ、いいだろう。昨日はお前に負けたわけだし、飯でも食わせてやるか」
ハル,「鍵を盗んだ件ですか。あれは、お遊びだったんでしょう?」
京介,「ああ……少し手の込んだ遊びだったが、本気じゃない」
ハル,「ですよね……」
宇佐美は神妙にうなずいた。
ハル,「あの程度なら、振り上げた拳の下ろしどころがわからないっすよ」
京介,「なにを言ってるんだ?」
ハル,「いえいえ……それでは、自分、バイトに戻りますんで」
京介,「…………」
宇佐美はすごすごと店の中に消えていった。
本当に妙な女だ。
だが、宇佐美もおれと同じく魔王を探している。
奇妙なつきあいが始まりそうだった。
;背景 喫茶店 夜
ハル,「しかし、なんかレアっすね」
京介,「なにがだ?」
ハル,「浅井さんがわたしを、人を頼るなんて」
六時が過ぎて、おれは宇佐美を連れて喫茶『ラピスラズリ』に入った。
この店は、夜になると、フードダイニングに切り替わる。
京介,「誰も、お前を頼っているわけじゃない」
ハル,「しかし、レアな組み合わせです」
京介,「おれとお前が、か?」
ハル,「カップルのように見られたらどうしようかと思っています」
京介,「……うざったいヤツだな」
ハル,「わかってますよ。あなたがわたしを嫌ってるってことくらい」
;--------------------------------这是蛋疼的选择支,记得添加变量------------------------------
;選択肢
;嫌ってる
;嫌いでもない
;--------------------------------这是蛋疼的选择支,记得添加变量------------------------------
@exlink txt="嫌ってる" target="*select1_1"
@exlink txt="嫌いでもない" target="*select1_2" exp="f.flag_haru+=1"
嫌ってる
嫌いでもない
;嫌ってるを選んだ場合//////////////////
京介,「……よくわかってるじゃないか」
すると宇佐美は珍しく目線を逸らした。
ハル,「そすか」
ハル,「やっぱりそすか」
なにかを噛みしめるようにうなずいた。
;嫌いでもない////////////////////////////
京介,「嫌いというか、興味がない」
ハル,「…………」
京介,「おれは、誰に対してもそうだ」
……なにを言ってるんだ、おれは?
本音を吐露していいような相手ではないのに。
なぜか、口が滑ってしまった。
ハル,「そすか」
宇佐美の目に哀れみにも似た光が宿っていた。
京介,「ところで、休みの日なのにお前はどうして制服なんだ?」
ハル,「かわいい制服ですし、ていうかあんま服持ってないんで、ていうか、そんな話がしたいわけじゃないでしょう?」
……もっともだ。
京介,「魔王のことだ」
おれは切り出した。
ハル,「きましたね……」
宇佐美の顔がやや強張る。
京介,「お前は魔王を探しているんだったな?」
ハル,「浅井さんもですか?」
京介,「ああ……」
ハル,「どうしてまた急に?」
京介,「…………」
宇佐美に、どこまで事情を話していいものか。
浅井興業のことは伏せておくとして……。
京介,「昨日の晩かな、いきなりメールが届いたんだ」
ハル,「魔王から? どんな?」
京介,「魔王かどうかはわからん。ひらがなで『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』と、それだけだった」
ハル,「間違いない。魔王です」
京介,「やけに確信めいているな?」
ハル,「それでどうして、浅井さんは魔王を探し出そうと思ったんですか?」
……人の話を聞かないヤツだな。
ハル,「それだけだったら、ただのいたずらだと思うのが普通でしょう?」
京介,「おれがパパの仕事を手伝ってる話は、椿姫から聞いたか?」
ハル,「お父さんの仕事に魔王がからんできたんですか?」
京介,「そういうことだ。パパを助けてあげたいんだよ」
ハル,「お父さんはどんなお仕事を?」
突っ込んでくるな……。
京介,「それは言いたくないな」
ハル,「なるほど。それは言いたくない、すか。いただきました」
なにをいただいたんだよ……?
京介,「お前はどうして魔王を探してるんだ?」
ハル,「因縁があるんですよ」
京介,「因縁? どんな?」
ハル,「それは言いたくない」
ち……。
京介,「質問を変えよう。お前はなにか手がかりでもつかんでいるのか?」
ハル,「手がかりすか」
宇佐美は目を細めた。
ハル,「魔王は日本人、もしくは日本語に精通し、日本の音楽教育を受けたことのある人間です」
京介,「ほう……それはそうかもしれないな」
ハル,「『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』とは、ゲーテの詩を思いっきり日本人が教科書で習うような翻訳のしかたです」
ハル,「さらに、外国人は日本語に漢字を用いることを知っています」
ハル,「面白い、遊び……これは、外国人でも変換できる簡単な漢字です」
ハル,「それをあえて、ひらがなで表現してくるあたり、不気味さを演出するための愉快犯的な思考がうかがえます」
……こいつ、たった一行の文でそこまで頭を巡らせたのか。
ハル,「そして、魔王は、少なくともあなたのメールアドレスを知っている人物です」
京介,「ああ。だが、それだけじゃ特定できんな」
ハル,「なかなか友人が多いみたいですね」
京介,「おれのことはせんさくするな。お前はどうなんだ?」
ハル,「自分、すか?」
京介,「妙な時期に学園に編入してきたのも、まさか魔王を探すためか?」
ハル,「あたりですが……」
京介,「なんだ?」
ハル,「なにか注文していいすかね?」
京介,「あ? ああ……」
そういえば、水しか来てない。
ハル,「じゃあ自分、焼き魚定食で」
京介,「ねえよ。店の雰囲気的にあるわけねえだろ」
ハル,「いや、こんな高そうな店は慣れてなくて、メニューとかなに書いてあるのかわかんないんすよ」
京介,「意外とかわいいところあるんだな」
ハル,「すいません、きもかわいくて」
やっぱり、かわいくないな。
ハル,「メニューの後ろに定食ってつかないと安心しないんすよねぇ……」
ぼんやりとメニュー表を眺める宇佐美は、年相応の少女の顔をしていた。
京介,「てきとうに頼んでやるよ。嫌いなものはあるか?」
ハル,「トマト……とかいうと、かわいいんじゃないかと思ってます」
京介,「…………」
おれは宇佐美を無視して、ざっくばらんに注文した。
ハル,「浅井さんのおっしゃるとおり、自分がこの富万別市にやってきたのは、魔王を追ってきたからです」
京介,「追ってきた? ずっと探していたってことか?」
ハル,「はい。そりゃもう、何年も探していますよ」
京介,「見つけられなかったのか?」
ハル,「残念ながら。ただ最近になって、魔王の犯罪の特徴がつかめるようになってきました」
そのとき、グラスにオレンジジュースが注がれた。
宇佐美は、それをついばむようにちびちびとすすっている。
京介,「気持ち悪い飲み方だな」
ハル,「すいません、ペンギンみたいで」
ペンギンみたいではない。
ハル,「魔王はですね、必ず子供を使うんです」
京介,「…………」
ハル,「先月末に、この町で、少年窃盗団が逮捕された事件はご存知ですか?」
京介,「いや、知らない」
ハル,「おや? 情報通の浅井さんにしては、ニュースも見てないんですか? ワイドショーでもうるさくやってたくらいっすよ」
京介,「いや……知らんな」
新聞は二誌に目を通しているし、暇があれば携帯電話でニュースをチェックしているのにな……。
ハル,「まあいいです。簡単にいうと、五人組のグループが消費者金融の金庫を襲撃したんですよ」
ハル,「それもただの一件じゃなくて、三ヶ月で約十店舗。被害総額は五千万にも及ぶそうです」
ハル,「どうして世間を賑わせたかというと、少年たちがいわゆる悪徳金融と呼ばれる闇金しか狙わなかったからです。まあ、義賊をきどってたわけですね」
京介,「…………」
ハル,「手口は実に鮮やかだったそうですよ。アメリカのギャングが強盗に用いる手段で、五人とも統制の取れた動きで盗みに入ったそうです」
京介,「どうして捕まったんだ?」
ハル,「どうも、金を巡って仲間内でもめたらしいですね」
なにか、胸にざわつきを覚える。
京介,「つまり、こういうことか」
京介,「魔王というブレーンが、少年たちに知恵を授けて実行犯に仕立て上げたと」
それは、つまり、今回のイベサーの一件と同じだ。
それは、つまり、浅井興業のブレーンであるおれが、人をアゴで使ってカイシャを動かすのに似ている。
ハル,「魔王は、子供こそ、最大の手駒だと思っているんです」
ハル,「世間慣れしてなくて、純真な心を持つ子供たちなら、たやすく悪の道に引きずり込むことができます」
まるで、浅井権三がおれを作り上げたよう。
京介,「しかし、そんなニュースの情報だけでわざわざ転入してきたのか?」
ハル,「はい。手がかりがあれば、必ずわたしも追いかけます」
京介,「すごい執念だな」
ハル,「おかげで引越し代がかさんでいますよ」
宇佐美は口元を吊り上げる。
ハル,「しかし、今回は確信しています」
京介,「うん?」
ハル,「今度こそ、魔王と対峙できます」
京介,「……なぜだ?」
ハル,「追ってきた先に、あなたがいたからですよ」
;SE 心臓の音
また瞳の奥を覗き込むように見つめてくる。
京介,「おれ……?」
;SE 心臓の音
また、心臓がうめく。
宇佐美はまた気持ち悪い動きでジュースをすする。
そして言った。
ハル,「キミは勇者になるんだね……」
京介,「……だったら……僕は……」
ハル,「…………」
京介,「…………」
記憶が混雑するような、不快感があった。
京介,「宇佐美、すまんが……」
おれは一万円札を二枚、テーブルに置いた。
京介,「気分が悪い。先に帰らせてもらう」
ハル,「そすか」
京介,「つり銭は今度必ず返してくれ」
立ち上がり、ため息をついた。
京介,「また、なにかわかったら、連絡してくれ」
ハル,「はい。いっしょに魔王を探しましょう」
振り返ることなく、店を出た。
;黒画面
ハル,「京介くん……」
;背景 繁華街2 夜
;ノベル表示
外は風だった。月明かりを、そびえ立つ高層ビルの大群がさえぎっている。意識がはっきりと覚醒しない。"魔王"はそれまで夢遊病者のような足取りで、都会の夜を行く当てもなくさまよっていた。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「宇佐美、ハル……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
ぼそりと、その名をつぶやいた。記憶の海に漂う、一人の少女。それこそ勇者のような凛々しさをもっていた。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「思い出した……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
頭は妙にすっきりとして、背筋を中心に自信がみなぎっていく。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「そうか、宇佐美の娘か、そうか……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
ぼんやりとした過去の景色が徐々に線を結んでいく。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「必死に、私を探しているのだろうな……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
宇佐美だけではない。浅井権三とその組織の獣たちも、怒りをあらわにして"魔王"を探し始めているだろう。場合によっては計画を変更する必要があるかもしれない。計画はまだ実行の段階ではない。邪魔が入れば、宿願が水泡に帰すこともありうる。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「だが、宇佐美ハルには相応の報いを与えてやらねばなるまい」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
笑みがこぼれる。"勇者"が強大な敵として立ちふさがるのであれば、それはそれでいい。"魔王"の頭のなかで錯綜していたさまざまな作戦が、ようやくしぼられきた。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
宇佐美ハル、か。小さな勇者も、大きくなったものだ。あの娘にも親の罪を償わせてやらねばなるまい。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「まずは、勇者の実力を見せてもらおうか……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
少し、『遊んで』やろう。宇佐美ハルがどれほどのものか。"魔王"は軽い足取りで、繁華街の闇にまぎれていった。頭痛は、もうない。すがすがしい夜の幕開けだった。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
;// 日付変更
;翌日へ
;背景 繁華街1
日曜のセントラル街は、異常なまでに混み合っている。
 宇佐美ハルは、いつものように背筋を曲げて、アルバイト先に向かっていた。人の波を完全に無視してぼんやりと歩んでいる。
店長,「だるそうだな、宇佐美」
ハル,「あ、てんちょ、ハヨザイマース」
エプロン姿の髭面の男が、じと目でハルを迎えた。
店長,「髪切って来いって言っただろう」
ハル,「すいません、髪の話題には触れないでもらえませんか。ホント、怒りますよ?」
店長,「なら、やめてもらうしかないな」
ハル,「……ごめんなさい」
軽く頭を下げると、店長は、あきれたように化粧品の詰まったダンボールを開封し始めた。
店長,「宇佐美は、なんでいつも制服でくるんだ?」
ハル,「かわいいんで」
店長,「化粧もしないのか?」
ハル,「すっぴんでじゅうぶんイケるんで」
店長は残念そうなため息をついた。
店長,「お前、友達いないだろう?」
ハル,「めっちゃ多いっすよ。とりわけ、てんちょのことは親のように思っています」
店長,「俺はまだ二十代だ」
ハルは大きなあくびを一つ、背伸びをして、首を回して、ようやく店のなかに足を運んだ。
ハル,「さて、今日も客引きですか? 看板もって大声だしてればいいんすかね?」
店長,「ああ、その前に……」
店長はエプロンのポケットをまさぐりはじめた。
ハル,「なんすか、それ?」
店長,「ついさっき、ロン毛パツキンの兄ちゃんがいきなりやってきてな。これ、渡してくれって」
便箋の切れはしだろうか。それは、一枚の折りたたまれた紙切れだった。
店長,「友達か?」
ハル,「ロン毛パツキンの友達はいません。ていうか、いまどきロン毛パツキンとか言いません」
バイト先の店長は、人はいいのだが、年齢を詐称している疑いがあった。ハルは、店長の髭をぼんやりと眺めながら、紙切れを開いた。
内容に目を通したとき、ハルの眉が一気に吊り上がった。
不気味な文字が羅列してあった。筆跡がわからぬよう、定規のようなものを当てて書かれたようだ。ときおり新聞の見出しを切り抜いたような字も貼りつけられている。
ハルは、息を潜めて言った。
ハル,「……そのロン毛パツキンは、何か言ってましたか?」
店長,「なんだ急に?」
店長は、不審げに顔をしかめた。いつもとは打って変わって、ハルのまなざしが、異様に鋭い。
店長,「宇佐美ハルってのが、ここでバイトしてるだろうって……」
ハル,「それだけすか?」
店長,「あ、ああ……」
ハルの体が固まった。時が止まったように動かない。すさまじい速さで与えられた情報を分解していた。
直後、はじかれたように顔を上げた。
ハル,「すいません、てんちょ、今日は休ませてください」
店長,「ちょ、ちょっと待てよ。勝手なこと言うな」
ハル,「すいません、急用でして」
深々と頭を下げた。
店長,「……だいたいなあ、宇佐美は面接のときから常識がなさそうだったが……」
ハル,「すいません、非常識で」
店長,「……まあ、いままで一度も遅刻も早引きもしてないし、バイトなのに進んで残業してくれるし、頼んでもいないのに着ぐるみを作って宣伝をしてくれたりと、真面目なところもあるわけだが……」
ハル,「持ち上げてくれているところすみませんが、着ぐるみはただの趣味です」
店長は、困ったように髭をなでた。
店長,「わかったよ。そのかわり、明日もがっつり働いてもらうからな」
ハルの顔にあどけない笑みが広がった。
ハル,「ラヴです、てんちょ」
;黒画面
早足で雑踏を抜ける。さながら急流を裂く岩のように、人の群れが分かれていく。迷いのない足取りでセントラル街を進んでいった。
 その間、ハルはもう一度、怪文を思い起こしていた。
 冒頭の一行で、ハルは、それが自分への挑戦状だということに気づいた。そして次の瞬間には激しい怒りを覚えた。よりにもよって、母の名前を出すなんて……。
私はこの富万別市にいる。
 鬼ごっこをしよう。
 私はいまより狩にいく。
薫へ
薫、とはハルの最愛の母の名だった。ヴァイオリニストとして活躍していた母。ハルを連れて世界中を魅了してまわった。母は常に優しく、強かった……。
ハル,「魔王……」
冷静になれ、と心に言い聞かせた。熱くなって我を失えば、勝負は決まってしまう。
まさか、"魔王"から接触してくるとは思わなかった。
――かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう。
シューベルトのあの曲のなかで、ぼうやがいくら訴えても、"魔王"の存在は認められなかった。誰も"魔王"を見つけられないというのならば……。
ハル,「わたしが、必ずあぶりだしてやる……」
;背景 繁華街2 昼
そろそろか……。
時刻は正午を回ろうとしていた。スーツの上に黒いチェスターコートといった"魔王"のいでたちは、セントラルオフィスを行き交うサラリーマンのなかにあって、なんら違和感がなかった。"魔王"は悪意ある期待に胸を膨らませていた。
 二重三重に人を介し、宇佐美のアルバイト先に人をやってから、だいぶ時が過ぎた。そろそろ、宇佐美に例の挑戦状が届くころだった。
 宇佐美はあの文章からどう動いてくるだろうか。まさか、闇雲に広大な富万別市を探し回るのだろうか……。
"魔王"は手元の携帯電話を見つめた。
 宇佐美が馬鹿でなければ、まず、この電話が鳴るはずだ。
「お手並み拝見といこうか……」
;左からスライドさせるように ev_haru_02
ハルの行くべき場所は決まっていた。
 なんの造作もない。
 一見無意味な文章が記されているだけの"魔王"からの挑戦状にも、ちゃんとヒントは隠されていた。
;背景 喫茶店 
喫茶『ラピスラズリ』。昨日京介に連れてこられて場所は把握していた。瀟洒な扉を押してなかに入った。
 すぐさま店内を見渡す。ハルの推理が正しければ、"魔王"はこの喫茶店を訪れているはずなのだ。
 だが、それらしき客の姿がない。店のウェイターらしき男が、不審げに近づいてきた。
ウェイター,「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
ハルはわずかに思案したのち、堂々と答えた。
ハル,「わたしは宇佐美ハルという者です。失礼ですが、わたし宛てに伝言をあずかっていませんか?」
 するとマスターも顔をほころばせた。
ウェイター,「あなたが宇佐美さんですか。ええ、承っていますよ」
 彼はそう言って、カウンターの奥に消えた。ややあって、小包みを携えて再びハルの前に現れた。
ウェイター,「異様に髪の長い少女が現れたら、こちらの品物を渡してくれと頼まれていました」
ハル,「誰に?」
 包みを受け取り、たずねた。
ウェイター,「若い、女の子でしたよ。その子も、人に頼まれたと言っていました」
"魔王"に協力する『子供たち』だろうか。きっと、"魔王"は間に人を何重にもはさんで、こちらに接触をしかけている。使いの人間の線から"魔王"にたどりつくのは難しそうだ。
ウェイター,「そういえば、きみは、昨日も彼氏さんときてくれてたね?」
ハル,「彼氏さん?」
ウェイター,「違うのかい?」
ハル,「恥ずかしいです……」
ハルは一礼して店をあとにした。
店を出ると、ハルは小包を開封した。なかには薄型の携帯電話がひとつあるだけだった。
 携帯電話の液晶や背面をよく観察する。型の古い、使い捨ての携帯電話だ。セントラル街の奥に行けば職のない外国人が安値で売ってくれる。たとえ警察が調べたとしても、この携帯電話から買い手の足取りがつくことはないだろう。"魔王"は徹底して、自らの消息をわからないようにしている。
 調べてみると、一件だけ、登録されている電話番号があった。
名前は"魔王"となっている。
ハル,「……かけろ、ということか」
 心臓が高鳴る。汗ばんだ指で番号を押した。街の喧騒が一気に耳に届かなくなっていく。
 十回目のコールのあと――。
;繁華街2 昼
;SE 電話(マナーモード)
鈍い振動が左の胸に響いた。"魔王"は思わず笑みをこぼした。
 電話が鳴ったのだ。
;// 文中で携帯音停止
 はやる気持ちをおさえ、携帯電話を手に取る。
宇佐美の美しい声を想像しながら、通話を待った。
ハル,「"魔王"だな?」
 唐突な声は、"魔王"の不意を打ってきているようでもあった。
 "魔王"は静かに口を開いた。
「私からの手紙は気に入ってもらえたかな?」
 呼吸を整えるような、かすかな間があった。
ハル,「なにが目的だ?」
 宇佐美の声はひどく沈んでいた。
「宇佐美と、少し、遊びたかっただけだが?」
ハル,「ひどく幼稚なお遊びだったな?」
「手紙のことか?」
 ……たしかに、初歩的にすぎたかもしれない。
ハル,「あの手紙は簡単だった」
「…………」
ハル,「私はこの富万別市にいる……鬼ごっこをしよう……私はいまより狩にいく」
そこで、宇佐美の声に苦痛を搾り出すような色が混じった。
ハル,「……薫へ」
「お前の母は、実にきれいな女性だった」
性根の曲がった悪役を演じるように言った。けれど、宇佐美の声に動揺はうかがえない。
ハル,「着目したのは、三行目の文だ」
「私はいまより狩にいく……だな?」
ハル,「一見、意味不明な文章だが、ここに、ちゃんと"魔王"の行き先が書いてある」
「解説を期待してもいいのかな?」
ハル,「『かをる』へ、だ」
「ふ……」
ハル,「宛名に見せかけて、お母さんの名前は実は重大なヒントだった」
優しすぎる問題ではあった。けれど、この程度はあっさり解いてもらわねば困る。狙いは別のところあった。
「あれは不幸な事故だったのだ。けっして、私に悪意があったわけではない」
また、挑発的な声を出す。
ハル,「文中の『か』、を『る』に変える。それだけの内容だった」
けれど、宇佐美は"魔王"を無視して初歩的なトリックを崩していく。
ハル,「そこで、『私はいまより狩に行く』という文の『か』を『る』に置き換える」
「母は、最後までお前のことを案じていた」
ハル,「すると『私はいまよりルリに行く』となる」
「娘だけは助けてくださいと、何度も頭を下げた」
ハル,「ルリ(瑠璃)とはラピスラズリの和名」
成り立っていない会話が続いた。その間、宇佐美はけっして怒気を見せなかった。
「お前の母は強かった。私は強い人間が好きだ。お前はどうなんだ?」
死んだ人間を引き合いに出し、過去の暗い扉を開き、少女の心をえぐろうとする。
宇佐美は力強く言った。
ハル,「お母さんは死んだ。わたしは生きている。生きて"魔王"を必ず捕まえる」
"魔王"は満足した。まずまずの胆力といっていい。
「いい答えだ。鬼ごっこを続けるとしよう」
;場転
;左からスライドさせるように、ev_haru_02
;背景 繁華街1
ハルは電話に集中しながらも、"魔王"の現在の居場所を探ろうとしていた。
"魔王"の挑戦的な声を無視し、耳を澄ませる。すると、いくつかのヒントが得られた。
ハル,「なるほどな」
ハルは言った。
「なにかわかったのか?」
ハル,「お前の居場所をつかめそうだ」
「それは興味深い」
ハル,「いま、そこで、誰かが街頭演説をしているだろう?」
ハルは、もう一度、電話の向こうに耳を傾けた。演説のくだりから、富万別市市長の名を拾えた。
「気づいたか」
気づいて当然といった様子だった。
ハル,「いま、市長がどこで演説しているのか、市役所に問い合わせてみるとしよう」
「その必要はない」
ハル,「なに?」
「いいぞ、なかなかの注意力だ」
ハルは、今回の"魔王"の挑戦の意味を理解し始めた。
#say ――試されている。
不気味だった。すでに、アルバイト先を知られているとは思わなかった。ハルは"魔王"が何者であるのかを知らないが、"魔王"はハルを知っている。
「私はいま、セントラルオフィスにいる」
ハル,「ばらしていいのか?」
「セントラルオフィスの場所はわかるか? 引っ越してきて間もないのだろう?」
ハル,「よく知っているな?」
「お前のことならなんでも知っているさ、勇者よ」
ハル,「なんでも知っているという決まり文句は、実は、知らないこともあるので不安だという気持ちの裏返しだ」
"魔王"は鼻で笑った。
「口も達者なようだな」
愉快そうではある。だが、声色には、作為的なものを感じる。いまひとつ人物像のつかみづらい相手だった。会話も、常に主導権を握られている。
「たしかに、私はもっとお前のことを知りたい。でなければ、私に恨みを抱く宇佐美に、自分から接触してみようなどとは思うまい?」
自分のことを話しているようでいて、考えればわかるような情報しか口にしない。
「セントラルオフィスに、広めの公園がある」
ハル,「それがどうした?」
「園内の掲示板の前にきてもらおうか」
ハル,「そこにいけば、"魔王"に会えるのか?」
「気が早いな」
ハル,「お互いの理解を深めるためにも、顔を合わせて話し合ったほうがいいと思うが?」
「魅力的な提案だが、丁重に断らせてもらう」
どうやら、"魔王"は姿を晒す気はないらしい。
「私を追って来い、宇佐美ハル」
それは挑戦だった。
「お前に資格があれば、相手をしてやろう」
不意に、通話が切れた。ハルは移動を開始した。
;場転
;背景 オフィス街 昼
正面に山王物産の本社ビルが見えた。公園は、巨大なビルからちょうど見下ろされるような位置にあった。静かな公園だった。オフィス街の無機質なコンクリートに囲まれて、ケヤキの緑がよく映えている。
 掲示板は園内のなかほどにあった。本来は、施設内の利用法や注意事項が書かれているのだろう。けれど、さながら不良少年のいたずらのように、赤いペンキが上塗りされていた。近づいてみると、それが、長めの文章であることがわかった。
 不快な落書きが、"魔王"からの設問であることは明白だった。
これから先、勇者が進むべき道は三つある。
 道の一つは魔王の居場所にたどり着き、一つは地獄、もう一つは天国に続いている。
 進むべき道の近くにも、それぞれメッセージを残しておいたから、確認しにいくように。
 魔王にたどり着く道には、『真実』が書かれている。
 地獄に続く道には、『嘘』が書かれている。
 天国に続く道には、『真実か嘘』が書かれている。
 さあ、私にたどり着けるかな?
ハル,「三つの道?」
ハルはすぐさま園内を歩き回った。設問によれば、進むべき道の付近にメッセージが残されているはずだった。すると、公園の北の出入り口に、それはあった。オフィス街へと続く、傾斜の深い石階段がある。石段の手すりに、細長い文字が連なって見えた。また赤いペンキが塗られていた。
 ――地下鉄10番出口は、天国に続いている。
 かろうじて読み取ることができた。ハルはすぐさま頭脳をめぐらせ、問題の全容を把握していった。
;背景 繁華街1
地下鉄10番出口はセントラル街の真っ只中にあった。地下への入り口の近くには、髪を赤く染めた少年たちが座り込んでいる姿が、ちらほら見受けられる。
 ハルが注意深く周囲を探ると、道路脇のガードに新たなメッセージを発見した。
 ――西区の港にある第三番倉庫は、地獄に続いている。
ハル,「西区の港……」
 歩いていける距離ではなかった。しかし、第三倉庫とやらまで行って、メッセージを確認しなければこの問題は解けない。鬼ごっことはよくいったものだ。市内を駆け回らせるつもりか……。
;黒画面
 階段を下り、地上と同じように混雑した地下街に入った。そのまま直結している駅の改札をくぐる。地下鉄のホームで、西区に向かう電車を待った。
;背景 倉庫外 昼
貧乏なハルにとって西区への切符代の250円は手痛い出費だった。セントラル街を出発した約一時間後に、ハルは港にたどり着いた。冬の海は穏やかに波打っていた。
 休日のためか、人影はなかった。第三倉庫はすぐに見つかった。下りたシャッターにそれぞれ数字が銘打ってあるからだ。
 "魔王"からのメッセージを探す。シャッターに不審な貼り紙がしてあった。
 ――天国に続くのは、この道ではない。
読み終えて、ハルは眉間に指を這わせた。
ようやく問題を解くためのパズルのピースが出揃った。
 進むべき道は次の三つのうちどれかだ。
 1 公園からオフィス街へと続く、石階段。
 2 地下鉄10番出入り口。
 3 西区第三倉庫。
これらはそれぞれ、
 『"魔王"にたどり着く道』、
 『天国へと続く道』、
 『地獄へと続く道』のどれかなのだ。
 当然、『"魔王"にたどり着く道』を選択しなければならない。
ただし、
 魔王にたどり着く道には、『真実』が書かれている。
 地獄に続く道には、『嘘』が書かれている。
 天国に続く道には、『真実か嘘』が書かれている。
 それぞれの場所の近くにあったメッセージをもう一度思い起こしてみる。
1……公園からオフィス街へと続く石階段にはこうあった。
 ――地下鉄10番出口は、天国に続いている。
 2……地下鉄10番出入り口にはこう。
 ――西区の港にある第三番倉庫は、地獄に続いている。
 3……西区第三倉庫にはこうだ。
 ――天国に続くのは、この道ではない。
これらの情報を整理すると、たとえば、1がもし、『"魔王"にたどり着く道』だと仮定すると、地下鉄10番出口は天国に続いているというメッセージは『真実』であるということになる。
ハル,「さて、正解は……」
解答を導き出すには数学的な手続きを要求される。
 ハルが考えをめぐらせていると、再び携帯電話が鳴り響いた。
;場転
「そろそろ、第三倉庫の近くか?」
"魔王"は宇佐美がそれぞれのメッセージを確認した時間を見計らって、電話をかけた。
ハル,「ちょうど、着いたところだ」
「天国に続くのは、この道ではない……このメッセージを確認したか?」
ハル,「ああ、ちょうどいま、見たところだ」
"魔王"は腕時計に目をやった。
ハル,「手の込んだいたずらだな。"魔王"が街の各地にこんな落書きを残している様子を想像すると、笑えてくる」
「私が直接作業したわけではないが、楽しんでくれたのなら幸いだ」
ハル,「"魔王"に協力する人間がいるんだな?」
「人間はよく悪魔に魅せられる。そんなことより、全てのメッセージを確認したな?」
ハル,「ああ……」
魔王は思う。これは小手調べ。正常に頭を使うことのできる人間なら、誰にでも正解が導ける問題だ。
「よく考えるんだな。私は、正解の道の先に待っている」
いまから五分以内に解ければ、さしあたって及第点といったところか。
「……ではな、勇者」
#say 通話を切るべく携帯に手をかけた、そのときだった。
ハル,「第三倉庫だ」
「…………」
ハル,「どの道がどこに続くかは六通りの場合がある。そのなかで、魔王にたどり着く道のメッセージに嘘が書いてあることになる組み合わせと、地獄に続く道のメッセージに真実が書いてあることになる組み合わせを除けば、おのずと正解が見えてくる」
魔王は宇佐美の流暢な声に聞き入っていた。
たしかに、論理的な思考ができる人間であれば、時間をかけてこの問題を解くことができる。直感やランダム要素を廃してシステマティックに結論を導きだすのだ。宇佐美のいうとおり、六通りのパターンを図表におこし、矛盾のある組み合わせを消去していけば正解にたどりつける。
 だが、宇佐美はそれを瞬時にやってのけた。紙やペンを用いた様子もない。全て、頭のなかで論理を組み立てたのだ。
ハル,「どうした魔王。数学の授業はもうおしまいか?」
宇佐美の挑発に魔王は押し黙った。
思わぬ逸材。魔王は、己の口元がいつの間にか歓喜に歪んでいることに気づいた。
「宇佐美、ハル……」
"魔王"はようやく宇佐美ハルを敵として認識し始めた。人をやって調べさせたところ、人脈や金銭面など背後関係は弱そうだが、十代の少女にしては類まれな頭脳を持っている。"魔王"にとっての敵は、警察のように強大で権力のある集団だけだと思っていた。
 しかも、電話の向こうの才気溢れる少女は、必死になって"魔王"を探しているのだ。"魔王"の側から接触を試みたのは、いささか用心に欠ける行動だったのかもしれない。
――意外なところで、足をすくわれるかもしれんな。
 このあとに続く"魔王"が用意した『お遊び』を、宇佐美はいとも簡単に突破してくるだろう。
 いまは、まだいいかもしれない。しょせんはただの学園生だ。こちらの情報もほとんどつかんでいないといっていい。しかし、"魔王"は、自らがそうであったように、信念に裏打ちされた知性の力強さを知っていた。勇者は、入念に練り上げた"魔王"の計画を破綻させるかもしれない。
 "魔王"は、素晴らしい才能をもった敵の出現を喜ぶ一方で、相手を叩きのめしてやらねばと、激しい闘志を燃やした。
;場転
;背景 セントラルオフィス
日が落ちた。いつの間にか強くなっていた風が、厚い雲と厳しい寒さを運んできている。ちらほらと舞う雪がハルの制服の肩に落ちては消えていった。
 オフィス街の一角は人で溢れていた。市役所ビルへと続く長い階段の下で、ハルは魔王の出現を待った。
 ――必ず、現れるはずだ。
 あのあと、三時間以上も<鬼ごっこ>は続いた。あれから魔王は何度もハルの数学的才能を試してきた。魔王への挑戦権を獲得するために、ハルは十分な実力を見せつけたはずだった。
『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』
 魔王にとっては遊びなのかもしれない。けれど、ハルは常に全力を出してゲームに挑んでいた。
 魔王からの最後の設問はこうだ。
 『魔王が市役所ビルへと続く階段の下に現れたとき、勇者は階段の上にいない。では、勇者が階段の上にいるとき、魔王は階段の下に現れないといえるか?』
結論は、いえる。勇者が階段の上にいては、魔王は階段の下に現れない。つまり、魔王が姿を現すためには、ハルは少なくとも階段を上ってはいけない。設問によれば、魔王と対峙するためには、ハルは階段の下で待てば問題はないはずだった。
 けれど、遅い。
まばらに行きかう通行人の姿はあれど、魔王らしき人間は見当たらない。
 ――読み違えたのだろうか。
 ハルの顔に焦りの表情が浮かびかけたとき、名前を呼ぶ声があった。
;黒画面
ハル,「上?」
思わず階段の先を見上げた。
「人間は面白いよな。雑踏のなか、どれだけ周りが騒がしくても、自分の名前を呼ばれるとつい振り返ってしまう」
しまった、と思った。
 階段の下で待てば、そこに魔王は現れると考えていた。<鬼ごっこ>のなかで繰り返し出題を受けていたハルは、設問を解くことに固執するあまり、魔王が設問そのものに罠をしかけてくる可能性を忘れていた。魔王は、自分の姿を見られない位置に、ハルを誘いこんでいたのだ。
魅惑的な声を発した人物は、黒いコートに身を包んでいる。だが、街灯にぼんやりと浮かび上がった魔王の姿は、あまりにもおぼろげで背格好の特徴などをつかむことができなかった。
 魔王本人なのだろうか。魔王に協力する誰かという可能性もある。
ハル,「あなたね?」
ハルは謎の人物に向かって言い放ってみた。
「お前だな?」
男なのだろうか。声の質はよくわからなかった。身近にいる人間の声のような気もするし、女性という線も捨てきれなかった。
#say
ハル,「わたしが、ハルよ」
胸を張る。
「私が、魔王だ――」
全身に緊張と戦慄が走るのを自覚した。ハルは拳を握り締め、ある予感に耐えていた。
 予感はひしひしと募っていく。
 もはや遊びではない。
 戦いが、始まる――。
;// OPムービー挿入
;// 日付変更
おれの休み時間は学園に通っているときだ。
月曜日だが、やるべきことがあるので、学園は休んでいる。
今日は東区の土地の再開発について相談を受けているところだった。
都心にあるテーマパークを模した、大規模なレジャー施設を誘致するという大掛かりなプロジェクトだ。
浅井興業は直接的に不動産業務を取り扱ってはいないが、フロント企業の闇社会における権力を期待して、荒っぽい地上げや家屋買収を依頼してくる輩はあとを絶たない。
だが……。
京介,「失礼。単純な数字のミスですね。申し訳ありませんでした」
おととい、宇佐美と別れてから、どうもぼんやりとする。
京介,「はい、これから現地に行って、直接見てきますので……」
脳が覚醒しきっていないというか、なんとなく雑念が混じる。
セントラル街の喫茶店を出て、まっすぐに帰宅してベッドに直行したのにな……。
きっと、宇佐美のせいだ。
ペンギン姿の宇佐美を思い起こす。
京介,「…………」
通話を終えてまたぼんやりと人の流れを見渡す。
宇佐美がバイトしている化粧品店の前を通るが、宇佐美の姿はなかった。
ハル,「ちわす」
京介,「え?」
突然、背後から声をかけられた。
ハル,「最高ですかー!?」
京介,「な、なんだ、いきなり……?」
ハル,「いや別に、言ってみたかっただけです」
アホなのか……?
ハル,「それより、どしたんすか、スーツなんか着て」
京介,「お前こそ、学園はどうした?」
ハル,「自分は今日は休みです。体調がすぐれないので。見てくださいよ、めっちゃ鬱々としてるでしょ?」
京介,「お前はいつも鬱だよ。まず、その髪を切れよ」
ハル,「え?」
珍しく真剣に驚いたというような顔をした。
京介,「なんだよ?」
ハル,「傷つきました」
京介,「なんで?」
ハル,「髪は浅井さんのために伸ばしてるんです」
京介,「なんでおれがロング好きになってんだよ」
ハル,「とにかく傷つきました。どれくらい傷ついたかというと、今日の晩御飯もおごっていただきたいくらいです」
たかりたいだけかよ……。
京介,「飯はおごらん。おれはこれから用事がある」
ハル,「お仕事ですか?」
京介,「…………」
ハル,「お父さんのお手伝い?」
返答に戸惑ったのが、間違いだったようだ。
ハル,「なるほどなるほど。学園を休んでまでがんばってらっしゃるんですね」
京介,「……何か、用なのか?」
宇佐美は笑う。
してやったりという顔だ。
ハル,「昨日、"魔王"に会ったんですよ」
しれっと言った。
京介,「なんだって? "魔王"に会った?」
ハル,「遠巻きに、会いました」
京介,「は?」
ハル,「かなり見下ろされました。だいぶ逆光でした」
京介,「……つまり、顔は見てないってことか?」
ハル,「声は、交わしました」
京介,「本当か?」
宇佐美はいつもひょうひょうとしていて、言葉に真実味がない。
ハル,「ところで浅井さんは、昨日もお仕事されてたんですか?」
話題をころころと変えてくる。
なにか、揺さぶりをかけられているような気がしてならない。
京介,「仕事はしてたよ。それがどうした?」
ハル,「浅井さんのお仕事はたいてい電話ですむんですかね?」
京介,「電話ではすまないこともある。それより、"魔王"はどうした?」
ハル,「きのうは、どちらに?」
……なんなんだ?
京介,「……昼過ぎにセントラル街に出てきた」
ハル,「そすか」
京介,「それいがいは、たいてい家にいたな」
ハル,「誰かと会ったりしていましたか?」
京介,「なんだ? まるでアリバイでも探っているみたいだな」
ハル,「…………」
冗談のつもりだったが、宇佐美はにんまりと笑う。
ハル,「"魔王"は、この街を知りつくしている人物です」
ハル,「どの路地が最小限の時間で姿を消すのに適しているのか、どんな場所が、相手に顔を見られずに逃走できるのか……そういうことを熟知しています」
宇佐美の目がじっとおれを見据えている。
京介,「男だったのか?」
ハル,「……おそらく。しかし、きれいな声でした。ああいう声を出せる女性がいてもおかしくはないと思わせられるような、中性的な魅力もありました」
回りくどい言い回しだった。
断定せずに、慎重に意見したいのだろう。
京介,「逃げられたんだな?」
ハル,「残念ながら」
おれはスーツの内ポケットから財布を出した。
京介,「詳しく話を聞きたい」
向かいの喫茶店をあごで示した。
ハル,「お仕事はいいんですか?」
京介,「なんとでもなる」
東区の用地視察は夕方でいい。
ハル,「じゃあ自分、カツ丼で……」
京介,「ねえよ」
ハル,「あ、つゆだくがいいです」
…………。
……。
;背景 喫茶店 
一通りの話は聞いた。
ハル,「市内をだいぶ走り回りましたよ」
宇佐美は"魔王"のゲームにつきあって、いい線までいったらしい。
ハル,「最後は、してやられました。姿を見られない場所に誘い込まれているとは気づきませんでした」
京介,「けっきょく、"魔王"はなにがしたかったんだと思う?」
ハル,「おそらく、わたしに興味をしめしたんだと思います」
京介,「興味を? どうして?」
覚せい剤を裏で流せるような実力を持った人間が、どうして一介の女学生に興味を持つんだ?
ハル,「因縁があるんですよ」
京介,「どんな?」
ハル,「それを言うには、まだまだ友情が足りません」
京介,「おいおい、"魔王"をいっしょに探そうと言ったのはお前じゃないか?」
宇佐美は首を小刻みに振る。
ハル,「いいですか、浅井さん」
ハル,「我々は、敵と書いて友と読むような関係です。利害関係の一致から協力しているだけです。"魔王"という強大な敵を倒すために、一時的に力を貸し合っているのです」
ハル,「あ、それ言い過ぎか。仲間なんだけど、お互い秘密が多すぎていまいち信用できないだけか……」
京介,「ごちゃごちゃうるさいぞ」
ハル,「ちなみに、浅井さんは敵だったときは強いんだけど、仲間になったとたんに弱くなるタイプかと……」
……よくわからんが、愚弄されたようだ。
ハル,「まあすいません。自分は、"魔王"に恨みがある、とだけ言っておきます」
京介,「恨みはおれだってあるさ……」
おかげで権三に尻をたたかれる羽目になった。
おれは自分の考えをまとめた。
京介,「"魔王"はお前のことを知っていたわけだよな。バイト先から、この喫茶店まで。そして、お前が勇者と呼ばれていることまで」
ハル,「ですね」
京介,「さらに、街のいたるところに落書きを用意したり、人を使って物を届けさせたりしている」
さらにいえば、子供を使って覚せい剤を回している。
京介,「"魔王"は、かなりの実力者だと思う」
ハル,「どういう意味で実力者ですか?」
京介,「金を持っていることは間違いないだろう。宇佐美の身の回りは、探偵でも雇って調べたんじゃないか?」
ハル,「あるいは、わたしの近くにいる人間こそが、"魔王"なんでしょう」
京介,「ふん……」
それで、おれの昨日の行動を聞きたがったわけか。
ハル,「まあ、身元の割れない携帯電話を用意するあたりも、周到ですよね」
京介,「街の裏社会に精通しているともいえる」
人物像はおぼろげに見えてきたな。
京介,「年齢や背格好はどうだ?」
ハル,「歳は、若い、と推測してみます」
京介,「声が若かったからか?」
ハル,「それもありますが、行動に子供のような遊び心がうかがえるからです」
京介,「たしかに、ガキでもなければ、休日のセントラル街で鬼ごっこなんてしないな」
ハル,「断定はできませんが」
京介,「そうだな。たとえば、すぐれた経営者のなかには、子供のような情熱を忘れない人が多い。一見、遊びともとれるような事業に手を出して意外な成功を収めたりする」
ハル,「浅井さんのお仕事の話ですか?」
京介,「……まあ、パパにくっついていって、そういう偉い人と話をしたことがあるぐらいだが……」
思わず目を逸らした。
ハル,「浅井さんは、仕事のことになると目つきが変わりますね」
京介,「金がかかってるからな。遊びじゃないんだ」
ハル,「心なしか、声色も変わるような気がします」
……そんなことを、椿姫にも言われたな。
京介,「もう一度いうが、金のやりとりをするんだ。交渉では腹から声を出す。足元を見られないようにするためだ」
ハル,「そうですか。かっこいいですね」
じっと見つめてくる。
おれは嘆息して言った。
京介,「おれが"魔王"だとでも?」
宇佐美は迷いなくうなずいた。
ハル,「可能性はゼロではないです」
京介,「おれと"魔王"の声が、似ているってのか?」
ハル,「それは、なんともいえません。ただ、浅井さんの声はときとして変わるな、と思っただけです」
京介,「可能性の話をすれば、宇佐美こそが"魔王"だってあり得るわけだ」
ハル,「いやそれはないっす」
京介,「なんでだよ」
ハル,「わたしは、わたし自身が、"魔王"ではないと知っているからです」
京介,「だったらおれも、おれ自身が、"魔王"ではないと知っている」
ハル,「説得力がありませんね」
京介,「お互いにな」
苦笑すると、宇佐美も口元をほころばせた。
京介,「じゃあ、こうしないか?」
ハル,「はい?」
京介,「盟約を結ぼう」
ハル,「最低限、わたしたちは、お互いを疑わないということですか?」
京介,「察しが良くて助かる」
ハル,「別に、わたしは浅井さんを疑っているわけじゃありませんよ」
京介,「おれだって、宇佐美のその気持ちを信用したいがな……」
保証金でもくれるというなら、信用するかもしれないが。
ハル,「まあ、わかりました。なんにせよ、浅井さんのことは信用していますよ、無条件で」
……無条件で他人を信用するわけがないだろう。
京介,「ありがとな」
そこで、宇佐美が席を立った。
ハル,「それじゃ、自分、学園行きますんで」
京介,「休むんじゃなかったのか?」
ハル,「体調が悪いんで休もうかとも思いましたけど、やっぱりさぼりはまずいと思うので」
ふと気づいた。
京介,「実は、本当に、具合が悪いのか?」
ハル,「ええ、まあ。病院によるつもりでした」
京介,「意外に、体が弱かったりするのか?」
ハル,「いえ、たくましくも可憐なはずですが、スポーツは苦手です」
はっきりしないな……。
京介,「タクシーでも呼んでやろうか?」
ハル,「お金ないので」
京介,「バイトの給料が入る日を教えてくれたら、貸してやるぞ」
ハル,「取り立てるってことですか。遠慮しておきます」
京介,「まあわかった。とにかく、今後もよろしくな」
宇佐美は、"魔王"と因縁がある。
怨恨だというが、具体的にどんな因縁かはわからない。
だが、因縁があるのならば、"魔王"は今後も、宇佐美に接触を試みてくる可能性がある。
ならば、宇佐美と仲良くなっておけば、今後、なんらかの情報を得られるかもしれない。
ハル,「どしました? 考え事ですか?」
京介,「ん? ああ……」
ハル,「なにを考えているか、当ててみましょうか?」
おれは宇佐美の賢いところが、嫌いではなかった。
ハル,「浅井さんにとって、わたしがどれくらい役に立つか、はかりにかけてるんです」
やはり、親しくなって損はなさそうだった。
;背景 繁華街1 夕方
偶然だった。
ばったり椿姫に出くわしたのだ。
セントラル街から地下鉄におりようとしたとき、声をかけられた。
椿姫,「あ、やっぱり浅井くんだ」
気づかないふりをするには、顔をしっかりと見られすぎた。
京介,「おう、いま帰りか?」
椿姫,「学園どうしたの?」
やっぱり聞かれるか。
;------------------------这是选择支,记得添加变量--------------------------------------------
;選択肢 
;さぼってると言う    椿姫好感+1
;それらしい理由をつける
;---------------------------------我是分界线--------------------------------------------------
@exlink txt="さぼってると言う" target="*select1_1" exp="f.flag_tubaki+=1"
@exlink txt="それらしい理由をつける" target="*select1_2"
さぼってると言う    
それらしい理由をつける
;さぼってると言う///////////////////////
京介,「さぼった」
椿姫,「え?」
椿姫が固まった。
きょとんと、親においていかれた子供のような顔になった。
椿姫,「さぼるって、どういうこと?」
どうやら、こいつの頭のなかに、学園をずる休みするという概念はないらしい。
京介,「だから、遊んでたんだよ」
椿姫,「だ、だめだよ……それは、いけないことだよ?」
京介,「うん、ごめん。お前、クラス委員だもんな」
椿姫,「クラス委員だからじゃなくて……心配してたんだよ?」
京介,「心配?」
椿姫,「うん、病欠って担任の先生から聞いてたから」
京介,「……そうか」
椿姫,「でも、病気じゃなくてよかった。今度からは、ちゃんと本当のこと教えてね」
やさしい眼差し。
なぜか、目を逸らしてしまった。
;それらしい理由をつける
京介,「実は、ちょっとしたパーティに出席してたんだ」
スーツを着てることを見せつけるように、ネクタイをつかむ。
椿姫,「パーティ?」
京介,「おれのパパ、ちょっとした財界人なんだよね。だから、息子を紹介したいってことでさ」
椿姫,「でも、そんな理由で学園を休めるの?」
京介,「休むしかなかった。パパの役に立ちたいしな」
椿姫,「そっか……浅井くん、いつも忙しそうだもんね」
どこか、寂しそうだった。
;-----------------------------------这是选择支-------------蛋疼啊----------------------------------
京介,「お前の家って、東区だったよな?」
椿姫,「うん、そうだよ?」
京介,「だったら、途中まで一緒に行こう」
椿姫,「え? 東区に用事でもあるの?」
京介,「ああ、ちょっと、知り合いの家に行くんだよ」
椿姫,「お友達?」
京介,「……まあ……そんなところかな」
椿姫,「浅井くんは、お友達多いなあ」
おれたちは人ごみのなか、地下鉄の改札口に向かっていった。
;黒画面 
;SE 電車の音 ゴトンゴトン
地上げ。
おれがこれからやろうとしていることを簡単にいうとそういうことになる。
椿姫の住む東区は、スキー場を主体にした大規模なレジャー施設として開発が進められている。
しかし、もともとは、畑ばかりの農地に過ぎなかった。
土地は古くからの地主が権利を持っている。
急ピッチで用地を買収しているのは、有名なゼネコンだが、少し調べたところ、やはり山王物産の系列企業であることがわかった。
この街で、なにか大きな仕事をしようと思ったら、必ずあの巨大商社の名前が出てくる。
清廉潔白の優良企業である山王物産は、清廉潔白では対処しきれない問題を、おれたちに投げてくる。
五世帯だったか……。
これから、住み慣れた土地を追い出される家族が五つもある。
椿姫,「浅井くん、そろそろ着くよ」
;背景 公園 夕方
;// ここで電車音をフェード停止
地下鉄を出ると、公園の近くに出た。
セントラル街と違って、人気はなかった。
京介,「いやー、寒いなー」
椿姫,「山が近いからかな……」
椿姫が何かを言いかけたとき、胸のポケットのなかで携帯電話の振動があった。
;SE 携帯
京介,「あ、電話」
;// 携帯停止
相手はミキちゃんだった。
京介,「ああ、もしもしー。うん、うんっ……だいじょうぶだいじょぶ」
椿姫,「…………」
京介,「じゃあ、来週ね。はいはい……」
椿姫,「……電話、終わった?」
京介,「うん、友達から」
椿姫,「ひょっとして、彼女さん?」
京介,「彼女なんていないけど」
椿姫,「え? 前に、いるっていってなかったっけ?」
京介,「覚えがない」
椿姫,「本当にいないの?」
京介,「いや、フリーだから。おれ、遊び人だから」
椿姫,「そっか……そうなんだ。わたし勘違いしてた」
はにかんだ表情が、うれしそうに見えないこともなかった。
椿姫,「彼女さんいるなら、あんまり一緒に歩いたり、CD買いに行ったりしたらダメかなって思ってたの」
京介,「もしいても、それくらいいいだろ」
椿姫,「うん、でも……悪い気がしてたの」
心底安心したように、ため息をついてうつむいた。
その程度のことが、椿姫にとっては大きな罪だったらしい。
おれは複雑な気分だった。
椿姫が、どことなく、うっとうしいような気がする。
普通の人間が、他人に好かれようとするある種の作為が、この少女からはまったく見つからない。
率直に言えば、いいヤツすぎて、信用ならないのだ。
椿姫,「どうしたの? なにか、不機嫌?」
そのくせ、勘がいい。
京介,「さて、行くぞ」
椿姫,「どこに行くの?」
京介,「ああ、えっとな。住所は……」
番地をいうと、椿姫が目を丸くした。
気になる少女だった。
おれにないものをたくさん持っていそうだった。
深く関わってみたいとも思った。
椿姫,「あ、それって……」
そして、その願いは、偶然にも現実のものになった。
椿姫,「うちの家の住所だよ?」
;```章タイトル表示
;第二章 遊興の誘拐
思案していた。
 時間にして約一時間。"魔王"はかたく目を閉じていた。空調は動いていなかった。冷たい壁に背を預け、寒さに微動だにしない姿には無言の虚無僧のような威圧感があった。
 "魔王"には計画があった。実行されれば、史上稀に見る大犯罪がこの街を襲う。しかし、まだ時期ではない。打つべき手は全て打った。あとは、時が来るのを待てばよい。
 いわば、いまは空白の時間だった。他にやるべきことはないのか。計画に不備はないのか。何度も頭脳を巡らせた。行き着く答えは、いつも同じだった。何もするべきではない。いまは行動を控えることが、最良の行動なのだ。
――宇佐美ハル……。
 一抹の懸念材料は、やはりあの少女だった。
 "魔王"は興信所の人間に、宇佐美ハルの素性を探らせた。長髪の少女は、一般の学園生とは少し違った。頭の鋭さは、実際に相対してみてよくわかった。人脈や背後関係も探った。すると、宇佐美ハルには、もう一つの顔があるということが発覚した。けれど、それも、"魔王"の計画を脅かすようなものではなかった。
 なにを恐れる必要がある?
"魔王"に恨みを抱いている人間など、いくらでもいるではないか……。
エレベーターの稼動音が聞こえた。
染谷,「遅くなって申し訳ない」
染谷が深々と頭を下げた。後退した額にうっすらと汗がにじんでいた。
染谷,「東区の開発の件で、会議が長引いてしまってね」
「麦焼酎はいかがでしたか?」
染谷の赤ら顔を見据えた。そして、目で、言った。会議ではなく、接待を受けていたのだろう。同時に、私は、お前が麦焼酎をこよなく愛することを調べ上げている……。
 染谷は、酒臭い息を撒き散らした。
染谷,「すまなかった。大事な相談だったんだ。なにしろ国土交通省の役人も来ていたのだから……」
「けっこうなことです。ただ、時間が有限であることをお忘れなきよう」
さっそく仕事の話に入った。
 染谷は従順だった。ボストンから呼んだ秀才を叩き潰されたのが、よほどショックだったらしい。
 染谷は"魔王"について何も知らない。教えた名前も、年齢も、経歴も全て架空のものだった。しかし、相手の素性など知らないほうがうまくいく商売もある。いざというとき、司法の手から逃れ易い。染谷は、そういうことを理解していた。
"魔王"が山王物産にもたらした最大の利益は、軍事兵器の密輸入だった。これまで、この国の軍需産業は、戦前からある大企業が一手に担ってきた。ほぼ独占状態にあった市場に楔を打ったのが、"魔王"の功績とされている。
 "魔王"は、日本の税関が輸入には厳しいが、輸出には甘いという弱点を突いた。新潟と福岡の港に拠点を設け、それまで暴力団相手の商売をしていた不良外国人と結んで、北朝鮮と香港を結ぶルートを開拓した。
 危ない橋を渡ることも多かった。危機管理の甘さを非難されるほど、甘い国でもないと思った。しかし、どれだけ敵が強大であろうと、やらなければならなかった。
染谷,「いや、改めて君の鋭さには驚かされるよ」
一通りの話は終わった。武器の偽装、密航のための船の手配、税関への根回し、抱き込むべき人間の人選……あらゆる手はずを整えた。
染谷,「一つ聞いてみたいのだがね」
染谷が腰を落ち着かせた。
染谷,「君の目的はなんなのだ?」
「目的?」
染谷,「君ほどの男だ。金ではないのだろう?」
酒が引いたのだろうか。染谷の顔が引き締まった。
染谷,「そろそろ長いつきあいになる。君の夢の一つでも聞かせてもらえんかね?」
悪くない顔つきだ、と思った。
もともと"魔王"は染谷をなめきっているわけではなかった。御しやすいとは思うが、軽蔑しているほどでもない。実際、染谷が専務として会社を仕切るようになってから、山王物産は新しい展望を見せた。急激な拡大政策で、売り上げのほとんどを新規事業に投資した。当然、社員への賞与などの還元は後回しになるから、反対派も多い。しかし、"魔王"と組んで非合法な商売に手を出しているのも、全ては会社のためではないか。
染谷,「私の父は戦中派の人間でね。この会社のために懸命に働き、骨をうずめていった。私は父が大きくした会社を守っていかねばならないんだよ」
「ご立派な志です」
本心からそう言った。"魔王"は、"魔王"などと人から呼ばれてはいるが、決して、自分を尊大な存在だとは思わない。"魔王"より三十以上も年上の染谷が、"魔王"より長じている部分がないはずがないのだ。
「夢などありません」
染谷,「謙遜するな。君の目は、戦いを前にした父の目に似ている。大きな志を持った男の眼だ」
「夢などありません。本当です」
言い切った。染谷はうつむいた。寂しさを隠しているようにも見えた。
染谷,「まあいい。なんにせよ、金で動かない人間は扱いが難しい」
「何かお困りのようですね?」
染谷,「鋭いな、君は。なあに、東区の用地買収がね、思うように進んでないんだ」
「土地を手放したくない人間がいるんですね?」
染谷,「相場の二倍の金を出すと言っても、聞いてくれない。あまりに困ったんで、プロを雇うことにしたよ」
おそらく暴力団関係の人間だろう。染谷も手荒い真似が好きだ。しかし、現在の地上げは、バブルのときのように荒っぽい手口は使えない。示談が難航するのもうなずける話だ。
染谷,「あと、たったの一区画なんだがね」
染谷が手帳を開いた。住所と、図面が描いてあった。立ち退きを拒否している家族の名もある。
「いずれにせよ、私には関係のない話です」
拒絶するように手を振った。
染谷,「これは、すまなかった。君の手をわずらわせるつもりはない」
「染谷室長が手をわずらわせるほどのことでもないでしょう?」
子会社の課長クラスの人間が頭を悩ませているならわかる。東区のレジャー施設開発に、山王物産が並々ならぬ熱意を注いでいることは知っている。けれど染谷は、本社の専務取締役なのだ。何か、裏があるとしか思えない。
「国土交通省の方とお会いになっているそうですね?」
染谷,「君にはかなわんな。そう、株だよ」
株のインサイダー取引。
 たしかに、東区の大規模開発が順調に進めば、開発に着手した企業の株価は上がる。それを見越して、染谷は役人に甘い汁を吸わせたいのだ。
そのときだった。
 "魔王"は、染谷の手帳からある名前を見出した。
「美輪、椿姫……」
"魔王"は眼を閉じた。美輪椿姫。聞いた名だった。
染谷,「どうかしたのかね?」
「いえ……」
染谷,「気分が悪そうだが?」
思い当たった。宇佐美ハルの関係者だ。
「この、美輪椿姫という少女は、自由ヶ咲学園に通っているのでは?」
染谷,「知り合いかね?」
"魔王"は薄く笑った。
 空白の時間をどう使うべきか。それまで悶々としていた考えが一気に線を結んだ。
美輪椿姫を利用して、宇佐美ハルを追い詰め、ねじ伏せる。
「染谷室長。私に任せていただきたい」
染谷が息を潜めた。
染谷,「どういう風の吹き回しだ?」
「南米のテロリストの話です。旅客機のなかに、テロリストが狙う要人がいました。テロリストは要人を殺害するだけでは気がすまなかった。なんの罪もない旅客を巻き添えにして、飛行機を墜落させました。要人と同じ飛行機に乗っていたという理由だけで……」
"魔王"は、自らの口元が歪んでいくのを自覚していた。負の感情が募っていく。抑えられそうになかった。
 染谷に言ったように、"魔王"には夢などなかった。
「私の心にあるのは、ただ一つです」
染谷,「さっきから、なにを言ってるんだ?」
「全て、お任せください」
"魔王"は染谷に背を向けた。全身にみなぎるものがあった。"魔王"を突き動かすものは、たった一つの感情だった。
 復讐。
;// 体験版終了
;背景 教室 昼
昨日はけっきょく、椿姫の家には行かなかった。
出直すことにしたのだ。
急用が入ったことにして椿姫と別れた。
椿姫,「おはよう、浅井くん」
京介,「おう、昨日は悪かったな」
椿姫は、おれの複雑な心境など知らず、いつものように微笑んでいる。
京介,「そのうち、お前の家に遊びに行ってもいいか?」
椿姫,「え? どうして急に?」
京介,「……ダメか?」
椿姫,「いや、いいけど……」
京介,「どした? お前が、人に嫌そうな顔するなんて珍しいな」
椿姫,「ううん、ちょっと恥ずかしかったから」
京介,「恥ずかしい?」
椿姫,「うん、うちって、ちょっと特殊だから」
京介,「ますます行ってみたくなったな。今日はどうだ?」
椿姫,「え、えっ!?」
詰め寄って、微笑んだ。
椿姫,「い、いやあの、うちに来るっていうことは、お父さんにも紹介しなきゃいけないよ?」
京介,「んな、おおげさな。結婚前提のおつきあいじゃあるまいし」
椿姫,「でも、お父さんとか勘違いして舞い上がっちゃうよ?」
栄一,「なに困ってるの、椿姫ちゃん?」
ひょっこりと栄一が顔を出した。
椿姫,「いやあの、浅井くんが、うちに来たいって」
栄一,「え、ダメなの?」
椿姫,「ダメじゃないけど、恥ずかしいなあって」
栄一,「じゃあ、ボクも一緒にいってあげるよ」
京介,「え? お前はいらないよ」
ハル,「じゃあ、自分も一緒に……」
京介,「沸いて来んなよ。なんだお前らいきなり」
ハル,「ただ、自分、アレなんすよね。今日はちょっとだけバイトなんで、少し遅くなるかもしれません」
栄一,「ボクもペットに餌あげてから行くね」
ハル,「あ、じゃあ、いっしょに行きましょう、エテ吉さん」
栄一,「いいよー、駅で待ち合わせしない?」
椿姫が顔を上げた。
椿姫,「みんな、一緒なら、いいかな」
ハル,「やったー! わー!」
栄一,「わー!」
……まあいいか。
;背景 廊下 昼
授業の合間に電話をする。
椿姫の家の件だ。
仕事が遅いと、お叱りを受けた。
京介,「あー、もしもし。京介です。今日の夜にでも、一度、あの家に出向いてください。ええ、わかっていると思いますが、手荒い真似はまずいですよ?」
おれは会社の人間をけしかけて、椿姫の家を訪ねさせることにした。
少し、様子を見てみなくてはな。
家を立ち退かないのには、きっと理由がある。
東区は田舎なのだ。
たしかに、スキー場が注目されるようになってからは、相場も跳ね上がったが、それでも都心に比べればたいしたことはない
土地の買い付け手が、倍の額を払うといっても聞かないのだから、なかなか根性が座っている。
おれの仕事は、彼らが家を出て行かない理由を探り、そして少しずつ、その理由を潰していくことだ。
水羽,「…………」
ふと、白鳥の姿が、視界の片隅に入った。
京介,「よう」
水羽,「…………」
白鳥は、一瞥をくれただけだった。
京介,「お前も、今日、椿姫の家に遊びに来ないか?」
水羽,「遠慮しておくわ」
京介,「そんなこと言うなよ。家族ぐるみで鍋パーティするんだよ。楽しそうだろ?」
水羽,「授業、始まるわよ?」
背を向けた。
京介,「おい、待て。どうしてそんなにおれを嫌うんだ?」
水羽,「あなた、自分がどういう人間なのか、自覚していないのね?」
京介,「自分が、何様なのか、って?」
水羽,「あなたの裏の顔を知ったら、一緒に鍋パーティなんてしたがるかしら?」
京介,「やめてくれよ。ことをばらして、おれの友達を奪おうってのか?」
水羽,「あなたは本当に友達を友達として見てるの?」
……しつこい女だ。
京介,「ひとつ聞くがな、白鳥」
水羽,「…………」
京介,「おれが、お前に何かしたか?」
水羽,「え?」
京介,「おれはたしかに、裏表があるのかもしれない。だが、それが、お前にどんな不利益をもたらしたんだ?」
不利益なんて、なにもない。
白鳥は、ただ、おれが怖いのだ。
京介,「別に、お前をとって食おうってわけじゃないんだ」
水羽,「…………」
京介,「仲良くしよう、な?」
丁重に、手を差し伸べた。
水羽,「いや」
きっぱりと拒絶された。
白鳥の後姿は怒りに震えていた。
京介,「……まったく」
おれの、なにが、悪い?
;背景 繁華街1
授業が終わると、さっそく日が暮れ始めた。
椿姫,「本当に、うちに来るんだよね?」
京介,「そんなに嫌なのか?」
椿姫,「……うーん……」
学園を出てから、椿姫は、ずっとぶつぶつ言っていた。
椿姫,「今日は、浅井くんがおうちに来ます。驚きの一日になりそうです○」
京介,「ご両親には連絡したか?」
椿姫,「うん、さっき学園の公衆電話で」
京介,「なんか言われたか?」
椿姫,「すごいうれしそうだった。お父さんがお母さんに赤飯を炊けとか言ってた」
……どういう家庭なんだ。
しかし、椿姫の父親については、いろいろと聞いてみたい。
京介,「お父さんは、どんな仕事をしてるんだ?」
椿姫,「えっとね、いつも畑にいるよ」
京介,「ふーん。野菜作ってるのか?」
椿姫,「ううん、リンゴとか」
京介,「へえ、初耳だわ。昔から、ずっとやってるのか?」
椿姫,「おじいちゃんもひいおじいちゃんも、ずっとやってたんだって」
果樹園経営か……。
買収しなければならない土地が、やけに広いとは思っていたが、ほとんどが果樹の畑ってわけか。
果樹は、立ち退きの際に、一本につき補償をしなければならなかったような気がするな。
場合によっては、代替農地も都合つけてやらなければならない。
しかし、立退き料の総計がつりあがっていくのは当然としても、提示されている額面には及ばないだろう。
立ち退かない理由はおそらく……。
京介,「なるほど、先祖代々伝わってきた土地なんだなー」
椿姫,「うん、お父さんもお母さんも愛着あるみたいなんだ」
住み慣れた土地だから、出て行きたくないのだ。
単純だが、当たり前の理由だ。
椿姫,「でも、最近ね、引っ越してくださいって言われてるみたいなんだ」
困ったもんだな。
金の問題じゃないってことだ。
椿姫,「お父さんは、断固拒否してるんだけどね。営業の人も、なかなかあきらめないみたいで……」
京介,「なんか、大変そうだな。おれも相談に乗るよ」
椿姫,「浅井くんが?」
京介,「ほら、おれって、パパの仕事手伝ってるって言っただろ? 知り合いにもアセットマネージャーとかいう用地仕入れのプロもいるしさ」
椿姫,「ほんと? すごいなあ、浅井くんは。頼りになるなあ」
椿姫の頬が、それこそリンゴのように赤く染まった。
京介,「ちょっと、お父さんとも話しさせてくれよ」
椿姫,「わたしからもお願いするよ。お父さんも、土地とか、権利とか難しい話はよくわからないらしくて、困ってるの」
京介,「力になれるといいけどな」
おれは笑顔を見せた。
計算高く、笑っていた。
;椿姫の家概観 夕方
椿姫,「ここだよ」
地下鉄に乗って東区までやってきた。
この富万別市は九つの区にわかれているが、東区はそのなかでも一番の田舎だ。
周りを見渡すと、ビニールハウスのある畑が多い。
けれど、広い道路には、大型の貨物トラックや、ショベルカーなどが忙しなく闊歩している。
開発が進んでいるのだ。
京介,「そういえば、栄一と宇佐美は、来るのか?」
椿姫,「おうちの住所は教えておいたよ」
京介,「なにしに来るんだろうな」
椿姫,「みんないっしょの方が、楽しいよ」
……栄一はともかく、宇佐美はなんとなく嫌だな。
京介,「んじゃあ、お邪魔します……」
椿姫,「あ、ちょっと待って」
ストップをかけられた。
椿姫,「栄一くんと宇佐美さんが来るのを待ってからにしない?」
京介,「え? あいつら、だいぶ遅くなるって言ってたぞ?」
椿姫,「それまで、どこかで時間を潰してればいいんじゃないかな?」
京介,「どこで?」
椿姫,「こ、公園とか」
京介,「なにすんの」
椿姫,「ブランコ」
京介,「マジで?」
椿姫,「す、滑り台でもいいよ?」
京介,「おいおい」
椿姫,「ごめん。かくれんぼのほうがよかった?」
京介,「しつけえよ。お前の遊びはなんでそんなワンパクなんだよ」
椿姫,「ゲームとかもするんだよ?」
京介,「よし、ゲームをしよう。だから早く家に上げてくれ」
椿姫,「ちょ、ちょっと待って!」
どうやら、本当におれを家に入れたくないらしいな。
椿姫,「浅井くんに迷惑かかるよ?」
京介,「この冬空の下でかくれんぼするほうが迷惑なわけだが?」
椿姫,「だって、勘違いされちゃうよ?」
京介,「なんの勘違いだ?」
椿姫,「うちの家族の勢い、すごいから」
京介,「意味がわからねんだよ、さっきから」
椿姫,「みんなで、一斉に勘違いされちゃうよ?」
京介,「もういい」
おれは椿姫を押しのけて、家の敷居をまたいだ。
椿姫,「わかったよ、わかったから、せめて、いいよって言うまで待ってよ……!」
京介,「お、おう……」
そんなに見せたくないものがあるのか……?
椿姫,「じゃ、じゃあ、待っててね。着替えてくるから……」
椿姫はそそくさと、戸口に消えていった。
しばし待つ。
京介,「…………」
京介,「…………」
京介,「…………」
いや、かなり待った。
――は、入っていいよ。
ようやく家のなかから椿姫の声がした。
京介,「んじゃ、おじゃましまーす」
;黒画面
;※※インターホンは鳴らさず、ドアを開ける音を入れた
……。
…………。
椿姫にかまわず玄関に入ると、すぐさまにぎやかな声が聞こえてきた。
広明,「あ、きたきたー」
紗江,「きたー」
……騒がしい。
パパ,「彼氏も来たか?」
ちろ美,「かれしー、かれしー」
孝明,「わーわー」
椿姫,「浅井くん、ちょっと待ってって!」
おれの背後で椿姫が言う。
しかし、おれは、騒がしい声にひかれるように、靴を脱いだ。
京介,「おじゃまします」
……。
え?
広明,「彼氏だー!」
パパ,「おう、これは、なかなかのイケ面じゃないか!」
紗江,「お姉ちゃん、やるー」
ちろ美,「かれし、かこいいー」
孝明,「お姉ちゃん、ごはーん」
すごい量の視線。
広明,「彼氏、名前なんてーの?」
パパ,「おい広明、それはパパが聞きたいんだ」
ママ,「さあさあ、座って座って。寒かったでしょう?」
ちろ美,「ママー、ごはんまだー?」
孝明,「まだー?」
ひい、
ふう、
みい、
よう
……え?
椿姫,「ご、ごめんね、言ってなかったっけ?」
京介,「ちょっと、なんだこの数は……!?」
パパ,「おい、椿姫。お父さんに紹介しなさい」
お父さんはでっぷりとしたお腹を軽く叩いた。
京介,「あ、ええと……僕は……」
名乗ろうとした。
;ガチャガチャと食器を激しく動かす音。
ちろ美,「わー、こぼしたー、わーん」
京介,「えっと……」
ママ,「こら、ちろ美」
広明,「わ、きったねー!」
京介,「ええと……」
パパ,「椿姫」
ママ,「お父さん、お行儀悪いですよ」
京介,「…………」
おれは救いを求めるように、椿姫を見た。
椿姫,「みんな、ちょっと静かにしてよ」
広明,「お姉ちゃん、ボク、お腹空いたよー」
ちろ美,「わーん」
ママ,「もう、この子ったら……」
孝明,「お姉ちゃん、ご飯ー」
紗江,「ご飯ー」
みんなそれぞれに騒いでいる。
京介,「すいません!」
らちがあかないので、声を張った。
孝明,「びゅーん!」
いきなりスプーンが飛んできた。
椿姫,「こら!」
孝明,「あははは」
京介,「ちょっと、すいません!」
広明,「びゅーん!」
京介,「……うおっ!?」
今度は箸が飛んできた。
パパ,「こら、お前たち。椿姫の彼氏になんてことを!」
椿姫,「か、彼氏じゃないよお父さん!」
赤くなって慌てだす椿姫。
……なるほど、だから椿姫はおれを家に呼びたくなかったんだな。
広明,「びゅーん!」
箸が、おれの顔にヒットした。
椿姫,「もう、みんな落ち着いてよー!」
そんなとき、家のチャイムが鳴った。
栄一,「おじゃましまーす」
栄一の声。
ママ,「はいはい、いらっしゃい。あがってくださいなー」
栄一,「すごい人数」
ハル,「ちょっと、なんすかこれ、大家族スペシャル……!?」
宇佐美と栄一がやってきて、居間の密度はさらに濃くなった。
椿姫,「うぅぅ、だから、いやだったんだよ……」
……帰りたくなってきたな。
;背景 椿姫の家 居間
ハル,「ごちそうさました」
たいへんな夕食だった。
栄一,「椿姫ちゃんって、五人兄妹なんだね」
京介,「しかも、長女なわけか。こりゃ大変そうだ」
子供たちはご飯を食べ終えると、すぐさま眠りについた。
椿姫,「ごめんね、お父さんがへんなことばっかり言って」
ハル,「浅井さん、完全に椿姫の彼氏さんってことになってますね」
京介,「……たしかに、すごい勢いのお父さんだな……」
苦笑すると、脱衣所のほうから声があった。
パパ,「おい、京介くん。風呂入っていけよ?」
京介,「あ、けっこうです」
パパ,「背中流してやるぞ、な?」
京介,「はは……」
椿姫,「お父さん、もういいってばー」
本来の目的を忘れてしまうような楽しげな時間が過ぎた。
ママ,「みんな、デザート食べる?」
椿姫の母親が、洋梨を器に盛ってきた。
ハル,「うまそっすね。がっつりいただきます」
椿姫,「あ、フォークあるよ」
ハル,「いらん」
宇佐美は、梨を手でつまんだかと思うと、小動物の速さで咀嚼していった。
栄一,「おい、京介」
小声で聞いてくる。
京介,「ん?」
栄一,「お前ら、ホントにつきあってんだろ?」
京介,「んなわけねーだろ」
栄一,「隠すなよ。わかるんだよ、オレちゃんクラスになると」
京介,「違うっての、なあ椿姫?」
椿姫,「なあに?」
京介,「どうも栄一が、おれたちが、ほんとにつきあってると思ってるらしい」
椿姫,「ええっ?」
栄一,「だって、ここんところ、いっしょに遊んでるじゃない?」
ハル,「そすね、CDいっしょに買いに行ったりしてましたね」
宇佐美も、梨をほお張りながら会話に参加してきた。
栄一,「忙しい京介くんにしては、珍しいなって」
栄一,「(オメーが特定の女に熱をあげるなんて珍しいっつーこと)」
馬鹿馬鹿しい……。
京介,「たまたまだろ」
馬鹿馬鹿しいが、つきあってみるのも悪くないかもしれないな。
椿姫を落とし、家族の信用を得てから、じっくりと立ち退きの話をしていく……。
ハル,「んじゃまあ、二人は交際してるってことで……」
そのとき、椿姫がはっきりと首を振った。
椿姫,「ごめん、本当に違うよ」
宇佐美と栄一をさとすように、優しく笑っている。
椿姫,「変な誤解があると浅井くんに迷惑だから、はっきり違うって言わせて」
……おれに、迷惑。
やけに心に響く。
広明,「お姉ちゃん、おしっこー」
一番下の弟が、まぶたをこすりながらやってきた。
椿姫,「はいはい、広明、こっちだよ」
手をつないで、廊下に出て行った。
栄一,「椿姫ちゃんは、優しいねー」
ハル,「わたしの仲間その一ですからね」
京介,「…………」
栄一,「どうしたの、京介くん。はっきり違うって言われてショックだったの?」
栄一はまだおれをからかっている。
京介,「ちょっとだけな」
おれも、冗談で返す。
京介,「なんにせよ、椿姫みたいな家庭的な女を嫁にできたら、旦那は幸せだろうな」
もちろん、家庭なんてものは、おれの求める幸せではない。
栄一,「そういえば、宇佐美さんは?」
ハル,「はい?」
栄一,「好きな人とかいないの?」
ハル,「自分すか……?」
ハル,「いますよ、はい」
たいしたことでもないというふうに言った。
ハル,「って、はあ?」
いきなり怒り出した。
ハル,「いないすよ、んなもん」
栄一,「ど、どっちなの?」
ハル,「浅井さんでないことだけは、確実です」
京介,「おれ?」
栄一,「え? じゃあ、ボク? やだなー、ボク年上の人が好きなんだよごめんね、でも考えておくね」
ハル,「なにごちゃごちゃぬかしてんすか」
ぶすっとしながら、洋梨を口にくわえた。
椿姫が、弟を連れて戻ってきた。
広明,「お姉ちゃん、いっしょに寝てー」
椿姫,「いまは、お友達きてるから、だめだよ」
広明,「いっしょ寝てー」
椿姫,「広明っ……困った子だなあ」
宇佐美が手をふいて、立ち上がった。
ハル,「そろそろ帰りますかね」
栄一,「そだね」
おれも帰りたいところだが……。
時計を見る。
そろそろか……。
椿姫,「お母さん、誰かきたよー」
ママ,「はいはい。お父さん、出てくださいな」
パパ,「誰だ、こんな時間に」
風呂上りのお父さんが、玄関に向かった。
広明,「お姉ちゃん、眠いよー」
弟は、まだ駄々をこねている。
椿姫,「もう、しょうがないなぁ……」
椿姫は弟の相手が少しも嫌そうではなかった。
京介,「いつも、いっしょに寝てやってるのか?」
椿姫,「うん、だいたいね。とくに広明は一番寝つきが悪いの」
広明というのが、弟の名前らしい。
広明,「おねえちゃーん」
;SE 戸を思いっきりたたくような音
京介,「……っ?」
玄関から物音がした。
言い争うような声も聞こえる。
栄一,「なにかな?」
椿姫,「お父さん、どうかしたの?」
パパ,「帰れ! 馬鹿もんが!」
ひときわ大きな声が居間にまで届いた。
;SE 戸を勢いよく閉めるような音。
椿姫,「…………」
不安そうな椿姫。
しばらくして、親父さんが戻ってきた。
パパ,「まったくあいつらは……!」
ママ,「あなた、またですか?」
パパ,「今度は、もっとたちの悪そうなのがきたよ」
浅井興業の人間だ。
立ち退き交渉のために、がらの悪そうなのをよこした。
栄一,「どうしたの、椿姫ちゃん?」
椿姫,「な、なんでもないよ。ごめんね」
椿姫は、弟の手をしっかりと握っていた。
報告を聞きたいし、ひとまず、帰るか。
京介,「それじゃ、おじゃましました」
軽く頭を下げた。
ハル,「帰るんすか?」
京介,「ん?」
宇佐美が、おれの前にたちはだかるように見つめてきた。
ハル,「気にならないんすか?」
宇佐美は、台所で話し込んでいる椿姫の両親に軽く目を向けた。
おれは声をひそめた。
京介,「家庭の事情ってやつだろ。深く立ち入るのもどうかと思うぞ」
ハル,「そすか。今日のところは帰りますか」
宇佐美は椿姫に目を向けなおした。
ハル,「おい椿姫。なにか困ったことがあったらちゃんとわたしに言うんだぞ」
椿姫,「え? あ、うん。ありがとう」
ハル,「わたしを頼れ。いいな?」
ビシっと言った。
栄一,「じゃあ、ボクも帰る」
おれたちは挨拶をして、家を出た。
;背景 椿姫の家 概観 夜
椿姫,「今日はありがとう。楽しかったよ」
椿姫が見送りに出てきた。
広明,「ばいばーい」
広明とかいう弟も、眠そうな目をして手を振った。
ハル,「おいしいご飯にありつけて、わたしはとても気分がよかったのでした○」
椿姫っぽいことを言って、宇佐美は背を向けた。
京介,「椿姫。夜、電話していいか?」
椿姫,「え? 何時くらい?」
京介,「わからんが、お前、寝るの遅いだろ?」
椿姫,「うん。でも、どうして?」
どうして、電話なのかという意味だろう。
京介,「いや、なんとなく。ちょっと心配になってさ……」
照れくさそうに頭をかいてみた。
椿姫,「ありがとう。待ってるね」
椿姫はいつもにこにことしているが、このときの笑顔はいつもと勝手の違うものだった。
椿姫,「優しいな。浅井くんは」
京介,「…………」
これで、よし。
栄一,「じゃあねー」
椿姫,「うん、気をつけて帰ってねー」
;背景 主人公自室 夜、明かりあり
帰宅すると、すぐさま携帯をいじった。
椿姫の家にやらせた浅井興業の人間からの報告を聞いていた。
京介,「……手荒い真似はしないでもらいたかったのですが」
おれはいらついていた。
どうやら、家の玄関の戸を蹴ったらしい。
京介,「警察に訴えられたらどうするつもりだったんですか?」
チンピラじゃあるまいし……。
京介,「民事? そりゃ、まっとうな会社の人が言うセリフでしょう? うちは暴力団のフロント企業ですよ? あなたがたの大好きだったバブルの時代じゃないんです」
とにかく、おれは人選をミスった。
もっと慎重にことを運ばなくては。
警察がからんできたら、退散するしかないんだ。
京介,「……ち」
通話を切った。
キーボードを打ちながら、考えをまとめる。
一人になって、パソコンと向かい合っているときが、一番落ち着く。
;ノベル形式
メールソフトを立ち上げて、断片的な情報をざっくばらんに書き込んでいった。
;ノベル形式
立ち退き、椿姫の気持ち『優しさ』→利用?
魔王→かわいいぼうや→ぼうや……。
立ち退き、示談金、金、魔王、かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう。
;通常へ
とりとめのない単語が、画面上にうめつくされた。
自分でも覚えのない言葉を吐き出していく。
そうやって、頭を回しながら、区切りがついたあたりで、自分宛にメールを出す。
受信トレイを開いて、いままで自分が書いたばらばらの情報を、もう一度整理してみる。
これは、知り合いの経営者に教えてもらった頭脳活用法なのだが、それなりに効果があった。
京介,「金の問題じゃないか……」
結論は出た。
椿姫の一家が、なぜ立ち退きを拒むのか。
土地の評価額、代替農地の提供額、引越し代から、もろもろの慰謝料を加えると、存外な大金になった。
立ち退きさえすれば、大家族だろうが、いまより裕福な生活ができるだろう。
それでも出て行かないというのだから、これはもう金の問題じゃない。
気に入らないな。
金の問題じゃないことが、この世にあるわけがない。
……ひとまず、椿姫に電話するか。
椿姫の家にコールした。
間髪いれずにつながった。
椿姫,「あ、浅井くん?」
京介,「おおっ? なんだ、早いな」
椿姫,「うん、電話の前で待ってたから」
へえ……。
京介,「今日は、おしかけてごめんな。メシおいしかったよ」
椿姫,「本当?」
京介,「ああ、なんつーか、家庭的だった」
ああいう食事は久しぶりだ。
椿姫,「今日は、お母さんが作ったけど、今度はわたしが作るね。わたし、こう見えても、料理苦手じゃないんだよ」
京介,「へえ、椿姫がいきがるなんて珍しいな」
椿姫,「え? いきがる?」
京介,「はは、料理が得意とか言ったじゃないか?」
椿姫,「あ、そうだね。いきがったね。これでヘタっぴだったら、ごめんね」
それだけ、おれに心を開いているということだ。
京介,「そういえば、お父さんだいじょうぶか?」
椿姫,「うん、ごめんね。へんなところ見せて」
京介,「地上げ屋が来たんだな?」
椿姫の声が、はっきりとしぼんだ。
椿姫,「なんかね、ヤクザさんみたいな人だって」
京介,「そうか、ひどいな」
椿姫,「わたし、警察に連絡しようかと思ってるんだ」
なかなか勇ましいな。
京介,「警察か……」
椿姫,「うん、どう思う?」
京介,「そうだな……よしといたほうがいいんじゃないかな?」
椿姫,「どうして?」
京介,「警察の人は忙しいからね。相手にされないと思うんだ。直接、暴力を振るわれたりしたのなら動いてくれると思うけど」
京介,「じっさい、そういう事件もあったんだよ。ひどいのになると地元の警察官が地上げ屋と組んでたりするんだ」
実際のところ、山王物産がバックについているのだから、都市開発にあたって、所轄への根回しはあるだろう。
椿姫,「うーん、無理かな?」
京介,「難しいと思うな。民事不介入っていって、基本的に警察は、土地の権利争いみたいな民間のもめごとには関わってくれないんだよ」
まあ、暴対法もなにもない、ヤクザがイケイケだった時代の話だがな。
いまじゃ、ちょっと声を荒げたり、家の敷居をまたいだだけで警官が飛んでくる。
椿姫,「そっか、ありがとう。浅井くんは物知りだなあ」
素直な女だ。
京介,「これからも、ちょくちょく家に顔を出していいか? なにか力になれるかもしれないし」
椿姫,「それは、願ったりかなったりうれしかったりだよ」
……変な言葉づかいだな。
京介,「お父さんとも、話をさせてくれよ」
すると、椿姫はため息をついた。
椿姫,「ごめんね、彼氏彼氏って、うるさくて」
京介,「いや、別にいいよ」
おれには考えがある。
京介,「悪い気はしないから」
椿姫,「え?」
京介,「椿姫みたいな女の子の彼氏って言われて、悪い気がするヤツなんているかな?」
椿姫,「……っ」
黙った。
きっと、電話の向こうで赤くなっているのだろう。
椿姫,「あ、ありがとう。日記に書いておく」
京介,「はは……なんで日記……?」
しかし、椿姫がおれを信頼しているのは間違いないな。
食事をしたときの印象からして、椿姫は家族からとても愛されている。
親父さんは、頑なに立ち退きを拒んでいる。
だが、愛する娘の言うことは聞くだろう。
じっくりと利用して……。
そのとき、椿姫が言った。
椿姫,「あ、あのね、浅井くん……」
京介,「ん?」
椿姫,「わたし、浅井くんに、謝らなきゃいけないんだ」
京介,「へ? どした?」
いかにも深刻そう。
椿姫,「わたしね、浅井くんって、ちょっと冷たい人なのかなって、思ってた時期あるんだ」
京介,「……お、おう」
椿姫,「一年生のときから、ずっとクラスいっしょだったでしょう? でも、あんまり話したことないし、話しかけてもぶすっとしているような印象だったから」
……たしかに、最近まで椿姫に興味はなかったな。
京介,「それで?」
椿姫,「いや、だから、ごめんね」
京介,「え?」
椿姫,「ごめんなさい」
京介,「……それぐらいで」
また、心がうずいた。
謝られるようなことではない。
胸のうちに秘めていた印象ぐらいで、どうして頭を下げるのか。
……。
;-----------------------------------------这是选择支,我做一下标记-----------------------------------
;選択肢
;気に入らない女だ。
;気持ちだけはうけとっておくか。→椿姫好感度+1
気に入らない女だ。
気持ちだけはうけとっておくか。
@exlink txt="気に入らない女だ。" target="*select1_end"
@exlink txt="気持ちだけはうけとっておくか。" target="*select1_end" exp="f.flag_tubaki+=1"
;-----------------------------------------这是选择支,我做一下标记-----------------------------------
京介,「まあ、わかった。じゃあ、明日。学園でな」
椿姫,「うん、電話ありがとう」
椿姫の息づかいが聞こえた。
おれが通話を切るまで、じっと待っているようだった。
;背景 主人公自室
外道。
おれは外道だ。
自分を信頼している少女を利用したとしても、罪悪感は訪れない。
眠るとするか。
ベッドに入り、まぶたを閉じる。
少女のうれしそうな顔が浮かび、慌てて振り払った。
心のなかで鎌首をもたげたのは、きっと良心とかいう感情なのだろう。
だが、真面目な人間が遊びを覚えたら手がつけられないように、一度道を踏み外した人間が、良心なんてものに目覚めると手に負えない。
その日は、いつになく寝つきが悪かった。
;翌日へ;背景 学園 昼
学園には昼から出ていた。
栄一,「おい、京介」
廊下で栄一につかまった。
京介,「よう、昨日の飯はうまかったか?」
栄一,「まずくはなかったかな」
京介,「偉そうだな……」
栄一,「そんなことより、お前、椿姫に気があんのか?」
京介,「しつこいヤツだな」
栄一,「おいおいオレはよー、お前のダチだけどよー、なんつーの、お前がオレをさしおいて女つくろうってのが、許せない感も出していくわけだよ」
京介,「なんだよ、寂しいのか?」
そういえば、こいつはノリコ先生にふられたばかりだったな。
栄一,「つーかたとえば、オレがもし女だったらお前どうするよ」
京介,「いやなたとえを出すな」
栄一,「オレが女で実はお前のことが好きとかいう展開があったら、お前どうよ?」
京介,「すげーバッドエンドじゃねえかよ。気持ち悪いこというなよ」
栄一,「へへ、さすがに冗談だよ。しかし、椿姫を狙うとはお目が高いねぇ」
京介,「まだ、本気で狙っているわけじゃないがな」
栄一,「オレは役に立つぜ?」
京介,「そうなのか?」
栄一,「おうよ、こう見えてもオレは、みんな大好き栄一くんで通ってるからな」
京介,「なるほど、女子の信頼もあついか」
栄一,「お前が泣いて頼めば、椿姫との仲を進展させてやらんでもない」
京介,「……期待していいのか?」
栄一,「おうよ、とりあえず今日の放課後に、オレ扮する暴漢が椿姫を襲う。そこにさっそうとお前が登場するわけだ」
京介,「期待したおれが馬鹿だったわ」
栄一,「はあっ?」
京介,「んなベタな展開にキュンキュンくる女がいるかっての」
栄一,「いや、椿姫ならありえるって」
京介,「……んな馬鹿な……」
とはいえ、強く否定できないおれがいた。
椿姫なら、ありえるか……?
ハル,「なんの相談すか?」
のっそりと宇佐美が顔を出した。
ハル,「邪悪な気配を感じるんですが、邪悪な相談ですか?」
栄一,「いやね、京介くんが、やっぱり椿姫ちゃんと仲良くなりたいみたいでさー」
ハル,「マジすか。めっちゃ邪悪じゃないすか」
栄一,「それで、協力してあげようって話してたの」
ハル,「策を練ってたわけですね。邪悪な策を」
栄一,「なにかいいアイディアないかな?」
ハル,「とりあえず今日の放課後に、エテ吉さん扮する暴漢が椿姫を襲う。そこにさっそうと浅井さんが登場すればどうでしょう?」
京介,「栄一案とまるまる同じじゃねえか」
栄一,「ほら、宇佐美さんもこう言ってるよ?」
京介,「却下だ。つかえねえやつらだなあ」
そのとき、見覚えのある教師が通りがかった。
女教師,「宇佐美さん、よね?」
栄一,「あ、ノリコ先生……」
ノリコ先生は栄一を避けるように、宇佐美に近づいた。
女教師,「あなた、アルバイトしてるでしょう?」
ハル,「あ、はあ……許可はとっていますが、なにか問題でもありましたか?」
女教師,「え? そんな話は聞いてないわ」
ハル,「そんな馬鹿な。担任の先生にちゃんとお願いしたはずですが?」
女教師,「とにかく、放課後、ちょっと職員室に来てもらいますからね」
ハル,「あ、はあ……」
ノリコ先生は去っていった。
ハル,「自分、居残り決定です」
京介,「災難だったな」
ハル,「まあ、なにかの間違いだと思いますが、今日のバイトに入れなくなったらまずいです」
京介,「金がピンチか?」
ハル,「いえいえ、てんちょにまた迷惑をかけてしまうのがなんとも……」
……まあ、おれには関係ないな。
授業が始まった。
;場転
;背景 教室
京介,「なあ椿姫っ」
休み時間になると、こちらから積極的に話かけた。
京介,「今日も、遊びに行っていいか?」
椿姫,「今日も?」
椿姫の顔が、どことなくうれしそうに見えるのは、きっと気のせいじゃない。
椿姫,「広明もいっしょでいい?」
京介,「広明っていうと……昨日、玄関まで見送ってくれた?」
椿姫はうなずいた。
椿姫,「朝に、遊んでってせがまれちゃったの」
京介,「かわいい弟じゃないか」
褒めるとさらに頬を緩ませた。
椿姫,「いま五歳なんだ。夜更かしばっかりして大変なの」
京介,「まあ、いいだろう。お父さんとも話をさせてくれよな?」
椿姫,「わかったよ。いっしょに帰ろう?」
椿姫,「今日もまた、浅井くんといっしょです。うれしいな、楽しいなっ」
はしゃぎだした。
栄一,「おい京介、今日は部活にしようぜ?」
京介,「いいよ。アレは、もう飽きたよ」
栄一,「つめてえ野郎だな。なんだよ、そんなに椿姫といっしょにいたいか?」
京介,「うるせえな。てめえはとっとと、新しい恋を探すがいい」
栄一,「くぅぅ、闇討ちしてやるっ! 椿姫じゃなくてお前をボッコにしてやる! 椿姫の前で大恥かかせてやる!」
栄一,「いや、待て待て、そしたら、それをきっかけに椿姫との仲が進展したりして……ちきしょう、どっちに転んでもOK牧場博多駅前支店ってヤツじゃねえか」
おれは栄一を無視して、携帯をいじり始めた。
花音のヤツは合宿とやらで、学園は休んでいる。
平和だな、まったく……。
;背景 廊下 夕方
放課後になった。
おれと椿姫も、下校する生徒の群れに混じった。
椿姫,「今日は、栄一くんとおハルちゃんは来ないんだよね?」
京介,「おハルちゃん?」
呼び方が気になった。
椿姫,「さすがに勇者っていうのもどうかと思うし、かといっていつまでも、宇佐美さん、って呼ぶのもいやだったの」
京介,「それにしても、おハルちゃんはどうかと思うぞ?」
椿姫,「そうかな? かわいくない?」
京介,「なんか朝の連続テレビ小説に出てきそうだぞ」
椿姫,「ああ、わたし、毎朝それ録画してるよ?」
京介,「はは……」
学園生らしい、他愛ない会話を意図的に続けた。
京介,「宇佐美は、職員室らしいな」
椿姫,「職員室?」
けげんそうに首をかしげた。
京介,「なんでも、アルバイトの許可を得てなかったとか」
椿姫,「怒られてるのかな?」
京介,「だろうな。許可なしでバイトしてたんだから、仕方ないだろう」
椿姫,「本当に、許可もらってなかったのかな?」
京介,「いや、わからんが、先生はそんなことを言ってたな」
不意に、椿姫の足が止まった。
椿姫,「わたし、ちょっと職員室行ってくる」
京介,「え? なんで?」
椿姫,「きっと、誤解だと思うから」
なんの真似だ?
京介,「いや、椿姫が行ったところでどうなるってんだ?」
椿姫,「わたし、クラス委員だし」
京介,「だから?」
椿姫,「お友達だし」
京介,「うん、だから?」
椿姫,「おハルちゃんって、変わってるけど、きっと最低限の常識は持ち合わせているはずだよ」
京介,「だから、なんなんだよ?」
さすがに辟易した。
椿姫,「なにか、力になれるかもしれない」
京介,「あ、おい……!」
椿姫は、早足で廊下を進んでいった。
;黒画面
職員室の前で、三十分ほど待った。
時間の無駄としか思えない。
……お友達だって?
椿姫が、宇佐美のなにを知っているというのか。
;背景 校門 夕方
ハル,「いや、助かった。礼を言うぞ、椿姫」
京介,「…………」
宇佐美は、無事に解放されたらしい。
椿姫,「よかったね、誤解が解けて」
ハル,「椿姫のおかげだ」
京介,「なにがあったんだ?」
ハル,「椿姫がいきなり、説教くらってるわたしと先生の間に割って入ったんすよ」
京介,「それで?」
ハル,「おハルちゃんは悪くないです!って」
京介,「びっくりだな」
ハル,「いや、わたしも先生もいろいろ混乱しました。つーか、おハルちゃんってなんだ?」
椿姫,「あだ名だよ。かわいいでしょ?」
ハル,「却下だ」
椿姫,「ええっ……もう日記に書いちゃったよ?」
ハル,「とにかく、混乱しているわたしたちに追い討ちをかけるように、椿姫はまくしたてました」
椿姫,「ごめんね、わたしも慌ててたみたい」
ハル,「なんやかんやあって、けっきょく、アルバイト許可証が見つかって、誤解が解けたんすよね」
京介,「へえ……よかったな。すごいじゃないか椿姫」
けれど、椿姫は何事もなかったかのように、微笑んでいた。
椿姫,「ううん、わたしも勇者様のお役に立ててうれしいよっ」
当然のことをしたまでだと、顔に書いてあった。
なんの嫌味も、得意そうな様子もなかった。
ハル,「うむ、わたしはすごいうれしい。わたしが男だったら、お前を監禁して毎晩愛でてやるところだ」
……本当に、感謝しているのかコイツは?
ハル,「いずれ、借りは返す。というわけで、バイトあるんで帰ります」
椿姫,「じゃあねー」
宇佐美はさっさといなくなった。
椿姫,「じゃ、わたしたちもいこっか?」
京介,「ああ……」
こういうことがたまにある。
椿姫はがむしゃらに行動して、宇佐美を助けた。
そこに、なんの打算もない。
こういうことがたまにあるから、しっくりこない。
;背景 椿姫の家 居間
椿姫の家に上げてもらうと、すぐさま家族に囲まれた。
京介,「すみません、また来てしまいまして」
パパ,「いやいや、かまわんよ。毎日来なさい。うちがにぎやかになっていい」
京介,「はは……すでに十分すぎるくらいにぎやかだと思うんですが?」
子供たちはみんな人懐っこい。
広明,「お兄ちゃん、遊んでー」
ちろ美,「あたしが遊んでもらうのー!」
おれの足元にまとわりついて、わーわー言っている。
パパ,「いや、浅井くんのことはね、椿姫から聞いているんだよ」
椿姫,「お、お父さん!」
パパ,「椿姫ももう年頃なのに、彼氏の一つや二つできんもんかと心配していたんだ」
椿姫,「だから、彼氏じゃないってば」
パパ,「親ばかじゃないが、椿姫はしっかり者でね。弟たちの面倒ばかり見てて、自分のことはいつも二の次なんだ」
京介,「はあ、それはなんとなく……」
パパ,「どうか娘をよくしてやってください」
後退した頭が、軽く下がった。
優しいまなざし。
どうして椿姫のように優しい娘が、優しいままに育ったのか。
その理由が、かいま見れたような気がした。
京介,「……ところで、お父さん」
切り出した。
京介,「どうも、この辺の土地をめぐってごたごたしていると聞きましたが?」
親父さんは意外そうな顔をした。
椿姫,「あ、お父さん。浅井くんはね、そういうの詳しいんだって。なんでも、浅井くんのお父さんが、偉い社長さんらしくて」
パパ,「へえ……お父さんは、なんの会社を?」
京介,「いろいろと。金融から不動産もやってます」
パパ,「ほほう、立派な方だね」
京介,「なにか、お力になれないかと思いまして」
パパ,「君が?」
京介,「はい、僕も正式な社員ではないのですが、父の仕事をよく手伝っているので」
椿姫の親父さんは、また深い笑みを浮かべた。
……どうも信用されてはいないようだ。
パパ,「気持ちはうれしいけど、うちの問題はうちで考えるよ」
京介,「デベロッパーのバックには山王物産がついてますよ?」
言うと、親父さんの眉がわずかに跳ねた。
京介,「この辺の不動産に詳しいブローカーに聞きましたが、東区の土地は、どこもかしこも高値で取引されてるそうじゃないですか」
京介,「もし、立ち退かれるのであれば、この家と土地だけ見ても、そうとうな額になるでしょう」
京介,「リンゴの畑を入れればさらに……。悪い取引ではないと思うのですが?」
親父さんは、みるみるうちに真剣な顔つきになった。
パパ,「……いや、すまない。椿姫と同じ年ごろの子だと思って、浅井くんをあなどっていたようだ」
京介,「立ち退かれないのは、やはり、土地に愛着があるからでしょうか?」
パパ,「君の言うとおりだよ。祖父の代から、続いている土地でね。いくらお金を積まれたって出て行くわけにはいかないんだ」
京介,「難しいでしょう? 山王物産のような大企業が推進している観光事業開発ですからね」
パパ,「うん、地上げ屋というのは、面倒なもんだね」
京介,「地上げ屋というと、イメージが悪いですね……」
もともとは、都市開発のプロフェッショナルを指す言葉だった。
それが、バブル期に流行のように使われた荒っぽい手口や嫌がらせのため、負の印象が定着してしまった。
パパ,「きのうは、まるでヤクザみたいなのが来たんだ」
京介,「正直なことろ、お父さんが折れるまで、いつまでも来ると思いますよ?」
パパ,「……そういうものなのかな?」
京介,「彼らの粘り強さは、尋常じゃありませんから」
パパ,「なんにせよ、うちを出て行くつもりはないよ。子供たちもいることだしね」
孝明,「なあにお父さん?」
ちろ美,「どーしたの?」
パパ,「みんなこの家が好きだろう?」
孝明,「うんっ!」
飛び跳ねるようにうなずいた。
広明,「悪い人、ボクがやっつけるよー!」
京介,「…………」
……まあ、話はこの辺にしておくか。
おいおい説得にかかればいい。
ママ,「さあさ、そろそろご飯ですよ?」
母親が料理を運んでくる。
広明,「わー」
椿姫,「ごはん、ごはん」
いっせいに沸き立つ七人の家族。
椿姫も、いっしょになって騒いでいた。
京介,「なんにせよ、椿姫のためにも協力させてください」
親父さんは、満足げにうなずいた。
;背景 場転
京介,「ごちそうさまでした」
椿姫,「お粗末さまでした。おいしかった?」
夕食の大半は母親が作ったようだが、椿姫も一品そえたらしい。
京介,「うん。味噌汁とか腹にしみるな。あんまりこういう飯は食わないし」
椿姫,「浅井くんリッチだもんね。いつも、高そうなもの食べてるのかな?」
京介,「……そんなことはないよ」
あまり食に金はかけないが、つきあいで外食することは多い。
紗枝,「ねー、広明はー?」
不意に、妹の一人が椿姫の腕をつかんだ。
椿姫,「あれ?」
あたりを見回すが、広明という少年の姿はない。
椿姫,「トイレかな?」
京介,「見てこようか?」
椿姫,「ううん、広明!?」
声を張った。
返事はない。
パパ,「まさか、またか?」
京介,「……また?」
親父さんだけでなく、椿姫も、その一言に反応した。
椿姫,「外かな。見てくる」
切迫したものがあった。
京介,「どういうことだ?」
あとを追った。
;背景 椿姫の家概観 夜
冷たい夜気が肌をなでた。
京介,「椿姫、どうした?」
コートを着込んだ椿姫は、白い息を吐きながら言った。
椿姫,「広明ね、いたずらっ子なの」
京介,「……いたずらっ子?」
椿姫,「突然いなくなったりして、わたしたちを驚かそうとするの」
京介,「つまり、前にもそういうことがあったのか?」
椿姫,「前もね、夜中にいきなり家を飛び出して、大騒ぎになったことあるの」
京介,「元気な子だな。はた迷惑すぎてむしろ勇ましいな」
椿姫,「怖いもの知らずな性格ではあるんだけどね」
京介,「大物になりそうだな」
冗談ぽく言う。
椿姫,「とにかく、探さなきゃ」
京介,「どこを?」
椿姫,「えっと……」
見当がつかないようだ。
手伝ってやるとするか。
椿姫の好感を得るためにも、な。
京介,「前にもこういうことがあったと言ったな?」
椿姫,「うん?」
京介,「その弟、広明くんだっけ? 前は、どこで見つかったんだ?」
椿姫,「近くの公園だけど……」
京介,「なら、まずはそこをあたってみよう」
椿姫,「うん……」
五歳の弟がこんな時間に一人で外出したら、不安にもなるか。
東区の夜は、不気味なほどに静まり返っていた。
;背景 公園 夜
椿姫,「広明ーっ!?」
寒空の下、声を張り上げていた。
椿姫,「隠れてないで出てきてよー?」
近所迷惑になるかもしれない、と思った。
近くに住宅が密集していないのが幸いだった。
おれも声を出す。
京介,「おーい、椿姫お姉ちゃんも探してるぞ!?」
しかし、おれたちを驚かせるのが目的なら、隠れているのだろうな。
いくら呼んでも出てくるとは思えない。
家族を不安にさせるのは、かまってほしいという気持ちの裏返しなのだろう。
椿姫,「どうしよう、どこ行っちゃったんだろ?」
京介,「……栄一でも呼ぼうか?」
椿姫,「栄一くん?」
京介,「ああ」
携帯を取り出す。
椿姫,「あ、いいよ。浅井くんだけでも迷惑なのに……」
京介,「いいからいいから」
;SE 携帯トルルル
電話をかける。
すぐにはつながらなかった。
栄一,「なんだよ、椿姫にふられたか?」
なにやらうれしそうだった。
京介,「は?」
栄一,「いや、なぐさめて欲しいわけだろ? こんな時間に電話してくるってことはよ。ったく、京介ちゃんはマジオレがいないとなんにもできねえなー」
説明するのも面倒だった。
京介,「とにかく、来てくれないか?」
栄一,「わーったよ。じっくりとなぐさめてやろうじゃねえか」
京介,「実は、まだ、東区の公園にいるんだ」
栄一,「公園ってーと、駅降りたところの?」
京介,「そうそう」
栄一,「ひゃはは。感傷にひたってるわけね? オッケー、いっしょにブランコでも乗ろうぜ?」
京介,「すまんな」
通話を切った。
栄一は最後まで、ゲスな笑いをやめなかった。
京介,「くるって」
椿姫,「本当? 悪いなあ。栄一くんも優しいなあ……」
京介,「心配なんだろ、弟が」
顔を見ればわかる。
一段と、寒くなってきた。
椿姫,「広明と、今日、遊ぼうって約束してたの……」
京介,「なるほど。お姉ちゃんに遊んでもらえると思っていたのに、おれが来たからすねたのかな?」
椿姫,「あ、浅井くんは悪くないよ? ごめんね、気をつかってもらって」
京介,「…………」
頭を下げられてしまった。
京介,「まあ、子供が隠れられそうな場所なんてたかが知れてる。とっとと探そう」
おれたちは、二手にわかれた。
;場転
……。
…………。
家を出て、三十分ほど過ぎただろうか。
公園のなかをくまなく探したが、広明くんの姿はなかった。
京介,「……一度、戻ろう」
椿姫の顔色をうかがいながら、提案した。
京介,「広明くんも、戻ってきてるかもしれないし。というより、待っていれば必ず戻ってくると思うぞ?」
椿姫,「必ず?」
京介,「ああ、まさか五歳の子供が野宿するわけもないし」
椿姫,「でも、危ない目にあってるかも」
京介,「危ない目って、まさか、ゆうか……」
誘拐、という言葉を飲み込んだ。
冗談にしてもセンスがない。
京介,「夜だしな。カゼをひいてしまうかもな」
椿姫,「ああ、もう、広明ったら……」
暗くてよく見えなかったが、椿姫のコートは公園の土で汚れていた。
かがんだり、砂場に入ったり、茂みをかきわけたりと、必死になっていたのだろう。
京介,「戻ろう」
……なにか忘れているような気がした。
椿姫,「あ、栄一くんは? うちに来てくれるの?」
京介,「それだ」
椿姫,「え?」
京介,「ああ、いやいや……栄一が、そろそろ来るんじゃないかな」
そのとき、公園の入り口に人影があった。
小柄だが、広明くんにしては大きすぎる。
栄一,「やあやあ、どうしたの二人で」
京介,「おう、よく来てくれたな」
椿姫,「ごめんね、寒いのに」
栄一,「え?」
栄一は、おれをチラ見した。
栄一,「どうしたのかな、二人、仲よさそうじゃない?」
栄一,「(おいおいなんだよ、コレ? どうなっちゃってんの、京介ちゃんよー、オマエがふられたっていう展開じゃねーの?)」
京介,「椿姫の弟が、ちょっと行方不明なんだ」
栄一,「あ、そうなんだ……へえ……」
椿姫,「ありがとう、栄一くん。わざわざ来てもらっちゃって」
栄一,「(はあ? ざけんなよ、んな話聞いてねえっつーの!)」
京介,「すまんな、いっしょに探してくれるんだってな」
栄一,「え? あ、ボクは、えっと……」
椿姫,「ありがとう」
栄一,「う、うん、当然だよね。お友達なんだし」
栄一,「(チキショー、京介テメエ、話がちげーじゃねえか!?)」
京介,「いや、おれはウソはついてないから。お前が勝手に勘違いしてただけだから」
栄一,「(くうぅぅ……)」
三人で、家に向かった。
;背景 椿姫の家 玄関
帰宅途中、道端の畑のなかや、電柱やポストの影を探したが、とうとう広明くんを見つけられなかった。
京介,「……困ったもんだな」
栄一,「(あー、ウゼえ、マジうぜえ、なんでオレちゃんが、ガキなんか探さなきゃなんねえんだよ)」
栄一の心の声は、なんのホラーかわからないが、おれにしか聞こえない。
栄一,「(つーか、さみー、マジさみー、冬ムカツク、マジコロス、冬コロス、さみー、あー、あー!)」
京介,「(だ、だいじょうぶか、栄一?)」
栄一,「(いやいやこりゃやべえよ、マジやべえよ、オレちゃんがこんな苦労を味わわされるなんてよー)」
京介,「(え? お前、来たばっかじゃね? おれと椿姫は寒空の下でずっと探してたよ?)」
栄一,「(こりゃよう、その広明ってガキんちょを見つけ出したら、オレマジやべえよ、マジ大人をからかった罪っつーの? 人生の厳しさ教えちゃうよぉ?)」
……たいしてなにもしていないくせに、かなりお怒りになられていた。
そのとき、椿姫が小さくうめいた。
椿姫,「あ……広明?」
栄一,「なにぃいぃっ!?」
家の塀の影、暗がりからひょっこり顔を出した。
広明,「えへへ……びっくりした?」
いたずらっ子の笑みだった。
椿姫,「広明……」
ようやく肩の力が抜けたようだ。
広明,「ずっと、ここに隠れてたんだよ?」
椿姫,「もう……」
広明,「お姉ちゃんたちが、家を出てくのも見えたんだけど、隠れてたの」
悪びれた様子もない。
広明,「どう? わかんなかったでしょ?」
子供のやることとはいえ、ちょっとたちが悪いな。
おれはともかく、椿姫は本気で心配していたのだ。
広明,「あー、楽しかったー」
伸びをする弟の前で、椿姫が膝を折った。
同じ目線で、向き合う。
椿姫,「広明」
広明,「どしたの、お姉ちゃん?」
さすがに、叱りつけるのかと思った。
いや、期待していた。
いつも幸せそうに笑っている椿姫の、別の一面が見られるのかと……。
椿姫,「良かったよ……」
それだけ言って、抱きしめた。
おれは、ちらりと、椿姫の横顔を見た。
弟の無事をただただ喜ぶ、姉の表情があった。
椿姫,「本当に、良かったよ……」
弟を安心させるように、また幸せそうに笑っていた。
広明,「お姉ちゃん、ボクをたくさん探した?」
椿姫,「うん」
広明,「寒かった?」
椿姫,「平気だったよ。広明は?」
広明,「ボクは寒くなかった。もう、眠いよ」
椿姫,「そっか、じゃあ、いっしょに寝ようか?」
広明,「うん。やったー!」
椿姫は立ち上がって、弟の手を引いた。
京介,「ちょっと、椿姫……」
気に入らなかった。
これでは、広明はまた同じことをする。
それを口にしようとしたとき、広明が言った。
広明,「ごめんね、お姉ちゃん」
京介,「…………」
広明,「もうしないよ」
椿姫,「そう?」
広明,「うん。しない。ぜったいしない」
京介,「どうしたんだ、急に?」
広明,「だって、お姉ちゃん優しいんだもん」
つながれた姉弟の手のひらに、力がこもったように見えた。
椿姫,「二人とも、ごめんね、ありがとう」
京介,「ああ……」
居心地が悪かった。
敷居の外で、立ちつくした。
家族の結束を見せつけられ、所在なさげに突っ立っている。
栄一,「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっとぉっ!?」
沈黙を破ったのは栄一だった。
栄一,「え? ウソォ? オレなにしに来たの? ていうかマジさみぃんですけどぉ?」
普段学園でかぶっているいい子ちゃんの仮面は捨てたようだ。
椿姫,「あ、ご、ごめんね。栄一くん。ご飯でも食べていく?」
栄一,「ごはんー?」
椿姫,「うん。肉じゃがだけど」
栄一,「え? マジ肉じゃが? ウソ、いいじゃん。ボク肉じゃが大好き。甘いもんの次に大好き」
椿姫,「ふふっ、じゃあ入って」
京介,「おれは、もう帰るわ」
背を向けた。
椿姫,「え? お茶でも飲んでいかない?」
京介,「いや、ちょっと用事あるし」
椿姫,「お風呂入っていかない?」
京介,「はは……いいってば」
椿姫,「ごめんね。きっちりとお礼したくて」
京介,「じゃあ、明日な」
歩みだす。
栄一,「じゃあなー」
冷たいはずの夜風が気にならなかった。
知恵熱というやつだろうか。
おれは、どうやってこの家族に立ち退きを迫るべきかを真剣に考え始めていた。
;背景 公園 夜
;ノベル形式
今夜は、ひどく冷える。誘拐はもっとも卑劣な犯罪だとされている。しかし、卑劣でない犯罪などあるのだろうか。"魔王"は、これから犯そうとしていることが罪であることをしっかりと認識していた。
 ひと通りの調べは済んだ。
 結論は出た。美輪椿姫の一家が、家を出て行かないのは金の問題ではない。大正時代から続いた土地だった。父親にも意地があるだろう。立ち退きを求めるにしても、スマートな方法では、どれくらいの時間を要するかわからない。また、時間を費やして説得を試みたとしても、いい返事が得られるとは思えなかった。
金の問題ではない。しかし、そこに大きな落とし穴がある。
 金の問題ではないことが、ままある。それは認める。たとえば情であり、家族愛であり、なんらかの矜持である。しかし、そういったものは、ほとんどの場合、金の問題にすりかえることができるのだった。
 "魔王"の構想は、金の問題ではないことを金の問題にしてしまうことだった。
その手段に、犯罪という形を取った。それも完璧と思われる形を。
「あとは、宇佐美がどう動くか……」
幽鬼のようにおぼろげな足取りで、その場をあとにした。
;翌日へ;黒画面
翌日すぐに、秋元氏のところに出向いた。
秋元,「やあ、京介くん。おはよう」
カウンセリングルームはいつも清潔で、秋元氏はいつも仏のように微笑んでいる。
京介,「おはようございます。今日も、きっちり一時間でよろしくお願いします」
秋元,「わかってるよ。学園もあるだろうしね」
学園は午後から出ることにしていた。
秋元,「さて、前回は、どんな話をしていたっけ?」
京介,「僕の生い立ちでしたね」
秋元,「よく覚えてるね」
京介,「はあ……」
秋元,「いや、失礼。前回の最後にも、君のことを忘れっぽい性格だなんて言ってしまったね」
京介,「そうでしたか? 覚えていませんし、気にもしていませんが?」
秋元,「覚えてない?」
京介,「……なんです?」
おれは軽く笑う。
京介,「まさか、おれが記憶に関する病気でも持っているとでも?」
秋元,「いやいや、安心して。君が診察料を払い忘れたことはないよ」
京介,「それはよかった……」
なかなか口達者な先生だ。
秋元,「今回、聞いてみたいのはね、京介くん」
子豚のようにふっくらとした丸顔が、少し迫ってきた。
秋元,「君の、お父さんのことなんだ」
京介,「浅井権三、ですか?」
違うという予感はあった。
秋元,「実のお父さんだよ」
直後、胃がしめつけられた。
京介,「商社の人間でした」
秋元,「うん」
京介,「借金はありましたが、素晴らしい父だったと思います」
秋元,「なるほど」
京介,「それ以上は、話すことはありません」
目を背けた。
秋元,「……亡くなっているのかな?」
京介,「権三から聞いてませんか?」
秋元氏とは権三の紹介で知り合った仲だ。
秋元,「なにも」
じっと見据えてくる。
京介,「とにかく、話題を変えていただけませんか? 思い出したくもないんです」
決して、思い出したくない。
いつも、鍵をかけている記憶の扉だった。
秋元,「それだけ嫌な出来事があったんだね?」
京介,「秋元さん、別の話題を」
まったく……。
こっちは、まともにカウンセリングなんて受けてやるつもりは毛頭ないんだ。
ただ、学園の出席日数をごまかせる書類が欲しい。
だから、金を払って、茶番みたいな会話を続けていればいいんだ。
秋元,「京介くん、君にやる気がなくても、私はいつも本気なんだよ? 仕事だからね……」
まるで、心のうちを見透かされたよう。
秋元,「遊びじゃないんだよ、ね?」
その瞬間、人は見かけによらないという通説が、頭をよぎった。
忘れていた。
京介,「あなたは、権三とお知り合いなんでしたね」
子豚が、一瞬だけ山猪の形相となって、おれをにらみつけたのだ。
秋元,「君になんの異常もないというのなら、すぐにも通うのをやめてもらう。重ねて言うが、私だって仕事なんだよ。時間は貴重だ。君ならわかるね?」
京介,「ということは、秋元さんは、本気で、僕に異常があるのではないかと疑っているんですね?」
秋元氏はあいまいに首を振った。
けっきょく、返事はなかった。
京介,「まあいいです。うちの父の話でしたね?」
秋元,「名前を聞いてもいいかな?」
京介,「利かつ,勝です」
あえて、苗字は言わなかった。
秋元,「商社に勤めていらっしゃったと?」
京介,「山王物産です」
秋元,「ははあ……あの……」
山王物産に勤めているという肩書きだけで、たいていの人は、立派だとか高学歴だとかいう印象を持つ。
そして、それは間違ってはいない。
秋元,「じゃあ、転勤が多かったんじゃないかな? 海外とか行ったかい?」
京介,「いや、僕が物心ついたときは、それほどでもなかったような気がします。たしか、本社の経理の仕事を任されるようになったとか……」
秋元,「そっか。君は、ちょっと普通の子とは違うから、帰国子女なのかと思ったよ」
おれは小さく笑って、首を振った。
秋元,「ところで、君のお父さんは、商社に勤めていて、どうして借金を……?」
京介,「マイホームを建てたかったようです」
冗談だった。
秋元,「偏見かもしれないが、山王物産の経理をしていたような方が、マイホームを持つのに消費者金融を頼るとは思えないよ」
秋元氏の言うとおり、父は、借金を返すために闇金にまで手を出していた。
京介,「騙されたんですよ」
秋元,「騙された?」
京介,「よくある話です。信頼していた友人の、連帯保証人になってしまったんです」
そのとき、秋元氏が息を呑んだ。
秋元,「……ちょっと待ってくれないか?」
京介,「…………」
どうやら、気づいたようだ。
秋元,「君のお父さんというのは……」
畏怖にも似た表情が、顔に広がっていった。
秋元,「ひょっとして……」
京介,「その通りです」
秋元,「利勝、といったね?」
おれは、自分の心が急速に冷えていくのを自覚していた。
京介,「そう。あの、鮫島利勝ですよ」
…………。
……。
;黒画面
その後、あっという間に時が過ぎた。
秋元氏は、何も言わず、ずっと目を閉じていた。
退室して、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
学園へ、向かった。
;背景 学園 屋上 昼
花音,「兄さん、兄さんっ」
登校すると、すぐさま花音にまとわりつかれた。
花音は、最近は合宿とやらで、ずっと学園を休んでいたようだ。
花音,「聞いて聞いて聞いてー!」
京介,「お、おう、なんだ?」
花音,「みんなも聞いてー!」
ハル,「なんすか」
椿姫,「なにかな?」
栄一,「んー?」
一同の前で、えっへんとばかりに胸を張る。
花音,「のんちゃんね、今度テレビ出るよー!」
椿姫,「わ、すごーい!」
栄一,「へええ、いついつ!?」
花音,「生放送だよー」
栄一,「うんうん、いつ?」
花音,「ゲスト出演するの!」
栄一,「だからいつなの?」
花音,「『二十四時間ぶっ続け生テレビ』っていう番組だよー!」
栄一,「(だから、オレの話を聞けよ、んのアマァ!)」
京介,「ほほー、いいね。あの企画に呼ばれるなんて、花音もビッグになったなあ」
椿姫,「どんなことするの?」
花音,「んとねー、セントラル街でね、夜中ね、マラソンしてる人に応援するんだって」
京介,「夜中、か」
花音,「ちょうど、のんちゃんのいるところが、マラソンの休憩地点みたいで、のんちゃんが、お水とか渡すの」
京介,「そうか、人もいっぱい集まるだろうな」
人が集まれば、金も集まるというもの。
京介,「偉いぞ、花音」
花音,「やったー! 兄さんに褒められたー」
そのとき、宇佐美がぼそりと言った。
ハル,「自分も、テレビ経験あるんすよね」
京介,「は?」
花音,「えー、本当?」
ウソに決まっている。
京介,「なんだよ、鬱系芸人として、お笑い番組にでも出たのか?」
ハル,「いえいえ、アーティストとして」
栄一,「芸人?」
ハル,「いわゆるひとつの芸人ですね」
京介,「やっぱり芸人なんじゃねえかよ」
ハル,「まあ、わたしの話はいいじゃないですか」
京介,「お前からふって来たんだろうが!」
花音,「うさみん、おもしろいなー。お笑い芸人さんだったんだねー」
椿姫,「みんなすごいな。わたしだけ特に目立った活動とかしてないけど、わたしはそれでいいんです○」
昼休みは馬鹿騒ぎをして終わった。
;背景 校門前 夕方
下校の時間となって、おれは教室を飛び出していた。
通話をしながら、生徒たちの間を縫うように歩いた。
京介,「ああ、浅井京介です。いまからそちらに向かいますので……」
山王物産のデベロッパーと話をしなければならない。
あまり面を合わせたくはないが、地上げがはかどっていない以上、顔を合わせて謝罪しなければならなかった。
椿姫,「あ、浅井くん!」
椿姫の声が聞こえた。
おれはかまわず、電話を続けていた。
京介,「……え、ちょっと遅いほうがいいですか? はあ、なるほど……ええ、私はかまいませんが?」
待ち合わせの時間まで間ができた。
そこに、タイミングよく椿姫が言った。
椿姫,「浅井くん、ちょっと遊んでいかない?」
おれは挨拶をして電話を切ると、椿姫に顔を向けた。
京介,「一時間くらいだったらいいぞ?」
椿姫,「うん」
京介,「セントラル街でいいか?」
椿姫,「うんうんっ」
子供のように従順にうなずいた。
椿姫,「昨日のお礼がしたかったんだよ」
京介,「昨日?」
椿姫,「広明、探してくれたでしょう?」
京介,「…………」
椿姫,「え?」
京介,「あ、ああ、そんなことでお礼か……」
椿姫,「ふふっ、変な浅井くんっ」
おれたちは、セントラル街に足を運んだ。
;セントラル街 夕方
夕時のセントラル街は、いつも人で溢れている。
京介,「で、どんなお礼してくれるんだ?」
椿姫,「うん、クラシックのCDとかどうかなと思って」
京介,「え? くれるの?」
椿姫,「なにがいいかな?」
京介,「気持ちはうれしいけど、欲しいCDは全部買ってるから」
椿姫,「あ、それもそうだね。浅井くん、クラシック通だもんね」
京介,「え? マニア? マニアだって? マニアじゃねえよ、おれ程度がマニアを自称したら、本当のマニアの人に失礼だぞ」
椿姫,「(べ、別にマニアとか言ってないんだけどな……)」
京介,「あ、でも、待てよ。そろそろ、アレが出るような……」
椿姫,「アレ?」
京介,「ちょっと気に入ってる演奏家がいてさ。いまは活動を休止しちゃったらしいんだけど、とりあえずCDは出てるんだよね」
版権を持っている側は、クリエイターが活動をやめようがなんだろうが、あの手この手で商品を出し続けるものだ。
椿姫,「なんの楽器?」
京介,「ヴァイオリンだよ」
椿姫,「へえ、バイオリンなんだ」
京介,「バイオリンじゃなくて、ヴァイオリン。ヴァ、だよ、ヴァ!」
椿姫,「ご、ごめん……」
京介,「その人のエールが最高でさ」
椿姫,「エールっていうと?」
京介,「G線上のアリア。マジ泣けるよ。最近になって、鎮魂歌に使われてるのもわからんでもない。むしろおれが鎮魂されたい」
椿姫,「えっと、G線上のアリアって、鎮魂歌なの?」
京介,「まあ、そうでもないんだろうけどね。ほら、アメリカで大きなテロがあっただろ? そのときにも使われたんだよね」
椿姫,「へえ、知らなかった」
京介,「なんにせよ、楽しみにしてるよ」
椿姫,「楽しそうだね」
京介,「ああ……」
椿姫,「楽しそうだね」
京介,「なんで二回言うんだよ」
椿姫,「浅井くん、クラシックの話になると、生き生きするね」
京介,「はあ……かもな」
椿姫,「浅井くんが楽しそうだと、なんだかわたしもうれしいよ」
京介,「……そうか」
気恥ずかしいことを平気でいうヤツだな。
京介,「とりあえず、CDの礼はいいよ。そうだな、コーヒーでもおごってくれ」
椿姫,「うんっ」
;背景 喫茶店
京介,「お前って、バイトしてるわけじゃないよな?」
椿姫,「そだよ?」
京介,「じゃあ、小遣いもらってるのか?」
椿姫のおごりで頼んだコーヒーをちらりと見た。
椿姫,「ううん、うちってそんなに裕福なわけじゃないからね」
京介,「貯金してるのか?」
椿姫,「夏休みとお正月にアルバイトしてたんだよ。それで、なんとかやりくりしてるの」
京介,「普段は、しないんだな?」
椿姫,「弟を保育園に迎えに行ったりするからね。アルバイトしている暇はないかな」
京介,「なるほど、それでこの前も、すぐに帰ったんだな?」
椿姫とここに来るのは二度目のような気がする。
前は、ここで、少し話をしただけで、別れたのだ。
椿姫,「今日も、もう少ししたら帰るね」
京介,「広明くんを迎えに行くんだな?」
椿姫はうなずいた。
おれはそれとなく、探りを入れていくことにした。
京介,「なあ、お前の家って、家族多いよな?」
椿姫,「そだね、びっくりしたでしょ?」
京介,「家計とかどうなの? けっこう苦しかったり?」
椿姫,「どうかな、苦労したことはないけど……?」
おれは神妙な顔をしてみせた。
京介,「ちょっとさ、知り合いの不動産屋に聞いてみたんだけどな」
椿姫,「うん」
京介,「やっぱり、あの辺の土地ってさ、いま注目されてるみたいで、かなりの値がつくんだってさ」
椿姫,「……そうらしいね」
京介,「怒らないで聞いてくれよ? もし、立ち退きするんなら、引越し代から、引越し先のマンションの前家賃まで出すっていう、人もいてくれてさ……」
椿姫は、黙ったままだった。
ここは、あまり押さないほうがいいな。
京介,「悪い。出て行く気はないんだもんな」
椿姫,「ううん、心配してくれてるんだよね?」
京介,「山王物産っていう大きな商社がからんでるんだよ。東区の観光開発は市とも連携してる事業みたいでさ、なかなか断り続けるのも難しいと思うんだ」
椿姫,「うちの近くの景色もどんどん変わってるもんね。ご近所さんも、かなりいなくなっちゃったみたい」
京介,「まあ、地上げっていうとほんと聞こえが悪いけどさ、いちおう、みんなが儲かるように考えられてるんだよ。立ち退く人も、開発する人もね」
椿姫,「うん、スキー場の周りに遊園地とかできたら、街の人も喜ぶもんね」
とはいえ、立ち退きを迫られた家族より、開発側のほうが、ずっと儲かるわけだが。
椿姫,「ひょっとして、大きな目で見たら、うちがわがまましてるってことになるのかな?」
京介,「そうまではいわないけどさ……」
そういうことなんだよ。
椿姫,「でもね、浅井くん」
京介,「ん?」
椿姫の瞳はとても大きい。
椿姫,「わたしは、お父さんの意見に従うんだよ」
熱情のようなものを感じた。
椿姫,「だって、家族だもの」
揺るぎない、剥き出しの本音が、目の前にあった。
椿姫,「お父さんは、たとえ、あの辺でうちだけが取り残されても、出て行かないと思うな」
椿姫,「わたし、そういうお父さんを応援したいの」
これでは、たとえ椿姫を篭絡したとしても、無駄だろう。
恋人よりも家族を選ぶ。
京介,「そうか……そこまでお父さんが好きか?」
椿姫,「大好きだよ」
たとえばセントラル街で遊びふけているいまどきの若者のなかで、真顔で父親のことを大好きだ、などと、果たして何人が言えるだろうか。
京介,「なんか、お父さんと、いい思い出とかあるのか?」
椿姫,「思い出?」
京介,「ほら、なんだろ……美談っていうのかな? 子供のころ山で遭難しかけたところを、必死になって探してもらったとかさ」
椿姫はくすくすと笑った。
椿姫,「特にないよ。ぜんぜん普通だよ。家族でちょっとおしゃれなレストランに食事したり、みんなでリンゴとったりしたくらいかな……」
京介,「……そんなもんか」
椿姫,「美談かあ……そういうのなくても、お父さんは大好きだよ」
椿姫の何かが気に入らないと思っていたが、それが、ようやくわかってきた。
かっこうが良すぎるのだ。
宇佐美を助けたときもそうだ。
友達が友達であるという理由だけで、椿姫は信じる。
家族が家族であるという理由だけで、椿姫は信じる。
だからこそ、おれみたいな人間はこう疑って、居心地を悪くする。
――そんなヤツ、本当にいるのかねえ、と。
椿姫,「あ、ごめん、そろそろ帰らなきゃ」
京介,「お、もう、そんな時間か」
椿姫,「昨日は、本当にありがとう。これからもよろしくね」
笑顔が、うっとうしいくらいに、まぶしかった。
;黒画面
……椿姫と別れると、すぐさま電話をした。
相手はこれからうかがうはずだった、山王物産のデベロッパーだった。
京介,「申し訳ありません、緊急で、はずせない用事ができまして……ええ、必ず、なんとかしてみせますので……はい……」
ひどく、気分が悪かった。
;ノベル表示
;画面がにじむようなフェード演出
;背景 公園 夕方
今日は、かなり昼が短い日だった。
 空が紫がかって、東区の町並みは、まもなく夜を迎えようとしていた。
 日没は、もっとも人間が油断する時刻だという。
;広明の立ち絵を表示
 それは、幼い子供とて例外ではないのかもしれない。
「坊や、こんにちは」
 "魔王"は、前もって顔につけておいたお面の下から、くぐもった声をだした。
 少年は、警戒した様子もなく、こちらに歩み寄ってきた。
 あたりに人気はない。東区の公園近く、寂れた歩道だった。あたりには市の整備を受けていないケヤキの木々が、うっそうと生い茂っている。富万別市の中心から離れた地域だけあって、めったに人は通らない。逆に、もし人が来れば、すぐにでも計画を中止するつもりだった。それぐらい、いまの"魔王"の格好は目立ちすぎた。
広明,「わあ、お馬さんだー!」
 少年は、"魔王"がかぶっている馬のお面に関心を抱いたようだ。
広明,「お馬さん、どうしたのー?」
 "魔王"は少し腰を落として、話しかけた。
「困ってるんだ。道がわからないんだよ」
広明,「道がわからないの?」
「助けてもらえないかな?」
 間をおかずして、あどけない笑みが少年の顔に広がった。
広明,「うん、助けるよ。困ってる人は助けなきゃいけないって、お姉ちゃんが言ってたんだー」
「そう、ありがとう。いい、お姉ちゃんだね」
広明,「どこに行きたいのー?」
「美輪さんの家に行きたいんだ」
広明,「美輪?」
「うん、知らないかな?」
 少年の大きな目がくりくりと動いた。
広明,「美輪って、ボクのおうちだよー?」
 "魔王"も、お面の下で、驚いたふうに目を丸くした。
「へえ、案内してもらえないかな?」
広明,「いいよー」
 人なつっこい少年だった。まだ、人を疑うということを知らない。
「車なんだけど、乗ってもらえるかな?」
 "魔王"は振り返って、あらかじめ停めておいた白いセダンを指差した。
広明,「お馬さんなのに、車なの?」
 小さな首が不思議そうに曲がった。さすがに知らない人の車に乗ってはいけないことぐらいは教えられているのか。"魔王"はすかさず機転を利かせた。
「お馬さん、怪我してるんだ。だから自分の足で歩けないんだ」
広明,「え、だいじょうぶ!?」
「坊やに案内してもらえれば、きっとだいじょうぶだよ」
広明,「わかった。ボク、がんばるねっ!」
言うや否や、車に向かって駆け出した。"魔王"が鍵を開けると、よじ登るようにして後部座席に乗り込んだ。"魔王"も、少年を押しやるように後部座席についた。
 運転席には、別の男が座っていた。日本人ではない。今回の計画のために用意した外国人だった。警察に捕まればすぐさま強制送還になる。しかし、そういった不良外国人は、こういった犯罪行為においては優れた共犯者になりえた。
 金を払い、やるべきことをやってもらえば、あとは国に帰ってもらうだけ。密航の準備も整えてやっている。日本語もろくにわからないから、こちらの計画を聞かれたとしても心配はない。この運転手から、"魔王"の存在が警察に露見する可能性は皆無といってよかった。
;黒画面
ドアを閉めた。"魔王"はそれまで、注意深くあたりを観察し、目撃者の有無を確認していた。
 下手な誘拐犯は、まずここでミスをする。
 警察の地どり捜査は、甘いものではない。優秀な刑事たちは足を棒にして歩き、聞き込みを重ね、必ず目撃者を探し当てる。誘拐の瞬間を人に見られるなど、最初から勝負を捨てているようなものだ。
 絶対に、誰にも見られてはならなかった。
通りを歩いていた人はいない。近くに人の住む家屋はないから、たとえば二階のベランダの窓越しから見られていた、ということもない。"魔王"は、前後左右の状況確認をわずかの時間でやってのけた。
「出せ」
 絶対の自信を持ててようやく、英語で命じた。車は静かに発進した。
広明,「ねえ、どこ行くの? ボクんちは、あっちだよ?」
 少年が身を乗り出した。"魔王"の膝に片手を預け、窓の外を指差している。少年の細い首が、"魔王"の目の前にあった。
"魔王"はズボンのポケットから、白い布を取り出した。広げて右の手のひらを覆った。布には別にエーテルやクロロフォルムといった類の薬品を染み込ませているわけではない。
「広明くん」
 初めて少年の名を呼んだ。
広明,「どうしてお馬さんがボクの名前を知って……」
腕を伸ばした。少年の疑問は最後まで言葉にならなかった。首に狙いをつけた。両側の頚動脈。親指と中指で蜘蛛のような素早さで迫った。
 苦痛は与えないつもりだった。少年が意識を失うまで数秒もかからなかっただろう。失禁することも予想していたが、口に泡を吹かせただけだった。布でふきとってやると、あとは穏やかな五歳の寝顔が残った。
 布を用いたのは、爪の間に少年の細胞が付着することを恐れたからだ。もちろん、今夜は念入りに入浴し、着ている服も焼却する。髪の毛一つ、証拠を残すつもりはない。これは、万に一つ、自分が警察の取調べを受けた場合を想定しての安全策だった。
病的なまでの慎重さといえた。しかし、慎重にことを運ばずして、完全犯罪が成立するはずがない。
「いい子だ……」
 夜が訪れていた。街灯の光が車の窓から差し込んで、なんの罪もない少年の顔を、頼りなく照らしていた。
;背景 南区住宅街 夜
夜十時。
 少年はひとまず郊外の廃墟に置いてきた。古ぼけた廃病院だった。そこには地元の人間も近づかない。暴走族やホームレスの類ですら、この季節は寄りつかないということを、事前に調べ上げていた。泣いてもわめいても、人は来ない。誘拐犯にとっては絶好の施設だった。
 当然、逃げ出せないよう、厳重に戸締りはしてきた。少年を閉じ込めた部屋の扉の外にストッパーをかませ、中からは開けられないようにした。
部屋のなかには、毛布を三枚と、水、食料を十分な量で用意しておいた。ストーブをたいて、暖も整えている。今後、ある程度世話をしてやる必要はあるが、少しぐらい面倒を見なくても死ぬことはないだろう。
 "魔王"は、次の準備として、南区の住宅街を訪れていた。
 静まり返った高級住宅地を、一人で歩いている。
 誘拐犯の目的は身代金を奪取することである。"魔王"はすでに、おおよその作戦を考えあげていた。いまは現地を下見して、作戦の不備を確認する段階に入っていた。
――おおむね、問題はなさそうだ。
 満足し、駅に向かって足を運んだ。あまり長居をしていると、不審者と間違われる。南区は富裕層の住む町だ。警官の巡回も多いことだろう。
 不意に、空から声がふってきた。
水羽,「浅井くん……?」
思わず、見上げた。敷地の広い家の三階。バルコニーの柵から身を乗り出すようにして、一人の少女が顔を出していた。
 とっさに家の表札を見た。
 ――白鳥。
 建設会社の社長の家だ。自由が咲学園の理事にも就任している。
水羽,「こんな時間に、なにをしているの?」
少女の表情までは見えないが、声には敵意のような圧迫感があった。
 "魔王"は瞬時の選択を迫られた。
 すなわち、何か声を返すべきか。それとも無視して去るべきか。
 一瞬の逡巡の後、"魔王"はうつむいて答えた。
「誰かと間違えていないか?」
それだけ言って、歩きだした。
水羽,「あ、ちょっと待ちなさい……!」
 声が無人の町に響いた。人が集まってきては困る。足早に白鳥家を離れた。
 浅井。
 その名を耳にして、"魔王"の心は、どす黒く沈んでいった。
;背景 セントラル街2 夜
ひどい頭痛が襲ってきた。
地下鉄を降りて、オフィス街に出ても心は晴れなかった。暗い胸中は、霜が下りたように、凍りついている。
「浅井ではない……」
 赦せなかった。浅井は……浅井権三は、母を追い詰めたのだ。借金に苦しむ家族に鬼のような責め苦を味あわせたのだ。
"魔王"は何度も心に言い聞かせた。おれは、鮫島利勝の息子なのだと。浅井と名乗っている誰かを殺してやりたい気分になった。
 "魔王"とすれ違う人々は目を伏せ、慌てて道を譲っていた。
 父のことを思い出す。
 誰もが、あの鮫島利勝といって、眉をひそめる父のことを……。
"魔王"は、父の前で、無念を晴らすと誓った。そのために血の滲むような準備をしてきた。誰にも邪魔はさせない。警察であろうと、暴力団であろうと、たった一人の勇者であろうと、容赦はしない。
「見つかるものか……」
 もう、自分は無力な小僧ではない。実力を――金を手に入れた。
それが証拠に、誰も気づいていない。
 まだ、誰も知らない。
;通常のアドベンチャー形式に。
――魔王だということに。
おれは夜空を見上げる。
戦いのときは来た。
腕を伸ばす。
高く、高く……月を握り潰すかのように。
魔王,「……っ」
脳内に響く頭痛はいまだに治まらない。
まるで、おれのなかにもう一人の人格でもいて、そいつが邪魔でもしているようだ。
けれど、頭痛を抑えるすべはある。
復讐の計画を練るのだ。
戦い、奪い、勝利する。
そうすれば、すがすがしい気分になれる。
いまは、まず、当面の身代金誘拐を成功させることだ。
完璧と思われる計画を、慎重すぎるほど慎重に練り上げた。
あとは、それを躊躇せず、大胆に実行するだけ。
おれはすぐさま、携帯電話の番号を押した。
いまはもう、深夜零時。
普通の家なら、寝ていてもおかしくはない時間帯だ。
三度目のコールのあと、静かに通話がつながった。
椿姫,「はい、美輪です!」
普通の精神状態ではないことが、声でわかった。
椿姫,「もしもしっ!? どちら様ですか!?」
椿姫が必死なのは、無論、こんな時間になっても弟が帰って来ていないからだ。
泣いているのかもしれない。
おれは、なんの罪もない家族を地獄に叩き落しているのだ。
まさに、"魔王"の所業ではないか。
いまにもわめきだしそうな椿姫に対して、おれは声色を選び、ゆっくりと言い放った。
魔王,「子供は預かった。子供の命が惜しければ、私の指示に従え。月並みだが、警察には連絡するな」
;翌日へ;黒画面
……。
…………。
;背景 主人公の部屋 昼
む……。
もう、朝か。
昨晩は、頭痛を覚えたものだから、ベッドでぐっすりと寝ていたな。
とにかく、昨日の夜は、じっくりと休んでいた。
久しぶりに浴槽につかって体を癒したり、たまっている洋服を洗濯したりと、おれにしては珍しく生活感溢れることばかりしていた。
爽快な朝だ。
頭も異様にすっきりしている。
秋元氏はおれがなんらかの精神病を患っていると勘違いしているようだが、そんなわけないじゃないか。
学園に行くとしよう。
;背景  マンション入り口 昼
花音,「兄さん、オハー」
京介,「おう、花音。なんだ、迎えに来てくれたのか?」
花音,「うん、いっしょにガッコいこうと思ってねー」
京介,「おうおう、いいぞいいぞ」
花音,「んー」
半歩詰め寄ってきた。
京介,「なんだ?」
花音,「兄さん、なんか機嫌いいね」
京介,「そうかもな」
花音,「なんで、なんで?」
京介,「さあな……」
……つまっていた仕事が片づきそうだからかな。
東区の地上げ……ようやく目処がついてきた。
……って。
……あれ?
待て待て……なにが『目処がついてきた』……だ?
たいした進展もないじゃないか。
花音,「どしたの? 考えごと?」
椿姫に近づいて、椿姫の家庭を探ったまではいいが、それからどう動くべきかは決めかねていた。
……まあ、家庭の事情がわかっただけでも、目処がついたといえなくもないか……。
花音,「んー、なんかまた不機嫌そうな顔してるよー?」
京介,「あー、わるいわるい、どうも寝ぼけてんなー」
おれたちは並んで歩き出した。
花音,「兄さん、手ぇつないでいこー?」
京介,「アホか……誤解されるだろうが」
花音,「なに、誤解って」
京介,「兄貴と妹がつきあってるとか……世間的にどうよ?」
花音,「別につきあってなくても、手ぐらいつなぐよ? わたし、カナダ行ってたときも、いろんな人といっぱい握手したよ?」
京介,「ここは、外国じゃないんです」
花音,「むー」
;背景 学園門 昼
花音はべったりとおれにくっついてきた。
花音,「ところで兄さん」
京介,「なんだ、いきなり、すねたような顔しやがって」
花音,「兄さん、最近、バッキーと仲いいみたいじゃない?」
京介,「……まあ、そこそこ遊ぶようにはなったな」
花音,「バッキーって、ぜったい兄さんのこと好きだよ」
京介,「……は?」
思い当たるふしがないでもないが。
京介,「興味ないね」
花音,「ええ、ひどいよー。バッキーがかわいそうだよー」
京介,「本人にコクられたわけでもないのに、どうしておれが気を使わねばならんのか?」
花音,「ひどい、ひどいー。バッキーって、いい子なんだよ?」
京介,「しっかり者ではあると思うがな」
花音,「そだよー、掃除当番とかいつもやってるよ」
京介,「ふーん、クラスのみんなに、おしつけられてるのか?」
花音,「んー、よく知らないけど、ニコニコしながらやってるから、おしつけられてるってことはないんじゃないかなー?」
……いや、椿姫なら、おしつけられた仕事も笑ってこなすだろう。
京介,「それより、テレビはどうだ?」
花音,「お、忘れっぽい兄さんにしては、よく覚えてるねー」
京介,「いつなんだ? 時間があえば、おれも見たいし……」
花音,「あさってだよ」
京介,「え? マジで? 近いな」
花音,「なんか前々からずっとオファーは来てたんだって。のんちゃんが忘れてただけ」
京介,「忘れるなよ。テレビ局の人に迷惑がかかるだろう?」
花音,「だって、スケートリンクの偉い人が勝手に決めたんだもん」
京介,「出たくないのか?」
花音,「んーん。これでまた人気者だよ」
無邪気なもんだな……。
こいつがずっと無邪気でいられるよう、金を稼いでやらなきゃな。
花音も、金があったから、フィギュアスケートなんて金のかかるスポーツに打ち込むことができたんだ。
;背景 廊下
水羽,「あ……」
廊下で、白鳥とすれ違った。
花音,「やーやー」
花音は、白鳥とたいして交流もないくせに、なれなれしく手をふった。
京介,「おはよう、白鳥」
水羽,「……おはよう、浅井くん」
京介,「…………」
水羽,「…………」
どういうわけか、ただの朝の挨拶とは思えないほどの緊張感があった。
京介,「なんだよ、素っ気ないヤツだなあ」
水羽,「あなたこそ」
京介,「はあ?」
水羽,「昨日は、無視したでしょう?」
京介,「昨日?」
水羽,「……覚えていないならいいわ」
なにを怒っているんだ……?
花音,「どしたのー?」
京介,「なんでもない。どうやら、おれは白鳥に嫌われてるらしい」
花音,「え? そうなの、しらとりん?」
水羽,「……別に」
花音,「兄さん、いい人だよー?」
花音には、権三の仕事を少し手伝うこともある、と話した程度だ。
まさか、椿姫の家族を家から追い出そうとしているだなんて、夢にも思わないだろう。
白鳥は、花音を見据えた。
水羽,「そう、それで、いいんじゃない?」
ややあって口を開いた。
水羽,「それから……しらとりん、とか馴れ馴れしいこと言わないで」
去っていった。
ハル,「いやあ、見ているこっちがむずかゆくなるくらいの強気っぷりすね」
突如、タイミングを見計らったかのように、教室から宇佐美が顔を出した。
ハル,「アレは、ひどいツンですよ、ええ……」
なにやらうなずいている。
花音,「のんちゃん、怒らしちゃったのかなー?」
京介,「あんまり、気にするな」
おれたちは教室に入った。
;背景 教室 昼
栄一,「うんうん、ファンキーのプリン買えないよねー。夕方に行くと並んでるからねー」
栄一は、いつものように女子と戯れていた。
栄一,「でも、ボク、お店の人と知り合いなんだー」
花音,「なになに、エイちゃんまた嘘ついてるのかー?」
栄一,「(げえっ! 花音!)」
いつも通りの朝だった。
ハル,「椿姫がいませんね」
……そういえばそうだ。
京介,「珍しく遅刻みたいだな。いや、珍しいどころか、おれの記憶がただしければ初めてだ」
ハル,「浅井さんは忘れっぽいので信用なりませんが、たしかに妙ですね」
京介,「椿姫も人間だから、遅刻することもあるだろうさ」
ハル,「はあ……ただ、自分、違和感があるとスルーしておけないタチなんすよね」
考え込むようにうつむいた。
花音,「みんなー、わたし、テレビ出るよー!」
花音が両手を上げて、大騒ぎしていた。
;場転
授業の終わりの休み時間。
椿姫はついに姿を見せなかった。
栄一,「なあ、京介、椿姫は?」
京介,「うん、おれも変だなと思ってたところなんだ」
栄一,「おいおい、テメーしらばっくれてんじゃねえよ」
京介,「は?」
栄一,「どうせ、オメーが昨日遅くまで、椿姫にギュッポギュッポしてたんだろうが?」
京介,「……なにがギュッポギュッポだ」
栄一,「違うのか?」
京介,「たしかにおれはチャラ男くんだが、さすがにまだ手は出してはいないぞ」
栄一,「どうだかねー、チクショー、おれもギュッポギュッポしたいぜー」
……しかし、どうしてここまで心根の曲がった人間が出来上がってしまったんだろうな……。
椿姫とは大違いだな。
いや、おれも人のことは言えんけど。
ハル,「浅井さん……」
宇佐美が、のそりと現れた。
ハル,「いま聞いてきたんすけど……椿姫、無断で休んでるみたいです」
京介,「無断で?」
ハル,「おかしくないすか?」
京介,「おかしいな」
栄一,「まったくだよねー、いったい誰のせいなんだろうねー?」
ハル,「電話、してみてもらえませんかね?」
京介,「電話番号知らんぞ」
……まあ、知っているんだが、栄一あたりにちゃかされそうだしな。
ハル,「携帯も?」
京介,「あいつは、携帯持ってないんだ」
栄一,「ハイ、ボク提案!」
京介,「なんだよ」
栄一,「これから、椿姫ちゃんの家におしかけるっていうのはどう?」
京介,「授業は? さぼるのか?」
学園は出れるときに出ておきたいな……。
ハル,「ひとまず、電話してみましょう。番号は先生に聞けば、わかるはずです」
京介,「……やけに、心配するんだな? ひょっとしたらただの寝坊かもしれないんだぞ」
ハル,「椿姫には借りがありますから」
京介,「借り?」
ハル,「ええ、アルバイトの件で助けてもらいましたから」
京介,「ああ……」
……意外と義理堅いヤツなのかな。
ハル,「それにしても、椿姫め。僧侶の分際でわたしの手をわずらわせるなんて……もし、何事もなかったら、ギュッポギュッポしてやる」
栄一,「じゃあ、ギュッポギュッポと電話しよう」
……こいつら、ギュッポギュッポて言いたいだけじゃ……。
;背景 廊下 昼
;SE 電話トゥルルルル
先生から電話番号を教えてもらって、さっそくかけてみた。
京介,「…………」
京介,「……お」
すぐつながった。
コールが一回鳴るか鳴らないかのタイミングだった。
椿姫,「はい、もしもし、美輪です!」
異変を察知した。
椿姫,「もしもし! もしもし!」
ケータイから声が漏れているのだろう、宇佐美と栄一も顔をしかめた。
おれは、静かに言った。
京介,「京介だ、なにがあった……?」
椿姫,「あ、浅井、くん……?」
力の抜けていくような声が返ってきた。
椿姫,「ど、どうしたの、浅井くん」
京介,「そりゃ、こっちのセリフだよ。学園はどうした?」
椿姫,「あ、が、学園……?」
京介,「ん?」
ハル,「ん?」
栄一,「ん?」
椿姫,「学園、そっか、今日、学園か……」
大きなため息があった。
京介,「なんだよ、宇宙人にさらわれたみたいな声だしやがって」
ハル,「エテ吉さん、浅井さんのたとえって、ギャグなのかそうでないのかよくわからないときがありますよね」
栄一,「だよね。半スベりだよね」
……脇でごちゃごちゃうるさいな。
京介,「なにがあったんだ?」
なにかあったのか、とは聞かない。
なにかあったに決まっている。
椿姫,「な、なにが?」
京介,「とぼけんなよ。品行方正、成績優秀、才色兼備な椿姫ちゃんが学園を無断で休むなんて、なにかあったとしか思えないだろう?」
ハル,「椿姫って、クラス委員で、生徒会長なんすよね?」
栄一,「そだよ、たまに、すごい忙しくしてるときあるから」
ハル,「なんか、真面目を絵に描いたような設定っすよね。なんか腹たつわ……」
椿姫は、またため息をついた。
椿姫,「……なんでもないよ。ちょっとカゼ、ひいてるの」
京介,「カゼ? どうして連絡をしない?」
椿姫,「それは、たまたま……えっと……わ、忘れてて……」
ハル,「なに話してんすかね……」
栄一,「うん……気になるよね」
京介,「おい、椿姫、なに隠し事してんだよ」
椿姫,「隠し事? してないよ? え、えっと……ゴッホ、ゴホッ」
泣きたくなるくらいヘタクソな演技の空咳だった。
ハル,「これ、アレすよね、コレがギャグシーンだったら、聴診器みたいのを浅井さんのケータイに当てることで、自分も椿姫の声聞けますよね」
栄一,「宇佐美さんって、たまに頭悪いよね……」
おれは声のトーンを落とした。
京介,「本当にだいじょうぶなのか?」
椿姫,「うん、平気。ごめんね。先生にはこれから連絡して謝っておく」
らちがあかなかった。
京介,「そうか、椿姫はおれを信用してないんだな」
ぶっきらぼうに言った。
椿姫,「え?」
京介,「困ったときは、お互い様だろ? どうして話してくれないんだ? 友達だろ?」
簡単だった。
椿姫,「ごめん……」
椿姫のように純真な少女は、友情とか信頼とかいう言葉にすぐ揺れる。
京介,「話してくれよ、おれとお前の仲だろう?」
椿姫,「……っ」
電話の向こうで、椿姫の良心を痛めた顔が目に浮かぶようだ。
椿姫,「ご、ごめん……家族の問題だから」
京介,「家族の?」
どうも腑に落ちない。
京介,「……家族の問題といっても、椿姫は、たとえば家の立ち退きの話はしてくれたじゃないか……」
つまり、それよりもっと重い問題が発生しているということだ。
椿姫,「言えないよ……こんなこと……」
家族の誰かが亡くなったのか?
いや……それなら、そうと言えばいい。
なにか、おれの想像の範囲外のことが起こっているに違いない。
非日常的な、何かが……。
栄一,「そろそろ、休み時間終わるよ?」
おれは最後のつもりで言った。
京介,「もう切るぞ、最後に聞くが、助けがいるか?」
椿姫,「…………」
椿姫は答えなかった。
答えないが、向こうから通話を切るつもりはないようだ。
これは、つまり……。
;==========================这是选择支,我做一下标记===============================================
;選択肢 助けを求めている  椿姫好感度+1
;     助けを求めていない
;どちらを選んでも文章は同じ。
@exlink txt="助けを求めている" target="*select1_end" exp="f.flag_tubaki+=1"
@exlink txt="助けを求めていない" target="*select1_end"
助けを求めている
助けを求めていない
;==========================这是选择支,我做一下标记===============================================
京介,「じゃあな……」
椿姫,「あ……」
電話を切ると、ほぼ同時に授業開始のチャイムが鳴った。
ハル,「……どうでした?」
栄一,「どうだった?」
おれは思案した後、言った。
京介,「とりあえず、椿姫の家に行く」
ハル,「要するに、椿姫の身の回りに何かが起こっているというわけですね?」
京介,「ああ……椿姫が、壮絶に困るような事態が起こっている」
ハル,「授業はいいんすか?」
京介,「……どうでもいいだろ」
栄一,「(さすが主人公属性持ちだぜ、友達のピンチには駆けつけるってかー?)」
ハル,「わかりました。自分も、行きます。ホントはさぼりみたいな真似はしたくないんですが」
京介,「別に来なくてもいいぞ?」
ハル,「いえいえ……」
宇佐美は愉快そうに髪をかきあげた。
ハル,「しかし、浅井さんも、普段は冷たそうにしていますが、中身はお熱い人ですねー」
京介,「なに、ニタニタしてるんだ……とっとと行くぞ」
こいつらは、なにもわかっていない。
椿姫の身の回りに何かが起こった。
まず真っ先に思いついたのは、あの土地を巡ってのトラブルに巻き込まれたということだ。
おれは、あの土地の利権を握っている人間の一人として、いちはやく駆けつけて、状況を把握したいだけだ。
;背景 公園 昼
三人で電車に乗って東区までやってきた。
椿姫の家は、この近くだったはずだ。
;背景 椿姫の家概観 昼
何か、暴力沙汰が起こっているのなら、慎重に様子をうかがわなくてはな。
栄一,「椿姫ちゃーん!」
と思ったら、栄一が声を張り上げた。
京介,「おいおい……」
栄一,「会いに来たよー!」
そのままの勢いで、チャイムを押した。
京介,「…………」
束の間、静寂があった。
ハル,「椿姫は、さっきまで家にいたんすよね?」
京介,「ああ、出かけたのかな?」
ハル,「とにかく、なにやらヤバそうですね」
宇佐美は、家の窓を指差した。
ハル,「カーテンが閉まっています」
京介,「なるほど。こんな昼間っから、カーテンを閉めなきゃいけない事情があるんだろうな……」
宇佐美の注意力に感心していると、不意に、家のドアが開いた。
椿姫,「……みんな……」
青い顔をしていた。
京介,「家に、あげてもらおうか」
椿姫,「え?」
ハル,「ここまで来させておいてイヤとは言わせんぞ」
別に、来させられたわけではないが……。
栄一,「だいじょぶだよー、なんでもボクに相談してよ。そのかわり肉じゃがご馳走して」
そういえば、こいつが甘いもの以外のものをねだるなんて珍しいな。
椿姫家の肉じゃがは、かなりうまかったのかな?
椿姫,「ありがとう……とにかく、入って」
;背景 椿姫の家 居間 昼
居間に上げてもらうと、すぐさま親父さんが顔を出した。
パパ,「君たちか……」
どうしてこんな時間に一家の大黒柱が働きに出ていないんだ?
……自営だからか。
それにしても、何か妙だ。
居間には、椿姫と、親父さんと子供たちがいた。
母親はいない。
京介,「お母さんに、なにかあったのか?」
椿姫,「え? ああ、お母さんは、寝室で寝込んでるよ……」
ハル,「…………」
宇佐美を見た。
鋭い目つき。
辺りを探るように見回している。
パパ,「椿姫の容態を心配してくれてありがとう。でも、もう帰りなさい。学園はどうしたんだい?」
親父さんの言葉も、あからさまにぎこちない。
電話の前に椅子を引いて、どっしりと座り込んだ。
ハル,「…………」
あれだけ騒がしかった子供たちも、いまは静かなものだった。
一人は寝ているようだが、一人はぼんやりと積み木をいじったり、もう一人は椿姫の足元にべったりとくっついていた。
活気がまったくなかった。
栄一,「あれ?」
栄一だけが、空気を読まずに素っ頓狂な声を上げた。
栄一,「あのガキ……じゃなくて、ほら……」
ハル,「ええ……」
栄一に同調するように、宇佐美もうなずいた。
栄一,「おととい探してた子がいないけど?」
椿姫,「ひ、広明は、いま保育園だよ!」
広明になにかあったのか……。
それを口にしようとしたとき、宇佐美が静かに言った。
ハル,「広明くんだけが、保育園?」
たしかに、広明以外の子供たちは、ここにいる。
椿姫,「……っ」
パパ,「椿姫、帰ってもらいなさい。お友達には関係ないことだよ」
椿姫,「わ、わかってるよ、でも……」
ハル,「お父さん、どうしてさっきから電話の前を離れないんですか?」
パパ,「なに?」
ハル,「お母さんはどうして寝込んでしまったんですか? どうして子供たちは暗い顔をしているんですか? どうして事情を話してくれないんですか?」
椿姫,「ハルちゃん……」
ハル,「椿姫」
息を呑んだ。
まさかの可能性が頭をよぎった。
ハル,「誘拐、されたんだろう?」
栄一,「ええっ!?」
ハル,「お父さん、あなたは犯人からの電話を待っているんですよね?」
ハル,「お母さんは、ショックで寝込んでいるんです」
ハル,「あなたがたは警察にもまだ連絡していないし、犯人に連絡するなと言われているんでしょう? どうしていいか途方に暮れているんですね?」
椿姫,「うぅ……」
椿姫が、泣きそうな顔になった。
椿姫,「昨日のことなの……」
パパ,「おい、椿姫!」
椿姫,「わたしが、もっと早く、保育園に迎えに行ってあげていれば……!」
昨日というと、おれとコーヒーを飲んでその後か……。
椿姫,「わたしが保育園に行ったら、もう広明は帰ったって言われて……」
パパ,「椿姫、もういい。お前のせいじゃない」
椿姫,「広明は、保育園から、ひとりで帰ることあるの。前にも、わたしの迎えが遅れて、ひとりで帰ったことあるの……」
迎えが遅れたのは、おれのせいでもあるな……。
しかし、まさか、誘拐されただなんて……。
あまりにも突飛すぎる。
しかし、非日常的な不幸に合う瞬間なんて、そんなものなのかもしれない。
ハル,「それで?」
この狭い家のなかで、宇佐美だけが、冷静だった。
ハル,「広明くんが誘拐されたと確信にいたったのはなぜだ?」
椿姫,「ずっと探してたんだけど、広明、夜になっても帰ってこなかったの。そしたら、いきなり電話があって……」
ハル,「相手は、息子を預かっているとでも言ったのか?」
椿姫,「う、うん……たまたま、わたしが電話に出て……」
ハル,「広明くんの声を聞いたか?」
椿姫,「いや、聞いてないけど……」
栄一,「じゃ、じゃあ、誘拐されてないかもしれなかったり……?」
ハル,「しかし、現実、広明くんは帰ってきていない。誘拐犯を名乗る人物から電話があった。まず、誘拐されたと見て間違いはない」
ハル,「気になるのは、広明くんの安否ですね」
それはきっと、宇佐美より椿姫のほうが気にしているだろう。
ハル,「お父さん、次に電話があったら、真っ先に確認してください」
いつの間にか、場の雰囲気が宇佐美を中心にして回っているような気がした。
ハル,「犯人の要求は?」
椿姫,「それは……身代金は、五千万だって……それだけで……」
ハル,「そうか……なら、少なくともあと一度は、犯人はこの家に接触してくるな」
宇佐美のいうことはわかる。
五千万を犯人にどういう形で渡すのか……要するに身代金の受け渡しの方法を、まだ犯人は語っていないのだ。
しかし、誘拐か……。
本格的な犯罪だな。
いつもグレーゾーンの商売をしているおれでも驚いた。
ただ、ひとつだけ、絶対に阻止しなければならないことがある。
栄一,「て、ていうか、警察は?」
そう、警察だ。
椿姫,「まだ……」
ハル,「警察には連絡するなと?」
椿姫,「うん……連絡したら、広明を……っ……」
まあ、誘拐犯としては当然の処置だろうな。
パパ,「警察に連絡しようかと、悩んでいるところなんだ」
椿姫,「だ、ダメだよ、お父さん! 警察に連絡したことが犯人に知れたら、広明がっ!」
パパ,「しかし、こういうのは警察に任せるしかないじゃないか」
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、親子の会話を眺めていた。
おれは、変な警戒心を抱かせないように、落ち着いて言った。
京介,「……警察は、ちょっと考えものかと」
パパ,「どうしてだい? 彼らは専門家だよ。犯罪対策のプロだ。僕らは、ただの一般人だ。警察に任すべきじゃないか?」
親父さんは、あからさまに取り乱していた。
娘の友達に対する態度にしては、大人げがなさすぎた。
京介,「落ち着いてくださいお父さん。たしかに、あなたのおっしゃるとおりです。犯罪が起きた以上、警察に通報するのが市民の義務といえるでしょう」
京介,「しかし、どうなんでしょう……」
おれは全力で説得にかかる。
……警察はまずい。
なぜなら、警察が出てくれば、犯人を挙げるべく、必ず椿姫の家を探る。
なぜ、犯人が、椿姫の家を狙ったのか、犯人の動機を調べてくるのだ。
すると、この一家が立ち退きを迫られているということが、捜査線上にあがる。
そのとき、確実に山王物産のデベロッパーと、浅井興業の名前が出てくる。
山王物産のような表向きクリーンな企業が、浅井興業のような暴力団のフロント企業に関与していることが明るみになれば、今後の取引は中止されるだろう。
この街で山王物産に見捨てられて生きていける企業などない。
当然、おれの地位も危いものになる。
だから、なにがあっても警察の介入だけは避けなくては。
京介,「警察を頼れば、確実に広明くんが返ってくるという保障はあるんでしょうか?」
パパ,「それは……いや、きっと警察ならなんとかしてくれるさ」
おれは残念そうに首をふった。
京介,「僕の父の話は、前に軽くしましたね」
パパ,「ああ、たしか、金融や不動産も扱っている社長さんだとか?」
京介,「昔は、刑事だったんだそうです」
パパ,「本当かね?」
権三は、過去、暴力団担当の刑事だったらしい。
マル暴の刑事がそのままヤクザになるというのは、珍しい話ではないらしいが、真実は定かではない。
さて、親の威光を借りたはいいが、ここからどう切り出すか……。
京介,「これは、父から聞いたのですが……誘拐事件というものは、警察に通報すると……その、かなり、被害者がでているという話です」
パパ,「被害者?」
京介,「ええ……」
パパ,「ひ、被害者って……そんな……」
椿姫,「お、お父さん、やっぱり、警察はダメだよ」
おれは、嘘はついていない。
親父さんは、広明くんに危害が加わると思ったのだろう。
しかし、誘拐事件というものは、誘拐された人間はもちろん、脅迫を受ける家族も被害者なのだ。
家族が受ける心理的な痛みは計り知れないのではないか。
そういった意味で、誘拐事件が発生すれば、被害者は確実にでているといえる。
パパ,「し、しかし……警察なら、犯人を捕まえてくれるに違いない」
京介,「犯人を捕まえればそれでいいんですか? 広明くんが帰ってくることがなによりの目的じゃないんですか?」
パパ,「うぅむ……」
親父さんは頭を抱えた。
ハル,「しかし、浅井さん」
京介,「なんだ?」
ハル,「警察に連絡しなければ、広明くんが帰ってくるという保障もありませんよ?」
ち……。
ハル,「警察の介入にやたらこだわっていらっしゃるようですが?」
京介,「いや、おれのパパが元警察官だからな……ちょっとでしゃばってみただけだ」
ハル,「そすか」
宇佐美は瞬きもせず、おれを見据えている。
ハル,「誘拐事件における警察の犯人検挙率は九十五パーセントだそうです」
京介,「…………」
ハル,「残りの五パーセントも、とくに身代金を奪われたというわけではありません」
ハル,「つまり、この国で警察を相手にして、身代金奪取に成功した犯人はいないということです」
……こいつ、なぜそんな知識を?
京介,「なにが言いたいんだ?」
ハル,「警察を頼れば、少なくとも身代金は、ほぼ確実といえる可能性で返ってくるということです」
京介,「五千万か……」
つぶやいたそのとき、閃きが訪れた。
あまりにも悪魔的な発想。
しかし、これで、椿姫の家を奪うことができる。
ハル,「どうしました、浅井さん?」
京介,「い、いや……」
落ち着け。
おれは、目まいを覚えたふりをして、軽く頭をふった。
京介,「ところで宇佐美」
ハル,「はい」
宇佐美はさっきからずっと、おれから目を逸らさない。
京介,「誘拐事件についてもう少し詳しく知りたいな」
ハル,「はい」
京介,「お前はさっき、少なくとも身代金は、という言い方をしたな?」
ハル,「はい」
京介,「それは、つまり、身代金は返ってくるが、犠牲者は出ているという解釈でいいのか?」
;カットインのように、一瞬だけ、ev_haru_02
ハル,「鋭いですね」
京介,「……っ?」
瞬間、宇佐美の気配があからさまに変わった。
おれと栄一が職員室の鍵を盗んで、それを追求してきたときも雰囲気が違ったが、その比ではない。
もっと荒々しい、殺気じみたものすら感じた。
ハル,「浅井さんのおっしゃるとおり、犠牲者は出ています」
京介,「…………」
ハル,「戦後から現在まで、通算で約百八十件の身代金誘拐事件が起こっています」
ハル,「そのうち被害者の数は、三十人以上です」
椿姫,「さ、三十人……?」
京介,「二割がたの確率で、人質は命を落としているということになるな……」
椿姫,「そんな……やだよ、お父さん、ぜったいダメだよ……」
京介,「そうだな、二割とはいえ、弟の命がかかっているんだからな……」
さきほどの閃きが頭から離れない。
抵抗感はある。
しかし、誘拐犯にはぜひとも五千万を奪って欲しい。
五千万は大金だ。
この家にそんな貯蓄があるとは思えない。
ならば、銀行の類から金を借りるしかない。
そのとき、きっと、この土地を担保にせざるを得ないのだ。
五千万を犯人が奪ってくれれば、金は返せない。
すると、椿姫たちは家を出て行くしかないのだ。
そのためにも、警察に出てこられては困る。
ただ、さすがに、抵抗感はある。
おれは本格的な犯罪を肯定しようとしているのだ。
ハル,「日本で、警察に知られることのなかった誘拐事件というものが、発生していないとは限りません」
ハル,「海外では、身代金誘拐を専門にした犯罪者集団がいるそうです。彼らはプロで、被害者の家族が警察に連絡せずに、身代金さえ都合つければ、ほぼ確実に人質を解放するそうです」
ハル,「相手の出方をうかがってから、もう一度検討してみるというのはどうでしょう?」
宇佐美は、あくまで冷静だった。
冷静だが、心の芯の部分で、なにかが激しく燃え盛っているようにも見えた。
京介,「椿姫もおれと同じで、警察に通報するのは反対なんだな?」
椿姫,「うん。だって、警察には連絡するなって言われたもの」
椿姫は、卑劣な誘拐犯の言葉すら真に受けているようだ。
誠実さというものは、ときに愚かさでしかないといういい見本だった。
パパ,「とにかく、君たちは帰りなさい。なんにせよ、これは家族の問題なんだよ」
そういうわけにはいかない。
おれの邪な心は、こんなチャンスを棒にふってなるものかと、はやしたてている。
京介,「お父さん、僕も協力させてください」
椿姫,「浅井くん……」
京介,「昨日、椿姫が広明くんを迎えに行くのが遅れたのは、僕のせいでもあるんです」
椿姫,「それは違うよ! 浅井くんは関係ないよ」
京介,「いいんだ、椿姫。おれがお前にコーヒーおごってくれなんて頼んだから、こんなことになったんだ」
目を伏せた。
京介,「それに、お父さん。身代金はどうやって都合つけるんです?」
パパ,「身代金?」
京介,「警察を頼るにせよ、五千万円は用意する必要があると思うんです」
パパ,「そんな大金、うちには……」
京介,「僕の父に頼んでみます。事情を話せば、低金利でお金を貸してくれると思うんです」
もちろん、担保としてきっちりとこの土地を抑えさせてもらうが。
パパ,「それは……」
言葉に詰まったようだ。
進退窮まったのだろう、親父さんはうめき声を漏らしながら、何度もため息をついた。
京介,「椿姫も、おれに任せてくれないか」
広明くんが誘拐されたことについて、責任を感じているという言葉に嘘はない。
……総和連合の息のかかった消費者金融のなかでも、なるべく善良な金貸しを選ぶつもりだ。
椿姫,「浅井くん、ありがとう……」
椿姫の目に涙が浮かんだ。
親父さんも、もう、それ以上は何も言わなかった。
…………。
……。
;背景 繁華街1
栄一,「いやいや、さすがのオレちゃんも、シビアにひいちゃったぜー」
あのあと、犯人から新しい連絡があるまで、ひとまず解散となった。
宇佐美とは、東区の公園で別れた。
帰り道、宇佐美は、ひと言も語らず、ずっとなにかを考え込んでいる様子だった。
京介,「そういえばお前、さっきはずっとだんまりだったな?」
栄一,「おいおい、オレくらい空気を読める男になるとよー、なんつーの、さすがに無駄口は叩かないっつーの?」
京介,「お前くらい空気を読まない男もいないと思うが、とにかくこの件は黙っていろよ?」
栄一,「わーってるって。ペットにすら言わねえよ」
不意に、栄一が立ち止まった。
栄一,「しかし、椿姫のヤツ、だいじょうぶかね」
京介,「なんだ、急に?」
栄一,「いやよう……さすがに誘拐って、マジ、サスペンスドラマかよっての……」
京介,「おれも驚いてるよ」
栄一,「なんか、オレにできることないんかね?」
京介,「…………」
栄一,「なんだよ、なんか変なこと言ったか?」
京介,「いや、お前って、年上以外の女はメス豚とか言ってなかったか?」
栄一,「メス豚でも、オレペット好きだし」
……よくわからんが、栄一なりに椿姫を心配してるんだな。
栄一,「帰るわ」
京介,「おう」
栄一,「そうだ、椿姫にプリンでも買ってやるか、うん、あいつは単純そうだから、そんなもんでも喜ぶだろう、オレマジ優しくね……?」
ぶつぶつ言いながら、去っていった。
さて、おれもいくつか仕事があったな。
いや、その前に、権三のところに顔を出しておくか。
金貸しを紹介してもらわなければ……。
おれは南区に向かう電車を待った。
京介,「…………」
しかし、栄一のようなヤツでも、根は善良なんだろうな。
……おれは、どうなんだ?
;背景 権三宅 居間
権三宅を訪れて、事情を説明していた。
京介,「……つまり、美輪椿姫の一家が、土地を担保に借金をすれば、すべて丸く収まるというわけです」
浅井権三,「…………」
京介,「ですから、どこか五千万をすぐに用意できるような街金を紹介してもらえませんか?」
浅井権三,「…………」
権三は、おれの話しにうなずきもせず、どっしりと構えている。
京介,「……お養父さん、いかがです?」
浅井権三,「…………」
京介,「……お養父さん?」
重い口はずっと閉ざされている。
京介,「…………」
空恐ろしさを覚え、生唾を飲んだ。
浅井権三,「誘拐、か」
京介,「…………」
浅井権三,「犯罪だな」
京介,「え、ええ……」
浅井権三,「警察に届けてもいいんだぞ?」
言葉とは裏腹に、声には威圧的な響きがあった。
浅井権三,「通報すれば、県警本部から捜査一課は特殊犯捜査係の刑事がやってくる」
浅井権三,「連中は誘拐対策のプロだ。誘拐ほど失敗の許されない事件捜査はないと叩き込まれている」
浅井権三,「すぐさま捜査本部が敷かれ、三百人態勢で捜査に臨むだろう。逆探知や音声解析などの技術的な進歩も目覚しいし、なによりここの県警は警視庁との連携もうまくいっている」
浅井権三,「まず、間違いなく犯人は挙がる。身代金も奪われることはないだろう」
まるで、警察の内情を直接見てきたようなことを平然と言ってのけた。
京介,「ええ、ですから、警察の介入は絶対に阻止したいのです」
浅井権三,「ほう……」
京介,「身代金が奪われてしまえば、一家は家を出て行くしかないのですから」
言い切って、暗い気分になった。
浅井権三,「いいんだな?」
京介,「なにがです?」
浅井権三,「犯罪を容認するというのだな?」
心の迷いを見透かされたよう……。
京介,「それは……」
浅井権三,「誘拐は、最も卑劣な犯罪だ。なんの罪もない市民を人質にとり、理不尽な要求を突きつける。人質が五歳の幼児ともなればなおさらだ」
権三は、なにを言おうとしているのか。
浅井権三,「いいんだな、京介」
ぞくり、と背すじに悪寒が走った。
わかった。
権三はおれを試している。
おれの良心を問い、優秀な家畜かどうかを試しているのだ。
目の覚める思いだった。
京介,「……正直なところ、抵抗感はあります」
;SE 殴るような音
;SE 画面振動
直後、都会のビル風のような、不意の疾風があった。
目の前で火花が散った。
京介,「が……あ……!」
息が詰まり、急に何も見えなくなった。
口の中いっぱいに酸味が広がった。
力が入らない。
体を維持する力が全身の毛穴から抜けていくようだ。
頭に激痛が走った。
髪を捕まれている……?
浅井権三,「くだらん生き物だな、貴様は……!!!」
底無しに冷たい眼があった。
浅井権三,「善にも悪にもなりきれんのか!!!」
恐怖した。
血液が氷結したのかと思うほど、身が萎縮した。
狼狽、動揺、あらゆる負の感情が脳みそを一気に駆け回る。
浅井権三,「お前は、その美輪椿姫という女を助けたことがあるな?」
京介,「ぐ、あ……え?」
何を言ってるのかわからない――ただ、恐ろしい。
浅井権三,「スカウト会社にうちの名前を出した。そうだろう!?」
そういえば……。
恐怖に、切れ切れになりかけた意識のなかで思い起こす。
たしか、椿姫がセントラル街でスカウトに引っかかったことがあった。
おれは、浅井興業の名前を出して、椿姫に手を出さないよう指示したのだ。
浅井権三,「なぜ、あのときは助けた?」
揺さぶってくる。
浅井権三,「なぜ、いまさら良心に揺れる?」
京介,「ぐ……あ」
ようやく解放された。
浅井権三,「いいか、京介。俺についてきた時点で、貴様に待っているのは地獄だけだ」
京介,「はい……」
浅井権三,「金がいるんだろう?」
京介,「はい」
浅井権三,「お前の親の借金を、お前が返すんだろう!?」
京介,「はい!」
浅井権三,「いくらだ!?」
京介,「二億です!」
父、利勝の借金。
当時五千万だったはずの負債は、悪魔のような利息がついて、雪だるま式に膨れ上がっていた。
浅井権三,「ならとっとと稼げ! たかが二億だ!」
そうだった……。
おれは親父の借金を返すために、権三に従ったのだ。
事情を知った連中は言う。
偉い子だね……お父さんのために……。
決して、美談などではない。
ヤクザに金を返すというのは、もっとシビアで、生きるか死ぬかの駆け引きなのだ。
二億。
個人が通帳に楽に入れられる金額ではない。
もたもたしていれば、借金はもっと重なっていく。
京介,「わかりました……」
急速に、恐怖感が薄れていった。
金に対する禍々しいまでの執着心が、おれを突き動かす。
まだ、金庫には五千万しかないのだ……。
京介,「東区の件はなんとしても、成功させます」
おれの表情に満足したのか、権三は深くうなずいた。
浅井権三,「よし、人間の顔になったな」
腹を据えた。
椿姫のことは、もう考えない。
おれは、ただ、おれの道を行くだけだ。
その道が地獄に続いているということは、もちろん知っている。
…………。
……。
;黒画面
興奮したせいか、頭痛があった。
権三の家を出て、ふらついた足取りでセントラル街に向かう。
意識が混濁する。
頭痛に、身を任せた。
;画面がぐにゃーとなるような演出。
;"魔王"アイキャッチ
;背景 セントラルオフィス 夜
……。
…………。
ようやく頭痛が引いてきた。
意識が晴れていく。
複雑にからみあった意識が、バトン交代するような感覚。
おれは、つい最近になって、浅井と名乗る京介の存在を認識しつつあった。
我が、半身。
"魔王"であるおれが表立って活動していないとき、浅井の京介はおれに加担するように動いているようだ。
ならば、誘拐計画は、きっと成功する。
さて……。
おれは、携帯電話を操作する。
相手は無論、椿姫の家だ。
通話はすぐにつながった。
魔王,「警察に連絡していないだろうな?」
声色をある程度変えられる自信があるが、今回は、万全を期して、変声機を用いた。
地声を分析されると、厄介なことになる。
いま、電話の向こうに警察がいて、逆探知をしかけている可能性もある。
椿姫,「し、してません!」
魔王,「本当か?」
椿姫,「はい、本当です!」
魔王,「よし」
そこで、一度、通話を切った。
相手の言葉を真に受ける馬鹿はいない。
逆探知を成功させるには、約三分の通話時間が必要だという知識があった。
犯人から入電があると、刑事がN○Tの技術社員に連絡をいれ、椿姫家を含むエリアを管轄する交換機の回線をチェックさせる。
そして、あるスイッチの状態を確認することで、発信者がかけている場所を特定する。
通話時間の長さに応じて、どのエリアからかけられているのかといった大雑把な範囲から、特定の電話番号まで割り出せるようになる。
さらに、犯人が被害者の自宅と同じ管轄エリアから通話している場合なら、回線の調査は短くてすむ。
遠距離からかけている場合は、複数の交換機を辿らねばならず、逆探知にかかる時間は延びていく。
だが……。
それは数年前までの話であって、最近は電子交換機やデジタル交換機が増えてきていて、これを経由する場合は、どこからかけてきたのか瞬時に悟られてしまう。
おれは、最も安全と思われる策を取った。
いま、おれは、携帯電話からかけている。
移動しながら通話している以上、たとえ場所を特定されても警察が急行してくる前に逃げられる場合がある。
携帯電話そのものも、トバシ、と呼ばれる使い捨てで、使用者の確認など無意味だ。
おれは再び椿姫家にダイアルした。
椿姫,「もしもし、美輪です!」
魔王,「いまからあと二回電話する。その間に、メモを用意しておけ」
椿姫,「え? えっ!?」
突然のことで、椿姫は気が動転しているのだろう。
魔王,「そちらからの質問は許さない。いいな?」
椿姫,「ゆ、許さないって……広明は? 広明の声を聞かせてください!」
通話を切った。
もし、横に刑事がいれば、椿姫に通話の引き伸ばしを指示しているはずだ。
なぜ、誘拐犯が、ご丁寧に被害者の質問などに答えてやらねばならないのか。
とにかく、場所を変えるとしよう。
いまの短い通話だけで、こちらのエリアを特定されるとは思えないが、万に一つということもある。
;背景 中央区 住宅街
自宅付近までやってきた。
ここまでくれば、さきほどとは別の交換機が通話回線をつないでいることだろう。
なんにせよ、警察の介入だけは避けなくては。
おれは携帯電話を操作する。
また、椿姫の悲鳴が聞こえた。
椿姫,「もしもし! 広明は!? 広明は無事なんですか!?」
質問は許さないと言ったはずだが、心配で仕方がないらしいな……。
魔王,「身代金の受け渡し方法を指示する前に、もう一度だけ訊きたい」
おれはしつこいくらいに同じ質問を繰り返す。
魔王,「警察には連絡するな。警察が関与している気配でもあれば、すぐさま取引を中止する。当然、弟は返ってこない。わかるな?」
警察の不介入――これは絶対の条件だった。
ドラマや推理小説の誘拐犯は、なぜ警察と戦おうとするのか。
もちろん、エンタテインメントとして話を盛り上げるためだ。
しかし、現実においては、警察の手を逃れて、身代金をせしめた誘拐犯は一人もいないのだ。
誘拐ほど割に合わない犯罪はない。
警察の影が見えれば、即座に取引を中止する。
そう決めていた。
犯罪を成功させるのに、もっとも重要なことは、引き際を心得るということだ。
椿姫,「警察には連絡してません! だから、弟を返して!」
悲痛な叫びが、耳をついた。
もし、嘘をついているのなら、たいした演技力だ。
魔王,「よろしい、では、次の電話を待て」
椿姫,「ま、待って――」
歩きながら電話を切った。
また場所を変えるとしよう。
;背景 倉庫外 夜
夜の海は静寂に包まれていた。
そろそろ向こうもしびれを切らしているころだろう。
これが、最後の確認だ。
通話がつながると、変声機を用いずに声色を変えて言った。
魔王,「もしもし、美輪さんのお宅でしょうか?」
椿姫,「え、あ、は、はいっ!」
魔王,「私は捜査一課長の高野と申しますが、富田刑事をお願いできますか?」
椿姫,「え……?」
;一瞬だけカットインのように、ev_maou_03c
間があった。
おれは、全神経を耳に集中させた。
椿姫,「え、け、警察?」
魔王,「どうされました? 富田は被害家族の担当として、そちらにまわしている女性刑事ですが?」
椿姫,「あ……え? お、お父さん!?」
慌しい物音が聞こえる。
椿姫,「お父さん、いつ警察に連絡したの!?」
パパ,「なんだって!? なんの話だ!?」
そのやりとりに、おれは満足した。
椿姫の反応からして、とても刑事がそばにいるとは考えにくい。
おれは再び変声機を使った。
魔王,「どうやら私のいいつけどおり、警察には連絡していないようだな?」
椿姫,「あ……」
魔王,「少々お待ちください……などと言われたら、弟を手にかけているところだった」
警察が同僚を呼び出すのに、誘拐事件の被害者宅に電話をかけるなどありえない。
彼らは、当然、支給された携帯電話か無線を使用して連絡を取り合う。
椿姫,「だ、騙したんですね!?」
よく考えればわかることだが、気が動転している人間相手には十分なトリックだった。
魔王,「今後もその心がけを忘れないことだ。もっとも、そろそろ届く品物を見れば、警察を頼ろうなんて気は起きなくなるだろうがな」
椿姫,「品物?」
椿姫の質問は無視する。
魔王,「さて、いまから身代金の受け渡しについて説明する。メモの用意はいいか?」
逆探知の可能性がない以上、いまはゆっくりと話ができる。
魔王,「まず、身代金は株券で用意しろ」
椿姫,「株?」
魔王,「明日の夕方までに五千万を当日決済で株券に換えろ。五千万円分として五万株だ。銘柄は、山王物産系列の白鳥建設だ。お前の通う学園の運営に金を出している会社だぞ」
椿姫,「し、白鳥建設……は、はい……!」
日記が趣味というだけあって、なかなかメモを取るスピードは早いようだ。
魔王,「五千万円分の株券の用意ができたら、午後六時に宇佐美ハルをお前の家の前に立たせておけ」
椿姫,「おハルちゃんを……?」
魔王,「その後は、宇佐美ハルの携帯電話に連絡を入れるまで、次の指示を待て」
椿姫,「……っ」
書き取りに必死なようだ。
椿姫にとってはわけのわからないことばかりだろう。
だが、じきにわかる。
魔王,「以上だ。午後六時に宇佐美ハルの姿が見えなかった場合、取引は中止する」
椿姫,「ま、待ってください……!」
魔王,「指示通り動けば、弟は必ず返す。私は誘拐のプロだ。金さえもらえば、約束は守る。わかったな?」
最後に飴を与えてやった。
身代金の受け渡しには、椿姫を指定するつもりだった。
椿姫を、こちらの指示通り動くように仕向けなければならない。
通話を切ると、おれはゆっくりと海辺を歩いた。
人気はなく、肌寒い。
月は頼りない光を放ちながら水面に揺れていた。
……ここまでは、完璧といえるな。
おれはまた、頭痛を覚えた。
;翌日へ;京介のアイキャッチ
;黒画面
;SE 携帯
……。
…………。
;背景 主人公の部屋 夜
翌朝、いきなり携帯が鳴った。
おれは、たたき起こされた形になった。
京介,「椿姫か……?」
椿姫,「あ、浅井くん、ごめんね、こんな時間に!」
京介,「いま何時だ?」

何度か椿姫からの着信があったようだ。
椿姫,「四時だよ。ごめんね、どうしても相談したいことがあって」
まだ太陽も見えていない。
昨日は夜中の二時まで外出していたから、二時間しか寝ていない計算になるな。
京介,「どうしたんだ?」
椿姫,「広明を誘拐した人から連絡があって、五千万をぜんぶ株券にかえて明日の夕方までに宇佐美さんを家の前に立たせておけって、それで……」
京介,「ちょ、ちょっと待て。落ち着け。落ち着いて話すんだ」
寝起きで、頭ががんがんする。
京介,「五千万を株券に換えろって?」
現金じゃないのか。
椿姫,「うん、五万株だって」
京介,「それで、銘柄は?」
椿姫,「白鳥建設だって。白鳥って、白鳥さんのことかな?」
京介,「そうだよ。白鳥の親父さんは学園の理事長だ」
しかし、なんで白鳥建設なんだ?
京介,「明日の夕方までに宇佐美を家の前に立たせる、とか言ったな?」
椿姫,「えっと、株券が用意できたらそうしろって」
これまた、なんで宇佐美なんだ?
京介,「わからないことばかりだが、お前がこんな時間に連絡してきた理由はわかる。金を工面したいんだろう?」
椿姫,「そうなんだよ、お父さんは株とかそういうの疎いみたいで。銀行からお金を借りたこともない人だから……」
京介,「そうか、警察には連絡してないんだな?」
椿姫,「うん、ぜったいしないよ!」
悲鳴が上がった。
京介,「なんだ、なにかあったのか?」
椿姫,「夜の十時くらいにね、宅配が届いたの」
……嫌な予感がする。
京介,「……中身はなんだったんだ?」
椿姫は、消え入りそうな声で言った。
椿姫,「ひ、広明の、写真と……」
京介,「写真?」
椿姫,「それと、か、髪の毛……」
京介,「…………」
椿姫,「これって、警察に連絡したら、次はもっとひどいことをするっていう意味だと思う!」
椿姫の言うとおりだった。
髪の毛でよかった。
おれは、指かなにかかと思っていた。
椿姫,「だから、警察の人は頼れないから、もう、どうしたらいいかわからなくなっちゃって、それで浅井くんに」
京介,「わかった。金はなんとかしてみよう」
椿姫,「あ、ありがとう……」
京介,「明日……いや今日か。今日の夕方までに五万株いるんだな?」
椿姫,「うん」
聞けば、千株で五十枚必要らしい。
京介,「すると、午前中に当日決済で買うしかないな……ただ、五万株も買えるかな……」
椿姫,「難しそうなの?」
京介,「一つだけ言えるのは、椿姫の親父さんに用意してもらいたいのは、五千万じゃ足りないってことだ」
椿姫,「い、いくら必要なの?」
京介,「いまから、白鳥建設の先週末の終値を調べてみるが……売買手数料と消費税を入れたら、もっと用意してもらわないとならんかもな」
椿姫,「え、えっとお父さんに聞いたんだけど、一千万くらいは貯金あるんだって……」
京介,「へえ……」
あの大家族を抱えてそんなに貯蓄があるなんて……真面目に堅実に働いてたんだろうな。
京介,「わかった。じゃあ、五千万、借りるとしよう」
椿姫,「できそう?」
京介,「たぶんだいじょうぶだ。昨日の時点で、軽く話しは通しておいたから」
椿姫,「銀行から借りるの?」
京介,「いや、パパの会社の系列から。いきなり銀行にお願いしても、午前中に五千万も貸してくれるとは思えないよ」
……まあ、警察の口添えがあれば、貸してくれただろうが。
京介,「じゃあ、もう少ししたら椿姫の家に行くよ。親父さんに、印鑑と土地の権利証を用意してもらうようお願いしてくれ」
さらっと言った。
椿姫,「土地……?」
京介,「ああ」
椿姫,「えっと、それって、どういうこと?」
京介,「悪いけど、それしかないんだ」
椿姫,「土地を、どうするの?」
京介,「五千万は大金なんだ。担保なしじゃ、貸してもらえない」
椿姫,「それって、もし、わたしたちがお金を返せなかったら、どうなるの?」
京介,「土地は、お金を貸してくれた人のものになるから……」
直後、椿姫がおれの言葉をさえぎって言った。
椿姫,「出て行くしかないってこと?」
京介,「……そうなる」
椿姫,「そんな……別の方法はないのかな?」
不安で仕方がないのだろう。
京介,「たとえば椿姫がお金を貸す側だとして、お金を返してくれる保証もない人に、お金を貸すかな?」
椿姫,「……それは、その人が信用できそうなら……」
京介,「……は」
墓穴を掘ってしまったな……。
椿姫なら、たとえ路上生活者にだって金を貸しそうだ。
椿姫,「あ、ごめんね。浅井くんを頼ってるのに、言うこと聞かないで……」
京介,「いや、突然のことで、お前もパニクっているんだろう?」
おれは、はっきりと突きつけた。
京介,「とにかく、問題は土地か、弟の命かっていうことだ」
椿姫,「…………」
京介,「命は金にかえられないだろう?」
自分で言ってて、歯の浮くようなセリフだった。
椿姫,「わかったよ。お父さんに相談してみる」
京介,「ああ、少なくとも朝七時くらいには連絡してくれ。それ以上遅くなると、金の工面が間に合わなくなるかもしれん」
椿姫,「いろいろありがとう、浅井くん」
京介,「いいんだ」
椿姫,「少し、安心したよ。頼れる人がいるって、素敵なことだね」
電話の向こうで、また微笑んでいるんだろうな。
椿姫,「なんか勇気づけられたよ、それじゃあね」
通話が切れた。
おれは何も感じない。
東区の開発は、山王物産に依頼された大事な仕事だ。
それだけを考えればいい。
京介,「しかし、株か……」
詳しい人間に聞いてみるとするか……。
京介,「もしもし、浅井です。こんな時間にすみません……」
京介,「はい、ちょっと相場のことで、お伺いしたいことがありまして……」
白鳥建設の名前を出したとき、相手の反応が変わった。
京介,「手を出さない方がいいって……え……あ、はい……売りに入ってるんですか……?」
京介,「……理由はわからないんですか?」
京介,「そうですか……とにかく、値が下がり続けていると……」
となると、五万株は案外楽に買えそうだな。
京介,「ありがとうございました。ええ、父にもよろしく伝えておきますので」
;背景 京介の部屋 夜
しかし、白鳥建設になにがあったのかな。
不意に、白鳥の顔が思い浮かぶ。
あの、つっぱった態度。
気丈そうに振舞っていて、誰かに助けを求めているような眼。
京介,「…………」
……おれには関係ないな。
おれはまた、書斎に向かった。
;黒画面
……。
…………。
けっきょく、椿姫はおれを頼った。
頑固な親父さんも土地と息子の命とを天秤にかけたとき、ついに折れたらしい。
おれは午前中から、金の工面に奔走した。
五千万はあっさりと借りることができた。
権三を通して、裏事情を話しておいたし、なにより担保が申し分なかった。
借りた五千万と椿姫家の貯蓄は、親父さんが朝一で新設した証券会社の口座に振り込んだ。
夕方には、注文しておいた五万株の株券が、手元に届くだろう。
椿姫の家に向かう途中、また、嫌な頭痛を覚えた。
働きすぎなのかと思った……。
…………。
……。
;ぐにゃーっと景色が歪むような演出。
;背景 椿姫の家概観 夜
ハル,「浅井さん……だいじょうぶですか?」
京介,「ん? ああ……なんだ?」
ハル,「頭痛そうすけど」
京介,「もう、平気だ……」
ハル,「そすか? なんかいつもと顔つきが違うような気がしますが?」
京介,「そうか?」
ハル,「ええ、まるで悪魔に魂でも売ったみたいな……気のせいすかね?」
売ったさ、とっくに。
順調にことが運んでいる。
身代金奪取は、必ず成功させる。
宇佐美め、邪魔はさせんぞ……。
ハル,「それにしても、どうしてわたしなんでしょうかね?」
午後六時。
指定にしたがって、宇佐美は椿姫家の前に立った。
京介,「さあ、おれが聞きたいくらいだな」
宇佐美は、きょろきょろと辺りを見回している。
ハル,「ていうかどうして浅井さんも、わたしといっしょにいるんですか?」
京介,「いや、かまわんだろ……」
くどいが、警察の気配を探るためだ。
たとえば、異常を察した隣の家の住人が、警察に通報しないとも限らない。
宇佐美の相手をするふりをしながら、近くに覆面パトカーと思われる怪しい車や、張り込みの刑事がいないかどうかを探っていた。
ハル,「まあいいです。せっかくですし、ちょっと考えませんか?」
京介,「なんだ、おれたちの将来についてか?」
ハル,「…………」
冗談のつもりだが、宇佐美はいっそう険しい表情になった。
ハル,「やけに、陽気ですね。友達が大変な目にあっているというのに」
京介,「だからこそだ。おれたちまで、暗くなってどうする?」
ハル,「たとえ冗談だとしても、わたしのことをうっとうしく思っている浅井さんの冗談にしては、ちょっと違和感ですね」
京介,「すまんな、面白くなくて」
ハル,「まあいいです。ところで"魔王"はどうして、身代金を現金ではなく株券で要求してきたんだと思いますか?」
京介,「ちょっと待て、"魔王"だって?」
ハル,「はい」
京介,「犯人は"魔王"なのか?」
ハル,「おそらく」
京介,「理由は?」
ハル,「犯人は、次の指示をわたしの携帯電話に入れてくると言ったそうじゃないですか」
……ほう。
ハル,「わたしが携帯を持っていることを知っているのは、"魔王"だけです。"魔王"が、わたしに携帯電話をよこしたんですから」
……さすがに、馬鹿ではないな。
おれはさりげなく言った。
京介,「おれも知っているが?」
ハル,「え? なにがです?」
不意に、とぼけたような顔になった。
京介,「宇佐美が携帯を持ってるって」
ハル,「いや、持ってないっていいませんでしたっけ? セントラル街で、貸してくださいって頼んだこともありましたよね?」
京介,「寝ぼけてんのか? その二日後くらいに、お前は"魔王"と軽くやりあったんだろう? 話してくれたじゃないか?」
ハル,「…………」
京介,「おい、宇佐美?」
ハル,「ああ、そうでしたね……忘れてました。そうか、浅井さんも知ってますね、そうかそうか……」
納得したようにうなずいているが、探りを入れるような目だけが異様にぎらついていた。
ハル,「まあ、ついでにいうと、さっきからずっと辺りを監視しているんですが、誰も現れませんね」
京介,「ふん……」
ハル,「車すら通りません」
宇佐美の言いたいことはわかる。
やはり、なかなか面白い女だな……。
京介,「おれが"魔王"だとでも?」
ハル,「あ、いえいえ。そんなつもりじゃないんですよ。たとえば、こちらが気づけない位置から、望遠鏡かなにかで探られているとか、そういう可能性もありますからね」
京介,「おいおい、おれたちはお互いを疑わないっていう協定を結んでいるんじゃなかったのか?」
ハル,「ええ、もちろんです。浅井さんは、潔白ですよ」
言葉とは裏腹に、おれを疑っているようにしか見えないがな……。
ハル,「しかし、"魔王"って、学園生じゃないかなーとかノリで思うことあるんすよねー」
京介,「へえ……」
ハル,「まあ、あくまでノリですけどね」
京介,「根拠が薄いっていう意味か?」
ハル,「ええ、誘拐電話も夜にかかってきたそうですし、わたしと軽くやりあったのも日曜日でした」
京介,「はは……ホントにノリだな。"魔王"がたとえばサラリーマンだとしても、夜や休日は空いているだろう?」
ハル,「ああ、そっか。それもそうすよね。しかも、"魔王"は金持ちですもんね」
……こいつ。
ハル,「人を使って街のいたるところに落書きを残したり、広明くんを誘拐するのにもきっと車を使ったでしょう」
京介,「…………」
ハル,「さらにいえば、身代金を株券で要求してくるあたり、相場の知識もあるみたいですしね」
京介,「…………」
ハル,「そんな学園生、いるわけないですよね?」
京介,「ふふ……」
笑いがこみ上げてくる。
ハル,「どうしました、なにがおかしいんですか?」
京介,「いやいや、宇佐美は楽しいヤツだなあと思ってな」
ハル,「マジすか。自分、人に褒められるの慣れてないんで、あんまり甘やかさないでもらえますか?」
改めて、叩き潰してやりたくなったな。
京介,「話を戻さないか?」
ハル,「ああ、はいはい。身代金を株券で要求してきた件ですね」
京介,「お前は、どうしてだと思う?」
ハル,「さあ……」
京介,「隠すなよ。宇佐美なりに気づくところはあるんだろう」
お手並み拝見といくか……。
ハル,「まず、考えられるのは、持ち運びが簡単だからでしょう」
ハル,「現金で五千万だと、一万円札が五千枚も必要です。けれど、株券ならたったの五十枚にしかなりません」
株券は一部の例外を除いて、千株単位で取引する。
五万株も、千株単位にわけてしまえば、五十枚にしかならない。
京介,「なるほどな。犯人は身代金を奪って逃走したいわけだから、なるべく軽い方がいいんだろうな」
ハル,「しかしですね、単に軽くしたいだけなら、他にいくらでも方法はあるはずなんです」
京介,「たとえば?」
ハル,「ダイヤモンドのような貴金属のたぐいに換えさせるとか」
京介,「ふむ……」
ハル,「しかも、なぜ白鳥建設の株券なんでしょうね?」
京介,「さあな……犯人は相場師で、白鳥建設の値が上がるとでも踏んでいるんじゃないか?」
宇佐美は、そこで一息ついた。
ハル,「妙なことはまだあります」
ハル,「たった一日で五千万円を工面させて、さらに夕方には株券に換えさせるというのも、椿姫家のような一般家庭にはタイトな要求です」
ハル,「犯人は、椿姫たちが株券を用意できなかったらどうするつもりだったんでしょうね?」
ハル,「あるいは、用意できるという確信があったのか、どう思います?」
京介,「さあな……息子の命がかかっていると思えば、なんだってやると思ったんじゃないか?」
納得がいかないようだった。
ハル,「警察が関与しているなら、身代金の工面にも便宜をはかってくれたでしょう。しかし、"魔王"は、警察にはぜったいに連絡しないよう忠告しています」
京介,「そりゃ、警察の介入を喜ぶ奇特な誘拐犯なんていないだろうさ」
ハル,「浅井さんがいなければ、お金の用意は無理だったでしょうね」
京介,「かもな。犯人は、椿姫とその人間関係をよく調べているといえる」
宇佐美は、まばたきを二度、三度、繰り返し、最後に固く目を閉じた。
ハル,「浅井さん……」
京介,「うん?」
ハル,「これは直感ですがね」
目を開けた。
ハル,「わたしは、この誘拐事件は、わたしに対する挑発なんじゃないかと思っています」
京介,「ほう……」
ハル,「でなければ、わたしの携帯電話に次の連絡を入れてくるという理由がわかりません」
その通りだ……理由がなければ、いままで通り椿姫の家に連絡すればいいからな。
京介,「さて、そろそろ、おれは帰るぞ」
ハル,「帰る?」
京介,「すまんが、やることがあるんだ」
ハル,「そうですか。いつ戻られます?」
京介,「ちょっと明日の夜くらいまで、用事があるんだ」
ハル,「それは、もちろん、椿姫の危機よりも優先される用事なんですよね?」
京介,「きつい言い方をするな? これ以上、おれになにができる?」
ハル,「わかりません。ただ、椿姫は浅井さんを頼りにしていますよ……」
京介,「ああ……なにかあったら、すぐに知らせてくれ」
ハル,「はい、真っ先に」
宇佐美に背を向けた。
宇佐美は、ずっと家の前でなにかを考え込んでいた。
さて、次は、どう動くか……。
;長めの場転
;ノベル形式
椿姫は畳の上で膝を折り、途方に暮れるようにため息をついた。
 弟が誘拐されてからもう二日になるが、だいぶ会っていないような気がしてきた。
 学園も、病気と称して休んでいる。嘘をつくのは心苦しかったが、事情の説明などできるはずもなかった。
パパ,「椿姫、もう休んだらどうだ。丸二日寝てないだろう?」
 父親が憔悴しきった表情で言った。
椿姫,「ううん、わたしより、お母さんはだいじょうぶ?」
 母親の顔色は悪い。昨晩、誘拐の事実を知ったときには、ふらりと倒れたのだ。
 三人の弟たちは、別の部屋で寝かしつけておいた。広明の不在に、泣いたりわめいたりと大変だった。広明は祖母の家に行っていると嘘をついておいたが、勘のいい子供たちは、雰囲気で事の重さを悟っているようでもあった。
 明るかった家庭。いつも笑顔が満ちていた。体は弱いが料理のうまい母、ケンカばかりで騒がしい弟たち、頑固そうでいて娘にはめっぽう甘い父……。
――どうしてこんなことになったのか。
 何度も嘆いた。不運というには、あまりにも酷だった。犯人はどうして、うちを狙ったのか。なにより、どうして広明なのか。いまごろ、どんなつらい目に合わされているのだろうか。せめて自分がかわってあげたかった。
 しかし、椿姫は家族の前で弱音をはくまいと心に決めていた。一番つらいのは、大事にしていた土地に手をかけた父であり、腹を痛めて生んだ息子を奪われた母なのだ。
ハル,「きた……」
 ハルがつぶやき、狭い居間に着信音が鳴り響いた。犯人は、なぜかハルの携帯電話に連絡すると言ったのだ。
 とっさにハルを見た。落ち着いた動作で、携帯電話を耳に添えた。どっしりと構えていた。いつも学園で、柳の枝のように背筋を曲げている宇佐美さんではなかった。
ハル,「"魔王"だな?」
 ハルがいきなり言った。"魔王"とは、どういうことなのか。ハルがふざけている様子はない。椿姫には見当もつかなかった。
魔王,「ご挨拶だな。なにをたくらんでいる?」
 いったい、どんな会話をしているのか。椿姫は混乱した。まるで、誘拐犯と顔見知りのようなやりとりだ。
ハル,「……わかった。椿姫にかわる」
 急に名前を呼ばれて、椿姫の心臓が跳ねた。
椿姫,「わ、わたし?」
ハル,「かわれと言っている。以後、その携帯は、椿姫のものらしい」
 それだけ言うと、ハルは携帯を差し出した。
;背景 椿姫の家居間 夜
椿姫は生唾を飲んだ。通話状態になっている携帯を受け取る。手が震えた。また、誘拐犯と会話をしなければならない。目をつぶって、電話に出た。
椿姫,「もしもし、椿姫です……」
魔王,「調子はどうだ?」
 相手は言った。それまでのように機械的な声ではなく、男の肉声だった。
椿姫,「な、なんのつもりですか?」
魔王,「警察に連絡しないでいてくれて、とても感謝している。椿姫とは紳士的な取引ができそうだ」
 妙な気分だった。誘拐犯に下の名前を呼ばれるなんて……。
椿姫,「身代金は用意しました。次は、なにをすればいいんですか?」
魔王,「いいぞ。私の言うことをきちんと守っていれば、弟は必ず返す」
 誘拐犯は、続けて言った。
魔王,「まず、その携帯電話の充電が切れないよう注意しろ。電気屋かコンビニエンスストアなどで、即席の充電器を用意しろ。ちゃんと型が合うものを購入するんだ」
 椿姫は、とっさに日記帳を開いて、犯人の指示をメモした。
魔王,「セントラル街に、大和屋という大きなデパートがあるのは知っているか?」
不意に尋ねられ、椿姫は混乱した。
椿姫,「え、と……わかると思います」
魔王,「デパートの三階に、かばんを売っている店がある」
椿姫,「は、はい」
魔王,「明日の午前中。そこで、一番安いアタッシュケースを買え。一万円もあれば買えるはずだ」
椿姫,「ケース……」
 メモを取るのに必死で、犯人の指示に疑問を挟む余地はなかった。
魔王,「無事に購入できたら、五十枚の株券を封筒に詰め、ケースの中に入れて、私に連絡をしろ。電話番号は、いま椿姫が手にしている携帯に入っている」
 書き終えて、椿姫はようやく一息をついた。
 椿姫は思う。どうしてそんな回りくどいことをさせるのか。警察にも連絡していないし、身代金はちゃんと引き渡す。だから、弟を返して欲しい。
椿姫,「あの……」
 切実な思いが胸をついて口から出た。
椿姫,「お金、払いますから。あの、ちゃんと払いますから。ですから……」
 誘拐犯がさえぎって言った。
魔王,「弟はちゃんと返す」
椿姫,「あ、はい……」
魔王,「ただ、私は取引に万全を期したいだけだ。明日になって、お前がいきなり警察に連絡しないという保証があるのか?」
椿姫,「しないです!」
 思わず、叫んだ。
椿姫,「どうして信じてくれないんですか!?」
魔王,「逆に聞きたいのだが、どうして信じることができるんだ?」
椿姫,「しないものはしないからです!」
 不意に含むような笑い声が聞こえた。
魔王,「なあ、椿姫よ」
 ささやくような声が耳にまとわりついた。
魔王,「お前は面白いな」
椿姫,「な、なにがですか?」
魔王,「お前が無条件で他人を信じるのは勝手だが、それを私にも押しつけないでもらおうか?」
椿姫,「言っている意味が、よくわかりません」
魔王,「たいしたものだ。私はお前のような人間は好きだぞ」
 絶句した。唖然として言葉に詰まった。軽い錯乱状態におちいった椿姫に、犯人は告げた。
魔王,「父親にするか決めかねていたが、やはり、受け渡しには椿姫を指名するとしよう」
受け渡し。つまり、明日、椿姫は身代金を運ぶ役目をあたえられたのだ。
魔王,「では、明日。お前に会えるのを楽しみにしている」
椿姫,「あ……っ!」
 待ってと言いかけたが、すでに不通音が流れていた。
 ひどい疲労感を覚えた。ハルが顔を覗き込むように見ていた。
ハル,「だいじょうぶか?」
椿姫,「……平気だよ、おハルちゃん」
ハル,「犯人はなんて?」
 椿姫はメモをたどりながら、さきほどまでのやりとりをハルに教えた。ハルは椿姫のたどたどしい説明を黙って聞いていた。
ハル,「携帯の充電器はあるぞ」
 ハルが言った。
ハル,「この携帯電話は、もともと犯人からもらったものなんだ」
椿姫,「ずっと持ってたの?」
ハル,「わたしにとって唯一の証拠品だからな。いつかかってきてもいいように、充電は絶やさないようにしておいた。そして、"魔王"もそういったわたしの行動を読んでいた」
椿姫は首をかしげた。
椿姫,「"魔王"?」
ハル,「そう、"魔王"だ」
椿姫,「"魔王"っていう人が犯人なの?」
ハル,「ああ……」
 ハルは神妙にうなずいた。
椿姫,「知り合いなの?」
 尋ねると、一息入れるような間があった。
ハル,「知り合いというわけではないが……椿姫は、声に聞き覚えがなかったか?」
椿姫,「え? 声?」
ハル,「犯人の声だ」
椿姫はもう一度思い起こしてみた。犯人の、魅惑的で、自信に満ち溢れていそうな中性的な声を。
椿姫,「い、いや、わかんないな……」
ハル,「どこかで聞いたことがないか?」
椿姫,「そう言われても……」
 男性の声など、普段は耳に覚えておかない。唯一印象に残っているのは、浅井京介の声だ。京介は電話口に出たときなど、たまに冷や汗が出るほどすごみの利いた声を出す。
うっかり、京介の名前が口に上りかけて、椿姫は慌てた。
 ――浅井くんが犯人のわけがないじゃないか。
 恥ずかしい気分だった。京介の協力がなかったら身代金すら用意できなかったのだ。土地の相談にも乗ってくれた。京介は、ひょうきんな遊び人のふりをしているが、本当は優しくて頼りになる人だ。
 不意に、クラシックについて熱弁をふるう京介の顔が思い浮かんだ。
 胸が、熱くなった。
ハル,「まあいい。ところで、明日は、わたしも協力させてもらいたいんだが」
椿姫,「え?」
 夢想にふけっていた椿姫は、いきなり目を覚まされた気分だった。
ハル,「犯人を捕まえる」
 ハルは、決まっていることのように言った。
 すると、それまで黙っていた父親が口を開いた。
パパ,「捕まえるって?」
 父親は重い腰を上げた。
パパ,「それは……お金を渡さないっていうことかい?」
ハル,「極力、渡したくはありません」
 その一言に、さすがに慌てた。
椿姫,「ダメだよ! ちゃんと渡さないと、広明が!」
犯人は、言うことを聞けば広明を返してくれると約束したのだ。ハルに詰め寄ったとき、父親が手で制した。
パパ,「椿姫、ちょっと落ち着きなさい」
椿姫,「だって……」
 ハルは小さく頭を下げた。
ハル,「驚かせてすまない、椿姫」
椿姫,「あ、わたしこそ、取り乱して……」
ハルは、椿姫を安心させるように笑った。
パパ,「宇佐美さん、といったね?」
ハル,「ハルでいいですよ、お父さん」
パパ,「捕まえるって、君が、かい?」
ハル,「ええ……お金も、広明くんも返ってくる。それが、最高の形だと思っています」
パパ,「たしかに、犯人さえ捕まえれば、全てうまくいくよ。けれど、僕らは警察すら頼らないことに決めたんだ」
ハル,「犯人の言いなりになるということですね?」
 ハルはどこか不服そうだった。
ハル,「たしかに犯人はたいした人物です。幼児を誘拐し、髪を送りつけてくるという残虐性と、身代金を株券で要求するという奇想天外な発想の持ち主です」
 ハルはなにが言いたいのだろうか。犯人の人物像など興味がわかない。誘拐事件を引き起こしたというだけで、もはや恐怖の対象でしかない。
パパ,「そうだよ、そんな凶悪な犯罪者をどうやって捕まえるというんだい?」
 父親の言うとおりだった。
ハル,「犯人がどれほど頭の回る人物だとしても、ただ一点、姿を現さなければならない瞬間があります」
パパ,「それは?」
ハル,「身代金奪取のときです。正体不明の犯人ですが、用意した株券を椿姫から受け取るときには、顔を見せざるをえないはずです」
 たしかに、犯人は、椿姫に会いたいとまで言った。ひょっとしたら、本当に、顔を合わせることになるのかもしれない。
父親が首を振った。
パパ,「宇佐美さん、前に君が言ったとおり、身代金を渡せば広明が返ってくるという保障はどこにもないね……」
ハル,「わたしはむしろ、身代金を渡したが最後、広明くんは戻らないとまで考えています」
椿姫,「なんで? 約束が違うじゃない?」
 口をはさむと、椿姫はハルに見つめられた。
ハル,「犯人にとって人質とはリスクの塊だからだ。解放したあと、犯人の顔や声を覚えていて、監禁されていた場所を警察に話すかもしれない」
パパ,「……浅井くんといい宇佐美さんといい、椿姫の友達はただものじゃないな」
 父親は力なく笑った。胸のうちでは激しい葛藤があるのだろう。警察に通報もせず、凶悪犯の言いなりになり、守り続けてきた土地を担保にいれなければならない。椿姫は、こんなに苦しそうな父を初めて見た。
パパ,「正直、どうしていいのかわからないんだ。いますぐにでも受話器をつかんで警察を頼りたい気持ちもある。ただ、それをやると確実に広明は返ってこないんじゃないかという恐怖も大きい」
ハル,「お察しします……」
パパ,「椿姫は、宇佐美さんの意見には反対なんだな?」
 父の問いに、椿姫は即答をためらった。
 罪悪感に似たものが芽生えていた。自分は、ハルという友人より、得たいの知れない凶悪犯の言うことを聞こうとしている。
椿姫,「ハルちゃん……」
 ハルは目を伏せた。
ハル,「わたしに人の家庭の事情に口をはさむ権利なんてない。ずけずけと勝手なことばっかり言って、本当にごめん」
 胸が痛んだ。勇者と名乗った少女は、最良と思われる行動を提案しているにすぎないのだ。その気持ちを汲んであげたかった。
 椿姫は、散々迷った果てに、ようやく言った。
椿姫,「お父さん、ごめん。やっぱり警察は怖いよ。だってわたしは、犯人の声を直接聞いてきたもの、本当に怖い人だと思う。警察だけはぜったいにだめだと思う」
 父親は深くうなずいた。
椿姫,「でも、ハルちゃんの言うことも、合っているように思う。犯人を捕まえたいとも思う」
ハル,「椿姫……」
椿姫,「だから、ハルちゃんには、自由にして欲しいな」
笑うと、笑顔が返ってきた。
ハル,「ありがとう」
椿姫,「ううん、"魔王"をやっつけるのが、勇者様でしょ?」
 つられて、父親も笑ってくれた。
パパ,「あしたはだいじょうぶか、椿姫。お前の身も心配だ。できるなら、かわってやりたいが……」
椿姫,「いいよお父さん、ありがとう」
父は椿姫を頼っていた。長女として、いままでずっと、家族の中心的存在にあったのだと気づいた。
パパ,「よし、じゃあ、子供たちを起こしておいで。ごはんにしよう」
ハル,「自分もいっしょさせてもらえると、食費が浮いて大変うれしいのですが……」
椿姫,「もちろんだよ、みんなで食べよう?」
ハル,「すいません、あつかましくて……」
 夜は更けていった。
 冬の暗い淵に立たされた家族に、ようやく一輪の花が咲いたようだった。
;关于水羽,立绘结尾为s的,立绘纵坐标应为100
;关于权三,立绘结尾为b的,立绘纵坐标应为145
;背景京介の部屋昼
冬の朝はいつもより冷え込んでいた。
さて、今日は朝から大忙しだ。
;SE携帯
支度をして玄関に立つと、
胸ポケットのなかで携帯が鳴り響いた。
京介,「もしもし……」
相手は椿姫だった。
椿姫,「朝早く、ごめんね」
京介,「ああ、かまわないよ。なにかあったのか?」
椿姫,「えとね、今日、身代金の受け渡しがあるの」
京介,「へえ……」
驚いたふりをした。
京介,「大変だな。やれるのか?」
椿姫,「ううん、やるしかないよ」
椿姫の声には、強い意気込みのようなものが感じられた。
京介,「すまんな、こんなときにいっしょにいてやれなくて」
椿姫,「浅井くんにはたくさんお世話になってるよ」
京介,「ちょっと仕事があってね。かたづいたらそっちの家に駆けつけるよ」
かたづいたら、な。
椿姫,「ありがとう。待ってるね」
通話を切って、外に出た。
;"魔王"のアイキャッチ
いよいよか……。
笑みが漏れ、口角がつりあがる。
遊びを楽しむとしよう。
;ノベル形式
;ハルの視点
;背景椿姫の家概観
午前九時。
冬の青空と同じように、ハルの頭は冴え渡っていた。
ハル,「よーし、椿姫。いっちょ我々の友情パワーを犯人に見せつけてやろうじゃないか!」
椿姫,「ハルちゃん、元気いいね」
ハル,「お前こそ、ちゃんと身代金持ったか?」
椿姫,「うん」
椿姫は封筒に入れた株券を、大事そうに抱えていた。
見送りに出てきた父親と母親に手を振ると、二人はセントラル街に向かった。
;背景繁華街1
いったいどこから人が集まってくるのか。午前中とはいえ、休日のセントラル街の混雑は半端なものではなかった。
椿姫,「ねえ、ハルちゃん」
ハル,「なんだ?」
椿姫,「わたしたちって、いっしょに行動していいのかな?」
椿姫の足取りが重くなった。ハルもつられて足並みを合わせた。
ハル,「ダメだとは言われていない」
ハルはむしろ、この誘拐事件にからんでこいと"魔王"に誘われているような気がしていた。
ハル,「ただ、わたしは離れて行動したほうがいいとも思う」
"魔王"も、ハルの介入を予想しているだろう。
であれば、椿姫といっしょに身代金を引き渡すより、姿をくらましていたほうが、"魔王"の不意をつきやすいのではないか。たとえば、身代金奪取に姿を現した"魔王"が、椿姫に気をとられているうちに背後から近づいたりできるかもしれない。
椿姫,「どうするの?」
椿姫が訊いてきた。一人では心細いのだろう。
ハル,「だいじょうぶだ。そばにいる」
椿姫,「そう?」
ハル,「ただし、少し距離をおいて、椿姫を遠目に見守るような形を取らせてもらう」
椿姫はけげんそうに首を傾げた。
椿姫,「じゃあ、これから、わたしたちはお互いに連絡をとりあえないの?」
ハル,「そうなる」
椿姫,「そっか……」
ハルは、椿姫の肩に手を置いた。
ハル,「窮地におちいっているようなら、さっそうと助けにいく」
その一言で、椿姫も少しは安心したようだ。頬を朱に染めてうなずいた。
ハル,「最後に、ひとつだけ、聞いておく」
椿姫,「なんでも言って」
ハル,「わたしは極力犯人を捕まえようとする。だが、万が一取り逃がしてしまった場合、身代金だけは奪われないように動くつもりだ」
椿姫,「……そうなの?」
また不安そうに椿姫の眉が下がった。椿姫としては、やはり、素直に犯人のいうことにしたがって、身代金を渡したい気持ちが強いのだろう。
ハル,「いいか、椿姫。たとえ犯人に逃げられても、身代金さえ手元にあれば、もう一度交渉のチャンスはつかめる……と思う」
"魔王"は、身代金を奪おうと、もう一度椿姫家に接触してくるからだ。その場合は、再戦となるだろう。
ただ、なにか嫌な予感が走っていた。
ハルの推測は、"魔王"が本当に身代金を欲しがっているという前提において、妥当といえる。ただ、今回の誘拐事件は、生活に詰まった人物の、成り行きの犯行ではないのだ。
――"魔王"にとって、五千万の株券が、どれほど意味のあるものなのだろうか。
しかし、ハルは、"魔王"の真の目的は、ハルへの挑発だとにらんでいる。"魔王"にとっては、挑戦というよりお遊びなのかもしれない。いずれにせよ、"魔王"がハルを叩き潰したいのであれば、その鼻をあかしてやればいい。もちろん、敗北を悟った"魔王"が、腹いせに広明くんを殺害するという不安もぬぐいきれるものではないのだが……。
椿姫,「ハルちゃん、昨日も言ったけど、ハルちゃんのいいようにして」
ハル,「ありがとう。そう言ってくれると思っていた」
椿姫,「ふふっ」
椿姫が舌を見せた。
椿姫,「ハルちゃんて、不思議な人だね」
ハル,「なんだ、急に?」
椿姫,「どよーんとしたり、キリっとしたり、いったいどれが、本当のハルちゃんなの?」
ハル,「さあ……」
見つめられると、なんだか首の裏がむずがゆい。
椿姫,「ハルちゃんって、転校多かったんじゃない?」
ハル,「まあ……」
椿姫,「そっか、大変だったね」
椿姫は、おそらくその生来の人の良さで、ハルの友達の少なさを感じ取ったのだろう。
ハル,「おい椿姫。わたしはよく気持ちが悪いといわれる」
突然の一言に、椿姫は目を丸くした。
ハル,「気持ちが悪かったら、縁を切ってもらってかまわないんだぞ?」
ハルは少しだけ昔を思い出した。孤独を孤高と言い換えて、斜にかまえていた自分を……。
けれど、椿姫は強い口調で言った。
椿姫,「悲しいこと言わないで」
はっとして、椿姫を見た。
椿姫,「お友達だよ、ハルちゃんは」
いったいどうして、こうまで純粋な少女が現実にいるのだろうか。
一途なまなざしには、ある種のカリスマすら感じる。なにをさしおいても、椿姫のためにがんばろうという気分にさせられた。その根拠が理解できなくて、ハルは戸惑いを隠せなかった。
ハル,「最後に、一つだけ聞きたい」
椿姫,「え、さっきも最後にって言ってなかったっけ?」
ハル,「これが本当に最後だ。そしてかなり重要なことだ」
椿姫,「うん……」
ハルは椿姫を見据えた。
ハル,「椿姫は、浅井さんのことが好きなのか?」
椿姫,「えっ!?」
瞬間、湯でも沸いたような表情になった。
ハル,「どうなんだ?」
椿姫,「え、えと……」
ハル,「どうなんだと、聞いているんだ」
椿姫,「す、好きだよ。もちろん。あんなに頼りになる人いないよ」
ハル,「ふーん」
椿姫,「ふーん、て」
やはり、か。ハルは、複雑な気分だった。反対に、椿姫はすでに余裕を取り戻していた。
椿姫,「なんにしてもありがとう、ハルちゃん」
椿姫が言う。
椿姫,「広明が帰ってきたら、いっぱいお話しようね」
ハルはうなずいた。そして、椿姫についてはこう思うことにした。
自分は素晴らしい友人を得たのだ、と……。
;場転
;椿姫視点
;背景繁華街1昼
午前十一時十分。セントラル街にそびえる大時計を見て、椿姫は時刻を確認した。
ハルと別れ、一人になった。一人で犯人の指示をまっとうした。開店と同時にデパートに向かった。犯人の言うとおり、アタッシュケースは六千円で買うことができた。椿姫家の全財産ともいえる身代金は、すでにケースのなかにおさまっている。
椿姫は、ハルから預かった携帯電話を操作した。充電も電波も十分に入っていた。
椿姫,「もしもし……」
通話はすぐにつながった。誘拐犯の魅惑的な声が耳を突く。
魔王,「優等生だな、椿姫は」
椿姫,「え?」
魔王,「急いでケースを用意した。デパートの開店は十一時だからな」
なにを言っているのかわからなかった。弟の命がかかっているのだから、なにごとも急ぐに決まっている。
魔王,「今後も、迅速な行動を期待する」
椿姫は黙って、あいづちだけを打った。
魔王,「いまは、セントラル街だな?」
椿姫,「はい……」
魔王,「そのまま歩いてオフィス街に来てもらおう。山王物産の本社ビルが見える広い公園があるのはわかるな?」
椿姫,「公園のどこに行けばいいんでしょうか?」
魔王,「園内には大きな掲示板がある。そのそばで、落ち合おう」
椿姫,「わかりました……」
魔王,「急げよ」
唐突に、通話が切れた。
椿姫は立ち止まって、ハルの姿をさがした。けれど、人だかりにまみれて、あの目立つ長い髪は見当たらなかった。
――ついてきて、くれてるんだよね……。
椿姫は、アタッシュケースを手に提げて、混雑してきたストリートを進んでいった。
;背景セントラルオフィス
;アドベンチャー形式
長くても三十分。
あのデパートからこの公園まで、女の足でも二十分あれば足りるはずだった。
椿姫には落ち合おうと言ったが、おれにそんな気はまるでない。
身代金奪取にさいして、なにをさしおいても確認しなければならないことがある。
それは、運び屋が、誘拐犯に従順であるかどうかだ。
すなわち、責任感を持って身代金を運べるのか、また、運ぶ体力はあるのか……。
そしてなにより、警察を頼っていないかどうか……。
三十分だ。
おれは腕時計の秒針を目で追った。
三十分以上かかるのであれば、まず間違いなく背後に警察がいるとおれは考える。
もし、椿姫の一家が、あれだけ忠告したにもかかわらず、警察に通報した場合、おそらく百人単位の捜査員が身代金を運ぶ椿姫を監視していることだろう。
おれを捕まえるために、大勢の刑事が公園に張り込むわけだ。
ただ、どれだけ迅速な指示が飛んだとしても、相応の時間はかかる。
警察はセントラル街から、この公園に人員を転換しなければならないからだ。
警察は、人員配置が完了するまで、椿姫を引き止めるだろう。
だからおれは時間を気にする。
三十分以内に椿姫の姿が見えなければ、取引を中止するしかない。
魔王,「…………」
園内の見晴らしはいい。
一般人を装った刑事がいれば、それとなくわかるかもしれないが、見分けがつくかどうか、確信まではもてない……。
たとえば、目につくだけでも、中年のカップルが二組、犬を連れた男が一人、サラリーマン風の男、妊婦に手を差し伸べる初老の男……疑い出せばきりがない。
だから、おれがこの場で、せめてやっておくべきことは、すれ違う人間の顔を覚えておくことだ。
なぜなら、これから先、椿姫をひっかきまわしていく過程で、同じ顔を見かけた場合、そいつは刑事である可能性が極めて高いからだ。
ベンチに腰掛けたおれは、目線だけを動かして、警察の影を探っていた。
魔王,「……む」
椿姫の姿を確認した。
園内の掲示板に向かって、猛然と走っている。
私服の少女が、アタッシュケースを手に提げた姿は、あまりに目立つ。
想像力の突飛な人間がいまの椿姫を見れば、まさしく身代金の受け渡しに奔走していると考えるかもしれんな……。
時計を確認する。
さきほどの連絡から、十五分もたっていなかった。
次の指示を出すとするか。
園内にすでに捜査員が張り込んでいる場合を想定して、すぐには電話をかけない。
椿姫が電話を取ったときに、捜査員は園内の電話をしている人物を徹底的にマークするからだ。
去り際、椿姫を見やった。
遠目に見ても、緊張しているのが見て取れた。
;ノベル形式
;背景セントラルオフィス
待ち続けて、もう一時間近くになる。
椿姫は不安に胸の詰まる思いだった。指定された場所にいるはずなのに、一向に犯人らしき人は現れない。声をかけてきたのは、まったく関係のないナンパ目的の男だけだった。
;SE着信
突然、携帯が鳴り響いた。犯人からだ。
椿姫,「はいっ、ちゃんといますよ!」
電話に出るなり、叫んだ。犯人は不機嫌そうな声を出した。
魔王,「……少し、騒がしいぞ、椿姫」
椿姫,「えっ!?」
魔王,「大声を出すな。周りの人間に不審に思われるだろう?ただでさえ、アタッシュケースを手に持った格好というのは、お前のような少女には不釣合いなのだからな」
椿姫,「す、すみません……」
目立つ格好になったのは犯人の指示ではないのかと思ったが、口に出す勇気はなかった。
椿姫,「あの、それで……このケースはどうすればいいんでしょうか?」
魔王,「大事に持っておけ」
椿姫,「え?」
魔王,「予定変更だ。受け渡し場所を変更する」
椿姫は戸惑った。思わず、ハルの姿を探すが、気配すらなかった。
魔王,「セントラル街の駅に行け。改札の近くに、ロッカールームがある。使用禁止の紙が貼られたコインロッカーを探せ」
椿姫,「ま、待ってください、いま書き留めます……」
携帯電話を首と肩の間にはさみながら、自由になった両手で日記帳を開いた。
魔王,「ロッカーのなかに、身代金の詰まったケースを入れて鍵をしろ」
椿姫,「使用禁止じゃないんですか?」
魔王,「安心しろ、実はちゃんと使える」
使用禁止の張り紙は、犯人が用意したものなのだろうか。椿姫は次の指示を待った。
魔王,「ロッカーの鍵をしっかりとかけたら、次にその鍵を持って、電車に乗れ。行き先は、終点の桜扇町だ」
椿姫,「桜扇町?」
それは、隣の県にある電車の終点だった。セントラル街からだと片道で二時間はかかる。県を越えるほど遠い場所まで連れ出して、なにをさせるのだろうか。
魔王,「向こうの駅に着いたら、改札を出たあたりで待て」
椿姫,「また連絡をもらえるんですか?」
魔王,「いいや、お前から連絡して来い。急げよ」
椿姫,「わかりました。次こそ会えるんですよね?」
魔王,「椿姫が、いい子にしていたらな」
おどけたようなことを言う。遊ばれているのだろうか。椿姫はめったに表に出ない感情が、胸奥でぐつぐつと沸いていくのをおさえられそうになかった。
椿姫,「あなたの言うことは守ります。だから、ぜったいに弟を返してください」
怒りが、膨らんでいく。
けれど、犯人はそんな椿姫をあざ笑うかのように言った。
魔王,「返さなかったら、どうする?」
椿姫,「許さない!」
飛び出た声の荒々しさに、自分でも驚いた。
嫌な間があった。
とたんに恐怖が襲ってきた。犯人を怒らせてしまったかもしれない。下手に刺激して、広明が危ない目にあうようなことがあったら、どう責任をとればいいのだろう。
犯人は、静かに言った。
魔王,「決めた……」
椿姫,「え?」
魔王,「私が、お前を人間にしてやる」
言葉の意味がわからず、問い返そうとしたとき、通話が切れた。
――人間にしてやる?
何か、哲学的な意味でもあるのだろうか。そういう迂遠な表現は苦手だった。そもそも、幼児を誘拐するような凶悪犯の言うことが、理解できるわけもなかった。
気を取り直して、駅に向かった。
;背景繁華街2
声をかけられたのは、信号待ちをしているときだった。
ハル,「椿姫、そのまま聞け」
ハルが、いつの間にか椿姫の隣にいた。正面を向いたまま話しかけてくる。
ハル,「お前は、犯人の指示をメモにとっているな?」
椿姫,「う、うん、日記に」
ハル,「じゃあ、そのページだけ破って、歩きながらそれとなく捨ててくれ」
椿姫,「わかったよ……」
信号が青になった。人々は一斉に歩き出した。横断歩道を渡りきったところで、ちらりと後ろを振り返ったが、ハルの姿は、もうなかった。
椿姫は、こんなときでも、街中にゴミを捨てるのは抵抗感があった。ただ、すぐにハルが拾ってくれると思うと、いくらか気が楽だった。
;黒画面
;アドベンチャー形式
二時間と十分が過ぎた。
あの公園から桜扇町まで、早ければ二時間で着くだろう。
それ以上かかれば、また警察の関与が考えられる。
おれはまだセントラル街にいた。
準備を整えたおれは、車の後部座席から、窓越しに景色を眺めていた。
冬の寒さをものともせず、街はいよいよ賑わってきた。
;SE着信マナーモード
電話の向こうから、慌てた声が届いた。
椿姫,「もしもしっ!」
魔王,「ついたか?」
椿姫,「はい!どこに行けばいいんですか?」
魔王,「ロッカーの鍵は、なくしてないだろうな?」
椿姫,「ちゃんと持ってます。どうすればいいんですか?」
おれは、当初から決めてあった通りに告げた。
魔王,「戻って来い」
椿姫,「え?」
椿姫はうろたえるが、おれは続ける。
魔王,「戻って、ロッカーからアタッシュケースを取り出せ」
椿姫,「ど、どうしてですか?」
魔王,「理由を説明する必要はない」
椿姫,「だって、なんのために、こんな遠くまで……」
……それは、もちろん、身代金をいただくためだ。
椿姫,「あの、ひょっとして、まだ警察のことを疑っているんですか?」
魔王,「……どうかな」
椿姫,「だったら、こんなことは、無駄です。本当に警察には連絡してないんですから」
声には、さっさと身代金を渡したいという気持ちがありありと出ていた。
魔王,「警察は、からんでいないのか?」
椿姫,「はい、絶対です!」
富万別市から桜扇町まで、県をまたがせたのには理由がある。
警察の管轄が異なるからだ。
椿姫の背後に警察がいた場合、この誘拐事件の捜査が、他県に移る。
ここで、また人員の配置が混乱するのだ。
これだけ振り回せば、警察の追跡はかなり後手に回っているはずだ。
もちろん、両県警が相互協力のために、前もって連絡を入れておいた可能性はある。
しかし、ヤクザほどではないにしろ、基本的に警察は縄張り意識の強い組織なのだ。
富万別市と桜扇町の刑事が、犯人を挙げるために、全力で協力し合うことはないと、おれは判断している。
……しかし、東京都に足を運ばせなくてよかったな。
当初の計画では、椿姫を東京に向かわせる予定だった。
この県と警視庁が、例外的に良好な関係にあるとは、つい先日まで知らなかった……。
危ないところだった。
魔王,「よし、信じてやろう」
椿姫の行動は迅速だった。
少なくとも、椿姫と警察が綿密な連絡を取り合っているということはなさそうだった。
魔王,「次だ。次こそ、身代金を受け取りに行こう」
おれは、ようやく、勝負してもいいと思えるほどに、警察の関与を否定しつつあった。
椿姫,「えっと、ケースをロッカーから出したあと、どこに持っていけばいいんですか?」
魔王,「地下鉄に乗って、南区の住宅街に来い」
椿姫,「はい」
魔王,「いまから言う住所と番地に向かえ」
番地を告げると、了解の返事が返ってきた。
魔王,「そこに、白いセダンが停めてある。車の鍵は開いているから、お前は身代金を持ったまま後部座席に乗り込むんだ」
椿姫,「それで、どうするんですか?」
魔王,「そのあとは、私を待てばいい」
椿姫,「え……?」
魔王,「不安か?狭い車内で、私と二人きりになるのは?」
おれは薄く笑う。
椿姫,「な、なにを考えているんですか?」
魔王,「ドライブさ……」
椿姫,「……っ」
愉しみだな……。
通話を切り、車の発進を命じた。
;背景セントラル街
;ノベル形式
また二時間ほどかけて、セントラル街まで戻ってきた。冬場は日が落ちるのが早い。南区に着くころには、夕方になっているだろう。
ハル,「おい、椿姫」
ハルだ。不意に、背後から声をかけられた。ハルは唐突に言った。
ハル,「お前が、桜扇町に行っている間、私はケースの入ったロッカーをずっと見張っていた。ロッカーをあけようとした不審な人物はいなかった」
椿姫,「そうなんだ……」
桜扇町まで着いてきてくれたわけではなかったのか。
ハル,「椿姫を追うか、ロッカーを見張るか……迷ったが、後者を選択した。なぜなら、誘拐犯が鍵を手に入れたとしても、身代金が欲しければ、必ずロッカーを開けなければならないからだ」
ハルの説明は、椿姫の不安をふっしょくさせるに十分だった。
ハル,「もう少し人手があれば、よかった……」
ハルが寂しそうに言った。それだけ言って、また人ごみに姿を消した。
椿姫は胸を痛めた。ひょっとしたら、ハルには頼れる友人などいないのかもしれない……。
ふと、ぼやいた。
椿姫,「浅井くん……」
京介がいてくれたら、どれだけ心強いだろうか。
けれど、椿姫は弱音を吐きかけた心に鞭を打った。ないものねだりをしても、弟は返ってこない。ケースを握る手に力をこめる。南区に向けて、足を向けた。
なぜ、京介の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。
;背景南区住宅街夕方
椿姫はあまり訪れたことがなかったが、南区は全体的に閑静な住宅街だ。西日が二階建ての新築の家や、屋敷を囲う鉄柵を朱に染めている。
椿姫は、番地を確認しながら、目的の場所を探した。
椿姫,「あった……」
車を発見した。白い普通車だった。犯人のいうセダンという車がどういうものか椿姫は知らなかったが、指定された住所に、白い車が一台だけ停めてある。
――あれの後部座席に乗って……。
動悸が激しくなってきた。犯人といっしょにドライブをするなんて思いもしなかった。自分も誘拐されてしまうのかもしれない。ただ、それなら広明は返して欲しいと思った。弟のためならいくらでも身代わりになるつもりだった。
車に近づいた。恐る恐る様子をうかがう。窓ガラスの向こうを覗く。車内に人影はなかった。
意を決して、後部座席のドアに手をかけた。
;黒画面
滑り込むように後部座席に乗り込んだ。身代金の入ったケースを膝の上にのせると、ようやく一息ついた。
静かだった。車内はまるで音がしない。手に汗がうっすらとにじむ。心臓の音だけが、やたらとうるさく聞こえた。
じっと待った。
不安に身がよじれる思いだった。目をつぶると、広明の顔が浮かんでくる。いま、どこにいるのだろうか。食事はちゃんと取らせてもらっているだろうか。早く、会いたかった。
;SE携帯
携帯の音に弾かれるように目を開いた。急いでポケットから電話を取り出す。
魔王,「車のなかの居心地はどうだ?」
犯人だった。
魔王,「せっかくのドライブなのに、安い車で申し訳ないな」
言っている意味がわからなかった。ドライブするのに安い車も高い車もあるのだろうか。男性は見栄のようなものを気にすることがあると、なにかの本で読んだが、椿姫にはさっぱり理解できなかった。
椿姫,「……あの、まだですか?」
魔王,「いま行く……」
そのときだった。
魔王,「む……?」
犯人が不意に息を潜めた。
魔王,「どういうことだ?」
声質が変わった。それまで余裕そうにしていた犯人のそれではない。
椿姫,「な、なにかあったんですか?」
問い返すが、返事はなかった。
しばしの沈黙を置いて、通話が切れた。
椿姫,「え……?」
唖然とした椿姫を、さらなる不測の事態が襲った。
;SE窓ガラスをたたくような音
自動車の窓がノックされた。音につられるようにして見ると、そこには見慣れぬ顔があった。こちらを無表情に覗きこんでいる。
制帽と制服。戦慄した。口を開いたまま固まった。犯人が最も恐れている存在が、目の前にいる。
――警察!
パニックにおちいった椿姫は、突如現れた警官にどう対応していいのかまったくわからなかった。
膝が、がくがくと震える。警官は車を降りるよう求めている。めまいがして、みぞおちが軋んだ。椿姫は意思を失ったロボットのように車から降りた。ドアを開けるとき、ほとんど無意識にアタッシュケースを手放し、座席の足元においた。
わけのわからない質問を繰り返された。
この車は、あなたのものなのか――?
極度の緊張状態にある椿姫は、まるで他人事のように警官の話を聞いていた。
ここでなにをしているのか――?
椿姫は、あ、え、などと意味をなさない声を発しながら、ついには首を振った。なんでもないです、そう言ったと思う。すると形式的なことですから答えてくださいと詰め寄ってきた。盗難車の可能性もある、などと言っている。
もう、完全に上の空だった。警察に話しかけられたことなんてない。恐怖に、尿意すら覚えた。警察といっしょにいるところを犯人に見られていたら、どう弁解すればいいのだろう。
警官は二人いた。自転車も二台。ぼんやりと景色を追うだけだった。
あのケースはなんですか――?
警官が背後の車を指した。
中を見てもよろしいですか――?
聞かれて、少しだけ目が覚めた。使命感に似たものが芽生えた。
椿姫,「だ、めです……」
か細い声が出た。顔はうつむいたが、はっきりと拒絶の意思を示した。
目の前の警官は、いつの間にか、椿姫の前にケースをかかげていた。
椿姫,「だめです」
身代金の入ったケース。弟の命がかかっている。引き渡したら、誘拐事件のことが警察に知れてしまう。想像しただけで、広明と二度と会えないと思えるほどの恐怖が襲ってきた。
それから先は、自分でも、自分の行動がわからなかった。
;黒画面
奇声を発した。腕を伸ばし、つかんだ。アタッシュケースの固い感触がある。警官がうめいた。背を向け、走っていた。制止する声が上がる。怯えた。足だけが別の生き物のように駆けた。
闇雲に逃げると息が上がり、頭がくらくらしてきた。まるで犯罪者になったような気分だった。酸欠と罪の意識で涙が出てきた。
だが、泣いている暇はなかった。
;背景繁華街1夕方
椿姫,「あの、あの、すみません!」
セントラル街の雑踏にまぎれてなお、椿姫は人心地がついた感じがしなかった。
椿姫,「すみません、でも逃げましたから。身代金、ありますから!」
必死で許しを請う。犯人は、それまで以上に冷酷な声で言った。
魔王,「なぜ謝る?あれは、ハプニングだったのだろう?」
椿姫,「はい、知りません。警察の人がいるなんて、知りませんでした」
魔王,「知らなかったのなら、なぜ謝る必要があるんだ?警察と示し合わせていたのでなければ、頭を下げる理由がわからない」
椿姫,「それは、えっと……ただ、なんとなく……」
電話越しの犯人は警戒の色を弱めなかった。
魔王,「裏切ったな?」
椿姫,「ち、違います!」
魔王,「私をあそこで捕まえる算段だったのだろう?」
椿姫,「本当です、信じてください!」
魔王,「もういい、取引は中止だ」
椿姫,「そんな!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。このままでは広明を失ってしまう……。
椿姫,「なんでもします!なんでもしますから弟には手を出さないで!」
魔王,「…………」
椿姫,「お願いです、お願い……!」
最後のほうは声にならなかった。目に涙が溜まっていく。
魔王,「そんなに弟が大事か?」
椿姫,「……もちろんです」
魔王,「なぜだ?」
椿姫,「なぜって、家族だから……」
言うと、相手は低く笑った。
魔王,「そうか、家族だからか。そうだな、家族は大切にしなくてはな」
せせら笑うように続けた。
魔王,「椿姫は、さぞ大切に育てられて、清く正しく成長したんだろうな」
椿姫,「えっと、どういう意味ですか?」
魔王,「言葉通りの意味だ。お前からにじみ出る善良さが、まぶしくて仕方がない」
椿姫はなお、理解できなかった。よく人がいいとは言われる。京介にも茶化される。けれど、他の人も皆、いい人ではないか……。
魔王,「善良さというものは、たいていの場合、偽装した悪徳にすぎないと私は思っているが、どうやら椿姫は一味違うようだな」
もうたくさんだった。
椿姫,「あの……」
魔王,「いいだろう。取引を続ける」
椿姫,「あ、ありがとうございます!」
思わず頭を下げていた。理不尽な状況にあって、犯人に感謝していた。
魔王,「もう少し、慎重にやらせてもらうとしよう。今後は、たとえ警察がからんでいても、身代金を受け取れる手順を踏ませてもらう」
椿姫は、犯人もやはり人の子だと思った。誠心誠意お願いすれば、話が通じた。もしかしたら、広明を誘拐したのにも深い理由があるのかもしれない。
椿姫は初めて、犯人の心情に興味を持った。そして、なにより従順になっている自分に気づいていなかった。
;場転
;アドベンチャー形式
;背景セントラル街1夜
日が落ちた。
初冬の風が寒さを運んでくる。
おれはガードレールに腰掛けながら、椿姫との通話を続けていた。
あれから二度、西区の港と、隣の市まで、椿姫を走り回らせた。
移動手段も、徒歩、電車、タクシーと、様々な動きを見せた。
椿姫に言ったとおり、慎重にことを進める。
南区の住宅街で、椿姫は大きな騒ぎを起こした。
アタッシュケースを持った少女の姿は目立つ。
そんな不審者を、どこかの人のいい市民が通報しないとも限らない。
そして、警察が、不審者と、誘拐事件とを結びつける可能性がないとは言いきれない。
しかし、本日中に、警察が不審者を椿姫と断定し、誘拐事件の被害者であることを調べ上げるとは、とても考えにくい。
身代金奪取は今日中に、行う。
証拠も残していない。
あの白いセダンにしても、もともとが盗難車だ。
今夜中に県外のスクラップ工場に運ぶ手はずも整えている。
あの車から足がつく心配をするならば、たとえばいますぐに関東域に大震災が起こる心配をしたほうがいい。
魔王,「…………」
ほとんど全ての準備が整った。
あとは、宇佐美だ。
どうやら椿姫と行動をともにしているようで、それとなく距離を置いているようだ。
椿姫を監視しながら、宇佐美の姿も探しているが、これが意外なほどに見つからない。
あのおかしな髪型が、尾行に適しているとはまったく思えないが、それこそが盲点なのかもしれない。
あれだけの長髪ならば、いくらでも髪型を変えることができる。
帽子をかぶり、メガネでもかけられれば、ぱっと見にはわからないほど変貌するだろう。
しかし、最後には必ずおれが身代金を奪う。
いまはヤツらをひっかきまわして、疲弊させることだ。
魔王,「……っ」
また、頭痛を覚えたが、今度ばかりはこらえることにした。
いま頭痛に身を任せるわけにはいかない。
体内に燃え盛る、鬱屈した感情に闘志を募らせる。
……邪魔をするな、浅井、宇佐美……。
;ノベル形式
;ハル視点
――さあ出て来い"魔王"。
もう時刻は夜の八時を回っている。朝早くから、市内を駆けまわされて、ついには東区の公園までたどりついた。ハルは、茂みに身を潜めていた。物音一つ立てない。日中は市民の憩いの場となっているであろう公園も、いまでは不気味なまでに静まり返っている。
椿姫の体力はだいじょうぶなのだろうか。公園に来るまでに、椿姫はまたコインロッカーにケースを入れていた。鍵だけを持って、園内のゴミ箱のそばにやってきた。
ハルは、今度はロッカーを無視して、椿姫を追うことにした。身代金を奪うには駅構内のロッカーに近づく必要があるが、ロッカーを開けるには、鍵が必要なのだ。
いちおうロッカーの近くにも人を残していた。セントラル街で偶然に、京介に出会ったのだ。事情を説明すると、京介は喜んで協力してくれた。父親の仕事を手伝っているというが、意外とフリーな時間が多いようだった。
;SE着信
椿姫の携帯が鳴った。ハルは耳を澄ました。顔を出すのはまずい。音だけで状況を判断しなければならない。
椿姫,「はい……わかりました……」
椿姫の声にはさすがに疲弊の色がうかがえた。極度の緊張が続いたのだから無理もない。警官に囲まれたときなど、パニックにおちいっていた。
椿姫,「鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね?」
考えてのことかどうかはわからないが、椿姫は、犯人の指示を復唱してくれていた。
椿姫,「……わかりました。すぐ、行きます」
言い切って、携帯を切る音がした。足音が聞こえる。どうやら椿姫は走り去っていったようだ。
取り残されたハルは、身を小さくした。待っていれば、"魔王"が鍵を回収しに現れるはずだ……。
――いや、違う。
自分も疲れているのか。"魔王"がここに現れるはずがない。
なぜなら椿姫は、まだ鍵を手に持っているからだ。
じっと耳を澄ませていたが、椿姫がゴミ箱に何かを捨てるような物音は拾えなかった。
椿姫は、鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね、と言った。しかし、それはたまたま口にしたのではないか。なぜなら、もし、椿姫が気を利かせて"魔王"の指示を復唱してくれたのであれば、その後も、逐一状況を伝えるような発言や行動があってもいいものだからだ。鍵をゴミ箱に捨てるときにわざと大きな音を立てたり、捨てたことを声に出してくれてもいい。なにより、その後の椿姫の『すぐ行きます』という発言は、気を利かせて復唱してくれているにしては、どこに向かうのかわからないあいまいさがある。
"魔王"と椿姫の会話はおそらくこんな感じだったのだろう。
『鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね?』
『いや、待て。やはり、セントラル街に向かえ』
『……わかりました。すぐ、行きます』
そもそも、椿姫は南区で警官に職務質問を受けて以来、"魔王"にえらく怯えていた。気も焦っていることだろう。そんな状況で、ハルのことを気にかけている余裕はないはずだ。
思わぬ足止めを食らうところだった。単なる聞き違いから、勝手に勝負をリタイアしてしまうところだった。
ハル,「それにしても、いつになったら現れるんだ……」
言いつつも、ハルは、決着のときが近づいているような切迫さをひしひしと感じていた。
;椿姫視点
もうどれくらい駆け回っていることだろうか。何度、引渡し場所を変えられたかわからない。
極度の緊張が続いた椿姫は疲れ果て、会話をするにも息がつまりそうになっていた。
魔王,「がんばるな、椿姫」
犯人が電話越しに言った。
魔王,「もう九時になるか……そろそろ弟たちを寝かしつける時間じゃないか?」
椿姫,「……次は、どこに?」
椿姫は息を切らせながら聞いた。
椿姫,「お金は、必ず渡しますから、弟を返してください!」
魔王,「そればかりだな」
椿姫,「広明が帰ってくれば、それでいいんです!」
魔王,「だが、本当にいいのか?」
椿姫,「え?」
魔王,「身代金を渡したりして、いいのか?」
いまさら、なにを言うのか。椿姫は、すでに、まともに頭を働かせる気力が薄れていた。
魔王,「その金は家族の全財産ではないのか?」
椿姫,「はい……」
魔王,「金を失えば、弟は返ってくるかもしれんが、お前たちは路頭に迷うことになるのではないか?それでもいいのか?」
椿姫,「弟の命にはかえられませんから」
犯人は感心したようなため息をついた。
魔王,「命は金にかえられないというが、果たして本当にそうなのかな?」
椿姫,「当たり前です。お金より大事に決まっているじゃないですか」
魔王,「そういった決まり文句こそ、貧乏を経験したことのないなによりの証拠だと思うがな」
椿姫はたしかに、お金がなくて困っている両親の姿を見たことがない。それほど裕福でもないと思うが、決して貧乏と言い切れるほどの家庭でもなかった。
犯人はたびたび、椿姫の理解できないことを問いかけてくる。椿姫を困惑させるようなことを言って、それが身代金の引渡しにどう関係するのだろうか。
椿姫,「あの、早く……早く、終わらせませんか?」
魔王,「もう限界か?」
椿姫,「いえ、ただいつまで続くのかと……」
魔王,「弟の命がかかっているのに、弱音を吐くのか?」
その瞬間、椿姫の心に火がついた。
椿姫,「違います!弟に早く会いたいだけです!」
赦せなかった。また、赦せないと思えるほど、犯人を憎んでいる自分に戸惑いもした。けれど、言葉は溢れ、止まらなかった。
椿姫,「赦さないから!広明になにかしたら、赦さないから!」
もう、わけがわからなかった。さきほどまで、犯人の心情を慮っていた自分はどこにいったのか。短気を起こして、犯人を怒らせてしまったらどうするのか。
――広明に、会いたい……。
ただ、それだけを考えた。
魔王,「ころあいか……」
犯人がふと言った。
魔王,「次が最後の指示だ。いますぐ駅のロッカーからケースを回収しろ。そして、九時半までにセントラル街のハンバーガーショップの前までこい」
メモを取る余裕はなかった。
椿姫,「く、九時半ですか?」
いまから、駅に行って、また街まで戻ってくるにはぎりぎりの時間だった。
魔王,「急げばなんとか間に合う。店の前の歩道に、ケースを置いてすぐに走り去れ」
椿姫,「わかりました……」
やるしかなかった。
魔王,「以上だ。遅れたら弟の命はない。今度は絶対だ。身代金を確認したら、おって連絡する」
通話が切れた。
椿姫はしばらくの間、携帯を耳に添えたままだった。
まさか、身代金の引渡しが、こんなに体力を使うものだなんて知らなかった。
犯人は、これで最後だと言った。いままでも何度か同じ文句を言われその度に騙されたが、今回は違うような気がした。
帰りを待つ家族のことを思った。父も母も心配していることだろう。
――もうすぐ、帰るからね。
;背景セントラル街
;ハル視点
ハルは椿姫を追うのに必死だった。椿姫は、駆け足でセントラル街を抜けていった。勢いよく駅に入ってケースをロッカーから取り出した。椿姫の動きは、疲労している割にかなり素早かった。まるで、最後の気力をふりしぼっているかのようだった。駅構内が混雑しているのもあって、ロッカーを見張ってもらっているはずの京介の姿を探している余裕はなかった。
――まずい。
ハルは人でごった返したストリートを見渡した。
まるで視界がきかなかった。路上に若者が溢れ、まるで道をふさぐ土砂のようだった。何度人と肩をぶつけただろうか。椿姫のコートの背中も、ときおり人にまみれて見失ってしまうほどだった。
ハルも普段、アルバイトの帰りにこの道を通るのだが、これほどまでの大混雑は初めてだった。
いったいなにが起こっているのか、すぐに見当がついた。
;背景モノクロ教室昼
;アドベンチャー形式
花音,「みんなー、わたし、テレビ出るよー!」
;ノベル形式
;ハル視点
;背景セントラル街
生放送のテレビ番組。花音を一目見ようと、あるいは少しでもテレビに映ろうとしている人々が集まってきているのだ。道路わきにテレビ中継車と思われる車や、機材を運ぶ人もいた。
――"魔王"はこのときを待っていたのではないか。
息がつまりそうなほど大混雑したセントラル街は、身代金を奪って逃走するには、絶好の機会といえる。
ハル,「椿姫っ!」
ハルは、一度椿姫を引き止めて、身代金をどこに運んでいるのか聞き出したかった。けれど、叫び声は、当然のように喧騒にかき消された。
椿姫には、もう余裕はなさそうだった。"魔王"から急かされているに違いない。しかし、椿姫をいままで以上に急がせているということは、"魔王"にとっても今回が勝負どころだということだ。
――やるなら、いまだ……!
ハルは、もうぜんと椿姫に迫った。
;椿姫視点
椿姫は肩で息をしながら、ようやく目的のハンバーガーショップまでたどりついた。まだ九時半になっていないことを祈るばかりだった。
人ごみをかきわけるように進んだ。無理に走って人にぶつかって、怒鳴られた。大勢の人に迷惑をかけてしまった。謝っている暇も余裕もなかった。
焦っていた。アタッシュケースを落として、転倒してしまったことすらあった。命より大事なケース。しっかりと握り直して、駆け抜けた。
椿姫,「はあっ、はあっ……」
立ち止まった。
何気なくあたりを見渡す。ここに置いていいのだろうか。関係ない人に拾われたりしないだろうか。犯人は、ケースを置いてすぐに立ち去れと言った……。
そんなとき、底抜けに明るい声が、大音量で雑踏を貫いた。
花音,「全国のみなさん、九時半ですよー!」
椿姫は唖然として、耳を疑った。
――どうして花音ちゃんが……?
わけのわからないことばかりだった。ただ、はっきりと聞いた。
いま、九時半なのだ。
ケースを置いて立ち去らなければ、広明の命はない――。
;アドベンチャー形式
;カットインのように一瞬だけ、ev_maou_03c
……いまだ。
椿姫がアタッシュケースを路面に置いた瞬間だった。
おれは人ごみを抜け、足早にケースに近づいた。
ケースをしっかりとつかむ。
ケースが持ち主の手を放れたのは、時間にして五秒もなかっただろう。
人々は、皆、颯爽と現れた人気フィギュアスケート選手『浅井花音』に目を奪われている。
これだけの大混雑だ。
生番組の放映に合わせた身代金奪取。
これだけ引っ掻き回したのだ。
たとえ背後に警察がいても、逃げおおせる自信はある。
なぜならおれは、この町を知りつくしているからだ。
逃走ルートはいくつも考えられる。
宇佐美ごとき一人の少女に、なにができるというのか……。
ハル,「ケースを持った男を捕まえてください!」
背後から声が上がった。
宇佐美だ。
どうやらきちんと椿姫のあとをつけてきたようだな。
一瞬だけでも姿を見られたか?
しかし、宇佐美よ……このオフィス街に近い雑踏のなかに、どれだけケースを持った人間がいると思うんだ?
おれの目論見どおり、衆目がおれに集まっている様子はない。
ハル,「ひったくり!ひったくりです!」
……騒いだところで無駄だ。
おれは背筋をただし、落ち着いて歩く。
ひったくりなら、なおさら急いで逃げるようなものだ。
誰も、おれが誘拐犯などとは思うまい。
魔王,「…………」
いや、妙だ……。
悪寒を覚えたとき、スピーカーから声がした。
花音,「あれあれー?なんだか騒ぎが起こってますよー?」
ち……。
生中継のテレビが厄介だ。
カメラを向けられたら、おれの姿が映像に映らないとも限らない。
こんな『お遊び』でおれの姿が映像に残っては、今後の計画に支障をきたすかもしれない。
急いで逃げ出したいが、ここで走り出せばひったくり犯だと名乗り出ているようなものだ。
ハル,「……っ!」
肩越しに背後を覗き見た。
宇佐美の長い髪が、人を隔ててかいまみえた。
;ノベル形式
;ハル視点
さきほどちらりと、ケースを持った男の後姿が見えた。あれが、"魔王"だ。足をゆるめず、人の波をかきわける。
ハル,「……っ!?」
もう一度、"魔王"の後姿が見えたとき、正面から誰かとぶつかった。小さく謝って、脇をすり抜けた。
焦慮に急かされながら、"魔王"を探す。
――いた!
人垣の向こうに、ケースだけが見えた。
人の群れに飛び込むようにして、体をねじ込ませた。
距離は縮まらない。もみくちゃにされながら、腕を伸ばす。あと少しだ。あと少しで、"魔王"に手が届く……!
;背景セントラル街
;アドベンチャー形式
もっとも混雑した場所を抜けた。
宇佐美を、うまく撒けただろうか。
後ろを振り返るのは危険だ。
顔を見られる恐れがある。
ひょっとしたら、宇佐美はもうすぐ後ろにまで迫ってきているのかもしれない。
タクシーを使うか?
しかし、この混雑では車はすぐに移動できないだろう。
いや、待て……タクシーか……。
おれは歩きながら、道路脇に連なって停車しているタクシーのミラーを覗き込んだ。
魔王,「……っ」
幸運というべきだろう、宇佐美の制服と長い髪が後方にはっきりと映った。
何かを手に提げているように見える。
距離にして十メートルもない。
宇佐美は、しっかりとおれの後姿を捉えているだろう。
……あまり、目立ちたくはないが、やむをえないか。
おれは、地面を蹴った。
;ノベル形式
;ハル視点
"魔王"が突如走り出した。後ろも振り返らずに、どうしてハルの接近に気づけたのだろうか。次の瞬間、ハルは、路上に無秩序に連なるタクシーの群れに悔しさを覚えた。
ハルは"魔王"の後姿を見た。背の高い男性だった。前回、対峙したとき、"魔王"と名乗った人物とかなり輪郭が似ている。足も長いようで、ぐんぐん引き離されていく。
しかし、追跡は楽になった。この雑踏のなかで走るという行為は、かなりの注目を集めるからだ。道を退ける人々の声や、迷惑そうな視線がいやでも"魔王"に集中する。
所在なく歩いている通行人をかきわけながら、"魔王"がコーヒーショップに入るのが確認できた。
袋の鼠だ、と思った。しかし、店の前にやってきたとき、自らの浅はかさを呪った。規模の大きい、大手チェーンのコーヒーショップだったのだ。立地面積も広く、大通りの角に位置していた。当然、出入り口は二つ以上あるのだろう。一瞬でも、足を緩めた時間を悔やんだ。
わざわざそんな店に入るあたり、"魔王"はやはり、この町を知り尽くしているのかもしれない。
追いきれるか。自問自答した。けれど、なんとしても捕まえたい。椿姫のためにも、そして、自分自身のためにも……。
;繁華街2夜
セントラル街を抜けると、人通りも少なくなってきた。
何度か背後を振り返った。
夜の闇でわからないが、通行人の非難するような声が後方からあがっている。
宇佐美は、まだまだ追いかけてきているようだ。
執念深いな、まったく……。
完全に撒いてやるとしよう。
おれは歩道のガードレールを飛び越え、車道に出た。
渋滞気味で、のろのろと走る車の前を横切り、一気に反対側の歩道に渡りきる。
けたたましいクラクションが鳴った。
……これで、宇佐美もおれを追いやすいはずだ。
足を休めず先を急ぎ、細かい路地に入った。
薄暗い路地。
光の差さない場所に定住する彼らの姿を発見して、おれは勝利を確信した。
鬼ごっこは、もう終わりだ……。
おれはハンカチを取り出し、指紋を残さぬよう自らの指を包んで――――。
;ノベル形式
;ハル視点
ハル,「すみません、どいてください!」
何度、同じ事を言ったことだろうか。その度に、非難の視線や罵声を浴びせられた。手に持っているものも、かなりかさばる。ハルはきょろきょろとあたりを見回しながら、"魔王"の背中を目で追った。
セントラル街から少しはずれても、まだまだ周りは明るかった。車道を進むおびただしい数の車のライトがとても頼もしい。
そんなとき、車道からクラクションが鳴り響いた。
見れば、"魔王"らしき男が、悠々と車道を横断していた。ライトの逆光で顔が見えないのが残念でならなかった。
"魔王"はそのまま、ビルの間の細かい路地に入っていった。ハルもすぐさま後を追った。
人が二人並んで歩けないような、狭くて視界の悪い路地だった。
――誘い込まれた?
嫌な気配がしたが気にしている余裕はなかった。
そして、暗がりに飛び込んだとき、なにかを踏んづけた。バランスを崩し、前につんのめるような格好で、地面に倒れてしまった。
ハル,「……っ!?」
肉感があった。ハルも驚いたが、踏まれた何かも悲鳴を上げた。目を凝らすと、それが人間の足であることがわかった。
ハル,「す、すみません。だいじょうぶですか!?」
無意識にしゃがみこんだ。独特の異臭が鼻を突く。ホームレスと思しき男たちは数人いた。白く濁った目で、ハルをにらみつけるが、すぐに興味を失ったようだ。
彼らは、何かに熱中しているようだった。地面に膝をついて必死に手を動かしている。薄暗い路面をまさぐるように、何かをかき集めていた。
――お金……。
指の間から、数枚の紙幣が見えた。
やられた、と内心でほぞを噛みながら、路地を抜けた先を見据えた。
それまでしっかりと目に焼きつけていた"魔王"の後姿は、もう、なかった。
ハル,「……椿姫」
つぶやくと、いっそう無力感を味わった。
一日に渡った身代金を巡るやりとりも、ついに終わりを迎える。
;京介のアイキャッチ
;アドベンチャー形式
;黒画面
……。
…………。
;背景椿姫の家居間夜
京介,「なにはともあれ、お疲れ様……」
おれは、何食わぬ顔で言った。
居間には、椿姫と椿姫の親父さんだけがいる。
京介,「悪いな、なんもしてやれないで……」
椿姫,「ううん、いいの、ありがとう」
京介,「なんにせよ、椿姫は犯人の指示通りに動いたわけだろう?」
椿姫,「うん、たぶん……途中でアクシデントもあったけど」
京介,「だったら、犯人もちゃんと広明くんを返してくれるさ」
椿姫,「そうだと、いいけど……」
一息ついて、おれは額の汗をぬぐった。
今日の仕事は忙しかった。
まさか、市内をあっちこっち駆け回ることになるなんてな。
権三も、本当におれをこき使ってくれるな。
パパ,「すまないね、浅井くん。こんな時間まで」
京介,「いえいえ。乗りかかった船です。今後もお手伝いさせてもらいますよ」
今後、とは当然、立ち退きの手続きだ。
身代金が奪われた以上、椿姫家に五千万の借金は返せない。
返済期限が来たら、さっそく、担保の土地をさし押さえさせてもらおうか……。
椿姫,「……あとは、ハルちゃんか……」
京介,「なんだって?」
椿姫,「ハルちゃんが、犯人を捕まえてくれているかもしれないの」
京介,「そうか……宇佐美がな……」
歯がゆいな、まったく……。
宇佐美が犯人を捕まえるだって……?
京介,「椿姫は、宇佐美に犯人を捕まえるよう、頼んだのか?」
椿姫,「きっちりお願いしたわけじゃないけど、ハルちゃんの好きにしていいって言ったの」
京介,「……そうか」
馬鹿か、こいつは……。
宇佐美を頼るくらいなら、最初から警察に連絡したほうが何倍もましだろう。
椿姫,「ハルちゃん、はりきってたし、きっとよい結果をもたらしてくれると思うんだ」
澄んだ目をして言った。
……どうやら、おれのいないところで、お友達ごっこでもしていたらしいな。
京介,「まあ、犯人が捕まれば、万々歳だしなー」
一抹の不安はあった。
まともに考えて、幼児を誘拐し、身代金を株券で要求してくるような犯罪者に、宇佐美のような少女が対抗できるはずがない。
ただ、気にしすぎかもしれないが、どうも宇佐美には底の知れないようなところがある。
おれとしては、犯人にきっちり身代金を奪ってもらわねば困るのだ。
椿姫,「……あ、噂をすれば、来たんじゃない?」
玄関で、物音がした。
ハル,「ちわす……」
ぬっと、お化けのような顔を覗かせた。
京介,「よう、宇佐美、汗だくじゃないか?」
ハル,「ええ、まあ、自分、基本走り込みが足らないんで……」
わけのわからないことを言いながら、玄関のドアにもたれかかった。
ハル,「浅井さん、ありがとうございました」
京介,「……ん?」
ハル,「ロッカーを見張っててもらいましたよね?」
京介,「あ、ああ……街で偶然会ったよな?そうだ、ロッカーに身代金が入ってるから、見張っててくれって……」
ハル,「助かりましたよ、ホント」
京介,「あのロッカーに近づいた怪しいやつは、いなかったぞ」
ハル,「そすか。お忙しいのに、ホント恐縮です」
時間にして一時間くらいだったかな……。
おれは宇佐美に頼まれて、駅のロッカー付近にいた。
ちょうど次の約束まで時間が空いていたから、頼まれてやることにしたんだったな……。
記憶を整理すると、気分が落ち着いた。
京介,「それで、宇佐美……」
浮かない顔をしていた。
京介,「どうだったんだ?」
まさか犯人を捕まえたとも言わないだろうが……。
椿姫,「ハルちゃん」
椿姫も、期待のまなざしを向けていた。
おれもいつの間にか手のひらに汗を感じていた。
ハル,「…………」
直後、宇佐美は、椿姫に向かって頭を下げた。
ハル,「ごめん、犯人には逃げられた」
宇佐美の表情は、苦しそうに歪んでいた。
……こんな顔もするのか。
椿姫,「気にしないで。ハルちゃんがそばにいてくれてるって思うだけで、あ、いや……あんまりそんな余裕なかったけど、とにかく心強かったよ」
ハル,「ごめん……」
おれはつとめて明るい声を出した。
京介,「まあまあ、そう落ち込むなって」
ハル,「…………」
京介,「犯人の言うとおりに動いたんだ。警察にも連絡していない。身代金に満足した犯人は、きっと広明くんを解放してくれるさ」
すると、宇佐美が鋭い声を出した。
ハル,「それはないです」
京介,「なに……?」
椿姫,「えっ?」
京介,「広明くんは返ってこないっていうのか?」
ハル,「はい」
きっぱりと言い放った。
京介,「なぜだ?たしかに、犯人が約束を守るという保証はないけど、どうしてそう決めつけることができるんだ?」
椿姫,「そうだよ、犯人は身代金を受け取ったんだから、あとは信じるしか……」
宇佐美はゆっくりと首をふった。
ハル,「犯人はまだ、身代金を手にしていない」
……なんだと?
椿姫,「……えと、どういうことかな?わたし、ちゃんと、指定どおり、ハンバーガーショップの前に、ケースを置いたよ?他の誰かが勝手に持ってっちゃったってこと?」
椿姫の問いに、宇佐美はまた首を横にふった。
ハル,「椿姫、今日の朝、家を出るときに、わたしは言ったよな?」
椿姫,「え?」
ハル,「最悪の場合、身代金だけは奪われないようにすると」
椿姫,「あ、うんうん。そうすれば、たとえ犯人に逃げられたとしてももう一度、交渉のチャンスはあるとか……」
宇佐美は、深くうなずいた。
ハル,「だから、そうさせてもらった」
椿姫,「ど、どうやって?」
ハル,「覚えがないか?」
椿姫,「なんのこと?」
そのとき、宇佐美がおもむろに腕を後ろに伸ばした。
半開きだった背後のドアを押し開くと、何かをつかんだようだ。
椿姫,「ケース!?」
驚きの声が上がった。
椿姫だけでなく、親父さんも含め、その場の全員が食い入るように宇佐美を見つめた。
椿姫から話を聞いていたおれには、宇佐美がなにをしたのか、推察することができた。
京介,「すりかえたのか?」
ハル,「さすが、浅井さんです。そうです。混雑したセントラル街で、わたしは、椿姫にぶつかっていったんです」
椿姫,「あ!」
椿姫には思い当たるふしがあるようだった。
椿姫,「そういえば、誰かにぶつかって、一度ケースを落として……あれは、ハルちゃんだったの?」
ハル,「そのときに、すりかえさせてもらった。わたしが用意していたケースの中身は空だ」
京介,「いつ、用意したんだ?」
ハル,「朝一番に、椿姫がケースを購入したあと、同じものを買わせてもらいました。六千円は痛かったですが、それはまあどうでもいいです」
……なんてヤツだ。
京介,「ということは、犯人は空のケースを持って、逃走したということになるな」
ハル,「はい、身代金の株券はまだ、このケースのなかにあります」
宇佐美はそれを抱えたまま、犯人を追っていったというわけか。
唐突に、椿姫の親父さんが口を開いた。
パパ,「それじゃあ、お金はまだ、あるんだね……?」
土地を手放すということに未練があるのだろう。
親父さんは、どこかうれしそうだった。
椿姫,「ハルちゃん……そう……」
椿姫も、感動したようなため息をついた。
おれも、椿姫とはまた別の意味でため息をついた。
京介,「そうか……なら、勝負は持ち越しってわけだな……」
ハル,「だと、いいんですが……」
余裕そうな顔をしているが、不安もあるようだった。
京介,「犯人が逆上しなければいいな……」
ハル,「はい。それが怖いです」
京介,「それが怖いですって……お前、広明くんの命がかかっているんだぞ?」
よけいなことをしやがって……!
椿姫,「あ、浅井くん、やめて。ハルちゃんはよかれと思って……」
パパ,「浅井くんの気持ちもありがたいけれど、あの株券も、家族の進退がかかった大切なものなんだ。それを守ってくれたのは素直に喜ばしいよ」
椿姫だけでなく、親父さんまで口をはさんできた。
京介,「……まあ、悪かった」
殊勝な態度を見せておくとするか。
京介,「宇佐美は、身代金を渡したが最後、人質は返ってこないと思った。そういうことだな?」
ハル,「はい。犯人――"魔王"は、恐ろしく慎重な人物です。もっといえば、身代金を渡そうが渡すまいが、人質を返すつもりはないのかもしれません」
京介,「なるほど。ようやくわかった。どうせ人質が返ってこないなら、せめて身代金だけでも渡さないと。そういうことだったんだな?」
皮肉っぽく言った。
京介,「合理的だな。宇佐美も恐ろしく合理的な女だ」
ハル,「…………」
宇佐美は押し黙った。
パパ,「宇佐美さん、警察を頼らなかった時点で、責任は全て僕が持つつもりだよ。だから、あんまり思い悩まないでね」
椿姫,「そうだよ。たとえ、警察の人がいても犯人は捕まえられなかったかもしれないんだから」
……まったく、見るに耐えない光景だ。
パパ,「じゃあ、とりあえず、株券を渡してもらおうか」
親父さんが宇佐美に言った。
宇佐美はわかりましたと返事をして、ケースに手をかけた。
――思いもよらなかった。
ハル,「どういうことだ……?」
目を見開いた。
宇佐美の顔面が一気に蒼白になっていく。
対照的に、おれの心は、どういうわけか、勝利宣言でもしたかのように沸いていった。
まるで、おれのなかにいる悪魔が、牙をむき出しにして嗤っているかのよう……。
ハル,「ない……」
呆然自失の宇佐美が、ぼそりと言った。
ハル,「ない……」
それは、敗北の表情だった。
ハル,「株券が……身代金が、消えている……」
;// 体験版終了
;翌日へ;背景 教室 昼
栄一,「ちょっと聞いてくれよ、京介ちゃんよぉ」
翌日、おれは学園に出ていた。
栄一,「オレ、今日聖誕祭なわけだよ」
京介,「聖誕祭だあ?」
栄一,「どうよ、びっくりしただろ?」
京介,「びっくりしねえけど、誕生日ってことか?」
栄一,「ほらだせよ、貢物」
京介,「昼飯のパンとかでいいか?」
栄一,「よかねえよ、ブランドモノの財布とかにしろよ」
京介,「おれはお前の客でもなんでもねえぞ」
あっち行けとばかりに手をふった。
栄一,「ねえ、宇佐美さん、なんかちょうだいよ」
おれの前の席の宇佐美にたかりだした。
ハル,「…………」
栄一,「宇佐美さん、ボク誕生日なんだよー?」
ハル,「…………」
宇佐美は、ずっと考え込んでいた。
栄一,「誕生日ったら誕生日なんだよ、宇佐美さんっ」
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、栄一に腕を差し向けた。
ハル,「おめでとうございます」
栄一,「ありがとう……って、なにこれ、福引券?」
ハル,「ええまあ、期限切れてますけど」
栄一,「ちょっとちょっと!」
ハル,「かわりに、肩たたき券として機能することにします」
栄一,「肩もんでくれるの?」
ハル,「はい、いつでも言ってください」
栄一,「やったー! じゃあ、いますぐもんでよ!」
ハル,「いますか?」
栄一,「いま、いま!」
ハル,「わかりました」
栄一,「(へっへっへ、一度この生意気な女をこき使ってみたかったんだよなー、せいぜいオレのために働いてくれやあ……!)」
宇佐美は栄一の背後に回った。
京介,「こうしてみると、栄一ってホントに背が低いなあ……」
などと言っていると、肩もみが始まった。
ハル,「んじゃ、いきますんで」
栄一,「うんうん……って、いでえ!」
ハル,「はい?」
栄一,「いだだ! ちょ、ちょっと手加減して!」
ハル,「はあ」
栄一,「ま、まだ、まだ痛いよ!」
ハル,「すみません、ちょっと考え事してまして」
栄一,「あとで考えてよ!」
ハル,「こんぐらいすかね?」
栄一,「あだだだだ!」
ハル,「ていうかエテ吉さん、ぜんぜん肩こってないじゃないすか」
栄一,「そ、そお?」
ハル,「だから痛いんすよ」
栄一,「宇佐美さんの握力が異常なんじゃない?」
京介,「そんなに強いのか?」
栄一,「いや、ほんと、京介くんもやってもらいなよ」
ハル,「とりあえず、終わります。あまり心地よくなかったようで、申し訳ないです」
宇佐美はまた、席についた。
京介,「おい、宇佐美、おれにもちょっとやってくれよ」
ハル,「浅井さんは、誕生日じゃないでしょう?」
京介,「いいじゃないか、少しくらい」
ハル,「いやですよ、とりわけ浅井さんはいやです」
京介,「……嫌われたもんだな」
ハル,「…………」
京介,「昨日の失態で落ち込んでるんだろうが、八つ当たりはやめてほしいもんだ」
ハル,「八つ当たりをしているわけではありませんが、そう思われても仕方がないので、謝ります」
京介,「別に、謝らなくていいが……」
ハル,「いえ、すんませんでした」
京介,「…………」
……こいつなりに責任を感じて、落ち込んでるのかな。
ハル,「でも、浅井さんに肩もみはいやです」
ぼそりと言った。
ハル,「こんなところで……」
…………。
……。
;背景 廊下 昼
廊下に出ると椿姫に出くわした。
椿姫,「おはよう、浅井くん」
京介,「よう、もう出てくるのか?」
椿姫,「うん、学園を休んでてもしょうがないから」
京介,「それはそうだが、だいじょうぶか? 気分的に」
椿姫はいつもと同じように穏やかな顔をしている。
けれど、取り繕っているようにも見える。
京介,「犯人から、連絡はあったか?」
小声で聞いた。
椿姫,「……ううん」
京介,「そっか、広明くんだいじょうぶかな……」
椿姫,「とりあえず、いつ連絡がかかってきてもいいように、携帯電話は持ってきてるよ」
京介,「ん、そうか。先生には見つからないようにするんだぞ?」
言うと、椿姫は控えめに笑った。
椿姫,「なんだか、悪い子になっちゃった気分だよ。きのうも、いろんな人にぶつかったのに、謝る暇もなくて……」
京介,「しょうがないさ、気にするなって」
椿姫,「警察の人からも、逃げちゃったし……」
京介,「誰だって逃げるさ。逃げなかったら、犯人は確実に取引を中止しただろうからな」
椿姫,「ごめん、ありがとうね」
京介,「元気出せよ。お前はやれることはやったんだから」
椿姫,「うんっ」
それにしても、犯人はきちんと人質を返すつもりなのだろうか。
椿姫たちがやけを起こして、警察でも呼ばれたら、すべてが水の泡だ。
京介,「ああ、そうだ、今日な、栄一が誕生日らしいぞ」
椿姫,「え?」
目を丸くした。
椿姫,「そうだっけ?」
日記を取り出して、食い入るように見た。
椿姫,「おかしいな……栄一くんのお誕生日は六月のはずだけど?」
京介,「……マジか?」
あの野郎……。
;背景 屋上
昼休みになった。
栄一はなにやらプレゼントらしきモノをたくさん両手にかかえていた。
栄一,「(へっへっへ、大漁、大漁だぜ。それにしても京介もマジ忘れっぽい野郎だぜ、予想どおりオレの誕生日を勘違いしてやがった)」
栄一,「(それにしても誕生日が年に二回あるなんて、オレマジホストの才能あるんじゃねえの?)」
花音,「エイちゃん、今日誕生日なのー?」
栄一,「うんうんっ、よかったらなんかちょーだい」
花音,「なにがいい?」
栄一,「兄さんに頼んで、高級腕時計を買ってもらってよ」
花音,「それじゃあ、わたしからのプレゼントにならないでしょ? こう見えても、のんちゃんエイちゃんのこと大好きなんだよ?」
栄一,「ハハ、うれしいなー」
栄一,「(冗談じゃねえぞ、バーロー。オメーのせいで何度苦渋を味わわされたことか!)」
花音,「んー、今度、手料理作ってあげるね」
栄一,「え? 意外だね。ごはんとか作れるんだ?」
花音,「ひやむぎとか得意だよ」
栄一,「(バカやろう! なんで真冬に、んなつめてーもん食わにゃならねえんだ!)」
花音,「あと、かき氷削るのもうまいよ? スケート選手だけにね」
栄一,「ハハ、うまい! うまいなー、花音ちゃんは」
京介,「おい、栄一」
栄一,「あ、京介くんに、椿姫ちゃんも」
栄一は、椿姫に歩み寄った。
栄一,「椿姫ちゃん、元気? ガッコ来れるってことは、もういろいろ心配ないんだね?」
椿姫,「あ、うん……いろいろ迷惑かけたね」
栄一,「いいんだよいいんだよ、それよりプレゼントちょうだい」
くれといわんばかりに、手を差し伸べた。
椿姫,「えと、そのことなんだけど……」
椿姫は首をかしげた。
椿姫,「記憶違いかな? たしか栄一くんの誕生日って六月じゃなかったっけ?」
栄一,「えっ!?」
椿姫,「あれ? やっぱり、わたしの間違えかな? そう日記に書いてあったから……ごめんね」
栄一,「いやいや、今日だよ。うん、勘違いしてるんじゃないかな?」
栄一,「(ふー、あぶねえぜ、椿姫が善人じゃなかったら、アウトだったぜー)」
……本当に腹黒い野郎だな。
京介,「おい、テメー」
栄一,「(な、なんだよ、この野郎。オメーにはかんけいねえだろうが?)」
京介,「でもな……」
栄一,「(オメーがなんか被害受けたかっつーの? オメーは地球温暖化の被害とかモロ受けてるんかっつーの? たいして受けてねーのにしゃしゃりでんなっつーの!)」
栄一の言ってることはキてるが、たしかにおれはなにも損してないな。
栄一,「(あ、でも待てよ、この展開……この展開いつものパターンじゃねえの、オレが調子いいと必ず邪魔してくる女が……!)」
ハル,「エテ吉さん」
栄一,「(キタよ、めんどくせえのが!)」
栄一はとっさに身構え、防御の姿勢を取った。
栄一,「な、なにかなー? 今日はボクの誕生日だよー?」
ハル,「いや、それはいいんです」
栄一,「へ?」
ハル,「今日、ラーメンとか食べに行きませんか?」
栄一,「え? ラーメン?」
ハル,「はい、浅井さんと三人で」
京介,「なんでおれも!?」
思わず身を乗り出した。
栄一,「いいけど、何時くらい?」
ハル,「バイト終わりで、九時くらいすかね」
京介,「ちょっと待てよ、おれは無理だ」
今日は、権三に報告して、椿姫の家を山王物産に売り渡す算段を整えて、街金とデベロッパーに挨拶して……やることは山ほどあるんだ。
ハル,「そこをなんとか」
京介,「嫌だね。どうせおれにラーメンおごらせようっていう腹だろう?」
ハル,「いえ、エテ吉さんの誕生日でもあることですし、今回はわたしが出します」
栄一,「あ……そう? ありがとうね」
栄一,「(おいおい、これ、完全勝利ってヤツじゃねえの? 気分いいねえ)」
ハル,「それじゃ、そういうことで」
京介,「おい、おれは行かないからな……」
宇佐美は去っていった。
背中が、どこか寂しげだった。
花音,「ねえねえ、みんなテレビ見てくれた?」
椿姫,「テレビ……?」
花音,「えー、見てないの? 生放送のヤツだよー?」
椿姫,「あ、ああ……」
椿姫は、ようやく気づいたようだ。
椿姫,「だから、あんなに混んでたんだ……そっか……どうりで聞いたことがあるような声がしたと思った……」
しかし、犯人はまさかその瞬間を狙っていたとはな……。
栄一,「ボク、見たよー。花音ちゃん、かわいかった」
花音,「のんちゃんも、まさかあの有名芸能人にお水を渡す日が来るとは思わなかったよー」
ミーハー根性丸出しだが、素直にうれしそうだった。
花音,「なんかねー、ひったくり事件が起こったみたいで、すごかったよー」
花音,「テレビがきてるのにひったくりするなんて、犯人すごい度胸だよねー」
その後は、花音の自慢話を中心に昼休みが潰れていった。
;黒画面
学園が終わると、おれはすぐに権三の屋敷に向かった。
;背景 権三宅 居間
京介,「……というわけで、ことは、順調に進んでいます」
浅井権三,「いいだろう。お前のことだ。差し押さえた土地を、すぐに山王物産に売り渡す手はずは整えているのだろう?」
うなずき、恐縮するように頭を垂れた。
京介,「当初の予定より、高値で売り渡すことができそうです。まあ、額の問題より、山王物産の信頼を得られたことのほうが、大きいと思っていますが」
浅井権三,「あまり、尻尾をふりすぎるなよ」
京介,「心得てます」
……しかし、山王物産の影響力は権三でも無視しきれないものがあるはずだ。
浅井権三,「五千万の弁済はいつになっている?」
京介,「いちおう、十日にさせました。十日までは無利息でしたから」
京介,「ただ、十日で五千万も返せるわけがありませんので、まずあの土地は差し押さえたも同然かと」
まあ、十日以内に、犯人を捕まえ、身代金を奪い返すことができれば、話は別だが……。
浅井権三,「街金から五千も集めるのは苦労したんじゃないのか?」
京介,「それは……お養父さんのおかげで、なんとか……そもそも担保は申し分なかったわけですし……」
浅井権三,「なるほど。俺をずいぶんと利用したわけだな」
悪寒が走る。
浅井権三,「美輪、椿姫だったか……」
悪寒が、胃にもたれかかった。
権三が、けだるそうに首を回した。
浅井権三,「まさか、そんな雌に心を動かしたのではないだろうな?」
京介,「冗談はやめてください。この前、お養父さんに誓ったばかりじゃないですか」
……本当に、それだけはありえない。
椿姫なんて……偽善者とはいわないが、とてもおれなんかにふさわしい女とは思えない。
もっとまともで、普通で善良な学園生とならお似合いだろう。
浅井権三,「京介……」
獣が、小動物を威嚇するべく、いななきを上げているかのようだった。
浅井権三,「野心がいつの間にか恋心に転じることはあるが、恋心が野心に戻ることはない」
京介,「…………」
腑抜けになるなよ、ということか……。
浅井権三,「だが、恋の対象が消えてなくなれば、再び野心も目覚めよう」
京介,「…………」
浅井権三,「邪魔なら、その女を消してやるぞ?」
やりかねない。
この怪物なら、人間一人を殺すことに、なんのためらいも持たないだろう。
そして、ためらいを持たないだけの手段と実力を備えているのだ。
京介,「だいじょうぶです。ご心配なく」
浅井権三,「俺も、信用はしている」
目つきが、とても危険だった。
浅井権三,「だから、一つ教えてやろう」
京介,「…………」
浅井権三,「犯人が要求した白鳥建設の株だが……」
京介,「はい……?」
浅井権三,「そろそろ、猛烈な勢いで売りに入るぞ」
京介,「売りに……? 値が落ちるということですか?」
浅井権三,「暴落する」
京介,「なぜ、そんなことを……」
……知っているのか、と聞きたかったが、権三ならインサイダー情報を知っていてもおかしくはない。
京介,「ということは、犯人が奪取した身代金は……五千万の価値もなくなるということですね」
つまり、椿姫の一家は絶望的な状況に追い込まれたということだ。
たとえ、株券を取り返したとしても、五千万はもう返ってこないのだからな。
なんにせよ、急落中の株を売るというのは至難の業だし、もうあの家族に五千万の現金は作れないだろう。
京介,「しかし、どうして……?」
浅井権三,「お前の学園に、警察の捜査が入っている。詳しくは近く新聞でも読むがいい」
京介,「わかりました。しかし、犯人も滑稽ですね」
浅井権三,「そう思うか?」
京介,「ええ、せっかく手に入れた株券が、本来の価値を失うんですから」
浅井権三,「あるいは……知っていたのかもしれんぞ」
極太の眉が跳ねる。
浅井権三,「白鳥建設の株価が落ちることは、少しでも山王物産に関わっている人間なら、誰でも予測できたことだろうからな」
京介,「そうなのですか……?」
京介,「しかし、そうなると、犯人は金目当てで誘拐事件を起こしたわけじゃないということになりますね」
浅井権三,「そんなことは、最初からわかっていただろう?」
京介,「…………」
そういえば、おれは犯人の動機や目的などに、なんの興味も持たなかったな。
ただ、天からの神の……いや、悪魔の助けだとばかり思って、思考を停止していた。
京介,「たしかに、金が目的なら、他に裕福な家庭はいくらでもありますからね」
いくら現在注目の土地を持っているからといって、なぜ椿姫の家を狙う必要があったんだ……?
浅井権三,「金の価値というものは、それを持つ人間にとって千差万別だ。たとえば、俺やお前にとって五千などたいした額ではないが……」
……五千は、おれにとっては大金ですよ、お養父さん。
浅井権三,「その一家にとっては、身を切るような大切な金だ」
京介,「つまり、犯人の真の目的は、椿姫の家を追い込みたかったのだと、お養父さんは推察してるんですね?」
浅井権三,「犯人は、その一家が不幸になって得をする人間だ。たとえば……」
それだけ言って、威圧するような視線をぶつけてきた。
おれ、だと言いたいのだ。
浅井権三,「たとえば、の話だがな」
低く、どす黒い笑いを撒き散らした。
浅井権三,「しかし、そうなると腑に落ちない点もある」
京介,「え?」
浅井権三,「犯人はなぜ、身代金を奪ったのだろうな?」
京介,「あ……」
そうか……白鳥建設の株が急落することを知っていたのなら、犯人はわざわざ身代金奪取を成功させる必要がないのだ。
京介,「そうですね。五千万を株券に換えさせた時点で、犯人の目的は達成されるのですから」
浅井権三,「しかも、身代金誘拐などという警察の足のつきやすいやり方を選んでいるのも解せん。一家に金を吐き出させたいだけなら、盗みにでも入ったほうがまだ安全だ」
それにしても、この男はつくづく恐ろしいな。
浅井権三,「なにか、犯人の余裕というか、興のような匂いがするな」
おれから聞いた話だけで、どうしてこうも推理を組み立てていくんだ……?
暴力だけでのし上がれるほど、甘い世界に生きているわけではないということか。
京介,「"魔王"……」
どういうわけか、おれの口はその言葉を発していた。
浅井権三,「ああっ?」
権三が、聞き逃すはずもなかった。
京介,「いえ……その、最近学園に編入してきた宇佐美という女がいまして、そいつが、犯人が"魔王"だと言ってきかないものですから」
浅井権三,「根拠は?」
京介,「なんでも、犯人は以前に"魔王"が宇佐美に与えた携帯電話を使って連絡を入れてきたとか……」
浅井権三,「ほう……」
京介,「しかし、宇佐美は、なんというか頭のおかしいところもありまして、ただの妄想に取りつかれているだけとも思います」
浅井権三,「…………」
権三はおもむろに目を閉じた。
浅井権三,「お前の話を聞けば、妄想に取りつかれるほど、宇佐美と"魔王"の間には因縁があるということになるな?」
京介,「……はあ……いえ、まあ、以前に、宇佐美が因縁があるとは言っていましたが」
浅井権三,「ならば、その因縁とやらを探れ」
京介,「…………」
それは、宇佐美と心を開いて話し合えということか?
宇佐美のあの、ひょうひょうとした態度を思い浮かべる。
……げんなりするな。
浅井権三,「"魔王"の目的は、案外その宇佐美という女かもしれんぞ?」
……まさか。
"魔王"のような実力者が、なぜ宇佐美みたいななんでもない少女を狙うんだ。
……いや、なんでもない、とは言い切れないか。
;SE 携帯マナーモード
不意に、胸ポケットのなかで、携帯が振動した。
権三を前にして電話に出るような無礼はできない。
浅井権三,「そうか、どうもお前から雌の匂いがすると思ったが、その女か」
なにやら愉しそうだった。
浅井権三,「しかし、京介よ。まさか、"魔王"を捕まえるという仕事を忘れているわけではあるまいな?」
京介,「いえ……」
二の次にしているのは事実だ。
そんな"魔王"だとかいう得体の知れないヤツより、目の前の仕事のほうが大事だからだ。
京介,「それでは、そろそろ……」
浅井権三,「おう。いい報告を期待しているぞ」
おれは、頭を下げて、権三宅をあとにした。
;背景 南区住宅街 夜
外に出て着信履歴を見ると、さきほどの電話は栄一からだった。
ということは、宇佐美もいっしょだな。
ラーメンにつき合わされるなんて時間の無駄だが、いま権三にけしかけられたばかりだしな。
栄一に電話をかけ直すか……。
いや、よく考えたら、"魔王"の正体なんて、おれにとってはどうでもいいことだ。
そのために宇佐美と関わるなんてごめんだな……。
そんなことより、椿姫の家にでも行ったほうがいいんじゃないか?
連中がヤケを起こして警察を頼らないよう、きっちり観ておかないと。
どうするかな?
;==================这里是重要选择支=============================================================
;以下は、椿姫の好感度が1以上ないと発生しない文章と選択肢です。
何気ないことのようで、今後のおれの行動の方針を決める重要な決断がいるな……。
;選択肢
;椿姫の一家と関わる。
;宇佐美を探り"魔王"を追う。
@exlink txt="椿姫の一家と関わる。" target="*select1_1"
@exlink txt='宇佐美を探り"魔王"を追う。' target="*select1_2"
椿姫の一家と関わる。
宇佐美を探り"魔王"を追う。
;椿姫の一家と関わるを選んだ場合→椿姫ルートフラグオン
……ふむ。
まあ、こんな夜更けにおしかけるのもなんだし、明日でいいか。
ひとまず栄一たちと合流しよう。
ただ、椿姫には世話を焼かされそうだな。
;宇佐美を探り"魔王"を追うを選んだ場合、もしくは椿姫の好感度が1未満の場合、以下へ
……そうだな。
逆に考えれば、椿姫の家はもう終わったも同然だ。
たとえ身代金を取り返したとしても、株価が急落する以上、もう金は戻らないのだ。
だったら、権三にしたがって"魔王"とやらを探すとしよう。
おれは、栄一と連絡を取り、セントラル街に向かった。
;背景 セントラル街 夜
……。
…………。
栄一,「遅いよ、京介くん」
栄一と宇佐美が、ラーメン屋の前でおれを待っていた。
栄一,「ボクらほんとお腹すいてるんだよー、ねえ宇佐美さん」
ハル,「はい。今日は朝から何も食べてませんので」
京介,「なんだよ、金がないのか?」
ハル,「いえ。こんなんでも、食欲がないときはあるのです」
京介,「金はあるんだな? 少なくとも栄一におごるくらいの金は」
宇佐美は胸を張った。
ハル,「あります。お給金をいただきましたので。浅井さんにもおごって差し上げましょうか?」
京介,「おれはいいよ」
……つまらんことで借りを作りたくない。
栄一,「さすが、ボンボンは違うねー」
京介,「それにしてもお前、お菓子以外のものもちゃんと食うんだな?」
栄一,「(興味のない女といっしょなら食うんだよ。食わなきゃ死ぬだろうが)」
栄一,「じゃあ、お店に入ろっかー。いっぱい食べちゃうぞー」
ハル,「あ、栄一さん、大盛りとかはナシの方向で」
栄一,「え?」
ハル,「できればトッピングとかもナシの方向で」
栄一,「ちょっとちょっと!」
ハル,「すみません、お金下ろしてくるの忘れてました。財布のなかに千円しかないんです」
栄一,「えー、せっかくのボクの誕生日なのにぃ!」
ハル,「…………」
ハル,「わかりました。自分は食べないので、かわりになんでも食べてください」
栄一,「……あ、そう?」
栄一,「(おいおいなんだよ、コレ、薄気味わりいぜ。こいつ実はちょっといいヤツだったりするわけ?)」
ハル,「どぞ」
宇佐美は、栄一に向かって千円札を差し出した。
栄一,「えと……」
……ん?
戸惑う栄一に違和感。
まさか、良心の呵責を……。
栄一,「ありがたく食べさせてもらうねっ」
……覚えているわけもないか。
栄一,「(へっへっへ、オレぐらいの鬼畜モンになるとよう、女を騙して金をせびることくらい朝飯前なワケよ)」
京介,「…………」
……別に、宇佐美を助けようという気はないが……。
;選択肢
;栄一の嘘をばらす。  ハル好感度+1
@exlink txt="栄一の嘘をばらす。" target="*select2_1" exp="f.flag_haru+=1"
栄一の嘘をばらす。
;栄一の嘘をばらすを選択した場合
……まあ、栄一も度が過ぎたな。
恩を売っておけば、宇佐美もおれに心を開くようになるかもな……。
それはそれで、イヤだが……。
京介,「栄一、お前の誕生日は六月だろうが」
栄一,「へ?」
ハル,「む?」
京介,「椿姫から聞いたぞ。おれも思い出した。いつだったか、お前が今日と同じように騒ぎ出した日があったな」
栄一,「な、な、なに!? なに言っちゃってるの、京介くんは?」
京介,「とにかくお前の誕生日は今日じゃねえよ」
ハル,「本当なんですか、栄一さん?」
京介,「そういや、ファミレスででっかいパフェをおごらされたような気がするな」
栄一,「ど、どこにそんな証拠が!?」
京介,「いまからうちに帰ってそのときのレシートでも見せてやろうか?」
栄一,「そんなのあるの?」
京介,「探せば、ある」
ハル,「浅井さんって、レシートとか捨てきれないキャラなんですか? 主婦ですかあなたは」
宇佐美がぼそりと言った。
京介,「栄一、たかるんなら、また別の機会にするんだな」
ハル,「栄一さん、誕生日じゃないんですね?」
栄一,「た、誕生日だよ! ボクって年に二回誕生するんだよ!」
ハル,「そうきましたか……」
感心していた。
京介,「なにが、そうきましたか、だ……」
つきあいきれんな。
京介,「とっととメシを食って帰るぞ。おれは忙しいんだ」
…………。
……。
;やめておくを選んだ場合
……おれの金じゃないし、どうでもいいか。
栄一は、嬉々とした顔で、宇佐美からお金を受け取った。
ハル,「んじゃ、外で待ってますんで」
宇佐美は腕を組んで、道端に座り込んだ。
栄一,「…………」
京介,「…………」
まるで全身でひもじいと言っているかのような態度だった。
栄一,「宇佐美さん、じゃあこうしようよ」
ハル,「はい?」
栄一,「一杯のラーメンを二人で食べるとか?」
ハル,「そんな、カップルみたいな真似させるんすか。いや、そんなカップル見たことないすよ?」
栄一,「あ、じゃあ、どっか別の定食屋行く? 牛丼とかどう?」
……なんだコイツ、やっぱり後ろめたいのか。
ハル,「栄一さんがそう言うなら、まあわかりました」
栄一,「…………」
栄一,「(チキショー、なんだよ今日のオレちゃんは? 鬼畜モンの風上にもおけねえぜ)」
京介,「別で食うんだな? とっとと行こうぜ。おれは忙しいんだ」
…………。
……。
;場転
遅い夕食を平らげ、おれたちは店を出た。
京介,「それじゃ、また学園でな」
栄一,「じゃねー」
背を向けようとしたとき、声があがった。
ハル,「ちょっと待ってください、浅井さん」
京介,「……なんだ?」
ハル,「今日、浅井さんに集まってもらったのは他でもない」
栄一,「いや、ボクもいるけど?」
宇佐美は、前髪をかきあげてから言った。
ハル,「ちょっと聞きたいことがあるんです」
京介,「……昨日の件か?」
身代金がどこに行ったのか、考え込んでいるんだろう。
ハル,「はい。すなわち、ケースのなかの株券は、いつどこでどうやって消えたのか」
京介,「……さあな」
おれは、椿姫から聞いた事件の顛末を思い起こす。
京介,「昨日の夜、九時半だったか? セントラル街が、花音のテレビで異常に混んでたのは」
ハル,「はい。そのとき、ハンバーガーショップの前に置かれたケースが、"魔王"に持ち去られました」
京介,「椿姫が置いたんだよな?」
ハル,「はい」
京介,「でも、宇佐美は、椿姫のケースを、事前に用意しておいたケースとすりかえていたわけだよな?」
ハル,「はい。ですから、わたしがすりかえるより前の段階で、すでに株券はケースのなかから消失していたということになります」
京介,「そうなるな……」
……犯人がどうやって身代金を奪ったのか。
どうでもいいことではあるが、単純に好奇心は沸くかな。
栄一,「ちょ、ちょっとボク、話についていけないんだけど?」
京介,「五十枚の株券は、もともと封筒にでも入れていたのか?」
ハル,「はい」
京介,「椿姫は、たしかにケースに株券を入れたんだろうな?」
ハル,「その瞬間をこの目でたしかに見ました。椿姫は、デパートで、ケースを買って、その場で株券の入った封筒を、ケースのなかにしまいました」
京介,「それから先、椿姫はケースの中身を確認したりしたのかな?」
ハル,「していないそうです。今日の昼に聞いたんですが、株券をしまってから、椿姫は一度もケースを開けていないそうです」
京介,「つまり椿姫は、市内を駆け回っている間、株券はずっとケースのなかにあると思い込んでいたわけだな」
ハル,「わたしもですが……」
苦笑して、また頭をかいた。
栄一,「ね、ねえ、ボクも仲間に入れてよ」
京介,「それで、おれに聞きたいことってなんだ?」
言うと、宇佐美は苦い顔をした。
ハル,「ズバリ、聞きますよ、浅井さん」
京介,「ん……?」
一歩、踏み込んできた。
ハル,「昨日、ケースは二度、駅構内のコインロッカーに預けられました」
京介,「……うん」
ハル,「一度目は、昼。椿姫が電車に乗って桜扇町に向かったとき」
ハル,「二度目は、夜。椿姫が東区の公園に向かったときです」
京介,「それで?」
ハル,「問題となる駅のロッカーですが……」
ハル,「一度目は、わたしが見張っていました。不審者が近づいた様子はありませんでした」
ハル,「二度目は、どうでしたか?」
……そんなことか。
昨日、おれは宇佐美に頼まれて、ロッカーのそばにいたときがある。
京介,「別に、怪しいヤツは近づいてこなかったけどな?」
ハル,「細身で背が高く、黒いコートを着た男を見ませんでしたか?」
京介,「……それが、犯人か?」
ハル,「はい。"魔王"です」
京介,「しかし、細身で背が高くて、黒いコートを着ているっていうだけじゃなあ……年齢とかは?」
すると、宇佐美は、迷うように言った。
ハル,「……謎です。青年だと思います」
京介,「二十代前半? 後半?」
ハル,「謎です。後姿だけしか見てませんから。ただ、最近の若い男性はみんな背が高くて細くて、何歳なのかわからないですしね……」
……"魔王"についてはなにもつかんでいないようだな。
京介,「まあ、わかった。とにかく、おれが見ていた限りでは、そういう男は現れなかったよ」
栄一,「変装してたんじゃない!?」
栄一が、ぐいっと身を乗り出してきた。
栄一,「いや、よくわかんないけど、混ぜて欲しかっただけ」
京介,「なんにしても、ケースの入れてあったロッカーに手をかけたヤツはいなかったな」
ハル,「たしか、ですか?」
心の奥を覗き込むような視線を感じた。
京介,「たしかだ。まあ、少し疲れていたから、ぼうっとしていたときもあるかもしれんが……」
栄一,「それだ! 京介くんが、犯人を見逃したんだ!」
京介,「……だったら、すまんな」
ハル,「あ、いえいえ。自分も、犯人を捕まえられなかったわけですから」
しかし、な……。
京介,「いずれにせよ、ロッカーには椿姫がきちんと鍵をしたわけだろ?」
ハル,「はい。椿姫はその鍵を持って市内を走り回り、東区の公園に現れました」
京介,「だったら、その鍵を手に入れなければ、けっきょくロッカーも開かないわけで、身代金も手に入らないじゃないか」
ハル,「おっしゃるとおりです」
大きくうなずいた。
ハル,「…………」
また、髪をいじりだした。
京介,「行き詰ってるのか?」
ハル,「……そういうわけでもないんですが」
京介,「なら、答えは出てるのか?」
ハル,「…………」
宇佐美は、押し黙った。
京介,「なんだなんだ。まさか、またおれを疑ってるのか?」
試しに、笑いながら聞いてみた。
ハル,「…………」
栄一,「あはは、たしかに京介くんは、細身で背が高いよね」
京介,「ついでにいえば、黒いコートも持ってる」
宇佐美は笑わない。
栄一,「ねえねえ、宇佐美さん。京介くんがなんで椿姫ちゃんの弟を誘拐するっていうの?」
……たしかに、なんでおれがそんな暇なことをしなければならんのか。
ハル,「犯人の動機は、いまだ謎が残っています。そういった意味で、行き詰っていますね、わたしは」
京介,「そんなに困ってるなら、一つ、いいことを教えてやろうか」
おれはもう面倒になってきていた。
京介,「犯人が指定した白鳥建設の株な……」
宇佐美は、またぼんやりと前髪で遊んでいた。
京介,「近々、値崩れするらしいぞ」
直後、宇佐美の指先が髪と戯れるのをやめた。
ハル,「本当ですか?」
京介,「ああ」
ハル,「どうしてそんなことを?」
京介,「パパが言ってた」
ハル,「なら、"魔王"はいまごろくやしがっているんでしょうか?」
京介,「さあ……白鳥建設の株が落ちることは、ちょっとした関係者なら誰でも知っているっていうから……」
宇佐美が遮って言った。
ハル,「株価が落ちるのを知っていて、身代金に指定してきたということですか?」
京介,「おかしな話ではあるがな」
ハル,「なるほど……」
ため息まじりに言った。
京介,「参考になったか?」
ハル,「おおいに」
いままでで一番深くうなずいた。
京介,「なんにしても、弟が帰ってくることを願うばかりだな」
ハル,「……ですね」
おれは、話は終わったといわんばかりに、背を向けた。
ハル,「どうも、すみませんでした。失礼します」
宇佐美も去っていった。
栄一,「っていうか、まだ弟誘拐されたまんまなの!? ヤバくね!?」
夜が更けていく……。
…………。
……。
;ぐにゃーっと歪むような演出
;背景 公園 夜
;ノベル形式
親にすら話すなと命じられていた。
 夜も更けたころ、椿姫は近くの公園に出向いた。
 一人だった。父親には、散歩してくると嘘をついた。普段から嘘は苦手だったが、広明の安否に父親も動揺しているのか、とくにとがめられることもなかった。
 今日の夕方、学園から帰宅しているときに、携帯電話が鳴った。
 椿姫は、呼び出された。弟を引き渡してもらえると思い、素直に従った。指定されたベンチに腰掛けて、広明の姿と、犯人の声を待った。
背後から声がした。
 振り向くな。きつい口調で命じられ、身がすくんだ。
 男は、いつの間にか椿姫の背後に忍び寄っていた。
魔王,「まず、はじめに言っておく」
電話の声。何度も聞いた。間違いなく、犯人だった。
魔王,「興奮して後ろを振り向くなよ。私の顔を見たら、大好きな弟が明日の朝刊に載ることになる」
 椿姫は一瞬にして緊張した。誘拐犯が、真後ろにいるのだ。
魔王,「返事はどうした?」
椿姫,「わかりました」
魔王,「聞き分けがよくていい」
椿姫は、逃げ出したくなるような気持ちを奮い立たせた。
椿姫,「いままで、全部、言うことを聞いてきました。ですから、今度はあなたの番です」
恐怖に膝が震えた。切れ切れの吐息で言った。
椿姫,「弟を、返してください」
背後から、嘆息があった。
魔王,「全部言うことを聞いた、だと?」
椿姫,「お金も渡しました。警察にも通報していません」
戸惑いながら言った。犯人は何か腹を立てたのだろうか。
魔王,「では、なぜ、宇佐美ハルが邪魔をしてきたのだ?」
椿姫,「え……」
魔王,「宇佐美が、私を捕まえようとした。知らないわけではないだろう?」
たしかに、ハルはセントラル街で犯人を追った。身代金の入ったケースをすりかえた。それが、犯人の逆鱗に触れたというのか。
 椿姫は、素直に認めることにした。
椿姫,「ハルちゃんは、あなたを捕まえると言っていました」
魔王,「それを許したのか?」
椿姫,「はい……」
とたんに、いけないことをしたような気持ちになってきた。
椿姫,「あの、ハルちゃんは、あなたを捕まえようとしたり、ケースをすりかえたりしました。それを怒ってらっしゃるんですか?」
魔王,「ケースをすりかえたり、か……」
鼻で笑った。
魔王,「急場の仕掛けにしては、よくがんばったほうだな」
けれど、犯人には通じなかった。犯人は、それより前に、身代金を奪っていたのだ。
魔王,「しかし、椿姫。もし、宇佐美の手口が功を奏し、まんまと身代金を取り戻していたら、どうなっていたと思う?」
椿姫,「……どうって」
わからなかった。ただ、揺さぶるような犯人の口調から、いい知れぬ恐怖が伝わってきた。
魔王,「お前は、私に身代金を渡すと約束した。だが、一方で、裏切っていた。そういう人間に報いを与えるべきだと私が思っても、なんら不思議はないだろう?」
椿姫,「す、すみませんでした」
とっさに謝罪の言葉が口から飛び出た。
魔王,「宇佐美はこう言ったのだろう? 身代金を渡したが最後、弟は戻らないと」
椿姫,「はい。人質は、リスクの塊だからと……」
魔王,「私はきちんと返すつもりだったのにな」
呆れたようにため息をついた。
魔王,「考えてもみろ。人質を返さないということは、殺害するということだ」
全身が総毛だった。
魔王,「いいかげんわかって欲しいが、私は警察とことをかまえるつもりはない。警察を頼るな。それだけは、しつこく念を押しておいたはずだ」
椿姫,「はい」
魔王,「人質が返ってこなかったら、お前たちはどうする? 今度こそ、警察を頼るだろう? 人を一人殺すというのは、大変なことだ。必ず足がつく」
まくしたてるように言われ、椿姫は苦しくなった。次第に自分の頭で考えるのが面倒になり、犯人の主張も、もっともだと思い始めた。
魔王,「お前は宇佐美にそそのかされたということだな」
椿姫,「そんなつもりは……ハルちゃんは、ただ、よかれと思って……」
魔王,「それは違う」
犯人がぴしりと言った。
魔王,「宇佐美が私を捕まえようとしたのは、お前たちのためではない」
椿姫,「え?」
魔王,「私怨だ」
周囲の空気が、いっそう冷え込んだ。
魔王,「知りたいか?」
犯人の問いに、椿姫は答えられなかった。黙っていると、背後から含んだ笑いが上がった。
魔王,「そんなことより、弟を返して欲しそうだな?」
使命に気づかされ、はっとした。こわばった指を軽く握って、ためらいながら聞いた。
椿姫,「……返して、もらえるんですか?」
相手はため息で答え、それを途中から笑い声に変えた。
魔王,「お前が、私の言うとおりにすればな」
不敵な声に、心臓をわしづかみにされた。要求というより、脅しだった。
唇が、震えている。寒さはまったく感じない。逃げ出したくなった。本能的な嫌悪感があった。
 ――"魔王"。
 ハルがそう呼んでいたことを思い出した。悪魔が、腕を伸ばし、距離を詰めてきたのだ。
 いつでも相手の目を真っ直ぐに見て、会話をしていた。けれど、いまの椿姫には、振り返って相手を見る勇気など、かけらもなかった。
 風が出てきた。"魔王"が、耳元で、なにかささやいた……。
;背景 教室 昼
今日も学園に来ることができた。
京介,「みんな、おはよう」
挨拶すると、クラスメイトたちの爽やかな声が返ってくる。
ハル,「おはようございます、浅井さん」
京介,「よう。その髪型なんとかならんのか? 相変わらず、朝のすがすがしさをぶち壊してくれる」
ハル,「浅井さんこそ、眠そうですね」
京介,「そうか? たしかにあまり寝てないがな」
ハル,「昨日は遅くまでつき合わせてしまいましたね」
京介,「まったくだ……」
おれは席について、久しぶりにミキちゃんに、電話をかけようとした。
ハル,「白鳥さんは、まだいらっしゃらないみたいですね」
京介,「みたいだな。まあ、あいつが休むのは、よくあることだ」
ハル,「なにか事情でもあるんですかね?」
京介,「ひょっとして、例の株価の件と関係があるのかもな」
宇佐美も、おれと同じ気持ちだったらしく、うなずいた。
ハル,「あ、椿姫だ」
いつの間にか、椿姫が席についていた。
珍しいな……。
あいつは朝には元気よく、おはよーとか触れ回るのに。
京介,「椿姫」
椿姫,「……っ!」
声をかけると、怯えたようなまなざしが返ってきた。
京介,「なんだ、どうした?」
椿姫,「ああ、浅井くん、おはよう」
ハル,「その様子じゃ、まだ広明くんは……」
椿姫,「あ、うん……」
犯人はまだ、人質を解放しないのか。
警察に通報されたら、まずいな。
椿姫,「……えと」
京介,「ん?」
椿姫は唇を噛んだ。
椿姫,「ハルちゃん……」
ハル,「なんだ?」
椿姫,「ちょっと、聞いてもいいかな?」
恐る恐る尋ねてきた。
その様子に、おれも宇佐美も眉をひそめた。
椿姫,「えと、ハルちゃんは、どうして犯人を捕まえようと思ったの?」
宇佐美は微動だにせず、言った。
ハル,「犯人を捕まえれば身代金を渡す必要もないし、広明くんも返ってくるからだ」
椿姫,「……そっか」
ハル,「いまさら、なんでそんなことを?」
椿姫は宇佐美の問いに、視線を逸らした。
椿姫,「そ、それだけ?」
ハル,「え?」
椿姫,「本当に、それだけの理由なの?」
どうにも様子がおかしかった。
椿姫,「犯人は、"魔王"だって、言ってたよね?」
ハル,「うん」
椿姫,「知り合いなんだよね?」
ハル,「…………」
椿姫,「わたしの家庭の事情とは別に、ハルちゃんは犯人を捕まえたかったんじゃないの?」
なんだか、今日の椿姫には、違和感を覚える。
あの椿姫が、人を疑う瞬間など、初めて見たかもしれない。
ハル,「たしかに、わたしは、"魔王"を捕まえたいと常々思っている」
椿姫,「うん……」
ハル,「"魔王"には、個人的な恨みもある」
椿姫,「…………」
ハル,「……それが、なにかまずかったか?」
最後のほうは、宇佐美も傷ついたように目をそらした。
椿姫,「ごめん……変なこと聞いて」
ハル,「いや……」
椿姫,「ハルちゃんは、よかれと思って、犯人を捕まえようとしてくれたんだよね……」
ハル,「……なんの役にもたたなかったが」
椿姫,「…………」
また、違和感が募る。
椿姫なら、ここで宇佐美に慰めの言葉の一つでもかけてやるだろう。
椿姫,「もう一つ、いいかな?」
ハル,「なんでもいいぞ」
椿姫,「ハルちゃんは、お金を渡したら、広明は返ってこないって言ったよね?」
ハル,「うん。何度も言うが、犯人は、身代金に関係なく、人質を返すつもりはないんじゃないかと思っていた」
……現に、広明くんは返ってきていないわけだしな。
椿姫,「本当に、そうなのかな?」
ハル,「…………」
椿姫,「犯人は、警察を恐れてたんだよ」
ハル,「そのようだな」
椿姫,「広明が、もし本当に返ってこないんなら、わたしたち、今度こそ、警察に連絡するよ」
ハル,「…………」
椿姫,「犯人も、それを予想しているはずだから、きっと広明は返すつもりだったんじゃないかな?」
む……。
椿姫の言うとおりだな。
犯人が警察の介入を懸念しているのならば、きちんと人質を返すはずだ。
人質を殺してしまったりしたら、それこそ事件だからな。
ハル,「わたしは犯人ではないからわからないが、警察を恐れているからこそ、人質は返さないつもりだったんじゃないか」
ハル,「犯人はこう予測していた。椿姫の一家は、人質が返ってきたら、次は身代金を返してもらおうと思い、警察に通報するかもしれない」
……まあ、無理はない推測だな。
人質さえ返ってくれば、椿姫たちにとって、警察に通報することは、なんのリスクもないからな。
あの身代金には、大事にしてきた土地がかかっているんだ。
椿姫の親父さんが、取り返したいと思っても無理はないし、犯人がそう予測していたとしても不思議はない。
ハル,「なんにせよ、わたしがそう思うというだけであって、事実はわからないが……」
椿姫,「……そっか」
そこで、椿姫は、深いため息をついた。
椿姫,「ごめんね、ハルちゃん!」
声を張り上げた。
ハル,「……ん?」
椿姫,「問い詰めるような真似して、ごめんね」
まるで、つき物が落ちたかのよう。
京介,「なんなんだ、お前」
椿姫,「ううん、なんでもないの」
ハル,「疲れてるみたいだな」
椿姫は、すでにいつもの明るい顔つきに戻っていた。
ハル,「なにか、あったのか?」
椿姫,「今日は、朝からハルちゃんに迷惑かけてしまいました○」
ハル,「いや、○じゃないっしょ……」
それからは、いつもと変わらない朝がやってきた。
;背景 屋上 昼
栄一,「おいおい京介聞いてくれよ、オレ、この歳になるまで知らなかったぜ」
昼休みになっていつものように屋上にたむろっていた。
栄一,「ペッティングって、いやらしい言葉だったんだな」
京介,「いきなりなにを言い出すかと思えば……」
栄一,「ビビッたぜ、三軒茶屋あたりの家族が土手で犬を散歩させるオシャレな言葉かと思ってたぜ」
京介,「よかったな」
くだらない話をしていると、椿姫が屋上に顔を見せた。
栄一,「あ、椿姫ちゃん、だいじょうぶ?」
椿姫,「なにが?」
栄一,「ほらあの、ガキ……じゃなくて、弟さん」
椿姫の顔色が暗くなった。
栄一,「だいじょうぶだよ、きっと生きてるって」
栄一は、重苦しい空気をまったく理解しない。
椿姫,「ありがとう、栄一くんにも迷惑かけたね」
かけたか……?
栄一,「いいよいいよ。ボクはいいんだよ、ボクは」
なにやら誇らしげだった。
こいつの能天気っぷりは、なかなかすがすがしいものがあるな。
京介,「あ、椿姫」
椿姫,「うん?」
京介,「今日の夜にでも、遊びにいってもいいか?」
唐突に聞くと、椿姫は一瞬戸惑ったように、目を見開いた。
椿姫,「えと……夜って何時くらい?」
京介,「……いや、遅くならないうちに帰るが?」
椿姫,「あ、うん。なら、いいよ」
京介,「なんか用事でもあるのか?」
椿姫,「別に、ないよ。でも、どうして?」
なにか、訪問を拒まれているような気もするな。
京介,「いちおう、ほら、親父さんに話もしなきゃならんし……」
借金の返済について。
京介,「あとはまあ、お前が心配だってのもあるな……」
栄一,「プ……」
栄一が吹き出した。
椿姫,「心配しないでいいよ。わたしは、元気だから」
京介,「だといいんだがな……」
椿姫,「浅井くんは、やっぱり優しいなあ」
微笑んだ。
どことなく力のない、影のある笑顔だった。
ハル,「あの……自分も、いいすか?」
椿姫,「ハルちゃんも?」
いつの間に現れたのか、宇佐美が上目づかいで聞いてきた。
京介,「なんでお前まで?」
ハル,「いえ……なにか、役に立てる場面があるかもしれませんので」
京介,「なにわけのわからんことを……」
ハル,「こう見えて、炊事洗濯掃除は得意でして」
京介,「嘘をつけよ。お前なんか、どう見ても生活力ゼロじゃねえか」
ハル,「芸とかもできますし」
京介,「芸だあ?」
栄一,「宇佐美さん、どんなことできるの?」
ハル,「…………」
照れたようにうつむいた。
ハル,「まあ、ヴァイオリンを少々……」
椿姫,「そういえば転入してきたとき言ってたね」
京介,「冗談だと思ってた」
栄一,「ボクも……」
ハル,「これが、ネタでもなんでもないんですよ、恐ろしいことに」
京介,「どっちにしろ、いまの椿姫にお前の一芸は必要ねえよ」
椿姫,「あ、うん、今度聞かせてね」
……どうせ、はったりだろうがな。
京介,「…………」
とはいえ、宇佐美についても探る必要があるんだったな。
"魔王"との因縁だったか……。
どうも後回しにしたくなるが……。
京介,「お前もヒマ人だな、宇佐美」
悪態をついて、気を紛らわせた。
ハル,「ヒマではないですよ、ヒマでは」
京介,「お前は夜とかなにやってんだ?」
ハル,「銭湯に行ってます。お風呂好きなんで。髪洗うの時間かかるんすよねー」
切れよ……。
椿姫,「それで、ハルちゃんも、おうちに来るの?」
ハル,「ちょっと遅くなるかもしれないが」
椿姫,「えっと……」
考え込むように顔をこわばらせた。
椿姫,「悪いけど、十一時には、帰ってもらえるかな?」
京介,「なんだよ、やっぱり用事があるのか?」
椿姫,「うん……」
ハル,「そんな時間から、なにをするんだ?」
椿姫,「えと……ネットゲーム……」
京介,「ゲームだって? なんでそんな時間から? ゲームなんていつでもできるだろう?」
栄一,「ボクわかるよ。ネット上のお友達と、時間を合わせてプレイしたいんでしょ?」
椿姫,「そ、そう! みんなで悪いボスをやっつけるの」
京介,「…………」
ハル,「…………」
宇佐美と目があった。
おれも宇佐美も、考えていることは同じみたいだな……。
……椿姫は、なにか、隠している。
おれたちにも相談できないような、なにかを。
栄一,「なあんだ、椿姫ちゃんもけっこう余裕だなー」
椿姫,「ふふっ、だからだいじょうぶだって」
屋上から街を見下ろす。
変わり映えしない景色に、本格的な冬が到来しつつあった。
;背景 繁華街1
授業が終わり、セントラル街を、椿姫と肩を並べて歩いていた。
京介,「……昨日、なにかあっただろ?」
二人きりなので、聞いてみた。
椿姫,「え?」
京介,「おれには、話してくれてもいいだろ?」
椿姫,「な、なにを?」
京介,「とぼけんなって、朝から宇佐美にくってかかっただろ?」
言うと、ばつの悪そうな顔になった。
椿姫,「……そう、だったっけ?」
京介,「そうやってとぼけたりするのも、お前らしくないな」
半笑いで椿姫を見据えた。
京介,「……ひょっとして、警察に通報したのか?」
何気ないふりをして、聞いた。
椿姫,「ううん、違うよ」
京介,「本当?」
椿姫,「まだ、広明も返してもらってないしね」
京介,「じゃあ、なんでだ?」
おれの質問に、椿姫は目を逸らした。
椿姫,「……ごめん、なんでもないよ」
京介,「…………」
椿姫,「それより、浅井くん」
思いついたように言う。
椿姫,「ハルちゃんのこと、知ってる?」
京介,「知ってる、とは?」
椿姫,「ハルちゃんと、犯人について」
……なぜ、椿姫が、宇佐美と"魔王"の関係などに興味を持つのか。
京介,「いいや、ぜんぜん知らんよ。どうも、憎んでいるような感じはあるけどな」
椿姫,「そう……」
京介,「お前は、知っているのか?」
椿姫,「ううん、知らないよ」
京介,「気になるのか?」
うつむいて、また目を伏せた。
椿姫,「わたし……」
つぶやいた。
椿姫,「お友達だと思ってて、でも、そのお友達のこと、なんにも知らなくて、それでお友達だと思ってて……」
苦しそうに顔を歪めた。
椿姫,「そういうの、どうなんだろうって、今日は思ってたの」
京介,「…………」
いまさら、何を言ってやがるんだ、こいつは……。
京介,「……いや、椿姫はそういうところが、いいんじゃないか?」
そういう、うさんくさいところが、椿姫の個性ではないのか。
椿姫は声を張った。
椿姫,「だって、誘拐犯と知り合いなんだよ? わたしの弟をさらうような人と知り合いって、いったいどういうことなんだろ?」
京介,「おれにもわからんよ……聞いてみればいいじゃないか?」
椿姫,「聞いたけど、なんだかはぐらかされて……あ、いや、わたしの聞き方が悪かったのかな……」
京介,「おれも、一度、宇佐美と"魔王"の関係について聞いたことがあるが、なんだか話したくなさそうだったな」
椿姫,「…………」
京介,「…………」
二人して、押し黙った。
京介,「なんだよ、宇佐美が、気に入らないのか……?」
椿姫,「気に入らないなんて……そんなことないけど……」
深いため息があった。
京介,「疲れてるな、椿姫」
身代金は奪われ、弟も帰ってこない。
気が気じゃないんだろう。
京介,「ただ、別に宇佐美につっかかったところで、状況がよくなるわけでもないぞ」
椿姫,「それは、よくわかってるよ。ハルちゃんに悪いことしたな……」
京介,「…………」
おれは舌打ちをこらえ、言った。
京介,「今日は、弟たちを迎えに行ったりしないのか?」
椿姫,「え? 今日は、ないけど?」
京介,「ふうん……だったら、ちょっと、寄ってくか?」
椿姫,「寄ってく?」
京介,「買い物だよ。CD買うのつきあってくれ」
椿姫は頭をふった。
椿姫,「お父さんが心配するから、早く帰りたいの」
京介,「それもそうか……」
椿姫,「ごめんね。気晴らしになればいいと思ったんでしょ?」
京介,「…………」
椿姫,「ありがとう」
京介,「今日は、親父さんとお金の話をしたら、すぐ帰るよ」
それだけ言うと、あとはたいした会話もなかった。
;背景 椿姫の家 居間 夜
京介,「……というわけで、お父さん。いちおう借金は借金ですので……返さないことには、いろいろと困ることに……」
おれは親父さんに、土地の話をつけていた。
京介,「期限は残り一週間ですが、もともと返す当てのない借金でした。その辺の事情は通っていますので、一度ここの土地を差し押さえさせてもらうことになるでしょう」
パパ,「やっぱり、ここを出て行くことになるんだね……」
京介,「事情は、お察ししますが……」
パパ,「わかっているよ。悪いのは犯人だ。僕らに非がないように、君や、お金を貸してくれた人にもなんの罪もない」
京介,「……すみません」
おれは頭を下げる。
京介,「いちおうですね、お父さん。差し出がましいとは思っているんですが……」
京介,「事情が事情ですので、僕も、いろいろと父にかけあってみました」
京介,「そしたら、ある不動産屋が、新しい引越し先の用意をしてくれるとのことでして……もし、よろしければ、そちらに」
親父さんが目を丸くした。
パパ,「ありがたい話だけど、うちは大所帯だよ?」
京介,「そういう話もしています」
パパ,「浅井くん、君には本当に感謝しているよ」
深く頭を下げた。
パパ,「犯人が悪魔なら、君は天使だな」
大の大人が、おれみたいなガキに深々と頭を下げる。
……何も、感じなかった。
京介,「詳しい話は、直接、担当の方としてください」
おれは不動産屋の名刺を差し出した。
山王物産の傘下の不動産会社だ。
こいつらが、金を貸しつけた業者から、ここの土地を買いつける手はずになっている。
京介,「なんにせよ、これからが大変ですね」
パパ,「こんなことになるなら、さっさとこの土地を売ってしまえばよかったんだね」
……まあ、そうすれば、借金をする必要はなかった。
京介,「やむをえませんよ、犯人は五千万もの大金を一日で用意させようとしたんです」
ここの土地を売ろうと思っても、現金になるまで少なくとも一週間はかかっただろう。
パパ,「長く住ませてもらったな……ここも」
昔を懐かしむような目で、辺りを見回した。
パパ,「しかし、せめて広明が帰ってくるまでは、住まわせてもらいたいものだね」
一週間以内ということだな。
京介,「なんというか、ちょっとほっとしています」
パパ,「なぜだね?」
京介,「家を出て行く決心をしてくださったようで」
親父さんは首を傾げる。
京介,「ああ、いえ……差し押さえられた土地に居残っていたら、たいへんなことになりますしね」
ふと家に帰ったら、家財道具をすべて外に出され、玄関には差し押さえの札が貼ってある。
寒空のなか、どこへ行けというのか……。
おれは、嫌な思い出を振り払うように、頭を振った。
京介,「それじゃ、たいしてお役に立てませんで……」
パパ,「もう帰るのかい? おーい、椿姫」
奥の部屋に声をかけた。
椿姫,「なあに、お父さん」
京介,「もう、帰るわ」
椿姫は、下の子供二人を従えていた。
ちろ美,「お姉ちゃん、おなかすいたー」
椿姫,「うん、もうご飯作るね」
椿姫,「浅井くん、帰るの?」
孝明,「お姉ちゃん、さっきのお話の続きしてよー」
椿姫,「ふふっ、いい子にしてたらねー」
子供たちは椿姫の足にまとわりついていた。
椿姫,「浅井くん、なんかごめんね、たいしてかまえなくて」
京介,「いや、もともと、親父さんに会いに来たわけだし」
ちろ美,「お兄ちゃんも、おままごとする?」
京介,「はは……」
しかし、椿姫家の子供たちは人見知りしないな。
だから、誘拐犯にも素直についていったんだろうか。
京介,「……そういえば、お母さんは?」
気になって、帰る足が止まった。
椿姫,「あ、ちょっと、体調悪いみたいで」
京介,「寝てるのか?」
椿姫はうなずいた。
京介,「お大事にと伝えてくれ。それじゃ……」
椿姫,「じゃあね、また来てね」
カレシ、またねー、と子供たちの小鳥のような声も追随した。
椿姫,「さあさ、ご飯にするよー!」
去り際、とびきり明るい声が家中に響き渡った。
;背景 椿姫の家 概観 夜
ハル,「うわっ!?」
京介,「おっ!?」
玄関を出ると、不意に、髪の毛の束にぶつかった。
ハル,「な、なんすかいきなり抱きついてきて!?」
京介,「抱きついてない。お前こそなんだ」
ハル,「椿姫の家に行くって、言ってたじゃないすか?」
京介,「ん?」
ハル,「え?」
京介,「……ああ、そうだったな。ギャグかと思ってた」
ハル,「浅井さんは、どうもわたしのことを軽んじてますね」
じっとりとした目つきだった。
京介,「椿姫の家に来るにしても、ちょっと時間遅くないか?」
ハル,「いやだから、遅くなるかもって言いましたよ」
京介,「だから、こんな時間までなにしてんたんだ? アルバイトか?」
ハル,「いえ、アルバイトはしばらくいれないようにしています」
京介,「ふうん、なんで?」
ハル,「いろいろと調べたいことがありまして」
京介,「調べるって……まさか、事件のことか?」
ハル,「はい」
当然のことのように言った。
京介,「そんなもん、警察に任せておけよ」
ハル,「警察には連絡していないそうじゃないですか」
京介,「だからって、なんでお前が……?」
ハル,「気が済むまでやりたいだけです」
……まあ、犯人を捕まえようとか言い出して、けっきょくなにもできなかったわけだからな。
京介,「なにを調べてたんだ?」
ハル,「広明くんの消息です」
京介,「んで、なにかわかったのか?」
ハル,「いいえ」
京介,「きっぱり言うなよ」
ハル,「すいません」
ダメだな、こいつは。
ハル,「犯人が、広明くんを連れ去ったであろう場所は特定できました」
京介,「そんなもん、保育園から、この自宅までのどこかに決まっているじゃないか」
ハル,「おっしゃるとおりです。今日は、ずっとその道を行ったりきたりして、たまにすれ違う人にお話をうかがってました」
京介,「つまり、目撃者をさがしていたわけだな?」
ハル,「はい」
京介,「いたのか?」
ハル,「さっぱりです。白いセダンを見ませんでしたか、と何度聞いたことか」
京介,「白いセダンだって?」
ハル,「ええ、先日、南区の住宅街に停まっていた車です。椿姫はそこに呼び出されました」
京介,「お前は、その一部始終を見てたのか?」
ハル,「はい。あとから聞いた話だと、"魔王"は、椿姫とドライブするつもりだったとか」
京介,「そんなことはいい。車のナンバーとか覚えていないのか?」
ハル,「覚えていますよ、もちろん」
京介,「だったら、ナンバーから所有者を調べる方法はある」
ハル,「陸運局ですか?」
京介,「いや、それより確実に調べてくれる業者がネット上にある。軽自動車やバイクでも調べてもらえるんだ」
ハル,「しかし、"魔王"も当然、車から足がつく可能性を想定しているはずです」
京介,「まあ、盗難車だったら、ナンバーをごまかすこともできるしな」
ハル,「ええ……ですので、調べてはいません」
うつむいて、目を閉じた。
宇佐美は、いつも鬱々としているだけあって、落ち込んでいるような表情には見えなかった。
京介,「ところで、お前は、犯人がどうやって身代金を奪ったのか、もうわかっているのか?」
ハル,「…………」
京介,「なんだよ、だんまりかよ」
すると宇佐美は眉をしかめた。
ハル,「もし、わかったとしてなんになるのかな、と思いまして、ふとむなしくなりました」
京介,「え?」
ハル,「すいません、逆ギレみたいで」
京介,「いや、わけわからんぞ」
ハル,「ですから、もう、身代金は奪われたんです。わたしは探偵さんではないんです。犯行の手口を暴くことに、それほど意味があるとは思えないんです」
京介,「それはそうだが……興味はわくだろ?」
ハル,「いまは、椿姫の弟さんを探すのに全力を尽くしたいんです」
宇佐美は、どうも頑ななところがあるな。
要するに、犯人の手口もわかっていないってことだろう。
少しは頭の鋭いヤツかとも思っていたが、実際はただの変な女だったわけだ。
ハル,「浅井さん、よかったら協力してもらえませんかね?」
京介,「いきなりなんだ?」
ハル,「もちろん、広明くんを探すことを、です」
一瞬、回答に戸惑った。
京介,「いいぞ……」
京介,「もとより、椿姫を助けてあげたいしな」
なんにしても、弟が返ってこなければ、今度こそ、椿姫の一家は警察を頼るだろう。
警察のメスが入ったら、浅井興業が、今後、山王物産からどんな圧力を受けることになるかわからん。
カイシャの力を使ってでも、広明くんを探すとするか……。
京介,「おれなんかが、何の役に立てるかわからんから、期待はしないでくれ」
ハル,「いえいえ、浅井さんは、かの浅井興業の御曹司じゃないですか?」
さらりと言った。
あまりにも、虚をつくような言い方だったので、危く聞き逃すところだった。
京介,「……なんだって?」
おれの問いかけを宇佐美は無視した。
ハル,「お父さんは、浅井権三さんという名前ですよね?」
京介,「…………」
答えるべきか答えないべきか……けれど、沈黙が答えになってしまった。
京介,「なんで知ってる?」
逆に聞き返すと、宇佐美は急におろおろしだした。
ハル,「わたしは浅井さんのことが好きなので、浅井さんのことはなんでも知りたいんです」
京介,「きもいんだよ。ざわざわするようなこと言うな」
ハル,「ざわざわ、すか。いただきました」
あまりの気持ち悪さに、顔をしかめた。
ハル,「あの、学園の先生にちょっと聞いただけですが、そんなに気持ち悪かったですかね?」
京介,「人に探りを入れるような真似をして、よくもそんな、ひょうひょうとした態度でいられるな」
ハル,「別に、探りを入れよう、などとは思っていなかったんですが……そんなに、触れてはいけないステータスだったんすか?」
……言われてみれば、そこまで腹を立てるようなことでもないか。
本当に知られたくないのは、浅井興業でのおれの立ち位置だ。
京介,「人には言うなよ?」
ハル,「言う気もありませんが、なぜです?」
京介,「おれは、目立つのは嫌いなんだ」
昔からそうだ。
おれには影でこそこそするのが似合ってる。
ハル,「なんか、すいません」
宇佐美が、じっと見ていた。
ハル,「そして、協力していただけるようで、ありがとうございます」
京介,「しかし、お前も変なヤツだな?」
ハル,「はい?」
京介,「お前は、もう、広明くんはこの世にいないもんだと考えているんだろう?」
ハル,「その可能性が高いとは思っています」
京介,「なのにどうして探そうとするんだ?」
ハル,「可能性が高いというだけで、絶対ではありませんから。人の命がかかっています。絶対ではない以上、懸けなければならない可能性が残っています」
京介,「懸けなければならない、か……」
おれは少しだけ感心していた。
京介,「お前は、もっと合理的なヤツかと思っていたがな」
ハル,「そすか?」
京介,「まあいい。とにかくおれは、帰るぞ」
ハル,「あ、じゃあ、携帯電話の番号を交換しませんか?」
京介,「交換? お前も買ったのか?」
ハル,「はい。さすがに、契約しました。1円ケータイですが」
不便さに気づいたか。
おれたちは、お互いに番号を交換し合った。
ハル,「これあれですよね、恋人登録みたいなことすると、お互いの通話料が安くなるサービスありましたよね?」
また気持ち悪いことを……。
京介,「あるにはあるな」
ハル,「ぜひお願いしたいんですけど?」
京介,「ええっ……」
ハル,「いや、変な勘違いなさらないで下さい。自分、男性の友人がいませんで、それでもお金は乏しいわけでして、これはつまり、浅井さんに一肌脱いでもらうしかないわけです、はい」
京介,「わかったよ、気持ち悪いな……」
ハル,「すみませんね。だからって、たくさん電話したりしませんから」
頼むから、くだらん用事でかけてくるなよ……。
京介,「じゃあな……」
ハル,「はい。自分は、これから椿姫と、椿姫のお父さんにいくつか聞きたいことがありますので」
おれは椿姫の家をあとにした。
…………。
……。
;黒画面
;SE 携帯。
京介,「なんだ、宇佐美!?」
ハル,「あ、つながった」
京介,「あ?」
ハル,「自分、携帯電話とか持つの初めてでして。はあ、なんだかドキドキしますね、マイケータイは」
京介,「はあっ?」
ハル,「あ、とくに用事はないです。つながるかな、とドキドキしたかっただけです」
うぜえわ、こいつ……。
…………。
……。
;ノベル形式
また、嘘をついた。
 家族と学園の友達を裏切ってしまったような気持ちが胸を締めつける。
椿姫,「本当に、これで、弟を返してもらえるんですか?」
犯人――"魔王"は、昨日の夜、椿姫に一つだけ命じた。
椿姫,「言われたとおりに、ハルちゃんに、昨日の話をしました」
すなわち、ハルと"魔王"の関係と、なぜハルは身代金を渡そうとしなかったのか。
魔王,「どう、思った?」
不意に、"魔王"が問う。
椿姫,「どうって」
椿姫は言葉に詰まった。
椿姫,「嫌でした……」
"魔王"は、椿姫の背後で、身じろぎした。
魔王,「宇佐美は、お前が納得いく答えを口にしたか?」
椿姫,「納得?」
魔王,「はぐらかされたのではないか?」
椿姫は学園での朝の会話を思い起こしていた。
椿姫,「ハルちゃんが、身代金を渡そうとしないのは、ハルちゃんなりに、理由があってのことで、それは理解できました」
魔王,「私との関係は?」
椿姫,「それは……」
椿姫は膝の上に置かれた手に、まなざしを落とした。
椿姫,「言いたくないことの一つくらい、あると思うんです」
魔王,「いい答えだ」
あざ笑うかのように言った。
魔王,「しかし、宇佐美が怖くはないのか?」
椿姫,「怖い?」
魔王,「私のような卑劣な凶悪犯と、知り合いなのだぞ?」
ごくり、と喉が鳴った。核心を突かれたような気がした。それは、今日の夕方からずっと心にしこりを作っていた懸念だった。
 ただ、怖い、とまでは思わない。ハルは、椿姫のために、懸命に動いてくれた。結果的に身代金は犯人に盗られてしまったが、必死さは伝わっていた。理屈ではなく直感で、椿姫はハルを信じていた。
魔王,「椿姫、人を疑わないというのは、相手を軽んじているのも同じだぞ」
椿姫,「なぜですか?」
魔王,「相手に深い興味を持てば、疑うものなのだ。お前は人を疑わないことで、人間関係のわずらわしさから逃げているにすぎない」
椿姫はまた大きな不安に駆られた。どうして背後の男は、椿姫の心を見透かしたようなことを口にするのか。
魔王,「お前のような一見優しいようでいて、実は、なにも考えていないだけの人間を、なんというか知っているか?」
椿姫,「……偽善ですか?」
そのとき、"魔王"の声がいっそう重く響いた。
魔王,「『坊や』だ」
"魔王"は冷たい声で続けた。
魔王,「子供は、親が親というだけで信じる。お前もそうだ。お前も、友人が友人というだけで信じる」
返す言葉が見当たらなかった。胸騒ぎがする。この不敵な人物のささやきをこれ以上聞いてはならないと、警鐘が鳴っていた。
椿姫,「そ、それより、言うことは聞いたんですから、弟を早く返してください」
必死になって話題をそらそうとした。
椿姫,「どうしても返さないっていうんなら、警察に、通報しますよ?」
広明のことを想うと、当惑した気分がひいて、熱意が沸いてくる。
魔王,「警察は、許して欲しいな」
椿姫,「え?」
魔王,「なあ、椿姫。私にだって、深い事情があるのだ。何も好き好んで五歳の少年を誘拐したと思うか?」
椿姫,「それは……」
椿姫は頭を振った。一瞬だけ、犯人に同情めいた気持ちが浮かんだ。下腹に力を入れて、"魔王"に言った。
椿姫,「どんな事情があっても、決して、やってはいけないことはあると思うんです」
魔王,「最もな言葉だ。身に染みる」
椿姫,「だ、だったら、もう、こんなことはやめにしませんか?」
魔王,「やめる?」
椿姫,「広明さえ返してもらえれば、警察には連絡しませんから。もともとそのつもりでしたから」
言いながら、ちょっと違うとも思った。たしかに警察は頼らなかったが、ハルには犯人を捕まえてもらおうとしたのだ。いま思えば中途半端な態度といえた。
 そんな椿姫の逡巡を見透かしたのか、"魔王"が言った。
魔王,「やってはいけないことはある。ただ、それを承知の上でなお、やらねばならないこともあると、私は思うが」
椿姫,「そういうお話は、もうけっこうです」
魔王,「では、話題を変えて弟の話をしよう」
思わず、振り向いてしまいそうになった。
椿姫,「ひ、広明? 広明は、無事なんですね?」
魔王,「宇佐美はどうも死んだことにしたいらしいが、ちゃんと生きている。監禁しているとはいえ、食事もきちんと取っているし、部屋もしっかりと暖めている」
その言葉に、張り詰めていたものが抜けた。安堵のため息が口から出て、空中で白い霧になった。
魔王,「私は子供が好きだ。昨日は、暇を見つけて、小さな玩具を与えてやった。弟は喜んでいたぞ。人懐っこい少年だな、あれは」
椿姫,「そう、そうですか……」
涙をこらえた。希望に胸が膨らみ、すべてが解決したような気分になった。
魔王,「返して欲しいか?」
返事をしようとしたが、声にならなかった。
 ――会いたい。
魔王,「なら、私の言うことを聞けるな?」
悪魔が笑った。
 声には誘うような、けれど決して拒絶できない響きがあった。
 椿姫は、奈落の縁に立たされているような倒錯した気分になったが、それも一瞬のことだった。
 厚い雲が十一月を迎えた夜空を覆い、深い闇を運んできた。
;背景 京介の部屋 昼
……。
…………。
朝起きて、牛乳を飲みながら新聞を読む。
――『自由ヶ咲学園に捜査のメス』
見出しを見て、納得がいった。
賄賂を渡した疑い……。
どうも、学園の拡張工事を巡って理事長と業者の間で、不正な取引が交わされているらしい。
そりゃあ、株も下がるってもんだ。
京介,「……白鳥か」
あいつも、家庭では大変なのかもしれないな。
おれには関係ないし、どうでもいいが。
;背景 学園概観 昼
栄一,「京介、今日のニュース見たか?」
京介,「ああ、なんか大変そうだな」
栄一,「まったくだよ。まさかあの女優が結婚するなんてなー」
京介,「……ああ、そっち?」
よく考えれば、栄一が白鳥建設の記事なんて読むわけがなかったな。
学園の運営がどうなろうと、おれたちの毎日に変化はないだろう。
椿姫,「おはよー」
挨拶をする椿姫の顔色は、あまりよくなかった。
栄一,「昨日、夜更かししてゲームしてたの?」
椿姫,「え? ゲーム?」
栄一,「あれ? ネットゲームするとか言ってなかった?」
椿姫,「あ、ああ……うんうん」
……なにを隠しているんだろうな。
京介,「お前、学園とか無理して来なくてもいいんじゃないのか?」
椿姫,「うん……本当なら、休ませてもらいたいんだけどね。今日は、生徒会の仕事もあるし」
京介,「強いなあ、椿姫は」
椿姫は頭を振った。
椿姫,「忙しくして、いろいろと嫌なことを紛らわせたいだけだよ」
栄一,「あー、その気持ちわかるなあ」
京介,「なに悟ったような顔をしてんだよ」
栄一,「いたっ! ひどーい! 京介くん!」
おれたちのやりとりに、椿姫の頬に赤みが差した。
;背景 廊下 昼
椿姫と二人で教室に向かっていると、意外にも白鳥に出くわした。
京介,「よう……」
椿姫,「おはよう、白鳥さんっ!」
水羽,「おはよう」
白鳥は、おれには視線を向けない。
京介,「たいへん、みたいだな?」
水羽,「なにが?」
京介,「新聞、見たよ」
言うと、白鳥は腕を組んだ。
水羽,「別に、前々からわかってたことだし」
椿姫,「え? 新聞? なあに、どうかしたの?」
どうやら椿姫も事情を知らないらしい。
水羽,「わたしの父が贈収賄の疑いで警察に捕まりそうなの」
他人事のように言った。
椿姫,「え……」
水羽,「だからって、みんなの毎日には影響ないから安心して」
椿姫,「…………」
水羽,「それじゃ」
教室に足を向けた。
椿姫,「待って!」
水羽,「っ……!?」
突如、椿姫が水羽の手を取った。
椿姫,「ご、ごめん、いきなり」
水羽,「なんなの?」
椿姫,「ううん、なんとなく……」
水羽,「同情してくれるの?」
椿姫,「ごめん、なんていうふうに声かけていいかわからないけど……」
水羽,「……そう、ありがとう」
椿姫の手を振りほどいて、今度こそ教室に入っていった。
椿姫,「浅井くん、詳しい事情知ってるの?」
救いを求めるようなまなざし。
京介,「簡単にいうと、白鳥の親父さんが、この学園の拡張工事にあたって、一つの業者だけを優遇してたんだよ」
椿姫,「それって、たしかなことなの?」
京介,「新聞がそう言っているんだから、そういう事実はあったんだろうさ」
椿姫,「……そうなんだ」
浮かない顔をしている。
京介,「それで、お前らが用意した白鳥建設の株だけど、それもとんでもなく値下がりしているんだ」
椿姫,「うん?」
京介,「だから、犯人が奪った株券にはもう、ぜんぜん価値がないってことだよ」
おれは、暗に、椿姫家の不幸を説いたつもりだった。
たとえ株券が戻ってきたとしても、もう五千万の現金は戻ってこないのだ。
けれど、椿姫はただ、白鳥のことを案じるだけだった。
椿姫,「白鳥さん、お父さんのこと信じてるのかな……」
京介,「は?」
椿姫,「家族がたいへんな目にあって、なんかかわいそうだなって……」
京介,「お前が言うなよ……」
椿姫,「え?」
京介,「おれから見れば、お前のほうが不幸だよ」
椿姫,「……それはそれ、だよ」
京介,「まったく、よく人の心配をしている余裕があるもんだ……」
椿姫,「余裕なんてないよ。ただ、白鳥さん、寂しそうだな、と思ったの」
そういうのを余裕っていうんじゃないのかねえ……。
おれたちは教室に入った。
;背景 屋上 昼
昼休みのことだった。
屋上に出て、ミキちゃんと電話をしていた。
ハル,「浅井さん、ちょっとお話したいんですが」
パンを買いに行こうと思っていたところを呼び止められた。
京介,「広明くんのことか?」
ハル,「もちろん」
京介,「なにかわかったのか?」
宇佐美は、昨日、おれと別れて椿姫の家に行ったんだったな。
ハル,「ちょっと二人で話をしたいんですが」
屋上にはやがて花音や栄一もやってくる。
京介,「わかった。教室に行くか?」
ハル,「ええ……」
;背景 教室 昼
京介,「で、なにか手がかりでもつかんだのか?」
ハル,「手がかりというほどでもありませんが……」
京介,「なんだ?」
ハル,「写真です」
京介,「写真?」
ハル,「犯人から送られてきた写真です」
京介,「ああ、そういえば、髪の毛といっしょに送られてきたんだったな」
あのときは、髪の毛にばっかり意識がいっていたな。
ハル,「昨日、椿姫の家にお邪魔して、もう一度詳しく見せてもらったんです」
京介,「どんな写真だったんだ? 当然、広明くんが写っている写真なんだろうが」
宇佐美はうなずいた。
ハル,「問題は、広明くんの居場所です」
京介,「写真から手がかりがつかめたのか?」
あいまいに首を振った。
ハル,「どうも、どこかの廃屋ではないかと思っています」
京介,「詳しく説明してくれないか。おれはその写真を見ていないんだ」
ハル,「まず、写真はかなり鮮明なものでした。広明くんの顔がアップで写されていました」
京介,「どんな顔をしていた?」
ハル,「寝ていました」
京介,「広明くんは、床に横になって寝かされていたんだな?」
ハル,「おっしゃるとおりです」
京介,「時間は?」
ハル,「夜か、もしくは窓のない室内でしょう」
京介,「監禁場所は暗かったんだな」
ハル,「フラッシュをたいて撮られた写真でしたね」
京介,「それで、どうして廃屋だと?」
ハル,「床に寝かされた広明くんの周りには小石やガラス片が散乱していました。さらに顔のそばに倒れた書棚のようなものが見えました」
京介,「書棚?」
ハル,「はい。書類のようなものが散乱していました」
京介,「全体的に薄汚れた感じだったわけだな?」
ハル,「薄汚れた、というよりモロ廃墟という印象でしたね」
宇佐美はそこで一息ついた。
ハル,「さらに、わたしが廃墟だと考える理由は、広明くんの顔です」
京介,「顔?」
ハル,「顔のあちこちに、虫さされのあとがあったんですよ」
京介,「なるほどな」
ハル,「椿姫のお父さんに聞いたんですが、誘拐された日まで、広明くんの顔に腫れ物なんてなかったそうです」
京介,「いや、言いたいことはわかるぞ。いまは冬だからな」
ハル,「はい。あちこち刺されてましたよ」
京介,「この時期にそんな大量のやぶ蚊が出るってことは、広明くんは、人の手の入っていない、それこそ山奥の廃墟にでも監禁されてるのかもしれないな」
ハル,「まあ、もちろん、確信に至っているわけではありませんが、闇雲に探すよりは、いいかなと思っています」
京介,「なかなかいい線を突いているんじゃないか?」
ハル,「五歳の子供を監禁する場所として、人気のない場所を選ぶというのは妥当だと思います」
京介,「そうだな。住宅街だったら、出入りの際に、近隣住民に見られるかもしれないからな。人質を連れて家を出るときに、近所のおばちゃんに見られた……なんてことは犯人も、回避したいだろう」
ハル,「さらに、人質が泣き喚く可能性もありますからね。まあ、何か噛ませて口は封じるのかもしれませんが……」
京介,「まあ、言いたいことはわかった」
おれはため息をついて言った。
京介,「で? おれといっしょに廃墟を探検しようっていうチキチキツアーのお誘いか?」
;ハル、ふーんという顔。
ハル,「チキチキツアーて」
なんか知らんが、盛大にスベったことになったらしい。
ハル,「すみません。そういうチキチキなお誘いです」
京介,「うるせえな。本気で言ってるのか?」
ハル,「本気ですとも」
京介,「お前、この市内だけで、いわゆる廃墟と呼ばれる物件がどれだけあると思ってるんだ?」
ハル,「どれぐらいあるんですかね?」
京介,「……いや、詳しくは知らんけど、五十件以上はあるんじゃないか?」
ハル,「ほほう、一日二件回るとして、だいたい一ヶ月ですね」
京介,「ほほうじゃねえんだよ。一ヶ月も見つけられなかったら、さすがに……」
言いよどむ。
ハル,「ええ。犯人が、一ヶ月も人質を生かしておく理由はないと思います」
京介,「はっきり言うなよ」
ハル,「よくて一週間でしょう。そういう統計もあります。それまでに人質が解放されなければ、最悪の事態が待っています」
宇佐美は淡々と語る。
京介,「いまふと思ったんだが、お前が頑なに、人質がもう返ってこないと主張してたのは、写真が届いたからか?」
宇佐美は深くうなずいた。
ハル,「犯人は、どうして写真を送りつけてきたのか。それはもちろん広明くんを誘拐したことを被害者に証明するためです」
京介,「だが、それだけなら電話口に立たせて声を聞かせればいいからな」
ハル,「はい。電話のほうが、写真を残すよりは、犯人にとってまずい証拠を残さずに済みます。それをあえてしないということは……」
京介,「広明くんは、もうすでに電話ができない状態だったということだな」
ハル,「あくまで推測ですがね。裏をかかれているのかもしれませんし」
京介,「そうだな。写真を撮った場所が、広明くんがいまも監禁されている場所ということにはならないからな」
ハル,「それでも、なにもしないよりはいいと思いまして」
京介,「しかしなあ……」
ハル,「乗り気じゃないんですか?」
京介,「富万別市だけで五十件以上だぞ?」
ハル,「はい。他県の廃墟なのかもしれませんしね」
おれが渋い顔を作っていると、宇佐美は不意に背筋を伸ばした。
ハル,「五十件以上とは言ってもですね、浅井さん……」
京介,「なんだよいきなり胸を張って……」
ハル,「広明くんが監禁されている可能性が高い物件から優先的に回っていきます」
京介,「可能性が高い物件?」
ハル,「やぶ蚊の出るような山林があって、人気がない場所です」
京介,「山はともかく、廃墟ってのはもともと人気がないだろうよ」
ハル,「いいえ、浅井さん。誘拐事件の人質を隠すような場所です。可能性の話でいえば、珍走団やホームレスの方も近づかないようなレアな廃墟なんじゃないでしょうか」
京介,「そうか……そうだな。おれが犯人だったら、そういう場所を選ぶかな」
よく知らないが、廃墟というのは、暴走族の溜り場であったり、行き場のないホームレスが生活していたりすることもあるらしい。
ハル,「一日二件。三日もあれば、広明くんを発見する確率は十パーセント以上になります」
京介,「ふむ……」
ハル,「道端で突然ペンギンと出くわすより高い確率です。当たり前の話ですが!」
京介,「お前がそんなポジティブなキャラだとは知らなかったな」
ハル,「とにかく、探してみます」
京介,「……わかったよ」
根負けした。
ハル,「じゃあ、早速リストアップしてもらっていいですかね?」
京介,「廃墟情報を、か?」
ハル,「無理すかね? 神でも」
京介,「神? ああ……おれと栄一のギャグね」
廃墟の情報か……。
どうやって調べたものやら……。
いくつかはインターネットや書籍で調べるとして……。
あとは、浅井興業のなかで暴走族上がりの人間に話を聞いてみたり……。
京介,「とりあえず、家に帰ってからだな」
ハル,「じゃあ、自分も浅井さんの家にお邪魔します」
京介,「ええっ!?」
おれが露骨に嫌な顔をしたそのとき、椿姫が顔を見せた。
椿姫,「あ、二人ともここにいたんだ」
京介,「ああ、ちょっと宇佐美と話し込んでるんだ」
椿姫,「へえ……」
椿姫は宇佐美をちらっと見て、少しだけ顔を強張らせた。
椿姫,「なんの話? わたしもまぜて」
ハル,「なんやかんやあって、わたしが、今日の放課後、浅井さんの家にお邪魔するということになったんだ」
椿姫,「えっ!?」
京介,「いや、ちょっと待てよ……」
クラスメイトは部屋に入れたくない。
ましてや宇佐美ならなおさらだ。
ハル,「浅井さん、きのう約束したじゃないですか」
京介,「約束って……」
椿姫,「…………」
広明くんを探すのに協力するっていうアレか。
ハル,「電話番号まで交換した仲じゃないですか」
椿姫,「え? そうなの?」
ハル,「うん。わたしの初コールが浅井さんだった」
椿姫,「……へえ」
京介,「本当に、うっとうしいヤツだな……」
頭をかきむしった。
悩んでいるところに、教室の外から声が上がった。
女教師,「美輪さん、いますか!?」
ノリコ先生だった。
なにやら慌てている様子だった。
椿姫,「はいっ!?」
返事をして戸口へ向かう。
ノリコ先生は青い顔で、椿姫に何か話していた。
ハル,「なんすかね?」
しばらくして、椿姫が戻ってきた。
椿姫,「ごめんっ」
椿姫もまた、険しい表情になっていた。
椿姫,「わたし、早退するね」
京介,「なにがあったんだ?」
椿姫,「お母さんが、倒れたって……いま、病院にいるって」
京介,「…………」
そういえば、ここ最近、体調を崩して寝込んでいたんだったな。
京介,「なんていう病院だ?」
おれは努めて冷静に言った。
椿姫,「えっと……」
椿姫が口にした病院の名を聞くと、それは東区にある総合病院だった。
京介,「わかった。ならタクシーが早い」
椿姫,「えっ、タクシー!? 乗ったことないよ!?」
京介,「いま呼んでやる。金も貸す。五千円もあれば着く」
椿姫,「そんな、悪いよ……!」
京介,「気にするな。急いでるんだろ?」
椿姫,「……っ」
財布から五千円札を取り出し、椿姫に差し出す。
同時に携帯を操作して、タクシー会社を呼び出した。
椿姫,「浅井くん、ごめん……」
椿姫がおろおろしているうちに、通話は終わった。
京介,「五分で来るそうだ。校門前で待ってろ。行き先も言ってある」
椿姫,「浅井くん……」
京介,「なんだ、泣きそうな顔しやがって……」
椿姫,「ありがとう。本当に、ありがとうっ」
椿姫は、五千円札を握り締め、走って教室を出ていった。
その後姿を見送っていると、宇佐美がぼそりと言った。
ハル,「かっちょいいっすねえ、浅井さん」
京介,「ん?」
ハル,「浅井さんは、ホント、頼りになるというか、なんというか……」
京介,「ボンボンだからな」
ハル,「友達想いですねえ、ホント」
京介,「別に、普通だろ」
何を勘違いしているのか。
今回の山王物産との取引は、椿姫のおかげでたんまり儲けさせてもらったんだ。
ちゃんと、恩は返さないとな。
ハル,「では、当然、椿姫の弟さんを探すのにも協力していただけるわけですよね?」
京介,「……それは、もちろんだが、お前がおれの家にくるってのはなあ……明日じゃまずいのか?」
ハル,「広明くんの発見が遅れれば遅れるほど、まずいことになるとおわかりでしょう?」
……なんだかやり込められているような気がするな。
京介,「わかった。ただ、知りたい情報を調べたらすぐに帰れよ」
夜中には予定が入っているんだ。
ハル,「ありがとうございます」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
……まあいいか。
宇佐美と"魔王"の関係をそれとなく探る機会かもしれんな。
;背景 マンション入り口
ハル,「いやあ、うわさには聞いてましたが、とんでもなく高いマンションですねー」
マンションを見上げる宇佐美は、目と口を大きく開けて嘆息した。
ハル,「浅井さんって、すごいですねー」
京介,「おれじゃなくてパパがすごいんだよ」
キーを挿し込んで、オートロックの玄関をあけた。
ハル,「こんなところに一人で住んでるんですか?」
京介,「文句あるか?」
ハル,「ありますよもちろん、ひがみますよもちろん」
京介,「うるさいヤツだなあ……」
おれたちは玄関をくぐって、エレベーターに乗り込んだ。
;背景 主人公自室 夕方
ハル,「お邪魔します」
京介,「先に言っておくが、勝手に物に触れるなよ」
ハル,「広いっ……何畳くらいあるんですか、コレ?」
京介,「百五十㎡くらいだ。きょろきょろしてないで、その辺に座ってろ」
ハル,「眺めも最高じゃないですか。こんなところに女性を連れ込んでいったいどんな邪悪なことをしてるんですか?」
落ち着きなく室内を歩き回る宇佐美だった。
京介,「……コーヒーでいいか?」
ハル,「ありがとうございます。あ、金庫だ。へえ、お金貯めてるんですか?」
宇佐美が指差した金庫には五千万入っている。
京介,「まあ、それなりに金は貯めてるよ」
ハル,「浅井さんってアルバイトしているわけじゃないですよね?」
京介,「パパの仕事を手伝って、それで小遣いをもらってるよ」
ハル,「なんにしても、真面目にお金を貯めてらっしゃるんですね?」
京介,「どうしてだ? おれが、金を貯めてるって?」
問い詰める。
京介,「こんなクソ高い家賃の部屋に住んでいるおれが、金を貯めてるってのは、おかしいんじゃないのか?」
ハル,「いやまあ、なんとなくそう思っただけですけどね」
言って、家具に目を向けた。
ハル,「部屋自体は、とても高いんでしょう。ただ、ソファやテーブルなんかは、実は安物なんじゃないんですか?」
京介,「……よくわかったな」
ハル,「自分、リサイクルショップとかよく行ってましたんで。見かけた品があるな、と思ったんです」
京介,「たしかに、家具だけじゃなくて、食器とか家電もたいてい安物だ」
総和連合のバッタ屋から安く買ったものばかりだ。
もらい物も多い。
ハル,「浅井さんは、洋服もたくさんもっているみたいでオシャレですし、お部屋もこんなに立派です。車も持っているんですか?」
京介,「ああ……駐車場は地下にある」
会社名義の車だがな。
ハル,「失礼なことを言わせていただきますと、浅井さんは、なんだか見栄を張るためだけにお金を使っていて、普段はとても質素な方なんじゃないですか?」
京介,「部屋に上げたら、いきなりおれの性格分析かよ」
ハル,「すみません。つい気になってしまいまして」
京介,「ったく……」
しかし、宇佐美の言うことはだいたいあたっている。
見てくれは豪華な生活だった。
それは、権三の命令でもある。
金は貯めたい。
おれには父の残した二億の借金があるのだから。
ただ、外面には気を使わなければならない。
家、車、服。
義理とはいえ、園山組四代目組長の息子が、なめられるような格好をしていられるわけがない。
権三を通して、見せ金の力というものを、嫌というほど思い知らされた。
腕に巻いている時計、持っている車、住んでいる部屋の広さ……そういったものが、そのまま人間の価値につながる闇社会。
京介,「でも、たぶん、おれはお前よりはいいもん食ってるぞ」
ハル,「そうでしょうねー」
京介,「CD買ったり、椿姫と喫茶店入ったりと、散財もけっこうしてるしな」
ハル,「それもそすね。質素はいいすぎでしたね」
ちょこんと頭を下げた。
ハル,「いやあ、わたし、てっきり、浅井さんには何か事情があって、お金を稼ぎまくっている好青年かと思いましたよ」
京介,「はは……四畳半の部屋で共同風呂に共同トイレ。まさに爪に火を灯すような生活をして、病床の母親の借金でも返すってか……?」
馬鹿馬鹿しい話だ。
百や二百ならともかく、そんな生活をしている人間が億単位の借金を返せるわけがないのだ。
金は使わなければ入ってこない。
おれは重ね重ね、自分に言い聞かせている。
借金は必ず返す。
だが、みすぼらしいのはごめんだ、と。
清貧という言葉をなじらなければ、どこかの知った風な顔をした連中に哀れみのまなざしを受ける。
そういう屈辱は、もう味わいたくない。
ハル,「それで、本題ですけど」
京介,「ああ、ちょっと、書斎でいろいろ調べてみるわ」
ハル,「じゃあ自分も」
京介,「お前はここで待ってろ」
ハル,「え? じゃあ、自分はなにしにお宅にお邪魔してるんですか? いっしょに調べましょうよ」
京介,「廃墟関連の資料をネットで漁って、印刷して持ってくる。お前はそれに目を通しておけ。その間におれは、他の資料を検索する」
ハル,「ああ、なるほど。そういう役割分担ですね」
おれはただ、宇佐美を書斎に入れたくなかっただけだ。
パソコンのなかには、見られたくないデータがたくさんあるからな。
ハル,「じゃあ、さっそく……」
おれは宇佐美を置いて書斎に入った。
;黒画面。
……。
…………。
一時間ほど過ぎて、おれたちはリビングで額を寄せ合っていた。
;背景 主人公自室 夜
いつの間にか、日も暮れている。
京介,「こうしてみると、廃墟ってかなりあるんだな」
戸建ての廃屋も多いが、遊園地やホテル、変わったのになると軍の施設なんてのもあった。
宇佐美も、おれが印刷した資料を眺めていた。
ハル,「この旅館、温泉旅館といって、温泉が出なかったみたいですね。シュールですわぁ……」
だから、潰れたんだろうな。
京介,「この市営住宅跡を見ろよ。廃墟っていうけど、意外にも、街中にあったりするんだな」
ハル,「ですね。そういうのは、後回しにしていいと思います」
人の寄り付くような廃墟に、犯人が人質を隠しているとは考えにくい。
ハル,「はい、というわけで、浅井さんにお願いしたいことがあるんです」
京介,「なんだいきなり?」
ハル,「いくら廃墟でも、勝手に侵入するのは、まずいですよね?」
京介,「ああ……そうだな、つい忘れていたが」
廃墟だって管理者がいるわけで、黙って入れば立派な犯罪だ。
ハル,「いまから当たってみたい廃墟をリストアップしてみました。ですので、浅井さんのお力で、管理者に連絡を取ってみてもらえませんか?」
京介,「そうきたか……」
ハル,「無理ですかね?」
京介,「いやまあ、聞いてみないことにはなんともいえんけど……」
なんと言って了承を得ればいいんだ?
五歳の子供が監禁されているかもしれないので……とは言えないだろう。
京介,「わかった……ちょっと待ってろ。知り合いの不動産屋をあたってみる」
おれは、宇佐美からリストをもらって、また書斎に戻った。
;黒画面
……。
…………。
不動産屋の横のつながりはすごいな。
浅井興行の名前を出して、不動産屋に問い合わせると、仲間に電話をしてすぐに持ち主を割り出してくれた。
京介,「ひとまず五件ほど確認してもらった」
ハル,「結果はどうでしたか?」
京介,「喜べ。了解してもらったぞ」
ハル,「本当ですか? それはよかった」
京介,「ああ……」
本当のところ、了承なんて得られていない。
五件のうち五件とも、廃墟の所有者が地元の金融機関で、話にもならなかった。
ハル,「浅井さん、だいじょうぶなんですよね?」
京介,「ああ、パパの関係者だっていうのが、間違いないんならって」
ハル,「そうですか。自分はそういうの疎いんで、助かりました」
五歳の子供を捜すという大義名分があるんだ。
罪の意識を感じないでもないが、ひとまず、宇佐美には黙っておくとしよう。
ハル,「んじゃあ、行ってきます」
京介,「え? いまからか?」
ハル,「善は急げと」
京介,「待てよ。ちゃんと装備を整えてからにしろよ」
調べれば調べるほど、廃墟というものは好奇心で探索できるほど安全な場所ではないということがわかった。
ハル,「軍手に防塵マスク、それから底の厚いブーツですかね」
京介,「懐中電灯もいるだろ。昼でも暗いらしいし」
ハル,「だいたい持ってます。以前、工事現場でアルバイトしていたことがありまして、そのときに一式そろえたんです」
いろんなバイトしてるんだな……。
ハル,「それじゃ、資料とかはお借りしていきます。浅井さんは来られないんですよね?」
京介,「ああ、すまん。今日はちょっと用事がある」
しかしこいつは、一人で怖くないのか?
廃墟の写真は、どれもこれも薄気味悪い。
幽霊が出るとまでは言わないが、浮浪者が住み着いていたり、野犬の群れがうろついていたりすることもあるらしい。
京介,「暇を見て、市内の廃墟をさらに詳しく探しておく。パパにも相談してみるわ」
ハル,「ありがとうございます」
軽く手を振って、宇佐美は玄関に向かった。
京介,「あ、ちょっと待て」
宇佐美は振り返って、首を小さく傾けた。
京介,「ちょっと聞きたいんだがな……」
ハル,「ええ」
京介,「お前は、犯人は"魔王"だって頑なに主張してるわけだよな?」
ハル,「それがなにか?」
京介,「"魔王"は、どうして、椿姫の弟を誘拐したんだと思ってる?」
ハル,「動機ですか?」
京介,「金目あての犯行じゃないことは、お前だってわかってるだろう?」
ハル,「いまひとつ、"魔王"の心境が理解できない部分が多いんですがね、浅井さん……」
宇佐美は一度うなずいて、話を切り出した。
ハル,「ある仮説を立ててみました」
京介,「仮説?」
ハル,「"魔王"の真の目的は、わたしを陥れることなのではないかと」
京介,「はあっ?」
さすがに顔が引きつった。
ハル,「もしくは、"魔王"は、"魔王"にとってわたしが、どの程度の脅威になりうるかを試してきたんです」
京介,「いやいや、とんでもなく自意識過剰というか……なんだそれ?」
ハル,「自分でも、変態なことを言っているのはわかっています」
おれは半笑いで言った。
京介,「なんだよ、お前と"魔王"は宿命のライバルとでもいうのか?」
ハル,「いやいや、"魔王"にとって自分なんかミジンコみたいなもんですよ」
ハル,「いや、ミジンコはいいすぎか、ゴキブリみたいなもんか」
ハル,「あ、でも、ゴキブリはかわいくないからヤダな……」
なんなんだ、コイツは……。
京介,「だったら、なんで"魔王"は……"魔王"みたいな凶悪犯が、お前みたいなミジンコを陥れようとするんだ?」
ハル,「それは……」
言いかけて、また口を閉じた。
京介,「なんだよ、そろそろ教えてくれてもいいだろ?」
ハル,「ちょっとお話できませんね」
おれは聞こえよがしに舌打ちした。
京介,「隠し事の多い女だな」
ハル,「すみません」
宇佐美はあくまで平然としていた。
なんだか、馬鹿らしくなってきたな。
権三に"魔王"を探れと命じられたものの、肝心の宇佐美がこれじゃあ、なにもわからない。
ハル,「わたしが、隠し事の多い女だということですが……」
京介,「気にさわったか? 本当のことだろう?」
ハル,「浅井さんにも、お話したくないことの一つや二つあるんじゃないでしょうか?」
京介,「なんだと?」
ハル,「浅井さん、こんなことを言うとケンカになってしまいそうで怖いんですがね」
ハル,「浅井さんのお人柄は、どうにもつかめません」
京介,「どうつかめないって言うんだ?」
ハル,「あなたは学園では、ひょうきんで明るくて、友達想いです。今日、椿姫にタクシーを手配してあげたりもしましたね」
ハル,「けれど、身代金を引き渡す当日には、用事があると言って姿を消しました」
ハル,「今日もそうです。協力してくれると言ったのに、肝心の廃墟の探索には同行してくれません」
おれは、頭に血が上っていくのを自覚した。
京介,「だから、用事があるんだよ。事情があるんだ。仕方がないだろう?」
ハル,「はい。ですから、わたしにだって、事情があるんです。"魔王"との関係を話したくない事情が」
京介,「……ちっ!」
うまく言いくるめられてしまったな。
京介,「まだ、おれが"魔王"だと疑っているんだろう?」
嫌味を言ったつもりだった。
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、首を横に振った。
ハル,「どうも失礼しました。帰ります」
京介,「ああ……」
背中を曲げておずおずと部屋を出ていった。
京介,「もう、宇佐美に関わるのはやめるかな」
ひとりごちて、ソファにもたれかかった。
"魔王"が宇佐美を陥れようとしただって……?
なんにしてもおれには関係のないことだ。
どうにも、宇佐美の線から"魔王"を探るのは難しそうだな。
しかし、"魔王"を捜し出さなければ、権三にどんなプレッシャーをかけられることか……。
京介,「くそっ……」
それにしても、"魔王"は、椿姫の弟を返すつもりがないのだろうか。
すると、とても困ったことになるな。
いくら呑気な家族でも、いい加減に警察を頼るだろう。
警察が動けば、おれが借金を仲介したこともばれて、総和連合にも捜査のメスは入る。
そんなことになったら、権三に何をされるかわからんぞ……。
京介,「…………」
おれは思案をまとめる。
やはり、椿姫の一家を監視しておくか。
部外者のおれが家族の問題に口を挟むのは難しいが、やるしかないな。
考え込んでいると、めまいが襲ってきた。
このところ、頻繁に起こる。
……仕事を済ませなければな。
;背景 椿姫の家 概観 夜
椿姫,「あ、浅井くん?」
仕事が終わり、椿姫の家を訪ねた。
京介,「夜中にすまんな。ちょっと近くまで来たんで、寄ってみたんだ」
椿姫は、驚いたように目を丸くした。
京介,「どこかに、出かけるのか?」
椿姫,「う、うん……もう、帰ってきたんだけどね」
歯切れ悪く言いながら、コートの裾をつかんだ。
京介,「お母さん、だいじょうぶだったか?」
椿姫,「あ、うん。明日まで入院するんだけどね」
京介,「過労かな?」
椿姫,「みたいだね、お母さんも参っちゃったみたいで」
京介,「そういう椿姫はだいじょうぶか?」
辺りが暗いせいか、椿姫の顔色もだいぶ悪そうに見えた。
椿姫,「わたしは、ぜんぜん平気だよ」
京介,「すごいなあ、椿姫は」
本心からそう思う。
家族が誘拐され、身代金は奪われ、しかも人質は返ってこない。
そんな状況で、よく笑顔を見せられるものだ。
京介,「強いんだな、お前って」
椿姫はまた、そんなことないと、首を振る。
椿姫,「おうち寄ってく?」
京介,「ああ……」
;背景 椿姫の家 居間 夜 明かりあり
活気はなかった。
子供たちはもう眠っているのだろうか。
居間には親父さんだけが、ふさぎこむようにしてちゃぶ台に頭をうずめていた。
パパ,「ああ、浅井くんじゃないか、いらっしゃい……」
憔悴した目でおれを迎えてくれた。
椿姫,「浅井くん、わたしちょっと弟たちを寝かしつけてくるね」
京介,「お邪魔します、お父さん」
パパ,「うん……」
椿姫とは違い、目に見えて弱っていた。
パパ,「すまないね、こんな格好で」
頬もげっそりとこけている。
京介,「だいぶ、お疲れのようで……」
当然といえば、当然だった。
やはり、椿姫が少し異常なのかもしれない。
パパ,「浅井くん、椿姫は?」
京介,「え? いま、そっちの部屋に行きましたよ?」
パパ,「あ、ああ、そうか。そうだったね」
ずっとふさぎこんでいるのだろうか。
気まずい間があった。
親父さんがぼそりと言う。
パパ,「浅井くん、椿姫をよろしく頼むね」
京介,「はい?」
パパ,「あれは、とても優しい娘なんだ」
京介,「ええ……それはよく知っています」
パパ,「いまもね、無理に明るく振舞ってるんだ。内心ではつらいくせにね」
京介,「……そうですか。そうでしょうね」
親父さんのため息は重かった。
パパ,「ちょっといい子に育ち過ぎてしまったかなあ」
京介,「…………」
パパ,「椿姫は、人を疑うということを知らないんだ」
一人ごとのようだった。
パパ,「僕も母さんも世間知らずの田舎物だから、騙すより騙されるような人間になれと教えてきてしまったんだよ。そのほうが疲れずにすむからね」
京介,「いや、実際、椿姫はすごいいい子ですよ」
ありえないくらいにな……。
京介,「ところで、その後、犯人から連絡はありましたか?」
話題を変えようと切り出したとき、椿姫が別室から戻ってきた。
椿姫,「浅井くん、なんのお話してたの?」
京介,「いや、犯人のことを……」
パパ,「連絡はまだないよ」
京介,「……そうですか」
もう、広明くんは殺されているのだろうか。
椿姫,「だいじょうぶ、広明はちゃんと返ってくるよ」
声は、場違いなまでに明るかった。
まるで、確信でも抱いているかのよう。
パパ,「そろそろ警察を頼ろうかと思うんだ」
椿姫,「え?」
パパ,「父さんが間違っていたんだ。最初から警察を頼っておけば、こんなことにはならなかった」
やはり、そういう考えに及ぶよな。
椿姫,「お父さん、ちょっと待って……!」
いまにも受話器に腕を伸ばしそうな親父さんを、椿姫が制した。
椿姫,「も、もうちょっとだけ、待ってみようよ」
パパ,「椿姫、すまなかった。でも、もう待てない」
……まずいな。
椿姫,「待ってよ。犯人は、身代金さえ受け取れば広明を返すって言ってたんだよ?」
パパ,「それは口実だよ。現に、犯人から何の連絡もないじゃないか」
椿姫,「でも、いまさら……」
パパ,「すまん、父さんは、もうじっとしていられないんだ」
親父さんが勢いよく立ち上がった。
もう、限界か。
京介,「早まらないでください」
親父さんが険しい顔でおれをにらんだ。
京介,「これは、いままで黙っていたのですが……」
京介,「実は、身代金が奪われてから、父に頼んで、犯人の足取りを探ってもらっているところなんです」
椿姫が息を呑んだ。
椿姫,「どういうこと?」
京介,「父の警察時代の知り合いを通して、いま、広明くんの行方を追っているんです」
でたらめだった。
京介,「さしあたって、犯人が市内近郊の廃墟に潜伏している可能性があると見て、調査は進んでいるそうです」
でたらめのなかに、さりげなく事実を混ぜておく。
パパ,「つまり……警察の方はもう動いているということかい?」
京介,「ええ……正式な捜査ではないんですが」
パパ,「それは、本当なんだろうね? にわかには信じがたいよ」
京介,「本当です。父の元同僚や私立探偵の方が捜査を進めています」
親父さんは口をつぐんだ。
京介,「いまは、表立って警察に通報して、いたずらに犯人を刺激するより、調査の結果を待つほうが得策かと思います」
パパ,「しかしね……」
京介,「必ず、広明くんを取り戻してみせますから」
力強く言った。
椿姫,「お父さん、浅井くんに任せてみようよ」
椿姫が、いまだに渋い顔をしている親父さんに言った。
パパ,「む……」
疲れ果てて、まともな判断力も鈍っていたのだろう。
やがて、親父さんは何も言わずうなだれた。
パパ,「少し、休ませてもらうよ」
おれのでたらめに納得したわけではなさそうだった。
もともと警察に電話する気力も残っていなかったのかもしれない。
京介,「……ふう」
ひとまず、なんとかなったな。
しかし、でたらめをでっちあげたはいいが、時間稼ぎにしかならないな。
生きているのならば、早いうちに広明くんを捜し出さなければ……。
椿姫,「ごめんね、お父さん、疲れてるみたいで」
京介,「無理もないよ……」
時計を見ると、すでに時刻は深夜十二時を回っていた。
京介,「そろそろ帰るわ」
椿姫,「もう?」
京介,「とくに用事があったわけではないからな」
言いつつ、椿姫に釘をさしておく。
京介,「もし、警察に連絡するときはおれにも教えてくれよな?」
おれを信頼しきっている椿姫は、素直に返事をした。
椿姫,「お父さんが早まったことしようとしたら、今日みたいにとめてもらえるかな?」
京介,「お父さんも、ちょっと冷静じゃないみたいだからな」
椿姫,「それと、ありがとうね。実は、犯人を捜してくれてたんだね」
京介,「……ああ」
目を逸らし、コートを羽織った。
;背景 椿姫の家 概観 夜
京介,「じゃあ、おやすみ……」
椿姫,「うん……」
微笑していた。
京介,「……がんばれよ」
椿姫の笑顔に違和感を覚えながら背を向けると、案の定、声がかかった。
椿姫,「待って、浅井くん」
京介,「ん……?」
椿姫,「えっと、もう遅いし、泊まっていく?」
京介,「はは……まさか椿姫からそんなオサソイを受けるなんてなー」
おれは学園でそうしているような明るい声で、椿姫をからかった。
けれど、椿姫には冗談の意味が通じなかった。
椿姫,「ごめんね、本当いうと、ちょっと心細くて」
京介,「……そうか」
親父さんの言ったとおりだな。
明るく振舞っているだけで、内心は不安に満ち溢れているんだろう。
京介,「ようやく、お前の人間っぽいところが見えたなー」
椿姫,「え? どういう意味?」
京介,「いやいやなんでもない」
まともでいられるほうがおかしいというものだ。
京介,「泊まりはよしておくよ。明日も学園だしな」
椿姫の肩にぽんと、手を置いた。
椿姫,「ごめんね、無理言って。浅井くんにしか、こんなこと相談できなくて」
上目遣いで見つめてくる。
つぶらな瞳は、夜の闇のなかでいっそう際立って光っていた。
京介,「なんかあったら、すぐケータイに連絡くれよ」
椿姫,「うん……」
寂しそうにうつむいた。
椿姫,「わたしも、携帯電話、持とうかな……」
京介,「そうか? 便利だからな」
椿姫,「だよね……いつでも連絡できるし」
京介,「落ち着いたらいっしょに買いに行こうな」
椿姫,「買ったら、わたしも一番に、浅井くんの番号を登録するね」
京介,「ん? ああ……」
椿姫の表情に切迫したものを感じたような気がしたが、すぐに気にならなくなった。
京介,「じゃあな……」
椿姫の家をあとにした。
角を曲がるとき振り返ると、椿姫が手を振った。
見送りに出てきた椿姫は、素直にかわいらしいといえた。
;翌日へ;背景 教室 昼
栄一,「おいおいなんだよ、今日は休みが多いなあ」
風邪が蔓延しているのか、欠席が目立つ。
栄一,「椿姫は?」
京介,「さあ、遅れてくるんじゃないかな?」
栄一,「また、なんかあったのか?」
京介,「……らしいな」
栄一,「マジかー。つーか、いいかげん警察にポイしちゃったほうがいいんじゃねーの?」
京介,「お前にはわからん事情があるんだよ」
栄一,「事情ってなんだよ、オレだけハブられてんのかよ?」
ハル,「ハヨザイマース」
のっそりと宇佐美が現れた。
栄一,「ちょっと宇佐美さん、聞いてよ」
ハル,「はい」
栄一,「椿姫どうなったの? あれから進展ナッシング?」
ハル,「ナッシングです。残念なことに」
京介,「なんだ、昨日は無駄足だったのか?」
尋ねると、宇佐美はおれの質問には答えず、軽く頭を下げた。
ハル,「昨日はどうも、不快なことを言ったようで、すみませんでした」
京介,「……あ、ああ」
宇佐美と"魔王"の関係を探ろうとして、うまくはぐらかされたんだったな。
栄一,「どうしたの? 二人ともなにわかちあってるの?」
ハル,「いえ、わけありな事情がありまして」
栄一,「え? また事情? もういい加減にしてよー」
栄一は、うんざりしたのか、他の女の子の輪に加わりにいった。
ハル,「あ、なんか悪いこと言いましたかね?」
京介,「気にするな」
宇佐美と向かい合う。
京介,「で、どうだったんだ?」
ハル,「収穫はゼロです。初日だし勢いで三件くらい回ってみようとしましたが、これが大変で……」
京介,「だろうな……」
ハル,「暗いわ、寒いわ、怪物は出るわで、気がついたら朝日を拝んでいました」
……なにしてんだ。
ハル,「ガラスとか散乱してますし、いきなり床に大穴が開いてたり、ネズミが運動会してたりと、息をつく暇もなかったですね」
京介,「だいぶ疲れたみたいだな?」
ハル,「いえいえ、これからです」
よく見ると、宇佐美のすねに引っかいたような傷があった。
ハル,「まあ、なんとかなると思いますよ」
あくまで軽いノリの宇佐美だった。
京介,「すまんが、今日と明日は、つきあえん」
例の土地を巡って、山王物産との最終的な交渉がある。
ハル,「いいですよ。では、今日か明日には広明くんを見つけ出すとしましょう」
この自信はどこから湧いてくるんだろうな。
京介,「なんか自信たっぷりだな?」
ハル,「いまのところ雲をつかむような手ごたえを感じてます」
京介,「ぜんぜんつかんでねえじゃねえか」
ハル,「ですねー。もう少しヒントがあればなあ、とか思いますね」
京介,「犯人から送られてきた写真を、もう一度見てみたらどうだ?」
ハル,「それもそうですね」
そんなやり取りをしていると、チャイムが鳴り、授業が始まった。
授業中の宇佐美は、どうやら例の写真をずっと眺めているようだった。
;背景 屋上 昼
昼休み。
屋上の寒さはかなり厳しいものになっていた。
椿姫が遅れてやってきた。
京介,「おう、今日はどうしたんだ?」
椿姫,「病院に寄ってたんだよ」
母親に付き添ってたのかな。
椿姫,「あれ? みんなは?」
京介,「花音は寝てる。栄一は知らん」
椿姫,「……ハルちゃんは?」
京介,「宇佐美も教室かな」
ずっと写真とにらめっこしていた。
椿姫,「そっか、ふたりっきりだね」
なにやらうれしそうだった。
京介,「最近、なにかあったか?」
数日前にあった違和感を思い出す。
椿姫,「なにかって……それは浅井くんも知っての通りだよ?」
京介,「いや、それはそうだが……」
誘拐事件のことを言っているんじゃない。
椿姫,「ごめんね、昨日も心配かけたみたいで。変かな、わたし」
京介,「ん……さあな」
椿姫,「昨日も、心細くてね」
不意に、顔が暗くなった。
……不安定なんだろうな。
とにかく、椿姫の明るそうな見た目だけで、心情を推し量るのは軽率だな。
京介,「今日、ちょっとだけ買い物でも行くか?」
椿姫,「え? いいの?」
京介,「三十分くらいならな」
打ち合わせの時間までのつなぎで、少し遊んでやるとするか。
椿姫,「やっぱり、やめておくよ」
京介,「そんな気分じゃないってか?」
苦笑して、疲れたような吐息を漏らした。
椿姫,「ごめんね、せっかく誘ってもらったのに。わたし、浅井くんと……」
緊張した面持ちで、何か言いかけたときだった。
ハル,「浅井さん!」
宇佐美が、小走りに寄ってきた。
ハル,「浅井さん、ちょっとこの写真見てもらっていいですかね?」
京介,「なんだ、ぶしつけに……」
椿姫,「ハルちゃん、おはよう」
ハル,「おう……」
写真に夢中なようで、気のない挨拶だった。
ハル,「広明くんの顔がアップで映ってるじゃないですか?」
京介,「ああ……」
ハル,「すぐそばに倒れた書棚があるじゃないですか?」
京介,「あるな……」
ハル,「今日のわたしの髪型どうですか?」
京介,「どうでもいいよ」
ハル,「すみません。書棚の下に、白い……書類のようなものが見えますよね?」
京介,「む……」
目を凝らす。
宇佐美の言うように、なんらかの書類が、書棚の下敷きになっていた。
ハル,「これ、なんて書いてありますかね?」
京介,「え? この紙に、か……?」
手に取った写真を舐められるような距離まで近づける。
京介,「わかんねえな。殴り書きっていうか、汚い字っていうか……」
およそ他人が読むことを想定して書かれた文章ではなさそうだった。
京介,「日記のはしくれなのかな?」
ハル,「日記といえば、椿姫はどうだ?」
椿姫,「……えっと、どうかな……」
三人で額を寄せ合う。
椿姫,「あ、あんまり見たくないな。ごめんね」
ハル,「そうか、悪かった」
捕えられた弟の姿なんて、まじまじと見たくないだろうな。
京介,「宇佐美はどう思うんだ?」
ハル,「わかりません、内容は」
京介,「内容は?」
ハル,「はい。これはアルファベットだとは思います」
京介,「アルファベット……?」
言われてみれば、アルファベットのように見えなくもない。
ハル,「ここが、aで、この辺が、Jですね……」
京介,「みたいだな……よく気づいたな」
ハル,「ここちょっと眼がっつり開いて見てもらえませんか?」
京介,「……アール……ピー、か」
ハル,「なんなんすかね、このアールピーって」
京介,「行頭にきてるな……大文字のRに小文字のpだな」
ハル,「ダイイングメッセージですかね?」
京介,「誰が死んだんだよ」
ハル,「まあ、この発見がどれほど意味があるかというと、微妙なところなんですがね」
京介,「おいおい」
たしかに、それがなんの手がかりになるというのか。
広明くんが監禁されている廃墟には、英語で書かれた書類があるとわかった。
大きな進展とはいえない。
ハル,「もう少し頭をひねってみますわ」
椿姫,「ねえ、ハルちゃんは、なにしてるの?」
宇佐美は戸惑ったように答えた。
ハル,「もちろん、広明くんを探してるんだが」
椿姫,「やっぱり」
ハル,「ん?」
眉をひそめた。
ハル,「なにか、いけなかったか?」
椿姫,「……えっと……」
椿姫の唇が震えていた。
椿姫,「無理、しないでね」
ハル,「…………」
椿姫,「気持ちは、うれしいんだけど……なんていうか、ハルちゃんは、別に探偵さんでも警察の人でもなんでもないわけじゃない?」
聞いている宇佐美も当惑しているようだが、言ったほうの椿姫も困ったように口をつぐんだ。
ハル,「手を引いてくれと言っているのか?」
椿姫,「……えっと、あの……うん、ごめん」
小さく頭を下げた。
椿姫,「だって……ハルちゃんはどうして、犯人を捕まえようとしているの?」
ハル,「犯人を捕まえなければ、今後第二第三の誘拐事件が起こるかもしれないぞ?」
椿姫,「……そういう正義感みたいなもので?」
ハル,「大口叩いておいて、わたしは、身代金を奪われてしまった。責任も感じている」
椿姫,「責任って……そんな……もう、いいよ」
ハル,「どうしたんだ椿姫? わたしはただ、犯人の手から、広明くんを取り戻したいんだが?」
そのとき、ふと、椿姫の顔色が変わった。
張り詰めていたものが一気に噴出したよう。
椿姫,「ハルちゃんは、自分のせいで広明が誘拐されたと思ってるんじゃないの?」
おどおどしていた目が、いつの間にかしっかりと宇佐美を見据えている。
ハル,「……犯人の動機のことを言っているのか?」
椿姫,「だって、お金が目的なら、どうして広明なのかな? どうしてうちみたいに普通の家を狙ったのかな?」
椿姫にしては意外だな。
他人を責めるような態度もそうだが、椿姫が犯人の動機なんてものに興味を抱いているとは思わなかった。
ハル,「椿姫の言うとおりだよ。"魔王"がわざわざ誘拐事件を起こしたのは、わたしをなんらかの形で陥れるためだと思う」
椿姫,「じゃあ、わたしたちはとばっちりを受けたっていうの!?」
ほとんどヒステリーを起こしたような、悲痛な声だった。
ハル,「…………」
椿姫,「…………」
昼どきで賑わっていた学園の空気が一気に冷え込んでいく。
椿姫,「ご、ごめん……」
肩を震わせながら、たどたどしい手つきで口を覆っていく。
椿姫,「な、なんでかな……ごめん……こんなこと言うつもりじゃなかったのに……」
宇佐美のせいで、椿姫の家族が辛酸を舐めさせられている。
なんとなく、行く先々で殺人事件を起こす、小説のなかの探偵を想像した。
しかし、気持ちはわからなくはないが、椿姫の憤りをぶつけるべき相手は、宇佐美ではなく犯人なんだろうな。
ハル,「わたしのせいで広明くんが誘拐されて、わたしのせいで家庭が不幸になっている。だから、もうこれいじょう関わらないで欲しいというわけだな?」
驚くほど冷静に、淡々と言い放った。
椿姫,「……っ……」
気圧されたように目を逸らす。
椿姫,「ど、どうしてそんな、きつい言い方するのかな?」
ハル,「きついかな?」
椿姫,「ハルちゃんが、よくわからないよ……」
上目遣いで、宇佐美の反応をうかがうように言った。
ハル,「ごめん。迷惑かけて」
椿姫,「…………」
ハル,「自分、教室に戻ります」
これ以上、話すことはなにもないといった様子だった。
京介,「なあ……」
いまだに肩をいからせている椿姫に言った。
京介,「お前、昼飯食ったか? まだなら、いっしょに食おうぜ」
椿姫は、しばらく答えなかった。
…………。
……。
;背景 教室 夕方
授業中、椿姫の様子を後ろの席から眺めていた。
ぼんやりとして、先生から指名されてもまともに答えられなかった。
英語の時間、栄一が小声で話しかけてくる。
栄一,「やべえよ、マジ、今日は、カゼでみんな休んでるからすぐ指名されるよ」
……季節の変わり目らしくカゼが蔓延しているらしい。
栄一,「なんでこの世に英語とかあるんだろうな? ていうか、なんで言葉の違いがあるんだろうな? 愛に国境はないのによ」
京介,「今日は詩人だな、栄一」
栄一,「あー、オレ決めた。世界の共通語を日本語にする。将来そういう職場で働くわ」
京介,「そうかそうか、そのためには英語を勉強しないとな」
栄一,「なんつーの、英語とかイタ語とかドイツ語とかは、とりあえず滅ぼすわけだよ」
京介,「滅ぼさなくてもいいだろ?」
栄一,「だってさー、大文字のOと数字の0がマジ見分けつかないじゃん。不便だってこれ、共通語として」
京介,「滅ぼしたら、大勢の人が困るってば」
栄一,「いいや、真のアルファベットはオレが完成させる」
ハル,「…………」
前の席の宇佐美がぬっと振り返った。
ハル,「いま、なんて?」
京介,「あ?」
ハル,「栄一さん」
栄一,「ぼ、ボク?」
ハル,「ええ」
栄一,「アルファベットはオレが完成させる……」
ハル,「もっと前ですっ」
栄一,「大文字のOと数字の0が見分けつかない……」
ハル,「もっ、もうちょい前ですっ」
栄一,「セックスは面倒だけど、股間は愛しい……」
ハル,「コラコラそんなこと言ってねーだろうが」
栄一,「えっと、なんだっけ?」
京介,「英語とイタリア語とドイツ語はとりあえず滅ぼすとか言ってたな」
ハル,「……それです」
神妙にうなずいた。
栄一,「え? いっしょに滅ぼす?」
ハル,「いや、栄一さん、助かりました」
栄一,「へ?」
ハル,「浅井さん、雲をつかむような手ごたえが、綿菓子くらいになりましたよ」
京介,「それは、どういう……」
聞こうとしたとき、教師の注意が飛んできた。
授業中に騒ぎすぎたらしい。
宇佐美も、黙って前を向いた。
釈然としないまま、授業が進んでいった。
;背景 廊下 夕方
放課後になると、宇佐美は一目散に教室から出ていった。
京介,「ちょっと待てよ、宇佐美」
ハル,「なんすか、急いでいるんですが?」
京介,「さっき、なにを閃いたんだ?」
ハル,「ああ、そのことですか」
ふと思いついたように言う。
ハル,「あ、そうだ。浅井さんに調べてもらった方が早いかな」
京介,「なにを調べろって?」
ハル,「気づいたんです。写真にあった書類の文字」
京介,「ほう」
ハル,「あれは、英語ではなく、たぶんラテン語かなにかなんです。詳しくは知りませんが」
京介,「ラテン語だって?」
ハル,「あの『Rp』なんですがね」
京介,「あれが、ラテン語なのか?」
ハル,「栄一さんが、ドイツ語とか言ったので、一瞬ドイツ語かなーとか思ったときに、ピンときました。今日はカゼで欠席が多いみたいですしね」
おれも、なにかピンときそうだった。
京介,「カルテ、か?」
ハル,「おそらくその類です。病院で、お医者様がよくRpと書いているのを目にしてたので、それを思い出しました」
京介,「どういう意味なんだ?」
ハル,「たしか、処方するとかそういう意味らしいです」
京介,「そうか……」
……でも、待てよ。
京介,「おい宇佐美。でも、あの写真を見る限り、書類にはアルファベットばっかりだったよな?」
ハル,「はい。カルテなんじゃないかなと疑って読むと、他にドイツ語で血液という単語を拾えなくもなかったです」
……こいつ、ドイツ語が読めるのか。
京介,「しかし、ドイツ語っていうけどな、実際のところカルテをドイツ語で書く医者はあんまりいないって聞いたことがあるぞ。たいていは、日本語か英語らしいって……」
ハル,「はい。カルテにしては、日本語が少しも混じっていないのが、おかしいとも思いました」
髪をさっとかきあげる。
ハル,「ただ、ですね、お歳を召した開業医の方のなかには、稀にいらっしゃるんだそうです」
京介,「なるほど……廃病院だもんな」
ハル,「調べやすいと思いませんか?」
広明くんは、廃墟となった病院に監禁されている……?
京介,「すると、だいぶ絞り込まれるんじゃないか?」
ハル,「はい、病院とわかっただけでも、かなりの収穫です」
京介,「さっそく調べてみよう。そう何件も廃病院があるとは思えないから、あっさりわかるかもしれない」
ハル,「昨日みたいに立ち入りの許可もお願いしていいですかね? 自分も調べてみますので」
京介,「あ、おい待て」
いまにも走り出しそうな宇佐美を引き止める。
京介,「さっき椿姫に言われたことだが……気にしてないのか?」
ハル,「もう、関わらないで欲しいと言われましたね」
京介,「ああ……ちょっと椿姫にしては珍しく気持ちが高ぶっていたみたいだが……」
ハル,「気にはしていません」
京介,「…………」
ハル,「せめて、椿姫たちが警察を頼るまでの間は、自分なりに調べてみようと思っています」
ハル,「それでは」
さっそうと廊下を走っていった。
おれも、帰るとするか。
カゼなのか、おれも妙な頭痛を覚えた。
……それにしても、よく気づいた。
京介,「……っ」
なかなかがんばっているな、宇佐美……。
目まいがして、額に手を置いた。
;ぐにゃーっと歪むような画面演出。
;"魔王"アイキャッチ
;背景 繁華街1 夜
……。
…………。
雑踏のなか、ふらふらと歩きながら、染谷室長からの電話を受けていた。
染谷,「浅井くん、君のおかげで助かったよ」
まおう,「いえ……」
染谷,「例の東区の件だがね、美輪という一家がついに折れてくれたらしく、計画はまた軌道に乗り始めたそうだ」
まおう,「それはなにより」
染谷,「君がどんな手口を使ったのかは、わざわざ問うまい。なんにせよ礼を言う。さすがは"魔王"といったところか」
染谷は上機嫌だった。
まおう,「いえ、こちらこそ。例の場所もお貸しいただいて、ありがとうございます」
染谷,「あの、東区の廃墟か?」
まおう,「ご紹介のとおり、暴走族やホームレスも立ち寄らないような素晴らしい物件でした」
染谷,「あの病院跡は、警備会社の人間をたまに巡回させているからね」
まおう,「なるほど。ご用件はそれだけですか?」
染谷,「その廃墟の件だがね」
まおう,「なんでしょう?」
染谷,「担当の人間から偶然耳にしたんだが、ついさっき、立ち入りの許可を求められたらしい」
まおう,「……誰から?」
染谷,「さあ、警察の人間ではなさそうだったらしいがね」
まおう,「相手は、名乗らなかったのですか?」
染谷,「こっちが山王物産だと知って尻込みしたらしいな。だから当然、立ち入りの許可は出していない」
まおう,「そうですか。またご連絡します」
通話を切って、考えをめぐらす。
宇佐美、か……?
だとしたら、思ったよりも調べが早い。
写真を送りつけたのは、少しサービスが過ぎたかもしれんな。
広明が生きていることを家族に伝えるだけなら、電話口に立たせればいい。
わざわざ監禁場所の手がかりとなる写真を送りつける必要はない。
宇佐美は写真を頼りに広明の居場所を探すに違いない。
しかし、おれの狙いは別のところにある。
廃墟を探し当てたとしても、人質は見つからないのだ。
宇佐美は身代金に続いて、二度目の失態を犯すことになる。
それは、宇佐美と椿姫の確執の火種となる。
だから、写真を送りつけたのだが……。
今回の身代金誘拐は、用地買収に悩む山王物産に力を貸すことが主な動機だったが、もちろんそれだけではない。
宇佐美ハル……。
あの女は、おれの過去を知る数少ない人間のうちの一人だ。
現在のところ、おれを追ってくる唯一の人間でもある。
叩き潰してやる……そう思っていたが、今回はここまでにしておくか。
あの写真にしても、想定よりも面倒な手がかりを残しすぎた。
繁華街でも、宇佐美に危く腕を捕まれるところだった。
もちろん、おれにたどり着くような決定的な証拠は残していない。
だが、用心に越したことはない。
もう少し広明の居場所を突き止めるのが遅ければ、宇佐美から友人を奪ってやれたものを……。
椿姫を使ってな……。
しかし、椿姫には種だけはまいておいた。
あとはどう、発芽するか楽しみだ。
最後に、おれは椿姫に連絡を入れる。
弟は返してやろう。
だが、調子に乗って警察に連絡したら、家族はまた悲しい目に合うということをしっかりと伝えておく。
椿姫には、広明の他にも、小さい弟や妹がいるのだからな。
;京介 アイキャッチ
;背景 京介の部屋
……。
…………。
打ち合わせを終えたおれは帰宅して、少しの時間、寝込んでいた。
風邪を引いたようで、どうも熱っぽい。
……ん?
誰か来たな。
備えつけの受話器を取ると、モニターに宇佐美の顔が映っていた。
ハル,「夜分にすみません、浅井さん」
京介,「……なんの用だ?」
ハル,「廃病院の場所、わかりましたか?」
京介,「廃病院……」
ハル,「え?」
京介,「あ、ああ……調べたぞ」
ハル,「助かりました」
京介,「ちょっとうちにあがっていくか?」
お邪魔しますと、宇佐美が軽く会釈した。
;場転
京介,「それにしても、わざわざ来なくても電話すればいいのに」
ハル,「いやいや、二回くらいかけましたよ?」
京介,「え? そうか? すまん、寝てたからな……」
ハル,「そすか。カゼすか? お大事に」
おれは、印刷しておいた廃墟の資料をテーブルの上に広げた。
不動産屋から送られてきた情報だった。
京介,「えっと、江尻医院っていうらしいな。東区の外れに放置されてるらしい。院長の江尻氏は明治生まれの人らしく、もうとっくに亡くなっているらしいが」
詳しい住所も教えてやった。
ハル,「さすが、浅井さん、ありがとうございます」
京介,「市内には該当するような廃病院は他になかったぞ」
ハル,「さっそく出かけてみます」
京介,「おれも行こう」
ハル,「本当ですか? いいですよ? 体調悪いんでしょう?」
京介,「別にお前が心配とかそういう理由じゃないからな」
この病院の所有者は山王物産の系列だった。
面倒を起こしたら、山王物産に迷惑がかかる。
宇佐美がなにかしでかさないように、見張っておく必要がある。
ハル,「では、行きましょうか」
京介,「そういえば、おれは、軍手の一つも持ってなかったな」
ハル,「貸しましょうか? お揃いにしましょう」
京介,「…………」
うんざりしながら、外に出た。
;背景 中央区住宅街
すっかり冷え込んだ夜の住宅街。
椿姫から着信があったのは、宇佐美のアパートに向かっている途中だった。
京介,「どうした……?」
尋ねると、弾んだ声が返ってきた。
椿姫,「あ、浅井くんっ!」
京介,「なんだ、なにかあったのか!?」
椿姫,「浅井くんっ、聞いてっ!」
いまにも唾が飛んできそうなくらい切迫した口調だった。
椿姫,「か、かえって、帰ってきたの!」
京介,「帰ってきた……?」
ハル,「え……」
京介,「帰ってきたって、広明くんがか?」
心なしかおれの声も震えていた。
椿姫,「うんっ、うんっ!」
泣いているようだった。
うん、うんと、何度も繰り返す。
京介,「本当か、よかったな……」
全身から力が抜ける思いだった。
椿姫,「迷惑かけたね、浅井くんっ! 本当にありがとうっ」
京介,「いやいや、おれはなにもしてないよ」
たんまり儲けさせてもらっただけだ。
椿姫,「とにかく、それだけだから」
京介,「わかった。広明くんにも、ショックが大きいだろうけど、がんばれって伝えておいてくれ。そのうち顔を出すよ」
椿姫,「うんっ、おやすみっ!」
底無しに明るい別れの挨拶だった。
ようやく、ぐっすり眠ることができるのだろう。
おれも、ほっとした。
これで、警察が出てくることはない。
ハル,「…………」
京介,「宇佐美、聞いてのとおりだ」
ハル,「良かったです」
口元をほころばせた。
が、目だけが異様にぎらついていた。
ハル,「これで、警察を頼ることができますね」
京介,「……っ!?」
ハル,「広明くんが帰ってきたのなら、ことをおおっぴらにできます。わたしも警察にいろいろと証言するつもりです」
京介,「…………」
たしかに、人質がいたからこそ犯人の言いなりになって警察を頼らなかったのだ。
人質が返ってきたいま、通報をためらう理由はない。
ハル,「今日はもう遅いですし、帰ります。椿姫の家に行くのは明日にします」
京介,「ああ……明日は休みだしな」
ハル,「おやすみなさい。それにしても、良かったです」
歯がゆい思いで、宇佐美の後姿を見送った。
……なんとかしなくてはな。
椿姫と違い、おれにはぐっすり眠る暇なんてなさそうだった。
;翌日へ;背景 椿姫の家 概観
翌朝すぐに、椿姫の家に出向いた。
休日の朝らしく電車も空いていた。
声をかけると椿姫は弟を連れてすぐに出てきた。
広明,「お兄ちゃん、こんにちはー!」
京介,「お……」
少なからず驚いた。
京介,「おう、元気いいなー」
誘拐され、一週間近くも廃病院に監禁されていたというのに。
椿姫,「でしょ? わたしも心配してたんだけどね」
椿姫の顔に笑みが戻っていた。
京介,「寒くなかったか?」
広明,「んーん。真っ暗だったけど、お部屋はあったかかったよー」
京介,「ご飯は?」
広明,「パンがたくさんあったよ。お菓子もあったよー」
……人質にしては、妙に優遇されていたみたいだな。
京介,「犯人……いやその、広明くんは、どんな人についていったんだ?」
広明,「お馬さんだったよー」
京介,「馬?」
広明,「うんっ。お父さんの親戚の人だって言ってた。ちょっとおうちに帰れなくなるけど、いい子にして待ってなさいって言われた」
……馬の面でもつけていたのだろうか。
広明,「最初、車に乗ったときは、怖い人かと思ったけど、お菓子くれたり、玩具くれたりして、いい人だったよー」
それにしても、犯人は、広明くんをうまくてなずけていたようだな。
広明,「お姉ちゃん、寂しかったでしょー?」
いたずらな笑みを浮かべる。
椿姫,「もうっ、この子は……ほんとに……」
椿姫の顔が泣きそうに歪む。
京介,「なんにしても、よかったな」
椿姫,「一件落着だね。今日からようやく日記を再開できるよ」
京介,「なんだよ、最近は書いてなかったのか」
椿姫,「うんっ、日記も書けなくなるほど動揺していたみたいでした○」
すがすがしいまでの笑顔だった。
これから先、この家族には引越しが待っているわけだが、ひとまず事態は落ち着いていた。
ハル,「おはよう……」
こいつが現れるまでは……。
椿姫,「あ、ハルちゃん、どうしたの?」
ハル,「広明くんが帰ってきたと聞いたんで」
椿姫が小首を傾げておれを見た。
京介,「ああ、昨日電話もらったときに、宇佐美もすぐ横にいたんだよ」
椿姫,「え? あんな夜中に? 二人でなにをして……」
さらになにか質問が続きそうなときに、宇佐美が広明くんのそばに近づいた。
広明,「髪の毛ボーボーのお姉ちゃん、こんちはー」
ハル,「ちわー。だいじょうぶだったかー?」
広明,「みんなに聞かれるよー。だいじょうぶだよー」
ハル,「ホントかー? わたしにはなんでも言うんだぞー?」
椿姫,「ハルちゃん、きのうはごめんね」
ハル,「ん?」
椿姫,「ひどいこと言っちゃったような気がして」
ハル,「気にしてない。わたしこそ、お前を知らず知らず傷つけていたようで、申し訳なく思ってる」
その言葉に、椿姫はほっとしたようにため息をついた。
椿姫,「せっかくだし、上がってく? 引越しが近いから、散らかってるけど、居間はまだ手をつけてないから」
ハル,「そうだな、警察にも連絡しないといけないしな」
さらりと言った直後だった。
椿姫,「けい、さつ?」
椿姫の顔が見る見るうちに青くなっていく。
椿姫,「警察って、どういうこと?」
ハル,「どういうことって……一連の事件を警察に通報するんだ」
宇佐美はそのために来たんだな。
なんとかして椿姫に通報を思いとどまらせなければ……。
しかし、意外な展開になった。
椿姫,「なに言ってるの?」
唇が、わなないていた。
椿姫,「そんなことしないよ」
ハル,「……なんだって?」
宇佐美の眉が吊り上った。
椿姫,「おかしいよ、ハルちゃん」
ハル,「おかしい? わたしが?」
椿姫,「ハルちゃんみたいに頭のいい人ならわかるでしょう?」
ハル,「まだ、警察を頼る気はないのか?」
椿姫,「あ、当たり前だよ、なんて恐ろしいこと言うの?」
信じられないと、表情が語っていた。
ハル,「なぜだ……?」
椿姫,「だ、だって、そうじゃない? 警察に連絡したら、犯人が怒るよ? そしたら、どうなると思う?」
その瞬間、おれと宇佐美は顔を見合わせた。
……第二第三の誘拐事件を、椿姫は恐れているのだ。
椿姫,「ハルちゃんは、身代金をすりかえて、一度犯人を怒らせたのに、また、そんなこと言われても困るよっ!」
ハル,「…………」
宇佐美は耐えるように押し黙っていた。
椿姫,「ご、ごめんね、心配してくれてるのはわかるんだよ、だけど、警察には連絡しないよ、ぜったい」
ハル,「…………」
宇佐美は獣のような目つきで、冷静に椿姫を見つめていた。
ハル,「犯罪者の報復を恐れるがあまり、犯罪者を憎もうともしないのは、あまりにも弱腰というものじゃないか?」
低く、搾り出すような声だった。
椿姫,「ハルちゃんにはわからないよ、ハルちゃんの家族がこんなことになったわけじゃないでしょ?」
椿姫,「家の電話が鳴るだけで心臓が飛び跳ねるくらい驚いて、風で窓が鳴っただけで、広明が帰ってきたんじゃないかって、夜中に目が覚めるんだよ?」
椿姫,「そんなのはもういやだよ」
ハル,「…………」
椿姫,「ごめんね、そういうわけだから」
苦しそうに目を伏せた。
思わぬ展開。
おれにとってはこの上なく好都合な状況といえる。
京介,「というわけだ、宇佐美」
ハル,「…………」
京介,「なんだ? なにか言いたそうだな?」
宇佐美はけっきょく、なんの役にも立たなかったわけだ。
心中穏やかではないだろうが、これ以上宇佐美が椿姫の家に口を出す権利なんてないだろう。
ハル,「広明くんが無事で本当によかった。帰ります」
それだけ言って、歩き去っていった。
広明くんが、椿姫の袖を引いた。
広明,「ねえ、お姉ちゃん、遊んでー」
椿姫,「広明、ちょっと中に入ってなさい」
腕を振りほどいた。
広明,「…………」
椿姫,「あ、ごめん。ちょっと浅井くんとお話あるの」
広明,「うん、わかった。あとで、おやつ作ってね」
広明くんはおれを一瞬だけ見て、家のなかに入っていった。
椿姫,「…………」
京介,「そう気にするなよ」
椿姫,「うん……」
京介,「とにかく、これで事件は解決だ。今日から、またいつもどおりだな」
椿姫,「そう、かな」
苦い表情。
椿姫,「浅井くん、わたし、変かな?」
京介,「変?」
椿姫,「変になっちゃったかな?」
京介,「いや……どうかな……」
ここ数日でいっぺんに襲ってきた不幸を考えれば、おかしくなるのも無理はないが……。
椿姫,「なんかね、怖いの。いままで知りもしなかった感情が、どんどん大きくなっていくような気がして」
震えを抑えるように、両手で肩を抱いた。
京介,「たしかにちょっと、気持ちの浮き沈みはあるみたいだけど、気にすんな」
椿姫,「ありがとう、浅井くんにそう言ってもらえると、心強いよ」
笑顔を見届けたおれは、踵を返す。
京介,「じゃあな。またなんかあったら教えてくれ」
一件落着だな。
誘拐事件にしろ、椿姫の心境の変化にしろ、常におれに有利になるようにことが運んだ。
やけに運に恵まれたな。
悪魔にでも魅入られたかな……。
椿姫,「待って浅井くん。今日、時間ある?」
京介,「今日? ないことはないけど?」
椿姫,「なら、ちょっと会わない?」
京介,「……もう会ってるが?」
椿姫,「改めてっていう意味」
京介,「…………」
……別に、もう椿姫に用はない。
京介,「せっかくだけど、ちょっと忙しいな」
椿姫,「よ、夜ならどうかな?」
京介,「今日は、家族といっしょにいたほうがいいんじゃないか? お母さんも退院したんだろう?」
椿姫,「うん、だから、深夜とかは?」
京介,「深夜だって?」
真面目な椿姫が夜中に男と出歩こうってのか。
椿姫,「ごめんね、なんだか不安で、浅井くんといっしょにいたいんだよ」
京介,「…………」
うすうす感じてはいたが……。
こいつは、どういうわけか、おれなんかに気があるようだな。
それは……。
;======================标记选择支=========================================================
;選択肢 
;面倒だな。
;悪くない。 椿姫好感度+1
@exlink txt="面倒だな。" target="*select1_end"
@exlink txt="悪くない。" target="*select1_end" exp="f.flag_tubaki+=1"
面倒だな。
悪くない。
;======================标记选择支=========================================================
京介,「うちに来るか?」
椿姫,「浅井くんのおうち?」
京介,「ああ、深夜なら、そのほうが都合がいい」
椿姫,「わかったよ」
京介,「…………」
二つ返事で了解かよ。
警戒心ゼロだな。
夜になったら、ちょっとお灸をすえてやるか。
京介,「じゃあな……」
椿姫,「夜、電話するね……」
椿姫の声が名残惜しそうに糸を引いた。
;黒画面
……。
…………。
;背景 主人公の部屋 夜
京介,「広明くんの具合はどうだ?」
夜十時。
椿姫を部屋にいれてやった。
椿姫,「平気みたいだよ。まるで誘拐されたことをもう忘れてるみたい」
京介,「犯人は、広明くんを丁重に扱ってたみたいだな」
椿姫,「ちゃんと返してくれたしね」
やんわりと笑った。
椿姫は、犯人に対して憎しみを抱いていないようだ。
おれはコーヒーを差し出して、椿姫と向かい合って座った。
京介,「で?」
椿姫,「え?」
京介,「気分、落ち着いたか?」
おれといっしょにいたいと椿姫は言った。
椿姫,「うん、少しね……」
京介,「そうか……」
コーヒーをすする椿姫を見つめながら、おれは考える。
なにが不安なんだろうな。
広明くんは帰ってきたし、もう、事件は終結したんだ。
引越しが、不安なのかな?
住み慣れた家を出て行くわけだし……。
京介,「引越しの準備、進んでるか? もうすぐ期日だけど?」
椿姫,「ちょこちょこやってたから、たぶんだいじょうぶ」
……弟が誘拐されてるなかで、引越しの準備をしていたのか。
しっかり者というか、一家の中心的な位置にいるというのは本当らしいな。
京介,「やっぱり、嫌だよな。引越しは」
椿姫,「しょうがないことだよ。浅井くんは精一杯してくれたんだし」
態度を見るに、立ち退きを恐れている様子はなかった。
椿姫,「それにしても、すごいおうちだね」
話題を変えるようなそぶりを見せた。
京介,「ああ、部屋に上がるのは初めてだったな?」
椿姫,「何畳くらいあるの?」
京介,「宇佐美と同じ事を聞くな?」
鼻で笑った。
椿姫,「ハルちゃん……?」
京介,「あ?」
椿姫,「ハルちゃんも、来たことあるんだ。そっか、なんか言ってたね」
京介,「なんだ? なにかまずいのか?」
椿姫,「ううん……」
首を振るが、ばつの悪そうな表情が顔に浮かんでいた。
京介,「そういやお前、最近、宇佐美とちょっとギクシャクしてんな」
椿姫の眉が跳ねた。
椿姫,「そう、見える?」
京介,「見えるよ」
すると、椿姫は戸惑うように言った。
椿姫,「ハルちゃんって、浅井くんのこと好きなのかな……」
京介,「な……!?」
冷や汗が出る。
京介,「おぞましいことを言うな。んなわけあるかよ」
椿姫,「でも、ここんところ、いつもいっしょにいるでしょう?」
京介,「そりゃあ、二人で広明くんの行方を追っていたわけだからな」
……まあ、おれはたいして何もしていないが。
椿姫,「今日はね、本当は、そのことを聞きに来たの」
京介,「……そのことって……おれは宇佐美の気持ちなんて知らんぞ」
椿姫,「うん、でも、わたしは……」
目を伏せた。
京介,「なんだ?」
椿姫,「わたしは、浅井くんのことが……えっと……」
京介,「…………」
面倒だな。
こいつがなにを勘違いしているのか知らないが、おれはただ、椿姫を利用しただけだ。
愛情なんて……ない。
京介,「おい、椿姫」
おれは低い声で言った。
京介,「お前の気持ちはなんとなくわかった」
椿姫,「……っ」
京介,「こんな時間に来るくらいだしな」
椿姫の顔が、みるみるうちに強張っていく。
京介,「つきあいたいとか、そういう話だろ?」
絶句した。
京介,「まあ、考えておくよ」
椿姫,「え?」
京介,「お前のことは嫌いでもないけど、とりわけ好きってわけでもないから」
椿姫,「…………」
椿姫は、おれの次の言葉を待っていた。
京介,「ひとまず今日は帰れ」
椿姫,「え? あ、うん……」
けれど、椿姫はじっとしたまま動かない。
椿姫,「え、えっと……どうやったら、つきあってもらえるかな?」
軽く笑ってしまった。
京介,「さあな。とりあえず、こんな時間に男の部屋にほいほいとあがりたがるのは、やめろよ」
椿姫,「え? どうして?」
京介,「軽く見える」
椿姫,「そうなんだ。ごめんね」
京介,「実際、お前が軽い女じゃないことは知ってるがな。でも、そういう体裁みたいなのは、気にしたほうがいいぞ」
椿姫,「気にした方がいい?」
京介,「ああ、おれは、目立つのが嫌いだ。女を連れ込んでるとか噂されたくないしな」
椿姫,「服装とかもオシャレなほうがいいかな?」
京介,「まあな。見栄ってのは大事だと思う」
椿姫,「がんばってみるよ」
なにやら意気込んでいた。
椿姫,「……よかった。日記やめろ、とか言われたらどうしようかと思った」
京介,「じゃあ、やめろ」
椿姫,「ひ、ひどいよ……」
しかし、こいつもどこか変わったな。
なにが変わったとは言い切れないのだが。
椿姫,「おやすみ」
おれは椿姫を送り出した。
帰り道、椿姫は終始緊張した面持ちで、口数も少なかった。
;黒画面
紆余曲折あったが、椿姫の周りに起こった事件はひとまず収束した。
明日からは、いつもどおりの毎日が始まるな。
椿姫の気持ちにどう答えるか。
それだけが、少し心に引っかかった。
;黒画面
……。
…………。
;背景 権三宅 居間
浅井権三,「女は囲っておいて損はないぞ、京介」
翌日、権三に呼び出された。
朝食を交わしながら、ふと、権三が言った。
京介,「いきなり、なんです?」
浅井権三,「例の美輪椿姫だったか?」
京介,「ええ……」
浅井権三,「食ったか?」
口角を吊り上げて笑った。
京介,「いいえ。なにかと面倒もありそうなので」
おれの返答に、権三は不満げだった。
浅井権三,「きちんとしつけておけよ」
京介,「それは、重々承知してます。誘拐事件が終わったとはいえ、警察が出てこないとも限りませんから」
昨日の椿姫の様子からして、まずだいじょうぶだとは思う。
浅井権三,「もし、警察がうちの身辺を捜査するようなことがあったら、どうする?」
京介,「そのときは、僕の責任ということになります」
浅井権三,「わかっているならいい」
どんな目にあわされることやら。
おれは箸を置いて、茶をすすった。
京介,「それでは……」
別れを告げようとしたとき、権三が引き止めた。
浅井権三,「これから、ならしにいくが、来るか?」
京介,「ならし……ですか」
初めて誘われたな。
浅井権三,「そろそろお前も、覚えておいたほうがいいかと思ってな」
要するに、遠出して射撃の訓練をするのだ。
当然、本物の拳銃を使う。
京介,「せっかくのお誘いですが……」
浅井権三,「ならしておかないと、いざというときに使えんぞ」
京介,「すみませんが、このあと、山王物産の方とお話がありまして」
浅井権三,「…………」
権三はそれ以上、何も言わなかった。
京介,「それでは……」
浅井権三,「京介」
京介,「はい?」
浅井権三,「しっかりやれよ」
;背景 繁華街 1
今日は、朝から肩がこるな。
山王物産との打ち合わせを終えて、ようやく一息つけた。
……帰って寝るか。
……ん?
雑踏のなかに、見慣れた顔があった。
京介,「椿姫じゃないか?」
椿姫,「あ、浅井くんっ?」
きょろきょろと、辺りを見回している。
広明,「おにいちゃん、こんにちはー」
弟もいっしょだった。
京介,「買い物か?」
広明,「うん、お姉ちゃん、玩具買ってくれるって」
京介,「そりゃよかったな」
広明くんは、出会ったときと変わらない笑顔を見せた。
誘拐の傷跡のような雰囲気は、まったく感じられない。
椿姫,「ついでに、携帯電話持とうと思ってね」
さすがに弟の前だからか、昨日のように緊張してはいなかった。
京介,「携帯? へえ……」
椿姫,「便利でしょう?」
京介,「まあな……」
必要ないとか言っていたような気がしたが……忘れたな。
椿姫,「あとね、お洋服も買うの」
京介,「そろそろ本格的に寒さの厳しい季節だしな」
椿姫,「それだけじゃないんだけどね」
ひょっとして、昨日の会話を気にしているのだろうか。
広明,「ねえ、お姉ちゃん、早くー」
小さな手が、ぐいぐい椿姫の袖を引っ張っていた。
椿姫,「ねえ、浅井くん、ひまかな?」
京介,「え?」
椿姫,「よかったら、いっしょにお買い物しない?」
京介,「たしかに、ひまだが……」
椿姫,「じゃあ」
……なんか、強引だな。
広明,「ねえ、早くー」
広明くんが口をへの字に曲げていた。
京介,「わかったわかった。連れてってやるよ」
広明,「やったー」
……ガキは苦手だ。
;背景 繁華街 2
手近なデパートで買い物を済ませた。
広明,「ねえ、早く帰ろうよー」
広明くんは、買ってもらったプラモデルを、さっそく家で組み立てたいらしい。
椿姫,「まだお姉ちゃんの買い物が終わってないんだよ?」
広明,「えー」
椿姫,「もうちょっと回らせてよ。お願い」
広明,「むー……」
どうにか、なだめすかしたようだ。
京介,「洋服って、なにを買うんだ? コートか?」
椿姫,「ううん、とくに決めてないけど」
ぶらりぶらりとセントラル街を回った。
;背景 繁華街1 昼
いくつかのセレクトショップに椿姫を案内してやった。
椿姫,「浅井くんって、お店に詳しいんだね」
京介,「いやいや、学園の連中なら誰でも知ってるから」
椿姫,「わたしが、ちょっと田舎ちゃんなだけ?」
京介,「この界隈なら、おれより栄一のほうが詳しいぞ」
椿姫,「そっか。栄一くんって、だから女の子に人気があるんだね。いろいろ聞いてみようっと」
京介,「で、決めたのか?」
椿姫,「あ、どうしようかな……」
京介,「さっき見たダッフルコートとかどうよ?」
椿姫,「えっと……もう一周してもいい?」
京介,「……まあ、いいけど」
広明,「…………」
広明くんは、おとなしくついてきた。
;背景 繁華街1 夕方
女の買い物は長いということを、嫌というほど思い知らされた。
広明,「ねえ、お姉ちゃん、まだー?」
京介,「さすがに、長いぞ」
広明,「お姉ちゃん、いつもはパパっと決めちゃうのに、どうしたの?」
椿姫,「ごめんね。なんか目移りしちゃって」
京介,「わかった。先に、携帯を買いに行こうぜ」
しかし、たくさんの機種に囲まれて、また迷いだすかもな。
広明,「ボク、もう、帰りたいよー」
椿姫,「もうちょっとだけ、ね?」
広明,「いやだー! 疲れたよー!」
だだをこねだした。
広明,「もう、ひとりでも帰るー!」
椿姫の顔色が変わった。
椿姫,「わかったよ……ごめんね、広明」
広明,「…………」
椿姫,「だから、一人で帰るなんて言わないで」
じっと、弟を見つめた。
誘拐されたことを思い出したのだろう。
広明,「……いいよ」
ぼそりと言った。
広明,「もうちょっとだったら、いいよ」
椿姫,「え?」
なんだかんだで、仲のいい家族なんだよな、こいつら。
椿姫,「そう? いいの?」
椿姫も控えめに尋ねた。
……てっきり、このまま解散になるかと思ったが?
椿姫,「じゃあ……」
椿姫の靴の先が、携帯ショップに向いた。
が、おずおずと元の位置に戻った。
椿姫,「帰ろっか……」
広明,「ん?」
椿姫,「おうちに帰ろう、ね?」
まるで自分に言い聞かせているようだった。
;SE 携帯
ん……携帯が……。
着信は、宇佐美からだった。
京介,「出ていいか?」
椿姫は、どうぞと、手の平を差し出してきた。
京介,「なんか用か?」
ハル,「いや、浅井さん。いまバイト終わりました」
京介,「はあ……?」
ハル,「ところで、今晩どうっすか?」
京介,「おっさんみたいな誘い方するなよ」
ハル,「夕飯まだなんでしょう?」
今日は、朝から誘いが多いな。
たまには、流されるがままの一日もいいか。
京介,「いいぞ。どうする?」
ハル,「じゃあ、駅前の三百円ラーメンでいいすか?」
京介,「なんでもいい。あとで連絡する」
ハル,「はい」
通話を切った。
椿姫,「どうしたの?」
京介,「いや、宇佐美とメシ食いに行くことになった」
椿姫,「あ、そうなんだ……」
京介,「なんだ?」
椿姫,「いや、今日は、ご飯用意するつもりだったから」
京介,「お前が?」
椿姫,「うん、つきあってくれたお礼に」
京介,「なら、宇佐美に連絡するよ」
椿姫,「断るの?」
京介,「いや、宇佐美もいっしょにどうよ?」
椿姫,「あ……うん」
目を泳がせた。
椿姫,「ハルちゃんとはきのう、ケンカしちゃったしな……」
京介,「別に、ケンカってほどじゃないと思うが」
後味の悪い別れ方をしていたがな。
京介,「宇佐美は外した方がいいか?」
椿姫,「ううん、そんな、仲間はずれみたいなこと、できないよ」
小さく笑った。
京介,「じゃあ、ちょっと宇佐美にかけなおすな」
言って、再び携帯を取り出してダイアルをプッシュした。
ハル,「はいはい。自分、もう向かってますよ」
京介,「ああ、そのことなんだが、いま椿姫と一緒にいるんだ。それで……」
ハル,「お断りしておきます」
京介,「人の話は最後まで聞けよ」
ハル,「椿姫の家で、ご飯っていうプランでしょう? お断りしておきます」
京介,「なんだよ、お前、きのうのこと根に持ってるのか?」
ハル,「いいえ。ただ、わたしは椿姫に近寄らない方が賢明なのではないかと」
京介,「……そうなのか?」
ハル,「わからないでもないでしょう?」
……椿姫は、おれに気がある。
そして、椿姫は、宇佐美もおれに気があるのではないかと勘ぐっている。
宇佐美も、椿姫のそういった心情を推察しているのだろうか。
ハル,「では、自分、このまま帰ります」
今度は、宇佐美のほうから通話を切ってきた。
京介,「帰るらしい」
椿姫,「え? どうして?」
京介,「どうも、もともと用事があったらしいな。お前の家の東区までいくと時間がかかるだろう?」
さらっと嘘をついた。
椿姫,「ほんとに? わたしに気をつかってくれたんじゃないの?」
京介,「違うと思うが……」
椿姫,「ほんと? 嘘ついてないよね?」
おれは少しだけ、驚いていた。
違和感のようなものが、ついに結晶化した。
椿姫に、疑われるなんて、いままで記憶にない。
やっぱり、少し変わったな、こいつ……。
広明,「お姉ちゃん……?」
弟が、低いところから、椿姫の顔色をうかがっていた。
京介,「なんにせよ、宇佐美は来ない。とっとと……」
不意にめまいが襲ってきた。
京介,「……っ」
椿姫,「だいじょうぶ?」
京介,「平気だ……最近、かぜをこじらしていてさ……」
眉間を指で軽くもんだ。
京介,「すまんが、今日は帰って寝るわ」
椿姫,「わたしも、浅井くんのおうち行っていい? おかゆとか作るよ?」
京介,「おいおい、広明くんはどうするんだ?」
椿姫,「あ……」
広明くんは、きょとんと、おれたちのやりとりを眺めていた。
椿姫,「…………」
広明,「…………」
視線を交わす。
京介,「おれのことはいいから、とっとと帰るんだな」
椿姫は、ようやくうなずいた。
京介,「じゃあな……」
足早に、椿姫から離れた。
なにかに急かされているような気がした。
椿姫がなにか言ったが、聞き取れなかった。
…………。
……。
;背景 椿姫の家 居間
;ノベル形式
;椿姫視点。
疲れていた。
 むしろ、少し病んでいるのかもしれないと、椿姫は思った。
椿姫,「お父さん、書斎の荷物まとめた?」
大家族は、引越しの準備に忙しかった。椿姫は、寝室にある子供たちの玩具をかたづけ、本の山を紐で縛る作業に没頭していた。
椿姫,「ねえ、お父さんたら、聞いてるの?」
パパ,「ああ、すまんすまん。いまやってるよ。ほら広明、ちょっとどいてなさい」
書斎からは、楽しげなやりとりが聞こえてくる。買い与えたプラモデルに、父親と息子がはしゃいでいた。
 昨日、広明が帰ってきてからというもの、父親は緊張の糸が一気にほぐれたようだ。広明につきっきりになって、仕事もほったらかしにして、遊んでいる。気持ちはよくわかるので、なにも言えなかった。
 椿姫は、いまだに体調を崩している母に代わって、一家の家事を一身に引き受けていた。食事を作り、家族全員分の衣服を洗濯し、弟を寝かしつけて、父親の酒のしゃくをして、引越しのための荷造りに追われている。
椿姫は、せっせと働いている自分に、ふと、首を傾げたくなっていた。
椿姫,「ほら、紗枝っ、ちゃんとお布団で寝てなさい! トイレ? トイレはあっちでしょう、もうっ!」
つい、口が荒くなる。それが、たまらなく嫌だった。
 なにも変わっていないはずだった。美輪家の長女として、いままで炊事洗濯を任されることは何度もあった。病気がちな母親の代わりに、弟たちの世話をするのも当たり前のことだった。父親の愚痴につきあうのも、好きなはずだったのに。
椿姫は変化の原因を探ろうと、思い悩んだ。
 すると、いつも、あの男がやってくる。忘れられない悪魔のささやきが襲ってくる。
『お前を人間にしてやろう』
 身代金を持って市内を駆け回っているとき、彼はそう言った。
 その後、二度、彼と密会した。
 弟を誘拐した凶悪犯は、けっきょく、椿姫になにをさせるつもりだったのだろうか。
心理的な話題を好んでいたようにも思う。結果、椿姫の心は自分でも気づかぬうちに、何度もえぐられていた。
 椿姫は、いつしか、彼にもう一度、会ってみたいような気持ちになっていた。
 会って、この鬱憤をぶつけてやりたい。歯軋りする思いだった。だが同時に、人を恨むような感情を抱く自分に、いいようのない不安も覚えた。
 願いが通じたのか。
 電話が鳴った。犯人から渡された携帯電話。捨てるに捨てられず、保管しておいたのだ。
家族に気づかれぬよう、そっと手にとった。ためらいがちに、通話ボタンを押した。
 相手は黙っていた。もしもしと、小声で呼びかけた。
魔王,「久しぶりだな」
怪しげな雰囲気を持つ声。犯人だった。
魔王,「少し、話がしたい」
椿姫,「わかりました……」
即座に口が反応した。待ち望んでいたのかもしれない。
 椿姫はそのまま、何も言わずに、冬空の下に出た。
;背景 椿姫の家 概観 夜
魔王,「名残惜しいが、これが最後の連絡だ」
ころあいを見計らって、犯人が言った。
魔王,「広明くんは、元気かな?」
椿姫,「はい……監禁されていたことなんて、もうすっかり忘れているみたいに元気です」
魔王,「監禁だなんてとんでもないな。保護していたようなものだ。トラウマになってしまったら、かわいそうだろう?」
冗談なのか本気なのか。犯人は、自分が慈悲深い存在であるといいたいようだった。
魔王,「警察には連絡していないだろうな?」
椿姫,「もちろんです」
魔王,「わかっていると思うが、わたしはまたいつでもお前の家族を絶望の淵に立たせることができる」
有無を言わさぬ響きがあった。椿姫は下腹に力を入れて聞いた。
椿姫,「なんの用ですか? もう、あなたのことは早く忘れたいんですが」
嘘だった。男のことは、忘れようとしても、忘れられなかった。
魔王,「最後に、確認しておこうと思ったのだ」
椿姫,「確認?」
思わず、息を呑んだ。犯人が矢継ぎ早に言った。
魔王,「私が、憎いか?」
挑発するような声。椿姫は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。すぐには返事ができなかった。
魔王,「そうか、憎いか」
どこか満足げに、嗤っていた。
魔王,「しかし、私はもうお前の前には現れない。たとえ警察が調べをいれたとしても、私の足取りはつかめないだろう」
椿姫は突如切迫感に苛まれた。犯人が消えてしまう。この鬱積した気分を、どこにぶつければいいのか。
魔王,「言っておくが、お前は巻き込まれたにすぎない。私の真の目的は別のところにあった」
椿姫,「真の目的って、なんですか?」
魔王,「わかるだろう?」
椿姫,「…………」
魔王,「お前の、身近な友達だ」
気づいた。そしてその名を口にした。
椿姫,「ハルちゃん……?」
その瞬間、不通音が鳴った。
 悪魔のささやきは風のように消えていった。寒天のなかに立ちすくむ自分の吐息だけが、耳に届いた。
椿姫,「そんな……」
携帯電話を握り締めた。唇がわななき、眉間にしわが寄っていく。叫びだしたい衝動に駆られた。汚れた感情が募り、一人の友達に向かって牙を剥いていく。あの少女は、京介のことも好きなのだ。抑えられそうになかった。
とたんに、いままでの自分が、逆に珍妙に思えてきた。
 請われてクラス委員になった。休みがちな友達にかわって掃除当番も進んでやる。なにをするにも小さな弟たちを優先し、買いたい物も買わず、貯金や時間すらも周りのために費やしてきた。いつも善人であるというレッテルを貼られていた。そして、そういった風評に、何の疑問も抱かなかった。
 欲望が、じわり、じわりと、顔を覗かせていく。
椿姫は、いつしか妄想にふけっていた。
 もっといい服を着て、自由に遊んで、そして……。
 椿姫は、同世代の少女が当然持つ欲望を、一つ、また一つと背負って、ゆっくりと自室にこもっていった。
;背景 教室 昼
栄一,「京介ちゃんよぉ、おいおい京介ちゃんよぉ」
朝一で、栄一が顔をしかめていた。
京介,「なんだよ、近いぞ、顔」
栄一,「そろそろよお、オレの家でパーティの時期じゃねえの?」
京介,「そういう時期あったっけ?」
栄一,「今年からだけどよお、ついにオレちゃんも爬虫類に手を出したわけだよ」
京介,「ペットの話か?」
栄一,「とりあえず蛇からいってみたわけだ。チャーリーっていうんだが、これがまた冬だけあって切なそうなんだよ」
京介,「つまりなにか? おれがお前のチャーリーをねぎらいにいくのか?」
栄一,「イグザクトリィだぜぇ」
なんかムカツクなこいつ。
ハル,「楽しそうなお話してますね?」
栄一,「あ、宇佐美さんも来るかい?」
ハル,「お誘いありがとうございます。宴会は地味に好きです」
栄一,「ちゃんとお土産持ってきてね」
ハル,「蛇さんにですか?」
栄一,「んーん、ボクに」
ハル,「死んだバッタとかでいいすかね?」
栄一,「だからボクにだってば!」
そんなこんなで、授業が始まった。
;場転
授業中に宇佐美が振り返った。
ハル,「椿姫、きてないっすね」
京介,「だな。なにかあったのかな?」
ハル,「きのう、ご飯食べたんじゃないんですか?」
京介,「いや、けっきょくやめておいたんだ……」
ハル,「椿姫、最近ちょっと疲れ気味だと思うんで、心配です」
京介,「それは同感だな。引越しが迫ってるみたいだし」
ハル,「浅井さんのフォローが必要ですね」
京介,「なんで、おれなんだよ」
ハル,「自分はちょっと、敬遠されているみたいなので」
たしかにな……。
; ※追加
椿姫がやってきたのは、昼近くになってからだった。
;背景 屋上 昼
椿姫,「みんな、おはよう」
てっきりカゼでもこじらせたかと思ったが、元気そうだった。
京介,「遅かったな」
栄一,「なにしてたの?」
椿姫,「ちょっときのう、夜更かししちゃって」
京介,「引越しの準備か?」
椿姫,「うん、そんなとこかな……ちょっと、日記つけたり、本読んでたりしてたの」
京介,「それで遅刻かよ……」
まあ、疲れてるのかな。
栄一,「あ、引越しするんだ。へー、どこに引っ越すの?」
京介,「中央区だったよな?」
椿姫,「うん。浅井くんのうちの近くだよね?」
声が弾んだ。
京介,「歩いて十分くらいか」
椿姫,「うんうん。うれしいなっ。新築のマンションなんだよね?」
京介,「ああ……」
それなりにいい部屋を、紹介してもらったんだったな。
栄一,「ボクちょっと、残念だなー」
椿姫,「なにが?」
栄一,「んーん。なんか、あそこ、アットホームな感じがあったからさー」
椿姫,「…………」
椿姫の表情から笑顔が消えた。
椿姫,「でも、うちってすごく古いんだよ。すきまかぜとかすごいし、砂壁だし、ストーブないと寒くてたまらないんだよ」
栄一,「いやボクさー、生まれも育ちも都会だからさ。ちっちゃいころから、ああいう、一戸建ての家に住みたいなーとか思ってたんだよね」
椿姫,「そうなの? 栄一くんって、ずっとマンションだったの?」
栄一,「よくいう鍵っ子だよ。お父さんは単身赴任ばっかりだし、お母さんも夜遅いからね」
椿姫,「そうなんだ……」
神妙にうなずいた。
椿姫,「言ってくれたら、今度ごはん作りに行くねっ」
……こういうところは、いつもの椿姫なんだが。
栄一,「ありがと。正直、さみしいときあるんだよね」
しかし、栄一の家庭環境なんて初めて知ったな。
栄一,「(へっへっへ。ちょっとオーバーに言い過ぎちまったかな。しかしコレいいな。不幸アピールっつうの? 今度はみなしごっていう設定にしようかねえ、クク……)」
……一瞬でも同情したおれが馬鹿だった。
さて、そろそろ昼休みも終わるな。
今日は、なんの予定もないし、帰って寝るとするかな。
ここんところ頭痛がひどいし……。
;背景 学園 校門 夕方
帰り際、椿姫から声をかけられた。
どうも、遊びの誘いらしい。
椿姫,「浅井くん、今日、ちょっと寄っていかない?」
椿姫も、フレンドリーになってきたな。
最初誘われたときは、もっとおっかなびっくりだったような気がする。
京介,「んー……きのうも、つきあったしな」
椿姫,「ダメかな? セントラル街でね、ヴァイオリニストのイベントあるみたいだよ」
京介,「え? そうなの? そんなのあるんだ」
椿姫,「うん、なんか、デパートのイベントで、ちょっとした演奏会とそのあと握手会するみたい」
京介,「なんていう人?」
椿姫,「えっとね……」
日記を覗き込む椿姫。
名前を聞いて、おれは沸き立った。
京介,「あれだろ? とくに入場料とかいらないけど、聞いた後CD買えば、サインしてくれるっていう……」
椿姫,「そうそう。ちっちゃい企画みたいだけど、どうかな?」
京介,「行く」
即答すると、椿姫はうれしそうに笑った。
京介,「しかし、よくそんなマニアックなこと知ってるな」
椿姫,「きのう、調べたの」
なにやら誇らしげだった。
京介,「広明くんはいいのか? 保育園は?」
椿姫,「しばらく休ませてるから」
京介,「他の子供たちは? 名前忘れたけど……」
椿姫,「お父さんが、面倒見てくれてる」
京介,「引越しの準備は……っていい加減しつこいか?」
椿姫,「準備は、夜中やればいいから。最悪明日でもいいしね」
京介,「なら、行こうか」
椿姫,「今日は、遊びたいの」
おれのすぐそばで、甘えるように微笑んだ。
;背景 繁華街1 夜
デパートを出ると、すっかり暗くなっていた。
京介,「いやあ、やっぱり生は違うなあ、生は」
椿姫,「ご満悦だね。CDも、ちゃんと二枚買ってたしね」
京介,「当然だよ」
イベント後の解放感というか、ほてった頬が、ひんやりとした空気に触れて気持ちよかった。
京介,「ありがとうな、椿姫」
椿姫,「また行こうね」
京介,「そうだ。ケータイ買うとか言ってなかったか? つきあってやろうか?」
椿姫,「ホントっ? ありがとう」
京介,「……って、時間だいじょうぶか? もう、八時になるが」
椿姫,「今日は平気だよっ」
京介,「そうか……」
ちょっと前までは、すぐに帰ったのにな。
しかし、椿姫がいいって言うんならいいんだろう。
おれたちは、繁華街をふらふらと遊び歩いた。
;背景 繁華街2
街をうろつくこと二時間。
携帯を買って、夕食をともにした。
京介,「さてと……」
椿姫,「ねえ、浅井くん、次どこ行こうか?」
おれは思わずうなった。
京介,「おいおい、もう十時だぞ」
さすがに帰りたい。
仕事はないが、常時たまってるメールを出さなきゃならん。
椿姫,「ゲームセンターとか行く? 浅井くんってゲームするのかな?」
京介,「いやいや、お前どうしたんだよ」
椿姫の態度が気になった。
椿姫,「なにが?」
京介,「んな夜遊びキャラだったか? 椿姫と夜のゲーセンほど似合わない組み合わせもそうそうないぞ」
椿姫,「そんなことないんじゃない? ほら、よくカップルでぬいぐるみキャッチャーとかしてるじゃない? ああいうのしたいなあって思って」
京介,「…………」
なんなんだろうな、こいつは。
おれに気があるんだとしても、妙に強引に遊びたがるな。
京介,「急に遊びに目覚めたのか?」
椿姫,「あははっ、そうかな……そうかもね」
あくまで軽い調子の椿姫。
別に、特段悪いことをしているわけじゃない。
たまに学園に遅刻したっていいし、夜にゲーセンくらい行ったっていい。
ただ、なにかがおかしい。
京介,「真面目なヤツが遊びを覚えると、手がつけられねえっていうぞ?」
冗談ぽくいうと、椿姫の目つきが少しきつくなった。
椿姫,「なんだかね、遊ぶと気持ちがすっとするの」
京介,「は?」
椿姫,「嫌なこと忘れて遊んでると、楽なの。自分でもちょっとダメかなって思うんだけど、それがまた気持ちいいの」
京介,「これまたレベルの高い発言だな」
椿姫,「冗談だよ」
思いっきり笑った。
大口をあけて、歯を見せるような笑い方も、ここ最近になって見るようになったな。
京介,「とりあえず、帰るぞ。ゲーセンは今度だ」
椿姫,「うん、ごめんね無理言って」
素直なところは、いつも通りだが。
椿姫,「ふふっ、なんか観察されてるみたいだよ……」
京介,「気のせいだ。帰るぞ。送ってってやる」
先を促すように首を振った。
椿姫,「でもね、浅井くん……わたし……」
また気になることを言った。
椿姫,「いままで、我慢しすぎだったのかなって思うんだ」
事件が終わった解放感から来てるのか。
なにかに憑かれているようにも見えた。
;背景 椿姫の家 概観
椿姫,「わざわざありがとっ」
京介,「しっかし、この辺は空気がいいなあ」
大きく伸びをする。
おれの住んでいる中央区なんかよりも、よっぽど星が多く見える。
椿姫,「ちょっとあがってく?」
京介,「帰りの電車がなくなっちまう」
椿姫,「泊まってく? 浅井くんならお父さんも許してくれると思う」
京介,「お父さんが許しても、おれが許さん。明日いっしょに登校する気かよ」
椿姫,「あははっ、ダメかな?」
京介,「そんなところを栄一や宇佐美に見られたら、どんなアオリをくらうかわからんぞ」
椿姫,「ハルちゃんは、そういうの冷やかす人なのかな」
京介,「冷やかすっていうか、ツッコミに困るようなコメントを残して去っていきそうだ」
椿姫,「なんにしても、ハルちゃんはちょっとわけわかんないときあるよね」
京介,「ん……まあな」
やっぱり、宇佐美とはうまくいっていないみたいだな。
椿姫,「そうだ。携帯の番号交換してもらっていいかな?」
京介,「おう……」
そのとき、背後から足音がして振り返った。
京介,「あれ……?」
椿姫,「ん?」
広明,「あ、お姉ちゃんたちだー。おかえりー」
椿姫,「ちょっと、広明、どこ行ってたの!?」
広明,「アイス買いに行ってたんだよー」
コンビニの袋を手に提げていた。
椿姫,「一人で!?」
広明,「うんっ」
椿姫,「なにしてるの!? 危ないじゃない!」
椿姫が血相を変えて、弟に詰め寄った。
椿姫,「もう、馬鹿っ! お父さんは?」
広明,「お父さん、なんか忙しいみたいだったから。こっそり出たの」
椿姫,「だからって……! 一人でなんて……」
広明,「ダメだった?」
椿姫,「お金はどうしたの?」
広明,「お姉ちゃんの貯金箱から借りた」
椿姫,「……っ!」
わなわなと震える唇。
荒い吐息がはっきりと聞こえた。
椿姫は、目を見開いた。
椿姫,「広明、お姉ちゃんの気持ちわからない?」
広明,「……ん?」
椿姫,「広明は、悪い人にさらわれたんだよ?」
広明,「悪い人じゃなかったよ?」
椿姫,「悪い人なの! お姉ちゃんたち、とっても心配したんだよ?」
椿姫の形相に恐れをなしたのか、さすがの弟も急にしおらしくなった。
広明,「ごめんなさい……」
小さい頭を下げた。
椿姫,「…………」
椿姫は弟を不満げに見つめていた。
だらりと下がった腕の先には拳が作られていた。
広明,「お姉ちゃん……?」
広明くんは、椿姫の許しを待っていたのかもしれない。
椿姫,「あんまり、困らせないで」
いつもどおり、優しく抱きしめてくれることを期待していたのかもしれなかった。
椿姫,「まったく、お父さんもお父さんだよ……なんで広明から目を離すかな……」
ぶつぶつと、恨み言を続けていた。
広明,「ごめんね、お姉ちゃん。お姉ちゃん困ってるの?」
椿姫,「…………」
京介,「おい、椿姫。ちょっと頭冷やせよ」
椿姫,「うん、わかってる……」
ようやく口を挟めそうな雰囲気になった。
広明,「でも、お姉ちゃんだって、帰ってくるの遅いよ?」
椿姫,「お姉ちゃんはいいの。大人なんだから」
京介,「あー、すまんすまん、広明くん。おれがお姉ちゃんと遊んでたから遅くなったんだよ」
面倒になって言った。
広明,「ボク、あのお馬の人と遊んでもらって楽しかったけど、寂しいことあったんだよ。お姉ちゃんに会えないのは寂しかったんだよ? だからもっと遊んでよ」
椿姫,「…………」
椿姫は、首を縦には振らなかった。
椿姫,「引越しの準備しなきゃ……」
広明くんから目を逸らした。
京介,「じゃあ、おやすみ」
椿姫,「うん。また明日ね」
携帯の番号だけ交換すると、あとはたいした会話もなく別れた。
;背景 自室
……。
…………。
……椿姫のヤツ、妙に、俗っぽくなったな。
いままでのようなうさんくささが消えた。
溜まってるものがあったのかな。
考えてみれば、病気がちの母親に代わって、あの大家族を支えているわけだからな。
遊びの一つも知らないみたいだし。
世間知らずでスカウトに引っかかりそうになったこともあった。
人を疑おうともせず、真面目に他人や家族のために毎日を過ごすしっかり者の苦労人……。
そういう人間が、ひとたび崩れたらどうなるんだろうな。
おれにとって椿姫はただの学園の友人として、息抜きさせてもらえればいいだけの存在だ。
……そのはずなんだが、少し深くつき合い過ぎたかな。
京介,「寝るとするか……」
頭痛は、今日は襲ってこなかった。
; ※追加:学園教室昼
翌日学園に行くと、栄一が声をかけてきた。
栄一,「で、けっきょくパーティどうするよ?」
京介,「別に、暇なときならいいぞ」
栄一,「なら今日だな」
京介,「これまた急だな」
栄一,「だって、明日は祭日だろう?」
京介,「……そうだったな……」
椿姫,「パーティするの?」
栄一,「うんうん。ボクんちおいでよ」
椿姫,「いくいくっ。楽しそうだね」
そこに、ひょっこり宇佐美が顔を出した。
ハル,「椿姫、だいじょうぶか?」
椿姫,「なにが?」
ハル,「顔色が悪いぞ」
見れば、厚ぼったく腫れた目の下に濃いクマがあった。
椿姫,「平気だよ。ハルちゃんこそ、寝ぐせひどいよ?」
軽く笑って受け流す椿姫だった。
京介,「んで、パーティとやらだが……」
椿姫,「わたし、広明を迎えに行ってからだから、遅くなる」
栄一,「遅くてもいいよ。ちゃんとお土産持って来てくれれば」
椿姫,「みかんでいいかな。とっても甘いよ?」
ハル,「お、みかん、自分、みかん、大好き」
京介,「なんでカタコトになる……」
椿姫,「ハルちゃんも来るんだね」
ハル,「ああ……」
宇佐美は真顔になって椿姫と向き合った。
ハル,「……やめとこうか?」
椿姫,「なんで? 別にくればいいと思うよ?」
ハル,「そっか」
それきり宇佐美は口を閉ざした。
京介,「花音も誘うか……?」
栄一,「いや、花音ちゃんはスケートの練習に忙しいからよそうよ。別に仲間はずれにするわけじゃないよ、うん」
京介,「……たしかに、間近に大会を控えてたな……」
当の花音は、机に突っ伏してグーグー寝ていた。
栄一,「で、京介くんは、おみやげなに持ってきてくれるのかな?」
京介,「ハブだろ? マングースとかどうよ」
栄一,「ハブじゃないよ。ていうか、マングースなんて持ってこれるもんなら持ってきてよね」
……しかし、最近、遊びすぎかもな。
とりわけ大きな仕事はないから、別にかまわないんだが……。
椿姫,「浅井くんも来るんだよね?」
椿姫の赤みのない顔を見ると、どうにも気になる。
京介,「なあ、椿姫……」
おれは何気なく言う。
京介,「お前、なんか俗っぽくなったよなあ……」
椿姫,「え? そうかな?」
京介,「ああ……それならそれでいいんだがな」
まともになったってことだ。
うさんくさい純真さなんてないほうが、つき合いやすいというものだ。
そう考えると、椿姫という少女がとても身近な存在に思えてきた。
椿姫,「……変、かな?」
不安そうな椿姫に言った。
京介,「いや、むしろそれでいい。これからも、もっとガンガン遊ぼうぜ」
椿姫は、ほっとしたのか、笑顔を作った。
椿姫,「うん、遊ぼうっ」
栄一,「いやいや、なんか二人で盛り上がってるけど主催はボクだからね……」
それから放課後まで、あっという間に時間が過ぎていった。
;背景 校門 夕方
日が落ちるのがとても早くなった。
椿姫,「じゃあ、わたし、一度帰るねー」
栄一,「うん、またねー」
椿姫はひと足先に去っていった。
ハル,「そういえば自分、バイトでした」
栄一,「え? 来ないの?」
ハル,「すみません。もっと早くにお誘いいただければ、善処したんですが……」
栄一,「いやいや、宇佐美さんももっと早くに断ってよ」
……椿姫に遠慮してるんだろうか。
ハル,「椿姫に遠慮してるわけじゃないですよ?」
京介,「……っ」
ハル,「でも、椿姫は心配です」
京介,「心配?」
ハル,「疲れてるみたいですし」
栄一,「だから、今日、ボクが盛り上げてあげるよ」
ハル,「さすが栄一さんです。自分は、盛り下げるのは得意なんですが……」
宇佐美はもじゃもじゃの髪の毛をいじりだした。
ハル,「椿姫のお父さんとかも、だいじょうぶですかねえ?」
京介,「親父さん? なんで、家庭の心配までするんだ?」
ハル,「いえ、なんとなくそう思ったんです」
心配しているといいながら、宇佐美の顔に表情はなかった。
ハル,「ほら、家族は、似るもんじゃないですか」
京介,「…………」
ハル,「浅井さんみたいにお父さんがすごい方だと、息子もすごい人になるじゃないですか。いろんな意味で」
京介,「どういう意味だ」
こいつは、権三を知っているわけではないだろうに。
ハル,「だから、椿姫が疲れてると、家族も……そう、まるで鏡のように元気をなくしていくんじゃないですかねえ」
京介,「鏡のように、ねえ……」
妙に引っかかる言葉だった。
京介,「なら、お前の親は、お前みたいに妙な人なのか?」
ハル,「失敬な……知らないわけじゃないでしょう?」
京介,「知るかよ、お前の親なんて」
……ったく、くだらんことばっかり言うな、宇佐美は。
なにが、鏡だ。
ハル,「んでは、また。浅井さん、今度お話したいことありますので、そのときはよろしくお願いします」
京介,「なんだよ、いま言えよ」
ハル,「いえいえ、他愛もないギャグですので」
京介,「さっさとバイト行け!」
手を振って、追い払った。
栄一,「さて、どうするよ?」
京介,「んー、たしかに、おれとお前でパーティはなあ……」
栄一,「サムイよ、マジで。オレとお前とチャーリーとかマジサムイって」
……女が必要らしい。
栄一,「お前、友達呼べよ。年上の女医とか」
京介,「えー……」
栄一,「ほらあの、ミキちゃんって娘は? お前のセフレの」
京介,「セフレじゃねえよ。ミキちゃんは、ダメだ」
そういえば、しばらく連絡を取ってなかったな。
元気かな、ミキちゃん。
栄一,「じゃあ、椿姫が来るまでナンパしようぜ? お前の財布とオレのスイーツ知識があればどうにでもなるって」
京介,「めんどくせえなー」
栄一,「んだよ、グズグズしやがって。ほら、行くぞっ」
京介,「お、おい、ひっぱんじゃねえよ……」
;背景 繁華街1 夕方
セントラル街の路上。
行き交う人々に混雑した歩道で、栄一が張り切っていた。
栄一,「おい女」
ビシッと、指を突き刺した。
栄一,「メシ食いに行くぞ」
……いきなり人様の目の前に立ちふさがってメシ食いに行くぞはねえだろ……。
案の定、女の子は気味悪そうに栄一を遠巻きに眺めながら、足早に去っていった。
栄一,「けっ、クソがっ!」
京介,「いやいや、栄一さんよー」
栄一,「なんだよ、オメーももっとやる気と財布だせよ」
京介,「もうちょっと、工夫しろよ」
栄一,「オレに意見する気かよ?」
京介,「お前はかわいい系で売ってるんだからさ、その路線を活かせよ」
栄一,「わーったよ」
つーか、かわいい系で売ってるヤツに、そもそもナンパなんて向いてないわけだが。
栄一,「ねえ、お姉さん……」
そうこうしているうちに、栄一がまた新たな女性に声をかけていた。
栄一,「あのね、聞いてくれる? ボク、手相の勉強してるんだ。ちょっといいかな?」
女性は、栄一を見向きもしなかった。
京介,「おいおい、手相の勉強とかなんだそれ?」
栄一,「オレなりの工夫だよ。女は占いとか好きだからなー」
……ダメだわ、コイツ。
;SE 携帯
突然、携帯が鳴った。
京介,「はい、もしもし……」
椿姫,「あ、浅井くん、ごめん」
椿姫か。
椿姫,「ごめん、ちょっと遅くなりそうなんだ」
京介,「なんかあったのか?」
椿姫,「んーん。ちょっと、広明が……」
京介,「あ?」
椿姫,「いや、かまって欲しいみたいで」
そういや、昨晩、広明くんがそんなこと言ってたな。
京介,「じゃあ、また連絡くれ。おれたちはてきとーにやってるから」
椿姫,「ごめんね、なるべく急いで行くから」
別に急いでもらう必要はないんだが……。
と、言おうとしたときには、通話は切れていた。
栄一,「なんだって?」
京介,「椿姫、遅くなるってさ。なんでも、弟と遊んでるらしい」
栄一,「なんだよ、またあの弟かよ。わがままなガキだぜ」
京介,「子供は、そんなもんだろ」
栄一,「椿姫も苦労してんなー。遊ぶ暇とかないんだろうなー」
京介,「そうだろうな」
栄一,「あいつって、化粧っけもぜんぜんねえじゃん。服も毎年似たようなの着てるしさ。まあ、そこがちょっとオレちゃんのなかで評価高いわけだけど」
京介,「評価高いんだ?」
栄一,「なんつーの? 清く正しい感じがするじゃん。貧乏だけどがんばりマス、みてーな。萌へるじゃん」
京介,「萌へるかねえ……」
おれは逆に、気に入らなかった。
とくにいままでの椿姫は。
栄一,「あー、ナンパ飽きた。ゲーセンでも行って時間潰そうぜ」
京介,「まあ、いいぞ。おれは観てるだけだが」
ゲームは無駄に金を使うからな。
おれたちは、椿姫からの連絡があるまで、セントラル街をふらついていた。
;背景 繁華街1 夜
栄一,「気づいたら、もう、十時じゃね?」
京介,「だなあ……」
椿姫からは、まだ連絡がなかった。
栄一,「さすがに、お開きにするか。椿姫には悪いけど」
京介,「さすがにな。椿姫には、おれから言っておくわ」
栄一,「じゃあ、帰るわー」
京介,「おお」
栄一はさっさといなくなった。
京介,「…………」
帰る前に、少し、仕事でもしておこうか。
カイシャに顔を出しておくのも悪くない。
最近は、幹部の方がよく働いているみたいで、おれがでしゃばる必要もないんだが。
いくつかの助言を求められることはある。
おれの助言というより、権三の威を借りたいだけなんだろうが……。
;場転
椿姫から電話があったのは、さらに一時間ほど過ぎてからだった。
京介,「やけに遅かったな」
椿姫,「ごめん、いまどうしてる?」
京介,「いや、とっくに解散になった」
電話越しの椿姫は、いらだっているようだった。
椿姫,「なんだ……そっか。残念だな……」
京介,「まあ、パーティなんざいつでもできるし」
椿姫,「浅井くん、明日は?」
京介,「は?」
椿姫,「明日、空いてない?」
京介,「なんか用か?」
椿姫,「えと、今日の、埋め合わせみたいな……」
京介,「また遊びか?」
椿姫,「それだけじゃなくて、ちょっと、お父さんがお話ししたいみたいで」
京介,「……親父さんが?」
土地の話かな?
京介,「わかった。なら、そっちに出向くよ。午前中でいいか?」
椿姫,「助かるよ。そのあと、ちょっと出かけたりできるとうれしいな」
……とことん遊びたいらしいな。
京介,「よし、いいだろ」
おれは何気に、椿姫に心を許し始めていた。
なにからなにまで口にする気はないが、そういったおれの裏事情について少し話してみてもいいかもしれない。
ストレス発散にもなるし、そういうことを話せる相手が一人いてもいいだろう。
椿姫はおれに従順みたいだしな。
ちょっと前までは気に入らない部分もあったが、いまの椿姫なら金回りの話になんかも興味を示しそうだ。
京介,「ちょっと、高めのレストランとか行くか?」
椿姫,「え? 連れてってくれるの?」
京介,「もちろん割り勘だが。お前のことだから、貯金はけっこうあるんだろ?」
椿姫,「けっこうあるよ。いままで、お金の使い方とか知らなかったから。そういうことも教えて欲しいな」
京介,「悪いことたくさん教えてやるよ」
冗談めいた口調で言うと、椿姫も嬉々として笑っていた。
椿姫,「あのね、聞いてくれるかな。広明がさ、さっきやっと眠ってくれてさ……」
京介,「それで、来れなかったんだな?」
椿姫,「そうなの。わたし、そういうのばっかりだよ……」
京介,「貧乏くじ引いてるってか?」
椿姫,「そうかも。クラスでもさ、委員やってるけど、最近、なんでわたしなんだろうって思うの」
電話は長く続きそうだった。
椿姫,「あとさ……お父さんがね……」
帰宅の路に着きながら、おれはいつしか椿姫との会話に夢中になっていた。
椿姫,「あー、これからまた引越しの準備だよ。お父さんももっと手伝ってくれればいいのに……」
平気で愚痴をこぼす椿姫。
どこか口調まで変わった。
おれはといえば、なにか大切なものを貶めたような気がして、けれどそれが逆に嗜虐心を沸かせた。
下劣な気分ではあったが、人を貶めて得られる快楽というものが本当にあるのだと、この歳になってようやく知った。
椿姫のように清潔な女がおれのような人間に近づいてくるのが、正直、心地よかった。
;黒画面
……。
…………。
親父さんの相談というのは、他愛もないものだった。
おれを呼び出すための口実だったようだ。
別に、悪い気はしない。
そういうところが少しもないヤツのほうが、異常なんだ。
姿見の前で着飾る椿姫には、わずかとはいえおれを欺いたという気持ちもないのだろう。
それで、いい。
京介,「椿姫、そんな服、いつの間に買ったんだ?」
椿姫,「通販だよ。最近は、インターネットでなんでも買えるんだね。すぐ届くし、便利だよね」
京介,「知らなかったのか?」
椿姫,「うん、興味なかったから。なんだかすごく損してた気分」
浮かれた表情ではあるが、若干やつれていた。
京介,「日記は、最近書いてるのか?」
椿姫,「ううん、ぜんぜん。書く暇なんてここんところなかったから」
目つきはぼんやりとして、どこか虚ろだった。
椿姫,「はーあ、もう、日記なんてやめようかな。いまどきないよね、日記が趣味とか。どう思うかな?」
京介,「本気でそう思うのか? 椿姫といえば、日記だったが?」
椿姫,「……ん」
眉を寄せた。
広明,「ねえ、お姉ちゃん」
椿姫,「え? なあに、広明?」
広明,「かくれんぼしよー」
椿姫,「あとでね。それより、これ、似合う?」
椿姫は、洋服を掲げて弟に見せつけた。
広明,「んーん」
椿姫,「……あれ?」
……子供は正直なもんだな。
広明,「お姉ちゃんは、前にボクがいいって言った服が好きなんじゃないの?」
椿姫,「あの、パーカー? あれは、もう、ずっと着てるじゃない?」
広明,「うん、それで、お姉ちゃん、ボクのお友達に貧乏ってあだ名つけられた。でも、それでも好きって言ってたよ?」
椿姫,「…………」
広明,「どしたの、お姉ちゃん?」
椿姫,「浅井くんはどう思う?」
助けを求めるように、おれに目を向けてきた。
京介,「さあな。どっちかっていうと、新しく買った服のほうが似合うかもな」
椿姫,「そう? そうだよね?」
京介,「意外な感じがして、いいんじゃないか?」
椿姫はうれしそうに声を弾ませる。
椿姫,「よかった。こういうの着ないと、浅井くんに恥かかせちゃうもんね」
京介,「そんなこと気にしなくていいぞ……」
椿姫,「ううん。だって、浅井くんの私服って、高いんでしょう? 街で並んで歩いてたら恥ずかしいじゃない?」
京介,「本気でそう思うのか?」
おれは椿姫の心情を探るように首をひねった。
椿姫,「え? なにか変かな?」
京介,「いや、おかしくはないよ。普通の感覚だな」
椿姫,「よかった。最近、ちょっと疲れてるみたいでね。思ったこと、すぐ言っちゃうことがあるの。変だったら言ってね」
おれは、黙ってうなずいた。
広明,「ねー、お姉ちゃん」
広明くんは、相変わらず椿姫の足元でうろちょろしている。
椿姫,「お父さんに遊んでもらいなさい」
広明,「だって、お父さん、引越しだもん」
親父さんは、朝からずっと荷物をまとめているようだった。
椿姫,「お姉ちゃんたち、これからでかけるの……!」
声を荒げた。
広明,「どこ行くの? ボクも行くー」
椿姫,「ダメだったら……もうっ!」
;背景 椿姫の家 居間
椿姫は弟の小さな手を乱暴に振り払った。
広明,「あっ……」
椿姫,「……っ」
瞬間、怯えのような表情が顔に浮かんだ。
椿姫,「い、行こう、浅井くんっ!」
弟を見向きもせず、足早に玄関に向かう。
おれは、ただ、椿姫に従った。
;背景 椿姫の家 概観 夜
; ※昼の間違い?
椿姫,「はあっ……はあっ……」
肩で息をする椿姫には、これから遊びに行けるような余裕はまったくうかがえなかった。
椿姫,「あ、うっかり、これ着てきちゃった」
いつも来ているコートを、不機嫌そうに触っていた。
おれはひどく冷めた気分で、椿姫を見つめていた。
京介,「引越しの準備しなくていいのか? 親父さんががんばってるみたいだが?」
椿姫,「……いいんだよ。ここんところ、わたしが、ずっとやってたし」
京介,「しかし、ついに引越しか……」
伸びをして、古ぼけた家の外観を眺めた。
京介,「生まれたときからずっとここに住んでたんだろ?」
椿姫,「だったら、なに……?」
不安そうに聞き返してきた。
京介,「いや、感慨深いものがあるんだろうなって……」
椿姫,「あるにはあるけど……」
歯切れ悪く言いながら、視線を這わす。
椿姫のぼんやりとした目が、家のある庭を見つめていた。
京介,「どうした?」
椿姫,「ううん……よく、あそこで花火したなあって……」
京介,「へえ……」
椿姫,「秋になるとね、みんなでお芋焼くの。お父さんが張り切っちゃって、火事になりそうだったこともあったの」
椿姫,「一番下の子がね、初めてハイハイしたとき、縁側から落っこちちゃってさ。あのときは大騒ぎで……」
椿姫,「それで……」
椿姫,「…………」
しぼんでいく、明るい笑顔。
京介,「なあ、椿姫……」
おれはゆっくりと、そしてできるだけ優しげに椿姫の肩に手を置いた。
京介,「新しい家でも、たくさんいい思い出は作れるだろう?」
京介,「おれも間取りは見たが、いい部屋じゃないか。おれの家も近い。今度は、お前の家族におれも混ぜてくれよ」
京介,「おれは、あまり家族との交流のない生活を送ってるし、正直、温かいみそ汁が恋しい夜もある」
椿姫,「……浅井くん」
椿姫は、そっとおれの手を取った。
京介,「誘拐だの立ち退きだの、嫌なことが続いてストレス溜まってるんだろうが、これから楽しくやればいいじゃねえか」
椿姫,「浅井くんにそう言われると……なんか元気でるな」
熱を帯びたように、頬が染まっていく。
京介,「じゃあ、街に出ようぜ」
椿姫,「……うん、あ、待って……」
不意に、椿姫が首を傾げる。
椿姫,「浅井くんって……」
京介,「ん?」
椿姫,「ううん、ごめん。なんだかね、そういう話し方するときの浅井くんってちょっと違うなって思ったの」
京介,「たしかに、学園にいるときのおれとは違ったかな」
椿姫,「あ、そうじゃなくて……」
椿姫,「なんだろ……」
また不意に、小さく笑った。
椿姫,「犯人みたいなしゃべり方だなって、思ったの。ごめんね」
おれもつられて笑う。
京介,「おれが"魔王"かよ。宇佐美みたいなこと言うなよ」
椿姫,「え? ハルちゃんに疑われてるの? ひどいな。浅井くんが犯人なわけないのにね」
京介,「まったく、宇佐美には困ってるよ」
椿姫,「気にしたらダメだよ。わたしは信じてるからね。浅井くんがいなかったら、広明も返ってこなかったかもしれないんだし」
京介,「おれはたいしてなんもしてねえよ。それより、いいかげん出かけようぜ」
椿姫,「そうだね、寒いしね」
おれたちは、互いに似たような笑みを携えながら、家を離れた。
;背景 セントラル街 夕方
京介,「とりあえず満足か?」
椿姫,「うん、化粧品なんて初めて買ったよ」
京介,「ちょっとだけ、クラスの女の子連中に近づいたな」
椿姫,「みんな、やってるもんね」
京介,「おれも厚化粧は好みじゃないが、目の下のクマくらいなら隠して欲しいかもな」
椿姫,「ごめんね、そういうの疎くて」
歩きながら雑踏を抜ける。
椿姫,「あ、ごめん、電話」
買ったばかりの椿姫のケータイにはたびたび着信があった。
椿姫,「……うん……わかんないよ……うんっ……」
手を添えて小声で話す椿姫は、不機嫌そうだった。
京介,「どうしたんだ?」
椿姫,「また家から。お母さんのバッグ知らないかって。そんなのわたしが知るわけないのに……」
椿姫,「まったく、わたしがいないとなんにもできないんだから……」
京介,「帰るか?」
椿姫,「ううん、まだ平気だよ」
すぐさま首を振った。
ハル,「おや? 浅井さんじゃないすか?」
背後から宇佐美の声がして、振り返る。
ハル,「おやおや? 椿姫もいっしょですか。これはこれは」
椿姫,「ハルちゃん、どしたの?」
京介,「よくばったり会うよな? おれのあとつけてんのか?」
ハル,「そんないきなり二人して詰問してこなくても。自分はバイトの帰りにちょっと、駅に寄ってただけです」
京介,「駅に? どこか行くのか?」
ハル,「いえいえ、証拠でもないかなと」
京介,「証拠だって?」
しかし、こいつは、知ってか知らずかおれをひきつけるようなしゃべり方をするな。
ハル,「あ、いえいえ。デート中に話すようなことでもありませんです、ハイ」
椿姫,「浅井くん、行こう?」
京介,「ちょっと待てよ。なんだよ、なにか犯人の足取りでもつかめたのか?」
ハル,「いいえ。まったく」
宇佐美は顔色一つ変えない。
京介,「お前、きのう、なにか話があるとか言ってなかったか?」
ハル,「え? いいましたっけ?」
京介,「……お前な」
ハル,「あー、なんか口走りましたね、自分」
京介,「もったいつけるなよ」
宇佐美はさらりと、けれど無表情に言った。
ハル,「はい、では言います。あなたが"魔王"です、浅井さん」
断言した。
あまりに突拍子もない言い方だった。
おれの右の頬がひきつっていく。
ハル,「あなたは前もって、駅のコインロッカーの鍵を複製しておいたんです」
京介,「……なんだと?」
ハル,「あの身代金を巡る追走劇のなかで、駅のコインロッカーに身代金が収められたことがありました。そのとき、わたしはあなたに、不審な人物が来ないかどうか見張っておいて欲しいと頼みましたね?」
京介,「ああ……たしか、椿姫がロッカーの鍵だけを持って街中を走り回ってたときだろ?」
宇佐美はうなずいて続けた。
ハル,「あなたは、前もって用意しておいたコインロッカーの鍵を使い、ようようと身代金の株券を手に入れたんです」
京介,「冗談もそのへんにしろって。駅の鍵を複製したって? おれが? いつ?」
ハル,「あなたは事件当日、仕事があるといって行方をくらましていましたよね? 鍵の複製なんて、その辺のお店で三十分もあればやってもらえます」
京介,「記憶にない」
ハル,「いや、盲点を突かれました。トリックそのものは単純ですが、まさか、信用していた浅井さんこそが、犯人だったなんて」
おれは、言葉に詰まった。
おれは犯人では断じてないが、宇佐美の推論をとっさに論破するだけの機転が利かなかった。
椿姫,「ハルちゃん、もういいよ。事件のことは、もうハルちゃんには関係ないでしょう?」
椿姫は、あくまでおれの味方のようだった。
椿姫,「なんか、やだよハルちゃん。いろいろ手伝ってくれたのはわかるけど、けっきょくハルちゃんは、なにも解決してくれなかったじゃない?」
ハル,「…………」
宇佐美は、無表情を崩さない。
椿姫,「せっかく、こうしてやなこと忘れようとして遊んでるのに……」
京介,「まったくだ。とっとと行こうぜ」
椿姫をうながしながら、軽く頭を振る。
少し、めまいがする。
京介,「おい、宇佐美。今日のことは忘れてやる」
ハル,「そすか。ありがとうございます。では最後に一つだけ」
椿姫,「ハルちゃん!」
ハル,「もし、わたしの言ったことに心当たりがあるのなら、すぐに自首してください。警察はすぐに証拠をあげるでしょう。近場の鍵屋さんを徹底的に洗うでしょうし、駅には監視カメラもあるんです」
京介,「その警察は動いていないんだろう?」
ハル,「ええ、ですから、残念でしかたがないんです」
京介,「話にならんな」
椿姫の手を引いた。
ハル,「…………」
椿姫,「じゃあね、ハルちゃん」
宇佐美は、軽く会釈して歩き去っていった。
椿姫,「気にしないでね、浅井くん……」
京介,「ああ……」
……宇佐美め、まだあきらめていなかったのか。
しかし、警察さえ出てこなければ、だいじょうぶだ……。
……む?
なにが、だいじょうぶなんだ?
深く考え込む。
……いや、おれは、浅井興業と総和連合に警察の手が入らずに済むことを願っているだけだ。
おれが、"魔王"であるはずがない。
そういえば、最近秋元氏のところに行っていないな。
椿姫,「どうしたの? だいじょうぶ、わたしはたとえ浅井くんが"魔王"でもいいよ?」
軽口のつもりだろうが、あまり笑えなかった。
椿姫,「さ、ご飯食べに行こう?」
椿姫は改めて手を差し伸べてくる。
おれに従順な椿姫。
気持ちを切り替えて、椿姫と楽しもう。
;背景 公園 夜
椿姫,「あー、すっごい、楽しかったー」
両腕を振り上げて、伸びをした。
こういう仕草も、以前の椿姫にはないものだった。
京介,「今日は一日遊んだな。満足か?」
椿姫,「うん、ご飯もおいしかったー」
京介,「金があるって素晴らしいだろ?」
椿姫は大いにうなずいた。
椿姫,「なんか見聞が広がるよね。いままでそういうの興味なかったけど、お金ってとっても大事だね」
京介,「金はさ、使いようによっては、どんなもんでも買えるぞ」
椿姫,「どんなものでも? たとえば?」
京介,「お前の気持ちとかな……」
冗談ぽく言った。
;/////////////////旧BADEND跡地/////////////
椿姫,「え? や、やだなあ、それにはお金なんていらないよ?」
京介,「あー、すまん、ギャグだよ。どうもおれのギャグは半スベりだな」
人気のない夜の公園で、笑いあう。
それなりに楽しかった。
おれが、もう少しまともな人間なら、こういう毎日の積み重ねで、椿姫に愛情を抱くのかもしれないな。
寂しい気持ちもあった。
椿姫と別れるのが、なぜか名残惜しい。
椿姫,「ねえ、浅井くん、明日は?」
京介,「お、またお誘いか?」
椿姫,「うん、ダメかな?」
……明日は、さすがにやるべき仕事がある。
椿姫,「浅井くんってお父さんのお仕事手伝ってるんだよね? それで忙しいんだよね? どんな仕事なのかな?」
まくしたてるように尋ねてきた。
京介,「興味あるのか?」
椿姫,「うん」
おれは少しだけ思案した。
仕事をする上で、長らく望んでいたことがある。
秘書……というとずいぶん偉そうだが、つまり助手のような人間が欲しいのだ。
ちょっとした書類をまとめたり、郵送に行ったり、メールをチェックしてもらったりと……細やかな作業を任せたい。
浅井興業の人間はダメだ。
実力はあっても、おれに従順なわけではない。
彼らは皆、おれではなく権三に忠誠を誓っているのだ。
そう遠くない将来、おれはおれの組織を持たなくては。
そういった意味で、椿姫はうってつけの人材といえる。
この闇社会で、女はそう表には出せないが、使い道はいくらでもあるだろう。
京介,「明日、ちょっといっしょに動いてみるか?」
椿姫,「え? どういう意味?」
京介,「手伝って欲しいんだよ」
椿姫の顔に当惑の表情が浮かぶ。
椿姫,「わ、わたしなんかでいいのかな?」
京介,「だいじょうぶだよ。お前は真面目で几帳面だから」
椿姫,「ほんと? うれしいな。でも、びっくりだな」
興奮して漏れた息が、寒さに白く染まっていた。
京介,「もちろん、誰にも言わないでくれよ?」
椿姫は目を輝かせて、おれの声に聞き入っていた。
椿姫,「ぜったい、言わないよ。約束するよ」
京介,「なら、明日また改めて連絡する」
椿姫,「必ず出るようにするよ」
京介,「必ずだぞ」
念を押すと、椿姫の顔が強張った。
京介,「明日おれは、学園を休む。でも、お前は学園だな。授業中でも電話に出られるか?」
椿姫,「え?」
さすがに、不安になってきたようだ。
京介,「おれはいままでけっこう休んでるだろ? たまに本当に頭痛がひどくて休むこともあるが、たいていはカイシャのためだ」
椿姫,「カイシャ……? お仕事のことだね……」
京介,「納得したか? おれにとって学園は、息抜きの意味合いしかない場所なんだ。仕事を手伝ってるってのは嘘で、あくまで、カイシャの仕事がメインなんだ」
椿姫,「知らなかった……すごい人だなって思ってたけど、そうなんだ……」
京介,「だから、電話があったら、すぐに出てくれ。それぐらいシビアな仕事でもある」
一歩詰め寄った。
京介,「約束できるか?」
椿姫は、息を呑んだ。
椿姫,「わ、悪いことしてるわけ、じゃないよね?」
京介,「当然だろ。法律に触れるようなことはしてないよ。悪いことなんて一つもないよ」
たまに犯罪すれすれのグレーなラインを踏むこともあるが、いまは教えなくていいだろう。
椿姫,「……えっと」
迷っていた。
けれど、ここまで話した以上、逃がすわけにはいかない。
京介,「こんなことを話すのは椿姫が初めてだ。正直なところ、いままで誰にも打ち明けたことがない」
最初は小さく、低い声でゆっくりと話す。
京介,「なんせおれみたいなガキが、社会人の真似事をしてるわけだからな。みんな信じないし、苦労なんてわかってもらえるわけもない」
徐々に口調のテンポを上げ、そのうち感情に訴える。
京介,「でも、お前は別だ、椿姫。縁あって仲良くなれた。誘拐っていう悲劇を通じてだけど、お互いに知りえた部分は多かったはずだ。なにより……」
声を張る。
京介,「ここ数日、楽しかった。正直あんまり人に心を許したことはないけど、お前は別だ。椿姫だから、打ち明けた。おれが秘密を打ち明けられるような人間は椿姫しかいない」
何度も名前を呼ぶことも忘れなかった。
椿姫,「…………」
椿姫は目を丸くして、浅い呼吸を繰り返していた。
椿姫,「そんなふうに思われてるなんて……」
椿姫,「うん……わかった……わたしも、明日、学園休んで電話待ってる……」
……これでいい。
別に、緊急で呼び出さなきゃならん仕事なんてないが、問題は、椿姫がおれの言うことをちゃんと聞くかどうかだった。
京介,「じゃあ、明日な」
椿姫,「うん、おやすみ……」
手を振って、別れた。
振り返ると、椿姫はしばらくその場に立ちすくんでいた。
そこに、小さな影が沸いて出てきた。
広明,「お姉ちゃーん……!」
弟だった。
椿姫,「広明、なにしてるの……!?」
広明,「お姉ちゃん、迎えに来たんだよ?」
おれは、姉弟のやりとりを遠巻きに眺めていた。
椿姫,「……まさか、また一人で?」
広明,「んーん。お父さんも、もうすぐ来るよ?」
椿姫,「どうしてお父さんといっしょに来ないの!」
椿姫がまた、ヒステリックな声を上げた。
椿姫,「お姉ちゃん言ったよね? もう、一人で勝手に出歩いちゃだめだって」
広明,「ごめん、でも、お姉ちゃん帰ってくるって言って帰ってこなかったから」
頻繁にあった電話のなかで、椿姫は帰宅時間を家族に告げていたようだ。
椿姫,「だから、何回同じこといわせるの?」
椿姫は、しゃがみこんで、弟に話しかけていた。
京介,「…………」
しかし、あの弟には手を焼くだろうな。
椿姫の気持ちもわからんでもない。
椿姫,「いい加減にして!」
広明,「なにがー?」
田舎の夜は、声の通りがとてもよくて、小さい声でも聞こえてくる。
椿姫,「心配してるの! 広明がまた同じ目に合うんじゃないかって。 どうしてわからないかな?」
広明,「だいじょうぶだよ! ボクはだいじょうぶだって! 一人で保育園から帰ってこれるよ? 一人でお姉ちゃん迎えに来たよ?」
椿姫,「……くっ」
椿姫の低いうなり声が響き渡った。
……立ち聞きもなんだし、そろそろおれは帰るかな。
気にならないこともないが、家族の問題は、おれにはどうしようもないことだ。
去り際、椿姫が言った。
椿姫,「そう……なら、もう、わたしも気にしないから……」
声には、いままでで一番暗い、押し殺すような響きがあった。
;ノベル形式
;椿姫視点
;背景 椿姫の家概観 昼
このところ大気がとても不安定で、深夜から朝方にかけて雪が降っていることもある。時間がたつにつれてアスファルトは乾き、椿姫が目覚めるころには、点々とした模様が路面に残っていた。
 椿姫は、心臓の高ぶりに身を任せ、いずれ置き去りにしてしまう住み慣れた我が家を、棒立ちになって眺めていた。
 足元で蟻が行列を作っていた。蛾の羽の切れ端に黒々と群れ、庭先に運び込んでいる。椿姫のなかでただれるまでに変化した純真さも、新しい春を迎えるための貴重な餌だったのか。突拍子もない誘拐事件が、家族への責任感が、京介への想いが、自分をふさわしい巣穴へと誘導していく。
玄関先から広明が出てきた。子犬のような足取りで、椿姫に迫ってくる。
広明,「じゃあ、出発」
拳を丸め、腰をかがめた直後、おもいっきりジャンプする。花のような笑顔で椿姫を下から覗き込んでくる。弟の仕草は素直に愛らしいと思う。
 これから広明を保育園に送り、その足で学園に向かう。いつもの日課だった。途中でおやつをねだられたら、コンビニに立ち寄るし、遊ぼうと言われたら時間の許す限りかまってやった。
幼い子供だった。わがままにつきあうのも、時間を費やすのも、姉として当然のことだった。
 今日は違う。学園をさぼり、京介の連絡を待つ。場合によっては、広明を迎えに行かないかもしれない。
 弟の手を引いた。脂肪がつまっていて柔らかかった。
広明,「お姉ちゃんの手、ぷにぷにしてるよね」
椿姫,「太ってるっていうの?」
口調が知らずきつくなる。
椿姫,「広明だって、ぷくぷくしてるよ。お菓子の食べすぎじゃない?」
広明,「うん、お姉ちゃんといっしょだね。ボク、お父さんに、椿姫にそっくりだって言われるよー」
椿姫,「そっくり……」
屈託のない弟の笑顔に、椿姫はどこか居心地の悪い気分だった。こういう笑顔をどこかで見ていたような気がする。鏡の前で、それも毎日、飽きるほどに……。
 なぜだろうか。弟のなにが、気に入らないというのか。
椿姫,「……行くよ」
歪んだ感情を抱えた胸から腹にかけて、汗が滴り落ちるのがわかった。
;背景 公園 昼
京介の朝は早いようだ。七時を過ぎたばかりだというのに、いきなり着信があった。
眼下で楽しそうに歌を口ずさむ弟を一瞥し、携帯電話を手に取った。
椿姫,「早いね、浅井くん」
京介,「なにか、まずかったか?」
問い詰めるような感情が伝わってきた。たまに声色が変わることはあったが、いまの京介は学園にいるときとは明らかに違っていた。
椿姫は気圧されるように口を開いた。
椿姫,「だいじょうぶだよ、いまから行けばいい?」
京介,「いま、外にいるな?」
椿姫,「え? うん……」
京介,「こんな時間に表を出歩いているということは、これから弟か妹を保育園に送るのか?」
すらすらと自分の行動を言い当てられて、狼狽した。
京介,「すぐにうちに来てくれ」
椿姫,「いますぐ?」
京介,「すぐだ」
心のどこかで警鐘が鳴っていた。こんなふうに不安が募るのは、"魔王"と呼ばれる犯人と密会したとき以来だ。拒否できる勇気も、また拒否するつもりもなかった。
椿姫,「わかった。急いでいくから、待ってて」
椿姫の返答に、京介は満足したように、ありがとうと言って、電話を切った。
広明,「お姉ちゃん、なあに?」
子供は本当に、人の顔色を読むのがうまいと思った。
椿姫はこれから言い出すべき言葉に喉を詰まらせた。けれど最近になって培った欲求に身をゆだねると楽になった。自分くらいの少女が、親や兄弟といるより、友達と過ごしたほうが楽しいと考えても、なんの不思議もないではないか……。
椿姫,「広明、ひとりで行ける?」
弟は、誘拐された。
椿姫,「行けるよね? きのう、一人でだいじょうぶだって言ってたもんね?」
誘拐の事実を知って、自分の迎えが遅かったせいだと椿姫は泣き喚いた。
椿姫,「お姉ちゃんちょっと、大事な用事があるから、ここでバイバイだよ」
迷いを胸の奥深くに押し込め、それまでの自分と決別する。
そんなに悪いことだろうか。弟を放り出して、大切な人の仕事を手伝う。学園をさぼっているという付録はついているものの、犯罪というほど大げさでもないし、人に軽蔑されるほどの愚行でもないと思う。ちょっとした冒険という程度ではないのか。
 そんなささいなことに、いつまでも気をわずらわせている椿姫は、不意に、自分がとてもちっぽけなものに思えて、腹立たしくなった。
椿姫,「じゃあね……帰りは迎えに来るから」
椿姫の心情など知りもしない弟は、小さく首を傾げた。
広明,「終わるの、お昼だよ? お姉ちゃん、ガッコでしょ?」
純粋な瞳に見つめられ、また冷や汗をかいた。
椿姫,「お姉ちゃんも、終わるのお昼だから」
小さい子供に追い詰められ、口が勝手に嘘をついた。それでも弟を迎えにいくと口にしたのは、椿姫の良心がうずいたからだった。
広明,「じゃあ、この公園で待ってるね。缶ケリして遊ぼう?」
椿姫,「うん……」
たまらず、目を逸らした。
;黒画面。
それから先は、息を潜めるようにして、京介の家まで向かった。電車のなかやセントラル街の人ごみに紛れると、ふと周囲の誰もが椿姫に目を向けているような不安に襲われ、終始落ち着かなかった。
;通常形式
……。
…………。
;背景 主人公自室 夜
; ※変更:朝
おれは椿姫を部屋に上げた。
出迎えると、椿姫はいままでになく暗い顔をしていた。
京介,「よく来てくれたな」
椿姫,「お邪魔します」
京介,「えーっと、お前が来るのは初めてだったか?」
椿姫,「ううん、二度目だよ……」
……そうだったか。
京介,「元気か? 急に呼び出して悪かったな」
椿姫は、いいんだよ、と力なく首を振った。
京介,「悩み事でもあるのか?」
椿姫,「え? なんで?」
京介,「顔に書いてある」
おれはいつの間にか不敵に笑っていた。
京介,「最近ちょっと、家族とうまくいってないみたいだな?」
椿姫,「……やっぱりわかる?」
悪いことをして見つかった子供のような、ばつの悪い顔をしていた。
京介,「ちょっと、いままでが、べったりしすぎてたんじゃないか」
椿姫,「かまいすぎたっていうこと?」
京介,「大家族だから大変なのもわかるが、さしあたってやることやってればいいんじゃないか? とりあえずここに来る前に、弟を保育園に送ってきたんだろ?」
椿姫,「……え?」
京介,「どうした? 送り届けなかったのか?」
椿姫は、黙ってうなずくだけだった。
……どうやら、おれの指示を優先して、弟をほっぽりだして来たみたいだな。
椿姫,「学園も、さぼっちゃったね」
京介,「やっぱりちょっと悪い気がしてるのか? すぐに慣れるぞ」
椿姫,「う、うん……慣れていいものなのかな?」
いいか悪いかなんて自分で決めればいいことだが、おれに従う以上、そんな小さなことで、いちいち気を揉んでいる暇はない。
いままでの真面目で常識的な学園生の椿姫では困る。
悪徳宗教の教祖と信者のような関係こそ望ましい。
教祖の言うことがどれだけ荒唐無稽でモラルを逸脱していたとしても、信者にとっては神の福音となって聞こえる。
椿姫には、信者となる素質があるように思えるがどうだろうか……。
京介,「なあ、椿姫。おれが、どうしてこういう仕事をしているか、興味ないか?」
不意に尋ねられて、椿姫は驚いたように顔を上げた。
おれは柄にもなく、自分自身について語ることにした。
京介,「いまでこそ、こんな裕福な生活をしているが、実はおれはとんでもなく貧乏な暮らしをしていたことがあるんだ」
椿姫,「……え? ほんと?」
ため息をついて、目を丸くした。
なにかの本で読んだが、人間は不思議と、相手の過去を知ると親近感を抱くものらしい。
椿姫には、もっともっとおれに近づいてもらわなきゃな。
京介,「中学にあがりたてのころかな。うちはそれまでそれなりに幸せな家庭だったんだが、ちょっとした事件から、なにもかもおかしくなったんだ」
椿姫,「……事件?」
京介,「自分で言っといてなんだが、まあ、その話は、ちょっと勘弁してくれ。頭痛の種なんだ」
椿姫,「わかった、ごめんね……」
おれは、少しずつ昔を振り返っていく。
京介,「話しても信じてもらえるかどうかわからないが……」
前置きして、切り出す。
記憶を、浅く巻き戻した。
過去をたどると、まぶたの裏のスクリーンには、いつも同じ光景が宿る。
うす暗い部屋で、おれは一人、沈んでいる。
京介,「北海道の片田舎」
京介,「牛の寝藁や餌が収納された納屋のすぐ隣に、おれと母さんが住む部屋があった」
京介,「真冬になれば気温は毎日氷点下だが、部屋の窓は二重じゃなかった」
京介,「牛の異臭が立ちこめる和室の畳には、ムカデやクモが、髪の毛や米粒を巡ってよく戦争をしていたな。北国なのに、小さいゴキブリを見たときは、さすがにひいた」
椿姫,「ど、どうして……そんな生活を?」
京介,「……父さんが、家を破滅させていたからだ」
椿姫,「お父さん?」
京介,「ああ、おれがよくパパっていってるのは、義理の親父でね。わけあって、養子に入ったんだ」
京介,「父さんは、すでにそのとき家にいなかった」
京介,「死んだのでも、蒸発したわけでもないが、莫大な借金を暴力団に作ってしまっていたんだ」
京介,「だから、おれは母さんと二人で逃げるように、居場所を点々としていたわけだ」
京介,「そして、最後に流れ着いたのが、いま言った豚小屋みたいなところだった」
椿姫,「…………」
京介,「部屋を貸してくれたのは、遠い親戚にあたる人だった。カンヌさんとか呼ばれてたな。そういう呼び方は地元では差別的な意味合いがあったらしいが、おれにはよくわからん」
京介,「路頭に迷っていたところを住まわせてもらってなんだが、カンヌは前科もちのろくでなしだった」
京介,「日雇いの仕事をしていたみたいだが、たまに稼いだ日銭をちらつかせては、母さんをいびっていた」
京介,「母さんも細々と働いていたが、小さな村でよそ者に与えられる仕事なんてたかが知れていた。けっきょくは、カンヌの言いなりになるしかなかった」
京介,「一番困ったのは灯油だった。田舎だと、信じられないくらい値段が跳ね上がることがある。鼻水が凍るような寒さのなかで暖が取れないっていうのは、死ねと言われているようなもんだった」
京介,「母さんはなにをさしおいても先にストーブの燃料を買い込んでいたが、日に日に足りなくなっていった」
京介,「一日に二時間だけ保障期間の過ぎたオンボロストーブに火をつける。そんなとき、おれは母さんと毛布にくるまって、いろんな話をしていた」
京介,「もっとお金があればいいのに……おれはいつもそんなことを言っていた」
京介,「新聞配達をしたいと頼んだが、母さんは許さなかった。早朝はとても冷えるとおれの体を気づかっていた。雪山を踏み分けての配達は、子供にはとてもきついものだからだ」
京介,「それでも灯油は減っていく。どうやら豪雪で村全体が供給不足に陥っていたらしい。一日二時間の幸福な時間は、半分の一時間になった」
京介,「おれは、中学のクラスメイトに……といっても学年全体で五十人もいない小さな学校だが……灯油をわけてもらえないかと頼んだ」
京介,「結果は、乞食とかいうあだ名がついただけで、なにも得るものはなかった。貴重な灯油を無駄づかいしているから足りないんだと、相手にされなかった」
京介,「無駄づかいなんてしていないはずだった。だが、ひょっとして、みんなは、もっと我慢しているのではないかと、少し反省しながら家に帰った」
京介,「言われてみれば、少しおかしかった。灯油の減りがやけに激しかった。母さんが、日中、こっそりストーブを炊いているのだろうかといやな妄想にも襲われた」
京介,「そして部屋に戻る直前、カンヌと出会った。ヤツは、おれの姿を認めると、突然怒り出し、禿げ上がった頭を振り乱して言った」
京介,「『誰のおかげでここに住ませてもらっているのか』。ヤツの手にはポリタンクがあった。おそらくおれの家から盗んだ灯油が、たっぷりと揺れていた」
京介,「おれはヤツを問い詰めた。熊みたいな大男でいつも酒で顔が赤らんでいた。だが口論をしていると、近所から人がやってきた」
京介,「カンヌはずる賢いヤツだった。外面と内面をうまく使い分けていた。外では身寄りのない親子を助けた善人として振舞っていた。当然、悪いのはおれということになった」
京介,「それでも、担任の先生に相談したことがある」
京介,「だが、そこでおれは、おれとおれの母親が、村の連中からどう思われているのかようやく知った」
京介,「母さんが、場末のスナックで働いているのが悪評の原因らしい」
京介,「たかがスナックだぞ? 売春しているわけじゃあるまいし。ど田舎の北海道弁で母親を、まるで女郎のように罵られた」
京介,「勢いでおれは母さんに、村を出て行くよう頼み込んだ」
京介,「でも、母さんは、少し疲れ過ぎていた。優しい人だったが、少し疲れていたんだな……どこにも行き場がなかったから、しかたがなかったんだな……」
京介,「…………」
京介,「ある日を境に、一晩中ストーブがこんこんと火を灯すようになった」
京介,「カンヌの態度も変わった。おれに媚びるようにモノを買ってくれるようになった。糞ガキと呼ばれなくなった。夕食を三人でともにすることもあった」
京介,「ガキのころのおれは、カンヌのような偽善者が、なぜ、おれたち親子を助けたのか、その理由を考えなかった」
京介,「おれは見た」
京介,「手足を押さえつけられて、悲鳴を上げる女の人を」
京介,「うちの部屋だった。学校を病気で早退したのがまずかったのかもしれない」
京介,「酒の匂いがひどくてむせた。一升瓶が中身をぶちまけて倒れていた」
京介,「それを飲んでいた大男が、丸裸の下半身を隠そうともせず、おれをにらみつけた。黄色く濁った目。岩みたいに角ばった顔。こぶのように隆起する腕の筋肉」
京介,「肉体労働で養われた屈強な体に、おれは恐怖に身がすくんだ。圧倒された。胃が飛び出るほど殴られ、倒れこんだら背骨が折れるほど蹴り込まれた」
京介,「母さんが泣いておれをかばった。ヤツは汚い言葉を浴びせて母さんの髪を引っ張った。そのまま酒臭い口を母さんに近づけながら、ぎらついた目だけおれに向けた」
京介,「――『きょうすけぇ、くやしいか!? なんまくやしいか!? くやしいなあ!? ぜんぶおまえらのせいだべ! 金さもってないおめえらのせいだべっ……!!!』」
京介,「ヤツはとにかく、まくしたてた。自分こそが、薄汚い牛小屋の支配者なのだと。嫌なら出て行けと、お前らは家畜だと。畜生をどう扱おうと勝手なのだと、勝ち誇っていた」
京介,「――『家畜のくせに文句たれるなら、おみゃあがはたらけぇっ。ああっ、きょうすけぇっ。おみゃあ、母さん食わしてやれるんか? 家借りて、学校いって、生活できるんか?』」
京介,「母さんが手をついて謝った。私たちが悪かったと。同時におれに強がった。私はだいじょうぶだと。さあ早く、ヤツに謝ってくれと」
京介,「おれは、母さんに従った」
…………。
……。
;背景 主人公自室 昼
椿姫は肩を震わせて、雷にでも打たれたかのように、呆然と立ちすくんでいた。
京介,「長くなったが、どう思った?」
椿姫,「…………」
椿姫は眉根を寄せて、つぶやいた。
椿姫,「ひどい人だなって……お母さんが、とても不憫で……」
おれは、しらけた気分になった。
京介,「あー、そういうのはいいんだ。ヤツはゲスで、母さんはかわいそう。それはたしかにそうなんだが、おれが言いたいのはな、椿姫……」
一息ついて言った。
京介,「あのとき、この部屋にある金のほんのわずかでも、持ってたらってことだ」
椿姫,「いや、でも、浅井くんは中学生だったんでしょう?」
京介,「セントラル街に行ってみろよ。どう見ても小学生の自称高校生がフードかぶって路上でアクセ売ってたり、イベントのチケットさばいてたりするぞ?」
椿姫,「それは……ここは大きな街だから」
京介,「なんにしてもおれには金がなかった。そりゃあ、少しは運も悪かったのかもしれないが、金がないから運も逃げていったんだ」
そのとき、椿姫が、思いついたように言った。
椿姫,「うちはだいじょうぶかな……?」
京介,「大変だと思うぞ。親父さんから愚痴でも聞いてないか?」
椿姫,「ううん、ぜんぜん……楽観してるのかな?」
京介,「知らんが、もしそうだとしたら、おれの話に少しでも感化されてくれるとうれしいな」
椿姫,「……うん、わたしが、家族を支えなきゃ。みんなわたしに甘えてるところあるから」
京介,「仕事を手伝ってくれれば、いくらか報酬は出せるよ。たいした額は出せないけど、その辺でアルバイトするよりは割がいいと思うぞ」
微笑むと、椿姫も頬を緩めた。
椿姫,「がんばるよ。浅井くんの話し聞いて、ちょっと家族とももう一度向き合ってみる」
京介,「……というと?」
椿姫,「ほとんど広明のことなんだけどね。あの子って、どう思う?」
京介,「さあ……よっぽどわがままに育ってるなあと思うこともあるが……」
椿姫,「そのとおりだよ。わたしが、甘やかしてたんだと思う」
京介,「あのまま大人になったら、逆にかわいそうかもしれんぞ」
椿姫,「保育園の先生にも同じようなこと言われたよ」
京介,「なら言わせてもらうが、正直、おれみたいな日陰もんからすると、ちょっと眉をひそめたくなるようなこともあったな」
腕を組んで、話を続ける。
京介,「なんで、叱らないんだろうってな。真剣に怒ってやったほうがいいんじゃないかとか思うわけだよ」
椿姫,「……最近は、ちょっと叱るようにしてるんだよ?」
京介,「夜、出歩いてたときか?」
おれは短くため息をついた。
……あれは、叱るっていうより、椿姫がただヒステリックにわめいていただけのような気がするが。
京介,「もうちょっと、心を込めたほうがいいんじゃないか?」
椿姫,「そう、かな? どうすればいい?」
京介,「どうすればいいって……」
椿姫,「わたし、あんまり誰かに怒ったことないから、それを相手にどう伝えていいかわからなくて」
京介,「感情に身を任せてみたらいいんじゃないか? 溜まってるもんをおもいっきりぶつけてやれば、相手が子供でもわかってくれるって」
椿姫,「うん……」
椿姫の目に、得体の知れない光が宿った。
椿姫,「やってみるよ」
おれを、じっと見据えた。
椿姫,「今度また、勝手に外に出歩いてたら、そのときは……」
自分に言い聞かせているようでもあった。
京介,「さて、話が長くなったな……」
椿姫,「うん、じゃあ、なにからすればいいのかな?」
京介,「お前って、パソコンは使えるのか?」
椿姫,「インターネットくらいなら」
京介,「とりあえずそこの資料に目を通してくれ」
おれは、テーブルの上に積んだ紙の束を指差した。
それは、総和連合系のビルのリストの一部だった。
ビルの管理業務は広範、多岐に渡るが、浅井興業のビル管理には定評がある。
椿姫,「こ、これ、全部……? 五百枚くらいあるよ?」
京介,「やることは簡単だ。一枚一枚目を通して、そのなかで、付帯設備のある物件を抜き出しておいてくれ」
椿姫,「付帯設備?」
京介,「プールとか駐車場とかだよ、運動場もか。抜き出し終わったら、その物件の名称と電話番号をパソコンに打ち込んでいって欲しい」
椿姫,「……けっこうかかりそうだね……」
京介,「夕方には終わるだろ」
椿姫,「夕方……」
言葉を詰まらせた。
京介,「なんだ? 用事でもあったのか?」
椿姫,「う、ううん、平気だよ……」
京介,「じゃあ、おれは向こうの部屋にいるから。わからないことがあったら呼んでくれ」
椿姫は、いそいそと書類に手をつけた。
;場転
……。
…………。
;SE 携帯
京介,「おい、椿姫。携帯、鳴ってるぞ」
午後になったあたりで、休憩がてら椿姫の様子を見に来た。
椿姫は携帯を手にしたまま、その場に固まっていた。
椿姫,「家からだ……どうしよう」
京介,「どうしようって、出ればいいじゃないか。学園に行っていることになってるんだろ?」
椿姫,「それもそっか……なに慌ててるんだろうね、わたし……」
話をしている間に、通話が切れた。
椿姫,「あ……」
京介,「かけなおすか?」
椿姫,「いいよ。どうせなんでもない用事だと思う。お父さんったら、わたしが携帯もったもんだから、意味なく電話かけてくるの」
そう言って、作業に戻った。
……なかなか、手際がいいようだ。
すでに、パソコンの画面には、建物の名前が羅列されていた。
京介,「いい調子だな」
椿姫,「そう? わたし、こういう単純作業向いてるのかも……」
京介,「助かるよ。やっぱり、椿姫に任せてよかった」
椿姫,「本当?」
うれしそうに目尻を下げた。
椿姫,「ねえ、浅井くん……」
京介,「なんだ?」
椿姫,「広明をね、昼に迎えに行くって、言っちゃったのね」
京介,「……ああ……」
椿姫,「公園まで迎えに行くことになってるんだけどね。さすがに帰るよね? わたしが来なかったら」
京介,「まあ、普通はな……」
椿姫,「だよね……」
京介,「……いいのか?」
おれは詰めるように聞いた。
仕事の途中で帰られるのは、おもしろくない。
けれど、椿姫はすでにおれの期待通りの人間になっていた。
椿姫,「ちゃんと終わらせてから帰るよ。広明は、ひとりでも帰れるからね」
椿姫,「わたし、ちゃんと働いて、ちょっとでも家にお金入れたい。そのほうが、なんていうのかな、家族のためだよ」
京介,「…………」
椿姫,「こういうとあれだけど、けっきょくお金があれば、家を出て行かなくてもすんだわけじゃない? 広明が誘拐されたとき、人にお金を借りずにすんだんだよ」
京介,「だいぶおれよりな意見だな」
口元が、つい、にやけていた。
椿姫,「わたし、浅井くんに出会って良かったな」
京介,「急になんだよ」
椿姫,「だって、浅井くんって、わたしにないものをたくさん持ってるんだもの」
椿姫も、おれにないものを……いや、おれにないものしか持っていなかった。
けれど、けっきょくは、おれのような俗物に歩み寄ってくる。
疑い、欺き、保身に走り、策略をめぐらせる。
それが、いいとか悪いとかではなく、誰でもそうなんだ。
おれは、おれのいままでの生き方が間違っていなかったのだと知って悦に浸っていた。
京介,「じゃあ、もうひとがんばりしよう」
椿姫,「うんっ……」
椿姫は、その後、持ち前の真面目さを十分に発揮してくれた。
帰る直前まで、迷いが吹っ切れたように、てきぱきと手を動かしていた。
…………。
……。
;背景 セントラル街 夕方
;ノベル形式
;椿姫視点
日が落ちるに連れて、急に冷え込んできた。セントラル街の雑踏にまぎれても、寒さは緩まない。
 学校帰りの中高生を、深夜番組のテレビカメラが捕まえてインタビューしている。見慣れた光景だった。マイクを向けられれば有頂天になる。椿姫も、京介に必要とされれば、カメラの前ではしゃぐ少女たちとなんら変わらなかった。
 歩きながら、ふと、通り沿いのショーウィンドウが目に入った。マネキンがハイブランドの洋服を着せられ、媚態を作っていた。
椿姫,「いいな……」
つぶやいてみた。本心からそう言えたのか確かめてみた。わからなかった。ただ、焦燥感が胸に募った。マネキンの手前、ガラスに映った椿姫は、自分でも変化に気づけるくらい、険しい顔つきをしていた。
 寒さに身をよじらせながら、地下鉄を目指した。
;通常形式
;背景 主人公自室 夕方
……。
…………。
椿姫が家を出てしばらくたってから、気づいた。
どこか見覚えのある日記帳。
椿姫が、後生大事にかかえている一品だ。
……こんな大事なもんを忘れるなんて。
日記を書ける人間は心に余裕があるそうだが、最近、あいつが日記を手に取っているのを見たことはない。
……とはいえ、さすがに不必要なものでもないだろう。
おれは、椿姫に電話をかけた。
すると、電波の届かない云々の、機械的なメッセージが返ってきた。
……電車の中か?
電源を切っているあたりが、椿姫らしいというかなんというか。
これからセントラル街に出る用事があるし、その足で送り届けてやるとするか。
コートを羽織って、表に出た。
目の覚めるような冷たい風がすぐにおれを出迎えた。
;背景 公園 夕方
;ノベル形式
;椿姫視点
かぜでもこじらせたのか。頭が重く、額から汗が滲んでいる。熱気の次は、悪寒が襲ってきて体温調節がままならない。椿姫はおぼろげな足取りで公園を歩いていた。
 糸がからまったような膝を、前へ前へと繰り出して、帰宅を急ぐ。
 自分は、なにを慌てているのだろうかと、もつれる足が地面を蹴る速度を緩めた。
 学園をさぼってうしろめたいのだ。
 いや、京介に認められて浮ついているのか。
抱え込んでいた様々な不安が、重石となってのしかかってきた。
 たとえば、宇佐美ハルという転入生。なんの疑いもなく友人として接した。するといつの間にか、ハルを毛嫌いしている自分が出来上がった。
 京介の話を聞いて、家族の借金というものがどれほど恐ろしいことかを思い知らされた。幸いにして転居先は京介が用意してくれたものの、貧しい生活が待っていることに変わりはない。父親が、もっと深刻に対策を練るべきではないのか。椿姫は息苦しくなった。なぜ、わたしばかりが悩んでいるのか……。
 そうして、椿姫の悩みの原因そのものが姿を現した。
広明,「あ、お姉ちゃん、やっときたー……!」
弟が、駆け足でこちらに向かって飛び込んでくる。
 当然のように、待っていた。
 寒さをものともしない、屈託のない笑顔。
 また悪寒に襲われた。さきほど街中のガラスに映った椿姫では、もう二度と、弟のような笑顔は作れないだろう。
悲しくて、腹立たしかった。椿姫は、自分が約束を破っていることをすっかり忘れ、広明をにらみつけた。
椿姫,「なんで帰ってないの」
鬱積した感情が椿姫の心の底にしたたり落ちる。その音が、闇の底で跳ね返って、椿姫の口で声となり、広明の耳へと滑り込んでいく。
椿姫,「困らせるんだ、そうやってお姉ちゃんを……」
;背景 セントラル街
;通常形式
……相変わらず、うっとうしい街だ。
;黒画面
地下鉄に乗って東区を目指す。
座席の端に腰掛けてまどろみながら、椿姫のことを考える。
椿姫は、見る見るうちに人柄を変えていった。
まっさらな半紙に墨を落としたように、ノンストップで崩れていった。
よく、何事も積み上げるのは難しくても崩すのは一瞬というが、そういうものなんだろうか。
椿姫がいままで培ってきた純真さや清潔さも、ひとたび金の問題が発生すればすぐになりをひそめてしまった。
つまりは、その程度のものだったんだ。
椿姫の善良さなんて、あっさりと崩れるようなちゃちなものだったわけだ。
これまで、たいしたものを積み上げてこなかった結果といえる。
たしかに、おれは椿姫に誘いをかけたし、不幸も続いた。
誘拐事件もあれば、莫大な借金に追われ家を出て行く羽目にもなった。
しかし、とおれは思う。
人間がそんなに弱くていいのかねえ……。
いつだって、搾取される側に問題があるんだ。
誰だって騙される方が悪いってことを知ってるんだが、それをおおっぴらに言うと、非難されるから黙ってるだけのこと。
おれの手は汚れているが、おれは正しい。
決意をあらたにして、眠気に身を任せた。
…………。
……。
;背景 公園 夕方
;ノベル形式
;椿姫視点
;雪効果
自制の回路にスイッチは入らなかった。ちらついてきた雪が、理性を凍結させていった。
椿姫,「これで何回目だと思ってるの。一人で出歩いちゃダメだって教えるのは」
ひどく酷薄な声で問うが、愚かな弟は椿姫の変化に気づいていなかった。
広明,「それより、聞いてよ。マサトくんがね、マサトくんってお友達がね、犬買ってもらったんだって。まふまふしてるの。ボクも欲しい。買ってー」
ぴくりと、こめかみで血管が脈打った。
広明,「ねえ、買ってー。チワワっていうの。買ってー」
椿姫,「……いくらすると思ってるの?」
広明,「知らない。高いの? コンビニのアイス全種類買うより高い?」
椿姫,「当たり前でしょう」
そんなこともわからないほど、甘やかしてしまったのか。
広明,「でも、お姉ちゃん、ずっと前ボクに、ゲーム機買ってくれたよ。すっごい高いって、みんな言ってた。うらやましいって言われたよー」
そういう自分は、もう、いないのだ。
椿姫,「お金、ないの」
広明,「嘘だー。お姉ちゃんの貯金箱みたよ。お札がいっぱいだったよー」
椿姫,「人の財布を勝手に見たらだめでしょう?」
広明,「えー? だって、ボクいっつもそのお金でおやつ買ってるよー」
椿姫,「本当は、いけないことなの」
かわいい弟だと思って、なんでも言うことを聞いていたのは間違いだった。
 これから先、椿姫一家には十分な貯蓄はない。もう親から小遣いなんてもらえないし、また、それを弟たちに振舞うこともない。
 皮膚に滲む汗が、雪混じりの風で急速に冷え込んでいく。
広明,「お姉ちゃん、缶ケリしよう」
椿姫,「やだ。寒いし」
椿姫の手が小刻みに震えていた。寒さからくる震えではないことは、あきらかだった。ある黒い衝動を必死になって抑えていた。それをやってしまったら、もうあとには引けない。
広明,「ねえ、やろうよー」
椿姫,「いやだって」
広明,「もし、やってくれたら、ボクなんでも言うこと聞くよ。だから、ほらっ」
小さな腕が伸びて、空き缶を突きつけられた。椿姫の闇が、一滴、また一滴と、器に落ちていく。もう、縁から溢れそうだった。
椿姫,「なんでも?」
広明,「うん」
椿姫,「ならわかるよね。何回もおんなじこと言ってるもんね」
心に蓋を落とすつもりだった。"魔王"によって開かれた暗い門を閉じようと、椿姫はすがるような思いで弟に訊いた。
椿姫,「わかるよね、広明」
広明,「なにかな、教えて? ボク、お姉ちゃん好きだよ。お姉ちゃんのいいつけ破んないよ、ぜったい。だから、遊ぼう。そして終わったら子犬買いに行こう?」
今、椿姫の胸のうちでどういうわけか、"魔王"と京介の声が重なった。
――どうしようもない坊やだ。
 その声に闇の滴が器から溢れ、即座に奔流となった。
 広明!
 衝動が弾け、燻っていた手のひらが、暴力を求めて風を切った。
 差し出されていた空き缶が小気味よい音を立てて飛んでいった。もう、破れかぶれだった。あとは波が浜辺に打ち寄せるように、弟の頬に平手が吸い込まれていった。
痛い。手首が悲鳴を上げる。広明のぷっくらとした頬。かわいいからよくキスをした。ぶった。ぶってしまった。我に返りたくなかった。音を立てて崩れるそれまでの自分。真面目でしっかり者の椿姫。完全に壊れてしまった。
 しつけのために手をあげた。言いわけが浮かぶ。家族なら許される行為ではないのか。むしろよくやったと、言う人はいうかもしれない。しかし、椿姫にとっては高層ビルから飛び降りるような惨事だった。
椿姫,「広明……」
恐る恐る、小さな弟に尋ねた。
 広明は地面に膝をついて、糸の切れた人形のように沈黙していた。
広明,「……お姉ちゃん」
ショックは計り知れなかった。手を上げた本人ですら後悔の念に押しつぶされそうなのだ。信頼する姉が暴力を振るうなどと、夢にも思わないはずだ。
広明,「……もう、なの?」
顔を上げた広明が、きょとんとした表情で首をかしげた。
 動揺に窒息しそうな椿姫には、ぶったの、と責められているように聞こえてならなかった。
直後、へらへらと緊張を緩めた顔が、椿姫の目に飛び込んできた。
広明,「相撲なの、お姉ちゃん……?」
――わけが、わからなかった。
 広明は、泣くどころか、やはり嬉しそうに、椿姫の膝に抱きついてきた。
 その無垢な笑顔がたまらなく嫌だった。いつもどこかで見ていた笑顔。椿姫は鬱々としたどす黒い燻りに火をつけた。勢いに身を任せ、もう一度弟に襲いかかった。華奢な胸板を突き、頬を張り飛ばす。足をかけて、地面に叩きつけた。一生分の凶暴さを吐き出すつもりだった。
広明,「えへへ、えへへ……」
それでも、広明は泥だらけになり、膝を擦り、雪に濡らした笑顔で立ち上がってきた。
 なぜ、泣かないのか。なにが、そんなに楽しいのか。どうして、疑わない、恨まない、泣かない? あからさまな虐めではないか。遊んでやっているんじゃない。言うことを聞かない子供をヒステリックに嬲っているのだ。わたしはお前が嫌いだ。無垢で、無知で、人を疑うことを知らないお前が、憎らしい……!
広明,「お姉ちゃん、もっとしよおぉっ」
語尾の伸びきった甘ったるい声。張られた頬を赤く腫らし、無邪気に尋ねてきた。
 どうやっても椿姫の悪意に満ちた叫びは届かなかった。この子は本当に頭の足りない子なのだろうか。わからなかった。なぜ、何度も殴られて、じゃれていると思えるのか。
広明,「どしたの、もう終わり? あれ、お姉ちゃん……?」
胸奥からこみ上げるものがった。
広明,「寒いの、お姉ちゃん?」
弟は、純真に、椿姫が寒いのだと信じている。
広明,「なんで、泣いてるの? どっか痛かった? ボク、やりすぎた?」
心底心配そうに、椿姫を見つめてくる。
 その目に、もう、限界だった。
椿姫は、悟った。
 弟は己を愛してくれる人だけを瞳に映して育った。これまで限りない愛情を与えていた姉が、自分を脅かすはずがないと信じきっているのだ。
 まるで、鏡のようだった。
椿姫,「広明っ……!」
雪が桜のように舞う。椿姫の心に落ちて、熱を冷ましていった。
;背景 公園
;通常形式へ(京介視点)
……。
…………。
意外な光景だった。
おれは途中から、椿姫とその弟のやりとりを眺めていた。
椿姫,「ごめん、ごめんねっ……痛くなかった……!?」
広明,「んーん、お姉ちゃんこそだいじょうぶ?」
椿姫,「……わたしは、ぜんぜん……」
広明,「だって、泣いてるよ? どっか痛いんでしょ?」
椿姫,「いいの、ごめんね、なんでもないのっ!」
椿姫は、きっと怖いくらいの信頼に責め立てられているのだろう。
広明,「お姉ちゃん、ボクが悪いの? ボクが一人でお外にいくのがそんなに悲しかった?」
椿姫は、頼りなげに首を振った。
おれは椿姫に、指図した。
感情に身を任せて、溜まってるもんをおもいっきりぶつけてやれと。
椿姫,「おねえちゃんが、おかしかったんだよ……」
その結果が、これだ。
どれだけわがままをしようが、椿姫の弟は椿姫の弟だった。
無知でうさんくさいほど純真な椿姫の家族。
広明,「ご、ごめん、ごめんね……ぼく、ボクっ」
椿姫,「ううん、広明は、なんにも悪くないよっ……わたしが嘘をついてたの」
椿姫,「広明との約束をやぶって、学園もずる休みしてたの。さっきだって、遊んでたんじゃなくて、いらいらして、広明をぶったのっ」
椿姫,「ごめん、ごめんねっ!」
まるで鏡を合わせたように、二人して泣いていた。
胸がうずく。
椿姫の人柄を、おれが本当はどう思っているのか、気づかされた。
気に入らないのではなく、憧れていたのではないのか。
幼稚に、嫉妬していたのではないのか。
だから、壊したかった。
……くそ。
関わり合いになるんじゃなかった。
椿姫は、おれがとうてい手に入れられない素晴らしいものを、大切に積み上げていたんだ。
それは、ちょっと風が吹いたくらいじゃびくともしない堅固な家だった。
広明,「ボク、もうぜったい、勝手に出歩かないよ」
椿姫,「そう……?」
広明,「うん、だって、お姉ちゃんといっしょにいたいもん。お姉ちゃんがお外連れてってくれるもん。お姉ちゃんが、ボクの頼みを聞いてくれなかったことないもん」
椿姫,「……っ……!」
椿姫が、顔にゆっくりと笑みを浮かばせた。
椿姫,「ありがとう。なんだか、とっても楽になったよ」
椿姫,「わたしはこれでいいんだね、広明」
椿姫,「誰も疑わないし、お金にも興味ないし、恋愛にも消極的」
椿姫,「それでも、わたしには、たくさんの家族がいるもんね。お父さんが買ってくれたダサいコート着るし、みんなが繁華街で遊んでるときに、わたしは公園で広明と缶ケリするの」
椿姫,「それで、いいんだよね」
椿姫,「ね、広明っ……?」
;背景 公園 夕方 雪
雪が強くなってきた。
おれはこのあとに控えている仕事すら忘れ、その場に呆然としていた。
しゃくぜんとしない。
これ以上、こいつらに感化されたら、おれがおれでなくなるような気がする。
;椿姫の好感度が2以上で以下の文章に
;===========================章节跳转=========================================================
けれど、もう少し、踏み込んでみたいという気持ちも否定できなかった。
引越しを控えた椿姫たちが、どう貧困を乗り越えていくのか。
金という問題を前に、それでも大切なものを培っていけるのか。
そして、宙ぶらりんになったおれの感情がある。
おれは、まさか、椿姫に必要以上に心を寄せているのではないのか……。
京介,「…………」
これ以上、関わるべきか……。
;選択肢
;椿姫と関わる。
;椿姫とは距離を置く。→本筋へ。
@exlink txt="椿姫と関わる。" target="*select1_1"
@exlink txt="椿姫とは距離を置く。" target="*select1_2"
椿姫と関わる。
椿姫とは距離を置く。
;椿姫と関わるを選んだ場合
;椿姫とは距離を置く、もしくは椿姫の好感度が1以下の場合、以下に
;此处进入椿姬线=======================================================================
京介,「…………」
もう、関わるのはやめておこう。
椿姫を助手にするのもやめだ。
あいつには、あいつに相応しい人生があるだろう。
一度決めると、もう迷うわけにはいかなかった。
日記は明日でもいいだろう。
踵を返し、駅に戻る。
姉弟は雪のなか、いつまでも楽しそうにじゃれあっていた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公自室 夜 
寝る前に顔を洗っていると、まるでひどい目にあったような顔をしたおれが鏡にうつっていた。
……まったく、椿姫には踊らされてしまったな。
もう夜の十時になろうかというのに、来客のようだ。
インターホンを覗いて、うんざりした。
ハル,「ちわす」
京介,「お前か」
ハル,「すみません、ちょっとお醤油貸してもらえませんかね」
京介,「醤油だあ?」
ハル,「ご近所なんですよ、実は」
京介,「嘘をつけ、このへんにお前が住めるようなアパートはない」
ハル,「いいえ、本当ですよ。ちょっとした知人のつてで、ある社屋の二階を間借りしてるんです」
……たしかに、この辺りには、表札がそのまま会社名になっているような家がいくつかあるが……。
ハル,「上がっていいですか? たいした用もないんですが」
京介,「帰るがいい」
ハル,「そこをなんとか。たいした用もないんですが」
京介,「ちょっとお前、あんまりカメラに顔を近づけるなよ。だいぶおもしろいことになってるぞ」
ハル,「お嫁にいけなくなってしまいましたね。責任を取って部屋に上げてください」
京介,「……わかったよ。五分で帰れよ?」
オートロックを開錠すると、宇佐美はひゃっはーとか言いながらエントランスに入っていった。
待つこと数分。
玄関のドアの向こうで足音がしたので、鍵とチェーンロックを外してやった。
ハル,「お邪魔していいですか?」
京介,「半開きのドアからこっちを覗くなよ、怖いな……」
ハル,「では遠慮なく……」
そそくさと足音も立てずにリビングに上がってきた。
京介,「で、なんだよ?」
ハル,「はい?」
京介,「急になんの用だと聞いている。話があるなら、携帯でもいいだろう?」
ハル,「椿姫がさっき、うちに来ましてね」
京介,「……っ……椿姫、が?」
ハル,「おや? 椿姫となにかありましたか? クンクン……」
京介,「ベッドの匂いをかぐな。何もねえよ」
ハル,「いや、驚きましたよ。玄関先でいきなり頭下げられましたからね」
京介,「ほー、最近の態度のことか?」
ハル,「ですです。こんな夜更けにですよ。うちの住所にしてもわざわざ学園に問い合わせたんだそうです」
京介,「よかったじゃねえか。仲直りできて」
ハル,「いやいや、自分も、ほっとしました。子供が帰ってきたんだから警察に連絡しろとかいうのは、よくよく考えてみれば酷な話でした」
京介,「考え直したのか?」
ハル,「ええ、椿姫たち家族が犯人の報復を恐れているというのに、無関係なわたしがしゃしゃり出るのは筋違いにもほどがあるな、と」
京介,「ふーん」
ハル,「それにしても、ホント浅井さんは罪な男だなと思って、今晩おしかけてきたわけです」
……やはり、椿姫は、宇佐美に嫉妬していたのだろうか。
ハル,「"魔王"様は恋愛とかするんですか?」
京介,「おれは"魔王"じゃねえよ」
ハル,「しかし、ここのところバイトも休んで"魔王"の足取りを追っていたんですが、ぜんぜんさっぱりでしてね」
京介,「もう、やめればいいじゃねえか」
ハル,「それでは、母が浮かばれませんから」
京介,「死んだみたいに言うなよ」
ハル,「ワハハ」
京介,「ワハハじゃねえから」
ハル,「いやいや笑いたくもなりますよ、浅井さんには」
ひとしきり笑ったあと、宇佐美の口元が急に引き締まった。
ハル,「必ず尻尾をつかんでみせますから」
京介,「そんならぎらついた目でおれを見られてもだな……」
おれはおどけて見せるが、宇佐美の顔はいっそう険しくなるばかりだった。
ハル,「今回の誘拐事件ですがね」
京介,「おう……」
ハル,「よく聞いてください」
京介,「なんの話だ?」
ハル,「犯人はどうやって、ケースのなかの株券を回収したのか、というお話です」
京介,「いまとなっては、意味がない話だな」
ハル,「ええ。自分もそう思って、黙ってたんですが、やはり、浅井さんにはお伝えしようと思いまして」
京介,「なんのために?」
ハル,「わたしは、ちゃんとお前の策を見破ったぞ、という宣言をしたいんです」
……だから、なんでおれにそんな宣言をするのか?
京介,「"魔王"に言えっての」
ハル,「まあまあ、もうめんどくさいから、聞くだけ聞いてやってくださいよ」
これ以上掛け合っても無駄だと判断したおれは、ひとまず口をふさいだ。
ハル,「まず、"魔王"はなぜ身代金を株券で要求してきたのか」
ハル,「前もお話ししましたが、一番の目的は持ち運びを楽にするためです」
ハル,「しかし、それだけなら、他の有価証券……たとえば小切手でもいいわけです」
おれは口をはさむことにした。
京介,「でも、小切手は現金化するときに足がつくだろう?」
ハル,「はい。株券もそうです、発行する会社が株券に通し番号を振りますから、誰がどこで売り買いしたのか警察が調べればすぐにわかってしまいます」
京介,「そうだな。小説でもなんでも、犯人が小切手や株券ではなく、よく番号の不揃いの現金を要求するのは、換金するときの危険を回避するためだろうな」
もちろん、手形なんかは闇で割ってくれる業者もあるし、株券にしてもたとえば善意の第三者を使って換金する手口もあるにはあるんだろうが、なんにしても警察には徹底的にマークされることになる。
ハル,「前提として、"魔王"は、五千万からの現金を欲していたわけではないと思います」
京介,「そのへんまでは、おれも考えてたよ。金が欲しいだけなら誘拐なんてしないだろ」
ハル,「つまり、"魔王"は、椿姫たちから奪い取った株券を換金するつもりはなかった。これは、つまりどういうことでしょう?」
探るような目で聞いてくる。
京介,「自分は金なんていらないが、椿姫たちには、金を吐き出させたかったってことだな?」
ハル,「その可能性は極めて高いです。だから、あらかじめ急落することがわかっていた銘柄を指定してきたんだと思います」
京介,「急落することがわかっていた?」
ハル,「そこは浅井さんに教えてもらいましたよね? ちょっとでも株に詳しい人なら誰でも予想できたって」
京介,「ああ……」
おれも、権三に教えてもらったわけだが。
ハル,「"魔王"は最悪、身代金を奪取できなかったとしても、椿姫の家が窮地に陥るよう周到に保険を打っておいたんだと思います」
京介,「もしそうだとしたら、恐ろしいくらい慎重なヤツだな。つまり、椿姫たちが土地を売った金を株に変えた時点で"魔王"の勝利だったわけだろ?」
ハル,「ですが、"魔王"はその後、約一日をかけて、身代金の受け渡しを巡る駆け引きを演じて、見事に株券を奪うことに成功しています」
京介,「そこは、よくわからんよな?」
ハル,「"魔王"にとっては、その一日こそが、"お楽しみ"の時間だったんだと思いますよ」
京介,「お楽しみ?」
首を傾げる。
ハル,「"魔王"は、椿姫の家から大金を奪うという目的のついでに、わたしと遊んでやってくれたんです」
京介,「おいおい、"魔王"様は、ずいぶんと余裕を見せるな。警察に捕まるかもしれないってのに」
ハル,「ですから身代金を株券にして保険を打ったんでしょうね。余裕のお遊びで本来の目的を逸脱しないように。なにか問題があれば、すぐにでも誘拐を中止して雲隠れするつもりだったんでしょう」
京介,「なんにしてもいかれてる男だが、宇佐美よ……」
今度はおれが尋ねる番になった。
京介,「なんでお前が、"魔王"に遊んでもらったんだ?」
ハル,「前にも言いましたが、"魔王"は、わたしを試してきたんだと思います」
京介,「だから、なんで、お前みたいな変な女を試すんだ?」
ハル,「わたしが、"魔王"の存在と過去の罪を知る、数少ない人間の一人だからです」
困惑していると、宇佐美は目を細めた。
ハル,「さらにいえば、"魔王"はわたしのことを憎んでいるのだと思います」
おれは舌打ちした。
京介,「どうせ、詳しくは話してもらえないんだろう?」
ハル,「すみませんね」
ちろと、舌を出した。
京介,「わかったから、話を戻そうぜ」
ハル,「はい、"魔王"はどうやって、身代金を奪ったのか」
京介,「おれがロッカーの鍵をあらかじめ複製してたんじゃなかったのか?」
にらみつけると、宇佐美は小さく笑う。
ハル,「違うんですか?」
京介,「たしかに、おれはお前に頼まれて、ちょっとの間だけ駅のコインロッカーを眺めてたわけだが」
ハル,「でしょう? そのときに、複製した鍵でちょちょっとやっちゃったわけですよ」
京介,「駅のロッカールームには監視カメラもあるわけだろう? 身代金を入れたロッカーの中身を出し入れしてるおれの姿が映っているわけだ」
ハル,「間抜けですね、浅井さん」
京介,「いい加減にしろよ。たしかにその可能性も否定しきれんことは認めるが、お前はもっと別の推測を働かせている」
ハル,「別の?」
京介,「もっと、もっともらしい身代金奪取の手口だ」
宇佐美は、深くうなずいた。
ハル,「確証はありませんがね」
京介,「それでいいよ、話せ。おれに対する数々の無礼はそれでチャラにしてやる」
ハル,「ありがとうございます」
直後、あごを引いて眉根を吊り上げた。
ハル,「事件が終わってから気づいたので、とても歯がゆいのですが……」
ハル,「あの日、あのときの犯人の要求には不自然な点がありました」
宇佐美は指を一つ立てた。
ハル,「犯人は、警察の介入をひどく恐れていましたよね?」
京介,「ああ……」
うなずきながら、椿姫から聞いた事件のあらましを思い起こす。
ハル,「"魔王"は、たかがわたしとの『お遊び』で、警察と戦うつもりなんてなかったわけです。警察の影でも見えれば、すぐにでも取引を中止したことでしょう」
京介,「それはわかったが……」
そのとき、なにか閃くものがあって、思わず目を見開いた。
京介,「それはおかしくないか?」
ハル,「なぜです?」
京介,「詳しくは知らんが、椿姫は一度、警官に職務質問を受けてるだろう」
ハル,「はい。南区の高級住宅街で」
京介,「あれは、アクシデントだったんだろうが……それでも……」
突然、おれは言葉に詰まる。
京介,「え……っ?」
喉をつまらせたように、続きの言葉が見当たらない。
ハル,「その通りです、浅井さん」
ハル,「"魔王"が、ケースから身代金を奪ったのはおそらく――」
;演出
;ev_haru_02の背景として、ev_tubaki_12をあてるような感じに。
ハル,「――あのときです」
ハル,「警察の介入を恐れているはずの"魔王"こそが、警察官に成りすましていたんです」
ハル,「アクシデントを装い、椿姫に激怒したふりをし、その後も市内を引っ掻き回してくれましたが、それもすべて陽動です」
ハル,「おかしいと思いませんか?」
ハル,「椿姫は、職務質問を振り払って逃げたんですよ? よく騒ぎにならなかったものです。よしんば騒ぎにならなかったとしても慎重な"魔王"が椿姫を許して、取引を続けるとは考えにくいです」
ハル,「そう考えると、いくつかの疑惑が線を結びます」
ハル,「"魔王"は、なぜ、アタッシュケースに株券を入れさせたのか?」
ハル,「持ち運びに便利なはずの株券を、またわざわざ大きなケースに入れる理由は、なんだったのか? 椿姫のあとを追いながら、ずっと疑問に思っていました」
ハル,「情けないことに、いま考えてみればおかしな話なんです」
ハル,「"魔王"は警察を警戒しているはずなのに、椿姫にケースなんて似合わないものを持たせ、よく警官が巡察する南区の住宅街を受け渡し場所に選んだんですから」
ハル,「その答えは事件が終わってからわかりました」
ハル,「サイズの大きい黒のアタッシュケースは、警察が職務質問のなかで、中身を確認してきても妥当と思われるものだからです」
ハル,「少なくとも、椿姫のあとをつけて、動向を探っていたわたしには、そう思えました」
ハル,「南区のような高級住宅街に、不審車両が公然と路駐しているんです。巡回中の警官が窓を叩いても無理はありません」
ハル,「わたしは、まんまと、椿姫が運悪く警官に捕まったのだと、信じ込まされたわけです」
ハル,「あのとき、警官は二人いました。一人が狼狽する椿姫に質問を浴びせていましたが、もう一人、おそらく"魔王"の仲間が車内を探っていました。ケースを開けて株券を取り出していたんでしょう」
ハル,「おそらく椿姫は警官の背格好も声も覚えていないことでしょう。"魔王"は椿姫の心理状態をよく推し量っていたといえます」
ハル,「かくいうわたしも、もっと注意して警官を見ておくべきだったんです」
ハル,「いまとなっては、制帽を深くかぶっていた程度にしか思い出せませんが、一人は、鼻が高く、外国人風だったような気もします」
ハル,「"魔王"にとっては、一番の正念場だったでしょう。その場に、本物の警官が出てきてもおかしくはないのですから」
ハル,「そう思って、つい先日、あの辺りの交番に迷子になったふりをして行ってみました。どうも巡回には定められた時間があるようですね。"魔王"はそういったところも入念に調べあげていたのかもしれません」
ハル,「ついでに聞いてみたところ、その交番の警官の方が、二人いっしょに町を巡回したことは、ここんところないそうです」
;背景 主人公自室
おれは、宇佐美の眼光の鋭さに、少し遠慮がちに言った。
京介,「……なるほど、いちおう裏付けは取ったわけだな」
ハル,「ええ……しかし、しょせんは当てずっぽです」
そして、宇佐美は、再び眉間に深いしわを寄せた。
ハル,「捕まえなければ、意味がありませんから」
まなざしは鋭いだけでなく、深い。
ハル,「"魔王"は、椿姫を……なんの関係もない椿姫を巻き込みました」
怨嗟のこもった、ぞっとするような目の色だった。
ハル,「赦されないと思いませんか、浅井さん――――?」
おれは、宇佐美の視線を受け止めて、逆に挑むように見つめてやった。
京介,「赦されないな、宇佐美――」
どういうわけか、心が冷めていった。
まるで、宇佐美の挑発を真っ向から受け入れてなお、余裕を示すように、堂々とした態度を取りたくなる。
もし、おれが、"魔王"だったら……?
ありえないと思いつつも、それも、悪くないなどと、不意に魔が差したように嗤ってしまった。
…………。
……。
;一度、タイトル画面へ。
……。
いいのか?
自分に問う。
ここで椿姫を選んだら、もうあと戻りはできないような気がする。
おれには野望もある。
宇佐美や"魔王"と呼ばれる凶悪犯との兼ね合いも気にならないでもない。
それでも、椿姫の力になってやりたいと思うのか。
椿姫につくす。
;背景 教室 昼
宇佐美がおれの部屋を訪れてから、しばらく何気ない日々が続いていた。
椿姫たちは無念ながらも家を立ち退き、いまはおれの家の近くのマンションの一室に住んでいる。
椿姫も家事に忙しいのか、最近では、あまりいっしょに時間を過ごすこともなくなった。
なにより、おれのほうから距離を置くようにしている。
栄一,「京介ちゃん、そろそろ部活しようぜ?」
京介,「いや、議題がないじゃん」
栄一,「そうなんだよなー、お前、邪神だもんな」
京介,「はあ……?」
栄一,「なんつーの? 前は花音だったじゃん? 復讐の相手がいないと、部活やる理由もないだろ?」
京介,「最近、花音も学園休みがちだしな」
栄一,「スケートだかなんだか知らねえが、ちょっと生意気なんだよなー、あのアマァ」
京介,「そんなにキレるなよ」
栄一,「いや、あいつは調子こいてるっての。ほら、CM出てんじゃん」
京介,「出てるな。なんだっけ?」
栄一,「あれだよ、アイスのCM。あと車な」
京介,「あー、見たことあるかもな」
栄一,「あいつさー、テレビ受けするっつーか、まあ、それなりにかわいいじゃん。手足なげえし」
京介,「だから、人気あるんだろうな。エージェントもついてるし、けっこうオファー来てるみたいだぞ」
栄一,「でもよー、ほら、実力はどうなんよ、と言いたいわけだよ。んな、人気取りみたいなことばっかやってんじゃねえよ、とか思うわけだよ」
京介,「おれも花音の実績は詳しく知らんが、人気と実力はある程度比例するもんじゃねえのかな?」
栄一,「だから、お前は甘いんだよ。よし、わかった。そこまで言うなら、オレがガツンと言ってやんよ」
花音,「エイちゃん、おはよー!」
ひょっこり顔を出した花音が、栄一の肩をどんと叩いた。
栄一,「や、やあ、花音ちゃん、今日も笑顔がまぶしいねー」
京介,「よう、花音。栄一がなんか言いたいことあるみたいだぞ」
栄一,「げっ!」
花音,「んー、なにかな?」
栄一は腹をくくったのか、ずいっと花音の前に歩み出た。
栄一,「か、花音ちゃん、大会近いんだよね?」
花音,「うん。今年はあと三つあるよ」
栄一,「世界大会だよね?」
三つあるうちのメインが世界大会というらしい。
花音,「それがどうしたの?」
栄一,「出れるの?」
花音,「出るよ?」
栄一,「いや、出るよじゃなくて……次回は枠が一つしかないらしいじゃない?」
花音,「うん、でも出るよ?」
栄一,「前回の世界大会は出られなかったじゃない?」
花音,「あれは、棄権だよ?」
栄一,「そうだよね、腰痛めてたんだもんね」
花音,「それがどうしたの?」
栄一,「次回の世界大会の日本選手の出場枠が一人しかないのは、花音ちゃんのせいじゃない?」
花音,「そうなの? なんで?」
栄一,「世界大会の出場枠はさ、前回の成績で決まるわけだよね」
花音は、ぽかんと口を開けながらうなずいた。
栄一,「もし、花音ちゃんが出てれば上位入賞確実だったわけでしょ?」
花音,「そだね」
栄一,「前回は三人も出て、そろいもそろってズタボロだったけど、それについてどう思う?」
花音,「あー、それ、どこかで同じインタビューされたことあるよ。なんとも思ってないよ。他の人がどれだけ負けても、わたしは勝つから。出場枠は一つで十分だと思うよ」
栄一,「それが、おごりなんだよ、花音ちゅわん!!!」
急に、恐怖の大魔王の存在でも言い当てたかのように、コワオモシロイ顔になった。
栄一,「花音ちゃんは、日本のフィギュアスケートの将来を担うとまで言われた超新星なわけでしょ!?」
花音,「言われたことあるね」
栄一,「なんで!?」
花音,「なんでって……目立つからじゃないかな。トリプルできるし」
栄一,「そうだよ、ジュニアのときからトリプルアクセルできたでしょ?」
……つーか、なんだかんだで、栄一ってけっこう詳しいのかな。
栄一,「キミは、去年のグランドシリーズも日本大会も制覇したのに、なんで腰とか砕いちゃうかな!?」
花音,「うん、テレビとかじゃ言ってないけど、日本大会の公式練習のときにどっかの選手にどーんされたんだよ」
栄一,「え、うそおっ!?」
花音,「ぶつかるのは、よくあることだよ。うちどころが悪かったんだねー。あのときはなんとか優勝したけど、終わってから大変だったねー」
栄一,「そんな他人事みたいに言わないの! とにかく、いまの日本のフィギュアは花音ちゃんにかかってるんだからね!」
花音,「うんうん、スポンサーの人にもよく言われるよ。三つあった枠が一気に一つになったもんだから、フィギュア人気そのものが心配されてるんだって」
栄一,「そんな裏事情はいいんだよ! ボクはキミに勝ってもらいたいんだよ!」
そこで、花音がにっこり笑った。
花音,「わかった。ありがとー、エイちゃん」
栄一の肩をぽんぽんと叩くと、背を向け、何事もなかったかのように机に突っ伏した。
栄一が、なにやら勝ち誇った顔をして言った。
栄一,「どうよ?」
京介,「いやいやいや、お前、励ましてたから最後のほう」
栄一,「ガツンと、へこませてやったぜ!」
窓の外では雪がちらつくことが多い時期だが、学園はいつだって暖かい。
;背景 屋上 昼
京介,「そういや、あったなー……」
ハル,「なにがすか?」
京介,「いやいや、去年花音が、腰悪くして世界大会行けなくなったことをいま思い出した」
花音,「どええ!?」
栄一,「いや、さすがにひくよ、京介くん」
京介,「あのときの権三……あ、いやパパのキレ……いや落胆ぷりったらなかったよな、花音?」
花音,「パパ、いろんな病院連れてってくれたもんね」
おれも、なぜか病院送りにされるかと思うくらい、殴られた。
椿姫,「残念だったよね。今年もちゃんとチケット取ってるから、応援行くね」
花音,「あ、取れたんだね」
椿姫,「栄一くんが、がんばってくれたみたい。電話受付開始から取れるまでコールしたんだもんね?」
ハル,「じ、自分のぶんのチケは?」
宇佐美が、なにやら焦った顔で手をあげた。
栄一,「ないよ。だって、宇佐美さんが転入してきたときには、もうチケット買ってたし」
ハル,「もう、売り切れすかね」
栄一,「当たり前だよ。今年からちょっと落ち込んでるけど、まだまだ女子フィギュアは国民的人気スポーツだから」
ハル,「そこをなんとか」
椿姫,「当日券は……無理かな……?」
栄一,「しょうがないな……ちょっとネットオークションで探してみるけど、席によっては五万とか十万とかするよ?」
ハル,「あ、じゃあ当日券で」
花音がおれの腕を取って言った。
花音,「兄さん、これから先の大会は全部来てもらうからね」
京介,「これから先っていうと?」
花音,「三つ全部だよ」
京介,「えっと、なんだっけ……NKH杯と、ファイナルと全国大会か? 全部日本でやるのか?」
花音,「今年は、ファイナルも日本だよ。兄さんのチケットは特別に用意してるからね」
京介,「え? ああ、家族だしな。親族待遇か?」
ハル,「わ、わたしのぶんの特別チケは!?」
花音,「ないよ」
ハル,「勇者待遇じゃないんだ……」
京介,「まあ、応援に行くのはいいけどさ」
椿姫,「わたし、垂れ幕作ってくからね」
ハル,「わたしも手を貸そう。こうみえて裁縫は得意なんだ」
そういえば、着ぐるみ作ってたしな……。
京介,「えっと、どうやったら世界大会に出場できるんだ? 枠が一つしかないっていうが」
おれにとって気になるのはそこだ。
花音は、いまだに一度も世界大会に出場したことがない。
やはり、一度くらいは出てもらわないと、箔がつかないというもの。
花音,「これから先の大会で全部勝てば、間違いなく選ばれると思うよ」
京介,「……そりゃそうなんだろうけどな」
栄一,「世界への切符はね、今回は全国大会の結果で一発決めするみたいだよ」
京介,「へー、じゃあ、なにか? 全国大会さえ勝てばいいんだから、他の二つの大会は、そんなに意味ないわけか?」
栄一,「いちおう、ファイナルの結果も考えるみたいなことになってるけどね」
椿姫,「こういうとプレッシャーかもしれないけど、テレビも新聞ももうほとんど花音ちゃんが世界に行くようなこと言ってるよね」
栄一,「この前のカナダで優勝したからね。期待も大きいんだよ」
京介,「まあ、おれとしては世界もいいけど、再来年のオリンピックで優勝を飾って欲しいな」
栄一,「お馬鹿だね、京介くんは」
京介,「あ?」
ハル,「まったくです」
栄一に馬鹿扱いされただけでもショックなのに、宇佐美の便乗がなお腹立たしかった。
栄一,「世界に出れないと、花音ちゃんの場合、再来年のオリンピックにも出られないんだよ?」
ハル,「まったくです」
京介,「は? 意味わかんねーよ。オリンピックは再来年だろ? 来年の成績で決めろって話じゃねえの?」
栄一,「そうでしょ? ボクもそう思うし、そういう声も多いんだけどね」
ハル,「まったくで……」
京介,「お前ちょっとうるせえんだよ」
宇佐美をどついて、栄一の語りに耳を傾けた。
栄一,「オリンピック代表選手の選び方は、前回のオリンピックが終わったときに決まったんだ」
栄一,「前のオリンピックのときがさ、ポイント制っていうやつで、とっても揉めたんだ。だから、今回、いろいろ悩んだみたいなんだけどね」
京介,「え? 誰が悩んだんだ?」
栄一,「オールジャパンフィギュアスケート連合」
ハル,「なんかゾクみたいすね。なんで横文字なんすかね。普通に日本フィギュアスケート連盟でいいじゃないですか」
栄一,「ダメなの! そういうの出したら怒られるの!」
ハル,「あ、はあ……」
栄一,「あー、なんの話だっけ?」
京介,「再来年のオリンピックの代表選手に選ばれるにはどうすればいいのかってこと」
栄一,「あ、そうだ。もちろん、京介くんの言うように、来年のいまごろの成績が重要視されるんだけどね。厄介な条件がいくつかあってさ?」
京介,「厄介な条件?」
まるでおれのおうむ返しを期待していたかのように、栄一が無知をあざ笑う顔になった。
栄一,「世界大会の出場経験が必要なの」
京介,「あ、そうなの? じゃあ、なにか? もし花音が来年の世界大会を逃したら、来年の成績がマックスハートだとしても再来年のオリンピックには出られないんだな?」
ハル,「マックスハートて……」
栄一,「いちいち若干スベりたがるよね……」
……うるせえな。
京介,「そりゃ、ちょっとまずいんじゃねえか? だって、次回の世界大会の日本選手の出場枠は一つだろ?」
栄一,「ひどいことにね」
京介,「たとえば花音以外に調子の出てきた選手がいても、世界大会に出たことないもんだから、オリンピックには出られない選手が続出するかもしれないじゃねえか」
栄一,「もちろん、過去二季以内の世界大会出場経験だけどね。日本は去年も一昨年も出場枠三つもってた強豪だったからさ。まさか今期がこんなことになるなんて思ってなかったんじゃないかな」
椿姫,「口はさんでごめんね。その規定って、取り消しになるかもしれないんだよね?」
京介,「だろうな。いきなり日本が弱くなったものだから慌ててるんだろ」
栄一は我が意を得たりと、偉そうに大きくうなずいた。
栄一,「花音ちゃんにしたって、前回は棄権したわけだからね。出場資格はあったんだから、まずだいじょうぶだろうね」
まあ、そんなもんだろ。
スポーツだ芸術といっても、人気商売なわけだからな。
数字の取れる花音をどこのテレビ局もスポンサーも押し出したいだろう。
ハル,「なんにしても、花音が全国大会で優勝すれば文句ないわけですよね?」
花音,「ん、そういうことだねー!」
花音は相変わらず、真冬の陽射しの照り返しみたいなまぶしい笑顔で、元気よく腕を振り上げた。
;```章タイトル
;第三章  悪魔の殺人
;黒画面
…………。
……。
;"魔王"アイキャッチ
まおう,「なにやら、お困りのご様子ですね」
久方ぶりに呼び出されたが、染谷は相変わらず眉間に深いしわを刻んでいた。
染谷,「だから、君を呼んだんだ」
まおう,「左様で」
染谷の瞳に媚の色が浮かんだ。
染谷,「浅井花音を知っているだろう?」
まおう,「ええ。私の妹ですよ」
冷たく笑うと、染谷は破顔した。
染谷,「面白い冗談だ。あんな人気選手が妹なら、さぞ鼻が高いだろう?」
まおう,「いえ、手のかかる妹でしてね。一度、身の程を思い知らせてやらねばと考えているところでした」
染谷,「ぜひ、そうしてもらいたいんだがね」
目を光らせ、顔をこわばらせて染谷は言った。
まおう,「詳しくお伺いしましょう」
染谷は息をつめて、おれの目を見つめた。
染谷,「瀬田真紀子という選手を知っているかね?」
まおう,「たしか、前回の世界大会に出場したとか……その程度ですね。あいにく芸術には疎いものでして」
染谷,「芸術!? フィギュアスケートが!? あんなものはただのショービジネスだよ。見世物小屋と変わらん」
はき捨てるように言う染谷に、しかし、おれはなんの感情も抱かなかった。
染谷,「瀬田は、うちが資本を出してるクラブの所属でね。前回はいろいろと手を回して世界にまで出させてやったんだ」
まおう,「なるほど。あなたに言わせれば、瀬田は子飼いの剣闘士のようなものですか。いいでしょう。私はあなたのそういった人の見くびり方に品のないところが好きだ」
染谷,「褒め言葉と受け取っておくよ。それで、その瀬田なんだがね……」
まおう,「ええ……」
染谷,「今シーズンは調子も出てるんだ。グランドシリーズのロシア大会では二位だったしね」
まおう,「しかし、浅井花音の人気には及ばないわけですか」
染谷,「ご推察痛みいるね。採点競技は人気が全てだよ。たとえ瀬田が同じ演技をしても、審判も観客も花音に点を入れるだろうね」
まおう,「実力はどうなんでしょう?」
染谷,「瀬田も技術の堅実さなら花音に遅れを取るもんじゃないらしいがね、華がないんだよ」
まおう,「華とは?」
染谷,「わかりやすいのはジャンプだな。花音はトリプルアクセルにくわえ、先のカナダ大会では四回転ジャンプにも挑戦している」
まおう,「成功したんですか?」
染谷,「両足で着氷して、さらにバランスを崩して手をついてしまったらしいな。危く史上初の記録が出るところだったよ」
まおう,「ほう、たしかに、大衆の興味を引く選手のようですね」
おれは苦笑しながら頭を振った。
まおう,「で、私になにをしろと?」
染谷,「わかっているくせに、ずいぶんと人が悪いな」
染谷は顔をゆがめ、おれに哀願するような口調で訴えた。
染谷,「高くつくのはわかっている。しかし、君ほど頼もしい男もいないんだ」
まおう,「非合法な手口がお望みなら、あなたにもお抱えの連中がいるでしょう?」
染谷,「ヤクザどもも、今回ばかりは無理だ。なにせ、浅井花音のバックに総和連合がついているのは周知の事実。報道こそ決してされないがね」
まおう,「……ふむ」
心に揺れるものはあった。
先の身代金誘拐事件は、ほぼおれの勝利と言っていい結果になった。
けれど、いくらか危い局面もあった。
椿姫の心境次第では警察も動いただろうし、セントラル街では宇佐美に腕をつかまれるところだった。
これ以上の『お遊び』は控えるべきなのだろうが、どうにも血が騒ぐ。
まおう,「暴力団が背後にいるのならば、逆にいえば警察が出てくることはなさそうですね」
染谷,「少なくとも、ヤクザがすんなりデカに泣きつくことはないだろうね」
染谷の声は期待に弾んでいた。
おれは染谷を見据え、心のなかで念を押した。
……高くつくぞ。
まおう,「近頃、頭痛がひどいのですよ」
染谷,「頭痛? 医者にかかったらどうかね?」
まおう,「医者では治せません。長年患っている持病でしてね」
染谷,「これは、驚いたな。初めて君の人間らしい一面を覗いたよ」
なにやら恐縮するそぶりを見せる染谷に、おれは意図的に笑みを作った。
まおう,「ご安心ください。お引き受けしましょう」
病状を理由に断られるかと思っていたらしい。
染谷,「いいのかね?」
しかし、すぐに狡猾な笑みを口元に携えた。
染谷,「花音は、君の家族なのだろう?」
冗談を言ったつもりらしい。
まおう,「家族と人間のクズとは、いくらでも両立します」
おれの顔があまりにも酷薄だったのか、染谷は目を丸くして口をすぼめた。
まおう,「私も救われない男でしてね。策謀を巡らし、人を陥れているとね、痛みが引くのです」
染谷,「救われんね。まるで他人の生気でも吸って生きているようなものじゃないか」
まおう,「まさに」
うなずいて、黒い笑いを交換し合った。
;黒画面
頭痛は、ひいていた。
その夜は、いつもよりはるかに穏やかに、春の陽だまりのような眠りに落ちることができた。
;背景 中央区住宅街 夕方
夕時を迎え、赤黒い地平線が、四角や三角の屋根に切り刻まれている。
花音,「兄さん、今日どうしてガッコさぼったの?」
京介,「お前こそなんだ、こんな時間に」
浅井興業の事務所があるセントラル街からの帰り、自宅マンションの前で花音とばったり出くわした。
京介,「練習はどうした? もうすぐ大会だろ?」
花音,「いまから行くよー、兄さんと一緒にね」
京介,「え? おれも?」
花音,「うん。たまには観ててよ」
京介,「いやいや、練習の邪魔をするわけにはいかんだろ」
花音,「いいから」
京介,「う、腕をつかむなっての」
花音,「いいからいいから」
京介,「お、おい! 抱きついてくんな!」
花音,「ロシアの挨拶だよ?」
京介,「うるせえ。近所の目ってもんがあるだろうが」
花音,「まったく兄さんは日陰っ子だなあ」
京介,「おれはお前と違って目立つのが大嫌いなんだ」
花音,「ほえー?」
京介,「ほえー、じゃねえよ。こんなところを、週刊誌にあげられてみろよ、大変なことになるぞ?」
花音,「そうかな? いままで一度もプライベートな写真取られたことないよ?」
京介,「あったんだよ!」
花音,「ないよー」
……あ、そういえば、記事になる直前に権三が編集部に殴りこんで、もみ消したんだったな。
京介,「いや、まあ、なかったわ」
花音,「変な兄さん。ほら、行くよー? 来ないともっとくっついちゃうぞー?」
京介,「……わかったよ、しゃーねーな」
渋々うなずいた。
花音,「あ、言い忘れてた。パパリンも来るって」
京介,「え? マジで?」
花音,「なんか兄さんにお話あるって言ってたよ?」
京介,「バカ、それを早く言えよ」
おれたちは、一路スケートリンクを目指した。
;背景 スケートリンク外観 夕方
花音,「じゃあね。休憩時間になったらいっしょにご飯しようね」
京介,「ああ……」
花音は、長い足を見せつけるように軽快に去っていった。
おれは客席に至る入り口を探して、巨大な施設のなかに向かう。
……と、そのときだった。
ハル,「ちわす」
京介,「なんだてめえ……!?」
ハル,「今日も冷えますねえ」
京介,「上着羽織れよ。ていうか、急に沸いてくんなよ」
ハル,「バイトはお休みですから」
京介,「そうか。よかったな。だったら一人で遊んでろ」
ハル,「ちなみに浅井さんは、今日の学園はなぜにブッチされたんですか?」
京介,「おれと会話を合わせる気がないのか?」
ハル,「あ、お仕事ですか、そうですか」
京介,「…………」
ハル,「怒りました?」
おれは太いため息をついて、これみよがしに舌打ちした。
ハル,「実は、なぜ自分もここにいるのかわからないのです」
京介,「記憶喪失かよ」
ハル,「いえいえ、しかし、記憶喪失の少女って、どうして美人で色白でいつも病院のベッドにいるような善人ばっかりなんですかね?」
京介,「美人で善人のほうが、死んだときにドラマ的に泣けるからだろうが。そんなことより、どっか行けよ」
ハル,「そういうわけにもいきませんでね。さ、行きましょうか」
宇佐美はおれに背を向けて足を施設に向けた。
京介,「あ、おい……!」
大会を間近に控えている今の時期は、一般客は来場できないはずだが……?
;スケートリンク客席
リンクでは、すでに何人かの選手が練習を開始していた。
衣装を着て滑走する選手も多く、さながら氷上に色のまばらな花が咲いたようにも見えた。
ハル,「うわ、広いっすねえ……」
すんなり入場した宇佐美。
ハル,「爆弾でもしかけられたらどうするんですかねえ」
京介,「お前、どうやって入ったんだ?」
ハル,「いや、別に、受付で事情を話しただけです」
京介,「事情だ?」
宇佐美に詰め寄ったそのとき、後方の客席から声があがった。
浅井権三,「俺が呼んだ」
振り向くと、見知った悪漢の姿があった。
取り巻きのヤクザ――たしか飯島とかいう名前のボディーガードを脇に従えている。
浅井権三,「お前が、宇佐美ハルか?」
ハル,「…………」
宇佐美は、どういうわけか、まるで能面のような無表情を顔に浮かべ、ゆっくりとうなずいた。
京介,「お養父さん、これは、どういう……?」
なぜ、権三が宇佐美を呼び出したんだ。
浅井権三,「つい先ほど、俺の家に一通の封書が届いた」
権三は、じっと宇佐美だけを探るような目で見据えていた。
浅井権三,「内容はざっとこうだ」
浅井権三,「浅井花音が日本代表に選ばれた場合、花音の母親を殺す」
瞬間、息が詰まった。
京介,「脅迫、というわけですか……?」
権三は、おれの問いには答えない。
京介,「しかし、そういった手紙が届くのはよくあることなのでは?」
花音のことだから、ファンレターはもちろんのこと、頭のおかしい人間から怪文が来てもおかしくはないだろう。
浅井権三,「黙れ、京介」
一瞥され、おれは身がすくむ思いだった。
権三の態度は、おれがなにか失態を犯したときのものだ。
すぐに思案する。
京介,「すみません……お養父さんのご自宅に届いたんでしたね」
考えてみれば、まずそこがおかしい。
花音の所属しているクラブではなく、なぜ、父親の自宅に宛てつけられたのか。
そして、この場になぜか宇佐美が呼び出されている。
浅井権三,「差出人は"魔王"だ。わかるな、宇佐美?」
ハル,「…………」
宇佐美は、押し黙って、首を縦に振った。
浅井権三,「"魔王"について知っていることを話せ」
ハル,「…………」
浅井権三,「どうした? 京介が言うには、お前と"魔王"はただならぬ因縁があるそうだが?」
ハル,「…………」
口すら開かない。
相変わらず、一切の感情が欠落したような顔で、じっと権三を見つめ返していた。
浅井権三,「おい」
ハル,「…………」
浅井権三,「口がきけねえのか?」
権三の傍らに直立していたヤクザが、一歩身を乗り出した。
それを手で制する権三。
浅井権三,「"魔王"を追っているのだろう?」
ハル,「…………」
浅井権三,「動け。尻尾をつかんだら俺に言え」
ハル,「…………」
浅井権三,「いいな?」
言い放つと、権三はおれたちに背を向けた。
取り巻きも権三の後に続いていった。
京介,「おい、宇佐美……?」
権三が去ると、不意にスケートリンクに活気が戻ったように、コーチの掛け声や選手の氷を切る音が耳についてきた。
……まったく、なんてことだ。
宇佐美に、権三の存在が露見したのもそうだが、またしても"魔王"だと……!?
今度は、花音への脅迫?
いったい、何が目的だっていうんだ。
京介,「宇佐美、なにぼーっと突っ立ってんだ」
ハル,「…………」
京介,「おい、こら。考えていることを少しは話せよ」
ハル,「……っ」
かすかにうめいた。
ハル,「い、いや……」
京介,「なんだ?」
直後、雄たけびが上がった。
ハル,「いやああ、びっくしたああああー!!!」
京介,「……は?」
呆気に取られるおれ。
ハル,「びっくしたー、おぉぉおぉぉー、びっくしたー!」
京介,「な、なんだなんだ、落ち着けよてめえ……!」
ハル,「いやいやいやいや、浅井さんっ!!!」
丸まった目が、自分は仰天していますと主張していた。
ハル,「な、なんなんすか、あの人は!? ええっ!?」
京介,「……だからおれの親父だってば」
ハル,「うそでしょうが!? だって、アレ、モノホンじゃないですか!? モノホンのコレモンじゃないですか!?」
しきりに親指で頬を切るような仕草を繰り返していた。
京介,「いや、親父だから」
ハル,「だって、パパリンとか呼んでたじゃないすか!?」
京介,「あ、ああ……」
ハル,「パパリンってなんすか!? パパリンってレベルじゃないすよ!? あれどう見ても親分じゃないですか!?」
京介,「……そうだな……」
ひょっとしてこいつ、さっきずっと黙ってたのは、権三にびびってたからなのか……?
ハル,「いやあ、死んだふりをしてなんとかやり過ごしましたけどねー。危なかったー。あの人絶対ひと殺したことありますよ」
京介,「やっぱりびびってたんだな?」
ハル,「……し、心外な。勇者とは勇気ある者のことです。相手がモノホンの親分でもびびったりしません」
おれは軽く頭痛を覚えながら、宇佐美に言った。
京介,「で、びびりながらも話は聞いてたのか?」
ハル,「ええ、まあ……」
京介,「どう思った?」
ハル,「ですから記憶喪失の少女は美人に限るな、と」
京介,「めちゃめちゃ記憶が飛んでるじゃねえか」
ハル,「え?」
京介,「"魔王"だよ。また"魔王"が暗躍してるってよ」
ハル,「それはまったく、笑い事ではありませんね。さ、詳しく話してください」
京介,「…………」
……こいつ、本当にだいじょうぶなのか?
;場転
練習に明け暮れる選手たちを尻目に、おれたちは会話を続けていた。
ハル,「いえね、今日の学園帰りにいきなり先生から言われましてね、浅井さんのお父さんが呼んでるって。ミステリでしょう?」
京介,「権三もいきなりだな……」
ハル,「権三さんというんですか。ますますパパリンから遠ざかっていきますね」
京介,「誰にも言うなよ」
ハル,「言えませんよ。しゃべったら東京湾に沈められてしまいますからね」
いまどきコンクリ詰めにされるようなことはないと思うが……。
京介,「それで、"魔王"のことだが……?」
ハル,「ええ。現時点ではなにもわかりません」
きっぱりと言う。
ハル,「権三さんの自宅の所在を知っている人物こそが、"魔王"です」
京介,「おおざっぱすぎるな。幹部組員はもちろん、権三と付き合いのある人間すべてが容疑者になっちまうぞ」
ハル,「ええ、ですから、わたしは"魔王"じゃありませんね」
京介,「んなことはわかってんだよ」
ハル,「さらにいえば、権三さんと花音の関係を知っていて、なおかつ花音が敗退すると得をする人物です」
京介,「なら、おれも"魔王"じゃないな」
ハル,「そうなんすか?」
京介,「もうこうなったらばらすが、花音の所属しているクラブは、おれの関係している会社が金だしてんだ」
ハル,「それが、浅井興業ですか? いわゆるフロント企業というヤツだったんですね? ヤクザが資金洗浄や、法律の目を逃れるためによく設立するという」
京介,「厳密にいえば金を出しているのは浅井興業じゃなくて、権三が持ってる会社の一つなんだが……まあ、それはいいとしておれが"魔王"じゃないことはわかっただろう?」
ハル,「そうですね。花音が負けたらなにかと損するのでしょうね」
京介,「いわゆる、面子も丸つぶれだしな」
ハル,「妹を脅迫してなおかつ、自分の母親を殺そうだなんて鬼畜にもほどがありますよね」
京介,「ああ……」
ひっかかるものがあって、口をすぼめた。
京介,「えっとな、その、母親なんだが……」
ハル,「なるほど、浅井さんの実のお母さんではないんですね?」
京介,「なんでわかった?」
ハル,「いえ、さきほどのお話では、権三さんはこう言われたのでしょう。浅井花音が日本代表に選ばれた場合、花音の母親を殺す、と」
うなずいて、宇佐美の話の先をうながした。
ハル,「花音の母親を殺すということですが、もしこれが、"魔王"の脅迫文そのものだったとしましょう。すると、少し表現が怪しいです」
京介,「……なるほどな」
ハル,「脅迫状が、権三さんに宛てられているのならば、文面は『お前の妻を殺す』となりそうなものです」
ハル,「ここで、たとえば『お前の妻』では文意が通らなかったとしましょう。すると、花音の母親は、権三さんの妻ではないということになります」
ハル,「母親だけど、妻じゃない、これはいかに……?」
京介,「わかった、わかった。愛人だったんだよ、昔のことだけどな」
ハル,「花音は連れ子というわけですか?」
京介,「いいや、権三と、その愛人の間にできた子供だ。ちなみにおれが権三の養子なんだ」
ハル,「ぶっちゃけ似てませんもんね。あなたと権三さんは」
京介,「花音と権三は血がつながっているけど……?」
ハル,「いや、その辺は、ギャルはかわいくなきゃみたいな恣意的なオトナの力が働いているわけでして、わたしにはなんとも……」
京介,「……ま、まあいい」
宇佐美に釘をさしておく。
京介,「このことはぜったいに言うなよ。花音はいまでも、自分が妾の子だなんて知らないはずなんだからな」
ハル,「わかってますって。東京湾が血の海になりますからね」
恐怖にがたがたと震える素振りをみせた。
ハル,「で、そのお母さんは、いまなにを?」
京介,「郁子さんと言うんだがな……」
おれはどうもあの人が苦手だ。
ハル,「おや? 花音ですね……」
ふと、宇佐美が後方の客席を振り向いた。
花音,「おーい、兄さん!」
手をふっていたので、おれも軽く手を掲げた。
花音,「あれ? うさみんもいっしょなの?」
ハル,「うむ。わたしもペンギンのはしくれだからな。氷が恋しくなったんだ」
ふざけたことを言いながら、宇佐美の視線は、花音の脇にいる人物に注がれていた。
郁子,「どうも、こんにちは」
穏やかな笑みを浮かべる。
郁子,「久しぶりね、京介くん。元気だった?」
京介,「ええ、郁子さんもお変わりなく」
ぎこちなく頭を下げる。
京介,「花音の調子はどうです?」
尋ねると、不可解な間をおいて、ようやく花音にあごを向けた。
郁子,「だって。どう、花音ちゃん?」
花音,「どしてわたしに聞くのかな? コーチから見てわたしはどうなのってことだと思うよ?」
郁子,「あら……?」
また、一息入れるような間があった。
郁子,「そうなの、ごめんなさいね」
なにやら困ったように目尻を下げて笑った。
花音,「わたしは絶好調だよ、兄さん」
不意に花音が取り繕うように言った。
郁子,「そうね、花音ちゃん」
花音,「え?」
郁子,「だから、好調よねって」
花音,「うん」
郁子,「だって、京介くん」
京介,「あ、はい……」
どうにも郁子さんのテンポには慣れがたいものがある。
ハル,「そんなことより夕飯の話しませんか?」
こいつはこいつで会話を乱す。
花音,「うん、お腹すいたー。テラスでご飯食べよー」
郁子,「花音ちゃん、七時からまたジャンプの練習ね」
花音,「え? また? 曲流して欲しいよ」
郁子,「そう……?」
ぼんやりとした顔つきになって、直後気を取り直したように言った。
郁子,「ヒルトン先生がそう言ってたから」
花音,「そうなんだ……じゃあ、やるよ」
郁子,「お願いね」
花音,「うん、だからわかったよ」
花音の顔に困惑を通り越して疲労の表情が浮かんだ。
郁子,「じゃあね、京介くん。花音も寂しがってるから、たまにはうちに顔を出してね」
京介,「……すみませんね、いつも忙しくて、なかなか挨拶にも行けませんで」
郁子,「そんな堅苦しくなることないのよ。私はあなたのお母さんじゃありませんけどね」
……当たり前だ!
思わず喉まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
郁子,「では、ごきげんよう」
……どうにも勝手が違うというか、調子が狂う。
いまにしたって一言多かったわけだが、それに気づいていないというかなんというか……。
花音,「さ、兄さん、ご飯ご馳走してー」
京介,「ああ……」
花音,「あれれ? ほんとにゴチなの? 珍しいなー」
ハル,「いやいやすみませんね、浅井さん」
ぼんやりと返事をしてしまったが最後、宇佐美のイソギンチャクみたいなもみ手が、目前に迫っていた。
京介,「貸しにしておくからな……」
;背景 スケートリンク外観
三人で夕飯をともにすると、すっかり辺りは闇に包まれていた。
ハル,「花音は夜遅くまで練習ですか。大変ですねえ」
京介,「九時くらいから筋トレしてランニングするみたいだな」
ハル,「ははあ、氷の上だけじゃなくて地面の上でもがんばらなきゃいけないわけですね」
京介,「あのちゃらんぽらんな性格の裏で、そりゃ血の滲むような努力をしてるんだろうな」
ハル,「そんな花音を陥れようだなんて、まったく、"魔王"は最低の人間ですね」
京介,「ああ……」
隣を歩く宇佐美が、ぼさぼさの髪から目だけを覗かせる。
ハル,「なんとしても、捕まえたいものですね」
京介,「またお前がしゃしゃり出るのか?」
ハル,「今回は警察も頼れないでしょう?」
京介,「む……そうだな」
"魔王"からの脅迫状は、権三宅に届いた。
権三はこれを挑戦状と受け取ったに違いない。
自らの力だけで、己に刃向かった愚か者を吊るし上げることだろうな。
ハル,「なにより、権三さんに動けと言われた以上、なんにもしなかったら東京湾ですからね」
京介,「いや、別に権三はお前に期待しているわけじゃないと思うぞ」
ハル,「それはわかっていますよ。現時点で"魔王"へのつながりがありそうなわたしを、とりあえず泳がせてみたいんでしょう」
……そんなところだろうな。
ハル,「警察を頼らせない辺り、椿姫のときと同じニュアンスを感じます」
宇佐美の顔が引き締まった。
ハル,「"魔王"はまた、わたしと『遊ぶ』気ではないかと」
京介,「しかし、今度はそう容易くはないだろうな」
ハル,「ええ。自分も雪辱を晴らします」
京介,「いや、お前はともかく、"魔王"は、権三以下、有象無象の極道たちを完全に敵に回したわけだろう? 警察とやり合ったほうがまだ良かったとおれは思うがね」
ハル,「よほど、自信があるんでしょうね」
京介,「お前も今回は自信ありか?」
ハル,「さあ……」
小首を傾げて、目の前のくそ長い髪の束を、いじりだした。
ハル,「ひとまず、明日もう一度、権三さんにお会いしたいですね」
京介,「……なぜだ?」
ハル,「封書が届いたときの状況なんかを詳しくお聞きしたいので」
京介,「伝えておくが、もう権三にびびるんじゃねえぞ」
ハル,「耐性はついていると思いますが、浅井さんも同行してくださいね。自分ひとりだと、ヘビににらまれた蛙になってしまいますから」
京介,「わかった。じゃあな」
宇佐美に別れを告げると、スケートリンクを後にした。
;背景 中央区住宅街 夜
京介,「……って、なんでまだついてきてんだよ」
ハル,「ですから、家が近くなもので」
京介,「本当かよ!?」
静けさに溢れた住宅街で、思わず叫んでしまった。
京介,「どこに住んでるんだよ?」
ハル,「ですからここをまーっすぐ行くと細かい路地がありますよね」
京介,「ああ……」
ハル,「その先を抜けると、コンビニがありますよね?」
京介,「あるな」
ハル,「ま、コンビニは、おいといて……」
京介,「関係ねえのかよ!」
ハル,「路地に入る前に信号がありますから、そこをひとまず右往左往……」
京介,「もういいよ右往左往とか。要するに教えたくないんだろ?」
ハル,「それなりに人間らしい生活はしていますんで、ご安心ください」
軽く頭を下げると、前髪が水面の葦草のように揺れた。
京介,「なんだかお前につきまとわれているような気がするな」
ハル,「ええ、自分は浅井さんのそばにいたいと常々思っておりますから」
京介,「気持ち悪いな……」
ハル,「明日は、学園に出られますか?」
京介,「出るよ」
ハル,「しかし、浅井さんがよくさぼられるのは、権三さんのお仕事を手伝っているからなんですね。そりゃ、学園なんて行ってられませんね」
京介,「誰にも言うなよ」
ハル,「もちろん言いませんが、浅井さんは本当に目立ちたがらないですね」
京介,「うるせえ」
宇佐美としゃべっていると、いつの間にか自宅マンションのすぐ手前まで来ていた。
ハル,「今度また、お邪魔させていただきますね」
京介,「来なくていいから」
ハル,「いえいえ、次はわたしの特技を披露しにうかがいますから」
京介,「特技だ?」
ハル,「座禅です」
京介,「お前が座禅組んでる様子を見て、おれが面白いと思うのか?」
ハル,「跳ねますから自分」
京介,「いいよ、気持ち悪いから」
ハル,「浅井さんは大のクラシック好きと聞いてますから、きっと満足されると思いますよ」
京介,「あー、うるさいもう失せろ」
ハル,「はい、おやすみなさい」
宇佐美を無視して、マンションのエントランスに向かった。
;背景 主人公自室 夜
……宇佐美と話してると頭がおかしくなりそうだな。
真面目に取り合わないのが一番なんだろうな。
顔を洗ってベッドに体を沈める。
一息ついて、今日起こった出来事をまとめようとしたときだった。
来客を告げる音色が鳴り響いた。
……また宇佐美か!
インターホンの画面を覗いて叫んだ。
京介,「しつけえんだよ!」
椿姫,「えっ! ご、ごめんなさい!」
インターホンの画面の向こうで、椿姫が身をすくませた。
京介,「……すまん、椿姫か」
椿姫,「ごめんね、忙しかった?」
京介,「いいや。なにか用か?」
椿姫,「ううん。ちょっとしたご挨拶だよ」
京介,「挨拶?」
ピンとくるものがあった。
京介,「引越しが終わったのか?」
椿姫,「おかげさまでね」
純粋そうな目に、思わず目を逸らした。
京介,「そうか。とりあえず上がっていけよ」
オートロックの玄関を開放して、椿姫を招き入れた。
;場転
椿姫,「お邪魔します」
なにやら四角い包みを差し出してきた。
京介,「そんな気を使わんでもいいのに……」
椿姫,「京介くんのおかげで、引越しもスムーズに終わったから。あそこって、この辺にしては奇跡みたいに安いんだね」
京介,「だな……」
椿姫,「今度、遊びに来てね」
京介,「ああ……」
曖昧にうなずきながら、決して椿姫の新居を訪ねることはないだろうと予感していた。
椿姫たちを田舎の家から追い出したのは、おれだ。
引け目を感じるほど弱くはないが、椿姫の前で友達然とした態度を取っていられるほど面の皮も厚くない。
椿姫は、他人だ。
ただの、金のない女だ。
椿姫,「えっと、お仕事、どうかな?」
京介,「もう手伝わなくていいぞ。ありがとうな」
冷たく言った。
椿姫,「それじゃ、おやすみ」
椿姫は、おれの声色にいつもと違うものを感じ取ったようだ。
京介,「おい、椿姫」
玄関で靴を履き始めた椿姫を呼び止めた。
おれはとっさに言葉を失った。
京介,「また、金のトラブルで困ったら相談してくれ」
なんの意味もなく、慰めにも自己満足にもならないことを口にしてしまった。
椿姫,「ありがとう。浅井くん」
呆然と、椿姫の後姿を見送った。
また、目まいがする。
吐き気すら覚える頭痛は、どういうわけか、決まったパターンにしたがって襲いかかってくる。
誰かを哀れんだり、同情したりすると、心が騒ぐのだ。
京介,「仕事をしよう……」
つぶやいて、ふらついた足取りのまま、書斎にこもった。
その晩は、意識がはっきりとせず、夢遊病者のように深夜の外出を繰り返した。
;背景 マンション入り口
寒さも手伝って、今朝は体も活動を拒否したかのように、がちがちに固まっていた。
花音,「さーむいねぇ」
京介,「おう、お前が迎えに来なかったら、確実にさぼってたわ」
栄一,「まったく京介くんが進級できてるのが、信じられないよ」
京介,「つーか、なんで栄一もいるんだ?」
栄一は、花音の肩に手を置こうとして、身長差に慌てだした。
栄一,「とにかく、ボクは花音ちゃんの専属コーチになったから」
京介,「ちょっとちょっと、わけわからん遊びはやめろよ」
栄一,「花音ちゃんも了解済みだから」
花音,「はい、コーチ」
コーチ呼ばわりされた栄一は、偉そうに胸を張った。
京介,「なんでそんなことになったんだ?」
花音,「きのう、エイちゃんと電話してたら、エイちゃんがけっこー詳しいことが発覚したの」
京介,「詳しい?」
栄一,「スケートだよ。ボクはね、ペットとスケートと三国志においては誰にも負けない知識を備えているんだ」
京介,「ふーん」
つーか、こいつら、電話とかしてるんだな。
栄一,「これからは二人三脚でオリンピック目指すんだもんね」
花音,「うんうん」
栄一,「花音ちゃん、学園にいるときは、ボクの指示にしたがうんだよ」
花音,「はい、コーチ」
栄一,「じゃあ、ボクのかばん持って」
花音,「ヤダ」
……いきなりダメじゃねえか。
;背景 学園教室 昼
栄一,「花音ちゃん、いつも寝てちゃダメなんだよ」
栄一のお説教が続いていた。
栄一,「スケートしかない人になったらどうするの?」
花音,「金メダル取ったらプロに転向するからいいの」
栄一,「だからダメなんだよ。フィギュアスケートはメンタルなスポーツだよ? 人間性を養ってこそ、観客を魅了するような演技ができるってもんじゃないか」
花音,「でも、のんちゃんエイちゃんよりテストの成績いいよ?」
栄一,「ボクはいいんだよ。男だから」
花音,「男だから?」
栄一,「男はね、糸の切れた凧のようなもんさ。それで女が苦労する」
やたらハードボイルドなことを言っている栄一。
花音,「まあ、わかったよ」
栄一,「そう?」
花音,「うん、おやすみ」
毎朝のことで、机に突っ伏す花音だった。
栄一,「ったくよー……」
栄一なりの憤怒の相で、おれをにらみつけてきた。
栄一,「どうなんよ、マジでこのアマは? ああっ? オメーの妹だろうが?」
京介,「まあ……人の話を聞かないことにかけては天下一品なものがあるが」
栄一,「こりゃマジでやべえよ、オレちゃんがコーチとしてビシっと決めてやんねえと、道を間違えるぜあのアマは」
京介,「いやいや、花音にはちゃんとした母親がコーチしてるじゃねえか」
栄一,「はあっ!?」
京介,「だ、だから顔ちけえんだよ、なんだよ……?」
栄一,「金崎郁子はもうとっくにコーチじゃねえよ」
京介,「は? お前こそなに言ってんだ?」
栄一,「花音のコーチは名将ジョージ・ヒルトンだろうが」
京介,「あれ? そうだっけ? おれの断片化された記憶では、たしか母親がコーチをしてるのが珍しくて、それで花音も注目を浴びて……」
栄一,「オメーの頭はどんだけ断片化されてんだよ。今シーズンからフィギュアスケート連合の要請でヒルトンが花音についてんだよ」
京介,「いや、だって、花音も郁子さん……ママのことをコーチって呼ぶぜ?」
栄一が、あからさまな侮蔑をこめて、深いためいきをついた。
栄一,「いいか、オメーのその要デフラグな脳みそにちゃんと書き込んどけよ?」
京介,「お、おう……」
栄一,「花音みてーに才能がありそうな選手はよー、連合の指示でそれまで世話になった地元の先生から、時期を見てたいてい海外の実績のあるコーチに移籍させられるんだよ」
京介,「ははあ、なるほどな……」
栄一,「でもよー、ガキのころからずっとお世話になってたわけだろ? 花音の場合は金崎郁子か? 愛があるわけだよ」
京介,「わかったわかった。コーチじゃなくなったからって、もうお払い箱ってわけでもないだろうな」
しかし、郁子さんも大変だな。
いきなり仕事を奪われたわけだからな。
その辺の経済的フォローはあるのかね……どうでもいいが。
京介,「で、そのジョージ・ワシントンってのはすごいのか?」
栄一,「ぬりいぃぃんだよっ! てめえ、わざと間違えただろうが!」
京介,「ぬるいとか言うな」
栄一,「ヒルトンはよー、半端ねえぞ。選手時代にオリンピックに二度出場してどっちも表彰台に上がってる。四十年くらい前の世界大会では金メダル、翌年も銀。引退してからは有名選手を次々に……」
京介,「あー、わかったわかったすごいすごい」
栄一,「ぬりいぃぃんだよっ!」
京介,「とにかく、その人に任せておけば花音も万全なわけだろ?」
栄一,「まあな」
京介,「じゃ、お前なんかぜんぜんいらねえじゃん」
栄一,「オレはともかくお前がそれじゃ話になんねえよ」
京介,「おれが?」
栄一はビシッと指を突きつけてきた。
栄一,「なんでテメーはそんなに興味ないんだ? 妹がオリンピック行くかもしれねえんだぞ?」
京介,「興味はあるってば」
栄一,「普通の親兄弟はよー、とにかく気が狂うくらい応援するらしいぜ? 娘がオリンピックに出るためなら学校だって辞めさせますってな勢いだ。コーチの指導に口はさむのもいるらしいぜ?」
京介,「だから、興味あるってば。あれだろ? スケートだけにスゲー、トぶんだろ?」
栄一,「…………」
京介,「…………」
栄一,「ぬ、ぬりいぃぃんだよっ!!!」
;背景 屋上 昼
京介,「わかったわかった、グランドシリーズってのは、いわゆる賞金戦で、選手権じゃないんだな」
栄一,「だから、必ずしも世界最強が決まるわけじゃないんだ。棄権する選手もいるからな」
昼休みになっても、栄一の説教は続いていた。
ハル,「なるほどですね。花音は今後そのグランドシリーズのNKH杯とシリーズ決勝戦であるファイナルというのを控えてるわけですね」
なぜか宇佐美も勉学に加わっていた。
京介,「で、今年最後に、日本最強決定戦である全国大会が行われるわけだな?」
ハル,「でも、世界大会は来年の三月ですよね? やけに間があきますね」
栄一,「その辺がアメリカとかと違うところでね、選手のコンディションにもブランクが出るってのに」
栄一は、なにやら我がことのように不満げな顔をしていた。
ハル,「で、もう一度聞きますが、世界大会に出るには、全国大会で優勝しなければならないんですよね?」
栄一,「いちおう、現状の取り決めではそうなってるね」
ハル,「では、たとえばグランドシリーズファイナルで優勝しても関係ないんですね?」
栄一,「昨日も言ったけど、いちおう考えるみたいな曖昧なことになってるみたいだよ」
ハル,「と、言いますと?」
栄一,「たしか、全国大会で、一位と二位の選手の得点差が一位の選手の十パーセント以内だったらとかそんな感じ」
ハル,「それは現実的に意味のある規定なんですかね?」
栄一,「あるよ、もちろん。けっこう僅差で決まることがあるからね」
京介,「ほう?」
栄一,「女子フィギュアはショートとフリー合わせて二百点いかないくらいだからね」
ハル,「なるほど、二位の選手と二十点くらいの差をつけなければ、世界への切符が確実とは言えないわけですね」
宇佐美がしきりにうなずく理由がようやくわかった。
ハル,「ファイナルで優勝すると、"魔王"のご機嫌もかなり悪くなるわけですか……」
京介,「しかし、考える、ってのが実に曖昧だよな」
栄一,「でしょ? なにかと腹黒いんだよねー」
もし、花音が全国大会で優勝するとしても、ファイナルを落としていた場合、二位の選手と大差をつけて勝たなくては、世界は怪しいってことか……。
京介,「で、花音のほかに、強豪はいるのか?」
栄一,「んー」
栄一はらしくない仕草で、いっちょ前に腕を組んだ。
栄一,「瀬田真紀子かねえ……今年になって調子いいのは」
京介,「ほほー、その人はどんくらいすごいんだ?」
栄一,「ま、花音の武力が90くらいだとしたら、瀬田は85くらいはあると思う」
ハル,「一騎打ちをしたら、ちょい危いですね」
栄一,「人気だけでいったら、花音の戦闘力が1500で、瀬田は5くらいなんだが……」
ハル,「圧倒的ではないですか、我が軍は。しかし、人気というのはちょろちょろ変動するもんでしょう?」
栄一,「瀬田もそこそこかわいいからねー。いままで注目されなかったのは、先の世界大会でわけのわからん負け方したからと、バックについてるスポンサーかな」
京介,「スポンサー?」
栄一,「よく知らないけど、瀬田は山王プリンセスホテル所属だよ?」
京介,「……っ!?」
……面倒なことになったな。
東区の開発の件で、ついこの間まで良好な取引を続けていた山王物産が相手か……。
京介,「そのスポンサーは、なんかやらかしたのか?」
栄一,「いや、もちろん噂だけどね。前回の世界大会でさ、金の力で瀬田を無理やり世界大会に出したとか……」
京介,「根も葉もない噂か?」
栄一,「いいや、なんで瀬田なんだっていう意見は多かったよ? 連合は経験を積ませるためみたいなこと言ってたけど、それにしたってもっといい選手はいたからね」
京介,「けっこう、いまでも騒がれてるのか?」
栄一,「いいや、もうぜんぜん」
おれもたいがい忘れっぽいが、世間もそういうことをすぐ忘れるんだろうな……。
花音,「みんな、なんの話ー?」
花音が、おれたちの輪に割って入ってきた。
栄一,「花音ちゃんのことを話してたんだよ?」
花音,「え? まだコーチごっこ続いてたの?」
栄一,「続いてるよ。君がその手に五輪をつかむまではね」
花音,「もう、飽きたよ」
栄一,「飽きるの早すぎるんだよ! 君には集中力ってものが……!」
花音,「四分は持つからだいじょうぶだよ」
四分は、フリースケーティングの演技時間……だったかな?
栄一,「たとえば、花音ちゃんはよく言われてるだろう? ジャンプは上手いけど、ステップシークエンスはどうなの?」
花音,「それは、おいおい」
栄一,「おいおいじゃないよ、こっちがオイオイだよ!」
花音,「だって、いまの採点方式だったらジャンプができれば他でちょっとミスしても平気だもん」
栄一,「だーかーらー!」
栄一,「極端にいえば、花音ちゃんは、ハドーケンができないのにショーリューケンばっかりうまくなっているようなもんなんだよ……!」
栄一コーチのお叱りはまだまだ続くようだった。
;背景 学園門 夕方
時間は午後四時を回ったばかりだった。
宇佐美がすぐさまおれを捕まえに来た。
ハル,「では行きましょう」
京介,「ああ……っと、権三の家だったな?」
ハル,「まさか忘れてたんですか? 昨日の話ですよ?」
京介,「昨日はいろいろと忙しくてさ」
ハル,「ほう、どちらへ?」
京介,「……いや、それも忘れたが……」
ハル,「一度、医者にいかれることをお勧めします」
……もう行ってるが。
京介,「言っておくが、失礼のないようにな」
ハル,「礼儀作法には自信があります」
京介,「そんな軽口かましたらマジで東京湾だぞ?」
やや緊張気味の宇佐美を連れて、南区に向かった。
;背景 南区住宅街 夕方
ハル,「同じ富万別市でもここは、静かな街ですねー」
整った歩道の両脇にそびえる樹木に、参道を歩いているような印象を受ける。
ハル,「まったく、こんなところを身代金の受け渡し場所に選ぶはずがないんですよね……」
京介,「恨めしそうな顔すんなよ、本当にお化けみたいだぞ?」
しかし、もし、宇佐美がもう少し富万別市の地理に明るかったら、"魔王"の手口に気づけたのかもしれないな。
ハル,「ものものしいくらいにリッチな街並みですね」
宇佐美の言うように、柵や門に囲われていない家を探すのが難しいくらい豪勢な建物が続いている。
京介,「白鳥の家もこの辺だぞ?」
ハル,「そういえば、ここ最近休んでますよね、彼女」
京介,「家庭事情が大変なんだろうな」
ハル,「ふむ……」
人生の勝者が住むに相応しい豪壮な建物と、豊かな緑を宿す大きな木々を尻目に、おれたちは浅井権三宅を目指した。
;背景 権三宅入り口 夕方
ハル,「うわ、これまたいかついすね。庭に池のある家とか初めて見ましたよ」
京介,「ちょっと黙ってろ」
インターフォンをコールすると、しばらくの沈黙の後、女中さんの声が聞こえた。
ハル,「やっぱり、神棚とか日本刀とかあるんでしょうねー」
どこかピクニックに行く前の子供のような顔をしていた。
;黒画面
京介,「京介です。宇佐美ハルを連れてきました」
;SE 棚の引き出しを押す音。
襖越しに呼びかけると、何かをしまったのか、棚を動かすような音が聞こえた。
浅井権三,「入れ」
;背景 権三宅居間 夕方
広々とした和室に、浅井権三が座していた。
書き物の途中らしく、おれたちの姿を認めると、筆をテーブルに置いた。
京介,「おい、挨拶しろ」
宇佐美の丸まった背中を叩いた。
ハル,「て、てまえ、生国と発しますは……」
京介,「馬鹿! 仁義切ってどうすんだ!」
ハル,「あわわ……!」
パニックに陥りそうになった。
浅井権三,「続けろ」
ハル,「え?」
浅井権三,「お前は何者なんだ?」
権三は、値踏みするような目で宇佐美に聞いた。
ハル,「じ、自分は……その……」
浅井権三,「黙れ」
ハル,「はい?」
浅井権三,「どうも京介から女の、それも至極上等な雌の匂いがすると思ったが、お前だな?」
ハル,「えと、自分は、こんな髪型でもお風呂には毎日入っていまして……」
権三が押し黙り、おれも背すじを凍らせた。
ハル,「あの……頭くせーとか言われるヒロインじゃないんで……あの……」
おどおどと、しかしいつもの調子で口を動かす宇佐美に、ついに権三は、
浅井権三,「面白い女だ」
どういうわけか、ささやくように言って、唇の端に笑みすら携えた。
浅井権三,「そうやって、京介をたぶらかしているわけだな?」
ハル,「いえいえ、まさか……浅井さんとは、まだおててもつないだことも……」
浅井権三,「死に損ないの匂いがするぞ、宇佐美ハル」
ハル,「……っ?」
浅井権三,「恐縮してるふりを見せているが、腹の底じゃ極道なんて少しも怖くないって面構えだ」
ハル,「それは……」
浅井権三,「目線を外しているようで相手の様子を探っている。それが証拠に、お前はついさっき俺が隠した拳銃の場所を知っている」
ハル,「え? え?」
浅井権三,「後ろの棚が気になるか?」
……そういえば、この和室に入る前に、引き出しを閉じるような音が聞こえたが。
ハル,「た、たしかに、あの、そちらの棚をチラ見してたのは、認めますけど……」
浅井権三,「では、なぜ、三段ある棚の一番下だけを見ていたんだ?」
ハル,「…………」
浅井権三,「音だろう? 最下部は一番重い音がするからな。だいぶ音感も優れているようだ」
宇佐美は、しばし固まったあと、ゆっくりと背すじを正した。
ハル,「これはどうも……本当に恐縮しました」
いままでとは打って変わって、低く、搾り出すような声だった。
浅井権三,「無礼は"魔王"を捕まえたら帳消しにしてやろう」
ハル,「では単刀直入にお願いします。"魔王"から届いたという封書を拝見させてください」
権三はうなずいて、スーツの内ポケットから、茶色の封筒を取り出してこちらに放った。
宇佐美がそれを拾い上げる。
ハル,「……"魔王"」
宇佐美が"魔王"と口ずさんだ理由はなんのことはなく、裏面に、小さく"魔王"と書かれていたからだった。
ハル,「中を見させてもらいます」
すでに開封してあった封筒から、白い紙を引き上げた。
ハル,「手書き、ですか……」
;ノベル形式
親愛なる勇者と怪物殿へ――
 大勢の犠牲者が出ることだろう。浅井花音がオリンピックを目指す限り。
 ある殺人鬼を野に放った。名前は<メフィストフェレス>としよう。戯曲ファウストに出てくる悪魔だな。ゲーテつながりということだ。
 すでに昨晩不幸な男が命を、散らした。花音の周りにいる人間は次々に同じ運命を辿る。とくに花音の母親に、ついては殺人リストから外れることはない。
忠告に耳を傾づくつもりがあるのならば、近日開催されるNKH杯でわざと負けろ。さもなければ、また新たな死が生まれる。一つ、アドバイスを。まずありえないと思うが、國家権力に知らせた場合、報復は苛烈を極める。追伸:例の株券は鼻紙に使わせてもらった。"魔王"
; "魔王"
……。
…………。
宇佐美と額を寄せて文章を目で追っていった。
浅井権三,「どう感じた?」
ハル,「やけに汚い字ですね」
宇佐美の言うように、文字はひどく歪んでいた。
まるで幼い子供が書いたように、雑で癖の多い字が不気味でもあった。
ハル,「まさか、手書きですか……」
浅井権三,「手袋でもして書いたのか、指紋は残していないようだがな」
……たしかに、脅迫状である以上、文章には細心の注意をはらうはずだ。
新聞の切抜きを利用したり、パソコンを用いたりと、とにかく筆跡がばれないようにするのでは?
ハル,「わざと、雑に書いたんでしょうかね」
京介,「それにしたって、警察が本腰入れて調べれば、この文章から"魔王"の特徴くらいつかめるんじゃないか?」
ハル,「あるいは……」
宇佐美は黙り込んで、眉間にしわを寄せた。
京介,「ところで、内容から、すでに犠牲者が出ているということですが……?」
浅井権三,「昨日の夕刊を読んでないのか?」
京介,「……え?」
浅井権三,「あるデザイナーが死んだ。花音の衣装を手がけたこともある」
京介,「……死因は?」
浅井権三,「自宅マンションの階段から足を滑らせて頭を打った。目撃者はいない。争った形跡もない。事故の線で進めていると話を聞いた」
"魔王"が、突き落としたのか……。
ハル,「消印ですが……」
ぼそりと口を開いた。
浅井権三,「市内からだな」
ハル,「当然、この手紙が投函されたポストの周辺は洗っているのでしょう?」
浅井権三,「徹底的にな」
宇佐美は指で脅迫状を叩いた。
ハル,「さらにこの『國』という文字ですがね……」
……國家権力に知らせた場合、とある。
浅井権三,「気づいたか」
ハル,「これは現体制に不満を抱いた人たちが好んで使う漢字ですね」
浅井権三,「いま付き合いのある組織を通して、できる限り調べている。だが、連中は自分たちの思想に共鳴しない人間には鎖国的だ。時間はかかる」
つまり、"魔王"は、なんらかの政治思想を持った人間で、かつそういった団体に所属している可能性もあるということだ。
ハル,「どうも考えがまとまりません。浅井さんはどう思います?」
京介,「なにがだ?」
ハル,「なんでもいいからとにかくしゃべってくださいワトスン的な発言を」
ワトスン的な意味がわからなかったが、とにかく口を開いてみた。
京介,「そうだな……"魔王"は、あまり程度の高い教育を受けなかったんじゃないかな……」
ハル,「ほほう?」
京介,「たとえば、句読点の位置がちょっとおかしくないか?」
おれは該当箇所を指で示した。
『すでに昨晩不幸な男が命を、散らした』
『とくに花音の母親に、ついては殺人リストから外れることはない』
京介,「ここなんだが、たとえば『すでに昨晩、不幸な男が命を散らした』とかのほうが読み安くないか?」
ハル,「ふむぅ」
京介,「『とくに花音の母親に、ついては殺人リストから外れることはない』……これなんか、変だろ。『とくに花音の母親については、――』じゃねえのか?」
ハル,「なるほどなるほど」
京介,「あと、耳をカシヅク……とかいう表現も聞かない。傾ける、だろ」
ハル,「ですよねー」
……なんかムカツクなこいつ。
ハル,「ちなみに浅井さんも国語は苦手とか?」
京介,「お前もだろ?」
ハル,「アインシュタインもです」
……ああいえばこう言う……。
ハル,「さしあたっていまやるべきことは、被害予定者のリストアップだと思うのですが?」
浅井権三,「もうやっている」
権三は、背後の書棚から一枚の紙を取り出して、宇佐美に差し出した。
京介,「けっこうな数ですね……」
リストには、死亡したデザイナーを含め、郁子さんやコーチのヒルトン、振付師や大会の役員などの名前も連ねてあった。
ハル,「自分と浅井さんの名前もありますよ?」
京介,「花音の周りにいる人間だからな……下手すると次はお前かも知れんぞ?」
当然、父親である権三の名もあった。
この数あるリストのなかで唯一殺害が確定しているのが、郁子さんというわけか……。
ハル,「これは頂戴してもよろしいでしょうか?」
権三は宇佐美の申し出を了承した。
ハル,「できれば、この脅迫状もお願いしたいのですが?」
浅井権三,「いいだろう」
ハル,「ありがとうございます。封筒もセットでお借りしますね」
丁重にハンカチにつつんで、さらに鞄の中から取り出したクリアファイルに挟み込んだ。
ハル,「では、失礼します。なにかわかりましたら、浅井さんを通してご報告します」
おれも宇佐美にならって一礼した。
ハル,「あ、すみません。最後にひとつだけ」
振り返る。
ハル,「このことは花音には……?」
浅井権三,「もちろん話さん」
ハル,「ですよね」
浅井権三,「が、人の口に戸は立てられん。そのうち知られてしまうだろうな」
ハル,「花音のオリンピック出場を決める全国大会は、いまから二週間後でしたっけ?」
京介,「その間に二つの大会がある」
不意に、宇佐美が眉を吊り上げた。
ハル,「長期戦になりそうですね……」
;背景 中央区住宅街 夜
昨日もそうだったが、宇佐美は、またおれのあとをついてくる。
京介,「お前、権三が怖くなかったのか?」
ハル,「え? なんの話ですか?」
京介,「とぼけんなよ、びびったふりしやがって」
ハル,「いえいえ、権三さんはわたしをかいかぶっていましたが、昨日は、完全に卵をかかえたペンギンのように固まってしまいましたよ」
……ペンギンは卵をかかえると、固まるのか……?
ハル,「ただ、たしかに、今日お会いして、いくらか気が楽になったのは本当です」
ハル,「あの方は、恐ろしいですね。平静さと荒々しさを兼ね備えている上に、相対していていつも監視されているような不気味な印象も受けます」
ハル,「ただ、なんでしょう……無意味な暴力は振るわないというか……こっちのお肉がおいしそうに見えなければ襲い掛かってこないというか……」
ハル,「利害関係が一致している限りでは、心強い味方だなと思いました」
……おれと似たような見かたをしているな。
ハル,「それはともかく、浅井さん」
不意に立ち止まった。
ハル,「浅井さんは、この事件をどう見ますか?」
京介,「どうって……」
しばし、考えをめぐらせる。
京介,「殺人予告だからな。なんにしても花音が心配かな」
ハル,「花音は、どこに住んでるんですか?」
京介,「スケートリンクの近くだが?」
ハル,「お母さん……郁子さんと二人暮しですか?」
京介,「それがどうした?」
ハル,「花音は、お父さんである権三さんといっしょに暮らしていないことに、なんの疑問も感じていないんですか?」
京介,「さあ……まったく不満を覚えていないわけでもなさそうだが、そういった話を花音から聞いたことはないな」
ハル,「権三さんが、暴力団の親分であることも知らないんですか?」
京介,「知らない……と思うな」
あるいは、知っているが興味がないようだ。
ハル,「花音は、変わった子ですね」
京介,「宇佐美もな」
ハル,「自分が愛人の子であることにも、父親の職業にも疑問を抱かない、オリンピック候補の学園生ですからね」
京介,「そういうふうに言われるとな……」
言葉に詰まった。
ハル,「なんにしても、人の命がかかっています」
京介,「そうだな。しかも、もう犠牲者も出ているときたもんだ」
ハル,「……警察は頼れないでしょうね」
京介,「こっそり警察に密告したりしたら、"魔王"はもちろん、権三もぶちキレるぞ」
ハル,「脅迫状を、警察の専門家の方に預けてみたいものですが……」
おれは肩をすくめた。
京介,「暴力団は合法的な手続きを踏まなくていいぶん、警察より機動力に勝るものがあるんじゃねえか?」
宇佐美は苦笑いを浮かべる。
ハル,「あまりお近づきになりたくない方々ですが、今後、力を貸していただくことになるのでしょうね」
話しこんでいると、家の前までたどり着いていた。
;背景 マンション入り口 夜
ハル,「では、この辺で」
京介,「間違っても花音には知られないようにな」
自分の母親の命が危いとなったら、さすがに演技にも支障がでることだろう。
ハル,「花音は明日から学園も休みですよね? 大会前ですし」
京介,「だったな。あさってだったか? NKH杯は」
宇佐美は軽くうなずいた。
ハル,「さて、引きこもって、手がかりを探るとしましょうか」
背中を丸めて去っていった。
シャワーを浴びて、パソコンと向きあった。
ふと思うのは、宇佐美が転入して以来、あまりに非日常的な事件が続いているということだ。
……かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう。
謎のメールが届いたのはいつのことだったかな。
どうも、最近は深夜の来客が多いな。
椿姫かな?
;背景 主人公自室 夜
花音,「やほー、兄さんっ!」
京介,「花音か……」
花音,「開けてよー」
大きな瞳をくりくりさせていた。
……しかし、このタイミングで花音か。
とりあえずオートロックを解除してやった。
;場転
花音,「やあやあ、いつきても兄さんちは広いねー」
なんの遠慮もなく上がりこんできた。
京介,「お前来たことあったっけ?」
花音,「ん?」
京介,「あ、いや、あったな」
花音,「なんだよ、また忘れんぼうなのかー?」
京介,「うるせえな、何の用だよ。大会二日前だってのに」
花音の顔に驚愕の表情が浮かんだ。
花音,「ええええっ!? 兄さんが、大会の日にち覚えてるなんてどういうこと!?」
……そういえば、いままではほとんど興味がなかったからな。
このまえ観戦したのはいつのことだったか。
花音,「なにかやましいことでもあるんでしょう?」
京介,「じと目で見るなよ」
恐ろしく勘のいいヤツだな……。
花音,「まさか、バッキーかうさみんとつきあうことになったのかー?」
京介,「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。んなくだらない話をしに来たのか?」
花音,「んーん、お泊りしに来たの」
けろっと言った。
京介,「え? マジ?」
花音,「マジ」
京介,「なんでまた」
花音,「なんとなく」
頭痛を覚えた。
京介,「ベッドが一つしかない」
花音,「じゃあ、それはのんちゃんのもんだ」
京介,「だから、一つしかないんだってば」
花音,「いっしょに寝ればいいんだってば」
京介,「あのな……」
どう言って聞かせたものやら……。
京介,「お前、大会前だからコンディションとか大事な時期じゃねえの?」
花音,「別に夜更かしするつもりはないよ。ただこれから寝泊りさせてもらえればいいの」
京介,「まてや」
花音,「あ、お風呂も貸して」
京介,「まてっての」
花音,「あと着替えるときは隣の部屋に行ってください」
京介,「おめーよー! これからってなんだ、これからって! まさか住み着くつもりか!?」
花音,「朝ごはんはしっかり食べるからね。兄さんの手料理がいいです」
京介,「おまえホントマジでB型だな」
花音,「んーん、O型だよ」
京介,「衝撃的だわ」
花音,「周りとの協調を重んじるタイプです」
京介,「よそへ行ってくれねえかな?」
花音,「ヤダよ、のんちゃん、友達少ないもん」
京介,「それはお前の性格が災いしてるんだ」
花音,「バッキーは大変そうだし、うさみんの家は知らないの」
京介,「栄一は?」
花音,「エイちゃんちはなんかヤダ」
京介,「…………」
花音,「あとは兄さんだけなんだよ」
なにやら困ったような顔をしていた。
京介,「なんだよ、お前……」
少しだけ心配になってきた。
京介,「まさか、郁子さんとケンカして家出してきたのか?」
コーチと選手の衝突というヤツだろうか……。
花音,「んーん、ぜんぜん」
キレるわ、こいつ……。
花音,「兄さんの邪魔はしないよ?」
花音,「朝早く出てくし、夜は遅く帰ってくるから」
花音,「ね? いいよね?」
おれは……。
;==============================此处选择支,我做一下标记=======================================
;選択肢
;帰れ
;しょうがない 花音好感度+1
@exlink txt="帰れ" target="*select1_1"
帰れ
;帰れを選んだ場合、以下の文を挿入
京介,「帰れボケ」
ビシっと言った。
花音,「イヤだボケ」
京介,「オメー、兄に向かってボケとはなんだ!」
花音,「兄さんが先に言った」
京介,「うるさい、謝れ!」
花音,「さ、ストレッチして寝ーよーっと」
おれをガン無視して、床に足を伸ばしだした。
……これはもう、折れるしかないのか?
;しょがないを選んだ場合も、以下に続く
京介,「わかったよ、しゃーねーな」
これみよがしにため息をついた。
花音,「ありがと、兄さんっ」
でへへ、とだらしなく笑った。
花音,「なんだかね、今回の大会はちょっといつもと違うの」
京介,「ん?」
花音,「なんていうかー、ふ、あん?」
京介,「不安?」
花音,「勝つのはわかってるんだけどー、ぷ、れっしゃー?」
京介,「プレッシャー?」
花音,「ていうことにしてよ、無理やり泊まりに来た理由」
……単純に、寂しかったということか?
京介,「一つ、言っておくが……」
おれは花音のへらへらした顔を見据えた。
京介,「書斎には絶対に入るな、いいな?」
花音,「はい」
特に、理由を聞いてくることもなかった。
花音は、興味のないことに関してはまったく無関心なのだ。
瑣末なことにとらわれないことで、自分の時間を増やしているようにも見えた。
花音,「兄さん、肩もんでー」
……やれやれ、おかしな毎日が始まりそうだな。
;背景 主人公自室 夜
おれの邪魔はしないと言った花音だが、しかし早朝にたたき起こされるとは思わなかった。
花音,「おはよ、兄さんっ」
すでに私服に着替えていた。
京介,「いまは五時半です」
花音,「のんちゃんは、いまから出勤です」
京介,「ソファで寝ていたおれの身にもなってくれ」
花音,「ねえ、朝ごはんは?」
京介,「夜中にパスタゆでといたから、てきとーに食え」
花音,「やったー、ありがとー!」
……うるせえな、しかし……。
ちくしょう、なんだか目が覚めてきやがった。
花音,「ねえ、兄さん、夜中まで誰とお話してたの?」
パスタを皿に盛りつけながら聞いてきた。
京介,「なんだって?」
花音,「電話してたんでしょ?」
京介,「仕事関係だよ」
……誰だったかは、おれも忘れた。
京介,「眠れなかったか?」
花音,「ぜんぜん」
京介,「あ、そ」
花音,「そんなことより、のんちゃんミートソース苦手」
京介,「黙れ、食え」
花音,「ヤダ」
京介,「おれがせっかく作ってやったモンを食えんというのか?」
花音,「だって、前から嫌いだって言ってたもん。兄さんがまた忘れてたんだ」
京介,「ホントかー? おれの忘れっぽさを悪用してんじゃねえだろうな?」
花音,「のんちゃんは、人に嘘はつかないよ」
京介,「気も使わないけどな」
花音,「そんなことないよ、兄さんのぶんもちゃんと取り分けてあげる」
京介,「いや、おれ腹へってねえから……」
花音,「黙れ、食え」
京介,「寝起きで胃が重いのよ」
花音,「せっかくのんちゃんが、よそってあげたモンを食えんのかー?」
ずいぶんと騒がしい朝になった。
;背景 マンション入り口 昼
花音,「見送り、大儀じゃった」
京介,「へいへい」
花音,「ついでにスケートリンクまで送ってくれたまへ」
京介,「いやでござる」
花音,「あははは、ござるとか言うなよー」
……たまに茶目ッけを出すと、みんなどうしておれのことを馬鹿にするんだろうな……?
花音,「ストーカーがいるんだよ」
京介,「いきなり物騒だな」
花音,「いきなりカメラ撮られたりするの」
京介,「む……」
花音,「練習帰りに会場の外で待ち伏せしてたこともあるよ」
京介,「お前は有名人だということをもう少し自覚したほうがいいな」
花音,「え?」
不意に、目を丸くした。
花音,「のんちゃんが、悪いっていうの?」
京介,「いや、悪かぁねえけど……なんつーのかな、目立つと注目されるわけで……」
花音,「別に怖いことされなければ、写真ぐらいいいよ。でも、ねちっこいのはイヤ。ねちっこい人が悪い」
京介,「……わかったよ、パパに言いつけてやれ」
花音,「もう言った」
……そいつは、死んだな。
京介,「まあ、セントラル街の近くまで送ってやる。そこからタクシーを拾え」
花音,「ありがとっ!」
;背景 繁華街1 昼
花音をタクシーに放り込んで、ようやく一息つけた。
まったく、身がもたないな。
頻繁に頭痛も襲ってくるし。
……えっと、なんでセントラル街に来たんだっけか。
京介,「…………」
そうだ、今日は秋元氏のカウンセリングを予約してたんだ。
……だいじょうぶか、おれは。
まだ早い時間だったので、喫茶店で新聞を読みがら時間を潰した。
秋元,「やけに顔色が悪いね」
正面で、秋元氏が豊満な体を揺らした。
京介,「あまり寝てませんで……」
秋元,「寝てない? 寝られないのかい?」
京介,「いや、夜中に妹が泊まりに来ましてね」
秋元,「じゃあ、寝ようと思えば寝られるんだね。なら良かった」
……どうやら、重要な質問だったらしい。
秋元,「しかし、君の妹さんはすごいねー。僕も応援していると伝えておいてください」
京介,「はあ……」
そっけなく相づちを打つと、秋元氏が身を乗り出してきた。
秋元,「さて、前回はどこまで話したっけ?」
京介,「自分の初恋についてだったかと」
秋元,「ぜひ聞かせてもらおうじゃないか、下手な冗談は身を苦しめるよ?」
にんまりと笑った。
秋元,「お父さんの話だろう?」
京介,「いいですよ、その話は」
顔を背けた。
汗の滲んだ手で、差し出されたカップをつかんだ。
秋元,「鮫島京介くん」
京介,「なんです!?」
秋元,「にらまないでくれよ」
おどけるような態度が気に入らなかった。
京介,「いいですか? おれはもう、そのことは考えないようにしてるんです。そうしなければ、やっていられないからです」
秋元,「だろうね」
京介,「だろうねって……!」
唇がわなないていた。
京介,「あなたそれでも高名な医者なんですか!? 患者を挑発するような真似をしていいんですか!?」
しかし、秋元は平然としていた。
秋元,「だって、君はちゃんとした患者さんじゃないんでしょ? 学園をさぼる口実を作るためにここに通ってるわけでしょ?」
……この野郎……。
京介,「そのとおりです。だから、てきとうに雑談でもしませんか?」
秋元,「君は目立つのが大嫌いだろう?」
京介,「……なんですか、いきなり」
秋元,「さんざん世間の注目を浴びたわけだからね。そうか、人の目が怖いか……」
おれはようやく秋元氏のペースに乗せられていることに気づいた。
京介,「とにかく、もう父のことはよく知りません。知りたいとも思わない」
秋元,「面会にも行ってないのかい?」
責められているような気がした。
親不孝者と、罵られている――!
京介,「……一度も」
動悸が激しい。
京介,「いや、一度だけ、母さんといっしょに……子供のころ……しかし、おれは、なにもしゃべらなかった……」
秋元,「お父さんに、なぜ、あんなことをしたのか、聞いてみたいとは思わなかったのかい?」
押し黙る。
秋元,「京介くん?」
黙って、心を凍りつかせる努力をした。
何も感じなくなるまで、母さんと過ごしたあばら家の窓から見える雪景色を思い出した。
そして――。
京介,「聞く意味がありませんから」
秋元,「……む?」
京介,「なぜ、四人も殺したのか。理解してどうなるというんです?」
秋元,「……京介くん?」
秋元が初めて余裕の表情を崩した。
おれが、笑っているからだ。
京介,「しかし、父が人を殺めた真意は、おれにはわかる。いや、おれだけは、わかっている。わかってやらねば、父が報われない」
秋元が、眉をひそめた。
京介,「殺されて当然の人間を、当然に殺したまでのことだ」
秋元,「京介くん、それは違う……」
京介,「違うのはお前らだ。が、多くは語らん。お前らに父の潔白を説いても無駄だからだ。おれはやる。お前らは身を持って知ればいい」
突如、秋元が立ち上がった。
その瞳に、明らかな狼狽の色が浮かんでいた。
秋元,「今日は、ここまでにしよう」
京介,「おや? まだ二十分もたっていませんが?」
秋元,「診察料は特別に割引してあげよう」
京介,「それはよかった」
手を振って、悠々と退室した。
;黒画面
…………。
……。
;背景 屋上 昼
栄一,「ふー、花音がいないと和むぜー」
京介,「ほんと、学園は和むぜー」
栄一,「なんだよ、遅刻してきた分際でよ」
京介,「いつものことだろ」
栄一が我が世の春を謳歌していた。
栄一,「今日はよ、宇佐美の野郎もいねえし、マジやりたい放題だぜ」
京介,「ほほう」
栄一,「手始めに花音の机に、賞味期限が明日までのお菓子を入れておいた」
京介,「え?」
栄一,「するとどうなる? あいつはしばらくスケートで休みだろ? 帰ってきたときには食えなくなってるわけか? ええっ? こいつは困ったな兄弟?」
……普通に、食わずに捨てるだけじゃねえか?
栄一,「しかし、京介ちゃんよー」
京介,「はい?」
栄一,「そろそろ、宇佐美に復讐しないといけないんじゃねえか?」
京介,「復讐、すか」
栄一,「ほら、あの、職員室に忍び込んだときのことだよ」
京介,「ああー、はいはい。鍵、盗んだときだな?」
栄一,「あのときは、ヤツのせいで、オレたちの完全犯罪が暴かれたわけじゃん」
京介,「いやいやいや、あれはどう考えてもお前が勝手に自滅しただけじゃねえかな?」
栄一,「あー、どーすっかなー……どうやって地獄を見せてやろうかなー」
ない知恵を、必死になって絞っているようだった。
水羽,「……ねえ」
栄一,「あ、白鳥さん、こんにちはー!」
白鳥が屋上に来るなんて、珍しいな。
京介,「よう、白鳥。学園の件は少し落ち着いてるみたいだな」
学園の理事長……白鳥の親父さんが世間から警察から容疑をかけられている件だ。
水羽,「私は興味ないから」
興味ないわけがないだろう……。
水羽,「浅井さんのことだけど」
浅井さん……というからには、おれのことじゃなくて、花音のことだろうな。
京介,「花音がどうした?」
水羽,「あなたに用はないわ」
一瞥された。
水羽,「相沢くん、チケット、どうやって取ったらいいの?」
栄一,「え? ビスケット?」
水羽,「…………」
栄一,「なーんちゃってー! えへへっ、ボク、甘いもの大好きだからねー」
水羽,「気持ち悪いわ」
栄一,「(んだと、コラッ!?)」
水羽,「インターネットで手に入れられると聞いたんだけど、やり方がわからなくて」
栄一,「いつのチケットがいいの?」
水羽,「明日の」
栄一,「明日のはもう無理だよ。当日券しかないね」
水羽,「当日券は、直接会場まで行けば買える?」
栄一,「まず無理だけどね」
水羽,「そう」
用件が済んだのか、白鳥は踵を返した。
京介,「おい待てよ、なんでお前がスケート観たがるんだよ?」
水羽,「別に。浅井さんに来てって言われてたから考えてみただけ」
こちらを振り返ることもなかった。
京介,「…………」
栄一,「…………」
京介,「ったく、なんだよ、あいつは」
栄一,「同感だね。アイツはオレを怒らせたよ」
寒空の下、おれも栄一もふてくされていた。
;背景 学園概観 夕方
京介,「じゃあ、明日、何時に会場に行けばいいんだ?」
栄一,「本当は昼から全部見てけと言いたいところだが、花音の出番は、だいたい八時過ぎくらいだ。それまでには来いよ?」
京介,「明日は、ショートプログラムだよな?」
栄一,「ああ、あさってのフリーのほうが、本番っちゃあ本番だ」
……わざと負けろ、か。
栄一,「じゃあなー」
栄一を見送って、ふと、脅迫状を思い出した。
負けるはずがない。
花音は、脅迫のことを知らないのだから。
郁子さんの身辺警護は、権三が固めていると思うが……。
宇佐美はなにをしているのかな。
思い立って電話をかけてみたが、通話がつながることはなかった。
おれはどう動くべきか……。
どうやったら"魔王"の凶行を止めることができる?
どうも現実に危機が迫っているという実感がない。
おれには"魔王"を捕まえたいという意欲が権三や宇佐美ほどないのだろうか。
すでに人が一人死んでいるというが、正義感が沸き立つようなこともない。
身の回りの人間に危害が加えられて初めて、慌てだすのだろうか。
……もし、そうなら、遅いのだろうな。
;ノベル形式
;背景 バー 
革命が始まる予感があった。
 "悪魔"は セントラル街の奥まった路地にあるバーのカウンターで、"魔王"からの入電を待っていた。
 腕時計の針が午後八時ちょうどを差した。"悪魔"は、携帯電話のバッテリーを入れた。"魔王"の指示だった。普段からバッテリーを外す癖をつけておくべきだと。そうすれば、そう簡単に居場所を追跡されることはない。
 "魔王"から手紙が届いたのは、三日前のことだった。
"悪魔"は、大日本革新義塾の代表として、事務所の住所を堂々とウェブサイトに公開していた。
 書き出しは、ある人間を殺して欲しい、とあった。それは、時間と場所の指定まである詳細で緻密な殺人計画だった。
 初めはよくある悪戯か共産党の罠かと思われた。しかし、その後に続く"魔王"の主張――堕落した政治家や第四権力への批判――を読み進めるうちに、並々ならぬ興味を覚えた。句読点の打ち方が妙であったり単語の誤用が見られたりするところから学識はなさそうだったが、その激情は"悪魔"の胸を打った。
 そして、昨日の深夜に交わした電話のやりとりで、彼が同志であると確信にいたった。
彼は浅井と名乗った。"魔王"と呼んでくれ、とも。
 "魔王"は、電話のなかで、一人の男を殺したと告げた。マンションの階段から突き落とした。物陰に隠れて被害者の帰宅を待ち、不意をついて背中を押した。単純だが、目撃者さえいなければ事故との区別は難しいという。
 "悪魔"は、なぜ殺したと聞いた。その答えが気に入った。
『彼がホモセクシュアルだから』
 それは、"悪魔"の主張と共鳴していた。偉大なる日本に同性愛者のような弱者は不要である。
聞けば被害者は、服飾を専門とするデザイナーで、ゲイであることをカミングアウトしたことで、マスコミの注目を集めていたのだという。たしかに、死んで当然の人間ではないか。
 行動力のある男だと思った。国を憂う同志が増えたことは喜ばしい。
 着信があった。
 しかし、相手は無言だった。
西条,「"魔王"か?」
こちらの声を確認するまで口を開かない。その慎重さも気に入った。
魔王,「いい夜ですね」
若い。が、愛国心を抱くのに年齢は関係ない。
西条,「我々の力を借りたいのだな?」
魔王,「一人より二人のほうが、より祖国のために働けます」
西条,「殺すのだな?」
魔王,「改革に犠牲はつきものでしょう」
西条,「手紙にあったお前の計画は完璧だ」
"魔王"は、低く笑った。
魔王,「計画は完璧だが、まだ私のことを信用なさってはいないようですね?」
西条,「同志を疑うつもりはないが、こういう話は腰をすえてじっくりとしたいものだ。ひとまず一度会ってみないか?」
魔王,「申し訳ありませんが、お断りします」
西条,「なぜだ?」
魔王,「お互いの顔を知らぬほうが、公僕の目も欺きやすいというものです」
 一理ある。共犯ではなく単独犯と思わせられるだけでも、警察の捜査を誤った方向に導くことができる。
魔王,「しかし、あなたのお気持ちもわかります」
"魔王"が言った。
魔王,「もう一人、殺してみせましょう。それで、私が本気であることを理解していただければと思います」
西条,「誰を殺るんだ?」
魔王,「外国人です。我が国に、彼らの住まう場所などないということを教えてやらねば」
西条,「心意気は賞賛に値する。英霊たちもお喜びになるだろう」
頭の切れる男ではありそうだった。意志も強そうだ。冷たい声に狂気じみたものすら感じる。問題は"魔王"の背後関係だった。すなわち、それだけ大胆な計画を胸に抱きながら、なぜ自分を頼ってきたのか……。
 "魔王"が、見透かしたように言った。
魔王,「私は、この殺人の末、声明文を起草して、堕落した日本人に訴えかける所存です。しかし、私は個人で動いている。いまの政治では少数意見は必然的に無視されるものです。私は真に信頼できる同志を求めていました。威厳ある組織を。しかし、どの政治団体も手ぬるい。どいつもこいつも口だけです。もはや、話せばわかる時代ではないというのに」
口調はやがて力強くなっていった。次の一言には、"悪魔"の心を震わせるものがあった。
魔王,「あなたは違う」
西条,「…………」
魔王,「あなたのウェブサイトに掲げられた主張に確信した。あなたは英雄だ。私の声明文を託せるのは、あなたしかいない」
高揚した気分を落ち着かせようと、グラスに口をつけた。
革命の予感があった。
西条,「一人殺すと言ったな。いつ殺すんだ?」
魔王,「明日です」
西条,「詳しく聞こう」
魔王,「ええ、夜は長い……」
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
;背景 主人公自室夜
花音,「たっだいまー!」
夜遅く、花音が帰ってきた。
京介,「やっぱり、居座るつもりなんだな。郁子さんやヒルトン先生の許可は得てるんだろうな?」
花音,「ヒルトン先生はあんまりプライベートに関わらないの。日本語もあんまりできないから、なんか気が楽だよ」
京介,「郁子さんは泊まっていいって言ってんのか?」
花音,「ん……OKだって。明日は車で迎えに来るって」
ならいいが……。
どうも体が冷え切っているようなので、お湯を沸かしてやった。
京介,「お前、コーヒー飲めるよな?」
花音,「うん、兄さんのコーヒーはおいしー。でも砂糖は入れないでください」
……食い物にも気を使っているんだろうな。
花音,「兄さんって、暗いよね」
京介,「いきなり無礼だな」
花音,「なに考えてたの?」
花音が勝つと死人が出るということを、考えていた。
京介,「いやー、花音はかわいいなーと」
肩をすくめてみた。
また、小馬鹿にされるかと思ったが、花音は目を輝かせた。
花音,「ほんと? 二回目だね。兄さんに好きって言われるのは」
京介,「好きとか言ってねーけど……」
京介,「って、二回目?」
花音,「兄さんと会って最初のころ」
京介,「ああ……」
おぼろげな記憶をたどる。
一時期、花音が権三の娘だと知って、媚を売っていたことがあったな。
よく覚えていないが、そんなときに、かわいいだの、好きだのとささやいたかもしれない。
花音,「のんちゃんは、のんちゃんが好きな人が好きです」
……まさか、真に受けているとはね。
もちろん、おれだってこいつが嫌いではないが……。
花音,「兄さんは根暗で、嘘つきだけど、のんちゃんのことは大好きです」
京介,「はいはい」
花音,「じゃなかったら、頼んでないのにコーヒーとか出してくれません。ご飯も用意してくれません」
京介,「…………」
……なにを馬鹿なことを。
花音,「なんか元気出てきた。明日はすっごい点数出しちゃうぞー」
京介,「勝手に元気になってよかったな。四回転もとっとと決めてくれ」
花音,「あれはもうやめた」
京介,「え?」
花音,「今日のテレビ見てなかったの? のんちゃん、インタビューで四回転しないって宣言したんだよ」
京介,「なんだよ、残念じゃねえか……みんな期待してたんじゃねえのか? なんつーの、必殺技だろ?」
花音はぷるぷると、子犬のように首を振った。
花音,「あれはやるもんじゃないよ。男の選手でも腰と膝にずしーんとくるらしいよ。のんちゃんもカナダで試してみてコイツはヤバイって思った」
京介,「飛んだが最後、その後の演技がぐだぐだになるってことか?」
花音,「イエース」
少し気に入らなかった。
京介,「ちょっと人気が落ちるんじゃねーの、花音ちゃんよー」
栄一みたいなしゃべり方だった。
花音,「んー、みんな新しい技が大好きだからねー」
口をへの字にして困ったように言った。
花音,「でも心配ない。けっきょく勝てばいいから」
京介,「勝てるのか? 栄一コーチの話しによれば、お前は基本的なスケーティングの評価がかんばしくないとか……」
花音,「ジャンプに比べればの話だよ」
京介,「ジャンプねえ……」
花音,「四回転を狙わないぶんだけ、トリプルをきっちり決めるから」
たしかに、四回転に失敗して転倒するよりは、トリプルを確実にこなしたほうが、得られる得点は高い。
京介,「転ぶなよー、マジで。選手がジャンプするときって、客も緊張するんだよなー」
花音,「あれれ? 兄さん知らないの? のんちゃんは、ジャンプはジュニアのときからほとんど転んだことないんだよ?」
京介,「へー」
花音,「アクセルはちょっとやらかしちゃったことあるけど、序盤のコンビネーションジャンプなんかは一度も転んだことないんだよー」
どうも、こいつはへらへらしてんな。
京介,「ほら、瀬田真紀子さんだっけ? 今年は調子いい日本選手もいるわけだろ?」
花音,「うん、今日、いっしょにインタビューされた。瀬田さんかわいい。でも勝つのはのんちゃんなのでしたー」
……なのでしたー、じゃねえよ。
京介,「お前ちょっと、油断してんじゃねえのか?」
呆れながら言った。
京介,「転んだことないからって次も転ばないとは限らんだろうが」
花音,「…………」
不意に、花音の口元が引き締まったので、おれも口を閉じた。
黙り込んでいた花音が、小鼻を広げ、わずかに笑った。
花音,「転ばないよ」
京介,「なに……?」
とっさに、息を呑んだ。
花音,「わたしが、負けるわけがないの」
おれを見つめている目に現れた光を、いままで知らなかった。
花音,「五歳のときからスケートやってるの。バレエも習った。みんなが遊んでる夏休みに合宿にも行くの。CMにも出させられるの。わかるかな?」
強張った顔に、あるとも見せない呼吸。
押し殺すような語り口には、絶対の自信があった。
花音,「瀬田さんは、インタビューでわたしのことをライバルだと言った。わたしに勝ちたいみたい」
花音,「そんなこと考えてるから勝てないの。よけいなこと考えたらダメなの。わたしは普通の学園生であることを求めなかったし、パパが怖い人なのもどうでもいいの」
花音,「パパと母さんが一緒に暮らしていないのも、理由があるんだろうけど、あえて聞かないの。ショックを受けてる暇なんてないから」
花音,「兄さんもそう。いろいろ隠し事があるみたいだけど、聞かれたくなさそうだから、わたしも興味を持たないの」
花音,「どうすれば得点が伸びるのか。わたしはそれだけを考えてる」
感情移入のない平坦なしゃべり方に、思わず背すじが伸びる。
気圧されてしまいそうな眼光は、誰かに似ていた。
花音,「去年の故障を心配するような声もあるけど、よけいなお世話。テレビの人は視聴率を取るのが仕事。わたしも数字を取るのが仕事」
花音,「誰よりも高い点数を取って、観客をあっと驚かせてあげるの。感動したければすればいい。握手もサインもしてあげる。そんなことより勝利の瞬間がたまらないから、何千、何万回と練習してきた」
……忘れていた。
花音,「わかった、兄さん?」
こいつは、浅井権三の娘だった。
花音,「明日は来てね。それが本当だって教えてあげる」
おれが学園では緊張感のない毎日を送っているように、花音もまたスケートリンクの上に本当の自分を見出していた。
花音は、言いたいことを言って満足したのか、いつものでれっとした顔に戻って脱衣所に消えていった。
おれはしばらく、その場に呆然と突っ立っていた。
……明日は、嫌でも観にいかなくてはな。
;黒画面
あの不敵な笑み。
過剰なまでの自信に溢れた目つき。
超満員のアイスアリーナ内で、おれは浅井花音の真髄を思い知らされることになった。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
声,「ナンバー46。浅井花音、日本!」
;SE 盛大な拍手
観客席から盛大な拍手が上がった。
割れるような歓声に包まれながら、花音が氷上に躍り出てきた。
企業の広告が張られたフェンスに沿うようにリンクを半周し、やがて中央で静止し、ジャッジに向けて艶かしい媚態を作った。
息の詰まるような静寂が張り詰める。
内壁に備え付けられた巨大なスクリーンには、花音の顔がアップで映し出されていた。
その表情にまるで別人を見ているようだった。
挑むようなまなざし。
引き締まった唇が計算されたメイクも手伝って、美しさを際立たせている。
普段の花音を知る人間からは想像もできないほど、覇気に溢れていた。
姿勢を落とし、日本人離れした長い右腕を左足の付け根あたりに添える。
まるで、腰元の剣の束に手をかけるような格好。
今から戦いにでも行くのかと思わされた直後、その妄想があながち間違ってもいなかったことを知った。
踊るような木管楽器の調べから始まったのは、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』だった。
楽劇『ニーベルングの指環』に登場するワルキューレは、戦没した勇士たちを天界の城に導く使命を帯びていた。
日本では戦乙女とも呼ばれる彼女たちは、鎧に身を包み、剣をかかげ、翼の生えた馬に乗って戦場に赴く。
ファゴットやホルンが奏でられるころには、花音はまさしくワルキューレのような勇ましさで氷上を疾走していた。
速い、と思った。
他の選手と比べてもスピードが段違いだし、なによりリンクが狭く見える。
フェンスの端から端まで一気に到達したかと思うと、ゆるやかなカーブを描きながら、いつの間にか後ろ向きの姿勢になっていた。
;SE エッジを利かせる音。
氷を粉砕するような暴力的な破壊音があった。
さながら天馬の馬蹄。
直後、花音の肢体が空中で回転していた。
高く、滞空時間の長いジャンプは、本当に羽でも生えたようだった。
転ぶはずがないと花音は言った。
当たり前のように、着氷は完璧だった。
コマの軸のようにエッジを利かせて半回転すると、優雅に伸びた両手が翼を広げた。
;SE 拍手
連続ジャンプを終えた花音に豪勢な拍手が浴びせられる。
種類はよくわからないが、おそらく難度の高いジャンプを成功させたのだろう。
芸術的なジャンプであったことは、おれにもわかった。
花音の前に何人かの選手が跳んだのだが、たとえば、踏み切りまでの準備が異様に間延びしていたり、回転不足で降りてきて着氷し、氷の上で足を回してさもジャンプが成功したように見せてしまう選手もいた。
花音の場合、まず飛距離が違う。
弾丸のような速度が成せる技なのか。
しかし、たとえばテレビで走り幅跳びなんかを見ていても思うが、助走のスピードが上がれば上がるほど、ジャンプのタイミングは難しくなるはずだ。
かといってのろのろと滑ってきてジャンプされたのでは、素直に拍手は送れない。
失敗した他の選手にしてもそうだが、高さと飛距離を両立させるのは至難の業なのだろうな。
二度目のジャンプも難なく成功させ、花音は進撃を続けていった。
派手な振り付けのステップシークエンスが始まる。
上体の忙しい演技に目を奪われるが、よくよく観察してみると足元は実になめらかだった。
片足だけで細かいターンを繰り返してなお、スピードは落ちない。
優雅かつ正確無比なステップは、まるで戦姫が目にも留まらぬ剣舞を披露しているようにも見えた。
三度目のジャンプ。
今度は前向きに滑ってきてそのまま踏み切った。
;SE エッジを利かせる音。
氷の削り屑が血しぶきのように弾ける。
大言を吐いただけあって、見ている側としても安心感があった。
転ぶかもしれない、などとは少しも思わない。
見事な着氷を決めた花音に、会場は異様な熱気に包まれた。
が、それまでのような黄色い嬌声はまったく聞こえなかった。
感嘆の吐息と、驚愕のうなり声。
賛辞ではあるが、それは悪寒を覚えるような畏怖からくるものだった。
妖艶だった。
スクリーンに映し出された花音の表情には、鬼気迫るものがある。
神に刃向かう敵勢を皆殺しにするのだ。
そもそも『ワルキューレの騎行』と聞いて、映画『地獄の黙視録』を思い出す客も多いのではないか。
不気味な陽気さを漂わせる指揮官のもと、大音量の『ワルキューレの騎行』にのせて、ヘリの上からベトコンの村を機銃掃射するシーンだ。
作曲者のワーグナーの人柄にしてもそうだ。
音楽史に残る偉人であることは間違いないが、その人物は悪名高い。
自己中心的な性格の持ち主で、浪費家なうえに周りは自分のような天才に出資するのが当然だと決めつけていた。
ニーチェと親交のあった時期もあり、その思想にいたっては後世においてナチに利用されたほどだった。
天才ではあるが、暴君でもあった。
非日常的な光景の続く銀盤で、氷上の暴君が圧巻のフィナーレを飾ろうとしていた。
嵐のような回転速度のスピンを終えて、決めのポーズを取った花音。
;黒画面。
曲が収束すると、一呼吸おいて、地鳴りのような音が会場のそこかしこからせりあがってきた。
満場一致のスタンディングオベーション。
おれも気づいたときには腰を浮かせて手を叩いていた。
たかが二分四十秒の間に、人の心を鷲づかみにする威勢があった。
発表された得点は明らかに異質なものだった。
波いる世界の強豪を蹴散らし、花音は一気に首位に立った。
歓喜に沸く客席。
去年の故障から見事に立ち直った姿に感動しているのだろう。
彼らは、本当の花音を知らない。
キス&クライと呼ばれる、結果を待つ選手たちが待機するスペースに花音の姿があった。
その顔がスクリーンに浮かび上がる。
パーソナルベストを更新した花音は、しかし、飛び跳ねて喜ぶでもなく、隣に座ったヒルトンコーチに抱きつくでもなかった。
ただただ冷徹に、ニヒルな笑みを口元に携えるだけだった。
インタビューアーがマイクを差し向ける。
花音は一言、
花音,「明日もありますから」
と、つぶやくように言うだけだった。
腹の底に強烈な愉悦を隠しているようにも見えた。
まるで、今日の勝利が当然のものであるといわんばかりに……。
;背景 スケートリンク外観 夜
京介,「いやいやいや、栄一さんよー」
栄一,「いやいやいや、京介ちゃんよー」
外に出て栄一と椿姫と合流した。
真冬の外気が肌にひんやりと気持ちいい。
京介,「お前さー、なんか花音のステップがどうだとかぬかしてたけど、実際どうだったんよ、すげえじゃねえか」
栄一,「やっぱりオレちゃんがきつく言ってやったからかな。去年までの花音とは別人だわ」
椿姫,「ほんと感動したね。ぞくぞくしちゃったよ」
京介,「選曲も良かったと思うんだよ」
椿姫,「わたしもそう思った。最初は怖い曲だなって思ったし、いつもニコニコしてる花音ちゃんには合わないような気がしてたんだけど……」
栄一,「だんだん、ハマってきたと思ったら、いつの間にかこれしかないみたいな気分にさせられたわ」
栄一もよほど興奮しているのか、椿姫の前だというのに本性を現したしゃべり方をしていた。
栄一,「やっぱりヒルトンは偉大だなー。コーチが違うとこうまで変わるもんかねえ……」
京介,「そんなに違うのか?」
栄一,「違う違う。去年までの花音はよー、なんつーの、どっちかっつーとキャワイイ系で売ってる系だったのよ」
京介,「売ってる系だったんだ」
栄一,「元コーチの金崎郁子には悪いけど、花音にはああいう悪魔系が似合うよ」
椿姫,「ちょっと怖すぎたけどね。でも、ああいう花音ちゃんも素敵だよね」
京介,「よくよく見たら、あいつ背も高いし手足も外人みたいに長いもんな」
栄一,「なんかの記事で読んだけど、ガキのころからバレエやって体柔らかくして、メシも自分で管理して食ってたらしいぜ」
京介,「この分じゃ、明日も楽勝だな」
すると、栄一が突然、顔をしかめた。
栄一,「あー、それなんだけどよー」
京介,「どうした?」
栄一,「明日のフリーな。フリーのプログラムはあんまり評判良くねえんだわ。プログラムっつーか、曲か?」
京介,「え? そうなの? 今日が『ワルキューレの騎行』だったんだから、明日は『英雄』とかじゃねえの?」
栄一,「そう思うだろ? でもなに考えてんだか知らねえけど、今日のショートとは百八十度違う曲調なんだよなー」
京介,「なんてヤツだ?」
栄一,「マニアのお前ならわかると思うけどよー……」
その曲名に、たしかにおれも首を傾げた。
京介,「そりゃ、まずいんじゃねえの?」
栄一,「だろう? 今日のイメージじゃねえよな?」
椿姫,「でも、花音ちゃんはそれで、この前のカナダ大会は優勝してるんだよね? だったら、だいじょうぶじゃないかな?」
おれも椿姫に同意した。
京介,「花音の技術は、ハンパないんだろ? だったら得点にはあんまり曲とか関係ないんじゃねえの?」
栄一,「ぬりぃんだよ。スケートはよー、芸術だぜえ? 得点を決める要素には曲の解釈って項目もあるくらいだ。実際、前のカナダじゃその辺がだいぶ弱かったらしいぜ?」
京介,「じゃあ、変えればいいじゃん」
栄一,「だよなー。なんでまたあんな曲なんだろうな。噂によると元コーチの母親にまだ義理立てしてるって話もあるけどな」
椿姫,「浅井くんはそういう話しないの?」
栄一,「そうだよ、なにか聞いてねえのか?」
京介,「ぜんぜん」
栄一,「お前らホントに家族なのかよ……」
呆れ果てていた。
椿姫,「じゃあ、また明日ね」
栄一,「京介も、ちゃんと来いよー」
京介,「おう……」
少し薄情かもしれないが、別におれが行かなくても花音はやり遂げるだろうな。
今日の演技を見て確信した。
花音にとって客の歓声などたいして意味のないものなのだ。
浅井権三が己のみを頼みとするように、花音もまた自分の実力を信じている。
…………。
……。
;ノベル形式
;背景 倉庫外
たしかに死人が出ていた。
 夜、十一時。
 "悪魔"は、西区の港に足を運んでいた。
 黒ずんだ血が、携帯していたライトの光に浮かび上がった。灰色の路面にまばらに模様を作り、点々と暗い海に続いていた。
 ――肺を一刺し、海に突き落とす。
"魔王"の冷淡な声を思い出した。この辺りの海は冬になると流れが急になり、死体ははるか遠くの外海に運ばれるのだという。死体さえ発見されなければ殺人事件にはならない。年に九万人も出る行方不明者のリストに加わるだけだ。"魔王"は自らの殺人計画をそう力説した。
 "魔王"の指定どおり、岸辺の縁に運転免許証があった。血の垂れたそれを拾い上げて名前を確認する。
 "悪魔"は満足した。この西洋人の職業はバレエダンサーだという。日本には古来より由緒正しき舞踊がある。敗戦後のアメリカの文化侵略しかり、こういった輩はすべからく我が国から排除されるべきなのだ。
――"魔王"は頼もしい男だ。
 闘志が沸いてきた。期待にこたえてやらねばなるまい。
ハル,「あの……」
不意に、背後から声をかけられた。
 "悪魔"はとっさに、血染めの運転免許証をコートの内側に隠した。
ハル,「あの、すいません……」
ゆっくりと振り返ると、幽霊がいた。懐中電灯の光が幽霊を照らす。驚いて一歩あとずさった。
ハル,「あ、危ないすよ」
背後は海だ。幽霊が腕を伸ばして踏み込んできた。
 ……足?
よく見れば前髪が異様に長いだけの少女だった。どこかの学園生らしく、胸にリボンのついた制服を身にまとっていた。
西条,「女学生がこんな時間までなにをしている」
嘆かわしいことに、近頃の女学生はまったく狂っている。深夜に人気のない場所を徘徊するような非行こそが、犯罪を助長しているとなぜ気づかない。襲われる側にも問題があるのだ。
西条,「なにをしているんだ、貴様」
ハル,「あ、いえ、この辺は、ちょこちょこ来るんすよ。考え事をしているときはとくに……ええ、この先にちょっとした見栄えのする場所がありましてね」
ぼそぼそとはっきりしないしゃべり方だった。
ハル,「昔、大好きな人とお別れした場所でしてね。この街は変わってしまいましたけど、この辺りだけは、大して変わってないなと、懐かしんでいたんです」
西条,「名前を言え」
ハル,「あ、藤原則香です」
少女は長い前髪の隙間から、ぼんやりとこちらを見つめた。
西条,「藤原、いまが何時だかわかるか?」
ハル,「…………」
西条,「おい」
ハル,「え? ああ、十一時くらいすかね……」
西条,「子供は家で寝てる時間だろ?」
ハル,「いちおう十八歳以上なんすけどね、これでも」おどけるように言った。
ハル,「そんなことより、お怪我はありませんか?」
西条,「怪我?」
ハル,「ええ、足元に点々と……」
血のことを言っているのだろう。
西条,「私は知らん。ジョギングをしていたらふと気になって調べてみた」
ハル,「はあ、そすか……」
疲れたようなため息をついた。
西条,「私は帰る。お前も夜更かししないでちゃんと帰宅するんだぞ」
ハル,「あ、お気遣いありがとうございます」
薄気味悪い風体には似合わず、深々と礼をした。
"悪魔"は少女の脇を抜けて歩き去った。
ハル,「あ、ちょっといいですか?」
呼び止められて立ち止まった。
ハル,「ミヒャエル・ユグムントさんとよくお会いします?」
"悪魔"は目を見開いた。その男はよく知っている。いま海の底だ。
西条,「誰だって?」
ハル,「ですからユグムントさんです。バレエの先生ですよ。いま話題の浅井花音に指導したこともあるんです」
西条,「そんな奴は知らん」
少女は残念そうに肩を落とした。不意に不快感に襲われて聞いた。
西条,「なぜ私にそんな話をする?」
ハル,「いえ、ジョギングされてたんですよね? ていうことは、この辺にお住まいなのかなと」
つまり、死んだ西洋人もこの辺りに住んでいたということか。
 不信感が募った。なぜ、この状況で見知らぬ少女が、死んだ男の話を始めるのか。
ハル,「自分、あの方のファンでして。もし会ったら、サインもらっておいてください」
西条,「いいだろう。連絡先を教えろ」
ハル,「マジすか、やったー! わー!」
少女はなんの警戒もせずに、携帯電話の番号を口にした。
 ……ただの偶然か?
 "悪魔"はあどけない笑顔を浮かべた少女に、別れを告げた。
連絡先は控えた。なにかあればすぐに始末してやる。
;背景 バー
いつものバーで"悪魔"はさっそく電話をかけた。
西条,「死体を確認した。見事なものだな」
魔王,「これで私を信用していただけましたか?」
西条,「もちろんだ」
力強く言った。電話の向こうの青年が本気であることは十分に伝わった。いまこそ革命を遂行すべきときだ。
西条,「では、明日だな」
魔王,「手順どおり、九時にお願いします」
西条,「わかっている。二度も殺人を犯したお前の計画だ。きっと完璧なのだろう」
酒が進んだ。"魔王"と祝杯をあげたくなった気持ちをぐっと堪えた。
聞けば、許しがたい女だった。なんでもフィギュアスケートのコーチだという。過去、オリンピックにも出場したことのある名選手でもあったそうだが、引退後は堕落した人生を送っているという。
名前は金崎郁子。
自らを引き上げてくれたフィギュアスケート連合を批判するような本を出版したかと思えば、ヤクザ者との逢引き疑惑まで囁かれた。
 全盛期は細く美しい体をしていたらしいが、いまではぶくぶくと太り、収入にも無頓着で、娘の賞金を当てにするようなだらしない生活をしているという。
 親として最低の人間だった。このような親が一人でもいなくなれば、教育の未来は明るい。
魔王,「なにか質問は?」
不意に、"魔王"が問うた。
 "悪魔"はしばし思案した。先ほど出会った少女の顔が思い浮かんだ。
西条,「やはり、顔を見られたら殺したほうがいいのか?」
魔王,「いい質問ですね」
感心するようなため息があった。
魔王,「場合によります」
西条,「というと?」
魔王,「目撃者というのは非常に厄介な存在です。特徴を覚えられた場合、警察が最新鋭の機器を使って、かなり正確なモンタージュを作成します」
西条,「下手をすれば、私の顔が交番や地下鉄にばら撒かれるってことか?」
魔王,「しかし――」
間をおいて言った。
魔王,「目撃者というものはたいていの場合、事件の光景よりも事件で味わった感情を記憶しているものです。犯人の持っていたナイフが恐ろしかったとか、警官の発砲に耳が割れそうになったとか、そういうことは覚えています。しかし、たとえばその場で自分と同じように悲鳴を上げていた人物のことは、記憶からすっかり抜け落ちるものです」
西条,「なるほど、周りと同化してしまえということだな?」
魔王,「もちろん、あなたがたいそうな肥満であったり、鼻の下にブドウのようなホクロがあるのなら話は変わってきますが……」
西条,「安心しろ。酒は好きだが、ビール腹には縁遠い」
"悪魔"は、やや身長はあるものの、どこにでもいるような風采の上がらない疲れた男だった。
魔王,「とはいえ、目が合ったら殺したほうがいい」
西条,「目か……」
魔王,「目は最も感情を伝える部位の一つです。あなたの瞳に異常を感じれば、相手はきっと忘れないことでしょう」
つまり、なるべく顔を伏せておけばいい……。
西条,「なら、もう一人殺しておかなくては」
魔王,「む……?」
"悪魔"はもう一杯酒をあおってから語りだした。
西条,「実は、さっき、港で妙な女に出くわしてな。幽霊かと思ったよ。ただの女学生だったが、膝まで届きそうなくらい髪が長かった。お前が殺した男の話をされたぞ」
"魔王"は珍しく押し黙った。沈黙に耐え切れず"悪魔"は続けた。
西条,「藤原とか名乗ってた。海に沈んだ男のファンらしい。連絡先は聞いておいた」
魔王,「…………」
西条,「なんだ、何を考えている?」
返答はなかった。なにか気に触ることでも言っただろうか。それともあの少女に心当たりでもあるのだろうか。
魔王,「ぜひ……」
やがて"魔王"がささやくように言う。
魔王,「ぜひ、殺してください」
"悪魔"はその口調に殺気を感じたが、それも一瞬のことだった。
魔王,「その少女こそ、あるいは最大の敵です」
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公自室。
花音,「ふぃー、ただいまー」
京介,「遅かったな。もう一時近いぞ」
花音,「コーチとお話して、ちょっと調整して、そのあとインタビューとかしてたら遅くなったー」
ぼけぇーっとした顔で荷物をソファの上に放り投げた。
花音,「兄さん、なにしてたの? 魚くさいよ?」
京介,「ああー、ちょいと料理でもしてやろうと思ってな。魚さばいてたんだ」
どうもおれは貧乏性なのか、安売りしていたスーパーでさんまを十匹も買い込んでしまった。
花音,「のんちゃん、もう食べたよ」
京介,「だろうな。明日の朝にでも食え」
余った分は、近所の椿姫にでもやるとするか……。
おれはコーヒーを煎れながら、ソファにだらしなく寝転がった花音に言った。
京介,「今日、すごかったな」
花音,「なにがー?」
京介,「いや、お前」
花音,「演技が? そう?」
きょとんとしていた。
京介,「いや、余裕の一位だったじゃん。二位のロシアの選手と二十点くらい差つけてたじゃねえか」
花音,「あ、そうだっけ? じゃあ、それなりだね」
二位の選手のことなど、まるで興味がなさそうだった。
京介,「今日のご感想は?」
花音,「はい。結果に満足せずに精進したいと思います」
京介,「テレビ向けのコメントだなー」
花音,「本当にそう思うんだよ。だって、NKH杯は外国の選手も来るけど、世界で一番強い人が集まるわけじゃないもの」
京介,「なんだよ、周りが雑魚ばっかりだったから、楽勝だったってか?」
花音,「そんなつもりないけど、けっきょくそーいうことかも」
無邪気に言われると、嫌味には聞こえなかった。
花音,「のんちゃんは、世界一になりたいのです」
京介,「はい」
花音,「トップ、優勝、一番、最強、王様、そーいう言葉が好きです」
京介,「わかりました」
おれは、花音がいつの間にかぐちゃぐちゃにしたソファーカバーを指差した。
京介,「わかりましたから、それ、直せ」
花音,「ヤダ。どーせすぐに、ぐっちゃにするから」
京介,「ぐっちゃにするな。どうやったらぐっちゃにならないか反省してみろ」
花音,「王は、省みないものです」
京介,「まだ王じゃねえだろ」
花音,「兄さんにはかなわないなー」
しょうがないといった調子で、カバーをかけなおした。
京介,「風呂入るか? 沸かしといたぞ」
花音,「気が利くねー、やっぱり兄さんの家に来て正解だったなー」
京介,「なんだよ、郁子さんだって風呂ぐらい沸かしてくれるだろ」
花音,「うん、すごい、気を使ってくれるよ」
京介,「…………」
花音の目にかすかに寂しそうな光が宿った。
花音,「コーチは、のんちゃんが世界一になることばっかり考えてる人だから」
花音,「いつもヘコヘコしてるよ、わたしに……」
なにもないフローリングにまなざしを落としていた。
ふと思い立って聞いた。
京介,「そういや、明日の、フリーのプログラムさ……」
花音,「んー?」
京介,「なんかお前のイメージじゃねえんだけど、なんで?」
花音は、一瞬とまどったように口をすぼめた。
花音,「……知らない」
花音,「コーチがヒルトン先生にお願いしたみたい……でも、知らない」
郁子さんのことをあくまでコーチと呼ぶ花音に、おれはそれ以上突っ込むのをやめた。
花音,「んじゃ、いっしょに寝よっ!」
京介,「寝ないから」
花音,「のんちゃんね、なにかを抱っこしてないと眠れないの」
京介,「わがままばっかり言うなよ……それだけはまずいっての」
花音,「だいじょうぶだよ、誰も見てないよ」
……ったく、どうすりゃいいんだよ。
笑顔の裏にただよう影が少しだけ気になった。
……まあ、こいつが寝つくまで、隣にいてやってもいいかもな……。
;選択肢
;寝てやる 花音好感度+1
;寝ない
@exlink txt="寝てやる" target="*select1_1" exp="f.flag_kanon+=1"
@exlink txt="寝ない" target="*select1_2"
寝てやる
寝ない
;寝てやる
京介,「わーったよ……でもおれは夜行性だから、横で本読んでるぞ」
花音,「ありがとっ、五秒で寝つくから」
京介,「とっとと風呂入ってこい」
花音,「はいっ!」
敬礼して、軽快な足取りで脱衣所に向かった。
;寝ない
京介,「わりいけど……」
花音,「えー!」
京介,「とっとと彼氏でも作れや」
花音,「兄さんがカレシだもん」
京介,「はいはい……」
おれは書斎に足を向けた。
花音,「あ、逃げたなー……もー!」
京介,「とっとと風呂入ってこい」
;合流
;黒画面
……やれやれ。
書斎の椅子に腰掛けて、あくびをした。
花音はきっと、明日も勝つだろう。
すると、新たな犠牲者が……。
そう考えると、気分がめいるものがあった。
とはいえ、おれには打つ手はなさそうにみえる。
おれには……。
京介,「っ……」
どういうわけか、まためまいがする。
秋元がよけいなことを言うからだ……。
くそ……。
…………。
……。
;意識が変わるような演出(モザイク系)
……。
…………。
まおう,「ふう……」
……それにしても……。
予想外だ。
宇佐美と"悪魔"が、すでに接触しているとは思わなかった。
宇佐美は、どうして、夜の港に現れたのだ?
宇佐美には浅井権三もついているのだから、こちらの殺害予定者のリストアップくらいはしているだろう。
花音の関係者は、学園、スケート、親戚……少なく絞り込んだとしても、十数人にはなる。
そのなかから、ドイツ人のバレエダンサーをピンポイントで当ててきた。
ミヒャエル・ユグムントの所在は、たしかに西区の港付近ではある。
自宅を警戒していた宇佐美たちが、港で不審な動きを見せる"悪魔"を発見したのだろうか。
……なぜだ?
偶然か、よほどの強運か。
そのどちらでもないのであれば、宇佐美を侮っていたことを認めねばならないだろう。
ふと、苦笑する。
まおう,「……わからんな」
浴室から、水の滴る音とともに、声があった。
バスタオルはないのか、と聞いている。
……まったく図々しい女だ。
まおう,「いま用意する」
;黒画面
……明日が、楽しみだな。
宇佐美がどれほどのものなのか、お手並み拝見といこうか。
;背景 マンション入り口 昼
花音,「兄さん眠そうだねー」
京介,「お前はいつも元気だな」
翌朝、マンションの入り口まで花音を送り出した。
しばらくすると、高級外車が走りこんできて、路上の縁石すれすれに停まった。
郁子,「おはよう、京介くん」
郁子さんが、左側の運転席からのそりと出てきた。
京介,「おはようございます、いい車ですね」
郁子,「そう? もう二世代も前の車よ」
……それにしたって、ファミリー向けの車が三台は買えるだろうな。
花音,「そいじゃ兄さん、いってくるねー」
花音が、そそくさと後部座席に乗り込んだ。
助手席に人はいなかった。
郁子,「ごめんなさいね、私からも連絡しておこうと思ったんだけど、つい忙しくて」
京介,「いえいえ」
花音のことだ。
郁子,「なにか言ってなかった?」
京介,「いえ……とくには」
郁子,「私の悪口とか?」
長年作りこんできたような、奇妙な笑顔。
冗談なのか本気なのか、よくわからなかった。
京介,「いやいや、がんばって世界一になるって言ってましたよ」
郁子,「ならいいけど」
たるんだ頬に思わせぶりに手を添えた。
そういえば、この人も昔はオリンピック選手だったんだよな。
郁子,「花音は甘えん坊だから、大変でしょう?」
京介,「はあ……」
郁子,「でも、それがかわいいのよね」
どうにも居心地が悪かった。
はっきりとした理由はないのだけれど、なんとなく会話の弾まない相手だった。
花音,「ねえ、行かないの?」
花音が窓から顔を出した。
不機嫌そうにも見えた。
いや、花音にしては珍しく顔に表情がないものだから、そう思ってしまうのか……。
郁子,「なにかあったら連絡してね」
軽く会釈すると、郁子さんは車に乗り込んだ。
静かなエンジン音を立てて車が発進すると、あとから黒いワゴン車が続いていった。
郁子さんの車を追うよう現れたワゴン車には、こわもての男が二人乗っていた。
権三の手の者か……。
郁子さんを影ながら護衛しているのだろう。
しかし、たとえばスケート会場など。
関係者しか立ち入りを許されない場所では、どうだろうか。
いかにヤクザ者でもつまみだされるに違いない。
"魔王"が狙ってくるとしたら、そういう瞬間だろうな。
;SE 携帯
着信があった。
権三か……。
京介,「もしもし、京介です」
浅井権三,「宇佐美はどうだ?」
京介,「いえ……あれから会っていませんが」
浅井権三,「つれて来い、すぐにだ」
それだけで、通話は切れた。
……なんだ、いきなり。
舌打ちして、宇佐美に連絡した。
ハル,「宇佐美でございます」
一回目のコールで電話に出てきた。
京介,「相変わらず気持ち悪いヤツだな……なにしてる?」
ハル,「いまはフランス風の喫茶でカッファを頼んでいます」
京介,「嘘をつけ」
ハル,「本当です。新聞も読んでます。花音のことがでかでかと載ってますね」
宇佐美は昨日、会場には現れなかった。
ハル,「『氷上の戦女神!』とかなってますよ」
京介,「お前も一度は観ておいたほうがいいぞ。さすがにシビれるものがあった」
ハル,「あ、ちょっとすいません」
不意に、ごそごそと物音がした。
京介,「なんだ? なにしてる?」
しかし、返事はなかった。
耳をすませると、かすかにカントリー系のBGMが聞こえてきた。
どこかの店内にいるのは本当のようだ。
京介,「おい?」
ハル,「あ、えっと、なんですか?」
おれは用件だけを告げることにした。
京介,「権三が呼んでる、急いで来い」
ハル,「マジすか……」
ふと、考えるような間があった。
ハル,「わかりました。いまセントラル街にいましてね」
京介,「ならおれもそっちに行く。近くまで来たらまた連絡する」
宇佐美の了解を得て、おれは歩き出した。
今日は、わりと暖かい一日だった。
;背景 繁華街1 昼
呼び出してからしばらく待って、宇佐美と合流した。
京介,「なにしてたんだ?」
ハル,「もちろん尾行です」
京介,「尾行? 誰をつけてたんだ?」
ハル,「それはまだ、なんとも。怪しい人ではあるんですが、シロだったらご本人に迷惑がかかりますので」
京介,「怪しいヤツだって?」
ハル,「昨日、ばったり出くわしましてね。まだ事件に関係があるかどうか確信が持てないんですが、んー……どうでしょうー」
目をくるくる回していた。
京介,「詳しいことは権三の前で話せ」
ハル,「もしかして、なんの進展もなかったらぶち殺されるんですかね?」
京介,「かもな」
ハル,「ひええ……」
ハル,「……え?」
宇佐美の顔が急に引き締まった。
見開かれた目が、おれの背後を凝視している。
京介,「ど、どした?」
;ユキの立ち絵
;ハルの立ち絵消去
後ろを向くと、背の高い女がいた。
光沢感のあるスーツが、冬の陽射しに異様に冴えていた。
口元に薄い笑みを貼りつけて、こちらを見ている。
女がゆっくりと歩み寄ってくる。
柔らかそうなストレートの黒髪が陽射しに輝いていた。
京介,「なんだ……?」
背後の宇佐美に聞いた。
ハル,「…………」
京介,「おい、宇佐美……」
ハル,「…………」
黙り込んでいるようだ。
まさか、宇佐美の言っていた怪しい人って……。
やがて女が言った。
ユキ,「久しぶりね、ハル……」
思わず、宇佐美を振り返った。
ハル,「…………」
ハル,「ゆ……」
ハル,「ゆ……」
ハル,「ユキだあああああああああああっ!!!」
いきなり全力で逃げ出した。
めちゃめちゃ速い。
あっけに取られていると、いつの間にか雑踏にまぎれて見えなくなった。
京介,「な……え……っ!?」
ユキ?
わけもわからずユキと呼ばれた女と目を合わせた。
対峙してみるとおれと同じくらいの身長があることがわかった。
切れ長の眉に、勝気そうな瞳。
花音のように日本人離れした長い手足。
手に黒いブリーフケースを提げているところが、やり手のビジネスウーマンを想像させた。
ユキ,「こんにちは、私は時田ユキ。あなたは?」
宇佐美を震え上がらせた女は、穏やかに聞いてきた。
京介,「……京介、浅井京介だ。お前は?」
ユキ,「FBIよ」
京介,「なんだって?」
一瞬、本当なのかと仰天しかけたとき、次の質問が迫っていた。
ユキ,「あなたはハルの恋人?」
京介,「驚かせるなよ。ただの知り合いだ」
時田はニッと笑うとブリーフケースを開いた。
ユキ,「これ、私の連絡先」
メモを渡された。
ユキ,「ハルに伝えておいて。私がまたあなたを狙ってるって」
瞳になにやら邪な光が宿っていた。
ユキ,「それじゃ。また会いましょう」
言いたいことだけ言って、去っていった。
しばし呆然とする。
……狙ってる?
宇佐美の知り合いか……。
ハル,「浅井さん、浅井さんっ!」
京介,「お、戻ってきたか」
ぜえぜえと息を切らしていた。
ハル,「ゆ、ユキは何か言っていましたか?」
京介,「いや、お前を狙ってるって」
ハル,「げえっ!」
京介,「なんだあの女は。やたら美人だったが?」
宇佐美はぶるぶると首を振った。
ハル,「わたしの友達です」
京介,「お前にも友達いたんだな」
宇佐美の友達というだけあって、かなりの変人なんだろうな。
京介,「つーか、友達に狙われるってどういうことだ?」
ハル,「ユキが狙っているのは、わたしのビーチクです」
京介,「ビーチク……? ああ、胸か」
とくに気にしたことはなかったが、宇佐美のそれはへたなグラビア女優よりも豊満だった。
京介,「まあいい。これ、連絡先な」
ハル,「電話をしろと?」
京介,「……そんなに嫌なのか?」
ハル,「わたしのビーチクがこーなったのは、ユキのせいです」
……胸は揉まれると大きくなるというのは嘘らしいが……。
京介,「だったら、このメモをなくしたことにしてやってもいいぞ」
めんどくさくなって言った。
ハル,「いえいえ、ユキに嘘は通じません」
京介,「はあ?」
ハル,「くうう、これは大変なことになったぞー……」
額に汗を滲ませるほど慌てる宇佐美を初めて見たかもしれない。
…………。
……。
;背景 権三宅 居間
さすがの宇佐美も権三を前にしては、おとなしくなる。
さきほどまでの痴態はどこへやら。
真剣な表情で権三と向かい合っていた。
浅井権三,「脅迫状によれば、今日の夜九時に人が死ぬ。なにかつかんだか?」
ハル,「……それが……」
京介,「はっきり言え」
ハル,「わかりました……では、これをご覧下さい」
言って、かばんの中から、例の脅迫状を取り出した。
京介,「それがどうした?」
ハル,「この、封筒なんですがね……」
宇佐美は脅迫状の入った封筒を裏返して、テーブルの上に置いた。
京介,「……これは?」
鉛筆でこすったような黒い跡があった。
ハル,「ちょっと気になる引っかき傷があったので」
浅井権三,「文字の痕跡か?」
ハル,「ええ、よくテレビで刑事がやるようなことをやらせてもらいました」
浅井権三,「もうやるな。痕跡の大半が消える。本来なら……」
権三が、なにか言いたげに、一瞬口を尖らせた。
浅井権三,「何か出てきたか?」
ハル,「謎の文字が……」
目を凝らす。
封筒の裏面には、漢字の『北』……それから、間を置いてカタカナの『ツ』……?
ハル,「北、とツですね」
京介,「……なんだそれは?」
ハル,「おそらく"魔王"は、この封筒の上に紙をおいて、なにかを書いたんです」
京介,「それは、そうなんだろうが……」
首を振った。
ハル,「権三さんはどう思われます?」
権三はわずかに目を細めたのち答えた。
浅井権三,「殺しのあった現場だ」
京介,「どういうことです?」
浅井権三,「北欧ハイツ。北区にある死んだデザイナーの自宅マンションだ」
ハル,「わたしと同じ意見です。少し自信が持てました」
浅井権三,「続きがある……斉……斉藤だな。これもデザイナーの名前だ」
殺害予定者の名前と住所の痕跡か……。
京介,「まだなにかあるな……」
ハル,「ええ、それなんですがね」
京介,「……子供の『子』、か?」
ハル,「はい、おそらく」
京介,「よく見ると、斉藤という名前の横隣りに書かれているな。文字が整列しているような……」
ハル,「なるほど、よく気づかれましたね。ということは、これもやはり、次の殺害予定者でしょう」
すぐさま、花音の関係者をリストアップした表を見やった。
京介,「子のつく名前は……紀子……ノリコ先生か」
栄一が一時期夢中だった女教師だ。
ハル,「それから、花音と親交のあった元選手の吉田喜美子さん」
資料によると引退後は、スケートリンクから十分足らずの場所で喫茶店を営んでいるらしい。
主にスポーツ選手相手の商売は、それなりに賑わっているようだ。
浅井権三,「あとは、郁子だな」
元愛人を呼ぶ声には、なんの感情の色もなかった。
京介,「この三人のうち誰かが、殺される」
ハル,「そうですね……"魔王"の脅迫状にはそうありました」
『忠告に耳を傾づくつもりがあるのならば、近日開催されるNKH杯でわざと負けろ。さもなければ、最終日夜九時にまた新たな死が生まれる。』
花音は、まず間違いなく優勝するだろう。
……となると、今日の夜九時に……。
"魔王"は、すでに犯行の準備を整えているのかもしれない。
京介,「他に手がかりは……?」
ハル,「ここ、なんですが……」
宇佐美が差した先にははっきりと漢字が書かれたあとがあった。
京介,「いとへん……紙か? その下にも人べんに……代かな?」
ハル,「いえ、袋でしょう。紙袋です」
京介,「紙袋だって?」
なにがなにやら……。
ハル,「あとは、その紙袋という文字のすぐそばにある数字ですかね」
京介,「……ご……5?」
ハル,「5の前にもなにか……数字ですかね? あるようですが……ちょっと読めませんね」
京介,「これは、いったい……?」
ハル,「わかりませんが、いまのところ思い当たるのは……」
浅井権三,「スケート会場内の客席番号だな」
ハル,「わたしもそう思います。今日は女子フリーです。スケート会場内はたいへんな賑わいです。郁子さんの警護も難しくなるでしょう」
京介,「そうか。狙いは郁子さんだとすれば……この数字は会場の客席番号かも……」
ハル,「5番なのか、25番なのか、56番なのかはわかりませんが……」
京介,「さらに数字の前にAからKまでのアルファベットがつくからな……」
タイムリミットが九時として……大混雑した会場のなかで、すべての客席を調べている時間はあるだろうか。
いつの間にか、陽射しが強くなっていった。
時刻は午後二時くらいだろうか……。
縁側から声が上がった。
堀部,「お話中失礼します」
浅井権三,「堀部か」
男が低頭しながら部屋に上がってきた。
堀部,「これは、坊っちゃん、お久しぶりでございやす」
おれのことを坊っちゃんと呼んだのは、若頭の堀部だった。
組のなかでは権三の次に権力がある。
切れ長の目の奥で、いつもサディスティックな光をちらつかせている。
堀部,「組長の指示通り、若いのを三十人ばかりかき集めておきました」
浅井権三,「おう」
堀部,「いつでも動けます」
権三がうなずくと、堀部も心得たもので、礼だけして退室していった。
浅井権三,「兵隊はそろった」
さすがに権三の手際はいい。
あらかじめ自由に動ける部隊を編成していたんだろう。
浅井権三,「だが、会場内に入れるのは、よくて十人だろうな」
ハル,「いまから十人分のチケットを手に入れられるのが、まず、すごいです」
権三のことだ……会場周辺でチケットの転売目的でうろついている人間やダフ屋のケツを叩くつもりなんだろう。
浅井権三,「残りの人間は会場の出入り口を固めさせる。郁子が出入りする関係者通用口はとくに」
浅井権三,「宇佐美と京介は、中の人間と協力して会場内で該当する客席を調べろ」
京介,「わかりました」
宇佐美も黙ってうなずいた。
浅井権三,「"魔王"の背格好だが」
ハル,「はい。身長は高めです。浅井さんくらいでしょうか。髪型はとくに印象的なものでもありませんでしたね。顔をはっきりと見たわけではありませんが、やや前髪が長めだったような気がします」
ハル,「服装は……もちろんわたしが目撃したときの服装ですが……どこにでも売ってそうな黒いコートに、これまた街のサラリーマンが着てそうなスーツ姿でした」
浅井権三,「あえて、だろうな」
あえて、自らを周囲に溶け込ませているというのか……?
浅井権三,「しかし、"魔王"ばかりを追っていると、思わぬ罠におちいるかも知れんぞ」
ハル,「おっしゃるとおりです」
京介,「なるほど、共犯の可能性もあるからな」
ハル,「はい。"魔王"は、封筒の上で、次の殺害予定者を紙かなにかに書いたと思われます。それが自分への覚書なのか」
京介,「それとも、共犯者への指示書なのか……そういうことだろう?」
"魔王"からの脅迫状にも、メフィストフェレスとかいう殺人鬼を野に放ったとかいう記述がある。
ハル,「しかし、どうにも……」
宇佐美は、また押し黙って眉をひそめていた。
京介,「宇佐美、ところでお前は、誰を尾行してたんだ?」
ハル,「あ、はい、その話ですね」
浅井権三,「なんだ?」
軽く咳払いをしてから言った。
ハル,「実はですね、昨日、怪しげな人と出会いまして……」
京介,「いつ? どこで?」
ハル,「西区の港ですね。倉庫が連なっているような場所です。時間は夜中ってところでしたが……」
ハル,「男性が岸の縁でしゃがんでたんです。目の前は海です。真っ暗な海を覗き込んでいるものだから自殺かな、と思って声をかけましたら、妙に驚かれまして」
京介,「そりゃ、お前が幽霊にでも見えたんだろうよ」
ハル,「年齢は三十ちょっとでしょうかね。妙に無精ひげが濃かったような……」
京介,「どこが怪しいんだ?」
ハル,「男性の足元で血が点々と海に続いていたんです」
京介,「血か……」
ハル,「血についてはノーコメントでした」
ハル,「が、地面には何かを持ち去ったような跡がありました。あとで調べてみたところ、血の点が途中で途切れていた箇所がありました」
京介,「何かって……?」
ハル,「わかりませんが……カード、でしょうかね。四角い物だと思います。そういう跡ができていました」
京介,「その男が持ち去ったとは限らないんじゃないか?」
ハル,「いえ。彼の懐中電灯を握る親指の先が、かすかに赤に染まっていました。血染めのカードを拾ったと考えるのが自然です」
……よく見てるもんだな。
ハル,「彼はジョギングしていると言ったんですがね、それも多分嘘です」
京介,「そうだな……筒状の懐中電灯だろ? そんなもん持ってジョギングするヤツはあまりいないんじゃないか?」
ハル,「あの晩は、なにか人に言えないようなやましい事件があったんだと思います」
おれたちのやりとりを黙って見ていた権三が、重い口を開いた。
浅井権三,「で、宇佐美はなぜ、そんな場所に行ったんだ?」
……それは、気になるところだな。
なにかつかんだのだろうか。
ハル,「あの近くに、被害者リストにあるバレエダンサーが住んでいますよね?」
京介,「ミヒャエル・ユグムント……だな。会って来たのか?」
ハル,「念のため訪問しましたが留守でした。手元の資料にあるように、その方は、二ヶ月前に一時帰国しているはずですから」
京介,「話はそれるが、それなら、そのダンサーに危険は及ばないだろうな」
ハル,「だと、いいんですけどね……」
権三が、いまだに宇佐美を見据えていた。
ハル,「それで、その怪しげな男を、今日の朝まで追っていたというわけです」
浅井権三,「話を聞く限り、今回の脅迫事件と、関係はなさそうだが?」
ハル,「ええ……とくに、これといった確信はないんですが……」
首をひねった。
ハル,「わたしがユグムントさんの名前を出したときに、やけに食いついて来たような気がするんです」
京介,「食いついてきた? おれは知らなかったが、それなりに名前の売れているダンサーなんだろ?」
ハル,「いえいえ、藤原則香も知らない人が、ユグムントさんを知っているとは思えません」
京介,「は?」
ハル,「名前を聞かれたので、憧れの芸能人の名前を出したんです」
京介,「ひくわ、お前……」
ハル,「そしたらまったくの無反応でしてね。一瞬、だだスベッたのかと思って死にたくなりましたが、どうも相手の様子が素でしてね……」
……まあ、普通は偽名だと思うだろうな。
ハル,「まあ、わらにもすがるってヤツです」
京介,「その男の住所はわかったのか?」
ハル,「いいえ。彼は朝までセントラル街のバーで飲んでいました。帰宅する様子も見せませんでした」
京介,「なるほど。そんな長居するようなバーなら、きっと男にとって行きつけの店なんだろうな」
ハル,「ええ、そのバーさえ張っていれば、尾行はいつでも再開できます」
浅井権三,「話はわかった。その男についてなにかあれば、人を割く」
京介,「それでは、これで……」
一通りの話は済んだ。
礼をして権三に背を向けた。
浅井権三,「郁子は殺されてもかまわん」
京介,「なんですって?」
驚いて振り返ると、権三はまったくの無表情で言う。
浅井権三,「重要なのは、ホシを必ず捕まえることだ」
おれたちは警察ではない。
市民の安全など二の次なのだ。
浅井権三,「あの女は花音にとっても、もう不要な存在だ。むしろこれから先は邪魔になる」
どこまでも酷薄な男だった。
想像もできないが、郁子さんとは、昔、肌を重ねた仲でもあるのだろうに。
ふと、母さんのことを思い出す。
浅井権三こそが、おれの母親を極貧の淵に追い込んだのだ。
鬼だった。
しかし、その鬼に媚びへつらうおれは、やり場のない鬱屈した感情をいつも溜めている。
……いつか、権三を、この手で……。
ハル,「浅井さん、どうされました?」
京介,「……なんでもない」
おれたちは権三宅を辞した。
;背景 権三宅 入り口 昼
ハル,「しかし、このお宅の警備もなかなかものものしいですね」
宇佐美の言うように、多数の人間が常に詰めていた。
家の門の前に一人、庭に三人。
それぞれなんらかの武器を携帯している。
ハル,「やはり、ヤクザさんの偉い人ともなると代わりのきかないお体なんでしょうね」
;背景 南区住宅街 昼
京介,「それにしても、ちゃんと手がかりをつかんでいたんだな」
ハル,「はあ……これで権三さんに役立たず扱いされなければいいんですが」
京介,「脅迫状の書いてあった紙ではなく、封筒のほうに目をつけたのはなかなか筋がいいと思うぞ」
ハル,「ですかね……あまり褒めないでもらえるとうれしいです」
なにやら不満げな顔をしていた。
京介,「あまり時間がないし、タクシーでも拾うか?」
ハル,「電車のほうが早いでしょう」
おれたちは足早に地下鉄の駅を目指した。
…………。
……。
;背景 スケートリンク廊下
;通常形式
堀部,「坊っちゃん、そっちの女性は、坊っちゃんのイロ,女ですかい?」
堀部,がにたりと笑う。
午後三時過ぎだろうか。
おれたちはアイスアリーナのなかに入って、一度顔を合わせていた。
おれ、宇佐美、そして堀部以下六人の極道たち。
それなりにまともな……一見してヤクザではなく一般の人間と思われるような顔と身なりをしていた。
ハル,「浅井さん、自分、イロとか言われてるんですけど」
京介,「……堀部さんも相変わらず口が悪いですね」
堀部,「おやあ、違うんですか。そいつは失礼」
異様に細い目をさらに細めながら、堀部はおれの指示をうながした。
京介,「じゃあ、みなさんにお願いします」
京介,「5のつく客席をすべて当たってください。35なのか52なのかはわかりません。なにか不審な人物を見かけた場合は、僕に連絡してもらえますか?」
堀部,「"魔王"は、背の高い青年なんでしたっけ?」
京介,「そうですが、実行犯が別にいる可能性があります」
堀部,「てことは、5のつく席に座っている野郎全員にナシ,話をつけなきゃならんですね?」
京介,「まず怪しいのは、チケットの名前と、本人の名前が一致しない場合です」
京介,「フィギュアスケートのチケットには、発売と同時に売り切れるような人気があります」
京介,「"魔王"はおそらく、ネットオークションかなにかでチケットを手に入れたことでしょう」
堀部,「でしたら、てきとうに怪しいヤツをしょっぴいて、"魔王"だの、脅迫状だの、犯人しか知らないようなことをカマかけてみますわ」
堀部は陰険な男だが、権三の組織のナンバー2だけあって、狡猾な頭脳を持ち合わせている。
京介,「時間はかかると思いますが……なるべく穏便に、手荒な真似は控えてください」
堀部,「承知してますよー。花音お嬢ちゃんの晴れ舞台を邪魔しちゃいけねえってことくらい」
ハル,「あるいは……」
宇佐美が口をはさんだ。
ハル,「席が空いていたとしても調べてもらえますか? なにか不審なモノが置かれていないか」
京介,「そうか、紙袋だな……?」
宇佐美はあいまいに首を振った。
ハル,「その5という数すら、そもそも客席の番号とは何の関係もないかもしれませんが……」
京介,「それにしたって、なにもしないよりはいいだろう。実際、郁子さんは狙われているわけだし」
ハル,「おっしゃるとおりです。では、動きましょう」
堀部が一喝すると、ヤクザ連中は散っていった。
ハル,「浅井さん?」
京介,「ん?」
ハル,「ちょっと顔色が悪そうですが?」
京介,「ああ、遅くまで花音の相手をしているからな……」
どうにもふらつく。
ハル,「そうですか、無理しないでくださいね」
宇佐美も、また連絡すると言って、廊下の角に消えていった。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
京介,「たしかにご本人様ですね。ご協力ありがとうございました」
おれはFの51番に座っていた女性に頭を下げた。
広すぎる会場を移動するだけでも十分十五分と過ぎる。
リンクで行われている演技の合間をぬって話をつけなければならないため、また時間がかかる。
私服警備員を装って話を聞いているものの、本物の警備員からの目も厳しいものになるだろう。
さらにいえば、チケットが本人のものだからといって、油断はできない。
いままで六人と話したが、すでに"魔王"の共犯者を見落としているかもしれない。
……手間のかかる作業だ。
…………。
……。
;背景 スケート会場客席一階_観客有り
;ノベル形式
人が多い。
 "魔王"の指示に従い、"悪魔"はC-5の席を離れた。席を立った直後、不意に後ろの席から非難の声が上がった。ふてぶてしい中年の女だった。
 ……なるべく目立たないようにしなくては。
 "悪魔"は腰を低くして、顔を伏せながら二階の通路に向かった。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
それにしても、なにが面白いというのだろうか。
 "悪魔"はスポーツといえば、相撲のような国技しか認めていなかった。
 "悪魔"は"魔王"からフィギュアスケートの魅力とやらを散々に語られていた。スポーツでありながら芸術でもあると。その歴史は旧石器時代にまでさかのぼれるのだという。獣骨で作られた人類初のスケートが大英博物館に所蔵されているとか、うんちくの大半は聞き飛ばしていたが、浅井花音という選手についてはとくに思い入れがあるようだった。
いわく、浅井花音は暴力団の資金源である。
 度し難い、と"魔王"は言った。
 "悪魔"としても共感できるものがあった。暴力団は思想とは無縁のただの利益追求集団である。正当な活動はなく弱者から金をむしりとることを生業としている。
 よく企業が不祥事を起こすと、"悪魔"と似たような政治団体が街宣車を回して企業のビルの前で不正を訴えるような演説を開始する。企業側が政治団体の活動資金を援助することで、ようやく迷惑な活動をやめてもらえる。
"悪魔"はこのような思想の皮をかぶった拝金主義者どもこそが、あらゆる政治団体の立場を悪くしているのだと常々考えていた。
 "魔王"は重ねて、浅井花音を追求した。花音さえ消えれば、また一つ、社会正義が保たれるのだと。加えて、花音には我が国を代表するアスリートの風格はない。観客をなめているような態度すら取るという。
 "魔王"の嘆きは存分に伝わった。同志の憤りは我が怒り。
 "悪魔"は計画通りに、通路を進んでいった……。
;背景 スケートリンク廊下
午後八時四十五分。
そろそろ花音のフリースケーティングの演技が始まる時間だった。
廊下からはほとんど人が消え、場内が異様な興奮を見せつつある。
ひとまず宇佐美と合流した。
京介,「どうだ?」
ハル,「いえ、まるでダメです。怪しい人っていいますけど、どっちかっていうと自分のほうが怪しいですから」
……いちおう変人の自覚はあるんだな。
京介,「手がかりが少なすぎるな。5っていう数字と紙袋と郁子さんの『子』だけじゃな……」
ハル,「多すぎるくらいだとも思いますがね……」
ぼそりと言った。
ハル,「さっき、警備の人にさすがに捕まえられましたよ。やっぱり世界の選手が集まるだけあって、それなりに警戒されてるんですね」
京介,「これ以上は、やめておくか……」
ハル,「自分は尋問とか苦手でしてね」
京介,「お前とまともに会話するのが難しいくらいだからな」
ハル,「こんなときに、ユキでもいれば……」
京介,「犯行予告の九時まであと十五分か……」
ハル,「はい……」
;SE 携帯。
そのとき、不意に携帯が鳴った。
堀部からだった。
京介,「……空いている席に……茶色の袋……紙袋ですか?」
ハル,「……マジすか……」
自分が提案したくせに、信じられないといった様子だった。
京介,「わかりました、すぐ行きます。C-5ですね?」
;スケート会場客席ニ階_観客有り
熱気が渦巻いていた。
花音の演技が終わったのだ。
たかが四分。
演技中の選手や客にとっては長く感じる時間も、おれと宇佐美が移動している間にあっさりと過ぎ去った。
ハル,「いや、さすが花音でした。素晴らしい」
京介,「観てねえだろ、てめえ」
そばにいる観客と同じように、興奮した面持ちで手を叩いていた。
観客の反応から察するに、花音は予想通り大勝ちしたみたいだな。
得点の出た電光掲示板を見る。
やはり、花音が独走していた。
花音のあとに一人の選手が滑走を控えているようだが、前日のショートの得点を考えても、おそらく花音を抜き去ることはできないだろう。
……となると、"魔王"も動き出すはずだ。
堀部,「坊っちゃん、こっちです」
堀部に呼ばれていくと、その席を見下ろす。
C-5の席は、空いていた。
堀部,「いちおう、手はつけないで、見張っておきました。ホシがのこのこ戻ってくるかもしれませんしね」
そんな話をしていると、最後の選手の演技が始まった。
静まり返った会場のなか、さすがに私語は慎まれる。
客席におりていくこともためらわれるじれったい時間が過ぎた。
静謐に流れていたクラシックアレンジが終曲すると、ようやく行動が再開される。
盛大な拍手のなか、宇佐美が一目散に席に向かっていった。
;スケート会場客席一階_観客有り
宇佐美は座席の下にあった紙袋をつかむとその場で言った。
ハル,「なにか入っています。中を開けてみましょう」
それは、デパートのロゴの入った小さな紙袋だった。
京介,「爆弾だったらどうするんだ?」
ハル,「ええ、本当なら警察の方にお渡ししたいものですが、堀部さんが許さないでしょうね」
ハル,「しかし、たとえばいまこの場で、わたしを含め無関係な人を爆弾で吹き飛ばしたとしても、それが花音の躍進を妨害することにはならないと思います」
京介,「そうだな……」
死人が出れば大会は中止になるかもしれないが、それで花音のオリンピック行きがなくなるわけではない。
さらにいえば、"魔王"の嫌がる警察だって首を突っ込んでくることだろう。
ハル,「開けます……」
断って、宇佐美は紙袋の口を封じていたガムテープをはがした。
京介,「また、手紙か……?」
脅迫状と似たような質の紙が一枚入っているだけだった。
宇佐美と肩を並べて手紙の文章に見入る。
脅迫状と同じく、手書きの雑な字だった。
;ノベル形式
親愛なる同志へ。
 浅井花音の勝利を確認しただろうか?
 次の指示を与える。
 狙いは金崎郁子だ。
 アリーナの外。関係者通用口で待て。
おそらく選手の出待ちで人がごったがえしているだろう。
 そう、殺人を犯しても誰がやったかわからないくらいに……。
 例の小刀の取り扱いには十分に注意していただきたい。
 指の先でも切ってしまったら、眠ったように死んでしまうことだろうから……。
;通常形式
リンクでは氷の上に赤いじゅうたんが敷かれ、選手の表彰が執り行われようとしていた。
一番高い台に登るのは、花音だ。
京介,「いますぐ関係者通用口を固めてください!」
おれは堀部をにらんだ。
"魔王"の指示を受けた共犯者が、郁子さんを殺害しようとてぐすね引いて待っている。
堀部が動く。
すぐさま取り巻き連中に命令して電話をかけさせた。
京介,「おい、宇佐美……おれたちも行くぞ……」
すでに、宇佐美も動いていた。
しかし、客席を抜ける階段を登るでもなく、紙袋のあった席の後ろの観客に話しかけている。
ハル,「……そうですか、カーキ色のコート……三十くらいの男性ですね……」
おばちゃん,「そうよ。よく覚えているわ。前の人、いきなり席を立つんだもの」
ハル,「何時ごろでしたか?」
おばちゃん,「えっと、瀬田真紀子が演技してたから……」
ハル,「いまから十分くらい前ですね……八時四十分くらいですか」
おばちゃん,「席についたと思ったら、すぐにいなくなっちゃって……ほんと迷惑だわ」
さすがに宇佐美は頭が回る。
どうやら、共犯者の特徴を聞いていたようだ。
京介,「え……?」
ふと、違和感を覚えた。
京介,「おい、宇佐美……どうした?」
こちらを振り返った宇佐美の顔が事態の深刻さを訴えていた。
ハル,「違う……」
抑揚のない声で言った。
ハル,「おかしい。最初からおかしかった。しかし、唯一の手がかりを追っていくしかなかった。あらかじめ敗北の決まっているチェスのゲーム……」
ぶつぶつと、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
ハル,「いますぐ止めてください。関係者通用口に向かっているみなさんを。お願いです、早く……!」
京介,「なんだ、いきなり?」
ハル,「"魔王"は、封筒にいくつも痕跡を残すようなヘマはしません」
ハル,「あの文章にしてもおかしい。ワープロ打ちではなく手書きというだけでも怪しいのに、妙に自慢げで程度の低い文面でした」
ハル,「そして、この紙袋です。おそらくミスをしたのは"魔王"ではなく共犯者でしょう」
京介,「紙袋にミス……?」
とっさに紙袋を拾い上げた。
ハル,「ガムテープです」
京介,「あ……っ」
さすがに気づいた。
ハル,「まず、すぐれた犯罪者というものは、テープのように粘着性のある物を嫌います。髪の毛、指紋、その他、衣服の繊維なんかも知らず知らずのうちに付着されてしまうからです」
ハル,「なによりおかしいのは、共犯者はこの"魔王"の指示を、開封しないでどうやって確認したのでしょうか」
そうだ……宇佐美が開けるまで、紙袋の封は切られていなかったのだ。
ハル,「そもそも、もし共犯者が"魔王"の指示を確認したのなら、まずこの手紙を持ち去っているはずです。わたしたちは手がかりを失っているはずなのです」
殺人の指示書だからな……そんな証拠を現場に残しておくのはあまりにもおかしい。
ハル,「しかし、今確認したところ、八時四十分ごろに共犯者らしき男性がこのC-5の席についたようです。なぜでしょう? 共犯者はなにをしに現れたんでしょう? いま言ったように、"魔王"の指示を確認しに来たわけではありません」
京介,「つまり……」
ハル,「はい。この紙袋を置いたのは、"魔王"ではなく、共犯者なのです。我々の目を郁子さんに向けさせるために、わざとこんな証拠を残したんです」
おれは、神妙にうなずいた。
携帯電話の時計を見る。
九時五分前……。
ハル,「急ぎましょう、浅井さん……」
ハル,「これは、罠です――――!」
;背景 スケートリンク外観 夜
;ノベル形式
"悪魔"にとって最初の標的は、吉田喜美子という名の女だった。
 金崎郁子も許しがたい母親ではあるが、吉田の場合はもっとひどい。吉田はさる有名な宗教団体の信徒なのだ。日本の政治に影ながら癒着し、この国を腐敗させる元凶となっている。もちろん世間的には公表していないが、ほとんど公然の事実として知られていることだ。"魔王"に指示されるよりも前から、吉田については鉄槌を下してやらねばと考えていた。
 吉田はアイスアリーナの近くで喫茶店を営んでいる。
殺害方法は単純明快。"悪魔"は懐に潜ませた小瓶を握り締めた。劇物の作成法は"魔王"から教えてもらった。たとえば店のなかに放り投げるだけで、空気と混ざった液体から死をもたらす煙が発生するのだという。
 吉田だけではなく、吉田の店にいる――どうせ同門だろう――客たちも一掃できる。最高ではないか。
 それにしても"魔王"は考えている。
フィギュアスケートの大会が終わった直後のこの時間を選んだ。会場から出るだけでも一苦労だった。愛国心のなんたるかもしらない有象無象どもが、続々と吐き出されてくる。この人ごみにまぎれて、会場と目と鼻の先の距離にある地下鉄に乗り込めば、なにがあっても捕まることはない。
 "魔王"のいいつけを守り、紙袋を席の下においておいた。茶色の紙袋には偽の"魔王"の指示書を入れておいた。我々の犯行があくまで金崎郁子に向けられていると警察に信じ込ませるためだという。
 会場内では誰とも目を合わさなかった。席を立ったとき後ろの席の中年の女ににらまれたようだが、どうせこちらの姿を覚えてはいないだろう。いまの私はどこにでもいる普通の男なのだから……。
;黒画面
歩いて十分もすると、レンガ造りの華やかな喫茶店があった。"悪魔"は残虐な笑みを浮かべながら、通り沿いにある店の窓辺に近づいた。
 こじんまりとした店内で、数人の男女がカウンターの向こう側にいる店員と談笑していた。
 あれが吉田喜美子だ。
 換気扇を狙った。死ね。小瓶を握り締め、振りかぶった。人を殺すことになんのためらいもない。初めてではないから。
怒号があった。
 後方から人の肉を通して「あいつだ」と舌を巻くような声。「まてや、こら!」振り返った"悪魔"を指差している。
 風体は一見してその筋の者だった。続々と集まってきているようだ。がらの悪い声がそこかしこで飛び交う。
しかし、"悪魔"は冷静だった。小瓶を懐に隠すと、人の流れに沿って落ち着いて地下鉄を目指した。切符は前もって買ってある。取り乱すことなく改札をくぐる。
 九時五分の列車。時間通りにホームに入ってきた。予定通り悠々と乗り込んだ。
 いや、予定通りではない。吉田を殺し損ねた。
;背景 スケートリンク外観 夜
;通常形式
……。
…………。
堀部,「取り逃がしただと、ばかやろうがっ!!!」
九時半を回ったあたりで、共犯者の捜索はいったん打ち切られた。
ハル,「ダメでしたか……」
宇佐美も息を切らしていた。
ハル,「おそらく地下鉄でしょう。電車の到着時刻もあらかじめ調べておいたとしか思えません」
京介,「それにしても、よく吉田さんが襲われるってわかったな?」
宇佐美は悔しそうに首を振った。
ハル,「共犯者はあの席に、およそ八時四十分に現れました。会場から出るだけで十分はかかるとして、犯行予定時刻の九時まで残り十分ですね」
ハル,「となると最も危険なのは、会場から十分程度の場所にいる人物です。この混雑ですからタクシーは当てにならないでしょう。バスも同じです。地下鉄は八時四十六分の一本を逃すと、次は九時五分まで待たなくてはなりません」
ハル,「つまり、共犯者は歩いて移動するはずです。アイスアリーナから歩いて十分程度の距離に住所をかまえるのは、吉田さんだけでした」
後手に回ったとはいえ、権三の部隊の動きは迅速だった。
すぐさま吉田喜美子の喫茶店まで急行し、カーキ色のコートを着た男を目撃したという。
堀部が忌々しげな顔をして言った。
堀部,「すみませんね、坊っちゃん。ふがいないとこみせちまって」
京介,「いえ、よくやってくださったと思います。父にもそう伝えておきますので」
ハル,「あの、逃げた男を目撃した方にお話を聞きたいのですが」
堀部,「わかりやした。おいっ、このタコ……!」
おれにへつらっていた態度が、下々の者に対しては一変する。
宇佐美は、堀部にタコと呼ばれた男と話しこんでいた。
しばらくして、質問も終わったようだ。
堀部,「じゃ、自分らは報告もありますし、撤収しますわ」
おれも礼をして、連中を見送った。
ハル,「……残念ですが……」
京介,「どうした?」
ハル,「聞けば、一瞬のことだったそうです。カーキ色のコートを着た男を見つけたと思ったら、いきなり喫茶店に向けてなにかモノを投げるような姿勢を取ったんだそうです」
ハル,「顔はよく見えなかったが、年齢は三十くらいで痩せている印象だったということですが……」
そこでため息が出た。
京介,「それだけじゃ、厳しいな……カーキ色のコートなんて誰でも着てるし……」
ハル,「惜しかったのですがね……」
京介,「振り出しに戻るというわけか?」
ハル,「いいえ、浅井さん」
宇佐美は首を振った。
ハル,「まだ手がかりはあるはずです……」
…………。
……。
;背景 主人公自室 夜
栄一,「ったく、なんだよこんな時間にー」
ハル,「いや、ホントすんません」
栄一,「ボク、これから録画したスケートのテレビ中継見ようと思ったのにぃ」
ハル,「みんなで見たほうが楽しいじゃないすか」
京介,「それにしても、栄一お前、今日も見にいったんだろ? 生で見たのに、テレビの録画もしてたんだな」
栄一,「もちろんだよ。解説聞きたいもん。会場内でも専用のラジオ貸し出してて、それで解説聞けるけど、テレビとは別の解説者だから」
京介,「ふーん」
ひょっとして、共犯者の顔が映っているかもしれない。
宇佐美はそう言った。
たしかに、あの席は一番リンクに近かった。
前の観客の頭を気にすることなく試合に集中できる。
その分、カメラに顔が映っている可能性は高い。
栄一,「はい、コレ録画したDVDね」
栄一からディスクを受け取ると、専用のデッキに差し込んだ。
三人でテレビの前に近寄ると、しばらくして映像が流れた。
AV女優,「……んっ、ああっ、あっ、いいっ……!」
京介,「…………」
ハル,「…………」
AV女優と思しき女体が画面いっぱいに激しく揺れていた。
京介,「お前さ……」
栄一,「ごめん、本日の一発ギャグ」
ハル,「……っ」
驚いたことに、宇佐美が恥ずかしそうにうつむいていた。
栄一,「はい、本物はこっち」
京介,「これもネタじゃねえだろうな……」
DVDを入れ替えてセットした。
京介,「今度は本物だったか……」
今日いやというほどうろついた会場の客席が俯瞰で映っていた。
栄一,「じゃあ、ボクの解説を交えて最初っからいってみよー」
ハル,「あ、八時半くらいからのを最初に見たいです」
栄一,「ええっ!? 八時半ったら最終グループの選手たちだよ? いきなりメインディッシュいただこうっていうの!?」
ハル,「八時四十分くらいすかね……瀬田真紀子さんという方からお願いします」
栄一,「なんなのさ、瀬田のファンなの?」
ハル,「いや、まあ……」
栄一,「たしかにねー、瀬田はいい演技してたと思うよ。でもね、なんつーの、無難すぎたんだよねー。そりゃミスはなかったけどさー」
栄一のうんちくをよそに、リモコンを操作して、瀬田の演技まで画像を飛ばした。
瀬田はたしかに愛らしい女性だった。
花音の外人のような体型とは対照的に、背が低く、丸顔で、笑うとどこかのマスコットキャラクターのようだった。
栄一,「あー、そこダブルだったんだねー、トリプル狙わないと花音に勝てないでしょうが瀬田ちゅわん……」
野球観戦中のおっさんみたいにだらしなく寝そべっていた。
ハル,「…………」
一方で、宇佐美は押し黙って、食い入るように見つめていた。
いったい何台のカメラを回しているのか、めまぐるしくアングルの変わる映像だった。
客席のはるか上方、空中に鉄線かなにかで吊られたカメラが忙しなく動き回っていたのを思い出す。
ハル,「す、トーップ!」
思わず、一時停止ボタンを押した。
ちょうどアクセルジャンプのための踏み切りに差し掛かっていた瞬間だった。
瀬田の後方、広告の張られたフェンスの向こうに、目当ての人物がいた。
栄一,「ちょっとなに止めてんの!」
京介,「おっさんはちょっと黙ってろ」
栄一,「なにぃっ!」
宇佐美が静かに言った。
ハル,「カーキ色のコート……この人ですね」
京介,「少し進めてみるぞ……」
男はなにやらうつむいて、座席の下に腕を伸ばしていた。
直後に男が立ち上がる――が、カメラのアングルが変わってしまった。
次にカメラが同じ場所を映したとき、すでに席は無人だった。
京介,「拡大してみようか……?」
ハル,「できるのであれば」
京介,「やり方はいまいちわからないが、まあネットで調べてみる……」
栄一,「ボクわかるよ」
京介,「あ、マジで? じゃあ頼んだ」
栄一,「でも、教えてあげない……おっさんとか言うヤツには教えてあげない」
京介,「わかったよ。コレが終わったらノリコ先生との復縁を計画してやるから」
ハル,「自分も協力しますんで」
栄一,「なんだよ、二人して……そこまでいうなら仕方ないなー」
;場転
二人を書斎には入れたくなかったので、ノートパソコンを持ってリビングで作業した。
ツールを使って栄一のいう手順どおりにことを進めると、画像に手を加えることができた。
"魔王"の共犯者……カーキ色のコートの男の顔が次第に鮮明になっていく……。
ハル,「なんとまあ……」
引きつった顔でぼやいた。
京介,「見覚えありか? まさか……?」
宇佐美が夜の港で出会った男。
ハル,「そのまさかです。急ぎましょう」
栄一,「え? ちょっとどこ行くの!?」
京介,「ちょっくらセントラル街のバーで飲んでくる」
栄一,「ボクお酒飲めないんですけど?」
京介,「そりゃ残念だな。じゃあ、これにてフィギュアスケート鑑賞会は解散だ」
栄一,「なんかよくわかんないけど、ノリコ先生のことは頼むよ?」
ハル,「それは任せてください。邪悪な計画を練り上げておきますので」
おれたちは部屋を飛び出した。
;背景 マンション入り口 夜
外は肌を刺すような冷たい風が吹いていた。
ハル,「浅井さん、車を出していただけると……」
京介,「あ、ああ……」
ハル,「どうしました?」
ふらついて、手近な電柱にもたれかかった。
京介,「カゼでもひいたんだと思う……」
ハル,「だいじょうぶですか? 最近、よく体を壊されるような気が……?」
京介,「平気だ……」
おれは携帯を取り出した。
ハル,「どちらに電話を……?」
京介,「権三だ。人を増やしてもらう。犯人を逃がさないようにしなくちゃな……」
ハル,「わかりました。運転は控えたほうがよさそうですね。少し休んでください。自分はタクシーでも拾って行きますんで」
京介,「ああ、すまん……あとから追いかける。場所を教えてくれ」
;モザイク演出
……。
…………。
ずきずきと頭が痛んだ。
ハル,「でわ……」
京介,「ああ……」
宇佐美は寒さをものともせずに走り去っていった。
京介,「…………」
宇佐美もなかなかがんばっているな……。
さて、と……。
;背景 繁華街1 夜
;ノベル形式
魔王,「もう、そのバーには近づかないほうがいいでしょう」
"魔王"が電話越しに言った。
"悪魔"は寒風に肩を狭くしながら、セントラル街を逃げるように歩いていた。
西条,「それにしても、浅井花音と暴力団がつながっているというのは本当だったんだな」
魔王,「ええ、彼らは影ながらスケート会場の警備をしていたというわけです」
西条,「連中をまくのは簡単だった。しかし、わからないのはなぜ私だと気づいたんだ」
魔王,「ふむ……」
魔王"が考えるように一息置いた。
魔王,「可能性の一つとして、知らず知らずのうちに人の目を引くような行動を犯してしまったとか。たとえば、演技中に席を立ってしまったり……」
西条,「ちょっと待て、演技中に席を立つだって?」悪魔"は目の前の歩道の段差につまづきそうになった。
西条,「マナー違反なのか?」
"魔王"は不意に口を閉ざした。その反応に、悟った。
西条,「すまなかった。そういえば後ろの席の女に悪態をつかれたような気がする」
魔王,「あなたも急いでいたのでしょう。気が回らなかった私の不注意です」
西条,「いいや、お前はきちんと指示してくれていた。紙袋を置く瞬間を誰にも覚えられてはならないと。滑走前の選手の練習中、観客が休憩しているときを狙えと。そもそもあの殺人の指示書は、"魔王"が置いたものだと誤認させなくてはならなかったのだからな」
 うかつさに頭を抱えたくなった。ささいなミスから、革命の第一歩が失敗に終わった。"魔王"も落胆したことだろう。
魔王,「どうも、申し訳なかった」
 "魔王"がそれを口にしたので、言葉に詰まった。
魔王,「あなたを危険な目に合わせてしまった」
 胸が詰まった。熱いものがこみ上げてくる。誰かに頭を下げられるなんてここ数年記憶にない……。
 "悪魔"は電話の向こうの寛大な心を持った男に言った。
西条,「"魔王"、次の指示をくれ……」
 声には忠誠に近い響きがあった。
;黒画面
……。
…………。
;背景 バー
約一時間後、おれは宇佐美のあとを追ってようやくバーにたどり着いた。
薄暗い店内には客はなく、宇佐美とすでに到着していたヤクザ連中が店主に聞き込みをしていた。
ハル,「わかりました……では、見かけたら連絡してください」
ヤクザ者に怯えきっていた店主は、宇佐美も仲間だと思ったのか、素直にうなずいていた。
京介,「どうだった?」
宇佐美に尋ねる。
ハル,「……残念です、もう一歩のところだったのですが」
ハル,「逃げられました。不意に電話がかかってきたと思ったら、店を出て行ったそうです。わたしが着くちょっと前のことです」
京介,「名前は? バーのマスターになら名刺くらい渡してるかも」
ハル,「それが、無愛想なお客さんらしくて。自分は革命家だと名乗ったっきりで、いつも一人で飲んでるんだそうです」
京介,「革命家……?」
思いあたって言った。
そういえば、"魔王"の脅迫状には、なんらかの思想を匂わすような箇所があったな……。
京介,「まあ、相手の人相まで割れたんだ。あとは時間の問題だろう」
この街で、浅井権三の組織の目から逃れて暮らせるわけがない。
借金に追われるおれと母さんはすぐに見つかった……。
ハル,「今日のところはこれまで、ですかね……」
納得がいかないようだった。
ハル,「共犯者を見つけたところで、"魔王"にたどり着けるのでしょうか」
京介,「もっともだが、いまはそれしか打つ手がないじゃないか」
ハル,「それです」
ぴしりと言った。
ハル,「どこかで打開しなくては……」
ハル,「いつまでも"魔王"の敷いたレールに乗っていたら、我々は地獄行きです」
あくまで真剣な宇佐美に、つい聞いた。
京介,「"魔王"は、そこまで恐ろしい男だと?」
ハル,「脅迫状の文面に騙されてはいけません。先日、身代金を奪われたことを忘れましたか?」
京介,「あれは……こう言っちゃあなんだが、相手がおれたちのような一般人だから通じた手口じゃないか?」
ハル,「警察相手には通じないと?」
京介,「今回だって、"魔王"は警察との対決を避けているわけだし」
宇佐美は目を閉じて首を振った。
ハル,「マジシャンは別にマジシャンを相手に商売しているわけではありません。"魔王"は観客の程度というものを心得ています。つまり、我々は遊ばれているということです」
……まあ、そうとも言えるな。
ハル,「それが証拠に、"魔王"は物証には細心の注意を払っています」
京介,「これまでの物証といえば……"魔王"からお前が受け取ったという携帯電話と、今回の脅迫状か……?」
たったの二つ……?
京介,「たしかに、あの使い捨ての携帯電話からはアシがつかなそうだが……」
ハル,「脅迫状もそうです」
京介,「わざとだというのか?」
ハル,「すべて、万一脅迫状が警察の専門家の手に渡った場合を想定してのことです」
京介,「筆跡鑑定とかいうヤツか?」
ハル,「それだけではなく、言語心理学の専門家が文章から犯人の特徴を分析します。出身や国籍、性格やIQなんかも割り出せるんだそうです」
京介,「……あえて、つまらない人間を装っていたと?」
ハル,「なにが、ゲーテつながりですか。なにが、鼻紙に使わせてもらった、ですか。某世紀末アニメの第一話に出てくるモヒカンですら、こんなもん鼻紙にもなりゃしねえと言いますよね?」
言いますよね、とか聞かれてもそんなマニアックなセリフ知らねえし……。
京介,「なら、なんで手書きなんだ。警察が脅迫状を分析する可能性を考慮しているなら、最初からパソコンで書けばいいじゃないか?」
ハル,「だからこそ、わたしは、まず罠だと思いました。そして、この文章には必ず仕掛けがあるのだと。手書きでしかありえない細工がほどこしてあるのだろうと」
認めざるを得ないものがあった。
京介,「実際、その通りで……文字の痕跡をあぶりだしたわけだな……」
そして、危く人が死ぬところだったわけか。
ハル,「"魔王"はいずれ警察と戦うつもりなのでしょう。そうとしか思えないほど慎重です」
京介,「なら、今が、"魔王"を捕まえる絶好のチャンスだな」
宇佐美もおおきくうなずいた。
ハル,「なんのつもりかわかりませんが、"魔王"はわたしのような取るに足らない人間と遊んでくれています。その慢心につけこむ余地があればいいのですが……」
京介,「いや、今回はお前だけじゃなくて、権三もいるぞ」
ハル,「はい。もう一度言いますが、"魔王"は観客の程度に合わせたマジックを用いてくるでしょう」
京介,「それは、つまり……?」
宇佐美は息を呑んで、鋭い目つきになった。
ハル,「椿姫のときより、大きな被害が出るということです」
;黒画面
……。
…………。
;背景 主人公自室 昼
京介,「花音、昨日はおめでとう」
花音,「うむっ」
京介,「余裕でファイナル進出が決まったわけですが、勝利のご感想は?」
花音,「んー、正直、フリーがいまいちでした」
京介,「あ、そうなんだ。やっぱりプログラムが悪かったのか?」
花音,「はてー」
首をひねった。
花音,「みんなはそう言うね」
京介,「お前はそうじゃないと?」
花音,「とにかくのんちゃんは、完璧だったよ。のんちゃんは悪くないです」
京介,「まあ、いまから曲を変えるわけにはいかないんだろ? だったらやるしかねえな」
おれに言われずとも、そんなことはわかりきってるんだろうが……。
花音,「じゃあ、練習いってきまーす!」
京介,「んじゃ、おれも学園行くかねえ……」
大会を連続で控えている花音は、年が明けるまではほとんど登校しないようだ。
;背景 学園教室 昼
ハル,「ハヨザイマース」
京介,「おう、てっきり今日も休みかと」
ハル,「この前さりげなくさぼってしまったんで。本当なら例の共犯者の行方を追いたいんですが……」
京介,「いま、権三が血眼になって探してるよ。組が面倒見てるクラブや金貸しのケツ叩いてる。クラブはホステスを通して顧客に、金貸しは債務者に写真ばらまいて……あれじゃ、犯人は家から一歩も出れねえよ」
ハル,「……朗報を待ちましょう」
席につくと、宇佐美は考え込むように手の甲で机に頬杖をついた。
栄一,「おい、京介ー」
京介,「おう、栄一、昨日はサンクス」
栄一,「んなことより、ちゃんと約束は果たせよ?」
京介,「えっと?」
栄一,「あー、コロス」
京介,「ああ、ノリコ先生を陥落する計画ね」
……無理だと思うんだがなー。
京介,「んー、あの人、好きな人がいるらしいぜ」
栄一,「んなことは知ってんだよ」
京介,「じゃあ、無理じゃん」
栄一,「オメーよー、だったら相手の野郎をコロス策を練るのがオメーの仕事だろうが」
京介,「たとえ相手の男を殺したとしても、お前が選ばれるとは思えんのだよ」
栄一,「ねえ、ちょっと宇佐美さん聞いてよー」
ハル,「はい、聞いてますよ。教室に来る前に職員室によってノリコ先生とお話してきました。いまつきあって一ヶ月目だそうです。よって無理です」
京介,「無理だな。いまが一番楽しい時期じゃねえか」
栄一,「なんだよてめえら……」
栄一の顔が激しく歪んだ。
栄一,「利用するだけ利用してポイかよ。そんな程度だったのかよ、チクショー」
ハル,「落ち着いてください栄一さん。此度の件、誠に申し訳なく思っております」
栄一,「そうだよ、邪悪な策を用意しておくって言ったのにぃっ!」
ハル,「ですから、代替案を用意しました」
京介,「ん?」
ハル,「わたしの友人を紹介しましょう」
栄一,「は? なにそれ?」
ハル,「栄一さんは年上の女性がお好きですね?」
栄一,「まあね」
ハル,「ノリコ先生もそうですが、ロングがお好きですね?」
栄一,「黒髪ロングがベストだね」
ハル,「当然、身長が高い方がいいわけですね?」
栄一,「頭もよくなきゃダメだよ。ボクとつりあうくらい」
ハル,「なるほどなるほど」
栄一,「あと世話好きじゃないとダメ。ボクの話を聞いてくれる人じゃないと」
ハル,「めちゃめちゃ聞き上手ですよ」
栄一,「ホント?」
もう、浮いた顔になっていた。
ハル,「近々ご紹介します。それでどうかご勘弁を」
栄一,「まあ、モノによるねえ。キミを許すかどうかは」
ハル,「わかりました。ではそのうちに……」
栄一,「(よっしゃー、なんか期待できそうだぜー)」
すっかり機嫌を取り戻した栄一は、スキップで去っていった。
京介,「おい宇佐美、お前の友達って、まさかあの時田とかいうモデルみたいな女じゃ?」
ハル,「はい。それが精一杯でした」
京介,「たしかに美人だし、栄一も喜ぶんじゃねえかな」
ハル,「……だと、いいんですがねえ……」
なにやらひっかかるものがあるようだった。
京介,「ちゃんと電話したのか?」
ハル,「いえ……しなきゃなーとは思ってるんですがね」
どうやら本当に苦手らしいな。
;背景 屋上 昼
京介,「あー、ミキちゃん、おひさし、うんうん元気してる。最近忙しくってさー」
昼休み、おれは電話に忙しかった。
近頃どうにもトラブルが多い。
いまも、あるクラブのワインの仕入れ先をどこにするかで揉めていた。
浅井興業のテリトリーを犯してくる連中がいる。
少し、権三に聞いてみないとな。
椿姫,「みんなでスケート観てたんだけどね、広明もはしゃいでたなー」
相変わらず椿姫は明るい。
ハル,「いや、まったく。あのぶんじゃ、世界は確実だな」
京介,「だからお前は見てねえだろうが」
ハル,「これでも栄一さんからDVD借りて見たんですよ、昨夜」
……本当かねえ。
ハル,「あー、椿姫。大事なこと忘れてたんだが、あの携帯、まだお前が持ってるよな?」
椿姫,「携帯って……ああ、うん」
"魔王"から届いた携帯電話だ。
ハル,「明日にでも返してくれ」
椿姫,「またなにかあったの?」
不意に、椿姫の表情が曇る。
ハル,「なにもないでもないでもない」
椿姫,「え? どっち?」
京介,「宇佐美をまともに相手にすると疲れるぞ」
椿姫はおれと宇佐美を交互に見た。
椿姫,「なにかできることあったら言ってね」
感づくものがあるのに、あえて黙っているような態度だった。
京介,「ああ、広明くんのことだけど、来年から小学校……」
てきとうに他愛のない話をして、午後を乗り切った。
;黒画面
学園が終わると、すぐさま権三とアポを取った。
…………。
……。
;背景 権三宅入り口 夕方
京介,「どうも、お疲れ様です」
門番らしき黒服に声をかけ、家の敷居をまたいだ。
庭にも一人、がたいのいい男が彫像みたいに固まって警備していた。
;背景 権三宅居間 夕方
礼をして畳に座わると、権三が言った。
浅井権三,「新鋭会だな」
京介,「……新鋭会……彼らが、幅をきかせてきていると?」
新鋭会は総和連合のなかでも屈指の武闘派集団だ。
詐欺、恐喝にも手をつけず、麻薬も御法度。
頭が固いのかわからないが、妙に筋だの仁義だのとうるさい連中なのだ。
人数も少ないが、それだけ組織の結束は固い。
当然、富を築くためならなんでもありの権三の組と同じ船に乗れるはずがなかった。
浅井権三,「年末に、連合の老人どもを交えた集まりがある。それに向けていきりたっているのだろう」
老人ども……すなわち、総本山の頂に君臨する方々だ。
浅井権三には、本当に怖いものなんてないようだな。
浅井権三,「損害はでているのか?」
京介,「いまのところは平気ですが……昨日、セントラル街の飲み屋で乱闘がありまして……まだ、新鋭会の方々とはっきりしたわけでもないんですが……」
言いながらおれは恐怖していた。
権三の顔から表情が消えていったからだ。
浅井権三,「よし、潰す」
ある組が仕切っている店で、他の組の者が迷惑をかけた。
本当ならいまごろ組の幹部あたりが指を持って頭を下げにきてなくてはならない。
京介,「差し出がましいとは思いますが、先ほど情報屋から妙な噂を聞きました」
浅井権三,「…………」
京介,「どうにもロシアのほうの筋から、総和連合のどこかの組織に大量の武器が流れているとか……」
けれど、権三は、目でおれを黙らせた。
浅井権三,「ヤツらは百匹にも満たない。こちらは一千を越える。たとえ獲物が短機関銃を乱射しても俺は言う。まだまだ死ね、屍が盾になると」
黙ってうなずくしかなかった。
浅井権三,「お前は"魔王"を探せ。人もいままでどおり割く」
京介,「了解しました」
もう話すことはなかった。
;背景 南区住宅街
;SE 携帯。
権三の前を離れてようやく人心地がついたころ、携帯が鳴った。
相手は、母さんだった。
京介,「ああ……うん、どうしたの?」
京介,「え? 具合が……?」
京介,「困ったね……うん、そのうちそっちに行くから……大事にしてよ……」
通話は長く続いた。
……なんてことだ。
今すぐにでも、母さんのもとに行きたい。
しかし、権三になんと言ったものやら……。
権三は"魔王"を探せと言ったのだ。
母親が容態を悪くしたからといって、それがなんだというのか。
くそ、権三め……。
おれは自分の小ささに苦痛を覚えながら、帰宅の途についた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公自室 夜
早めに帰ってきた花音と夕食をともにした。
花音,「どしたの、ぼんやりして」
京介,「…………」
母親のことを考えていた。
おれはよほど重い表情をしていたようだ。
花音は、そんなおれに気づいたのか、踏み込んでは来なかった。
花音,「まあいいや、あのね兄さん、聞いて」
それは、気づかいではなく、厄介ごとに首を突っ込まない花音流の処世術なのだろう。
花音,「のんちゃん、明日オフなのです」
京介,「休みなのか?」
花音,「だから、守って」
京介,「守る?」
花音は、困ったように口をへの字にしてみせた。
花音,「いっぱい来るの。テレビの人、雑誌の人、企業の人。なんでのんちゃんの休みとか知ってるのかなー」
京介,「ちゃんと応対してやれよ」
花音,「いまの時期はさすがにお断りしてるんだよ。でも来るの。忙しいところすみません、みたいな。仕事のことじゃなくて個人的にファンなんで、みたいな」
……そうやってご機嫌をうかがって、後々仕事につなげるんだろうな。
京介,「つまり、遊んでくれってことか?」
花音,「兄さんと遊ぶの一年ぶりくらいだよ」
京介,「そんなに遊んでなかったか……でもなあ……」
まあ、学園はさぼってやってもいいが……。
京介,「いっしょにいるぶんにはいいぞ。派手に遊んだりするのはナシだ」
花音,「千葉の遊園地はダメですか?」
京介,「あんなところ行ったら、どんだけ写メ撮られるかわからんぞ?」
花音,「じゃー、どーするの?」
京介,「なにがしてえんだ?」
花音,「わかんない」
京介,「わかんないってなんだよ。練習ばっかりで溜まってるんだろ?」
花音,「溜まる? なにが溜まるの?」
京介,「いや、ストレスみたいな……遊びたい、みたいな」
花音,「へー」
へー、て。
京介,「まあ、ここでゴロゴロしてろよ。映画見たり」
花音,「映画ね。うん、なに見る?」
京介,「どういうのが好きなんだ?」
花音,「んー、わかんない」
京介,「意外にラブストーリー路線とかいいんじゃねえの?」
花音,「ヤダ」
京介,「なんでまた」
花音,「だって、別に大波乱がなくても好きになるもの。思い出の約束とかなくても好きになるもの。のんちゃんは、ちょっと優しくしてもらえば十分好きになるよ」
なんのことを言ってるのかよくわからなかった。
京介,「……んー、じゃあ、泣ける感じのヤツとかどうよ。なんだったかなー、親子のヤツ……母親がすっごいいい人でさー、でも娘がすっごいわがままで……」
花音,「ほーほー、じゃあそれ。借りてきて」
すっごいわがままだな、こいつ……。
花音,「じゃあ、寝るー」
ベッドにダイブして、そのまま動かなくなった。
京介,「おい、服着替えろよ」
しかし、返事はなかった。
おれも今日は早めに休むとするか。
ここのところ、妙なカゼをこじらせてて、たまに頭痛が襲ってくるからな。
;黒画面
……。
…………。
暗い部屋で、おれは、一人、写真を見つめている。
京介,「宇佐美、ハル……」
その名を呼んでみると……こめかみが鈍く痛む。
宇佐美……宇佐美、ハルか……。
その名を、おれは知っていた。
もし、同姓同名でなければ……。
宇佐美の父こそが、おれを、家族を破滅させた張本人だ。
おれには、父さんと母さんの他にも、血を分けた家族が二人いる。
いや、いた。
一人は生後まもなく心臓の病で死に、もう一人は留学中にテロ被害にあって死んだ。
父さんは、いまや暗い牢獄のなかで刑の執行を待つ身。
母さんは、遠い北海道の地で心の病をわずらっている。
そしておれは、鮫島の姓を捨て、浅井と名乗り、身辺を一新させたつもりになっている。
幸せとは、いったいなんなのだろうか。
この世には悪魔しかいない。
ならばおれが、"悪魔"の王となり……。
京介,「…………」
いや、馬鹿な考えはやめよう。
宇佐美もなにも言ってこない以上、忘れたいのだろう。
おれが浅井となって過去を捨てた気になっているように、宇佐美も心に期するものがあるのだろう。
話すべきときがくれば、話すか……。
;黒画面
珍しくセンチメンタルに、妙なことを考えたせいだろう。
その晩、夢に、遠く離れて暮らす母さんが出てきた。
とても、申し訳なかった。
…………。
……。
……。
…………。
おれの人生に転機が訪れたのはいつのことだったか。
北海道の寒村。
壁が薄く、窓が二重ではない家。
吹雪が猛然と屋根を叩きつけていた。
母の指先は、薄皮を押し上げるように骨が隆起し、なにより冷え切っていた。
その夜はいつものように身を寄せ合って、寒さと暗闇に耐えていた。
京介,「母さん、逃げよう?」
獣のような男に乱暴された母は、しかしゆっくりと首を振った。
母,「あんまり引越しが続くと、お友達もできないでしょう?」
京介,「友達なんてどこでもたくさん作れるよ」
母,「無理しないの」
京介,「母さんこそ、無理しないでよ」
げっそりとこけた頬にそっと手を添えた。
不意に冷たい風が室内に飛び込んできた。
はっとして布団から身を出すと、戸口に熊のような大男が立っていた。
カンヌだった。
大男,「京介、だいじょうぶか?」
あろうことか、おれの体を心配しだした。
日中に意識が飛ぶほど痛めつけてくれた人間の口から出る言葉ではなかった。
大男,「すまんかったなあ、酒飲んでたもんで、ついな」
カンヌは床にどっかりと腰を下ろし、持ち込んできた酒をあおり始めた。
我が物顔でおれと母さんの唯一の居場所に入り込んでくるカンヌに、おれは恐怖を覚えた。
殴られた背中や腰が、ずきずきと熱をもってうずき始めた。
大男,「こわ,いか、京介? 明日になったら病院に連れてってやるべ」
母さんが、口を開いた。
母,「出てってください」
大男,「すまんかったって。このとおりだべ」
母,「京介が、怖がっています」
怖いのは、母さんもいっしょだった。
大男,「なあ、仲良くするべ。俺は京介の新しいお父さんになりたいんだわ」
その言葉をおれは生涯忘れることはないだろう。
カンヌはいま思えば、典型的な酒乱だった。
酒に呑まれ、暴力を振るまう。
酒が引けば、媚を振るまう。
母,「少しでも反省なさっているなら、京介に暖かい飲み物でも買って与えてもらえませんか?」
大男,「いまは吹雪だ。どこの店もしまってる」
たしかに雪の勢いはすさまじいものがあった。
しかし、家のすぐ脇にある自動販売機は雪に埋もれてはいなかった。
カンヌが一升瓶をラッパ飲みする。
大男,「あったまるぞ、京介」
酒の口をおれに差し向けてきた。
口臭とアルコールの匂いにめまいがした。
母,「やめてください……!」
大男,「いいじゃないか、親子で酒を酌み交わそうってんだ」
間に入った母さんの手を振り払うと、カンヌは濁った目でおれを見据えた。
大男,「飲め。遠慮すんな」
おれは強張った唇を、必死に閉ざした。
肌があわ立つ。
目の前に突き出された酒瓶の口には、カンヌの唾液がびっしりとこびりついて艶だっていた。
大男,「飲まんと母さんが困るぞ。俺たちは家族だべ。大黒柱の父親に見捨てられたら、お前ら生きていかれんべ?」
母さんの悲鳴が上がった。
おれをかばい、おぞましい大男を遠ざけようとしている。
京介,「わかった! わかったから!」
とっさに酒瓶に腕を伸ばした。
けれど、酒のたっぷりとつまった瓶は異様に重く、慌てて手が滑った。
鈍い音がしたときには、瓶が床に横になっていた。
古ぼけた畳に染みていく液体を目で追っていると、耳元で声がした。
大男,「お父さんの酒だべ……」
身構えようとしたが、すでに胸倉を締め上げられていた。
大男,「なんま腹立つわ、京介。父さんがせっかく仲良くしようと思ったのに……!」
苦痛と、恐怖と、それ以上の怒りに耐えかねるものがあった。
京介,「ふざけんな! お前なんか父さんじゃない!」
直後、体が浮いた。
顔面に痛みが走って、目の裏で火花が散った。
母さんの絶叫が耳を突く。
床にうつぶせになる格好で、頭を押さえつけられていた。
大男,「なめろ! 酒をなめろ! 父さんのクリスマスプレゼントだべ!」
クリスマス。
それはたしか、家族が愛を確かめ合う、暖かい一日だったような気がした。
そういえば、その日はクリスマスだった。
神様はどこにいるのか……顔面を酒に浸った畳に突っ伏しながら、そんなことを考えていた。
悲鳴と怒鳴り声が交錯した。
壁が軋んだのは、外の吹雪のせいではない。
顔を殴られた母さんが窓に叩きつけられたのだ。
カンヌはそのまま母さんの髪をつかみ、唾を飛ばして汚い言葉を羅列していた。
何度か、暴力があった。
やがてすすり泣きが耳に届いた。
おれが泣いているのか、母さんが泣いているのか、とにかくもう見てられなかった。
京介,「……ごめん、なさい……」
大男,「ああっ!?」
京介,「ごめんなさい……」
しぼり出すように言った。
大男,「ごめんなさい、お父さん、だろ!?」
心がひどく冷えた。
急速に感情が消えていった。
窓の外の雪が目につく。
ただ無情に降り積もるだけの存在に、心を通わせた。
悔しさも、情けなさも、すぐに覆われていく。
京介,「ごめんなさい、お父さん……」
それはおれにとって、新しい身の振り方を覚えた瞬間だった。
心が凍り、なにも感じない。
最後に一度だけ、無感動に願ってみた。
神様どうか助けてください。
言うだけ言ってみたような投げやりな祈りは、しかし聞き届けられた。
戸口が勢いよく叩きつけられていた。
猛吹雪の夜に訪れた客は、ドアを蹴破るように現れた。
浅井権三,「邪魔するぞ」
堂々と土足で踏み込んだ。
豪雪をものともしない姿が、まるで雪山に住まう猛獣のように見えた。
あとから数人の男がずかずかと部屋に上がりこんできた。
彼らは、コートも羽織っておらず、漆黒のスーツを雪にまみれさせていた。
浅井権三,「逃げられると思ったか?」
冷たい眼で、母さんを見下ろした。
彼らは借金取りなのだと、幼心に理解した。
大男,「な、なんだ、てめえらはっ!?」
カンヌの目が大きく見開かれていた。
堀部,「てめえこそなんだ!かしら,若頭に向かってなに上等な口きいてんだ、ああっ!?」
突如、一人の黒服がどすのきいた声で叫んだ。
堀部,「こちらのお方はなあ……」
浅井権三,「おい」
ボスらしき巨漢が一瞥すると、取り巻きは軽く会釈して口をふさいだ。
大男,「あ、あんたら、ヤクザもんか……?」
突如現れた男とカンヌとでは、そう体格は変わらなかった。
しかし、滲み出る雰囲気で、ひと目に役者が違うとわかった。
浅井権三,「てめえは、この親子のなんだ?」
大男,「……俺は、その……なんでもない、他人だ……」
さきほどまで父親を気取っていた男が言った。
浅井権三,「払え」
大男,「え?」
浅井権三,「こいつらが払えない分を、てめえが少しでも払え」
大男,「ちょ、ちょっと待てよ! 俺は、関係ねえって……」
瞬間、カンヌの頭が跳ねた。
拳が顔面に埋まっていた。
苦痛のうめきが漏れるより早く、耳をつかんでひねりあげる。
浅井権三,「俺が誰だか知りたいか、そうか」
空いている手で懐から名刺を取り出した。
大男,「や、やめてくれ……!」
名刺の角を耳の穴に押し当てると、酷薄な笑みを浮かべた。
カンヌが白目を剥いた。
浅井権三,「よく、聞け」
穴に差しかかるにつれて細い筒状になった名刺が、ぐりぐりと耳奥に押し込まれていく。
ぎ、が、が、などと聞いたこともないような奇声が室内に響いた。
京介,「あ、あなたは……?」
恐怖と高揚感に、つい、口をついた。
おれと母さんの前に山のようにそびえ立っていたカンヌを、一瞬にして沈黙させた。
天使は来なかったが、悪魔が助けてくれた。
浅井権三,「さらえ」
悪魔が、おれのことなど眼中にないといった様子で、下々の者に命令した。
即座に、取り巻きが詰め寄ってきて、引き立てられた。
京介,「ま、待って、なんでもします、なんでもしますから……!」
ガキの哀願がうるさかったのか、一発殴られたが、不思議と痛みは感じなかった。
京介,「教えてください……!」
その強さを。
京介,「どうか、おれも、仲間に入れてください……!」
学校には友達が一人もいなかったことが、ふと頭をよぎった。
この人についていけば、もう誰からも蔑まれることもないのではないか。
母親を守れるだけの力を身につけられるのではないか。
恐怖よりも、期待が上回っていた。
我を忘れていたのは間違いない。
張り倒され、足蹴にされても苦痛を感じなかった。
きっと、おれは神を崇めるような目をしていたことだろう。
やがて、悪魔が言った。
浅井権三,「金を返せるか?」
京介,「お金?」
浅井権三,「大金だ」
京介,「払います」
浅井権三,「嘘つきだな、貴様は」
京介,「え?」
浅井権三,「借金がいくらなのかも知らんくせに、よく言う」
京介,「すみません」
浅井権三,「嘘をついてもかまわんが、嘘が発覚したときは許さんぞ?」
京介,「……はい」
浅井権三,「俺の群れに加わりたいだと?」
京介,「お願いします!」
浅井権三,「なら、母親をおいて、俺と来い」
京介,「母さんを、置いて……?」
できるわけがなかった。
浅井権三,「その女はしばらく札幌にでも送る。どの道お前らはいっしょには暮らせない」
有無を言わさぬ物言いに、しばらく逡巡した。
浅井権三,「お前もどうせ、どこかの施設に預けられる」
このときのおれにとって、悪魔の言葉は絶対だった。
彼がそう言うのなら、間違いなくそういう運命にあるのだと信じた。
京介,「母さん……」
目が合った。
いまにして思えば、すべてをあきらめて受け入れたような、疲れた目をしていた。
京介,「母さん……」
か細い首が、否定の意を込めて、静かに揺れているだけだった。
絶え間なく続いた悲劇に、もう限界だったのだろう。
おれも、もう、あとには引けなかった。
京介,「連れて行ってください、お願いします」
すると、分厚い唇から低い笑いが漏れた。
浅井権三,「母親を捨てたか」
……捨てたわけじゃない。
浅井権三,「お前は、ものになりそうだ」
断じて、捨てたわけではない。
決意を胸に、浅井権三のあとに続いた。
…………。
……。
;黒画面
必ず迎えに行くよ――。
母さんとの別れの言葉は、守られなかった。
権三に従って長い年月が過ぎた。
ようやく母さんといっしょに住めるくらいの経済力を身につけたおれは、さっそくその旨を打診した。
しかし、心の病を患った母さんを、こちらに呼び寄せることはできなかった。
担当の医師の話によれば、これまで何度も転居を強いられた母さんが、再び土地を動くことを拒んでいるらしい。
週に一度か二度電話をして、長期休暇に会いに行く程度のつきあいになった。
それが、おれのたった一人の家族だった。
いや、浅井権三という父ができた。
権三が、なぜわざわざおれを養子にしたのかは、疑問が残っている。
身寄りのないかわいそうな少年を拾うことで、当時、組の若頭の地位にいた権三が、組長に対して男気を見せたとも噂されている。
仁義や男気というものを軽んじている権三がヤクザの世界で出世するのに、おれは体よく利用されたのだろうか。
なんにせよ、おれと母さんは離れて暮らしている。
そしておれは、浅井権三という巨魁を前にして、いつも震えている。
権三さえ許せば、すぐにでも母さんの近くに暮らすのに……。
権三さえ……。
…………。
……。
;背景 主人公自室 昼
翌朝すぐに、おれは郵便局に、母さんへの手紙といくらかの現金を送りにいった。
帰りがてら借りてきたDVDを花音の前で掲げた。
京介,「おら、ご所望の品だ」
花音,「ごくろー」
花音の朝は早い。
休みだというのに、きちっと身だしなみを整えている。
京介,「菓子とかいるか?」
花音,「気が利くねー、でも水でいいです」
ぼけーっとしているようで、自分の体の管理はしっかりとやっている。
京介,「んじゃ、おれは書斎にいるから……」
花音,「いっしょにみよーよ」
京介,「ダメだ」
花音,「はい!」
物分りはいい。
京介,「なんかあったら呼べよ」
DVDの再生ボタンを押して、書斎に向かった。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公の部屋 昼
だいたい二時間くらいたったので、リビングに戻ってきた。
テレビ画面では、映画のスタッフロールが流れていた。
やけに静かだったので、てっきり寝ていると思ったが……。
花音,「見終わりました」
京介,「おう、どうだった?」
花音,「んー、泣いた」
京介,「泣いてねえじゃん。どうせ寝てたんだろう?」
花音,「見てたよ。最後、ママが死んじゃった。やっぱりいい人が死ぬと悲しいねー」
京介,「そうだろうな……おれは見てねえけど」
花音,「ちょっと質問!」
京介,「え? おれ?」
花音,「この映画は、ママがいい人でしたが、もし悪い人だったらどうなるの?」
京介,「どうなるの、とか言われても……ぐだぐだになるんじゃねーの?」
花音,「ぐだぐだかー」
京介,「たとえ死んでも、ふーん、って感じじゃね?」
花音,「だよねー」
京介,「…………」
花音,「だよねー」
京介,「なんだお前?」
花音,「さーて、次はなにして遊ぼうかなー。なにしたらいいと思う?」
京介,「とりあえず昼メシ食いに出かけるか?」
花音,「どこ行く?」
京介,「さあ、セントラル街まで出るかねえ……」
花音,「わかったー、用意するねー」
ばたばたと洗面所に駆け込んでいった。
……わがままなくせに、意外と受身なヤツだな。
;背景 繁華街1 昼
花音を連れて歩くと、どうにも居心地が悪い。
道行くギャルが指差し、サラリーマン風のおっさんもテンションを上げて口をすぼめる。
京介,「わりいけど、もう三歩くらい離れてくれねえかな?」
花音,「イヤです」
京介,「頼むよ、マジできまじいんだって」
花音,「もうっ、兄さんは、根暗だなー。そんなに注目されるのがイヤなのかー?」
京介,「ああ、そうだよ。ちっぽけな男だよ、おれは」
花音,「こんなんじゃデートできないじゃないかー」
プンスカしながら、おれのあとをついてきた。
;背景 喫茶店 
けっきょく、いつも利用している喫茶店に落ち着いた。
それでもウェイターは、花音の姿を認めて目を丸くしていた。
花音,「ここ、兄さんと前来たねー」
京介,「来たっけ?」
花音,「一年前に」
京介,「さすがに覚えてないわ」
花音,「えー、あのとき、兄さんはのんちゃんに告白したんだよ?」
京介,「嘘をつくな」
でへへ、とだらしなく笑いながら舌を出した。
京介,「なに食う?」
花音,「まかせる」
京介,「言うと思ったわ」
てきとうに注文してやった。
京介,「おい、てめー、なに寝てんだ」
いきなり目を閉じてやがった。
花音,「あ、ごめん。瞑想の時間だなーって」
京介,「瞑想だー?」
花音,「イメージトレーニングね。コレ、大事。跳べるっていう自信がつくの。踏み切り方、流れてる曲、跳んでるとき、着地、全部成功したときのイメージするの」
京介,「もしかして、お前、授業中とかもよく寝てるけど、あれって……」
花音,「うん、たいがいリンクの上にいるね、魂は。魂?」
さすがにちょっと尊敬したくなってきた。
京介,「お前って実はすごいヤツなのか?」
花音,「うん、すごいよ。のんちゃんが間違うことないもの」
京介,「大胆なこと言うなー」
花音,「そうかな? みんな人がなに言うかなんて、興味なくない? なにしたかじゃない?」
京介,「いやいや、お前くらい有名人だと発言一つでいろいろ言われるわけで……」
花音,「だから兄さんは好き。兄さんはぶーぶー言いながら、なんだかんだでわがまま聞いてくれるもん」
にへらーっとしながら、指でおれの頬を突こうとする。
それを払いのけて聞いた。
京介,「お前がいつもスケートのことを考えているのはわかった」
花音,「というか、スケートしか知らないしできないの」
京介,「ゆるいなー、お前」
……まあ、自分のできることとできないことを知っているのはいいことだろう。
京介,「なんで始めた?」
花音,「コーチがやれって言ったから」
京介,「ゆるいんだよ。それだけかよ」
花音,「それよく言われるなー。みんなドラマ求めてくるなー」
京介,「スケートとの運命的な出会いを期待してもいいじゃねえか」
花音,「強いて言えば……」
京介,「強いて言えば?」
花音,「女の日本人でも世界一になれそうなスポーツだったからかなー」
ふむ……ぶっちゃけ外国人と日本人じゃ体格からして違うもんな。
京介,「やたら世界一にこだわるのは?」
花音,「さー、それもコーチが毎日言ってたからかなー」
京介,「郁子さんの英才教育のたまものか……」
花音,「だって、毎晩寝る前にぜったい自分のオリンピックのときのこと話すんだもの」
京介,「郁子さんは、たしか……六位くらいだったか?」
花音,「金メダルだったはずだって言ってるよ。当時はロシアとアメリカが仲悪かったから、とか」
京介,「よくわからんぞ」
花音,「ちょっと前まで、六点満点で審判の人が点数つけてたの。いまみたいに技術を分析する人とかいなくて、審判の人の思い込みでたいがい決まってたの」
京介,「へー、へー」
花音,「コーチが言うには、アメリカの審判がコーチに高い得点つけそうだったもんだから、対抗してロシアの人が点数を下げたって」
京介,「高い得点つけそうだったもんだからって……なんだそれ。審判も点数出すときはいっせいに出すわけだろ? なんでアメリカの審判が高得点つけるってわかったんだ?」
花音,「ロビージャッジングっていうのがあるの。リンクの外で、大会の役員とか審判とかコーチとかが茶ぁしばいて雑談してるなかで、なんとなくわかっちゃうんだって」
京介,「いや、それにしたってあからさまにおかしい点数つけたら、もう審判としての人生も終わりだろ」
花音,「でも、国に帰れば英雄だって。なんか怖いねー」
京介,「怖いな。いまの採点方式はだいじょうぶなのか?」
花音,「どーかなー。いま、その新採点方式に変わったばっかりだからね。選手もコーチも審判の人も慣れてないからねー。ぶっちゃけのんちゃんも、細かく知らない」
……おいおい。
花音,「でも、一人くらいイタズラしても無駄だよ。最高点と最低点をカットしてそのあと平均点を出すから」
京介,「じゃあ、ジャッジの半分くらいがイタズラしたらアウトじゃん」
花音,「のんちゃんが万が一負けたら、まずそういうことだね」
にっこり笑った。
あくまで自信があるようだった。
やがて、ランチセットのオムライスが運ばれてきた。
花音,「どれどれ、のんちゃんミシュランが星をつけてあげよう」
京介,「なに採点する気だ、てめえ」
花音,「まず兄さんの根暗度……星ゼロ」
京介,「おれかよ」
花音,「あ、兄さん、お箸とって」
京介,「オムライス食うのに箸は使わないだろ」
花音,「兄さんのツッコミ……星ゼロ」
京介,「腹立つわ……」
花音,「普通に言われたからね、いま」
京介,「とっとと食えや。おれも午後から予定あるんだ」
花音,「はーい」
…………。
……。
;背景 繁華街1 夕方
朗報が届いたのは、陽が暮れかかったころだった。
花音を帰宅させ、おれは会社の事務所で新鋭会の動向を探っていた。
京介,「見つかった?」
電話をくれたのは、堀部だった。
もう権三には報告済みらしい。
堀部,「ええ、坊っちゃん。ついいましがた、野郎の居場所が見つかりました」
……もう見つけたのか!?
さすがというか……やはり、この街における連中の嗅覚は尋常ではないな。
京介,「居場所は見つけたけれど、男は捕まえていないんですね?」
堀部は恐縮したように続けた。
堀部,「ざっと経緯をお話しますと、自分が目をかけてるシュウってのがいまして……」
堀部の話はこうだった。
シュウという名のヤクザが面倒を見ている闇金の、ある多重債務者が例の共犯者に見覚えがあると申し出た。
有力な情報があれば、借金の一部を免除してやると約束――あくまで口約束だが――していたものだから、金に飢えた亡者たちは血眼になって探したという。
場所は、おれのマンションのある中央区の外れだった。
今日の昼ごろ、シュウが辺りを探っていたところ、なんと獲物とばったり遭遇したという。
すぐさまあとを追ったが、通りの角を曲がったところで逆に襲われ、男の行方を見失ってしまった。
その後、堀部が率いる捜索隊が付近の住民に鬼のようなプレッシャーをかけて聞き込みを開始したところ、ようやく男のアパートにたどり着いた。
堀部,「シュウは、頭にナイフぶっ刺されたみたいでしてねえ、ほんとまあ、やってくれますわ」
堀部はいまきっと電話の向こうで残忍な笑みを浮かべているのだろうな。
京介,「わかりました。いますぐそっちに行きます」
堀部,「野郎は西条って名前です。どこ行ったのかしらねえが、ばっくれられると思ってるのかねえ……」
どす黒い笑い声を中断するように、通話を切った。
すぐさま宇佐美に連絡して現場に向かった。
;背景 中央区住宅街 夜
……。
…………。
夜八時。
一通り、家捜しは済んだ。
安アパートの一室。
気味の悪い部屋だった。
一面の黒。
テーブルも、食器棚も、床に敷かれたじゅうたんも黒。
ガラス窓にも色紙を張って、明かりすら届かせない。
壁一面に張られた掛け軸には、達筆な文字で皇国がどうのと書かれていた。
本棚には、その手の本が大量に並べられていて、男の反社会的な思想に拍車をかけているようだった。
全体として整理整頓が行き届いているのが、また不気味だった。
ハル,「すみません、遅れまして」
宇佐美が息を切らして駆け込んできた。
京介,「遅いな。バイトだったのか?」
ハル,「はい。今日ばっかりは休めませんで……で、どうなりました?」
おれはこれまでの状況を話してやった。
ハル,「なるほど、西条というお名前で。で、ヤクザのみなさんは?」
京介,「いま堀部を筆頭に、東京駅まで車を飛ばしてるところだ」
ハル,「東京駅? 新幹線ですか?」
京介,「ああ、ヤツは博多に逃げるつもりらしい」
ハル,「博多っていうと明じゃないですか」
京介,「福岡だ、バカ。なんで五百年も昔の中国なんだよ」
ハル,「しかし、どうして行方がわかったんです?」
京介,「さっきヤツの部屋を探っていて気づいたんだ」
堀部はもぬけの殻となった現場を荒らさずにおいてくれた。
京介,「まず、金庫が空になっていたんだ。蓋ががらっと開いていて、なかには三文判が一つ転がっているだけ。さらにクローゼットも開けっ放しで服や下着なんかが散らばってた」
ハル,「なるほど、荷物一式持って逃げ去ったと。で、どうして豚骨ラーメンの国へ逃げたと?」
京介,「パソコンの電源が落ちていなかったんだ。慌てていたらしいな」
ハル,「ふむ」
京介,「それで、どうもネットをしていたらしくてな。ブラウザが開きっぱなしになっていた」
ハル,「西条は逃げる直前まで、なんのサイトを見ていたんですか?」
京介,「ぜんぜん関係のなさそうな芸能人のブログだった」
ハル,「まさか、藤原……でも、それはフェイクでしょう」
京介,「そうだと思って、ブラウザの履歴を調べてみた」
ハル,「さすがです」
京介,「そしたらJRのページに飛んだわけだな。検索サイトの履歴とかいろいろ探ってみてわかったんだが、どうもヤツは博多行き新幹線の空席状況を調べていたみたいだ」
ハル,「いま、八時ですが……西条はもうとっくに新幹線のなかですか?」
京介,「おそらくな。ヤツは四時半には部屋をあとにしている」
ハル,「四時半? それまたどうして?」
京介,「部屋にあった電話だ。ためしにリダイヤルしてみたら、タクシー会社につながった」
ハル,「なるほど。会社に問い合わせてみたところ、西条は四時半ごろにタクシーを一台、アパートの前に手配していたんですね?」
京介,「東京駅までタクシーなら一時間半ってところだろう。途中で電車に乗り換えればもっと早い」
ハル,「いま、八時ですか……困りましたね……」
京介,「間に合うかどうかはわからないが、飛行機で先回りするために羽田空港にも何人か回してる」
ハル,「新幹線で五時間の道のりも、飛行機なら一時間半くらいですからね。なるほど、博多駅で待ち伏せするわけですね。さすがに浅井さんは手際がいい」
感心したようにうなずいて見せて、宇佐美は指を立てた。
ハル,「しかし、落とし穴がありますね」
京介,「わかっている。博多行き新幹線を調べていたからって、博多で降りるとは限らない」
ハル,「素晴らしい」
京介,「西条が調べた新幹線の名前はわかってる。ちゃんと横浜、名古屋、大阪などのすべての停車駅に人が向かってる」
浅井権三の園山組は一千人を越える巨大組織だ。
駅の改札口すべてを抑えるとなるとかなりの人数になったが、仲間を一人傷つけられたヤクザ連中にとっては、どんな長距離移動も苦ではないらしい。
京介,「ただ、西日本に逃げられるとなると、ちょっと厄介らしいな」
ハル,「ははあ、ヤクザさんには領土ってのがあるんでしょうねえ」
たとえば博多なんかでは、総和連合の人間もこの街ほど大胆に獲物を捕まえることができなくなるらしい。
ハル,「だからこそ、博多ですか。めんたいこもおいしいですしね。なかなか考えていますね」
言いながら、通り沿いに腰を下ろした。
京介,「なにやってんだ、お前!?」
ハル,「ゴミ漁りです」
京介,「まさか、手がかりを探っているとでも?」
ハル,「ええ。部屋のなかは浅井さんがしっかりと確認してくださったと信じていますので、自分はヨゴレ担当ということで」
腐乱臭のするゴミ置き場で、平然と袋を開封していく。
ハル,「ありました。大日本がどうとか書かれたノートの端切れです。この袋が西条の出したゴミですね。なるほどやはり……」
京介,「なにが、なるほどやはり、なんだ?」
ハル,「いえ、西条は、"魔王"に指示された内容以外では、わりと無防備なのではないかと思いまして」
ハル,「"魔王"のレールの設計図はともかく、レールを敷いている人間がミスを犯していることに期待します」
ハル,「とくにゴミです。普通に生活しているぶんには気にもしないでしょうが、ゴミの山は証拠の山です」
袋の中に手を突っ込んで、中身を食い入るように見つめる。
京介,「証拠の山って……西条はもう、新幹線のなかだぞ?」
ハル,「ええ……浅井さんの言うことには、いちおうの筋は通ってますね」
京介,「なにか、おかしいか?」
ハル,「できすぎているような気がするんですよ……うわ、クサっ! お風呂たっぷり入んなきゃ……」
京介,「おい、なにができすぎてるんだ?」
ハル,「うーん、パソコンの電源を消し忘れるほど慌ててたんなら、最初からつけなきゃいいのに、と」
京介,「…………」
ハル,「芸能人のブログなんてフェイクをかましてくれたわけでしょう? 本当に慌ててたんですかねえ」
たしかに、わざわざ自宅でインターネットをする必要はないな。
逃亡中にネットカフェかどこかでじっくりと新幹線の情報を調べたほうがはるかに安全だ。
ハル,「そもそも、新幹線の空席情報なんて調べますかね。年末ならともかく、自由席なら立ってでも乗れますし……」
京介,「……それはそうだ」
ハル,「しかし、西条の心理的になるべく遠くに逃げたいと思っていても不思議はないです。人間、テンパるとなにするかわかりませんし」
おれも焦っていたのかもしれない……。
京介,「すまん、手がかりを拾った気になって、油断していた。博多方面に逃げたと思わせることこそが、"魔王"の狙いだったのかもしれない」
宇佐美は黙って首を振った。
その顔が不意に引き締まった。
ハル,「…………」
一枚の紙を拾い上げた。
ハル,「浅井さんたちは、何時くらいにこのアパートに来たんですか?」
京介,「六時過ぎだな。堀部たちはもう少し早く来ていたはずだが……」
宇佐美は、ゴミにまみれた紙を凝視している。
ハル,「本日五時ごろ配達にうかがいましたが留守でしたので……とありますね」
……くそ、なんてことだ!
京介,「不在票か!?」
宇佐美はうなずいた。
ハル,「不在票を捨てたということは、西条は少なくとも、五時過ぎまでは家にいたということです」
そうだな……おれの読みどおり、西条が四時半に家を開けたのなら、不在票はゴミ捨て場じゃなく、部屋の郵便受けにささっているはずだ。
京介,「タクシーは囮か。呼ぶだけ呼んで、帰らせたんだ」
ハル,「いえ、乗車して少しの距離を走ったところで降りたのでしょう。そうしないと、タクシー会社の人も、浅井さんになにか言うはずです」
リダイヤルしたときに、タクシーの行き先を聞いておけばよかった。
……いや、さすがに警察でもない人間にそこまでは教えてくれなかっただろうか。
京介,「近場でタクシーを降りて、部屋に戻ってきたところ、不在票が入っていたというわけか?」
ハル,「ええ。しかしこれは、大きな手がかりです」
;背景 中央区住宅街
宇佐美は不在票を手に、立ち上がった。
京介,「まだ荷物を受け取っていないのなら、西条は、再びここに戻ってくるつもりなのだろうか」
ハル,「それは考えにくいですね。ヤクザさんに追われているという事実は揺るがないのですから」
京介,「ということは?」
ハル,「はい。荷物の配送先こそ、西条の新しい潜伏先です」
宇佐美は携帯電話を手に、不在票を見ながら番号を押した。
ハル,「あ、もしもし……ええ、伝票番号ですね、はいはい……265……」
どうやら配達中のドライバーに直接電話をかけたようだ。
ハル,「ええ、さきほど再配達をお願いしましたね。あ、わたしは西条の妹です。ええ……兄はどこに荷物を届けさせましたかね? 兄が忘れちゃったみたいで……」
ハル,「はい……中央区の、プラザホテルですか、そうですか。ありがとうございました……いえいえ、そのままそこに届けてください」
通話は終わった。
京介,「プラザホテルだな?」
ハル,「ええ、わかりますか?」
京介,「わかる。すぐに人をよこしてもらう」
ハル,「お願いします。出入り口をしっかり固めて、ぜひとも捕まえなければ……」
京介,「じゃあ、とりあえずおれは権三にお願いしに行く」
堀部たちを誤った方向に誘導してしまったし、直接会って頭を下げなくては。
ハル,「わかりました。それでは……」
宇佐美はさっそうと、夜道を駆けていった。
さて、おれも……。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景 中央区住宅街
……。
…………。
不安要素がないでもない。
おれの計画はともかく、それを実行する人間に問題があるかもしれない。
胸のうちで、携帯が振動した。
忠実なる"悪魔"――西条からだ。
魔王,「私からのメールは削除してもらえましたか?」
西条,「ああ、きちんとパソコンから消去した」
しかし、警察の力があれば、消去されたデータも復帰させることができる。
いずれ、西条の部屋にパソコンごと盗みに入るとしよう。
魔王,「ところでホテルはいかがですか? 気に入っていただけるとうれしいのですが」
西条は、なにやら不安そうに早口でまくしたてた。
西条,「気を悪くしないで欲しい。"魔王"の実力を疑うわけではないが、本当にだいじょうぶなのだろうか?」
魔王,「というと?」
西条,「連中の嗅覚は生半可なものではない。ヤクザどもは、すでに私のアパートを探し出しているだろう」
魔王,「でしょうね。それを見越して、罠を残しておいたのではありませんか?」
西条,「ああ、しかし……ヤクザどもは気づいてくれるだろうか?」
魔王,「あの程度のパズルが解けないのなら、それこそ恐れるに足りません」
西条,「そう言われると安心する。いや、すまなかった……」
安心するのはまだ早いかもしれんぞ。
魔王,「問題はありません。お約束します」
お前が、いたらぬミスをしていなければな……。
西条,「それで、次の計画だが……」
魔王,「ええ……お話の途中でしたね……」
;黒画面
…………。
……。
;背景 繁華街2 夜
;ノベル形式
ハルはそれまで、ホテル沿いの歩道からエントランスの様子をじっとうかがっていた。
 つい先ほど京介から連絡が入っていた。
 京介は、自分は権三の相手をしなければならず、ホテルに来られなくなったが、かわりに近くにいる園山組の男たちを派遣するという。
 道路脇のガードレールに持たれかかって、その辺の若者がそうするように携帯電話をいじっているふりをしながら、ホテルの入り口を監視する。
十時を過ぎて人の波がまばらになったころ、いかにもがらの悪そうな顔つきの男たちが十数人ほど現れた。
 軽く挨拶を交わし、すぐさま部屋に乗り込む手はずを整える。地下の駐車場、四つあるホテルの出入り口、そして非常階段に何人か割り当てて逃げ場を封鎖した。男たちはよほど規律が行き届いているのか、文句のひとつも言わずにそれぞれの持ち場に散っていった。
 すでに、ホテルの受け付けで、来客を装って西条の部屋を聞き出していた。
 あとは突入するだけだった。
ホテルの厳粛な大理石の廊下を歩きながら、ハルは考えを巡らせていた。
 静寂が支配していた。防音が行き届いているのか、居並ぶドアから少しも音が漏れていない。
 ――"魔王"はなぜ、西条と組んで動いているのだろうか。
 共犯者がいれば、犯罪のバリエーションは多彩になる。しかし、同時に、問題も抱えることにもなる。知能犯の計画が露見するのは往々にして、頭の悪い足手まといが証拠を残すからだ。
わからなかった。
 もちろん"魔王"のことだ。西条が捕えられても、自分だけは逃げおおせる算段を整えていることだろう。それにしても、共犯者は自らの計画の一部でも漏らすかもしれない。
ヤクザ,「ここだな……」
 ふと、付き添っている男がぼやいた。太った男だった。丸太のような首に金のチェーンをだらりとぶら下げている。
いつの間にか、西条がチェックインした部屋の前までたどり着いていた。
 ハルは小声で言った。
ハル,「ノックしてもらえますか? 自分がドアの覗き穴の前に立ちます」
 ハルは西条に面が割れている。とはいえ、ひと目でヤクザ者とわかる男よりはましだと考えた。
;黒画面
スカートのポケットから取り出した白いスカーフを頭に巻いて、ささやかな変装を遂げる。必要以上に顔を近づければ、向こう側からこちらの服装までは確認できないだろう。
 太った男が、ドアの前に立って、拳を浅く握った。
;通常形式
……。
…………。
む……?
魔王,「なにか、ありましたか?」
電話の向こうの西条に問う。
西条,「いまノックがあった……」
魔王,「こんな時間に?」
西条,「ああ、ルームサービスだろうか……」
魔王,「用心して、ドアスコープから相手を探ってください」
しばらく、西条の息づかいだけが聞こえてきた。
西条,「女だな……若い女……」
女……?
西条,「白い……帽子だろうか……服装はよく見えないな……」
まさか……。
魔王,「見覚えは?」
港で宇佐美と出くわしているはずだ。
西条,「ない、な……」
曖昧な返事。
宇佐美の、あのふざけた髪型を思い返す。
計算してのことかどうか知らんが、あの化け物みたいな髪がなければ、少女の印象も一変する。
西条,「届けものだろうか?」
魔王,「ありえない」
きつく言った。
魔王,「夜の十二時になっても配送して回る業者を、私は知らない」
おれの警戒心を察したのか、西条もさらに声を潜めた。
西条,「どうする?」
魔王,「女がその場を立ち去る様子は?」
西条,「ないな……じっとこっちを見てる。微動だにしないと言っていい」
もし宇佐美だとしたら、なぜ……?
戦慄が走る。
どうやってホテルを探し当てたというのか。
魔王,「ひとつお伺いしたい」
これが、西条との最後の会話になるかもしれんな。
魔王,「室内のゴミはちゃんと処理されましたか?」
西条,「もちろんだ。部屋に残さず、ゴミ袋に詰めてゴミ捨て場に投棄した」
魔王,「…………」
ならば……。
魔王,「返事をして、ドアを開けてください」
西条,「いいのか」
魔王,「ええ」
西条,「わかった。一度電話を切るぞ」
魔王,「はい」
打つ手がなかった。
もし、追っ手だとしたら、もはや逃げられまい。
当然、総和連合の極道どもが、ホテルの出入り口をかためていることだろう。
部屋に篭城したところで、時間稼ぎにしかならない。
;黒画面
;ノベル形式
;ハル視点
ノックを繰り返した。
 しかし、五分、十分と待っても返事はなかった。
 部屋に人がいる気配も、まったくない……。
 内心の動揺をよそに、ハルはフロントに連絡を取った。室内で人が倒れているかもしれない。コールしてもつながらない。とにかく、部屋のなかを確認したかった。やがて、キーを持ってホテルのマネージャーがやってきた。
ドアが開いた。
 ハルは、ひしひしと忍び寄る敗北感に唇を噛み締めていた。
最悪の予想は裏切られ、再び着信があった。
西条,「"魔王"、たいしたことじゃなかった」
魔王,「ほう……」
おれに電話ができるという状況だけで、西条の安全は理解できた。
西条,「フロントの者が、私が落としたパスポートを部屋まで届けにきてくれただけだった。すまない」
魔王,「急いで荷造りしたからでしょうね。なんにしても、何事もなくてよかった」
西条,「どうしてこのビジネスホテルの場所がわかったのかと、肝が冷えたよ」
魔王,「いまごろ連中は中央区のプラザホテルに向かっていることでしょう」
杞憂だった。
つまり、おれは宇佐美を買いすぎていたというわけか。
宇佐美がたどりつけるのは、プラザホテルまで。
いま西条が宿泊している東区の安ホテルを割り出せるはずがなかった。
西条,「あえてミスを装えと、"魔王"は言ったな」
魔王,「ええ……やつらは、アイスアリーナの一件で、あなたのことを侮っているでしょうから」
西条,「"魔王"の助けがなければ、こうまで上手く逃げられなかっただろう。よくとっさにあんな手を思いつくものだな?」
魔王,「今日の夕方に荷物が届く予定だとおっしゃったでしょう? それでどうにか助かりました」
不在票を使った罠。
宅配業者には、偽のホテルの名を告げさせた。
一度チェックインするだけで、実際には泊まらないホテル。
プラザホテルでの西条は、一度部屋に入ると、すぐさまホテルを出て、東区に向かった。
西条,「私は今度こそ"魔王"の指示通り、すべてをやってのけた。博多行きを匂わせるようなウェブサイトを巡り、検索エンジンにも履歴を残し、最後は芸能人のブログを開いておいた」
魔王,「そして、四時半にタクシーを手配した。そこまでは、暴力団の人間でも、博多に逃げたと推測できるでしょう」
西条,「けれど、実際にはタクシーはすぐに降りて、アパートまで戻る。そして、不在票を手に入れる」
実際に留守じゃなくても、居留守を使う手はずだった。
西条,「不在票をゴミ袋につめて捨てれば、私のミスを探していた連中が必ず探し当てて、宅配業者に連絡すると」
……そこまでが、宇佐美の限界だった。
西条,「裏の裏をかいたわけだな」
魔王,「ヒントを与えてやるのです。もっともらしいヒントを、相手の程度に応じて」
魔王,「すると、ヒントから解答を得た『坊や』たちは自分の手柄に酔いしれて、本当の正解を模索しなくなる」
博多に向かったヤクザどもも、ホテルに向かった宇佐美もたいして変わらん。
西条,「鮮やかなものだな、"魔王"」
魔王,「いいえ」
冗談ではない。
魔王,「孔明空城の計はご存知でしょう? 一見裏の裏をかいた鮮やかな駆け引きのようですが、その実、撤退のためのつまらない策にすぎない」
事実、西条が総和連合に追われているという大局は揺るがないのだ。
こんな局地的な勝利など、どうでもいい。
魔王,「それでは、お話の続きをしましょう……」
西条,「ああ、その、宇佐美という少女だったな……」
おれは、冷たく言った。
魔王,「殺してしまいましょう」
;黒画面
…………。
……。
;背景 屋上
栄一,「ったく、そろいもそろって使えねーヤツらだなー!」
ハル,「すいません」
京介,「すいません」
翌日の午後、栄一が偉そうだった。
栄一,「いったい、いつになったら、女紹介してくれんだよ、宇佐美さんよー?」
ハル,「ええ、ですから近日中に」
栄一,「もういい加減正体ばらしちゃうけどさー、オレちゃんって相当なワルなんだよ? ええっ? 穴があったら入れたい年頃なんだよ!? もう待てないっつーの!」
たった二日でシビレを切らしたようだ。
京介,「いや、まあ、おれもなんとか期待に沿うような女性を探してみるから」
ハル,「今日のところは、ご勘弁を」
しかし、やけに機嫌が悪いな……。
京介,「なんかあったのか?」
栄一,「いやよう、昨日久しぶりに親父とメシ食ってたのよ」
京介,「お前親父いたんだっけ?」
ハル,「あれ? たしか施設で育ったとか聞きましたけど?」
栄一,「んなもんは、全部ブラフだよ。ボクの親父はホテルのオーナーやってるよ」
京介,「マジで?」
栄一,「中央区のプラザホテルも、グランドホテルもトップオブトマンベツも全部、親父のもんだよ」
京介,「嘘つけや」
栄一,「嘘だと思うんなら、今度一泊させてあげようか?」
京介,「…………」
ハル,「…………」
おれは宇佐美と顔を見合わせた。
ハル,「マジっぽいっすね」
栄一,「ふんっ」
知らなかった。
たしかに、相沢という名のホテルオーナーの話は聞いたことがある。
しかし、目の前のこの栄一の親父だと誰が信じるというのか。
京介,「それにしても、人のことボンボンとか言っといて、お前もかなりのボン太郎じゃねえか」
栄一,「オメーと違って親父は厳しいんだよ。爬虫類禁止だぞ、うちは。ありえなくね?」
京介,「ふーん」
栄一,「それでその親父がよー、夜中の二時くらいに帰ってきたと思ったら仕事のグチを始めやがってよー」
ハル,「プラザホテルのことですか?」
栄一,「なんかさー、客の一人が消えたらしいんよ。たしかにチェックインしてるんだけど、電話もつながらないし、住所もデタラメでさ、こりゃ警察もんだな、と思ったら、部屋のキーも宿泊代もベッドの下にあったんだってさ」
京介,「けっきょく被害はなかったわけだし、警察には連絡しなかったんだな?」
栄一,「親父に言われたよ。んなもんでホテルの評判悪くなったら客がこなくなるだろうが。ついでにそんな現場の話をいちいちオーナーの俺様に上げてくんなってな」
栄一,「オレに言わせれば、そんな仕事の話をいちいち息子に上げてくんなっつーの。そりゃ、オレも非行に走るわ」
京介,「いやいや、いいお父さんじゃないか。ちゃんと勉強させてもらえよ」
栄一,「けっ、おめーら凡夫には理解できない悩みだろうな」
栄一は、いつまでもふてくされていた。
;背景 教室 夕方
京介,「まんまとしてやられたわけだな?」
ハル,「ご迷惑をおかけしまして……」
授業が終わり、宇佐美と善後策を練っていた。
京介,「西条についてだが……」
ハル,「はい」
京介,「権三に聞いたところ、西条の大日本革新義塾とかいう組織は知らないらしい」
ハル,「よほど規模が小さいのでしょうか?」
京介,「わからん。その手の政治結社は無数にあるからな」
ハル,「では、組織の線から西条を追うのは難しそうですね」
京介,「堀部たちは、また総力を上げて市内のホテルをしらみつぶしにあたってる」
ホテルだけじゃなく、ネットカフェや、地下鉄や橋の下などのホームレスの住処、テナントの入っていないビルの一室など、およそ人が住めそうな場所はすべて探している。
ハル,「西条はすでに、県外に逃亡している可能性もありますが?」
京介,「わかっている。ヤツも総和連合の恐ろしさを知っているはずだ。権三の指示で、百人くらいは県外に向かわせているらしい」
現地の暴力団と折衝して、"魔王"や西条についての情報を集めているようだ。
新鋭会との戦いも控えて、園山組は大忙しだ。
ハル,「……わたしにできることといえば……」
京介,「吉報を待つくらいじゃないか?」
はっきり言って、失態を犯したおれたちは、煙たがられている。
ハル,「原点に返りましょう」
京介,「ん?」
ハル,「花音は、NKH杯で優勝しました。"魔王"のいいつけを無視した以上、母親の郁子さんの命が狙われているはずです」
京介,「だからこそ、西条を探してるんじゃないか」
ハル,「ですよね……」
はっきりしないヤツだな……。
京介,「今回の"魔王"は、ゲームの駒に西条っていう共犯者をそろえた。共犯者を抱えるってことは、それだけリスクもあるんだろうが、それに見合うリターンもあるはずだ」
ハル,「つまり、共犯者がいて初めて成り立つ手口で郁子さんを狙っていると?」
京介,「それしか考えられない。"魔王"一人でできるなら、最初から共犯者なんて雇わない。だからこそ、まだ西条は街にいるはずだと思うが?」
ハル,「やっぱり、そうですよね。西条を捕まえれば、"魔王"の計画を破綻させられるかもしれない」
おれは鼻で笑った。
京介,「なんだよ、お前。ちょっと落ち込んでるのか?」
ハル,「いえいえ、まさか。自分がナイーブになったのは、財布を落としたときとペンギンも交尾をすると知ったときです」
……やっぱりアホだな、コイツ。
ハル,「自分は、もう一度西条のアパートを漁ってみるとします」
京介,「わかった。勝手な行動は慎めよ」
ハル,「わかっています。いちおうわたしも、被害者候補の一人ですからね」
宇佐美はそう言って、帰り支度を始めた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 公園 夕方
元気な子供の声が飛び交っている。
 "悪魔"――西条は、東区の公園のベンチに腰掛け、"魔王"からの連絡を待っていた。
 小学校帰りの子供たちが、寒さをものとせず、我先にと砂場や滑り台を占領している。
 西条は妹を思い出す。西条に取り調べをした刑事のことも思い出す。西条が首を絞めたのだと。ランドセルを背負ったばかりの愛らしい妹。天使のような笑顔から、いつの間にか目玉がせり出していた。お前が殺したのだ……。
違う。
 ……あれは、そう……死んだわけではない。
 妹は西条が好きだった。よくいっしょに手をつないで登校した。風呂で全身をくまなく洗ってやった。お休みのキスを欠かしたことはない。つまり、好きに決まっていた。
 なにが悪い。花は一番美しいときにつむものだ。殺したというより、西条のものにしたに過ぎない。ただ、公僕どもがあまりにもうるさいので社会的制裁は受けてやった。西条は成人するまでの長い間を、必ず柵のある施設で過ごした。
;SE 着信
"魔王"からの着信があった。
「……ご無事ですか?」
西条,「こんな町外れの公園までは、連中も追ってこないようだ」
「油断なさらないよう」
西条,「わかっている。あと三人殺すまでは、街を離れられない」
殺し損ねた吉田喜美子。フィギュアスケートコーチの金崎郁子。そして、宇佐美ハルという少女だ。これからどんな殺人計画を打ち明けられるのかと、期待に胸をふくらませた。
「いま、アイスアリーナに来ていましてね」
"魔王"はどこか気持ちよさそうに言った。
「明日からまた、グランドシリーズファイナルという大会が始まるのです。世界六カ国で開催された大会の、最後の決勝戦とでもいうべき華々しい内容です」
……なんの話だ、と口に出かけたが、水を刺すようでためらわれた。
「しかし、しょせんは賞金戦です。運営資金に困った国際フィギュアスケート連合が主催する見世物。それが証拠に、昨シーズンの世界チャンピオンなどは、敗北を恐れ、自らの名誉を守るために出場を辞退するのも通例となっている」
西条は、ただ、相づちを打つしかなかった。
「昨年から導入された新採点方式も、フィギュアをつまらなくしている。たしかに、不正を防ぐ意味で一定の効果をあげているのは認めよう。問題は、プログラムだ。いまのルールでは、ジャンプを跳べる回数も決まっているし、リンクの端から端まで見事なスパイラルを続ける必要もない。その結果どうなったか。どいつもこいつも似たような演技ばかりではないか。減点を恐れ、挑戦的なプログラムを避けている。派手な転倒など見なくなった。いったいどこがフリースケーティングだというのか……」
"魔王"が珍しくため息をついたものだから、西条は不安に駆られた。
「たとえば私は、浅井花音よりも瀬田真紀子を評価する。理由は基本的なスケーティング技術だ。動きも曲にマッチして非常に美しい。苦境を乗り越え、地味な努力を重ねていることがわかる。しかし、回転数の多いジャンプひとつで順位がひっくり返ってしまった。容姿がよく、受けのいい決め技を持つ人間が勝利する。おかしな時代になってしまったものだ……」
西条は、ふと、同志の嘆きを悟った。よく考えてみればこれまでのターゲットはすべて、フィギュアスケートに関係する人物だった。
「いや、申し訳ない。つい、長話になってしまいました」
西条,「"魔王"、ひとつ聞きたい」
疑問が喉を突いた。
西条,「"魔王"はこの国の現状を憂い、革命を志しているのではなかったか?」
「…………」
西条,「やけにスケートにこだわるのはなぜだ?」
疑惑は深まる。そもそも、標的は悪党ばかりとはいえ、一般人だ。なぜ政府要人や宗教団体の幹部といった巨悪が殺人リストにないのか。
そこまで考えて、西条は追求の手を緩めた。
西条,「いまさらすまない。頭の鋭いお前にしかわからない事情があるのかもしれんな」
理解者に嫌われたくはなかった。"魔王"は自分の窮地を救ってくれた。
「いいえ……」
"魔王"が申し訳なさそうに言う。
「あなたの疑問はもっともだ」
西条,「というと?」
「私はただ、フィギュアスケートの現状を嘆いているだけなのです。金儲けに走った連中をこの世から抹殺したかった」
西条,「…………」
「そのために、利用したのです、あなたを」
"魔王"は苦しそうに言った。
 不思議と怒りは沸いてこなかった。長らく忘れていた感情が胸に宿る。そう、あれは、妹が西条の大切にしていた玩具を壊したときだ。あのときも、妹は素直に頭を下げた。
「これまで協力していただいて感謝します」
携帯電話を持つ手が震えた。
「ひとまず西日本に逃げるとよろしいでしょう。新幹線もいいですが夜行バスやフェリーを駆使したほうがより安全といえます。福岡まで着いたらまたご連絡を。台湾行きの船を用意しておきますので。口座を教えていただければ逃走資金を振り込ませて……」
西条,「待て、"魔王"」
思わず、言った。
西条,「誰も降りるとは言っていない」
「しかし……」
西条,「いや、やらせてもらおう」
「なぜです?」
西条は観念したようにため息をついた。
西条,「私もお前を騙していたからだ。大日本革新義塾などという組織は存在しない。いや、あるにはあるが、代表も広報も作戦参謀も全部たった一人の構成員が兼任している。つまり、私だ」
「なんと……」
西条,「世間は私を異常者だと決めつけている。しかし、お前は私を立てて、熱意のこもったメッセージを送ってくれた。実力のない私を英雄だと言った」
迷いはなかった。"魔王"の真の目的はどうあれ、彼が友人であることに変わりはないのだから。
西条,「教えてくれ。"魔王"が最も殺したいのは例の三人ではないのだろう? 真の標的は――」
西条はその人物の名を口にした。
"魔王"は短く、はい、と答えた。
西条,「協力しよう。さあ、指示をくれ……」
公園を駆け回る子供たちの嬌声は、いつの間にかやんでいた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公の部屋 夜
ハル,「チース!」
京介,「お前、おれの家に上がりこむことに慣れてきただろ?」
夕食を終えたころ、いきなり宇佐美がやってきた。
ハル,「あったかいなー、この家は」
京介,「ソファに丸まるな。起きろ」
宇佐美は制服のまましばらくゴロゴロしたあと、起き上がった。
ハル,「いやそれにしても、まるで社会とのつながりを持とうとしない人の追跡は難しいですね」
京介,「新しい手がかりでも?」
宇佐美は曖昧に首をふった。
ハル,「電話の請求書があってチェックしましたが、自分と同じくらい安い通話料でした」
京介,「友達がいないってことだな」
ハル,「仕事はどうにも、日雇いの現場作業なんかがメインみたいですね。ヘルメットと軍手も見つかりましたし、人材派遣会社に登録しているらしく、いくらか給与明細がありました」
京介,「……収入が安定しているとはいえない生活か」
ハル,「きっちりした真面目な人物です。風俗の会員証とか馬券の切れ端とかそういうのは見当たりませんでしたし、自炊のあともありましたし、アイロンやズボンプレッサーもありました」
京介,「でも、意外にそういうヤツほど、アブなかったりするわけか……」
ハル,「手がかりになりそうなのは唯一……」
;SEドアの開く音
そのとき玄関で物音がした。
花音,「たっだいまー!」
花音には部屋の合鍵を渡しておいたのだ。
ハル,「チース!」
花音,「チース!」
いきなりなんだこいつら……。
花音,「やあやあ、うさみん、よくいらっしゃいました。汚い家ですがどうぞごゆっくり」
京介,「おれの家だから」
ハル,「いや、せっかくだけど、もう帰るよ」
京介,「え? おい……」
手がかりがどうとか言いかけておいて……。
花音,「なんで? あそぼーよ」
宇佐美はなぜか、ベッドを横目で見ていた。
ハル,「でわ……」
そそくさと、背中を丸めて退室していった。
花音,「ねえねえ、うさみんなにしに来たの?」
京介,「さあな……暖取りに来たんじゃねえか?」
花音,「そういえば、うさみんってあの格好で寒くないのかな?」
当然の疑問だった。
京介,「まあ、あいつは変人だから」
花音,「んー?」
京介,「な、なんだよ、いきなり顔を近づけてくんなよ?」
花音の瞳におれが映っている。
花音,「なんか隠してるなー?」
京介,「はあ?」
花音,「ソファが荒れてるぞ? うさみんとなにしてたんだー?」
京介,「なんもしてねえよ……って、あれ?」
ソファの下に、宇佐美のものらしき携帯電話があった。
京介,「あいつ、ここでゴロゴロしてたとき、落としたんじゃ……」
花音,「ゴロゴロしてたの?」
京介,「一人で勝手にな」
まあ、明日、学園で渡してやろう。
花音,「んー、なんかおかしいなー。最近パパもかまってくれないし、のんちゃんの周りで事件が起こってるぞー、これは」
京介,「パパは年末に向けて忙しいんだよ」
花音,「コーチの周りに、パパの部下みたいな人がいるのもおかしいぞー?」
京介,「へえ、そうなんだ……」
さすがに気づくか。
花音,「コーチ、守られてるみたいだったよ? トイレの前までついてくるんだもん」
ここで下手な嘘はつけんな。
花音,「なんでコーチが守られてるのかなー? ヒルトン先生とか大会の偉い人とかならわかるけど……んー、兄さんどう思う?」
京介,「知らねえな……それより風呂入って来いよ」
花音,「さては、兄さんもグルだなー? のんちゃんを驚かせようったってそうはいかないぞー」
京介,「気にするなよ。そうだ、お前はスケートのことしか興味ないんじゃなかったのか?」
花音,「あ、そうだった。兄さんいいこと言うなー」
すぐ笑顔に戻る。
京介,「明日からファイナルだろ?」
花音,「うん、女子はしあさってからね」
京介,「よし、ならとっとと風呂入れ」
花音,「はいっ」
ばたばたと脱衣所に駆け込んだ。
京介,「…………」
あの切り替わりの早さがなければ、花音もここまで有名にはなれなかったのかもしれないな。
自分の演技ひとつに、実はいろんな人間の思惑がかかっている。
ジャンプの出来不出来で、観客の動員数やスポンサーのご機嫌も変わってくる。
さらにいえば、今回は脅迫事件までからんでいる。
そんな周辺の利害をいちいち気にしていたら、演技になるわけがない。
当然、練習に明け暮れて、まともな学園生活だって送れるはずもなかった。
しかし、本当にスケートのことしか考えない人間なんているわけがない。
機械ではないのだから。
花音は、あのゆるい笑顔の裏で、いろいろな興味に耐えている。
もし、母親の命が狙われていると知ったら……。
…………。
……。
;背景 中央区住宅街 昼
;ノベル形式
;ハル視点。
ハルは住宅街の路上を行ったりきたりしていた。
 風はなく空気は乾いていた。時刻は正午を回った程度で、昼食の仕度を終えた主婦の姿をちらほらと見かける。
 同じ角を三度Uターンしたとき、ハルは、やはり自分は張り込みには向いていないと思った。
 コンビニの袋を持ってただの通行人を装おうとしても、無理がある。髪型はもちろん、平日の昼間に閑静な住宅地で学園の制服を着ているのも問題だ。
観察目標は、さっきから何度も前を通り過ぎた病院だった。看板には内科、神経科とある。
 張り込みの理由は、昨日の晩、西条の部屋のゴミ捨て場から見つかった病院の薬袋だった。薬の使用書のような紙も同封してあり、西条は神経系の病気を抱えていることがわかった。一つのゴミ袋から薬袋が三つも出てきたことから、頻繁に通院しているものと推測した。
ハル,「寒いよぉ……」
望みは薄いかもしれない。病院を変えられたらおしまいだからだ。"魔王"の指図も入っているだろう。西条の部屋を探索した結果、暴力団が病院を当たると予想しているに違いない。
 それでもハルが一人で張り込みを続けているのは理由があった。
 薬袋は、おとといの時点では見当たらなかったのだ。"魔王"の罠にはまり、西条がプラザホテルに逃げたと勘違いしたあのときにはなかった。薬袋が三つも出てきた以上、見落としたとは考えにくい。
つまり、薬袋は何者かが、後日に残したということになる。
 堀部たちは、西条がもう部屋に戻ることはないと考え、アパートに人を残してはいなかった。だから、何者かがアパートにやってきても誰もわからない。
 ――西条ではなく、"魔王"だろう。
 ハルは、そう当たりをつけていた。西条とは違い、いまだに顔も知られていない"魔王"なら暴力団の目を恐れることもない。
"魔王"が薬袋をあえて残したということは……。
 ハルはそこまで考えて、また唇を噛み締めた。先日の敗北の味がする。
 ――これも、なにかのお遊びなのだろう。
ハル,「寒いぃ……」
ていうか、補導されなきゃいいな……ハルは思った。
 だいじょぶか、十八歳以上だし……。
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
;背景 学園教室 昼
その日、グランドシリーズファイナルが開催された。
スケートマニアの栄一は初日から始まる男子の試合を見るために、学園をさぼっていた。
京介,「おい椿姫、宇佐美は?」
椿姫,「来てないみたいだね。どうしたの?」
京介,「いや、あいつ昨日、おれの家に携帯忘れていきやがったんだよ」
椿姫,「そうなんだ。わたしが、預かっておこうか?」
椿姫がそう提案したのは、おれもよく学園を休むからだろう。
京介,「いや、いい……」
……宇佐美のヤツ……どうしたんだ?
唯一の手がかりをつかんだとか……。
まさか、一人で先走っているのか……?
;黒画面
…………。
……。
;背景 中央区住宅街 夕方
;ノベル形式
"魔王"の言ったとおりだった。
 西条はレンタカーの後部座席に一人でいた。別で買ったカーテン越しの窓からこっそりと病院の様子をうかがっていると、例の少女がうろついていた。
 名前は宇佐美ハル。
 港で出会ったときには、藤原などと名乗った暴力団の手先だ。
 あの幽霊のような髪型の少女こそ、"魔王"の最も警戒する存在だという。ぼんやりとした風体や言動の裏に、たしかな知性を秘めているらしいが、どうにもピンと来なかった。
寒いのか、両腕で肩を抱きながら、住宅地を何度も往復している。
 西条は"魔王"の忠告を脳内で反芻した。
 ……機があれば、殺せ。
『薬袋の罠に気づくのは、おそらく宇佐美だろう。現場百遍と教えられる刑事ならともかく、暴力団の男たちは気づかない。もうあなたがアパートに戻ることはないと考え、他を探している』
 "魔王"の読みは当たっていた。
辺りをうかがってみるが、暴力団らしき人間の姿は見当たらなかった。
『あくまで機があれば、行動を開始してください。宇佐美はヤクザ者を引き連れているかもしれない。宇佐美一人に見えて、実は辺りに伏せているかもしれない。最後に、襲い掛かるなら、まず宇佐美の携帯電話を奪い、増援を絶ってからことに及んでください』
 宇佐美を車に引きずり込み、人気のない場所で殺害する。死体の処理は"魔王"がやってくれる。
;黒画面
…………。
……。
;背景 学園門 夕方
とうとう宇佐美は登校してこなかった。
考えすぎだろうか。
宇佐美は学園には顔を出すようなイメージがあったが。
連絡の取りようがない。
宇佐美のことは驚くほど何も知らない。
住所も不明だし、そもそも、一人暮らしなのだろうか……。
何気なく宇佐美の携帯電話を眺めたそのときだった。
;SE 携帯の振動
……鳴った。
誰からの着信だろう。
表示された番号を、宇佐美は登録はしていないようだった。
椿姫や花音からではなさそうだ。
となると、時田ユキか……。
いや、宇佐美のあの様子では、きっとまだ連絡を取っていないのだろう。
おれのまったく知らない宇佐美の知人だろうか。
電話は鳴り止まない。
……よし。
思い切って出てみるとしよう。
通話ボタンを押す。
京介,「…………」
ひとまず、黙っておく。
けれど、相手も無言だった。
相手は静かな場所にいるようで、まったく物音がしない。
息も殺しているようだった。
親しい友人ではなさそうだ――もちろん宇佐美の知人は変態が多そうだからなんともいえないが……。
お互いなにも言わないまま、数十秒が経過した。
らちがあかんな……。
京介,「……どなたですか?」
相手は、さらに数秒の間をおいて言った。
西条,「私は宇佐美ハルの叔父にあたるものです」
男の声。
年齢は三十くらいだろうか。
西条,「この番号は宇佐美のものかと思いましたが?」
京介,「ええ、僕は宇佐美の知人です。宇佐美が携帯を落としたので預かっていました」
西条,「携帯を落とした?」
京介,「用件がありましたら伝えておきますが、お名前は……?」
西条,「川島です。またかけなおしますので」
それで、通話は途切れた。
……ふむ。
いまの会話のなかで不自然な点は……。
;---------------------------------选择支标记--------------------------------------------------
;選択肢
;あった  ハル好感度+1
;あったを選んだ場合
……そうだな。
あくまで推測だが……。
いまの男は叔父と名乗った。
このご時世、叔父に電話番号を教える子供がどれくらいいるだろうか。
いるとしたら、よほど親しい間柄なのではないか?
しかし、親しい叔父が、この番号は『宇佐美』のものかと……、などと苗字で呼ぶだろうか。
もちろん、なにかわけありな関係なのかもしれない。
とはいえ、おれが話しかけるまで口を開かないほど用心深い叔父というのは、いくら宇佐美の知り合いでも変態すぎるのではないか?
;ないを選んだ場合
……。
とくに、なさそうだが……。
とはいえ、おれが話しかけるまで口を開かなかったのは怪しい。
;ここまで。以下合流
ぱっと、思いつくのは、いまの男が西条だということだ。
宇佐美は港で、西条に自分の電話番号を教えている。
西条がなんらかの目的で、宇佐美に連絡を取ろうとした。
……なぜ?
西条は"魔王"と組んでいる以上、宇佐美の正体は知っているはずだ。
宇佐美を知った上で、なんらかの目的があって電話をかけてきた。
……わからんが、なるべく早く宇佐美を探したほうがよさそうだな。
いちおう、堀部に、すぐ動けるよう連絡を入れておくとするか。
;黒画面
…………。
……。
;背景 中央区住宅街 夕方
;ノベル形式
宇佐美はいま、携帯電話を持っていない。
 西条はほくそ笑む。宇佐美の友人らしき男が電話に出た。宇佐美は携帯を落としたという。最初、やけに無言だったのが気にはなったが、いまこの場で路上をうろうろしている宇佐美が電話を取るような様子はなかった。
 機があれば殺せ……。
 先ほどから何度か車を動かし、住宅地を巡回してみたが、ヤクザ者の気配はない。
よし、やるか……。
 宇佐美は通りを曲がっていった。しかし、どうせまた、道を引き返して戻ってくる。西条は車を降りて、道の角に潜むことにした。不意をついて、襲いかかるとしよう……。
 曲がり角に立つ電柱にもたれかかって、じっと耳を澄ませた。
 コツ、コツ、と甲高い足音が聞こえてくる。
 西条はコートのポケットを探った。痴漢撃退用のスプレーだ。顔面にまともに浴びせれば、相手はしばらく激しい涙とくしゃみに襲われ無抵抗になる。幸運にも辺りに通行人はいない。
宇佐美の足音が大きくなってきた。
 "魔王"の計略にはまり、病院を張っていたのだろう。西条を追う手がかりは、それくらいしかなかったのだから。罠と知りつつ一人でやってきたその度胸は認めよう。
 きた。もうすぐこちらの道に曲がってくる。西条はスプレーを握り締めた。
 宇佐美の目の前に突然現れるべく、通りに身を乗り出した。
;黒画面
はっとして固まった。
 宇佐美ではなかった。
 スプレーの噴射スイッチにかかっていた指が凍りつく。
 しかし、すでに飛び出してしまった。
 迫っていた甲高い靴音は、宇佐美ではなく、サラリーマン風の男のものだった。静かな車内で宇佐美を見張っていたものだから、靴音の判別がつかなかったのか。
男はいぶかしむような目で西条をにらみつけ、脇を通り抜けていった。
ハル,「あ、ども……」
 前方で、おどけた声があった。背中を丸め制服のポケットに手を突っ込んでいる。
 西条は怒りに身を任せ、少女と向き合った。
ハル,「お久しぶりです、前にお会いしましたよね?」
 西条は動揺を悟られまいと、適当にうなずいた。
ハル,「なに持ってらっしゃるんですか? お化粧品ですか?」
 スプレーのことだ。少女はそれを警戒してか、半身になって、目だけをこちらに向けている。
西条はスプレーをしまうと、相手の出方をうかがった。
ハル,「あ、サインどうです?」
西条,「……サイン?」
ハル,「ほら、ユグムントさんのサインです。バレエダンサーの。もらえるっておっしゃってましたよね?」
 いったいなんの真似だ。
 顔が強張るのを自覚した。まさか、西条が宇佐美の正体を知らないとでも思っているのか。
西条,「そんな約束をしたかな、宇佐美?」
ハル,「え、宇佐美?」
少女はきょとんとして
ハル,「自分、藤原ですけど?」
と首を小さくかしげた。
西条,「嘘をつくな」
ハル,「はい?」
西条,「とぼけても無駄だ。お前は宇佐美ハル。暴力団の手先だろう」
 西条は語気を強めた。黙らせてやろうか。しかし、間の悪いことに道路を挟んだ歩道で、主婦らしき女が二人、立ち話を始めていた。
ハル,「あの、どうしたんですか? 学生証見せましょうか?」
宇佐美は制服のポケットをまさぐり始めた。
ハル,「あれ、どこかな……ちょっと待ってくださいね……いっぱいモノいれてるから」
西条,「いや、いい。勘違いだった」
 西条は宇佐美の誘いに乗ってやろうと、手で制した。
ハル,「あの、あなたは探偵さんとかですか?」
西条,「どうしてそう思うんだ?」
ハル,「いやその、宇佐美って女を探しているのかなと。前会ったときも、なんか血とか見ましたし……」
西条,「探しているとしたら、なんだ?」
ハル,「はあ、いやまあ、自分に協力できることがあればと……」
西条,「では聞きたい。さっきからなぜ、ここら辺をうろついていたんだ?」
ハル,「え?」
 不意に焦ったように目を見開いた。
ハル,「なんのことでしょう?」
西条,「警察に連絡してやってもいいんだぞ」
 宇佐美は観念したように、恐る恐る言った。
ハル,「いえ、実は、この近くにわたしの大好きな人の家がありまして」
西条,「やっぱり、ストーカーじゃないか」
ハル,「すみません。でも、その人のことは、ホント昔からでして、ええ、携帯の番号はおろか、メルアドすら暗記してます」
 たいした演技だと西条は思った。しかし、いつまでも演技を続けていていいのか……?
西条,「詳しく話を聞きたい」
ハル,「と、言いますと?」
西条,「事務所まで来てもらおうか」
 あくまで探偵を気取り、西条は言った。そしてさりげなく周囲を見渡した。主婦の立ち話が続いていた。
ハル,「いや、えっと、知らない人についていってはいけないと習ってまして……」
西条,「なら警察に通報する」
 そのとき、宇佐美の態度が一転した。
ハル,「警察に通報されると困るのはあなたじゃないですか、西条さん?」
西条,「なに?」
とっさに、腕を離した。
 詰問するような口調と視線に、西条の胸中に動揺が走った。
ハル,「"魔王"はお元気ですか? 先日はやってくれましたね?」
西条,「なんの真似だ、宇佐美ハル」
ハル,「もうおしまいですよ。浅井権三さんにケンカをふっかけた以上、法の裁きも期待しない方がいい」
西条,「たいした自信だな。私を捕まえてから言え」
ハル,「あなたはもうおわりです」
西条,「くだらん」
 ……死ぬのはお前だ。
 また道路の向こう側を見る。もう、迷惑な主婦の姿はなかった。
ハル,「どうかいまのうちに自首してください。警察に逃げ込むのが、あなたが唯一助かる道です」
西条,「そんな話をしに一人でのこのこ現れたのか?」
ハル,「言っておきますが、わたしを捕まえようとしても無駄です。誰にも話したことはありませんが、格闘には自信があります」
 たいそうな口をききながら、腰を少し落とした。
ハル,「たとえば、あなたがいま懐に隠し持っているスプレーですが、まず風向きを考えましょう。あなたは風下にいます。この意味がわかりますか?」
西条は押し黙った。
ハル,「さらに、いまさら逃げようとしても無駄です。わたしはこの辺りの地図を頭に叩き込んでいます。あなたのような引きこもりとは違う」
 たしかに、殺気めいたものを感じる。年端もゆかない少女とは思えない目つきだ。冷めた感じで、ゆっくりと理屈を詰めていくような口調は、"魔王"に似ていた。
 しかし、宇佐美は愚か者だ。
 こちらの武器がスプレーだけだと決めつけている。おとといの日中、ヤクザ者が一人血を流したことを忘れている。あのときの男は死んだだろうか。ナイフで顔をえぐられて悶絶していた。
西条,「わかった……私もこれまでということだな」
 西条は呼吸を整え、コートのポケットのなかでしっかりとナイフの柄を握った。
ハル,「降参ですか?」
西条,「ああ……」
ハル,「けっこうです」
 寛容の言葉とは裏腹に、宇佐美の視線はまったく緩まない。はっきりと、ポケットに隠れた西条の手を注視している。だが、この至近距離では無駄なことだった。
……目が合ったら、殺したほうがいい。
 不意に、"魔王"の一言を思い出した。
 緊張に手が震えた。ためらいはないが、人を殺すのに慣れるということはないようだ。ナイフを浅く握り直す。激しい動悸に胸が苦しい。
 少女がわずかに目を見開いた。はっと気づいたように視線を辺りに這わせる。西条はとっさに判断した。
やるならいま――。
 西条は殺意に身を任せた。
 どういうわけか殺したはずの妹が宇佐美の顔に重なった。
;黒画面
;SE 車が滑り込んでくるような轟音
その瞬間、タイヤが軋むような轟音に、ナイフを持つ腕に待ったがかかった。
 その筋の者が好むような高級車が急ブレーキをかけて、西条のすぐ後ろで停車した。前方からも一台。道路を完全に封鎖する勢いで続々と集まってきた。スキンヘッドや角刈りの大男が、ドアを蹴飛ばし、三人、四人と飛び降りてくる。
ヤクザ,「こんのがきゃあ!」
ヤクザが怒鳴りつけた。
ヤクザ,「そこ動くんじゃねえぞ!」
 狐に化かされたような気分の西条は、たいした抵抗をすることもなく、すぐさまに腕という腕に頭や胸倉をもみくちゃにされた。
西条はあっという間に組み伏せられ、容赦ない暴力を振るわれた。
ハル,「早く逃げるべきでしたね、西条さん」
 頭上から声がした。妹の声かと思ったが、そんなはずはなかった。
;背景 中央区住宅街 夕方
西条,「な、なぜだ、宇佐美っ!」
 西条は屈強な男たちに抑えつけられながら、それでも叫ばずにはいられなかった。
西条,「いつ、どうやって、こんなっ! こいつらをっ! きさまあっ!」
 宇佐美は困ったように首を回した。
ハル,「どうやって、と言われましても、携帯で連絡を取っただけですが?」
西条,「携帯!?」
ハル,「ははあ、なんで逃げないのかと思ったら、そういうことですか。わたしが携帯を一つしか持っていないと勘違いしていたんですね。連絡手段がないから応援なんて呼べるはずがないと」
西条,「二つ持っていたんだな!?」
ハル,「ええ、まあ。いまどきの女子学園生は誰でも二つ持っています。というのは嘘で、もう一つの携帯は、あなたの飼い主から先月プレゼントされたものですよ。まだ使用できるようなので、メールを打たせてもらいました」
いつだ……そんな暇はなかったはずだ。
 西条はくやしさに必死に脳みそを振り絞った。
西条,「学生証を出そうとして、ポケットのなかを探っていたときだな!?」
ハル,「惜しい」
西条,「なに!?」
ハル,「しかし、それでは、わたしはいまごろあなたに殺されていたかもしれません」
西条,「いつだ!?」
ハル,「たぶん、あなたがここに来たときです。日が暮れ始めたころに見慣れない乗用車が停車しているものですから、さりげなく中を覗いてみました」
西条,「しかし、あの車はカーテンがあって、外から中の様子は見えないはずだ!」
ハル,「ええ。あなたの顔までは見えませんでした。しかし、人影くらいは見えました。運転席ではなく後部座席に座っていたのが運のつきでしたね」
後部座席に座るようアドバイスしたのは、"魔王"だった。
ハル,「後部座席に座れば、運転手か誰か人を待っているふうを装うことができる。付近の住民や通行人の目もいくらか緩和されます。探偵も使う、張り込みの基本ですね。そんな小さな作為が、逆に怪しいのです」
 "魔王"が、裏をかかれたというのか……!?
 なぜ"魔王"ほどの男が、こんな少女を気にかけるのか、ようやくわかりかけてきた。
ハル,「あなたの車は一向に発進する気配がありません。狙いはわたしなのではないかと思っても不思議はないでしょう? そもそも薬袋の罠から始まったのですから」
西条,「襲撃すらも予期していたと……?」
ハル,「こんな住宅地です。あなたがわたしを襲うとしたら、通りの角を曲がった瞬間でしょう。そう思って、角を曲がるとき、わたしは必ず誰かと一緒でした」
 よくよく思い返してみれば、宇佐美を待ち構えていたとき、靴音は一組しか聞こえなかった。サラリーマン風の男の足音だけだった。宇佐美はきっと、足音を殺し、逆に西条を待ち構えていたのだ。
ハル,「あなたと相対したあとは、適当なことをしゃべって時間を稼ぐだけでした」
 愕然とした。最初からすべて読まれていた。視界が急速に暗くなっていった。
 暗澹たる淵に立たされた西条の耳元で声がした。
 膝ががくんと折れた。ずるずると力が抜けていった。ヤクザ者の拳がまた顔面を弾いた。惨めだった。雨のように降り注ぐ暴力に、ただただ呑まれた。彼らは同じ人間とは思えないほど、強靭で残虐だった。
怖い。殺さないで欲しい。
 また声があった。
 殺さないで、お兄ちゃん……。
ハル,「お疲れ様でした」
 妹の懐かしい声は、不意に打ち切られた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公の部屋 夜
夜になって宇佐美が家にやってきた。
ハル,「西条はどうなりました?」
京介,「いま地獄にいる」
セントラル街にあるビルの地下に連れられて、拷問を受けているはずだ。
ハル,「自分も、西条に聞きたいことがあるのですが……」
京介,「今日は無理じゃねえか? やっと捕まえた獲物だ。堀部がやたらニターッと笑っていたな……」
ハル,「お楽しみ中ってことですか……」
宇佐美は眉をひそめた。
京介,「それにしても、いきなりメールが来たときは焦ったぞ」
ハル,「急いで欲しかったので」
京介,「件名なしで、へるふ、だからな。あとは病院の名前だけ」
ハル,「ヘルプよりも、緊迫感があったでしょう?」
京介,「しかし、知らないメルアドからだったが、お前、よくおれのアドとか知ってたな。登録してたのか?」
ハル,「いえいえ、ソラで言えます。大好きな浅井さんですから」
気持ちわりいな……。
ハル,「話は変わりますが、最近、花音と同棲してんすか?」
京介,「ああ……」
ハル,「花音は、どうすか?」
京介,「どうもこうも……ちょっとおれたちの騒ぎに感づいてるかもしれんが、努めて気にしないようにしているみたいだな」
ハル,「いえいえ、今日殺されかけたわたしです。そういうことを聞いているんじゃありません」
京介,「はあっ?」
ハル,「ここでたたみかけますが、浅井さんは一月一日とかお暇ですか?」
京介,「なにをたたみかけてんだ?」
ハル,「お暇ですか?」
……なんか有無を言わさぬものを感じる。
京介,「一月一日って……元旦じゃないか」
ハル,「めでたい日ですね」
京介,「いや、いちおう、おれってヤクザの息子なのよ。どんだけ挨拶に回らなきゃいけないと……」
ハル,「ですから、ちょっとだけでよろしいんですがね」
京介,「て、言われてもなあ……朝方……ようは四時とか五時とかみんな初詣が一段落したあたりなら、なんとかなるかもしれんが……」
ハル,「決まりですね」
京介,「まてまてまて、なにが決まったんだ」
ハル,「ようは、わたしを選べってことです」
京介,「もういい、帰れ」
変人との会話は疲れる。
ハル,「でわ……」
のそりのそりと、すり足で玄関まで歩いていった。
ちらりとこちらを振り返ったとき、うすら長い前髪が揺れた。
ハル,「ふー、緊張したー」
なにやら解放感に満たされた様子で、宇佐美は去っていった。
京介,「…………」
なんだ、あいつ?
もし、万が一……。
おれは恐ろしい想像をしてしまった。
万が一、あいつが、本当におれに気があるとしたら……。
いや、ありえん。
ぶるぶると首を振った。
やたらつきまとってくるからそう感じなくもないだけだ。
第一、宇佐美がおれに惚れる理由が見当たらん。
京介,「馬鹿なこと考えてないで、仕事をするか……」
やがて、花音が帰ってきた。
花音,「ふぃー、やっぱり兄さんちはいい匂いがするなーっ」
京介,「おう、風呂沸かしといたぞ」
花音,「やったー、兄さんだーいすきっ!」
いきなり抱きつかれた。
妙なことを考えていたせいか、おれは初めて意識してしまった。
花音という女を。
しかし、すぐに冷静になる。
どうかしている……。
権三についていった時点で、おれに幸せなどない。
母親にも満足に会えないのだから。
…………。
……。
早朝、"魔王"と呼ばれるおれは、山王物産のビルの地下にいた。
染谷,「また、フィギュアスケートの大会が始まったわけだが……」
魔王,「進捗状況を確認したいと?」
染谷,「かんばしくないようだね」
魔王,「種はまいています」
染谷,「ぜひ、その種の開花時期を教えて欲しいものだね」
魔王,「そのうち勝手に咲きますので、どうかご安心を」
まったく、小さなことを気にする……。
染谷,「もう一つ聞きたいことがある」
よほど心労がたたっているのか、染谷の顔色はいつも悪い。
染谷,「新鋭会はわかるな? 総和連合の中でも小粒の集団だが、最も古風でケンカ気質な連中だ」
魔王,「それがなにか?」
染谷,「とぼけるな、武器の横流しをしているのは君だろう?」
魔王,「……さて」
染谷,「いま新鋭会と園山組で小競り合いが起きている。園山組といえば新鋭会とは比べ物にならんほど大きい組織だ。少人数の新鋭会に戦車を持たせたところで勝ち目はないぞ?」
魔王,「暴力団の抗争は、私が描いた絵だと?」
染谷,「それ以外に考えられんがね」
魔王,「なんにせよ、あなたには関係のないことでしょう」
染谷,「君が関わっているのであれば、いずれうちにも警察の手が及ぶ」
……おれの裏切りを心配しているようだな。
おれは会社の内部の人間ではない。
いつでも会社を捨て石にすると思われるのも当然だ。
魔王,「会社に迷惑をかけるつもりはありません」
静かに、けれど威圧の意志をこめて言った。
魔王,「山王物産は、私の父の会社ですから」
染谷は唖然としたが、すぐさまおれの言葉の裏を読もうと目を細めた。
染谷,「信じよう。君は"魔王"だったな。もともと現実にいるはずのない存在だ。そして私は忠実な悪魔崇拝者でいるべきだ」
魔王,「信仰は力なり、ですか……」
要するに、自らの考えを放棄するということだ。
もう用はないと見て、染谷に別れを告げた。
……それにしても。
西条からの連絡が途絶えた。
どうやら宇佐美にしてやられたようだな。
問題は、西条がどこまで口を割るか、だ。
それなりに手なづけておいた。
計画をぺらぺらと安易にしゃべられるようなことはないと思うが……どうだろうか。
情報を漏らすだろうか。
せめて明日までには……。
魔王,「…………」
まあいい、明日の準備をしよう。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景 権三宅居間
昼前に、おれは権三に呼び出された。
宇佐美もいた。
正座を崩して立ち上がる。
浅井権三,「遅い。なにをしていた、京介?」
京介,「申し訳ありません、少し体調がすぐれなくて」
そんな言いわけが通じる男ではないが、嘘をついても無駄だった。
しかし、今日の権三には、おれの"教育"よりも大事な用件があるようだった。
浅井権三,「例の男だが、なにも吐かん」
西条か……。
京介,「しかし、あの堀部さんの尋問でしょう?」
おれはこの世で堀部よりもサディスティックな男を知らない。
水、火、鞭、動物……あらゆる手段を使って、囚人に自分が人間であることを忘れさせる。
だからこそ、権三も拷問を任せているはずだ。
浅井権三,「あとは自白剤打つくらいだが……それも確実とは言えん。失敗すれば、ただ死ぬだけだ」
京介,「"魔王"に忠誠を誓っているということでしょうか」
おれの問いに、権三は憮然として言った。
浅井権三,「しゃべったが最後、殺されると思っているだけだ」
それもそうだ……忠誠なんて、生きるか死ぬかの暴力の前にはなんの意味もない。
それまで黙っていた宇佐美が口を開いた。
ハル,「つまり、西条は、まだ生きたいと思っているわけですね」
権三は頷いた。
浅井権三,「調べてわかったが、ヤツは幼少のころ、実の妹を絞殺している。その後、自立支援施設に入ったが、まるで罪の意識に苛まれた様子はないという」
……まともな人間なら、自殺を考えてもおかしくはないな。
浅井権三,「ヤツはこう思っている。俺は何も悪くない。なぜ、自分が死なねばならんのかと」
ふてぶてしさを通り越しすぎていて、もはや理解できない。
ハル,「あの、自分に任せていただけませんでしょうか?」
京介,「尋問を? お前が?」
無理に決まっている。
非人道的なやり方でも口を割らない男が、宇佐美なんかに情報を漏らすわけがない。
しかも、宇佐美は西条を捕まえた張本人だ。
西条も、こいつにだけはしゃべるまいと口を固く閉ざすだろう。
当然、権三も、それをわかっているはずなのだが……。
浅井権三,「よし、やれ」
ハル,「ありがとうございます」
京介,「お養父さん、しかしですね……」
浅井権三,「なんの打算もなく名乗り出たわけではあるまい?」
どきつい視線を宇佐美にぶつけていた。
さすがの宇佐美も恐ろしくなったのか、指先がかすかに震えていた。
ハル,「では、さっそく……」
おれは納得のいかないまま、部屋をあとにした。
;背景 南区住宅街
京介,「おい、宇佐美……!」
ハル,「わかってます。自分には無理だとおっしゃりたいのでしょう?」
京介,「当たり前だ。お前はヤクザの拷問を知らん。あれでしゃべらん人間がお前なんかに……」
ハル,「はい、自分には無理でしょう」
京介,「ざけんな」
冗談言っている場合じゃない。
京介,「明日から、また花音の出番だ。"魔王"は必ずなにかしかけてくるぞ」
ハル,「承知してます。あまり時間はありませんね」
京介,「だったら……」
ハル,「ええ、もう我が身を捧げる覚悟です」
京介,「は?」
宇佐美は、おれが昨日の夜返した携帯を操作した。
いやに、思いつめた表情だった。
やがて、通話がつながったようだ。
ハル,「や、やあ……もしもし……?」
;背景 喫茶店 
……。
…………。
約三十分後、おれたちは喫茶店にいた。
コーヒーを注文してカウンターに腰掛け、人を待っていた。
ハル,「…………」
京介,「なんだよ、さっきから黙って」
ハル,「……いえいえ、なんて言いわけしようかなと」
京介,「言いわけ?」
ハル,「連絡を取らなかった理由です」
京介,「んなもん知るか。忙しかった、とかでいいじゃないか」
ハル,「それで納得してくれますかねえ……」
……なにを怯えてるんだよ。
そのとき、チャイムとともに、店のドアが開いた。
背の高い女が外からの風を運んできた。
時田ユキは、前あったときと同じような服装、同じような微笑を口元にたずさえて、ゆっくりと宇佐美の席に近づいてきた。
ハル,「や、やあ!」
ガタッ、と立ち上がる宇佐美。
ハル,「久しぶり。急に呼び出してごめんね」
ユキ,「…………」
ハル,「さ、最近なにしてるの? どうしてこの街に来たのかな?」
ユキ,「…………」
およそ、宇佐美らしからぬ言葉づかい。
ユキ,「どうしてすぐ連絡くれなかったの?」
ハル,「そ、それは……いそがし……」
ユキ,「忙しかった?」
ハル,「忙しかったから……なんだな」
ユキ,「なんでちょっと裸の大将入れてくるの」
ハル,「そんなことより、聞いてよ!」
ガバッと両手を広げた。
ユキ,「ええ、頼みがあるんでしょう。その前になにか注文してもいいかしら?」
しなやかにコートを脱ぎ、軽く会釈しながらウェイターに預けた。
ユキ,「アールグレイをちょうだい」
細長い指の裏で下唇をなでながら、ささやくように言った。
なんとも誘われるような魅力があった。
反対に、宇佐美は水を一気飲みして、プハーとかやったあと時田に言った。
ハル,「急いでるんだ、ユキ。早くしないと死人が出るかもしれない」
ユキ,「死人が出るかもしれない?」
ハル,「いま、この街でフィギュアスケートの大会やってるだろ?」
ユキ,「やってるわね」
ハル,「一人のコーチが狙われてるんだ。コーチだけじゃなくて、大会関係者全員が危ない」
ユキ,「危ないの、そう」
時田は、ふと、切れ長の目を細め、表情を作り変えるような間を取った。
ユキ,「どういうことかさっぱりわからないわ」
ハル,「だ、だから、凶悪犯がフィギュアスケート会場を狙ってて、んでその共犯者を昨日捕まえたはいいけれどぜんぜん口を割らなくて途方に暮れていたところユキのことを思い出したわけ……なんだな」
京介,「…………」
ユキ,「話はわかったわ」
わかったのかよ!
ユキ,「私はいまから、その共犯者にお話をうかがえばいいんでしょう?」
……しかし、こんな得たいの知れない女に、浅井興業や園山組、そして脅迫事件のことを知らせていいものだろうか。
ユキ,「私から質問していい、ハル?」
ハル,「なんなりと!」
ユキ,「対象は何者なの?」
ハル,「西条っていう、まあ、変質者」
ユキ,「変質者? 下着泥棒くらい? それとも殺人鬼?」
運ばれてきた紅茶に口づけながら、物騒な言葉を平気ではいた。
ハル,「道端で、人をナイフで刺した。子供のころに、妹の首を絞めて殺した」
ユキ,「そんな危ない人と、どうして知り合ったの?」
京介,「まあ、待て」
おれはおもむろに立ち上がって、時田の隣の席に座った。
ちょうど横座りになる格好で、時田の質問を中断させた。
京介,「おれは浅井京介。前にも会ったな」
足を組み、横目で時田の反応をうかがった。
時田は動じた様子もなく、穏やかな笑みを浮かべていた。
京介,「あまり詳しい話はできない。知らないほうがいいってことだ。言っている意味がわかってもらえるとうれしい」
時田はまたにこりと笑った。
ユキ,「よくわかったわ。私はその変質者を捕まえた経緯も聞かないし、またどういった人たちに捕まえられたのかも興味がない。これでいい?」
……やけに、物分りがいいな。
京介,「すまんな。あんたは宇佐美の友人だそうだが?」
ユキ,「前の学園でいっしょだったの。ねえ、ハル?」
ハル,「はい!」
宇佐美はまた、水を失った魚みたいな顔で返事をした。
……しかし、宇佐美と同じような年齢には見えないが……。
ユキ,「うさんくさい?」
京介,「まあな……」
ただ、おれも情報を隠そうとしている以上、時田のこともそう多くは聞けないだろう……。
ユキ,「私はあなたとあなたの背後関係に深入りしないわ。そのかわり、私のことも話せない。というのはダメかしら?」
京介,「いまちょうど同じことを考えていた。妥当だと思う」
ユキ,「ふふ……ありがとう。そう言ってくれると思ったわ」
……なんだ?
京介,「聞き出したいのは、その変質者が、"魔王"という男からどんな犯罪計画を吹き込まれていたかだ」
いきなり"魔王"といわれてもわけがわからないことだろう。
しかし、時田は顔色一つ変えずにうなずいた。
ユキ,「尋問するにあたって、対象の履歴くらいは教えてもらえるかしら」
京介,「名前と、住所、職業、年齢くらいでよければ……」
ユキ,「けっこう。じゃあ、行きましょう」
時田はいきなり席を立って、レジに向かった。
京介,「おい、宇佐美……」
ハル,「はい?」
京介,「なんだ、あいつ? 本当に尋問のプロなのか?」
ハル,「ユキは人の心が読めるんです。ですからわたしもピュアな裸の大将になりきっていたわけです」
……ただのモノマネじゃねえか。
ハル,「ユキはもう浅井さんのおおまかな性格くらいはつかんだと思いますよ」
京介,「んな馬鹿な……」
レジの前で時田が呼んだ。
ユキ,「浅井さんは、割り勘がいいのよね?」
京介,「…………」
ハル,「ほ、ほらっ」
京介,「なにがほら、だ」
……ほとんど初対面だからな。
仕事上のつきあいでもないのに、おごったりおごられたりするものか。
ユキ,「とても美味しいお店ね、また来るわ」
ウェイターに向かって、微笑んでいた。
……妙な女だ。
まあ、時田が西条の口を割ってくれれば儲けもの……そんなふうに考えておくしかないな。
おれたちは店を出て、西条のもとに向かった。
;黒画面
……。
…………。
むっとするような熱気があった。
浅井興業が所有する築二十年のビル。
一階は消費者金融、二階と三階は総和連合の組の事務所となっているのだが、地下に役所に届出のない空間がある。
日光の届かない階段を下りて、重い扉を押した。
小さな部屋の床はぬめり、ところどころに、水なのか血なのかよくわからない色の水溜りができていた。
入り口から離れた壁の前に、西条がいた。
手錠をした腕を後ろに回され、うなだれるように丸椅子に沈黙している。
京介,「どうです?」
堀部,「まだまだ元気ですわ」
京介,「まだしゃべれるほどに?」
堀部,「坊っちゃん、拷問っていうのはね、あくまでゲロを吐かせるのが目的なんですよ。自分だって、本当はひどいことなんてしたくないんですよお」
京介,「は、はあ……」
堀部,「こんなに苦しいなら死んだほうがましだ、って思わせたらいかんのです。とくに、"初めて"のお客さんはね」
堀部も元気そうだった。
堀部,「ヤツはいま、しゃべったら殺されると思っています。それをしゃべらなければ殺される、って思わせなきゃならんのですわ。これがまた、オツでねえ……」
その残忍な笑顔に、この部屋でなにがあったのか想像する気も失せた。
時田は平然とした様子で、部屋の唯一の照明の白熱電球をぼんやりと眺めていた。
西条,「よう、宇佐美。宇佐美じゃないか……ハハ……」
西条の粘ついた声が上がった。
なにやら恨み言を延々と叫んでいた。
ユキ,「浅井さん、私が口を開いている間、みなさんに黙ってもらうよう指示してもらえる? それと全員、なるべく対象から離れて」
京介,「……わかった」
時田が、その辺に転がっていた丸椅子を持って、西条の近くに寄っていった。
ユキ,「こんにちは、ここ、いいですか?」
時田は、西条と向かい合うように座った。
時田が足を伸ばして届くか届かないかの距離だ。
腕の自由を奪われているとはいえ、いきなり襲い掛かられたら危険な近さだ。
ユキ,「西条さん、私は時田ユキ。ハルの友人です。あなたに質問したいことがあってここに来ました」
……馬鹿か、こいつは!
いきなりこっちの手のうちを晒すような発言をしてなんになる!?
しかも、宇佐美の友人だなんてばらしたら、西条は警戒心をよりいっそう強めるだろう。
案の定、西条は腫れあがった唇を汚く動かした。
西条,「宇佐美の友人? てことは、お前もヤクザもんだな? 話を聞きたいだって? 冗談じゃない、私はなにもしゃべらないぞ」
ふてぶてしく、怒りの表情で時田をにらみつけた。
ユキ,「ごめんなさい」
時田は、穏やかに笑った。
そして、丁寧に、切実な口調で言った。
ユキ,「なら、なにも話してもらわなくてけっこうです」
西条,「……なに?」
ユキ,「私は別に、彼らにお金をもらっているわけではありません。あなたのお話が聞けなくても、私はなにも損をしないのです。それでもここに来たのは、私が西条さんを救えるかもしれないと思ったからです」
西条,「嘘をつくな。弁護士だって金を取る」
ユキ,「そうですね。弁護士は高くつきますね。私は弁護士ではありませんが、恐ろしい暴力団の方から、唯一あなたとの対等な交渉を許された人間です」
そのとき、西条の顔にわずかに動揺が走った。
唇をなめ、時田から視線を外す。
ユキ,「西条さん。私はお役に立てないようなので、帰らざるをえません。残念ですが、あとは後ろの連中にお任せすることになります。すみませんでした」
後ろの連中という言い方がひっかかった。
さっきは恐ろしい暴力団の方と言っていたが……なにか意味があるのだろうか。
おれの疑問をよそに、西条が吐き捨てるように言った。
西条,「おい……」
席を立とうとした時田を呼び止める。
西条,「対等な、交渉だと?」
ユキ,「はい。お望みでしたら、私も手錠をかけてもらってかまいませんが?」
そう言って、薄く、唇から吐息が漏れるか漏れないかの笑みを浮かべた。
西条,「なんのつもりだ、お前。もう一度言うが、私はしゃべらない。そもそも"魔王"のことは少しも知らないんだ」
おれは思わず息を呑んだ。
時田は、知ってか知らずか、西条から"魔王"という単語を引き出した。
一気に質問攻めにするべきだ。
ユキ,「"魔王"なんて、私も知りません。私が知りたいのはあなたのことです、西条さん」
……なぜだ?
西条,「私の?」
ユキ,「ええ、差し支えなければ、西条さんの下の名前から教えていただきたいのですが?」
……なにをじれったいことを!?
ユキ,「いけませんでしたか?」
西条,「……則之だ。それがどうした?」
ユキ,「いえ、ありがとうございます。私は、カタカナでユキなんです。珍しいでしょう? どうして漢字の雪じゃないんでしょうね」
今度は、くすくすと、さも楽しそうに笑った。
その後、時田は次々に意味のない質問を浴びせていった。
住所、職業、年齢、配偶者の有無……わかりきっていることばかりだ。
しかし、どういうわけか、時田は西条の答えにいちいち深くうなずいていた。
西条,「おい、時田。いいかげんにしろ。こんな質問になんの意味がある?」
ユキ,「私は、あなたのことを深く知りたいのです。なぜ、こんな非人道的な扱いを受けているのか不思議で仕方がない。あなたは質問にまともに答えられるのに、与えられたのは暴力ばかり、違いますか?」
西条,「ふん、そのとおりだ。そんなに知りたいなら教えてやる。私はヤツラの仲間を一人、ナイフで切り裂いてやったんだ」
ユキ,「……ナイフで切り裂いた」
西条,「連中は社会のクズだ。なにが悪い。死んだほうがこの国のためではないか」
時田は、また深くうなずいた。
ユキ,「たとえ人を傷つけたとしても、こんなところに閉じ込められるのはおかしいですね」
西条,「そうだ、不当だ。私は過去に人を殺したときも、ちゃんと法の裁きを受けた。なのに、こいつらときたら……おい、クズども、聞いているのか!」
西条の挑発に不安になって堀部の顔を見たが、サディストはただ笑っているだけだった。
ユキ,「どうもありがとうございます。ようやく西条さんのことがわかりかけてきました。あなたには不当な拘束から自由になる権利があります」
……だいたい、時田のこの礼儀正しさはなんだ?
ヤツは自分の妹をくびり殺しておいてなんとも思わないような鬼畜だというのに。
ユキ,「すると問題は、連中がどうしたらあなたの正当性を認めるのかということです。よろしければ、その辺をいっしょに考えていきたいと思うのですが、どうでしょうか?」
西条,「……いっしょに、考える?」
ユキ,「はい。お役に立てればと思います」
西条,「話しても無駄だ。連中は頭まで筋肉でできている」
そのとき、時田の目つきがやや険しくなった。
ユキ,「私は違います。真剣に西条さんのお話を聞く用意があります、少なくとも私だけは」
心なしか身を乗り出して、西条との距離を詰めた。
ユキ,「連中は、あなたから何かを聞きたがっています。それは、あなたをこんな場所に閉じ込めておいてでも知りたい情報です。逆に言えば、あなたさえ話してくれれば、解放の道も見えてきます」
西条は押し黙り、また唇の端をなめた。
西条,「……"魔王"のことは話さんぞ」
ユキ,「はい。あなたは暴力を受けながらも、"魔王"という人物に義理立てしている。なかなかできることではありません」
西条が目を伏せた。
時田も同じように一度視線を外す。
ユキ,「では、"魔王"のことは話さない。いいですね?」
西条,「ああ……私はなにをされてもかまわんが、仲間を売るような真似はしない」
ユキ,「けっこうです。それでは、あなたは、もしこんな場所にいなければ、今後なにをなされるおつもりだったんですか?」
なるほど……。
おれはようやく時田の戦略を理解した。
これは言葉のトリックだ。
"魔王"のことは話さないが、西条のことは話してもらう。
西条の行動はすなわち、"魔王"の指示の一環に違いないからだ。
事実、時田は、西条から『私はなにをされてもかまわんが』という言葉を引き出した。
周到に、西条の自尊心をくすぐっていたのだろう。
西条,「今後、なにをするかだって?」
ユキ,「はい」
西条,「さあな、普通に暮らすつもりだったが……」
ユキ,「もちろんそうですよね。いま話題のフィギュアスケートの試合でも観にいかれますか?」
……なかなかうまいな。
さりげなく事件の方向に会話を誘導している。
西条,「フィギュアスケート? そうだな……それもいいかもしれん」
ユキ,「ですよね。ただ、チケットはなかなか手に入らないと聞きますが?」
西条,「そうなのか?」
ユキ,「もしかして、お持ちだったんですか?」
西条,「ああ……」
ユキ,「すごいですね。私も一度、浅井花音という選手を生で見たいと思っていたんです」
西条,「浅井花音か……どうも人気選手らしいな。だが、ま――いや、人格に問題がある」
ここだ……。
いま、西条は言葉を詰まらせた。
『"魔王"に言わせれば』としゃべりかけたのだ。
ヤツは動揺しつつある。
そもそも、フィギュアスケートのチケットが入手困難であると知りもしない西条が、どうやってチケットを手に入れたのか。
時田はその矛盾をついていくだろう。
すると、"魔王"がチケットを手配したと判明する。
西条をスケート会場に潜入させて、なにをさせるつもりだったのか。
ここだ……ようやく獲物が網にかかったぞ。
ユキ,「なるほど、いい週末を過ごせるといいわね」
ところが、時田はにんまりと笑って言った。
ユキ,「西条さん、お食事は取られましたか?」
不意に肩の力を抜いた。
ユキ,「少し、休まれてはいかがです?」
西条,「……話はいいのか?」
ユキ,「お疲れのようですので、ひとまず中断しませんか? 私はいつでもかまいませんので」
西条,「わかった……なら、酒をくれ。ウィスキーがいいな」
……この野郎、ぬけぬけと!
ユキ,「浅井さん、お願いできるかしら?」
なんのつもりだ、時田?
おれは怒鳴りつけてやりたい気持ちを抑えて、冷静に応じた。
京介,「わかった……時田、少し話がある」
ユキ,「ええ、しばらく休憩しましょう」
京介,「堀部さんも、ここは僕に預けてもらえませんか?」
堀部,「いいですよお、自分は坊っちゃんの命令は組長の命令だと思ってますから」
……つまり、尋問が失敗すれば、権三の面子を汚したということになる。
京介,「出よう……」
宇佐美と時田を連れて、暗い牢獄をあとにした。
;背景 繁華街1
外に出ると、冬の陽射しの照り返しにまぶしさを感じた。
京介,「おい、時田……!」
ユキ,「なにかしら?」
あくまで余裕そうな顔に食ってかかる。
京介,「おれはお前に、西条の小間使いを頼んだ覚えはないぞ」
ユキ,「ふふ……」
京介,「なにがウィスキーだ。今度は酒のしゃくでもしてやるつもりか?」
ハル,「まあまあ、浅井さん。ユキには考えがあってのことだと……」
京介,「そうだろうな。だからおれもあの場では黙ってた。だが、もう限界だ」
時田は満足そうにうなずいた。
ユキ,「浅井さんは冷静ね。冷静だけどいろいろなストレスを抱えているみたいね」
京介,「ああ、そのストレスの一番の原因はお前だ」
まったく、宇佐美だけでも気持ち悪いってのに……。
ユキ,「でも、西条のストレスの比ではないわね。あれは難物だわ」
京介,「無理なら帰ってもらっていいんだぞ」
ユキ,「無理じゃないわ。いまのところ順調だもの」
京介,「順調?」
信じられない。
京介,「フィギュアスケートの話を出しておいて、なぜもっと切り込まなかった?」
ハル,「そっすね。自分もはたから見て、会話の流れがよくなってきたな、と思ったんだけど?」
時田は首を振った。
ユキ,「いいえ。あそこで質問攻めにしたら、それこそ終わっていたわ。彼はフィギュアスケートという言葉に、高いストレス反応を示していた」
京介,「ストレス反応?」
ユキ,「ごめんなさいね、変な言葉使って。要するに……そう、聞かれたくない内容なのよ」
京介,「でも、そこを聞きただしていかなきゃ話にならんだろ?」
ユキ,「あのタイミングではダメなの。告白するのにもムードってものがあるでしょう? まず仲良くなって、電話番号を聞いて、おしゃれなレストランを予約してからじゃなきゃ」
京介,「仲良くなる? 西条と? おいおい、あんな異常者と仲良くなってどうするってんだ?」
ユキ,「彼のタイプから考えるに、それが一番有効なの。彼は自分のことを理解してくれる人が大好きなの」
京介,「そりゃ、あいつは、いままでの人生、誰にも相手にされなかったんだろうが……」
ユキ,「じれったい?」
京介,「ああ、花音の試合は明日からなんだ。もう時間がない」
ユキ,「本来なら彼のような人間を操るのは簡単なんだけれどね。お友達になってあげればいいんだから」
ユキ,「でも、あなた方が理不尽な暴力をふるったものだから、殻に篭っているの」
ユキ,「最初は無理かな、とも思ったのよ。私のほうがたくさんしゃべっていたでしょう? 正直、最悪の状態だったわ」
京介,「まさか、本当に帰るつもりだったのか?」
ユキ,「ええ。彼が、唇の端を舌でなめなければね」
京介,「……それがなんだ? たしかに、西条はそんな仕草をしていたが……」
ユキ,「それでわかったのだけれど、彼は、口では大きなことを言うけれど、本当は怯えている。暴力の恐怖から身の安全を求めている」
京介,「おれはそういうのは信じないな。心理が態度に現れるってヤツだろ? たとえば腕を組むと拒絶だったか?」
ユキ,「ええ、よく知られてるわね」
京介,「そんなもんはただの癖かもしれないし、わざとやるヤツだっている」
ユキ,「そうね。でも、西条が何度唇を舐めたか見ていた?」
京介,「さあな……二回くらいだったか」
ユキ,「四回よ」
確信を持っている口調だった。
ユキ,「もちろんあなたの言うとおり、たった一つの反応で決めつけてはいけないわ」
ユキ,「ボディランゲージはもちろん、声の調子、使われた言葉、目線を合わせるのか、逸らすのか……様々な反応の細い糸を全体像を想像しながらつむぎあげていくの」
ユキ,「しかも、同じ刺激に対して同じ反応を示すものでなくては意味がない」
ユキ,「西条が唇をなめたのは、私が、救いたいだの、解放の道だのと、安全を示唆するような言葉を使ったときだったわ」
おれは曖昧に首を振った。
京介,「お前が、西条をよく観察していたのはわかった。でも、助かりたいって思ってることくらい、誰にだってわかるだろ」
暴力団の拷問から逃れたくないヤツなんていない。
ユキ,「そうね……ふふ」
時田は、また妖しい笑みを漏らした。
ユキ,「彼はいままで、しゃべったが最後、殺されると思っているからしゃべらなかったの」
京介,「そこは、同意見だな。"魔王"に義理立てしているとか言っていたが、あんなもの嘘だろう」
ユキ,「半分は本当ね。自分をよく思いたいし、他人にもよく見せたいの。なんとなく誇大妄想の気があるんじゃないかとにらんでるんだけど、どうなの?」
京介,「……たしかに、いかにも政治的な主張があるような団体を作っていた。団体といっても、やたら小規模なものだとは思うが」
ユキ,「なるほど……ますます利用されやすいタイプね」
時田は腕を組み、控えめな微笑を浮かべた。
ユキ,「時間を置きましょう」
京介,「どれくらいだ?」
ユキ,「そうね。せめて明日の昼までは」
京介,「なんだって!?」
ユキ,「彼をじらすのよ。唯一の理解者である私の再来を、いまかいまかと思わせるの」
京介,「そんなに待っている余裕は……」
ユキ,「いやならいいわ。拷問を再開したらどう? 私は別になにも困らない。でもあなたには責任があるでしょう?」
……こいつはどうもやりにくい女だな。
京介,「明日の昼まで西条を放って置いたら、ヤツはお前のことを恨むぞ?」
ユキ,「怒るでしょうね。その分、私と再会したときに振り子みたいに心が大きく揺れるわ」
……どうするかな。
堀部から場を預かってしまった以上、西条が口を割らなかったらおれの責任が問われる。
ユキ,「じゃあ、こうしない、京介くん?」
いきなり名前で呼んできた。
西条に相対していたときとは打って変わって、挑発的な笑みを浮かべていた。
ユキ,「もし、私が失敗したら、あなたの代わりに私が組長のところにでも行って頭を下げてあげる」
京介,「なめるな、女」
にらみつけた。
京介,「おれの仕事だ」
ユキ,「ふふ……どうするの?」
京介,「のせられてやる。やってみろ」
ユキ,「ありがとう。あなたとは気が合いそうだわ」
くそ……完全にはめられた形になったな。
ユキ,「最後に一つだけ」
京介,「なんだ?」
ユキ,「明日の昼までの間、彼に危害をくわえないこと。食事もきちんととらせること」
京介,「…………」
ユキ,「そうしないと、私が嘘つきになってしまって彼との信頼関係が崩れるわ。私の指図一つで暴力団がおとなしくなったと彼に信じさせる意味でも、拷問は絶対禁止よ」
京介,「いいだろう……」
渋々うなずくしかなかった。
ユキ,「それじゃ、明日の昼ごろに、またこの辺で会いましょう?」
京介,「連絡先を聞いてもいいか?」
時田は快諾し、お互いに電話番号を交換した。
ユキ,「ハル、行くわよ。あなたにはたっぷりとお礼を……」
ユキ,「あれ?」
宇佐美がいつの間にかいない。
ユキ,「逃げたな、あいつ……」
……いったい、時田と宇佐美はどういう関係なんだ?
…………。
……。
;花音の好感度が1以上で以下に
;背景 主人公の部屋 夜
部屋で仕事をしていると、花音が帰ってきた。
花音,「ふぃー……」
もう、夜はだいぶ更けていて、外には雪がちらついていた。
花音,「さむぃよぉー、にいさあぁあん」
京介,「抱きついてくんなっての」
花音,「ねえ、お風呂いっしょはいろーよー。髪あらってー」
ぐいぐい袖を引っ張ってくる。
京介,「お前さー、もう何回言ったか忘れたけどよー、甘えてんじゃねえよ」
花音,「だって、明日から本番だもん。かまって欲しいんだもん」
京介,「なんだよ、緊張してるのか?」
花音,「んーん。ソワソワしてるだけ」
京介,「緊張してるんじゃねえか」
花音,「違うなー。のんちゃんは、あんま緊張しないんだよー。コレはなにか不吉な予感だなー」
京介,「はあ……どうすりゃいいんだ?」
花音,「兄さんがぎゅってしてくれればなんとかなる」
京介,「やめろよ、マジで」
花音は、コートを脱いで顔を洗ってくると、不意にかしこまった。
花音,「兄さん、大事なお話があります」
京介,「ん……?」
花音,「本当に、ほんとーに、大事なお話です」
なんだろう……とても嫌な予感がするが……。
花音,「これを言うために、兄さんの家に居座っていたのだ」
花音,「でもねー、なんか言ったら、兄さんにものすごく迷惑かけるような気がするの」
花音がおれに気を使っている。
ますます、聞くのをためらわれた。
花音,「兄さん、忙しいでしょ?」
京介,「お前もな」
花音,「そうなんだよ、お互いよけいなこと考えていたらいかんのですよ」
冗談めいた口調だが、目だけは真剣だった。
花音,「だから、言わないっていう手もあるんだけど、どうする?」
京介,「どうするって……聞かなきゃよかったって展開もあるのか?」
花音,「そう! のんちゃん、怖い。兄さんに嫌われたくない」
……なんなんだ、いったい!?
ふと、魔が差したように、昨日の夜、花音に抱きつかれたときの感情が蘇る。
あの匂い、ぬくもり。
京介,「そういう、話、か……?」
ごくり、と喉を鳴らした。
おれの口元は引きつっているだろう。
花音,「たぶん、そういう、話だよ……」
寂しげにかぶりを振った。
京介,「……そうか……」
迷った。
眉をひそめ、唇を噛み締めた。
なぜ、どうして、という気持ちはある。
だからこそ聞いてみたいが、聞いたら最後、もうあとには引けないような気がする。
おれは、慎重な選択を迫られていた。
;----------------------------标记选择支===花音线=============================================
;選択肢
;話を聞かない
;話を聞く
@exlink txt="話を聞かない" target="*select1_1"
@exlink txt="話を聞く" target="*select1_2"
話を聞かない
話を聞く
;話を聞かないを選んだ場合
……。
…………。
京介,「えっと……」
咳払いを一つ。
京介,「すまん、やめとこうぜ」
花音,「あ、そう?」
京介,「おう。悪いな」
おれは努めて冷たい声を出した。
花音,「わ、わかったよ。ごめんね、変なフリして」
京介,「いろいろ忙しくてな」
花音,「うん、知ってる」
京介,「さ……風呂入って来い」
花音,「はーい!」
そそくさと脱衣所に駆け込んだ。
京介,「…………」
なにも、感じない。
窓の外の、無常な雪。
しんしんと降り落ちて、朝方にはあとかたもなく消えている。
おれはもともと花音を金の成る木のように考えていた。
それだけだ。
これからも、それだけでいい。
頭が割れるように痛くなってきたので、その夜は、早めに寝ることにした。
;※好感度が足りなかった場合ココにくる
#say ……本当にいいのだろうか。
おれは自問する。
花音の表情から察するに、冗談はない。
切実な思いが伝わってくる。
そもそも花音は嘘をつかない。
大事な話だといったら大事な話なのだろう。
本当に、聞いてやるべきなのだろうか……?
;選択肢
;聞く→GK1へ
;聞かない→上記『話を聞かないを選んだ場合』へ続く
聞く
聞かない
@exlink txt="聞く" target="*select2_end"
@exlink txt="聞かない" target="*select1_1"
;背景 主人公の部屋 昼
翌朝、花音を送り出すと、新聞を広げた。
スポーツ欄は花音の話題でもちきりだったが、おれの読みたい記事は別にあった。
……園山組と新鋭会の抗争激化、とある。
昨日の深夜、セントラル街の外れで発砲騒ぎ。
新鋭会の一人が死亡、園山組の二人が重傷。
おかげで表の商売にも影響が出ている。
セントラル街の飲み屋の売り上げが落ちる一方で、おれも忙しいことこの上ない。
ここんところ、頭痛が襲ってくるのもそのせいだ。
しかし、"魔王"がしかけてくるとしたら、今日だろう。
花音の演技は、また夜の八時くらいからだが、なるべく早めに西条の口を割りたいものだ。
;背景 繁華街1 昼
まさか、白昼堂々ドンパチやっていることはないと思うが、おれも狙われないようにしないとな。
ハル,「ちわす」
京介,「おう、時田はまだか?」
ハル,「ユキは朝弱いので」
京介,「もう昼だぞ」
やっぱり宇佐美の友達は、どこか狂ってるな……。
ハル,「それより、一ついいですか?」
京介,「どうした?」
ハル,「西条が宿泊していたホテルから、西条の荷物を確認してみたんですが」
京介,「なにか出てきたのか?」
ハル,「気になるのは、パスポートと航空券ですね。航空券は今日の予約でした」
京介,「海外に逃げるつもりだったのか?」
ハル,「香港行きのチケットでしたね」
京介,「今日の予約ってことは、やっぱり、今日中になにか事件を起こして、その足で逃げるつもりだったんだろうな」
ハル,「ええ、そして、海外まで逃げなければならないほど、大きな事件を起こす気だったのです」
京介,「それこそ、警察が出てくるような?」
ハル,「でしょうね」
京介,「となると、"魔王"が逃亡する可能性も考えて、空港にも人をやっておく必要が出てくるな」
ハル,「そんな余裕はあるんですか?」
京介,「お前も新聞くらい読むんだな。そうだよ、いま殺し合いの真っ最中だからな」
園山組が一千人を越えるというのも、当然、準構成員と呼ばれるチンピラもどきも数に入れてのことだ。
もちろん、彼らには戦争中だろうと、ノルマの厳しい仕事も課せられている。
花音の事件に動けるのは、どれくらいだろうか。
ハル,「浅井さんは、タマ狙われたりしないんすか?」
京介,「おれの顔はあまり割れていない。なんでもない学園生を装ってきたからな」
ハル,「なんにしてもお気をつけて」
京介,「安心しろ。たとえば、おれを人質にしてどうこうしようとしても、権三は眉一つ動かさない。そういうことは、知れ渡っていると思うぞ」
ハル,「それはそれで、寂しいお話ですね」
京介,「…………」
ハル,「…………」
なんだこいつ、じっと見つめてきやがって……。
ユキ,「お待たせ」
声がして振り返ると、時田がいた。
京介,「やけに遅かったな?」
ユキ,「だってハルが起こしてくれないんだもの」
ハル,「いや、わたしは、五回くらいモーニングコールしたよ?」
ユキ,「昔は、家まで迎えに来てくれたのに……」
ハル,「だって、家知らないし……」
京介,「ぐだぐだやってないで、とっとと行くぞ」
おれたちは細かい路地を抜け、西条のいるビルに向かった。
京介,「おい時田、昨日あれだけ大きな口を叩いたことを忘れるなよ?」
時田は、自信ありげに微笑んだ。
ユキ,「簡単よ、すぐに終わらせてあげる」
;黒画面
…………。
……。
西条,「おい、時田、遅いじゃないか?」
時田が椅子に座ると、西条はいきなり叫んだ。
西条,「まったく、すぐ戻ってくるものだとばかり思っていたが、いったいなんの真似だ?」
時田は申し訳なさそうに眉間にしわを寄せて、上目づかいになった。
ユキ,「本当にすみません。私がいない間、なにかありましたか?」
うまい返しだ。
何もないどころか、三食昼寝つきの高待遇だったわけだからな。
ユキ,「実は、とても残念なお知らせがありまして……」
西条,「なんだ、どうした?」
時田は、首を振り、目を伏せ、十分に間を取ってから言った。
ユキ,「連中は、あなたを……その、許すつもりはないようなのです」
西条は絶句した。
時田の口調には誠意があった。
それだけ、深刻そうな響きがあった。
ユキ,「すみません、本当に……」
さも、いままで話し合いでもしていたのか、と思わせるような蒼白な顔をしていた。
しかし、時田は嘘はついていない。
西条を許すつもりがないのは、わかりきっていることだ。
西条と対面したときも、馬鹿正直に宇佐美の友人だと名乗り出ていたが、嘘をつかないのは、なにか交渉ごとのルールのようなものなのだろうか。
ユキ,「それでも私がここに戻ってきたのは、まだお話の途中だったからです。望みはあると思っています。そう、なにか、取引になるような材料さえあれば……」
西条,「……取引だと?」
西条は、時田を食い入るように見つめていた。
ユキ,「ええ、あなたが許されるに足りるような材料です」
西条,「それはつまり、"魔王"の計画を話せということだろう? 昨日も言ったが、それは……」
言葉尻を濁した。
西条,「だいたい、話せば助かるという保証はあるのか? ないだろう?」
ユキ,「京介」
時田が不意におれを呼び捨てで呼んだ。
ユキ,「どういう取り決めになっているか話してあげて」
きっと、この場の権力者が時田だと印象づけるためだろう。
……なるほど、おれは汚れ役を演じればいいんだな。
京介,「話さなければ殺す。"魔王"の情報を話せば今回の件は水に流す。おれは園山組組長の息子だ。そのうち跡目もつぐだろう。おれの決定は、組の決定だと思ったほうがいいぞ」
でたらめをしゃべってやった。
組長の息子を呼び捨てにした時田は、再び西条と向き合った。
ユキ,「というわけだけれど、残念ね。あなたはとても義理堅い人だから……」
西条は押し黙った。
口を閉ざすしかないのだろう。
焦点のぶれた瞳で床を見つめながら、顎を食いしばっている。
ユキ,「こういうのはどうかしら?」
低くささやくように言うと、西条は目の色を変えて時田の話に聞き入った。
ユキ,「西条さん、昨日の話の続きをしましょう」
いつの間にか、かしこまった敬語を崩し、姿勢も前傾に傾いていた。
ユキ,「昨日の話、覚えてるわね?」
西条,「私の話だったな……」
ユキ,「そう。あなたが、今日、何をするつもりだったのか詳しく話して欲しいの。別に、"魔王"の話をする必要はないわ」
西条,「…………」
ユキ,「あくまであなたがあなたの行動を話すのであって、それがたとえば"魔王"の計画を漏らすことになったのだとしても、私にはわからないわ」
時田はきっと、こう言いたいのだろう。
私だけは、あなたを軽蔑しないと――。
ユキ,「だいじょうぶよ。真実を話してくれればいいだけなんだから。真実は好きでしょう? あなたは世の中のいろんな嘘や欺瞞に疲れてる。違う?」
おそらく、これが決め手だろう。
抽象的でかっこうのいいセリフが、男の誇大妄想を膨らませ、自尊心を刺激する。
ユキ,「お願い。これが最後よ。力を貸して……」
沈黙が訪れた。
西条の足が震えだす。
うつむき、やがて顔を上げて時田を見据える。
しゃべるのか……?
わなないていた唇が、開いた。
西条は怯えた目でおれを一瞥し、ぐったりとした様子で肩を落とした。
西条,「狙いは浅井花音。リンクに向けて爆弾を投げ込む予定だった」
;場転
京介,「爆弾だと!?」
思わず声を張り上げた。
宇佐美も唐突に口を開いた。
ハル,「荷物を調べさせてもらいましたが、あなたは爆弾を持っていない」
西条は、憎らしい宇佐美の登場に気を悪くしたのか、躊躇したように閉口した。
ユキ,「詳しくお話してもらえるのよね、西条さん。あなたは約束は守る人でしょう?」
西条,「……会場で受け取る予定だった」
ハル,「"魔王"からですね……?」
西条は答えなかったが、肯定しているも同然だった。
ハル,「浅井さん、フィギュアスケート会場に爆弾なんて持ちこめるんですか?」
京介,「爆弾のことはよくわからんが、小型のものもあるんだろう? だったら簡単だ。正面から堂々と入ればいい」
京介,「入り口で荷物検査はされるが、カメラの類をチェックされるだけで、バッグの中身を全部出させられて、じっくりと観察されるようなことはない」
おれは西条に詰め寄らざるを得なかった。
京介,「なぜだ!? なぜ、花音なんだ?」
西条,「それは、私の知るところではない。私はただ、友に協力するだけだ」
ハル,「いいえ浅井さん。"魔王"の目的はずれていません」
京介,「なに?」
ハル,「今回の脅迫事件は、もともと花音に負けるよう指示するものでした」
京介,「なるほど、直接、力に訴えて来たってわけか……」
爆弾の威力はわからないが、怪我でもさせれば花音は終わりだ。
京介,「いつだ? いつ爆弾を投げ込む予定だったんだ?」
西条,「詳しい手口は知らない」
京介,「嘘をつくな」
時田が手で制した。
ユキ,「嘘はついていないわ」
ハル,「リンクに投げ込むと言いましたね? ということは、タイミングは、演技前の練習のときか、演技中……花音が現れたときですね」
宇佐美も西条に迫った。
ハル,「爆弾を受け取る予定だと?」
西条,「ああ……」
ハル,「あなたは、"魔王"と顔を合わせたことがあるんですか?」
そうだ……西条は、どうやって爆弾を受け取るつもりだったんだ?
西条,「会ったことはない。今日、初めて顔を合わせるはずだった」
鼻の頭を指でなでながら言った。
ハル,「どこで待ち合わせる予定だったんですか? 会場のなか? 外?」
西条,「会場内だ」
ハル,「売店? トイレ? 客席?」
西条,「それは、時間が来たら連絡すると言っていた」
ハル,「時間はいつ?」
西条,「八時近くだ。携帯電話が鳴るまで、私は客席に座って待機していればよかった」
宇佐美はしきりにうなずいた。
ハル,「わたしからの最後の質問です。あなたのご友人は、たとえあなたの協力が得られなくても、目的を成し遂げようとすると思いますか?」
直後、西条が吹き出した。
西条,「当たり前だ、宇佐美。彼は現在のフィギュアスケートを憎んでいる。浅井花音とかいう生意気な小娘を許すことはないだろう」
笑い声は大きくなって、部屋の壁に反響していた。
西条,「そうだ。私がしゃべっても意味はない。"魔王"は賢い。私が捕まったとしても、必ず貴様らの裏をかいた作戦を用意してことに臨むだろう」
西条,「"魔王"はもう二人も殺している。にもかかわらず警察の手も及ばないほど有能な犯罪者だ……ハハ、そうだ、私が何を言ったところでかまうもんか」
……まるで、口を割った自分を弁護しているようだった。
京介,「二人だって?」
おれはもう一歩詰め寄った。
京介,「誰だ? デザイナーだけじゃないのか?」
西条,「おや? まだ知らないのか? バレエダンサーの男だ。海に突き落として殺した」
……そうだったのか。
西条,「さあ、私を解放しろ。約束は守れよ、時田?」
ユキ,「まだあるわ、西条さん」
首を振った。
ユキ,「まだ話し足りないことがあるはずよ」
西条,「…………」
ユキ,「そう、たとえば、"魔王"の風貌ね」
西条の眉がぴくりと跳ねた。
ユキ,「顔を合わせたことがないというのは本当でしょう。でも、待ち合わせにあたって、"魔王"はなにか自分の特徴を口にしていなかった?」
西条,「ふん、いいだろう。ニット帽だ。黒のニット帽を被った細身で長身の男が"魔王"だ」
ユキ,「どうもありがとう」
時田はこれまでになく、穏やかな笑みを浮かべた。
ユキ,「さようなら。もう会うこともないでしょう」
西条,「なんだって……?」
西条が驚愕に目を見開いた。
西条,「ま、待て……お前……!?」
ユキ,「あなたは私のハルをナイフで切り裂こうとした」
ぴしりと言った。
ユキ,「嘘はついていないわよ。私は弁護士ではないのだからね」
西条,「……わ、私を救うと……!?」
ユキ,「ええ、あなたは妹を殺しておいて、なにも省みなかったようね。そういう人間が救われるには……」
時田の目が妖しく光った。
ユキ,「ねえ……ふふ、わかるでしょう?」
西条は身動きもせず、その目を見つめていた。
打ちひしがれた惨めな男の姿しか、そこにはなかった。
;背景 繁華街1 夕方
すでに、日が暮れ始めていた。
ユキ,「会えてうれしかったわ、京介くん」
握手を求めてきた。
京介,「こっちも助かった。今度、礼をさせてもらおう」
ユキ,「礼なんていいのよ、ねえ、ハル……」
ハル,「はいっ!」
なぜか敬礼する宇佐美。
ユキ,「大変な事件が起こってるみたいだけど、がんばってね」
時田は、手を振って繁華街の雑踏に消えていった。
京介,「さて、おれは、権三に報告しに行く」
ハル,「浅井さん、スケートのチケットお持ちですか?」
京介,「ああ、おれの分をやる。先に入っていろ」
ハル,「ひとまず、会場の出入り口を見張っておくとします」
京介,「そうだな……すでに"魔王"は会場内にいるかもしれんが……」
ハル,「よし、じゃあ、解散!」
やけに声を張り上げて、宇佐美は走り去った。
ふう……。
妙に気だるいな。
こんなときにまた体の調子がおかしいなんて……。
;背景 権三宅 居間 夕方
権三の家に駆け込むと、おれは事態を説明した。
浅井権三,「今晩九時、新鋭会の事務所を一家総出で囲む。あまり人は動かせん」
京介,「事情はお察ししますが、花音の命がかかっています」
浅井権三,「乗り込みは、もう連合全体に告知したことだ。俺も自ら出向く。いまさら取りやめられん」
京介,「ええ、しかし……」
浅井権三,「この家にいる者を使え」
京介,「しかし……?」
……あんたは、だいじょうぶなのか?
京介,「わかりました。チケットは前もって十枚ほど用意しておきましたので」
浅井権三,「そっちの指揮は堀部に任せる。うまく使え」
狩を目前にして、権三は高揚しているようだった。
おれは堀部に連絡を取り、アイスアリーナに向かった。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
すでに、六時近くになっていた。
リンクの上では海外の有名選手が奮闘し、観客を熱狂の渦に巻き込んでいた。
ハル,「浅井さん、すみません」
人の波にもまれながらも、宇佐美と合流できた。
ハル,「"魔王"らしき人物は見当たりませんでした。見落とした可能性もあります」
この賑わいじゃ仕方がないな。
京介,「西条の話では、"魔王"は黒のニット帽をかぶっているとか?」
ハル,「ええ、しかし、いつもかぶっているとは限りません」
京介,「それもそうだ。目立つからな、帽子は」
ハル,「おそらく、花音の登場時間が近づいてからが勝負でしょう」
京介,「わかった。ひとまず、"魔王"がもうこの場にいるものとして、会場内を手分けして探そう。長身で細身の青年だったな?」
ハル,「あまり効率的とはいえませんが、いまはそれしかなさそうですね」
京介,「一周したら、またこの辺で落ち合おう」
;黒画面
…………。
……。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
京介,「堀部さん、どうです?」
会場内に連れてこれたのは、堀部以下八人の男たちだった。
堀部は電話越しに言った。
堀部,「いやあ、無理でしょ、坊っちゃん。もうちょっと特徴がつかめねえと。細身で長身の野郎なんていくらでもいますからね」
京介,「すみません。それは、わかっているんですが……」
堀部,「気が焦るのはわかりますがねえ。まあ、またなにかわかったら連絡ください」
……おれは焦っているのか。
しかし、なにもしないわけには……。
くそ、また頭がふらつくな……。
ハル,「浅井さん、どうです?」
京介,「いいや。自分の馬鹿さ加減に呆れていたところだ」
ハル,「いえいえ、やっぱりがむしゃらに動いてみるものですね。わたしは"魔王"の犯行の糸口をつかみましたよ」
京介,「なんだって?」
ハル,「西条が、どういう方法で爆弾を投げ入れるつもりだったのか、ということです」
京介,「爆弾を投げ入れる……方法……?」
ふらつく視界を正すべく、眉間を揉んだ。
ハル,「だいじょうぶですか?」
京介,「気にするな、それより、なんだって?」
ハル,「あのお店をご覧下さい」
宇佐美が指差した方向には、天幕つきのカウンターがあった。
ハル,「お花屋さんですよね?」
京介,「そうだな……それが、どうした?」
宇佐美は意外そうに目を細めた。
ハル,「本当に体調が悪いみたいですね」
京介,「だから気にするなと」
ハル,「いいですか。西条は、香港行きの航空券を持っていたんです。ということは、犯行後、逃げるつもりだったわけですよね?」
京介,「ああ……」
ハル,「ユキには悪いですが、西条の話は、どうも荒唐無稽というか、現実的ではないなと思っていたんです。だって、リンクの上に爆弾なんて投げ入れて、逃げられるわけがありません」
京介,「そうだな……この会場にはおれたち以上の数の警備員がいるはずだ」
ハル,「はい。席を立ってそんなものを投げ入れたら、まず確実に取り押さえられるでしょう」
……なるほど、だんだん呑み込めてきたぞ。
ハル,「しかし、さっきから会場を見ていれば、観客がリンクに近づき、自由に物を投げ入れられる瞬間があります」
おれも大きくうなずいた。
京介,「トスブーケだな」
ハル,「て、いうみたいですね。演技が終わった選手に客席から花束を投げ入れるんです」
京介,「考えたな……」
ハル,「花音はいま、日本で一番人気がある選手です。演技が終わればみんなリンク際に駆け寄ることでしょう」
京介,「そして、投げ入れられた花束のなかに、爆弾が混じっているというわけだな」
花音のことだ、氷上にちょっとした花園ができるくらいの量になる。
それこそ、誰がやったのかわからなくなるくらいに……。
もちろん、警察が調べれば、投げ込まれた方向や、客席にいた人物の情報までは簡単にわかることだろう。
しかし、その間に海外に逃げられればあとを追うのは難しくなる。
京介,「ということは……どうなる?」
ハル,「この混雑です。花音の演技終了までに"魔王"を見つけられなければ、ジ・エンドです」
京介,「状況が厳しいことに変わりはないか……」
ハル,「ひとまず、花屋さんのそばを監視しておくとします」
京介,「それでも、花を会場に持ち込まれたりしていたら無駄だろうがな」
……花だけではなく、人形なんかも投げ込まれるみたいだからな。
ハル,「西条は、八時近くに"魔王"と接触する予定だったそうですね」
京介,「勝負はそのときだな。ちょうど選手の練習時間で、客席も自由に動ける」
ハル,「しかし……」
宇佐美が不満そうに首を振った。
ハル,「どうにも後手に回っていますね……」
京介,「そうか? 西条から情報を聞き出せたのは、大きな前進だと思うが?」
ハル,「……それは、そうですが……」
考え込むように黙り込んだ。
京介,「なんだよ、怖くなったのか?」
ハル,「いえいえ」
京介,「怖いなら、逃げてもいいんだぞ?」
ハル,「知らなかったんですか。大魔王からは逃げられないんですよ?」
にやにやしながら、花屋に足を向けた。
おれも、なんとか探すしかないな。
花音の命がかかっているんだ。
花音は尖ったところもあるけど、正直で純粋な少女だ。
理解者は少ないだろうが、せめておれだけは認めてやらねば。
形の上だけでも兄貴なわけだしな。
京介,「ぐっ……」
こんなときに……くそ、頭が……。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景 スケートリンク廊下
……さて……。
腕時計の針を確認する。
あと十五分ほどで八時だが……。
西条から連絡が途絶えたことをどう判断するか、だ。
計画をしゃべったか、しゃべったとしてどこまで情報を漏らしたか……それが問題だ。
おれがニット帽をかぶっているという話は出したか……。
まあいい。
行動に移ろう。
壮絶な死を与えてやる……。
;背景 スケートリンク廊下
おれは、服の下に隠し持っていたニット帽を頭からかぶり、廊下を進んでいった。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
会場内は大きな盛り上がりをみせていた。いよいよ、花音の出番が近づいているのだ。日本の期待を背負った優勝候補が、練習のためリンクに姿を見せた。
 大歓声のなか、ハルは不意に肩をつかまれた。
堀部,「坊っちゃん見なかったかい?」
 堀部というヤクザだった。
ハル,「いいえ、連絡してもつながらなくて……」
堀部,「こんだけ込み合うと電波の状況も悪いみたいだな」
 心配だった。京介はかなり顔色が悪く、足元もふらついていた。
ハル,「もう時間がありません。我々だけで探しましょう。きっと浅井さんも、必死になって"魔王"を追っているはずです」
堀部,「黒のニット帽だっけ?」
ハル,「はい、なんとしても、阻止しなくては」
 ハルは堀部と電話番号を交換した。同じ電話会社だったからか、それとも機種の相性のせいか、かろうじて連絡は取れるようだった。
 目を隅々まで這わせながら、ハルは人ごみを縫うように進んでいった。
;背景 スケート会場客席一階_観客有り
八時ちょうど。
 練習中の選手たちは、思い思いに氷の上を滑走し、飛び跳ねていた。練習風景を眺める観客も多く、選手がジャンプを成功させると拍手がそこかしこで上がる。
 ハルが客席のリンクに近い位置まで来ると、目の前を花音が疾走していった。
 目があった、とハルは思った。
 しかし、花音の脳には、それがハルだと認識されなかったようだ。集中しているのか、他の選手の動きすら気にしている様子はない。
客席をくまなく探し、振り返ったそのときだった。
 黒のニット。
 あの後姿。忘れもしない。セントラル街ではあと一歩のところで取り逃がした。
 ハルは階段の上の通路を歩く男をしっかりと目で追った。
猛然と駆け出しながら、堀部に連絡を入れるべく携帯電話を耳に添えた。
 幸運なことに、通話はすぐにつながった。
ハル,「堀部さん! 聞こえますか!」
堀部,「見つけたぞ!」
 足を動かしながら、聞き返した。
ハル,「見つけた?」
堀部,「いま追ってる!」
 しめた。ハルの足取りが軽くなる。堀部のほうでも"魔王"の姿を確認しているなら、今度こそ……。
 堀部が息を切らしながら叫んだ。
堀部,「売店だ! ヤツはいま、売店にいる……!」
ハル,「え――?」
 一瞬、頭のなかが真っ白になった。
 思わず、立ち止まってしまった。
 だって、いるじゃないか。あそこに、"魔王"が――。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
ふ……。
いまごろ宇佐美は困り果てているだろう。
頼みの綱のニット帽が、この時間になって、そこらじゅうに現れだしたわけだからな。
囮はなるべく、おれと似た背格好の人間を選んだ。
この街には、海外から出稼ぎに来ている外国人のための、集落のような地域がある。
そこに金をばらまけば、喜んで雑用を引き受ける人間が集まる。
おれは彼らにチケットを渡して、ニット帽をかぶり、黒いコートを羽織って会場内をうろつけと命じた。
日本人の顔はみな同じに見えるというような連中だが、用心して顔はさらしていない。
渡した金も、番号不揃いの使い古された紙幣だから、まず囮からアシがつくことはあるまい。
さあ、どうする、宇佐美……?
ハル,「また、ニット帽ですか?」
 堀部の声は切迫していた。会場の入り口付近に一人、トイレにも一人、黒のニットをかぶった男は、次々に沸いてきた。
 不安はあった。"魔王"はなんらかの策略を講じてくるだろうとは思っていた。西条を捕えたことは、"魔王"も予測しているはずだからだ。
 "魔王"はおそらく、西条がニット帽の情報を漏らした場合を想定して、このような手を打ってきた。
ハル,「いいえ、"魔王"は日本人です……ええ……」
 落ち着け。
 通路に溢れる観客と肩をかすらせながら、ハルは手近にいるニット帽を追った。
ハル,「そう人数は多くないはずです」
 堀部に言いながら考えを巡らせる。
"魔王"は、外国人を囮に差し向けてきた。もちろん、そこからアシがつかないようにするためだろう。用意したチケットの枚数もそう多くはないはずだ。オークションなどで何十枚も落札していては、さすがに目立ちすぎるというものだ。ネットオークション用に複数のIDを用意していても、警察が調べれば同一人物だとわかってしまう。
 なにより、これは、即席の策である可能性が高い。本来なら西条一人に任せるはずの犯行だった。それが西条のミスで計画を路線変更したのだから、準備の時間も限られていたはず。
ハル,「落ち着いて、一人ずつ、捕まえていきましょう」
 選手たちの練習時間は、まもなく終わりを迎えようとしていた。
試合が開始すれば、観客は席に戻って通路の混雑は解消される。しかし、その分、派手な動きはできなくなる。
 ハルは警備員の視線を感じながら、ようやく目当てのニット帽の真後ろまでやってきた。
 ……違う。
 横顔を覗くと、目の色が青だった。ハルの接近に動じた様子もない。ただうろついていろ、とでも命じられたのだろう。念のため声をかけるが、漏れ出たアルファベットは、"魔王"の声音ではなかった。
;通常形式
……。
…………。
確認したところ、追っ手は宇佐美を含め十人といったところだった。
そろそろ演技が始まり、会場にも静寂が訪れるころだ。
ばたばたと駆けずり回っていると、不審者と思われる。
花音は三番目の滑走だから、演技が開始されるまで、あと十五分程度か……。
リンク上に花束が投げ込まれるまで、あと二十分足らず。
しかし、また鬼ごっことはな。
元気な女だ。
……せいぜい追いかけまわしてみるがいい。
;ノベル形式
選手の登場がアナウンスされた。大歓声のあと、潮が引いたように客席に静寂が訪れる。
 そろそろ駆け足をやめなくては。そう思うのだが、なかなかあきらめきれない。花音の演技終了まで、あと二十分もないからだ。
 また堀部から着信があった。
堀部,「こっちは三人! そっちは!?」
ハル,「二人です。どちらも"魔王"ではありませんでした」
堀部,「まったくどうなってんだ、くそがっ!」
ハルは考える。冷静に、冷静に、状況にのまれないよう下腹に力を込める。
堀部,「こうなったら、花音嬢ちゃんの演技が終わった瞬間にリンクに飛び込むしかねえな。なんとか嬢ちゃんは助けねえと」
 そんなことをすれば、大きな騒ぎになるだろう。ニュースでも報道される。しかし、花音の命には代えられないか……。
 そのとき、視界の端に、また黒のニット帽が見えた。
 これで、六人目。
堀部,「おい、宇佐美ちゃん」
堀部がまた焦った声で言う。
堀部,「あんた、根本的に間違ってるんじゃないのか?」
ハル,「……はい?」
堀部,「いいか、"魔王"は西条が捕まったことを知っているわけだろう?」
ハル,「はい」
堀部,「なのに、ご丁寧にニット帽なんてかぶってくるか? 西条がゲロすることくらい予想してるだろ」
ハル,「それならば、なぜ、いま、この時間になって大量のニット帽が現れたんですか?」
 ハルは六人目のニット帽の男を確認してから続けた。
ハル,「堀部さんのおっしゃるとおり、"魔王"は西条が計画を漏らしたことを予測しているでしょう。だったら、一人で会場に現れればいいのです。我々は、"魔王"の素顔を知りません。それこそニット帽をかぶる必要もなければ、囮を用意する意味もないのです」
堀部,「……つまり、どういうことだ?」
 なぜ、"魔王"はわざわざ囮を舞台に上げてきたのか。共犯者を増やせば増やすほど、どこかで完全犯罪に綻びが生じるはずだ。この囮にはそういったリスクに見合うだけのリターンがあるはずなのだが……。
また、裏をかいているつもりなのだろうか。いまごろ"魔王"はニット帽など脱ぎ捨てて、客席で悠々とフィギュアスケート鑑賞しているのか。それならば、やはり、囮は必要ない。現に、ハルたちが騒がしく走り回っていたものだから、警備員の目も厳しくなっている。警備の雰囲気が変われば、"魔王"が爆弾を投げ入れて逃走する際の障害になるのではないか。
ハル,「ニット帽を追いましょう。全員捕まえるんです」
最も考えられるのは、"魔王"が、また遊んでいるということだ。椿姫のときもそうだった。リスクを承知で鮮やかに身代金を奪ってみせた。
 複数のニット帽のなかに"魔王"がいる。
 ――捕まえてみろということか。
 一人目の選手の演技が終わったようだ。高らかな拍手が波のようにせり上がり、また引いていった。
;通常形式
……。
…………。
おれは道端のロッカーからリュックサックを取り出す。
中身はあらかじめ用意しておいた。
さる爆薬とコンピューター制御の起爆装置だ。
便利な世の中になったもので、おれでも十分に操作できる。
かなり値は張ったが、人の命を奪えるのなら安いものだ。
歩きに歩き、移動を続けた。
時計を見る。
そろそろか……。
宇佐美も焦っているのだろうな。
焦りながらも頭脳はますます冴え、おれの姿を探そうとしている。
花音の命がかかっているのなら、当然だろう。
が、まだまだといわざるを得ないな。
これだけサービスしてやっても、おれを捕まえられないのだから。
……む。
魔王,「…………」
いかんな、少し遊びすぎたようだ……。
;背景 スケート会場客席2階_観客有り
;ノベル形式
ハルの足が止まった。警備員が近づいて声をかけてくるのとほぼ同時だった。謝罪して追い払うと、すぐさま目の前のニット帽を追った。
 これが最後であって欲しい。
 堀部の話と合わせると、これで十人目だ。これ以上の数の囮がいれば、時間的にも限界だった。なぜなら、すでに花音の演技が始まっているのだから。
 『ワルキューレの騎行』がひんやりとしたアリーナに響き渡っていた。何度も凄まじい音量の拍手が沸きあがっている。花音の人気は、やはり絶大だった。
ニット帽に迫った。腕を伸ばせば届く距離。
 ハルは、"魔王"の背格好をもう一度思い出した。記憶のなかにある長身で細身の男は、目の前の男と比べてそう違和感がなかった。
ハル,「すみません……」
 ぴくり、と男の肩が震えた。
ハル,「"魔王"……か?」
 少なくとも日本語は通じるようだった。男はハルに背を向けながらも、通路を歩くのをやめていた。左の肩にリュックサックをかけていた。
ハル,「"魔王"だな……?」
 ハルは動いた。男の腕をつかもうと手を伸ばす。が、空を切った。男は突然走り出す。逃がすまいと、床を蹴った。
;背景 スケートリンク廊下
無我夢中で追いかけ回し、ようやく男を廊下の壁際まで追い詰めた。
 男は観念したのか、呼吸を整えながら、ゆっくりとこちらを振り返った。
 整った顔立ちだった。高い鼻に、暗く鋭い目つき。
ハル,「く……」
 くやしさにうめき声が漏れた。"魔王"ではないとわかった。男は狼狽し、カメラは持っていない、などと言っている。会場内に一般客がカメラを持ち込むのは禁止されている。
リュックのなかを見て確信した。なんでもない、ただ花音の衣装姿を隠し撮りしたいだけの青年だった。
 ハルは立ち止まり、途方に暮れそうになる自分を必死で奮起させた。
花音の演技は終わる。もう終わる。
 やがて観客たちが一斉に立ち上がって手を叩く。何も知らない花音は、四方の観客に礼をしながらリンクを軽く半周する。そのとき投げ込まれる祝福の花束は、破滅をもたらす爆弾なのだ……。
 このまま何もできずに終わってしまうのだろうか。椿姫を失望させたときのように、母親が死んでしまったときのように……。
……おかしい。
 ハルは土壇場で、集中力を取り戻した。周囲の物音が一切聞こえなくなった。
 そうだ、おかしいぞ。思い出せ、そうだ……。
 あの違和感。脅迫状が届いたときから納得できなかった。ハルはこの事件を最初から考え直した。不審な点は、まるでジャングルに建てられた人工のビルのようだったが、やがて森林が成長するにつれて目立たなくなった。
刹那、ハルの思考回路が一本の線で結ばれた。
ハル,「――しかし、確証がない」
 ハルは瞬き一つしなくなった。まるで動けなかった。
 やがて、観客のどよめきが上がった。
 悲鳴にも聞こえる騒音のうねりが、ハルの耳奥の神経を蝕んでいく。
 宇佐美の負けだ……ハルにはそう聞こえた。
;白フェード
;通常形式
;黒画面
……。
…………。
……少し遊びが過ぎたようだ。
危く南区に向かう電車に乗り遅れるところだった。
アイスアリーナに長居をしすぎたということだな。
何事にも失敗の気配はつきまとう。
たとえば西条。
宇佐美を甘く見た結果、捕えられた。
共犯者を利用すれば、アリバイ工作をしたり、囮となって捜査をひっかきまわしたりと、たしかに犯罪のバリエーションは多彩になる。
同時に、共犯者は、リスクの塊だともいえる。
事実、西条は、おれの計画を漏らした。
西条のような最低な人間に、あれだけ優しく接してやったというのに、ヤツはおれを裏切った。
つくづく、共犯者などただの足手まといにすぎないと実感させられた。
ただ、おれは、笑わずにはいられなかった。
ほっとしているからだ。
西条がおれのフェイクを素直にしゃべってくれて――。
なぜなら、おれの本当の標的は花音などではなく、
浅井権三、お前だからだ。
;背景 権三宅入り口 夜
フィギュアスケート会場はすぐに出ていた。
あんなカメラだらけの場所に長居は無用だった。
途中の駅近くのロッカーから爆弾入りのリュックを拾い、急いで権三の屋敷にやってきた。
まったくもって悪魔はおれに優しい。
半ば予想……いや、期待していたことだが、権三の屋敷には抗争の真っ最中だというのにボディーガードらしき人影がなかった。
ここ一週間ほど、園山組を引っかきまわしてやった結果だろう。
まあ、権三の移動用のベンツの腹にもぐって、たった一分ほどの間、爆弾を設置するくらいだ。
警護の人間がいようと、やってのける自信はあったが……。
今夜九時、総大将自ら出馬される。
園山組にたてつく雑魚どもを完全に叩き潰すようだ。
これは裏社会の人間なら誰でも知っているような情報で、当然おれの耳にもはいった。
まもなく権三を迎えに、車が門の前に停車するだろう。
ドライバーが車を降りて、権三を呼びに向かったときを狙う。
権三も、よもやそんな殺され方をされるとは思うまい。
なぜなら、車を爆破するなど、ヤクザの手口ではないからだ。
彼らは、必ずナノリを上げる。
犯行声明を掲げて、正面から堂々と殺しにかかる。
敵のタマを取るならそういった手順を踏まなければ、箔がつかないのだ。
古風な新鋭会ならなおさらだろう。
問題は警察だった。
警察も、同じ理由で、権三殺しは新鋭会の手によるものではないと考えるかもしれない。
しかし、そこまでだ。
まず、おれが犯人だと示す証拠はなにも残らない。
ニット帽をかぶっているのは、ジョークの意味もあるが、髪の毛を現場に残さないようにするためだ。
もちろんオペ用のゴム手袋を着用し、指紋は残さない。
服の繊維は残ってしまうかもしれないが、いま着ているコートもズボンも、その辺のデパートで安売りしているようなどこにでもある品物だ。
まあ、そこまで用心しなくても、爆弾がいろいろな証拠物件を吹き飛ばしてしまうだろうがな……。
そしてここが肝心なのだが……。
権三が殺されたとき、最も怪しいはずの"魔王"はなにをしていたか?
フィギュアスケートの現状を憎み、その尖兵たる浅井花音にご執着のはずではないのか?
そのために、西条を利用した。
もっともらしくフィギュアスケートを批判してやった。
熱く語ってみせた新採点方式への批判など、実にありきたりなものなのだが、西条にはわからなかっただろう。
政治に対する意見もそうだ。
この国の将来など、おれはまるで興味がない。
映画の感想をのべるくらいの、無責任で無害なものでよければ語ってやれるかもしれんが、その程度だ。
おれはただ、おれの信念に基づいて行動を起こす。
行動が、完璧であればなおさらいい。
;SE車の音
……む。
自動車が近づいてきている。
近場の家の高い塀の影に隠れ、様子をうかがっていると、ベンツが門の前に滑り込んできた。
スキンヘッドの大男がドアから降りて、屋敷のなかに消えていった。
さて……。
;黒画面
……。
…………。
;背景 南区住宅街 夜
周囲に人の気配はなく、爆弾の設置はあっさりと完了した。
装置はちょうど八時五十分に起動する。
いまから十分後だ。
新鋭会の組事務所のあるセントラル街までは、急いでも車で十五分はかかる。
九時には現場に到着していなければならないだろうから、遅くても八時四十五分には車は発進するだろう。
となると、爆破は走行中で、付近の歩行者や対向車などにも被害が及ぶかもしれないが、まあ運が悪かったと思ってもらおうか。
生きている限り、理不尽な死刑も、ままあるということだ。
おれの父がそうであるようにな。
魔王,「…………」
真冬の冷え切った夜道を歩く。
浅井権三を殺すことに、なんのためらいもなかった。
権三は、殺してやらねば気が済まない存在だった。
母の心が壊れたのは、間違いなく権三の非道なまでの追い込みが原因だ。
医者もそう言っていた。
権三は、いま、新鋭会と花音に気を取られている。
獲物がすきを見せているなら食い殺されるのは必然だろう、権三よ……。
やがて、時計の針がまもなく八時五十分を指そうとしていた。
しかし、宇佐美も成長しない。
西条のゴミ袋を漁ってプラザホテルに向かったときと同じだ。
西条の口を割って、そこから得られたヒントに固執している。
大局を見れば、おかしな点はいくらでもあるというのに、つい目の前の手がかりをさぐってしまう。
……八時五十分。
;SE 爆発音。
;画面振動。
ずしりと腹に響くような轟音があった。
権三宅の方向の空が明るくなるのを確認した。
近所から上がる悲鳴という悲鳴。
富万別市で最も平和で安全と思われる住宅地は、一気に狂乱した。
浅い地獄だ。
まだまだ浅い。
おれは窓やバルコニーから身を乗り出した人間の群れを軽蔑していた。
もうしばらく待て。
もっと面白いものを見せてやる……。
口元を引き締め、慢心せぬよう、自分を戒めた。
今回のおれの勝利も、戦略的に見れば、ささいなものなのだから……。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景 フィギュアスケート会場 概観 夜
女子ショートプログラムは、すべて終了し、会場から出てくる人影もまばらになっていた。
おれの体調に呼応でもしたのか、携帯の調子が突如悪くなり、宇佐美たちと連絡が取れなくなった。
頭がふらついていてよく覚えていないが、おれはニット帽の男を追っていた。
しかし、人の波にのまれ、逃げられてしまった。
幸いにもアリーナ内で、爆破事件は起こらなかった。
花音の無事が確認されたときは、思わず肩の力が抜けたものだ。
"魔王"が失敗したのか、それとも宇佐美が阻止したのか。
不意に、周辺を歩くカップルの会話が耳についた。
――南区の住宅街で爆弾事件。
気になって、会話に耳を傾けた。
ヤクザ、組長らしい、抗争やってるから、物騒ね……。
近場の公衆電話を探そうとしたとき、声をかけられた。
ハル,「浅井さん……」
鋭い目つきをした宇佐美がそこにいた。
ハル,「いままで、どちらにいらっしゃったんですか?」
京介,「いや、すまん」
おれは事情を説明した。
ハル,「心配してたんですよ。倒れてるんじゃないかって」
京介,「気にするなと言っただろう。それより、いま大変なニュースが流れているみたいなんだが?」
ハル,「はい。そうでしょうね」
宇佐美はいきなり背中を向けた。
京介,「……どうした?」
ハル,「いえ……」
わずかに目元が震えていた。
ハル,「すみません、ひどくくやしくて……」
おれは押し黙るしかなかった。
ハル,「こんな顔、あなたに見せたくなくて」
いつもの気持ちの悪い宇佐美とは明らかに違う。
苦渋の表情。
大きな声を出したいのを、やっと抑えているような自制。
ハル,「そのまま聞いてもらえますか?」
もはや、ほとんど知らない女の声に聞こえた。
ハル,「いまとなっては負け惜しみのようですが、最初からおかしいとは思っていたんです」
ハル,「まず、第一の被害者です」
花音の衣装をてがけたデザイナーだったな。
ハル,「脅迫状では、さも"魔王"が殺したように書かれていましたが、実際のところどうなのかと引っかかってはいたんです」
ハル,「階段から突き落としたくらいで、確実に死ぬと思いますか?」
ハル,「実際現場にも行ってみました。階段はたしかに急でしたし視界も悪いです。しかし、らせん状の階段でして、たとえ転げ落ちても途中で止まるのではないかと思いました」
ハル,「わたしは、これは警察の発表どおり、殺人ではなく事故なのではないかと仮定しました」
ハル,「"魔王"は、殺人を装った。本当はたまたま事故死した人をさも自分が殺したように見せかけたのではないか。確証は取れませんがね」
ハル,「すると、次に殺人を装えそうな人物がいました。二ヶ月前から帰国していて連絡の取れないバレエダンサーのユグムントさんです。わたしは念のため、彼の不在を確認しに西区の港まで行きました」
……そういう推理を働かせていたのか。
ハル,「ユグムントさんが殺されたように見せかけたいのなら、自宅付近でなんらかの事件が起こるのではないかと思いました。そこで、辺りをうろうろしていたら、西条とばったり出くわしたわけです」
ハル,「そこで、不可解な事件が起こっていました。海に続く血です。西条がユグムントさんを殺したのかとも思いましたが、彼のコートに血はついていませんでした」
ナイフで刺した現場をとらえたなら、西条は返り血を浴びているはずだからな。
ハル,「のちのち西条の荷物を物色してわかったことですが、西条はどうやらユグムントさんの外国人運転免許証を拾ったようなのです」
京介,「免許証……」
おれはようやく口を開いた。
ハル,「しかし、おそらく偽造でしょう。たとえユグムントさんが海に落ちたとして、どうして都合よく身分証が現場に残るんですか」
京介,「"魔王"が、あえて残したんじゃ?」
ハル,「しかし、海に落とすということは、被害者の身元の判別を遅らせるためでしょう? とても考えにくいですね」
京介,「では、"魔王"は、またしても殺人の偽装をしていたと?」
ハル,「はい。しかし、それは我々には知らされないことでした。西条は信じ込んでいたようですがね」
京介,「"魔王"は、なんのためにそんなことをしたっていうんだ?」
西条しか知らない偽装殺人なんて、いったいなんの意味が?
ハル,「そこが、わたしにもわかりませんでした。しかし、この二件の偽の殺人こそが、今回の脅迫事件の全体像をつかむ有力な手がかりだったんです」
京介,「手がかり……?」
ハル,「なによりもおかしいのは、"魔王"はなぜ、花音を直接脅迫しなかったのでしょうか?」
京介,「……そうだな……」
権三の住所すら知っているのに、花音の住所を知らなかったとは思えない。
住所がわからなかったとしても、学園やスケート会場など、脅迫状を花音の目に触れさせる機会はいくらでもあったはずだ。
京介,「家族なのだから、そのうちばれてしまうと考えていたのか……いや、それにしても、そんな悠長なことをする意味がわからんな」
ハル,「わたしは、また、"魔王"が遊んでいると考えていました」
京介,「そうか。椿姫の身代金のときもそうだったからな。あえてお前に挑戦してきたんだ」
ハル,「しかし、実際は違いました。"魔王"は本気でした。緻密に計画を練り上げ、さもわたしと遊んでいるように見せかけて、我々を欺いていたんです」
宇佐美は、目を伏せ、敗北を噛みしめるように首を振った。
ハル,「"魔王"の本当の標的は花音ではなかったんです」
京介,「なんだって……!?」
ハル,「間違いありません」
事実、花音は無傷だったわけだが……。
ハル,「"魔王"は巧妙に、自分がさもフィギュアスケート会場を狙っているように我々を誘導していました」
ハル,「その最もな例が、西条です」
ハル,「西条がよほど優秀な人物ならわかります。けれど、西条は"魔王"にとって足手まといに過ぎませんでした。けっきょくは、わたしたちに計画を漏らしています」
ハル,「しかし、それこそが、罠だったんです。西条が足手まといであればあるほど、"魔王"にとっては有能な共犯者だったのです」
ハル,「"魔王"はおそらく、西条がユグムントさんの殺害の件もしゃべると予想していたのでしょう。おかげでますます、我々の目はフィギュアスケートに集まっていきました」
京介,「でも、"魔王"は西条に優しく接して、忠誠を誓わせていたんだよな。もし、おれたちが西条を捕まえられなかったり、西条が口を割らなかったりしたらどうするつもりだったんだ?」
ハル,「そこは、"魔王"も懸念していたことでしょう。今回は権三さんとその組織もついていました。暴力団の拷問に耐えられる人間などいないと踏んでいたのかもしれません」
そして、その読みは当たっていたわけか。
"魔王"は相手の程度に応じたマジックを用意してくると宇佐美は言っていたが、そのとおりになった。
ハル,「二日に渡る尋問の末、ユキの力も借りてようやく聞き出した"魔王"の計画です。わたしは、ホテルに誘導されたときと同じ失敗をしてしまったんです」
京介,「いや、おれもだ……そう落ち込むなよ。お前がトスブーケを使った爆弾の投げ入れ方を解いたときは見事だと思ったさ」
ハル,「…………」
宇佐美は、哀しそうな目で、おれを一瞥するだけだった。
ハル,「どうも、ありがとうございます」
別に、なぐさめたわけではないが……。
京介,「話はわかった。言われてみれば、"魔王"が花音を陥れる理由がわからんな」
ハル,「わたしは、"魔王"がわたしの仲間を狙っていると勘違いしていました」
椿姫のときもそうだったわけだからな。
京介,「では、実際に狙われたのは……?」
ふと、さきほどのカップルの会話を思い出す。
ハル,「はい。その答えにたどり着いたのは、花音の演技が終わる直前でした」
ハル,「"魔王"は、手の込んだ誘導を仕掛けてきましたよね?」
京介,「ああ……」
ハル,「今回の事件で、最も振り回されたのは誰です?」
京介,「お前と……」
ハル,「浅井権三さんです」
おれは息を呑み、喉を鳴らすだけだった。
ハル,「だからこそ、脅迫状はわたしと権三さん宛に届いたんです」
……親愛なる勇者と怪物殿へ……。
ハル,「実際、わたしも命を狙われました。権三さんはどうでしょう? いま別の暴力団とも敵対して大忙しですよね?」
まさか、"魔王"の牙が己に向けられているとは権三も思うまい……。
ハル,「ただ、それもあくまで推測でして、また裏をかかれているのではないかと疑心暗鬼にかられてしまいました。それで、権三さんへの連絡が遅れてしまったことがくやしくて仕方がないのです」
京介,「そんな……!」
声が割れた。
京介,「じゃあ、南区の住宅街で爆破事件っていうのは!?」
ハル,「権三さんを狙ったものでしょう」
京介,「信じられない」
あの権三が……死ぬだと!?
京介,「権三に連絡はつながったのか?」
間に合わなかったというのか……!?
おれは、はやる気持ちを抑えられなかった。
京介,「とにかく、おれは権三の家に行ってみる。いや、病院か……くそっ……!」
ヤツは鬼畜だが、それでもおれには、これまで生かしてもらった恩がある。
死ねばいいとすら思うこともあったが、実際こうなると……。
ハル,「お優しいんですね、本当は」
京介,「ふざけたことぬかすな! 権三が死ねば、おれみたいなコバンザメ小僧も終わりなんだぞ!」
ハル,「安心してください、浅井さん」
京介,「なに?」
宇佐美が、穏やかに言った。
ハル,「権三さんは、ご無事ですよ……」
手足の力が抜けた。
まばたきが止まらない。
おれは、安堵していた……。
;背景 高級クラブ
その後、堀部が迎えにきて、おれと宇佐美はセントラル街の高級クラブに招かれた。
店内に一般の客の姿はない。
ホステスも席につこうとしなかった。
浅井権三,「……俺が死んだと思ったか?」
巨漢が濃いウィスキーをあおりながら言った。
京介,「……はい……よくご無事で」
低い笑い声が返ってきた。
浅井権三,「"魔王"は、迂遠な策を弄するのは得意なようだが、殺しというものがわかっていない」
浅井権三,「狩をしようと思うなら、自らも食われる覚悟で望まねばならん。実際"魔王"は、俺の屋敷に乗り込んでくるのではなく、時限式の爆弾を用いて保身に走った」
京介,「では、車に爆弾がしかけられていたことは、見抜いていたと?」
浅井権三,「いいや。"魔王"の手口そのものは巧妙だと言わざるをえん。証拠の一つも残していないのだろう。どんな手段で俺を殺しにかかるのか、見物ではあったが予測のしようはなかった」
……見物ではあったが、だと?
自分の命だろうが。
浅井権三,「最初からヤツが俺の命を狙うことはわかっていた。なぜなら脅迫状は俺に届いたのだから。宇佐美が説いたようなこまごまとした理屈はあとからつける」
浅井権三,「読みどおり、不審な点はいくつもでてきた。階段から突き落として殺すなど愚の骨頂というもの。事故と殺人の区別がつかないほど鑑識は甘くない」
浅井権三,「他にも西条というかませ犬、不意に勢いづいた新鋭会のカスども。だから、俺はわざと、自分の動きを知らせるような情報を裏に流した」
京介,「では、今夜九時に乗り込みをかけるというのは……?」
浅井権三,「俺は旧態依然とした新鋭会とは違う。獲物を狩るのに、なぜ声をあげねばならん……?」
極道にあって異端であることは承知していたが、こいつの哲学は理解しがたいものがある。
堀部,「お話中失礼します。いま新鋭会の内藤組長が見えてまして」
浅井権三,「おう」
堀部,「組長に面通しを願っていまして、どうやら手打ちを申し出てるようですが?」
浅井権三,「和睦したいのだな」
堀部,「ええ……指も詰めてきたようでして……」
浅井権三,「指などいらん。金をもってこさせろ」
堀部,「それは……納得されないでしょう、組長にも面子ってもんが……」
浅井権三,「納得させろ。それが、俺に従うということだ。できんのなら皆殺しにすると伝えろ」
組長自ら頭を下げに来たというのに、それを門前払いするとは……。
浅井権三,「というわけだ、京介。"魔王"が車を爆破したころ、俺はここで酒を飲んでいた」
高みの見物をしていたわけか。
大局を見据えていたからこそ、そんな余裕を見せられるのだろう。
京介,「わかりました。とにかく無事でなによりでした」
もう話すことはないと、おれは一礼して戸口に向かった。
浅井権三,「宇佐美」
ハル,「はい」
浅井権三,「わかっていると思うが、京介から目を離すなよ」
ハル,「…………」
宇佐美は、何も答えず、おれのあとに従った。
;モザイク演出
;黒画面
;背景 空 夜
……。
…………。
詰めを、誤ったというのか……。
たしかに、標的の顔も確認せずにことに及んだのは失策だった。
少し、そう少しだけ、宇佐美と浅井権三を甘く見ていたというわけか。
潔く敗北を認めるとしよう。
失敗から学ぶことは多い。
浅井権三は、なかなかの大物だ。
一丁の猟銃では殺せぬか。
次は、必ず、仕留めてやる……。
;モザイク演出
;背景 主人公の部屋 夜
花音,「たっだいまー」
京介,「おう、今日もすげえ得点出したみたいだな」
花音は、えへへー、と頬を緩ませながら、手に持っていたバッグを開いた。
ばたばたと、衣服を詰めていく。
京介,「……どした?」
花音,「のんちゃん、もう帰るね、おうち」
京介,「そうなのか? 別に、いてもかまわんが?」
花音,「ありがとっ」
またにっこりと笑う。
花音,「兄さんはうさみんとパパリンといろいろ忙しそうなので、気が散るのです」
京介,「また偉そうな口をききやがって……」
花音,「ごめんね、わがままで」
京介,「なに……?」
驚いて、花音の顔を見た。
あろうことか、瞳に涙を浮かべていた。
花音,「わたしは、もう、こういうふうにしか生きられないから」
花音,「自分が一番すごくて、いつでも正しいって思わなきゃ、やってられないから」
花音,「ごめんね、もう、ばいばい」
突然の別れ。
花音の決意は固いようで、荷物を整理する手は止まらなかった。
京介,「……なにか、あったのか?」
花音,「なにもないよ」
京介,「でも……」
花音,「なにもなかったから、今度こそ、踏ん切りがついたの」
そのまなざしは切なげで、おれを責めているようでもあった。
おれは花音の前で立ちすくんだ。
花音が、なんのためにおれを頼ってきたのか、もっと考えてやるべきだったのだろうか。
形だけの兄妹。
なにか、力になってやれることがあったに違いない。
花音,「なんかね、毎日楽しかったよ。帰ってきたら兄さんがいるって思うと」
おれはなにもしていない。
花音,「ああ、家だなって。味方がいるなって。スケート以外にも世界があるんだなって」
おれは、狼狽し、焦燥し、苛立っていた。
吐き気のようなものが喉までこみ上げてきて、言わずにはいられなかった。
京介,「いてもいいんだぞ」
花音に向けて手を広げた。
京介,「すまなかった。おれたちがお前に隠し事をしていたように、お前もそうやって胸になにかを溜めていたんだな」
しかし、花音は、あきらめきった口ぶりで言った。
花音,「氷の上がわたしの居場所。だいじょうぶ。納得してるから」
微笑みながら、おれの視線を穏やかに押し返した。
花音,「わたしはわたしの道を行くよ。オリンピック絶対行くから、見ててね」
花音はもう、心を塞いでしまっていた。
言うべき言葉がなかった。
花音,「じゃあねぇー」
ふにゃりとした見慣れた笑顔の裏側を、もう決して覗かせてはもらえないだろう。
花音,「あー、シャツの襟が曲がってるぞー」
細い指先が、おれの首にしなやかに伸びてきた。
花音,「まったく、兄さんはぬけてるとこあるからなー……まったくもー……」
感情が昂ぶってきて言葉を詰まらせたようだ。
花音が、おれの身だしなみを気にしたことなどいままで一度もなかった。
ささやかな思いやり。
らしからぬものを残して、義理の妹は玄関へ出て行った。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫外 夜
;ノベル形式
冷たい潮風が肌を刺す。漆黒の夜空には星が輝いて、さらなる冷え込みを予感させていた。
 ハルはもう一度、事件を洗いなおしていた。
 今回は、浅井権三の力を借りて、どうにか引き分けといっていい結末を迎えることができた。
 非力さを感じている少女の胸のうちで、携帯が鳴った。すぐさま闘志が募った。鳴ったのは"魔王"から届いた携帯電話だった。
魔王,「……勝利の余韻を味わっているのか?」
ハル,「冗談だろう」
魔王,「それを聞いて安心した。お前たちはまだ私を捕まえていないのだからな」
 電話の向こうに意識を集中しながら、ハルは腰をかがめ、海の底を見やった。
ハル,「あの血は、動物かなにかだったのか?」
魔王,「近くのスーパーで魚を安売りしていたものでな」
ハル,「警察が調べればすぐに殺人なんて起こっていないことがわかる。だから西条に確認させ、西条の口からわたしたちに告げさせたんだな?」
魔王,「そこまで考えていたわけではない。私はただ、西条に力があるところを見せつけてやるつもりだった。死体があがらぬ海などと、いかにも怪しげな嘘もついたが、彼は純粋だった。換気扇に投げ入れるだけで店の人間をすべて殺せる劇薬を、簡単に作れると信じれるくらいに」
ハル,「C-5番の席にあった紙袋にガムテープで封がしてあったのは、西条のミスではなく、"魔王"の指示だな?」
魔王,「ふふ……気づいてもらわねば困るのでな。いいヒントだったと思うが?」
ああ、まったく……。ハルは心のなかで舌打ちした。
ハル,「おかげでわたしたちは西条を追うことに必死になった。その間に、"魔王"はじっくりと西条を手なづけていったわけだな?」
魔王,「手なづけるという言い方は心外だな。彼は、誰でもいいからかまってほしかった。私はそんなかわいいぼうやと少しだけ遊んでやったに過ぎない」
ハル,「同じことだ」
魔王,「いいや違う。彼は楽しかったはずだ。私と出会ったことで、捨て鉢のような人生にようやく春が訪れた。たとえ破滅が待っていたとしても、普段は味わえない興奮と期待を覚えていただろう」
 ハルには"魔王"の次に続く言葉が予想できた。
魔王,「お前もそうだ、宇佐美ハル。やっと私にめぐりあえた。お前はただの死に損ない。お前に必要なのは、愛でも友情でもなく、敵であり悪であり、そう仮託できる思い込みだ」
 ハルは胸のうちをえぐられる思いだった。顔がこわばり、息が浅くなっていく。
魔王,「だから、ヴァイオリンも捨てたのだろう?」
 押し黙り、耐えた。耐えるしかなかった。憎しみをみなぎらせてなお、彫像のように立ち尽くした。
魔王,「まだまだかまってやる」
"魔王"は優しげに言った。
魔王,「けっして春の訪れない冬の遊び場で」
いつの間にか、不通音が耳に届いていた。
 ハルはわき目も振らず、歩きに歩いた。何も考えたくはなかった。夜の闇を蹴飛ばし、苦痛のうめきを漏らし、怒り続け、呪い続け……唯一憎悪に身を委ねた。
 そうしないと、一度は捨てた大切な玩具を、また手に入れたいなどと思ってしまいそうだから……。
;一度タイトルへ
;黒画面
……。
…………。
魔王,「今回の一件、誠に申し訳ない」
染谷,「まさか、君が失敗するとは……」
染谷は、おれが花音を敗退させられなかったことを嘆いている。
もともと、スケートなどどうでもよかったわけだがな……。
魔王,「ただ、そう、悔やまれることもないと予言いたしましょう」
染谷,「なぜだ?」
魔王,「たしかに、浅井花音は全国大会で勝利しました。世界行きも確定し、次はオリンピックでしょう」
魔王,「しかし、あなたの子飼いの瀬田という選手も悪いものではない。むしろ、心の強さは、花音より上と見ました」
魔王,「そう、遠くない将来、必ず春が訪れます」
染谷,「そんな慰めは聞きたくないが……いまは納得するしかないな」
魔王,「期待を裏切ったことはお詫び申し上げます」
染谷は不機嫌そうにおれを見つめていた。
魔王,「しばらく、謹慎いたします」
染谷,「そうかね?」
魔王,「ええ、体調もすぐれませんし……」
なにより、準備があるからな。
染谷,「わかった。君の力がなくてもやっていけるとまでは言わんが、さしあたって、重要な案件もないことだし……」
これでいい……。
染谷との関係に距離を置くには、失敗を犯したというポーズが必要だ。
無能と思われなければ、おれを、そうそう野放しにするまい。
魔王,「それでは、ごきげんよう……」
染谷,「次に会うときは、いつになるかな?」
おれは、わからないと、首を振った。
本当はわかっていた。
次に会うのは、この会社が破滅するときだ。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;画面中央に 幕間 と表示
;背景 主人公の部屋 夜
時計の針が十二時を指し、ついに新年を迎えた。
あれから、花音は勝ち進み、ついに世界への切符をつかんだ。
今月からしばらくアメリカに滞在するらしく、疎遠なつき合いになりそうだった。
花音は、心に危いものを抱えていたようだが、杞憂だったのか……。
京介,「……ふう」
それにしても頭がずきずきしやがる。
ヤクザの宴会につき合わされ、こっぴどくしぼられた。
さすがの権三も総和連合のなかにあっては神様を奉らねばならないようで、憮然としながら、儀式めいた行事に参加していた。
京介,「さて……これから、二件ほど挨拶に回らないと……」
シャワーを浴びて、着替えを済まし、外出の準備を整えた。
;SE 着信
京介,「ん……」
宇佐美?
京介,「おう、どうした?」
ハル,「あ、新年明けましておめでとうございます」
京介,「ああ、おめでとう」
ハル,「んじゃ、行きましょうか」
京介,「なんだって?」
ハル,「神社です」
京介,「は……」
そういえば、思い当たるふしがあった。
京介,「完全に忘れてたわ」
ハル,「いっしょにおみくじ引くって約束してくれたはずですが?」
京介,「そりゃ、ないな。おれの性格からして」
ハル,「とにかく待ってますわ」
強引に話を進めて、宇佐美は神社の場所を言った。
京介,「わかった。そこまで言うなら行ってやる。でも、けっこう遅れるぞ」
ハル,「おっけーです。でわ」
なんか、ソワソワしてたな……。
;背景 繁華街1
元旦の朝五時。
ようやく宴会が終わった。
飲み会の席で、驚いたことが一つある。
まさか、白鳥の親父さんと顔を合わせることになるとは思わなかった。
建設業だけあって、多少は暴力団とのコネもあるということか。
娘をよろしく、などと言われたが、最近、白鳥のことなど頭の片隅にも置いていなかったな。
;背景 オフィス街 夜
宇佐美と待ち合わせたのは、この近くのこじんまりとした神社のはずだが……。
まさか、宇佐美と初詣とはな。
しかし、それにしてもどこで待ってるんだ?
連絡を入れてみる。
携帯はすぐにつながった。
ハル,「待ちかねましたよ」
京介,「いや、いま、どこにいるんだ?」
ハル,「えっと、鳥居らへんです」
京介,「って、言われてもな……」
まあ、あのうすら長い髪は目立つからなんとか探せるか。
ハル,「自分、超おめかししてますよ?」
京介,「おめかしだあ?」
想像もできん。
ハル,「期待がふくらんできたでしょう?」
宇佐美も着物とか着るんだな……。
京介,「わかった……って、あ」
あの、イカみたいな前髪は……?
京介,「見つけた……そっちに行くぞ」
京介,「…………」
ハル,「…………」
京介,「あれ?」
ハル,「はい?」
京介,「おめかしは?」
ハル,「してるじゃないすか」
京介,「ジャージじゃね?」
ハル,「おめかしじゃないすか」
京介,「…………」
ハル,「…………」
京介,「…………」
ハル,「……まあ、ちょっと中乃ブロードウェイ入ってますよね」
京介,「いやいや中乃ブロードウェイに失礼だよ! お前のそれはただの部屋着じゃん!」
ハル,「おかしいな……めいっぱいキメてきたつもりなんですが」
京介,「ったく、マラソンでもする気かよ」
ハル,「はあ……」
京介,「第一、寒くねえのか? いま氷点下って話だが?」
ハル,「はあ……」
京介,「そういえば、お前、いっつも学園の制服だったが……」
ハル,「はあ……」
京介,「あ、やっぱ寒いんか……」
ハル,「もうかれこれ二時間は待ってましたからね」
京介,「いや、おれは悪くないぞ。遅れるって言ったじゃないか」
ハル,「連絡あってもよかったじゃないすか」
京介,「む……それは、そうだな。すまん」
ハル,「せっかくのデートなのに……」
京介,「気持ちわりいことつぶやくなよ」
ハル,「だって……」
……な、なんだこいつ……。
京介,「す、すねてんのか?」
ハル,「けっきょく、自分の格好については、何点くらいなんすかね?」
京介,「なんだいきなり?」
ハル,「何点なんすかね?」
京介,「いや、わかんねえけど……」
宇佐美の体を上から下まで見る。
が、ジャージはジャージだった。
しかし、宇佐美も本気みたいだし、褒めてやったほうがいいのかもしれんな。
いやいや、それは自分を偽ることになる。
……どうしたものやら。
ハル,「これが美少女ゲーだったら、確実に選択肢でてますよ」
京介,「うるせえよ」
ハル,「正解は二番の『手放しで褒める』でした」
京介,「別に正解しなくていいよ」
ハル,「なんでそう、冷たいんすか」
京介,「……な、なんだよ、変だぞ、お前」
ハル,「別に、いっすよ」
鼻をすすっていた。
京介,「なんだよ、元気ねえじゃねえか」
ハル,「お腹がすいて力が出ないのです」
京介,「あ、そういう腹づもりな」
ようやくピンときた。
京介,「おれに餅だの甘酒だのおごらせようって腹だな?」
直後、宇佐美の顔がひきつった。
ハル,「フフフ、フハハハハ、ふはははははははははっ――!」
京介,「!?」
ハル,「はあ……」
京介,「笑い出したかと思えばウツになって……どういう芸だよ……」
ハル,「愛するものが、死んだときには、自殺しなけあ、なりません」
京介,「わ、わかったよ、おら、とっととお参り行くぞ」
ハル,「ここでさりげなく手を引いてくれるわけですよね?」
京介,「……はあっ!?」
ハル,「だって、メチャメチャ混んでるじゃないすか」
京介,「だから?」
ハル,「『は、はぐれると、い、いけないから……ハアッ、ハアッ』、みたいな……」
京介,「お前のなかでおれはそんなキモイのかよ」
ハル,「…………」
京介,「なに見てんだよ」
ハル,「見ちゃダメなんすか」
京介,「……い、いや……」
ハル,「手もつながない。見てもいけない。服も褒めてくれない」
京介,「…………」
ハル,「お決まりの言葉はいつも、髪切れよ、だ」
京介,「…………」
ハル,「まったく、自分は浅井さんのなんなんですか!?」
京介,「いや、なんでもなくね……?」
ハル,「フフフ、フハハハハ、ふはははははははははっ――!」
ダメだ、こいつ……。
;黒画面
…………。
……。
;背景 オフィス街 夜
そろそろ夜が明ける。
京介,「おい、初日の出見ようぜ。東はどっちだ?」
ハル,「お日様は西から登るのだ」
京介,「天才うぜえよ」
ハル,「そんなことより、自分、大凶だったんですけど?」
京介,「うん、おれはいま、非常に気分がいい」
ハル,「まさか、浅井さんも大凶すか?」
京介,「なんでだよ。大吉だ」
ハル,「まあ、自分も二回目は小吉だったんすけどね」
京介,「二回もひいちゃだめだろ」
ハル,「三回目でやっと大吉が出ました」
京介,「バチ当たるぞ、お前」
ハル,「にしても、寒いすねー」
京介,「重ね重ね言うけど、その格好のせいだぞ」
ハル,「はあ……不評すねえ」
……なんか知らんが、マジでキメてきたつもりらしいな。
……あ、いやちょっと待てよ。
目を凝らし、宇佐美のジャージを見る。
京介,「あれ、そのジャージって……」
ハル,「気づきましたか」
京介,「ああ、ブランドモノじゃね? 三万はするだろ?」
ハル,「上下で二千円ですがなにか?」
京介,「ですよねー」
見間違いだった。
京介,「いやいや、気づきましたか、の意味がわかんねえよ」
ハル,「は?」
京介,「いや、気づきましたかってなんだよ?」
ハル,「ですから、この服装の、良さに、です」
京介,「そんな歯切れよく言わんでも……」
ハル,「じゃあ、ジャージの語源知ってますか?」
京介,「知らねえよ」
ハル,「ジャージー島の漁師さんの作業着から来てるんです」
京介,「へーへー」
ハル,「いまじゃ、ベストジャージスト賞ってのもあるくらいです」
京介,「へーへー」
ハル,「どうです? ちょっとはオシャレに見えてきたでしょ?」
京介,「いやでもお前のは二千円だから」
ハル,「自分、そんなおかしいすかね?」
京介,「うん、おかしいよ」
ハル,「具体的にどの辺が?」
京介,「いや、だって、ジャージ着て街歩くなんて、ヤンキーかちょっと間違ったB系くらいじゃん」
ハル,「あとは仲間ユキエさんすかね?」
京介,「あの人はドラマでそういう格好してたの! なにフフンて顔してんだ!」
ハル,「芸能人のファッションだと思って、参考にしてみたんすけどね」
京介,「参考にするとこ間違ってんよ」
ハル,「はあ……」
宇佐美はため息をついて、がっくりと肩を落とした。
ハル,「なんか、すいませんね」
京介,「え?」
ハル,「いや、自分みたいの連れまわして恥かかせてしまったかなと」
京介,「…………」
ハル,「ほんと、すいません」
京介,「いや、別に……」
ハル,「……すいません」
京介,「…………」
目を伏せ、申しわけなさそうに身を寄せてくる。
ハル,「浅井さんは目立つの嫌いなのに……」
京介,「いや、気にしてねえよ」
ハル,「いえ……」
そのとき、目の前を通った人を避けたせいか、おれの胸に宇佐美の頭が触れた。
ハル,「あ……」
京介,「…………」
宇佐美がおれに寄りかかるような格好。
京介,「お、おい、宇佐美……?」
ハル,「すいません、浅井さん……」
震えていた。
ハル,「もう少し、もう少し、このままで……」
京介,「な、に……?」
;SE 心臓
いま、こいつ、なんて言った?
ハル,「お願いします、もう少しだけ……」
まさか……。
一気に全身の血液が沸騰した。
京介,「お前……」
そういえば、なぜこいつは、おれを初詣に誘ってきたんだ?
;背景 主人公の部屋 夜 セピア調
ハル,「ようは、わたしを選べってことです」
;背景 オフィス街 夜
……。
……そんな、馬鹿な……。
京介,「宇佐美……?」
ハル,「…………」
宇佐美は押し黙り、じっと何かに耐えていた。
京介,「…………」
なんてことだ。
まさかまさかと思いながら、目の前にはそういう現実があった。
京介,「本気だったのか?」
ハル,「……っ」
京介,「お前、本気で、おれに気が……」
ハル,「――超あったけえ」
京介,「暖取ってただけかよ!!!」
;SE 蹴り
ハル,「あぎゃあ!」
;黒画面
…………。
……。
; 幕間 了 と表示
;一度タイトルへ
;黒画面
……。
…………。
;背景 教室 昼
年が明け、宇佐美との初詣をへて、再び学園に通う毎日だった。
ハル,「しかし、花音がいないと、いまいち盛り上がりませんねえ」
京介,「ひと月もしたら帰ってくるよ」
ハル,「椿姫もなにやら家事と学園の行事に追われているようですしね」
京介,「暇なのはおれとお前と栄一くらいだ」
栄一,「誰が、暇だって?」
ヒマ人が、顔を出した。
栄一,「なんかさー、今日から新しく転入生が来るみたいだよ」
京介,「へー、こんな時期にかよ」
ハル,「どんな人ですか?」
栄一,「フン……」
ハル,「あれ?」
なにやら、宇佐美にそっぽを向く栄一。
栄一,「宇佐美さん。ボクはね、怒ってるんだよ?」
ハル,「あ……」
栄一,「きれいなお姉さんを紹介してくれる話はどこにいったの?」
ハル,「ま、誠に申し訳ございませぬ」
栄一,「形だけの謝罪なんていいんだよ!」
ハル,「は、ははあ……!」
栄一,「お前らはいつもそうだ! 安い頭を下げれば許してもらえると思っている!」
ハル,「か、返す言葉もありませんが……実はその……」
栄一,「言いわけは聞かん!」
ハル,「音信不通になりまして」
京介,「へえ」
ハル,「いまとなってはなぜ、ユキがこの街に来たのかもわかりません」
京介,「じゃあ、しょうがねえな」
栄一,「けっ!」
京介,「そんなにむくれるなよ。おれもその女に会ったが、どうにも一筋縄じゃいかなさそうだったぞ?」
栄一,「ボクに限ってだいじょうぶだよ」
この自信はどこから来るのか……。
栄一,「最近、忘れてるみたいだけど、ボクってかわいい系なんだからね」
京介,「すっかり忘れてたわ」
栄一,「あーあー、転入生が、そのユキって子だったらなー」
ハル,「そんな馬鹿な……」
京介,「んなお前の都合のいい展開になるわけねえだろ」
栄一,「だよねー」
京介,「まあ、あきらめるんだな」
ハル,「ほんとにすいませんでした」
栄一,「ふう、ミラクル起きねえかな……」
;黒画面
…………。
……が!
;背景 教室 昼
ユキ,「はじめまして、みなさん。時田ユキです」
京介,「…………」
ハル,「…………」
おれは宇佐美と顔を見合わせるだけだった。
栄一,「グレイトだぜぇ♪」
栄一の天下が到来した。
ユキ,「趣味は、人と話をすることです」
眼光をらんらんと輝かせる栄一。
ユキ,「どうぞ、よろしくお願いします」
頭を軽く下げたとき、ふわりと、ストレートの髪が揺れた。
栄一,「シビレるぜぇ」
栄一の口元が邪悪に歪んだ。
教師が時田の席を探していると当然のように起立して言った。
栄一,「ボクの隣がいいと思うな!」
これまた都合のいいことに、栄一の隣は空いていた。
時田はその席へ。
栄一,「こんにちは、ボク、相沢栄一。栄一でいいよ」
ユキ,「はじめまして、栄一くん」
栄一,「なにかわからないことあったら、なんでもボクに言ってね」
ユキ,「ありがと、私のこともユキでいいわ」
子供みたいに無邪気な顔に、時田は穏やかな微笑で返す。
栄一,「(おいおい、いいじゃねえの、いいじゃねえの? 宇佐美の友達にしては礼儀正しいし、知的なスメルがするぜえ)」
心のなかでヨダレを垂らす栄一。
ユキ,「……どうかしたの、じっと見て?」
栄一,「んーん、背が高いなーって」
ユキ,「そう?」
栄一,「髪もすごいキレイだなーって」
ユキ,「ありがと」
栄一,「モデルとかやってるんでしょ?」
ユキ,「やってないけど、うれしいわね」
栄一,「(へっへっへ、女は褒め殺してなんぼだぜぇ)」
栄一,「ユキさんって、なんかすごい、いい匂いするね」
ユキ,「ふふ……そう?」
栄一,「(へへ、効いてる、効いてるぅ)」
……効いてる、のか?
栄一,「ねえねえ、動物とか好き?」
ユキ,「猫は好きね」
栄一,「ボクも猫が一番好き。気が合うね」
栄一が一番好きなのは、爬虫類だったような気がするが……。
ユキ,「あ、ごめんなさい。犬のほうが好きかしらね」
栄一,「あ、じゃあ、ボクも犬が一番好き」
じゃあ、ってなんだよ……。
栄一,「まあ、でも、一番好きなのは……」
ユキ,「うん?」
じと目を送る栄一。
栄一,「ん、ううん、なんでもないっ」
突如、きゃわいい感じで首を振る。
かなりキモイ。
時田は笑顔を崩すことなく言った。
ユキ,「そうね……頼りにしてもいいかしら、栄一くん?」
栄一,「うんっ!」
こうして、新年早々栄一の春がやってきた……のだろうか?
;背景 屋上 昼
……。
…………。
栄一,「それでね、そのパティシエがね、すっごい気さくな人でね……」
昼になっても栄一の攻勢は続いていた。
時田はそれをうざがらず、ときおり相づちをうって、栄一の話に耳を傾けていた。
栄一,「へえ、茶道が趣味なんだー」
ユキ,「ううん、サドよ。サド」
栄一,「いいよね、ボクもお茶大好き」
……栄一は幸せなヤツだなあ。
京介,「時田、この前は世話になったな」
いきなり会話に割って入った。
ユキ,「いいのよ。楽しかったわ」
栄一,「え、なになに、どうしたの?」
ユキ,「この前少し、京介くんと遊んだのよ、ね?」
栄一,「(なんだと、京介ぇ!?)」
京介,「あ、いや、遊んだっつーか……宇佐美もいたけどな」
ユキ,「そういえば、ハルは?」
栄一,「お友達なんだよね?」
ユキ,「ええ、前の学園でいっしょだったの」
栄一,「なんでこんな時期に転入してきたの?」
ユキ,「お父さんのお仕事の関係でね」
転勤か……。
京介,「お前って、歳いくつなんだ?」
栄一,「京介くん、そんなこと聞いちゃだめでしょ?」
ユキ,「京介くんは?」
京介,「おれはいちおう、飲酒も喫煙も許される年齢だが?」
ユキ,「あらそう。けっこう、留年したのね?」
京介,「まあな。でも、この学園にはそういうヤツもちょこちょこいるぞ?」
ユキ,「芸能スクールみたいだものね。さっきアイドルグループの子を見かけたわ」
京介,「ああ、あいつはそのうち休学するだろ。そしてダブって卒業。歳をごまかして芸能界にもまれる、と」
ユキ,「夢があっていいじゃない」
京介,「そうだな。とくに裏で活動とかしてないのは、おれの周りじゃ、椿姫と宇佐美と……おれ……」
ユキ,「ふふ……」
おれに裏があることは、時田も知っている。
京介,「そんなもんかな。とくに、うちのクラスは、たいがいどっかのタレント事務所に所属してたりするから」
ユキ,「栄一くんは?」
栄一,「ボクは、フリーだよ」
京介,「ただのボンボンだろ?」
栄一,「やだなあ、ボクはみなしごだよ」
京介,「まあ、ここに通ってるのはたいがいボンボンか、一芸持ってるやつだな」
……って、あれ?
椿姫は、たしか特待だかなんだかで学費免除で通ってるが、宇佐美は?
あのクソ貧乏な宇佐美も、実は、どっかの社長令嬢だったりするのか?
その宇佐美は、昼休みになると速攻で逃げ出した。
栄一,「ボンボンといえば、京介くんと白鳥さんが二大巨塔だね」
京介,「白鳥はこの学園の支配者だからな」
つい先日、警察の捜査が入ったが、けっきょく無罪放免となったようだしな。
京介,「そいつは、学園の理事の娘なんだよ。だが、ひどい突っ張った性格でな」
ユキ,「へえ……今日は来てるの?」
栄一,「来てるよ。いつも一人でいるみたい。でも、あの子はさー……」
ユキ,「かわいそうね」
栄一,「そ、そうだね。かわいそうだよ、うん」
栄一は、手なづけられつつあった。
ユキ,「それにしても、ハルは?」
京介,「知らないが、宇佐美は、なんでお前から逃げるんだ?」
ユキ,「わからないわ。嫌われる理由は見当たらないのに」
京介,「お前に胸をもまれるのが嫌だとか……」
その瞬間、時田の目に鋭い光が宿った。
ユキ,「そんなはずないわ。ちゃんと感じてたもの……!!!」
京介,「…………」
栄一,「…………」
ユキ,「あれ? わたしなにか変?」
栄一,「ん、んーん、ぜんぜん」
……また変なのがおれの周りにやってきたな。
;背景 教室 昼
さすがの宇佐美も、授業中は逃げられない。
ユキ,「ねえ、ハル……」
ハル,「な、なにかな?」
ビクっと肩が震える。
ユキ,「そんなに、あのときのこと怒ってるの?」
ハル,「あのときというと……?」
ユキ,「ほら、わたしが、こうやって腕を回して……」
ハル,「や、やめろぉっ!」
; ※追加部分
ユキ,「おーおー、相変わらずロングすぎる髪ねえ」
ハル,「さ、触るなー!」
ユキ,「なに、嫌なの?」
ハル,「嫌に決まってるだろー!」
ユキ,「なら、おっぱいならいいの?」
ハル,「それが一番ダメだ!」
ユキ,「ひどいじゃないの。なにがあったの? 前は私のこと大好きだったじゃない?」
ハル,「……うぅ、だってぇ……」
ユキ,「あなたはわたしよりいい胸を持っているのに、なにが不満なの?」
ハル,「……不満はない、けど」
ユキ,「あなたが言ったんじゃない? 『わたしは勇者だ。お前を仲間にしてやろう』って」
ハル,「あ、うん……で、でもこんなセクハラしてくるなんて……」
ユキ,「私のこと嫌い?」
ハル,「き、嫌いじゃないよ……」
ユキ,「そうよね。お誕生日プレゼントくれたもんね」
ハル,「うん……いっしょに、水族館も行った……」
ユキ,「そうでしょう」
ハル,「ご飯も、たくさんおごってくれた……」
ユキ,「そうでしょうそうでしょう。じゃあ、言ってみて」
ハル,「わ、わたしは、ユキが大好き。うん、間違いない」
……なんだ、洗脳されてんのか?
ユキ,「うれしいわね。なら、仲良くしましょう?」
ハル,「くぅぅ……」
; ※追加終了
なにやら、じゃれあっていた。
やがて、授業が終わって宇佐美が席を立った。
ハル,「ユキ、なにしに来たんだ?」
ユキ,「え?」
ハル,「なぜ、引っ越してきたんだ?」
ユキ,「ハルに会うためよ」
ハル,「それなら連絡くらいしてよ。こっちからかけてもつながらないし」
ユキ,「ごめんね。引越しの準備で忙しかったの」
ハル,「まったくもう……」
すねるように頬をふくらませる宇佐美が、初めて普通の女の子に見えた。
ユキ,「改めてよろしくね」
ハル,「うん……ただ、わたしは……」
ユキ,「知ってるわ。"魔王"、まだ追ってるんでしょう? この前の事件もその一環?」
二人は、なにやらわけ知り顔で話を進めていた。
ハル,「それじゃあ、わたしは帰る」
ユキ,「ええ、バイトがんばってね」
ハル,「…………」
友達にだけ見せるような安心した笑みを浮かべて、宇佐美は去っていった。
栄一,「ねえねえ、ユキさん」
栄一がすかさずゴマをすりに来た。
栄一,「あの子が、白鳥さんだよ?」
いまにも教室から出ようとする白鳥が、栄一の声に反応してこちらを振り返った。
ユキ,「…………」
時田は白鳥を見て、軽く会釈した。
水羽,「…………」
白鳥は冷たく見返していた。
栄一,「ねえ、白鳥さん、ちょっとおいでよ」
白鳥はおれを一瞥し、険しい顔でこちらに足を向けた。
水羽,「なに?」
ユキ,「こんにちは、あなたが白鳥さん?」
水羽,「だったら、なに?」
栄一,「(相変わらずトゲトゲしいな)」
京介,「(まったくだ)」
なんのホラーかわからないが、おれと栄一はたまに心で会話することができる。
ユキ,「ごめんなさい。忙しかった?」
白鳥は黙って首を振った。
水羽,「浅井くんには近づかないほうがいいと思う」
栄一,「(おいおい、お前なんかしたのかよ?)」
京介,「(ぜんぜんノータッチな。頭おかしいんだよ、こいつは)」
ユキ,「それは、どうして?」
水羽,「裏表がある人だから」
ユキ,「そう。怖いわね」
水羽,「相沢くんもそう」
栄一,「え? ボク?」
水羽,「かわい子ぶってるけど、本当は違うの」
栄一,「ちょ、ちょっとちょっと、なにさ、やめてよ!」
水羽,「本当のことでしょう? この前だって、職員室に忍び込んでテストの答案書き直したじゃない?」
栄一,「そ、そんなことはなかった!」
水羽,「施設で育ったとか女の子に言ってるけど、お父さんはホテルのオーナーでしょう?」
白鳥も知っていたか。
栄一,「くぅぅ……!」
時田は、驚いたような顔をしていた。
ユキ,「あら、そうなの? 栄一くん?」
栄一,「ち、違うよ、違うよ! ボクを信じて!」
水羽,「とにかく、そういうことだから」
ユキ,「なるほど、あなたは裏表がある人が大嫌いなのね」
水羽,「好きな人なんている?」
ユキ,「でも、あなただって、いつもそうやってしかめ面してるわけじゃないんでしょう?」
水羽,「…………」
ユキ,「ふふ……ごめんなさい。用があるから、今日は帰るわ。またお話しましょう」
栄一,「あ、ユキさん……これからスウィーツでも食べに……!」
追いすがる栄一。
ユキ,「じゃあね、栄一くん」
時田は、さっそうと去っていた。
その後姿を、うらめしそうに見つめる白鳥。
水羽,「……いつも、よ」
ぼそりと言って、時田のあとを追うように、教室を出て行った。
取り残された栄一は、わなわなと震えだした。
栄一,「あ、あと一歩……あと一歩のところで……!」
……あと一歩だったらしい。
栄一,「……ちくしょう……ちくしょおおおお!」
直後、おれは栄一に腕を引かれた。
;黒画面
…………。
……。
京介,「で、またこの展開なわけだな?」
栄一,「マジ許せねえっすよ、神、マジで!」
京介,「わかったわかった。白鳥水羽だな?」
栄一,「死を与えましょう。なんかもうすごい死を。エロ本買った帰りに事故死みたいな」
京介,「うーむ……たしかになー、白鳥は神にたてつく愚か者ではあるが……」
栄一,「ですよねー」
京介,「ぶっちゃけ、どうでもいいっちゃ、どうでもいい」
栄一,「どうでもよかーねえんすよ!」
京介,「ちょ、ちょっと近い、顔ちかいっての」
栄一,「なんか策をくださいよ!」
京介,「えー」
栄一,「えー、じゃない!」
京介,「あー」
栄一,「あー、じゃない! なにかわい子ぶってんだ!」
京介,「つーか、どんだけ完璧な策を立てても、どうせお前がやらかしてくれるじゃん」
栄一,「今度はだいじょぶだって! これほど激しい怒りを見せたオレを見たことがあるか!?」
京介,「けっこうあるね」
栄一,「ぜったい、だいじょぶだと何回言わせるんだ!」
京介,「いやそれ、ぜったいフリだから。やらかしますよーっていう、前フリだから」
栄一,「もういい、神は死んだ!」
;背景 廊下 夕方
京介,「さあて、CD買いに行こうかな」
栄一,「くそ、なにほくほく顔ぶっこいてんだ!?」
京介,「だって、今日がなんの日かわかるか? 待ちに待ったワーグナーだぞ? お前も花音の演技を見て、ワーグナーの良さはわかっただろ?」
栄一,「うるせえキモオタだなあ」
京介,「じゃあな。復讐はいかんよ、復讐は」
栄一,「くそう……」
栄一をおいて、おれはプライベートタイムを楽しむことにした。
;背景 繁華街1 夜
京介,「よう、宇佐美じゃないか。バイト終わりか?」
ハル,「浅井さんこそ、なにやらうれしそうですね?」
京介,「いやいや、わかるだろ? 今日はワーグナーが手に入ったんだ」
ハル,「は、はあ……」
京介,「しかし、おれとしたことがよー、一枚しか予約してなかったんだなー。だから、ほかの店探し回ってようやく二枚目ゲットよ」
ハル,「浅井さんはクラシックのことになると、まるで人が変わりますよね」
京介,「まあ、これから帰って仕事を片づけて、一日寝かして、ようやく聞けるわけだが」
ハル,「そんなに好きなんすか?」
京介,「クラシックと出会わなかったら、犯罪者になってたよ」
ハル,「むしろデス信者っぽいこと言ってますが?」
京介,「最近は忙しくて、ぜんぜん生で聞きに行けないからなー」
ハル,「やっぱ、生派すか?」
京介,「とくにヴァイオリンなんかはな、如実に出るじゃん。違いが」
ハル,「……です、ね」
京介,「なんだよ、お前も聞くのか?」
ハル,「いえいえ」
京介,「まあいい、じゃあ、明日な」
ハル,「あ、浅井さん、明日もそのCDは学園に持ってくるんすか?」
京介,「当然だろ、一日寝かしてなんぼなんだよ」
ハル,「…………」
京介,「じゃあなー、時田と仲良くしろよー」
手を振って、別れた。
ハル,「…………」
ハル,「……これは、壮絶な前フリでは……?」
;黒画面
…………。
……。
;```章タイトル
;交渉の死角
;黒画面
次の日、学園にて。
悲劇は唐突に起こった。
;背景 廊下 昼
京介,「ぐぅあああああああああああああっ!」
廊下で叫ぶおれ。
注目するクラスメイトたち。
水羽,「ごめんなさい」
おざなりに言う白鳥。
京介,「き、き、貴様ああああっ!」
吠えるおれ。
水羽,「どうしたの。ちょっと肩がぶつかったくらいで」
けげんそうに眉をひそめる白鳥。
そして、廊下の床に落ちたワーグナーの新譜。
妙な落ち方をしたらしい。
ケースの角が、欠けていた。
床に崩れ落ちるおれ。
水羽,「そんなに大事なものなら、なぜ鞄に入れて持ち歩かないの?」
カチンと来たおれ。
いままで大目に見てやったのが間違いだったと知るおれ。
水羽,「おかしな人」
おかしな人よばわりされたおれ。
おれは、ついに神となる。
神が叫ぶ。
ヘリの上から。
機銃を持って。
ワーグナーだ、ワーグナーをかけろ……!
;黒画面
…………。
……。
京介,「我々は生きている!」
京介,「復讐するは我にあり!」
京介,「おれが天下に背こうとも、天下がおれに背くことはゆるさん!」
栄一,「サー、イエッサー!」
京介,「おい、新兵! いまのおれの気持ちを言ってみろ!」
栄一,「サー、まったくわかりません!」
京介,「たとえばよー、オメーのかわいがってるペットを傷物にされたら、オメーどうよ!?」
栄一,「でもぶっちゃけ、肩ぶつかっただけらしいじゃないすか」
京介,「F○CKYOU!」
栄一,「な、なんすか……?」
京介,「ヤツはそのあとなんて言ったと思う?」
栄一,「え?」
京介,「おかしな人、だぞ!? おい、悲しみに暮れるおれに向かってそれはねえだろうが!」
栄一,「い、いや……ごめんなさいって、謝ったとか……」
京介,「オメーはバカか! 謝られておれのワーグナーが返ってくるのか!?」
栄一,「ま、また買えばいいじゃないすか」
京介,「黙れ! とっとと白鳥をぶち殺してサーフィン行くぞ!」
栄一,「あ、じゃあ、とりあえずこの曲は止めますね」
;SE カチっとテープの停止ボタンを押すような
大音量で流れていたワーグナーが鳴り止んだ。
;背景 廊下 昼
京介,「…………」
栄一,「…………」
京介,「なんだ、栄一?」
栄一,「いや、神が立ち上がってくれてうれしいっす」
京介,「おうよ。次こそは、華麗なる犯罪を見せつけてやる」
栄一,「具体的にどうするんですか?」
京介,「くくく、慌てるな」
栄一,「さすが、神すね。おうかがいしましょう」
京介,「おれは、自分が最も楽しみにしているものを奪われた」
栄一,「はい」
京介,「ヤツの最も楽しみにしているものとはなんだ?」
栄一,「……はて?」
京介,「うん?」
栄一,「いや、わかりません」
京介,「そうなんだよ。おれもわかんねえんだよ、これが」
栄一,「ちょっとちょっと!」
京介,「花音と違って、あいつは妹でも友達でもないからな」
栄一,「じゃあ、どうすんすか!?」
京介,「彼を知り、己を知れば百戦あやうからずという」
栄一,「それ、知ってるよ。百回も戦えばいろいろわかるから、とりあえずいっとけーって話だろ?」
京介,「お前はもう少し己を知った方がいい」
栄一,「あ?」
京介,「ひとまず、白鳥に探りを入れようと思う」
栄一,「探り?」
京介,「ヤツは、なにが好きで、なにに興味を持っていて、どんなことを大切にしているか……それが知りたい」
栄一,「でもどうやって?」
京介,「簡単だ」
ふっと、笑う。
京介,「友達になるんだ」
栄一,「ええーっ!?」
京介,「お前の言いたいことはわかる。おれだってにっくき敵と寝食をともにするなんてまっぴらだ」
栄一,「寝食をともにする?」
京介,「そうだ。あいつをおれの女にしてやる」
栄一,「げえっ! なんて大胆な!」
京介,「そして、婚約指輪を渡して式場まで押さえた瞬間に音信不通になってやるのだ」
栄一,「さすがにそれは嘘だろ!」
京介,「くっくっく」
栄一,「卑劣にもほどがあるよ」
京介,「卑劣だと?」
栄一,「いや鬼じゃん」
京介,「お前らはいつもそうだ。そうやってすぐ悪に優劣をつけたがる。逆に聞きたいが、卑劣でない悪などあるのかね?」
栄一,「ほ、本気なのか?」
京介,「くっくっく」
栄一,「いや、笑うところじゃねえから」
……まあ、ぶっちゃけ飽きたらやめるだろうな。
京介,「ひとまずお前は、女子連中に聞いて、白鳥についての情報を集めるんだ」
栄一,「ええ……」
京介,「どんな噂が立っているのか。男はいるのか。友達はいるのか。習い事をしているのか。テレビは見るのか。見るとしてどんな番組を……」
栄一,「わ、わかったよ……わかったって……」
なにやら、怖気づいている様子の栄一。
京介,「おいおい、忘れたのか? お前は、白鳥のせいで時田との関係を壊されたんだぞ?」
栄一,「あ、そうだった。マジ殺す」
すばらしく単純。
栄一,「よーし、オレ、やるよ。やってやんよ」
京介,「頼んだぞ。じゃあ、解散だ」
栄一はおれに敬礼し、去っていった。
さて、おれも……。
;背景 教室 夕方
教室では、時田の周りに人が集まっていた。
椿姫,「へえ、お父さんが警察官なんだ」
ユキ,「栄転して、この街に赴任したの。それで私もくっついてきたってわけ」
椿姫,「じゃあ、お父さんと一緒に事件を解決してたりしたの?」
ユキ,「ふふ、まさか。一度、感謝状をもらったくらいよ」
かっこいい、だのと取り巻きの黄色い声があがった。
ユキ,「父は、いまはけっこうな偉い地位についたのだけれど、昔はいわゆる交渉人っていう、犯人と会話で駆け引きするような仕事をしてたわ」
白鳥を探していたのに、思わず立ち聞きをしてしまう。
ユキ,「そんな父と毎日顔を合わせていたものだから、私もおしゃべりが好きになってしまってね」
時田の話は、内容も刺激的だが、話し方もうまい。
一人一人に視線を合わせてしゃべり、微笑を浮かべながら、たまに冗談を言う。
時田は容姿も抜群だし、友達に不自由することはないだろうな。
ユキ,「でも、私は、養女なの」
人だかりの気配が変わる。
それを察してから、時田は話を続ける。
ユキ,「子供のころ、いろいろあってね。施設にも入ったわ。でも、私はそのことで惨めな思いをしたり、引け目を感じることはないわ。それくらい、いまの父が素晴らしい人だから」
おれは時田を尊敬し、同時に嫉妬した。
そんな話を、よく人前で明るくできるものだ。
ユキ,「あら、やだ。引いちゃった?」
ユキ,「ごめんね。私は、みんなと仲良くなりたいから。仲良くなる前に、必ずこういう話はしておくって決めてるの」
たしかに、一歩間違えばただの痛いヤツ。
しかし、時田の容姿と、穏やかな笑みと、切実そうな視線が、クラスの連中の心をつかんだようだ。
それが証拠に、あの白鳥すら遠巻きに、時田を囲む輪に加わっていた。
京介,「白鳥、ちょっといいか?」
時田の話に聞き入っていたのか、ほうけているような顔をしていた。
水羽,「なに?」
京介,「いや、昼間は、取り乱してすまなかったな、と」
水羽,「…………」
頭を下げたおれに、値踏みするような目を向けてくる。
京介,「なあ、悪かったって」
水羽,「あなたは、私が白鳥建設の令嬢だから声をかけてくるんでしょう?」
いいや、もはやワーグナーの恨みを晴らすためだ。
京介,「単純に、お前と仲良くしたいと思ってるだけだ」
水羽,「なぜ?」
京介,「なぜもあるかよ。同じクラスだからだ」
水羽,「……理由になってないわ」
ユキ,「どうしたの?」
不意に、時田がおれたちに声をかけてきた。
いつの間にか、時田の取り巻きはいなくなっていた。
ユキ,「白鳥さん、あなたも私の話を聞いてくれたの?」
水羽,「悪い?」
時田は白鳥の目を真っ直ぐに見た。
ユキ,「私に興味を持ってくれてうれしいわ」
白鳥はよそよそしく、視線を逸らす。
ユキ,「ねえ、良かったら、これから遊びに行かない?」
水羽,「え?」
ユキ,「驚いた?」
水羽,「なぜ、私と?」
ユキ,「可愛い子大好きだから」
間髪いれず、時田は言い返した。
完全に意表を突かれたのか、白鳥は頬を赤く染めてうつむいた。
ユキ,「こっちに越して来たばっかりだから、お店とか教えて欲しいのよ」
水羽,「事情通の浅井くんと行けば?」
ユキ,「その前にあなたにお願いしたいの」
水羽,「なにそれ……」
おれは思案した。
これはこれでいいかもしれんな。
時田は白鳥を知るための、いい緩衝材になりそうだ。
ユキ,「お願い」
水羽,「しつこいな……」
戸惑うように視線を床に落とした。
水羽,「ほかの人に頼んで」
ユキ,「私は、白鳥さんがいいのよ」
妙に気持ちが入った言い方だった。
水羽,「わかったわ……」
ユキ,「ありがとう。優しいのね」
水羽,「こうやってぐだぐだ話してる時間がもったいないだけ」
ユキ,「なんでもいいわ。行きましょう」
京介,「あ、おい、おれもいっしょに行っていいか?」
水羽,「嫌よ」
京介,「だと思ったよ」
ユキ,「ごめんね、京介くん」
京介,「ああ、またな」
……と、言いつつ、おれはあきらめてはいなかった。
今日は、浅井興業に顔を出す必要もないしな。
栄一,「おい、京介、いま白鳥について聞きまわってるんだけどな」
京介,「話はあとだ。行くぞ」
栄一,「え?」
京介,「ヤツらを、つけるんだ」
…………。
……。
;背景 繁華街1 夕方
白鳥と時田はセントラル街の喫茶店に入った。
おれは電柱の影に隠れ、店内の出入り口を注視していた。
栄一,「警部、あんぱんと牛乳買って来ました!」
京介,「おう、ご苦労さん」
栄一,「しかし、こんなところで立ち食いしてたらよけい目立ちませんかね?」
京介,「黙ってろ、新米」
おれはスポーツ新聞を読むふりをしながら、店の窓ガラスの向こうを探る。
窓際の席に座る二人。
時田のややおおげさなジェスチャーが目についた。
栄一,「しかし、あれですよ」
京介,「なんだ?」
栄一,「収穫ゼロでしたわ」
京介,「なにぃっ!? てめえ、ちゃんとたたいたんだろうな!?」
栄一,「だって、白鳥って、一人も友達いないみたいっすよ?」
京介,「んなことはわかってんだ。それでも学園生活を営む以上、まるで会話しないってこともないだろ?」
栄一,「うーん、スポーツは得意みたいすよ。成績もほら、椿姫と同じくらいいいみたいっす」
京介,「いわゆるデキスギくんか」
栄一,「学園のクラブに入ってる様子はないっすね。速攻で帰るし」
京介,「そうだ思い出したぞ。ヤツは毎朝、花に水をやっていたな」
栄一,「まさか、その花を……!?」
京介,「そのまさかだ。毎朝ヤツより先に来て、花に水をやってやるのさ」
栄一,「それ、手伝ってあげてませんか?」
京介,「クク……人間というものは、たとえ親切で手を貸してもらっても、てめえの仕事を奪われると居心地が悪くなるものだ」
栄一,「は、はあ……」
京介,「でも、やっぱやめた。毎朝早起きするとかめんどいし、なにより美しくない」
栄一,「あ、ほら、なんか噂になった事件があったじゃないすか」
京介,「ああ、理事長の贈収賄疑惑な」
栄一,「そこをガツンとついてやりましょうよ。なんか社会派の匂いがします。これでオレたちの悪にも正当性が認められます」
京介,「バカやろう、悪に正当性なんて求めんな。悪は常にシンプルイズベストだ。サーフィンしたいからベトコンの基地を焼く。これで十分だ」
栄一,「それにしても、白鳥がどんなヤツなのかまったくわからないんじゃ手の打ちようが……」
京介,「おい、待て。ヤツら出てくるぞ」
おれたちは、さっと身をかがめた。
栄一,「これから、どこ行くんすかね?」
たしかに、そろそろ日も暮れようって時間だが……。
京介,「よし、追うぞ」
心なしか、白鳥の足取りが軽くなっているように見えるな。
;背景 南区住宅街 夜
京介,「うーむ、白鳥の家の近くまでやってきたぞ」
栄一,「いいかげん、真っ暗で寒くないすか?」
京介,「だな。もう、たるいし帰るか」
栄一,「明日からじっくり、追い込みをかけてやろうぜ」
京介,「おう…………」
そのとき、白鳥家の門の前で、尾行対象が立ち止まった。
なにやら声を荒げて……。
いや、すすり泣き……?
ユキ,「……水羽、会いたかったわ……」
水羽,「嘘、だよね……」
ユキ,「嘘じゃないわ……だって、それは、そのマフラーは……」
涙に声を濡らしていたのは、あの冷静な時田だった。
おれと栄一は声を潜めて様子をうかがう。
栄一,「ど、どど、どういうことだ?」
京介,「わからんが、あいつら、顔見知りだったのか?」
白鳥の声まで震えだした。
水羽,「そんな……な、なんで……どうして……」
ユキ,「ひと目見たときから、そうなんじゃないかなって思ったの」
水羽,「こんな、偶然……」
ユキ,「偶然じゃないわ。私はずっとあなたに会いたかったの。だから父に頼んで、この学園にしてもらったの」
水羽,「あ……あ……」
……なんだ、なんだ!?
栄一,「おい、京介。なんか部外者は空気読んだほうがいい展開になってね?」
京介,「待て、慌てるな。ここでひくわけにはいかん」
時田が腕を伸ばす。
白鳥の首元、そのマフラーに向かって。
ユキ,「私があげたマフラー、まだ大事に持っていてくれたのね」
水羽,「……あ、や、やっぱり……」
ユキ,「いっしょに雪だるま作ったわね?」
水羽,「私も、もしかしたら、もしかしたらって……思ってたの……」
ユキ,「ええ、そうよ、水羽」
その瞬間、おれと栄一はほぼ同時に喉を鳴らした。
水羽,「姉さん…………!」
京介,「なっ!」
栄一,「なっ!」
なんだってえええええっ!?
事情はさっぱりわからんが、時田と白鳥は姉妹!?
何年も会っていないような口ぶりだった。
いわゆる感動の再会に、おれはいてもたってもいられなくなった。
京介,「ひ、ひけ、ひけえっ!」
おれたちは、脱兎のごとく逃げ出した。
;背景 繁華街1 夜
京介,「くそっ、なんてことだ!」
栄一,「つーか、なんで全力疾走で逃げたんすか?」
京介,「あんな暖かいシーンを見せられたら、溶けるだろうが」
栄一,「日陰もんですもんね」
京介,「それより、困ったことになったぞ」
栄一,「え? なにがです?」
京介,「時田がおれたちの敵になった」
栄一,「敵に?」
京介,「ああ、あの様子じゃ、白鳥になにかしたら時田がすっ飛んでくる」
栄一,「なんか、まずいんすか?」
京介,「まずい。ヤツは頭がキレる。その上、べしゃりも立つ」
栄一,「べしゃり、すか」
京介,「くそ、宇佐美だけでも手がかかりそうだというのに」
栄一,「え? また宇佐美の野郎が邪魔してくるってんすか?」
京介,「よく考えろ。おれたちには前科がある」
栄一,「しかも、動機も前とまったく同じですもんね」
京介,「まずいな。宇佐美に時田がついたら、手がつけられん」
栄一,「神にもボクという軍師がついてるじゃないすか?」
京介,「なるほど実に頼もしい……って、死ねえええ!」
栄一,「…………」
京介,「…………」
栄一,「どうやら、本当にまずいみたいだな」
京介,「わかってくれたか」
栄一,「オレはお前のツッコミだけはそこそこ評価していた。しかし、そんなぬるいノリツッコミをする京介なんて見たくもない」
京介,「……とにかく、ハードルが上がったんだ。どうするかな……せめて、宇佐美だけでも……」
ハル,「え、呼びました?」
京介,「げえっ! お、お前、いつからそこに!?」
ハル,「いや、お二人こそ、自分のバイト先の前で、なんですか?」
……気づけば、宇佐美の勤めるドラッグストアの看板があった。
京介,「おい、宇佐美。ここで会ったが幸いだ」
おれは一計を案じた。
京介,「お前は義理堅いヤツだな?」
ハル,「なんすかいきなり?」
京介,「おれはお前につきあって、クソ忙しいなか、初詣に行ってやったな?」
栄一,「え? そうなの?」
京介,「ああ、そうだ。こいつが誘ってきたんだ」
ハル,「その節は、どうもありがとうございました」
京介,「そこで、だ!」
ハル,「はい?」
京介,「おれに力を貸せ、宇佐美」
ハル,「なんでしょう? 邪悪なお誘いはお断りしますよ?」
京介,「世界の半分はくれてやる!」
ハル,「めちゃめちゃ邪悪な誘いじゃないですか」
京介,「ひとまず話を聞けよ」
ハル,「おおかた、CDを傷モノにされた腹いせに、水羽に復讐しようってんでしょう?」
京介,「……さすがに気づいたか」
ハル,「それで、いまは、復讐のネタを集めているってところですか?」
京介,「そこまで見抜かれては仕方ないな」
ハル,「いやもう、あきらめてください。水羽になにかあったら、真っ先に浅井さんを追及しますよ?」
京介,「しかし、証拠がなければどうにもなるまい」
ハル,「それは、宣戦布告ですか?」
京介,「クク……お前の首は柱に吊るされるのがお似合いだ」
ハル,「なるほど、では、また明日……」
宇佐美はちょこんと頭を下げて、歩き去った。
栄一,「おいおい京介、なにしてんだ?」
京介,「うーん、まずったな。交易しようとしたら、つい、宣戦しちまった」
栄一,「洋ゲーのよくある話はいいんだよ。どうすんだ?」
京介,「どうするもこうするも、もう少し様子を見るさ」
栄一,「頼むぜ?」
京介,「ああ、ひとまず解散しよう」
栄一,「お前、いきなり飽きてやーめーた、とか言うなよ?」
栄一は疑うような目でおれをたっぷり眺めてから、去っていった。
ぶっちゃけ、もう飽きつつあるのだが、時田と白鳥の関係は気になるな。
明日から、どうなることやら……。
;黒画面
…………。
……。
;背景 教室 昼
翌日の、学園にて。
朝から雰囲気の違う二人がいた。
ユキ,「京介くん、紹介するわ。私の妹の水羽」
水羽,「ちょっと、姉さん」
ユキ,「いいのよ、こういうことは黙っていても広まるものよ」
白鳥が、時田に手をひかれ、おれの席に現れた。
京介,「姉妹?」
おれはいま知ったように驚いた顔を作った。
ユキ,「意外?」
京介,「そう言われると、少し、目鼻立ちが似ているような気もするが?」
ユキ,「母親が違うのよ。ねえ、水羽?」
白鳥は、居心地悪そうに、こくりとうなずいた。
ユキ,「私はね、白鳥家に居座っていた愛人の娘なの。捨てられて母子ともども、家を出て行く羽目になったんだけどね」
京介,「おいおい、昼ドラにはまだ早い時間だぞ?」
ユキ,「昼ドラなら、もっともったいつけた演出が入るはずよ」
さらりと言う時田には、何も気にしてないという、悟ったような明るさがあった。
ユキ,「両親は終始ごたごたしてたけど、私と水羽は毎日遊んでたわ」
水羽,「だから、そんなこと浅井くんに話さなくても……」
ユキ,「そんなに彼のこと嫌い?」
水羽,「……ええ」
ユキ,「じゃあ、好きにならなきゃ」
水羽,「……え?」
ユキ,「彼も、きっといろいろ事情がある人よ」
ねえ、と目を流す。
京介,「おれは時田みたいに、自分のことをぽんぽん語るつもりはないがな」
ユキ,「京介くん、水羽をよろしくね」
水羽,「は?」
ユキ,「昨日、ひと晩いっしょだったんだけどね。なにかとあなたのことが気に入らないみたい」
水羽,「姉さん、やめてよ」
京介,「おれはかまわんよ。おれだって、いつまでも嫌われてるってのは、気分のいいものじゃない」
水羽,「…………」
ユキ,「水羽、ほら。いいかげん、仲直りしなさい」
水羽,「…………」
白鳥は、なにが不満なのか、けっして首を縦には振らなかった。
ユキ,「困ったものね」
肩をすくめた。
京介,「でも、良かったじゃないか」
白鳥に言った。
京介,「やっと、お前の味方ができたな?」
水羽,「……ふん」
白鳥は鼻を鳴らして、自分の席についた。
ユキ,「ごめんね。根はいい子なんだけどね」
京介,「根より実のほうが問題だ」
ユキ,「私の前では、おいしそうな果実が成るんだけどね」
京介,「ぜひ食いたいもんだ」
ユキ,「いまの言葉本気?」
京介,「さあな」
時田は薄く笑う。
ユキ,「あの子、男を……いえ、人を知らないから。かわいがってあげてね」
ああ、ワーグナーの復讐のためにな。
;背景 屋上 昼
昼休み。
いつもの面子に、今日は時田と白鳥まで加わっていた。
ハル,「これで花音がいれば、勇者パーティが一堂に会してましたね」
水羽,「なに、勇者パーティって……?」
ハル,「はい、ならえ!」
宇佐美がおれたちを整列させた。
ハル,「番号!」
京介,「は?」
ハル,「花音のぶんは浅井さんにお願いします」
京介,「え?」
ハル,「はい、番号!」
椿姫,「あ、いち!」
京介,「に、二!」
栄一,「三!」
ユキ,「四」
水羽,「…………」
ハル,「こぉら、そこぉっ!」
宇佐美が怒鳴りつけた。
栄一,「ぼ、ボク!?」
栄一に。
栄一,「ひ、ひどいよ宇佐美さん」
ハル,「すいません。スライムも仲間になるんでした」
ユキ,「ねえ、私って、役職は賢者でいいのよね?」
ハル,「うん、文句なし」
ユキ,「水羽は?」
ハル,「む……」
一同の視線が白鳥に集まる。
ハル,「なにか、希望は?」
水羽,「……くだらない……」
ハル,「先日、海外の花音から電話が来た。花音は、みんなのあだ名をつけた。それを紹介する」
ハル,「宇佐美オンデマンド」
ハル,「椿姫騎馬隊」
ハル,「浅井長政」
ハル,「白鳥ウヨクサヨク」
ハル,「以上!」
栄一,「え、ボクは……!?」
ハル,「もう一度聞く。なにか希望は?」
水羽,「……ないってば」
ハル,「じゃあ、右翼で」
ユキ,「勇者、戦士、僧侶、賢者、スライム、右翼ね」
栄一,「スキがないね」
……スライムを受け入れたらしい。
水羽,「いつも、こんなくだらないことしてるの?」
ハル,「いや、今日は新入生歓迎会みたいな感じ」
水羽,「それって、私のこと?」
ハル,「他に誰が?」
椿姫,「白鳥さんとお話できて、うれしいよ」
水羽,「…………」
椿姫の真っ直ぐな目に射すくめられたのか、白鳥は気まずそうに顔を逸らした。
椿姫には裏表なんてない。
相手にしにくいことだろう。
ハル,「うーん、仲間も充実してきたな。晩餐会でも開くかな」
京介,「そこで、この中に裏切り者がいるって話だろ?」
ハル,「ええ、浅井さんは要チェックです」
昨日、宣戦布告してしまったからな。
水羽,「…………」
椿姫,「水羽ちゃん、水羽ちゃんでいい?」
水羽,「……いいけど」
京介,「水羽ちゃん」
おれが言うと、キッとした視線が返ってくる。
水羽,「あなたはダメ」
ハル,「水羽、よろしくな。なにかあったらすぐわたしに言うんだぞ?」
宇佐美はなぜか、でかい態度。
ユキ,「ハルは、私より頼りになるわよ」
水羽,「……姉さんがそう言うなら……」
そして、置いていかれるおれと栄一。
栄一,「(おいおい、なんかフレンドリーぶっこいてんなあ)」
京介,「(ふん、いまのうちに楽しんでいるがいいさ)」
栄一,「(頼んだぞ、京介)」
お互いに黒い笑いを漏らし、昼休みをやり過ごした。
;背景 教室 昼
次の休み時間、時田がクラスメイトと談笑している姿が目についた。
もう、学園になじんだらしい。
その時田が、ふとおれに声をかけてきた。
ユキ,「京介くん、なにか悩み事?」
京介,「……いや、白鳥ってさ、趣味とかねえのか?」
ユキ,「あれ? どうして急に水羽のことを?」
京介,「いや、ふと、気になってさ。あいつって、いつも一人でいたし、どんな生活してるのかなって」
ユキ,「…………」
京介,「なんだ?」
ユキ,「ううん。水羽の趣味は、そうねえ……かわいらしいわよ?」
京介,「もったいつけず、教えてくれよ」
ユキ,「お菓子よ。食べるのも作るのも好き。よく、クッキー焼いてもらったわね」
京介,「そりゃ、意外すぎるな」
ユキ,「ま、あくまで昔の話だから」
京介,「他には?」
ユキ,「全体的にかわいらしい物が好きね。雪だるまとか」
雪だるまといえば、今年は雪が少ないな。
もう積もり始めていてもおかしくないのに。
ユキ,「なにたくらんでるの?」
京介,「え?」
不意をついたように、時田は言った。
京介,「なんの話だ?」
ユキ,「……ふふ」
怪しげな笑み。
……そういえば、こいつは西条とかいう異常者を手玉に取ったんだったな。
しかし、人の心なんて読めるものか。
京介,「おいおい、おれを尋問にかけようってのか? 勘弁してくれよ」
ユキ,「あなたはどうも、嘘をつくときに攻撃的になるみたいね」
京介,「なに分析してるのか知らんが、おれはただ、白鳥に興味をもっただけだ」
ユキ,「ただ、興味を持った……"ただ"、ね」
京介,「よせよ、なに観察してんだ?」
ユキ,「いいえ。あなたがどういう人かなんとなくわかってきたわ」
京介,「ふん、なめたこと言うなよ。なにがわかったって?」
ユキ,「からかうようなこと言ってごめんなさい」
と、前置きしてから、切り出してきた。
ユキ,「じゃあ、ちょっとゲームをしない?」
京介,「……ゲーム?」
ユキ,「1、2、3、4」
京介,「なんだその数字は?」
ユキ,「いま言った数字のなかから、好きなのを選んでもらえる?」
京介,「…………」
ユキ,「私には、あなたがどれを選ぶか、予想がついているわ」
京介,「なるほど、見事言い当てられたら、お前は、おれのことを少しは理解しているということか?」
ユキ,「そんなに固くならなくてもいいのよ。ただのゲームなんだから」
京介,「そうだな……当てずっぽうだって、四分の一の確率でお前の勝ちだからな」
時田は一度おれに背を向けて、メモを取った。
どうやら、あらかじめ自分が言い当てる数字を書き残しておいているようだ。
時田はノートの切れ端らしきメモ紙を、スカートのポケットにしまうと再びおれに向き合った。
ユキ,「準備万端よ」
京介,「よし、じゃあいいか?」
ユキ,「どうぞ?」
京介,「3……」
ユキ,「…………」
京介,「と、言いたいところだが」
おれは腹の底で笑った。
京介,「1、だ」
これは、知っている。
1から4までの数字を前にすると、控えめな日本人の大半は3を選ぶのだという。
次に多いのは2。
1は、一番というイメージが強く、偉そうな感じもあってなかなか選ばれない。
反対に、4は、卑屈すぎるし、日本には『死』というイメージもあって無意識に選択から外すという。
だから、時田は無難に3を選んできたに違いない。
ユキ,「フフ……」
京介,「どうした?」
ユキ,「本当に、1、でいいの?」
京介,「そうやって揺さぶりをかけようとしても無駄だ」
ユキ,「確認しただけよ」
京介,「このゲームはあらかじめ答えが決まっているうえで、その答えを強制的に選ばせるといったものだろう?」
ユキ,「フォース、ね。手品ではマジシャンズセレクトっていうんだっけ? このゲームにそこまでの強制力はないわよ?」
京介,「そんな話はどうでもいい。さっさと、お前の予想を、そのメモを見せろ」
ユキ,「慌てないで」
時田は、ポケットから数字の書かれたメモを取り出し、おれの目の前に掲げた。
京介,「……む」
ユキ,「残念。1、でした」
返す言葉がなかった。
紙切れには、たしかに、1と書かれている。
ユキ,「予想通りでしょう?」
京介,「……まったくだな」
ユキ,「京介くん、あなたは複雑な人よ。あなたの本質は1なんかより、4のほうが近いんじゃないの?」
京介,「どうせ日陰もんだよ、おれは」
ユキ,「でも、あなたは、きっと数字の意味を考えて裏を読んでくると思ったの。そういう知性も備えているわ。だとしたら、まずあなたの本来の性格とはかけはなれた1を選ぶだろうと思ったの」
京介,「ひねくれ者で悪かったな」
言いながら、おれは時田に歩み寄った。
そして、いきなり、スカートをつかむ。
ユキ,「どうしたの?」
京介,「黙って、ポケットのなかを見せろ」
ユキ,「フフフ」
時田は、観念したように笑った。
ユキ,「よく見破ったわね?」
案の定、ポケットから、四つ折になった三枚の紙切れが出てきた。
ユキ,「そうよ、京介くん。あなたの言うとおり、これはどれを選んでも、私が勝つように強制されるゲームよ」
おれもうなずいた。
京介,「たしかに、おれもペテンはなしだと言わなかったからな」
ユキ,「どうしてわかったの?」
京介,「さあな、お前から声をかけてきただろ。お前にはもともとペテンを準備する時間があった。だから、疑ってみたんだ」
ユキ,「ますます予想通りの人ね、あなたは」
京介,「負け惜しみはよせ。お前は、あらかじめ全部の数字が書かれた紙を用意しておいただけだろう? おれの性格なんてなにも関係ない」
ユキ,「いまのところ、ハルとあなただけよ。ここまで見破ったのは」
京介,「そうかい、そいつはありがとう。いままでは、よほどたいしたことないヤツを相手にしてきたんだな」
ユキ,「そうね」
時田は目を輝かせた。
ユキ,「でも、これはどう?」
三枚の紙切れが開かれた。
京介,「な、に……?」
てっきり、2、3、4とそれぞれ書かれているのだと思っていた。
京介,「全部、いち……?」
三枚とも、1、と書かれていた。
京介,「どういうことだ?」
時田は妖艶に笑うだけだった。
ユキ,「だから、聞いたじゃない。本当に、1、でいいのって」
京介,「それが、なんだ?」
ユキ,「強いて言えば、私には、あなたがどの数字を選ぼうと、改めて1を選ばせる自信があった、ということね」
……答えになっていない。
ただ、やられた、という感情だけが残る。
まさか、宇佐美も、こんな感じで餌付けされていったのだろうか。
ユキ,「それじゃ、妹に優しくしてあげてね」
見透かしたような顔で、席を離れた。
……むう。
時田と直接対決するのは避けよう。
最近は毎日のように部活である。
栄一,「か、神!」
京介,「どうした、なにをうろたえている?」
栄一,「け、警察が来ました!」
京介,「はあっ?」
栄一,「なんかいま、職員室のほうでごたごたしてます!」
京介,「……マジで?」
栄一,「きっと、オレたちを捕まえに……」
京介,「いや、慌てるな。おれたちはまだなにもしてない」
栄一,「じゃあ、なんでマッポが突然乗り込んでくるんすか!?」
京介,「……あれじゃねえの? 理事長の、白鳥の親父さんの件」
栄一,「あ、そっか。なーんだ」
京介,「で、誰かパクられたのか?」
栄一,「なんでもよー、教頭のハゲいるじゃないすか?」
京介,「ああ、おれたちが体育倉庫の鍵を盗んだときに、お説教くれたヤツな?」
栄一,「そいつを探してたみたい」
京介,「へえ、じゃあ、そいつが黒幕だったのかねえ」
栄一,「どうでもよさそっすね?」
京介,「いや、どうでもよくねえよ。学園帰りにマスコミが来るだろ? カメラとか向けられたらどうするよ?」
栄一,「ホント、神は目立つの嫌いっすね」
京介,「しっかし、けっこう、長引いた事件だけど、ようやく静かになるな」
栄一,「そっすね、去年の十月くらいからゴタゴタしてましたからね。なんでこんなに時間がかかったんすかね?」
京介,「どうでもよくね?」
栄一,「まあ、そっすけど、いちおう、白鳥に関わることじゃないすか?」
京介,「ふむ……」
おれは、ちょっと新聞などで読んだ記事を思い起こしてみた。
京介,「要するに、この学園の、どっかの施設を拡張するんだろ? そのときに、理事長が特定の業者から金受け取ったって話だろ?」
栄一,「だったら、とっとと白鳥の親父をムショにぶち込めって話じゃないすか?」
京介,「まあ、なんつーの、収賄ってよー、基本、公務員にしか適用されないんだわ。今回の件なら、市の土木課かどっかの職員か? 白鳥の親父さんは、別に、公務員じゃねえだろ?」
栄一,「え? あ、うん。建設会社の社長だろ?」
京介,「だからよー、別に白鳥の親父さんがいくら業者から金もらったってパクられはしねえんだよ。まあ、詐欺とかになる場合もあるかもしんねえけど」
栄一,「じゃあ、なんで事件になってんだよ?」
京介,「それでも収賄でパクられそうになるってことはよ、市の職員と共犯だったってことになるんだわ。口裏合わせて、悪いことしてたってことだ」
栄一,「うん」
京介,「警察は、どうにも、その辺を立証するのに手間どってたみたいだな」
栄一,「手間どんじゃねえっての。こっちは税金払ってんだからよ」
京介,「お前は払ってないでしょ」
栄一,「はい」
京介,「ほら、詐欺を立証すんのはむずいっていうだろ? 同じようにさ、理事長もたしかに金はもらってたわけだな。でも、市の職員なんて知らねえってばっくれられたら、その嘘を見破るのに手間がかかると思わねえか?」
栄一,「まあ、よくわからんが、理事長が捕まらないで、なんで教頭が捕まるんだ?」
京介,「さあ……そいつもグルだったんじゃねえの?」
栄一,「あれじゃねえ? トカゲのシッポ切り」
京介,「さすがに爬虫類に関するたとえは知ってるんだな」
栄一,「ワニの子育て」
京介,「は? そういう意味もあるの?」
栄一,「ない」
京介,「うーん……ここでお前に一度泳がされる意味がまったくわかりません」
栄一,「じゃあ、けっきょく、白鳥の親父はお咎めなしかね?」
京介,「いや、きっと理事職は解雇だろ? こんだけ世間を騒がせといて、まだ学園に居座ってたらすげえよ」
栄一,「白鳥ってよー、さすがに、ちょっとはイジメられてたみたいよ?」
京介,「ふーん。しょうがなくね?」
栄一,「それで、友達がいないんじゃね?」
京介,「いや、あいつとは去年も同じクラスだったけど、もともとヤツは孤独キャラだよ」
栄一,「よく知ってるな?」
京介,「おう……おれにしては、よく覚えてたな」
栄一,「お前、なんか嫌われてるけど、なにかしたんじゃね?」
京介,「ははあ、忘れてるってことか?」
栄一,「レイプして、記憶が飛んで、おれ無罪」
京介,「なにその一句?」
栄一,「お前ならそんぐらい、やりかねんってことだよ」
京介,「なんにしても、おれのワーグナーを叩き割っていいということにはならん」
栄一,「叩き割られたわけではないと思うが?」
京介,「なんだてめえ、まさか白鳥に同情してるのか?」
栄一,「え? いや、ちょっとだけな」
京介,「おいおい、鬼畜モンの風上にもおけねえな?」
栄一,「だってよー、親父が悪人だったらさすがにトガるって」
京介,「そうかねえ」
栄一,「いままで信頼してたパパがよー、裏で不正な金もらってたとか知ったらどうよ?」
京介,「……さてね」
栄一,「オレらみたいに裏表のあるヤツが嫌いになるっつーのも、まあわからんでもなくね?」
京介,「ふーん」
なんとなく興ざめして、おれは部活の終わりを宣言した。
;背景 理科準備室 夕方
栄一,「勘違いすんなよ。復讐は復讐だからな」
京介,「なんか土壇場で改心して、お前だけいいとこ持っていきそうだな」
栄一,「だ、だいじょぶだって」
京介,「ひとまず、解散しよう」
栄一,「え? まだ策が出来上がっていないんですか?」
京介,「いまひとつな……」
お菓子が好き……だから、どうしたという感じだ。
京介,「まあ、明日には動こうと思っている」
栄一,「頼みましたよ、神」
京介,「じゃあな……」
手を振って別れた。
……まったく、白鳥に同情するとは栄一も存外ふがいない。
おれは白鳥の親父じゃない。
おれを嫌うのは筋違いというもの。
京介,「とはいえ……」
やたら、おれにつっかかってくるのはなぜだ?
栄一の言うように、おれがあいつになにかして、忘れてるとか?
そんなはずは……。
;======================选择支=========================================
;選択肢
;あったかも……    水羽好感度+1
どっちにしろ、覚えてないものは覚えていない。
だいたい、なにかあれば言ってくればいいじゃないか。
さて、帰ってミキちゃんと電話したら、復讐の計画でも練ろうかね。
;背景 主人公の部屋 夜
その夜、おれは浅井興業からの電話を受けていた。
京介,「そうですか。ここのところ、ごたごたしてましたからね。明日にでも、顔を出させていただきます」
京介,「は? ガキども? ええ、あのドラッグ回してた連中ですか?」
京介,「父にしめられて、さすがにヤバい商売からは手をひいたと思っていましたが……」
京介,「へえ……でも、まだ、目だった動きもないんでしょう?」
わりとどうでもいい話をして、ようやく仕事の電話を打ち切った。
また、いつもの頭痛を覚えたので、少しベッドに横になる。
……それにしても。
白鳥を、どうしてくれようかな。
お菓子好きというが、ヤツが学園でそんなもん食ってたような記憶はない。
なんとなくテレビをつける。
ニュースが、いきなりうちの学園のことを報じていた。
なになに……。
捕まったのは、やっぱり教頭か。
教頭が、業者との取引の窓口役だったらしい。
驚いたのは、教頭は容疑を認めているが、理事長は無実を貫いているということだ。
たしかに、理事長と市職員との関係を裏づける有力な証拠はないようだ。
でも、金を受け取ったのは事実みたいだから、容疑者さながらの扱いを受けるのも無理はないな。
白鳥も、マスコミの目を避けるような毎日を送っているのだろうか。
おれも……そうだった……。
そこまで考えると、ふと、頭痛が襲ってきた。
京介,「寝よう」
ひとりごちて、布団にくるまった。
一瞬にして眠りに落ちたと思う。
もう、目が覚めなくなるのではないかと危惧するくらい意識が飛んだ。
闇に落ちる間際、玄関で物音がしたような気がする。
いや、おれが自ら、ドアの鍵を開けて外に……?
;モザイク演出
;背景 マンション入り口 夜
……。
…………。
魔王,「ふ……」
理事長の収賄か。
学園は、それなりに騒がしくなりそうだな。
おれも、うかうかしていられんな。
来るべき、復讐のときに備えなければ。
;背景 中央区住宅街 夜
相変わらず底冷えのするような寒さが続いているが、雪が降るほどではない。
闇に紛れ、ひと目を忍ぶように目的の場所に向かう。
予期せぬ人物に出会ったのは、通りの角を曲がったときだった。
ユキ,「あら、こんばんは」
魔王,「…………」
ユキ,「ん? どうしたの?」
魔王,「……いや、偶然だな」
おれは自然に振舞う。
魔王,「どうしたんだ、こんな時間に?」
ユキ,「いままで妹に会ってたのよ」
魔王,「ほう……」
ユキ,「やっぱり、なんだかんだで落ち込んでるみたい」
魔王,「というと?」
ユキ,「父親が犯人扱いされてるから」
……気持ちはわかるが。
魔王,「実際、収賄の事実はあったのか?」
ユキ,「どうやら本当みたいよ。水羽にもマスコミによけいな口を聞かないようきつく言ってたみたい」
魔王,「だが、証拠は挙がっていないのだろう?」
ユキ,「いいえ、水羽を含め、家族が証人よ。逮捕された市の職員が、以前、水羽の自宅に何度か訪れていたって」
魔王,「それで、収賄を示唆するような密談があったと?」
ユキ,「ええ、水羽はつい、聞いてしまったって」
魔王,「なるほど。検察が優秀なら、家族が証言台に立つことで、まず有罪に持ち込まれるな」
それにしても、家族のいる場で犯罪の話をするなど間抜けな話ではないか。
家族だから、裏切らないとでも思っていたのだろうか。
ふと、時田の視線に気づいた。
ユキ,「あなたも、家族が恋しくなったりしないの?」
魔王,「いつも恋しいさ」
時田はじっと見据えてくる。
ユキ,「なにか、違わない?」
魔王,「違う?」
ユキ,「あなたよ。目つきにしろ、仕草にしろ……気のせいかしら?」
魔王,「フフ……かまをかけるのはよせ」
ユキ,「別に、詮索するつもりはないけれどね」
魔王,「お前は物分りがよくて助かる」
ユキ,「知らなければ幸せということもあるから」
薄く笑った。
おれも笑みを返し、時田に別れを告げた。
魔王,「では、気をつけてな……」
ユキ,「ええ……お互いにね」
時田の脇を通り抜けた。
背後に視線を感じる。
時田がおれを怪しむような目を向けるのも当然だ。
しかし、なにもわかるまい。
とはいえ、時田もそれなりに鋭い。
宇佐美と同じように、始末しておかねばな……。
…………。
……。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景 廊下 昼
翌朝学園に足を運ぶと、宇佐美が待ち構えていたように目の前に立ちふさがった。
ハル,「ついに、動き出しましたね?」
京介,「なんだ、ご挨拶だな」
ハル,「ほう、ほほう。しらばっくれるおつもりですか?」
京介,「は?」
一歩近づいてくる。
京介,「なんだ、なにかあったのか?」
ハル,「…………」
宇佐美の目つきは鋭い。
ハル,「ほほほう、ほっほー。身に覚えがないと?」
京介,「つきあいきれんな」
ハル,「ふむ……ですよね」
宇佐美を置いて、教室へ。
;背景 教室 昼
栄一,「おい、京介……」
教室に入るや否や、栄一が声を潜めながら聞いてきた。
栄一,「お前、やたら派手なことしやがったな?」
京介,「……なんだ?」
栄一,「とぼけんなよ、お前だろ?」
京介,「宇佐美にも同じようなことを聞かれたが、まったくなんの話かわからない」
毅然として言うと、栄一も首をかしげた。
栄一,「黒板に落書きしてねえの?」
京介,「落書きだあ?」
黒板を見やるが、なにも書かれていない。
栄一,「いや、宇佐美が消したんだよ」
京介,「なんて書かれてあったんだ?」
栄一,「それがよー」
察するに、白鳥に関することだ。
ユキ,「『白鳥理事長は罪を認めて、自首すべきだ』」
突然、時田が割り込んできた。
京介,「なんだって……?」
ユキ,「いま言ったとおりよ」
時田は口調こそ穏やかだが、目には厳しい光が宿っていた。
京介,「要するに、朝学園に来たら、そんな檄文みたいなのが黒板に書かれてあったってことだな?」
ユキ,「なにか、思い当たることはない?」
京介,「犯人についてか?」
時田はうなずいた。
京介,「少なくともおれじゃないぜ?」
栄一,「ぼ、ボクでもないよ?」
ハル,「ですよね」
いきなり宇佐美も顔を出した。
ハル,「どうにも浅井さんらしくない。こんな普通のいじめのような真似は、チープな復讐にこだわる浅井さんのやり口ではないのでは?」
京介,「チープとはなんだ」
栄一,「チープじゃないすか」
京介,「……だが、白鳥の親父を非難するような真似をしても、おれの気分は晴れん。CDを真っ二つに割ってくれたのは、白鳥本人なのだからな」
栄一,「いつのまにか真っ二つになったことになってるし」
ユキ,「いずれにせよ陳腐ないたずらだわ」
背の高い時田は、クラス全体を見渡すように首を左右に回した。
教室に潜む犯人に静かな怒りをぶつけているようにも見えた。
水羽,「姉さん、いいのよ」
白鳥は、平然としていた。
水羽,「何も、気にしてないから」
ユキ,「本当に?」
水羽,「事実だもの」
他人事のように言う白鳥に、時田はゆっくりと首を振った。
ユキ,「たとえ事実だとして、それがなんだというの?」
水羽,「え?」
時田は、まるで我がことのように言った。
ユキ,「水羽がこんな仕打ちを受ける理由があるのなら、ぜひ教えて欲しいものだわ……!」
声は、白鳥に向かっているようで、クラス全体に響くような凄みがあった。
栄一,「(こ、こええな、この女……)」
京介,「(うむ……だから言っただろ? 時田が敵に回ると厄介だと)」
クラスの人数は三十人ほどだが、このなかに犯人がいるのだろうか。
水羽,「姉さん、もういいよ」
時田はがんとして動かず、腕を組んで不機嫌そうな顔をしていた。
ユキ,「犯人は簡単にわかるわよね、ハル?」
ハル,「まあ、多分」
京介,「そうなのか?」
ハル,「犯人は左利きです。黒板にそういうあとがありました」
京介,「そういうあと?」
ハル,「手の側面? とでもいうんでしょうか。文字を左手で書くと、自分で書いた文字の上に手がかぶさって、文字がぼやけることがありますよね?」
京介,「そうだな。チョークなら、なおさらそういうあとは目立つな」
ハル,「文字に、ちょうど手刀のようなあとがありましてね」
京介,「つーか、だったら、なんで右利きのおれを疑った?」
ハル,「いえ、そういうふうに見せかけたのかな、とふと裏を読みたくなりまして」
まったく、前科者はつらいな。
京介,「なるほど。左利きで、かつ、昨日の放課後から今日の朝一番までに教室にいたヤツが犯人か。そりゃ、しぼられてきたな」
ハル,「ちなみに昨日、一番遅くまで学園に残っていたのは、男子バスケット部の人たちらしいです」
うちのバスケ部はそれなりに強いらしいからな。
京介,「なら、決まりだな。うちのクラスには左利きのバスケ部員がいる」
ハル,「はい。しかも、その人物は昨日逮捕された教頭先生の息子さんです」
名前は橋本だったか?
百九十センチの身長を誇る、ふけ顔の男だ。
なんでも前の学園で問題を起こしたものだから、親父の教頭を頼ってこの学園に転入してきたとか噂されてたな。
選手としてはかなりの名プレイヤーらしい。
だったら鬱憤はスポーツで晴らしてもらいたいものだ。
ハル,「まあ、もちろん、証拠をつかんだわけではありませんよ」
しかし、それも時間の問題だろうな。
ユキ,「ちょっとお話を聞いてみてもいいのよ?」
しゃくったあごの先に、当の橋本がいた。
スポーツ刈りの頭を手でいじりながら、いまいましげに時田から目を逸らす。
ユキ,「二度と、こんな真似はしないことね」
まったく、宇佐美と時田が組んだらこういうことになるのか。
宇佐美が理屈を積み上げ、時田が自白を取る。
反対におれの陣営はどうだ?
おれが策を練り、栄一がやらかす。
……うーむ。
;背景 屋上 昼
栄一,「京介、どうするんだ?」
京介,「今日中に動こうとも思っていたが、ちょっとまた考えさせてくれ」
栄一,「怖気づいたのか?」
京介,「なんとでも言え」
ふと、屋上の隅で、宇佐美と白鳥がいっしょになってパンを食っていた。
水羽,「……宇佐美さん」
ハル,「だから、ハルでいいと」
水羽,「ごめんなさい。いままで、あなたのことも、好きじゃなかったから」
……なんだあいつら?
ハル,「わたしが、浅井さんと仲良くしてるから?」
水羽,「ええ、それもあるのだけれど……」
なにやら、白鳥は声を潜めた。
水羽,「……学園に入学するときに、住民票を提出しなければいけないでしょう?」
ハル,「……なるほど」
水羽,「ごめんなさい。先生方のなかで、噂になってたって父に聞いて……」
ハル,「いや、担任の先生もそうだけど、皆さんいい人だ。いやなことは黙っていてくださる」
……なんの話だ?
水羽,「ひょっとして、宇佐美さんも私と同じような境遇なんじゃないかって思って、そしたら、なんだか悪い気がしてきて」
ハル,「わたしはわたしだし、水羽も水羽だ。父親は関係ないよ」
そのとき、おれは初めて見た。
白鳥の顔に笑みが浮かんだのだった。
水羽,「今日は、ありがとう……ハル……」
なんだか気味が悪いので、栄一を連れて屋上から退散することにした。
;背景 廊下 昼
栄一,「おい、あれ、ユキ様と橋本じゃね?」
京介,「だな……」
つーか、ユキ様ってなんだ。
栄一,「やべえよ、ユキ様、相当キレてるよ」
京介,「すげえギラギラした目ぇしてんな」
橋本を廊下の壁に追いやり、居丈高にガンを飛ばしている。
口元には不敵な笑み。
橋本は、苛立たしげになにかわめいている。
が、時田の反論を前にしては、口をタコみたいにすぼめるしかないようだ。
京介,「関わるのはよそうぜ」
おれたちは教室へ。
;背景 教室 昼
京介,「おい、栄一、1~4までの数字をとりあえず選んでみろよ」
栄一,「は? もちろん、1」
京介,「そうか……やっぱりな」
栄一,「なんだよ、それ?」
京介,「いや、昨日、時田とゲームをして、まんまとしてやられたんだが……」
ユキ,「どうしたの?」
不意に、時田の笑顔が目の前に現れた。
栄一,「ねえねえ、ユキさん。ボクにもゲームしてよ」
ユキ,「ええ、いいわよ」
時田は、おれを楽しそうに見つめる。
……こいつ、サドだな。
ユキ,「じゃあ、問題ね」
栄一,「はい!」
ユキ,「世界で一番長い川は?」
栄一,「川?」
ユキ,「A アマゾン川 B ガンジス川 C 江戸川」
栄一,「もちろん江戸川だよ!」
ユキ,「ぶー、京介くんは?」
京介,「ナイル川だ」
ユキ,「正解」
栄一,「ちょ、ちょっと待ってよ! ABCってなにさ!?」
ユキ,「ABCから選べなんて言った?」
栄一,「あいたー、騙されたー!」
なんにしても江戸川はねえから。
ユキ,「ところで、京介くん」
京介,「なんだよ、いつもニコニコしてんな、お前は」
ユキ,「土曜日か日曜日、どっちか空いてない?」
土日って、明日かあさって、ってことじゃねえか……。
京介,「ふん、どうせお前にとってはどっちでもいいんだろう?」
ユキ,「さすがに知ってるわね。私はどっちも都合がいいのに、あえて相手に選ばせてあげる。約束を取り付けるときの基本ね」
京介,「仕事じゃ、常識だ。相手も自分が選んだわけだから、約束を守ろうとする」
ユキ,「じゃあ、空けてくれるのね?」
京介,「そうは言っていない」
栄一,「ボクでよかったら空けておくよ?」
ユキ,「そう? 水羽とデートだけどいい?」
京介,「は?」
栄一,「え?」
おれと栄一は息を呑んだ。
ユキ,「あの子ね、最近は、ほら、星?」
京介,「星?」
ユキ,「そう、天体観測が趣味みたいよ」
京介,「で?」
ユキ,「ロマンチックだと思わない?」
京介,「だから?」
ユキ,「あさってには、すごい星が大接近するみたいよ?」
京介,「んなてきとーな」
ユキ,「じゃあ、あさって。決まりね?」
京介,「いやいや、なにも決まってないから」
ユキ,「でも、水羽のこと、嫌いじゃないでしょう?」
京介,「……まあ、な」
……仲良くなりたいとか言ったてまえ、下手な嘘はつけんな。
ユキ,「水羽に興味を持ち始めたのは、たしかよね?」
京介,「そうだな……」
話しながら、じっとおれの目を覗くように見つめてくる。
ユキ,「じゃあ、こうしましょう?」
京介,「なんだ?」
ユキ,「明日、クラシックの演奏会があるのは知ってる?」
京介,「ああ……暇があったら行こうかと思っていたが」
ユキ,「なら、水羽とクラシックの演奏会に行くのと、星を見るのとどっちがいい?」
京介,「そんなもんは、クラシックの演奏会に決まって……」
……しまった!
ユキ,「じゃあ、決まりね」
時田の笑みが深くなる。
いまの二択は、さっきの川の問題と大して変わらん。
二択の答えしかないように思えて、実際はそうじゃない。
白鳥と遊ばない、というおれが一番選びたい答えがあったにもかかわらず、つい……。
ユキ,「いま、やられた、と思っているでしょう?」
京介,「くっ……」
ユキ,「私にはわかるわ。あなたは潔く負けを認める人。責任感も強いから、決して自分の発言を取り消したりしない」
そういうレッテルを貼られては、ますますあとにはひけん。
栄一,「京介くん、負けず嫌いだからねー」
……くそ、クラシックに釣られたか。
京介,「まあ、いいだろう。明日の演奏会だな?」
たしか、セントラル街の劇場に、さる管弦楽団が来てたな。
ユキ,「そして、あさっては、いっしょに星を見ましょう?」
京介,「わかったよ。もうどうにでもなれだ」
ユキ,「いいわね、水羽」
ふと、おれの後ろに声を飛ばした。
振り返ると白鳥が、仏頂面で立っていた。
水羽,「姉さん、勝手すぎるよ」
ユキ,「なに言ってるの? あなたも納得したじゃない?」
水羽,「……それは、姉さんが無理やり……」
白鳥も時田に言いくるめられたみたいだな。
ユキ,「別に、いいじゃない? 二人っきりってわけじゃないんだから」
水羽,「姉さんも来てくれるのよね?」
ユキ,「栄一くんもね」
栄一,「え? あ、うん。ボクはもちろんオッケー牧場博多駅前支店だよ」
栄一もにたりと笑みをこぼした。
栄一,「(オイオイ、なんかしんねーけど、ユキ様とデートかよ。コレ、たなぼたってヤツじゃねーの?)」
京介,「(ちょっと待てよ、おれたちの復讐はどうなんだ? なにダブルデート(笑)とかすることになってんだ?)」
栄一,「(もういいじゃねえかよ、過去にとらわれるなよ)」
京介,「(この野郎……)」
ユキ,「水羽が演奏会のチケット用意してくれたのよ」
水羽,「姉さん!」
ユキ,「どうやら、京介くんのCDの件、悪いと思ってるみたいよ」
京介,「…………」
白鳥と目が合う。
京介,「……そうなのか?」
水羽,「別に……」
そっぽを向く白鳥。
……なんなんだ、まったく。
ユキ,「フフフ、すべて、私の計画通りね」
時田だけが悦に浸っていた。
;背景 権三宅 居間
学園が終わり、久方ぶりに、権三宅に出向いた。
"魔王"が家の前に停まった車に爆弾をしかけてから、およそひと月がたった。
いまでは、うるさくつきまとう警察の人間もいない。
浅井権三,「"魔王"は、どうした?」
いきなり聞いてきた。
京介,「どうした、と……いえ、あれから何も接触はありませんが?」
浅井権三,「宇佐美はどうだ?」
京介,「いえ、なにも……普通の学園生活を過ごしていますが」
権三は一度目を閉じた。
浅井権三,「桜田門と、それからここの県警にも家畜を飼っているのだがな……」
京介,「はい……」
浅井権三,「爆破事件は、表向きはヤクザ者の縄張り争いの一環と発表されているが、実際には、"魔王"という存在を追って公安も動き出している」
浅井権三,「しかし、"魔王"という犯罪者は、国内、国外ともにリストに該当なしだ」
京介,「左様ですか」
浅井権三,「車を爆破したときに用いられたのは、プラスチック爆薬だ。出所は、北アイルランドの武器商人。ブツはロシア経由で日本に渡ってきたらしい」
京介,「まるでテロリストですね、"魔王"は」
浅井権三,「事実、不穏な動きはある」
浅井権三をして、不穏と言わせるような事態がこの世にあるのか?
浅井権三,「ここのところ、ガキどもの誘拐、失踪事件が続いているのは知っているか?」
京介,「……いえ、申し訳ありません」
浅井権三,「わかっているだけでも十人。ただのガキではない。銀行屋の跡取り、代議士の息子、自衛官の卵。共通しているのは、親になんらかの社会的権力があり、かつ未成年であるということだ」
京介,「……未成年?」
しかし、それが、なんだというのか。
浅井権三,「それから、つい先日、この県警の捜査一課特殊班で、薬物濫用の不祥事があった。免職になったのはたった一人の刑事だが、背後には大きな内部犯グループがからんでいると見られている」
浅井権三,「それを受けて、新しく赴任してきた時田という男がいる」
京介,「時田?」
まさか、時田ユキの父親か。
浅井権三,「人事としては異例だ。時田はもともと、警視庁の特殊班にいた。交渉人制度の必要性に迫られてFBIにも留学しに行ったエリートだった」
浅井権三,「だが、警察内部の闇を正義感丸出しで突いたものだから、田舎に左遷となった」
そのとき、ふと、権三の目に過去を回想するような不思議な光が宿った。
京介,「……お知り合いなのですか?」
権三は、答えなかった。
京介,「実は、いま、うちの学園に、時田ユキと名乗る女が転入してきまして……」
浅井権三,「知っている。ヤツは有能な人間だが、子宝には恵まれなかったからな」
ニタリと哂った。
権三に、人間扱いされるというだけで、時田の父親の優秀さが垣間見える。
浅井権三,「肝は、一度左遷させた男を、復帰させなければならないような事件が、この街の裏で進みつつあるということだ」
京介,「……まったく、僕には想像もつかないですね」
浅井権三,「そうか?」
京介,「え、ええ……」
なんだ?
やけに落ち着かない。
浅井権三,「"魔王"は捕まえ次第、八つ裂きにする」
京介,「……は、はい」
決して、警察に引き渡すつもりなどないのだろうな。
権三は、それだけ言うと、あとは黙って、酒を飲み始めた。
おれも、用なしと見て退室した。
;背景 主人公の部屋 夜
……しかし、権三は恐ろしいな。
体調を崩した母さんの見舞いに行かせてもらえるよう話を通すつもりだったが、つい、二の足を踏んでしまった。
ひとまず、母さんに電話をしてみよう。
しかし、母さんの携帯には直接つながらず、入院先に連絡をいれることになった。
担当の医師と話をしたところ、容態は悪くはないらしい。
しかし、精神的に不安定な状態が続いているのだという。
京介,「…………」
明日は、白鳥とクラシックの演奏会か。
なにをやっているんだ、おれは……?
いや、弱音を吐くな。
あと五年……いや、三年以内に、おれは権三のもとから独立してみせる。
そのとき、母さんと一緒に暮らすとしよう。
ひとまず、寝るとするか。
明日は雪になりそうだな……。
;背景 繁華街1 夕方
;ここで雪の演出を追加
日中、いくらか浅井興業に顔を出して、夕方になるのを待った。
冷え込みは厳しく、雪ががちらついている。
栄一,「なんか、あの二人遅くね?」
待ち合わせ場所に時間通り来たのは、栄一だけだった。
京介,「まったくだ。もう十分も過ぎてる」
栄一,「しかし、我慢だな。オレちゃんの忍耐が試されているぜ」
京介,「おれは我慢せんぞ。まさか遅刻しやがるとは……」
イライラしながらたたずんでいると、ようやく姉妹が現れた。
ユキ,「遅れてごめんなさい」
京介,「お前なあ」
ユキ,「そうね。謝るわ。あなたは、時間にうるさそうだものね」
京介,「おい、白鳥、なんで遅れた?」
水羽,「……別に」
京介,「ああっ!?」
ユキ,「フフ、私がわざと遅れて行こうって言ったのよ」
京介,「……てめえ、それはまたアレか、詐術だな」
ユキ,「ごめんなさいね。相手の時間を消費させることで、その人がどれだけ私たちを大切に考えているかを調べようとしたのよ」
京介,「でたよ……時田の罠が」
ユキ,「まあ、私が悪かったわ。でも、水羽は終始早く行こうって言ってたわよ」
水羽,「い、言ってないわよ……!」
ユキ,「遅れると悪いって、私の袖を引っ張ってたじゃない?」
水羽,「そもそも、姉さんが起きないんだもの。ただ寝坊しただけじゃない?」
ユキ,「……ネタをばらしちゃダメよ、水羽」
……ただの寝坊って、いまは夕方じゃねえか。
時田はいつ寝てるんだ?
栄一,「ねえねえ、ボクは京介くんと違って、ぜんぜん気にしてないよ!」
ユキ,「そうよね。京介くんも、ささいなことは気にしないはずよね?」
京介,「もういい。とっとと行くぞ」
ユキ,「行くぞって、開演までまだ一時間もあるわよ?」
京介,「バカ野郎、開場は三十分前だ。その前に、パンフレットとか読むだろうが! 広告のビラとかチェックするに決まってるだろうが! あわよくば奏者と会えるかもしれないだろうが!」
ユキ,「あ、うん。わかったわ」
京介,「いいか、てめえら、絶対物音立てんなよ!? 携帯の電源切ってなかったらマジ八つ裂きにすんぞ?」
栄一,「わ、わかったって……」
京介,「だいたいよー、ただでさえマナーの悪い客ってのはいるんだよ。そもそもクラシックは大人の社交場であるからしてよー!」
水羽,「浅井くんが一番うるさそうね」
;黒画面
…………。
……。
;背景 繁華街1 夜
;ここで雪の演出を追加
京介,「どうだった、てめえら!?」
神聖なるコンサートが終了し、おれは三人を見渡した。
ユキ,「まあ、素敵だったわ」
京介,「ああっ!? オメーちゃんと心で聞いてたんか?」
栄一,「うん、ユキさんが素敵だった」
京介,「オメーは寝てただろうが!」
まったく、どいつもこいつも……!
白鳥がぼそりと言った。
水羽,「一番端のチェロの人、怪我でもしていたのかしら……」
京介,「おおっとぉ、こいつは驚いたぜぇ!」
水羽,「な、なに?」
京介,「白鳥、いいとこ目ぇつけたな?」
水羽,「少し、タイミング合っていないときがあったような気がしたの……」
京介,「そうなんだよ。なんかおかしいんだよ。おれがレクター博士だったら彼を生かしてはおかない」
水羽,「でも、全体的にとても良かったと思うわ。『くるみ割り人形』なんかはとくに」
京介,「なんだよ、てめえ、ちょっとは話せるじゃねえか」
水羽,「ちょ、ちょっと顔近いんだけど?」
京介,「おれも『くるみ割り人形』が一番だったな」
水羽,「……単にヴァイオリンの音が好きなだけよ」
京介,「おれもヴァイオリンが一番好きだよ。楽器の女王だと思ってる。なんで女王かっていうとだな、そもそもヴァイオリンの歴史を振り返らなくてはならないんだが……」
水羽,「ふうん……どういうことなの?」
ユキ,「(なんかいい感じね、あの二人)」
栄一,「(そうかなあ? たしかに京介のトークについていけるのはすごいけど……)」
ユキ,「(水羽ね、クラシックに詳しいのよ)」
栄一,「(へえ、意外)」
ユキ,「(京介くんみたいに好きで詳しいわけじゃないわ)」
栄一,「(どういうこと?)」
ユキ,「(部屋に『マンガでわかるクラシック』っていう本があったの。かわいいじゃない?)」
栄一,「(んー?)」
;背景 喫茶店
京介,「……というわけでよ、白鳥。けっきょく、バッハが最高ってことになるんだが、ここまではいいか?」
水羽,「それはわかったけど、食べないの? 冷めるわよ?」
いつの間にか喫茶店に入り、いつの間にか食事を注文していた。
京介,「あれ……?」
そして、いつの間にか、白鳥と向かい合わせの席に座っていた。
京介,「お前、なにトマト残してんだ?」
水羽,「好きじゃないの」
京介,「ふぅん、かわいらしいねえ」
つーか。
京介,「あれ? 時田と栄一は?」
水羽,「とっくに帰ったわよ」
京介,「マジで? おれたちを置いて?」
水羽,「あなたが暴走して手に負えなくなったからよ」
京介,「記憶にない」
水羽,「そうやって、すぐ忘れるのね」
口を尖らせた。
京介,「お前はなんで帰らなかった?」
水羽,「なにその言い方? しょうがなくつきあってあげたのに」
京介,「むぅ。そうか、すまんな」
おれは、目の前の肉を平らげることにした。
京介,「…………」
水羽,「…………」
京介,「…………」
水羽,「…………」
しばし、無言。
気まずい。
京介&水羽,「なにか、話せよ」「なにか話したら?」
京介,「……む」
水羽,「ん……」
白鳥と二人でメシを食うなんて、これまで想像もしなかった。
京介,「お前って、何型?」
水羽,「O型だけど?」
京介,「ふうん」
水羽,「浅井くんは?」
京介,「A」
水羽,「ふうん」
……なにこれ?
京介,「お菓子が好きって本当か?」
水羽,「姉さんから聞いたのね?」
京介,「本当なのか?」
水羽,「……少し、作るくらいね」
京介,「へえ、もうちょっとでバレンタインだな?」
水羽,「…………」
京介,「なんで黙るんだよ?」
水羽,「バレンタインがどうかしたの?」
京介,「いや、手作りチョコとか、かますのかと」
水羽,「そんな相手はいないわ」
京介,「あ、そ」
水羽,「興味のない話はやめれば?」
京介,「興味がないって?」
水羽,「あなたが本当に好きなのは、お金でしょう?」
京介,「じゃあ、いまから円相場について話せばいいのか?」
水羽,「どうぞ」
……なんだ、コイツ?
京介,「あのよー、お前って、なんでおれが嫌いなんだ?」
水羽,「……え?」
京介,「まあ、知っての通り、おれは園山組っていう極道の回しもんだけど、別にお前には関係ないじゃねえか?」
水羽,「でも、悪いことしてるんでしょう?」
京介,「法律に触れるような真似はしてない」
水羽,「それでも……」
一度、口を結んで言った。
水羽,「人の好意を踏みにじるようなこともしたでしょう?」
京介,「そんな抽象的なこと言われてもな」
善意でうちの勢力圏に入ってくれたクラブが潰れそうになったときに、なにもしなかったことはあるが。
水羽,「まあ、いいわ……」
京介,「いいのかよ……」
水羽,「これからは、少し、仲良くしてあげる」
京介,「はあ……そいつはどうも」
水羽,「姉さんが、もっと人に心を開けって言うからよ?」
京介,「そうかい」
水羽,「あなたに好意を持っているわけじゃないのよ?」
京介,「わかってるって」
水羽,「わ、わかった?」
京介,「だから、わかったって」
水羽,「ならいいのよ……」
またそっぽを向いた。
京介,「お前が、そんなにすれてるのは、やっぱり、家庭のストレスとか?」
水羽,「なんの話?」
京介,「いや、どうでもいいが、ほら、白鳥理事長の一件」
水羽,「さあ」
京介,「正月にちょっと会ったよ。娘をよろしくって言われたが、どういう人なのかまったくわからなかったな」
水羽,「じゃあ、いまから会いに来る?」
京介,「冗談はよせよ。お前の彼氏とか勘違いされたら死ねるって」
水羽,「そうね、父さんは怖いわよ。この前も週刊誌の人をスタンガンで撃退してたから」
京介,「スタンガンって……オヤジ狩りに会うような身分の人でもないだろうに……」
水羽,「暴漢と間違えたって言いわけしてたわ。あなたも、暴漢と間違われないようにね」
おっかねえな……。
水羽,「食事中に変な話してごめんなさい……」
京介,「……いや、いいけど……」
もう時間も遅いし、店を出るとしよう。
;背景 繁華街1 夜
;ここで雪の演出を追加
水羽,「うわあ、雪……」
そのひと言が、あまりにも素だったので、ちょっと驚いた。
京介,「なんだよ、雪なんていつも降るじゃねえか」
水羽,「……そうね」
ばつの悪そうな顔で、おれを一瞥した。
水羽,「それじゃ」
京介,「ああ、ちょっと待て。明日、星を見るとか言ってたが?」
水羽,「…………」
照れくさそうにうつむいた。
京介,「どこに行けばいいんだ?」
水羽,「学園に、九時ごろ」
京介,「え? 夜の九時か? なんでまた学園?」
水羽,「屋上は空が広いから」
京介,「まあ、山のなか行くよりはいいけどよ」
水羽,「じゃあ、浅井くんの部屋にする?」
京介,「おれの部屋には、テラスもあるけど……って、なんで知ってんだ?」
水羽,「あ、それは……姉さんに聞いて……」
京介,「時田もおれの部屋に来たことはないが?」
水羽,「だから、姉さんが、ハルに聞いて……そういうことよ」
……まあ、どうでもいいか。
京介,「そんな夜遅くに、学園に入っていいのか?」
水羽,「いちおう、ノリコ先生も来てくださるから」
京介,「ノリコ先生?」
水羽,「天文部の顧問だから」
京介,「お前、天文部だったの?」
水羽,「……幽霊部員だけど」
知らんかった。
京介,「じゃあ、制服で来いって話か?」
水羽,「そうね」
めんどくせえな。
京介,「器材は持ってるのか? 器材っつーか、望遠鏡?」
水羽,「ちゃんと持っていくわ」
京介,「はっきり言って、おれ、星とかぜんぜん興味ないからな」
水羽,「教えてあげる」
……別に、教えてもらいたくもないんだが、まあいいか。
京介,「じゃあな」
水羽,「ええ……」
白鳥は、駅に向かって歩いていった。
その背中を見て、おれは……。
;=====================此处选择支===========================================================
;選択肢
;送っていくべきか? 水羽好感度+1
@exlink txt="送っていくべきか?" target="*select1_1" exp="f.flag_mizuha+=1"
;===========================选择支===============================
送っていくべきか?
;送っていくべきか? を選んだ場合
京介,「おい、白鳥!」
呼び止める。
水羽,「なに?」
京介,「もう夜も遅いし、家まで送ってやる」
水羽,「…………」
目を丸くした。
京介,「お前の家の近くって、最近物騒だろ?」
水羽,「まあ、そうね。暴力団の爆弾事件もあったし」
なにか得心したように、うなずいた。
水羽,「じゃあ、送ってもらおうかしら」
おれたちは、地下鉄の駅を目指した。
;背景 南区住宅街 夜
;ここで雪の演出を追加
水羽,「ここでいいわ」
静かすぎる住宅地に、雪がしんしんと降り続いている。
京介,「おう、じゃあな」
水羽,「あ、待って。飲み物でもいる?」
京介,「こんな時間に、お邪魔するわけにはいかん」
水羽,「なに勘違いしてるのよ、そこの自販機で買ってあげるっていう意味よ……」
京介,「あ、そ」
水羽,「いらないの?」
京介,「いらない。お前を送った時間と、ジュース缶120円ではつりあわん」
水羽,「じゃあ、150円のペットボトル?」
京介,「……それでも足りん」
水羽,「どうすればいいのよ?」
京介,「別にどうもしなくていい。じゃあな」
踵を返すと、背後から、白鳥の戸惑うような声が漏れ聞こえた。
水羽,「き、今日は、ありがとう……」
;黒画面
…………。
……。
;どうでもいい を選んだ場合
白鳥の背中は、人ごみに紛れ、やがて見えなくなった。
さて、帰るとするかな。
;背景 主人公の部屋 夜
部屋に戻り、ひと息ついていると来客があった。
ハル,「ふー、寒いすねえ」
京介,「なんか羽織れよ」
ジャージ姿の宇佐美だった。
京介,「で、なんだ、大事な話って?」
ハル,「は?」
京介,「いや、大事な話があるから部屋に上げてくれっていわなかったか?」
ハル,「浅井さんとの雑談は、わたしにとってかけがえのない大事なお話です」
……要するにダベりに来たのか。
京介,「どこか行ってたのか?」
ハル,「ええ、アキバに」
京介,「秋葉原?」
ハル,「あの街では、この格好もコスプレということで認知されました」
本当かよ……?
京介,「なに買ってきたんだ?」
ハル,「来るべき決戦に備えて、いろいろと」
京介,「はあ?」
ハル,「爆薬さえあれば爆弾も作れるくらいなんでもそろえてきました」
京介,「どこを爆破する気だよ」
ハル,「もちろん、あなたの心です」
京介,「うまくねえよ、ぜんぜんうまいこと言ってねえ」
ハル,「いやあ、浅井さんのツッコミは的確ですねえ」
京介,「感心してんじゃねえよ」
ハル,「ともかく、明日は天体観測するらしいじゃないですか?」
京介,「ああ、白鳥から聞いたのか?」
ハル,「ええ、まあ。なにやら楽しみにしているみたいですよ?」
京介,「今日も、クラシックの演奏会に行ってきたんだがな」
ハル,「それも聞いてます。楽しかったっすか?」
京介,「まあ、おれはな」
ハル,「なんで自分も誘ってくれなかったんすか?」
京介,「ああ、なんだよ、悪かったな……お前も来たかったのか?」
ハル,「いえ、ぜんぜん」
京介,「うーん……また泳がされちゃったよ、おれ」
ハル,「いやいや、浅井さんがいなかったら自分もここまで暴走できませんでした」
なにか、悲しくなってきたな。
ハル,「それじゃ、もう宅帰しまーす!」
京介,「…………」
ツッコンでこいよ、みたいな顔。
ハル,「宅帰しまーす!」
京介,「はいはい、宅帰しろよ」
ハル,「宅帰して座銀のゃん姉と飯食しまーす!」
;SE 蹴り
京介,「うるっせえんだよっ!」
蹴飛ばして、玄関に追い払った。
ハル,「明日の水羽とのデート、自分も邪魔しに行っていいすか?」
京介,「デートじゃねえし、来たかったら勝手に来い。九時に学園だ」
ハル,「はい」
宇佐美は、ドアを閉じて、去っていった。
京介,「はあ……」
どっと疲れた。
宇佐美ってなんなんだ。
やたらおれにつきまとってくるが……。
しかし、ヤツがおれに気がないのは、正月にわかったことだ。
京介,「……まあ、どうでもいいか」
とっととベッドに寝転がることにした。
少し、いつもの頭痛もする。
そろそろ、秋元氏のところに顔を出すべきだろうな。
前回、なにか無礼を働いたような気がするが覚えていない。
まったく、おれが病気だなんて……そんな……。
…………。
……。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景 オフィス街 夜
;ここで雪の演出を追加
雪はいい。
おれに、怒りを忘れさせないようにしてくれる。
おれは、例によってアシのつかない携帯を駆使し、様々な指示を出していた。
"坊や"たちは続々とおれの下に集まる。
彼らは救いを求めているのだ。
どうすれば、無力な少年のままでいずに済むのか。
いま受けている電話の向こうの、"坊や"もそうだった。
魔王,「なるほどわかった。橋本くんは、つまり、父の無念を晴らしたいわけだな?」
おれは優しく言った。
魔王,「聞けば、なかなか見事な犯罪計画だ」
魔王,「まず、警察の介入を極力避けようとしている点がいい。なにも映画や小説のように特殊班のネゴシエーターと真っ向から戦う意味はないからな」
魔王,「しかし、白鳥理事長が、それでもお前の要求を呑まなかったらどうすればいいと思う?」
相手が、言葉を詰まらせるのがわかった。
魔王,「フフ……決まってる。人質に死んでもらうしかないだろう?」
白鳥、水羽にな……。
魔王,「もし、失敗したら、私のもとに来い。もう一度、力を与えてやろう」
通話を終えて、おれはまた夜の闇にまぎれた。
さて、かわいい坊やが、どれだけの事件を見せてくれるか。
宇佐美がまた、少しでも成長してくれるといいが……。
;黒画面
…………。
……。
;背景 学園門 夜
今日の朝方まで降り続いていた雪はようやく止んだ。
翌日の午後八時半。
ハル,「で、どこで待ち合わせなんすか?」
京介,「うん、おれもそれを知りたかった」
栄一,「ユキさんに連絡してみれば?」
ハル,「それが、ぜんぜんつながらなくて」
京介,「まさか、また寝てるのか?」
ハル,「ユキは、寝たいと思ったときに寝る癖があって……」
社会不適合者め……。
京介,「寒いし、ひとまず中に入ろうぜ」
ハル,「自分は、ぜんぜん寒くないすけど?」
栄一,「ボクも」
おバカと変態を引き連れ、校舎に入った。
;背景 廊下 夜
夜の学園は不気味だ。
栄一,「誰もいないね」
京介,「まあ、日曜の夜だからな。部活も終わってるみたいだ」
ハル,「つまり、この広い校舎には我々だけということですか?」
……なに興奮してんだ、こいつ。
京介,「いや、ノリコ先生がいるらしいぜ」
ハル,「そういえば、職員室に明かりがともってましたね」
京介,「挨拶しに行くか?」
栄一,「いや、いいよ。やめておこうぜ」
まだ、失恋の痛手から立ち直ってないらしい。
京介,「どうする? まだ九時まで三十分もあるが?」
栄一,「ここで部活じゃない?」
ハル,「それ、いいっすね」
こいつらのノリがまったくわからん。
京介,「ていうか、宇佐美も部活のこと知ってたんだな?」
ハル,「いや、みんな知ってますよ。浅井さんと栄一さんが、理科準備室でくだらないことしてるって」
京介,「まあ、いいか。鍵、持ってるのか栄一?」
栄一,「鍵?」
京介,「理科準備室の鍵だよ」
栄一,「ああ、教室の机のなか」
京介,「んな、盗まれそうな場所に置いとくなよ」
栄一,「誰が盗むんだよ?」
京介,「まあな……」
;SE 着信(ハル)
そのとき、携帯が鳴った。
ハル,……はい、もしもし!」
時田の声が、宇佐美の携帯から漏れ聞こえる。
ユキ,「ごめん、寝坊したわ」
ハル,「もうっ、そんなことだろうと思ったよ」
ユキ,「だって、水羽が起こしてくれないんだもの。まったく、私を置いていくなんて薄情だわ」
ハル,「きっと愛想をつかされたんだよ」
ユキ,「水羽、もうそっちに来てる?」
ハル,「ううん、まだ」
ユキ,「校門前で待ち合わせってことになってるけど、いまどこにいる?」
ハル,「校舎のなか」
ユキ,「じゃあ、表で待っていてちょうだい。一時間もしたら行くわ」
ハル,「一時間って……早く来てよ。寒いんだから」
ユキ,「わかったわよ。全員分のお弁当買っていくから」
電話は終わったようだ。
ハル,「聞こえてました?」
京介,「ったく、マイペースな女だな、ホント」
ハル,「とりあえず出ましょう。水羽も来てるかもしれないし」
渋々、校舎を出ることにした。
京介,「どした、栄一?」
きょとんとして、棒立ちになっていた。
栄一,「あ、いや、いま、幽霊いなかった?」
京介,「なに嘘ぶっこいてんの?」
栄一,「いや、ホント、階段のとこに誰かいたんだよ」
ハル,「そのお化けは、こんな顔だったかい?」
栄一,「ぎゃー……って、バカ!」
宇佐美は、ぱっと見、お化けみたいだからな。
栄一,「まあ、見間違いかねえ……」
おれたちは、再び外へ。
;背景 学園門 夜
校門前に戻ってきたが、白鳥の姿はない。
もう九時になるというのに……。
ハル,「あれ?」
宇佐美がふと、門のそばに座り込んだ。
ハル,「このケースってなんすかね?」
京介,「ケース?」
見れば、長い筒状のケースだった。
ハル,「中に望遠鏡とか入ってますけど」
京介,「勝手に開けるなよ」
ハル,「すいません、爆弾の可能性を失念していました」
京介,「そういうことじゃなくてだな……」
ハル,「これって、水羽の天文グッズじゃないすかね?」
京介,「は?」
ハル,「いえ、取っ手についてるかわいらしいキーホルダーに、M.Sって……」
栄一,「サドマゾってこと?」
ハル,「正解!」
京介,「はいはい、白鳥のイニシャルな」
とはいえ……。
京介,「なんで、ここにそんなもんが置き去りに?」
栄一,「トイレにでも行ったんじゃない?」
京介,「いや、それでも、こんな場所に物を置いていかないだろ」
一同、首を傾げる。
ハル,「そういや、自分らって水羽の携帯番号とか知らないんすね」
京介,「お前が知らないなら、おれたちにもわかるはずがない」
……なにかあったのか。
学園の周りは、あまり人気がない。
市の体育館と陸上競技場が近くにあるだけで、住宅地からはやや離れている。
過去に、変質者がうろついていたこともあったという。
京介,「まさかとは思うが……」
;SE 着信(ハル)
再び、宇佐美の携帯が鳴った。
ハル,「またユキです……はい、もしもし?」
宇佐美の表情が曇る。
ハル,「水羽と連絡がつかない?」
おれたちにもわかるよう、会話を復唱しているようだ。
ハル,「いや、こっちにも来てないよ。門の前に、水羽のものらしき望遠鏡があるだけ」
宇佐美は携帯電話を片手に、白鳥のケースが置かれている場所にしゃがみこんだ。
ハル,「……わかった。ちょっと探してみる」
電話は終わったようだ。
栄一,「なんか、ヤバい予感がするぜ?」
ハル,「…………」
栄一,「冬は変態も合法的にコートを着れる時期じゃん」
ハル,「…………」
栄一の心配をよそに、宇佐美はじっとケースと地面を見つめていた。
京介,「ひとまず、校舎のなかを探してみるか?」
ハル,「これは……」
宇佐美がなにか言いかけた、そのときだった。
;以下 SE 女の悲鳴 
京介,「……っ!?」
心臓をつかまれる思いだった。
瞬間、宇佐美は動いていた。
悲鳴の沸きあがった校舎に向かって駆ける。
女教師,「助けてっ!!!」
……白鳥か!?
おれも、宇佐美のあとを追って走り出す。
栄一,「え、お、ど、どういうこと……!?」
;黒画面
ハル,「あの窓からです!」
宇佐美が指し示す方向から、悲鳴は上がっていた。
京介,「職員室だな!?」
学園の玄関に飛び込み、土足で階段を駆け上がった。
慌しい足音が廊下の果て、闇の先まで反響している。
宇佐美の素早さは目を見張るものがあった。
階段を三つ四つと飛ばして、あっという間に職員室のある二階までたどり着いた。
ハル,「悲鳴が止みました……」
しゃべりながらも、まったく息を切らした様子がない。
ハル,「まずいです!」
悲鳴が止んだということは、無理やり口を封じられたか、抵抗する気力が失せたということだ。
;背景 廊下 夜
職員室を目前にして、再び悲鳴があった。
女教師,「来ないで!!!」
思わぬ叫びに、足がもつれた。
女教師,「来ないで! 来たら殺すって!」
入り口の窓ガラスに、ノリコ先生の恐怖と狼狽にまみれた苦悶の顔がへばりついた。
何者かに脅されているのは明らかだった。
明かりの消え去った職員室のなかに暴漢がいる。
なんらかの目的で、ノリコ先生に危害を加えようとしている。
女教師,「やめてっ!」
不意に、鈍い光が走った。
ナイフ。
半狂乱になった女教師の首筋に、黒い手袋をはめた手が迫っていた。
女教師,「で、出て……って、校舎から、出て……」
いまや涙ながらに訴えた。
ハル,「浅井さん……」
宇佐美は、職員室を見据えながら言った。
ハル,「出ましょう……」
京介,「しかし……!」
ハル,「ここは退くしかありません」
やむをえないか……。
すぐに警察に……。
橋本,「時田を呼べ!」
窓の向こうに、目出し帽をかぶった暴漢の姿があった。
ノリコ先生を背後から羽交い絞めにしながら、また叫んだ。
橋本,「警察は呼ぶな! 呼んだら二人とも殺す! 俺は本気だ!」
この声……!
そして、あの身長からして、暴漢はクラスメイトの……!
京介,「橋本!?」
橋本,「黙れ、浅井! とっとと校舎から出ろ! いますぐにだ!」
ハル,「ユキを呼べばいいんですね?」
橋本,「そうだ! 時田と話をさせろ! あの女は俺に恥を掻かせやがった!」
ナイフを暴れさせると、興奮しきった様子で職員室のドアを蹴った。
橋本,「早く失せろ!!!」
宇佐美がちらとおれを見て言った。
ハル,「出ましょう」
おれたちは、橋本の言うとおりにするしかなかった。
;黒画面
…………。
……。
;背景 学園門 夜
栄一,「な、なにが起こってるの!?」
京介,「職員室に暴漢が現れた」
栄一,「ええっ!? の、ノリコ先生は?」
京介,「人質にされた」
栄一,「白鳥も!?」
京介,「ああ、ヤツは、おれたちが警察を呼んだら、二人とも殺すと言った」
ハル,「浅井さん、ユキに再度連絡しました。大至急こっちに来るようにと」
携帯を下ろした宇佐美に聞いた。
京介,「橋本は、いったい何が目的だと思う?」
ハル,「わかりません」
きっぱりと言う。
京介,「ヤツは、職員室に忍び込んでなにかする予定だった」
ハル,「……なにか?」
京介,「たとえば、理事長の収賄の証拠を物色していたとか」
ハル,「…………」
京介,「橋本は、教頭の息子だ。自分の親父だけが捕まったことを恨んでいるのでは?」
ハル,「それは、動機として考えられます」
栄一,「ちょっと待ってよ。橋本って、バスケ部の橋本か?」
京介,「先日黒板にいたずらした橋本だ。時田を呼べと言っている」
栄一,「なんで?」
京介,「わからんが、逆恨みしているっぽい」
ハル,「水羽は、無事でしょうか……」
宇佐美が、置き去りにされた白鳥の望遠鏡一式を見やった。
……たしかに、白鳥の安否は不安だ。
ここで襲われ、無理やり校舎のなかに連れ込まれたのか。
白鳥を人質にするあたり、やはり橋本の目的は、理事長がらみか?
栄一,「だから、幽霊見たって言ったじゃん!」
京介,「ああ、悪かったな……」
橋本は顔をすっぽり覆うような黒い目出し帽をかぶって、校舎に潜んでいたんだ。
京介,「警察に連絡するべきか……」
悩みどころだった。
ハル,「あの様子では、本当にノリコ先生を殺しかねませんが……」
京介,「おれもそう思う」
ハル,「当然、これは学園生が人質を取って校舎に立て篭もるという、大きな事件です。我々が素人探偵を気取って解決しようというのはおこがましいともいえます」
京介,「そうか……?」
宇佐美は、椿姫の一件以来、自分がしゃしゃり出ることに慎重になっているのか。
京介,「ヤツが時田と話をしたがっているのはなぜだと思う?」
ハル,「そこが、ひっかかるんです」
宇佐美が目を細めた。
ハル,「犯人の要求が、たとえば理事長に警察への出頭を求めるものだとしましょう。だとしたら、たとえ交渉相手が警察でもかまわないはずなんです」
……しかし、警察は呼ぶなという。
京介,「時田の到着までひとまず様子を見るのが得策だと思うが、警察に連絡せずにもたもたしているのもどうかと思う」
ハル,「…………」
……どうするかな。
警察を呼べば、人質を殺すと言う。
もちろん、ただのはったりかもしれない。
しかし、もし本当に殺されてしまったら?
栄一,「ちょ、ちょっとまずいって、オレのノリコ先生が死んじゃうよ!?」
おれに責任が取れるわけがない。
;以下は、水羽の好感度が1以上で発生。
……どうするか。
おれは警察を……。
;====================水羽线进入选择支=========================================================
;選択肢
;呼ぶ
;呼ばない
@exlink txt="呼ぶ" target="*select1_1"
@exlink txt="呼ばない" target="*select1_2"
;呼ぶを選んだ場合
呼ぶ
呼ばない
京介,「…………」
唇を噛みしめて言った。
京介,「時田を待とう……ひとまず」
校舎を見上げる。
宇佐美が、おれの顔色をうかがうように言った。
ハル,「わたしも、ユキを待つべきだと思いますよ、浅井さん」
穏やかな声音には、おれの不安を自分も負担しようとする優しさを感じた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 学園門 夜
ユキ,「なるほど、橋本くんは私に恥を掻かされたと言っていたわけね?」
数十分後、時田がタクシーに乗ってやってきた。
京介,「思い当たるふしはあるな?」
ユキ,「水羽に楽しいことしてくれたから、少し、お灸をすえてあげただけよ」
こんな状況だというのに、時田はいつもの薄い笑顔を崩さない。
ユキ,「さて、私が来たはいいけれど、なにがお望みなのかしら……」
ハル,「話をさせろと言っていたが」
校舎のなかで、明かりのついた部屋はない。
職員室も沈黙を保っている。
ハル,「あそこって、職員室でしょうか?」
宇佐美が指をさした方向の窓を見た。
室内の暗闇に、一筋の光がうっすらと見えていた。
懐中電灯かなにかの光だろうか。
京介,「いま、あの部屋にいるってことか」
ハル,「そうなりますが、職員室ではないですよね」
栄一,「あれって、オレたちの部室じゃない?」
京介,「理科準備室か……そうだな、間違いなさそうだ」
ハル,「職員室から、移動したということですか……ふむ……」
京介,「なぜだろう?」
ハル,「狭い部屋の方が、二人の人質を管理しやすいと思ったのか……」
京介,「理科準備室の隣には薬品室もあったな。そこは窓のない暗室だし、うっかり人質に逃げられる心配もなさそうだが……」
時田もうなずいた。
ユキ,「そうね。犯人は、なるべく人質を身近に置きたいと思うはずよ。暗室に閉じ込めておけば自由も奪うことができる」
宇佐美が確認を取るように言った。
ハル,「ひとまず、あの窓に向かって、手を振ってみましょう」
ユキ,「大声を張り上げるのはまずいわね」
ハル,「うん、近所の人に聞こえてしまうかもしれない」
京介,「通報されるわけにもいかないからな」
周辺は公共施設ばかりで、民家はあまりないが、用心したほうがいいだろう。
ハル,「通報といえば、学園の警備会社の方が異変に気づくという可能性は?」
京介,「いや、警備員が直接巡回しにくるわけじゃないからな。セキュリティもノリコ先生が解除しているだろうし。教員が遅くまで残業しているようにしか見えないんじゃないか?」
ハル,「それでも、あまりに夜遅くなれば、おかしいということになるでしょうね」
ユキ,「なるほどね。犯人にはタイムリミットがあると考えるべきね」
感心したようにつぶやきながら、時田が窓に向かって手を振った。
ハル,「…………」
京介,「…………」
しかし、理科準備室からはなんの反応もなかった。
ユキ,「おかしいわね。向こうからはこちらが見えているはずよ」
京介,「うん……外のほうが明るいんだからな」
ハル,「です、ね……」
しばし途方に暮れるしかなかった。
栄一,「……マジかよ……オレ、突貫しちゃうよ……?」
あながち冗談でもなさそうだった。
;SE 着信(ユキの携帯)
京介,「ん……?」
電子音の鳴った方を見やると、時田が携帯をつかんでいた。
ハル,「……犯人から?」
ユキ,「おそらくね。橋本くんには番号を教えていないはずだけど」
京介,「白鳥から聞き出したんだろう」
ユキ,「そうなるわね」
時田は携帯を耳に当てた。
ユキ,「もしもし、橋本くん……?」
ユキ,「そうね、遅れてごめんなさい……ええ……水羽は無事なの?」
ときおり、橋本の罵声が漏れ聞こえた。
ユキ,「ええ、それはありがとう……」
時田はあくまで穏やかに、深々とうなずいていた。
何度かやりとりを繰り返したあと、時田は話を打ち切るように言った。
ユキ,「ひとまずわかったわ」
橋本,「『また連絡する! 逃げるなよ!』」
ひときわ大きい声が時田の携帯から溢れ出て、通話は終わった。
京介,「どういうことだ?」
時田は目を伏せた。
ユキ,「とりあえず私に文句を言ってきたという感じね」
首を振った。
ユキ,「校舎に入るな、警察には連絡するな。その二点を押していたわ」
京介,「橋本の目的は?」
ユキ,「それも、これからだわ」
小さく笑った。
ユキ,「思い出すわね、ハル」
ハル,「うん」
京介,「どうした?」
ハル,「前の学園でも、警察沙汰になるような事件がありましてね」
ハル,「一人の女子が、カレシにふられたとかいう理由で、そのカレシを人質に教室に立て篭もったんですよ」
ハル,「先生方がいくら説得してもダメで、もう警察を呼ぼうってなったとき、ユキが交渉役を買って出たんです」
京介,「それで、あっさり解決したんだな」
ユキ,「あっさりじゃないわよ。危く殺されそうになったわ」
ハル,「たしかに……」
京介,「なぜだ?」
ユキ,「そのカレシくん、迷惑千万なことに私のことが好きになったらしいのよ」
京介,「そりゃ、修羅場だな。その女の子にとって、お前は恋敵だったわけだ」
しかし、そんな不利な条件のなか、相手を説得できるとは……。
ユキ,「話を戻しましょう。橋本くんがもう一度接触してくる前に、京介くんに頼みがあるの」
京介,「頼み?」
嫌な予感。
ユキ,「できるだけ人を集めて、この学園を封鎖して欲しいの」
京介,「おいおい、まさか……」
ユキ,「ええ、なるべくそっちの筋の方がいいわ」
……園山組のヤクザ連中に来てもらおうってのか!?
ハル,「犯人を逃げられないようにする必要はあると思います」
京介,「宇佐美まで……」
ハル,「学園の出入り口をすべて抑えるには、人手が足りませんから」
たしかに、玄関だけでなく、一階の教室の窓からでも自由に逃げられるからな。
ユキ,「ちょっとそれっぽいこと言わせてもらうとね、事件発生から三十分くらいは"怒りの段階"と呼ばれる、最も危険な状況なの」
京介,「……なんだそれは?」
ユキ,「犯人も人質も興奮状態にあって、誰にも手がつけられない状態のこと」
ユキ,「犯人が人質を完全にコントロールするために、暴力を振るったり、近寄った警官を問答無用で射殺したりする」
京介,「やばい状況なのはわかっているが、どうすればいいんだ?」
ユキ,「この段階では、犯人への包囲網をいかに築き上げるかが交渉の決め手となるとされているわ」
京介,「だが、それは、犯人を刺激することにならないか?」
ユキ,「なるわね。集まってきたのが怖い人たちなら、なおさらね」
京介,「だったら、なぜ? いたずらに橋本を怒らせるような真似はやめろよ。これから交渉ごとをやろうってんだろう?」
その瞬間、時田がおれを見据えた。
ユキ,「これから交渉ごとが始まるからこそ、敵を威圧する必要があるのよ」
珍しく、時田の目に怒りが見えた。
おそらく、自分の妹が危険にさらされたという怒り。
ユキ,「話した感じ、橋本くんは相当追い込まれていたわ。いまにも水羽を殺しそうな勢いだった」
ユキ,「そんな凶悪犯に、本当におしゃべり一つで立ち向かうことができると思う?」
おれは黙るしかなかった。
ユキ,「たとえば警察の交渉人と呼ばれる人たちが、どうして頭のおかしい犯罪者と対等以上に渡り合えるかわかる?」
京介,「それは……そういう交渉術の特殊訓練を受けているからだろう……」
時田は、もちろんそうだとうなずいたが、直後に口を尖らせた。
ユキ,「大前提として、交渉人の後ろに特殊急襲部隊が控えているからよ」
ユキ,「警察側に強行突入っていうジョーカーがあるからこそ、犯人も人質を殺すっていうジョーカーを出し渋るの」
……それは、たしかにその通りだ。
ユキ,「でも、いまの状況はどう? 犯人は、いまでこそ理科準備室に立て篭もっているけれど、いつでも人質を殺して逃げることができるのよ? これで、まともな話し合いになると思う?」
京介,「わかった。抑止力が必要なんだな」
ユキ,「言葉は武器だと思うわ。けれど、しょせんは暴力のバックアップがあってこその武器なのよ」
どこか哀しそうに言った。
もはや、おれに選択の余地はなく、携帯をいじって権三に連絡を取ることにした。
京介,「……長い夜になりそうだな」
;黒画面
…………。
……。
一時間と経たずして、園山組の若い衆が学園に集まってきた。
堀部,「いやあ、坊っちゃんも、自分らをこきつかってくれますねえ」
京介,「本当に申し訳ありません」
堀部,「いやいや、坊っちゃんのためならたとえ火の中、水の中」
権三には連絡がつかなかった。
仕方なく堀部に電話したのだが……あとが怖いな……。
堀部,「あ、たったいま、囲みが終わったようですよ。自分らも借金の追い込みで家を囲んだりしますけど、学園ってのは初めてですわ」
また、悪魔みたいに口の裂けた笑みを浮かべていた。
これで、蟻一匹、学園の外には出られないだろう。
堀部,「で、あれなんですよね。例によって桜田組にはわからんようにしたいと?」
京介,「はい。極力、目立たないようにお願いしたいのですが?」
堀部,「わかりやしたよ。誰か通りかかったら、ちょっと黙っててもらうことにしますわ。そういうのは得意でしてね」
通行人がいたとしても、ヤクザ者には関わりたくないと思うだろう。
京介,「なにかとありがとうございます」
堀部,「いいんすよ、借りはお金で返してもらえればね」
高くつきそうだな。
彼らは、学園で立て篭もり事件が起こったとしても、なんら正義感の動くところはないのだろう。
堀部,「んじゃ、あとは好きに使ってください。手前は、仕事がありますんで」
嫌な笑みを残し、堀部はベンツに乗って去っていった。
栄一,「お、おいおい、京介、これどういうこと?」
京介,「パパの知り合いの……悪い人たちだよ」
栄一,「ちょっとお前を見直したわ」
京介,「見直す意味がわからんが、このことは黙ってろよ」
栄一,「わかってるよ、東京湾に沈められたくないし」
橋本からの電話はまだないようだ。
ハル,「ただいま戻りました」
宇佐美は、一度学園を離れていた。
京介,「おう、道具を取りに帰るとか言ってたが、なにを持ってきたんだ?」
ハル,「先日、アキバの電気屋で手に入れたんですけど……」
言いながら、小型のラジオのようなものを見せつけてきた。
ハル,「これは、携帯電話に取りつけることで、ハンズフリーで双方向会話ができるというシロモノです」
京介,「ああ、会議なんかで同時会話するためのものだな」
ユキ,「それを、私の携帯につけようっていうの?」
時田がやや不審そうに言った。
ハル,「わたしも、犯人の声を聞きたくて」
ユキ,「……なるほどね」
ハル,「もちろん、交渉はユキに任せる。わたしはなにもしゃべらないから」
ユキ,「そう……」
時田は納得がいかないようだった。
ハル,「ユキは昔、言ってたじゃないか。交渉ごとはチームで行うのが普通だって」
ユキ,「ニューヨーク市警なんかではそうね」
ハル,「必要なのは、交渉役と、補佐役と、記録係と、あとなんだっけ?」
ユキ,「指揮官と、雑用係よ。でも、補佐・指南役は大きな分署でも派遣してもらえないことがあるわ」
ハル,「だったら、ここに、ちょうど四人いるじゃないか?」
時田は、考えをまとめるように指で眉間を揉んだ。
ユキ,「気が散るかな、と思ったのよ。でも、わかったわ。みんなで取り組みましょう」
京介,「それぞれ、どういった役割なんだ?」
ユキ,「そのままよ。交渉役は実際の交渉に当たる。記録係は状況の記録を残す。指揮官は決定を下す。重要なのは、それぞれ他の仕事に首を突っ込まないってことね」
京介,「交渉役は決定を下さず、指揮官は交渉を行わないってことか?」
ユキ,「そうやって、客観性を持たせるの。たとえば交渉が進んでいくうちに、交渉役が犯人に感情移入しすぎて、つい相手に有利な条件を呑んでしまうことがあるの」
京介,「決定権が別にあれば、そういったミスは犯さないってか?」
ユキ,「さらに指揮官と交渉役を分ければ、戦術が一つ増えるのよ。この前もそう。西条っていう人と仲良くなるために、私はあなたを悪者にしたのよ」
いまさらだが、納得がいった。
京介,「『私は西条を助けたいのだが、京介という悪役が首を縦に振らない。さあ、困ったな西条さん、どうしようか』……って感じか?」
ユキ,「勝手に利用してごめんなさいね」
京介,「まあ、わかった。なら、どう振り分けたものか……」
おれは一同の顔を見回した。
……時田が交渉役なのは当然として……。
京介,「おれが指揮役を預かったほうがよさそうだな」
ユキ,「ええ。あなたは冷静だわ。いつも利害で動いているような人だもの」
……わかったような口を利くが、実際その通りだ。
ユキ,「具体的には、たとえば犯人がタバコを要求してきたとしましょうか」
京介,「うん」
ユキ,「そういうとき、私は必ず、あなたに一度確認を取るわ。あなたは自分の判断で私に決定を下して」
京介,「おれがタバコなんてやるなと言ったら、お前が反抗してくることもあるわけだな?」
ユキ,「そうね。お互いケンカにならないようにしたいものね」
役割分担の性質上、そういう摩擦は必ず生じるだろうな。
京介,「となると、宇佐美は、記録役だな」
ハル,「仰せつかりました」
ユキ,「できればメモを用意して。私と犯人の会話の流れを記録に残しておいて欲しいの。文章を読めば、いくらか冷静に状況を把握することができるわ」
栄一,「わかってたけど、ボクって雑用なのね?」
ユキ,「オチみたいになってるけど、重要な役割よ?」
栄一,「え?」
ユキ,「たとえば犯人が夜食に弁当を要求してきたら、あなたが買いに行くのよ」
栄一,「うん、それはわかってるけど?」
ユキ,「そのお弁当が温まってなかったら犯人の機嫌が損なわれると思わない?」
栄一,「わかりました!」
栄一の顔が引き締まった。
京介,「じゃあ、準備をしよう」
時田の携帯に同時会話の機器を取りつける。
宇佐美は懐からメモ帳を取り出しペンを構えた。
ユキ,「あとは……待つだけね」
そう、あとは、橋本からの入電を待つだけだった。
ややあって、時田の携帯がけたたましく鳴った。
…………。
……。
;ノベル形式
時田ユキが犯罪交渉術に目覚めたのは、幼い子供のころだ。
 ユキの母は過去において、それなりに著名なアーティストだった。ボランティア団体や暴力団関係筋の要請で、たびたび刑務所の慰問に訪れていた。幼いユキは、刑務所の外で母の帰りを待つうちに、高い塀の向こうに暮らすことを強要される人々に興味を覚えた。
 母から刑務所内にいる囚人の様子を聞くと、ユキの心はなおさら高鳴った。悪いことをしてはいけないと諭す大人が、悪いことをしているのだ。犯罪者と呼ばれる人たちの心を知りたくなった。なぜ、人が人を殺すのか、どうしてお金を盗もうとしたのか、なにがその人をそこまで追い詰めたのか。
ぜひとも犯罪者と話がしてみたい。
 子供の無邪気だが遠慮のない興味は、母を大変に困らせた。母に付き添って刑務所の門をくぐろうとしたことすらある。反対されればされるほど、気になってしかたがなかった。子供は入場を許されない闇がそこにあるのだから。
 それでも、ユキは犯罪者と接触することができた。慰問に訪れた母に宛てて、囚人から手紙が届くのだ。中身を読ませてもらうよう母に拝み倒したが、良識ある母親は決して子供の目に触れさせなかった。
しかし、賢い少女は、手紙の中身こそ読めなかったが、囚人の姓名を記憶していた。それは、やがて時がたち、便りを寄せた囚人が仮出所したとき、保護観察所を訪れるための口実となった。
 ――昔、母に手紙を出しましたよね?
 念願かなって、ユキはついに元服役囚と対面することができた。そのころには、母も亡くなっていて、ユキも福祉施設で暮らしていた。施設には心を閉ざした少年少女が多いなか、ユキは活動的だった。積極的に周囲に話しかけて人の心を知ろうとする。それは、父に捨てられ、母も死んだ自分への慰みだったのかもしれない。ユキと同じような境遇の子供たちを知ることで、自分自身を知ろうとしたのかもしれなかった。
前科を持つ人々と会うのに恐怖はなかった。母から話をよく聞いていたし、なにより、孤独となったユキには、もう失うものなどなかった。
 ひと月に一人か二人。心優しい人がほとんどだった。なにかの間違いで犯罪者となったとしか思えない。娘のように扱ってくれたこともある。ユキは規律の厳しい施設の監視の目をかいくぐって、過ちを犯した男たちとの対話を楽しんだ。
ユキはあとで知ったことだが、こういった少女の"お楽しみの時間"は、警察対テロ部隊における人質交渉班の訓練と同期するものがあった。人質交渉班における犯人像の特定、すなわちプロファイリングは、科学的手法だけで達成されるものではない。他人の心理を把握する公式は存在せず、マニュアルはヒントにしかならない。「習うより慣れろ」。実際に、人質交渉班の人間は刑務所を直接訪問し、様々なタイプの犯罪者と面接を行う。実地経験を通して感覚を磨くのだ。経験則が鍛えられれば、実際に事件が起こったときにも犯人の心理状態のベースを把握することができた。とはいえ少女のユキには心を開く犯罪者も、お上の命令を受けてやってきた警察官には嘘をつく場合もあるという。
こういった経験のなかで、ユキは知らず知らずのうちに、目的と感情を持って犯行を起こす犯人像にいくつかのパターンがあることを学んでいた。
 はたから見れば気味の悪い子供だった。少女漫画に傾倒する友達の横で、犯罪心理学の本を読みふけった。そうして、自らがすでに体感した犯罪者のパターンに、学者が作った言葉を当てはめていく。そんな作業に没頭する少女は、いつしか大人びた、どこか達観したような人間へと成長していった。
 いま、ユキは自分をこう分析する。
 ――父に母子ともども捨てられたくらいで、人を分析しなくては信用できなくなった、つまらない女……。
そんなつまらない女にも、譲れないもの、守りたいものはある。
 ユキは、呼吸を整え、内面からネガティブな感情を追い払った。
 犯人との交渉が始まる。
 まず、交渉の目的を定める。目的を持って人と話すのはなにより重要なことだった。
 ユキは、犯人を無意味に刺激せぬよう、穏やかな声音を選んでしゃべりだした。
ユキ,「また連絡してきてくれて、うれしいわ――」
;通常形式
橋本,「時田、なんの真似だ!?」
宇佐美が買ってきた端末機器から、橋本の声が響いた。
橋本,「警察に連絡するなと言っただろう!?」
ユキ,「落ち着いて欲しいわ、橋本くん」
橋本,「ああっ!?」
ユキ,「警察じゃないわ。よく見て、橋本くん。パトカーのランプでも見える?」
橋本が息を詰まらせるのがわかった。
橋本,「じゃあ、なんだっていうんだ!?」
ユキ,「彼らは京介くんのお友達よ」
橋本,「浅井の!?」
ユキ,「そう、やけに柄が悪いでしょう。警察とはある意味対極にいる人たちだから、まずは落ち着いて欲しいわ」
橋本,「てめえ……学園を囲みやがったな?」
ユキ,「否定はしないわ」
橋本,「ふざけるなよ、このアマ。どういう状況かわかってるんだろ。おめえの腹違いの妹をぶっ殺されたいのか?」
歪みきった声。
橋本とは同じクラスでもたいして話をしたことはない。
おれと似たような年齢の男が、人質を取って立て篭もるなんていまだに実感が湧かない。
世間ではたまに増加する青少年の犯罪がどうのというが、それを目の当たりにしてなお、テレビの向こうの出来事のように思ってしまう。
いったいなにが、こうまで橋本を追い詰めたのか。
橋本,「親父が刑事だかなんだか知らねえが、あまり俺を怒らせるなよ。ためしに、隣の部屋でびいびいうるせえ先公を窓から突き落としてやろうか?」
ユキ,「そうね。あなたにはいま、それだけの力があるわ。ただ、橋本くん。ノリコ先生を殺すのが、あなたの目的ではないと思うのだけれど?」
橋本,「それはそうだが、見せしめってのは大事だろう?」
時田は一瞬、目を伏せて、何事か考えるような間を取った。
ユキ,「橋本くんをみくびっていたことは認めるわ」
橋本,「なに?」
ユキ,「橋本くんは、せいぜい黒板に落書きするくらいのことしかできない人だと思ってたの」
橋本,「そうかよ、いまさら反省しても遅いぞ」
ユキ,「まったくだわ。まさか、夜中に学園に忍び込んで水羽とノリコ先生を人質にとって立て篭もるなんて、誰が想像できたかしら」
そう言うと、橋本の声に優越感の色が混じった。
橋本,「ふん、お前は心理学を勉強してたって? 笑えるな?」
ユキ,「好きなだけ笑ってちょうだい。実際、私も少しかじった程度の素人なのだから」
そして、ため息混じりに付け足した。
ユキ,「あなたを学園でなじったことは謝るわ」
たしか、廊下で橋本を追い込んでいたっけ……。
橋本,「そうやってご機嫌を取ろうとしたって無駄だぞ」
ユキ,「わかっているわ。あなたはスポーツも得意だけれど、成績も優秀みたいだし。そんな人が、計算もなしに無茶を犯すはずがないもの」
嘲るような笑いが返ってきた。
橋本,「いいだろう、時田。のせられてやる。俺の目的を知りたいんだろう?」
ユキ,「教えてもらえると、すごくうれしいわ」
橋本は余裕そうに要求を言った。
橋本,「金だ」
ユキ,「……お金?」
さすがに時田も眉をひそめた。
橋本,「250と5万、それに慰謝料の300万を足して白鳥理事長に払ってもらおうか」
ユキ,「250、5万?」
橋本,「わかるだろう? 理事長が着服した金だよ。5万はゴルフの優待券だったかな?」
……まさか、金とは……。
ユキ,「差し出がましいかもしれないけれど、それがあなたの本当の望みなの?」
橋本,「おいおい、まだ俺をみくびってるみたいだな」
ユキ,「……というと?」
橋本,「理事長は腐った野郎だよ。俺の親父を警察に売って、てめえだけは助かろうとしやがった。本来なら警察に出頭させたいところだ」
ユキ,「てっきり、そういう要求かと思っていたわ」
橋本,「でも、俺の親父もそうだが、まず実刑なんてあり得ないんだよ。警察に引き渡したところで、執行猶予だのとくだらねえことになる」
たしかに、橋本の言うとおりだ。
収賄事件なんかは、執行猶予がつくのをよく見る。
橋本が真に望むように、理事長が刑務所に入れられることはまずないだろう。
ユキ,「なるほど、だから警察には関わって欲しくないのね?」
橋本,「俺にだって将来があるのさ」
ユキ,「あなたはバスケットボールの名プレイヤーだものね」
橋本,「ノリコ先生には悪いことをしたと思っている。本来は白鳥だけを人質にする計画だった」
ユキ,「だったらなぜ?」
橋本,「白鳥を校門の前でさらって、学園のなかに入ったとき、偶然廊下で出くわしたものでな」
ユキ,「学園に立て篭もったのはなぜ?」
橋本,「お前らが警察を頼るとも思ったからな。その場合、当然、俺は終わりだが、学園の評判もがた落ちになると思わないか?」
……なるほど、立て篭もり事件があった学園なんかに、誰が進んで入学したがるものか。
最悪の場合、自分が破滅してでもこの学園に復讐するつもりのようだ。
ユキ,「私たちが今日、学園に来ることはどうして知っていたの?」
橋本,「おとといだったか。お前と浅井が教室でそんな話をしていたのを聞いたんだ。寒空のなか、待たせてもらったよ」
時田は、わかったわ、とひと息ついた。
ユキ,「肝心の水羽はもちろん無事なのよね?」
橋本,「無事じゃないと、さすがに取引にならないだろう」
そこで、なにやら、ごそごそとくぐもった音が響いた。
水羽,「姉さん……!」
白鳥の声。
ユキ,「水羽、怪我はない?」
水羽,「うん、少し頭がずきずきするくらいで……」
橋本,「おしゃべりはその辺にしてもらおうか」
橋本が割って入ってきた。
橋本,「わかっただろう。かわいい妹は無傷だ。もっとも、これからのお前のがんばり次第だがな」
ユキ,「私を指名してきたのは、水羽の姉だから?」
橋本,「そう。必死になって理事長を説得してくれるんじゃないかと期待している」
ユキ,「なるほど、なかなか考えたわね。ひとまず、理事長をこの場に呼んだほうがいいのかしら?」
橋本,「いますぐにだ」
ユキ,「すぐには無理よ、ここから南区の水羽の自宅までがんばっても一時間はかかるわ」
……一時間は言いすぎだと思うが……。
橋本,「娘の一大事だぞ? 車を飛ばして来させろ」
ユキ,「気持ちはわたしも同じだけれど、きのう今日と、けっこうな雪が降ったでしょう? だから、あっちこっちで通行止めになってるみたいなのよ」
橋本,「くそが……」
ユキ,「でも、なるべく急いで来るようかけあってみるわ」
橋本,「三十分以内だ」
ユキ,「難しいわ。せめて四十分」
橋本の舌打ちが聞こえた。
橋本,「わかった。少しでも遅れたら白鳥の顔に傷をつけてやる」
とんでもない脅しに、時田は顔色一つ変えなかった。
ユキ,「ありがとう。急ぐわ。理事長が到着したら、また連絡すればいいのね?」
橋本,「ああ、番号を言う……」
橋本の携帯番号を、宇佐美がメモにすばやく書き取った。
橋本,「急げよ。もう一度言うが、俺は本気だ」
通話が切れた。
通話を終えた時田が、腕を組んでうなるように言った。
ユキ,「ひとまず、要求を聞くことはできた、けど……」
京介,「どうだ?」
ユキ,「彼は肝もすわっているようだし、頭もキレるわ」
京介,「そうか? おれは橋本はそれほど気が強そうなタイプには見えなかったが?」
栄一,「学園でも、けっこう寡黙なほうだよ?」
京介,「『あまり俺を怒らせるな』『俺は本気だ』とか、なんとも程度の低そうなことばかり言っていたぞ。あまり度胸がありそうな男とは思えないが?」
時田はゆっくりと首を振った。
ユキ,「犯人が本当に臆病な場合はね、たとえば銃弾の入っていない拳銃を警察に向けたり、わざと警官に見えるように人質にナイフを突きつけたりするの」
京介,「……ふむ」
ユキ,「でも、彼はどう? 言葉こそ粗暴犯のように振舞っているけれど、自分の将来、保身を考えて、実現可能な範囲の要求をつきつけてきたわ」
京介,「そうか……たしかにな」
時田は、目を細めた。
ユキ,「ここで講義をするつもりはないけれど、立て篭もり犯のタイプにはいくつかあるの。そのなかで彼は、要求が明確で冷静なタイプ」
京介,「そういうタイプにはどう対応していくのがいいんだ?」
ユキ,「時間をかけて現実を直視した交渉を行うだけよ。犯人側も冷静だから、交渉の過程でお互いに譲歩しあうことで、たいてい決着がつくわ」
京介,「なんとも、抽象的だな……」
ユキ,「マニュアルに書いてあることだからね。でも、お互いの譲歩はすでにあったでしょう?」
京介,「ああ、お前が理事長の到着を一時間と言って、ヤツは三十分と言ってきた」
ユキ,「そこで、私が四十分と言ったところ、彼は受け入れたわ」
京介,「なるほど、橋本がただのキレた野郎だったら、とにかく三十分で来いとか言いそうなものだからな」
不意に、栄一が手をあげた。
栄一,「えっと、とりあえず、理事長を呼んだほうがよくない?」
ユキ,「……そうね、その前に栄一くん、初仕事よ」
栄一,「え?」
ユキ,「コンビニで、携帯電話の即席充電機を買ってきて欲しいの」
栄一,「あ、うん、わかった」
途中で電話が切れたらシャレにならんからな。
ユキ,「本来なら、携帯電話なんて使っちゃいけないんだけれどね」
栄一はすぐさま走り去った。
ノリコ先生のことが心配なのか、いつものふざけた感じがまったくなかった。
ユキ,「それじゃ、水羽の自宅に電話するわ」
京介,「来てもらえるだろうか?」
ユキ,「だいじょうぶだと思うわ。あの人は、私に引け目もあるし」
時田の声に、少し影が落ちた。
京介,「宇佐美、なにかあるか?」
ハル,「いえ……書き留めるのに精一杯でした」
宇佐美のノートを見る。
京介,「って、てめえなに書いてんだ?」
アニメのキャラクターがそこにいた。
ハル,「ル○ンですけど?」
京介,「おい!」
ハル,「三世ですよ、三世」
京介,「何世とか問題じゃねえんだよ! てめえなにしてんだ!」
ハル,「すみません、危機的状況に陥ると、素数を数えながらル○ンを描きたくなるんです」
京介,「……もうどっからツッコんでいいのかわからねえよ」
ハル,「というのは冗談で、いちおう橋本さんの似顔絵です」
あ……。
京介,「まあ、たしかにちょっと似てるかもな」
ハル,「ええ、自分、速記ができるわけじゃないんで、これだけの会話を記録しようと思ったら、絵に頼った方が理解しやすいかなと」
京介,「わかったよ。回りくどいヤツだな……」
ハル,「で、記録係の意見ではないんですがね」
京介,「うん?」
ハル,「ほら、理科準備室の窓、見てくださいよ」
おれは、言われた場所を見上げる。
ハル,「懐中電灯の明かりがちらちらしてますよね?」
京介,「それがどうした?」
ハル,「いえ、ユキの見立てでは橋本さんは冷静だということですが?」
京介,「…………」
ハル,「落ち着きなく、室内をうろついているようにも見えませんか?」
京介,「そうだな……なにか向こうであったのか……」
さりげなく時田を見やると、すでに理事長との交渉の真っ最中だった。
ユキ,「ええ、状況はおわかりでしょう?」
理事長,「し、しかし、信じられん」
ユキ,「ですから、その目で直接お確かめください。犯人の要求を呑むかどうかは、そのあとで決めても遅くはありません」
理事長,「こ、こんなことが、世間に知れたら……」
ユキ,「落ち着いてください。犯人も警察の介入は避けようとしています。もっとも、あなたがここに来ていただけないことには、最悪の事態が待っていますが?」
時田の声には、いつも柔和な時田らしからぬものがあった。
理事長は、時田を母子ともども見捨てたというのだから、心中穏やかなものではないのだろう。
おれだったら、娘の命がかかっているのだから、早く来いと怒鳴りつけているかもしれない。
ユキ,「お願いします、お父さん……」
目を見張った。
時田が憎き父に頭を下げたのだ。
妹の命のため、自分のプライドを捨て去った。
理事長,「……わかった。すぐにそっちに向かう」
押し殺すような声を最後に、不通音が鳴り響いた。
ユキ,「ハル、あなたの言うことはもっともだわ」
すぐさま気を取り直したように言う。
ユキ,「私も、犯人像の特定を急ぎすぎたのかもしれない。もう一度、こちらから連絡してみるわ」
京介,「ちょっと待て。理事長が到着してから電話をかけるという取り決めだったはずだぞ?」
ユキ,「あの様子では、四十分以内に来るとは思えないわ。時間を引き伸ばす必要もあるのよ」
京介,「わかった……」
おれは渋々うなずいた。
京介,「ただ、まあ、よく理事長を説得したな」
褒めたつもりだったが、時田はやるせなさそうに目線を落とした。
ユキ,「本当は、犯人の要求する人間を連れてきてはいけないものなのよ。犯人の本当の目的が、たとえば理事長を殺害することだったらどうするの?」
京介,「…………」
ユキ,「それでも理事長に来てもらうのはね、責任を取ってもらいたいからよ」
時田を責めることはできなかった。
ユキ,「ごめんなさいね。私だって人間だし、思うところはあるの」
;黒画面
…………。
……。
間をおかずして、時田が橋本に電話をかけた。
橋本,「やけに早いな」
ユキ,「いいニュースよ。理事長がいまこちらに向かってる」
橋本,「それは良かった。で、時間通り来れそうにはないから、もう少し待って欲しいのか?」
時田は声に出して笑った。
ユキ,「あなたに嘘はつけそうにないわね」
橋本,「なめるなと言っているんだ」
ユキ,「それは、十分承知しているわ。ところで、橋本くんは、いま何をしているの?」
橋本,「何って? お前の妹ににらまれているよ」
ユキ,「水羽は、理事長に似てとっても気が小さいの。虚勢を張っているだけだから、許してあげてもらえないかしら?」
ふんと、橋本が鼻を鳴らした。
橋本,「そうだな。親のやったことは子供には関係ないからな。俺だってそうさ。親父のせいで部活でも白い目で見られる。理不尽な話だとは思わないか?」
ユキ,「まったくだわ。ただ、あなたは学園にとってなくてはならない存在でしょう?」
橋本,「おだてるなよ。転入してきたばかりのお前は知らんだろうが、この学園はスポーツも盛んでな。バスケだけじゃない、ほらあのアイスアリーナを見ろよ、浅井花音みたいなのがなくてはならない存在っていうんだよ」
ユキ,「でも、私はあなたもすごい選手だと聞いているわ。ポジションはセンター?」
橋本,「当たり前だろう。それがどうした?」
ユキ,「私も背が高いでしょう? バスケ部とバレー部からは、しつこく勧誘を受けていてね。それで、ちょっと興味を持ったのよ」
橋本,「お前みたいに筋肉のない女には無理だ」
ユキ,「その通りね。ためしに前の学園でちょっと入部してみたの。ピッペンっていう選手がモデルのバスケットシューズも買ったのに、一週間で履かなくなったわ」
橋本,「スコッティ・ピッペンか……ありゃ、いい選手だった」
ユキ,「シカゴブルズの人だっけ?」
橋本,「昔の選手だがな。巷じゃ、みんなジョーダンばっかり褒め称えてたけど、ピッペンがいたからブルズは強かったんだ」
ユキ,「なにごともチームワークは大切よね」
そこで、橋本の高笑いが響いた。
橋本,「そうだな、いまのは一本取られたな」
ユキ,「どうしたの?」
橋本,「チームワークだよ。たしかに、俺もお前の協力なくしては目的を達成できない」
ユキ,「さすがね。だったら、お互いに歩み寄れるはずよ?」
橋本,「お前らが素直に要求を呑めば、すべて丸く収まる。明日からは、また何事もなかったように学園が始まる」
ユキ,「そう願っているわ。あなたが怖い人たちにボコボコにされるところなんてみたくないもの」
橋本,「俺だって、妹を殺されて悲しみに暮れる時田を見たくはない」
ユキ,「…………」
橋本,「…………」
……時田の言うように、橋本はそれなりに頭がキレるな。
常に、時田の先を行くように会話を進めようとしている。
橋本,「で、我らが理事長はまだなのか?」
ユキ,「残念なことにね」
橋本,「それは困ったな。あまりもたもたしていると、近所の人のいいおばちゃんが、警察に通報するかもしれない。そうなったら、悲しい結末になる」
ユキ,「承知しているわ。私だって、一刻も早く理事長には来てもらいたいと思ってる。だから、そうね……」
含むような間を取って言った。
ユキ,「なにか、欲しいものはある?」
橋本,「懐柔しようってんだな? まあいい、理事長をあっさり説き伏せた手腕は評価しよう」
ユキ,「ありがとう。それで、ハンバーガーでも食べる?」
橋本,「あいにく腹は空かせてない。ドラマなんかで立て篭もり犯がピザと引き換えに人質を解放するところを見るが、実際こうなってみると食欲なんて湧かないもんだ」
ユキ,「そう? アメリカではけっこうそういう事例もあるけれど?」
橋本,「わかったよ、あまりに空腹になったらお願いするとしよう。でも、いまはいらない。代わりにお前の初体験の思い出でも聞かせてもらおうか」
ユキ,「あいにくと、私はプライドが高すぎるのか、男性とおつきあいしたことがないの」
橋本,「本当かねえ……」
下卑た笑い声が上がる。
こういうところは、青臭いガキって感じだが……。
ユキ,「私を動揺させようとして、わざとそんないやらしいことを言ったのね?」
橋本が息を詰まらせた。
橋本,「……ああ、そうさ。さすがだな。小細工は通じねえか」
なんとも狡猾な野郎だ。
橋本,「一度、電話をきるぞ。しゃべり疲れたんでな。差し入れをくれるってんなら飲み物を用意しとけ。スポーツドリンクがいい。お前の妹も喉が渇いたみたいだぜ?」
ユキ,「スポーツドリンクね。それじゃ、またね」
再び、辺りは静寂に包まれた。
京介,「理科準備室から、懐中電灯の明かりが消えたな」
ハル,「ですね。橋本さんも落ち着いてきたんでしょうか」
ユキ,「なかなか、手こずらせてくれるわね」
ハル,「お疲れ、ユキ……」
ユキ,「ハル、飲み物」
ハル,「あ、はい! コーラでいいすか?」
いきなりパシリと化す宇佐美。
ユキ,「甘口のコーヒー。ついでに、橋本くんご所望のスポーツドリンクも」
ハル,「お金を!」
ユキ,「あ、待って。コンビニで紙コップも買ってきて」
ハル,「紙コップ?」
ユキ,「ええ、ペットボトルのドリンクと紙コップを差し入れることで、犯人が人質に危害を加える確率が下がるの」
京介,「どういうことだ、時田?」
ユキ,「聞いたことない? ストックホルム症候群って」
京介,「うん……犯人と人質が、いつの間にか仲良くなっちまうって話だろ?」
ユキ,「そう。長い緊張状態を共にすることで、連帯感が生まれるの」
京介,「ああ、なるほど……つまり、こういうことか?」
京介,「橋本は、白鳥も喉が渇いたとか言っていたな。てことは、紙コップとペットボトルのドリンクを差し入れれば……」
ユキ,「そうよ。橋本くんが、水羽に飲み物をついであげなくてはならないでしょう? それが、犯人と人質の連帯感情を高めるの」
京介,「そうだな。もちろん、橋本は白鳥を無視して一人でドリンクを飲むかもしれんが、そこにコップがある以上、白鳥を意識はするだろうな」
時田もうなずいた。
ユキ,「ストックホルミングは、多くの場合、人質交渉を助けてくれるわ。犯人が人質を大切に思えば、それだけ解放の時間も早まる」
ハル,「とりあえず、わかりました。ダッシュで行きます」
時田から駄賃を受け取って、宇佐美は近場のコンビニに向かった。
ユキ,「それで、指揮官の京介くん。犯人にスポーツドリンクを与えていいかしら?」
京介,「かまわんだろう。反対する理由が見当たらない」
ユキ,「そう言ってくれると思ったわ」
京介,「しかし、お前って男いなかったんだな」
ユキ,「あら? 私に興味あり?」
京介,「本当なのか?」
ユキ,「交渉中は嘘をついてはいけないわ。嘘をついたら、それまで積み上げてきた信頼関係が崩れてしまうもの」
京介,「信頼関係か……西条のときもそうだったが、犯人と同調するっていうのは重要なテクニックなのか?」
ユキ,「ネゴシエーターがあくまで強硬な姿勢を貫くと、交渉ごとは20%も合意に達しないの。逆に、相手の要求にたいして見返りを求めていくような協調体制を確立できれば、80%もの確率で事件が解決するわ」
京介,「そういうものなのか……」
時田は、おれが感心しているのを読み取ったように頬を緩めた。
ユキ,「私だってFBIの特別な訓練を受けたわけじゃないのよ。でも、考えてみてよ。人生って毎日が交渉の連続じゃない?」
京介,「そう言われるとな」
おれもうなずいた。
ユキ,「朝起きて何時までに帰ってくるよう言われて、学園で先生からあれやこれやと質問されて」
京介,「まあ、たいていの場合は、いまみたいに差し迫った状況じゃないけど、毎日が選択と交渉の連続なのはそうだな」
ユキ,「あなたなら、接待もするんでしょう?」
京介,「ああ、仲良くなるのは、当然商談をまとめるためだ」
ユキ,「だから、誰もが交渉人なのよ。私はたまたま、犯罪者に興味を持ってしまったからそっち方面を勉強してただけ」
京介,「おかしな女だ」
ユキ,「ええ、だから恋人もできない」
自嘲すると、時田はまた鋭い目つきで、理科準備室を見上げていた。
;黒画面
…………。
……。
栄一,「ただいま、なんか進展あった?」
京介,「ああ、たったいま、理事長が到着した」
理事長は、服装こそ立派だが、頼りなさげな中年といった印象だった。
後退した前髪に脂汗を浮かべて、時田から事情を聞いていた。
理事長,「あの、校舎を取り囲んでいる連中は?」
京介,「おれの知人です」
理事長,「あ、君は……」
京介,「正月にお会いしましたね。そうです、父の組の方々ですよ」
理事長は深いため息とともに、頭を抱えた。
時田は、そんな父を憮然と見据えながら言った。
ユキ,「要求は、合計して555万です。用意できますか?」
理事長,「そんな大金……」
目に狡猾な光が宿ったのを、おれも時田も見逃さなかった。
ユキ,「どうやら、用意できるようですね」
理事長,「しかし、こんな時間だ……銀行だって閉まってる」
京介,「たしかに銀行は閉まっていますね。しかし、不正に受け取った金をそのまま銀行に預ける馬鹿はいません」
ユキ,「以前、水羽を尋ねてご自宅におうかがいしたとき、金庫があるのを確認しましたが?」
理事長,「……っ……」
ユキ,「問題は、着服した250万に上乗せされた300万ですが、それもだいじょうぶでしょうか?」
最悪の場合、おれが立て替えるという手もあるが……。
理事長,「わかった、すまなかった。まさか、こんな大事になるなんて……」
ユキ,「答えになってません。全額、いま用意できるんですか?」
死人に鞭を打つような口調だった。
理事長,「ああ、できるとも……たったの500だろう?」
たったの、と強がってはいるが、この人はそれでいろいろなものを失ったことに気づいていないようだ。
ユキ,「ありがとうございます。それでは、犯人に連絡しますので」
数回のコールの後、陽気そうな橋本の声が届いた。
橋本,「理事長のご到着か?」
ユキ,「ええ、待望のね。お金も用意できるって」
橋本,「そうかそうか、銀行が閉まってるだのと見え透いたことを言われたら、娘を傷物にしてやるところだった」
ユキ,「安心して。もう、あなたの望みはかなったも同然よ」
理事長,「その前に、娘は、水羽は無事なんだろうな!?」
不意に、理事長が口をはさんできた。
橋本,「さっき声を聞かせてやったんだがな? もう一度聞きたいか? 今度は悲鳴を上げさせてやってもいい」
ユキ,「やめて。あなたの目的はお金でしょう。水羽を傷つけたって、なんの意味もないはずよ?」
橋本,「クク……冗談だよ、時田。そのくたびれたおっさんを黙らせときな。じゃないと冗談が本気になるかもしれん」
時田が、理事長を一瞥する。
理事長はわなわなと震えながら、押し黙った。
橋本,「さて、金の準備だが……」
ユキ,「そうね、いまから自宅に現金を取りに帰るから、往復で二時間見てもらえれば間違いないわ」
橋本,「理事長の妻を使って、金を届けさせろ。そうすれば、一時間で来れるだろう?」
ユキ,「それが可能かどうか、聞いてみてもいい?」
橋本,「そうだな。ついでに、飲み物も持って来い」
ユキ,「いいわ。その代わりといってはなんだけれど、ノリコ先生を解放してもらえる?」
橋本,「ジュースと人の命じゃ割に合わないが、まあいいだろう。もともとノリコ先生は無関係だからな」
ユキ,「じゃあ、いまから栄一くんに持っていってもらうわ」
栄一,「えっ!?」
栄一の顔に緊張が走る。
橋本,「お前が持って来い、時田」
ユキ,「私が?」
橋本,「俺はお前が気に入った。なぜだかわかるか?」
ユキ,「私だって、理事長を快く思っていないからでしょう?」
橋本は我が意を得たりと、笑った。
橋本,「つまり、俺たちは仲間ってことさ。かわいいぼうやだ」
ハル,「…………」
その瞬間、宇佐美のメモを取るペンが止まった。
ユキ,「ご指名ありがとう」
時田はあくまで落ち着いていた。
ユキ,「いまから飲み物を持っていくわ」
;黒画面
…………。
……。
時田は買ったペットボトルを持って、校舎の闇のなかに入っていった。
栄一,「つーか、オレいまだに実感湧かないんだけど……」
京介,「まあ、気持ちはわかる」
栄一,「マジ、ノリコ先生、解放してくれんのかねえ」
京介,「いままでの会話はけっこう順調だったからな、宇佐美?」
ハル,「そうですね。さすがユキです。正直、自分なんてなんの役にも立ってません」
京介,「それはおれも同じだ。交渉ごとはチームでやるとかいうが、ほとんど時田に任せているようなものだ」
ハル,「いや、ホント、ユキは頼りになります。自分の唯一の友達ですから」
京介,「あいつもちょっと変わってるし、妙にウマがあったのか?」
ハル,「一度、家に泊めてもらいましてね。それ以来、主従の関係となりました」
京介,「…………」
ハル,「朝は起こしてあげて、昼は胸を揉まれ、夜は肩を揉まされました」
京介,「お前、それでよく友達でいられたな」
ハル,「なぜか、頭が上がらないんですよ。さすがにトサカに来たぜって思っても、相対してしゃべってると、まあいっかーってなるんです」
京介,「ま、いるよな、そういうヤツ……」
ハル,「しかし、私がお金に困ると、いつもラーメンおごってくれました。誕生日にはペンギンのぬいぐるみももらいましたし……いやはや、懐かしい、遠い日の記憶です」
京介,「まるで死んだ人みたいに言うなよ」
ハル,「私はユキの誕生日に、『世界の拷問』という本をプレゼントしました」
京介,「いやいやいや、あいつにそんなもん与えるな」
ハル,「すごい喜んでましたね……いやはや懐かしい、在りし日の追憶です」
遠い目で、校舎の窓を見上げていた。
理事長,「浅井くん……」
理事長が遠慮がちに声をかけてきた。
京介,「どうです? お金は持って来てもらえるようですか?」
理事長,「ああ、妻がいまからタクシーを拾って来るそうだ……」
うなだれるように言った。
理事長,「これで、全部丸く収まるのかね?」
京介,「ひとまず、この事件が表ざたになることはなさそうですよ」
理事長,「だと、いいんだがね」
重いため息が返ってきた。
理事長,「まさか、娘がこんな目に合うなんて……こんな、こんなことなら……」
その言葉の続きを予測するのは容易かった。
とっとと罪を認めておけばよかったのだと、理事長は疲れきった顔を両手で覆っていた。
京介,「…………」
おれの父も、こんなふうに、息子を思って嘆いたのだろうか。
……っ。
いかんな、頭がふらつく。
何も考えないようにしよう。
ようやく良心の呵責に目覚めた無様な父親が、そこにいるだけだ。
栄一,「京介、どした?」
京介,「む?」
栄一,「いや、お前ってたまーに、すげえ目つきになるよな」
ハル,「……ですよね」
京介,「そうか?」
栄一,「うん、なんか悩みあるなら、人生経験豊富なオレに相談しろよ?」
京介,「フフ……」
ハル,「…………」
京介,「どうした、宇佐美まで?」
ハル,「いえ、自分もなにかお役に立てるのであれば、と」
京介,「役に、か」
ハル,「……なんです?」
京介,「いいや、そんなことより、時田が戻ってきたようだぞ?」
栄一,「あ、ホントだ、ノリコ先生もいる!」
時田がノリコ先生の肩を支えながら、玄関を出てきた。
ユキ,「ただいま」
ハル,「ユキ、なにもされなかったか?」
ユキ,「ええ、意外と紳士よ、彼は」
栄一,「先生、怪我はない?」
ノリコ先生は、恐怖に腰が抜けたのか、その場にへたりこんでしまった。
女教師,「……ご、ごめんなさい……だいたいの事情は時田さんから聞いたわ」
ハル,「中の様子はどうです?」
ユキ,「残念ながら、まったくわからなかったそうよ。真っ暗な薬品室に閉じ込められて、恐怖に震えていたみたい」
女教師,「隣の理科準備室から、たまに橋本くんの怒鳴り声が聞こえてね……ああ……とても、現実とは思えないわ……」
栄一,「だ、だいじょうぶだよ、ボクがついてるよ!」
さっと手を取る栄一だった。
京介,「時田はどうだ? 理科準備室の様子はどうだった?」
ユキ,「ええ、廊下の窓から覗いたのだけれど、水羽は後ろ手に手錠をかけられていたわ。橋本くんはナイフを片手に、飲み物を廊下に置いていくよう指示してきた」
ユキ,「私はそれにしたがって飲み物を残すと、隣の部屋のノリコ先生を助けに行ったわ」
京介,「どうして橋本は、ノリコ先生だけ隣の部屋に閉じ込めておいたんだ?」
ユキ,「そうね。二人いっしょのほうが、管理しやすいのに……」
宇佐美がノリコ先生を見ながら言った。
ハル,「ノリコ先生のぶんの手錠なりロープなりがなかったからでしょう」
ユキ,「なるほど。橋本くんもノリコ先生を人質に取る気はなかったみたいだし、用意がなかったのね」
京介,「時田との交渉中にいきなり襲い掛かられでもしたら、たまらないからな」
ふと、理事長がノリコ先生に向かって頭を下げていた。
理事長,「……先生、このことは、内密にお願いしたいのですが……?」
女教師,「な、内密にって……こんな犯罪をですか、白鳥理事長? いますぐにでも警察に連絡するべきです」
もっともな意見だ。
理事長,「犯人は警察に連絡すれば、娘を殺すと言っているんです。親として、そんなまねはできません……」
本心なのか、それとも自らの学園を守るためか、とにかく理事長は必死だった。
ユキ,「まずは、人質の命を優先しましょう。犯人は要求さえ満たせれば、水羽を解放してくれます」
自信ありげに言う時田に気圧されたのか、ノリコ先生も戸惑うような顔でうつむいた。
女教師,「……時田さんが、私を救ってくれたのだから……わからないわけでもないけれど……」
京介,「先生、おれも考えましたが、いまさら警察を呼ぶというのはないです」
警察が来たら、集まってきた園山組の極道たちがなにを言い出すかわからん。
下手すると、ヤクザと警察でひと悶着あって、交渉どころではなくなるかもしれない。
女教師,「……あなたたちは、いったい?」
時田が微笑んだ。
ユキ,「勇者とそのご一行ですよ」
;黒画面
…………。
……。
京介,「しかし、時田……」
現金が届く前に確認したいことがあった。
京介,「このまま、犯人の要求に従って、金を渡すのか?」
ユキ,「……どう思う、指揮官?」
逆に挑戦するような笑みを浮かべた。
おれは、少し迷いながらも答えた。
京介,「白鳥の安全を確保するのが一番の目標だ。すると、やはり、金を渡す必要はあるな」
ユキ,「同じ意見だわ」
京介,「ただ、金を渡せば人質を解放するという確約がない」
ユキ,「私の見立てでは、彼は目的さえ達成できれば約束は守るタイプだと思うけれど?」
京介,「まあ、もちろん、橋本が白鳥を殺したところで、なんの得にもならないがな……」
ユキ,「ええ、彼が本当に殺したいのは……」
ちらと理事長を一瞥した。
京介,「だな」
おれは時田と理事長を交互に見比べながら、判断を急いだ。
京介,「宇佐美は、なにかあるか?」
宇佐美は、あごを手の甲で撫でて、なにやら考えていたようだ。
ハル,「……橋本さんは、現金を受け取ってどうやって逃亡するつもりなのでしょうか?」
京介,「逃亡する? ヤツは、逃げるってのか?」
ハル,「ええ、彼は、自分にも将来があるとか言っていましたが、どうなんでしょう?」
これは、おれたちにとって重大な見落としといえた。
ハル,「人質を取って、校舎に立て篭もったんですよ? その上五百万からの現金を奪って、明日から何事もなかったかのように部活にせいをだす橋本さんがいると思いますか?」
ユキ,「ハルの言うとおりだわ……」
ハル,「水羽を解放してしまえば、我々も理事長も、もう彼の命令を聞く必要がありません。一度奪われた現金も、なんとかして取り返すでしょう?」
ハル,「警察ではなく、我々に挑戦してきたのは、単に、我々のほうが与しやすいと思ったからでしょう。さらにいえば、ユキへの復讐も兼ねているのかもしれませんが」
ハル,「浅井さん、もともと、橋本さんは目だし帽をかぶっていましたよね?」
京介,「ああ、顔をすっぽりと覆うような……実際、声を上げるまで、橋本だとは気づかなかった」
ハル,「ということは、橋本さんは、変声機でも使い、自分の身元を隠して交渉に乗り出す予定だったのでしょう。しかし、わたしと浅井さんがいち早く現場に駆けつけたものだから、やむを得ず正体をさらしたんです」
京介,「……かもしれんな」
ハル,「橋本さんは、自分の正体をばらさずに現金を奪うつもりだった。これならば、明日から何食わぬ顔で学園に来るつもりだったとしても、おかしくはありません」
おれも納得がいった。
京介,「しかし、正体を晒している以上、ヤツはもう終わりだ。逃げるに決まっている」
ハル,「問題は、この包囲網のなかで、どうやって逃げるのかということです」
ユキ,「一番考えられるのは、水羽を人質にしたまま、用意させた車で逃走するというパターンね」
ハル,「…………」
宇佐美は、さっきから、いやに怖い顔をしている。
ハル,「どうも、おかしいですね」
京介,「…………」
ハル,「勘ですがね」
おれは、半笑いで聞いた。
京介,「また、"魔王"の気配でも感じるのか?」
宇佐美がおれを見据えた。
ハル,「ええ、ビンビンに」
;黒画面
…………。
……。
事件発生からおよそ三時間がたった。
園山組の人々も、上の命令とはいえ、我慢の限界のようだ。
だるそうに芝生に腰を下ろし、ところかまわずタバコをふかしていた。
タクシーの運転手が、学園の様子を不審そうに眺めて、走り去っていった。
ようやく、犯人の要求する現金が届いたようだ。
ユキ,「橋本くん、お待たせ」
すかさず、時田が交渉を再開する。
ユキ,「ええ、スーツケースに五百万入っているわ」
橋本,「スーツケース? そりゃまたかさばるものに入れてくれやがったな?」
……かさばっては困るということは、やはり、橋本は逃げるつもりか……。
橋本,「まあいい。なら、それをこっちに持ってきてもらおうか」
ユキ,「わかったわ。また、私が持って行けばいいのよね?」
橋本,「ああ、他の連中は信用ならんからな」
ユキ,「じゃあ、そのときに、水羽も解放してもらえる?」
すると、橋本が低く笑った。
橋本,「慌てるなよ、時田」
ユキ,「……あら? どうしたの? 私とあなたの仲じゃない?」
橋本,「そうだな。金をきっちり用意したんだから、俺もお前の役に立ちたいとは思う。しかし、白鳥を解放したら、俺はどうやって逃げればいいんだ?」
やはり、か。
橋本,「車を用意してもらおうか。ボンボンの浅井にでも頼め。できるだろう?」
ユキ,「それは、聞いてみないとわからないわ……」
車か……浅井興業の事務所から一台用意することはできるが……。
橋本,「いいか、車は絶対に用意しろ。ここは譲歩できん。時田もわかるだろう? お前が犯人だったら、どうだ?」
ユキ,「ええ、まったく妥当ね。逃げられる算段が整っているのならね」
だが、この街にいる以上、園山組からは逃れられないぞ。
橋本,「わかったな? まずは、ケースを持って来い。車の到着を確認したら、こっちからまた連絡する」
通話が終わり、時田が肩をすくめた。
ユキ,「というわけだけれど、京介くん」
京介,「よし、車を用意してやろう」
ユキ,「やけに早い決断ね」
京介,「ヤツは、おれの親父がどれだけこの街を支配しているかを知らない。車で逃げたところで、すぐに捕まえることができる」
西条のときもそうだった。
ユキ,「わかったわ。私も、いまから、お金を届けに行くわ」
京介,「おう。無茶をして、橋本に襲い掛かったりするなよ?」
ユキ,「水羽になにかあったら、さすがにわからないわ」
時田はほほ笑んで、ケースを手に再び学園に向かった。
栄一,「い、いよいよ、大詰めってヤツか?」
栄一がノリコ先生のそばでつぶやいた。
栄一,「なんかよ、椿姫のときもそうだったけど、凶悪犯罪ってけっこうあるもんなんだな」
京介,「ああ……」
おれは、何気なく宇佐美を見やった。
ハル,「…………」
こいつが転入してきてからだな……。
;黒画面
…………。
……。
さらに三十分後、逃走用の車が到着した。
同時に追跡用の車も、学園の周辺に待機させておいた。
京介,「時田、なかの様子はどうだった?」
ユキ,「二人で仲良く差し入れのドリンクを飲んだようね。いい兆候とはいえるわ」
京介,「なにか話したか?」
ユキ,「いいえ。すみやかに出て行くよう言われたわ」
京介,「わかった。とりあえず、こっちの準備は万全だ」
あとは、橋本からの入電を待つのみ。
ハル,「浅井さん、学園の包囲は完璧でしょうか?」
京介,「というと?」
ハル,「いえ、この学園は外の塀が低いので、校舎から出られると、あとはどうとでも逃げられるのではないかと」
京介,「一階の窓、玄関、職員通用口……およそ人が出入りできそうな場所はすべて固めたが?」
ハル,「なら、いいんですがね。みなさんも、お疲れのようですし、ちょっと不安になりました」
京介,「お前も疲れてるんじゃないか? 橋本は車を使って正面から堂々と逃げるつもりなんだぞ?」
ハル,「あ、そうでしたね、なにを言ってるんすかね、自分は……」
てれくさそうに頭をかいた。
京介,「時田は、平気か?」
ユキ,「うん?」
京介,「いや、疲れてないかと」
ユキ,「うれしいわね。じゃあ、肩でも揉んでちょうだい」
京介,「減らず口がきけるなら、だいじょうぶだな」
とはいえ、時田も長時間の交渉に疲れたのか、口数が減っていた。
ここから先の追走劇は、おれの手腕にかかっているといっていいな。
ユキ,「京介くんって、特定の女の子いるの?」
京介,「なんだ、いきなり?」
時田は笑う。
ユキ,「これもストックホルミングかしらね。長い間チームを組んでたものだから、あなたと妙な連帯感を覚えているの」
京介,「それはおれも否定しないが、おれはやめておくんだな」
ユキ,「……そう、残念ね」
時田らしからぬ冗談だな。
ハル,「浅井さんには自分がいますもんね」
京介,「死んでください」
ユキ,「……あらあら、阿吽の呼吸とはこのことね」
なにやらニヤニヤと腕を組む時田だった。
ハル,「それにしても、連絡がないですね……」
京介,「そうだな。上からは車が見えているはずだし、車のエンジンはかけっぱなしにしてあるから音でもわかるはずだ」
ユキ,「もう少し、待ってみましょう……なにかあったのかも……」
京介,「下手にこちらから連絡して、橋本を刺激するのもよくないだろうな……」
ハル,「でも、待つにしても限度があるでしょう?」
京介,「そうだな、あと十分待ってみよう」
;黒画面
……しかし、十分たっても、なお連絡はなかった。
ユキ,「つながらないわ……」
時田がさきほどから、二回も電話をかけているが、すべて空振りに終わっている。
ハル,「どうします?」
京介,「悩みどころではあるな……」
なぜだ?
京介,「時田、どう思う?」
ユキ,「正直予測がつかないわ」
京介,「橋本が急に手のひらを返したとか?」
ユキ,「それはない、と断言したいわね。これまでの交渉過程で、私は私の持てる力をすべて出し切ったわ」
京介,「じゃあ、なぜ、ヤツは連絡してこない? ヤツの要求をこれまで全部のんできたはずだぞ?」
ユキ,「…………」
時田が厳しい目でおれをにらんだ。
京介,「……いや、すまん。そんなことお前に聞いてもわかるはずがないな。問題は、いま、どうするかだ」
ハル,「様子を見に行くしかないでしょうね」
京介,「そうだな。おれもそう思う」
誰が見に行くか、だ……。
栄一,「お、オレが行こうか?」
意外なところで手が上がった。
栄一,「なんつーか、さすがにオレも一発くらい橋本をぶん殴ってやらねえと、気がすまねえっつーか」
京介,「殴りにいくわけじゃねえんだよ、栄一。白鳥の命がかかってるんだぞ?」
栄一,「でもさ……」
そのとき、時田が一歩進み出た。
ユキ,「いいわ。私と栄一くんで行きましょう」
ハル,「ユキが……?」
京介,「たしかに、お前なら、橋本と顔を合わせているし、相手をそう刺激することはないだろうが……」
ユキ,「京介くんは、ここで、全体の指揮があるでしょう」
京介,「そうだな……」
ユキ,「ハルは、京介くんを補佐してあげて。いままでずっとそうだったんでしょう?」
ハル,「まあ……」
京介,「ふん、なぜか宇佐美といっしょに事件に取り組むことが多いからな」
ユキ,「ええ、なにかあったら、助けてちょうだい」
栄一,「ボクが守ってあげるよ」
ユキ,「心強いわね」
時田が栄一を選んだのは、おバカで評判の栄一なら、橋本も油断するかもしれないと踏んだからだろう。
おれや宇佐美が行くよりは、ぜんぜんいい。
ユキ,「それじゃ、行くわよ……栄一くん」
栄一,「はい!」
二人はやや緊張した面持ちで、校舎のなかに消えていった。
京介,「いったい、橋本になにがあったんだろうな……」
ハル,「最悪の場合、水羽がもう殺されているかもしれません」
京介,「おれもそれは考えた。乱闘になって、二人とも倒れたんだ。だから、橋本も電話に出られない」
ハル,「ユキは、それを覚悟の上で、校舎に入っていったんでしょうね」
京介,「勇ましいもんだな、お前の友達は」
ハル,「かっこいいんですよ。本当に、かっこよすぎるくらいです」
宇佐美が言った、その直後だった。
携帯がけたたましく鳴り響いた。
無論、時田のものではない。
おれの携帯。
京介,「なんだ、どうした時田!?」
ユキ,「信じられないわ……!」
珍しく、時田の声が震えていた。
京介,「なにがあった!?」
ユキ,「落ち着いて聞いて……」
京介,「ああ……」
ユキ,「いないのよ……」
京介,「なに!?」
時田は呼吸を整え、自らを落ち着かせてようやく言った。
ユキ,「水羽も、橋本くんも……いない」
京介,「……そんな、馬鹿な話が……」
その瞬間、時田が怒鳴った。
ユキ,「あるのよ! 二人とも忽然と消えてしまったのよ……!」
;背景 廊下 夜
……。
…………。
おれと宇佐美は、時田の報告を受けて、真っ先に理科準備室に向かった。
ハル,「落ち着きましょう、浅井さん」
京介,「わかってる」
ハル,「人が消えるなんてありえません」
京介,「ああ、時田は妹が心配で、ちょっとしたパニックに陥ったんだろう」
おれたちは、廊下を駆けて、理科準備室に飛び込んだ。
;背景 理科準備室 夜 明かりあり
たしかに、もぬけのからだった。
ユキ,「……さっきは、取り乱してごめんなさい」
京介,「いや、おれもいま驚いている」
栄一,「橋本のやろう、どこいったんだ!?」
栄一も落ち着きなく、室内をうろついていた。
おれはざっと、辺りを見渡す。
橋本が飲んだと思われるペットボトルと、紙コップが一つ、机の上に置かれている。
さらに、橋本が使っていたと思われる懐中電灯。
ハル,「浅井さん、床に手錠が……」
白鳥の自由を奪っていたと思しき黒い手錠が、床に転がっていた。
ユキ,「手錠を外したということは……」
時田が無念そうに、唇を噛んでいた。
失意に打ちのめされたのか、続く言葉が出てこないようだ。
京介,「……いったい、どういうことだ?」
ユキ,「時間稼ぎだったのよ」
気を取り直したように時田が言った。
ユキ,「車を用意させて、さも正面から逃げるように油断させておいて、こっそりどこかから逃げたんじゃ?」
京介,「ありえない。ヤツはまだ、校舎のなかにいる!」
おれは叫んだ。
そして、外の園山組の連中を動かした。
徹底的に学園を捜索する。
京介,「出入り口はきちんと固めていた。外に逃げられるはずがない……!」
栄一,「本当か? どこか穴があったんじゃないか?」
京介,「穴?」
栄一,「たとえば、秘密の出入り口とかよ……」
京介,「馬鹿な冗談は……」
ふと、悪寒が走った。
京介,「……待てよ」
おれの顔は激しく歪んでいることだろう。
京介,「そういえば……この学園って……拡張工事してるんだよな?」
ユキ,「……ええ」
そうだ……それがもとで、こんな事件が起きているんだ。
京介,「もう終わったのか?」
栄一,「いや、でも、ほとんど終わってるって」
京介,「それは、どこだ?」
栄一,「まだ立ち入り禁止だからよく知らないけど、一階に新しく通路ができてるとか……」
京介,「その通路には、当然、窓もありそうだな?」
栄一も、たまらずうなずいた。
……くそ、なんてことだ!
京介,「すまん、おれの手抜かりだ……!」
ハル,「知らなくて当然です」
ユキ,「そうね。学園の関係者か、水羽ならあるいは知っていたかもしれないけど」
橋本は、白鳥から秘密の抜け道を聞き出したってことか。
京介,「なんにしても、追うしかない」
おれは戸口に手をかけた。
京介,「あとはおれがやる。お前らは帰れ」
ヤツが逃げたのは、いまから三十分ほど前だ。
辺りを大勢でしらみつぶしに捜索すれば、まだ追いつく。
栄一,「あ、オレも行く!」
おれの背後で、栄一が駆け出す音が聞こえた。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
時田ユキは苦悶の表情を浮かべ、理科準備室の窓の向こうに広がる闇を見渡していた。
ユキ,「やられたわ、ハル……」
背後のハルに向かってため息をつく。すると同じようなため息が返ってきた。
ハル,「残念な結果になったね……」
ユキ,「私がまずかったのよ」
ハル,「水羽の手錠が外されていたこと?」
ユキ,「そうよ、それが何を意味するかわかる?」
聡明なハルはすぐさま答えた。
ハル,「水羽が、橋本さんに協力したということになる。そうでなければ、手錠を掛けた人質を連れて逃げるわけがない」
ユキ,「足手まといになるものね」
ハル,「どうしてそんなことに?」
ユキは、頭を振った。
ユキ,「ストックホルム症候群よ」
ハル,「なるほど……」
ユキ,「ストックホルミングはプラスの面が多いから、普通はネゴシエーターもそれを助長させるように働きかけるの」
ハル,「でも、今回は違った」
ユキ,「言い訳をするようだけれど、普通はこんな短時間でストックホルム症候群なんて発生しないわ。過去の事例を見ても、百時間とか、半年とか、そういった長い時間をかけられるのが通例なの」
ハル,「通例は、通例だったと?」
ユキ,「水羽も父親の理事長を快く思っていなかったわ。つまり、同じ事情を抱える橋本くんに同調しやすいといえる。私はそれを見誤っていたのよ」
背後のハルには、慰めの言葉もないようだった。
ユキ,「人の心にマニュアルなんて当てはまらないってことね」
ユキはもう一度ため息をついた。
ユキ,「まだまだ、訓練が必要だわ」
直後、ハルの声が背中に突き刺さる。
ハル,「いいや、ここまではすべて計算ずくだったはずだ」
ユキの全身が凍りつく。
ハル,「そうだろう、ユキ?」
そうね、ハル……ユキは心の中で笑った。笑いはすぐに表情に出た。
; ※変更
――あなたさえ、いなければね。
;黒画面
…………。
……。
おれの『かわいいぼうや』が楽しいことをしていると聞いていたが、果たしてどうなったかな……。
まあ、それなりに楽しい詐術だとは思ったが、宇佐美相手には通じないだろう。
共犯とは、ボロが出やすいものだからな。
そういった助言をしてやるべきだったか。
まあ、親の助けなど必要としなくても、子供は育つものか。
魔王,「フフ……」
; ※変更
;ノベル形式
ユキ,「どうしたの、ハル?」
ユキは薄笑いを背後に飛ばした。
ユキ,「まるで、私が真犯人みたいな言い方じゃない?」
ハル,「事実、真犯人だ」
ハルは厳しく言った。
ハル,「最初から、すべてユキが仕組んでいたことだ」
ユキ,「どうしたの、ハル。私たちは親友でしょう?」
しかし、ユキは内心ではわかっていた。一番の親友は、自分がおかしいと思ったことを決して曲げない。
ユキ,「ハル、落ち着いてよ。橋本くんは水羽を連れて、拡張工事のあった廊下の窓から逃げたんじゃないの?」
ハル,「違う」
ユキ,「じゃあ、どうやってこの部屋から消えたっていうの?」
ハル,「普通に、一階のどこからでも逃げられたと思う」
ユキ,「それは、おかしいでしょう。京介くんのお仲間さんたちが、学園を取り囲んでいたのよ?」
ハル,「だから、取り囲む前に、逃げたんだ」
ユキは、半ば観念していた。にもかかわらず、会話に興じたくもあった。
ハル,「橋本さんは職員室に忍び込み、ノリコ先生を襲った。そこに駆けつけた我々を校舎の外に出すと、ノリコ先生を理科準備室の隣の薬品室に閉じ込めた」
ユキ,「私が学園に到着する前の出来事ね。続けて」
ハル,「その後、橋本さんは、理科準備室に立て篭もるわけでもなく、さっさと逃げてしまう」
ユキ,「ちょっと待ってよ。橋本くんはここにいなかったっていうの?」
ハル,「そうだ。さも、わたしたちを見下ろしながら交渉をしているように見せかけて、実際は別の場所で電話を受けていた」
ユキ,「別の場所、ねえ……」
ユキは驚いたように肩をすくめた。
ユキ,「じゃあ、この部屋で、懐中電灯がちらついていたのはどういうこと?」
ハル,「懐中電灯は橋本さんが学園を出る前に、この部屋に残していったんだ」
ユキ,「でも、あなたも見たわよね? ライトが明滅してたじゃない? 懐中電灯が勝手についたり消えたりするの?」
ハル,「いろいろ方法はあると思うが、最も簡単なのは、あらかじめ残量の極端に少ない電池を入れておくことだ。そうすれば、懐中電灯はついたり消えたりを繰り返して、やがて消える」
正解。
ハル,「初めは、この部屋のカーテンが閉まっていなかったから、不自然だとは思ったんだ」
ユキ,「カーテン、ね」
ハル,「普通、立て篭もりをするなら、カーテンは閉めるだろう。外から室内の様子を探られるかもしれないし」
ユキ,「そうね、ちょっと不自然ね。でも、それだけで疑われるものなのかしら?」
ハルは、太い声で続けた。
ハル,「ユキが到着して、カーテンの閉まっていない窓に向かって手を振っただろう?」
ユキ,「ええ……反応が鈍かったわね」
ハル,「鈍いはずだ。窓の向こうに、橋本さんはいないんだもの。おそらく、あらかじめ決まった時間に電話をよこすよう指示していたんだろう?」
あれは、ミスといえばミスだった。もとはといえば、ハルが手を振ろうなどと言い出さなければよかったのに……。
ユキ,「どうしても私と橋本くんが共犯ってことにしたいみたいだけれど?」
ハル,「残念だけど」
ユキ,「ノリコ先生はどうなの。あなたは記録係だからちゃんと覚えているでしょう?」
ハル,「うん、隣の部屋から橋本くんの怒鳴り声がしたと、解放された先生は証言した」
ユキ,「じゃあ、それはどう説明するの?」
しかし、ハルはひるまなかった。
ハル,「賭けてもいい。いま、ユキのポケットに小型のICレコーダーか、とにかく録音した声を発することのできる機器がある」
ユキはおかしくなった。まさに、その通りだった。あらかじめ橋本の声を吹き込んだICレコーダー。橋本が学園を出る前に、この部屋に残させておいたのだ……。
ユキ,「でも、そんな録音した声くらいで、隣に人がいるって先生に錯覚させられるかしら?」
ハル,「だから、解放された先生に、ユキはあまり質問をしなかった」
まったく、ハルは面白い。ユキが、怪しまれるかもしれないと思ったところを、すべて突いてくる。
ハル,「あれはおかしかった。中の様子を知る唯一の人物を、なぜ聞き上手のユキが放って置いたのか」
ユキ,「たまたまよ。疲れていたのかも……」
ハル,「録音した声は、ひと言ふた言なんだろう? それなら、恐怖に震える先生を騙すこともできそうだ」
ユキは手を上げたくなった。
ユキ,「わかった。わかったわ。それで、身体検査を始めようっていうの?」
ハル,「別にやらなくても、まだ証拠はある」
ユキ,「ぜひ、聞きたいわ」
ハル,「この紙コップだ」
ユキ,「差し入れた紙コップ? それがどうしたの?」
ハル,「ペットボトルの中身はなくなっていて、紙コップも少しふやけている」
ユキ,「橋本くんがドリンクを紙コップに注いで、水羽が飲んだってことにならない?」
ハル,「でも、口をつけたあとがない」
……さすが。
ハル,「ドリンクはすべて、流しに捨てたんだろう?」
だから、理科準備室を選んだともいえる。
ハル,「これはユキと橋本さんが共犯でなければ成り立たない手口だ。そうでなければ、ドリンクを差し入れしたり、ケースを届けにいったユキが、中の様子を偽る意味もわからない」
ユキ,「ふう……」
ユキは降参したくなった。
ユキ,「さすがね、ハル……」
ハルの視線を痛いほど感じた。
ハル,「認めるんだな?」
ユキ,「やっぱり、あなたを記録係にしたのが間違いだった」
ハル,「だから、チームでやろうっていったとき、渋っていたんだな?」
ユキは、背後のハルにわかるようにうなずいた。あの時点で、負けは確定していたようなものだ。
ユキ,「お約束だから聞くけど、最初に怪しいと思ったのは?」
ハル,「ユキ……!」
ユキ,「教えてよ、怖い声出さないで」
ハルは悲しそうに言った。
ハル,「バスケットボールの話をしていたとき……」
ユキ,「やっぱりね」
ハル,「橋本さんがこう言ったんだ。『ほらあのアイスアリーナを見ろよ』って」
ユキ,「あのときは背すじが凍ったわ」
ハル,「そこの窓から、アイスアリーナなんて見えないはずなんだ」
ユキはそれを悟られまいと、窓辺に立っていたのだが、まったくの無駄だった。
 橋本に足を引っ張られた形になったが、責任は自分にある。彼はもともと単純な男だった。黒板にいたずらする程度の、つまらない男。そんな人間を、目的を持った冷静な立て篭もり犯に仕立て上げるのは、いささか無理があった。調子に乗って初体験がどうのと本性を覗かせたときには、殴ってやりたい気分だった。
ハル,「いま、水羽は、アイスアリーナの見える場所にいるんだな?」
ユキ,「そう。橋本くんと一緒にね。あらかじめ私が睡眠薬を飲ませて運んだのよ」
ハル,「……なんてことを……」
ユキ,「だって、あれだけくだらない父親にまだ義理立てしてるのよ? 信じられる? どこまで人がいいのかしら」
ハル,「本当は、水羽も犯行に誘う予定だったんだな?」
ユキ,「残念なことに、交渉決裂よ。ある有名なネゴシエーターも家族だけは説得できないって言ってたわね」
言い切ると、振り返ってハルを見据えた。
;背景 理科準備室 夜 あかりあり
ハル,「ユキ、お金はまだこの部屋にあるんだろう? 隣の部屋か?」
ユキ,「それを返したら、全部許してもらえるのかしら?」
ハルは押し黙った。そのつらい表情に胸が痛む。しかし、ユキは冷然と言った。
ユキ,「許さないわよね。あなたは、正義の勇者様だもの」
ハルは頭を振った。
ハル,「動機は、やっぱり理事長への復讐か?」
ユキ,「たいしたことじゃないでしょう。不正に受け取ったお金なのよ?」
ハル,「不正に受け取ったお金を、不正に泥棒していいのか?」
ユキ,「警察も、ついに理事長を逮捕できなかったのよ。だったら、誰が悪を懲らしめてあげられるの?」
ハル,「わたしは、それがユキでないことを願っていた」
ユキ,「甘いわね、ハル。善人は馬鹿を見る時代なのよ?」
ハル,「わたしは時代に生きているわけじゃない。わたしはあくまでわたしの考えに基づいて生きている」
"魔王"と同じようなことを言う。さすがは勇者といったところか。
ユキ,「そこをどいてよ、ハル」
ユキはあごをしゃくった。
ハル,「どこへ逃げようというんだ?」
ユキ,「そうね。京介くんを敵に回したら、この街では暮らせそうにないわね」
ハル,「ユキ、聞いてよ」
ハルが両手を広げて立ちふさがった。
ハル,「聡明なユキのことだから、やむをえない事情があったのだと思う。でも、ユキは間違ってる」
ユキ,「ありがとう、ハル。いろんな人に迷惑をかけたことは心苦しく思っているわ。とくにノリコ先生には本当に悪いことをした。京介くんたちは、いまごろ必死になって犯人を追っているでしょう」
ハル,「だったら……」
ハルの訴えをさえぎって言った。
ユキ,「もう、遅いわ。私はとっくに悪魔に魂を売ったのだから」
ハルの目に絶望の色が宿った。その刹那、ユキはハルを両手で突き飛ばした。
;黒画面
ハルがうめく。よろめいて、体勢をくずした。足を払うと、長い髪が揺らめいた。床に転がったハルを置き去りにして廊下に飛び出る。すぐさま理科準備室の戸を閉める。鍵を鍵穴に勢いよく押し込んでがむしゃらに回した。一か八か。
;背景 廊下 夜
ハル,「ユキ!」
扉がきしむ。ハルが無念そうに戸を叩きながら、わめいている。運よく鍵が壊れたのだ。
ハル,「逃げるな! いまならまだやり直せる!」
ユキは普段からそうするように、薄く笑った。
ユキ,「交渉において、怒鳴ったら負けよ?」
そう、やり直せるはずがない。
 あとは振り向くことなく、暗い廊下を走り去った。
 ハルの悲痛な声が、いつまでも耳に残った。
;黒画面
…………。
……。
;背景 理科準備室 夜 あかりあり
……。
…………。
宇佐美の連絡を受けて、おれは再び理科準備室に戻ってきた。
ハル,「どうも、ご迷惑をおかけしまして……」
事情は聞いた。
時田が主犯だったこと、そしていずこかに逃亡したこと。
親友に裏切られた宇佐美は、それでも平然としているようだった。
ハル,「ユキを追いましょう」
京介,「ああ……」
ハル,「あの状況で逃げるということは、ユキにはまだやり残したことがあるということです」
宇佐美の顔が、再度引き締まった。
ハル,「水羽も、心配です」
もう時刻は深夜の二時を回っている。
理事長はすでに帰宅し、この件についてはもう一度話し合うことになっていた。
栄一はノリコ先生を送っていった。
京介,「わかった。全力で時田を探そう。この時間に制服でうろついている背の高い美人だ。街にいる園山組の人たちに声をかけてみる」
ハル,「すみませんね、いつも」
京介,「まったくだ……あまり関係のないことでヤクザを動かしすぎると、本当に指をつめることになるぞ?」
宇佐美が力なく笑った。
ハル,「関係なくもないと思うんですよ」
京介,「……え?」
ハル,「この迂遠なやり口。人を弄ぶような犯罪。誰かの入れ知恵とは思いませんか?」
京介,「まさか、"魔王"?」
ハル,「わたしの考えすぎですかね。そうですよね。ユキが"魔王"とつながってただなんて、そんなはずないですよね?」
何も言えなかった。
ハル,「ユキのお父さんは、時田彰浩さんと言いまして、そりゃあ立派な方なんですよ。警察の、警視正っていうものすごく偉い人なんですよ」
ハル,「だからユキも、そんなお父さんの恩をあだで返すような真似はしないはずなんです。ええ、そうです」
ハル,「そりゃ、白鳥理事長には恨みもあるでしょう。でも、脅迫して復讐するなんて、おかしいじゃないですか。ユキは時田警視正の下で立派に育ったんです。いまのお父さんでよかったと、自慢げに言っていたこともあります」
感情のたかぶりを抑えられないようだった。
ハル,「こんな根暗なことしなくてもいいじゃないすか……なんでまた……こんな……ユキならもっと考えて……そう、もっとうまく理事長を見返してやれるはずなんです……」
だんだん声が震え、手が震えてきた。
ハル,「おかしいですよ……あれはユキじゃない……」
宇佐美はただ、悪を求めているのだろう。
宇佐美の知る時田を宇佐美の知らない時田に変えた悪が存在しなければ、心が納得しないのだ。
悪への信仰だけが、唯一人を救う場合もあるのではないか。
京介,「宇佐美……」
気の迷いか、宇佐美の肩に手を置いた。
ハル,「…………」
宇佐美は嫌がるでもなく、おれの体温を受け入れていた。
いつもうざったく、気持ちの悪い宇佐美が、いまはとても小さく、おれの手のひらにすっぽりと納まってしまいそうだった。
やがて夜は深まり、一等厳しい風が寒さを運んで窓を叩く……。
…………。
……。
;背景 繁華街1 夜
;ノベル形式
時田ユキは、ネオンが織り成す繁華街の雑踏に紛れ、善後策を練っていた。
 計画通りことが運んでいれば、いまごろ大金を持って、橋本と水羽の待つ安アパートに向かうはずだった。
 悪いことは重なるのか、アパートの近くまで来たというのに、橋本と連絡がつかない。なんらかのアクシデントがあったのか、とにかくいま、アパートに入るのは危険だった。
 ユキは暗がりに寄って、ビルの壁に背を預けた。制服姿は目立ちすぎる。
――"魔王"を頼るべきだろうか。
 こうして追われる身となって、改めて"魔王"の周到さがわかる。この街に潜伏しながらも、裏社会に根を下ろした園山組から見事に逃げおおせている。"魔王"ならば、身の安全を保証してくれるだろう。
 ――でも、私は"魔王"の手下ではない……。
 "魔王"から、今回の計画の立案にあたって、ささいな助言はあった。あとは水羽を眠らせるための睡眠薬を調達してもらった程度だ。いま思えば、まさに魔が刺したのかもしれない。
きっかけは二年も前。一つの電子メールだった。
 相手は自らを"魔王"と名乗った。ただの変質者のいたずらにしては、やけにユキの身の上を調べ上げていた。私生児であること、母がすでに亡くなっていたこと、まるで探偵の身上調査のような報告書を突きつけられて、ユキは"魔王"とやらに興味を覚えた。
 何度かメールのやりとりをしたあと、田舎から単身で富万別市にやってきたユキは、好奇心から"魔王"と会うことにした。
そのクラブは、セントラル街の奥まった場所にあった。
 入り口で名前を告げると黒と赤を基調とした広いVIPルームに通された。天井にライトはなく、足元からの間接照明だけが頼りの薄暗い部屋だった。なによりユキが眉をひそめたのは、店員から客に至るまで、ほとんどの人間が仮面をかぶっていたことだ。性的倒錯者が使用するような切れ長のアイマスクや、派手な飾りのついたサテン生地のフード。まるで中世ヨーロッパの絵画に出てきそうな、悪魔の被り物をしている者もいた。
魔王,「はじめまして、時田ユキ。私が"魔王"だ。わざわざ田舎から飛行機で来てもらってすまなかったな」
"魔王"も周囲の人間の例に漏れず、『オペラ座の怪人』を思わせるような白い仮面をつけていた。
 ユキはとくに気にせずに、会釈した。
ユキ,「お招きありがとう。ずいぶんと素敵な場所ね」
魔王,「気に入ってもらえたかな。ここではどんな地位の人間も子供になって遊ぶことができる」
そこかしこから、男と女の嬌声が聞こえてくる。酒をあおり、女をはべらせ、ふしだらな行為に興じている。
ユキ,「それで、私になんの用? つまらない用事だったら、警察に駆け込ませてもらうけれど?」
 仮面の向こうで、低い哄笑があった。
魔王,「あちらにいらっしゃる御仁がわかるか?」
; ※追加
"魔王"があごを向けた方を見やると、ぶくぶくと肥えた中年の男がいた。丸裸の下半身に紙おむつだけを履いて、ソファにごろりと転がっている。そばに立つエプロン姿の女性が、まるで赤子をあやすようにガラガラと音がする玩具を振っていた。その光景の異様さに、ユキは思わず目をそむけた。
魔王,「あちらは、警視庁のさる天上人だ。夜は素敵なプレイに興じられているようだが、朝になれば正義の警察官として、私のような犯罪者を追い詰める。面白いだろう?」
; ※追加
ユキは呼吸を整え、平静さを取り戻そうと試みた。しかし、状況の異常さが、それを阻む。"魔王"は、目の前に高々と積まれた大金にはまったく触れようとしなかった。
魔王,「警察や暴力団への根回しなしで、こんな店が日本で営業できるはずがないだろう? お父上に恥を掻かせるような真似はよすんだ」
ユキ,「よく知っているわね、私の父が警察官だって」
魔王,「ああ、だからこそ、お前に声をかけた」
ユキは落ち着いて、"魔王"の声色と仕草を吟味した。顔の表情が見えない以上、"魔王"という人物を知る材料は限られてくる。
魔王,「聞けば、時田は長年、犯罪心理学を勉強しているとか?」
ユキ,「探偵でも雇ったのかしら?」
"魔王"は、そんなところだと、うなずいた。
魔王,「保護観察所に縁者を装って何度も通ったそうじゃないか。なかなか楽しい子供だったようだな」
ユキ,「ありがとう。おかげで変な目で見られたけれど、いまでは友達もたくさんできたわ」
薄く笑いながら、"魔王"を観察した。さきほどから二度、足を組み替えている。手は話に合わせて開いたり閉じたりと、忙しない。
 典型的な外交タイプだ。ユキはそう判断した。こういうタイプは論理や理屈を組み立てて判断を下す。手を動かすとき、指先の一本一本に至るまで表現を忘れない。かなり細心な男のようだ。それが、ただの小心からくる落ち着きのなさなのか、それとも慎重を期すタイプなのか、ユキには判断がつかなかった。
魔王,「いろんな犯罪者と会って、どう思った?」
ユキ,「どうもこうも、みんないい人ばかりだったわ。私とよく遊んでくれたもの」
魔王,「彼らも寂しかったんだろう。娘ができた気持ちだったのでは?」
ユキ,「そうね……」
相づちを打ちながら、ユキは警戒していた。さきほどから、会話の主導権を"魔王"に握られている。"魔王"は一切自分のことを語らずに、ユキの心の領域に踏み込もうとしていた。
ユキ,「ところであなたは、どうして"魔王"なの?」
魔王,「悪の権化としてわかりやすくていいだろう? そういう時田は、なぜカタカナでユキという名前なんだ?」
……やり手ね。
 質問をさらりと受け流し、逆に質問を返してくる。応酬話法を心得ていることから、企業のビジネスマンかと思われた。
ユキ,「名前の由来は私も知らないわ。お役所に届けるときにうっかりしちゃったんじゃない?」
 ユキは戦略を切り替えることにした。こういう外交的なビジネスマンタイプの人間を質問攻めにしても効果は薄い。こういったタイプは、とにかく話したいのだ。話し相手が素直に受け答えに応じるようになって初めて心を許す。そうなれば、あとは勝手に自分のことを語りだす。
"魔王"が、また足を組み替えた。
魔王,「かわいそうだな。子供は自分の名前を選ぶことができない。実の父を恨んだことは?」
ユキ,「それは、何度も」
魔王,「母の葬儀にも来なかったそうじゃないか?」
ユキ,「ええ、あの夜は、どうやって思い知らせてやろうかと、それだけを考えていたわ」
魔王,「それをいま、実行に移そうとは思わないか?」
ユキは、わかるように声に出して笑った。
ユキ,「フフ……クロージングをかけるには、早すぎるとは思わない?」
"魔王"も笑う。
魔王,「これは失礼。時田に復讐を実行させることが私の目的ではないのだが、そう聞こえたのなら、すまなかった」
おどけるように手を広げ、もう一度、足を組み替えた。
ユキも微笑を浮かべながら考えた。"魔王"は会話を切り出す直前に足を組みかえる。この反応がなにを意味しているのか。足を組みかえるという行為は、緊張を緩和させる場合が多いとされる。つまり、嘘をごまかしているのではないか……?
ユキ,「じゃあ、本当の目的をそろそろ教えてもらえる?」
魔王,「時田と、遊びたかった。それじゃダメか?」
ユキ,「こんな場所で遊ぶ趣味はないわ」
魔王,「わかった。本当のことを言おう。目の前に何がある?」
ユキ,「お金ね。何億あるのかしら」
魔王,「実は、あることをしてもらいたいんだ。報酬ははずむ」
ユキ,「聞くだけ聞いてみましょう」
魔王,「簡単なことだ」
そのとき、"魔王"が再び足を組み替えた。
魔王,「銀行口座を一つ作って欲しい。そして、いずこかから振り込まれた金を、私に渡してくれ。受け渡しは、この部屋だ」
ユキは確信を持って強く否定した。
ユキ,「嘘はやめて」
"魔王"は言葉を詰まらせたようだ。
ユキ,「銀行口座? なぜ私なの? あなたは私の家庭環境から能力まで細かく調べて、けっきょくはそんな誰にでもできるような仕事を任せようっていうの?」
魔王,「なにごとも、信頼関係というものがある。まずは小さな仕事からお願いしたいと思っても不思議はないだろう?」
ユキ,「いいえ、あなたは嘘をついているわ」
鋭い視線で、"魔王"の膝を射抜いた。落ち着きのない長い足は、またもう片方の足に乗ろうとしていた。
"魔王"が、うなずきながら余裕そうに言った。
魔王,「面白いな」
"魔王"は、ぴたりと手足の活動を止めた。それからさもおかしそうに聞いてきた。
魔王,「そうやって、人の心を探らねば、不安か?」
言いながら、両手の指先を合わせ、ソファに深く腰掛けた。
ユキは憮然としながらも、内心では焦りを覚えていた。これまでとまるで雰囲気が違う。両手の指先を合わせるのは、威厳や威信を示す表現とされているが、この男はそれを知っていてわざとやっている。
ユキ,「ちょこまかと手足を動かしていたのは、わざとね?」
魔王,「どうかな……」
今度は仮面から飛び出ている前髪を指で遊ばせた。不安や自信のなさの表れとされているが、"魔王"が恐れを抱く理由はどこにも見当たらない。
ユキ,「なんなのよ……!?」
思わず、いらついた声をだしてしまった。
 "魔王"はそれを好機とばかりに、一気に身を乗り出してきた。それはユキのパーソナルスペースを侵犯する距離だった。まずい、と感じたときには、"魔王"の力強い声が迫っていた。
魔王,「私の仲間になれ、時田ユキ」
次の一言がユキの心をえぐった。
魔王,「そうすれば、その類稀な好奇心を満たしてやろう」
ユキ,「……好奇心、ですって?」
魔王,「ごまかすな、時田。罪を感じているのだろう?」
仮面が、にたりと笑ったように見えた。
魔王,「現に、お前がこれまで会ってきた犯罪者は、模範囚の善人ばかりではないか」
ユキ,「だったら、なんなの?」
ユキは、言い返さなければ勢いに呑まれると危惧した。
ユキ,「そうよ。私が見てきたのは、刑期も半ばで仮出所してきた人たちがほとんど。根がいい人なのは当たり前。でもそれがなに? 何か悪いの?」
声のたかぶりを隠すことはできなかった。それは、ユキがこれまで鍵をかけてきた心の病室だった。悪いに決まっている。興味から人を観察しようなどと、心から反省して出所してきた人たちに対して、失礼極まりない行為だった。罪悪感にさいなまれるユキに、いつも悪魔はささやきかけた。あのときは、子供だったのだから。複雑な家庭環境に育ち、人を信じられなかったのだから……。
悪魔の王たる"魔王"が、そんなユキの心のすきを見逃すはずもなかった。
魔王,「なにも悪くない。なにも悪くはないが、もったいないとは思う」
ユキ,「……もったいない?」
魔王,「世の中にはもっと、おかしな人間がいる。欲望に歯止めのきかなくなった真の凶悪犯や、嘘を真実と信じたまま話すことができる社会病質者。目的のためなら手段を選ばぬテロリスト」
ユキの胸が、不覚にも高鳴った。
魔王,「時田はいずれ、父にならって警察官を志すのだろう? ネゴシエーターの必要性は、近年になって日本でもようやく認められてきた。お前はその卵だ。いまから実地訓練をしておいて損はなかろう?」
ユキ,「つまり、なんなの?」
ユキはしゃべるたびに冷静さを失っていった。
ユキ,「あなたのお仲間になれば、いままで私が見たこともないような変人を紹介してくれるっていうの?」
仮面が、深くうなずいた。
魔王,「いくらでも」
ユキ,「……そんな、嘘でしょう?」
魔王,「嘘かどうか、たしかめたくはないか?」
また、ユキは迷わされた。返答に詰まっているうちに、"魔王"が言った。
魔王,「これから、ここで、ある外国人と会うことになっているのだが、いっしょにどうだ?」
ユキ,「……外国人?」
魔王,「ああ、鼻毛を切らない習慣があるが、気のいい男だ」
ユキ,「でも、犯罪者なのでしょう?」
魔王,「ただの商人さ」
ユキ,「あなたは犯罪者って名乗ったわよね? 犯罪の密談を警察官の娘が黙って見過ごすと思う?」
魔王,「そう構えるな。酒を酌み交わすだけだ。そして、この金の一部を渡す」
ユキ,「豪邸でも買ったの?」
魔王,「余裕が出てきたな。乗り気になってきたと思っていいのかな?」
"魔王"が、またソファに深く腰掛けた。
ユキの胸のうちでは警鐘が鳴っていた。同時に抑えきれないくらいの好奇心が、病室の壁をがりがりと引っかいていた。
魔王,「お前は、なにも知らなくていい」
"魔王"が優しく言った。
魔王,「私が何者で、どんな商売をしていて、なにをたくらんでいるのか。犯罪につながるようなことを一切知らずに、ただ貴重な体験ができる」
たしかに、"魔王"を知ってしまえば、犯罪を容認することになる。それは、越えてはならぬ一線だった。
魔王,「どうかな、悪い話ではないと思うが?」
ユキは、悩んだ。しかし、それは正確には悩んだふりにすぎなかった。
ユキ,「訪問販売なんかでは、玄関のドアを開けさせたら、もう勝ったも同然らしいわね?」
魔王,「押し売りをする気はないがな」
"魔王"に会った時点で、すでに運命は決まっていたようなものだったのかもしれない。もともとユキは、父親には黙って上京してきていた。嘘をついたわけではないが、とにかく行き先を告げなかった。きっと、これからも、そうするだろう。
ユキ,「それで、"魔王"?」
肝心なことを聞かずにはいられなかった。
ユキ,「親切に私の好奇心を満たしてくれるのはいいけれど、見返りに何を求めているの?」
魔王,「…………」
ユキ,「私の父に関わるようなことだったら、お断りよ?」
父に迷惑はかけられない。"魔王"は犯罪者だ。警察官の父を利用しようとたくらんでいるのかもしれない。ユキは毅然として、"魔王"をにらみつけた。
"魔王"は、仮面の向こうで、赤子に語りかけるようにゆっくりと言った。
魔王,「とくに見返りを求めているわけではないが、しいて言えば……」
"魔王"が仮面に手をかけた。
魔王,「魂、かな……」
冗談には聞こえなかった。
 契約は成った。素顔をさらした"魔王"からは逃れられそうになかった。
;黒画面
その後は、だいたいひと月に一度、"魔王"との密会があった。"魔王"の知人を交えた面談は、富万別市で行われることもあったが、不思議と日本海沿岸の福井や新潟の小村が多かった。
 ユキは様々な人間を紹介された。モスクワの闇市場を支配するチェチェン人、テログループの一員と思しきイスラム教徒。"魔王"はよく漁港で現地の漁師からスーツケースを受け取っていたが、中身が何であるかの説明はなかったし、またユキも聞くつもりはなかった。
日本人の場合は、子供が多かった。彼らは政治家や大企業の御曹司であると教えられた。なんらかの事情でお日様の下を堂々と歩けなくなった少年少女。皆、一様に心に病をかかえていた。彼らはユキにとってある意味逸材といえた。自立支援施設にでも行かなければ面会できないような子供たちだったのだ。
 ユキは、バラエティに富んだ普通ではない人々を次々と知っていった。同情し、同調し、共感しながら、経験則を培っていった。好奇心に歯止めが利かなくなるのに、そう時間はかからなかった。
 何度も顔を合わせたものの、"魔王"の存在はいぜんとして謎だった。多くの資金を持ち、怪しげな人脈を開拓している様はいかにも"魔王"といった感じであったが、実際に犯罪の瞬間を目撃したことは一度もなかった。かといって、心を許せる相手では決してなかった。
ユキ,「まさか、ハルが追っていた人間こそが、"魔王"だったなんて……」
前の田舎の学園でも、ハルがなにかしら目的を持って、人を探していることは知っていた。しかし、いくら仲良くなろうとも、ハルはユキに"魔王"のことを教えなかった。ユキがそれを知ったのは、つい先日、"魔王"に利用されたらしき西条という男を尋問したときだった。
 ユキは、"魔王"の連絡先――おそらく複数あるのだろうが――を知っているし、間近で何度か相対している。そういった情報をハルにもたらすべきなのか、しばし迷った。
迷っているうちに、今回の立て篭もり事件を"魔王"に吹き込まれた。当初は理事長以外の誰にも迷惑をかけるつもりはなかった。橋本の素性を明かすつもりもなかったし、ノリコ先生を巻き込むつもりもなかった。水羽を説得した上で、立て篭もりを偽装し、理事長に対してささやかな復讐を遂げるはずだった。
 答えはユキ自身の弱さにあった。爆破事件を起こした"魔王"の関係者であることを、警察官の父に打ち明ける勇気はなかった。ハルに、嫌われたくもなかった。そもそも、理事長を脅して、いくらかの現金を受け取ったとして、いったいユキのなにが満足するというのか。
『気が済むではないか?』
"魔王"は、そう言った。心にわだかまりを抱えたままでいいのかとけしかけてきた。
『理事長という最も制裁を受けるべき相手を放置したまま、優秀な警察官になれるとでも?』
もちろん、理事長には言いたいことは言わせてもらった。母を捨て、葬儀にも出席しなかったことを、力の限りなじってやった。けれど、理事長は形ばかりに頭を下げるのみだった。
『なぜ、理事長が反省しないのか、それは、時田に力がないからだ』
"魔王"の言う、力とは、純粋に暴力としてのバックボーンだった。
『あまりこういう大きなたとえは好きではないが、この世界を見てみろ。軍事力の最も大きい国が、最も大きな発言力を持っている。力のない人間がどれだけ素晴らしいことを言ったところで、一部の美談好きの人間しか耳を貸さない。けっきょくは凶弾に倒れたり、多数派の迫害を受けることになる』
優秀なネゴシエーターの背後には、例外なく優秀な特殊急襲部隊がいる。
『私は子供が大好きでな。時田のような優秀な子供が、話せばわかる時代を作り上げてくれると信じているが、いまはまだ早すぎる。まだまだ数と、金と、握りこぶしがものを言う』
ユキは悪魔の誘いを甘受した。思えば、"魔王"と二年もつき合って毒されぬはずがなかった。"魔王"は常に冷静で、魅惑的で、そしてなにより若者の心を捉える刺激を備えていた。
その結果、ユキはハルを裏切り、水羽を傷つけ、暴力団に追われることになった。
 ――自業自得ね。
暗がりに踏み入る一つの影があった。
ユキ,「あら、水羽」
水羽は、憮然として、そこに立っていた。
水羽,「話は全部、橋本くんから聞いたわ」
ユキ,「へえ……」
腕力には信頼のおけそうな男だったが、女相手と油断したのか。
水羽,「私を縛ってたロープ、ゆるんでたから。すきをついて彼のナイフを奪ったの」
ユキ,「すごいわね。そんな度胸があるなんて知らなかったわ。その勇気の一部でも、京介くんに向けられたら良かったのにね」
水羽,「姉さん、本当なの?」
ユキ,「なにが?」
水羽,「本当に、姉さんが学園で事件を起こしたの? 私の父を脅迫したの?」
ユキ,「本当よ」
にべもなく即答した。
ユキ,「そうしないと気がすまなかったの」
水羽,「それで、気はすんだ?」
ユキは曖昧に首を振った。
ユキ,「なに、その手?」
水羽,「困ってるんでしょう?」
ユキ,「助けてくれるっていうの?」
水羽,「うん」
ユキは薄笑いを浮かべながら、ちらりと水羽の顔を見た。嘘をついている顔ではなかった。
水羽,「自首、する気はないんでしょう?」
当たり前だった。警察に出頭するくらいなら、ハルの制止を振り切って逃げたりはしない。そもそも警察の介入を避けた一番の理由は、県警の捜査一課に務める父に知られたくなかったからだ。
ユキ,「まだ、やり残したことがあるからね」
ユキは再び黒い炎を胸中に宿した。けっきょく現金の入ったスーツケースは理科準備室に残してしまった。つまり、ユキは苦労のわりに、なにも得ていなかった。
 ――もう一度、思い知らせてやらねば。
水羽,「まだ、続けるのね?」
悲しみを押し殺したような水羽の声があった。
ユキ,「水羽、どうして私が、いままであなたに会いにこなかったかわかる?」
わからないだろう。わかるはずがない。母の哀しみと苦痛を理解できるのは、ユキだけなのだ。
ユキ,「なぜ、私のほうから、あなたたちに会いに行かなければならないの? 頭を下げるのはあなた方でしょう?」
水羽,「…………」
ユキ,「まあ、わかってるわ、水羽は悪くないもの。それでも、水羽に会いに行くことは、母さんを裏切るようで気が引けたの」
水羽,「私も、姉さんに会いたかった。でも、どこに住んでるのか知らなくて……」
ユキ,「わかってるわよ。わかってる。そうね、水羽は何も悪くないわ」
ただ、無知に、平和に育っただけ。ユキとは違う。
ユキ,「さあ、おしゃべりはここまでにしましょう」
歩き出そうとしたユキに、水羽が手を差し伸べたまま言った。
水羽,「姉さんは、私を恨んでるの?」
ユキ,「まさか……」
ユキはいつもどおり、穏やかな笑みで言った。
ユキ,「あなたは大事な妹よ」
交渉人は、嘘をついた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 繁華街 夜
;通常形式
京介,「この近くで時田を見たって話を聞いたんだがな……」
おれと宇佐美は、真夜中のセントラル街に足を踏み入れていた。
ハル,「さきほどちらりと聞こえましたが、ユキのほかにもう一人いたとか?」
京介,「うん、橋本だろう」
ハル,「ということは、水羽は解放されたんでしょうか?」
京介,「いや、待て。女だと言っていたな」
ハル,「……つまり?」
京介,「ああ、白鳥だろうな。二人して、どこに逃げたのやら」
宇佐美が、一呼吸置いて言った。
ハル,「おそらく、ユキは、もう一度理事長を脅迫する気でしょう」
京介,「可能性は十分にあるな。けっきょく、金は奪えなかったわけだし」
ハル,「自分は、理事長のお宅にお伺いするとします。ユキから電話が入るでしょうから」
京介,「わかった。おれは、引き続き、時田のあとを追う」
おれたちは散会した。
;背景 港 夜
;ノベル形式
息も切れ切れになりながら、ユキは水羽をつれて夜の波止場までやってきた。
ユキ,「まったく、京介くんは怖いわね……」
あのあと、すぐに追っ手はやってきた。その筋の者がセントラル街でユキに声をかけてきたのだ。有無を言わさず手を引かれたものだから、振り切って逃げ出した。
 二度、タクシーを乗り継いで追っ手をまこうとしたが、無駄だった。タクシーは信号で止まるが、ヤクザ者は交通ルールを守らなかった。どこまでも喰らいついてくる。
水羽,「姉さん、どうするの?」
遠巻きに、巻き舌の怒声が聞こえてきた。見つかるのは時間の問題だった。
ユキ,「私に考えがあるわ、だからここまで逃げて来たの」
水羽の手をひいて、ユキは目的の倉庫を目指した。
 倉庫の重い鉄扉は閉じられていた。しかし、ユキは一度"魔王"と倉庫の中で会ったことがある。入り口には番号を入力するタイプの鍵がかかっているが、ユキは"魔王"の押したその数字を記憶していた。
;背景 倉庫中
倉庫の中は薄暗く、かび臭い。鍵をしめると、ユキは水羽と向きあった。
水羽,「こんなところで、何をしようっていうの?」
水羽の疑問はもっともだった。ユキは不安に暮れる水羽を横目に、その辺の資材を結んだロープを手に取った。
ユキ,「協力してくれるんでしょう、水羽?」
水羽の目が、はっきりと怯えた色に染まった。
ユキ,「これは芝居よ、水羽」
唖然とする水羽を抱き寄せ、後ろ手にロープを結んだ。水羽はうめき声を漏らすだけで、拘束を拒まなかった。
ユキ,「いい顔ね、そのままでいて。写真を撮るから」
;SE 写メ
ユキは携帯のカメラを構え、縛られた水羽に向けてシャッターを切った。
水羽,「姉さん、説明して……!」
少しは自分で考えろと言いたくなった。これからなにが始まるかなんて、わかりきっているではないか。
ユキ,「あなたを人質に、理事長に死んでもらうの」
ユキは水羽に、お前の親を殺すと断言した。
ユキ,「私には覚悟が足りなかったのよ。たった五百万くらいで許してあげようだなんて甘かった。だから、ハルに見破られたんだわ」
水羽の目に、狂気に恍惚としたユキの顔が映っていた。
水羽,「ね、姉さん……本気?」
ユキ,「あなたの父親が、私と母さんを家から追い出したときなんて言ったか知ってる? 知らないわよね?」
のたれ死ね。
 ユキは、はっきりと覚えている。雪の舞い落ちる寒空の下、着の身着のままの格好で外に放り出された。いま、水羽は恐怖に震えているが、あのときの寒さと将来への不安に比べればなんということもないだろう。
水羽,「やめよう、姉さん……そんなことしたら、姉さんだって……」
ユキ,「少しは、私の役に立ってよ、水羽」
押し殺すような声には、水羽を黙らせるのに十分な迫力があった。
ユキ,「姉妹でしょう?」
あまり似ていない妹だった。外見もそうだが、中身がまるで違う。ぬくぬくと育った証拠を示す厚ぼったい頬。好きな男とろくに会話もできない甘ったるさ。そんな平凡さが、ささくれ立ったユキの神経を刺激した。
 水羽の首元を見やった。妹は、後生大事に、姉からの贈り物を身につけていたようだ。
ユキ,「私、寒かったのよ。そのマフラーすら返して欲しいって思うくらいに」
水羽は絶句し、姉の目にいくらかの迷いもないことを知ると、もうなにも話さなくなった。
ユキ,「さて……」
ユキは、携帯の画像を送信することにした。
 ――第二幕の始まりよ、ハル……。
;黒画面
…………。
……。
いいのか?
110と、携帯電話のボタンを押す指が止まる。
白鳥が、殺されるかもしれないんだぞ。
こういった凶悪犯罪は、警察に任せるのが一番だと、頭ではわかっている。
橋本は一人だ。
武器もナイフが一本。
警察に事情を話せば、犯人を刺激することなく校舎に近づいて、あっという間に人質を解放してくれるかもしれない。
頭痛を覚えるほどの切迫感に苛まれる。
白鳥の、あのぶすっとした顔。
まさか食事をともにするとは思わなかった。
なにか、おれを嫌う理由があるようだが……。
おれはもう一度、考え直した結果――。
警察に任せる
;選択肢
;警察に任せる →GM1へ
;やめておく  →以下へ
@exlink txt="警察に任せる" storage="gm01.ks"
;上記 やめておく、呼ばない、もしくは水羽の好感度が0以下の場合。
;ノベル形式
両側にカシやシイの並木を配した参道のような道をしばらく歩くと、そこは一面の雪景色だった。
 富万別市の東区、小高い丘に幼い水羽とユキの憩いの場があった。
水羽,「お姉ちゃん、この子になんて名前つけるー?」
二時間ばかりかけて、子供の背の高さくらいの雪だるまを完成させた。
ユキ,「水羽が名前つけなさいよ。あなたがほとんど作ったんだから」
水羽,「んーん、お姉ちゃんにつけて欲しいの」
両親の前ではぶすっとしている水羽も、ユキのそばでは屈託のない笑顔を見せた。
ユキ,「じゃあ……」腕を組みながらユキは言った。
ユキ,「雪太郎は?」
水羽,「うん、雪太郎かー、かわいいなー」
ユキ,「やっぱり、違うのがいい」
水羽,「なににするの?」
ユキ,「水羽の好きな男の子の名前にしたい」
水羽,「そんなのやだよー、恥ずかしいよー」
冷たい雪が、ふんわりと姉妹の肩に降り積もっていた。足のつま先にじんわりと溶けた雪が染み込んでくる。雪と同じようにやまない、水羽の笑い声。懐かしく幸福な記憶。
二人は、暗くなるまで、いつもじゃれあって遊んでいた。
 家には帰りたくなかった。水羽の母と、ユキの母。二人のお母さんがいる異様な家庭が、姉妹の帰る先だった。どういった経緯で同居することになったのか、物心つくまで、ユキは詳しくは知らなかった。ただ、ユキの母は、白鳥の家にとって必要な存在ではあったようだ。父の会社の秘書として、てきぱきと指示を出していた母の姿を、ユキは覚えている。
水羽,「水羽ねー、お姉ちゃんと結婚するんだー」
甘ったるい声が耳についた。不快ではなかった。
水羽,「ほーりつでねー、姉妹は結婚できないんだってー。でも、水羽とお姉ちゃんは、ちがくて。うん、とにかく結婚できるんだよー」
ユキ,「そうね、私が男だったら良かったわね」
かわいらしい妹だった。まぶたに落ちた雪が、あどけない笑みに涙のようにきらめいている。
水羽,「お姉ちゃん、水羽のこと好き?」
ユキ,「ええ、もちろん」
水羽,「えへへ、水羽も大好きっ」
そのうちに、水羽がとことこと歩き、地面に溢れた雪をかき集めだした。
ユキ,「どうしたの?」
水羽,「えへへ」
水羽はいたずらっ子の表情で、雪の球を手に握った。
ユキ,「ちょっと、まさか私にぶつけようっていうの?」
水羽,「そんなことしないよー。これは、雪太郎のごはんだよ」
ユキ,「ご飯って……」
優しい、女の子だった。どこか冷めて大人びたユキには、せっせとおむすびらしき雪球を作る水羽がまぶしく見えた。
水羽,「ねえねえ、おむすびのなかになに入れたらいい? やっぱりウメボシかなー?」
ユキ,「ウメボシなんてないでしょ」
水羽,「じゃあ、なに入れるー?」
ユキ,「言葉を込めてあげなさい」
水羽,「言葉?」
ユキ,「そう。言葉はとっても強いの」
水羽,「つおいの?」
ユキ,「ペンは剣よりも強しっていうくらいだから、絶対よ。千の銃剣よりも三つの敵意ある新聞のほうが怖いともいうし」
水羽,「お姉ちゃんは、物知りだからなー」
小さな首を、何度も振ってうなずいていた。子犬のようにつきまとってくる妹が愛しくて仕方がなかった。
ユキ,「ウメボシを入れても、しばらくしたらなくなっちゃうでしょう?」
水羽,「うん、ウメボシも死んじゃう」
ユキ,「でも、言葉は決してなくならないわ。私たちが覚えている限り」
水羽,「おおー、そっかー」
ユキ,「たとえ雪太郎が溶けちゃっても、私たちが残した言葉は永遠になくならないでしょ?」
水羽,「なるほどー、言葉って、とっても強いんだねー」
ユキ,「水羽も、なにかあったら、まず話すのよ。どれだけ怖い人でも、話せばわかってくれるから」
水羽,「パパとママも?」
ユキはにっと笑った。幼いユキはまだ純粋で、言葉の影に追従する暴力の重要性を知らなかった。
ユキ,「もちろんよ。さあ、雪太郎にご飯をあげましょう?」
水羽,「うん、もう言葉は決まってるんだー」
ユキ,「なあに、教えて?」
妹は、うきうきして言った。
水羽,「みずははいつでも、ねえさんの味方だよって」
ユキもたまらず、顔から笑みがこぼれた。
ユキ,「ちょっとちょっと、そんな言葉を雪だるまに食べさせないでよ」
笑い声が、冬空に広がった。陽はだんだんと沈んでいくが、姉妹はいつまでも晴れがましい。やがて来る別れの面影など、これっぽっちもなかった。
;黒画面
…………。
……。
;背景 港 夜
;通常形式
深夜三時。
時田たちは港付近で消息を絶ったという報告を受けた。
夜の波止場に到着したところで、宇佐美から着信があった。
ハル,「浅井さん、いまどちらです?」
京介,「港の近くだ」
ハル,「なるほど。ユキはおそらく、どこかの倉庫のなかにいます」
京介,「なぜだ?」
ハル,「つい先ほど、わたしの携帯に画像つきでメールが届きました」
京介,「どんな画像だ?」
ハル,「水羽です。手を後ろにしばられていました」
人質ってわけか。
京介,「……で、メールの内容は?」
ハル,「理事長を連れて、いま浅井さんがいる倉庫付近まで来いと」
京介,「来なければ?」
ハル,「おわかりでしょう?」
白鳥を殺す、っていうのか……?
ハル,「とにかく、急いでそちらにうかがいます。理事長も写真を見て承知してくださいました」
京介,「わかった。おれたちは時田のいる倉庫を探し出して、囲んでおくとする」
……時田も、なにをたくらんでいるんだ?
まさか、白鳥を殺すつもりはないだろう。
狙いは、あくまで理事長だろうか。
;ノベル形式
ユキ,「フフ……いっぱい集まってきたみたいね」
倉庫の外から慌しく複数の足音が聞こえてきた。倉庫内から明かりは漏れているから、居場所は簡単に見つかったことだろう。ややあって、シャッターを蹴りつける音や、怒鳴り声が聞こえてきた。
 倉庫の出入り口の鉄扉は固く閉ざされている。相手はただの街のチンピラどもだ。強行突入のための破砕具など持ち合わせているわけもない。
水羽,「姉さん、どうするの?」
ユキ,「なあに?」
水羽,「もう、逃げられないわよ?」
ユキ,「そうかしらね」
さもおかしそうに肩をすくめた。
ユキ,「逃げ切ってみせるわよ」
水羽,「……どうやって?」
ユキ,「正面から堂々とよ」
水羽,「そんなことが……」
ユキ,「できるのよ、言葉は力だって教えたでしょう?」
水羽は思い知った顔になって、唇を噛んだ。それを上から見下ろしながら、ユキは交渉の段取りを決めていった。
 簡単なことだ。
 相手は素人の集まり。理事長も体面を気にして、すぐには警察を呼ばないだろう。ハルにしても、まだまだ会話ではユキに及ばない。
問題は、最後の決意だった。ユキの父、時田彰浩への謝罪。彼は心優しき父親だった。娘が罪を犯せば父の出処進退にも関わるだろう。せめて一言、別れの言葉を告げたかったが、それもかなわないか……。
水羽,「姉さん、お願い。考え直して?」
ユキの迷いを見透かしたように言った。その媚びるような顔が、薄汚い実父と重なって、ユキの心は憎悪に燃え上がった。
ユキ,「犀は投げられたのよ、水羽」
;背景 港 夜
約一時間後、宇佐美が白鳥理事長を連れて現れた。
海風に宇佐美のうすら長い髪が揺れている。
京介,「宇佐美、あれだ、あの倉庫だ。窓からうっすらと明かりが漏れているだろう?」
ハル,「間違いなさそうですね。どうやって入ったんでしょうか?」
宇佐美の疑問はもっともだが、答えようがなかった。
理事長,「いったい、今度はなんだっていうのかね?」
憔悴しきった表情で、白鳥理事長がおれに食いかかってきた。
理事長,「真犯人は、ユキだって? あの娘の母親はうちの会社の金を横領したんだぞ? 本来なら警察に突き出してやるところを、追放するだけで許してやったんだ」
感謝こそされ、うらまれる筋合いはないと、息をまいていた。
理事長,「まったく、犯罪者の娘も犯罪者か」
ハル,「…………」
風が強くて理事長も助かったことだろう。
長い前髪の奥でかいまみえた宇佐美の理事長を見る目つきには、浅井権三のそれに近いものすら感じた。
おれは言った。
京介,「なるほど、理事長。横領すらも警察沙汰にしなかったのですから、今回もなるべく穏便にことを進めたほうがいいんですよね?」
理事長,「ああ、君だってそうだろう?」
京介,「ええ、まったく」
内々に事を収めることができれば、時田にも未来はあるだろう。
京介,「…………」
いや、時田の未来なんてどうでもいいが、ヤツはそれなりに優秀だ。
手なづけておけば、きっと、おれの将来に役立つだろう。
ハル,「ユキに連絡します」
京介,「ああ、例の機械でおれにも時田の声が聞こえるようにしてくれ」
宇佐美はさっそく携帯を持ち出して、準備に入った。
着信があった。
ユキ,「遅かったわね、ハル」
ハル,「ユキ、そこにいるんだな?」
ユキ,「ええ、今度こそ、ちゃんと倉庫のなかにいるわ。小細工はなしよ、ハル。理事長は連れてきたんでしょうね?」
そこで、お目当ての男の声が割って入ってきた。
理事長,「おい、ユキ。貴様、いったい自分が誰を相手にしているのかわかっているんだろうな?」
ユキ,「愛人がいないとなにもできない、甲斐性なしの男でしょう?」
理事長,「な、なんだと……!?」
真っ赤になった顔が目に浮かぶ。ユキは挑発しながらも、本当に倉庫の外に理事長がいるのかを耳で探った。海風のうなるような轟音が響いている。まず、そこにいると考えていいだろう。
ハル,「ユキ、望みはなんだ?」
ユキ,「フフ……ハル、立て篭もり犯にいきなり要求を聞いてはいけないわ」
ハル,「まずは、仲良くなってからって言いたいのか?」
ユキ,「そう。いまの私は、あなたの知らない人なのよ」
ハル,「馬鹿を言うな。ユキはユキだろう。水羽もきっと悲しんでる。わたしもそうだ。いまだに信じられない」
感情にたかぶった声を、ユキはあざ笑ってやった。そうしないと、罪悪感が押し寄せてくるから。
ユキ,「まるでコントね、ハル。『お前たちは完全に包囲されてる、ほら、田舎のお母さんも泣いているぞ』って?」
ハル,「ユキ……!」
ユキ,「少し黙ってよ、ハル。あまり感情をぶつけてくると、犯人が興奮して取り返しのつかないことになるわよ?」
冷たく言いながら、縛られた水羽を見下ろした。
ユキ,「私の要求を言うわ、ハル」
ユキはいきなり切り出した。
ユキ,「いまから一時間以内に、車を一台用意すること」
ハル,「それだけじゃないんだろう?」
ユキ,「さすがにわかる?」
ハル,「逃げるだけなら、わざわざ理事長を呼んだりしない」
ユキ,「話が早くて助かるわ」
ハル,「……理事長を車に乗せて、どこに行こうっていうんだ?」
ユキ,「さあ。少なくとも理事長にとって楽しいドライブではなさそうね」
ハルが、息を詰まらせるのがわかった。
ユキ,「わかった? 質問はない? これから先、車が届くまでいっさいの交渉は打ち切るわ」
交渉人は、なんとかして犯人の反応を得ようとする。相手がまったくの無反応ならば、さすがに打つ手がないからだ。ユキはそれを知って、ハルとの必要以上の接触を避ける算段だった。
ハル,「待て、ユキ。要求を呑まなかったら、どうするつもりだ?」
ユキ,「あら、なんのための人質だと思ってるの? 水羽は置物じゃないのよ?」
ハル,「嘘はよすんだ。ユキにそんな真似はできない」
ユキ,「なに、勝手に決めつけてるのよ、ハル」
ユキは平静さを装って、内心で怒りを爆発させていた。
ユキ,「あなたが私のなにを知っているっていうの? 逆に聞くけど、ハルだって、私に"魔王"のことは教えなかったじゃない?」
ハル,「…………」
ユキ,「いい? 誰にだって深い闇があるのよ。親にも友達にも相談できないようなストレスを抱えているの。あなただってそうでしょう? だから、友達だから、とかそういう甘ったるい考えはやめてもらえる?」
その瞬間、ハルの声質が変わった。
ハル,「"魔王"のことは教えなかった、だと……?」
ユキは、つい、自分が"魔王"とつながっていることをしゃべっていた。しかし、そんなことはどうでもいい。ハルがなぜ"魔王"を追っているのか、それこそ本人にしかわからない深い闇だ。
ユキ,「私は"魔王"を知っているわ。ええ、宿を借りたことすらある仲よ。彼は歪んでいるけれど、信念を持った男だわ。あなたと同じようにね」
挑戦状をたたきつけたつもりだった。
ハル,「わかったよ、ユキ」
ひしひしと緊張が募る。
ハル,「お前が"魔王"と関わっているのであれば、そして"魔王"を肯定するのであれば、わたしも容赦はしない」
ユキ,「へえ、怖いわね……」
事実、ユキの笑みは引きつっていた。
ユキ,「とにかく、一時間以内よ。遅れたら勇者の大切な仲間が傷つくことになるから、急いでね」
ハル,「いいだろう」
短く言って、ハルのほうから通話を切ってきた。
水羽,「姉さん……」
妹は不安そうに、けれど、それでもユキを心配するような顔で見上げてきた。
 ハルは怒りを覗かせた。交渉人の緊張が高まれば犯人の感情もたかぶる。
ユキ,「自分の心配をしたら、水羽。いまの私の話を聞いていたでしょう。私があなたを傷つけないだなんて、甘ったるく決めつけないで」
水羽の目に恐怖が宿り、ユキはようやく満足した。
;背景 港 夜
;通常形式
……。
…………。
京介,「時田のヤツ、本気なのか?」
通話を終えてなお、その場で微動だにしない宇佐美に聞いた。
ハル,「昔、ユキは、お母さんと二人でひっそりと暮らしていたときのことを、面白おかしく話してくれました」
京介,「…………」
ハル,「頼れる親戚もなく、北陸の小村にある町工場で住み込みで働いていたそうです。お金がなくて、着るものにも困るありさまでしたが、いつでもお母さんが助けてくれました」
……どこかで聞いた話だな。
ハル,「あるとき、村にダムを誘致するしないで、村中が賛成派と反対派に別れ、もめたことがありました。ユキのお母さんは、建設会社に勤めていた経験から、工事の必要性を感じ賛成派に回ったそうです」
ハル,「しかし、結果的に、ダムの建設は中止になりました。すると、賛成に票を投じていた人たちはどうなったと思います?」
京介,「ああ、わかったわかった。そういう話は苦手だ」
おれは、うんざりして首を振った。
似たような経験は、おれにもある。
京介,「小さい村ってのは、家と家とのつながりがなにより大事だ。時田は親子ともども、村八分にされたってところか?」
ハル,「ええ、ユキたち親子の住む家も火事で全焼したそうですよ」
京介,「おいおい、それは、いくらなんでもやりすぎだろ」
ハル,「いいえ、ユキは放火だと言っていました」
裁判に訴えたところで、問題の根本的な解決にはならない。
京介,「が、そこにいらっしゃる理事長の話が本当なら、それも自業自得ってもんだ。会社の金を横領して家を追い出された結果だろう?」
ハル,「ユキの話では、横領の事実はなかったそうです。それについては、とても信憑性のある話を聞きました」
京介,「そんなもん、真実はわからんだろうが」
ハル,「それでも、ユキに非はありません」
京介,「なんにしてもだ、宇佐美。てめえがなにも悪くなくたって、不幸は襲ってくるもんだ。そんなもん、ずっと根に持っててもしょうがねえだろうが」
ハル,「…………」
京介,「…………」
……なにを言い争っているんだ、おれたちは?
京介,「目の前の現実に目をむけよう」
ハル,「……はい」
おれたちは身を寄せ合って、小声で話しあった。
京介,「時田は車を一台要求してきた。理事長を人質に、さらなる逃亡をはかる予定だ。目的は理事長の殺害にある」
ハル,「まさしくその通りですね」
京介,「じゃあ、どうする? 要求どおり、車を用意するか?」
ハル,「……ひとまずは」
なにやら考えるように黙り込んだ。
京介,「わかった。一時間もかからん……」
おれは車の手配を進めた。
;黒画面
…………。
……。
ユキ,「ねえ、水羽」
ユキは退屈を弄ぶように髪をかきわけながら言った。
ユキ,「けっきょく、京介くんにはあのことは伝えられたの?」
水羽,「……いま、そんなことはどうだっていいじゃない」
ユキ,「いまが最後のチャンスになるかもしれないっていうのに?」
水羽をまじまじと見つめた。毅然としているようで、いまだに身に降りかかった不幸を信じられないという顔をしている。
ユキ,「そのマフラー、暖かい?」
水羽は、こくりとうなずいた。
ユキ,「いつあげたのか、覚えてる?」
水羽,「……私が、かぜをひいたとき……」
ユキ,「うれしかった?」
水羽,「うん……」
うっすらと目を細める。昔を懐かしむように。甘い女の子だ。
不意に聞いてやった。
ユキ,「どうして、便りの一つもくれなかったの?」
水羽,「……それは、だから……どこに住んでるのかも、知らなかったから」
ユキ,「探してくれてもよかったじゃない?」
水羽,「……ごめんなさい」
ユキ,「私の母さんが肺炎で倒れたとき、マフラーのことを思い出したわ」
ふと、水羽がしゃくり上げるような声を出した。
水羽,「……私にあげなければよかったって、こと?」
目に悲しみをみなぎらせた水羽を、ユキはあざ笑った。
ユキ,「だって、あなたは、私を探さないで、父親のもとでぬくぬくしていたんでしょう?」
水羽,「……そんなつもりは」
ユキ,「今回だってそうじゃない。水羽は私の誘いを断った。あなたさえ協力してくれれば、もっと楽に理事長を脅迫できたのよ。つまりあなたは、私より、父親を選んだってこと」
水羽,「姉さん、もうやめてよ……こんなの姉さんらしくないよ……」
ユキ,「水羽こそ情に訴えるのはやめてよ。私はもう、あなたと雪だるまを作ってたころの私じゃないのよ?」
水羽は目を伏せ、言った。
水羽,「……そんなに、父さんが憎いの?」
ユキ,「当たり前でしょう」
ユキは目を見開いた。
ユキ,「いっときの感情に身を任せて復讐しているわけじゃないの。あいつに対する恨みと憎しみは、時がたつにつれて消えるどころか、どんどん強くなっていったわ」
水羽,「でも……姉さんたちが、家を出て行ったのは、理由が……」
ユキ,「横領の話? 私の母さんがそんなことするはずないでしょう。それは、あなたの父親の内部工作よ。平たく言えば、愛人に手切れを言い渡したかっただけ。証拠を見せましょうか。私はちゃんと調べたのよ」
一年前、それも"魔王"の力を借りて。思えば悪魔を頼った時点から、復讐の車輪は回りだしていたのかもしれない。
ユキ,「家を追い出された当時、母さんが病気がちだったのは覚えてる?」
水羽の返答はなかった。幼かった水羽は覚えていないようだが、ユキはいまでも思い出す。血の混じった咳をして、ユキになんでもないと笑って見せた母の顔を。
 そんな人間を、よくぞ冬の寒空に放り出してくれたものだ。
ユキ,「そりゃあ、わかってるわよ。愛人だもの。いつかは切られる運命にあったんでしょうね。でも、不倫にも筋ってものがあるでしょう。なにも路頭に迷わせなくてもいいじゃない?」
ユキは、母の無念と苦痛を水羽に訴えても仕方がないとわかっていながらも、どうにもならなかった。
ユキ,「あいつが母さんを殺したも同然なの、それはわかってよ水羽……!」
水羽,「……なにも、こんなことしなくても……」
キは観念した。妹とはいえ、しょせんは他人。わかってもらえるはずがなかった。実際、多くの犯罪者と対面してきたユキも、彼や彼女の生い立ちや、犯罪にいたるまでの過程を、どこか他人事のような冷めた顔で聞いていたものだ。ユキはいまや寛容に言った。
ユキ,「復讐が問題の解決にならないことは知っているわ。でもね、救いにはなるのよ。復讐こそが唯一の救いだと思い込んでしまったら、もうあとには引けないわ」
直後、着信があった。ユキはひと息ついて、応答した。
ユキ,「早かったわね、ハル」
ハル,「望みどおり、車は用意した」
ユキ,「上出来ね。すぐ出られるようにエンジンはかけっぱなしにしておいてちょうだい」
ハル,「本当に逃げられると思っているのか?」
ユキ,「カーチェイスをするつもりはないわよ。ぜったいに追ってこないでね。追手の影でも見えれば、その場で海にでも突っ込むわよ」
ハル,「正気じゃないな……」
ユキ,「正気でこんなことができると思う?」
ハル,「たとえ、わたしたちを振り切ったとしてもだ。警察がユキを追うぞ」
ユキ,「でしょうね。今度こそ、警察を頼らない理由がないもの」
ハル,「一生逃げるつもりか? 今日捕まるか、明日捕まるかっておびえながら毎日暮らすのか?」
ユキ,「あらあら、容赦はしないとか言っておきながら、まだ説得しようっていうの? 甘いんじゃないの?」
しかし、ハルは挑発には乗らず、ユキにとって一番痛いところをついてきた。
ハル,「ユキを追うのは、ユキのお父さんだぞ」
ユキ,「そんなはずないじゃない」
冷たく言った。
ユキ,「娘が罪を犯したら、捜査から外されるわ。父さんもまた田舎に逆戻りよ」
ハル,「よくわかってるじゃないか。もう一度言う。いまなら、まだことは公にはならない。まだやり直せる。いますぐそこから出てくるんだ」
ユキ,「投降したとして、"魔王"の仲間であるわたしはどうなるの? あなたや、京介くんのお仲間さんたちに暴行されるんじゃないの?」
ハル,「そんなことは……ない」
語尾を濁すような言い方に、ハルの戸惑いが確認できた。ハルはともかく、"魔王"を血眼になって探している園山組のヤクザたちは、ユキを捕まえれば、徹底的に絞り上げるだろう。
ユキ,「話はこれまでよ。次の要求を言うわ」
ちらりと水羽を見た。妹はすでに言葉を失ったように、絶望に暮れているだけだった。
;黒画面
……。
…………。
;背景 港 夜
スピーカーから時田の要求が聞こえてきた。
ユキ,「そこの理事長に質問があるの」
理事長,「……なんだ、なにが聞きたい?」
ユキ,「重要なことよ。正直に答えてね」
前置きして、続けた。
ユキ,「私と母さんが北陸の小さな村に住んでいたとき、うちの家に火を放った男を知らないかしら?」
理事長,「……な、なにを言っているのかわからん」
ユキ,「いいえ、知っているはずよ。あれはあなたの指示?」
理事長,「知らんものは知らん」
ユキ,「本当の目的は、母さんが持っていたあなたの裏帳簿よね? おかげでなにもかも燃えちゃったわ。良かったわね」
理事長は狼狽しながらも、しきりに首を振った。
ユキ,「あのときは、村の人もわたしたちに冷たかったから、ろくに調べもなかったわ。家がなくなったおかげで、母さんの病状も悪化した。この意味がわかる?」
時田の母親の死期を早めた人間がいるようだな……。
ユキ,「教えなさい。あなたの手の者だっていうのは、わかっているのよ?」
理事長,「ひ、火を放てなどと、命じてはいない……」
ユキ,「盗みに入れって命じたんでしょう。でも見つからなくて、めんどくさいから火をつけた。こんなところかしら?」
理事長,「違う。あれは、お前たちを心配して……そうだ、片倉くんにはお前たち親子の近況を聞きに行けと……」
ユキ,「片倉っていうのね。あなたの会社の社員? たいそう出世したんじゃない?」
理事長,「……取締役の一人だ。それがどうした?」
ユキ,「決まってるじゃない。片倉もここに呼びなさい。共犯のなかなんだから、身近に置いているんでしょう?」
理事長,「馬鹿を言うな。放火の証拠なんてないだろう? それに、いま何時だと思っているんだ? 無関係な人間を巻き込むな」
ユキ,「無関係かどうかは、私が決めるの。わからない? ここは私の法廷なのよ?」
背すじが寒くなるような、冷たい声だった。
京介,「理事長、ひとまず要求を呑むしかないでしょう」
理事長,「しかし……」
京介,「まあ、いざとなったら、父にたのんでいろいろと揉み消して差し上げますので」
でたらめをしゃべったが、効果はあった。
理事長,「やむを得んな……」
渋々とうなずいた。
ユキ,「部下への連絡が終わったら、なかに入ってきてもらえる?」
理事長,「……なぜだ?」
ユキ,「いやなの?」
時田の声は怒気を含んでいた。
ユキ,「あなたが来れば水羽を解放してあげるわ」
理事長の顔には汗が滴っていた。
ユキ,「実の娘の命がかかってるのよ? あなたみたいな鬼畜でも、さすがに水羽は見捨てられないでしょう?」
理事長,「ま、待て、私になにをする気だ?」
ユキ,「それは来てのお楽しみよ。さあ、早くして」
理事長,「くっ……!」
彼は救いを求めるように、おれを見た。
京介,「どうなさいます?」
おれに強制する権利はない。
理事長,「……っ……」
瞬きを何度か繰り返し、握りこぶしを作った。
理事長,「……わ、わかった……」
ハル,「待ってください」
宇佐美が携帯電話を片手に、理事長の肩をつかんだ。
ハル,「危険すぎます」
理事長,「……しかし……」
ユキ,「ハル……なんのつもり?」
直後、宇佐美は確信を持った様子で言い切った。
ハル,「ユキ、お前に水羽を傷つけられるはずがない」
ユキ,「へえ……」
ハル,「これはつまり、人質が人質としての意味を成さないということだ」
ユキ,「ふうん、そう思ってるんだ」
ハル,「だからこそ、理事長をそちらに行かせるわけにはいかない」
白鳥は殺せないが、理事長は殺せる……そういうことか。
理事長を人質に取られたら、今度こそ時田は容赦ない要求を突きつけてくる。
ユキ,「なるほど、さすがはハルね。私の思惑をあっさりと見破ってくれる」
ハル,「…………」
ユキ,「でも、誤解をしているようだから、ちょっと教えてあげるわ」
ハル,「なに……?」
瞬間、ぱちんと皮膚を弾くような音が走った。
同時に、
水羽,「きゃあっ!!!」
白鳥の悲鳴があった。
ユキ,「聞こえたかしら……?」
水羽,「……っ……うぅ……」
酷薄な時田と、悲嘆にあえぐ白鳥。
ハル,「……ユキ……」
眉間にしわを刻み、宇佐美は言った。
ハル,「いまのは、なんだ?」
ユキ,「頬を殴ったの。ちょうどいま、倉庫のなかで古びた釘を見つけたわ。次は、これを使おうかしら」
ハル,「やめるんだ」
ユキ,「私の言うことをおとなしく聞いてくれれば、やめてあげる」
耐えかねたように、前に飛び出す人影があった。
理事長,「わかった! いま行くから、娘を解放してくれ!」
ユキ,「フフ……いいパパじゃない。その優しさを少しは私にも分けて欲しかったものだわ」
おれは努めて冷静に言った。
京介,「おい、時田。理事長を引き渡せば白鳥を解放してくれるというのは本当だろうな?」
ユキ,「もちろんよ。信じて」
京介,「信ずるに足りるものが見当たらなくてな」
ユキ,「さすがは京介くんね。初めて会ったときから、あなたと私は似た者同士だと思っていたわ」
京介,「合理的なところがか?」
ユキ,「いいえ、心に複雑な闇を抱えているという意味で」
京介,「戯言はいい。もし、白鳥を返さなかった場合、おれたちは倉庫の中に乗り込むぞ」
ユキ,「強行突入ってこと?」
京介,「ここに屈強な男が何人いると思ってるんだ? カギをぶっ壊してでも、なかに入ってやる。そうなったらお前はおしまいだ」
ユキ,「でしょうね……そういうところ、ますます気に入ったわ」
京介,「ふざけていられるのもいまのうちだ」
実際のところ、倉庫内への侵入口はあたりをつけていた。
倉庫の外壁に窓がついている。
窓の高さは地面から五メートルほどだが、肩車でもすれば簡単によじ登れるだろう。
しかし、それは、最後の手段だろうな。
ユキ,「どう、京介くん、私と組まない? 私はそれなりに役に立つと思うのだけれど?」
京介,「そうだな。それもいいな。具体的な話は、ひとまずお前がそこを出てきてからだな」
ユキ,「そうね、じゃあ、理事長を引き渡してちょうだい」
理事長,「……っ」
ハル,「だめです」
倉庫の入り口に向かった理事長を、再び止めに入った。
理事長,「離してくれ。もう私が行くしかないんだ」
ハル,「いけません。犯人は、あなたを殺害するつもりなんですよ?」
京介,「…………」
宇佐美がついに、時田のことを犯人と言った。
それは、友人であることの私情を排除するための措置なのかもしれない。
ユキ,「強情ね、ハル。そこの男は最低の類の人間なのよ?」
ハル,「たとえ、最低の人間だとして、見殺しにはできない」
時田が鼻で笑った。
ユキ,「あなたはだから友達が少ないのよ。そうやって正義風を吹きまわしているとね、みんなうさんくさいって思うものなのよ。勇者様が人々に尊敬されるのはゲームの中だけよ?」
ハル,「とにかく人質の交換はしない」
ユキ,「そうやって強硬な姿勢を取り続けていると、最悪の事態が待っているわよ?」
ハル,「だめなものはだめだ。理事長、下がってください」
宇佐美の剣幕に気圧されたのか、理事長も二の足を踏む形になった。
ユキ,「まったく……優秀なネゴシエーターね」
皮肉と舌打ちが返ってきた。
ユキ,「また連絡するわ」
宇佐美がため息といっしょに、携帯を持つ腕を下げた。
京介,「宇佐美、いいのか?」
ハル,「理事長を人質に取られたら、終わりです」
京介,「それはわかっているが、かといって、白鳥を見殺しにもできんだろう?」
ハル,「ユキは水羽に危害を加えたりしません」
京介,「まだそんな甘いこと言ってるのか? さっきヤツは白鳥を殴っただろう?」
ハル,「いいえ、あれは、はったりです」
京介,「……どういうことだ、たしかにばちんって肌を張られたような音がしたじゃないか?」
ハル,「よく考えてください。もし、ユキが本当に水羽の頬を平手でぶったのであれば、ばちんという音と同時に水羽の悲鳴が上がるはずがありません」
京介,「……む……」
そうだな……普通なら、頬をぶたれたショックで白鳥は絶句しているところだろう。
ハル,「おそらく、水羽の目の前で自分の両手を叩いただけでしょう。猫だましみたいなものです。水羽は驚いて悲鳴を上げただけです」
京介,「ということは……?」
ハル,「犯人には、まだ良心が残っているということです」
まだ、な……。
ハル,「いまのはユキのミスです。そんなはったりをしてこなければ、我々も二の足を踏むものを……」
たしかに、本当は白鳥を殴れないってことをおれたちに教えてくれたようなものだ。
ハル,「先ほども言ったように、これはつまり、人質が人質として機能していないということです」
京介,「つけ入る隙があるってことだな」
ハル,「ええ……」
宇佐美はうなずき、倉庫の壁を見つめた。
ハル,「あそこに窓がありますね……」
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
;背景 倉庫中
困ったことになったと、時田ユキは思った。
 腕組みをしながら、水羽の周りを歩き回る。問題は、やはり、人質が人質として機能していないことだ。ハルは、さすがにその点に気づいていた。先ほどの脅しなど、簡単に見破られたことだろう。
 早めに理事長を人質として迎え入れなくては……。
水羽,「姉さん……」
口を閉ざしていた水羽が、顔を上げた。虚ろな目。
ユキ,「さっきは、驚かせてごめんね」
思わず口をついた言葉は、ユキの本心だった。安全な家庭で育った妹はたしかにうらやましく、ねたましいが、暴力を振るうには、ユキはまだ気持ちの整理がついていなかった。
水羽,「いいの……」
つぶやいて、またうつむいた。
 ユキは、間近に迫る強行突入に焦りを覚えていた。水羽を傷つけられないとばれた以上、踏み込まれるのは当然のことだった。
侵入口はおそらく窓だろう。窓から這い出てくるところを叩けば、一人二人なら追い払うこともできるだろうが、敵は頭まで筋肉でできているような男たちだ。きっと、無尽蔵に攻め込んでくる。
;窓をノックするような音
ユキ,「……っ!」
ハルの行動は早い。窓の向こうに黒い人影。
 水羽を見下ろした。水羽もこちらを見上げていた。
水羽,「姉さん、あのね……」
甘ったるい声だった。
 腹をくくるしかない。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫 外 夜
京介,「なかの様子はどうです?」
おれは権三の手の者に聞いた。
小柄な男が肩車をされる格好で、窓の向こうを覗き込んでいた。
ヤクザ,「よく見えませんね……窓、ぶち壊しましょうか?」
おれは何気なく宇佐美を見やった。
ハル,「いいんですか?」
京介,「かまわんだろ。言い忘れたが、この倉庫は、浅井興業が管理している物件だ」
ハル,「……それは、すごい偶然ですね」
言われてみればそうだな……。
時田はなぜ、この倉庫を立て篭もり場所に選んだのだろうか。
……まあいい、小さなことだ。
京介,「よし、じゃあ……」
窓を破ろうと声をかけたときだった。
ハル,「ちょっとお待ちを……!」
京介,「なんだ?」
ハル,「ユキからメールです」
京介,「メールだって? 電話ではなく……?」
ハル,「画像が添付されています……これは……」
宇佐美の顔が険しくなった。
思わず、宇佐美の携帯を覗き見る。
京介,「……なんだと……」
なにか鋭利なもので切り裂いたのだろう。
白鳥の太ももから、糸のように血が滴っている。
傷口は浅そうだが、その鮮血の意図するところに戦慄を覚えた。
京介,「時田のやつ……」
やりやがった。
おれも学園生活に毒されて甘くなっていたのかもしれない。
なにが、姉妹だ。
心が凍りついていく。
京介,「おい、宇佐美。突入はひとまず見合わせるぞ」
ハル,「…………」
衝撃に口も聞けないらしい。
目を見開いて、携帯の液晶画面を見つめていた。
その携帯がけたたましく鳴る。
宇佐美は、茫然自失といった様子で、応答した。
ユキ,「画像、見てくれた?」
ハル,「ああ……」
ユキ,「私が本気だってこと、わかってもらえたかしら?」
ハル,「…………」
宇佐美は答えず、代わりにおれが口を開いていた。
京介,「人間追い込まれればなんでもするもんだな」
ユキ,「そうね……ひどく腐った気分だわ。生まれ変わるってこういうことなのかも」
京介,「お前は地獄行きだ」
ユキ,「あなたもでしょう」
おれもどこか、時田に気を許していたのかもしれないな。
時田の本性に寂しさを覚えていると、背後で理事長の声が上がった。
理事長,「事情はわかった……もう、勘弁してくれ、ユキ……」
娘の流血に色を失った理事長に、時田はあくまで冷酷だった。
ユキ,「だったら、とっとと来てもらえるかしら?」
理事長,「ああ……いま行く」
ユキ,「片倉への連絡は済んだ?」
理事長,「先ほど済ませた。三十分以内に来るそうだ」
今度は宇佐美の腕は伸びなかった。
とぼとぼと倉庫の入り口に向かう理事長の背中を目で追うだけだった。
ハル,「おかしい……」
ぼそりと、なにかつぶやいた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫中
;ノベル形式
ひどく腐った気分というのは本当のことだった。
 一度通話を切り、ユキは水羽の太ももの傷を見やった。
水羽,「これで……いいんだよね、姉さん……」
ユキ,「ありがとう……」
かろうじて言った。
あのとき……。
 窓に人影が見えた直後、不意に水羽がうめいた。『姉さん、あのね……』。ユキは目を見張った。水羽が自ら足だけで立ち上がり、倉庫に点在するコンテナに身を寄せた。なにをしているのかと止めに入ったときには遅かった。水羽は左の足をコンテナの角に摺り寄せ、そのまま勢いよくしゃがみこんだ。鉄コンテナの角は、切っ先の鋭い刃物となって、水羽の生足を容赦なく切り裂いた。
 水羽は苦痛を訴えるでもなく、姉に告げた。
 ――これで、信じてもらえるでしょう?
考えるより先に、傷口の写真を撮り、ハルに送っていた。ひどく腐った気分だった。
;水羽の立ち絵表示
 ユキは水羽をしばっていたロープから解き放ち、傷の具合を確認した。
ユキ,「だいじょうぶよ。もう、血は止まっているみたい」
水羽,「もう痛くないから、安心して」
ユキ,「それにしても、なぜ?」
水羽はかぶりを振った。
水羽,「姉さんに味方するって、決めたの……」
ユキ,「嘘をつかないで。いまさら遅すぎるわよ」
言いつつも、ユキはこの期に及んで妹を信じられない自分が嫌だった。
ユキ,「私は、あなたの父親を殺そうっていうのよ? それに加担するっていうの?」
水羽,「うん……」
すべてをあきらめたようにうなずいた。
ユキ,「納得がいかないわ」
水羽,「だって、姉さんのすることだから。私、姉さんのこと好きだから」
ユキ,「気持ち悪いこと言わないでよ」
水羽,「考えたの。さっきからずっと」
ユキ,「なにを?」
水羽,「いままでの私。怖がりで、思ってることも口に出せなくて、子供っぽい私のこと。声をかけたい人とも、まともにしゃべれなかった……」
水羽は口を結び、ユキを見つめてきた。
水羽「姉さんが来るまで、友達らしい友達もいなかったの。父さんが警察に容疑をかけられて毎日肩身の狭い思いだった。姉さんが来て変わったわ。ここ数日は、本当に楽しかったから」
ユキ,「…………」
水羽,「クラシックの鑑賞会、楽しかった……」
ユキ,「そう」
水羽,「あのあと、浅井くんとご飯食べてたんだよ。彼、A型だって」
ユキ,「ふうん」
水羽,「ぜんぶ、姉さんのおかげだよ。昔から、姉さんといるといつでも楽しかった」
ユキは水羽の真っ直ぐなまなざしを受け止めるのが、つらくなってきた。
水羽,「雪だるまの名前覚えてる?」
ユキ,「雪太郎でしょ。くだらない……」
水羽が力なく笑った。
水羽,「またいっしょに作りたいなって思ったら、決心がついたの。私、姉さんといっしょに地獄に落ちるよ」
胸がうずいた。水羽の全身を観察する。目、手、足、口元……仕草から嘘をついている様子はひとまず感じられなかった。
ユキ,「いいのね、水羽?」
もう一度、慎重に吟味してみた。
水羽,「父さんは、世間で知られている以上に、悪いことをたくさんしているの。姉さんたちだけじゃない。いつもうまいことやって切り抜けてきたみたいだけど、そろそろ報いを受けるべきなのよ。警察じゃなくて姉さんに裁かれるんなら、しょうがないと思う……」
ユキは、水羽の言葉の影にひそむ幼稚さを感じ取った。極限状態におかれ、感情がたかぶっている。いっときの感情で、少女は父親殺しに加担するというのだ。きっと本心では、理事長もユキも救われるような事態を望んでいる。甘さを隠しきれないようだ。
水羽,「でも、どうしてだろうね……」
寂しそうに言った。
水羽,「どうして、わたしたちは、こんなに違うの……?」
ユキ,「違う?」
水羽,「ぜんぜん違うじゃない。見た目も、雰囲気も、話す言葉ひとつとっても違うわ」
ユキ,「そんなもの、育った環境が違うからに決まってるじゃない」
水羽,「そうだよね。そして姉さんは、それを恨んでるんだね」
ユキは、つい、語気が強くなっていたことを自覚した。
ユキ,「似ていたかったの?」
水羽,「うん」
ユキ,「なぜ?」
水羽,「なんとなく、姉妹だから」
ユキ,「血は半分しかつながってないのよ」
水羽,「だから?」
ユキ,「いまからそれすらも断ち切ろうとしているのよ。二人の唯一の共通点である、父親を殺すのだから」
水羽,「唯一?」
ユキ,「あなたが言ったことじゃない。私たちは、まるで似ていないわ。私はおしゃべりが好き。あなたは寡黙。私は現実的で、水羽は夢見がち。なにか似ているところがある?」
ついでに言えば、ユキは私生児で、水羽はちゃんとした嫡子。歴然たる溝がそこにある。
水羽,「私、人前だと姉さんの真似をして、気位が高そうに振舞っていたの」
ユキは思わず吹き出した。
ユキ,「馬鹿ね。自分を偽ったって、すぐにわかるわよ」
水羽,「うん、馬鹿だった。今度からしない」
ユキ,「今度があると思うの? 親を殺しておいて、未来があるとでも?」
きつく言うと、水羽は押し黙った。指先がかすかに震えている。怖くなったのだ。
 ユキは嘆息して、目を伏せた。やはり、この子に犯罪は無理だ。そして、この純真な少女を傷つけることも、自分にはできない。
ユキ,「思慮が足りないわね、水羽」
水羽,「え?」
ユキ,「もういいわ。私を助けようだなんて、軽々しく言わないで」
水羽,「そんな……私は、本気だよ……?」
ユキ,「いいのよ、さっきのはうれしかった。私が困っているのを、ただ見ていられなかったのね?」
水羽,「本気だってば。姉さんの力になりたいんだって!」
ユキ,「無理しなくていいの。私に嘘は通じないって、よく知ってるでしょう?」
そのとき、倉庫の入り口の扉が強く叩かれた。
理事長,「おい、ユキ! ここを開けろ!」
母の仇の声だった。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫 外 夜
白鳥理事長が、倉庫に向かって叫んでいた。
自ら人質になるつもりだ。
京介,「理事長、いいんですか?」
おれはそばに立って聞いた。
京介,「その場で殺されるかもしれないんですよ?」
理事長,「じゃあ、どうしろというのかね? 娘を傷物にされて、黙っていろとでも?」
京介,「あなたは、娘にはお優しいんですね」
見れば、相当な悪人面だ。
ずるがしこい狐みたいな顔が、いまは醜く歪んでいた。
時田の親だけあって背は権三なみに高いものの、萎縮したように小さく見えた。
宇佐美の携帯を通して時田の声が届いた。
ユキ,「いまから扉を開けるわ。言っておくけど、下手な真似をしたら水羽の命はないわよ?」
ハル,「…………」
ユキ,「聞いてるの、ハル?」
ハル,「……もうやめよう、ユキ」
ユキ,「何を言い出すの? これからがいいところじゃない?」
ハル,「終わりにしようと言っているんだ」
ユキ,「なにそれ?」
ハル,「出てくるんだ」
ユキ,「話にならないわ。京介くん、聞こえてるんでしょう?」
京介,「ああ……」
ユキ,「いま、私は水羽の首に釘を突きつけている。この意味がわかるわよね?」
京介,「扉が開いたときに、おれたちが乱入したら許さないってことだろ?」
ユキ,「じゃあ、準備はいい?」
おれは理事長を見やった。
理事長も扉の前でうなずいた。
ユキ,「開けるわよ……」
ハル,「ちょっと待て、ユキ!」
また宇佐美が邪魔に入った。
ハル,「少し時間が欲しい。もうちょっと待ってくれないか?」
ユキ,「……どうして?」
ハル,「頼む」
ユキ,「自分の立場を考えてよね。あなたの頼みを聞く理由がないわ」
ハル,「とにかく理事長はそちらには渡さない!」
おもむろに通話を切ると、宇佐美が倉庫の入り口の前に立ちふさがった。
理事長,「おい、君っ!」
京介,「宇佐美、どけ」
おれは、もはやどうにでもなれ、という気さえしていた。
もともとおれは警察でもなんでもないし、とくに時田や白鳥の友人というわけでもない。
なぜ、こんな厄介ごとに園山組まで動かさなければならんのか。
ハル,「待ってください。まだ、ユキが水羽を傷つけたという確証がないんです」
京介,「おいおい、あの画像を見ただろう? 白鳥が血を流してたのはなぜだ?」
ハル,「わかりませんが、水羽がユキに協力したという可能性があります」
京介,「それはおれも考えたがな……自ら血を流してまで人に協力するヤツなんているか……?」
ハル,「ありえない話ではないです」
京介,「そんなヤツは物語のなかにしかいないっての。それより、おれは、どこまでも時田を信用しようとするお前が薄ら寒くて仕方がない」
ハル,「わたしが寒いのはこの際どうでもいいです。とにかく、もう少し様子を見たいんです」
京介,「だ、そうですが、理事長どうします?」
理事長,「宇佐美くんと言ったね。君はユキの友人だそうだが、いったい何者なんだい?」
ハル,「わたしが何者であるかもこの際どうでもいいです。とにかく、理事長。あなたが中に入ったら、我々はおしまいです」
再び、宇佐美の携帯に着信が入った。
しかし、宇佐美が電話に応じる様子はなかった。
時田の指示がなければ、理事長もなかに入るタイミングがつかめない。
京介,「まあ、好きにさせましょうか」
理事長にあごをしゃくった。
京介,「片倉さんがいらっしゃるまで待っても、そう状況は変わらないでしょう」
理事長,「ユキはいますぐ私が中に入ってくることを望んでいるんだぞ?」
おれは肩をすくめた。
京介,「いますぐ入らなくても、娘さんを殺すってことはないでしょう。大事な人質なんですから」
最悪の場合、窓を破って入ればいい。
白鳥が危険にさらされようと、知ったことじゃない。
京介,「しかし、宇佐美」
ハル,「はい」
京介,「犯人の怒りを買うことになったが、なにか考えがあるんだろうな?」
ハル,「…………」
……だんまりかよ。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫 中
;ノベル形式
――まったく、どういうつもり?
 時田ユキはそれから二度、ハルに連絡をしたが、つながらなかった。
水羽,「どうしたんだろうね?」
水羽が恐る恐る聞いてきた。
ユキ,「なにがあっても理事長を引き渡さないつもりね。まったく、馬鹿げてるわ。犯人からの入電を無視するなんて。私が異常者だったら、とっくに人質は殺されてるわよ」
水羽,「姉さんは異常者じゃないよ」
ユキ,「そう思ってるつもりだけどね……」
水羽,「だって、私のことは大事に思ってくれているもの」
ユキ,「…………」
水羽,「ノリコ先生にも悪いと思ってるんでしょう? 無関係な人を巻き込みたくはないからよ」
しかし、現実には巻き込んだ。窮地に追い込まれれば、わからない。
水羽,「また、どこか怪我してみせようか?」
ユキ,「やめなさい」
即座に言った。
ユキ,「逆に怪しまれるわ」
なにより妹の血など、見たくはなかった。
水羽,「ハルには、ばれちゃったのかな。私が、わざと怪我をしたって」
ユキ,「断定はできないはずよ。だからこそ、彼らも窓からの突入をためらった」
ユキは現状に危機感を覚えていた。水羽が人質として機能していないことは、ユキの最大の弱みだった。これでは、交渉もなにもあったものではない。
しかし、ハルにも打つ手はないはずだ。少なくとも、いまのところは……。
水羽,「もう一度、電話してみたら?」
水羽はあくまでユキに協力する姿勢だ。ユキはかぶりを振った。
ユキ,「いいえ。向こうからかけてくるのを待つわ」
そのときは、ハルもなんらかの策を用意してくるだろう。
 ――後手に回っているわね……。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫外 夜
;通常形式
三十分ほど膠着状態が続いた。
その間、宇佐美は腕を組んでじっと倉庫を見据え、理事長はいらいらとタバコを吸い散らかしていた。
やがて、見慣れぬ高級車がけたたましいエンジン音をたてて滑り込んできた。
運転席から出てきた男を、白鳥理事長が出迎える。
どうやら、片倉が到着したようだ。
背が低く小柄な男だった。
事情を説明している理事長に見下ろされながら、小さい手が忙しなく開いたり閉じたりしていた。
切れ長の眼鏡の奥で、残忍そうな光を放っている。
……栄一がふけたらあんな感じになるのだろうか……いや、片倉は栄一なんかよりも真に狡猾な顔つきをしているな……。
京介,「宇佐美……どうするんだ? このまま朝日でも拝もうってのか? 携帯の電池もそろそろなくなるんじゃないか?」
ハル,「……ですね」
宇佐美は、理事長と片倉を横目に、ひとつうなずいた。
ハル,「そろそろ、勝負を決めましょう」
視線が、おれの目を射抜いた。
ハル,「浅井さんは、わたしが正義の味方かなにかと思っていらっしゃいますね?」
京介,「……まあ、つまらん正義感を振りかざすのはやめてほしいな」
ハル,「そんなつもりはまったくないんですよ」
京介,「そうかい」
ハル,「いまから説明するやり口を聞いたら、納得してくださると思います」
京介,「お前が、正義の味方じゃないってか?」
ハル,「はい、むしろ外道です。できることなら、こんなやり方はしたくなかった。でも、他に方法が思いつきません」
京介,「へえ……興味が沸いてきたな」
ハル,「しかも、賭けの要素もあります。成功したとしても、ユキが抵抗をあきらめるという確証がありません。我ながら情けない話ですが」
京介,「もったいつけずに教えろよ」
宇佐美は、躊躇するような間を取ったが、やがて口を開いた。
ハル,「お願いがあるんです、浅井さん……」
京介,「なんだ?」
ハル,「どうか、ユキを助けてもらえませんか?」
京介,「助けるって?」
わけがわからない。
京介,「なにが、時田を助けることになるんだ? あいつを捕まえて警察に引き渡すことか? それとも時田の復讐を助けてやればいいのか?」
ハル,「理事長も死なず、ユキも警察の厄介になることはない」
つまり、ハッピーエンドってやつか……。
京介,「もちろん、おれだって警察に事情を説明するなんて厄介ごとは回避したいがな……」
ハル,「わかってます。浅井さんには、関係のない話だというのは。ここまでつきあってもらって、ありがとうございました」
京介,「…………」
なんだってんだ……。
ハル,「最後にもう一度だけ、力を借りたいのですが?」
京介,「…………」
ハル,「お願いします」
……まあ、ここでやめるのも寝覚めが悪そうだな。
京介,「ヤツは、"魔王"を知っているらしいからな。ぜひとも話を聞いて、権三への手土産にさせてもらおうか」
ハル,「ありがとうございます」
京介,「どうせ、嫌らしい策を立てたんだろう? それなりのつき合いだからな。お前のもったいつけた言い回しは、もう慣れたよ」
ハル,「うれしいです」
気持ち悪いな、まったく……。
ハル,「わたしはいまだに、ユキを信じています。水羽を含め、無抵抗な人を傷つけたりはしないと。たとえば、いかに憎き理事長とはいえ、命乞いをされればユキも思いとどまるかもしれません」
京介,「どうだろうな……」
ハル,「そこで考えました。これは、なんとも危険な作戦です。しかも、作戦を立てたわたしは安全という卑劣な……」
宇佐美は指を一つ立てて、話を続けた……。
それは、たしかに賭けの要素の強い手口だった。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫 中
ようやくハルからの着信があった。ユキはハルがどんな罠を用意したのかと気を引き締めながら、応答した。
ユキ,「待ちくたびれちゃったわよ」
ハル,「ごめん。気持ちの整理がつかなくて」
ユキ,「言いわけはいいから、とっとと理事長をなかに入れてもらえる?」
ハル,「それは……」
そこに理事長の声が割り込んできた。
理事長,「わかった。ここを開けろ」
ユキ,「いいのね、ハル?」
ハル,「ああ……やむを得ないという話になった」
……芝居くさい。が、まだまだ出方をうかがう必要がある。
ユキ,「けっこうだわ。じゃあ、入ってきてちょうだい。いまから扉を開けるわ」
通話を打ち切ると、ユキは倉庫の出入り口に歩み寄った。
水羽,「姉さん、私はどうすれば?」
ユキ,「あなたはもう必要ないわ。理事長が入ってきたら、解放してあげる」
水羽,「ううん」
水羽は頑なに首を振った。
水羽,「姉さんの力になりたいよ」
ユキ,「なぜ?」
水羽,「だって、いままで姉さんになにもしてあげられなかったから。姉さんに助けられるばっかりじゃ、悪いよ」
愚かな妹だと思ったが、不思議と不快ではなかった。
水羽,「とにかく、私は、ここを動かないから」
強情に床に座り込んだ水羽を黙殺し、ユキは扉に手をかけた。
;背景 倉庫外 夜
;通常形式
直後、がこんと、扉の向こうで留め具を外すような音が聞こえた。
扉が横にスライドし、月明かりが倉庫内に差し込んだ。
ユキ,「どうぞ」
時田は顔だけを晒し、手招きした。
飛び出して、時田に襲い掛かるのは危険といえるだろう。
こちらからは見えない鉄壁の向こうでは、時田がいまにも白鳥の首筋に釘を突きつけているのかもしれない。
理事長が、恐る恐る、なかに足を踏み入れる。
ユキ,「じゃあね、また連絡するわ」
おどけた調子で言うと、すぐに扉が閉ざされた。
……けっきょく、こうするしかなかったな。
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、事の成り行きを見守っていた。
;背景 倉庫中
;ノベル形式 
ハルの狙いはどこにあるのだろうか。
ユキは慎重に理事長を倉庫に招きいれた。
水羽,「父さん、助けて……私、死にたくない……!」
ユキのすぐ下から声がした。水羽は、いまだに人質の役割を演じてくれていた。水羽は、床に座り込み、腕を後ろに回して縛られているふうを装ってくれている。だからこそ、白鳥理事長の抵抗はまったくなかった。
ユキ,「両手を上げてちょうだい。下手な真似したら、わかるでしょう?」
水羽,「姉さんの言うことを聞いて、お願い!」
理事長はすっかりあきらめきった様子で、ユキの眼前で両手を上げた。やつれきった中年の手のひらには脂汗が滲んでいた。
ユキ,「片倉は来た?」
理事長,「ああ、つい先ほど……」
ユキ,「じゃあ、あとで呼ぶわ」
ユキは、手近にあった金属製の工具を手に取った。
ユキ,「さて、なにか言い残すことがあれば聞くわよ?」
理事長,「す、すまなかった……正美には悪いことをしたと思っている」
母の名が出た。汚されたようにユキには聞こえた。
ユキ,「あらあら、ずいぶん態度が小さくなったわね? 前にも謝ってくれたけど、そのときはふんぞり返ってなかった?」
理事長,「葬儀にも出られなかったのは、私も悔やんでいたんだ……」
ユキ,「お仕事が大変だったのね?」
理事長,「あ、ああ……忙しくて……」
ユキ,「お線香の一つもあげにこれないほど忙しかったのね」
憎悪を爆発させた。
ユキ,「賄賂を受け取っている時間はあったのに……!!!」
理事長は縮みあがった。
理事長,「ま、待て。私を殺してなんになる!?」
その目に、狡猾な光が宿った。
理事長,「こうは考えられないか、ユキ。私はたしかに人格者ではない。そんな人間のために、人生を棒にふってどうするんだ?」
ユキ,「そうね。それは何度も考えたわ。あなたを殺そうと思うたびに、そういう考えが袖を引いたの。あなたは私の母さんを殺しておいて罪に問われないのに、なぜ私だけ刑務所に入らなければならないのかって」
理事長,「そうだろう。落ち着いて、もう一度考えるんだ」
ほっとしたような顔に、サディスティックな心がうずいた。
ユキ,「だから、あなたを殺したあとは、日本から脱出するつもりなの」
"魔王"とのつき合いを重ねるうちに、ユキは日本海沿岸の港から朝鮮半島への密航船が出ていることを知っていた。国外脱出は困難を極めるだろうが、やってやれないことはない。
自分の身だけを守るのは、そう難しいことではない。
しかし、いま、ユキにとって一番の障害は、別のところにあった。
水羽だった。騙され、人質にされながらも、まだユキを姉と慕ってくれている。
;背景 倉庫中
この心優しい少女を、殺人犯の妹にしていいのだろうか。ただでさえ、白鳥家への世間の風当たりは冷たいのだ。一生を棒に振るのは、ユキだけではない。
理事長,「た、助けてくれ……ユキ……!」
哀願する小物を殺すことにためらいはない。しかし……。
ユキは母とのつらい記憶を思い起こした。母は、のたれ死ねと吐き捨てた外道を恨みながら、血を吐いて死んだ。母の無念と水羽への配慮を天秤にかけて悩みに悩んだ。
 こんなことなら、水羽に近づかなければよかった。
 すると、あらゆる罪悪感が訪れてきた。目の前の小動物のような男は水羽にだけは優しいようだ。だからこそ、危険を承知で倉庫に入ってきた。そんな父親を殺してしまったら、少女は少なからず嘆くだろう。ユキにとって憎き敵が、水羽にとっては大切な父親なのだ。
もう一度、水羽を見下ろした。
 少女は悲しみに胸を詰まらせていた。幼少のころ、いつも笑っていた水羽を悲しませているのは、ほかならぬユキだった。少女から父親を奪っていいのだろうか。やめるべきかもしれない……いまやはっきりとそう思った。
 ――いや、待て!
 はっとして、白鳥理事長を見据えた。かろうじて、男の手が懐に伸びた瞬間を目撃した。だから、ぎりぎりのところでその一撃をさけることができた。
;背景 倉庫外 夜
おれは宇佐美と肩を並べて、倉庫の様子を固唾を呑んで見守っていた。
京介,「宇佐美……どう思う?」
ハル,「なにがです?」
京介,「中の様子だよ。まずい展開になってるんじゃないのか?」
ハル,「まだ、なにもわかりません」
京介,「たしかに、お前にしては思い切ったやり方だな。だからこそ、時田も意表を突かれることになるかもしれないが……」
ハル,「ええ……」
;背景 倉庫中
;ノベル形式
;SE バチっという電気音
眼前で火花が散った。ばちばち、と蛍光灯が蛾を殺すような電気的な音がした。理事長の手が再び迫る。黒いもの――おそらくスタンガンの類だろう――の先端をユキの顔めがけて押し付けてきた。
 横に跳んでそれをかわす。くぐもった怒声とともに高圧電流が迫ってくる。とっさに手に持っていた工具を投げつけると、ようやく奇襲から逃れることができた。
;背景 倉庫中
距離を取り、武器になりそうなものを探す。
ユキ,「やってくれるわね……」
荒い呼吸の合間をぬって言った。
 それは、ハルに向けてのひと言だった。まさか、理事長を刺客として差し向けるなんて。
 さきほどまでの愛玩動物のような表情はどこへやら。白鳥理事長は狂気じみた笑みを口元に携えていた。
理事長,「まったく、親子そろって聞き分けのない女だ……!」
じりと、一歩詰め寄ってきた。
ユキ,「最初から、そのつもりだったのね?」
理事長,「娘のためだ」
ユキ,「よく言うわよ」
うかつだった。くたびれた中年の男と見下していた。
ユキ,「おかしいと思ったのよ。あなたは水羽の代わりになるためにここに来たのに、そんなことはひと言も口にしなかった」
よくよく思い返してみれば、理事長の目尻はなんらかの策謀を隠していた。恐怖に強張ったように見えた唇には狡猾な嘘が含まれていた。
ユキ,「私は水羽からあなたの悪口を聞いたことがないわ。だから油断してしまった。けれど、あなたのいいところも聞いたことがない」
優しい少女は、きっと心で父親への不満を耐えていたのだろう。
ユキ,「面の皮のあつい男ね、まったく」
理事長は笑った。
理事長,「少しぐらい弁が立たねば、警察も手を引かんよ」
最近の収賄事件で、警察はけっきょく起訴まで持ち込めなかったのだ。
ユキ,「そうやって狡猾に立ち回った挙げ句、母さんに無実の罪を着せて追い出したのね?」
理事長,「なんのことだかまったくわからんな。ただ、正美が出て行った年には、おかげで会社の保養所を建てることができたぞ。それについては正美の墓前で報告したいと思っている」
ユキ,「保養所という名の別荘でしょう?」
母が横領したことにされた金が、回りまわって理事長の懐に入ったことは、ユキも知っていた。
ユキ,「まったく、人として恥ずかしくないの?」
理事長,「立て篭もり犯に人の道を説かれる筋合いはないが、別にいいわけはせんよ。会社経営にはお前たち子供にはわからない苦労があるのだが、多くは語るまい」
ユキ,「外道の分際で、なにを余裕ぶっているのかしら」
理事長,「子供にとってわかりやすい悪役でいてやろうという親心だよ。それとも、私の身の上話でも聞きたいか?」
ユキ,「けっこうよ」
この男も、私生児なのは知っていた。親を憎み、身一つで会社を起こしたという。
理事長,「ユキは昔から賢い娘だった。お前が再び私の前に現れたとき、ただでは済まないだろうとは思っていた。だから、先の学園で要求してきた五百万くらいならくれてやってもいいんだぞ」
ユキ,「それはありがとう、お父さん」
理事長,「しかし、殺人はまずい。復讐はもっと法の網から逃れやすい形で行うべきだ」
このひと言が、白鳥理事長のすべてを物語っていた。そこにいるのは、警察やマスコミの追及に怯える中年でもなく、ましてや水羽にとっての優しい父親でもなかった。あくまで倣岸な悪の塊だった。
理事長,「さあ、もうあきらめるんだ。表へ出よう。心配するな、警察に突き出したりはしない。娘が実刑を受けるのはしのびないからな」
ユキ,「あきれるわね、自分のスキャンダルをこれ以上増やしたくないだけでしょう?」
ここまで善悪の観念の薄い人間がどうして出来上がるのか、ユキは興味すら覚えていた。
理事長,「こっちへ来い」
スタンガンを向けながら、また一歩踏み込んできた。逃げ場はない。ユキの背中には、資材を包んだブルーシートの感触があった。
 直後、目を見張った。
水羽,「やめてっ!」
;黒画面
水羽の悲鳴。飛び出してきた。理事長の腕に、背後からしがみついた。床に転がる黒い凶器。それこそが、理事長の余裕を保っていた武器だった。怒号が走り、水羽が振りほどかれる。ユキはすでに理事長の胸倉をつかんでいた。風を感じた。
;SE ダンという倒れる音。
;背景 倉庫中
背負い投げは、ほぼ完全に決まっていた。理事長は受身もとれずに、背骨を固い床に打ちつけることになった。痛みの衝撃で口を半開きにしたまま、悶絶していた。
 ユキは呼吸を整え、芋虫みたいに丸まった実の父を見下ろした。
ユキ,「思い直したわ、やっぱりあなたを殺すって」
水羽,「姉さん……」
ユキ,「ごめんね、水羽。でも、あなたも悪いのよ。こんな父親を野放しにしておいたんだから」
自分で言っておいて、胸がうずいた。水羽に罪はないとわかっていながらも、どうにもならない。溢れんばかりの憎しみに支配されながら、ユキは理事長の腕をロープで縛っていった。
ユキ,「よく考えたら、私たちって姉妹じゃないじゃない」
水羽,「え?」
ユキ,「法律上の話ね。だから、殺人犯の姉を持つってことにはならないじゃないの。私ったら、なに勘違いしてるのかしら」
水羽,「なに言ってるの? 私たちは姉妹だよ?」
ユキ,「そういうのはもういいわ。私たちは他人。助けてくれたのは感謝してる。でも、もうお別れよ」
ユキは細長い釘を拾い、理事長のそばにかがみこんだ。
ユキ,「さあ、教えてちょうだい」
ユキがよほど酷薄な表情をしていたのか、理事長の顔に今度こそ疑いようのない恐怖が浮かんだ。
ユキ,「あなたは片倉に命じて家に火を放ったのよね?」
理事長,「うっ……」
ユキは、家が燃え上がった晩のことを思い出した。灼熱の炎が四方から迫っていた。母は病をおして立ち上がり、寝ぼけ眼のユキを背負って窓から外に飛び出した。やけどにただれた母の腕に、ユキは涙を落とした。
ユキ,「言いなさい。殺すわよ?」
釘の切っ先を、理事長の首に突きつけた。理事長は切れ切れの吐息で言った。
理事長,「そうだ……わ、わたしの指図だ。当時金に困っていた片倉くんに話を持ちかけたんだ。しかし、放火までしろとは言っていない、本当だ」
ユキの心のなかで悪魔が激昂した。
ユキ,「じゃあ、なんで火がついたんだ!!!」
理事長,「や、やめろ、本当だ!」
涙と唾がはじけた。
理事長,「か、か、片倉くんが勝手にやった、信じてくれ!」
水羽,「ね、姉さん……!」
ユキ,「うるさい!」
もはや、ユキの耳には何者の声も届かなかった。水羽への思いやりも、ハルへの申し訳なさも、義理の父親への感謝も、すべて吹き飛んだ。ただ、己のうちで目覚めた悪魔に身を委ねるのみ。
 涙と唾液でぐちゃぐちゃになった理事長の顔面を殴りつけると、ユキは携帯を取った。
 ――もう一人、殺さなくては。
 通話はすぐにつながった。
ハル,「どうしたんだ、ユキ。理事長を引き渡したら、水羽を解放してくれる約束じゃなかったのか?」
よく言う。その理事長にスタンガンなんて物騒なものを渡したくせに……。
 ユキは笑った。けっきょくは、ハルも偽善者なのだ。
ユキ,「ちょっとトラブルがあってね。でも、もう水羽には用はないから安心して……」
興奮冷めやらぬ口調とは裏腹に、ユキの心は冷え切っていった。
ユキ,「片倉が来てるらしいじゃないの。中に入れてもらえるかしら?」
ハル,「…………」
ユキ,「あ、そう。嫌なんだ。じゃあ、この人間のクズを殺すわ」
いまや、後先考えずに、この場で殺してやってもいいとすら思えた。
ハル,「落ち着け、ユキ。わかった。片倉さんも納得してくれている」
ユキ,「もう小細工はなしよ、ハル。あまり怒らせないでちょうだい」
ハル,「ああ……」
ユキは再び扉の前に立った。
ユキ,「開けるわよ?」
怒りに冷静さを失っていたのかもしれない。ユキは人質を盾にすることもなく、扉に手をかけていたことに気づいた。
 扉が開いた瞬間に襲い掛かってこられたら――?
 しかし、それは杞憂だった。
 海風が入り込んでくる。すぐ目の前に、小柄な男が棒立ちになっていた。スーツに、切れ長の眼鏡。
ユキ,「片倉ね……」
片倉,「そうだ」
ユキは即座に男の腕を右手で引いた。左手には凶器の釘。それを片倉の首筋に突きつけた瞬間、声が上がった。
;背景 倉庫外 夜
時田が倉庫の入り口で男を捕まえた瞬間だった。
京介,「宇佐美、いまだ!」
時田が無防備に扉を開けてきたいまが好機だった。
ハル,「はいっ!」
おれは倉庫の扉が再び閉じられぬよう手で押さえつけた。
ユキ,「なんのつもり!?」
時田が目を剥いた。
捕えた男の背後から首に腕を回し、羽交い絞めにしている。
もう一方の腕には、ぬらりと光る細長い釘があった。
じりじりと後ずさりしていく。
おれは腕を振って、園山組の若い衆に合図した。
宇佐美を先頭に、一気に倉庫のなかになだれ込む。
遠くから数台の車がこちらに向かってきているのが見えたが、気にしている余裕はなかった。
;ノベル形式
ユキ,「これが見えないの!? 近寄ったら片倉を殺すわよ!?」
ユキの制止を無視して、極道たちは、ぞろぞろと、倉庫に踏み込んできた。
 距離にして五メートルほど。ユキを中心にした半円を描くような包囲ができた。連中は皆、殺気立っていて、圧倒的な暴力の匂いがする。
 先頭に立った親友に聞いてみた。
ユキ,「気でも触れたの、ハル?」
ハル,「ああ、これが、最後の手段だった」
ユキ,「呆れるわね。よく考えてごらんなさい。状況はなにも変わっていないのよ?」
余裕の笑みを浮かべた。
ユキ,「私は人質を取っている。いまにも殺すことができる」
むしろ、水羽を人質に取っていたときよりも、事態はユキにとって好転したといっていい。腕のなかでもがいている片倉という男は、殺しても飽き足りないほどの卑劣漢なのだ。
ハル,「ユキ、落ち着け」
ユキ,「落ち着いてるわよ」
そう、いまなら、落ち着いて人を殺せそうだ。
ハル,「頼む。もうこんな馬鹿なことはやめてくれ。わたしはユキが大好きなんだ」
ユキ,「大好きなら、"魔王"のことを教えてくれてもよかったじゃない?」
ハル,「すまない。下手に話したら、迷惑がかかると思ったんだ」
ユキ,「気づかいありがとう。おかげですれ違ったわね」
片倉の首をさらに締めた。必要以上に力が入った。狂気がユキに力をみなぎらせていた。
 床に転がった白鳥理事長を一瞥した。
ユキ,「火に油を注いだわね、ハル」
ハル,「なに?」
ユキ,「いっときはね、復讐なんてやめようかとも思ったのよ。水羽のおかげでね」
水羽は呆然と立ちすくんでいた。切迫した状況についていけないという顔だった。
ユキ,「外道の父親を持っているだけでも肩身が狭いのに、その上、人殺しの姉まで加わったら、いくらなんでもかわいそうでしょ」
言葉の内容とは裏腹に、もはや、良心はうずかなかった。ハルのせいだ。
ユキ,「あなたが理事長をけしかけなかったら、ハッピーエンドだったのにね。たいした勇者様だこと」
ハルの顔が険しくなった。吊りあがった目で理事長を見下ろしている。後悔しても遅いというのに……。
ハル,「わかった。わたしが代わりに人質になろう」
ユキ,「冗談はやめてよ。たしかに、あなたには失望したけれど、それでもあなたを殺す理由はないわ」
ハル,「そうか……」
ユキ,「人質には人質たる理由がいるのよ」
当たり前のことをつぶやいていた。もう、ハルにかまう必要はない。
ユキ,「さあ、道をあけてちょうだい。車は用意してあるんでしょう?」
ハル,「ユキ……」
ユキ,「それともなに? 片倉を見殺しにしてでも、私を捕まえる? 言っておくけど、少しでも変な動きを見せたらその場で殺すわよ。なんの遠慮もないわ」
しかし、ハルはどこうとしなかった。
ハル,「何度でも言おう。その人を放すんだ。お前を人殺しにはさせない」
ユキ,「いいかげんにしてよね……」
ため息をつきながらも、ユキは、ふと違和感を覚えていた。
 ハルの立ち居振る舞い。背すじを伸ばし、堂々と相手を見据える姿勢には、敗北者のそれが感じられない。
 虚勢だろうか。ハルとは古いつき合いだからわかる。嘘をついている気配はなかった。
ここからどんな大逆転があるというのか。狂気にもやがかかっていた頭に、平静さを呼び込む。
――そういえば……。
 ヤクザ連中に焦点を合わせた。どいつもこいつも人相が悪い。いまにも飛び掛ってきそうな勢いだった。
ユキ,「…………」
 いや、なぜ、飛び掛ってこないのか――!
ユキは、焦りを覚えつつも自然と、片倉の後頭部に視線を這わせていた。
ハル,「その人は片倉さんじゃない」
ハルが言った。
ユキ,「…………」
ハル,「園山組の方だ。浅井さんにお願いして、協力してもらった」
唖然としている暇はなかった。が、いつもは饒舌な口が、うまく動かなかった。
だから、ヤクザは躊躇していた。彼らが片倉の命を気にかける理由は見当たらない。人質が身内だったからこそ、抑制が効いていたのだ。
ヤクザ,「俺にも家族がいるんだ。勘弁してもらえねえかな、嬢ちゃん」
ユキが盾にしていた男――片倉だと思っていた小男が巻き舌で言った。
 ユキは呆然と、ハルを見つめるしかなかった。
ハル,「人質には人質たる理由がいる。そうだろう、ユキ?」
;黒画面
…………。
……。
京介,「ちなみに言うとだな、時田……」
おれは一歩進み出た。
京介,「宇佐美は別に、理事長をけしかけてなんかいない」
ユキ,「……え?」
京介,「そこの理事長さんは、普段からスタンガンを持ち歩いてるみたいだな。白鳥と飯食ってたとき、そんな話があった。後ろ暗いことが多いんだろう」
時田の話から推察すれば、おそらく理事長が不意を突いて時田に襲い掛かったんだろう。
まったく馬鹿なことをしてくれたものだ。
ハル,「さあ、ユキ、その人を放すんだ」
ユキ,「くっ……」
ハル,「頭のいいお前ならわかるだろう? その人を殺してもなんの意味もないんだ」
たしかに、宇佐美にしては卑劣なやり方だった。
時田の心理状況にもよるが、下手をすれば、身代わりになったヤクザが殺されるかもしれないのだ。
時田の私怨とは無関係とはいえ、人質を取られていることには変わらない。
宇佐美の言うとおり、この状況で時田が抵抗をあきらめないという確証はない。
ユキ,「もし、私が、無関係な人を殺すこともいとわなかったらどうするの?」
しかし、宇佐美は時田を信じていたのだろう。
ハル,「ユキにそんな真似はできない」
ぴしりと言うと、時田はひるんだように目をそむけた。
ユキ,「このままこの人を人質に逃げ出したらどうするの?」
今度はおれが言った。
京介,「どうやって逃げるんだ? 運転はどうする? そんな釘一本で極道を脅せると思っているのか?」
ユキ,「そうね……どう考えても分が悪いわね」
時田の腕から力が引いていくのがわかった。
ユキ,「私の負けよ……疑ってごめんね、ハル……」
;背景 倉庫中 
……。
…………。
時田は人質を解放すると、その場に呆然と立ちすくんだ。
凶器の釘が、からんと音を立てて床に転がった。
水羽,「あ……ね、姉さん……」
白鳥がかろうじて声を発していた。
縄でしばられていなかったところを見るに、やはり、時田と白鳥は協力しあっていたようだ。
理事長,「……た、助けてくれ……」
理事長も生きているようだ。
理事長,「はあっ、はあっ……ユキ、貴様、ただで済むと思うなよ」
元気なことだ。
ハル,「浅井さん……お願いです」
さて、ここからが、おれの仕事か。
京介,「ち……」
時田を助けてくれってか……。
ハル,「ユキが"魔王"の関係者だということを、ここにいる人たちに知られたら……」
京介,「わかっている……」
ひどい拷問が待っているだろうな。
ハル,「すみません」
くそ……なんでおれが……。
まあ、この場をしのぐくらいならなんとかなるか。
京介,「皆さん聞いてください」
おれは極悪面の群れと向き合った。
京介,「夜遅くまでありがとうございました。この恩義は浅井京介、生涯忘れません。後ほど御礼にうかがいますので、いまはひとまず解散としていただけませんか?」
連中のなかには、おれたちの会話を聞いて、時田が"魔王"とつながっていることを知っているヤツもいるかもしれない。
京介,「父には僕から報告しておきますので」
ヤクザどもは、悪態をつきながらも、金子にありつけるのならといった様子で、徐々に散っていった。
ハル,「……む?」
突如、入り口付近の人の動きが鈍った。
声高にどすのきいた挨拶が飛び交う。
ひときわ背の高い巨漢が獣の群れを割って、おれの前に躍り出てきた。
最悪だった。
倉庫に突入するとき、車が接近しているのを見たが、権三だったか……。
浅井権三,「うちの狼どもは、いつからお前の家畜になったんだ?」
京介,「お養父さん……申し訳ありません」
;SE 殴る音
ゴッという音が脳に響いた。
京介,「あ、ぐ……っ!」
浅井権三,「立て篭もりの話は聞いた。時田の義理の娘が親に復讐していたようだな?」
時田に向けてあごをしゃくった。
ふと、理事長が顔を上げた。
理事長,「あ、浅井組長……」
浅井権三,「…………」
理事長,「よくおいでくださいました。おかげさまで大変助かりました」
へつらうように言った。
理事長,「息子さんには感謝しております」
浅井権三,「…………」
理事長,「どうか、どうか、今後ともよしなに……」
権三が眉一つ動かさず言った。
浅井権三,「外道には外道の報いがある」
理事長,「……っ!?」
浅井権三,「貴様が原因でうちの若い衆がこき使われたようだな?」
理事長,「わ、私ではありません、そこの女が……!」
浅井権三,「手当てとして、一人につき五百払え」
おれは二十人以上は集めた……つまり、一億だ……。
理事長,「そ、そんな大金は……」
浅井権三,「黙れ」
理事長の顔色が蒼白になっていく。
京介,「お、お養父さん。もう問題はありません……勝手に、皆さんに動いてもらったのは申し開きのしようもありませんが……」
浅井権三,「なにを隠している」
京介,「隠して……?」
浅井権三,「痴れ狗が、宇佐美もいるではないか?」
なんて嗅覚だ。
権三はこの事件と"魔王"との関係をしきりに疑っている。
浅井権三,「言え」
京介,「ぐっ……!」
胸を締め上げられた。
浅井権三,「俺は貴様に"魔王"を探れと命じた。が、貴様はまったく関係のない事件に俺の私兵を投じたというのか?」
権三が怒るのも、もっともな話だ。
浅井権三,「"魔王"は捕まえ次第、八つ裂きにする。"魔王"の子飼いも生きたまま皮を剥いでやろう」
京介,「……っ」
浅井権三,「これより、三つ数える。その間に真実を述べねば、貴様の連れも皆殺しだ」
……連れ?
宇佐美と白鳥と時田のことか……。
浅井権三,「ひとつ!」
連れ……なのだろうか……友達、なのだろうか……。
浅井権三,「ふたつ!」
おれは、なにをしている?
権三に従うべきではないか。
ふと、酸欠に朦朧とした意識のなか、脳裏に浮かぶ光景があった。
;ev_tubaki_06 (セピア調)
弟をかばう椿姫。
;背景 主人公自室 夜(セピア調)
;花音の立ち絵を表示
物言わず去っていった花音。
;背景 倉庫中
そして、白鳥には手をかけなかった時田。
その時田が遠巻きに言い放った。
ユキ,「やめて」
ユキ,「京介くんを放して」
無表情に、顔だけこちらに向けていた。
浅井権三,「貴様か」
権三はおれを手放し、時田に歩み寄った。
ユキ,「その通り。私は"魔王"を知っているわ」
浅井権三,「お前が時田の娘だな?」
ユキ,「ええ、父さんとお知り合いなの?」
権三は時田の問いには答えずに、ガンを飛ばした。
浅井権三,「"魔王"はどこだ?」
ユキ,「わからないわ」
浅井権三,「知っていることを、洗いざらい話せ」
ユキ,「ほとんど知らないわ、本当よ」
浅井権三,「本当かどうかは俺が決める」
権三の目に殺意が宿った。
……もう、おしまいだ。
権三は時田を赦さない。
短いつきあいだったが、時田とはそれなりに気が合った。
正直、もう少し、関わってみたかった。
理事長への復讐に燃える時田には、白鳥への恨みも少なからずあったことだろう。
なぜ、手にかけなかったのだろうか。
白鳥を人質に取れば、状況は時田に圧倒的に有利だったはずだ。
なぜだ……なぜ……?
おれの周りにいる連中は、おれの知らない暖かいものを備えている。
浅井権三,「さらえ」
権三が下々の者に命じた。
思わず目を背けたくなったそのとき、すすり泣きが聞こえてきた。
;立ち絵は表示しなくていいです。
水羽,「やめ、て……ください……!」
それは、あまりにも無意味で、無力な哀願だった。
;ノベル形式。
愚かな少女だと、ユキは思った。
水羽,「姉さんは、悪くないんです……!」
復讐を果たせなかったユキの心は、すべてをあきらめ、捨て鉢のようになっていた。
水羽,「な、なにも……悪くないんです……!」
水羽は馬鹿だ。何の意味もない。多くの犯罪者を見てきたユキにはわかる。泣こうがわめこうが、目の前の巨漢の心は動かない。
水羽,「赦して……姉さんに、ひどいことしないで……!」
状況もよくわかっていないのだろう。ユキが"魔王"とつながっているということも知らないくせに、水羽はただ、泣き叫んでいる。
 ――まったく、なに泣いているのかしら……。
水羽,「わたし、わたしがっ、わたしが、いけないんです……」
浅井権三の眼光に射すくめられ、水羽の唇が恐怖に強張っている。
水羽,「わたしが、姉さんに、話を持ちかけて……ひ、人質のふりをしていたんです……!」
愚か過ぎる。誰がそんな与太話を信じるというのか。そもそも浅井権三は、立て篭もり事件などに興味を持っていない。
水羽,「ま、"魔王"は、私が、知ってます。姉さんは、関係ないんです……!」
浅井権三,「ほう……」
権三の声に、震え、怯えながらも、水羽はたどたどしく言葉をつむいだ。
水羽,「だから、姉さんを赦してください!」
マフラーに落ちる、涙……。
 むしろ、腹が立つ思いだった。黙っていればいいものを。このままでは、水羽にまで拷問の手が及んでしまう。まったく、昔から足を引っ張ってくれる……。
 ユキは、水羽のマフラーを見つめながら浅井権三に言った。
ユキ,「まさか、その子の話を信じるわけじゃないでしょう?」
権三はユキを一瞥した。なにを考えているのかわからない、底冷えのするような目だった。水羽は、この視線に刃向かっていたというのか……。
水羽,「ほ、本当です!」
水羽がまたわめいた。
ユキ,「話にならないわ、水羽。黙りなさい」
水羽,「やだよ!」
ユキ,「殺されるわよ?」
……なぜだ。
 ユキは水羽に戸惑っていた。少しは、自分の気持ちもわかって欲しい。ユキは水羽を巻き添えにしたくはなかった。
 また、瞳から溢れた涙が、頬を伝ってマフラーに落ちる。
浅井権三,「おい……」
ついに、浅井権三が口を開いた。彼の尖った唇は茶番につき合うつもりはないと主張している。
浅井権三,「あれは、なんだ?」
水羽を指差した。
ユキ,「さあ……」
ひきつって笑うしかなかった。
浅井権三,「あれは、お前の妹か?」
ユキ,「…………」
浅井権三,「だったら、わかるな?」
親分の意を察して、数人の男たちが水羽に詰め寄った。
ユキ,「あ……」
否定しなければ。だが、否定してどうなる。もはや、どうにもなるまい。
水羽は堰を切ったように泣きじゃくる。水羽の絶叫が、空気を切り裂いた。
水羽,「姉さんは、姉さんは、いままでずっと大変だったの! もう、赦してあげて! 大変だったんだから!」
貧弱な語彙。
 なんの説得力もない。
 ユキを救うにはあまりにも弱弱しい言葉に、しかし心が震える。
水羽に贈ったマフラーが、止めどない涙に滲んでいく……。
ユキ,「そうよ、妹よ……」
声は、消え入るように細くなり、湿り気を帯びた。
ユキ,「よく見てよ……」
水羽,「みずははいつでも、ねえさんの味方だよって」
ユキ,「――そっくりじゃない?」
まるで似ていない妹に向けて、手をあげた。あげてしまった――。
 いったい自分はなにを口走ってしまったのか。
 姉妹そろって愚か者。
 否定しなければ。
 さあ、考えろ。
 どうやったら、馬鹿な妹を言い聞かせられるのか。
ユキ,「あ、う……っ……」
考えろ。
 妹を巻き込むな。
 地獄行きは自分一人で十分だ。
 さあ、話せ。
 得意のおしゃべりはどうした。
"悪魔"に魂を売ってまで学んだことを、いま活かさないでどうする……!
ユキ,「ぐ……うっ、あ……」
声が、出ない。
 どうあがいても、出ない……。
;黒画面
…………。
……。
;背景 倉庫 中
;通常形式
;このシーンは立ち絵の表示はなし
そのときのおれの行動は、浅井権三にとって意表を突かれたことだろう。
おれ自身も、意表を突かれていた。
京介,「動くな!」
背後から、権三の野太い肩をつかんだ。
一方の手には、時田が落とした凶器。
浅井権三,「気でも触れたか、京介?」
事実、気が触れていたことだろう。
京介,「宇佐美、時田と白鳥を連れて逃げろ!」
なんだ、なにをしている……?
京介,「さあ、道を開けろ! 権三が殺されてもいいのか!?」
おれは、なにをやっているんだ……?
浅井権三,「ほう……」
にたり、と哂った。
まるで、獲物を食い殺す前に見せる野獣の余裕。
恐怖より先に、体が動いている。
ハル,「浅井さん!」
京介,「もたもたするな!」
ハル,「くっ……!」
さすがに宇佐美には状況がわかっているようだ。
ここでもたつくのは真に愚か者。
すぐさま時田の腕を引いた。
浅井権三,「面白い」
京介,「…………」
浅井権三,「俺は完全に油断していたぞ、京介」
京介,「…………」
浅井権三,「なにがあった?」
京介,「わかりません」
答えようがなかった。
ただ、顔が浮かぶ。
椿姫、花音、白鳥、時田……四人の泣き顔がおれをけしかける。
浅井権三,「くく、はははっ、ふはははっ!」
ハル,「浅井さん、すみません!」
宇佐美は素早く、白鳥を抱え、先頭を切った。
時田も白鳥も、意志を失ったかのように呆然と、宇佐美に従った。
京介,「どけ! こいつを殺すぞ!」
宇佐美たちが動く。
さながら急流を裂く岩のように、人の群れが分かれていった。
権三は微動だにしない。
やがて、外から、車のエンジンがかかる音が聞こえてきた。
時田がおれに用意させた車だ。
タイヤを軋ませながら、宇佐美たちが去っていく。
浅井権三,「おい……」
とたんに、底無しの絶望が襲ってきた。
;黒画面
;殴るSE
京介,「ぐあっ……!」
;背景 倉庫中
;権三の立ち絵表示。
浅井権三,「俺はお前に驚いている」
京介,「……っ」
浅井権三,「俺を上回る恐怖に出会わねば、裏切らぬと思っていた」
おれも、そう思っていた。
浅井権三,「お前は俺にへつらうだけの家畜ではなかったのか?」
がたがたと、手が震えだした。
浅井権三,「俺に拾われ、母を捨て、金の奴隷になったのではなかったのか?」
もはや、どんな言いわけも通じまい。
おれ自身、自分の行動に説明がつかないのだ。
浅井権三,「で、どうするのだ、京介?」
京介,「どう……?」
おれの未来のことだ。
権三に牙を剥いたおれに、どんな将来があるというのか。
浅井権三,「お前は金を溜めて、母を迎えるつもりだった」
おれは、恐る恐るうなずいた。
浅井権三,「そんなお前にとって残念な知らせが、先ほど届いた」
え……?
浅井権三,「死んだぞ」
掌から凶器が滑り落ちて、床にバウンドした。
浅井権三,「母親だ」
視界が、闇色に染まる。
浅井権三,「撥ねられたらしい」
足元がおぼつかない。
浅井権三,「飲酒運転の車に」
固いはずの床に、ずぶずぶと体が引き擦り込まれていく。
京介,「…………」
権三の目には真実しか見出せなかった。
京介,「そ、んな……」
;黒画面
鼓膜を切り裂く、身をひきちぎるような叫び声。
おれは、白目を剥き、天を仰ぎ、力の限りに叫び続けていた。
;間を取って、第四章 END と表示
;一度、タイトルへ。
;黒画面
;ノベル形式
息子へ
第一回公判を前に、お前に肉声を伝えたいと、お父さんは筆を執った。
父さんは死刑判決を免れないだろう。だから、この手紙を殺人犯の言いわけと読んでもらってもけっこうだ。ただ、父さんが宇佐美さんに凶器を握り締めるにいたった過程を、偽らざる気持ちで残しておきたい。
父さんは北海道の漁村の三男坊として生まれ、進学のため上京し、大学卒業後はどうにか天下の山王物産に就職することができた。
経理担当部門に配属された父さんの毎日はめまぐるしかった。山王物産のように大きな総合商社では扱っている商品の数が尋常ではないからな。海外で買った商品を輸入して、加工して、輸送して、売って……そういったお金の流れを管理するのは大変な労力と神経質なまでの根気が必要だった。
ある支払い締め日に、仕入計上と請求書を目を皿のようにしてチェックしていた父さんはついに過労で倒れた。しかし、倒れてよかったと思う。富万別市の病院で看護士をしていた母さんとめぐり合えたからだ。
父さんは上司の目を盗み、なにかと口実を作っては母さんのいる病院に通ったものだ。
お前たちは、明るくて料理のうまい母さんしか知らないだろうが、職場での母さんは口下手で引っ込み思案なところがあった。あまり人づきあいがうまいほうではなく、同僚との関係に神経をすり減らしていたようだ。看護士の激務もあって、精神安定剤を服用していたと、あとになって話してくれた。
だが、知っての通り、父さんは直情型で、強引で、冗談好きのお調子者だった。(この辺は京介に遺伝しているな)。
出会ってから一ヶ月でプロポーズをした。商社で働く以上、遠からず、日本にはいられないと思ったからだ。遊園地にでかけ、ホテルのレストランで食事をしたそのときに指輪を渡した。母さんも父さんにまんざら気がないわけでもなかった。白い肌が真っ赤に染まって、いまにも椅子からひっくり返りそうになっていたのを覚えている。
その翌日に実家までご挨拶に行って、あれよあれよという間に結婚までこぎつけた。式場では花嫁泥棒と影でささやかれていたようだ。
結婚してすぐに、ドイツへの異動が決まった。母さんは文句の一つも言わずについてきてくれた。遠いヨーロッパの国で、すぐに子供ができた。お前だ、わかるな?
難産だったという。お前は足から出てきたそうだ。産声が聞こえたとき、父さんは柄にもなく泣いてしまった。
お前は三歳になるまでドイツにいた。遊び好きの男の子だった。初めて覚えた言葉が「遊園地」だからな。ドイツには移動遊園地しかないから、日本に帰って大きな遊園地に連れて行ってやったんだぞ。
恭平,「ボク、毎日遊んでたい。ずっと遊んでる」
その言葉に、我ながら将来が不安になったものだ。一方で、お前は秀才だったようだ。小学校の知能テストで、なぜか父さんが学校に呼び出されたときには、鳶が鷹を生んだと母さんに言われたよ。
それから長らく、平穏な日々が続いたのはお前も知っての通りだ。内弁慶の母さんと、お調子者の京介と、冷たそうでいて激情家の恭平の四人で、楽しくやっていたな。
おい、気づいているか?
数回の海外出張はあったが、盆や正月、お前の誕生日には、父さんは必ず自宅で過ごしていたんだぞ。
思えば、あのときが一番幸せだった。
宇佐美義則さんと出会ったのは、いつのことだったか。
山王物産系列の建設会社で営業課長をしている宇佐美さんは、いわゆるやり手の人だった。
富万別市外郭放水路は知っているだろう?洪水防止のために地下に放水路を作り、雨水を貯水する施設だ。完成すれば直下50mに世界最大級の地下空間ができあがるという。
宇佐美さんは、父さんと初めてあったその場で、外郭放水路の着工権利を自分の力で国からもぎとってきたと豪語していた。侍のように背筋を伸ばし、凛としてしゃべる人だった。
父さんはこの国が注目する一大プロジェクトに向けて、本社から出向という形で、宇佐美さんとおつき合いすることになった。
もともと、宇佐美さんとは顔見知りではないまでも知らぬなかではなかったのだ。というのも、父さんが学生のころ、学生運動というものが流行っていて、父さんは宇佐美さんと同じセクトに参加していたんだ。
いまとなっては夢物語だが、当時の父さんはそれなりに危ない男だったようで、富万別市近県の活動家の資金を運用、管理するような日陰仕事を一手に引き受けていた。(おかげで、最近になってもたまに公安の方が私のもとを訪れる)。
宇佐美さんとは、バリケードを作って大学に立て篭もった話などをして、盛り上がったものだ。しかし、宇佐美さんも父さんも、振り返ってみれば積極的な思想など何一つ持っていなかった。あのときは病気だったと、酒を酌み交わしながらしみじみ思った。
つき合い始めて二週間ほどで、宇佐美さんの自宅に招かれるほどの仲になった。自宅といっても、東区に建つ築二十年ほどのアパートだったのが意外だった。彼はエリートだし、もっとそれなりに裕福な生活をしていてもいいと私は考えていたからだ。
宇佐美義則,「貯蓄はあるんだが、あまり家に帰らないものだから」
彼は笑いながら言った。
それはおかしい、と感じた。彼には奥さんも娘もいると聞いている。
しかし、奥さんの名前を聞いて、私は納得した。仰天して、嫉妬すら覚えたと正直に告白する。
かのヴァイオリニスト、三島薫さんこそが、宇佐美さんの奥さんだったのだ。彼は私を驚かそうとして、そのときまで黙っていたという。(もともとエンターテイナー気質というか、勿体つけた言い回しをするような人だった)。
お前にも話しただろうが、私は三島さんの大ファンだ。たしかに彼女はモスクワだのニューヨークだのと、海外公演に大忙しのはずだった。家に帰る暇がないのも当然のことだった。
不憫だったのは、娘のハルという女の子だった。出世街道まっしぐらだった宇佐美さんは、それまで転勤や単身赴任も多かったようだ。娘をあまりかまってやれなかったのだろう。
周りからも変わった子と評されていたようで、私がハルちゃんの部屋をノックしても、なんの挨拶もなかった。変わりに、ヴァイオリンの調べが返ってきた。
ハル,「おじさんにはこの曲」
と言って、G線上のアリアを弾きだした。聞けば、お前と同じようにドイツで生まれ、五歳のころからヴァイオリンを学んでいるという。母親譲りの、見事な旋律だったと記憶している。
そのとき、父さんと宇佐美さんは、はっきりと親友だったと言っていい。ハルちゃんは相変わらず口も利いてくれないが、機会さえあれば京介や恭平にも紹介して、家族ぐるみのつき合いをしようと思っていた。
しかし、その機会は永遠に訪れなかった。
つき合いが深まるにつれて、宇佐美さんからは、麻雀に誘われることが多くなった。連戦連勝する宇佐美さんは、自分が官僚一家の四男坊で、政治家になる頭脳とコネがありながら、今の会社で頑張っていると気分よく語っていた。
父親(有名な閣僚だった)や、兄たちを軽蔑するような発言に、私は危うさを覚えた。決して、麻雀に負けたくやしさからではない。
あとになってわかったことだが、彼は、実家から勘当された身だったのだ。
しかし、彼は決して無能な男ではなかった。外郭放水路の建設に向けて社内ではよく部下をまとめ、社外では先陣を切って下請け業者との折衝に乗り出していた。予算の増資を申し入れるべく、親会社の染谷常務の執務室に単身一升瓶を持って乗り込んだのは、有名な話だった。ユーモアと機知に富む宇佐美さんが、三島薫さんを口説き落とせたとしても不思議はなかった。
宇佐美義則,「鮫島さん、折り入ってお願いがあるんだ」
都内の料亭で打ち合わせを終わらせたとき、宇佐美さんはいつものようにもったいつけて切り出してきた。
宇佐美義則,「鮫島さんにとっても悪い話ではないと思う」
彼は近い将来、独立を果たしたいと言った。それも山王物産の系列傘下に収まるのではなく、完全な宇佐美義則の会社としての旗をかかげるつもりでいた。
宇佐美義則,「この話をしたのは、鮫島さんが初めてだ」
熱っぽく語る宇佐美さんは、まるで子供のような顔をしていた。たしかに彼は、自分の才覚を鼻にかけるきらいはあったが、その実力は社内外でも認められていた。宇佐美さんならやってのけるだろうと、私は素直に応援したい気分だった。
宇佐美義則,「ぜひとも、鮫島さんにもついてきて欲しい」
半ば予想していたことだが、彼は私を新会社に誘うつもりだった。いくらか出資してくれれば、役員として迎えたいと丁重に頭を下げてきた。
私は申し訳ない気持ちで、誘いを断った。私には野心がなかった。いまの会社の待遇にも満足しているし、なにより起業にかまける時間があればお前たちと過ごしたいと考えていたからだ。
宇佐美義則,「残念です」
宇佐美さんは言った。
鮫島利勝,「申し訳ない。もうすぐ女の子が生まれますので」
宇佐美義則,「そうでしたか。それはおめでとうございます。待望の女の子ですね。名前はもう決まっているのですか?」
清美と名づけた赤ん坊が、先天性の心臓病を患っていたことは、お前たちも知っていることだろう。
男臭かった我が家に初めて授かった女の子だ。父さんのはしゃぎようはお前たちの嫉妬を買うほどだったと思う。手のかかる娘ではあった。週に二度は病院に通わなければならず、母さんも貧血で倒れたほどだ。だが、お前も、ぎゃあぎゃあとうるさい歳の離れた妹のおむつを、すすんで替えてやっていたんだぞ。心優しい男だと思った。
が、清美は亡くなってしまったな。生後一年三ヶ月。春の到来を感じさせる穏やかな日だった。眠るように死んだと母さんから聞いている。身内だけで行った葬儀のなかで、お前は少しも涙を見せなかったな。
恭平,「なんのために生まれてきたのか!」
晴天に向かって吠えたお前は、きっと神様をなじっていたのだろう。
清美が死んで一週間ほどして、宇佐美さんが三人の部下を引き連れて私を訪ねてきた。彼らは喪服に身を包み、いきなりおじぎをしてきた。
宇佐美義則,「お悔やみ申し上げます……」
彼の声は涙に濡れていた。顔を上げた宇佐美さんは、目を真っ赤にして、溢れる涙を隠そうともしなかった。
ああ、この人は清美のために泣いてくれたのだなと、私は素朴に感動していた。彼は、清美が生まれたときにも、出産祝いとして子供服を贈ってくれていた。
私は宇佐美さんにすっかり気を許していた。彼は暇を見つけては私を銀座の高級料亭に招いてくれた。
宇佐美義則,「なあに、女房がハルを連れてまたベルリンに行ってしまってね。僕も寂しいんだ」
はにかむように笑う宇佐美さんを、私ははっきりと心の友だと信じきっていた。
鮫島利勝,「いくらほど、ご入用なんですか?」
宇佐美義則,「なんのお話です?」
鮫島利勝,「前におっしゃっていたでしょう。独立資金のことです。私でよければ、いくらか出資させていただきたい」
宇佐美義則,「そんな……とんでもない。悪いですよ、鮫島さん。あなたには大切な家族がいらっしゃる。とても私のわがままにつき合っている時間などないでしょうに」
鮫島利勝,「はい。大変申し訳ないのですが、いまの会社をやめて、宇佐美さんについていくことはできません。しかし、せめて気持ちだけでも受け取っていただきたい」
私には清美の医療費のためと積み立てておいた五百万程度の預金があった。それを、清美のために泣いてくれた親友に投資してもいいと、当時の私は判断してしまった。もちろんお前たちの学費は別に用意していたし、一流企業に勤める父さんの収入から考えても、五百万程度ならと、油断していたのかもしれない。
宇佐美義則,「有難うございます。このご恩は、何倍にもしてお返しします」
いま思えば、あのときの私は、清美が死んだことで判断力に乏しかった。仕事でも瑣末なミスを繰り返していたし、家庭でも母さんにつらく当たってしまったことすらある。
だから私は、清美の遺影に線香を上げたその夜に、宇佐美さんの持ってきた出資を約束する念書にサインした。二枚綴りの用紙の一枚目にだけ署名をした。翌日には印鑑証明まで郵送した。考えてみれば、なぜ出資に念書など必要だったのか。二枚目の用紙の内容を読まなかった私に罪がある。この一件は、おそらく裁判で検察が問い詰めてくることだろう。山王物産の経理を務めていた人間が、なぜ、こんな単純な詐欺に引っかかったのかと、私の常識を疑ってくるに違いない。
愚かな父さんを許してくれ。
それ以来、宇佐美さんと、食事をともにする機会がめっきり減った。外郭放水路の建設事業と、自らの独立準備に追われ、忙しいのだと思っていた。
ある休日、家族でキャンプに出かけようとしていたときのことだった。漆黒のスーツに血の色をしたシャツを着た巨漢が自宅を訪れた。
父さんは学生運動のときに、何人かの急進派の人たちと顔を合わせたことがある。誰も彼も、異様な顔つきで、歪んだ思想に目をぎらつかせていた。けれど、目の前の獣のような男の威圧感には及ばなかった。
ヤクザ,「しめて、五千だ」
有無を言わさぬ物言いに、父さんは心底震え上がった。
間違いなくヤクザの取り立て屋だった。大男は私の眼前に、一枚の借用書をつきつけてきた。
信じられなかった。私はいつの間にか、加藤孝之という人の借金の連帯保証人にされていたのだ。加藤の名前は知っていた。宇佐美さんの部下で、私もいっしょに麻雀を打ったことがある。
父さんはわけもわからず、お引取りを願った。彼は、その日は引き下がってくれた。次は容赦しないと、彼の凍てついた目が言っていた。
不安そうに私を見上げる母さんの顔がいまも、目に焼きついている。
借用書の内容を見て、私は愕然とした。元金が五百万の借金、それに信じられない金利がついて五千万にまで膨れ上がっていた。
私は借用書を片手に宇佐美さんの自宅に乗り込んだ。三島さんとハルちゃんの姿はなかった。代わりに、加藤孝之を含む三人の男たちと、宇佐美さんは呑気に麻雀卓を囲んでいた。
宇佐美義則,「鮫島さんを騙すつもりはまったくありませんでしたよ」
鮫島利勝,「私はあなたに五百万を出資すると言ったんです。五千万の借金を肩代わりするつもりはない」
宇佐美義則,「しかし、あなたは、現実に借用書に署名してくださったではありませんか?」
宇佐美さんの演技はたいしたものだった。まるで私がおかしいと言わんばかりに首を傾げていた。
もし、このときに、宇佐美さんが借用書に仕掛けたトリックに気づいていれば、私も殺人を犯すこともなかっただろう。いまとなってもわからないのだが、宇佐美さんは二枚綴りの用紙に細工をして、五千万の借金の連帯保証人になる悪魔の契約書を隠していたのではないかと思う。
宇佐美義則,「とにかく、五千万です。僕の部下の加藤のために、払っていただけるんでしょうね?」
一流商社に勤めるあんたに払えない額ではないだろうと、傲慢なあごが語っていた。
鮫島利勝,「これは犯罪ではありませんか、宇佐美さん?」
宇佐美義則,「よしてください。どこにそんな証拠があるんです」
鮫島利勝,「これは詐欺です。警察に訴えさせてもらいます」
宇佐美義則,「別にかまいませんがね。その代わり、あなたが最近犯したミスの数々を、本社の染谷常務宛てに上申させていただきます」
宇佐美さんと染谷常務の蜜月は、もはや社内では知らぬものはいなかった。宇佐美さんににらまれて会社をあとにした者の噂は、私の耳にも入っていたが愚かな私は彼を信じていた。
宇佐美義則,「それに、鮫島さん。私を犯罪者というのなら、あなたもそうでしょう。何度か赤坂の料亭で国土交通省の方を接待しましたね。コンパニオンの女性も交えて。あれはあきらかに過剰接待ですよ。あのときの幹事は誰でしたっけ?」
麻雀牌を器用に指で回転させながら、勝ち誇るように言った。
宇佐美義則,「あのときは鮫島さんも大層楽しんでいらっしゃいましたよ」
部下の一人が笑っていた。
宇佐美義則,「奥さんがいながら鼻の下伸ばしてましたね」
さらに笑いが連鎖する。
鮫島利勝,「起業の話は、嘘だったのですね?」
私は苦し紛れに言った。
宇佐美義則,「嘘ではありませんよ。いずれ考えていることですが、いまはとにかく、外郭放水路という偉業に専念したいのです」
私は、生後まもなく人生を終えた清美のことを思った。
鮫島利勝,「あの、涙も、嘘だったのですね?」
あのときの宇佐美の顔を、私は絞首台に登ってもなお、呪うだろう。
宇佐美義則,「お引取りください。いま勝負手が入っているところでね」
会社の顧問弁護士に友人が騙されたことにして相談を持ちかけたが、けっきょくのところ払うしかないという結論を突きつけられた。
預金を切り崩してもなお、五千万には至らなかった。父さんは散財家ではないつもりだが、体の弱い母さんの医療費や、清美の手術代などが少なからず家計を圧迫していたのだ。
実家の両親に頭を下げ、親戚に白い目で見られているうちに、父さんのなかにどす黒い感情が芽生えた。
なぜ、私がこんな目に合わなくてはならないのか。
浅井権三という名の取立て屋に土下座しながら、父さんは状況の理不尽さを胸のうちに溜めていった。
鮫島利勝,「とりあえず、二千万までは支払いました。残りは、宇佐美さん、あなたが負担してください」
白昼堂々、会社でブリーフィングをしている宇佐美さんに食って掛かった。
宇佐美は、大勢の重役に囲まれながら、まったく動じなかった。
宇佐美義則,「場をわきまえてもらえませんか。あなたの借金を、なぜ私が補填しなくてはならないのです?」
鮫島利勝,「よくもぬけぬけと!」
カッとなった私は、気づいたときには彼の胸倉をつかみ上げていた。そして、それこそが、彼の狙いだった。暴力沙汰を起こした私に味方をする者は社内にはいなかった。一週間の自宅謹慎と、減俸が待っているだけだった。
泣き寝入りするしかなかった父さんは、自宅に帰ると、毎日清美の遺影と向き合っていた。
私は宇佐美への怒りと自分の愚かさに全身を震わせていた。ともすれば、宇佐美が清美を殺したと思えるほどに、私の神経はささくれだっていた。(この辺りが、弁護士が私の心神こうじゃくないし、心神喪失を主張する根拠となっているようだ)。
借金を払う目処が立たぬまま月日が流れた。宇佐美は精力的に立ち回り、ついに事業部長にまで出世していた。世界最大の規模を誇る外郭放水路。歴史に残る偉業を前にして、父さんの存在など、取るに足らないものだったのだろう。
なあ、息子よ。こんな男を、私は赦すべきだったのだろうか。お前たちにはすまないと思っている。しかし、宇佐美は、清美の死を前にして偽りの涙を浮かべ、心で笑っていたのだ。お前は葬儀のあと、天に向かって清美の死の理不尽さを訴えたな。「なんのために生まれたのか」と。清美は、宇佐美に利用されるために生まれてきたのか?違うだろう?
決行前に、私は宇佐美に不意に呼び出された。
遊興好きの宇佐美はノミ屋と呼ばれる違法賭博にどっぷりはまっていた。
一見、なんでもなさそうな喫茶店だった。しかし、そこに集まっている客は、コーヒーを飲みに来たとは思えない、風体のみすぼらしい連中ばかりだった。皆、興奮した面持ちで、テレビ画面に映る競馬場の中継を眺めていた。
宇佐美義則,「妻と娘には内緒ですよ」
陽気に言う彼を見て、父さんは言葉もなかった。
宇佐美義則,「お金にお困りのようですね」
誰のせいだと心底思った。
宇佐美義則,「園山組は知っていますか?」
富万別市を本拠とする広域暴力団の名前だった。
宇佐美義則,「建設業も長くやっていると、そっちの筋の方ともつきあいができるものでしてね」
鮫島利勝,「相変わらずもったいつけた言い回しですね。なんの話ですか?」
宇佐美義則,「実は、一つ、仕事をお願いしたいのです」
それは、早い話が、業務上横領だった。経理を担当する父さんを抱きこんで、ヤクザに甘い蜜を吸わせようというのだ。
宇佐美義則,「どうでしょう。引き受けていただければ、厳しい取り立てをやめてもらえるようお願いしておきますが?」
薄い唇に酷薄な笑みが浮かんでいた。私は気づいた。この男は最初から、父さんをはめるつもりで絵を描いていたのだ。借用書にサインをさせたことなど、序章にすぎなかった。
鮫島利勝,「宇佐美さん、あなたには善悪の観念というものがないのか?」
宇佐美は鼻で笑うばかりだった。
宇佐美義則,「鮫島利勝さん。あなたはまず、名前で負けている。勝利の反対は敗北ではありませんか。敗者に道義を説かれる筋合いはないのです。あの闘争の時代において敗北した連中に耳を貸す人間など、いまの時代にいますか?」
鮫島利勝,「我々はもう学生ではない。一人の大人として、貴様に道義的責任を問うているんだ。お前のやっていることは、闘争などではなく、ただ弱者をいたぶっているだけだ。お前にも娘がいるのだろう?あのハルという少女が同じ目に合わされたらどんな気分だ?」
宇佐美義則,「まるで私が清美ちゃんを殺したかのような物言いですね。ひどい人だ。わざわざ部下を連れてお悔やみ申し上げたというのに」
おそらくその瞬間だろう。私の殺意が、完全に固まったのは……。
宇佐美義則,「だいたい、あなた方夫婦は、出産に当たって年齢を考えなかったのですか?高齢出産は危険を伴うことなど常識でしょうに」
宇佐美は賢い。悪魔的な頭脳の持ち主だった。私の罪を着実に突いてきた。清美の心臓に異常が見られたとき、私は正直、自責の念に駆られていたのだ。
宇佐美義則,「私は、子供はハルしか作っていません。ハルはあなたの子供たちとは違って優秀な娘です。私の遺伝子を引き継いでいるのですからね」
鮫島利勝,「つまり、悪魔の子か?」
宇佐美義則,「いいえ、天使ですよ。親にとって子供はなによりかわいいものです」
あのハルというヴァイオリン弾きの少女になんの罪もないことはわかっている。
しかし、父さんは、この人の皮をかぶった鬼畜に思い知らせてやるには、娘を殺すしかないと憎悪に心を燃やしていた。
頭に、G線上のアリアが流れる。人間の心は不思議なもので、ある音楽を聴くと、そのときの情景を思い返すことがある。私にとってG線上のアリアは、もはや宇佐美への復讐のBGMとなっていた。
息子よ、お前がG線上のアリアを聞くとき、お前は心にどんな風景を描くのか……。
;白フェード
;背景地下神殿
;通常形式
……。
…………。
この幻想的な風景が、人の手によって作られたとはにわかに信じがたい。
富万別市外郭放水路。
その地下神殿と称される、巨大な超圧水槽。
富万別市の川という川から取り込まれ、地下トンネルを伝った雨水がここにプールされる。
水は生命の源であり、ときに恐ろしい災害を引き起こす。
水害を恐れた人間たちが、人智を結集して作り上げた防災施設。
同時に、宇佐美義則の悲願でもあった。
魔王,「父よ……」
もうすぐだ。
おれの耳にもアリアは届いている。
ヴァイオリンのG線は、力強く、親から子へ受け継がれている。
魔王,「もうすぐ、あなたを救ってみせよう……」
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜
警察の監察医務院。
狭い部屋だった。
遺体が一つ。
薄明かりに浮かび上がる白い布の光沢。
間違いなく母です。
頭と胴体のバランスのおかしいそれに向かって、そう言った。
制服警官は、これでようやく解剖ができると、胸をなでおろしていた。
あの美しい母。
寒さに震えるおれを抱きしめてくれた母。
大男から身をていして守ってくれた母。
頭が、陥没していた。
それでも、間違いなく母だった。
うつ病と診断され、自宅療養していた母は、事故当日の午後七時になって身支度を整え、突然外出したという。
遺留品の中に、東京羽田行きの航空券があった。
東京行きの最終便に乗り合わせる予定だったようだ。
事件は母が空港に向かうバスに乗るべく、交差点を渡ったときに起こった。
信号は青だったという。
時速120キロの猛スピードで一台の車が突っ込んできた。
運転していた青年は逃走をはかったが、偶然付近を巡回していたパトカーがこれを追尾、逮捕に至った。
検査の結果、青年が酒を飲んでいたことが発覚している。
あのあと宇佐美や時田がどう逃げきったのか。
権三に牙をむいたおれが、これから、どんな仕打ちを受けるのか。
すべて、どうでもいい。
母の遺留品の一つに、手編みのマフラーがあった。
おれはそれを握り締め、一人、暗い部屋でまなざしを床に落としていた。
誰か、教えて欲しい。
母に、なんの罪があったのか。
連絡こそ受けていなかったが、母はおれに会いにくるつもりだったのだ。
おれは、迎えに行くべきだった。
もっと早くに。
権三のもとを離れてでも、母と暮らすべきだった。
権三に従い、闇の世界に名乗りを上げる。
なんと、幼稚な夢か。
傷ついた母と、静かに暮らす。
それが、おれのささやかな希望ではなかったか。
哀れな母さん。
殺人犯の夫を持ち、借金に追われて心を患い、最後には理不尽に撥ね殺された。
どこに、救いがあるというのか。
この世に天使など、決していない。
いるものか。
なぜなら、おれは、いま、憎悪を糧に正気を保っている。
母を殺した運転手を、どうやって殺してやろうかと、それだけを考えて、なんとか発狂を免れている。
毎度毎度の頭痛が凄まじいが、もはや痛みすら心地いい。
これは罰だ。
母さんを救えなかった、おれへの報い。
この頭痛に身を任せた先に、救いが待っているような気さえした。
;SE心臓の音
京介,「……フフ……」
笑いが、腹からとめどなくこみ上げてくる。
まかれた種が、雌伏のときをへて、地を割って出てくるようなすがすがしさがあった。
京介,「"魔王"、か……」
いままでの不可解な事件を思い返す。
椿姫を巻き込んだ、身代金奪取。
浅井権三を狙った、車爆破事件。
思えば、椿姫は気に入らなかった。
権三のせいで、母のもとに帰れなかった。
動機は十分ではないか。
どれもこれも、おれはここぞという場面で体調を崩していた。
いまとなっては、あまりよく覚えていない。
秋元氏のもったいつけた診断。
宇佐美と権三の疑いの目。
ありえないと思いつつも、肯定したくなってきた。
ありえないこと……たとえば、母がいきなり事故で死ぬ……そういう理不尽なことはいくらでもあるのだから。
つまり、"魔王"がおれだとしても――。
不意に、インターホンが鳴り響く。
権三の使いだろうと思ったが、意外な人物だった。
ハル,「開けてください、浅井さん」
総和連合から目下逃走中の宇佐美だった。
宇佐美を中に入れてやった。
おれの変貌ぶりに、少なからず驚いているようだ。
なにしろここ数日、風呂にも入っていない。
京介,「……こんなところにいたら、ヤクザに捕まるぞ」
ハル,「はい……それは、わかっているんですが……」
京介,「ですが、なんだ?」
心がうずく。
おれは、宇佐美に対して、ある疑問を抱いていた。
それは、これまで努めて口にしないようにしていた、父にまつわる出来事だった。
ハル,「……ニュースで、事故のことを聞きまして……」
京介,「おれの母さんが死んだからって、お前に何の関係があるんだ?」
ハル,「……それは……」
また、口ごもった。
おれに同情しているらしい。
気まぐれに、聞いてみた。
京介,「お前は、宇佐美義則の娘なのか?」
宇佐美の呼吸が止まった。
京介,「そうか……」
笑いそうになった。
京介,「だから、いままでおれにつきまとってきたんだな」
ハル,「……っ……」
京介,「父に代わって謝りたかったのか?それとも、よくも殺してくれたと、復讐の機会でもうかがってたのか?」
ハル,「……う……っ……」
突如、宇佐美の嗚咽が暗い部屋に響いた。
不快だった。
京介,「なぜ、泣く?」
ハル,「……す、すみま、せん……」
京介,「どこまでも気持ち悪いやつだな……」
ハル,「すみません、すみま、せん……」
京介,「うるさい……」
けれど、宇佐美は涙をぬぐおうともしなかった。
ハル,「……お母さんが亡くなられたと聞いて……その……い、いてもたってもいられなくなって……」
京介,「……なんだと?」
ハル,「い、いま、ユキと水羽はユキの自宅にいます。警察の官舎です。そこなら、権三さんの手の者もよりつけないと思いまして……」
京介,「そうか。それは考えたな。だから、権三も静かなのか。それで、どうしてお前だけがここに来たんだ?」
ハル,「で、ですから……浅井さんに、あ、会いたくなって……」
京介,「おれに会いたいだと?殺人犯の息子に会ってなにがしたいんだ?」
宇佐美はもともと奇抜な女だった。
するりと布擦れの音がした。
被害者の娘は、いきなり服を脱ぎだしたのだ。
ハル,「わ、わたしでよければ……あの……」
京介,「ほう、外道の娘は、売春婦でもあったか」
ハル,「す、きです……」
心臓を鷲づかみにされる思いだった。
ハル,「ず、ずっと……好きだったよ……」
それは、最低の告白だった。
京介,「こりゃ傑作だ」
いまおれの部屋で行われているのは、純愛などとは縁遠い、最悪の陵辱劇だった。
宇佐美はおれを汚し、自らを貶め、全身を打ち震わせていた。
京介,「ずっと好きだったって?」
ハル,「う、うんっ、うんっ!」
京介,「殺すぞ、貴様」
ハル,「だって、だって……!」
京介,「おれとお前が結ばれるなどありえない!お前の父がおれの父になにをした!?ええっ、言ってみろ!?」
ハル,「でも、でもっ、それはわたしたちには関係ないはず……!」
京介,「それは理屈の話だ!父の無念を思えば、お前に心を許せるはずがないだろう!?」
ハル,「わたしはっ、わたしは、それでもあなたがっ……!」
宇佐美はいまにもその場に泣き崩れそうだった。
けれど、懸命に、赤く腫れ上がった目を向けてくる。
命そのものを燃やして、おれに挑んできているように見えた。
ハル,「好きですっ……だめだ忘れようって思っても、ずっと、ずっと好きでしたっ……!」
おれのことが好きだという気持ちが、本気なのはよくわかった。
ハル,「許して下さい!どうか、あなたを好きでいても、許して下さい!」
そこにいるのは、誰かに絶望的なまでの恋をしている知らない女だった。
ハル,「初めて会った、十年前から、わたしは、あなただけを想って、あなただけが忘れられなくて……!」
――十年前!?
ふと、
;ev_haru_04aセピア調
京介,「…………」
謎の光景。
遠い山の向こうでかすかに瞬いた雷光のように、記憶の闇を切り裂いた。
それも一瞬のことで、すぐにおれは憎悪に心を黒く染め上げた。
京介,「そうか……お前は、おれを慰めにきたわけか?」
ハル,「す、すみません、浅井さんは同情なんて、大嫌いだと思いましたが……それでも、なにか力になれればと……」
京介,「それも?」
ハル,「はい、好きだからです……」
京介,「押しつけがましい純愛だな。おぞましいことこの上ない」
なにが、勇者だ。
悪魔の娘め。
京介,「わかった。脱げよ」
ハル,「……はい……」
下着にかかった手はあきらかに強張っていた。
経験などないのだろう。
白く透き通るような肌があらわになる。
ハル,「ぬ、脱ぎました……」
おれの男性器は尋常ではないほどに張っていた。
宇佐美の身体に欲情したからではない。
父を殺人犯に追いやり、家庭を破滅させた人間の娘を犯す。
それは凄まじい魔力を秘めた誘惑だった。
父の無念もいくらかは晴らされるのではないか。
なぜか、目から涙が溢れる。
父から受け継いだ血の涙だと、自らに言い聞かせた。
泣きながら股を開く女と、泣きながら陰茎を屹立させる男。
まさしく悪魔の描いた地獄絵に違いなかった。
ハル,「……み、ちゃん……」
そのとき、宇佐美が、あろうことか、その名をつぶやいた。
ハル,「……ごめん、なさい……!」
;背景主人公の部屋夜
;立ち絵の表示はなしで。
京介,「うせろ、宇佐美いぃっ――――!!!」
ひぐっ、と子供がしゃくり上げるような反応が返ってきた。
京介,「これが、おれの最後の良心だ!」
ハル,「……ぐっ、うっ……!」
京介,「次に会うときは、お前を犯すだけでは済まさんぞ!」
ハル,「あ、ぐっ、うぅうっ……」
わななく手足で懸命に服をまといだした。
京介,「二度とおれの前に現れるな!」
次は、間違いなく殺す。
いまだって嬲り殺したい。
が、宇佐美は、亡き妹の名を呼んだ。
清美に、ごめんなさいと、どういうわけか心を込めて謝った。
ハル,「さようならっ!」
床を蹴飛ばし、室内の闇に転びそうになりながら、宇佐美は逃げていった。
あとに残る圧倒的なまでの静寂。
襲い来る耳鳴り、頭痛。
いま、このときを持って、おれのなかで"魔王"が目覚め出す……。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公の部屋 昼
さて……。
すがすがしい朝だ。
時田の立て篭もり事件から、ちょうど一週間経過している。
おれはいま、自分がやるべきことを、自分に問うている。
玄関で物音があった。
扉が開く音。
土足で駆け上がってくる無数の靴。
京介,「これはどうも、堀部さん」
おれは堂々と、殺気立ったヤクザの群れを出迎えた。
堀部,「坊ちゃん、朝早くにすみませんね」
京介,「いえいえ、どんな御用でしょうか?」
堀部は残虐な笑みを浮かべた。
堀部,「組長があなたの首をご所望です」
京介,「ほう……おれを、殺すと?」
堀部,「聞けば、坊ちゃんこそが、"魔王"だったそうじゃないですか」
京介,「フフ……どうかな?」
堀部,「おやおや、しらばっくれてもダメですよぉ。あのアイスアリーナの一件で、ほとんどクロだったんですから」
京介,「なんのことで?」
堀部,「坊ちゃんには、いくら電話してもつながらなかったじゃないですか?」
……そんなことか。
京介,「あの混雑です。仕方がなかったでしょう。僕だって、必死にあなた方と合流しようとしていたんですよ?」
堀部,「またまたぁ、やめてくださいよ。つい昨日のことですがね、山王物産の染谷っていうお偉方に組長がじかに会いに行きましてねぇ」
まったくうれしそうに語る。
堀部,「つい先日まで、浅井という名の相談役を飼っていたそうなんです。若くて、頭が切れて、まるで坊ちゃんにそっくりだったそうですよ」
おれは、ニタリと笑う。
京介,「ああ……染谷さんね……」
堀部も、口角を吊り上げた。
堀部,「認めるんですねえ?」
京介,「さあ、まったく覚えがないなあ……」
瞬間、眼前に銃口があった。
堀部,「まるで顔つきが変わりましたね、坊ちゃん。それがあんたの本性ってわけですかい?」
じりと、詰め寄ってきた。
この場で殺す気だろう。
堀部,「侘びの一言でもあれば、手前が承っておきますよ?」
京介,「侘び?」
堀部,「坊ちゃんは、お養父さんに拾われて、ここまでなれたんじゃないですか?」
まったくその通りだ。
権三に拾われたおかげで、おれの人生は滅茶苦茶になった。
堀部,「さあ、なにもありませんか?」
……ふむ。
どうやって、この場を切り抜けるか。
敵は堀部以下、三人の骨太な男たち。
出口は完全に塞がれている。
窓から飛び降りようにも、ここは地上十八階だ。
となると……。
堀部,「なんですか、坊ちゃん?」
京介,「いえ」
堀部,「まさかアクション映画の主人公みたいに、うちらに逆襲できるとでも思ってるんですか?」
京介,「まさか……暴力のプロに暴力で歯向かうなんて馬鹿のすることですよ」
が、こいつらは、しょせんは権三の犬でもあるのだ。
しょせんは金の奴隷。
おれは、拳銃を持つ堀部の目を見据えた。
すなわち、必殺の気構えでこの場にやってきたのか、あるいは、どこかに交渉の余地があるのか。
本当に引き金を引くつもりがあるのか、それともただの威嚇なのか。
……よし。
京介,「では、堀部さん、一つだけ」
堀部が目を細めた。
京介,「父は、ただ、おれを、殺せと命じたのですか?」
堀部,「ただ……?」
おれは銃口に目線を合わせたまま、金庫を指差した。
父の借金のため、母の未来のために貯めていた金がそこにある。
いまのおれには、無用の代物だった。
堀部,「へへ……そうですね、中身のゲンナマも回収させてもらいますよ」
読みどおり、金の亡者は誘いに乗ってきた。
京介,「やはりそうですか。これは困ったな。五千万以上はありますからね」
堀部,「じゃあ、それを開けてもらいましょうか」
勝ちを確信したのか、堀部が銃口を金庫に向けてしゃくった。
京介,「わかりました」
金庫に近づき、ゆっくりと開錠の番号を押して、扉を開けた。
黄金の輝きに、目を奪われていることだろう。
堀部,「いやいや、坊っちゃんはなかなか交渉上手ですねえ」
京介,「それはどうもありがとうございます」
振り返ると、堀部は、弱者をいたぶる前の至福の笑みを浮かべていた。
堀部,「で、そいつで、この場を見逃してもらおうっていう腹でしょう?」
京介,「ええ、いかがでしょう?」
堀部,「だめですわぁ……!」
近づいた堀部の顔に、青筋が走った。
堀部,「ほんと、憎たらしい小僧だな、おい。往生際が悪いんだよ、このがきゃあ」
間近で見ると、なかなか恐ろしいものだな。
おれは、こんな連中をあごで使っていたのか。
おれは言った。
京介,「なるほど、いままでの非礼は心よりお詫び申し上げましょう。しかし、この場はひとまずおれの勝ちです」
堀部,「なんだと!?」
京介,「あなたは、おれに銃口を突きつけながら、金庫の扉を開けさせました。この意味がわかりますか?」
堀部,「ああっ!?」
京介,「さきほど、あのままおれを撃ち殺していたのなら、ただの単純殺人でした。けれど、金庫を開けさせた上で殺せば、中身を盗ろうが盗るまいが、強盗殺人です」
堀部の、剃りこみすぎて形のない眉が跳ねた。
京介,「おわかりか? あなたみたいな悪党のことです。まず無期、いや下手すれば極刑もありうる」
堀部の視線がかすかに床に落ちた。
京介,「あなたは生粋のヤクザ者でしょう、堀部さん。オヤジのために、殺人を犯してムショに入るのならともかく、そこに強盗という汚名がついたら、たとえシャバに出れたとして、総和連合にあなたの居場所がありますかね?」
さあ、考えろ。
おれみたいな小僧のために、一生を棒に振るのか?
計算高い堀部なら、わかるはずだ。
堀部,「こりゃあ、一本とられましたねえ……」
ここが、人知れぬ山奥で、堀部以外の人間が銃を握っていたら、話は変わっていただろうな。
京介,「こういうのはどうでしょう。あなたがたが踏み込んだときには、すでにおれの姿はなかった」
堀部は舌打ちをして、またいつもの極悪フェイスに笑みを貼り付けた。
堀部,「わかりました」
京介,「恩に着ます」
堀部,「で、坊っちゃん……」
最後のひと言は、さすが堀部だった。
堀部,「この五千のうち、いかほど包んでもらえるんですかね?」
もう、会うこともないだろうな。
;背景 繁華街1 昼
;SE携帯
徒歩で移動中、着信があった。
京介,「よう、椿姫。どうした?」
椿姫,「あ、なんか久しぶりだね。元気かな?」
京介,「ああ、実にすがすがしい気分だよ」
椿姫,「学園、来ないのかな?」
学園か……懐かしい響きだ。
椿姫,「ハルちゃんも、水羽ちゃんも、ユキさんも来てなくて……」
京介,「へえ……寒い日が続いているからな」
椿姫,「なにかあったの?」
京介,「さて、おれは知らんな。おれは仕事に忙しくてな。いや、遊びか……」
椿姫,「まあ、元気ならいいや。そのうち学園にも来てね」
通話が終わる気配があった。
京介,「ああ、椿姫」
椿姫,「どうしたの?」
京介,「いや、家族はどうだ?仲良くやってるか?」
椿姫,「うん、なんのかわりもないよ」
京介,「悪かったな、あのときは」
椿姫,「なにが?浅井くんは、よくしてくれたじゃない?」
京介,「いや、なんでもない。じゃあな」
ばいばいと、椿姫は明るく電話を切った。
大家族一家か……。
家族がいるだけ、幸せというものだ。
金なんて、あとからいくらでも積み上げられる。
さて、どうするか……。
やはり、浅井権三か……。
車が爆破されたとき、死んでおけばよかったものを……。
よし……殺すか。
;背景オフィス街昼
その前に、ただ、一点、気になることがある。
;ev_haru_04aセピア調
あの記憶。
あれだけが引っかかる。
;背景オフィス街昼
十年前……と宇佐美は言った。
あの風景は、山王物産の本社ビル、その屋上ではないか?
幼少期、おれは、宇佐美と会っているのか?
確かめてみよう。
復讐は、それからでも遅くはない。
おれは山王物産のビルを目指した。
;黒画面
…………。
……。
;背景オフィス街夜
……。
…………。
夜が更け、活動の時間がやってきた。
おれはいま、最後の準備を済まし、山王物産をあとにしてきた。
浅井京介……いや、鮫島京介と宇佐美ハルは、幼少のころに交流があった。
二人とも、お互いの両親のことを知らずに、不器用な心の触れあいを繰り返していたという。
魔王,「ふ……はは……」
笑える話だ。
十年ぶりの再会。
幼馴染が、ずっと片想いをしていたというわけか。
かなわぬ恋だな、宇佐美よ。
お前が、人並みの幸せを求めるなど、おこがましいというものだ。
魔王,「さて……父に残された時間はあとわずかだ」
最終計画を実行に移す前に、ぜひとも殺しておかねばならない男がいる。
おれは、その男に連絡を取るべく、携帯電話を手に取った。
コール音を耳に響かせながら、おれはすべての私情を廃していった。
いままで生かしてやったことをありがたく思え……。
通話がつながり、おれは言った。
魔王,「ご無沙汰だな。この場合、どういう、挨拶が適当かな……?」
;黒画面
…………。
……。
;背景権三宅居間
宇佐美ハルは、単身、浅井権三の屋敷を訪れていた。
想い人に拒絶された少女にもう希望はなく、ただ母を殺した"魔王"を追い詰めるべく合理的にことを進めるだけだった。
ハルの突然の来訪に、浅井権三はぎょろりと目を向けた。
浅井権三,「死人の匂いが強くなったな、宇佐美ハル」
"魔王"の仲間であるユキを逃がしたことで、ハルはこの場で権三にくびり殺されることも覚悟していた。
ハル,「ユキから聞き出した"魔王"の情報はすべてお話します。ですから、ユキに手を出さないでいただけませんか?」
やはり、この街で浅井権三を敵に回して生きていけるはずがなかった。ユキと水羽がいる警察の官舎を一歩出れば、権三の手の者が待ち構えている。じわじわと獲物が弱るのを待つように、ユキへの監視は続けられていた。
ハル,「ユキが許されるのであれば、わたしはどうされてもかまいません」
頭を下げるのではなく、挑むように権三と向き合った。この悪漢に媚は通じない。背を見せるのではなく、腹を見せる覚悟がなくてはまともに相手もしてもらえないだろう。
浅井権三,「時田の娘については、ひとまずおく」
権三の興味は別のところにあるようだった。
浅井権三,「"魔王"の情報など、もはや必要ない」
ハル,「といいますと?」
浅井権三,「お前も知っての通り、京介こそが"魔王"だ」
ハルは、耳を疑った。
浅井権三,「京介は精神科医にかかっている。話を聞いたところ、やつは、どうやら心因性健忘症という病にかかっているようだ」
ハル,「それは……どういう?」
浅井権三,「脳の組織に異常が生じ、突然過去の記憶がなくなったり、部分的に空白になる、非常に珍しい疾患だ」
ハル,「そんな……それは、なにが原因で?」
浅井権三,「ストレスの積み重ねだ。そして、ストレスがあっても外に出せず、感情を押し殺すようなタイプに起こりうるという」
ハルは胸を詰まらせた。
京介の凄惨なまでの過去は、察するに余りある。そして、学園では陽気に振舞う彼の仮面の奥を理解してあげられる友人など、これまで一人もいなかったのだろう。
ハル,「浅井さんは……京介くんは、"魔王"じゃありません……」
自らに言い聞かせるようにつぶやいた。ハルは、口では京介を疑うようなことを言うが、内心では愚鈍なまでに京介を信頼していた。
とはいえ、身代金を奪い、権三の車を爆破した張本人が京介ではないと、権三を説得するに足りる根拠は見出せなかった。
浅井権三,「お前は、過去において、京介と接点があった」
ハル,「よくご存知で」
瞬間、怪物は目を見開いた。
浅井権三,「好いていたか?」
ハル,「はい」
浅井権三,「京介は?」
ハル,「……あのときは」
浅井権三,「そうか」
ふっと、権三から絶え間なく発せられていた豪気が緩んだように、ハルには感じられた。
浅井権三,「そうか」
と、権三は繰り返した。ハルはただ、胃が縮む思いで、権三が京介に与えるであろう裁きを待った。
浅井権三,「生けれども、生けれども、道は氷河なり」
ハル,「…………」
浅井権三,「人の生に四季はなく、ただ、冬の荒野があるのみ。流れ出た血と涙は、拭わずともいずれ凍りつく」
それは、京介のことを言っているのか、それとも権三自身の生涯を表現しているのか、ハルには判断がつかなかった。
奥の襖から声があった。
権三が応じると、黒服が電話の子機を持って現れ、物言わず退室していった。
浅井権三は電話を受けて、しばし無言だった。相手が何者で、どんな内容の話をされているのか、検討もつかなかった。
浅井権三,「京介よ……」
威厳を響かせ、言った。
浅井権三,「のこのこと現れれば、死ぬぞ」
それで、会話が途切れたようだった。
突如、権三が席を立つ。ハルのことなど、もはや眼中にないようだった。
ハル,「あ、あの……!?」
権三は懐に拳銃を忍ばせ、傲然とした足取りで外に出でた。
獣が狩に発つ。
ハルに止める術はなかった。
;黒画面
…………。
……。
;背景倉庫外夜
;通常形式
……。
…………。
獲物が網にかかった。
二台のベンツが夜の港に急行してきた。
車から、頑丈そうな男たちが飛び降りてくる。
護衛の数は、六人か。
なめられたものだ。
装備はしょせん、ピストルの類の豆鉄砲だろう。
しかも、実際に人を殺したことがあるのは、六人のうちどれだけいるだろうか。
ヤクザとはいえ、実際に拳銃に触れ、遠い山奥で実弾射撃訓練に日々の時間を費やした者はそういない。
問題は、肝心の浅井権三が、フルスモークの車から出てこないことだ。
おかげで照準望遠鏡の十字線に、権三の胸をとらえられない。
しかし、機はいくらでもあるだろう。
平和な国に生きる彼らが、まさか二百ヤードも離れた廃ビルの屋上からライフルで狙われているとは思うまい。
おれの狙撃の腕は、そう威張れるほどでもないが、優秀なテレスコープが補ってくれる。
工学技師の手で入念な焦点調整が施されており、いったん合わせた照準は、おれの頭が多少ぶれたとしてもずれることはない。
ライフル銃を構え直すと、機械油の匂いが鼻をついた。
テレスコープのレンズを振って、状況を探る。
狩り場を港に選んだのは正解だった。
だだっ広く、標的がすぐに身を隠せる遮蔽物がほとんどない。
魔王,「…………」
一人のボディーガードらしき大男が、車の後部座席に向かって声をかけている。
オヤジ……ヤツの姿は見当たりません……。
静かな夜に、野太い声は響くものだ。
浅井権三は、間違いなくこの場に来ている。
用心深く、配下の者に周りを探らせていたのだろう。
あとはどうやって、車の外にあぶりだすか……。
銃口に柔らかな綿布を巻きつけた棒を差し入れる。
狙撃前の掃除を終えて、薬室に五発の弾薬をこめた。
弾の先端は大半の防弾チョッキを貫通できるよう、セラミックのものに付け替えてある。
排出される薬莢をすぐに回収できるよう、ライフルの持ち運びに使った楽器ケースから、台所用のふきんを取り出しておいた。
スリングを左腕に巻きつけ、肘をしっかりと地面に固定する。
腕力ではなく、骨で銃を支えている感覚を確認すると、頬と右手の親指を銃床の引き金の上に押し当てた。
狙撃の準備はほぼ終わった。
海は穏やかで、風はかすかだ。
他にも、湿度や地表付近の小さな上昇気流まで考えをめぐらしてみるが、文句のつけようはなかった。
あとは権三の姿を確認し、照準を微調整するだけだ。
おれは権三が出てくるであろうベンツのドアに狙いをつけた。
そのとき、車のエンジン音が聞こえ、おれは再びレンズ越しに状況を偵察した。
タクシーが一台滑り込んでくる。
権三のベンツのそばにいったん停車すると、すぐに走り去った。
タクシーから降りてきた人影を見つめ、おれはほくそ笑んだ。
横風の影響を公式に当てはめ、テレスコープを再調整する。
重力の影響を相殺するべく銃身がわずかに上にかたむいた。
さあ、出て来い権三。
一発で仕留めてやる。
魔王,「…………」
しかし、どういうわけか気持ちが落ち着かない。
狩りの前に高揚しているわけではない。
ましてや、母を追い詰めた怪物に同情しているわけでもない。
その刹那。
おれの心の動揺を悟ったかのように、浅井権三がベンツから飛び出した。
猛獣を思わせる俊敏な動きで、身を低くかまえながら、走り出す。
浅井権三,「京介えええぇっ――――!!!」
咆哮。
あろうことか、権三はこちらを向いていた。
まるで、ライフルで狙われているのがわかっていたかのように。
狙撃地点を予想していたかのように。
……なぜだ!?
狙撃を警戒していたことはある程度予想できる。
だから、ヤツは車から降りてこなかったのだ。
しかし、なぜ……!?
考えるより先に、殺意が勝った。
テレスコープに、浅井権三の巨躯が映った。
傲然と、こちらを見上げている。
――いまだ、やれ!
怪物は、自ら死地にやってきたのだ!
十字線が、浅井権三の胸部に焦点を結ぶ。
息を整える。
吸う、吐く、吸う……。
目に万力をこめる。
ひきつる目蓋。
定まる狙い。
引き金に指。
ほんのわずかな圧力をかけた。
ライフルが火を噴いた。
澄んだ音が響き渡り、巨体の上半身が揺らいだ。
弾は肺からやや下に逸れた。
それでも必殺だろう。
弾身には微量の爆薬を込めてある。
いまごろ、あの怪物の内臓は…………。
…………。
なんだと……!?
浅井権三,「"魔王"よ、聞けっ!!!」
両足に根でも生えたのか。
浅井権三,「悪とは、いまだ人のうちに残っている動物的な性質にこそ起源がある!!!」
折れぬ膝に、猛る顔面。
血走った目玉がいまにも眼窩から飛び出しそうだった。
浅井権三,「復讐に救いを求め、救いに悪を成さんとする貴様は、遠からず己が悪行のもろさを知るだろう!!!」
まるで、弁慶の立ち往生か。
絶命間際の野獣の咆哮に、身がすくむ思いだった。
浅井権三,「嗤おう、盛大に!!!」
次の瞬間、浅井権三の口から、大量の血が溢れ出した。
笑み。
流血の海に溺れながら、浅井権三は断末魔の哄笑に命のともし火を費やした。
かたかた、かたかた、と耳元でライフルが震える。
いや、震えているのは、おれの腕だった。
二百ヤードも向こうにいる怪物が、なぜか、おれのはらわたを食い尽くしているような悪夢に襲われた。
……落ち着け!
おれが、ヤツを殺したのだ。
浅井権三は死んだ、間違いない!
そうだ、慌てることはない……。
最後の絶叫など、負け犬の遠吠えではないか。
嗤え、だと?
ふん、獲物を仕留めそこなったハイエナの痙攣のようなものか。
魔王,「ぐ……っ……」
どれだけ余裕ぶったところで、動悸がおさまらない。
生物としての格の違いでも見せつけられたか。
再びテレスコープを覗いたとき、おれははっきりと恐怖した。
誰もいない――!?
王を失ったはずの獣どもは、微塵の動揺も見せず、さらなる狙撃を警戒して綺麗に散開していた。
ただ、地べたにどうと倒れた権三の躯があるのみ。
……まずい!
残りの標的をあの世への道連れにしてやる暇などない。
甘く見ていた。
日本のヤクザなど、がなりたてるだけが脳の馬鹿の群れと侮っていた。
彼らは親分の死にひと言も口を漏らすことなく、おれを探している。
指揮官を失ってなお機能する軍隊。
これでは、狙撃の瞬間、銃口が閃光を発する瞬間を見ていた者がいてもおかしくはない。
つまり、おれの位置は特定されていると用心していい。
すぐさまライフルを片づけ、撤退の準備をした。
;黒画面
廃ビルの非常階段を駆け下りる。
音を立てぬよう慎重に、かつ迅速に。
ビルから出て、倉庫の影づたいに港から離れた。
まさに間一髪だった。
ヤツらは二人一組で、お互いの死角をかばいあいながら、いままさにおれがいた廃ビルへと突入していった。
連携の取れた動きは、特殊部隊のバディシステムを想起させた。
;背景繁華街2夜
魔王,「……はあっ、はあっ……」
これまでのどんな戦場よりも生きた心地がしなかった。
まさしく辛勝。
いや、おれ自身、どうして権三を仕留められたのかわからなかった。
権三はなぜ、車内にいる優位を捨てて、身をさらけ出したのだ?
……わからん。
しかし、悪魔はおれに微笑んだ。
母を追い詰めた怪物に復讐の鉄槌を下した。
満足するとしよう。
魔王,「さらばだ、浅井権三……」
さて、宇佐美。
次は、お前だ……。
;背景中央区住宅街夜
魔王,「む……」
ライフルの入った楽器ケースを置きに戻ったときだった。
背後の曲がり角。
おれと歩調をあわせるような足音。
……つけられている?
園山組か。
なんて対応の早さだ。
おれはしばし、尾行を確認するべく、道の角を何度も曲がり、やがて同じ場所に戻ってきた。
魔王,「……気のせいか?」
尾行者の影はなかった。
そもそも、園山組なら、尾行などせず、おれを見つけた時点で襲い掛かって来るだろう。
しかし、万全を期すべく、仲間を呼び集めているのかもしれない。
この場は離れたほうがよさそうだな。
おれは一路、東区を目指した。
夜はまだまだ続く。
時刻はすでに深夜十二時を回っていた。
;黒画面
…………。
……。
;一度アイキャッチ
;背景空夕方
小学校の帰り道。
おれは父、鮫島利勝に会いに、父の職場を訪れていた。
しかし、忙しい父が、勤務中に子供の相手をしてくれるわけもなかった。
だったら、この高い建物の屋上に登ってみようと、幼心に思った。
五十階建ての超高層タワービル。
屋上からの景色は満点だった。
黄金色の空が広がっていた。
影絵のような雲が、ゆっくりと覆っていく。
ぼんやりと眺めていると、夕陽が頂に雪を残した山々の向こうに消えていった。
少年だったおれは、眼前に広がる絶え間ない空の美しさに、素朴に感動していた。
鉄柵の向こうに、そいつを見つけ出すまでは。
京介,「なにしてるんだ?」
そいつは屋上のはしに座り、空中に足を投げ出していた。
京介,「ねえ、キミ……怖くないのか?」
そいつは、なにも答えない。
分厚そうな本を読んでいる。
当然、風は強く、何度もページが飛ばされていた。
京介,「本、読んでるのか?」
ハル,「見ればわかるでしょう」
変なヤツだと思ったが、逆に興味が沸いた。
京介,「なんでこんなとこで読むんだ?危ないぞ」
ハル,「落ち着くから」
ぶすっとしていた。
京介,「怖くないのか?」
ハル,「なにも」
京介,「落ちたら死ぬぞ」
ハル,「肉や骨が飛び散るでしょうね。でも、大丈夫。ゴミ袋を用意してるから。落ちるときはそれにくるまるよう努力するつもり。清掃の人も、それで少しは楽ができる」
しゃべりながら、本のページをめくった。
京介,「なんかわかんないけど、おかしなヤツだな……」
ハル,「わたしは、あなたたちとは違うの。あなたたちみたいに、世間とつながっていないと、孤独に発狂してしまうような連中とは違うの」
理解しがたいことを平気で言うようなヤツだった。
京介,「キミって、女だったのか」
髪型からして男の子かと思っていた。
ハル,「悪い?」
京介,「んーん。わるかないよ」
ハル,「なんで?」
京介,「え?」
ハル,「どうして悪くないと思ったの?女の子なら普通、髪は長いでしょう?常識を逸脱してるじゃない」
わけもわからず、おれは言った。
京介,「えっとな、ボクは髪が長い子が好きだ」
ハル,「……ふうん……って、そんなこと聞いてないわよ」
京介,「まあいんじゃないの。髪が短くてもとくに困ることないでしょ」
笑うと、すねたように聞き返してきた。
ハル,「あなたこそなにしてるの?」
京介,「ボクは、父さんを待ってるんだ」
ハル,「お父さんは、ここで働いてるんだ?」
京介,「え?なんでわかんの!?」
ハル,「あなたみたいな子供が、一人でこの商社のビルに入って来れるわけないでしょう」
京介,「キミも子供じゃん」
ハル,「そうね」
京介,「あ、待てよ。てことは、キミのとーさんも、ここで働いてるんだな?」
ハル,「だったら、なに?」
京介,「遊ぼうぜ」
ハル,「…………」
京介,「ボク、暇なんだ」
ハル,「わたしは暇じゃない。本を読んでる」
京介,「なに読んでるんだ。貸せよ」
ちらりと見た限り『罪と罰』と、表紙にあったような覚えがある。
ハル,「人は人を殺してもいいのか、悪とはなにか……興味ある?」
京介,「ねえよ」
ハル,「じゃあ、向こういってて」
京介,「名前なんていうんだ?」
ハル,「は?」
京介,「キミの名前だよ」
妙な間があった。
ハル,「勇者」
京介,「なんだって?」
ハル,「勇者」
京介,「なに、勇者?」
ハル,「田中」
京介,「田中勇者って、なんだそれ?」
ハル,「勇者じゃダメなの?」
京介,「ダメじゃないけど……勇者っていうくらいなら、強いんだろうな?」
ハル,「もちろん」
京介,「魔法使える?」
ハル,「グーテンターク」
京介,「おお、すごい」
ハル,「グーテンモルゲン」
京介,「おおおー」
ハル,「らんらんるー」
京介,「どういう魔法なの?」
ハル,「わたしもわからない」
京介,「なにそれ……」
ハル,「さ、帰ろうかな……」
;黒画面
山王物産の屋上で、おれは幼き勇者との出会いをすべて思い出していた。
まさしく病気にかかっていたとしか言いようがない。
あんな、大切な記憶を封じ込めているなんて。
…………。
……。
;背景公園夜
……。
…………。
さて、次は宇佐美だ。
権三を殺した興奮冷めやらぬまま、おれは東区に来ていた。
宇佐美義則の一人娘、その死に場所は前々から決めてあった。
宇佐美は、時田ユキから、おれの情報を聞きだしたはずだ。
時田には、それなりにおれの活動を話している。
外郭放水路のこと、おれとつながる外国人勢力のこと、潜伏先の一つに泊めてやったことすらある。
どの情報も、時田が裏切ったときのことを想定して、おれの今後の計画に支障をきたすようなことはないが……。
ただ、宇佐美の今後の行動は読みづらいものになる。
しかし、相手の出方わからないのならば、相手の動きを指定するようにこちらから働きかけるのが、戦略の基本だ。
魔王,「……ふむ」
……やはり、もう一度鬼ごっこをするかな。
最初に宇佐美に渡した携帯電話は、まだ使用回数が残っているかな……。
コールしてみる。
通話はすぐにつながった。
魔王,「よう、宇佐美。ご機嫌いかがかな?」
宇佐美はうめいた。
ハル,「権三さんを殺したな?」
魔王,「フフ……ニュースで盛大にやっているのかな。これでこの街も騒がしくなりそうだ」
関東総和連合で、もっとも力のあった園山組の親分の死。
闇社会の勢力圏が塗り替わることだろう。
浅井興業を筆頭とするフロント企業も終わりだ。
魔王,「時田ユキはどうした?」
ハル,「…………」
魔王,「警察に自首しないのか?不法侵入に殺人未遂……まだまだあるな。立派な凶悪犯ではないか?」
時田ユキが捕まれば、当然県警の捜査一課にも動揺が走る。
父の時田彰浩は優秀な人物だという。
できることなら、戦いたくはない。
しかし、宇佐美は挑発には乗ってこなかった。
ハル,「何の用だ?」
魔王,「会いたい」
宇佐美が息を詰まらせる。
魔王,「東区の公園はわかるな。もと椿姫の家の近くだ」
ハル,「…………」
魔王,「その近くに、とある排水機場がある」
ハル,「そこへ来いと?」
魔王,「正面から堂々と来られては困る。こんな時間に、外郭放水路の見学はやっていないからな」
ハル,「裏口でもあるのか?」
魔王,「無数にあるさ。この街を含む隣県の水の流れを一手に引き受けている施設だぞ。親父から聞いていなかったのか?」
宇佐美は答えない。
魔王,「排水機場より西に二百メートルほど行った場所に、地下トンネルへの入り口がある。もちろん、鉄柵に鍵がかかっているが、お前のために特別に開けておくとしよう」
ハル,「……それは、ありがとう」
魔王,「心配するな。今の時期は水もない。トンネルのなかは外より暖かいぞ」
ハル,「いいだろう」
なにをかっこつけているのやら。
魔王,「最後の闘いだな」
お前にとっての、な。
父と同じように、くびり殺してやるとしよう。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
ハル,「さ、帰ろうかな……」
勇者と名乗った。
とくに理由はなかった。視線の先に、たまたま勇者という文字があった。たまたま、口にしてしまった。
少年に興味はなかった。少女は、半ズボンのポケットを探った。小さな懐中時計をつかんだ。お気に入りの一品。かわいらしいペンギンの柄が入っていた。
ハル,「もう、時間。帰る。それじゃ」
懐中時計を握り締めて、立ち上がった。
京介,「おい、待てよ」
;黒画面
突きあげるような風があった。すさまじい勢いで、ビルの合間を這うように登ってきた。足をすくわれた。バランスを崩した少女は、そのときになってようやく少年の顔を見た。
京介,「危ない」
少年の腕が伸びた。必死そうな表情も迫ってきた。うめいた。よろめいて、もがいた。夕空に懐中時計の光が瞬いた。落ちる、と思った。死の間際。冷静だった。ゴミ袋を用意して、落下に備えなければ……。
;背景空夕方
耳元で少年の息づかいがあった。空しか見えない。いつの間にか背中を預けていた。かばように抱きすくめられていた。少年のぬくもりを感じる。恐怖よりも先に、恥ずかしさがあった。
京介,「馬鹿野郎、危ないっていったじゃないか」
また吐息がかかった。助けてもらったのだと、知った。
ハル,「懐中時計」
つぶやいて、ポケットを探った。あるはずもなかった。
京介,「そんなもん、落っこっちゃったよ」
ハル,「困る」
京介,「命があっただけでも、よしとしろよ」
ハル,「やだ」
少年は、いいかげん、腹を立てたようだ。少女から離れると、タコのように口を尖らせた。
少女は、また、屋上のはしに寄った。
ハル,「あれ、お母さんからもらったの」
下をのぞきこむようにして見た。地上五十階から落下した小さな懐中時計が、見当たるはずもなかった。
京介,「大事なものだったのか」
ハル,「うん。でも、あきらめる」
京介,「いいのか」
少女は少年と向き合った。
ハル,「しょうがない。ばらばらに砕けてしまっただろうし」
うつむいて、言った。
京介,「寂しいこというなよ」
寂しいことを言ったつもりはなかった。少女は、ただ、うつむいただけだった。夕陽が、いたずらに少女の顔を寂しそうに見せたのか。
京介,「わかったよ。探してやるから、待ってろ」
少年は背を向けた。わけがわからなかった。探して欲しいだなんて、誰が頼んだというのか。
――いいって、言ってるのに。
けれど、少女は、少年を制止する言葉を口にできなかった。
;背景空夜
暗くなった。
呆然と、立ちすくんでいた。
そろそろ、ヴァイオリンの練習を始めなければならない時間だった。
待った。闇は深くなり、屋上にも機械的な光が募った。星は見えない。強風が曇を運んできたようだ。
寒い。ただ、待っていた。
屋上の扉が勢いよく開いた。叫び声があがった。こちらに向かって走りこんでくる影があった。再び、うれしそうな声があがった。声は、自分が発したのだと気づいた。
懐中時計は、無事だった。小さな傷はあれど、秒針はきちんと時を刻んでいた。
奇跡だった。まるで、魔法のようだった。勇者が魔法をかけたのだと、少年は言った。幼心に、暖かい火が灯った。少女にはむしろ、少年のほうが勇者に見えてならなかった。
少年を見つめた。優しそうなまなざし。すぐさまありがとうと、言いたかった。ひねくれた心が、それを許さなかった。見つめられると、照れくさくて仕方がない。
京介,「雪だ」
少年が、大きく腕を伸ばして空を見上げた。
目が逸れた。チャンスだった。いまなら言える。胸がうずく。
京介,「寒くないか。ボクのコート着るか?」
また目が合った。
少年の思いやりに熱くなる胸。反対に、こみ上げる羞恥心。
ハル,「わ、わたし、友達いなくて、お父さんもいつも仕事で忙しくて」
不意に、唇が浮ついた。止まらなかった。
ハル,「引越しばっかりで。そう、それで友達いなくて。あの、それで、だから、みんなわたしのこと変なヤツだっていって……だから、友達いなくて、その……」
狼狽する自分を、初めて知った。いつもはもっと冷静に、論理的に話をすることができる。
ハル,「あの、ほんと、驚くぐらい友達いなくて……」
同年代の子供たちには無視されるばかりだった。だからこちらも無視してやることにした。"孤高"という単語を本で知った。孤高でありたかった。
ハル,「ご、ごめん、ごめんなさい」
涙声で、詫びた。内気で多感な子供の素顔が、じんわりと表情に滲んでいく。
我慢しろ、我慢しろ。少女は自分に言い聞かせた。どうせすぐに海外へ旅立つのだ。少年とも、どうせすぐに別れるのだ。孤高でいろ、孤高でいろ……。
ハル,「さよなら、もう帰る」
逃げ出した。自責の念が胸を突いた。
駆け出したとき、少年が名乗った。
京介,「おれ、キョウスケっていうんだ。また、会えるよな、勇者」
少女は答えなかった。ただ、思わず足が止まってしまった。それが、答えになった。
――キョウスケくん……。
名前を心のうちで何度も反芻した。
雪が、積もってきた。
反対に、少女の心は雪解けを待っていた。
;黒画面
…………。
……。
;背景地下水路
"魔王"に教えられたとおりの場所に行くと、なだらかな斜面の下にコンクリートの横穴がぽっかりと空いていた。
壊されていた鉄柵の間をくぐり、薄暗い通路をすすんでいくと、やがてハルは地下トンネルに降り立った。
広く野太い穴だった。水害の際には、首都圏の雨水がすべてここを通るのだという。
ハルは、父、宇佐美義則のことを思った。タバコの匂いと、麻雀牌の音。それが、ほとんどすべての父の記憶だった。ハルは母の薫に従って、海外を点々としていたからだ。
だから、鮫島利勝という人に惨殺されたと聞いても、実感が沸かなかった。葬式の際に集まった父の同僚たちのほうが、涙を流していた。父は慕われていたのだと、そのときは思った。
時を経て、父にも非があったことを知った。違法賭博にどっぷりとはまり、鮫島利勝に借金の肩代わりをさせた疑いがあった。ハルは母に連れられてドイツへ渡った。世間の目を逃れ、体よく逃げ出したのだ。
――京介くんに恨まれても、仕方がないな。
なつかしい記憶。両親のごたごたなど知らずに、山王物産の屋上で出会って、他愛のないことを語り合った。
少年京介は、明るく爽やかで勇敢な男の子だった。ドイツで生まれ、日本の学校になじめなかったハルには、当時友達がいなかった。けれど、京介だけは違った。鮫島京介こそが、宇佐美ハルにとっての勇者だった。
"魔王"はどこだ。
ハルは暖かい思い出を振り払うように、母の仇の足跡をさぐった。
;黒画面
…………。
……。
;通常形式
京介,「また、本読んでるのか?」
懐中時計を拾ってやった、次の日。
おれは再び山王物産のビルの屋上に来ていた。
ひょっとしたら、またあの勇者に会えるかもしれないと思って。
ハル,「また来たんだ?」
京介,「うん、キミに会いに来た」
ハル,「そ、そうなんだ……ふうん……で、なにか用なの?」
京介,「だから、遊ぼうって」
ハル,「なんでわたし?」
京介,「さあ……」
ハル,「家族と遊んでれば?」
京介,「とーさんは、仕事。かーさんは、病院。にーさんは、外国」
ハル,「外国?」
京介,「うん、イギリスだって。にーさん、すごい頭いいんだー」
ハル,「歳はけっこう離れてるのね?」
京介,「んー、十くらい違うかなー。キミはボクと同じくらいだろ?」
ハル,「だったらなによ……」
ハル,「と、友達になってくれるっていうの?」
京介,「もちろん」
ハル,「で、でも、わたし、来週にはニューヨークに行くんだ」
京介,「なんで?」
ハル,「お母さんのお仕事についていくの。わたしも前座みたいなことするの」
京介,「なに前座って。どんなお仕事?」
ハル,「大勢の前でヴァイオリン弾くの」
京介,「ボクね、Gせんじょーのアリアが大好きなんだ」
ハル,「そうなんだ」
京介,「とーさんがね、よく聞いてるから覚えたの。最近のとーさん、そればっかり聞いてる」
ハル,「ふうん……だったら、今度、弾いてあげ……なくもないけど」
京介,「あとね、『魔王』も好き」
ハル,「え、無視?」
京介,「ガッコで習った。なんか怖いけどかっこいい」
ハル,「『魔王』って……ふうん……」
京介,「ねえ、帰ってくるんだろ?」
ハル,「ん?」
京介,「ほら、ニューヨークから」
ハル,「まあ、いつになるかわからないけど……いちおう、日本に家があるから」
京介,「なに、いちおうって」
ハル,「ん、別に……」
京介,「なんか、さみしいのか?」
ハル,「え?なんで?」
京介,「キミのとーさん、忙しいんだろ?ボクもなんだ。ちょっと昔にね、妹がいたんだけど、死んじゃったんだ」
ハル,「そう……」
京介,「清美っていうんだけどね、かわいかったなー」
京介,「でも、ボクんちは明るいよ。たまに、にーさんも帰ってきてくれるし。この前、ボクが写真撮ってあげたんだ。ボク、カメラ使えるんだよ?」
ハル,「カメラくらい、わたしも使えるよ」
京介,「今度、キミも撮ってあげるね」
ハル,「い、いいよ……なんで?」
京介,「記念に」
ハル,「ヤダよ……わたし、女の子っぽくないし」
京介,「いいから、今度、ボクのおうちにおいでよ」
ハル,「だから、ニューヨーク行くってば」
京介,「いつでもいいからさ。みんなでご飯食べよ。住所教えるね……」
ハル,「考えておくけど、あまり、期待しないでね……」
;黒画面
目の前に、暗いトンネルの入り口がある。
外郭放水路。
泥水を引きずったような、足跡が複数あった。
まってろ、宇佐美……。
…………。
……。
;背景地下水路
耳を澄ませば、足音が遠く響いている。
宇佐美だ。
一人、か?
これは面白い。
警察に通報してもよさそうなものなのに。
つまり、ヤツはヒロイズムに酔っているということだ。
あくまで自分の手で捕まえたいらしい。
もっとも、警察の影が見えれば、おれが尻尾をまいて退散すると読んだ上での単独行動か。
なんにせよ、死にに来たということだ。
幼き勇者。
なんの力もないくせに、よくぞ執念深くおれを追ってきたものだ。
素直にヴァイオリンの世界で生きていれば良かったものを。
……終わらせてやるとしよう。
魔王,「宇佐美、こっちだ!!!」
おれは叫び、少女を死地へと誘った。
;黒画面
…………。
……。
;背景空夜
その後、勇者との再会を心待ちにしていたおれに、次々と転機が訪れた。
ある夜、家に警察から電話がかかってきた。
父、鮫島利勝が、殺人を犯し、警察に逮捕されたというのだ。
あのときの母の優しさと強さは忘れられない。
どうしたの、と母に聞いたおれ。
なんでもない、とはにかむように笑ったのだ。
翌日から、学校に行くのが恐ろしくなった。
それまでクラスのリーダー的な存在だったおれの居場所はどこにもなかった。
『京介くん、だいじょうぶかい。倒れそうな顔してるよ。困ったことがあったらいつでも言うんだよ?』
担任の教師に、ホームルームで、そんなことを言われた。
大勢の友達の顔がひきつり、遠慮がちにおれを見つめていた。
『みんな、京介くんと仲良くするんだよ。京介くんのお父さんと、京介くんは違う人だからね。つまり、関係ないんだ。応援してあげようね』
それが、いじめの引き金となった。
死刑という言葉が子供たちの間ではやり、昼休みになると縄跳びが机の上においてあった。
学校から帰ると、いつもは台所で料理をしているはずの母が、椅子にうなだれていた。
生気を失った顔でおれの帰宅を認めるとこう言った。
『学校で、なにも言われなかったかい?』
おれは必死になって、首に輪を描いたあざを両手で隠していた。
インターホンがひっきりなしに鳴り響く。
ドアを開ければ、マスコミのカメラが雲霞のように群がっている。
たきつけられる激しいフラッシュにめまいがした。
――おい、子供は映すな。
――あとできっておきますから。
――ねえ、ボク、ちょっといいかな?
――お母さん呼んできてもらえる?
彼らは肉の壁となり、幼いおれを圧倒していた。
ドアを閉めようとしても、大人たちの手が、ゾンビの群れのように詰め寄ってきた。
おれを逃がすまいと、足をドアの隙間にはさみこんできた。
そして、そんなほんのわずかな隙間からも、カメラを差し込んでくる彼らの執念に、おれはついに気を失った。
それから先は、苦痛の毎日だった。
幸福だった家庭に連日のように訪れるマスコミ。
言いたいことをいう近所の住民。
忘れたころに現れる、浅井権三という名の取り立て屋。
救いは、母と、急遽帰国してきた兄、鮫島恭平だった。
恭平兄さんは、おれを叱咤し、母をいたわり、亡き妹の遺影に線香を上げると、退学の手続きのため、一時イギリスへ帰国した。
しかし、不幸は重なるのか、兄は、ロンドン市内の爆破事件に巻き込まれ命を失った。
兄の葬儀。
地下鉄のホームに仕掛けられた強力な爆弾は、兄の肉片ひとつ残さなかったという。
父のいない葬儀は、母が喪主を執り行った。
限界だったと思う。
母の顔は、絶望の色に青白く染まっていた。
集まった親戚たちは、母を助け、手際よく段取りを進めてくれていたようだ。
しかし、彼らは好意の裏で、大罪を犯して社会的立場を失った父から、どうやって財産を搾り取ろうかという謀議をしていた。
父は、借金に苛まれながらも、自宅だけは売らなかった。
家は家族の砦。
そもそも、払ういわれのない借金に、なぜ、おれと兄さんと清美の思い出の詰まった家を売り払わなければならないのか。
しかし、親戚にはそんな道理は通じない。
借金返済のために、いくらか父に金を貸してくれた叔父もいた。
その叔父が坪あたり一千万の値のつく土地を奪い取るべく、先頭に立って人寄せから段取りから、精力的に尽くすのも当然だった。
兄の葬儀の場において、彼らの頭のなかには、死者への想いではなく、ただ、黄金の輝きだけがあった。
叔父,「京介くんも、大きくなったべなあ」
北海道の漁村で漁師をしている叔父が言った。
父の家系で、父だけが出世頭だった。
貧しい家庭に育った父は、猛勉強の果てに一流大学に入り、山王物産に入社したのだ。
兄弟たちからの僻みや金の無心は、相当なものだったろう。
それでも父は、月に十万ほど、実家への仕送りを欠かさなかったようだ。
積もり積もった仕送りの額面から考えても、叔父たちは父の味方であって当然だった。
叔父,「清美ちゃんは、残念だったべな。利勝も、五十を間近に子供なんか作るから……」
おれは幼心に、親戚たちの良識ぶった顔の裏に潜む悪意を、はっきりと感じていた。
襖を隔てて、密談のひそみ声がする。
――利勝も馬鹿をしてくれたもんよ。
――昔から、わしらになんの相談もせんかったべさ。
――嫁さんも大変じゃ、なんでも富山のほうの分家の子供らしくての。利勝と離縁せんと、家に残してもらえんとな。
――あの様子だと、利勝と別れる気はないようだの。
――だから、内地の女は怖いとあれほど言ったんだべよ。
――そだのう、不幸は重なっておるが、利勝の財産だけはあの嫁が握っておるからな。
――めんこい顔して、まっとうな子供も生めん体だったべ。
――わしに任せておいてけらっしょ。
――金か?
――家に迷惑かけた利勝から、ちょっとくらいもらってもバチはあたらんべよ。
……。
僧侶の読経を聞きながら、どうして自分はこんなところにいるのだろうと思った。
つい先日まで、学校にはたくさんの友達がいて、家族はいつも明るくて、山王物産の屋上から見える空はどこまでも広がっていたのに。
留置所にいる父。
いまにも倒れそうな母。
肉片ひとつない、兄。
群がる金の亡者と、執拗なマスコミ。
どうして、八方ふさがりの地獄のような気分を味わい、くもの巣にからめ取られた虫のように、じたばたと苦しまねばならないのだろう。
周囲の視線やささやきに、びくびくしなければならないのだろうか。
部屋の隅で、膝を抱えてくすぶっていたおれを見下ろす影があった。
叔父,「京介くん、おっかさんにお願いしてもらえんべか」
姑息な微笑は、父の兄弟とは思えないほど似ていなかった。
叔父,「おっかさんに、実家に帰ってもらえんかの?」
遠まわしに、この家を明け渡せと言っていた。
叔父,「京介くんも、つらいべよ。よその学校のほうがいいべよ?」
京介,「ボクは母さんと一緒にいるよ」
場所もわきまえぬぞんざいな叔父に、おれは立ち上がった。
叔父,「利勝はの……おっとさんは、えらいことをしたんだわ。そういうことをしたもんはよ、家族ひっくるめて、家を出て行くもんなんだべよ」
京介,「父さんは悪くない……」
あっ、と声を上げて叔父は他の兄弟と顔を見合わせた。
諍いには不慣れなくせに、狡猾に立ち回っているだけの連中だった。
叔父,「いいか、京介。おっとさんは、四人も殺したんよ。人殺しだべ。おっとさんを信じるのはいいが、人殺しが悪くないと言ったらいかん」
京介,「でも、でも、母さんも、父さんが大好きだもん」
叔父,「そりゃ、旦那が金さ持ってるからだべ。そんなことよう言えんから、こうして身内が気を揉んでるんだわ。子供にはわからんだろうがの」
叔父は脅すような顔になった。
叔父,「一方的ですまんがよ、わしの言うことを聞きなさい。頼れる身内もおらんのだべよ。母さんに苦労させたくないべ?」
おれはやり場のない怒りに身を震わせていた。
京介,「わかったよ……」
お母さんに苦労をさせたくはない……そういう意味でうなずいた。
しかし、叔父たちは、おれを懐柔したのだと思って、ほっと息をついていた。
母さんを想った。
一族に取り囲まれた話し合いの場で、母さんはなにを主張できるのだろうか。
たった一人で、自らの潔白と、正義を訴えても誰が信じてくれるのだろうか。
何ひとつ悪いことはしていないのに、理不尽だと子供心に思った。
弱くて無知な幼い自分が腹立たしかった。
父さんがいれば、こんなヤツらを殴りつけてくれるのに。
兄さんがいれば、饒舌な言葉で追い払ってくれるのに。
誰でもいい、助けて欲しい。
母さんの正義を代弁してくれる人がいれば、たとえ結果が同じであろうともどれだけ心強いことだろうか。
読経が終わって、おれはその場にうずくまった。
泣き顔を見られたら負けだ。
奥歯を噛み殺して、必死であらゆる重圧に耐えた。
奥の襖が、そろりと開いた。
ハル,「お邪魔しまーす!!!」
いつ、ニューヨークから帰ってきたのか。
小さい体に信じられないほどの覇気を込めて、幼い勇者が乗り込んできた。
ハル,「兄ちゃんに、お線香あげに来ました!」
突然の乱入者に、一同の間にどよめきが走った。
叔父,「ど、どこの子だ!?場所をわきまえなさい!」
少女と目が合った。
目に悔し涙を浮かべていたおれを見て、悟ったのだろう。
勇者は、ぐいと叔父を睨み潰した。
ハル,「場所をわきまえるのはお前らのほうだ!」
いかにも身内の不幸を聞きつけてきたというふうだった。
――まさか、清美ちゃん?
――馬鹿、清美は死んだと聞いておるべ。
――でも、兄ちゃんって……!?
大人たちは、ようやくここが葬儀の場だということを知ったようだ。
親戚の誰もが知らない子供が、いきなり沸いて出てきたのだ。
少女を見る顔が、幽霊を見るように青ざめていった。
ハル,「お前らよってたかって白いものを黒だとぬかし、おっかさんや京介くんをいじめるのか!」
少女の賢さと勇気に、涙が止まった。
ハル,「わざわざ天国から出張ってきたんだ。ふざけたことぬかしたら、まとめて連れて帰るぞ!」
叔父,「そ、そんな……馬鹿な……」
さっきまで強欲に顔を歪ませていた叔父が、明らかにひるんでいた。
最高だった。
地獄のような場所に、勇者が助けに来てくれたのだ。
そのとき、母さんが初めて涙を流した。
あるいは母さんも清美が現れたと思ったのかもしれない。
頬を伝う涙は、悲しみだけに染まっているわけではなかった。
;黒画面
…………。
……。
;背景地下神殿
;ノベル形式
――どこだ、どこにいる……?
広大な空間にそびえ立つ無数の柱に、"魔王"の影を探った。耳が痛くなりそうな静寂のなか、まったく物音がしない。
ハルは自らが狩場にやってきたことを知った。"魔王"が身を隠す場所はいくらでもある。いままさに、銃で狙われているかもしれない。
魔王,「素晴らしい場所だと思わないか?」
どこからともなく"魔王"の声がした。反響に反響を繰り返した声の居場所を探ることは容易ではなかった。
魔王,「お前の父、宇佐美義則も、地獄で誇らしげに自慢していることだろう」
感慨など沸かなかった。呑みこまれそうなほどの暗闇は、まさしく"魔王"の住処のように不気味だった。
ハル,「鬼ごっこの次はかくれんぼか。そろそろ姿を見せたらどうだ?」
魔王,「気が早いな。勇者と魔王の戦いの前には、演出が必要だと思わないか?」
ハル,「お前とおしゃべりをするつもりはない」
魔王,「面白くないな、まったく」
じりと、靴音が鳴った。
意外と近くにいる。
ハルは耳を澄まし、わずかの物音も逃さぬ気構えで、暗闇を見据えていた。
;SE小石
音がした。背後を振り返る。コンクリートの破片が床に散っていた。
囮だった。遊んでいるのか。緊張に、わずかに呼吸が乱れた。
;黒画面
…………。
……。
;背景地下神殿。
;通常形式。
柱の影から宇佐美の様子をうかがう。
問題は、宇佐美が丸腰かどうかだ。
まず、第一に飛び道具の有無。
海外経験の豊富な宇佐美のことだから、実弾を撃った経験もあるかもしれない。
この日本でどうやって銃を手に入れるのか。
そして、この暗闇のなか、弾を当てることができたらたいしたものだが、万が一ということもある。
先ほど小石を投げたとき、振り返った宇佐美の全身を確認した。
腰の辺りに、拳銃を隠しているような角ばった輪郭は発見できなかった。
胸のふくらみに隠してあったりしたら面白いが、そんな場所から抜いている暇を与えるつもりはない。
とはいえ、ヤツはなんらかの武器を所持している。
宇佐美の右手の先に注目する。
だらりと下がっているようでいて、強張っている。
つまり、なにかあったときに、とっさに動けるよう構えているのだ。
となると、右手の近く……スカートのポケットが最も怪しい。
どんな凶器か。
小型のナイフか……いや、痴漢撃退用のスプレーか、あるいはスタンガンか……日本には、ペン型のスタンガンすらあるというからな。
さて……。
魔王,「勇者に敬意を表そう」
宇佐美の反応はない。
魔王,「友人はおろか、警察にも頼らずに、たった一人でおれを追ってきた」
ハル,「よく言う。警察の影でも見えれば、尻尾をまいて退散するつもりだったくせに」
……その通りだ、あくまでこれはお遊びなのだからな。
魔王,「だから、私も、お前をライフルで狙撃したりはしない」
ハル,「余裕だな」
魔王,「ネズミを狩るのに、猟銃は用いないだろう?」
しかし、ネズミは厄介な病気を蔓延させる。
魔王,「お前は、くびり殺すのが一番だと思ってな」
父と同じようにな。
そうすれば、おれも、少しは父さんと一緒の業を背負うことができるかもしれない。
地面を蹴った。
柱の影から影に向けて、跳躍する。
ハル,「……っ」
二度、三度と、移動を繰り返す。
ハル,「……っ……っ……」
宇佐美の呼吸が乱れていくのがわかる。
おれの言葉を鵜呑みにしていないのはさすがだ。
おれのスーツの裏側には、拳銃が下がっている。
不用意に身をさらして突進してきたら、撃ち殺してやるつもりだ。
;黒画面
…………。
……。
;背景地下神殿
;ノベル形式。
今度は右。豹のような素早さで、柱の影を渡りついでいる。
"魔王"のこちらを翻弄するかのような動きに、ハルは焦りを覚えていた。
命を懸けたやり取りなど、経験がないからだ。ヴァイオリンをやめてから、空いた時間を空手に費やしたものの、"魔王"に通用するとは思えなかった。
いまが、"魔王"を倒す最大のチャンスだ。なんの力もない少女と遊びたがるその心の慢心にこそ、つけいるすきがある。
機は、一瞬だろう。
隠し持ったスタンガンを再度確認する。長さ十センチほどの凶器は相手の体に押し当てるだけで、電極部が出て連続スパークする。電圧は50万ボルトと説明書にあったから、どんな大男でもまともにくらえば失神するだろう。
ハルは"魔王"の動きに合わせ、接近を試みた。さきほどまで"魔王"がいた柱にまで移動し、背中を柱に貼りつけた。
強張る右の手のひらが、汗にじんわりと滲んでいった。
;黒画面
…………。
……。
;背景地下神殿
;通常形式。
何度か、お互いの居場所を交換し合うようなやり取りが続いた。
円形の広場。
等間隔に屹立する柱。
似たような地形に、宇佐美の方向感覚は少なからず蝕まれていることだろう。
それが、証拠に、おれは宇佐美の背後をとらえていた。
もちろん、宇佐美は背後にも気を回しているだろう。
距離にして五メートルほど。
飛び掛って、その細首をしめあげる。
可能か。
宇佐美は、おそらく、武器を隠し持っている。
だが……。
武器を持っているなら、なぜ、いま、手に持っていない?
ナイフにしろ、スタンガンにしろ、すぐさま応戦できるよう、構えておくはずだ。
宇佐美は凶器を持っていないのか、あるいはそう思わせる狙いなのか。
…………。
…………。
…………。
魔王,「らちが明かんな、宇佐美」
問いかけたそのときだった。
それまで聞かなかった異質な響きがあった。
ハル,「……っ!」
カツン、と鳴ったそれは、おそらく宇佐美の制服のなかにある武器だろう。
柱の角にでもぶつけたか。
フ……。
;背景地下神殿。
おれは再び闇の中を走りぬけ、宇佐美と距離を取った。
魔王,「どうした、こっちだぞ!」
こうなったら、獲物が弱るのをじっくりと待つとしよう。
ハル,「はあっ……っ……!」
なんの訓練も積んでいない女学生の体力はいずれ尽きる。
魔王,「息が上がってきたな、どうしたどうした?」
ハル,「うっ……はあっ……はあっ……」
おれははっきりと後姿をさらしながら、柱と柱の間を縫うようにじぐざぐに駆け抜けた。
宇佐美はご丁寧に追ってくる。
魔王,「お前の執念はそんなものか!?」
どれだけ鬼ごっこを続けただろうか。
ちらりと後ろを振り返ると、宇佐美の顔が非常灯の明かりにさらされていた。
あごが、上がっていた。
右手に黒い凶器……おそらくスタンガンの類だ。
ハル,「はあっ、"魔王"……っ……はあっ……!」
足がもつれたその瞬間を見逃さなかった。
;黒画面
柱の角に足を引っかけたらしい。
前のめりに床に突っ伏す宇佐美。
宇佐美の右手から離れる黒い物体。
ハル,「ぐっ……!」
おれは身を翻し、猛然と倒れた宇佐美に迫った。
ハル,「うわっ!」
慌てて身を起こそうとした宇佐美に飛び掛り、押し倒す。
さあ、死ね――!
透き通るような白さを誇る首に、手をかけた。
ハル,「うっ……あ、ぐっ!」
魔王,「どうした、勇者!頭を使え!」
言葉とは裏腹に、脳に血がいかないよう万力を込めた。
ハル,「ぐっ、くっ、うぅうあああっ!」
魔王,「よく味わえ!お前の父もそうやって死んだんだ!」
徐々に、宇佐美の抵抗が収まってきた。
命を奪っている。
ある種の陶酔すら覚えた。
父、鮫島利勝は、少女ハルの死を願っていた。
そうしなければ、宇佐美義則という悪魔は思い知らない、と。
容赦などしない。
良心など痛まない。
このまま宇佐美の命を絶つ。
ハル,「う……あ、ああ……」
瞳からにわかに生気が失われていった。
反対に、おれの顔は歓喜に歪んでいることだろう。
父よ、できることならこの場を見て欲しかったぞ……!
おれは、ついに宇佐美を――――!
……。
胸に迫る、なにか――。
思わずそれに目を向けた。
脳裏に飛来する、驚愕と後悔。
慢心していた。
凶器は一つだと、誰が言った!?
直後、屈辱に奥歯が砕けた。
;ノベル形式
魔王,「宇佐美いぃぃぃっ――――!!!」
雨のように降り注ぐ"魔王"の絶叫。
ハルはかまわず、最後の力をふりしぼった。
スカートのポケットに潜めておいたもう一つの凶器。握り締めたスタンガンは、完全に"魔王"の胸をとらえていた。
ハル,「地獄で母さんに詫びろ!!!」
母への思いを込めて、ヴァイオリンをあきらめた憤りを込めて、宇佐美ハルは腕を突き出した。
稲光にも似た閃光が瞬く、はずだった――。
;黒画面
目を疑った。押し当てるだけで電撃が流れるはずだった。
故障か。
いや、違う。
"魔王"の胸のうちで、なにかが接触をさえぎった。
硬い、なにか。
市販されているスタンガンには、よく硬いものに対しては動作しない保護機能がついている。
――拳銃か!
再び別の場所に押し当てようと思いなおしたときには、遅かった。
魔王,「なるほどな……」
"魔王"の笑みが降ってきた。
魔王,「しょせんは市販のおもちゃだったか……」
力が抜けていく。最後の武器も振り払われて遠くに飛ばされた。
魔王,「なかなかがんばったな、宇佐美」
首が、絞まる。
絶望が、ひしひしと募っていった。
魔王,「次は、どんな策を用意しているんだ?」
もう、策はなかった。
魔王,「そうか、もう遊びは終わりか。楽しかったぞ……」
終わる。
なんの意味もなかった。"魔王"への抵抗など、最後の最後まで遊びに過ぎなかった。
殺される。父と同じように殺される。首を絞められた体がその活動を終えようとしているのにつれて、意志も瀕死に近づいていった。
前後の記憶は曖昧だ。頭のなかが真っ赤に染まり、生と死の境界が見えなくなったといえばいいか。いまや完全に行き来自由になった状態になりかけていた。苦痛の極みを通り越し、空を飛んでいるような高揚感すら覚えた。開いた瞳孔、せり上がる眼球。迫り来るあらゆる活動の停止……。
――京介、くん……。
;黒画面
…………。
……。
京介,「勇者、昨日はありがとうな!」
葬儀に乱入した翌日、京介が屋上に現れた。
ハル,「ごめんね、勝手に妹さんのふりして」
京介,「いいんだよ。すごいかっこよかったよ!」
ハルは、そんな子供の小細工はいっときのものでしかないと予想していた。けっきょく、彼らは家を出て行くことになるだろう。
京介,「ボク、キミのこと大好きだ!」
屈託のないひと言が胸をついた。
言えなかった。
少女の父親こそが、少年の父をたぶらかし、挙句殺害された男だとは。
言えなかった。
これから世間の目を逃れるべく、海外に移住するだなんて。
ハル,「好き……?」
背筋をなめる冷や汗。作り笑いを浮かべるつもりが、うまくいかなかった。好き、という言葉の発する力に、口の中がからからになった。
ハル,「わたしが、好きって……京介くんは、ほら、お友達多そうじゃない?」
京介,「うん……多かったんだけどね」
京介の声に、暗い影が落ちた。なんと無神経なことを言ってしまったのか。少女の鼓動は駆け足を始めていた。
ハル,「恋人とか、いるの?」
あくまで平然を装って聞いた。でも、本を持つ腕は震え、いまにも地上五十階から飛び降りてしまいそうだった。
京介,「勇者はおませさんなんだね。女の子のほうがそういうの興味あるって父さんが言ってた」
ハル,「いいから、いるの、いないの?」
京介,「いないよ。そういうのは考えたこともなかったなあ」
少年の口元が綻び、少女も安堵した。いや、ため息をついている場合ではない。ありったけの勇気をかき集めた。決意を胸に、干上がる口内に息を送り込んだ。
ハル,「しょうがないわね、なら、わたしが結婚してあげるわよ」
笑顔を、作れない。あふれるのは涙ばかり。勢いに任せて少女は言った。平然と、淡々と……。
ハル,「また会えたらね。覚えていたらでいいから。わたし、これから引っ越すの。運命の再会っていうのかな。ロマンチックじゃない?」
京介,「引っ越す?」
ハル,「そう」
京介,「なんで?」
ハル,「ヴァイオリンの勉強するの」
京介,「また外国?」
ハル,「デュッセルドルフ。ヨーロッパね」
京介,「そんな、やだよ……」
少年の声が曇った。
ハル,「寂しい?」
京介,「当たり前だよ」
嬉しくて、胸が弾んだ。
ハル,「だから、ほら、また会えたら結婚してあげるって。こういう約束って、大人に言わせれば恥ずかしいんだろうね。でも、いいじゃない。勇者からのお願い」
一息にしゃべり、しゃべったあとに言葉の意味を自覚した。膝がかじかんだように震える。大胆な告白に、体が悲鳴を上げていた。
京介,「結婚……?」
ハル,「嫌なの?」
京介,「本気なの?」
ハル,「ほ、本気よ」
今度ははっきりと声が震えた。
変な女の子だと思われただろうか。図々しいと嫌われたのだろうか。結婚だなんて、子供っぽいと笑われたのだろうか。ああ、そういえば、京介くんは髪の長い子が好きなんだ……。
けれど、少年は、ハルの砕け散ったガラスの心を拾い集めるように優しく言った。
京介,「わかった。約束するよ」
ハル,「覚えていなさいよ。わたしのお母さん、すごい美人なんだからね。この意味わかるかな。つまり、わたしもこれからすごい美人になるってこと」
そう、髪だって伸ばす。
;背景空夕方
少女は立ち上がって、少年を振り返った。心で泣きながら、弾ける笑顔をぶつけた。
高鳴る胸のうちとは裏腹に、もう少年と会うことはないだろうという予感があった。会えたとしても、そのときはきっと少年も大人になっている。殺人犯の息子と、被害者の娘として再会することになるのだ。京介くんは、きっと、わたしを恨むことだろう……。
かまうものか。
ハル,「約束ね」
また笑って見せた。少年も笑顔を返した。
京介,「わかった。ヴァイオリン、がんばってね」
穏やかなまなざし。優しい声音。少年のすべてが哀しかった。淡くはかない夢は、長い年月を経て時の流れに呑まれてしまうのだろう。
ずっと、このままでいたかった。でも、これ以上少年の前にいると、笑顔を保ち続ける自信がない。いまは、泣くものか。悲しみにくれる時間は、これからたっぷりとあるのだから。
ハル,「んじゃね、とりあえずフェリーでどこかの空港までいくらしいから。気が向いたら港まで見送りに来てよ」
京介,「うん、ぜったい行くよ」
夕空が、少年の頬を染め上げた。こわばる唇を無理やり吊り上げて、少女は手を振った。
二歩、三歩と歩き出す。振り返って、抱きつきたかった。初めての想い人の胸の感触を想像しながら、少女は駆け出した。涙に視界が霞み、嗚咽が風に流された。
見上げた空は、ちょうど冬から春に変わる色をしていた。
ハルは願いを込めた。
いつか、どこかで、約束は果たされる。親のいざこざなど知らず、お互い無垢な天使として再会する。
冬ばかりの人生に、穏やかな春の到来を夢見た。
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
ハル,「……くん……」
宇佐美がなにかぼやいている。
ハル,「京介、くん……」
瞳に涙すら浮かべていた。
まるで、おれの内なる良心をくすぐるように。
魔王,「……宇佐美……」
ハル,「あ、っ……きょうすけ、くん……」
わずかな頭痛を覚えた。
首にかけた手が緩みかける。
魔王,「…………」
殺したと思っていた甘さが、鎌首をもたげる。
――親は親、娘は娘。
宇佐美ハルという少女に、なんの罪があるのか。
魔王,「ぐっ……黙れ、宇佐美……」
けれど、京介を呼ぶ声はやまなかった。
魔王,「泣いてもわめいても、京介は現れんぞ!」
心を凍りつかせた。
そう、おれは"魔王"。
復讐に救いを求め、復讐にすべてを投げ出した男だ。
浅井京介と名乗った半端者とは違う!
もう一度、首に圧力を込めた。
今度こそ殺す。
おれはうめき、体をよろめかせながら、一つの生命を握りつぶしていった。
魔王,「――死ね、宇佐美っ!」
;画面白滅
;黒画面。
闇を掻き分ける足音があった。
荒い息づかいが、その男の必死さを訴えていた。
もう近くまで来ている。
おれの姿を探し当てたようだ。
そうか……尾行されていると思ったが……お前だったか。
家族を裏切り、浅井権三の養子となった男。
権三を釣る餌として、今日の夜半に電話を入れてやった。
取り乱したことだろう。
おれは死んだはずだからな。
裏切り者は殺してやる予定だった。
フロント企業のフィクサーの真似事などをしていると知ったとき、おかしくて仕方がなかった。
弱虫のお調子者の分際で。
しかし、その男の足取りに迷いはないようだった。
電話をかけたときは、自分こそが"魔王"だと勘違いして、錯乱していたというのに。
ハル,「きょう、すけ、くん……」
ふん、そういうことか……。
おれが死線をくぐっている間に、穏やかな純愛を育んでいたわけか。
京介,「やめろっ……」
そいつが言った。
京介,「宇佐美に手を出すな……」
声色からは、なんとしても少女を守るのだという気概が感じられた。
魔王,「誰に向かってものを言っているのか、わかっているんだろうな?」
京介,「ああ……」
よくも邪魔をしてくれるものだ。
京介ごときが……。
――このおれ、鮫島恭平に向かって。
;黒画面
…………。
……。
;背景空昼
いまでも思い出す。
あのときの言葉。
旅立ちの前に、海は穏やかな波を打っては返していた。
少女はいままさに、乗船しようとしていた。
おれは少女に聞いた。
京介,「ねえ、名前なんていうの?」
ハル,「勇者は勇者よ」
京介,「教えてよ」
ハル,「じゃあ、わたしが本当の勇者になったら教えてあげる」
京介,「え?まだ勇者じゃないの?」
ハル,「うん……」
きっと、素直になれない自分を未熟だと感じていたのだろう。
京介,「わかったよ」
おれは歯を見せて笑った。
京介,「キミは、勇者になるんだね」
ハル,「うん……」
京介,「だったら、ボクは……」
だったら、ボクは……。
――おれ、浅井京介は。
;メッセージウィンドウ改変。ここからはボイスの発生と同時に、発言者の名前を表示。
;以下、視点の変更に関係なく"魔王"(恭平)のボイスはありで。
京介,「勇者を守る、仲間になる!」
恭平,「京介えぇっ――!」
;```章タイトル
;第五章G線上の魔王と表示。
京介,「恭平兄さん……いや、"魔王"!」
一歩、詰め寄った。
京介,「宇佐美を離せ。お前の悪行もこれまでだ」
ぐっとおれを見上げた"魔王"。
瞳に、凄まじい憎悪を燃やしていた。
恭平,「これまで、だと?」
京介,「すでに園山組の方々に連絡はつけてある。お前は袋の鼠だ」
恭平,「なかなか手際がいいな。養父を殺されて、家でめそめそ泣いているかと思っていたぞ」
京介,「おれはもう昔のおれじゃない」
ハル,「きょうすけ、くん……」
宇佐美がおれの姿を認め、そのまま、ゆっくりと目を閉じていった。
恭平,「兄として、弟の成長を嬉しく思うぞ」
京介,「兄さんも、生きていてくれてなによりだ。爆弾で吹き飛ばされたんじゃなかったのか?」
恭平,「当時のロンドン市警の評判を聞いたことがあるか?事故現場にパスポートを残しておけば、あっさりと死んだことにしてくれたよ」
京介,「なぜ、そんなことを?」
恭平,「私はお前と違って、やることがあるのでな。死んだことにしたほうが日本警察の目もごまかしやすいし、なにより……」
京介,「なにより、浅井と名乗って触れ回ることで、おれに罪を着せるつもりだったんだろう?」
恭平,「正確にはアサイと名乗っていたのだがな。まあ、それでも、権三を含め、大勢の人間がお前を"魔王"だと勘違いしてくれた」
京介,「おかげで、動きやすかっただろうな。あんたが権三の車を爆破したときは、みんなしておれを疑っていたよ」
恭平,「なあに、車に爆弾など、北アイルランドではよくある話だ」
京介,「あんたはテロリストに与しているのか?」
恭平,「フフ……似たようなものかな……」
京介,「だから、ライフル銃に軍用爆弾なんて物騒なものを扱えたのか」
恭平,「あんなもの、中東では十歳の子供でも使える」
恭平兄さんがいなくなって、長い年月が流れていた。
昔から冷たそうではあったが、内面にほとばしる激情を潜ませていた。
恭平,「京介よ、お前はなぜ私に力を貸さない?」
京介,「…………」
恭平,「よく聞け。父はたったの四人、それも死んで当然の人間を殺して死刑になったのだぞ?この国ではなんの罪もない幼児を惨殺しておいて極刑に至らない人間もいるそうじゃないか?」
京介,「お前の目的は、父さんの釈放か?」
恭平,「いかにも。この十年、そのために準備を重ねてきたのだ」
京介,「準備だと……?」
おれは義憤のようなものを背筋に感じていた。
京介,「椿姫の弟を誘拐し、権三を殺し、時田を裏で操っていたのも準備だというのか!?」
しかし、"魔王"は笑みを取り下げなかった。
恭平,「浅井権三は死んで当然ではないか。母が心を壊したのは誰のせいだ?」
たしかに、それはおれも否定しきれない。
恭平,「椿姫はいい"坊や"だった。穢れを知らぬ娘は簡単に悪に染まる。もう少し時間があれば、時田と同じように仲間に加えてやったものを」
京介,「……子供を集めて、なにをするつもりだ?」
恭平,「それを今話すのは面白くないな」
あくまで傲岸。
昔から天才的な頭脳を持っていた恭平兄さんは、いまや才能を完全に悪い方向に開花させたようだ。
恭平,「京介、いまからでも遅くはない。私に従え。いっしょに父さんを救おうじゃないか」
京介,「断る!」
強く、自分に言い聞かせるように叫んだ。
京介,「おれがなぜ、お前に協力しないのか……」
宇佐美を見つめた。
幼き勇者。
孤独だったおれを救ってくれた。
たとえいっときとはいえ、春を感じさせてくれた。
京介,「"魔王"、お前は、おれの女を弄んだ」
遊びと称して、椿姫や時田との友情を引き裂いた。
あまつさえ、いままさに、手にかけようとしている。
京介,「もう一度言う。宇佐美を離せ。その少女がなにをした?」
恭平,「失望したぞ、京介よ……」
"魔王"はゆっくりと身を起こした。
恭平,「お前は父の面会に足を運んだのか?」
さすがに、痛いところをついてくる。
恭平,「父の無念を、なぜわかってやらない?」
京介,「…………」
恭平,「過去の闇を捨て、都合よく生きようなどとは、おこがましいにもほどがある」
そのとき、おれの背後から無数の足音があった。
坊っちゃん、京介さん、などと巻き舌でおれを呼ぶ声があった。
;背景地下神殿
;"魔王"の立ち絵を表示
恭平,「京介よ、この場はひいてやる」
おれを見下ろすように薄笑いを放つと、"魔王"は宇佐美を解放した。
宇佐美を人質にしても、組長の仇を討とうと躍起になっている園山組の連中には効果がないと判断したのか。
恭平,「だが、次に会うときは死を覚悟しておけ」
ぞっとするような怨嗟のこもった目の色だった。
恭平,「家族と人間のクズはいくらでも両立する。仇の娘に惚れた男など、もはや弟でもなんでもない」
覚えておけ――。
"魔王"は闇の彼方に走り去った。
追うことはできなかった。
用意周到な罠が待ち構えている可能性もあったし、なにより、意識を失った宇佐美をこのままにしてはおけなかった。
ハル,「っ……」
暗がりでもはっきりとわかるくらいに、血の気を失っていた。
京介,「宇佐美、おいっ!」
おれは宇佐美を抱きかかえ、軽く頬を打った。
ハル,「……っ……きょうすけ、くん……」
京介,「だいじょうぶか?」
まさに間一髪だった。
ハル,「来て……くれたんだ、ね……」
ハル,「やっぱり……京介くんは……」
ふらりと首を落とす。
再び意識を失ったようだ。
ハル,「わたしの、勇者……」
まるであの日、あのときの少女のようなあどけない顔だった。
そっと、手を握る。
冷え切った体に、そこだけ春の陽だまりのような熱を感じた。
;背景 主人公の部屋 夜
あれから宇佐美を背負って、地下トンネルを抜け、家まで連れ帰ってきた。
ハル,「ん……」
ベッドからうめき声が漏れた。
京介,「起きたか?」
突如、がばっと、布団を蹴飛ばしてきた。
;ジャージ姿
ハル,「こ、ここは……天国ですか?」
京介,「おれの家だ、馬鹿」
ハル,「なぜにわたしはこんなダサい服を着てるんですか?」
京介,「お前のジャージだから。わざわざお前の部屋まで行って取ってきたんだぞ」
ハル,「どうして、わたしのうちを?」
京介,「時田と白鳥に聞いた。家の鍵は勝手に拝借させてもらったぞ」
宇佐美の家はたしかに、このマンションのすぐ近くだった。
会社の倉庫らしき建物の二階を間借りしていたようだ。
ハル,「わたしの部屋に無断で入ったと?」
京介,「ああ、安心しろ。時田と白鳥も同伴だ」
ハル,「かわいいものがたくさんあって萌えたでしょ?」
京介,「気持ち悪いぬいぐるみばかりでひいたわ」
モヒカン頭のペンギンがずらりと並んでいた。
ハル,「ユキと水羽はどこに?」
京介,「二人とも帰ったよ。明日は……いや、もう今日か……普通に学園に行くらしい」
宇佐美の顔色が曇った。
ハル,「しかし、ユキは……」
京介,「ああ、警察に自首する前に、ノリコ先生にわびに行くらしいな」
時田の決意は固いようだった。
ハル,「でも、一人残される水羽はどうなります?」
京介,「その辺はおれにもわからんよ。まあ、あとで来るって言ってたから、話し合ってみろや」
ハル,「でも、こんな格好を人に見せたくないです」
京介,「おれ、おれ! もう見せてるから!」
まったく、心配して損をしたな……。
京介,「制服はクリーニングに出しておいたから。明日まで我慢するんだな」
ハル,「ひとまずお礼を言っておきます」
ちょこんと頭を下げる。
ハル,「ありがとうございました」
京介,「ああ……」
ハル,「ありがとうございました」
京介,「なんで二回も言うんだよ」
ハル,「浅井さんが来てくれなかったら、わたしはいまごろ極楽に旅立っていました」
京介,「ふん、高くつくぞ……」
ハル,「それでは」
と、玄関へ向かう。
京介,「お、おい待てよ、どこへ行く?」
ハル,「とくにあてはありませんが、ここにいてはいけないような気がしますので」
京介,「……なぜだ?」
ハル,「なぜって……」
目を伏せ、唇を噛む。
ハル,「わたしは、あなたのそばにいてはいけないのです」
京介,「親の因縁があるからか?」
さらっと言うと、宇佐美はしたたかにうなずいた。
ハル,「恨まれても仕方がありませんから」
京介,「そうだな……おれが鮫島利勝の息子だと知って、よくもひょうひょうと現れたもんだ」
ハル,「すみません、ひょっとして気づいていなんじゃないかと思って、ラッキーとか思ってました」
京介,「宇佐美とかいう名前にはピンと来てた。けれど、まったく考えないようにしていた」
その結果、幼いころの約束すら記憶の彼方に飛んでいた。
京介,「伸ばしすぎだから」
ハル,「え?」
京介,「髪だよ」
ハル,「…………」
宇佐美が息を詰まらせるのがわかった。
京介,「昔は、男の子かっていうくらい短かったのにな」
ハル,「お、覚えていたんですね……」
京介,「ああ、結婚の話もな」
ハル,「あっ……」
京介,「まったく、馬鹿馬鹿しい」
ハル,「ですよね……」
京介,「ああ……」
しばし、見つめ合う。
葛藤はあった。
記憶のなかの勇者への憧れと、現在の宇佐美への気持ち。
少女はおれを救ってくれたが、宇佐美ハルは仇の娘なのだ。
京介,「ま、ひとまず、ここにいろよ」
ハル,「いいんですか?」
なにやらうれしそうに声がうわずっていた。
おれも、なぜか高鳴る鼓動を感じていた。
京介,「おい、宇佐美」
ハル,「あ、はい」
京介,「シャワー浴びてこいよ」
ハル,「え、えっ!?」
京介,「なにテンション上げてんだよ。ずっと地下トンネルを駆けずり回ってたんだろ?」
ハル,「あ、そっすね。頭くせーっすね、自分」
わたわたと、脱衣所に消えていった。
かくいうおれも、服を脱ぐ宇佐美の布擦れの音を、妙に意識してしまった。
おれの、女……。
;場転
夜明けにはまだ遠い季節だった。
悶々としながら三十分ほど過ごすと、宇佐美がひょっこり風呂から出てきた。
髪も勝手に乾かしたようだ。
ハル,「コーヒー牛乳飲みたいんすけど」
京介,「…………」
ハル,「風呂上りですし、ぐいっと」
京介,「……黙れ」
どこまでもふざけたヤツだな。
京介,「変わったよな、お前」
ハル,「はあ……どの変が?」
京介,「いや、昔はもっと、なんつーのかな、突っ張ってたじゃねえか?」
ハル,「はあ……スカしてましたか?」
京介,「そのしゃべり方もな……ホントに、あのときの勇者かよ?」
ハル,「まあ、あなたももっと素直で明るい子でしたけどね」
お互い様か。
歳月は人の性格を変えるが、人の想いはどうなのだろうな。
京介,「で……お前は、その……なんだ……」
ハル,「ええ、あなたのことは、ずっと好きでしたよ」
京介,「いや、そんなふうにさらっと言うから、ギャグかと思っていたんだ」
ハル,「そすか。もうちょっとロマンチックな雰囲気で言えばよかったですね」
京介,「別に、どうでもいいんだが……」
どうにも居心地が悪い。
京介,「話題を変えよう」
ハル,「相撲の話でもしますか?」
京介,「うるさいわ」
ハル,「実は空手は心得ありなのです」
京介,「ほんとかよ?」
ハル,「黄帯ですが」
京介,「なん級だよ、それ」
ハル,「"魔王"と格闘になって、荒っぽいことにはまったく向いていないことが発覚しました」
京介,「髪がな……ケンカでつかまれたらアウトじゃねえか」
ハル,「しかし、浅井さんのお好みがどれほどのロングかわからないので、切ろうにも切れませんでした」
京介,「ほんと、馬鹿だな……」
しかし、妙に会話が弾む。
ハル,「あ、ひとつ、聞いていいですか?」
京介,「あ?」
ハル,「浅井さんには、いま、どれくらいのイロがいるんですかね?」
京介,「イロって……女はいねえよ」
ハル,「椿姫は?」
京介,「まさか」
ハル,「花音は?」
京介,「妹だぞ」
ハル,「水羽にユキ」
京介,「なわけねえだろ」
ハル,「よく電話で話しているミキちゃんという方は?」
京介,「あれは男だ。ゲイバーのマスターをしてるが、金次第でどんな情報も集めてくれる。ちなみに、おれのことはお気に入りらしい」
ハル,「そすか」
京介,「なんだよ、まさか嫉妬してたのか?」
ハル,「ええ。実は、ここぞというタイミングを見計らって浅井さんの家にお邪魔していたんです」
京介,「……マジかよ……そういや、思い当たる節もあるな」
ハル,「よく、数々の誘惑を振り切ってわたしを選んでくれましたね」
京介,「なに嘘泣きしてんだよ」
選んだ……?
選んだ、のか?
こみ上げる羞恥心に、思わず宇佐美から目を逸らした。
ハル,「で、浅井さん……」
京介,「なんだ、もじもじしやがって」
ハル,「じ、自分、シャワー浴びてきましたけど?」
京介,「……っ」
思わず、宇佐美の体を意識してしまった。
京介,「それは、つまり……」
ハル,「ええ……そういうの、苦手ですけど」
京介,「なんだよ、経験なしか?」
ハル,「え、い、いや、あれですよね、ラブホテルには交換日記みたいなのが置いてあるんですよね?」
童貞丸出しの発言じゃねえか……童貞じゃねえけど。
ハル,「……えっと……どうなんですか?」
京介,「まあ、次に会ったら、犯すだけじゃ済まさんと言ったからな」
ハル,「そ、そうでしたね……別に、いいですよ、京介くんになら、どんなマニアックなプレイされても……」
京介,「き、京介くんって……呼ぶなよ……」
ハル,「あ、じゃあ、かわりにハルって呼んでもらってもかまいませんよ?」
京介,「なにが、かわりに、だ……」
ハル,「残念です……」
京介,「ひとまず、風呂に入ってくる……」
ハル,「あ、じゃあ……ベッドでお待ち申し上げていればいいんですかね……」
おれは半ば呆れながら、脱衣所に向かった。
;背景 主人公の部屋 明かりなし
……。
…………。
;ハルの立ち絵はなし。
風呂から上がると、いつの間にか部屋の電気が消えていた。
京介,「おい、宇佐美……」
もぞもぞと、ベッドの布団が動く。
ハル,「ぐーぐー」
京介,「寝たふりすんなよ、なにびびってんだ」
かくいうおれも、水をぐいっとあおって気持ちを静めた。
京介,「座るぞ」
ハル,「……ひっ」
京介,「お前な、おれだって、驚いてるんだよ……まさか、お前みたいな女を抱くなんて……」
おれは宇佐美の体に覆いかぶさるように、ベッドに横になった。
ハル,「あ、あわわ……な、なにか」
京介,「なんだよ?」
ハル,「か、固いものがっ!」
京介,「ああ、そういうもんだ……」
なぜか、心が猛る。
この少女を、おれのものにしたいという衝動が抑えられない。
それは、仇の娘を征服したいという感情ではなく、もっと優しく、穏やかな、なにかだった。
宇佐美の手が、さらりと、おれのまたぐらに触れる。
ハル,「う、うおおおおおおおっ!」
京介,「うるせえんだよ!」
ハル,「びっくしたー! おお、びっくしたー!」
京介,「おいこら、逃げるな!」
ハル,「こ、こここ、これを、むしゃぶれと、あなたは言うのですか!」
京介,「誰もそんなこと言ってねえだろうが!」
ハル,「し、しかし、わたしは知っている! そ、そのたけりを鎮めるのがわたしの使命!」
……完全に錯乱しているようだ。
ハル,「悪霊退散、悪霊退散、しきそくぜーくぅー、しきそくぜーくぅー!」
;黒画面
京介,「どわっ!」
不意に、飛び掛ってきやがった。
(这图被咱和谐了,请原谅)
ハル,「いただきまーす!」
京介,「ちょっ、いでえっ!」
敏感な部分に前歯が激突した。
ハル,「ぎゃー、びくって脈うったー!」
京介,「あだだっ!」
ハル,「どうして、どうしてそんなことするんですか!」
京介,「こっちが聞きたいわ!」
;以下Hシーン。 ev_haru_h_01a→ev_haru_h_01b→ev_haru_h_02a→ev_haru_h_02bの流れ。
;愛撫のCGがないので、流れで足してください。
;=======================这里不移植,有爱人士请自行动手========================================
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公の部屋 夜
ことが終わり、しばし、宇佐美と抱き合うようにして身を横たえていた。
やがて、宇佐美がもそりと起き上がり、いそいそと服を着始めた。
ハル,「しかし、よく、覚えていてくれましたね」
にっこりと笑う。
京介,「ん、なにが?」
ハル,「十年も昔の話です。屋上で誓い合った、二人で宇宙を手に入れるっていう……」
京介,「そんな約束はしてません」
京介,「昨日、山王物産の屋上に行ってな。そこで、岩井っていう人に会ったんだ」
ハル,「ああ、裕也さん……」
京介,「知り合いらしいな」
岩井裕也。
山王物産に勤める若手社員だ。
京介,「お前、その人の家族に世話になってるんだろ?」
父親は、宇佐美義則の部下だった。
ハル,「はい。こっちに引っ越してきたとき、住む場所を紹介してもらいました。もう返しましたが、少しだけお金も借りたことがあります」
京介,「岩井の父親は、宇佐美の親父のことを尊敬していたみたいだな」
ハル,「……仕事場では、信頼の篤い人だったみたいなので」
気まずそうにうつむいた。
京介,「それで、いきなり声をかけられたんだよ。昔、ここで宇佐美って子と会いませんでしたかって」
京介,「岩井も、当時は親父に会いに山王物産に遊びに来てたらしいんだ。それで、何度か、おれたちを見かけたらしい」
ハル,「聞いてます。声をかけられて、無視したこともありましたから」
京介,「なかなか誠実そうな男だったぞ」
ハル,「ええ、裕也さんはいい人です。わたしに同情してくれています」
……なぜか、下の名前を呼んでいることが、気に触った。
京介,「まあ、そいつといろいろ話しているうちに、思い出したわけだよ」
ハル,「浅井さん、あなた、心因性健忘症にかかっているというのは本当ですか?」
京介,「心因性……なんだって?」
ハル,「いきなり記憶が飛んだりするような病気だそうです」
京介,「たしかに、物忘れはひどいが……」
おれは笑うしかなかった。
ハル,「よく頭痛がひどいと……」
……秋元がそういう診断を下したのだろうか。
京介,「どうだろうな……医者ってのはなんでもご大層な病名をつけたがるもんだろ……」
ハル,「とにかく、一度よく診てもらってください」
京介,「まあ、暇があったらな。これから、権三の葬儀やらなんやらで忙しくなりそうだから」
ハル,「やはり、お亡くなりになったんですね」
おれもいまだに実感がない。
まだ権三は生きていて、いまにも呼び出しの連絡でも来そうだった。
ハル,「少し、疑問があるのですが……」
京介,「うん?」
ハル,「あなたが病気にかかっているという話は、権三さんから聞いたんです」
京介,「会ったのか?」
ハル,「つい昨日の晩に、屋敷を訪ねました。ユキを許していただけるようお願いに上がったんです」
京介,「おいおい、権三がそんな頼みを聞くわけないだろう」
ハル,「しかし、すでに、権三さんの興味は、ユキにはありませんでした。そこで、電話がかかってきたんです」
京介,「あ、ちょっと待てよ、それって……」
ハル,「あの電話は、あなたからだったんですね?」
おれは昨晩の出来事を思い返す。
京介,「山王物産をあとにしたおれに、いきなりある電話がかかってきたんだ」
京介,「おれは仰天した。そいつは死んだはずの兄貴だったからだ。"魔王"は、話があるから、港まで来いと誘ってきたんだ」
京介,「気が動転していたおれは、ひとまず権三に報告した。おれは"魔王"じゃないってことを伝えたんだが……」
いま思えば、それこそが"魔王"の罠だったのだ。
つまり、"魔王"は、おれを餌に権三を港までおびき出した。
おれはもちろん、権三も殺すつもりだったのだろう。
ハル,「港では、どんな出来事が?」
京介,「権三は、精鋭を引き連れて"魔王"を待ち構えていた。さすがに罠だと気づいていたらしい」
ハル,「しかし、撃たれてしまった……」
京介,「ああ、おれが、タクシーで乗り入れたとき、不意に車から出てきてな……」
ハル,「…………」
京介,「……え?」
宇佐美の顔が険しくなった。
ハル,「遠くからライフルで狙撃されたと聞きましたが」
京介,「あ、ああ……」
ハル,「権三さんは、浅井さんが現着するまで、車の中に身を隠していたんですか?」
京介,「だと思うが……権三の車の窓はスモークがかかってるからな、狙い撃ちされることはない」
ハル,「では、なぜ……飛び出してきたんですかね?」
京介,「わからんが……」
ハル,「わからない?」
責めるような、それでいて悲しそうな複雑な顔になった。
ハル,「そうですか」
京介,「なんだよ?」
ハル,「いいえ。きっと、自ら身をさらけ出すことで、"魔王"の位置を探ろうとしたんでしょう」
京介,「なるほどな。たしかに、その後の部下の人たちの動きは凄まじく早かった。さすがは、親分だな……勇敢というか、無謀というか……」
ハル,「…………」
じっと、見つめてくる。
京介,「なんだよ……よせよ……」
指先がにわかに震えてきた。
……まさか、そんなはずはない……。
京介,「たしかに、おれは、"魔王"がライフルで狙っていることも知らずにのこのこと現れたよ……でも……」
――京介よ、のこのこと現れれば死ぬぞ。
そのひと言が、鼓膜から全身の神経にいきわたり、愕然とした。
京介,「ば、馬鹿な……ありえんよ……」
権三の最後は、いまも目に浮かぶ。
京介,「お、お養父さん!」
怪物は、地面に倒れた。
瞳に修羅を宿し、ぐいとおれを見据えていた。
浅井権三,「寄るな」
駆け寄ろうとしたおれの膝が、小刻みに震える。
京介,「す、すぐ、救急車を……!」
浅井権三,「黙れ」
手負いの獣の威圧感に、おれの体は凍りついた。
浅井権三,「……京介、よ……惜しかったな」
泡を含んだ血液が、口からこぼれ出た。
浅井権三,「……俺がもう少し早く死ねば……お前も親元に帰れただろうに」
京介,「……死ぬなんて、そんな……」
信じられなかった。
おれの人生の前に、山のように聳え立っていた男が死ぬなど、想像もできない。
浅井権三,「"魔王"を、追え……子分どもには、そう言い聞かせてある」
たしかに、組長が死にかけているというのに、誰も看取りに来ない。
仁と義のはびこるヤクザ社会において、ありえない事態だった。
京介,「こ、これが、あなたの作った組織だというのですか?」
浅井権三,「……"魔王"を捕まえれば……金ははずむと言ってある」
どこか愉しそうに言った。
金と権力になびかぬものなどいない。
死の間際にあって、浅井権三は自分の生き方が間違っていなかったのだと、満足しているのかもしれなかった。
浅井権三,「五千出す。さあ、お前も行け」
京介,「し、しかし……!」
浅井権三,「二億の借金を忘れたわけではあるまいな」
これから、死ぬというのに、なにが二億の借金か。
けれど、浅井権三の目は、地獄の底からでも回収に来るぞ、と雄弁に語っていた。
浅井権三,「失せろ、京介」
;背景 主人公の部屋 夜 あかりなし
京介,「そんな……そんなはずがない……」
拳を握り締め、否定した。
京介,「宇佐美、お前は権三を知らないから、そんなおとぎ話みたいな想像ができるんだ」
ハル,「…………」
京介,「いいか、ヤツはな、初対面の人間を殴った席で、流血を見ながら酒をあおれるような男なんだぞ?」
ハル,「…………」
京介,「その席でな、花音をてなずけるために、犯しておけなどと本気で言いやがったんだぞ?」
ハル,「…………」
京介,「椿姫の弟が誘拐されたときも、おれを殴りつけてだな……」
ハル,「…………」
京介,「花音のことも、いい金稼ぎの道具としか見ていなかったし……」
ハル,「…………」
京介,「そ、そうだ、ヤツは、母さんを、おれの母さんに鬼のような仕打ちをしたんだぞ!?」
ハル,「…………」
京介,「あの浅井権三がっ、あの神をも恐れぬ冷血漢がっ!」
;背景 港 夜
あの夜、タクシーから不用意に降りたおれ。
突如、浅井権三が、猛然と迫ってきた。
驚いたおれは、とっさに身を伏せていた。
浅井権三,「京介えええっ――――!!!」
;画面白滅
;背景 主人公の部屋 夜
京介,「赦されるのか!?」
ありえない!
そんな生き様が、いや、死に様が赦されるはずがない。
京介,「そんな妄想は、浅井権三に対する冒涜だ!」
否定しなければ、気が狂ってしまいそうだった。
権三に従った数年間。
一度足りとて、優しさなど見せなかった。
来る日も来る日も、金、金、金だ……。
金を生み出さぬ家畜は、殴られるだけ。
暗黒の哲学をおれに叩き込んでくれた養父を置いて、おれは走り去ったのだ。
京介,「わかりました、五千ですね」
五千ですね――。
最後の言葉が、それだった。
最後まで、金の話だった。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公の部屋 夜
ハル,「さん……浅井、さん」
おれを呼んでいる。
ハル,「泣かないでください……」
おれは床に跪き、両手を合わせていた。
京介,「なあ、頼む……っ!」
手を合わせた先に、地獄の底で笑う権三がいた。
京介,「穢れなき少年の瞳を、おれにくれっ!」
ハル,「…………」
京介,「怖いお父さんが、最後の最後で息子をかばってくれたのだと、おれに信じさせてくれ!」
ハル,「…………」
京介,「頼む……!」
権三よ、本当のところはどうなんだ!?
お前は、ただ"魔王"と決着をつけるべく、車から飛び出てきたのか?
それとも、それとも、まさかっ……!
脳天まで響く、獣のような叫び声。
ぐおお、ぐおお、と泣き叫ぶおれは、さながら腹をすかせた動物の赤ん坊だった。
しかし、父親は狩から帰ってこない。
いくら待っても、帰ってこない――。
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋昼
いつの間にか眠っていたようだ。
頭に柔らかい感触。
ハル,「おはようございます。もう、朝ですよ」
おれは、宇佐美の懐に抱きつくように寝ていたらしい。
異様に喉が渇いていた。
時刻はすでに朝の八時を回っていた。
京介,「まずい!」
ハル,「どうされました?学園に行かれるんですか?」
京介,「権三の葬儀の段取りをしなければならん。総和連合の大親分が出張ってくるらしいから、さすがに顔を出さなくては」
これから園山組はどうなるんだろうな。
堀部あたりが、五代目に就任するんだろうか。
それとも、別の組から組長代理を立てるのか。
ハル,「わかりました。もう行かれるんですか?」
京介,「ああ、夜には一度帰ってくる。それまでゆっくりしてろ」
ハル,「残念です。わたしの手料理をご馳走しようと思っていましたのに」
……なんかグロそうだな。
京介,「じゃあなっ」
ハル,「あ、お見送りに」
玄関から飛び出すと、宇佐美も続いてきた。
;背景マンション入り口昼
京介,「……っと」
時田と白鳥。
エレベーターを降りてエントランスを抜けると、ばったり出くわした。
ユキ,「おはよう、京介くん。ハルはどうだった?」
冬の青空に負けないぐらいの笑みを浮かべていた。
京介,「どうだったって……」
ユキ,「食べたんでしょ?」
水羽,「姉さん、朝だよ?」
ハル,「そうだ、場所をわきまえろ。ひとの家の前だぞ?」
ユキ,「あら、ハル。いたのね」
前髪をなで上げる時田の仕草には、どこか物憂げな影があった。
ユキ,「お養父さん、亡くなられたわね」
京介,「ああ、おかげでお前らも、お天道様のもとを歩けるぞ。これから園山組は跡目争いで大忙しだ。お前らなんかに用はない」
水羽,「お母さんも……」
京介,「ああ、死んだよ。宇佐美から聞いたんだな。ちなみに同情や慰めはけっこうだ」
ユキ,「そうね、それはハルの役割だもんね」
やはり、どこか暗い。
京介,「時田は、明日から留置所暮らしか?」
ユキ,「フフ……ご挨拶ね」
京介,「まあ、好きにしろよ。おれの知ったことじゃない」
ユキ,「ええ、好きにさせてもらうわ」
京介,「まあ、わかってるだろうが、お前がパクられたところで、誰も得しないぞ?」
ユキ,「…………」
……なんだよ、なにか言い返してこいよ。
京介,「よく考えろよ、時田」
京介,「まず一番の被害者の白鳥理事長でさえ、お前に逆恨みこそすれ、ことが公になるのを望んでいない。お前が自首したら、学園の占拠事件まで報道されるからな」
京介,「白鳥にしろ宇佐美にしろ、お前のことが好きみたいだ。つまり、この事件に関わった人間はお前を訴えるつもりがないんだ。警察も暇じゃねえんだ。出頭したところで、けっきょく不起訴になるかもしれんぞ?」
ユキ,「ノリコ先生と橋本くんは違うわ」
京介,「ああ、そうだったな。ノリコ先生はただ巻き込まれただけだし、橋本はお前の従犯だ。その二人については、知らん」
宇佐美が口をはさんできた。
ハル,「ユキ、考えを変える気はないのか?」
水羽,「姉さん、思い直して。ノリコ先生には、いっしょに謝ろう?きっと許してくれるわよ」
時田は苦い顔で、首を振った。
ユキ,「……京介くんが言っているようなことは、ずっと考えていたわよ」
京介,「へえ……」
おれはなんとなく頭にきていた。
京介,「宇佐美は唯一の親友を失い、白鳥はまたひとりぼっち」
ユキ,「…………」
京介,「お前の父親の刑事もせっかく栄転したってのに、また田舎暮らし」
ユキ,「…………」
京介,「お前が自首して得るものは、ただの自己満足だけじゃねえか。立派な正義感だな」
いつもは雄弁な時田が、黙っておれの話に耳を傾けていた。
京介,「お前は罪を犯した。そりゃ、教科書には時田自首しろって書いてあるよ。しかし、獄中で罪を償った気になる前に、まず金を払え」
ユキ,「……お金?」
さすがの時田も胸をつかれたようだ。
京介,「お前のせいで、園山組の若い衆がてめえのシノギ放り出して駆けつけたんだ。その人件費と、あの倉庫の一晩の電気代、慰謝料なんかも含めると……百や二百じゃきかねえな」
ユキ,「……は」
時田の顔がひきつる。
京介,「とにかく払うもの払ってからにしろ。その前に警察に逃げこんだりしたら、てめえの家族から回収させてもらうからな」
ちらりと、時田にわかるように、白鳥をにらみつけた。
ユキ,「冗談でしょう?」
京介,「冗談かどうか知りたければ、いますぐ警察に駆け込んでみろ。ちょうどおふくろも死んでな。おれも気が立ってるんだ」
ユキ,「……っ」
うめきを漏らし、じっとおれの全身を観察してきた。
得意の心理学みたいなもので、おれの真意を探っているのだろう。
京介,「とりあえず、時田には"魔王"について聞きたいことがある。逃げるなよ」
無駄話している時間の余裕はなかった。
三人を残して、権三の邸宅に向かった。
;背景権三宅概観昼
屋敷の周りに整列する、黒服という黒服。
おれは挨拶とガンの応酬にもまれにもまれ、ようやく門をくぐることができた。
そこで、葬儀の段取りを聞いた。
通夜は明日、告別式はあさって。
権三の遺体は、総和連合の幹部が亡くなったときによく使われる式場に運ばれていた。
おれは、関係者への連絡や、お返しものや料理の手配、供花の注文など……要するに雑用に追われることになった。
総和連合の最高幹部の方々と話をして、正直、緊張に胃がおかしくなりそうだった。
権三の死を表立って嘆く者は一人もいなかった。
同時に、彼らは、皆一様にどこかほっとしたような顔をしていた。
いかに浅井権三が、周りから疎まれ、そして畏怖されていたかがわかる。
さらに、そこかしこで飛び交う、"魔王"という言葉。
彼らには、"魔王"の正体が、おれの兄鮫島恭平だということは知れ渡っているようだった。
葬儀が一段落したら、おれへの詰問が待っていることだろう。
……"魔王"。
おれはただ、黙々と、体を動かしていた。
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜
;ハルジャージ姿
ハル,「お帰りなさいませ」
部屋に戻ると、当然のように宇佐美が居座っていた。
ハル,「ご飯になさいますか、お風呂になさいますか?」
京介,「新婚ぶるなよ」
ハル,「一度言ってみたかったものでして」
京介,「……って、なんか焦げ臭いな」
ハル,「はい。イベリコ豚のソテーを作ろうと思って失敗いたしました」
京介,「うんうん、火事にならなくて良かったですね」
もはや、ツッコむのもめんどくさかった。
ハル,「意外とお早いお帰りでしたね」
京介,「ああ、また九時くらいになったら出るぞ」
ハル,「ちょっとの合間も、わたしに会いに来てくださったんですね?」
京介,「……違うから」
まったく、なんでこんな女が気になるんだろうな、おれは……。
京介,「おい、時田は何か言ってたか?」
ハル,「いえ……」
京介,「ふうん……」
明日にでも、呼び出すとしよう。
ハル,「ひとまず魚焼いてますんで。浅井さんはゆっくりしててください」
京介,「おう……」
とはいえ、やることはたくさんある。
権三が亡くなったいま、浅井興業も店じまいだ。
……久しぶりに音楽でも聞くかな。
おれはCDラックを漁る。
悪魔的な曲がいい。
クラシックの分野で悪魔的といえば、早引きによる超絶的な技巧を指すことが多い。
しかし、ここは、モーツァルトかな……悪魔が書かせたものらしいし……。
……ん。
京介,「おい、宇佐美……」
一枚のCDを手に取り、思わず呼びつけてしまった。
ハル,「お呼びでしょうか?」
京介,「こ、これなんだが……」
それは、おれのお気に入りの奏者のデビューアルバムだった。
弱冠十三歳の天才ヴァイオリニスト。
京介,「ミシマ、ハルナ……」
ハル,「嫌なものを持ち出してきましたね」
京介,「え?」
宇佐美を見つめる。
どことなく、面影がある。
ハル,「十三歳でこんな氷の上にいなくてもいいすよね」
京介,「マジで?」
ハル,「マジです」
京介,「ミシマ……三島って」
ハル,「はい」
京介,「いや、待て。この子はだな、あの三島薫さんの娘なわけだが?」
ハル,「ええ、わたしの母です」
京介,「は?」
ハル,「いや、ホント、僭越です。そのCDはいま現在、日本では売られてないはずなんですが」
京介,「ちょ、ちょっと待て。本気か?」
ハル,「これが恐ろしいことに、真実なんですよね」
京介,「いや、三島春菜はだな……お、おれの好きなアーティストなわけで……」
ハル,「ロリコンすね、浅井さん」
京介,「春菜ってなんだよ、芸名か?」
ハル,「ですね。母が、本名はやめておけと」
京介,「なんでまた」
ハル,「ですからその……言いにくいんですが、わたしはいちおう殺された被害者の娘でして……このCDを発表した当初は、まだ幼女だったわけですし」
京介,「幼女ってわけじゃねえだろうけど……」
ハル,「いえ、レコーディングのときは、12だったんです。まだまだストライクゾーンです」
京介,「む……なんでもいいが……いや、芸名なんて珍しいから、ついな……」
いまのいままで、宇佐美ハルが三島春菜だとは気づかなかった。
京介,「で、あの……」
ハル,「はい」
京介,「次のアルバムはいつごろになるんですか?」
ハル,「気持ちわるいっすね、なんか」
こいつに気持ち悪いとか言われるとなんか無性に傷つくな。
ハル,「もう出ませんよ。レコード会社との契約もとっくに切れてますし」
京介,「そうか……活動休止といいつつ、実質引退してたのか」
ハル,「ホント、ガキがなめんなって感じですよね。親の七光りで、半ば強引にCDデビューしたようなもんなんです」
京介,「たしかに、お前の母親の薫さんはよ、チャイコフスキーで1位取ってから、ベルリンとかバーミンガムとかフィラデルフィアだのの楽団を飛び回って公演してたすごい人だったよ」
ハル,「ええ、ですから、母がすごいんですよ」
京介,「だから、レコーディング方面でお前が目ぇつけられるのもわかるよ。まあ、ぶっちゃけ容姿もいいって評判だったからな」
ハル,「あ、いまのところもう一度」
京介,「え?」
ハル,「まあ、ぶっちゃけ……なんです?」
京介,「まあ、ぶっちゃけこんな気持ち悪い女だったとは思わなかった」
ハル,「そすか……」
しょんぼりしていた。
京介,「いや、でも三島春菜さんはよー……あ、いや、お前か。お前は、ほら、ドイツの学生コンクールで優勝してるじゃないか」
ハル,「よくご存知ですね。これだから浅井さんは恐ろしい」
深いため息が返ってきた。
京介,「だから、それなりに実力も買われてたってことだろ。こうして目の前にファンもいたわけだし」
ハル,「正直、あなたすごいマニアですよ。いま自分なんて誰も知らないすから」
;背景主人公の部屋夜
京介,「じゃあ、とりあえず弾いてみてくれよ。飯とかいいから」
ハル,「いやですよ」
京介,「おれがこうして頭を下げてるのに?」
ハル,「……勘弁してもらえませんかね」
京介,「お前、おれがどれだけ生演奏から遠ざかってるか知ってるか?」
ハル,「水羽とデートで行ってたじゃないですか?」
京介,「ソロが聞きたいんだよ、ソロが」
ハル,「……いや、ほんとに……すいませんけど……」
……どうやら、本当に嫌みたいだな。
下手なものは弾けないというプライドでもあるのか。
京介,「お前って、だからうちの学園に来たんだな」
ハル,「ああ、はい。いちおう編入のときに芸能活動歴ありみたいな話は通してました」
京介,「するとちょっとは出席日数が甘くなったりするんだったか?」
ハル,「ですね。奨学金借りてますけど」
京介,「ふうん……」
ハル,「なんすか?」
京介,「いや、ようやく、お前のことがわかりかけてきたな」
やっと人間らしく見えてきたというか。
京介,「じゃあ、ひとっぷろ浴びて出るわ」
ハル,「あ、そすか……自分の制服は?」
京介,「ああ、忘れてた。クリーニングに出してた」
ハル,「じゃあ、取りに行ってきます。少し、街の様子も探ってみたいですし」
京介,「街の様子?」
ハル,「ええ、"魔王"の動きが気になりまして」
それは、おれもだ。
いまが、束の間の安息の時間であることは、知っている。
ここ一週間で様々なことが起きすぎている。
母の死、権三の死、兄の暗躍……。
そして、宇佐美ハルという、幼い勇者との再会。
だから、少しだけ……そう、少しくらい気持ちを整理させて欲しかった。
;以下、ハルの好感度が2以上で表示。
;-------------------------------------此处变量设置--------------------------------------------------------------------
ハル,「あ、浅井さん、浅井さん」
京介,「すまんが、夕飯は帰ってきてからにしてくれ。極悪フェイスに囲まれっぱなしで緊張しまくりでよ、胃が縮こまってるんだ」
ハル,「いえ、お風呂なんですがね」
京介,「うん?先に入りたいのか?」
ハル,「い、いえ……そうではなくて……」
京介,「なにあせってんだ?」
ハル,「わたしから言わせる気ですか?」
京介,「さっぱりわからんが、背中でも流してくれるのか?」
ハル,「ビンゴです」
指を鳴らした。
ハル,「意外とつくすんですよ、自分」
京介,「てめえで言うな」
;黒画面
……。
…………。
浴室にて。
京介,「つーか、髪整えてこいよ。やたらぺちゃぺちゃしててうざったいぞ」
ハル,「は、はあ……」
ごしごしと、スポンジをこする。
京介,「お、そのへんそのへん……あー、人に洗ってもらうと違うなー」
ハル,「ど、どうも……」
おれの背後で、しどろもどろになっている宇佐美。
たまに熱っぽい吐息がかかる。
京介,「お前も、洗ってやろうか?」
ハル,「え、自分裸ですけど」
京介,「知ってるよ。さっきから胸が当たってるからな」
ハル,「こ、これは失礼しました……」
;================================================================================本人无力=======================================
;以下Hシーン
;ev_haru_h_05→ev_haru_h_06の流れで。
;====================================================有爱人士自行移植==================================================
;黒画面
;上記分岐もここで合流。
…………。
……。
;背景繁華街1夜
;ノベル形式
宇佐美ハルは単身、街に出ていた。
気温はかなり低い。京介に上着でも貸してもらえばよかったと思いながら、当てもなくうろついていた。
――妙だ。
若者の数が、目について少ない。コンビニの前でわけもなく座り込んでいる男たちや、ライブハウスのそばでたむろしている女の子の姿もない。待ち合わせスポットらしき街灯の下にも、人の影はまばらだった。路上に徘徊しているのは、キャッチと思しき青年ばかり。彼らも、獲物の少なさに退屈そうにしていた。
ハルは、電柱にもたれかかって携帯をいじっていた男に声をかけてみた。
ハル,「いま、なんか街でやってるんですか?」
男は、ハルを値踏みするような目で上から下まで眺め、やがて興味を失ったように首を振った。ジャージ姿がまずかったのか……。
どうやら、今日の深夜に、とある大きなイベントが行われるらしかった。しかし、どこでやっているのかは知らないらしい。男も不気味だと言っていた。
暴力団が覇権をしのぎあっているだけあって、ここセントラル街の治安はあまりよくない。街のど真ん中に交番があるのも、いかに少年犯罪が多いかを物語っていた。
大通りを渡ったそのとき、見知った顔が路地裏から現れた。
――ル○ン……じゃなくて、橋本さん。
橋本は、フードにジーパンというスタイルで、似たような風体の男の子を二人連れていた。
学園立て篭もり事件はいまだ表ざたにはなっていない。しかし、橋本は、以来、学園には来なくなったのだという。自宅にも帰らずに、いったいなにをしているのか。ハルは橋本のあとを追った。
;背景オフィス街夜
橋本の後ろを歩くこと数十分。
いつの間にか、毒々しく輝くネオンの光が減っていた。もう少し歩けば、オフィス街に出る。企業の高層ビルが乱立しているだけで、若者に用はないはずだった。
尾行を気取られる気配はまったくなかった。橋本はなにやら余裕そうに、連れの二人に話しかけていた。
やがて、一行は、ひときわ豪壮な山王物産のビルにまでたどり着いた。
ビルのエントランスの前に、数台の高級車が停車していた。後部座席から男が二人出てきた。いかにも紳士然とした初老の男と、外国人らしき肌の白い男。鍛え上げられた筋肉がダークグレイのスーツを押し上げていた。胸の辺りに、拳銃を所持していると思しきふくらみが見えた。
驚いたことに、なんら接点もなさそうな橋本が、彼らにうやうやしく挨拶をし始めた。
表情や声までは判然としない。わかるのは、彼らが仲間であるということだった。老人がなにやら親しげな仕草で橋本に手をふった。小指が欠けていた。
橋本たちは、後ろについていた車に乗り込んだ。老人たちも再び車内に戻った。外国人風の男は、あたりを探るように首を振ってから、後部座席に身を乗り入れた。
ただ、漠然とした不安だけが募った。いったい、何が起きようとしているのか。
車のあとを追うこともできず、ハルは踵を返した。
;黒画面
京介のマンションに戻る前に、一度自分の部屋に足を運んだ。
そして、なにを血迷ったのか、ヴァイオリンケースを手につかんだ。
;背景主人公の部屋夜
;ハル制服
京介,「それは、ひょっとしたら、新鋭会の内藤組長かもしれないな……」
帰宅すると、宇佐美から街の様子を聞いた。
ハル,「マジすか……こんな顔だったんですが」
電話台のメモ用紙を勝手に使い、さらさらと似顔絵を描きだした。
京介,「……うん、多分そうだ」
内藤組長は、権三の死をもっとも歓迎している人物の一人だろう。
病気と称して、今日昨日の総和連合の会合には顔を出していない。
ハル,「もう一人の外人さんはこんな感じでした……」
また、すごい速さで絵を描く。
京介,「いや、さすがに知らんな……」
ハル,「なにか、妖気を感じませんか?」
京介,「まあ、臭うな。明日はおれも同行しよう。今度は車も出す。もし、今夜みたいなことになったら、あとをつけてみようじゃないか」
宇佐美はうなずいて、テレビをつけた。
ハル,「……権三さんが亡くなられた件について、警察はどう動いているんですかね?」
京介,「ニュースでは、よくある暴力団の抗争の一環ということになっている。でも、実際は"魔王"という犯罪者について、ひそかに警察も調べを進めているらしい」
権三が、そんなことを言っていたな。
ハル,「わたしたちも、警察に知っていることを話したほうがよさそうですね……」
京介,「いや、もう、"魔王"がおれの兄の鮫島恭平であるという話は、総和連合に広まっている。警察もその辺を調べあげただろうさ。そのうち、おれのところにも刑事が来るだろう」
ハル,「"魔王"はこれまで、異常なまでに警察の介入を恐れていましたね」
京介,「ああ、しかし、今度は違う」
おれは、一息おいて、宇佐美を見据えた。
京介,「そこで、一つ、聞きたいんだがな」
ハル,「わたしが、なぜ、"魔王"を追っているか、ですね」
京介,「ようやく事情を聞けるわけだな……」
大方の予想はついていた。
ハル,「浅井さんほどのマニアであれば、わたしの母がどうして亡くなったかはご存知ですね?」
京介,「ああ……モスクワの劇場だったか?たしか、爆弾テロにあって……」
ハル,「テロの目的はコンサートに招かれていた中東の国の大使だったそうですが、母も巻き添えになりました」
京介,「そのときに、お前は"魔王"を知ったのか?」
ハル,「ええ……お前は宇佐美の娘か、と聞かれました。まあ、話すと長くなりますんで……」
京介,「……ふうん……」
まあ、おいおい聞き出すとしよう。
京介,「ところで、それはなんだ?」
ソファの後ろに置いてあった、ヴァイオリンケースを指差す。
ハル,「なんすかね」
京介,「思いなおして弾いてくれることにしたんだな」
ハル,「……どうすかね」
京介,「なんだよ、突っ張るなよ」
ちょっとだけ昔の宇佐美を思い出した。
おれはソファに寝そべって、宇佐美にあごを向けた。
京介,「三島さんにインタビューしたいんですが」
ハル,「なにニタニタしてんすか」
京介,「ドイツで生まれたそうですが?」
ハル,「まあ」
京介,「あれだろ、ドイツの科学力は世界一なんだろ」
ハル,「浅井さんのドイツはそんなですか」
ハル,「……って」
ハル,「なんで自分がツッコミに回らなくてはならないんですか」
京介,「気持ち悪いだろう。いつもと立場が逆だからな。嫌ならちゃんと答えろ」
ハル,「……わかりましたよ」
京介,「やっぱり、チョコレートとか好きな子供だったのか?」
ハル,「え?」
京介,「いやほら、いまでこそ日本でもいろんなチョコがあるけどよ、本場はヨーロッパだろ」
ハル,「まあ、店の前でジタバタしてた記憶はありますね。『買ってくれないと動かないー』みたいな」
京介,「ふうん……わりと普通の子供だったんだな。フラメンコとか見に行ったのか?」
ハル,「それ、スペインすけどね。まあ、旅行で一度見に行きましたね。舞台上で女の人が真っ赤なドレス着て踊ってるんですよ。自分、二歳くらいだったと思うんですが、いまでもなんとなく覚えてます」
京介,「ちなみにお前、踊れたりするの?」
ハル,「いえ、ぜんぜん、自分は子供のころから凄まじいインドアっぷりでしたから」
京介,「じゃあ、おままごととかで遊んでたんだ?」
ハル,「やってましたね。人形とか買ってもらってました。向こうの人形はやたらリアルでしてね。顔立ちとかちょっと怖いんすよ」
京介,「父親からたまに、日本で売ってるような人形とか送ってもらわなかったのか?ほら、あの、流行ってたじゃん。カリちゃん人形だっけ」
我ながらひどい。
ハル,「ああ、ありましたね。でも、あれはドイツの友達に貸したっきりですね」
京介,「借りパクされた?」
ハル,「いや、なんていうんですかね。そういう感じなんですよ、向こうは。貸してあげるって言っても、一度持ったら自分のもの、みたいなところがあって」
京介,「ああ、聞いたことあるな。海外の人って悪気なしに、ペンとか紙とか持ってくらしいな」
ハル,「ちなみに自分がちょっと図々しいのもそこからきています」
京介,「嘘をつけ」
ハル,「でもまあ、日本に戻ってきたときは、正直きつかったですね」
京介,「習慣が違うからか?」
ハル,「まず、給食っすかね。なんでみんなと同じもん食うんだよ、とか思ってましたね」
京介,「へえ、口に合わなかったわけではなく?」
ハル,「いやドイツでも和食だったんすけどね。なんでしょう、こっちって、余ったものわけあったりするじゃないですか。気ぃ使うじゃないですか、なんか」
京介,「いや、そこがいいところなんだよ」
ハル,「そうなんでしょうけど、余ったプリンとか、自分が全部いただいたことがあるんですよ、そしたらなんか、みんなの視線が冷たくなって」
京介,「まあ、そういう空気はあるよな」
ハル,「向こうは、その、自分は自分、みたいな感じでしてね。すごいのになると、昼食にキャベツとか持ってくる子とかいまして。でも、ぜんぜん浮いてないんです。キャベツでOKなんです」
京介,「なんか嘘くせえけど、まあいい。どんなところに住んでたんだ?」
ハル,「ケルンにいたときは、大自然に囲まれてましたね。近くに牧場がありました。といっても、田舎という感じでもなく、とにかく広かったです」
京介,「お前って、いちおう富万別市でも暮らしてたんだよな?」
ハル,「そうですけど、いまと昔じゃ大違いですよ。十年前はセントラル街なんてなかったじゃないですか」
京介,「だから、街の地理に不慣れなんだな。たしかに、すごい勢いでビルとか建っていったからな。そのへん、向こうはゆったりとしてるんだろ?」
ハル,「人も時間ものんびりです。日本みたいに小さな個人商店が大きなスーパーにかわってるようなこともないです」
京介,「向こうは家の天井も高いらしいな。ヴァイオリンの音もさぞ響いたんじゃねえか?」
ハル,「ですね、日本で暮らしてたときは、とにかく音がぶわーっとこもる感じで、慣れるまで時間がかかりましたね」
ようやくヴァイオリンの話にこぎつけた。
京介,「ヴァイオリンを選んだのは、やっぱり、母親の影響か?」
ハル,「でしょうかね。母のコンサートとか見て、キレイだなって思ってました」
京介,「しかし、よりにもよってヴァイオリンか……」
ハル,「ええ、楽器は高価だし、目指す人も多いし。わたしがやってみるって言ったとき、母も複雑な顔してましたね」
京介,「子供はそんな事情知らんからな」
ハル,「最初は、弾けたら楽しいっていうだけでやってましたよ。音楽教室に通ってたんですが、先生の前で弾くといつも手を叩いて喜んでくれるんです」
にわかに、宇佐美の表情がほころんできた。
ハル,「母も仕事が忙しく、よく家を空けていたんですがね。帰ってくるたびに、褒めてくれました。『またちょっとうまくなったね』って。自分はそれがうれしくて、今度はもっと褒めてもらおう、とかわくわくしながら練習してました」
京介,「はっ……」
ハル,「だもんで、学校が終わったら夜中までこもって弾いてましたね。寝るか、食うか、ヴァイオリンか……そんな毎日が半年くらい続きました」
京介,「へえ、発表会とかどうだった?」
ハル,「グループで同じ曲を弾くんすけどね、自分だけなぜかちょっと目立ってたらしいですね。終わったあと、『あなたはヴァイオリンが大好きでしょう』とか言われました」
……実際、大好きなのだろうな。
ハル,「それからは、もっといろんな人の前で弾いてみたいとか思うようになりまして」
あどけない笑顔。
ハル,「それで、母も本格的に自分に教えてくれるようになりましてね……」
穢れを知らない幼女のように目を輝かせて話す宇佐美を、おれは知らない。
ハル,「本気を出した母は、厳しかったですよ。なにをやっても無駄無駄無駄でした。いかに自分が感覚だけでやってたかわかったのは、日本で、あるコンクールに出たときなんです」
京介,「ほう……」
ハル,「とにかくやたら怖いんです。静かですし、真っ暗ですし、審査員の方はクールですし」
京介,「向こうのコンクールは、もっとアットホームなのか?」
ハル,「発表会に近い暖かさがありましたね。だもんで、結果はひどかったですよ」
京介,「まあ、あれだろ。日本のコンクールっていかに正確な音階をとれるかとか、そういう技術的なところを重視するんだろ?」
ハル,「いちおう『海外なら評価されるでしょう』というひと言をいただきましたが、とにかく思い知らされました。だから、ヴァイオリンの持ち方、構え方から見直して、猛練習したんです」
京介,「合宿とか行ったか?」
ハル,「行きました行きました。いま、海外で活躍しているような子ともいっしょになりましたね。こんなすごい子といっしょになっていいのかな、とかびくびくしてました」
びくびくする宇佐美なんて、想像もできないな。
京介,「ガキのくせに、肩こりとかひどかったんじゃねえか?」
ハル,「いえ、むしろ痛いのは背中ですね。あとは、写真とかとると、いつも左肩が上がってるとか言われましたね。筋肉が変についちゃって……」
ふと、素に戻るように口を閉ざした。
ハル,「まあ、いまはそんな悩みもありませんが」
悲しみを隠し切れない自虐の笑みは、見ていて気持ちのいいものではなかった。
京介,「ソリスト志望だったんだろ?」
ハル,「ええ、オーケストラは、気ぃ使いますんで。自分のせいでアンサンブルを乱したら……とか思うと無理でした」
わりと小心者だったんだな。
京介,「でも、おれには気を使う必要はないぞ」
ハル,「え?」
優しげに言うと、宇佐美がまた少女の顔に戻った。
京介,「もっと、いろんな人の前で弾いてみたいんだろ?」
ハル,「…………」
京介,「さあ、聞かせてくれよ」
ハル,「…………」
京介,「この部屋は家賃が高いだけあって防音もばっちりだ。たとえどんな下手くそな演奏でも、おれにしか聞こえない」
宇佐美の肩が、かすかに震えた。
息を呑み、じっとヴァイオリンケースを見つめる。
京介,「……ハル……」
名前を呼ぶと、弾かれたように宇佐美が顔を上げた。
ハル,「……わかりました、京介くんになら」
頬を赤らめ、そそくさとケースをつかんだ。
宝石箱をあけるような手つきで、ケースの留め具を外していく。
硬いケースのなかに、さらに布のケースが見えた。
宇佐美がそれをいかに大切に扱っていたかがわかる。
やがて、年季に艶だった色をしたヴァイオリンが姿を現した。
京介,「高そうだな、おい」
ハル,「実に浅井さんらしい意見ですが、お金には変えられません」
おそらく、母が使用していた楽器なのだろう。
ハル,「ちょっとお待ちを」
宇佐美はケースと一緒に持ってきたバッグを漁りだす。
ハル,「チューナーとか持ってないですよね?」
京介,「さすがに、おれは聞くのが専門だから」
ハル,「参りました。忘れてきたようです」
京介,「おいおい、まさかいまさらやめるなんて言うなよ?」
たしかに、ヴァイオリンは木でできているだけあって、温度や湿度に音が左右される。
ハル,「いいんですか?」
京介,「別にいいよ。いまが梅雨の季節だったら、おれもうるさく言うかも知れんけどな」
湿度が高いと弦が伸びやすく、すぐに音がくるってしまうらしい。
ハル,「いちおう、毎日チューニングはしてるんですが……」
京介,「なんだよ、毎日練習してるんじゃねえか」
ハル,「いえいえ、手入れをしているだけで演奏はしていません」
つまり、未練があるのではないか?
ハル,「不本意ですが、わかりました」
言いながら、黒い石鹸のようなものを手に取った。
京介,「それは、松ヤニか?」
ハル,「よくご存知で……」
それを、いまから弓に塗るわけだ。
軽く押し付けるようにして、根元から満遍なく塗っていく。
ハル,「意外と覚えているもんですね……」
京介,「なにが?」
ハル,「あ、いえ……つけすぎるのもよくないし、かといって足りないと音が弱くなってしまうんです」
最適な量を体が覚えていたってことか……。
ハル,「あ、浅井さん……食器洗い用のスポンジかなにかもらえませんか?」
京介,「ん?」
ハル,「長らく弾いてないもので"肩当て"がなくて」
京介,「ああ……」
ハル,「使わない方も多いですが、自分は服の下に入れるとけっこう安定するんで」
京介,「でも、家庭用のスポンジでいいのか?」
ハル,「ええ、自分はよく、それで練習してましたから」
京介,「わかった。"あご当て"は……?」
ハル,「ついてます。といっても、化粧をしているわけではないのでそこまで気にしなくても……」
京介,「いやいや、汗がヴァイオリンに滴ったらどうするんだ?」
ハル,「そんな激しい曲を弾かせるつもりですか?」
京介,「うーん、とりあえずバッハかな」
ハル,「やはりですか……まあ、バッハはわたしも好きです」
京介,「おいおい、誰を前にして好きとか言ってるんだ?おめーが、バッハのなにを知っていると?」
ハル,「バッハの数学的な才能に惹かれました」
京介,「ほほお……少しは話せるようだな。たしかにある曲のメロディは最初から弾いても最後から弾いても同じになったりする」
ハル,「ええ、まるで回文みたいに。本当に神秘的な人です」
京介,「よし、じゃあ……アレだ。『主よ、人の望みの喜びよ』でいけ!」
ハル,「いけっ!……って、楽譜もないのに」
京介,「弾けないのか?三島春奈は一度聞いた曲はすべて弾きおおせるという話は、やっぱり話題づくりのための嘘だったのか?」
ハル,「どこからそんなデマが……まあ、なんとなくでよければ弾いてみせましょう」
京介,「ひとまず今日のところはある程度てきとーでも許してやる」
ハル,「今日のところはって、今後もあるんですか?」
京介,「当たり前だ。お前、おれの女だろ?」
ハル,「……うっ……」
照れくさそうに、演奏の準備に入る宇佐美。
京介,「電気消すぞ……」
ハル,「またそうやってハードルを上げる……」
;背景主人公の部屋夜あかりなし
室内に闇が訪れる。
京介,「あ、待った。やっぱり『G線上のアリア』がいい」
ハル,「浅井さんが一番好きな曲ですか。わがままさんですね」
ぼやきながら、宇佐美は弓を取り、ヴァイオリンを左の肩にのせた。
月明かりに浮かび上がる、宇佐美のしなやかな肢体。
足まで伸びた黒い髪に、眠ったように閉じられた瞳。
いつもの宇佐美とは違う、神秘的な印象を受けた。
京介,「……慣らし演奏とか、いらんのか?」
ハル,「けっこうです」
突き刺すように言った。
右手で弓を緩く構え、左手の指がネックの上にかかった。
肌を重ねあって知ったが、宇佐美の指先は触れてわかるほどに硬かった。
おそらく、成長期の子供のころに猛練習を重ねたからだろう。
その指が、ゆっくりと弦を押さえにかかった。
おれは息を呑み、手に汗握る思いで、演奏の瞬間を待った。
さぞ、艶やかな音色を奏でるのだろう。
そのとき、おれは、たしかに宇佐美ハルという少女に、魅入っていた。
弓の毛がヴァイオリンのG線……もっとも低い音を出す弦に触れる。
ハル,「……すみません……」
はじめに、ささやきがあった。
ハル,「……いませんか?」
次に、形のいい眉が脈打った。
ハル,「……ほら、fホールを這い上がって、G線の上に……」
;SEぎぃぃぃ(黒板を爪でひっかくような音)
直後、黒板を爪でひっかいたような音が響いた。
ハル,「……悪魔が、いませんか?」
耳を疑った。
ハル,「す、すみません……浅井さん……」
震えだす。
ハル,「わ、わたしには、むり、です……」
……なんだ?
宇佐美は、なんと言った?
京介,「あ、悪魔……?」
ハル,「ええ、邪魔をするんです、いつも、い、いつも……すみません、おかしなこと言って……」
天才的な才能を持つ演奏家には、演奏中の肉体的精神的苦痛をコントロールし、自分を一種のトリップ状態に置ける能力があるという。
想像を絶する恍惚の果てに、たとえば妖精を見たり、悪魔の助言があったりすることもあるらしい。
ハル,「あ、や、やっぱり、いませんね……すみません、どん引きさせてしまって……」
冗談にしか聞こえないが、冗談にしては宇佐美の体の震えは異常だった。
ハル,「ただ……思い出すんです……」
浅い呼吸を繰り返していた。
ハル,「母の弓がヴァイオリンのG線にかかりひときわ力強い低音が響いたその瞬間……!!!」
京介,「宇佐美っ!」
;画面白滅
;黒画面
;ノベル形式
その音は、美しいヴァイオリンの旋律をすべてかき消した。地響きが伝わり体が宙に浮いた。音感のいいハルの耳を突き破り、音は破壊をもたらした。
爆薬の炸裂。
劇場のあちこちから煙がたち登っていた。大勢の人間が叫んでいる。なにを叫んでいるのかは不明だった。一面に人が倒れている。すでに人の形をしていないものもあった。かつての人間の一部。血と肉が黒い汚れとなって、少女の目前に水溜りを作っていた。
破砕された大理石の柱、がれきの山に、折れた枝のようなものが見えた。根元から引き裂かれた腕だった。客席の椅子に張りついたように尻をつける男がいた。祈るように腹を抱いている。やわらかいなにかがたれ、鈍い色で光っている。はみでた腸だった。
血まみれだった。なにもかもが焼き焦げ、黒ずんでいた。あたりには息絶えた者と、絶えつつある者しかいない。
少女は、目を閉じることもできず、硝煙の名残のなか凍りついていた。すでに世界は一変している。技巧を極めた母の演奏は、いつの間にか、うめき声の重奏低音に変わっていた。
絶叫が一筋走った。同時に、機関銃の発射音が連続する。少女の前方で容赦ない掃射があった。血の流れが何本か、蛇のようにうねって伸びてきた。少女はようやく、恐怖に歯を鳴らすことを許された。
死は間近だった。あきらめかけたとき、声があった。少女を呼ぶ声。ハル、ハル……と、少女を求めていた。返事をしようと喉を振り絞るが、声がでない。ひゅう、ひゅう、と喘息を思わせる音が、空気の振動を自在に操る能力を持った母へ向けられた、最期の言葉だった。
魔王,「宇佐美の娘か」
頭上から落ち着き払った声が降ってきた。上から下まで黒い。顔をすっぽりと覆った帽子のなかで、唯一、目だけが不敵に笑っていた。熱気に陽炎のようにゆらめく男は、まさしく地獄から来た悪魔のようだった。
魔王,「宇佐美、ハルだな?」
悪魔の問いに、少女はなんと答えたか、いまでも覚えていない。
けれど、なにか名乗ったのだろう。悪魔は嘲るような笑みを返してきた。
中東のほうの言語が飛び交っていた。悪魔は同じ言葉でなにか応じた。足元の血だまりがしぶきを上げた。
魔王,「私は、"魔王"だ。また会えるといいな、勇者よ」
;黒画面
以来、少女のなかでなにかが壊れた。まるで弦の一本欠けたヴァイオリンのように、少女の心は正常に機能しなくなった。ただ、憎悪を得た。二度と、ヴァイオリンを奏でられなくなったかわりに……。
;通常形式
……。
…………。
宇佐美の呼吸はだんだん荒くなり、顔面は月明かりにもわかるほど蒼白になっていった。
ハル,「こ、殺したんです……"魔王"は、わたしの、母を……いいえ、わたしを……わたしからヴァイオリンを奪ったんです……」
京介,「わかった、もういい……!」
ハル,「ご、ごめん……ごめんなさい……京介くん……」
ハル,「弾けるかなって……思ったの……」
ハル,「京介くんの前なら……京介くんのためなら、弾けるかなって……」
どうして、宇佐美みたいなただの少女が、"魔王"を追っているのか。
無謀にも思えた行為の理由が、ようやくわかりかけてきた。
ハル,「でも、ダメだった……ごめんなさい……!」
打ちひしがれた少女は、救いを求めて、いままでさまよっていたのだ。
京介,「そうか……よく話してくれたな……」
ハル,「うっ……ごめん、ごめんねっ……」
京介,「いいんだ」
ハル,「ごめんね、楽しみにしてたのに……」
京介,「気にするな。おれも悪かった」
おれは宇佐美を抱きすくめようと、腕を伸ばした。
京介,「心配するな。あとはおれがなんとかする」
ハル,「……なんとか?」
色のない声で聞き返してきた。
京介,「ああ、"魔王"を捕まえる」
それしか、宇佐美に救いはないように見えた。
ハル,「……捕まえる?」
直後、目を見開いた宇佐美。
想いをかせねようとも、しょせんは他人。
おれは、宇佐美の哀しみの片鱗も理解していなかった。
ハル,「……違います……殺すんです……!」
;背景主人公の部屋夜あかりなし
その夜、おれは宇佐美ハルに宿った悪魔を知った。
親から続いた因縁はもはや宿業となり、おれたちに、いつまでも冬の帳を下ろしている。
京介,「また、弾けるようになるさ……」
いや、おれが、立ち直らせてみせる。
もう、役にも立たぬ神様に祈ったりはしない。
一人の人間として、おれが、ハルを……。
その夜は、少女を何度も抱いた。
動物のように求め合い、精をハルのなかに放った。
激しい性交渉。
二人とも、相手の魂すら欲していた。
やがて夜は更け、抱き合うように眠りに落ちていった。
;"魔王"視点
;黒画面
恭平,「待ちわびた……」
ついに、決行の日がやってきた。
おれは、この日、このときのために準備してきた十年の歳月を振り返らずにはいられなかった。
商社マンだった父、鮫島利勝に憧れ、おれは幼いころから留学を希望していた。
十年前、おれは金も実力もないただの小僧だった。
ロンドンの王立大学に通っていたおれは、将来的には資格でも取って、父の会社で働こうなどと考えていた。
歳の離れた弟、京介はまだ幼く、頼りなかった。
たまに帰国するとよくテレビゲームの相手をさせられた。
人なつっこく、気さくなところは父そっくりだった。
母の雑事を手伝うおれを、よくカメラで追い回していたのを覚えている。
父の尽力のおかげで、鮫島家は貧乏ではなかった。
しかし、おれは渡英の費用や学費、仕送りなどは一切断った。
体の弱い母がいつ何時倒れるかわからなかったし、父はさらにもう一人、家族を増やそうとしていたからだ。
当面の金策のため、おれはロンドンの友人たちと輸入雑貨の商売をしていた。
輸入雑貨といえば聞こえはいいが、やっていることは行商だった。
日本で買いつけたTシャツや洗剤、鉛筆、仏像などをロンドン市内の雑貨屋に売りつける。
日本製の調理用ラップやトイレ用品はウケがよかったし、他にも漢字のロゴが入った下着は、よく注文が入った。
父はよく、そういった商品をダンボールに積めて、イギリスまで送ってくれていた。
『お前も立派な商社マンだな』などと笑い、心底おれを応援してくれていた。
アランに出会ったのは、アルコールの匂い消しを売りに、とあるパブに出向いたときだった。
見てくれは四十代後半。
千鳥格子のハンチングに、安っぽいフェイクファーのついたジャンパー、くたびれたスラックス。
ギネスビールを飲みながら、ときおりパイプに火をつける様は、どこからどう見ても、労働者階級の英国人だった。
『ハーイ』などと気さくに手を振って、在庫の一つを買ってくれた。
日本人が大好きだと言う彼は上客だった。
そして、何度か顔を合わせているうちに、ファーストネームで呼び合うようになり、酒の一杯でもおごってもらうころには、こっちの氏素性から、特技、趣味、まですっかり知られることになっていた。
治安に優れた国で義務教育を施されたおれは、情けないほどに無防備だった。
百戦錬磨のスカウトマンだったアランにとって、日本人の青年など赤子のようなものだったのだろう。
果たして、彼が傭兵という言葉を口にしたとき、おれはアルコールに呑まれていた。
『私は、傭兵だった……』
聞きなれない言葉に、酔いが回ったおれは警戒心より先に好奇心を募らせた。
戦争ビジネスを底辺で支えているのが、死の商人の末端構成員たる、傭兵徴募業者だ。
利害の一致さえあれば、あっという間に金儲けのシステムは構築される。
天文学的な数字の動く戦争をビジネスにして、骨の髄までしゃぶってやろうという悪魔がいくらでも沸いてくる。
アランは、たとえばアラブ諸国の超大物代理人や、資本主義を代表する巨大企業の手先ではなく、もっと小さい単価で商売をしている悪魔の一人だった。
資格を持ち、正規の人材派遣業者に所属している。
ただし、傭兵のスカウトはおおっぴらにはできない。
理由は、国際法であり、外交上のしがらみであり、地下組織とのつながりである。
気ばっかり大きくなっている青二才に、アランはまくしたてた。
『クロサワ』『ヤマトダマシイ』などとあおりながら、おれをけむにまき、さながら悪徳宗教の勧誘のように、獲物が思考停止する瞬間を狙っていた。
しかし、おれはイエスとは言わなかった。
恭平,「人殺しは悪です」
アランはそんなことは知っているとばかりにおどけてみせた。
『けれど、人殺しは正義が救ってくれないものを、救ってくれる場合がある』彼はそう言った。
理解しがたかった。
男の冒険心をくすぐるものはあったが、傭兵、などという得たいの知れない稼業につく理由はない。
世界では絶えず戦争が行われているが、おれには関係のないことだった。
『力が必要になったら、いつでも連絡してくれ』アランは言った。
それからしばらく月日が流れた。
妹が生まれ、死んだ。
清美の遺影の前で、落胆に暮れる父の姿はいまも目に焼きついている。
それからまもなく、その父が殺人の容疑で逮捕された。
母から電話を受けたおれは、目前に迫っていたアラビア語の試験を放り出して帰国した。
富万別市内の留置所。
取調べを理由に、三度追い返された挙げ句、ようやく父との面会を許された。
恭平,「手紙は読ませてもらいましたよ、お父さん」
アクリル板越しの父は、軽くうなずいた。
こけた頬の上で、やつれた瞳が不眠を訴えていた。
恭平,「心臓のほうは、どうです?」
父は曖昧に首を振った。
手紙には、一行足りとて弱音を吐かなかったが、父は何度か倒れたことがある。
心臓の病気からくる発作だった。
……それが、清美に遺伝したと、嘆いていた夜もあった。
恭平,「死刑だなんて大げさな……どうか、あきらめないでください」
父は宇佐美義則と、その部下加藤、他に、現場に居合わせた宇佐美の麻雀仲間二名を殺害していた。
父は、極刑を言い渡されるのだろうか……?
父への同情の余地は十分にあるだろう。
とはいえ、父の犯行は計画的で、手口も残忍ととらえられて仕方がないものだった。
せめて、宇佐美だけなら、と無念に駆られた。
とくに、宇佐美以外の三人は、せいぜいが虎の威をかりて、父を侮辱するだけが脳の小悪党に過ぎなかった――もっとも、そういった輩こそ、死んで当然だといまのおれは思うが。
父の友人という弁護士に話を聞いたが、三年も四年も先になる判決に、絶対の自信を持って死刑を免れるとは言い切れるはずもなかった。
正直、不安だった。
なぜか、世論が宇佐美に同情的なのが気にはなっていた。
父の手紙の文面にあったように、宇佐美が詐欺を働き、また賭博の常習者だったことは、新聞でもテレビでも、一切報じられていない。
宇佐美は政治家にもコネクションがあったという。
三島薫という著名人が妻であるのも関係しているのだろうか。
そして、そういった諸事情が、判決に影響することがあるのだろうか……。
恭平,「安心してください。万一に備えて、死刑廃止論者の団体の方々にも協力をお願いしています」
けれど、彼らの会合、勉強会などに参加するにつれて、おれは希望を失っていった。
おれが救いたいのはこの国の将来ではなく、今後死刑を言い渡される可能性のある父だった。
――恭平。
父が、穏やかにおれを呼んでいた。
――ありがとう、恭平。
涙を流す父は、けれど、瞳にある種の達成感のような光を宿していた。
おれは思い切って聞いてみた。
恭平,「お父さん……あなたは、人を殺したことに、後悔はなさっていないのですね」
父は唇を噛み締めた。
――すまない……。
そのひと言は、おれたち家族に向けられたものであり、けっして、宇佐美ら四人に対してのものではなかった。
おれは裁判の光景を想像した。
被告人には改悛の情がなく……などと検察官が声高に叫ぶ。
事実、父が、宇佐美に対して頭を下げるなどありえないし、あってはならないことだ。
――恭平……秀才のお前が、ぜひ父に教えてくれないか。
仏に救いを求めるような顔をしていた。
――父さんは、世間でいわれるように、悪魔なのか?
悪魔だろう。
胸のうちで、理性や道徳心が、冷酷にそうつぶやいた。
勤勉で、なによりも家庭を愛してくれた父。
父がもたらしてくれた笑顔は数知れない。
熱いものがこみ上げ、恩知らずの理性や道徳心をなじった。
恭平,「父さんは、正しい……」
少なくとも、おれにとっては……。
そのひと言、その決意こそが、今後のおれの人生を決定づけることになった。
恭平,「お父さん、おれはイギリスに帰ります。しかし、必ず戻ってきます。何年先になるかわかりませんが、希望を捨てないでください」
;黒画面
数年先の判決を、ただ指をくわえて待っているつもりはなかった。
富万別市の自宅に戻ると、おれは荷物をまとめ、母と京介に別れを告げた。
二人とも、おれがいなくなることにひどく不安を覚えていた。
しかし、不幸を嘆いていても父は救われないのだ。
京介に母を託し、おれはイギリスに戻った。
唯一の誤算は、浅井権三という獣を見誤ったことだ。
当時、父の、いわれのない借金を取り立てに来ていたヤクザは、父が留置所に入ったくらいではあきらめなかった。
権三の魔手は取り残された母親に及ぶのだが、それを知ったのは、ずいぶんとあとになってからだった。
例のパブで、アランは満面の笑みでおれを出迎えた。
『戻ってきそうな気はしていたよ』
おれは率直に聞いた。
あんたについていけば、たとえば刑務所から囚人を釈放させられるほどの力を身につけられるのか?
そのとき、初めて、アランのおれを見る目つきが変わった。
『私は傭兵の女衒をしているんだ。恭平が、まさか、テロリスト志望だとは思わなかった』
呼び方など、どうでもよかった。
テロリストであれ、傭兵であれ、正規軍の兵士であれ、とにかく父を確実に救うための道を模索したかった。
『ひとまずうちで働いてみるといい。二、三年もすればFA宣言をして、自由に活動する者もいる』
アランについていくことに、迷いがなかったわけではない。
日本の母と、何年も連絡が取れなくなるからだ。
ふんぎりがついたのは、ロンドン市内の地下鉄爆破事件に巻き込まれたときだった。
英国が抱える民族問題にテロリストが奮起し、スーツケース爆弾が駅のホームを吹き飛ばした。
死傷者は、約五百人。
そのうちの一人が、たまたま地下鉄への階段を下りていている途中のおれだった。
怪我は腰を少し打った程度で済んだが、恐慌に走り回る人々の波に呑まれ、財布やパスポートの入ったバッグを現場で紛失してしまった。
翌日のニュースを見て、心底驚いた。
死者の一覧に、はっきりと日本人・鮫島恭平とあったからだ。
当時のロンドン警視庁の捜査の荒さは、日本にも届いているくらいだから、信じられなくもなかった。
たとえば、大学に在籍して一ヶ月もしたころ、友人がいきなり逮捕された。
婦女暴行の罪だという。
しかし、犯行時刻に、おれと食事をしていたアリバイが明らかになるとすぐに釈放された。
警察は、暴行されたと訴え出た友人のガールフレンドの証言だけで逮捕に踏み切ったという。
他にも、大学のさる有名な助教授が、講義中に短機関銃を構えた警察隊に囲まれるというが珍事あった。
これも、さるパキスタン系移民の証言によるものだ。
テロリストとその教授の風体が似ていたという、それだけの理由だった。
緻密な捜査で絶対の証拠をつかんでから逮捕に踏み切る日本では、冤罪事件など滅多に起きない。
しかし、英国では、誤認逮捕され、マスコミにも大々的に報道されてから、実は、無実だったという、被害者にとっては洒落にならない事件が、ままある。
長年、テロリズムの脅威にさらされているとはいえ、逮捕どころか路上でいきなり射殺される場合もあるというから、うかうか夜道も歩いていられないものだった。
だから、ヘロインをやりながら入国管理をしている人間が、日本人留学生のパスポートをぱっと見ただけで、生死確認の連絡の一つもよこさなかったのだとしても、納得できないわけではなかった。
大使館に、自分が生きている旨を告げようとしたおれを、アランが引きとめた。
『このまま死んだことにすれば、恭平の夢の実現は五年は短くなる』
死の偽装によるメリットは、後におれが諜報活動を専門にする傭兵となったときに実感することになる。
徴募業者の周辺には、履歴を偽装する業者が存在する。
イギリスであれば大物マフィアの看板を背負った、インドパキスタン系の移民が下請けをやっている。
彼らは世界中に巨大なネットワークを持っているから、無茶を言わなければたいていの履歴は偽装してくれる。
取扱商品は、パスポート、運転免許証、銀行口座から各種公的機関が発行するIDカード、クレジットカードからトラベラーズチェックまで、予算に応じてなんでも買うことができる。
ただし、いくら近代に入っても戸籍がいい加減な欧米でも、生きた人間を死んだ人間に偽装するよりも、死んだ人間を死んだ人間に偽装するほうが、はるかに安価で確実だった。
なにせ、追跡調査をかけようにも、履歴上完全に死んでいるのだから、真の人物像も探りようがない。
『恭平、はっきり言って君は逸材だ』
アランは富万別市のセントラル街を闊歩するスカウトマンとはわけが違う。
目をつけて声をかけるのは、未経験でもなんらかの期待を持てそうな男ばかりなのだろう。
おれは、その期待に応えるわけでもなく、ただ、自らの目的のために、仮契約書にサインをした。
翌日には、下宿先を引き払い、ロンドン郊外にある農地に向かった。
一見してただの牧場だった。
いや、実際に、牛もヤギも羊もいて、呑気に乳をしぼっていた。
奇特な牧場主の副業だというが、どこかのコングロマリットかシンジケートが出資しているのは間違いなかった。
つまり、傭兵を大量に斡旋している大金持ちの総元締めだ。
どこの国でも金持ちがやるのは、徹底した経費削減だった。
粗末なロッジがあり、禅寺の精進料理みたいな食事が与えられる。
そこでは、おれと同じように悪魔に誘われた馬鹿どもが、五、六人のグループにわけられ、五日かけて身体検査、体力測定、特技、経験などを詳しく調べられる。
要するに、家畜の品評会だ。
しかし、これは形式的なもので、逃亡犯、指名手配犯など、若干の異常者が選考から漏れることはない。
イギリスは他民族国家であるからして、集まった人間も様々だ。
顔色の異常な男とタコ部屋に押し込められ、三日もすれば泣きべそをかく大男まで現れた。
適正を厳しく検査されたおれは、唐突に別室に呼ばれることになった。
そこでは、軍服を着たいかつい白人が手招きしていた。
どうやら、履歴書に『カラテ、ブラックベルト』などと書いたことが興味を引いたらしい。
その白人がどうにも見かけ倒しだった。
ロンドンの路上でも一度暴力沙汰に巻き込まれたことがあるが、西洋人というのは、とにかく腕力でねじ伏せようとする傾向がある。
きちんと間合いを取って、大味の突きと蹴りをかわせば、あとは急所に一撃を入れるだけだった。
この自己アピールは、ある意味とんでもない自殺行為で、かくしておれは、一段上の訓練を施され、五段は上の戦場に派遣されることになった。
この通称「檻」と呼ばれる施設は、ヨーロッパの各地に点在する。
やはり、偽装した牧場や農地が多いが、国によっては堂々と看板をかかげていることもある。
品評会が終わり、傭兵斡旋業者と本契約を結んだおれは、傭兵産業の伝統あるスイスの民間軍事学校に入所させられた。
おれの担当教官は、"魔王"とあだ名されていた。
背の低い優男で、軍服を着ていなければブランド洋品店のマネージャーかと思うほどの紳士だった。
"魔王"というわりには、物腰は穏やかで、映画に出てくるような鬼教官っぷりは微塵も見えなかった。
"魔王"はイギリスの特殊部隊の隊員だったという。
もちろん、素性は一切口にしない不文律があったから、それが本当かどうかはいまでもわからない。
しかし、たしかに"魔王"は高度な技術を目の前で見せつけた。
朝の四時に起床、二十一時に就寝という毎日で、たまにゲリラ戦を想定して深夜に"魔王"が襲撃をかけてくることもあった。
カリキュラムは実技と学科に別れていた。
実技では、武器弾薬の扱い方から、射撃、爆弾の製造と解体、破壊工作、格闘、斥候など。
学科では通信、ナビゲーション、サバイバル術などを学んだ。
過酷な訓練課程のなかで脱落する者や、事故で再起不能になった者もいた。
他の連中より履修がスムーズだったのは、おれが英語とアラビア語、さらに日常会話程度のドイツ語とフランス語、スペイン語を扱えたからだった。
『坊やはお遊びが好きなようだな』
ある格闘訓練を終えると、"魔王"が珍しく厳しい口調で詰め寄ってきた。
たしかにおれは、対戦相手を組み伏せてすぐに止めを刺さなかった。
窮地におちいった敵がどういった反応を示すのか観察したかったからだ。
『かすかに笑っていたぞ?』
自覚はなかったが、有無を言わさぬ様子だった。
『敵には敬意を払うのだ。我々は犯罪者ではない』
イギリスには紳士道なる美徳がある。
彼は殺人教育を片手に、そんなモラルを説いてきたのだ。
おれは殺気立っていたとは思う。
なにしろ来る日も来る日も人の殺し方を学んでいるのだ。
食事中も休憩中も誰もが寡黙にうつむいている。
お互いの顔も見たくない。
見れば殺したくなる。
銃を構えた監視員がいるなかで、敵に敬意を払うなど無理というものだった。
おれはたまらず腹をかかえて笑った。
――では、先日中東での戦争で、一部英国兵士が行った蛮行をどう弁解なさるのですか?
偽善者はよく、ひとりひとりの善行の積み重ねが世界を救うのだと本気で信じている。
そういった輩をけむにまくには、たとえを大きくすればいい。
人は、国は、社会制度は、民族は、そもそもお金というものは……などと、小説家の説教のような前文句をつけて話を進めれば、必ず相手をうならせることができる。
殴られるのは覚悟の上だった。
おれはそのとき"魔王"を初めて尊敬した。
『その通りだ、坊や。我々はいまどこにいる?』
掃き溜めです、そう言った。
『そう、掃き溜めだ。いま日本で前例のないテロ事件が起きた。アフリカでは相変わらず秒単位で人が死んでいく。だが、我々には関係ない。我々は世界に生きているわけではない、いつでも個人で生きている』
そうして、先ほどの紳士ぶった仮面を取り外した"魔王"は、まさしく"魔王"とでも言うべき歪んだ笑みを浮かべた。
『この施設はヨーロッパでも屈指の軍事訓練学校だ。まともに卒業できるのはよほどの無神経か、暗く孤独な信念を持った者だけだ』
期待している、と肩に手を置かれた。
なるほど、ことの善悪は主観的なものだとしよう。
すると、一切の客観性を排除し、究極まで個人で生きられた者こそが、悪の王、"魔王"になれるのかもしれない……。
傭兵業者も慈善事業ではない。
早ければ二週間、長くても五週間ほどで市場に回されなければペイにならない。
卒業のとき、"魔王"はおれにコードネームをひとつ提案した。
それが、"魔王"だった。
しかし、そんな冗談みたいなコードネームを使う人間など、世界中のどこの傭兵や殺し屋を探してもいない。
おれは仲間内だけで、あるいは、コードネームを使う必要のないオペレーションのときだけ、自らを"魔王"と名乗り、かの訓練教官を偲んだ。
というのも、おれが初の戦場に赴いた時点で、"魔王"は人知れず他界していたからだった。
初めて人を殺したとき、新兵の反応は様々だというが、おれはその場にいた部隊長も驚くほど冷静だったという。
敵を待ち伏せし、草むらに隠れ、訓練で習ったとおりに照準を定めた。
冷静もなにも、動くモノというモノに乱射しただけなのだから、「殺った!」などという感慨など沸くわけもない。
ただ、唯一、おれの心のなかで"魔王"が、日本人鮫島恭平に向かって言った。
ご遺体ではなくBody、仏さんではなくItだと。
そのささやきが、おれを良心の呵責や後悔、現実逃避から守ってくれた。
同じ部隊で一番先頭を歩いていたアメリカ人が、戦闘後、泣きながらぶつぶつ言っていた。
『私は人殺しではない。殺人犯ではない。殺人犯は自分より弱い者を狙う。だから、私は人殺しではない』
一番先頭を歩かされるというのは、つまり、錯乱して味方を撃たないようにとの配慮だった。
次の作戦行動のため移動を開始した直後、彼は振り返って味方に銃を向けた。
その瞬間、わかっていたかのように部隊長が彼を射殺した。
おれも、とっさに、きちんと銃を構えていたという。
屁理屈を言うと死ぬということを学んだ。
おれは約二年の間、歩兵として戦場を渡り歩いた。
期間はそれぞれ二週間から長くて五ヶ月程度。
ダイヤモンド鉱山の警護、民主化に反発するゲリラの殲滅、特殊部隊を持たない国の正規軍として陽動作戦に従軍することもあった。
ジャングルでネイティブの案内役とはぐれたときは、さすがに命を落とすかと思ったが、幸いにして安全な水源を確保できたおかげで、なんとか生きながらえた。
二年後、おれは再びアランに出会った。
『私の目は確かだった。よくいままで生きていたな』
傭兵斡旋業者と傭兵の関係は、たとえばヤクザとヤクザからシャブを買う風俗嬢の関係に似ている。
つまり、いくら働いても儲からないという泥沼の無間地獄だ。
実際、多くの戦友は契約期間を過ぎても、さらなる修練を積みに、業者が紹介する軍事学校に入所する。
駆け出しの傭兵の給料など、日本のコンビニでアルバイトをしたほうがわりがいいくらいなのだが、それでも第三世界の紛争国出身の人間には家族を何年も養える大金だった。
『恭平、お前は金を求めてこちらの世界に足を踏み入れたわけではないのだろう?』
無論だった。
金はもちろん必要だが、壮大な復讐計画を実行に移すには、コネクションが必要だった。
そう、復讐。
大勢の人間を特に理由もなく殺していった結果、おれの考えは変わっていった。
宇佐美義則を含む四人を殺したくらいで、なんだというのか?
彼らは人間のクズであり、たとえば民族解放のために立ち上がった義勇兵でもなければ、生まれたときから人を殺すことしか教えられなかった中東の少年兵でもない。
殺される理由がある人間が、逆におれには珍しく見えていたほどだ。
たとえ民間人を撃ったとしても、その紛争に勝利さえすれば、戦後に軍法会議にかけられることもない。
そういった様子を見ているうちに、父が裁かれることすらおかしいと思えてきた。
父を救いたいなどとかっこうのいいことを言っていた小僧は、いつの間にか、日本のありとあらゆるものを破壊してやりたいという衝動に駆られていた。
『これからは恭平も、フリーのエージェントとして、こちらも好きなときに声をかけさせてもらうよ』
おれは、もう紛争地でドンパチやるのは御免だと話した。
実際のところ、おれは戦闘にはあまり向いていなかった。
日本人のくせに背が高いのが敗因だった。
的が大きければすなわち、狙われやすい。
実際に、優れた戦闘能力を誇る傭兵は、中肉中背の一見して目立たない男ばかりだった。
映画に出てくるような筋骨隆々のゴリラもいるにはいるが、たいていはすぐに死ぬか、発狂して使い物にならなくなった。
加えておれには、どうやら、不敵な遊び心というか、人殺しをゲームとして楽しんでいるような不遜な気質があった。
おれ自身、そんなつもりはまったくないのだが、わざと急所を外すような殺し方をしていると、何度か指摘されたことがある。
これは、一瞬の判断が生死を分ける戦場では命取りになる弱点だ。
けれど、おれには語学を生かした渉外能力があった。
おれは復讐の準備の第二段階として、諜報活動を生業とすることにした。
傭兵といえば、とにかく陸軍だという先入観がおれにもあった。
しかし、実際には潤沢な資金を好き勝手に投入するクライアントが依頼するオペレーションは、おのずと仕事が難しく、何ヶ月、あるいは何年も前から入念に準備されている機密性の高いものだった。
当然、事前の調査は周到に行われなければならない。
アランがおれをスカウトした理由の一つに、おれが東洋人であるという事情があった。
傭兵の絶対数からいえば、日本人はとても希少なのだ。
かくしておれは、台湾人、韓国人、香港人……とりわけ能天気な日本人観光客というカバーのおかげで、とくに警戒されることもなく、仕事に従事できた。
情報戦の重要性はわざわざ語るまでもなく、報酬も歩兵だったころとは雲泥の差だった。
その分、リスクはついて回る。
条約もなにもない傭兵稼業では、敵地に偽造パスポートを持って潜入したまま、いつでも身元不明の死体になることができる。
死を偽装したおかげで、足がつくことのないおれは、有能なスパイとして次第に名を上げていった。
あるとき、モスクワの将校と、軍用爆薬の取引をしていたとき、興味深い話題を耳にした。
三島薫というヴァイオリニストが、近く劇場でコンサートを行うのだという。
相談相手の将校は、来賓の中にアラブの大物がいて、それがアメリカの代理人であり……要するに殺したいというようなことを言っていたが、おれの注目は三島薫に注がれていた。
かの宇佐美義則の妻。
よし、殺すとしよう。
まるで、今日の食事の献立を決めるのと変わらない。
将校は笑顔で帰っていった。
ある程度人脈も整っていたおれは、傭兵仲間を通して、金に汚い人間を集めた。
すなわち、麻薬カルテルのボディーカードや、誘拐ビジネスに手を貸すような男たちだ。
作戦の指揮はすべておれが取った。
事前に遠くはなれた銀行を爆破するという情報を流し、官憲を振り回しておいたおかげで、爆破は実にスムーズだった。
場内にはおれが直接C4爆薬を持ち込んだ。
このときも、日本人の観光客という天下ご免状が役に立った。
まんまと起爆装置をセットすると、三島薫の演奏に合わせて爆破のスイッチを押した。
爆風に巻き込まれ、半死半生の三島薫に止めを刺したときには、中間決算でも済ませたかのような達成感があった。
娘の宇佐美ハルという少女とも出会った。
気でも触れていたのか、自らを勇者だと名乗っていた。
たしかに、おれには不敵な遊び心があるのかもしれない。
なぜ殺さなかったのかと問われれば、面白そうだったからと答えてしまう。
京介と昔遊んだコンピューターゲームでは、村を焼き払われ家族を失った勇者が成長を重ね、やがて大魔王を倒すという王道のストーリーが展開されるのだ。
いや……。
正直に告白すれば、なくしたはずの良心がうずいたのかもしれない。
親は親であり、娘は娘なのだと、無関係な母親を殺したあとで、いまさらながらに感じたのを覚えている。
幼い子供を惨殺するという行為に、一般的な倫理感が警鐘を鳴らしていた。
けっきょく、さらに歳月を経て現在にいたったとき、おれは宇佐美ハルなんて忘れていたのだが、とにかく、官憲も迫っていたその場は見逃してやることにした。
その後に、日本での父の状況を探った。
;黒画面
第一審は、死刑。
危惧していたことが現実となった。
もっとも、無期だろうが、懲役五年だろうが、おれは計画を実行に移すつもりでいた。
父はおれの言葉を信じたのか、控訴して争う構えだった。
悔やんでも悔やみきれないのは、母の存在だった。
こっそり会いにいったとき、母は病院のベッドにいた。
調べたところ、心の病を患って、長らく一人で暮らしているのだという。
一人で?
京介はどこにいったのか。
それを知ったとき、殺意が芽生えた。
母を守るべき弟は、あろうことか浅井権三の養子となって、金儲けに奔走していたのだ。
母は、顔つきの変わったおれを、恭平だと気づくことはなかった。
おれはさらなる準備に明け暮れた。
諜報活動も長く続けていると商社の諜報屋と出会う。
とくに山王物産ほどの大企業ともなれば、五人や十人は、真面目に勤務するかたわら、パートタイムで貿易商社の持つ膨大な情報を切り売りしているものだ。
おれは彼らの一人に近づき、さらには社長にまで迫った。
当時、山王物産には巨大企業が抱えがちな悩みがあった。
たとえばせいぜいが数百億円規模の売り上げで、社長がベンツだクルーザーだのとガス抜きしているうちはいいのだが、これが数千億数兆円規模になってくると、もう軍事予算に食いつかなくては会社を維持できないのだ。
山王物産も海外では、中南米の工場などで密かに拳銃を作って第三世界に売りさばいていたが、軍需産業全体から見ればまだまだ零細企業といえた。
だからおれは、思い切って、日本の別の商社で製造されている武器の輸出を提案した。
武器の輸出が禁止されている国だからこそ、実現すれば莫大な富をもたらす。
この世界には、アタッシュケース一つで商売する、一匹狼の武器商人がいくらでもいた。
彼らを仲介し、日本のいくつかの漁港に拠点を設け、販路を開拓する。
新潟や福井の漁港から北朝鮮の漁船に海上で引渡し、ピョンヤンから陸路でウラジオストク、さらにモスクワまで運べばもう足がつくことはなかった。
さらに、日本の税関には、袖の下は通じないが、コンテナを二重三重にするという古典的な技がこと輸出に関しては通用する場合もあった。
かくして"魔王"は、山王物産の暗部を引き受けるかたわら、もう一つのビジネスを計画していた。
おれはアランに声をかけた。
『日本で、傭兵の斡旋をしようって?』
アランの目は輝いていた。
すでに、初めて出会ったときの若造を見るような態度ではなく、おれを一人前の男として認めてくれていた。
『たしかに、君もそうだが日本人の需要は高い。しかし、日本は裕福な国だ。誰が志願するっていうんだい。とても採算が取れるとは思えないが?』
恭平,「私も裕福な家庭に育った。けれど、物質的な豊かさに関係なく、心の貧しい人間というのは、どこの国でもいるものだ」
『それは、たとえば?』
恭平,「未来をになう坊やたちです」
アランのような西洋人には、日本人とは礼儀正しく時間に正確で、同族意識の強い、世間や家族を常に気にかけるという印象がある。
たとえば企業の不祥事などで、代表が世間にご迷惑をおかけして申しわけありませんなどと謝辞を述べる。
凶悪犯がご遺族に申しわけないと言うのも、欧米ではあまり聞かない。
こういった身内意識が、緩やかな規範となって日本での凶悪犯罪の抑止につながっているらしい。
しかし、近年では、環境の変化によって、同族意識が薄れ、個人主義的な色彩が強くなってきた。
家庭で十分な愛情を受けず、学校や地域社会でも疎外された少年少女の凶悪犯罪が、ぽつり、ぽつりと目立つようになってきているそうだ。
おれはとある本の内容をそのままアランに語り、さらにオリジナルの愉しい提案をしてみた。
恭平,「彼らに銃を与えてみたらどうか」
たとえば、いじめという問題はどこの先進国も抱えているものだが、とりわけ日本では、自殺してしまう子供たちが目につく。
恭平,「私はひどく悲しいんだ、アラン。これがアメリカだったら銃を片手にギャングの仲間入りをするという道があったろうに」
才能を発掘して英才教育を施せば、後に投資に見合うだけの人材となる。
こういった、アングロサクソン的配慮というか、人さらいの発想は欧米人にウケがよかった。
なぜなら、傭兵のスカウトなんて最たるものは、数こそ減ったが、現在でもヨーロッパの各地で行われているからだ。
『協力は惜しまないよ、"魔王"』
そうして、おれは日本のストリートを歩き回ることになった。
はじめは大企業の重役の息子や政治家の隠し子などを狙った。
教育に失敗したとしても、親に身代金を要求するなどの利用価値があるからだ。
他には、暴力団の下部組織、あるいは一歩手前の暴走族などにも声をかけた。
求める人材は、家庭や学校、職場から理不尽な扱いを受けて、もう暴力に頼るしか道のない哀れな子供たちだった。
覚せい剤で稼ぐ知恵を貸し、銀行襲撃のための武器を与え、彼らが成長していくさまを見守るのは、おれにとっても喜びの一つとなっていた。
日本の子供のネットワークというものはすごいもので、"魔王"というウワサが広まると、黙っていても人が集まるようになった。
まあ、トラウマや複雑な家庭事情などなくても、男の子というものは、一度くらいは44マグナムをぶっ放してみたいと考えるものだ。
なかには時田ユキのような逸材もいた。
女性の傭兵というものは、噂でしか聞いたことがないが、それだけ希少なのだろう。
時田が宇佐美の知り合いでなければと、非常に残念に思う。
さて……。
;背景オフィス街夜
恭平,「はじめるとしよう……」
父はつい先日、最高裁で死刑を言い渡された。
ぎりぎり間に合ったといっていい。
もし、父が殺されていたら、この街だけでは済まさなかっただろうな……。
山王物産のビルを見上げる。
父の年季奉公先であり、武器の密輸入のためにおれも利用させてもらった。
宇佐美義則を不当にかばって、父を極刑に陥れた憎き会社も、ついにつけを払うときがやってきた。
唯一気にかかるのは、勇者と裏切り者の京介の存在だが……。
『坊やは、お遊びが好きなようだな』
目を閉じると、スイスの訓練所の風景と、訓練教官の声があった。
;黒画面
恭平,「もう、坊やではありませんよ、"魔王"」
…………。
……。
;京介視点
;背景主人公自室昼
翌朝、おれは時田を自宅に招いた。
京介,「ノリコ先生の反応はどうだった?」
ユキ,「概ね許してくれるそうよ」
ハル,「ユキ……あまり一人で悩むなよ」
ユキ,「…………」
どこか釈然としない様子だった。
京介,「さあ、"魔王"について知っていることを話してもらおうか」
ユキ,「といっても、ほとんどわからないのだけれどね……」
時田は"魔王"と出会った経緯から話し始めた。
話を聞き進めるうちに、"魔王"の実力がかいまみえた。
京介,「それで、"魔王"はいったい、お前からどんな見返りを求めていたんだ?」
ユキ,「それが、まったく。てっきり、父を利用するのだと思っていたのだけれど……」
京介,「わからんな……子供を集めてなにをしようっていうんだろう……」
"魔王"は人の心を弄ぶのが好きみたいだが……。
京介,「"魔王"の潜伏先は?」
ユキ,「驚かないで欲しいけれど、このマンションのすぐ近くよ。もっとも、複数ある拠点の一つなのだろうけれど」
京介,「ひとまずそこを探ってみないか?」
ハル,「いえ、もう、もぬけの殻でした」
京介,「手がかりの一つも?」
ハル,「それどころか、まるでわたしをあざ笑うかのように、部屋の鍵が開いていました。くまなく探しましたが、髪の毛一本落ちていませんでした」
時田が考えるように言った。
ユキ,「"魔王"はよく、山王物産のビルに出入りしていたようよ」
ハル,「うん……昨日も、なにか怪しげだった」
そこで思いついたのか、宇佐美は昨日メモに描いた似顔絵を掲げた。
ハル,「この外人さんなんだが、見たことないか?」
ユキ,「あ……」
目を細めた。
ユキ,「会ったことあるわ。傭兵だって紹介されたけれど」
京介,「傭兵?」
ユキ,「名前は、たしか、アランだったかしら。偽名だと思うけれど」
京介,「どんな話をしたんだ?」
ユキ,「戦場での話を少し。といっても、とっくに引退しているって言ってたわ。"魔王"とはかなり深い関係にあるみたいね」
ますます不安が募る。
京介,「時田、お前がまんまと誘惑されるくらいだから、"魔王"はやはりとんでもなく交渉上手なのか?」
ユキ,「語学は堪能みたいよ。警察のマニュアルにあるような交渉の基本的なスキルは熟知しているみたいね。なにより、人を騙すことにかけては病的なまでに得意だわ」
京介,「病的?」
ユキ,「本物の社会病質者はね、嘘を嘘だと自覚しないまま話すことができるの。彼は本物ではないと思うけれど、それに近いくらいの凄みがあるわ」
ハル,「"魔王"は、人を手にかけることになんのためらいもない」
苦々しい顔でうなずいた。
聞けば聞くほど、ため息が出る。
昔おれと一緒に遊んでいたころの、強くて優しい恭平兄さんはどこにもいない。
京介,「"魔王"の目的は、おれの父、鮫島利勝の釈放だ」
ハル,「となると、傭兵を雇って、武器も資金も潤沢にある"魔王"の行動は……」
ユキ,「脅迫でしょうね。どこぞに爆弾をしかけたとか……」
京介,「あるいは、人質を取って山王物産のビルに立て篭もるか」
おれの発言に、二人ともうなずいた。
"魔王"は、山王物産に恨みを抱いていると思う。
父さんの裁判は、なぜか圧倒的に宇佐美に有利だった。
父さんにも同情の余地がある点は、わずかに触れられただけで、大きく報道されることはなかった。
これについては、山王物産の現専務の染谷が、かばいだてしたのではないかと裏では噂されていた。
なぜなら宇佐美の悪行が知られると、甘い蜜を吸っていた染谷も一緒に捕まるからだ。
京介,「ひとまず、街に出てみよう」
宇佐美も続いた。
京介,「時田は白鳥のお守りだろ?」
ふっと、笑った。
ユキ,「助けてくれてありがとうね、京介くん」
京介,「いいから金を用意しておけよ」
ハル,「また連絡する。水羽と椿姫によろしく」
おれたちは外に出た。
;背景中央区住宅街昼
外はやけに冷え込んでいた。
ハル,「昨日の晩、雪が降ったらしいっすよ」
今年最後の寒さが、肌を刺す。
京介,「今日も降りそうだな……」
;SE着信
……おっと。
珍しいヤツから電話だ。
花音,「やほー、兄さん元気ー?」
京介,「よう、海外からか?」
花音,「携帯も進化したねー」
相変わらず能天気そうな花音だった。
花音,「パパリン死んじゃったって?」
誰かが連絡したのだろう。
京介,「通夜は今日だ。無理して帰ってこなくていいぞ」
花音,「いまもう空港だから」
京介,「……まあ、わかった。着いたら連絡しろや」
花音,「やったー、迎えに来てくれるんだねー」
京介,「じゃあな」
花音,「あ、ちょっと……!」
おれは一方的に通話を切った。
花音に、ショックを受けた様子はなかった。
権三の死を、いまだに信じていないのかもしれない。
思えば花音も不憫だな。
ヤクザの組長を父親に持つ、人気フィギュアスケート選手。
権三がにらみを利かせていたうちは、スキャンダルになることもなかったが、これからはわからないな。
問題のある親の子供であるというだけで、差別は確実に……。
ハル,「浅井さん……?」
覗き込むように、宇佐美が見ていた。
京介,「宇佐美……」
家族が問題を起こしたというだけで、家庭は崩壊する。
それを、おれはよく知っているつもりだ。
ハル,「どしました?自分のことが好きなんですか?」
同意の上とはいえ、肌を重ねた少女。
ハル,「てれますね、見つめないでください」
……違和感の正体は、これか。
京介,「ちょっと、市役所寄っていいか?」
ハル,「ま、まさか、婚姻届ですか!?」
おどける宇佐美とは対照的に、おれの気分は沈んでいた。
;背景繁華街2昼
数時間後。
京介,「悪い、待たせたな」
ハル,「まったく、なんなんすか。嫁をハンバーガーショップに置き去りにして」
京介,「証人が二人いるって言われたから、ちょっと時間がかかった」
ハル,「どういうことか説明してもらえるんでしょうね、浅井さん?」
京介,「もう、浅井じゃねえんだわ」
ハル,「はい?」
京介,「離縁の手続きをしてきたんだ。おれはもう権三の養子じゃない。今日、この日から、鮫島京介だ」
ハル,「マジすか?なんでまた?」
京介,「まあ、なんとなくな。気持ちの整理っていうヤツか?」
ハル,「しかし……いいんですか?」
京介,「ああ、権三も死んだしな。もう小判ザメでもいられないし、浅井って名乗っている意味がないんだ」
ハル,「自分は、これからあなたをなんと呼べばいいんですか?」
京介,「好きにしろよ。京介でいいじゃん」
ハル,「……恥ずかしいんですよね、素で言うのは」
離縁なんて、形式上のことなのだが、なにかすっきりするものがあった。
母さんは死んだ、兄さんは"魔王"になった、そして、父さんは……。
いままで、おれは逃げていた。
……父さんに、会いに行こう。
ハル,「あ、ちょっと待ってください。これで、花音とも兄妹じゃなくなるんですよね?」
京介,「それがどうした?」
ハル,「いえ……ちょっとやきもちを」
京介,「そういうのは、黙ってたほうがかわいいと思うぞ」
ハル,「そすかね」
京介,「とっととオフィス街に向かうぞ」
目指すは山王物産のビル。
;背景繁華街1夕方(←昼です)
……やけに人通りが多いと思ったら、今日は休日か。
ハル,「昨日は、静かだったんですがね」
セントラル街にはいつも通りの活気があった。
栄一,「おい、京介」
京介,「よう、久しぶりじゃん。生きてたか?」
栄一,「そりゃ、こっちのセリフだよ。事情はユキ様から聞いたよ。なに二人してばっくれかましてんだよ」
京介,「学園とか超なつかしいんだけど」
ハル,「エテ吉さん、その後、ノリコ先生はどうなりましたか?」
栄一,「いやもう、俺の女よ。この前、優しいところ見せちゃったから。これからデートよ」
……本当かねえ。
栄一,「立て篭もりの件に関しては、ユキ様を恨まねえよう、とりあえずビシッとしつけといたから」
ハル,「頼りになりますねえ」
京介,「栄一、最近、街で変わった噂とか聞かないか?」
栄一,「噂?」
京介,「"魔王"とかよ」
栄一,「聞かねえけど、昨日の夜は、なんか大きなイベントがあったらしいな」
京介,「どんな?」
栄一,「いや、路上をよ、トラックが十台くらい走ってた。ホストの宣伝みたいだったけど……」
京介,「十台ってのは普通じゃねえな」
栄一,「あとは、オフィス街へのメインの道路で、事故があったの知ってるか?」
京介,「マジで?なんか工事してたよな?下水かなにかの」
栄一,「破裂したらしいぜ。水道管が」
京介,「んじゃ、いまは、通行止めか?」
栄一,「噂じゃ、なんかラリったチンピラの仕業らしいぜ。作業員にいきなり襲い掛かったらしいよ」
……ただのいたずらにしちゃ、度が過ぎているな。
京介,「まあ、わかった。じゃあな」
ハル,「デートがんばってください」
栄一,「おう……お前らも、なんか知らねえけど、ヤバいことに首突っ込むなよ?」
珍しく真面目な顔で、おれたちを見送ってくれた。
;背景オフィス街夕方(←昼)
ハル,「山王物産まで行って、どうします?」
京介,「来客ぶって、なかの様子を探ってみる。ひょっとしたら、"魔王"ないし、橋本ないし、例の外人を見かけるかも」
いちおう、染谷専務とは東区の開発のときに、顔を合わせたことがある。
いきなり会いにいってアポが取れるとは思えないが、社内にいる口実の一つにはなるだろう。
;背景山王物産エントランス夜(←昼)
山王物産のエントランス。
休日だろうが、人の出入りは激しいようだ。
公用車らしきセダンが二台、正面入り口の前でとまった。
ハル,「浅井さん、あの人って……」
ドアから、黒服に守られるように出てきたのは、政治家だった。
今川恒夫。
ニュースでよく顔を見る、与党の幹部だ。
現首相の忠実な下僕としてあらゆる政策の先頭に立ち、次期総裁も噂されている実力者だ。
ハル,「"魔王"は、政治家にもつながりがあるんでしょうか」
だとしたら、もう、おれたちなんかの手に負える敵ではないかもしれないな……。
岩井,「ハルちゃん?ハルちゃんじゃないか?」
不意に、背後から声をかけられた。
ハル,「あ、裕也さんじゃないすか。ども」
岩井裕也だった。
童顔だが、体操選手のように引き締まった体をしている。
岩井,「偶然だね。元気にしているかい?親父も、なにかとハルちゃんのことを気にかけていてね」
まぶしいくらいに爽やかな笑顔。
京介,「どうも」
岩井,「こんにちは、先日、屋上でお会いしましたね」
おかげで、宇佐美との思い出を取り戻すことができた。
岩井,「無事、再会することができたんですね」
心底うれしそうに言う。
京介,「ええ……」
岩井,「いや、良かった。幼いころの二人は、まるで恋人どうしでしたからね」
ハル,「すいませんね、自分は、あなたのことシカトしてたみたいで」
岩井,「ははっ、ハルちゃんは変わってたからねえ。なかなか声もかけられなかったよ」
にじみ出る雰囲気は、なんとなく椿姫に似ていた。
幸福な家庭に育ち、まっとうで明るい人生を歩んできた者特有のにおいがする。
岩井,「そうだ、食事は済ませたかい?」
ハル,「いえ……」
岩井,「いまランチタイムでね。よかったら、三人でどうです?」
おれは岩井の誘いに乗ることにした。
京介,「そうですね、思い出話もかねて、屋上で弁当でも」
これで、社内に長居する口実ができる。
そんな思惑も知らずに、岩井は口元を緩めた。
岩井,「いいですね。三階にうまい弁当屋があるんです」
ハル,「企業のビルなのに、そんなのあるんですか?」
岩井,「レストランもあるし、郵便局の出張所もあるし、スーツの仕立てをしてくれる店もあるよ。最近じゃ、歯医者もできたんだ」
さすがに、巨大企業は違うな。
岩井,「それじゃ、行きましょうか」
紳士のように、さっと手を差し伸べてくる。
手を見れば、その人間の歩んできた人生がわかるという。
おれには、そんな慧眼はないが、岩井の手は爽やかな外見とは裏腹に、ごつごつしていた。
岩井,「ああ、学生のころ、日雇いのバイトをしていましてね」
無遠慮な視線に気づいたのか、てれくさそうに言った。
父親が、山王物産の重役とはいえ、苦労知らずのお坊ちゃんというわけではなさそうだ。
岩井裕也は、おれにとって、目を合わせていられないタイプだった。
;黒画面
…………。
……。
;背景山王物産社内。
;"魔王"視点
山王物産の役員室を目指し、堂々と歩みを進める集団があった。
アランも現役を退いたとはいえ、足音も立てずに歩いている。
他の三人の傭兵たちも、来客のビジネスマンを装いながらも、周囲に目を光らせている。
総合商社のビルを、白人と黒人がアタッシュケースを持って歩いていたとしても、なんら違和感はない。
;黒画面
道順は目をつぶってでもわかるよう入念に調べあげていた。
四十九階にある、染谷専務の執務室。
思惑通り、来客中らしかった。
重々しく閉ざされたドアの横で、カードリーダーのランプが訪問者を拒絶するように赤く点灯していた。
かまわず、用意しておいた偽造カードで、ドアを開ける。
恭平,「失礼いたします」
慇懃に礼をしてぞろぞろと中に入る。
染谷,「……君は……っ」
広々とした室内には、専務の染谷と与党の政治家今川が、革張りのソファに腰掛けていた。
他にも、今川の秘書役が一人、山王物産の役員が三名ほど顔をつき合わせていた。
今川の後ろには、SPらしきスーツの男が二名。
上着の下に、拳銃を所持しているふくらみが見えた。
役員,「なんだ、君たちは!どうやって入ったんだ?」
役員の一人、脂ぎった顔をした初老の男が息をまいた。
恭平,「ご無沙汰ですね、染谷室長。その後、いかがです?」
室内の中年どもが、一斉に染谷を仰ぎ見る。
ぶしつけな乱入者と、面識があるのかと動揺しているようだ。
染谷,「日中に会うのは初めてだな。いや、こうしてみると、やはり若い」
憮然として言った。
染谷,「なんの用かな、"魔王"」
恭平,「さすがに肝が座っていますね。この場で、私の存在を隠そうとしないのは好感が持てます」
染谷,「君は大切なビジネスパートナーだ。皆さんにご紹介しよう、彼こそが、我が山王物産を影で支えてくれた男だ」
恭平,「どうも初めまして。そちらは、今川先生ですね?」
今川が、彫りの深い顔の眉間に、しわを刻んだ。
こいつが、今日、染谷との面会に来訪するという情報は前もってつかんでいた。
恭平,「実は染谷室長、今日は、長年お仕えしてきたぶんの、報酬をいただきにうかがいました」
染谷,「……そうかね」
まるで、覚悟を決めていたかのようにうなずいた。
今川,「染谷さん、いったいなにが始まるのです?」
今川のあごが染谷に向けられた直後だった。
;SE銃声
銃声と同時に、二人のSPが倒れた。
わざわざ脳天に一発ずつ。
パフォーマンスとしては十分だ。
遅れて上がる、役員どもの悲鳴。
恭平,「お静かに。あなた方は殺しません」
腰を抜かしていないのは染谷と今川の二人だけだった。
今川,「……いったい、なにが目的だ?」
口がきけるとは、さすがに大物政治家は違うな。
恭平,「いい執務室ですな、室長」
室内を見渡す。
恭平,「トイレも、バスルームも完備ですか。そちらの冷蔵庫にはビールでも冷やしてあるのですか?」
染谷,「ああ、おつまみもある。一日や二日篭城するにはもってこいの部屋だよ」
恭平,「助かります。では、全員、私がいいと言うまで、両手を頭の上に置いてください。そう、そのまま。部屋の隅に集まってください」
染谷が、全員を促した。
染谷,「指示に従ってください。彼は本気だ」
恭平,「ずいぶんと素直ですな」
染谷,「いつか、こんな日が来ると思っていたよ。なぜなら君は"魔王"だからね」
恭平,「机の下にある、非常用ボタンは押さないのですね」
染谷は力なく笑った。
染谷,「警察のSPですら瞬時に殺した君たちに、警備会社の人間が太刀打ちできるとは思わんよ。今川先生も、馬鹿な考えはおやめください」
今川は先ほどから、しきりに胸の辺りに腕を伸ばそうと、機をうかがっていた。
おそらく外で控えている警護の人間に連絡を取ろうとしていたのだろう。
おれはひとしきり満足した。
最初に抑えるべきは、三点。
この染谷の執務室を含む四十九階のフロア。
人質の確保は問題なく成功した。
次に、ビルの管理をつかさどる四十七階のコンピュータールーム。
ビル内の、空調、温度調節などの環境管理、電気関係などのエネルギー管理、電話システムなどの通信管理をスーパーコンピューターが一手に引き受けている。
制圧すれば建物のありとあらゆるドアや、通用口、防火扉の開閉を行うことができる。
最後に、屋上だ。
警察は必ず屋上からの急襲を想定する。
屋上には絶えず歩哨を立たせておかなくては……。
恭平,「アラン、この場は頼んだぞ」
アランの肩を叩き、おれは部屋をあとにした。
;黒画面
…………。
……。
;京介視点
;背景屋上昼
岩井,「いやあ、実を言うとね、幼いころから、君たちとは友達になりたいと思っていたんだよ」
売店で買った弁当を箸でつつきながら、楽しそうに言う。
岩井,「よく、ここで二人を見かけていたからね」
京介,「近づきがたい雰囲気でもありましたか?」
岩井,「うん、君たちは、恋人同士なんだろう?」
ハル,「ど、どうなんですか、浅井さん?」
おれはたまらず首を振った。
京介,「まさか……」
ハル,「ガーン!」
岩井,「あれ、そうなんだ」
岩井はまた、椿姫みたいな笑顔を見せる。
京介,「あなたは、独身ですか?」
……なぜか、そんなことを聞いてしまった。
ハル,「自分と結婚しろ的な話を、裕也さんのお父様からされましたが?」
岩井が頭を抱える。
岩井,「親父のヤツ……まだそんなことを」
京介,「……本当ですか?」
宇佐美と岩井は、そんなに親しい関係なのだろうか……。
岩井,「いや、誤解しないでください。うちの父は、ハルちゃんのお父さんを慕ってましてね。ハルちゃんを不憫に思ってるんです」
京介,「……まあ、なんでもいいですが」
……なんでもよくはないのだが、つい尖った態度を取ってしまった。
岩井,「気を悪くしたらすみません。僕も、もう二十六ですから、親父もいい相手の一人くらいいないのかと、うるさくて……」
京介,「宇佐美がいい相手とは……なかなか変わった好みをしてますね」
ハル,「またトガる!」
おれは腰を上げて、屋上を取り囲む鉄柵に寄った。
超高層ビルの屋上からの景色を眺める。
たしかに、大発展したな。
都心のベッドタウンとして、市内には住宅地がひしめていた。
宇佐美と初めて出会ったころは、セントラル街もなかった。
ふと、下を見る。
高所恐怖症ではないが、さすがに肝が冷える。
外壁に窓ガラス清掃用のゴンドラがあったので、よけいに地上との距離感がつかめてしまった。
ハル,「昔を懐かしんでいるんですか?」
と、そのとき、屋上の入り口の鉄扉が開いた。
浅黒い肌に彫りの深い顔立ち。
外国人らしき長身の男が、おれたち三人に目を止める。
スーツ姿に、アタッシュケース……社員が休憩でも取りにきたのか……?
外国人,「すぐに降りろ」
発せられた日本語には違和感がなかった。
年齢は二十代にも四十代にも見える。
さらにもう一人、似たような風体の外国人が屋上にやってきた。
二人とも厳しい目つきをしている。
岩井,「どうかしましたか?」
外国人は岩井の言葉を無視して、懐に腕を伸ばした。
戦慄が走った。
外国人,「降りるんだ」
威圧感の漂う口調で、拳銃を向けていた。
岩井,「あなたたちは……?」
外国人,「指示に従え」
連れの男も、いつの間にか拳銃を抜いていた。
外国人,「お前たちは人質だ」
すぐには言葉の意味を把握できなかった。
外国人,「この建物は、1300時から、すでに我々の制圧下にある。状況を理解したら、指示に従え。この者について行くんだ」
言って、もう一人の男に英語で何か命じていた。
ハル,「浅井さん……」
おれのすぐ隣で宇佐美がぼやいた。
京介,「ああ……」
……占拠?
そんなことを急に言われても、まったく現実感がない。
しかし、"魔王"なら……。
岩井,「……わかりました」
岩井が引きつった顔で、ちらりとこちらを見た。
おれたちも、この場は両手を上げて、指示に従うほかなかった。
;黒画面
…………。
……。
;"魔王"視点
無線から声が届いた。
恭平,「よし、コンピュータールームはおさえたな。四十八階はどうだ?」
クリアしたと、報告が届く。
恭平,「余分な人質は多ければ多いほどいい。それも、無抵抗な女であることが望ましい」
間を置いて、屋上からの連絡があった。
外国人,「屋上、確保しました」
恭平,「結構。屋上に人はいなかったか?」
外国人,「社員が一名、子供が二人いました。現在、四十八階に移送中です」
恭平,「よろしい」
……しかし、子供か。
社員の子供でも紛れ込んでいたか……なんにせよ人質としては使える。
;黒画面
…………。
……。
;背景山王物産社内。
四十八階のランプが点灯していた。
銃口に急かされ、エレベーターを降りる。
パーテーションで区切られた広々としたオフィスだった。
窓際の一箇所に、大勢の男女が集められていた。
銃を構えた男がそれを上から見下ろしていた。
人質の群れに加わるよう、うながされた。
岩井,「浅井さん……」
後ろを歩く岩井が、小声で言った。
岩井,「左手の通路の奥は非常階段だ」
言われた方向をちらりと見ると、非常口のランプがあった。
距離にして十メートルほど。
岩井,「ハルちゃんを連れて逃げてくれ」
……待て。
……どうする気だ?
けれど、岩井はおれの懸念など気にもかけなかったようだ。
直後、背後で岩井のうめき声があった。
岩井,「……苦しい……」
膝を折り、床に崩れ落ちる。
背後の外国人が岩井に銃を向けた。
立て、と英語で叫ぶ。
岩井は苦しそうに、腹を押さえて、その場にうずくまった。
男がさらに何か叫んで、岩井の背広をつかんだ。
京介,「……っ」
瞬間、宇佐美の腕を引いた。
くそ!
宇佐美は足をもつれさせながらも、なんとか駆け出した。
止まれ!
背後から揉み合う音が聞こえた。
;SE銃声。
銃声と、悲鳴と、怒号が連続する。
;黒画面
無我夢中で床を蹴った。
通路を折れ、非常口の闇に飛び込む。
薄明かりのなか、階段を二段、三段と飛ばし降りる。
再び銃声。
全身が恐怖に凍りつくより早く、足を動かす。
隣を走る、宇佐美の荒い吐息。
ハル,「このままじゃ、追いつかれます!」
ことここにいたって、宇佐美は冷静だった。
冷静に、頭上から迫る足音に気づいていた。
ガキの鬼ごっことはわけが違う。
凄まじい速さで階段を駆け下りてくる。
京介,「宇佐美、お前はこのまま走れ!」
階段の踊り場で、不意に足を止めた。
ハル,「できません!」
京介,「いいから行け!」
追手の足音はすでに一つ上の階まで迫っていた。
猟犬のような息づかいが聞こえる。
ハル,「浅井さん!」
京介,「ぐずぐずしやがって!」
言い争いをしている暇はなかった。
おれは猛然と、いま降りてきた階段を駆け上がった。
宇佐美の涙混じりの声が耳にまとわりついた。
もう、破れかぶれだった。
銃を持ったテロリストに素手で立ち向かう。
外道の最後にはふさわしい、無様な死に様だろう。
ハル,「京介くん!!!」
…………。
……。
……。
…………。
恭平,「人質に逃げられた?」
例の、屋上にいた子供たちらしい。
恭平,「いや、問題はない。いまから四十六階の防火扉を閉めて、それより下のフロアを閉鎖する。努めて追う必要はない」
四十六階より上を、完全に支配化に置くのだ。
もともと不特定多数の人質を確保する予定ではあったが、一人や二人欠けても計画に支障はない。
恭平,「持ち場に戻れ。いまは、作戦を時間通り遂行させるのが先決だ」
;黒画面
;SE警告音シャッターが下りるような、ブーブーっていう。
不意に、得体の知れない音が非常階段に響き渡った。
警告音とともに、頭上からキャタピラが回転するような音がした。
シャッターらしきものが降りてくる。
ハル,「危ない!」
はっとして前を向いたとき、銃口が迫っていた。
;SE銃声
弾丸が頬をかすめていった。
とっさに足がもつれ、床に尻もちをついた。
けれど、第二射はなかった。
目の前にはいつの間にか、厚いシャッターが降りて、追っ手を防ぐ壁となっていた。
京介,「はあっ……っ……」
ようやくまともに呼吸ができたような気がする。
;ハルの立ち絵表示
ハル,「浅井さん、お怪我は?」
京介,「……だいじょうぶだ……」
状況はわからないが、とにかく命拾いしたようだ。
手足がこわばり、次第にがたがたと震えてきた。
ハル,「お互い、無我夢中でしたね」
京介,「そうだ……岩井は……?」
宇佐美が黙って首を振る。
答えが用意されているはずもなかった。
…………。
……。
再び報告の連絡があった。
子供たちには逃げられたらしい。
どうにも社員の一人が二人をかばって、不意に襲い掛かってきたらしい。
恭平,「その勇敢な男は、死んだのか?」
拳銃の底で殴りつけて昏倒させたという。
恭平,「見上げた男じゃないか。手厚く看護してやるといい」
さて……。
街の様子はどうなっているかな……。
;黒画面
……。
…………。
;ハルの立ち絵表示
ハル,「どうやら、いま我々は四十六階にいるみたいですね」
京介,「ああ、占拠されたっていうのは本当らしいな」
ようやく気分が落ち着いてきた。
京介,「なぜ逃げなかった?」
ハル,「いえ、浅井さんには、この前も助けていただきましたし」
時田の件かな。
京介,「あれはおれも血迷っていただけだ。次は、おれの言うことを聞けよ」
ハル,「…………」
京介,「ひとまず、このビルを出よう」
ハル,「……しかし……裕也さんが……」
京介,「見捨てるしかない」
ためらいなく言った。
京介,「助けだせるわけないだろう?だいたいなんのために、あの人が身をていしておれたちをかばってくれたと思っているんだ?」
ハル,「……わかっていますが……」
京介,「……なんだよ、そんなにあの人に世話になったのかよ」
ハル,「それもありますが……"魔王"が……」
おれはさすがに吹き出してしまった。
京介,「お前、この期に及んで、まだ"魔王"を捕まえたいとか思ってるのか?映画の『ダイハード』見たか?おれはブルーズヴィリスじゃねえんだぞ?」
銃弾がかすめたときの、空気を裂くような音が、いまだに耳に残っている。
京介,「いま、こうして五体満足に生きていられるだけでも、奇跡みたいなもんだ」
必死さが伝わったのか、宇佐美もようやくうなずいた。
ハル,「ひとまず、ここにいるのは危険ですね」
京介,「そうだ。とっとと出よう」
ハル,「…………」
京介,「頼むよ、ハル。おれはお前を危険な目に合わせたくないんだ……!」
つい、口が勝手に動いた。
ハル,「あ、ありがとうございます……」
京介,「いや……」
;一瞬だけ、ev_haru_07c
;黒画面
まるで呪いだな。
まともな頭が働けば、この状況で逃げないやつなんていない。
……ヴァイオリンか。
京介,「出よう。あとは警察に任せるしかない」
ハル,「はい……すみません、自分、どうかしてましたね」
おれはそっと、宇佐美の肩に手を置いた。
京介,「"魔王"は勝手に捕まるだろうさ。ビルを占拠するなんて、自ら逃げ道をふさいでるようなもんだ」
ハル,「そうですね……だと、いいんですが……」
傷ついた少女の顔をしていた。
京介,「帰って、クラシックでも聞こうぜ」
;SE喧騒
下の階で、喧騒があった。
『逃げろ』『エレベーターが動かない』などと叫んでいる。
どうやら上の階の騒ぎが、下にも伝わったらしい。
京介,「どうやら、逃げられそうだな」
ハル,「ですね。"魔王"も、五十階あるビルのすべてのフロアを制圧する必要はないでしょう」
……まだ、"魔王"の考えを読み取ろうとしているのか。
ハル,「人質は、我々が見た数十人と……おそらく、例の政治家の方でしょうね」
京介,「わかったわかった。家でじっくりと、ニュースを見よう」
おれは宇佐美の手を取って、一歩一歩階段を下りていった。
…………。
……。
;ノベル形式
;背景繁華街1昼
同日午後一時三十分。
富万別市のセントラル街にある交番に、血相を変えて飛び込んでくる若い巡査の姿があった。
――大変です!
セントラル街では、一日に何度も聞く台詞だった。とにかく激務で知られている交番なのだ。一日に、千件を越す道案内、落し物の届出受理。風俗店のトラブルや、違法な客引きの取り締まり。酔っ払いの喧嘩に、暴力団の小競り合い。なにより多いのは未成年者の補導に指導だった。
交番長の警部補は慣れたもので、新聞のスポーツ欄に目を落としていた。
――火災です!ドラッグストアで放火が!
警部補はふと顔を上げた。巡査の後ろに、数人の若者がいる。見慣れた悪がきどもだった。
――なにか用か?
少年たちは答えなかった。恐ろしく無表情。いったい、なんだ。
パン、と音がした。
目を剥いて倒れた巡査の後ろで金髪の少年が銃を構えていた。
まったく、状況が理解できない。
けれど、警部補の脳の処理速度など無視して、銃口が再び火を吹いた。
少年たちが、嬌声を上げてはしゃぐ。
パン、パン、パパパパン。
まるでお祭りの爆竹のような陽気さが――。
;背景オフィス街昼
;雪エフェクト追加
同日午後一時三十五分。
山王物産の本社ビルがある区域にも、ちらほらと雪が舞い落ちていた。
俗にセントラルオフィスと呼ばれる商業区画では、山王物産をはじめ、世界中のあらゆる企業が参入している。いわば富万別市の財布ともいえる地域だった。
山王物産から二百メートルの範囲には、細い道路がいくつもある。ビルとビルの間を、毛細血管のように張り巡らされた路地だ。休日であろうと、様々な商品を運んだトラックが道幅狭しと通行している。
その路地に大型トラックが堂々と鎮座していた。道路に対して横向きになるように停車している。あたかも血の流れを塞ぐように、道を詰まらせていた。
――おい、なにしてやがんだ、くそ野郎!
柄の悪そうな男が、声高にトラックに近づいていった。トラックのドライバーに食って掛かる。
ドライバーは、なんの冗談か、軍服を着ていた。
――北区域、全域を封鎖しました。
わけのわからないことを無線機に向かってつぶやいていた。
――あ、あんた、いったいなんだ?
柄の悪そうな男の声がしぼんだのは、ドライバーが拳銃の引き金に指をかけていたからだ。
逃げようと思ったときには遅かった。
自衛隊?いや、違う。もっと頭のいかれた――。
;背景山王物産エントランス昼
同日午後二時三十分。
警視庁警備部警護課第三係の警部は、係員からの定時連絡が途絶えたことを懸念していた。
通常、SPが選挙運動期間中でもなしに、政治家の警護に派遣されることはないのだが、警護対象が、かの今川恒夫であれば話は別だった。
つい先日、今川は熱烈なまでの親米政策を打ち出し、野党はおろか国内過激派の逆鱗に触れるにいたった。連日に渡る脅迫まがいの文書やいたずら電話に頭を悩ませた今川が、警視庁に身辺警護を要請してきたのである。
――なにがあったのか?
SPは、要人警護の性質上、警察官のなかでも優秀な人材がそろう部署だ。とくに格闘術、射撃術においては、普通の制服警官の実力を上回る。
それが、一切の緊急コールもなしに打ち倒されるとは、とうてい考えられる事態ではない。
覆面パトカーのなかで不安げに山王物産のビルを見上げていた警部の耳に、爆音が届いた。それもビルからではない。セントラル街の方角だ。見れば、火災でも発生したらしく、黒い煙が上がっている。火の元は、一つや二つではなさそうだ。ガソリンスタンドに引火でもしたのか……。
ビルのエントランスから、にわかに人があふれ出してきた。皆、血相を変えて、外に飛び出てくる。着の身着のままという格好だ。中には転んで踏み潰された人もいるらしく、悲鳴と怒号が聞こえる。
――なんだ、どうした?
警部が車内から降りたその瞬間だった。カカカッという聞きなれない銃声が鳴った。制服警官が持っている警察の正式拳銃も、そのような乾いた連続音はしない。人がばたばたと倒れ、悲鳴がさらに極まった。
警部はとっさに、所轄の警察署に応答を願った。なかなか返答はなかった。度を越えた非常事態に、報告が相次いで、対応できないとしか考えられない。
再び、例のカカカっという銃声が耳に届いた。さらに、耳元で騒ぎとは対照的に落ち着いた声が上がった。
魔王,「こんにちは」
短機関銃をかまえた男が二人、さらに一歩進み出る若い男がいた。
身を乗り出して、警部の持っていた無線端末を勝手につかんだ。
魔王,「前線基地が確保できたら、いまから言う携帯にご連絡を」
そして、颯爽と歩き去った。
警部は、声も発することができなかった。脇の二人の男が構えていたのは玩具ではない。
三人組は、逃げ惑う人々を駆り立てるように、短機関銃を闇雲に乱射していた。
空に浮かぶ黒煙。絶えることのない悲鳴と絶叫。ニュースで見る中東市街地での暴動のような光景が、いままさに繰り広げられつつあった。
直後、銃口が目の前にあって――。
;黒画面
…………。
……。
;京介視点
ハル,「……浅井さん……」
おれたちは、ビルから大挙して逃げ惑う人々の群れに混じっていた。
我先にと階段を駆け下りる大人たち。
転倒して怪我をする者も多かった。
行列を組んだ避難民のように出口を捜し求める。
ハル,「浅井さん、これは……」
ようやく外の空気を吸い込んだとき、おれたちは知った。
京介,「宇佐美……」
ビルから出れば、ひとまず助かる……そう思っていた。
ハル,「はい。予想の斜め上をいかれました」
占拠されたのは山王物産の本社ビルだけではなかった。
前方から機関銃の発射音とともに、悲鳴が上がった。
安全など、どこにもない。
;背景オフィス街崩壊後昼
容赦なくなぎ倒される人の波。
飛び散る、血と肉。
常に上がり続ける、悲鳴、銃声、激突音。
空気がこんなに焦げ臭くなるなんて知らなかった。
しかも、何が燃えているのかわからないくらいの火の手が上がっている。
遠くの空は煙に霞んでいた。
ハル,「ひとまず、どこかに身を隠しましょう」
現実感の希薄な世界にいたおれは、宇佐美にうながされるまま、セントラルオフィスの路地を目指した。
路地に差しかかったあたりで、パトカーが走りこんできた。
サイレンを鳴らしながら、路肩に停車する。
おれはパトカーが連想させる警察……国家権力という響きに、思わず、ほっと胸をなでおろした。
ハル,「逃げましょう……!」
とっさに腕を引かれた。
物陰から、十数人の少年たちが鉄パイプを片手に飛び出してきたのだ。
パトカーのフロントガラスやボンネット、さらには出てきた制服警察官の頭を目がけて殴りかかった。
……そんな……冗談だろ……!?
少年たちの一方的な暴行には、なんの躊躇も見出せなかった。
ハル,「浅井さん、早く!」
飛び込んだ路地で、おれたちはさらなる暴挙を目の当たりにした。
普段は、路上生活者などが暮らす、薄暗い細道。
数人の男が女性に乱暴していた。
脇にうずくまって痙攣しているのは、女性の連れか。
不意に、上方でガラスが割れた音がしたかと思うと、空から人が降ってきた。
ヤクザ風の男はすでに血まみれで、口から泡を吹いていた。
それに、髪を赤く染めた少年が角材を振り下ろし、止めを刺した。
誰かがおれたちに向かって指を刺した。
殺せ、犯せ……笑いながらにじり寄ってくる。
おれは宇佐美の手を握りながら走りに走った。
徐々に、体が現実を認識し始めた。
まるで、テレビで見る、アジア各地の反日デモのような世界。
セントラル街は、すでに暴力の坩堝と化していた。
飲食店のガラスは叩き割られ、レジに群がる少年たちがお札をばらまいていた。
スポーツカーが人だかりを蹴散らし、普段は渋滞する道路を我が物顔で突っ切っていく。
道端では、サラリーマン風の中年がよってたかって血祭りにあげられていた。
交番の外壁に、公衆トイレの落書きみたいな文字がスプレーされていたのを見て、ようやく悟った。
警察の助けなど、まるで期待できない。
ハル,「クーデターっていうんですかね……」
違うだろう。
テロというには無差別にすぎるし、反乱や蜂起というには下品すぎる。
京介,「地獄だ……」
宇佐美がうなずいた。
"魔王"が、地上に地獄をもたらしたのだ――。
;黒画面
……。
…………。
午後四時ちょうど。
おれはセントラル街の最後の路地を封鎖したとの報告を受けた。
恭平,「結構。これで、山王物産を中心とする半径約三キロの区域は、我々の国となった」
国の名前は、ネバーランドでも富万別市国でもなんでもいいが、とにかく、おれの求める地獄が地上に姿を現した。
右を見ても左を見ても、破壊と暴力しかない。
どうやって、この無法地帯を成立させるか……それに長年の準備を費やしてきた。
このセントラル街には約四十の出入り口がある。
それをすべて、これまで入念にかわいがってきた"坊や"たちが制圧した。
道路を塞ぐだけならたったの十分で済むという試算があった。
前もって盗んでおいた貨物用トラックなどを、建物に突っ込ませ、路地を通行止めにするバリケードとするのだ。
さらに、建物とトラックの隙間などに土嚢を高く積み上げ、有刺鉄線を張り巡らせる作業がたったいま完了した。
山王物産の占拠と、国会議員今川の拉致もこれに合わせて練られた計画だった。
恭平,「よくやってくれた。みんなで力を合わせて国を守ろう」
報告をしてきた"坊や"に優しく言った。
彼らには、この計画が荒唐無稽な夢物語ではないことをじっくりと説いてきた。
多少の知恵と、多少の異常性があれば、誰にでもできる。
携帯が鳴る。
警察が使う番号だった。
……さて、警察にも、現実を認識させてやるとしよう。
恭平,「こんにちは、あなたは本件の責任者かな?」
ボイスチェンジャーなどは用いない。
どんな機械を使ったとしても、いまの警察技術では、声紋は必ず分析されるからだ。
時田彰浩,「私は県警捜査一課特殊班の時田だ。本件の責任者と考えてもらってかまわない」
声には強い意志と、威厳が備わっていた。
この県警の特殊班は警視庁のSITや大阪府警のMAATと並んで、体制が充実している。
彼らは、人質立て篭もり事件、誘拐事件、企業恐喝などのプロフェッショナルとされている。
おれのような凶悪犯相手には、重装備で出動し、説得が通じない場合は強行突入してくる。
恭平,「初めまして、時田警視。いや、警視正かな?」
時田彰浩,「警察の階級に詳しいようだな。君はまさか、警察内部の人間じゃないだろうね」
さすがは本物の交渉人。
いきなり、さぐりを入れてくるか……。
恭平,「私のことは"浅井(アサイ)"と呼んで欲しい。ひょっとしたら公安あたりが実態をつかんでいるかもしれないから、聞いてみるといい」
時田彰浩,「わざわざすまないね。手間がはぶけるよ。お礼と言ってはなんだが、こちらがいかにして君たちを包囲しているか忠告してもいいだろうか?」
恭平,「ぜひお願いする」
時田彰浩,「現在、セントラル街、セントラルオフィスに至る全ての道路を完全通行止めにしてある。歩道も同様だ。ロープを張って、カメラを抱えたマスコミもシャットアウトしている」
恭平,「手際がいいな。事件発生からまだ三時間しかたっていない。警視庁からも応援の機動隊が来ているのかな?」
時田彰浩,「細かい説明は不要のようだな。各封鎖地点にはすでに装甲車両やSATの移動用バスも待機しているぞ」
恭平,「お見事。では、防備のもろそうな、ドラッグストア近くの封鎖地点に装甲車両を突っ込ませて、突入経路を確保したらどうかな?」
時田彰浩,「ご指摘ありがとう。だが、今川議員の現在地、安全が確認できない現状では、突入は見合わせる方針だ」
恭平,「賢明だな。いま、こちらでどんな騒ぎが起きているかは知っているな?」
セントラル街には、犯罪防止用の監視カメラがいくつか設置されている。
時田彰浩,「さっき、カメラから送られて来た映像を見た若手が、トイレに駆け込んでいったよ。いやはや、まるでこの世の出来事とは思えないな」
恭平,「暴挙に及んでいるのが、ほぼ未成年だという点に注目していただきたい」
時田彰浩,「承知しているよ。少年たちの行動は無秩序で野蛮そのものだが、計画の立案者は実に周到だ」
恭平,「もし、この問題先送りで評判の国の総理が、未来をになう少年少女を皆殺しにしろとSAT隊に命令できたら、これからは私もきちんと選挙に行くとするよ」
しかし、相手が未成年者であろうがなかろうが、警察もおいそれとは突入できない。
あれだけの高さを誇るトラックを乗り越えてくるのは、実際、傭兵であっても難しい。
よじ登っている最中に狙い撃ちにされるのは、目に見えているからだ。
当然、犠牲を省みずに攻め込んでくれば突破されるだろうが、果たして警察上層部が、そんな分の悪い強行突入を許可するだろうか。
おれにとって一番の脅威は、やはり自衛隊だ。
日本の自衛隊は、こと白兵戦においては世界でもかなり上位の実力を秘めていると、傭兵仲間の間でも話題に上がっていた。
さすがに軍隊とやり合っては勝算が薄い。
けれど、日本の陸自が市街地におけるテロ対策を考え始めたのはここ数年のことだという。
民間人を巻き込んでの戦闘ともなれば、その圧倒的な火力を発揮できないだろう。
空挺部隊が上空から押し寄せてくる可能性もあるが、誰が民間人で、誰がテロリストなのかわからない条件下では、やはり同じことだ。
時田彰浩,「虐殺命令が降りてこないことを祈っているよ。そうならないように、私が来ている」
恭平,「話し合いで解決するのが一番だな、時田警視正。我々は味方だろう?」
はは、と乾いた笑いが帰ってきた。
時田彰浩,「いや、浅井には驚かされるばかりだよ。君は、交渉人のマニュアルなど熟知しているのだろう?」
恭平,「どうかな。少なくとも、無理に会話を引き伸ばす必要はない。私は"粗暴犯"ではないつもりだ」
時田彰浩,「……そのようだな」
恭平,「ついでに、あなたがFBIにも留学したエリートだということも知っている。長らく閑職についていたことも、ユキという養女がいることも……」
時田彰浩,「参ったな。いま、私にわかるのは、君が日本人で、年齢が二十代後半から三十代前半。背が高くて痩せ型ということだけだ」
優れた交渉人は声を聞いただけで、相手の年齢や出身地、知性や現在の心理状況まで把握できるという。
体格についても同様に、声の大きさや高さから、声帯の大きさ、ひいては身長や体重まで推し量ることができるという。
時田彰浩,「それでは、通常の交渉の段階をすっ飛ばして、あえて聞いてみてもいいかな?」
さらに、相手の出方次第で違う仮面をかぶることができる。
しかし、おれには通用しないと判断したのだろう。
時田彰浩,「要求はなんだ……!」
それまでの柔和な態度はどこへやら。
時田警視正は、仮面をぬぎさって、敵意をむき出しにしていた。
卑劣な凶悪犯をなんとしても捕まえようとする警察官の矜持が、電話越しにも伝わってくる。
おれは礼節を持って応えることにした。
恭平,「首相に要求する。今から私が言う者を即刻釈放せよ」
そうして、国内の政治犯、過激派と呼ばれる人間の名前を、一人、一人あげていった。
そのなかには、過去に過激派とのつながりを疑われていた、俺の父、鮫島利勝の名前も含まれていた。
;黒画面
…………。
……。
;背景繁華街1崩壊昼
ところどころえぐられているタイル張りの歩道。
散乱したガラスの破片。
折れ曲がって、今にも落ちてきそうな街灯。
かつての商店街は、いまはもう見る影もない。
京介,「……宇佐美、どうだ?」
おれたちは大破した車の陰に隠れながら、脱出路を探っていた。
ハル,「ここも、ダメです」
セントラル街を抜ける大通りでは、大型バスが横転していた。
車体の上に土嚢が積み上げられ、それより先は見えない。
セントラル街の外からは、救急車や、パトカーのサイレンがけたたましく鳴っている。
拳銃や短機関銃を手に提げた軍服の男や少年が、外に向かって威嚇するかのように、発砲していた。
あたりでは、相変わらず殺戮が繰り広げられている。
ストリート系ファッションの男の子たちが、不幸にも街中に取り残された人々を追い立てていた。
なかには女もいた。
皆、示し合わせたかのように、拳銃か鉄パイプを手に握っていた。
ハル,「……さん……」
京介,「ん、何か言ったか?」
鼓膜が、すでに音を拾う許容量を越えていた。
コンクリートが破壊される音。
絶叫と銃声。
けたたましい金切り声。
地面を蹴る音。
人がぶつかり合う音。
断末魔の叫び。
――おい、てめえら。
だから、おれたちに背後から浴びせられた声にも気づかなかった。
宇佐美がおれの手を引いてくれた。
全力で走り抜ける。
折れ曲がった道路標識の下をくぐり、すすにまみれたガソリンスタンドを突っ切った。
そこかしこから、はやし立てるような声と口笛が聞こえる。
ハル,「……っ……!」
宇佐美がつらそうに顔をゆがめていた。
きっと、おれも同じくらい情けない顔をしているだろう。
あごが上がり、すっぱいものが喉を駆け上がってくる。
窓ガラスの全て割れた喫茶店に飛び込み、ようやく背後を振り返る。
髪の毛を逆立てた男が、にやけながら近づいてきていた。
ハル,「……っ、ここは、まずい、ですっ!」
そうだ……。
出入り口が一つしかないような建物に逃げ込んでどうする……!
酸欠にめまいを覚えながら、割れたガラスの散らばる地面を蹴った。
――あそこだ!
呼応するかのようにどたばたとした足音がする。
路上に出ると、再び、足腰を叱咤した。
蓋の開いたマンホールを飛び越え、道路を横断する。
老人の死体や壊れた自動販売機が通りすぎていった。
しかし、それは絶望的な逃走といえた。
どこをどう逃げ惑おうとも、暴徒たちは沸いてくる。
ハル,「どこかに……っ……身を、隠さなくてはっ……!」
走っているというだけで目立つ。
ビルの角を一つまがった。
二百メートルほどさきに、デパートの看板が見えた。
京介,「あそこだっ!」
逃げ込めそうな場所はそこしかなかった。
大手百貨店のデパートには出入り口は複数ある。
店内にはトイレや階段や洋服の影など、隠れられそうな場所はいくらでも考えられる。
小悪魔たちは、おれたちだけを追い回しているわけではない。
見失えば、きっとあきらめるだろう。
;黒画面
デパートのなかは外とたいして変わらなかった。
ショーケースが割られ、床に貴金属が散乱している。
引き裂かれたバッグや、倒れたマネキンの上を乗り越えて、おれたちは身を隠せそうな場所を探した。
ハル,「はあっ、はあっ、はあっ……」
デパートの二階。
洋服店の試着室で、おれたちは身を寄せ合って小さくなった。
嗚咽交じりに肩で息をし続けると、ようやく生きた心地がしてきた。
京介,「……宇佐美、怪我はないか?」
ハル,「鍛えてますので……」
かすかに笑った。
京介,「さて……どうするかな……?」
ハル,「しばらく逃げ回って、暴徒が沈静化するのを待ちましょう」
京介,「沈静化するかな?」
ハル,「彼らはとくに目的を持って破壊を続けているわけではなさそうです。壊すものや人がなくなれば、飽きるでしょう」
京介,「それは、つまり、おれたちみたいな餌がなくなるまで、ずっと隠れてろってことか?」
ハル,「そこなんですがね……」
宇佐美が、考えるように息を潜めた。
京介,「……えっ?」
直後、カーテン越しに、足音が聞こえた。
とっさに押し黙り、息を殺した。
少女,「誰かいんのかあっ?」
いかにも不良少女といった感じの巻き舌の声。
おれたちの話し声を聞き取っていたらしい。
靴音が迫ってくる。
どうする、と目で宇佐美に言った。
見つかれば、もう逃げ場はない。
少女,「おい!?」
……いっそのこと飛び出すか。
不意をつけば、発砲が逸れるかもしれない。
もう一度、宇佐美を見つめた。
この非常時に、肌を重ねあったときの感触が、どういうわけか蘇る。
おれは意を決した。
なんとしても、こいつを……。
カーテンが開いた瞬間に飛び掛るべく、おれはゆっくりと腰を上げて――。
ハル,「いやあっ、やめてえっ!!!」
瞬間、腕をつかまれた。
やわらかい感触が手のひらにあった。
室内の壁に逃げるように身を引いて、自ら上着をたくし上げる。
京介,「………っ!」
動揺よりも混乱よりも先に頭を回した。
宇佐美と長らくつきあってきて理解している。
こいつは、おバカだが、やけに機転が利くのだ。
京介,「おとなしくしやがれっ、このアマ!」
とっさに下着の下に手を這わせた。
京介,「泣いてもわめいても無駄なんだよ!」
少女を押し倒す。
ハル,「やっ、離して!」
ふと、頭上から声があった。
少女,「おいっ……」
ちらりと仰ぎ見ると、片手に拳銃を構えた金髪の少女が、おれたちを見下ろしていた。
ハル,「い、いやっ、やああっ!」
宇佐美が必死に身をよじらせる。
少女,「なんだ、お楽しみ中か……」
おれはできるだけ悪そうな声音を選んで言った。
京介,「そういうことだ、てめえは失せな。こいつはおれの獲物ってわけよ」
少女は拳銃を下げた。
少女,「勝手にやってな……」
踵を返し、エスカレーターに向かって歩き去っていった。
京介,「ふうっ……なんとか助かったな……」
ハル,「いや、ありがとうございます。さすが浅井さん」
京介,「痛くなかったか、胸」
ハル,「あ、いえ……」
恥ずかしそうに唇を噛んだ。
ハル,「しかし、浅井さん、完全に悪党でしたね。某世紀末アニメに出てくるモヒカンばりでしたよ。シビれました」
京介,「好きだな、それ」
……しかし、よく減らず口がきけるもんだ。
ハル,「いまので確信しました」
京介,「うん?」
ハル,「彼らには、特に、誰が味方で誰が敵かという区別がないようです」
京介,「……そのようだな」
格好もまばらだし、なにか味方であることを示すような印を身につけているわけでもない。
ハル,「単純に逃げ惑う人や、武器を所持していない人、あからさまに青少年ではない大人たちが、彼らにとっての獲物というわけです」
京介,「そうか……よく冷静に観察していたな。しかし、なぜだろう?」
ハル,「おそらく、"魔王"が警察の突入を躊躇させるためです。誰が一般人で、誰が暴徒なのかわからない状況では、警察官の動きも鈍るでしょう」
京介,「うん……そうかもしれんが、いまはそんなことはどうでもいいじゃないか。とにかく生きてこの地獄から脱出しなければ……」
ただ、希望は見えてきた。
京介,「おれたちは見た目もガキだし、隠れていれば、連中をやり過ごすことができそうだな」
ハル,「……ええ」
なにか、不満げだった。
ハル,「けれど、連中のなかに、我々を知っている人間がいれば話は別です」
京介,「……む」
ハル,「浅井さんはよくセントラル街をうろついていたでしょう。自分も、バイト先のドラッグストアの看板娘として有名ですから」
……なにが看板娘か。
京介,「ひとまず、日が落ちるまではここに隠れていよう」
ハル,「……わかりました」
宇佐美が無表情にうなずいた。
未曾有の危機にあって、勇者は、驚くほど冷静だった。
;黒画面
…………。
……。
恭平,「……繰り返す。不当に逮捕された同志たちを解放せよ」
おれは要求を突きつける。
恭平,「いまから八時間の猶予を与える。八時間以内に誠意ある回答を期待する」
恭平,「さもなければ、我々はこの街が焦土と化すまで破壊をやめない。今川を筆頭に、多くの人質が命を落とすだろう」
これだけ派手に街の人間を殺しておいて、いまさら人質もなにもないように思えるが、実際は違う。
国会議員と一般市民とでは命の重みが違うからだ。
今川が死ねば、おれの知る限り、少なくとも三つの巨大企業と、鉄道会社、道路事業団などが利権を失うことになる。
さて、時田ユキの父親の切り返しに期待するとしようか……。
時田彰浩,「ひとまず、了解した」
交渉人は犯人の要求を拒んではならないとされている。
時田彰浩,「突っ込んだ質問をいいだろうか」
恭平,「なにかな?」
時田彰浩,「君は、過激派の一味なのかな?」
……鋭いな。
恭平,「それ以外のなんだと?」
時田彰浩,「いや、そうか……すまなかった」
国内過激派の一味にしては、おれの年齢が若すぎると踏んでいるのだろう。
せいぜい、犯人像の特定に時間を費やすがいい。
"魔王"の正体が鮫島恭平であるということは、京介と宇佐美に知られてしまっている。
おそらく、京介の周りのヤクザ連中には知れ渡ったことだろう。
けれど、まだ、この乱の首謀者が"魔王"だとは警察もつかんでいないだろう。
いずれわかるにしても、死んだはずの鮫島恭平の人物像を特定するのは困難だ。
おれは警察の厄介になったことはないし、写真もほとんど残っていない。
これまで宇佐美と遊んでやったときも、物証だけは残さぬよう細心の注意を払ってきた。
残り、八時間。
引き伸ばしはあるだろうが、それだけ逃げ切ればいいのだ。
電話の向こうで、時田警視正が考えるように言った。
時田彰浩,「しかし、要求の達成は限りなく難しいと、君もわかっているのではないか?」
恭平,「フフ……ピザを差し入れろというのとはわけが違うからな」
時田彰浩,「そう。囚人の釈放は、私はもちろん、警察で対応できる要求ではない」
恭平,「だから、首相を出せと言ったのだ。内閣総理大臣以下、関係閣僚を召集して即刻会議にかけろ」
時田彰浩,「報告しておこう。ただし、八時間以内で意思表明できるかどうか、確約はできない」
恭平,「できるはずだ。現在、地方遊説中の閣僚はいない。時間の延長は一切認めない」
交渉人はよく、返報性の原理とよばれる心理学を応用し、犯人の要求を受け入れる姿勢を見せる代わりに、犯人からの見返りを求めてくる。
恭平,「八時間以内。一分一秒の遅延も許されない」
よくあるのが時間の引き延ばしだ。
時田彰浩,「了解した」
と言いつつ、期限が迫ればありとあらゆる手段でデッドラインを引き伸ばそうとするのだろうな……。
恭平,「時田警視正。私はあなたと交渉するつもりはない。警察レベルで判断できる要求ではないことは重々承知している。従って、あなたは私の意志を伝える連絡役となってもらえればいい。いわば、ただの友人だ」
時田彰浩,「光栄だな。では、友人として、私の個人的な見解を述べてもいいだろうか?」
恭平,「どうぞ」
時田彰浩,「君の望みが、かなえられる可能性はある」
……どういうつもりだ?
時田彰浩,「政府および警察は、人命を重んじて、過去にいくつもの事件で、超法規的に犯罪者の逃亡を幇助してきた。1970年の事件などは君にとって好例だろう」
恭平,「…………」
時田彰浩,「安心したまえとは言えないが、勝算はある。だからこそ、いますぐにでも、街で行われている破壊活動をやめてはどうかな。一般人に死傷者が出ている以上、釈放を検討する会議において反対意見が出ることも予想される」
おれはゆっくりと首を振った。
恭平,「犯罪者の釈放について、政府が方針を転換していることを、私は知っている。先の同時多発テロでは、首相がテロリズムには屈しないと声明している」
時田彰浩,「…………」
恭平,「もはや、時代が違うのは承知している」
心が凍りついていく。
恭平,「だからこそ、私は前例のない規模でのテロを敢行しているのではないか?」
通常のテロでは、超法規的措置も、指揮権発動も期待できない。
政府が強気の姿勢を見せるのは、時田警視正が言うような過去の事件で、国内外からの非難が高まったからだ。
恭平,「飛行機をハイジャックする程度では、貴様らの目が覚めんと思ったからこそ、この地獄絵を描いたのだ……!」
父を返せ……。
なぜ死刑か。
たったの四人。
たとえば飲酒運転で殺人を犯した者、計画性のある犯行で幼児を惨殺した者が、のうのうと死刑を免れるというのに……!
底無しの憎悪、底無しの悪意が、胸のうちで暴れまわった。
恭平,「今回の惨劇は全世界に報道されることだろう。さらに我々はインターネット上に、殺戮の光景をくまなく流布している」
恭平,「ぜひとも知るがいい」
恭平,「死は身近にあるのだと。平凡な休日を過ごそうと恋人や家族とショッピングに出かけた矢先に、理不尽な死刑がいくらでも転がっている」
恭平,「他人事だと思うなかれ。一方的な殺戮が行われているのは、紛れもなく、平和で治安の優れたこの国だ。我々は、いつでも、どこの街でも同じような事件を起こす」
前例のない規模でのテロ。
日本政府はもちろん、世界すら震え上がらせるために、おれはこの十年を捧げてきた。
恭平,「時田警視正。約束しよう。要求が満たされれば、我々は市内における破壊活動を即刻中止し、以後、二度と惨劇を繰り返さない」
つい、口が滑りそうになった。
我が父を解放するくらい、安いものではないか、と……。
恭平,「どうしても政府が体面を保ちたいと言うのなら、非公式な形での海外への亡命としろ。釈放はしないが、身柄は解放するというわけだ。そういった言葉遊びは、お手の物だろう?」
その提案こそが、おれのできる、唯一の譲歩だった。
時田彰浩,「確認したいことがある」
神妙な声で聞いてきた。
恭平,「人質は無事だ。後ほど、この街の商店街のホームページにリアルタイムで動画をアップする。他に質問は?」
返答はなかった。
恭平,「では、八時間後。なるべく早い段階での回答を期待する。遅くなればなるほど、なんの罪もない一般市民が殺されていくのだからな」
;黒画面
…………。
……。
;背景繁華街1崩壊夜
夜になって、おれたちはデパートを出た。
おれは歩道に転がっていた角材を握り、宇佐美は折れ曲がった鉄パイプを手に持っていた。
これで、一見して暴徒の一味には見える。
ハル,「逆に、警察に見つかったら、撃ち殺されますね」
おれたちは堂々と路上を歩いた。
思惑通り、呼び止められることはなかった。
どこもかしこも、破壊と暴力の残滓が見て取れた。
死体、割れた窓、出口のない店の入り口。
とくに、死体は殴り殺されたのか、撃ち殺されたのか死に様は様々だ。
そこに、カラスが飛んできて、顔の辺りをうろつき始めた。
ハル,「……惨すぎます……」
宇佐美の読みどおり、暴徒はある程度沈静化していた。
いい加減疲れたのか、通りは不気味なくらい静まりかえっている。
ときおり思い出したように、悲鳴と銃声が聞こえるくらいだ。
京介,「出口を探そう」
ハル,「あるといいんですがね」
京介,「細かい路地が無数にある繁華街だ。どこか一箇所くらい抜けがあってもおかしくは……」
宇佐美が首を振った。
ハル,「目に見えてわかるような抜けがあれば、いまごろ警察が突入しているでしょうね」
京介,「そうだな……」
ハル,「たとえば、密集しあった建物と建物のわずかな隙間はどうでしょう?」
京介,「ありえる。他にも、さっきのデパートみたいに、出入り口がたくさんある建物なら、中をつたって、セントラル街の外に出られるかも」
ハル,「心当たりは?」
京介,「そうだな……セントラル街の出口に面していて、わりと大きい建物は……コーヒーショップと、カラオケ店、あとは……」
繁華街の風景を思い浮かべているときだった。
橋本,「おい……!」
はっとして振り返る。
素行の悪そうな男が五人。
橋本,「やっぱり、浅井と宇佐美じゃねえか」
最悪だった。
にたにたと笑っていたのは、クラスメイトの橋本だった。
京介,「よう、橋本。元気か。その手に持っているのはなんだ。オモチャか?」
ごつい鉄の塊が、街灯の明かりに銀色に輝いていた。
どこかで見たことのあるタイプの拳銃だ。
……そうだ、権三にしたがって、遠くの山に狩に行ったときだったな。
『慣らしに行くか?』などと誘ってきた養父が、もはや懐かしい。
そういえば、今日は権三の通夜じゃないか。
参列できそうにないな……。
橋本,「デートでもしてたのか?お前らも運がなかったな」
京介,「まったくだ。とんだ災難だよ」
五人組は、おれたちを獲物と判断したようで、じりじりと距離を詰めてくる。
橋本,「なあ、浅井、ものは相談だがよ」
意外な提案だった。
橋本,「おれたちの仲間にならないか?」
京介,「……へえ、なぜだ?」
橋本,「時田から聞いたよ。お前、ヤクザの息子なんだろう。おまけにすごいボンボンじゃねえか。そういうヤツは仲間に引き入れろって言われててな」
……橋本は、おれと"魔王"の関係を知らないようだな。
宇佐美の視線を感じた。
……この状況を切り抜けるには、従うしかなさそうだが……。
京介,「宇佐美はどうなる?」
橋本,「そいつはわかんねえな」
口の端をゆがめて、取り巻きの少年たちにあごを向けた。
どいつもこいつも、いやらしそうな目つきをしてやがる。
橋本,「どうすんだ、浅井?」
すっと片腕を上げて、銃口をおれの顔面に向けてきた。
宇佐美の足元で、ぱりとガラスが割れる音がした。
おれの腹は決まっていた。
京介,「なめたことぬかすんじゃねえ!」
瞬間、橋本に向かって角材を投げつけた。
;SE銃声。
銃口が火を吹いた。
しかし、おれにはわかっていた。
あの手のごつい拳銃は、片手で撃つものじゃない。
しかも、思いのほか当たらないのだ。
顔面を狙って当たるとは、どうしても思えなかった。
案の定、橋本は、発射の反動で腕をひねったらしく、無様に悲鳴を上げていた。
京介,「宇佐美っ!」
掛け声と同時に、走り出す。
宇佐美もわかっていたかのように、おれのあとをついてきた。
橋本,「に、逃がすなっ!」
セントラル街のメインストリートを二人で突っ切った。
昼間の逃走よりも、はるかに分が悪い。
なぜなら、すでに獲物の絶対数が少なくなっているからだ。
暗がりのそこかしこから、橋本と似たような格好の少年たちが、くらげのように沸いてくる。
歩道の地べたに座り込んでいたB系スタイルの男女も、騒ぎを聞きつけて立ち上がった。
;SE銃声
闇雲に拳銃を乱射し、嬌声を上げながら迫ってくる。
……どうする!?
逃げれば逃げるほど、追手の数が増えていく。
ハル,「はあっ、はあっ……」
前方にセントラルオフィスのビル群が見えた。
刺激の少ないオフィス街には、それほど若者もいないのではないか?
ハル,「うっ!」
京介,「……っ……だいじょぶかっ!」
死体かなにかに、足をひっかけたようだ。
転倒すれすれのところを、手を引いて引き上げた。
……しかし、まずい!
連中は、すぐ後ろまで迫ってきている。
橋本,「逃がすな、囲め!」
辺りからは悲鳴のような男たちの声。
差し迫る無数の足音。
目の前に殺気立った顔が並ぶのは時間の問題だった。
ハル,「すみませんっ……!」
膝でもぶつけたのか、痛そうに眉を吊り上げていた。
おれも、あごが上がってくるのを自覚していた。
もし、捕まればどんな目に合うか。
彼らは薄汚いハイエナ。
おれは殺されるだけで済むだろうが、宇佐美は……!
京介,「宇佐美、お前はこのまま走れ!」
宇佐美の了解を待たず、おれは暴徒の群れにむかって反転した。
背後で、おれを制止する叫び声が上がる。
かまうことなく、突進した。
橋本,「二手に別れたぞ、追え!」
どうやら宇佐美も、四の五の言わずに駆け出してくれたようだ。
無論、おれも、黙って捕まるつもりはない。
京介,「馬鹿ども、こっちだ!」
手を振って連中を招いた。
;黒画面
細い路地に飛び込む。
道幅の狭い場所なら、囲まれることはない。
誰か一人を殴り倒し、拳銃さえ奪えれば切り抜けられるかもしれない。
;SE 窓ガラスが割れる音
京介,「……っ!?」
頭上から、何かが降ってきた。
顔面に衝撃を受けた直後、視界が暗転した。
上からいきなり飛び掛ってきたのは、人間だった。
フードをかぶった少年。
もがくおれを地面に押し倒した。
荒い息を上げながら、ナイフを振りかざす。
とっさに腕をつかんだ。
京介,「ぐっ……!」
凄まじい腕力だった。
マウントを取られた格好では、抵抗する力が入らない。
少年の薬物で白く濁った目が間近にあった。
ナイフの鈍い光が眼前にきらめく。
京介,「く、そおっ……!」
ハル……!
脳裏に瞬いたのは、やはり、あの気持ち悪い少女だった。
;SE殴る音
ゴッ、という鈍い音とともに、少年の目が裏返った。
ナイフを持つ手から力が抜けていくのがわかった。
少年の頭の向こうで、棒切れを握った人が立っていた。
まるで、自分がしたことを後悔するかのように震えていた。
見知った顔に、おれは言った。
京介,「おいおい、いいのかよ、お前がこんなシリアスなシーンに出てきて……」
;栄一の立ち絵を表示。
栄一,「オレだっておっかねえんだ、バカ!」
相沢栄一はおれを引き起こすと、すぐさま走り出した。
栄一,「早く隠れろ、この野郎!」
……そういえば、こいつもセントラル街に来ていたんだったな。
おれは栄一に促されるまま、路地の奥にあった店に駆け込んだ。
;背景バー
そこは、西条とかいう異常者を追っていたときに立ち入ったバーだった。
店内は、窓が一つ割れているだけで、酒や食器が荒らされた様子はなかった。
栄一,「それにしても、オレ初めて人殴っちゃったよ。ついにやっちまったよ。これで、オレも真の鬼畜もんかねえ」
京介,「助かったよ、マジで」
栄一,「マジ感謝しろ。命の恩人だぞ」
京介,「ああ、しかし、よく生きてたな」
栄一,「いや、オレも無我夢中でよ。なにが起こってるのかわからねえし、とりあえずウサギの第六感ってヤツ?ずっとここに隠れてたわけよ」
……なんて悪運の強いやつだ。
京介,「あ、ちょっと待て……」
おれは店内を見渡す。
京介,「……ノリコ先生は?」
栄一,「……っ」
栄一の肩が震えた。
栄一,「ノリコは……あいつらに捕まって……」
京介,「…………」
栄一,「つーのは嘘で」
京介,「は?」
栄一,「デートの約束すっぽかしやがったからそもそも街に来てない」
京介,「いや、いまはそんなんでも和むわ」
ほっと一息。
……いや、一息ついている場合ではない。
携帯を手にとって、宇佐美にかける。
けれど、電波の調子でも悪いのか、いつまでたってもつながらなかった。
栄一,「なあ、なにがどうなってんだ?」
京介,「おれもわからんが、街からは出られないようだ」
栄一,「マジかよ……やっぱりな……そこらじゅうで悲鳴が沸いてるしよー……アメリカと戦争でも始まったかと思ったぜ」
京介,「戦争というより、一方的な虐殺だ。それも、ガキが大人をぶち殺す絵になってる。交番も病院も役所も容赦なく火をかけられてたぞ」
栄一,「まさかと思うがよ、これも例の"魔王"とかいうヤツの仕業なのか?」
京介,「……おそらくな」
……そういえば、主犯が魔王であるという証拠もなにもないが、おれと宇佐美は魔王がやったことだとほぼ確信していた。
栄一,「お前こそ、宇佐美はどうした?」
京介,「……わからん」
栄一,「マジかよ。つきあってんだろ、おめえら。二人して学園さぼって温泉行ってるって噂だったぜ?」
京介,「つきあってねえよ。なんだ温泉って……」
時田あたりがてきとうなことを言ったのだろう。
京介,「とにかく、おれは宇佐美を探す」
バーの出口に向かう。
栄一,「え、どこ行くの?」
京介,「行くあてはないがな……」
栄一,「宇佐美と携帯がつながるまで待ったほうがいいんじゃねえのか?」
京介,「いや……」
携帯を使えないほど危険な状況におちいっているのかもしれない。
栄一,「ま、待てよ、正気か!?」
栄一がおれの肩をたたいたそのときだった。
;SEガンガンとドアを叩くような音。
出口の扉の向こうにやつらがいる。
橋本,「浅井、そこにいるんだろう!?」
くそ……もう見つかったか。
;SEガンガンとドアを叩くような音。
容赦なくドアを殴りつけている。
逃げ道は……!?
割れた窓が一つ……裏口はなさそうだ。
栄一にわかるよう、窓を指差した。
栄一,「ダメだ……」
小声で言った。
栄一,「囲まれてる……」
;SE銃声
銃声とともに、ドアが蹴破られた。
ぞろぞろと、ゾンビの群れのように、店内に押し寄せてきた。
橋本が煤や垢で黒くなった顔面を突き出して言った。
橋本,「逃げられねえよ」
学園で見かけていたバスケ部員の少年の面影は、どこにもなかった。
橋本,「てめえは、じっくり嬲り殺してやるよ」
不意に、背後から風圧があった。
;SE殴る音
;画面振動
;黒画面
目の前で火花が散った。
頭が焼けるように熱い。
京介,「ぐ……っ…………」
視界が暗黒に包まれた。
栄一の甲高い声が聞こえたような気がするが、もはや、指先ひとつ動かせなかった。
;ノベル形式
――京介くんは無事だろうか。
宇佐美ハルは、身をていして自分をかばってくれた男に胸を痛めていた。
彼のおかげで、なんとか暴徒の追跡を振り切ることが出来た。本当に、冷たいくせに肝心なときに助けてくれる勇者だ。すぐにでも安否を確認したかったが、それもかなわない。何度電話をかけてもつながらないのだ。
セントラル街から離れたオフィス街では、暴漢たちの姿はあまり見えなかった。
少年たちのかわりに見かけたのは、銃を構え軍服に身をつつんだ大人だった。ユキの言っていた、傭兵だろうか。一人しかその姿を確認していないことから、人数は多くないのだと思う。見かけた一人も、むやみに人を撃ち殺したり、追い回したりせずに、あたりに目を光らせながら粛々と巡回していた。
ハルは、いついかなるときでも考える。モスクワの劇場を爆破され、母を失ったあの日から、いかなるときでも"魔王"への怒りを忘れない。
プロフェッショナルを配置するということは、"魔王"にとって、このあたりが、特に重要な区域だからだ。
次に、"魔王"にとって、なにが重要なのかを考察してみる。
"魔王"の要求は、京介が言うように、父、鮫島利勝の釈放だろう。
主な人質は、今川という政治家。
他にも山王物産の社員などを囲っていた。これはおそらく、警察が交渉を渋ったときに、見せしめとして殺害するためだろう。
果たして警察は要求を呑むだろうか。囚人の釈放はすでに警察レベルで対処できる問題ではない。けれど、"魔王"もそのへんは心得ているはずだ。勝算もなく、ここまで大がかりな犯罪を起こすとは思えない。過去に前例のない規模でのテロを起こすことで、政府の判断を迷わそうとしているのかもしれない。
警察はもちろん、テロには屈しないという姿勢だろう。では、すでに一般市民にも死傷者が出ている状況で、警察が強行突入をためらう理由はなにか。
一、暴徒の大半が未成年者であるから。
二、突入経路が確保できないから。
三、今川議員の監禁場所が不明であるから。
一、については、"魔王"の周到さが理解できる。未成年者の犯罪は、日本でもちらほら見かけてきたが、欧米に比べられるものではない。とくにSAT隊が強行突入するほどの凶悪事件、それも未成年者が主体の立て篭もり事件など、まったく前例のないものであるから、対応するにしても、警察上層部の判断を曇らせるだろう。
二、についてだが、いくらか疑問が残る。セントラル街にいたる主要な道路や歩道が封鎖されているとはいえ、一縷のすきもない完璧なバリケードなど現実的に可能なのだろうか。防備のもろそうな箇所は必ずあるはずだ。建物に装甲車両を突っ込ませたり、爆薬を用いて土嚢を吹き飛ばしたり、突破口を作るだけならやりようはあるのだと思う。
それを躊躇させているのが、今川議員の存在だ。ハルはよく知らないが、よほどの大物なのだろう。彼の所在がわからなければ、たとえ突入ルートを確保して、SAT隊がなだれ込んだとしても、監禁場所にたどり着くまでに、今川は殺されてしまうだろう。
だからこそ、"魔王"は、これだけの範囲を立て篭もり場所としたのだ。もし、強行突入班が闇雲に今川を探したとしても、そこらじゅうから暴徒が沸いてくる。一般市民なのか、テロリストなのかわからない未成年者が相手では、引き金にかかった指の動きも鈍るというもの。
そこで、ふと、京介の声が聞こえたような気がした。
(おいおい宇佐美、なに考えてんだ……)。
たしかに、ハルは思った。自分はなにを考えているのか。いま考えるべきは、一刻も早く京介と合流し、この地獄を抜け出すことだ。
(帰ってクラシックでも聞こうぜ)。
正直、もうクラシックなど聞きたくもなかった。京介がまたヴァイオリンを弾いてくれというに決まっている。まさか、自分のファンだとは思わなかった。もう、弾けないというのに……。
全て、"魔王"のせいだ。
G線の上に現れる幻の悪魔が、少女の最も大切なものを奪ったのだ。
――殺してやる。
ハルは山王物産の本社ビルの外壁を見上げた。
窓ガラスを通して黒い箱が上下している。エレベーターが稼動していた。防火扉がおりてきたことから、てっきり上階を封鎖したのかと思ったが、どうやら解除したようだ。
なぜか?
人質を移動させるためではないか。警察側も、今川議員を護衛していたSPからの連絡が途絶えた場所……つまり、山王物産に議員がいると当たりをつけているはずだ。
よし、新しい監禁場所を抑えてやる――。
今川の居場所さえわかれば、警察も踏み込んでくるだろう。自分の手で"魔王"を殺害できないのは残念だが……。
恭平,「これは、驚いたな」
背後から、声。
;背景山王物産エントランス夜崩壊
;"魔王"の立ち絵を表示
まったく気づかなかった。
恭平,「いったいいつの間に、と思っているのなら、もう少し相手を知ったほうがいい」
いつも通りの余裕の表情を浮かべて"魔王"が見下ろしていた。"魔王"の隣には、先日見かけた白人が銃口を向けていた。
恭平,「拠点に近づくネズミを発見し、音もなく背後から始末する。私はともかく、仲間は現役のプロフェッショナルなのだから」
ハル,「"魔王"……」
恭平,「髪の長い少女というから、もしやと思って来てみたのだが、まさか宇佐美だったとはな」
どこか楽しげに、かたわらの白人に英語で話しかけていた。どうやら、ハルを紹介しているようだ。
恭平,「この街でよく生きていたな。うれしいぞ」
ハル,「テロにあうのは二回目だからな」
恭平,「そういえばそうか」
まるで、忘れていたかのような口ぶりだった。許せない。
恭平,「それで、勇者はここで何をしていたのかな。ただ逃げ回っていたわけではなさそうだが?」
ハル,「もちろん、お前を殺しにきたんだ」
恭平,「当てて見せよう。今川の所在を探りに来た。違うかな?」
ハル,「トップシークレットみたいだな」
恭平,「いやはや、見上げた根性だな」
おどけるように、肩をすくめた。そしてハルの背後、山王物産のエントランスに向かってあごを向けた。
恭平,「来てもらおうか」
ハル,「なに?」
なぜ、この場で殺さない?
脇に控えた白人も同じ疑問を抱えたようだ。"魔王"に抗議するようにまくしたてている。
恭平,「すまん、アラン。いつもの悪い癖でな。殺しの前は、どうも遊びたくなる」
その余裕、その傲慢が、我慢ならなかった。
母が殺されたとき、"遊び"で自分は生かされたのだ。
ハルは屈辱を押し殺し、"魔王"のあとに従った。
首筋にひんやりとした寒気を覚えた。雪がちらほらと、忘れたように降ってきた。
;黒画面
…………。
……。
ずしんと鉄のドアが閉まる音がして目が覚めた。
頭がずきずきと痛む。
やがて、ぼやけた視界が焦点を結ぶ。
橋本,「お目覚めかい?」
橋本が薄ら笑いを浮かべて指を鳴らしていた。
そこは、一見して地下室のようだった。
一辺が十メートルくらいの、四角い部屋。
遮断された息苦しい静寂と、淀んで動かない空気。
窓はなく、明かりは、天井から吊り下がる、むきだしの白熱電球だけだった。
おれは殴られた悪寒と苦痛に耐えながら口を開いた。
京介,「ここは……?」
橋本,「捕虜収容施設さ」
肩をすくめた。
捕虜など、いなかった。
吸殻がたくさん落ちている床に、女の死体が二つ転がっているだけだった。
切り裂かれた衣服をまとい、虚ろな目をこちらに向けていた。
京介,「お前がやったのか?」
自分の動悸が驚くほどの大きさで耳から聞こえた。
これから起こる事態を先取りした恐怖に他ならなかった。
橋本,「ここはクラブの地下でな。ユーリって聞いたことないか?」
……大箱のクラブだ。
たしか、セントラル街の外れに位置していたと思う。
京介,「なるほど、出口を求めて逃げ込んでくる人間を、待ち伏せするにはいい場所だな」
橋本,「ご名答。一階の東側の出口は、この国の外に通じてるからな」
京介,「国?」
橋本はふっと、笑うだけだった。
おれはもう一度室内を見渡した。
壁際にあるテーブルに、酒のビンやライター、灰皿が散らばっていた。
そこにもたれかかって倒れるサラリーマン風の男がいた。
もちろん、死んでいた。
京介,「お前、こんなことをして、許されると思ってるのか?」
橋本,「許される?誰に?」
京介,「もちろん、警察だ。いくら未成年でも、これだけ派手にやらかしたら、どうなるかわかるだろう?」
橋本はまた冷笑した。
同情と、それに倍する嘲り。
京介,「逃げられると思ってるのか?もう、この区域は警察が完全に包囲してるだろうよ」
橋本,「逃げねえよ」
京介,「……なに?」
橋本,「ここは俺たちの国なんだから、逃げる必要はねえんだ」
おれは顔を上げて橋本をにらみつけた。
橋本,「おれたちのリーダーは、ここら一帯に治外法権を要求しているんだ」
京介,「通訳してくれ。意味がわからない」
橋本,「わからねえかな。封鎖状態にあるセントラル街と、その上空は、もう日本じゃねえってことだよ」
おれは、さすがに言葉を失った。
橋本,「警察権力の介入と、日本の法律による取り締まりは受けない。まさに、夢の国だろう?」
たんたんと語る橋本の目にはいささかの虚偽も欺瞞も含まれていなかった。
ただ、ぼんやりと、何かに対する信仰心のような光があった。
さながら狂信者のように、恍惚に頬をゆがめていた。
京介,「お、お前……そんな話を真に受けているのか……?」
橋本,「じゃあ、浅井は、ある日突然、セントラル街が戦場になるなんて話をされて、真に受けるか?」
押し黙るしかなかった。
橋本,「いいか、浅井。俺の親父はよ、俺とは違って、糞真面目に学園の教員やってたんだよ。教頭になるって、けっこうすごいことらしいぜ?」
橋本,「それがよ、白鳥の親父にハメられたばっかりに、なにもかもおかしくなっちまった。うちには毎日のようにテレビ屋が来るし、母親は実家に帰っちまうし、妹は小学校でいじめられてんだ」
おれも似たような経験はあるから、こいつの哀しみはわからないでもなかった。
橋本,「そんなときによ、ほいっと拳銃渡されたら、つい人でも殺したくなるだろ?」
けれど、こいつの心根の卑しさには決して同情できない。
血気盛んな若者は、プライドが全てだ。
なめられたら終わり。
やられたらやり返す。
家庭をめちゃくちゃにされたのなら、他の人間の家庭もめちゃくちゃにしてやるというわけだ。
"魔王"は、その辺の心理を、よく心得ている。
京介,「……わかった。でも、よく考えろ。国なんて作れるわけがない」
橋本,「作れるさ」
京介,「まず、食料はどうするんだ?一週間くらいは持つかもしれないが、それからはどうする?日本と断交するんなら送電だって止められるだろ。武器弾薬だってそのうち底を尽きる。そしたら、こんな小国、あっという間に滅ぼされるぞ」
橋本,「"魔王"がなんとかしてくれる」
京介,「話にならん。お前らは利用されてんだ」
橋本,「みんな最初はそう言うよ。でも、ことここにいたってそんなことをいうヤツは一人もいねえ」
そりゃあ、もう、数え切れないくらいの犯罪行為を繰り返したからだろうな。
もう、"魔王"を信じるしかないんだ。
なにかの本で読んだが、悪徳宗教の教祖は、とにかく信者に後戻りできないような絵を踏ませるらしい。
日中のセントラル街では、とにかく武器を持たない者、人を襲わない者が、狙われていた。
人を殺さなければ、逆に仲間に殺されるという図式が描かれていたのだ。
それも全て、未成年における犯行。
射殺するにしろ、警察が二の足を踏むのは明らかだ。
めまいすら覚える。
兄の計画性に満ち溢れた残忍さに絶望した。
橋本,「俺を説得して助かろうったって、無駄だ」
京介,「ああ、知ってるよ。お前はもともと、クラスでも友達ってわけでもなかったからな」
橋本,「そうそう、お前の友達は、いまどうなってると思う?」
栄一……?
橋本,「いま、上の階でのびてるよ。仲間になる、とか言っといていきなり襲い掛かってきやがった。みえみえだっての。マジでバカだよ、あのチビ」
京介,「……まったくだな」
つぶやいた声は、自分でも驚くほど異様に乾いていた。
京介,「まだ、生きているんだな?」
橋本,「ああ、これから、みんなで面白い見世物しようって話になってんだ」
嬉々として言う。
橋本,「公開処刑ってヤツ?ほら、ネットの裏サイトとかで、中東の兵士が惨殺されるアレあるだろ?」
京介,「……あるな」
橋本,「いま、いろんな残虐シーンをよ、ネットにアップしてるんだよ。すると、世界中の人間がおれたちを恐怖するってわけだ」
もはや、正気ではないのだろう。
おれも瞬間的に腹をくくった。
京介,「なんか知らんが、それを栄一にやろうってんだな」
橋本,「お前もな」
橋本はためらいなく、うなずいた。
橋本,「悪いことだってのは知ってる。でも、悪こそが人を救ってくれるってようやく理解したんだ」
京介,「別に、おれもお前らとたいして変わらん小悪党だとは思うが……」
橋本,「あ?」
京介,「お前はさらに小物だ。"魔王"っていう巨悪に踊らされるだけで、てめえではなにも考えようとしない」
棺おけのなかにいる父を偲んだ。
京介,「本物の悪党はな、誰にも媚びず、従わない、孤高な生き物なんだよ。おれも最後まで理解できなかった。だから、てめえなんかがなにか悟ったようなことを言うな」
;黒画面
いきなり橋本が飛び掛ってきた。
顔色が変わっている。
十分な反動をつけた足が鋭く跳ね上がってきた。
手でブロックしようとしたが、体がうまく動かなかった。
鈍痛を意識したときは、壁際まで吹っ飛ばされていた。
意識は明確だが、呼吸ができない。
橋本,「もういっぺん言ってみろ」
;SE殴る音
腹部に強烈な一撃がめり込んできた。
声が出ない。
うめき声をあげてのたうちまわった。
橋本,「立て!」
体をゆっくりと起こした。
肉体はとてつもなく重い。
喉奥を這い回る異物感と、呼吸困難。
ようやく上体を上げると、手を使い、足を伸ばして踏ん張った。
橋本が一歩後ろに下がった。
くそ、飛びかかるつもりだったのに……。
床から手をはなし、なんとか立ち上がった。
立っている、歩いている、いますぐにでも宇佐美に会いにいける。
橋本,「ボンボンが!」
橋本がおれを突き飛ばし、また横殴りに蹴りを飛ばしてきた。
;SE殴る音
雑魚、雑魚、と罵声を上げ続けている。
やつの取り乱し方が尋常ではないのは、おれの顔が気に入らないからだろう。
橋本,「おら、立てよ!」
立ってやる。
何度でも立ち上がってやる。
が、床はぐらぐらと揺れており、足を据える場所を見出せない。
前につんのめったり、後ろに引き倒されたりしながら、膝を立て、腰を上げる。
二本の足で上体を支えて……。
;SE殴る音
今度は手を使って殴ってきた。
再び地べたに尻をつくはめになったおれは、傲然と小悪党を見据えた。
やつのほうがあせって余裕をなくしている。
おれは、低く笑った。
のたうっている床の振れ幅が大きくなり、酸欠に耳が痛くなってきた。
橋本,「決めた。てめえは、あとで火あぶりにしてやるよ」
橋本が上から見下ろしていた。
おれは精一杯の罵声を浴びせるつもりだったが……。
京介,「小悪党が……!」
けっきょくつまらない文句になってしまった。
橋本はおれをたっぷりと見下ろしてから、去っていった。
ドアのしまる音がすると、なにも聞こえなくなった。
押し寄せる苦痛と寒気と戦いながら、おれは長い時間をかけて身を起こしていった。
よろめきながら立ち上がり、あらゆるものを罵りながらドアを目指した。
どうということはない。
これくらいの暴力に呑まれるほど、権三はやわにおれを育てなかった。
ドアノブをつかむ。
開け!
開くわけがなかった。
……くそ……。
宇佐美っ……!
…………。
……。
;ノベル形式
エレベーターは上昇を続けていた。狭い箱の中で、"魔王"は腕を組み、じっとハルを観察していた。ハルも同様に、飛びかかる機会をうかがっていた。
"魔王"はあきらかに状況を楽しんでいるようだった。ハルを拘束もせずに、ただ見据えてくる。まるで、なにか策があるなら試してみろといわんばかりに、口の端を歪めていた。
エレベーターのドアが開く。薄暗い通路を進み、たどり着いた先は、屋上だった。
;プログラム雪演出。
恭平,「京介も、街に来ているのだろう?」
ハル,「……それがどうした?」
見上げれば曇りがかった空があった。地上からの無数の光が厚い雲を突き上げるように輝いていた。
恭平,「ここで、京介と出会ったらしいな」
"魔王"が昔を懐かしむように言った。武器も構えず、あくまで傲岸にハルと対峙している。
ハル,「なんの真似だ、"魔王"」
恭平,「お前の死に場所を演出したいと思ってな」にたりと笑う。
恭平,「本来なら外郭放水路で殺したいところだが、この封鎖状況ではかなわない」
ハルは眉をひそめ、挑むような目を向けた。"魔王"が言った。
恭平,「昔、京介とゲームをしてな。夜中まで遊んだものだ。ロールプレイングゲームとかいうジャンルらしい」
ハル,「……それが、なんだ?」
恭平,「勇者と"魔王"が最後に戦うのが、ちょうど、ここのように、いわくのある場所なのだ」
満足げに遠くを眺めていた。
恭平,「勇者は成長し、やがて"魔王"を倒すのだが、お前はどうかな?」
ハル,「…………」
恭平,「私の十年は、復讐がすべてだった。対象は、国家であったり、浅井権三であったり様々だが、憎悪の中心にいるのは、いつも宇佐美だった」
ハル,「それは、わたしも、同じことだ。お前がわたしの人生を狂わせた」
恭平,「私を殺すというのか。京介の兄である私を?」
ハルの顔がわずかに強張った。逡巡めいたものがこみ上げてくる。
恭平,「京介がかわいそうだと思わないか。あれは私を慕っていた。私が死ねば、きっと少なからず悲しむことだろう」
ハル,「この期に及んで命乞いか?」
恭平,「いいや」
さもおかしそうに首を振った。
恭平,「お前だって、悪を犯そうとしていると教えてやりたかっただけだ」
ハル,「そんなことはわかっている」
不意に、"魔王"が目を見開いた。瞳には憎しみがみなぎっていた。
恭平,「宇佐美よ、どんな人間も、最後まで自分の正しい世界に生きて死んでいくのだ」
わかっている。いまのハルも、"魔王"を叩き伏せることに正当性を見出そうとしている。人が暴力を許すとき、この自己の正当性という、誰もが大好きな弱さを頼みにする。武器を持ったテロリストであろうと、かよわい少女であろうと、いったん殺し合いともなれば、彼らは必ず正義でありたがるのだ。
恭平,「人はいつまでも同じ感情を抱いてはいられないという。私も、ときには、お前を許そうなどと考えないでもなかった。親は親、子供は子供と、当たり前の主張が良心に語りかける」
ハルもそうだった。復讐なんて馬鹿げた真似をせずに、普通に暮らそうと、ふと我に返る夕暮れもあった。
恭平,「だが、けっきょくは憎しみが勝った。父が言っていた。ハルという少女を殺さなければ、宇佐美に思い知らせてやれないと」
つい、口を開いた。
ハル,「わたしも、けっきょくは、お前を追うことをやめられなかった。ヴァイオリンケースを開くたびに母の無念が蘇る」
"魔王"は納得したようにうなずいた。いままで一番深いうなずきだった。
彼はもしかしたら、免罪符を得ようとしたのかもしれない。"魔王"がハルを憎むように、ハルも"魔王"を憎んでいて欲しかったのだ。少なくともハルは、"魔王"が自分を憎んでいてくれて、どこかほっとした気分だった。復讐の連鎖はどこまでも救いがない……。
恭平,「なあ、宇佐美。この世でもっとも長生きする感情は、憎悪だと思わないか。だからこそ、何千年の昔から、戦争が絶えないのだ」
ハルには、わからなかった。
ハル,「もう一つくらいはある……」
"魔王"は笑う。彼にはハルが何を言いたいのかわかっているようだ。ハルの胸のうちを支配しているのは憎悪だけではない。ハルは少なくともこの十年、ずっと、京介のことが好きだった。
恭平,「京介か……」
ハルはぎょっとした。"魔王"の目に、初めて優しさのような光が募ったからだ。ほんのわずかな一瞬とはいえ、不憫な弟を思いやる兄がそこにいた。束の間、"魔王"はいつもの薄ら笑いを浮かべた。
恭平,「安心しろ。お前を殺したあと、京介もあの世に送ってやる。いつまでも二人仲良くやっているがいい」
陳腐なセリフだった。哀しい男だとも思った。鮫島恭平は常軌を逸した才能と行動力を持ち合わせていたばかりに、復讐に生涯を捧げることになった。彼は彼なりの信念にもとづいて、最後の最後まで寓意的に"魔王"であろうとするのだろう。
恭平,「さて……」
"魔王"が上着の奥から拳銃を抜いた。
恭平,「私を殺しに来たというからには、なにかまた楽しい策を用意してきたんだろうな」
じりと床を鳴らし、一歩詰め寄ってきた。
間合いを取るように、ハルも後退する。正面きっての腕力勝負で、勝ち目がないのは明らかだった。
――どうする?
この状況で、ハルが"魔王"に勝っている部分はなんだろうか。
格闘は論外。
武器もない。
屋上にはなにか"魔王"の注意をそらせるようなものはないだろうか。いや、"魔王"もこの建物の構造は熟知しているのではないか。
恭平,「やはり、首を絞めて殺すか……」
……やはり、この慢心こそが、"魔王"の最大の弱点ではないか。
いつでも引き金を引ける。いつでも仲間を呼べるこの状況で、なお敵を弄ぶような余裕を示す。
とはいえ、それでも、この状況を打破することは難しい。"魔王"は演出がどうのと言いながら、ハルを逃げ場のない屋上に連れ込んだ。全身からみなぎる殺気は、これがただのお遊びではないことを物語っていた。
対してハルには、なんの用意もなかった。
;黒画面
ハルは、気圧されるように後ろに下がる。"魔王"がその分だけ距離をつめてくる。
恭平,「お前は高いところが得意だったようだな」
とうとうハルは、屋上のフェンス際まで追い詰められた。
逆襲の手立ては、なにも見出せない。銃口に追いやられるまま、フェンス際を伝って移動する。
――玉砕するしかないのか。
;ヘリの音
そのとき、頭上で轟音があった。上空をヘリが旋回している。マスコミの類だろう。とくにこちらに気づいて近づいてくる様子もないし、また近づいてきたからといって助けてくれるわけもない。
けれど、"魔王"の注意がわずかにそれた。あごを上げて、空を見やっている。
――いまか!?
いや、違う。あれは誘いだ。それが証拠に"魔王"が言う。
恭平,「フフ……チャンスではなかったか?」
突如、"魔王"が突進してきた。
ハルは逃げ道を探す。取っ組み合いになったら、今度こそ殺される。
けれど、遮蔽物のなにもない屋上。"魔王"とハルでは足の速さが違いすぎる。
逃げ場は――フェンスの奥しかなかった。
風があった。
ハルは"魔王"の手をぎりぎりのところでかわし、屋上の端に足をつけた。地上から突き上げるような風を背中に感じた。
恭平,「まあ、山王物産のビルから落ちて死ぬというのも、悪くないかもしれんな」
"魔王"が銃口を向けた。引き金には指。背筋が凍ったのは、寒さのせいではない。"魔王"と向き合いながら、首だけでちらりと地上を見やった。ハルは最後の希望をつかんだ気がした。
恭平,「さらばだ。あの世で母親に会うがいい」
;SE銃声。
直後、弾丸を避けようと、ハルは身をよじらせた。
"魔王"の放った一発は、命中しなかった。そのかわり――。
ハル,「……うあっ!」
足がもつれる。体が空中に投げ出されていく。たしか、落ちるのは二回目だ。幼かったあのときは、あの少年が助けてくれた。
――京介くん。
闇雲に腕を伸ばす。もがいた。必死で何かをつかむ。雪だった。手のなかで無情に溶ける。悲鳴。自分のものとは思えぬ声で救いを求めた。
――死ぬ!
あらゆる音が消えていった。ハルは自らが落ちていくのをはっきりと自覚した。
"魔王"の顔があった。もう笑ってはいなかった。粛々と死者を送る大人の表情だった。
ハルの視界は、カメラが高速移動するように、"魔王"の顔から、底なしに暗い空へと移り変わっていった。
高く伸ばした右腕の指先が屋上の角に触れた。けれど、体重を支えるには足りなかった。
;通常形式
…………。
……。
;背景山王物産社内。
恭平,「異常はなさそうだな」
宇佐美がビルから落ちるのを確認したおれは、踵を返して、人質の様子を見に来ていた。
なぜなら、そろそろ警察から連絡が来るころだからだ。
おれは携帯電話をかまえた。
警察との交渉に携帯電話を選んだのは、こちらの居場所から人質の居場所を推測されにくくするためだ。
警察は、おれがいま、どこからかけているのかをきちんとつかんでいる。
けれど、おれはさきほどはオフィス街からかけたし、次も別の場所で応答を受けるつもりだ。
;SE着信
恭平,「そろそろ時間だな、警視正」
時田彰浩,「ああ、そのことなんだが、実はまだ決定が降りてこないんだ」
恭平,「それは残念だ。こちらの誠意が足りなかったようだな」
電話を片手に、室内の様子を見やった。
抵抗する気力のありそうな人間はほとんどいない。
皆、壁際でうずくまり、重そうな顔をしている。
いや、一人だけ、おれをにらみつける男がいた。
若い青年社員といった風貌だった。
肩に包帯を巻いている。
育ちのよさそうな顔立ちだが、瞳には状況を打開しようという強い意志が見て取れた。
……なるほど、彼が、子供をかばったという社員か。
時田彰浩,「そこで、相談なんだが……」
恭平,「言ったはずだ。時間の延長は一切認めない」
時田彰浩,「わかっている。けれど、君もわかっていたのではないか?」
……プロだな。
時田彰浩,「現実的に八時間というのは、短すぎるとは思わないか?総理以下、関係閣僚を招集するだけでもかなりの時間がかかったらしい。その上、これほど重大な決定を下すには、どう考えても時間が足りない」
恭平,「それで?」
時田彰浩,「せめて、あと五時間待ってもらえないだろうか」
恭平,「五時間待つと何かいいことがあるのかな?」
時田彰浩,「それだけあれば、決議はおりるというのが警察の見解だ」
おれは軽く舌打ちした。
恭平,「のろまは罪だと思わないか?」
時田彰浩,「待て。早まるな」
恭平,「いまから人質の一人を殺す。銃声をきちんと聞き届けるように」
時田彰浩,「落ち着け。人を殺してなんになる。たしかに我々は要求された時間に間に合わなかった。しかし、君はプロだろう?」
恭平,「だったら?」
時田彰浩,「せめてもう少し時間をくれ。少しの猶予が、君の計画にそれほど支障をきたすのか?君はそんな甘い算段を持って、我々に挑戦してきたのか?」
見事な交渉テクニックだ。
犯人のプライドをくすぐり、現実を直視させようとしている。
やはり、時田ユキを使って、父親は排除しておくべきだったかな……。
恭平,「我々がプロであるからこそ、時間には正確でありたいのだよ」
その瞬間、躊躇なく拳銃を抜いた。
;SE銃声
引き金を引く。
女の頭が背後の壁に吹き飛んだ。
人質たちの間に漂う、重苦しい空気が一気に切り裂かれた。
悲鳴がフロアにこだました。
撃ち抜かれた女性社員の名前が叫ばれ、すすり泣きが聞こえる。
恭平,「聞こえたかな?」
時田警視正は屈辱に声も出ないようだった。
恭平,「一時間後、また連絡をもらおう。人質はあと十人はいる。言っている意味がわかるな?」
一時間につき一人、死んでいくというわけだ。
通話が途切れた。
ふと、おれを呼ぶ声があった。
岩井,「おい……!」
さきほどの若手社員だ。
何を言い出すかと思えば……。
岩井,「次は、俺をやれ。なぜかよわい女性を……!」
目に涙を浮かべ、義憤にかられていた。
おれは薄笑いを放り、その場をあとにした。
あのような勇敢な男を殺しても効果は薄い。
効果的な悲鳴というものは、いつだって女が上げるものだ。
;黒画面
…………。
……。
橋本が出て行ったドアには当然のように、外から鍵がかかっていた。
おれは、まさしくこれから公開処刑を待つ捕虜のように、監禁されたというわけだ。
懐にしまってあったはずの携帯電話も、どうやら取られたようだ。
助けは呼べないし、助けて欲しいのは栄一と宇佐美のほうだろう。
……考えろ。
部屋の中を見回す。
ドア以外に、どこにも出口はなかった。
換気扇すらない、濁った密室だった。
壁を伝って隅のがらくたに寄った。
漫画雑誌やポルノ雑誌が束になって散らばっていた。
運よく、壁を破壊できそうな削岩機や、実弾つきのマシンガンなどは落ちていなかった。
考えろ、どうやって脱走する……!?
外に出て、宇佐美と栄一を救うには……!?
あのドアを開けるには……!?
弱気になりかける心を叱咤する。
おれは正義のヒーローでもなんでもないのだ。
絶望し、いままでの人生を振り返りながら、仲間が助けてくれるような展開を期待してはならない。
考えろ。
おれは、あの浅井権三の息子だ。
これまでの人生、人に誇れるような善行は何ひとつつんでこなかったが、橋本ごとき小悪党にやられるほど、甘く生きてきたわけではない。
もし、権三がこの場にいたら、こんな無様なおれを許さないだろう。
今日は、ヤツの葬式……ヤツの魂はまだ現世にとどまっている。
――葬式!?
思わず、笑みがこぼれた。
見てろ、権三。
おれの命がけの脱出を肴に、地獄に落ちていけ。
;黒画面
おれは部屋の中央に雑誌や木でできた丸テーブルなどを集めた。
積めるものは積み、ばらけるものはばらして井桁をくみ上げる。
とにかく燃えそうなものはなんでも薪にした。
丸めた紙に、テーブルの上で転がっていたライターで火をつける。
さあ、燃え上がれ。
;SE火事
火勢が強くなるまで、慎重に足し木をした。
木材や合板は乾燥していて、いったん燃え移ってしまえば、あとは見守るだけだった。
赤く吹き上がり始めた黒煙が、天井を覆い始めた。
火の粉がはじける。
溜まりきって行き場を失った煙が、徐々に下へ下へと迫ってきた。
室内の気温が一気に上昇し、顔が熱くなってくる。
刻一刻と厚みを増した黒煙が、出口を求めてのたうちまわっていた。
……もっとだ。
もっと濃密になるがいい。
あのドアが開いた瞬間、爆風となって吹き荒れろ。
京介,「ぐっ、ごほっ……!」
尋常なけむたさではなかった。
とても目を開けていられない。
空気がなくなりかけていく。
火の勢いが弱くなって、そのぶん、煙が濃くなってきた。
おれはドアのそばでうずくまった。
; ※追加
呼吸困難に負けず、猛烈な勢いでドアを叩き始めた。
上の階には栄一が捕らえられているのだという。
当然、見張りの一人や二人はいるはずだ。
騒ぎを聞きつけてかけつけてこい。
ドアが開いたその瞬間、皆殺しにしてやる。
ドアを叩く。
足音に耳を澄ます。
誰も来ない。
なぜだ。
京介,「ごほっ、ごほっ……!」
閉じた目から涙が出てくる。
……出て来い!
なぜ、様子を見に来ない!?
力の限りドアを殴った。
恐怖が噴出す汗となって背筋を伝っていった。
もし、誰もいなかったら……?
たとえようもないほど間抜けな死に様だ。
京介,「あ、ぐっ、ごっほ、ごほっ……!」
背後では、炎がすでに、ぶすぶすと不完全燃焼の音を発していた。
ドアの下から入ってくるわずかな空気を求め、顔を押し当てた。
叩くのをやめるわけにはいかなかった。
右手に力が思うように入らない。
たまに、意識がはっきりと空白になる。
だが、あきらめるものか。
ここで死んだら……!
爪が皮膚に食い込むほど拳を固く握った。
宇佐美はどうなる!?
浅井権三は、なんのために死んだのだ!?
父よ……ああ、父よ……あんたはおれをかばって死んだ!
真実はどうでもいい!
おれはまだまだ、あんたのところにはいかんぞ!
煙にまかれた肉体が、活動を停止しようとしたのに対して、意志だけが絶命を拒んでいた。
おれはもうおれではなくなっていたのかもしれない。
一頭の野獣となって必死にドアを連打していた。
思い知らせてやらなければならない。
おれがなめられるということは、浅井権三がなめられるということなのだ。
怒りを成就させるべく、憎悪を燃やした。
前後の記憶がかなり曖昧になっていた。
それははじめ、鼻に差し込んでくる空気として自覚した。
脳細胞が不意に活性化し、突然、意識が明瞭につながった。
自分が他人の体のように思えた。
ドアを叩いていたはずの右手が、さっきから空ぶっている。
煙が奔流となって飛び出していった。
ドアがない。
開いている。
入り乱れる足音。
酸素を取り入れて再びぱちぱちと爆ぜる火の粉。
おれは牙を剥いた。
狼狽した叫びが聞こえる。
水。
消せ。
;黒画面。
つまり、獲物のさえずりだ――。
立ち上がり、煙の方向を見定めたあとは、理性の出る幕ではなかった。
ありったけの力で突進した。
ハイエナが、一人、二人……。
おれの形相に怯んだ。
腕を振り回し、顔面を陥没させた。
絶叫を待たず、その横を駆け抜けた。
まっしぐらに階段を駆け上がる。
背後からおれの腕を捕まえようとした輩に、頭上からめちゃめちゃに蹴りを振り下ろした。
手足に鈍い感覚が何度かあった。
その度に、悲鳴が上がっていた。
おれが強いのではなく、やつらに覚悟が足りないのだ。
手負いの獣ほど凶暴なものはない。
黒煙が出口を求めて天井を走っている。
おれはそのあとを追う。
煙を追い抜いたとき、一階にたどり着いていた。
誰かとぶつかって、もみ合いになった。
橋本,「お、お前っ!?」
聞いた声に体が反応した。
肺のなかが空気に満たされるにつれて、憎悪が猛々しく燃えた。
止まらぬ咳、止まらぬ涙、止まらぬうめき声。
床や天井がのたうっている。
頭痛に、吐き気に、胸がむかつき、呼吸ができない。
喉や器官の火傷、悪寒、発熱、擦り傷打撲の合併症。
無我夢中で、目の前の小悪党を蹂躙した。
京介,「殺せるものなら殺してみろ!」
それから先は、橋本のどこをどう殴ったのかおれにもわからなかった。
人を最後の最後まで奮い立たせてくれるもの、それはいつだって怒りだ。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
;黒画面。
全身がぎしぎしと痛んだ。
身動きするだけで骨がきしむ。顔がひんやりと冷たい。雪だ。雪が降っている。雪の冷たさを感じられる。ということは、生きている。
;背景空夜
空が見える。まだまだ深い夜だ。
肘がとくに痛む。きっと大きな青あざができていることだろう。
ハルは自分が気を失っていたと知った。
しかし、なぜ生きているのか。屋上から転落したのは間違いない。
ハル,「あ……」
もしかすると……。
落下の瞬間を思い出す。屋上の端から、ちらと地上を振り返ったあのとき、希望が見えた。あれにむかって飛び降りられれば助かるかもしれないと期待していた。
ハルは、いま空中にいた。
窓ガラス清掃用のゴンドラにひっかかって、地上に叩きつけられるのを回避していた。屋上までの距離は五メートルほどだった。どうやら、足から落ちることができたらしい。昔から、高いところは得意だ……。
ハルは大きく深呼吸した。強風がいつでも心に恐怖を招く。
落ち着け。ゴンドラを吊るしているワイヤーは非常に丈夫なようだ。慌てなければ、落ちることは多分ない。
だがどうやって……。
――ここから脱出すればいいのか?
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
;背景山王物産社内。
染谷,「我々をどこに連れて行こうというのかね?」
銃口を突きつけられた染谷室長が、ぼそりと言った。
恭平,「これから、皆で大型バスに乗っていただきます。当然、今川先生も一緒です」
染谷,「観光気分ではないのだがね」
恭平,「ご安心を。十分もすれば、目的地に到着します」
新しい、監禁場所にな。
人質をいつまでも同じ場所に囲っておくのは危険だ。
警察は、事件の発生がこの山王物産のビルから始まったことをすでに調べ上げているだろう。
さらに、当日の今川の行動スケジュールも把握しているだろうから、まず、山王物産にあたりをつけているはずだ。
もし、屋上から空挺部隊が急襲してきたら、大きな被害が出る。
今川,「それぐらいの距離なら歩いてもいける」
今川も、まだまだ元気なようだな。
恭平,「さすがはCO2削減を標榜している先生ですな。しかし、外には暴徒が充満しておりましてね。私の命令も聞かない血気盛んな若者がいるかもしれませんが、それでもよろしいですか?」
実際、外での暴動はおれの関知するところではない。
欲望のままに遊び尽くせと命じただけだ。
おれですら安全とは言い切れない。
薬物に頭をおかしくした少年に、いきなり撃ち殺されるかもしれないのだ。
恭平,「おわかりですね。では、出発しましょう」
;黒画面
…………。
……。
栄一,「京介っ……っ、おい京介っ……!」
拳がひりひりと痛む。
栄一,「京介たらっ……!」
荒い息が耳にうるさい。
京介,「あ、え、栄一……か……無事だったのか?」
栄一,「無事じゃねえけどな……なんつーの、満身創痍ってヤツ?」
京介,「ヤツラは?」
栄一,「みんな逃げたよ。火事だから」
妙に、焦げ臭い。
火事?
はっとして気づいた。
おれがやったのだ。
おれが、橋本を床にねじ伏せていた。
橋本は腫れ上がった顔で、なにやらうめいていた。
アドレナリンが引いたからか、全身が悲鳴を上げていた。
特に、橋本を殴りつけるために酷使した腕は、ほとんど感覚がなくなっていた。
栄一,「おい、京介、逃げるぞ……!」
おれの脇に、ぼろぼろになった栄一が立っていた。
栄一,「ヤツらがまた現れる前にずらかろうぜ」
相当な暴行を受けたのだろう、足元がふらついていた。
京介,「このクラブは、外に通じてるらしいな」
栄一,「ああ、そうだよ。だから、急げっての。火に巻かれるぞ!?」
京介,「……おれの携帯、知らねえか?」
栄一,「あ?携帯?知らねえよ。んなもんまた買えよ、ボンボンだろ!」
栄一がはやしたてるのも無理はない。
地下から這い上がった火の手はすでに、このフロアにも迫ってきていた。
栄一,「おい、急げよ。出られなくなっちまうぞ」
建物が炎上すれば、当然、警察もこの場からは踏み込んで来れないか……。
京介,「お前の携帯をよこせ」
栄一,「オレもねえよ!こいつらに取られちまった!」
なら、橋本から奪えばいいか。
栄一,「おい、京介……なんだよ、てめえ……」
……宇佐美の番号は……090……。
完璧だ、憎たらしいほど覚えている。
栄一,「ちょ、ちょっと落ち着けって。いや、お前の考えてることはオレにはわかるぜ、さすがに」
何度も無駄にかけてきやがったからな。
栄一,「無茶すんなって。こいつらみんな狂ってんだぞ!?つーか、おめえ、オレ以上にぼろぼろじゃねえか」
おれは、どうやら、本気で……。
;背景椿姫の家概観夜セピア調。
京介,「なんだ、宇佐美!?」
ハル,「あ、つながった」
京介,「あ?」
ハル,「自分、携帯電話とか持つの初めてでして。はあ、なんだかドキドキしますね、マイケータイは」
京介,「はあっ?」
ハル,「あ、とくに用事はないです。つながるかな、とドキドキしたかっただけです」
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜セピア調
ハル,「ですから、ちょっとだけでよろしいんですがね」
京介,「て、言われてもなあ……朝方……ようは四時とか五時とかみんな初詣が一段落したあたりなら、なんとかなるかもしれんが……」
ハル,「決まりですね」
京介,「まてまてまて、なにが決まったんだ」
ハル,「ようは、わたしを選べってことです」
京介,「もういい、帰れ」
;黒画面
…………。
……。
;ev_haru_09aセピア調。
京介,「…………」
ハル,「…………」
京介,「あれ?」
ハル,「はい?」
京介,「おめかしは?」
ハル,「してるじゃないすか」
京介,「ジャージじゃね?」
ハル,「おめかしじゃないすか」
;黒画面
…………。
……。
刑務所にいる父さん……。
すまない。
おれは、仇の娘に……。
京介,「栄一、お前は一人で逃げろ……」
栄一,「なっ!?」
おれは気を失った橋本の懐に手を伸ばした。
長方形で固い感触。
あった、携帯電話だ。
栄一,「京介よぉ、なんで?わけわかんねえよ、てめえ。いまなら、逃げられるんだぞ?」
京介,「……だな」
栄一,「け、警察に任せておけって。オレたちみたいなガキがどうにかできる話じゃねえって」
京介,「そうだろうな……」
だが、その警察も、いまは動きが取れないでいる。
栄一,「お、女か?そんなに女が大事なのか……?」
京介,「……違う」
栄一,「ぐっ、わ、わかったよ、じゃあ、オレも……」
京介,「いらん。てめえは役立たずの足手まといだ」
つい、口が必要以上の暴言を吐いてしまう。
京介,「……いや、外に出て警察に駆け込め。警察も、なかの情報はのどから手が出るほど欲しいはずだ」
栄一,「でもよ……」
京介,「うるせえ、行け!」
橋本が所持していたらしき拳銃が、床に転がっていた。
おれはそれを拾い、栄一に向けた。
栄一,「……しょうがねえヤツだな、お前は……」
京介,「悪いな……」
栄一,「わかったよ……」
うなだれるように、そう言った。
栄一,「次の部活を楽しみにしておくよ」
栄一は戸口に向かって走り去っていった。
おれも煙にまかれる前に、とっとと建物を出るとしよう。
橋本,「あ、ぐっ……」
橋本が気づいたようだ。
おれは頬に平手を打った。
橋本,「あ、浅井……てめえ……」
京介,「死にたくなかったら、とっとと逃げるんだな」
ぎしぎしと悲鳴を上げる体を起こし、おれは外に向かって飛び出した。
;ノベル形式
遥か地上で、車のエンジン音が聞こえた。バスだろうか。大型車両がライトを煌々とつけてアイドリングしていた。明かりにうっすらと人影が浮かび上がっている。ぞろぞろと列になって、バスに乗り込んでいった。
人質か。行くあてを見定めなければ……。
;SE 着信
携帯が鳴った。驚いて足を滑らすところだった。ふらふらとゴンドラが揺れる。
ハル,「浅井さん……!」
ひどく懐かしく聞こえた。思わず、目に涙が溜まる。
無事か、と彼は言った。
ハル,「浅井さんこそ、変な電話番号からかかってきましたが?」
気にするな、と返ってきた。いまどこにいる、と低い声で聞いてきた。
ハル,「それが、上手く説明するのが難しいんですが……」
ハルは現在の状況を打ち明けた。屋上から落ちたこと。落下の途中でゴンドラに引っかかって一命を取り留めたこと。いまなお、ゴンドラに揺られていること。
ハル,「さっきから、窓ガラスを破ろうとしてるんですが、どうにも非力でして……」
再び、短い質問。何階だ?
ハル,「多分、四十八か七階のあたりではないかと……」
わかった。
そして、最後のひと言。待ってろ――。
ハル,「え……」
唖然としたまま、通話が切れた。
――まさか、助けに?
そのとき、がくんと、ゴンドラが揺れた。支えているワイヤーが嫌な金属音を立てていた。
ハルが落ちたとき、その衝撃で……。
;背景繁華街2崩壊夜
;通常形式
……。
…………。
山王物産のビルを目指し、おれは通りを渡り歩いた。
休みたがる体を酷使し、足を前に突き出す。
右手には、橋本が持っていたごつい拳銃。
実弾射撃の経験はないでもない。
一メートルくらいまで近づけば人間にだって命中させられる。
メインストリートは静けさに包まれていた。
連中もいい加減、破壊に飽きたということか。
まだ、生き延びている人間も少なからずいるようだ。
雑居ビルの窓からこちらを覗いていた女が、おれと目が合うと、さっとカーテンを閉めた。
いまのおれは、どこからどう見ても、まともじゃないらしい。
堀部,「坊ちゃんじゃないですか……」
不意に、路地の影から、数人の男が姿を見せた。
園山組のヤクザたちだ。
事務所はセントラル街にあるのだから、巻き込まれていて当然といえば当然だが……。
京介,「よくご無事で……」
男たちは武装も服装も様々だった。
抜き身の刀を持つ上半身裸の男、スーツにサングラスといった出で立ちに拳銃を握る男。
堀部,「いやあ、坊ちゃんこそ、災難でしたねえ……」
こんな状況でも、笑顔を絶やさない堀部はどこかユニークですらあった。
堀部,「いやね、自分らもいままではやられる一方だったんですがね、さすがにガキは寝る時間じゃないですか。そろそろ反撃に出ようかと思ってたところなんですよ」
京介,「そうですか……」
堀部,「なにせ新鋭会のゴミどもまで、ガキに加担してるって話じゃないですか。ったく、オヤジが許してやった恩を忘れてくれちゃってまあ……」
残忍に笑っている。
こいつは、死んでも死ななそうだな。
京介,「父の葬儀には参列できそうにありませんね」
堀部,「そこですわ。オヤジの死に目に会えなかったばかりか、葬式にも顔だせねえとあっては、末代までの恥ってヤツでしてね」
おれはゆっくりと首を振った。
京介,「浅井権三に、形式ばった葬儀など不要ですよ」
堀部のめつきが変わった。
京介,「ヤツはきっと、いまごろぶちキレてるでしょう。聞こえませんかね、怪物の雄たけびが……」
俺の葬式なぞいらん、はむかう者を皆殺しにしろと。
京介,「なあ、堀部さんよ」
堀部,「…………」
京介,「聞こえませんかね?」
堀部は、おれを値踏みするように眺め、やがて、すっと道を開けた。
おれは前へ足を踏み出す。
…………。
……。
;一瞬場転
ヤクザ,「兄貴、どうしたんです?」
堀部,「いけねえ、いけねえ、この堀部、ついぶるっちまった」
ヤクザ,「はい……?」
堀部,「一瞬、オヤジが地獄から帰ってきたかと思ったぜ。ありゃあ、やっぱ、怪物の息子よ」
;背景繁華街1崩壊夜
静けさに包まれたセントラル街を歩く。
咳が止まらない。
身体の痛みがぶり返し、悪寒と吐き気が足を取ろうとする。
おれはよろめき、ふらふらとしながら夜を掻き分けていく。
道端に寝転がっていた少年がゆっくりと起き上がる。
初めはおれの顔、次に、握っている拳銃に目をやった。
少年は道をよけていった。
見回りをしているようなグループやバイク、自動車をみかけるが、変に逃げたり隠れたりしなかったせいか、呼び止められることはなかった。
車が止まり、すぐに走り去っていく。
道行く暴徒はガンを飛ばしてくるが、たちまち嫌悪感に眉をひそめた。
煤にまみれ、垢にまみれ、汗と血にまみれたおれの行く手をさえぎるものはなかった。
地面がのたうっている。
明かりが宙で揺れている。
歩きに歩いた。
気を失うのはまだまだ先の話だ。
唯一おれを力づけている感情があった。
愛なのか憎しみなのかわからない。
この力をいま少し残してくれるよう悪魔に祈る。
せめて、たどりつくまでは……。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
ゴンドラを吊るしている四本のワイヤーのうち、一本が、切れていた。
耳障りな金属音とともに、ゴンドラが傾いてくる。傾斜は刻一刻と深くなっていった。
建物側にある一本のワイヤーも、つないである太いネジが取れかかっていた。腕を伸ばし、ネジを回そうと試みるが、素手では無理な話だった。
――二本切れたら終わりだ。
ゴンドラは空中ブランコみたいに回転し、足場が完全になくなる。
ハルは窓ガラスを叩いた。懸命に、しかし、足場を揺らさないよう慎重に。
けれど、窓ガラスはびくともしない。なにか、固いものはないか。分厚いガラスを破れるような……。
ない。何もない。パニックに陥りそうになる。慌てればそれだけゴンドラが揺れるとわかっていながら、足が震えだした。
;背景山王物産エントランス夜
たどりついた。
高くそびえ立つビルを見上げる。
空は暗く、宇佐美がいるというゴンドラは発見できない。
……しかし、妙だ。
山王物産のビルには大勢の人質がいるはずだ。
つまり、テロリストが立て篭もっているはずなのに。
まるで、もぬけの殻といった印象。
……ためらっている場合ではない。
中に、入るのだ。
;黒画面
エントランスに人気はなく、静寂だけが支配していた。
おれはエレベーターを探し、足を引きずるようにして歩いた。
……本当に、誰もいないのか?
はっとして立ち止まる。
暗闇の向こう、非常灯の明かりに、ぼんやりと人影が浮かび上がった。
カチャと音を鳴らし、黒くて大きい銃を構えなおしていた。
なにやら英語で暗闇に向かって話をしている。
円形の大きな柱の陰に隠れながら、様子をうかがう。
敵は、あろうことか、エレベーターホールの前にいた。
直立不動の姿勢で、びたりとも動かない。
三十秒……一分と、なにもできない時間が過ぎた。
……どうする?
いきなり襲い掛かってみるか。
……いや、ありえない。
あの背格好と装備からするに、相手はプロだろう。
では、なにか注意を逸らして……そうたとえば、物音を立てて、敵がこちらに近づいたときに、一気にエレベーターに駆け寄る。
京介,「…………」
しかし、何機あるか知らないが、エレベーターが都合よく一階に下りてきているとも限らないし、そもそも、稼動しているのかどうかもわからない。
では、このままヤツがいなくなるまで待つのか?
それが、最も賢い選択に思える。
どういうわけか、テロリストどもは拠点を放棄したようだ。
ずっと待っていれば、あいつも撤収するはずだ。
だが……。
すぐ左手に非常口のランプが光っている。
馬鹿な考えが頭をよぎった。
非常口の先には階段の手すりが見えた。
まったく、無謀な考えだ。
けれど、全身がうずく。
じっとしてはいられないと、何かがはやし立てる。
宇佐美が、おれの助けをいまかいまかと待っているかもしれないのだ。
待てば待つほど、力が抜けていく。
休んでいると、不意に眠りたくなる。
反対に、一歩足を踏み出せば、活力が満ちる。
それでいいと、耳元で誰かが吠えた。
その助言に、どこか安心した気持ちになって、おれは階段を目指した。
――そう、四十七階にだって歩いていける。
;ノベル形式
ハル,「も、もしもし、浅井さんですか……?」
ハルはたまらず、携帯を手に取っていた。
なんだ、とまた素っ気無いひと言が返ってきた。
ハル,「自分、だいぶやばいなと……い、いまどちらです?」
京介,「ビルのなかだ」
ぐらりと地面が揺れたような気がした。
ハル,「ちょ、ちょっと、正気ですか?テロリストが立て篭もっているんですよ?」
京介,「どうやら、いまは手薄なようだ」
ハル,「あ……」
そうか。先ほど人質を移動するためのバスが発進していた。となると、もう、このビルを守る必要がないのだ。ならば、もう少し待てば、助けは来る……!
ハル,「エレベーター、動いてるんですね?」
京介,「さあな」
ハル,「……え?」
稼動していないのか。そういえば、先ほどからビルのなかが一気に暗くなったような気がする。
それとも、まだビル内に見張りが残っていて……などと考えていると、京介がまた野太い声で聞いてきた。
京介,「だいじょうぶか」
ハル,「え、い、いや……あのですね、ワイヤーが一本切れまして……」
そのとき、電話の向こうでガタンと音がした。耳障りな風の音が届く。
ハル,「どうしました!?」
うめき声が返ってきた。しかし、どういうわけか、直後に返ってきたのは落ち着き払った声だった。
京介,「いまにも落ちそうなわけだな?」
ハル,「え、ええ……」
わからなかった。浅井京介の身になにが起こっているのか。胸騒ぎが止まらない。
京介,「ビルのどちら側にいるかわかるか?」
ハル,「おそらく西側ではないかと。大手百貨店のデパートがある方角です」
返答がぽつりと途切れた。
空白のときを置いて「わかった」と京介が言った。続けざまに、また低い声が耳に響いた。
京介,「十分で行く」
京介が怪我をしているのは予想ができた。けれど、この落ち着きよう、胆のすわりようは、いったい……?
ハル,「まさか、浅井さん……」
通話が切れた。あとに残るのは吹き上げる風の音のみ。
ハル,「まさか……」
彼はまさか、一階から階段を登ってきているのではないか。
ハルは知らない。
彼はもっと利口な男のはずだ。
ハルを抱きながらも、好きだと口にしたことも一度だってない。
――なぜ?
ただ、胸のうちで熱いものがこみ上げてきて――。
;通常形式
闇のなか、足を踏み出す。
非常灯の薄明かりだけが頼りだ。
一つ、また一つと階段を登っていく。
鉛のように重い足を前に突き出す。
意識はまるで、眠りに落ちる前のようだった。
もうろう状態が続いている。
だが、まだ自分でちゃんとコントロールしているものがある。
最後に隠し持っていたとっておきの意識みたいなものが、おれを上へ、上へと押し上げていく。
むしろ、自分ではない何かに、引っ張られているような感覚。
そいつが、一刻も早く歩けと命じていた。
もう、それほど時間はないのだと。
凄まじい重力で押さえつけられている足の裏を何度引き剥がしたことか。
太ももは、ぱんぱんに腫れていることだろう。
同じような箇所を何度も回るものだから、めまいが加速していく。
吐き気をごまかして、力を足に集約する。
すでに、十階は踏破したと思う。
たったの十階。
これが、あと五回近く続くのだ。
……まったく、なんの罰ゲームか。
くそ、宇佐美め……。
;ev_haru_01セピア調。
もし、ヤツと再会しなければ……。
;黒画面
…………。
……。
何度か足がもつれ、階段から転げ落ちそうになった。
壁に寄りかかったとき、そのまま意識を失いそうになった。
眠気というより、純然たる闇が、頭を黒く染め上げようとする。
ふと、壁にあった数字が視界の隅に入った。
26。
京介,「ぐっ……」
まだ、二十六階。
暗闇のなか、うめき声が無情に響いた。
圧倒的な寒気に、歯ががちがちと鳴り始めた。
けれど、おれはまだ、腰をおろしてはいない。
よろめいても、ふらついても自分の足で立っている。
誰の助けもいらない。
前に見える階段の踊り場に目標を見定め、そこに向かって踏み出した。
また傾斜が深くなった。みしみしと、金属がねじれるような音がする。
あと、どれくらいもつのだろうか。緊張のためか、とめどなく汗が吹き出してくる。汗をぬぐおうにも、それでバランスを崩したらと思うと無駄な動きは一切できない。
窓ガラスの向こうを見やった。彼の顔を思い浮かべ、目の前に現れる瞬間を想像した。
考えろ。
なにかいま、自分にできることはないだろうか。
ハルは、自分が、京介に愛される資格があるのかどうか、ふと疑問に思うことがあった。
;ev_other_24bセピア調
彼は許してくれたのだろうか。彼の家庭をめちゃくちゃにしたのは、他ならぬハルの父なのだ。だからこそ、このまま無力なお姫様のように、震えているだけでいいのだろうか。
ハルは冷静に、切れかかっている一本のワイヤーを見た。
――あれが、切れたらこのゴンドラはどうなる?
おそらく、水平だった地面が、垂直になる。面はなくなり、あとに残るのは……。
ハルは、慎重にゴンドラの前方に移動し、さらにワイヤーにつながるパイプの上に足をかけた。
意味があるかどうかはわからない。けっきょく、四本あったワイヤーが二本になれば、長くは持たないだろう。
時間稼ぎにしか……。
いや、彼は十分で来るといったのだ。信じなくては。ハルは大きく深呼吸して、救いの手を待つことにした。
;通常形式
……いま、何階か。
いったい、いくつの段を越えたのか。
ぐらぐら、ぐらぐらと、床がうねっている。
熱い。
焼けるようだ。
喉が、肺が、ぜえぜえ、ぜえぜえと、うるさい。
なにを、ぐずぐずしている。
急げ。
足を、前へ、振り上げろ。
くそったれの靴の裏。
地球の中心がここだといわんばかりに、びたりと床を離そうとしない。
横っ腹が息をするたびに刺すような痛みを上げる。
独りだった。
光も風もない人工のビル。
月の光も差し込まない。
役立たずで気まぐれな神様よ、お前の手は借りん。
孤独が人を強くする。
孤独の果てに守るべき女がいればなおいい。
止められるものなら止めてみろ。
この階段は天国には続かない、ぐれた男の花道だ。
獣のいななきが鼓膜を切り裂く。
おれの、声。
;以下、浅井権三、という表示に変わって、京介、で。ボイスが権三という感じに。検索にひっかかるよういまは浅井権三にしておきます。
浅井権三,「どうしたあっ――!!!」
京介,「どうしたあっ――!!!」
浅井権三の、声。
宙ぶらりんの自意識が、己の声すら錯覚させる。
おれの心の真髄に染み渡った恐怖の怪物が、吠えに吠える。
さあ、進め。
虫けらのようにひねり殺された母の業を背負い、
復讐の狂気に取りつかれた兄の哀しみを胸に、
仇の娘のもとへ――。
;画面白滅
…………。
……。
;黒画面
京介,「……っ?」
何かに頭をぶつけた。
硬い、鉄の壁。
押してもびくともしない。
指先が痙攣を起こした。
屈辱の火柱が体内で燃え盛る。
ふと壁を見やった。
四十六階とペイントされている。
防火扉だ。
一度はおれと宇佐美を救ってくれた分厚い壁が、今度はおれの行く手を阻んでいる。
奥歯を噛み締めて身を奮起させた。
……こんな……。
こんな、馬鹿なことがあってなるものか。
あと少し。
あと、たったの一つか二つ登るだけなのだ。
どこかに、上階にいたる道があるはずだ。
折れそうになった心と足をひきずり、四十六階のフロアを探索した。
亡者のように、歩き回る。
いまさらだが、エレベーターを使うというのはどうか。
いまなら、テロリストはいないかもしれない。
……いや。
エレベーターの前まで行ってみて気づいた。
まだ、稼動している。
動かないエレベーターを見張る必要はない。
ということは、一階には、まだまだ銃を持った男がいるということだ。
エレベーターを呼べば、必ず、不審に思って上がってくるだろう。
ならば、他の手立てを……。
たとえば、荷物運搬用の小さなエレベーター。
たとえば、人が通れそうなくらいの換気口。
たとえば……たとえば……なんでもいい……。
秘密の隠し通路とか。
テロリストが上階の床を爆破したとか。
なにか、なにか……糸口は……?
探せ。
もう、約束の十分はとっくに過ぎている。
おれはまた、約束をすっぽかすのか。
;ev_haru_04dセピア調
宇佐美っ!
ヤツはきっと、今度こそおれを信じている。
なのに……それなのにっ!
;黒画面
京介,「くそおおおっ――――!!!」
;ゆっくりと立ち絵を消去
…………。
……。
;背景オフィス街崩壊夜
恭平,「次こそは、誠意ある回答をもらえるんだろうな?」
きっかり一時間後、警察から連絡があった。
わかっている。
時田警視正もつらい立場なのだろう。
政府や警察上層部は、あくまで強気の姿勢なのだろう。
釈放など許さない構えだ。
しかし、囚人は釈放しない、人質を解放しろで、その上、おれに投降しろなどと虫がよすぎる話だ。
どうせ、政府は死傷者の数に見合うだけの警察官の首を切ればいいとでも考えているのではないか。
だが、時田警視正の次の発言はおれの予想を覆すものだった。
時田彰浩,「君の要求を、政府は部分的に呑むと、決定が下った」
おれは鼻で笑った。
恭平,「交渉人にはフェイクという戦術があるそうだが?」
時田彰浩,「にわかには信じがたいだろう。しかし、これは事実だ。我々は、人命尊重の観点から、君たち武装グループの要求を条件付きで認めることにした」
予想よりも五時間も早い。
正直、政府が要求を認めるかどうかは、やってみなければわからないところがあった。
よほど、今川の命が惜しいのか。
それとも、罠なのか。
恭平,「条件とは?」
時田彰浩,「まず、君が指名した全ての人間を釈放することは認められない」
……いいぞ。
時田彰浩,「とくに、国内過激派の主格、過去に政府転覆を企てた……」
時田警視正は、そう前置きして、一人二人と、おれの用意したダミーの名前を上げていった。
もともと、そいつらの身柄などどうでも良かった。
警察との交渉材料になると思ったからこそ、さも釈放を匂わせたのだ。
恭平,「ふざけた条件だな……」
本心をいえば、すぐにでも了承したいところだが、いきなり飛びついては逆に怪しまれる。
腹を立てるふりをしながらも、譲歩の姿勢を示すのだ。
恭平,「ということは、残ったのは……」
時田彰浩,「筧洋介、南田君江、鮫島利勝の三名だ」
恭平,「ふざけるな。たったの、三人だと……?」
予想通り、おれの父はリストに残った。
なぜなら、鮫島利勝は、過激派の一味と噂されていた時期もあったが、本物ではない。
実際には政治的な思想などなにひとつ持ち合わせてはいない、善良な死刑囚なのだ。
時田彰浩,「これでも最大限の譲歩だとは思わないか?」
ああ、思うさ……素晴らしい。
恭平,「断れば、武力解決も辞さないというわけだな」
時田彰浩,「最大限の譲歩と言っただろう。これがいかに常識を逸脱した決断か、察してもらえないだろうか」
おれは、ひとまずうなずいておいた。
恭平,「回答は後回しにして、他の条件を聞こう」
時田彰浩,「無論、人質の解放。封鎖区域での暴徒の沈静化。そして……」
恭平,「我々の投降というわけだな……」
日本の法律で裁かれるなら、まず間違いなく死刑だろうな。
恭平,「では、囚人の身柄についてだが……」
おれは、どうやって父を含めた三名を国外に逃がすかを指示した。
日本海沿岸の小村まで空輸させ、そこから船で北朝鮮に……武器の密輸と大して変わらない。
船が日本の領海を離れれば、あとは手配しておいた仲間が父を拾ってくれる。
時田彰浩,「了解した。それでは、この取引は成立したと考えていいのかな?」
恭平,「五分後にかけ直す」
そう言って、通話を切った。
けれど、五分後の答えは決まっていた。
おれは、さすがに満たされる気持ちを抑え切れなかった。
……勝ったのだ。
感無量だった。
父さん……。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
ハルの予想通り、ワイヤーは無情にも切れた。
いまや、ハルの足元を支えるのは、一本の棒でしかない。さきほどまで体重を支えていたワイヤーは二本になり、みしみしと音を立てていた。
ハル,「……っ……あ……」
まるでサーカス。もはや、バランスを取ることすら難しい。ふらふらと、半壊したゴンドラが揺れる。体勢を立て直そうとするハルを、いたずらな風が煽る。
もう、限界だった。ワイヤーが持たない。引きちぎれていくワイヤーの音が、死神の囁きに聞こえる。
ハル,「京介、くん……」
切れ切れの吐息で呼んでみた。
窓ガラスの向こうに、人が現れる気配もなかった。自分の恐怖に青ざめた顔があるだけだ。なんとか歯を食いしばってみるものの、状況はなんら好転する気配を見せなかった。
ひどく、寒い。また雪がちらついてきた。ほとんど重さのないはずの雪ですら、いまは、ゴンドラに降り注いで欲しくなかった。
――ああ、どうすれば……。
心臓の音が耳の奥で爆発している。足が、ついに、がたがたと震えだした。勇者が欠いてはならないはずの勇気が、刻一刻としぼんでいく……。
恐る恐る、上を見た。二本のワイヤー。ハルの体を支える最後の命綱。すでにその役割を終えようとしていた。
――京介くん、ごめんなさい。
最後に、ハルは彼を想うことにした。恐怖に震えたまま死にたくはなかった。
気持ち悪いといいながらも、いつもかまってくれた。幼少のころに交わした安っぽい約束を思い出してくれた。彼こそが、暗い人生に暖かい春をもたらしてくれた。彼を想っていたからこそ、復讐だけにとらわれることもなかった。
ハル,「ヴァイオリン……もう一度くらい……」
……せめて、彼のために弾いてあげたかった。
;ガクンと機械的な音
;黒画面。
そして、その瞬間は唐突に訪れた。
足場の感触がなかった。心臓が浮いた。血液が逆流する。無様な悲鳴を上げてしまう。最後の悪あがきと、窓に手を伸ばす。無駄だった。窓ガラスは実になめらかだった。視界が絶望に閉ざされた。
不意に、ガラスが割れる音が闇を切り裂いた。ああ、彼は来てくれたのだ。しかし、間に合わなかった。
ハルの身体は、もうすでに空中に投げ出されていた。
重力がハルを死の淵へと誘う。
意識が断続的になり、やがて途切れた。
最後に、京介の絶叫を聞けたような気がした。彼を悲しませてしまったのが、心残りでならなかった……。
それははじめ、ハルを呼ぶ声として自覚された。死を認めたはずの脳が外からの刺激に再び活性化し、活力を与えられた細胞が息を吹き返そうと試行錯誤を繰り返している。
胸のすぐ下、胃の辺りに特に強い刺激があった。締めつけられるような感触。ぬくもりすらあった。一度捕らえたものを逃がすまいとする、獣の牙のような力強さがあった。
京介,「ハル……!」
また、名前を呼ばれた。今度は、すぐ耳元。熱い吐息に思わず体が反応する。男の声。自分の下の名前を呼び捨てにする男性は、亡くなった父くらいのものだ。ということは、ここは地獄なのか。
京介,「目を開けろ……!」
しかし、この火照り具合はどうだ。まるで、彼に抱かれているようだ。夢でもいい。ためしに目を開けてみようか。
もしかしたら。
そう、こんなことは、前にも一度あったような気がする。あのときの空は夕焼けだった。母からもらった大切な時計を落としてしまったが、命は助かった。少年はハルをかばうように、抱きすくめていてくれた。
今も、そう――。
ハル,「……京介、くん……!」
背後に、たしかな息づかいを感じた。荒々しくも優しい吐息は十年前の少年のものだった。いきなり悪態をつくような男の子ではなかったが。
京介,「……手間かけさせやがって」
涙が、止まらなかった。
ハル,「どう、して……わたし……落ちたんじゃ……?」
京介,「ああ、ぎりぎりだった。銃には安全装置ってのがあるんだったな。もう少しもたついてたら、終わりだった」
ハル,「どういうこと……?」
京介,「ガラスをぶち破ったんだ、拳銃で」
ハル,「それは……なんとなく、覚えているけれど……?」
落下の瞬間に、手をつかまれたような覚えはない。が、現実にハルはいま、建物のなか、しっかりとした床の上にいる。
ハル,「間に合ったんだね……そっか……落ちたと思ったのは、錯覚だったんだね……」
京介,「錯覚じゃねえよ。実際、落ちてきたよお前は」
ハル,「……え?」
落ちて、きた――?
京介がしゃべるのもめんどくさそうに言った。
京介,「ここは四十六階だ。防火扉のせいでそれより上には行けなかった。おれは下の階から、お前の乗っているというゴンドラを探した。言っている意味はわかるな?」
うまく、頭が回らなかった。ずっと彼の声を聞いていたいような甘酸っぱい感情が胸に募る。
京介,「お前は胸もでかいし、髪もバカみたいに長い。落下してきた瞬間を捕まえるくらい、わけなかったよ」
ハル,「そんな……」
簡単なはずがない。ハルは四十八階か四十七階くらいの高さにいたのだ。そこから、この四十六階までの距離は、最低でも三メートルはあったはずだ。その落下速度とハルの体重を考えれば、支えた人間が無傷でいられるはずがない。
窓側を見やった。床から一メートルほど上がったところに窓枠があった。その一メートルほどの壁に京介は足腰をかけて、踏ん張ったのだろうか。それがなければ、捕まえた本人も外に放り出されてしまっただろう。
京介,「よく、最後まで生き残ろうとしたな」
ハル,「……はい?」
京介,「窓にへばりつこうとしやがっただろ。蛙みたいに」
ふん、と笑っていた。
そうか……。窓のすれすれを落下したからこそ、捕まえてもらえたのだ。
ハル,「あ、ありがとう……ございました……」
京介,「礼なんていい……」
とたんに、京介の腕から力が抜けていくのがわかった。彼は死力を尽くしていたのだ。煤にまみれた衣服と擦り切れた指を見れば、いかに辛らつな状況を切り抜けてきたかが理解できた。
京介,「礼なんていいから……」
ハル,「あ、お、お金ですか……?」
京介,「違う……」
声が、かすれていく。
京介,「……もう一度、ヴァイオリンを……」
それきり、京介は動かなくなった。息はある。気を失ってしまったのだ。
ハルは身をよじらせた。けれど、もう少しこのままでいたいとも思った。このままなにもかもを忘れて眠ることができたらどれだけ幸せだろうか。
命懸けで自分を救ってくれた男の腕の中で、少しだけ――。
;背景オフィス街夜崩壊
京介,「……ぐ……っ……」
ずいぶん寝ていたようだ。
おかげで熱病のようにうなされていた意識はわずかに持ち直した。
けれど、腰や手足、太ももの痛みが思いなおしたように活気づいていた。
すでに、山王物産からテロリストたちは撤収していたが、おれたちは安全のため、再び階段を使った。
二人とも、のろのろと、亀のような動きで、途中、何度も休憩を挟んだ。
ハル,「だいじょうぶですか?」
京介,「ああ……」
心配されるのは苦手だ。
笑う膝を、なんとかごまかす。
ハル,「……実は、移動した人質の居場所がわかったんです」
京介,「どういうことだ?」
ハル,「ゴンドラに乗っているときに、地上で移動するバスを見つけたんです。ビルの前から出発して、ちょうど、セントラル街の奥のホテル街の方へ行きました」
京介,「よく見ていたな」
ハル,「ええ、バスは明るかったですし、移動するルートもネオンでいっぱいの明るい道でしたから」
京介,「うん、それで?」
ハル,「この情報は大きな武器になるのではないかと?」
おれは曖昧にうなずいた。
京介,「なるほどな……人質の、特に今川議員の居場所さえつかめれば、警察も突入してくるだろうな」
思案した後、言った。
京介,「近くまで行って、確認してみよう」
ハル,「え……いいんですか?」
京介,「このまま、あるのかわからない脱出路を探すよりは、確実性がある」
ここまで来てただ逃げ出すのでは、腹の虫が治まらないという理由も少しあった。
怪物の仇を討てと、おれのなかの獣が牙を研いでいた。
おれたちは、互いに肩を支え合いながら、セントラル街の奥へ向かった。
;黒画面
…………。
……。
事件発生から約十六時間後。
……午前、五時。
警察の対応は迅速だった。
日本海沿岸の漁村に潜む仲間から、先ほど囚人三名をこちらの手配しておいた漁船に載せたと報告があった。
恭平,「結構だ。鮫島利勝以外の二名は、警察との取引に使ってもいいし、邪魔ならば海に突き落としてもかまわん」
さて……。
勝利は約束された。
あとは……京介、だろうか。
恭平,「フフ……せいぜいがんばってほしいものだな」
期待しているぞ、我が半身よ。
;黒画面
…………。
……。
;背景繁華街2崩壊夜
栄一の親父が経営しているというホテルの前を横切った。
ハル,「たしか、あっちの通りの方へ……」
京介,「ああ、バスが停まってるな……」
小さなビジネスホテルがあった。
入り口には、銃を構えた男が立っている。
ハル,「あそこですね……」
おれたちは通りをはさんだ路地の角から、ホテルの様子を探っていた。
突如、入り口のドアからぞろぞろと人が出てきた。
スーツ姿の一団……捕らえられていた人質たちだ。
岩井の姿もあって、心底安堵した。
一列に並んで歩き、バスに乗り込んでいく。
人質の列のなかに、今川の姿はなかった。
ハル,「浅井さん、これではっきりしましたね……」
京介,「ああ、今川はあのホテルに捕らえられているんだろうな」
;黒画面
…………。
……。
時田彰浩,「こちらは約束どおり、囚人を所定の場所で引き渡した」
恭平,「ご苦労だった。では、こちらも人質を解放しよう」
時田彰浩,「今川議員も?」
恭平,「察しがいいことだ。彼については、仲間が操舵する船が日本の領海を出たら、解放しよう」
時田彰浩,「封鎖区域で行われている暴力行為を即刻やめさせたまえ」
恭平,「努力しよう。すぐに収まるものではないと思うがな」
時田彰浩,「さて、肝心の君たちの投降についてだが……」
恭平,「慌てるな。約束は守る。もはや、この身がどうなろうともかまわない」
交渉の合間に、ホテルの屋上から周辺を偵察しているアランからある報告があった。
……おれはほくそ笑んだ。
勝利だ。
もはや、船は止まらない。
あとは……。
;黒画面
…………。
……。
;背景繁華街2崩壊夜
おれは宇佐美に小声で話しかける。
京介,「問題は、どうやって警察に信じてもらうかだが……」
ハル,「ええ、もう少し明るければ、写メでも取ってやるところなんですが」
京介,「でも、もう少し近づけないかな?」
人質が乗り込んでいくバスは、かなり明るい。
車内の照明が外まで漏れている。
ハル,「……たしかに、明かりが取れそうですね」
京介,「暴徒Aが素通りすると見せかけて、こっそり盗撮する」
ホテルの入り口と、人質が護送される瞬間を捉えた一枚があればいいだろう。
おれたちは意を決して、おずおずとバスに向かっていった。
;黒画面
…………。
……。
恭平,「時田警視正、少し待て」
おれは、不意に通話を切った。
;黒画面。
ホテルの外に向かって飛び出した。
懐から拳銃を抜き、バスに乗り込んでいく人質の列を割って通りに出る。
;背景繁華街2夜崩壊
;ハルの立ち絵を表示。
……宇佐美!
ヤツは屋上から落とした。
……まさか、生きてこの場に現れるとはな……。
京介と二人、堂々と通りの真ん中を歩いている。
なぜ、ここにいるのか?
このホテルが人質の居場所だとにらんだ結果だろう。
なにやら、まっすぐに歩いているようで、徐々にバスに接近してくる。
バスに近づいてどうする気か?
まさか、銃撃戦を演じて人質を助けようとはしないだろう。
ふと、京介の右手のなかで、フラッシュが炊かれた。
――カメラか。
警察を呼び込む気だ。
;銃声
おれは冷静に、二人に向かって発砲した。
;場転
ハル,「……っ!」
おれの頬のすぐ横を銃弾がかすめていった。
;"魔王"の立ち絵を表示
振り向けば、黒い"魔王"。
恭平,「鼠が……!」
直後、おれと宇佐美は計り合わせたように、地面を蹴っていた。
酷使しすぎた筋肉が、一斉に悲鳴を上げる。
死にたくなかったら動けと、身体に命じた。
もう、写真は抑えたのだ。
逃げ切れば、助かる!
;SE銃声
再び、銃声。
生存本能に火がついた。
おれは走りながら、振り向きざまに一発、撃ち返す。
;SE銃声。
当然、"魔王"に命中するはずもなく、ただ、反動で手首を痛めただけだった。
しかし、一瞬の足止めにはなったようだ。
ハル,「あっちです!」
おれたちは細かい路地に逃げ込んだ。
;黒画面
銃声が響いた先の路地を追った。
恭平,「ちっ……!」
宇佐美と京介が逃げ込んだのは、行き止まりの袋小路だった。
にもかかわらず、二人の姿はない。
右手には居酒屋やスナックの裏口らしきドアが三つ連なっていた。
左手にもドアが一つ……こちらは物置のようだ。
どのドアか……。
候補は右に絞るべきだ。
左を選べば、逃げ場はなく、閉じ込められる形になる。
なぜなら、居酒屋やスナックには表の出口があるだろうが、物置は行き止まりだからだ。
では、三つあるうちのどれが正解か。
一番手前が最も怪しい。
慌てて逃げている状況では、余計な距離を走る余裕はないはずだ。
ためらいなく、手前のドアのノブを回す。
鍵がかかっている。
ヤツらが内側からかけたのか、それとも、もとからかかっていたのか。
……いや、待て。
さらに奥のドアを見て気づいた。
ドアの鍵穴が撃ち抜かれている。
さきほど、この路地から一発の銃声が響いた。
つまり、ここだ……。
;黒画面。
ドアを押し開ける。
しゃがんで武器を構え、万一の逆襲に備えた。
いない……。
明かりのない居酒屋の店内。
読み違えたか。
椅子は乱れ、テーブルの上の食器が割れている。
不覚。
逃げる二人が踏み荒らしたにしては、店内は荒れすぎている。
鍵穴を撃ち抜いたのは、暴れまわった"坊や"たちということか。
路地から聞こえた一発の銃声はただのおとりだったわけだ。
そのとき、目の端に動きが見えた。
路地を挟んだ物置のドアが、ゆっくりと開く。
銃口がのそりとこちらを向いた。
とっさに身を伏せ、弾丸をやりすごした。
弾が床に跳ね返る甲高い音を聞きながら、おれはトランシーバーを取り出し、仲間を呼び出した。
恭平,「私だ……」
宇佐美も京介もなかなか悪運が強いな。
愉しかったぞ……。
しかし、おれの決意は固い。
いまさら警察を呼んでも無駄なのだ。
おれはアランに告げた。
恭平,「お遊びは終わりだ。わかるな?」
…………。
……。
;背景繁華街1夜崩壊
どうやら、思ったほど傭兵の数は多くはないようだ。
おれと宇佐美は、追っ手を振り切り、セントラル街のメインストリートまで来ていた。
宇佐美が荒い息を整えながら言う。
ハル,「お怪我は?」
京介,「いまのところ平気だ」
しかし、たった一日で、一生分の体力を使い果たしたような気がする。
もう、足が、完全に棒になっていた。
京介,「追われたことで、あそこに人質がいるってはっきりしたな」
ハル,「ええ……しかし、警察にどうやって画像を送ればいいのかと……」
京介,「時田に協力してもらおう」
ハル,「なるほど……そういえば、ユキから二回くらい着信がありましたね。電話を受ける暇もなかったわけですが」
京介,「時田はたしか、お偉いさんの娘だろ。おれたちが暴徒じゃないって証明してくれるかもしれない」
宇佐美はさっそく電話をかけた。
ハル,「……あ、もしもし、ユキか……わたしだ」
ハル,「うん……無事だ……そっか、ニュースでだいたいのことはわかってるな?」
ハル,「今川議員の所在をつかんだ。いまから画像をメールするから、なんとかしてお父上に取り計らってくれ……」
でも、犯人との対決の真っ最中に、警察官が家族からの連絡を受け入れてくれるものなのだろうか……。
いや、緊急で、事件に関係する重要な情報の提供なら……。
警察も、今川議員の場所はとにかく知りたいだろう。
ハル,「任せといてと言ってます」
……ひとまず、時田を信じるしかなさそうだな。
ハル,「やはり、"魔王"なのか、とも……」
京介,「そうか……」
時田は"魔王"と会ったことがあるのだから、その人物像も警察に語るだろう。
当然、警察は"魔王"と時田の関係を追求することになる。
京介,「ちょっと代われ……」
宇佐美から携帯をひったくる。
京介,「よう、時田」
ユキ,「元気?その様子じゃ元気じゃないみたいね」
挨拶につきあっている暇はない。
京介,「この暴挙の首謀者は、お前も知ってる"魔王"だ」
ユキ,「いま聞いたわ。ニュースでは、アサイと名乗っていると言っていたけれど」
京介,「そうなのか……しかし、おれたちはいまさっきも襲われたところだ。犯人は"魔王"だ」
ユキ,「わかったわ。私もこれから、知っていることを警察にあらいざらい話すわ」
やはりか……。
京介,「わかっているだろうが、学園での立て篭もり事件のことは警察に言うなよ」
時田はためらいがちに言った。
ユキ,「……承知したわ」
通話を切った。
しかし、"魔王"の関係者とわかれば、時田もただではすまないだろうな。
過去に"魔王"に従って、いくらかの犯罪者と出会ったというが、その際に、わずかな罪も犯していないとは言い切れないだろう。
……まあ、それは、時田が自分でまいた種だ。
自分で、けりをつけるだろう。
京介,「さて、あとは警察が来るのを祈るとしよう」
幸いにも、おれは形だけは武装している。
ごつい拳銃がお守りとなって暴徒を追い払ってくれるだろう。
ハル,「…………」
京介,「ん、どうした?」
なんだ、難しい顔しやがって……。
ハル,「いえ……」
京介,「ん?」
ハル,「……なにかが、ひっかかりましてね……」
京介,「たとえば……」
ハル,「いえ、漠然としているんですが……」
ハル,「なにか……おかしいような……」
;黒画面
…………。
……。
数十分後、おれは再び警察との交渉に乗り出していた。
だが、不意に、時田警視正の流暢な口調が淀んだ。
時田彰浩,「……投降してこい……いまから一時間以内に武装を解除し……」
恭平,「なんだ?」
時田彰浩,「なんでもない。機材のトラブルだ。さて、どこまで話したかな?」
……なにかあったな。
時田彰浩,「どうした、アサイ」
おそらく、京介たちの送った画像が、対策本部に届いたのだ。
時田彰浩,「おい、聞こえているのか?」
特殊班とSATが突入してくるのも、時間の問題だな。
恭平,「ああ、聞こえている。安心してくれ。約束どおり、投降の用意はある」
時田彰浩,「だが、いまだに人質は解放されていないが?」
間違いないな……警察もいくらか強気に出てきている。
恭平,「負傷者がいるため、手間どっていた。いま、人質を乗せたバスが発進したところだ」
……しかし、もう遅い。
父を救えたのだ。
やるべきことを成し遂げたおれは、母を想った。
;黒画面
…………。
……。
;背景繁華街1夜崩壊
しかし、十分、二十分とたっても、一向に警察が突入してくるような気配はなかった。
ハル,「なぜでしょうね?」
京介,「わからんが……考えられるのは、突入経路がないからじゃないか?」
ハル,「ですね……なんとかして、こちらから作れないものでしょうか」
京介,「…………」
宇佐美の目は真剣だった。
やってやれないことはなさそうだった。
おれのなかに、今日昨日と培ってきた闘志が蘇る。
確認したとおり、プロフェッショナルの傭兵らしき男の数は、暴徒に対して圧倒的に少ない。
ということは、封鎖地点にも、もろい箇所があるはずだ。
道を塞いでいるトラックを動かすことができれば……。
京介,「宇佐美、堀部の電話番号はわかるか?」
ハル,「え?あ、はい……アイスアリーナの一件で」
京介,「ヤツらの協力があれば、封鎖地点を守るガキの一人や二人、排除できるだろう」
ハル,「では……」
京介,「ああ、こうなったら強引に、警察を招きいれてやる」
"魔王"め、あんたの思い通りにはさせないぞ。
兄さんの悲しみはわからないでもない。
母親を守れなかったおれが、兄さんを責める資格はないのかもしれない。
けれど、"魔王"は、宇佐美を殺そうとした。
何度も、弄んだ。
報いを受ける理由は、それだけで十分だろ、恭平兄さん……。
;黒画面
…………。
……。
;背景オフィス街夜崩壊
たったいま、漁船から、日本の領海を離れたと報告があった。
現在、父を海上で、別の船に引き渡しているという。
安堵した。
心の底から、ため息が出た。
ようやく勝ち得た安息。
長かった。
柄にもなく涙が出た。
徹底的に破壊つくした街並みに、もはや感慨すら覚える。
もう二度と、見ることのない景色。
;SE着信
時田警視正から、しきりに着信がある。
おれは電話に出て一言だけ告げた。
恭平,「協力を感謝する、警視正」
静かに、通話を切った。
恭平,「全員、撤収準備は済んでいるな」
おれは、今回の地獄を演出するためにつきあってくれた仲間――大半は金で雇ったが――たちに別れを告げた。
恭平,「以上で、解散とする」
おれは独り――。
;黒画面
…………。
……。
京介,「死にたくなかったら、そこをどけ」
おれはバスの運転席でうたたねをしていた少年に銃口を突きつけた。
なんだてめえってな顔をしていたが、おれの後ろには本物の極道が三人ほど、鬼のような顔をつきつけていた。
いったいどこから窃盗してきた車両なのか。
二台の大型バスが、セントラル街の一つの通りを横並びに塞いでいた。
おれたちは、その一台の運転席に近づいて車両の奪取を試みた。
運転席に座っていた少年は、恐れをなして去っていった。
京介,「堀部さん、あとは任せましたよ」
堀部,「わかりやしたよ。なあに、キーがなくても、車を動かす方法はあるんですわ。おい」
なにやらドライバーを持ち出して、子分に命じていた。
車両窃盗の手口は、見ないでおくとするか。
ハル,「浅井さん……」
京介,「どうした、宇佐美?」
なにやら、考えるような顔をしていた。
ハル,「いえ……ぞろぞろと人が集まり始めましたよ……」
騒ぎを聞きつけたのだろう。
少年たちがぽつり、ぽつりと姿を現した。
;SE機関銃の音
そこに、ヤクザの一人が、空に向けて短機関銃を打ちまくった。
京介,「てめえら、目を覚まさねえか!」
ありったけの大声で叫んだ。
京介,「もう警察が来るぞ!おれたちは終わりだ!」
とたんに少年たちの群れに動揺が走った。
彼らも疲れていたのかもしれない。
破壊という破壊、犯罪という犯罪を繰り返し、ふと我に帰ったときの恐怖を突いてやる。
京介,「人質の居場所が知られた!警察は容赦なく踏み込んでくる!」
少年の国を作るなどと、馬鹿げた夢から覚めさせてやればいい。
京介,「おれたちは利用されたんだ!武器を捨てろ!捨てないと警察に殺されるぞ!」
;SE機関銃の音
また、掃射があった。
五十人以上の人だかりができていた。
誰かが声を上げた。
――あいつの言うとおりだ!
聞いたような声だった。
ひょっとしたら、改心した橋本かもしれない……などと甘いことを考えた。
ざわめきが際立っていた。
群衆はすでに、百人を越えていた。
少年たちだけではなく、中年や老人の姿も見えた。
思った以上に、生き残った人々は多いようだ。
それに危害を加えようとする者はいなかった。
暴徒たちは、すでに、保身を考え始めている。
背後でバスのエンジンがかかる音が響いた。
もう煽る必要もないようだった。
バスが建物の外壁を削りながらゆっくりとこちらに向かってくる。
封鎖が解かれる――!
園山組の男が運転したバスはクラクションをふんだんに撒き散らしながら、人の塊に向けて突っ込んできた。
もう、暴徒もなにもなかった。
我先にと、外の世界へと飛び出していった。
――いまだ!
――助けて!
――警察に捕まりたくなかったら、逃げろ!
悲鳴と怒号があちこちで飛び交う。
こちらの異変に気づいた外の警官隊も拡声器やスピーカーを使って、叫び始めた。
――止まって下さい!
――走らないで!
無駄だった。
群衆は、津波のように押し寄せていく。
ジェラルミンの盾を持った機動隊員も、迫り来る集団にどう対処していいのかわからないようだった。
暴動でもデモでもないから、対応に困っているのか。
たしかに、逃げ惑う人々には、少年から老婆までいる。
サラリーマンにヤクザ者に外国人に学生に……とにかく、ありとあらゆるタイプの人間が、これまでセントラル街に閉じ込められていたのだ。
衣服をかき乱した少女や血まみれの青年もいる。
武器を手放した少年がもはや暴徒なのか一般市民なのか、まったく区別がつかない。
警察官が、誰彼かまわず捕まえようとしているが、逆にもみくちゃにされている始末だった。
応援を、応援を、などとしきりに叫んでいた。
そこに、人の波を割って現れる一団があった。
人数は二十人くらいだろうか。
他の警官とは明らかに異質な装備と服装をしていた。
脇に、物騒な銃を抱えている……多分、特殊部隊かなにかだろう。
彼らは、隊列を組み、中に突入してきた。
その、素早く訓練された動きは、群衆という嵐のなかにあって、一本の稲妻のようだった。
おれたちには目もくれず、あっという間に通りの彼方に走り去っていった。
向かう先は、おれたちが示唆した、ビジネスホテルの方角だった。
……これで、"魔王"も終わりだろう。
ハル,「……さん……浅井さん……!」
喧騒の中だったので、宇佐美の声が上手く聞き取れなかった。
ハル,「電話です……!」
電話?
いったい、この状況で誰からかかってくるというのか。
おれはひとまず、人ごみを抜けた。
京介,「誰からだ?」
ハル,「……出てみれば、わかるかと……」
なにやら神妙な顔をしていた。
おれはためらいがちに、宇佐美から携帯を受け取った。
京介,「もしもし……」
相手の声に、驚愕した。
恭平,「京介か……」
;背景空夜
とっさに、声が出なかった。
あたりの喧騒が、いきなり聞こえなくなった。
恭平,「京介……驚いているだろうな……」
京介,「な、なんだっていうんだ、いきなり!?」
"魔王"は、これまで聞いたことのない穏やかな声で言った。
恭平,「最後に、少し、話がしたくてな……」
京介,「え?」
心臓を鷲づかみにされる思いだった。
恭平,「父さんは、ついに釈放された……だからもう、思い残すことはない」
京介,「なっ……!」
知らなかった。
警察は、"魔王"の要求を呑んだのか。
京介,「そ、それで……?」
恭平,「いや……それだけだ」
京介,「それだけって……」
おれは今の自分の気持ちをどう表現していいのかわからなかった。
憎い"魔王"のなかに、優しかった兄が混じって、わけがわからない。
京介,「あ、あんた……まさか、死ぬつもりなのか?」
"魔王"は答えなかった。
答えないことが返事になった。
……そういえば、そうだ。
セントラル街を占拠したからといって、いったいどうやって逃げる算段だったのか。
規模が大きいだけで、ビルの立て篭もりと変わらないのだ。
京介,「いや……死ぬつもり、だったんだな」
恭平,「詮無いことだ」
京介,「……っ……」
おれはそのとき、初めて、"魔王"の覚悟を知った。
彼は、たった一人で、これまで生きてきたのだ。
たった一人で、国家に挑み、そして打ち勝った。
自らの命と、引き換えに……。
京介,「い、いや……それでも、お前は、大罪を犯した……」
恭平,「わかっている」
京介,「大勢の人を殺し、欺いた」
恭平,「わかっている」
京介,「赦されることではないだろう!」
いつしか、拳を握り締めていた。
しかし、"魔王"は……いや、恭平兄さんは、おれに赦されるために声をかけてきたわけではなかった。
恭平,「お前が、封鎖を解除したんだな、京介……やればできるじゃないか」
京介,「…………」
恭平,「そうか……強くなったんだな……」
胸が熱い。
声に出して叫びたかった。
京介,「で、でもおれは、母さんを……」
恭平,「運命だ」
慰めるようなひと言に、もう限界だった。
家族が、逝ってしまう。
清美、母さんに続き、兄さんまで……。
恭平,「なんと、呪われた一家かな……」
自嘲していた。
恭平,「しかし、私とお前は違う」
京介,「兄さん……」
恭平,「私は復讐にだけ生きてきた。けれどお前には、ほら、隣にいるのだろう?」
宇佐美……。
京介,「ああ、いる……いるさ……いまも、おれたちの会話に聞き耳立ててやがる……おれを心配してくれてるんだ……」
兄さんは笑った。
恭平,「私はその少女を許すことができなかった。お前は許せ。許して、復讐の業を断ち切るがいい」
おれは、もはや、なんと声をかけていいかもわからなかった。
ただ、無情に時が流れる。
;プログラム雪演出。
かすかに粉雪が舞う。
恭平,「さらばだ。京介……」
その直後だった。
;SE爆発音
夜だというのに、遠くの空が、赤く染まった。
黒煙が立ち上り、その方角から大勢の人が逃げ込んでくる。
警察の怒号が飛び交っていた。
ホテル……爆弾……かろうじて聞き入れた。
おれは携帯を耳に当てたまま、呆然としていた。
もう、なにもかも、忘れたくなった。
せめて、なにかひと言、かけてやれる言葉はなかったのだろうか。
大勢の人にとって極悪人の"魔王"は、おれにとってはたった一人の兄だったのだ。
京介,「兄さん……」
おれは再び、携帯のリダイヤルボタンを押した。
無我夢中だった。
つながるはずがなかった。
けれど、何度も、かけなおしてみた。
おれの腕をつかむ、髪の長い少女がいた。
ハル,「浅井さん……」
少女は、短く、けれど、厳しく言った。
ハル,「――騙されてはいけません!!!」
宇佐美ハルの瞳に、憎悪がみなぎっていた。
恭平,「フフ……」
さて、逃げるとするか。
おれは、京介が解いた封鎖地点にまで来ていた。
人の群れに溶け込み、あせらず、急がず外を目指す。
……誰が、死ぬものか。
ようやく父に会えるというのに。
まったく、勇者ご一行は大活躍だった。
思惑通り、特殊部隊をかのビジネスホテルへ誘導してくれた。
ホテル内には、多量の爆薬をしかけておいた。
突入班が今川の監禁されているドアを開けると同時に爆発するしくみになっている。
警察が発見するのは、焼け焦げた死体。
軍服を着て、皆、ご丁寧に武装している、テロリストの自決の残骸。
目的を達成した過激派が、特殊部隊の突入に観念して、自爆するというシナリオだ。
当然、おれたちの死体ではない。
そう、山王物産で捕まえた人質たちだ。
だから、あらかじめ、おれたちと同数の男性を確保しておいた上で、女を優先的に殺していったというわけだ。
彼らは、バスに乗せただけで、すぐホテルに戻させた。
京介たちが、人質がバスに乗り込む瞬間を写真に収めてくれたのは、僥倖だった。
焼死体をテロリストのものと照合するには、時間がかかる。
おれたちが、日本を離脱するくらいの時は十分に稼げる。
おれの顔を知っている者は、暴徒のなかにはいない。
宇佐美と京介くらいのものだ。
この人の嵐のなかであれば、外にいる警察も楽に振り切ることができる。
勇者に感謝しなくてはな。
おれは、まさしく、この瞬間のために、貴様と遊んでやっていたのだ……。
ハル,「浅井さん、これは罠です……!」
京介,「な……え……?」
兄を亡くした衝撃に打ち震えていたおれの腕を、宇佐美がしっかりと握る。
ハル,「どうも、うまくことが運びすぎていると思ったんです」
京介,「ど、どういうことだ……?」
ハル,「"魔王"は、いつでもわたしを殺すことができました。なのに、殺さなかった」
;ev_haru_06セピア調
ハル,「わざわざわたしを山王物産の屋上に連れて行ったときから、"魔王"の姦計は始まっていたんです」
ハル,「さも演出だのお遊びだの言いながら、わたしが、人質の居場所を探ることを予想していたんです」
ハル,「"魔王"はわたしに銃口を突きつけて、屋上から突き落としました。しかし、そのときは気づきませんでしたが、いま思えば、"魔王"は、きちんとわたしをゴンドラのある位置まで誘導していたんです」
ハル,「それが証拠に、"魔王"はゴンドラにひっかかったわたしを殺しませんでした。屋上から、いくらでも狙い撃ちにできたはずなのに」
……それは、そうかもしれない。
普通、人が落ちたなら、下を確認するはずだ……。
ハル,「それから、わざわざ明かりを全開にした大型バスを使い、これまた不自然なまでに明るい道を選んで、人質を移動させました。それも、ゴンドラの上のわたしから見える方角です」
……そうだ、そんな都合のいい話があるはずがない。
京介,「じゃあ、宇佐美は利用されていたってことか?」
ハル,「おそらく、わたしが助かることまでは予想してなかったでしょう。けれど、携帯電話で、人質の居場所を浅井さんに伝えるぐらいはできると考えたはずです」
;背景オフィス街崩壊夜セピア調
ハル,「次に、あのホテルで写真を撮ったときです」
京介,「ああ……」
ハル,「なぜ、"魔王"は、もっと必死に追ってこなかったのでしょうか?」
おれは言葉もなかった。
ハル,「彼らはプロです。山王物産のそばに隠れていたわたしを音もなく捕まえた彼らが、なぜわたしたちみたいな素人を取り逃がしたんでしょうか?」
京介,「……たしかに、追ってきたのは"魔王"一人だった」
おれは、まんまと追っ手を振り切った気になっていたが……。
ハル,「そして、この封鎖地点の防備のもろさです。わたしたちが結束して解ける程度なら、警察も苦労もなく乗り越えて来ていたでしょう」
京介,「おれたちは……警察をなかに招き入れるために利用されたのか?」
宇佐美がうなずいた。
ハル,「見てください。特殊部隊が人の群れを割るようにこちらに進んできたことで、さらなる大混乱が発生しています」
息の詰まるような大混雑。
どこを見渡しても人、人、人。
機動隊とOLと老人と警官と少年とホステスがごった返している。
騙されたと悟ったおれは、激しい怒りを燃やした。
京介,「"魔王"が逃げるには絶好の機会だ……!」
;黒画面
…………。
……。
恭平,「……予想以上の混乱だな……」
おれにとって、唯一の懸念はタイミングだった。
警察をホテルへ招き寄せるのは、交渉が成立してからだった。
もし、父の釈放を警察が渋っていれば、京介たちの大活躍はそのぶん、遅れることになった。
カメラや携帯電話のたぐいを取り上げ、監禁してやったことだろう。
もちろん、彼らが、おれの思惑通りに動かない事態も想定していた。
その場合は、仲間の一人が裏切って人質の居場所を告げるてはずになっていた。
封鎖も、こちらで解除する予定だった。
しかし、二人は本当によくやってくれた。
まさか、宇佐美が生きているとは思わなかった。
強くなったな、京介よ……。
昔から、センチメンタルな甘さが魅力の男の子だった。
いまごろ、一人感動して涙を流しているかもしれんな。
出口に近づいたそのとき、背後の喧騒のなかから、声があった。
ハル,「"魔王"……!」
はっきりと、おれを呼んでいる。
振り返れば水商売風の女を挟んだすぐ後ろに……。
……宇佐美!
気づかれたというのか。
たしかに、冷静になってあとを振り返り、事件の第三者のような目を持つことができれば、不審な点は見つかるだろう。
けれど、ヤツは、何度も死にかけたはずだ。
この命を懸けた極限状況のなかで、おれのたくらみを見破ってきたというのか……!
ハル,「お遊びが過ぎたな、"魔王"……!!!」
恭平,「くっ……!」
たしかに、少しだけ……。
宇佐美をかわいがりすぎたのだ。
おれの予想を凌駕する地点まで、勇者を成長させてしまった。
ハル,「警官の皆さん、あの男です!あれが、事件の主犯です!」
……まずい……!
宇佐美のうすら長い髪に目を引かれた警官が、いくらかおれに目を向け始めた。
――そこの男、止まりなさい。
パトカーのライトが、一斉にこちらを向けた。
機動隊員が盾を構えて、おれの前方に立ちはだかっている。
恭平,「おのれっ!!!」
策に溺れるとはこのことか!
おれは出口まで進みかけていた足を止めた。
反転し、退路を探す。
向かってくる人の波をかきわけ、邪魔な人間を撃ち殺した。
;SE銃声
悲鳴が上がる。
警察官が、何事か叫び、銃を構えた。
かまわず、道路を封鎖していたバスに近づいた。
前方のドアが開いている。
エンジンをかけっぱなしにしていて、マフラーから白い煙が上がっている。
ステップに登り、一度背後に向けて、銃を乱射した。
;黒画面
おれはバスに乗り込み、窓ガラスを撃ち抜いた。
追ってきた警官にも命中したようだ……。
さらに、慎重に狙いを定める……。
…………。
……。
現場は、地獄と化していた。
"魔王"が、バスのなかから、銃撃戦を仕掛けてきている。
銃弾が飛び交い、ばたばたと人が倒れた。
倒れた人の上に、さらに人が倒れていく。
ハル,「浅井さん、銃を、銃を貸してください!」
宇佐美が血走った目で、おれにつかみかかってきた。
京介,「ば、馬鹿!落ち着け!」
ハル,「殺すんです!いましかない!」
狂気にとりつかれていた。
ハル,「あいつは、あなたを騙したんだ!!!」
汗と涙を跳び散らし、声高に叫んだ。
ハル,「卑劣に、お母さんを殺したんだ!!!」
京介,「無茶を言うな!」
ハル,「憎くないんですか!?」
京介,「ああ、憎いさ!」
ヤツは、最後の最後まで、おれを欺いた。
京介,「でも、この場で、お前がどうにかできる相手じゃない!」
すでに、警察がバスに近づいていた。
遮蔽物を排除し、タイヤを撃ち抜いていた。
しかし、バスが動き出すことはないだろう。
道路にはまるで地獄の亡者のように人が溢れている。
ハル,「ぐっ、離して、離してください!」
死の願望にでもとりつかれているのか。
宇佐美は前進をやめようとしなかった。
京介,「宇佐美、やめろっ!!!」
バスに近づきすぎている。
"魔王"が、バスの後方……おれたちのいる側の窓に近づいてきた。
テロリストのシルエットがバスの後部、非常口のあたりに見えた。
京介,「逃げろ!!!」
ハル,「いまだ!!!」
――この馬鹿やろうが!
おれたちのせいで、警察が発砲をためらっている。
大混乱のなかでは、バスの包囲もままならないようだ。
ハル,「あいつを殺して、ヴァイオリンを弾くんだ!!!」
呪われた勇者が、修羅の声を上げたとき、さらなる銃声があった。
バスの窓が撃ち抜かれ、血が飛び散った。
恭平,「がああっ――――!!!」
"魔王"の絶叫が夜を切り裂く。
さらに、車内がいきなり明るくなった。
火柱が立ち昇る。
道路にしたたっていたガソリンにも燃えうつる。
大小、様々な爆発音が轟いた。
"魔王"の所持していた銃弾やら爆薬やらが暴発したのか。
火の手はバスのそばの建物や、街路樹に燃え移り、一気に火勢を増していった。
退避、退避、と警察が煽り、惨劇を加速する。
炎に包まれた車内。
断末魔の叫びが上がった。
"魔王"が、バスの外に出てくるのをはっきりと見た。
火だるまになりながら、道路に崩れ落ちる。
それでも拳銃を手放そうとしない。
なんという執念か。
悪鬼となって、ゆらりと起き上がり、こちらに向かって歩いてきた。
ハル,「あ、あ、あ……」
しかし、"魔王"はおれたちにたどり着くことなく、沈んでいった。
京介,「逃げるぞ、宇佐美!」
それから先は、一気だった。
;黒画面
宇佐美を連れて、人の群れをがむしゃらに突破した。
様々な声が飛び交う。
警官の叫び。
女の悲鳴。
爆薬の破裂する音。
地を揺るがすような足音。
消防車のサイレン。
ふと、パトカーの横を通り過ぎたとき、無線機から漏れる声を耳にした。
――被疑者の死亡を確認しました。
;背景空夜
;雪演出。
どこをどう走ったのかわからない。
おれは、宇佐美を抱きすくめ、頭をなでた。
少女はずっと、おれの胸で泣きじゃくっていた。
ごめん、ごめんなさい、と己の蛮行を悔いていた。
京介,「いいんだ、宇佐美……」
どっと、疲れが押し寄せてきた。
ハル,「えっ……」
京介,「もう、終わったんだ……」
ハル,「……あ、え……?」
京介,「終わったんだよ、ハル……」
宇佐美は、いきなり魔法の解かれたお姫様のように、呆然としていた。
ハル,「そう、なんだ……」
京介,「ああ」
ハル,「そっか……」
京介,「ほら、笑えよ。助かったんだぞ」
ハル,「あ、う、うん……」
けれど、少女が頬を緩ませることはなかった。
とめどない涙を拭おうともせず、声に出して泣き始めた。
少女のまぶたに落ちた雪が、切なさを際立たせた。
京介,「さあ、ハル……帰ろう」
おれは肩に回した腕に力を込めて、少女の嗚咽を受け止めた。
京介,「帰って、クラシックでも聞こうぜ……」
;黒画面
…………。
……。
;黒画面
……。
…………。
;背景主人公の部屋夕方
京介,「しかし、てめえ、引きこもってんじゃねえよ」
ハル,「浅井さんだって、昨日は一日中寝てたじゃないですか。病院行けって言ったのに」
京介,「うるせえ」
ハル,「ぎゃあ」
あれ以来、宇佐美はうちに入り浸っている。
ハル,「すいませんね、すっかり彼女面しちゃって」
京介,「……メシ作れ」
ハル,「あ、はーい」
宇佐美はいそいそキッチンに消えていった。
テレビをつける。
どのテレビ局も、先の封鎖事件をやっていた。
――国会議員今川恒夫の拉致に始まった広域封鎖事件は、おとといの朝七時に、今川および、人質数十名の死亡をもって、一応の収束をみるにいたった。
突入した警察は、封鎖区域にいた人間を拘束。
一般市民はその場で釈放、負傷者は病院へ搬送、暴徒と思しき少年は取り調べ、罪状が明らかなものは緊急逮捕となった。
ただ、混乱のなかで逃亡し、身元が確認できなかった者が、一千名以上はいるらしい。
そのなかの一人がおれというわけだ。
でも、まあ、現場に残った映像記録やら、捕まった暴徒の証言から、そのうち警察から呼び出しがかかるだろうな。
実際、芋づる式に検挙されているようだ。
拳銃は捨てるに捨てれず、いまもコートのポケットに入れてある。
……警察に見つかったら厄介だ……その筋の方に引き取ってもらうとしよう。
恐ろしいことに、死傷者は二千人を超えているらしい。
そのなかに、ホテル内に閉じ込められていた岩井もいた。
彼は、重傷を負いながらも死を免れたようだ。
意識を取り戻した彼の証言から、警察は犯行グループの思惑を知ることになった。
主犯格の男は、生前"魔王"と呼ばれていたそうで、現在、詳しい調べを進めているらしい。
ハル,「いや、浅井さんも、そのうち逮捕ですね」
京介,「うるせえよ」
ハル,「拳銃は捨てたって言ってましたよね?」
京介,「ああ……」
嘘をついておいた。
正義漢の宇佐美に見つかったら、厄介だな……。
ああ、やだやだ。
権三が死んで、おれにはもう後ろ盾はない。
その権三だが、堀部以下、園山組の主だった者が参列できなかったという理由で、葬儀は一時見合わせられたようだ。
後日、また連絡が来るという。
被害にあった学生や教員も少なくなかったらしく、学園も一週間の休校となっている。
京介,「しかし、お前、部屋でも制服なんだな」
ハル,「ええ、まあ。同じ服、何着も持ってるんで」
ホントかよ……。
;SE着信
ふと、栄一から着信があった。
栄一,「おう、京介、生きてたか?」
京介,「うん、まだ警察も来てない。このまま逃げ切れねえかな」
栄一,「いや、無理じゃね。オレもさっきまた、呼び出されたぜ?」
京介,「はあ、そうなの……」
栄一,「いや、なんつーの、オレが警察を中に入れたようなもんじゃん、むしろ」
京介,「そうかねえ……」
栄一,「いや、でも、お互い生きてて良かったな。宇佐美も無事だって話だろ?」
京介,「ああ……ぴんぴんしてやがる。他のみんなはどうだ?」
栄一,「白鳥も椿姫もてめえらを心配してたぞ。花音は?」
京介,「ああ、あのテロのせいで、空港が一時封鎖になったらしい。だもんで、まだ帰ってきてないよ」
栄一,「そっか、ユキ様なんだがな……」
京介,「うん……」
栄一,「どうも、警察に行ったっきり、帰って来ないんだわ……」
京介,「そうか……」
二、三日は取調べだろうな。
まあ、時田も法廷に引き出されるような罪は犯してないだろう。
栄一,「お前も気をつけれよ」
京介,「わかってる。おれはビルの窓をぶち破ったり、発砲したり、クラブ燃やしたり、いろいろやらかしたからな」
栄一,「おいおい、お前ってついこの間、二十歳になったんだろ?」
京介,「うん、去年の十二月な。知る人ぞ知るおれの誕生日よ。一人寂しく過ごしたぜ」
栄一,「ダブりすぎじゃね?」
京介,「うるせえから」
栄一,「ばれたら、きっと死刑じゃん」
京介,「ばれなければいい。ばれなければ犯罪じゃない」
栄一,「クズの理屈じゃねえか」
……お前にクズとか言われたくないが、まあいい。
栄一,「じゃあ、オレ、ペットの餌買いに行くから」
京介,「あっそ。いってらっしゃい」
外には雪がちらついていた。
ハル,「浅井さん、浅井さん……!」
京介,「なんだ、ドタバタすんな」
ハル,「今日、バレンタインデーって知ってました?」
京介,「え……?」
今日じゃなくね?
ハル,「今日、浅井さんの誕生日らしいじゃないですか」
京介,「なにたくらんでんだ?」
ハル,「いやもう、アレですよ、お祝いですよ。自分の誕生日含めて」
京介,「はあ……」
ハル,「そこで、ほら、で、デートとか連れて行ってくれてもいいんじゃないですか?」
京介,「こんな時間から?」
ハル,「ええ、ディナーとか」
京介,「なるほど、メシ作るの失敗したのか?」
ハル,「すみません。フォアグラのトリュフを作っていたんですが」
……もう、なに言ってんのかわかんねえよ。
京介,「お前、自炊とかしてなかったんだな。貧乏人のくせに」
ハル,「基本、カップラでした。あと、もやし」
京介,「もやしかよ……」
ハル,「じゃあ、決まりですね。どこ行きます?」
京介,「つってもなあ……セントラル街は無理だし……」
ハル,「西区はどうです?」
京介,「……まあ、いいけど」
ハル,「ご飯を食べて海をみるわけですよ、二人で」
京介,「砂浜じゃねえけどな」
ハル,「いいじゃないですか、昔、お別れした場所じゃないですか」
京介,「不吉なこというなよ」
……しまった!
ハル,「……あ、う、うれしいです」
京介,「ち……」
おれはコートを羽織った。
京介,「おら、とっとと出る準備しろ」
;黒画面
筋肉痛と打撲でひりひりする足を動かして、車を出した。
適当な洋食店で、宇佐美の所望するステーキを食った。
ガツガツ食うものだから、ムードも何もなかった。
そして、再び車を動かして港までやってきた。
;背景空夜
ハル,「うわあ、満天のほしぞらぁっ」
京介,「いやいや、微妙に雪ふってっから」
ハル,「ムードでてきましたねっ」
京介,「……あのな」
;背景港夜
;プログラム雪演出
ハル,「浅井さん……」
そっと、身を寄せてくる。
京介,「なんだよ、超さみいんだろ?」
ハル,「ばれましたか……」
京介,「ったく……今度買ってやるよ……」
ハル,「本当ですか?」
京介,「勘違いするな。一緒に歩いてて恥ずかしいからだ」
ハル,「あ、それは、真面目にすいません……」
……いや、冗談のつもりだったんだが……。
ハル,「あのう……それで、けっきょく……」
言いよどんでいた。
ハル,「浅井さんのお父さんはどうなりましたか?」
京介,「今、政府が身柄の引渡しを要請しているらしい。でも、向こうの態度は固いらしい。今回のテロには一切関知していないのだからと」
実際、父さんの乗った船は日本の領海を出て、その後の正確な行方はわからないらしい。
ハル,「きっと、また会えますよ……」
京介,「だといいがな」
ハル,「お願いなんですが……」
宇佐美は唐突に真剣な顔になった。
ハル,「お父さんに会ったら、ぜひ、わたしのことを紹介してもらえませんか?」
京介,「…………」
もし、おれが、いままでのおれだったら、この瞬間に、少女を殴り倒していたかもしれない。
けれど、人は、いつまでも憎しみを抱いてはいられないものらしい。
京介,「いいよ……」
ぎこちなく言った。
京介,「もし、会えたらな……」
宇佐美はなにも言わず、頭を下げた。
憎しみあいは、もう終わりだ。
"魔王"の死とともに、争いは終わった。
京介,「お祝いをしよう……なんか知らんが」
ハル,「あ、すみません、バレンタインデーはあさってでした」
京介,「そうか……じゃあ、あさってもだな」
ハル,「はい、自分、がんばってチョコ作りますんで」
期待できそうにないが、とりあえずうなずいておいた。
京介,「寒いか?」
ハル,「あ、いえ……」
はにかむように笑った。
ハル,「もう、寒くはないです」
京介,「…………」
ハル,「……いっしょにいてくれる人がいますので……」
思えば寂しい少女だった。
おれと同じように家族を失った。
こいつを幸せにできるのは、この世でおれくらいだろう。
京介,「来いよ……」
ハル,「あ……」
少女の身体から力が抜ける。
そっと腕を回す。
優しく優しく、水流に笹舟を浮かべるように……。
ハル,「んっ……!」
;白フェードを使った綺麗な演出で。
京介,「…………」
ハル,「…………」
京介,「…………」
ハル,「…………」
甘い、口づけ。
二人で、求め合う。
お互いから欠けてしまったものを補いあおうとするように。
ハル,「京介くん……」
涙交じりの声で、ささやいた。
ハル,「好きです……」
言葉を返す代わりに、おれはさらに深く抱きしめた。
幼き約束を交わした少女。
――ハルを、離すまいと強く口づけた。
空から舞い落ちる雪はいずこかに溶けてなくなった。
ハルのG線の上にいた悪魔といっしょに――。
;============================分界线===================================================
;黒画面
……。
…………。
;背景マンション入り口夜
;雪演出
この季節、なぜか、思い出したように連日、雪が降る。
今日は、バレンタインデーだった。
マンションに近づいたとき、オートロックのドアから人が出てきた。
軽い挨拶を交わし、エントランスに入る。
宇佐美は、いまごろなにをしているだろうか。
手作りチョコレートでも本気で作っていたら、笑える。
エレベーターを登り、部屋の前に立つ。
インターホンを押す。
ハル,「はーい!」
部屋のなかから、うれしそうな少女の声。
ハル,「早かったですねえっ」
どたばたと玄関に駆け込んでくる。
早く、会いたかった。
待ち遠しい。
換気口から、なにやら甘い香りが漂ってきている。
ハル,「いま、開けますよー」
ドアがゆっくりと開いた。
そこには、どこか懐かしくすら思える少女の顔があった。
お帰りのキスでも期待していたのか、目を閉じていた。
おれは、ドアの隙間に足を挟み、言った。
恭平,「――会いたかったよ、宇佐美」
;```章タイトル
;#bg ev_haru_21c の上に直接
;最終章春と表示
そのときの宇佐美の顔をなんと形容したものか。
さながら、一度はふやけていた雪が、また凍りついていくようだった。
;背景中央区住宅街
……まったく、ハルのヤツ。
バニラエッセンスを買って来いだとか抜かしやがった。
かくしておれは、パシリとなって、商店街から戻ってくるところだった。
ふと、着信があった。
携帯はどこかに落としたので、新しいものに変えている。
取引先かと思って、いちおう出てみた。
堀部,「どうも、坊ちゃん」
京介,「ああ、堀部さん……父の葬儀の日程は決まりましたね」
堀部,「ええ、それは、まあ、いいんですがね……」
……なんだ?
堀部,「いやね、坊ちゃんに聞いてもしょうがねえことなのかも知りませんがね……」
京介,「ええ……」
堀部,「てまえの子分に、ミキヒサってのがいるんですがね、知りませんかね?」
京介,「いや……名前も初めてですが……どうかしましたか?」
堀部,「そすか、ですよねえ……あの野郎、どこに消えちまったんだ……」
京介,「消えた?」
堀部,「ええ、あの、セントラル街での事件以来、行方不明になっちまったんです」
胸騒ぎがする。
京介,「最後に、その人を見たのは?」
堀部,「ええ……ヤツは、ほら、封鎖をとくためにバスを動かしたじゃないですか。その運転を命じてたんですがね……」
京介,「バス……」
はっとして、あのときの光景を思い返した。
おれはたしかに見た。
燃え盛るバスのなかから、火だるまになった男が……。
京介,「……なんてことだ……」
堀部,「え、どうしやした?」
京介,「く、詳しい話はあとで……!」
通話を切った。
すぐさま、ハルに電話をかける。
一回目のコール……ハルは出ない。
二回目のコール……ハルは出ない。
自宅でチョコレートを作ってるはずのハルから、まったく応答はなかった。
買い物袋を放り出して駆け出す。
京介,「くそっ!」
あの火だるまになった男は、"魔王"じゃなかった。
バスの運転席にいたヤクザ者に拳銃まで握らせて、身代わりにしたのだ。
……そういえば、"魔王"が一瞬、非常口の窓に寄ったのをおれは見ていた。
警察と銃撃戦をするふりをして、バスの窓ガラスを破り、燃料を撃ち抜いたんだ。
そして、あの混雑を利用して逃走した。
おれたちが警察から逃げ切れるくらいだから、"魔王"には簡単なことだったろう。
急げ!
"魔王"は、生きている!
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜明かりあり
;ノベル形式
宇佐美ハルは、玄関先に立つ"魔王"の姿に心底恐怖していた。とっさに、"魔王"から離れるようにリビングに駆け込んだ。
恭平,「初めて上がったが、なかなかいい部屋に住んでいるな」
"魔王"が、いつもながら余裕そうに言う。
ハルは、驚愕に目を見開き、キッチンのほうに後ずさりしていく。
恭平,「どうした、宇佐美。声もないか?」
ハル,「……生きていたか」
恭平,「生きていたさ。本当ならすぐにでも父に会いに行きたいところだが、やり残したことがあるのでな」
ハル,「……チョコレートでももらいに来たか?」
"魔王"は笑った。
恭平,「私のためにがんばったわけではなかろう?」
ハル,「……じゃあ、なんだ?」
恭平,「もちろん、お前に地獄を味わわせるためだ」
"魔王"が踏み込んできた。その顔からは、生気のかけらも感じられなかった。
;黒画面
ハルはキッチンの奥に逃げ込んだ。手探りでナイフを探す。ない。どこだ。"魔王"が迫ってくる。
ハルは鍋をつかんだ。蓋をあけて放り投げる。ぐつぐつと煮える湯と溶けて液状になったチョコレートは、しかし、"魔王"の顔面に振り注ぐことはなかった。
恭平,「……どうした?」
"魔王"は、もう笑わない。一切の感情を排除した表情にはなんの迷いもためらいも見出せなかった。
――死神のよう。
"魔王"がチョコレートにまみれた床に足を伸ばした瞬間を狙った。死に物狂いで突進する。"魔王"が身構えるが、かまわず体当たりした。
;SEガッという音
死神がわずかによろめいた。顎を狙って拳を振った。見切られていたようにかわされる。ハルはバランスを崩して、リビングの床まで転がった。
恭平,「……終わりか?」
"魔王"は床に倒れたハルを、上から死人を見るような目で見つめていた。
これまでの"魔王"とは何かが違う。遊んでいるのでも、弄んでいるのでもない。もっと、凶悪で深遠な謀を秘めているようだった。
額から汗が吹き出す。恐怖に震える手を握り締めた。
――仇が、いる!
自分の手で、殺しそこなった母の仇が、再び現れた。天がくれたチャンスではないか。
ハルは立ち上がった。憎悪を爆発させて、"魔王"の輝きのない双眸を見据えた。
たとえ、刺し違えてでも――。
ハルは身構え、全身に力をみなぎらせた。
;SE銃声
瞬間、一発の銃声が響いた。
"魔王"が身を悶えさせる。肩口に命中したようだ。血が飛び出て、スーツを濡らす。撃った方向を見た。京介が銃を構えていた。

;SE銃声
続けざまにもう一発撃つ。今度は当たらなかった。"魔王"はうめき声もあげず、猛然と京介に突進していった。
;背景主人公の部屋夜
;通常形式
京介,「"魔王"……!!!」
躊躇なく引き金を引いた。
しかし、たった数メートル先の標的にも弾は逸れていく。
"魔王"の腕が懐に伸びる。
黒い鉄の塊……拳銃を抜いた。
しかし、どういうわけかその場に投げ捨てた。
恭平,「どけっ!」
腹に一撃を受けた。
体がくの字に折れる。
膝を突く前に、もう一度銃を振り上げる。
が、あっさりと手首をひねられた。
拳銃が床に転がった。
"魔王"は、おれを蹴り飛ばし、玄関へ走っていった。
ハル,「京介くん……!」
京介,「ハル……無事か?」
ハル,「わたしは、だいじょうぶです」
京介,「おれも、へ、平気だ……」
折れそうになった膝をなんとか伸ばす。
ハル,「追いましょう!」
京介,「あ、おい……!」
ハルはおれの脇をすり抜けて、外に飛び出した。
京介,「待て!」
危険すぎる!
京介,「警察を、せめて、園山組を呼び出すまで待て……!」
手探りで床に落ちた拳銃を探す。
ない。
ハルが持っていったのか!
おれは"魔王"の落とした一丁の拳銃を拾い、ハルのあとを追った。
;背景マンション入り口夜雪演出
……それにしても妙だ。
"魔王"はなぜ、逃げたのか。
拳銃を抜いただけで、撃っては来なかった。
ハルを殺しに来たのではないのか。
……なぜだ……そしてどこへ逃亡するというのか。
;黒画面
…………。
……。
;背景中央区住宅街夜雪演出
後ろから、しっかりと宇佐美の靴音が響いていた。
恭平,「……っ……」
肩をかすめた一発が、響いている。
恭平,「くっ……」
思惑通り、宇佐美はおれを追ってきている。
……足がふらつく。
もっと、人通りの多いところまで出るつもりだったが……そううまくことは運ばないか……。
さあ、京介よ……これが、最後の試練だ。
お前も地獄を味わえ。
おれは、改心などしない。
弟への情など……いや、情があるからこそ、このまま京介を赦すわけにはいかないのだ。
左手に、小さな公園があった。
遊具はなく、小さな砂場があるだけ。
"魔王"が最期をかざるには、ふさわしい遊び場だ。
;ノベル形式
宇佐美ハルを突き動かすもの。
それは、復讐心であり、ある種の強迫観念でもあった。
;ev_haru_14 セピア調
"魔王"と聞くだけで、あのときの光景が蘇る。銃声と悲鳴。ちぎれた腕とはみでた内臓。悪夢は加速する。殺さなければ殺される。だから、ハルは"魔王"を追う。京介が落とした拳銃を片手に、発砲の経験など皆無にもかかわらず。
脳裏に"魔王"の声が蘇る。
;以下、過去のボイスを当ててください。
恭平,「母は、最後までお前のことを案じていた」
恭平,「娘だけは助けてくださいと、何度も頭を下げた」
"魔王"はハルを煽り、弄んだ。
恭平,「お前もそうだ、宇佐美ハル。やっと私にめぐりあえた。お前はただの死に損ない。お前に必要なのは、愛でも友情でもなく、敵であり悪であり、そう仮託できる思い込みだ」
長い戦いのなか、"魔王"は勇者に呪いをかけていった。
恭平,「だから、ヴァイオリンも捨てたのだろう?」
まったく、悪魔は人の心の弱さにつけいるのが上手い。
ハルはすでに、自制を失っていた。
;ev_haru_07cセピア調。
決めていた。もはや、誰の声も届かない。
追い詰めて、ためらいなく殺す。だが、どうやって……?
すでに、ハルは、自分が拳銃を握っていることすら自覚していなかった。
;黒画面
ハルと"魔王"を駆け足で追う。
あたりは閑静な住宅街。
不意に、前方を走るハルが、左に曲がった。
あそこはたしか……小さな公園があったはずだ。
だが……。
おれは、怯みそうになった。
ハルが道を逸れたとき、その横顔が見えた。
いつものうすら馬鹿のハルは、そこにはいなかった。
見たこともない恐ろしい表情で、獲物を狙っていた。
まるで、どこぞの神話か民謡を思い出す。
悪魔を追い詰めた勇者が、やがて悪に染まる……。
京介,「そうか……」
おれは、そのとき、"魔王"の真の狙いに気づいた。
なんと壮大で、深いたくらみか。
頭を抱えたくなるのをこらえる。
……終わりだ。
ああ……。
思わず、空を見上げてしまった。
;背景空夜雪演出
空に神様はいないと知りながらも、なぜ、おれは見上げてしまうのか。
これから、起こる出来事を想像し、思わず天を仰いでいる。
ハル……。
すまなかった。
復讐の連鎖を断ち切ったと思っていたのは、おれだけだったんだな。
業を終えたと思ったのは、おれだけだったんだな。
せめてもう少し、時があれば、わかりあえたかもしれない。
もっと、話をしていれば……。
――どうした、京介。
誰かが、ふと、耳元でささやいた。
頭上から拳を振り下ろされた気分だった。
おれに、そんな真似をするのは、あの怪物しかいない。
おれをかばい、死んでいったあの男しか……。
ああ、わかったよ。
おれも、あんたを見習うとしよう。
長いつきあいだからな。
――そうか。
怪物は、ニタリと笑った。
おれは、いつまでも、あんたの息子なんだろうな……。
;黒画面
おれは銃の安全装置を外し、迷うことなく公園まで駆け抜けた。
…………。
……。
恭平,「……どうした、宇佐美?」
おれは公園の中央に立つ大木の幹によりかかり、宇佐美の接近を待った。
宇佐美は、肩で息をしていた。
目つきが異常だった。
まさしく、おれの望んだ"魔王"そのものに変貌していた。
恭平,「さあ……」
見たところ安全装置は解除されている。
ちゃんと両手で構えている。
あとは、引き金を引くだけだ。
この距離ではどんな素人でも、まず、外しようがない。
あたりに人気はないか……しかし、銃声を聞けば、近所から人が飛び出してくるだろう。
宇佐美の拳銃を持つ手が震える。
逡巡に溺れているわけではない。
ようやく悪夢から解放される喜びに、心底安堵しているのだ。
その指が、引き金にかかった。
死ね――――!
髪を振り乱し、絶叫した。
その瞬間、宇佐美の後方から滑り込んでくる影があった。
……いいぞ。
もともと、宇佐美の腕を抑えるようなタイミングを京介に与えるつもりは決してなかった。
;SE銃声連続
乾いた音が連続する。
腹に一発。
焼けるような痛みが広がる。
……そうか、こうなったか。
あの拳銃は素人でもわりと的に当てやすい。
撃たれた衝撃に目を細めながらもしっかりと見た。
背後からの銃声に驚いた宇佐美。
落雷に打たれたかのように、その場に崩れ落ちた。
目が、かすむ……。
だが、これでもいい……むしろ……。
――我が謀は、成れり……。
;画面白滅
…………。
……。
京介,「"魔王"……」
ありったけの弾を撃ちまくって、"魔王"のそばに近づいた。
公園の土のうえに崩れ落ちたハルがいた。
すぐさま、物騒な拳銃を奪い、懐にしまった。
周囲の閑静な住宅地から、悲鳴が上がっていた。
警察を呼ぶ声がある。
おれを指差している中年の男がいた。
そんな光景を、満足げに眺める男が目の前にいた。
恭平,「……京介……よく、やった……」
おれには、なぜ、"魔王"が自ら死にに来たのかわかっていた。
理由は一つしかない。
京介,「父さんは……鮫島利勝は、亡くなったんだな?」
"魔王"は、ゆっくりとうなずいた。
恭平,「父は、心臓の持病を持っていた……知っているか?」
おれは、首を横に振った。
恭平,「だろうな……だからお前は……救われんのだ……」
いまにも閉じそうな目に、再び憎悪が募った。
京介,「あんたは、予想してたんだな。いや、最悪の事態を想定していたというべきか」
恭平,「…………」
京介,「父さんを釈放させたまではいい。しかし、父さんはもう歳だ。長い船旅に耐えられるだろうかという懸念があった」
恭平,「不安は現実となった。そう、私が殺したようなものだ」
京介,「父さんには会えたのか?」
恭平,「いいや……遅かった」
背負いきれぬ哀しみをなお背負い、"魔王"は続けた。
恭平,「地獄でいくらでも父にわびよう……だが、あれで良かったとも私は考える……不当な判決を下したこの国に殺されるよりも……せめて最期に希望を持たせてやれればと……私はテロを断行した」
京介,「そして、一方で、ハルを煽り立て続けた……」
かすかに笑った。
恭平,「ハル、か……」
笑いは、若干の吐血を招いた。
かまわず、言った。
恭平,「京介よ……なぜ、母のそばにいてやらなかった?」
京介,「…………」
恭平,「私は、言ったはずだ。母を頼んだと」
京介,「…………」
恭平,「なぜ、あの借金取りの養子になどなった?」
答えようがなかった。
……極貧生活を脱出して母を迎えに行くため。
……浅井権三すら凌駕する金持ちになって一家を罵った連中を見返してやるため。
どんな答えも、鮫島恭平の前ではいいわけにしかならない。
恭平,「金、か……金、だろうな……金はいつでも戦いを招く……金は意志を持つ……戦争も、そうだった……」
ごほっと咳き込んだ。
恭平,「だが、金の奴隷になるような弱い人間が、私は、大嫌いでな……」
わかっている。
だからこそ、"魔王"はおれに引き金を引かせたのだ。
恭平,「あまつさえお前は、にっくき宇佐美の娘と恋をした……」
許せなくて、当然だ。
おれたちの幸せを許すには、仏のような度量がいるだろう。
恭平,「強くあれ、京介……お前は、償うべきだ……わかっているようだがな……」
だからこそ、おれも引き金を引いた。
恭平,「そこの少女は、お前と違って、柔軟ではなかったようだ……せいぜい目を覚まさせてやるんだな……復讐に意味はないと……」
自嘲の笑み。
恭平,「……くっ、ふっ……まさに、浅井権三の、言うとおりだったか……」
復讐に救いを求める愚か者の笑みだった。
恭平,「京介……っ……私を撃ち殺したお前がどうなるか、わかっているな?」
おれは、うなずいた。
恭平,「そうか……ならば、私を憎むがいい。憎悪は、人を……」
いいかけて、己の失言を恥じるようにうつむいた。
恭平,「いや、愛も、また……」
なにか言いかけたまま、動かなくなった。
物言わぬ肉の塊に、雪が降り積もる。
同情はしない。
涙もでない。
"魔王"は、最期の最期まで、"魔王"だった。
邪悪で、卑劣で、狡猾な策を完遂し、逝った。
ふと、彼がクラシックを聞かないことを思い出した。
なぜか、そんなことだけが、悲しかった。
;黒画面
…………。
……。
;背景空夜雪演出
だが、悲しみに暮れている時間はない。
京介,「ハルっ……」
呼びかけても、意識を取り戻す気配がなかった。
こんなところで寝かせていては、カゼを引いてしまうだろう。
おれはハルを抱え自宅に向かった。
道行く人が、おれを指差す。
銃口をハルに向け、さも人質にしているような態度を取った。
;背景主人公自室夜あかりなし
暗い部屋。
ハルをベッドに寝かせ、おれは一人、考えをまとめていた。
視線の先には、ヴァイオリンケース。
ハルの母の形見だ。
もう一度、聞いてみたかったが……かなわぬ夢か。
夢……。
ヴァイオリニストという華やかな夢。
かなえさせてやらねば。
そばにいて、その夢を支えてやることもできないか……。
いや、むしろ、邪魔になる。
ハルは、いまでも、三島春菜というアーティストなのだ。
引退したというようなことを言っていたが、本心では続けていたいに決まっている。
つまり、おれがそばにいれば、マスコミの格好の餌食になるということだ。
彼らの恐ろしさは、おれも幼少のころ、身をもって知った。
だから、目立つのは嫌いだった。
いや、これからは、いやでも目立つことになるわけだが……。
すまない、ハル……。
もう一度、弾けるようにしてやると決意したおれなのに……。
もう、そばにはいてやれない。
――おれは、殺人を犯したのだから。
ハル,「んっ……」
パトカーのサイレンに目を覚ましたようだ。
おれはテラスに出て、携帯を駆使した。
;黒画面
京介,「あー、ミキちゃんか……うん、お久しぶり……頼みがある。うんうん、お願いするよ……最後の頼みなんだ。ああ、椿姫って女がいるんだが……」
京介,「どうも、堀部さん。申し訳ない、父の葬儀には行けなくなりました。まあ、詳しい事情はニュースでも見ていてください。それで、まあ、ちょっとお願いが……」
ややあって、テラスの窓が開く音が聞こえた。
;背景空夜雪演出
ハル,「京介くん……?」
京介,「やっと起きたか」
おれは努めて、冷たい声を出した。
ハル,「な、なにがあったんです?」
……よく覚えていないのか。
これは、幸いだ。
京介,「もうすぐ、警察が来る」
ハル,「えっ!?」
京介,「おれは人を殺した」
ハルがたじろぐ。
ハル,「ひ、人って……"魔王"、ですよね?」
京介,「そうだ。おれは出頭する」
ハル,「そんなっ!!!」
悲鳴と同時に、飛びついてきた。
ハル,「ま、待って!待ってください!」
必死に、しがみついていた。
ハル,「おかしいじゃないですか!」
溢れる涙を隠そうともしない。
ハル,「だ、だって、あれは、正当防衛じゃ……!?」
京介,「馬鹿を言うな」
冷たく言った。
京介,「ヤツは丸腰だった。おれはいつでも警察を呼べた。なのに、逃げるヤツをわざわざ追いかけて、撃った。どこが正当防衛だ」
さらに、おれは銃を不法に所持していた。
これも、いつでも手放す機会があった。
ほぼ、間違いなく殺人。
それも兄弟を殺したのだから、罪は重い。
ハル,「で、でもっ、"魔王"は、極悪人で、死刑になって当然なんですよ!」
京介,「それとこれとは話が別だ」
ハルがわかりきっていることで泣き喚いているのは、自分のせいだと思っているからだろう。
ハル,「そんな……だって……こんな、こんなことって……」
混乱し、あえいでいる。
ハル,「ご、ごめん、ごめん、なさいっ!わたしも、わたしも罰を受けます!」
おれは腹に力を込めて言った。
京介,「何を言っている、宇佐美」
苗字を呼ばれて、不意に我に返ったようだ。
京介,「お前がなにをした?」
ハル,「わたしが、わたしのせいで、京介くんが、引き金を引いたんです!」
京介,「…………」
ハル,「わたしを止めるには、もう、間に合わないと思ったから、京介くんが撃ったんです!」
京介,「…………」
ハル,「き、気づくべきだったんです!罠だったんです!あんな人目のつくような公園に逃げ込んで、さも力尽きたように木の幹によりかかるなんておかしいんです!」
ハルの言うとおり、"魔王"の計画は完璧だった。
ハルを誘い、おれにとって絶望的なタイミングを見計らっていたのだろう。
止める術は、おれが引き金を引く以外になかった。
"魔王"は、最初から、おれかハルを殺人犯に仕立て上げるつもりだったのだ。
おれは、ハルを殺人犯にするわけにはいかなかった。
こいつには、将来があるのだ。
ヴァイオリニストとしての、輝かしい未来が。
京介,「わけがわからんな。お前は、なにもしていなかったが?」
ハル,「わ、わたしは……銃を……あ、あれ……?」
記憶が曖昧なのだろう。
京介,「銃だって?別にお前は銃なんて持っていなかったが?」
説き伏せねば。
ハル,「……そんなはずは……」
道すがら、誰とも出くわさなかった。
ハルが拳銃を所持して"魔王"を追い掛け回していたところを目撃した者は、おそらくいない。
ハル,「で、でも、そんなはずは……!」
京介,「お前は、なにもしていない。いいな?」
ハル,「い、いやだ!」
京介,「頼むからおれの言うことを聞け!」
目に力を込めた。
ハル,「や、やだ!いやだ!いやだ!」
駄々っ子のようにわめき散らす。
ハル,「す、好きなんだよ!」
……すまん。
ハル,「大好きなんだよ、ずっとずっと、好きだったんだよ!」
すまなかった。
ハル,「いっしょに、いっしょにぃ、いたいんだよっ……」
ハル,「なんで、なんで?や、やっと、やっと、そばに……」
ハル,「幸せに、二人っきりで、暮らせると思ったのにぃっ!そばに、いられると、思ったのにぃっ!」
涙がこみ上げる。
が、流すものか。
ここで、泣き、ハルを強く抱きしめてはならない。
情に流されれば、足が止まる。
京介,「そうか……おれのことを、そんなに……」
ハル,「うんっ、うんっ!」
不意に、
;ev_haru_04dセピア調
――恋人とか、いるの?
――勇者はおませさんなんだね。女の子のほうがそういうの興味あるって父さんが言ってた。
――いいから、いるの、いないの?
――いないよ。そういうのは考えたこともなかったなあ。
――しょうがないわね、なら、わたしが結婚してあげるわよ。
――また会えたらね。覚えていたらでいいから。わたし、これから引っ越すの。運命の再会っていうのかな。ロマンチックじゃない?」
――引っ越す?
――そう。
――なんで?
;以下だけボイスを拾ってください。
ハル,「ヴァイオリンの勉強するの」
別れを告げる少女の泣き顔が、昨日のことのように思えた。
おれは、だから……。
だからこそ……。
突き放した。
ハル,「あ……」
置き去りにされた子供のような顔に背を向けた。
京介,「そんなに好きなら、この先どうすればいいかわかるな?」
ハル,「え?」
京介,「どうすれば、おれが一番喜ぶか、わかるな?」
ハル,「あ……や……」
わかるはずだ……この子は頭がいい。
ハル,「や、やだ……」
かすれた声で、おれを呼ぶ。
ハル,「いかないで……」
足を踏み出した。
おれたちは出会い、別れ、その繰り返しだ。
残酷なときの流れが、おれから思い出を奪い去った。
再びめぐり合ったとき、少女は大きく成長していた。
そして、もう一度、別れ。
ハル,「……京介……くん……お願い……」
今度は、もう会えない。
ハル,「もう少し、せめて、もう少しだけでも……!」
再会は、二度と、許されない。
ハル,「お願い、お願い、しますっ……!!!」
ハル,「神様!助けてっ……」
ハル,「彼を、助けてください!なにも、なにも悪くないんです!」
ハル,「京介くんは、なにもっ、なにもっ――――!」
嗚咽交じりに、泣きじゃくっていた。
少女の震える肩に、雪が落ち、あっという間に消えていく。
神様、神様、と祈り捧げるハルが、白い雪をまとって輝いていく。
善良な少女だった。
神様も、こんな美しい少女の祈りなら、聞き届けてくれるのかもしれないな……。
だが、なにも悪くないなんてことはない。
おれは大なり小なり罪を犯している。
椿姫や花音を筆頭に、大勢の人間を欺いて生きてきた。
母も、父も、兄も救えなかった。
"魔王"が命を懸けて残した最後の試練、受けてたとうじゃないか――。
ハル,「……京介くんっ……!!!」
;画面白滅
…………。
……。
;背景マンション入り口夜雪演出
……。
…………。
すでに、マンションの前には、数台のパトカーが入り口を囲むように停車していた。
おれは両手を上げて投降の意志を伝えた。
二丁の拳銃も警察官の目に見えるような位置に置いた。
そのほか、あらゆる準備を済ましておいた。
二月十四日夜、おれは警察官に手錠をかけられることになった。
それから三日たった。
おれは、警察署内で連日、休む間もなく取り調べを受けた。
先日の封鎖事件の主犯格を殺害したと思しき男として、警察はおれを徹底的に調べ上げるつもりのようだった。
一度、自宅のマンションに連れられ、様々な写真を取られた。
"魔王"を殺害した現場や、拳銃にもフラッシュが飛ぶ。
手錠をされ、腰紐をまかれ、おれは警察署の裏手にあった留置所に入った。
財布や携帯など持ち物は全て、警察に預け入れられた。
指紋をとられ、服を脱がされたあとは身体測定が始まる。
ベルトや靴紐などは取られて、40と銘打たれた指定のサンダルに履き替えさせられた。
居房に入って、鉄格子と金網のかかった窓を見上げると、不安が募った。
逮捕されてすぐに、弁護士に知り合いはいるかと聞かれていた。
いるにはいるが、権三の後ろ盾のなくなったおれに快く手を貸してくれるとは思えなかった。
けっきょく、警察が紹介してくれた当番さんとやらに任せることにした。
目に力のない疲れた初老の弁護士だった。
ぼそぼそとしゃべる口からは、やる気は伝わってこなかった。
その後、検事に会って、黙秘権だの弁護士を雇う権利だのを聞かされたあと、さらに留置所生活が続く。
取調べはいきなり厳しくなった。
何度も同じ質問を繰り返され、何度も似たような書類に指を押した。
どうも、刑事のなかでも、捜査一課の課長がじきじきにおれを取り調べているようだった。
笑みを絶やさない中年の男だったが、まなざしは常に鋭かった。
刑事,「だいたいわかったよ……じゃあ、もう一回聞くがね……」
本当に、もう何度目かわからなかった。
刑事,「浅井京介くん……きみは」
京介,「浅井ではありません。鮫島です。先日役所で離縁の手続きをしましたから」
刑事,「失礼、聞いていたね。では、鮫島くんに聞こう。君は、先の広域封鎖事件の主犯と目される"魔王"の弟だという」
京介,「はい……疑いようがありません」
刑事,「ふむ、それについては我々も目下調べを進めている。だが、そうすると、君は兄を殺したということになるね?」
京介,「ですから、何度もそう言っているじゃありませんか」
刑事は机を何度か指でコツコツと叩いた。
刑事,「殺人事件の経緯はこうだ。君が自宅に戻ると、兄が少女に暴行していた。少女の名前は宇佐美ハルだったね?」
京介,「……はい」
わずかに、動揺が走ったのを刑事は見逃さなかった。
刑事,「安心していい。少女は未成年だ。なにかあっても、世間に実名が公表されるようなことはない」
……しかし、少女Aなどと、煽り立てられることになる。
京介,「続きをどうぞ」
老練な警察官とやりとりするには、胆力が必要だった。
刑事,「同棲していたのかい?」
嘘など通じまい。
京介,「はい」
刑事,「だろうね。あの日はバレンタインデー。手作りチョコレートのあとが、床にこびりついていたよ」
京介,「ええ、ですから、続きをどうぞ」
……なんだ?
狙いがわからなかった。
それとも、ただ、動揺を誘っているだけだろうか。
刑事,「少女の危険を察した君は、所持していた拳銃で躊躇なく兄を撃った。ちなみに、拳銃は、どこで入手したんだい?」
京介,「ですから、封鎖事件のときに……」
刑事,「そうだった。だが、君はそれを、いつでも手放すことができた。なぜ、警察に届け出るなりしなかったんだ?」
京介,「知り合いのヤクザに売り飛ばすつもりでした」
刑事,「つい、忘れていたのでもなく?」
京介,「はい。先に話したとおり、セントラル街では、おれもいろいろとやったので、警察に関わるのが怖かったのです」
嘘はついていない。
刑事は深くうなずいた。
刑事,「君がセントラル街で行ったことが罪にあたるかどうかは、また後日、別の者が取調べを担当する。さて、話を戻そう」
京介,「はい」
刑事,「君の兄は、発砲にひるんだのか、マンションから逃亡をはかったという。殺人鬼が逃走したのは、現場の指紋、血痕、足跡などから我々も確証を得ている」
京介,「そうですか」
刑事,「けれど、君はそれを追いかけた」
京介,「…………」
刑事,「なぜかな?」
京介,「とっさのことだったので、よく覚えていませんが……」
刑事,「慌てていたと?」
京介,「はい」
刑事,「慌てながら、自宅から百メートル先の公園まで追いかけ、木の幹によりかかっていた兄に向け、無我夢中で銃を撃ちまくった」
京介,「はい」
刑事,「たしかに気持ちは察する。君の兄は、稀有な凶悪犯だ。殺さなければ殺されると思った君は、とても冷静ではいられなかった。となると、検察官の対応も変わってくる。言っている意味がわかるかな?」
京介,「はい」
……たとえ殺人にしても、おれの精神がまともじゃなかったとすれば、罪は軽くなるだろうという話だ。
わずかに、希望が見えた。
が、刑事の目つきが変わった。
刑事,「すると、不審な点がある」
……なんだ?
刑事,「君は二丁の拳銃を所持していた」
京介,「それが、なにか?」
刑事,「一丁は、殺人鬼が落としていったというね」
京介,「はい……」
刑事,「たしかに、疑いはないようだ。遺体から検出した指紋と、拳銃に付着していた指紋が一致している」
京介,「ですから、それがどうしました?」
刑事,「わからないかな。君は、拳銃を持ち替えているんだ」
はっとした表情が、表に出ていないことを祈る。
刑事,「君は自室で撃った拳銃を手放し、わざわざ兄が落とした拳銃を拾って外に飛び出した」
京介,「…………」
刑事,「なぜかな?君はほとんど錯乱していたんだろう?よくそんな余裕があったものだ」
京介,「……さあ、よく覚えていませんが……」
刑事,「君が自室で使用した拳銃には、すでに実弾が入っていなかった。君はそれを知っていて、新しい銃に持ち替えたんじゃないのかな?」
そうか……ハルが持ち出した拳銃には、もう弾は、入っていなかったのか。
……どう答えていいのかわからなかった。
認めれば、おれの精神がまともだったという判断材料になるのだろう。
しかし、刑事の次の言葉がおれを凍りつかせた。
刑事,「事件の参考人として、君の彼女に事情を聞いた。すると興味深い話が出てきた」
京介,「…………」
刑事,「殺人鬼を追って部屋を飛び出したのは、自分だと、少女は言っている」
どんな言い訳も思いつかなかった。
刑事,「京介くんは、彼女のあとを追って、部屋を出てきたらしいが、どうなんだ?」
京介,「……そうだったかもしれませんが、それが、なんです?」
刑事,「ここで、一つ、仮説を話そう。君は、無謀にも殺人鬼を追いかける彼女を引き止めるべく、あとを追いかけた」
京介,「…………」
刑事,「公園にたどりついた君は、殺人鬼と彼女が対峙している姿を発見した。彼女の身の危険を察した君が、背後から駆け寄り、殺人鬼を撃ち殺した」
刑事は誘っている。
おれが、はい、そうです、と罠にかかるのを誘っている。
刑事,「しかしだ。近所の住民の証言がある。公園から『死ね』という女性の絶叫が聞こえたという」
……これまで、か。
やっぱり、警察を欺くなんて無理だったのか。
刑事,「君の彼女が叫んだのか、本人に聞いてみたが、覚えていないという答えが返ってきた。なかなか正直で理知的な子だね。まず嘘はついていないと思うのだが、状況から考えるに『死ね』と叫んだのは彼女以外にありえない」
手がこわばり、呼吸が浅くなった。
刑事,「すると、彼女には殺意があったと推測される。君の兄は、その段階では、武器を所持していなかった。さらに、君は言ったな。兄は木の幹にもたれかかって、観念した様子だったと」
京介,「…………」
刑事,「つまり、彼女の身に、危険は迫っていなかった。先ほどの仮説は否定される。彼女は兄を殺すつもりだった。そして……」
おれの心臓は、いまにも耳から出そうだった。
刑事,「おそらく、彼女は、拳銃を所持していた」
めまいすら覚えた。
刑事,「彼女は、床に落ちた拳銃を拾ったかどうかは、よく覚えていないと言うが……」
がたがたと膝が震える。
刑事,「実際には、拳銃から彼女の指紋が検出された」
おれはなんという愚か者か!
なぜ、なぜ、指紋のことを考えなかった!
これでは、ハルが……罪に問われてしまう!
刑事,「が、指紋はあったものの、彼女が発砲した形跡はない。拳銃にはすでに弾がなかった。殺意があったにしては、やや間抜けといわざるを得ない。彼女がそれだけ、錯乱していたとも受け取れる」
ああ、どうればいいんだ……!?
刑事,「いずれにしても、拳銃を握り締め、逃げる敵を追い掛け回し、止めを刺そうとしたのなら、彼女を引っ張らなければならない……ああ、逮捕するという意味だよ」
京介,「……なんの罪で?」
少し考えるようにして言った。
刑事,「目立つ容疑は銃刀法違反。同棲していたのだから、君の部屋に拳銃があったと彼女も知っていただろう。いくらでも捨てる機会はあったはずだ」
違う!
ハルは、知らなかった。
これも、浅はかなおれが招いた結果か!
刑事,「そのほか、過剰防衛……いや、殺人未遂に当たるか……詳しく状況を調べてみなければはっきりしないがね」
殺人未遂……!?
背筋を嫌な汗がつたう。
刑事,「さて、今の話を踏まえて、もう一度、君の供述を聞きたい」
どうする……どうすれば……!?
刑事,「どうした?」
やはり、無理だ。
ハルが、逮捕されてしまう。
ハルが撃ち殺したわけではないし、ハルは完全に錯乱していた。
だから、重い罪に問われることはないとは思う……。
でも、拳銃を持ち出した。
少女には未来がある。
前科者のヴァイオリニストの演奏など、誰が聞くというのか。
ハルの"魔王"に対するトラウマなど、誰もわかってくれないだろう。
マスコミは煽り立てる。
ハルの表面だけを見て、足をすくおうとする。
……ああ、拳銃なんてとっとと捨てておけばよかった。
……いや、"魔王"が拳銃をわざと落としていった以上、結果は変わらなかったのか……。
刑事,「どうしたんだ、急に黙りだして」
考えろ……。
唇を噛み締め、パニックに陥った頭に血をめぐらしていった。
負けるものか。
これは、兄の残した最後の罠。
刑事,「さあ、最初から、自供したまえ」
おい、と背後に立つもう一人の大柄な刑事が身を乗り出してきた。
それを、手で制止する目の前の刑事。
刑事,「君の自白は、裁判でも大きな証拠になるんだよ?」
……自白!?
なにかの本で読んだが、日本の裁判では犯人の自白ほど強力なものはないらしい。
いったん自白を認める供述書にサインをしたら、たとえ無実でも有罪になるとか……。
だが、現実はわからない。
わからない、が……。
――やるしかない!
京介,「まあ、つまりこういうことですよ、刑事さん……」
おれは突如、笑い出した。
京介,「……まったく、あの女は使えない」
刑事,「あの女……彼女のことか?」
刑事の目が厳しくなった。
京介,「おれがセントラル街から持ち出した拳銃にあの女の指紋がついているのはね、おれが握らせたからなんですよ」
刑事,「握らせた……」
刑事は首をふった。
刑事,「そんな話は、彼女から聞いていないが?」
京介,「はっ、そりゃそうでしょう。夜中に寝ているすきに、こっそりつかませたんだから」
心を、凍りつかせた。
京介,「それが証拠に、あの女は、おれが拳銃を持っていることすら気づいていない」
……これは、事実だ。
裏を取られても問題はない。
刑事,「興味深い話が出たな。それで、拳銃を握らせてどうするつもりだったんだ?」
京介,「もちろん、"魔王"を、鮫島恭平を殺させるんですよ。あの女は、常日頃から、"魔王"を恐れてましてね。機会さえあれば、殺すんじゃないかと思ってました」
刑事,「ほう、君はなぜ、恭平を殺すつもりだったんだ?」
京介,「少しは考えてくださいよ。ヤクザの世界には仇討ちってのがあるんですよ」
刑事,「恭平が、君の元養父、浅井権三を殺したからか?」
京介,「そう……権三は、おれの崇拝する男でした。誰よりも強く、金に貪欲で、恐れを知らない。まさに、理想の悪漢でした」
これも、いまとなっては嘘はない。
京介,「だが、"魔王"を殺しておれがムショに入るなんて、なんだか割に合わないじゃないですか。本当なら、ヤツが、自宅に来たときに殺しておきたかったんですがね……」
刑事,「たしかに、恭平が部屋に踏み込んできた時点では、正当防衛で裁判を争えただろう」
京介,「だから、おれはあの女をけしかけたわけです。だが、知っての通り、おれの拳銃にはすでに実弾が入っていなかった」
ここが、最大の難関だろう。
目撃者さえいなければ……!
ハルが拳銃を所持していたことさえわからなければ!
ハルが、拳銃を持って公園までたどりついたとき、おれの知る限り、通りには誰もいなかった。
駆けつけたおれは、すぐにハルから拳銃を奪った。
頼む!
誰も、見ていないでくれ!
京介,「あの女は、思惑どおり、恭平を追いかけて行きました。殴るなりなんなりして殺してくれればよかったものを、怖気づいたのか、その場で気絶しやがったんです」
刑事,「つまり、少女は、そのとき……いや、一度も、自ら拳銃に触れてはいないと?」
言いながら、刑事は後ろの人間になにか指示を飛ばした。
裏づけを取りに、現場を捜索させるのだろう。
京介,「まあ、そういうことになりますかねえ。まったく、弾さえ入っていれば、拳銃を渡してやったものを」
刑事,「しかし、君にはもう一丁の拳銃があった。それを、なぜ、狂乱する少女に手渡さなかった?」
京介,「あの女は、おれの制止も聞かずに走り出しましてね……」
これも、事実。
京介,「追いついたときは、すでに気絶してました……まったく、役立たずですよ、あいつは」
そのとき、後ろの大柄な刑事が、目を剥いた。
――この野郎!
ヤクザに勝るとも劣らない眼光で、おれをにらみつける。
おれも、ひるむわけにはいかなかった。
刑事,「少し、待て……」
刑事の目が、鋭く光った。
刑事,「なるほど……君はたしかに、浅井興業の影役として、生意気なことをしていたようだね。泣かされた企業も多いと聞く」
京介,「それが、なんですか?」
刑事,「では、聞くが、"魔王"が生きていたことをどうして知っていた?」
おれはとっさに頭脳をフル回転させ、刑事の思惑を推察した。
つまり、火だるまになったはずの"魔王"が生きていたことを、そもそもおれが知らなければ、ハルに拳銃を握らせておく意味がわからないのだ。
なぜなら、おれは、ハルに"魔王"を殺させるつもりだったのだから。
けれど、堀部に聞いたというのではまずい。
堀部から電話がかかってきた段階で"魔王"の生存を知ったのであれば、ハルに拳銃を握らせておく余裕はなかったと突っ込まれる。
京介,「無能な警察は見逃したようですが、おれは、見ていたんですよ。バスが燃えるときに、脱出する"魔王"の姿をね」
あの大混乱のなか、おれたちが必要以上にバスに近づいていたことは、調べればわかるだろう。
京介,「だが、あの混雑では見失ってしまった。だから、おれは再度の復讐の機会を狙い、あの女に拳銃を握らせておいたというわけです」
刑事の顔が、徐々に憤怒に歪んでいく。
刑事,「あの女、あの女というが……少女はお前のことを心から愛しているようだったぞ?」
胸を突かれる思いだった。
鈍く重い痛みが全身を駆け巡る。
刑事,「お前を信じて、お前の帰りを待ち、慣れない手つきでチョコレートを作っていたんだぞ?」
ひきつりそうになった口元を、無理やり吊り上げた。
京介,「そうですか……そんなに……はは、こりゃ傑作だ。おれもジゴロの才能があるのかな」
胸が張り裂けそうだった。
京介,「多少頭は回りますが、恋愛に関しては初めてでしてね、ヤツは……」
いやだった。
少女をなじらなければならない自分が、嫌だった。
胸張り裂ける思いで、言葉をつないだ。
京介,「おれにとっては金が全てなんですよ。あんな金にならない女は、殺人に利用するくらいしか使い道がなかった」
刑事,「貴様……」
京介,「はは……なにが、手作りチョコレ――」
痛い。
ハルの笑顔。
おれにプレゼントするのを楽しみにしていた、あのあどけない笑顔。
だが、しゃべらなければ!
心に修羅を宿す。
生けれども生けれども、道は氷河なり。
人の生に四季はなく、ただ、冬の荒野があるのみ。
流れ出た血と涙は、拭わずともいずれ凍りつく――。
京介,「手作りチョコレートだなんて、くだらん……」
瞬間、目の前に風が起こった。
背後に控えていた大柄な刑事が、おれの胸倉をつかんでいた。
――このガキが!
そうだ……もっと怒れ。
冷静さを失って、事件の詳細を追おうとするな。
京介,「おいおい、いてえなあ……弁護士にいいつけるぞ」
おれは、引きずりまわされた挙げ句、床に叩きつけられた。
京介,「ぐっ……!」
いいぞ……そうやって、見え透いた悪に飛びついて来い。
この悪は、ただの悪ではない!
あとはハルだった。
必死に、おれの潔白を訴えるかもしれないが、刑事の目には、たぶらかされたウブな女としか映らないだろう。
もう、後戻りは出来ないのだ。
警察の科学捜査が、ベテラン刑事の勘が、おれの嘘を見破るかもしれない。
しかし、おれはこの証言をくつがえさない。
裁判になれば、どんな判決が出ようとも控訴はしない。
結審すれば、事件は終結する。
ハルは、頭がいい。
きっと、理解してくれるはずだ……。
理解して、ヴァイオリンを……!
;黒画面
…………。
……。
警察に厄介になって、十日ほど過ぎた。
おれはまだ、留置所にいた。
ハルが逮捕されたという話は聞かなかった。
何度か、差し入れが届いていた。
手紙もあった。
差出人は様々だった。
おれはその日、取調べの合間を縫って、接見を許された。
拒否することもできるようだが、念のため確認したいことがあった。
ミキちゃんが仕事を果たしてくれたかどうか……。
椿姫,「浅井くん……」
おれは陰湿な笑みを浮かべて、椿姫を迎えた。
接見時間は二十分らしい。
手短にしたかった。
椿姫,「……浅井くん、嘘だよね?」
この善良な少女を前にすると、心が折れそうになる。
京介,「おいおい、冗談でこんな場所に入れられるかよ」
椿姫,「だって、信じられなくて……」
……また、それか。
信じるだのなんだのと……。
思えば、最初におれの冷たい心に火をつけたのはこの少女だった。
京介,「……おれは人殺しだ」
椿姫,「嘘だよ……なにか、理由があったんでしょう?」
京介,「ああ、ヤツは、浅井権三を、おれの養父を殺したからな。その仇討ちってやつだ。かっこいいだろ?」
おれは薄く笑った。
笑みがぎこちなくならないよう、続けざまに言った。
京介,「お前の弟が誘拐されたときのことだがな……」
椿姫の顔が歪む。
京介,「いまだから教えてやるが、おれは、とっととお前たちに家を出て行って欲しかったのさ」
よほどのショックを受けたのだろう。
京介,「おれは善意でお前たち家族に協力していたんじゃない。すべて、金のためだ」
椿姫はがたがたと震えだし、やがて言った。
椿姫,「……ちょっと前にね、おうちに小包が届いたの」
京介,「…………」
椿姫,「中身、なんだと思う?」
京介,「…………」
椿姫,「お金だよ。五千万はあるって、お父さんが言ってた」
京介,「…………」
椿姫,「送ってくれたのは、"魔王"だって。いままでの罪を反省してるって添え状があったの」
京介,「ほう……そりゃ、良かったな」
椿姫,「うん。お父さんも、広明もみんな喜んでた」
京介,「そうかそうか。いや、めでたいじゃないか。これも日ごろの善行のたまものだな」
突如、少女の顔が曇った。
椿姫,「でも、わたしは素直に喜べないんだよ」
京介,「なに?」
;※追加
椿姫,「だって、それは……そのお金は……きっと……」
涙に濡れた目でおれを見据えてくる。
京介,「なんだよ、"魔王"が反省してるって言ってたんだろ。椿姫のくせに、人を疑うなよ」
椿姫,「わたしはあの事件で、少しだけ変わったんだよ」
……ああ、知ってるよ。
少しだけ、人間らしくなったってか。
;※追加
椿姫,「いいんだよ、浅井くん……」
京介,「あ?」
椿姫,「わたしたち、お友達だよね?」
悲しみにわななく唇を無理に開いていた。
椿姫,「……だからね、殺人犯のお友達でも、平気だから」
―――っ!!!
椿姫,「今日もね、おうちに、どこかの雑誌の人が来たよ。学園での浅井くんの様子を聞かれたよ」
椿姫,「わたしね、こう答えたんだ」
椿姫,「浅井くんは冷たそうだけど、本当はとってもいい人ですって!」
涙が、頬を伝い落ちた。
椿姫,「だから、平気なんだよ……」
どこまでも、どこまでも、馬鹿な女だ……。
おれをかばうと、今後世間からどんな目で見られるか……そういうことがわかっていないのだ。
京介,「はっ、なんだよ、お前……」
椿姫,「……なあに?」
京介,「まさか、お前、おれに気があったのか?」
椿姫,「……っ」
京介,「だったら、残念だったな。おれはお前みたいな女が大嫌いでね」
椿姫は時を止めたように押し黙った。
京介,「二度と来るな。お前の顔なんて見たくもない」
おれは看守に接見の終わりを告げるべく首を振った。
椿姫,「浅井くん、待って!」
すまない、椿姫……。
椿姫,「待って!待ってよおお――――っ!」
さようなら、家族と仲良くな……。
…………。
……。
;黒画面
留置所では手紙のやりとりは自由だ。
といっても検閲は入るが、封筒と便箋さえあれば外にも出せる。
おれには、ぜひとも、手紙を出したい相手がいた。
;ノベル形式。
岩井裕也殿
お元気でしょうか。
ご存知の通り、私は殺人を犯し、現在起訴を待つ身となっています。
山王物産のビルではお世話になりました。あなたの勇気と行動力のおかげで私は死をまぬがれたのです。
あなたにぜひ、お願いがあります。
宇佐美ハルの面倒を見ていただけないでしょうか。
あなたは、山王物産の社員で、お父上も亡き染谷専務の後釜といわれるほどの重役と聞き及んでいます。
あの日、屋上でも申し上げたかもしれませんが、私と宇佐美ハルは、別に交際しているわけではないのです。少なくとも私にその気はありません。
ただ、あれは身寄りのない哀れな女です。外道の私にもいくばくかの情がないでもありません。よろしければ、かわいがってやってください。
ぶしつけなお願いですが、何卒よろしくお願い申し上げます。
; 鮫島京介
鮫島京介
;通常形式
……これでいい。
岩井のような勇敢な男なら、ハルを幸せにしてくれるだろう。
経済力もある。
ヴァイオリンを学ぶには金がいるからな。
おれは願いを込めるつもりで、看守に手紙を渡した。
……さらに数日後、また接見を求められた。
椿姫の泣き顔を思い出していたおれは、もう、薄ら笑いを浮かべる余裕はなかった。
本当なら絶対に会いたくはなかったのだが、もう二度と来ないよう、きつく言っておかねばならない。
花音,「兄さん、だいじょーぶ?」
声は軽いが、表情は重かった。
京介,「世界をまたにかけるトップアスリートがこんなところに何の用だ?」
花音,「んー、かまってほしいから」
そんな、甘えたひと言が、留置所の外の世界を思い出させる。
花音,「ねえ、兄さん、すごい人気者じゃない?」
京介,「人気者?」
花音,「だって、大魔王をやっつけたんでしょ?なんでこんなとこにいるの?」
京介,「さあな……」
本気で理解できないらしい。
花音,「いま、テレビじゃどこもかしこも、兄さんのことやってる」
京介,「へえ……」
花音,「のんちゃんなんか目じゃないくらい人気者だよ」
京介,「……そうか、用は、それだけか?」
直後、花音がそれまで堪えていた涙を開放した。
花音,「みんな、兄さんの悪口言ってるんだよ……!」
くやしくて、くやしくて、と漏らした。
花音,「……兄さんが、ヤクザだとか、兄さんのお父さんのこととか関係ないことまで持ち出して……!」
京介,「事実だ」
花音,「犯罪者の息子も犯罪者って!」
京介,「そんなもんだ」
花音,「だって、だって……兄さん、目立つの大嫌いじゃない!?」
おれを哀れみ、泣いていた。
ありがとう、と言いたかった。
けれど、看守も見ている前では、下手なことは言えない。
おれは、ハルを利用した薄汚い男として生き続けるしかない。
京介,「一つだけ言っておくぞ、花音」
花音,「え……?」
京介,「おれはもう、お前の兄貴じゃない」
こんなときのために、離縁しておいて良かった。
京介,「だから、もう、お前とは会わない」
;※追加
花音,「な、なんで……?」
京介,「会いたくないからだ」
おれに関われば、人気フィギュアスケート選手としての花音の名声が落ちる。
離縁したとはいえ、これまで、兄妹だったのだ。
京介,「もう来るな。来てもおれは接見を拒否する」
;※追加
花音,「や、やだよ……!」
京介,「わがままを言うな!!!」
大声を張り上げたとき、背後に控えていた看守がおれをとがめた。
京介,「頼むから……もう、来るな……」
頭を下げた。
京介,「お前は、陽の当たる道を行け。大勢の観客に感動を与えるのがお前の役目だ」
;※追加
花音,「……にいさぁん……!」
京介,「さあ、行け。お前はこんなところにいてはいけない……」
花音,「……いいの?」
ぽつりと言った。
花音,「それで、兄さんは、いいの……?」
おれはうなずいた。
花音は、泣きじゃくる。
いつまでも、いつまでも、悲しみに震えていた。
……もっと、かまってやるべきだった。
この少女は、まだまだ不安定で、大人になりきっていなかった。
もし、違う人生があれば、そのときは支えてやりたいものだ。
花音,「わたし……っ……わたし、が、がんばる、よ……」
看守が、接見の終わりを告げた。
;黒画面
…………。
……。
花音が来たその日、手紙が届いた。
目を覆うような汚い字に、差出人が誰かわかった。
;ノベル形式
京介ちゃんよお、やってくれたじゃないの。
なんつーの、オレクラスの鬼畜もんになるとよお、面会とかしゃらくさいわけよ。あえていかないわけよ。だって、オレの顔を見たら、お前はたぶん泣いちまうだろ?
こうなったら、おまえは裏の世界でトップになれよ。オレは表の世界でのしあがるから。
あ、あとよ、ついにノリコをモノにしたぜ。
マジで。
いや、マジだって。
マジだからよ……早く、出てこいよ……。
;通常形式
……最後のほうの文字が、妙に歪んでいた。
おバカなあいつにしては、つまらないギャグだった。
…………。
……。
すでにおれは、かなり参っていた。
連日に及ぶ取調べ。
留置所と地検を往復させられ、現場検証も数回行われた。
縄でつながれながら外に出るのは、正直、とても恥ずかしい。
あくまでおれの主観だが、どうやら、おれの自白を覆すような決定的な証拠は見つかっていないようだった。
もうそろそろ、規定の拘留期間が終わるはずだ。
そうすれば、少しは楽になると聞いた。
;※追加
だが、まったく、堰を切ったように人が来る。
おれにとって、意外な女だ。
けれど、そいつが、一番手紙を出してきた。
わけがわからず、一度だけ会ってみることにした。
水羽,「……浅井くん……」
京介,「まさか、お前が来るとはな、白鳥……」
水羽,「来ちゃいけないの?」
口を尖らせていた。
京介,「……まあいい、時田はどうなった?」
水羽,「いま、二人でアパートを借りて、一緒に暮らしてるわ」
京介,「へえ……」
時田も、とくに、罪を問われるようなことはなかったみたいだな。
京介,「わかった……で、何の用だ?お前はとくに、友達ってわけでもなかったはずだが?」
水羽,「……っ!」
そのひと言が、予想以上に、白鳥を傷つけたようだ。
水羽,「ね、姉さんから伝言……」
京介,「うん……」
水羽,「『いったい、いつ、あなたにお金を払えばいいの?』って」
……金?
ああ……そういえば、立て篭もりの件で、そんなことを言ったな。
京介,「おれが出て来るまで待て。そして、必ず払えと伝えておけ」
白鳥は、ふてくされたような顔でうなずいた。
水羽,「あ、あと……」
京介,「なんだ?」
水羽,「クラシックの鑑賞会……あ、ありがとう……」
京介,「は?」
水羽,「つきあってくれて」
眉をひそめたそのとき、白鳥の体の芯が折れた。
水羽,「あ、りがとう……助けてくれて……」
涙が目の前のアクリル板に飛んだ。
水羽,「あなたは、怖い人たちから、姉さんと私を、助けてくれた……」
……あの倉庫でのことか。
水羽,「ありが、とうって……」
京介,「…………」
;※追加
水羽,「ず、ずっと言いたかった……」
顔を歪ませる白鳥の横顔に、胸が締めつけられた。
水羽,「い、いままで、言えなくて……ごめん」
京介,「…………」
水羽,「わ、わたし、いつも、そうで……いつも、思ったこと言えなくて……」
京介,「…………」
;※追加
水羽,「こんな、こんなことになるなんて……!」
後悔をかみ締めるように言った。
もしかすると、おれは、この少女とすれ違ったのかもしれない。
もっと、語り合えたのかもしれない。
だが、おれは、こいつを利用しようと考えていたのだ。
こいつだけではない。
椿姫も、花音も同じだ。
いまさら、間違えた過去に手が届くはずもない。
京介,「話はわかった。じゃあな……」
;※追加
水羽,「……ま、待って、聞いてっ!」
涙に潤んだ瞳が、渾身の勇気に輝いた。
水羽,「あ、あのね、わ、わたし――――」
京介,「看守」
水羽,「……あ、あなたのことが―――!!!」
京介,「接見を終えます」
;黒画面
おれは席を立った。
背後で、悲鳴のような声が聞こえた。
白鳥水羽の告白を受け止める余裕は、いまのおれにはなかった。
…………。
……。
;背景空夜
二十一日目にしてついに、起訴となった。
刑事部長が読み上げる書面には、主に、殺人と銃刀法違反について書かれていた。
それから先は、停滞した時が流れた。
拘置所に入れられたおれは、その後、たんたんと裁判の経過を見守っていった。
全ての容疑を認めた上で、証言もはっきりしているせいか、はたまた弁護士のやる気がなかったせいか、法廷ではたいした争いはなかった。
手紙は、ばったりと来なくなった。
裁判の過程で、ハルの姿をひと目見られるかもしれないと期待した。
けれど、ハルは証人として出廷することもなかったようだ。
それはそれで、良かった。
拘置所内では、よく新聞や週刊誌を読んだ。
記事をくまなくチェックしたが、おれの事件でハルないし少女Aという名前は見当たらなかった。
一部の週刊誌周りは、堀部に、にらみを利かせてもらうよう、捕まる前に頼んでおいた。
それが功を奏したのだろうか。
堀部はなぜか、金回りも期待できないおれの言うことを聞いてくれていた。
拘置所の檻のなかでは、あまり四季を感じられなかった。
夏が来て、秋が来て、また冬が来る。
朝六時四十五分に起床とたたき起こされ、夜九時には消灯。
規則正しい毎日が続いた。
風呂には毎日入れてもらえなかったが、髪は切ってもらうことができた。
ほとんど坊主同然にされた。
あまりに似合わなさ過ぎて、ハルのことをバカにできなくなった。
ガンセン、タクサゲ、ネガイゴト……様々な専門用語を自然と身につけ、なにより挨拶が体になじんでいった。
暴力団の男、家庭内暴力の男、窃盗および放火の男、多種多様なアウトローと交流を持った。
飲酒運転で人を殺した男とは決して、口をきかなかったけれど……。
そして、事件発生から約一年後。
何度も訪れた地裁の法廷で、裁判長がいつもより険しい顔でおれを見下ろしていた。
判決が下る。
おれは、ただ、ハルを、想った。
けれど、それは、最期の想いだった。
これで、凍結される想い。
とある芸能雑誌の記事にあった。
三島春菜というアーティストが、再び活動を再開したという。
もう、思い残すことはなかった。
主文――。
;黒画面
…………。
……。
;黒画面
;ノベル形式
京介,「お世話になりました……」
浅井京介は空を仰いだ。黄金色に染まった二月の空。八年前に見上げたのは濃灰色の雲に覆われたうす曇の空だった。天空から音もなく雪がちらついていたあの夜、京介は少女と永遠の別れを誓っていた。二度目の別れから、もう八年も経っていた。
不意に、肩幅より広げた足を閉じた。長い服役生活が、許可なく運動をしていいのかと、京介に問いかけていた。
京介は嘆息し、肺に塀の外の空気を大量に入れた。よどみのない、澄んだ風が吹き渡る。年を重ねた肌に、二月の乾いた風は冷たかった。
あの頃は、まだ暖く感じた。ふと、思い立ってしまう。
学園で、友人たちと馬鹿話に興じた日々。自宅で大人相手に生意気な交渉をしていた日々。卑屈に、目立たぬよう、笑われぬよう過ごしていた日々。
あの頃の京介は、弱い、金の奴隷だった。浅井権三という巨魁の前でうろたえるだけの小僧にすぎなかった。
京介は、また空を見た。雪がちらつきはじめた。あの頃は、少女のまぶたに落ちた雪を見て、切なさに胸を詰まらせたものだった。
あの少女。
冷たい外道の道に、光を差してくれた。幼き日の馬鹿げた約束が、唯一ぬくもりを与えてくれた。初めて肌を重ね、一つになったとき、京介は紛れもない幸福に包まれた。
目を閉じた。深呼吸を繰り返し、気を静めた。
振り払った。天国のごとき安息は、もう、訪れない……。
目を開けた。誰もいない。孤独は、京介が望んだことだった。
彼は独り、歩みを進めることにした。行くあてはない。孤高な一匹狼のように、胸のうちに底知れぬ悲しみを秘めながら……。
抜け殻の足を向けた先に、人影があった。大きな影と小さな影。親子連れか。こちらに向かって道を渡ってきた。
京介の心は暗くなった。刑務所内では女性や子供の声を久しく聞いていない。親子は、手をつなぎ、楽しげに童謡を歌っている。ときおり笑い声。京介は虚ろな眼差しを地面に落とした。早く、過ぎ去って欲しかった。
けれど、母子の声が遠のくことはなかった。むしろ、近づいてくる。そして、あろうことか、京介の前で立ち止まった。
娘,「はじめまして」
幼い声。くりくりした瞳が京介を見上げていた。
母,「お久しぶりです」
平坦な、母親の声。足元まで届きそうな髪が風になびいていた。
京介は、はじめ、返す声もなかった。長い獄中生活で、少女との再会は何度となく夢見た。その度に、己を戒め、苦しんできた。
もし……。
もし、刑務所を出て、少女に会うようなことがあればこう言おう。心で何度となく繰り返していた言葉がある。
京介,「おめでとう」
京介の牢には何者にも触らせない宝物があった。市販のファイルケースだった。国内外はもちろん、獄中にまで響き渡っていた三島春菜の活躍記事が、ファイルいっぱいにスクラップされている。
美しい大人の女性に変貌した少女が言った。
ハル,「音楽がなくて、寂しかったでしょう」
京介,「頭にバッハがいたよ」
少女が笑う。京介は笑えなかった。日向を行く少女と、肩を並べて笑い合ってはならない。かたや実刑を受けた殺人犯、かたや世界を股にかけるヴァイオリニスト。雪が、落ちる。二人の間を隔てるように……。
京介の脳裏に、母と過ごしたあばら屋の窓から見える景色が飛来した。
京介,「で、なにか用か?」
きついひと言に、少女は細めた。
かまわず、氷柱のような言葉を選んだ。
京介,「警察から聞いたろう。おれはお前を……」
ハル,「もういいんです」
ハルがさえぎって言った。
ハル,「もう、いいんです」
繰り返した。
京介は、ふっと嘲笑した。白い吐息が、娘の眼前で霧散した。
京介,「岩井裕也が、お前を助けてくれたんだな?」
ハル,「はい」
小さくうなずいた。
ハル,「そういう申し出はありました」
……申し出はあった?
京介は違和感を覚えながらも、下劣な薄笑いを浮かべることにした。

京介,「そうか。それはよかったな。お前がいまの名声を得られたのも、岩井のおかげだろう」
ハル,「感謝しています。この子も可愛がってくれています」
京介,「いまいくつなんだ?」
答えは、下から返ってきた。
ハルの娘,「七つだよ、おとうさん」
危うく、そのさりげないひと言を聞き逃すところだった。
――お父さん!?
京介の時が固まった。視線が、お父さんと声を発した子供に注がれる。
深まる確信。
似ている。口元といい、顎先といい、小賢しそうな目元といい……。
京介,「嘘を、言うな」
震える声で少女に言った。
ハル,「間違いがないことは、わたしが一番よく知っています」
きっぱりとした返しに、京介は狂乱した。
ハル,「あなただけです。わたしには、あなたしかいないんです」
呪った。天を。気まぐれな神を。残忍な悪魔を。子宝を司る何者かをなじらねば気がすまなかった。いや、どれだけ呪詛の言葉を投げかけようとも、目の前の現実が変わらないことに、京介は底なしの絶望を味わっていた。
殺人犯の娘が、またなにか言っている。
ハルの娘,「おとうさん、頭なでて」
殺人犯の孫は、京介の冷たい手を求めていた。
ふらりと、吸い寄せられる、京介の腕。
やわらかい髪の毛。幼子の頭にふれた。ふれて、しまった――。
瞬間、浅井京介の顔に修羅が宿った。
京介,「違うんだ……!」
この子を、殺人犯の娘にしてなるものか――!
ハル,「京介くん、もういいんだよ……」
ハルの声が涙にかすむ。京介の視界が涙にかすむ。
京介,「……やめろ、違う……おれの子じゃ……」
ハル,「もう、泣いていいんだよ」
京介,「……おれの、子じゃ……」
ハル,「お疲れ様」
京介,「ち、が……あ……ぐっ……」
こみ上げる嗚咽に、それ以上の言葉が続かなかった。幼子の頭に置いた手のひらが、はりついたように動かない。
ハル,「また、一からやりなおそう。今度は三人だよ。ねえ、京介くん」
京介の顔が失意に歪んでいく。
がああ、がああ、と狂人の叫び声があった。復讐と憎悪の連鎖を断ち切ろうとした一匹の獣の咆哮だった。
ハルの娘,「おとうさん、ずっといっしょだよ。おかあさんも、いるよ。わたし、ピアノしてるんだ。ねえ、見て、聞いて」
娘が幸福を招くように、笑う。
笑い声がいつまでも、耳に残る。
おとうさん、おとうさんと、心を揺さぶる。
浅井京介は泣いた。
京介の歩んできた悪魔だらけの人生で、最後の最後に現れた穢れなき天使に、なすすべもなく泣くしかなかった。
やがてハルが娘の名前を告げたとき、舞い散る粉雪がはたとやんだ。
まるで、ずいぶんと早い春の訪れを察したかのように――。
;ゆっくりと白フェード
;G線上の魔王FIN
……よし。
もう、うだうだ迷うまい。
京介,「聞こう」
短く言って、花音を見据えた。
花音,「えっとね、んとね」
京介,「うん」
花音,「兄さんに、守って欲しいなって」
京介,「守る?」
花音,「んと、つまり……ペ、ペアになって欲しいの」
京介,「ペア……」
この場合、スケートの話ではないな。
花音,「兄さん、わたしのこと嫌い?」
京介,「いや、別に……」
花音,「じゃあ、OKってことだね?」
おれは首を振った。
京介,「あのな、花音」
拒絶が怖いのか、花音は慌てて口を開いた。
花音,「わ、わかってるよ、兄さんがそういうことに興味ないってことくらい」
京介,「お前がそういうことに興味を持っていたことが驚きだ」
花音,「なんとあったの。自分でもびっくりなの」
おれはまなざしを床に落とし、深いため息をついた。
花音は態度こそひょうひょうとしているが、内心は焦り、おれの言葉の一つ一つに、重みを感じているのだろう。
京介,「まあ、いまさら兄妹だからという、道徳的なことは言わん」
花音,「うん、兄さんほどのワルがそんなこと言っちゃダメだね」
京介,「ただ、わかってるだろうが、おれはお前をそういうふうには見られない」
花音,「じゃあ、これからだね、何事も」
やたら前向きなのは、不安の表れだ。
京介,「逆に聞くが、お前はおれのどこがいいんだ?」
花音,「はてー?」
京介,「真面目に答えろ」
本当にスケートだけにかまけてきたらしく、本音のやりとりにどう対処していいのかわからないようだ。
花音,「に、兄さんは、味方だから……」
京介,「味方?」
花音,「頼れそうだから。なんだかんだ優しいから」
京介,「頼れそうな相手なんていくらでもいるだろう。郁子さんとか……」
花音がおれの言葉を遮って言った。
花音,「いや、兄さんしかいないの。コーチは……えと……コーチだし」
京介,「お前は寂しいだけなんじゃないか?」
花音,「寂しいよ……」
ぽつりと漏らした。
花音,「でも、兄さんは好き……」
ぼやくように言って、ぷいと顔をそむけた。
京介,「……あれ?」
なにかが、引っかかった。
その子供のような横顔に、見覚えがあった。
京介,「お前、ガキのころ……」
花音,「んー?」
京介,「いや、おれたちってけっこうつき合い長いよな」
花音,「長いねー、実は」
京介,「初めて会ったときは、いつだ?」
花音,「んとねー、兄さんが餓死しかけてたとき」
京介,「餓死……?」
花音,「そうだよー、兄さんが、こんな立派なマンションじゃなくてすんごい古いアパートに住んでたときだねー」
京介,「ああ……だいぶ昔だな。風呂もトイレも共同で、砂壁で腐った畳の六畳っていう絵に描いたようなボロアパートな」
まだろくに稼ぎもできなかったおれに、権三が与えた部屋だったな。
ヤツはおれが必要とするものはなんでも買ってくれたが、素直にほいほい買ってもらっては、あとが怖い。
いまとなっては笑い話だ。
京介,「よくゴキブリでたなー。隣の外国人が毎晩カラオケしてるし、風呂はアカが浮きまくってて入れたもんじゃねえし、最悪だったな。なんて名前のアパートだっけか?」
花音,「かわい荘じゃない?」
京介,「ちげー、それはお前がつけた名前だよ」
思わず吹き出してしまった。
;まだろくに稼ぎもできなかったおれに、権三が与えた部屋だったな。
花音,「なつかしいなー」
京介,「だなあ」
花音,「あのときの兄さんときたら、尖ってたなー」
京介,「そうかあ?」
花音,「うん、ご飯もってったとき覚えてる?」
京介,「はて?」
花音,「いくらだ、って、こうギロってにらむの」
京介,「タダより高いものはねえんだ」
花音,「けっきょく二百円渡してきた。いいって言ってるのに」
花音は権三の娘って聞いてたからな。
借りを作ったらヤバイとか思ってたんだろうな。
不意に、昔の話が出てきて、気が緩んだ。
京介,「あのときにはもう、お前もスケートやってたんだもんな」
花音,「うん、よゆーで勝ちまくってた」
京介,「そうだよ、おれのところにもテレビ屋が来たよ。うざくてしかたがなかったな。天才スケート少女の兄貴みたいな扱いされて、ほんと死にたかったわ」
権三が圧力をかけたせいか、花音の複雑な家庭環境については、世間にあまり知られていないが。
花音,「兄さんの根暗なところは一生なおんないんだろうね」
京介,「うるせえな……」
苦笑してしまう。
花音,「うん、やっぱいいなー、兄さんは」
京介,「なんだよ……」
花音,「兄さんだけはね、のんちゃんの味方でいてくれそう」
至福の笑み。
花音,「兄さんも友達多そうに見えて、実は少ない人だろうけど……」
京介,「失礼な」
花音,「のんちゃんだけは、大好きだよ」
優しい声が耳元でささやいた。
吐息をくすぐったく感じたそのとき、足元がふらついた。
京介,「む……」
花音,「どしたの?」
京介,「……ん、いや……寒くないか?」
花音,「ぜんぜん」
京介,「いや、寒い。頭もぐらぐらしやがる。動悸も激しい」
花音,「それ、恋だよ!」
京介,「カゼだ、バカ」
花音,「ほんとにー?だいじょうぶー?」
おろおろしながら額に手を当ててきた。
花音,「うわわ、四十度くらいあるよ!」
てきとーなことばっかり言いやがって。
花音,「兄さんいつも気ぃ張ってるからだよー、もうバカー」
たしかに、緊張が緩んだ瞬間にぐらっときたな。
京介,「おい、花音……」
花音,「おかゆつくればいいんだね!?ウメボシはいれる?」
京介,「ちげー」
……くそ、本格的に、寒いぞ。
京介,「お前、一人で寝れるな?部屋の鍵は渡してあったか?」
花音,「うん、どうしたの?」
京介,「おれは出てく。じゃあな……」
花音,「ちょ、ちょちょっ」
お笑い芸人みたいにズッコケながらおれの腕をつかんだ。
花音,「な、なんで!?」
京介,「カゼがうつったら、おれはいろんな人に恨まれる」
花音,「どこ行くの?」
京介,「その辺のビジホに泊まる」
いや、ホテルは高いな。
栄一のボンボン邸にでも泊まれないものだろうか。
しかし、ヤツにカゼをうつすのもな……おバカだからひかなさそうだが……。
;黒画面
……うっ。
不意に、視界が暗転したと思ったら、体が宙に浮いたような感覚につつまれた。
;背景主人公の部屋夜
目を開ける。
花音が、不安そうにおれの顔を覗き込むようにして見ていた。
花音,「わ……どうしよ、どーしよ」
ばたばたと床で足踏みする音が聞こえた。
ずしずしと、おれの頭蓋の内側に響いていた。
花音,「ここは、のんちゃんが、温めるしかない!」
そんな声を最後に、意識が闇に呑まれていった。
;黒画面
…………。
……。
;花音の章のアイキャッチ
;背景主人公の部屋昼
……。
…………。
喉が痛いほど渇いていた。
汗臭い。
柔らかなベッドの感触が背中にある。
見慣れた天井。
水を求めて腕を伸ばすと、なにかにぶつかった。
花音,「いでっ……!」
ざらざらした肌触りのそれは、花音の髪だった。
花音,「あ、兄さん、起きたー?」
花音は、ベッドにもたれかかるようにしてフローリングの床で寝ていた。
おれは瞬時に事態を察した。
京介,「すまん!」
ベッドから飛び起きて、時計を確認する。
京介,「お前、今日、ショートプログラム本番だろ!?」
しかし、花音は、ぼんやりと寝起きのような声を出した。
花音,「ん、いまから行くよー」
京介,「時間はだいじょうぶか?」
花音,「集合時間には遅れてるけど、まあなんとかする」
京介,「なんとかするって……グランドシリーズのファイナルだぞ?外国からもいろんなお偉いさんが来てるんじゃないか?」
花音,「のんちゃんは人気者だからみんな大目に見てくれる」
その傲慢な態度を一方的に責められるはずもなかった。
どこで買ってきたのかわからない、水差しと風邪薬。
おれの足元でにわかに熱を残しているのは、うちにはないはずの湯たんぽだった。
額でひんやりと湿ったタオルから、花音が朝方までおれを看病してくれたことは明白だった。
京介,「とにかく、車を出す」
花音,「あ、いいよ、まだきついでしょ?」
京介,「いいから用意しろ」
花音,「タクシー捕まえていくよ」
京介,「いいから」
花音,「だって、兄さんいいの?のんちゃん乗せて車で会場乗り込んだら人に噂されるよ?」
京介,「黙れ、早くしろ」
花音,「じゃあ、わかった。ありがとっ」
礼を言わねばならんのはおれのほうだった。
;背景スケート会場昼
花音,「この辺でいいよ」
車を降りて花音を送り出す。
花音,「よーし、今日もトップ取るぞー!」
ほとんど寝ていないだろうに、花音は元気に腕を振り上げた。
郁子,「花音ちゃん!」
関係者入り口から、郁子さんが顔を見せた。
慌てて花音に駆け寄ってくる。
郁子,「花音ちゃん、どうしたの!?ヒルトン先生も怒ってらっしゃるのよ!?今日は世界連合の代表の方も見えられてて、花音ちゃんに会いたがってたのに!」
花音,「うん……いまから行くよ」
郁子,「いったいどうしたっていうの、花音ちゃん。なにがあったの!?」
京介,「郁子さん、申し訳ない。実は……」
花音がおれの言葉を遮った。
花音,「なんだっていいでしょー。偉い人に挨拶とかめんどくさかっただけだよ。リンクの外でへこへこするなんて、わたしの仕事じゃないよ」
郁子さんが破顔した。
郁子,「……か、花音ちゃん、ごめんなさい。そんなにいやだった?」
花音,「もういいよ。いこー」
京介,「おい、花音」
花音,「のんちゃんは、嘘はついてない」
ぴしりと言った。
たしかに、嘘ではないのだろう。
しかし、それだけではない……。
花音と郁子さんは、おれが弁解する間もなく、アリーナのなかに消えていった。
くそ……とんだ迷惑をかけてしまったな。
押し寄せる後悔の波に呑まれる前に、おれはおれにできることを考えた。
;背景セントラル街昼
正午を過ぎて、時田を待っていると堀部から連絡があった。
堀部,「坊っちゃん、すみません!」
電話越しの第一声が、それだった。
堀部,「実は、今日の朝方……」
堀部の話を聞くにつれて、おれは怒りを抑えきれなくなった。
堀部の部下が、西条の戯言にゆで上がり、西条を殴り殺したのだという。
京介,「なんてことを……」
ようやく捕まえた"魔王"の共犯者だというのに。
これで、手がかりは失われたに等しい。
花音は……どうなる?
堀部,「てまえも、おとしまえはつけさせていただきます」
京介,「そんなもんはいらん!!!」
花音の顔が一瞬浮かんだときには、つい叫んでいた。
京介,「……そんなことより、これからどうするかを考えるべきです」
堀部,「……いや、びっくりしましたわ……坊っちゃんもさすがに肝がすわってらあ……」
京介,「無礼を言ってすみませんでした。とにかく、また連絡します」
改めて、宇佐美と時田に事態の急変を告げた。
;場転
やがて宇佐美が待ち合わせ場所にやってきた。
ハル,「ユキは来ないそうです。もうお役に立てることはないでしょうと、言っていました」
京介,「そうだな……時田にも悪いことをした」
ハル,「となると、これから打つべき手がわからなくなりましたね」
京介,「ひとまず、"魔王"が郁子さんを狙っていることはたしかだ。おれはこれから人をかき集めて会場の警護をする」
ハル,「ふむ……」
宇佐美は曖昧に首を振った。
京介,「わかってる。会場にはきちんとした警備員もいる。おれたちが動いても、かえって邪魔になるかもしれない」
ハル,「いてもたってもいられないご様子ですね」
京介,「"魔王"は花音を敗退させたいわけだろう?だとしたら実力行使に及ぶかもしれん」
ハル,「花音に怪我を負わせるような?」
京介,「ありえないとは言い切れないだろう?」
ハル,「はい、なにも言えません。ただ、わたしはわたしで動いてみます」
京介,「いいだろう。なにかつかんだら、すぐに連絡してくれ」
宇佐美は軽くうなずくと、雑踏に消えていった。
おれもさっそくアイスアリーナに向かった。
;背景スケートリンク廊下
まだ日も暮れていないのに、客席には夥しい数の人が集まっていた。
おれは花音の親族であることを利用して、関係者専用通路に迫っていた。
郁子さんを呼び出すためだ。
もともと郁子さんも花音のコーチではないのだから、一般客といえば一般客なのだが、これまで花音を支えてきた実績か、大会役員へのコネかなにかで、関係者然としていられるのだろう。
郁子,「京介くん、どうしたの……?」
京介,「いや、とくに急用というわけではないんですが、お忙しいですか?」
郁子,「いいのよ。いま花音ちゃんも機嫌が悪くてね。とりつく島もない状態なのよ。自分が遅刻したのにねえ」
京介,「はあ……お疲れ様です」
いきなり愚痴か……。
京介,「ええと……なにか、変わったことは?」
郁子,「変わったこと?」
京介,「最近、あなたの周りに……その、人がうろついているのはご存知でしょう?」
権三が手配した警備のヤクザ者だ。
郁子,「ええ……どうやら、あの人に命令されているようね」
あの人……権三のことだ。
郁子,「いきなりなんなのかしらね。私はもうとっくに捨てられた女だというのに」
皮肉な笑みを浮かべていた。
郁子,「ああ、ごめんなさいね。京介くんには関係のないことね」
頬を緩ませるが、目にはとがめだてするような色が残っていた。
まるで、京介くんからも文句の一つでも言ってちょうだい、と言われているようだった。
郁子,「なにが起こってるの?」
京介,「さあ……僕もよく知りませんので……」
郁子,「花音ちゃんに関わること?」
まあ、そう推察されるのも無理はないな。
京介,「いいえ、まさか……」
下手にしゃべったら、この人は何を言いふらすかわからん。
郁子,「でも変よねえ、あの人は花音ちゃんのためなら動くでしょうけど、私のためになにかするようなことはないと思うんだけれど……」
郁子さんがたとえば凶弾に倒れたら、花音も動揺するからだ。
はたから見ても仲の良さそうな親子ではないが、それでも母親なのだから。
郁子,「ひょっとして、私のボディーガードでもしてくれているのかしら?」
京介,「さあ……」
まずいな……やぶ蛇だったかな。
京介,「まあ、あまり気にされなくてもいいのでは?」
郁子,「そう?なにも起こらないといいけれど……」
立ち話を続けていると、男が一人寄ってきた。
カメラを首から提げた男。
撮影を許される腕章を、だらしない感じのジャンパーの腕に巻いていた。
記者,「どうも、金崎郁子コーチですよね?」
おそらく雑誌記者だろう。
頭を垂れ、郁子さんに向かって媚びるような視線を送っている。
記者,「ちょっと、お話よろしいですか?」
郁子,「ええ、かまいませんよ。私でいいんですか?」
まるで人が変わったように、穏やかな笑みを浮かべた。
男は雑誌社と自分の名前を出してから続けた。
お世辞にも大手とはいえない出版社だ。
芸能人の暴露本や、ヤクザ者裏社会を描いたきわどい本ばかり出している。
記者,「実は、コーチにひとつ、執筆をお願いしたいんですがね」
郁子,「本を?」
記者,「去年の世界大会はぶっちゃけひどいもんだったでしょう?」
郁子さんは、上品に首を振った。
郁子,「次回の出場枠が一つになってしまったとはいえ、みなさんがんばっていらっしゃったと思いますよ」
記者,「いやいや、花音さんが出てれば違ってたでしょうね」
郁子,「どうでしょうね」
記者,「コーチが育てた選手でしょう?」
記者は、歯をむき出しにして笑っていた。
郁子さんも、態度こそ毅然としていたが、口元にまんざらでもなさそうな笑みを引っさげていた。
……失せるとしよう。
やはり、どうにも好きになれない人だった。
;背景スケート会場客席2階_観客有り
……。
…………。
時間はただ流れ、会場全体も煮詰まってきた。
リンク上には海外の強豪選手が続々と現れ、大きな喝采を浴びている。
午後八時。
選手の一団が練習のため、氷上に躍り出てきた。
ひときわ大きな拍手が上がる。
花音がダイナミックなジャンプを決めたようだ。
不安で、仕方がなかった。
"魔王"の罠はもちろん、花音の体調が心配だ。
おれの看病をしていたせいで、ほとんど寝ていないはず。
コンディションに恵まれない状況で、結果が出せるのだろうか。
宇佐美から着信があった。
ハル,「そちらはどうです?」
京介,「どうもこうも、ぱっと見、異常はないな」
ハル,「ふむ……おかしいですね……なにかしかけてくるとしたら、今日だと思うのですが……」
京介,「お前は、なにをしている?」
ハル,「西条の荷物をあさっていたところです。パスポートと航空券が出てきました。本日最終の便で海外に逃げる予定だったようです」
京介,「なるほど。なら、今日なにかが起こる予定だったわけだな」
ハル,「西条の協力なくしては成しえない計画だったとしたら、"魔王"もいまごろ二の足を踏んでいるかもしれません」
京介,「西条は、フィギュアスケートのチケットを持っていたんだろう?」
ハル,「はい。ありました。今日のショートプログラムの観戦チケットです」
……やはり、なにかが起こるはず。
ハル,「浅井さん、わたしは……この事件は……」
何か言いかけたところで、不意に通話が切れた。
いつの間にか、携帯電話の電波が届かなくなっていた。
通路は人でごった返している。
京介,「仕方がないな……」
焦燥感に押しつぶされそうになりながら、ただ時間だけが過ぎていった。
;黒画面
おれの予想とは裏腹に、事態は最良の結果となった。
なにも起こらなかった。
目だった出来事といえば、花音がまた凄まじい得点を叩きだしたことくらいだ。
会場出口で花音の無事な姿を見かけたときは、カゼがぶりかえすほど力がぬけた。
郁子さんの身にも危険はなかった。
なにも、問題はなかったのだ。
;背景主人公自室夜
……。
…………。
花音,「たっだいまー」
花音を車の助手席に乗せて帰ってきた。
花音,「兄さん、たっだいまーだよ。おかえりー、は?」
京介,「おれと一緒に帰ってきただろうが」
リンクの上では、あれだけ妖艶な演技を見せる花音も、こうしてみるとぽけーっとしてんだよな。
花音,「カゼなおってよかったね」
京介,「お前のおかげだ……と言ったら調子づくだろうが、まあそういうことだ」
花音,「うんうん、のんちゃんのおかげだよ。兄さんがいま生きてるのは」
そこまで死にかけてたわけじゃねえだろ。
京介,「いくらだ?」
昔やったように、ぎろりとにらみつけてやった。
花音,「あはははっ、百億万円です」
京介,「まあ、冗談じゃなく、かかった薬代とか、湯たんぽとか……とりあえずレシート見せろよ」
花音,「レシートなんて捨てるもん」
京介,「なにっ!?お前は馬鹿か!」
花音,「兄さん面白いなあ」
京介,「いいか。レシートは必ず取っておけ。てめえがどんな無駄づかいをしているかがわかる」
花音,「ほー」
おれは舌打ちして財布から一万円札を抜いた。
京介,「ほれ」
花音,「おー、兄さんがおおざっぱに一万円くれるなんて、熱でもあるんじゃない?」
京介,「あったんだよ。いいからとっとけ」
花音,「受け取らないと兄さんは納得しないんだろうなー。あーあー、根暗だなー」
ぐちぐち言いながら、おれの指の間から金を引っこ抜いた。
京介,「悪かったな、本当に……」
花音,「なにがー?」
京介,「いや、おれのせいで今日のショート落とすかと思った」
花音,「んーん、気にするな。結果がすべてだ。コレ、パパリンが良く言ってる」
京介,「まあ、今日は早く寝るんだな」
おれはソファに腰掛けて、テレビをつける。
;以下は音声にエフェクトをかけて
スポーツニュースを見ると、花音がマイクに向かって微笑を浮かべていた。
花音,「『明日も、この調子でいきます』」
まるで声色が違う。
花音,「うーん、のんちゃんオトナっぽいなー」
テレビ画面に映った自分を見て、そう評した。
たしかに、これだけ見たら、誰もが花音を成熟した大人の女性と思うだろう。
花音のあとに、小柄で愛嬌のある日本選手……瀬田真紀子が出てきた。
瀬田,「『花音さんに、おいつけ追い越せで、がんばりたいなと。皆さんの期待に添えられるよう明日は全力をつくしますっ!』」
アニメの声優のような声だった。
小柄で、なかなか好感の持てそうな女性だった。
京介,「おい花音、あんなこと言われてるけど、どうよ?」
花音は目を丸くしていた。
花音,「瀬田さんファイナル残ってたんだ」
京介,「お前さ、人前で絶対そんなこと言うなよ?」
悪気はないのだろうが、人を見下した発言にとられても仕方がない。
花音,「いや、忘れてた。そっかそっか。そうだったねー」
京介,「ぜんぜん興味なしかよ……」
花音,「ほえー、瀬田さんも、やるねー。今日は62点かー」
京介,「お前が70.3叩きだしたときは、泣いてる客とかいたぞ」
花音,「うーむ、罪深いですなーのんちゃんは」
なんでこんなちゃらんぽらんなのかな、こいつは……。
花音,「ふーむ」
しかし、自分の演技のVTRがうつったとき、花音の目つきが俄然変化した。
花音,「…………」
京介,「…………」
花音,「……遅い」
京介,「…………」
花音,「遅すぎる……」
憎々しげにもう一人の自分をにらみつけていた。
あれだけの高得点を出しておいて、まだまだ納得していないようだった。
花音,「目線がふらついているのは……睡眠不足が原因かな……」
低く押し殺すような声だった。
京介,「わ、悪かったな……マジで」
花音,「今日は寝るからだいじょうぶだよ」
京介,「おう……」
こええな、しかし……。
おれはさりげなく、テレビを消した。
花音,「んー、やっぱりのんちゃんは悪くないな」
京介,「なにがだよ」
花音,「今日、コーチにね……あ、ヒルトン先生じゃないよ。なんかね、スピンのときもっとエッジをフラットに使って回転を速くしたらって言われたんだけどね」
京介,「あ、ああ……」
花音,「曲にあってないんだなー。ちょうど曲が穏やかになったときのスピンだからー、そんな超スピードで回んなくてもいいんだよねー」
京介,「よくわからんが、失敗したのか?」
花音,「うん、びみょーにね。違和感だったね。すぐ持ち直したけど。あれなかったら、あと一点は伸びたね」
京介,「つーか、ヒルトン先生の言うこと聞いてろよ。郁子さんはコーチじゃないんだから」
花音,「うむ、ごもっとも。でも、のんちゃんは正しかった」
なんか、郁子さんとヒルトン先生の間でも面倒な確執がありそうだな。
花音,「でね、兄さん……」
真顔で見つめてくる。
京介,「なんだよ……」
花音,「あんまり気にしたらいけないんだろうけど……」
京介,「まさか、昨日の続きか?」
おれとペア……。
花音,「んー、それも気になるけど……」
花音は、すこし腹立たしそうに、すこし悲しそうに言った。
花音,「コーチ、命狙われてるの?」
返す言葉に詰まった。
おれはいま、どんな表情をしているのか。
少なくとも余裕は、なさそうだった。
京介,「え、命……?」
気持ちを取り直し、半笑いで聞き返した。
花音,「んー、やっぱ冗談だよね?」
京介,「おう、わけがわからんな。なんだいきなり?」
花音,「なんかね、演技が終わってかえろっかなーってときに、コーチが真顔でそんなこと言いだしたの」
――あの女!
京介,「ひどいギャグだな」
花音,「うん、ちょっとびっくりした」
京介,「気にするな」
花音,「んー、なんだろう。のんちゃんが不機嫌そうだったから、かまって欲しかったのかなー」
京介,「まあ、そんなところじゃねえか?」
なぜだ!?
たとえ冗談でも娘を不安がらせる理由がわからない。
もともと気を使えなさそうな女性ではあったが、まさかそこまで……!
京介,「さあさ、風呂入るぞ。特別に髪ぐらい洗ってやる」
しかし、花音は不審そうな顔のままだった。
花音,「パパの部下みたいな人がコーチの周りにいるのもそうなのかな?」
京介,「はあ?だからってなんで命狙われるんだよ」
花音,「だって、パパ、怖い人でしょ?拳銃持ってるの見たことあるもん」
京介,「だから、なんで郁子さんが殺されなきゃならんのかと」
花音,「でもさー、スケートも人気だからさー、たまーに頭のおかしい人から、事務所に脅迫状とか届いたりするらしいよー」
京介,「だったら警察が出てくるだろ。パパは警察か?」
花音,「んー、違うね。そっか。じゃあ、なんでもないか」
危ないところだった……。
脅迫状という言葉が出てきたときはひやりとしたものだ。
京介,「お前はよけいなこと気にしないで、明日に備えればいいんだよ」
花音,「うん……」
納得がいかないようだった。
花音,「そうだね。いまさら、他のこと気にしちゃダメだよね」
目にどきっとする哀しみの色が認められた。
花音,「これは冗談だけどね、たとえコーチが死んじゃっても、気にしちゃダメだよね……なんちゃって」
花音の顔がにわかに白くなった。
ふてくされているような、あきらめきっているような、辟易させられる表情。
スケートだけに生きてきた少女。
花音はいつでも、そういうところへ自分を追い込んでしまえるみたいだった。
たちまちおれは、その不安定さの虜になった。
……おれと、ペア。
京介,「花音……」
花音,「どしたの、真面目な顔して」
京介,「いや、おまえこそ、そんな顔すんな」
花音,「そんな顔?なんで?別に、普通じゃない?」
非難するような口調。
花音,「だって、誰も本当のこと教えてくれないんだもん。のんちゃんは、スケートやっていればいいんだもん」
花音,「みんな、スケートやれって言うんだもん」
花音,「兄さんすら、やれって言った」
愕然として花音を見つめ返した。
ある疑惑が一瞬にして吹き出てきた。
ためらわずに喉を開いた。
京介,「好きじゃないのか、本当はスケートが……?」
花音の目に強い憎しみがみなぎった。
花音,「好きとか嫌いとかじゃなくて、やるしかないの」
身じろぎもせず、おれをにらみつけている。
花音,「この話はおしまい」
花音,「明日はフリー」
花音,「ただ、勝つ」
花音,「それだけ」
ひとつひとつ、自己の痛みを串刺しにするように、冷然と言った。
花音,「兄さん、もう、よけいなこといわないでね」
いまや寛容にささやきかけた。
花音,「兄さんが悪い。のんちゃんは悪くない」
ワルキューレの騎行こそかかっていないが、花音はいま、おれの部屋ではなく、氷の上にいる。
これまでは形だけの妹だった。
これまで見向きもしなかった少女に、目を向けざるを得なかった。
かわいそうだと思った。
思って、しまった――。
慢性的に悩まされていた頭痛が、嘘のように引いていった。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
花音は母親の郁子に冷めていた。
いつごろから、憮然とした態度を取るようになってしまったのか、花音にはわからない。物心がついたときには、もう、心が凍りついていたかもしれない。子供心に、普通の人ではないと思った。母はあまりにも美しすぎた。外見と外面を美しく見せることに執着していた。
花音,「お母さん、パパは?」
それは、"のんちゃん"の知るところではなかった。
郁子,「のんちゃん、スケートは楽しい?楽しいでしょう?大勢の人が喜んでくれるものね。お母さんもとってもうれしいわ。だから、のんちゃんはスケートのことだけを考えてればいいの」
花音,「うん……でも、みんなパパがおうちにいるよ?」
郁子,「のんちゃんは、みんなとは違うの。特別な子なの。だって見てごらんなさい。のんちゃんのお友達は、氷の上で跳んだりできる?」
花音,「できない」
子供は嘘に敏感で、花音は鋭い少女だった。だから、母親が事実を隠していることはなんとなくわかっていた。母親の名前が金崎なのに、なぜ自分は浅井なのか。けれど、苗字が違うという理由だけで、郁子を他人だと思うには、彼女は花音に甘すぎた。
欲しいものはなんでも調達してきてくれた。愛らしい人形に最新のテレビゲーム、友達の誰もがうらやむかわいらしい洋服。
郁子,「花音ちゃんのためならなんでもしてあげる。お金なんてあとからついてくるのよ。私もそうだったから」
すぐに飽きた。幼いころから大小さまざまな競技会を連覇していた花音は、欲しいものは自分の力で手に入れなければ満足できないという理を、肌で悟っていた。
念願のパパが手に入ったのは、特別推薦を受けて小学生にして、ノービスAからシニアの全国大会に参戦したときだった。タイトルの獲得にはいたらなかったが、初めて出会ったパパは、そのごつい腕で花音の頭をていねいに撫でてくれた。
浅井権三,「これからは俺が面倒をみてやる。なんでも言え。母親がいやなら替えてやる」
言葉の意味はわからなかったが、自分にもパパがいたという安堵に、花音はそのときになって初めて、スケートをやっていて良かったと涙した。
花音,「お母さん、パパ、パパ、いたよ!」
郁子,「そう」
花音,「褒めてくれたの!」
郁子,「そう」
満面の笑みを浮かべてはしゃぎまわる花音に、郁子はどこか不満げだった。そして、ぼそりとつぶやいた一言。死ねばいいのに……。花音はまた、心を凍りつかせた。
スケートに没頭する毎日が続いた。郁子は異常なほど優しかった。怒鳴り声をあげて選手を一喝するよそのコーチを尻目に、いつも上目づかいで花音におうかがいを立てていた。花音はいつしか、郁子の指導を、ただの媚にしか感じられなくなっていた。
それでも勝つためには他人の何倍もの努力を要求された。減量を中心とした体調管理を徹底した。郁子が寝ている横で、自分の試合のビデオテープを朝まで見続けた。初潮を迎え、体が丸みを帯びてきた時期は大変につらかったが、さる有名大学でスポーツ科学を研究する教授の門をたたき、一から筋肉を整えた。過酷な修練の裏で、天才スケート少女としてマスコミにも笑顔を見せた。
郁子,「もう、お母さんが教えられることなんてほとんどないわね」
いつしか郁子がリンクに立つことはなくなっていた。リンクの外側からまるで部外者のようにときおり声を出し、細かなミスを指摘するだけだった。
見かねたフィギュアスケート連合の指導者たちが、花音と郁子を引き離そうとした。しかし、花音の強い希望でコーチが代替わりすることはなかった。花音は、強い希望など出した覚えはないのに……。
結果、名コーチとして名高いジョージ・ヒルトンが世界連合に働きかけるまで、花音の才能はずっと七分咲きのような状態だった。天賦の才能だけで勝ち上がってきたノービス、ジュニア時代はともかく、強豪の集うシニアの場では、思うように成績が伸びなかった。
世間の目はコーチとしての郁子に向けられていた。昨年の故障にいたっては、郁子のコーチとしての管理能力が激しく糾弾された。
郁子,「花音ちゃん、ごめんね。私で、ごめんね」
母親はよく、娘に頭を下げるようになった。
郁子,「私が、ぜんぶ悪いのよ。花音ちゃんはなにも悪くないからね」
大会の役員、エージェント、スポンサー、スポーツ記者、学園の教員……ありとあらゆる方面に拝み倒した。もともと小さかった母が、より小さいただのコーチに成り下がった。そうして花音の傲慢さを加速していった。花音は自分が傲慢であることを知りながら、どうにもならなかった。まるで、親を殺したいと思うのだが、実際に殺せるはずもなく自分を持て余す思春期の少年のように、ささくれ立った"悪魔"を心の奥深くで養っていった。
氷の上の"魔王"は、憎悪に心を閉ざし、ただ母の教えを復唱する。
花音,「のんちゃんは、悪くない」
そう。
誰が、頭を下げるものか……。
;黒画面
そして、計算高い悪魔に、花音はついに足をすくわれた。
;SE氷の上で転倒
時が凍りついた。
痛みも動揺もなかった。
トリプルルッツ、トリプルトゥループのジャンプ。三回転+三回転のコンビネーションは上位に入るためには必須の要素だった。しかし、固い氷の地面に落ちたのは、右足のアウトサイドエッジではなく、この一年間、競技会では一度も打ちつけたことのない背中だった。
おかしい、花音はようやく思った。
なぜ、拍手がないのか。なぜ、こんな体勢で演技をしているのか。なぜ、かかっている曲が自分を置いて勝手に進んでいくのか。
ルッツジャンプは後ろ向きに踏み切るジャンプのなかでは、最も難しいとされている。だからこそ、絶対の練習を積んだ。高さと飛距離を両立させた芸術に昇華させるまで。観客が浅井花音といえばルッツだと騒ぐまで。勝利と栄光の象徴とでもいうべきルッツが、この土壇場、フリースケーティングの開始十五秒で花音を裏切った。
――勝てない。
負ける。転倒に加え、演技を中断した。大幅な減点。機械のように精密なプログラムは、ネジが一本なくなっただけで簡単に崩壊する。
消える、優勝が。当然の、勝利が……。
誰だ。
花音の胸のうちで鬱屈した感情が牙をむきだしにした。
誰だ、誰のせいだ……?
のんちゃんは、何も悪くないのだから――。
;通常形式。
……。
…………。
新聞の夕刊。
でかでかと晒された花音の痴態。
その夜、おれは、テレビやインターネットを目をさらのようにして眺めた。
ただ転倒しただけならともかく、その後十秒に渡って演技を中断したのだという。
たしかに、なぜ立ち上がらなかったのかとおれも思う。
転倒はよく見る光景だった。
どんな選手もすぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのように演技を続けていた。
たとえ一度転倒しても、表彰台に上がる選手はいくらでもいる。
しかし、ようやく立ち上がった花音は、おざなり演技をした挙句、規定の演技時間すら超過し、観客を悪い意味でどよめかせたという。
どこもかしこも花音の失敗を冷ややかに見ていた。
その理由は、テレビのインタビューを通して知った。
;背景主人公の部屋夜
花音,「『やる気?ありましたよ、もちろん』」
会場を出た花音に向けてフラッシュが瞬き、無数のマイクが向けられていた。
花音,「『だから同じこと何回言わせるんですか?』」
不快な顔を隠そうともせず、取り囲むレポーターを押しのけていく。
花音,「『コーチが、郁子さんが、命を狙われてるって聞いたんです。それで動揺して……ちょっと、道開けてよ!』」
最悪だった……。
郁子さんが命を狙われてる?
そんな話、誰が信じる?
念のため警察の調査もあるかもしれない。
けれど、権三はそんな事実を隠し通すだろう。
この報道を見た権三は、もうあの脅迫状を、脅迫の事実を焼き捨てているに違いない。
花音,「『ファンに失礼な演技!?ああ、そうですか。それはどうもすみませんでした。次にご期待ください!』」
最後は、カメラを手で覆うような仕草で画面が切り替わった。
……なんてことだ。
今日も、"魔王"に動きはなかった。
園山組と新鋭会の抗争は、今日の朝方のうちに決着し、いい風が吹いてきたと思っていた矢先の出来事だった。
憎々しげに目を吊り上げる花音の映像が切り替わった。
本年度、グランドシリーズ優勝者、瀬田真紀子だった。
瀬田,「『あの……この、一年間本当に、つらくて……世界大会でみなさんのご期待を裏切ってしまったから……あの……』」
感極まって涙していた。
瀬田は堅実な演技を披露し、初日四位から、一気に首位に躍り出た。
瀬田,「『今日は本当に、ありがとうございました。それだけです……』」
テレビを意識したような作為的なものは一切なかった。
逆境にめげず、努力を重ねた様子が垣間見えるだけだった。
この対比は、マスコミにとっておいしい餌になる。
花音のコーチのヒルトンも、今日の花音の演技についてはコメントを控えていた。
だが、なにをしゃしゃりでてきているのか。
郁子,「『……命を狙われてるって……いいえ、そんな……ええ、それは……軽い冗談のつもりで……』」
おれは頭を抱えた。
郁子,「『はい。花音にかわって、皆さんにお詫び申し上げます』」
下げ慣れた様子の頭で、いかにも誠実そうに謝罪した。
事情を知っているおれとしては、花音にかわって、という一言が腹立たしくて仕方がなかった。
;SE着信
そんなとき、着信があった。
栄一,「くぉら、京介ぇっ!」
京介,「なんだ、おれはいま機嫌が悪いんだ!」
栄一,「ざけんな、バーロー!今日のありゃなんだ!?」
京介,「おれが知るか!」
栄一,「いまネットも炎上してんよ。みんな花音のあとにw(ダブリュー)つけてんよ、花音様www(ダブダブダブリュー)だよ。この意味わかるか!?」
京介,「なんとなくわかるよ。ああ、最悪だ!」
栄一,「なんだ、命狙われてるって!?ゴルゴか!?もうちょっとマシないいわけあるだろうが!」
京介,「あー、そうだな!もう切るぞ!?」
栄一,「とりあえず、花音に伝えろ。てめえは次の全国、ぜったい優勝しろってな!」
……くそっ!
栄一の話によれば、世界大会に出場するには全国大会で優勝しなきゃならんらしいな。
それもグランドシリーズを落とした以上、二位に大差をつけて勝たなきゃならない。
世界に出れなきゃ、オリンピックも怪しい。
花音は年齢的にもいまが全盛期と言われているから、次の全国大会は花音の一生を左右するだろう。
;SEドアが開く音
玄関で物音。
いま、日本で最も話題性のある少女が、おれの部屋に足を踏み入れた。
京介,「おかえり。遅かったな」
花音,「うん」
京介,「メシは食ったか?」
花音,「いらない」
口を尖らせる。
花音,「なに?」
おれの視線が気に入らないらしい。
花音,「…………」
京介,「…………」
花音は、おれから目を逸らすと、何も言わずに脱衣所に向かっていった。
ややあって、水が滴る音が聞こえてきた。
五分、十分とたっても、浴室にシャワーのほかに物音はなかった。
ときおり、しゃくりあげるような声が響くだけだった。
風呂場の電気もつけず、花音はただ、うちひしがれていた。
;場転
ようやく暗い浴室から出てきた花音に、ぎょっとした。
;花音立ち絵、裸。
京介,「なにしてんだ……」
花音,「…………」
京介,「服を着ろ。カゼひくぞ」
水びたしの髪。
丸みを帯びた体に、多くの水滴がはねている。
生気を失った顔で、幽霊のように、おれを見ていた。
花音,「……い?」
かすれた声。
花音,「嫌い?」
花音,「兄さんも、のんちゃんが嫌い?」
花音の声の調子に合わせるように、おれは小さくかぶりを振り続けた。
花音,「嘘つきだと思う?」
花音,「だって、本当だもん……」
花音,「本当に、命を狙われてるって言ってたもん……」
もろかった。
氷上であれほど輝いていた花音は、もう、いない。
花音,「転んだのは……」
花音,「負けたのは……」
花音,「理由なんて、見あたらないもん……それ以外に……」
花音,「信じて……兄さん……」
絶望的なまでに愛情に飢えた女の子が、そこにいるだけだった。
花音,「みんな……のんちゃんを、利用するの……」
花音,「お母さんは自分の見栄のため……」
花音,「お父さんはお金のため……」
花音,「テレビの人も、企業の人も、みんな、みんな……いままで……ずっと……そう……」
薄い唇が静かに続けた。
花音,「誰ですか、わたしは……」
ねじの切れた機械仕掛けの人形のように、花音の唇の動きがゆっくりと緩慢になっていった。
花音,「…………さ、い……」
魂の抜けた声を、しかし、おれは理解した。
タスケテクダサイ……。
誰か、優しく、暖めてください、と。
おれは、そんな様子に昔の自分を重ねてしまった。
北国のあばら家で、寒さに震えながら同じようなことを祈ったものだ。
花音,「にいさぁん……」
;黒画面
愛情よりも同情が勝っているのはわかっていた。
哀れだった。
おれだって花音を利用していた一員だ。
花音はいまや、そんな外道にすがるしかないほど追い込まれていた。
けれど、悪魔すら人を救うことはある。
あの晩、浅井権三がおれを救ったように。
カミサマの清く正しい救いの手を待っていられない人間もいる。
おれはこれから自分がやろうとしていることの意味を考えた。
外道にも一分の矜持。
責任だけは果たさねばと、固く心に決めた。
おれは冷え切った肌に腕を伸ばし、花音の求めに応じた。
;以下Hシーン
;ev_kanon_h_03a→ev_kanon_h_04aへの流れ。
;===============================这里请有爱人士自行移植@call storage="gkh1.ks"==============本人不提供原脚本===============
;黒画面
…………。
……。
;黒画面
一週間ほど過ぎた。
花音の命運を決めるフィギュアスケートの全国大会まで、あと一週間。
花音は、黙々と練習を続けていた。
おれもいままでどおり学園に通いながら、浅井興業の仕事に追われる毎日だった。
花音を抱いたあの夜のことは、まるで夢か幻だったのか。
そう思わせるくらい、おれと花音は何事もなかったようにいっしょに暮らしていた。
ただ、花音もおれと結ばれたことを後悔だけはしていないようだった。
ふにゃりとした笑顔で、相変わらずわがままに振る舞う。
おれは、おれだけはこの哀れな少女の理解者であろうと、心に決めていた。
;背景屋上昼
京介,「そうか……"魔王"に動きはないか……」
ハル,「ええ、ばったりと、活動を停止しましたね」
学園の昼休み、おれは宇佐美と二人で話し込んでいた。
京介,「ひょっとして、前に郁子さんがテレビで命を狙われているとか言ったのが原因かな?」
ハル,「それはあるかもしれませんが……それにしても、別の手段を講じてきてもおかしくはないと思うんですが……」
京介,「もともと、"魔王"の動機は不明瞭だったわけだしな……」
ハル,「また、わたしの仲間を陥れようとしていたのかと考えていましたが……」
こうまで、音沙汰がないとな……。
京介,「まあ、次の全国大会かな、なにかあるとしたら」
ハル,「それも、どうでしょうね……」
宇佐美が首を傾げる理由はわかる。
京介,「最初の脅迫状どおり、花音はもう、負けたわけだからな」
ハル,「ええ……脅迫状の内容から判断すれば、"魔王"の目的は達成されているのかもしれませんが……」
京介,「やけに悩んでいるようだな?」
宇佐美は、不意に寂しそうな顔で言った。
ハル,「勘ですが、もう、なにも起こらないような気がします」
京介,「……なぜだ?」
ハル,「ですから、勘です。しいていえば、もしわたしが"魔王"で、本当に花音を破滅させたいのであれば、この一週間を無駄にはしなかったでしょう」
京介,「だったら、万々歳じゃねえか」
ハル,「ですね……浅井さんとも、もうお別れですね」
京介,「はあっ?」
また宇佐美の変人トークがはじまったよ……。
ハル,「"魔王"が消えれば、勇者も旅立つものです」
京介,「はいはい」
ハル,「浅井さんには花音がいますしね」
京介,「……なに?」
ハル,「これも、勘です」
穏やかな笑み。
ハル,「ユキほどではありませんが、わたしもこと浅井さんに関しては鋭いつもりです」
京介,「だから気持ち悪いんだよ、いいかげん……」
ハル,「さあて、午後の授業が始まりますよ」
宇佐美はおれを置いて勝手に去っていった。
なんだあいつ……?
;背景教室昼
栄一,「京介ぇ、最近花音はどうよ?」
京介,「どうもこうも、毎日練習してるが?」
栄一,「ほらあの、車のメーカー、花音と契約うち切るって?」
京介,「だな……なんとも現金なもんだ」
あれだけマスコミ受けの悪いことをしたのだから、企業としては当然の対応か。
栄一,「まったく、どいつもこいつもクズばっかりだよなー。みんなして手のひら返しやがって」
京介,「あれだけ人気があったわけだからな。敵も多かったんだろう」
栄一,「花音はよー、たしかに根は極悪な女だよ。何度もオレを怒らせたよ。そういう本性を見せちまったわけだからなー」
京介,「逆に、瀬田はどうよ?」
栄一,「いや、わかるだろ?人気急上昇だよ。昨日の特番見たか?やっぱり最後は努力した人間が勝つみたいな泣ける話だったぜ?」
京介,「まあ、本当に苦労したんだろうな」
栄一,「ぶっちゃけファイナルの瀬田はすごかったぜ。NKH杯でダブルだったジャンプをトリプルに変えてきた。マジで優勝狙ってたんだな、あの萌へ子」
京介,「なんだ萌へ子って」
栄一,「ネット上じゃ、みんなそう呼んでるの。萌えるじゃん。あのキャラと声と。花音は女王様みたいな扱いだったけど、いまじゃひどいもんだ」
完全に逆風だな……。
京介,「花音、クリスマスのバラエティ番組も降板だってよ。かわりに瀬田が出るらしい」
栄一,「とにかく、世界行きはもう瀬田、みたいな動きになってるのがウザいね」
京介,「ああ、なんかの記事で読んだな……」
下世話な週刊誌では、花音は日本の恥とまで書かれていた。
京介,「なんにしても、次の全国大会で結果だせばいいんだろ?」
栄一,「つーか、それしかねえ。二位に大差つけて勝てば誰も文句は言えねえから」
二人して、ため息をついていた。
;場転
授業中。
おれは教科書ではなく別の本を読んでいた。
郁子さんの著書。
表紙に郁子さんのバストアップがでかでかと載っている。
『フィギュアスケートへの提言』と銘打たれた、ある種の業界内幕本だった。
コーチや審判の待遇から現在のフィギュアスケート連合の内情、選手時代の自分の体験談なんかが書かれているが、どうにも品がない。
まず、花音の成長をやたら誇らしげに書き過ぎている。
逆に自分のもとを去っていった選手のことを、寂しさを装うような文章の調子で、粘着質に語っている。
批判というより、ただ著者の愚痴を書き連ねたような印象が強かった。
巻末の一言。
おれは口元がひきつるのを自覚した。
『それでも花音ちゃんは、私のもとで滑りたいと言ってくれるんです。母親として、コーチとしてこんなにうれしいことはありません』
こんな本を出しているくらいだから、当然、郁子さんも世間の評判は悪い。
いまとなっては、あの親にしてこの娘あり、みたいな扱いを受けるはめになった。
どうして我が子をもっといたわってやれないのかと思ってしまう。
おれの母は苦しい生活のなか、それでもおれだけは守ってくれた。
郁子さんも、昔はオリンピック代表選手として絶大な人気を誇っていたらしい。
なぜ、こうなってしまうのか。
郁子さんの変貌を疑ったとき、おれはある男にたどり着いた。
;黒画面
…………。
……。
;背景権三宅居間夜
京介,「先週の報告は以上になります」
新鋭会との抗争は、園山組が新鋭会の商圏をほとんど支配するという条件で決着した。
おれはまた、浅井興業の顔役として、権三の威光を伝えて走り回っている。
浅井権三,「…………」
おれの報告に、権三は憮然としてうなずいていた。
浅井権三,「花音は、どうだ?」
不意に、尋ねてきた。
京介,「ご存知のとおり、エージェントのほうから、立て続けに仕事のキャンセルが届いています」
権三はそんなことは知っていると言わんばかりに、あごをしゃくった。
浅井権三,「あれは、もう終わりか?」
京介,「まさか」
即座に否定した。
京介,「勝敗は時の運ともいいます。一度負けたくらいであきらめるにはもったいないと思いますが?」
浅井権三,「ただ負けたわけではあるまい?」
京介,「それは……」
口ごもる。
浅井権三,「花音も、ずいぶんとふてぶてしい女に育ったな」
おれはうつむいて、なにかに耐えた。
それは、花音への同情であったり、郁子さんへの軽蔑であったり、郁子さんを作った権三への怒りであったりした。
浅井権三,「それで、京介……」
権三の口元が歪んだ。
浅井権三,「花音をてなずけたか……?」
おれは権三の言葉を思い出した。
犯しておけと本気で命令した悪漢に、どう報告すべきか迷った。
京介,「はい」
けっきょく漏れ出たのは、苦々しい一言にすぎなかった。
京介,「お養父さんにぜひおうかがいしたいのですが……」
前置きして聞いた。
京介,「郁子さんとは……その……どういう方でしたか?」
情けないことに、権三の眼光を前にすると、言葉がくすぶる。
おれの心境を理解し、またそのようにしつけてきた我が養父は、冷然と言った。
浅井権三,「郁子は、真面目で、健気で、なにより努力家だった」
浅井権三,「容姿人格ともに素晴らしいアスリートが、なぜ俺のような極道に惹かれたかわかるか?」
おれは、黙って首を振った。
浅井権三,「女は好奇心から、たやすく悪を受け入れるからだ」
その一言で、権三が郁子さんをどのように地獄に落としていったか、想像する気も失せた。
浅井権三,「わかったか、京介?容姿のいい雌がいた。種をつけた。生まれた子供は金になりそうだった」
それがどうしたと言いたげだった。
京介,「郁子さんは、あなたを恨んでいる様子でしたが?」
浅井権三,「だろうな」
京介,「昔は人気選手として脚光を浴びていたようで……」
浅井権三,「俺につままれたせいで、人生が狂ってしまったな」
直後、権三がこらえきれないといった顔をうつむかせた。
浅井権三,「くく、はははっ、ふははははっ―――!!!」
突然のどす黒い笑い声を前にして、おれはただ、目を見開くだけだった。
浅井権三,「そうだな、京介。すべて俺が悪いな」
あくまでも倣岸。
浅井権三,「それで、どうやって俺を叩き伏せる?」
京介,「……っ」
浅井権三,「どうした?目の前にわかりやすい諸悪の根源がいるのだぞ?」
権三は胸を広げ、腕をだらりと下げて無防備な姿勢となった。
浅井権三,「さあ、殴れ。お前は正しい。暴力を許す自己の正当性は十分だ。俺のせいでお前の妹が愛情に飢えているのだからな」
拳はかたくならなかった。
それほど恐怖も感じなかった。
この男の価値観に、どうしても歯が立たないような徒労感だけがあった。
浅井権三,「まったく笑える話だ」
浅井権三,「男に捨てられた程度で歪んでしまうような己など、最初からなかったも同然ではないか」
どこまでも強靭な怪物だった。
権三は暗に、人間がそんなに弱くていいのかと説いているにすぎない。
浅井権三,「いいか、京介。お前も俺の息子であるならば、つねに悪を受け入れる覚悟をしろ。たとえそれが身に覚えのない悪であろうと、決してわめいてはならん」
京介,「わかりました……」
浅井権三,「花音も俺の娘だ。それに気づけば、まだまだ勝ちは望めよう」
この男の考えを変えることは、誰にもできないのだろう。
おれは、権三宅を辞した。
;背景主人公の部屋夜
最近のおれは、空き時間にフィギュアスケートの知識を頭に詰め込んでいた。
栄一ほどとは言わないが、いまではジャンプの種類くらいはわかるようになった。
とはいえ、実際、客席に座って見分けがつく自信はないが。
花音,「ただいま、ただいまー」
花音が足を弾ませて帰ってきた。
花音,「おおっ、またスケートの本読んでるなあ。偉い偉い」
京介,「なんでうれしそうなんだよ?」
花音,「だって、のんちゃんに興味持ってくれてるってことでしょ?」
……まあ、そういうことになるか。
花音,「ふぃー、いきなりお風呂入りますかねー」
ここのところ花音は、帰ってきてすぐに風呂につかる。
おれもそれを承知していて、だいたい同じ時間に風呂を沸かしている。
もちろん、もう、裸で浴室から出てくるようなことはない。
花音の姿が脱衣所に消えたのを確認して、おれはテレビをつけた。
全国大会が近くなり、スポーツニュースはたいがいフィギュアスケートが中心になっていた。
もう何度見たかわからないファイナルでの花音の転倒が、画面に映った。
指摘されるのは、転倒そのものではなく、転倒後の演技中断と、その後のマスコミに対するふてくされたような態度だ。
『多感な時期とはいえ、ここに来てメンタルの弱さが出てしまったかなと……』
花音と親交のあった、元フィギュアスケート選手が無念そうにコメントしていた。
対照的に、瀬田は持ち上げられる一方だった。
テレビ屋が英雄を作りたがるのはわかる。
何度もテレビ画面に映っている姿を見ると、不思議と応援したくなるものだ。
瀬田は堅実さの裏に、地味だが重要なテクニックを隠し持っていたことがことさらにアピールされていた。
とくにステップ。
サーペンタインステップという氷の上に連続したS字を描くようなステップの評価は高い。
花音が首位を飾ったファイナルの初日も、ステップにおいては、瀬田のほうが得点が高かった。
『派手なジャンプばかりがスケートではないということですね』
コメンテーターはそう締めくくった。
浴室で物音がしたので、テレビを消した。
花音,「兄さん、パジャマがないことに気づきました」
京介,「いまさらだろ」
花音,「買っといてー」
京介,「おう、覚えてたらな」
花音,「忘れそー」
京介,「失敬な」
花音,「だって、兄さんには去年もちょっとスケートのこと教えてあげたんだよー?」
京介,「ああ、ちょっとは覚えてるよ。減量しなきゃいけないこととか、あの……ほら、テレビウケしないっていう理由で廃止になったアレとか……」
花音,「コンパルソリー?」
京介,「そうだ……その辺は知ってたぞ」
とても誇らしげに言うようなことではないな。
花音,「一度ビョーインに行くことをお勧めします」
もう行ってる。
秋元氏か……。
そういえば前回は、いつの間にか診療が終わっていたな。
なにか失礼なことでも言ったのか、おれは……。
次回は明日だったな、花音の相談でもしてみようか。
京介,「じゃあ、寝るか……」
花音,「あ、兄さん」
京介,「ん?」
花音,「あのね、もうちょっとでクリスマスだよね?」
京介,「おう。大会の前日だな?」
花音,「おおー、さすがにそれぐらい覚えてたかー」
京介,「クリスマスがどうかしたのか?」
花音,「夜は練習お休みなの」
京介,「へー、そりゃ良かったな」
ちょっとくらい休まなきゃ身がもたないだろう。
花音,「ヒルトン先生がね、クリスマスは家族と過ごしなさいって」
笑顔のまま、寂しいことを言った。
京介,「わかった。おれも空けておく」
花音,「やったー!初めて兄さんといっしょだね!」
京介,「そうか……言われてみればそうかもな……」
おれは、クリスマスなんて大嫌いだったからな。
京介,「どっか行きたいのか?」
花音,「もちろん任せる!」
京介,「ホテルはもう、予約取れないだろうな」
花音,「ほ、ホテル……!?」
失言だった。
京介,「いや、レストランな……」
不意に、おれも花音を意識してしまった。
京介,「まあ、考えておくわ……」
花音,「うん……」
上目づかいでちらりとこちらを見ていた。
花音,「兄さん……嫌だった?」
花音を抱いた、あの晩のことだ。
京介,「嫌じゃないよ」
花音,「あのときは、助けてくれたんだよね?」
京介,「これからも助けてやる」
花音,「それは、好きってこと?」
大胆に聞いてきた。
京介,「ああ」
はっきりと言った。
はっきりと、嘘をついた。
いままで、女性を好きになったことは一度もなかった。
だから、同情から始まった過剰な興味を、なんという感情なのか、おれは知らない。
ただ、花音を抱くということが、どういった責任をともなうのか、それだけは理解していた。
権三の影響だろうか、いくらでも嘘をつく覚悟だった。
花音が喜ぶのなら、安心するのなら、救われるのなら……。
花音,「兄さん……」
目を潤ませていた。
何も言わず抱きしめてやった。
花音はぴくりと体を震わせて、あとはうなだれるように体を預けてきた。
クリスマスか……。
花音といっしょなら……触れ合っていると、嫌な記憶しかない行事が、初めて楽しみに思えてきた。
……。
…………。
午前中、いつものように秋元氏のところを訪ねた。
京介,「どうも、前回はすみませんでした」
秋元,「いいんだよ」
秋元は優しく笑う。
京介,「興奮していてなにを口走ったか忘れてしまったんですが……」
秋元,「そうなんだ。別にたいしたことじゃなかったよ」
と言いつつ、今日の秋元氏は、いつもと様子が違った。
机の上に分厚いファイルをいくつも重ね、膝の上ではノートパソコンの液晶画面が光っていた。
なにより、目元がやや緊張したようにこわばっていた。
京介,「今日は、ちょっと僕のことは置いといて……」
かまわず、おれは切り出した。
京介,「妹のことでご相談があるんですが」
秋元,「花音さんの?」
秋元氏も現在の花音の状況は知っているだろう。
京介,「かまいませんかね?実は、けっこう複雑な悩みをかかえているようで」
秋元は瞬きを数回繰り返し、ふむ、とうなずいた。
秋元,「いいよ」
ノートパソコンを閉じた。
京介,「その前に、このことはぜったい口外しないと約束してください」
秋元,「そういう仕事だよ」
だろうな……。
おれは花音の生い立ち、フィギュアスケートの才能、郁子さんとの兼ね合い、父としての権三についても、知っている限り詳しく話した。
秋元氏は何度もうなずき、ときおりメモを取っていた。
秋元,「なるほど、苦労があるようだね」
京介,「愛情に飢えているんだと思うんです」
秋元,「京介くんから見てそう思えるんなら、どうも重症のようだ」
京介,「僕は片親になったとはいえ、母ができた人でしたから」
また、深くうなずいた。
秋元,「ええと、その、郁子さん……金崎元コーチは、花音さんに現在ではどういうふうに接しているんだい?」
京介,「どういうふう……?」
秋元,「つらく当たっている?それとも優しい?」
京介,「優しい……というより甘やかしていますね。いつも、へこへこしていると、花音は言っていました。きっと、いままでずっとそうだったのではないでしょうか」
秋元,「花音さんは、お母さんの教えに従ってスケートを始めたんだよね?」
京介,「だそうです。僕も本で読んだ程度なんですが、郁子さんのコーチングはレベルの高いものではなかったらしく、これまで何度かコーチが代替わりしそうになったようなんです」
秋元,「でも、最近までコーチは変わらなかった。それはどうして?」
京介,「花音の強い希望で……ということらしいですが、あの親子を見ているとにわかには信じがたいですね」
秋元,「金崎さんが嘘をついていると君は思っているわけだね」
考えるように首をかしげた。
秋元,「逆に、花音さんが、コーチを変えてくれるよう周りに働きかけたことはないの?」
京介,「それは……」
言葉を探したが、思い当たらなかった。
京介,「ない、ようですね……実際あっても、もみ消されたのか……」
いや、それはないか……。
日本のフィギュアスケート連合は、郁子さんに否定的だったわけだしな。
京介,「となると、花音は、黙って、郁子さんの嘘を受け入れたということでしょうか……」
秋元,「おや?」
不意に、秋元が時計を見た。
秋元,「京介くん、もう一時間だよ?」
京介,「え?もう?」
あっという間だった。
京介,「よろしければ延長していただきたいんですが?」
秋元,「なに?」
いつも作ったような笑顔を見せる秋元が、その瞬間だけは素にもどっていた。
秋元,「といっても、午後から知人と約束があってね」
京介,「どうか、もう少しだけ。延長した分の診察料はもちろん払いますから」
秋元はおれを見据えた。
秋元,「いや、驚いたな。君がそんなことを言い出すなんて」
京介,「…………」
秋元,「いいよ。僕でよければつき合おう。ちなみにお金はけっこうだ」
京介,「ありがとうございます」
頭を下げた。
秋元,「では、僕の見解を述べよう。ただ、話半分に聞いてくれよ?正確を期すには大量のデータと、分析にあたっての時間が必要だからね」
机の上の大量のファイルをちらと見た。
秋元氏は、今日、おれに重要な話をするつもりだったのかもしれない。
秋元,「君の妹は、とても優しい女の子だ」
真顔で言い切った。
秋元,「母親を決して好きにはなれないのだけれど、期待にこたえたいとは思っている」
秋元,「スケートは、彼女のなかで、好きでも嫌いでもなく、当然続けるべき義務だ」
秋元,「勝ち続けることで、母親が満足する。ならばもっとがんばろうと思う反面、なぜこんな見栄っ張りで自分を利用しようとする人間に協力しなければならないのかと悩んでいる」
一気にしゃべって疲れたのか、腹式呼吸を繰り返した。
秋元,「花音さんが、テレビで見せたような態度を取ってしまうのは、まず母親の影響といえる」
秋元,「たとえばよく世間で虐待が騒がれるだろう?しかし、甘やかすことで子供を駄目にする親もいる。むしろそのほうがずっと多い」
秋元,「人を甘やかすのは、自分が嫌われたくないという媚に起因する」
秋元,「金崎さんは、元フィギュアスケート選手でもある。人の目を意識した人生を送ってきたのだろう。引退後も周囲に働きかけて自分をよく見せようと必死だったようだ」
秋元,「そんな親の後姿を見て育った子供はどうなるか。もうわかるだろう?」
おれは深くうなずいた。
京介,「せめて自分だけは、人に頭を下げるものかと、心に決めるでしょうね」
秋元,「一方で、そういう自分が悪いことは知っている。知っているがどうにもならなくて、途方に暮れている」
京介,「秋元さん、おれは、そんな花音にどうすれば?」
おれは、率直にうれしかった。
世間ではわがままでどうしようもない子供のように扱われている花音を、優しい女の子と評してくれた。
秋元,「ふふ……君も優しい男だね、本当は」
なんだ、いきなり……。
秋元,「妹と向き合うことだ。わがままはだめだと、じっくりと説いていくんだ」
京介,「はい」
秋元,「わがままをするとお前が人に嫌われるからやめろ、と言ってはいけない。彼女はそれを大嫌いな媚だと思うだろう」
秋元,「わがままをするよりも、もっと人を喜ばせる方法があるのだと気づかせられればいい」
秋元,「彼女は大嫌いなはずの母親ですら、喜ばせたいと望んでいるのだから……」
秋元氏はまた、ふくよかな腹をつらそうに上下させていた。
秋元,「すまないね……抽象的な話ばかりで」
京介,「いいえ。助かりました」
もう一度、礼を言った。
京介,「どうも、今日は、大事なお話があったみたいなのに、花音の話ばかりしてしまって……」
秋元,「ああ、このファイルの山かい?いいんだよ、たったいまゴミになったから」
京介,「え?」
秋元,「いや、今日は実りのある話ができたね」
満足そうに頬を緩めた。
秋元,「僕はどうも見当違いのデータを集めていたようだ」
京介,「そんな……大量の資料があるのに……」
秋元氏は席を立った。
秋元,「君には自分の時間やお金よりも大切なものがあるのだと知れた。それが、一番の収穫だな」
仏のような笑みを浮かべて、おれを送り出してくれた。
;背景屋上昼
栄一,「また重役出勤か、京介」
京介,「いつものことだ。気にするな」
栄一,「あ?」
きょとんとして、口を開けた。
栄一,「なんかてめえ、うれしそうだな」
京介,「そうか……?」
栄一,「なんだよ、新しい女でもつかまえたのか?」
京介,「ちげえから」
栄一,「怪しいなあ……」
ふと周りを見渡し、面子が足りないことにきづいた。
京介,「椿姫は?」
栄一,「椿姫は生徒会の仕事だとよ。そろそろ年も暮れるから忙しいらしいぜ」
京介,「宇佐美はどうした?」
栄一,「知らねえ。寝てるんじゃねえ?」
まあ、どうでもいいか。
京介,「おい、栄一。お前に頼みがあるんだが」
栄一,「なんだあらたまって?」
京介,「お前さ、実はホテルのオーナーの息子なんだよな?」
栄一,「おうよ」
京介,「嘘じゃねえだろうな?」
栄一,「だから、嘘だと思うんなら今度一泊させてやるっての」
かかった……。
京介,「じゃあ、泊めてくれ」
栄一,「ん?ああ……マジで?」
京介,「ちなみに24日だ」
栄一,「むりむりむりむりむりぃいぃっ!」
目をカっと見開いた。
京介,「金は出す。スイートを押さえろ」
栄一,「おめーよー。わかってて聞いてんだろ?」
京介,「無理は承知だ」
栄一,「平日、部屋が空いているときなら親父に頼んでやらんでもないわけだよ?でも、その日がなんの日か知ってるだろ?」
京介,「おれの誕生日だな」
栄一,「は?マジ言ってんの?」
京介,「ああ……」
嘘だが。
栄一,「それでなに?新しく捕まえた雌とイイコトしようってのか?」
京介,「まあ、そんなところだ」
栄一,「ったく、無理言いやがって……」
京介,「最悪、食事だけでもかまわんが?」
栄一,「なら、なんとかなりかねんね」
京介,「なりかねんか」
栄一,「で、相手は誰だよ?セントラル街のギャルか?」
京介,「ん……まあな」
栄一,「オレの知り合い?」
京介,「いや……」
栄一,「本当だろうな?まさか椿姫や宇佐美じゃねえだろうな。ここんところ仲よさげだったろ?」
京介,「冗談言うな、じゃあ、頼んだぞ」
栄一,「おう……あんま期待すんなよ」
たしかに、あまり期待はできそうにないな。
;背景スケート会場夜
夜の十時近くになって、アイスアリーナまでやってきた。
京介,「おい、花音。こっちだ」
花音,「あれ、兄さんじゃない?どうしたの?」
浮いた顔で、こっちに走りよって来る。
京介,「迎えに来てやった」
花音,「おおー、ありがとう!」
京介,「考えてみれば、いままで夜道を歩いて帰ってきてたんだろう?」
花音,「ううん、コーチが送ってくれてたよ?」
京介,「ああ、そうか……」
花音,「でも、今日からは兄さんに送って欲しいなー」
そのとき、遠くで郁子さんの声がしたので、手を上げて応じた。
郁子,「京介くん、どうしたの?」
京介,「いえ……近くまで来たので、花音を拾っていこうかなと」
郁子,「あら、いいのよ、そこまで気を使わなくて」
申し訳なさそうに手を振った。
その腕に巻かれた百五十万はする時計に、つい、目を奪われた。
京介,「郁子さんの出された本、読みましたよ」
『たとえば審判の方は一日五千円の謝礼が支払われるだけなんですね。スケートが好きっていう気持ちがなきゃ、やっていられないと思います』
郁子,「あら?恥ずかしいわね」
京介,「参考になりました。最近になってまた売れ行きが伸びているようですね」
郁子,「でもあれはね、編集の方の手が入ってますからね」
まだまだ書き足りないことがあるようだった。
郁子,「今度、もう一冊書くことになったから、よかったら読んでちょうだい」
……また、恥をさらすということか。
京介,「それじゃ。花音、行くぞ」
花音,「うん……」
ちら、と母親を見る。
郁子,「いいのよ、花音ちゃん。兄さんに送っていってもらいなさい」
花音はうなずいて、おれのあとについてきた。
;背景マンション入り口夜
京介,「今日は練習どうだった?」
花音,「んー、ヒルトン先生に怒られた」
花音の一日の様子を聞きながら、部屋に戻った。
;背景主人公の部屋夜
花音,「でも、ヒルトン先生はいいよ。言ってること的確だもん」
京介,「つーか、ヒルトン先生って、あの年齢でまだジャンプ跳べるんだろ?どんだけすごいんだよ」
花音,「うん、みんな尊敬してるよ」
京介,「でも、郁子さんにはやっぱり甘いところあるのか?」
花音,「んー……そうかもね。いちいち練習メニューとか報告してるみたいだし」
まあ、ヒルトンにしてみれば、いきなりしゃしゃり出てきて、郁子さんの仕事を奪ったわけだからな。
京介,「フリーのプログラムを変えようって話は出なかったのか?」
あまり、花音にあっているとはいえない曲だった。
花音,「あったかも」
京介,「あの曲は、郁子さんが選んだのか?」
花音は口をすぼめた。
花音,「今日は、やけにのんちゃんに突っ込んでくるね」
と、にんまりと笑った。
花音,「そうだよ。これでやってってお願いされたの」
京介,「断らなかったのか?」
花音,「まあ、いっかなーって」
おいおい……。
花音,「ヒルトン先生もなにも言わないし、いいんじゃない?」
京介,「名コーチも認めてるんなら……」
花音,「実は、のんちゃんにぴったりの曲なんじゃない?」
京介,「ふーん」
信じられんけどな。
京介,「お前は、どう思うんだ?」
花音,「ぜんぜん合わない」
ガクッときた。
花音,「だってやっぱり、"曲の解釈"とか点数もらえてないし」
京介,「まあいっかなー、とか言ってる場合じゃねえじゃん」
花音,「そうだよねー、この前転んだのも、曲のせいだったのかもしれないなー」
京介,「それは……」
おれは言葉を選んだ。
京介,「失敗は失敗だろうな。ただ、いまさらプログラムは変えられないわけだから、がんば……」
がんばれ、と言っていいものだろうか。
がんばってないヤツにがんばれというのはいい。
しかし、がんばっているヤツにがんばれと言うと、追い込むことになる。
花音,「わかってるよ。やるしかないからね」
花音の心境が、いまひとつ理解できないのが歯がゆかった。
京介,「さて、まだ寝るには早い時間だけど、なんかして遊ぶか?」
花音,「あ、うんうん。なんか今日は優しいね」
京介,「なにがしたい?ゲームとかするのか?」
花音,「目に悪いことはしないよ。ただでさえ、毎日ピカピカした氷ばっかりみてるから」
京介,「なるほどなー」
花音,「王様ゲームだったらいいよ」
京介,「どうせお前が常に王様だろ?」
花音,「えへへへ」
京介,「チェスは?」
花音,「兄さんには勝てなさそうだからなー」
勝てなきゃ、やなようだ。
花音,「遊び人の兄さんと違って、のんちゃんは真面目なのです」
京介,「おれだって遊んでばっかりじゃないんだぞ?」
すると、むっとしたように顔をしかめた。
花音,「なら、二十四日に誰とホテル行くの?」
京介,「は?」
花音,「エイちゃんからメール来たよ。部屋の予約頼んだんでしょう?」
京介,「お前ら、地味に仲いいんだな」
花音,「別に、いいけどねー」
寂しそうに目を伏せた花音の肩をたたいた。
京介,「お前だ」
花音,「へ?」
京介,「だから、おれの相手はお前だって」
花音は、どぎまぎと、唇を噛んだり、手を握ったりを繰り返した。
花音,「そ、そーなんだ……」
頬を赤らめた。
花音,「なーんだ……」
京介,「栄一には言うなよ」
花音,「はいっ!」
浮かれた様子で、キッチンに駆け込んでいった。
花音,「今日は、のんちゃんが兄さんの夜食を作ってあげようじゃないか」
うれしそうだな……。
;黒画面
…………。
……。
;モザイク演出
魔王,「急にお呼び出しして申し訳ない」
染谷,「いや、かまわんよ、"魔王"。おかげで助かった」
染谷は予想通り上機嫌だった。
染谷,「いや、実に劇的だったな。あれだけ絶大な人気を誇っていた浅井花音が、一気に坂道を転げ落ちた」
魔王,「その後、瀬田が持ち上げられたのは、あなたの工作でしょう?」
染谷,「局のプロデューサーあたりを接待したくらいだ。もともと瀬田の努力は本物だったから、そう苦労はなかったよ」
魔王,「けっこうですね……」
染谷,「あとは任せてくれ。次の全国大会も、すでに手は打っている」
晴れ顔の染谷に言った。
魔王,「実は、私は、なにもしていないのですよ」
染谷,「なんだって?」
おれは薄笑いを浮かべながら、うなずいた。
魔王,「最後の仕事は未遂に終わりましたね」
染谷,「最後の?」
染谷はいまや怯えたように眉をひそめた。
魔王,「実は、お別れを告げに来たのです」
染谷,「な……」
あえいで、押し黙った。
きっと、狡猾な頭脳をめぐらせ、理由を考えているのだろう。
魔王,「ご安心ください。どこかに引き抜かれたとか、そういうことではありません」
染谷,「では、なぜ?」
魔王,「体調不良とでも申し上げておきましょう」
染谷,「以前、頭痛がどうとか言っていたが?」
魔王,「ま、そんなところですな」
染谷,「完全に足を洗うということか?」
魔王,「ええ。これより、"魔王"の名が世に出回ることはないでしょう」
染谷,「そうか……」
わざとらしくため息をついた。
染谷,「君に、色々と詮索しても無駄だろうな」
魔王,「ふふ……」
おれは、消える。
消える予感があった。
魔王,「右手のしていることを左手は知らなかった。たとえるなら、そういうことなのでしょうね」
染谷は首をかしげるだけだった。
魔王,「いままで憎悪だけを糧に生きてきた男が、あるものを、知ってしまったのです」
染谷,「……ある、もの?」
おれは、笑わずにはいられなかった。
馬鹿馬鹿しくて、腹の底から笑い続けた。
魔王,「愛ですよ」
すると、また頭痛が訪れた。
おそらく最後の頭痛。
意識が薄れていく。
あとはただ、闇だけが支配した。
;モザイク演出
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋昼
花音の朝は早い。
おれも、いっしょになって起きて、朝食を用意してやる。
花音,「クリスマス、楽しみだなー」
えへへ、えへへと、朝からはしゃぎまわっている。
京介,「昨日の晩からそればっかりだな」
花音,「だって、楽しみなんだもん」
ベッドの上で、ジャンプしていた。
花音,「どれくらい楽しみだと思う?」
京介,「うるせえなー」
おれも思わず笑みがこぼれる。
花音,「生きるもくひょーくらいだよ」
なにをおおげさな……。
京介,「まだ栄一からOKもらってないから」
花音,「無理でも兄さんならなんとかしてくれるよ」
京介,「はいはい……」
どうにも照れくさかった。
花音,「ルン、ルルンっ」
鼻歌を交えてフローリングの床の上で、くるくる回っていた。
京介,「それ、バレエの動きか?」
花音,「おー、よく勉強してますなあ」
フィギュアスケートとバレエは非常に相性がいいらしい。
京介,「浮かれすぎて怪我するなよ?」
花音,「うんうん、クリスマスまでは死んでも死にきれないよ」
まったく、うるせえ女だな……。
;背景スケート会場昼
花音を会場まで送ってやった。
花音,「ごくろーごくろー」
不意に抱きついてきた。
花音,「んーー」
甘えた声で、頭をおれの胸にぐりぐりとこすりつける。
おれは恥ずかしさで、顔から火が出そうだった。
京介,「ば、ど、どけっ」
花音,「あはは、てれてるなー」
京介,「恐ろしいヤツだな、お前は。こんな公衆の面前で……」
ブン屋がカメラを片手に潜んでるかもしれないってのに……。
花音,「初めてだよ。兄さんと過ごすクリスマスは」
京介,「わかったわかった」
花音,「なに食べる?のんちゃんはついに七面鳥食べるよ」
京介,「太ったらシャレにならんぞ?」
花音,「だから、今日からダイエットしとくの、えへへ」
もう、頭のなかはクリスマスで一杯のようだった。
花音,「兄さんもね、なんだかうれしそうだよ?」
京介,「はいはい、そうだな」
あっち行けと言わんばかりに、手を振った。
花音,「じゃあねー。帰りも迎えにきてねー」
……やれやれ。
;背景教室昼
京介,「おい、栄一てめー、花音にホテルのこと漏らしただろ?」
朝の教室で、すぐさま栄一を問いただした。
栄一,「くっくっく、いやよう、まさかお前の相手は花音じゃねえかと思って探りいれてみたわけよ」
京介,「ほんと、薄汚い野郎だな」
栄一,「さすがにお前もそこまで鬼畜じゃなかったか。花音もなにやら知らない様子だったしな」
京介,「当たり前だ」
栄一,「だよなー。花音も大会前に、男作ってる暇なんてないよな」
京介,「そんなゲスな勘ぐり入れといて、侘びがないとは言わせないぞ?」
栄一,「わかってんよ。ちゃあんと親父の許可もらってきてやったよ」
京介,「おお!ナイス!」
栄一,「さすがにタダじゃねえぞ」
京介,「わかってる。プラザホテルか?」
栄一はうなずいて、料金を言った。
栄一,「オレ、マジいいヤツじゃね?」
京介,「うん」
栄一,「親父はオレが泊まるもんだと思って部屋空けてくれたんだよね」
京介,「へえ……」
ちょっとだけ申し訳ない気がしてきたな。
京介,「わかった。おれも、ひと肌脱ごう」
たしか、浅井興業の事務所に、有名大卒の美女が勤めていたな。
栄一,「なんだ?まさか女紹介してくれるのか?」
京介,「そのまさかだ」
栄一の小鼻がふくらんだ。
京介,「紹介だけはしてやる。が、それから先はどうなっても知らんぞ。遊ばれた挙げ句、捨てられても文句は言うなよ」
栄一,「オレに限ってだいじょうぶだよ」
京介,「エリートだぞ。ビシっとスーツを決めてる感じだ。猫が好きとか言ってた気がするな」
栄一,「オオツノジカは?」
京介,「そういう絶滅した動物の話題は避けろよ」
栄一,「わかってるよ。骨抜きにしてやんよ」
こりゃ、無理だな……。
まあいい、義理は果たしてやる。
;背景屋上昼
午後になって、さっそく電話をかけてみた。
京介,「ああ……どうもすみません、京介です。突然すみません……」
おれは栄一の願いをかなえるべく、話を進めていった。
京介,「ええ……これはもう完全に私的なお願いですから……はい、僕に貸しを作ったと思ってもらってけっこうです……」
もともと、浅井興業の金払いのよさに惹かれて入社した女性だった。
おれは別に、社員の給料を決める権限を持っているわけではないが、ボーナスのときにでも、金はおれの財布から手渡ししておけばいいだろう。
京介,「どうもありがとうございます。では、今日の夜ですね。はい、伝えておきますので……」
通話が終わると、待ち構えていたように栄一が寄ってきた。
栄一,「どうだった?」
京介,「今日だ。今日の夜ならOKらしい」
連絡先を教えてやった。
栄一,「お前とどういう関係なんだ?」
京介,「パパの会社の社員だよ」
その女性も、おれのことをただのボンボンだとしか思っていない。
だから、たとえ栄一とくっついたとしても、おれの裏側を知られることはない。
京介,「じゃあ、あとは勝手にやれよ」
栄一,「お前は来ないんだ?」
京介,「おれは花音を迎えに行かなきゃならん」
栄一,「へー、そんなことしてんだ」
ふと、おれのことを疑わしい目で見てきた。
栄一,「なんか、優しいな、最近」
京介,「そうか?」
栄一,「オメーはよー、チャラ男くんだけど、どっかハードボイルドな野郎だったはずだが……」
京介,「まあ、クリスマスを前に浮かれてるのかもな」
栄一,「そうか。なら、がんばれや」
京介,「お互いにな」
二人して、クールぶった笑みを浮かべていた。
それから、その日は、あっという間に時間が過ぎていった。
;背景スケート会場夜
年末も近づいて、寒さはいっそう厳しくなった。
夜ともなれば吐く息がうっすらと白くなる。
おれは、会場の出口でぼんやりとたたずみ、花音を待っていた。
;SE携帯
栄一だった。
京介,「あれ、もう食事終わったの?」
栄一,「ざけんな、ごら……」
やさぐれた声。
京介,「あ、ダメだったんすか……」
しかし早いな。
栄一,「オメーよー、マジ殺すよ?」
京介,「は?なんかまずかった……すか?」
栄一,「ああっ!?」
京介,「よ、容姿はいいだろ。いかにもお前の好きそうな、お姉さんタイプだったじゃないか?」
慌ててまくしたてた。
栄一,「その辺は文句ねえよ、でも性格がな」
京介,「そうなの?お前がなんか失礼なことしたんじゃねえの?」
栄一,「ふざけんなよ、こら!オレのプランは完璧だったっての」
京介,「じゃあ、なにがあったんだよ?」
栄一,「まず店に入るじゃん」
京介,「うん」
栄一,「席につくじゃん」
京介,「うん」
栄一,「で、三国志の話するじゃん」
京介,「しねえから」
栄一,「メシ注文するだろ」
京介,「うん」
栄一,「ボク、猫が好きなんだーっていうじゃん」
京介,「いいじゃん」
栄一,「そしたら向こうも好きなんだっていうじゃん」
京介,「だろうな」
栄一,「だからおもむろに『ニャー!』ってやるじゃん」
京介,「いきなり猫ヒロシはまずいよ」
栄一,「そのあとは一発ギャグのオンパレードよ」
京介,「よく帰られなかったな」
栄一,「いや、途中で席を立ちやがった。でもそんなのかんけいねえ」
京介,「いやそれは関係ある」
栄一,「やっぱり、ちょっとオレについてこれなかったみたいだな」
京介,「……もう切るぞ」
おれは、義理は果たした。
なんの罪悪感もなかった。
……それにしても、花音のヤツ、遅いな。
もう十一時になろうかってころだ。
ちょっと様子を見に行ってみようかな。
;黒画面
入り口で花音の家族だと告げると、入館を許された。
;背景スケートリンク廊下
リンクに花音の姿はなかった。
広いアリーナをうろつきまわり、関係者に話を聞いてようやく花音の居場所を知った。
花音は、郁子さんと二人、なにやら話しこんでいるようだった。
声をかけるのはためらわれた。
花音は不機嫌そうに腕を組み、壁に背を預けていた。
郁子,「花音ちゃん、お願い。どうしても無理?」
花音,「…………」
ぶすっとして、目も合わせようとしない。
京介,「あの……」
さりげなく顔を出した。
花音は、おれを一瞥するだけだった。
郁子,「ああ、京介くんからもお願いしてもらえないかしら?」
郁子さんは花音をじっと見つめながら言った。
郁子,「実はね、花音ちゃんにお仕事の依頼が来ててね」
京介,「はあ……」
郁子,「テレビに出るみたいに大きなお仕事じゃないから嫌がってるの」
京介,「どんな?」
おれも媚びるように花音の顔色をうかがった。
おれの存在すら拒絶したいような提案があったのだ。
郁子,「休日に、中央区のはずれのある介護施設でね、ちょっと挨拶してバレエを披露してくれればいいの」
……たしかに、大きな仕事とはいえないが……。
京介,「なぜ、断るんだ花音?」
花音は答えない。
何かをせき止めるように、口を固く結んでいた。
郁子,「老人の相手なんてしてられないって思ってるのよ、この子」
その瞬間、花音が目を剥いた。
瞳に宿るあきらかな憎悪の光に、おれは言うべき言葉を失った。
ただ、考えた。
花音は、いま、母親のなにを赦せなかったのか。
郁子,「ちょっとくらい世間が冷たい時期でも、そういう小さなお仕事を積み重ねていかなきゃ」
花音,「…………」
郁子,「人気が大切なのは、花音ちゃんも知っているでしょう?」
花音,「…………」
郁子,「人に嫌われたら、いい点数つけてもらえないのよ?」
むきになって語る郁子さんの背中が、いつになく動かしがたいものに見えた。
郁子,「そういう、スポーツなんだから」
おれは手探りに聞いた。
京介,「あまり、仕事を入れすぎるのも、どうかと思いますが?」
しかし、郁子さんは振り向かなかった。
郁子,「花音ちゃん、こんなに頼んでもダメ?」
彼女は、媚びる相手を選ぶ狡猾さを備えていた。
とはいえ、相手にされなかったおれも黙ってはいられなかった。
京介,「最近、日本の宝とまで言われる名コーチの著書を読んだんですがね、休日は休日として仕事を入れたりせず、選手を休ませるものらしいですよ」
なにも言葉は返ってこない。
京介,「だいたい郁子さんはコーチでもないし、選手と仕事を結ぶエージェントでもないでしょう?」
郁子,「でも、母親ですから」
背中で語ったその一言に、万感があった。
郁子,「みんな同じようなことを言うわ。私を部外者扱いしようとする。そんなの許されるわけないでしょう。私は花音ちゃんを誰よりも理解しているんだから」
ふんといった傲慢な吐息が漏れた。
郁子,「ね、花音ちゃん」
おれを背中で虫のように追い払い、表ではおそらく馴れ馴れしい笑みを浮かべているに違いない。
京介,「郁子さん、それは思い上がりというものです」
花音が、息を詰まらせるのがわかった。
京介,「一番の理解者の家に、毎晩帰らなくなったのはなぜです?」
郁子,「それは、私が、たまには兄さんのおうちで寝泊りしたらと言ってあげたからよ」
寛容さを誇るように言った。
郁子,「大会が終わったらすぐに帰ってくるわよね、花音ちゃん?」
花音は、血が滲むほど唇を噛み締めていた。
郁子,「京介くん。花音ちゃんはなにか、私を拒否するようなことを言っていた?」
とっさに返答に窮した。
思い返してみるが、花音は態度こそ郁子さんを拒絶しているが、それを口を出したことはほとんどない。
郁子,「ほら、ごらんなさい。花音ちゃんはとってもいい子なの」
京介,「逆に、褒めてもいませんでしたよ」
郁子,「そんなてれくさいこと、この子はいいません」
また、郁子さんの背中が大きく見えた。
漠然とした悪寒すら走った。
まさか、この人は、いままで一度も自分の論理に矛盾を感じたことがないのではないか。
世間の失笑をかうような本を臆面なく発刊し、部外者であることを知りつつ花音のそばに居座る。
岩のように固い頭の持ち主でなければ、できない芸当だ。
たまに、こういう絶対に間違わず、揺れない人間がいる。
コーチのヒルトンも、大会の役員も、彼女を思い知らせたり、視野の狭さを説いたりすることがついにできなかったのではないか。
哀れな花音。
ぶ厚い背中を見て育った花音が、抑圧に耐えかねるように唇を震わせた。
花音,「いいよ……」
空しさにあふれた、消え入りそうな声だった。
花音,「やるよ……うん……」
;背景スケートリンク廊下
花音,「やるから、もう帰ろう」
妹はまた抜け殻のようになって、廊下を歩いていった。
花音,「兄さん、そういうことだから……」
理を説くような口調に、おれは悟った。
花音は去っていく。
あれだけ楽しみにしていたクリスマス。
花音の仕事とは、あろうことか、二十四日に割って入ってきたのだ。
;背景スケートリンク外観夜
京介,「花音、待てよ……!」
先を行く花音の肩をつかんだ。
花音,「……なに?」
すさんだ目つきだった。
京介,「なぜ、断らなかった?」
花音,「コーチがしつこいから」
京介,「お前、その日は、クリスマスなんだろ?本当にいいのか?」
花音はまた、暗室に自分を追いやるときの顔になった。
花音,「お仕事だし。わたしが断れるはずないもの」
花音,「なんかね、昔、コーチのコーチしてた人に頼まれたんだって。じゃあ、断れないよね」
郁子さんのコーチといえば……現在はフィギュアスケート連合の強化部長をしているはずだ。
日本のフィギュアスケート界では、かなりの重役。
花音は、また、郁子さんの見栄や媚に利用されたのか。
花音,「もういいよ、帰ろう」
京介,「まだ納得できない」
花音,「いいってば」
京介,「よくない。お前が嫌だと言えば、いくら郁子さんだって無理強いはできないんだ」
花音の顔つきが変わった。
花音,「え、なに、わたしが悪いって言いたいの?」
開き直った口ぶりで、傲然とおれを見上げた。
ただし、そこには悲しみと絶望の影がちらついていた。
京介,「落ち着いてくれ、花音。そうは言ってない」
花音,「でもそういうことじゃない?わたしが断ればよかったんでしょう?違う?いま兄さんはそういう意味のことを言ったよね?」
しゃべりながら感情をたかぶらせている。
京介,「わかった。すまなかった」
花音は二の句を失った様子で、うなずいた。
京介,「おれはただ、そうやってつらい気持ちを内に溜めずに、嫌なことは嫌だと言ってみてもいいんじゃないかと思ったんだ」
花音,「プロなんだから、嫌なことも我慢しなきゃいけないの」
子供のようにすねた顔で、もっともらしいことを言った。
京介,「お前はアマチュア選手だろ。そりゃ、タレント扱いされてもいるけど、自分を見失うほど我慢する必要はない」
花音,「じゃあ、兄さんがなんとかしてみせてよ。コーチを止めてみせてよ。スケート連合の偉い人に文句言ってよ。悪口ばっかりいうテレビを消してよ」
おれも自分の非力さを痛感した。
花音の悩みとは、まさにそういう、おれの手の届かない範囲での出来事なのだ。
京介,「わかった。もう、よそう」
語調を変えて花音と向き合うことにした。
京介,「残念だった。クリスマスはお前と過ごしたかった。それだけだ」
花音,「はい、じゃあ、この話はおしまい」
あきらめきった口調で言った。
花音,「まったく、なんで、わたしが……」
拳に怒りを握り締めていた。
花音,「兄さんまで、わたしを責めるなんて……」
怨嗟のこもったつぶやきに、おれは返す言葉を探した。
脆い女の子だった。
触れれば崩れる砂の心を、どう扱っていいのかわからなかった。
だが、向き合わなくては。
京介,「帰ろう、送っていく」
おれは、こわばった花音の手を引いた。
暗く、冷たい夜だった。
;黒画面
……。
…………。
;背景主人公の部屋昼
翌朝、花音を送り出してから、おれは机に向かっていた。
年末を迎えて多忙な浅井興業の仕事も無視した。
大会まであと二日。
クリスマスを翌日に控えた今日、おれは何をするべきか。
京介,「……まずいな……」
朝方買ってきた週刊誌に、花音の記事があった。
『浅井花音と暴力団の関係に迫る!!!』
たしかに、花音が園山組組長の娘であることは暗黙の了解となっている風潮があった。
決して公になることはないが、週刊誌やインターネット上では周知の事実として噂されていることだった。
やはり、弱みを見せれば食いついてくる。
誌面には、花音がおれらしき男と、このマンションから出てくる姿が掲載されていた。
大会を前にしてさも男遊びに興じる女のような書かれ方だった。
関係者Aとかいう事情通が、おれを暴力団の手先と評している。
まったく、いつ写真を撮られたのかもわからなかった。
週刊誌を投げ捨てて、今後の対策を考えた。
権三に動きはないようだった。
以前は、雑誌社に殴り込みをかけにいっていたが、今回は静観していた。
京介,「そうか……もう、ごまかしがきく段階じゃないか……」
出版社のつてを使って圧力をかけたり、別の話題を持ち上げるよう画策したが、現場の編集者たちが一致団結して花音をスクープすると決めているらしい。
もはや、大きなうねりとなって花音を敵視している。
いま、日本中が、花音を拒絶しているといっても過言ではなかった。
あれこれと風体を気にするより、もう結果を出すしかない。
ただ、花音本人があんな状態では……。
そのとき、玄関で物音がした。
;背景主人公の部屋昼
時間はまだ、午後を少し回ったころだった。
京介,「おい、いまは公式練習の時間だろ?一般のお客さんも観に来てるんじゃ……?」
花音,「怪我したから、帰ってきた」
ふてくされた顔で言った。
京介,「怪我?どこを?」
花音,「ちょっと腰打ったの。痛いからもう今日は練習いい」
それほど、きつそうには見えないが……。
京介,「そんなに、つらいのか?」
花音,「…………」
返答はなかった。
花音,「瀬田さんにやられたんだよ」
おれは首を傾げるだけだった。
花音,「いっしょに練習しててさ、わたしが滑ってるのに、近くでジャンプしててさ」
京介,「ぶつかったのか?」
花音,「ぶつかってきたの、ぜったい!」
練習中に、選手が体を接触させる事故は、そう珍しくはないそうだが……。
花音,「わざとやったくせに、しれーっとしてさ、なんなのいったい!?」
おれは戸惑いながら聞いた。
京介,「なぜ、わざとだと?」
花音,「だって、あの子、いままでずっとわたしにへこへこしてたもん」
花音,「なんでかわかる?ジャンプじゃわたしに勝てないからだよ」
花音,「それが、わたしの近くでジャンプの練習するなんておかしいじゃない」
花音,「これみよがしに、なんとか跳べるトリプルアクセル見せて……なに、今度は、ジャンプでもわたしに勝とうっていうの!?」
怒りを爆発させて、背負っていた荷物を床にたたきつけた。
おれはなるべく穏やかな声音を選び、言った。
京介,「花音、練習に戻るんだ」
花音,「えっ!?」
京介,「大会二日前だろう?最後の調整で、いまは大事な時間なんじゃないか?」
花音,「だから、腰が痛いって言わなかった!?」
声を荒げて食いかかってきた。
目に敵意がみなぎり、鼻腔が醜くふくらんだ。
花音,「いまさらなにやったって無駄だよ。もうやるべきことは全部やった。いままでずっと、やるべきことしかしてこなかった。いまさらなんの準備が必要だっていうの!?」
京介,「それで、勝てるのか?」
花音,「当たり前でしょ!?」
叫ぶように声を張って、おれを指差した。
花音,「前回だって転倒したあと普通にやってれば、まず優勝できたんだよ。それくらい瀬田さんの得点はたいしたことなかったの。ちょっと運が良かっただけの女に、なんでわたしが負けるの?」
反応が過敏に過ぎた。
花音が、自分で言うほど自信を抱いていないことに、ようやく気づいた。
自信がないからこそ、おれに食ってかかってくる。
花音,「だいたいあの曲……この前負けたのは、あの曲とコーチの作ったプログラムのせいだよ」
今度の全国大会は日本選手だけの戦いだから、おそらく花音と瀬田の一騎打ちになる。
花音は、これまで雲の底の人のように見ていた瀬田に足をすくわれた形になっていて、それがくやしくてならないのだろう。
京介,「花音、瀬田のことは気にするな。そんなの気にしてたら勝てないって、お前自身が言っていただろう?」
花音,「気にしてなんかないよ……」
うつむいたが、頑なな拒否の姿勢は変わらなかった。
京介,「花音、お前はわがままだけど、これまでたいした嘘はつかなかった。スケートに対してプライドを持って臨んでいた」
花音,「…………」
京介,「わかるだろう?さあ、練習に戻るんだ」
痛いとわめいていた腰を一瞥し、玄関に向かうよう手で促した。
花音,「だって……」
くやしそうに、頭を振った。
花音,「いま外に出たら、テレビの人がいっぱいだよ?」
京介,「……え?」
花音,「瀬田さんに怒鳴りつけてやったの、死んじゃえって!」
一瞬、めまいがした。
花音,「自分が悪いのに、べそべそ泣いちゃってさ」
京介,「謝罪して来い」
花音を見据えた。
花音,「なんで!?」
おれの瞳に怒りを感じ取ったのか、花音もすぐに応戦してきた。
花音,「だって、わざとぶつかってきたんだよ!?怪我するところだったんだよ?」
京介,「たとえわざとだとしても、お前の言ったことは正しくない」
まあ、おれが言えた義理でもないが……。
京介,「いっしょに行こう」
手をつかむと、振り払われた。
花音,「ぜったい、行かない!」
花音はきっと母親のよく下がる頭を思い起こしているのだろう。
花音,「あの子、泣きながら言うの」
花音,「どうしたんですか花音さん、あこがれてたのに、あこがれてたのにぃって……」
花音,「へこへこと……尻尾ばっかり振って……」
おれはどこか突き放した気分になりながら、花音の恨みの声を聞いていた。
花音,「ぜったい謝らないからね!」
石のようにその場を動こうとはしなかった。
おれは、迷い、ためいきを繰り返した。
どうする……?
どうすれば、花音の頑なな心をほぐしてやれるのか。
;選択肢
;謝罪に行かせる。
;抱きしめて愛情を示す。→花音バッドエンドカウンタ+1
@exlink txt="謝罪に行かせる。" target="*select1_1"
@exlink txt="抱きしめて愛情を示す。" target="*select1_2" exp="f.badflag_kanon = true"
謝罪に行かせる。
抱きしめて愛情を示す
;謝罪に行かせる、を選んだ場合。
……いや、どうするもこうするもない。
花音の過ちを正さなくては。
京介,「行くぞ」
腕をつかんだ。
ふりほどかれぬよう、強く。
花音,「離してよ!」
鍛えているだけあって、なかなか力強い。
京介,「悪いとは思ってるんだろう?」
花音,「思ってない!」
京介,「それを行動に移すんだ」
花音,「だから、悪いって思ってないの!」
花音は苦悶の表情でおれを見上げた。
;抱きしめて愛情を示すを選んだ場合
おれは肩の力を抜いて言った。
京介,「花音、こいよ」
花音,「なに?」
京介,「いいからおいで」
花音は警戒するような足取りで近づいてきた。
京介,「お前、疲れてるんだよ」
花音,「…………」
そっと花音の細い首に腕を回した。
花音,「……あっ」
京介,「ちょっと落ち着けよ」
花音,「落ち着いてるよ」
京介,「そうだな。じゃあ、もう少ししたら、一緒に謝罪しに行こうな」
さりげなく言ったつもりが、逆に裏目に出た。
花音,「それはヤダよ!」
花音はまた敵意をむき出しにして叫んだ。
;ここまで、以下合流
花音,「なんで兄さんの言うこと聞かなきゃいけないの!?」
京介,「いまさらなんだ?」
花音,「知ってるよ。兄さんだって、パパの仕事手伝って、悪いことたくさんしてるんでしょう?」
本当に知っているのか、それともかまをかけてきているのかはわからなかった。
花音,「そうなんでしょう?ぜったいそうだよ」
おれは心を凍りつかせて言った。
京介,「だったら、なんだ?」
京介,「じゃあ、お前は誰の話だったら聞けるんだ?誰の話も聞けないだろう?」
花音,「…………」
京介,「おれのことなんてどうでもいい。おれは勝手に地獄に落ちるさ」
花音はうつむき、怯えたように口を閉ざした。
たしかに、おれは人になにかを諭せるような人間ではない。
だから、おれなりのやり方で花音を動かすことにした。
京介,「どこまで譲歩できる?」
商談をするときのように、太い声をだした。
京介,「瀬田に頭を下げるのは死んでもいやか?」
花音,「だから、何度も言ってるじゃない」
京介,「なら、せめて練習に戻るんだ」
花音,「それは……」
京介,「嫌ならここを出て行け。おれはお前のことを、他人と思うことにする」
花音,「……え?」
不意に胸をつかれたらしい。
花音は口をつぐみ、唇を激しく震わせた。
京介,「嫌か?嫌ならおれの言っていることに従え」
こんなやり口で妹と接するおれは、冷酷で、どこまでも救われない悪党だった。
花音,「そんな……兄さんは……兄さんだけは味方じゃ……」
京介,「味方だの敵だのどうでもいい。おれはお前に一つ歩み寄った。人に暴言を吐いたことを謝罪しなくてもいいが、せめてスケートは続けろと言っている」
貸しを与えるような言い方に、花音はたまらずうつむいた。
花音,「わ、わかったよ……」
慌てた様子で、下ろした荷物をまとめ始めた。
……これでよかったのか。
おれはただ、花音とスケートをなんとかつないだに過ぎない。
時間がたてば、花音の心の傷も癒えて、瀬田に謝罪する日が来るかもしれない。
もちろん、スケートをやる前に、人として誰かに頭を下げるのが先なのだろうが……。
;黒画面
…………。
……。
;背景繁華街2夕方
もうすぐ日が落ちそうだった。
京介,「このたびは、誠に、申し訳ありませんでした」
菓子折りを持って、瀬田の所属するリンクと事務所に挨拶をしてまわっていた。
花音の兄と名乗ると、みんなけげんそうな顔をするが、それでも体裁を気にしている暇はなかった。
京介,「ええ……もう、二度とこんなことはないよう……はい、それでは失礼いたします」
おれの連絡先も伝え、いちおうその場は手打ちにしてもらった。
;背景マンション入り口夜
マンションに戻ったとき、不意に声をかけられた。
記者2,「あの、すいません……浅井京介さんですよね?」
予想はついた。
京介,「どなたですか?」
ぶしょうひげを生やした、中年の男だった。
男は、週刊誌のライターだと名乗った。
記者2,「ちょっとお時間よろしいですかね」
京介,「すみませんが」
一礼をしてエントランスに抜けようとしたが、男はおれのコートをつかんだ。
にらみつけるが、慣れているのか、動じた様子はない。
記者2,「ほんのちょっとでいいんですよ。妹さんについて、ちょっとお話をおうかがいしたいなと」
強引さに辟易していると、間髪いれずに聞いてきた。
記者2,「瀬田選手に死ねと叫んだそうですが?」
京介,「…………」
記者2,「あなたから見て、花音さんはどんな妹さんなんです?」
京介,「…………」
黙っていても、どうせ悪く書かれるだろう。
京介,「妹は、とても優しい女の子です」
秋元氏の言葉を借りることにした。
記者はそんな生易しいコメントを意に介さず、早口で続けた。
記者2,「やっぱり、あの性格は、母親ゆずりだと思われますか?」
たとえば、おれが怖いもの知らずの少年であったり、権三のように怖いものをこの世から消せるほどの力があったりしたら、こいつを殴り倒していたことだろう。
京介,「花音は、母親想いですよ」
そう、きっと、母親を立てているのではないか。
だから、肌に合わないプログラムを受け入れている。
制約のなかで、それでも母の期待にこたえようと、努力を続けてきたのではないか。
そうでなければ、肌を重ねたおれとのクリスマスを放棄した理由が見当たらない。
恋人より大切なものといって思い当たるのは、まず親に違いないからだ。
しかし、そんな美談など誰も求めてはいない。
記者は、期待していた発言を得られずがっかりしたのか、挨拶もそこそこに歩き去っていった。
;背景主人公の部屋夜
世間は祭日なのに、忙しい一日だ。
もう少ししたら、花音を迎えに行かなくては……。
;SE携帯
ふと、見慣れぬ番号から着信があった。
京介,「もしもし、浅井です」
相手は、あっ、とくぐもった吐息を漏らしてから言った。
瀬田,「あの、私、瀬田真紀子と申します。突然お電話してすみません」
目が覚める思いだった。
京介,「本日は大変失礼いたしました……なにかご用でしょうか?」
瀬田,「あ、いえ……ええと……」
たどたどしく言葉をつむぐ。
瀬田,「あの、花音さんのお兄さんですよね?」
京介,「はい。妹がご迷惑をおかけしまして」
瀬田,「と、とんでもないです。あれはわたしがいけなかったんです」
声には、あの、あの、と常に焦っているような色があった。
瀬田,「いきなりお電話したのは、えっと……花音さんとたまにお食事させてもらったときに、その、京介さんのお話が出ていましたので」
京介,「花音が、僕の話を?」
瀬田,「はい。とっても、楽しそうに、大好きだって言ってました」
彼女の声に花のような明るさが芽生えた。
情緒の豊かさを感じさせる口調で続けた。
瀬田,「それで、花音さんにとって大切な人なんだろうと思いまして……その、私が、気にしていないということを、お伝えいただければと……」
京介,「なるほど……わざわざそんなことを……ありがとうございます」
瀬田,「花音さんは、私の憧れなんです」
また、声が弾んだ。
瀬田,「ですから、あさっての全国でも全力で競い合いたいなと」
よけいなことに気を取られないで欲しいということか。
瀬田,「花音さん、なにかストレスを溜めていらっしゃるようですが、だいじょうぶでしょうか?」
おれの疑い深い耳でも、瀬田の言葉から、悪意のこもった興味や、上から見下ろしたような傲慢さは聞き取れなかった。
瀬田は、前シーズンの世界大会で、三つもあった出場枠が一つになるという、日本フィギュアスケートの権威を失墜させるほどの惨敗を喫した。
当時の世間の風当たりは、いまの花音に勝るとも劣らなかっただろう。
しかし、いまや、その傷で他人を包むことができるほどの人物に成長している。
真摯に妹を心配してくれているライバルに、おれは、こう言うしかなかった。
京介,「花音は、とても強いです。きっと、あさっては、あなたも目を見張るような演技をするでしょう」
瀬田も、おれの言い逃れしているような心境を理解したのか、深くは追求してこなかった。
瀬田,「どうも、ありがとうございました。花音さんによろしくお伝えください」
誠実そうな挨拶を最後に、通話は切れた。
おれは、また不安に駆られた。
花音は、瀬田を甘く見すぎている。
ジャンプの配点の高い採点方式のなかでは、花音が一歩技術でリードしているようにも見える。
しかし、花音にはない心の余裕を、彼女は持ち合わせている。
ファイナルの瀬田の演技を何度かテレビで見たが、万全の状態の花音とぶつかっても、きっと互角以上の戦いをするだろう。
不幸なことに、世界への切符は一枚しかない。
なんのために世界を目指しているのかもわからなくなっている花音が、果たしてそれをつかむことができるのか。
;黒画面
…………。
……。
;背景フィギュアスケート廊下
;ノベル形式
;花音の立ち絵、衣装姿
なにが、オリンピックだ。金メダルを取って、誰のなにが満足するというのか。
花音の心のなかで"悪魔"は着々と育っていた。ときおり尖った牙を剥いて、瀬田をなじり、京介を辟易させてやった。もう、抑えられそうになかった。
郁子,「花音ちゃん、さっきの通し稽古、素敵だったわよ。あれが本番だったら、確実に金メダルね」
練習を終えた花音が通路際で休んでいると、見慣れた笑顔が、いつものようにへつらってきた。
――こいつか。
花音は自分がなぜ、人生の半分以上の時間を、派手な衣装を着て、冷たい氷の上にいるのかを考え、目の前の人物を凝視した。
郁子は、花音にとって怪物だった。どれだけ敵意込めた視線を投げても、まるでゼリーを指で押したかのように笑顔を崩さない。餅みたいにふっくらとした顔で、花音の世話を焼こうとする。お母さん、と呼ばなくなったところで、意に介した様子がない。
郁子,「あさってはいつもどおりやってくれればいいのよ。そしたら念願のオリンピックは目前よ」
年甲斐もなく、はしゃいでいた。恐怖すら覚えたこともあった。あなたは誰ですかと、喉までせりあがってくる言葉をいつも飲み込んでいた。
花音,「念願の、オリンピック?」
心で毒づいたつもりが、つい、声に漏れた。
郁子,「そう、お母さんの夢よ」
花音,「へえ」
郁子,「私が取れなかった金メダル。花音ちゃんがつかむのよ」
花音,「わたしが?」
郁子,「世界の一番になるの。素敵なことでしょう?」
花音,「うん」
花音はうなずいた。話を合わせておかないと、いつまでものれんに腕を押すような会話が続くから。
しかし今日は、気の迷いか、花音のほうから話を戻した。
花音,「なんで金メダル欲しいの?」
郁子,「一番の名誉だからよ」
郁子の返事に、なんの迷いもなかった。
花音,「名誉って、そんなにすごい?」
郁子,「いくらお金を積んでも、手に入らないものよ」
花音,「わたしも、その名誉のためにがんばるべきなの?」
郁子,「もちろんよ」
花音,「でもそれは、幸せなの?」
郁子,「アスリートにとって、それ以上の幸せなんてないわ」
花音,「でもそれは、コーチにとっての幸せじゃないの?」
郁子,「私の幸せは、花音ちゃんの幸せでしょう?」
目をかっと見開き、力を込めて言った。理解者然として立ち振る舞う母親が、不気味でしかたなかった。
花音は、母親のいい噂など聞いたこともなかった。誰もが軽蔑し、嘲るようなささやき声を響かせる。融通が利かず、自意識に貪欲で、横柄さは底を知らない。それを、郁子は、自ら汚れ役を買って出て、花音のフィルターとして機能するためだとうそぶいた。
花音は、そんな巨魁に、無垢を装って尋ねた。
花音,「じゃあ、もしわたしが金メダル取れなかったらどうする?」
郁子,「取れるわよ」
花音,「もしもの話だよ」
怪物の目に、珍しく、戸惑いの輝きが宿った。地球が丸いことを初めて吹き込まれた人間みたいに、彼女の見慣れた顔の表情から世界が崩壊していった。
郁子,「金メダルを取れなかったら」
死人を見るような目でたっぷり見つめてから言った。
郁子,「わからないわ」
短い一言に隠された真意を、花音は確信に近い自信を持って言い当てることができた。
花音,「死ぬでしょ、お母さん……」
郁子は、天啓がひらめいたように、救われた顔になって、うなずいた。
郁子,「間違いないわ」
何年ぶりかにお母さんと呼ばれたことにも気づかず、うわごとのようにつぶやいた。
そのかすれた声は、すでに棺おけのなかから発せられたのかと思えるほどに、花音の心を不安に陥れた。
;黒画面
…………。
……。
;バッドエンドカウンタがある場合以下へ
;背景フィギュアスケート廊下
;通常形式
花音を迎えにアイスアリーナに入館した。
また言い争いをしているのかと思ったが、廊下には花音が衣装のまま一人でたたずんでいるだけだった。
京介,「どうした、花音?」
花音,「あ、兄さん……」
京介,「帰るぞ」
花音,「うん……」
視線を外して、うなずいた。
京介,「またなにかあったか?」
花音,「ううん、なにも」
熱っぽい目つきだった。
花音,「ちょっとだけ、嫌なこと忘れてすっきりしたいなって思ってるだけ……」
京介,「それでぼんやりしてたのか……」
服も着替えず、悩みにうちひしがれていたのか。
花音,「ねえ、兄さん……」
京介,「ん?」
花音,「お昼みたいに、ちょっとだけ、抱きしめて」
拒む理由はなかった。
閉館間際の誰もいない通路で、おれは花音の腕を取り、抱き寄せた。
花音,「……はあ、落ち着くよ」
花音,「このまま、消えちゃいたいくらい」
京介,「お前にしては珍しく感傷的なこと言うな」
花音,「だって、もう、わけわかんないんだもん」
甘えた声。
花音,「あったかいね、兄さんの胸」
京介,「おれの体でよかったら、いつでも貸してやる」
花音,「ほんと?」
京介,「ああ」
花音,「じゃあ……」
ためらうような間があった。
花音,「いま、して……」
京介,「え?」
花音,「……いや?」
京介,「……そういう意味で言ったわけではないが……」
そんなことはわかっているのだろう。
それでも、花音は、抱いて欲しいと思うくらい鬱憤を募らせていた。
花音,「更衣室……誰も来ないよ……この時間なら」
頬を染め、目はうっとりしていた。
花音,「兄さん、ダメ?」
状況に流されそうになる頭で考えた。
ここで花音を抱くということは……。
;選択肢
;ただの逃げだ
;それで癒せるのなら……
@exlink txt="ただの逃げだ" target="*select2_1"
@exlink txt="それで癒せるのなら……" target="*select2_2"
ただの逃げだ
それで癒せるのなら……
;ただの逃げだ、を選んだ場合。
京介,「花音、すまんが……」
おれはできるだけ優しく、花音を引き離した。
花音,「あ……」
名残惜しそうな声が、糸を引いた。
京介,「もう、帰ろうな?」
花音,「……うん」
熱を帯びた瞳が急速に冷えていった。
おれに拒絶されたことが、つらいのだろう。
花音,「どうかしてた、わたし……」
京介,「悪いな。大会が終わって一段落したらな」
花音,「うん……」
虚ろな顔で着替えに向かった。
;黒画面
自制をきかせてよかったと思った。
いま花音を抱いたら、少女の心は壊れてしまったのではないか。
あとは、部屋に帰り、たいした会話もなく、花音を寝かしつけるだけだった。
…………。
……。
;それで癒せるのなら……を選んだ場合
京介,「わかった……」
花音,「いいの?」
まるで夢でも見ているような、とろりとした顔でおれを見上げた。
夢でも見させてやれば、花音の底に溜まったストレスも消えていくのではないか。
花音の気持ちに応えるべく、おれは花音の唇に迫った。
あとは、心地よい情欲に身をまかせるだけだった。
;以下エッチシーン
;ev_kanon_h_02→ev_kanon_h_01の流れ。
;===================================和谐====================================
;黒画面
…………。
……。
;アイキャッチ(日付を変更したように)
;背景スケートリンク客席二階客なし
それから――。
それから、なにを間違えてしまったのか。
花音は、当然のように全国大会で瀬田に敗れ、世界への切符を逃した。
;背景スケートリンク廊下
花音の演技は見られたものではなかった。
世間の風当たりはいっそう冷たくなり、花音は後ろ指をさされ続ける毎日が続いた。
;背景スケートリンク概観夜
誰も、花音の苦悩はわからなかった。
かくいうおれも、花音のなにを救えてやれたのだろうか。
;背景主人公の部屋夜
花音,「ただいま……」
帰宅した花音は、どこか大人びた口調で、おれに報告してきた。
花音,「記者会見終わった」
京介,「お疲れ様」
花音,「もう、悩まなくていいのかな?」
おれは曖昧にうなずいた。
花音,「これから毎日、兄さんと遊べるね」
花音,「お菓子もたくさん食べられるしね」
花音,「ようやく、普通の生活に戻れるね」
たんたんと、自分に言い聞かせるふうにつぶやいた。
花音,「のんちゃん、なにすればいいかな?将来、なにになればいいかな?」
花音はスケートしか知らない。
花音,「ねえ、兄さん、暖かい国に住みたいです。ケニアとかいいです」
京介,「赤道直下かよ」
乾いた笑いを漏らす。
それは、自嘲の笑みだった。
おれは、妹の力になってやれなかったのだ。
京介,「ああ……これからは、おれがどこへでも連れてってやる」
花音の第二の人生の面倒だけは見てやらねば。
京介,「郁子さんは?」
花音,「うん、死んじゃった」
京介,「首を吊ったのか?」
花音,「みたい」
まるで、明日の天気の話でもしているような口ぶりだった。
花音,「わたしだけが、頼りだったんだね……」
京介,「…………」
花音,「おかしな人だったけど、あの人なりに、わたしを愛してたんだろうね……」
首を振り、くやしそうに、無念そうに、花音は手放しで泣き始めた。
失意と、悲しみと、絶望をみなぎらせて。
花音,「あ、りがとうって……」
拳を握り締めていた。
花音,「い、言いたかった、な……言いたかった、よ……」
花音がしゃくりあげるのを、黙って見つめていた。
花音,「誰も……信じて、く、れないだろうけど……わ、たし……お母さんが……お母さんの、こ、と……」
それから先の言葉は涙と嗚咽に阻まれた。
心優しい少女は、ひとりでたっぷり泣いた。
置き去りにされた子供みたいに、いつまでも、いつまでも、ひとり、悲しんでいた……。
;黒画面
…………。
……。
T H E E N D
;背景主人公の部屋昼
クリスマスイヴの朝がやってきた。
花音の今日のスケジュールでは、夕方まで練習し、その後、中央区の介護施設に向かうことになっていた。
ほんの数時間のこととはいえ、本番の前日に仕事が入ってるなんて、許されることなのだろうか。
ひょっとして、コーチのヒルトンの知らないところで入れられたスケジュールなのではないか。
郁子さんが勝手に入れた仕事。
そう思って、ヒルトンに問い合わせてみた。
ヒルトンは、もともと金回りを含め政治的なことには関わろうとしない純粋な指導者らしかった。
花音が嫌がるのでなければ、またそれが休日を邪魔するものでなければ、という条件付で承諾したという。
ようするに、郁子さんにうまく丸め込まれたのだろう。
あの絶望的なまでに視野の狭い母親と良好なコミュニケーションを取ることは難しい。
花音,「じゃあ、行ってくるね」
昨日見せた凶暴さはなりを潜めていた。
その代わり、影のあるような顔で、おれを見つめていた。
京介,「夜、迎えに行くよ」
介護施設の住所は調べていた。
京介,「そのあと、少しでも、祝い事っぽいことしようや」
花音,「気、使わなくていいよ」
むっとしたように、眉を吊り上げた。
おれの言葉のどこかに、花音の憎む媚があったのだ。
花音,「さ、行こうかな。練習中、瀬田さんに気をつけなきゃ」
おれは言うべきか迷っていたことを告げた。
京介,「昨日、その瀬田からおれに連絡があった」
花音,「はあっ!?」
京介,「気にしてないって。むしろ自分が悪かったって」
花音,「ちょっと、なにそれ!」
やはり、怒りをむき出しにしてしまうか……。
花音,「だいたいなんで兄さんに電話してくるのよ。わたしに謝るべきでしょうが!」
京介,「お前に直接言わない方がいいと判断したんだろう」
そして、その判断は的確だろう。
京介,「お前は瀬田を許したか?暴言を吐いただけじゃないか」
花音,「だからって……」
京介,「とにかく瀬田はお前のことを気づかっていた」
花音,「どうだか……」
まるで母親のように器の小さい軽蔑の吐息を漏らした。
京介,「強敵だぞ、あれは」
花音,「はいはい。あした、思い知らせてあげるよ」
花音は、床を蹴飛ばす勢いで、玄関へ出て行った。
;背景スケートリンク概観昼
花音,「ついてきてくれるの?」
京介,「ああ。今日は許されるなら練習を見てようと思ってな」
花音,「ふうん、夜もわたしと施設まで来てくれるの?」
京介,「夜は少し、予定がある」
花音,「え、なんで?わたしと過ごすはずだったんだよね?」
京介,「それがキャンセルになったから、パパのつきあいに参加することになった」
権三とクリスマスほど似合わないものはないが、ヤクザは意外とそういう行事を楽しむ。
京介,「ちゃんと迎えに行くから」
花音,「うん……」
釈然としない空気のまま、アリーナに入った。
;背景スケート会場客席一階_無人
がらんとした客席で、席に座ってリンクを眺めた。
選手たちは衣装を着て、それぞれのコーチにつきしたがって練習をしていた。
花音に目が行く。
フェンス際で、ヒルトンに怒鳴りつけられていた。
なにやら、気が入っていないというようなことを言われていた。
たしかに、はたから見ていて、花音はふにゃりとした弱々しい滑りをしている。
やっぱり、メンタルなスポーツなんだな。
郁子,「あら、京介くん、珍しいわね」
不意に、背後から声をかけられて、ぎょっとした。
京介,「どうも郁子さん……」
部外者であるはずの郁子さんは当然のように、そこに立っていた。
郁子,「花音はどう?」
京介,「あまり調子が良くないように見えますね」
郁子,「そうね。なにが原因なのかしら」
おれは嫌悪感に胸をつまらせた。
郁子,「やっぱり、京介くんのおうちに寝泊りするようになったからじゃない?」
京介,「…………」
郁子,「ほら、枕が違うと眠れないってあるでしょう?」
京介,「さてね……」
おれはまた花音に視線を戻す。
郁子さんは、おれの素っ気ない態度をまったく気にした様子もなかった。
京介,「郁子さんは、ここでなにを?」
郁子,「なにを?もちろん、花音の演技を見ているのよ」
京介,「毎日?」
郁子,「毎日よ。本当は私が教えてあげたいくらいなんですけどね」
この人にとって、花音は自分のすべてなのだろうな。
郁子,「あら大変、そろそろ、休憩時間ね」
京介,「なにが大変なんです?」
郁子,「決まってるじゃない。暖かい飲み物差し入れてあげるのよ」
その粘着質な言い方に、悪寒を覚えた。
京介,「それも、毎日ですか?」
郁子,「どうしたの?当たり前じゃない?」
毎日、そんな使用人みたいな真似を続けてきたのだ。
恐ろしい、と思った。
愛情の対象が異性であれば、間違いなく悪質なストーカーになっていただろう。
郁子,「かわいそうな、花音ちゃん。私だったら、あんなに叱ったりしないわ」
まるで、慰めてあげられるのは私だけ、と言わんばかりだった。
郁子,「じゃあね、京介くん」
花畑をスキップする少女のような足取りで去っていった。
おれは、愕然とした。
なぜ、いままで花音に興味を持ってやれなかったのか。
花音の人生に影のようにつきまとう母親の恐ろしさに、なぜ、気づいてやれなかったのか。
あれは、怪物だ。
間違いなく花音を愛している。
同じくらい、自分も愛している。
;背景スケートリンク廊下
京介,「花音、お疲れ……」
午後四時に、最後の調整が終了した。
おれが声をかけるより早く、郁子さんが花音のもとに飛んでいった。
郁子,「今日も良かったわよ。スパイラルなんて氷の削り屑が見えないくらい軽やかだったわ」
花音,「そう?」
郁子,「ええ。瀬田さんなんて、目じゃないわ」
花音,「声、大きいよ」
郁子,「だって、本当なんですもん」
ずっと、こうやって褒め殺してきたのか……。
花音,「あ、上着、リンクに忘れた」
郁子,「取ってくるわ。ここで待ってて」
小走りに歩き去った。
花音,「兄さん、まだいたんだ」
京介,「ご挨拶だな」
花音,「どう、思った?」
京介,「どうって……おれはよくわからんな。実際見てみると、どれがなんていうジャンプなのか、区別がつかん」
花音は冷然とうなずいた。
花音,「お客さんの大半はわかんないよ。わかってないくせに、あれこれ言うの」
京介,「そういうもんだろ」
花音,「そだね。別に気にしてないからいいよ」
投げやりに言うと、つまらなさそうにため息をついた。
花音,「コーチ、遅いな……」
薄い目で壁にかかった時計を見ていた。
花音,「いつも、ああなんだよね」
京介,「世話、焼いてくれるんだろ?」
花音,「なにからなにまでしてくれるよ」
京介,「助かるじゃないか」
花音,「助かりすぎて、のんちゃんはわがままに育ちましたとさ」
よくわかってるみたいだな……。
おれは、心を閉ざした花音になにを語ってやれるのか考え、ついに自分の母親の話をすることにした。
京介,「おれの母さんも、なにからなにまでしてくれたよ」
花音,「兄さんのお母さん?」
京介,「話くらい聞いたことあるだろ?」
花音,「うん、病気してるって……」
京介,「いま、ちょっとな。そのうちいっしょに暮らそうと思ってるが」
花音,「ふうん」
京介,「雪国に住んでた当時は金もなかったからな。なんかの歌みたいに夜なべして手袋編んでくれたよ。一杯のかけそばを二人で笑いながら食べたこともある。ウケるだろ?」
花音,「……別に」
京介,「いや、本当なんだって。おれが熱出したときなんか、雪道を自転車で駆けずり回って医者を連れてきてくれた」
花音,「へえ……」
京介,「花音もそういう経験ないか?」
花音,「……ないでもない……」
視線を落とし、記憶をたどるように首をかしげた。
そして、思い直したように、おれを見据えてきた。
花音,「だったら、なんなの?」
京介,「さあな」
花音,「なにそれ」
京介,「おれに誇れるものといったら母さんくらいだから、なんとなく話してみた」
片親ということでおれが肩身を狭くしたり、惨めな気持ちになったりしないよう、いつも明るく振舞ってくれていた。
化け物みたいな大男から、体を張って守ってくれた。
おれにとって、母親より偉大なものはない。
花音,「でも……」
頭を振った。
花音,「でも、わたしのお母さんは……」
おれは続きを遮って言った。
京介,「母さんは、母さんだろ」
花音,「…………」
京介,「おれと比べたって、おれのせいにしたって、お前の母さんは郁子さんだろ」
我ながら、陳腐なことを言ってしまった。
京介,「悪い、おれマザコンだから……めんどくさい合コンのときとか、いっつもお母さんの話して女の子ひかせてる感じ」
花音は、思わずといった様子で、苦笑した。
花音,「今日の兄さん、変だよ……」
京介,「そうだな」
花音,「自分のことなんて、ほとんど話さないのに」
京介,「ぶっちゃけて言うとだな、おめーをどう扱っていいのかわからねえんだよ」
花音,「うん、知ってる」
京介,「知ってたか」
花音は気弱にほほ笑んだ。
花音,「形だけでも、兄妹だもん」
申し訳なさそうな光が目に宿った。
しかし、我が妹の口から、ごめんなさいの一言が出ることはついになかった。
郁子,「花音ちゃん、お待たせ」
花音,「うん……」
花音は、郁子さんの差し出したジャンパーを、片手でぞんざいに受け取った。
京介,「お前のそれ、よく見るけど、あさってのフリーでも着る衣装か?」
すると、花音の母親が、目を輝かせて顔を突き出した。
郁子,「私が選んであげたのよね、花音ちゃん。だから、お気に入りなのよね?」
花音は、あごをしゃくっておれに言った。
花音,「そういうこと」
傲慢さを装っているのだと、形だけの兄は気づいた。
去り際、花音は振り返った。
花音,「もう合コンいっちゃヤダよ」
笑っているようにも、怒っているようにもとれる、すねた子供の顔をしていた。
;背景繁華街1夜
すっかり暗くなってしまったな。
極悪フェイスの群れの相手は、とても疲れた。
どいつもこいつも、いつおれがヤクザの杯を受けるのかと聞いてくる。
いまのおれには、そんなことより、大切なことがあった。
花音を迎えに行かなくては。
場所は中央区の……そうか、西条を捕まえた病院の近くか。
"魔王"の存在もめっきり忘れていたな。
宇佐美のヤツも、とんと音沙汰なしだ。
かわいいぼうや……か。
もう、忘れよう。
花音が、待っているのだから。
;背景中央区住宅街夜
道に迷ったか……。
まずいな、約束の九時はとっくに過ぎてる。
つまらないことで花音の心をわずらわせたくはなかった。
入り組んだ住宅街の角を何度か曲がったときだった。
ん……?
暗がりに人だかりが出来ていた。
数人のご老人たちが、誰かを囲むように、寄り添っている。
あれは、花音か……?
花音はおれに気づいた様子もなかった。
老人1,「今日は、どうもありがとうね。いいクリスマスになりました」
花音,「はい……」
花音は憮然として、こくんとうなずいていた。
老人2,「忙しいのに本当にありがとう。ああ、もったいなやもったいなや」
たしかに、テレビに雑誌にと顔を出していたフィギュアスケート選手が、街中のいち介護施設に現れるなんて、彼らにとって空前の出来事なのだろう。
老人1,「明日は試合なんでしょう?こんなじじばばのために遅くまでごめんねえ」
花音,「いえ……」
誰と目を合わせるでもなく、小さく頭を振った。
おれはなんとなく、声をかけるのをためらっていた。
花音が感情を持て余したような表情で、その場から立ち去ろうとしないからだ。
もう、とっくに仕事は終わっているというのに。
ファンやマスコミの相手などおざなりにしていた花音に、どんな心境の変化があったのだろうか。
老人2,「わしにも花音ちゃんと同じくらいの孫がいてのう……」
感無量といった口ぶりで馴れ馴れしく声をかける。
老人2,「もう何年も会いに来てくれんが、花音ちゃんを見てると元気が出てきたわ」
花音,「そう、ですか……」
老人1,「ほんと、いいクリスマスプレゼントをありがとうございました」
手を合わせ、仏を拝むように頭を下げた。
花音,「あの……」
ぼそりとつぶやいた。
花音,「寂しい、ですか?」
老人たちは、それぞれ困ったように苦笑した。
花音,「だって、みなさん、自分が育てた子供たちと、なにか事情があって一緒に暮らしてもらえないんでしょう?」
花音にしては最大限に言葉を選んだのだろう。
たどたどしく言葉の糸をつむぎ、続けた。
花音,「それは、寂しくて、腹立たしいことじゃないですか?」
しかし、紳士的な人々は笑顔を崩さなかった。
老人2,「ああ、寂しいとも」
むしろ胸を張って言った。
老人2,「じゃが、バカ息子にお金は出してもらってるから、偉そうな口はきけんわ」
花音は虚空を見据え、押し黙った。
老人1,「とても寂しいけれど、そういうことで人を恨むには人生は長すぎるの」
身寄りのない方もいらっしゃるのだろう。
皆、口々に、慰めあうように、長い人生で自らがたどりついた結論を語り合っていた。
花音,「感謝、してるんですね。なんだかんだで」
そう言うと、照れくさそうな笑い声が花音に降り注いだ。
郁子,「花音ちゃん、そろそろ帰るわよ」
遠巻きに郁子さんの声が届いた。
花音は、名残惜しそうにうなずいた。
花音,「それでは、メリー、クリスマス、でした」
;背景中央区住宅街夜
ご老人がたは、すごすごと解散していった。
郁子,「花音ちゃん、お母さんの言ったとおりでしょう?」
花音,「なにが?」
郁子,「来て良かったと思わない?池辺先生も大変満足してくれたわ」
池辺というのは、今回の仕事を振った、郁子さんの元コーチだ。
郁子,「お母さんも鼻が高いわ」
郁子さんは、娘の疑問には答えず、勝手に満足していた。
京介,「花音」
花音,「あ、兄さん」
京介,「迎えに来たよ。帰ろう」
郁子,「じゃあ、明日ね。うるさい連中に目にもの見せてあげましょう」
変わらぬ媚びた笑顔のまま、去っていった。
京介,「お疲れ……」
花音,「疲れてないよ」
いまだ憮然としている花音をつれて、家まで徒歩で帰った。
;背景主人公の部屋夜
京介,「さて、セックスでもするか?」
花音,「どうしたの?スベってるよ?」
苦笑していた。
おれはコーヒーを煎れながら、聞いた。
京介,「どうだった?介護施設でバレエみせてきたんだろ?」
花音,「もう、いろいろ忘れてた」
京介,「でも、満足してくれたみたいじゃないか」
花音,「そうだね、あんなので満足してくれるなんてよっぽど……」
そこで思い直したように口をつぐんだ。
京介,「客が喜んでくれたなら、なんでもいいじゃん」
花音,「勝ち負けがないならね」
ふっと、笑う。
花音,「瀬田さんみたいな競争相手がいないなら、それでもいいんじゃない?」
京介,「そうかねえ……」
コーヒーカップを差し出して、ひと息つかせた。
花音,「コーチ、さ」
京介,「ああ」
花音,「わたしがオリンピックで金メダル取れなかったら、死んじゃうって」
京介,「死ぬって……」
物騒な言葉だと思いながらも、あながち冗談でもないとわかった。
娘にすがり、溺れてきた郁子さんなら、ありえない話でもない。
いきなり首を吊ったって、ああ、そうかと納得してしまいそうだ。
京介,「それで?」
花音,「んー、いや……」
寒さに耐えかねるように足をこすり合わせていた。
花音,「ただ、なんだろう、そっかって、思った」
花音は、己のうちに溜まっている感情を、言葉に表せないようだった。
京介,「さすがに死んじゃまずいだろ」
軽く笑いながら言ってやった。
花音,「そだね」
花音もつられたように、笑った。
京介,「さて、今日は早めに寝ろよ」
花音,「うん、明日は、うるさい連中に目にもの見せてやらないとね」
冗談めいた口調で言うと、おずおずとシャワーを浴びに脱衣場に向かった。
;黒画面
ややあって、静かにベッドについた花音。
かけ布団ごしに、小さくうめいた。
花音,「本当は、明日も負けるかもって、思うんだ……」
嗚咽まじりの声は、傷ついた少女の、まさしく本音に違いなかった。
…………。
……。
;背景スケート会場客席2階_観客有り_統合
……。
…………。
花音の不安は、現実のものとなって現れた。
全国大会、女子フィギュアスケートの初日。
ショートプログラムの行程は、瀬田のあとに花音が滑るという順序で進んだ。
瀬田の勢いはすさまじいものがあった。
拍手の量が増えれば、得点も伸びる。
全国大会史上初の最高得点をたたき出し、観客を感動の渦に巻き込んだ。
定評のあるステップだけではなく、花音が得意技とするような難度の高いジャンプも取り入れ、見事成功させた。
演技終了後には、おれも思わず立ち上がり、手を叩いていた。
花音は、そんな瀬田を前にどんな気持ちで氷上に現れたのか。
あの、会場の空気がぶれるような拍手は、もう花音に送られなかった。
誰もが、連日のように報道された負のイメージを刷り込まれただろう。
大きな罵声やはっきりとした嘲笑は聞こえない。
皆、おざなりに手を叩き、足を組み、咳払いを重ね、日本人らしい奥ゆかしい差別のやり方で、問題児を上から見下ろしていた。
悪い空気は伝染するのか、花音の演技は精彩を欠いていた。
少なくともおれにはそう見えてしまうし、きっと観客や審判の目にもそう映っていることだろう。
客1,「ダメだな……」
演技中にもかかわらず、隣の席の男がぼそりと漏らした。
不快に思いながらも、納得させられるものはあった。
たしかに、勢いがない。
弾丸の速度はどこへやら。
天馬さながらのジャンプは、なんとか目標の回転数を維持したという程度だった。
エッジワーク……というのだろうか、忙しく足を動かしているようだが、ただ慌てているようにしか見えない。
スタミナが切れたのか、ラスト間際のスピンの最中には、スクリーンに苦しそうな表情が映ってしまった。
曲が終わり、フィニッシュを決めた花音に、ばらついた拍手が送られた。
席を立つ者など一人も見当たらなかった。
はっきりとした減点はなさそうだったが、これまで背すじを震わせられたような、花音にしかない魅力はまったく伝わってこなかった。
花音のプログラムは、もともとの配点が高いようで、結果は暫定二位ではあるが、一位の瀬田と十五点以上もの大差がついた。
もはや、世界大会は遠くなったと言わざるを得ない。
全国大会での結果で決めるとはいえ、世界大会の選考は、ファイナルの成績も考慮するという話だ。
花音が、明日のフリーで瀬田の合計点を大幅に上回る可能性は常識的に考えられない。
それどころか、明日、瀬田に勝つことすら厳しすぎる。
瀬田の技術点を見て胃が痛くなりそうだった
技術点は、つまり、どれだけ難度の高いジャンプやステップを上手に見せたかで、配点が決まる。
これまで、技術においては、花音が大きく差をつけていると思われていた。
しかし、実際は、ほとんど変わらなかった。
瀬田が爆発的な成長を見せたのか、ジャッジが好意的な判断を下したのか。
おそらくその両方だろうが、花音の面目や個性を潰すには十分な現実を叩きつけられた。
なにより――、
花音,「とくに、話すことはないです」
巨大スクリーンに晒された花音の顔。
冷たい表情には闘志のかけらも見出せなかった。
;背景スケートリンク概観夜
会場の中でも外でも、花音は悪い意味で人気者だった。
大勢の記者やレポーターから、失言を期待しているような悪質な質問が飛び交った。
記者1,「今回、やる気は出したんですか?」
記者2,「瀬田選手の演技はどうでしたか?」
記者3,「花音さん、こっち向いてくださいよ。子供じゃないんだから」
彼らは、今日の花音の演技が、ありていにいえば普通だったので、なんとかして視聴者や読者の興味を注ぐものに変えたいのだろう。
花音,「…………」
まばゆいフラッシュと行く手を阻む人の肉圧に、花音はもみにもまれていた。
じっと下を向いて、苦痛とストレスに耐えるように歩いている。
おれは花音に近づき、そのか細い手を引いた。
おれにもカメラが向けられるが、気にしている余裕もなかった。
花音,「待って、コーチが来るから」
耳元でささやくように言った。
郁子さんは、また臆面もなくカメラを見据え、申し訳なさそうなまなざしで、くだらない受け答えを繰り返していた。
京介,「行くぞ」
花音,「待って」
京介,「置いていこう」
花音,「ダメ」
京介,「なぜだ?」
花音,「……ご飯、食べに行こうって言われた」
おれは歯がゆい思いで、花音に従った。
;背景繁華街1夜
食事中の郁子さんは、上機嫌だった。
マスコミに向けた淑女めいた態度はどこへやら。
ジキルとハイドも真っ青の豹変っぷりを見せ、瀬田やジャッジを痛烈に批判していた。
郁子,「ほんと、花音ちゃんは何も悪くないのよ」
花音,「うん……」
右の耳から左の耳へ聞き流すように、うなずいていた。
郁子,「みんな、最低よね。気にしちゃダメよ。花音ちゃんの良さは、私だけはちゃんとわかってるからね」
花音,「うん……」
郁子,「まだ明日があるんだから、落ち込まないでね。優勝さえすれば、あとはお母さんに任せなさい。必ず世界に行けるようにしてあげるから」
花音,「うん……」
不快感に胃に入ったものを戻しそうになった。
刻まれたような深い笑み絶やさず、娘にすがる母。
能面のように無表情な顔で、母につき従うしかなかった娘。
目まいをおぼえたそのとき、おかしなことが起きた。
前を行く二人が路地を抜け、大通りに抜ける歩道を行った。
信号が青に変わる。
人通りのまばらな交差点に足を踏み入れた。
右手に黒い影が見えた。
郁子さんがそちらに顔を向けた。
危ない!
おれが叫んだのか。
はたまた、撥ねられた郁子さんが叫んだのか。
スポーツカーの運転手は、助手席の女性とおしゃべりしながら、赤信号を突っ込んできたのだった。
ブレーキ音に目が覚める。
タイヤが軋むような音はそれほど大きくなかったから、車は低速でゆるゆると渡ってきたのだろう。
……などと、事件の衝撃に関係なく、おれの頭は異様に冴え渡っていた。
運転手が車を飛び降りて、わめいた。
なにしてんだ馬鹿野郎、俺のせいじゃねえぞ。
信号は彼の過ちを指摘していた。
交差点のそこかしこから、人が集まってくる。
地面に仰向けに倒れた郁子さんのそばで、花音が突っ立っていた。
少女はまだ、母親の媚を聞き流していたときの顔で、
花音,「うん……」
と、うなずいていた。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
右の足首がずきずきと痛む。
郁子,「ぜんぜんだいじょうぶよ」
暗い病室に、母の見下したような笑い声が響いた。
コーチが車に撥ねられた。それから先は、よく覚えていない。警察が来て、京介が慌しく動いていたような気がする。
郁子,「花音ちゃん、怪我はない?」
花音,「ない」
郁子,「そうよね、私が守ってあげたのよね。とっさのことだったから覚えてないでしょうけど」
しかし、花音は事故の瞬間をはっきりと覚えていた。
かばわれてなどいない。
のろのろと走ってくる車には気づいていた。そして危ない、と叫んだ。しかし、郁子は挑むように車に向かっていった。花音の肩をあらぬ方向に押して、次の瞬間には地面に倒れこんでいた。花音の目には、自ら足を滑らせて大げさに転倒したようにしか見えなかった。事実、車は郁子に接触しなかったのだから。
頭にかすり傷。大事を取って一日だけ入院。それだけだった。
いや、郁子に突き飛ばされたとき、足をひねったような気がする。そちらのほうがむしろ心配だった。
郁子,「ちゃんとうるさいマスコミには伝えておくからね、花音ちゃん」
娘をかばい、自動車事故にあった母。
偽りの美談。偽りの物語が、すでに彼女の頭のなかで出来上がっていた。
――なんて人なの。
この世にここまでちっぽけで、つまらない人間がいるなんて知らなかった。それが、自分の母親だと思い知らされて、花音は凍りついていた。
郁子,「これで、明日のジャッジも甘くなるといいんだけれどね」
薄笑いを放るようにあごをしゃくった。花音はぎこちなく笑うしかなかった。
いっそ死ねばよかったのに、はっきりとそう思った。これまでくすぶっていたものがついに結晶化して花音は言った。
花音,「コーチはわたしのこと、大好きなんだよね」
郁子,「どうしたの?」
花音,「ずっと、好きなんだよね」
郁子,「もちろんよ」
花音,「そっか。じゃあ――」
花音は耳を研ぎ澄ました。物音は聞こえない。病室には誰もいない。室内の闇を切り取る、白いベッドと白い郁子。
汗が、こめかみから頬に、頬から首筋へと伝った。冬なのに、暑い。両手の五指に力が入って、鼓動が胸壁を殴打した。一歩踏みよるべきなのだろうが、足裏が接着剤を塗られたように床に貼りついている。
さあ、やれ。ほかに方法は思いつかない。
母と子。あらがうことのできない血の絆。母が存在する限り悪夢は続く。断ち切らねば……。
郁子は完全に油断している。娘が自分に牙を剥くなど、郁子の辞書にはない。
花音は郁子を見下ろす格好で、立ち尽くしていた。母親の笑顔を眺めるのも、もう、これで最後だ。昔は、媚と矮小さを同居させたこの顔を、優しげなものと信じていた。
無意識に、過去の思い出を重ねている自分がいた。体が小さかったころ、よくこの顔を見上げていたものだ。
郁子,「立派になったわね、花音ちゃんも」
花音は、一切の邪念を追い払うことにした。惑わされるものか。郁子は、自分が大好きなのだ。自分の果たせなかった夢を娘に負わせ、利用しているにすぎない。
いままでは言われるがままに従った。能力が足りないのを知っていて、長らくコーチを務めさせてやった。フリーのプログラムも義理立てて変えなかった。衣装も郁子の望みに合わせた。郁子の見栄につきあって、出たくもないマスコミにも顔を出した。
花音は唇を噛み締めた。なにより、クリスマスだ。
大好きな兄さんとの約束を破ってまで、お前の顔を立ててやったではないか……!
花音,「これいじょう、なにをすがろうっていうの、あなたは」
郁子,「……すがる?」
花音,「わたしに、のしかかろうとしないで」
郁子,「ふふ、変な花音ちゃん」
その瞬間、花音の腕が伸びた。よく引き絞った弓のようにしなり、郁子の首に迫った。視界が、腕が、呼吸が、両膝が震えた。
花音,「どう、して……」
現実には、花音は身動き一つしていなかった。
花音,「ああ、どうして……」
がたがたと震えながら、せりあがる嗚咽に耐えていた。
花音,「……あなたは、最低の母親なのに……最低なのに、なのに、ああ、どうして……」
母は、母ではないか……。
花音,「……どれだけ利用されてもいいとか、思っちゃうのかな――!」
郁子,「か、花音ちゃん?」
花音,「黙れ!」
声を爆発させて花音は叫んだ。
花音,「あなたはいつもそう、ずっとそう、ずっとずっと気づかない完璧な人間で、ずっと自分の正しい世界に住んで、その中で死んでいくだけ!」
郁子は我が子が気が触れたと、怯えるような顔をしていた。
花音,「でもいいよ……もう、わかったよ……わかっちゃったんだよ」
花音はこれまでの短い人生を振り返っていた。
当然のようにやらされたフィギュアスケート。母親に強制されたとはいえ、大勢の人々の拍手は本物だった。
あの人たちの笑顔は、本物だった。
花音,「ありがとうって、言わなきゃいけないんだって……!」
郁子,「…………」
花音,「苦しいけど、くやしいけど、おかしいなって思いながらでも、言わなきゃいけないんだって!」
怒りと屈辱に目を吊り上げた。とめどなく言葉が溢れた。
花音,「たとえ、あなたが自分のためにわたしを利用していたのだとしても、そこに、いろんな感謝や感動があったんだから」
郁子,「……花音ちゃん、お、落ち着いて……?」
花音は首を振り続けた。何を言っても無駄だ。わたしは今、わたしに話している。
花音,「わたしはお金になるんでしょう?いいよ。どんどん稼いで。スケートはお金かかるもんね。あなたが、何百万っていうお金を出してくれなかったら、いまごろ浅井花音なんて誰も知らなかっただろうね」
郁子,「そんな、つもりは……」
花音,「いいんだよ、本当に……本当に、好きにして……」
花音,「あなたは、わたしに優しくて、誰よりも親切だった。もう、それだけでいいよ……」
泣き疲れ、つぶやくように言った。
花音,「もういいよ、お母さん……もう、憎むのは終わりにする……」
郁子,「花音ちゃん……」
郁子がけげんそうに言った。
郁子,「まさか、スケートが嫌になったの?」
花音は力なく笑って、首を振った。
花音,「大好きだよ」
郁子,「そう……」
花音,「一番になるよ」
愚かな母に、素の笑顔がもどった。花音は思わず、吹き出してしまった。
花音,「だって、お母さんだもんね……しょうが、ないよね……」
そのときだった。郁子がはっとしたように息を呑むのがわかった。怪物の顔に亀裂が走ったように花音には見えた。
郁子,「お母さんは、花音ちゃんを傷つけていたの……?」
つぶやきは、誰にも拾ってもらえなかった。
郁子,「ねえ、そうなの……?」
母はいまさらながらに震えだした。
郁子,「花音ちゃん?」
彼女は、息を詰めて娘を見て、そこに自分への哀れみとあきらめしかないことを悟ると、唇をぎゅっと結んで目をしばたいた。
花音,「かわいそうなお母さん。誰もあなたのことなんて好きじゃない。だったら、わたしだけが、一番になってあげる。世界でただ一人、わたしだけは、味方になってあげるよ」
お母さんの一番になる権利、わたしがもらった――。
花音,「いいんだよ、お母さん……もう、いいんだよ……」
花音は、微笑んだ。微笑まねば、なにも変わらない。
郁子,「花音ちゃん、私……」
あえぐように言ったのを最後に、母の目にじっくりと絶望が募っていった。
やがて、夜は深まっていく。
花音にとって母親の名誉と命すら懸けた試合が刻一刻と迫ってきた。
;黒画面
……。
…………。
;背景主人公の部屋昼
十二月二十六日。
花音のスケート選手としての命運をかけた試合が開始される。
その朝、早くに、花音が帰ってきた。
花音,「ただいま、兄さん」
どこか、晴れがましい顔をしていた。
花音,「きのうは、迷惑かけたね」
理由はわからない。
京介,「警察の相手は慣れてる……悪いことばっかりしてるからな」
花音,「お母さんも、もうだいじょうぶだよ」
京介,「……っ!?」
花音,「たいした怪我じゃなくて、本当によかったよ。お母さん、わたしをかばってくれたんだよね」
それは違う、と言いかけた。
警察の調べでは、あのスポーツカーと、郁子さんが接触した形跡はなかったのだ。
郁子さんが転倒して頭を打つ理由はまったく見当たらなかった。
花音,「だって、わたしを突き飛ばしてくれたもん」
京介,「…………」
花音,「かばってくれたんだよ。お母さんなりに」
京介,「そうか……」
それならそういうことでいい。
花音が、郁子さんをお母さんと呼ぶのなら。
;背景マンション入り口昼
花音,「兄さんにも、いろいろ迷惑かけたね。それを言いに帰ってきたの」
京介,「……どうしたんだ?」
やけにしおらしい。
花音,「兄さんがいなかったら、のんちゃん、終わってたと思う」
京介,「いや、おれはなにもしてない」
花音,「いつもわがまま聞いてくれた。つらいときに抱きしめてくれた。わたしに代わって、瀬田さんに謝ってくれた。お母さんの話もしてくれた」
……それがなんだってんだ?
花音,「お詫びに、今日は最高の演技を見せるね」
京介,「お詫びに……」
花音からそんな言葉が出るなんて……。
京介,「まあ、理由は聞かん。言ったことは守れよ?」
花音,「あははっ、当たり前だよ」
久しぶりに、花音の底抜けに明るい笑顔を見た気がする。
少女は、なにかに決着をつけてきたのだろう。
;背景スケートリンク概観昼
車を寄せて花音を下ろすと、すぐさまきのうの騒ぎを聞きつけた連中が駆け寄ってきた。
記者1,「花音さん、お母様が大変な目に合われたそうですが?」
とくだん大変そうでもない口ぶりで、マイクとカメラを近づけてくる。
花音,「大事ありません」
花音は、堂々と答えた。
気丈に物怖じすることなくカメラを見据えた。
花音,「午後には退院して、わたしの演技を見に来てくれます」
花音,「わたしは母のため、いままでで一番芸術的な演技を、皆さんの前でお見せします」
花音,「どうぞ、よろしくお願いいたします」
テレビ屋どもが、皆一様に唖然として、生中継にあるまじき間ができた。
花音は、悠然と胸を張り、関係者入り口に消えていった。
;背景スケート会場客席2階_観客有り
注目の女子フリースケーティングは六時半からだった。
一時の会場と同時に入場していたおれは、先に行われるペアやアイスダンスの競技を眺めていた。
ハル,「おや、浅井さんじゃないすか」
栄一,「おう、京介」
ばったり栄一たちと出くわした。
京介,「宇佐美か……うざいのが最近つきまとってこなくなったと思ったが、チケット手に入ったのか?」
ハル,「全国大会はファイナルほど混雑しないみたいでしてね、徹夜で並んで当日券ゲッツしました」
京介,「……相変わらず気持ち悪いヤツだな……」
ハル,「わたしの仲間その二の最後の戦いとなれば、応援せねばならんでしょう?」
京介,「最後じゃねえよ」
ハル,「すみません、まだ始まってもいませんでしたね」
なんかの映画のセリフみたいだが、そういうことだ。
京介,「せめて最後はオリンピックだろ」
宇佐美もうなずいた。
栄一,「椿姫も、六時には来るって」
ハル,「わたしのデザインしたクソかわいい垂れ幕持って来ますよ」
栄一,「きのうみんなで作ったんだよ」
京介,「うわ、すげえ恥ずかしいな、お前ら……」
ハル,「いえいえ、浅井さんもきのう、一瞬だけテレビに映ってましたよ。手を引いてマスコミから花音を守る姿とか、かなりあつかったっす」
京介,「うるせえヤツらだな……とっとと席に着きやがれ」
手で追い払った。
栄一,「おめーがホテルの予約キャンセルしたおかげで、親父にクソ怒られたわ……」
去り際、一言毒づいていくことも忘れなかった。
……まったく、くだらないヤツらだ。
花音に、なんとかして伝えられないものかと、思った。
仲間が、見に来ていると……。
;背景スケートリンク廊下
女子シングルが始まる前に軽い食事を取った。
にわかに混雑した通路を歩いているとき、一般の風景に似合わぬ男を発見してしまった。
京介,「まったく、どういう風の吹き回しですか、お養父さん?」
権三は、取り巻きのヤクザ連中のなかから顔を出した。
浅井権三,「俺の血の一部が、どういった死に様を見せるのか、気になってな」
京介,「死に様、ですか?」
浅井権三,「今日負ければ、あれは終わりだ」
京介,「なるほど……」
浅井権三,「もう、なんの富も生み出さぬがらくたに成り下がる」
京介,「まさしく、おっしゃるとおりですね」
実質、大手のスポンサーは次々に花音との契約を打ち切っている。
負のイメージの定着した花音は、商売的になんの役にも立たないだろう。
おれは権三の冷たい目を見据えた。
京介,「お養父さんらしからぬ、先見の明のない意見ですね」
権三の瞳に怪しげな光が宿った。
かまわず、挑むように言った。
京介,「おれの女は、あんたの娘だぞ」
負けるものか。
浅井権三,「クク……」
権三は低く笑って、愉しそうにたっぷりとおれの全身を睨めまわした。
浅井権三,「勝てるのか?」
京介,「ええ」
浅井権三,「すでに、一位の山王物産の犬と、十五点もの大差をつけられているが?」
京介,「ひっくり返すでしょう」
浅井権三,「構成点では負け、技術点すらほぼ互角だが?」
京介,「たしかに、演技力や曲の解釈ではこれまでも水をあけられていましたし、ジャンプの技術もすでに追いつかれていますが……」
浅井権三,「今日は違うというのだな?」
京介,「まだまだ魅せてくれますよ」
浅井権三,「地力でも人気でも劣る花音が勝てると?」
京介,「会場の誰もが負けると思っていますからね。せめて、おれくらいは応援してやらねば」
権三は、ニヒルな笑みを唇に貼り付けて、うなずいた。
浅井権三,「京介、お前も俺にへつらうだけの家畜かと思っていたが……」
京介,「…………」
浅井権三,「初めて意見が分かれたな……」
怪物は、おれに背を向けた。
;黒画面
…………。
……。
;背景スケート会場客席2階_観客有り
会場内は、混雑を極めつつあった。
人の熱でリンクの氷に影響が出ないのかと思うほどだった。
皆、新しい英雄、瀬田真紀子を観に来ているのだ。
ざっと周りを見渡すと、瀬田を応援するような垂れ幕が多く目についた。
席に着くと、すでに最初のグループの試合前練習が始まっていた。
最後に滑走する花音の姿はまだなかった。
ふと、頭上で気配があった。
郁子,「……ここ、いいですか……?」
聞いたこともない声に呼びかけられた。
京介,「あ、郁子さんでしたか……」
まるで幽霊のようだった。
がらんどうとした目と、おぼつかない足元。
京介,「どうしたんですか?いつもは関係者席かどこかでご覧になっているんでしょう?」
彼女は首を振った。
郁子,「……わたしは……コーチでもなんでもありませんから……」
チケットを覗き見る。
親族待遇で入手した、おれの隣の席だった。
京介,「もう、具合は平気なのですか?」
郁子,「ええ……」
ぼそりと言って、いまにも崩れ落ちそうな足取りで、席についた。
正直、不気味だった。
憑き物が落ちたというには生ぬるい。
死人の顔で、ぼんやりと虚空を見つめていた。
郁子,「ねえ、知ってた……?」
京介,「…………」
郁子,「花音ちゃん、泣いていたの……ずっと……」
京介,「…………」
郁子,「心で泣いて、それでも、母親につくしてくれていたの……」
京介,「…………」
郁子,「衣装も、フリーのプログラムも、クリスマスも、みんな、みんな……わたしに、捧げてくれてたの……」
京介,「…………」
郁子,「知ってた?ねえ、知ってた?」
うわごとのように繰り返していた。
知ってた、知ってた、知ってた……?
おれも、知っていたとは言えなかった。
いままで金の奴隷として生きて、妹のことなど道具のように見ていたのだから。
郁子,「一番に、なるって……」
亡霊がまたつぶやいた。
今この人の背中を押したら、すぐにでも首を吊るだろう。
郁子,「哀れな母親のために、自分だけが、一番になってあげるって……」
京介,「…………」
郁子,「わたしも、嫌われ者だからって、明るく笑ってたのよ……あの子……」
人間はあまりにも悲しいと涙すら忘れるらしい。
郁子,「嫌われ者だからって……笑って……」
かけるべき言葉は見当たらなかった。
この人に同情し、神のごとき慈愛の手を差し伸べられるのは、世界で唯一、花音だけだった。
そうか、花音……。
おれは苦笑していた。
お前は、王様だったな……。
やけにちっぽけな国の玉座についたもんだ。
立派じゃねえか。
さあ、早く出て来いよ。
見せつけてくれ。
お前の、母への祈りを……。
;黒画面
…………。
……。
花音の前に滑走した瀬田真紀子は、もはや貫禄すらある演技を披露し、会場全体を沸かせた。
あと一歩で二百点に届こうかという、驚異的な競技得点が掲示された。
観客の大半は、もう叩くべき手など残していないといわんばかりの盛大な拍手を、瀬田に送っていた。
リンクに大量の花束が投げ入れられ、幼いスケート少女たちがそれを拾いあつめている。
いまやスケート界の新たなヒロインとなった瀬田が退場し、会場が再び静まり返った。
重苦しく、好ましくない静寂だった。
そうして、アナウンスが流れ、花音の出番がやってきた。
;ノベル形式
ヒルトンコーチから、棄権の提案があった。
試合前のわずかな練習時間の間、違和感が右足首に現れたからだ。捻挫、というほど大げさなものではない。けれど、着氷や右足を軸にしたスピンの際には、着実に神経を蝕むような痛みがあった。原因はおそらく、きのうの晩に、郁子に突き飛ばされたときにひねったのだろう。
体力的にも不安はあった。昨晩の事件で、睡眠も十分とはいえない。
フリースケーティングの四分を滑りとおすのは、相当なスタミナを要求される。毎晩会場の周辺を五キロほど走りこんでいた花音も、演技終了後には酸欠で頭痛を覚えることもしばしばあった。
観客の反応も冷たい。喝采の嵐は、もう過去のものだった。降り注ぐ、軽蔑と嘲笑の視線。これからあずかる饗宴への期待と興奮で、目を悪意に濡らしている。会場が日本でなければ、いまごろブーイングの声が上がっているだろう。
リンクの中央へ滑り出した花音は、自らの置かれた状況を冷静に分析していた。
負ければ、終わり。オリンピックはおろか世界すら届かない。あれだけ世間を騒がせたのだ。連合にも見放され、特別強化指定選手からはずされるかもしれない。
母親はどうなるだろうか。昨晩の母には異常なものを感じ取っていた。罪の大海に放り出され、遭難しているような狂気があった。花音が負ければ、まず廃人となってしまうだろう。
鼓動が高まり、肌があわ立つような恐怖が襲ってくる。遮断された息苦しい静寂と、淀んだひえびえとした空気。光輝く銀盤の上で、花音はまさに追い込まれていた。
同時に、追い込まれたのは、誰のせいかと考えた。
――考えるまでもない。
花音は意を決した。
まもなく曲が流れる。開始前のポーズを取りながら、花音はゆっくりと目を閉じた。
;黒画面
瞬間的に腹をくくった。足首の懸念も、睡眠不足による疲労も、耳に届くほど大きい動悸とともに、心から追い払った。
祈りを捧げることにしたのだ。
感謝と、愛に溢れた祈りを、この名曲の調べにのせて――。
;```章タイトル
;花音の章我が母の教えたまいし歌と表示
美しいピアノの旋律が開放され、花音は身を翻して氷上に躍り出た。
穏やかな曲調に耳を澄ませ、花音はただ、母を想った。愚かで、救いようのない母を。
首を上げ、天を仰ぎ、スケーティングに乗せながら、胸に願いを込める。
やおら、最初のジャンプが迫ってきた。
フェンス際まで助走を取り、左足のアウトサイドエッジに神経を集中させる。
;踏み切るときのSE
ダブルアクセル。ピアノが跳ね、踏み切った。軽やかに空中で二回転し、後ろ向きに落下した。
実質二回転半となるジャンプも、トリプルを跳べる花音にとってはウォームアップに近い。
そう、思っていた……。傲慢に、侮っていた。
右足首に鈍痛が走る。己に復讐されたのだと思い、静かに耐えた。父に捨てられて以来、ずっと眠ったままの母を起こさぬよう、優しく着氷した。
姿勢に乱れはなかった。
しかし拍手はお義理っぽく、まばらに上がる程度。
当然だった。誰が、手を叩いてくれるものか。ちっぽけな母とわがままな娘の物語。むしろ、おぞましいではないか。花音は、ただ、申し訳ない思いだった。
軽いステップを交えながら、花音は母に語りかける。
ねえ、お母さん。
母と練習したコンビネーションジャンプ。
初めてルッツを跳べたとき、大げさに泣いていたよね……。
すると、先日は花音と断交したルッツが、また振り返ってくれた。着氷から続けざまに、右足にも協力を頼む。
しょうがないわね、花音ちゃん、本当にわがままなんだから……。
母の声が聞こえ、三回転の連続ジャンプが形になった。氷の削り屑が花音の足元で安っぽい宝石のように輝いた。お金なんて、あとからついてくるのよ花音ちゃん……。
フォアスケーティングでジャッジに近づきながら、花音は小さく、自分にしかわからぬくらい、そっと首を振った。
お金の話?
ジャッジの前で行われるスピンコンビネーション。片側のエッジに体重を乗せ、小さい円を描きながら高速で回る。途中で、姿勢やポジションを変えながらそのたびにバランスを取り直す。
お母さんはお金の使い方をもっと考えなきゃ……。
薄給のジャッジに感謝の意を込めていると、花音は自然と、全身で鮮やかなYの字を表現していた。
さあ、お母さん。
スピンで酷使した右足首が悲鳴を上げている。お母さん!
次だよ、よく見てて!
郁子が選手をしていた時代には、女子には到底無理と考えられていた技に意識を集中させた。
やるしかなかった。
勝つためには。瀬田にではない。自分に。これまで母を甘やかしてきた自分に勝つためには。
花音が甘やかされていたように、花音も母親を甘やかしてきた。
後ろ向きに滑ってきて、花音はスケート靴の先端、トゥピックを勢いよく氷に打ちつけた。
母親を叱咤するように、激しく。
申告ではトリプルになっているジャンプを――!
;背景スケート会場客席2階_観客有り
;通常形式
花音が着氷した、その瞬間だった。
会場から、轟然としたどよめきが上がった。
;SE拍手、歓声
花音の単独ジャンプは、天を衝く高さを誇っていた。
踏み切りの瞬間には、それまで穏やかだったスケーティングが嘘のような猛々しさがあった。
郁子,「……四回転トゥループ……」
……四回転!?
トゥループジャンプは、ジャンプのなかでは最も易しいという。
しかし、四回転となればまったく話は変わってくる。
世界でも女子は数人しか飛べないというトリプルアクセルよりも、難易度は高い。
与えられる基礎点も三回転の二倍以上だ。
郁子,「四回転は……やるなって……」
郁子さんがおれの隣で声を震わせていた。
郁子,「やるなって、言ってたの……私が……」
郁子,「足腰に負担がかかるからって……やらなくても十分勝てるからって……」
郁子,「……そうやって、甘やかしてたの……」
おれは言葉もなかった。
……なんてヤツだ。
申告したプログラムは、演技の事前、もしくは演技中に自由に変更することが出来る。
しかし、得点の確実性を求めて三回転を二回転に変えるような場合がほとんどだ。
これまで公式試合では一度も成功させたことのない四回転。
花音は、この土壇場で、完璧に決めてきた。
勝つ、つもりなのだ。
花音が得たものは得点だけではなかった。
野性に返ったような驚嘆の叫び声が、雨のようにリンクに集中した。
客1,「すげえ……」
客2,「なんか、違わないか?」
客1,「ああ、いつものフリーと、ぜんぜん違う」
客2,「気持ちが入っているっていうか、別人じゃん……あれほんとに浅井花音か?」
流れが変わっていた。
誇らしかった。
妹は、世界初の大技を、魅せてくれたのだ。
…………。
……。
;ノベル形式。
;黒画面
ダブルアクセル、ダブルループ、ダブルループの三連続ジャンプが終わった。これで、ジャンプはラストの一本を残すのみだ。
すでに、演技は後半に差しかかっている。
花音は慈愛に満ちた笑顔を作りながらも、身体の異常を深刻に受け止めていた。
――苦しい!
奇跡の四回転ジャンプが、腰にずしりと響いている。まだまだ無茶な技だったのだ。膝が軋み、目がくらむような鈍痛が襲ってくる。着氷した右足首など、もはや動いているのが不思議なくらいだ。
;SE拍手
それでも、この拍手に応えなければ!
いままで花音は、客を無視していたに等しかった。難易度の高い技を見せれば勝手になびくだけの、無知な集団と考えていた。
しかし、彼らは純粋だった。純粋にスケートが好きで、安くはないお金を出して、今日も演技を観に集まってくれている。そうでなければ、この大歓声はなんだというのか。嫌われ者のわたしに、まだ暖かい声援を送ってくれている……!
花音は、自分が情けなくて、観客に申し訳なくて、いまにも泣きそうだった。だから、涙を流すかわりに笑顔を作り、頭を下げるかわりに胸を張った。30×60の氷上にいる限り、花音はフィギュアスケート選手として、彼らを満足させるべく最大限の力をふりしぼった。
そのとき。
兄の席の位置は前もって知っていたとはいえ、なんという僥倖だろうか。
母の姿を客席に認めたのは、ストレートラインステップの最中、その一瞬の出来事だった。
;背景スケート会場客席2階_観客有り
昔、老いた母が歌を教えてくれた
母の目には、大粒の涙があふれていた
;通常形式
……。
…………。
プログラム『我が母の教えたまいし歌』。
これまで、これほど花音に合っていない演目もないと思っていた。
ドヴォルザークの歌曲が、ノンヴォーカルにアレンジされて、氷上に響き渡っている。
名曲のテーマは、ただ、母への感謝。
郁子,「……っ……うぅっ……っ」
母親は、両手をこすり合わせ、娘に頭を下げていた。
念仏でも唱えるかのように、声を殺して泣いていた。
郁子,「ご、めんなさいっ……っ、ご、めんなさいっ……!」
抜け殻となった母が、魂を振り絞って、祈りを捧げていた。
銀盤の花音は、四回転が響いて、苦しいに違いない。
しかし、笑顔を絶やさない。
微塵も、弱さを露呈しない。
母への感謝を、視線から手先までおろそかにせず、表現しきっていた。
郁子,「かのん、ちゃん……かのんちゃん……」
さあ、花音。
最後のジャンプが待っているぞ。
おれも勉強して知った。
演技後半に行われるジャンプは得点が1.1倍になるらしいじゃねえか。
体力的に、滅茶苦茶きついからだろ?
さすがは、王様だよ。
そこに、スケートの華、トリプルアクセルを持ってくるなんて……。
京介,「ぐ……」
おれは唇を噛み締めていた。
がんばれ、花音……!
;ノベル形式。
;画面白滅
;黒画面
きらきらと、辺りがまぶしい。
花音の意識はすでに朦朧としていた。もう、体が勝手に演じているといっていい。
――どうして?
なぜ、まだ、立っていられるの?
なぜ、最高レベルのフライングスピンコンビネーションを、うれしそうに続けていられるのか。
くるくる、くるくると、世界が回っている。
;画面白滅。
花音,「もう、スケートやめたい」
郁子,「いったいどうしたの、花音ちゃん?」
花音,「だって、つまんないんだもん」
郁子,「どうして?この前の競技会も勝ったじゃない?」
花音,「勝っても楽しくない。楽しいのはお母さんだけ」
郁子,「お母さんが楽しいのはダメなの?」
花音,「……え?」
郁子,「お母さん、とってもうれしいのよ」
花音,「だって、お母さん、自分が自慢したいだけだもん」
郁子,「自慢しちゃ、ダメ?」
花音,「……それは」
郁子,「花音ちゃん、これから先ね、花音ちゃんが有名になったら、もっともっと、いろんな人が自慢したがるわよ?」
花音,「そうなの?」
郁子,「私もそうだったの。大会の偉い人、偉い人の親戚、会社の人、みんな、花音ちゃんを自分のために利用するわよ?」
花音,「だったら、なおさらヤダ」
郁子,「それでも、それだけじゃないのよ」
花音,「意味わかんない」
郁子,「じゃあ、意味がわかるまで、続けてみたら?」
花音,「……なにそれ」
郁子,「ふふ……さあ、練習しましょ?」
花音,「もういいよ。お母さんにはなに言っても無駄だね」
ようやく、意味がわかった。
さきほど、ちらりと客席の垂れ幕が目についた。気持ち悪いペンギンの柄が入っていた。誰かが拍手に便乗して席を立ち上がり、うすら長い髪を振り乱して叫んでいた。
母が涙を流している姿も見つけることができた。ステップのときには、観客から曲のテンポに合わせた手拍子を送ってもらうことができた。
プログラムは、もう、終わる。
もう、悔いはない。ふてくされながらも、スケートを続けていて良かった。たとえ母の見栄につきあわされていたのだとしても、背後のスポンサーが欲の皮を厚くしていたのだとしても、いまこの場にいる彼らの声援は、本物なのだから。
曲が収束する。
瞳が濡れ、涙が散って、光に輝いた。
泣きながら笑い、花音は最後の踏み切りに己のすべてを閃かせた。
跳んだ。
これまでの自分を蹴飛ばし、母の元へ。
やがてわたしが母となり、
わたしの子供に歌を教えるとき、
母と同じように、わたしの目にも、涙が宿る――――。
;ゆっくりと白フェード
;通常形式
;黒画面
…………。
……。
;背景スケート会場客席2階_観客有り
震えが止まらない。
息が詰まりそうな静寂。
たかが四分に濃縮された魂の歌があった。
演技の終焉を迎えた花音が氷上で、輝かしい決めのポーズを取っていた。
両手を天に向けて伸ばし、そのまま彫像のように固まっている。
遠目に見ても、泣いているのがわかった。
突如、地が揺れた。
;SE大きな拍手、歓声ループ。
リンクの氷すら揺れるような、熱くたぎった拍手と、歓声が花音に浴びせられた。
立ち上がって賛辞を送らぬ者などいない。
目を剥き、顔を興奮にこわばらせ、力の限り手を叩いている。
いや、ただひとり、リンクの花音と同じように、身じろぎひとつしないでいる女性がいた。
郁子,「……あ、あ、あ……」
まるで赤子のようだった。
郁子さんのなにかが、いまこの瞬間に、はっきりと生まれ変わった。
おれも柄にもなく、こみ上げるものをおさえられなかった。
まさしく、"わが母の教えたまいし歌"のとおりではないか。
花音は、完璧な内面表現で、おれたちを沸かせてくれた。
花音……。
この大歓声が、届いているか?
それとも、力を使い果たして、もう意識を失っているのか。
そう思うと、花音が観客に礼をすることもできず、コーチのヒルトンに抱きつくこともできず、氷上にゆっくりと崩れ落ち、眠りにつくのがさほど不思議でもなかった。
緊張と動揺がアイスアリーナに走った。
皆、花音の安否を心配し、叫んだ。
花音、花音ちゃん!花音!
そのときだった。
おれが階段下のフェンスに駆け寄るより早く、飛び出す影があった。
子宮から出た胎児がそうするように、雄たけびを上げ、リンクに飛び込んでいく。
当然、摩擦係数の低い氷上では思うように近づけない。
転倒し、無様に頭を打ちつけた。
しかし、失笑するものは一人としていなかった。
もがきながら、花音のもとへ迫る。
いち早く、花音を抱きかかえたのは、コーチのヒルトンでも、リンクサイドで待機していた医療班でもなかった。
突然の事態に、客席は騒然となり、やがて暖かい拍手が満場を支配した。
母に支えられ、花音はリンクをあとにした。
;場転
;SE拍手ループ
;※上に移動
ハプニングもあったせいか、採点には時間がかかっているようだった。
長い緊張に、胃がおかしくなりそうだ。
場内の巨大スクリーンには、キッス&クライの映像が届いていた。
花音は憮然としていた。
放心しているようにも見えた。
隣に座るヒルトンに寄るでもなく、我を忘れたように立ち尽くしていた。
会場の興味は、すさまじい演技を披露した得点に注がれている。
花音はノーミスだったと思われる。
世界のトップクラスの選手でも、長いフリーのなかで、一度や二度はミスをするものらしい。
ミスを少なくすることが勝利への鍵。
近くに座っているスケート通らしき客も、花音のミスはなかったと興奮した口調で言っていた。
しかも、三回転+三回転はもちろん、演技後半にトリプルアクセルを持ってきた最高難易度のプログラム。
離れ業の四回転すら見せつけた。
泣き所の"曲の解釈"、"演技力"なども、今回ばかりは見違えるようだった。
フリーの演技だけ見れば、瀬田をはるかに上回る得点が掲示されるのは、もはや、誰の目にも明らかだった。
客1,「……あのクワドラブルで基礎点+5だろ?」
客2,「ああ、最後のトリプルも加点されてんだろ」
客1,「スピンは全部レベル4だと思うし、こりゃ、ひっくり返ったな?」
客2,「間違いねえ。二百点越えるぞ」
同感だった。
昨日のショートと合わせて、二百点を越える。
そのとき、待ちに待ったアナウンスが流れた。
拍手が収束する。
アナウンス,「『浅井さんの得点――』」
英語でのアナウンスに続いて声が走り渡った。
緊張の瞬間。
花音はまだ、ぼんやりとしている。
アナウンスには永遠とも思える溜めがあった。
;SE手拍子
会場も手拍子で、緊張に耐える。
アナウンス,「『技術点――』」
拍手が大きなうねりとなって、ぽつりとやんだ。
アナウンス,「『77.42』」
;SE大歓声
その瞬間、驚嘆の声が地鳴りとなって会場全体を包み込んだ。
花音は、ぴくりとも動かない。
凄まじい得点だった。
瀬田の技術点を10点近く上回っている。
おれも周囲の雰囲気に呑まれ、おおお、とうなっていた。
さて、次は構成点だ。
技術点と構成点の合計で、すべてが決まる。
アナウンス,「『プログラム構成点――』」
頼む……!
アナウンス,「『61.21』」
アナウンス,「『フリースケーティングの得点、138.63』」
;SE大歓声
パーソナルベストを更新した花音は、そして総合得点を告げられた。
大歓声にかき消され、アナウンスの声すら遠くなった。
しかし、おれは次の瞬間には立ち上がっていた。
アナウンス,「『総合、第一位です――!』」
;SE大歓声ループ
瀬田に一点差をつけて逆転勝利した花音。
一筋の涙がうっすらと頬を伝う。
安堵したような優しい笑顔だった。
この上ない賛辞が溢れ返り、花音を祝福する。
;スケート会場客席2階_観客有り
京介,「……はあっ……」
手に汗が浮かび、おれはようやくため息をついた。
……たいしたヤツだよ。
栄一,「やったな、おいっ!」
ふと、栄一たちが、駆け寄ってきていた。
ハル,「やってくれたのう!やってくれたのう!」
椿姫,「すごいよ、ほんと涙出てきちゃう!」
みんなして、はしゃいでいた。
栄一,「いやよう、オレちゃんはわかってたぜ。どう考えても花音が勝つってな」
ハル,「得点が発表されるまで、死にそうな顔してましたよね?」
栄一,「ああっ!?」
椿姫,「まあまあ」
沸き返る客席。
感動に打ち震え、泣いている者もいた。
浅井権三,「京介……」
浅井権三は、憮然とした顔で現れた。
京介,「どうです、お養父さん?」
浅井権三,「ふ……」
薄笑いを放った。
浅井権三,「さすがに、見事だった」
そう言って、高笑いを上げた。
おれは権三を打ち負かして、まんざらでもない気分だった。
京介,「お養父さんも、うれしくて笑うんですね?」
浅井権三,「クク……」
権三は、たまらないといった様子で首を振った。
浅井権三,「なにを勘違いしている、京介?」
京介,「……は?」
なんだって?
京介,「どうしました?もう、得点が出ているじゃないですか。いまさらなにを……」
おれの言葉をさえぎった権三。
浅井権三,「それでも負けるが必定よ……!!!」
その目に激しい憤りを見つけて、おれは凍りついた。
役員,「『ご静粛にお願いします――』」
女性のアナウンスではなかった。
不穏な空気が流れる。
館内放送に突如登場した男は、大会の執行役員と名乗った。
役員,「『ただいまの採点に、技術役員のコンピュータートラブルによるミスが発覚いたしました』」
おれは、自分の顔が蒼白になっていくのを自覚した。
役員,「『再度採点した結果、浅井花音選手の技術点の修正を余儀なくされたことを、ここにお伝えいたします』」
……っ!
役員,「『正式な得点は、75.12、との審判団の結論が出ました』」
二点以上も減点された。
それは、つまり……!?
瀬田とは一点差だったのだ。
役員,「『従いまして、プログラム構成点も……』」
栄一,「ざけるなあああ――――っ!!!」
;SE騒然とした群集
栄一の声を皮きりに、会場は未曾有の大混乱におちいった。
そこらじゅうではき捨てるような暴言が飛び交った。
観客,「くたばれ!」
観客,「全員クビにしろ!」
リンクに物が投げ入れられ、それを取り押さえるべく警備員があわただしく動く。
役員,「『皆様にはご理解いただきますよう、何卒……』」
栄一が血走った目で騒いでいた。
栄一,「マジありえねえから、二点も減るとか!これ、ぜってー不正だから!」
不正……!?
京介,「得点の操作があったと……?」
栄一,「間違いねえよ、いまから配られるスコア見てくる!ぜってー、どっかのスピンかステップのレベルが下げられてる!」
栄一は走り去っていった。
権三が、冷酷に言った。
浅井権三,「というわけだ、京介」
京介,「……な、なぜです?」
おれはいまだに信じられなかった。
京介,「新採点方式は、不正が出にくいと……?」
浅井権三,「いくら制度が変わろうと、そこに人の手が加われば、いくらでも不正は起こる」
会場でも、不審な声が上がっている。
客1,「レベル3だ……!」
客2,「嘘だろ!?あのY字が!?」
四段階評価のスピンが、一段階、下げられているらしい。
他にも、口々におかしな点があげられていた。
京介,「ぎ、技術役員というのは、各要素をスロー映像で判別して、基礎点を決定する重要な役割を……」
浅井権三,「そうだな」
京介,「彼らは経験を積んだジャッジやコーチで、しかも二人の監視役もいるという話では……?」
浅井権三,「それが、どうした?」
あくまでも平然としてる権三に食い下がった。
京介,「馬鹿な……判別した映像を証拠として残す義務も彼らにはあるんですよ?」
浅井権三,「だから、機械が壊れただのとほざいたのだ」
絶望に、目の前が暗くなった。
京介,「し、しかし……マスコミのカメラも映像を捉えていて……そんな、そんなものは……」
浅井権三,「たとえすべての日本人が不正を訴えたとしても、審判団の決定は絶対だ」
もう、言葉もなかった。
浅井権三,「いまは新採点方式への移行がはじまったばかり。カスどもの言い訳はいくらでもある」
つまり、真相はうやむやになるということだ。
椿姫,「花音ちゃんっ!そんなっ、ひどいよお……!」
椿姫は、泣きながら、壁際にうずくまった。
ハル,「…………」
宇佐美も鋭い目つきで、何かにじっと耐えているようだった。
ふと、観客の視線が、リンクに集まっていた。
瀬田,「お願いします!」
瀬田真紀子だった。
瀬田,「もう一度、正確な採点をお願いします!」
花音のライバルは、自らの立場も考えず、役員席に向かって頭を下げていた。
選手の目から見ても、あまりにもおかしい審判が下っていたのだ。
京介,「か、花音……」
愕然と、つぶやいた。
栄一,「京介ええっ、オレは帰るぞぉっ!!!」
京介,「……かえる……?」
憤怒に顔を歪ませる栄一。
栄一,「決まってんだろうが!いまから世界中のありとあらゆる掲示板に爆撃を行う!」
京介,「ば……よ、よせ……」
力ない声は、あっさりと振り切られた。
栄一,「かのんがっ、かわいそうだろうが――!」
涙すら見せた栄一を引き止めることはできなかった。
ヤツがやろうとしていることは、褒められたものではない。
しかし、気持ちはわかる。
わかりすぎて、いまにも役員室に乗り込んで、不正を働いた輩の胸倉をつかんでやりたかった。
おれは拳に怒りを握り締め、唇から溢れそうな怨嗟の声を必死になって押しとどめていた。
なぜなら……。
記者1,「浅井さん、いまのお気持ちを!」
呆然とそこに立ち尽くしていた花音に、激しいフラッシュが浴びせられていた。
記者1,「結果、二位、ということですが!?」
マイクを向ける彼らも敏感に、今回の不祥事を察知している。
記者1,「納得されていらっしゃいますか!?」
魂が抜けたようだった。
素晴らしい演技を披露した花音の、努力と母への想いは報われなかった。
花音は、無表情に、かすかに首を振った。
花音,「あの……」
花音,「ひと言だけ、いいでしょうか?」
報道陣は期待している。
花音,「わたし、馬鹿で、なに言うかわからないんですけど、ひと言だけ……」
お騒がせ娘の、爆弾発言を。
花音の瞳から涙が頬を伝って落ちた。
花音,「わたしが……未熟だから……負けたんです……」
記者,「え?」
明らかな不正があった。
日本中がそう思っている。
くやしくはないのか、と。
世界行きがかかっていた重要な試合を落として、くやしくはないのかと。
しかし、花音は無理に笑った。
花音,「みなさん、申しわけありませんでした」
花音,「わたしが、悪いんです……」
花音,「わたしが、弱いから、得点が伸びなかったんです……」
そうして、花音は頭を下げた。
花音,「ご声援、ありがとうございました」
何も悪くないのに、頭を下げた。
……ぐっ。
おれは唇を噛み締め、少女を見やった。
叫びだしたかった。
それでいいのか!?
お前は、また利用されたんだぞ!?
最高の演技を見せつけて、なお裏切られたんだぞ?
花音……ああ、花音……!
無力感が胸を突き上げ、涙がこぼれ落ちそうになった。
だが、おれも、屈辱を抑えねばならなかった。
あの花音が、ああやって人に頭を下げている。
絶望を押し殺し、必死に耐えているのだから。
花音,「瀬田さん、どうもありがとう、そしてごめんなさいっ……!」
しゃくり上げるような声が館内に響き渡る。
その姿に、誰もが胸を打たれていた。
暴徒と化しそうだった観客たちが、静まり返っていく。
花音,「みなさん、今日は、本当にありがとうございました……!」
泣きながら、少女は頭を下げ続けた。
まぶしすぎた。
見る者を圧倒するような矜持が、そこにあった。
試合に負けた花音は、それでも大切なものを手にしたのかもしれない。
それが涙となって、いっそう冷え切った体を輝かせていた。
;黒画面
…………。
……。
;黒画面
……。
…………。
年が明け、花音も学園にやってくるようになった。
京介,「はい、というわけで、今月もやってまいりました。神の放課後相談でございます」
栄一,「おー!」
花音,「おー!」
京介,「今日のゲストはいま人気絶頂のフィギュアスケート選手、浅井花音さんです」
栄一,「拍手っ!」
花音,「わー!」
京介,「さて、花音さんのお悩みはどんなかなー!?」
栄一,「どんなかなー!?」
花音,「ええと、兄がいるんですけどー、なんかとっても怪しいんです」
栄一,「どう怪しいの?」
花音,「いっつも、パソコンしながら電話して、たまーにふらっと夜いなくなるんです」
栄一,「女でもできたんじゃないのー?」
花音,「それはないと思うなー」
栄一,「なんでー?」
花音,「だって兄さんは、のんちゃんのこと好きだもん」
京介,「ぶーっ!!!」
栄一,「ほー」
花音,「なんか怪しげな密談みたいのしてるの。お金の話してるみたい。すっごい怖い声で」
栄一,「一度聞いてみればいいんじゃない?」
花音,「聞いた。そしたら、ゲームしてるとか言う。夜はダンスしにいってるとか言う」
栄一,「ダンス?」
花音,「ヒップホップとか言ってた」
栄一,「どう思われますか、神?」
京介,「いや、ホントじゃね?」
栄一,「神はどれくらいヒップホップに詳しいんですか?」
京介,「え、いや、あれだろ、"で"がDEになる感じだろ?」
栄一,「花音ちゃん、だいぶ騙されてるよ」
花音,「だよねー」
栄一,「でもあれだよね、なんか最近やたらツッコンでくるよね?」
花音,「えへへへ、そう思う?」
栄一,「ボクのペットについても聞いてくるし」
京介,「へー」
花音,「のんちゃんは、幅広い視野を持つことにしたのです」
栄一,「毒のあるヘビとそうでないヘビの違いわかった?」
花音,「コブラとそれ以外」
栄一,「そうそう」
京介,「そんなんでいいんか」
栄一,「面白い映画とそうでない映画の違いわかった?」
花音,「全米ナンバー1ヒットかどうか」
栄一,「そうそう」
京介,「むしろ視野せまくなってね?」
栄一,「まあ、これからもボクがいろいろ教えてあげるよ」
花音,「はい、コーチ!」
京介,「あ、コーチとかまだ続いてたんだ」
;黒画面
…………。
……。
;背景学園廊下夕方
花音,「ふー、おもしろかったー」
栄一,「まったく、いきなり参加したいとかいうからびっくりしたよ」
花音,「なにしてるのかなーって思ってね」
京介,「ま、とくになにもしてないわけだが」
栄一,「じゃあ、帰るね」
京介,「おう」
栄一は去っていった。
花音,「さあて、兄さん、なにしよっか?」
京介,「今日は練習ないんだったな」
花音,「んー、お話しよう」
京介,「ああ……お話?」
花音,「授業終わって、夜までぽけーっと教室に残ってみたかったの」
京介,「ああ、そういう青春的なヤツね」
にこりと笑ってうなずいた。
花音,「兄さんは時間平気?」
京介,「えっと……」
まあ、予定がないでもないが……。
京介,「いいよ、別に。たまの休みだろ?」
こいつにつき合うと決めたのだからな。
花音,「ごめんねっ、ありがとっ!」
感謝と気づかいが普通にできるようになった花音を、支えていくのだと。
;背景教室夕方
人気のない教室。
花音はいきなり窓を開け、一月の風を心地良さそうに受けていた。
花音,「あ、瀬田さんからメール来た」
京介,「へー」
花音,「明日ごはん行こうって。甘いもの好きだからなー、あの子は」
京介,「すっかり仲良しだな」
花音,「のんちゃんに譲るとか言ってたからね、世界」
京介,「そんなことが許されるはずもないのにな」
花音,「だから、金メダルとって来いって言っといた。そしたら次のオリンピックは三枠になるから」
京介,「瀬田の実力なら十分優勝狙えるだろ」
いま、日本の女子フィギュアスケートには二人の人気選手がいる。
一人は、グランドシリーズと全国大会を制した瀬田真紀子。
そして、もう一人が、目の前のふにゃけた顔をした少女だった。
京介,「いまは、オリンピックに向けて調整中か?」
花音,「うむ。出れればね」
京介,「出れるよ。枠が三つになったとして、お前が出なかったら誰が出るんだ?」
花音,「そかなー、いまいろいろ議論されてるみたいだけどねー」
京介,「必ず出させてやる」
花音,「……あ、うん」
京介,「と、パパが申しておりました」
言ってねえけど。
そう、心に決めていた。
あれ以来、おれは血眼になって不正の事実を追求した。
その結果、瀬田の背後についていたスポンサーの意向があったことを知った。
しかし、そんなことは選手のあずかり知るところではない。
そういう戦いは、外道のおれの分野だ。
京介,「あさってだっけ?アメリカ行くのは」
ふと、寂しくなって言った。
花音,「うん、さみしくなるねー」
京介,「本当ならついていきたいが」
花音,「だいじょうぶだよ、お母さんがいるから」
あれから郁子さんは一週間ほど寝込んだらしい。
原因は内面的なものだったようだ。
きっと、体内に溜まっていた、いろいろな垢を落とす作業に追われていたのだろう。
花音,「お母さんは、ただのお母さんとしてついてくるって」
京介,「そうか……」
花音,「でも、さみしいよー」
京介,「おわっ!」
抱きつかれ、甘い髪の匂いがした。
花音,「兄さん、何も言わないの?」
京介,「は?」
花音,「だって、いままでは離れろとか言ってたじゃない?」
京介,「……まあ、人もいないしな」
花音,「だね……」
じっと、見つめてくる。
花音,「のんちゃんは、幸せ者だ」
京介,「うん?」
花音,「兄さんを独り占めにしてる」
京介,「おいおい、お前はいろんなファンの方に愛されてるじゃねえか」
花音,「それを言っちゃあ、おしまいなわけだよ」
少し膨れた顔になった。
おれのその唇にそっと口づけた。
花音,「ん……っ……」
花音,「ば、バカっ……」
花音,「兄さんは、なんか上手だからムカツク」
京介,「まあ、ヤクザだからな。ベッドヤクザ」
我ながら、ちょっとうまいこといった、と思ったが伝わらなかった。
花音,「じゃあ、もっとぎゅってしてぇ」
;以下Hシーンev_kanon_h_05→ev_kanon_h_06の流れ
;===========================咳咳===============@call storage="gkh2.ks"=======和谐====和谐=================
;黒画面
…………。
……。
そして、別れの日はやってきた。
いっときの別れ。
強化練習が終われば、すぐに帰ってくる。
見送りに来た報道陣に、懇切丁寧な挨拶をして花音は手を上げた。
花音,「んじゃ、いってきまーす!」
晴れ晴れとした顔だった。
もう、花音の心に"悪魔"はいない。
己の弱さに打ち勝った少女は、これからも躍進を続けるだろう。
花音,「兄さん、じゃーねー」
京介,「ああ」
花音,「ちゃんと電話するねー」
京介,「おう」
ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
花音,「ありがとう、兄さん。これからも、いっぱい、ごめんなさいだよ」
そう言って、静かに頭を下げた。
おれは曖昧に首を振るだけだった。
花音の戦いはまだまだ続く。
この別れは、終わりではなく、始まり。
花音,「ばいばーいっ!」
元気よく手を振って、妹が去っていく。
これまで形だけの妹だった花音は、もはや、おれにとってなくてはならない存在になった。
おれも威勢よく手を振って送り出した。
がんばれ、花音――――!
;ゆっくりと黒フェード
;しばらく間隔をとって
意を決して、携帯のボタンを押した。
ハル,「……浅井さん……」
宇佐美がなにか言いかけたが、思いとどまったように黙り込んだ。
;黒画面
……。
…………。
二回目のコールで通話はつながった。
事件ですか、事故ですか……?
おれは事件の詳細をスムーズに伝えることが出来たと思う。
状況を知った警察の動きは迅速だった。
すぐさま何十台という数のパトカーがやってきて、学園を取り囲んだ。
警察の指揮の下では、おれたちの出る幕はない。
彼らは学園への通信設備を整え、グラウンドに前線基地を設置して、交渉に乗り出した。
人質を殺すとまで言っていた橋本だが、抵抗はほとんどなかった。
指揮官らしき刑事が二、三度、接触を試みただけで、あっさりと投降してきた。
かくして、ノリコ先生と白鳥は解放され、事件は終結した。
結果的におれの判断は正しかったようだ。
事情聴取のためパトカーに乗せられた白鳥は、いつになく青ざめていた。
震え、怯え、自分に降りかかった災難をいまだに信じられない様子だった。
なにか声をかけてやれればよかったと、そのときは思った。
;水羽の章アイキャッチ
;黒画面
……。
…………。
;背景喫茶店
ユキ,「けっきょく京介くんの判断は良かったわね、水羽」
水羽,「……うん」
ユキ,「それにしても父さんの交渉テクニックは物凄いわね。私も、もっと勉強しなきゃ」
水羽,「犯人、なすすべもなかったわね」
ユキ,「水羽はだいじょうぶだった?」
水羽,「うん……別に平気」
つーか。
京介,「……なあ、おれは帰っていいか?」
ユキ,「ダメよ」
京介,「なんでおれも、お前らの後日談に加わらなきゃならないんだ」
ユキ,「お昼ご飯おごってあげるから」
京介,「いやいや、もう事件は解決したんだから、話すこともないだろ?」
ニュースを見る限り、現在取り調べ中の橋本の要求は、やはり、父親の釈放だったらしい。
警察の迅速な対応のおかげで、白鳥も、危害は加えられなかった。
ただ、学園は、二日ほど休みとなった。
おれは、なぜか時田にたぶらかされ、三人で飯を食うことになっていた。
ユキ,「ほら、水羽、ちゃんと京介くんにお礼をいいなさい」
水羽,「……え、なんで?」
ユキ,「助けてもらったじゃないの」
水羽,「助けてくれたのは警察だもの」
まあ、おれは電話しただけだ。
京介,「別に、礼なんていいよ。気持ち悪い」
白鳥が、なぜかむっとしていた。
水羽,「……なに、気持ち悪いって」
ユキ,「まあまあ、彼はひねくれ者だから」
京介,「白鳥もな」
水羽,「浅井くんほどじゃないわ」
京介,「はいはい。そうですね」
水羽,「……っ」
……なに、ムキになってんだろな……子供っぽいヤツだな……。
京介,「なあ、お前ら、おれにマジでなんか用なのか?」
ユキ,「うん、だから、助けてもらったお礼がしたかったのよ」
ねえ、と白鳥にふるが、当の本人はまったくの無反応。
京介,「……わかった。お礼は承った。おれは帰るぞ」
水羽,「あ、ちょっと待ってよ」
京介,「…………」
水羽,「怖い目をしないで。CD買ってあげるわ」
京介,「CDだあ?」
水羽,「あの、ほら……ワーグナーの」
京介,「ほう、少しは反省しているようだな。そうだな。お前が叩き割ったんだからな」
水羽,「……もうなんでもいいわ」
白鳥が席を立つ。
ユキ,「じゃ、買い物に行きましょうか」
京介,「ああ……」
ユキ,「フフ……」
……なにがおかしいんだ?
;背景繁華街1昼
平日の昼間とはいえ、セントラル街は賑わっている。
京介,「あ、待て待て。よく行くCD屋のスタンプカードがある。買ってくれるのはいいが、これも使ってくれ」
ユキ,「せこいわね」
京介,「うん、おれはケチだ」
水羽,「……偉そうに言わないでよ」
……なんか、おかしいな。
白鳥はおれを、虫でも見るみたいな目つきで眺める。
でも、CDは買ってくれるという。
たかが、警察に電話しただけで……。
京介,「……なんか、裏があるんじゃねえだろうな?」
ユキ,「またそうやって疑う」
京介,「だって、お前ら怪しくねえか?」
水羽,「人の好意も信じられないのね」
京介,「いや、そういうのいいから。とっとと買うもの買ってくれよ」
水羽,「……なんだか、嫌になってきたわ」
京介,「あ、そ」
ユキ,「ちょ、ちょっと水羽……!」
急に慌てだす時田。
水羽,「なに、姉さん?」
ユキ,「あなたね……ダメじゃない……!」
……んー?
水羽,「……だから、なにが?」
ユキ,「いいから、ちょっとこっち来なさい」
白鳥の腕を引いた。
京介,「あ、おい……!」
おれを置いて、ストリートの角へ。
京介,「おーい!」
シカトされる。
聞き耳を立ててみる。
水羽,「……だってぇ……」
白鳥が、ガキみたいな声を出していた。
ユキ,「……だから、言ったでしょ……いちいち腹を立てたらダメなのよ……」
水羽,「うん……」
ユキ,「ほら、笑顔、笑顔……」
水羽,「あ、う、うん……こうかな?」
ユキ,「そう……いいじゃない、いいじゃない」
水羽,「そ、そう?」
ユキ,「もう、ズキューンってくるわよ、ズキューンって」
……何の話をしてんだ?
ややあって、二人がこちらに戻ってきた。
水羽,「お、お待たせ……」
引きつった笑顔。
京介,「な、なんの真似だ、時田?」
ユキ,「え、なにが?」
時田は、にぃたーっと口元を吊り上げていた。
京介,「お、お前ら、やっぱり、なにかたくらんでるだろ!?」
ユキ,「ぜんぜん。ねえ、水羽」
白鳥は、ロボットみたいにカクカクした動きでうなずいた。
水羽,「……と、隣、歩いてもいい?」
京介,「べ、別にいいけど……」
ユキ,「よし、よく言った!」
京介,「え、なに!?」
もう、なんかこええよ。
京介,「やっぱり何か企んでるだろ」
ユキ,「企んで無いわよ。人を信用しなくなったら終わりよ?」
水羽,「そうよ。信用を失ったら大変なんだから」
京介,「そう言われてもな……」
疑ってくれと言わんばかりじゃないか。
京介,「本当に他意はないんだな?」
ユキ,「ないってば」
時田を見る限りだと、灰色だとしか言えないな。
やはりわかりやすい白鳥を問いただしてみるか。
京介,「なあ」
水羽,「何度確認するのよ」
京介,「最後だ。ちゃんとおれの目を見てくれ」
水羽,「えっ、目、目を見るのっ?」
確認する前から、明らかな動揺を見せた。
ユキ,「告白?ひょっとして告白?」
京介,「どうしてそうなるんだよ」
水羽,「告白なの!?告白って、告白!?」
京介,「いや……違うから」
水羽,「気を持たせるだけ持たせてそのオチ!?」
京介,「オチとか、そんなの無いから」
どう考えても怪しい。
不利益になることじゃなければ、別に構わんが。
どうもおれに関係しているようでならない。
ユキ,「ぐだぐだしてるわねぇ」
京介,「それはこっちのセリフだ。こっちの」
ユキ,「あら、それより水羽。あの服可愛くない?可愛くない?」
水羽,「ほんとだ。可愛い」
京介,「おまえでもあんな服に興味があるんだな」
見るからに白鳥が着そうに無いタイプの服だ。
ちょっと大人っぽい気がする。
ユキ,「これでも、この子着やせするから。色っぽさを出せばぐいぐいくると思うのよね」
京介,「なにがぐいぐいなんだか」
ユキ,「それは勿論、興味ある男の子の気を引いたり」
水羽,「姉さん!」
ユキ,「ムキになっちゃって。かーわいぃ」
水羽,「姉さんっ」
ユキ,「もう、そんなんじゃ駄目だって」
また水羽の腕を引き、おれから引き離す。
ユキ,「そんなんじゃ……から……」
水羽,「うん、うん……」
ユキ,「ずこーんと……で、ぐしゃーと……」
水羽,「……そうだね」
京介,「ほんと、CD買って貰えなかったら帰ってるからな」
水羽,「心配しないでっ」
にっかぁ……と無理に引き伸ばしたような笑顔が返ってきた。
京介,「おれを怒らせるための話し合いでもしてるのか?」
ユキ,「この場を和ませるための笑顔に決まってるじゃない」
全然和んでない。
京介,「いい加減にしてくれ」
水羽,「別に、何もしてない」
京介,「してるようにしか見えないんだよ」
水羽,「どうすればいいの?」
京介,「黙って買いに行く。黙って別れる」
ユキ,「盛り上がりに欠けるわね」
京介,「盛り上げたいのか」
ユキ,「買い物は楽しい方がいいでしょ?違う?」
京介,「わかったわかった。喋ってもいいから足は動かせ」
さっきから立ち止まっている。
ユキ,「円満に解決したところで、行きましょうか」
もともと、ややこしくしたのは時田だけどな。
水羽,「行こう」
京介,「ああ……」
こいつはこいつで、妙な視線を送ってくるし。
……そんなこんなでCDを手に入れるまで、ずっと落ち着かない時間が過ぎた。
;背景セントラル街夕方
日が暮れたが、おれはまだ二人に振り回されていた。
ユキ,「京介くんは、なにか水羽に質問とかないの?」
京介,「別に、ないけど……?」
さっきから、こんなんばかりだ。
ユキ,「興味持ってたじゃない。ついこの間までは」
そりゃ、復讐のための情報収集の一環だ。
隣を歩く白鳥が、じと目でおれを見ていた。
京介,「あ、じゃあ……お前、星とか好きなんだよな?」
水羽,「……だから?」
京介,「いや、先日はお流れになって残念だったな」
水羽,「別に…………イダッ……!」
京介,「え、なに!?」
瞬間、後ろを歩く時田の腕が、白鳥の尻に伸びたような気がした。
ユキ,「なんでもないわ、ね、水羽?」
水羽,「……そ、そうね……残念だったわ。だから……」
京介,「だから……?」
水羽,「……だ、か、ら……その……も、もう一度……」
京介,「もう一度……?」
そこで、押し黙った。
ユキ,「やらないか、天体観測ってことよ」
京介,「あ、もう一回、星見ようってことな」
水羽,「……どうなの?」
京介,「いや、めんどくさい」
水羽,「……ね、姉さん……!」
切羽詰った顔で姉を仰ぎ見る。
ユキ,「ちょっと、京介くん。ひどくない?」
京介,「ひどくない。おれにはおれの都合がある。お前らと遊んでる暇はない」
ユキ,「あーあ」
冷めた目。
おれは首を傾げる。
京介,「……狙いが読めねえな。お前ら、おれに何を期待してるんだ?」
なにかをせびろうとしているのは間違いなさそうだ。
京介,「おれは真性のドケチだ。叩いてもなんにも出さないぞ」
ユキ,「それは、お金の話でしょ?」
京介,「金、モノ、時間、全部だ」
ユキ,「愛は?」
京介,「アイ?」
ユキ,「LOVEよ」
京介,「……ひくわ。そんなもんは……」
愛なんて持ち合わせている覚えがない。
ユキ,「じゃあ悲鳴は?思い切り叩いたら出るかしら」
京介,「遠慮なく出るな」
ユキ,「では早速」
京介,「早速じゃない。黙って叩かれるつもりはない」
まったく。
京介,「……さて、もう帰るぞ」
水羽,「ちょっと、待ちなさいよ」
京介,「なんだ?いい加減にしろよ。用があるなら明日にしてくれ」
水羽,「ケータイ……!」
京介,「あ?」
水羽,「ケータイ電話……!」
たんかを切ってきたのだが、
水羽,「……の番号を教えて……」
ごにょごにょと語尾が消えていった。
京介,「なんで?」
水羽,「…………」
なぜ黙るか?
水羽,「……お、おとといみたいなことになったとき、困る」
……立て篭もり事件のことか。
京介,「悪戯電話して来ないか?夜中に金払えとか」
水羽,「しない!」
京介,「まあ、わかった……」
こいつは、宇佐美みたいに用もなくかけてこないだろう。
水羽,「……ふう……」
疲れきった顔で、携帯を差し出してきた。
京介,「顔に似合わず、かわいらしい携帯だな」
クマやらリスやらのストラップがガチャガチャついていた。
番号を交換し終わって、おれは手を振った。
京介,「じゃあな……」
ユキ,「ええ、また明日、学園で……」
妙ににやついた顔の時田。
水羽,「……それじゃ」
白鳥はまたぶすっとしていた。
わからんが、きっとおれをハメるつもりだろう。
要注意だな。
;背景主人公自室夜
自宅に帰り、おれはまた権三の下働きに時間を過ごしていた。
浅井興業の社員さんとの電話を終えて、ふと携帯を見直すと何件か着信があった。
……そういえばキャッチが入っていたな。
白鳥から。
すぐかけて来ないと思ったから、教えたんだが……。
仕方がなく、かけ直す。
;SEコール音すぐガチャっとつながる音
一回目のコールでいきなりつながった。
京介,「ああ、もしもし?」
返事がない。
いや、息づかいが聞こえてくる。
京介,「おい、なんか用か?」
水羽,「…………」
京介,「おい!」
水羽,「あ、えっと……いまだいじょうぶ?」
京介,「だいじょうぶだから、かけなおしている」
水羽,「それもそうね」
咳払いがあった。
水羽,「明日ちょっと話があるのだけれど都合はいかがかしら?」
なんか、いきなり棒読みチックになったぞ。
水羽,「放課後はどうかしら?いやならそれでもいいけれど、きっと後悔することになるわよ。なぜならあなたの人生の転機が訪れるのだから……ってナニコレ」
……こっちが聞きたいわ。
電話の奥で、誰かの笑い声が聞こえた。
京介,「……えっと、放課後、だな?」
水羽,「うん、まあ、そう……」
京介,「ちょっとならいいが……」
……いやいや、これは罠だ。
京介,「いま話せよ。なんのための電話だ?」
水羽,「…………」
京介,「おい、黙るなよ」
水羽,「ちょっと待ってよ!」
京介,「お、おう……」
がさごそと音がする。
ややあって、きっぱりとした声があった。
水羽,「顔を合わせて話したいの」
京介,「……ふうん」
……金を貸してくれってことかな?
水羽,「で、どうなの?」
京介,「十分、十五分ならいいが……金の相談ならお断りだぞ」
水羽,「お金じゃないわ。どうしてあなたはいつもそうなの?」
ようやくいつもの白鳥らしい突っ張った態度になった。
おれの方も少し楽になる。
京介,「いつも?」
笑った。
京介,「お前がおれの何を知ってるんだっての。いつもって、なんだよ。おれのことはなんでもお見通しか?」
水羽,「そうよ。いつも見てたもの……っ!」
京介,「んっ!?」
;SE通話が切れる音
いきなり通話が切れた。
……電波の具合が悪くなったのか?
かけなおしてこない。
なんだか気持ち悪いが、こちらからかけるのは、負けのような気がする。
しかし、最後のひとことは、いったい……?
……まあいい。
明日か。
;黒画面
おれはベッドに寝転がって目を閉じた。
立て篭もりのような大きな事件はあったものの、また平凡な日常が訪れ始めていた。
頭のなかに、なぜか、白鳥の顔が浮かぶ。
あいつも、時田が来てから少し様子がおかしくなったな。
姉妹らしい……母親が違うんだったか……。
仲の良さそうなことだ。
ほんの少し、家族のことを思い出した。
けれど、なつかしい記憶は、流星のように消えていった。
;背景学園門昼
翌日の朝。
外気はかなり冷たいのだが、学園の門のまわりには人だかりの熱気が渦巻いていた。
立て篭もりなんて珍しい事件に食いついたマスコミが、通学途中の学生を狙って押し寄せている。
……ああ、やだやだ……目立たないように、と……。
栄一,「まあ、ぶっちゃけ、かかってこいよみたいなところありましたね」
……む?
カメラに囲まれ、マイクをむしろ自分からつかむ勢いの小男がいた。
栄一,「正直、警察とか来なくてもなんとかしてましたね、ボクが」
……やりたい放題だな、アイツ……。
;背景教室昼
京介,「……よう、白鳥」
早めに来たのだが、すでに白鳥は教室にいた。
窓際の植物に水をやっていたようだ。
京介,「お前は、捕まらなかったか、カメラに」
水羽,「……マスコミより早く来たから」
京介,「せいぜい気をつけるんだな。お前は人質だったわけだし、親父さんの件で世間の風当たりもきついだろ」
水羽,「……それは、なに?」
京介,「なにって?」
水羽,「気を使ってくれてるの?」
京介,「いや、一般論」
……ふと、昨日の電話の一件を思い出す。
京介,「今日の放課後だったな?」
水羽,「……あ、うん……」
不意に、落ち着きがなくなる。
京介,「電話もいきなり切りやがって。わけのわからん女だな……」
水羽,「……とにかく、放課後」
京介,「放課後?放課後に何かあるのか?」
水羽,「…………」
京介,「校舎裏に呼び出して、殴る蹴るの暴行でも加えるつもりだな?」
水羽,「なにそれ」
むすっと怒ったような顔を見せる。
京介,「冗談だ。ちゃんと覚えてるし、覚えておく」
水羽,「そういう冗談嫌い」
京介,「今じゃ駄目なのか?」
水羽,「あ、当たり前でしょう」
京介,「理由が当たり前だと知ってるのは、間違いなくお前だけだ」
水羽,「いいから、放課後……」
この話題となると、本当に落ち着きが無いな。
いったい、どんな話なんだか。
京介,「とにかく午後9時くらいに待ち合わせってことで」
水羽,「遅すぎっ!」
京介,「え、放課後っぽくないか?」
水羽,「放課後どころか、もう、あれよ」
水羽,「ほら……」
京介,「放課後じゃなくて?」
水羽,「ち、ちっちきちーよ。ちっちきちー」
京介,「えっ?今なんつった?ちっちきちーだと?」
白鳥は顔を赤くし、声を荒げた。
水羽,「とっ、とにかく遅すぎるってこと!」
水羽,「常識的に考えて、9時なわけないでしょう」
水羽,「変にからかうの、やめてよ」
京介,「じゃあ午後2時くらいにしよう」
水羽,「今度は早すぎる」
京介,「ちょっとフライング気味の方が、きわどくていいよな」
水羽,「完全にアウトだから。まだ授業中だし」
京介,「不良にとって午後は放課後と同義らしいぞ?」
水羽,「私、優等生だから」
自分で言うな、自分で。
水羽,「普通に授業が終わってからでいいでしょ」
京介,「突然体調が悪くなって、早退することになったらどうする?」
水羽,「どうしてそんなこと心配するのよ」
むすっとした顔。
水羽,「ひょっとして嫌なの?」
京介,「別にそういうわけじゃない」
水羽,「嫌なら嫌って言えば、いいじゃない」
なら、どうしてそんな悲しそうな嫌そうな顔をする。
こいつって、こんなにころころ顔色を変えるヤツだったか?
京介,「ちゃんと覚えておくから、心配するな」
水羽,「そ……なら、ちゃんと、来て」
逃げるようにして、おれの脇を抜けていった。
しかし、どこへ行くでもなく、教室の隅をうろうろしていた。
ぞろぞろとクラスメイトが登校してくるが、誰も白鳥には声をかけない。
……白鳥の親父のせいで、橋本が事件を起こしたと思ってるヤツも多いだろうな。
まあ、白鳥が孤独なのはいつものことか。
栄一,「よっ、京介。おはようさん」
京介,「インタビューは終わったか?」
栄一,「もちろんだぜ、これでオレも一躍有名人ってヤツよ」
調子に乗ってるな本当に。
栄一,「そんなことより聞いてくれよ」
京介,「ああいいぞ……」
おれは右手を差し出した。
栄一,「なに、この手」
京介,「百円」
栄一,「ラッキー。くれんの?」
京介,「どうしておれが百円をお前にあげなきゃならない?」
栄一,「えっ。じゃあ百円て?」
京介,「話聞いてやるから、百円くれ」
栄一,「なんでっ!?」
京介,「お前、このご時世話を聞いてもらうだけでも金がかかるんだぞ?」
栄一,「初めて聞いたよ!」
京介,「帰りに弁護士と一時間話してみろよ。金取られるから」
栄一,「そりゃ仕事だからな!」
京介,「いま、おれとお前の立場も似たようなもんだろ?」
栄一,「どうしてそんな経緯になったのか、一から聞かせてくれ!」
京介,「講習料として千円頂くけどいいか」
栄一,「俺はこんな友達もてて幸せだよっ!」
京介,「そんなに喜ぶなよ」
栄一,「もういい。話す気も失せた」
京介,「冗談だ。聞いてやるから話せよ」
栄一,「嫌々聞いてもらう話じゃないんだよ。正直言ってすげぇネタなんだからさ」
京介,「じゃあいいや」
栄一,「食いつけよ!」
京介,「おれ用心深いから」
栄一,「昨日帰宅してから気づいたんだけどさ」
結局話し始めるのか……。
栄一,「おい、ちゃんと聞いてるか?」
京介,「聞いてる」
栄一,「『おれは栄一の言葉を聞きながら、授業開始を待った』とか内心で言ってすっ飛ばしたりしないよな?」
京介,「当たり前だろ。安心して話せ」
栄一,「よし。んで、昨日な」
おれは栄一の言葉を聞くフリをしながら、授業開始を待った。
;場転
授業が開始して二十分くらいたったそのとき……。
ユキ,「遅刻しました……」
気分悪そうに入室してきた。
とりあえず教師に怒鳴られる時田だったが……。
ユキ,「すみません。この季節、布団がですね、いつまでも私をストーキングしまして、説得にはかなりの時間が……」
口だけは達者な時田だった。
ユキ,「…………」
おれの席の前で、一度立ち止まり、ニタリと笑った。
……くそ、嫌な予感がするぜ。
;場転
昼休みとなった。
京介,「おい、栄一。メシ食おうぜ」
栄一,「あー、いや……ちょっとユキ様に呼ばれててな」
京介,「時田に?まあ、わかった……」
椿姫でも誘うか……いや、なんか忙しそうにしてるな……。
花音もいないし、宇佐美は……寝てる。
ここは、まさかの……白鳥?
……と、思ったら、白鳥と目が合った。
水羽,「…………」
京介,「…………」
なんだか、ガンの応酬みたいになった。
やがて、向こうが折れて、すごすごと立ち去った。
放課後がやたら気になってきた。
;背景教室夕方
というわけでようやく全ての授業が終わった。
京介,「白鳥……」
後ろから声をかける。
水羽,「……あ」
白鳥は周りを気にするように、きょろきょろと首を振った。
水羽,「こっち」
教室を出て行った。
おれはあとに続く。
;背景廊下夕方
京介,「そんなに人目をはばかるようなことなのか?」
前を歩く白鳥に言った。
水羽,「……私といっしょにいると、迷惑かかる」
ややうつむいた表情に、暗い影が落ちていた。
クラスメイトでは、橋本に同情的な声が多い。
白鳥は内心、学園に居場所がないと思っているのかもしれない。
黙って、あとを追った。
;背景屋上夕方
屋上には、誰もいなかった。
白鳥がこちらを振り返った。
京介,「さて、話せ。五分だ」
水羽,「……っ……」
とたんに怖気づいたのかなんなのか……。
水羽,「えと……」
京介,「…………」
ちらちらと、背後の手すりを気にしていた。
手すりの向こう側には空しかない。
白鳥は屋上の端までわざわざ寄っていった。
水羽,「……つり橋……つり橋……効果……」
ぶつぶつとなにかの呪文を唱えていた。
……怪しい。
水羽,「あの……そろそろ、バレンタインじゃない?」
京介,「ん……あ、ああ……しかし、唐突だな」
水羽,「バレンタインといえば、なにか思い出さない?」
京介,「思い出さねえよ!」
いかん、ツッコミっぽくなってしまった。
水羽,「ほ、ほら、二年前……」
京介,「二年前のバレンタイン?」
水羽,「うん……」
京介,「ぜんぜん記憶にない」
つーか、学園での出来事なんてまったく覚えてない。
白鳥がため息をついた。
水羽,「……忘れっぽいっていうのは、なにかあるの?」
京介,「知らねえよ。もとからだ」
ふと、秋元氏のことを思い出す。
水羽,「チョコレート、誰かからもらったと思うのだけれど?」
京介,「二年前に……?」
うーん……わからん。
おれは学園では明るいし、クラスメイトともそれなりにつき合いをよくしているからな……。
京介,「覚えてないけど、もらったかもな」
水羽,「もらったのよ」
京介,「それがなんだよ。そんな話がしたかったのか?」
水羽,「そうよ……」
また、むくれた顔になった。
水羽,「あなたは、捨てたもの……ゴミ箱に」
いらだたしげに言ったその直後だった。
白鳥の風になびく制服姿が、背後の手すりの向こうに……!
京介,「…………っ?」
落ちるように見えただけだった。
水羽,「う、うわ……落ちるー!」
ちょっとだけ背が反り返った。
ちょっくら背筋伸ばすか、ってな感じだった。
水羽,「……た、助けて……」
京介,「いやいやいや、落ちないでしょ」
水羽,「で、でも、もう、ほんとにっ……!」
ぜんぜん必死さの伝わってこない叫びが上がる。
水羽,「わー」
京介,「わー、て」
水羽,「い、いや、でも、風が、風にさらわれてっ……」
京介,「風もそこまで強くないし」
水羽,「た、台風!台風が、もう、そこまで……!」
京介,「…………」
おれは、馬鹿にされているのか。
ただ、白鳥の腕をつかまない限り、先の展開に続かないようなのでとりあえずそうしてみた。
水羽,「た、助かったわ……」
京介,「…………」
水羽,「あ、ありがと……危うく落ちて死ぬところだったわ」
京介,「…………」
水羽,「それで、話の続きなんだけど……」
京介,「…………」
水羽,「えと……」
おれの顔が怒りに染まっていることに気づいたらしい。
水羽,「どうしたっていうのよ?」
京介,「お前がどうしたんだ!?」
栄一だったらマジで突き落としてたかもしれん。
ユキ,「ちっ!」
ふと、背後で聞こえよがしに舌打ちする女の影が、屋上の入り口に引っ込むのを見た。
水羽,「とにかく、あなたはもらったチョコレートを捨てたのよ、いきなり!」
京介,「ん?ああ……捨てたか。それで?」
水羽,「……だから、ひどいっていう話」
京介,「ふーん……まあ、ひどいな」
なにもゴミ箱に捨てることはないよな……って、おれのことか。
京介,「ちなみに、おれは誰からもらったんだ?」
瞬間、白鳥がうつむいて肩を震わせた。
水羽,「……っ……」
あ!
え!?
京介,「ちょ、ちょっと待て!」
冷静ではいられなかった。
まさかの、まさか……!?
水羽,「わ、たし……」
京介,「げえっ!」
水羽,「……じゃなくて……」
京介,「違うのかよ!」
水羽,「あ、や、やっぱり……」
くぅっ、とか漏らして歯を食いしばった。
水羽,「わたし――」
水羽,「じゃないわ、馬鹿!!!」
ダッ、と走り去っていった。
ユキ,「ああ、なにしてるの……!」
時田の声とドタバタした足音。
やがて、おれ一人になった。
そこに、ひょっこり栄一が現れた。
栄一,「よう京介、白鳥はいい子だぜ」
京介,「は?」
栄一,「白鳥はいい子だぜ」
人形みたいな顔で連呼した。
京介,「お前はどこの村人ですか?」
栄一,「ほんと、ほんと、間違いない」
京介,「なぜお前が白鳥を擁護する?」
栄一,「だってユキ様に……じゃなくて……なんとなく……」
京介,「屋上に来た第一声がそれだからな。てめえ、時田になにを吹き込まれやがった?」
栄一,「さすが京介には嘘は通じねえか……そうだよ、オレはユキ様に脅されて仕方なくだな……」
京介,「仕方なく、なんだ?」
栄一,「お前の前で白鳥を褒めろと」
……褒める?
栄一,「すまねえ、京介。つい出来心ってヤツよ。オレは白鳥なんてどうでもいい」
京介,「そのコウモリっぷりをなんとかしないと、早死にするぞ」
……だが、なんとなくわかってしまった。
どうやら、おれは白鳥からチョコをもらい、ゴミ箱にポイしたらしい。
だから、ヤツは、あんなにおれのことを毛嫌いしていたのか……。
しかし、チョコをもらうということは……そして、あの様子では義理チョコではあるまい……。
おいおい、要するに超展開ってヤツじゃねえかよ……。
栄一,「京介、どうするんだ?まだ白鳥への復讐は終わってないんだろ?」
京介,「うむ……」
栄一,「白鳥を手篭めにするっつー話はどうなった?」
京介,「手篭めねえ……」
いや、待て……。
チョコをもらったのは二年前。
つまり、白鳥の気持ちも二年前のものだ。
現在進行形で続いているとは限らない。
うん、きっとそうだ……ヤツは、今日この場でおれに文句を言いにきた。
それだけだろう。
そもそも、白鳥がおれに惚れる理由がわからない。
京介,「ひとまず、白鳥をマークする。念入りにな」
栄一,「よし、任せとけ」
京介,「もう裏切るなよ」
栄一,「ぜったい。神に誓う」
……こりゃ、裏切るな。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
一方、白鳥水羽は……。
水羽,「わーん、姉さん、ダメだったよぉ……!」
ユキ,「よしよし、かわいそうにかわいそうに」
水羽,「あれじゃあ、また誤解されちゃうよお……!」
ユキ,「だいじょうぶよ、水羽。彼も馬鹿じゃないから、あなたの気持ちには感づいたはずよ」
水羽,「本当?」
ユキ,「あなたが二年前にチョコレートを渡したってことは間違いなく伝わったわ」
水羽,「で、でも、それだけじゃ、いまの私の気持ちは……」
ユキ,「落ち着いて。あなたは、いま、目標に確実に近づいているわ」
水羽,「そう?」
ユキ,「だって、そうでしょう。いままで声もかけられなかったのに」
水羽,「うん……」
ユキ,「ほら、そんな暗い顔しないの」
水羽,「でも……つり橋効果、効いたのかなぁ……」
ユキ,「くぅっ!」
姉の顔がひょっとこみたいに歪んだ。
ユキ,「き、効いてる効いてる!間違いない!」
水羽,「そう?そうだよね、姉さんが教えてくれたんだものね」
ユキ,「ほら、次よ次!」
水羽,「次!?」
ユキ,「彼を追いかけるのよ!」
水羽,「えぇっ!?だって、さっき!」
ユキ,「単純接触の原理については教えたでしょう?」
水羽,「うん、とにかく顔を合わせろって」
ユキ,「そう、好意の度合いは同一人物として認識された回数に比例するのよ」
水羽,「でも、昨日から、けっこう顔を合わせてるよ。お昼休みのときだって……」
ユキ,「ぶすっとしてるだけじゃダメなのよ。いろいろな表情を見せるの。すると相手は短時間でも、他人の内面を見たような錯覚を抱いて親近感を覚えるの」
水羽,「……いろいろな表情……笑ったり、泣いたり、歯を食いしばって屈辱に耐えてみたり?」
ユキ,「……ん、まあ、そう」
水羽,「わかったよ。他には!?」
ユキ,「他?」
姉は、そうねと眉を潜める。
ユキ,「見ている限り、水羽は彼のことをもっと褒める必要があるわ」
水羽,「褒める……どうして?彼はあまり褒められた人じゃ……」
ユキ,「でも、好きなんでしょう?」
水羽,「……うん」
ユキ,「だったら、褒めなさい」
水羽,「でも、褒めたら調子づくわ」
ユキ,「たとえば教育においては褒めるのが最も有効だといろいろな実験で示されているの。恋愛もそう」
水羽,「そんなことはないわ。最も有効なのは暴力よ。暴力より効率のいい指導なんてないわ!」
ユキ,「……ちょ、ちょっとあなたどこでそんな言葉ならったの」
水羽,「違うの?」
ユキ,「相手の成績が悪かったから叱る。すると、もともと悪かったのだから次は成績が上がる場合が多い。だから、叱ると効果があったと錯覚してしまう」
水羽,「あ、そっか……成績が良かったら褒める。すると、次は下がる場合も多いのだから、調子に乗ったと思ってしまう」
ユキ,「ま、そんな話はいいとして、とにかく彼を褒めるのよ」
水羽,「でも、どこをどう褒めていいのか……彼は、裏がある人だし」
ユキ,「その突っ張った態度がいけないのよ。相手を褒めるとね、自分も気持ちいいものよ」
水羽,「うん……わかった……」
ユキ,「よし、じゃあ、行け!」
;黒画面
;通常形式
……。
…………。
;背景学園門夕方
……やれやれ、くだらない問題を抱えてしまったな。
水羽,「あ、浅井くん……」
背後から、声。
振りかえって、ぎょっとした。
水羽,「あ、アハハ……」
なんか笑ってる!
水羽,「さ、さっきは、ごめんっ……」
めっちゃ悲しそう!
水羽,「そのコート、かっこいいねっ」
顔とセリフがまったく合ってねえよ。
京介,「……な、なんだよ、コートがどうかしたか?」
水羽,「すごい、素敵、だと思う」
京介,「どこがだよ、そんなに高いもんでもないぞ」
水羽,「その……色とか……」
京介,「いやいや、ごく普通の色だから」
水羽,「あと、その髪型。前髪が、長いね」
京介,「悪かったな」
水羽,「あ、違う。褒めてるの。目が見えないくらいうっとうしいじゃない?」
京介,「褒めてねえだろ!」
水羽,「あ、あと……えっと……」
京介,「…………」
水羽,「えっと……」
京介,「…………」
水羽,「なによ、いいところなんてまったくないじゃない!」
ダッ、と走り去った。
京介,「おい!」
あさっての方向に逃げていく。
……なんだなんだなんだ!?
;ノベル形式
水羽,「わーん、姉さん、またダメだったよぉ……!」
ユキ,「よしよし、かわいそうにかわいそうに」
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜
京介,「ふうっ……」
いったい、白鳥はどうしちまったんだ?
今日昨日と、まるで行動がおかしい。
京介,「……しかし、チョコか」
まさか、ヤツがおれに気があったとはな。
もしかすると、まだ……。
……いや、白鳥の気持ちなんてどうでもいい。
おれがあいつとつき合うわけもない。
でも、気になるのは、ヤツがおれに惚れていた理由だ。
二年前、白鳥とからんでいた覚えはまったくない。
けれど、ヤツが白鳥建設の令嬢だということは知っていたから、おれも、コナをかけていたのかも……。
それで、あいつが勘違いした……。
さらに、おれは、チョコレートをゴミ箱に捨てた……。
……うーん、悪党だなおれは。
しかし、悪かったと思わないでもないが、それであいつを好きになるわけもない。
馬鹿馬鹿しい。
寝よう。
;SE着信
……と、思ったのに!
京介,「なんだ、またか!」
ユキ,「あら、お休み前だった?ごめんなさいね」
京介,「……時田かよ」
ユキ,「フフ……水羽かと思った?」
京介,「ああ、なんなんだあいつは?お前がなにかけしかけてるんだろ?」
ユキ,「まさか」
怪しげに笑っていた。
ユキ,「それで、どう思った?」
京介,「白鳥をか?薄気味悪いったらありゃしない」
ユキ,「チョコレートを捨てた話は聞いたわよね?」
京介,「ああ、らしいな……覚えてないが」
ユキ,「水羽は、あなたの机に入れておいたらしいの。けれど、あなたはそれを見たとたん、教室のゴミ箱に捨てた。ひどいと思わない?」
京介,「……だったら、なんだ?」
ユキ,「少しは水羽に目を向けてくれてもいいじゃないの」
京介,「気がないんだから、仕方がない」
そうだ……この際はっきりと言っておこう。
京介,「白鳥に言っとけ。もし、過去のことでうらんでるなら、それについては謝ろう。だが、おれは、お前には興味がないってな」
ユキ,「ふうん……わかったわ……」
含みがあるような声だった。
京介,「だいたい、なんであいつはおれに気があるんだ?」
ユキ,「あら?いまも気があるだなんて誰から聞いたの?」
京介,「む……」
ユキ,「フフ……興味はあるみたいね」
京介,「必要以上の興味はないという意味だ」
時田は笑う。
ユキ,「ねえ、水羽のことどう思ってるの?」
京介,「だから、なんとも思ってねえよ」
ユキ,「ふうん……なら、他のクラスメイトはどう思ってるのかしらね?」
京介,「クラスメイト……さあな……」
ふと、栄一が調べた学園での白鳥の評判を思い返してみる。
京介,「成績優秀でスポーツもできるっていう……まあ、才女だろうな……愛想がないのは、問題らしいが……」
ユキ,「ちょっと友達は少ないみたいね」
京介,「だろうな。理事長の件で、さらに冷たい目で見られてるぞ」
ユキ,「でも、あの子、実はいま彼氏いるのよ」
京介,「なにっ!?」
意外すぎて、思わず、腰が浮いた。
が……!
ユキ,「フフ……それが、本音、ね……」
京介,「……ん!?」
ユキ,「もちろん嘘よ。彼氏どころか、私以外の誰ともまともな口をきけないわ」
京介,「なに嘘ついてんだ」
ユキ,「人は伝聞形で本音を漏らす。そうよね、やっぱり愛想が足りないわよね」
……なんらかの罠にかかったらしい。
京介,「おい、勘違いするなよ。あいつに彼氏がいたら意外だと思っただけだ。残念だとかそういうんじゃない」
ユキ,「ふむふむ……まあ、そうでしょうね。いまのところは……」
なにが、いまのところだ……。
ユキ,「なんにしても、あなたは、水羽が周りから冷たい眼で見られているのを、少しは気にかけてくれているようね」
京介,「どうしてそうなる?おれじゃなくて、クラスの連中がそうだという事実を話している」
ユキ,「人間は無意識のうちに、自分と同じ意見を集めるものよ。水羽が周りから敬遠されているのは事実だけれど、他にも真面目なところを評価する声もあったり、容姿がかわいいという声もあるのよ」
京介,「そんな肯定意見は、たまたまおれが知らなかっただけだ」
ユキ,「そうかしらね……あなたは、今日の朝一で、マスコミに囲まれなかったかと、水羽に聞いたらしいけれど?」
京介,「それは……」
おれが、人の目を過剰に意識する人間だからか……?
……くそ、時田と話していると頭がこんがらがってくるな。
京介,「ああ、もう切るぞ。たいした用もないみたいだし」
ユキ,「そうね、今日はこの辺にしておくわ」
……明日も続くのかよ……。
通話が切れた。
……馬鹿馬鹿しいな、マジで。
まあ、学園にいるうちはいいか……。
深く考えることをやめて、おれは眠りにつくことにした。
"魔王"も、権三も、家族のことも忘れられる平凡な明日が、少しだけ楽しみに思えた。
;黒画面
……。
…………。
;背景教室昼
栄一,「昨日さ、ギャルゲーをやってたんよ」
朝、栄一がいきなり語りだした。
実に興味のない話題だったが、授業までの暇つぶしにはなるか。
京介,「ギャルゲーってえと、女といちゃいちゃするようなゲームだな?」
栄一,「おう、特定の女をモノにするのが目的よ」
京介,「ふーん……で、セックスまでこぎつけたのか?」
栄一,「いや、からみはナシだった。そんなことより、ムカついたんだがよー」
京介,「なにが?」
栄一,「主人公がよー、なんかお前っぽいんだわ」
京介,「んなこと言われても……」
栄一,「口が悪くて、とんがってるくせに、ここぞというときには義理にあついっつーか」
京介,「ふーん」
そりゃ、違うな。
栄一,「あとよー、主人公の友達ってのがいるんだけどよ」
京介,「友達?」
栄一,「かなりのイケメンでさ、普段は馬鹿を演じてるんだけどよ、実際、ここぞってところで主人公を助けてくれるんだよ」
京介,「ふーん」
栄一,「オレっぽくね?」
京介,「えー」
栄一,「むしろオレそのものじゃね?」
京介,「違うんじゃねえかなあ……」
などと話していると、声をかけられた。
水羽,「お、おはよう……」
京介,「…………」
水羽,「な、なによ……挨拶くらい……変じゃないでしょ?」
京介,「あ、ああ……」
水羽,「……お昼、空いてる?」
京介,「……とくに断る理由はないが」
水羽,「じゃあ、そのときにでも」
すたすたと歩き去った。
栄一,「おいおい、京介ちゃんよぉ」
妬ましそうな顔で迫ってきた。
栄一,「え、なに?お前、復讐するとか言っといて、白鳥とどういう関係になってんの?」
京介,「……いや……どういう関係もないが……」
栄一,「敵と飯食おうってのかよ」
京介,「……まあ、それくらいいいだろ」
栄一,「お前なー、これがギャルゲーだったら、お前そのままゴールインしちまうぞ?」
京介,「現実だから」
栄一,「ちげえよ、お前知らないのか。オレたちの生きてるここは仮想現実なんだぞ?なんかもうなにもかもコンピューターで作られた世界なんだって」
京介,「ふーん……じゃあ、誰かがおれたちのやりとりを向こうから眺めてるってのか?」
栄一,「そうだよ、早くパッチだせよ。オレの身長を180センチにする修正パッチ」
京介,「映画の見すぎだぞ、お前」
;場転
始業前に、時田がふらりと教室に現れた。
京介,「よう、今日は遅刻じゃないんだな」
ユキ,「ええ、寝てないから」
京介,「また、白鳥になにか吹き込んだだろ?」
ユキ,「え?なんで?お昼に誘われた?」
……やっぱりか。
京介,「なあ、時田」
ユキ,「なに改まって」
京介,「お前って、白鳥のなんなんだ?」
ユキ,「姉だけど?」
京介,「母親が違うらしいじゃないか?」
ユキ,「それが?」
京介,「お前とお前の母親は、白鳥の家を追い出されたわけだろ?」
ユキ,「ええ……母は白鳥理事長の愛人だったの。それが堂々と同じ家に居座っていたんだから、大変よね。『華麗ナル一族』みたいになってたわ」
京介,「……よくそんなことケロっと言うな」
ユキ,「変かしら?」
京介,「お前はさも白鳥の保護者を気取ってるみたいだが、実際は、お前だけが家を追い出されたわけだろう?」
ユキ,「……そうね」
京介,「白鳥をひがみ、うらんでもよさそうなものなのに」
ふと、時田は目を細めた。
ユキ,「ひがんでるわよ」
また、ケロっと言った。
ユキ,「でも、そのひがみをなにがしかの行動に移さなければならないほど、いまの私は追い込まれていないの」
京介,「そのカラッとした態度がおれには理解できんわ」
ユキ,「じゃあ、重たく語ったら同情してくれるの?」
京介,「別に……」
ユキ,「そうよね。あなただけじゃなくてみんなそうよ。たとえ、私と母さんが理不尽な処遇で家を追い出されたのだとしても、同情なんてしてくれないわ」
京介,「やけに決めつけるな……」
ユキ,「たとえば、私が、きのう詐欺にあったって言ったらどうする?」
京介,「理由を聞く」
ユキ,「理由なんてないわ。私はただ騙されたの」
京介,「だったら、なにかお前に問題があったのかもな」
ユキ,「そうでしょう。その反応はあなたが冷たいからじゃない。ごく一般的なものよ。理由もなく不幸を語る人間に、人は心を許さない」
京介,「まあよく、不幸や失敗談を話して同情を買おうとするヤツはいるが……」
ユキ,「ぜんぜん逆効果よ。人間には『公正な世界の信念』というものがあるわ。誰もが理不尽な不幸なんて簡単には訪れないと思ってる。だから、理由もなく不幸に見舞われた人のことは、能力が劣っているからそんな目にあったのだと思ってしまう」
……こいつは、いったいいままでどんな人生を歩んできたんだろうな。
聞いてみたいが、話すつもりはないだろうな。
よくわからんが、時田は時田なりに複雑な家庭環境を消化し、白鳥に愛情を注いでいる。
ユキ,「フフ……さてさて、水羽はどこまでがんばれるかなあ……」
愉しそうな笑み。
愛情だけではなさそうだな……。
;場転
あっという間に昼休みとなった。
水羽,「……浅井くん、お昼だけどお弁当?」
京介,「いや……いつも買い食いしてる」
水羽,「じゃあ、食べる?」
京介,「なにを?」
水羽,「……ここじゃなんだし……ついてきて」
どこへ行こうってんだ、まったく……。
おれは白鳥のあとを追った。
先を行く白鳥は、手に弁当箱らしき包みを提げていた。
;背景屋上昼
京介,「まさか、お前とメシを食うことになるとは……」
それも、二人で。
水羽,「嫌なら、断ればよかったのに」
京介,「おれも暇なだけだ」
そう言って、腰を下ろす。
水羽,「……まず、はじめに、きのうはごめんなさい」
京介,「まったくだ。わけがわからなかった」
水羽,「姉さんから聞いた。チョコレートの件、悪く思ってるんでしょう?」
京介,「……まあ、そうだな」
水羽,「じゃあ、いい。許してあげる」
やたら上からの物言いだったが、とりあえず黙っておいた。
水羽,「これ、作った」
カタコトで言って、弁当箱を差し出してきた。
水羽,「食べて、よかったら」
京介,「…………」
水羽,「きのうの、おわび」
京介,「…………」
水羽,「おいしいと思う。私、料理得意」
タダならいいか……。
京介,「じゃあ、ありがたく」
つつみを受け取って広げると、これまたかわいらしい弁当箱があった。
蓋を開けると、卵焼きにウィンナーなど、まあベタなものが並んでいた。
水羽,「おいしい?」
京介,「まだ食ってねえよ」
なにテンパってんだ……。
備え付けの箸を使って、メシを口に運ぶ。
……まあ、普通の味だった。
それを、白鳥がじっと見ていた。
水羽,「そういえば、あなたはお金持ちだったわね。こんなもの食べないのかしら?」
京介,「ひねくれたこと言うな。普通に食えるぞ」
水羽,「ふうん」
しかし、白鳥の視線の前では落ち着かない。
念のため確認しておかなければならないことがある。
京介,「ひとつ聞くが……」
箸を休めた。
京介,「お前は、おれに気があるんだな?」
水羽,「…………」
唇を噛み締めて、押し黙った。
京介,「あれ、おれの勘違いか?」
水羽,「…………」
京介,「二年前はチョコレートを渡してきたみたいだが、いまは違うのか?」
わななく唇が、やがて言った。
水羽,「……そう」
京介,「なんでまた?」
水羽,「あなたが優しそうに見えたから」
京介,「おれのなにを見た?」
水羽,「私を、保健室に連れてってくれた」
ぜんぜん記憶にない。
水羽,「朝とか、よく声をかけてくれた」
これまた覚えがない。
水羽,「私が、街で変な人たちに声をかけられたとき、追い払ってくれた」
思い出した……。
たしか、その変な人たちってのが、園山組の末端のチンピラどもだった。
街中で、園山組の名前を声高に叫ぶ男がいて、ふと気になったら白鳥に肩がぶつかったのどうだのと……。
そのとき、おれは権三と一緒にいたのだ。
末端のチンピラほど、すぐ代紋の話をする。
なんとかしてこいとか命令されて、仕方なくおれは白鳥を助けたような……。
京介,「まあ、わかった。でも、それには全部裏があると知ったお前は、おれに食ってかかるようになったわけだな?」
水羽,「そうよ。私に声をかけてたのも、私じゃなくて私の父に用があったんでしょう?」
京介,「そういうことだな」
水羽,「……そう」
改めてショックを受けたようだ。
京介,「だが、いまとなっては、白鳥理事長に近づこうとは思わん。理由はわかるな?」
水羽,「……なんとなく……」
立て篭もりといい収賄といい、白鳥理事長は、ちょっと世間を騒がせすぎた。
京介,「とりあえず、ごちそうさま」
弁当箱を返した。
水羽,「……おいしかった?」
京介,「まあ、普通だな。とくだん味の差のでるような献立でもなかったし」
水羽,「…………」
また黙る。
水羽,「あの、ね……」
京介,「ん?」
水羽,「本当は、料理得意とか嘘なの。ごめんなさい」
京介,「ふうん……どうでもいいけど、なんでそんな見栄張るようなこと言った?」
水羽,「それは……姉さ……な、なんでもない」
京介,「時田か……なんでまた?」
水羽,「そうすれば、あなたがわりと正直だってわかるって」
京介,「……正直?」
水羽,「もし、あなたが見え透いたお世辞を言うようなら、まだなにか私に含みがある証拠だって。でも、たぶんそんなことはないだろう、って」
京介,「いったい、なんのテストだ?」
水羽,「いや……私の気持ちの問題」
……つまり、白鳥はおれを信用したかったのか?
水羽,「ごめんなさい、本当に。試すようなことして」
京介,「別にかまわん。値踏みされるのは慣れている」
水羽,「か、かっこいい……」
京介,「あ!?」
急に、照れ出した。
水羽,「姉さんが言ってた。人間誰でも裏表があるって。でも、裏の裏がある人はそうはいないって。いったん裏を覗いて、それ以上嘘をつかない人だったら安心していいって」
京介,「いや、安心されてもな……」
水羽,「と、とにかく、明日もお弁当作る……」
それだけ言って、また走り去った。
京介,「あ、おい!」
手をぎゅっと握って小走りに駆けていく姿が、なんとも白鳥らしくなかった。
……つーか、明日も?
かっこいいって、なんだ?
ユキ,「こんにちは」
ぬっと顔を出してきた。
京介,「うお、びっくりした!」
ユキ,「解説、いる?」
京介,「おいおい、白鳥はなんなんだ?お前が来てから行動がおかしいっての。頭沸いてんじゃねえのか?」
ユキ,「そりゃもう、完全に洗脳済みだから」
京介,「おれが、かっこいいとか言い出したぞ?」
時田はにたにたしながら笑った。
ユキ,「あの子ね、お姫様なの。だから、ちょっとハードボイルドっていうの?ちょいワルが好きみたいなの」
京介,「ちょいワル、て」
ユキ,「あなた、本音を言うときに、ちょっと声が低くなるじゃない?それが、ズキューンきてるみたい」
京介,「ズキューン……ねえ」
ユキ,「とにかく、気に入ったらおいしくいただいちゃってね。お弁当のことじゃないわよ」
……こいつ、ちょっとオッサンくさいんだな。
昼休みが終わる。
;背景教室夕方
栄一,「京介、暇か?暇だろ?ゲーセンでも寄って帰ろうぜ」
京介,「おれは、ゲームはしない。知ってるだろ?」
栄一,「じゃあ、ラーメンでも食いに行こうぜ?」
今日の予定は特にはないが……。
京介,「いや、やめとく」
栄一,「……なんだよ、てめえ」
急に不機嫌。
栄一,「まさか、白鳥か?」
京介,「冗談はよせ」
栄一,「昼も、いっしょにメシ食ってたらしいな。二人で」
京介,「そりゃ、アレだよ……例の復讐の一環だよ」
栄一,「へえ……まだ続いてたんだ」
京介,「じゃあな」
栄一に背を向けた。
栄一,「素っ気無いぞ、てめえ。なんか用事があるわけじゃないんだろ?」
京介,「ただ気分じゃないってだけだ」
栄一,「そんな時こそ、遊んでテンションを上げるべきだと思うね」
えっへんと胸を張る。
栄一,「テンションを上げるぴったりの遊びがある」
京介,「テンションを上げる遊び?」
多少興味が沸いた。
栄一,「二人サッカー」
一気にテンションがダウンした。
栄一,「嫌そうな顔だな」
京介,「つまりゲームって解釈でいいのか?結局」
ゲームはしないと何度言わせるつもりだろうか。
栄一,「正真正銘のサッカーだっての」
京介,「一人が蹴って一人がキーパー、つまりPKみたいなもんか?」
栄一,「二人とも攻め」
京介,「ゴールがら空きじゃねえか」
一度抜かれると間違いなく得点。
京介,「で、気はすんだか?」
栄一,「ほんとつれないな」
京介,「じゃあ、おれ帰るから」
栄一,「お前みたいな冷たい奴は、さっさと帰れカス」
酷い言われようだった。
栄一,「ねえねえ、宇佐美さん……」
栄一が、掃除当番をしていた宇佐美に声をかけていた。
;背景学園門
今日はあまり、学園の周りをうろつくマスコミの姿もない。
おれの前を歩く二組の女の子がいた。
校門の前まで進むと、なにかに気づいたように身を寄せ合い、ひそひそと言葉を交わす。
女の子たちの視線が注がれた先に……白鳥がいた。
水羽,「あ、浅井くん……」
あまり目立ちたくなかったので、無視しようかと思ったが、声をかけられては仕方がない。
京介,「よう、こんなところにいたら、注目されるぞ?」
水羽,「うん、ちょっと、あなたに用があって」
昼間といい、猛烈に押してくるな。
水羽,「よかったら、帰り……途中まで……」
ちょっと、話をつけておく必要があるかな……。
京介,「わかった……喫茶店にでも行こう」
水羽,「あ、うん……」
また恥ずかしそうにうつむいた。
;背景喫茶店
ウェイターに二人と告げて、席についた。
水羽,「…………」
緊張しているらしく、まともに顔も見てこない。
京介,「……とくに用があったわけではなさそうだな?」
水羽,「……そうね。迷惑だった?」
おれは水をひと口飲んで言った。
京介,「はっきり言っておく」
見据えると、怯えたように肩を狭めた。
京介,「おれはお前に気があるわけじゃない。それどころか、もう、ほとんど、興味がない」
水羽,「……わかってる」
わかっていながら、改めて残念に思ったようだ。
水羽,「じゃあ、やっぱり、ダメ……?」
上目づかいで見つめてくる。
京介,「まったく、お前の気が知れん。もっとマシな男はいくらでもいるだろうに……」
この多感な時期の少女が、二年も同じ男に気を持っていたなんて……。
京介,「しかも、惚れた理由も平凡だ。それも、おれが優しいヤツだと勘違いしていただけ。なのに、まだ食い下がってくるのはなぜだ?」
白鳥はすぐには答えなかった。
京介,「意地になってるのか?」
水羽,「……わからない……でも、どうしようもない」
唇を噛み締めていた。
白鳥の気持ちが、まったく理解できなかった。
水羽,「……私は、無愛想で、足りないところ多い……でも、もう少し、知って欲しい、私のこと……」
そこで思いついたように顔を上げた。
水羽,「お願い。損はさせないし、あなたの邪魔はしないから」
だめ押しみたいなセリフは、おそらく、時田が教えたんだろう。
……とはいえ。
京介,「別に、つきあってもいいぞ」
水羽,「え?」
京介,「女は最後の食い扶持っつってな」
その一言が、白鳥の胸をついたようだ。
京介,「抱えといて損はないからつきあうってことだ。さっきも言ったが、決してお前に気があるからじゃないが、それでもいいんだな?」
おれはその場を立ち去るつもりで言った。
水羽,「……っ」
苦痛のうめきが漏れた。
京介,「じゃあな」
泣き顔に変わる前に、席を立った。
;背景繁華街1
……。
…………。
恋愛のことはよくわからん。
きっと、感情の押しつけの類なのだろう。
まあいい、どうせすぐに忘れる。
;黒画面
近道をしようとして、細かい路地を曲がったときだった。
栄一,「やいやいやい!」
ハル,「へっへっへ!」
暗がりから野盗みたいな声が上がった。
栄一,「宇佐美さん、セリフ」
ハル,「へっへっへ、ここを通りたかったら水と食料を置いていきな」
栄一,「宇佐美さん、違う」
ハル,「間違った。なんでしたっけ?」
栄一,「もういいよ。てめえ、ここで会ったが百年目だぜ!」
京介,「おわっ!」
;背景繁華街1夕方
京介,「いてえな、なにすんだ?」
栄一,「それはこっちのセリフだぜ。お前、いまなにしてた?」
京介,「……なにも?」
栄一,「ああっ!?」
京介,「ちょっ、近い……!」
栄一,「オレとのラーメン断って何してたって聞いてるんですわぁ!」
京介,「な、なんの話だ!?」
栄一,「おやおやぁ!?すっとぼけるんですかぁ?」
京介,「ぐっ、は、はなせよ……」
栄一,「オレたちは、ちゃあんとお前のあとをつけてたんですよ。なあ、宇佐美さんよ?」
ハル,「あ、はい」
栄一,「というわけだ。お前は、白鳥とサテンに入った。これをどういいわけする?」
……素直に、白鳥に告白されて断ったと言ってやってもいいが……。
;黒画面
;水羽の哀しそうな立ち絵セピア調
京介,「…………」
;背景繁華街1夕方
京介,「まあ、想像に任せる」
栄一,「けっ、やっぱりそういうことじゃねえか!」
京介,「…………」
栄一,「なあにが復讐の一環だぁ!?てめえはオレを怒らせたぜ、なあ宇佐美さん?」
ハル,「あ、はい」
栄一,「ったく、おいしいところだけ持って行こうったって、そうはいかねえんだからな」
中指を立て去っていった。
栄一,「せいぜい夜道に気をつけな。このギャルゲの主人公が!」
残った宇佐美がおれをじっと見ていた。
ハル,「浅井さん、マジすか?」
京介,「……まさか」
ハル,「……そすか」
なにやら考えるようにうつむいた。
ハル,「……最近、権三さんはどうです。"魔王"についてなにかおっしゃってましたか?」
京介,「いきなり、なんだ?なにも言ってこないぞ?」
ハル,「そすか……先日の立て篭もり事件も"魔王"が暗躍していたと思ったのですが……気のせいみたいですね」
顔を上げ、またおれの顔を覗き込むように見た。
ハル,「でわ……さよなら」
京介,「……ん、ああ……」
宇佐美は歩き去った。
その背中をなんとなく眺めてしまった。
なんとなく、ただのさよならではないような気がした。
京介,「変なヤツ……」
おれも自宅への帰路についた。
;背景主人公の部屋夜
自宅で、ミキちゃんやら権三やらに電話で話をして、おれはベッドに寝っころがった。
今日一日のことを振り返る。
主役はやはり、白鳥だった。
……つきあってほしいらしい。
つきあう?
その言葉の意味がよくわからない。
お互いに好きになって、精神的な距離を近づけるという話だろうか。
やがて家族となり、子供を宿す――まあ、そこまで重たく考えるヤツもいないんだろうが。
なんにしても、メリットがあるからこそ、つきあうのだろう。
相手の財産目当てであったり、自分の心の欲求を満たすためであったり……。
となると、もし、おれが白鳥とつきあうのなら、そこになんらかのメリットがなければならない。
白鳥とつきあうメリット……。
白鳥でなければ供給できないなにかが必要ということか。
京介,「……む」
柄にもなく、つまらないことを考えてしまった。
時田はそういうのが好きみたいだが、感情みたいな得体の知れないものを理詰めで解釈しようとしても無駄だ。
;SE着信
携帯がけたたましい音を立てた。
かけてきた相手はなんとなく予想がついた。
水羽,「……こんばんは、いま、平気?」
京介,「ああ……意外だな。もう話すこともないと思ったが?」
水羽,「姉さんに、勇気づけられて、もう一度だけ……」
また姉さんか……。
白鳥は、時田がいなければなにもできないみたいだな……。
水羽,「あのね……喫茶店での話の続きだけど……」
京介,「続きがあったとは思えんが?」
水羽,「……っ……いや、その……」
臆病な女だ。
京介,「なんだ?まだ、つきあってほしいとか言い出すのか?」
水羽,「……っ」
京介,「言っただろう。別にかまわないが、おれはただ、お前を利用するだけだぞ」
直後、しゃくりあげるような声があった。
水羽,「……いいっ」
京介,「え?」
水羽,「それでも、いいっ……!」
おれの胸のうちで、嗜虐心が鎌首をもたげた。
京介,「おれは他の女もかかえるかもしれんし、お前に金の無心をするかもしれんぞ?」
わからなかった。
白鳥がそうまでして得られる利益とはいったいなんだ?
水羽,「かまわないっ……!」
白鳥は、盲目だった。
いつか、時田が白鳥のことを、人を知らない子だと評したことがあるが……。
あまりに無茶な白鳥の申し出に、おれは正直、戸惑っていた。
京介,「わかった……じゃあ、つきあうか……」
思わず、そう言っていた。
少しでもままごとの相手をしてやれば、白鳥も目が覚めるだろう。
水羽,「ほ、本当?」
京介,「ああ」
水羽,「あ、ありがとう……」
京介,「わかってると思うが、おれの邪魔はするなよ」
水羽,「……わかってる……なんでも言って……協力する」
京介,「なんだてめえ……」
白鳥に対して興味は沸いた。
京介,「もう切るぞ。あまり無駄なことで電話してくるなよ」
水羽,「わかった……メールする」
京介,「読むかどうかもおれの勝手だからな」
水羽,「……それでも、いい」
……いつまで舞い上がっていられるものだか。
相手が自分の気持ちに応えてくれないと知れば、誰だって気をなくしていくだろう。
水羽,「それじゃ、おやすみ……」
最後の声は、どこか哀しげだった。
京介,「…………」
まあ、白鳥とつきあうからって、明日からのおれの毎日が変わるわけでもない。
寝るか……。
;黒画面
…………。
……。
;ノベル形式
;背景繁華街1夜
水羽は、半べそをかきながら姉に抱きついた。
水羽,「……こ、これで、よかったの?」
ユキ,「上出来」
姉は、いつも自信ありげに水羽をけしかける。
水羽,「で、でも、他の女の子ともつきあうかもって……」
ユキ,「あら、そんなひどいこと言われたの。彼らしいわね」
水羽,「ひどいよね。もう無理だよ……」
弱音をはくと、頭上から優しげな声が返ってくる。
ユキ,「無理だと思うのは、まだまだ努力が足りないからよ」
水羽,「努力?」
ユキ,「これからってこと。あきらめずに気持ちを伝えていきなさい」
水羽,「うん……がんばる。ごめんね、愚痴ばっかりで」
姉は水羽の素直な態度に笑う。
ユキ,「彼との関係が深まるにつれて、だんだん弱音もはかなくなるわ。私の助けもいらなくなる。そうなったとき、もうゴールは間近よ」
水羽,「わかった。ありがとう……」
ユキ,「さ、もう夜も遅いわ」
水羽,「あ、待って、姉さん。途中までいっしょに帰ろう?」
水羽には水羽の家がある。ユキにはユキの家族がいる。姉妹なのにともに暮らせない。
水羽,「あ、雪降ってきた」
ユキ,「あら」
水羽が姉の手を握る。
水羽,「また、雪だるま作れるといいね」
ユキ,「そうね……」
姉はふっと笑う。
その笑みに、暗い影があることに、水羽は気づけなかった。
;背景教室昼
朝、教室に来て異変があった。
おれの机。
数枚の写真があった。
どこで隠し撮りしたのか、はたまたいつの写真なのかはわからない。
おれが眠りに落ちる瞬間の絵だった。
まぶたが半開きで、口も緩んでいる……いわゆるアホ面だった。
そして、机のなかに、『KYOHAKUJO』と書かれたメモ。
『この写真をお前のスケに見せられたくなかったら、500億万円払え』
スケ……って。
栄一,「やあ、京介くん、おはよう」
京介,「お前さ……」
栄一,「どうしたの、なにかあった?」
京介,「だからさ……」
栄一,「まさか、脅迫されてるの?」
京介,「お前だろ?」
栄一,「え、なに、ぜんぜんわかんない。お金払えって?」
京介,「ああ、五百円な」
栄一,「五百億万円だよ!」
京介,「…………」
栄一,「あ、しまった。ちきしょう、ハメやがったな!」
京介,「どこでこんなネタを手に入れた?」
おれはアホ面写真を掲げた。
栄一,「プ、ウケる!」
京介,「笑ってんじゃねえよ」
栄一,「返せ!」
京介,「おっ……」
猿みたいな素早さで、写真をひったくった。
京介,「ちょっと、それよこせよ」
栄一,「誰が渡すかよ。これでお前はオレのオモチャだ!」
京介,「え、マジすか?」
栄一,「そうよ、この写真がある限り、お前はオレの言うことをきかなけりゃならんわけよ」
京介,「……むぅ」
……たしかに、白鳥に限らず、あんな写真を人に晒されるのはちょっと嫌だな……。
京介,「まあ、わかった……」
栄一,「わかりました、だろうが!」
京介,「わ、わかりました。どうすれば?」
栄一,「そうだなあ、お前が女だったらやらせることは一つなんだが……」
京介,「な、おれが女だったら、なにさせる気だったって!?」
栄一,「肩もみじゃね?」
京介,「あ、そんなもんすか」
栄一,「よし、決めた。便所掃除して来い」
京介,「なんでだよ!」
栄一,「なんとなく、くせえじゃん」
京介,「冗談じゃねえぞ」
栄一,「みんなー、聞いてえー!」
京介,「あ、おい!」
栄一,「京介くんのお宝画像が……」
京介,「わ、わかった。わかりましたよ!」
栄一,「へっへっへ、素直に言うことを聞けばいいんだよ」
京介,「いまから掃除してくりゃいいんだな?」
栄一,「便器なめる勢いでやれ」
京介,「……終わったら、それ返してくれるんだろうな?」
栄一,「もちろんだとも」
京介,「わかった。行ってくる……」
教室を出るおれの背後で、勝ち誇った笑い声が上がった。
;黒画面
……。
男子トイレにて。
てきとーにゴシゴシやる。
十分くらいがんばった。
壁に水で落書きしておく。
栄一は変態である。
一分くらいで読めなくなった。
;背景廊下昼
水羽,「……あっ」
トイレから出ると、白鳥と出くわした。
水羽,「おはよう……」
京介,「ああ……」
水羽,「掃除、してたの?」
京介,「なんで?」
水羽,「洗剤のにおい……」
京介,「ああ、まあな……」
水羽,「そう……偉いのね……」
京介,「好きでやってるわけじゃないが」
水羽,「私は、お花に水をやりに……」
京介,「ふーん、誰かにやらせればいいじゃないか」
水羽,「いいの。好きでやってるから」
京介,「そうか。じゃあな……」
水羽,「うん……」
名残惜しそうな声が、尾を引いていた。
;背景教室昼
京介,「終わりましたよ、エテ吉さん」
栄一,「おー、そうかそうか、ご苦労さん」
京介,「さあ、例の写真を返してくれ」
栄一,「おうよ」
素直に手渡してきた。
京介,「……ふう、くだらねえことさせやがって」
栄一,「ククク……」
京介,「なにがおかしい?」
栄一,「いやいや、これで終わったと安心しているお前がおかしくてねえ」
京介,「は?って、あ!」
栄一,「そうよ、ネガよ。写真のネガはオレが持ってるわけよ。ネガを返すとは言ってないわけよ!」
京介,「マジかよ……」
栄一,「へっへっへ、一度言ってみたかったんだよな、このセリフ」
京介,「鬼畜すぎる」
栄一,「安心させておいて絶望を味あわせる。最初からお前を許す気なんてないわけよ」
と言って、懐からさっきと同じ写真を取り出した。
栄一,「つーわけで、コレを白鳥に……」
京介,「てめえ、待て!」
栄一,「白鳥さーん!」
くっ、やたら素早い!
水羽,「……なに?」
栄一や他のクラスメイトの前では、白鳥はいつもどおり、冷たそうに眉をひそめていた。
栄一,「あのね、コレ見て!」
写真を白鳥の目の前に晒した。
水羽,「…………」
白鳥の顔がまっさらになる。
京介,「栄一、てめえ!」
栄一,「(あははははっ、ざまーみろ!)」
水羽,「……これは……」
栄一,「(ふぇっふぇっふぇ、嫌われちまえ!)」
水羽,「……か、かわいい」
頬を染める。
栄一,「えー、なんでえっ!?」
水羽,「……これ、もらってもいい?」
栄一,「い、いいけど……」
白鳥は、栄一の持った写真にさっと手を伸ばすと、そそくさとカバンのなかに隠した。
京介,「おい、白鳥、それ返せよ……」
水羽,「ヤダ……」
京介,「あのなあ……」
頭をかきむしっていると、隣で栄一がうめいた。
栄一,「くっ……そんな……」
栄一,「(おいおい、とんだピエロってヤツじゃねえかよ、オレは……)」
床に崩れ落ち、四つんばいになっていた。
;黒画面
…………。
……。
;背景屋上昼
昼休み。
おれは屋上で白鳥と二人でいた。
また弁当を作ってくれていた。
食費が浮いて助かる。
京介,「……お前は、食わんのか?」
水羽,「いい……」
黙々と食べる。
水羽,「私、邪魔……?」
京介,「別にいてもいいが……なにか話せよ」
水羽,「…………」
難しそうな顔をしだした。
水羽,「……今日、お弁当作るために、卵を割ったの」
京介,「うん……」
水羽,「そしたら、黄身が二個出てきた……」
京介,「へえ……たまーに、あるよな。それで?」
水羽,「……それだけ」
京介,「…………」
水羽,「なんとなくうれしかった」
京介,「わ、わかった……次」
水羽,「……昔、夜空に浮かぶ星を見てたとき……」
京介,「うん……」
水羽,「あ、流れ星って、誰かが言った……」
京介,「…………」
水羽,「そしたら、もう見えなくなってた……」
京介,「ま、そういうのはよくある話だよな」
水羽,「……私、コピーを取るとき……」
京介,「…………」
水羽,「一枚目は、どうあがいても失敗するの……」
京介,「それも、まあ、わかる」
水羽,「先週、お手洗いの便座カバーを買いに行って……」
京介,「…………」
水羽,「U字かO字かわからなくなって、一度引き返したの……」
京介,「わりと庶民的なところあるんだな、お前……」
水羽,「あとね……」
京介,「まだ続くんだ……」
水羽,「テレビ放送の映画見てると、CMになったら急に音が大きくなってびっくりする……」
京介,「あ、そう……」
水羽,「レンタルDVD見終わって、停止ボタン押したら、やっぱりテレビの音が大きくてびっくりする……」
京介,「…………」
とりとめのない話が延々と続き、昼休みが終わった。
;背景教室夕方
放課後、やはり白鳥がそそくさと近寄ってくる。
水羽,「今日は、時間ある?」
京介,「……ないでもないが、お前と遊ぶつもりはない」
水羽,「……っ」
京介,「じゃあな」
水羽,「あ、明日は?」
明日は休みだったな……。
会う約束をすることは簡単だが、さて。
京介,「そんなに遊びたいのか?」
かくかくと首が縦に動く。
水羽,「……そばに、いられれば……」
面倒だな……。
京介,「お前といっしょにいたところで、お前は楽しいかもしれんが、おれは退屈だ」
そもそも、こいつがおれの何を満たしてくれるというのか。
水羽,「えっと、クラシックのコンサートのチケット余ってる……」
京介,「なにぃっ!?」
……って。
いかん、いかん、腰が浮いた。
京介,「……コンサートはいい」
水羽,「え?そんな嘘でしょう?」
よほど意外だったらしい。
水羽,「じゃあ、どうすれば……」
京介,「そんなにかまって欲しいのか?」
水羽,「うん……」
わからない……。
なにが白鳥をこうまで駆り立てるのか。
おれは自問自答してみる。
白鳥が、おれの何の役に立つのか。
こいつはただ、おれの時間を奪おうとしているだけではないのか。
京介,「わかった……なら、今夜うちに来い」
水羽,「うち?」
京介,「ああ、夜なら時間は作れる」
水羽,「……あ、でも……」
京介,「なんだ?」
水羽,「い、いきなりおうちなんて……」
京介,「…………」
水羽,「しかも、夜に……私、門限があって、あまり遅くなると、父にしかられる……」
京介,「お嬢様だな」
水羽,「最近は、夜更かししてるから……父の機嫌も悪くて……」
京介,「じゃあいい。次に会うのはまた来週だな」
白鳥に背を向ける。
なぜ、おれが白鳥の都合を考えなければならないのか。
……まあ、これで白鳥もあきらめるだろう。
水羽,「ま、待って」
京介,「…………」
水羽,「行く。住所教えて……」
京介,「…………」
どうやら本気らしい。
;黒画面
…………。
……。
;背景喫茶店
;ノベル形式
ユキ,「普通の人は、恋愛に意味なんて考えないものよ」
ユキが、紅茶の香りを上品にかぎながら言った。姉はいつも大人っぽい仕草で水羽を魅了する。
ユキ,「でも、彼は別ね。きっと、いまごろ、あなたが自分にとってどんな利益をもたらしてくれるかを考えてる」
水羽,「利益……?」
姉は、足を組み替え、いつになく真剣な顔になった。
ユキ,「はっきり言って、今夜はやめておいたほうがいいわ」
水羽,「……どうして?」
ユキ,「もう少し、彼が心を開くまで待つべき」
水羽,「だから、どうして?」
ユキ,「厳しい言い方してもいい?」
どきりとした。姉の目には、温室育ちの水羽が見たこともないような暗い光がたまに宿る。
ユキ,「あなたは彼にとって、なんの役にも立たないのよ」
水羽は、言葉を失った。
ユキ,「彼は強いわ。これまでも、たいていのことは一人でなんとかしてきたんでしょう。でも、あなたはどう?」
胸をつかれる思いだった。水羽はこれまで、何ひとつ不自由のない暮らしをしてきた。欲しいものを買ってもらえるだけの財力が父にはあった。本も、天体望遠鏡も、ぬいぐるみもすべて、父が与えてくれたものだ。
水羽,「でも、うちは、姉さんも知っての通り、冷めてるから」
父と母。めったに顔を合わすこともない。母がなぜ、父のような傲岸な人間を選んだのかはわからない。ただ、適齢期が来たから嫁いだといった印象だった。夫婦が、なんとなく人生をやり過ごしているような空気を、水羽は広い家のなかで、ずっと感じていた。
けれど、姉は、厳しく言った。
ユキ,「ぜったいに、そんなことを彼の前で話してはダメよ」
優しい姉は、一瞬、なりをひそめた。厳しくつらい人生を歩んできたであろう時田ユキが、そこにいた。
ユキ,「私の見立ててでは、彼は、想像を絶するような家庭環境に育ってきたわ。夫婦仲が冷めてるですって?そんな家庭いくらでもあるじゃない?」
水羽,「……ご、ごめんなさい」
ユキ,「彼が興味を持つ女性はたぶんこう」
指を立てて言った。
ユキ,「特段優秀な能力や財力を持っているか、彼のトラウマを癒してくれるような心を持っているか、もしくは、深い絆で結ばれた誰か」
水羽,「優秀な能力っていうと、姉さんみたいな?」
言うと、ユキは目を丸くした。すぐに苦笑して首を振った。
ユキ,「そうね。実は、私があなたの最大のライバルだったりして」
水羽,「そんな!」
思わず声を張りげると、店員がなにごとかとこちらを向いた。
ユキ,「落ち着いて。私が言ったのは、たとえば、浅井花音ちゃんみたいに、世界が認めるような実力者のことよ」
水羽,「……そんなの、私にはないよ」
ユキ,「じゃあ、彼の心を理解してあげる?深い傷を癒してあげられる?」
無理だろうと、姉の目は語っていた。
たしかに、水羽は幼かった。姉と再会するまでは、誰ともろくに口も聞けなかった。ただ、殻を作って、周囲の目をやり過ごしていた。そんな自分が、複雑な闇を持った人間の心を癒してあげられるわけがない……。
水羽,「なら、もう、無理なのかな……」
ユキ,「なら、彼は私がもらおうかしらね」
水羽,「え?」
ユキ,「私もようやく、つきあってもいいかなと思える男にめぐり合えたわ」
冗談なのか、本気なのか、水羽には判断がつかなかった。
ユキ,「どうする、水羽?譲ってくれる?姉妹で争うなんて、私はごめんだからね」
水羽はうつむいた。そして、愕然とした。とどのつまり、浅井京介と白鳥水羽では、まるでつり合わないということだ。
水羽,「わかった……姉さんの言うとおりにする」
ユキ,「あきらめるってこと?」
水羽は、なお迷った。
水羽,「ひとまず、今日はやめておくっていうこと……」
ユキ,「へえ……」
姉の、見透かしたような目が、浅はかな自分を責めているように水羽は感じた。
陽が落ちて、外では雪がちらつき始めた。
;通常形式
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜
……。
…………。
今日は冷えるな。
白鳥も、まさか、やってこないだろう。
こんな時間に、たいして知りもしない男の部屋に来るとどうなるか……白鳥は知らなくても、時田は警告するだろう。
京介,「……む?」
インターホンの音に、胸をつかまれる。
外には雪がちらついているというのに、エントランスには白鳥と時田の姿があった。
おれは、なにも言わず、二人をなかに入れてやった。
……なんのつもりだ?
時田が、またなにか吹き込んだのか。
しばらくして、玄関のドアが開く。
一度も帰宅していないらしく、二人とも制服姿だった。
ユキ,「いいおうちね」
芝居がかった口調で、手を広げた。
京介,「白鳥はともかく、時田はなんの用だ?」
ユキ,「用はないわ。時間も時間だから、水羽を送ってきただけ。もう帰るわ」
京介,「へえ……」
ユキ,「それじゃ、水羽。あとは、自分でなんとかするのよ」
京介,「時田」
ユキ,「なに?」
京介,「いや、なんでもない」
ユキ,「そう。じゃあね」
それだけ言うと、時田は再び玄関へ足を運んだ。
本当にただ送ってきただけのようだ。
ドアが閉まる。
室内には、おれと、置き去りにされた子供のような顔の白鳥だけ。
京介,「よく来たな」
水羽,「あなたが来いって言った」
かすかに指先が震えていた。
無知な赤ん坊じゃないのだから、現状くらい分かっているだろう。
水羽,「……なに、すればいい?」
かまわず、おれは言った。
京介,「やることは決まってるだろ?」
水羽,「……なに?」
京介,「おれたちはつきあってるんだろ?」
水羽,「うん……」
おれは薄く笑う。
京介,「お前、まさか、おれに純愛とかそういうものを期待してるんじゃないだろうな?」
水羽,「……っ」
今度は、肩まで震える。
おれはベッドに腰掛け、手招きした。
京介,「来いよ。おれがどういうヤツか教えてやる」
白鳥が、おれにとってなんの役に立つのか。
京介,「どうした?」
浅井権三が言った。
雌は食っておくに限ると。
京介,「そのために、お前を呼んだんだぞ」
水羽,「……わかった……」
そろり、そろりと、フローリングの床を滑るように、にじり寄ってくる。
水羽,「どうすれば……?」
京介,「そうだなあ……」
怯える女を、まじまじと眺めた。
京介,「…………」
それははじめ、なにがしかの違和感として認識された。
かまわず、欲望にまみれた手を伸ばす。
水羽,「あっ……」
二の腕をつかんだ。
張り詰めた弦がかき鳴らされるように、白鳥の体が跳ねる。
京介,「ん……?」
注目した。
白鳥の左手。
それまで、太ももの後ろに隠すようにしてあった。
きらりと、室内の光を反射させている。
京介,「なんだ、それは?」
水羽,「し、CD……」
両手で差し出してきた。
ジャケットを見る。
バッハの入門編とでもいうべき内容だった。
京介,「こんなもの、どうして持ってきた?」
水羽,「い、いっしょに、聞こうと思って……」
京介,「聞く気にもならんね。演奏家だって、聞いたこともないような人だ。そこのレコード棚には、もっと質のいいバッハがたくさん眠ってる」
水羽,「……そう、よね」
京介,「お前って、おれに話をあわせるためにクラシックに興味を持ったのか?」
水羽,「そう」
京介,「へえ……」
かわいいもんだ。
水羽,「ごめん、役に立てなくて……」
京介,「…………」
また、しょげた顔でまなざしを落とした。
そのとき、おれは、弱い者をいたぶろうとしていることを、はっきりと自覚した。
……いいのか。
浅井権三に従い、すきを見せた獲物を喰らう姿勢を学んだ。
ただ、こいつを食ったところで……おれが満たされるものといえば、性欲くらいか……。
いまは、別に食うか食われるかの状況でもない。
京介,「…………」
おれは、ひとしきり悩んだ末に……。
;選択肢
;白鳥を犯す
;それは、おれの道ではない
@exlink txt="白鳥を犯す" target="*select1_1"
@exlink txt="それは、おれの道ではない" target="*select1_2"
白鳥を犯す
それは、おれの道ではない
京介,「…………」
少女が、恐怖に、しゃくりあげるような声を出したそのとき、おれは言った。
京介,「すまなかった……」
おれは、自分に言った。
胸のうちにくすぶるなにかに向けて、心を正そうとした。
水羽,「え……?」
京介,「いや、なんでもない……」
おれはベッドから立ち上がり、白鳥から目線を逸らした。
京介,「送っていこう。もう夜も遅い……」
水羽,「え、な、なんで……?」
京介,「お前を襲っても、なんの意味もない」
そんな当たり前のことをいま悟った。
京介,「悪ふざけがすぎた。おれはお前が一人の人間であることを忘れかけていた」
白鳥は、餌ではない。
水羽,「……あ、ありがとう……」
ようやく震えがおさまったようだ。
水羽,「あの……私……」
京介,「ん?」
水羽,「……えっと……」
口をつぐみ、頬を染めてうつむいた。
京介,「出るぞ」
ぶっきらぼうに言うと、白鳥は黙ってついてきた。
;背景南区住宅街夜
;雪演出
車で白鳥の家の近くまで来た。
ドアを開け、白鳥を屋敷に向かって送り出してやる。
水羽,「浅井くん……」
少女のまつげに雪が落ちる。
京介,「わびといってはなんだが、明日、また時間を取ろう」
水羽,「ま、待って……あのねっ……」
車の助手席で白鳥は、なにか言いたげに、おれに視線を送っていた。
水羽,「本当は、今日ね……私、お別れを言いにきたの」
水羽,「あ、いや……お別れというか、もう、やめにするって言いにきたの」
水羽,「あなたと私じゃ、ぜんぜんつり合わないから」
京介,「……そうか?」
水羽,「ごめんなさい……勝手ばっかり言って」
京介,「いいんだ。なら、やめにしよう」
瞬間、白鳥の首がぶるぶると左右に振れた。
水羽,「でも、やっぱり、あきらめきれなくてCD持ってきたの」
……いっしょに聞こう、とか言っていたな。
あのCDは部屋に忘れてきた。
水羽,「どうしたら、あなたが喜ぶのか……いや、どうしたら振り向いてもらえるのかって……ぜんぜんわからなくなってしまって」
京介,「そうか……」
水羽,「二年も前から、片想いしてたのに……実際、話すようになって、自分の未熟さにびっくりしてるだけで……」
京介,「そうか……」
少女の頭に雪がちらつく。
容姿のいい少女だ。
普通なら、とくに理由がなくてもつきあうものなのかもしれない。
ひたむきな想いに応えてやれないことに、少しだけ胸がうずいた。
京介,「だが、お前は、お前なりに、やっているんだな」
水羽,「え?」
京介,「たいして興味もなかったクラシックの勉強をして、おれのために弁当を作り、そしていま、門限を破って部屋まで来た」
辱められるかもしれないと知りながら……。
京介,「おれも、ぜんぜん未熟だ。そういったお前なりの一生懸命を上からの目で見ていた。これからは、そんなことはしない」
水羽,「…………」
京介,「ああ……もし、これからが、あるのならな……」
水羽,「あ、ある!」
ぐっと、唇を噛んだ。
水羽,「よければ、もう少しだけでも……見て……見てください……」
頭を垂れた。
京介,「わかった……ただ……」
水羽,「わかってる。浅井くんが、私のこと好きなわけではないって……!」
京介,「悪いな」
白鳥を見据えた。
京介,「おれは、自分の今後の生きかたを見つめなおしただけだ」
白鳥のような弱者をいたぶるような真似だけはするまいと。
京介,「じゃあ、明日……」
明日は、もう少し自分のことを話そうと思った。
対等な人間としてつきあい、自分をさらけ出してみたい。
ひょっとしたら、それができる相手を、恋人などと呼んでもいいのかもしれない。
水羽,「ありがとう、おやすみっ!」
白鳥の笑顔は濡れていた。
涙なのか、溶けた雪なのかは、わからなかった。
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公の部屋夜明かりなし。
ずいぶんと遅い時間になってしまった。
白鳥は、いまごろ父親の理事長にしかられているのだろうか。
;SE着信
突如、携帯が鳴る。
相手は、今夜の黒幕と思しき時田だった。
ユキ,「水羽からあらすじは聞いたわ」
京介,「ふん……女狐が」
ユキ,「あの子、あなたにもうメロメロよ」
京介,「オヤジくせえなあ」
……なんだメロメロって。
京介,「お前は、こうなることを予想していたってのか?」
ユキ,「うーん、九割くらいはね、だいじょうぶだと思ってたわ」
京介,「残りの一割の確率で、おれはあいつの人生を滅茶苦茶にするところだった」
ユキ,「でもしなかった。あなたは悪党だけど、下衆じゃないわ。きちんと水羽と向き合ってくれると思った」
京介,「怯える白鳥を、無理やりおれの部屋までつれてきたわけか?」
ユキ,「私は、背中を押しただけよ」
京介,「お前も悪党だな。ご苦労なことだ」
ユキ,「ほんと、手間がかかる妹だわ……」
苦笑していた。
ユキ,「上手くいくといいわね……」
京介,「それはお前の願望であって、おれの知るところじゃない」
ユキ,「わかってるわよ、水羽のために祈ったの」
偽りのない、思いやりを感じた。
こいつは、おそらく白鳥とは比較にならないほどの苦労を味わったのだろう。
けれど、いまは、その傷で、腹違いの妹を包むことができている。
ユキ,「じゃあ、さようなら」
京介,「ああ。お前も、なにか困ったことがあったら言ってみろ」
ユキ,「あらあら、らしくないことを……どうりで雪が降るわけね」
らしくないとか……相変わらず人を知ったようなことを言いやがる。
ユキ,「なら、そのうち頼りにさせてもらうわ」
そう言って、通話を切った。
静寂が訪れる。
おれは一人、白鳥が残していったCDのケースを手に取った。
曲目も、名高いオルガン曲ばかりで、おれの心をくすぐるものはなかった。
けれど、おれはケースのふちに手をかけた。
白鳥が何度も中身のCDを出し入れしたらしい。
少し、角が欠けていた。
寝る前に、聞いてみよう。
白鳥が白鳥なりに必死に持ってきたバッハを……。
京介,「――って、おい!」
思わず叫んだ。
……肝心の中身のCDが入っていなかった。
;黒画面
……白鳥の天然っぷりに頭を抱えながら、その夜は眠りにつくことにした。
;白鳥を犯すを選んだ場合
……かまわんだろ。
弱いというだけで悪だ。
こんな時間に、男の部屋にのこのこ上がってきたのが悪い。
せいぜい、おれの道具としてがんばってもらおう。
京介,「床に座れ」
命じると、白鳥は素直に従った。
PS:以下是不和谐场景,已删除
;黒画面
浅井権三はおれの生き方を肯定するだろう。
白鳥を陵辱して以来、おれの心はさらにささくれだっていった。
なんのとりえもない女だった。
一度たりとて、かわいがってやったことはない。
すると、どうなったか。
水をもらえなくなった花の末路を想像してみればいい。
もともと、可憐で弱弱しい花だった。
半年も持たずに、散っていった。
ユキ,「ねえ……」
いま、おれのかたわらには、別の花が咲いていた。
今度は、サボテンみたいに強い女だった。
勝手に死ぬことはないだろう。
むしろ、トゲに注意しなければならないのはおれのほうだった。
ことが終わったおれは、いつものように煙草に火をつけた。
ユキ,「……満足した?」
京介,「ああ」
ユキ,「そう……」
虚ろな声。
京介,「それにしても、まさかお前が、初モノだったとはな……」
おれは知っている。
あの女の姉が、おれと肌を重ねつつも、一度も感じていた様子がないことを。
それどころか、セックスの最中、何度となく首に腕を回してきたことを。
京介,「馬鹿だったな、時田」
紫煙が立ち昇っていく。
姉はなにも言わない。
背に、痛いほどの視線を感じる。
京介,「お前が白鳥をけしかけるから、こんなことになった」
ユキ,「……知ってるわ」
京介,「お前さえ学園に転入して来なければ、白鳥もずっと平凡なままに生きられたのに……」
ユキ,「……後悔してる」
京介,「それで、お前は、罪滅ぼしのために、抱かれたくもない男に身をまかせてるのか?」
ユキ,「…………」
普段饒舌な時田が黙ると、安ホテルの室内に殺気が立ち込める。
京介,「わかっている。おれを殺す機会をうかがっているんだろう?」
ユキ,「…………」
京介,「だから、お前はおれに近づいてきた。しかし、なかなかチャンスがないな?」
ユキ,「…………」
おれは真剣に提案した。
京介,「忘れろとは言わんが、おれに従え」
ユキ,「…………」
京介,「少しでも罪を感じているのなら、見届けてみろよ」
ユキ,「…………」
京介,「妹が淡い恋心を抱いていた男が、これからどんな外れた道を歩むのかを」
乾いた空気に、煙草のにおいが染み込んでいく。
やがて、室内の明かりが消える。
;黒画面。
時田が消したのだ。
背後でかけ布団を蹴飛ばす音がした。
時田が飛びかかってくる。
その手に、鋭い光を放つものがあった。
闇を切り裂く絶叫。
おれの胸めがけて腕を突き出してきた。
ナイフの切っ先が鮮血をまとうより早く、おれは手にした拳銃の引き金を引いた。
馬鹿な女は、ナイフを落とした。
おれは、血を吐いて床に崩れた時田をたっぷりと見下ろした。
京介,「残念だ」
あとは、ただ、闇と静寂だけが襲ってくる。
なにも、感じない。
部屋を出ようとドアに手をかけたとき、背後でがたりと音がした。
振り返ると、時田の悪鬼のごとき形相と、床に落ちたはずの凶器が避けようもない距離まで迫っていた――。
…………。
……。
B A D E N D
;背景繁華街1昼
翌日の空は、昨日の雪が嘘みたいに晴れ上がっていた。
セントラル街で白鳥と会うことになった。
待ち合わせ場所のハンバーガーショップの前には、すでに白鳥の姿があった。
京介,「よう、待ったか?」
水羽,「あ、うん、三十分くらい……じゃなくて、いま来たところ」
……待ったらしい。
水羽,「ごめん、気をつかわないで。私が勝手に待ってただけだから」
京介,「なんでもいい。とりあえず、どうする?」
水羽,「あ、なんでもいい……」
京介,「お前って、普段はなにしてるんだ?」
水羽,「あ、なんだろう……勉強かな……」
京介,「いや、遊びの話」
水羽,「漫画読んだり……映画見たり……」
京介,「インドアなんだな」
こくこくと首を縦に振った。
水羽,「姉さんが来てからは、姉さんとおしゃべりしてる」
京介,「昨日も遅くまで電話してたのか?」
水羽,「うん、興奮して眠れなくって」
はにかむように笑った。
京介,「映画でも行くか?」
水羽,「……あ、観たい映画あったの……」
京介,「ふーん、なんてヤツだ?」
水羽,「仁義なき博多駅前、っていう……」
京介,「ヤクザ映画じゃねえか」
意外すぎる。
水羽,「……そういうの、ちょっとかっこいいなって、思ってたの」
京介,「言っとくけど、おれはヤクザじゃないからな」
水羽,「あ、それは、わかってる……」
京介,「まあ、いいか……」
映画館はどこだったかな……滅多に足を運ばないからな……。
水羽,「でも、いいよ?浅井くんに合わせるよ?」
京介,「おれも、クラシック聞く以外は、とくに趣味もない。だから、こういうとき、どう遊んでいいのかよくわからん」
素直に言うと、白鳥も少し安心したようだった。
京介,「気を使わなくていいぞ」
水羽,「……使う、よぉ……」
京介,「んな声だすなよ……こっちまで恥ずかしいじゃねえか」
おれたちは、ぎこちない足取りで、映画館を目指した。
;黒画面
;映画の開幕ブーっていうSE
京介,「…………」
水羽,「…………」
開幕まで、白鳥は終始おどおどとしていたが、映画が始まると不意に画面に見入りだした。
当然だが、暗い館内で手をにぎったりはしなかった。
…………。
……。
;背景繁華街1昼
約一時間半の上映が終わり、おれたちは外に出た。
京介,「あー、疲れた」
背筋を伸ばす。
水羽,「……面白かった?」
京介,「んー、まあまあかな……とりあえず死にすぎだな……」
白鳥の頬が上気していた。
水羽,「残酷なのは、私も嫌だけど……なんだろう、ほら、兄貴が弟分をかばって撃たれるところとか……」
京介,「そういう男気みたいなのが、好きなのか?」
水羽,「……かっこいい」
うーん、権三とその仲間たちからそういうものを感じたことは、あまりないなあ……。
水羽,「浅井くんは、本物の拳銃とか見たことあるの?」
好奇心たっぷりの子供の目をしていた。
京介,「……ないでもない」
水羽,「撃ったことは?」
京介,「まあ、いいじゃねえかそんな話は」
水羽,「あ、ごめんなさい。つい……」
京介,「ヤクザさんはみんな拳銃を持ってるわけじゃないし、撃ったことがある人なんて、ほとんどいないらしいぞ」
水羽,「浅井くんは、組織のなかでどういう立場なの?」
京介,「おいおい……」
けれど、白鳥が興味半分ではないことはわかっていた。
おれも、自分のことを話そうと昨晩心に決めたばかりではないか……。
京介,「おれは、養父にいいようにされてるだけだよ。浅井興業っていう会社があるんだけど、そこで雑用やったり、養父が顔見せできないときに代理で面貸したり、電話で相手先と話をつけることもある」
水羽,「……じゃあ、ヤクザの兄貴分ってわけじゃないのね?」
京介,「ぜんぜん違う。お前はたまたま、おれがそういう人たちと一緒になっていたときを見かけたことがあるんだろうが……」
水羽,「うん、なんだか怖い顔で、怖い人たちに命令してた」
京介,「皆さん、おれが組長の義理の息子だから顔を立ててくれてるだけだよ。おれをナメるってことは、オヤジをナメるってことになるから」
水羽,「……そっか……」
京介,「なんだよ、ちょっとがっかりしたか?」
水羽,「ううん。ちょっとだけ浅井くんを近くに感じられた気がして、うれしいの」
満足そうに微笑んだ。
京介,「他に、聞きたいことはないか?」
水羽,「他に……?」
京介,「お前が、いままでおれの裏と思っていたことだよ」
水羽,「じゃあ、えっと……いいかな?」
手を上げてた。
水羽,「いつも、電話しているのは……その……誰なの?」
京介,「あー、ミキちゃんのことだな。あれは、仕事の仲間だ」
水羽,「そうなんだ……」
京介,「女の子と話しているようなことはないよ」
水羽,「そっか……ごめんなさい……」
京介,「ん、なぜ謝る?」
水羽,「いや、浅井くんって、裏表がある人だと思ってて……いままで、それに、つっかかってて……疑ってしまって……」
京介,「別に、裏表はあるだろ。まあ、ちょっと突っ張ってくるな、とは思ってたが……それも、おれが、もらったチョコレートをゴミ箱に捨てたんなら仕方がない」
水羽,「ううん、いいの……」
少し寂しそうに笑った。
水羽,「もっと早くに、こうやって話せていれば良かったな……」
……こうしてみると、白鳥もぜんぜん普通の女の子だな。
京介,「まだまだ、話したりないだろ……飯でも食おうぜ?」
白鳥をうながし、街を歩いた。
;背景オフィス街昼
ホットドッグやハンバーガーを買って公園にやってきた。
おれは、浅井興業からかかってきた電話を何度かやり過ごしながら、白鳥の相手をしていた。
京介,「白鳥……少し、突っ込んだこと聞くけど……」
いままでは、どうでもいいと思っていたことだ。
京介,「お前の親父さん……理事長はどうなんだ?収賄の件といい、先日の立て篭もりの件といい……いろいろ困ってそうだが?」
白鳥は、考えるように視線を逸らした。
水羽,「……どうかしら……外では困っているような顔をしているけれど……あまり、家では話をしないし……」
京介,「なんだよ、父親と夕飯とかいっしょに食べないのか?」
水羽,「滅多にないわ。父は、ほとんど家を空けているから……いつも夜中に帰ってくるの。でも私の門限には厳しくて……」
京介,「それだけ、仕事が大変な時期なのかな?」
水羽,「……いや、女の人のところにいっているみたい……」
京介,「ああ、なるほど。よくあるよな」
水羽,「あ、うん……」
不意に、顔を強張らせた。
京介,「ん、ああ……すまん……金持ちは愛人作る人もけっこういるから……」
しかし、白鳥にとってはショックなのだろう。
京介,「……あ、いや……そうか……大変だな……大変、なんだろうな」
水羽,「……ありがとう……」
でも、慣れない慰めの言葉をかけてやることは、おれにはできなかった。
京介,「ただ、ほら、お前の親父さんも相当な悪人かもしれないが……」
水羽,「うん……」
京介,「悪いやつは、悪いやつなりに理由をもってると思うぞ。だから、たまには話をしてみるといいかもしれないな」
まあ、稀に……その理由の片鱗すら見せつけずに拳を振るってくる悪漢もいるが……。
水羽,「……そんなこと、考えもしなかった」
目を丸くしていた。
水羽,「そうね……もっと相手を理解しないとだめよね……」
京介,「まあ……すっきりするかもな」
水羽,「やってみる。浅井くんとも話ができるようになったんだから……」
京介,「時田とも相談してみるといい」
水羽,「あ、姉さんはダメ」
白鳥の顔が曇る。
水羽,「姉さんは父を恨んでるから。父の話が出るだけで怖い顔になるの。嫌なこと、思い出すんだと思う」
京介,「恨んでるか……」
たしか、母子ともども、家を追い出されたと聞く。
京介,「でも、時田も、いまは幸せなんだろ?」
水羽,「だと思う。お父さんが立派な方だから……」
そこで、はたと気づいたように口を結んだ。
水羽,「あ、でも……姉さんの話とか、聞いたことないな」
京介,「聞いてもらってばっかりか?」
うなずいた。
水羽,「……姉さんも困ってるのかな」
京介,「いや、あいつは、たいていのことは一人でなんとかするだろ」
水羽,「あ、それ……姉さんが浅井くんに対して言ってたのと同じ」
京介,「おれも、一人でなんとかしてるって?そんなわけない。さっきも言ったが、おれの親父がヤバいんだって」
水羽,「そうは見えないけど……」
京介,「それより、ほら……ジュースこぼしてるぞ?」
白鳥の手にあった缶ジュースの口が下をむいていた。
水羽,「ああっ……!」
中身が公園の芝生に降り注がれていた。
京介,「昨日のCDもそうだったが、お前って、ちょっとぬけてるんだな?」
水羽,「CD?」
京介,「バッハの。中身がなかったぞ」
水羽,「え?そうなの!?」
京介,「ちょっとズッコケちまったよ」
水羽,「今度、持って来るわ。あ、それとも、もういらない?」
京介,「いや、貸してくれ。時間が合えば、いっしょに聞こう」
水羽,「あ、合わせる、時間。いつでも言って!」
手を握り締めて挑むように言った。
京介,「そ、そんなに張り切るなよ……」
水羽,「あ、ごめん、京介くん……」
……こっちまで恥ずかしいが……悪い気はしない。
京介,「って、京介くん!?」
水羽,「あ、わ、わあああっ!?」
今度は顔を真っ赤にして震えだした。
京介,「だ、だから、落ち着けよ……!」
水羽,「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
水羽,「い、いつも、家では、そうやって呼んでて……」
京介,「誰にだよ?」
水羽,「こ、心のなかで……!」
京介,「……いいけど……呼び方なんて……」
水羽,「ああ……なんてこと……」
泣きそうになっていた。
京介,「ふ、はは……」
なんだか、おかしい。
金だ、権力だといっていた毎日とは違う。
名前ひとつ呼べずに戸惑う女の子が、目の前にいる。
つられるように笑うおれもいる。
こういうのもたまにはいいかもしれない。
京介,「なんだ、なに黙ってるんだ」
水羽,「……恥ずかしくて」
京介,「なんか話せよ」
水羽,「……あ、えと……」
思いついたように言った。
水羽,「月極駐車場って……」
京介,「え!?」
水羽,「子供のころ、ゲッキョク駐車場って読まなかった?」
京介,「あ、うん……かもしれん」
水羽,「あ、あと、子供のころ、テレビのなかには人がいるって思わなかった?」
京介,「うん、まあ……」
水羽,「子供のころ、歯磨き粉を洗面所の鏡に飛ばして、オリオン座をつくらなかった?」
京介,「それは、ない」
水羽,「それから……」
京介,「いや、おれ、お前のそのシリーズわりと好きかもしれん……」
…………。
……。
;背景繁華街1夕方
水羽,「今日は、ありがとう……忙しいのに」
京介,「いや、おれもなんだか、気が抜けて楽しかった」
水羽,「え?楽しかった!?」
京介,「だから、そんなにテンション跳ね上げるなよ」
苦笑してしまう。
水羽,「メールしてもいい?」
京介,「ああ……」
水羽,「やった」
ときおり見せるあどけない表情が、なんともおれの調子を狂わせる。
京介,「すまんが、今日は送ってやれん。ちょっとこれから……」
水羽,「あ、いいのいいの!悪いよ!」
京介,「悪いな」
水羽,「まだ明るいし、平気」
京介,「また雪になるっていうからな、とっとと帰れよ」
水羽,「じゃあ、また」
白鳥はちょこんと頭を下げて、地下鉄の階段を降りていった。
途中、何度も振り返り、そのたびに、恥ずかしそうに笑っていた。
京介,「……ふう」
これから権三と会って、新鋭会が持っていた商圏切り分けの話をしなくてはならない。
現実に引き戻されるような気分。
だったら、いままで、おれは白鳥と夢でもみていたのか。
つきあってみようか……などと、ふと思う。
あれだけ容姿のいい女の子が、ひたむきに好きと言い続けてくれている。
それだけで、つきあう理由は十分だとも思うが……。
なにかもう一つ、背中を押されたい気がした。
;黒画面
…………。
……。
;背景南区住宅街夜
;雪演出
……やれやれ、また雪か。
権三との話し合いを終えて外に出ると、すでに暗くなっていた。
南区の住宅街を雪のなか、歩いた。
……そういえば、白鳥の家は近くだったな。
いまごろ、なにをしているのか。
セントラル街で別れたあと、メールが届いていた。
『今日は会えてとてもうれしかった。優しくしてくれてありがとう。これから父とご飯を食べにいくことになりました。浅井くんに言われたように、ちょっと話し合ってみようと思う。それじゃあ、またね☆みずは』
……白鳥の言葉づかいに、その心境がうかがえた。
おれとの距離感がつかめないのだろう。
敬語を使ったり使わなかったりと、ずいぶんと大変そうだ。
もし、白鳥がおれの彼女となったとき、いったいあいつはどんなふうに話すのか。
白鳥はかなり甘えたがりな感じもするが……。
;SE着信
……む、時田?
おれは電話を取った。
ユキ,「こんばんは、いまだいじょうぶかしら?」
京介,「……ああ、なんだ?」
ユキ,「ちょっと、話がしたいんだけれど……」
京介,「おう」
ユキ,「出て来れない?いま、セントラル街のバーにいるんだけど」
京介,「……まあ、いいぞ」
ユキ,「じゃあ、待ってる」
色っぽく言って、通話を切った。
……また、白鳥のことかな。
あいつもつくづく世話好きだ。
再び、セントラル街へ向かった。
;背景バー
ユキ,「いらっしゃい」
指定された店に行くと、時田がカウンターから手招きしていた。
京介,「こんなところで、何飲んでるんだ?」
ユキ,「あなたも飲む?ミルクだけど」
おれは適当に頼んで、時田の隣に座った。
京介,「それで、なんだ?」
ユキ,「フフ……まあまあ」
京介,「まあまあって……おれだって暇じゃないんだぞ」
ユキ,「そうね……」
なにか思いつめたような顔をしていた。
ユキ,「複雑なあなたに、ぜひお母さんの話がしたくてね」
京介,「母親?お前のか?」
……なぜ、そんな話をおれに?
ユキ,「あなたもなにか抱えてそうだから」
京介,「人の心を読んだように言うなよ……」
ユキ,「私のお母さんてね、ハーフだったのよ」
いきなり切り出した。
ユキ,「幼いころに日本に来て、それ以来、一度も故郷に帰っていないらしいの」
京介,「ふうん……どこの国だ?」
時田の顔をまじまじと眺める。
ユキ,「アメリカのどこか」
京介,「アバウトだな……」
ため息をついた。
ユキ,「母さん、死ぬ前に、一度くらいは故郷の海を見たかったって」
なんとなく予想はしていたが、時田の母親は、亡くなっていたのか……。
京介,「とりあえず、海が見えるところだったんだな」
ユキ,「みたいね。機会があったら、アメリカじゅうの海を回ってみるつもりよ」
京介,「おいおい、どれだけ時間がかかると思ってるんだ」
時田はまた小さく笑う。
ユキ,「これ」
指差した先のカウンターの上には、小さな手鏡があった。
京介,「まさか、母親の形見とか言うなよ?」
ユキ,「ええっ、どうしてわかったの!?」
京介,「うぜえな……」
ユキ,「この鏡を見ているとね、母さんを思い出すの」
古ぼけていて、鏡にはひびが入っていた。
ユキ,「私の後ろに母さんが立って、よく髪をすいてもらってたわ」
そう言って、懐かしそうに鏡を覗き込む。
まるで、時田の背後に、亡くなった母親がいるかのように。
ユキ,「これが、あれば、母さんと、いつでもいっしょ……」
また、大きく息をついた。
ユキ,「そう、海だって見せてあげられる……」
京介,「なんだよ、珍しくしみったれてるな」
ユキ,「フフ……じゃあ、本題にうつろうかしら」
おれは、少し身構えた。
ユキ,「水羽はどう?」
京介,「どうって……」
肩をすくめた。
ユキ,「今日、デートしてたんでしょう?気に入った?」
……ちゃかしてるわけではなさそうだな。
京介,「そうだな……意外にかわいらしいヤツだとは思った」
ユキ,「うれしいわ」
力ない笑み。
ユキ,「ちょっと酔っ払ったこと言ってもいい?」
京介,「別に、アルコールは入ってないだろ?」
ユキ,「そうだったわね……」
なんだこいつ……?
ちょっと不審に思っていると、時田は語りだした。
ユキ,「水羽と、昔、雪だるま作ったのよ……」
京介,「雪だるま……それがどうした……?」
ユキ,「楽しかったって話……」
おれは黙って、耳を傾けることにした。
;黒画面
…………。
……。
ユキ,「いくつくらいだったか覚えていないけれど、この街の東区に小高い丘があったの」
ユキ,「よく二人でそこで遊んだわ」
ユキ,「少し話したと思うけれど、当時の家庭はひどかったわ。同じ家に、お母さんが二人いるの」
ユキ,「私の母は、てきぱきと家事をこなし、父親の仕事のスケジュールを管理していたわ」
ユキ,「逆に、水羽のお母さんは、それをじっと見てる感じだった。おろおろしながらも、胸のうちに嫉妬を隠していた」
ユキ,「そんな家庭を作ったあの理事長もすごいけど、二人の母親もどうかしてたと思う」
ユキ,「でも、私と水羽は別だった」
ユキ,「あの子は、いつも、とことこと私のあとをついてきたわ」
ユキ,「お風呂までいっしょに入った。おねーちゃん、髪洗ってーってよく甘えてきたわ」
ユキ,「私が、なにかで遠出したときなんか、わんわん泣き出してしまってね。おねえちゃんが、どっかいっちゃうーって」
ユキ,「本当に好きだったみたいよ、わたしのことが」
ユキ,「いつだったか、私がクラスの男の子から誕生日かなにかでプレゼントをもらったことがあるのね」
ユキ,「そしたらもう、一日中、すねちゃってね」
ユキ,「でも、甘えてばっかりでもなかったわ。私が熱を出して寝込んだときにね、一晩中枕元にいて看病してくれたもの」
ユキ,「あとで知ったのだけれど、そのとき水羽も熱があったの。つらいのをおして、わたしのそばにいてくれた」
ユキ,「いっしょに作った雪だるまの名前は、なんだったかしらねえ……二人でせっせと作ったなあ……」
ユキ,「マフラー……喜んでくれてたなあ……」
ユキ,「まさか……まだ、首にまいてくれてたなんて……」
ユキ,「水羽ったら……」
;黒画面
…………。
……。
;背景バー
京介,「おい、時田?」
ユキ,「ああ、ごめんなさい、寝るところだったわ」
京介,「おいおい」
よほど疲れているらしく、目の下に深いくまができていた。
京介,「なにか、あったのか?」
時田はふっと笑う。
ユキ,「浅井京介くん……!」
京介,「なんだ、改まって」
時田は手を合わせ、おれに頭を下げた。
ユキ,「お願い、水羽を幸せにしてあげて……!」
京介,「……え?」
胸を突かれた。
ユキ,「あの子は、まだ子供で、一人じゃこれから大変だわ」
返す言葉を探しているうちに、時田は矢継ぎ早にまくしたてた。
ユキ,「ねえ、わかって。水羽の父は人間のクズで、母親も人形みたいな人なの」
ユキ,「当然与えられるべき愛情も受け取っていなければ、受け取り方も知らないの」
ユキ,「それが証拠に、私が来るまで、ほとんど誰とも口をきかない毎日だったみたい」
ユキ,「そんなあの子が、初めて真剣に恋をしてるの」
ユキ,「そりゃ、幼稚かもしれない。好きになったきっかけも平凡かもしれない。でも、本気なのは、あなたもわかってくれてるでしょう?」
おれは、ようやくうなずいた。
京介,「少し、落ち着け……いったい、どうしたっていうんだ?」
ユキ,「お願い、お願いよ……!」
京介,「まあ、待てって。あいつとまともに話すようになって、まだ日も浅いんだ」
ユキ,「だから?」
京介,「だから、だと……?」
ユキ,「あの子は、ずっとあなたが好きだったのよ!?」
我を失っているように見えた。
京介,「らしくないぞ、時田。白鳥がおれをずっと好きだったとしても、おれがあいつを意識したのは、つい最近のことなんだ」
ユキ,「……わかってる……そうね……っ……」
京介,「なにを焦ってる?」
けれど、時田は曖昧に首を振った。
京介,「どうしたんだよ、時田。そんなに白鳥が大事なら、得意のトークでおれをその気にさせてみろよ」
ユキ,「わかってる……こんなやり方では、あなたの心は動かないって、わかってるんだけど……」
そこでぼそりとつぶやいた。
ユキ,「もう、時間がないの……」
京介,「なに?」
ユキ,「なんでもない……とにかく、お願い」
涙混じりの声。
ユキ,「水羽を……よろしく……」
祈りを捧げるように言われ、おれはどうしていいかわからず、途方に暮れた。
;黒画面
…………。
……。
ニュース,「今日午後八時三十分ごろ、富万別市西区の河川敷で、普通乗用車が炎上しているのを巡回中の警察官が発見しました」
ニュース,「車内からは男性一人の焼死体が見つかっており、現在、身元の確認を急いでいます」
ニュース,「助手席に五リットル入りのガソリンタンクがあったことから、同署は事故と他殺の両面から捜査を……」
……。
そして、その日から、時田はおれたちの前から忽然と姿を消した。
おれたち……。
おれと、水羽の前から。
;黒画面
;```章タイトル
;水羽の章姉妹の言葉と表示
;ノベル形式
十二月のなかばを過ぎた寒い晩のことだった。水羽は、実家で父と夕食をともにしていた。
口数の少ない食卓だった。かちゃかちゃと食器が鳴る音だけが、リビングに響いている。ときおり、思い出したように父が水羽に呼びかける。
理事長,「水羽、一人暮らしは慣れたか?」
水羽は明るくうなずいた。
水羽,「なんでも慣れるものね。いまでは、父さんたちと暮らしてたのが懐かしいくらいだわ」
理事長,「彼とは会っているのか?」
水羽,「もちろん」
弾むように言って、目の前のスープに口をつけた。あごを少しだけ突き出してスプーンをそっと唇まで運ぶ。上品な姉の仕草の真似だった。
理事長,「結婚は、考えているのか?」
水羽,「また、その話?」
苦笑して言った。
水羽,「いいえ、考えてもないわ。もっと、将来の見通しが立ってからじゃないと」
そうか、と父はつぶやいた。自由ヶ咲き学園の前理事長に、かつての目の輝きはなかった。会社の経営状態も悪化し、一時期は倒産の危機にあったという。いまとなっては、ずいぶんと頭の生え際も目立つようになった。
水羽は、そんな父を受け入れていた。優しいまなざしで見つめ、穏やかな声音で会話をつむいでいた。過去の、虚勢を張っていた自分とは明らかに違うという自負があった。
理事長,「昔は……」
父が言った。
水羽,「うん?」
理事長,「お前が幼かったころは、よくお嫁さんになりたいと……」
父の声が、申し訳なさそうにしぼんでいった。
理事長,「すまん、子供のころの話だな……」
水羽,「いいのよ、お父さん。なつかしいわね」
もう、甘えない。そう決めていた。
姉が失踪して、二年と十ヶ月の歳月が過ぎていた。
水羽は学園を卒業して、すでに就職していた。市内中央区にあるプラスチック容器を扱う大きな会社だ。さほど多くはない給料ではあったが、分相応の生活をすれば問題なくやりくりできた。ぬいぐるみや、漫画の本、かわいらしい洋服などを望まなければ、なにも不自由はない。
水羽が働いていることに父は当然反対していた。父はもともと、水羽を進学させて、どこかの企業の跡取りなどと政略的な結婚をさせるつもりだったからだ。けれど、姉を失った水羽は、もう親元でぬくぬくとしているのが嫌だった。
水羽,「それじゃ、お父さん」
言うと、父の目に怯えた色が宿った。
水羽,「もう、帰るわね」
理事長,「そうか……」
父は、いつも、なにか言いたげだった。
水羽,「ごめんね。彼と会う約束をしてるの」
薄く笑って、席を立つ。
京介と会うのは一週間ぶりだった。
;黒画面
…………。
……。
;通常形式
;背景繁華街夜
街の景色は変わらない。
ふと、三年近くも昔の日々を思い返す。
水羽と初めて待ち合わせしたハンバーガーショップは、いまだに深夜まで営業している。
水羽,「お待たせ」
約束の時間に五分ほど送れて、水羽はやってきた。
水羽,「どうしたの?」
京介,「いや、ちょっと昔を思い出してな」
水羽,「そう?」
京介,「待ち合わせ場所に三十分も早く来ていた水羽がなつかしくなった」
水羽はおどけたように肩をすくめた。
水羽,「負けたわ。今晩は、おごらせて」
京介,「そんなつもりじゃなかったんだがな……」
水羽,「いいのよ、行きましょう」
あごで誘って、おれの前を歩き出す。
水羽をまだ白鳥と呼んでいたころには、考えられない行動だった。
;背景バー
水羽のロックグラスには、度数のきついバーボンが注がれていた。
乾杯を終えると、酒を味わうように舌で転がしていた。
水羽,「さて、なにかわかった?」
その質問は、すでにおれたちの儀式となっていた。
無論、時田の消息についてだった。
京介,「なにも」
水羽,「無理もないわね。姉さんがいなくなって三年だもの」
京介,「いちおう、裏で顔の利く情報屋にも声をかけているんだが……」
水羽,「ええ……」
京介,「まるでさっぱりだ。この前雇った探偵のほうはどうだ?なにかつかんだか?」
水羽,「ダメね。高いお金を払ったのに、失踪した当日の足取りもつかめてないみたい」
こんなやりとりをして、もう三年になる。
京介,「例の、焼死した男の事件はどうなった?」
水羽,「ええ、片倉幸一ね。父の会社の役員だった」
京介,「まだ、警察になにか聞かれるか?」
水羽,「昨日も、警察署に呼ばれたわ」
三年前、片倉という男が死んだ。
はじめは、それがおれたちになんの関係があるのかわからなかった。
けれど、事件を追う警察に呼ばれた水羽の話から、おおよその事情を聞いた。
片倉の死と、時田の失踪には因縁があったという。
どんな因縁なのかは教えてもらえなかったそうだが、警察の考えていることを推察すると……。
水羽,「警察は、姉さんが片倉を殺したのだと考えて、いまになって動き出したみたいね」
喜ぶべきか、嘆くべきか。
警察が事件を追うのなら、時田が見つかる可能性はぐっと上がる。
これまでのように、ただの行方不明者ではないのだ。
本腰を入れて、殺人事件の容疑者を追うのだろう。
水羽,「どう思う?やっぱり姉さんが殺したのかしら?」
熱っぽいまなざしを向けてくる。
京介,「さあな……」
水羽,「姉さんは人を殺した。考えたくないけれど、それなら連絡ひとつよこさずに姿をくらました理由も納得できる」
……変わったよな、こいつも。
水羽,「なんにしても、早く会いたいものだわ。生きているのならね」
また、グラスに口をつけた。
まるで酔いが回った様子がない。
水羽,「生きて……いるよね?」
媚びるように聞いてきた。
ごく稀にみせる弱さに、逆に安心する。
京介,「生きてるさ」
水羽,「ありがと」
そっと手をカウンターの上に置いた。
握って欲しいのか、おれの手の甲まで伸びてくる。
けれど、思い直したように、おずおずと引っ込んでいった。
水羽,「仕事、順調?」
おれの視線に気づいたのか、顔を引き締めた。
京介,「おれは相変わらずだよ。金は貯まっていくが、その分、上に吸い上げられる額もひどい」
水羽,「体、壊さないでね」
ふと、水羽の眉間にしわが刻まれた。
京介,「もう、平気だって。何度言わせるんだ……」
水羽,「なら、いいけど……これでも心配してるのよ」
……知ってるさ。
水羽,「またあんなことになったら、私、今度こそ自分を許せそうにないから」
京介,「わかってる。おれも無理はしてない」
三年の間、一度、病気をした。
それだけのことだった。
水羽,「いい?私のためでもあるのよ。あなたを心配するのは」
勘違いしないでね、などとゲームのキャラクターめいた言葉を発していたあのころが、やはり、なつかしかった。
けれど、いまの白鳥水羽は、ある種の作為を覚えているだけの、現実の人間だった。
あえて自分を傷つけるような言葉で、本音を隠そうとして失敗していた。
胸に、底知れぬ悲しみを抱いているのは、わかりきっている……。
;背景繁華街1夜
京介,「遅くなってしまったな」
冬の風が吹きすさんでいた。
ビルの間を抜け、水羽の髪をなでていく。
京介,「うちに来いよ」
水羽,「……そうね、どうしようかしら」
京介,「もう、電車ないだろ?」
水羽は、セントラル街からずいぶんと離れたところに一人で暮らしている。
家賃が安いというのが理由らしいが、本当はできるだけ親元から離れた場所に住みたかったのだろう。
水羽,「お言葉に甘えようかな」
ようやく笑顔を見たような気がする。
水羽,「あれ……?」
笑顔が、不意に隠れていった。
京介,「どうした?」
水羽,「姉さん……」
震える声。
水羽,「姉さんだ……」
ビルの角に目を凝らしていた。
視線をたどっていくが、おれには何も見えない。
水羽,「姉さん!」
直後、地面を蹴る。
京介,「おい、水羽!」
水羽,「姉さん、こっち、こっちだよ!」
声はセントラル街の喧騒にかき消された。
水羽,「ねえ、見て!こっち、こっちだってば!」
;黒画面
ビルの角を曲がったとき、女の影は消えていた。
;背景繁華街1夜
水羽,「はあっ、はあっ……そんな……」
京介,「どうしたってんだ、いきなり?」
水羽,「見えなかった!?姉さんが、いたのよっ!」
時田が曲がっていったらしい路地には、くたびれた浮浪者の姿しかなかった。
水羽,「そんなはずはっ……!」
必死に姉の姿を追う水羽は、少女の顔に戻っていた。
京介,「人違いだろ……」
前にも、こんなことはあった。
水羽,「だって……っ……」
少女の顔が、大人びた女性の顔に変化していく。
水羽,「……ありえないわね」
京介,「もし、時田なら、真っ先にお前に会いに来るって」
水羽,「ふっ……そうね。だといいけど」
自嘲気味に笑う。
水羽,「酔っ払ってるんだわ、私。もう帰りましょう」
肩を落とし、歩道を渡っていった。
おれの助けなど必要ないと言わんばかりに、一人、歩いていった。
あたりの風景は、存外昔のままだった。
これから向かうおれの部屋も、なにひとつ変わっていない。
;黒画面
三年の時が流れた。
水羽とともに帰宅すると、まるで昨日のことのように思い返される――。
;ぐにゃーっと、歪むような演出
;背景主人公の部屋夜あかりなし
京介,「白鳥、お前のことが好きだ」
時田が突然いなくなってから一週間が過ぎていた。
おれは、自分を見失っていた白鳥を部屋に招いた。
水羽,「え、い、いま、なんて……?」
京介,「お前が好きだ。もう言わないぞ」
水羽,「う、うそ……でも、私……」
京介,「わかってる。お前も、時田がいなくなって不安な時期だってのは」
水羽,「そうよ……姉さんが……」
目に涙が溜まっていく。
水羽,「姉さんが、いなくなっちゃったよぉ……」
ひっぐ、ひっぐと、泣きべそをかいていた。
水羽,「私に、なんにも言わないで……いなくなっちゃったー!」
迷子になった子供そのものだった。
水羽,「浅井くん、浅井くんっ!もう、どうしていいのかわかんないよ!」
水羽,「浅井くんにも嫌われちゃうよ!姉さんのアドバイスがないと、なにしゃべっていいかわかんないよぉっ!」
水羽,「姉さんがいないと、私、わたしぃ……っ!」
泣きじゃくる白鳥の額に、そっと手を置いた。
京介,「だいじょうぶだ。おれがついてる」
水羽,「……ひっぐ、ひっぐ……」
京介,「時田がいなくても、おれがいる」
涙を指でぬぐってやった。
京介,「目、閉じろ」
水羽,「あ、えっ!?」
抱きすくめ、唇を奪った。
水羽,「……あ、むっ……!」
甘い官能が脳髄に響く。
水羽,「はあ……あ、あ……」
自分がなにをされたのかもわかっていないらしい。
ほうけた表情で、視線を宙にさまよわせていた。
京介,「お前を抱く。いいな?」
水羽,「あ……」
うなずいた。
姉が失踪して張り詰めていた心が、一気に解放されたのか。
思考を停止した人形のようだった。
水羽,「け、結婚……」
うわごとのように言う。
水羽,「結婚、して……」
白鳥にとって、セックスするということは、そのまま結婚することらしい。
……これも、人生か。
水羽,「で、でも、うれしい……」
京介,「ん?」
水羽,「す、好きな人の部屋で……初めてはって……決めてた……」
京介,「……そうか」
本当に、おれで良かったのかはわからない。
ある人間の生涯のベストパートナーが誰であるのか。
そんなもの、一生わからないかもしれない。
わからないから、責任だけは取るつもりでいた。
おれは白鳥の肩に手をかけ、衣服を脱がせていった。
;以下エッチシーン
;=============================和谐了@call storage="gmh1.ks"======================
;黒画面
…………。
……。
;ぐにゃーっと歪むような演出
;背景主人公の部屋夜あかりあり
そして、三年後の今。
水羽,「なに考えてたか、当ててみせようか?」
いきなり現実に引き戻される。
水羽,「初めてのとき、でしょ?」
京介,「時田に似てきたな」
水羽,「そう?」
京介,「言い回しといい、仕草といい、さすが姉妹ってか」
水羽,「姉さんに似てるって言われると、うれしいわ」
腕を組み、相手の心を見透かすように、薄く目を開けていた。
水羽,「なにか作ろうか?」
京介,「いや、いい」
水羽,「疲れてるのね。肩でも揉もうか?」
京介,「だいじょうぶだって」
水羽,「……いいから」
京介,「あ、おい……」
おれの手を引いて、ベッドに座らせた。
水羽の腕がおれの肩に回る。
ややあって、脳天まで響くような気持ちよさが、肩から突きあがってきた。
強引さはあったが、的確にツボを押してくる。
水羽,「気持ちいい?」
京介,「ああ……」
水羽,「良かった」
仕草や言い回しこそ変わったが、水羽の想いは変わっていなかった。
京介,「なあ、前にも言ったが、いっしょに住まないか?」
水羽,「それは前と同じ答えを返してもいいかしら?」
京介,「なんでだよ……お前だって、会社に近いほうがいいだろ?」
水羽,「フフ……そんなに私と一緒になりたいの?」
京介,「なにが、フフだ……」
水羽,「あ、きゃっ!」
振り向いてベッドに押し倒した。
京介,「泣き虫のお姫様のぶんざいで」
水羽,「あなただってお金の亡者のくせに」
水羽が笑うと、つられるようにおれも笑っていた。
京介,「……まったく、言うようになったな」
水羽,「嫌いになった?」
京介,「ああ」
水羽,「嘘ね」
京介,「その自信はどこから来るのか」
最近のおれたちは、いつもこうだ。
どこか駆け引きのようなやりとりが、当たり前になっていた。
水羽,「でも、本当は、私より姉さんのほうが好きだったんじゃないの?」
京介,「水羽より、あいつのほうが会話が弾んだのは確かだな」
水羽,「会話が弾んだほうがいいなら、いまの私にだって満足しているはずよ」
京介,「ものは言いようだな」
たまに、時田と話しているような気になることすらある。
京介,「まあ、とっとと引っ越して来いよ。この部屋は見ての通り、広い」
水羽,「悪いけど、家賃が高すぎるもの」
京介,「そんなもんはおれが……」
口をつぐんだ直後、水羽のいたずらっ子のような顔が迫っていた。
水羽,「らしくないわね。お金を出してくれるなんて」
京介,「……金を出すなんて言ってねえから」
水羽,「そうよね。浅井くんに限って……」
にたにたと笑っていたが、不意に、つき物が落ちたように、
水羽,「……優しい人……」
つぶやいて、おれの背中に顔を寄せてきた。
水羽,「そっか、姉さんに、似てきたか……」
独り言のようだったので、返事はしなかった。
水羽,「寝ましょう、浅井くん……」
その夜は、抱き合ったまま眠った。
態度こそ変われども、交わした口づけは、昔と同じようにぎこちなかった。
;ノベル形式
まるで似ていない姉妹。憧れていたと同時に、悩ましくもあった。姉は思ったことを上手に表現できる口を持っていたが、水羽にはなかった。姉のようになれたらと、いつも心の底で思っていた。
白鳥水羽にとって時田ユキは、いつでも強く、頼りがいのある存在だった。
物心ついたときから、姉はそばにいてくれた。
姉についていけば、姉の言う通りにしておけば、なにも考えなくてよかった。
だから、あの日、姉がいなくなった日の朝も、まったく気づかなかった。
いまも、あの朝の出来事が水羽の胸を突く――。
;背景南区住宅街夜
;雪演出
;ユキと水羽の立ち絵を表示二人とも私服。
水羽,「姉さん、どうしたのこんな時間に」
ユキに呼び出されて、家を抜け出した。まだ夜も明けていない早朝だった。
ユキ,「ごめんね、水羽。父親に叱られる?」
水羽,「あ、いいんだよ。気にしないで」
本当は、家の数あるドアノブを回すたびに心臓が縮む思いだった。
ユキ,「じゃあ、行こう」
水羽,「行くって、どこに?」
ユキの手に提げられたボストンバックが目についた。
ユキ,「決まってるじゃない。ほら、見て。大雪よ」
水羽は姉の視線につられて、真っ暗な空を仰いだ。
水羽,「雪が、どうかしたの?」
ユキ,「雪だるま、作りに行かない?」
無邪気に笑うユキは、とても幸せそうに見えた。
水羽,「うん、いく。どこいく?」
ユキ,「ここはあんまり積もってないけど、東区の山のほうならいけるんじゃないかしら?」
水羽,「じゃあ、連れてって」
甘えた声を出して、姉の腕をつかんだ。
ユキは、しょうがない子ね、とむず痒くなったような顔で、水羽の手を引いた。
水羽,「姉さんと、雪だるまっ!」
ユキ,「…………」
水羽,「なつかしいなあ、楽しいなあ!」
しょうがない子ね、ユキは、もう一度言った。今度は、寂しそうに。けれど、甘えん坊の水羽はすぐに気にならなくなった。
;背景空夜
;雪演出
タクシーを拾い、ユキが目的地を告げた。東の空が明るくなるころには、山に近づいていた。未舗装の道路がでこぼこと車内を揺らす。水羽は、隣に座る姉のことなど気にもかけず、窓の外に広がる乳白色の雪景色に見入っていた。
;黒画面
人気のない公園の近くに降り立つと、水羽はすぐさま雪を集めだした。せっせと雪玉を転がして、雪だるまの胴体と頭を作る。木の枝を見つけ、腕にした。公園の公衆トイレにあったバケツを拝借して頭に乗っければ、かわいらしい雪だるまのできあがりだった。
水羽,「完成!」
ユキ,「がんばったわね」
水羽,「もう、姉さんはなにもしてないでしょう?」
ユキ,「そうだっけ?」
水羽,「昔からそうだったよ。まったく姉さんはぐうたらさんだなあ」
二人して空を見上げる。裂けた雲間から太陽が覗いていた。
いつの間にか、雪はやんでいた。
ユキ,「マフラー、巻いてあげたのね」
水羽,「うん、いけなかった?」
ユキ,「ちょっとこいつに嫉妬したわ」
水羽,「ああ、ごめん。すぐ取り返すね」
ユキ,「冗談よ。でも、忘れないでね。忘れずに持っていてね」
念を押すような口調に、けれど、水羽はなんの違和感も抱かなかった。
ユキ,「ああ、水羽」
水羽,「なあに、姉さん?」
ちらと姉を見た。穏やかな表情で空を見上げていた。
ユキ,「父親と話をしてあげて」
水羽,「……お父さん?私の?」
ユキ,「そう。寂しいでしょう。会話のない親子なんて」
意外だった。ユキは水羽の父親を快く思っていない。それどころか、たまに空恐ろしいまでの目つきで、父をなじっていた。
姉は、いつまでも穏やかな顔で空を見上げていた。
ユキ,「いちおう、私の実の父でもあるしね」
深くは聞かないでおこうと、水羽は思った。頭のいい姉さんのことだ。素直に従うのが一番だ。
水羽,「わかったよ、姉さん。今日の昼にもね、浅井くんに同じようなこと言われたよ?」
ユキ,「あら、そう?」
水羽,「悪いやつは、悪いやつなりに理由をもってるから、話し合ってみるのもいいかもしれないって」
ユキ,「彼らしい意見ね。ならもう、私は……」
水羽,「なあに?」
ユキ,「なんでもない。帰りましょう」
水羽,「え、もう?」
ユキ,「そろそろ、家族が起きる時間でしょう?」
水羽,「そっか、さすが姉さん」
雪だるまと別れるのは名残惜しかった。
別れの挨拶にと、何度か頭をなでる。マフラーを回収すると、最後にちょっと抱きついてやった。
水羽は、やはり、気づいていなかった。雪だるまよりもむしろ水羽を名残惜しそうに眺めるユキの存在に……。
;黒画面
ユキ,「運転手さん、ここで停めてください」
ユキが東区の地下鉄駅の前で、不意に身を乗り出して言った。
水羽,「どうしたの、姉さん?まだおうちじゃないでしょう?」
ユキ,「ちょっと、用があってね。あなたは一人で帰ってちょうだい」
水羽,「用事ってなに?私もついていったらダメ?」
ユキ,「早く帰らないと、父親に見つかるわよ」
水羽,「……うん、そうだけど……」
このときになって、水羽はようやく予感めいたものを覚えていた。
水羽,「あのね、姉さん。浅井くんのことで、また相談があるんだけど」
ユキ,「ごめんね。また今度にしてもらえない?」
水羽,「今度って、いつ?」
ユキ,「さあ……都合によるかしらね。彼のことなら、もうだいじょうぶだと思うわよ」
水羽,「でも、まだ不安で……」
ユキ,「困った子ね」
水羽,「わかった。連絡待ってるね。都合がついたら、電話してね」
なるべく早くに……と言いたかったが、声にはならなかった。思っていることを素直に口に出せない悪癖が、血を分けた姉に向かっても顔を覗かせていた。
ユキ,「じゃあ、アドバイスを」
ユキはタクシーから足を出して言った。水羽は目を輝かせる。
ユキ,「もっと、人を知ろうとしなさい。そして、言葉で人を動かしてみなさい」
まったく意味がわからなかった。不安にかられ、思わず泣きそうになった。
人を知り、言葉を使えば、いま、姉を引き止めることができるのだろうか。
実はまさにその通りだったのだが、当時の水羽にはとうてい無理な要求だった。
姉は、タクシーを降りていく。そのままどこかへ行ってしまった。
せっかく作った雪だるまも、数日のうちに溶けてなくなった。
;背景空夜
;雪演出
ユキからの連絡はなかった。
水羽は何度となく電話をかけたが、コール音すら鳴らなかった。
姉を待った。
けれど、どこで待てばいいのかもわからなかった。学園の屋上で、あるいは家の門の前で、両手で肩を抱きながら立ち尽くしていた。
理事長,「水羽、なにをしているんだ?」
見かねた父親が問い詰めてきた。息が凍るほどの、寒い夜だった。
水羽は、自宅前の道路の縁石に腰掛けて小さくなっていた。
理事長,「いま、何時だと思ってるんだ!?」
酒臭い吐息に、ほのかな香水の匂い。白鳥理事長は、赤ら顔を水羽に近づけた。
理事長,「また、ユキか?ああっ?ユキと遊んでいたんだろう?」
水羽,「違う」
父を見上げた。
水羽,「姉さんを待ってるの」
理事長,「こんな時間から遊ぶつもりだったのか、夜更かしもたいがいにしろ」
水羽,「本当に、待ってるの……」
うまく言葉にできなかった。
姉さんがいなくなった、と言葉にしてしまいたくなかった。もし、本当にそうなってしまったら、自分は一人ぼっちになってしまう。
父がうんざりと水羽を見て言った。
理事長,「いいか、ユキの母親はな、会社の金を盗んだんだ。だから、親子ともども追い出した。なにか文句があるか?」
何度か聞いた話だった。そのたびに水羽の心は虚ろになっていた。水羽は、酒に酔った父が怖くて、何も言い返せなかった。
ごめんなさい、姉さん。胸のうちでつぶやくと、虚ろな心がからっぽになった。
父親は飽きもせず、姉をなじっていた。
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
;ノベル形式
人間は食欲を満たそうとしているときに気を許しやすい。だから、水羽は、たびたび父と会食することにしていた。
水羽,「父さん、聞いてる?」
背すじを曲げながら茶碗をなめていた父に言った。
理事長,「ああ、聞いてるよ。そうか、主任になったのか……すごいな、水羽は」
たどたどしく言葉をつむぐ。いまや、父は完全に弱気になっていた。事業に失敗した負け犬と世間が言う。愛人とも切れたようだ。因果応報だと、母が言った。
理事長,「出世が早いな。うん、さすがは、父さんの……」
そこで、思いつめたように、父は押し黙った。
――さすがは父さんの娘だ。
けれど、己を恥じたのだろうか。父は、水羽に父親らしいことをした覚えがなかったのかもしれない。
理事長,「次は……いつ、会えるんだ?」
上目づかいに、水羽の顔色を探るように聞いてきた。
水羽,「そうね、あさってはどう?」
理事長,「私はいつでもいいよ」
父の顔が、ぱっと明るくなった。水羽は姉のような穏やかな微笑を浮かべるだけだった。
――この人を恨んではいけない。
心に言い聞かせ、父の顔についたご飯の粒を指で拾ってやった。
水羽,「意外とかわいらしいところあるよね、お父さん」
父の目に涙が滲んだ。
ばつの悪いものを見た気がして、水羽は目を逸らした。
;黒画面
;通常形式
…………。
……。
;背景オフィス街夕方
ある休日、おれは水羽と待ち合わせしていた。
仕事に精を出す水羽の休みはなかなか取れず、いまでは週に一度会えればいいほうだった。
水羽,「今度は浅井くんが遅刻ね」
京介,「悪かったな。一杯おごるよ」
水羽,「じゃ、遠慮なく」
京介,「ちょっとは遠慮しろよ」
腕を組み、のどかな公園を散歩した。
水羽,「ごめん、ちょっと会社から電話」
京介,「ああ……」
水羽,「出てもいい?」
ちゃんと断ってくる。
……昔は、そんな気づかいができる女ではなかったのに。
おれがうなずくと、水羽は携帯を開いた。
凛々しい顔つき。
さっそうと電話に出る水羽は、まるで時田のようだった。
水羽,「そう、良かったわ。先方も喜んでくれるでしょうね」
水羽,「違う。私のラインのみんなが優秀なだけ。それだけよ」
水羽,「……祝杯?フフ、おごってくれるって?」
水羽,「また今度にしてもらえるかしら。いま、彼とデートなの」
水羽,「ええ、また改めて。ありがとう。お疲れ様」
苦笑しながら、通話を切った。
京介,「なんだよ、やけに貫禄があるな」
水羽,「そう?」
京介,「お前、部下いるのか?」
水羽,「今年入った新人が五人くらい。みんなよく働いてくれるわ」
京介,「ずいぶんと慕われてるみたいだったが?」
水羽,「だといいけど……」
物憂げな表情でうつむいた。
水羽,「なあに、まさか妬いてるの?」
京介,「ほざけっての」
水羽,「安心して。あなたより素敵な人なんてこの世にいないわ」
京介,「……っ」
さすがに恥ずかしくなって、おれは水羽から目を逸らした。
京介,「……お前、ほんと、言うようになったな」
おれの心を、どうやったら動かすことができるのかを知っている。
水羽,「直球に弱いわよね」
京介,「……悪女め」
水羽,「でも、嘘じゃないわ」
ささやくように言って、おれの胸に顔を預けてきた。
しかし、触れ合っていたのも、ほんのわずかの時間だった。
京介,「いいんだぞ、もう少し、甘えても」
水羽は首を振った。
水羽,「さ、買い物に行きましょうか」
また、おれの前を歩き出した。
;背景バー
京介,「どうやら、片倉は過去に、時田の家を放火したんじゃないかって話なんだが……」
いつものバーで水羽と酒を酌み交わす。
水羽,「それが本当だとしたら、殺されても仕方がないわね」
京介,「でも、事実だとしたら、時田も警察に訴え出るべきだったな」
水羽,「姉さんのことだから、きっと自分の手で復讐を果たしたかったんじゃない?」
京介,「馬鹿げてる……」
水羽,「馬鹿げてるわね」
水羽はまなざしを床に落とした。
水羽,「いまにして思うわ」
京介,「…………」
水羽,「あのころの姉さん、ごく稀にだけど、思いつめたような顔をしていたから」
京介,「そうか……?」
水羽,「あなたも気づかなかった?」
……たしかに、おれは知っている。
このバーで、時田がおれに頭を下げてきた夜のことを。
水羽を、よろしくと……。
京介,「どうかな……いまにして思えば、不審な態度はあったかもしれんが……」
水羽,「記憶にない?」
京介,「すまんが、忘れっぽいのは相変わらずでな」
水羽,「そう……」
思いつめたような顔をしているのは、水羽も同じだった。
水羽,「もっと、姉さんを知ろうとするべきだった」
京介,「…………」
水羽,「私は姉さんを頼ってばかりだったけど、逆に姉さんには頼れる相手もいなかったのよ」
そして、唐突におれを見据えた。
水羽,「私のこと、好き?」
京介,「ああ」
ためらわず、うなずいた。
水羽,「ありがと。今日は泊まらせて」
グラスを空にして、おれたちは店を出た。
;背景主人公の部屋夜あかりなし
京介,「お前の方から泊まりに来たいとか、珍しいな」
水羽,「迷惑だったら、帰るけど」
京介,「ぜんぜん、毎日でもくればいい」
ため息があった。
水羽,「浅井くんは、少し変わったわよね」
京介,「そうか?」
水羽,「落ち着いたわよ。昔はもっと、ぎらぎらしてたもの」
京介,「水羽のせいで牙が折れたかな」
いつもの冗談のつもりだったのだが……。
水羽,「そうだよね、ごめん……」
京介,「なんだよ、らしくねえな」
水羽,「だって、浅井くんは……」
京介,「京介でいいっての」
刺すように言うと、水羽が目を剥いた。
水羽,「だ、ダメ……また、甘えてしまう」
京介,「いまのお前なら、さじ加減がわかるだろう?」
水羽,「……っ」
唇を噛んだ。
水羽,「ダメよ、ほら、思い出してよ……」
京介,「…………」
水羽,「私が迷惑ばっかりかけてるから、あなたは肺炎になったんじゃない?」
京介,「それは勘違いだな」
水羽,「嘘よ。あのころの私はひどかったわ。気分の浮き沈みが激しくて、甘えたかと思ったら怒り出して……」
ふと、思い返される、これまでの記憶。
スーツの似合う水羽が、まだ少女だったときのことだ。
;背景主人公の部屋夜あかりなしセピア調
肺が凍りそうなほど、寒い夜のことだった。
水羽,「映画楽しかったね、京介くんっ」
水羽を抱いてから、一年ほどたっていた。
水羽,「えへへっ、京介くんのおうちはいい匂いがするなあ」
でれでれと笑いながら、当然のようにおれに抱きついてくる。
水羽,「どうしたの?なに汗かいてるのかな?ひょっとして、水羽のこと好きで緊張してるの?」
少女はいたずらっ子の顔で、そんなことを言った。
水羽,「ねえ、チュウして」
京介,「…………」
水羽,「チュウしてよ、チュウ。いま二人っきりだからいいでしょ?ねえ、京介くんっ」
京介,「……っ……」
水羽,「チュウ!チュウが足りないよぉ?ぎゅってしてよぉ!」
京介,「い、いまは……いい……」
水羽,「え、なんで!?」
京介,「すまんが……」
水羽,「ひどいよ、どうして!?」
京介,「……っ」
水羽,「京介くん、言ったよね!?人前ではやめろって!誰もいないよ!?いいじゃない!?」
京介,「……いや……ちょっと、な」
水羽,「なにそれ?」
水羽,「なにそれ、なにそれ!?」
水羽,「いつもそうじゃない!?思ってることあるなら言ってよ!」
京介,「……ぐ……」
水羽,「私はぜんぶ話してるよ!素直になってるよ!なにか悪いの!?悪いなら言ってよ!」
水羽の腕がおれの胸を押したそのときだった。
京介,「……っ」
ふらりと、足が滑り、そのまま意識を失った。
;背景主人公の部屋あかりなし夜
水羽,「だから、浅井くんは三日も入院することになったのよ」
京介,「関係ねえよ。カゼをちょっとこじらせただけじゃねえか」
水羽,「お医者さんが言ってた。体力が落ちてたのは、ストレスが原因だって」
京介,「そりゃ、毎日権三に殴られてたようなもんだからな」
水羽はたまらないといった様子で、ため息をついた。
水羽,「ごめんなさい、いろいろと」
京介,「いいから、こいよ」
水羽,「……っ」
引き寄せると水羽は戸惑ったように、おれの腕のなかに収まった。
水羽,「私ね……」
ぽつりと言った。
水羽,「……好きな人には、どんな感情をぶつけても許されるって思ってたの」
水羽には時田が来るまで、話し相手の一人もいなかった。
水羽,「舞い上がってたのよ。浅井くんが優しいから、なにをしても嫌われないって思ってたの」
水羽,「まるで、物の扱いと同じじゃない?あなたが、対等な人間であることを忘れていたんだわ」
……おれも、こいつを物のように扱おうとしたときがあった。
あのとき思いとどまって、本当に良かった。
水羽,「よく、いままで我慢できたわね……」
京介,「我慢?」
水羽,「私といっしょにいてくれたじゃない?」
京介,「おかしなこと言うなよ。いっしょにいたいからいたんだ」
水羽の目に涙が浮かんだ。
水羽,「同情してくれたんでしょう?」
京介,「……なに?」
水羽,「私とつきあってくれたのは、私を抱いてくれたのは、不憫に思ったからなんでしょう?」
おれは、どう答えたものか、ひとまず押し黙った。
水羽,「姉さんが、去り際に私のことを頼んだからでしょう?」
……そこまで知っていたか。
水羽,「バーのマスターに聞いたの。姉さんがいなくなる前日に、あなたは姉さんに頭を下げられてたはずよ?」
水羽の声が、涙に滲んでいく。
泣き顔になる前に、おれは言った。
京介,「だが、同情だけで三年もつきあえるものじゃない」
嘘はつかないつもりだった。
水羽,「わかってる」
泣かせないつもりだったのに、涙が頬をつたった。
水羽,「わかっているからこそ、うれしくて、申し訳なくて……」
京介,「そうか、もういい」
水羽,「私、怖かったのよ。一人じゃなにもできないから、誰かを頼りたかった。それが、たまたま浅井くんだった……」
京介,「おれを選んでくれてうれしい。だから、もういいんだ」
水羽,「あなたが高熱を出してたなんて、知らなかった。知ろうともしなかった。そんなんだから姉さんの悩みも聞いてあげられなかった……」
ごめん、ごめんなさい、と何度も繰り返した。
そっと、頭をなでる。
京介,「お前はそれから、たくさんおれに質問してきた。おれはなんでも話した。北海道のあばら家で暮らしてたときの話も、お前なら心地よく話せる」
水羽は、小さくうなずいた。
京介,「おれにもそういう相手がいて、良かった。自分をさらけ出せる相手は水羽だけだ」
水羽は震えだす。
水羽,「ありがとう」
今度は、ありがとう、と五回くらい繰り返す。
それからさきは言葉がなかった。
そっと、涙のあとをふいてやった。
;背景主人公の部屋夜あかりなし
;立ち絵の表示はなしで
抱き合ったまま、ベッドに向かう。
おれは水羽を押し倒す格好になった。
京介,「かまわないか?」
水羽は、こくりと、うなずいた。
水羽,「私も……その……して、欲しかったから……」
京介,「じゃあ、京介と呼べ」
いきなり命令口調だったので、水羽もおかしくなったようだ。
水羽,「どうしたのよ、呼び方なんてどうでもいいんじゃないの?」
京介,「やはり、言葉ってのは重要だと思ってな」
水羽,「そうね、姉さんならそう言うわ」
京介,「じゃあ」
水羽が目を閉じた。
水羽,「うん、京介くん……」
;以下エッチシーン
;ev_mizuha_h_05→ev_mizuha_h_04の流れ
;=====================================咳咳=========@call storage="gmh2.ks"
;黒画面
おれは、その晩、決めた。
水羽に言わなければならないことがある。
今度は、おれから……。
…………
……。
;ノベル形式
父の姿はおとといより、さらに小さくなったように見える。頬が落ちて、おどおどと自信をなくしたように箸を動かしていた。不意に、観念したような顔になった。
理事長,「水羽、もういいんだ……」
かたわらにあったブランデーの瓶は遠ざけていた。かわりに、胃薬らしき袋が封をきられていた。
水羽,「もういいって?」
理事長,「私のことだよ」
しわがれた声で言った。
水羽,「どういう意味かしら?」
理事長,「私が、悪かった」
こめかみを指で押さえ、苦しそうに目を細めていた。
理事長,「私が、悪かったんだよ、水羽……」
それは、愛人とその娘を追い出し、学園工事を巡って不正な金を受け取った悪人の、成れの果てだった。
けっきょく、不正は発覚し、父は世間から後ろ指をさされるような毎日を過ごしている。学園の立て篭もり事件を引き起こした橋本という男は、いまだに父を恨んでいるらしい。
目を光らせ、顔をこわばらせて彼はうめいた。
理事長,「私も、私生児だったんだ……」
水羽,「そう」
理事長,「聞いてもらえるかな?」
水羽,「もちろん」
いまにも泣き出しそうな顔で彼は切り出した。
育て親がろくでなしの悪党だったこと。幼い頃の父をおいて、母ではない別の女と家を出て行ったこと。頼みのつなの実母にも捨てられたこと。大阪の小さな屋台でラーメンを食べていたら、いつの間にか置き去りにされていたのだという。だから、彼は、家族との食事を避けていたのかもしれない。
昔語りを終えた父は息を詰めて、水羽を見つめていた。水羽の目に、同情が見えないことは、彼も悟っていた。
だからこそ、水羽はじっと押し黙っていた。沈黙こそが、ときに最大の言葉となって、相手の胸を突き刺すのだ。水羽の仕組んだ静寂が、やがて、待ちわびたひと言を引き出した。
理事長,「ユキに、謝りたい……」
頭に鋭く爪を立て、ぶるぶると全身を震わせていた。
理事長,「謝りたい、謝らせてくれ……!」
うめきがほとばしった。水羽に祈りを込めるような格好になった。
水羽,「でも、姉さんは、もういないわ」
彼は顔を両手で覆い、そのまま動かなくなった。
水羽,「それでも、私はいるから」
父の体の震えが、ぴたりと止まった。その瞬間を見計らって、これまで溜めてきた言葉を一気に解放した。
水羽,「私にお父さんを責めることはできないの。なぜなら私だって、姉さんを苦しめていたのだから。わかるでしょう。家を出て行った姉さんが爪に火を灯すような毎日を過ごしていたのに、私はぬくぬくと、かわいいぬいぐるみを集めていたの。姉さんの深い悩みを知ろうともせずに、自分ばかり助けてもらっていたのよ。あなたはとても目立った悪人だけど、私に言わせれば、か弱い少女に甘んじていた私のほうがよっぽどたちが悪いわ。あなたに罪があるのなら、私だって糾弾されるべきなのよ。昔、まだ心を閉ざしていた彼の部屋にお邪魔したことがある。彼が踏みとどまらなければ、私は犯されていたと思う。それぐらい足りない女の子だった。彼と姉さんの深い優しさに包まれていなければ生きていけない。たいしたとりえもない私は、ただ、守られていたの。人は独りでは生きていけないというけれど、一人で生きようともしなければ、そこには必ず甘えや媚という悪が芽生える。そんな当たり前のことを、私はようやく学んだわ」
長くしゃべって、ようやく一息ついた。
流暢に動いた口が、自分でも信じられなかった。姉から授かったものだと水羽は思った。
理事長,「……すまない」
父の瞳に、時田ユキが映っていた。
;背景オフィス街夜
;雪演出
父が泣き崩れたその夜、水羽は京介に呼び出されていた。
水羽,「いったいなんなの、デートするには少し遅い時間じゃない?」
京介,「天体観測でもしようと思ってな」
京介は肩をすくめた。意味がわからない冗談だった。空には鈍色の雲と、ぱさついた雪の欠片しか見えない。
水羽,「本当のことを言いなさいよ」
京介,「まだ空いているレストランがあるんだがな」
そこで、水羽はどきりとした。彼が、スーツを着ているのは珍しくはないが、蝶ネクタイをしているのは初めて見た。左手に提げた鞄も、見慣れないものだった。
恐る恐る、けれど、冗談めいた口調で言った。
水羽,「プロポーズならまだ早すぎるわよ」
京介,「おや、ばれたか」
彼は、ニヒルに笑った。
水羽,「京介くんはボケがいまいちらしいじゃない?」
高鳴る鼓動、強張る唇。京介の笑みが深くなった。
京介,「まったく、そういうところは、昔のままでいて欲しかったな」
水羽,「どういう意味?」
京介,「雰囲気だいなしってことだ。予想がついても、黙っている女でいて欲しかった」
水羽,「そんな、嘘でしょ……」
気弱に笑うが、彼は逆に真顔になった。
京介,「嘘じゃない。お前とならと、この前、決めたんだ」
抑揚のない低い声だった。彼が浅井興業の仕事のときに出す声色だった。つまり、京介は、緊張していた。
追い詰められた水羽の口を突いて出たのは、拒絶の言葉だった。
水羽,「私でよければ、なんて言うと思った?」
待て、と心のなかで警鐘が鳴る。
水羽,「よく考えてよ、まだ早すぎる」
なぜか、口が尖る。
水羽,「仕事があるのよ。この歳で結婚なんかしたら、周りに迷惑をかけてしまうわ」
どうしても、止まらない。
水羽,「それに、ごめんなさい。私は、あなたに相応しいかどうか、自信が持てないの」
水羽は、いつの間にか、学園生時代の顔に戻っていた。
水羽,「あなたにはたくさん迷惑をかけた」
大好きな京介にどう接していいかもわからず、冷たくあたることで気を引こうとしていた。
水羽,「そりゃ、初めてのときは、結婚してなんて言ったけれど、責任を感じる必要はないのよ?」
京介は狼狽する水羽をじっと見据えていた。京介の長い前髪に落ちる雪に、胸が切なくなった。
水羽,「ごめん、今日は帰る」
逃げるように京介に背を向けた。引き止める声。優しい腕が迫ってくる。あの腕に抱かれると、つい甘えたくなる。だから、目をつむって、耳をふさいで、一気に駆け出した。
;黒画面
それから先は、どこをどう走ったのかよく覚えていなかった。気づいたときには電車に飛び込み、自宅に向かっていた。独り暮らしのため借りた西区のアパートではない。父がいる、水羽の実家に向けて、電車は走り出した。
;背景南区住宅街
;雪演出
――彼を、傷つけてしまった。
重い足取りで、静けさに包まれた街を歩いた。さきほどからしきりに携帯が鳴っている。電話に出る勇気が、どうしても出なかった。
――あれ?
知らず知らずのうちに、自宅が見えてきた。家の門の前は、落ちる雪に翳っていた。
また、錯覚かもしれない。人影があった。水羽の家を見上げている。視線の先は、かつての水羽の部屋の窓だった。水羽は思わず襟をただし、顔を引き締めた。
水羽,「……姉さん?」
街頭の丸い輪のなかに、時田ユキが、ぼんやりと佇んでいた。赤いコートに、黒いパンツスーツ。別れたあのときのままの格好だった。
ユキ,「水羽、こんな時間までなにしてたの。とっくに門限は過ぎてるわよ?」
長くて透き通るような黒髪が、風と踊っていた。
水羽,「帰って、きたんだね……」
姉は否定も肯定もせず、ゆっくりと首を振った。水羽は戸惑い、あとに続く言葉を探した。なにを話せばいいのか……。
水羽,「あのね、浅井くんとつきあってもらってるんだ」
ユキ,「おめでとう。お似合いよ、水羽」
水羽,「姉さんのアドバイスが効いたんだよ。ありがとう、姉さん」
ユキはうなずいて、思い切ったように告げた。
ユキ,「私がいままでなにをしていたのか、知りたくない?」
水羽,「うん、聞かせて。私、今度こそちゃんと聞くよ。姉さんのことたくさん知りたいんだ」
姉の手が届く距離まで近寄った。足はある。幽霊じゃない。姉さんが帰ってきた。
ユキ,「海を見に行ってたの」
水羽,「海?」
ユキ,「長い、長い旅だったわ。外国の海は広く澄み渡っていて、波が宝石のように輝いてた。私は、お母さんの形見を持って、お母さんといっしょに波打ち際を歩いていたの」
水羽,「お母さんと……」
水羽の胸が寂しさにつまる。
水羽,「そのために、三年近くも行方をくらましていたの?」
姉は、きっぱりと言った。
ユキ,「そうよ、なんの連絡もしないでごめんね」
そっか、と言って水羽はうつむいた。
――嘘に決まっていた。
もう、少女ではない。いかに姉の過去を知らなかったとはいえ、それはない。姉の白い肌には、海岸沿いを歩いたにしては日焼けのあともなかった。なにより、亡き母を偲んで旅行するからといって、水羽になんの便りもよこさないほど、時田ユキは薄情ではない。外国に渡っていたというのは本当かもしれない。少しは海も眺めて来たのかもしれない。それでも水羽は確信にいたっていた。姉は人を殺し、警察から逃げ回っていたのだ。水羽と連絡をとれば、愚かな妹が警察に姉の居所を教えてしまうと知っていた。いまになって戻ってきたのは、殺人事件の捜査が進展して、姉も進退窮まったからだろう。
出頭するために戻ってきたのだ。
よく見れば、ユキは以前より痩せていた。髪もぱさついているようだ。穏やかな微笑からは内面の隠された強さを感じられなかった。
愕然とした。姉は人を殺した。あれだけ言葉の強さを語っていた姉が、車を燃やすという暴力に訴えた。水羽を置きざりにして、保身のために逃亡生活を続けていたのか……。
けれど、水羽は、にこりと笑った。
水羽,「海かあ、よかったねっ、お母さんもきっと喜んでるよっ」
少女のままでいたかった、姉の前では――。
ユキ,「水羽……あの、ね……」
直後、ユキの瞳に、得たいの知れない色が宿った。人の心を見透かしたような目の輝きは失われていなかった。なにか言いかけた口が思い直したように、開いたり閉じたりを繰り返した。
そして、溢れ出たひと言。
ユキ,「ごめん、一人ぼっちにさせてしまって」
それだけ聞ければ十分だった。人はユキを人殺しの卑怯者と罵るだろう。たとえ、殺人に、やむにやまれぬ事情があったとしてもだ。けれど、水羽だけはユキを責めるものかと心に誓っていた。
水羽のなかで、泣き虫の少女が顔を出した。スーツの袖を目頭に当てて泣いた。姉の顔が曇る前に、愚痴を口にしていた。
水羽,「私ね、働いてるんだよ。もう主任になって、一つのチームを任されてるの。同期じゃ一番の出世頭だよ。すごいでしょ?」
ユキは、水羽のみなりを見やった。
ユキ,「すごいわね、見違えたわ」
水羽,「あとね、京介くんも、私のこと好きだって。ついさっきなんか、結婚まで申し込まれたの。私、まだそんな気はないのに。ねえ、これって、彼のほうが私を好きってことじゃない?」
ユキ,「へえ、やるわね。あの彼を虜にするなんて」
水羽,「もう、ぞっこんみたい。だから、ひとりぼっちじゃないんだ。謝らなくていいんだよ。いま、幸せなのも、ぜんぶ、姉さんのおかげだから」
姉を、苦しませたくなかった。表情は苦渋に満ち溢れていたが、目には優しさが募っていた。
水羽,「それから、なんと、父さんにね、ついに謝らせたよ」
ユキ,「謝らせた?あの男に?」
水羽,「ユキに謝らせてくれって、おいおい泣き出したの」
ユキ,「どうやって?」
水羽,「姉さんに言われたとおりに話し合って、言葉でやっつけてやったんだ」
瞬間、姉はうちひしがれたような顔になった。すぐに、溢れる感情をこらえるように、口をおさえた。
ユキ,「水羽、私は……あなたの思ってるような……」
声を上げて泣きながら、激しく頭を振った。
頭の隅のさめた部分が、姉が行ってしまうと忠告していた。姉と再会した喜びが、大きくリバウンドして深い悲しみとなった。
水羽,「姉さんにはかなわないよ。私ね、姉さんになろうとして、仕草とか言葉づかいを真似してたんだ。だって、私、甘えん坊だから、自分で自分の性格も作れなかったの。いつだって、姉さんのあとをついてきたんだ」
ユキ,「私は、あなたを守るという責任を……」
水羽,「責任なんてないよ。だって、私たちは姉妹じゃない?お互いが支えあうべきだったんだよ。でもごめんなさい、私だけが、いつも姉さんに甘えてたの」
ユキ,「いいの、いいのよ、水羽……あなたは悪くないのよ、なぜなら――」
姉の細い顎から、涙が滴り落ちた。姉の言葉をさえぎった――それはこれまでありえないことだった。
水羽,「ごめんね、姉さん。私、やっとわかった。姉さんだって、つらかったんだって。誰にもうちあけられないほどの悩みがあって、苦しんで、それでいなくなったんでしょう。ごめんね、ひとりぼっちで寂しかったのは姉さんのほうだった」
ユキ,「そんなもの、あなたを置き去りにする理由にはならないわ。私はただ逃げたの。そのうえ、もうどうにもならないと思ったから、京介くんに水羽を押しつけたのよ」
水羽,「でも、そのおかげで、彼もその気になってくれたみたい」
水羽は、泣きながらほほ笑んだ。姉は、最後まで、水羽のためを思って、京介に懇願してくれた。
ユキ,「結婚、するって?」
姉が聞いてきた。
するだろう、と思った。水羽の弱さを許してれるのは、あの優しくてたくましい男以外には考えられなかった。
水羽が口を開きかけたとき、姉が言った。
ユキ,「答えなくても顔に書いてあるわね」
水羽,「かなわないな、姉さんには」
ユキ,「おめでとう。彼によろしく」
姉が、行ってしまう。水羽は精一杯の笑顔を作った。
水羽,「ありがとう、姉さん。ありがとう」
姉は、また帰ってこれるのだろうか。水羽にはわからなかった。
ユキ,「ごめんね、水羽。私からも、ありがとう……」
雪が降り積もっていく。
姉の姿がおぼろげにかすんでいった。
水羽は心に決めていた。
もし、また帰ってきてくれたのならば、もう一度、雪だるまを作ろうと……。
;ゆっくりと白フェード
;黒画面
;通常形式
……。
…………。
;背景空昼
翌年の春になった。
もうそのころになると、水羽は姉の名を口にしなくなった。
けれど、忘れたわけでは、決してない。
時田ユキの名は一時期世間を騒がせた。
でも、水羽はくじけなかった。
父に続いて姉までもと、後ろ指をさされながらも、姉の面会に赴いた。
水羽は固く決めていたようだ。
姉のためにも自分が幸せになるのだと。
京介,「似合ってるぞ、その衣装」
水羽,「そう?」
京介,「ああ、久しぶりにひらひらしたもん着てるお前を見た」
水羽,「たまにはいいじゃない」
京介,「たまにはって……それは普通、一生に一度しか着ないもんだぞ?」
水羽,「二度と着ることにならないよう、お互い努力しましょう?」
京介,「そうだな、お互いにな」
水羽は、もう、一人ではない。
学園で、いつも教室の隅にいた少女ではない。
水羽,「そろそろ、開幕ね」
つないだ手が、少し強張っていた。
水羽,「ねえ、京介くん」
京介,「なんだ?」
水羽,「雪だるまは好き?」
京介,「別に」
水羽,「好きって言ってよ」
京介,「じゃあ、好き」
水羽,「フフ……なら、今度作るときは、あなたも混ぜてあげる」
京介,「そりゃ、うれしいね。おれに全部やらせようって腹だろう?」
水羽,「あら、どうしてばれたの?」
京介,「まったく……まだまだしつけが必要だな」
水羽,「やれるものならやってみてよ」
京介,「じゃあ、目ぇ閉じろ」
;ev_mizuha_12b
水羽,「え、ちょ、ちょっと、もう幕が開くわよ?」
京介,「やっぱり、そういうのには弱いよな」
水羽,「や、やめてったら、大勢の人に見られるわよ!?」
京介,「ああ、極道の兄さん方の失笑を買うだろうな」
おれは無理やり水羽の唇に迫る。
水羽,「わ、わかったわ、私のこと好き?」
京介,「ああ」
水羽,「なら、結婚してくれる?」
京介,「面白いギャグだな」
水羽,「さ、最後に、これだけは言わせて……」
もう、待てなかった。
幕の外から拍手と歓声が沸きあがっている。
水羽,「あのね……」
水羽,「んっ……!」
小うるさい口を黙らせてやった。
けれど、言葉にしなくてもわかることがある。
とろけるような感触を味わいながら、おれはこれから先に待つ未来を想像した。
そこにはもちろん、時田もいる。
水羽,「ん、あっ……もうっ、やめっ……」
ぴくりと肩を震わせる水羽。
ただの、かわいらしい少女がそこにいた。
水羽,「だ、だから、これだけは、言わせてって……」
京介,「わかってるっての」
水羽はこう言おうとしたのだ。
ただひと言、ありがとう、と――――。
……そうだな。
もう、迷いは捨てよう。
おれは、いつの間にか、椿姫に惹かれていたようだ。
京介,「椿姫……」
泣きはらした顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
椿姫,「あ、浅井くん……」
おれは目線を外しながら、日記帳を差し出した。
京介,「これを、忘れていたぞ」
椿姫,「わざわざ、届けてくれたんだ。ありがとう」
鼻をすすりながら、笑った。
無垢な笑顔。
京介,「じゃあな……」
椿姫,「浅井くん、待って」
引き止められた。
いま、引き止められたら、なし崩しに椿姫に引き込まれそうだった。
椿姫,「おうちで、ご飯食べてかない?」
京介,「いや……」
広明,「お姉ちゃんのカレシおいでよ」
京介,「…………」
そっくりな顔してやがる。
京介,「いまは、忙しい。ただ、夜時間あるか?」
椿姫,「夜……?」
京介,「話がある」
椿姫,「話?」
京介,「お前とおれの関係についてだ」
椿姫,「な、なんなのかよくわからないけど、わたし、今日は家族と……」
広明,「ボクはいいよー。おうちで待ってるよー」
京介,「じゃあ、決まりだな」
椿姫,「あ、うん……」
京介,「また連絡する」
踵を返した瞬間、おれは雪に濡れた地面に足を滑らした。
京介,「……おわっ!?」
椿姫,「……あ」
すぐさま明るい声が上がった。
広明,「あはははっ、お兄ちゃん、かっこわるいよー!」
椿姫も、目を丸くした。
京介,「なんだ……?」
椿姫,「い、いや、いつもクールな浅井くんにしては珍しいなって……」
京介,「ち……」
どうも調子が狂う。
広明,「お兄ちゃん、お兄ちゃんも今度いっしょに缶ケリしようね。ボク、とっても隠れるの上手なんだよ」
京介,「ああ、わかったわかった。そのうちな」
広明,「ほんとっ!?やったぁっ!」
おれの軽口を本気で信じている椿姫の弟。
椿姫,「よかったね、広明。浅井くんが缶ケリするって、すごいことだよっ!」
姉も、信じきっている。
……まさか、本気でそんなくだらない遊びにつきあわされる羽目にならんだろうな。
椿姫,「それじゃあ、わざわざありがとうね」
京介,「ああ……」
椿姫,「また夜にねっ!連絡待ってるね」
京介,「ああ……」
椿姫,「ん?どうしたの?」
京介,「ああ……いや……」
おれは、いつの間にか椿姫の顔をじっと見つめていたようだ。
京介,「帰る」
ぼそりと言って、今度こそ椿姫に別れを告げた。
椿姫,「じゃあねー!」
底抜けに明るい声が、いつまでも耳に残った。
;黒画面
……妙に、胸が浮つく。
おれは頭を抱えたい気分だった。
まったく、金の匂いのしない女のくせに……。
次の仕事の間中、おれは冴えない頭と脳裏に瞬く椿姫に、悩まされ続けた。
…………。
……。
;```章タイトル
;椿の章鏡
;背景主人公自室。
……。
…………。
京介,「さ、入ってくれ……」
椿姫,「お邪魔します……」
夜九時。
ちらついていた雪も、まもなくやんだ。
軽い打ち合わせを終えたおれは、椿姫を家まで迎えに行った。
京介,「コーヒーでも飲むか?」
椿姫,「ううん、いいよ……」
京介,「そうか……」
所在なげに、目を逸らした。
椿姫,「…………」
京介,「…………」
椿姫,「今日、雪降ったね」
京介,「まったくだ。電車もあちこちで停まったしな」
椿姫,「だよね……」
京介,「ああ……」
沈黙が続いた。
椿姫,「浅井くん、あのね……ちょっとお願いがあるんだ」
京介,「お願い?」
椿姫,「えっと、いきなりで本当に申し訳ないんだけれど」
言いながら、日中作業に没頭していた書類の束に目をやる。
おれは承知した。
京介,「いいぞ」
椿姫,「えっ?」
京介,「おれの仕事だろ?手伝わなくてもいい」
あまり椿姫にふさわしい仕事ではない。
椿姫,「あ、いや、そうじゃなくて……」
慌てて首を振った。
椿姫,「これから、家族とも過ごしたいから、ちょっと手伝えないこともあるかもっていうお願いだったの」
京介,「無理しなくていいぞ。お前は大家族だろ?メシ作って、弟たちを風呂入れてやって、遊んでやって……そんなんでよくいままで学園に通ってられたな?」
椿姫,「それは大げさだよ」
京介,「そうか?どっちにしろ、家庭のことを優先しろ」
椿姫,「うん……でも、わたしにとっては浅井くんも家族と同じくらい大切だから」
さらりと言った。
おれは、自分が、息を詰まらせるのをはっきりと自覚した。
椿姫,「手伝うよ。いや、手伝わせて?わたし、浅井くんのこと、もっと知りたいの」
椿姫,「こんなこと言ったら怒るかもしれないけれど、浅井くんって、とっても……その……寂しい子供時代をすごしたんでしょう?」
京介,「別に怒らんよ。事実だ。とくに寂しいとか思ったことはない」
椿姫,「そういう浅井くんが、なんだか、とても寂しそうなの……」
京介,「椿姫……」
椿姫,「わたしにはわからないような苦労してるって知って、力になりたいって思ったの」
興奮した面持ちで話を続ける。
椿姫,「なんでも言って。わたし、浅井くんの言うことなら、なんでも聞くよ」
京介,「じゃあ、とりあえず、シャワー浴びてこいや」
椿姫,「えっ!?」
京介,「あ、ああ、いや冗談だ。冗談だって」
椿姫の顔が沸騰していく。
京介,「お、おいおい、落ち着けよ。あれだよ、いつものおれの半スベリギャグだって。本当に……」
椿姫,「……だ、だよね、びっくりした……」
いかんな……ウケると思ったんだが。
京介,「それで、話だけど……」
椿姫は、神妙にうなずいた。
京介,「おれのうぬぼれだったら、すまんが……」
椿姫,「…………」
京介,「お前は、おれのことが好きだろう?」
瞬間、椿姫が身を強張らせた。
うつむき、震え、そして真っ赤にした顔で何度もうなずいた。
椿姫,「え、えと……」
椿姫,「その、ずっと前から……えっと、声、かけたくて、いっしょに学園終わって、いっしょにCD買えて、うれし、うれしくて……」
椿姫,「さ、最近は、かまってもらえる時間増えて、えっと、いつ言おうかなって、あ、言うっていうのは、こ、告白のことで……」
椿姫,「だから、うん、はい、そうです」
上目づかいに言う。
椿姫,「浅井くんが、好きです」
再び、しばしの沈黙が訪れた。
こういうとき、何か言ってやるべきなのだろうな。
京介,「明日、いっしょに学園に行こう」
椿姫,「え?」
京介,「いや、だから、今日は泊まっていけという意味だ」
椿姫,「それは……どういう?」
直後、おれは椿姫を抱き寄せた。
;以下エッチシーン。
;===================================咳咳@call storage="gth1.ks"
;黒画面
…………。
……。
;黒画面。
……。
…………。
;背景主人公自室昼
椿姫,「おはようっ……」
寝ぼけ眼に、椿姫の笑顔が飛び込んできた。
椿姫,「あのね、いっしょに学園行こうって話だったけど、わたし、制服持ってきてないから」
言われてみればそうだ。
椿姫,「一度、帰るね。また、学園で会おう?」
京介,「ああ……」
椿姫,「それじゃ、ご飯、作っておいたから」
京介,「え?マジで?」
なにやら、香ばしい匂いがキッチンから立ち込めている。
京介,「すまんな、金、払うよ」
おれは至極当然のことのように、財布をさがした。
椿姫,「ふふっ、寝ぼけてるの?お金なんているわけないよ」
京介,「いや、メシをただで食わせてもらうわけには……」
……いや、いいのか。
椿姫,「えっと、聞いてもいいかな?わたしって、その……」
だって、こいつはもう、ただのクラスメイトじゃない。
京介,「ああ、彼女ってヤツだな」
身内のようなものだ。
椿姫,「よろしくねっ、京介くんっ」
爽やかな朝が始まった。
;背景教室昼
栄一,「おー、京介、きのうはよくもバックレてくれたな?」
京介,「いきなりなんだ?おれがふけるのはいつものことだろうが」
栄一,「まあな。だがよー、椿姫も無断で休んだんだぜ?」
京介,「へえ……」
栄一,「さすがのオレちゃんもよー、あの椿姫がバックレかますとさすがに心配ぶっこいちゃうわけだよ。つーわけで、お前なんか知らねえ?」
京介,「さあ……」
栄一,「あー!?」
京介,「ちょ、ちけえよ、顔。そんなに近づかなくても聞こえるって」
栄一,「たくよー、パーティも中止だし、なんか最近、椿姫に振り回されるんだよなー」
京介,「で、椿姫は、まだ来てないのか?」
栄一,「なんか職員室に行ってたぜ?」
京介,「なんで?」
栄一,「オレが知るかよ。お前のほうが詳しいんじゃねえの?」
また、コワおもしろい顔で悪態をついた。
……こいつは、頭のなかみはともかく、妙に勘がきくときがあるからな。
おれと椿姫の関係を知ったら、どんなゆすりをかけられるか知れたもんじゃない。
栄一,「じゃあ、今日、部活だからな」
京介,「え?あ、ああ……」
ついうっかり、返事をしてしまった。
椿姫,「みんな、おはよーっ」
噂の椿姫が元気よく教室に入ってきた。
栄一,「やあ、椿姫ちゃん、心配したんだよー」
さっそく栄一が媚を売りに行く。
椿姫,「ごめんね、きのうのことだよね?」
栄一,「うんうん、ボク心配で心配で、ペットの餌を買いに行くの忘れちゃったよ、どうしてくれるの?」
椿姫,「ご、ごめんね、いま先生にもお話してきたんだけどね……」
栄一,「うんうんうん、病気でもしてたの?」
椿姫,「きのう、ずる休みしてたの」
栄一,「え、リアル?」
椿姫のひと言は、一瞬、栄一を素に戻らせる破壊力があった。
椿姫,「昨日だけじゃなくて、この前も、午前中遅れて来たことがあったけど、それもたいした理由じゃなかったの」
栄一,「あ、ああ、そうなの?なんでまた?」
椿姫,「遊びたかったの」
椿姫は、恐れずに言った。
椿姫,「だから、先生に謝罪してきたの」
栄一,「へ、へえ……」
おれも、栄一も、そんなことわざわざ言う必要ねえだろと思っている。
椿姫,「心配かけてごめんね。ちょっと、最近いらいらしてて、でも、もう平気だからっ」
満面の笑みを浮かべ、いそいそと席についてクラスの日誌をつけ始めた。
栄一,「くーっ」
京介,「なにが、くー?」
栄一,「いや、萌へるなあって。マジいい子じゃん。なんつーの?オレみたいなワルにはまぶしすぎるっつうの?」
京介,「お前は、年上がいいんだろ?」
栄一,「いやいやいや、椿姫のあの母性+世話焼きお姉ちゃんみたいなスメルもいいわけだよ」
京介,「ふーん」
栄一,「朝起きたら、何も言わずにトーストとスクランブルエッグが出てきそうじゃん、レタスも添えて」
京介,「…………」
つい、黙ってしまった。
栄一,「あー!?どしたー!?」
京介,「い、いや……だからちけえよ、顔……」
;背景屋上昼
昼休み。
いち早く屋上に行くと、宇佐美が声をかけてきた。
ハル,「この前はどうもご無礼」
京介,「ご無礼じゃねえよ、おれを犯人扱いしやがって」
ハル,「犯人じゃないんですか?」
京介,「しつけえな。証拠でもあるのか?」
ハル,「ないっす」
宇佐美は、いつものように前髪をいじりだした。
ハル,「どう思います?自分の推理」
京介,「どう思うって……自信がないなら言うなよ」
ハル,「いやいや、あなたがどうしても言えやゴラっていう勢いだったから、わたしは仕方なく口を開いたまでです」
京介,「なんにしても、もうおれを疑うのはやめろ」
ハル,「すいませんねえ、いちおう、浅井さんが犯人でもそれなりに筋は通るんで、つい……」
頭を下げると、前髪が、柳の枝みたいに揺れた。
椿姫,「ハルちゃん、ちょっといいかな?」
遠くから、椿姫が呼んでいた。
ハル,「おや?」
京介,「どうした?」
ハル,「いえ、椿姫の顔色がよくなったな、と」
椿姫は、小走りに宇佐美の前までやってきた。
椿姫,「ハルちゃん、ごめんね」
いきなり頭を下げた。
ハル,「ん?」
椿姫,「最近、きつくあたってたでしょう?」
ハル,「…………」
椿姫,「ハルちゃんは、精一杯やってくれたんだよね」
ハル,「…………」
椿姫,「廃墟の探索とかしたんでしょ?お父さんから聞いたんだけど、女の子が一人でいっていいようなもんじゃないって……」
しばらく黙っていた宇佐美が、重い口を開いた。
ハル,「わたしも、もう、警察に連絡しろという気はない」
椿姫,「え?本当?」
ハル,「椿姫たちが犯人の報復を恐れたとしても、それは責められるようなことではないと、反省した」
椿姫,「…………」
ハル,「悪かった。なんにも力になれなくて」
おれは、ひとり、首を傾げていた。
合理的な宇佐美のことだ。
きっと、いまさら警察が動いても遅いと踏んでいるのではないだろうか。
事件からそれなりの日数がたった。
被害者である椿姫の家族の証言もあいまいなものになるだろうし、"魔王"が証拠の隠滅を図ったかもしれない。
椿姫,「ハルちゃん、ひどいこと言ったりして、ほんとごめんね。これからは、だいじょうぶだから。仲良くしてね」
……おれは、退散したほうがよさそうだな。
;背景教室
教室に戻って暇だったので、椿姫にメールでも出そうと思った。
だが、あいつのことだから、きっと学園に携帯を持ってきていないのだろうな。
……ミキちゃんにでも電話するかね。
椿姫,「京介くんっ!」
京介,「おっ!?」
椿姫,「なに驚いてるの?電話?」
京介,「お前こそなんだ、宇佐美との話しは終わったのか?」
椿姫,「うん、ハルちゃんが、もういいからって言ってくれたの」
京介,「よかったな……宇佐美もウザいヤツだが、お前も少しテンパってたからな」
椿姫,「ハルちゃんには、本当に、申し訳なく思ってるよ」
言うと、声のボリュームを落とした。
椿姫,「あのね、わたし、嫉妬してたんだと思う」
椿姫,「ハルちゃんが、京介くんのこと好きなんじゃないかって思うと、いてもたってもいられなくなってたの」
……宇佐美を部屋に招いたこともあったしな。
京介,「なんとなく察しはついていたが、お前も、そういうこと考えるんだな」
椿姫,「最初は、いけない気持ちだなって思ってたんだけど、途中から、なにがいけないんだろうって思い始めて、最後にはハルちゃんなんて許せるわけないっていらいらしてたの」
京介,「まあまあ、いい経験したんじゃないか?」
椿姫,「うん、もう、二度と味わいたくないけどねっ」
快活に、舌を見せた。
椿姫,「えと、今日、会ってもらえる?」
京介,「え?ああ……」
迷ったが、断る理由はなかった。
京介,「すまんが、夜でいいか?用事がある」
部活とかいうくだらん用事だが。
椿姫,「いいよいいよ。わたしも、いろいろ溜まってることあるから。広明と紗枝を迎えに行って、そのあとお母さんを病院送って……」
……大変だな。
椿姫,「あと、一番、たまってるのは日記かなっ」
手元の日記帳を掲げた。
椿姫,「そういえば、京介くんって、お昼いつも、パンだよね?」
京介,「うん……?」
椿姫,「明日から、わたしが作ってもいいかな?」
照れくさそうに聞いてくる。
おれはといえば、クラスの連中にいまの会話が聞かれなかったかと、肝を冷やしていた。
……目立つのはどうも苦手だ。
椿姫,「ダメ、かな?」
しかし、甘えるような声に、ついうなずいてしまった。
京介,「じゃあ、頼んだ」
そっけなく答えると、椿姫はまた控えめに言った。
椿姫,「ありがと、大好き」
おれは、動揺した。
おれたちの関係を外に漏らさないよう釘を刺すつもりだったのに、うっかり忘れてしまうほどだった。
どうにも調子がでないまま、放課後を迎えた。
部活を、迎えてしまった。
;黒画面
……。
…………。
栄一,「クビ」
ハル,「解雇されること」
栄一,「乳首」
ハル,「胸部中央に覇を唱えた突起」
栄一,「生首」
ハル,「とても怖い」
栄一,「ワナビー」
ハル,「イエァッ!」
京介,「はい、というわけで今週もやってまいりました神こと浅井京介です」
ハル,「わー」
栄一,「おー」
ハル,「わくわくしますね」
栄一,「そだねー」
京介,「つーかなんで宇佐美がいるんだ!」
ハル,「は?」
京介,「おい、栄一!この理科準備室はおれとお前のイェルサレムじゃなかったのか?」
ハル,「イェルサレムて……」
栄一,「いちいち若干スベりたがるんだよね、神は」
ハル,「残念ですよねー」
京介,「え?お前らなに?結託してんの?」
ハル,「自分はもともと、エテ吉派ですよ?」
京介,「派閥とかあったんだ。まあいい、今日はなんの用だ、クズども」
ハル,「用というかまあ、ね」
栄一,「ねー」
京介,「あ?なんだよ気持ち悪いな。隠してないで懺悔しろや」
ハル,「とりあえず、栄一さん、やっておしまいなさい」
栄一,「おけー」
京介,「ちょ、ちょっと待て。いきなり神に弓引くつもりか?」
ハル,「んじゃ、言わせてもらいますがね」
栄一,「言っちゃえ言っちゃえ」
ハル,「浅井京介さんが、念願かなって椿姫とぎゅっぽぎゅっぽしたようです」
京介,「ぶーっ!!!」
ハル,「おや?心当たりがおありなようで?やっておしまいなさい栄一さん」
栄一,「おけおけー」
京介,「ま、待て待て、なんの話だ!?」
ハル,「この期に及んで言い逃れとは見苦しい。やっておしまいな……」
京介,「だから待てっての!」
栄一,「すでにネタはあがってんだよ」
京介,「ネタだあ?」
ハル,「証拠という意味です」
京介,「それはわかってんだよ。なんのネタだよ、言ってみろよ」
ハル,「ふふふっ」
栄一,「くっくっく」
ハル,「簡単な推理だよ、ホームズくん」
京介,「お前誰だよ。ホームズに意見してるお前誰だ」
ハル,「いやいや、ついさっき椿姫にね」
栄一,「ねー」
京介,「椿姫に?」
ハル,「ちょくで宣言されましてね」
栄一,「京介くんの彼女になりましたって」
京介,「ぶーっ!!!」
ハル,「いきなりそんなこと言われてもねー」
栄一,「いやいや椿姫はだから萌へるんだよ」
京介,「な、なんて堂々と……椿姫のヤツ……くそ、しまった。釘をさしておくんだった……」
ハル,「いいわけはそれだけですか。んじゃ、とりあえずやっておしまいなさいフ○ーザさん」
京介,「だからお前誰だよ」
…………。
……。
;背景廊下夕方
栄一,「じゃ」
汚らしいものでも見るような目つき。
京介,「お、おい待てよ」
栄一,「はあ……京介には失望したぜ」
深い軽蔑のため息をついて、栄一は去っていった。
ハル,「浅井さん……」
京介,「なんだよ、くそったれ。なにが悪いんだよ?」
ハル,「いえいえ、それにしても椿姫ですか」
京介,「悪いのか?」
ハル,「自分の数少ない友人の一人ですし、ぜひぜひ幸せにしてください」
……ったく、面倒なことになったな。
ハル,「ま、あとのことはわたしに任せてください」
京介,「なんだよ、あとのことって」
ハル,「たとえば、"魔王"とかです」
京介,「お前のなかで"魔王"はおれなんだろ?」
宇佐美は、ひょうひょうとしていて、なにを考えているのかわからなかった。
ハル,「たとえば、あの身代金奪取。覚えてますよね?わたしはまんまと空のケースを運んでしまいましたが、あとでよくよく考えたら、それなりに見えたものがあるんです」
京介,「おれが、"魔王"で、コインロッカーの鍵を前もって複製しておいたんだろう?」
ハル,「ふふっ、そういう可能性も完全に捨てきれるものではないなと思っていますがね」
もう、つきあいきれんな。
京介,「じゃあな。とにかくおれは、椿姫とつきあうことにした。だが、お前には関係ないだろう」
ハル,「…………」
数秒の間があった。
宇佐美は、ようやく小さくうなずいた。
ハル,「ひとつだけ、いいすか?」
駄目と言わせない雰囲気があった。
宇佐美は、どういうわけか、
ハル,「幸せにね、京介くん……」
寂しさに胸をつまらせた少女の顔で、そう言った。
京介,「…………」
宇佐美が背を向けて去っていく。
廊下を振り返ることはなかった。
なにか寂寥感のようなものがこみ上げてきたが、それも一瞬のことだった。
おれは、忘れっぽい。
宇佐美に名前を呼ばれて、懐かしいような気持ちになったのも、きっとすぐに記憶のかなたに消えていく。
おれは下校して、椿姫の家を目指した。
;背景椿姫の家居間夜
椿姫の家に行くと、さっそく大家族に囲まれた。
広明,「あー、来たなー?」
紗枝,「カレシきたー」
京介,「ちょ、ちょっと、あんまり、さわらないでもらえるかな君たち……」
椿姫,「浅井くん、いらっしゃい。ご飯まだだよね?」
パパ,「もちろん、食べていくよね?君も、うちの家族なんだからね」
京介,「……え?」
まさか、椿姫のヤツ……。
京介,「おい椿姫、お前まさか親父さんにも……?」
小声で聞いた。
椿姫,「うん。隠してるのもなんだから」
笑顔で言う。
京介,「栄一や宇佐美にまで言っただろ?」
椿姫,「あれ?ダメだったかな?」
京介,「……ダメではないが」
まあ、いずればれることではあったわけだし。
観念するか。
京介,「ご馳走になります」
パパ,「ようし、浅井くん……いや、京介と呼ばせてもらおうかな」
京介,「はは……」
広明,「京介おにいちゃんっ、お姉ちゃんをよろしくね」
紗枝,「よろしくねー」
盛り上がる一家。
子供たちは、親父さんが取る音頭に調子を合わせていた。
;場転
椿姫,「はい、京介くん。いっぱい食べてね」
山盛りのご飯が出てきた。
広明,「おねえちゃん、およめさんだー」
椿姫,「そう?うれしいなー」
京介,「…………」
黙って食す。
椿姫,「おいしい?」
見つめてくる。
おかずは肉じゃがのようだった。
京介,「……おいしいよ」
椿姫,「ほんと?うれしいなあっ」
京介,「…………」
どうも、こういう空気は照れくさい。
場違いな気がしてならない。
椿姫,「お父さん、わたしの肉じゃがやっぱりおいしいって」
パパ,「本当かい、京介くん、おいしいって言わされてるんじゃないのかい?」
京介,「はは……」
コメントに困る。
しかし、つきあって初日に、親御さんと食事か……。
などと考えていると、椿姫がまたニコニコしながらおれを見つめていた。
京介,「な、なんだよ」
椿姫,「京介くんって、箸の持ち方変だよ?」
広明,「あ、ホントだー!」
紗枝,「変だー!」
ちろ美,「悪い子だー」
京介,「いや、これで、とくに不自由したことはないんだぞ」
椿姫,「とかなんとか言って、こぼしてるよ?」
京介,「…………」
椿姫,「口でとってあげるねっ」
京介,「お、おい……」
親の前で……。
かくいう親父さんは、椿姫と同じような顔で笑っていた。
椿姫,「えへへ、また京介くんのお茶目なところが見れたのでした」
京介,「日記に書くなよ?」
椿姫,「やだよ。京介くんの章を作ってあるんだから」
京介,「うわ、なんか怖いなお前」
まったく調子が出ない。
どうも、こういうあったかいのは苦手だ。
京介,「……あ、すみません、しょうゆ、もう使わないですか?」
パパ,「おいおい、お父さんでいいだろ?なにを遠慮してるんだ」
京介,「は、はあ……」
パパ,「京介くんは、趣味とかあるのかい?」
京介,「え?なんですかね」
椿姫,「クラシックだよっ、お父さん」
パパ,「ああ、ベートーベンだ」
京介,「え、ええ……他にもたくさんいますが……」
パパ,「知ってるよ。北島三郎とかだろ?」
京介,「…………」
うわあ、こういうのどう返せばいいんだろ。
京介,「他には、パソコンとかですかね……」
親父さんは手を叩いた。
パパ,「あれだ、ミクシーだ」
おじさん知ってるんだぞーってな顔で言うもんだから始末に終えない。
京介,「ま、まあそんな感じですね」
広明,「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんのお肉もらっていい?」
椿姫,「こら、広明。お肉ばっかり食べないで野菜も食べなさい!」
ママ,「賑やかねえ……」
椿姫,「あ、お母さん、起きたの?」
ママ,「椿姫にカレシができたって聞いて、寝てられなくなったの」
京介,「どうも、浅井京介と言います」
ママ,「知ってるわよ。椿姫がお世話になってます。わたしが病院に行ったときは、車で助けてくれたとか?」
京介,「いや、自分はタクシーを呼んだだけです」
椿姫,「あのとき、すっごい頼りになったよ。お母さん、もっと京介くんに感謝してよ。命の恩人みたいなもんだよ?」
京介,「言いすぎだから……」
ママ,「まあまあ、ありがたいことね」
京介,「いえ……」
ママ,「ところで、京介くんは趣味とかあるの?」
椿姫,「それいま、お父さんが聞いたよ」
パパ,「母さんミクシーだって」
;SE携帯
リアクションに困っていたとき、電話が鳴った。
京介,「あ、ちょっとすみません」
取引先からだった。
パパ,「なんだ、ミクシーか?」
椿姫,「お父さん、静かにしてよ」
パパ,「おお、そうだな。電話だな。みんな静まれー!」
広明,「おー!」
紗枝,「おー!」
結束する一家。
京介,「…………」
……あとでかけ直すとするか。
椿姫,「あれ?いいの?」
京介,「いや、ちょうど切れたみたいだ」
椿姫,「ちょっと、みんなが騒がしくしてるからだよ?」
ママ,「あら、ごめんね」
椿姫,「京介くんは、忙しい人なんだから、今度から電話かかってきたときは、静かにしてねっ」
広明,「はーい」
パパ,「はーい!」
お父さんもお母さんも、子供たちもみんな、椿姫の一声には逆らえないようだった。
京介,「あ、まあ……おれのことは気にせず、みんなで仲良くしましょう」
がらにもないことを、口にした。
椿姫,「京介くん、にこにこしてるよ?」
京介,「え?」
椿姫,「ううん、こんななんにもない家で、楽しんでもらえてなによりだよ」
京介,「ああ……」
椿姫,「京介くんが楽しそうだと、わたしもうれしいなっ」
言って、ご飯をつまんだ箸をおれの口に突きつけてきた。
椿姫,「はい、食べてっ」
京介,「…………」
あまったりいな、くそ……。
…………。
……。
;場転
……しっかし、金もないくせに底抜けに明るい家族だな。
パパ,「京介くん、いっぱいやるかい?」
京介,「すみません……遠慮しときます」
椿姫は別室で弟たちを寝かしつけたり、着替えをさせてやったり、風呂にいれてやったりと忙しそうにしていた。
居間には、おれと親父さんだけだった。
パパ,「君には、家のことだけじゃなくて、椿姫の面倒まで見てもらうことになったねえ」
もう、結婚前提のお付き合いになってるな。
京介,「どうです、引越しの準備は進んでますか?」
パパ,「大方終わってるよ。この居間以外は、殺風景なもんだよ」
京介,「居間は後回しですか?」
パパ,「そうだね。ここは、家族の団らんの場だからね。最後の砦というもんさ」
京介,「…………」
しみじみと部屋を見渡す親父さん。
つられて、おれも視線を移ろわした。
畳はところどころ痛んでいるし、壁には穴もあいていた。
パパ,「いや、なつかしいなあ」
親父さんは一人で酒を飲み始めた。
パパ,「ほら、あの木枠があるだろ?天井の」
京介,「ん……ああ、なんか色が違いますね……黒ずんでいるというか……」
パパ,「焦げたんだよ」
親父さんがいきなり吹き出した。
パパ,「鍋をしたときにね、椿姫が小火を起こしてねえっ、いやあ、あのときは大変だった」
京介,「椿姫も、うっかりしてることがあるんですね」
パパ,「椿姫はもともと、うっかりしてるよ。でも、これだけの大所帯だろ?自分は、しっかりしなきゃって思ってるんじゃないかな?」
京介,「そうですか……」
それきり、親父さんは口を閉ざした。
普段は、口数の少ない人なのかもしれない。
パパ,「京介くん……」
京介,「あ、はい?」
不意に、目が合った。
パパ,「ちょっと、いいかな?」
京介,「え……?」
嫌な予感が走った。
まさか、この期に及んで、家を手放したくないとかそういう話か?
椿姫の彼氏となったおれを利用して、どうにかなるとでも思っているのだろうか。
パパ,「君は、あまり、家族とご飯を食べてないんだろう?」
京介,「……椿姫から聞いたんですか?」
親父さんはゆっくりと首をふる。
パパ,「さっき、ご飯をいっしょに食べて気づいたんだ。君は僕が箸に手をつけるまでは決して、食べ始めようとしなかった。醤油を使うときも、必ず僕が使った後だった」
京介,「……そうでしたかね?」
習慣がでたのかもしれない。
パパ,「会食のマナーというヤツかい?」
京介,「かもしれませんね」
パパ,「そういうのは、うちでは必要ないよ」
京介,「ええ……」
パパ,「君は、椿姫と同じくらいの年齢の男にしては、ずいぶんと顔つきが違うね」
京介,「そうですか?」
パパ,「ぜんぜん、違うよ。よく言われないかい?」
京介,「どうでしょうかね……」
おれが、返答を渋っていると、親父さんは不意にため息をついた。
パパ,「まあ、昔いろいろとあったんだろうし、今もいろいろあるんだろうね」
京介,「…………」
パパ,「困ったり、寂しかったりしたら、うちに、来なさい」
おれは複雑な気分だった。
……お前らみたいに金のない連中といっしょにいて、おれのなにが満足するというのか。
なぜ、こんな平凡な家庭に、救いの手を差し伸べられるのか。
わからなかった。
けれど、悪い気はまったくしなかった。
パパ,「借金のことだけど……」
京介,「ああ、はい」
やっと、話しやすい内容になるな。
京介,「どうですか?厳しいとは思いますが……」
パパ,「うん。いま、金策に走っているところなんだけど、近いうちにまた相談させてもらうかもしれないよ」
京介,「わかりました。正直、そういう話のほうが得意なので」
パパ,「はっはっは。家族団らんみたいなのは、苦手っていうのかい?」
京介,「まいったな……」
苦笑してしまう。
こんな暖かい人が、一人でもいたら……。
おれと母さんが放浪してたとき、こういう人との出会いがあったのなら……。
無意味な妄想を振り払い、しばらくの間、親父さんと談笑した。
;背景椿姫の家概観夜
……。
…………。
椿姫,「来てくれてありがとう」
帰り際、椿姫が見送りに出てきた。
椿姫,「楽しんでもらえた?」
京介,「ああ……」
おれはまたうつむいて、頭をかいた。
京介,「いっつも、こんな感じだったんだよな?」
椿姫,「ん?」
京介,「いや、誘拐事件があって、最近は乱れてたと思うけど、普段から、ずっとあんな感じなのか?」
椿姫,「そうだよ。うるさいかな?」
京介,「……いや……」
おれは、なにを言おうとしているのか。
椿姫,「気に入ってくれたら、毎日来てくれていいんだよ?」
京介,「じゃあ、明日……」
椿姫,「え?明日?」
京介,「ダメか?」
椿姫の頬が、ふっくらと膨らんだ。
椿姫,「ふふふっ、うれしいなっ。明日も会えるんだねっ」
京介,「明日は休みだったな。仕事の合間を縫って、なんとかするわ」
椿姫,「お仕事、手伝おうか?」
京介,「いや、いいよ。家で、やることがたくさんあるだろ?」
椿姫,「わたしも合間縫ってなんとかするから」
京介,「そうか、ありがたいな……」
おれは椿姫に割り当てる仕事を考えた。
京介,「なら、昼くらいに来てくれ。この前と同じようなことをやってもらいたい」
椿姫,「京介くんの役に立つことが、わたしの幸せだよっ」
よくそんなドラマみたいなセリフを平然と吐けるもんだ。
椿姫,「あ、そうだそうだ、京介くん」
いきなり手招きされた。
京介,「なんだ?」
椿姫,「うちの秘密の入り方教えておこうと思って」
京介,「は?」
;場転
京介,「…………」
椿姫,「どう?これで鍵がなくても入れるでしょう?」
たてつけの悪い勝手口の戸を押し込むことで、椿姫の家に入れるということを教わった。
京介,「ていうか、椿姫、そういうことを人に教えちゃいかんぞ」
椿姫,「さすがにね。でも、京介くんは特別だよ」
京介,「…………」
椿姫,「お父さんに言わせれば、もう、家族みたいなものだからね。わたしもそう思うし」
京介,「気の早い話だな」
椿姫,「いつでも来てほしいんだよ」
……といっても、もう引っ越すんだろうが?
京介,「わかったよ。夜中にこっそり忍び込んで、驚かしてやろうか?」
椿姫,「あ、それ面白いね。そういうの弟たちが喜ぶと思う」
まったく、無防備にもほどがあるな。
京介,「じゃあ、明日な」
椿姫,「あ、ごめんね、引き止めて。なんかいつまでもしゃべっていたくて」
京介,「…………」
椿姫,「でもね、京介くんが笑うととってもうれしいよ」
京介,「そんなに笑わないキャラか?」
椿姫,「うん」
……たしかに、心から笑ったのはいつのことかな。
京介,「じゃあな……」
椿姫,「あ、うん……」
名残惜しそう。
ためらいがちに、体を寄せてきた。
おれの上着のすそをつかむ。
京介,「……なんだ?」
椿姫,「え、えと……」
京介,「ん?」
椿姫,「……して、ください……」
椿姫は目を閉じてなにかを待っていた。
京介,「…………」
それに応えることで、唇が濡れ、心の中で、またなにかが氷解していった。
椿姫,「あ、ありがとっ……」
すぐさま身を離す椿姫。
椿姫,「じゃ、じゃあねっ、気をつけてっ……」
足をもつれさせながら、逃げるように家のなかに入っていった。
京介,「…………」
おれは心のなかに滑り込んでくる暖かい気持ちに戸惑うばかりだった。
ひどく冷える夜だったが、帰宅途中に雪は降らなかった。
;背景主人公自室昼
京介,「んじゃ、頼んだぞ」
椿姫,「任せてっ。すぐに終わらせるよ」
前と同じように、資料の整理をお願いした。
京介,「終わったら、昼飯を食いに街に出ようぜ」
椿姫,「うんっ」
従順にうなずいた。
椿姫がいいって言うんなら、今後とも手伝ってもらおうかな。
しかし、椿姫は、本当に、おれの言うことならなんでも聞きそうな雰囲気だな。
椿姫,「京介くん、コーヒー煎れようか?」
京介,「ああ、助かる……」
気が利くし、文句の一つも言わない。
椿姫,「でも、京介くん、お洗濯とかはちゃんとしてるんだね?」
京介,「……まあな」
椿姫,「ちょっと残念っ。わたしがしてあげたかったな」
なにがそんなにうれしいのか、椿姫は終始笑っていた。
;場転
二時間ほどして、一通りの作業が終わった。
京介,「さて、じゃあ、出かけるか」
椿姫,「ご飯作ってもいいよ?」
京介,「いや、少し買い物もしたいしな」
椿姫,「なに買うのかな?ついてっていい?」
京介,「もとから一緒に来てもらうつもりだったけど?」
おれたちは、仕度をして自宅を出た。
;背景中央区住宅街昼
京介,「なにが食いたい?」
椿姫,「あ、なんだろ……」
京介,「この前行ったレストラン行くか?ランチもなかなかうまいんだぞ?サーモンとか出るんだが……」
椿姫,「えっと……ごめん、本当はああいうところ、落ち着かないんだ」
京介,「そうか……そうだよな」
椿姫,「最近、無理してたから……背伸びしてたっていうか、洋服とか、お化粧品とか、そういうのは必要なぶんだけあればって、本当は思ってるの」
京介,「なら、ファミレスにしょう」
椿姫,「いいね。家族連れも多いから楽しいしね」
京介,「子供がよくはしゃいでるもんな」
椿姫,「うんうん、すっごくかわいいんだよね。見てるだけで時間なくなっちゃう」
穏やかな休日。
いわゆるデートというヤツが始まっているのだと気づいた。
;背景繁華街1昼
食事を終えて、ひっかかったことがある。
椿姫,「おいしかったね、楽しかったねっ」
椿姫はうしろの席に座った赤ん坊を眺めて、ずっとご満悦だった。
ひっかかったのは、おれの心境の変化だった。
椿姫,「じゃあ、六百円かな?」
京介,「あ、ああ……」
黙ってお金を受け取った。
おごるよ……その一言をすんでのところで飲み込んだ。
椿姫,「どうしたの?」
……こいつがせめて、デート中はなんでも男が出すもんだと決めつけているような女だったならな……。
たかが六百円……そう思う自分に驚いた。
京介,「じゃあ、ちょっと靴を買いにデパートに……」
;SE携帯
着信があったのは、椿姫の手を引いた直後だった。
京介,「…………」
椿姫,「電話、出てもいいよ?」
京介,「…………」
椿姫,「出ないの?」
……よりによって、こんなときに……。
歯がゆい気持ちで通話ボタンを押した。
京介,「……もしもし……うん……」
すぐに、声が漏れないよう、手で口元を覆った。
会話をしながら、椿姫に目と指で先をうながす。
椿姫に電話の声が聞こえないよう、少し距離を取った。
椿姫も、了解したようで、やがて、おれの隣を歩き出した。
…………。
……。
;背景繁華街2昼
京介,「ああ……ははっ……そうだね、なんとかやってるよ……」
電話はまだ続いていた。
椿姫,「…………」
椿姫は、少しも不満そうな顔をせず、黙ってついてきた。
京介,「うんっ、うんっ、ごめん……」
長引きそうだった。
手刀を作る仕草で、椿姫に侘びを入れた。
椿姫,「気にしないでっ」
小さく言って、また微笑んだ。
心優しい椿姫に甘え、おれはまた通話を続けた。
;背景繁華街1昼
ようやく、電話も終わった。
京介,「ふうっ……」
椿姫,「お疲れ様。お仕事の電話でしょう?」
京介,「ん、ああ……たいへんだわ……」
椿姫,「わたしに気にしないで、いつでも電話に出てねっ」
京介,「すまんな……滅多にこんな長電話はないと思うが」
気を取り直して、デパートに向かった。
;場転
お目当ての品はだいたい揃えた。
椿姫,「いっぱい買ったねー」
京介,「これは偉い人に教えてもらったんだが、生活必需品は、まとめて買っておくのがいいんだぞ。そのほうが時間を無駄にしないで済むからな」
椿姫,「覚えておくねっ。わたし、いつも足りなくなってから買ってるから」
京介,「でも、女手じゃあ、持ちきれんか?」
椿姫,「うん……」
京介,「ならおれが手伝うよ」
椿姫,「ありがとう。優しいな、京介くんは……」
……そんなつもりで言ったんじゃないんだが。
椿姫,「買った靴、かっこいいねっ」
京介,「お前、価値とかわからんで言ってるだろ?」
椿姫,「ふふっ、ばれちゃった?でもかっこいいと思うのは本当だよ。けっこうな値段したでしょ?」
京介,「まあな……ファッションは足元からなんてことを言うつもりはないが、靴には金をかけるぞ。すぐすり減るもんだしな」
椿姫,「なるほど、メモしておくね。京介くんのファッション講座でした○」
京介,「…………」
おれの隣に椿姫がいる。
椿姫は、おれの言うことなすこと全てに対して、楽しげに笑う。
京介,「お前の誕生日……」
椿姫,「ん……?」
京介,「あ、いや……」
誕生日ぐらいなにかプレゼントをやろうと思ったが、言い出すのも恥ずかしかった。
京介,「それじゃあ、おれはこれから、家で少し仕事があるから」
椿姫,「うん、夜にうち来るんでしょう?」
京介,「そのつもりだ……」
椿姫,「じゃあ、あとでねっ……」
京介,「駅まで送ろう」
言うと、子供のようなあどけない笑顔で、おれの手を握ってきた。
;背景主人公自室
自宅に帰って、メールや電話対応をこなす。
……それにしても、今日は遊んだな。
しかも、これからまた椿姫の家に遊びに行くのか。
そんなことに時間を取られていいんだろうか。
椿姫とつきあったはいいが、おれのなにが得をしているんだろうか。
金銭的には遊び金を使うだけで、損をしてるだけだ。
それでもおれは、今日の夜にまたあの家庭に溶け込みに行く。
気分が晴れ渡っている。
ストレスを発散しているとでも思えばいいか。
…………。
……。
;背景椿姫の家居間夜
京介,「すみません、きのうの今日でお邪魔してしまって」
ママ,「なに言ってるの?自分の家だと思っていいのよ」
案の定、おれは盛大な歓迎を受けた。
椿姫,「京介くんも、すっかり家族の一員だねっ」
本気でそう思われているらしい。
京介,「親父さんは?」
椿姫,「えとね……」
広明,「パパ、大阪ー」
京介,「大阪?」
椿姫,「うん、今日の始発で。なんか、おじさんに会いに行くって言ってた」
京介,「へえ……」
……金策に走っているのだろうか。
椿姫,「さあさ、ご飯だよー」
子供たちが別の部屋からわーっと出てきた。
賑やかな食卓を囲み、他愛もないやりとりで盛り上がった。
;場転
広明,「お兄ちゃん、ボクとお風呂はいろー」
京介,「え?なぜおれ?」
広明,「ダメー?」
ホント、人懐っこい子だな。
椿姫,「こら広明、お兄ちゃんは忙しい人なの」
かく言う椿姫も忙しそうに洗い物をしていた。
京介,「まあ、いいぞ……」
椿姫,「え?本当?カゼひかない?外寒いよ?」
京介,「だいじょうぶだろ」
広明,「やったー、じゃあ、行こうっ」
てくてくと、脱衣所に案内してくれた。
;黒画面
狭くて、薄汚れた風呂場。
床のアクリルのタイルは、ところどころはがれていた。
ガス式で、なかなかお湯が出なかった。
広明,「ボクとお兄ちゃん、どっちがおっきいかなー」
京介,「おれのほうが小さかったら自殺するわ」
大きな瞳がくりくりと動く。
椿姫とそっくりだった。
広明,「体洗ってー」
京介,「おう……」
体の隅々まで石鹸のついたスポンジで洗ってやった。
広明,「今度はボクが……」
広明,「あれ?」
おれの腹を見て、首を傾げる。
広明,「なんか赤くなってるよー、ミミズさんいるの?」
京介,「おー、よく気づいたなー」
おれは少し昔を思い出した。
母さんと放浪していたとき。
心ない小さな悪魔たちのいじめにあって、カッターナイフで切りつけられたときの傷だった。
京介,「このことは、お姉ちゃんにはないしょだぞ?」
広明,「なんでー?」
京介,「どうしてもだ。約束だぞ」
広明,「わかったー」
おれみたいに貧乏だったガキがいじめを受けるのは当たり前のことで、当時も、それについて恨んだり、悲しんだりすることはなかった。
たいした傷でもないし、椿姫に言うとよけいな心配をかけさせるだろう。
広明,「お兄ちゃんの背中、おっきいねー」
不意に、背後からくすぐられた。
京介,「こ、こらっ!」
広明,「あははっ!」
椿姫,「京介くん、ここに着替え置いておくからねー」
京介,「よし、じゃあ、10数えたら、あがるぞ?」
広明,「はーい!」
;背景椿姫の家居間夜
着替えというのは、親父さんの下着とパジャマだった。
椿姫,「狭かったでしょ?ゆっくり湯につかれた?」
広明,「うんっ、ばっちり!」
椿姫,「広明に聞いてないのっ」
広明,「ボクお兄ちゃん、大好きっ。明日もいっしょ入ってぇ」
京介,「……はは、また今度な」
誰かと風呂に入るなんて久しぶり……いや、親をのぞいたら初めてかな?
椿姫,「なにか、飲む?」
京介,「ああ……」
椿姫は本当に、おれにつくしてくれる。
軽く返事をして、いそいそと、台所に向かった。
まったりしてんな、おれも……。
どういうわけか、この二日、頭痛がまったくない。
畳に寝そべって、体を伸ばす。
おれの家でもなんでもないのに、面倒なことをすべて忘れられるような安心感があった。
;場転
おれは、少しまどろんでいたようだ。
椿姫,「京介くん、起きた?」
京介,「寝てたか……?」
椿姫,「今日、泊まっていく?」
京介,「ん……明日も休みだったな……」
寝ぼけたように言うと、椿姫はさっそく動き出した。
椿姫,「待ってて。布団用意するね」
京介,「ああ、すまん……」
ひどく、眠い。
まぶたを閉じると、体が宙に浮くような感覚があった。
;画面暗くなったり明るくなったりして、
;背景椿姫の家居間消灯
椿姫,「疲れてるんだね……」
いつの間にか、椿姫の顔が間近にあった。
京介,「おれは……」
椿姫,「ん?」
京介,「この家を……」
意味をなさない言葉を発していた。
京介,「いや、この家も取り壊しになるんだなって……」
椿姫,「うん……」
京介,「ホテルが建つらしいぞ、この辺は……」
椿姫,「そうなんだ。どうして知ってるの?」
おれは椿姫の問いに答えることができなかった。
京介,「やっぱり、出て行くなんて嫌だよな?」
椿姫,「そうだね」
京介,「そうだよな……」
椿姫,「でもいつだったか、京介くんが言ったように、新しい場所でもいくらでも思い出は作れるから」
京介,「前向きだな……」
椿姫,「それでも、すごく寂しいけどね。ここは物心ついたときからずっと住んでたから。それがなくなっちゃうっていうのは、すごく寂しいよ」
京介,「そうか……すまんな」
椿姫,「なにが?」
京介,「いや……」
おれは、酔っているのか。
椿姫,「変な京介くんっ。日記に書いておこうっと」
京介,「その日記取り上げるぞ……」
椿姫,「え、だ、ダメだよぉ」
京介,「見せろ」
椿姫,「そ、そんなに見たいの?」
京介,「おう」
椿姫,「……ええ……」
椿姫はどぎまぎしながら、やがて蚊の泣くような声で言う。
椿姫,「いいよ……」
京介,「よしいますぐ見せろ」
椿姫,「だ、ダメだよ」
京介,「じゃあ、いつだよ」
椿姫,「……わたしになにかあったとき」
京介,「はあ?」
椿姫,「わたしになにかあったときは、この日記をどこか目のつく場所においておくから」
京介,「なんか遺言みたいでやだな……」
くだらない会話が、心地いい。
まぶたが重い。
椿姫,「京介くん……?」
京介,「…………」
;黒画面
返事をしたのか、そうでないのか、わからなかった。
おれがこれから追い出す家族の家で、急速に眠りに落ちていった。
椿姫,「ずっと、いっしょにいてねっ」
;黒画面
椿姫とつき合い始めて、一週間たった。
その間、何度も椿姫の家に通い、家族と夕食をともにした。
弟や妹にも、すっかりお兄ちゃん呼ばわりされている。
本当に、家族の一員のような扱いだった。
親父さんから呼び出しがあったのは、引越しを翌日に控えた晩のことだった。
;背景椿姫の家居間夜
京介,「なんですって……!?」
椿姫,「よかったよ、本当によかったよ!」
パパ,「いや、みんなには心配かけたね」
朗報に沸き立つ家族たち。
京介,「五千も、借りられたんですね……」
パパ,「僕のいとこが、大阪で事業をやっていてね。昔、ちょっとしたケンカで仲たがいしていたんだが、事情を説明したら力になってくれるそうでね」
京介,「ずいぶんと気前のいい方で……」
なんてことだ。
椿姫の親戚を含めた金銭事情を洗っておかなかったおれのミスか……。
パパ,「いとこは、無利子、無担保で全額貸してくれるそうでね。いや、本当に助かったよ」
そんな馬鹿な話があるか……という言葉を必死で飲み込んだ。
親戚とはいえ、返す保証も能力もない人間に、五千万以上もの大金を貸すなんて。
どぶに捨てるようなもんだぞ。
だが、椿姫の親父さんの人柄なら、ありえない話ではない。
椿姫,「お父さん、すごいね。なんだろ、人徳っていうのかな?」
パパ,「おいおい、おだてるなよ。これでも、土下座してお願いしてきたんだ。おかげでもう、いとこには頭が上がらん」
京介,「じゃあ、それで、借金はひとまず返済ですね……」
親父さんはおれが紹介した金貸しから、五千万借りていた。
それが返済されるということは、担保として預かっていたこの土地も、椿姫家に返される。
つまり、おれの計画も、すべて失敗に終わったということだ。
パパ,「いや、京介くん。君には、新しい住居まで用意してもらってなんだが、やっぱり僕には畑仕事があっててね。おんぼろだけど、この家に住み続けたいんだよ」
京介,「…………」
広明,「ボクもこのおうち好きー!」
喜びに溢れる家族と、内心でほぞを噛む思いのおれがいた。
京介,「利息分なんかも、だいじょうぶですよね?」
あきらめきれず聞いた。
パパ,「もちろんだよ。やっぱり、街金融は高いねえ。持つべきものは親戚を含めた家族だよ」
終わりだ……。
山王物産になんて頭を下げればいいんだ。
おれの、浅井興業の信用もがた落ちだ。
いや、それよりなにより恐ろしいのは権三だ。
なんにせよ、これから報告に行かなくては。
椿姫,「ここが一番落ち着くよね?京介くんもそう思わない?」
京介,「……ああ……」
椿姫,「誘拐犯みたいな悪魔もいれば、叔父さんみたいな神様もいるんだね」
おれの心境など知るはずもない椿姫は、浮いたようなことを言って笑っていた。
無邪気に笑いあう家族。
この笑顔が、笑顔の群れが、神を引き寄せたというのか。
おれだけが、偽善めいた笑いを顔に貼り付けていた。
…………。
……。
;背景権三宅居間
報告をするとき、口が震えそうになった。
権三はおれの話を、黙って聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
浅井権三,「起こってしまったものはどうしようもない」
京介,「すみません、僕の不手際です」
浅井権三,「どれくらいの損害が出る?」
京介,「調べてみないとわかりませんが、最悪の場合、山王物産との契約があらかた白紙に戻る可能性も考えないといけません」
それは今後、この街で、靴を履かずに行商するようなものだ。
浅井権三,「お前は最善の策を練った。そうだな?」
京介,「はい……」
浅井権三,「お前は成すべきことを成した。そうだな?」
京介,「はい……」
浅井権三,「で、お前は、なにをしていた?」
絶句した。
浅井権三,「なぜ、もっと調べをつけておかなかった?」
まったく、その通りだ。
浅井権三,「金に困った家畜は親でも売る。血を分けた兄弟から無心する。そんなことをお前が知らんとは思えんが?」
京介,「つい……安心しておりまして……」
浅井権三,「この野郎、ふぬけてやがったな?」
怒りの残滓を含んだ充血した目で、おれをにらみつけた。
浅井権三,「女か?」
背すじが凍る。
浅井権三,「そうか……よりによってその家族の娘に入れ込んだか」
権三に、隠し事は通じない。
おれは、確定した死刑を待つ囚人のようにうなだれていた。
浅井権三,「京介……」
獣が低くうめいた。
浅井権三,「飲みに行くぞ」
京介,「は……?」
全身が最悪の予感に打ちひしがれた。
浅井権三,「俺の、おごりだ」
予感は、震えとなって、指先に現れた。
;黒画面
権三に連れ出され、車で夜の街に繰り出す。
車内での権三は何も語らず、窓の外、欲望にまみれたネオンの明かりをじっと見据えていた。
運転を任されている男の目が、剥製のように見開かれ、バックミラーのなかで恐怖を訴えていた。
ハンドルを握る指先も、ダークスーツに包まれた大きな肩も、がちがちに強張っている。
明らかに、今夜の権三を恐れていた。
高級クラブには狂気じみた金銭欲と熱気と紫煙が溢れかえっていた。
権三たちが姿を見せると、一般の客たちは、脱兎の如く戸口へ消えていった。
十人ほどだった。
どいつもこいつも極悪な顔で、権三の周りを囲むように立っていた。
誰に目を向けても、パンチパーマかオールバックか角刈りかスキンヘッド。
そして、社則で決まっているかのように、下品な光物を身につけていた。
浅井権三,「全員、揃ってるな?」
権三はフロアを鋭い視線で見渡した。
浅井権三,「今日はめでたい日だ、飲め」
権三がふっと笑うと、対照的に取り巻き立ちの形相は戦慄した。
浅井権三,「息子の京介に、初めてまともな女ができた」
十人の蛇のような目線が、いっせいにおれに浴びせられた。
堀部,「本当ですか、坊っちゃん、カタギの娘さんですかい?」
おれのことを坊ちゃんと呼んだのは、筆頭若頭の堀部。
組の中ではナンバー2の地位にいるが、トップの権三との間には大きな権力の開きがある。
飯島,「いや驚きましたよ、組長。急なお呼びでしたから、てっきりかちこみかと思いました」
スキンヘッドの大男は、元プロレスラー・グリズリー飯島だった。
プロダクションのオーナーを痴情のもつれで半殺しにして業界を追われ、路頭に迷っていたところを権三に拾われたという。
以来、ボディーガードとして、権三の外出時には常に傍らに控えている。
浅井権三,「お前らも日々忙しいのは重々承知している。こんな用件につき合わせて悪かったな」
堀部,「とんでもない。坊っちゃんのためなら、手前らいくらでも駆けつけますわ。なあ、お前ら?」
堀部の追従と、下々への呼びかけが、そのまま場の意思統一になった。
浅井権三,「だそうだ、京介、よかったな?」
不意に話をふられて、身がすくむ思いだった。
京介,「皆さん、今日はどうもありがとうございます」
そう言うしかなかった。
祝杯があがる。
一本二十万もする高い酒が、上質の木材を使ったテーブルの上に運び込まれた。
極道どもは、席次にならって、身分の高いものから順に酒をあおっていった。
ときおり怒声とガンと巻き舌が飛び交う。
おれは上座に腰掛けさせられて、悪人面の群れに逐一冷静な対応を迫られた。
尋常ではないタバコの煙の量に肺がおかしくなりそうだった。
浅井権三,「てめえ、親は息災か?」
しばらくして、権三が、酒注ぎ役の男に問うた。
権三が口を開くと、それまで騒いでいたヤクザたちも静まり返る。
それが、どんな他愛のない発言でも、獰猛なライオンが一気に臆病な猫に変わる。
ヤクザ,「自分の親は、自分が三つのときにくたばりましたが、それがなにか?」
男は、失態でも犯したかと恐怖していた。
浅井権三,「そうか、堀部は?」
堀部,「自分は、組長もご存知のとおり、いまムショにいるはずですが?」
浅井権三,「飯島んとこは?」
飯島,「自分んとこは、もともともあっちの国の生まれすから。いまごろ本国で畑でも耕してるんじゃないんですかね?」
浅井権三,「そうか……」
権三は、他の人間に、次々と同じ質問を繰り返していった。
耳を傾けてみれば、どいつもこいつも家庭に問題がありそうだった。
蒸発した父親、女郎に成り下がった母、刺して少年院に入った、借金の肩代わりをさせられた、麻薬に逃げた、酒と博打で人生を狂わせた――。
浅井権三,「おいおい、ここにいるのは、ろくでなしばかりか?」
フロアに下卑た笑いが充満した。
己の人生をあきらめて受け入れた者の、捨て鉢のような黒い笑い。
浅井権三,「不幸なことだとは思わないか、京介?」
京介,「……はい」
ここにいる全員が、不幸だとは思っていないことは百も承知だ。
彼らは、何人からの同情も受け入れない。
この世が平等であることを願う者など、一人もいない。
弱いものを追い詰め、権力のあるものに従う。
シンプルなルールに生きる彼らに、家庭とはそれほど意味のない言葉なのだろう。
が、権三は、豪放な顔の眉間に深いしわを寄せて言う。
浅井権三,「だが、俺たちは違うよな?」
その一声に、皆の顔が引き締まり、おれは権三の真意を思い知ることになる。
権三はヤクザ連中をゆっくりと見渡すと、最後にその底無しに暗い目をおれに合わせてきた。
浅井権三,「俺たちは、家族だよな?」
有無を言わさぬ凄味があった。
ホームドラマにでてきそうなセリフも、権三が口にすると、状況はさながら暗黒小説の一幕となる。
浅井権三,「家族は、裏切らないな?」
直後、クラブから溢れんばかりの大声で、はい、と全員が応えた。
権三が満足げに哂う。
訓練された犬は、吠えどきを間違えない。
浅井権三,「京介、よかったな?」
京介,「……はい」
底無しの沼に落ちていくような感覚だった。
権三は、おれを決して逃がさないと、取り巻き全員の前で宣言したのだ。
裏切りは、死。
それが、おれと権三の血の掟だった。
底無し沼は、まだまだ深かった。
権三は残忍な頭脳で、おれを追い詰めてくる。
浅井権三,「おい、例のものを京介にくれてやれ」
取り巻きの一人が動く。
数分後、おれの目の前に、黒いアタッシュケースが掲げられた。
その場の誰もが、卑しい目つきで中身を凝視した。
浅井権三,「五千ある」
きれいに並べられた福沢諭吉。
浅井権三,「お前には、いままでなにか与えたことが一度もなかっただろ?」
おれは、心底恐怖した。
はたから見れば、親が息子に祝いをくれているだけなのだが、守銭奴の権化とでもいうべき浅井権三に限って、それだけはありえない。
浅井権三,「受け取れ。これで、借金も少しは減るな?」
嫌な汗が噴き出し、胃がきりきりと痛む。
周囲のヤクザ者は、皆、権三に畏敬のまなざしを送っていた。
いままで一度も小遣いを与えなかった親が、めでたい日を選んで息子に大金を振舞う。
パフォーマンスとしては十分だ。
この人についていけば、きちんと黄金を拝ませてもらえるのだと、忠誠心を改めることだろう。
堀部,「坊っちゃん、おめでとうございます。いやあ、いいお父さんを持ちましたね」
喜べるはずがなかった。
この五千を受け取ったが最後、おれは権三に恩ができるのだ。
いったいどれだけ巨万の富を吸い上げられれば返せる恩なのか。
浅井権三,「どうした、遠慮するな」
権三の残忍かつ狡知なところは、おれがぜったいに受け取りを拒否できない状況を作り上げたことだ。
この場の誰もが、祝い事の最大のイベントを盛り上げようと、息を潜めて待っているのだ。
断れば、組長の顔に泥を塗られたと、一斉に牙を剥いて来るだろう。
おれは、改めて浅井権三という巨魁を畏怖した。
京介,「ありがとうございます、お養父さん」
権三は、まだおれを見据えている。
探るように、次の一言を待っていた。
京介,「このご恩は一生かけて返したいと思っています」
権三は、口元を深く吊り上げた。
浅井権三,「いいぞ、京介。お前はできた息子だ」
放たれた矢のように、野獣たちが歓声を上げた。
渡された五千万は腕のなかでずしりと重かった。
おれが簡単に手にしたこの金は、椿姫たちの一家を救えるだけの価値がある。
けれど、いまのおれにとっては、同じ価値とは思えない――思いたくなかった。
暗黒の宴は朝まで続いた。
椿姫たちには泣いてもらうしかない。
おれはまた、権三の忠実な家畜となるべく、心を閉ざしていった。
……。
…………。
手を考えなくては。
なんとかして、椿姫の一家をあそこから追い出さなくては。
京介,「京介です……どうも、こんな時間にすみません……実は……」
おれは山王物産の染谷専務に直接連絡を取った。
この件は、どういうわけか、専務じきじきに依頼された仕事だった。
社内的には勅命のような意味を持っているらしく、浅井興業としてもなんとしても完遂させなければならなかった。
京介,「というわけで、もうしばらくお待ちいただけないかというご相談でして……」
染谷,「いいえ、もう結構ですよ。他を当たらせていただきますので」
染谷の反応は極めて冷たいものだった。
京介,「他、ですって?」
染谷,「ご心配なく。新鋭会のほうにも、いくらかコネクションがありますから」
新鋭会は、総和連合のなかで権三が率いる園山組についで力のある組織だ。
いまだに旧態依然とした武闘派集団でもあり、ビジネスセンスを働かせてシノギを獲得する権三とは、犬猿の仲でもある。
そんなところに仕事を奪われたらと思うとぞっとしない。
京介,「二週間……いや、十日お待ちいただけませんか?必ずご期待にこたえてみせます」
染谷,「……と言われましても、浅井興業さんは荒っぽい手口は好まれないのでしょう?せっかくその道のプロにお願いして、我々としても大船に乗ったつもりだったのですが」
京介,「ご要望とあれば、今後は……」
染谷,「今後は?」
こいつ……。
京介,「手を汚す所存です」
染谷,「なるほど、では一週間お待ちしましょう」
なかなか老練なじじいだ……。
新鋭会のコネなんて、もともと持っていなかったのではないか?
京介,「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」
京介,「くそ……」
染谷専務にはああ言ったが、おれはいまだに迷っていた。
今後は、椿姫の家に、脅迫まがいの電話や、嫌がらせ目的の訪問をするのだ。
しかし、このご時世、そんな古風な手を使って立ち退きを迫るのは危険すぎる。
下手すれば、おれまでブタ箱行きだ。
いや、待て……。
所轄に前もって根回ししておけないものだろうか。
椿姫の家、一世帯が騒いだところで、警察は動かないのではないか。
もちろん、スピード違反をもみ消すのとはわけが違うから、それなりの金を積む必要はあるだろう。
あるいはなにか、弱みを握って……。
京介,「…………」
おれは、悶々と卑劣で非合法な対応策を練っていた。
その間、椿姫の幸せそうな顔が、何度も脳裏に浮かんだ。
あいつを抱いたときの感触が、何度でも蘇った。
けれど、そのたびに、権三から受け取った褒美が、おれを無感動にさせていった。
京介,「おれだ。探って欲しいことがある……県警の本部長クラスか、警視庁の……」
その夜は、寝ている暇なんてなかった。
;背景繁華街1夕方
平日の夕方、善後策を講じながらも、おれはどこかなあなあの気分で、椿姫と会っていた。
京介,「どうだ?なかなか雰囲気の落ち着いた喫茶店だったろう?」
椿姫,「ああいうお店なら、わたしでもなんとか空気に溶け込めるね」
椿姫はおれに断って、携帯をポケットから取り出した。
椿姫,「お母さんからだ……」
京介,「帰って来いってか?」
椿姫,「ううん、今日はお母さんがいろいろするから、彼氏と遊んで来ていいよーって」
京介,「ほんと、仲がいいな」
椿姫,「そうかな?」
京介,「なら、もうちょっとつき合えよ」
椿姫,「うん……」
迷うような素振りをみせた。
椿姫,「ちょっとならいいよ。あんまり遅くなったら、お母さんも大変だろうから」
京介,「あんまり家のことに気負いすぎるのも、疲れないか?」
椿姫,「そう?いままでずっとこうだったから、大変なことなんてないよ?」
言い終えて、椿姫は、軽く眉を寄せた。
椿姫,「ごめん。それは嘘だね。誘拐事件があって、家が大変だったとき、わたしちょっと、ダメだったし……」
京介,「ダメ?」
椿姫,「うん……嫌なことぜんぶ忘れて、京介くんと遊んでたいって思ったの。弟たちの面倒とか、家でご飯作ることとか、ぜんぶ丸投げして、好きなように遊んでたいって」
京介,「だから……?」
椿姫,「え?あ、えっと……だから、わたしにも、そういう自分勝手な気持ちあるんだなって、思ったの」
椿姫,「なんていうのかな、自然にわたしはいい子です、みたいな感じじゃないの……家族のためならなんでもやります、みたいな感じじゃなくて、えっと……あれ、なに言ってるんだろうね?」
慌てて、日記をどこからともなく取り出す。
京介,「いや、日記はいいよ。つまりはお前も人間だってことだろ?」
椿姫,「そう。ヒューマンです。だから、おなかもすくよっ」
明るく言って、控えめに腕をからめてきた。
京介,「じゃあ、メシに行くぞ。なにがいい?」
椿姫,「なんでもいいよ。わたしは、京介くんについていくのっ」
腕に顔をこすりつけてくる。
人ごみのなか、恥ずかしげもなく、無邪気に、おれに甘えてくる。
人目を気にするおれとしては、少しうっとうしくもあったが、逆に、椿姫のそういう無垢なところも気に入っていた。
;背景中央区住宅街夜
おれはよく行く近所の食堂に椿姫を案内した。
椿姫は雑な店内がだいぶ気に入ったらしく、例によって日記に店の場所をメモしていた。
京介,「なあ、お前ってなんで日記が好きなの?」
椿姫,「え?なんでだろうね……?」
京介,「いつからつけてるんだ?」
椿姫,「きっかけは、子供のころお父さんが買ってくれたからかな。もう、何度も修理に出して、ボロボロになってるんだけどね」
京介,「ふーん」
椿姫,「京介くんは、どうしてクラシックが好きなの?」
京介,「さあ……家族が好きだったから、かな。父さんがよくG線上のアリアを流してたような気がする」
椿姫,「やっぱり、お父さんの影響受けるんだね。いっしょだねっ」
えへへと、笑っていた。
……しかし、いっしょではないだろう。
おれの家族と椿姫の家族では、抱えている思い出が違いすぎる。
京介,「椿姫……」
椿姫,「ん?」
椿姫は、おれの顔色をうかがうように下から覗きこんできた。
椿姫,「どうしたの?寒いの?」
京介,「いや、ちょっと不安になってな……」
おれは、椿姫とまともにつき合えるのだろうか。
椿姫のように、幸福に包まれて育った女が、果たしておれと釣合うのだろうか。
そして、そんな人間に、これから立ち退きを迫ることができるのだろうか。
椿姫,「お仕事のことかな?」
京介,「まあ、そんなところだ」
椿姫,「わたしにできることがあったら、なんでも言ってね」
京介,「おお……」
なんでも、か。
じゃあ、あの家から家族そろって出てってくれ……などと口にするのはさすがにためらわれる。
せっかく、親父さんが金を工面してきて、立ち退かずに済むと、安堵しているところなのに。
京介,「さて、帰ろうぜ。送ってく」
椿姫,「あ、いいよ。一人で帰れるよ?忙しいんでしょ?」
京介,「いや、いいんだ」
椿姫,「そう?」
本当は、遊んでいる時間なんてない。
今日を含めて一週間以内に、なんとかしなければならないというのに……。
;背景椿姫の家居間夜
紗枝,「わー、お兄ちゃんだー」
家の敷居をまたぐと、すぐさま取り囲まれる。
広明,「お兄ちゃん、おふろー」
京介,「あ、おいおい……ズボンを引っ張らないように……」
椿姫,「大人気だね、京介くんは」
お母さんなんかは、おかえり、と気さくに声をかけてくる。
パパ,「いやあ、すっかり君もこの家になじんできたねー」
椿姫,「うんうん、違和感ないよね」
そうかねえ……。
パパ,「泊まってくんだろ?今日は夜通し、僕の若いころの話でも聞かせてやろうじゃないか」
京介,「はあ……」
パパ,「いや、僕はね。こう見えても、ディスコ六本木のVIPだったんだよ?」
京介,「は、はあ……」
いかんな、どうも調子が狂う。
京介,「すみませんが、今日は用事があるんで……」
パパ,「いいじゃないか、明日は休みなんだし」
広明,「お風呂はー?」
椿姫,「京介くん、これからヒョウがふるっていう話だよ……?」
京介,「む……そうなんだ」
椿姫,「ごめんね、送ってもらったばっかりに」
パパ,「なんだい?どうしてもっていうんなら、ハイヤー呼ぼうか?」
京介,「いえいえ、こっからだとこの時間じゃ、一万円近くかかりますよ?」
パパ,「遠慮しなくていいよ。母さん、ハイヤー!」
京介,「ああ、わかったわかった。わかりましたよ」
どうしてそんなに親切なんだよ……。
京介,「泊まっていきます」
広明,「やったー!」
こいつらは、おれのなにを知っていて、優しく接してくるんだろうな。
いや、この連中のことだ。
誰彼かまわず、こうなのかもしれないな。
おれが、自分らの家庭を不幸に追い詰めた張本人だと知ったら、どう思うだろうか……。
;場転
広明くんといっしょに風呂に入った。
広明,「またぜんぶお兄ちゃんに洗ってもらったー!」
子供は寒さを知らないのか、真っ裸で居間を走り回っている。
椿姫,「ありがとうね、京介くん」
パパ,「なら、今度は、椿姫が京介くんの背中洗ってやれ」
椿姫,「ええっ!?は、恥ずかしいこと言わないでよ!」
親父さんは笑いながら、風呂に向かった。
広明,「お姉ちゃん、アイス買いに行ってもいい?」
ちゃんと許可を得るようになったらしい。
椿姫,「じゃあ、いまから、いっしょに行く?」
京介,「おれも行こう」
椿姫,「え?体冷えちゃうよ?」
京介,「って、ヒョウがふるんじゃなかったのか?」
窓が風でぎしぎしと鳴っていた。
広明,「残念だなー、アイス食べたかったなー」
しょんぼりしてる。
京介,「…………」
椿姫,「コンビニ、そんなに遠くないから、ちょっと走って行ってくるね」
……そう言うと思ったわ。
おれも、寝巻きの上にコートを羽織った。
椿姫,「あれ?いいよ、京介くんはオセロでもしてて」
京介,「誰としてればいいんだよ。とっとと行くぞ?」
椿姫の手を引いて、外に出た。
広明,「お兄ちゃん、ありがとねー」
満面の笑み。
おれは、なにをしているんだ……?
;場転
夜中になったが、おれは親父さんと酒を酌み交わしていた。
パパ,「当時はバイクもってないヤツは、男として認められなかったからねー」
京介,「は、はあ……」
パパ,「京介くんは、バイク乗るのかい?」
京介,「いえ、車の免許は持ってますが」
パパ,「そりゃ、いい。今度みんなで、遠出するときには、ぜひ君を呼ぶとしよう」
京介,「はあ、運転は大変ですからね……」
;SE携帯
携帯が鳴る。
京介,「…………」
パパ,「……ん、どうした?出ないのかい?」
京介,「いえ、いまは目上の方とお話しをしているところですし」
パパ,「馬鹿、なにをよそよそしいこと言ってるんだい」
京介,「そうですか、では……」
おれは座を外させてもらった。
;黒画面
便所で、こそこそと電話する。
京介,「……おれだけど……」
京介,「ん、そうか……お役人さんが、そんなぽろぽろ不祥事起こしてるはずもないしな」
京介,「あ、でも待てよ。その副総監殿だけどな、たしか十六くらいの息子がいたろ?」
京介,「そうだ。その辺、叩いてみてくれよ」
京介,「相変わらず悪い野郎だって?おいおい、子供の責任は親の責任だろう?いやならガキなんか作らなければいいんだ」
京介,「それが、家族だろう?」
言い切って、なにか自分がとても小さな存在に思えた。
京介,「ああ、今度、ご飯いっしょしような」
通話を切った。
;背景椿姫の家居間夜
パパ,「京介くん、まさか他の女の子じゃないだろうね?」
京介,「まさか……」
パパ,「いやいや、でも聞こえちゃったよ?ご飯いっしょしようとか言ってなかったかい?」
京介,「友達ですよ。大切な、ビジネスパートナーってヤツです、はい」
パパ,「まあ、君はモテそうだからねえ。よく、椿姫みたいなのを選んでくれたもんだよ」
椿姫,「わたしがどうかした?」
パパ,「お、なんだ。もう、お風呂から上がったのか」
ひょっこり、椿姫が顔を出した。
パパ,「じゃあ、お父さんはもう寝ようかな。あとは二人でごゆっくり」
そそくさと別室に引っ込んだ。
椿姫,「お父さん、変なこと言ってたでしょう?」
京介,「面白い親父さんじゃないか」
椿姫,「良かった」
じっと見つめてくる。
椿姫,「最近、よく笑うね」
京介,「そうか?」
椿姫,「うちに来ると、楽しそう。気のせいかな?」
京介,「いや、そう見えるんなら、そうなんだろうさ」
椿姫,「良かった」
にっこりと微笑んでくる。
椿姫,「わたしね、京介くんになにをしてあげられるんだろうって、考えてたんだ」
おれは意味が分からず、あいまいに首を振った。
椿姫,「京介くんって、一人でなんでもできる人でしょう?」
京介,「それはない」
椿姫,「でも、あんないいお家に住んでるし、お金も持ってるし」
京介,「おれじゃなくて、おれのパパとか、会社の人がすごいんだよ。おれはおこぼれにあずかっているだけだ」
これは本当にそう思う。
椿姫,「困ったときは助けてくれるし」
……なんか助けたか?
助けたように、椿姫には見えただけだろう。
京介,「なんにしても、あんまりおれを買いかぶるなよ」
椿姫,「そうかなあ。京介くんが自分のことを、ちょっと安く買いすぎてるんじゃないかなあ……」
またうれしそうに身をすり寄せてきた。
椿姫,「なんでも、言ってね」
京介,「そんなにおれの役に立ちたいのか?なら……」
椿姫,「なら?」
家を出て行けとは言えない。
京介,「例えば、いっしょに暮らすっていうのはどうだ」
椿姫,「……っ!?」
一気に顔が赤らんでいく。
京介,「お父さんたちも、もうちょっと住みやすい家に引っ越してもらってだな……ほら、すきま風とかきつくないか?」
言いながら、手ごたえが薄いことも自覚した。
椿姫,「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくね」
……まあ、そうだよな。
おれはとっさに、家族がこの家を出て行かなければならなくなるような理由を考えたが、思いつかなかった。
椿姫,「やっぱり、ちょっと悩み事あるのかな?」
おれの迷いを敏感に察してくる。
京介,「べたなこと聞いてもいいか?」
椿姫,「うん」
京介,「家族と恋人とどっちが大事だ?」
椿姫,「べただねっ」
冗談だと思って、笑っている。
椿姫,「どうだろうね……京介くんは?」
京介,「さあな、命とお金ならどうだ?命は金に変えられないというが……」
椿姫,「もちろん、命だよ……って、あれ?なんかそんなこと聞かれたことあるな……」
首をひねる。
椿姫,「まあ、いいや。家族と恋人だったら、けっきょく……」
おれを一瞥し、直後に恥ずかしそうにうつむいた。
椿姫,「わ、わかんないな。そのときになってみないと」
そのときは、近い。
椿姫を抱き込んで家を明け渡すよう、説得する。
やはり、その手しかないな。
ただ、ふんぎりが、つかない。
この幸福な家庭を崩すのに、ためらいを覚える。
広明,「お姉ちゃん、おしっこー」
椿姫,「あらあらっ……」
目をこすりながら椿姫の手を求める。
それを優しく受け止める椿姫。
京介,「…………」
おれは床について姉弟のやりとりをぼんやりと眺めていた。
暖かい光景に安らぎ、そして嫉妬していた。
…………。
……。
;黒画面?
……。
…………。
京介,「お母さんお母さん、学校で余ってたからコロッケもってきたよ?」
母,「そう、それは、京介が食べなさい。お腹空いてるでしょう?」
京介,「ううん、いらないよ。おれはたくさん食べたから。隣の席の男の子から取り上げて、ケンカになっちゃったくらいなんだ。もうコロッケはこりごりだよ」
母,「顔が腫れてると思ったら……」
京介,「うん、おれ、ケンカ強いから。コロッケよこせって言ったら、みんなびびって差し出してくれたよ」
母,「弱いものいじめしちゃだめよ?」
京介,「そんなことしないよ。おれ、みんなのリーダーだから」
母,「そうなの?」
京介,「ほら、前も、顔にあざできてたでしょ?あれは上の学年のお兄ちゃんにいじめられてた子を、助けてあげたんだ」
母,「お腹、空いてないの?」
京介,「うん」
母,「そう。でも、京介のお腹はまだ食べたりないって言ってるみたいね」
京介,「……こ、これは、消化する音だよ、うん、そう……おれはたくさん食べたから」
母,「母さんはいいの。京介は育ち盛りなんだから、たくさん食べなきゃダメよ?」
……。
…………。
おれは、昔からずっと嘘つきだった。
見え透いた嘘は、優しい母にはいつもお見通しだった。
母,「京介、ごめんね」
冗談みたいな貧しさ。
いまどきの日本にそんな家庭があるはずがないと、誰も信じなかった。
おれの家を訪れた担任は、粗末な部屋を見てようやく取り繕うように言う。
『京介、いまは大変だろうが、必ず春は来る。いいか、人に上下はないんだ。授業でやったろ?卑屈になるんじゃないぞ?』
なるほど百歩譲って人に上下はないとしよう。
だが、左右はある。
左を見れば、どうしようもないような甘ったれた男の子が旨そうにステーキを食っている。
右を見れば、学校では暗くいじめを受けているような女の子が、それでも満足な部屋を与えられ、清潔で暖かいシャワーを浴びている。
母さんはいつも暗い顔で人に頭を下げているのに、なぜ他の子の親は笑顔を絶やさず、誰にも謝らないのだろうか。
歳を重ねるにつれて近所のおばさんが幼い自分にかけてくれた言葉が同情だったことに、まなざしが侮蔑であったことに気づく。
それはすべて、金がなかったからだ。
金がなければ下げなくてもいい頭を下げなくてはならないし、悪いことをしていなくても疑われ、いつの間にか周りの人間から哀れまれる。
金がない弱者には、家畜の忍耐力と、奴隷の卑屈さしか与えられない。
そうでないならば、弱い者をいじめてはいけないと言った母が、なぜあんなに虐げられなければならなかったのか。
京介,「…………」
夢のなか、おれは、自分には父の残した巨額の借金があることを思い出し、その額の重みに、押しつぶされそうだった。
…………。
……。
……。
…………。
椿姫,「京介くんっ?」
肩を揺さぶられている。
おれは、うめき声を漏らしながら、ようやく起き上がった。
椿姫,「どうしたの?うなされてたみたいだけど?」
京介,「なんでおれ、こんなところに?」
椿姫,「え?」
京介,「こんな、みすぼらしい家に……おれは、高級マンションに住んで……」
椿姫,「ふふっ、寝ぼけてるのかな?」
椿姫の顔に、焦点が結ぶ。
京介,「……ああ、すまん。おはよう。なんか気まずいこと言ったか?」
椿姫,「みすぼらしくて、ごめんねっ」
なにが楽しいのか、椿姫はやはり笑っていた。
京介,「今日は、どうする?」
椿姫,「ん?遊んでもらえるのかな?」
京介,「ああ……」
なんとかして、椿姫に立ち退きの話をしないと。
京介,「出かけないか?」
椿姫,「じゃあ、みんなでご飯食べてからだねっ」
;背景椿姫の家外観昼
広明,「ねえ、ボクもついていっちゃダメ?」
京介,「ダメだ。おみやげ買ってきてあげるから」
広明,「ホント?やったー」
手なずけておかなくては。
広明,「ボクね、ゲーム、ゲームほしいよー」
京介,「おう、わかった」
椿姫,「京介くん、いいんだよ?広明もあんまりせがまないのっ」
その後、いろいろと文句を垂れる弟を置いて、街に繰り出した。
;背景繁華街1
休日のセントラル街は、カップルで溢れかえっている。
椿姫,「本当に良かったの?忙しくない?」
京介,「気にするなって。それより、なんか買ってやろうか?」
椿姫,「え?」
京介,「お前とつき合って十日くらいになるし、記念的な意味で」
椿姫,「あ、ありがとう……」
直後、顔をしかめた。
椿姫,「でも、い、いいのかな?」
京介,「なにが?別に、プレゼントなんて普通だろ?」
椿姫,「そうなの?わたし、男の人とつきあうの初めてだから」
京介,「気にするなよ。なにがいい?」
椿姫,「えっと……」
たじたじになる椿姫。
京介,「なんでもいいぞ」
椿姫,「じゃあ、輪投げセットとか……?」
京介,「なんの輪投げ?」
椿姫,「なんのっていうか、輪投げセット。パーティゲームみたいなの」
京介,「…………」
椿姫,「だ、ダメかな?」
京介,「いやいやいや……なんでそういうのを欲しがるんだ?」
椿姫,「家族みんなで遊べて楽しそうだなって……ずっと思ってたの」
京介,「ふーん」
椿姫,「こ、子供のころから欲しかったんだよ?」
京介,「あ、うん……」
さすがになんと言っていいのかわからんな……。
京介,「えっとな……なんだろ、普通、もっとあるだろ。財布とか、ネックレスとか、時計とか……」
椿姫,「そうなの?」
京介,「お前へのプレゼントなわけだろ?みんなで楽しいものを買うってのは……」
椿姫,「ダメなのかな?」
京介,「ダメってことはないか……」
椿姫,「お父さんもお母さんも広明も、みんなうれしいと思うよ?」
京介,「だからよー、もっと個人的なものが……なんというか、お前だけがうれしいものが、普通というか、一般的にプレゼントとしてベターなもので……」
あー、わけがわからなくなってきた。
椿姫,「みんなうれしいと、わたしもうれしいよ?」
京介,「出たよ、うさんくせえ発言が……」
椿姫,「え?」
京介,「わかったよ。デパート行くぞ」
つーか、輪投げセットなんて売ってるのかねえ。
;場転
二時間後。
案の定、輪投げセットなんて、どこのおもちゃ売り場を眺めても置いてないわけで……。
椿姫,「残念だけど、しょうがないね」
京介,「だいたいなあ、普通はもっといいもんもらいたがるもんだよ」
椿姫,「いいもの?」
京介,「例えば値段の高いもんだよ。クリスマスになにもらったかで、自分がどれだけ愛されてるかを確かめたり、それを他の女友達に話して比べてみたりと……なんだ、そういうもんだ」
椿姫,「詳しいね……」
いやいやいや……。
椿姫,「京介くんは、け、けっこう贈り物してたのかな?」
急に、恐る恐る聞いてくる。
京介,「ん?」
椿姫,「だ、だから、いままで、けっこうな人とつきあってたのかな?」
京介,「……なんだよ、そういうのはちゃんと気になるんだな」
椿姫,「うん、もちろんだよ」
京介,「ちょっと安心したわ」
椿姫は、けげんそうに眉をひそめた。
京介,「んじゃ、昼飯でも食うぞ」
椿姫,「あ……ちゃんと答えてもらってないよー」
…………。
……。
;場転
街を歩く椿姫は、子供そのもので、いろんなことにはしゃぐ。
椿姫,「あ、見てみて、あの信号って、青になるのにすっごい時間差あるんだね」
京介,「最近の信号は、ぜんぶ、頭がいいらしいぞ。なんでも交通量を計算して、ちょっとずつ点灯の時間をずらしてるらしい」
椿姫,「へー、すごいなー」
その後、路上販売のアクセサリーの前で立ち止まる。
椿姫,「ねえ、京介くん。ブランドの時計が、すっごい安い値段で売ってるよ?」
おれは小声で耳打ちする。
京介,「ぜんぶニセモノだ。間違って買うなよ?」
椿姫,「え?ニセモノ?どうしてそんなもの売るの?ひどいよ?」
京介,「ひどくはない。買う客は、たいていバッタもんだとわかってて買う」
椿姫,「でも、騙される人もいるよね?それは悪いことだよ。詐欺だよ」
京介,「悪いことかどうかは知らんが、お店の人は別に、おれたちを騙すつもりなんてない。少なくともそういうつもりで売っていると言う。だから詐欺にはとられない」
椿姫,「ん、なんか難しいね……」
京介,「まあ、とくに気に入ったものがなければ、買うな。でも、誤解がないように言うけど、なかには本物もあったり、手製のすげえオシャレなネックレスとか掘り出し物もあるんだからな」
椿姫,「へー、知らなかったなー」
……。
適当にぶらついていて、次に椿姫が足を止めたのは、街頭で声高に演説する集団の前だった。
全員白い服を着て、ビラを配って道行く人を捕まえている。
京介,「おい、椿姫、行くぞ?」
椿姫,「あ、うんうん……こういうの、ちょっと気になるよね?」
京介,「ならない」
さわりだけ聞いてみると、財界人や政治家の不祥事をあげ連ねていた。
彼らが救われるには、邪魔な連中が多いらしい。
椿姫,「みんなが平等になれたら、いいよね」
京介,「そうだな。いいな」
椿姫,「みんな楽しいのが一番だよね」
京介,「そうだな。一番だな」
もともと興味のないおれは、とっととこの場から立ち去った。
京介,「お前って、洗脳されやすそうだよなー」
椿姫,「んー?」
…………。
……。
;背景繁華街2昼
京介,「はい、では、失礼します……」
正午を回ったあたりで、おれは電話に追われた。
京介,「ふう、すまんな。前もこんな感じだったよな?」
椿姫,「いいよいいよ」
京介,「まあ、おれとつき合う以上、我慢してくれ……」
;SE携帯
と言ってるそばから、また着信があった。
京介,「すまん……」
椿姫が、どうぞ、と手を差し伸べる。
京介,「あー、もしもし、ミキちゃんか……うん……」
椿姫,「…………」
京介,「ははあ、やるじゃないの、すごい助かるわ……うんうん、それで?」
椿姫,「…………」
馬鹿話を交えながら、ミキちゃんと話を続けた。
通話が終わると、椿姫が遠慮がちに聞いてきた。
椿姫,「え、えっと、誰なのかな?」
京介,「仕事仲間だよ」
椿姫,「そっか……そうだよね。ミキちゃんって呼んでるから、誰かなって思って……女の人だよね?」
京介,「はは、気にするなっての」
次の着信は、ようかんでも食おうかと、下町に繰り出していったときだった。
電話をかけてきた相手に、おれは重い気分になった。
……またか。
京介,「はい、もしもし、どうしたの?」
何度、椿姫を暇にさせることか……。
電話は、また長くなりそうだった。
おれはまた、椿姫に目で謝った。
;場転
……。
…………。
京介,「だから、それはもうわかったよ……うん」
いい加減、疲れてきた。
携帯を片手に、道を行ったり来たりしている。
椿姫,「…………」
椿姫も、さすがに少し不思議に思ったのか、さっきからずっとおれを見つめている。
ころあいを見計らって、どこかで話を切らなければ……。
京介,「それじゃ……えっと……」
京介,「っ!」
肩に鈍い衝撃。
ふらふら歩いていたものだから、人とぶつかってしまった。
椿姫,「京介くん、携帯……」
携帯がおれの手を離れ、椿姫の足元に転がっていた。
椿姫が、それを拾う。
京介,「あ……」
椿姫に悪気はなかったのだろう。
相手が大声で怒鳴るものだから、聞こえてしまったのだ。
椿姫,「……っ!?」
凍りついた。
母,「ねえ、どうしてわたしのそばにいないの!ねえ、いったいいつになったら帰ってくるの!?ねえ、ねえ、ねえねええええ!!!」
椿姫,「…………」
京介,「…………」
おれは慣れたもんだが、椿姫にはその常軌を逸したヒステリックな声が衝撃的だったに違いない。
椿姫が怯えた顔で、携帯をおれに差し出してくる。
母,「ひどい、ひどいわよっ!あんまりよっ、ねえっ、ひと、ひとりにしないでよっ、ねえっ、嫌い?嫌いなのっ?わたしが嫌いなのっ?」
女の声。
いつも、恨みと哀しみに満ちている。
椿姫,「だ、誰、その女の人……?」
椿姫,「こ、怖いよ……京介くん、いったい誰なの……?」
椿姫,「ひょ、ひょっとして、京介くんのお友達なのかな?」
友達じゃない。
椿姫は、気が動転しているのだろう。
無理もなかった。
椿姫,「え、えっと、前につきあっていた、か、彼女さんとか?」
瞬間、おれは携帯を切っていた。
椿姫,「わ、わたし、それでもいいよ?京介くん、かっこいいから、もてたんだろうし、昔、どんなことあったとしても、いいよ?」
椿姫は、おれが昔の女に恨み言を言われていると思っているらしい。
椿姫を落ち着けるべく、壁際に追い詰めた。
京介,「騒ぐな、そんなんじゃない」
椿姫,「え……」
おれの剣幕に、椿姫は顔を強張らせる。
椿姫,「だ、だって、すごい怖いよ?正気じゃないみたい」
京介,「正気じゃないだと……!?」
椿姫,「ひっ……!?」
腕にやり場のない力がこもった。
京介,「悪い」
椿姫,「…………」
京介,「母さんだ」
椿姫,「え?」
京介,「おれのお母さんなんだ」
椿姫は、絶句した。
ありえないという顔。
幸福に育った人間は、この世にあんな母親がいるはずがないと信じてやまない。
京介,「母さんは、いろいろあって、少し……そう、ほんの少しだけ口が多くなった。それだけのことだ」
椿姫,「…………」
京介,「少し、寂しいだけなんだ。おれがいまの養父に従って、離れて暮らすことになったから。少し、疲れているだけなんだ」
すべて、おれが悪い。
金のない、弱者のおれが原因で、母さんはおかしくなった。
椿姫,「京介くん……」
その瞬間だった。
弾かれるように、目を覚ます。
悪夢から逃げるような、はっとした感覚があった。
――おれは、なにをしている?
椿姫の目。
何度となく味わってきた。
そこにあるのは、何の役にも立たない、はた迷惑な慈愛の心――同情だった。
椿姫,「ご、ごめんね、知らなくて……」
京介,「そうだな。言ってなかったもんな。無理もない」
胸のうちと反対のことを、口が勝手にしゃべる。
すると、心のなかで、醜く歪んだどす黒い衝動が一気に募っていった。
ありていにいえば、おれはショックを受けているのだ。
椿姫には知られたくなかった。
たとえ知られたとしても、椿姫なら……あの心優しい椿姫なら、きっとおれを哀れんだりしないと、勝手に期待して勝手に裏切られた気になっているのだ。
おれもずいぶんと幼稚だが、椿姫も似たようなものだ。
つまり椿姫は、口ではみんなが幸せになればいいなどと言うが、おれのような人間に、実際になにを与えればいいのかを知らないのだ。
哀れみこそが、おれたちの最も受けたくない行為だと、決して知らない。
金と権力を背景にした他人への優越感こそが、なにより卑屈な心を癒してくれる……そういうことを、教えてやるべきではないのか。
椿姫,「ごめん、ごめんね……京介くん。そんな悲しそうな顔しないで」
京介,「…………」
椿姫,「えっと、なんて言っていいのかわからなくて……」
椿姫は戸惑い、ためらい、何度もまばたきを繰り返して、ようやく言葉を見つけたようだ。
椿姫,「うん、それでも、わたしがいるよ?何の役にも立てないかもしれないけれど、わたしも、わたしのお父さんもお母さんも弟たちも、みんなみんな、京介くんの味方だよ?」
その慌ててつむいだ一言一句が、おれの耳奥の神経を刺激する。
椿姫へのこれまでの気持ちが、カードを裏返したように、真逆のものに変化していった。
京介,「そうか……ありがとう」
小さく頭を下げた。
何百何千と、下げたくもない頭を下げてきたが、今回はとりわけ心に残った。
;黒画面
椿姫が、ゆっくりとおれの頭を両手で包み込むように抱いてきた。
椿姫,「京介くん、好きだよ……」
京介,「ああ……おれもだ」
好きなのは間違いがないと思う。
もう、おれの心は、椿姫でいっぱいだった。
京介,「椿姫が役に立たないなんてことないよ……」
椿姫,「そうかな?そう言ってもらえるとうれしいよ」
京介,「ああ……」
下げた頭の裏で、おれはゆっくりと目を細め、固く決意した。
……役に立ってもらおうじゃないか。
;背景主人公自室夜
……。
…………。
夜まで繁華街を歩き回ると、椿姫を連れて帰宅した。
椿姫は、家に帰らなければならないような素振りを見せたが、頼み込むと素直に従った。
コートを脱ぐと、すぐさま椿姫を抱き寄せる。
驚いたように体を強張らせるが、それも一瞬のことだった。
すぐさま甘えた声を出し、なんの疑いもなく、身を任せてきた。
;以下、エッチシーン。
;=================================有爱请自行移植@call storage="gth2.ks"
;黒画面
…………。
……。
;背景主人公自室夜
行為を終えて、おれは椿姫の耳元でささやいた。
京介,「急にしたから、驚いたか?」
椿姫,「ううん、ちょっとね……」
照れくさそうに上気した頬を緩ませた。
京介,「でも、嫌じゃなかったよな?」
椿姫,「……京介くんになら、なにされてもいいよ?」
首すじが痒くなるようなことを平気で言われた。
従順な椿姫。
どういうわけか、おれに惚れた。
きっと、学園でのおれだけを見て、疑うこともなく心を寄せてきたのだろう。
京介,「ちょっと、聞きたいんだけどな……」
椿姫,「なにかな?」
京介,「あれから、警察に連絡とかしてないよな?」
椿姫,「警察に?誘拐のこと?」
おれはうなずいた。
椿姫,「してないよ……やっぱりしたほうがいいかな?ちょっと怖くて……」
京介,「犯人を許せないか?」
椿姫,「え?」
京介,「憎らしいか?」
椿姫は押し黙り、目を移ろわせた。
椿姫,「どうかな……正直、許せないっていうほどじゃないと思う」
お人よしめ。
京介,「なら、よしたほうがいいな。警察が来たらいろいろと質問されて、また家が騒がしくなるし、それで犯人が挙がるとも思えないし」
椿姫,「うん……お父さんも、とくにそのことはなんにも言わないし」
さて、ここからが本題だな。
京介,「今後、なにかあったら、おれに言ってくれよ」
椿姫,「もちろん、そのつもりだよ」
京介,「ちょっとしたことで、警察を頼ったりするとさ、誘拐事件のことまで掘り返されるかもしれない。それは嫌だろ?」
椿姫,「ちょっとしたこと?」
京介,「うん、まあ、たとえばの話だけどさ……最近、椿姫の親父さんが、警察呼ぶぞ、とか言ってたことなかったか?」
椿姫,「う……ん?」
椿姫は眉をひそめる。
椿姫,「えっと、家を出てって欲しいって言われてたときかな?よく知らない人が訪ねてきてて、お父さんも迷惑してたから」
京介,「実際、本気で警察呼ぶつもりだったのかな?親父さんは」
椿姫,「どうだろう……」
京介,「本気だとしたら、しばらく、よしたほうがいいんだろうな」
椿姫,「そうだね、誘拐事件の犯人が、どこかでまだわたしたちを見張ってるかもしれないしね。ちょっとしたことで警察を頼ったりしたら、犯人が怒るかも……」
椿姫は、不意に怖くなったらしい。
おれは、ひとまず満足した。
椿姫はおれの言うことに、一抹の疑念もない。
京介,「明日から、ちょっと忙しくて学園には行けないかもしれない」
椿姫,「そうなんだ……会えなくなる?」
京介,「いや、夕方には、そっちに顔を出すよ」
椿姫,「うれしいな」
おれは、明日から始まる追い込みの下準備を進めているのだ。
もう、悠長に手段を選んでいる場合ではない。
暴力をバックにした汚いやり方で、強引に出て行ってもらう。
外からは浅井興業の人間が、内からはおれが立ち退きを迫る。
そのためには、椿姫をこちら側に抱きこまなくては。
おれは笑顔を作る。
京介,「そういや、お前ってクラス委員なんだっけ?」
椿姫,「どうしたの急に?」
京介,「いや、大変そうだなって」
椿姫,「……そうでもないよ?」
京介,「やめたらどうだ?」
椿姫,「どうして?」
京介,「いや、しなくてもいいことに時間使うだろ?いろいろと」
椿姫,「うん……」
京介,「よくやるよな?みんな嫌がるだろ。ああいうの」
けれど、椿姫はくすりと笑う。
椿姫,「誰かがやらなきゃいけないことだしねっ」
京介,「やめろ」
刺すように言った。
京介,「これからは、もっとおれといっしょにいて欲しいんだ」
椿姫,「あ……」
また抱き寄せる。
腐れジゴロの気持ちが少しだけわかったような気がした。
京介,「仕事も手伝って欲しいし、なによりお前と遊びたいんだ」
椿姫,「う、うん……」
まだ戸惑っていたが、やがて力なく笑った。
椿姫,「なら、今度からは立候補しないよ」
京介,「そうか?ごめんな……」
椿姫,「いいんだよ、京介くんがそう言うんなら」
口ではそう言うが、椿姫の心は揺れていることだろう。
こうやって、少しずつ崩していけばいい。
京介,「よし、じゃあ、今日はお開きにしよう。送っていくよ」
椿姫は、またうれしそうに腕を組んできた。
;黒画面
風の強い帰り道。
いつも以上に寄り添って、椿姫を家まで送り届けた。
すぐさま団らんの声が家から漏れ聞こえた。
いいじゃないか。
家があるだけ、家族がいるだけで幸せではないか。
少し住み替えをするだけで、なにが不幸なものか。
帰りは、おれにしては珍しくタクシーを使い、車内で携帯を駆使し、明日から始まる脅迫の算段を整えていった。
;背景椿姫の家外観夕方
椿姫,「ご飯の支度できてるよ。入って入って」
椿姫の家を訪問すると、すぐさま家のなかに招き入れられた。
;背景椿姫の家居間夕方
パパ,「だいぶ、うちになじんできたねー」
いつものように、家族に取り囲まれる。
京介,「そうですかね?」
パパ,「椿姫もさっそうと、君のコートを預かるだろう?」
広明,「お兄ちゃん、ゲームありがとー」
昨日買って、椿姫に渡しておいたのだ。
椿姫,「どうする、先にお風呂入る?」
京介,「いや、しばらくぼーっとしてたいな……」
椿姫,「あはっ、じゃあ、くつろいでて。広明、お兄ちゃんにお茶持ってって」
人見知りしない子供たちは、おれをすでに家族として受け入れていた。
我先にと、おれにかまってもらおうとする。
家のチャイムが鳴ったのは、紗枝という次女にお姫様について聞かれたときだった。
パパ,「おや?誰だろう。農協の人かな……」
親父さんが表に出て行く。
おれだけが、訪問客を知っていた。
;場転
京介,「お姫様っていうのは、生まれついて幸福な人のことだよ……」
などとてきとうな話をしていると、親父さんが玄関から居間に戻ってきた。
パパ,「京介くん、まただよ」
うんざりしていた。
京介,「また?」
いきなりおれに愚痴を吐く。
信頼されているのだと、再確認した。
パパ,「最近来ないと思って油断してたよ。連中はどうしてもこの家を出て行って欲しいらしい」
京介,「ははあ……例の不動産屋ですかね?」
パパ,「いや、あれはどう見てもそっち系の人だね。腰は低かったけど、ただの営業マンにしてはずいぶんとゴツイ体をしてたよ」
なるべくこわもてを選んで派遣したからな。
京介,「なんて言われたんです?」
パパ,「うちのせいでみんなが迷惑してるって。工事が進まないってな」
京介,「まあ、いちおう、理屈ですね……」
パパ,「だからといって、僕らが出て行かなきゃならない義務はない」
機嫌を損ねたのか、親父さんは別室に引っ込んでしまった。
椿姫,「どうしたの?」
京介,「どうにも、また立ち退きを求められたらしいな」
椿姫,「また?」
京介,「けっきょく開発はだいぶ進んでるみたいだし、強硬に出て行かないのは、この辺じゃ、椿姫の家だけらしいぞ?」
椿姫,「それは、なんとなく知ってたよ。ご近所さんも最近見なくなったし」
京介,「ふむ……」
椿姫,「やだな。せっかく、誘拐事件も終わって、お父さんががんばって、家を守ってくれたのに……」
広明,「どしたのー?」
子供は、大人の顔色を敏感に察する。
椿姫,「ん、なんでもないよー?」
椿姫も、すぐに取り繕ったように笑顔を見せる。
広明,「おうち、引っ越すの?」
椿姫,「ううん。だいじょうぶだよ」
広明,「ボク、やだよ。お引越ししたら、保育園のお友達とバイバイだよ?」
椿姫,「だから、だいじょうぶだって……」
広明,「ほんと?じゃあ、なんのお話してたの?さっき誰が来たの?」
不満そうな顔で、椿姫に詰め寄る。
椿姫は、思いついたように言った。
椿姫,「さっきはね、京介くんと暮らすんならどこに住もうかっていうお話してたの。おうちに来たのは、サンタさんじゃないかな?」
広明,「サンタさん?まだクリスマスじゃないよ?」
椿姫,「……えと、たまに、早く来ることもあるんだよ?ほら、昨日、お兄ちゃんが、ゲームくれたでしょう?だから、サンタさんがちょっとやきもち焼いちゃったの」
寒気がするような嘘。
ただ、椿姫の弟は、やはり椿姫の弟であって、姉の言うことを疑うわけもなかった。
広明,「そっかー、サンタさん、ボクが勝手にプレゼントもらったから、怒ったのかなー?」
椿姫,「うん。だから、すぐお兄ちゃんにものをねだっちゃダメなんだよ?いい子にしてたら、クリスマスもちゃんともらえるからね」
広明,「はーい」
広明くんは満足したのか、小走りで子供部屋に入っていった。
京介,「おいおいおい……」
おれは半笑いで椿姫を見つめた。
椿姫,「ごめんね、わけわかんないこと言って」
京介,「まあ、いいけどな」
椿姫,「弟たちに、よけいな不安をかけさせたくないの」
京介,「それはわかるけど……」
なにやら決意じみた光が瞳に宿っていた。
;SE家の電話
そのとき、家の電話が鳴った。
……いや、おれが、鳴らせたというべきか。
椿姫,「もしもし……美輪で――!?」
受話器を取った椿姫の顔がみるみるうちに歪む。
漏れ聞こえる品も知性もない罵声の群れ。
ありったけの大声で、耳が割れるほど叫ぶ。
でてけ、でてけでてけえっ、でてかねえとどうなるかわかってんだろうな、ああっ、聞いてんのかぁっ――!!!
はたから冷静に聞いているおれには、たいしたこともないが、それを直接聞いている椿姫にとっては、大きく耳に響くことだろう。
椿姫,「あ、え、えっと……や、やめてください!」
いままで聞いたこともないような巻き舌の声に責め立てられている。
椿姫,「す、すみません……な、なんのお話です、か?」
青ざめた顔で、この世にこんな粗暴な悪意があったのかと思い知らされる。
椿姫,「い、いえ、あの……」
そろそろ頃合だろう。
おれは、おもむろに腕を伸ばし、勝手に通話を切った。
椿姫,「あ……」
緊張の糸が切れたのか、椿姫は、ため息をついてその場に腰を下ろした。
椿姫,「はあっ……っ……」
虚ろな目で、自分に起こった凶事を把握しようとする。
まあ、当たり前の反応だ。
温室育ちの椿姫には厳しすぎる仕打ちといえる。
もっとも、おれがガキのころ味わった借金催促の電話に比べれば天国みたいなもんだが。
悪いな、椿姫。
これも、おれたちの明るい未来のためだ。
みんなが幸せになれたらいいんだろう?
パパ,「椿姫、どうした?」
椿姫,「お父さん……?」
どう考えたって、ここを売り払って出て行くのが一番だ。
おれも、おれの取引先も幸せになれる。
椿姫の家にだって、巨額の立ち退き費用が振り込まれるんだ。
思い出はどこでだって作れると言ったじゃないか?
椿姫,「…………」
椿姫はうつむいて、黙っていた。
おおかたショックに腰を抜かしているのだろう。
パパ,「椿姫、どうした?だいじょうぶか?」
椿姫,「…………」
パパ,「椿姫?」
思惑通りにことが進んでいる。
おれの母さんもそうだった。
親はなにより子供が大事なのだ。
パパ,「椿姫っ……!?」
大事な娘の顔色を見れば、親父さんもそのうち態度を改める。
そう思っていたのだが……。
椿姫,「ごめん、ちょっと、転んだだけだよ?」
面を上げた椿姫は、にっこりと、普段と変わらぬ笑みを顔に貼りつけていた。
京介,「ちょっと、待てよ、いまの電話……?」
椿姫,「なんでもないよ」
京介,「なんでもないってことはないだろう?そんな青ざめた顔……」
椿姫,「ん?なにが?」
おれは言葉に詰まった。
青ざめた顔はどこへやら。
余裕すら感じさせる表情で、親父さんに言った。
椿姫,「お父さん、お風呂入る?」
パパ,「だいじょうぶなのか?なんの電話だったんだ?」
椿姫,「……ううん、お友達からの電話だったよ?」
パパ,「友達?お前、携帯電話持ってるだろう?」
椿姫,「中学校のときからのお友達。まだ携帯の番号教えてなくてね」
パパ,「本当か?」
椿姫,「え?どうして?」
パパ,「いや……」
親父さんは戸惑うように言う。
パパ,「そうか……まあ、椿姫が嘘をつくわけがないしな」
椿姫,「ふふっ、ずっと前、ギョーザのなかにお父さんの嫌いなチーズ入れたときは黙ってたけどね」
パパ,「てっきり、ヤクザもんからの電話かと思ったんだよ。なんにもないならいいか」
椿姫,「そうだよ。わたし、なにかあったら、いつもお父さんに相談してるよ?」
パパ,「ああ……」
親父さんは、娘の態度に満足したのか、笑いながら別室にこもっていった。
おれは、椿姫を見据えた。
京介,「おい、無理すんな」
椿姫は首を振った。
椿姫,「無理はしてないよ?」
不気味なまでの笑顔だった。
京介,「無理してるだろ。下手な嘘つきやがって……」
それを信じる親父も親父だが……。
椿姫,「ごめんね、京介くんにはわかっちゃうよね」
京介,「ああ、どうせ立ち退きを催促するような電話だろ?」
椿姫,「うん。でも、お父さんにはなるべく黙っていたいの。繊細で傷つきやすいところあるから」
京介,「馬鹿だな。そういう問題は、人に打ち明けるもんだろ。なんていうのかな……」
おれは、言葉を選んだつもりだった。
京介,「それが、家族ってもんだろ」
そのとき、椿姫の顔が、珍しく引き締まった。
椿姫,「それは、違うと思うな」
京介,「な、なんでだよ?苦しみを分かち合うのが家族だろう?」
自分で言っておいて、言葉にぎこちなさを覚えた。
椿姫,「ごめんね。なんだろう、わたしは、お父さんや広明たちが無駄に悩んだり苦しんだりするのが嫌なの」
京介,「その分、お前が苦しむっていうのか?」
椿姫,「わたしは、ぜんぜん平気だよ?」
京介,「別に、おれの前くらい強がらなくていいんだぞ?」
椿姫,「本当にだいじょうぶなんだよ?」
なんなんだ、このありえない女は……?
京介,「なんか偽善めいて見えるけどな、お前のやってることは。お前が我慢してるって知ったら、親父さん悲しむぞ?」
椿姫,「偽善っていうの?」
京介,「かもな。お前はけっきょく、自分が一番気持ちいいと思うやり方を選んでるだけだ」
椿姫には、なにか固く心に決めたものがあるようだった。
椿姫,「そうだね。その通りだけど、わたしはみんながいつも笑っていてくれればいいなと思ってるだけ。もう、誘拐事件のときみたいに暗い顔するのは嫌なの」
……やっぱり、うさんくさい女だ。
おれのなかで暗い衝動が、ゆっくりと鎌首をもたげる。
本当は怖いはずなのに、誰かのためだと言って我慢する。
そこにあるのは、ただの自己満足だけだ。
京介,「まあ、すきにすればいいさ……」
吐き捨てるように言った。
椿姫,「……ごめんね、京介くん」
京介,「なにがだ?」
椿姫,「ごめん」
椿姫は、おれの問いには答えなかった。
広明,「お兄ちゃん、お風呂ー」
不意に広明くんが顔を出した。
もう、おれと風呂に入るのが日課のようになっている。
椿姫,「着替え、用意しとくね」
京介,「ああ……」
;黒画面
脱衣所で服を脱ぎながら、おれは椿姫のことを考える。
……化けの皮をはがしてやる。
金の圧力の前に、屈しない人間などいない。
必ず、家を出て行ってもらうぞ。
;背景椿姫の家居間夜
風呂から上がると、いつものような家族団らんの風景があった。
椿姫,「京介くんもみかん食べる?おいしいよ?」
こたつを囲んで、楽しげにテレビを見ている。
おれが座るためのスペースも確保されていた。
フレンドリーな家族だ。
椿姫,「京介くんって、勉強してる時間あるの?」
京介,「……さあ、あんまりないかな」
椿姫,「学園休んでるときは、ノート貸してあげるね」
京介,「別にいらんけど……」
紗枝,「わー、あたしも、テレビ出たいよー!」
女の子がテレビを指差した。
画面のなかでは、よくわからんが、小さな子供たちを集めたクイズ番組をやっていた。
紗枝,「ねえ、お姉ちゃん、テレビ出よー?」
椿姫,「えー、わたしは、やだなー。京介くんは?」
京介,「おれも絶対に嫌だ。目立つのは苦手だって言ってなかったか?」
言い方が少しきつかったのか、椿姫は申し訳なさそうに目を移ろわせた。
椿姫,「……ん?」
不意に、椿姫が顔を窓に向けた。
;SE暴走族の音
パパ,「なんの音だ……騒がしいな」
広明,「なんだろ?」
思わず耳をふさぎたくなるような騒音。
パパ,「この辺は、暴走族も通らないはずだけど……?」
不必要にアクセルを吹かし、けたたましい爆音を撒き散らす。
椿姫,「っ……」
彼らは暴力団の予備軍だ。
珍走団のなかでも、見所のある男は直接スカウトがかかる。
広明,「ねえ、どうしたのー?なんの音ー?」
子供たちが一斉に両親や椿姫の顔色をうかがう。
騒音はだんだん大きくなり、椿姫の家の付近で最高潮になった。
おれは窓辺に立って、様子を見る。
京介,「……うちの前で停車してますね」
おびただしい数のクラクションが下品な不協和音を作って、椿姫の家に飛び込んできた。
広明,「お、お姉ちゃん……?なんなの?」
椿姫は怯えだした弟に、ゆっくりと諭すように言った。
椿姫,「あれはね、車の競争してるんだよ」
広明,「競争?」
椿姫,「そう。誰が一番早いのか競争してるの」
広明,「でも、ボクんちの前に停まってるのはどうして?」
椿姫,「ちょっとお休みしてるの。いっぱい走って疲れちゃったからね。広明も、ちょっとお休みしたくなることあるでしょ?」
広明,「うん……そうだね」
椿姫の普段どおりの微笑の前では、どんなでたらめも子供たちの真実になる。
パパ,「さあさ、みんなでテレビ見ような」
親父さんも椿姫に合わせてきた。
紗枝,「でも、うるさいよー?」
パパ,「紗枝が泣くよりは静かだろ」
その一声にみんなが笑う。
外では他人の迷惑など微塵も考えない連中が、家族をノイローゼにしてやろうと躍起になっている。
それなのに、こいつらときたら……。
椿姫,「じゃあ、みんなで外の音楽に乗せて歌う?」
広明,「ボク、お歌上手いよー?この前せんせーにね、褒められたの」
広明くんが言うと、次々に、ボクもあたしもと、続いた。
おれはといえば、輪になり出した家族の外で、舌打ちをこらえているだけだった。
椿姫,「京介くんも歌う?」
京介,「……はは、遠慮しておくわ」
……いまはいいさ、いまはな。
何度も嘘が通じるはずがない。
時間がたてば、椿姫や親父さんの不安も募っていくことだろう。
……とはいえ、おれにも時間がない。
やはり、椿姫を従えなくては……。
;場転
夜も更け、珍走団も勤めを果たして去っていった。
子供たちもとっくに眠りについている。
洗い物をしている椿姫に声をかける。
京介,「明日は、泊まりに来ないか?」
椿姫,「どうしたの急に?」
京介,「いや、ちょっと仕事の話もあるしさ」
椿姫,「うん……いいんだけどね……」
考え込むように手の甲をあごに当てた。
京介,「大事な話があるんだ」
椿姫,「そう?」
京介,「いや、お前が家のことが心配なのはわかるが」
椿姫,「いまじゃ、駄目かな?」
京介,「二人でじっくり話したいんだ」
椿姫,「う、うん……」
じっと見つめると、照れくさそうに笑う。
椿姫,「わかったよ。学園終わって、広明たちを保育園に迎えに行ってからでいいかな?」
京介,「もちろん」
椿姫,「ふふっ、誘ってもらえてうれしいなっ」
やはり、こいつは、おれには従う。
京介,「なあ、椿姫っておれのどこがいいんだ?」
椿姫,「全部だよっ」
京介,「ひくわ、その発言」
椿姫,「本当だよ?」
京介,「マジかよ……」
しばらくじゃれついて、椿姫の心をさらに寄せる努力をした。
だいじょうぶだ。
一時期、こいつは、家族を差し置いておれと遊びふけっていたんだ。
おれの期待にこたえてくれるはずだ。
京介,「よし、じゃあ、もう寝るかな」
椿姫,「待って。お布団引くから」
その機敏な動きは、よくある世話焼きの女房のようで、見ていて気持ちがよかった。
京介,「いっしょに寝るか?」
椿姫,「は、恥ずかしいよぉ……」
すぐ顔を赤くする。
椿姫,「ほ、本当は、いっしょに寝たいよ?」
などと言って、頭をおれの胸に寄せてきた。
椿姫,「幸せだなあ。夢みたいだなあ」
京介,「……なにがだよ」
椿姫,「京介くんが、わたしのそばにいてくれるなんて」
京介,「ああ、ずっといっしょだぞ?」
椿姫,「うん、なにがあっても、ついていくよ」
京介,「言ったな?なにがあってもだな?」
……おれの本性を知ってもだな?
おれは薄く笑いながら、椿姫の髪を撫でた。
石鹸の香りが鼻をくすぐった。
椿姫,「わたしは、京介くんのものだよ?」
口づけを交わす。
優しく、優しく、嘘がばれないように……。
;黒画面
椿姫。
おれは、間違いなくこの女が好きなんだろう。
歪んでいるものがあるのかもしれんが、それは育った環境の差というものだ。
明日で、たたみかけるとしよう。
…………。
……。
;背景学園概観夕方
相変わらず風が吹けば震えが来るほど寒い日だった。
授業が終わり、おれは椿姫と校門前で待ち合わせていた。
栄一,「ふー、寒いねーお二人さん」
すっかりご機嫌斜めの栄一が、風のように現れては消えていった。
椿姫,「栄一くんって面白いよね?」
……まあ、あいつは面白くないんだろうが。
京介,「ひとまず、保育園だろう?」
椿姫,「うんっ」
;背景椿姫の家外観夕方
広明くんを連れ立って家まで帰ってきたのだが……。
椿姫,「……変な人?」
広明,「ん、なんかね、お姉ちゃんが来てくれるまで待ってたらね、じっと、ボクを見てる人がいてね」
椿姫,「……えっ!?」
椿姫は、あの誘拐犯かと思って動揺しているのだろう。
椿姫,「ど、どんな人だった?」
広明,「んー、頭のつるつるな人だったよー。お兄ちゃんよりぜんぜん大きい人だった」
広明くんはおれを指差したあと、その人物の大きさを示すように両手をめいっぱい広げた。
椿姫,「なにか、言われた?」
広明,「んーん。ずっと見てただけ。お姉ちゃんの声がしたら、どっか行っちゃったよー?」
椿姫,「そっか。なら、安心だね」
広明,「安心なの?」
椿姫,「その人はね、きっと広明を見守っててくれたんだよ?」
広明,「そなの?」
椿姫は、いい加減しつこいくらいの笑顔でうなずいた。
椿姫,「ただね、その人に勝手について行ったりしちゃ駄目だよ?」
広明,「はーい!」
椿姫,「それじゃ、おうちに入って手洗ってうがいしてきなさい」
広明くんを送り出すと、椿姫が不安げに聞いてきた。
椿姫,「京介くん、どう思う?」
京介,「おおかた、嫌がらせの一環だろうな。家族をつけまわすっていうのは、よく聞く手口だ」
椿姫,「じゃあ、もし、わたしが迎えにいかなかったら?」
さすがに少し取り乱した。
京介,「落ち着けよ。さすがに誘拐するようなことまではないと思うぞ」
椿姫,「……そうかな。心配だな」
椿姫は口を真一文字に結んで、広明くんが入っていった家の戸を眺めていた。
京介,「じゃあ、おれの部屋に行こうぜ」
椿姫,「うん……」
気のない返事。
京介,「なんだよ、嫌なのか?」
椿姫,「えっと、電話とかまたかかってこないかなって……」
京介,「…………」
椿姫,「夜も、バイクがたくさん来ないかなって。そういうときに、広明たちのそばにいなくていいのかなって……」
京介,「気持ちはわかるよ……」
おれは椿姫の肩にそっと手を置いた。
京介,「ちょっと早めに打ち明けたいことがあったんだが、なら、仕方がないよな……」
椿姫,「……あ」
京介,「ごめんな。今度にしようか」
髪を撫でて、立ち去ろうとする。
椿姫,「ま、待って」
袖をつかまれた。
椿姫,「ごめんね、約束してたもんね」
京介,「いや、いいんだよ。家族が一番大事だろ?」
椿姫,「ううん、京介くんも大事だよ。ごめんっていうのは、約束破りそうになってごめんっていう意味だよ」
京介,「……というと?」
椿姫,「うん、行くよ。大切なお話あるんでしょう?」
京介,「そうか?」
探るように聞いた。
京介,「いいんだぞ。無理しなくて」
椿姫,「だいじょうぶだよ。お父さんもいるし、なにかあったら携帯に電話かかってくると思うし」
京介,「悪いな……」
椿姫,「うん、行こうっ」
おれも笑みを携え、椿姫の手を引いた。
椿姫の手のひらは真冬だというのに、温もりに溢れていた。
;背景主人公自室夜
京介,「寒かったな。とっとと入れよ」
部屋に戻って暖房をきかせると、ようやく体も落ち着いてきた。
椿姫,「お話って、なにかな?」
京介,「とりあえずコート脱いで座れよ。コーヒー飲むか?」
椿姫,「ありがと……」
おれはキッチンに立って、ヤカンを火にかけた。
しばらくして少し酸味の強すぎるコーヒーが出来上がった。
椿姫は、カップをすすりながら、おれに視線を向けてくる。
京介,「最近、日記書いてるか?」
椿姫,「書いてるよ。京介くんのことばっかりだけどね」
京介,「昨日のことは?」
椿姫,「……ちょっと、嫌な夜だったね」
自嘲めいた笑いに、少しだけ暗い影が漂っていた。
京介,「嫌なこともなんでも、ありのままに書くんだな?」
椿姫,「それはそうだね。そうしないと、嘘日記になっちゃうからね」
京介,「嘘日記ねえ」
おれは小さく笑うと、手元のカップに口をつけた。
京介,「でも、もしさ、お前の信じている毎日こそが、嘘ばかりだったらどうする?」
椿姫は、おれの謎めいた質問に、どう答えていいのかわからず、首をかしげて押し黙った。
京介,「つまり、おれが、嘘つきだったらどうするってことだよ」
椿姫,「京介くんが、嘘つきなわけがないよ」
冗談だと思ったらしく、子供のように頬を膨らませた。
京介,「でも、実際、おれはお前に隠し事をしていたわけだろう?」
椿姫,「……え?」
京介,「学園をさぼっている理由をお前は知ってるだろ?」
椿姫,「それは、隠し事であっても、嘘じゃないでしょう?言いたくないことくらい、誰にだってあると思うし」
京介,「お前にはあるのか?」
椿姫,「言いたくないことは……に、日記とか?」
少しずつ、おれの雰囲気が恐ろしくなったらしく、椿姫の顔からさっきまでの明るい笑みが消えていった。
椿姫,「ひょっとして、他にもなにか、言いたくないことあった?」
おれは、何も言わずに、じっくりと首を縦に振った。
椿姫,「なにかな?なんでも言って」
腹をくくったようだ。
京介,「実はな、椿姫。ちょっと、協力して欲しいことがあるんだ」
おれはため息をついて、自嘲気味に笑う。
京介,「仕事のことでさ、今、ちょっとピンチなんだよ。このままだと、破滅するかもしれない」
椿姫の目の色が変わった。
京介,「いま引き受けている仕事が、この町を牛耳っているような大きな会社から依頼されててさ、失敗すると大変なことになるんだ」
椿姫,「……そうなの?」
京介,「下手すりゃ、おれのパパも、会社の人たちもみんな路頭に迷うことになるもしれない」
椿姫の顔を観察しながら話を続ける。
京介,「もう、約束の期限も近くてな……ぶっちゃけ、まいってるんだよ」
椿姫,「そ、それで?どういったお仕事なのかな?わたしに、なにかできることある?なんでもするよ?」
おれのことがよほど心配なのか、椿姫は息つく間もなくしゃべった。
京介,「仕事の内容は……」
じっくりと、間を取って言った。
京介,「東区の開発に関わることだ」
椿姫にはまだ、ピンと来ないらしく、神妙な表情をしていた。
椿姫,「東区って、うちのあたりだけど……ああいう工事とかのお仕事?」
おれは首を振る。
京介,「おれが依頼されているのは、土地の整理だよ」
椿姫,「……整理って?」
京介,「つまり、今後はあの田舎にも、遊園地やらホテルやらが建つわけだろ?そのために土地を買い上げる手伝いをしているんだ」
椿姫,「うん……」
京介,「わからないか?」
さすがは椿姫というべきか。
きょとんとして、まったくおれを疑う素振りを見せない。
椿姫,「どうしたの?わたし、京介くんがどんなことしててもいいよ?協力できることあったら、なんでもやるよ?」
京介,「その言葉に嘘はないな?」
椿姫,「うん」
口元を引き締めて、うなずいた。
京介,「じゃあ、お願いしたいんだが……」
おれは観察していた。
椿姫の、そのおれを信頼する瞳が、一気に虚ろになっていく過程を、はっきりと見ていた。
京介,「あの家を、出て行ってもらえないか?」
時が凍りついたことだろう。
しばらく、無表情でおれを見つめていた。
やがて、え、あ、え……などとつぶやいてから、ようやくまともに口をきいた。
椿姫,「京介くんが、うちの立ち退きを迫ってるっていう意味で、いいのかな?」
京介,「迫ってるというか、事実、迫っていた。今日も、昨日も、いいや、誘拐事件の起こるずっと前から、お前の家を狙っていた」
こういうとき、おれは何も感じなくなる。
弱い者を追い詰めるようなサディスティックな感情も、椿姫への愛情も急速になりを潜める。
京介,「昨日はお前の家に電話をかけさせたり、珍走団を呼んだり、こわもてを選んで挨拶に行かせた」
椿姫,「あ、あれは……ぜんぶ、京介くんの指図だったっていうことなの?」
京介,「そうだよ。そして、お前らが出て行かない限り、毎日続けるつもりだ」
椿姫,「う、嘘だよ。そんな……なんで……?」
京介,「嘘じゃない。どうしても信じられないなら、いまから電話一本で、お前の家にまた嫌がらせの電話をかけさせてやろうか?」
人を裏切るような真似をしておいて、おれは、ひどく冷静だった。
椿姫が、おれの声がたまに違うというが、こういうときなのだと、ふと気づいた。
椿姫,「や、やめてよ、そんな……やだよ……」
京介,「ああ、おれだって、ひどい脅迫はしたくない」
本心だった。
京介,「おれはお前が好きだ」
京介,「あの家も、すごく落ち着く。料理もうまい。畳に寝るのがあんなに気持ちいいなんて知らなかったし、広明くんと風呂に入るのがもう日課になっている」
椿姫,「じゃ、じゃあなんで?」
瞳を潤ませる椿姫に、刺すように言った。
京介,「金のためだ」
京介,「金が、おれやお前、そしてお前の家族をなにより幸せにしてくれるんだ」
椿姫,「言ってる意味がわからないよ……」
京介,「おれにはお前たちのほうこそわからない」
椿姫,「え?」
京介,「なぜ、立ち退かない?」
椿姫,「それは……だから、いままでみんなで暮らしてきた大切な家だから……」
おれは椿姫を見据えた。
京介,「お前たちは、人に迷惑をかけている」
おれは椿姫の目の前で、指を立てた。
京介,「なんにしても、親父さんに金を貸してくれた親戚の叔父さんだ」
京介,「五千万以上だろ?その叔父さんがどんな人かは知らんが、ぽんと出せるような金額じゃない。ひょっとして、身を削ってお前らを助けてくれたのかもしれないんだ」
椿姫,「それは……うん……そうだね」
京介,「開発側の要求にしたがって土地を売れば、それを返してお釣りが来るくらいの額が家に入るんだぞ?」
京介,「思い出の詰まった家かなんだか知らんが、まず、人から借りているものを返すのが先じゃないのか?」
当然、その親戚の叔父さんとやらは、椿姫たちの事情を知って金を貸してくれたのだろう。
椿姫の親父さんのように農園を営んでいる人にとって、引越しが即廃業につながることも理解しているはずだ。
すなわち、家を出て行かせまいと金を貸したのに、借りた当人たちが家を売ってしまったら本末転倒というもの。
土地の売却は、きっと、金を貸した親戚も望まないことなのだろう。
しかし、そういうことを気づかせてはならない。
京介,「おかしいとは思わないのか?あの辺の人たちは、もうほとんど出て行ったんだ。あとはお前たちの家だけだ。みんな金に目がくらんだのに、なぜ、お前たちはかたくなに居座り続けるんだ?」
京介,「お前たちさえ出て行けば、あの辺にホテルが建つ。いろんな人がそのホテルを利用する。みんなが儲かる。金が入ればお前らみたいに毎日笑って過ごせるような家庭も少しは増えるかもしれない」
深いため息をついて、もう一度、今度は低い声で言った。
京介,「お前らは善人で、たしかに何も悪いことをしていない」
京介,「嫌がらせをしたのは、たしかに心苦しいものもある。お前の恋人としてやっていいことではないんだろう」
京介,「それでも、頼むよ。お前らが出て行くのが、一番なんだ」
声こそ熱を入れたが、頭はひどく冴えて冷え切っていた。
椿姫は、遠慮がちな目を向けて、力なく笑った。
椿姫,「お話は、わかったよ……」
椿姫,「京介くんの言うとおりだとも思う。うちのお父さんはわたしとおんなじで、お金のやり繰りに疎いところあるし、人はいいけど頑固なところあるし……」
言うべき言葉を失ったようで、そこで息をついた。
椿姫,「ちょっと聞きたいのはね……ううん、ちょっとショックを受けてるのはね……」
椿姫,「えっと、どうして、京介くん……どうして、ひどいことするの?」
椿姫,「怖い人を使って嫌がらせなんて、京介くんがするようなことじゃないよ」
おれは、椿姫のこういう責め口も予想していた。
京介,「必要悪だからだ」
椿姫,「え?」
京介,「詳しくは話さないが、こういった土地を巡るトラブルで暴力団が関わっていればすんなり解決しただろう事例がけっこうある」
京介,「そうしなかったばっかりに、アパートの借主が貸主を殺したり、一家が路頭に迷ったりと、不幸が大きくなったことすらある」
京介,「なんでもそうだろう?風俗やギャンブルだってそうだ。法律やら道徳やらがびっしり張り巡らされた毎日で、それをスムーズに解決してくれる存在が求められるのは当たり前のことだ」
京介,「それが残念なことに、今回たまたま、おれだったんだ」
椿姫が口を尖らせた。
椿姫,「でも、でもっ……京介くんは、優しくていい人なのに……」
この期に及んでまだそんなことをぬかすか……。
椿姫,「それに、たとえ、わたしが家を出て行くって言っても、お父さんが納得しなければ、意味ないと思うよ?」
京介,「ここしばらくお前の家に通ってわかったが、あの家はお前を中心に回っている。椿姫が頼めば、親父さんは必ず折れる」
これには確信があった。
椿姫,「……でも……っ……なんだか、それは、お父さんに悪いよ……せっかくお金を借りてまで家を守ってくれたのに……」
京介,「家族を裏切る気がするのか?」
椿姫は、いままでで一番深くうなずいた。
おれは、そろそろ締めに入ることにした。
京介,「おれの言うことは、なんでも聞くんだろう?」
椿姫,「……っ」
京介,「おれの役に立ちたいと言っていたじゃないか」
椿姫,「そうだけど……」
京介,「何度も言うが、これでもおれはお前が好きだ。いらいらすることもあるが、逆にそれが気になって仕方がないときもある。だからこそ、好きなんだと思う」
椿姫,「……うん、ありがと……」
京介,「もう一度、聞くぞ、椿姫」
前は笑いながら聞いたが、今回は違う。
京介,「ベタなことだ」
椿姫も、気づいたようだ。
京介,「家族とおれと、どっちが大事だ?」
;場転
窓の外ではいつの間にか、綿のような雪が、室内からの明かりにちらちらと浮かび上がっていた。
椿姫は口数少なく、ずっとうつむいていた。
伏し目がちな瞳の奥に涙を携えることもあった。
京介,「……なあ、椿姫」
呼びかけると、ようやく顔を上げてくれた。
京介,「おれは、おかしいか?」
椿姫,「…………」
京介,「おかしいんだろうな。軽蔑されて当然だとも思う」
椿姫,「…………」
京介,「ただ、いまひとつ、わからないんだ」
椿姫,「わから、ない……?」
か細い声で聞き返してきた。
京介,「金がないヤツは、なにをされてもしかたがないものなんじゃないのか?」
椿姫は曖昧に首を振る。
京介,「裁判にも、病院にかかるにも、勉強するにも、葬式も、結婚も、子供を作るにも金がかかる」
京介,「金がなければ、人の助けが得られないようにできてるんじゃないのか?」
京介,「こういう話をすると、よく外道の詭弁だと、金持ちの傲慢だとそしりを受けるが、お前はどう思う?」
静寂が訪れた。
椿姫は驚いたように目を丸め、ついで力なく息をついた。
椿姫,「わからないよ、そういうのは……」
京介,「…………」
椿姫,「京介くんは、子供のときに大変な苦労を味わったからこそ、そういうふうに考えるんでしょう?」
京介,「…………」
椿姫,「わたしが思うのはね、京介くん」
また、力なく笑って、物憂げな視線を向けてきた。
椿姫,「すごく、もったいないなって」
京介,「もったいない?」
椿姫,「京介くんみたいな人がね、どうしてもっと人助けしないんだろうって」
京介,「慈善事業でもしろと?はっきり言って、おれにそんな余裕はない」
椿姫,「どうして?」
京介,「この際だから言うが、おれにも借金があるんだ。おれはそれを返すためにいまの養父に従っているということもある」
椿姫,「借金?京介くんみたいなお金持ちでも借金するの?」
京介,「おれの実の父が残した借金だ。誰も返せないなら、息子が返すのは当然だろ?」
言うと、椿姫は悲しそうな目をしてうなずいた。
椿姫,「そっか。そういう事情もあったんだね。だから、保育園の帰り、広明のあとをつけまわしたりできるんだね。親のやったことは、子供が補って当然と思ってるんでしょう?」
京介,「……違うのか?」
椿姫,「わからないな、わたしには……ただ、京介くんがそういう人なんだっていうことが、わかってきた」
逃げるようなことを言って、目を伏せた。
椿姫,「ごめんね、京介くん」
椿姫,「わたし、知らなかったんだね」
椿姫,「彼女みたいな顔して、京介くんを家族の一員みたいな扱いしてたのにね」
おれは、またわけがわからなくなった。
椿姫の、その目、その色、そのまなざしには、おれへの恨みも軽蔑も、どんな同情の光も宿っていなかった。
椿姫,「京介くんの苦しみも、哀しみも、なにひとつ知ろうともしないで、ただ優しくていい人だって決めつけてたんだね」
椿姫,「京介くんを知ろうとする努力を怠って、勝手にいい解釈をして自分だけ楽にしてたんだね」
椿姫,「ごめんね……」
おれはまた、なにも感じなくなった。
京介,「もういい」
冷徹に言った。
京介,「おれに、従うな?」
椿姫,「…………」
京介,「お前はおれの役に立ちたいと言っていた。いまがそのときなんだ」
椿姫,「…………」
京介,「頼むよ、椿姫……」
椿姫は窓の外に視線を外した。
いまだにやむ気配のない雪をぼんやりと目で追っていた。
椿姫,「京介くんは、いつからお母さんと二人で暮らすようになったの?」
京介,「なんだ、急に?」
椿姫,「知りたいの」
京介,「さあな、十歳くらいじゃないか」
椿姫,「寂しかった?」
京介,「多分な」
椿姫,「お母さんは、元気?」
京介,「元気じゃないのは、お前も知っての通りだ」
椿姫,「京介くんは、お母さんには優しいみたいだね」
京介,「知るか」
脈絡のない質問のやりとりが、ぽつりぽつりと、窓の外の雪のように浮かんでは消えていく。
椿姫,「いまのお養父さんに連れられて、どうだった?」
京介,「金の大事さを学ばせてもらったかな」
椿姫,「叱ってくれた?優しくしてもらってる?」
京介,「いいや」
椿姫,「そっか」
そのとき、部屋に沈殿した物憂げな空気を破るように、おれの携帯が鳴った。
おれは、椿姫を見据えながら、携帯を耳に当てた。
京介,「もしもし……あー、なんだ、ミキちゃんか……」
椿姫,「…………」
おれが急に明るい声を出したので、椿姫は面食らったように顔をしかめた。
椿姫,「…………」
京介,「うん、そっか。じゃあ、しっかり身柄抑えちゃって。そのうち、親御さんに連絡しておくから」
椿姫,「…………」
京介,「あー、はいはい、なに、それが切り札になるかもしれないから。わかってる、高く買うよ。ん、それじゃ……」
話も半ばで切り上げ、電話を懐にしまった。
椿姫が、見計らったように言う。
椿姫,「返事は明日まで、待ってもらえるかな?」
京介,「明日……?」
椿姫,「京介くんの言いたいことはわかったから、ちょっと一日考えてみるよ」
この場で即答を求めるのが得策のような気がするが、言い出すのはためらわれた。
京介,「わかった。明日の夕方、何人か連れてそっちに行くよ。その場で立ち退きの手続きをさせてもらう」
あくまで強気の態度を取るが、椿姫はただ、黙って首を振った。
京介,「最悪の場合、お前ともお別れだな?」
椿姫,「……っ」
椿姫の顔が潰れたように歪む。
椿姫,「そ、そのときは、わたしのことは気にしないで、自由にしてね」
椿姫,「京介くんには、ほら、ミキちゃんって子もいるんでしょう?」
椿姫,「それじゃあね……」
静かに言うと、直後さっそうとコートを羽織って、そそくさと部屋を出て行った。
一人残されたおれは、ソファに深く腰掛けて、頭を抱えていた。
すべて打ち明けた。
徒労感に、体が気だるい。
……おれには借金がある。
金が要るんだ。
いまさら引き返すことなんてできない。
京介,「……あー、おれだ」
再び携帯をいじった。
京介,「うん、何度もすまんな。いや、ちょっと気になることがあってな」
京介,「最悪の場合、その副総監殿の息子はさ……ああ、取引に使うから……馬鹿野郎、殺されるのは覚悟の上だ」
京介,「ん?雰囲気が違うって?うるさいな、そういうときもあるんだよ」
なんにしても明日だな。
今日は、このまま寝るとしよう。
携帯を握り締め、相手に告げる。
いつもいつも金のためならどんな情報でも調べ上げ、ついでにどんな卑劣なことも辞さない。
京介,「頼むよ、ミキ……ミキモト……」
名前を呼ぶと、お調子者の野太い声が、珍しく神妙に、ああ、任せろ、と返ってきた。
おれは、ミキモトに、いくつかの手はずを整えてもらうべく、詳細な指示を加えた。
冬至を控えた夜は長く、深く、いつまでも心に闇を落としていった。
;黒画面
……。
…………。
;背景権三宅居間
浅井権三,「話はわかったが?」
翌朝早く、権三はおれを呼びつけた。
浅井権三,「その女は、きちんとしつけておいたんだろうな?」
椿姫を操って、あの家を立ち退かせる手口を話したが、権三はにわかには納得しなかった。
浅井権三,「美輪椿姫は、完全にお前の奴隷かと聞いているんだ」
京介,「……ある程度は」
しかし、そんな生返事を許す権三ではなかった。
浅井権三,「年間の行方不明者は九万人以上だそうだな」
京介,「え?」
浅井権三,「それも警察に届け出があったもののみで、実際には数倍以上の行方不明者が出ているという」
京介,「……なんのお話ですか?」
浅井権三,「お前、身内は?」
わかっているはずのことを聞いてくる。
京介,「母と……」
言いよどんだ。
浅井権三,「俺くらいだな」
京介,「は、はい……」
浅井権三,「京介のことだ。もし、お前になにかあったとき、気遣ってくれそうな友人はいないな?」
栄一や宇佐美などのクラスメイトが思い浮かんだが、おれは誰とでも希薄なつきあいをしている。
浅井権三,「あとは学園の教員などか……しかし、それも、お前がヤクザの息子だと知れば、大騒ぎするようなことはないだろう」
……いったい、なにを語ろうとしているのか。
危惧と懸念で眉間に深いしわが刻まれるのを自覚しながら、権三に聞いた。
京介,「なんでしょう、お養父さん?」
浅井権三,「お前が日本を遠く離れた遠洋で、足場の悪い船上から海に落ちたとしても、捜索願なんか出ないという話をしている」
弧を描く唇とは対照的に、権三の目は底冷えするような光を放っていた。
浅井権三,「しめて三百万くらいだ」
京介,「三百万?」
浅井権三,「網元への手数料と若い衆の人件費」
つまり、おれの命の値段か。
浅井権三,「高いだろう?そんな無駄金は、俺だって払いたくない」
権三は、女にうつつをぬかすおれに、いい加減しびれをきらし、魚の餌にするつもりらしい。
京介,「全力を尽くします」
低頭して言い切った。
この男にはぜったいに逆らえないのだ。
しょせん、椿姫とおれとでは、住む世界が違う。
圧倒的なプレッシャーに胃を軋ませながら、権三宅を辞した。
;黒画面
…………。
……。
昼前になって、秋元氏のところを訪れた。
久しぶりに訪れたというのに、室内には相変わらず時間の流れを感じさせないような落ち着いた雰囲気があった。
秋元,「険しい顔をしているね、京介くん」
秋元氏は相変わらず柔和そうな顔で、ハーブティーを差し出してくる。
秋元,「当ててみよう、女性問題だろう?」
京介,「……遠からずというところです」
苦笑した。
秋元,「恋の悩みは、僕じゃない誰かに相談したほうがいいよ?」
京介,「相談なんてしませんよ」
秋元,「そうだろうね。君には親しい友人も、君を導いてくれるような家族もいないわけだからね」
京介,「今日は、ずいぶんとトゲのある物言いをしますね」
秋元,「うん。いろいろ検討してみたんだがね、君はとくに僕が助けて上げられるような病を患っていないという結論に至ったんだ」
京介,「もう、来なくていいということですか?」
……それは少し困るな。
秋元,「そう、時間の無駄だよ。あいにく仮病患者につきあわなければならないほど、うちもお金に困ってるわけじゃないしね」
子豚の頬が、すねたようにぷっくらと膨らむ。
秋元,「まあ、お金さえ積んでもらえれば、君の求める証明書を出してあげるつもりだがね」
京介,「なかなか商売上手ですね」
秋元,「君のお養父さんほどじゃないよ」
こいつは、権三と知り合いなんだったな。
秋元,「権三さんは、相変わらずかい?」
京介,「ええ……近々、殺されるかもしれません」
秋元,「相変わらず、君に愛情を注いではくれないんだろう?」
愛情という言葉に寒気がして、押し黙った。
秋元,「病気かと思ったけど違ったんだ。君はね、よくいるかわいそうな子だよ。世の中に、自分以外に信じられる人がいない、寂しい子だ」
京介,「高名な秋元さんの発言とは思えないな。そんなことは、子供のころから近所のおばちゃんによく言われてましたよ」
秋元,「はは、僕もずいぶんと落ちたもんだな」
なにがツボにはまったのかわからないが、秋元氏は豊満な体をのけぞらして笑った。
秋元,「頭痛は、もう、ないかい?」
京介,「……そういえば、ここのところは、まったく……」
秋元,「なるほど、よかったじゃないか。きっと、つきあっている彼女のおかげだよ。感謝しなさい」
見透かしたようなことを言いやがる……。
不気味な男だと、いぶかしむような目でにらんだ。
秋元,「大事にしなさい。君とつきあえる女性なんてそうそういないんだからね」
京介,「よけいなお世話ですよ」
それじゃ、と言って、席を立った。
;黒画面
秋元氏ともう会うことはないだろうという予感があった。
後ろ手にドアを閉じた直後、秋元氏がふざけたような口調で言った。
秋元,「彼女に泣きついてみたらどうだい?たまには、そのクールな仮面を取り払ってさ。殺されそうなんだろう?」
;背景主人公自室昼
一度帰宅して、椿姫の家を数人で訪れる手はずを整えた。
山王物産の息のかかった会社の担当課長も同行する。
状況は、もう、抜き差しならない。
その場で、印鑑を押してもらう心づもりだった。
京介,「椿姫はおれを裏切れんだろう……」
自嘲を口元に携えながら、ひとりごちた。
緊張に、指先が震えていた。
失敗すれば、権三はおれを赦さない。
千葉か静岡の漁港から出る船に乗らされ、事故を装って海に蹴落とされるわけだ。
死ぬのか……。
権三から死神をつきつけられるのは、今回が初めてのことではない。
……とはいえ、もし、こんなところで一生が終わったら、おれの人生はいったいなんだったんだろうな。
心を許せるような友達も、安否を気づかってくれるような家族もいない。
人を疑い、言葉の裏を読み、作り笑いの影でいつも損得を計算していた。
積み上げたのは、金だけだ。
それも、権三に吸い取られるだけの紙切れの群れだ。
京介,「…………」
なにを、いまさら――!
唇を噛んで、弱音を吐くもう一人の愚かな自分を叱咤した。
権三に従った時点で、安息など期待してはならない。
金の悪魔に媚を売った時点で、神の慈愛を求めてはならない。
おれは、それだけのことをしてきた。
椿姫を抱きながら、あの目もくらむような幸福な家庭に不安と恐怖を誘い入れた。
もし、こんなところで死ぬのならば、それも報いというものだ。
おれは、やる。
大金をつかんで、下げなくてもいい頭を下げずに済むだけの実力を手に入れる。
京介,「……っぐ」
久方ぶりの頭痛が不意に襲ってきた。
どういうわけか、秋元氏の冗談めいた助言が心に響く。
悪魔に身を委ねるんだ。
そうすれば、何も感じなくなる。
…………。
……。
;黒画面
時計は冷静に時を刻み、やがて椿姫の家におもむく時間になった。
;背景マンション入り口夕方雪演出
雪がちらついていた。
課長,「浅井さん。今回こそは、だいじょうぶなんでしょうね」
エントランスを出ると、すでに数人の男たちがおれを待っていた。
課長,「専務からお話は聞いてます。いいかげんお願いしますよ」
目と目の間が大きく開いた男が、おれの隣でさっきから蝿のようにうるさい。
山王物産系列子会社の柴田という名前らしい。
京介,「ご心配なく。今日は、本気です」
権三のところから借りてきた三人の若い衆を見渡す。
三人とも似たような格好で、角ばった顔の下に、肩をいからせて、ダークグレイのダブルのスーツを着こなしていた。
若い衆とはいっても、権三にしつけられた立派な構成員だ。
無駄口は叩かず、黙っておれのあとをついてきている。
おれは山王物産の人間に断って、携帯を操作した。
数回のコールのあと、椿姫の声が耳に届いた。
京介,「いまから行くぞ」
椿姫,「そう」
京介,「親父さんも交えて話をさせてもらうぞ」
椿姫,「お父さんは、買い物に出てて、いないよ」
おれはいらついた。
椿姫,「だいじょうぶ。わたしが話をするから」
京介,「そうか。だったら、印鑑と土地の権利証を用意しておけ。勝手にやらせてもらうぞ」
椿姫は、おれの暗い声におののいたのか、喉を鳴らした。
京介,「すぐいく」
背後の連中に指で合図した。
椿姫,「その必要はないよ」
京介,「なに?」
閑静な通りの角から、ぬっとわき出る人影があった。
;背景中央区住宅街夕方雪演出
いつからそこで待っていたのだろうか。
椿姫が、マンションの外にたたずんでいた。
おれの後ろにいるこわもて連中を一瞥して、緊張したように唇を結んだ。
京介,「よう、椿姫」
椿姫,「こんにちは。もうしばらく会ってないような気がしてたよ」
寝ていないらしく、浮かない顔色をしていた。
京介,「学園はどうした?」
椿姫,「早退させてもらったの。また、悪いことをしちゃった」
京介,「こっちから出向こうと思ったんだがな」
椿姫,「それは、ちょっと困ると思ったから」
京介,「困る、だと?」
椿姫,「困るよ」
びしりと言った。
椿姫,「いま、弟たちがいるの」
椿姫の目つきに、背後の屈強な男たちの気配が変わる。
つまり、子供たちを怖い大人と会わせたくなくて、ここまで出向いてきたってことか。
京介,「おい、椿姫、わかるだろう?」
首だけ背後を振り向く。
京介,「もう、おれ一人の問題じゃないんだ。こうやって人も呼んでる。わかるだろ?おれだって切羽詰ってるんだ」
詰め寄ると、やはり怖いらしく、椿姫は一歩あとずさった。
京介,「しつこいかもしれんが、お前はおれの役に立ちたいんだろう?え?いつまで迷惑をかけるんだ?」
椿姫,「……っ!?」
ドスのきいた声で脅すと、椿姫はうつむいて、肩を震わせた。
京介,「おい、どけよ」
そのとき、脇でかすかな嘲笑があがった。
課長,「まあまあ、浅井さん。かわいい女の子じゃないですか。そんな脅さなくても……」
京介,「かわいい女の子やあどけない子供たちに恐怖を味あわせるのが、あんたらのご要望だろう?」
にらみを利かせると、男は亀が首を引っ込めたようにおとなしくなった。
京介,「椿姫」
よびかけると、か細い返事があった。
京介,「後ろの三人はさ、浅井権三っていう闇世界の住人なら誰でも知ってる冷血漢の下で働いてる本物の極道だ」
椿姫,「あざ、い……?」
それで、おれが、その極道の息子だと悟ったらしい。
京介,「さあ、これでも信じるか?おれが優しくていい人だなんて言えるか?」
椿姫,「…………」
京介,「わかったな。もう、いやだろう?怖いだろう?」
椿姫,「……うん、怖い……よ……」
しゃくりあげるような声だった。
涙をこらえるような言い方に、おれも、ようやく肩の力が抜けた。
京介,「おれにはわかるよ。親父さんにも心配かけまいとして、出かけさせたんだろう?お前は優しいし、正しい。でも、弟たちにも同じ思いをさせる気か?」
椿姫,「うん……やだよ……もう、終わりにしたいよ」
京介,「悪いな、椿姫」
京介,「こんなことをした以上、おれも、もう、お前とつきあっていこうなんて思わない」
京介,「おれのことは、悪い、夢だったとでも思うんだな」
椿姫,「……悪い、夢?」
京介,「ああ、とっとと目を覚ますんだな」
じり、と椿姫の足元で、道路の砂利が鳴った。
その場にふんばるような椿姫の足に目を奪われ、椿姫が顔を上げた瞬間を見逃した。
椿姫,「目を覚ますのは、京介くんのほうだよ――!」
飛び散った涙が、夕陽に瞬いて消えた。
椿姫,「京介くんは、悪い人じゃないよ!」
おれは椿姫の突然の暴挙とも思える強硬な態度に、困惑した。
京介,「おい、やかましいぞ……!」
中央区の穏やかな住宅地で、どうみても筋者の男たちに囲まれた少女が涙を流してわめいている。
近隣の住民の目が気になって、焦燥感に襲われた。
椿姫,「だって、だって、楽しそうだったよ!?」
京介,「ああっ!?」
椿姫,「京介くん、うちに来たいって言ってたよ!?」
京介,「んなもんは、てめえの家を調べるための嘘だ」
椿姫,「嘘じゃないよ!楽しそうだったよ。広明とお風呂入ってたよ。子供に嘘は通じないんだよ!」
泣きながら、それでも両足だけは凛として、おれたちの行く手を遮るように立ちふさがっていた。
ヤクザ1,「坊っちゃん、これはどういう……?」
痺れを切らしたのか、後ろから尋ねられた。
おれは声を張り上げた。
京介,「いいからどけ、椿姫!どいてくれ!」
椿姫,「やだよ!いっしょに、いっしょに帰るんだよ!」
京介,「帰るだと!?」
椿姫,「うちに、帰ろう!?みんなで、いっしょに、仲良く、ご飯食べよう!?」
ヤクザ1,「お嬢ちゃん、あんまり騒がないでもらえるかな?」
大男がおれの前に身を乗り出す。
ヤクザ1,「坊っちゃんから、俺らがどういう筋のもんか聞いてるんだろ?こっちも面子ってもんがある以上、引き下がれねえんだよ」
椿姫,「……っ……うぅっ……」
暴力的な視線の群れに、椿姫は遠目に見てもわかるくらい震えだした。
椿姫,「……い、嫌です……!」
椿姫,「こ、怖いけど……いままでこの世にあなたみたいな人がいるなんて知らなかったけど……」
椿姫,「あなた方は、これから、ひどいことをするんでしょう?わたしの家族をいじめるんでしょう?」
息を詰まらせ、立っているのもやっとといった様子の椿姫に、黒ずくめの男たちが、ガンを飛ばす。
椿姫,「来ないで!うちに、来ないで下さいっ!」
ヤクザ1,「あんたがそうやって騒いでも無駄なんだよ」
椿姫,「それでも、わたし、お姉ちゃんなんです!みんなの、お姉ちゃんだから、どんなことがあっても、家族が大事なんです」
一心不乱に家族を案じる椿姫に、おれは、正直、動揺を隠せなかった。
悪魔が誘う。
これは、裏切りだ。
こいつは、おれの役に立ちたいといいながら、実際にはおれを窮地に追い込んだ。
殴り倒してでも道をあけさせるべきだ。
椿姫,「京介くん、帰ろう?いっしょに、暮らそう?」
権三の子飼いどもも、いらだっている。
椿姫,「お金は、ぜんぜんないけど、古いおうちだけど、みんながいるよ?」
おれも、おれ自身にいらだちを覚えている。
椿姫,「京介くんを家族って思ってる人が、いっぱいいるんだよ!?」
涙を携えた純真な瞳が、胸に突き刺さる。
ヴァイオリンのG線だけを何度もかき鳴らすように、おれの琴線を響かせている。
椿姫,「京介くん、いっしょに、帰ろうっ……!」
;背景中央区住宅街夕方雪演出
京介,「……るせえ……」
耳が、頭が、痛い。
京介,「もういい、失せろ……」
ヤクザ1,「坊っちゃん、いいんですかい?」
おれは、荒い息を抑えながら、首を縦に振った。
ヤクザ1,「わかりました。組長には、坊っちゃんの命令で引き上げたと報告させてもらいます」
京介,「ああ……」
課長,「ちょ、ちょっと困りますよ、浅井さん。話が違う!」
京介,「この場はひとまず引き上げましょう」
課長,「そ、そんな、小娘に泣きつかれたくらいで!?」
京介,「…………」
わなわなと全身を震わせながら、目を伏せた。
課長,「わかりました。そういうお考えなら、こちらも勝手にやらせてもらいます」
いまにも噛みついてきそうな捨てぜりふを残し、男たちは去っていった。
彼らにとってみれば、わけのわからないことだったろう。
きっと、浅井の坊っちゃんは、女にうつつを抜かし、骨抜きにされたと噂される。
しかし、どういうわけか、冷酷になりきれない。
いままでのおれは、簡単に心を閉じて、どんな卑劣なことでもやってのけたというのに……!
椿姫,「京介くん……」
京介,「見るなっ!」
穢れを知らない瞳が、おれを途方に暮れさせる。
おれは黙って、踵を返し、自宅マンションに足を向けた。
……何も、考えたくない。
背後で、椿姫の靴音が聞こえる。
おれに寄り添うように、あとをついてきた。
…………。
……。
;背景主人公自室夜
自室に戻ると、おれはぼんやりと窓の外を眺めた。
背後で、椿姫が上着を脱ぐ布擦れの音があった。
京介,「…………」
おれは、椿姫と目も合わさず、黙ってオーディオに手を伸ばした。
備えつけのスピーカーから、ゆったりとした調べが奏でられ、室内に響いた。
京介,「…………」
椿姫,「…………」
ベッドに腰掛けて床にまなざしを落とす。
椿姫が、じっとこちらを見つめているような気がした。
優しげに、見守っているような気配があった。
京介,「……G線上のアリアだ」
椿姫,「うん」
京介,「おれの、一番好きな曲だ」
椿姫,「京介くんの好きな、バッハ?」
京介,「……原曲はな」
椿姫,「うん」
京介,「バッハが死んで百年くらいたって、あるヴァイオリニストがG線だけを使って弾けるよう編曲したものだから、注目を集めたんだ」
椿姫,「G線?」
京介,「ヴァイオリンの一番太い、低音が出る線だ」
椿姫,「すごいね」
京介,「すごいさ。聞いた話だと、他の線を使ったほうが安定するそうだし、実際いまCDから流れてるのも、いろんな楽器やいろんな線を使った、腐るほどあるアレンジの一つだからな」
椿姫,「どうして、そんな編曲をしたんだろうね?」
京介,「さあな、天才じゃなきゃわからんかもな。そのヴァイオリニストは他にも名曲を掘り起こしてヴァイオリン独奏曲にアレンジしてるし、信念みたいなのがあったのかもな」
椿姫,「信念……?」
京介,「なにか、一本、筋の入った男だったんじゃないか?」
顔を上げて、椿姫を見据えた。
京介,「おれと、違ってな」
自嘲のため息をついた。
椿姫,「京介くん、ごめんね」
京介,「おれを裏切ったことか?」
椿姫,「役に立てなくて」
おれはベッドにうなだれて、名曲に身をゆだねた。
椿姫,「一晩寝ないで考えたんだけど、やっぱり、京介くんには、似合わないよ」
京介,「似合わない?ヤクザみたいな真似がか?」
椿姫,「そうだよ、だって京介くんは優しいもん」
おれのなにを見て、優しいと決めつけているのか、さっぱり理解できなかった。
京介,「いい加減にしてくれ。おれはもう、終わりなんだ」
椿姫,「終わり?」
京介,「おれの養父がとんでもない男なんだ。知らないほうがいいが、この世で最も恐ろしい男だ」
椿姫,「だから、そんなに、苦しそうなの?」
そのとき、ふと、甘えそうになった。
椿姫,「京介くんは、好きでしょう?わたしの家族が」
見つめられるだけで心が穏やかになる。
椿姫,「うちに、おいでよ。みんな歓迎するよ?」
屈託のない、笑顔。
京介,「そういうのを、善意の押しつけというんだ」
おれはベッドから上体を起こすと、再び椿姫と向き合った。
何度となく顔を合わせてきたが、今夜はとりわけすっきりした顔をしていた。
京介,「お前は、いいよな……何も疑わず、誰もがいい人だと信じてやがる。金なんか二の次じゃねえか……」
椿姫も口元に微笑を携え、言った。
椿姫,「わたし、楽してたんだって、思い知ったよ」
京介,「そうか?」
椿姫,「でも、わたし、馬鹿だから騙されそうだな……」
京介,「だろうな」
椿姫,「だから、そばにいて……?」
甘えたような声が旋律に乗って耳に響く。
椿姫,「わたしじゃ、ダメかな?物足りないかな?」
秋元氏の冗談めいた助言を思い出す。
彼女に泣きついてみたらいいじゃないか――?
椿姫,「京介くん、うちにおいでよ」
椿姫,「京介くんは、疲れてるんだよ。いままでずっと苦労ばかりしてて、いつもお金のことばかり考えさせられて、もう限界なんじゃないかな?」
椿姫,「騙すより騙される人生だよ。これいつも日記に書いてるんだけどね」
照れたように笑う。
京介,「椿姫……」
おれは、目を伏せ、椿姫の真摯な思いから心を閉ざした。
できることなら……。
もっと早くに、こいつと出会ってたのなら……。
京介,「……悪い」
名曲の調べを邪魔しないように、静かに言った。
京介,「……お別れだ」
椿姫,「え?」
京介,「聞こえなかったか?もう、お前とはこれまでだ」
椿姫は、呆然と首を振る。
椿姫,「や、やだよ、なんで?」
京介,「おれとお前じゃ、住む世界が違う。これ以上いっしょにいても、歯車が噛みあうとは思えない」
椿姫,「そんな……」
京介,「帰れ」
冷たく言い放つと、椿姫の目に涙が浮かんだ。
椿姫,「ど、どうしても?」
京介,「もう決めた」
椿姫,「そうやってまた、一人で寂しい気持ちになるの?」
京介,「お前はもう忘れたのか?おれは、お前の家族に立ち退きを迫っていた張本人なんだぞ?」
椿姫,「でも、でもっ……!」
京介,「じゃあな」
すがるようなまなざしを振り切って、おれは書斎に足を運んだ。
椿姫,「京介くんっ――!」
;黒画面
後ろ手に書斎のドアを閉じる。
おれの心はもう、揺れない。
いくら椿姫がおれを赦そうとも泣き喚いて呼びかけても、もう、迷わない。
椿姫は、何度も叫んだ。
椿姫,「うちに帰ろう、いっしょに帰ろう……!」
リピート再生でリビングに流れるG線上のアリアに、椿姫の嗚咽が混じる。
ドアにもたれかかって、逃げるように目を閉じた。
すすり泣きと、涙声が、いつまでも責めるように耳にまとわりついた。
椿姫,「ねえ、京介くん、わたしのこと嫌い!?」
椿姫,「わたし、偽善者だから嫌いなのかな!?」
椿姫,「苦しいんでしょう!?大変なんでしょう!?わたしに、話してよおぉ――!!!」
…………。
……。
;主人公自室昼
……。
…………。
書斎から出ると、すでに椿姫の姿はなかった。
冬の厳しい寒さが、さきほどまで床に崩れ落ちていた椿姫の温もりすら消し去っている。
ようやく帰ったか……。
朝方まで、椿姫はここにいた。
きっと彫像のように固まって、涙に暮れていたのだろう。
おれも、心にぽっかりとした穴が開いたような気がして、なにをするにも気力が沸かなかった。
なにげなく、金庫を開けてみる。
札束の群れがおれを出迎える。
どこまでいっても外道は外道らしく、金の匂いと輝きを前にすると、少しだけ気分が落ち着いた。
;SE携帯
携帯電話が、けたたましい音を立てて鳴る。
液晶画面を見ると、椿姫の名前が表示してあった。
京介,「…………」
電話の向こうで泣きながら携帯を握る椿姫の顔が目に浮かぶ。
椿姫の悲痛な訴えをやり過ごし、携帯が鳴り止むのをまって、椿姫の電話番号を登録から抹消し、ついでに着信を拒否する設定をした。
これでもう、椿姫との接点は絶たれた。
学園もやめてもいい。
もともと、ストレス解消のために行っていたようなものだしな。
もっとも、山王物産と園山組の両方の面子を潰したおれの命が、今後もつながっていればの話だが……。
;背景主人公自室夕方
抱えていた仕事もすべて放棄し、おれは部屋で漠然と過ごしていた。
幼いころを思い出す。
権三にしたがって、母親を置いて、あばら家を飛び出したあのとき、おれはなにを考えていたのか。
親の借金を返すという名目こそあれ、本当は極貧生活が嫌なだけではなかったのか。
金の奴隷になったばかりに、おれは何か普通の人が当然持っているはずの大切なものを失ってしまったようだ。
;背景主人公自室夜
すでに、時刻は深夜の十二時を回っていた。
おれは外出するために一度顔を洗った。
コートを羽織って、玄関に立ったそのとき、タイミングを見計らったように来客があった。
浅井権三,「…………」
ぶしつけな客人たちは、チャイムも鳴らさず、室内せましと言わんばかりに、フローリングの床に土足を踏み鳴らしていた。
京介,「これはどうも、こちらから伺いに行こうと思っていたところです」
極道たちの先頭にたつ権三が、おれを見据えた。
浅井権三,「京介」
京介,「はい」
浅井権三,「いい部屋だな」
京介,「はい」
浅井権三,「引越しの手伝いに来てやったぞ」
あの世へのお引越しか。
浅井権三,「無様だな」
刺すような目つき。
京介,「どうとでもしてください」
おれはゆっくりと両手をそれぞれの膝の上に這わせ、腰を落として小さく頭を下げた。
いわゆるヤクザの仁義を切る姿勢に、周囲の連中が目を細めた。
京介,「これまではたしかに、みなさんにご迷惑をおかけしましたが、もう、心配要りません」
権三は、獣が威嚇するような低い声を漏らした。
京介,「女とも縁を切りました」
浅井権三,「…………」
京介,「これからは、いままで以上にお役に立ちたいと思っています」
浅井権三,「…………」
京介,「時期が来れば、自分も、みなさんの家族として迎えられるようお願いしたいと思っています」
どよめきがあがった。
これまでおれは、権三の息子として仕事を任されることはあっても、正式な組員というわけではなかった。
それが、本格的な暴力の尖兵となることを志願してきたのだ。
喜ばしく思うものもいれば、出世争いをはじめとした権力闘争を予感する者もいるだろう。
浅井権三,「京介、おい……」
京介,「はい」
浅井権三,「本気か?」
やむをえない……。
途方もなく捨て鉢な気分だった。
金の奴隷らしく、自分では何も考えずに、従っていればいい。
京介,「無論です」
浅井権三,「そうか」
権三はいつになく無表情だった。
浅井権三,「なら、今、なにをすればいいかわかるな?」
胸のうちを試すように聞いてきた。
京介,「……なんでしょう?」
浅井権三,「馬鹿かてめえは?」
直後、権三の腕がおれの胸倉に伸びた。
京介,「ぐっ……!」
浅井権三,「やり残している仕事があるだろうが?」
椿姫の家……。
浅井権三,「火でもつけて、全部ぶち壊して来い!」
京介,「…………」
権三は鬼の目をして、いつまでもおれを揺さぶり続ける。
浅井権三,「返事はどうした!?」
火をつけろだと……!?
そんなことをしたら、確実におれも腕を後ろに回される。
浅井権三,「お前に拒否権はない」
京介,「ぐ、あ……」
権三の心境を推し量るに、今、生かされているだけでもありがたいと思わなければならないのだろう。
もう、腹をくくるしかない。
どうせ、金以外に、なにも積み上げてこなかったつまらない人生じゃないか。
京介,「いまから、行きます」
浅井権三,「よし、派手にやってこい。堀部と飯島もつける。俺もあとから顔を出す」
おれは深く頭を下げた。
……悪かったな、椿姫。
胸のうちでつぶやいて、固く目をつむった。
…………。
……。
;背景東区公園夜
日中は親子連れで賑わう公園も、夜になると一気に人気を失う。
そこに、およそ、風景になじまない男たちの姿があった。
権三の下僕たち。
飯島,「家に火ぃつけんのは、ガキのとき以来ですわ」
真冬だというのに胸のはだけたシャツを着た飯島が、でっぷりとした乳房を揺さぶりながら言った。
堀部,「坊っちゃんも、ついに身内ですかあ、いやあ、楽しみですわ」
若頭の堀部が、差し歯を輝かせて笑う。
堀部は、一口でいうと、狡猾なハイエナのような男だった。
弱者にはどんな理不尽なことでもやってのけるが、相手の底が知れないとなると、とたんに弱腰になる。
酷薄な人間だが、扱いやすい分、権三にはこき使われているのだろう。
堀部と飯島……よく見る構成員の他にも、二人ほど見たこともないヤクザがつき従っていた。
寒さをものともせず、だらしない歩き方で公園を闊歩していった。
堀部,「んじゃまあ、さっさと終わらせちまいましょうや」
おれは、行きがけに一度車を下ろしてもらい、セントラル街のゴミ溜めで角材を拾っていた。
飯島,「京介さんも、たまには鬱憤晴らしたいでしょう?」
飯島が、角材を足で小突いた。
京介,「そうですね。もう、たくさんですよ……家畜どもの相手は」
おれも含めてな。
おれを入れた五人の家畜が、弱者をいたぶるべく、椿姫の家に向かっていった。
;背景椿姫の家概観夜
ここを何度訪れたかわからない。
椿姫の家は明かりが消えるのが早い。
いまごろ、親父さんも椿姫も広明くんも、みんなで寄り添って静かに眠っているのだろう。
地震でもあれば倒壊しそうな古ぼけた家。
ぼんやりと眺めてしまう。
愛着のような感情が沸きあがるのを必死で堪えた。
椿姫への気持ちも、すでに意味のないものだ。
堀部,「坊っちゃんが手こずっているっていうから、どんな屋敷かと思いましたが、こんなシケた家だったんですね」
飯島,「犬小屋みてえじゃねえか」
嘲笑が連鎖して、黒い夜空に吸い込まれていった。
おれは、角材を握り締め、ゆっくりと庭の方に足を向けていった。
飯島,「こらあっ!出てこんか!出てこんと火ぃつけるぞ!」
飯島が吠えるが、家屋からはなんの反応もなかった。
京介,「留守ですかね?」
堀部,「いやいや坊っちゃん、騙されちゃいけません。自分らは多重債務者の追い込みで、よくこういうシチュエーションに出くわしますから」
堀部が嬉々として語ると、取り巻きの二人のヤクザも笑い出した。
飯島,「ありましたねえ、よくゴキブリ駆除用のガス缶を窓から投げ入れましたっけ?」
ゴキブリ……?
椿姫たちが、害虫同然だと、笑っている。
京介,「ちょっと、様子を見てきます」
堀部,「坊っちゃんが?」
京介,「さすがに、放火で人も殺したとなったら、どうがんばっても一生刑務所から出て来れないと思いますんで」
飯島,「パクられなきゃだいじょうぶですよ」
平然と言う飯島に、おれは苦笑いを隠せなかった。
彼らの感覚からすれば、ばれなければ、警察に捕まらなければ犯罪ではないのだ。
堀部,「まあ、坊っちゃんは、まだこっちの世界に慣れてないすからね。腰が引けるのも無理はないっすよ」
堀部がわけ知り顔で言う。
堀部,「じゃあ、自分らちょっと待ってますわ。女と今生の別れでもしてきてくださいよ」
再び、黒い笑いが広がった。
連中は、おれを権三の威を借りるだけのケツの青いガキだと思っている。
事実そうなのだから、とくだん腹も立たなかった。
おれは角材を庭の植え込みに立てかけると、玄関に迫った。
呼び鈴を押す。
まったく反応がない。
二、三度鳴らすが、家のなかから、まったく音はなかった。
……本当に留守なんじゃないだろうか。
しかし、留守じゃなかったら……実は、暗い部屋のなかで息を潜めて暴力団の恐怖に震えているとしたら……?
連中は本気で窓ガラスを割ってガス缶でも巻くか、そのまま家屋に火をつけることだろう。
京介,「…………」
そういえば、と閃くものがあった。
家の裏口を教えてもらっていたな。
あそこから、こっそり入ってみるとしよう。
;背景椿姫の家居間夜
京介,「椿姫……!」
呼びかけるが、やはり返事がない。
親父さんの書斎や、子供部屋も覗いてみるが、誰もいない。
あれだけ賑わっていた大家族は、忽然と姿を消していた。
;背景椿姫の家居間夜明かりアリ
明かりをつけて、いぶかしみながら居間をうろうろしていると、ふと、見慣れぬものを発見した。
目立つように、よく夕食をともにしたちゃぶ台の上に置いてあった。
椿姫の日記だ。
疑問符が脳内をかけまわる。
あいつが肌身離さず抱えていた日記が、なぜ、この場に残されているのか。
……椿姫の身になにかあったのだろうか。
手を伸ばす。
手のひらに、ずしりと重い日記。
鍵もかかっていない。
ごく自然な動作で中を開いた。
人の日記を盗み見る、罪悪感のようなものは不思議となかった。
よく覚えていないが、椿姫に見てもいいと言われたことがあったような気がするからだ。
;ノベル形式
;以下、日記の文ですが、椿姫のボイスはありで。
――『おかえりなさい、京介くん』
;通常形式
……なに?
どうやら、おれに対するメッセージだけを残して、あとの日常の記述はページごと抜きさっていったようだ。
しかし、意味がわからない。
;ノベル形式
おうちに誰もいなくて、びっくりしていると思います。
実はいま、港近くのおばあちゃんのところにみんなで行ってます。夜になると怖い人たちが来るので、みんなに不安をかけさせないようにと、お父さんが言い出しました。
一週間くらい、帰るつもりはないそうです。
;通常形式
……隣町か。
賢明な判断だと思う。
;ノベル形式
京介くんと連絡が取れないので、日記に残させてもらいました。
わたしになにかあったときは、見てもいいと言っていたのを覚えてるかな?
なんにしても、京介くんはきっとこの家に帰ってくると信じてるから、きっと、この日記も読んでいてくれることでしょう。
;通常形式
家に帰ってくると信じているだって?
あれほど拒絶してやったのに、まだおれを信じていると?
;ノベル形式
だって、京介くんは家族でしょう?
;通常形式
目まいを覚えそうになったとき、さらなる驚愕の一文が目に入った。
;ノベル形式
今、お父さんと、このお家を出て行こうという話をしています。
出て行く理由は……とくにありませんが、おうちに立退き料……というのかな?とにかくお金が入ることが、単純にうれしいからです。当然、怖い人たちから怖いことをされるのも嫌だしね。
京介くんとつき合うようになって、ようやくわかりました。
やっぱり、貧乏はよくないんです。
お金がなにより大切なんだと、お父さんに話しました。
;通常形式
京介,「……お金が、大事?」
ぼそりとつぶやき、続きを食い入るように読んだ。
;ノベル形式
お父さんはとても驚いて珍しくわたしに怒りました。
お母さんも、広明も、わたしのことを変だと言います。
わたしは、京介くんの言うようないい子では決してありません。
ハルちゃんに当たったり、弟をぶってしまったことがあります。
本当は、いいお洋服を着て、いいレストランでお食事して、他のみんなと同じように遊んでいたいんです。
そのためにも、この家を出て立ち退き料をもらいたいと思っています。お小遣いも増えそうだしね。
そういうわたしが、もし気に入らないというのなら、京介くんとお別れするのも、仕方がないと思っています。
;通常形式。
違う。
誰がなんと言おうが、これは椿姫の本意ではない。
椿姫は、おれを助けたいのだ。
苦境に陥ったおれを守るために、家を明け渡すつもりなのだ。
なぜ――!?
ぎり、と奥歯が鳴った。
なぜ、おれを救いたいんだ!?
残酷に椿姫を利用し、札つきの悪党どもを家に送り込んだおれが、なぜまだ愛されなければならないんだ……!?
しかも、日記のなかの椿姫は、まるでおかしい。
セントラル街にでもいそうな、身勝手で家庭のことなど省みないような女になっている。
なぜ、なぜ、なぜ、と思考の車輪が回り続ける。
;ノベル形式
まだ、お父さんもお母さんもこのおうちを出て行くつもりはないようです。
けれど、近いうちに、必ず折れてくれると思います。
わたしのわがままを受け入れてくれるだろうことは、予想できます。
そういったことを計算しているわたしは、ぜんぜん善人じゃないね。
とにかく、安心してください。
わたしは、家族から信頼されていますから。
;通常形式
気づいた。
椿姫は、本当のことを話せなかったのだ。
おれが、暴力団に与していたなどと、家族に伝えたくなかった。
おれを信頼する親父さんや弟たちを傷つけたくなかった。
そして、なにより、椿姫は、おれを救いたいなどと一文も書かず、悪女を演じ、じっと耐えている。
どこが、偽善者だというのか!
椿姫を、くそったれの偽善者のように見ていた自分の、その愚かさに呆れ果てる。
曲がっていたのはおれの心ではないか。
心が歪んでいるから、相手までなにか悪意を隠しているように見えていたのだ。
京介,「やっぱり、椿姫は椿姫じゃねえか……」
下手くそな嘘で、おれをかばっている。
京介,「むいてないんだよ、おめえに嘘は……」
おれは、やるせなさに震える手で、最後までページを読み進めた。
;ノベル形式
京介くん、好きです。
しつこいようだけど、いっしょに、暮らそう?
みんなで、楽しく、暮らそう?
うちのみんなは、京介くんのことが、大好きです。
待ってます。
みんなで、待ってます。
椿姫でした○
;背景#say 椿姫の家#say 居間#say 夜
……。
…………。
日記を閉じ、しばし呆然と畳に膝をつく。
風呂上りによく椿姫と談話した居間。
何度も泊めてもらった。
甘ったるい雰囲気に、何度も毒づいた。
おれは、携帯を取り出し、情報屋の相棒ミキモトを呼び出した。
京介,「あー、もしもし、おれだ。うん、こんな時間にかけるってことは、もう用件はわかるだろ?頼むよ」
…………。
……。
;背景#say 椿姫の家#say 外観#say 夜
堀部,「坊っちゃん、遅かったですね」
外に出ると、堀部たち四人が待ち構えていた。
飯島,「待ちくたびれましたよ」
真冬の風が火照った頬にひんやりと気持ちいい。
堀部,「で?誰もいなかったんですか?」
京介,「ああ……」
堀部が、いやらしく舌を唇に這わせた。
堀部,「ボロ家をほっぽり出して逃げ出したんですかね。なら、遠慮なくぶっ壊しちまいましょうか」
飯島,「とりあえず窓割りましょう。この季節にゃ堪えるでしょ」
下卑た笑みを浮かべ、飯島は玄関先に足を向けた。
おれは飯島の、そのお化けスイカみたいにでかい後頭部をじっくりと観察した。
京介,「やめろ」
家の植え込みに立てかけておいた角材を握る。
飯島,「あ?なんか言いましたか?」
;SE殴る音
背後を振り返るより早く、おれは飯島の丸太のような首に、角材を力の限り打ち据えた。
まるで鋼でも殴ったかのような感触が腕に響いて、しばらくの間、腰まで軋むように痛んだ。
どう、と白目を剥いて砂利に崩れ落ちる飯島。
男たちの極悪面から笑みが消える。
堀部の顔が、驚愕よりも疑問の色に染まる。
堀部,「坊っちゃん……いや、まずいですよ」
瞬時に、異様に目尻を垂れ下げた。
本物のサディストの目。
堀部,「自分ら家族じゃなかったんすか?兄弟の頭に角材ぶちこんどいてまさかただで済むとは思ってませんよね?」
もちろん、許されることではない。
暴力を売りにしている連中が、逆に暴力に沈められたとなっては沽券に関わる。
おれはいま、一万人の構成員からなる関東総和連合に、もっともやってはいけない形で宣戦布告したのだ。
堀部,「いまのうちに、謝ってくださいよ。坊っちゃん、まだケツが青いですから、いまなら、むしゃくしゃしてやったってことで、半殺しで済ませますから」
堀部と二人のヤクザは、距離を取りつつ、おれを取り囲んだ。
堀部,「いやね、組長がなんで俺をよこしたのかわかりましたわ」
たしかに、こんなくそ寒いなか、下っ端でなく、組のナンバー2を差し向けた権三の意図はおれにも理解できた。
堀部,「今後は、杯受けるんでしょう?自分は、坊っちゃんの教育がかりってことですわ」
そしてまた、これ以上ないくらい口元を吊り上げた。
堀部,「おいお前ら、ちゃんと坊っちゃんをしつけるんだぜ、なあ、飯島?」
ぎょっとして地面を見やった。
おれはさほど腕力に自信があるほうではないが、それでも殺すつもりで角材を振るったのだ。
地べたに這いつくばっていた飯島が、まず片膝をつき、ゆらりと、幽鬼のようにおぼろげな動きで立ち上がってきた。
後頭部から血が流れて、真っ白いシャツが鈍く光っている。
堀部,「いや、坊っちゃんね。坊っちゃんは、たまに自分らをアゴで使ってましたけどね、そんななかで、心のどこかで自分らを甘くみてたんじゃないんですか?」
堀部のいうとおり、おれは、青かった。
頭を殴られて、それでもなお修羅の如き形相で眼前に立ちはだかってくるほどタフな男がこの世にいるなんて、知らなかった。
飯島,「……殺す……!!!」
とたんに、いいようのない恐怖が腹の底で重く響いた。
京介,「……っ」
不意に、笑いがこみ上げてくる。
おれは、まったく、なにをしているのか。
連中は暴力のプロフェッショナルなのだ。
こそこそと姑息な算段を整えるだけのおれが、腕力で刃向かっていいような相手ではなかった。
しかし、衝動は、抑えられなかった。
堀部,「そんなに女に入れ込んじまったんですかい?」
ニタニタと笑いながら、距離を詰めてくる。
堀部,「自分らよりもこんな畜生小屋が大切なんですかい?」
堀部が、おれの反逆の理由を問う。
堀部,「坊っちゃん、あんた、お養父さんから、あんなに恩を受けておいて、それを仇で返したんですよ……!!!」
その一言に、おれのなかの恐怖が不意に静まり返った。
;一瞬だけev_tubaki_11a
おれも、椿姫にならうとしよう。
おれを救いたいなどと一言も口にしなかった椿姫に。
恩だの義理だのあえて口にする偽善者どもに、せめて――!!!
京介,「女なんて関係ねえよ、クズどもが」
椿姫と同じくらい最高に下手くそな嘘をはき捨て、角材を握り締めた。
京介,「鏡を見やがれ。間抜け面がうつってるぜ……!!!」
…………。
……。
;黒画面
……。
…………。
;ノベル形式
;椿姫視点
;背景倉庫外夜
;※修正夜空
西区の波止場を、虚ろな足取りで歩く椿姫がいた。
椿姫は、心で泣いていた。書斎に篭ったっきり出てくる気配を見せなかった京介に、どうしていいかわからず途方に暮れていた。もう時刻は夜中の二時になろうとしているのに、不安で夜も眠れなかった。
塩気混じりの冷たい風が吹きすさんで、椿姫の頬を撫でる。
ふと数時間前の出来事を思い返す。
;黒画面
椿姫,「お婆ちゃんのお家?」
椿姫の父は、迫り来る暴力団の恐怖に、身を隠そうと切り出した。
言い出したら聞かない父だった。椿姫としても弟たちに無用な不安を与えたくなかったので、父の提案に大きく反対するものでもなかった。
椿姫,「あのね、お父さん。京介くんに連絡が取れないの」
父は、首を傾げた。
椿姫,「だって、京介くんは家族でしょう?ふらりとここに帰ってくるかもしれないでしょう?」
椿姫の切実さを感じ取ったのか、父親も、それはそうだと、大きくうなずいてくれた。それならば、なにか作って冷蔵庫に入れておいてあげなさいと、笑いながら言った。
京介こそが、いま一家が不穏な状況にある原因を作ったなどと口が裂けても言えなかったし、また椿姫自身も完全には信じていなかった。
広明も京介に会いたいと、毎日のように言う。家族の皆が諸手を挙げて受け入れるような人が、悪人であるはずがなかった。
椿姫,「ごめん、お父さん、ちょっと話があるの」
間を置いて、父と向き合った。
椿姫,「家をね、出ていかない?」
父は唖然として、次に理由を問いただした。
椿姫,「やっぱり、無理なんだと思うよ」
――いまさら、なにを言うのか?
家族は一斉に、椿姫を非難するような目を向けた。
椿姫,「ごめんね。お父さんが、必死でお金を工面して守ってくれた家だけど、やっぱり、うちだけ出て行かないっていうのは、無理なんじゃないかな?」
不安に包まれた家族の顔を、ひとつひとつ見据えながら、椿姫は言った。
椿姫,「このお家から離れるのは残念だけど……ほら、お金たくさんもらえるんでしょう?お父さんがお仕事続けられるように、引越し先に新しい畑も用意してもらえるんでしょう?だったら、いいんじゃないかな?なにか困ることある?」
椿姫の胸が、刺すようにうずいた。同時に、平然と家族を裏切るようなことが言える自分に驚いた。しかし、京介も家族なのだと思えば、自然と口が動いた。
椿姫,「変かな、わたし?もし、地震とか火事とかあったらどうするのかな?このお家じゃ大変なことになるよ?広明も紗枝も大きくなるよ?子供部屋が一つじゃ足りなくなるよ?」
思いつく限りのことを言い放った。
父親は唖然としていた。我が子が気でも触れたのかと目を剥いて、椿姫をにらみつけた。椿姫は誘拐事件を通して学んだ心の卑しさを表情に浮かべて、父を見返した。自分がどうなろうとかまわなかった。ただ、京介のことを想った。

;背景夜
――京介くんは、無事なんだろうか。
別れ際の京介は、とても切羽詰っているような様子だった。自分たちが家を出て行かなかったばかりに、暴力団のお父さんに、ひどい目に合わされているのではないか……。
椿姫,「帰ってきて……京介くん」
;背景椿姫の家外観夜
;SE殴る音
;画面明滅
殴り合いは一方的なリンチに変わっていった。
四人の屈強な男たちに、ぼろ雑巾のようにもみくちゃにされ、いまとなっては、もう、どこをどう殴られているのかもわからなくなっていた。
口の中で鉄錆の味と臭いが充満していた。
唾といっしょに折れた歯を吐き出す。
目先に落ちた血染めの前歯を見て、ようやく自分の姿勢が、いま、腹ばいになって地面に倒れていることを悟った。
極道どもがなにか言っているが、ふらついた頭ではうまく理解できなかった。
あざ笑っているようだ。
おれも、なにかを必死に叫んでいる。
無自覚に、脳を経由しないで、肺だけで唇を通って言語を音声化している。
切実に口を開けているつもりなのだが、実際には、ぼやき声にしかならなくて、それがまた、外道どもの失笑を買っているようだ。
直後、激痛をともなって朦朧としていた意識が覚醒した。
顔面から先駆けて、髪の毛先からぽたりと水が滴る。
水!?
真冬の冷水が、裂けた唇や頬の肉を丁重に蝕んでいった。
浅井権三,「家に土足であがるな、だと……?」
いつの間にそこにいたのか。
浅井権三が、さらに数人の取り巻きを従えて、仁王立ちしていた。
おれはやっとの思いで首を動かし、権三の顔をにらみつけた。
浅井権三,「こんな、畜生小屋になんの価値があるってんだ?」
京介,「…………」
浅井権三,「おい、京介。お前は俺を裏切った。なぜだ?」
言葉こそたんたんとしていたが、威圧的な響きを帯びていた。
京介,「なぜ、だって……?」
血と胃液にまみれた口を開いた。
京介,「ほんとにわからねえのか?」
笑いすらこみ上げてくる。
浅井権三,「あの椿姫とかいう娘にいくらの値段がついてるんだ?今後、いくら引っ張るつもりだったんだ?」
京介,「ふざけたことぬかすな」
浅井権三,「わからんな。たしかに風呂にでも沈めれば、月に百はしぼれそうな玉だが」
京介,「黙れっ、穢すなっ……!!!」
ありったけの力を両足に総動員した。
何本か欠けた歯を食いしばり、噛み締めた歯の隙間からうめき声を漏らし、おれは立ち上がった。
京介,「……金じゃねえよ……!」
京介,「金は大好きだが……おれも、人のこと言えたようなもんじゃないが……」
京介,「もう、おれは金の奴隷じゃない。あんたを肥やすための家畜じゃない」
京介,「暖かい家庭を望み、信頼できる女と飯を食って、たまにいまみたいに無茶をする、ただの人間だ」
権三は、憮然としていた。
周りを囲むヤクザたちは、相変わらずガンを飛ばしてくるが、その目にはおれを警戒するような鋭い輝きがあった。
京介,「これきりだ」
浅井権三,「…………」
京介,「あんたとは、もう、おしまいだ」
浅井権三,「…………」
京介,「あんたもおれと同じ血の通った人間なら、わかってくれ。いいや、わかってください、お養父さん……!」
たしかに、権三には極貧生活から拾い上げてもらった恩がある。
おれは、眉間に深いしわを作った。
京介,「いままで、世話になりました」
頭を深く下げる。
必要に迫られて仕方なく頭を下げたわけではなく、本物の誠意を込めた。
周囲からどよめきが上がり、あからさまに気配が変わった。
さっきまでぶつけられていた無数の悪意が、あきらかにトーンダウンしていく。
張り詰めていた緊張がゆっくりとほぐれ、顔を上げた。
浅井権三,「で?いつになったら火をつけるんだ?」
絶句した。
驚きに両目が大きく見開かれていき、まぶたの裏が引きつった。
浅井権三,「お前はなにか勘違いしているようだが、俺はお前のさえずりを聞きに来たわけではない」
京介,「…………」
浅井権三,「京介……」
その暗い声。
いまにも飛びかかってきそうな体躯。
浅井権三,「俺は、お前に、教えたか?」
全身が凍結するのは、真冬に水をかぶったからじゃない。
浅井権三,「お前に、人であれなどと、教えたか?」
腰を低く落とし、顔面に鬼も逃げ出すような強烈な憤怒を刻み、じわりと詰め寄ってきた。
そばにいた一人の男が、短い悲鳴を上げて、のけぞるように道を開けた。
浅井権三,「てめえはけっきょく、仕事を放り出して女に逃げたんだろうが」
正論、のように聞こえる――少なくともこの修羅場では。
浅井権三,「お養父さん、わかってくれ?」
浅井権三,「血の通った人間なら、わかってくれだと!?」
浅井権三,「わかってくれだのほざいた口はどの口だっ――――!!!」
咆哮に、一瞬だけ気が遠のいた。
権三は、やはり、正真正銘の悪漢だった。
小僧がヤクザ相手に血みどろになって闘い、全身全霊を込めて訴えたとしても、なんら心を動かさない。
さすがというしかない……。
さすがというしかない、が……。
浅井権三,「京介、そこを動くな――!!!」
京介,「権三。おれを殺せば、あんたも終わりだ」
――だから、おれも、手を打っておいたのだ。
間近まで迫った権三の風圧を感じながら、おれは下腹にありったけの力を込めた。
京介,「あんたを捕まえるために、警察が動きます」
冷ややかに言い放つと、権三の血走った目に疑問の色が浮かんだ。
京介,「捕まらないって思ってるだろう?あんたは関東総和連合の最高幹部だ。そんなのがお縄についたらいろいろと困る偉い人たちがいるんだろうな」
京介,「さらに、あんたは昔、デカだったというから、警察内部にコネもあるんだろうし、弱みも握っているんだろう?いまだって、いろいろと手は回してるに違いない」
おれは権三を見据えた。
京介,「でも、新任の警視副総監殿は、挨拶に来ましたか?」
そこで、権三の雰囲気が変わった。
殺気こそ放っているが、目に計算高そうな光が宿っている。
京介,「いま、その息子を拉致してましてね。いや、丁重にお預かりしているといってもいい待遇ですが」
浅井権三,「なるほど……」
つぶやいて、さきほどまでとは打って変わって、余裕の表情を浮かべた。
浅井権三,「その息子が、とんでもない悪たれだという話は最近耳にした」
京介,「ご存知でしたか。例のイベサー……『坊や』でしたっけ?そこのイベントにもしょっちゅう参加していたみたいなんで、おれの使ってる情報屋も割と簡単に調べをつけてくれました」
浅井権三,「すると?」
京介,「もうおわかりでしょうが、ずいぶんとやばいクスリにはまっているらしいんです」
浅井権三,「それをネタに、父親にゆすりをかけるわけだな?」
……察しがいいことで。
きっといまごろ、冷徹な頭脳を回転させて、自分の窮地とおれへの殺意を天秤にかけているのだろう。
浅井権三,「新任の警視副総監か。たしかに、てめえの息子がいかれてると世間に知られたら終わりだ。俺を挙げるのも辞さないだろうし、政治屋に言って聞かせても止まらんだろうな」
なにがおかしいのか、権三はおれを値踏みするような目で見据えた。
浅井権三,「罪状は?」
京介,「身に覚えがありすぎるでしょう?おれは、あんたがやった罪を腐るほど知っている。主に暴行に脅迫だが……決定的な物証もちゃんとしかるべきところに保管してある」
浅井権三,「あるいは、この場でお前を殺してもいいんだよな?」
……わかってて聞いてきやがった。
浅井権三,「命がけだな、京介、ええっ?」
京介,「断っておきますが、今、この場でおれを殺そうが拉致ろうが、指示は飛んでますので」
浅井権三,「だろうな……しかし、お前もわかってないんじゃねえか?」
京介,「わかってますよ。あんたのことだ。ちょっと引っ張られたくらいじゃすぐ出所してくるんだろう?そのあとで、おれや椿姫をそれこそ地獄に叩き落すくらいわけない」
浅井権三,「だが、少しの間でも、腕を後ろに回された俺が、いまの面子と地位を保っていられるほど、極道は楽な稼業じゃない」
京介,「おれの命とあなたの命運。どっちが重いかなんて考えるまでもないでしょう?」
浅井権三,「なかなか知恵を巡らしたようだが、もし、俺がこのまま台湾あたりに逃げたらどうする?」
京介,「息子にてめえの子分の頭カチ割られた挙句、サツにびびってとんずらしたとなっては、浅井権三もその程度の男だったと噂が流れるでしょうね」
浅井権三,「まったくだ」
権三にしては珍しく明るい笑みを浮かべた。
おれも、つられて、口元が緩む。
浅井権三,「いいぞ、京介……クク……上出来だ」
京介,「ありがとうございます」
弾む会話。
やはり、こうするしかなかったか……。
こうやって、腹の探り合いをした挙句、お互いの利害関係を確認することでしか、わかりあえなかった。
浅井権三,「さすが、浅井京介だ」
どこか物悲しいが、これがおれと権三の親子関係なのだ。
浅井権三,「望みはなんだ?言え。俺は、いま、気分がいいぞ」
京介,「この家です。今後も椿姫たちがこの土地に居座るのは難しいことでしょうが、少なくとも、うちは手を引かせてください」
浅井権三,「おう」
あっさりとうなずいた。
京介,「それから、今後は犯罪はもちろん、グレーなラインの仕事もお断りします」
権三は、少しだけ、考える素振りを見せて言った。
浅井権三,「お前には借金があることを忘れるなよ」
京介,「わかってます。それは、死ぬ気で返させてもらいますから」
浅井権三,「よし、ならば許す」
権三は、これで、おれを手放したとは思っていないのだろう。
おれも、解放されたとは思わない。
歪んでいるとはいえ、親子の縁を簡単に切れるはずがない。
浅井権三,「てめえら、引き上げるぞ。飯島も文句はねえな?」
おれに一撃浴びせられた飯島も、権三の前では借りてきた猫のようにおとなしくなった。
おれは、続々とベンツに乗り込むヤクザたちを見送った。
不意に、脱力感が襲ってきた。
指や腕の骨の具合がおかしいが、病院に向かう気力も残っていない。
重力に任せてその場に崩れ落ちると、懐から携帯を取り出した。
京介,「あー、ミキちゃん?おれおれ……うん、とりあえずなんとかなったっぽいわ……」
京介,「うん、もうその子は解放しちゃって。今後悪いことするともっと怖い人に捕まるぜって言っといて……」
京介,「え?金?ははあ、報酬ね。うん……高いな、おい」
ゆっくりと視界が闇に呑まれていく。
京介,「いや、払えるぜ……」
太いためいきをついて、金をせびるミキちゃんに言った。
京介,「なんといっても、最近、パパからお小遣いもらったからなー……」
;黒画面
……。
…………。
椿姫,「京介くん、聞いた?」
京介,「ん?」
椿姫,「栄一くんがね、ついに就職するんだって」
京介,「おー、あいつもニート卒業か。いったい、どこに潜り込んだんだ?」
椿姫,「セントラル街のペットショップみたいだよ?就職祝いしてあげなきゃね」
京介,「やめとこうぜ、どうせ金の無心されるぞ?」
椿姫,「それでもいいよ。お祝いはお祝いだよ?」
京介,「ったく、人がいいんだよな、お前は……」
椿姫,「そのうち、お店にも顔だそうね」
京介,「セントラル街は遠い。この西区のはずれからだとどんだけ時間かかると思ってるんだ?」
椿姫,「誰も歩いて行こうなんて言わないよ?」
京介,「無駄金は使いたくない」
椿姫,「いいじゃない?かわいい動物にいっぱい会えるよ?」
京介,「買わんぞ」
椿姫,「あれ?京介くんはペンギンが好きじゃなかったっけ?」
京介,「は?」
椿姫,「で、趣味は座禅だよね?」
京介,「違うから」
椿姫,「そんなはずないよ、わたしちゃんと日記に京介くんの章を作ってるから」
京介,「人違いだって」
椿姫,「あ、それハルちゃんだ……ごめん」
京介,「懐かしい名前が出たな……」
椿姫,「もう、学園を卒業して、四年になるっけ?」
京介,「宇佐美は、いまごろどこでなにをしているのかねえ……」
椿姫,「転入してきて三ヶ月くらいでまた、どこかに引っ越しちゃったもんね」
京介,「行き先も告げずにな。それでも、たまに連絡来るんだろ?」
椿姫,「うん、どうやってここの住所調べたのかわからないんだけど、電報が多いかな」
京介,「電報だ?手紙でも電話でもなくて?」
椿姫,「椿姫ー、結婚したかー?っていうのが多い」
京介,「結婚ねえ……」
椿姫,「……うん」
京介,「ん?」
椿姫,「うん……結婚です」
京介,「…………」
椿姫,「…………」
京介,「まあいいや、花音もいまやアメリカ在住の超人気選手なわけだし、みんななんとかやってるようでよかったなー」
椿姫,「うん、お父さんも、そろそろ退院できるしね」
京介,「ああ、また親父さんと酒を飲みたいわ」
椿姫,「また、畑仕事できるようになるといいんだけどね」
京介,「悪くしたのは腰だろう?もうけっこう入退院を繰り返してるからな……どうだろうなあ……」
椿姫,「けっきょく、あの東区のお家をあきらめたのも、それがきっかけだもんね」
京介,「でも、慰謝料が加算されて、立ち退きのときもけっこうもらったわけだろ?」
椿姫,「うん、お父さん、営業の人にすごい怒ってたもんね。お前らのおかげで腰悪くしたんだろうって」
京介,「けっこう無茶な要求だったけど、向こうにしてみれば出てってもらえるなら万々歳なわけで、ぶっちゃけはした金だったんだろうな」
椿姫,「あの辺、もうすっごく変わっちゃったよね」
京介,「四年も経ったからな」
椿姫,「ちょっと寂しいよね」
京介,「同感だが、周りにホテルや遊園地ができてる中で、ポツンとお前の家があるとか絵的にありえない」
椿姫,「もう、すぐ現実的なこと言うんだから」
京介,「大規模開発は、長いものに巻かれろ式だから、おれらがどんなに騒いだところで、けっきょく、出て行くことになってたと思うぞ」
椿姫,「わかってるんだけどね……」
京介,「ほらほら、おいしい夕飯がまずくなるぞ?」
椿姫,「ほんと?おいしい?」
京介,「さすがに同棲して一年にもなれば、それなりの味にはなってるわけで……」
椿姫,「ふふっ、ひねくれてるところも好きだよ?」
京介,「あ、そう……」
椿姫,「ひねくれてると言えば、広明、今日も来るって」
京介,「えー、またかよ。あの子はおれと風呂に入らなくなった時点で、おれから離れていったと思っていたんだがな……」
椿姫,「お家も近いし、いいんじゃない?毎日遊んであげてね」
京介,「毎日遊んでいたら家計が崩壊するが、いいんだな?」
椿姫,「ごめん、よくないです。京介くんはお仕事大好きだもんね」
京介,「いちおう、浅井興業の正式な社員として、フロント企業のダーティなイメージを払拭するべく、身を粉にしてがんばっているわけだが……」
椿姫,「なかなか難しい?」
京介,「やっぱり、ケツもちがいるってなるとなあ……こっちは健全なおつき合いを求めてるんだけど……なかなか厳しいよ」
椿姫,「でも、がんばってるんだろうなっていうのはわかるよ」
京介,「そうか?」
椿姫,「だって、とってもすがすがしい顔してるもん」
京介,「馬鹿言えよ、ケツに火がついてるっての。おれ自身の借金は、いくら返してもぜんぜん元本が減らないっていう鬼のような借金だからさ……何度も話してると思うけど」
椿姫,「それに、お父さんの入院費も払ってもらってるもんね」
京介,「まあ、前みたいに馬鹿高いマンション借りてるわけじゃないから、ぎりぎりなんとかなってるけどな」
椿姫,「ごめんね、狭いお家で」
京介,「まったくだ。足も伸ばせない風呂に入る羽目になるとは思わなかった」
椿姫,「でも、いっしょに入るとくっつけるから、わたしはうれしいよ?」
京介,「あ、そう……」
椿姫,「あ、京介くん、あのね……」
京介,「ん?ああ……結婚の話……だよな?」
椿姫,「うん……」
京介,「安心しろよ、その金もちゃんと貯めてるから」
椿姫,「それは京介くんのことだから、ぜんぜん心配してないんだけどね、京介くんのお養父さんは、許してくれるのかなあって……」
京介,「ああ、そういえば、一回だけ会ったもんな。いきなりここに、おしかけてきたんだっけ?」
椿姫,「びっくりしたよ」
京介,「まあ、だいじょうぶだと思うぞ、結婚くらい。払うものを払っていればとくに害はない人だから……いや、それはなめすぎか」
椿姫,「なら、いいんだけどね……」
京介,「それにしても、長かったな……」
椿姫,「なにが?」
京介,「いや、ついに結婚だなあと……」
椿姫,「そうだね……うれしいな……」
京介,「いまだから言うけど、おれは最初、お前のことなんてぜんぜん興味もなかったんだよ」
椿姫,「うん、知ってる……」
京介,「それが、こうなるとはね……人生わからんねえ……」
…………。
……。
;黒画面
……四年前を思い起こす。
ヤクザ連中に痛めつけられたあの夜。
体を動かすのもやっとだったおれは、ひとまず、椿姫の家に上がらせてもらった。
寒さと苦痛と疲労感から意識が朦朧としたまま、畳の上で毛布にくるまって、じっと夜が白むのを見ていた。
;背景椿姫の家居間夜
椿姫,「……帰ってきてたんだね」
不意に、人の声がして、毛布から顔を出した。
京介,「なにが起こったのかは聞くなよ」
椿姫,「でも、顔が……」
京介,「聞くなと言っている」
椿姫,「ダメだよ……!」
椿姫は慌しくおれのそばを離れて、すぐに戻ってきた。
椿姫,「消毒しなきゃね」
京介,「……っ!」
悲鳴を上げる体力も残っていなかったが、とにかく全身が引きつるような痛みが顔面から広がった。
京介,「……ったく、なにしにもどって来たんだ?お婆さんの家に行ってるんじゃなかったのか?」
椿姫は、どこか申し訳なさそうに顔をしかめた。
椿姫,「毎晩戻ってくるつもりだったよ?京介くんが帰ってきてるんじゃないかと思って……眠れそうになかったし……」
京介,「……そうか……」
心配をかけていたのは承知だが、まさかそこまでとは……。
椿姫,「痛む?」
京介,「まあな……」
椿姫,「せめて、よくなるまで、そばにいてもいい?」
京介,「…………」
控えめな申し出に、胸が詰まった。
京介,「家を、明け渡すって……?」
椿姫,「そのつもりで、今、お話してるよ?」
京介,「家族を裏切るのか?」
椿姫,「そんなつもりもないんだけど、けっきょくそういうことになるね」
京介,「おれは助かる」
椿姫,「うん、良かったよ」
京介,「助かる……はずだったんだがな……」
椿姫,「ん?」
京介,「ちょっと、やんちゃしちまってさ……おかげでこのザマだよ」
椿姫は押し黙った。
京介,「ひとまず、家族みんなでこの家に戻って来てもだいじょうぶだぞ」
椿姫,「……そうなの?」
京介,「ああ、ひとまずな……今後どうなるかは知らんけど」
椿姫,「だいじょうぶって、このお家に住んでてもいいの?」
京介,「ああ……」
椿姫,「京介くんが、守ってくれたの?」
京介,「いいや……」
椿姫,「そうなんでしょう!?だからそんなに傷ついて……!?」
急に差し迫った顔つきになる椿姫だが、おれはなにも答えられなかった。
この家は、椿姫たちが積み上げてきたものに、然るべくして守られたんだろう。
京介,「椿姫、悪かった……」
自然と、声が出た。
京介,「いろいろと、すまなかった」
椿姫,「……え?」
京介,「騙したり、疑ったり、傷つけたり……本当に、ごめんな」
椿姫,「ぜんぜん、気にしてないよ」
京介,「気にしたほうがいいぞ……気にしないと、損ばかりするぞ?」
椿姫,「そういうのは、わからないよ。むいてないよ」
京介,「だろうな……」
なぜか、とても落ち着く。
椿姫がそこにいるというだけで、暗く隙間風の差し込む居間が明るく感じる。
椿姫,「京介くん、しつこいけど……」
たしかに、しつこい……。
椿姫,「いっしょに暮らそう?」
ただ、その一言に、椿姫の万感が込められている。
椿姫は、かわいそうな幼少期を過ごしたお前の心を暖めてやろう、などとは決して口にしないし、本人もそんなつもりはないのだろう。
拙い一言にこそ、誠意を感じる。
椿姫,「わたし、嫉妬深いからね。京介くんといっしょに暮らせたら、毎日いっしょにいられるでしょう?」
あくまで自分の都合ということにして、おれの帰宅を促している。
もちろんそれは、ある程度事実なのだろうが、もっと他に隠している優しい想いがあることを、おれはようやく知ることができた。
京介,「なあ、椿姫……覚えてるか?」
椿姫,「なにを?」
京介,「おれの母さんのことをお前が知ったときだ」
椿姫,「うん……」
京介,「どう思ったんだ?」
椿姫,「かわいそうだなって思ったよ」
京介,「同情したわけだな」
椿姫,「そうだね。そのことで、京介くんが傷つくのもわかってたんだけど、態度に出ちゃってごめんなさい」
京介,「正直だな……」
よくよく考えてみれば、同情されてなにが悪いのだろうか。
おれのなにが傷つくというのか。
ちっぽけで卑屈な心が、椿姫の正直で真っ直ぐな気持ちの前で、かんしゃくを起こしたように暴れだしただけのことだ。
椿姫というまっさらな鏡に、つまらない自分を晒されたくなかったのだ。
京介,「そうか……おれで、いいのか?」
もちろんだよ、としゃくりあげるような声が聞こえた。
目に涙を浮かべ、そっとおれの右手の甲に自らの手を置いてきた。
おれも、ためらいがちに、左手を重ねた。
椿姫,「おかえり、京介くん……」
ありがとう、椿姫……。
;黒画面
……。
…………。
おれは椿姫のおかげで救われる思いだった。
椿姫といっしょに、幸せを育んでいる。
金はないが、豊かな生活。
京介,「椿姫……」
椿姫,「なあに……?」
そのあまりに屈託のない笑みに、ふと、なにを言おうとしたのか忘れてしまった。
京介,「あ、いや……なんだっけ……?」
椿姫,「ふふっ、変な京介くん」
いつまでも変わらず、少女のようなあどけなさを残している。
椿姫,「あ、お母さん病院から戻ってきたんじゃない?」
ふと、玄関先でドアの開く音がした。
京介,「ああ……」
;黒画面。
北海道から呼び寄せた母さん。
椿姫,「おかえりなさい。ご飯できてますよ」
弾むような声に、やつれ果てていた母さんの顔に光が差す。
椿姫,「みんなでいっしょに、食べましょう」
椿姫が席を立って迎えに出る。
おれも、遅れまいと、椿姫の背中を追った。
いつの間にか、おれにもたくさんの家族ができたなと思いながら――。
;メッセージウィンドウの消去
;椿姫の章FIN
《G弦上的魔王》日文游戏原案


人生有無數種可能,人生有無限的精彩,人生沒有盡頭。一個人只要足夠的愛自己,尊重自己內心的聲音,就算是真正的活著。