十月もなかばを過ぎたばかりだというのに、その日は北寄りの風が強かった。街は日没を待って徐々に色彩を失い、がらんとした高層ビルの隅や、人気のない路地裏で、枯葉が上空に巻き上げられた。人々は砂や埃に目を細め、追い立てられるように家路を急いでいる。"魔王"は、しかめ面で行き過ぎる人間の群れを眺めながら、本格的な冬の到来を予感していた。長きに渡る雌伏のときは、終わりを告げようとしている。知能犯罪において、確実な成功を収めるためには、慎重に完璧な計画を練り上げ、それを大胆不敵に断行しなければならない。時期、場所、犠牲者の選択にも万全を期して望む。絶対の条件が整うまで、"魔王"は、幾年もの月日を準備に費やしていた,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
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魔王が望むのは、力に対する力の闘争である。水が上から下に流れるように、弱いものは強いものになびいていく。ならば、圧倒的な力で支配してやろう。己の目的を達成するためには、水流の秩序を破壊することもいとわない。人は外道の逆恨みと、罪人の詭弁だとあざ笑うかもしれない。けれど、人々が"魔王の罪を憎み、"魔王"という人間を軽蔑したとしても、"魔王"の信念の中の真理にはある程度共感するものがあるはずだ。それが証拠に、"魔王"は必要十分な資力と、手駒のように動く"こどもたち"を手に入れた。彼らは犯罪計画を実行に移すために必要な役者であり、"魔王"との悪魔的な契約に縛られた信奉者だった,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
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――戦いのときは近い。お父さん、お父さん、"魔王"がそこにいるよ――,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
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少女は大発展を遂げた町並みに、少なからず驚いていた。少女がもっと幼かったころには、四車線の道路も山のように高いビルもなかった。感嘆のため息は、スクランブル交差点を雑然と行きかう人々に踏みつけられて消えていった。少女の手には焦げ茶色の革張りのケースがあった。年季が入ったケースの中身は、腕のいい職人の手によって作られた国産バイオリンだった。ストラドやガルネリのような神格化された価値はないが、少女にとっては命の次に大切な魂の名器だった。持ち手をしっかりと握り締めると、痛烈な感情が沸きあがった。母の、形見亡くなった母を思うと、少女の心に火が募る。不屈の闘志と揺るぎなき自信がみなぎってくる。少女は力強くコンクリートの地面を蹴った。足取りは緩まない。宿願を果たすまでは。"魔王"を自らの手で打ち倒すまでは――,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
;セリフにはキャラ名を表示させません。
;代わりにウィンドウの左下に顔を表示してください。
;黒画面
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;背景 主人公自室 昼
京介,「…………」
目覚めはいつも7時ちょうど。
朝食はいつもシリアルと牛乳。
いつものように新聞を読む。
広すぎる窓から人口一千万の富万別市の街を眺めると、ついに、いつものおれが出来上がる。
さて、今日は学園だ。
ここ三日ほど面倒ごとにつき合わされて休んでいたが、学園はとても楽しみな時間だ。
さっさと準備をして出かけようか。
……ん?
こんな朝早くから客?
どんなアポも入れていないはずだが……。
;がちゃっと受話器を取る音
京介,「もしもし……」
モニターに映っている顔には見覚えがあるような気がする。
椿姫,「……あ、浅井さんのお宅ですよね?」
京介,「失礼ですが、どちら様ですか?」
椿姫,「あ、え、えっと、美輪です。美輪椿姫です」
京介,「…………」
椿姫,「浅井京介くんのクラスメイトで、クラス委員をしています」
京介,「ああ、椿姫か」
椿姫,「え? 浅井くん?」
京介,「そうだよ。わからなかったか?」
最近のインターホンはとても声の通しがいい。
椿姫,「いつもと声色が違うから、お父さんかと思った」
京介,「いや、おれもうっかり椿姫の顔を忘れてたよ」
椿姫,「え? 嘘だよね? 一年生のときからずっと同じクラスだったじゃない?」
……ウソじゃあない。
どうもまだ、頭が切り替わっていないな。
京介,「それより、どうしたんだ?」
椿姫,「うん、ここのところずっとカゼで休んでたでしょ? だからどうしたのかなあって……」
京介,「もう、心配ないよ。いま下に降りて行くから。一緒に登校しよう」
椿姫,「あ、うんっ!」
椿姫の声がうれしそうに弾んだ。
椿姫,「おっはよっ」
椿姫は、一緒にいてすがすがしい感じのする少女だ。
椿姫,「初めて来たけど、浅井くんてすごいところに住んでるんだね」
京介,「すごい?」
椿姫,「超高級マンションじゃない。ここって、前にテレビにも出てたよね? どんなお金持ちが住んでるんだろう、みたいな特集で」
京介,「まあ、一人で住むには少し広いかな」
椿姫,「えーっ、一人で住んでるの?」
京介,「ボンボンだからな」
苦笑する。
京介,「椿姫の家は、東区だったか?」
椿姫,「そうだよ。ここみたいにセレブな町じゃなくて、畑ばっかりでなんにもないよ……」
京介,「なんにもないなら、静かでいいじゃないか」
椿姫,「最近はね、外国の人がたくさん来ててちょっと活発になってきてるんだけどね」
京介,「知ってる。スキー場があるからだろ? 雪質の良さがオーストラリア人に口コミで広がって、ちょっとした観光地になってるって話だ」
椿姫,「あ、うん」
京介,「いまじゃ、坪五十万っていうじゃないか。まあ、いくらホテルやレストランができても、請負先はゼネコンだから地元は潤わないんだろうが……」
椿姫,「あ、うんうん……」
京介,「…………」
……椿姫とこんな話をしても仕方がない。
椿姫,「浅井くんってなんだかリッチだよね」
京介,「ボンボンだからな」
椿姫,「日記に書いておこうっと、浅井くんはリッチって……」
椿姫がいつも大事そうに抱えている日記。
京介,「お前、日記は常に肌身離さずって感じだよな。なんかワケありなのか?」
椿姫,「メモメモ」
京介,「聞けよ」
椿姫,「朝七時に浅井くんの家にやってきました。浅井くんの家はとてもリッチなのでした。今日は天気が良くて○です」
京介,「……とっとと学園行くぞ」
おれたちは並んで歩き出す。
;背景 学園門 昼
学園までは歩いて十五分。
椿姫,「ここ自由ヶ咲学園は、その名の通りとても自由な校風が特徴です。個性的な学生が多く、若手のミュージシャンやアイドルなどの芸能人も多く通っているのでした」
椿姫,「華やかな反面、成績が悪くても簡単に卒業できるので、学園とは名ばかりの芸能スクールだと言われています」
椿姫,「実際、浅井くんはよく休みます。でも、花音ちゃんはスケートがあるからよく休むのはわかるけど、浅井くんはわたしと同じ一般人のはずなんです」
椿姫,「うーん、浅井くんって謎の多い人だなあ……○」
……なんだかわからんが、この学園の解説が終わったようだ。
京介,「おい、椿姫」
椿姫,「あ、ごめん。わたしブツブツ言ってた?」
京介,「おれがよく休むのはさ……ほら、前にも言ったろ?」
椿姫,「あ、病気なんだっけ?」
京介,「違うから」
椿姫は首を傾げる。
京介,「パパの仕事を少し手伝ってるんだよ。たまに海外にも行くしね」
椿姫,「そんな話初めて聞いたよ」
京介,「そうだっけ?」
椿姫,「間違いないよ。だって、浅井くんのことならなんでも日記に書いてあるはずだもの」
京介,「なんか怖いな、お前……」
椿姫,「でも、いいこと聞いちゃったな、メモメモ……」
京介,「またメモする……」
椿姫,「浅井くんは、お父さんをパパって言うのでした……欧米か○」
京介,「いいじゃないかよ。骨川さんだって、パパって言うじゃないか」
椿姫,「骨川さんって…………ああ、あのアニメの?」
京介,「骨川さんはおれの理想なんだ」
……うーん、なんか調子出てきたな。
栄一,「おはよー」
京介,「おう、栄一」
椿姫,「彼は相沢栄一くん。見ての通りとても美少年です。冬場でも半ズボンとか履きます。年上の女の人から人気絶大です。わたしともとっても仲良しなのでした○」
……なんだかわからんが、新たな登場人物の解説が終わったようだ。
栄一,「昨日からとっても寒いね。ボク、朝起きたら雪が降ってるんじゃないかなって、ワクワクしてたんだー」
子犬のような笑顔。
栄一,「ねえねえ椿姫ちゃん、昨日発売したCUNCUN読んだ?」
CUNCUNとは、女性向けファッション誌のことだ。
椿姫,「ううん、まだ見てないよ」
栄一,「じゃあ、貸してあげるね。今月はね、アロマの特集やってるんだよ。あと、今度西区にオープンするお菓子のお店の記事も出てたよー」
栄一はこの手の女性ウケする話題を豊富に持っている。
椿姫,「栄一くんって、悪い意味じゃなくて、わたしよりかわいいよね」
栄一,「えへへ、女の子っぽいかな?」
椿姫,「でも、そこがいいところだと思うな。話しやすいよ」
栄一,「ありがとー」
いつも思うが、栄一の笑顔は完璧である。
栄一,「あ、そうそう」
栄一が再びまぶしいくらいに白い歯を見せつける。
栄一,「なんかね、今日、転入生が来るんだって」
京介,「うちのクラスに?」
こんな時期にか……。
まあ、うちの学園は、デビューするために引越しさせられた地方のアイドルとかが、いきなり編入してきたりするからな。
栄一,「女の子らしいよ。かわいい子だといいねっ」
椿姫,「毎日休まず来てくれる子だといいな。年末になると仕事が忙しいみたいで、みんないなくて寂しいし……」
京介,「花音は、今日は来るみたいだぞ」
椿姫,「あ、ホント? もう、アメリカから帰ってきたんだ?」
京介,「カナダ、な。昨日の夜、連絡があった」
栄一,「すごいよね。再来年のオリンピックに出られるかもしれないんだもんね」
京介,「まあ、これからの成績次第だな」
椿姫,「そっかあ、帰ってくるんだ……花音ちゃんに会いたいなあ……」
まるで恋人でも待ち焦がれるよう。
……いいヤツだな。
椿姫,「そうだ、忘れてた。わたしちょっと、先生に呼ばれてたんだ」
京介,「おいおい、ちゃんと日記に書いておけよ」
椿姫,「ごめん、先に行くねっ」
栄一,「じゃあ、あとでねー」
椿姫は足早に校舎に入っていった。
京介,「…………」
栄一,「…………」
しばし、栄一と目を合わせる。
栄一,「けっ……!」
京介,「な、なんだよ?」
栄一,「ちきしょー、あのアマぁ……」
京介,「え?」
栄一,「なにが、悪い意味じゃなくて、わたしよりかわいい、だよ。どういう意味だよまったく……」
京介,「いや、悪気はないって意味だろ」
栄一,「オレがかわいいだと? ざけやがって」
京介,「いやいや、お前も、えへへーとか笑ってただろうが……」
栄一,「あー、マジムカつくぜ。オレがあと二年若かったらマウント取ってるところだ」
京介,「おいおい、椿姫は友達だろ? マウントは勘弁してやれって」
栄一,「ダチでも親でも関係ねえよ。オレ、マジすげえよ、キレたら見境ナッシングだぜ?」
……すげえ頭の弱そうな発言だな。
;/追加/ 背景 学園廊下
そんなこんなでチャイムが鳴った。
栄一,「くっくっく、今日もメス豚どもの相手をしてやるかね……」
女教師,「相沢くん、早く教室に入りなさい」
栄一,「あ、はーい!」
……すげえ変わり身の早さだな。
;背景 教室 昼
;// 上記のチャイム終了待ち
三十人ほどのクラスだが、欠席が五人ほどいる。
椿姫,「今日は、白鳥さんがお休みか……」
京介,「椿姫は、白鳥とも仲がいいんだっけ?」
椿姫,「ううん、特別仲がいいわけじゃないけど……どうしたの?」
京介,「ああ、いや……おれもあの子と仲良くしたいなーと」
椿姫,「いいことだねっ」
白鳥……白鳥水羽……忘れっぽいおれでも、彼女にだけは注意を割いているつもりだ。
今日は休みか……残念だ……。
ふと気づくと、廊下が騒がしい。
栄一,「どうしたんだろ?」
花音,「じゃじゃーん、おはよーだよー!」
椿姫,「あ、花音ちゃんっ!」
花音の登場に、教室が沸く。
花音,「やあやあ、みんな元気してたー?」
我が義理の妹ながら、声がでかい。
椿姫,「花音ちゃん久しぶりー。カナダはどうだった?」
花音,「んー、カナダ?」
花音,「えっとねー」
京介,「…………」
;笑顔
花音,「カナダっていう感じだったなー」
我が義理の妹ながら、とてもゆるい。
椿姫,「そ、そっかあ……」
花音,「でもねでもね、四回転飛べるようになったよー!」
イエーイという感じだった。
栄一,「すごーい! フィギュアスケートの四回転ジャンプって世界でもそうそうできる人いないって聞いたよ?」
花音,「でもねでもね、着地で転んじゃうんだよー!」
イエーイという感じだった。
栄一,「そ、そっかあ……」
花音,「兄さん兄さんっ!」
京介,「な、なんだよ、テンション高いな……」
花音,「今日兄さんのおうち泊まりに行ってもいい?」
京介,「えっ?」
ぎょっとする。
栄一,「あー、始まった。花音ちゃんの甘えん坊将軍」
椿姫,「花音ちゃんはお兄ちゃん子だからなあ……」
花音,「ねえ、いいかないいかな?」
京介,「待て。今日はまずい……」
今日でなくてもまずいんだが……。
花音,「なんで?」
京介,「そんなじっと見つめるなよ……」
花音,「なんでなんでどうして?」
栄一,「京介、追い込まれてるな……」
栄一が心なしか黒い笑みを浮かべているように見える。
京介,「はっきりいうが、ベッドが一つしかないんだ」
花音,「んー? 一緒に寝ればいいと思うよ」
おいおい……。
京介,「いやだから、よく考えろよ。いまさら三文ドラマにもならんだろうが、血のつながっていない妹と一夜を過ごすっていうのは……」
花音,「んー?」
京介,「なあ、ほら……栄一、なんとか言ってくれ」
栄一,「ぼ、ボク……そういうの恥ずかしくてわかんない……」
……この野郎。
京介,「とにかくダメだって。普通に家に帰れよ。パパも会いたがってるから」
花音,「ヤダ」
京介,「困ったな……」
;SE 携帯
と、そのとき、天意を得たかのようにおれの携帯が鳴る。
椿姫,「あ、浅井くん、携帯電話は学園に持ってきちゃダメって前にも……」
かまわず電話に出る。
;// 上記携帯を停止
京介,「あ、もしもし……」
京介,「あー、ミキちゃんっ! この前の遊園地、楽しかったね」
花音,「んー?」
椿姫,「え?」
京介,「うん、いまは学園。え? なに? また会いたい? うんうん、おれもおれも……」
花音,「……誰かな?」
椿姫,「友達じゃないかな? 浅井くんって、学園の外に友達多いみたいだし」
栄一,「京介君って、けっこうモテるんだよねー、いいなー」
花音,「むー……」
京介,「……じゃあ、またあとでかけなおすね。はいはい、じゃあねー」
通話を切って、花音の顔を見る。
花音,「だあれ?」
京介,「ちょっとした友達だよ」
花音,「ちょっとしたって?」
栄一,「彼女?」
京介,「えっ? ああ、いや、なんていうのかな……」
花音,「むー、なんか怒った。わたしがカナダに行ってる間に、兄さんが兄さんじゃなくなった」
京介,「いや、まあ、若いうちは遊んどけっていうだろ?」
花音,「遊んどけってなんだよー! 兄さんがそんな薄っぺらい人だとは思わなかった!」
椿姫,「あ、浅井くんって、彼女さんいたんだね。知らなかった……」
京介,「いや、彼女じゃないよ……」
栄一,「へー、ボクも知らなかったなー。今度紹介してねー」
花音,「兄さん覚悟してねっ」
京介,「な、なんだよ……」
花音,「もう知らないっ!」
ぷいっとそっぽを向いて、席についた。
椿姫,「衝撃です。浅井くんに彼女がいました○」
京介,「はは……」
やっぱり学園はいいな、気楽で……。
;場転
京介,「おい、栄一」
栄一,「なあに?」
京介,「転入生が来ないまま授業が始まったぞ」
栄一は一番後ろの席なのをいいことに、教科書のかわりに雑誌を読んでいた。
栄一,「……んー、おかしいねー」
京介,「ほんとに今日来る予定だったのか?」
栄一,「ノリコちゃんに聞いたから間違いないよー」
ノリコちゃんとは学園の女教師で、たぶんウソだろうが、栄一とは禁断の関係にあるらしい。
栄一,「気になるの?」
京介,「だって、女だろ?」
栄一,「『だって、女だろ?』 いいねー。その一言で京介の下半身の軽薄さがわかろうってもんだ」
京介,「転入生にはいろいろと不安があるだろ? 学園に馴染めるかな……とか、友達できるかな……とか」
栄一,「え? だから?」
京介,「おとしやすいってことさ」
栄一,「さすがはミスター腹黒」
京介,「お前に言われたくはないが、褒め言葉として受け取っておこう」
おれと栄一はガッついているという点で、仲がいい。
栄一,「あ、京介。おれのシャーペン知らね?」
栄一は、きょろきょろしながら机の上を漁っている。
京介,「ニュートンを知らんか?」
栄一,「なんだって?」
京介,「アイザックニュートン」
栄一,「オレ、相沢栄一」
京介,「うん、そう。そうだな。とにかくシャーペンなら机の下に落ちてるぞ」
栄一,「アイザックってなに?」
京介,「有名人」
栄一,「なんなのその、新型モ○ルスーツみたいなの」
京介,「だから理科の有名人だってば」
栄一,「オレ、有名人は福沢諭吉が好き」
京介,「お金が好きってことか?」
栄一,「ちげーよ。超かっこいいじゃん、あの人」
京介,「どこがだよ。ちょっと紹介してくれよ」
栄一,「いやだって、すげー平等な人で、すげー言葉残してて、マジすげーじゃん」
京介,「スゲーばっかりで、わからん」
栄一,「とにかくスゲーんだって」
……こいつは広告代理店には勤められんだろうな。
栄一,「もちろん金も好きだけどなー」
京介,「金ね……」
;// 追加:SEチャイム
栄一,「あ、なんかおしゃべりしてたら授業終わったみたいだぞ。毎度のことながら、うちの学園の授業ってほとんど崩壊してるよなー」
……福沢諭吉、か。
京介,「…………」
……ファックザワ、め。
;背景 屋上 昼
十月だけあって、屋上はかなり寒い。
椿姫,「花音ちゃん、ご飯食べないの?」
花音,「減量してるんだよー」
フィギュアスケートの選手は、体重が五百グラム増えただけでジャンプの質が変わるそうだ。
椿姫,「栄一くんは、今日もお菓子だけ?」
栄一,「ボク、チョコレートだけあれば生きていけるよー」
かわいいキャラを作ろうとしているのかわからないが、おれは栄一がお菓子以外の何かを口にしているのを見たことがない。
椿姫,「浅井くんは……電話中か……」
かくいうおれは、休み時間になったら電話に忙しい。
椿姫,「うぅ……なんだかひとりぼっちでご飯を食べてる気がする椿姫なのでした」
椿姫は、しょんぼりと、手の込んだ弁当を箸でつついていた。
京介,「ふう……」
椿姫,「あ、電話終わった?」
花音,「誰と電話してたんだよー?」
花音の機嫌は朝から直っていないようだ。
京介,「変な勘違いするなよ、花音。今度、お前の家にくる家政婦さんだよ」
花音,「家政婦さん?」
京介,「ああ、お前も顔を合わせることになるんだからな。小島さんていうんだ。気のいい人だよ」
花音,「どうして兄さんが、そういうことするの?」
京介,「パパに頼まれてたんだよ。花音が帰ってきて家が騒がしくなるだろうからって」
花音,「うん、わかった。わたし、練習で、家に帰るの夜遅くなるけど、もし会ったら挨拶しとくねー」
椿姫,「浅井くんの実家ってどこにあるの?」
京介,「南区だよ」
椿姫は怪訝そうな顔をした。
椿姫,「どうしてわざわざ浅井くんだけ別に住んでるの?」
花音,「学園に近いからだって。ねー、兄さん?」
京介,「朝、弱くってね……」
そのとき栄一がぼそりと言った。
栄一,「プ……女を連れ込むためだろうが」
椿姫,「え? 何か言った?」
栄一,「んーん。チョコおいしー」
栄一をあとでとっちめてやろうと思ったときだった。
;ハルの立ち絵を表示
京介,「あれ?」
思わず指をさしてしまった。
花音,「うん?」
栄一,「うわー、髪がすごい長いね」
長いというより多い。
ハル,「…………」
じっとこっちを見ている。
いや、さっきからずっと見ていたようだ。
もっと正確にいうならば、おれを……。
花音,「誰かな? わたし、見たことないよ」
京介,「お前はだいぶ学園に来てないからな」
椿姫,「知ってるの?」
京介,「いや、知らん」
椿姫,「んー、下級生かな?」
そのとき栄一が勢いよく手を上げた。
栄一,「はい! ボクわかった! わかっちゃったよ!」
花音,「なにがー?」
栄一,「あの髪の長い女の子の正体!」
やたら誇らしげだった。
;SE 携帯
おれの携帯が鳴る。
京介,「ああ、すまん……」
花音,「むー、また電話だー!」
京介,「怒るなって。さっきと同じ人だから」
花音,「あ、家政婦さん?」
;// 上記携帯音を止める
電話に出る。
携帯の向こうから、おばさんの声が返ってきた。
京介,「やあ、どうも、あなたが小島さんですね……」
まったく、花音にも困ったもんだ。
初めて出会ったガキのころからずっとおれにつきまといやがって……。
椿姫,「学園に携帯電話持ってきてないのって、私くらいなのかな?」
花音,「うちって、規則ゆるゆるだからねー」
栄一,「ねえボクの話を聞いてよ!」
栄一はあの髪の長い少女について語りたいようだった。
京介,「ふう……」
おれといえば、家政婦とてきとうに話をつけて、通話を切った。
ハル,「おい……」
背後から声がした。
京介,「え?」
振り返ると、大きな瞳が、伸び放題の髪のすきまからこちらをうかがっていた。
ハル,「ウソだろう?」
京介,「は?」
吸い込まれそうなくらいに、澄んだ目。
ハル,「気のいい人って、言わなかったか?」
口元がかすかな微笑をたずさえているように見えた。
京介,「なにが言いたいんだ?」
ハル,「あなたは、家政婦さんは気のいい人だって言ってたけど、もう一度電話がかかってきたときに、『あなたが小島さんですね』って言った」
おれは押し黙った。
ハル,「つまり、小島という家政婦とはいま初めて話をしたということになる。なのにどうして気のいい人だって知ってたんだ?」
京介,「…………」
ハル,「わたしが言いたいのは、あなたは最初、家政婦と電話をしていたわけではないということ」
こいつ……。
椿姫,「え、浅井くん? あれ?」
花音,「ん? んんー?」
事態をよく呑みこめていないのが二人……。
栄一,「だから、ボクの話を聞いてってば!」
いや、三……。
京介,「いきなりなにを言われてるのかわからないけど、家政婦を紹介してくれた人が、気のいい人だって言ってたんだよ」
ハル,「ほう……」
まさかとは思うが、この妙な女が……。
栄一,「この子がきっと転校生なんだよー!」
;がっと場転
ハル,「…………」
初日にいきなり遅刻してきた転校生が、おれたちのクラスの前に立っている。
ハル,「…………」
ずっとうつむいている。
椿姫,「はい、それじゃあ、自己紹介お願いします」
クラス委員の椿姫が、教壇に立って、臨時ホームルームの司会をつとめていた。
ハル,「え?」
椿姫,「あ、緊張しなくていいんだよ。まずは名前からねっ」
ハル,「あ、はあ……」
かなりやる気がなさそうだった。
ハル,「名前、すか……」
ぼそぼそとしゃべっていて、声を聞き取りづらい。
花音,「変わってる子みたいだねー」
栄一,「とりあえず髪が長いよね」
京介,「異様な雰囲気があるよな……」
椿姫は困ったようにもう一度繰り返す。
椿姫,「あの、名前を……」
ハル,「……言わなきゃ、ダメすか?」
椿姫,「あ、うん。なんて呼べばいいかわからないじゃない?」
ハル,「はあ……そっすね」
ため息ばかりついている。
ハル,「ビン・ラディンです」
椿姫,「え、えっ?」
ハル,「知らないの?」
ムキになったように言った。
花音,「んー、なんか、調子おかしくなる子だね」
栄一,「とりあえず髪が長いよね」
椿姫の額にいやな感じの汗が見えた。
椿姫,「あの……ほんと、お願いします……」
ハル,「名前はまあ、そっすね……」
椿姫,「う、うん……」
ハル,「昔から勇者とか呼ばれてました」
椿姫,「え? 勇者?」
ハル,「おい勇者、勇者パン買って来いよとか言ってもらえたら、もう、それだけでおもしろいんじゃないでしょうか?」
椿姫,「あの、宇佐美さんいい加減に……」
ハル,「だから宇佐美ビンラディンだって言ったじゃないすか」
椿姫,「えっ?」
ハル,「あ、ヤバ、だじゃれ」
ハル,「だじゃれ言っちゃった」
ハル,「サム、私、キモサブ……」
椿姫,「……うぅ」
ハル,「あの……ヴァイオリンやってるんすよ、私、唐突ッスけど……」
椿姫,「え、あ、はい……」
ようやく自己紹介をする気になったのだろうか。
ハル,「ほらあの、よくバンドのメンバーが捕まると新聞で変な名前の呼び方されるじゃないすか。『今日未明、佐藤ボーカルを逮捕』みたいな。佐藤ボーカル、みたいな変な呼び方ありますよね?」
ハル,「私の場合宇佐美だから、『宇佐美ヴァイオリン』とか記事にされるんすかね?」
ハル,「だったらもし、犯人がピッコロ奏者だったらどうなるんすかね? 宇佐美ピッコロとかになるんすかね? ただでさえ逮捕されて悪いやつなのに、名前のあとにピッコロってついたらもっと悪そうじゃないすか?」
椿姫,「…………」
栄一,「…………」
花音,「…………」
クラスの誰も、何も答えられない。
ハル,「はあ……」
また、勝手にため息をついた。
ハル,「あの、みなさん……」
ハル,「自分基本鬱キャラですけど、仲良くしてみてください。まれにかわいいとこ見せるかもしれません」
ハル,「宇佐美、ハルでした……」
なんだかどっと疲れたな……。
宇佐美ハルか……。
新手のお笑い芸人なのかな。
;背景 教室 夕方
午後は数学の抜き打ちのテストがあった。
抜き打ちのくせに進路にかかわるほど重要な試験らしい。
花音,「んー、難しいよぉ……」
花音がぶつぶつ言いながら頭を叩いていた。
ハル,「…………」
謎の転入生宇佐美ハルは、おれの前の席に座っていた。
座っている姿勢が素晴らしく良い。
背すじをピンと伸ばし、ひっきりなしにペンを動かしている。
栄一,「おい、京介……」
隣の席の栄一が声をひそめた。
栄一,「転入生、答案になんか変なこと書いてるぞ?」
栄一の角度からだと見えるらしい。
京介,「なに書いてるんだ?」
栄一,「わかんねえ、王国、とか見えた」
京介,「は?」
いまは世界史の授業ではない。
栄一,「え? 国連VSわたし、って、え?」
京介,「ちょっと、なに言ってんだ栄一?」
栄一,「いや、オレじゃなくて、転入生が……」
栄一の顔が引きつる。
栄一,「うわ、なんか絵描いてる。あ、ペンギン? ペンギンに名前つけてる……ペリー、得意技は開国……なんか、変なキャラ設定があるっぽい……」
京介,「さ、さすがに気になってきたな……」
ハル,「おい……」
不意に、宇佐美が後ろを振り返った。
ハル,「見るな」
京介,「え?」
ハル,「覗き見しただろう?」
京介,「いや、おれは……」
ハル,「重要な企画書なんだ」
京介,「き、企画書?」
宇佐美の目つきはとても鋭い。
京介,「ああ、ひょっとして、キャラクターグッズの草案とかまとめてるのか? それともゲームかなにか……?」
ハル,「そんなみみっちいものじゃない」
みみっちいって……。
京介,「じゃあ、なんなんだよ」
ハル,「教えてやらない」
京介,「……あ、そう」
なんだかわからんが、宇佐美を怒らせてしまったようだ。
ハル,「…………」
京介,「…………」
ハル,「……知りたくないのか?」
京介,「いや、とくに……」
ハル,「そうか……」
なんだかわからんが、宇佐美をがっかりさせてしまったようだ。
ハル,「…………」
京介,「なんだ?」
こちらを値踏みするような目で見つめてくる。
そのときチャイムが鳴った。
花音,「ふー、終わったー。ぜんぜん解けなかったよー」
椿姫,「花音ちゃん、テストの時間にしゃべっちゃだめだよ」
テストから解放され、みんな、緊張がゆるんだようだ。
栄一,「ねえねえ……」
栄一が、かわいい声でおれと宇佐美の間に入ってくる。
ハル,「…………」
栄一,「ボク、相沢栄一っていうんだ」
ハル,「…………」
栄一,「宇佐美さん、髪すごい綺麗だね。さらさらじゃない。どこの美容室通ってるの?」
ハル,「…………」
宇佐美は黙ったまま、栄一をにらむように見ている。
栄一,「どしたの? ボクもね、エステとか行くんだよ。男の子だけど、いまは男の子だからこそ美容にも気を使わなきゃって思うんだー」
ハル,「美容?」
栄一,「そう、美容」
ハル,「美容室?」
栄一,「うん……あ、でも、宇佐美さんこの街に引っ越して来たばかりだから、美容室とか知らないのかな?」
ハル,「知らない」
栄一,「じゃあ、ボクが教えてあげるよ。中央区にね、有名なスタイリストがいるお店があってさ、芸能人もよく通ってるんだよ」
ハル,「ふーん」
……興味なさそうだった。
椿姫,「宇佐美さん」
椿姫がニコニコとおれたちの輪に入ってきた。
椿姫,「さっきはたいした紹介もしてあげられなくて、ごめんね」
椿姫は本当に気のいい女の子である。
椿姫,「ごめんね。わたしクラス委員なんだけど、足りないところがあって。宇佐美さんも緊張してたんだよね?」
椿姫は本当に優しい女の子である。
椿姫,「よかったら、帰る前にちょっとおしゃべりしない?」
ハル,「帰っていいすか?」
椿姫,「はうっ!」
撃沈。
栄一,「……あははっ。ちょっとぐらいいいじゃない?」
ハル,「すみませんエテ吉さん」
栄一,「栄一」
ハル,「ご無礼」
栄一,「ていうかなんで敬語なの?」
ハル,「地元がまあ、そういう言葉なんで。自分、内地の人間じゃないんで」
椿姫,「あ、遠くから来たんだね。たいへんだったねー」
京介,「どこから?」
ハル,「は?」
京介,「……いや、どこの出身なんだ?」
ハル,「ほっ……」
ハル,「北極?」
京介,「ふざけるなよ、あんなところに人が住めるか」
ハル,「じゃあ南極?」
京介,「じゃあ、じゃねえだろ。極端なこと言うなよ」
ハル,「まあ両極端っていうのは、こういう瞬間に生まれた言葉なんでしょうね」
椿姫,「……な、なんで勝ち誇ったように言うんだろ……」
ハル,「それじゃ、ホント、すみませんけど……」
椿姫,「あ、ごめんね。引き止めちゃって」
ハル,「…………」
椿姫,「ん? どうしたの?」
ハル,「ひょっとして、わたしと友達になりたいのか?」
栄一,「……なんでいきなりタメ口?」
ハル,「なりたいのか?」
椿姫,「う、うんうん。仲良くしようよっ」
ハル,「じゃあ明日からでいいか?」
椿姫,「え? 明日から?」
ハル,「今日はまだ心の準備ができてない」
椿姫,「じゅ、準備とかいるんだ。わかったよ……」
ハル,「悪いな、じゃあ……」
宇佐美は背すじを伸ばして去っていった。
京介,「ふう……」
栄一,「うーん、疲れるな……」
おれと栄一は顔を見合わせる。
椿姫,「やった! 宇佐美さんと友達になれたっ!」
椿姫だけが、能天気にはしゃいでいた。
;背景 廊下 夕方
花音,「兄さん、のんちゃん練習あるからマッハで帰るねっ」
花音は、機嫌のいいとき、自分のことをのんちゃんと呼ぶ。
京介,「今日も十時くらいまでリンクにいるんだな?」
花音,「見に来てよ」
京介,「そのつもりだよ。ママにも会いたいしな」
ママ……つまり、おれの母親のことだ。
母は、とても珍しいことに、自分の娘である花音のコーチをしている。
花音,「七時くらいに来てよ。リンクサイドで一緒にご飯食べよー?」
おもむろにおれの腕をつかんでくる。
花音,「ねっ、いいでしょいいでしょ?」
ぶんぶんと振ってくる。
花音は、ボディランゲージが激しい。
京介,「わかったわかった。七時な……」
;// クエイク終了
花音,「いひひっ、うれしいなぁっ」
おれの胸に顔をうずめてくる。
京介,「……おいおい、ここは学園であって、人の目とかもあるわけでさ……」
花音,「のんちゃん、気にしないよっ」
京介,「まあ、お前はそういうヤツだよな……」
そういうヤツだからこそ、大勢の観客を前にして演技ができるのかな。
花音,「じゃあねー」
軽くジャンプして去っていった。
椿姫,「ねえ、浅井くん」
京介,「どうした?」
椿姫,「もう、帰る?」
京介,「うん」
椿姫,「そっかそっか、そうなんだ」
京介,「は?」
椿姫,「あ、ああ、えっと……」
なにやら落ち着かない様子の椿姫。
京介,「……なんか用か?」
椿姫,「ひ、ヒマ?」
京介,「ヒマといえばヒマだけど……」
椿姫,「そ、そうなんだ……え、えっと……ちょっと待って」
京介,「日記見てんじゃねえよ。なんなんだよ?」
椿姫,「だ、だから、一緒に遊ばない?」
……なんだ、そんなことか。
京介,「花音と約束があるから、六時くらいまでだったらいいぞ」
椿姫,「あ、うんうん。わたしも遅くなるのよくないから」
京介,「ただ遊ぶのに、なんでそんなにおっかなびっくりなんだ?」
椿姫,「だって、浅井くんを放課後誘うのって、すごい緊張するんだもの」
京介,「そうか?」
椿姫,「いっつも、すごい速さで帰るでしょう? きっと忙しいんじゃないかなって思ってたんだ」
京介,「そんな気を使わんでも……」
椿姫,「でも良かった。これで浅井くんともうちょっと仲良しになれるねっ」
屈託なく笑った。
ホント、いいヤツだなぁ……。
;背景 学園門 夕方
十一月に入って、日が落ちるのがとても早くなった。
京介,「おや?」
椿姫,「あ、栄一くんだね」
栄一は校門に寄りかかって、女教師とおしゃべりしていた。
椿姫,「なにしてるんだろ?」
京介,「どうやら、栄一はあの先生が好きらしいぞ」
椿姫,「あ、そうなんだ……へー、栄一くんってやっぱり年上の人が好きなんだねっ」
栄一,「それでね、ノリコ先生。聞いてよ」
どうやら、くどいているらしい。
栄一,「ボクね、うさぎ飼ってるんだー」
女教師,「かわいいわねー」
栄一,「ぴょんたんっていうんだー、かわいいでしょ?」
女教師,「うんうん、かわいいかわいい」
気持ち悪い会話だな……。
女教師,「そういえば子犬も飼ってるんだっけ?」
栄一,「うんうん、マルチーズ。かわいいよね」
女教師,「かわいいかわいい」
栄一,「熱帯魚もいるし、インコも飼ってるんだよー」
栄一の家は、動物王国なんだよな。
栄一,「よかったら、今日見に来ない?」
女教師,「相沢くんのおうちに?」
栄一,「うんうん、一緒に夕飯食べようよー。ボク、料理得意なんだよー」
女教師,「ええー。どうしようかしら。今週、当直なのよね。遅くなるけどいい?」
栄一,「来てよ、来てよ。ヘンなことしないから」
女教師,「ヘンなこと?」
栄一,「え、あ、な、なんでもないよー……(くっそー、クチが滑ったぜー、待て待て慌てんな、取り乱すな、ここで余裕見せとけ、余裕のオレちゃんみせてやれ)」
……放っておくか。
京介,「椿姫、行こうぜ」
椿姫,「うんっ、栄一くんの恋が実るといいねっ」
;背景 繁華街1 夕方
若者の町ってのは、どうしても夕方から夜にかけて気質が荒くなる。
富万別市の中央区、そのセントラル街。
ファーストフードに、喫茶店、カラオケボックスと、家に帰りたくない子供が時間を潰すには最適な店がそろっている。
椿姫,「うわー、すごい人だね。迷子になっちゃいそうだよ」
京介,「おのぼりさんか、お前は」
椿姫,「セントラル街なんて、怖くてめったに来れないよ。しかも学園帰りに寄り道するなんてなんだか悪い子みたいだよ」
京介,「絵に描いたようなマジメちゃんだな、お前は」
たしかに、少し路地に入ればクラブやスタジオがたくさんあるし、さらに裏道を行けばラブホテル街にたどり着く。
椿姫,「浅井くんは、よく来るの?」
京介,「おれ?」
……どう答えるべきかな。
学園でのおれは、授業をよくさぼり、成績も運動もそこそこにできて、クールぶっているが女好きという底の浅いキャラで通っている……。
京介,「……たまに、買い物にくることはあるかな」
椿姫,「ひとりで?」
京介,「どうして?」
椿姫,「あ、いや、浅井くんって学園の外に友達多そうだから」
京介,「ひとりのときもあれば、ひとりじゃないときもあるよ」
……。
椿姫,「なにか、クラブにでも入ってるの?」
……どうもこいつは……。
京介,「クラブって、社交ダンスとか、ボクシングとか?」
……最近になっておれのことを知りたがるようになったな。
椿姫,「ごめんね、せんさくしてるみたいで。でも、ずっと同じクラスなのに、浅井くんのことよく知らないから」
……ずっと同じクラスなのに、どうしていままではおれに近づいて来なかったんだ?
京介,「はは……正直いうと、ナンパに明け暮れてるんだよ」
……ちょっとだけ軽蔑させてやるか。
京介,「なんていうのかな、おれってプチギャル男ちゃんだから」
……学園の友達とは、気楽に、つかず離れずの関係がいい。
京介,「あ、悪い。椿姫はおれみたいなナンパくんは嫌いだよな?」
すると、椿姫は笑った。
椿姫,「そんなことないよっ」
京介,「…………」
椿姫,「ナンパな人はちょっと怖い感じするけど、それはわたしがそういう人をよく知らないからだと思うんだ」
おれは、じっと椿姫の顔を見る。
椿姫,「よく知りもしないのに決めつけるのは、よくないことでしょ?」
椿姫の笑顔には一点の偽りもなさそうだ。
椿姫,「だから、浅井くんのことよく知るまでは、嫌いになんかならないよっ」
京介,「……そうか」
純粋で正直で優しい人間……そういうふうに思っておいて間違いなさそうだな。
京介,「まあまあ、立ち話もなんだし、どっか入ろうぜ?」
椿姫,「案内してくれるの?」
京介,「喫茶店でいいか?」
椿姫,「なんか緊張するなー」
京介,「もしかして初めて?」
椿姫,「持っていかなきゃいけないものとかある? メモとか」
京介,「メモはいらん。ついてこい」
;背景 喫茶店
喫茶「ラピスラズリ」は、セントラル街にオープンしているにしては小洒落た店だ。
静かで客層も悪くない。
マジメな椿姫を連れて行くにふさわしい。
椿姫,「うわ、コーヒー一杯900円もするんだねっ!」
庶民的なヤツだなぁ……。
京介,「椿姫って、ふだんはなにして遊んでるんだ?」
椿姫,「公園でブランコとか、かな」
京介,「は? お子様か?」
椿姫,「変かな?」
京介,「変、じゃないが……」
椿姫,「砂場でお城作ったりもするよ?」
……まさか、寂しいヤツなのか、こいつ……。
京介,「いや、買い物とかカラオケとかあるだろ? 年齢相応の遊びが」
椿姫,「買い物はたまにするよ。日記帳はいくら買ってもすぐなくなるし」
京介,「メモしすぎるからだ」
椿姫,「浅井くんは、なにか趣味とかないの?」
京介,「おれ?」
……どう答えるかな。
京介,「女遊び」
椿姫,「え? どういう遊び?」
京介,「嘘だよ。わからんならいいや」
椿姫,「なんだろ、かくれんぼとかかな?」
……なんでそういうガキの遊びばっかり……。
京介,「強いて言えば音楽かな」
つい、本当のことを口にしてしまった。
椿姫,「あ、わたし、ヴィジュアル系大好きだよ」
京介,「濃いのが好きなんだな。おれが好きなのはクラシック」
椿姫,「クラシック? へー、いいこと聞いちゃった」
京介,「またメモする」
椿姫,「いいからいいから、特に誰が好きなの?」
京介,「……J・S・バッハかな」
椿姫,「え? ごめん、もう一回」
京介,「だから、バッハだって」
椿姫,「ああ、バッハだね。名前の前に英語がついてたから誰かと思った」
京介,「バッハってのは、いっぱいいるの。バッハ一族だから。一般にバッハっていうと、いまおれが言ったヨハン・ゼバスティアン・バッハのこと。大バッハともいうんだけどな」
椿姫,「…………」
いきなり口を閉ざす椿姫。
京介,「どした? 日記もしまっちゃって」
椿姫,「ううん、なんだか浅井くんの楽しそうな顔を初めてみたような気がして……」
京介,「楽しそうな顔?」
椿姫,「あ、ごめん、へんなこと言って」
知識をひけらかして、得意そうだったということか……?
椿姫,「でも、今日は浅井くんの意外な一面を見れてうれしいなっ。楽しいなっ」
……いや、こいつはそういう女じゃないな。
椿姫,「今度、CD貸してもらってもいいかな?」
京介,「ああ……明日、バッハの新譜が出るんだ。新譜といっても、大全集みたいなもんで、編曲や指揮者に海外の有名なアーティストを使ってるっていうシロモノなんだがな」
椿姫,「楽しみにしてるんだね」
京介,「まあね……正直、すげー楽しみにしてた。発売日を指折り数えて待ち焦がれていたといっても過言じゃない」
椿姫,「なら、また明日、一緒に買い物しない?」
京介,「……また明日ってことは、もう帰るのか?」
椿姫,「うん、ごめん。最近、陽が暮れるのが早いでしょ? 明日は、もうちょっと遅くまで遊べると思うから」
……ぜんぜん遊んでないが、まあいいか。
京介,「じゃあ出よう。勘定は一緒に払うとしよう」
椿姫,「わたし、紅茶頼んだから、950円だね」
千円札をおれに手渡してくる。
京介,「おう、五十円玉が……」
京介,「ないな。すまん。小銭がないや」
椿姫,「あ、いいよいいよ」
京介,「いや、札をくずしてくるから」
椿姫,「いいよ、今日はつきあってもらったし」
手のひらを向けて、遠慮している。
京介,「ダメだって」
椿姫,「律儀だなあ。本当にいいんだよ……五十円くらい」
おれは椿姫を見据えた。
京介,「だめだと、言っている」
椿姫,「え?」
京介,「たかが五十円でも、金は金だ」
椿姫の笑顔がひきつる。
京介,「……わかったな?」
椿姫は言った。
よく知りもしないのに決めつけるのはよくないことだと。
だが、おれは知っている。
金を軽んじる人間は、皆すべからく悪だ。
…………。
……。
;背景 繁華街2 夜
おれは椿姫を地下鉄の駅まで送っていった。
京介,「気をつけて帰れよ」
椿姫,「うん、また明日ね」
京介,「明日?」
椿姫,「もう、とぼけないでよ。CD買いに来るんでしょう?」
言葉に詰まる。
京介,「……そうだったな」
椿姫,「わたしも日記買うから、ちょっとつきあってくれるとうれしいな」
京介,「ちょっと、急用ができるかもしれないけど、それまでだったらいいよ」
椿姫,「急用が、できる?」
京介,「ああ、ちょっと日本語おかしいか」
椿姫,「電話がかかってくるかもしれないのかな?」
京介,「電話?」
椿姫,「浅井くんの電話ってなんだかいっつも鳴っているイメージがあるよ?」
……本当に、おれに興味があるようだな。
京介,「まあ、たぶんだいじょうぶだと思うよ」
椿姫,「そう?」
にっこりと笑って手を振った。
椿姫,「それじゃあ」
京介,「おう……」
椿姫は地下鉄の階段を下りていった。
京介,「さて……」
帰って対応しなければならない業務がいくつかあったな。
歩き出したとき、何かがひっかかった。
時刻は六時。
……そういえば、今日、これから何か約束をしていなかっただろうか。
;此处设置选择变量---------------------------------------------------------------------------
;選択肢
;花音と……
;何もない
@exlink txt="花音と……" target="*select1_1" exp="f.flag_kanon+=1"
@exlink txt="何もない" target="*select1_2"
花音と……
何もない
;花音と……を選んだ場合 フラグ+1
花音と……。
……たしか、スケートリンクがどうとか……。
京介,「…………」
まあいい……忘れているなら、たいした用事じゃないってことだ。
;何もない……を選んだ場合
……約束なんてないな。
帰るとしよう。
椿姫,「浅井くん!」
京介,「んっ?」
;// 上記駆け足終了待ち
椿姫,「よかった、まだ帰ってなかったんだね」
京介,「どうした? 走ってきて」
椿姫は息を整えて言った。
椿姫,「……えっと、電話番号教えてもらってもいいかな?」
おれは小さく笑った。
京介,「なんだ、そんなことか」
さらっと、番号を言う。
椿姫,「ありがとうっ」
京介,「椿姫のは?」
椿姫,「わたし、携帯電話持ってないから」
京介,「え? いまどき?」
椿姫,「なんか、いらないかなって」
京介,「不便だろ? 今度一緒に買いに行こうぜ」
椿姫,「いいよいいよ。家の電話で十分だから」
いまどき珍しい女の子なんだな。
椿姫,「じゃあ、電話するから、出てねっ」
京介,「おう……」
椿姫は、今度こそ去っていった。
京介,「しかし……」
椿姫のヤツ……どうして最近になっておれに興味を持ち始めたのかな。
なんにせよ、あまり深くつきあうのはよそう……。
セントラル街の雑踏を抜けて、家路についた。
おれは忘れっぽいとよく言われる。
だが、金のにおいのする場でミスはしない。
ヘマをするのは、いつもおれより無能な連中だ。
帰宅したおれは、書斎にこもって電話を受けていた。
京介,「お電話で失礼します。あなたが、小谷商事の社長様でいらっしゃいますか?」
電話の向こうから、怒気を含んだ中年の声が返ってきた。
小谷,「小谷だ。お前はなんだ!?」
おれの声が若いので、向こうもなめられていると思ったようだ。
京介,「浅井京介です。以後、お見知りおきを」
小谷,「浅井京介……」
声がしぼんでいく。
小谷,「そうか、お前が浅井権三の懐刀か」
懐刀、か。
昔は小判鮫だの、親の七光りだの、いろいろ言われていたが、おれも偉くなったな。
小谷,「浅井興業のブレーンが出てきたのなら話は早い。そっちが勝手に食ったウチの縄張りについて、どうおとしまえをつけてくれるんだ?」
浅井興業は警察庁から指定を受ける広域暴力団・関東総和連合系であり、おれの養父、浅井権三は、総和連合の最高幹部の一人だ。
警察の頂上壊滅作戦に遭って以後、ヤクザが暴力で覇権を争う時代ではなくなった。
崩壊しかけた全国の暴力団は、共存平和路線をとって、表看板を合法に切り替えた。
総和連合の先頭に立って、裏社会から表社会への転換を図ったのが浅井興業だ。
京介,「おとしまえ……とは、穏やかではありませんね」
合法とはいえ、浅井興業は総和連合のれっきとした舎弟企業だ。
総和連合は、浅井興業をトップに、金融、不動産、建設、風俗営業、それにホテルやアミューズメントパーク、ゴルフ場などにも委託営業している。
年商の総計は、巨大商社にも匹敵するはずだ。
小谷,「中央区にあるクラブとホテル。あそこはウチが独占でやっていたはずだがな?」
だが、たまに連合内でも商業圏――連中はシマと呼ぶが――がぶつかり合うこともあって、いまみたいにこわもてが怒鳴りつけてくることがある。
マーケットのシェア争いなんて、ビジネスでは当たり前のはずなのに、古臭い考えのヤクザはおとしまえをつけろと言う。
京介,「申し訳ありませんが、件のクラブとホテルが、御社の独占マーケットだという認識はありませんでした」
小谷,「バカやろう! あそこはウチがもう十年もケツ持ってるんだよ! 知らねえわけねえだろうが!」
……ああ、知っているさ。
あのホテルとクラブが、あんたのところの営業収入のなかでも、大きな比重を占めているってこともな。
京介,「多年に渡る固定取引先だとしても、この世に変わらぬものなどないのです。そんなものがあれば、別れる男女などいないはずでしょう?」
小谷,「なんだと?」
向こうの息が荒くなった。
京介,「小谷さん。あなたはなにか勘違いされていらっしゃいませんか。今回の一件は御社のマーケットが荒らされたのではなく、我々のマーケットが拡大しただけのことなのです」
京介,「いわば我々の営業努力が、御社より勝っていたというだけであって、これは正当な企業活動です。ビジネスでシェアを獲得したりエントリーするのに挨拶や名乗りを上げる必要がありますか?」
そのとき、電話の向こうで、何か物が壊れる音がした。
おおかた、ガキになめられて腹が立ったから、机でも蹴飛ばしたのだろう。
小谷,「おい、小僧。ウチだって総和連合のフロント企業なんだよ。いわばウチと浅井興業は兄弟みてえなもんだ」
京介,「それで?」
小谷,「ふざけんな、兄弟のシマ食い荒らすような真似しやがって。てめえ、筋者の息子のくせして仁義ってもんを知らねえのか!」
京介,「私は、杯を受けているわけではありませんので」
それに、浅井権三は、おれに仁義など教えなかった。
浅井権三に教わったのは、電話の向こうのマヌケのように、弱みを見せた獲物を食らう姿勢だ。
京介,「ところで、話は変わりますが、おたくの会社はずいぶんと儲けていらっしゃるようですね」
小谷,「ああっ!?」
京介,「不正を働いていらっしゃるのでしょう?」
小谷,「てめえ、言葉には気をつけろよ、どこにそんなネ証タ拠があがってんだ」
京介,「少し、おたくの企業活動を調べさせてもらいました。所得隠蔽のための裏取引の契約書や、架空名義預金がかなりあるようですが、これを警察に届ければ、面白いことになるでしょうね」
小谷,「でたらめ抜かすな!」
そのとき、おれは獲物がひるんだ気配を見逃さなかった。
京介,「いまからその調査リポートをファックスでお送りしましょうか?」
相手の顔が蒼白になるのが目に浮かぶ。
小谷,「お、脅す気か?」
京介,「とんでもありません。私はあくまで正常かつ合法的な商談がしたいだけなのです。今回は中央区のホテルとクラブについて、御社の納得が得られればそれだけで幸いです」
屈辱を押し殺したうめき声が返ってきた。
止めを刺した手ごたえがあった。
証拠はこっちが持っている。
あとは、骨の髄まで絞りつくしてやればいい。
京介,「それでは、今後ともよろしくお願いいたします」
電話を置くと、おれはメールをチェックして、すぐにまた電話をつかむ。
京介,「京介です、お世話になっております」
……浅井権三と出会ってから、おれはずっとこんな毎日を過ごしている。
京介,「例の昭和物産の手形についてお電話したのですが……」
……浅井興業の正式な社員でもないおれの指図で、巨額の金が動く。
京介,「ええ、決算書は拝見しましたよ。ただ、あれは……」
……学園生の身分に過ぎないおれの判断で、会社が潰れたり人が不幸になったりする。
京介,「はい……一般に企業というものは三枚の決算書を用意するものです……」
……おれが短い人生で唯一学んだことといえば、金だけは絶対だということだ。
京介,「一枚は株主用、一枚は銀行用、そしてもう一枚は取引先です。それぞれ書かれている内容に差があるのは、おわかりでしょう?」
……皆、金のために生きているから、金に振り回される。
京介,「ええ、そうですね……私が思うに、あの会社にはもう体力がないんでしょう……ええ……」
……金の前では、年齢も性別も職業も関係ない。
京介,「いえいえ、こんな助言でよかったらいくらでも……ええ……」
……誰もが、おれを恐れ、敬う。
――だが、まだ足りない。
もっと力が欲しい。
いまは浅井興業だけだが、そのうち総和連合全体も飲み込んでやる。
連合に手が届けば、表の社会にも影響を与えることができる。
政治屋も大企業の取締役も各界の著名人もおれの前にひざまずく。
欲しいのは、闇の黒ク サ ー"幕としての地位だ。
それはまるで……。
『君は、勇者になるんだね。だったら僕は……』
京介,「…………」
まるで、なんだ?
こめかみが軋むようにうずいた。
どうかしたのかと、電話の向こうで声がした。
京介,「いえ、なんでもありません。今後とも浅井京介をよろしくお願いいたします」
;黒画面
おれはそそくさと通話を切った。
学園でもそうだが、おれは、たいして金にならないような日常の出来事を、すぐに忘れてしまう。
リビングで少し休憩をして、外出用のコートに手を伸ばす……。
その日の記憶は、そこで途切れている。
…………。
……。
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;背景 マンション入り口 昼
冬の風が眠気を一気に吹き飛ばす。
今日も学園だ。
学園は何も考えなくていいから楽しい。
花音,「兄さんっ!」
京介,「っ!」
不意に、マンションの塀の影から花音が飛び出してきた。
花音,「兄さんもうお前ホントこんちくしょー!」
京介,「あででっ!」
腕をつかまれて、二の腕の肉をつねられた。
京介,「あ、朝からなんだよ!」
花音,「なんだよ、って、こっちがなんだよだよ!」
口を尖らせた。
花音,「兄さんには、ホントまいっちゃうぞー」
京介,「わかった、わかったから、手を放せ!」
花音,「なにがわかったんだよー!?」
京介,「ええっ?」
探るような目でにらんでくる。
京介,「……ごめん、わからん」
花音,「約束したでしょ!」
京介,「……約束……?」
花音,「やっぱり忘れてるんだ! わたしが練習してるからスケートリンクに来てねって言ったじゃない!」
……そういえば、昨日の放課後にそんな約束をしたかもしれない。
京介,「ああ、アレな……ごめんごめん」
言い訳を考えなければ。
花音,「どうしてくれる、どうしてくれる!?」
京介,「いや、本当にごめん。実は、昨日、財布落としちゃってさ。探してたんだよ」
花音,「どこで?」
京介,「セントラル街」
花音,「なにしにセントラル街行ってたの?」
京介,「椿姫と遊んでた」
花音,「バッキーと? なんで?」
……バッキーとは椿姫のことである。
京介,「そんな質問攻めにしなくても……遊んでたんだよ」
花音のご機嫌はかなり斜めなようだ。
花音,「それにしたって、電話一本くらい入れてくれてもいいでしょ?」
京介,「悪い悪い。ホント悪い」
花音,「頭なでてくれたら許してあげる」
京介,「……おう」
花音はとにかく体に触れられると喜ぶ。
花音,「えへへ……」
一瞬にしてご機嫌が直った。
花音,「ヨシヨシ、許してあげる、許してあげるっ」
頭を撫でられている側が、ヨシヨシ、とか言っている。
花音,「今日こそは、練習見に来てくれるんだよね?」
京介,「わかったわかった絶対いく」
覚えておかなきゃな。
花音,「よし、じゃあ一緒にガッコ行こうねっ!」
当然のようにくっついてくる。
京介,「おい、腕を絡めてくるな……」
;背景 学園校門 昼
寒いからか、コートを羽織っている学生もちらほら見かける。
栄一,「先生聞いてよ。それでねっ」
校門までたどり着くと、昨日の放課後と同じような光景が待ち構えていた。
栄一,「ボク、スポーツも得意なんだー」
栄一が、例のノリコとかいう女教師にアタックしている。
……とはいえ、スポーツが得意だったような覚えはないが。
栄一め、すぐばれる嘘はいかんぞ。
栄一,「とくに、サーフィンかなー」
……夏までに練習しておく気か?
栄一,「(クク……こういうのを予定嘘っていうんだよ、嘘も真実にすれば嘘にならないっつーの、ぎゃは)」
なかなかに小ざかしい嘘だ。
花音,「うっそだー!」
突如花音が、騒ぎ出した。
栄一,「えっ?」
女教師,「どうしたの、浅井さん?」
花音は有名人であるからして、教師も含め、学園で知らない人間はいない。
……と、そんな細かいことはいいとして、栄一の顔が一気に引きつっていく。
花音,「のんちゃん知ってるよ、エイちゃん、泳げないじゃない」
栄一,「な、なに言ってるんだよ?」
栄一,「(こ、このアマ、よけいなことを……!)」
花音,「だって、今年、みんなで海行ったよね? そんとき、エイちゃん、溺れちゃってガボガボ言ってたよー
栄一,「(泳げねえってのに、オメーが面白いからドーンとかいうノリでオレを海に突き飛ばしたんだろうが!
女教師,「え、栄一くん? なにブツブツ言ってるのかしら?」
栄一,「な、なんでもないよなんでもないよ」
花音,「どう見ても何かある顔してるぞー?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべる花音。
栄一,「あ、あははっ、やだなー、花音ちゃん。あれから泳げるように特訓したんだよ」
花音,「ホントかなー? ホントかなー? どこのプールで特訓したのかなー?」
まあ、嘘だろうな……。
栄一は、どうやってこの場を切り抜けるんだろうか。
栄一,「ぼ、ボク、日直だから、先に行くねー」
おいおい、逃げちゃダメだろ。
花音,「エイちゃん、今日、日直じゃないでしょー? 待てー!」
追いかける花音。
初冬の寒さにも負けず、学園は平和だ。
;背景 教室 昼
栄一と花音を追って教室についた。
栄一,「はあっ、ひいっ、はあっ……」
走り疲れたのか、栄一はグロッキーになっていた。
花音,「兄さん、兄さんっ」
一方、花音はぜんぜん元気である。
花音,「のんちゃん、授業が始まるまで寝るねっ」
京介,「ああ、早朝練習で疲れてるんだろ?」
花音,「ううん、昨日ね、パパリンと夜遅くまでお話してたから」
権三と……?
京介,「パパ、何か言ってたか?」
花音,「がんばって、オリンピック行けって。パパ、とっても優しかったよー」
京介,「……そうか」
思うところがやまほどあるが、学園にいるうちは考えるのをよそう。
京介,「そういえば、いま気づいたんだが、そのバッグはなんだ?」
花音は鞄とは別に、手提げのバッグを持っていた。
花音,「体操着が入ってるんだよ」
今日は体育の授業があったな。
京介,「ブランド物のバッグじゃないか?」
花音,「兄さんが買ってくれたんじゃない」
京介,「ああ、そうだったな」
花音,「じゃ、のんちゃん、寝るー」
席について、マンガみたいな早さで寝息を立て始めた。
栄一,「……おい、京介」
振り返ると、栄一がやさぐれていた。
栄一,「いまのオレの気持ち、わかるだろう?」
京介,「え?」
栄一,「あのアマ、花音はよぉっ、なんつーの、おめえの妹だから、いままで大目に見てきた感はあるんだよ、
寛大なオレちゃんはよー」
京介,「お、おう……」
栄一,「でもマジ限界っつーか、あんま調子こいてオレの狩りを邪魔されっと、リアルにトサカにくるっつーか
京介,「いや、でも、お前の狩りの仕方にも問題があったんじゃねえかな……」
栄一,「うるせえ、今日は部活だかんな」
京介,「え? 部活? おれ、帰宅部だけど?」
栄一,「てめえ、なに寝言こいてんだよ、秘密結社作っただろうが、誓い立てただろうが、オレとお前で宇宙征
服するんだろうが」
……うーん、なんか、そんなくだらない遊びをしていた気もするな。
栄一,「忘れたとは言わさねえぞ」
京介,「ああ、なんとなく思い出した。理科準備室だったな?」
言うと、栄一は邪悪な笑顔を見せた。
栄一,「おう、放課後な……」
教室を出て行った。
おれはクラスメイトの顔を見渡す。
どうやら、白鳥は今日も休みのようだ。
そろそろホームルームが始まるな。
椿姫,「ふーっ、間に合ったー」
京介,「珍しいな。遅刻ぎりぎりなんて」
話しかけると椿姫は、照れくさそうに笑った。
椿姫,「夜更かししてたら寝坊しちゃってね」
京介,「どうせ夜中まで日記書いてたんだろ?」
椿姫,「え? なんでわかるの?」
京介,「わかるだろ」
椿姫,「昨日は、浅井くんと遊んだから、たくさん書きたくなっちゃったんだよ」
京介,「今日もだよな?」
椿姫,「あ、覚えててくれたんだ」
京介,「さすがにな。でも、ちょっと栄一と用事あるから、先に行っててくれないか?」
椿姫,「いいよ。昨日行った喫茶店で待ち合わせしよう」
京介,「なにかあったら、携帯に連絡くれ。メモしてあるんだろ?」
椿姫,「うん、ばっちり」
爽やかに歯を見せた。
椿姫,「それにしても、今日も、白鳥さんお休みみたいだね」
京介,「おう、なにか聞いてないか?」
椿姫は残念そうに首を振る。
椿姫,「宇佐美さんも来てないし」
京介,「宇佐美ハルか……転入二日目なのにな」
椿姫,「宇佐美さんにも、電話番号聞こうっと。今日から友達になってくれるって言ってたし」
京介,「……今日から友達って、なんか変な感じだよな」
椿姫,「そんなことないよ、宇佐美さん、きっと恥ずかしがりやさんなんだよ」
京介,「いつも思うんだが、お前の善のオーラには驚かされるな」
椿姫,「え?」
京介,「まあいい、そろそろ授業が始まるぞ」
おれたちは席に着いた。
;背景 屋上 昼
けっきょく昼休みになるまで宇佐美は姿を見せなかった。
京介,「あー、ミキちゃん、うんうんっ、この前はサンクスね」
おれは電話中。
花音,「エイちゃん、うそはよくないぞー」
栄一,「だから、うそじゃないってば。もう勘弁してよー」
栄一がプリンを食べながら泣きべそをかいている。
花音,「お菓子ばっかり食べてるから、性格が曲がっていくんだぞー」
栄一,「毎日違うお菓子食べてるからいいのっ!」
花音,「そんなのわけわかんないよ」
栄一,「いいのっ、ボクのポリシーなのっ! 昨日はチョコで今日はプリンなのっ!」
そういえば、栄一は毎日毎日多種多様のデザートを口にしている。
椿姫,「今日もいいお天気です。みんな仲良しでグッドです○」
みんな思い思いに昼休みを過ごしている。
花音,「じゃあ、今度の日曜日に温水プール行こうよ」
栄一,「こ、今度の日曜日はペットのエサを買いに行くからダメ」
椿姫,「花音ちゃん、栄一くんを信じてあげなよ……って、あれ?」
椿姫が急に目を丸くした。
椿姫,「あれ、宇佐美さんじゃない?」
栄一,「あ、ホントだ」
助け舟を得たとばかりに、栄一が飛びつく。
栄一,「あの髪型からして間違いないよ」
花音,「おーい、うさみーん!」
花音は、勝手に人のあだ名をつける。
ハル,「…………」
宇佐美もこちらに気づいたようだ。
ようやくおれも通話を終える。
ナンパくんを演じるのも大変だ。
花音,「うさみん、こっち来なよー」
みんなして手を振る。
ハル,「…………」
のろのろと、探るような足取りで近づいてくる。
お化けみたいな髪が不規則に揺れる。
ハル,「あ、ども……」
花音,「うさみん、いつ来たの?」
ハル,「さっきッス。基本朝とか脆弱なんで」
栄一,「どうして屋上にいるの?」
ハル,「は?」
栄一,「……いや、は、じゃなくて……昨日もここで会ったよね?」
ハル,「いや深い意味はないスけど……高いところとか好きなんで」
そのとき椿姫はずいっと前に進み出た。
椿姫,「宇佐美さん、宇佐美さんっ」
ハル,「……え?」
椿姫,「今日からお友達だよねっ?」
すごいうれしそうな椿姫。
ハル,「誰すか?」
椿姫,「はうっ!」
撃沈。
ハル,「って、あ、すいません。思い出した」
椿姫,「思い出してくれた?」
ハル,「うむ」
すっと、胸を張った。
ハル,「わたしは宇佐美ハルだ。お前の名は?」
栄一,「……なんかすごい凛々しい」
椿姫,「つ、椿姫です」
ハル,「よし、椿姫か。覚えたぞ」
花音,「あ、のんちゃん、のんちゃんもっ。わたし花音っ!」
ハル,「いいだろう。花音だな。覚えた」
栄一,「あ、ボク、ボクも、ボク栄一!」
ハル,「あ、いや、一日二人が限界なんで」
栄一,「ちょっとちょっと!」
ハル,「椿姫、花音、いいか、わたしのことは勇者と呼べ」
椿姫,「え?」
花音,「んー?」
ハル,「不満か?」
椿姫,「不満、じゃなくて……」
花音,「なんでー?」
ハル,「理由はとくにない。だが、いままでわたしの仲間になった人間には必ずそう呼ばせている」
花音,「なんかよくわかんないけど、いいよー」
椿姫,「わたしもいいよ、それで友達になれるんなら」
花音,「勇者っ、勇者っ」
椿姫,「勇者さん勇者さん」
なんか異様な光景だな……。
ハル,「…………」
なんかうっとりしてる……。
ハル,「うん、わたしはいまとても気分がいい。よって、お前たちにも役職を与えよう」
役職?
ハル,「椿姫、お前は僧侶だ」
椿姫,「え? 僧侶? なにをする人なの?」
ハル,「癒し系だ」
椿姫,「癒し系?」
花音,「バッキーにぴったりだよー。ねえねえ、のんちゃんは?」
ハル,「お前は戦士だ」
花音,「おおー、戦士っ! 強いぞー」
栄一,「ぼ、ボクはボクは!? ボク、魔法使いがいいっ!」
ハル,「エテ吉さんはスライムとかがいいんじゃないスかね」
栄一,「ちょっと仲間に入れてよ!」
ハル,「いやなんか、エテ吉さんてゲルっぽいじゃないスか」
栄一,「(こ、このアマァ……!)」
花音,「ねえねえ、兄さんは?」
京介,「おれ?」
椿姫,「あ、宇佐美さん、彼は浅井くんっていうんだよ」
椿姫がわざわざ紹介してくれた。
ハル,「そうだな……」
全身をまじまじと見つめてくる。
京介,「な、なんだよ……?」
ハル,「……え?」
何かに気づいたように、顔をこわばらせた。
ハル,「……まさか……」
花音,「どしたの?」
ハル,「…………」
宇佐美の表情からは何も読み取れない。
考えをめぐらせているようでいて、頭のなかが空白になっているような無表情が続く。
花音,「ねえ、兄さんはなにかな? やっぱり遊び人かな?」
ハル,「いや……」
宇佐美の口が動きかけたとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
京介,「はは……なんか知らんが、よろしくな」
握手を求めて手を差し伸べる。
ハル,「…………」
京介,「どうしたんだよ、前世で会ったことあるか?」
ハル,「一ついいか?」
神妙な顔。
ハル,「浅井は、ただの学園生じゃないな?」
京介,「占いでもやってるのか? どこにでもいる学園生だっての」
不気味な女だな……。
ハル,「いまどきの学生が、友達になろうというときに握手なんて照れくさいことをするか?」
……言われてみればそうだ。
京介,「いまどきの女学生がいきなり勇者って呼べとか言うか?」
……つい、ビジネスの癖が出てしまったな。
ハル,「それは、そすね」
口元がつりあがる。
……なにが面白いんだ?
京介,「さあ、とっとと教室に戻ろうぜ。次は体育だ」
花音,「あ、そうだった。急がなきゃ!」
椿姫,「花音ちゃん、体動かすの大好きだもんね」
花音,「今日はバレーボールだー!」
椿姫,「宇佐美さん、行こうっ」
花音はすごい勢いで走り去っていった。
京介,「宇佐美は急がなくていいのか?」
ハル,「…………」
黙っておれを見ている。
……無視するか。
京介,「じゃあな……」
屋上をあとにした。
宇佐美の視線が、いつまでも背中にへばりついているような気がした。
;背景 職員室 昼
;// 上記のチャイム終了待ち
授業の合間の休み時間。
おれは職員室に呼び出されていた。
学園でのおれは、あまり目立たないように、それでいて教師や生徒からの評判は悪くならないような微妙な立ち回りをしている。
ただ、出席日数が思わしくないから、教師から呼び出しがかかることもある。
とくに、昨日抜き打ちテストをかましてくれた数学教師からは目をつけられている。
数学教師,「おい、浅井。先生はな、お前はもっとできるんじゃないかと思ってるんだ」
京介,「いや、おれはおれなりにがんばってるつもりですが?」
数学教師,「昨日のテストにしてもそうだ。お前、わざと答えを間違えてないか?」
京介,「んなわけないじゃないですかー」
数学教師,「まあいい。ちょっとこの問題解いてみろ」
乱雑に散らかった先生の机に、一枚の問題用紙がある。
先生は、関数の曲線を指で叩いていた。
京介,「え? いまですか?」
数学教師,「早くしろ。補習だと思え」
……どうやら、抜き打ちテストの結果は思わしくなかったようだな。
京介,「わかりましたよ……やれやれ……」
鉛筆を握り問題に向かう。
京介,「ええと……ここがこうだから……」
数学教師,「浅井なら簡単だろう?」
おれの挙動を探るようにじっと見つめてくる。
京介,「そんな見ないでくださいよ……って、あっ!」
数学教師,「なんだ?」
鉛筆の芯が折れた。
京介,「なんだ、じゃないですよ、先生。この机ちょっとデコボコしすぎじゃないですかね?」
よく見れば、小さな穴がたくさん開いていたり、カッターでつけたような傷が無数にあったりした。
数学教師,「教師の机ってのは、使い込むもんなんだよ」
京介,「……んな熱血漢みたいなキャラ作んないでくださいよ。文字がぶれて、おまけに紙に穴まで開いちゃったじゃないすかー」
数学教師,「ぐちぐち言ってないで、とっととやれ……」
京介,「はあ……休み時間終わっちゃいますよ……」
その後、数学教師はおれを解放しようとしなかった。
しかし、なんの苦にもならない。
仕事のことを思えば、学園は天国だ。
;黒画面
……。
…………。
授業は全て終わって放課後になり、おれは学園の理科準備室に忍び込んだ。
理科準備室は通常鍵がかかっている。
だが、おれは、いつだったか先生から鍵を預かったときに一日だけ失敬して、合鍵を作っておいたのだ。
この場はおれと栄一のテリトリー。
秘密の部活の始まりである。
栄一が廊下で入室の許可を待っている。
京介,「クビ」
栄一,「解雇されること」
京介,「乳首」
栄一,「胸部中央に覇を唱えた突起」
京介,「生首」
栄一,「とても怖い」
京介,「ワナビー」
栄一,「イェー」
合言葉の確認は済んだ。
京介,「よかろう、入れ」
栄一,「神、お久しぶりでございます」
京介,「うむ、半年ぶりくらいか」
栄一,「いや一ヶ月ぶりくらいです。神は本当に忘れっぽいですね」
京介,「無礼な。私は無限の時間を生きているから、時間にはちょっとアバウトなのだ」
栄一,「は、申し訳ございません、神」
栄一がひざまずく。
栄一,「ていうか、神。相変わらずダサい被り物してますね」
京介,「うるさい愚民だな。お前がかぶれとか言ったんじゃねえか」
栄一,「そうでしたっけ?」
京介,「とぼけたこと言ってると、神、怒るぞ」
栄一,「申し訳ございません、たびたび助けていただいたご恩は一生忘れません」
京介,「そうだな、お前がいまあるのは、私のおかげだ」
栄一,「はい。ノリコ先生の電話番号を教えてくれたのも神でした」
京介,「おう」
栄一,「ノリコ先生がお酒好きというネタを教えてくれたのも神でした」
京介,「わかればいい」
栄一,「でもいまだにノリコ先生とねんごろな関係になれないんですが?」
京介,「それはお前のせい」
栄一,「まあいいです。ではさっそく、今回のお願いなんですが」
京介,「うむ、聞こうではないか。神に不可能はない」
栄一が頭を垂れた。
栄一,「気に入らない人間がいるのです」
京介,「うむ……悲しいかな、人間は人間であるというだけで誰かを憎まずにいられんものだ」
栄一,「そいつは、あろうことか、人の恋路を土足で踏み荒らしやがったのです」
京介,「ほう……それは許せぬな」
栄一,「どうか、神。そいつに神の裁きを。復讐の鉄槌を!」
京介,「よかろう、その者の名は?」
栄一,「花音です」
京介,「え?」
栄一,「浅井花音です」
京介,「いや、ちょっと待てよ」
栄一,「どうしたんですか、神? あなたはいままで数々の悪の手口をボクに教えてくれたじゃないですか?」
京介,「いや、それとこれとは話が別……」
栄一,「ばれずに女子トイレを覗き見する方法とか、ばれずに早弁する方法とか、こっそり職員室に忍び込む方法とか」
京介,「だから、ちょっと待てって」
栄一,「ボクはもういいかげん頭にきたんですよ。あいつが邪魔をしなければ、とっくにノリコはボクのものになってるはずなんです」
京介,「いやそれ、逆恨みだから。ていうか、花音はおれの義理の……」
栄一,「神は神でしょ? 唯一神でしょ! 妹とかいるわけないでしょ!」
どうやらマジで花音に仕返ししてやりたいらしいな。
京介,「落ち着け。たしかに花音はノリとテンションで生きているところはある。だが、決して悪いやつではないのだ」
栄一,「えー」
京介,「えー、じゃねえよ」
栄一,「あー」
京介,「あー、じゃねえよ。ガキかお前は」
栄一,「ち……お前にかわいいキャラでぶりっ子しても無駄だったな」
京介,「本性知ってるからな」
栄一,「どうしてもダメですか?」
京介,「うん、無理」
栄一,「くーっ! もういいよチクショー!」
京介,「はい、じゃあもう、お開きな。神、忙しいし」
;背景 廊下 夕方
被り物を準備室の棚にしまって、廊下に出てきた。
栄一,「てめえがこんな薄情なヤツだとは思わなかった」
京介,「復讐はいかんよ、復讐は」
いまにも床に唾を吐きそうな顔をしている。
京介,「女の子だったら、また紹介してやるって」
栄一,「ヤダ! 年上で大卒で年収一千万じゃないとヤダ!」
京介,「無理だから」
……いや、無理なことはないか。
だが、そういった女性を紹介するには、おれも裏の顔をさらす必要がある。
栄一,「つまんねーから、ゲーセン行こうぜ」
京介,「あ、えっとな……」
栄一,「なんだよ、どうせお前は授業終わったらセントラル街でナンパに明け暮れてるんだろ?」
京介,「いや、椿姫と約束があるのよ」
栄一,「はぁっ? んな約束、お前のいつもの忘れっぽいキャラですっぽかせや」
京介,「CD買うのつき合ってくれるんだよ。それに椿姫とは昨日も遊んだし、もしかしてこれから新しい恋が始まるかもしれんぞ」
栄一,「ホント、頭がピンクなヤツはこれだから困るぜ」
京介,「まあまあ、約束は約束だからさ」
栄一,「ったく、お前はチャラ男くんのくせして、妙に義理堅いっていうか、友情にあついっていうか、主人公属性つけてっから腹立つんだよなー」
おれは満足する。
京介,「はは……また明日なー」
学園でのおれの評価が、ほぼ、おれの思惑通りになっていることに。
栄一,「オレも帰ってうさぎに慰めてもらおうっと」
嘘もつき続けてみれば、真実のように他人には見えるってわけか……。
;背景 繁華街1 夜
セントラル街に着いたときには、すでに街はネオンの光で溢れていた。
けっこう遅くなってしまったみたいだ。
活気だった人ごみをかきわけて、喫茶『ラピスラズリ』に向かう。
;背景 喫茶店
ウェイター,「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
ウェイターが挨拶の声とともに、指をひとつ立てた。
京介,「いや、待ち合わせをしてるんですが……」
店内を見渡しても、椿姫の姿がない。
京介,「すみません、自由ヶ咲学園の制服を着た女の子が来ませんでしたか?」
ウェイターは若干首を傾げる。
京介,「……日記を持ち歩いているような感じの……」
ウェイター,「ああ、はいはい、いらっしゃってましたよ」
京介,「帰りましたか?」
ウェイター,「男性の方といっしょに見えられて、ついさっき、またいっしょに店を出て行かれましたよ」
……どういうことだ……まさか……。
京介,「……男は、どんな様子でした?」
ウェイター,「女の子にしきりに話しかけてましたね。色黒で体が大きくて、ジャケットを羽織ってましたよ」
……間違いない、キャッチだ。
セントラル街に一人で来た椿姫を狙って声をかけたんだろう。
普通、路上のキャッチはすぐに獲物を事務所につれていかない。
こういった雰囲気のいい喫茶店でだべりながら、女の子のランクを吟味する。
京介,「まったく、世間知らずなヤツだな……」
……良くてキャバクラの誘い、悪くてAVってところか。
おれは入ってきたばかりのドアを再び押した。
;背景 繁華街1 夜
セントラル街で営業しているスカウト会社は、小さいのも含めると四つある。
そのどれもが、浅井権三の組の庇護を受けている。
浅井興業の名前も、当然知っている。
こんなことで借りを作りたくはないが、やむをえないか……。
おれは携帯電話を駆使する。
京介,「浅井興業の者です。つい今しがた、そちらの事務所に椿姫という女の子はやってきませんでしたか? ええ、自由ヶ咲学園の制服を……」
…………。
……。
;場転
一時間後。
椿姫,「あ、浅井くんっ!」
雑居ビルの薄暗い階段を下りてきた。
京介,「おおー、探したぞー。お前、ケータイとか持ってないから、ホント探したぞー」
キャッチに捕まった椿姫だが、とくに落ち込んでいる様子は見えない。
京介,「……なにがあったんだ?」
我ながら白々しい。
椿姫,「なんだかね、写真を撮らせて欲しいって頼まれてたの。ファッション雑誌のカメラマンの人に声をかけられてね」
京介,「へえ……すごいな、お前かわいいもんな」
椿姫,「そんなことないよ、ありがとねっ」
この笑顔が、危くエロ雑誌に掲載されるところだったな。
京介,「でも、おれと待ち合わせしてるんだから、知らない人について行っちゃダメじゃん」
椿姫,「ごめん、それはホントにごめんね。でも、その人すっごく熱心にお話してて、断るのもかわいそうで……浅井くんに連絡して相談しようと思ってたんだよ」
椿姫,「でも、セントラル街って公衆電話がぜんぜんないんだね、そしたら、その人が事務所に来てくれれば電話を貸してくれるって……」
しかし、こいつは人を疑うということを知らんのだろうか……。
京介,「で、写真は撮られたのか?」
椿姫,「ううん、一枚も。なんだか急に帰っていいって言われて、丁寧に出口まで見送ってもらったよ」
浅井興業の名前を出せば、対応も丁寧になるってもんだ。
椿姫,「わたし、審査落ちしちゃったみたいだねっ」
苦笑するしかない。
京介,「まあいいや。とっととバッハを買いに行かせてくれ」
椿姫,「あ、うん。ごめんね、待たせちゃって」
;場転
……。
…………。
買い物を終えて、ぶらぶらと街をうろついていた。
椿姫,「浅井くん、どうして二枚も同じCD買ったの?」
京介,「ふふふ、わからんか?」
椿姫,「え? なんだかわからないけど、ごめん」
二枚のCDを見つめながら、おれは語る。
京介,「一枚は保存用なんだ。ぜったいに開封しないで部屋に飾っておくのさ」
椿姫,「へえっ、本当に好きなんだねっ。わたしバッハは、G線上のアリアと、トッカータとフーガくらいしかわからないよ」
京介,「まあ、その辺はメジャーだからな。このCDの目玉はシャコンヌさ」
椿姫,「シャコンヌ?」
京介,「正確には『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調』の第5曲っていうんだがな、ヴァイオリンだけで演奏するからものすごく難度の高い曲なんだ」
椿姫,「え、ぱるてぃーた?」
京介,「このシャコンヌは色々と編曲されててさ、特にブゾーニのピアノ編曲が有名だと思うんだが、おれとしてはいまいちでね」
椿姫,「ぶぞーに?」
京介,「とはいえバッハはね、ポリフォニックな曲もいいんだが、やっぱりエールとか小フーガみたいに精密で厳格じゃなくても旋律の良さを味わえる曲がいいとも思うんだ」
椿姫,「あ、うんうん……」
京介,「そういった意味ではフランス組曲が一番かな。奏者はチェンバロだったらレオンハルトなんだが、ピアノだったらちょっと迷うところなんだよな」
椿姫,「へえー、そうなんだー」
京介,「かくいうおれもマニアじゃないからさ、教会カンタータとか敷居が高いのはいまひとつ趣がわからないんだよね」
椿姫,「(あ、浅井くんってちょっとマニアックなところあるんだな……)」
…………。
……。
;背景 繁華街2 夜
椿姫,「今日もありがとうねっ、かわいい日記も買えたし、楽しかったよ」
京介,「けっきょくバッハのなにがいいかっていうとさ……」
椿姫,「(ま、まだ続くんだ!?)」
どうやらいつの間にか、駅までたどりついたらしい。
京介,「あ、しまった。花音と約束してたんだ」
さすがに二度も無視したらキレられる。
椿姫,「そうなんだ。ごめんね、遅くまでつき合わせて」
;SE 携帯
京介,「いや……って、携帯が……」
椿姫,「あ、鳴ってるね、花音ちゃんかな?」
;// 上記携帯停止
電話を取る。
京介,「もしもし……あー、ミキちゃん、こんばんは!」
椿姫,「…………」
京介,「うん、うんうんっ、あー、そう、そっかあ、今度ご飯いっしょしようねー」
椿姫,「…………」
京介,「はいはい、じゃあ、またねー」
たいしたことのない用事だった。
京介,「悪い椿姫、じゃあ、この辺でな」
椿姫,「あ、浅井くん浅井くん」
緊張しているのか、椿姫の唇が締まった。
京介,「どした?」
椿姫,「……えっと……」
京介,「ん?」
椿姫,「CD貸してくれるとうれしいな」
京介,「おお、いいぞ。一通り聞き終わったらな。あさってには貸してやろうじゃないか」
……それだけかな?
椿姫,「じゃあ……また明日学園でね」
……何か含みがあるような気がするが、まあいいか。
椿姫と別れ、おれはスケートリンクに向かう。
;背景 スケートリンク練習会場概観 夜
セントラル街から電車で二駅。
中央区にあるアイススケートセンターは、一般滑走用のリンクの他に、アイスホッケーとフィギュアスケート用のリンクもあって、しかも通年滑走可能という贅沢な建物だった。
マスコミに注目を浴びつつある花音のこともあって、富万別市もスポーツ施設の充実に力を入れているようだ。
時刻は六時半。
そろそろ一般客を締め出して、貸切練習している時間だろう。
;背景 スケートリンク練習会場観客席
家族は事情を打ち明ければ、入場できる。
もちろん、厳しい練習に明け暮れる選手達に混じって、リンクに入ることは許されないが。
おれは客席に座って、練習風景を眺めることにした。
花音,「あ、兄さんだー!」
リンクから能天気な声が上がる。
コーチの姿も見えないし、どうやらいまは休憩中みたいだな。
花音,「兄さん、見て見てっ!」
花音がジャンパーも羽織らずに滑っていた。
京介,「おーい、なに遊んでるんだー」
花音,「遊んでないよ、コンパルソリーだよー」
コンパルソリーは氷の上に定められた図形を描く規定種目だ。
もっとも、テレビ受けしないという理由で、現在は競技種目からは外されている。
花音,「もうちょっとで終わるから、待っててねー」
片足だけで滑り、円を描きながら、その間にターンをしたりカーブの方向を変えたりして、図形を氷上にトレースしていく。
展開がスローというか華やかさがないので、観ているおれは正直退屈なのだが、花音に言わせれば大切な技術がいろいろと詰まっているんだそうだ。
花音,「終わりーっ!」
京介,「休み時間も練習するなんて、偉いぞ」
花音,「えへへ、こういうのも見せちゃうぞー」
花音は顔だけこちらに向けながら、後ろ向きに滑走を続ける。
リンクに緩やかな曲線が平行に描かれていく。
京介,「おお、なんか知らんが、上手くなったんじゃないか?」
てきとーに褒めておく。
花音,「くるくるっと回っちゃうぞー」
そのままスピンをやり始める。
が、勢いが足りなかったようで、すぐに回転が止まる。
京介,「おお、なんか知らんが、いい感じじゃないか?」
花音,「兄さん、あんまりてきとーなこと言ってるとのんちゃん怒るぞー?」
京介,「いや、おれは審査員じゃないから、細かいことはよくわからんよ」
京介,「でも、お前ちょっと痩せたよな?」
花音,「うんっ、おかげでもうちょっと高く飛べるようになったんだー」
160センチという身長に、均整の取れた体つき。
なにより手足が長いということが、フィギュアスケートをやる上で、とても有利に働くらしい。
花音,「うおぉぉっ!」
軽くジャンプしたときに、体勢をひねったらしい。
京介,「おいおい、調子に乗って転んで怪我するなよー」
花音,「怪我したら兄さんが助けてくれるんだよねっ?」
言いながら、客席まで寄ってきた。
;背景 スケートリンク練習会場観客席
京介,「寒くないか?」
花音,「うん、平気平気っ」
京介,「それって、ひょっとして大会用の衣装じゃないのか?」
花音,「そうだよ?」
京介,「いま着てていいのか?」
花音,「大会近いからねー。衣装で練習するときもあるんだよ」
花音は、一ヵ月半後にオリンピック選考を兼ねた大事な試合を一つ控えている。
花音,「でも、本当は兄さんに見てもらいたかったからなんだー」
腕を伸ばして抱きついてくる。
京介,「って、危ねえっ!」
花音,「なにがー?」
京介,「足元見ろ! 切っ先の鋭いエッジがいままさにおれの足を踏まんとしてるじゃねえか!」
花音,「あはは、踏んじゃえ踏んじゃえっ!」
しゃれにならん女だな……。
京介,「そういえば、ママは?」
花音,「コーチ? コーチはいま、会議してるって」
京介,「忙しいのかな? ちょっと顔出そうと思ってるんだが」
花音,「なんだかね、のんちゃんカナダに行ってたでしょう? 外国での練習が終わって、今後どういうふうにのんちゃんを伸ばすのかっていう話し合いしてるみたい」
京介,「お前はどういうふうに伸びていきたいんだ?」
花音,「知らない。でも、絶対オリンピック行くよー」
無邪気なもんだな。
花音,「ねえねえ、のんちゃんの人気者計画聞いてよ」
京介,「計画?」
花音,「もっともっと有名になって、もっとたくさんの人にのんちゃんのこと見てもらうんだー」
京介,「おう、それで?」
花音,「終わりだけど?」
京介,「すげえアバウトだけど、花音らしくてよしとする」
花音はニコニコしながら、またリンクに向かった。
花音,「さてさて、じゃあ、兄さんにも四回転ジャンプを見せてやろうじゃないかー」
京介,「おおっ、ループだったな?」
クワドラブルルッツは、女子フィギュアスケートの公式試合において、世界でもまだ誰も成功していない。
ジャンプするだけならともかく、着氷することができないのだ。
花音,「いままでぜんぶ転んじゃってるんだけど、兄さんの前ならきっとできるっ」
京介,「おいおい、無理ならやめておけよ。転んだら痛いだろ?」
花音,「だって、成功したらもっと人気者になれるよー」
京介,「成功すればな」
花音,「みんな新しい技が大好きなんだよ。だから、がんばってぜいったい成功させるんだー」
花音は勢いよく氷上に足を滑らせていった。
;SE 携帯
……む?
花音,「兄さん、いっくよー!?」
京介,「ちょっと待って、電話が……」
またミキちゃんかな……面倒だないいかげん……。
;// 上記携帯音を停止
京介,「はい、もしもし……」
けれど、相手の声に息を呑んだ。
花音,「兄さん、まーだー?」
花音の姿は、もう、目に映らない。
花音,「やっちゃうぞー、ジャンプしちゃうぞー、よそ見してても知らないぞー?」
おれは通話を終えて、花音にひと言だけ告げる。
京介,「すまん、用事ができた」
花音,「え? ちょっとちょっとっ!」
花音が地団太を踏んで、リンクの氷が削られる音が響く。
思考を切り替える。
なにも考えなくていい表の時間は終わりだ。
浅井権三からの呼び出しがかかったのだから……。
;黒画面
;背景 南区住宅街 夜
富万別市の南区は、新築の一戸建てが並ぶ閑静な高級住宅街だ。
どの家屋も、日本とは思えないほど敷地が広い。
人気は驚くほど少なく、たまに自転車で巡回をしている警察官とすれ違うくらいだった。
豪勢な門にはたいてい警備会社のプレートが掲げられていて、ケチな空き巣のつけいる隙はない。
南区には、この巨大都市の支配者層が住むのにふさわしい物々しさがあった。
;背景 権三の家の門 夜
一時間ほどで、権三の家にたどり着いた。
……いつ帰ってきても、緊張する。
;インターホンの音
京介,「…………」
;// インターホン終了待ち
インターホンを押すと、しばらく待って女中の声が返ってきた。
京介,「京介です。お義父さんは、ご在宅ですか?」
;ゆっくりと黒フェード。
…………。
……。
;黒画面
さらに数分待たされて、おれは家の中に入ることを許された。
敷地内に黒塗りの高級車が二台停まっていた。
鯉のいる池を眺めながら長い廊下を渡る。
途中、権三の部下に出くわし、軽い挨拶を交わす。
権三は、客人と会食中ということだった。
間に入って、一緒に酒を飲めと命じられた。
……つきあうしかないな。
客間の前までやってきた。
部屋の明かりが障子越しにぼんやりと漏れている。
話し声は聞こえない。
けれど、勢いよく酒をあおって喉が鳴る音がする。
障子の向こうに、間違いなく、あいつがいる。
京介,「失礼します。京介です」
間があった。
浅井権三,「おう……」
獣のいななきを思わせる、深いため息があった。
京介,「失礼してよろしいでしょうか?」
客が来ているというが、あいつの他に人の気配を感じられない。
浅井権三,「入れ」
;背景 権三宅居間 夜 明かりアリ
;// 権三登場のイベントCGに差し替え
すぐに異変を察知した。
浅井権三,「よく来たな」
贅沢な料理の数々が、畳の上に散乱している。
京介,「ご無沙汰しております」
和室には、やはり客らしき男がいた。
頭から血を流して、テーブルに突っ伏している。
おれは平静を装って、生きているのか死んでいるのかわからない男を眺めた。
浅井権三,「調子はどうだ?」
京介,「とくに問題はありません」
問題はない。
おれの父……浅井権三の前で、血を見るのには慣れている。
テーブルの端に、よじれた名刺があった。
毎夕テレビ・第一企画部・エグゼクティブプロデューサーとある。
名前は聞いたことがある。
毎週月曜日のゴールデンタイムに、視聴率20%越えのトレンディドラマを生み出し続けている局の大物プロデューサーだ。
仕事や私生活での武勇伝にはことかかず、芸能界でこの男に尾を振らない人間はいないという。
浅井権三,「どうした? 気になるのか?」
京介,「いいえ」
名刺を交わしたということは、権三とこのプロデューサーは初対面だったわけだ。
浅井権三,「こいつは、調子に乗りすぎた」
京介,「お義父さんもおかわりなく……」
花音は、容貌のいいフィギュアスケート選手として名を馳せていて、いくつかのテレビCMにも出演している。
調子に乗りすぎた……ということは、なにか契約関係でもめたのだろうか。
いずれにせよ、うちの親父は、初対面の、しかもそれなりに地位のある人間を暴力の海に沈めたのだ。
ガキのころは、どうして権三の無法が通るのかと不思議に思ったものだ。
プロデューサー,「……う、ぁ……」
どうやらまだ生きているらしい。
プロデューサー,「……お前、私に、こ、こんなことをして、許されると思ってるのか?」
浅井権三,「…………」
権三は、男を見つめながら、この上なく旨そうに刺身にしゃぶりついている。
プロデューサー,「べ、弁護士に……い、いや、警察に突き出して……お前らみたいなクズを……社会的に抹殺……」
浅井権三,「…………」
権三は、愉しそうに笑う。
浅井権三,「二十になる娘がいるんだろう?」
また旨そうに酒を煽った。
浅井権三,「…………」
おれには権三の考えていることがわかる。
遅いのだ。
机上の論理で物を考える人間は、やれ警察に駆け込めだの、弁護士に相談しろと当たり前のことしか言わない。
だが、それでは遅い。
警察はなにか起こってからしか動かないし、弁護士は四六時中そばにいてくれるわけではない。
浅井権三,「娘がソープに沈められてから、うちのどうでもいいような若いのが懲役くらったとして、お前は満足なのか?」
脅しではない。
浅井権三の配下には、一発手柄を狙うチンピラがいくらでもいる。
刑務所に入れられるのを名誉と思っているような獣たちだ。
彼らは五分先の未来も考えぬ無鉄砲さで、上の命令を喜んで遂行していく。
浅井権三,「まあ、座って刺身でも食っていけ」
季節の刺身は、ところどころ血で滲んでいた。
京介,「おいしそうなフグですね。いただきます」
虫の息をしている男の隣に座り、箸をつまんだ。
プロデューサー,「……きゅ、救急車……」
浅井権三,「飲むか?」
京介,「いえ、酒は……」
プロデューサー,「た、たすけ、て……」
浅井権三,「九州の焼酎でな。なかなかいける」
京介,「へえ……」
プロデューサー,「う、うぅぅ……」
人が、死にかけている。
その脇で、おれたちは腹を満たす。
浅井京介と浅井権三の関係は、そういうものだ。
京介,「それで、今日はどういったご用件でしょうか?」
恐る恐る本題を切り出すが、権三は首を傾げる。
浅井権三,「雌の匂いがするな」
京介,「え?」
……なにを言ってるんだ?
浅井権三,「女でもつくったか?」
京介,「いえ……」
権三はおれの一言一句を見逃すまいと、威圧するような視線をぶつけてくる。
おれは唾を飲み込む。
京介,「美輪椿姫というクラスメイトと二日ほど遊んでいますが、どうということはありません。金の匂いのしない女なので、とくに興味もありませんし」
浅井権三,「…………」
権三は、まだ、おれを見据えている。
身長は百九十センチに届くだろうか。
巨体のいたるところに威圧感が滲み出ている。
京介,「なにか?」
浅井権三,「その女ではないな」
京介,「…………」
椿姫ではなく別の女が、おれの周りにいると言いたいのだろうか?
浅井権三,「花音に会った」
京介,「ええ、聞いています」
権三は勢いよく酒をあおる。
浅井権三,「花音は、郁子と違って威勢がいいな」
郁子とは花音の母親だ。
おれが学園や花音の前ではママと呼び、フィギュアスケートのコーチをしている人物だ。
けれど、郁子は、権三が若いときに作った愛人なのだ。
つまり、花音は権三の一人娘ではあるが、愛人の子に過ぎない。
権三の正妻は、しばらく前に他界していて、おれも顔を合わせたことがない。
この事実を花音は知らないし、権三と郁子は別居している。
京介,「花音はたしかに、郁子さんよりお養父さんに似ているかもしれませんね」
わがままで自由なところが……。
浅井権三,「あれは、金になる娘だ」
京介,「ええ……」
フィギュアスケートのオリンピック候補選手。
出版社やプロダクションからのアプローチはあとを絶たない。
これで、正式にオリンピック出場が決まれば、海外のメディアも花音を取り上げるようになる。
京介,「いや、本当に、将来が楽しみですね。うちもフロント企業の体裁を保っている以上、イメージアップを図るために、花音を広報に起用しようかと思っているんです」
おれの提案に権三は満足そうにうなずく。
浅井権三,「花音のことだが……」
深い毛が密生している拳がゆっくりと開く。
ざわついたいやな空気がこちらに忍び寄る。
浅井権三,「いいか、京介」
名前を呼ばれて、おれの不安は最高潮に至る。
浅井権三,「犯しておけ」
京介,「…………」
一瞬、目の前の大男がおぞましい怪物に見えた。
浅井権三,「雌を従順にさせるには、食うのが一番だ」
どこの世界に、こんな親がいるというのか。
愛人の子とはいえ、実の娘である。
それを犯せなどと、正気を疑う。
浅井権三,「花音にはもっと稼いでもらわねばならん。雄はまだ利害で動く頭を持っているが、雌は違う。わかるか?」
おれは、曖昧にうなずく。
浅井権三,「やり口はなんでもいい。恋愛をしているふりをしてもいいし、将来的に籍を作ってもいい。重要なのは肉体関係を持つことだ。雌はそういうことにこだわり、縛られる生き物だ」
京介,「わ、わかりました……いずれ……」
頭が麻痺する。
いつも、この怪物を前にすると、正常な思考が妨げられる。
浅井権三,「それから……」
声が一段と低くなる。
浅井権三,「『坊や』とかいうガキの集団を知ってるか?」
京介,「たしか、最近セントラル街で幅を利かせてきたイベサーでしたね?」
イベサーとは、クラブのイベントやパーティなどで客寄せをする集団のことだ。
お祭り好きのチンピラみたいな連中だが、ルックスがずば抜けてよかったり、ダンスやDJの腕前もかなりのものであったりと、下手な芸能人よりも集客力に優れている場合がある。
京介,「お養父さんのところで、面倒を見るおつもりですか?」
イベサーも規模が大きくなれば、ヤクザがケツを持つ。
トラブルがあった場合に間に入ってやるかわりに、毎月いくらかの上納金を得るのだ。
けれど、権三のごつい眉が跳ねた。
浅井権三,「連中は覚せい剤を回してる」
京介,「……まさか」
冷や汗が出る。
イベサーごときが覚せい剤の販売に手を染める。
許されないことだ。
もちろん、法律で禁止されているからではない。
この富万別市で出回っている覚せい剤は、すべて、浅井権三が四代目組長を務める園山組が取り仕切っている。
おれは表の仕事を主に任されているだけであって、権三がどういった流通経路で覚せい剤を供給しているのか知らない。
だが、重要なのは、素人が権三の縄張りに土足で踏み込んできたということだ。
浅井権三,「しかも、どうやら、うちが回しているものより、質がいいらしい」
京介,「……おかしな話ですね」
浅井権三,「いま、人をやって『坊や』の幹部を捕まえに行かせているところだ」
権三の組織の機動力と情報網があればガキの一人や二人探し出すのは簡単なはずだ。
京介,「なるほどわかりました。蛇足になるでしょうが、僕もそれとなく探りを入れてみるとします」
深々と頭を下げる。
浅井権三,「頼んだぞ、息子よ」
京介,「はい。いま僕があるのは、すべてお養父さんのおかげです」
それから、夜が更けるまで権三の酒のつきあいをしていた。
不幸なテレビ屋がその後どうなったのか、おれは知らない。
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;背景 学園門
今週は毎日学園に来られて気分がいい。
おれにとって学園は、ストレスのない自由な空間だ。
栄一,「おう、京介ー」
友達もたくさんいる。
栄一,「なあ、昨日の件、考えてくれたか?」
京介,「え? 昨日の件?」
栄一,「てめえ、ざけんな、オメーの不肖の妹のことだろうが」
……まだ根にもってんのか。
京介,「栄一、もうちょっと大人になれよ。女ならいくらでもいるじゃないか」
栄一,「うるせえ、ノリコ先生からメールが来たんだよ。やっぱり栄一くんとはつきあえないってな」
京介,「うんうん、残念だったな。あれくらいで愛想をつかされるんなら、つきあわなくて正解だったんじゃないか?」
栄一,「ちきしょー、それもこれも全部花音のせいだ!」
ちっちゃな拳を丸めて憤慨している。
花音,「のんちゃんがどうかしたー?」
栄一,「げっ!」
花音,「エイちゃん、なにがのんちゃんのせいなの?」
栄一,「な、なんでもないよ。いやー、花音ちゃんはいつも元気がいいねっ。ボクにも元気を分けて欲しいなっ」
ちっちゃな拳が、もみ手に変わる。
京介,「花音、今日も体育か?」
花音,「すごい楽しみっ。明日は、クラス対抗でバレーボールの試合するから、朝はみんなで集まって練習するんだー」
花音は、おれがプレゼントしたというバッグを肩に下げていた。
なかに、体操着が入っているのだという。
花音,「じゃあねー」
軽快な足取りで先に行ってしまった。
栄一,「くそう、気に入らねえわ、あの頭の悪そうな笑顔がいっそう気に入らないぜ」
京介,「お前もだいぶ頭悪そうだけどな……」
くだらないおしゃべりを繰り広げながら、校舎に入った。
;背景 廊下 昼
早めに登校したせいか、廊下にはあまり人がいない。
廊下の向こうから、ひたひたと妖怪じみた足取りでやってくる女の子がいた。
ハル,「あ、ども……」
京介,「よう。早いんだな」
ハル,「そっすかね?」
目も合わせようとしない。
栄一,「あ、宇佐美さん宇佐美さんっ」
ハル,「はい」
栄一,「今日は、ボクも友達にしてくれるんだよねっ? 一日二人まで、とか言ってたよね?」
ハル,「いや、一つのコミュニティに二人までなんで。学園じゃ椿姫と花音でもうぎりぎり限界なんで」
栄一,「ひどいよ……」
ハル,「すんません、意地悪してるわけじゃないんすけど、自分、そういう戒めとか多いんで、勇者ですし」
栄一,「まともに口を利いてくれるだけでもいいんだけど?」
京介,「おれは先に行ってるぞ」
おれはどうも、宇佐美が苦手だ。
ハル,「…………」
宇佐美はおれを観察するように見つめてくる。
本当に、妙な女だ。
;黒画面
教室に入って、思わずはっとする。
ここ数日姿を見せなかった人物が窓辺にいたからだ。
京介,「やあ、おはよう」
気さくに声をかける。
京介,「白鳥さんも朝早いんだね」
水羽,「…………」
黙って教室の誰の目にも触れないような花に水をやっている。
京介,「白鳥さん偉いね。朝早くに来て花に水をやってるのって、いつも白鳥さんでしょ?」
おれが、白鳥水羽に声をかけるのには理由がある。
京介,「ていうか、久しぶりじゃない? おれもよく学園さぼるけど、白鳥さんはどうして休んでるのかな? カゼ?」
白鳥は学園の理事長の娘だ。
この学園の理事長は、とある土建関係の企業の社長でもある。
そしてその企業は、日本有数の老舗商社、山王物産の子会社なのだ。
『ペン先からロケットまで』を扱うといわれる総合商社山王物産はこの富万別市に本拠をかまえ、社員をあらゆる事業に展開して街の経済の根底に根づいている。
裏の道を歩けば総和連合に当たり、表の道を行けば山王に当たるといわれるほどに、影響力は大きい。
つまり、この街で金を動かす以上、白鳥水羽と仲良くなっておいて損はないということだ。
おれはいつもしている通りに、ひょうきんな笑顔を作る。
京介,「ねえ、白鳥さん。電話番号とか聞いていい? たまにみんなで遊ぼうよ」
すると、白鳥の水差しを持つ手が止まる。
水羽,「……浅井くん」
京介,「うん?」
水羽,「浅井くんは、お花が好き?」
京介,「え、どうかな……好きでも嫌いでもないけど。花見には行く程度かな」
水羽,「好きなものは何?」
京介,「女の子」
言い切って、笑っておくのも忘れない。
京介,「冗談だよ。クラシックかな。昨日もCDを買いにいったんだ」
水羽,「クラシックね……それだけ?」
京介,「え? 趣味のこと? 他にはゲーセンくらいかな」
水羽,「お金は好き?」
わずかだが、白鳥の語気が強まったような気がする。
京介,「お金はまあ、そうだな……おれ、ボンボンだからさ、よくわかんないな」
半笑いで頭をかいていると、水羽がぴしりと言った。
水羽,「残念……」
まるで穏やかな水面に波紋が広がるよう。
水羽,「嫌いと答えたら、あなたを責めるつもりだったのに」
……なんだ、この女……?
京介,「はは……なに言ってるの? じゃあ白鳥さんは、お金が好きなのかな?」
けれど、白鳥はおれの軽口には取り合わない。
水羽,「私は、あなたを知っているわ」
京介,「……知っている?」
水羽,「ずいぶんと高そうな車に乗っているのね」
たしかに、おれは外国産の高級車を一台持っている。
京介,「だから、ボンボンだからさ、パパが買ってくれたんだよ」
しかし、なぜ知っている?
水羽,「ずいぶんと人相の悪そうな人たちを連れまわしているのね」
京介,「…………」
街で偶然見られたか……。
学園の連中には浅井興業のことがわからぬよう、細心の注意を払って行動しているつもりだったが……。
水羽,「あなたは自分の倍くらいの年齢の人たちをアゴで使っていたわ」
京介,「えっと、どこでそんな……」
水羽,「南区の住宅街。あなたのお養父さんの屋敷の近くに、私の家もあるの」
京介,「なるほど……」
とぼけても無駄なようだ。
理事長の娘だからな。
その気になれば学園生の素性を探ることもできるはずだ。
京介,「それで?」
おれは薄く笑う。
京介,「おれが浅井興業で存外な大金を動かしていると知ったお前は、どうするんだ?」
水羽,「それが、あなたの本性?」
京介,「なんだっていい」
水羽,「どうしてあなたは、学園ではひょうきんな仮面をかぶっているの?」
京介,「誰でも悪いことしてますだなんて、自分からは言わないものだろう?」
水羽,「悪いことをしている自覚はあるのね?」
京介,「たとえ話の揚げ足を取るなんて、性格の悪さが出るからやめたほうがいい」
水羽,「浅井くんって、本当はずいぶんと頭が回るのね。勝てそうにないわ」
白鳥は無表情を崩さない。
……少し、面倒だな。
おれが貴重な時間を割いて学園に通うのは、ストレス発散のためでもあるが、それ以上に、闇社会の住人に顔を知られないようにするためだ。
おれは、取引はほとんど電話かメールで済まし、商談のときも滅多に人前に顔を出さない。
こういう商売では、顔が割れれば命を狙われることもある。
おれの顔を知っているのは権三を含め、組の幹部などわずかな人間だけだ。
だから、白鳥の口は封じなければ。
京介,「このことは黙っていてくれないか?」
水羽,「…………」
京介,「頼むよ」
白鳥は答えない。
京介,「わかった。いくら欲しいんだ?」
水羽,「……っ」
初めて白鳥の顔に色が浮かんだ。
;背景 学園教室
水羽,「私は、あなたが嫌い。それだけが言いたかったの」
京介,「待て、逃げるな」
おれは白鳥の行く手をさえぎる。
京介,「百でいいか?」
水羽,「本気で言っているの?」
京介,「他人を信用するには金しかない」
水羽,「かわいそうな人ね」
京介,「同情してもらってけっこう。おれを安心させてくれ」
一歩詰め寄る。
白鳥の端正な口元が震えている。
水羽,「……みんな見てるわよ?」
京介,「お前をクドいているということにする」
水羽,「馬鹿なことを……」
京介,「クラスのみんなは、おれをただのひょうきんなナンパくんだと思っている」
そういうふうに演じてきた。
京介,「お前はどうだ? 滅多にクラスに顔を出さずに、友達の一人もいないんじゃないか? 誰がお前の味方をする?」
水羽,「……っ」
震えていた唇が歪む。
京介,「仲良くしよう、な?」
水羽,「……もう、離れて」
授業開始を告げるチャイムが鳴る。
京介,「また今度、じっくりと話をしようじゃないか」
水羽,「…………」
白鳥は今度こそ逃げるようにおれの脇をすり抜けていった。
気が強そうに振舞ってはいるが、しょせんは歳相応の少女だということだ。
さて、学園を楽しむとしよう。
;背景 屋上 昼
;// 上記チャイム終了待ち
今日は、ミキちゃんからの電話もない。
屋上には、椿姫、花音、おれ、栄一、そして少し離れたところに宇佐美がいた。
花音,「お昼だー、今日はたくさん食べるぞー」
花音は購買で大量にパンを買っていた。
椿姫,「花音ちゃん、今日も体育で大活躍だったもんね。お腹空いたでしょ?」
花音,「ここんところずっとお昼抜いてたからねー」
栄一,「ボクのお菓子も食べる? セントラル街の有名なプリンだよ。自分で食べるために買ったんだけど、特別にわけてあげる」
……花音への恨みはおさまったのかな?
椿姫,「あ、ファンキーのプリンだ。おいしそうだね」
ファンキーとは、女学生に人気の洋菓子店だ。
栄一,「(クク、賞味期限切れだっつーの。こんなんで許してやるオレマジ寛大じゃね?)」
……さすがに止めよう。
花音,「のんちゃん、プリン嫌い」
栄一,「え? ほんとっ? 花音ちゃんって、甘いもの好きそうじゃない?」
花音,「人は見かけによらないっていう格言があるんだよ?」
栄一,「(チキショー、たいていの女は甘いもんで釣れるっつーのによー。つーか、格言とか調子こいてんじゃねえぞヴォケ。)」
花音,「エイちゃん食べないの?」
栄一,「ボクはいいよ」
花音,「なんで? 甘いもの好きでしょ? いつもバクバク食べてるじゃない?」
栄一,「ハハハ、男子三日会わざればっていうでしょ?」
花音,「言わないよ」
栄一,「そ、そんな断言しないでよ」
花音,「のんちゃんの言うこと、ぜったい正しいよ。ぜったい合ってるよ、ねえ兄さん?」
京介,「そうだな。とりあえず、プリンは栄一が食えよ」
栄一,「い、いいったら。椿姫ちゃん食べなよ?」
椿姫,「ごめんね、わたしもうお腹いっぱいだから」
栄一,「じゃ、じゃあ宇佐美さんは?」
おれたちのやりとりを遠巻きに眺めていた宇佐美がぼそりと言う。
ハル,「プリンって、持って三日くらいすかね?」
椿姫,「うーん、二日以内に食べるのがいいと思うな」
ハル,「じゃあ、自分、甘いものは好きなほうなんすけど、賞味期限切れなのは勘弁スね」
栄一,「えっ?」
目が点になる栄一。
ハル,「いやまあ、あてずっぽうすけどね」
ハル,「あの、自分、セントラル街でバイトしてるんすよ、唐突ッスけど」
ハル,「だからわかるんすけど、そのファンキーでしたっけ? たしかおとといは定休日でしたよね?」
栄一,「お、おととい? それがどうしたの? 昨日買ったプリンだよ? なにか変かな?」
ハル,「ちょっとおかしくないすかね?」
栄一,「な、なにが?」
ハル,「エテ吉さんは、毎日違うお菓子を食べるんすよね? 昨日言ってましたよね、ポリスィーとか?」
栄一,「ポリスィーじゃなくて、ポリシー!」
ハル,「まあ、なんでもいいんスけど」
栄一,「なんでもいいなら無駄に発音ひねらないでよ!」
ハル,「重要なのは昨日もプリン食べてたってことっスよ、あなた」
そういえばそうだったな……。
栄一,「だから?」
ハル,「今日は昨日と同じお菓子を食べないんなら、今日食べるために昨日と同じプリンを買いに行くっていうのはポリスィー的にちょっとおかしくないすか?」
栄一,「い、いや、だから……花音ちゃんにあげようと思って、買いに行ったんだよ、うん、そう」
ハル,「自分で食べるために買ったって、さっき妙にもったいつけて言ってませんでしたっけ?」
栄一,「……そ、それは……だから……」
栄一、死す。
京介,「そうだな、昨日プリン食ってたもんな。そのプリンはおとといは店が休みだった以上、それより前に買ったってことになるな」
花音,「エイちゃん……まさか賞味期限切れてるの知ってて……?」
椿姫,「そ、そんなことないよね? 知らなかったよね?」
みんなして栄一の顔を覗きこむように近づく。
栄一,「つ、通販でっ、通販で買ったんだよ!」
……この発言で有罪を認めたようなものである。
栄一,「(か、神、助けてくれー!)」
京介,「無理だから」
栄一,「く、うぅぅ……」
すごすごと引き下がる栄一だった。
椿姫,「そ、そういえば浅井くん、CD聞いた?」
話題を変えようとする椿姫は、本当にいいヤツだ。
栄一がかわいそうだし、のってやるとするか。
京介,「フフ……これか? まだ聞いてないぞ」
おれは制服のポケットにしまっておいたバッハを取り出して掲げる。
椿姫,「え? どうして未開封なの? あんなに楽しみにしてたじゃない?」
京介,「わかってないな、椿姫」
花音,「どうして大事そうにポッケに入れて、学園に持ってきてるの?」
京介,「お前にはわからんだろうな、花音」
軽く咳払い。
京介,「たしかにこのバッハは、おれが楽しみに楽しみにしていたCDだ。それはもう一日千秋の思いで恋焦がれてやまなかったアイテムだ」
椿姫,「う、うん……?」
京介,「だが、ここで、あえて、一日寝かすんだ」
花音,「ほえ?」
京介,「わからんだろうな、女には、この感覚が。耐えて耐えて我慢して我慢しつくすからこそ、その後のエクスタシーは計り知れないものなのだ」
ハル,「ただの、マゾじゃないすか」
京介,「なんとでも言え。とにかくおれは、今日一日、この荒行に耐えねばならんのだ」
まったく、我ながらよだれが出そうだぜ……。
花音,「へー、ちょっと貸して」
京介,「あっ……」
ひったくられた。
京介,「お、おい、返せよ」
花音,「ちょっと見せてよ、いいでしょ?」
京介,「……ちょ、ちょっとだけだぞ? いいか、ぜったい封を開けるなよ? ぜったいだぞ?」
;// CDのラッピングを破る音
ビリビリビリー(←ラッピングを破る音)。
;// 上記終了待ち
京介,「って、おい! 開けんなっつってんだろーが!」
花音,「まあまあ、中のブックレット読んでみたかったんだよ」
京介,「くっ、そ、それは、おれも読みたくて読みたくて人を殺しかねないほど読みたくて……!」
景色がぐにゃーっと歪んでいく。
花音,「うわー、やっぱり買ったばっかりだから、CDもピカピカだねーっ」
京介,「こ、こらー! 神のCDを指でクルクル回すなー!」
花音,「でへへへっ……」
花音が邪悪な笑みを浮かべている。
いかん、アレは、栄一をいぢめるときの目だ。
花音,「ねえ兄さん……」
ヤバい……。
花音,「バキってしてもいい?」
京介,「ぜったいだめっ! ぜったいだめっ!」
椿姫,「か、花音ちゃん、さすがに割ったら冗談じゃすまないよ?」
京介,「そ、そうだ椿姫! もっと言え! ぜったいだめだっ!」
椿姫,「ぜ、ぜったいだめだよっ!」
花音,「どうしよっかなー? 兄さんが困ってる、兄さんが困ってるよー」
ハル,「…………」
京介,「おい、宇佐美っ! なにをしている!? お前も止めろっ!」
ハル,「あ、はい。ぜったいだめだー……」
京介,「栄一、お前もだっ! なにすっとぼけてやがんだ! ヤツを、あのいたずらっ子をどうにかしろぉっ!」
栄一,「お、おう。ぜったいやめろー……」
花音,「ぬふふふふっ!」
花音が両手でCDをつかむ。
細長い指先に力が込められるのがはっきりと見える。
花音,「兄さん、おととい約束すっぽかしたよね?」
京介,「う、ああ……」
花音,「兄さん、昨日もいきなり帰っちゃったよね?」
京介,「や、やめっ……!!!」
花音,「えいっ!」
京介,「やめろあああぁぁぁあぁぁあぁぁぁっ!」
飛び出していた。
獲物を捕らえる豹のようなすばやい動き。
驚いた花音ともみ合う。
指先が、CDに触れた。
一度、しっかりとつかんだ。
しかし、するりと抜けていく。
もう一度腕を伸ばした。
屋上の床にCDが落ちた。
…………。
……。
絶望のあまり、視界が暗くなった。
がっくりと屋上の地面に膝をつく。
盤面をくまなくチェックする。
そこには、糸くずのような引っかき傷が……。
京介,「うぅあああああああああっ!」
お先真っ暗である。
おれが耐えに耐えて我慢していたバッハに傷がついたのだ。
花音,「兄さん、兄さんっ」
トントンと肩を叩かれる。
京介,「か、花音……」
花音,「んー?」
京介,「おれに、なにか言うことはないか?」
けれど、悪魔っ子はにっこりと笑う。
花音,「割るつもりはなかったんだよ」
京介,「……っ!」
花音,「でも、みんなしてぜったいダメ、ぜったいダメって言うだもん。ぜったいって十回くらい言ってたもん。これって、フリっていうヤツだよね?」
……お、おれはダチョウ倶○部じゃねえんだよ。
ハル,「まあ、フリと言えばフリでしたね」
くっ!
椿姫,「げ、元気だしてよ、浅井くん。そんな悲しい顔しないで。また一緒に買いにいけばいいじゃない?」
ふざけんな!
栄一,「はは、花音ちゃんもひどいなー。でも京介くんもオトナになろうねっ」
っのやろおぉっ!
花音,「みんなおもしろかったみたいだし、兄さん人気者だねっ」
……こ、このアマァぁぁッッ――――!!!
許さん、絶対に許さんぞー!
…………。
……。
……。
…………。
京介,「我々は生きているっ!」
京介,「復讐するは我にありっ!」
京介,「おれが天下に背こうとも、天下がおれに背くのは許さん!」
放課後の理科準備室。
おれは、雄叫びを上げていた。
京介,「おい、愚民!」
栄一,「あ、はい」
京介,「貴様の願いを聞いてやろうではないか」
栄一,「え、えっと……なんでしたっけ?」
京介,「忘れてんじゃねえよ、花音だよ、花音に決まってんだろうが!」
栄一,「か、神……落ち着いてくださいよ」
京介,「ヤツは調子に乗りすぎた。その昔、人間が天まで届く塔を作らんとしたとき、神もいいかげんキレた。それぐらいおれも怒っている」
栄一,「でも、たかが妹のいたずらじゃないすか?」
京介,「家族で殺しあう神様なんていくらでもいるわ!」
栄一,「ほ、本気なんですか?」
京介,「おめーよー。わかるか? たとえば夜中の一時から並んで朝十時にようやくゲットしたゲームをよー、おもしろいからとかいうノリで傷モノにされたらおめーどうよ?」
栄一,「ま、また買えばいいじゃないすか?」
京介,「黙れボケー! お前は自分のモノが壊されてないからそんなことが言えるんだ!」
栄一,「いや、神も昨日はぜんぜんおれにかまってくれなかったじゃないすか?」
京介,「とにかく花音には相応の裁きを下さねばならん」
栄一,「わ、わかりましたよ。どうするんですか?」
京介,「クク……すでに策はある」
栄一,「え? さすがですね、神」
京介,「おれは自分のもっとも楽しみにしているモノをぶち壊された」
栄一,「はあ……」
京介,「目には目をだ。花音のもっとも楽しみにしていることはなんだ?」
栄一,「え、お昼ご飯とかですかね?」
京介,「ちげーよ、ボケ! てきとーなこと言ってんじゃねえよ」
栄一,「だって、ボク今日お昼食べてなくて……」
京介,「体育だ体育!」
栄一,「あー」
京介,「明日はバレーボールのクラス対抗試合らしいじゃねえか」
栄一,「ですね」
京介,「それが中止となれば、花音もおおいに落胆することだろうな」
栄一,「なるほどわかりました。闇討ちしてケガさせるんですよね?」
京介,「おまえはなにもわかってない」
栄一,「あ、違うんすか?」
おれは頭脳を巡らせる。
京介,「おれはもっと壮大に怒りをぶつける」
栄一,「は?」
;理科準備室 夕方
おれはかぶりものを脱いだ。
栄一,「おい、京介。もっと具体的に教えてくれよ」
京介,「簡単なことだよ」
もっともらしく咳払いをする。
京介,「これから職員室に忍び込んで、体育用具室の鍵を失敬してくるのさ」
栄一,「体育用具室?」
京介,「体育用具室には体育用具が……要するに、バレーボールがあるだろ?」
栄一,「なるほど。鍵がなかったらボールが取れないな」
京介,「明日のバレーボール大会とやらが中止になると思わないか?」
栄一がしきりにうなずいた。
栄一,「お前、すっげー悪だな」
京介,「ああ、明日一日は、全学年で大迷惑だろうな」
栄一,「なにもそこまでしなくてもよくねえか?」
急に怖気づいたようだ。
栄一,「たとえば、花音の体操服を隠すとか、そういう策でもいいじゃねえか?」
京介,「それだと容疑者がしぼられやすい。真っ先にお前とおれが疑われるぞ?」
栄一,「ていうか、ヤバくね? バレたらどうするんだよ」
京介,「バレなければいい。バレなければ犯罪じゃない」
栄一,「クズの理屈じゃねえか……」
京介,「お前にクズとか言われたくない」
口元を吊り上げる。
京介,「で、だ……」
栄一,「まあ、わかったよ。とっとと職員室行こうぜ」
京介,「待てや。いま職員室に行ったって、先生もたくさんいるだろ」
京介,「それに、体育用具室の鍵だって、いまの時間は部活の顧問の先生が持ってるに違いない」
栄一,「じゃあ、どうするんだよ?」
一息ついて言った。
京介,「九時になれば部活が終わって、体育用具室の鍵も職員室に戻される」
京介,「先生方も、特に仕事がなければ九時くらいまでには帰る」
京介,「職員室に残ってるのは、戸締りの確認を割り当てられた当番の先生だけだ」
そこで栄一が手を叩く。
栄一,「あ、今週の当番はノリコ先生だ」
京介,「そうだ」
栄一,「ノリコ先生を計画に抱きこんで、鍵をゲットするんだな?」
京介,「抱き込めるわけねえだろ。教師が鍵を盗んだりしたら大問題だって」
栄一,「いや、ノリコはオレのいいなりだから」
京介,「…………」
栄一,「……ごめん、嘘」
京介,「話を続けるぞ」
眉間を指で揉んだ。
京介,「九時を過ぎたら、職員室に行って、ノリコ先生が一人でいる姿を確認する」
栄一,「一人じゃなかったら?」
京介,「まずだいじょうぶだと思うが、そのときはまた別の手を考える」
栄一,「わかった。それで?」
京介,「お前がノリコを職員室の外におびきだす」
京介,「そのすきに、おれが職員室に忍び込んで鍵を盗んでくる」
栄一,「鍵がどこにあるかわかるのか?」
京介,「数学教師の机があるだろ? その後ろの壁にずらーっと並んでかけられてるよ」
栄一,「ああ、見たことあるな」
京介,「ついでにマスターキーも盗んでくる。たしか、同じ場所にあったはずだ」
京介,「じゃあ、わかったな? 一分もあれば終わるから、それくらいの時間は稼げよ」
栄一,「あ、ちょっと待って」
京介,「なんだ?」
栄一,「役割を変えてくれよ」
なんだか困ったような顔をしている。
京介,「……おれが、ノリコ先生をおびきだすのか?」
栄一,「うん……」
かわいらしく唇をすぼめた。
京介,「お前、壮絶にふられたの?」
栄一,「いや、そこまでひどいこと言われたわけじゃないけど」
京介,「どんなことだよ?」
栄一,「栄一くんって、嘘つきなんだねって」
深刻そう……。
京介,「傷ついちゃってるわけ?」
栄一,「顔を合わしたらテンパりそう」
京介,「…………」
栄一,「お前の口から、オレがどんなに誠実キャラか教えてやってくれよ」
京介,「無茶を言うなよ……」
しかし、な……。
おれがノリコ先生と顔を合わせるのは、ちょっと嫌だな。
おれが、夜遅くまで学園に残っていたという証言が出るのは、後々面倒なことになりそうだ。
椿姫も言っていたが、おれは放課後になると、真っ先に帰宅するキャラで通ってる。
できるだけ、不自然な行動は避けたい……。
栄一,「な? 頼むって」
京介,「わかったよ。しゃーねーな」
栄一,「さすが神。一生ついていくぜ」
京介,「お前がどれだけ浅はかでゲスなヤツかじっくり語っておくわ」
栄一,「ちょっとちょっと!」
おれは軽く舌打ちする。
京介,「いいか、注意しておくぞ」
栄一,「なんだ?」
京介,「鍵を盗みに入る九時前後の時間、お前は、学園の誰にも見つかってはならない」
栄一,「どうして?」
京介,「ちょっとは考えろよ」
頭を小突く。
京介,「職員室から鍵がなくなったであろう時間はすぐに割り出される」
京介,「部活が終わる九時くらいから、明日の朝までの間だな」
京介,「つまり、その間に学園にいた人間全てが、容疑者なんだ」
京介,「当然、おれも疑われる」
京介,「疑われるが、おれはノリコ先生と一緒にいるから問題ない」
栄一,「あ、そっか。もし誰かに見つかったら、どうして夜遅くまで学園にいたのかって、疑われちゃうもんな」
京介,「わかったな。お前は、今日、少なくとも九時前には下校してたってことにしなくちゃならねえんだ」
栄一,「オッケー、わかったよー」
京介,「まあ、時間が来るまで、ここで隠れていればいいさ」
おれは計画に不備がないかどうか、再確認する。
……もし、体育用具室の鍵とマスターキー以外にも、体育用具室を開ける手段があったらどうだ……?
まさか、推理小説みたいに鍵をぶっ壊して中に入ったりしないだろうが……。
まあいいか、しょせんはお遊びだしな。
鍵は、ことがすんだら、学園の郵便受けの中にでも入れておくか。
栄一,「ヒヒヒ、これで花音も残念賞ってヤツじゃねえか。気分いいねえ」
すっかり勝ち馬に乗った気分の栄一だった。
理科準備室に差し込む西日が、いっそう色を濃くしていった。
;背景 学園廊下 夜(明かりなし)
九時十分に、おれたちは行動を開始した。
明かりが消えた廊下は冷え切った空気が充満している。
京介,「それじゃ、お前はトイレの用具入れのなかにでも隠れろ」
栄一,「わかった。ノリコ先生を外におびき出したら、オレのケータイに電話くれるんだったな?」
京介,「気づかれずに電話する。もちろん、音が鳴らないようにしておけよ?」
栄一,「まかせとけって」
京介,「窓辺には立つなよ? 外から見られないとも限らんからな」
栄一,「まかせとけっての。京介は心配性だなー」
……なんか不安になってきたな。
京介,「じゃあ、頼んだぞ。無事に鍵を盗んだら連絡くれ」
栄一,「オーケーオーケー、そっこー連絡するっての」
京介,「そっこーじゃまずい。鍵を盗み、誰にも見つからないように学園からだいぶ離れてから連絡しろ」
栄一,「へいへいっ」
あくまで軽い調子の栄一。
京介,「よし、行ってくる」
栄一,「ノリコ先生にちゃんと根回ししといてくれよ?」
栄一の軽口を背に、おれは職員室に向かった。
;背景 職員室 夜 (明かりあり)
思惑通り、職員室にはノリコ先生だけが残っていた。
京介,「こんばんは、先生。ちょっといいですか?」
突然声をかけられて驚いたように身をすくめたが、すぐに大人びた笑顔を向けてきた。
女教師,「浅井くん、だったわね……? 遅くまで勉強してるのね」
京介,「いやいや」
女教師,「あなたのことは聞いてるわよ。出席日数はおもわしくないみたいだけど、成績も優秀で女の子からの評判もいいみたいじゃない?」
なかなか気さくな先生だな。
京介,「あの、ちょっとお話が……」
言いながら、おれはさりげなく鍵のありかを確認する。
栄一に指示したとおり、数学教師の机の後ろの壁にずらりと並んでいた。
女教師,「どうしたのかしら?」
さて、きっちりと、職員室の外におびきださないとな。
京介,「あ、ちょっとここじゃ、話しづらいんですよね」
女教師,「どうして? ここじゃだめ? 誰もいないわよ?」
不審がられるのも予想済みだ。
京介,「……栄一のことで、ちょっとお見せしたいものが」
女教師,「栄一くん……?」
ノリコ先生の顔が強張る。
女教師,「見せたいものって……?」
京介,「ちょっと、教室までついてきてもらえませんかね?」
女教師,「え?」
京介,「お願いします。来てもらえればわかります」
軽く頭を下げる。
京介,「おれ、あいつから先生のことは聞いてるんですよ」
拳を握り、声を震わせる。
京介,「栄一って、バカで腹黒いところあるんすけど、悪いヤツじゃないんですよ」
友達想いの好青年を演じる。
京介,「だから……あの、お願いします」
しばらく間があって、ノリコ先生は椅子から立ち上がった。
女教師,「……しかたないわね」
……まずは予定通り。
;背景 学園廊下 夜(明かりなし)
廊下に出ると、ポケットのなかで素早くケータイを操作する。
……栄一め、ちゃんとやれよ。
;背景 学園教室 夜(明かりあり)
京介,「えっと、こっちです」
ノリコ先生を先導して教室までやってきた。
京介,「実は、栄一の机を見てやってほしいんですよ」
女教師,「机……?」
京介,「はい、見てもらえばわかります。あれです」
先生は緊張した面持ちで、栄一の机のそばまで向かう。
おれは、でたらめをしゃべる。
京介,「どうです?」
女教師,「え?」
京介,「いや、だから、たくさん書いてあるじゃないですか?」
女教師,「なにが? まっさらで傷ひとつない綺麗な机じゃない?」
おれは目を見開く。
京介,「え? 何も書いてないですか?」
女教師,「書いてないわ」
京介,「え、えっと……おかしいな……」
おろおろと目線をさまよわせる。
京介,「栄一のヤツ、いつ、消したのかな……」
女教師,「浅井くん、どういうことか説明してもらえる?」
京介,「実は、栄一って、いつも先生のこと思ってるみたいで……なんていうんすかね、愛の言葉、みたいな? 好きだ、とか、そういうこと机にたくさん書き連ねてるんすよ」
真っ赤な嘘だが、あとで、どうとでも言いつくろえる。
女教師,「……本当なの?」
京介,「はい。あいつ、意外にシャイっつーか、純情なところあるんですよね」
女教師,「そう……」
京介,「すみません。ぜひ見てもらいたかったんですが」
ノリコ先生はくすりと笑みを漏らした。
女教師,「まあいいわ。浅井くんが友達想いなのはわかったから」
京介,「いや、そんなんじゃないんですよ……」
本当に、そんなんじゃない。
京介,「でも、本当に無駄骨でしたね。せっかくクラスのみんながいなくなるまで待ってたんですが……」
さりげなく、こんな時間まで残っている事情を裏付ける。
京介,「ただ、栄一のこと、もう一度考えてやってくださいよ」
栄一のフォローも忘れない。
女教師,「気持ちはわかったわ。でも、私、本当は他に好きな人がいるのよ」
京介,「あ、そすか」
哀れ、栄一。
女教師,「ごめんなさいね」
京介,「いや……」
そろそろ栄一もことを終えたころだろう。
京介,「それじゃ、失礼します。変な用事につき合わせてしまってすみませんでした」
ノリコ先生は微笑んで、おれを見送ってくれた。
;背景 繁華街1 夜
活気のある街とはいえ、今夜はひどく冷え込んでいる。
栄一,「おう、京介、待たせたなー」
哀れな栄一がやってきた。
京介,「首尾はどうだ?」
栄一,「ばっちりだ」
鍵を二本、目の前に掲げてみせた。
無事にマスターキーも手に入れたようだ。
鍵はおれが預かっておく。
京介,「誰にも見られなかっただろうな?」
栄一,「だいじょうぶだって」
京介,「職員室でよけいなことをしてきてないだろうな? たとえばノリコ先生の机を漁るとか」
栄一,「し、してねえって」
京介,「お前な、ばれたら停学もありうるんだぞ?」
栄一,「信用しろよ」
不安が残るなあ……。
京介,「まあいい。明日が楽しみだな……」
栄一,「クックック、そうだな……」
セントラル街の雑踏に紛れながら、おれたちはほくそえむ。
明日の三時限目が体育だったな……。
花音の慌てふためく姿が目に浮かぶ。
栄一,「……ていうか、寒くね? 雪降るんじゃないのコレ?」
栄一は鼻をすすりながら、耳まで赤くして震えている。
栄一,「帰るわ、カゼ引きそうだし……」
京介,「あ、ちょっと待て栄一」
せっかくセントラル街に来たんだし、聞いておくか。
京介,「お前さ、『坊や』っていうイベサー知ってるか?」
栄一は小首をかしげる。
栄一,「あー、いま超有名だよね。あいつらがやるイベントは当日チケット買えないって話じゃん。いまじゃ、どこのハコからも引っ張りだこだって」
京介,「幹部の名前って、わかるか?」
栄一,「なんか六人いるって聞いたよ?」
京介,「リーダーは?」
栄一,「あー、よく知らんね。たださ……」
京介,「ただ?」
栄一,「リーダーは人前には出ないんだって。普通、イベントやる前にはトップが挨拶するもんだけど、そういうのもないみたいだし」
京介,「誰も会ったことがないのか?」
栄一,「さすがに幹部は顔知ってるんじゃないかな? でもなんでそんなこと知りたがるの?」
京介,「いや、ちょっといま攻略中の女の子がクラブとか好きでさ」
栄一,「へー……京介みたいなチャラ男なら、オレに聞かないでも知ってるかと思ってた」
京介,「いやいや、サンクスな」
トップは人前には顔を出さない、か。
だが、六人いるという幹部なら、誰かが顔を合わせていることだろう。
なら、話は早そうだな。
権三の組織が、幹部の一人でも捕まえて問いただせば、トップについて口を割る。
権三にとっては、顔に泥を塗られたようなものだから、尋問は苛烈を極めるだろう。
おれの出る幕もなさそうだ。
栄一,「じゃあ、また明日なー」
京介,「おう、明日はちょっと遅れていくけどな。朝一で病院に行かなくちゃならないんだよ」
栄一,「え? 精神科とか?」
栄一は冗談で言う。
京介,「そうそう……」
けれど、おれは、本当にその手の人間に会いに行っている。
栄一,「いいなー、京介は、オレもいっぱい孕ませたいぜー」
産婦人科に行くのだと、勘違いしているようだ。
栄一は、今度こそ駅のほうに足を向けていった。
あいつも、外見だけなら天使のようにかわいいんだがな……。
京介,「…………」
さて、頭を切り替えるか。
おれは二つ三つ、電話をかけながら、カイシャのことを考える。
表の看板を掲げている以上、警察の目を欺くためもあって、おれは非合法な仕事に手を染めていない。
ホテルやスナック、バーやクラブなどに、つまみやおしぼり、氷、トイレットペーパー、観葉植物や調度品の絵画などを納品する。
一つ一つの商品は小さいが、まとまると大きな利益になる。
このセントラル街は若者の街として発展が著しい。
浅井興業のようなフロント企業にとっては、利権の宝庫といえる。
セントラル街では、浅井興業が最も多く利権を獲得しているが、近頃は関西の組織が再び目をつけ始めているから、用心しなくてはな。
京介,「……ええ、業界全体の売り上げは、市場がいわゆるあなた方の言葉でいう『混み合っている』ほうが伸びるものですから、あまり、小谷商事さんを潰しすぎるのもよくないんですよ」
……他に、なにか懸案事項があっただろうか。
京介,「ええ……私の父は怪物と恐れられていますが、浅井興業はモンスターじゃありませんから。全てを滅ぼして喜ぶのはコンピューターゲームのなかの魔王くらいでしょう」
……そういえば、白鳥水羽だったな。
京介,「はい、いつもありがとうございます。それから別件ですが……」
……白鳥も、おれみたいなガキがヤクザの下で働いていると知って軽蔑しただろうな。
いわゆる堅気、まっとうな仕事をしている人たちは、皆、おれの存在を知ったとき驚きを隠せないようだ。
だが、暴力団がガキを使うのは珍しい話ではない。
若く、体力があり、無知で向こう見ず。
なにより、なにかしでかしたとしても法律が守ってくれる。
暴力の尖兵として、これ以上の人材があるだろうか。
少し違うのは、権三はおれをただの鉄砲玉にはしなかったということだ。
体を張る代わりに頭を使わせられた。
出会ったときから食べ物や着る物など、生活に必要なものすべてをとどこおりなく与えられ、学園にも通わせてもらった。
望むものはなんでも買ってもらうことができた。
ただし、おれにかかった金を、権三は逐一数字に残していた。
食費はもちろん、住まわせてもらった六畳和室の部屋代、机などの備品、流しっぱなしにしてしまった水道代からたった一枚のティッシュペーパーまで、生活のあらゆる出来事を金に換算させられた。
その額面に、さらに、とんでもない利率の利息をつけて返せと迫られるのだから、それはそれは頭を使わされたものだ……。
京介,「はい、それでは、失礼いたします……」
通話を終えて、ぼんやりと街灯の下にたたずむ。
世の中のほとんどのことは、金で解決する。
たとえばこのセントラル街。
街並みを眺めていると、金のかかっていない景色を見つけるほうが難しい。
飛び交う携帯電話、ブランド物の洋服を着た女、年末が近づくと工事を始めるコンクリートの路面……。
初冬の寒空すら、山王物産の息のかかったビル群に呑まれそうな勢いだった。
京介,「踏み潰してやる……」
ぼそりと言った、そのときだった。
ハル,「寒いすね……」
京介,「……っ!?」
いつの間にそこにいたのか。
宇佐美がおれの眼前に忍び寄っていた。
京介,「おう……宇佐美じゃないか、お前もけっこう遊んでるんだな?」
ハル,「あ、違います。昼間も言いましたけど、バイトです、バイトの帰りです」
京介,「へえ、なんのバイトしてるんだ?」
ハル,「それであの、ちょっとお願いなんすけど……」
京介,「人の話を聞かないヤツだな……」
……どうも好かん。
ハル,「あ、すいません。自分、よく人をダウンな気分にさせるみたいなんで。ダウナー系の界隈ではブイブイいわせてるほうなんで」
京介,「…………」
ハル,「いやあの、ホントは人ごみとか苦手なんすよ。背すじとか丸まっちゃって下見て歩いてるもんだから、歩道の白線とかずっと数えちゃうんすよ」
京介,「……だからなんだよ?」
ハル,「あ、果物屋です。自分、主にバナナ売ってます」
京介,「もういいよ、わかったよ、お願いってなんだ?」
宇佐美は軽く頭をかいた。
ハル,「携帯電話、貸してもらえませんか?」
京介,「携帯? 持ってないのか?」
ハル,「はい、自分、電話とか苦手なんで」
京介,「電話というか、コミュニケーションそのものが苦手みたいだな?」
ハル,「いやそれはないっす」
……身の程を知らない女だな。
ハル,「あの、バイト先に財布忘れちゃって、早く連絡しないとお店閉められちゃうと思うんで、すいません唐突で」
京介,「…………」
なんだか嫌な予感がするな。
このトリッキーな女なら、唐突にものすごい長電話をし始めたり、いきなりおれの携帯のメモリを調べかねん。
京介,「……ああ、悪いけどさ」
ハル,「はい?」
京介,「おれも、いま持ってないんだ」
ハル,「持ってない?」
宇佐美は心底意外そうに目を丸くした。
京介,「一時間くらい前に、落としちゃったみたいでさ。いま探してるところなんだ」
動物を思わせる純粋そうな目が、二度、三度と瞬いた。
ハル,「それは嘘だ」
京介,「……なに?」
宇佐美の視線が、ゆっくりとおれの目から右へ移ろっていく。
ハル,「寒いですよね?」
京介,「…………」
ハル,「わたしなんか、耳まで真っ赤です」
……なるほどな。
ハル,「けれど、あなたは左の耳しか赤くない。これはつまり、ついさっきまで、何かが右の耳に触れていたということだ」
……こいつ、妙に鋭いところがあるな。
京介,「わかったわかった。悪かった。ちょっと意地悪してみたかっただけなんだ。そんなに睨まんでくれよ」
ハル,「あ、いえいえ、自分も冗談です。右の耳だけ寒さに強い体質なんで、とか言われたらギャグで終わってるところでした」
京介,「……ごめんな」
使い慣れた薄っぺらい笑顔を作った。
ハル,「……いえいえ」
宇佐美も気味の悪い笑みを浮かべた。
携帯を差し出すと、宇佐美はすぐさま電話をかけ始めた。
ハル,「あ、バイトの宇佐美です……ええ、さらさらロングヘアの宇佐美です、店長まだいらっしゃってたんですね、よかったっす……」
また、やる気のなさそうな態度に戻ってしまった。
つくづく、変わった女の子だな……。
周りにいる人間を落ち着かせない天才というか……。
それとも、おれだけか?
宇佐美に見つめられていると、心の奥底まで見透かされるようだ。
ハル,「あ、どうも、終わりました」
京介,「おう、財布あったか?」
ハル,「ありましたありました。店が終わって、バナナを冷蔵庫にしまうときに、落としちゃったみたいっすね。店長が拾っておいてくれましたよ」
京介,「どんくさいヤツだな……」
ハル,「バイトでもかなりどやされてますよ、自慢じゃないすけど」
また気だるそうに頭をかく。
ハル,「それじゃ、このたびはお手数おかけしまして……」
背を向けようとした宇佐美に言った。
京介,「本当は、なんのバイトしてるんだ?」
ハル,「はい?」
宇佐美が振り返る。
少しうれしそうな顔をしているように見えるのは、おれの気のせいだろうか。
京介,「果物屋で働いてるってのは嘘だろう?」
……まったく。
ハル,「どういうことすかね?」
……なにが目的なんだ。
京介,「バナナは風味が落ちるから冷蔵庫に入れたりはしない。売り物ならなおさらだ」
……こいつはきっと、それを知っていてなお、おれにかまをかけてきている。
ハル,「あ、そうっすね。その通りっす。ばれちゃいましたか。浅井さんって、賢いっスね、なにげない会話のなかで嘘を見抜くなんて」
……ふざけたことを。
京介,「はは……まったく宇佐美は面白いヤツだなー」
……要するに、最初からおれに携帯を借りる用事なんてなかったということだ。
ハル,「あ、いやいや、ホントすいません、バイト先は内緒ってことで、ひとつお願いします」
……なぜ、おれに近づいてきたのだろうか。
ハル,「でも、せっかく浅井さんとたくさんお話できましたし、せっかくついでにひとつだけいいすかね?」
……きた。
京介,「ん? どしたー?」
……これが本題だ。
ハル,「いやたいしたことじゃないんすけど……」
直後、宇佐美はゆっくりと背すじを伸ばした。
ハル,「"魔王"、知らないか?」
京介,「は……?」
あまり聞きなれない単語に、耳を疑ってしまう。
けれど、宇佐美は凛々しいまでの顔つきで、おれを見据えてくる。
京介,「魔王って、なんだ? ゲームか?」
ハル,「ゲームといえば、ゲームかもしれない」
京介,「意味がわからんよ。ゲームの攻略ならネットで検索した方がいいんじゃないか?」
ハル,「インターネットで所在がわかるほど、簡単な敵じゃない」
京介,「敵……?」
ハル,「敵だ」
さきほどまでの、のらりくらりとした雰囲気がまったくない。
ハル,「わからないか?」
京介,「知るわけがないだろう」
ハル,「わたしは魔王を追ってこの街に来たんだ」
京介,「……本気で言っているのか?」
だとしたら、少々頭がおかしいとしか思えない。
ハル,「用件はそれだけだ」
京介,「え?」
ハル,「わたしは魔王を探している。それを、お前に知っておいてもらいたかった」
京介,「…………」
何も言い返せない。
だが、宇佐美の瞳には、決意を越えて、憎しみすら宿っている。
ハル,「邪魔をしたな……」
すっと踵を返すと、そのままセントラル街の雑踏に消えていった。
京介,「…………」
宇佐美が"魔王"とやらを探している。
誰か、特定の人物のことを指しているのか。
……なにかが引っかかる。
宇佐美はおかしな女だが、頭がきれることは間違いなさそうだ。
ではなぜ、そんな正気を疑われるような話を真面目に語るのか。
しかも、おれに……。
京介,「帰るか……」
考えがまとまるはずもなかった。
ただ、宇佐美ハル……自称勇者様だったな。
強きをくじき弱きをたすく、正義の存在。
そんな人間がこの世に一人でもいればぜひお目にかかりたいものだ。
冗談でも気に入らない。
おれは、勇者になるくらいなら魔王になりたい……。
;場転
;ノベル形式へ
;背景 繁華街2
富万別市、中央区のセントラルオフィスは夜の闇に沈んでいた。建ち並ぶ高層ビルは冷ややかさを備え、住民のいない街を見事に演出している。野犬やホームレスの類さえ、夜のセントラルオフィスを敬遠していた。一区画に、何百という数の有力企業のオフィスが顔を並べ、日中は、各界のセレブリティが出没する人気スポットとして脚光を浴びていた。一部の経済誌には、富万別市のセントラルオフィスは東京丸の内に次いで日本経済の根幹を担っているとの評価もあった。
その中心にそびえ立つ、ひときわ高い建物があった。地上五十階、地下六階の超高層タワービルである。富万別市の全景を睥睨するように設計されているのは、なかの会社の社風に通じるところがあった。それは、日本有数の総合商社、山王物産の本社ビルだった。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
眠りについたセントラルオフィスにあって、この商社だけは休みを与えられない。世界各地の駐在員からの情報を、二十四時間体制で処理しなければならないのだ。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
そのビルの最深部に"魔王"の姿があった。あるはずのない地下七階。隠された一室だった。山王物産の内部にありながら、一部のごく限られた社員にしか立ち入りを許されていない。存在すらも一般の人間には知らされていない部屋だった。万全の保安設備が敷かれていた。監視カメラに、金属探知機の類までが整っている。唯一の出入り口は地上一階への直通エレベーターのみである。有事には三重の強化ガラスが室内とエレベーターとを遮断するという念の入りようだった。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
染谷,「この部屋では、たとえ人が死んだとしても、秘密裏に処理されるのでしょうな」
ひとりの男が言った。ダブルのスーツに身を包んだ、中年の男。整った頭に若干の白髪が見える。胸につけた山王物産の社章バッジが薄暗い蛍光灯に鈍い光を反射させた。
染谷,「こんな時間に呼び出してすまないね。だが、私だって時間を割いているということを理解してもらいたい」
声は、痛烈な自負を含んでいた。男の名は染谷。専務取締役にして経営企画室室長という、社内では圧倒的な実力者だった。染谷の指図ひとつで日経平均が変動し、軽い一言で首をつる人間すらいた。
だが、"魔王"は、ただ憮然として部屋の壁に背を預けていた。
染谷,「君が、経営企画室の影のブレーンとして我々に意見するようになって、そろそろ一年になるかね?」
"魔王"はうなずきもせず、平然と構えている。
染谷,「はじめはどこの馬の骨かと思ったよ。社長の推薦とはいえ、設立八十年の歴史を誇る山王物産に、よそ者が紛れ込んでいるのだからね」
前置きが長いのは、商社マンとしての性なのだろうか。"魔王"は無感動に染谷を眺めている。
染谷,「たしかに、君の活躍は目覚しい。君のおかげで、我が社はそれまで寡占市場だった軍事産業に食い込むことができた。また、大幅な人員削減によっていわゆる大企業病からの脱却を計ることもできた。さらに……」
賛辞はいつまでも続くと思われた。だが、"魔王"はそのあとに続く染谷の本音を予期していた。"魔王"はついに重い口を開いた。
「私の力は、もう不要だとおっしゃりたいのでしょう?」
静かな声は核心をついていたようだ。染谷は、しばらく気圧されたように押し黙った。
「私の指図であなた方は動き、莫大な利益を得た」
染谷,「……あ、ああ」
「だが同時に、とても世間に公表できないような計画も断行してしまった」
染谷,「……我が社は、多くのリスクを抱え込んでしまったのだよ」
「私のせいで?」
染谷,「君の、その悪魔的な頭脳のせいで、だ」
染谷の唇が震えた。"魔王"は知っている。染谷がいかに巨大商社の権力者であろうとも、それは社内における権力にすぎないということに。"魔王"が提唱してきた犯罪行為の前では一介の素人にすぎないのだ。
染谷,「率直に言おう。南米に飛んでもらいたい」
「暖かいですな」
"魔王"は薄く笑った。染谷は取り繕うように言った。
染谷,「そこでしばらく身を隠して、ほとぼりが冷めるのを待ってもらいたいのだ」
「暖かいですな」"魔王"は二度、繰り返した。
染谷,「そう、暖かい場所だよ。現地では、豪勢な社宅を用意してある。苦労はさせないつもりだ……」
"魔王"はゆっくりと首を振った。
「違います」
染谷,「な、なにが、違うのかね?」
「あなたが温室育ちだと言いたいのですよ」
染谷は舌を噛んだような表情になった。
「私を本当に邪魔だというならば、もっとやり方があるでしょう」
染谷,「やり方、だと?」
そのとき、直通エレベーターの扉が開いた。白衣の男が入ってきた。染谷の口元が歪んだ。救いを求めるような目で、男を迎え入れる。
染谷,「紹介しよう。こちらは桑島君……」
二十代半ばの青年だった。色白で体も小さいが、目つきだけが異様にぎらついている。企業より大学の研究室にいそうなタイプだった。
染谷,「我が社の新しいコンサルタントだ。ボストンで勉強していたのを無理を言ってきてもらったのだ」
「私の後任というわけか」
桑島,「大学ではゲーム理論を学んでました」
桑島がハスキーな声で言った。
桑島,「"魔王"と呼ばれているそうですから、どんな方かと楽しみにしてましたが、意外とお若いんですね。ぼくは二十六ですが、ひょっとしてそれより下ですか?」
「ゲーム理論の専門家にしては、自分の情報をぺらぺらとしゃべる……」
桑島,「あなたのことは、染谷室長から聞いてますよ」
"魔王"は染谷を一瞥した。それだけで、染谷の顔に恐怖が広がる。
染谷,「く、桑島くんはすでに社内の人間だ。君のことを話してもかまわんだろう?」
「社内の人間? なるほど。山王物産ほどの大企業が、私のような得たいの知れない人間の手を借り続けるのは、居心地が悪いのでしょうな」
桑島,「覇権交代というわけですよ。山王はこれからぼくの手でクリーンに生まれ変わるんです」
過剰な自信に満ち溢れた言葉だった。"魔王"はこの手の尊大な若者が嫌いではなかった。かわいいぼうやだ……そう思って笑みをこぼした。
桑島,「なんだ、ぼくのどこがおかしいんだ?」
「君は秀才であるのかもしれない。だが、実績はまだないのだろう?」
桑島は鼻を鳴らした。
桑島,「いいか、企業戦略は理論だ。実績なんてあとからついてくる。最新の理論を持つぼくが、華々しい功績をあげるであろうことは、すでに数値的には証明されているんだ」
「頼もしいな……」
"魔王"はゆっくりと、桑島のそばに歩み寄った。
「ひとつ、ゲームをしよう」
桑島,「ゲーム?」
「君が勝てば、私は潔く身を引こう。採用試験と受け取ってもらってもかまわない」
桑島は語るに落ちたと言わんばかりに、笑みを作った。
桑島,「いいでしょう。で、どんなゲームですか?」
"魔王"は不意に、左手を桑島の目の前に突き出した。五本の指を伸ばし、手のひらを向けている。
「君も同じように指を広げてくれ」
桑島は言われたとおりに左手を差し出した。
#text_off
「ここに、私と君の分を足して十本の指がある」
桑島,「"魔王"といえども、指は五本なのですね」
桑島はせせら笑うが、魔王は静かに言った。
「ルールは簡単だ。これから我々は交互に、空いている右手を使って、この十本の指を折っていく」
桑島,「逐次手番ゲームですか。かなりの得意分野ですよ」
「自分の番が来たら、指を二本折ってもいいし、一本折ってもいい。ただし、指は私と君のを交互に折らなければならない」
桑島,「一本、あるいは二本ですね。最終的に、最後の指を折ったプレイヤーが勝ちというわけですか?」
「察しが良いな。なにか質問は?」
その瞬間、桑島は低く笑った。笑いを噛み殺したいのだが、相手が愚か過ぎて耐えられないといった様子だった。
#text_off
桑島,「提案ですがね、魔王」
「なにかな?」
桑島,「ぼくが先攻でいいですか?」
"魔王"はうなずいた。了承の意を得た桑島は、よりいっそう口角を吊り上げた。
「その代わり、私からも提案だ」
桑島,「なんでもどうぞ」
「各プレイヤーに与えられる制限時間は二十秒としようか」
桑島,「二十秒? 十秒もいりませんよ」
「十秒でいいのか?」
桑島,「ええ」
「本当に?」
桑島,「しつこいな。さっさとやりましょうよ」
#text_off
"魔王"と桑島は向かいあった。お互いに左手の手のひらを向かい合わせ、指を伸ばす。
桑島,「では、ゲームを開始しますよ。ぼくが先攻でしたね」
#text_off
言いながら、桑島は自分の親指を右手で折った。
桑島,「まずは一本ですね」
この場合は、"魔王"の小指を折ったプレイヤーの勝ちとなる。
#text_off
"魔王"は自分の親指を折った。さらに桑島の人指し指も折る。
「君の番だ。制限時間は十秒だったな」
桑島,「ふん……」
#text_off
桑島は余裕の表情で、"魔王"の人指し指を折った。
「一本でいいのかな?」
桑島,「ええ。ぼくの勝利は決まっていますから」
#text_off
"魔王"は次も指を二本折った。桑島の中指と自らの中指の順である。直後、桑島が吹き出した。
桑島,「笑わせないでくださいよ、"魔王"」
「どうした?」
桑島,「これは、いわゆる先に十と言ったもん勝ちのゲームだ。必勝法は、中学生でも知っていますよ」
笑いに痙攣する指で、桑島は自分の薬指に触れた。
桑島,「ぼくのこの薬指は、ゲームにおける七番目の指です。このゲームは後ろから解いていけばいいのです。自分が十本目を折るためには、七本目を折れば勝利が確定します」
「ほう……」
桑島,「七を折るためには四を、四を折るためには一を。つまり、先攻を取ったプレイヤーが必ず勝つんですよ」
"魔王"は黙って桑島の解説に耳を傾けていた。
桑島,「なぜならぼくが七本目の指を折った場合、"魔王"は八本目のみ、あるいは八本目と九本目の指を折ることしかできませんからね。"魔王"が八本目のみを折った場合、ぼくは九、十と。"魔王"が八本目と九本目を折った場合、ぼくは十本目を折ることができます」
#text_off
桑島は、そこで、ようやく七本目の指――自分の薬指を折った。
「君の語りが長いので、制限時間はとっくに過ぎてしまった」
"魔王"は冷静に言った。
「君の負けだと言いたいところだが、一度は許そう」
桑島,「さすがは"魔王"。寛大な処置をありがとうございます」
「だが、二度はない。ゲームを続ける」
桑島,「ゲーム続行ですって? ぼくの説明が理解できなかったのですか?」
残る指は、三本。
八本目――"魔王"の薬指。
九本目――桑島の小指。
そして十本目――"魔王"の小指である。
桑島,「あなたは馬鹿ですか? ぼくが七本目の指を折った以上、どうやったって、あなたの負けなんですよ?」
「勝負というものは、最後までわからない」
#text_off
"魔王"は自分の薬指を折った。次に、桑島の小指に手をかける。
桑島,「……わからない人だな。染谷室長、これでぼくを認めてくれますよね?」
桑島が約束された勝利に酔い、染谷に媚びたその直後だった。
桑島,「――いっ!!!」
突如、桑島が鋭く鳴いた。なにが起こったのかわからないのだろう。けれど、驚愕の表情は徐々に苦悶の色を帯びてきた。
#text_off
桑島,「ひ、ひぃっ、な、なにをっ!?」
狼狽する桑島とは対照的に、"魔王"はわずかばかりも動じた様子がない。
「綺麗に折れたろう?」
桑島,「……う、ああ」
「実際に経験したことがあればわかるだろうが、小指が折れても、さほど、苦痛はないものだ」
桑島の顔は蒼白になっていた。自分の指がありえない方向に曲がっている。研究畑の桑島にとって、信じられない衝撃だったに違いない。
"魔王"は、たしかに指を折ったのだ。
「さて、君の番だ。制限時間は十秒でいいんだったな?」
桑島の返事はなかった。膝を折り、なすすべもなく痛みに震えていた。
「どうした? 二度はないと言ったはずだぞ。十本目、私の小指を折れば君の勝利ではないか?」
桑島,「た、助けて……!」
もはや桑島の頭に、ゲームのことなど欠片もないようだった。
勝負はあった。"魔王"は腕を下ろし、眼下にひざまずく弱小動物のような男に言った。
「君が戦略家として使い物になるかどうかは、初手で見極めがついていた」
"魔王"は勝ち誇るでもなく、続けた。
「君の言うとおり、このゲームは、先攻を取った者が必ず勝つゲームだ。誰でも知っているが、誰でも知っているからこそ、裏を読まなければならなかった」
手の甲を額に当てながら、桑島の顔は激しく歪んでいた。敗北を悟っているのだ。
「君はまず、初手で私の親指をへし折るべきだったのだ。小指と違って親指はかなりこたえる。だから私は二十秒の制限時間を提案した。指を骨折した苦痛と衝撃に耐えるのに、二十秒程度の時間が欲しかったのだ」
桑島,「そ、そんな……なんのためらいもなく人の指を折るなんて……」
「なんのためらいもなく人を傷つけることができなければ、企業戦略家は務まらない。我々の一言で、会社が倒産し、一家が離散し、自殺する。まともな常識のある人間にとっては、抵抗感のある仕事だ」
そのときになって、"魔王"は染谷を見た。染谷は置物のように部屋の隅に棒立ちになっていた。
「染谷室長、おわかりか?」
染谷,「……う、うむ」
染谷の額に脂汗が滲んでいた。いまさらながらに"魔王"の恐ろしさを思い知ったようだ。
「私が邪魔者で、企業にとって不必要だと判断したのならば、南米に飛ばすなどという暴挙はやめたほうがいい」
「…………」
「それは非常に手ぬるい選択だ。なぜなら私にはまだ、この会社を使ってやるべきことがある。私が会社にもたらした利益に見合うだけの報酬を受け取っていない。不当な扱いを与えられるのならば、私は全力を持って山王物産に復讐するでしょう」
染谷,「わ、わかった……」
染谷はうろたえながら両手を挙げる。"魔王"は詰め寄った。
「あなたはおっしゃったでしょう? この地下室ではたとえ死人が出ても、秘密裏に処理されるのだと」
染谷,「わかったと言っているじゃないか……」
「私を殺しなさい。それが一番確実ですよ」
染谷,「や、やめてくれ!」
"魔王"は人間がどうすれば従うのかを熟知していた。"魔王"はなんのためらいもなく人を傷つけることができる。けれど、染谷や桑島にはできない。こういう決定的な差を見せつけてやるのだ。偉大なる暴力の、その圧倒的な支配力を……。
染谷,「悪魔め……」
染谷の皮肉は、"魔王"にとって賛辞に過ぎなかった。
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;黒画面
臨床心理学のカウンセラーと呼ばれる連中に捕まると、ちょっとやそっとじゃ解放してもらえない。
端的にいうと、心に問題の少しもない人間などいないからだ。
先生方は、おれから言わせれば、ただの"不満"にすぎないことに、ご大層な病名をつけたがる。
幸いにして、おれはまだ病院送りにはされていない。
だが、一時間に五千円のカウンセリング料は高すぎる。
本を読めばわかるような説教でお茶を濁すだけで金が入る。
魔法のようにぼろい商売だ。
京介,「また、昔の話を申し上げればよろしいんですか?」
オフィス街のビルの五階にフロアを構える臨床心理研究所。
待合室を抜けた先にあるカウンセリング室で、おれは担当の先生と向かい合っていた。
十五坪以上の幅広いスペースに、ゆったりとしたリラクゼーションソファ、明るい色調の風景画、茶系で統一された書棚や調度品が整えられている。
さりげなく流れる落ち着いた音楽からも、患者の心を癒す目的があるのはあきらかだ。
秋元,「もう、十回目くらいになるかな?」
穏やかな口調の秋元さんは、ふくよかな体を白衣につつみ、いつも暖かいまなざしを注いでくる。
秋元氏のプロフィールは、複数出版されている本の巻末で確認済みだ。
写真では一見して白い子豚といった印象の男も、アメリカ留学経験を武器に、都内有名大学の非常勤講師と大学付属病院の精神科顧問を勤める相当なエリートだ。
秋元,「京介くん、いまだからこそ、本当のことを話すけれどね」
前置きが長いのは、もはや愛嬌と受け取れるほどに慣れてしまった。
秋元,「一年前くらいかな。ちょうど、君が初めて私のもとを尋ねてきたときだね。正直なところ、私は君の話を半信半疑に聞いていたんだ」
京介,「そうですか」
秋元,「君は、なんと言ってきたんだっけ?」
自分がわかっていることを、何度も患者自身に話させるのが秋元氏の仕事らしい。
京介,「僕は、僕と同世代の青年と比べて、どうやら価値観が違うようなのです」
京介,「みんなは、人を信じ、偉い人物を尊敬し、友人を助け、親を敬えと言っています。けれど僕はそうは思わない」
京介,「人の心はお金で買える。誰もが利益で動き、自分のことだけを考えているのだと」
秋元氏は脂肪にたるんだ首を深く縦に振った。
秋元,「人間には、誰しも良い自分と悪い自分が共存しているんだよ」
秋元,「幼児は犬猫をかわいそうだと思って拾ってあげる優しい一面と、蛙の口に爆竹を入れるような残酷な一面も持ち合わせているよね?」
秋元,「けれど、成長して情緒が整ってくると、悪い自分を理性で抑えられるようになる」
秋元,「君はいままで、例えば人を殴ってやりたいとか思ったことはないかい?」
京介,「ありますね。返すあてもなく金を借りるヤツなんて、殺してやりたいとすら思います」
秋元,「けれど、実際には殺さない……そうだよね?」
京介,「はい」
また満足そうにうなずいた。
秋元,「うん、ここが境目なんだ。君が人格障害を持つ患者ではないことを示す、ボーダーラインなんだ」
京介,「僕としては、ただの思春期の悩みにすぎないことだとも思うのですが……?」
秋元,「アメリカのとある大学教授がね、思春期におけるホルモンバランスの変化が、いわゆる不良少年を作り出す原因ではないということを実験で証明しているんだ」
京介,「けれど、実際に僕は不良少年と呼ばれても仕方がないようなことをしています」
秋元氏とは権三の紹介で知り合った。
だから、秋元氏はある程度、浅井興業でのおれの立ち位置を知っている。
秋元,「つまり、君が人の心は金で買えると思うようになってしまったのは、それなりの理由があるということだよ」
京介,「それなりの理由とは?」
秋元,「それを、いまからじっくりと探っていこうじゃないか」
京介,「はい……」
本当に、ぼろい商売だな……尊敬してしまう。
おれが金を払ってカウンセリングを受けるのには、もちろん、理由がある。
秋元氏のように精神科医の資格を持つ人間に"ある証明書"を書いてもらい、それなりの手続きを踏む。
すると、出席日数や必須単位などの、学園を卒業するために必要な条件が大幅に緩和されるのだ。
よく学園をさぼり、授業もまっとうに受けていないおれにとっては、とてもありがたい話だ。
当然、金はかかるが、おれは時間を買っているという感覚で、ひと月に一度ほど、ここを訪れることにしている。
もちろんおれは、秋元氏が疑うような人格障害なんて持ち合わせちゃいないが……。
秋元,「じゃあ、今日は、君がいまのお父さん、浅井権三さんに引き取られたいきさつについて、聞いてみてもいいかな?」
京介,「長くなってしまいますが、かまいませんか?」
秋元,「うん。ゆっくりで、かまわないよ?」
壁にかかった時計を見る。
あと十五分で一時間だ。
かいつまんで話さなければ延長料金を取られるな……。
京介,「簡単に言うと、僕の前の父が借金をしていたからです」
負債総額は五千万だったか……。
主な債権者は銀行やノンバンク、消費者金融だったが、まずいのは、権三の組とかかわりのある闇金にまで金を借りたことだった。
おれと母と父は、権三の組のチンピラに激しいプレッシャーをかけられた。
もともと抵当権のついていた一戸建ての家からは、家具、家電などがすべて持ち出され、物という物がなくなった。
いまでこそわかるが、そういった押収品はバッタ屋と呼ばれる小売業者が叩いて買ってくれるのだ。
京介,「母は病気がちでしてね。ベッドがないので、よく冬服を敷布団にして寝ていました。しかし、当時の僕が考えているほど、信用貸しというのは甘い生き物ではありませんでした」
たしかに、暴力団新法で、警察が民事に介入できるようにはなった。
被害者の会と呼ばれる対策コミュニティもあるし、インターネット上には、闇金の手口が事細かに掲載されている。
が、そんなもの、連中は屁とも思っていない。
一つ潰されればまた次が、それも潰されればまた新しい金貸しが、いくらでも兵隊を送り込んでくる。
一時期流行った自己破産など、破産を申し立ててから免責が決定するまで一年近くの時間を要する。
その間に、身柄を抑えられれば終わりだ。
自宅、実家、知人の家、近郊のホテル、タクシー会社、新聞の販売所、日雇いの工事現場……。
カモに逃げられるのは、恥以外の何者でもない。
面子というものを異常なまでに気にする連中は、執拗に追い込みをかけ、獲物を必ず捕まえる。
京介,「母の実家に逃げていた僕らは、あっさりと捕まりました。北海道にまで追いかけてくるとは、本当に驚きました」
京介,「やつらは母にまで手を上げようとしました。それをかばって、顔が曲がるくらい殴られました」
京介,「それからですね浅井権三とのつき合いが始まったのは」
再び時計を見る。
そろそろ一時間経つ。
学園にも行きたいし、とっとと退散するとしよう。
秋元,「なるほどね。よくわかったよ」
京介,「そうですか、では……」
秋元,「もう終わりにするかい?」
京介,「ええ、ちょっと用事もありますし」
秋元,「わかったよ。ただ浅井くん……」
秋元氏は柔和そうな目尻をいっそう下げた。
秋元,「いまの話だけで君という人間を理解するには、少々難しいね。たとえば、浅井権三さんはどうして債務者の息子である君を養子にしたんだい?」
京介,「先生、すみません、時間が……」
秋元,「ああ、いいんだよ。少しくらい。君が、いつも一時間きっかりで帰るのは知っているからね。お金を気にしているんだろう?」
……さすがに、人相手の商売をしているだけあって、見る目はあるようだ。
京介,「……では、もう少しだけ」
秋元,「ありがとう」
おれはため息をついて言った。
京介,「モノになる、と言われたんです」
秋元,「権三さんに?」
京介,「チンピラにぼこぼこにされても、怯えた様子がなかったそうです」
秋元,「度胸が据わっていたんだね」
京介,「何も考えていなかっただけでしょう」
秋元,「なんにしても、ヤクザに見込まれるなんて、たいした男だよ、君は」
……暖かい人だな。
いままで何度か、こういう人に出会った。
けれど、おれは何も感じない。
立派な人など、何も信用できない。
大学の講師や病院顧問の肩書きがあるエリートだろうと、金は要求する。
いまのように、時間がきても少しくらい料金をまけてくれることはある。
しかしそれも、余裕を見せて相手を懐柔させようとする手口なのではないか。
おれは動機に利害関係がなければ納得しない。
たとえ腹の底が知れても、わかりやすいほうについていく。
だからおれは浅井権三の息子になったのだろう。
あれほどわかりやすい悪漢は、そういない。
京介,「権三は暖かい部屋と毎日三食の飯を与え、中学校を卒業させてくれました」
京介,「僕が将来は商社で働きたいといえば、金持ちだけが通える専門の学習塾に通わせてくれましたし、体を鍛えたいと言えば、ボクシングのコーチを紹介してくれました」
京介,「しかし、それは、もちろん、親心とか善意とかいう類のものではありませんでした」
京介,「権三は、僕にそういったことをしながら、いつも最後には必ずこう言うのです」
京介,「『いいか、京介。俺がお前にモノや金を与えるのは、お前を俺の手駒にするためだ』」
そのとき秋元氏の顔が一瞬だけ翳った。
京介,「『いつかお前が俺の寝首をかこうと思ったとき、一瞬でも迷いが生じるように仕向けているのだ』とね」
秋元,「……噂には聞いていたが、強烈なお父さんだね」
京介,「わかりやすくていいと思いませんか?」
おれの問いに、返事はなかった。
京介,「それでは、そろそろ……」
秋元,「ああ、最後にいいかな?」
京介,「なんです?」
秋元,「君は、友達なんかから、よく忘れっぽいと、言われたりしていないかな?」
おれは眉をひそめる。
京介,「……友達との約束をすっぽかすことはありますね」
秋元,「そう」
いままで一番深くうなずいた。
京介,「なにか?」
秋元,「いや、君のように忙しい若者なら、うっかりすることもあるのだろうね」
明らかに、本音を隠している言い回しだった。
だが、こうやって、次回へのつなぎを作っておきたいのだろう。
秋元,「じゃあ、次回、また都合がついたら連絡をください」
京介,「今日も、本当にありがとうございました」
腰を上げ、退室する。
;黒画面
廊下の受け付けで料金を払ったとき、不意にめまいが襲ってきた。
京介,「…………」
気持ちを切り替えていこう。
;背景 学園校門 昼
……おれが忘れっぽいだって?
恨みだけは忘れんよ。
おれの命の次くらいに大切なバッハの新譜を、ノリでキズモノにされた恨みだけは。
花音め……思い知るがいい。
;背景 屋上 昼
花音,「兄さん聞いてよ聞いてよーっ」
登校したときには、すでに昼休みの時間だった。
花音が、口をへの字に曲げて騒いでいる。
花音,「バレーボールできなかったんだよー」
どうやら、計画はうまくいったようだ。
京介,「え? なんで?」
笑いをこらえながら聞いた。
椿姫,「なんだかね、体育用具室の鍵が無くなっちゃったみたいなの」
花音,「もー、ホント、どこやっちゃったんだよー!」
鍵はすでに学園の業務用の郵便受けに入れておいた。
栄一,「そっかー、それは残念だったねーっ」
栄一も邪な目を輝かせていた。
ハル,「けっきょく、マラソンになったんすよね。この寒空のなかマラソンとか、思わず転校してやろうかと思いましたよ」
京介,「なんだ、宇佐美も楽しみにしてたのか?」
ハル,「あ、いえ。自分、基本スポーツ苦手なんで。バレーボールみたいなボール関係は特に」
京介,「球技というより、集団競技そのものが苦手そうだな」
ハル,「いやそれはないっす」
……身の程を知らない女だな。
椿姫,「でも、花音ちゃん、今度の体育の時間に延期になっただけだから」
花音,「のんちゃん、来週から三日間合宿だもん。ガッコ来られないもん」
京介,「残念だなー」
栄一,「残念残念っ」
おれは栄一と顔を見合わせて、勝利の余韻を味わった。
栄一,「しっかし、誰が鍵を隠したんだろーなー」
……っ!
おれが驚きに言葉を失ったのと、宇佐美が口を開いたのはほぼ同時だった。
ハル,「どういうことすか?」
けれど栄一はいまだにニタニタしたままだ。
栄一,「いや、だから、あの鍵を盗んだのは誰なんだろうなーって」
ハル,「盗まれた?」
栄一,「うんうんっ」
ハル,「盗まれたなんて誰も言ってないっすよ」
栄一,「え?」
まずい、な……。
ハル,「なんで盗まれたと思ったんすか?」
栄一,「え? い、いや、な、なーんとなく……ハハハ」
花音,「んー?」
椿姫,「え? 宇佐美さん? 栄一くん?」
宇佐美は栄一に詰め寄る。
ハル,「エテ吉さん」
栄一,「え、栄一だって」
ハル,「エテ吉さんは、体育用具室の鍵を実際に見たり使ったりしたことはありますか?」
まずい……まずいぞ。
栄一,「鍵? 見たことなんて……ないよー。鍵なんて先生が持ってるもんだからねー」
ハル,「なら、さっきはどうして『あの鍵』って言ったんですか?」
栄一,「へ?」
ハル,「言いましたよね? 『あの』鍵を盗んだのは誰なんだろうなーとか」
ハル,「普通は『その鍵』って言いませんかね? 実際に見たこともなくて、話に聞いただけのモノに対して、『あの』とか、使いますかね?」
栄一,「そ、それは、言葉のアヤってヤツじゃない……?」
花音,「エイちゃんが盗んだのかー!?」
花音が腕を振り上げた。
栄一,「ちょ、ちょっとボクじゃないよー!」
椿姫,「か、花音ちゃん、落ち着いて!」
ハル,「…………」
花音,「待てーっ!」
栄一,「あ、あわわっ!」
逃げる栄一、追う花音。
ハル,「浅井さん」
宇佐美がいつの間にかおれを見つめていた。
ハル,「昨日はども」
京介,「おう……」
……嫌な予感がする。
ハル,「聡明な浅井さんは、どう思います?」
京介,「いや、おれ聡明じゃないし……」
まさかこいつ、おれのことを疑っているのか?
ち……。
この計画は、疑われないこと、容疑者を絞られないことが、最大の利点なんだ。
それを栄一のボケがあっさりとボロを出しやがって……。
ハル,「これって、ばれたら、シビアにまずいですよね?」
京介,「そうだな……もし、栄一がやったんだとしたら、停学になったりしてなー」
ハル,「ですよね、うちのクラスだけじゃなくて、この学園全部の体育の授業で用具室が使えなくなってしまったんすから」
京介,「…………」
ハル,「ただ、エテ吉さんって、邪悪な心の持ち主ではありますけど、チキンはチキンだと思うんすよ。スライムですし」
……やはり、おれを疑っている。
バレれば停学。
小悪党の栄一は、そんな危険を冒さない。
京介,「なんだよ、おれが、共犯だとでも言いたいのか?」
宇佐美の口元が吊り上がる。
ハル,「浅井さんには動機がありますからね」
京介,「ほー、どんな?」
ハル,「CDに傷つけられましたよね?」
ハル,「お返しに、花音が楽しみにしてたバレーボールが中止になったら、愉快じゃないすか?」
お見通しか。
京介,「待てよ、おれだって、チキンだって」
ハル,「そすかね?」
京介,「花音に復讐したいなら、花音だけをこらしめる手段を考えるって。学園全体が迷惑するような、そんなテロリストみたいなことするかよ」
ハル,「木を隠すなら森のなか、ていうかペンギンを隠すなら群れのなかと言います」
言わない。
ハル,「容疑者をしぼりこませないために、犯罪の規模を大きくする。なかなか手の込んだことをしてくれますね?」
京介,「だから、おれじゃないっての。おれのせいで今日の体育が潰れるなんて、ひどすぎるじゃねえか」
ハル,「今日の?」
……しまった!
ハル,「どうして『今日の』なんすかね? 明日になったら鍵は発見されてるんすかね? まるで鍵が今日中に見つかることがわかってるような発言じゃないすか?」
……いや、待て、言い逃れはできる。
京介,「さすがに明日も体育が中止になるなんてありえないだろ。学園だって対処するだろうさ」
京介,「だいたい、おれは鍵が今日中に見つかるなんて、言ってない。今日の体育が潰れると言ったんだ。妙な誘導はやめろよ」
宇佐美はまた小さく笑う。
ハル,「それはそうかもしれませんね」
京介,「わかってくれたか?」
ハル,「理解できないこともありませんが、まだまだ納得できるほどじゃない、と思いました」
しばし見つめ合う。
慌てることはない。
証拠はないんだ。
鍵もそろそろ見つかって、騒ぎも鎮火する。
栄一が夜九時に職員室にいたという証拠でもあがらない限り、この事件は闇に葬られる。
椿姫,「そろそろ休み時間終わるよ?」
京介,「ああ、寒いし、教室に戻ろうぜ」
椿姫,「花音ちゃんも、もういいじゃない?」
花音は栄一を捕まえてネクタイを引っ張っていた。
栄一,「う、うぐぐ、ボクじゃない、ボクじゃないよー!」
花音,「どうしてくれる! どうしてくれる!」
椿姫,「宇佐美さんも……浅井くんはみんなが迷惑するようなことする人じゃないよ?」
ハル,「私は正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると言いたいだけだ」
椿姫,「で、でも、お友達なんだし、疑っちゃダメだよ……」
ハル,「友達が間違っているのに、間違っていると言わないのは、悪だ」
合理的な女だな。
腹の底に不快感を覚える。
何者なんだ、いったい……?
ハル,「ていうか、椿姫、私のことは勇者と呼べと言ったろう!?」
なんか妙なところでキレてるし……。
椿姫,「ご、ごめんね、宇佐美さん」
ハル,「だから、ちげーだろうが!」
椿姫,「あ、あわわ……」
……昼休みが終わる。
;背景 教室 昼
五時限目の数学の授業中。
そろそろ授業が終わろうかというとき、クラス全体がどよめきだした。
あの熱血数学教師が、先日のテストを返却しはじめたからだ。
花音,「やったー、赤点免れたよー!」
バレーボールができなかったことも、すでに忘れているかのような明るい声が上がる。
椿姫,「浅井くん、どうだった?」
京介,「ぼちぼちかな……80点だったよ」
ハル,「自分、100点でした」
呼ばれてもいないのに、宇佐美が言い放った。
椿姫,「うわ、すごーい! 転入初日の試験だったのに……」
京介,「前の学園はうちより授業、進んでたのか?」
ハル,「…………」
なぜか、頬を赤らめた。
京介,「な、なんだよ、急に黙るなよ」
ハル,「ここで、まぐれだ、とか言うと、ちょっとかっこいいんじゃないかと思ってます……」
……気味の悪いヤツだな。
栄一,「あ、先生!」
不意に隣の栄一が手を上げた。
栄一,「先生、ここあってますよ!?」
とことこと可愛らしい足取りで、数学教師のもとへ向かう。
数学教師,「なんだ相沢……?」
栄一,「ここ、あってるのに、バツつけられてるんですよ」
数学教師,「お、すまんすまん。たしかにあってるな」
栄一,「ふー、これで、ぎりぎり赤点脱出ですよ」
数学教師,「もっと勉強しろっ」
舌を出した栄一に軽くゲンコツ。
そんなやりとりを見て、何も知らないクラスの女子が、かわいいーとか笑う。
数学教師は退室し、授業が終わった。
花音,「エイちゃん、ずるしたんじゃないだろーなー?」
栄一,「してないよ、もうー」
花音,「ホントかなー? 1を4に書き直したり、3を8に書き直したりしてないかなー?」
栄一,「花音ちゃん、いいかげん、ボクを信じてよー」
京介,「おい栄一、見せてみろよ」
五行にわたる数式に、バツの上にマルがつけられている。
採点ミスがあったのは、花音の言うような安易にごまかせるような箇所ではなかった。
ハル,「浅井さん、鍵が見つかったそうですよ」
京介,「急に話しかけてくるなよ」
ハル,「というわけで、自分、職員室に聞き込みに行ってきます」
京介,「なにが、というわけで、だ」
宇佐美は猿のようなすばしっこさで教室から出て行った。
栄一,「京介っ」
栄一が小声で話しかけてくる。
栄一,「だ、だいじょうぶなんだろうな?」
京介,「……あわてるな」
栄一,「でもよう。あの宇佐美って女はオレたちを疑ってるんだぜ?」
京介,「お前がこれ以上ヘタなことを言わなければ、ぜったいだいじょうぶだ」
栄一,「ば、バレたら停学だよな?」
京介,「栄一よー、コレが火サスだったら、お前ぜったいおれに殺されてるぞ?」
栄一,「く、口封じかよ!」
京介,「わかったな? 次に宇佐美になにか聞かれたら、狂ったフリでもしてごまかせ。とにかく何もしゃべるな」
栄一,「わかった。急に腹が痛くなることにする」
京介,「モロ怪しいが、もう怪しまれてるから、それでよしとする」
……宇佐美め。
おれの計画、見破れるものなら見破ってみろ。
;背景 教室 夕方
強い西日が教室に差し込んでいる。
本日最後の授業中、宇佐美はおれの前の席でじっとしていた。
ハル,「…………」
ぴくりとも動かない。
京介,「おい、宇佐美」
ハル,「…………」
京介,「おいっ、無視するなよ」
ハル,「犯行時刻がわかったんすよ」
背を向けたままぼそりと言う。
京介,「いつだ?」
ハル,「昨日、最後まで残っていた先生に聞きました」
京介,「ノリコ先生だな?」
宇佐美は軽くうなずく。
ハル,「昨日の夜八時半、バトミントン部の先生が部活で使用していた鍵を戻しにきたところまでは、体育用具室の鍵は確実に職員室にあったそうです」
おれが職員室に入ったのは夜九時だ。
京介,「ということは、鍵は、夜八時半以降になくなったということになるな。それで?」
ハル,「今日の朝一番にバトミントン部の先生が朝練習のために体育用具室を開けようとしたそうなんです」
ハル,「そのときには、鍵はもうなかったんです。昨晩八時半にはちゃんとあったはずの鍵が、朝には盗まれていた。どうしてでしょうね?」
京介,「とことん盗まれたってことにしたいんだな?」
ハル,「体育用具室の鍵だけがなくなっているんならともかく、マスターキーまでなくなっていたんです」
ハル,「昨日、マスターキーを使用した先生は誰もいないそうです。ずっと職員室にあったそうです」
なるほどな……マスターキーは紛失したというより、盗難にあったと考えるほうが自然だ。
ハル,「犯人は、間違いなく、体育用具室を使えないようにしたかったのです」
京介,「……そうなるな」
ハル,「犯行時刻は、昨日の夜八時半から十時までです。十時にノリコ先生が職員室に施錠をしましたから」
京介,「その間、職員室にはノリコ先生以外に誰かいたのか?」
ハル,「ノリコ先生の話を聞く限りでは、誰もいなかったそうです」
京介,「じゃあ、ノリコ先生が犯人なんじゃないかなー?」
すると、宇佐美はやや不機嫌な声を出した。
ハル,「ノリコ先生に限らず教師が犯人なら、犯行のチャンスはいくらでもあります。わざわざ自分しか職員室にいない時間を選んで鍵を盗む必要はありません」
……無駄だったか。
なにしろ動機がない。
体育用具室の鍵を盗んで、教師にどんな得があるというのか。
ハル,「浅井さんは、昨日の夜、なにしてたんすか?」
京介,「昨日の夜……?」
……これは罠だ。
宇佐美はノリコ先生に事情を聞いている。
ノリコ先生は、昨晩のことを話しているだろう。
ヘタに嘘をついたら突っ込まれる。
京介,「実は、栄一のことで、ノリコ先生と話をしてたんだ」
ハル,「聞いてます。何時ごろでしたっけ?」
九時過ぎ、と言いたいところだが、腕時計もしていないおれが時刻を正確に言い当てるのも若干不自然だ。
京介,「さあ、覚えてないな……八時くらいかな?」
ハル,「九時過ぎだったそうですよ?」
京介,「わかっているなら、聞くなよ」
ハル,「どうして、そんな時間に? ノリコ先生に用があるなら、もうちょっと早い時間でもかまわないでしょう?」
さすがに不審に思ったか。
ハル,「浅井さんは、放課後になるとマッハで帰ることで有名みたいじゃないすか?」
京介,「栄一のプライベートなことだから、ノリコ先生以外の誰にも聞かせたくないし、見られたくなかったんだ」
ハル,「六時でも七時でもよかったじゃないすか? それぐらいの時間なら誰もクラスに残っていないでしょう?」
京介,「教室にクラスメイトは、いないな。だが、職員室には、他の先生が残っていた」
そこで、宇佐美が、少し黙った。
ハル,「まあいいっす。浅井さんは、友達想いらしいすからね」
かわしたが、問題は次だ……。
ハル,「問題は、エテ吉さんの机ですよ」
やはりそこを突いてきたか。
ハル,「なんかノリコ先生への愛の詩が書かれていたはずだったとか?」
京介,「ああ、そのはずだったんだが、な」
ハル,「でも、自分、エテ吉さんが、机に落書きしてるのを見たことないすよ?」
京介,「お前は転入してきたばかりだからな」
ハル,「はい。そうだと思って、他の人にも聞いてみましたが、やっぱり見たことないとみなさんおっしゃります」
……やむをえないな。
京介,「わかったよ。実は作り話なんだ」
ハル,「……そうきましたか」
なんとでも言え。
京介,「おれはとにかく、栄一とノリコ先生をくっつけたかったんだよ。だから、嘘でもいいから、栄一がノリコ先生を想っているってことにしたかったんだ」
ハル,「浅井さんらしくないすね」
京介,「なにがだ?」
ハル,「浅井さんなら、もっとうまくやるでしょう? 落書きを実際に書いておくとか、いろいろできたはずです」
……その通りだ。
京介,「お前はおれをかいかぶってんだよ」
まさか、ここまで追求を受けるとは思わなかったな。
まあいい……ミスはミスだが、致命的なミスではない。
ハル,「なんにせよ、自分、こう思ってます」
宇佐美が後ろを振り向いた。
ハル,「あなたはノリコ先生を教室までおびき出したんです。そのすきにエテ吉さんが職員室に忍び込んで、鍵を盗んだんです」
正解だが……。
京介,「ふう……困ったな」
おれは余裕の笑みを浮かべる。
京介,「そこまで言うんなら、なにか証拠でもあるんだろうな?」
宇佐美が押し黙る。
京介,「おい、どうした? 推理ごっこもそのへんにしておけよ」
直後、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
その音に弾かれるように、宇佐美が不意に立ち上がった。
ハル,「証拠すか……」
クラス中の視線が、宇佐美に集まる。
宇佐美の顔は、少女とは思えないほど凛々しく、覇気に満ち溢れていた。
ハル,「もちろん、ある」
栄一,「えっ?」
椿姫,「なに?」
ハル,「昨日の夜、エテ吉さんが、職員室にいたという証拠が」
京介,「な、に……?」
まさか栄一が、夜の校舎を徘徊している姿をうっかり誰かに目撃されたのか?
……いや、いくら宇佐美がかぎまわっていたのだとしても、さっきの休み時間だけで目撃者を探し当てられるとは思えない。
……では、なんだ?
ハル,「エテ吉さん」
栄一,「え? え? ぼ、ボク、なにも知らないよ!?」
ハル,「ちょっといいすかね?」
栄一,「あ、お、お腹が! うああ、持病の盲腸がっ、あああっ!」
猿芝居が始まる。
椿姫,「え、栄一くん! だいじょうぶっ!?」
騙されるのは椿姫だけ。
花音,「なになにどうしたのー?」
水羽,「…………」
花音だけじゃなく、白鳥まで騒ぎを遠巻きに見ている。
栄一,「い、いたいいたいっ、痛くて、ボク、なにもしゃべれないよー!」
ハル,「…………」
宇佐美は、栄一にはかまわず、栄一の机のなかを漁り始めた。
京介,「おい、なにをして……?」
ハル,「ありました」
宇佐美が掲げたもの。
それは、さっき返してもらった数学のテストの答案用紙だった。
ハル,「これが、証拠です」
おれは目を凝らして栄一の答案を調べる。
そして、背筋に戦慄が走るのを自覚した。
ハル,「気づきましたか?」
なんてことだ……。
ハル,「やはり、浅井さんは聡明すね」
なぜ、さっき気づかなかったのか!
ハル,「エテ吉さん、この問題、本当は間違えていたんでしょう?」
栄一,「え、えっ? どういうこと?」
花音,「うさみん、そこは、採点ミスだったんじゃないの?」
ハル,「違う」
きっぱりと言い切った。
ハル,「これは、本当に間違っていた。エテ吉さんが、正解に書き直したんだ」
花音,「答案を返してもらったときに、答えをずるして直したっていうの?」
椿姫,「そ、そんなことしないよ、ねえ、栄一くん?」
栄一,「し、してないよ!」
そのとき、意外な声が上がった。
水羽,「してないわ。私、見てたもの」
言いながら、おれに視線を投げる。
白鳥は、栄一の右、おれより三つ離れた席に座っている。
栄一を見てたというより、栄一の隣の席のおれを見ていたと言いたいのか?
水羽,「相沢くんが、へんなそぶりを見せていないことは確かよ」
けれど、宇佐美は首を振る。
ハル,「誰も、さっき書き直したとは言ってません」
水羽,「え?」
花音,「じゃあ、いつー?」
……ダメだ。
ハル,「昨日の夜九時過ぎ」
……この窮地。
ハル,「誰もいない職員室で」
……何か、策は?
ハル,「この答案をよく見てください。答えが直された箇所だけ、文字が崩れていませんか?」
花音,「あ、ホントだ。小さな穴も開いてるね」
椿姫,「で、でも、それが、なんなのかな? それでどうして栄一くんが昨日の夜に職員室にいたことになるの?」
宇佐美がうなずいた。
ハル,「知っての通り、テストというものは、必ず自分の机で答えを記入します。床や他人の机では書けません」
ハル,「けれど、エテ吉さんの机は、傷ひとつありません。綺麗なもんです」
ハル,「ならどうして、こんなに文字がぶれたり、紙が破れて穴が開いたりしているのか? おかしいと思ったんです」
ハル,「この答案は、別の場所、別の机か床で書かれたのではないかと」
ハル,「……どこで、書かれたのか?」
おれは、つい二日前のことを思い出す。
;背景 職員室 昼 セピア調
;// 上のほうのチャイム鳴ってたら流石にここで止めよう
……。
京介,「わかりましたよ……やれやれ……」
鉛筆を握り問題に向かう。
京介,「ええと……ここがこうだから……」
数学教師,「浅井なら簡単だろう?」
おれの挙動を探るようにじっと見つめてくる。
京介,「そんな見ないでくださいよ……って、あっ!」
数学教師,「なんだ?」
鉛筆の芯が折れた。
京介,「なんだ、じゃないですよ、先生。この机ちょっとデコボコしすぎじゃないですかね?」
よく見れば、小さな穴がたくさん開いていたり、カッターでつけたような傷が無数にあったりした。
数学教師,「教師の机ってのは、使い込むもんなんだよ」
京介,「……んな熱血漢みたいなキャラ作んないでくださいよ。文字がぶれて、おまけに紙に穴まで開いちゃったじゃないすかー」
…………。
……。
;背景 教室 昼
ハル,「答えは、職員室の数学教師の机にありました」
くそ、栄一め……。
職員室でよけいなことをするなと言ったのに!
無駄だと思うが、聞いてみるか。
京介,「昨日の晩とは限らないだろう? おとといかもしれないし、日中にこっそり職員室に忍び込んで答えを書き直しておいたのかもしれない」
ハル,「あの熱血教師に聞きました。テストの採点は、昨日の夜八時くらいに終わったんだそうです」
ハル,「つまり、エテ吉さんが、自分の答案の得点を見ることができたのは、そのあとなんです」
自分の答えが間違っていると気づけなければ、正解に書き直すことは不可能だ。
椿姫,「で、でもでも、栄一くんが、職員室にいたっていうのは、たしかなことなのかもしれないけど、その場で鍵を盗んだとは限らないんじゃ……?」
栄一,「そ、そうだよ、ボクはやってない、それでもボクはやってないよ!」
ハル,「苦しすぎると思いませんか? 犯行時刻に、あなた以外の誰も職員室にいなかったんすよ? 鍵を盗めたのはあなたしかいないんです」
……終わりだ。
栄一,「ぐ、うぅうう……!」
栄一が、救いを求めるまなざしを向けてくる
京介,「……当然、おれも怪しまれるわけだな?」
ハル,「はい。エテ吉さんが職員室に忍び込んだ正確な時間は、ノリコ先生がエテ吉さんの姿を見ていない以上、浅井さんがノリコ先生をおびきだしていたときしか考えられません」
さすがというしかない。
栄一,「き、京介、おいっ!?」
京介,「お前の頭の程度を考えに入れておかなかったおれの負けだ」
おれはため息をついて首を振った。
栄一,「京介ぇえっ!」
栄一の怨嗟の声がざわめきだったクラスに響き渡る。
栄一,「ふざけんなこの野郎! オメーを信じてたのによー!」
京介,「うっさいわボケー! お前が全部悪いんじゃねえか!」
取っ組み合いが始まった。
栄一,「お前なんか神じゃない、クズだー!」
京介,「誰がクズかー!?」
花音,「に、兄さんっ!?」
椿姫,「ちょ、ちょっと、ケンカは……」
ハル,「醜い仲間割れが始まりましたね」
花音,「そ、そんな、兄さんが悪者だったなんて……」
水羽,「…………」
椿姫,「せ、先生呼んでくるねっ……!」
走り去る椿姫、唖然とする花音。
おれと栄一の乱闘はいつまでも続いた。
水羽,「宇佐美さん、あなたって、実は賢いのね?」
ハル,「…………」
水羽,「どうしたの? 赤くなってるわよ?」
ハル,「いや、こういうとき、証明終了、とか言うと、かっこいいんじゃないかと思ってます……」
…………。
……。
;背景 学園校門 夜
その後、おれと栄一は職員室に呼び出された。
栄一,「あー、教頭にこってり絞られたなー」
椿姫と花音は、おれたちが説教をくらっている間、待っていてくれたようだ。
椿姫,「停学にならなかっただけよかったね」
京介,「ふん、おれの普段の素行の良さのたまものだ」
花音,「反省しなきゃだめだぞー?」
京介,「お前もだ。お前がおれのCDをいじらなければ、こんなことにはならなかったんだ」
花音,「もう、兄さんは根に持つ人だなー」
京介,「うるさい、とっととスケートの練習に行けっ」
花音,「はいはい、また来週ねーっ」
椿姫,「わたしも帰るねっ」
足早に去っていく二人だった。
栄一,「けっ」
京介,「ったく」
栄一,「あばよっ」
京介,「おう」
しゃくれ顔で帰っていく栄一だった。
さて……明日は土曜か。
飲み屋や風俗が繁盛する週末は、浅井興業でもなにかとトラブルが起きる。
さっさと帰って、仕事の整理でもするか。
;背景 自室 夜 明かりあり
京介,「冗談じゃありませんよ」
通話しながら制服を脱いで、私服に着替える。
京介,「南区の屋敷と土地があるだろうが。奇跡みたいに抵当のひとつもついていない。借金まみれのあんたにしてはおかしな話じゃないか?」
ゲスな経営者は、たとえ自分の会社が火の車になろうとも、私財にだけは手をつけない。
京介,「おい、遊んでるんじゃないんだ」
電話の向こうから悲痛な声が返ってくる。
いまはやめてくれと。
娘の結婚式なのだと。
まるで鬼だと、おれを罵る。
おれは何も感じず、口だけを動かす。
京介,「娘の幸せをいい気分で祝えないのは、おれのせいか?」
相手は、ただ、うめく。
おれは興味を失い、事務的に最後通告を押しつけた。
長電話を終え、書斎に入る。
パソコンを起動して、いくつかのニュースや、妙な値動きをしている株の銘柄をチェックする。
とくにおかしなことはないな……。
うちの学園の資本元である白鳥建設の株価も安定している。
メールのチェックも終わったし、今日はバッハでも聞いて早めに寝るとするか……。
京介,「うん?」
一通の見慣れないメールがあった。
スパムメールだろうか?
こういうメールは、内容を確認せずに削除するのが基本だった。
けれど、件名が心に引っかかった。
『The Devil』。
悪魔……いや、魔王か。
京介,「魔王からの手紙か、面白そうだ……」
マウスを操作してメールの内容を確認してみる。
;全画面表示で
『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』
;もとに戻す
……なんだ?
たった一行のわけのわからない文。
まあ、わけがわからないからこそ迷惑メールなんだ。
おれはメールソフトを閉じて、背すじを伸ばす。
バッハのCDを手にとって、ケースを開封する。
京介,「…………」
プラスチックのケースにかかった指が止まる。
……魔王?
シューベルトの『魔王』、か?
たしかに、『魔王』の和訳された詩には、さっきの一文と同じ意味の箇所がある。
不意に、軽い頭痛を覚えた。
;背景 繁華街1 セピア調
ハル,「"魔王"、知らないか?」
;背景 主人公自室
……偶然か?
ただの迷惑メールにしては、ちょっとタイミングが面白いな。
今度宇佐美に会ったら、話の種にでもしてやるか。
;SE携帯電話
ん……電話だ。
;// 携帯電話止め
京介,「はい、もしもし」
特に相手の番号を確認しなかった。
京介,「もしもし?」
返事がない。
京介,「……誰だ?」
低い声で聞いた。
椿姫,「あ、浅井くんだよね?」
京介,「椿姫か……びっくりさせるなよ」
椿姫,「びっくりしたのはこっちだよ」
京介,「はあ?」
椿姫,「浅井くんって、ぜんぜん声色が違うときがあるよね?」
京介,「そうか?」
自分で意識したことがない。
椿姫,「うんうん、この前、浅井くんのおうちに行ったときも、そうだったよ」
京介,「自分の声は、自分じゃよくわからん」
椿姫,「別人みたいだよ。ちょっと怖かった」
京介,「まあいいや。どうしておれの携帯電話の番号を知ってる?」
椿姫,「えっ? この前教えてくれたじゃない?」
……そういえばそうだったな。
京介,「悪い悪い。忘れてた」
椿姫,「もう、ホント忘れっぽいんだから……」
京介,「そんなことより、どうかしたのか?」
時計を見ると、すでに深夜の二時を回っていた。
椿姫,「ううん、今日は大変だったね」
京介,「今日?」
椿姫,「体育用具室の鍵……」
京介,「ああ……教頭先生にたっぷりとお灸をすえられたな」
椿姫,「花音ちゃんのこと、まだ怒ってる?」
京介,「いや、もうぜんぜん。あれはただのお遊びだよ」
ほっとしたようなため息が返ってきた。
椿姫,「そっか。よかった。心配してたんだよ」
京介,「なんだよ、そんなことで電話してきたのか?」
椿姫,「花音ちゃんもね、ちょっぴり反省してるって言ってたよ」
京介,「へえ……あのわがままで能天気な花音が、人に頭を下げるなんて珍しいな」
椿姫,「きっと浅井くんだからだよ」
くすくすと笑った。
京介,「で、なんの用なんだ?」
椿姫,「え?」
京介,「ん?」
椿姫,「いや、用事なんてないよ」
京介,「本当か?」
椿姫,「どうして?」
京介,「あ、いや……」
そうか……椿姫はただ、おれが心配だっただけか。
しかし、椿姫はおれを心配して、いったいどんな利益を得ようとしているのか。
おれの好感を得て、椿姫のなにが満足するというのか。
利害関係なしで人間は動かない。
椿姫,「浅井くん?」
京介,「いや、すまん。ちょっと寝てた」
椿姫,「もうっ、ひどいよぉ……日記にメモしとこ」
京介,「はは……」
妥当な推測としては、椿姫がおれに友人以上の感情を抱いているという線だ。
最近になっておれのことを知りたがるようになった説明もそれでつく。
しかし、それはただのうぬぼれかもしれないし、なんにせよ金にならない女に興味はない。
寝よう。
明日は朝一で、権三と会食だ。
京介,「わかった。わざわざありがとな」
椿姫,「ううん、浅井くんと電話できてうれしかったよ」
本当に、うれしそう。
京介,「…………」
椿姫,「どうしたの? 眠い?」
京介,「いや……」
……いるわけがない。
京介,「お休み。また今度、遊ぼうな」
椿姫の返事を待たずに、通話をきった。
;背景 主人公自室
月あたり六十五万の賃貸マンション。
十八階からの眺望は素晴らしく、富万別市の全景がうかがえる。
浅井権三の庇護のもと、分不相応の大金を手に入れた。
鼻につく小僧との陰口は、いつの間にか、鬼子という評価に落ち着いた。
京介,「いるわけがない……」
もし、神のように善良な人間がいるというのならば、なぜ助けてくれなかったのか。
あのとき、なぜ手を差し伸べてくれなかったのか。
一枚の写真を手に取った。
収納の奥深くに、誰の目にも触れられぬよう隠している。
額縁にもいれず、ぞんざいに扱っていた一枚の古ぼけた写真。
若い、母の姿。
おれが、撮ってあげたのだ。
京介,「…………」
写真を眺めながら携帯電話を操作する。
おれは膝を折り、恐縮する思いで通話がつながるのを待った。
十回目のコールのあと……。
京介,「もしもし、お母さん?」
母は、相変わらずだった。
京介,「うんっ、がんばってるよ。はは、心配しないで……」
母は、矢継ぎ早に話しかけてくる。
京介,「あー、そうそう。仕送り、届いたよ」
京介,「うん、五万も入ってた。ありがとうね」
京介,「……そうだね、冬服とか買うよ。でも、あんまり気を使わないでくれよ」
京介,「彼女? 彼女はいないけど……まあ、友達はけっこういるよ」
京介,「そっちはもう雪かな?」
京介,「そっか、こっちも、そろそろ降るんじゃないかな」
母は、急におとなしくなって、おれの声に耳を傾けている様子だった。
京介,「……それじゃ、元気でね。また連絡するよ」
;背景 主人公自室 夜
通話を終えて、おれは部屋の隅にある小型の金庫に近づいた。
暗証番号を入力し、鉄製の扉を開く。
一万円札の束が、おれを出迎える。
ざっと五千万はあるだろうか。
税金を抜けたあとの金額として、個人が自由に使える額としてはそれなりのものだ。
これを渡せる機会があるのだろうか。
真面目に働いて稼いだお金として、受け取ってもらえるだろうか。
息子の出世を喜ぶ姿が見られるのだろうか。
京介,「……お母さん……」
;// 日付変更
;翌日へ
;立绘ID 小头像=0,椿姬=1,荣一=2,花音=3,春=4,水羽=5,雪=6,权三=7,广明=8,郁子=9,魔王=10
;権三宅 居間
京介,「……見つからない?」
浅井権三,「おう」
朝の権三はいつも不機嫌そうだ。
肉食獣のような巨躯を持て余すように、気だるげに身を起こす。
京介,「例のイベサー……たしか幹部は六人いるという話でしたが?」
浅井権三,「全員捕まえた」
京介,「それで?」
浅井権三,「覚せい剤の仕事は、トップが完全に仕切っているらしい」
権三は、どういうわけか、おれの前でいわゆるヤクザの言葉遣いをしない。
よく組のことをカイシャ、ハジキのことを拳銃、デコスケのことを刑事と言う。
浅井権三,「幹部六人、誰もトップの人間のことは知らんという」
京介,「おかしな話ですね」
しかし、浅井権三の尋問を受けて口を割らない人間がこの世にいるとは思えない。
京介,「では、彼ら幹部たちは、どうやってそのトップから指示を受けているんでしょうか?」
浅井権三,「メールが届くらしい」
京介,「メール……?」
権三は軽くうなずいた。
浅井権三,「調べさせたところ、海外の転送サービスを間に幾重にもかませたフリーメールらしい」
京介,「それは……なかなか用意周到ですね」
警察の力でも借りない限り、トップの身元を割り出すのは難しそうだ。
京介,「何者なんですかね、そのトップは?」
浅井権三,「“魔王”、と呼ばれているらしい」
京介,「え?」
浅井権三,「魔王、だ」
また、魔王、か……。
浅井権三,「心当たりがあるな?」
権三は、おれのわずかな心境の変化も見逃さない。
京介,「実は、昨晩、僕の仕事用の電子メールアドレスに“The Devil”という人間から、わけのわからないメールが届きました」
浅井権三,「なにが、どう、わけがわからないんだ?」
京介,「内容が、ただ『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』とそれだけで……」
浅井権三,「その文面、お前はどう解釈する?」
権三は、必ずといっていいほど与えられた情報についての解釈や見解を聞きたがる。
こうやって、自分で物事を考える習性をつけさせるのだ。
京介,「ご存知でしょうが、『魔王』というクラシックの名曲があります」
京介,「さっきの一文は、その詩からの引用ではないかと思っています」
浅井権三,「それで?」
京介,「それ以上は、見当がつきませんが……」
京介,「詩の内容は、親子が馬に乗って道を急いでいるところに魔王が現れて、子供をさらっていくというものなのですが……」
京介,「その魔王と呼ばれるトップが、子供を使って覚せい剤を回していたというあたり、きなくさいものを感じますね」
そこで、権三が薄く笑った。
浅井権三,「親子というのは、俺とお前のことか?」
京介,「…………」
浅井権三,「すると、お前は死ぬことになるな」
詩によれば、さらわれた子供は魔王に魂を奪われて死んでしまう……。
浅井権三,「だが、さらわれた子供はその後、悪魔の娘と結ばれて魔界で暮らすという説もあったな」
どっちにしろ、ごめんこうむりたい話だ。
浅井権三,「いずれにせよ、捕まえねばならんな」
京介,「そうですね。イベサーなんて、しょせんは捨て駒でしょう。黒幕を探し出さなけれ……っ」
思わず閉口した。
浅井権三,「……クク」
なにやら愉快そう。
自分の縄張りを荒らされるという大失態。
権三にとっては、総和連合における地位にも影響する。
面子を潰されて、怒り狂っているのだと思っていた。
浅井権三,「京介……」
京介,「は、はい……?」
浅井権三,「俺が世間からなんと言われているか知っているな?」
京介,「ええ……」
浅井権三,「言ってみろ」
徹底した利己主義と、際限なき暴力の追求によって弱者を食いつぶす……。
京介,「獣の王、と」
実際、浅井権三が園山組の四代目を襲名してから、総和連合は一気に勢力を拡大した。
台湾や中国のマフィアを退け、関西の組織を歓楽街から駆逐した。
浅井権三,「いいか、京介……」
浅井権三,「この世には、二種類の生き物しかいない」
京介,「…………」
浅井権三,「人間と、家畜だ」
何度も教えられた。
金を使うのが、人間。
金に使われるのが、家畜だ。
浅井権三,「魔王がガキという家畜を使って金を稼いだというのであれば、魔王は人間だ」
猛禽類のような目。
浅井権三,「人間を食うのは楽しみだ……」
魔王は、権三にとって、実に歯ごたえのありそうな獲物らしい。
京介,「わかりました。僕も魔王についてアンテナを張り巡らせておくとします」
退席したい気分のおれを、権三は引き止める。
浅井権三,「ヤツは案外近くにいるぞ」
京介,「なぜです?」
野生の勘か?
浅井権三,「メールが届いたのだろう?」
京介,「そうですね……」
浅井権三,「魔王は少なくとも、お前のメールアドレスを知っている」
京介,「たしかに、僕のメールアドレスを知っているのは、組の幹部や取引先など、浅井興業の関係者のみですね」
もちろん、無作為にばら撒かれたただの迷惑メールという線もないではないが……。
……魔王はどうやら、おれに近しい人物のようだな。
浅井権三,「あるいは、京介こそが、魔王か?」
京介,「ご冗談を……」
けれど、権三は、あてずっぽうのような軽い冗談を言う男ではない。
浅井権三,「話によれば、見事にうちの流通の穴をついて、上質の覚せい剤を回されていたらしい」
浅井権三,「内部犯を疑うほど、組の情報が漏れていたらしい」
京介,「待ってください。僕は、裏の仕事についてはノータッチですよ」
浅井権三,「だが、その気になれば調べられるだろう。お前がいつも使っている情報屋は、裏の仕事にも手を貸している」
京介,「困りましたね。息子の僕があなたを裏切るとでも……?」
言い切って、己のうかつさに虫唾が走った。
浅井権三,「軽く一億は稼いだか?」
権三は、利害関係でしか人を信用しない。
浅井権三,「いいぞ京介。嘘は大きければ大きいほどいい」
親子の関係など、なんの意味があるというのか。
京介,「申し訳ありませんでした」
悪寒を覚えた。
京介,「急ぎ、魔王を見つけ出します」
権三は、おれを疑うことで、おれという家畜の尻を叩いているのだ。
急がなければ……。
人間の役に立たない家畜の運命など、決まっている。
おれの切迫した顔に満足したのか、権三は深くうなずいた。
浅井権三,「頼んだぞ、息子よ」
分を知った家畜。
獣の王にとって、おれは、その程度の生き物でしかない。
;背景 繁華街昼 1
……。
…………。
権三の屋敷からの帰り道。
おれは頭を回しながら、雑踏を歩いていた。
京介,「とはいえ……」
魔王の手がかりといえば、昨日に届いた一通のメールぐらいのもの。
浅井興業の関係者を洗うといっても、取引先やその関連企業、さらにその末端の従業員まで含めると、その数は相当なものだ。
徐々に探りを入れてみるとしても、いますぐに魔王を割り出すのは不可能だろうな。
権三の血に沸いた目を思い出す。
……急がなければ、おれも危うい。
京介,「…………」
ぼんやりと商店街を見渡す。
カップルや親子連れの姿が目立つ。
手をつないで笑いあう男女、はしゃぐ子供とそれをたしなめる母親。
誰もが楽しげに休日を過ごしている。
だが、おれにはどれもこれもくだらない景色に見える。
京介,「……む?」
そのとき、やけにでかい着ぐるみが目についた。
どうやら化粧品店のセールらしい。
大変なアルバイトに違いない。
しげしげと眺める。
;--------------------------------这是分界线---------------------------------------------------
ペンギン,「…………」
ペンギンだった。
最近よく宣伝されている、化粧水やヘアスプレー用にデザインされたキャラクターだ。
ペンギン,「…………」
しかし、まったく動かない。
愛嬌もない。
ただまったりと、道にたたずんでいる。
ペンギン,「……ふわぁ……」
中からあくびが聞こえる。
ペンギン,「あったかいなぁ……」
ぜんぜん仕事をしない。
ペンギン,「しあわせぇ……」
ふてぶてしいペンギンだな。
子供1,「おい、あれ見てみろよ!」
子供2,「あ、ペンギンだ!」
不意に、子供たちが集まってきた。
ペンギン,「わ、わわわっ……!」
子供1,「おい、脱げよ!」
取り囲まれたペンギン。
ペンギン,「う、わわわ、や、やめてぇ……」
子供2,「脱げよ脱げよ! 出てこいよ!」
子供1,「どうせ中身入ってんだろー?」
ぐっちゃにされている。
ペンギン,「い、いたた、ひ、ひっぱらないで……」
子供1,「おらおらーっ! 偽物ペンギンなんだろー!?」
ペンギン,「あ、わわわっ、や、やめて、やめてっ」
子供2,「出てこいよ、出てこいよー!」
子供たちは容赦なく着ぐるみをはいでいく。
ペンギン,「は、はわわっ、や、破れちゃう、破れちゃうっ!」
子供1,「あははは、もうちょっとだー!」
ペンギン,「や、やめてよっ! こ、コレ、徹夜で作ったの! い、いやあっ!」
子供2,「わははっ、ペンギンがなんか言ってるぜー!」
ペンギン,「やめてやめてやめてーっ!」
びりびりびりぃっ!
;黒画面
ハル,「あ……」
京介,「お……?」
あれは……。
ハル,「ぐ……」
ハル,「うぅぅ……四畳半の部屋で、寂しい気持ちになりながらミシンで縫ったのに……」
ハル,「が、がきんちょどもがぁ……」
子供1,「うわわ、お化け!」
子供2,「髪、超なげー!」
ハル,「き、きさまらー!」
ハル,「絶対に許さんぞー!」
子供1,「わー!」
ハル,「がおー!!!」
……あれは、宇佐美だ。
子供2,「逃げろー!」
ハル,「待てーっ!」
クモの子を散らしたように逃げる子供たち。
ハル,「二度と生き返らぬよう、はらわたを食い尽くしてくれるわー!」
鬼の形相で追いかけるペンギン。
着ぐるみのくせに、かなり速い。
京介,「ていうか、なんなんだ……?」
唖然としていると、宇佐美と子供たちはあさっての方向に走り去っていった。
…………。
……。
;背景 繁華街1 夕方
一時間ほどして日が傾いてきたころに、宇佐美が戻ってきた。
ハル,「……くそぅ、がきどもがぁ。こっちがペンギンだと思ってなめやがってぇ!」
京介,「おい……」
ハル,「うぅ……かなりの力作だったのに……」
ぼろぼろになったペンギンの着ぐるみを抱きすくめる。
京介,「おい、宇佐美」
ハル,「……ん?」
ようやくおれに気づいたようだ。
ハル,「浅井さんじゃないすか」
京介,「これがお前のバイトか?」
ハル,「時給700円です。恥ずかしいところ見られちゃいましたね」
言葉とは裏腹に、なにも恥ずかしそうではない。
京介,「商店街で着ぐるみ着てバイトとはね……学園の許可は得ているのか?」
ハル,「ええ、まあ。自分、わけありなんで」
京介,「わけあり?」
ハル,「アルバイトしないと、おそらく餓死しちゃうんすよ」
京介,「……金がないのか?」
一人暮らしなんだろうか……。
ハル,「金がないわけではないんですが、今晩の夕食おごってもらえませんかね?」
京介,「は?」
ハル,「すいません、唐突で」
京介,「なんでおれがお前に飯をおごらなきゃならんのだ?」
ハル,「浅井さんって、リッチで評判らしいじゃないすか」
京介,「評判?」
ハル,「椿姫に聞きました。ボンボンだそうですね」
京介,「ケチでも評判だぞ」
ハル,「しかし、あなたはわたしに用事がある。違いますか?」
京介,「なぜそう思うんだ?」
ハル,「あてずっぽうですよ」
宇佐美はまた言葉とは裏腹に、確信めいた口調で話す。
ハル,「お金を大切にする方は、たいてい時間にもうるさいです」
ハル,「現にあなたは、いつも電話をしながら昼食をとり、学園が終わればすぐに帰宅します」
ハル,「そんなあなたですが、わたしががきんちょどもを追いかけ回している間、ずっとここで待っていた」
たしかに、一時間ほど、ここで、ぼうっとしていたな。
ハル,「ただ、見てのとおりいまはバイト中なんですよ。六時になったら終わりますんで」
京介,「……なるほど。それで夕食に誘ってきたのか」
ハル,「察しが良くて助かります」
おれは、宇佐美に相談したかったのかもしれないな。
魔王について……。
京介,「まあ、いいだろう。昨日はお前に負けたわけだし、飯でも食わせてやるか」
ハル,「鍵を盗んだ件ですか。あれは、お遊びだったんでしょう?」
京介,「ああ……少し手の込んだ遊びだったが、本気じゃない」
ハル,「ですよね……」
宇佐美は神妙にうなずいた。
ハル,「あの程度なら、振り上げた拳の下ろしどころがわからないっすよ」
京介,「なにを言ってるんだ?」
ハル,「いえいえ……それでは、自分、バイトに戻りますんで」
京介,「…………」
宇佐美はすごすごと店の中に消えていった。
本当に妙な女だ。
だが、宇佐美もおれと同じく魔王を探している。
奇妙なつきあいが始まりそうだった。
;背景 喫茶店 夜
ハル,「しかし、なんかレアっすね」
京介,「なにがだ?」
ハル,「浅井さんがわたしを、人を頼るなんて」
六時が過ぎて、おれは宇佐美を連れて喫茶『ラピスラズリ』に入った。
この店は、夜になると、フードダイニングに切り替わる。
京介,「誰も、お前を頼っているわけじゃない」
ハル,「しかし、レアな組み合わせです」
京介,「おれとお前が、か?」
ハル,「カップルのように見られたらどうしようかと思っています」
京介,「……うざったいヤツだな」
ハル,「わかってますよ。あなたがわたしを嫌ってるってことくらい」
;--------------------------------这是蛋疼的选择支,记得添加变量------------------------------
;選択肢
;嫌ってる
;嫌いでもない
;--------------------------------这是蛋疼的选择支,记得添加变量------------------------------
@exlink txt="嫌ってる" target="*select1_1"
@exlink txt="嫌いでもない" target="*select1_2" exp="f.flag_haru+=1"
嫌ってる
嫌いでもない
;嫌ってるを選んだ場合//////////////////
京介,「……よくわかってるじゃないか」
すると宇佐美は珍しく目線を逸らした。
ハル,「そすか」
ハル,「やっぱりそすか」
なにかを噛みしめるようにうなずいた。
;嫌いでもない////////////////////////////
京介,「嫌いというか、興味がない」
ハル,「…………」
京介,「おれは、誰に対してもそうだ」
……なにを言ってるんだ、おれは?
本音を吐露していいような相手ではないのに。
なぜか、口が滑ってしまった。
ハル,「そすか」
宇佐美の目に哀れみにも似た光が宿っていた。
京介,「ところで、休みの日なのにお前はどうして制服なんだ?」
ハル,「かわいい制服ですし、ていうかあんま服持ってないんで、ていうか、そんな話がしたいわけじゃないでしょう?」
……もっともだ。
京介,「魔王のことだ」
おれは切り出した。
ハル,「きましたね……」
宇佐美の顔がやや強張る。
京介,「お前は魔王を探しているんだったな?」
ハル,「浅井さんもですか?」
京介,「ああ……」
ハル,「どうしてまた急に?」
京介,「…………」
宇佐美に、どこまで事情を話していいものか。
浅井興業のことは伏せておくとして……。
京介,「昨日の晩かな、いきなりメールが届いたんだ」
ハル,「魔王から? どんな?」
京介,「魔王かどうかはわからん。ひらがなで『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』と、それだけだった」
ハル,「間違いない。魔王です」
京介,「やけに確信めいているな?」
ハル,「それでどうして、浅井さんは魔王を探し出そうと思ったんですか?」
……人の話を聞かないヤツだな。
ハル,「それだけだったら、ただのいたずらだと思うのが普通でしょう?」
京介,「おれがパパの仕事を手伝ってる話は、椿姫から聞いたか?」
ハル,「お父さんの仕事に魔王がからんできたんですか?」
京介,「そういうことだ。パパを助けてあげたいんだよ」
ハル,「お父さんはどんなお仕事を?」
突っ込んでくるな……。
京介,「それは言いたくないな」
ハル,「なるほど。それは言いたくない、すか。いただきました」
なにをいただいたんだよ……?
京介,「お前はどうして魔王を探してるんだ?」
ハル,「因縁があるんですよ」
京介,「因縁? どんな?」
ハル,「それは言いたくない」
ち……。
京介,「質問を変えよう。お前はなにか手がかりでもつかんでいるのか?」
ハル,「手がかりすか」
宇佐美は目を細めた。
ハル,「魔王は日本人、もしくは日本語に精通し、日本の音楽教育を受けたことのある人間です」
京介,「ほう……それはそうかもしれないな」
ハル,「『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』とは、ゲーテの詩を思いっきり日本人が教科書で習うような翻訳のしかたです」
ハル,「さらに、外国人は日本語に漢字を用いることを知っています」
ハル,「面白い、遊び……これは、外国人でも変換できる簡単な漢字です」
ハル,「それをあえて、ひらがなで表現してくるあたり、不気味さを演出するための愉快犯的な思考がうかがえます」
……こいつ、たった一行の文でそこまで頭を巡らせたのか。
ハル,「そして、魔王は、少なくともあなたのメールアドレスを知っている人物です」
京介,「ああ。だが、それだけじゃ特定できんな」
ハル,「なかなか友人が多いみたいですね」
京介,「おれのことはせんさくするな。お前はどうなんだ?」
ハル,「自分、すか?」
京介,「妙な時期に学園に編入してきたのも、まさか魔王を探すためか?」
ハル,「あたりですが……」
京介,「なんだ?」
ハル,「なにか注文していいすかね?」
京介,「あ? ああ……」
そういえば、水しか来てない。
ハル,「じゃあ自分、焼き魚定食で」
京介,「ねえよ。店の雰囲気的にあるわけねえだろ」
ハル,「いや、こんな高そうな店は慣れてなくて、メニューとかなに書いてあるのかわかんないんすよ」
京介,「意外とかわいいところあるんだな」
ハル,「すいません、きもかわいくて」
やっぱり、かわいくないな。
ハル,「メニューの後ろに定食ってつかないと安心しないんすよねぇ……」
ぼんやりとメニュー表を眺める宇佐美は、年相応の少女の顔をしていた。
京介,「てきとうに頼んでやるよ。嫌いなものはあるか?」
ハル,「トマト……とかいうと、かわいいんじゃないかと思ってます」
京介,「…………」
おれは宇佐美を無視して、ざっくばらんに注文した。
ハル,「浅井さんのおっしゃるとおり、自分がこの富万別市にやってきたのは、魔王を追ってきたからです」
京介,「追ってきた? ずっと探していたってことか?」
ハル,「はい。そりゃもう、何年も探していますよ」
京介,「見つけられなかったのか?」
ハル,「残念ながら。ただ最近になって、魔王の犯罪の特徴がつかめるようになってきました」
そのとき、グラスにオレンジジュースが注がれた。
宇佐美は、それをついばむようにちびちびとすすっている。
京介,「気持ち悪い飲み方だな」
ハル,「すいません、ペンギンみたいで」
ペンギンみたいではない。
ハル,「魔王はですね、必ず子供を使うんです」
京介,「…………」
ハル,「先月末に、この町で、少年窃盗団が逮捕された事件はご存知ですか?」
京介,「いや、知らない」
ハル,「おや? 情報通の浅井さんにしては、ニュースも見てないんですか? ワイドショーでもうるさくやってたくらいっすよ」
京介,「いや……知らんな」
新聞は二誌に目を通しているし、暇があれば携帯電話でニュースをチェックしているのにな……。
ハル,「まあいいです。簡単にいうと、五人組のグループが消費者金融の金庫を襲撃したんですよ」
ハル,「それもただの一件じゃなくて、三ヶ月で約十店舗。被害総額は五千万にも及ぶそうです」
ハル,「どうして世間を賑わせたかというと、少年たちがいわゆる悪徳金融と呼ばれる闇金しか狙わなかったからです。まあ、義賊をきどってたわけですね」
京介,「…………」
ハル,「手口は実に鮮やかだったそうですよ。アメリカのギャングが強盗に用いる手段で、五人とも統制の取れた動きで盗みに入ったそうです」
京介,「どうして捕まったんだ?」
ハル,「どうも、金を巡って仲間内でもめたらしいですね」
なにか、胸にざわつきを覚える。
京介,「つまり、こういうことか」
京介,「魔王というブレーンが、少年たちに知恵を授けて実行犯に仕立て上げたと」
それは、つまり、今回のイベサーの一件と同じだ。
それは、つまり、浅井興業のブレーンであるおれが、人をアゴで使ってカイシャを動かすのに似ている。
ハル,「魔王は、子供こそ、最大の手駒だと思っているんです」
ハル,「世間慣れしてなくて、純真な心を持つ子供たちなら、たやすく悪の道に引きずり込むことができます」
まるで、浅井権三がおれを作り上げたよう。
京介,「しかし、そんなニュースの情報だけでわざわざ転入してきたのか?」
ハル,「はい。手がかりがあれば、必ずわたしも追いかけます」
京介,「すごい執念だな」
ハル,「おかげで引越し代がかさんでいますよ」
宇佐美は口元を吊り上げる。
ハル,「しかし、今回は確信しています」
京介,「うん?」
ハル,「今度こそ、魔王と対峙できます」
京介,「……なぜだ?」
ハル,「追ってきた先に、あなたがいたからですよ」
;SE 心臓の音
また瞳の奥を覗き込むように見つめてくる。
京介,「おれ……?」
;SE 心臓の音
また、心臓がうめく。
宇佐美はまた気持ち悪い動きでジュースをすする。
そして言った。
ハル,「キミは勇者になるんだね……」
京介,「……だったら……僕は……」
ハル,「…………」
京介,「…………」
記憶が混雑するような、不快感があった。
京介,「宇佐美、すまんが……」
おれは一万円札を二枚、テーブルに置いた。
京介,「気分が悪い。先に帰らせてもらう」
ハル,「そすか」
京介,「つり銭は今度必ず返してくれ」
立ち上がり、ため息をついた。
京介,「また、なにかわかったら、連絡してくれ」
ハル,「はい。いっしょに魔王を探しましょう」
振り返ることなく、店を出た。
;黒画面
ハル,「京介くん……」
;背景 繁華街2 夜
;ノベル表示
外は風だった。月明かりを、そびえ立つ高層ビルの大群がさえぎっている。意識がはっきりと覚醒しない。"魔王"はそれまで夢遊病者のような足取りで、都会の夜を行く当てもなくさまよっていた。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「宇佐美、ハル……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
ぼそりと、その名をつぶやいた。記憶の海に漂う、一人の少女。それこそ勇者のような凛々しさをもっていた。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「思い出した……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
頭は妙にすっきりとして、背筋を中心に自信がみなぎっていく。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「そうか、宇佐美の娘か、そうか……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
ぼんやりとした過去の景色が徐々に線を結んでいく。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「必死に、私を探しているのだろうな……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
宇佐美だけではない。浅井権三とその組織の獣たちも、怒りをあらわにして"魔王"を探し始めているだろう。場合によっては計画を変更する必要があるかもしれない。計画はまだ実行の段階ではない。邪魔が入れば、宿願が水泡に帰すこともありうる。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「だが、宇佐美ハルには相応の報いを与えてやらねばなるまい」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
笑みがこぼれる。"勇者"が強大な敵として立ちふさがるのであれば、それはそれでいい。"魔王"の頭のなかで錯綜していたさまざまな作戦が、ようやくしぼられきた。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
宇佐美ハル、か。小さな勇者も、大きくなったものだ。あの娘にも親の罪を償わせてやらねばなるまい。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
「まずは、勇者の実力を見せてもらおうか……」,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
少し、『遊んで』やろう。宇佐美ハルがどれほどのものか。"魔王"は軽い足取りで、繁華街の闇にまぎれていった。頭痛は、もうない。すがすがしい夜の幕開けだった。,0,10,100,90,#FFFFFF,14,0
#text_off
;// 日付変更
;翌日へ
;背景 繁華街1
日曜のセントラル街は、異常なまでに混み合っている。
 宇佐美ハルは、いつものように背筋を曲げて、アルバイト先に向かっていた。人の波を完全に無視してぼんやりと歩んでいる。
店長,「だるそうだな、宇佐美」
ハル,「あ、てんちょ、ハヨザイマース」
エプロン姿の髭面の男が、じと目でハルを迎えた。
店長,「髪切って来いって言っただろう」
ハル,「すいません、髪の話題には触れないでもらえませんか。ホント、怒りますよ?」
店長,「なら、やめてもらうしかないな」
ハル,「……ごめんなさい」
軽く頭を下げると、店長は、あきれたように化粧品の詰まったダンボールを開封し始めた。
店長,「宇佐美は、なんでいつも制服でくるんだ?」
ハル,「かわいいんで」
店長,「化粧もしないのか?」
ハル,「すっぴんでじゅうぶんイケるんで」
店長は残念そうなため息をついた。
店長,「お前、友達いないだろう?」
ハル,「めっちゃ多いっすよ。とりわけ、てんちょのことは親のように思っています」
店長,「俺はまだ二十代だ」
ハルは大きなあくびを一つ、背伸びをして、首を回して、ようやく店のなかに足を運んだ。
ハル,「さて、今日も客引きですか? 看板もって大声だしてればいいんすかね?」
店長,「ああ、その前に……」
店長はエプロンのポケットをまさぐりはじめた。
ハル,「なんすか、それ?」
店長,「ついさっき、ロン毛パツキンの兄ちゃんがいきなりやってきてな。これ、渡してくれって」
便箋の切れはしだろうか。それは、一枚の折りたたまれた紙切れだった。
店長,「友達か?」
ハル,「ロン毛パツキンの友達はいません。ていうか、いまどきロン毛パツキンとか言いません」
バイト先の店長は、人はいいのだが、年齢を詐称している疑いがあった。ハルは、店長の髭をぼんやりと眺めながら、紙切れを開いた。
内容に目を通したとき、ハルの眉が一気に吊り上がった。
不気味な文字が羅列してあった。筆跡がわからぬよう、定規のようなものを当てて書かれたようだ。ときおり新聞の見出しを切り抜いたような字も貼りつけられている。
ハルは、息を潜めて言った。
ハル,「……そのロン毛パツキンは、何か言ってましたか?」
店長,「なんだ急に?」
店長は、不審げに顔をしかめた。いつもとは打って変わって、ハルのまなざしが、異様に鋭い。
店長,「宇佐美ハルってのが、ここでバイトしてるだろうって……」
ハル,「それだけすか?」
店長,「あ、ああ……」
ハルの体が固まった。時が止まったように動かない。すさまじい速さで与えられた情報を分解していた。
直後、はじかれたように顔を上げた。
ハル,「すいません、てんちょ、今日は休ませてください」
店長,「ちょ、ちょっと待てよ。勝手なこと言うな」
ハル,「すいません、急用でして」
深々と頭を下げた。
店長,「……だいたいなあ、宇佐美は面接のときから常識がなさそうだったが……」
ハル,「すいません、非常識で」
店長,「……まあ、いままで一度も遅刻も早引きもしてないし、バイトなのに進んで残業してくれるし、頼んでもいないのに着ぐるみを作って宣伝をしてくれたりと、真面目なところもあるわけだが……」
ハル,「持ち上げてくれているところすみませんが、着ぐるみはただの趣味です」
店長は、困ったように髭をなでた。
店長,「わかったよ。そのかわり、明日もがっつり働いてもらうからな」
ハルの顔にあどけない笑みが広がった。
ハル,「ラヴです、てんちょ」
;黒画面
早足で雑踏を抜ける。さながら急流を裂く岩のように、人の群れが分かれていく。迷いのない足取りでセントラル街を進んでいった。
 その間、ハルはもう一度、怪文を思い起こしていた。
 冒頭の一行で、ハルは、それが自分への挑戦状だということに気づいた。そして次の瞬間には激しい怒りを覚えた。よりにもよって、母の名前を出すなんて……。
私はこの富万別市にいる。
 鬼ごっこをしよう。
 私はいまより狩にいく。
薫へ
薫、とはハルの最愛の母の名だった。ヴァイオリニストとして活躍していた母。ハルを連れて世界中を魅了してまわった。母は常に優しく、強かった……。
ハル,「魔王……」
冷静になれ、と心に言い聞かせた。熱くなって我を失えば、勝負は決まってしまう。
まさか、"魔王"から接触してくるとは思わなかった。
――かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう。
シューベルトのあの曲のなかで、ぼうやがいくら訴えても、"魔王"の存在は認められなかった。誰も"魔王"を見つけられないというのならば……。
ハル,「わたしが、必ずあぶりだしてやる……」
;背景 繁華街2 昼
そろそろか……。
時刻は正午を回ろうとしていた。スーツの上に黒いチェスターコートといった"魔王"のいでたちは、セントラルオフィスを行き交うサラリーマンのなかにあって、なんら違和感がなかった。"魔王"は悪意ある期待に胸を膨らませていた。
 二重三重に人を介し、宇佐美のアルバイト先に人をやってから、だいぶ時が過ぎた。そろそろ、宇佐美に例の挑戦状が届くころだった。
 宇佐美はあの文章からどう動いてくるだろうか。まさか、闇雲に広大な富万別市を探し回るのだろうか……。
"魔王"は手元の携帯電話を見つめた。
 宇佐美が馬鹿でなければ、まず、この電話が鳴るはずだ。
「お手並み拝見といこうか……」
;左からスライドさせるように ev_haru_02
ハルの行くべき場所は決まっていた。
 なんの造作もない。
 一見無意味な文章が記されているだけの"魔王"からの挑戦状にも、ちゃんとヒントは隠されていた。
;背景 喫茶店 
喫茶『ラピスラズリ』。昨日京介に連れてこられて場所は把握していた。瀟洒な扉を押してなかに入った。
 すぐさま店内を見渡す。ハルの推理が正しければ、"魔王"はこの喫茶店を訪れているはずなのだ。
 だが、それらしき客の姿がない。店のウェイターらしき男が、不審げに近づいてきた。
ウェイター,「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
ハルはわずかに思案したのち、堂々と答えた。
ハル,「わたしは宇佐美ハルという者です。失礼ですが、わたし宛てに伝言をあずかっていませんか?」
 するとマスターも顔をほころばせた。
ウェイター,「あなたが宇佐美さんですか。ええ、承っていますよ」
 彼はそう言って、カウンターの奥に消えた。ややあって、小包みを携えて再びハルの前に現れた。
ウェイター,「異様に髪の長い少女が現れたら、こちらの品物を渡してくれと頼まれていました」
ハル,「誰に?」
 包みを受け取り、たずねた。
ウェイター,「若い、女の子でしたよ。その子も、人に頼まれたと言っていました」
"魔王"に協力する『子供たち』だろうか。きっと、"魔王"は間に人を何重にもはさんで、こちらに接触をしかけている。使いの人間の線から"魔王"にたどりつくのは難しそうだ。
ウェイター,「そういえば、きみは、昨日も彼氏さんときてくれてたね?」
ハル,「彼氏さん?」
ウェイター,「違うのかい?」
ハル,「恥ずかしいです……」
ハルは一礼して店をあとにした。
店を出ると、ハルは小包を開封した。なかには薄型の携帯電話がひとつあるだけだった。
 携帯電話の液晶や背面をよく観察する。型の古い、使い捨ての携帯電話だ。セントラル街の奥に行けば職のない外国人が安値で売ってくれる。たとえ警察が調べたとしても、この携帯電話から買い手の足取りがつくことはないだろう。"魔王"は徹底して、自らの消息をわからないようにしている。
 調べてみると、一件だけ、登録されている電話番号があった。
名前は"魔王"となっている。
ハル,「……かけろ、ということか」
 心臓が高鳴る。汗ばんだ指で番号を押した。街の喧騒が一気に耳に届かなくなっていく。
 十回目のコールのあと――。
;繁華街2 昼
;SE 電話(マナーモード)
鈍い振動が左の胸に響いた。"魔王"は思わず笑みをこぼした。
 電話が鳴ったのだ。
;// 文中で携帯音停止
 はやる気持ちをおさえ、携帯電話を手に取る。
宇佐美の美しい声を想像しながら、通話を待った。
ハル,「"魔王"だな?」
 唐突な声は、"魔王"の不意を打ってきているようでもあった。
 "魔王"は静かに口を開いた。
「私からの手紙は気に入ってもらえたかな?」
 呼吸を整えるような、かすかな間があった。
ハル,「なにが目的だ?」
 宇佐美の声はひどく沈んでいた。
「宇佐美と、少し、遊びたかっただけだが?」
ハル,「ひどく幼稚なお遊びだったな?」
「手紙のことか?」
 ……たしかに、初歩的にすぎたかもしれない。
ハル,「あの手紙は簡単だった」
「…………」
ハル,「私はこの富万別市にいる……鬼ごっこをしよう……私はいまより狩にいく」
そこで、宇佐美の声に苦痛を搾り出すような色が混じった。
ハル,「……薫へ」
「お前の母は、実にきれいな女性だった」
性根の曲がった悪役を演じるように言った。けれど、宇佐美の声に動揺はうかがえない。
ハル,「着目したのは、三行目の文だ」
「私はいまより狩にいく……だな?」
ハル,「一見、意味不明な文章だが、ここに、ちゃんと"魔王"の行き先が書いてある」
「解説を期待してもいいのかな?」
ハル,「『かをる』へ、だ」
「ふ……」
ハル,「宛名に見せかけて、お母さんの名前は実は重大なヒントだった」
優しすぎる問題ではあった。けれど、この程度はあっさり解いてもらわねば困る。狙いは別のところあった。
「あれは不幸な事故だったのだ。けっして、私に悪意があったわけではない」
また、挑発的な声を出す。
ハル,「文中の『か』、を『る』に変える。それだけの内容だった」
けれど、宇佐美は"魔王"を無視して初歩的なトリックを崩していく。
ハル,「そこで、『私はいまより狩に行く』という文の『か』を『る』に置き換える」
「母は、最後までお前のことを案じていた」
ハル,「すると『私はいまよりルリに行く』となる」
「娘だけは助けてくださいと、何度も頭を下げた」
ハル,「ルリ(瑠璃)とはラピスラズリの和名」
成り立っていない会話が続いた。その間、宇佐美はけっして怒気を見せなかった。
「お前の母は強かった。私は強い人間が好きだ。お前はどうなんだ?」
死んだ人間を引き合いに出し、過去の暗い扉を開き、少女の心をえぐろうとする。
宇佐美は力強く言った。
ハル,「お母さんは死んだ。わたしは生きている。生きて"魔王"を必ず捕まえる」
"魔王"は満足した。まずまずの胆力といっていい。
「いい答えだ。鬼ごっこを続けるとしよう」
;場転
;左からスライドさせるように、ev_haru_02
;背景 繁華街1
ハルは電話に集中しながらも、"魔王"の現在の居場所を探ろうとしていた。
"魔王"の挑戦的な声を無視し、耳を澄ませる。すると、いくつかのヒントが得られた。
ハル,「なるほどな」
ハルは言った。
「なにかわかったのか?」
ハル,「お前の居場所をつかめそうだ」
「それは興味深い」
ハル,「いま、そこで、誰かが街頭演説をしているだろう?」
ハルは、もう一度、電話の向こうに耳を傾けた。演説のくだりから、富万別市市長の名を拾えた。
「気づいたか」
気づいて当然といった様子だった。
ハル,「いま、市長がどこで演説しているのか、市役所に問い合わせてみるとしよう」
「その必要はない」
ハル,「なに?」
「いいぞ、なかなかの注意力だ」
ハルは、今回の"魔王"の挑戦の意味を理解し始めた。
#say ――試されている。
不気味だった。すでに、アルバイト先を知られているとは思わなかった。ハルは"魔王"が何者であるのかを知らないが、"魔王"はハルを知っている。
「私はいま、セントラルオフィスにいる」
ハル,「ばらしていいのか?」
「セントラルオフィスの場所はわかるか? 引っ越してきて間もないのだろう?」
ハル,「よく知っているな?」
「お前のことならなんでも知っているさ、勇者よ」
ハル,「なんでも知っているという決まり文句は、実は、知らないこともあるので不安だという気持ちの裏返しだ」
"魔王"は鼻で笑った。
「口も達者なようだな」
愉快そうではある。だが、声色には、作為的なものを感じる。いまひとつ人物像のつかみづらい相手だった。会話も、常に主導権を握られている。
「たしかに、私はもっとお前のことを知りたい。でなければ、私に恨みを抱く宇佐美に、自分から接触してみようなどとは思うまい?」
自分のことを話しているようでいて、考えればわかるような情報しか口にしない。
「セントラルオフィスに、広めの公園がある」
ハル,「それがどうした?」
「園内の掲示板の前にきてもらおうか」
ハル,「そこにいけば、"魔王"に会えるのか?」
「気が早いな」
ハル,「お互いの理解を深めるためにも、顔を合わせて話し合ったほうがいいと思うが?」
「魅力的な提案だが、丁重に断らせてもらう」
どうやら、"魔王"は姿を晒す気はないらしい。
「私を追って来い、宇佐美ハル」
それは挑戦だった。
「お前に資格があれば、相手をしてやろう」
不意に、通話が切れた。ハルは移動を開始した。
;場転
;背景 オフィス街 昼
正面に山王物産の本社ビルが見えた。公園は、巨大なビルからちょうど見下ろされるような位置にあった。静かな公園だった。オフィス街の無機質なコンクリートに囲まれて、ケヤキの緑がよく映えている。
 掲示板は園内のなかほどにあった。本来は、施設内の利用法や注意事項が書かれているのだろう。けれど、さながら不良少年のいたずらのように、赤いペンキが上塗りされていた。近づいてみると、それが、長めの文章であることがわかった。
 不快な落書きが、"魔王"からの設問であることは明白だった。
これから先、勇者が進むべき道は三つある。
 道の一つは魔王の居場所にたどり着き、一つは地獄、もう一つは天国に続いている。
 進むべき道の近くにも、それぞれメッセージを残しておいたから、確認しにいくように。
 魔王にたどり着く道には、『真実』が書かれている。
 地獄に続く道には、『嘘』が書かれている。
 天国に続く道には、『真実か嘘』が書かれている。
 さあ、私にたどり着けるかな?
ハル,「三つの道?」
ハルはすぐさま園内を歩き回った。設問によれば、進むべき道の付近にメッセージが残されているはずだった。すると、公園の北の出入り口に、それはあった。オフィス街へと続く、傾斜の深い石階段がある。石段の手すりに、細長い文字が連なって見えた。また赤いペンキが塗られていた。
 ――地下鉄10番出口は、天国に続いている。
 かろうじて読み取ることができた。ハルはすぐさま頭脳をめぐらせ、問題の全容を把握していった。
;背景 繁華街1
地下鉄10番出口はセントラル街の真っ只中にあった。地下への入り口の近くには、髪を赤く染めた少年たちが座り込んでいる姿が、ちらほら見受けられる。
 ハルが注意深く周囲を探ると、道路脇のガードに新たなメッセージを発見した。
 ――西区の港にある第三番倉庫は、地獄に続いている。
ハル,「西区の港……」
 歩いていける距離ではなかった。しかし、第三倉庫とやらまで行って、メッセージを確認しなければこの問題は解けない。鬼ごっことはよくいったものだ。市内を駆け回らせるつもりか……。
;黒画面
 階段を下り、地上と同じように混雑した地下街に入った。そのまま直結している駅の改札をくぐる。地下鉄のホームで、西区に向かう電車を待った。
;背景 倉庫外 昼
貧乏なハルにとって西区への切符代の250円は手痛い出費だった。セントラル街を出発した約一時間後に、ハルは港にたどり着いた。冬の海は穏やかに波打っていた。
 休日のためか、人影はなかった。第三倉庫はすぐに見つかった。下りたシャッターにそれぞれ数字が銘打ってあるからだ。
 "魔王"からのメッセージを探す。シャッターに不審な貼り紙がしてあった。
 ――天国に続くのは、この道ではない。
読み終えて、ハルは眉間に指を這わせた。
ようやく問題を解くためのパズルのピースが出揃った。
 進むべき道は次の三つのうちどれかだ。
 1 公園からオフィス街へと続く、石階段。
 2 地下鉄10番出入り口。
 3 西区第三倉庫。
これらはそれぞれ、
 『"魔王"にたどり着く道』、
 『天国へと続く道』、
 『地獄へと続く道』のどれかなのだ。
 当然、『"魔王"にたどり着く道』を選択しなければならない。
ただし、
 魔王にたどり着く道には、『真実』が書かれている。
 地獄に続く道には、『嘘』が書かれている。
 天国に続く道には、『真実か嘘』が書かれている。
 それぞれの場所の近くにあったメッセージをもう一度思い起こしてみる。
1……公園からオフィス街へと続く石階段にはこうあった。
 ――地下鉄10番出口は、天国に続いている。
 2……地下鉄10番出入り口にはこう。
 ――西区の港にある第三番倉庫は、地獄に続いている。
 3……西区第三倉庫にはこうだ。
 ――天国に続くのは、この道ではない。
これらの情報を整理すると、たとえば、1がもし、『"魔王"にたどり着く道』だと仮定すると、地下鉄10番出口は天国に続いているというメッセージは『真実』であるということになる。
ハル,「さて、正解は……」
解答を導き出すには数学的な手続きを要求される。
 ハルが考えをめぐらせていると、再び携帯電話が鳴り響いた。
;場転
「そろそろ、第三倉庫の近くか?」
"魔王"は宇佐美がそれぞれのメッセージを確認した時間を見計らって、電話をかけた。
ハル,「ちょうど、着いたところだ」
「天国に続くのは、この道ではない……このメッセージを確認したか?」
ハル,「ああ、ちょうどいま、見たところだ」
"魔王"は腕時計に目をやった。
ハル,「手の込んだいたずらだな。"魔王"が街の各地にこんな落書きを残している様子を想像すると、笑えてくる」
「私が直接作業したわけではないが、楽しんでくれたのなら幸いだ」
ハル,「"魔王"に協力する人間がいるんだな?」
「人間はよく悪魔に魅せられる。そんなことより、全てのメッセージを確認したな?」
ハル,「ああ……」
魔王は思う。これは小手調べ。正常に頭を使うことのできる人間なら、誰にでも正解が導ける問題だ。
「よく考えるんだな。私は、正解の道の先に待っている」
いまから五分以内に解ければ、さしあたって及第点といったところか。
「……ではな、勇者」
#say 通話を切るべく携帯に手をかけた、そのときだった。
ハル,「第三倉庫だ」
「…………」
ハル,「どの道がどこに続くかは六通りの場合がある。そのなかで、魔王にたどり着く道のメッセージに嘘が書いてあることになる組み合わせと、地獄に続く道のメッセージに真実が書いてあることになる組み合わせを除けば、おのずと正解が見えてくる」
魔王は宇佐美の流暢な声に聞き入っていた。
たしかに、論理的な思考ができる人間であれば、時間をかけてこの問題を解くことができる。直感やランダム要素を廃してシステマティックに結論を導きだすのだ。宇佐美のいうとおり、六通りのパターンを図表におこし、矛盾のある組み合わせを消去していけば正解にたどりつける。
 だが、宇佐美はそれを瞬時にやってのけた。紙やペンを用いた様子もない。全て、頭のなかで論理を組み立てたのだ。
ハル,「どうした魔王。数学の授業はもうおしまいか?」
宇佐美の挑発に魔王は押し黙った。
思わぬ逸材。魔王は、己の口元がいつの間にか歓喜に歪んでいることに気づいた。
「宇佐美、ハル……」
"魔王"はようやく宇佐美ハルを敵として認識し始めた。人をやって調べさせたところ、人脈や金銭面など背後関係は弱そうだが、十代の少女にしては類まれな頭脳を持っている。"魔王"にとっての敵は、警察のように強大で権力のある集団だけだと思っていた。
 しかも、電話の向こうの才気溢れる少女は、必死になって"魔王"を探しているのだ。"魔王"の側から接触を試みたのは、いささか用心に欠ける行動だったのかもしれない。
――意外なところで、足をすくわれるかもしれんな。
 このあとに続く"魔王"が用意した『お遊び』を、宇佐美はいとも簡単に突破してくるだろう。
 いまは、まだいいかもしれない。しょせんはただの学園生だ。こちらの情報もほとんどつかんでいないといっていい。しかし、"魔王"は、自らがそうであったように、信念に裏打ちされた知性の力強さを知っていた。勇者は、入念に練り上げた"魔王"の計画を破綻させるかもしれない。
 "魔王"は、素晴らしい才能をもった敵の出現を喜ぶ一方で、相手を叩きのめしてやらねばと、激しい闘志を燃やした。
;場転
;背景 セントラルオフィス
日が落ちた。いつの間にか強くなっていた風が、厚い雲と厳しい寒さを運んできている。ちらほらと舞う雪がハルの制服の肩に落ちては消えていった。
 オフィス街の一角は人で溢れていた。市役所ビルへと続く長い階段の下で、ハルは魔王の出現を待った。
 ――必ず、現れるはずだ。
 あのあと、三時間以上も<鬼ごっこ>は続いた。あれから魔王は何度もハルの数学的才能を試してきた。魔王への挑戦権を獲得するために、ハルは十分な実力を見せつけたはずだった。
『かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう』
 魔王にとっては遊びなのかもしれない。けれど、ハルは常に全力を出してゲームに挑んでいた。
 魔王からの最後の設問はこうだ。
 『魔王が市役所ビルへと続く階段の下に現れたとき、勇者は階段の上にいない。では、勇者が階段の上にいるとき、魔王は階段の下に現れないといえるか?』
結論は、いえる。勇者が階段の上にいては、魔王は階段の下に現れない。つまり、魔王が姿を現すためには、ハルは少なくとも階段を上ってはいけない。設問によれば、魔王と対峙するためには、ハルは階段の下で待てば問題はないはずだった。
 けれど、遅い。
まばらに行きかう通行人の姿はあれど、魔王らしき人間は見当たらない。
 ――読み違えたのだろうか。
 ハルの顔に焦りの表情が浮かびかけたとき、名前を呼ぶ声があった。
;黒画面
ハル,「上?」
思わず階段の先を見上げた。
「人間は面白いよな。雑踏のなか、どれだけ周りが騒がしくても、自分の名前を呼ばれるとつい振り返ってしまう」
しまった、と思った。
 階段の下で待てば、そこに魔王は現れると考えていた。<鬼ごっこ>のなかで繰り返し出題を受けていたハルは、設問を解くことに固執するあまり、魔王が設問そのものに罠をしかけてくる可能性を忘れていた。魔王は、自分の姿を見られない位置に、ハルを誘いこんでいたのだ。
魅惑的な声を発した人物は、黒いコートに身を包んでいる。だが、街灯にぼんやりと浮かび上がった魔王の姿は、あまりにもおぼろげで背格好の特徴などをつかむことができなかった。
 魔王本人なのだろうか。魔王に協力する誰かという可能性もある。
ハル,「あなたね?」
ハルは謎の人物に向かって言い放ってみた。
「お前だな?」
男なのだろうか。声の質はよくわからなかった。身近にいる人間の声のような気もするし、女性という線も捨てきれなかった。
#say
ハル,「わたしが、ハルよ」
胸を張る。
「私が、魔王だ――」
全身に緊張と戦慄が走るのを自覚した。ハルは拳を握り締め、ある予感に耐えていた。
 予感はひしひしと募っていく。
 もはや遊びではない。
 戦いが、始まる――。
;// OPムービー挿入
;// 日付変更
おれの休み時間は学園に通っているときだ。
月曜日だが、やるべきことがあるので、学園は休んでいる。
今日は東区の土地の再開発について相談を受けているところだった。
都心にあるテーマパークを模した、大規模なレジャー施設を誘致するという大掛かりなプロジェクトだ。
浅井興業は直接的に不動産業務を取り扱ってはいないが、フロント企業の闇社会における権力を期待して、荒っぽい地上げや家屋買収を依頼してくる輩はあとを絶たない。
だが……。
京介,「失礼。単純な数字のミスですね。申し訳ありませんでした」
おととい、宇佐美と別れてから、どうもぼんやりとする。
京介,「はい、これから現地に行って、直接見てきますので……」
脳が覚醒しきっていないというか、なんとなく雑念が混じる。
セントラル街の喫茶店を出て、まっすぐに帰宅してベッドに直行したのにな……。
きっと、宇佐美のせいだ。
ペンギン姿の宇佐美を思い起こす。
京介,「…………」
通話を終えてまたぼんやりと人の流れを見渡す。
宇佐美がバイトしている化粧品店の前を通るが、宇佐美の姿はなかった。
ハル,「ちわす」
京介,「え?」
突然、背後から声をかけられた。
ハル,「最高ですかー!?」
京介,「な、なんだ、いきなり……?」
ハル,「いや別に、言ってみたかっただけです」
アホなのか……?
ハル,「それより、どしたんすか、スーツなんか着て」
京介,「お前こそ、学園はどうした?」
ハル,「自分は今日は休みです。体調がすぐれないので。見てくださいよ、めっちゃ鬱々としてるでしょ?」
京介,「お前はいつも鬱だよ。まず、その髪を切れよ」
ハル,「え?」
珍しく真剣に驚いたというような顔をした。
京介,「なんだよ?」
ハル,「傷つきました」
京介,「なんで?」
ハル,「髪は浅井さんのために伸ばしてるんです」
京介,「なんでおれがロング好きになってんだよ」
ハル,「とにかく傷つきました。どれくらい傷ついたかというと、今日の晩御飯もおごっていただきたいくらいです」
たかりたいだけかよ……。
京介,「飯はおごらん。おれはこれから用事がある」
ハル,「お仕事ですか?」
京介,「…………」
ハル,「お父さんのお手伝い?」
返答に戸惑ったのが、間違いだったようだ。
ハル,「なるほどなるほど。学園を休んでまでがんばってらっしゃるんですね」
京介,「……何か、用なのか?」
宇佐美は笑う。
してやったりという顔だ。
ハル,「昨日、"魔王"に会ったんですよ」
しれっと言った。
京介,「なんだって? "魔王"に会った?」
ハル,「遠巻きに、会いました」
京介,「は?」
ハル,「かなり見下ろされました。だいぶ逆光でした」
京介,「……つまり、顔は見てないってことか?」
ハル,「声は、交わしました」
京介,「本当か?」
宇佐美はいつもひょうひょうとしていて、言葉に真実味がない。
ハル,「ところで浅井さんは、昨日もお仕事されてたんですか?」
話題をころころと変えてくる。
なにか、揺さぶりをかけられているような気がしてならない。
京介,「仕事はしてたよ。それがどうした?」
ハル,「浅井さんのお仕事はたいてい電話ですむんですかね?」
京介,「電話ではすまないこともある。それより、"魔王"はどうした?」
ハル,「きのうは、どちらに?」
……なんなんだ?
京介,「……昼過ぎにセントラル街に出てきた」
ハル,「そすか」
京介,「それいがいは、たいてい家にいたな」
ハル,「誰かと会ったりしていましたか?」
京介,「なんだ? まるでアリバイでも探っているみたいだな」
ハル,「…………」
冗談のつもりだったが、宇佐美はにんまりと笑う。
ハル,「"魔王"は、この街を知りつくしている人物です」
ハル,「どの路地が最小限の時間で姿を消すのに適しているのか、どんな場所が、相手に顔を見られずに逃走できるのか……そういうことを熟知しています」
宇佐美の目がじっとおれを見据えている。
京介,「男だったのか?」
ハル,「……おそらく。しかし、きれいな声でした。ああいう声を出せる女性がいてもおかしくはないと思わせられるような、中性的な魅力もありました」
回りくどい言い回しだった。
断定せずに、慎重に意見したいのだろう。
京介,「逃げられたんだな?」
ハル,「残念ながら」
おれはスーツの内ポケットから財布を出した。
京介,「詳しく話を聞きたい」
向かいの喫茶店をあごで示した。
ハル,「お仕事はいいんですか?」
京介,「なんとでもなる」
東区の用地視察は夕方でいい。
ハル,「じゃあ自分、カツ丼で……」
京介,「ねえよ」
ハル,「あ、つゆだくがいいです」
…………。
……。
;背景 喫茶店 
一通りの話は聞いた。
ハル,「市内をだいぶ走り回りましたよ」
宇佐美は"魔王"のゲームにつきあって、いい線までいったらしい。
ハル,「最後は、してやられました。姿を見られない場所に誘い込まれているとは気づきませんでした」
京介,「けっきょく、"魔王"はなにがしたかったんだと思う?」
ハル,「おそらく、わたしに興味をしめしたんだと思います」
京介,「興味を? どうして?」
覚せい剤を裏で流せるような実力を持った人間が、どうして一介の女学生に興味を持つんだ?
ハル,「因縁があるんですよ」
京介,「どんな?」
ハル,「それを言うには、まだまだ友情が足りません」
京介,「おいおい、"魔王"をいっしょに探そうと言ったのはお前じゃないか?」
宇佐美は首を小刻みに振る。
ハル,「いいですか、浅井さん」
ハル,「我々は、敵と書いて友と読むような関係です。利害関係の一致から協力しているだけです。"魔王"という強大な敵を倒すために、一時的に力を貸し合っているのです」
ハル,「あ、それ言い過ぎか。仲間なんだけど、お互い秘密が多すぎていまいち信用できないだけか……」
京介,「ごちゃごちゃうるさいぞ」
ハル,「ちなみに、浅井さんは敵だったときは強いんだけど、仲間になったとたんに弱くなるタイプかと……」
……よくわからんが、愚弄されたようだ。
ハル,「まあすいません。自分は、"魔王"に恨みがある、とだけ言っておきます」
京介,「恨みはおれだってあるさ……」
おかげで権三に尻をたたかれる羽目になった。
おれは自分の考えをまとめた。
京介,「"魔王"はお前のことを知っていたわけだよな。バイト先から、この喫茶店まで。そして、お前が勇者と呼ばれていることまで」
ハル,「ですね」
京介,「さらに、街のいたるところに落書きを用意したり、人を使って物を届けさせたりしている」
さらにいえば、子供を使って覚せい剤を回している。
京介,「"魔王"は、かなりの実力者だと思う」
ハル,「どういう意味で実力者ですか?」
京介,「金を持っていることは間違いないだろう。宇佐美の身の回りは、探偵でも雇って調べたんじゃないか?」
ハル,「あるいは、わたしの近くにいる人間こそが、"魔王"なんでしょう」
京介,「ふん……」
それで、おれの昨日の行動を聞きたがったわけか。
ハル,「まあ、身元の割れない携帯電話を用意するあたりも、周到ですよね」
京介,「街の裏社会に精通しているともいえる」
人物像はおぼろげに見えてきたな。
京介,「年齢や背格好はどうだ?」
ハル,「歳は、若い、と推測してみます」
京介,「声が若かったからか?」
ハル,「それもありますが、行動に子供のような遊び心がうかがえるからです」
京介,「たしかに、ガキでもなければ、休日のセントラル街で鬼ごっこなんてしないな」
ハル,「断定はできませんが」
京介,「そうだな。たとえば、すぐれた経営者のなかには、子供のような情熱を忘れない人が多い。一見、遊びともとれるような事業に手を出して意外な成功を収めたりする」
ハル,「浅井さんのお仕事の話ですか?」
京介,「……まあ、パパにくっついていって、そういう偉い人と話をしたことがあるぐらいだが……」
思わず目を逸らした。
ハル,「浅井さんは、仕事のことになると目つきが変わりますね」
京介,「金がかかってるからな。遊びじゃないんだ」
ハル,「心なしか、声色も変わるような気がします」
……そんなことを、椿姫にも言われたな。
京介,「もう一度いうが、金のやりとりをするんだ。交渉では腹から声を出す。足元を見られないようにするためだ」
ハル,「そうですか。かっこいいですね」
じっと見つめてくる。
おれは嘆息して言った。
京介,「おれが"魔王"だとでも?」
宇佐美は迷いなくうなずいた。
ハル,「可能性はゼロではないです」
京介,「おれと"魔王"の声が、似ているってのか?」
ハル,「それは、なんともいえません。ただ、浅井さんの声はときとして変わるな、と思っただけです」
京介,「可能性の話をすれば、宇佐美こそが"魔王"だってあり得るわけだ」
ハル,「いやそれはないっす」
京介,「なんでだよ」
ハル,「わたしは、わたし自身が、"魔王"ではないと知っているからです」
京介,「だったらおれも、おれ自身が、"魔王"ではないと知っている」
ハル,「説得力がありませんね」
京介,「お互いにな」
苦笑すると、宇佐美も口元をほころばせた。
京介,「じゃあ、こうしないか?」
ハル,「はい?」
京介,「盟約を結ぼう」
ハル,「最低限、わたしたちは、お互いを疑わないということですか?」
京介,「察しが良くて助かる」
ハル,「別に、わたしは浅井さんを疑っているわけじゃありませんよ」
京介,「おれだって、宇佐美のその気持ちを信用したいがな……」
保証金でもくれるというなら、信用するかもしれないが。
ハル,「まあ、わかりました。なんにせよ、浅井さんのことは信用していますよ、無条件で」
……無条件で他人を信用するわけがないだろう。
京介,「ありがとな」
そこで、宇佐美が席を立った。
ハル,「それじゃ、自分、学園行きますんで」
京介,「休むんじゃなかったのか?」
ハル,「体調が悪いんで休もうかとも思いましたけど、やっぱりさぼりはまずいと思うので」
ふと気づいた。
京介,「実は、本当に、具合が悪いのか?」
ハル,「ええ、まあ。病院によるつもりでした」
京介,「意外に、体が弱かったりするのか?」
ハル,「いえ、たくましくも可憐なはずですが、スポーツは苦手です」
はっきりしないな……。
京介,「タクシーでも呼んでやろうか?」
ハル,「お金ないので」
京介,「バイトの給料が入る日を教えてくれたら、貸してやるぞ」
ハル,「取り立てるってことですか。遠慮しておきます」
京介,「まあわかった。とにかく、今後もよろしくな」
宇佐美は、"魔王"と因縁がある。
怨恨だというが、具体的にどんな因縁かはわからない。
だが、因縁があるのならば、"魔王"は今後も、宇佐美に接触を試みてくる可能性がある。
ならば、宇佐美と仲良くなっておけば、今後、なんらかの情報を得られるかもしれない。
ハル,「どしました? 考え事ですか?」
京介,「ん? ああ……」
ハル,「なにを考えているか、当ててみましょうか?」
おれは宇佐美の賢いところが、嫌いではなかった。
ハル,「浅井さんにとって、わたしがどれくらい役に立つか、はかりにかけてるんです」
やはり、親しくなって損はなさそうだった。
;背景 繁華街1 夕方
偶然だった。
ばったり椿姫に出くわしたのだ。
セントラル街から地下鉄におりようとしたとき、声をかけられた。
椿姫,「あ、やっぱり浅井くんだ」
気づかないふりをするには、顔をしっかりと見られすぎた。
京介,「おう、いま帰りか?」
椿姫,「学園どうしたの?」
やっぱり聞かれるか。
;------------------------这是选择支,记得添加变量--------------------------------------------
;選択肢 
;さぼってると言う    椿姫好感+1
;それらしい理由をつける
;---------------------------------我是分界线--------------------------------------------------
@exlink txt="さぼってると言う" target="*select1_1" exp="f.flag_tubaki+=1"
@exlink txt="それらしい理由をつける" target="*select1_2"
さぼってると言う    
それらしい理由をつける
;さぼってると言う///////////////////////
京介,「さぼった」
椿姫,「え?」
椿姫が固まった。
きょとんと、親においていかれた子供のような顔になった。
椿姫,「さぼるって、どういうこと?」
どうやら、こいつの頭のなかに、学園をずる休みするという概念はないらしい。
京介,「だから、遊んでたんだよ」
椿姫,「だ、だめだよ……それは、いけないことだよ?」
京介,「うん、ごめん。お前、クラス委員だもんな」
椿姫,「クラス委員だからじゃなくて……心配してたんだよ?」
京介,「心配?」
椿姫,「うん、病欠って担任の先生から聞いてたから」
京介,「……そうか」
椿姫,「でも、病気じゃなくてよかった。今度からは、ちゃんと本当のこと教えてね」
やさしい眼差し。
なぜか、目を逸らしてしまった。
;それらしい理由をつける
京介,「実は、ちょっとしたパーティに出席してたんだ」
スーツを着てることを見せつけるように、ネクタイをつかむ。
椿姫,「パーティ?」
京介,「おれのパパ、ちょっとした財界人なんだよね。だから、息子を紹介したいってことでさ」
椿姫,「でも、そんな理由で学園を休めるの?」
京介,「休むしかなかった。パパの役に立ちたいしな」
椿姫,「そっか……浅井くん、いつも忙しそうだもんね」
どこか、寂しそうだった。
;-----------------------------------这是选择支-------------蛋疼啊----------------------------------
京介,「お前の家って、東区だったよな?」
椿姫,「うん、そうだよ?」
京介,「だったら、途中まで一緒に行こう」
椿姫,「え? 東区に用事でもあるの?」
京介,「ああ、ちょっと、知り合いの家に行くんだよ」
椿姫,「お友達?」
京介,「……まあ……そんなところかな」
椿姫,「浅井くんは、お友達多いなあ」
おれたちは人ごみのなか、地下鉄の改札口に向かっていった。
;黒画面 
;SE 電車の音 ゴトンゴトン
地上げ。
おれがこれからやろうとしていることを簡単にいうとそういうことになる。
椿姫の住む東区は、スキー場を主体にした大規模なレジャー施設として開発が進められている。
しかし、もともとは、畑ばかりの農地に過ぎなかった。
土地は古くからの地主が権利を持っている。
急ピッチで用地を買収しているのは、有名なゼネコンだが、少し調べたところ、やはり山王物産の系列企業であることがわかった。
この街で、なにか大きな仕事をしようと思ったら、必ずあの巨大商社の名前が出てくる。
清廉潔白の優良企業である山王物産は、清廉潔白では対処しきれない問題を、おれたちに投げてくる。
五世帯だったか……。
これから、住み慣れた土地を追い出される家族が五つもある。
椿姫,「浅井くん、そろそろ着くよ」
;背景 公園 夕方
;// ここで電車音をフェード停止
地下鉄を出ると、公園の近くに出た。
セントラル街と違って、人気はなかった。
京介,「いやー、寒いなー」
椿姫,「山が近いからかな……」
椿姫が何かを言いかけたとき、胸のポケットのなかで携帯電話の振動があった。
;SE 携帯
京介,「あ、電話」
;// 携帯停止
相手はミキちゃんだった。
京介,「ああ、もしもしー。うん、うんっ……だいじょうぶだいじょぶ」
椿姫,「…………」
京介,「じゃあ、来週ね。はいはい……」
椿姫,「……電話、終わった?」
京介,「うん、友達から」
椿姫,「ひょっとして、彼女さん?」
京介,「彼女なんていないけど」
椿姫,「え? 前に、いるっていってなかったっけ?」
京介,「覚えがない」
椿姫,「本当にいないの?」
京介,「いや、フリーだから。おれ、遊び人だから」
椿姫,「そっか……そうなんだ。わたし勘違いしてた」
はにかんだ表情が、うれしそうに見えないこともなかった。
椿姫,「彼女さんいるなら、あんまり一緒に歩いたり、CD買いに行ったりしたらダメかなって思ってたの」
京介,「もしいても、それくらいいいだろ」
椿姫,「うん、でも……悪い気がしてたの」
心底安心したように、ため息をついてうつむいた。
その程度のことが、椿姫にとっては大きな罪だったらしい。
おれは複雑な気分だった。
椿姫が、どことなく、うっとうしいような気がする。
普通の人間が、他人に好かれようとするある種の作為が、この少女からはまったく見つからない。
率直に言えば、いいヤツすぎて、信用ならないのだ。
椿姫,「どうしたの? なにか、不機嫌?」
そのくせ、勘がいい。
京介,「さて、行くぞ」
椿姫,「どこに行くの?」
京介,「ああ、えっとな。住所は……」
番地をいうと、椿姫が目を丸くした。
気になる少女だった。
おれにないものをたくさん持っていそうだった。
深く関わってみたいとも思った。
椿姫,「あ、それって……」
そして、その願いは、偶然にも現実のものになった。
椿姫,「うちの家の住所だよ?」
;```章タイトル表示
;第二章 遊興の誘拐
思案していた。
 時間にして約一時間。"魔王"はかたく目を閉じていた。空調は動いていなかった。冷たい壁に背を預け、寒さに微動だにしない姿には無言の虚無僧のような威圧感があった。
 "魔王"には計画があった。実行されれば、史上稀に見る大犯罪がこの街を襲う。しかし、まだ時期ではない。打つべき手は全て打った。あとは、時が来るのを待てばよい。
 いわば、いまは空白の時間だった。他にやるべきことはないのか。計画に不備はないのか。何度も頭脳を巡らせた。行き着く答えは、いつも同じだった。何もするべきではない。いまは行動を控えることが、最良の行動なのだ。
――宇佐美ハル……。
 一抹の懸念材料は、やはりあの少女だった。
 "魔王"は興信所の人間に、宇佐美ハルの素性を探らせた。長髪の少女は、一般の学園生とは少し違った。頭の鋭さは、実際に相対してみてよくわかった。人脈や背後関係も探った。すると、宇佐美ハルには、もう一つの顔があるということが発覚した。けれど、それも、"魔王"の計画を脅かすようなものではなかった。
 なにを恐れる必要がある?
"魔王"に恨みを抱いている人間など、いくらでもいるではないか……。
エレベーターの稼動音が聞こえた。
染谷,「遅くなって申し訳ない」
染谷が深々と頭を下げた。後退した額にうっすらと汗がにじんでいた。
染谷,「東区の開発の件で、会議が長引いてしまってね」
「麦焼酎はいかがでしたか?」
染谷の赤ら顔を見据えた。そして、目で、言った。会議ではなく、接待を受けていたのだろう。同時に、私は、お前が麦焼酎をこよなく愛することを調べ上げている……。
 染谷は、酒臭い息を撒き散らした。
染谷,「すまなかった。大事な相談だったんだ。なにしろ国土交通省の役人も来ていたのだから……」
「けっこうなことです。ただ、時間が有限であることをお忘れなきよう」
さっそく仕事の話に入った。
 染谷は従順だった。ボストンから呼んだ秀才を叩き潰されたのが、よほどショックだったらしい。
 染谷は"魔王"について何も知らない。教えた名前も、年齢も、経歴も全て架空のものだった。しかし、相手の素性など知らないほうがうまくいく商売もある。いざというとき、司法の手から逃れ易い。染谷は、そういうことを理解していた。
"魔王"が山王物産にもたらした最大の利益は、軍事兵器の密輸入だった。これまで、この国の軍需産業は、戦前からある大企業が一手に担ってきた。ほぼ独占状態にあった市場に楔を打ったのが、"魔王"の功績とされている。
 "魔王"は、日本の税関が輸入には厳しいが、輸出には甘いという弱点を突いた。新潟と福岡の港に拠点を設け、それまで暴力団相手の商売をしていた不良外国人と結んで、北朝鮮と香港を結ぶルートを開拓した。
 危ない橋を渡ることも多かった。危機管理の甘さを非難されるほど、甘い国でもないと思った。しかし、どれだけ敵が強大であろうと、やらなければならなかった。
染谷,「いや、改めて君の鋭さには驚かされるよ」
一通りの話は終わった。武器の偽装、密航のための船の手配、税関への根回し、抱き込むべき人間の人選……あらゆる手はずを整えた。
染谷,「一つ聞いてみたいのだがね」
染谷が腰を落ち着かせた。
染谷,「君の目的はなんなのだ?」
「目的?」
染谷,「君ほどの男だ。金ではないのだろう?」
酒が引いたのだろうか。染谷の顔が引き締まった。
染谷,「そろそろ長いつきあいになる。君の夢の一つでも聞かせてもらえんかね?」
悪くない顔つきだ、と思った。
もともと"魔王"は染谷をなめきっているわけではなかった。御しやすいとは思うが、軽蔑しているほどでもない。実際、染谷が専務として会社を仕切るようになってから、山王物産は新しい展望を見せた。急激な拡大政策で、売り上げのほとんどを新規事業に投資した。当然、社員への賞与などの還元は後回しになるから、反対派も多い。しかし、"魔王"と組んで非合法な商売に手を出しているのも、全ては会社のためではないか。
染谷,「私の父は戦中派の人間でね。この会社のために懸命に働き、骨をうずめていった。私は父が大きくした会社を守っていかねばならないんだよ」
「ご立派な志です」
本心からそう言った。"魔王"は、"魔王"などと人から呼ばれてはいるが、決して、自分を尊大な存在だとは思わない。"魔王"より三十以上も年上の染谷が、"魔王"より長じている部分がないはずがないのだ。
「夢などありません」
染谷,「謙遜するな。君の目は、戦いを前にした父の目に似ている。大きな志を持った男の眼だ」
「夢などありません。本当です」
言い切った。染谷はうつむいた。寂しさを隠しているようにも見えた。
染谷,「まあいい。なんにせよ、金で動かない人間は扱いが難しい」
「何かお困りのようですね?」
染谷,「鋭いな、君は。なあに、東区の用地買収がね、思うように進んでないんだ」
「土地を手放したくない人間がいるんですね?」
染谷,「相場の二倍の金を出すと言っても、聞いてくれない。あまりに困ったんで、プロを雇うことにしたよ」
おそらく暴力団関係の人間だろう。染谷も手荒い真似が好きだ。しかし、現在の地上げは、バブルのときのように荒っぽい手口は使えない。示談が難航するのもうなずける話だ。
染谷,「あと、たったの一区画なんだがね」
染谷が手帳を開いた。住所と、図面が描いてあった。立ち退きを拒否している家族の名もある。
「いずれにせよ、私には関係のない話です」
拒絶するように手を振った。
染谷,「これは、すまなかった。君の手をわずらわせるつもりはない」
「染谷室長が手をわずらわせるほどのことでもないでしょう?」
子会社の課長クラスの人間が頭を悩ませているならわかる。東区のレジャー施設開発に、山王物産が並々ならぬ熱意を注いでいることは知っている。けれど染谷は、本社の専務取締役なのだ。何か、裏があるとしか思えない。
「国土交通省の方とお会いになっているそうですね?」
染谷,「君にはかなわんな。そう、株だよ」
株のインサイダー取引。
 たしかに、東区の大規模開発が順調に進めば、開発に着手した企業の株価は上がる。それを見越して、染谷は役人に甘い汁を吸わせたいのだ。
そのときだった。
 "魔王"は、染谷の手帳からある名前を見出した。
「美輪、椿姫……」
"魔王"は眼を閉じた。美輪椿姫。聞いた名だった。
染谷,「どうかしたのかね?」
「いえ……」
染谷,「気分が悪そうだが?」
思い当たった。宇佐美ハルの関係者だ。
「この、美輪椿姫という少女は、自由ヶ咲学園に通っているのでは?」
染谷,「知り合いかね?」
"魔王"は薄く笑った。
 空白の時間をどう使うべきか。それまで悶々としていた考えが一気に線を結んだ。
美輪椿姫を利用して、宇佐美ハルを追い詰め、ねじ伏せる。
「染谷室長。私に任せていただきたい」
染谷が息を潜めた。
染谷,「どういう風の吹き回しだ?」
「南米のテロリストの話です。旅客機のなかに、テロリストが狙う要人がいました。テロリストは要人を殺害するだけでは気がすまなかった。なんの罪もない旅客を巻き添えにして、飛行機を墜落させました。要人と同じ飛行機に乗っていたという理由だけで……」
"魔王"は、自らの口元が歪んでいくのを自覚していた。負の感情が募っていく。抑えられそうになかった。
 染谷に言ったように、"魔王"には夢などなかった。
「私の心にあるのは、ただ一つです」
染谷,「さっきから、なにを言ってるんだ?」
「全て、お任せください」
"魔王"は染谷に背を向けた。全身にみなぎるものがあった。"魔王"を突き動かすものは、たった一つの感情だった。
 復讐。
;// 体験版終了
;背景 教室 昼
昨日はけっきょく、椿姫の家には行かなかった。
出直すことにしたのだ。
急用が入ったことにして椿姫と別れた。
椿姫,「おはよう、浅井くん」
京介,「おう、昨日は悪かったな」
椿姫は、おれの複雑な心境など知らず、いつものように微笑んでいる。
京介,「そのうち、お前の家に遊びに行ってもいいか?」
椿姫,「え? どうして急に?」
京介,「……ダメか?」
椿姫,「いや、いいけど……」
京介,「どした? お前が、人に嫌そうな顔するなんて珍しいな」
椿姫,「ううん、ちょっと恥ずかしかったから」
京介,「恥ずかしい?」
椿姫,「うん、うちって、ちょっと特殊だから」
京介,「ますます行ってみたくなったな。今日はどうだ?」
椿姫,「え、えっ!?」
詰め寄って、微笑んだ。
椿姫,「い、いやあの、うちに来るっていうことは、お父さんにも紹介しなきゃいけないよ?」
京介,「んな、おおげさな。結婚前提のおつきあいじゃあるまいし」
椿姫,「でも、お父さんとか勘違いして舞い上がっちゃうよ?」
栄一,「なに困ってるの、椿姫ちゃん?」
ひょっこりと栄一が顔を出した。
椿姫,「いやあの、浅井くんが、うちに来たいって」
栄一,「え、ダメなの?」
椿姫,「ダメじゃないけど、恥ずかしいなあって」
栄一,「じゃあ、ボクも一緒にいってあげるよ」
京介,「え? お前はいらないよ」
ハル,「じゃあ、自分も一緒に……」
京介,「沸いて来んなよ。なんだお前らいきなり」
ハル,「ただ、自分、アレなんすよね。今日はちょっとだけバイトなんで、少し遅くなるかもしれません」
栄一,「ボクもペットに餌あげてから行くね」
ハル,「あ、じゃあ、いっしょに行きましょう、エテ吉さん」
栄一,「いいよー、駅で待ち合わせしない?」
椿姫が顔を上げた。
椿姫,「みんな、一緒なら、いいかな」
ハル,「やったー! わー!」
栄一,「わー!」
……まあいいか。
;背景 廊下 昼
授業の合間に電話をする。
椿姫の家の件だ。
仕事が遅いと、お叱りを受けた。
京介,「あー、もしもし。京介です。今日の夜にでも、一度、あの家に出向いてください。ええ、わかっていると思いますが、手荒い真似はまずいですよ?」
おれは会社の人間をけしかけて、椿姫の家を訪ねさせることにした。
少し、様子を見てみなくてはな。
家を立ち退かないのには、きっと理由がある。
東区は田舎なのだ。
たしかに、スキー場が注目されるようになってからは、相場も跳ね上がったが、それでも都心に比べればたいしたことはない
土地の買い付け手が、倍の額を払うといっても聞かないのだから、なかなか根性が座っている。
おれの仕事は、彼らが家を出て行かない理由を探り、そして少しずつ、その理由を潰していくことだ。
水羽,「…………」
ふと、白鳥の姿が、視界の片隅に入った。
京介,「よう」
水羽,「…………」
白鳥は、一瞥をくれただけだった。
京介,「お前も、今日、椿姫の家に遊びに来ないか?」
水羽,「遠慮しておくわ」
京介,「そんなこと言うなよ。家族ぐるみで鍋パーティするんだよ。楽しそうだろ?」
水羽,「授業、始まるわよ?」
背を向けた。
京介,「おい、待て。どうしてそんなにおれを嫌うんだ?」
水羽,「あなた、自分がどういう人間なのか、自覚していないのね?」
京介,「自分が、何様なのか、って?」
水羽,「あなたの裏の顔を知ったら、一緒に鍋パーティなんてしたがるかしら?」
京介,「やめてくれよ。ことをばらして、おれの友達を奪おうってのか?」
水羽,「あなたは本当に友達を友達として見てるの?」
……しつこい女だ。
京介,「ひとつ聞くがな、白鳥」
水羽,「…………」
京介,「おれが、お前に何かしたか?」
水羽,「え?」
京介,「おれはたしかに、裏表があるのかもしれない。だが、それが、お前にどんな不利益をもたらしたんだ?」
不利益なんて、なにもない。
白鳥は、ただ、おれが怖いのだ。
京介,「別に、お前をとって食おうってわけじゃないんだ」
水羽,「…………」
京介,「仲良くしよう、な?」
丁重に、手を差し伸べた。
水羽,「いや」
きっぱりと拒絶された。
白鳥の後姿は怒りに震えていた。
京介,「……まったく」
おれの、なにが、悪い?
;背景 繁華街1
授業が終わると、さっそく日が暮れ始めた。
椿姫,「本当に、うちに来るんだよね?」
京介,「そんなに嫌なのか?」
椿姫,「……うーん……」
学園を出てから、椿姫は、ずっとぶつぶつ言っていた。
椿姫,「今日は、浅井くんがおうちに来ます。驚きの一日になりそうです○」
京介,「ご両親には連絡したか?」
椿姫,「うん、さっき学園の公衆電話で」
京介,「なんか言われたか?」
椿姫,「すごいうれしそうだった。お父さんがお母さんに赤飯を炊けとか言ってた」
……どういう家庭なんだ。
しかし、椿姫の父親については、いろいろと聞いてみたい。
京介,「お父さんは、どんな仕事をしてるんだ?」
椿姫,「えっとね、いつも畑にいるよ」
京介,「ふーん。野菜作ってるのか?」
椿姫,「ううん、リンゴとか」
京介,「へえ、初耳だわ。昔から、ずっとやってるのか?」
椿姫,「おじいちゃんもひいおじいちゃんも、ずっとやってたんだって」
果樹園経営か……。
買収しなければならない土地が、やけに広いとは思っていたが、ほとんどが果樹の畑ってわけか。
果樹は、立ち退きの際に、一本につき補償をしなければならなかったような気がするな。
場合によっては、代替農地も都合つけてやらなければならない。
しかし、立退き料の総計がつりあがっていくのは当然としても、提示されている額面には及ばないだろう。
立ち退かない理由はおそらく……。
京介,「なるほど、先祖代々伝わってきた土地なんだなー」
椿姫,「うん、お父さんもお母さんも愛着あるみたいなんだ」
住み慣れた土地だから、出て行きたくないのだ。
単純だが、当たり前の理由だ。
椿姫,「でも、最近ね、引っ越してくださいって言われてるみたいなんだ」
困ったもんだな。
金の問題じゃないってことだ。
椿姫,「お父さんは、断固拒否してるんだけどね。営業の人も、なかなかあきらめないみたいで……」
京介,「なんか、大変そうだな。おれも相談に乗るよ」
椿姫,「浅井くんが?」
京介,「ほら、おれって、パパの仕事手伝ってるって言っただろ? 知り合いにもアセットマネージャーとかいう用地仕入れのプロもいるしさ」
椿姫,「ほんと? すごいなあ、浅井くんは。頼りになるなあ」
椿姫の頬が、それこそリンゴのように赤く染まった。
京介,「ちょっと、お父さんとも話しさせてくれよ」
椿姫,「わたしからもお願いするよ。お父さんも、土地とか、権利とか難しい話はよくわからないらしくて、困ってるの」
京介,「力になれるといいけどな」
おれは笑顔を見せた。
計算高く、笑っていた。
;椿姫の家概観 夕方
椿姫,「ここだよ」
地下鉄に乗って東区までやってきた。
この富万別市は九つの区にわかれているが、東区はそのなかでも一番の田舎だ。
周りを見渡すと、ビニールハウスのある畑が多い。
けれど、広い道路には、大型の貨物トラックや、ショベルカーなどが忙しなく闊歩している。
開発が進んでいるのだ。
京介,「そういえば、栄一と宇佐美は、来るのか?」
椿姫,「おうちの住所は教えておいたよ」
京介,「なにしに来るんだろうな」
椿姫,「みんないっしょの方が、楽しいよ」
……栄一はともかく、宇佐美はなんとなく嫌だな。
京介,「んじゃあ、お邪魔します……」
椿姫,「あ、ちょっと待って」
ストップをかけられた。
椿姫,「栄一くんと宇佐美さんが来るのを待ってからにしない?」
京介,「え? あいつら、だいぶ遅くなるって言ってたぞ?」
椿姫,「それまで、どこかで時間を潰してればいいんじゃないかな?」
京介,「どこで?」
椿姫,「こ、公園とか」
京介,「なにすんの」
椿姫,「ブランコ」
京介,「マジで?」
椿姫,「す、滑り台でもいいよ?」
京介,「おいおい」
椿姫,「ごめん。かくれんぼのほうがよかった?」
京介,「しつけえよ。お前の遊びはなんでそんなワンパクなんだよ」
椿姫,「ゲームとかもするんだよ?」
京介,「よし、ゲームをしよう。だから早く家に上げてくれ」
椿姫,「ちょ、ちょっと待って!」
どうやら、本当におれを家に入れたくないらしいな。
椿姫,「浅井くんに迷惑かかるよ?」
京介,「この冬空の下でかくれんぼするほうが迷惑なわけだが?」
椿姫,「だって、勘違いされちゃうよ?」
京介,「なんの勘違いだ?」
椿姫,「うちの家族の勢い、すごいから」
京介,「意味がわからねんだよ、さっきから」
椿姫,「みんなで、一斉に勘違いされちゃうよ?」
京介,「もういい」
おれは椿姫を押しのけて、家の敷居をまたいだ。
椿姫,「わかったよ、わかったから、せめて、いいよって言うまで待ってよ……!」
京介,「お、おう……」
そんなに見せたくないものがあるのか……?
椿姫,「じゃ、じゃあ、待っててね。着替えてくるから……」
椿姫はそそくさと、戸口に消えていった。
しばし待つ。
京介,「…………」
京介,「…………」
京介,「…………」
いや、かなり待った。
――は、入っていいよ。
ようやく家のなかから椿姫の声がした。
京介,「んじゃ、おじゃましまーす」
;黒画面
;※※インターホンは鳴らさず、ドアを開ける音を入れた
……。
…………。
椿姫にかまわず玄関に入ると、すぐさまにぎやかな声が聞こえてきた。
広明,「あ、きたきたー」
紗江,「きたー」
……騒がしい。
パパ,「彼氏も来たか?」
ちろ美,「かれしー、かれしー」
孝明,「わーわー」
椿姫,「浅井くん、ちょっと待ってって!」
おれの背後で椿姫が言う。
しかし、おれは、騒がしい声にひかれるように、靴を脱いだ。
京介,「おじゃまします」
……。
え?
広明,「彼氏だー!」
パパ,「おう、これは、なかなかのイケ面じゃないか!」
紗江,「お姉ちゃん、やるー」
ちろ美,「かれし、かこいいー」
孝明,「お姉ちゃん、ごはーん」
すごい量の視線。
広明,「彼氏、名前なんてーの?」
パパ,「おい広明、それはパパが聞きたいんだ」
ママ,「さあさあ、座って座って。寒かったでしょう?」
ちろ美,「ママー、ごはんまだー?」
孝明,「まだー?」
ひい、
ふう、
みい、
よう
……え?
椿姫,「ご、ごめんね、言ってなかったっけ?」
京介,「ちょっと、なんだこの数は……!?」
パパ,「おい、椿姫。お父さんに紹介しなさい」
お父さんはでっぷりとしたお腹を軽く叩いた。
京介,「あ、ええと……僕は……」
名乗ろうとした。
;ガチャガチャと食器を激しく動かす音。
ちろ美,「わー、こぼしたー、わーん」
京介,「えっと……」
ママ,「こら、ちろ美」
広明,「わ、きったねー!」
京介,「ええと……」
パパ,「椿姫」
ママ,「お父さん、お行儀悪いですよ」
京介,「…………」
おれは救いを求めるように、椿姫を見た。
椿姫,「みんな、ちょっと静かにしてよ」
広明,「お姉ちゃん、ボク、お腹空いたよー」
ちろ美,「わーん」
ママ,「もう、この子ったら……」
孝明,「お姉ちゃん、ご飯ー」
紗江,「ご飯ー」
みんなそれぞれに騒いでいる。
京介,「すいません!」
らちがあかないので、声を張った。
孝明,「びゅーん!」
いきなりスプーンが飛んできた。
椿姫,「こら!」
孝明,「あははは」
京介,「ちょっと、すいません!」
広明,「びゅーん!」
京介,「……うおっ!?」
今度は箸が飛んできた。
パパ,「こら、お前たち。椿姫の彼氏になんてことを!」
椿姫,「か、彼氏じゃないよお父さん!」
赤くなって慌てだす椿姫。
……なるほど、だから椿姫はおれを家に呼びたくなかったんだな。
広明,「びゅーん!」
箸が、おれの顔にヒットした。
椿姫,「もう、みんな落ち着いてよー!」
そんなとき、家のチャイムが鳴った。
栄一,「おじゃましまーす」
栄一の声。
ママ,「はいはい、いらっしゃい。あがってくださいなー」
栄一,「すごい人数」
ハル,「ちょっと、なんすかこれ、大家族スペシャル……!?」
宇佐美と栄一がやってきて、居間の密度はさらに濃くなった。
椿姫,「うぅぅ、だから、いやだったんだよ……」
……帰りたくなってきたな。
;背景 椿姫の家 居間
ハル,「ごちそうさました」
たいへんな夕食だった。
栄一,「椿姫ちゃんって、五人兄妹なんだね」
京介,「しかも、長女なわけか。こりゃ大変そうだ」
子供たちはご飯を食べ終えると、すぐさま眠りについた。
椿姫,「ごめんね、お父さんがへんなことばっかり言って」
ハル,「浅井さん、完全に椿姫の彼氏さんってことになってますね」
京介,「……たしかに、すごい勢いのお父さんだな……」
苦笑すると、脱衣所のほうから声があった。
パパ,「おい、京介くん。風呂入っていけよ?」
京介,「あ、けっこうです」
パパ,「背中流してやるぞ、な?」
京介,「はは……」
椿姫,「お父さん、もういいってばー」
本来の目的を忘れてしまうような楽しげな時間が過ぎた。
ママ,「みんな、デザート食べる?」
椿姫の母親が、洋梨を器に盛ってきた。
ハル,「うまそっすね。がっつりいただきます」
椿姫,「あ、フォークあるよ」
ハル,「いらん」
宇佐美は、梨を手でつまんだかと思うと、小動物の速さで咀嚼していった。
栄一,「おい、京介」
小声で聞いてくる。
京介,「ん?」
栄一,「お前ら、ホントにつきあってんだろ?」
京介,「んなわけねーだろ」
栄一,「隠すなよ。わかるんだよ、オレちゃんクラスになると」
京介,「違うっての、なあ椿姫?」
椿姫,「なあに?」
京介,「どうも栄一が、おれたちが、ほんとにつきあってると思ってるらしい」
椿姫,「ええっ?」
栄一,「だって、ここんところ、いっしょに遊んでるじゃない?」
ハル,「そすね、CDいっしょに買いに行ったりしてましたね」
宇佐美も、梨をほお張りながら会話に参加してきた。
栄一,「忙しい京介くんにしては、珍しいなって」
栄一,「(オメーが特定の女に熱をあげるなんて珍しいっつーこと)」
馬鹿馬鹿しい……。
京介,「たまたまだろ」
馬鹿馬鹿しいが、つきあってみるのも悪くないかもしれないな。
椿姫を落とし、家族の信用を得てから、じっくりと立ち退きの話をしていく……。
ハル,「んじゃまあ、二人は交際してるってことで……」
そのとき、椿姫がはっきりと首を振った。
椿姫,「ごめん、本当に違うよ」
宇佐美と栄一をさとすように、優しく笑っている。
椿姫,「変な誤解があると浅井くんに迷惑だから、はっきり違うって言わせて」
……おれに、迷惑。
やけに心に響く。
広明,「お姉ちゃん、おしっこー」
一番下の弟が、まぶたをこすりながらやってきた。
椿姫,「はいはい、広明、こっちだよ」
手をつないで、廊下に出て行った。
栄一,「椿姫ちゃんは、優しいねー」
ハル,「わたしの仲間その一ですからね」
京介,「…………」
栄一,「どうしたの、京介くん。はっきり違うって言われてショックだったの?」
栄一はまだおれをからかっている。
京介,「ちょっとだけな」
おれも、冗談で返す。
京介,「なんにせよ、椿姫みたいな家庭的な女を嫁にできたら、旦那は幸せだろうな」
もちろん、家庭なんてものは、おれの求める幸せではない。
栄一,「そういえば、宇佐美さんは?」
ハル,「はい?」
栄一,「好きな人とかいないの?」
ハル,「自分すか……?」
ハル,「いますよ、はい」
たいしたことでもないというふうに言った。
ハル,「って、はあ?」
いきなり怒り出した。
ハル,「いないすよ、んなもん」
栄一,「ど、どっちなの?」
ハル,「浅井さんでないことだけは、確実です」
京介,「おれ?」
栄一,「え? じゃあ、ボク? やだなー、ボク年上の人が好きなんだよごめんね、でも考えておくね」
ハル,「なにごちゃごちゃぬかしてんすか」
ぶすっとしながら、洋梨を口にくわえた。
椿姫が、弟を連れて戻ってきた。
広明,「お姉ちゃん、いっしょに寝てー」
椿姫,「いまは、お友達きてるから、だめだよ」
広明,「いっしょ寝てー」
椿姫,「広明っ……困った子だなあ」
宇佐美が手をふいて、立ち上がった。
ハル,「そろそろ帰りますかね」
栄一,「そだね」
おれも帰りたいところだが……。
時計を見る。
そろそろか……。
椿姫,「お母さん、誰かきたよー」
ママ,「はいはい。お父さん、出てくださいな」
パパ,「誰だ、こんな時間に」
風呂上りのお父さんが、玄関に向かった。
広明,「お姉ちゃん、眠いよー」
弟は、まだ駄々をこねている。
椿姫,「もう、しょうがないなぁ……」
椿姫は弟の相手が少しも嫌そうではなかった。
京介,「いつも、いっしょに寝てやってるのか?」
椿姫,「うん、だいたいね。とくに広明は一番寝つきが悪いの」
広明というのが、弟の名前らしい。
広明,「おねえちゃーん」
;SE 戸を思いっきりたたくような音
京介,「……っ?」
玄関から物音がした。
言い争うような声も聞こえる。
栄一,「なにかな?」
椿姫,「お父さん、どうかしたの?」
パパ,「帰れ! 馬鹿もんが!」
ひときわ大きな声が居間にまで届いた。
;SE 戸を勢いよく閉めるような音。
椿姫,「…………」
不安そうな椿姫。
しばらくして、親父さんが戻ってきた。
パパ,「まったくあいつらは……!」
ママ,「あなた、またですか?」
パパ,「今度は、もっとたちの悪そうなのがきたよ」
浅井興業の人間だ。
立ち退き交渉のために、がらの悪そうなのをよこした。
栄一,「どうしたの、椿姫ちゃん?」
椿姫,「な、なんでもないよ。ごめんね」
椿姫は、弟の手をしっかりと握っていた。
報告を聞きたいし、ひとまず、帰るか。
京介,「それじゃ、おじゃましました」
軽く頭を下げた。
ハル,「帰るんすか?」
京介,「ん?」
宇佐美が、おれの前にたちはだかるように見つめてきた。
ハル,「気にならないんすか?」
宇佐美は、台所で話し込んでいる椿姫の両親に軽く目を向けた。
おれは声をひそめた。
京介,「家庭の事情ってやつだろ。深く立ち入るのもどうかと思うぞ」
ハル,「そすか。今日のところは帰りますか」
宇佐美は椿姫に目を向けなおした。
ハル,「おい椿姫。なにか困ったことがあったらちゃんとわたしに言うんだぞ」
椿姫,「え? あ、うん。ありがとう」
ハル,「わたしを頼れ。いいな?」
ビシっと言った。
栄一,「じゃあ、ボクも帰る」
おれたちは挨拶をして、家を出た。
;背景 椿姫の家 概観 夜
椿姫,「今日はありがとう。楽しかったよ」
椿姫が見送りに出てきた。
広明,「ばいばーい」
広明とかいう弟も、眠そうな目をして手を振った。
ハル,「おいしいご飯にありつけて、わたしはとても気分がよかったのでした○」
椿姫っぽいことを言って、宇佐美は背を向けた。
京介,「椿姫。夜、電話していいか?」
椿姫,「え? 何時くらい?」
京介,「わからんが、お前、寝るの遅いだろ?」
椿姫,「うん。でも、どうして?」
どうして、電話なのかという意味だろう。
京介,「いや、なんとなく。ちょっと心配になってさ……」
照れくさそうに頭をかいてみた。
椿姫,「ありがとう。待ってるね」
椿姫はいつもにこにことしているが、このときの笑顔はいつもと勝手の違うものだった。
椿姫,「優しいな。浅井くんは」
京介,「…………」
これで、よし。
栄一,「じゃあねー」
椿姫,「うん、気をつけて帰ってねー」
;背景 主人公自室 夜、明かりあり
帰宅すると、すぐさま携帯をいじった。
椿姫の家にやらせた浅井興業の人間からの報告を聞いていた。
京介,「……手荒い真似はしないでもらいたかったのですが」
おれはいらついていた。
どうやら、家の玄関の戸を蹴ったらしい。
京介,「警察に訴えられたらどうするつもりだったんですか?」
チンピラじゃあるまいし……。
京介,「民事? そりゃ、まっとうな会社の人が言うセリフでしょう? うちは暴力団のフロント企業ですよ? あなたがたの大好きだったバブルの時代じゃないんです」
とにかく、おれは人選をミスった。
もっと慎重にことを運ばなくては。
警察がからんできたら、退散するしかないんだ。
京介,「……ち」
通話を切った。
キーボードを打ちながら、考えをまとめる。
一人になって、パソコンと向かい合っているときが、一番落ち着く。
;ノベル形式
メールソフトを立ち上げて、断片的な情報をざっくばらんに書き込んでいった。
;ノベル形式
立ち退き、椿姫の気持ち『優しさ』→利用?
魔王→かわいいぼうや→ぼうや……。
立ち退き、示談金、金、魔王、かわいいぼうやおいでよおもしろいあそびをしよう。
;通常へ
とりとめのない単語が、画面上にうめつくされた。
自分でも覚えのない言葉を吐き出していく。
そうやって、頭を回しながら、区切りがついたあたりで、自分宛にメールを出す。
受信トレイを開いて、いままで自分が書いたばらばらの情報を、もう一度整理してみる。
これは、知り合いの経営者に教えてもらった頭脳活用法なのだが、それなりに効果があった。
京介,「金の問題じゃないか……」
結論は出た。
椿姫の一家が、なぜ立ち退きを拒むのか。
土地の評価額、代替農地の提供額、引越し代から、もろもろの慰謝料を加えると、存外な大金になった。
立ち退きさえすれば、大家族だろうが、いまより裕福な生活ができるだろう。
それでも出て行かないというのだから、これはもう金の問題じゃない。
気に入らないな。
金の問題じゃないことが、この世にあるわけがない。
……ひとまず、椿姫に電話するか。
椿姫の家にコールした。
間髪いれずにつながった。
椿姫,「あ、浅井くん?」
京介,「おおっ? なんだ、早いな」
椿姫,「うん、電話の前で待ってたから」
へえ……。
京介,「今日は、おしかけてごめんな。メシおいしかったよ」
椿姫,「本当?」
京介,「ああ、なんつーか、家庭的だった」
ああいう食事は久しぶりだ。
椿姫,「今日は、お母さんが作ったけど、今度はわたしが作るね。わたし、こう見えても、料理苦手じゃないんだよ」
京介,「へえ、椿姫がいきがるなんて珍しいな」
椿姫,「え? いきがる?」
京介,「はは、料理が得意とか言ったじゃないか?」
椿姫,「あ、そうだね。いきがったね。これでヘタっぴだったら、ごめんね」
それだけ、おれに心を開いているということだ。
京介,「そういえば、お父さんだいじょうぶか?」
椿姫,「うん、ごめんね。へんなところ見せて」
京介,「地上げ屋が来たんだな?」
椿姫の声が、はっきりとしぼんだ。
椿姫,「なんかね、ヤクザさんみたいな人だって」
京介,「そうか、ひどいな」
椿姫,「わたし、警察に連絡しようかと思ってるんだ」
なかなか勇ましいな。
京介,「警察か……」
椿姫,「うん、どう思う?」
京介,「そうだな……よしといたほうがいいんじゃないかな?」
椿姫,「どうして?」
京介,「警察の人は忙しいからね。相手にされないと思うんだ。直接、暴力を振るわれたりしたのなら動いてくれると思うけど」
京介,「じっさい、そういう事件もあったんだよ。ひどいのになると地元の警察官が地上げ屋と組んでたりするんだ」
実際のところ、山王物産がバックについているのだから、都市開発にあたって、所轄への根回しはあるだろう。
椿姫,「うーん、無理かな?」
京介,「難しいと思うな。民事不介入っていって、基本的に警察は、土地の権利争いみたいな民間のもめごとには関わってくれないんだよ」
まあ、暴対法もなにもない、ヤクザがイケイケだった時代の話だがな。
いまじゃ、ちょっと声を荒げたり、家の敷居をまたいだだけで警官が飛んでくる。
椿姫,「そっか、ありがとう。浅井くんは物知りだなあ」
素直な女だ。
京介,「これからも、ちょくちょく家に顔を出していいか? なにか力になれるかもしれないし」
椿姫,「それは、願ったりかなったりうれしかったりだよ」
……変な言葉づかいだな。
京介,「お父さんとも、話をさせてくれよ」
すると、椿姫はため息をついた。
椿姫,「ごめんね、彼氏彼氏って、うるさくて」
京介,「いや、別にいいよ」
おれには考えがある。
京介,「悪い気はしないから」
椿姫,「え?」
京介,「椿姫みたいな女の子の彼氏って言われて、悪い気がするヤツなんているかな?」
椿姫,「……っ」
黙った。
きっと、電話の向こうで赤くなっているのだろう。
椿姫,「あ、ありがとう。日記に書いておく」
京介,「はは……なんで日記……?」
しかし、椿姫がおれを信頼しているのは間違いないな。
食事をしたときの印象からして、椿姫は家族からとても愛されている。
親父さんは、頑なに立ち退きを拒んでいる。
だが、愛する娘の言うことは聞くだろう。
じっくりと利用して……。
そのとき、椿姫が言った。
椿姫,「あ、あのね、浅井くん……」
京介,「ん?」
椿姫,「わたし、浅井くんに、謝らなきゃいけないんだ」
京介,「へ? どした?」
いかにも深刻そう。
椿姫,「わたしね、浅井くんって、ちょっと冷たい人なのかなって、思ってた時期あるんだ」
京介,「……お、おう」
椿姫,「一年生のときから、ずっとクラスいっしょだったでしょう? でも、あんまり話したことないし、話しかけてもぶすっとしているような印象だったから」
……たしかに、最近まで椿姫に興味はなかったな。
京介,「それで?」
椿姫,「いや、だから、ごめんね」
京介,「え?」
椿姫,「ごめんなさい」
京介,「……それぐらいで」
また、心がうずいた。
謝られるようなことではない。
胸のうちに秘めていた印象ぐらいで、どうして頭を下げるのか。
……。
;-----------------------------------------这是选择支,我做一下标记-----------------------------------
;選択肢
;気に入らない女だ。
;気持ちだけはうけとっておくか。→椿姫好感度+1
気に入らない女だ。
気持ちだけはうけとっておくか。
@exlink txt="気に入らない女だ。" target="*select1_end"
@exlink txt="気持ちだけはうけとっておくか。" target="*select1_end" exp="f.flag_tubaki+=1"
;-----------------------------------------这是选择支,我做一下标记-----------------------------------
京介,「まあ、わかった。じゃあ、明日。学園でな」
椿姫,「うん、電話ありがとう」
椿姫の息づかいが聞こえた。
おれが通話を切るまで、じっと待っているようだった。
;背景 主人公自室
外道。
おれは外道だ。
自分を信頼している少女を利用したとしても、罪悪感は訪れない。
眠るとするか。
ベッドに入り、まぶたを閉じる。
少女のうれしそうな顔が浮かび、慌てて振り払った。
心のなかで鎌首をもたげたのは、きっと良心とかいう感情なのだろう。
だが、真面目な人間が遊びを覚えたら手がつけられないように、一度道を踏み外した人間が、良心なんてものに目覚めると手に負えない。
その日は、いつになく寝つきが悪かった。
;翌日へ;背景 学園 昼
学園には昼から出ていた。
栄一,「おい、京介」
廊下で栄一につかまった。
京介,「よう、昨日の飯はうまかったか?」
栄一,「まずくはなかったかな」
京介,「偉そうだな……」
栄一,「そんなことより、お前、椿姫に気があんのか?」
京介,「しつこいヤツだな」
栄一,「おいおいオレはよー、お前のダチだけどよー、なんつーの、お前がオレをさしおいて女つくろうってのが、許せない感も出していくわけだよ」
京介,「なんだよ、寂しいのか?」
そういえば、こいつはノリコ先生にふられたばかりだったな。
栄一,「つーかたとえば、オレがもし女だったらお前どうするよ」
京介,「いやなたとえを出すな」
栄一,「オレが女で実はお前のことが好きとかいう展開があったら、お前どうよ?」
京介,「すげーバッドエンドじゃねえかよ。気持ち悪いこというなよ」
栄一,「へへ、さすがに冗談だよ。しかし、椿姫を狙うとはお目が高いねぇ」
京介,「まだ、本気で狙っているわけじゃないがな」
栄一,「オレは役に立つぜ?」
京介,「そうなのか?」
栄一,「おうよ、こう見えてもオレは、みんな大好き栄一くんで通ってるからな」
京介,「なるほど、女子の信頼もあついか」
栄一,「お前が泣いて頼めば、椿姫との仲を進展させてやらんでもない」
京介,「……期待していいのか?」
栄一,「おうよ、とりあえず今日の放課後に、オレ扮する暴漢が椿姫を襲う。そこにさっそうとお前が登場するわけだ」
京介,「期待したおれが馬鹿だったわ」
栄一,「はあっ?」
京介,「んなベタな展開にキュンキュンくる女がいるかっての」
栄一,「いや、椿姫ならありえるって」
京介,「……んな馬鹿な……」
とはいえ、強く否定できないおれがいた。
椿姫なら、ありえるか……?
ハル,「なんの相談すか?」
のっそりと宇佐美が顔を出した。
ハル,「邪悪な気配を感じるんですが、邪悪な相談ですか?」
栄一,「いやね、京介くんが、やっぱり椿姫ちゃんと仲良くなりたいみたいでさー」
ハル,「マジすか。めっちゃ邪悪じゃないすか」
栄一,「それで、協力してあげようって話してたの」
ハル,「策を練ってたわけですね。邪悪な策を」
栄一,「なにかいいアイディアないかな?」
ハル,「とりあえず今日の放課後に、エテ吉さん扮する暴漢が椿姫を襲う。そこにさっそうと浅井さんが登場すればどうでしょう?」
京介,「栄一案とまるまる同じじゃねえか」
栄一,「ほら、宇佐美さんもこう言ってるよ?」
京介,「却下だ。つかえねえやつらだなあ」
そのとき、見覚えのある教師が通りがかった。
女教師,「宇佐美さん、よね?」
栄一,「あ、ノリコ先生……」
ノリコ先生は栄一を避けるように、宇佐美に近づいた。
女教師,「あなた、アルバイトしてるでしょう?」
ハル,「あ、はあ……許可はとっていますが、なにか問題でもありましたか?」
女教師,「え? そんな話は聞いてないわ」
ハル,「そんな馬鹿な。担任の先生にちゃんとお願いしたはずですが?」
女教師,「とにかく、放課後、ちょっと職員室に来てもらいますからね」
ハル,「あ、はあ……」
ノリコ先生は去っていった。
ハル,「自分、居残り決定です」
京介,「災難だったな」
ハル,「まあ、なにかの間違いだと思いますが、今日のバイトに入れなくなったらまずいです」
京介,「金がピンチか?」
ハル,「いえいえ、てんちょにまた迷惑をかけてしまうのがなんとも……」
……まあ、おれには関係ないな。
授業が始まった。
;場転
;背景 教室
京介,「なあ椿姫っ」
休み時間になると、こちらから積極的に話かけた。
京介,「今日も、遊びに行っていいか?」
椿姫,「今日も?」
椿姫の顔が、どことなくうれしそうに見えるのは、きっと気のせいじゃない。
椿姫,「広明もいっしょでいい?」
京介,「広明っていうと……昨日、玄関まで見送ってくれた?」
椿姫はうなずいた。
椿姫,「朝に、遊んでってせがまれちゃったの」
京介,「かわいい弟じゃないか」
褒めるとさらに頬を緩ませた。
椿姫,「いま五歳なんだ。夜更かしばっかりして大変なの」
京介,「まあ、いいだろう。お父さんとも話をさせてくれよな?」
椿姫,「わかったよ。いっしょに帰ろう?」
椿姫,「今日もまた、浅井くんといっしょです。うれしいな、楽しいなっ」
はしゃぎだした。
栄一,「おい京介、今日は部活にしようぜ?」
京介,「いいよ。アレは、もう飽きたよ」
栄一,「つめてえ野郎だな。なんだよ、そんなに椿姫といっしょにいたいか?」
京介,「うるせえな。てめえはとっとと、新しい恋を探すがいい」
栄一,「くぅぅ、闇討ちしてやるっ! 椿姫じゃなくてお前をボッコにしてやる! 椿姫の前で大恥かかせてやる!」
栄一,「いや、待て待て、そしたら、それをきっかけに椿姫との仲が進展したりして……ちきしょう、どっちに転んでもOK牧場博多駅前支店ってヤツじゃねえか」
おれは栄一を無視して、携帯をいじり始めた。
花音のヤツは合宿とやらで、学園は休んでいる。
平和だな、まったく……。
;背景 廊下 夕方
放課後になった。
おれと椿姫も、下校する生徒の群れに混じった。
椿姫,「今日は、栄一くんとおハルちゃんは来ないんだよね?」
京介,「おハルちゃん?」
呼び方が気になった。
椿姫,「さすがに勇者っていうのもどうかと思うし、かといっていつまでも、宇佐美さん、って呼ぶのもいやだったの」
京介,「それにしても、おハルちゃんはどうかと思うぞ?」
椿姫,「そうかな? かわいくない?」
京介,「なんか朝の連続テレビ小説に出てきそうだぞ」
椿姫,「ああ、わたし、毎朝それ録画してるよ?」
京介,「はは……」
学園生らしい、他愛ない会話を意図的に続けた。
京介,「宇佐美は、職員室らしいな」
椿姫,「職員室?」
けげんそうに首をかしげた。
京介,「なんでも、アルバイトの許可を得てなかったとか」
椿姫,「怒られてるのかな?」
京介,「だろうな。許可なしでバイトしてたんだから、仕方ないだろう」
椿姫,「本当に、許可もらってなかったのかな?」
京介,「いや、わからんが、先生はそんなことを言ってたな」
不意に、椿姫の足が止まった。
椿姫,「わたし、ちょっと職員室行ってくる」
京介,「え? なんで?」
椿姫,「きっと、誤解だと思うから」
なんの真似だ?
京介,「いや、椿姫が行ったところでどうなるってんだ?」
椿姫,「わたし、クラス委員だし」
京介,「だから?」
椿姫,「お友達だし」
京介,「うん、だから?」
椿姫,「おハルちゃんって、変わってるけど、きっと最低限の常識は持ち合わせているはずだよ」
京介,「だから、なんなんだよ?」
さすがに辟易した。
椿姫,「なにか、力になれるかもしれない」
京介,「あ、おい……!」
椿姫は、早足で廊下を進んでいった。
;黒画面
職員室の前で、三十分ほど待った。
時間の無駄としか思えない。
……お友達だって?
椿姫が、宇佐美のなにを知っているというのか。
;背景 校門 夕方
ハル,「いや、助かった。礼を言うぞ、椿姫」
京介,「…………」
宇佐美は、無事に解放されたらしい。
椿姫,「よかったね、誤解が解けて」
ハル,「椿姫のおかげだ」
京介,「なにがあったんだ?」
ハル,「椿姫がいきなり、説教くらってるわたしと先生の間に割って入ったんすよ」
京介,「それで?」
ハル,「おハルちゃんは悪くないです!って」
京介,「びっくりだな」
ハル,「いや、わたしも先生もいろいろ混乱しました。つーか、おハルちゃんってなんだ?」
椿姫,「あだ名だよ。かわいいでしょ?」
ハル,「却下だ」
椿姫,「ええっ……もう日記に書いちゃったよ?」
ハル,「とにかく、混乱しているわたしたちに追い討ちをかけるように、椿姫はまくしたてました」
椿姫,「ごめんね、わたしも慌ててたみたい」
ハル,「なんやかんやあって、けっきょく、アルバイト許可証が見つかって、誤解が解けたんすよね」
京介,「へえ……よかったな。すごいじゃないか椿姫」
けれど、椿姫は何事もなかったかのように、微笑んでいた。
椿姫,「ううん、わたしも勇者様のお役に立ててうれしいよっ」
当然のことをしたまでだと、顔に書いてあった。
なんの嫌味も、得意そうな様子もなかった。
ハル,「うむ、わたしはすごいうれしい。わたしが男だったら、お前を監禁して毎晩愛でてやるところだ」
……本当に、感謝しているのかコイツは?
ハル,「いずれ、借りは返す。というわけで、バイトあるんで帰ります」
椿姫,「じゃあねー」
宇佐美はさっさといなくなった。
椿姫,「じゃ、わたしたちもいこっか?」
京介,「ああ……」
こういうことがたまにある。
椿姫はがむしゃらに行動して、宇佐美を助けた。
そこに、なんの打算もない。
こういうことがたまにあるから、しっくりこない。
;背景 椿姫の家 居間
椿姫の家に上げてもらうと、すぐさま家族に囲まれた。
京介,「すみません、また来てしまいまして」
パパ,「いやいや、かまわんよ。毎日来なさい。うちがにぎやかになっていい」
京介,「はは……すでに十分すぎるくらいにぎやかだと思うんですが?」
子供たちはみんな人懐っこい。
広明,「お兄ちゃん、遊んでー」
ちろ美,「あたしが遊んでもらうのー!」
おれの足元にまとわりついて、わーわー言っている。
パパ,「いや、浅井くんのことはね、椿姫から聞いているんだよ」
椿姫,「お、お父さん!」
パパ,「椿姫ももう年頃なのに、彼氏の一つや二つできんもんかと心配していたんだ」
椿姫,「だから、彼氏じゃないってば」
パパ,「親ばかじゃないが、椿姫はしっかり者でね。弟たちの面倒ばかり見てて、自分のことはいつも二の次なんだ」
京介,「はあ、それはなんとなく……」
パパ,「どうか娘をよくしてやってください」
後退した頭が、軽く下がった。
優しいまなざし。
どうして椿姫のように優しい娘が、優しいままに育ったのか。
その理由が、かいま見れたような気がした。
京介,「……ところで、お父さん」
切り出した。
京介,「どうも、この辺の土地をめぐってごたごたしていると聞きましたが?」
親父さんは意外そうな顔をした。
椿姫,「あ、お父さん。浅井くんはね、そういうの詳しいんだって。なんでも、浅井くんのお父さんが、偉い社長さんらしくて」
パパ,「へえ……お父さんは、なんの会社を?」
京介,「いろいろと。金融から不動産もやってます」
パパ,「ほほう、立派な方だね」
京介,「なにか、お力になれないかと思いまして」
パパ,「君が?」
京介,「はい、僕も正式な社員ではないのですが、父の仕事をよく手伝っているので」
椿姫の親父さんは、また深い笑みを浮かべた。
……どうも信用されてはいないようだ。
パパ,「気持ちはうれしいけど、うちの問題はうちで考えるよ」
京介,「デベロッパーのバックには山王物産がついてますよ?」
言うと、親父さんの眉がわずかに跳ねた。
京介,「この辺の不動産に詳しいブローカーに聞きましたが、東区の土地は、どこもかしこも高値で取引されてるそうじゃないですか」
京介,「もし、立ち退かれるのであれば、この家と土地だけ見ても、そうとうな額になるでしょう」
京介,「リンゴの畑を入れればさらに……。悪い取引ではないと思うのですが?」
親父さんは、みるみるうちに真剣な顔つきになった。
パパ,「……いや、すまない。椿姫と同じ年ごろの子だと思って、浅井くんをあなどっていたようだ」
京介,「立ち退かれないのは、やはり、土地に愛着があるからでしょうか?」
パパ,「君の言うとおりだよ。祖父の代から、続いている土地でね。いくらお金を積まれたって出て行くわけにはいかないんだ」
京介,「難しいでしょう? 山王物産のような大企業が推進している観光事業開発ですからね」
パパ,「うん、地上げ屋というのは、面倒なもんだね」
京介,「地上げ屋というと、イメージが悪いですね……」
もともとは、都市開発のプロフェッショナルを指す言葉だった。
それが、バブル期に流行のように使われた荒っぽい手口や嫌がらせのため、負の印象が定着してしまった。
パパ,「きのうは、まるでヤクザみたいなのが来たんだ」
京介,「正直なことろ、お父さんが折れるまで、いつまでも来ると思いますよ?」
パパ,「……そういうものなのかな?」
京介,「彼らの粘り強さは、尋常じゃありませんから」
パパ,「なんにせよ、うちを出て行くつもりはないよ。子供たちもいることだしね」
孝明,「なあにお父さん?」
ちろ美,「どーしたの?」
パパ,「みんなこの家が好きだろう?」
孝明,「うんっ!」
飛び跳ねるようにうなずいた。
広明,「悪い人、ボクがやっつけるよー!」
京介,「…………」
……まあ、話はこの辺にしておくか。
おいおい説得にかかればいい。
ママ,「さあさ、そろそろご飯ですよ?」
母親が料理を運んでくる。
広明,「わー」
椿姫,「ごはん、ごはん」
いっせいに沸き立つ七人の家族。
椿姫も、いっしょになって騒いでいた。
京介,「なんにせよ、椿姫のためにも協力させてください」
親父さんは、満足げにうなずいた。
;背景 場転
京介,「ごちそうさまでした」
椿姫,「お粗末さまでした。おいしかった?」
夕食の大半は母親が作ったようだが、椿姫も一品そえたらしい。
京介,「うん。味噌汁とか腹にしみるな。あんまりこういう飯は食わないし」
椿姫,「浅井くんリッチだもんね。いつも、高そうなもの食べてるのかな?」
京介,「……そんなことはないよ」
あまり食に金はかけないが、つきあいで外食することは多い。
紗枝,「ねー、広明はー?」
不意に、妹の一人が椿姫の腕をつかんだ。
椿姫,「あれ?」
あたりを見回すが、広明という少年の姿はない。
椿姫,「トイレかな?」
京介,「見てこようか?」
椿姫,「ううん、広明!?」
声を張った。
返事はない。
パパ,「まさか、またか?」
京介,「……また?」
親父さんだけでなく、椿姫も、その一言に反応した。
椿姫,「外かな。見てくる」
切迫したものがあった。
京介,「どういうことだ?」
あとを追った。
;背景 椿姫の家概観 夜
冷たい夜気が肌をなでた。
京介,「椿姫、どうした?」
コートを着込んだ椿姫は、白い息を吐きながら言った。
椿姫,「広明ね、いたずらっ子なの」
京介,「……いたずらっ子?」
椿姫,「突然いなくなったりして、わたしたちを驚かそうとするの」
京介,「つまり、前にもそういうことがあったのか?」
椿姫,「前もね、夜中にいきなり家を飛び出して、大騒ぎになったことあるの」
京介,「元気な子だな。はた迷惑すぎてむしろ勇ましいな」
椿姫,「怖いもの知らずな性格ではあるんだけどね」
京介,「大物になりそうだな」
冗談ぽく言う。
椿姫,「とにかく、探さなきゃ」
京介,「どこを?」
椿姫,「えっと……」
見当がつかないようだ。
手伝ってやるとするか。
椿姫の好感を得るためにも、な。
京介,「前にもこういうことがあったと言ったな?」
椿姫,「うん?」
京介,「その弟、広明くんだっけ? 前は、どこで見つかったんだ?」
椿姫,「近くの公園だけど……」
京介,「なら、まずはそこをあたってみよう」
椿姫,「うん……」
五歳の弟がこんな時間に一人で外出したら、不安にもなるか。
東区の夜は、不気味なほどに静まり返っていた。
;背景 公園 夜
椿姫,「広明ーっ!?」
寒空の下、声を張り上げていた。
椿姫,「隠れてないで出てきてよー?」
近所迷惑になるかもしれない、と思った。
近くに住宅が密集していないのが幸いだった。
おれも声を出す。
京介,「おーい、椿姫お姉ちゃんも探してるぞ!?」
しかし、おれたちを驚かせるのが目的なら、隠れているのだろうな。
いくら呼んでも出てくるとは思えない。
家族を不安にさせるのは、かまってほしいという気持ちの裏返しなのだろう。
椿姫,「どうしよう、どこ行っちゃったんだろ?」
京介,「……栄一でも呼ぼうか?」
椿姫,「栄一くん?」
京介,「ああ」
携帯を取り出す。
椿姫,「あ、いいよ。浅井くんだけでも迷惑なのに……」
京介,「いいからいいから」
;SE 携帯トルルル
電話をかける。
すぐにはつながらなかった。
栄一,「なんだよ、椿姫にふられたか?」
なにやらうれしそうだった。
京介,「は?」
栄一,「いや、なぐさめて欲しいわけだろ? こんな時間に電話してくるってことはよ。ったく、京介ちゃんはマジオレがいないとなんにもできねえなー」
説明するのも面倒だった。
京介,「とにかく、来てくれないか?」
栄一,「わーったよ。じっくりとなぐさめてやろうじゃねえか」
京介,「実は、まだ、東区の公園にいるんだ」
栄一,「公園ってーと、駅降りたところの?」
京介,「そうそう」
栄一,「ひゃはは。感傷にひたってるわけね? オッケー、いっしょにブランコでも乗ろうぜ?」
京介,「すまんな」
通話を切った。
栄一は最後まで、ゲスな笑いをやめなかった。
京介,「くるって」
椿姫,「本当? 悪いなあ。栄一くんも優しいなあ……」
京介,「心配なんだろ、弟が」
顔を見ればわかる。
一段と、寒くなってきた。
椿姫,「広明と、今日、遊ぼうって約束してたの……」
京介,「なるほど。お姉ちゃんに遊んでもらえると思っていたのに、おれが来たからすねたのかな?」
椿姫,「あ、浅井くんは悪くないよ? ごめんね、気をつかってもらって」
京介,「…………」
頭を下げられてしまった。
京介,「まあ、子供が隠れられそうな場所なんてたかが知れてる。とっとと探そう」
おれたちは、二手にわかれた。
;場転
……。
…………。
家を出て、三十分ほど過ぎただろうか。
公園のなかをくまなく探したが、広明くんの姿はなかった。
京介,「……一度、戻ろう」
椿姫の顔色をうかがいながら、提案した。
京介,「広明くんも、戻ってきてるかもしれないし。というより、待っていれば必ず戻ってくると思うぞ?」
椿姫,「必ず?」
京介,「ああ、まさか五歳の子供が野宿するわけもないし」
椿姫,「でも、危ない目にあってるかも」
京介,「危ない目って、まさか、ゆうか……」
誘拐、という言葉を飲み込んだ。
冗談にしてもセンスがない。
京介,「夜だしな。カゼをひいてしまうかもな」
椿姫,「ああ、もう、広明ったら……」
暗くてよく見えなかったが、椿姫のコートは公園の土で汚れていた。
かがんだり、砂場に入ったり、茂みをかきわけたりと、必死になっていたのだろう。
京介,「戻ろう」
……なにか忘れているような気がした。
椿姫,「あ、栄一くんは? うちに来てくれるの?」
京介,「それだ」
椿姫,「え?」
京介,「ああ、いやいや……栄一が、そろそろ来るんじゃないかな」
そのとき、公園の入り口に人影があった。
小柄だが、広明くんにしては大きすぎる。
栄一,「やあやあ、どうしたの二人で」
京介,「おう、よく来てくれたな」
椿姫,「ごめんね、寒いのに」
栄一,「え?」
栄一は、おれをチラ見した。
栄一,「どうしたのかな、二人、仲よさそうじゃない?」
栄一,「(おいおいなんだよ、コレ? どうなっちゃってんの、京介ちゃんよー、オマエがふられたっていう展開じゃねーの?)」
京介,「椿姫の弟が、ちょっと行方不明なんだ」
栄一,「あ、そうなんだ……へえ……」
椿姫,「ありがとう、栄一くん。わざわざ来てもらっちゃって」
栄一,「(はあ? ざけんなよ、んな話聞いてねえっつーの!)」
京介,「すまんな、いっしょに探してくれるんだってな」
栄一,「え? あ、ボクは、えっと……」
椿姫,「ありがとう」
栄一,「う、うん、当然だよね。お友達なんだし」
栄一,「(チキショー、京介テメエ、話がちげーじゃねえか!?)」
京介,「いや、おれはウソはついてないから。お前が勝手に勘違いしてただけだから」
栄一,「(くうぅぅ……)」
三人で、家に向かった。
;背景 椿姫の家 玄関
帰宅途中、道端の畑のなかや、電柱やポストの影を探したが、とうとう広明くんを見つけられなかった。
京介,「……困ったもんだな」
栄一,「(あー、ウゼえ、マジうぜえ、なんでオレちゃんが、ガキなんか探さなきゃなんねえんだよ)」
栄一の心の声は、なんのホラーかわからないが、おれにしか聞こえない。
栄一,「(つーか、さみー、マジさみー、冬ムカツク、マジコロス、冬コロス、さみー、あー、あー!)」
京介,「(だ、だいじょうぶか、栄一?)」
栄一,「(いやいやこりゃやべえよ、マジやべえよ、オレちゃんがこんな苦労を味わわされるなんてよー)」
京介,「(え? お前、来たばっかじゃね? おれと椿姫は寒空の下でずっと探してたよ?)」
栄一,「(こりゃよう、その広明ってガキんちょを見つけ出したら、オレマジやべえよ、マジ大人をからかった罪っつーの? 人生の厳しさ教えちゃうよぉ?)」
……たいしてなにもしていないくせに、かなりお怒りになられていた。
そのとき、椿姫が小さくうめいた。
椿姫,「あ……広明?」
栄一,「なにぃいぃっ!?」
家の塀の影、暗がりからひょっこり顔を出した。
広明,「えへへ……びっくりした?」
いたずらっ子の笑みだった。
椿姫,「広明……」
ようやく肩の力が抜けたようだ。
広明,「ずっと、ここに隠れてたんだよ?」
椿姫,「もう……」
広明,「お姉ちゃんたちが、家を出てくのも見えたんだけど、隠れてたの」
悪びれた様子もない。
広明,「どう? わかんなかったでしょ?」
子供のやることとはいえ、ちょっとたちが悪いな。
おれはともかく、椿姫は本気で心配していたのだ。
広明,「あー、楽しかったー」
伸びをする弟の前で、椿姫が膝を折った。
同じ目線で、向き合う。
椿姫,「広明」
広明,「どしたの、お姉ちゃん?」
さすがに、叱りつけるのかと思った。
いや、期待していた。
いつも幸せそうに笑っている椿姫の、別の一面が見られるのかと……。
椿姫,「良かったよ……」
それだけ言って、抱きしめた。
おれは、ちらりと、椿姫の横顔を見た。
弟の無事をただただ喜ぶ、姉の表情があった。
椿姫,「本当に、良かったよ……」
弟を安心させるように、また幸せそうに笑っていた。
広明,「お姉ちゃん、ボクをたくさん探した?」
椿姫,「うん」
広明,「寒かった?」
椿姫,「平気だったよ。広明は?」
広明,「ボクは寒くなかった。もう、眠いよ」
椿姫,「そっか、じゃあ、いっしょに寝ようか?」
広明,「うん。やったー!」
椿姫は立ち上がって、弟の手を引いた。
京介,「ちょっと、椿姫……」
気に入らなかった。
これでは、広明はまた同じことをする。
それを口にしようとしたとき、広明が言った。
広明,「ごめんね、お姉ちゃん」
京介,「…………」
広明,「もうしないよ」
椿姫,「そう?」
広明,「うん。しない。ぜったいしない」
京介,「どうしたんだ、急に?」
広明,「だって、お姉ちゃん優しいんだもん」
つながれた姉弟の手のひらに、力がこもったように見えた。
椿姫,「二人とも、ごめんね、ありがとう」
京介,「ああ……」
居心地が悪かった。
敷居の外で、立ちつくした。
家族の結束を見せつけられ、所在なさげに突っ立っている。
栄一,「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっとぉっ!?」
沈黙を破ったのは栄一だった。
栄一,「え? ウソォ? オレなにしに来たの? ていうかマジさみぃんですけどぉ?」
普段学園でかぶっているいい子ちゃんの仮面は捨てたようだ。
椿姫,「あ、ご、ごめんね。栄一くん。ご飯でも食べていく?」
栄一,「ごはんー?」
椿姫,「うん。肉じゃがだけど」
栄一,「え? マジ肉じゃが? ウソ、いいじゃん。ボク肉じゃが大好き。甘いもんの次に大好き」
椿姫,「ふふっ、じゃあ入って」
京介,「おれは、もう帰るわ」
背を向けた。
椿姫,「え? お茶でも飲んでいかない?」
京介,「いや、ちょっと用事あるし」
椿姫,「お風呂入っていかない?」
京介,「はは……いいってば」
椿姫,「ごめんね。きっちりとお礼したくて」
京介,「じゃあ、明日な」
歩みだす。
栄一,「じゃあなー」
冷たいはずの夜風が気にならなかった。
知恵熱というやつだろうか。
おれは、どうやってこの家族に立ち退きを迫るべきかを真剣に考え始めていた。
;背景 公園 夜
;ノベル形式
今夜は、ひどく冷える。誘拐はもっとも卑劣な犯罪だとされている。しかし、卑劣でない犯罪などあるのだろうか。"魔王"は、これから犯そうとしていることが罪であることをしっかりと認識していた。
 ひと通りの調べは済んだ。
 結論は出た。美輪椿姫の一家が、家を出て行かないのは金の問題ではない。大正時代から続いた土地だった。父親にも意地があるだろう。立ち退きを求めるにしても、スマートな方法では、どれくらいの時間を要するかわからない。また、時間を費やして説得を試みたとしても、いい返事が得られるとは思えなかった。
金の問題ではない。しかし、そこに大きな落とし穴がある。
 金の問題ではないことが、ままある。それは認める。たとえば情であり、家族愛であり、なんらかの矜持である。しかし、そういったものは、ほとんどの場合、金の問題にすりかえることができるのだった。
 "魔王"の構想は、金の問題ではないことを金の問題にしてしまうことだった。
その手段に、犯罪という形を取った。それも完璧と思われる形を。
「あとは、宇佐美がどう動くか……」
幽鬼のようにおぼろげな足取りで、その場をあとにした。
;翌日へ;黒画面
翌日すぐに、秋元氏のところに出向いた。
秋元,「やあ、京介くん。おはよう」
カウンセリングルームはいつも清潔で、秋元氏はいつも仏のように微笑んでいる。
京介,「おはようございます。今日も、きっちり一時間でよろしくお願いします」
秋元,「わかってるよ。学園もあるだろうしね」
学園は午後から出ることにしていた。
秋元,「さて、前回は、どんな話をしていたっけ?」
京介,「僕の生い立ちでしたね」
秋元,「よく覚えてるね」
京介,「はあ……」
秋元,「いや、失礼。前回の最後にも、君のことを忘れっぽい性格だなんて言ってしまったね」
京介,「そうでしたか? 覚えていませんし、気にもしていませんが?」
秋元,「覚えてない?」
京介,「……なんです?」
おれは軽く笑う。
京介,「まさか、おれが記憶に関する病気でも持っているとでも?」
秋元,「いやいや、安心して。君が診察料を払い忘れたことはないよ」
京介,「それはよかった……」
なかなか口達者な先生だ。
秋元,「今回、聞いてみたいのはね、京介くん」
子豚のようにふっくらとした丸顔が、少し迫ってきた。
秋元,「君の、お父さんのことなんだ」
京介,「浅井権三、ですか?」
違うという予感はあった。
秋元,「実のお父さんだよ」
直後、胃がしめつけられた。
京介,「商社の人間でした」
秋元,「うん」
京介,「借金はありましたが、素晴らしい父だったと思います」
秋元,「なるほど」
京介,「それ以上は、話すことはありません」
目を背けた。
秋元,「……亡くなっているのかな?」
京介,「権三から聞いてませんか?」
秋元氏とは権三の紹介で知り合った仲だ。
秋元,「なにも」
じっと見据えてくる。
京介,「とにかく、話題を変えていただけませんか? 思い出したくもないんです」
決して、思い出したくない。
いつも、鍵をかけている記憶の扉だった。
秋元,「それだけ嫌な出来事があったんだね?」
京介,「秋元さん、別の話題を」
まったく……。
こっちは、まともにカウンセリングなんて受けてやるつもりは毛頭ないんだ。
ただ、学園の出席日数をごまかせる書類が欲しい。
だから、金を払って、茶番みたいな会話を続けていればいいんだ。
秋元,「京介くん、君にやる気がなくても、私はいつも本気なんだよ? 仕事だからね……」
まるで、心のうちを見透かされたよう。
秋元,「遊びじゃないんだよ、ね?」
その瞬間、人は見かけによらないという通説が、頭をよぎった。
忘れていた。
京介,「あなたは、権三とお知り合いなんでしたね」
子豚が、一瞬だけ山猪の形相となって、おれをにらみつけたのだ。
秋元,「君になんの異常もないというのなら、すぐにも通うのをやめてもらう。重ねて言うが、私だって仕事なんだよ。時間は貴重だ。君ならわかるね?」
京介,「ということは、秋元さんは、本気で、僕に異常があるのではないかと疑っているんですね?」
秋元氏はあいまいに首を振った。
けっきょく、返事はなかった。
京介,「まあいいです。うちの父の話でしたね?」
秋元,「名前を聞いてもいいかな?」
京介,「利かつ,勝です」
あえて、苗字は言わなかった。
秋元,「商社に勤めていらっしゃったと?」
京介,「山王物産です」
秋元,「ははあ……あの……」
山王物産に勤めているという肩書きだけで、たいていの人は、立派だとか高学歴だとかいう印象を持つ。
そして、それは間違ってはいない。
秋元,「じゃあ、転勤が多かったんじゃないかな? 海外とか行ったかい?」
京介,「いや、僕が物心ついたときは、それほどでもなかったような気がします。たしか、本社の経理の仕事を任されるようになったとか……」
秋元,「そっか。君は、ちょっと普通の子とは違うから、帰国子女なのかと思ったよ」
おれは小さく笑って、首を振った。
秋元,「ところで、君のお父さんは、商社に勤めていて、どうして借金を……?」
京介,「マイホームを建てたかったようです」
冗談だった。
秋元,「偏見かもしれないが、山王物産の経理をしていたような方が、マイホームを持つのに消費者金融を頼るとは思えないよ」
秋元氏の言うとおり、父は、借金を返すために闇金にまで手を出していた。
京介,「騙されたんですよ」
秋元,「騙された?」
京介,「よくある話です。信頼していた友人の、連帯保証人になってしまったんです」
そのとき、秋元氏が息を呑んだ。
秋元,「……ちょっと待ってくれないか?」
京介,「…………」
どうやら、気づいたようだ。
秋元,「君のお父さんというのは……」
畏怖にも似た表情が、顔に広がっていった。
秋元,「ひょっとして……」
京介,「その通りです」
秋元,「利勝、といったね?」
おれは、自分の心が急速に冷えていくのを自覚していた。
京介,「そう。あの、鮫島利勝ですよ」
…………。
……。
;黒画面
その後、あっという間に時が過ぎた。
秋元氏は、何も言わず、ずっと目を閉じていた。
退室して、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
学園へ、向かった。
;背景 学園 屋上 昼
花音,「兄さん、兄さんっ」
登校すると、すぐさま花音にまとわりつかれた。
花音は、最近は合宿とやらで、ずっと学園を休んでいたようだ。
花音,「聞いて聞いて聞いてー!」
京介,「お、おう、なんだ?」
花音,「みんなも聞いてー!」
ハル,「なんすか」
椿姫,「なにかな?」
栄一,「んー?」
一同の前で、えっへんとばかりに胸を張る。
花音,「のんちゃんね、今度テレビ出るよー!」
椿姫,「わ、すごーい!」
栄一,「へええ、いついつ!?」
花音,「生放送だよー」
栄一,「うんうん、いつ?」
花音,「ゲスト出演するの!」
栄一,「だからいつなの?」
花音,「『二十四時間ぶっ続け生テレビ』っていう番組だよー!」
栄一,「(だから、オレの話を聞けよ、んのアマァ!)」
京介,「ほほー、いいね。あの企画に呼ばれるなんて、花音もビッグになったなあ」
椿姫,「どんなことするの?」
花音,「んとねー、セントラル街でね、夜中ね、マラソンしてる人に応援するんだって」
京介,「夜中、か」
花音,「ちょうど、のんちゃんのいるところが、マラソンの休憩地点みたいで、のんちゃんが、お水とか渡すの」
京介,「そうか、人もいっぱい集まるだろうな」
人が集まれば、金も集まるというもの。
京介,「偉いぞ、花音」
花音,「やったー! 兄さんに褒められたー」
そのとき、宇佐美がぼそりと言った。
ハル,「自分も、テレビ経験あるんすよね」
京介,「は?」
花音,「えー、本当?」
ウソに決まっている。
京介,「なんだよ、鬱系芸人として、お笑い番組にでも出たのか?」
ハル,「いえいえ、アーティストとして」
栄一,「芸人?」
ハル,「いわゆるひとつの芸人ですね」
京介,「やっぱり芸人なんじゃねえかよ」
ハル,「まあ、わたしの話はいいじゃないですか」
京介,「お前からふって来たんだろうが!」
花音,「うさみん、おもしろいなー。お笑い芸人さんだったんだねー」
椿姫,「みんなすごいな。わたしだけ特に目立った活動とかしてないけど、わたしはそれでいいんです○」
昼休みは馬鹿騒ぎをして終わった。
;背景 校門前 夕方
下校の時間となって、おれは教室を飛び出していた。
通話をしながら、生徒たちの間を縫うように歩いた。
京介,「ああ、浅井京介です。いまからそちらに向かいますので……」
山王物産のデベロッパーと話をしなければならない。
あまり面を合わせたくはないが、地上げがはかどっていない以上、顔を合わせて謝罪しなければならなかった。
椿姫,「あ、浅井くん!」
椿姫の声が聞こえた。
おれはかまわず、電話を続けていた。
京介,「……え、ちょっと遅いほうがいいですか? はあ、なるほど……ええ、私はかまいませんが?」
待ち合わせの時間まで間ができた。
そこに、タイミングよく椿姫が言った。
椿姫,「浅井くん、ちょっと遊んでいかない?」
おれは挨拶をして電話を切ると、椿姫に顔を向けた。
京介,「一時間くらいだったらいいぞ?」
椿姫,「うん」
京介,「セントラル街でいいか?」
椿姫,「うんうんっ」
子供のように従順にうなずいた。
椿姫,「昨日のお礼がしたかったんだよ」
京介,「昨日?」
椿姫,「広明、探してくれたでしょう?」
京介,「…………」
椿姫,「え?」
京介,「あ、ああ、そんなことでお礼か……」
椿姫,「ふふっ、変な浅井くんっ」
おれたちは、セントラル街に足を運んだ。
;セントラル街 夕方
夕時のセントラル街は、いつも人で溢れている。
京介,「で、どんなお礼してくれるんだ?」
椿姫,「うん、クラシックのCDとかどうかなと思って」
京介,「え? くれるの?」
椿姫,「なにがいいかな?」
京介,「気持ちはうれしいけど、欲しいCDは全部買ってるから」
椿姫,「あ、それもそうだね。浅井くん、クラシック通だもんね」
京介,「え? マニア? マニアだって? マニアじゃねえよ、おれ程度がマニアを自称したら、本当のマニアの人に失礼だぞ」
椿姫,「(べ、別にマニアとか言ってないんだけどな……)」
京介,「あ、でも、待てよ。そろそろ、アレが出るような……」
椿姫,「アレ?」
京介,「ちょっと気に入ってる演奏家がいてさ。いまは活動を休止しちゃったらしいんだけど、とりあえずCDは出てるんだよね」
版権を持っている側は、クリエイターが活動をやめようがなんだろうが、あの手この手で商品を出し続けるものだ。
椿姫,「なんの楽器?」
京介,「ヴァイオリンだよ」
椿姫,「へえ、バイオリンなんだ」
京介,「バイオリンじゃなくて、ヴァイオリン。ヴァ、だよ、ヴァ!」
椿姫,「ご、ごめん……」
京介,「その人のエールが最高でさ」
椿姫,「エールっていうと?」
京介,「G線上のアリア。マジ泣けるよ。最近になって、鎮魂歌に使われてるのもわからんでもない。むしろおれが鎮魂されたい」
椿姫,「えっと、G線上のアリアって、鎮魂歌なの?」
京介,「まあ、そうでもないんだろうけどね。ほら、アメリカで大きなテロがあっただろ? そのときにも使われたんだよね」
椿姫,「へえ、知らなかった」
京介,「なんにせよ、楽しみにしてるよ」
椿姫,「楽しそうだね」
京介,「ああ……」
椿姫,「楽しそうだね」
京介,「なんで二回言うんだよ」
椿姫,「浅井くん、クラシックの話になると、生き生きするね」
京介,「はあ……かもな」
椿姫,「浅井くんが楽しそうだと、なんだかわたしもうれしいよ」
京介,「……そうか」
気恥ずかしいことを平気でいうヤツだな。
京介,「とりあえず、CDの礼はいいよ。そうだな、コーヒーでもおごってくれ」
椿姫,「うんっ」
;背景 喫茶店
京介,「お前って、バイトしてるわけじゃないよな?」
椿姫,「そだよ?」
京介,「じゃあ、小遣いもらってるのか?」
椿姫のおごりで頼んだコーヒーをちらりと見た。
椿姫,「ううん、うちってそんなに裕福なわけじゃないからね」
京介,「貯金してるのか?」
椿姫,「夏休みとお正月にアルバイトしてたんだよ。それで、なんとかやりくりしてるの」
京介,「普段は、しないんだな?」
椿姫,「弟を保育園に迎えに行ったりするからね。アルバイトしている暇はないかな」
京介,「なるほど、それでこの前も、すぐに帰ったんだな?」
椿姫とここに来るのは二度目のような気がする。
前は、ここで、少し話をしただけで、別れたのだ。
椿姫,「今日も、もう少ししたら帰るね」
京介,「広明くんを迎えに行くんだな?」
椿姫はうなずいた。
おれはそれとなく、探りを入れていくことにした。
京介,「なあ、お前の家って、家族多いよな?」
椿姫,「そだね、びっくりしたでしょ?」
京介,「家計とかどうなの? けっこう苦しかったり?」
椿姫,「どうかな、苦労したことはないけど……?」
おれは神妙な顔をしてみせた。
京介,「ちょっとさ、知り合いの不動産屋に聞いてみたんだけどな」
椿姫,「うん」
京介,「やっぱり、あの辺の土地ってさ、いま注目されてるみたいで、かなりの値がつくんだってさ」
椿姫,「……そうらしいね」
京介,「怒らないで聞いてくれよ? もし、立ち退きするんなら、引越し代から、引越し先のマンションの前家賃まで出すっていう、人もいてくれてさ……」
椿姫は、黙ったままだった。
ここは、あまり押さないほうがいいな。
京介,「悪い。出て行く気はないんだもんな」
椿姫,「ううん、心配してくれてるんだよね?」
京介,「山王物産っていう大きな商社がからんでるんだよ。東区の観光開発は市とも連携してる事業みたいでさ、なかなか断り続けるのも難しいと思うんだ」
椿姫,「うちの近くの景色もどんどん変わってるもんね。ご近所さんも、かなりいなくなっちゃったみたい」
京介,「まあ、地上げっていうとほんと聞こえが悪いけどさ、いちおう、みんなが儲かるように考えられてるんだよ。立ち退く人も、開発する人もね」
椿姫,「うん、スキー場の周りに遊園地とかできたら、街の人も喜ぶもんね」
とはいえ、立ち退きを迫られた家族より、開発側のほうが、ずっと儲かるわけだが。
椿姫,「ひょっとして、大きな目で見たら、うちがわがまましてるってことになるのかな?」
京介,「そうまではいわないけどさ……」
そういうことなんだよ。
椿姫,「でもね、浅井くん」
京介,「ん?」
椿姫の瞳はとても大きい。
椿姫,「わたしは、お父さんの意見に従うんだよ」
熱情のようなものを感じた。
椿姫,「だって、家族だもの」
揺るぎない、剥き出しの本音が、目の前にあった。
椿姫,「お父さんは、たとえ、あの辺でうちだけが取り残されても、出て行かないと思うな」
椿姫,「わたし、そういうお父さんを応援したいの」
これでは、たとえ椿姫を篭絡したとしても、無駄だろう。
恋人よりも家族を選ぶ。
京介,「そうか……そこまでお父さんが好きか?」
椿姫,「大好きだよ」
たとえばセントラル街で遊びふけているいまどきの若者のなかで、真顔で父親のことを大好きだ、などと、果たして何人が言えるだろうか。
京介,「なんか、お父さんと、いい思い出とかあるのか?」
椿姫,「思い出?」
京介,「ほら、なんだろ……美談っていうのかな? 子供のころ山で遭難しかけたところを、必死になって探してもらったとかさ」
椿姫はくすくすと笑った。
椿姫,「特にないよ。ぜんぜん普通だよ。家族でちょっとおしゃれなレストランに食事したり、みんなでリンゴとったりしたくらいかな……」
京介,「……そんなもんか」
椿姫,「美談かあ……そういうのなくても、お父さんは大好きだよ」
椿姫の何かが気に入らないと思っていたが、それが、ようやくわかってきた。
かっこうが良すぎるのだ。
宇佐美を助けたときもそうだ。
友達が友達であるという理由だけで、椿姫は信じる。
家族が家族であるという理由だけで、椿姫は信じる。
だからこそ、おれみたいな人間はこう疑って、居心地を悪くする。
――そんなヤツ、本当にいるのかねえ、と。
椿姫,「あ、ごめん、そろそろ帰らなきゃ」
京介,「お、もう、そんな時間か」
椿姫,「昨日は、本当にありがとう。これからもよろしくね」
笑顔が、うっとうしいくらいに、まぶしかった。
;黒画面
……椿姫と別れると、すぐさま電話をした。
相手はこれからうかがうはずだった、山王物産のデベロッパーだった。
京介,「申し訳ありません、緊急で、はずせない用事ができまして……ええ、必ず、なんとかしてみせますので……はい……」
ひどく、気分が悪かった。
;ノベル表示
;画面がにじむようなフェード演出
;背景 公園 夕方
今日は、かなり昼が短い日だった。
 空が紫がかって、東区の町並みは、まもなく夜を迎えようとしていた。
 日没は、もっとも人間が油断する時刻だという。
;広明の立ち絵を表示
 それは、幼い子供とて例外ではないのかもしれない。
「坊や、こんにちは」
 "魔王"は、前もって顔につけておいたお面の下から、くぐもった声をだした。
 少年は、警戒した様子もなく、こちらに歩み寄ってきた。
 あたりに人気はない。東区の公園近く、寂れた歩道だった。あたりには市の整備を受けていないケヤキの木々が、うっそうと生い茂っている。富万別市の中心から離れた地域だけあって、めったに人は通らない。逆に、もし人が来れば、すぐにでも計画を中止するつもりだった。それぐらい、いまの"魔王"の格好は目立ちすぎた。
広明,「わあ、お馬さんだー!」
 少年は、"魔王"がかぶっている馬のお面に関心を抱いたようだ。
広明,「お馬さん、どうしたのー?」
 "魔王"は少し腰を落として、話しかけた。
「困ってるんだ。道がわからないんだよ」
広明,「道がわからないの?」
「助けてもらえないかな?」
 間をおかずして、あどけない笑みが少年の顔に広がった。
広明,「うん、助けるよ。困ってる人は助けなきゃいけないって、お姉ちゃんが言ってたんだー」
「そう、ありがとう。いい、お姉ちゃんだね」
広明,「どこに行きたいのー?」
「美輪さんの家に行きたいんだ」
広明,「美輪?」
「うん、知らないかな?」
 少年の大きな目がくりくりと動いた。
広明,「美輪って、ボクのおうちだよー?」
 "魔王"も、お面の下で、驚いたふうに目を丸くした。
「へえ、案内してもらえないかな?」
広明,「いいよー」
 人なつっこい少年だった。まだ、人を疑うということを知らない。
「車なんだけど、乗ってもらえるかな?」
 "魔王"は振り返って、あらかじめ停めておいた白いセダンを指差した。
広明,「お馬さんなのに、車なの?」
 小さな首が不思議そうに曲がった。さすがに知らない人の車に乗ってはいけないことぐらいは教えられているのか。"魔王"はすかさず機転を利かせた。
「お馬さん、怪我してるんだ。だから自分の足で歩けないんだ」
広明,「え、だいじょうぶ!?」
「坊やに案内してもらえれば、きっとだいじょうぶだよ」
広明,「わかった。ボク、がんばるねっ!」
言うや否や、車に向かって駆け出した。"魔王"が鍵を開けると、よじ登るようにして後部座席に乗り込んだ。"魔王"も、少年を押しやるように後部座席についた。
 運転席には、別の男が座っていた。日本人ではない。今回の計画のために用意した外国人だった。警察に捕まればすぐさま強制送還になる。しかし、そういった不良外国人は、こういった犯罪行為においては優れた共犯者になりえた。
 金を払い、やるべきことをやってもらえば、あとは国に帰ってもらうだけ。密航の準備も整えてやっている。日本語もろくにわからないから、こちらの計画を聞かれたとしても心配はない。この運転手から、"魔王"の存在が警察に露見する可能性は皆無といってよかった。
;黒画面
ドアを閉めた。"魔王"はそれまで、注意深くあたりを観察し、目撃者の有無を確認していた。
 下手な誘拐犯は、まずここでミスをする。
 警察の地どり捜査は、甘いものではない。優秀な刑事たちは足を棒にして歩き、聞き込みを重ね、必ず目撃者を探し当てる。誘拐の瞬間を人に見られるなど、最初から勝負を捨てているようなものだ。
 絶対に、誰にも見られてはならなかった。
通りを歩いていた人はいない。近くに人の住む家屋はないから、たとえば二階のベランダの窓越しから見られていた、ということもない。"魔王"は、前後左右の状況確認をわずかの時間でやってのけた。
「出せ」
 絶対の自信を持ててようやく、英語で命じた。車は静かに発進した。
広明,「ねえ、どこ行くの? ボクんちは、あっちだよ?」
 少年が身を乗り出した。"魔王"の膝に片手を預け、窓の外を指差している。少年の細い首が、"魔王"の目の前にあった。
"魔王"はズボンのポケットから、白い布を取り出した。広げて右の手のひらを覆った。布には別にエーテルやクロロフォルムといった類の薬品を染み込ませているわけではない。
「広明くん」
 初めて少年の名を呼んだ。
広明,「どうしてお馬さんがボクの名前を知って……」
腕を伸ばした。少年の疑問は最後まで言葉にならなかった。首に狙いをつけた。両側の頚動脈。親指と中指で蜘蛛のような素早さで迫った。
 苦痛は与えないつもりだった。少年が意識を失うまで数秒もかからなかっただろう。失禁することも予想していたが、口に泡を吹かせただけだった。布でふきとってやると、あとは穏やかな五歳の寝顔が残った。
 布を用いたのは、爪の間に少年の細胞が付着することを恐れたからだ。もちろん、今夜は念入りに入浴し、着ている服も焼却する。髪の毛一つ、証拠を残すつもりはない。これは、万に一つ、自分が警察の取調べを受けた場合を想定しての安全策だった。
病的なまでの慎重さといえた。しかし、慎重にことを運ばずして、完全犯罪が成立するはずがない。
「いい子だ……」
 夜が訪れていた。街灯の光が車の窓から差し込んで、なんの罪もない少年の顔を、頼りなく照らしていた。
;背景 南区住宅街 夜
夜十時。
 少年はひとまず郊外の廃墟に置いてきた。古ぼけた廃病院だった。そこには地元の人間も近づかない。暴走族やホームレスの類ですら、この季節は寄りつかないということを、事前に調べ上げていた。泣いてもわめいても、人は来ない。誘拐犯にとっては絶好の施設だった。
 当然、逃げ出せないよう、厳重に戸締りはしてきた。少年を閉じ込めた部屋の扉の外にストッパーをかませ、中からは開けられないようにした。
部屋のなかには、毛布を三枚と、水、食料を十分な量で用意しておいた。ストーブをたいて、暖も整えている。今後、ある程度世話をしてやる必要はあるが、少しぐらい面倒を見なくても死ぬことはないだろう。
 "魔王"は、次の準備として、南区の住宅街を訪れていた。
 静まり返った高級住宅地を、一人で歩いている。
 誘拐犯の目的は身代金を奪取することである。"魔王"はすでに、おおよその作戦を考えあげていた。いまは現地を下見して、作戦の不備を確認する段階に入っていた。
――おおむね、問題はなさそうだ。
 満足し、駅に向かって足を運んだ。あまり長居をしていると、不審者と間違われる。南区は富裕層の住む町だ。警官の巡回も多いことだろう。
 不意に、空から声がふってきた。
水羽,「浅井くん……?」
思わず、見上げた。敷地の広い家の三階。バルコニーの柵から身を乗り出すようにして、一人の少女が顔を出していた。
 とっさに家の表札を見た。
 ――白鳥。
 建設会社の社長の家だ。自由が咲学園の理事にも就任している。
水羽,「こんな時間に、なにをしているの?」
少女の表情までは見えないが、声には敵意のような圧迫感があった。
 "魔王"は瞬時の選択を迫られた。
 すなわち、何か声を返すべきか。それとも無視して去るべきか。
 一瞬の逡巡の後、"魔王"はうつむいて答えた。
「誰かと間違えていないか?」
それだけ言って、歩きだした。
水羽,「あ、ちょっと待ちなさい……!」
 声が無人の町に響いた。人が集まってきては困る。足早に白鳥家を離れた。
 浅井。
 その名を耳にして、"魔王"の心は、どす黒く沈んでいった。
;背景 セントラル街2 夜
ひどい頭痛が襲ってきた。
地下鉄を降りて、オフィス街に出ても心は晴れなかった。暗い胸中は、霜が下りたように、凍りついている。
「浅井ではない……」
 赦せなかった。浅井は……浅井権三は、母を追い詰めたのだ。借金に苦しむ家族に鬼のような責め苦を味あわせたのだ。
"魔王"は何度も心に言い聞かせた。おれは、鮫島利勝の息子なのだと。浅井と名乗っている誰かを殺してやりたい気分になった。
 "魔王"とすれ違う人々は目を伏せ、慌てて道を譲っていた。
 父のことを思い出す。
 誰もが、あの鮫島利勝といって、眉をひそめる父のことを……。
"魔王"は、父の前で、無念を晴らすと誓った。そのために血の滲むような準備をしてきた。誰にも邪魔はさせない。警察であろうと、暴力団であろうと、たった一人の勇者であろうと、容赦はしない。
「見つかるものか……」
 もう、自分は無力な小僧ではない。実力を――金を手に入れた。
それが証拠に、誰も気づいていない。
 まだ、誰も知らない。
;通常のアドベンチャー形式に。
――魔王だということに。
おれは夜空を見上げる。
戦いのときは来た。
腕を伸ばす。
高く、高く……月を握り潰すかのように。
魔王,「……っ」
脳内に響く頭痛はいまだに治まらない。
まるで、おれのなかにもう一人の人格でもいて、そいつが邪魔でもしているようだ。
けれど、頭痛を抑えるすべはある。
復讐の計画を練るのだ。
戦い、奪い、勝利する。
そうすれば、すがすがしい気分になれる。
いまは、まず、当面の身代金誘拐を成功させることだ。
完璧と思われる計画を、慎重すぎるほど慎重に練り上げた。
あとは、それを躊躇せず、大胆に実行するだけ。
おれはすぐさま、携帯電話の番号を押した。
いまはもう、深夜零時。
普通の家なら、寝ていてもおかしくはない時間帯だ。
三度目のコールのあと、静かに通話がつながった。
椿姫,「はい、美輪です!」
普通の精神状態ではないことが、声でわかった。
椿姫,「もしもしっ!? どちら様ですか!?」
椿姫が必死なのは、無論、こんな時間になっても弟が帰って来ていないからだ。
泣いているのかもしれない。
おれは、なんの罪もない家族を地獄に叩き落しているのだ。
まさに、"魔王"の所業ではないか。
いまにもわめきだしそうな椿姫に対して、おれは声色を選び、ゆっくりと言い放った。
魔王,「子供は預かった。子供の命が惜しければ、私の指示に従え。月並みだが、警察には連絡するな」
;翌日へ;黒画面
……。
…………。
;背景 主人公の部屋 昼
む……。
もう、朝か。
昨晩は、頭痛を覚えたものだから、ベッドでぐっすりと寝ていたな。
とにかく、昨日の夜は、じっくりと休んでいた。
久しぶりに浴槽につかって体を癒したり、たまっている洋服を洗濯したりと、おれにしては珍しく生活感溢れることばかりしていた。
爽快な朝だ。
頭も異様にすっきりしている。
秋元氏はおれがなんらかの精神病を患っていると勘違いしているようだが、そんなわけないじゃないか。
学園に行くとしよう。
;背景  マンション入り口 昼
花音,「兄さん、オハー」
京介,「おう、花音。なんだ、迎えに来てくれたのか?」
花音,「うん、いっしょにガッコいこうと思ってねー」
京介,「おうおう、いいぞいいぞ」
花音,「んー」
半歩詰め寄ってきた。
京介,「なんだ?」
花音,「兄さん、なんか機嫌いいね」
京介,「そうかもな」
花音,「なんで、なんで?」
京介,「さあな……」
……つまっていた仕事が片づきそうだからかな。
東区の地上げ……ようやく目処がついてきた。
……って。
……あれ?
待て待て……なにが『目処がついてきた』……だ?
たいした進展もないじゃないか。
花音,「どしたの? 考えごと?」
椿姫に近づいて、椿姫の家庭を探ったまではいいが、それからどう動くべきかは決めかねていた。
……まあ、家庭の事情がわかっただけでも、目処がついたといえなくもないか……。
花音,「んー、なんかまた不機嫌そうな顔してるよー?」
京介,「あー、わるいわるい、どうも寝ぼけてんなー」
おれたちは並んで歩き出した。
花音,「兄さん、手ぇつないでいこー?」
京介,「アホか……誤解されるだろうが」
花音,「なに、誤解って」
京介,「兄貴と妹がつきあってるとか……世間的にどうよ?」
花音,「別につきあってなくても、手ぐらいつなぐよ? わたし、カナダ行ってたときも、いろんな人といっぱい握手したよ?」
京介,「ここは、外国じゃないんです」
花音,「むー」
;背景 学園門 昼
花音はべったりとおれにくっついてきた。
花音,「ところで兄さん」
京介,「なんだ、いきなり、すねたような顔しやがって」
花音,「兄さん、最近、バッキーと仲いいみたいじゃない?」
京介,「……まあ、そこそこ遊ぶようにはなったな」
花音,「バッキーって、ぜったい兄さんのこと好きだよ」
京介,「……は?」
思い当たるふしがないでもないが。
京介,「興味ないね」
花音,「ええ、ひどいよー。バッキーがかわいそうだよー」
京介,「本人にコクられたわけでもないのに、どうしておれが気を使わねばならんのか?」
花音,「ひどい、ひどいー。バッキーって、いい子なんだよ?」
京介,「しっかり者ではあると思うがな」
花音,「そだよー、掃除当番とかいつもやってるよ」
京介,「ふーん、クラスのみんなに、おしつけられてるのか?」
花音,「んー、よく知らないけど、ニコニコしながらやってるから、おしつけられてるってことはないんじゃないかなー?」
……いや、椿姫なら、おしつけられた仕事も笑ってこなすだろう。
京介,「それより、テレビはどうだ?」
花音,「お、忘れっぽい兄さんにしては、よく覚えてるねー」
京介,「いつなんだ? 時間があえば、おれも見たいし……」
花音,「あさってだよ」
京介,「え? マジで? 近いな」
花音,「なんか前々からずっとオファーは来てたんだって。のんちゃんが忘れてただけ」
京介,「忘れるなよ。テレビ局の人に迷惑がかかるだろう?」
花音,「だって、スケートリンクの偉い人が勝手に決めたんだもん」
京介,「出たくないのか?」
花音,「んーん。これでまた人気者だよ」
無邪気なもんだな……。
こいつがずっと無邪気でいられるよう、金を稼いでやらなきゃな。
花音も、金があったから、フィギュアスケートなんて金のかかるスポーツに打ち込むことができたんだ。
;背景 廊下
水羽,「あ……」
廊下で、白鳥とすれ違った。
花音,「やーやー」
花音は、白鳥とたいして交流もないくせに、なれなれしく手をふった。
京介,「おはよう、白鳥」
水羽,「……おはよう、浅井くん」
京介,「…………」
水羽,「…………」
どういうわけか、ただの朝の挨拶とは思えないほどの緊張感があった。
京介,「なんだよ、素っ気ないヤツだなあ」
水羽,「あなたこそ」
京介,「はあ?」
水羽,「昨日は、無視したでしょう?」
京介,「昨日?」
水羽,「……覚えていないならいいわ」
なにを怒っているんだ……?
花音,「どしたのー?」
京介,「なんでもない。どうやら、おれは白鳥に嫌われてるらしい」
花音,「え? そうなの、しらとりん?」
水羽,「……別に」
花音,「兄さん、いい人だよー?」
花音には、権三の仕事を少し手伝うこともある、と話した程度だ。
まさか、椿姫の家族を家から追い出そうとしているだなんて、夢にも思わないだろう。
白鳥は、花音を見据えた。
水羽,「そう、それで、いいんじゃない?」
ややあって口を開いた。
水羽,「それから……しらとりん、とか馴れ馴れしいこと言わないで」
去っていった。
ハル,「いやあ、見ているこっちがむずかゆくなるくらいの強気っぷりすね」
突如、タイミングを見計らったかのように、教室から宇佐美が顔を出した。
ハル,「アレは、ひどいツンですよ、ええ……」
なにやらうなずいている。
花音,「のんちゃん、怒らしちゃったのかなー?」
京介,「あんまり、気にするな」
おれたちは教室に入った。
;背景 教室 昼
栄一,「うんうん、ファンキーのプリン買えないよねー。夕方に行くと並んでるからねー」
栄一は、いつものように女子と戯れていた。
栄一,「でも、ボク、お店の人と知り合いなんだー」
花音,「なになに、エイちゃんまた嘘ついてるのかー?」
栄一,「(げえっ! 花音!)」
いつも通りの朝だった。
ハル,「椿姫がいませんね」
……そういえばそうだ。
京介,「珍しく遅刻みたいだな。いや、珍しいどころか、おれの記憶がただしければ初めてだ」
ハル,「浅井さんは忘れっぽいので信用なりませんが、たしかに妙ですね」
京介,「椿姫も人間だから、遅刻することもあるだろうさ」
ハル,「はあ……ただ、自分、違和感があるとスルーしておけないタチなんすよね」
考え込むようにうつむいた。
花音,「みんなー、わたし、テレビ出るよー!」
花音が両手を上げて、大騒ぎしていた。
;場転
授業の終わりの休み時間。
椿姫はついに姿を見せなかった。
栄一,「なあ、京介、椿姫は?」
京介,「うん、おれも変だなと思ってたところなんだ」
栄一,「おいおい、テメーしらばっくれてんじゃねえよ」
京介,「は?」
栄一,「どうせ、オメーが昨日遅くまで、椿姫にギュッポギュッポしてたんだろうが?」
京介,「……なにがギュッポギュッポだ」
栄一,「違うのか?」
京介,「たしかにおれはチャラ男くんだが、さすがにまだ手は出してはいないぞ」
栄一,「どうだかねー、チクショー、おれもギュッポギュッポしたいぜー」
……しかし、どうしてここまで心根の曲がった人間が出来上がってしまったんだろうな……。
椿姫とは大違いだな。
いや、おれも人のことは言えんけど。
ハル,「浅井さん……」
宇佐美が、のそりと現れた。
ハル,「いま聞いてきたんすけど……椿姫、無断で休んでるみたいです」
京介,「無断で?」
ハル,「おかしくないすか?」
京介,「おかしいな」
栄一,「まったくだよねー、いったい誰のせいなんだろうねー?」
ハル,「電話、してみてもらえませんかね?」
京介,「電話番号知らんぞ」
……まあ、知っているんだが、栄一あたりにちゃかされそうだしな。
ハル,「携帯も?」
京介,「あいつは、携帯持ってないんだ」
栄一,「ハイ、ボク提案!」
京介,「なんだよ」
栄一,「これから、椿姫ちゃんの家におしかけるっていうのはどう?」
京介,「授業は? さぼるのか?」
学園は出れるときに出ておきたいな……。
ハル,「ひとまず、電話してみましょう。番号は先生に聞けば、わかるはずです」
京介,「……やけに、心配するんだな? ひょっとしたらただの寝坊かもしれないんだぞ」
ハル,「椿姫には借りがありますから」
京介,「借り?」
ハル,「ええ、アルバイトの件で助けてもらいましたから」
京介,「ああ……」
……意外と義理堅いヤツなのかな。
ハル,「それにしても、椿姫め。僧侶の分際でわたしの手をわずらわせるなんて……もし、何事もなかったら、ギュッポギュッポしてやる」
栄一,「じゃあ、ギュッポギュッポと電話しよう」
……こいつら、ギュッポギュッポて言いたいだけじゃ……。
;背景 廊下 昼
;SE 電話トゥルルルル
先生から電話番号を教えてもらって、さっそくかけてみた。
京介,「…………」
京介,「……お」
すぐつながった。
コールが一回鳴るか鳴らないかのタイミングだった。
椿姫,「はい、もしもし、美輪です!」
異変を察知した。
椿姫,「もしもし! もしもし!」
ケータイから声が漏れているのだろう、宇佐美と栄一も顔をしかめた。
おれは、静かに言った。
京介,「京介だ、なにがあった……?」
椿姫,「あ、浅井、くん……?」
力の抜けていくような声が返ってきた。
椿姫,「ど、どうしたの、浅井くん」
京介,「そりゃ、こっちのセリフだよ。学園はどうした?」
椿姫,「あ、が、学園……?」
京介,「ん?」
ハル,「ん?」
栄一,「ん?」
椿姫,「学園、そっか、今日、学園か……」
大きなため息があった。
京介,「なんだよ、宇宙人にさらわれたみたいな声だしやがって」
ハル,「エテ吉さん、浅井さんのたとえって、ギャグなのかそうでないのかよくわからないときがありますよね」
栄一,「だよね。半スベりだよね」
……脇でごちゃごちゃうるさいな。
京介,「なにがあったんだ?」
なにかあったのか、とは聞かない。
なにかあったに決まっている。
椿姫,「な、なにが?」
京介,「とぼけんなよ。品行方正、成績優秀、才色兼備な椿姫ちゃんが学園を無断で休むなんて、なにかあったとしか思えないだろう?」
ハル,「椿姫って、クラス委員で、生徒会長なんすよね?」
栄一,「そだよ、たまに、すごい忙しくしてるときあるから」
ハル,「なんか、真面目を絵に描いたような設定っすよね。なんか腹たつわ……」
椿姫は、またため息をついた。
椿姫,「……なんでもないよ。ちょっとカゼ、ひいてるの」
京介,「カゼ? どうして連絡をしない?」
椿姫,「それは、たまたま……えっと……わ、忘れてて……」
ハル,「なに話してんすかね……」
栄一,「うん……気になるよね」
京介,「おい、椿姫、なに隠し事してんだよ」
椿姫,「隠し事? してないよ? え、えっと……ゴッホ、ゴホッ」
泣きたくなるくらいヘタクソな演技の空咳だった。
ハル,「これ、アレすよね、コレがギャグシーンだったら、聴診器みたいのを浅井さんのケータイに当てることで、自分も椿姫の声聞けますよね」
栄一,「宇佐美さんって、たまに頭悪いよね……」
おれは声のトーンを落とした。
京介,「本当にだいじょうぶなのか?」
椿姫,「うん、平気。ごめんね。先生にはこれから連絡して謝っておく」
らちがあかなかった。
京介,「そうか、椿姫はおれを信用してないんだな」
ぶっきらぼうに言った。
椿姫,「え?」
京介,「困ったときは、お互い様だろ? どうして話してくれないんだ? 友達だろ?」
簡単だった。
椿姫,「ごめん……」
椿姫のように純真な少女は、友情とか信頼とかいう言葉にすぐ揺れる。
京介,「話してくれよ、おれとお前の仲だろう?」
椿姫,「……っ」
電話の向こうで、椿姫の良心を痛めた顔が目に浮かぶようだ。
椿姫,「ご、ごめん……家族の問題だから」
京介,「家族の?」
どうも腑に落ちない。
京介,「……家族の問題といっても、椿姫は、たとえば家の立ち退きの話はしてくれたじゃないか……」
つまり、それよりもっと重い問題が発生しているということだ。
椿姫,「言えないよ……こんなこと……」
家族の誰かが亡くなったのか?
いや……それなら、そうと言えばいい。
なにか、おれの想像の範囲外のことが起こっているに違いない。
非日常的な、何かが……。
栄一,「そろそろ、休み時間終わるよ?」
おれは最後のつもりで言った。
京介,「もう切るぞ、最後に聞くが、助けがいるか?」
椿姫,「…………」
椿姫は答えなかった。
答えないが、向こうから通話を切るつもりはないようだ。
これは、つまり……。
;==========================这是选择支,我做一下标记===============================================
;選択肢 助けを求めている  椿姫好感度+1
;     助けを求めていない
;どちらを選んでも文章は同じ。
@exlink txt="助けを求めている" target="*select1_end" exp="f.flag_tubaki+=1"
@exlink txt="助けを求めていない" target="*select1_end"
助けを求めている
助けを求めていない
;==========================这是选择支,我做一下标记===============================================
京介,「じゃあな……」
椿姫,「あ……」
電話を切ると、ほぼ同時に授業開始のチャイムが鳴った。
ハル,「……どうでした?」
栄一,「どうだった?」
おれは思案した後、言った。
京介,「とりあえず、椿姫の家に行く」
ハル,「要するに、椿姫の身の回りに何かが起こっているというわけですね?」
京介,「ああ……椿姫が、壮絶に困るような事態が起こっている」
ハル,「授業はいいんすか?」
京介,「……どうでもいいだろ」
栄一,「(さすが主人公属性持ちだぜ、友達のピンチには駆けつけるってかー?)」
ハル,「わかりました。自分も、行きます。ホントはさぼりみたいな真似はしたくないんですが」
京介,「別に来なくてもいいぞ?」
ハル,「いえいえ……」
宇佐美は愉快そうに髪をかきあげた。
ハル,「しかし、浅井さんも、普段は冷たそうにしていますが、中身はお熱い人ですねー」
京介,「なに、ニタニタしてるんだ……とっとと行くぞ」
こいつらは、なにもわかっていない。
椿姫の身の回りに何かが起こった。
まず真っ先に思いついたのは、あの土地を巡ってのトラブルに巻き込まれたということだ。
おれは、あの土地の利権を握っている人間の一人として、いちはやく駆けつけて、状況を把握したいだけだ。
;背景 公園 昼
三人で電車に乗って東区までやってきた。
椿姫の家は、この近くだったはずだ。
;背景 椿姫の家概観 昼
何か、暴力沙汰が起こっているのなら、慎重に様子をうかがわなくてはな。
栄一,「椿姫ちゃーん!」
と思ったら、栄一が声を張り上げた。
京介,「おいおい……」
栄一,「会いに来たよー!」
そのままの勢いで、チャイムを押した。
京介,「…………」
束の間、静寂があった。
ハル,「椿姫は、さっきまで家にいたんすよね?」
京介,「ああ、出かけたのかな?」
ハル,「とにかく、なにやらヤバそうですね」
宇佐美は、家の窓を指差した。
ハル,「カーテンが閉まっています」
京介,「なるほど。こんな昼間っから、カーテンを閉めなきゃいけない事情があるんだろうな……」
宇佐美の注意力に感心していると、不意に、家のドアが開いた。
椿姫,「……みんな……」
青い顔をしていた。
京介,「家に、あげてもらおうか」
椿姫,「え?」
ハル,「ここまで来させておいてイヤとは言わせんぞ」
別に、来させられたわけではないが……。
栄一,「だいじょぶだよー、なんでもボクに相談してよ。そのかわり肉じゃがご馳走して」
そういえば、こいつが甘いもの以外のものをねだるなんて珍しいな。
椿姫家の肉じゃがは、かなりうまかったのかな?
椿姫,「ありがとう……とにかく、入って」
;背景 椿姫の家 居間 昼
居間に上げてもらうと、すぐさま親父さんが顔を出した。
パパ,「君たちか……」
どうしてこんな時間に一家の大黒柱が働きに出ていないんだ?
……自営だからか。
それにしても、何か妙だ。
居間には、椿姫と、親父さんと子供たちがいた。
母親はいない。
京介,「お母さんに、なにかあったのか?」
椿姫,「え? ああ、お母さんは、寝室で寝込んでるよ……」
ハル,「…………」
宇佐美を見た。
鋭い目つき。
辺りを探るように見回している。
パパ,「椿姫の容態を心配してくれてありがとう。でも、もう帰りなさい。学園はどうしたんだい?」
親父さんの言葉も、あからさまにぎこちない。
電話の前に椅子を引いて、どっしりと座り込んだ。
ハル,「…………」
あれだけ騒がしかった子供たちも、いまは静かなものだった。
一人は寝ているようだが、一人はぼんやりと積み木をいじったり、もう一人は椿姫の足元にべったりとくっついていた。
活気がまったくなかった。
栄一,「あれ?」
栄一だけが、空気を読まずに素っ頓狂な声を上げた。
栄一,「あのガキ……じゃなくて、ほら……」
ハル,「ええ……」
栄一に同調するように、宇佐美もうなずいた。
栄一,「おととい探してた子がいないけど?」
椿姫,「ひ、広明は、いま保育園だよ!」
広明になにかあったのか……。
それを口にしようとしたとき、宇佐美が静かに言った。
ハル,「広明くんだけが、保育園?」
たしかに、広明以外の子供たちは、ここにいる。
椿姫,「……っ」
パパ,「椿姫、帰ってもらいなさい。お友達には関係ないことだよ」
椿姫,「わ、わかってるよ、でも……」
ハル,「お父さん、どうしてさっきから電話の前を離れないんですか?」
パパ,「なに?」
ハル,「お母さんはどうして寝込んでしまったんですか? どうして子供たちは暗い顔をしているんですか? どうして事情を話してくれないんですか?」
椿姫,「ハルちゃん……」
ハル,「椿姫」
息を呑んだ。
まさかの可能性が頭をよぎった。
ハル,「誘拐、されたんだろう?」
栄一,「ええっ!?」
ハル,「お父さん、あなたは犯人からの電話を待っているんですよね?」
ハル,「お母さんは、ショックで寝込んでいるんです」
ハル,「あなたがたは警察にもまだ連絡していないし、犯人に連絡するなと言われているんでしょう? どうしていいか途方に暮れているんですね?」
椿姫,「うぅ……」
椿姫が、泣きそうな顔になった。
椿姫,「昨日のことなの……」
パパ,「おい、椿姫!」
椿姫,「わたしが、もっと早く、保育園に迎えに行ってあげていれば……!」
昨日というと、おれとコーヒーを飲んでその後か……。
椿姫,「わたしが保育園に行ったら、もう広明は帰ったって言われて……」
パパ,「椿姫、もういい。お前のせいじゃない」
椿姫,「広明は、保育園から、ひとりで帰ることあるの。前にも、わたしの迎えが遅れて、ひとりで帰ったことあるの……」
迎えが遅れたのは、おれのせいでもあるな……。
しかし、まさか、誘拐されただなんて……。
あまりにも突飛すぎる。
しかし、非日常的な不幸に合う瞬間なんて、そんなものなのかもしれない。
ハル,「それで?」
この狭い家のなかで、宇佐美だけが、冷静だった。
ハル,「広明くんが誘拐されたと確信にいたったのはなぜだ?」
椿姫,「ずっと探してたんだけど、広明、夜になっても帰ってこなかったの。そしたら、いきなり電話があって……」
ハル,「相手は、息子を預かっているとでも言ったのか?」
椿姫,「う、うん……たまたま、わたしが電話に出て……」
ハル,「広明くんの声を聞いたか?」
椿姫,「いや、聞いてないけど……」
栄一,「じゃ、じゃあ、誘拐されてないかもしれなかったり……?」
ハル,「しかし、現実、広明くんは帰ってきていない。誘拐犯を名乗る人物から電話があった。まず、誘拐されたと見て間違いはない」
ハル,「気になるのは、広明くんの安否ですね」
それはきっと、宇佐美より椿姫のほうが気にしているだろう。
ハル,「お父さん、次に電話があったら、真っ先に確認してください」
いつの間にか、場の雰囲気が宇佐美を中心にして回っているような気がした。
ハル,「犯人の要求は?」
椿姫,「それは……身代金は、五千万だって……それだけで……」
ハル,「そうか……なら、少なくともあと一度は、犯人はこの家に接触してくるな」
宇佐美のいうことはわかる。
五千万を犯人にどういう形で渡すのか……要するに身代金の受け渡しの方法を、まだ犯人は語っていないのだ。
しかし、誘拐か……。
本格的な犯罪だな。
いつもグレーゾーンの商売をしているおれでも驚いた。
ただ、ひとつだけ、絶対に阻止しなければならないことがある。
栄一,「て、ていうか、警察は?」
そう、警察だ。
椿姫,「まだ……」
ハル,「警察には連絡するなと?」
椿姫,「うん……連絡したら、広明を……っ……」
まあ、誘拐犯としては当然の処置だろうな。
パパ,「警察に連絡しようかと、悩んでいるところなんだ」
椿姫,「だ、ダメだよ、お父さん! 警察に連絡したことが犯人に知れたら、広明がっ!」
パパ,「しかし、こういうのは警察に任せるしかないじゃないか」
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、親子の会話を眺めていた。
おれは、変な警戒心を抱かせないように、落ち着いて言った。
京介,「……警察は、ちょっと考えものかと」
パパ,「どうしてだい? 彼らは専門家だよ。犯罪対策のプロだ。僕らは、ただの一般人だ。警察に任すべきじゃないか?」
親父さんは、あからさまに取り乱していた。
娘の友達に対する態度にしては、大人げがなさすぎた。
京介,「落ち着いてくださいお父さん。たしかに、あなたのおっしゃるとおりです。犯罪が起きた以上、警察に通報するのが市民の義務といえるでしょう」
京介,「しかし、どうなんでしょう……」
おれは全力で説得にかかる。
……警察はまずい。
なぜなら、警察が出てくれば、犯人を挙げるべく、必ず椿姫の家を探る。
なぜ、犯人が、椿姫の家を狙ったのか、犯人の動機を調べてくるのだ。
すると、この一家が立ち退きを迫られているということが、捜査線上にあがる。
そのとき、確実に山王物産のデベロッパーと、浅井興業の名前が出てくる。
山王物産のような表向きクリーンな企業が、浅井興業のような暴力団のフロント企業に関与していることが明るみになれば、今後の取引は中止されるだろう。
この街で山王物産に見捨てられて生きていける企業などない。
当然、おれの地位も危いものになる。
だから、なにがあっても警察の介入だけは避けなくては。
京介,「警察を頼れば、確実に広明くんが返ってくるという保障はあるんでしょうか?」
パパ,「それは……いや、きっと警察ならなんとかしてくれるさ」
おれは残念そうに首をふった。
京介,「僕の父の話は、前に軽くしましたね」
パパ,「ああ、たしか、金融や不動産も扱っている社長さんだとか?」
京介,「昔は、刑事だったんだそうです」
パパ,「本当かね?」
権三は、過去、暴力団担当の刑事だったらしい。
マル暴の刑事がそのままヤクザになるというのは、珍しい話ではないらしいが、真実は定かではない。
さて、親の威光を借りたはいいが、ここからどう切り出すか……。
京介,「これは、父から聞いたのですが……誘拐事件というものは、警察に通報すると……その、かなり、被害者がでているという話です」
パパ,「被害者?」
京介,「ええ……」
パパ,「ひ、被害者って……そんな……」
椿姫,「お、お父さん、やっぱり、警察はダメだよ」
おれは、嘘はついていない。
親父さんは、広明くんに危害が加わると思ったのだろう。
しかし、誘拐事件というものは、誘拐された人間はもちろん、脅迫を受ける家族も被害者なのだ。
家族が受ける心理的な痛みは計り知れないのではないか。
そういった意味で、誘拐事件が発生すれば、被害者は確実にでているといえる。
パパ,「し、しかし……警察なら、犯人を捕まえてくれるに違いない」
京介,「犯人を捕まえればそれでいいんですか? 広明くんが帰ってくることがなによりの目的じゃないんですか?」
パパ,「うぅむ……」
親父さんは頭を抱えた。
ハル,「しかし、浅井さん」
京介,「なんだ?」
ハル,「警察に連絡しなければ、広明くんが帰ってくるという保障もありませんよ?」
ち……。
ハル,「警察の介入にやたらこだわっていらっしゃるようですが?」
京介,「いや、おれのパパが元警察官だからな……ちょっとでしゃばってみただけだ」
ハル,「そすか」
宇佐美は瞬きもせず、おれを見据えている。
ハル,「誘拐事件における警察の犯人検挙率は九十五パーセントだそうです」
京介,「…………」
ハル,「残りの五パーセントも、とくに身代金を奪われたというわけではありません」
ハル,「つまり、この国で警察を相手にして、身代金奪取に成功した犯人はいないということです」
……こいつ、なぜそんな知識を?
京介,「なにが言いたいんだ?」
ハル,「警察を頼れば、少なくとも身代金は、ほぼ確実といえる可能性で返ってくるということです」
京介,「五千万か……」
つぶやいたそのとき、閃きが訪れた。
あまりにも悪魔的な発想。
しかし、これで、椿姫の家を奪うことができる。
ハル,「どうしました、浅井さん?」
京介,「い、いや……」
落ち着け。
おれは、目まいを覚えたふりをして、軽く頭をふった。
京介,「ところで宇佐美」
ハル,「はい」
宇佐美はさっきからずっと、おれから目を逸らさない。
京介,「誘拐事件についてもう少し詳しく知りたいな」
ハル,「はい」
京介,「お前はさっき、少なくとも身代金は、という言い方をしたな?」
ハル,「はい」
京介,「それは、つまり、身代金は返ってくるが、犠牲者は出ているという解釈でいいのか?」
;カットインのように、一瞬だけ、ev_haru_02
ハル,「鋭いですね」
京介,「……っ?」
瞬間、宇佐美の気配があからさまに変わった。
おれと栄一が職員室の鍵を盗んで、それを追求してきたときも雰囲気が違ったが、その比ではない。
もっと荒々しい、殺気じみたものすら感じた。
ハル,「浅井さんのおっしゃるとおり、犠牲者は出ています」
京介,「…………」
ハル,「戦後から現在まで、通算で約百八十件の身代金誘拐事件が起こっています」
ハル,「そのうち被害者の数は、三十人以上です」
椿姫,「さ、三十人……?」
京介,「二割がたの確率で、人質は命を落としているということになるな……」
椿姫,「そんな……やだよ、お父さん、ぜったいダメだよ……」
京介,「そうだな、二割とはいえ、弟の命がかかっているんだからな……」
さきほどの閃きが頭から離れない。
抵抗感はある。
しかし、誘拐犯にはぜひとも五千万を奪って欲しい。
五千万は大金だ。
この家にそんな貯蓄があるとは思えない。
ならば、銀行の類から金を借りるしかない。
そのとき、きっと、この土地を担保にせざるを得ないのだ。
五千万を犯人が奪ってくれれば、金は返せない。
すると、椿姫たちは家を出て行くしかないのだ。
そのためにも、警察に出てこられては困る。
ただ、さすがに、抵抗感はある。
おれは本格的な犯罪を肯定しようとしているのだ。
ハル,「日本で、警察に知られることのなかった誘拐事件というものが、発生していないとは限りません」
ハル,「海外では、身代金誘拐を専門にした犯罪者集団がいるそうです。彼らはプロで、被害者の家族が警察に連絡せずに、身代金さえ都合つければ、ほぼ確実に人質を解放するそうです」
ハル,「相手の出方をうかがってから、もう一度検討してみるというのはどうでしょう?」
宇佐美は、あくまで冷静だった。
冷静だが、心の芯の部分で、なにかが激しく燃え盛っているようにも見えた。
京介,「椿姫もおれと同じで、警察に通報するのは反対なんだな?」
椿姫,「うん。だって、警察には連絡するなって言われたもの」
椿姫は、卑劣な誘拐犯の言葉すら真に受けているようだ。
誠実さというものは、ときに愚かさでしかないといういい見本だった。
パパ,「とにかく、君たちは帰りなさい。なんにせよ、これは家族の問題なんだよ」
そういうわけにはいかない。
おれの邪な心は、こんなチャンスを棒にふってなるものかと、はやしたてている。
京介,「お父さん、僕も協力させてください」
椿姫,「浅井くん……」
京介,「昨日、椿姫が広明くんを迎えに行くのが遅れたのは、僕のせいでもあるんです」
椿姫,「それは違うよ! 浅井くんは関係ないよ」
京介,「いいんだ、椿姫。おれがお前にコーヒーおごってくれなんて頼んだから、こんなことになったんだ」
目を伏せた。
京介,「それに、お父さん。身代金はどうやって都合つけるんです?」
パパ,「身代金?」
京介,「警察を頼るにせよ、五千万円は用意する必要があると思うんです」
パパ,「そんな大金、うちには……」
京介,「僕の父に頼んでみます。事情を話せば、低金利でお金を貸してくれると思うんです」
もちろん、担保としてきっちりとこの土地を抑えさせてもらうが。
パパ,「それは……」
言葉に詰まったようだ。
進退窮まったのだろう、親父さんはうめき声を漏らしながら、何度もため息をついた。
京介,「椿姫も、おれに任せてくれないか」
広明くんが誘拐されたことについて、責任を感じているという言葉に嘘はない。
……総和連合の息のかかった消費者金融のなかでも、なるべく善良な金貸しを選ぶつもりだ。
椿姫,「浅井くん、ありがとう……」
椿姫の目に涙が浮かんだ。
親父さんも、もう、それ以上は何も言わなかった。
…………。
……。
;背景 繁華街1
栄一,「いやいや、さすがのオレちゃんも、シビアにひいちゃったぜー」
あのあと、犯人から新しい連絡があるまで、ひとまず解散となった。
宇佐美とは、東区の公園で別れた。
帰り道、宇佐美は、ひと言も語らず、ずっとなにかを考え込んでいる様子だった。
京介,「そういえばお前、さっきはずっとだんまりだったな?」
栄一,「おいおい、オレくらい空気を読める男になるとよー、なんつーの、さすがに無駄口は叩かないっつーの?」
京介,「お前くらい空気を読まない男もいないと思うが、とにかくこの件は黙っていろよ?」
栄一,「わーってるって。ペットにすら言わねえよ」
不意に、栄一が立ち止まった。
栄一,「しかし、椿姫のヤツ、だいじょうぶかね」
京介,「なんだ、急に?」
栄一,「いやよう……さすがに誘拐って、マジ、サスペンスドラマかよっての……」
京介,「おれも驚いてるよ」
栄一,「なんか、オレにできることないんかね?」
京介,「…………」
栄一,「なんだよ、なんか変なこと言ったか?」
京介,「いや、お前って、年上以外の女はメス豚とか言ってなかったか?」
栄一,「メス豚でも、オレペット好きだし」
……よくわからんが、栄一なりに椿姫を心配してるんだな。
栄一,「帰るわ」
京介,「おう」
栄一,「そうだ、椿姫にプリンでも買ってやるか、うん、あいつは単純そうだから、そんなもんでも喜ぶだろう、オレマジ優しくね……?」
ぶつぶつ言いながら、去っていった。
さて、おれもいくつか仕事があったな。
いや、その前に、権三のところに顔を出しておくか。
金貸しを紹介してもらわなければ……。
おれは南区に向かう電車を待った。
京介,「…………」
しかし、栄一のようなヤツでも、根は善良なんだろうな。
……おれは、どうなんだ?
;背景 権三宅 居間
権三宅を訪れて、事情を説明していた。
京介,「……つまり、美輪椿姫の一家が、土地を担保に借金をすれば、すべて丸く収まるというわけです」
浅井権三,「…………」
京介,「ですから、どこか五千万をすぐに用意できるような街金を紹介してもらえませんか?」
浅井権三,「…………」
権三は、おれの話しにうなずきもせず、どっしりと構えている。
京介,「……お養父さん、いかがです?」
浅井権三,「…………」
京介,「……お養父さん?」
重い口はずっと閉ざされている。
京介,「…………」
空恐ろしさを覚え、生唾を飲んだ。
浅井権三,「誘拐、か」
京介,「…………」
浅井権三,「犯罪だな」
京介,「え、ええ……」
浅井権三,「警察に届けてもいいんだぞ?」
言葉とは裏腹に、声には威圧的な響きがあった。
浅井権三,「通報すれば、県警本部から捜査一課は特殊犯捜査係の刑事がやってくる」
浅井権三,「連中は誘拐対策のプロだ。誘拐ほど失敗の許されない事件捜査はないと叩き込まれている」
浅井権三,「すぐさま捜査本部が敷かれ、三百人態勢で捜査に臨むだろう。逆探知や音声解析などの技術的な進歩も目覚しいし、なによりここの県警は警視庁との連携もうまくいっている」
浅井権三,「まず、間違いなく犯人は挙がる。身代金も奪われることはないだろう」
まるで、警察の内情を直接見てきたようなことを平然と言ってのけた。
京介,「ええ、ですから、警察の介入は絶対に阻止したいのです」
浅井権三,「ほう……」
京介,「身代金が奪われてしまえば、一家は家を出て行くしかないのですから」
言い切って、暗い気分になった。
浅井権三,「いいんだな?」
京介,「なにがです?」
浅井権三,「犯罪を容認するというのだな?」
心の迷いを見透かされたよう……。
京介,「それは……」
浅井権三,「誘拐は、最も卑劣な犯罪だ。なんの罪もない市民を人質にとり、理不尽な要求を突きつける。人質が五歳の幼児ともなればなおさらだ」
権三は、なにを言おうとしているのか。
浅井権三,「いいんだな、京介」
ぞくり、と背すじに悪寒が走った。
わかった。
権三はおれを試している。
おれの良心を問い、優秀な家畜かどうかを試しているのだ。
目の覚める思いだった。
京介,「……正直なところ、抵抗感はあります」
;SE 殴るような音
;SE 画面振動
直後、都会のビル風のような、不意の疾風があった。
目の前で火花が散った。
京介,「が……あ……!」
息が詰まり、急に何も見えなくなった。
口の中いっぱいに酸味が広がった。
力が入らない。
体を維持する力が全身の毛穴から抜けていくようだ。
頭に激痛が走った。
髪を捕まれている……?
浅井権三,「くだらん生き物だな、貴様は……!!!」
底無しに冷たい眼があった。
浅井権三,「善にも悪にもなりきれんのか!!!」
恐怖した。
血液が氷結したのかと思うほど、身が萎縮した。
狼狽、動揺、あらゆる負の感情が脳みそを一気に駆け回る。
浅井権三,「お前は、その美輪椿姫という女を助けたことがあるな?」
京介,「ぐ、あ……え?」
何を言ってるのかわからない――ただ、恐ろしい。
浅井権三,「スカウト会社にうちの名前を出した。そうだろう!?」
そういえば……。
恐怖に、切れ切れになりかけた意識のなかで思い起こす。
たしか、椿姫がセントラル街でスカウトに引っかかったことがあった。
おれは、浅井興業の名前を出して、椿姫に手を出さないよう指示したのだ。
浅井権三,「なぜ、あのときは助けた?」
揺さぶってくる。
浅井権三,「なぜ、いまさら良心に揺れる?」
京介,「ぐ……あ」
ようやく解放された。
浅井権三,「いいか、京介。俺についてきた時点で、貴様に待っているのは地獄だけだ」
京介,「はい……」
浅井権三,「金がいるんだろう?」
京介,「はい」
浅井権三,「お前の親の借金を、お前が返すんだろう!?」
京介,「はい!」
浅井権三,「いくらだ!?」
京介,「二億です!」
父、利勝の借金。
当時五千万だったはずの負債は、悪魔のような利息がついて、雪だるま式に膨れ上がっていた。
浅井権三,「ならとっとと稼げ! たかが二億だ!」
そうだった……。
おれは親父の借金を返すために、権三に従ったのだ。
事情を知った連中は言う。
偉い子だね……お父さんのために……。
決して、美談などではない。
ヤクザに金を返すというのは、もっとシビアで、生きるか死ぬかの駆け引きなのだ。
二億。
個人が通帳に楽に入れられる金額ではない。
もたもたしていれば、借金はもっと重なっていく。
京介,「わかりました……」
急速に、恐怖感が薄れていった。
金に対する禍々しいまでの執着心が、おれを突き動かす。
まだ、金庫には五千万しかないのだ……。
京介,「東区の件はなんとしても、成功させます」
おれの表情に満足したのか、権三は深くうなずいた。
浅井権三,「よし、人間の顔になったな」
腹を据えた。
椿姫のことは、もう考えない。
おれは、ただ、おれの道を行くだけだ。
その道が地獄に続いているということは、もちろん知っている。
…………。
……。
;黒画面
興奮したせいか、頭痛があった。
権三の家を出て、ふらついた足取りでセントラル街に向かう。
意識が混濁する。
頭痛に、身を任せた。
;画面がぐにゃーとなるような演出。
;"魔王"アイキャッチ
;背景 セントラルオフィス 夜
……。
…………。
ようやく頭痛が引いてきた。
意識が晴れていく。
複雑にからみあった意識が、バトン交代するような感覚。
おれは、つい最近になって、浅井と名乗る京介の存在を認識しつつあった。
我が、半身。
"魔王"であるおれが表立って活動していないとき、浅井の京介はおれに加担するように動いているようだ。
ならば、誘拐計画は、きっと成功する。
さて……。
おれは、携帯電話を操作する。
相手は無論、椿姫の家だ。
通話はすぐにつながった。
魔王,「警察に連絡していないだろうな?」
声色をある程度変えられる自信があるが、今回は、万全を期して、変声機を用いた。
地声を分析されると、厄介なことになる。
いま、電話の向こうに警察がいて、逆探知をしかけている可能性もある。
椿姫,「し、してません!」
魔王,「本当か?」
椿姫,「はい、本当です!」
魔王,「よし」
そこで、一度、通話を切った。
相手の言葉を真に受ける馬鹿はいない。
逆探知を成功させるには、約三分の通話時間が必要だという知識があった。
犯人から入電があると、刑事がN○Tの技術社員に連絡をいれ、椿姫家を含むエリアを管轄する交換機の回線をチェックさせる。
そして、あるスイッチの状態を確認することで、発信者がかけている場所を特定する。
通話時間の長さに応じて、どのエリアからかけられているのかといった大雑把な範囲から、特定の電話番号まで割り出せるようになる。
さらに、犯人が被害者の自宅と同じ管轄エリアから通話している場合なら、回線の調査は短くてすむ。
遠距離からかけている場合は、複数の交換機を辿らねばならず、逆探知にかかる時間は延びていく。
だが……。
それは数年前までの話であって、最近は電子交換機やデジタル交換機が増えてきていて、これを経由する場合は、どこからかけてきたのか瞬時に悟られてしまう。
おれは、最も安全と思われる策を取った。
いま、おれは、携帯電話からかけている。
移動しながら通話している以上、たとえ場所を特定されても警察が急行してくる前に逃げられる場合がある。
携帯電話そのものも、トバシ、と呼ばれる使い捨てで、使用者の確認など無意味だ。
おれは再び椿姫家にダイアルした。
椿姫,「もしもし、美輪です!」
魔王,「いまからあと二回電話する。その間に、メモを用意しておけ」
椿姫,「え? えっ!?」
突然のことで、椿姫は気が動転しているのだろう。
魔王,「そちらからの質問は許さない。いいな?」
椿姫,「ゆ、許さないって……広明は? 広明の声を聞かせてください!」
通話を切った。
もし、横に刑事がいれば、椿姫に通話の引き伸ばしを指示しているはずだ。
なぜ、誘拐犯が、ご丁寧に被害者の質問などに答えてやらねばならないのか。
とにかく、場所を変えるとしよう。
いまの短い通話だけで、こちらのエリアを特定されるとは思えないが、万に一つということもある。
;背景 中央区 住宅街
自宅付近までやってきた。
ここまでくれば、さきほどとは別の交換機が通話回線をつないでいることだろう。
なんにせよ、警察の介入だけは避けなくては。
おれは携帯電話を操作する。
また、椿姫の悲鳴が聞こえた。
椿姫,「もしもし! 広明は!? 広明は無事なんですか!?」
質問は許さないと言ったはずだが、心配で仕方がないらしいな……。
魔王,「身代金の受け渡し方法を指示する前に、もう一度だけ訊きたい」
おれはしつこいくらいに同じ質問を繰り返す。
魔王,「警察には連絡するな。警察が関与している気配でもあれば、すぐさま取引を中止する。当然、弟は返ってこない。わかるな?」
警察の不介入――これは絶対の条件だった。
ドラマや推理小説の誘拐犯は、なぜ警察と戦おうとするのか。
もちろん、エンタテインメントとして話を盛り上げるためだ。
しかし、現実においては、警察の手を逃れて、身代金をせしめた誘拐犯は一人もいないのだ。
誘拐ほど割に合わない犯罪はない。
警察の影が見えれば、即座に取引を中止する。
そう決めていた。
犯罪を成功させるのに、もっとも重要なことは、引き際を心得るということだ。
椿姫,「警察には連絡してません! だから、弟を返して!」
悲痛な叫びが、耳をついた。
もし、嘘をついているのなら、たいした演技力だ。
魔王,「よろしい、では、次の電話を待て」
椿姫,「ま、待って――」
歩きながら電話を切った。
また場所を変えるとしよう。
;背景 倉庫外 夜
夜の海は静寂に包まれていた。
そろそろ向こうもしびれを切らしているころだろう。
これが、最後の確認だ。
通話がつながると、変声機を用いずに声色を変えて言った。
魔王,「もしもし、美輪さんのお宅でしょうか?」
椿姫,「え、あ、は、はいっ!」
魔王,「私は捜査一課長の高野と申しますが、富田刑事をお願いできますか?」
椿姫,「え……?」
;一瞬だけカットインのように、ev_maou_03c
間があった。
おれは、全神経を耳に集中させた。
椿姫,「え、け、警察?」
魔王,「どうされました? 富田は被害家族の担当として、そちらにまわしている女性刑事ですが?」
椿姫,「あ……え? お、お父さん!?」
慌しい物音が聞こえる。
椿姫,「お父さん、いつ警察に連絡したの!?」
パパ,「なんだって!? なんの話だ!?」
そのやりとりに、おれは満足した。
椿姫の反応からして、とても刑事がそばにいるとは考えにくい。
おれは再び変声機を使った。
魔王,「どうやら私のいいつけどおり、警察には連絡していないようだな?」
椿姫,「あ……」
魔王,「少々お待ちください……などと言われたら、弟を手にかけているところだった」
警察が同僚を呼び出すのに、誘拐事件の被害者宅に電話をかけるなどありえない。
彼らは、当然、支給された携帯電話か無線を使用して連絡を取り合う。
椿姫,「だ、騙したんですね!?」
よく考えればわかることだが、気が動転している人間相手には十分なトリックだった。
魔王,「今後もその心がけを忘れないことだ。もっとも、そろそろ届く品物を見れば、警察を頼ろうなんて気は起きなくなるだろうがな」
椿姫,「品物?」
椿姫の質問は無視する。
魔王,「さて、いまから身代金の受け渡しについて説明する。メモの用意はいいか?」
逆探知の可能性がない以上、いまはゆっくりと話ができる。
魔王,「まず、身代金は株券で用意しろ」
椿姫,「株?」
魔王,「明日の夕方までに五千万を当日決済で株券に換えろ。五千万円分として五万株だ。銘柄は、山王物産系列の白鳥建設だ。お前の通う学園の運営に金を出している会社だぞ」
椿姫,「し、白鳥建設……は、はい……!」
日記が趣味というだけあって、なかなかメモを取るスピードは早いようだ。
魔王,「五千万円分の株券の用意ができたら、午後六時に宇佐美ハルをお前の家の前に立たせておけ」
椿姫,「おハルちゃんを……?」
魔王,「その後は、宇佐美ハルの携帯電話に連絡を入れるまで、次の指示を待て」
椿姫,「……っ」
書き取りに必死なようだ。
椿姫にとってはわけのわからないことばかりだろう。
だが、じきにわかる。
魔王,「以上だ。午後六時に宇佐美ハルの姿が見えなかった場合、取引は中止する」
椿姫,「ま、待ってください……!」
魔王,「指示通り動けば、弟は必ず返す。私は誘拐のプロだ。金さえもらえば、約束は守る。わかったな?」
最後に飴を与えてやった。
身代金の受け渡しには、椿姫を指定するつもりだった。
椿姫を、こちらの指示通り動くように仕向けなければならない。
通話を切ると、おれはゆっくりと海辺を歩いた。
人気はなく、肌寒い。
月は頼りない光を放ちながら水面に揺れていた。
……ここまでは、完璧といえるな。
おれはまた、頭痛を覚えた。
;翌日へ;京介のアイキャッチ
;黒画面
;SE 携帯
……。
…………。
;背景 主人公の部屋 夜
翌朝、いきなり携帯が鳴った。
おれは、たたき起こされた形になった。
京介,「椿姫か……?」
椿姫,「あ、浅井くん、ごめんね、こんな時間に!」
京介,「いま何時だ?」

何度か椿姫からの着信があったようだ。
椿姫,「四時だよ。ごめんね、どうしても相談したいことがあって」
まだ太陽も見えていない。
昨日は夜中の二時まで外出していたから、二時間しか寝ていない計算になるな。
京介,「どうしたんだ?」
椿姫,「広明を誘拐した人から連絡があって、五千万をぜんぶ株券にかえて明日の夕方までに宇佐美さんを家の前に立たせておけって、それで……」
京介,「ちょ、ちょっと待て。落ち着け。落ち着いて話すんだ」
寝起きで、頭ががんがんする。
京介,「五千万を株券に換えろって?」
現金じゃないのか。
椿姫,「うん、五万株だって」
京介,「それで、銘柄は?」
椿姫,「白鳥建設だって。白鳥って、白鳥さんのことかな?」
京介,「そうだよ。白鳥の親父さんは学園の理事長だ」
しかし、なんで白鳥建設なんだ?
京介,「明日の夕方までに宇佐美を家の前に立たせる、とか言ったな?」
椿姫,「えっと、株券が用意できたらそうしろって」
これまた、なんで宇佐美なんだ?
京介,「わからないことばかりだが、お前がこんな時間に連絡してきた理由はわかる。金を工面したいんだろう?」
椿姫,「そうなんだよ、お父さんは株とかそういうの疎いみたいで。銀行からお金を借りたこともない人だから……」
京介,「そうか、警察には連絡してないんだな?」
椿姫,「うん、ぜったいしないよ!」
悲鳴が上がった。
京介,「なんだ、なにかあったのか?」
椿姫,「夜の十時くらいにね、宅配が届いたの」
……嫌な予感がする。
京介,「……中身はなんだったんだ?」
椿姫は、消え入りそうな声で言った。
椿姫,「ひ、広明の、写真と……」
京介,「写真?」
椿姫,「それと、か、髪の毛……」
京介,「…………」
椿姫,「これって、警察に連絡したら、次はもっとひどいことをするっていう意味だと思う!」
椿姫の言うとおりだった。
髪の毛でよかった。
おれは、指かなにかかと思っていた。
椿姫,「だから、警察の人は頼れないから、もう、どうしたらいいかわからなくなっちゃって、それで浅井くんに」
京介,「わかった。金はなんとかしてみよう」
椿姫,「あ、ありがとう……」
京介,「明日……いや今日か。今日の夕方までに五万株いるんだな?」
椿姫,「うん」
聞けば、千株で五十枚必要らしい。
京介,「すると、午前中に当日決済で買うしかないな……ただ、五万株も買えるかな……」
椿姫,「難しそうなの?」
京介,「一つだけ言えるのは、椿姫の親父さんに用意してもらいたいのは、五千万じゃ足りないってことだ」
椿姫,「い、いくら必要なの?」
京介,「いまから、白鳥建設の先週末の終値を調べてみるが……売買手数料と消費税を入れたら、もっと用意してもらわないとならんかもな」
椿姫,「え、えっとお父さんに聞いたんだけど、一千万くらいは貯金あるんだって……」
京介,「へえ……」
あの大家族を抱えてそんなに貯蓄があるなんて……真面目に堅実に働いてたんだろうな。
京介,「わかった。じゃあ、五千万、借りるとしよう」
椿姫,「できそう?」
京介,「たぶんだいじょうぶだ。昨日の時点で、軽く話しは通しておいたから」
椿姫,「銀行から借りるの?」
京介,「いや、パパの会社の系列から。いきなり銀行にお願いしても、午前中に五千万も貸してくれるとは思えないよ」
……まあ、警察の口添えがあれば、貸してくれただろうが。
京介,「じゃあ、もう少ししたら椿姫の家に行くよ。親父さんに、印鑑と土地の権利証を用意してもらうようお願いしてくれ」
さらっと言った。
椿姫,「土地……?」
京介,「ああ」
椿姫,「えっと、それって、どういうこと?」
京介,「悪いけど、それしかないんだ」
椿姫,「土地を、どうするの?」
京介,「五千万は大金なんだ。担保なしじゃ、貸してもらえない」
椿姫,「それって、もし、わたしたちがお金を返せなかったら、どうなるの?」
京介,「土地は、お金を貸してくれた人のものになるから……」
直後、椿姫がおれの言葉をさえぎって言った。
椿姫,「出て行くしかないってこと?」
京介,「……そうなる」
椿姫,「そんな……別の方法はないのかな?」
不安で仕方がないのだろう。
京介,「たとえば椿姫がお金を貸す側だとして、お金を返してくれる保証もない人に、お金を貸すかな?」
椿姫,「……それは、その人が信用できそうなら……」
京介,「……は」
墓穴を掘ってしまったな……。
椿姫なら、たとえ路上生活者にだって金を貸しそうだ。
椿姫,「あ、ごめんね。浅井くんを頼ってるのに、言うこと聞かないで……」
京介,「いや、突然のことで、お前もパニクっているんだろう?」
おれは、はっきりと突きつけた。
京介,「とにかく、問題は土地か、弟の命かっていうことだ」
椿姫,「…………」
京介,「命は金にかえられないだろう?」
自分で言ってて、歯の浮くようなセリフだった。
椿姫,「わかったよ。お父さんに相談してみる」
京介,「ああ、少なくとも朝七時くらいには連絡してくれ。それ以上遅くなると、金の工面が間に合わなくなるかもしれん」
椿姫,「いろいろありがとう、浅井くん」
京介,「いいんだ」
椿姫,「少し、安心したよ。頼れる人がいるって、素敵なことだね」
電話の向こうで、また微笑んでいるんだろうな。
椿姫,「なんか勇気づけられたよ、それじゃあね」
通話が切れた。
おれは何も感じない。
東区の開発は、山王物産に依頼された大事な仕事だ。
それだけを考えればいい。
京介,「しかし、株か……」
詳しい人間に聞いてみるとするか……。
京介,「もしもし、浅井です。こんな時間にすみません……」
京介,「はい、ちょっと相場のことで、お伺いしたいことがありまして……」
白鳥建設の名前を出したとき、相手の反応が変わった。
京介,「手を出さない方がいいって……え……あ、はい……売りに入ってるんですか……?」
京介,「……理由はわからないんですか?」
京介,「そうですか……とにかく、値が下がり続けていると……」
となると、五万株は案外楽に買えそうだな。
京介,「ありがとうございました。ええ、父にもよろしく伝えておきますので」
;背景 京介の部屋 夜
しかし、白鳥建設になにがあったのかな。
不意に、白鳥の顔が思い浮かぶ。
あの、つっぱった態度。
気丈そうに振舞っていて、誰かに助けを求めているような眼。
京介,「…………」
……おれには関係ないな。
おれはまた、書斎に向かった。
;黒画面
……。
…………。
けっきょく、椿姫はおれを頼った。
頑固な親父さんも土地と息子の命とを天秤にかけたとき、ついに折れたらしい。
おれは午前中から、金の工面に奔走した。
五千万はあっさりと借りることができた。
権三を通して、裏事情を話しておいたし、なにより担保が申し分なかった。
借りた五千万と椿姫家の貯蓄は、親父さんが朝一で新設した証券会社の口座に振り込んだ。
夕方には、注文しておいた五万株の株券が、手元に届くだろう。
椿姫の家に向かう途中、また、嫌な頭痛を覚えた。
働きすぎなのかと思った……。
…………。
……。
;ぐにゃーっと景色が歪むような演出。
;背景 椿姫の家概観 夜
ハル,「浅井さん……だいじょうぶですか?」
京介,「ん? ああ……なんだ?」
ハル,「頭痛そうすけど」
京介,「もう、平気だ……」
ハル,「そすか? なんかいつもと顔つきが違うような気がしますが?」
京介,「そうか?」
ハル,「ええ、まるで悪魔に魂でも売ったみたいな……気のせいすかね?」
売ったさ、とっくに。
順調にことが運んでいる。
身代金奪取は、必ず成功させる。
宇佐美め、邪魔はさせんぞ……。
ハル,「それにしても、どうしてわたしなんでしょうかね?」
午後六時。
指定にしたがって、宇佐美は椿姫家の前に立った。
京介,「さあ、おれが聞きたいくらいだな」
宇佐美は、きょろきょろと辺りを見回している。
ハル,「ていうかどうして浅井さんも、わたしといっしょにいるんですか?」
京介,「いや、かまわんだろ……」
くどいが、警察の気配を探るためだ。
たとえば、異常を察した隣の家の住人が、警察に通報しないとも限らない。
宇佐美の相手をするふりをしながら、近くに覆面パトカーと思われる怪しい車や、張り込みの刑事がいないかどうかを探っていた。
ハル,「まあいいです。せっかくですし、ちょっと考えませんか?」
京介,「なんだ、おれたちの将来についてか?」
ハル,「…………」
冗談のつもりだが、宇佐美はいっそう険しい表情になった。
ハル,「やけに、陽気ですね。友達が大変な目にあっているというのに」
京介,「だからこそだ。おれたちまで、暗くなってどうする?」
ハル,「たとえ冗談だとしても、わたしのことをうっとうしく思っている浅井さんの冗談にしては、ちょっと違和感ですね」
京介,「すまんな、面白くなくて」
ハル,「まあいいです。ところで"魔王"はどうして、身代金を現金ではなく株券で要求してきたんだと思いますか?」
京介,「ちょっと待て、"魔王"だって?」
ハル,「はい」
京介,「犯人は"魔王"なのか?」
ハル,「おそらく」
京介,「理由は?」
ハル,「犯人は、次の指示をわたしの携帯電話に入れてくると言ったそうじゃないですか」
……ほう。
ハル,「わたしが携帯を持っていることを知っているのは、"魔王"だけです。"魔王"が、わたしに携帯電話をよこしたんですから」
……さすがに、馬鹿ではないな。
おれはさりげなく言った。
京介,「おれも知っているが?」
ハル,「え? なにがです?」
不意に、とぼけたような顔になった。
京介,「宇佐美が携帯を持ってるって」
ハル,「いや、持ってないっていいませんでしたっけ? セントラル街で、貸してくださいって頼んだこともありましたよね?」
京介,「寝ぼけてんのか? その二日後くらいに、お前は"魔王"と軽くやりあったんだろう? 話してくれたじゃないか?」
ハル,「…………」
京介,「おい、宇佐美?」
ハル,「ああ、そうでしたね……忘れてました。そうか、浅井さんも知ってますね、そうかそうか……」
納得したようにうなずいているが、探りを入れるような目だけが異様にぎらついていた。
ハル,「まあ、ついでにいうと、さっきからずっと辺りを監視しているんですが、誰も現れませんね」
京介,「ふん……」
ハル,「車すら通りません」
宇佐美の言いたいことはわかる。
やはり、なかなか面白い女だな……。
京介,「おれが"魔王"だとでも?」
ハル,「あ、いえいえ。そんなつもりじゃないんですよ。たとえば、こちらが気づけない位置から、望遠鏡かなにかで探られているとか、そういう可能性もありますからね」
京介,「おいおい、おれたちはお互いを疑わないっていう協定を結んでいるんじゃなかったのか?」
ハル,「ええ、もちろんです。浅井さんは、潔白ですよ」
言葉とは裏腹に、おれを疑っているようにしか見えないがな……。
ハル,「しかし、"魔王"って、学園生じゃないかなーとかノリで思うことあるんすよねー」
京介,「へえ……」
ハル,「まあ、あくまでノリですけどね」
京介,「根拠が薄いっていう意味か?」
ハル,「ええ、誘拐電話も夜にかかってきたそうですし、わたしと軽くやりあったのも日曜日でした」
京介,「はは……ホントにノリだな。"魔王"がたとえばサラリーマンだとしても、夜や休日は空いているだろう?」
ハル,「ああ、そっか。それもそうすよね。しかも、"魔王"は金持ちですもんね」
……こいつ。
ハル,「人を使って街のいたるところに落書きを残したり、広明くんを誘拐するのにもきっと車を使ったでしょう」
京介,「…………」
ハル,「さらにいえば、身代金を株券で要求してくるあたり、相場の知識もあるみたいですしね」
京介,「…………」
ハル,「そんな学園生、いるわけないですよね?」
京介,「ふふ……」
笑いがこみ上げてくる。
ハル,「どうしました、なにがおかしいんですか?」
京介,「いやいや、宇佐美は楽しいヤツだなあと思ってな」
ハル,「マジすか。自分、人に褒められるの慣れてないんで、あんまり甘やかさないでもらえますか?」
改めて、叩き潰してやりたくなったな。
京介,「話を戻さないか?」
ハル,「ああ、はいはい。身代金を株券で要求してきた件ですね」
京介,「お前は、どうしてだと思う?」
ハル,「さあ……」
京介,「隠すなよ。宇佐美なりに気づくところはあるんだろう」
お手並み拝見といくか……。
ハル,「まず、考えられるのは、持ち運びが簡単だからでしょう」
ハル,「現金で五千万だと、一万円札が五千枚も必要です。けれど、株券ならたったの五十枚にしかなりません」
株券は一部の例外を除いて、千株単位で取引する。
五万株も、千株単位にわけてしまえば、五十枚にしかならない。
京介,「なるほどな。犯人は身代金を奪って逃走したいわけだから、なるべく軽い方がいいんだろうな」
ハル,「しかしですね、単に軽くしたいだけなら、他にいくらでも方法はあるはずなんです」
京介,「たとえば?」
ハル,「ダイヤモンドのような貴金属のたぐいに換えさせるとか」
京介,「ふむ……」
ハル,「しかも、なぜ白鳥建設の株券なんでしょうね?」
京介,「さあな……犯人は相場師で、白鳥建設の値が上がるとでも踏んでいるんじゃないか?」
宇佐美は、そこで一息ついた。
ハル,「妙なことはまだあります」
ハル,「たった一日で五千万円を工面させて、さらに夕方には株券に換えさせるというのも、椿姫家のような一般家庭にはタイトな要求です」
ハル,「犯人は、椿姫たちが株券を用意できなかったらどうするつもりだったんでしょうね?」
ハル,「あるいは、用意できるという確信があったのか、どう思います?」
京介,「さあな……息子の命がかかっていると思えば、なんだってやると思ったんじゃないか?」
納得がいかないようだった。
ハル,「警察が関与しているなら、身代金の工面にも便宜をはかってくれたでしょう。しかし、"魔王"は、警察にはぜったいに連絡しないよう忠告しています」
京介,「そりゃ、警察の介入を喜ぶ奇特な誘拐犯なんていないだろうさ」
ハル,「浅井さんがいなければ、お金の用意は無理だったでしょうね」
京介,「かもな。犯人は、椿姫とその人間関係をよく調べているといえる」
宇佐美は、まばたきを二度、三度、繰り返し、最後に固く目を閉じた。
ハル,「浅井さん……」
京介,「うん?」
ハル,「これは直感ですがね」
目を開けた。
ハル,「わたしは、この誘拐事件は、わたしに対する挑発なんじゃないかと思っています」
京介,「ほう……」
ハル,「でなければ、わたしの携帯電話に次の連絡を入れてくるという理由がわかりません」
その通りだ……理由がなければ、いままで通り椿姫の家に連絡すればいいからな。
京介,「さて、そろそろ、おれは帰るぞ」
ハル,「帰る?」
京介,「すまんが、やることがあるんだ」
ハル,「そうですか。いつ戻られます?」
京介,「ちょっと明日の夜くらいまで、用事があるんだ」
ハル,「それは、もちろん、椿姫の危機よりも優先される用事なんですよね?」
京介,「きつい言い方をするな? これ以上、おれになにができる?」
ハル,「わかりません。ただ、椿姫は浅井さんを頼りにしていますよ……」
京介,「ああ……なにかあったら、すぐに知らせてくれ」
ハル,「はい、真っ先に」
宇佐美に背を向けた。
宇佐美は、ずっと家の前でなにかを考え込んでいた。
さて、次は、どう動くか……。
;長めの場転
;ノベル形式
椿姫は畳の上で膝を折り、途方に暮れるようにため息をついた。
 弟が誘拐されてからもう二日になるが、だいぶ会っていないような気がしてきた。
 学園も、病気と称して休んでいる。嘘をつくのは心苦しかったが、事情の説明などできるはずもなかった。
パパ,「椿姫、もう休んだらどうだ。丸二日寝てないだろう?」
 父親が憔悴しきった表情で言った。
椿姫,「ううん、わたしより、お母さんはだいじょうぶ?」
 母親の顔色は悪い。昨晩、誘拐の事実を知ったときには、ふらりと倒れたのだ。
 三人の弟たちは、別の部屋で寝かしつけておいた。広明の不在に、泣いたりわめいたりと大変だった。広明は祖母の家に行っていると嘘をついておいたが、勘のいい子供たちは、雰囲気で事の重さを悟っているようでもあった。
 明るかった家庭。いつも笑顔が満ちていた。体は弱いが料理のうまい母、ケンカばかりで騒がしい弟たち、頑固そうでいて娘にはめっぽう甘い父……。
――どうしてこんなことになったのか。
 何度も嘆いた。不運というには、あまりにも酷だった。犯人はどうして、うちを狙ったのか。なにより、どうして広明なのか。いまごろ、どんなつらい目に合わされているのだろうか。せめて自分がかわってあげたかった。
 しかし、椿姫は家族の前で弱音をはくまいと心に決めていた。一番つらいのは、大事にしていた土地に手をかけた父であり、腹を痛めて生んだ息子を奪われた母なのだ。
ハル,「きた……」
 ハルがつぶやき、狭い居間に着信音が鳴り響いた。犯人は、なぜかハルの携帯電話に連絡すると言ったのだ。
 とっさにハルを見た。落ち着いた動作で、携帯電話を耳に添えた。どっしりと構えていた。いつも学園で、柳の枝のように背筋を曲げている宇佐美さんではなかった。
ハル,「"魔王"だな?」
 ハルがいきなり言った。"魔王"とは、どういうことなのか。ハルがふざけている様子はない。椿姫には見当もつかなかった。
魔王,「ご挨拶だな。なにをたくらんでいる?」
 いったい、どんな会話をしているのか。椿姫は混乱した。まるで、誘拐犯と顔見知りのようなやりとりだ。
ハル,「……わかった。椿姫にかわる」
 急に名前を呼ばれて、椿姫の心臓が跳ねた。
椿姫,「わ、わたし?」
ハル,「かわれと言っている。以後、その携帯は、椿姫のものらしい」
 それだけ言うと、ハルは携帯を差し出した。
;背景 椿姫の家居間 夜
椿姫は生唾を飲んだ。通話状態になっている携帯を受け取る。手が震えた。また、誘拐犯と会話をしなければならない。目をつぶって、電話に出た。
椿姫,「もしもし、椿姫です……」
魔王,「調子はどうだ?」
 相手は言った。それまでのように機械的な声ではなく、男の肉声だった。
椿姫,「な、なんのつもりですか?」
魔王,「警察に連絡しないでいてくれて、とても感謝している。椿姫とは紳士的な取引ができそうだ」
 妙な気分だった。誘拐犯に下の名前を呼ばれるなんて……。
椿姫,「身代金は用意しました。次は、なにをすればいいんですか?」
魔王,「いいぞ。私の言うことをきちんと守っていれば、弟は必ず返す」
 誘拐犯は、続けて言った。
魔王,「まず、その携帯電話の充電が切れないよう注意しろ。電気屋かコンビニエンスストアなどで、即席の充電器を用意しろ。ちゃんと型が合うものを購入するんだ」
 椿姫は、とっさに日記帳を開いて、犯人の指示をメモした。
魔王,「セントラル街に、大和屋という大きなデパートがあるのは知っているか?」
不意に尋ねられ、椿姫は混乱した。
椿姫,「え、と……わかると思います」
魔王,「デパートの三階に、かばんを売っている店がある」
椿姫,「は、はい」
魔王,「明日の午前中。そこで、一番安いアタッシュケースを買え。一万円もあれば買えるはずだ」
椿姫,「ケース……」
 メモを取るのに必死で、犯人の指示に疑問を挟む余地はなかった。
魔王,「無事に購入できたら、五十枚の株券を封筒に詰め、ケースの中に入れて、私に連絡をしろ。電話番号は、いま椿姫が手にしている携帯に入っている」
 書き終えて、椿姫はようやく一息をついた。
 椿姫は思う。どうしてそんな回りくどいことをさせるのか。警察にも連絡していないし、身代金はちゃんと引き渡す。だから、弟を返して欲しい。
椿姫,「あの……」
 切実な思いが胸をついて口から出た。
椿姫,「お金、払いますから。あの、ちゃんと払いますから。ですから……」
 誘拐犯がさえぎって言った。
魔王,「弟はちゃんと返す」
椿姫,「あ、はい……」
魔王,「ただ、私は取引に万全を期したいだけだ。明日になって、お前がいきなり警察に連絡しないという保証があるのか?」
椿姫,「しないです!」
 思わず、叫んだ。
椿姫,「どうして信じてくれないんですか!?」
魔王,「逆に聞きたいのだが、どうして信じることができるんだ?」
椿姫,「しないものはしないからです!」
 不意に含むような笑い声が聞こえた。
魔王,「なあ、椿姫よ」
 ささやくような声が耳にまとわりついた。
魔王,「お前は面白いな」
椿姫,「な、なにがですか?」
魔王,「お前が無条件で他人を信じるのは勝手だが、それを私にも押しつけないでもらおうか?」
椿姫,「言っている意味が、よくわかりません」
魔王,「たいしたものだ。私はお前のような人間は好きだぞ」
 絶句した。唖然として言葉に詰まった。軽い錯乱状態におちいった椿姫に、犯人は告げた。
魔王,「父親にするか決めかねていたが、やはり、受け渡しには椿姫を指名するとしよう」
受け渡し。つまり、明日、椿姫は身代金を運ぶ役目をあたえられたのだ。
魔王,「では、明日。お前に会えるのを楽しみにしている」
椿姫,「あ……っ!」
 待ってと言いかけたが、すでに不通音が流れていた。
 ひどい疲労感を覚えた。ハルが顔を覗き込むように見ていた。
ハル,「だいじょうぶか?」
椿姫,「……平気だよ、おハルちゃん」
ハル,「犯人はなんて?」
 椿姫はメモをたどりながら、さきほどまでのやりとりをハルに教えた。ハルは椿姫のたどたどしい説明を黙って聞いていた。
ハル,「携帯の充電器はあるぞ」
 ハルが言った。
ハル,「この携帯電話は、もともと犯人からもらったものなんだ」
椿姫,「ずっと持ってたの?」
ハル,「わたしにとって唯一の証拠品だからな。いつかかってきてもいいように、充電は絶やさないようにしておいた。そして、"魔王"もそういったわたしの行動を読んでいた」
椿姫は首をかしげた。
椿姫,「"魔王"?」
ハル,「そう、"魔王"だ」
椿姫,「"魔王"っていう人が犯人なの?」
ハル,「ああ……」
 ハルは神妙にうなずいた。
椿姫,「知り合いなの?」
 尋ねると、一息入れるような間があった。
ハル,「知り合いというわけではないが……椿姫は、声に聞き覚えがなかったか?」
椿姫,「え? 声?」
ハル,「犯人の声だ」
椿姫はもう一度思い起こしてみた。犯人の、魅惑的で、自信に満ち溢れていそうな中性的な声を。
椿姫,「い、いや、わかんないな……」
ハル,「どこかで聞いたことがないか?」
椿姫,「そう言われても……」
 男性の声など、普段は耳に覚えておかない。唯一印象に残っているのは、浅井京介の声だ。京介は電話口に出たときなど、たまに冷や汗が出るほどすごみの利いた声を出す。
うっかり、京介の名前が口に上りかけて、椿姫は慌てた。
 ――浅井くんが犯人のわけがないじゃないか。
 恥ずかしい気分だった。京介の協力がなかったら身代金すら用意できなかったのだ。土地の相談にも乗ってくれた。京介は、ひょうきんな遊び人のふりをしているが、本当は優しくて頼りになる人だ。
 不意に、クラシックについて熱弁をふるう京介の顔が思い浮かんだ。
 胸が、熱くなった。
ハル,「まあいい。ところで、明日は、わたしも協力させてもらいたいんだが」
椿姫,「え?」
 夢想にふけっていた椿姫は、いきなり目を覚まされた気分だった。
ハル,「犯人を捕まえる」
 ハルは、決まっていることのように言った。
 すると、それまで黙っていた父親が口を開いた。
パパ,「捕まえるって?」
 父親は重い腰を上げた。
パパ,「それは……お金を渡さないっていうことかい?」
ハル,「極力、渡したくはありません」
 その一言に、さすがに慌てた。
椿姫,「ダメだよ! ちゃんと渡さないと、広明が!」
犯人は、言うことを聞けば広明を返してくれると約束したのだ。ハルに詰め寄ったとき、父親が手で制した。
パパ,「椿姫、ちょっと落ち着きなさい」
椿姫,「だって……」
 ハルは小さく頭を下げた。
ハル,「驚かせてすまない、椿姫」
椿姫,「あ、わたしこそ、取り乱して……」
ハルは、椿姫を安心させるように笑った。
パパ,「宇佐美さん、といったね?」
ハル,「ハルでいいですよ、お父さん」
パパ,「捕まえるって、君が、かい?」
ハル,「ええ……お金も、広明くんも返ってくる。それが、最高の形だと思っています」
パパ,「たしかに、犯人さえ捕まえれば、全てうまくいくよ。けれど、僕らは警察すら頼らないことに決めたんだ」
ハル,「犯人の言いなりになるということですね?」
 ハルはどこか不服そうだった。
ハル,「たしかに犯人はたいした人物です。幼児を誘拐し、髪を送りつけてくるという残虐性と、身代金を株券で要求するという奇想天外な発想の持ち主です」
 ハルはなにが言いたいのだろうか。犯人の人物像など興味がわかない。誘拐事件を引き起こしたというだけで、もはや恐怖の対象でしかない。
パパ,「そうだよ、そんな凶悪な犯罪者をどうやって捕まえるというんだい?」
 父親の言うとおりだった。
ハル,「犯人がどれほど頭の回る人物だとしても、ただ一点、姿を現さなければならない瞬間があります」
パパ,「それは?」
ハル,「身代金奪取のときです。正体不明の犯人ですが、用意した株券を椿姫から受け取るときには、顔を見せざるをえないはずです」
 たしかに、犯人は、椿姫に会いたいとまで言った。ひょっとしたら、本当に、顔を合わせることになるのかもしれない。
父親が首を振った。
パパ,「宇佐美さん、前に君が言ったとおり、身代金を渡せば広明が返ってくるという保障はどこにもないね……」
ハル,「わたしはむしろ、身代金を渡したが最後、広明くんは戻らないとまで考えています」
椿姫,「なんで? 約束が違うじゃない?」
 口をはさむと、椿姫はハルに見つめられた。
ハル,「犯人にとって人質とはリスクの塊だからだ。解放したあと、犯人の顔や声を覚えていて、監禁されていた場所を警察に話すかもしれない」
パパ,「……浅井くんといい宇佐美さんといい、椿姫の友達はただものじゃないな」
 父親は力なく笑った。胸のうちでは激しい葛藤があるのだろう。警察に通報もせず、凶悪犯の言いなりになり、守り続けてきた土地を担保にいれなければならない。椿姫は、こんなに苦しそうな父を初めて見た。
パパ,「正直、どうしていいのかわからないんだ。いますぐにでも受話器をつかんで警察を頼りたい気持ちもある。ただ、それをやると確実に広明は返ってこないんじゃないかという恐怖も大きい」
ハル,「お察しします……」
パパ,「椿姫は、宇佐美さんの意見には反対なんだな?」
 父の問いに、椿姫は即答をためらった。
 罪悪感に似たものが芽生えていた。自分は、ハルという友人より、得たいの知れない凶悪犯の言うことを聞こうとしている。
椿姫,「ハルちゃん……」
 ハルは目を伏せた。
ハル,「わたしに人の家庭の事情に口をはさむ権利なんてない。ずけずけと勝手なことばっかり言って、本当にごめん」
 胸が痛んだ。勇者と名乗った少女は、最良と思われる行動を提案しているにすぎないのだ。その気持ちを汲んであげたかった。
 椿姫は、散々迷った果てに、ようやく言った。
椿姫,「お父さん、ごめん。やっぱり警察は怖いよ。だってわたしは、犯人の声を直接聞いてきたもの、本当に怖い人だと思う。警察だけはぜったいにだめだと思う」
 父親は深くうなずいた。
椿姫,「でも、ハルちゃんの言うことも、合っているように思う。犯人を捕まえたいとも思う」
ハル,「椿姫……」
椿姫,「だから、ハルちゃんには、自由にして欲しいな」
笑うと、笑顔が返ってきた。
ハル,「ありがとう」
椿姫,「ううん、"魔王"をやっつけるのが、勇者様でしょ?」
 つられて、父親も笑ってくれた。
パパ,「あしたはだいじょうぶか、椿姫。お前の身も心配だ。できるなら、かわってやりたいが……」
椿姫,「いいよお父さん、ありがとう」
父は椿姫を頼っていた。長女として、いままでずっと、家族の中心的存在にあったのだと気づいた。
パパ,「よし、じゃあ、子供たちを起こしておいで。ごはんにしよう」
ハル,「自分もいっしょさせてもらえると、食費が浮いて大変うれしいのですが……」
椿姫,「もちろんだよ、みんなで食べよう?」
ハル,「すいません、あつかましくて……」
 夜は更けていった。
 冬の暗い淵に立たされた家族に、ようやく一輪の花が咲いたようだった。
;关于水羽,立绘结尾为s的,立绘纵坐标应为100
;关于权三,立绘结尾为b的,立绘纵坐标应为145
;背景京介の部屋昼
冬の朝はいつもより冷え込んでいた。
さて、今日は朝から大忙しだ。
;SE携帯
支度をして玄関に立つと、
胸ポケットのなかで携帯が鳴り響いた。
京介,「もしもし……」
相手は椿姫だった。
椿姫,「朝早く、ごめんね」
京介,「ああ、かまわないよ。なにかあったのか?」
椿姫,「えとね、今日、身代金の受け渡しがあるの」
京介,「へえ……」
驚いたふりをした。
京介,「大変だな。やれるのか?」
椿姫,「ううん、やるしかないよ」
椿姫の声には、強い意気込みのようなものが感じられた。
京介,「すまんな、こんなときにいっしょにいてやれなくて」
椿姫,「浅井くんにはたくさんお世話になってるよ」
京介,「ちょっと仕事があってね。かたづいたらそっちの家に駆けつけるよ」
かたづいたら、な。
椿姫,「ありがとう。待ってるね」
通話を切って、外に出た。
;"魔王"のアイキャッチ
いよいよか……。
笑みが漏れ、口角がつりあがる。
遊びを楽しむとしよう。
;ノベル形式
;ハルの視点
;背景椿姫の家概観
午前九時。
冬の青空と同じように、ハルの頭は冴え渡っていた。
ハル,「よーし、椿姫。いっちょ我々の友情パワーを犯人に見せつけてやろうじゃないか!」
椿姫,「ハルちゃん、元気いいね」
ハル,「お前こそ、ちゃんと身代金持ったか?」
椿姫,「うん」
椿姫は封筒に入れた株券を、大事そうに抱えていた。
見送りに出てきた父親と母親に手を振ると、二人はセントラル街に向かった。
;背景繁華街1
いったいどこから人が集まってくるのか。午前中とはいえ、休日のセントラル街の混雑は半端なものではなかった。
椿姫,「ねえ、ハルちゃん」
ハル,「なんだ?」
椿姫,「わたしたちって、いっしょに行動していいのかな?」
椿姫の足取りが重くなった。ハルもつられて足並みを合わせた。
ハル,「ダメだとは言われていない」
ハルはむしろ、この誘拐事件にからんでこいと"魔王"に誘われているような気がしていた。
ハル,「ただ、わたしは離れて行動したほうがいいとも思う」
"魔王"も、ハルの介入を予想しているだろう。
であれば、椿姫といっしょに身代金を引き渡すより、姿をくらましていたほうが、"魔王"の不意をつきやすいのではないか。たとえば、身代金奪取に姿を現した"魔王"が、椿姫に気をとられているうちに背後から近づいたりできるかもしれない。
椿姫,「どうするの?」
椿姫が訊いてきた。一人では心細いのだろう。
ハル,「だいじょうぶだ。そばにいる」
椿姫,「そう?」
ハル,「ただし、少し距離をおいて、椿姫を遠目に見守るような形を取らせてもらう」
椿姫はけげんそうに首を傾げた。
椿姫,「じゃあ、これから、わたしたちはお互いに連絡をとりあえないの?」
ハル,「そうなる」
椿姫,「そっか……」
ハルは、椿姫の肩に手を置いた。
ハル,「窮地におちいっているようなら、さっそうと助けにいく」
その一言で、椿姫も少しは安心したようだ。頬を朱に染めてうなずいた。
ハル,「最後に、ひとつだけ、聞いておく」
椿姫,「なんでも言って」
ハル,「わたしは極力犯人を捕まえようとする。だが、万が一取り逃がしてしまった場合、身代金だけは奪われないように動くつもりだ」
椿姫,「……そうなの?」
また不安そうに椿姫の眉が下がった。椿姫としては、やはり、素直に犯人のいうことにしたがって、身代金を渡したい気持ちが強いのだろう。
ハル,「いいか、椿姫。たとえ犯人に逃げられても、身代金さえ手元にあれば、もう一度交渉のチャンスはつかめる……と思う」
"魔王"は、身代金を奪おうと、もう一度椿姫家に接触してくるからだ。その場合は、再戦となるだろう。
ただ、なにか嫌な予感が走っていた。
ハルの推測は、"魔王"が本当に身代金を欲しがっているという前提において、妥当といえる。ただ、今回の誘拐事件は、生活に詰まった人物の、成り行きの犯行ではないのだ。
――"魔王"にとって、五千万の株券が、どれほど意味のあるものなのだろうか。
しかし、ハルは、"魔王"の真の目的は、ハルへの挑発だとにらんでいる。"魔王"にとっては、挑戦というよりお遊びなのかもしれない。いずれにせよ、"魔王"がハルを叩き潰したいのであれば、その鼻をあかしてやればいい。もちろん、敗北を悟った"魔王"が、腹いせに広明くんを殺害するという不安もぬぐいきれるものではないのだが……。
椿姫,「ハルちゃん、昨日も言ったけど、ハルちゃんのいいようにして」
ハル,「ありがとう。そう言ってくれると思っていた」
椿姫,「ふふっ」
椿姫が舌を見せた。
椿姫,「ハルちゃんて、不思議な人だね」
ハル,「なんだ、急に?」
椿姫,「どよーんとしたり、キリっとしたり、いったいどれが、本当のハルちゃんなの?」
ハル,「さあ……」
見つめられると、なんだか首の裏がむずがゆい。
椿姫,「ハルちゃんって、転校多かったんじゃない?」
ハル,「まあ……」
椿姫,「そっか、大変だったね」
椿姫は、おそらくその生来の人の良さで、ハルの友達の少なさを感じ取ったのだろう。
ハル,「おい椿姫。わたしはよく気持ちが悪いといわれる」
突然の一言に、椿姫は目を丸くした。
ハル,「気持ちが悪かったら、縁を切ってもらってかまわないんだぞ?」
ハルは少しだけ昔を思い出した。孤独を孤高と言い換えて、斜にかまえていた自分を……。
けれど、椿姫は強い口調で言った。
椿姫,「悲しいこと言わないで」
はっとして、椿姫を見た。
椿姫,「お友達だよ、ハルちゃんは」
いったいどうして、こうまで純粋な少女が現実にいるのだろうか。
一途なまなざしには、ある種のカリスマすら感じる。なにをさしおいても、椿姫のためにがんばろうという気分にさせられた。その根拠が理解できなくて、ハルは戸惑いを隠せなかった。
ハル,「最後に、一つだけ聞きたい」
椿姫,「え、さっきも最後にって言ってなかったっけ?」
ハル,「これが本当に最後だ。そしてかなり重要なことだ」
椿姫,「うん……」
ハルは椿姫を見据えた。
ハル,「椿姫は、浅井さんのことが好きなのか?」
椿姫,「えっ!?」
瞬間、湯でも沸いたような表情になった。
ハル,「どうなんだ?」
椿姫,「え、えと……」
ハル,「どうなんだと、聞いているんだ」
椿姫,「す、好きだよ。もちろん。あんなに頼りになる人いないよ」
ハル,「ふーん」
椿姫,「ふーん、て」
やはり、か。ハルは、複雑な気分だった。反対に、椿姫はすでに余裕を取り戻していた。
椿姫,「なんにしてもありがとう、ハルちゃん」
椿姫が言う。
椿姫,「広明が帰ってきたら、いっぱいお話しようね」
ハルはうなずいた。そして、椿姫についてはこう思うことにした。
自分は素晴らしい友人を得たのだ、と……。
;場転
;椿姫視点
;背景繁華街1昼
午前十一時十分。セントラル街にそびえる大時計を見て、椿姫は時刻を確認した。
ハルと別れ、一人になった。一人で犯人の指示をまっとうした。開店と同時にデパートに向かった。犯人の言うとおり、アタッシュケースは六千円で買うことができた。椿姫家の全財産ともいえる身代金は、すでにケースのなかにおさまっている。
椿姫は、ハルから預かった携帯電話を操作した。充電も電波も十分に入っていた。
椿姫,「もしもし……」
通話はすぐにつながった。誘拐犯の魅惑的な声が耳を突く。
魔王,「優等生だな、椿姫は」
椿姫,「え?」
魔王,「急いでケースを用意した。デパートの開店は十一時だからな」
なにを言っているのかわからなかった。弟の命がかかっているのだから、なにごとも急ぐに決まっている。
魔王,「今後も、迅速な行動を期待する」
椿姫は黙って、あいづちだけを打った。
魔王,「いまは、セントラル街だな?」
椿姫,「はい……」
魔王,「そのまま歩いてオフィス街に来てもらおう。山王物産の本社ビルが見える広い公園があるのはわかるな?」
椿姫,「公園のどこに行けばいいんでしょうか?」
魔王,「園内には大きな掲示板がある。そのそばで、落ち合おう」
椿姫,「わかりました……」
魔王,「急げよ」
唐突に、通話が切れた。
椿姫は立ち止まって、ハルの姿をさがした。けれど、人だかりにまみれて、あの目立つ長い髪は見当たらなかった。
――ついてきて、くれてるんだよね……。
椿姫は、アタッシュケースを手に提げて、混雑してきたストリートを進んでいった。
;背景セントラルオフィス
;アドベンチャー形式
長くても三十分。
あのデパートからこの公園まで、女の足でも二十分あれば足りるはずだった。
椿姫には落ち合おうと言ったが、おれにそんな気はまるでない。
身代金奪取にさいして、なにをさしおいても確認しなければならないことがある。
それは、運び屋が、誘拐犯に従順であるかどうかだ。
すなわち、責任感を持って身代金を運べるのか、また、運ぶ体力はあるのか……。
そしてなにより、警察を頼っていないかどうか……。
三十分だ。
おれは腕時計の秒針を目で追った。
三十分以上かかるのであれば、まず間違いなく背後に警察がいるとおれは考える。
もし、椿姫の一家が、あれだけ忠告したにもかかわらず、警察に通報した場合、おそらく百人単位の捜査員が身代金を運ぶ椿姫を監視していることだろう。
おれを捕まえるために、大勢の刑事が公園に張り込むわけだ。
ただ、どれだけ迅速な指示が飛んだとしても、相応の時間はかかる。
警察はセントラル街から、この公園に人員を転換しなければならないからだ。
警察は、人員配置が完了するまで、椿姫を引き止めるだろう。
だからおれは時間を気にする。
三十分以内に椿姫の姿が見えなければ、取引を中止するしかない。
魔王,「…………」
園内の見晴らしはいい。
一般人を装った刑事がいれば、それとなくわかるかもしれないが、見分けがつくかどうか、確信まではもてない……。
たとえば、目につくだけでも、中年のカップルが二組、犬を連れた男が一人、サラリーマン風の男、妊婦に手を差し伸べる初老の男……疑い出せばきりがない。
だから、おれがこの場で、せめてやっておくべきことは、すれ違う人間の顔を覚えておくことだ。
なぜなら、これから先、椿姫をひっかきまわしていく過程で、同じ顔を見かけた場合、そいつは刑事である可能性が極めて高いからだ。
ベンチに腰掛けたおれは、目線だけを動かして、警察の影を探っていた。
魔王,「……む」
椿姫の姿を確認した。
園内の掲示板に向かって、猛然と走っている。
私服の少女が、アタッシュケースを手に提げた姿は、あまりに目立つ。
想像力の突飛な人間がいまの椿姫を見れば、まさしく身代金の受け渡しに奔走していると考えるかもしれんな……。
時計を確認する。
さきほどの連絡から、十五分もたっていなかった。
次の指示を出すとするか。
園内にすでに捜査員が張り込んでいる場合を想定して、すぐには電話をかけない。
椿姫が電話を取ったときに、捜査員は園内の電話をしている人物を徹底的にマークするからだ。
去り際、椿姫を見やった。
遠目に見ても、緊張しているのが見て取れた。
;ノベル形式
;背景セントラルオフィス
待ち続けて、もう一時間近くになる。
椿姫は不安に胸の詰まる思いだった。指定された場所にいるはずなのに、一向に犯人らしき人は現れない。声をかけてきたのは、まったく関係のないナンパ目的の男だけだった。
;SE着信
突然、携帯が鳴り響いた。犯人からだ。
椿姫,「はいっ、ちゃんといますよ!」
電話に出るなり、叫んだ。犯人は不機嫌そうな声を出した。
魔王,「……少し、騒がしいぞ、椿姫」
椿姫,「えっ!?」
魔王,「大声を出すな。周りの人間に不審に思われるだろう?ただでさえ、アタッシュケースを手に持った格好というのは、お前のような少女には不釣合いなのだからな」
椿姫,「す、すみません……」
目立つ格好になったのは犯人の指示ではないのかと思ったが、口に出す勇気はなかった。
椿姫,「あの、それで……このケースはどうすればいいんでしょうか?」
魔王,「大事に持っておけ」
椿姫,「え?」
魔王,「予定変更だ。受け渡し場所を変更する」
椿姫は戸惑った。思わず、ハルの姿を探すが、気配すらなかった。
魔王,「セントラル街の駅に行け。改札の近くに、ロッカールームがある。使用禁止の紙が貼られたコインロッカーを探せ」
椿姫,「ま、待ってください、いま書き留めます……」
携帯電話を首と肩の間にはさみながら、自由になった両手で日記帳を開いた。
魔王,「ロッカーのなかに、身代金の詰まったケースを入れて鍵をしろ」
椿姫,「使用禁止じゃないんですか?」
魔王,「安心しろ、実はちゃんと使える」
使用禁止の張り紙は、犯人が用意したものなのだろうか。椿姫は次の指示を待った。
魔王,「ロッカーの鍵をしっかりとかけたら、次にその鍵を持って、電車に乗れ。行き先は、終点の桜扇町だ」
椿姫,「桜扇町?」
それは、隣の県にある電車の終点だった。セントラル街からだと片道で二時間はかかる。県を越えるほど遠い場所まで連れ出して、なにをさせるのだろうか。
魔王,「向こうの駅に着いたら、改札を出たあたりで待て」
椿姫,「また連絡をもらえるんですか?」
魔王,「いいや、お前から連絡して来い。急げよ」
椿姫,「わかりました。次こそ会えるんですよね?」
魔王,「椿姫が、いい子にしていたらな」
おどけたようなことを言う。遊ばれているのだろうか。椿姫はめったに表に出ない感情が、胸奥でぐつぐつと沸いていくのをおさえられそうになかった。
椿姫,「あなたの言うことは守ります。だから、ぜったいに弟を返してください」
怒りが、膨らんでいく。
けれど、犯人はそんな椿姫をあざ笑うかのように言った。
魔王,「返さなかったら、どうする?」
椿姫,「許さない!」
飛び出た声の荒々しさに、自分でも驚いた。
嫌な間があった。
とたんに恐怖が襲ってきた。犯人を怒らせてしまったかもしれない。下手に刺激して、広明が危ない目にあうようなことがあったら、どう責任をとればいいのだろう。
犯人は、静かに言った。
魔王,「決めた……」
椿姫,「え?」
魔王,「私が、お前を人間にしてやる」
言葉の意味がわからず、問い返そうとしたとき、通話が切れた。
――人間にしてやる?
何か、哲学的な意味でもあるのだろうか。そういう迂遠な表現は苦手だった。そもそも、幼児を誘拐するような凶悪犯の言うことが、理解できるわけもなかった。
気を取り直して、駅に向かった。
;背景繁華街2
声をかけられたのは、信号待ちをしているときだった。
ハル,「椿姫、そのまま聞け」
ハルが、いつの間にか椿姫の隣にいた。正面を向いたまま話しかけてくる。
ハル,「お前は、犯人の指示をメモにとっているな?」
椿姫,「う、うん、日記に」
ハル,「じゃあ、そのページだけ破って、歩きながらそれとなく捨ててくれ」
椿姫,「わかったよ……」
信号が青になった。人々は一斉に歩き出した。横断歩道を渡りきったところで、ちらりと後ろを振り返ったが、ハルの姿は、もうなかった。
椿姫は、こんなときでも、街中にゴミを捨てるのは抵抗感があった。ただ、すぐにハルが拾ってくれると思うと、いくらか気が楽だった。
;黒画面
;アドベンチャー形式
二時間と十分が過ぎた。
あの公園から桜扇町まで、早ければ二時間で着くだろう。
それ以上かかれば、また警察の関与が考えられる。
おれはまだセントラル街にいた。
準備を整えたおれは、車の後部座席から、窓越しに景色を眺めていた。
冬の寒さをものともせず、街はいよいよ賑わってきた。
;SE着信マナーモード
電話の向こうから、慌てた声が届いた。
椿姫,「もしもしっ!」
魔王,「ついたか?」
椿姫,「はい!どこに行けばいいんですか?」
魔王,「ロッカーの鍵は、なくしてないだろうな?」
椿姫,「ちゃんと持ってます。どうすればいいんですか?」
おれは、当初から決めてあった通りに告げた。
魔王,「戻って来い」
椿姫,「え?」
椿姫はうろたえるが、おれは続ける。
魔王,「戻って、ロッカーからアタッシュケースを取り出せ」
椿姫,「ど、どうしてですか?」
魔王,「理由を説明する必要はない」
椿姫,「だって、なんのために、こんな遠くまで……」
……それは、もちろん、身代金をいただくためだ。
椿姫,「あの、ひょっとして、まだ警察のことを疑っているんですか?」
魔王,「……どうかな」
椿姫,「だったら、こんなことは、無駄です。本当に警察には連絡してないんですから」
声には、さっさと身代金を渡したいという気持ちがありありと出ていた。
魔王,「警察は、からんでいないのか?」
椿姫,「はい、絶対です!」
富万別市から桜扇町まで、県をまたがせたのには理由がある。
警察の管轄が異なるからだ。
椿姫の背後に警察がいた場合、この誘拐事件の捜査が、他県に移る。
ここで、また人員の配置が混乱するのだ。
これだけ振り回せば、警察の追跡はかなり後手に回っているはずだ。
もちろん、両県警が相互協力のために、前もって連絡を入れておいた可能性はある。
しかし、ヤクザほどではないにしろ、基本的に警察は縄張り意識の強い組織なのだ。
富万別市と桜扇町の刑事が、犯人を挙げるために、全力で協力し合うことはないと、おれは判断している。
……しかし、東京都に足を運ばせなくてよかったな。
当初の計画では、椿姫を東京に向かわせる予定だった。
この県と警視庁が、例外的に良好な関係にあるとは、つい先日まで知らなかった……。
危ないところだった。
魔王,「よし、信じてやろう」
椿姫の行動は迅速だった。
少なくとも、椿姫と警察が綿密な連絡を取り合っているということはなさそうだった。
魔王,「次だ。次こそ、身代金を受け取りに行こう」
おれは、ようやく、勝負してもいいと思えるほどに、警察の関与を否定しつつあった。
椿姫,「えっと、ケースをロッカーから出したあと、どこに持っていけばいいんですか?」
魔王,「地下鉄に乗って、南区の住宅街に来い」
椿姫,「はい」
魔王,「いまから言う住所と番地に向かえ」
番地を告げると、了解の返事が返ってきた。
魔王,「そこに、白いセダンが停めてある。車の鍵は開いているから、お前は身代金を持ったまま後部座席に乗り込むんだ」
椿姫,「それで、どうするんですか?」
魔王,「そのあとは、私を待てばいい」
椿姫,「え……?」
魔王,「不安か?狭い車内で、私と二人きりになるのは?」
おれは薄く笑う。
椿姫,「な、なにを考えているんですか?」
魔王,「ドライブさ……」
椿姫,「……っ」
愉しみだな……。
通話を切り、車の発進を命じた。
;背景セントラル街
;ノベル形式
また二時間ほどかけて、セントラル街まで戻ってきた。冬場は日が落ちるのが早い。南区に着くころには、夕方になっているだろう。
ハル,「おい、椿姫」
ハルだ。不意に、背後から声をかけられた。ハルは唐突に言った。
ハル,「お前が、桜扇町に行っている間、私はケースの入ったロッカーをずっと見張っていた。ロッカーをあけようとした不審な人物はいなかった」
椿姫,「そうなんだ……」
桜扇町まで着いてきてくれたわけではなかったのか。
ハル,「椿姫を追うか、ロッカーを見張るか……迷ったが、後者を選択した。なぜなら、誘拐犯が鍵を手に入れたとしても、身代金が欲しければ、必ずロッカーを開けなければならないからだ」
ハルの説明は、椿姫の不安をふっしょくさせるに十分だった。
ハル,「もう少し人手があれば、よかった……」
ハルが寂しそうに言った。それだけ言って、また人ごみに姿を消した。
椿姫は胸を痛めた。ひょっとしたら、ハルには頼れる友人などいないのかもしれない……。
ふと、ぼやいた。
椿姫,「浅井くん……」
京介がいてくれたら、どれだけ心強いだろうか。
けれど、椿姫は弱音を吐きかけた心に鞭を打った。ないものねだりをしても、弟は返ってこない。ケースを握る手に力をこめる。南区に向けて、足を向けた。
なぜ、京介の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。
;背景南区住宅街夕方
椿姫はあまり訪れたことがなかったが、南区は全体的に閑静な住宅街だ。西日が二階建ての新築の家や、屋敷を囲う鉄柵を朱に染めている。
椿姫は、番地を確認しながら、目的の場所を探した。
椿姫,「あった……」
車を発見した。白い普通車だった。犯人のいうセダンという車がどういうものか椿姫は知らなかったが、指定された住所に、白い車が一台だけ停めてある。
――あれの後部座席に乗って……。
動悸が激しくなってきた。犯人といっしょにドライブをするなんて思いもしなかった。自分も誘拐されてしまうのかもしれない。ただ、それなら広明は返して欲しいと思った。弟のためならいくらでも身代わりになるつもりだった。
車に近づいた。恐る恐る様子をうかがう。窓ガラスの向こうを覗く。車内に人影はなかった。
意を決して、後部座席のドアに手をかけた。
;黒画面
滑り込むように後部座席に乗り込んだ。身代金の入ったケースを膝の上にのせると、ようやく一息ついた。
静かだった。車内はまるで音がしない。手に汗がうっすらとにじむ。心臓の音だけが、やたらとうるさく聞こえた。
じっと待った。
不安に身がよじれる思いだった。目をつぶると、広明の顔が浮かんでくる。いま、どこにいるのだろうか。食事はちゃんと取らせてもらっているだろうか。早く、会いたかった。
;SE携帯
携帯の音に弾かれるように目を開いた。急いでポケットから電話を取り出す。
魔王,「車のなかの居心地はどうだ?」
犯人だった。
魔王,「せっかくのドライブなのに、安い車で申し訳ないな」
言っている意味がわからなかった。ドライブするのに安い車も高い車もあるのだろうか。男性は見栄のようなものを気にすることがあると、なにかの本で読んだが、椿姫にはさっぱり理解できなかった。
椿姫,「……あの、まだですか?」
魔王,「いま行く……」
そのときだった。
魔王,「む……?」
犯人が不意に息を潜めた。
魔王,「どういうことだ?」
声質が変わった。それまで余裕そうにしていた犯人のそれではない。
椿姫,「な、なにかあったんですか?」
問い返すが、返事はなかった。
しばしの沈黙を置いて、通話が切れた。
椿姫,「え……?」
唖然とした椿姫を、さらなる不測の事態が襲った。
;SE窓ガラスをたたくような音
自動車の窓がノックされた。音につられるようにして見ると、そこには見慣れぬ顔があった。こちらを無表情に覗きこんでいる。
制帽と制服。戦慄した。口を開いたまま固まった。犯人が最も恐れている存在が、目の前にいる。
――警察!
パニックにおちいった椿姫は、突如現れた警官にどう対応していいのかまったくわからなかった。
膝が、がくがくと震える。警官は車を降りるよう求めている。めまいがして、みぞおちが軋んだ。椿姫は意思を失ったロボットのように車から降りた。ドアを開けるとき、ほとんど無意識にアタッシュケースを手放し、座席の足元においた。
わけのわからない質問を繰り返された。
この車は、あなたのものなのか――?
極度の緊張状態にある椿姫は、まるで他人事のように警官の話を聞いていた。
ここでなにをしているのか――?
椿姫は、あ、え、などと意味をなさない声を発しながら、ついには首を振った。なんでもないです、そう言ったと思う。すると形式的なことですから答えてくださいと詰め寄ってきた。盗難車の可能性もある、などと言っている。
もう、完全に上の空だった。警察に話しかけられたことなんてない。恐怖に、尿意すら覚えた。警察といっしょにいるところを犯人に見られていたら、どう弁解すればいいのだろう。
警官は二人いた。自転車も二台。ぼんやりと景色を追うだけだった。
あのケースはなんですか――?
警官が背後の車を指した。
中を見てもよろしいですか――?
聞かれて、少しだけ目が覚めた。使命感に似たものが芽生えた。
椿姫,「だ、めです……」
か細い声が出た。顔はうつむいたが、はっきりと拒絶の意思を示した。
目の前の警官は、いつの間にか、椿姫の前にケースをかかげていた。
椿姫,「だめです」
身代金の入ったケース。弟の命がかかっている。引き渡したら、誘拐事件のことが警察に知れてしまう。想像しただけで、広明と二度と会えないと思えるほどの恐怖が襲ってきた。
それから先は、自分でも、自分の行動がわからなかった。
;黒画面
奇声を発した。腕を伸ばし、つかんだ。アタッシュケースの固い感触がある。警官がうめいた。背を向け、走っていた。制止する声が上がる。怯えた。足だけが別の生き物のように駆けた。
闇雲に逃げると息が上がり、頭がくらくらしてきた。まるで犯罪者になったような気分だった。酸欠と罪の意識で涙が出てきた。
だが、泣いている暇はなかった。
;背景繁華街1夕方
椿姫,「あの、あの、すみません!」
セントラル街の雑踏にまぎれてなお、椿姫は人心地がついた感じがしなかった。
椿姫,「すみません、でも逃げましたから。身代金、ありますから!」
必死で許しを請う。犯人は、それまで以上に冷酷な声で言った。
魔王,「なぜ謝る?あれは、ハプニングだったのだろう?」
椿姫,「はい、知りません。警察の人がいるなんて、知りませんでした」
魔王,「知らなかったのなら、なぜ謝る必要があるんだ?警察と示し合わせていたのでなければ、頭を下げる理由がわからない」
椿姫,「それは、えっと……ただ、なんとなく……」
電話越しの犯人は警戒の色を弱めなかった。
魔王,「裏切ったな?」
椿姫,「ち、違います!」
魔王,「私をあそこで捕まえる算段だったのだろう?」
椿姫,「本当です、信じてください!」
魔王,「もういい、取引は中止だ」
椿姫,「そんな!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃があった。このままでは広明を失ってしまう……。
椿姫,「なんでもします!なんでもしますから弟には手を出さないで!」
魔王,「…………」
椿姫,「お願いです、お願い……!」
最後のほうは声にならなかった。目に涙が溜まっていく。
魔王,「そんなに弟が大事か?」
椿姫,「……もちろんです」
魔王,「なぜだ?」
椿姫,「なぜって、家族だから……」
言うと、相手は低く笑った。
魔王,「そうか、家族だからか。そうだな、家族は大切にしなくてはな」
せせら笑うように続けた。
魔王,「椿姫は、さぞ大切に育てられて、清く正しく成長したんだろうな」
椿姫,「えっと、どういう意味ですか?」
魔王,「言葉通りの意味だ。お前からにじみ出る善良さが、まぶしくて仕方がない」
椿姫はなお、理解できなかった。よく人がいいとは言われる。京介にも茶化される。けれど、他の人も皆、いい人ではないか……。
魔王,「善良さというものは、たいていの場合、偽装した悪徳にすぎないと私は思っているが、どうやら椿姫は一味違うようだな」
もうたくさんだった。
椿姫,「あの……」
魔王,「いいだろう。取引を続ける」
椿姫,「あ、ありがとうございます!」
思わず頭を下げていた。理不尽な状況にあって、犯人に感謝していた。
魔王,「もう少し、慎重にやらせてもらうとしよう。今後は、たとえ警察がからんでいても、身代金を受け取れる手順を踏ませてもらう」
椿姫は、犯人もやはり人の子だと思った。誠心誠意お願いすれば、話が通じた。もしかしたら、広明を誘拐したのにも深い理由があるのかもしれない。
椿姫は初めて、犯人の心情に興味を持った。そして、なにより従順になっている自分に気づいていなかった。
;場転
;アドベンチャー形式
;背景セントラル街1夜
日が落ちた。
初冬の風が寒さを運んでくる。
おれはガードレールに腰掛けながら、椿姫との通話を続けていた。
あれから二度、西区の港と、隣の市まで、椿姫を走り回らせた。
移動手段も、徒歩、電車、タクシーと、様々な動きを見せた。
椿姫に言ったとおり、慎重にことを進める。
南区の住宅街で、椿姫は大きな騒ぎを起こした。
アタッシュケースを持った少女の姿は目立つ。
そんな不審者を、どこかの人のいい市民が通報しないとも限らない。
そして、警察が、不審者と、誘拐事件とを結びつける可能性がないとは言いきれない。
しかし、本日中に、警察が不審者を椿姫と断定し、誘拐事件の被害者であることを調べ上げるとは、とても考えにくい。
身代金奪取は今日中に、行う。
証拠も残していない。
あの白いセダンにしても、もともとが盗難車だ。
今夜中に県外のスクラップ工場に運ぶ手はずも整えている。
あの車から足がつく心配をするならば、たとえばいますぐに関東域に大震災が起こる心配をしたほうがいい。
魔王,「…………」
ほとんど全ての準備が整った。
あとは、宇佐美だ。
どうやら椿姫と行動をともにしているようで、それとなく距離を置いているようだ。
椿姫を監視しながら、宇佐美の姿も探しているが、これが意外なほどに見つからない。
あのおかしな髪型が、尾行に適しているとはまったく思えないが、それこそが盲点なのかもしれない。
あれだけの長髪ならば、いくらでも髪型を変えることができる。
帽子をかぶり、メガネでもかけられれば、ぱっと見にはわからないほど変貌するだろう。
しかし、最後には必ずおれが身代金を奪う。
いまはヤツらをひっかきまわして、疲弊させることだ。
魔王,「……っ」
また、頭痛を覚えたが、今度ばかりはこらえることにした。
いま頭痛に身を任せるわけにはいかない。
体内に燃え盛る、鬱屈した感情に闘志を募らせる。
……邪魔をするな、浅井、宇佐美……。
;ノベル形式
;ハル視点
――さあ出て来い"魔王"。
もう時刻は夜の八時を回っている。朝早くから、市内を駆けまわされて、ついには東区の公園までたどりついた。ハルは、茂みに身を潜めていた。物音一つ立てない。日中は市民の憩いの場となっているであろう公園も、いまでは不気味なまでに静まり返っている。
椿姫の体力はだいじょうぶなのだろうか。公園に来るまでに、椿姫はまたコインロッカーにケースを入れていた。鍵だけを持って、園内のゴミ箱のそばにやってきた。
ハルは、今度はロッカーを無視して、椿姫を追うことにした。身代金を奪うには駅構内のロッカーに近づく必要があるが、ロッカーを開けるには、鍵が必要なのだ。
いちおうロッカーの近くにも人を残していた。セントラル街で偶然に、京介に出会ったのだ。事情を説明すると、京介は喜んで協力してくれた。父親の仕事を手伝っているというが、意外とフリーな時間が多いようだった。
;SE着信
椿姫の携帯が鳴った。ハルは耳を澄ました。顔を出すのはまずい。音だけで状況を判断しなければならない。
椿姫,「はい……わかりました……」
椿姫の声にはさすがに疲弊の色がうかがえた。極度の緊張が続いたのだから無理もない。警官に囲まれたときなど、パニックにおちいっていた。
椿姫,「鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね?」
考えてのことかどうかはわからないが、椿姫は、犯人の指示を復唱してくれていた。
椿姫,「……わかりました。すぐ、行きます」
言い切って、携帯を切る音がした。足音が聞こえる。どうやら椿姫は走り去っていったようだ。
取り残されたハルは、身を小さくした。待っていれば、"魔王"が鍵を回収しに現れるはずだ……。
――いや、違う。
自分も疲れているのか。"魔王"がここに現れるはずがない。
なぜなら椿姫は、まだ鍵を手に持っているからだ。
じっと耳を澄ませていたが、椿姫がゴミ箱に何かを捨てるような物音は拾えなかった。
椿姫は、鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね、と言った。しかし、それはたまたま口にしたのではないか。なぜなら、もし、椿姫が気を利かせて"魔王"の指示を復唱してくれたのであれば、その後も、逐一状況を伝えるような発言や行動があってもいいものだからだ。鍵をゴミ箱に捨てるときにわざと大きな音を立てたり、捨てたことを声に出してくれてもいい。なにより、その後の椿姫の『すぐ行きます』という発言は、気を利かせて復唱してくれているにしては、どこに向かうのかわからないあいまいさがある。
"魔王"と椿姫の会話はおそらくこんな感じだったのだろう。
『鍵をゴミ箱に捨てればいいんですね?』
『いや、待て。やはり、セントラル街に向かえ』
『……わかりました。すぐ、行きます』
そもそも、椿姫は南区で警官に職務質問を受けて以来、"魔王"にえらく怯えていた。気も焦っていることだろう。そんな状況で、ハルのことを気にかけている余裕はないはずだ。
思わぬ足止めを食らうところだった。単なる聞き違いから、勝手に勝負をリタイアしてしまうところだった。
ハル,「それにしても、いつになったら現れるんだ……」
言いつつも、ハルは、決着のときが近づいているような切迫さをひしひしと感じていた。
;椿姫視点
もうどれくらい駆け回っていることだろうか。何度、引渡し場所を変えられたかわからない。
極度の緊張が続いた椿姫は疲れ果て、会話をするにも息がつまりそうになっていた。
魔王,「がんばるな、椿姫」
犯人が電話越しに言った。
魔王,「もう九時になるか……そろそろ弟たちを寝かしつける時間じゃないか?」
椿姫,「……次は、どこに?」
椿姫は息を切らせながら聞いた。
椿姫,「お金は、必ず渡しますから、弟を返してください!」
魔王,「そればかりだな」
椿姫,「広明が帰ってくれば、それでいいんです!」
魔王,「だが、本当にいいのか?」
椿姫,「え?」
魔王,「身代金を渡したりして、いいのか?」
いまさら、なにを言うのか。椿姫は、すでに、まともに頭を働かせる気力が薄れていた。
魔王,「その金は家族の全財産ではないのか?」
椿姫,「はい……」
魔王,「金を失えば、弟は返ってくるかもしれんが、お前たちは路頭に迷うことになるのではないか?それでもいいのか?」
椿姫,「弟の命にはかえられませんから」
犯人は感心したようなため息をついた。
魔王,「命は金にかえられないというが、果たして本当にそうなのかな?」
椿姫,「当たり前です。お金より大事に決まっているじゃないですか」
魔王,「そういった決まり文句こそ、貧乏を経験したことのないなによりの証拠だと思うがな」
椿姫はたしかに、お金がなくて困っている両親の姿を見たことがない。それほど裕福でもないと思うが、決して貧乏と言い切れるほどの家庭でもなかった。
犯人はたびたび、椿姫の理解できないことを問いかけてくる。椿姫を困惑させるようなことを言って、それが身代金の引渡しにどう関係するのだろうか。
椿姫,「あの、早く……早く、終わらせませんか?」
魔王,「もう限界か?」
椿姫,「いえ、ただいつまで続くのかと……」
魔王,「弟の命がかかっているのに、弱音を吐くのか?」
その瞬間、椿姫の心に火がついた。
椿姫,「違います!弟に早く会いたいだけです!」
赦せなかった。また、赦せないと思えるほど、犯人を憎んでいる自分に戸惑いもした。けれど、言葉は溢れ、止まらなかった。
椿姫,「赦さないから!広明になにかしたら、赦さないから!」
もう、わけがわからなかった。さきほどまで、犯人の心情を慮っていた自分はどこにいったのか。短気を起こして、犯人を怒らせてしまったらどうするのか。
――広明に、会いたい……。
ただ、それだけを考えた。
魔王,「ころあいか……」
犯人がふと言った。
魔王,「次が最後の指示だ。いますぐ駅のロッカーからケースを回収しろ。そして、九時半までにセントラル街のハンバーガーショップの前までこい」
メモを取る余裕はなかった。
椿姫,「く、九時半ですか?」
いまから、駅に行って、また街まで戻ってくるにはぎりぎりの時間だった。
魔王,「急げばなんとか間に合う。店の前の歩道に、ケースを置いてすぐに走り去れ」
椿姫,「わかりました……」
やるしかなかった。
魔王,「以上だ。遅れたら弟の命はない。今度は絶対だ。身代金を確認したら、おって連絡する」
通話が切れた。
椿姫はしばらくの間、携帯を耳に添えたままだった。
まさか、身代金の引渡しが、こんなに体力を使うものだなんて知らなかった。
犯人は、これで最後だと言った。いままでも何度か同じ文句を言われその度に騙されたが、今回は違うような気がした。
帰りを待つ家族のことを思った。父も母も心配していることだろう。
――もうすぐ、帰るからね。
;背景セントラル街
;ハル視点
ハルは椿姫を追うのに必死だった。椿姫は、駆け足でセントラル街を抜けていった。勢いよく駅に入ってケースをロッカーから取り出した。椿姫の動きは、疲労している割にかなり素早かった。まるで、最後の気力をふりしぼっているかのようだった。駅構内が混雑しているのもあって、ロッカーを見張ってもらっているはずの京介の姿を探している余裕はなかった。
――まずい。
ハルは人でごった返したストリートを見渡した。
まるで視界がきかなかった。路上に若者が溢れ、まるで道をふさぐ土砂のようだった。何度人と肩をぶつけただろうか。椿姫のコートの背中も、ときおり人にまみれて見失ってしまうほどだった。
ハルも普段、アルバイトの帰りにこの道を通るのだが、これほどまでの大混雑は初めてだった。
いったいなにが起こっているのか、すぐに見当がついた。
;背景モノクロ教室昼
;アドベンチャー形式
花音,「みんなー、わたし、テレビ出るよー!」
;ノベル形式
;ハル視点
;背景セントラル街
生放送のテレビ番組。花音を一目見ようと、あるいは少しでもテレビに映ろうとしている人々が集まってきているのだ。道路わきにテレビ中継車と思われる車や、機材を運ぶ人もいた。
――"魔王"はこのときを待っていたのではないか。
息がつまりそうなほど大混雑したセントラル街は、身代金を奪って逃走するには、絶好の機会といえる。
ハル,「椿姫っ!」
ハルは、一度椿姫を引き止めて、身代金をどこに運んでいるのか聞き出したかった。けれど、叫び声は、当然のように喧騒にかき消された。
椿姫には、もう余裕はなさそうだった。"魔王"から急かされているに違いない。しかし、椿姫をいままで以上に急がせているということは、"魔王"にとっても今回が勝負どころだということだ。
――やるなら、いまだ……!
ハルは、もうぜんと椿姫に迫った。
;椿姫視点
椿姫は肩で息をしながら、ようやく目的のハンバーガーショップまでたどりついた。まだ九時半になっていないことを祈るばかりだった。
人ごみをかきわけるように進んだ。無理に走って人にぶつかって、怒鳴られた。大勢の人に迷惑をかけてしまった。謝っている暇も余裕もなかった。
焦っていた。アタッシュケースを落として、転倒してしまったことすらあった。命より大事なケース。しっかりと握り直して、駆け抜けた。
椿姫,「はあっ、はあっ……」
立ち止まった。
何気なくあたりを見渡す。ここに置いていいのだろうか。関係ない人に拾われたりしないだろうか。犯人は、ケースを置いてすぐに立ち去れと言った……。
そんなとき、底抜けに明るい声が、大音量で雑踏を貫いた。
花音,「全国のみなさん、九時半ですよー!」
椿姫は唖然として、耳を疑った。
――どうして花音ちゃんが……?
わけのわからないことばかりだった。ただ、はっきりと聞いた。
いま、九時半なのだ。
ケースを置いて立ち去らなければ、広明の命はない――。
;アドベンチャー形式
;カットインのように一瞬だけ、ev_maou_03c
……いまだ。
椿姫がアタッシュケースを路面に置いた瞬間だった。
おれは人ごみを抜け、足早にケースに近づいた。
ケースをしっかりとつかむ。
ケースが持ち主の手を放れたのは、時間にして五秒もなかっただろう。
人々は、皆、颯爽と現れた人気フィギュアスケート選手『浅井花音』に目を奪われている。
これだけの大混雑だ。
生番組の放映に合わせた身代金奪取。
これだけ引っ掻き回したのだ。
たとえ背後に警察がいても、逃げおおせる自信はある。
なぜならおれは、この町を知りつくしているからだ。
逃走ルートはいくつも考えられる。
宇佐美ごとき一人の少女に、なにができるというのか……。
ハル,「ケースを持った男を捕まえてください!」
背後から声が上がった。
宇佐美だ。
どうやらきちんと椿姫のあとをつけてきたようだな。
一瞬だけでも姿を見られたか?
しかし、宇佐美よ……このオフィス街に近い雑踏のなかに、どれだけケースを持った人間がいると思うんだ?
おれの目論見どおり、衆目がおれに集まっている様子はない。
ハル,「ひったくり!ひったくりです!」
……騒いだところで無駄だ。
おれは背筋をただし、落ち着いて歩く。
ひったくりなら、なおさら急いで逃げるようなものだ。
誰も、おれが誘拐犯などとは思うまい。
魔王,「…………」
いや、妙だ……。
悪寒を覚えたとき、スピーカーから声がした。
花音,「あれあれー?なんだか騒ぎが起こってますよー?」
ち……。
生中継のテレビが厄介だ。
カメラを向けられたら、おれの姿が映像に映らないとも限らない。
こんな『お遊び』でおれの姿が映像に残っては、今後の計画に支障をきたすかもしれない。
急いで逃げ出したいが、ここで走り出せばひったくり犯だと名乗り出ているようなものだ。
ハル,「……っ!」
肩越しに背後を覗き見た。
宇佐美の長い髪が、人を隔ててかいまみえた。
;ノベル形式
;ハル視点
さきほどちらりと、ケースを持った男の後姿が見えた。あれが、"魔王"だ。足をゆるめず、人の波をかきわける。
ハル,「……っ!?」
もう一度、"魔王"の後姿が見えたとき、正面から誰かとぶつかった。小さく謝って、脇をすり抜けた。
焦慮に急かされながら、"魔王"を探す。
――いた!
人垣の向こうに、ケースだけが見えた。
人の群れに飛び込むようにして、体をねじ込ませた。
距離は縮まらない。もみくちゃにされながら、腕を伸ばす。あと少しだ。あと少しで、"魔王"に手が届く……!
;背景セントラル街
;アドベンチャー形式
もっとも混雑した場所を抜けた。
宇佐美を、うまく撒けただろうか。
後ろを振り返るのは危険だ。
顔を見られる恐れがある。
ひょっとしたら、宇佐美はもうすぐ後ろにまで迫ってきているのかもしれない。
タクシーを使うか?
しかし、この混雑では車はすぐに移動できないだろう。
いや、待て……タクシーか……。
おれは歩きながら、道路脇に連なって停車しているタクシーのミラーを覗き込んだ。
魔王,「……っ」
幸運というべきだろう、宇佐美の制服と長い髪が後方にはっきりと映った。
何かを手に提げているように見える。
距離にして十メートルもない。
宇佐美は、しっかりとおれの後姿を捉えているだろう。
……あまり、目立ちたくはないが、やむをえないか。
おれは、地面を蹴った。
;ノベル形式
;ハル視点
"魔王"が突如走り出した。後ろも振り返らずに、どうしてハルの接近に気づけたのだろうか。次の瞬間、ハルは、路上に無秩序に連なるタクシーの群れに悔しさを覚えた。
ハルは"魔王"の後姿を見た。背の高い男性だった。前回、対峙したとき、"魔王"と名乗った人物とかなり輪郭が似ている。足も長いようで、ぐんぐん引き離されていく。
しかし、追跡は楽になった。この雑踏のなかで走るという行為は、かなりの注目を集めるからだ。道を退ける人々の声や、迷惑そうな視線がいやでも"魔王"に集中する。
所在なく歩いている通行人をかきわけながら、"魔王"がコーヒーショップに入るのが確認できた。
袋の鼠だ、と思った。しかし、店の前にやってきたとき、自らの浅はかさを呪った。規模の大きい、大手チェーンのコーヒーショップだったのだ。立地面積も広く、大通りの角に位置していた。当然、出入り口は二つ以上あるのだろう。一瞬でも、足を緩めた時間を悔やんだ。
わざわざそんな店に入るあたり、"魔王"はやはり、この町を知り尽くしているのかもしれない。
追いきれるか。自問自答した。けれど、なんとしても捕まえたい。椿姫のためにも、そして、自分自身のためにも……。
;繁華街2夜
セントラル街を抜けると、人通りも少なくなってきた。
何度か背後を振り返った。
夜の闇でわからないが、通行人の非難するような声が後方からあがっている。
宇佐美は、まだまだ追いかけてきているようだ。
執念深いな、まったく……。
完全に撒いてやるとしよう。
おれは歩道のガードレールを飛び越え、車道に出た。
渋滞気味で、のろのろと走る車の前を横切り、一気に反対側の歩道に渡りきる。
けたたましいクラクションが鳴った。
……これで、宇佐美もおれを追いやすいはずだ。
足を休めず先を急ぎ、細かい路地に入った。
薄暗い路地。
光の差さない場所に定住する彼らの姿を発見して、おれは勝利を確信した。
鬼ごっこは、もう終わりだ……。
おれはハンカチを取り出し、指紋を残さぬよう自らの指を包んで――――。
;ノベル形式
;ハル視点
ハル,「すみません、どいてください!」
何度、同じ事を言ったことだろうか。その度に、非難の視線や罵声を浴びせられた。手に持っているものも、かなりかさばる。ハルはきょろきょろとあたりを見回しながら、"魔王"の背中を目で追った。
セントラル街から少しはずれても、まだまだ周りは明るかった。車道を進むおびただしい数の車のライトがとても頼もしい。
そんなとき、車道からクラクションが鳴り響いた。
見れば、"魔王"らしき男が、悠々と車道を横断していた。ライトの逆光で顔が見えないのが残念でならなかった。
"魔王"はそのまま、ビルの間の細かい路地に入っていった。ハルもすぐさま後を追った。
人が二人並んで歩けないような、狭くて視界の悪い路地だった。
――誘い込まれた?
嫌な気配がしたが気にしている余裕はなかった。
そして、暗がりに飛び込んだとき、なにかを踏んづけた。バランスを崩し、前につんのめるような格好で、地面に倒れてしまった。
ハル,「……っ!?」
肉感があった。ハルも驚いたが、踏まれた何かも悲鳴を上げた。目を凝らすと、それが人間の足であることがわかった。
ハル,「す、すみません。だいじょうぶですか!?」
無意識にしゃがみこんだ。独特の異臭が鼻を突く。ホームレスと思しき男たちは数人いた。白く濁った目で、ハルをにらみつけるが、すぐに興味を失ったようだ。
彼らは、何かに熱中しているようだった。地面に膝をついて必死に手を動かしている。薄暗い路面をまさぐるように、何かをかき集めていた。
――お金……。
指の間から、数枚の紙幣が見えた。
やられた、と内心でほぞを噛みながら、路地を抜けた先を見据えた。
それまでしっかりと目に焼きつけていた"魔王"の後姿は、もう、なかった。
ハル,「……椿姫」
つぶやくと、いっそう無力感を味わった。
一日に渡った身代金を巡るやりとりも、ついに終わりを迎える。
;京介のアイキャッチ
;アドベンチャー形式
;黒画面
……。
…………。
;背景椿姫の家居間夜
京介,「なにはともあれ、お疲れ様……」
おれは、何食わぬ顔で言った。
居間には、椿姫と椿姫の親父さんだけがいる。
京介,「悪いな、なんもしてやれないで……」
椿姫,「ううん、いいの、ありがとう」
京介,「なんにせよ、椿姫は犯人の指示通りに動いたわけだろう?」
椿姫,「うん、たぶん……途中でアクシデントもあったけど」
京介,「だったら、犯人もちゃんと広明くんを返してくれるさ」
椿姫,「そうだと、いいけど……」
一息ついて、おれは額の汗をぬぐった。
今日の仕事は忙しかった。
まさか、市内をあっちこっち駆け回ることになるなんてな。
権三も、本当におれをこき使ってくれるな。
パパ,「すまないね、浅井くん。こんな時間まで」
京介,「いえいえ。乗りかかった船です。今後もお手伝いさせてもらいますよ」
今後、とは当然、立ち退きの手続きだ。
身代金が奪われた以上、椿姫家に五千万の借金は返せない。
返済期限が来たら、さっそく、担保の土地をさし押さえさせてもらおうか……。
椿姫,「……あとは、ハルちゃんか……」
京介,「なんだって?」
椿姫,「ハルちゃんが、犯人を捕まえてくれているかもしれないの」
京介,「そうか……宇佐美がな……」
歯がゆいな、まったく……。
宇佐美が犯人を捕まえるだって……?
京介,「椿姫は、宇佐美に犯人を捕まえるよう、頼んだのか?」
椿姫,「きっちりお願いしたわけじゃないけど、ハルちゃんの好きにしていいって言ったの」
京介,「……そうか」
馬鹿か、こいつは……。
宇佐美を頼るくらいなら、最初から警察に連絡したほうが何倍もましだろう。
椿姫,「ハルちゃん、はりきってたし、きっとよい結果をもたらしてくれると思うんだ」
澄んだ目をして言った。
……どうやら、おれのいないところで、お友達ごっこでもしていたらしいな。
京介,「まあ、犯人が捕まれば、万々歳だしなー」
一抹の不安はあった。
まともに考えて、幼児を誘拐し、身代金を株券で要求してくるような犯罪者に、宇佐美のような少女が対抗できるはずがない。
ただ、気にしすぎかもしれないが、どうも宇佐美には底の知れないようなところがある。
おれとしては、犯人にきっちり身代金を奪ってもらわねば困るのだ。
椿姫,「……あ、噂をすれば、来たんじゃない?」
玄関で、物音がした。
ハル,「ちわす……」
ぬっと、お化けのような顔を覗かせた。
京介,「よう、宇佐美、汗だくじゃないか?」
ハル,「ええ、まあ、自分、基本走り込みが足らないんで……」
わけのわからないことを言いながら、玄関のドアにもたれかかった。
ハル,「浅井さん、ありがとうございました」
京介,「……ん?」
ハル,「ロッカーを見張っててもらいましたよね?」
京介,「あ、ああ……街で偶然会ったよな?そうだ、ロッカーに身代金が入ってるから、見張っててくれって……」
ハル,「助かりましたよ、ホント」
京介,「あのロッカーに近づいた怪しいやつは、いなかったぞ」
ハル,「そすか。お忙しいのに、ホント恐縮です」
時間にして一時間くらいだったかな……。
おれは宇佐美に頼まれて、駅のロッカー付近にいた。
ちょうど次の約束まで時間が空いていたから、頼まれてやることにしたんだったな……。
記憶を整理すると、気分が落ち着いた。
京介,「それで、宇佐美……」
浮かない顔をしていた。
京介,「どうだったんだ?」
まさか犯人を捕まえたとも言わないだろうが……。
椿姫,「ハルちゃん」
椿姫も、期待のまなざしを向けていた。
おれもいつの間にか手のひらに汗を感じていた。
ハル,「…………」
直後、宇佐美は、椿姫に向かって頭を下げた。
ハル,「ごめん、犯人には逃げられた」
宇佐美の表情は、苦しそうに歪んでいた。
……こんな顔もするのか。
椿姫,「気にしないで。ハルちゃんがそばにいてくれてるって思うだけで、あ、いや……あんまりそんな余裕なかったけど、とにかく心強かったよ」
ハル,「ごめん……」
おれはつとめて明るい声を出した。
京介,「まあまあ、そう落ち込むなって」
ハル,「…………」
京介,「犯人の言うとおりに動いたんだ。警察にも連絡していない。身代金に満足した犯人は、きっと広明くんを解放してくれるさ」
すると、宇佐美が鋭い声を出した。
ハル,「それはないです」
京介,「なに……?」
椿姫,「えっ?」
京介,「広明くんは返ってこないっていうのか?」
ハル,「はい」
きっぱりと言い放った。
京介,「なぜだ?たしかに、犯人が約束を守るという保証はないけど、どうしてそう決めつけることができるんだ?」
椿姫,「そうだよ、犯人は身代金を受け取ったんだから、あとは信じるしか……」
宇佐美はゆっくりと首をふった。
ハル,「犯人はまだ、身代金を手にしていない」
……なんだと?
椿姫,「……えと、どういうことかな?わたし、ちゃんと、指定どおり、ハンバーガーショップの前に、ケースを置いたよ?他の誰かが勝手に持ってっちゃったってこと?」
椿姫の問いに、宇佐美はまた首を横にふった。
ハル,「椿姫、今日の朝、家を出るときに、わたしは言ったよな?」
椿姫,「え?」
ハル,「最悪の場合、身代金だけは奪われないようにすると」
椿姫,「あ、うんうん。そうすれば、たとえ犯人に逃げられたとしてももう一度、交渉のチャンスはあるとか……」
宇佐美は、深くうなずいた。
ハル,「だから、そうさせてもらった」
椿姫,「ど、どうやって?」
ハル,「覚えがないか?」
椿姫,「なんのこと?」
そのとき、宇佐美がおもむろに腕を後ろに伸ばした。
半開きだった背後のドアを押し開くと、何かをつかんだようだ。
椿姫,「ケース!?」
驚きの声が上がった。
椿姫だけでなく、親父さんも含め、その場の全員が食い入るように宇佐美を見つめた。
椿姫から話を聞いていたおれには、宇佐美がなにをしたのか、推察することができた。
京介,「すりかえたのか?」
ハル,「さすが、浅井さんです。そうです。混雑したセントラル街で、わたしは、椿姫にぶつかっていったんです」
椿姫,「あ!」
椿姫には思い当たるふしがあるようだった。
椿姫,「そういえば、誰かにぶつかって、一度ケースを落として……あれは、ハルちゃんだったの?」
ハル,「そのときに、すりかえさせてもらった。わたしが用意していたケースの中身は空だ」
京介,「いつ、用意したんだ?」
ハル,「朝一番に、椿姫がケースを購入したあと、同じものを買わせてもらいました。六千円は痛かったですが、それはまあどうでもいいです」
……なんてヤツだ。
京介,「ということは、犯人は空のケースを持って、逃走したということになるな」
ハル,「はい、身代金の株券はまだ、このケースのなかにあります」
宇佐美はそれを抱えたまま、犯人を追っていったというわけか。
唐突に、椿姫の親父さんが口を開いた。
パパ,「それじゃあ、お金はまだ、あるんだね……?」
土地を手放すということに未練があるのだろう。
親父さんは、どこかうれしそうだった。
椿姫,「ハルちゃん……そう……」
椿姫も、感動したようなため息をついた。
おれも、椿姫とはまた別の意味でため息をついた。
京介,「そうか……なら、勝負は持ち越しってわけだな……」
ハル,「だと、いいんですが……」
余裕そうな顔をしているが、不安もあるようだった。
京介,「犯人が逆上しなければいいな……」
ハル,「はい。それが怖いです」
京介,「それが怖いですって……お前、広明くんの命がかかっているんだぞ?」
よけいなことをしやがって……!
椿姫,「あ、浅井くん、やめて。ハルちゃんはよかれと思って……」
パパ,「浅井くんの気持ちもありがたいけれど、あの株券も、家族の進退がかかった大切なものなんだ。それを守ってくれたのは素直に喜ばしいよ」
椿姫だけでなく、親父さんまで口をはさんできた。
京介,「……まあ、悪かった」
殊勝な態度を見せておくとするか。
京介,「宇佐美は、身代金を渡したが最後、人質は返ってこないと思った。そういうことだな?」
ハル,「はい。犯人――"魔王"は、恐ろしく慎重な人物です。もっといえば、身代金を渡そうが渡すまいが、人質を返すつもりはないのかもしれません」
京介,「なるほど。ようやくわかった。どうせ人質が返ってこないなら、せめて身代金だけでも渡さないと。そういうことだったんだな?」
皮肉っぽく言った。
京介,「合理的だな。宇佐美も恐ろしく合理的な女だ」
ハル,「…………」
宇佐美は押し黙った。
パパ,「宇佐美さん、警察を頼らなかった時点で、責任は全て僕が持つつもりだよ。だから、あんまり思い悩まないでね」
椿姫,「そうだよ。たとえ、警察の人がいても犯人は捕まえられなかったかもしれないんだから」
……まったく、見るに耐えない光景だ。
パパ,「じゃあ、とりあえず、株券を渡してもらおうか」
親父さんが宇佐美に言った。
宇佐美はわかりましたと返事をして、ケースに手をかけた。
――思いもよらなかった。
ハル,「どういうことだ……?」
目を見開いた。
宇佐美の顔面が一気に蒼白になっていく。
対照的に、おれの心は、どういうわけか、勝利宣言でもしたかのように沸いていった。
まるで、おれのなかにいる悪魔が、牙をむき出しにして嗤っているかのよう……。
ハル,「ない……」
呆然自失の宇佐美が、ぼそりと言った。
ハル,「ない……」
それは、敗北の表情だった。
ハル,「株券が……身代金が、消えている……」
;// 体験版終了
;翌日へ;背景 教室 昼
栄一,「ちょっと聞いてくれよ、京介ちゃんよぉ」
翌日、おれは学園に出ていた。
栄一,「オレ、今日聖誕祭なわけだよ」
京介,「聖誕祭だあ?」
栄一,「どうよ、びっくりしただろ?」
京介,「びっくりしねえけど、誕生日ってことか?」
栄一,「ほらだせよ、貢物」
京介,「昼飯のパンとかでいいか?」
栄一,「よかねえよ、ブランドモノの財布とかにしろよ」
京介,「おれはお前の客でもなんでもねえぞ」
あっち行けとばかりに手をふった。
栄一,「ねえ、宇佐美さん、なんかちょうだいよ」
おれの前の席の宇佐美にたかりだした。
ハル,「…………」
栄一,「宇佐美さん、ボク誕生日なんだよー?」
ハル,「…………」
宇佐美は、ずっと考え込んでいた。
栄一,「誕生日ったら誕生日なんだよ、宇佐美さんっ」
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、栄一に腕を差し向けた。
ハル,「おめでとうございます」
栄一,「ありがとう……って、なにこれ、福引券?」
ハル,「ええまあ、期限切れてますけど」
栄一,「ちょっとちょっと!」
ハル,「かわりに、肩たたき券として機能することにします」
栄一,「肩もんでくれるの?」
ハル,「はい、いつでも言ってください」
栄一,「やったー! じゃあ、いますぐもんでよ!」
ハル,「いますか?」
栄一,「いま、いま!」
ハル,「わかりました」
栄一,「(へっへっへ、一度この生意気な女をこき使ってみたかったんだよなー、せいぜいオレのために働いてくれやあ……!)」
宇佐美は栄一の背後に回った。
京介,「こうしてみると、栄一ってホントに背が低いなあ……」
などと言っていると、肩もみが始まった。
ハル,「んじゃ、いきますんで」
栄一,「うんうん……って、いでえ!」
ハル,「はい?」
栄一,「いだだ! ちょ、ちょっと手加減して!」
ハル,「はあ」
栄一,「ま、まだ、まだ痛いよ!」
ハル,「すみません、ちょっと考え事してまして」
栄一,「あとで考えてよ!」
ハル,「こんぐらいすかね?」
栄一,「あだだだだ!」
ハル,「ていうかエテ吉さん、ぜんぜん肩こってないじゃないすか」
栄一,「そ、そお?」
ハル,「だから痛いんすよ」
栄一,「宇佐美さんの握力が異常なんじゃない?」
京介,「そんなに強いのか?」
栄一,「いや、ほんと、京介くんもやってもらいなよ」
ハル,「とりあえず、終わります。あまり心地よくなかったようで、申し訳ないです」
宇佐美はまた、席についた。
京介,「おい、宇佐美、おれにもちょっとやってくれよ」
ハル,「浅井さんは、誕生日じゃないでしょう?」
京介,「いいじゃないか、少しくらい」
ハル,「いやですよ、とりわけ浅井さんはいやです」
京介,「……嫌われたもんだな」
ハル,「…………」
京介,「昨日の失態で落ち込んでるんだろうが、八つ当たりはやめてほしいもんだ」
ハル,「八つ当たりをしているわけではありませんが、そう思われても仕方がないので、謝ります」
京介,「別に、謝らなくていいが……」
ハル,「いえ、すんませんでした」
京介,「…………」
……こいつなりに責任を感じて、落ち込んでるのかな。
ハル,「でも、浅井さんに肩もみはいやです」
ぼそりと言った。
ハル,「こんなところで……」
…………。
……。
;背景 廊下 昼
廊下に出ると椿姫に出くわした。
椿姫,「おはよう、浅井くん」
京介,「よう、もう出てくるのか?」
椿姫,「うん、学園を休んでてもしょうがないから」
京介,「それはそうだが、だいじょうぶか? 気分的に」
椿姫はいつもと同じように穏やかな顔をしている。
けれど、取り繕っているようにも見える。
京介,「犯人から、連絡はあったか?」
小声で聞いた。
椿姫,「……ううん」
京介,「そっか、広明くんだいじょうぶかな……」
椿姫,「とりあえず、いつ連絡がかかってきてもいいように、携帯電話は持ってきてるよ」
京介,「ん、そうか。先生には見つからないようにするんだぞ?」
言うと、椿姫は控えめに笑った。
椿姫,「なんだか、悪い子になっちゃった気分だよ。きのうも、いろんな人にぶつかったのに、謝る暇もなくて……」
京介,「しょうがないさ、気にするなって」
椿姫,「警察の人からも、逃げちゃったし……」
京介,「誰だって逃げるさ。逃げなかったら、犯人は確実に取引を中止しただろうからな」
椿姫,「ごめん、ありがとうね」
京介,「元気出せよ。お前はやれることはやったんだから」
椿姫,「うんっ」
それにしても、犯人はきちんと人質を返すつもりなのだろうか。
椿姫たちがやけを起こして、警察でも呼ばれたら、すべてが水の泡だ。
京介,「ああ、そうだ、今日な、栄一が誕生日らしいぞ」
椿姫,「え?」
目を丸くした。
椿姫,「そうだっけ?」
日記を取り出して、食い入るように見た。
椿姫,「おかしいな……栄一くんのお誕生日は六月のはずだけど?」
京介,「……マジか?」
あの野郎……。
;背景 屋上
昼休みになった。
栄一はなにやらプレゼントらしきモノをたくさん両手にかかえていた。
栄一,「(へっへっへ、大漁、大漁だぜ。それにしても京介もマジ忘れっぽい野郎だぜ、予想どおりオレの誕生日を勘違いしてやがった)」
栄一,「(それにしても誕生日が年に二回あるなんて、オレマジホストの才能あるんじゃねえの?)」
花音,「エイちゃん、今日誕生日なのー?」
栄一,「うんうんっ、よかったらなんかちょーだい」
花音,「なにがいい?」
栄一,「兄さんに頼んで、高級腕時計を買ってもらってよ」
花音,「それじゃあ、わたしからのプレゼントにならないでしょ? こう見えても、のんちゃんエイちゃんのこと大好きなんだよ?」
栄一,「ハハ、うれしいなー」
栄一,「(冗談じゃねえぞ、バーロー。オメーのせいで何度苦渋を味わわされたことか!)」
花音,「んー、今度、手料理作ってあげるね」
栄一,「え? 意外だね。ごはんとか作れるんだ?」
花音,「ひやむぎとか得意だよ」
栄一,「(バカやろう! なんで真冬に、んなつめてーもん食わにゃならねえんだ!)」
花音,「あと、かき氷削るのもうまいよ? スケート選手だけにね」
栄一,「ハハ、うまい! うまいなー、花音ちゃんは」
京介,「おい、栄一」
栄一,「あ、京介くんに、椿姫ちゃんも」
栄一は、椿姫に歩み寄った。
栄一,「椿姫ちゃん、元気? ガッコ来れるってことは、もういろいろ心配ないんだね?」
椿姫,「あ、うん……いろいろ迷惑かけたね」
栄一,「いいんだよいいんだよ、それよりプレゼントちょうだい」
くれといわんばかりに、手を差し伸べた。
椿姫,「えと、そのことなんだけど……」
椿姫は首をかしげた。
椿姫,「記憶違いかな? たしか栄一くんの誕生日って六月じゃなかったっけ?」
栄一,「えっ!?」
椿姫,「あれ? やっぱり、わたしの間違えかな? そう日記に書いてあったから……ごめんね」
栄一,「いやいや、今日だよ。うん、勘違いしてるんじゃないかな?」
栄一,「(ふー、あぶねえぜ、椿姫が善人じゃなかったら、アウトだったぜー)」
……本当に腹黒い野郎だな。
京介,「おい、テメー」
栄一,「(な、なんだよ、この野郎。オメーにはかんけいねえだろうが?)」
京介,「でもな……」
栄一,「(オメーがなんか被害受けたかっつーの? オメーは地球温暖化の被害とかモロ受けてるんかっつーの? たいして受けてねーのにしゃしゃりでんなっつーの!)」
栄一の言ってることはキてるが、たしかにおれはなにも損してないな。
栄一,「(あ、でも待てよ、この展開……この展開いつものパターンじゃねえの、オレが調子いいと必ず邪魔してくる女が……!)」
ハル,「エテ吉さん」
栄一,「(キタよ、めんどくせえのが!)」
栄一はとっさに身構え、防御の姿勢を取った。
栄一,「な、なにかなー? 今日はボクの誕生日だよー?」
ハル,「いや、それはいいんです」
栄一,「へ?」
ハル,「今日、ラーメンとか食べに行きませんか?」
栄一,「え? ラーメン?」
ハル,「はい、浅井さんと三人で」
京介,「なんでおれも!?」
思わず身を乗り出した。
栄一,「いいけど、何時くらい?」
ハル,「バイト終わりで、九時くらいすかね」
京介,「ちょっと待てよ、おれは無理だ」
今日は、権三に報告して、椿姫の家を山王物産に売り渡す算段を整えて、街金とデベロッパーに挨拶して……やることは山ほどあるんだ。
ハル,「そこをなんとか」
京介,「嫌だね。どうせおれにラーメンおごらせようっていう腹だろう?」
ハル,「いえ、エテ吉さんの誕生日でもあることですし、今回はわたしが出します」
栄一,「あ……そう? ありがとうね」
栄一,「(おいおい、これ、完全勝利ってヤツじゃねえの? 気分いいねえ)」
ハル,「それじゃ、そういうことで」
京介,「おい、おれは行かないからな……」
宇佐美は去っていった。
背中が、どこか寂しげだった。
花音,「ねえねえ、みんなテレビ見てくれた?」
椿姫,「テレビ……?」
花音,「えー、見てないの? 生放送のヤツだよー?」
椿姫,「あ、ああ……」
椿姫は、ようやく気づいたようだ。
椿姫,「だから、あんなに混んでたんだ……そっか……どうりで聞いたことがあるような声がしたと思った……」
しかし、犯人はまさかその瞬間を狙っていたとはな……。
栄一,「ボク、見たよー。花音ちゃん、かわいかった」
花音,「のんちゃんも、まさかあの有名芸能人にお水を渡す日が来るとは思わなかったよー」
ミーハー根性丸出しだが、素直にうれしそうだった。
花音,「なんかねー、ひったくり事件が起こったみたいで、すごかったよー」
花音,「テレビがきてるのにひったくりするなんて、犯人すごい度胸だよねー」
その後は、花音の自慢話を中心に昼休みが潰れていった。
;黒画面
学園が終わると、おれはすぐに権三の屋敷に向かった。
;背景 権三宅 居間
京介,「……というわけで、ことは、順調に進んでいます」
浅井権三,「いいだろう。お前のことだ。差し押さえた土地を、すぐに山王物産に売り渡す手はずは整えているのだろう?」
うなずき、恐縮するように頭を垂れた。
京介,「当初の予定より、高値で売り渡すことができそうです。まあ、額の問題より、山王物産の信頼を得られたことのほうが、大きいと思っていますが」
浅井権三,「あまり、尻尾をふりすぎるなよ」
京介,「心得てます」
……しかし、山王物産の影響力は権三でも無視しきれないものがあるはずだ。
浅井権三,「五千万の弁済はいつになっている?」
京介,「いちおう、十日にさせました。十日までは無利息でしたから」
京介,「ただ、十日で五千万も返せるわけがありませんので、まずあの土地は差し押さえたも同然かと」
まあ、十日以内に、犯人を捕まえ、身代金を奪い返すことができれば、話は別だが……。
浅井権三,「街金から五千も集めるのは苦労したんじゃないのか?」
京介,「それは……お養父さんのおかげで、なんとか……そもそも担保は申し分なかったわけですし……」
浅井権三,「なるほど。俺をずいぶんと利用したわけだな」
悪寒が走る。
浅井権三,「美輪、椿姫だったか……」
悪寒が、胃にもたれかかった。
権三が、けだるそうに首を回した。
浅井権三,「まさか、そんな雌に心を動かしたのではないだろうな?」
京介,「冗談はやめてください。この前、お養父さんに誓ったばかりじゃないですか」
……本当に、それだけはありえない。
椿姫なんて……偽善者とはいわないが、とてもおれなんかにふさわしい女とは思えない。
もっとまともで、普通で善良な学園生とならお似合いだろう。
浅井権三,「京介……」
獣が、小動物を威嚇するべく、いななきを上げているかのようだった。
浅井権三,「野心がいつの間にか恋心に転じることはあるが、恋心が野心に戻ることはない」
京介,「…………」
腑抜けになるなよ、ということか……。
浅井権三,「だが、恋の対象が消えてなくなれば、再び野心も目覚めよう」
京介,「…………」
浅井権三,「邪魔なら、その女を消してやるぞ?」
やりかねない。
この怪物なら、人間一人を殺すことに、なんのためらいも持たないだろう。
そして、ためらいを持たないだけの手段と実力を備えているのだ。
京介,「だいじょうぶです。ご心配なく」
浅井権三,「俺も、信用はしている」
目つきが、とても危険だった。
浅井権三,「だから、一つ教えてやろう」
京介,「…………」
浅井権三,「犯人が要求した白鳥建設の株だが……」
京介,「はい……?」
浅井権三,「そろそろ、猛烈な勢いで売りに入るぞ」
京介,「売りに……? 値が落ちるということですか?」
浅井権三,「暴落する」
京介,「なぜ、そんなことを……」
……知っているのか、と聞きたかったが、権三ならインサイダー情報を知っていてもおかしくはない。
京介,「ということは、犯人が奪取した身代金は……五千万の価値もなくなるということですね」
つまり、椿姫の一家は絶望的な状況に追い込まれたということだ。
たとえ、株券を取り返したとしても、五千万はもう返ってこないのだからな。
なんにせよ、急落中の株を売るというのは至難の業だし、もうあの家族に五千万の現金は作れないだろう。
京介,「しかし、どうして……?」
浅井権三,「お前の学園に、警察の捜査が入っている。詳しくは近く新聞でも読むがいい」
京介,「わかりました。しかし、犯人も滑稽ですね」
浅井権三,「そう思うか?」
京介,「ええ、せっかく手に入れた株券が、本来の価値を失うんですから」
浅井権三,「あるいは……知っていたのかもしれんぞ」
極太の眉が跳ねる。
浅井権三,「白鳥建設の株価が落ちることは、少しでも山王物産に関わっている人間なら、誰でも予測できたことだろうからな」
京介,「そうなのですか……?」
京介,「しかし、そうなると、犯人は金目当てで誘拐事件を起こしたわけじゃないということになりますね」
浅井権三,「そんなことは、最初からわかっていただろう?」
京介,「…………」
そういえば、おれは犯人の動機や目的などに、なんの興味も持たなかったな。
ただ、天からの神の……いや、悪魔の助けだとばかり思って、思考を停止していた。
京介,「たしかに、金が目的なら、他に裕福な家庭はいくらでもありますからね」
いくら現在注目の土地を持っているからといって、なぜ椿姫の家を狙う必要があったんだ……?
浅井権三,「金の価値というものは、それを持つ人間にとって千差万別だ。たとえば、俺やお前にとって五千などたいした額ではないが……」
……五千は、おれにとっては大金ですよ、お養父さん。
浅井権三,「その一家にとっては、身を切るような大切な金だ」
京介,「つまり、犯人の真の目的は、椿姫の家を追い込みたかったのだと、お養父さんは推察してるんですね?」
浅井権三,「犯人は、その一家が不幸になって得をする人間だ。たとえば……」
それだけ言って、威圧するような視線をぶつけてきた。
おれ、だと言いたいのだ。
浅井権三,「たとえば、の話だがな」
低く、どす黒い笑いを撒き散らした。
浅井権三,「しかし、そうなると腑に落ちない点もある」
京介,「え?」
浅井権三,「犯人はなぜ、身代金を奪ったのだろうな?」
京介,「あ……」
そうか……白鳥建設の株が急落することを知っていたのなら、犯人はわざわざ身代金奪取を成功させる必要がないのだ。
京介,「そうですね。五千万を株券に換えさせた時点で、犯人の目的は達成されるのですから」
浅井権三,「しかも、身代金誘拐などという警察の足のつきやすいやり方を選んでいるのも解せん。一家に金を吐き出させたいだけなら、盗みにでも入ったほうがまだ安全だ」
それにしても、この男はつくづく恐ろしいな。
浅井権三,「なにか、犯人の余裕というか、興のような匂いがするな」
おれから聞いた話だけで、どうしてこうも推理を組み立てていくんだ……?
暴力だけでのし上がれるほど、甘い世界に生きているわけではないということか。
京介,「"魔王"……」
どういうわけか、おれの口はその言葉を発していた。
浅井権三,「ああっ?」
権三が、聞き逃すはずもなかった。
京介,「いえ……その、最近学園に編入してきた宇佐美という女がいまして、そいつが、犯人が"魔王"だと言ってきかないものですから」
浅井権三,「根拠は?」
京介,「なんでも、犯人は以前に"魔王"が宇佐美に与えた携帯電話を使って連絡を入れてきたとか……」
浅井権三,「ほう……」
京介,「しかし、宇佐美は、なんというか頭のおかしいところもありまして、ただの妄想に取りつかれているだけとも思います」
浅井権三,「…………」
権三はおもむろに目を閉じた。
浅井権三,「お前の話を聞けば、妄想に取りつかれるほど、宇佐美と"魔王"の間には因縁があるということになるな?」
京介,「……はあ……いえ、まあ、以前に、宇佐美が因縁があるとは言っていましたが」
浅井権三,「ならば、その因縁とやらを探れ」
京介,「…………」
それは、宇佐美と心を開いて話し合えということか?
宇佐美のあの、ひょうひょうとした態度を思い浮かべる。
……げんなりするな。
浅井権三,「"魔王"の目的は、案外その宇佐美という女かもしれんぞ?」
……まさか。
"魔王"のような実力者が、なぜ宇佐美みたいななんでもない少女を狙うんだ。
……いや、なんでもない、とは言い切れないか。
;SE 携帯マナーモード
不意に、胸ポケットのなかで、携帯が振動した。
権三を前にして電話に出るような無礼はできない。
浅井権三,「そうか、どうもお前から雌の匂いがすると思ったが、その女か」
なにやら愉しそうだった。
浅井権三,「しかし、京介よ。まさか、"魔王"を捕まえるという仕事を忘れているわけではあるまいな?」
京介,「いえ……」
二の次にしているのは事実だ。
そんな"魔王"だとかいう得体の知れないヤツより、目の前の仕事のほうが大事だからだ。
京介,「それでは、そろそろ……」
浅井権三,「おう。いい報告を期待しているぞ」
おれは、頭を下げて、権三宅をあとにした。
;背景 南区住宅街 夜
外に出て着信履歴を見ると、さきほどの電話は栄一からだった。
ということは、宇佐美もいっしょだな。
ラーメンにつき合わされるなんて時間の無駄だが、いま権三にけしかけられたばかりだしな。
栄一に電話をかけ直すか……。
いや、よく考えたら、"魔王"の正体なんて、おれにとってはどうでもいいことだ。
そのために宇佐美と関わるなんてごめんだな……。
そんなことより、椿姫の家にでも行ったほうがいいんじゃないか?
連中がヤケを起こして警察を頼らないよう、きっちり観ておかないと。
どうするかな?
;==================这里是重要选择支=============================================================
;以下は、椿姫の好感度が1以上ないと発生しない文章と選択肢です。
何気ないことのようで、今後のおれの行動の方針を決める重要な決断がいるな……。
;選択肢
;椿姫の一家と関わる。
;宇佐美を探り"魔王"を追う。
@exlink txt="椿姫の一家と関わる。" target="*select1_1"
@exlink txt='宇佐美を探り"魔王"を追う。' target="*select1_2"
椿姫の一家と関わる。
宇佐美を探り"魔王"を追う。
;椿姫の一家と関わるを選んだ場合→椿姫ルートフラグオン
……ふむ。
まあ、こんな夜更けにおしかけるのもなんだし、明日でいいか。
ひとまず栄一たちと合流しよう。
ただ、椿姫には世話を焼かされそうだな。
;宇佐美を探り"魔王"を追うを選んだ場合、もしくは椿姫の好感度が1未満の場合、以下へ
……そうだな。
逆に考えれば、椿姫の家はもう終わったも同然だ。
たとえ身代金を取り返したとしても、株価が急落する以上、もう金は戻らないのだ。
だったら、権三にしたがって"魔王"とやらを探すとしよう。
おれは、栄一と連絡を取り、セントラル街に向かった。
;背景 セントラル街 夜
……。
…………。
栄一,「遅いよ、京介くん」
栄一と宇佐美が、ラーメン屋の前でおれを待っていた。
栄一,「ボクらほんとお腹すいてるんだよー、ねえ宇佐美さん」
ハル,「はい。今日は朝から何も食べてませんので」
京介,「なんだよ、金がないのか?」
ハル,「いえ。こんなんでも、食欲がないときはあるのです」
京介,「金はあるんだな? 少なくとも栄一におごるくらいの金は」
宇佐美は胸を張った。
ハル,「あります。お給金をいただきましたので。浅井さんにもおごって差し上げましょうか?」
京介,「おれはいいよ」
……つまらんことで借りを作りたくない。
栄一,「さすが、ボンボンは違うねー」
京介,「それにしてもお前、お菓子以外のものもちゃんと食うんだな?」
栄一,「(興味のない女といっしょなら食うんだよ。食わなきゃ死ぬだろうが)」
栄一,「じゃあ、お店に入ろっかー。いっぱい食べちゃうぞー」
ハル,「あ、栄一さん、大盛りとかはナシの方向で」
栄一,「え?」
ハル,「できればトッピングとかもナシの方向で」
栄一,「ちょっとちょっと!」
ハル,「すみません、お金下ろしてくるの忘れてました。財布のなかに千円しかないんです」
栄一,「えー、せっかくのボクの誕生日なのにぃ!」
ハル,「…………」
ハル,「わかりました。自分は食べないので、かわりになんでも食べてください」
栄一,「……あ、そう?」
栄一,「(おいおいなんだよ、コレ、薄気味わりいぜ。こいつ実はちょっといいヤツだったりするわけ?)」
ハル,「どぞ」
宇佐美は、栄一に向かって千円札を差し出した。
栄一,「えと……」
……ん?
戸惑う栄一に違和感。
まさか、良心の呵責を……。
栄一,「ありがたく食べさせてもらうねっ」
……覚えているわけもないか。
栄一,「(へっへっへ、オレぐらいの鬼畜モンになるとよう、女を騙して金をせびることくらい朝飯前なワケよ)」
京介,「…………」
……別に、宇佐美を助けようという気はないが……。
;選択肢
;栄一の嘘をばらす。  ハル好感度+1
@exlink txt="栄一の嘘をばらす。" target="*select2_1" exp="f.flag_haru+=1"
栄一の嘘をばらす。
;栄一の嘘をばらすを選択した場合
……まあ、栄一も度が過ぎたな。
恩を売っておけば、宇佐美もおれに心を開くようになるかもな……。
それはそれで、イヤだが……。
京介,「栄一、お前の誕生日は六月だろうが」
栄一,「へ?」
ハル,「む?」
京介,「椿姫から聞いたぞ。おれも思い出した。いつだったか、お前が今日と同じように騒ぎ出した日があったな」
栄一,「な、な、なに!? なに言っちゃってるの、京介くんは?」
京介,「とにかくお前の誕生日は今日じゃねえよ」
ハル,「本当なんですか、栄一さん?」
京介,「そういや、ファミレスででっかいパフェをおごらされたような気がするな」
栄一,「ど、どこにそんな証拠が!?」
京介,「いまからうちに帰ってそのときのレシートでも見せてやろうか?」
栄一,「そんなのあるの?」
京介,「探せば、ある」
ハル,「浅井さんって、レシートとか捨てきれないキャラなんですか? 主婦ですかあなたは」
宇佐美がぼそりと言った。
京介,「栄一、たかるんなら、また別の機会にするんだな」
ハル,「栄一さん、誕生日じゃないんですね?」
栄一,「た、誕生日だよ! ボクって年に二回誕生するんだよ!」
ハル,「そうきましたか……」
感心していた。
京介,「なにが、そうきましたか、だ……」
つきあいきれんな。
京介,「とっととメシを食って帰るぞ。おれは忙しいんだ」
…………。
……。
;やめておくを選んだ場合
……おれの金じゃないし、どうでもいいか。
栄一は、嬉々とした顔で、宇佐美からお金を受け取った。
ハル,「んじゃ、外で待ってますんで」
宇佐美は腕を組んで、道端に座り込んだ。
栄一,「…………」
京介,「…………」
まるで全身でひもじいと言っているかのような態度だった。
栄一,「宇佐美さん、じゃあこうしようよ」
ハル,「はい?」
栄一,「一杯のラーメンを二人で食べるとか?」
ハル,「そんな、カップルみたいな真似させるんすか。いや、そんなカップル見たことないすよ?」
栄一,「あ、じゃあ、どっか別の定食屋行く? 牛丼とかどう?」
……なんだコイツ、やっぱり後ろめたいのか。
ハル,「栄一さんがそう言うなら、まあわかりました」
栄一,「…………」
栄一,「(チキショー、なんだよ今日のオレちゃんは? 鬼畜モンの風上にもおけねえぜ)」
京介,「別で食うんだな? とっとと行こうぜ。おれは忙しいんだ」
…………。
……。
;場転
遅い夕食を平らげ、おれたちは店を出た。
京介,「それじゃ、また学園でな」
栄一,「じゃねー」
背を向けようとしたとき、声があがった。
ハル,「ちょっと待ってください、浅井さん」
京介,「……なんだ?」
ハル,「今日、浅井さんに集まってもらったのは他でもない」
栄一,「いや、ボクもいるけど?」
宇佐美は、前髪をかきあげてから言った。
ハル,「ちょっと聞きたいことがあるんです」
京介,「……昨日の件か?」
身代金がどこに行ったのか、考え込んでいるんだろう。
ハル,「はい。すなわち、ケースのなかの株券は、いつどこでどうやって消えたのか」
京介,「……さあな」
おれは、椿姫から聞いた事件の顛末を思い起こす。
京介,「昨日の夜、九時半だったか? セントラル街が、花音のテレビで異常に混んでたのは」
ハル,「はい。そのとき、ハンバーガーショップの前に置かれたケースが、"魔王"に持ち去られました」
京介,「椿姫が置いたんだよな?」
ハル,「はい」
京介,「でも、宇佐美は、椿姫のケースを、事前に用意しておいたケースとすりかえていたわけだよな?」
ハル,「はい。ですから、わたしがすりかえるより前の段階で、すでに株券はケースのなかから消失していたということになります」
京介,「そうなるな……」
……犯人がどうやって身代金を奪ったのか。
どうでもいいことではあるが、単純に好奇心は沸くかな。
栄一,「ちょ、ちょっとボク、話についていけないんだけど?」
京介,「五十枚の株券は、もともと封筒にでも入れていたのか?」
ハル,「はい」
京介,「椿姫は、たしかにケースに株券を入れたんだろうな?」
ハル,「その瞬間をこの目でたしかに見ました。椿姫は、デパートで、ケースを買って、その場で株券の入った封筒を、ケースのなかにしまいました」
京介,「それから先、椿姫はケースの中身を確認したりしたのかな?」
ハル,「していないそうです。今日の昼に聞いたんですが、株券をしまってから、椿姫は一度もケースを開けていないそうです」
京介,「つまり椿姫は、市内を駆け回っている間、株券はずっとケースのなかにあると思い込んでいたわけだな」
ハル,「わたしもですが……」
苦笑して、また頭をかいた。
栄一,「ね、ねえ、ボクも仲間に入れてよ」
京介,「それで、おれに聞きたいことってなんだ?」
言うと、宇佐美は苦い顔をした。
ハル,「ズバリ、聞きますよ、浅井さん」
京介,「ん……?」
一歩、踏み込んできた。
ハル,「昨日、ケースは二度、駅構内のコインロッカーに預けられました」
京介,「……うん」
ハル,「一度目は、昼。椿姫が電車に乗って桜扇町に向かったとき」
ハル,「二度目は、夜。椿姫が東区の公園に向かったときです」
京介,「それで?」
ハル,「問題となる駅のロッカーですが……」
ハル,「一度目は、わたしが見張っていました。不審者が近づいた様子はありませんでした」
ハル,「二度目は、どうでしたか?」
……そんなことか。
昨日、おれは宇佐美に頼まれて、ロッカーのそばにいたときがある。
京介,「別に、怪しいヤツは近づいてこなかったけどな?」
ハル,「細身で背が高く、黒いコートを着た男を見ませんでしたか?」
京介,「……それが、犯人か?」
ハル,「はい。"魔王"です」
京介,「しかし、細身で背が高くて、黒いコートを着ているっていうだけじゃなあ……年齢とかは?」
すると、宇佐美は、迷うように言った。
ハル,「……謎です。青年だと思います」
京介,「二十代前半? 後半?」
ハル,「謎です。後姿だけしか見てませんから。ただ、最近の若い男性はみんな背が高くて細くて、何歳なのかわからないですしね……」
……"魔王"についてはなにもつかんでいないようだな。
京介,「まあ、わかった。とにかく、おれが見ていた限りでは、そういう男は現れなかったよ」
栄一,「変装してたんじゃない!?」
栄一が、ぐいっと身を乗り出してきた。
栄一,「いや、よくわかんないけど、混ぜて欲しかっただけ」
京介,「なんにしても、ケースの入れてあったロッカーに手をかけたヤツはいなかったな」
ハル,「たしか、ですか?」
心の奥を覗き込むような視線を感じた。
京介,「たしかだ。まあ、少し疲れていたから、ぼうっとしていたときもあるかもしれんが……」
栄一,「それだ! 京介くんが、犯人を見逃したんだ!」
京介,「……だったら、すまんな」
ハル,「あ、いえいえ。自分も、犯人を捕まえられなかったわけですから」
しかし、な……。
京介,「いずれにせよ、ロッカーには椿姫がきちんと鍵をしたわけだろ?」
ハル,「はい。椿姫はその鍵を持って市内を走り回り、東区の公園に現れました」
京介,「だったら、その鍵を手に入れなければ、けっきょくロッカーも開かないわけで、身代金も手に入らないじゃないか」
ハル,「おっしゃるとおりです」
大きくうなずいた。
ハル,「…………」
また、髪をいじりだした。
京介,「行き詰ってるのか?」
ハル,「……そういうわけでもないんですが」
京介,「なら、答えは出てるのか?」
ハル,「…………」
宇佐美は、押し黙った。
京介,「なんだなんだ。まさか、またおれを疑ってるのか?」
試しに、笑いながら聞いてみた。
ハル,「…………」
栄一,「あはは、たしかに京介くんは、細身で背が高いよね」
京介,「ついでにいえば、黒いコートも持ってる」
宇佐美は笑わない。
栄一,「ねえねえ、宇佐美さん。京介くんがなんで椿姫ちゃんの弟を誘拐するっていうの?」
……たしかに、なんでおれがそんな暇なことをしなければならんのか。
ハル,「犯人の動機は、いまだ謎が残っています。そういった意味で、行き詰っていますね、わたしは」
京介,「そんなに困ってるなら、一つ、いいことを教えてやろうか」
おれはもう面倒になってきていた。
京介,「犯人が指定した白鳥建設の株な……」
宇佐美は、またぼんやりと前髪で遊んでいた。
京介,「近々、値崩れするらしいぞ」
直後、宇佐美の指先が髪と戯れるのをやめた。
ハル,「本当ですか?」
京介,「ああ」
ハル,「どうしてそんなことを?」
京介,「パパが言ってた」
ハル,「なら、"魔王"はいまごろくやしがっているんでしょうか?」
京介,「さあ……白鳥建設の株が落ちることは、ちょっとした関係者なら誰でも知っているっていうから……」
宇佐美が遮って言った。
ハル,「株価が落ちるのを知っていて、身代金に指定してきたということですか?」
京介,「おかしな話ではあるがな」
ハル,「なるほど……」
ため息まじりに言った。
京介,「参考になったか?」
ハル,「おおいに」
いままでで一番深くうなずいた。
京介,「なんにしても、弟が帰ってくることを願うばかりだな」
ハル,「……ですね」
おれは、話は終わったといわんばかりに、背を向けた。
ハル,「どうも、すみませんでした。失礼します」
宇佐美も去っていった。
栄一,「っていうか、まだ弟誘拐されたまんまなの!? ヤバくね!?」
夜が更けていく……。
…………。
……。
;ぐにゃーっと歪むような演出
;背景 公園 夜
;ノベル形式
親にすら話すなと命じられていた。
 夜も更けたころ、椿姫は近くの公園に出向いた。
 一人だった。父親には、散歩してくると嘘をついた。普段から嘘は苦手だったが、広明の安否に父親も動揺しているのか、とくにとがめられることもなかった。
 今日の夕方、学園から帰宅しているときに、携帯電話が鳴った。
 椿姫は、呼び出された。弟を引き渡してもらえると思い、素直に従った。指定されたベンチに腰掛けて、広明の姿と、犯人の声を待った。
背後から声がした。
 振り向くな。きつい口調で命じられ、身がすくんだ。
 男は、いつの間にか椿姫の背後に忍び寄っていた。
魔王,「まず、はじめに言っておく」
電話の声。何度も聞いた。間違いなく、犯人だった。
魔王,「興奮して後ろを振り向くなよ。私の顔を見たら、大好きな弟が明日の朝刊に載ることになる」
 椿姫は一瞬にして緊張した。誘拐犯が、真後ろにいるのだ。
魔王,「返事はどうした?」
椿姫,「わかりました」
魔王,「聞き分けがよくていい」
椿姫は、逃げ出したくなるような気持ちを奮い立たせた。
椿姫,「いままで、全部、言うことを聞いてきました。ですから、今度はあなたの番です」
恐怖に膝が震えた。切れ切れの吐息で言った。
椿姫,「弟を、返してください」
背後から、嘆息があった。
魔王,「全部言うことを聞いた、だと?」
椿姫,「お金も渡しました。警察にも通報していません」
戸惑いながら言った。犯人は何か腹を立てたのだろうか。
魔王,「では、なぜ、宇佐美ハルが邪魔をしてきたのだ?」
椿姫,「え……」
魔王,「宇佐美が、私を捕まえようとした。知らないわけではないだろう?」
たしかに、ハルはセントラル街で犯人を追った。身代金の入ったケースをすりかえた。それが、犯人の逆鱗に触れたというのか。
 椿姫は、素直に認めることにした。
椿姫,「ハルちゃんは、あなたを捕まえると言っていました」
魔王,「それを許したのか?」
椿姫,「はい……」
とたんに、いけないことをしたような気持ちになってきた。
椿姫,「あの、ハルちゃんは、あなたを捕まえようとしたり、ケースをすりかえたりしました。それを怒ってらっしゃるんですか?」
魔王,「ケースをすりかえたり、か……」
鼻で笑った。
魔王,「急場の仕掛けにしては、よくがんばったほうだな」
けれど、犯人には通じなかった。犯人は、それより前に、身代金を奪っていたのだ。
魔王,「しかし、椿姫。もし、宇佐美の手口が功を奏し、まんまと身代金を取り戻していたら、どうなっていたと思う?」
椿姫,「……どうって」
わからなかった。ただ、揺さぶるような犯人の口調から、いい知れぬ恐怖が伝わってきた。
魔王,「お前は、私に身代金を渡すと約束した。だが、一方で、裏切っていた。そういう人間に報いを与えるべきだと私が思っても、なんら不思議はないだろう?」
椿姫,「す、すみませんでした」
とっさに謝罪の言葉が口から飛び出た。
魔王,「宇佐美はこう言ったのだろう? 身代金を渡したが最後、弟は戻らないと」
椿姫,「はい。人質は、リスクの塊だからと……」
魔王,「私はきちんと返すつもりだったのにな」
呆れたようにため息をついた。
魔王,「考えてもみろ。人質を返さないということは、殺害するということだ」
全身が総毛だった。
魔王,「いいかげんわかって欲しいが、私は警察とことをかまえるつもりはない。警察を頼るな。それだけは、しつこく念を押しておいたはずだ」
椿姫,「はい」
魔王,「人質が返ってこなかったら、お前たちはどうする? 今度こそ、警察を頼るだろう? 人を一人殺すというのは、大変なことだ。必ず足がつく」
まくしたてるように言われ、椿姫は苦しくなった。次第に自分の頭で考えるのが面倒になり、犯人の主張も、もっともだと思い始めた。
魔王,「お前は宇佐美にそそのかされたということだな」
椿姫,「そんなつもりは……ハルちゃんは、ただ、よかれと思って……」
魔王,「それは違う」
犯人がぴしりと言った。
魔王,「宇佐美が私を捕まえようとしたのは、お前たちのためではない」
椿姫,「え?」
魔王,「私怨だ」
周囲の空気が、いっそう冷え込んだ。
魔王,「知りたいか?」
犯人の問いに、椿姫は答えられなかった。黙っていると、背後から含んだ笑いが上がった。
魔王,「そんなことより、弟を返して欲しそうだな?」
使命に気づかされ、はっとした。こわばった指を軽く握って、ためらいながら聞いた。
椿姫,「……返して、もらえるんですか?」
相手はため息で答え、それを途中から笑い声に変えた。
魔王,「お前が、私の言うとおりにすればな」
不敵な声に、心臓をわしづかみにされた。要求というより、脅しだった。
唇が、震えている。寒さはまったく感じない。逃げ出したくなった。本能的な嫌悪感があった。
 ――"魔王"。
 ハルがそう呼んでいたことを思い出した。悪魔が、腕を伸ばし、距離を詰めてきたのだ。
 いつでも相手の目を真っ直ぐに見て、会話をしていた。けれど、いまの椿姫には、振り返って相手を見る勇気など、かけらもなかった。
 風が出てきた。"魔王"が、耳元で、なにかささやいた……。
;背景 教室 昼
今日も学園に来ることができた。
京介,「みんな、おはよう」
挨拶すると、クラスメイトたちの爽やかな声が返ってくる。
ハル,「おはようございます、浅井さん」
京介,「よう。その髪型なんとかならんのか? 相変わらず、朝のすがすがしさをぶち壊してくれる」
ハル,「浅井さんこそ、眠そうですね」
京介,「そうか? たしかにあまり寝てないがな」
ハル,「昨日は遅くまでつき合わせてしまいましたね」
京介,「まったくだ……」
おれは席について、久しぶりにミキちゃんに、電話をかけようとした。
ハル,「白鳥さんは、まだいらっしゃらないみたいですね」
京介,「みたいだな。まあ、あいつが休むのは、よくあることだ」
ハル,「なにか事情でもあるんですかね?」
京介,「ひょっとして、例の株価の件と関係があるのかもな」
宇佐美も、おれと同じ気持ちだったらしく、うなずいた。
ハル,「あ、椿姫だ」
いつの間にか、椿姫が席についていた。
珍しいな……。
あいつは朝には元気よく、おはよーとか触れ回るのに。
京介,「椿姫」
椿姫,「……っ!」
声をかけると、怯えたようなまなざしが返ってきた。
京介,「なんだ、どうした?」
椿姫,「ああ、浅井くん、おはよう」
ハル,「その様子じゃ、まだ広明くんは……」
椿姫,「あ、うん……」
犯人はまだ、人質を解放しないのか。
警察に通報されたら、まずいな。
椿姫,「……えと」
京介,「ん?」
椿姫は唇を噛んだ。
椿姫,「ハルちゃん……」
ハル,「なんだ?」
椿姫,「ちょっと、聞いてもいいかな?」
恐る恐る尋ねてきた。
その様子に、おれも宇佐美も眉をひそめた。
椿姫,「えと、ハルちゃんは、どうして犯人を捕まえようと思ったの?」
宇佐美は微動だにせず、言った。
ハル,「犯人を捕まえれば身代金を渡す必要もないし、広明くんも返ってくるからだ」
椿姫,「……そっか」
ハル,「いまさら、なんでそんなことを?」
椿姫は宇佐美の問いに、視線を逸らした。
椿姫,「そ、それだけ?」
ハル,「え?」
椿姫,「本当に、それだけの理由なの?」
どうにも様子がおかしかった。
椿姫,「犯人は、"魔王"だって、言ってたよね?」
ハル,「うん」
椿姫,「知り合いなんだよね?」
ハル,「…………」
椿姫,「わたしの家庭の事情とは別に、ハルちゃんは犯人を捕まえたかったんじゃないの?」
なんだか、今日の椿姫には、違和感を覚える。
あの椿姫が、人を疑う瞬間など、初めて見たかもしれない。
ハル,「たしかに、わたしは、"魔王"を捕まえたいと常々思っている」
椿姫,「うん……」
ハル,「"魔王"には、個人的な恨みもある」
椿姫,「…………」
ハル,「……それが、なにかまずかったか?」
最後のほうは、宇佐美も傷ついたように目をそらした。
椿姫,「ごめん……変なこと聞いて」
ハル,「いや……」
椿姫,「ハルちゃんは、よかれと思って、犯人を捕まえようとしてくれたんだよね……」
ハル,「……なんの役にもたたなかったが」
椿姫,「…………」
また、違和感が募る。
椿姫なら、ここで宇佐美に慰めの言葉の一つでもかけてやるだろう。
椿姫,「もう一つ、いいかな?」
ハル,「なんでもいいぞ」
椿姫,「ハルちゃんは、お金を渡したら、広明は返ってこないって言ったよね?」
ハル,「うん。何度も言うが、犯人は、身代金に関係なく、人質を返すつもりはないんじゃないかと思っていた」
……現に、広明くんは返ってきていないわけだしな。
椿姫,「本当に、そうなのかな?」
ハル,「…………」
椿姫,「犯人は、警察を恐れてたんだよ」
ハル,「そのようだな」
椿姫,「広明が、もし本当に返ってこないんなら、わたしたち、今度こそ、警察に連絡するよ」
ハル,「…………」
椿姫,「犯人も、それを予想しているはずだから、きっと広明は返すつもりだったんじゃないかな?」
む……。
椿姫の言うとおりだな。
犯人が警察の介入を懸念しているのならば、きちんと人質を返すはずだ。
人質を殺してしまったりしたら、それこそ事件だからな。
ハル,「わたしは犯人ではないからわからないが、警察を恐れているからこそ、人質は返さないつもりだったんじゃないか」
ハル,「犯人はこう予測していた。椿姫の一家は、人質が返ってきたら、次は身代金を返してもらおうと思い、警察に通報するかもしれない」
……まあ、無理はない推測だな。
人質さえ返ってくれば、椿姫たちにとって、警察に通報することは、なんのリスクもないからな。
あの身代金には、大事にしてきた土地がかかっているんだ。
椿姫の親父さんが、取り返したいと思っても無理はないし、犯人がそう予測していたとしても不思議はない。
ハル,「なんにせよ、わたしがそう思うというだけであって、事実はわからないが……」
椿姫,「……そっか」
そこで、椿姫は、深いため息をついた。
椿姫,「ごめんね、ハルちゃん!」
声を張り上げた。
ハル,「……ん?」
椿姫,「問い詰めるような真似して、ごめんね」
まるで、つき物が落ちたかのよう。
京介,「なんなんだ、お前」
椿姫,「ううん、なんでもないの」
ハル,「疲れてるみたいだな」
椿姫は、すでにいつもの明るい顔つきに戻っていた。
ハル,「なにか、あったのか?」
椿姫,「今日は、朝からハルちゃんに迷惑かけてしまいました○」
ハル,「いや、○じゃないっしょ……」
それからは、いつもと変わらない朝がやってきた。
;背景 屋上 昼
栄一,「おいおい京介聞いてくれよ、オレ、この歳になるまで知らなかったぜ」
昼休みになっていつものように屋上にたむろっていた。
栄一,「ペッティングって、いやらしい言葉だったんだな」
京介,「いきなりなにを言い出すかと思えば……」
栄一,「ビビッたぜ、三軒茶屋あたりの家族が土手で犬を散歩させるオシャレな言葉かと思ってたぜ」
京介,「よかったな」
くだらない話をしていると、椿姫が屋上に顔を見せた。
栄一,「あ、椿姫ちゃん、だいじょうぶ?」
椿姫,「なにが?」
栄一,「ほらあの、ガキ……じゃなくて、弟さん」
椿姫の顔色が暗くなった。
栄一,「だいじょうぶだよ、きっと生きてるって」
栄一は、重苦しい空気をまったく理解しない。
椿姫,「ありがとう、栄一くんにも迷惑かけたね」
かけたか……?
栄一,「いいよいいよ。ボクはいいんだよ、ボクは」
なにやら誇らしげだった。
こいつの能天気っぷりは、なかなかすがすがしいものがあるな。
京介,「あ、椿姫」
椿姫,「うん?」
京介,「今日の夜にでも、遊びにいってもいいか?」
唐突に聞くと、椿姫は一瞬戸惑ったように、目を見開いた。
椿姫,「えと……夜って何時くらい?」
京介,「……いや、遅くならないうちに帰るが?」
椿姫,「あ、うん。なら、いいよ」
京介,「なんか用事でもあるのか?」
椿姫,「別に、ないよ。でも、どうして?」
なにか、訪問を拒まれているような気もするな。
京介,「いちおう、ほら、親父さんに話もしなきゃならんし……」
借金の返済について。
京介,「あとはまあ、お前が心配だってのもあるな……」
栄一,「プ……」
栄一が吹き出した。
椿姫,「心配しないでいいよ。わたしは、元気だから」
京介,「だといいんだがな……」
椿姫,「浅井くんは、やっぱり優しいなあ」
微笑んだ。
どことなく力のない、影のある笑顔だった。
ハル,「あの……自分も、いいすか?」
椿姫,「ハルちゃんも?」
いつの間に現れたのか、宇佐美が上目づかいで聞いてきた。
京介,「なんでお前まで?」
ハル,「いえ……なにか、役に立てる場面があるかもしれませんので」
京介,「なにわけのわからんことを……」
ハル,「こう見えて、炊事洗濯掃除は得意でして」
京介,「嘘をつけよ。お前なんか、どう見ても生活力ゼロじゃねえか」
ハル,「芸とかもできますし」
京介,「芸だあ?」
栄一,「宇佐美さん、どんなことできるの?」
ハル,「…………」
照れたようにうつむいた。
ハル,「まあ、ヴァイオリンを少々……」
椿姫,「そういえば転入してきたとき言ってたね」
京介,「冗談だと思ってた」
栄一,「ボクも……」
ハル,「これが、ネタでもなんでもないんですよ、恐ろしいことに」
京介,「どっちにしろ、いまの椿姫にお前の一芸は必要ねえよ」
椿姫,「あ、うん、今度聞かせてね」
……どうせ、はったりだろうがな。
京介,「…………」
とはいえ、宇佐美についても探る必要があるんだったな。
"魔王"との因縁だったか……。
どうも後回しにしたくなるが……。
京介,「お前もヒマ人だな、宇佐美」
悪態をついて、気を紛らわせた。
ハル,「ヒマではないですよ、ヒマでは」
京介,「お前は夜とかなにやってんだ?」
ハル,「銭湯に行ってます。お風呂好きなんで。髪洗うの時間かかるんすよねー」
切れよ……。
椿姫,「それで、ハルちゃんも、おうちに来るの?」
ハル,「ちょっと遅くなるかもしれないが」
椿姫,「えっと……」
考え込むように顔をこわばらせた。
椿姫,「悪いけど、十一時には、帰ってもらえるかな?」
京介,「なんだよ、やっぱり用事があるのか?」
椿姫,「うん……」
ハル,「そんな時間から、なにをするんだ?」
椿姫,「えと……ネットゲーム……」
京介,「ゲームだって? なんでそんな時間から? ゲームなんていつでもできるだろう?」
栄一,「ボクわかるよ。ネット上のお友達と、時間を合わせてプレイしたいんでしょ?」
椿姫,「そ、そう! みんなで悪いボスをやっつけるの」
京介,「…………」
ハル,「…………」
宇佐美と目があった。
おれも宇佐美も、考えていることは同じみたいだな……。
……椿姫は、なにか、隠している。
おれたちにも相談できないような、なにかを。
栄一,「なあんだ、椿姫ちゃんもけっこう余裕だなー」
椿姫,「ふふっ、だからだいじょうぶだって」
屋上から街を見下ろす。
変わり映えしない景色に、本格的な冬が到来しつつあった。
;背景 繁華街1
授業が終わり、セントラル街を、椿姫と肩を並べて歩いていた。
京介,「……昨日、なにかあっただろ?」
二人きりなので、聞いてみた。
椿姫,「え?」
京介,「おれには、話してくれてもいいだろ?」
椿姫,「な、なにを?」
京介,「とぼけんなって、朝から宇佐美にくってかかっただろ?」
言うと、ばつの悪そうな顔になった。
椿姫,「……そう、だったっけ?」
京介,「そうやってとぼけたりするのも、お前らしくないな」
半笑いで椿姫を見据えた。
京介,「……ひょっとして、警察に通報したのか?」
何気ないふりをして、聞いた。
椿姫,「ううん、違うよ」
京介,「本当?」
椿姫,「まだ、広明も返してもらってないしね」
京介,「じゃあ、なんでだ?」
おれの質問に、椿姫は目を逸らした。
椿姫,「……ごめん、なんでもないよ」
京介,「…………」
椿姫,「それより、浅井くん」
思いついたように言う。
椿姫,「ハルちゃんのこと、知ってる?」
京介,「知ってる、とは?」
椿姫,「ハルちゃんと、犯人について」
……なぜ、椿姫が、宇佐美と"魔王"の関係などに興味を持つのか。
京介,「いいや、ぜんぜん知らんよ。どうも、憎んでいるような感じはあるけどな」
椿姫,「そう……」
京介,「お前は、知っているのか?」
椿姫,「ううん、知らないよ」
京介,「気になるのか?」
うつむいて、また目を伏せた。
椿姫,「わたし……」
つぶやいた。
椿姫,「お友達だと思ってて、でも、そのお友達のこと、なんにも知らなくて、それでお友達だと思ってて……」
苦しそうに顔を歪めた。
椿姫,「そういうの、どうなんだろうって、今日は思ってたの」
京介,「…………」
いまさら、何を言ってやがるんだ、こいつは……。
京介,「……いや、椿姫はそういうところが、いいんじゃないか?」
そういう、うさんくさいところが、椿姫の個性ではないのか。
椿姫は声を張った。
椿姫,「だって、誘拐犯と知り合いなんだよ? わたしの弟をさらうような人と知り合いって、いったいどういうことなんだろ?」
京介,「おれにもわからんよ……聞いてみればいいじゃないか?」
椿姫,「聞いたけど、なんだかはぐらかされて……あ、いや、わたしの聞き方が悪かったのかな……」
京介,「おれも、一度、宇佐美と"魔王"の関係について聞いたことがあるが、なんだか話したくなさそうだったな」
椿姫,「…………」
京介,「…………」
二人して、押し黙った。
京介,「なんだよ、宇佐美が、気に入らないのか……?」
椿姫,「気に入らないなんて……そんなことないけど……」
深いため息があった。
京介,「疲れてるな、椿姫」
身代金は奪われ、弟も帰ってこない。
気が気じゃないんだろう。
京介,「ただ、別に宇佐美につっかかったところで、状況がよくなるわけでもないぞ」
椿姫,「それは、よくわかってるよ。ハルちゃんに悪いことしたな……」
京介,「…………」
おれは舌打ちをこらえ、言った。
京介,「今日は、弟たちを迎えに行ったりしないのか?」
椿姫,「え? 今日は、ないけど?」
京介,「ふうん……だったら、ちょっと、寄ってくか?」
椿姫,「寄ってく?」
京介,「買い物だよ。CD買うのつきあってくれ」
椿姫は頭をふった。
椿姫,「お父さんが心配するから、早く帰りたいの」
京介,「それもそうか……」
椿姫,「ごめんね。気晴らしになればいいと思ったんでしょ?」
京介,「…………」
椿姫,「ありがとう」
京介,「今日は、親父さんとお金の話をしたら、すぐ帰るよ」
それだけ言うと、あとはたいした会話もなかった。
;背景 椿姫の家 居間 夜
京介,「……というわけで、お父さん。いちおう借金は借金ですので……返さないことには、いろいろと困ることに……」
おれは親父さんに、土地の話をつけていた。
京介,「期限は残り一週間ですが、もともと返す当てのない借金でした。その辺の事情は通っていますので、一度ここの土地を差し押さえさせてもらうことになるでしょう」
パパ,「やっぱり、ここを出て行くことになるんだね……」
京介,「事情は、お察ししますが……」
パパ,「わかっているよ。悪いのは犯人だ。僕らに非がないように、君や、お金を貸してくれた人にもなんの罪もない」
京介,「……すみません」
おれは頭を下げる。
京介,「いちおうですね、お父さん。差し出がましいとは思っているんですが……」
京介,「事情が事情ですので、僕も、いろいろと父にかけあってみました」
京介,「そしたら、ある不動産屋が、新しい引越し先の用意をしてくれるとのことでして……もし、よろしければ、そちらに」
親父さんが目を丸くした。
パパ,「ありがたい話だけど、うちは大所帯だよ?」
京介,「そういう話もしています」
パパ,「浅井くん、君には本当に感謝しているよ」
深く頭を下げた。
パパ,「犯人が悪魔なら、君は天使だな」
大の大人が、おれみたいなガキに深々と頭を下げる。
……何も、感じなかった。
京介,「詳しい話は、直接、担当の方としてください」
おれは不動産屋の名刺を差し出した。
山王物産の傘下の不動産会社だ。
こいつらが、金を貸しつけた業者から、ここの土地を買いつける手はずになっている。
京介,「なんにせよ、これからが大変ですね」
パパ,「こんなことになるなら、さっさとこの土地を売ってしまえばよかったんだね」
……まあ、そうすれば、借金をする必要はなかった。
京介,「やむをえませんよ、犯人は五千万もの大金を一日で用意させようとしたんです」
ここの土地を売ろうと思っても、現金になるまで少なくとも一週間はかかっただろう。
パパ,「長く住ませてもらったな……ここも」
昔を懐かしむような目で、辺りを見回した。
パパ,「しかし、せめて広明が帰ってくるまでは、住まわせてもらいたいものだね」
一週間以内ということだな。
京介,「なんというか、ちょっとほっとしています」
パパ,「なぜだね?」
京介,「家を出て行く決心をしてくださったようで」
親父さんは首を傾げる。
京介,「ああ、いえ……差し押さえられた土地に居残っていたら、たいへんなことになりますしね」
ふと家に帰ったら、家財道具をすべて外に出され、玄関には差し押さえの札が貼ってある。
寒空のなか、どこへ行けというのか……。
おれは、嫌な思い出を振り払うように、頭を振った。
京介,「それじゃ、たいしてお役に立てませんで……」
パパ,「もう帰るのかい? おーい、椿姫」
奥の部屋に声をかけた。
椿姫,「なあに、お父さん」
京介,「もう、帰るわ」
椿姫は、下の子供二人を従えていた。
ちろ美,「お姉ちゃん、おなかすいたー」
椿姫,「うん、もうご飯作るね」
椿姫,「浅井くん、帰るの?」
孝明,「お姉ちゃん、さっきのお話の続きしてよー」
椿姫,「ふふっ、いい子にしてたらねー」
子供たちは椿姫の足にまとわりついていた。
椿姫,「浅井くん、なんかごめんね、たいしてかまえなくて」
京介,「いや、もともと、親父さんに会いに来たわけだし」
ちろ美,「お兄ちゃんも、おままごとする?」
京介,「はは……」
しかし、椿姫家の子供たちは人見知りしないな。
だから、誘拐犯にも素直についていったんだろうか。
京介,「……そういえば、お母さんは?」
気になって、帰る足が止まった。
椿姫,「あ、ちょっと、体調悪いみたいで」
京介,「寝てるのか?」
椿姫はうなずいた。
京介,「お大事にと伝えてくれ。それじゃ……」
椿姫,「じゃあね、また来てね」
カレシ、またねー、と子供たちの小鳥のような声も追随した。
椿姫,「さあさ、ご飯にするよー!」
去り際、とびきり明るい声が家中に響き渡った。
;背景 椿姫の家 概観 夜
ハル,「うわっ!?」
京介,「おっ!?」
玄関を出ると、不意に、髪の毛の束にぶつかった。
ハル,「な、なんすかいきなり抱きついてきて!?」
京介,「抱きついてない。お前こそなんだ」
ハル,「椿姫の家に行くって、言ってたじゃないすか?」
京介,「ん?」
ハル,「え?」
京介,「……ああ、そうだったな。ギャグかと思ってた」
ハル,「浅井さんは、どうもわたしのことを軽んじてますね」
じっとりとした目つきだった。
京介,「椿姫の家に来るにしても、ちょっと時間遅くないか?」
ハル,「いやだから、遅くなるかもって言いましたよ」
京介,「だから、こんな時間までなにしてんたんだ? アルバイトか?」
ハル,「いえ、アルバイトはしばらくいれないようにしています」
京介,「ふうん、なんで?」
ハル,「いろいろと調べたいことがありまして」
京介,「調べるって……まさか、事件のことか?」
ハル,「はい」
当然のことのように言った。
京介,「そんなもん、警察に任せておけよ」
ハル,「警察には連絡していないそうじゃないですか」
京介,「だからって、なんでお前が……?」
ハル,「気が済むまでやりたいだけです」
……まあ、犯人を捕まえようとか言い出して、けっきょくなにもできなかったわけだからな。
京介,「なにを調べてたんだ?」
ハル,「広明くんの消息です」
京介,「んで、なにかわかったのか?」
ハル,「いいえ」
京介,「きっぱり言うなよ」
ハル,「すいません」
ダメだな、こいつは。
ハル,「犯人が、広明くんを連れ去ったであろう場所は特定できました」
京介,「そんなもん、保育園から、この自宅までのどこかに決まっているじゃないか」
ハル,「おっしゃるとおりです。今日は、ずっとその道を行ったりきたりして、たまにすれ違う人にお話をうかがってました」
京介,「つまり、目撃者をさがしていたわけだな?」
ハル,「はい」
京介,「いたのか?」
ハル,「さっぱりです。白いセダンを見ませんでしたか、と何度聞いたことか」
京介,「白いセダンだって?」
ハル,「ええ、先日、南区の住宅街に停まっていた車です。椿姫はそこに呼び出されました」
京介,「お前は、その一部始終を見てたのか?」
ハル,「はい。あとから聞いた話だと、"魔王"は、椿姫とドライブするつもりだったとか」
京介,「そんなことはいい。車のナンバーとか覚えていないのか?」
ハル,「覚えていますよ、もちろん」
京介,「だったら、ナンバーから所有者を調べる方法はある」
ハル,「陸運局ですか?」
京介,「いや、それより確実に調べてくれる業者がネット上にある。軽自動車やバイクでも調べてもらえるんだ」
ハル,「しかし、"魔王"も当然、車から足がつく可能性を想定しているはずです」
京介,「まあ、盗難車だったら、ナンバーをごまかすこともできるしな」
ハル,「ええ……ですので、調べてはいません」
うつむいて、目を閉じた。
宇佐美は、いつも鬱々としているだけあって、落ち込んでいるような表情には見えなかった。
京介,「ところで、お前は、犯人がどうやって身代金を奪ったのか、もうわかっているのか?」
ハル,「…………」
京介,「なんだよ、だんまりかよ」
すると宇佐美は眉をしかめた。
ハル,「もし、わかったとしてなんになるのかな、と思いまして、ふとむなしくなりました」
京介,「え?」
ハル,「すいません、逆ギレみたいで」
京介,「いや、わけわからんぞ」
ハル,「ですから、もう、身代金は奪われたんです。わたしは探偵さんではないんです。犯行の手口を暴くことに、それほど意味があるとは思えないんです」
京介,「それはそうだが……興味はわくだろ?」
ハル,「いまは、椿姫の弟さんを探すのに全力を尽くしたいんです」
宇佐美は、どうも頑ななところがあるな。
要するに、犯人の手口もわかっていないってことだろう。
少しは頭の鋭いヤツかとも思っていたが、実際はただの変な女だったわけだ。
ハル,「浅井さん、よかったら協力してもらえませんかね?」
京介,「いきなりなんだ?」
ハル,「もちろん、広明くんを探すことを、です」
一瞬、回答に戸惑った。
京介,「いいぞ……」
京介,「もとより、椿姫を助けてあげたいしな」
なんにしても、弟が返ってこなければ、今度こそ、椿姫の一家は警察を頼るだろう。
警察のメスが入ったら、浅井興業が、今後、山王物産からどんな圧力を受けることになるかわからん。
カイシャの力を使ってでも、広明くんを探すとするか……。
京介,「おれなんかが、何の役に立てるかわからんから、期待はしないでくれ」
ハル,「いえいえ、浅井さんは、かの浅井興業の御曹司じゃないですか?」
さらりと言った。
あまりにも、虚をつくような言い方だったので、危く聞き逃すところだった。
京介,「……なんだって?」
おれの問いかけを宇佐美は無視した。
ハル,「お父さんは、浅井権三さんという名前ですよね?」
京介,「…………」
答えるべきか答えないべきか……けれど、沈黙が答えになってしまった。
京介,「なんで知ってる?」
逆に聞き返すと、宇佐美は急におろおろしだした。
ハル,「わたしは浅井さんのことが好きなので、浅井さんのことはなんでも知りたいんです」
京介,「きもいんだよ。ざわざわするようなこと言うな」
ハル,「ざわざわ、すか。いただきました」
あまりの気持ち悪さに、顔をしかめた。
ハル,「あの、学園の先生にちょっと聞いただけですが、そんなに気持ち悪かったですかね?」
京介,「人に探りを入れるような真似をして、よくもそんな、ひょうひょうとした態度でいられるな」
ハル,「別に、探りを入れよう、などとは思っていなかったんですが……そんなに、触れてはいけないステータスだったんすか?」
……言われてみれば、そこまで腹を立てるようなことでもないか。
本当に知られたくないのは、浅井興業でのおれの立ち位置だ。
京介,「人には言うなよ?」
ハル,「言う気もありませんが、なぜです?」
京介,「おれは、目立つのは嫌いなんだ」
昔からそうだ。
おれには影でこそこそするのが似合ってる。
ハル,「なんか、すいません」
宇佐美が、じっと見ていた。
ハル,「そして、協力していただけるようで、ありがとうございます」
京介,「しかし、お前も変なヤツだな?」
ハル,「はい?」
京介,「お前は、もう、広明くんはこの世にいないもんだと考えているんだろう?」
ハル,「その可能性が高いとは思っています」
京介,「なのにどうして探そうとするんだ?」
ハル,「可能性が高いというだけで、絶対ではありませんから。人の命がかかっています。絶対ではない以上、懸けなければならない可能性が残っています」
京介,「懸けなければならない、か……」
おれは少しだけ感心していた。
京介,「お前は、もっと合理的なヤツかと思っていたがな」
ハル,「そすか?」
京介,「まあいい。とにかくおれは、帰るぞ」
ハル,「あ、じゃあ、携帯電話の番号を交換しませんか?」
京介,「交換? お前も買ったのか?」
ハル,「はい。さすがに、契約しました。1円ケータイですが」
不便さに気づいたか。
おれたちは、お互いに番号を交換し合った。
ハル,「これあれですよね、恋人登録みたいなことすると、お互いの通話料が安くなるサービスありましたよね?」
また気持ち悪いことを……。
京介,「あるにはあるな」
ハル,「ぜひお願いしたいんですけど?」
京介,「ええっ……」
ハル,「いや、変な勘違いなさらないで下さい。自分、男性の友人がいませんで、それでもお金は乏しいわけでして、これはつまり、浅井さんに一肌脱いでもらうしかないわけです、はい」
京介,「わかったよ、気持ち悪いな……」
ハル,「すみませんね。だからって、たくさん電話したりしませんから」
頼むから、くだらん用事でかけてくるなよ……。
京介,「じゃあな……」
ハル,「はい。自分は、これから椿姫と、椿姫のお父さんにいくつか聞きたいことがありますので」
おれは椿姫の家をあとにした。
…………。
……。
;黒画面
;SE 携帯。
京介,「なんだ、宇佐美!?」
ハル,「あ、つながった」
京介,「あ?」
ハル,「自分、携帯電話とか持つの初めてでして。はあ、なんだかドキドキしますね、マイケータイは」
京介,「はあっ?」
ハル,「あ、とくに用事はないです。つながるかな、とドキドキしたかっただけです」
うぜえわ、こいつ……。
…………。
……。
;ノベル形式
また、嘘をついた。
 家族と学園の友達を裏切ってしまったような気持ちが胸を締めつける。
椿姫,「本当に、これで、弟を返してもらえるんですか?」
犯人――"魔王"は、昨日の夜、椿姫に一つだけ命じた。
椿姫,「言われたとおりに、ハルちゃんに、昨日の話をしました」
すなわち、ハルと"魔王"の関係と、なぜハルは身代金を渡そうとしなかったのか。
魔王,「どう、思った?」
不意に、"魔王"が問う。
椿姫,「どうって」
椿姫は言葉に詰まった。
椿姫,「嫌でした……」
"魔王"は、椿姫の背後で、身じろぎした。
魔王,「宇佐美は、お前が納得いく答えを口にしたか?」
椿姫,「納得?」
魔王,「はぐらかされたのではないか?」
椿姫は学園での朝の会話を思い起こしていた。
椿姫,「ハルちゃんが、身代金を渡そうとしないのは、ハルちゃんなりに、理由があってのことで、それは理解できました」
魔王,「私との関係は?」
椿姫,「それは……」
椿姫は膝の上に置かれた手に、まなざしを落とした。
椿姫,「言いたくないことの一つくらい、あると思うんです」
魔王,「いい答えだ」
あざ笑うかのように言った。
魔王,「しかし、宇佐美が怖くはないのか?」
椿姫,「怖い?」
魔王,「私のような卑劣な凶悪犯と、知り合いなのだぞ?」
ごくり、と喉が鳴った。核心を突かれたような気がした。それは、今日の夕方からずっと心にしこりを作っていた懸念だった。
 ただ、怖い、とまでは思わない。ハルは、椿姫のために、懸命に動いてくれた。結果的に身代金は犯人に盗られてしまったが、必死さは伝わっていた。理屈ではなく直感で、椿姫はハルを信じていた。
魔王,「椿姫、人を疑わないというのは、相手を軽んじているのも同じだぞ」
椿姫,「なぜですか?」
魔王,「相手に深い興味を持てば、疑うものなのだ。お前は人を疑わないことで、人間関係のわずらわしさから逃げているにすぎない」
椿姫はまた大きな不安に駆られた。どうして背後の男は、椿姫の心を見透かしたようなことを口にするのか。
魔王,「お前のような一見優しいようでいて、実は、なにも考えていないだけの人間を、なんというか知っているか?」
椿姫,「……偽善ですか?」
そのとき、"魔王"の声がいっそう重く響いた。
魔王,「『坊や』だ」
"魔王"は冷たい声で続けた。
魔王,「子供は、親が親というだけで信じる。お前もそうだ。お前も、友人が友人というだけで信じる」
返す言葉が見当たらなかった。胸騒ぎがする。この不敵な人物のささやきをこれ以上聞いてはならないと、警鐘が鳴っていた。
椿姫,「そ、それより、言うことは聞いたんですから、弟を早く返してください」
必死になって話題をそらそうとした。
椿姫,「どうしても返さないっていうんなら、警察に、通報しますよ?」
広明のことを想うと、当惑した気分がひいて、熱意が沸いてくる。
魔王,「警察は、許して欲しいな」
椿姫,「え?」
魔王,「なあ、椿姫。私にだって、深い事情があるのだ。何も好き好んで五歳の少年を誘拐したと思うか?」
椿姫,「それは……」
椿姫は頭を振った。一瞬だけ、犯人に同情めいた気持ちが浮かんだ。下腹に力を入れて、"魔王"に言った。
椿姫,「どんな事情があっても、決して、やってはいけないことはあると思うんです」
魔王,「最もな言葉だ。身に染みる」
椿姫,「だ、だったら、もう、こんなことはやめにしませんか?」
魔王,「やめる?」
椿姫,「広明さえ返してもらえれば、警察には連絡しませんから。もともとそのつもりでしたから」
言いながら、ちょっと違うとも思った。たしかに警察は頼らなかったが、ハルには犯人を捕まえてもらおうとしたのだ。いま思えば中途半端な態度といえた。
 そんな椿姫の逡巡を見透かしたのか、"魔王"が言った。
魔王,「やってはいけないことはある。ただ、それを承知の上でなお、やらねばならないこともあると、私は思うが」
椿姫,「そういうお話は、もうけっこうです」
魔王,「では、話題を変えて弟の話をしよう」
思わず、振り向いてしまいそうになった。
椿姫,「ひ、広明? 広明は、無事なんですね?」
魔王,「宇佐美はどうも死んだことにしたいらしいが、ちゃんと生きている。監禁しているとはいえ、食事もきちんと取っているし、部屋もしっかりと暖めている」
その言葉に、張り詰めていたものが抜けた。安堵のため息が口から出て、空中で白い霧になった。
魔王,「私は子供が好きだ。昨日は、暇を見つけて、小さな玩具を与えてやった。弟は喜んでいたぞ。人懐っこい少年だな、あれは」
椿姫,「そう、そうですか……」
涙をこらえた。希望に胸が膨らみ、すべてが解決したような気分になった。
魔王,「返して欲しいか?」
返事をしようとしたが、声にならなかった。
 ――会いたい。
魔王,「なら、私の言うことを聞けるな?」
悪魔が笑った。
 声には誘うような、けれど決して拒絶できない響きがあった。
 椿姫は、奈落の縁に立たされているような倒錯した気分になったが、それも一瞬のことだった。
 厚い雲が十一月を迎えた夜空を覆い、深い闇を運んできた。
;背景 京介の部屋 昼
……。
…………。
朝起きて、牛乳を飲みながら新聞を読む。
――『自由ヶ咲学園に捜査のメス』
見出しを見て、納得がいった。
賄賂を渡した疑い……。
どうも、学園の拡張工事を巡って理事長と業者の間で、不正な取引が交わされているらしい。
そりゃあ、株も下がるってもんだ。
京介,「……白鳥か」
あいつも、家庭では大変なのかもしれないな。
おれには関係ないし、どうでもいいが。
;背景 学園概観 昼
栄一,「京介、今日のニュース見たか?」
京介,「ああ、なんか大変そうだな」
栄一,「まったくだよ。まさかあの女優が結婚するなんてなー」
京介,「……ああ、そっち?」
よく考えれば、栄一が白鳥建設の記事なんて読むわけがなかったな。
学園の運営がどうなろうと、おれたちの毎日に変化はないだろう。
椿姫,「おはよー」
挨拶をする椿姫の顔色は、あまりよくなかった。
栄一,「昨日、夜更かししてゲームしてたの?」
椿姫,「え? ゲーム?」
栄一,「あれ? ネットゲームするとか言ってなかった?」
椿姫,「あ、ああ……うんうん」
……なにを隠しているんだろうな。
京介,「お前、学園とか無理して来なくてもいいんじゃないのか?」
椿姫,「うん……本当なら、休ませてもらいたいんだけどね。今日は、生徒会の仕事もあるし」
京介,「強いなあ、椿姫は」
椿姫は頭を振った。
椿姫,「忙しくして、いろいろと嫌なことを紛らわせたいだけだよ」
栄一,「あー、その気持ちわかるなあ」
京介,「なに悟ったような顔をしてんだよ」
栄一,「いたっ! ひどーい! 京介くん!」
おれたちのやりとりに、椿姫の頬に赤みが差した。
;背景 廊下 昼
椿姫と二人で教室に向かっていると、意外にも白鳥に出くわした。
京介,「よう……」
椿姫,「おはよう、白鳥さんっ!」
水羽,「おはよう」
白鳥は、おれには視線を向けない。
京介,「たいへん、みたいだな?」
水羽,「なにが?」
京介,「新聞、見たよ」
言うと、白鳥は腕を組んだ。
水羽,「別に、前々からわかってたことだし」
椿姫,「え? 新聞? なあに、どうかしたの?」
どうやら椿姫も事情を知らないらしい。
水羽,「わたしの父が贈収賄の疑いで警察に捕まりそうなの」
他人事のように言った。
椿姫,「え……」
水羽,「だからって、みんなの毎日には影響ないから安心して」
椿姫,「…………」
水羽,「それじゃ」
教室に足を向けた。
椿姫,「待って!」
水羽,「っ……!?」
突如、椿姫が水羽の手を取った。
椿姫,「ご、ごめん、いきなり」
水羽,「なんなの?」
椿姫,「ううん、なんとなく……」
水羽,「同情してくれるの?」
椿姫,「ごめん、なんていうふうに声かけていいかわからないけど……」
水羽,「……そう、ありがとう」
椿姫の手を振りほどいて、今度こそ教室に入っていった。
椿姫,「浅井くん、詳しい事情知ってるの?」
救いを求めるようなまなざし。
京介,「簡単にいうと、白鳥の親父さんが、この学園の拡張工事にあたって、一つの業者だけを優遇してたんだよ」
椿姫,「それって、たしかなことなの?」
京介,「新聞がそう言っているんだから、そういう事実はあったんだろうさ」
椿姫,「……そうなんだ」
浮かない顔をしている。
京介,「それで、お前らが用意した白鳥建設の株だけど、それもとんでもなく値下がりしているんだ」
椿姫,「うん?」
京介,「だから、犯人が奪った株券にはもう、ぜんぜん価値がないってことだよ」
おれは、暗に、椿姫家の不幸を説いたつもりだった。
たとえ株券が戻ってきたとしても、もう五千万の現金は戻ってこないのだ。
けれど、椿姫はただ、白鳥のことを案じるだけだった。
椿姫,「白鳥さん、お父さんのこと信じてるのかな……」
京介,「は?」
椿姫,「家族がたいへんな目にあって、なんかかわいそうだなって……」
京介,「お前が言うなよ……」
椿姫,「え?」
京介,「おれから見れば、お前のほうが不幸だよ」
椿姫,「……それはそれ、だよ」
京介,「まったく、よく人の心配をしている余裕があるもんだ……」
椿姫,「余裕なんてないよ。ただ、白鳥さん、寂しそうだな、と思ったの」
そういうのを余裕っていうんじゃないのかねえ……。
おれたちは教室に入った。
;背景 屋上 昼
昼休みのことだった。
屋上に出て、ミキちゃんと電話をしていた。
ハル,「浅井さん、ちょっとお話したいんですが」
パンを買いに行こうと思っていたところを呼び止められた。
京介,「広明くんのことか?」
ハル,「もちろん」
京介,「なにかわかったのか?」
宇佐美は、昨日、おれと別れて椿姫の家に行ったんだったな。
ハル,「ちょっと二人で話をしたいんですが」
屋上にはやがて花音や栄一もやってくる。
京介,「わかった。教室に行くか?」
ハル,「ええ……」
;背景 教室 昼
京介,「で、なにか手がかりでもつかんだのか?」
ハル,「手がかりというほどでもありませんが……」
京介,「なんだ?」
ハル,「写真です」
京介,「写真?」
ハル,「犯人から送られてきた写真です」
京介,「ああ、そういえば、髪の毛といっしょに送られてきたんだったな」
あのときは、髪の毛にばっかり意識がいっていたな。
ハル,「昨日、椿姫の家にお邪魔して、もう一度詳しく見せてもらったんです」
京介,「どんな写真だったんだ? 当然、広明くんが写っている写真なんだろうが」
宇佐美はうなずいた。
ハル,「問題は、広明くんの居場所です」
京介,「写真から手がかりがつかめたのか?」
あいまいに首を振った。
ハル,「どうも、どこかの廃屋ではないかと思っています」
京介,「詳しく説明してくれないか。おれはその写真を見ていないんだ」
ハル,「まず、写真はかなり鮮明なものでした。広明くんの顔がアップで写されていました」
京介,「どんな顔をしていた?」
ハル,「寝ていました」
京介,「広明くんは、床に横になって寝かされていたんだな?」
ハル,「おっしゃるとおりです」
京介,「時間は?」
ハル,「夜か、もしくは窓のない室内でしょう」
京介,「監禁場所は暗かったんだな」
ハル,「フラッシュをたいて撮られた写真でしたね」
京介,「それで、どうして廃屋だと?」
ハル,「床に寝かされた広明くんの周りには小石やガラス片が散乱していました。さらに顔のそばに倒れた書棚のようなものが見えました」
京介,「書棚?」
ハル,「はい。書類のようなものが散乱していました」
京介,「全体的に薄汚れた感じだったわけだな?」
ハル,「薄汚れた、というよりモロ廃墟という印象でしたね」
宇佐美はそこで一息ついた。
ハル,「さらに、わたしが廃墟だと考える理由は、広明くんの顔です」
京介,「顔?」
ハル,「顔のあちこちに、虫さされのあとがあったんですよ」
京介,「なるほどな」
ハル,「椿姫のお父さんに聞いたんですが、誘拐された日まで、広明くんの顔に腫れ物なんてなかったそうです」
京介,「いや、言いたいことはわかるぞ。いまは冬だからな」
ハル,「はい。あちこち刺されてましたよ」
京介,「この時期にそんな大量のやぶ蚊が出るってことは、広明くんは、人の手の入っていない、それこそ山奥の廃墟にでも監禁されてるのかもしれないな」
ハル,「まあ、もちろん、確信に至っているわけではありませんが、闇雲に探すよりは、いいかなと思っています」
京介,「なかなかいい線を突いているんじゃないか?」
ハル,「五歳の子供を監禁する場所として、人気のない場所を選ぶというのは妥当だと思います」
京介,「そうだな。住宅街だったら、出入りの際に、近隣住民に見られるかもしれないからな。人質を連れて家を出るときに、近所のおばちゃんに見られた……なんてことは犯人も、回避したいだろう」
ハル,「さらに、人質が泣き喚く可能性もありますからね。まあ、何か噛ませて口は封じるのかもしれませんが……」
京介,「まあ、言いたいことはわかった」
おれはため息をついて言った。
京介,「で? おれといっしょに廃墟を探検しようっていうチキチキツアーのお誘いか?」
;ハル、ふーんという顔。
ハル,「チキチキツアーて」
なんか知らんが、盛大にスベったことになったらしい。
ハル,「すみません。そういうチキチキなお誘いです」
京介,「うるせえな。本気で言ってるのか?」
ハル,「本気ですとも」
京介,「お前、この市内だけで、いわゆる廃墟と呼ばれる物件がどれだけあると思ってるんだ?」
ハル,「どれぐらいあるんですかね?」
京介,「……いや、詳しくは知らんけど、五十件以上はあるんじゃないか?」
ハル,「ほほう、一日二件回るとして、だいたい一ヶ月ですね」
京介,「ほほうじゃねえんだよ。一ヶ月も見つけられなかったら、さすがに……」
言いよどむ。
ハル,「ええ。犯人が、一ヶ月も人質を生かしておく理由はないと思います」
京介,「はっきり言うなよ」
ハル,「よくて一週間でしょう。そういう統計もあります。それまでに人質が解放されなければ、最悪の事態が待っています」
宇佐美は淡々と語る。
京介,「いまふと思ったんだが、お前が頑なに、人質がもう返ってこないと主張してたのは、写真が届いたからか?」
宇佐美は深くうなずいた。
ハル,「犯人は、どうして写真を送りつけてきたのか。それはもちろん広明くんを誘拐したことを被害者に証明するためです」
京介,「だが、それだけなら電話口に立たせて声を聞かせればいいからな」
ハル,「はい。電話のほうが、写真を残すよりは、犯人にとってまずい証拠を残さずに済みます。それをあえてしないということは……」
京介,「広明くんは、もうすでに電話ができない状態だったということだな」
ハル,「あくまで推測ですがね。裏をかかれているのかもしれませんし」
京介,「そうだな。写真を撮った場所が、広明くんがいまも監禁されている場所ということにはならないからな」
ハル,「それでも、なにもしないよりはいいと思いまして」
京介,「しかしなあ……」
ハル,「乗り気じゃないんですか?」
京介,「富万別市だけで五十件以上だぞ?」
ハル,「はい。他県の廃墟なのかもしれませんしね」
おれが渋い顔を作っていると、宇佐美は不意に背筋を伸ばした。
ハル,「五十件以上とは言ってもですね、浅井さん……」
京介,「なんだよいきなり胸を張って……」
ハル,「広明くんが監禁されている可能性が高い物件から優先的に回っていきます」
京介,「可能性が高い物件?」
ハル,「やぶ蚊の出るような山林があって、人気がない場所です」
京介,「山はともかく、廃墟ってのはもともと人気がないだろうよ」
ハル,「いいえ、浅井さん。誘拐事件の人質を隠すような場所です。可能性の話でいえば、珍走団やホームレスの方も近づかないようなレアな廃墟なんじゃないでしょうか」
京介,「そうか……そうだな。おれが犯人だったら、そういう場所を選ぶかな」
よく知らないが、廃墟というのは、暴走族の溜り場であったり、行き場のないホームレスが生活していたりすることもあるらしい。
ハル,「一日二件。三日もあれば、広明くんを発見する確率は十パーセント以上になります」
京介,「ふむ……」
ハル,「道端で突然ペンギンと出くわすより高い確率です。当たり前の話ですが!」
京介,「お前がそんなポジティブなキャラだとは知らなかったな」
ハル,「とにかく、探してみます」
京介,「……わかったよ」
根負けした。
ハル,「じゃあ、早速リストアップしてもらっていいですかね?」
京介,「廃墟情報を、か?」
ハル,「無理すかね? 神でも」
京介,「神? ああ……おれと栄一のギャグね」
廃墟の情報か……。
どうやって調べたものやら……。
いくつかはインターネットや書籍で調べるとして……。
あとは、浅井興業のなかで暴走族上がりの人間に話を聞いてみたり……。
京介,「とりあえず、家に帰ってからだな」
ハル,「じゃあ、自分も浅井さんの家にお邪魔します」
京介,「ええっ!?」
おれが露骨に嫌な顔をしたそのとき、椿姫が顔を見せた。
椿姫,「あ、二人ともここにいたんだ」
京介,「ああ、ちょっと宇佐美と話し込んでるんだ」
椿姫,「へえ……」
椿姫は宇佐美をちらっと見て、少しだけ顔を強張らせた。
椿姫,「なんの話? わたしもまぜて」
ハル,「なんやかんやあって、わたしが、今日の放課後、浅井さんの家にお邪魔するということになったんだ」
椿姫,「えっ!?」
京介,「いや、ちょっと待てよ……」
クラスメイトは部屋に入れたくない。
ましてや宇佐美ならなおさらだ。
ハル,「浅井さん、きのう約束したじゃないですか」
京介,「約束って……」
椿姫,「…………」
広明くんを探すのに協力するっていうアレか。
ハル,「電話番号まで交換した仲じゃないですか」
椿姫,「え? そうなの?」
ハル,「うん。わたしの初コールが浅井さんだった」
椿姫,「……へえ」
京介,「本当に、うっとうしいヤツだな……」
頭をかきむしった。
悩んでいるところに、教室の外から声が上がった。
女教師,「美輪さん、いますか!?」
ノリコ先生だった。
なにやら慌てている様子だった。
椿姫,「はいっ!?」
返事をして戸口へ向かう。
ノリコ先生は青い顔で、椿姫に何か話していた。
ハル,「なんすかね?」
しばらくして、椿姫が戻ってきた。
椿姫,「ごめんっ」
椿姫もまた、険しい表情になっていた。
椿姫,「わたし、早退するね」
京介,「なにがあったんだ?」
椿姫,「お母さんが、倒れたって……いま、病院にいるって」
京介,「…………」
そういえば、ここ最近、体調を崩して寝込んでいたんだったな。
京介,「なんていう病院だ?」
おれは努めて冷静に言った。
椿姫,「えっと……」
椿姫が口にした病院の名を聞くと、それは東区にある総合病院だった。
京介,「わかった。ならタクシーが早い」
椿姫,「えっ、タクシー!? 乗ったことないよ!?」
京介,「いま呼んでやる。金も貸す。五千円もあれば着く」
椿姫,「そんな、悪いよ……!」
京介,「気にするな。急いでるんだろ?」
椿姫,「……っ」
財布から五千円札を取り出し、椿姫に差し出す。
同時に携帯を操作して、タクシー会社を呼び出した。
椿姫,「浅井くん、ごめん……」
椿姫がおろおろしているうちに、通話は終わった。
京介,「五分で来るそうだ。校門前で待ってろ。行き先も言ってある」
椿姫,「浅井くん……」
京介,「なんだ、泣きそうな顔しやがって……」
椿姫,「ありがとう。本当に、ありがとうっ」
椿姫は、五千円札を握り締め、走って教室を出ていった。
その後姿を見送っていると、宇佐美がぼそりと言った。
ハル,「かっちょいいっすねえ、浅井さん」
京介,「ん?」
ハル,「浅井さんは、ホント、頼りになるというか、なんというか……」
京介,「ボンボンだからな」
ハル,「友達想いですねえ、ホント」
京介,「別に、普通だろ」
何を勘違いしているのか。
今回の山王物産との取引は、椿姫のおかげでたんまり儲けさせてもらったんだ。
ちゃんと、恩は返さないとな。
ハル,「では、当然、椿姫の弟さんを探すのにも協力していただけるわけですよね?」
京介,「……それは、もちろんだが、お前がおれの家にくるってのはなあ……明日じゃまずいのか?」
ハル,「広明くんの発見が遅れれば遅れるほど、まずいことになるとおわかりでしょう?」
……なんだかやり込められているような気がするな。
京介,「わかった。ただ、知りたい情報を調べたらすぐに帰れよ」
夜中には予定が入っているんだ。
ハル,「ありがとうございます」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
……まあいいか。
宇佐美と"魔王"の関係をそれとなく探る機会かもしれんな。
;背景 マンション入り口
ハル,「いやあ、うわさには聞いてましたが、とんでもなく高いマンションですねー」
マンションを見上げる宇佐美は、目と口を大きく開けて嘆息した。
ハル,「浅井さんって、すごいですねー」
京介,「おれじゃなくてパパがすごいんだよ」
キーを挿し込んで、オートロックの玄関をあけた。
ハル,「こんなところに一人で住んでるんですか?」
京介,「文句あるか?」
ハル,「ありますよもちろん、ひがみますよもちろん」
京介,「うるさいヤツだなあ……」
おれたちは玄関をくぐって、エレベーターに乗り込んだ。
;背景 主人公自室 夕方
ハル,「お邪魔します」
京介,「先に言っておくが、勝手に物に触れるなよ」
ハル,「広いっ……何畳くらいあるんですか、コレ?」
京介,「百五十㎡くらいだ。きょろきょろしてないで、その辺に座ってろ」
ハル,「眺めも最高じゃないですか。こんなところに女性を連れ込んでいったいどんな邪悪なことをしてるんですか?」
落ち着きなく室内を歩き回る宇佐美だった。
京介,「……コーヒーでいいか?」
ハル,「ありがとうございます。あ、金庫だ。へえ、お金貯めてるんですか?」
宇佐美が指差した金庫には五千万入っている。
京介,「まあ、それなりに金は貯めてるよ」
ハル,「浅井さんってアルバイトしているわけじゃないですよね?」
京介,「パパの仕事を手伝って、それで小遣いをもらってるよ」
ハル,「なんにしても、真面目にお金を貯めてらっしゃるんですね?」
京介,「どうしてだ? おれが、金を貯めてるって?」
問い詰める。
京介,「こんなクソ高い家賃の部屋に住んでいるおれが、金を貯めてるってのは、おかしいんじゃないのか?」
ハル,「いやまあ、なんとなくそう思っただけですけどね」
言って、家具に目を向けた。
ハル,「部屋自体は、とても高いんでしょう。ただ、ソファやテーブルなんかは、実は安物なんじゃないんですか?」
京介,「……よくわかったな」
ハル,「自分、リサイクルショップとかよく行ってましたんで。見かけた品があるな、と思ったんです」
京介,「たしかに、家具だけじゃなくて、食器とか家電もたいてい安物だ」
総和連合のバッタ屋から安く買ったものばかりだ。
もらい物も多い。
ハル,「浅井さんは、洋服もたくさんもっているみたいでオシャレですし、お部屋もこんなに立派です。車も持っているんですか?」
京介,「ああ……駐車場は地下にある」
会社名義の車だがな。
ハル,「失礼なことを言わせていただきますと、浅井さんは、なんだか見栄を張るためだけにお金を使っていて、普段はとても質素な方なんじゃないですか?」
京介,「部屋に上げたら、いきなりおれの性格分析かよ」
ハル,「すみません。つい気になってしまいまして」
京介,「ったく……」
しかし、宇佐美の言うことはだいたいあたっている。
見てくれは豪華な生活だった。
それは、権三の命令でもある。
金は貯めたい。
おれには父の残した二億の借金があるのだから。
ただ、外面には気を使わなければならない。
家、車、服。
義理とはいえ、園山組四代目組長の息子が、なめられるような格好をしていられるわけがない。
権三を通して、見せ金の力というものを、嫌というほど思い知らされた。
腕に巻いている時計、持っている車、住んでいる部屋の広さ……そういったものが、そのまま人間の価値につながる闇社会。
京介,「でも、たぶん、おれはお前よりはいいもん食ってるぞ」
ハル,「そうでしょうねー」
京介,「CD買ったり、椿姫と喫茶店入ったりと、散財もけっこうしてるしな」
ハル,「それもそすね。質素はいいすぎでしたね」
ちょこんと頭を下げた。
ハル,「いやあ、わたし、てっきり、浅井さんには何か事情があって、お金を稼ぎまくっている好青年かと思いましたよ」
京介,「はは……四畳半の部屋で共同風呂に共同トイレ。まさに爪に火を灯すような生活をして、病床の母親の借金でも返すってか……?」
馬鹿馬鹿しい話だ。
百や二百ならともかく、そんな生活をしている人間が億単位の借金を返せるわけがないのだ。
金は使わなければ入ってこない。
おれは重ね重ね、自分に言い聞かせている。
借金は必ず返す。
だが、みすぼらしいのはごめんだ、と。
清貧という言葉をなじらなければ、どこかの知った風な顔をした連中に哀れみのまなざしを受ける。
そういう屈辱は、もう味わいたくない。
ハル,「それで、本題ですけど」
京介,「ああ、ちょっと、書斎でいろいろ調べてみるわ」
ハル,「じゃあ自分も」
京介,「お前はここで待ってろ」
ハル,「え? じゃあ、自分はなにしにお宅にお邪魔してるんですか? いっしょに調べましょうよ」
京介,「廃墟関連の資料をネットで漁って、印刷して持ってくる。お前はそれに目を通しておけ。その間におれは、他の資料を検索する」
ハル,「ああ、なるほど。そういう役割分担ですね」
おれはただ、宇佐美を書斎に入れたくなかっただけだ。
パソコンのなかには、見られたくないデータがたくさんあるからな。
ハル,「じゃあ、さっそく……」
おれは宇佐美を置いて書斎に入った。
;黒画面。
……。
…………。
一時間ほど過ぎて、おれたちはリビングで額を寄せ合っていた。
;背景 主人公自室 夜
いつの間にか、日も暮れている。
京介,「こうしてみると、廃墟ってかなりあるんだな」
戸建ての廃屋も多いが、遊園地やホテル、変わったのになると軍の施設なんてのもあった。
宇佐美も、おれが印刷した資料を眺めていた。
ハル,「この旅館、温泉旅館といって、温泉が出なかったみたいですね。シュールですわぁ……」
だから、潰れたんだろうな。
京介,「この市営住宅跡を見ろよ。廃墟っていうけど、意外にも、街中にあったりするんだな」
ハル,「ですね。そういうのは、後回しにしていいと思います」
人の寄り付くような廃墟に、犯人が人質を隠しているとは考えにくい。
ハル,「はい、というわけで、浅井さんにお願いしたいことがあるんです」
京介,「なんだいきなり?」
ハル,「いくら廃墟でも、勝手に侵入するのは、まずいですよね?」
京介,「ああ……そうだな、つい忘れていたが」
廃墟だって管理者がいるわけで、黙って入れば立派な犯罪だ。
ハル,「いまから当たってみたい廃墟をリストアップしてみました。ですので、浅井さんのお力で、管理者に連絡を取ってみてもらえませんか?」
京介,「そうきたか……」
ハル,「無理ですかね?」
京介,「いやまあ、聞いてみないことにはなんともいえんけど……」
なんと言って了承を得ればいいんだ?
五歳の子供が監禁されているかもしれないので……とは言えないだろう。
京介,「わかった……ちょっと待ってろ。知り合いの不動産屋をあたってみる」
おれは、宇佐美からリストをもらって、また書斎に戻った。
;黒画面
……。
…………。
不動産屋の横のつながりはすごいな。
浅井興行の名前を出して、不動産屋に問い合わせると、仲間に電話をしてすぐに持ち主を割り出してくれた。
京介,「ひとまず五件ほど確認してもらった」
ハル,「結果はどうでしたか?」
京介,「喜べ。了解してもらったぞ」
ハル,「本当ですか? それはよかった」
京介,「ああ……」
本当のところ、了承なんて得られていない。
五件のうち五件とも、廃墟の所有者が地元の金融機関で、話にもならなかった。
ハル,「浅井さん、だいじょうぶなんですよね?」
京介,「ああ、パパの関係者だっていうのが、間違いないんならって」
ハル,「そうですか。自分はそういうの疎いんで、助かりました」
五歳の子供を捜すという大義名分があるんだ。
罪の意識を感じないでもないが、ひとまず、宇佐美には黙っておくとしよう。
ハル,「んじゃあ、行ってきます」
京介,「え? いまからか?」
ハル,「善は急げと」
京介,「待てよ。ちゃんと装備を整えてからにしろよ」
調べれば調べるほど、廃墟というものは好奇心で探索できるほど安全な場所ではないということがわかった。
ハル,「軍手に防塵マスク、それから底の厚いブーツですかね」
京介,「懐中電灯もいるだろ。昼でも暗いらしいし」
ハル,「だいたい持ってます。以前、工事現場でアルバイトしていたことがありまして、そのときに一式そろえたんです」
いろんなバイトしてるんだな……。
ハル,「それじゃ、資料とかはお借りしていきます。浅井さんは来られないんですよね?」
京介,「ああ、すまん。今日はちょっと用事がある」
しかしこいつは、一人で怖くないのか?
廃墟の写真は、どれもこれも薄気味悪い。
幽霊が出るとまでは言わないが、浮浪者が住み着いていたり、野犬の群れがうろついていたりすることもあるらしい。
京介,「暇を見て、市内の廃墟をさらに詳しく探しておく。パパにも相談してみるわ」
ハル,「ありがとうございます」
軽く手を振って、宇佐美は玄関に向かった。
京介,「あ、ちょっと待て」
宇佐美は振り返って、首を小さく傾けた。
京介,「ちょっと聞きたいんだがな……」
ハル,「ええ」
京介,「お前は、犯人は"魔王"だって頑なに主張してるわけだよな?」
ハル,「それがなにか?」
京介,「"魔王"は、どうして、椿姫の弟を誘拐したんだと思ってる?」
ハル,「動機ですか?」
京介,「金目あての犯行じゃないことは、お前だってわかってるだろう?」
ハル,「いまひとつ、"魔王"の心境が理解できない部分が多いんですがね、浅井さん……」
宇佐美は一度うなずいて、話を切り出した。
ハル,「ある仮説を立ててみました」
京介,「仮説?」
ハル,「"魔王"の真の目的は、わたしを陥れることなのではないかと」
京介,「はあっ?」
さすがに顔が引きつった。
ハル,「もしくは、"魔王"は、"魔王"にとってわたしが、どの程度の脅威になりうるかを試してきたんです」
京介,「いやいや、とんでもなく自意識過剰というか……なんだそれ?」
ハル,「自分でも、変態なことを言っているのはわかっています」
おれは半笑いで言った。
京介,「なんだよ、お前と"魔王"は宿命のライバルとでもいうのか?」
ハル,「いやいや、"魔王"にとって自分なんかミジンコみたいなもんですよ」
ハル,「いや、ミジンコはいいすぎか、ゴキブリみたいなもんか」
ハル,「あ、でも、ゴキブリはかわいくないからヤダな……」
なんなんだ、コイツは……。
京介,「だったら、なんで"魔王"は……"魔王"みたいな凶悪犯が、お前みたいなミジンコを陥れようとするんだ?」
ハル,「それは……」
言いかけて、また口を閉じた。
京介,「なんだよ、そろそろ教えてくれてもいいだろ?」
ハル,「ちょっとお話できませんね」
おれは聞こえよがしに舌打ちした。
京介,「隠し事の多い女だな」
ハル,「すみません」
宇佐美はあくまで平然としていた。
なんだか、馬鹿らしくなってきたな。
権三に"魔王"を探れと命じられたものの、肝心の宇佐美がこれじゃあ、なにもわからない。
ハル,「わたしが、隠し事の多い女だということですが……」
京介,「気にさわったか? 本当のことだろう?」
ハル,「浅井さんにも、お話したくないことの一つや二つあるんじゃないでしょうか?」
京介,「なんだと?」
ハル,「浅井さん、こんなことを言うとケンカになってしまいそうで怖いんですがね」
ハル,「浅井さんのお人柄は、どうにもつかめません」
京介,「どうつかめないって言うんだ?」
ハル,「あなたは学園では、ひょうきんで明るくて、友達想いです。今日、椿姫にタクシーを手配してあげたりもしましたね」
ハル,「けれど、身代金を引き渡す当日には、用事があると言って姿を消しました」
ハル,「今日もそうです。協力してくれると言ったのに、肝心の廃墟の探索には同行してくれません」
おれは、頭に血が上っていくのを自覚した。
京介,「だから、用事があるんだよ。事情があるんだ。仕方がないだろう?」
ハル,「はい。ですから、わたしにだって、事情があるんです。"魔王"との関係を話したくない事情が」
京介,「……ちっ!」
うまく言いくるめられてしまったな。
京介,「まだ、おれが"魔王"だと疑っているんだろう?」
嫌味を言ったつもりだった。
ハル,「…………」
宇佐美は黙って、首を横に振った。
ハル,「どうも失礼しました。帰ります」
京介,「ああ……」
背中を曲げておずおずと部屋を出ていった。
京介,「もう、宇佐美に関わるのはやめるかな」
ひとりごちて、ソファにもたれかかった。
"魔王"が宇佐美を陥れようとしただって……?
なんにしてもおれには関係のないことだ。
どうにも、宇佐美の線から"魔王"を探るのは難しそうだな。
しかし、"魔王"を捜し出さなければ、権三にどんなプレッシャーをかけられることか……。
京介,「くそっ……」
それにしても、"魔王"は、椿姫の弟を返すつもりがないのだろうか。
すると、とても困ったことになるな。
いくら呑気な家族でも、いい加減に警察を頼るだろう。
警察が動けば、おれが借金を仲介したこともばれて、総和連合にも捜査のメスは入る。
そんなことになったら、権三に何をされるかわからんぞ……。
京介,「…………」
おれは思案をまとめる。
やはり、椿姫の一家を監視しておくか。
部外者のおれが家族の問題に口を挟むのは難しいが、やるしかないな。
考え込んでいると、めまいが襲ってきた。
このところ、頻繁に起こる。
……仕事を済ませなければな。
;背景 椿姫の家 概観 夜
椿姫,「あ、浅井くん?」
仕事が終わり、椿姫の家を訪ねた。
京介,「夜中にすまんな。ちょっと近くまで来たんで、寄ってみたんだ」
椿姫は、驚いたように目を丸くした。
京介,「どこかに、出かけるのか?」
椿姫,「う、うん……もう、帰ってきたんだけどね」
歯切れ悪く言いながら、コートの裾をつかんだ。
京介,「お母さん、だいじょうぶだったか?」
椿姫,「あ、うん。明日まで入院するんだけどね」
京介,「過労かな?」
椿姫,「みたいだね、お母さんも参っちゃったみたいで」
京介,「そういう椿姫はだいじょうぶか?」
辺りが暗いせいか、椿姫の顔色もだいぶ悪そうに見えた。
椿姫,「わたしは、ぜんぜん平気だよ」
京介,「すごいなあ、椿姫は」
本心からそう思う。
家族が誘拐され、身代金は奪われ、しかも人質は返ってこない。
そんな状況で、よく笑顔を見せられるものだ。
京介,「強いんだな、お前って」
椿姫はまた、そんなことないと、首を振る。
椿姫,「おうち寄ってく?」
京介,「ああ……」
;背景 椿姫の家 居間 夜 明かりあり
活気はなかった。
子供たちはもう眠っているのだろうか。
居間には親父さんだけが、ふさぎこむようにしてちゃぶ台に頭をうずめていた。
パパ,「ああ、浅井くんじゃないか、いらっしゃい……」
憔悴した目でおれを迎えてくれた。
椿姫,「浅井くん、わたしちょっと弟たちを寝かしつけてくるね」
京介,「お邪魔します、お父さん」
パパ,「うん……」
椿姫とは違い、目に見えて弱っていた。
パパ,「すまないね、こんな格好で」
頬もげっそりとこけている。
京介,「だいぶ、お疲れのようで……」
当然といえば、当然だった。
やはり、椿姫が少し異常なのかもしれない。
パパ,「浅井くん、椿姫は?」
京介,「え? いま、そっちの部屋に行きましたよ?」
パパ,「あ、ああ、そうか。そうだったね」
ずっとふさぎこんでいるのだろうか。
気まずい間があった。
親父さんがぼそりと言う。
パパ,「浅井くん、椿姫をよろしく頼むね」
京介,「はい?」
パパ,「あれは、とても優しい娘なんだ」
京介,「ええ……それはよく知っています」
パパ,「いまもね、無理に明るく振舞ってるんだ。内心ではつらいくせにね」
京介,「……そうですか。そうでしょうね」
親父さんのため息は重かった。
パパ,「ちょっといい子に育ち過ぎてしまったかなあ」
京介,「…………」
パパ,「椿姫は、人を疑うということを知らないんだ」
一人ごとのようだった。
パパ,「僕も母さんも世間知らずの田舎物だから、騙すより騙されるような人間になれと教えてきてしまったんだよ。そのほうが疲れずにすむからね」
京介,「いや、実際、椿姫はすごいいい子ですよ」
ありえないくらいにな……。
京介,「ところで、その後、犯人から連絡はありましたか?」
話題を変えようと切り出したとき、椿姫が別室から戻ってきた。
椿姫,「浅井くん、なんのお話してたの?」
京介,「いや、犯人のことを……」
パパ,「連絡はまだないよ」
京介,「……そうですか」
もう、広明くんは殺されているのだろうか。
椿姫,「だいじょうぶ、広明はちゃんと返ってくるよ」
声は、場違いなまでに明るかった。
まるで、確信でも抱いているかのよう。
パパ,「そろそろ警察を頼ろうかと思うんだ」
椿姫,「え?」
パパ,「父さんが間違っていたんだ。最初から警察を頼っておけば、こんなことにはならなかった」
やはり、そういう考えに及ぶよな。
椿姫,「お父さん、ちょっと待って……!」
いまにも受話器に腕を伸ばしそうな親父さんを、椿姫が制した。
椿姫,「も、もうちょっとだけ、待ってみようよ」
パパ,「椿姫、すまなかった。でも、もう待てない」
……まずいな。
椿姫,「待ってよ。犯人は、身代金さえ受け取れば広明を返すって言ってたんだよ?」
パパ,「それは口実だよ。現に、犯人から何の連絡もないじゃないか」
椿姫,「でも、いまさら……」
パパ,「すまん、父さんは、もうじっとしていられないんだ」
親父さんが勢いよく立ち上がった。
もう、限界か。
京介,「早まらないでください」
親父さんが険しい顔でおれをにらんだ。
京介,「これは、いままで黙っていたのですが……」
京介,「実は、身代金が奪われてから、父に頼んで、犯人の足取りを探ってもらっているところなんです」
椿姫が息を呑んだ。
椿姫,「どういうこと?」
京介,「父の警察時代の知り合いを通して、いま、広明くんの行方を追っているんです」
でたらめだった。
京介,「さしあたって、犯人が市内近郊の廃墟に潜伏している可能性があると見て、調査は進んでいるそうです」
でたらめのなかに、さりげなく事実を混ぜておく。
パパ,「つまり……警察の方はもう動いているということかい?」
京介,「ええ……正式な捜査ではないんですが」
パパ,「それは、本当なんだろうね? にわかには信じがたいよ」
京介,「本当です。父の元同僚や私立探偵の方が捜査を進めています」
親父さんは口をつぐんだ。
京介,「いまは、表立って警察に通報して、いたずらに犯人を刺激するより、調査の結果を待つほうが得策かと思います」
パパ,「しかしね……」
京介,「必ず、広明くんを取り戻してみせますから」
力強く言った。
椿姫,「お父さん、浅井くんに任せてみようよ」
椿姫が、いまだに渋い顔をしている親父さんに言った。
パパ,「む……」
疲れ果てて、まともな判断力も鈍っていたのだろう。
やがて、親父さんは何も言わずうなだれた。
パパ,「少し、休ませてもらうよ」
おれのでたらめに納得したわけではなさそうだった。
もともと警察に電話する気力も残っていなかったのかもしれない。
京介,「……ふう」
ひとまず、なんとかなったな。
しかし、でたらめをでっちあげたはいいが、時間稼ぎにしかならないな。
生きているのならば、早いうちに広明くんを捜し出さなければ……。
椿姫,「ごめんね、お父さん、疲れてるみたいで」
京介,「無理もないよ……」
時計を見ると、すでに時刻は深夜十二時を回っていた。
京介,「そろそろ帰るわ」
椿姫,「もう?」
京介,「とくに用事があったわけではないからな」
言いつつ、椿姫に釘をさしておく。
京介,「もし、警察に連絡するときはおれにも教えてくれよな?」
おれを信頼しきっている椿姫は、素直に返事をした。
椿姫,「お父さんが早まったことしようとしたら、今日みたいにとめてもらえるかな?」
京介,「お父さんも、ちょっと冷静じゃないみたいだからな」
椿姫,「それと、ありがとうね。実は、犯人を捜してくれてたんだね」
京介,「……ああ」
目を逸らし、コートを羽織った。
;背景 椿姫の家 概観 夜
京介,「じゃあ、おやすみ……」
椿姫,「うん……」
微笑していた。
京介,「……がんばれよ」
椿姫の笑顔に違和感を覚えながら背を向けると、案の定、声がかかった。
椿姫,「待って、浅井くん」
京介,「ん……?」
椿姫,「えっと、もう遅いし、泊まっていく?」
京介,「はは……まさか椿姫からそんなオサソイを受けるなんてなー」
おれは学園でそうしているような明るい声で、椿姫をからかった。
けれど、椿姫には冗談の意味が通じなかった。
椿姫,「ごめんね、本当いうと、ちょっと心細くて」
京介,「……そうか」
親父さんの言ったとおりだな。
明るく振舞っているだけで、内心は不安に満ち溢れているんだろう。
京介,「ようやく、お前の人間っぽいところが見えたなー」
椿姫,「え? どういう意味?」
京介,「いやいやなんでもない」
まともでいられるほうがおかしいというものだ。
京介,「泊まりはよしておくよ。明日も学園だしな」
椿姫の肩にぽんと、手を置いた。
椿姫,「ごめんね、無理言って。浅井くんにしか、こんなこと相談できなくて」
上目遣いで見つめてくる。
つぶらな瞳は、夜の闇のなかでいっそう際立って光っていた。
京介,「なんかあったら、すぐケータイに連絡くれよ」
椿姫,「うん……」
寂しそうにうつむいた。
椿姫,「わたしも、携帯電話、持とうかな……」
京介,「そうか? 便利だからな」
椿姫,「だよね……いつでも連絡できるし」
京介,「落ち着いたらいっしょに買いに行こうな」
椿姫,「買ったら、わたしも一番に、浅井くんの番号を登録するね」
京介,「ん? ああ……」
椿姫の表情に切迫したものを感じたような気がしたが、すぐに気にならなくなった。
京介,「じゃあな……」
椿姫の家をあとにした。
角を曲がるとき振り返ると、椿姫が手を振った。
見送りに出てきた椿姫は、素直にかわいらしいといえた。
;翌日へ;背景 教室 昼
栄一,「おいおいなんだよ、今日は休みが多いなあ」
風邪が蔓延しているのか、欠席が目立つ。
栄一,「椿姫は?」
京介,「さあ、遅れてくるんじゃないかな?」
栄一,「また、なんかあったのか?」
京介,「……らしいな」
栄一,「マジかー。つーか、いいかげん警察にポイしちゃったほうがいいんじゃねーの?」
京介,「お前にはわからん事情があるんだよ」
栄一,「事情ってなんだよ、オレだけハブられてんのかよ?」
ハル,「ハヨザイマース」
のっそりと宇佐美が現れた。
栄一,「ちょっと宇佐美さん、聞いてよ」
ハル,「はい」
栄一,「椿姫どうなったの? あれから進展ナッシング?」
ハル,「ナッシングです。残念なことに」
京介,「なんだ、昨日は無駄足だったのか?」
尋ねると、宇佐美はおれの質問には答えず、軽く頭を下げた。
ハル,「昨日はどうも、不快なことを言ったようで、すみませんでした」
京介,「……あ、ああ」
宇佐美と"魔王"の関係を探ろうとして、うまくはぐらかされたんだったな。
栄一,「どうしたの? 二人ともなにわかちあってるの?」
ハル,「いえ、わけありな事情がありまして」
栄一,「え? また事情? もういい加減にしてよー」
栄一は、うんざりしたのか、他の女の子の輪に加わりにいった。
ハル,「あ、なんか悪いこと言いましたかね?」
京介,「気にするな」
宇佐美と向かい合う。
京介,「で、どうだったんだ?」
ハル,「収穫はゼロです。初日だし勢いで三件くらい回ってみようとしましたが、これが大変で……」
京介,「だろうな……」
ハル,「暗いわ、寒いわ、怪物は出るわで、気がついたら朝日を拝んでいました」
……なにしてんだ。
ハル,「ガラスとか散乱してますし、いきなり床に大穴が開いてたり、ネズミが運動会してたりと、息をつく暇もなかったですね」
京介,「だいぶ疲れたみたいだな?」
ハル,「いえいえ、これからです」
よく見ると、宇佐美のすねに引っかいたような傷があった。
ハル,「まあ、なんとかなると思いますよ」
あくまで軽いノリの宇佐美だった。
京介,「すまんが、今日と明日は、つきあえん」
例の土地を巡って、山王物産との最終的な交渉がある。
ハル,「いいですよ。では、今日か明日には広明くんを見つけ出すとしましょう」
この自信はどこから湧いてくるんだろうな。
京介,「なんか自信たっぷりだな?」
ハル,「いまのところ雲をつかむような手ごたえを感じてます」
京介,「ぜんぜんつかんでねえじゃねえか」
ハル,「ですねー。もう少しヒントがあればなあ、とか思いますね」
京介,「犯人から送られてきた写真を、もう一度見てみたらどうだ?」
ハル,「それもそうですね」
そんなやり取りをしていると、チャイムが鳴り、授業が始まった。
授業中の宇佐美は、どうやら例の写真をずっと眺めているようだった。
;背景 屋上 昼
昼休み。
屋上の寒さはかなり厳しいものになっていた。
椿姫が遅れてやってきた。
京介,「おう、今日はどうしたんだ?」
椿姫,「病院に寄ってたんだよ」
母親に付き添ってたのかな。
椿姫,「あれ? みんなは?」
京介,「花音は寝てる。栄一は知らん」
椿姫,「……ハルちゃんは?」
京介,「宇佐美も教室かな」
ずっと写真とにらめっこしていた。
椿姫,「そっか、ふたりっきりだね」
なにやらうれしそうだった。
京介,「最近、なにかあったか?」
数日前にあった違和感を思い出す。
椿姫,「なにかって……それは浅井くんも知っての通りだよ?」
京介,「いや、それはそうだが……」
誘拐事件のことを言っているんじゃない。
椿姫,「ごめんね、昨日も心配かけたみたいで。変かな、わたし」
京介,「ん……さあな」
椿姫,「昨日も、心細くてね」
不意に、顔が暗くなった。
……不安定なんだろうな。
とにかく、椿姫の明るそうな見た目だけで、心情を推し量るのは軽率だな。
京介,「今日、ちょっとだけ買い物でも行くか?」
椿姫,「え? いいの?」
京介,「三十分くらいならな」
打ち合わせの時間までのつなぎで、少し遊んでやるとするか。
椿姫,「やっぱり、やめておくよ」
京介,「そんな気分じゃないってか?」
苦笑して、疲れたような吐息を漏らした。
椿姫,「ごめんね、せっかく誘ってもらったのに。わたし、浅井くんと……」
緊張した面持ちで、何か言いかけたときだった。
ハル,「浅井さん!」
宇佐美が、小走りに寄ってきた。
ハル,「浅井さん、ちょっとこの写真見てもらっていいですかね?」
京介,「なんだ、ぶしつけに……」
椿姫,「ハルちゃん、おはよう」
ハル,「おう……」
写真に夢中なようで、気のない挨拶だった。
ハル,「広明くんの顔がアップで映ってるじゃないですか?」
京介,「ああ……」
ハル,「すぐそばに倒れた書棚があるじゃないですか?」
京介,「あるな……」
ハル,「今日のわたしの髪型どうですか?」
京介,「どうでもいいよ」
ハル,「すみません。書棚の下に、白い……書類のようなものが見えますよね?」
京介,「む……」
目を凝らす。
宇佐美の言うように、なんらかの書類が、書棚の下敷きになっていた。
ハル,「これ、なんて書いてありますかね?」
京介,「え? この紙に、か……?」
手に取った写真を舐められるような距離まで近づける。
京介,「わかんねえな。殴り書きっていうか、汚い字っていうか……」
およそ他人が読むことを想定して書かれた文章ではなさそうだった。
京介,「日記のはしくれなのかな?」
ハル,「日記といえば、椿姫はどうだ?」
椿姫,「……えっと、どうかな……」
三人で額を寄せ合う。
椿姫,「あ、あんまり見たくないな。ごめんね」
ハル,「そうか、悪かった」
捕えられた弟の姿なんて、まじまじと見たくないだろうな。
京介,「宇佐美はどう思うんだ?」
ハル,「わかりません、内容は」
京介,「内容は?」
ハル,「はい。これはアルファベットだとは思います」
京介,「アルファベット……?」
言われてみれば、アルファベットのように見えなくもない。
ハル,「ここが、aで、この辺が、Jですね……」
京介,「みたいだな……よく気づいたな」
ハル,「ここちょっと眼がっつり開いて見てもらえませんか?」
京介,「……アール……ピー、か」
ハル,「なんなんすかね、このアールピーって」
京介,「行頭にきてるな……大文字のRに小文字のpだな」
ハル,「ダイイングメッセージですかね?」
京介,「誰が死んだんだよ」
ハル,「まあ、この発見がどれほど意味があるかというと、微妙なところなんですがね」
京介,「おいおい」
たしかに、それがなんの手がかりになるというのか。
広明くんが監禁されている廃墟には、英語で書かれた書類があるとわかった。
大きな進展とはいえない。
ハル,「もう少し頭をひねってみますわ」
椿姫,「ねえ、ハルちゃんは、なにしてるの?」
宇佐美は戸惑ったように答えた。
ハル,「もちろん、広明くんを探してるんだが」
椿姫,「やっぱり」
ハル,「ん?」
眉をひそめた。
ハル,「なにか、いけなかったか?」
椿姫,「……えっと……」
椿姫の唇が震えていた。
椿姫,「無理、しないでね」
ハル,「…………」
椿姫,「気持ちは、うれしいんだけど……なんていうか、ハルちゃんは、別に探偵さんでも警察の人でもなんでもないわけじゃない?」
聞いている宇佐美も当惑しているようだが、言ったほうの椿姫も困ったように口をつぐんだ。
ハル,「手を引いてくれと言っているのか?」
椿姫,「……えっと、あの……うん、ごめん」
小さく頭を下げた。
椿姫,「だって……ハルちゃんはどうして、犯人を捕まえようとしているの?」
ハル,「犯人を捕まえなければ、今後第二第三の誘拐事件が起こるかもしれないぞ?」
椿姫,「……そういう正義感みたいなもので?」
ハル,「大口叩いておいて、わたしは、身代金を奪われてしまった。責任も感じている」
椿姫,「責任って……そんな……もう、いいよ」
ハル,「どうしたんだ椿姫? わたしはただ、犯人の手から、広明くんを取り戻したいんだが?」
そのとき、ふと、椿姫の顔色が変わった。
張り詰めていたものが一気に噴出したよう。
椿姫,「ハルちゃんは、自分のせいで広明が誘拐されたと思ってるんじゃないの?」
おどおどしていた目が、いつの間にかしっかりと宇佐美を見据えている。
ハル,「……犯人の動機のことを言っているのか?」
椿姫,「だって、お金が目的なら、どうして広明なのかな? どうしてうちみたいに普通の家を狙ったのかな?」
椿姫にしては意外だな。
他人を責めるような態度もそうだが、椿姫が犯人の動機なんてものに興味を抱いているとは思わなかった。
ハル,「椿姫の言うとおりだよ。"魔王"がわざわざ誘拐事件を起こしたのは、わたしをなんらかの形で陥れるためだと思う」
椿姫,「じゃあ、わたしたちはとばっちりを受けたっていうの!?」
ほとんどヒステリーを起こしたような、悲痛な声だった。
ハル,「…………」
椿姫,「…………」
昼どきで賑わっていた学園の空気が一気に冷え込んでいく。
椿姫,「ご、ごめん……」
肩を震わせながら、たどたどしい手つきで口を覆っていく。
椿姫,「な、なんでかな……ごめん……こんなこと言うつもりじゃなかったのに……」
宇佐美のせいで、椿姫の家族が辛酸を舐めさせられている。
なんとなく、行く先々で殺人事件を起こす、小説のなかの探偵を想像した。
しかし、気持ちはわからなくはないが、椿姫の憤りをぶつけるべき相手は、宇佐美ではなく犯人なんだろうな。
ハル,「わたしのせいで広明くんが誘拐されて、わたしのせいで家庭が不幸になっている。だから、もうこれいじょう関わらないで欲しいというわけだな?」
驚くほど冷静に、淡々と言い放った。
椿姫,「……っ……」
気圧されたように目を逸らす。
椿姫,「ど、どうしてそんな、きつい言い方するのかな?」
ハル,「きついかな?」
椿姫,「ハルちゃんが、よくわからないよ……」
上目遣いで、宇佐美の反応をうかがうように言った。
ハル,「ごめん。迷惑かけて」
椿姫,「…………」
ハル,「自分、教室に戻ります」
これ以上、話すことはなにもないといった様子だった。
京介,「なあ……」
いまだに肩をいからせている椿姫に言った。
京介,「お前、昼飯食ったか? まだなら、いっしょに食おうぜ」
椿姫は、しばらく答えなかった。
…………。
……。
;背景 教室 夕方
授業中、椿姫の様子を後ろの席から眺めていた。
ぼんやりとして、先生から指名されてもまともに答えられなかった。
英語の時間、栄一が小声で話しかけてくる。
栄一,「やべえよ、マジ、今日は、カゼでみんな休んでるからすぐ指名されるよ」
……季節の変わり目らしくカゼが蔓延しているらしい。
栄一,「なんでこの世に英語とかあるんだろうな? ていうか、なんで言葉の違いがあるんだろうな? 愛に国境はないのによ」
京介,「今日は詩人だな、栄一」
栄一,「あー、オレ決めた。世界の共通語を日本語にする。将来そういう職場で働くわ」
京介,「そうかそうか、そのためには英語を勉強しないとな」
栄一,「なんつーの、英語とかイタ語とかドイツ語とかは、とりあえず滅ぼすわけだよ」
京介,「滅ぼさなくてもいいだろ?」
栄一,「だってさー、大文字のOと数字の0がマジ見分けつかないじゃん。不便だってこれ、共通語として」
京介,「滅ぼしたら、大勢の人が困るってば」
栄一,「いいや、真のアルファベットはオレが完成させる」
ハル,「…………」
前の席の宇佐美がぬっと振り返った。
ハル,「いま、なんて?」
京介,「あ?」
ハル,「栄一さん」
栄一,「ぼ、ボク?」
ハル,「ええ」
栄一,「アルファベットはオレが完成させる……」
ハル,「もっと前ですっ」
栄一,「大文字のOと数字の0が見分けつかない……」
ハル,「もっ、もうちょい前ですっ」
栄一,「セックスは面倒だけど、股間は愛しい……」
ハル,「コラコラそんなこと言ってねーだろうが」
栄一,「えっと、なんだっけ?」
京介,「英語とイタリア語とドイツ語はとりあえず滅ぼすとか言ってたな」
ハル,「……それです」
神妙にうなずいた。
栄一,「え? いっしょに滅ぼす?」
ハル,「いや、栄一さん、助かりました」
栄一,「へ?」
ハル,「浅井さん、雲をつかむような手ごたえが、綿菓子くらいになりましたよ」
京介,「それは、どういう……」
聞こうとしたとき、教師の注意が飛んできた。
授業中に騒ぎすぎたらしい。
宇佐美も、黙って前を向いた。
釈然としないまま、授業が進んでいった。
;背景 廊下 夕方
放課後になると、宇佐美は一目散に教室から出ていった。
京介,「ちょっと待てよ、宇佐美」
ハル,「なんすか、急いでいるんですが?」
京介,「さっき、なにを閃いたんだ?」
ハル,「ああ、そのことですか」
ふと思いついたように言う。
ハル,「あ、そうだ。浅井さんに調べてもらった方が早いかな」
京介,「なにを調べろって?」
ハル,「気づいたんです。写真にあった書類の文字」
京介,「ほう」
ハル,「あれは、英語ではなく、たぶんラテン語かなにかなんです。詳しくは知りませんが」
京介,「ラテン語だって?」
ハル,「あの『Rp』なんですがね」
京介,「あれが、ラテン語なのか?」
ハル,「栄一さんが、ドイツ語とか言ったので、一瞬ドイツ語かなーとか思ったときに、ピンときました。今日はカゼで欠席が多いみたいですしね」
おれも、なにかピンときそうだった。
京介,「カルテ、か?」
ハル,「おそらくその類です。病院で、お医者様がよくRpと書いているのを目にしてたので、それを思い出しました」
京介,「どういう意味なんだ?」
ハル,「たしか、処方するとかそういう意味らしいです」
京介,「そうか……」
……でも、待てよ。
京介,「おい宇佐美。でも、あの写真を見る限り、書類にはアルファベットばっかりだったよな?」
ハル,「はい。カルテなんじゃないかなと疑って読むと、他にドイツ語で血液という単語を拾えなくもなかったです」
……こいつ、ドイツ語が読めるのか。
京介,「しかし、ドイツ語っていうけどな、実際のところカルテをドイツ語で書く医者はあんまりいないって聞いたことがあるぞ。たいていは、日本語か英語らしいって……」
ハル,「はい。カルテにしては、日本語が少しも混じっていないのが、おかしいとも思いました」
髪をさっとかきあげる。
ハル,「ただ、ですね、お歳を召した開業医の方のなかには、稀にいらっしゃるんだそうです」
京介,「なるほど……廃病院だもんな」
ハル,「調べやすいと思いませんか?」
広明くんは、廃墟となった病院に監禁されている……?
京介,「すると、だいぶ絞り込まれるんじゃないか?」
ハル,「はい、病院とわかっただけでも、かなりの収穫です」
京介,「さっそく調べてみよう。そう何件も廃病院があるとは思えないから、あっさりわかるかもしれない」
ハル,「昨日みたいに立ち入りの許可もお願いしていいですかね? 自分も調べてみますので」
京介,「あ、おい待て」
いまにも走り出しそうな宇佐美を引き止める。
京介,「さっき椿姫に言われたことだが……気にしてないのか?」
ハル,「もう、関わらないで欲しいと言われましたね」
京介,「ああ……ちょっと椿姫にしては珍しく気持ちが高ぶっていたみたいだが……」
ハル,「気にはしていません」
京介,「…………」
ハル,「せめて、椿姫たちが警察を頼るまでの間は、自分なりに調べてみようと思っています」
ハル,「それでは」
さっそうと廊下を走っていった。
おれも、帰るとするか。
カゼなのか、おれも妙な頭痛を覚えた。
……それにしても、よく気づいた。
京介,「……っ」
なかなかがんばっているな、宇佐美……。
目まいがして、額に手を置いた。
;ぐにゃーっと歪むような画面演出。
;"魔王"アイキャッチ
;背景 繁華街1 夜
……。
…………。
雑踏のなか、ふらふらと歩きながら、染谷室長からの電話を受けていた。
染谷,「浅井くん、君のおかげで助かったよ」
まおう,「いえ……」
染谷,「例の東区の件だがね、美輪という一家がついに折れてくれたらしく、計画はまた軌道に乗り始めたそうだ」
まおう,「それはなにより」
染谷,「君がどんな手口を使ったのかは、わざわざ問うまい。なんにせよ礼を言う。さすがは"魔王"といったところか」
染谷は上機嫌だった。
まおう,「いえ、こちらこそ。例の場所もお貸しいただいて、ありがとうございます」
染谷,「あの、東区の廃墟か?」
まおう,「ご紹介のとおり、暴走族やホームレスも立ち寄らないような素晴らしい物件でした」
染谷,「あの病院跡は、警備会社の人間をたまに巡回させているからね」
まおう,「なるほど。ご用件はそれだけですか?」
染谷,「その廃墟の件だがね」
まおう,「なんでしょう?」
染谷,「担当の人間から偶然耳にしたんだが、ついさっき、立ち入りの許可を求められたらしい」
まおう,「……誰から?」
染谷,「さあ、警察の人間ではなさそうだったらしいがね」
まおう,「相手は、名乗らなかったのですか?」
染谷,「こっちが山王物産だと知って尻込みしたらしいな。だから当然、立ち入りの許可は出していない」
まおう,「そうですか。またご連絡します」
通話を切って、考えをめぐらす。
宇佐美、か……?
だとしたら、思ったよりも調べが早い。
写真を送りつけたのは、少しサービスが過ぎたかもしれんな。
広明が生きていることを家族に伝えるだけなら、電話口に立たせればいい。
わざわざ監禁場所の手がかりとなる写真を送りつける必要はない。
宇佐美は写真を頼りに広明の居場所を探すに違いない。
しかし、おれの狙いは別のところにある。
廃墟を探し当てたとしても、人質は見つからないのだ。
宇佐美は身代金に続いて、二度目の失態を犯すことになる。
それは、宇佐美と椿姫の確執の火種となる。
だから、写真を送りつけたのだが……。
今回の身代金誘拐は、用地買収に悩む山王物産に力を貸すことが主な動機だったが、もちろんそれだけではない。
宇佐美ハル……。
あの女は、おれの過去を知る数少ない人間のうちの一人だ。
現在のところ、おれを追ってくる唯一の人間でもある。
叩き潰してやる……そう思っていたが、今回はここまでにしておくか。
あの写真にしても、想定よりも面倒な手がかりを残しすぎた。
繁華街でも、宇佐美に危く腕を捕まれるところだった。
もちろん、おれにたどり着くような決定的な証拠は残していない。
だが、用心に越したことはない。
もう少し広明の居場所を突き止めるのが遅ければ、宇佐美から友人を奪ってやれたものを……。
椿姫を使ってな……。
しかし、椿姫には種だけはまいておいた。
あとはどう、発芽するか楽しみだ。
最後に、おれは椿姫に連絡を入れる。
弟は返してやろう。
だが、調子に乗って警察に連絡したら、家族はまた悲しい目に合うということをしっかりと伝えておく。
椿姫には、広明の他にも、小さい弟や妹がいるのだからな。
;京介 アイキャッチ
;背景 京介の部屋
……。
…………。
打ち合わせを終えたおれは帰宅して、少しの時間、寝込んでいた。
風邪を引いたようで、どうも熱っぽい。
……ん?
誰か来たな。
備えつけの受話器を取ると、モニターに宇佐美の顔が映っていた。
ハル,「夜分にすみません、浅井さん」
京介,「……なんの用だ?」
ハル,「廃病院の場所、わかりましたか?」
京介,「廃病院……」
ハル,「え?」
京介,「あ、ああ……調べたぞ」
ハル,「助かりました」
京介,「ちょっとうちにあがっていくか?」
お邪魔しますと、宇佐美が軽く会釈した。
;場転
京介,「それにしても、わざわざ来なくても電話すればいいのに」
ハル,「いやいや、二回くらいかけましたよ?」
京介,「え? そうか? すまん、寝てたからな……」
ハル,「そすか。カゼすか? お大事に」
おれは、印刷しておいた廃墟の資料をテーブルの上に広げた。
不動産屋から送られてきた情報だった。
京介,「えっと、江尻医院っていうらしいな。東区の外れに放置されてるらしい。院長の江尻氏は明治生まれの人らしく、もうとっくに亡くなっているらしいが」
詳しい住所も教えてやった。
ハル,「さすが、浅井さん、ありがとうございます」
京介,「市内には該当するような廃病院は他になかったぞ」
ハル,「さっそく出かけてみます」
京介,「おれも行こう」
ハル,「本当ですか? いいですよ? 体調悪いんでしょう?」
京介,「別にお前が心配とかそういう理由じゃないからな」
この病院の所有者は山王物産の系列だった。
面倒を起こしたら、山王物産に迷惑がかかる。
宇佐美がなにかしでかさないように、見張っておく必要がある。
ハル,「では、行きましょうか」
京介,「そういえば、おれは、軍手の一つも持ってなかったな」
ハル,「貸しましょうか? お揃いにしましょう」
京介,「…………」
うんざりしながら、外に出た。
;背景 中央区住宅街
すっかり冷え込んだ夜の住宅街。
椿姫から着信があったのは、宇佐美のアパートに向かっている途中だった。
京介,「どうした……?」
尋ねると、弾んだ声が返ってきた。
椿姫,「あ、浅井くんっ!」
京介,「なんだ、なにかあったのか!?」
椿姫,「浅井くんっ、聞いてっ!」
いまにも唾が飛んできそうなくらい切迫した口調だった。
椿姫,「か、かえって、帰ってきたの!」
京介,「帰ってきた……?」
ハル,「え……」
京介,「帰ってきたって、広明くんがか?」
心なしかおれの声も震えていた。
椿姫,「うんっ、うんっ!」
泣いているようだった。
うん、うんと、何度も繰り返す。
京介,「本当か、よかったな……」
全身から力が抜ける思いだった。
椿姫,「迷惑かけたね、浅井くんっ! 本当にありがとうっ」
京介,「いやいや、おれはなにもしてないよ」
たんまり儲けさせてもらっただけだ。
椿姫,「とにかく、それだけだから」
京介,「わかった。広明くんにも、ショックが大きいだろうけど、がんばれって伝えておいてくれ。そのうち顔を出すよ」
椿姫,「うんっ、おやすみっ!」
底無しに明るい別れの挨拶だった。
ようやく、ぐっすり眠ることができるのだろう。
おれも、ほっとした。
これで、警察が出てくることはない。
ハル,「…………」
京介,「宇佐美、聞いてのとおりだ」
ハル,「良かったです」
口元をほころばせた。
が、目だけが異様にぎらついていた。
ハル,「これで、警察を頼ることができますね」
京介,「……っ!?」
ハル,「広明くんが帰ってきたのなら、ことをおおっぴらにできます。わたしも警察にいろいろと証言するつもりです」
京介,「…………」
たしかに、人質がいたからこそ犯人の言いなりになって警察を頼らなかったのだ。
人質が返ってきたいま、通報をためらう理由はない。
ハル,「今日はもう遅いですし、帰ります。椿姫の家に行くのは明日にします」
京介,「ああ……明日は休みだしな」
ハル,「おやすみなさい。それにしても、良かったです」
歯がゆい思いで、宇佐美の後姿を見送った。
……なんとかしなくてはな。
椿姫と違い、おれにはぐっすり眠る暇なんてなさそうだった。
;翌日へ;背景 椿姫の家 概観
翌朝すぐに、椿姫の家に出向いた。
休日の朝らしく電車も空いていた。
声をかけると椿姫は弟を連れてすぐに出てきた。
広明,「お兄ちゃん、こんにちはー!」
京介,「お……」
少なからず驚いた。
京介,「おう、元気いいなー」
誘拐され、一週間近くも廃病院に監禁されていたというのに。
椿姫,「でしょ? わたしも心配してたんだけどね」
椿姫の顔に笑みが戻っていた。
京介,「寒くなかったか?」
広明,「んーん。真っ暗だったけど、お部屋はあったかかったよー」
京介,「ご飯は?」
広明,「パンがたくさんあったよ。お菓子もあったよー」
……人質にしては、妙に優遇されていたみたいだな。
京介,「犯人……いやその、広明くんは、どんな人についていったんだ?」
広明,「お馬さんだったよー」
京介,「馬?」
広明,「うんっ。お父さんの親戚の人だって言ってた。ちょっとおうちに帰れなくなるけど、いい子にして待ってなさいって言われた」
……馬の面でもつけていたのだろうか。
広明,「最初、車に乗ったときは、怖い人かと思ったけど、お菓子くれたり、玩具くれたりして、いい人だったよー」
それにしても、犯人は、広明くんをうまくてなずけていたようだな。
広明,「お姉ちゃん、寂しかったでしょー?」
いたずらな笑みを浮かべる。
椿姫,「もうっ、この子は……ほんとに……」
椿姫の顔が泣きそうに歪む。
京介,「なんにしても、よかったな」
椿姫,「一件落着だね。今日からようやく日記を再開できるよ」
京介,「なんだよ、最近は書いてなかったのか」
椿姫,「うんっ、日記も書けなくなるほど動揺していたみたいでした○」
すがすがしいまでの笑顔だった。
これから先、この家族には引越しが待っているわけだが、ひとまず事態は落ち着いていた。
ハル,「おはよう……」
こいつが現れるまでは……。
椿姫,「あ、ハルちゃん、どうしたの?」
ハル,「広明くんが帰ってきたと聞いたんで」
椿姫が小首を傾げておれを見た。
京介,「ああ、昨日電話もらったときに、宇佐美もすぐ横にいたんだよ」
椿姫,「え? あんな夜中に? 二人でなにをして……」
さらになにか質問が続きそうなときに、宇佐美が広明くんのそばに近づいた。
広明,「髪の毛ボーボーのお姉ちゃん、こんちはー」
ハル,「ちわー。だいじょうぶだったかー?」
広明,「みんなに聞かれるよー。だいじょうぶだよー」
ハル,「ホントかー? わたしにはなんでも言うんだぞー?」
椿姫,「ハルちゃん、きのうはごめんね」
ハル,「ん?」
椿姫,「ひどいこと言っちゃったような気がして」
ハル,「気にしてない。わたしこそ、お前を知らず知らず傷つけていたようで、申し訳なく思ってる」
その言葉に、椿姫はほっとしたようにため息をついた。
椿姫,「せっかくだし、上がってく? 引越しが近いから、散らかってるけど、居間はまだ手をつけてないから」
ハル,「そうだな、警察にも連絡しないといけないしな」
さらりと言った直後だった。
椿姫,「けい、さつ?」
椿姫の顔が見る見るうちに青くなっていく。
椿姫,「警察って、どういうこと?」
ハル,「どういうことって……一連の事件を警察に通報するんだ」
宇佐美はそのために来たんだな。
なんとかして椿姫に通報を思いとどまらせなければ……。
しかし、意外な展開になった。
椿姫,「なに言ってるの?」
唇が、わなないていた。
椿姫,「そんなことしないよ」
ハル,「……なんだって?」
宇佐美の眉が吊り上った。
椿姫,「おかしいよ、ハルちゃん」
ハル,「おかしい? わたしが?」
椿姫,「ハルちゃんみたいに頭のいい人ならわかるでしょう?」
ハル,「まだ、警察を頼る気はないのか?」
椿姫,「あ、当たり前だよ、なんて恐ろしいこと言うの?」
信じられないと、表情が語っていた。
ハル,「なぜだ……?」
椿姫,「だ、だって、そうじゃない? 警察に連絡したら、犯人が怒るよ? そしたら、どうなると思う?」
その瞬間、おれと宇佐美は顔を見合わせた。
……第二第三の誘拐事件を、椿姫は恐れているのだ。
椿姫,「ハルちゃんは、身代金をすりかえて、一度犯人を怒らせたのに、また、そんなこと言われても困るよっ!」
ハル,「…………」
宇佐美は耐えるように押し黙っていた。
椿姫,「ご、ごめんね、心配してくれてるのはわかるんだよ、だけど、警察には連絡しないよ、ぜったい」
ハル,「…………」
宇佐美は獣のような目つきで、冷静に椿姫を見つめていた。
ハル,「犯罪者の報復を恐れるがあまり、犯罪者を憎もうともしないのは、あまりにも弱腰というものじゃないか?」
低く、搾り出すような声だった。
椿姫,「ハルちゃんにはわからないよ、ハルちゃんの家族がこんなことになったわけじゃないでしょ?」
椿姫,「家の電話が鳴るだけで心臓が飛び跳ねるくらい驚いて、風で窓が鳴っただけで、広明が帰ってきたんじゃないかって、夜中に目が覚めるんだよ?」
椿姫,「そんなのはもういやだよ」
ハル,「…………」
椿姫,「ごめんね、そういうわけだから」
苦しそうに目を伏せた。
思わぬ展開。
おれにとってはこの上なく好都合な状況といえる。
京介,「というわけだ、宇佐美」
ハル,「…………」
京介,「なんだ? なにか言いたそうだな?」
宇佐美はけっきょく、なんの役にも立たなかったわけだ。
心中穏やかではないだろうが、これ以上宇佐美が椿姫の家に口を出す権利なんてないだろう。
ハル,「広明くんが無事で本当によかった。帰ります」
それだけ言って、歩き去っていった。
広明くんが、椿姫の袖を引いた。
広明,「ねえ、お姉ちゃん、遊んでー」
椿姫,「広明、ちょっと中に入ってなさい」
腕を振りほどいた。
広明,「…………」
椿姫,「あ、ごめん。ちょっと浅井くんとお話あるの」
広明,「うん、わかった。あとで、おやつ作ってね」
広明くんはおれを一瞬だけ見て、家のなかに入っていった。
椿姫,「…………」
京介,「そう気にするなよ」
椿姫,「うん……」
京介,「とにかく、これで事件は解決だ。今日から、またいつもどおりだな」
椿姫,「そう、かな」
苦い表情。
椿姫,「浅井くん、わたし、変かな?」
京介,「変?」
椿姫,「変になっちゃったかな?」
京介,「いや……どうかな……」
ここ数日でいっぺんに襲ってきた不幸を考えれば、おかしくなるのも無理はないが……。
椿姫,「なんかね、怖いの。いままで知りもしなかった感情が、どんどん大きくなっていくような気がして」
震えを抑えるように、両手で肩を抱いた。
京介,「たしかにちょっと、気持ちの浮き沈みはあるみたいだけど、気にすんな」
椿姫,「ありがとう、浅井くんにそう言ってもらえると、心強いよ」
笑顔を見届けたおれは、踵を返す。
京介,「じゃあな。またなんかあったら教えてくれ」
一件落着だな。
誘拐事件にしろ、椿姫の心境の変化にしろ、常におれに有利になるようにことが運んだ。
やけに運に恵まれたな。
悪魔にでも魅入られたかな……。
椿姫,「待って浅井くん。今日、時間ある?」
京介,「今日? ないことはないけど?」
椿姫,「なら、ちょっと会わない?」
京介,「……もう会ってるが?」
椿姫,「改めてっていう意味」
京介,「…………」
……別に、もう椿姫に用はない。
京介,「せっかくだけど、ちょっと忙しいな」
椿姫,「よ、夜ならどうかな?」
京介,「今日は、家族といっしょにいたほうがいいんじゃないか? お母さんも退院したんだろう?」
椿姫,「うん、だから、深夜とかは?」
京介,「深夜だって?」
真面目な椿姫が夜中に男と出歩こうってのか。
椿姫,「ごめんね、なんだか不安で、浅井くんといっしょにいたいんだよ」
京介,「…………」
うすうす感じてはいたが……。
こいつは、どういうわけか、おれなんかに気があるようだな。
それは……。
;======================标记选择支=========================================================
;選択肢 
;面倒だな。
;悪くない。 椿姫好感度+1
@exlink txt="面倒だな。" target="*select1_end"
@exlink txt="悪くない。" target="*select1_end" exp="f.flag_tubaki+=1"
面倒だな。
悪くない。
;======================标记选择支=========================================================
京介,「うちに来るか?」
椿姫,「浅井くんのおうち?」
京介,「ああ、深夜なら、そのほうが都合がいい」
椿姫,「わかったよ」
京介,「…………」
二つ返事で了解かよ。
警戒心ゼロだな。
夜になったら、ちょっとお灸をすえてやるか。
京介,「じゃあな……」
椿姫,「夜、電話するね……」
椿姫の声が名残惜しそうに糸を引いた。
;黒画面
……。
…………。
;背景 主人公の部屋 夜
京介,「広明くんの具合はどうだ?」
夜十時。
椿姫を部屋にいれてやった。
椿姫,「平気みたいだよ。まるで誘拐されたことをもう忘れてるみたい」
京介,「犯人は、広明くんを丁重に扱ってたみたいだな」
椿姫,「ちゃんと返してくれたしね」
やんわりと笑った。
椿姫は、犯人に対して憎しみを抱いていないようだ。
おれはコーヒーを差し出して、椿姫と向かい合って座った。
京介,「で?」
椿姫,「え?」
京介,「気分、落ち着いたか?」
おれといっしょにいたいと椿姫は言った。
椿姫,「うん、少しね……」
京介,「そうか……」
コーヒーをすする椿姫を見つめながら、おれは考える。
なにが不安なんだろうな。
広明くんは帰ってきたし、もう、事件は終結したんだ。
引越しが、不安なのかな?
住み慣れた家を出て行くわけだし……。
京介,「引越しの準備、進んでるか? もうすぐ期日だけど?」
椿姫,「ちょこちょこやってたから、たぶんだいじょうぶ」
……弟が誘拐されてるなかで、引越しの準備をしていたのか。
しっかり者というか、一家の中心的な位置にいるというのは本当らしいな。
京介,「やっぱり、嫌だよな。引越しは」
椿姫,「しょうがないことだよ。浅井くんは精一杯してくれたんだし」
態度を見るに、立ち退きを恐れている様子はなかった。
椿姫,「それにしても、すごいおうちだね」
話題を変えるようなそぶりを見せた。
京介,「ああ、部屋に上がるのは初めてだったな?」
椿姫,「何畳くらいあるの?」
京介,「宇佐美と同じ事を聞くな?」
鼻で笑った。
椿姫,「ハルちゃん……?」
京介,「あ?」
椿姫,「ハルちゃんも、来たことあるんだ。そっか、なんか言ってたね」
京介,「なんだ? なにかまずいのか?」
椿姫,「ううん……」
首を振るが、ばつの悪そうな表情が顔に浮かんでいた。
京介,「そういやお前、最近、宇佐美とちょっとギクシャクしてんな」
椿姫の眉が跳ねた。
椿姫,「そう、見える?」
京介,「見えるよ」
すると、椿姫は戸惑うように言った。
椿姫,「ハルちゃんって、浅井くんのこと好きなのかな……」
京介,「な……!?」
冷や汗が出る。
京介,「おぞましいことを言うな。んなわけあるかよ」
椿姫,「でも、ここんところ、いつもいっしょにいるでしょう?」
京介,「そりゃあ、二人で広明くんの行方を追っていたわけだからな」
……まあ、おれはたいして何もしていないが。
椿姫,「今日はね、本当は、そのことを聞きに来たの」
京介,「……そのことって……おれは宇佐美の気持ちなんて知らんぞ」
椿姫,「うん、でも、わたしは……」
目を伏せた。
京介,「なんだ?」
椿姫,「わたしは、浅井くんのことが……えっと……」
京介,「…………」
面倒だな。
こいつがなにを勘違いしているのか知らないが、おれはただ、椿姫を利用しただけだ。
愛情なんて……ない。
京介,「おい、椿姫」
おれは低い声で言った。
京介,「お前の気持ちはなんとなくわかった」
椿姫,「……っ」
京介,「こんな時間に来るくらいだしな」
椿姫の顔が、みるみるうちに強張っていく。
京介,「つきあいたいとか、そういう話だろ?」
絶句した。
京介,「まあ、考えておくよ」
椿姫,「え?」
京介,「お前のことは嫌いでもないけど、とりわけ好きってわけでもないから」
椿姫,「…………」
椿姫は、おれの次の言葉を待っていた。
京介,「ひとまず今日は帰れ」
椿姫,「え? あ、うん……」
けれど、椿姫はじっとしたまま動かない。
椿姫,「え、えっと……どうやったら、つきあってもらえるかな?」
軽く笑ってしまった。
京介,「さあな。とりあえず、こんな時間に男の部屋にほいほいとあがりたがるのは、やめろよ」
椿姫,「え? どうして?」
京介,「軽く見える」
椿姫,「そうなんだ。ごめんね」
京介,「実際、お前が軽い女じゃないことは知ってるがな。でも、そういう体裁みたいなのは、気にしたほうがいいぞ」
椿姫,「気にした方がいい?」
京介,「ああ、おれは、目立つのが嫌いだ。女を連れ込んでるとか噂されたくないしな」
椿姫,「服装とかもオシャレなほうがいいかな?」
京介,「まあな。見栄ってのは大事だと思う」
椿姫,「がんばってみるよ」
なにやら意気込んでいた。
椿姫,「……よかった。日記やめろ、とか言われたらどうしようかと思った」
京介,「じゃあ、やめろ」
椿姫,「ひ、ひどいよ……」
しかし、こいつもどこか変わったな。
なにが変わったとは言い切れないのだが。
椿姫,「おやすみ」
おれは椿姫を送り出した。
帰り道、椿姫は終始緊張した面持ちで、口数も少なかった。
;黒画面
紆余曲折あったが、椿姫の周りに起こった事件はひとまず収束した。
明日からは、いつもどおりの毎日が始まるな。
椿姫の気持ちにどう答えるか。
それだけが、少し心に引っかかった。
;黒画面
……。
…………。
;背景 権三宅 居間
浅井権三,「女は囲っておいて損はないぞ、京介」
翌日、権三に呼び出された。
朝食を交わしながら、ふと、権三が言った。
京介,「いきなり、なんです?」
浅井権三,「例の美輪椿姫だったか?」
京介,「ええ……」
浅井権三,「食ったか?」
口角を吊り上げて笑った。
京介,「いいえ。なにかと面倒もありそうなので」
おれの返答に、権三は不満げだった。
浅井権三,「きちんとしつけておけよ」
京介,「それは、重々承知してます。誘拐事件が終わったとはいえ、警察が出てこないとも限りませんから」
昨日の椿姫の様子からして、まずだいじょうぶだとは思う。
浅井権三,「もし、警察がうちの身辺を捜査するようなことがあったら、どうする?」
京介,「そのときは、僕の責任ということになります」
浅井権三,「わかっているならいい」
どんな目にあわされることやら。
おれは箸を置いて、茶をすすった。
京介,「それでは……」
別れを告げようとしたとき、権三が引き止めた。
浅井権三,「これから、ならしにいくが、来るか?」
京介,「ならし……ですか」
初めて誘われたな。
浅井権三,「そろそろお前も、覚えておいたほうがいいかと思ってな」
要するに、遠出して射撃の訓練をするのだ。
当然、本物の拳銃を使う。
京介,「せっかくのお誘いですが……」
浅井権三,「ならしておかないと、いざというときに使えんぞ」
京介,「すみませんが、このあと、山王物産の方とお話がありまして」
浅井権三,「…………」
権三はそれ以上、何も言わなかった。
京介,「それでは……」
浅井権三,「京介」
京介,「はい?」
浅井権三,「しっかりやれよ」
;背景 繁華街 1
今日は、朝から肩がこるな。
山王物産との打ち合わせを終えて、ようやく一息つけた。
……帰って寝るか。
……ん?
雑踏のなかに、見慣れた顔があった。
京介,「椿姫じゃないか?」
椿姫,「あ、浅井くんっ?」
きょろきょろと、辺りを見回している。
広明,「おにいちゃん、こんにちはー」
弟もいっしょだった。
京介,「買い物か?」
広明,「うん、お姉ちゃん、玩具買ってくれるって」
京介,「そりゃよかったな」
広明くんは、出会ったときと変わらない笑顔を見せた。
誘拐の傷跡のような雰囲気は、まったく感じられない。
椿姫,「ついでに、携帯電話持とうと思ってね」
さすがに弟の前だからか、昨日のように緊張してはいなかった。
京介,「携帯? へえ……」
椿姫,「便利でしょう?」
京介,「まあな……」
必要ないとか言っていたような気がしたが……忘れたな。
椿姫,「あとね、お洋服も買うの」
京介,「そろそろ本格的に寒さの厳しい季節だしな」
椿姫,「それだけじゃないんだけどね」
ひょっとして、昨日の会話を気にしているのだろうか。
広明,「ねえ、お姉ちゃん、早くー」
小さな手が、ぐいぐい椿姫の袖を引っ張っていた。
椿姫,「ねえ、浅井くん、ひまかな?」
京介,「え?」
椿姫,「よかったら、いっしょにお買い物しない?」
京介,「たしかに、ひまだが……」
椿姫,「じゃあ」
……なんか、強引だな。
広明,「ねえ、早くー」
広明くんが口をへの字に曲げていた。
京介,「わかったわかった。連れてってやるよ」
広明,「やったー」
……ガキは苦手だ。
;背景 繁華街 2
手近なデパートで買い物を済ませた。
広明,「ねえ、早く帰ろうよー」
広明くんは、買ってもらったプラモデルを、さっそく家で組み立てたいらしい。
椿姫,「まだお姉ちゃんの買い物が終わってないんだよ?」
広明,「えー」
椿姫,「もうちょっと回らせてよ。お願い」
広明,「むー……」
どうにか、なだめすかしたようだ。
京介,「洋服って、なにを買うんだ? コートか?」
椿姫,「ううん、とくに決めてないけど」
ぶらりぶらりとセントラル街を回った。
;背景 繁華街1 昼
いくつかのセレクトショップに椿姫を案内してやった。
椿姫,「浅井くんって、お店に詳しいんだね」
京介,「いやいや、学園の連中なら誰でも知ってるから」
椿姫,「わたしが、ちょっと田舎ちゃんなだけ?」
京介,「この界隈なら、おれより栄一のほうが詳しいぞ」
椿姫,「そっか。栄一くんって、だから女の子に人気があるんだね。いろいろ聞いてみようっと」
京介,「で、決めたのか?」
椿姫,「あ、どうしようかな……」
京介,「さっき見たダッフルコートとかどうよ?」
椿姫,「えっと……もう一周してもいい?」
京介,「……まあ、いいけど」
広明,「…………」
広明くんは、おとなしくついてきた。
;背景 繁華街1 夕方
女の買い物は長いということを、嫌というほど思い知らされた。
広明,「ねえ、お姉ちゃん、まだー?」
京介,「さすがに、長いぞ」
広明,「お姉ちゃん、いつもはパパっと決めちゃうのに、どうしたの?」
椿姫,「ごめんね。なんか目移りしちゃって」
京介,「わかった。先に、携帯を買いに行こうぜ」
しかし、たくさんの機種に囲まれて、また迷いだすかもな。
広明,「ボク、もう、帰りたいよー」
椿姫,「もうちょっとだけ、ね?」
広明,「いやだー! 疲れたよー!」
だだをこねだした。
広明,「もう、ひとりでも帰るー!」
椿姫の顔色が変わった。
椿姫,「わかったよ……ごめんね、広明」
広明,「…………」
椿姫,「だから、一人で帰るなんて言わないで」
じっと、弟を見つめた。
誘拐されたことを思い出したのだろう。
広明,「……いいよ」
ぼそりと言った。
広明,「もうちょっとだったら、いいよ」
椿姫,「え?」
なんだかんだで、仲のいい家族なんだよな、こいつら。
椿姫,「そう? いいの?」
椿姫も控えめに尋ねた。
……てっきり、このまま解散になるかと思ったが?
椿姫,「じゃあ……」
椿姫の靴の先が、携帯ショップに向いた。
が、おずおずと元の位置に戻った。
椿姫,「帰ろっか……」
広明,「ん?」
椿姫,「おうちに帰ろう、ね?」
まるで自分に言い聞かせているようだった。
;SE 携帯
ん……携帯が……。
着信は、宇佐美からだった。
京介,「出ていいか?」
椿姫は、どうぞと、手の平を差し出してきた。
京介,「なんか用か?」
ハル,「いや、浅井さん。いまバイト終わりました」
京介,「はあ……?」
ハル,「ところで、今晩どうっすか?」
京介,「おっさんみたいな誘い方するなよ」
ハル,「夕飯まだなんでしょう?」
今日は、朝から誘いが多いな。
たまには、流されるがままの一日もいいか。
京介,「いいぞ。どうする?」
ハル,「じゃあ、駅前の三百円ラーメンでいいすか?」
京介,「なんでもいい。あとで連絡する」
ハル,「はい」
通話を切った。
椿姫,「どうしたの?」
京介,「いや、宇佐美とメシ食いに行くことになった」
椿姫,「あ、そうなんだ……」
京介,「なんだ?」
椿姫,「いや、今日は、ご飯用意するつもりだったから」
京介,「お前が?」
椿姫,「うん、つきあってくれたお礼に」
京介,「なら、宇佐美に連絡するよ」
椿姫,「断るの?」
京介,「いや、宇佐美もいっしょにどうよ?」
椿姫,「あ……うん」
目を泳がせた。
椿姫,「ハルちゃんとはきのう、ケンカしちゃったしな……」
京介,「別に、ケンカってほどじゃないと思うが」
後味の悪い別れ方をしていたがな。
京介,「宇佐美は外した方がいいか?」
椿姫,「ううん、そんな、仲間はずれみたいなこと、できないよ」
小さく笑った。
京介,「じゃあ、ちょっと宇佐美にかけなおすな」
言って、再び携帯を取り出してダイアルをプッシュした。
ハル,「はいはい。自分、もう向かってますよ」
京介,「ああ、そのことなんだが、いま椿姫と一緒にいるんだ。それで……」
ハル,「お断りしておきます」
京介,「人の話は最後まで聞けよ」
ハル,「椿姫の家で、ご飯っていうプランでしょう? お断りしておきます」
京介,「なんだよ、お前、きのうのこと根に持ってるのか?」
ハル,「いいえ。ただ、わたしは椿姫に近寄らない方が賢明なのではないかと」
京介,「……そうなのか?」
ハル,「わからないでもないでしょう?」
……椿姫は、おれに気がある。
そして、椿姫は、宇佐美もおれに気があるのではないかと勘ぐっている。
宇佐美も、椿姫のそういった心情を推察しているのだろうか。
ハル,「では、自分、このまま帰ります」
今度は、宇佐美のほうから通話を切ってきた。
京介,「帰るらしい」
椿姫,「え? どうして?」
京介,「どうも、もともと用事があったらしいな。お前の家の東区までいくと時間がかかるだろう?」
さらっと嘘をついた。
椿姫,「ほんとに? わたしに気をつかってくれたんじゃないの?」
京介,「違うと思うが……」
椿姫,「ほんと? 嘘ついてないよね?」
おれは少しだけ、驚いていた。
違和感のようなものが、ついに結晶化した。
椿姫に、疑われるなんて、いままで記憶にない。
やっぱり、少し変わったな、こいつ……。
広明,「お姉ちゃん……?」
弟が、低いところから、椿姫の顔色をうかがっていた。
京介,「なんにせよ、宇佐美は来ない。とっとと……」
不意にめまいが襲ってきた。
京介,「……っ」
椿姫,「だいじょうぶ?」
京介,「平気だ……最近、かぜをこじらしていてさ……」
眉間を指で軽くもんだ。
京介,「すまんが、今日は帰って寝るわ」
椿姫,「わたしも、浅井くんのおうち行っていい? おかゆとか作るよ?」
京介,「おいおい、広明くんはどうするんだ?」
椿姫,「あ……」
広明くんは、きょとんと、おれたちのやりとりを眺めていた。
椿姫,「…………」
広明,「…………」
視線を交わす。
京介,「おれのことはいいから、とっとと帰るんだな」
椿姫は、ようやくうなずいた。
京介,「じゃあな……」
足早に、椿姫から離れた。
なにかに急かされているような気がした。
椿姫がなにか言ったが、聞き取れなかった。
…………。
……。
;背景 椿姫の家 居間
;ノベル形式
;椿姫視点。
疲れていた。
 むしろ、少し病んでいるのかもしれないと、椿姫は思った。
椿姫,「お父さん、書斎の荷物まとめた?」
大家族は、引越しの準備に忙しかった。椿姫は、寝室にある子供たちの玩具をかたづけ、本の山を紐で縛る作業に没頭していた。
椿姫,「ねえ、お父さんたら、聞いてるの?」
パパ,「ああ、すまんすまん。いまやってるよ。ほら広明、ちょっとどいてなさい」
書斎からは、楽しげなやりとりが聞こえてくる。買い与えたプラモデルに、父親と息子がはしゃいでいた。
 昨日、広明が帰ってきてからというもの、父親は緊張の糸が一気にほぐれたようだ。広明につきっきりになって、仕事もほったらかしにして、遊んでいる。気持ちはよくわかるので、なにも言えなかった。
 椿姫は、いまだに体調を崩している母に代わって、一家の家事を一身に引き受けていた。食事を作り、家族全員分の衣服を洗濯し、弟を寝かしつけて、父親の酒のしゃくをして、引越しのための荷造りに追われている。
椿姫は、せっせと働いている自分に、ふと、首を傾げたくなっていた。
椿姫,「ほら、紗枝っ、ちゃんとお布団で寝てなさい! トイレ? トイレはあっちでしょう、もうっ!」
つい、口が荒くなる。それが、たまらなく嫌だった。
 なにも変わっていないはずだった。美輪家の長女として、いままで炊事洗濯を任されることは何度もあった。病気がちな母親の代わりに、弟たちの世話をするのも当たり前のことだった。父親の愚痴につきあうのも、好きなはずだったのに。
椿姫は変化の原因を探ろうと、思い悩んだ。
 すると、いつも、あの男がやってくる。忘れられない悪魔のささやきが襲ってくる。
『お前を人間にしてやろう』
 身代金を持って市内を駆け回っているとき、彼はそう言った。
 その後、二度、彼と密会した。
 弟を誘拐した凶悪犯は、けっきょく、椿姫になにをさせるつもりだったのだろうか。
心理的な話題を好んでいたようにも思う。結果、椿姫の心は自分でも気づかぬうちに、何度もえぐられていた。
 椿姫は、いつしか、彼にもう一度、会ってみたいような気持ちになっていた。
 会って、この鬱憤をぶつけてやりたい。歯軋りする思いだった。だが同時に、人を恨むような感情を抱く自分に、いいようのない不安も覚えた。
 願いが通じたのか。
 電話が鳴った。犯人から渡された携帯電話。捨てるに捨てられず、保管しておいたのだ。
家族に気づかれぬよう、そっと手にとった。ためらいがちに、通話ボタンを押した。
 相手は黙っていた。もしもしと、小声で呼びかけた。
魔王,「久しぶりだな」
怪しげな雰囲気を持つ声。犯人だった。
魔王,「少し、話がしたい」
椿姫,「わかりました……」
即座に口が反応した。待ち望んでいたのかもしれない。
 椿姫はそのまま、何も言わずに、冬空の下に出た。
;背景 椿姫の家 概観 夜
魔王,「名残惜しいが、これが最後の連絡だ」
ころあいを見計らって、犯人が言った。
魔王,「広明くんは、元気かな?」
椿姫,「はい……監禁されていたことなんて、もうすっかり忘れているみたいに元気です」
魔王,「監禁だなんてとんでもないな。保護していたようなものだ。トラウマになってしまったら、かわいそうだろう?」
冗談なのか本気なのか。犯人は、自分が慈悲深い存在であるといいたいようだった。
魔王,「警察には連絡していないだろうな?」
椿姫,「もちろんです」
魔王,「わかっていると思うが、わたしはまたいつでもお前の家族を絶望の淵に立たせることができる」
有無を言わさぬ響きがあった。椿姫は下腹に力を入れて聞いた。
椿姫,「なんの用ですか? もう、あなたのことは早く忘れたいんですが」
嘘だった。男のことは、忘れようとしても、忘れられなかった。
魔王,「最後に、確認しておこうと思ったのだ」
椿姫,「確認?」
思わず、息を呑んだ。犯人が矢継ぎ早に言った。
魔王,「私が、憎いか?」
挑発するような声。椿姫は頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。すぐには返事ができなかった。
魔王,「そうか、憎いか」
どこか満足げに、嗤っていた。
魔王,「しかし、私はもうお前の前には現れない。たとえ警察が調べをいれたとしても、私の足取りはつかめないだろう」
椿姫は突如切迫感に苛まれた。犯人が消えてしまう。この鬱積した気分を、どこにぶつければいいのか。
魔王,「言っておくが、お前は巻き込まれたにすぎない。私の真の目的は別のところにあった」
椿姫,「真の目的って、なんですか?」
魔王,「わかるだろう?」
椿姫,「…………」
魔王,「お前の、身近な友達だ」
気づいた。そしてその名を口にした。
椿姫,「ハルちゃん……?」
その瞬間、不通音が鳴った。
 悪魔のささやきは風のように消えていった。寒天のなかに立ちすくむ自分の吐息だけが、耳に届いた。
椿姫,「そんな……」
携帯電話を握り締めた。唇がわななき、眉間にしわが寄っていく。叫びだしたい衝動に駆られた。汚れた感情が募り、一人の友達に向かって牙を剥いていく。あの少女は、京介のことも好きなのだ。抑えられそうになかった。
とたんに、いままでの自分が、逆に珍妙に思えてきた。
 請われてクラス委員になった。休みがちな友達にかわって掃除当番も進んでやる。なにをするにも小さな弟たちを優先し、買いたい物も買わず、貯金や時間すらも周りのために費やしてきた。いつも善人であるというレッテルを貼られていた。そして、そういった風評に、何の疑問も抱かなかった。
 欲望が、じわり、じわりと、顔を覗かせていく。
椿姫は、いつしか妄想にふけっていた。
 もっといい服を着て、自由に遊んで、そして……。
 椿姫は、同世代の少女が当然持つ欲望を、一つ、また一つと背負って、ゆっくりと自室にこもっていった。
;背景 教室 昼
栄一,「京介ちゃんよぉ、おいおい京介ちゃんよぉ」
朝一で、栄一が顔をしかめていた。
京介,「なんだよ、近いぞ、顔」
栄一,「そろそろよお、オレの家でパーティの時期じゃねえの?」
京介,「そういう時期あったっけ?」
栄一,「今年からだけどよお、ついにオレちゃんも爬虫類に手を出したわけだよ」
京介,「ペットの話か?」
栄一,「とりあえず蛇からいってみたわけだ。チャーリーっていうんだが、これがまた冬だけあって切なそうなんだよ」
京介,「つまりなにか? おれがお前のチャーリーをねぎらいにいくのか?」
栄一,「イグザクトリィだぜぇ」
なんかムカツクなこいつ。
ハル,「楽しそうなお話してますね?」
栄一,「あ、宇佐美さんも来るかい?」
ハル,「お誘いありがとうございます。宴会は地味に好きです」
栄一,「ちゃんとお土産持ってきてね」
ハル,「蛇さんにですか?」
栄一,「んーん、ボクに」
ハル,「死んだバッタとかでいいすかね?」
栄一,「だからボクにだってば!」
そんなこんなで、授業が始まった。
;場転
授業中に宇佐美が振り返った。
ハル,「椿姫、きてないっすね」
京介,「だな。なにかあったのかな?」
ハル,「きのう、ご飯食べたんじゃないんですか?」
京介,「いや、けっきょくやめておいたんだ……」
ハル,「椿姫、最近ちょっと疲れ気味だと思うんで、心配です」
京介,「それは同感だな。引越しが迫ってるみたいだし」
ハル,「浅井さんのフォローが必要ですね」
京介,「なんで、おれなんだよ」
ハル,「自分はちょっと、敬遠されているみたいなので」
たしかにな……。
; ※追加
椿姫がやってきたのは、昼近くになってからだった。
;背景 屋上 昼
椿姫,「みんな、おはよう」
てっきりカゼでもこじらせたかと思ったが、元気そうだった。
京介,「遅かったな」
栄一,「なにしてたの?」
椿姫,「ちょっときのう、夜更かししちゃって」
京介,「引越しの準備か?」
椿姫,「うん、そんなとこかな……ちょっと、日記つけたり、本読んでたりしてたの」
京介,「それで遅刻かよ……」
まあ、疲れてるのかな。
栄一,「あ、引越しするんだ。へー、どこに引っ越すの?」
京介,「中央区だったよな?」
椿姫,「うん。浅井くんのうちの近くだよね?」
声が弾んだ。
京介,「歩いて十分くらいか」
椿姫,「うんうん。うれしいなっ。新築のマンションなんだよね?」
京介,「ああ……」
それなりにいい部屋を、紹介してもらったんだったな。
栄一,「ボクちょっと、残念だなー」
椿姫,「なにが?」
栄一,「んーん。なんか、あそこ、アットホームな感じがあったからさー」
椿姫,「…………」
椿姫の表情から笑顔が消えた。
椿姫,「でも、うちってすごく古いんだよ。すきまかぜとかすごいし、砂壁だし、ストーブないと寒くてたまらないんだよ」
栄一,「いやボクさー、生まれも育ちも都会だからさ。ちっちゃいころから、ああいう、一戸建ての家に住みたいなーとか思ってたんだよね」
椿姫,「そうなの? 栄一くんって、ずっとマンションだったの?」
栄一,「よくいう鍵っ子だよ。お父さんは単身赴任ばっかりだし、お母さんも夜遅いからね」
椿姫,「そうなんだ……」
神妙にうなずいた。
椿姫,「言ってくれたら、今度ごはん作りに行くねっ」
……こういうところは、いつもの椿姫なんだが。
栄一,「ありがと。正直、さみしいときあるんだよね」
しかし、栄一の家庭環境なんて初めて知ったな。
栄一,「(へっへっへ。ちょっとオーバーに言い過ぎちまったかな。しかしコレいいな。不幸アピールっつうの? 今度はみなしごっていう設定にしようかねえ、クク……)」
……一瞬でも同情したおれが馬鹿だった。
さて、そろそろ昼休みも終わるな。
今日は、なんの予定もないし、帰って寝るとするかな。
ここんところ頭痛がひどいし……。
;背景 学園 校門 夕方
帰り際、椿姫から声をかけられた。
どうも、遊びの誘いらしい。
椿姫,「浅井くん、今日、ちょっと寄っていかない?」
椿姫も、フレンドリーになってきたな。
最初誘われたときは、もっとおっかなびっくりだったような気がする。
京介,「んー……きのうも、つきあったしな」
椿姫,「ダメかな? セントラル街でね、ヴァイオリニストのイベントあるみたいだよ」
京介,「え? そうなの? そんなのあるんだ」
椿姫,「うん、なんか、デパートのイベントで、ちょっとした演奏会とそのあと握手会するみたい」
京介,「なんていう人?」
椿姫,「えっとね……」
日記を覗き込む椿姫。
名前を聞いて、おれは沸き立った。
京介,「あれだろ? とくに入場料とかいらないけど、聞いた後CD買えば、サインしてくれるっていう……」
椿姫,「そうそう。ちっちゃい企画みたいだけど、どうかな?」
京介,「行く」
即答すると、椿姫はうれしそうに笑った。
京介,「しかし、よくそんなマニアックなこと知ってるな」
椿姫,「きのう、調べたの」
なにやら誇らしげだった。
京介,「広明くんはいいのか? 保育園は?」
椿姫,「しばらく休ませてるから」
京介,「他の子供たちは? 名前忘れたけど……」
椿姫,「お父さんが、面倒見てくれてる」
京介,「引越しの準備は……っていい加減しつこいか?」
椿姫,「準備は、夜中やればいいから。最悪明日でもいいしね」
京介,「なら、行こうか」
椿姫,「今日は、遊びたいの」
おれのすぐそばで、甘えるように微笑んだ。
;背景 繁華街1 夜
デパートを出ると、すっかり暗くなっていた。
京介,「いやあ、やっぱり生は違うなあ、生は」
椿姫,「ご満悦だね。CDも、ちゃんと二枚買ってたしね」
京介,「当然だよ」
イベント後の解放感というか、ほてった頬が、ひんやりとした空気に触れて気持ちよかった。
京介,「ありがとうな、椿姫」
椿姫,「また行こうね」
京介,「そうだ。ケータイ買うとか言ってなかったか? つきあってやろうか?」
椿姫,「ホントっ? ありがとう」
京介,「……って、時間だいじょうぶか? もう、八時になるが」
椿姫,「今日は平気だよっ」
京介,「そうか……」
ちょっと前までは、すぐに帰ったのにな。
しかし、椿姫がいいって言うんならいいんだろう。
おれたちは、繁華街をふらふらと遊び歩いた。
;背景 繁華街2
街をうろつくこと二時間。
携帯を買って、夕食をともにした。
京介,「さてと……」
椿姫,「ねえ、浅井くん、次どこ行こうか?」
おれは思わずうなった。
京介,「おいおい、もう十時だぞ」
さすがに帰りたい。
仕事はないが、常時たまってるメールを出さなきゃならん。
椿姫,「ゲームセンターとか行く? 浅井くんってゲームするのかな?」
京介,「いやいや、お前どうしたんだよ」
椿姫の態度が気になった。
椿姫,「なにが?」
京介,「んな夜遊びキャラだったか? 椿姫と夜のゲーセンほど似合わない組み合わせもそうそうないぞ」
椿姫,「そんなことないんじゃない? ほら、よくカップルでぬいぐるみキャッチャーとかしてるじゃない? ああいうのしたいなあって思って」
京介,「…………」
なんなんだろうな、こいつは。
おれに気があるんだとしても、妙に強引に遊びたがるな。
京介,「急に遊びに目覚めたのか?」
椿姫,「あははっ、そうかな……そうかもね」
あくまで軽い調子の椿姫。
別に、特段悪いことをしているわけじゃない。
たまに学園に遅刻したっていいし、夜にゲーセンくらい行ったっていい。
ただ、なにかがおかしい。
京介,「真面目なヤツが遊びを覚えると、手がつけられねえっていうぞ?」
冗談ぽくいうと、椿姫の目つきが少しきつくなった。
椿姫,「なんだかね、遊ぶと気持ちがすっとするの」
京介,「は?」
椿姫,「嫌なこと忘れて遊んでると、楽なの。自分でもちょっとダメかなって思うんだけど、それがまた気持ちいいの」
京介,「これまたレベルの高い発言だな」
椿姫,「冗談だよ」
思いっきり笑った。
大口をあけて、歯を見せるような笑い方も、ここ最近になって見るようになったな。
京介,「とりあえず、帰るぞ。ゲーセンは今度だ」
椿姫,「うん、ごめんね無理言って」
素直なところは、いつも通りだが。
椿姫,「ふふっ、なんか観察されてるみたいだよ……」
京介,「気のせいだ。帰るぞ。送ってってやる」
先を促すように首を振った。
椿姫,「でもね、浅井くん……わたし……」
また気になることを言った。
椿姫,「いままで、我慢しすぎだったのかなって思うんだ」
事件が終わった解放感から来てるのか。
なにかに憑かれているようにも見えた。
;背景 椿姫の家 概観
椿姫,「わざわざありがとっ」
京介,「しっかし、この辺は空気がいいなあ」
大きく伸びをする。
おれの住んでいる中央区なんかよりも、よっぽど星が多く見える。
椿姫,「ちょっとあがってく?」
京介,「帰りの電車がなくなっちまう」
椿姫,「泊まってく? 浅井くんならお父さんも許してくれると思う」
京介,「お父さんが許しても、おれが許さん。明日いっしょに登校する気かよ」
椿姫,「あははっ、ダメかな?」
京介,「そんなところを栄一や宇佐美に見られたら、どんなアオリをくらうかわからんぞ」
椿姫,「ハルちゃんは、そういうの冷やかす人なのかな」
京介,「冷やかすっていうか、ツッコミに困るようなコメントを残して去っていきそうだ」
椿姫,「なんにしても、ハルちゃんはちょっとわけわかんないときあるよね」
京介,「ん……まあな」
やっぱり、宇佐美とはうまくいっていないみたいだな。
椿姫,「そうだ。携帯の番号交換してもらっていいかな?」
京介,「おう……」
そのとき、背後から足音がして振り返った。
京介,「あれ……?」
椿姫,「ん?」
広明,「あ、お姉ちゃんたちだー。おかえりー」
椿姫,「ちょっと、広明、どこ行ってたの!?」
広明,「アイス買いに行ってたんだよー」
コンビニの袋を手に提げていた。
椿姫,「一人で!?」
広明,「うんっ」
椿姫,「なにしてるの!? 危ないじゃない!」
椿姫が血相を変えて、弟に詰め寄った。
椿姫,「もう、馬鹿っ! お父さんは?」
広明,「お父さん、なんか忙しいみたいだったから。こっそり出たの」
椿姫,「だからって……! 一人でなんて……」
広明,「ダメだった?」
椿姫,「お金はどうしたの?」
広明,「お姉ちゃんの貯金箱から借りた」
椿姫,「……っ!」
わなわなと震える唇。
荒い吐息がはっきりと聞こえた。
椿姫は、目を見開いた。
椿姫,「広明、お姉ちゃんの気持ちわからない?」
広明,「……ん?」
椿姫,「広明は、悪い人にさらわれたんだよ?」
広明,「悪い人じゃなかったよ?」
椿姫,「悪い人なの! お姉ちゃんたち、とっても心配したんだよ?」
椿姫の形相に恐れをなしたのか、さすがの弟も急にしおらしくなった。
広明,「ごめんなさい……」
小さい頭を下げた。
椿姫,「…………」
椿姫は弟を不満げに見つめていた。
だらりと下がった腕の先には拳が作られていた。
広明,「お姉ちゃん……?」
広明くんは、椿姫の許しを待っていたのかもしれない。
椿姫,「あんまり、困らせないで」
いつもどおり、優しく抱きしめてくれることを期待していたのかもしれなかった。
椿姫,「まったく、お父さんもお父さんだよ……なんで広明から目を離すかな……」
ぶつぶつと、恨み言を続けていた。
広明,「ごめんね、お姉ちゃん。お姉ちゃん困ってるの?」
椿姫,「…………」
京介,「おい、椿姫。ちょっと頭冷やせよ」
椿姫,「うん、わかってる……」
ようやく口を挟めそうな雰囲気になった。
広明,「でも、お姉ちゃんだって、帰ってくるの遅いよ?」
椿姫,「お姉ちゃんはいいの。大人なんだから」
京介,「あー、すまんすまん、広明くん。おれがお姉ちゃんと遊んでたから遅くなったんだよ」
面倒になって言った。
広明,「ボク、あのお馬の人と遊んでもらって楽しかったけど、寂しいことあったんだよ。お姉ちゃんに会えないのは寂しかったんだよ? だからもっと遊んでよ」
椿姫,「…………」
椿姫は、首を縦には振らなかった。
椿姫,「引越しの準備しなきゃ……」
広明くんから目を逸らした。
京介,「じゃあ、おやすみ」
椿姫,「うん。また明日ね」
携帯の番号だけ交換すると、あとはたいした会話もなく別れた。
;背景 自室
……。
…………。
……椿姫のヤツ、妙に、俗っぽくなったな。
いままでのようなうさんくささが消えた。
溜まってるものがあったのかな。
考えてみれば、病気がちの母親に代わって、あの大家族を支えているわけだからな。
遊びの一つも知らないみたいだし。
世間知らずでスカウトに引っかかりそうになったこともあった。
人を疑おうともせず、真面目に他人や家族のために毎日を過ごすしっかり者の苦労人……。
そういう人間が、ひとたび崩れたらどうなるんだろうな。
おれにとって椿姫はただの学園の友人として、息抜きさせてもらえればいいだけの存在だ。
……そのはずなんだが、少し深くつき合い過ぎたかな。
京介,「寝るとするか……」
頭痛は、今日は襲ってこなかった。
; ※追加:学園教室昼
翌日学園に行くと、栄一が声をかけてきた。
栄一,「で、けっきょくパーティどうするよ?」
京介,「別に、暇なときならいいぞ」
栄一,「なら今日だな」
京介,「これまた急だな」
栄一,「だって、明日は祭日だろう?」
京介,「……そうだったな……」
椿姫,「パーティするの?」
栄一,「うんうん。ボクんちおいでよ」
椿姫,「いくいくっ。楽しそうだね」
そこに、ひょっこり宇佐美が顔を出した。
ハル,「椿姫、だいじょうぶか?」
椿姫,「なにが?」
ハル,「顔色が悪いぞ」
見れば、厚ぼったく腫れた目の下に濃いクマがあった。
椿姫,「平気だよ。ハルちゃんこそ、寝ぐせひどいよ?」
軽く笑って受け流す椿姫だった。
京介,「んで、パーティとやらだが……」
椿姫,「わたし、広明を迎えに行ってからだから、遅くなる」
栄一,「遅くてもいいよ。ちゃんとお土産持って来てくれれば」
椿姫,「みかんでいいかな。とっても甘いよ?」
ハル,「お、みかん、自分、みかん、大好き」
京介,「なんでカタコトになる……」
椿姫,「ハルちゃんも来るんだね」
ハル,「ああ……」
宇佐美は真顔になって椿姫と向き合った。
ハル,「……やめとこうか?」
椿姫,「なんで? 別にくればいいと思うよ?」
ハル,「そっか」
それきり宇佐美は口を閉ざした。
京介,「花音も誘うか……?」
栄一,「いや、花音ちゃんはスケートの練習に忙しいからよそうよ。別に仲間はずれにするわけじゃないよ、うん」
京介,「……たしかに、間近に大会を控えてたな……」
当の花音は、机に突っ伏してグーグー寝ていた。
栄一,「で、京介くんは、おみやげなに持ってきてくれるのかな?」
京介,「ハブだろ? マングースとかどうよ」
栄一,「ハブじゃないよ。ていうか、マングースなんて持ってこれるもんなら持ってきてよね」
……しかし、最近、遊びすぎかもな。
とりわけ大きな仕事はないから、別にかまわないんだが……。
椿姫,「浅井くんも来るんだよね?」
椿姫の赤みのない顔を見ると、どうにも気になる。
京介,「なあ、椿姫……」
おれは何気なく言う。
京介,「お前、なんか俗っぽくなったよなあ……」
椿姫,「え? そうかな?」
京介,「ああ……それならそれでいいんだがな」
まともになったってことだ。
うさんくさい純真さなんてないほうが、つき合いやすいというものだ。
そう考えると、椿姫という少女がとても身近な存在に思えてきた。
椿姫,「……変、かな?」
不安そうな椿姫に言った。
京介,「いや、むしろそれでいい。これからも、もっとガンガン遊ぼうぜ」
椿姫は、ほっとしたのか、笑顔を作った。
椿姫,「うん、遊ぼうっ」
栄一,「いやいや、なんか二人で盛り上がってるけど主催はボクだからね……」
それから放課後まで、あっという間に時間が過ぎていった。
;背景 校門 夕方
日が落ちるのがとても早くなった。
椿姫,「じゃあ、わたし、一度帰るねー」
栄一,「うん、またねー」
椿姫はひと足先に去っていった。
ハル,「そういえば自分、バイトでした」
栄一,「え? 来ないの?」
ハル,「すみません。もっと早くにお誘いいただければ、善処したんですが……」
栄一,「いやいや、宇佐美さんももっと早くに断ってよ」
……椿姫に遠慮してるんだろうか。
ハル,「椿姫に遠慮してるわけじゃないですよ?」
京介,「……っ」
ハル,「でも、椿姫は心配です」
京介,「心配?」
ハル,「疲れてるみたいですし」
栄一,「だから、今日、ボクが盛り上げてあげるよ」
ハル,「さすが栄一さんです。自分は、盛り下げるのは得意なんですが……」
宇佐美はもじゃもじゃの髪の毛をいじりだした。
ハル,「椿姫のお父さんとかも、だいじょうぶですかねえ?」
京介,「親父さん? なんで、家庭の心配までするんだ?」
ハル,「いえ、なんとなくそう思ったんです」
心配しているといいながら、宇佐美の顔に表情はなかった。
ハル,「ほら、家族は、似るもんじゃないですか」
京介,「…………」
ハル,「浅井さんみたいにお父さんがすごい方だと、息子もすごい人になるじゃないですか。いろんな意味で」
京介,「どういう意味だ」
こいつは、権三を知っているわけではないだろうに。
ハル,「だから、椿姫が疲れてると、家族も……そう、まるで鏡のように元気をなくしていくんじゃないですかねえ」
京介,「鏡のように、ねえ……」
妙に引っかかる言葉だった。
京介,「なら、お前の親は、お前みたいに妙な人なのか?」
ハル,「失敬な……知らないわけじゃないでしょう?」
京介,「知るかよ、お前の親なんて」
……ったく、くだらんことばっかり言うな、宇佐美は。
なにが、鏡だ。
ハル,「んでは、また。浅井さん、今度お話したいことありますので、そのときはよろしくお願いします」
京介,「なんだよ、いま言えよ」
ハル,「いえいえ、他愛もないギャグですので」
京介,「さっさとバイト行け!」
手を振って、追い払った。
栄一,「さて、どうするよ?」
京介,「んー、たしかに、おれとお前でパーティはなあ……」
栄一,「サムイよ、マジで。オレとお前とチャーリーとかマジサムイって」
……女が必要らしい。
栄一,「お前、友達呼べよ。年上の女医とか」
京介,「えー……」
栄一,「ほらあの、ミキちゃんって娘は? お前のセフレの」
京介,「セフレじゃねえよ。ミキちゃんは、ダメだ」
そういえば、しばらく連絡を取ってなかったな。
元気かな、ミキちゃん。
栄一,「じゃあ、椿姫が来るまでナンパしようぜ? お前の財布とオレのスイーツ知識があればどうにでもなるって」
京介,「めんどくせえなー」
栄一,「んだよ、グズグズしやがって。ほら、行くぞっ」
京介,「お、おい、ひっぱんじゃねえよ……」
;背景 繁華街1 夕方
セントラル街の路上。
行き交う人々に混雑した歩道で、栄一が張り切っていた。
栄一,「おい女」
ビシッと、指を突き刺した。
栄一,「メシ食いに行くぞ」
……いきなり人様の目の前に立ちふさがってメシ食いに行くぞはねえだろ……。
案の定、女の子は気味悪そうに栄一を遠巻きに眺めながら、足早に去っていった。
栄一,「けっ、クソがっ!」
京介,「いやいや、栄一さんよー」
栄一,「なんだよ、オメーももっとやる気と財布だせよ」
京介,「もうちょっと、工夫しろよ」
栄一,「オレに意見する気かよ?」
京介,「お前はかわいい系で売ってるんだからさ、その路線を活かせよ」
栄一,「わーったよ」
つーか、かわいい系で売ってるヤツに、そもそもナンパなんて向いてないわけだが。
栄一,「ねえ、お姉さん……」
そうこうしているうちに、栄一がまた新たな女性に声をかけていた。
栄一,「あのね、聞いてくれる? ボク、手相の勉強してるんだ。ちょっといいかな?」
女性は、栄一を見向きもしなかった。
京介,「おいおい、手相の勉強とかなんだそれ?」
栄一,「オレなりの工夫だよ。女は占いとか好きだからなー」
……ダメだわ、コイツ。
;SE 携帯
突然、携帯が鳴った。
京介,「はい、もしもし……」
椿姫,「あ、浅井くん、ごめん」
椿姫か。
椿姫,「ごめん、ちょっと遅くなりそうなんだ」
京介,「なんかあったのか?」
椿姫,「んーん。ちょっと、広明が……」
京介,「あ?」
椿姫,「いや、かまって欲しいみたいで」
そういや、昨晩、広明くんがそんなこと言ってたな。
京介,「じゃあ、また連絡くれ。おれたちはてきとーにやってるから」
椿姫,「ごめんね、なるべく急いで行くから」
別に急いでもらう必要はないんだが……。
と、言おうとしたときには、通話は切れていた。
栄一,「なんだって?」
京介,「椿姫、遅くなるってさ。なんでも、弟と遊んでるらしい」
栄一,「なんだよ、またあの弟かよ。わがままなガキだぜ」
京介,「子供は、そんなもんだろ」
栄一,「椿姫も苦労してんなー。遊ぶ暇とかないんだろうなー」
京介,「そうだろうな」
栄一,「あいつって、化粧っけもぜんぜんねえじゃん。服も毎年似たようなの着てるしさ。まあ、そこがちょっとオレちゃんのなかで評価高いわけだけど」
京介,「評価高いんだ?」
栄一,「なんつーの? 清く正しい感じがするじゃん。貧乏だけどがんばりマス、みてーな。萌へるじゃん」
京介,「萌へるかねえ……」
おれは逆に、気に入らなかった。
とくにいままでの椿姫は。
栄一,「あー、ナンパ飽きた。ゲーセンでも行って時間潰そうぜ」
京介,「まあ、いいぞ。おれは観てるだけだが」
ゲームは無駄に金を使うからな。
おれたちは、椿姫からの連絡があるまで、セントラル街をふらついていた。
;背景 繁華街1 夜
栄一,「気づいたら、もう、十時じゃね?」
京介,「だなあ……」
椿姫からは、まだ連絡がなかった。
栄一,「さすがに、お開きにするか。椿姫には悪いけど」
京介,「さすがにな。椿姫には、おれから言っておくわ」
栄一,「じゃあ、帰るわー」
京介,「おお」
栄一はさっさといなくなった。
京介,「…………」
帰る前に、少し、仕事でもしておこうか。
カイシャに顔を出しておくのも悪くない。
最近は、幹部の方がよく働いているみたいで、おれがでしゃばる必要もないんだが。
いくつかの助言を求められることはある。
おれの助言というより、権三の威を借りたいだけなんだろうが……。
;場転
椿姫から電話があったのは、さらに一時間ほど過ぎてからだった。
京介,「やけに遅かったな」
椿姫,「ごめん、いまどうしてる?」
京介,「いや、とっくに解散になった」
電話越しの椿姫は、いらだっているようだった。
椿姫,「なんだ……そっか。残念だな……」
京介,「まあ、パーティなんざいつでもできるし」
椿姫,「浅井くん、明日は?」
京介,「は?」
椿姫,「明日、空いてない?」
京介,「なんか用か?」
椿姫,「えと、今日の、埋め合わせみたいな……」
京介,「また遊びか?」
椿姫,「それだけじゃなくて、ちょっと、お父さんがお話ししたいみたいで」
京介,「……親父さんが?」
土地の話かな?
京介,「わかった。なら、そっちに出向くよ。午前中でいいか?」
椿姫,「助かるよ。そのあと、ちょっと出かけたりできるとうれしいな」
……とことん遊びたいらしいな。
京介,「よし、いいだろ」
おれは何気に、椿姫に心を許し始めていた。
なにからなにまで口にする気はないが、そういったおれの裏事情について少し話してみてもいいかもしれない。
ストレス発散にもなるし、そういうことを話せる相手が一人いてもいいだろう。
椿姫はおれに従順みたいだしな。
ちょっと前までは気に入らない部分もあったが、いまの椿姫なら金回りの話になんかも興味を示しそうだ。
京介,「ちょっと、高めのレストランとか行くか?」
椿姫,「え? 連れてってくれるの?」
京介,「もちろん割り勘だが。お前のことだから、貯金はけっこうあるんだろ?」
椿姫,「けっこうあるよ。いままで、お金の使い方とか知らなかったから。そういうことも教えて欲しいな」
京介,「悪いことたくさん教えてやるよ」
冗談めいた口調で言うと、椿姫も嬉々として笑っていた。
椿姫,「あのね、聞いてくれるかな。広明がさ、さっきやっと眠ってくれてさ……」
京介,「それで、来れなかったんだな?」
椿姫,「そうなの。わたし、そういうのばっかりだよ……」
京介,「貧乏くじ引いてるってか?」
椿姫,「そうかも。クラスでもさ、委員やってるけど、最近、なんでわたしなんだろうって思うの」
電話は長く続きそうだった。
椿姫,「あとさ……お父さんがね……」
帰宅の路に着きながら、おれはいつしか椿姫との会話に夢中になっていた。
椿姫,「あー、これからまた引越しの準備だよ。お父さんももっと手伝ってくれればいいのに……」
平気で愚痴をこぼす椿姫。
どこか口調まで変わった。
おれはといえば、なにか大切なものを貶めたような気がして、けれどそれが逆に嗜虐心を沸かせた。
下劣な気分ではあったが、人を貶めて得られる快楽というものが本当にあるのだと、この歳になってようやく知った。
椿姫のように清潔な女がおれのような人間に近づいてくるのが、正直、心地よかった。
;黒画面
……。
…………。
親父さんの相談というのは、他愛もないものだった。
おれを呼び出すための口実だったようだ。
別に、悪い気はしない。
そういうところが少しもないヤツのほうが、異常なんだ。
姿見の前で着飾る椿姫には、わずかとはいえおれを欺いたという気持ちもないのだろう。
それで、いい。
京介,「椿姫、そんな服、いつの間に買ったんだ?」
椿姫,「通販だよ。最近は、インターネットでなんでも買えるんだね。すぐ届くし、便利だよね」
京介,「知らなかったのか?」
椿姫,「うん、興味なかったから。なんだかすごく損してた気分」
浮かれた表情ではあるが、若干やつれていた。
京介,「日記は、最近書いてるのか?」
椿姫,「ううん、ぜんぜん。書く暇なんてここんところなかったから」
目つきはぼんやりとして、どこか虚ろだった。
椿姫,「はーあ、もう、日記なんてやめようかな。いまどきないよね、日記が趣味とか。どう思うかな?」
京介,「本気でそう思うのか? 椿姫といえば、日記だったが?」
椿姫,「……ん」
眉を寄せた。
広明,「ねえ、お姉ちゃん」
椿姫,「え? なあに、広明?」
広明,「かくれんぼしよー」
椿姫,「あとでね。それより、これ、似合う?」
椿姫は、洋服を掲げて弟に見せつけた。
広明,「んーん」
椿姫,「……あれ?」
……子供は正直なもんだな。
広明,「お姉ちゃんは、前にボクがいいって言った服が好きなんじゃないの?」
椿姫,「あの、パーカー? あれは、もう、ずっと着てるじゃない?」
広明,「うん、それで、お姉ちゃん、ボクのお友達に貧乏ってあだ名つけられた。でも、それでも好きって言ってたよ?」
椿姫,「…………」
広明,「どしたの、お姉ちゃん?」
椿姫,「浅井くんはどう思う?」
助けを求めるように、おれに目を向けてきた。
京介,「さあな。どっちかっていうと、新しく買った服のほうが似合うかもな」
椿姫,「そう? そうだよね?」
京介,「意外な感じがして、いいんじゃないか?」
椿姫はうれしそうに声を弾ませる。
椿姫,「よかった。こういうの着ないと、浅井くんに恥かかせちゃうもんね」
京介,「そんなこと気にしなくていいぞ……」
椿姫,「ううん。だって、浅井くんの私服って、高いんでしょう? 街で並んで歩いてたら恥ずかしいじゃない?」
京介,「本気でそう思うのか?」
おれは椿姫の心情を探るように首をひねった。
椿姫,「え? なにか変かな?」
京介,「いや、おかしくはないよ。普通の感覚だな」
椿姫,「よかった。最近、ちょっと疲れてるみたいでね。思ったこと、すぐ言っちゃうことがあるの。変だったら言ってね」
おれは、黙ってうなずいた。
広明,「ねー、お姉ちゃん」
広明くんは、相変わらず椿姫の足元でうろちょろしている。
椿姫,「お父さんに遊んでもらいなさい」
広明,「だって、お父さん、引越しだもん」
親父さんは、朝からずっと荷物をまとめているようだった。
椿姫,「お姉ちゃんたち、これからでかけるの……!」
声を荒げた。
広明,「どこ行くの? ボクも行くー」
椿姫,「ダメだったら……もうっ!」
;背景 椿姫の家 居間
椿姫は弟の小さな手を乱暴に振り払った。
広明,「あっ……」
椿姫,「……っ」
瞬間、怯えのような表情が顔に浮かんだ。
椿姫,「い、行こう、浅井くんっ!」
弟を見向きもせず、足早に玄関に向かう。
おれは、ただ、椿姫に従った。
;背景 椿姫の家 概観 夜
; ※昼の間違い?
椿姫,「はあっ……はあっ……」
肩で息をする椿姫には、これから遊びに行けるような余裕はまったくうかがえなかった。
椿姫,「あ、うっかり、これ着てきちゃった」
いつも来ているコートを、不機嫌そうに触っていた。
おれはひどく冷めた気分で、椿姫を見つめていた。
京介,「引越しの準備しなくていいのか? 親父さんががんばってるみたいだが?」
椿姫,「……いいんだよ。ここんところ、わたしが、ずっとやってたし」
京介,「しかし、ついに引越しか……」
伸びをして、古ぼけた家の外観を眺めた。
京介,「生まれたときからずっとここに住んでたんだろ?」
椿姫,「だったら、なに……?」
不安そうに聞き返してきた。
京介,「いや、感慨深いものがあるんだろうなって……」
椿姫,「あるにはあるけど……」
歯切れ悪く言いながら、視線を這わす。
椿姫のぼんやりとした目が、家のある庭を見つめていた。
京介,「どうした?」
椿姫,「ううん……よく、あそこで花火したなあって……」
京介,「へえ……」
椿姫,「秋になるとね、みんなでお芋焼くの。お父さんが張り切っちゃって、火事になりそうだったこともあったの」
椿姫,「一番下の子がね、初めてハイハイしたとき、縁側から落っこちちゃってさ。あのときは大騒ぎで……」
椿姫,「それで……」
椿姫,「…………」
しぼんでいく、明るい笑顔。
京介,「なあ、椿姫……」
おれはゆっくりと、そしてできるだけ優しげに椿姫の肩に手を置いた。
京介,「新しい家でも、たくさんいい思い出は作れるだろう?」
京介,「おれも間取りは見たが、いい部屋じゃないか。おれの家も近い。今度は、お前の家族におれも混ぜてくれよ」
京介,「おれは、あまり家族との交流のない生活を送ってるし、正直、温かいみそ汁が恋しい夜もある」
椿姫,「……浅井くん」
椿姫は、そっとおれの手を取った。
京介,「誘拐だの立ち退きだの、嫌なことが続いてストレス溜まってるんだろうが、これから楽しくやればいいじゃねえか」
椿姫,「浅井くんにそう言われると……なんか元気でるな」
熱を帯びたように、頬が染まっていく。
京介,「じゃあ、街に出ようぜ」
椿姫,「……うん、あ、待って……」
不意に、椿姫が首を傾げる。
椿姫,「浅井くんって……」
京介,「ん?」
椿姫,「ううん、ごめん。なんだかね、そういう話し方するときの浅井くんってちょっと違うなって思ったの」
京介,「たしかに、学園にいるときのおれとは違ったかな」
椿姫,「あ、そうじゃなくて……」
椿姫,「なんだろ……」
また不意に、小さく笑った。
椿姫,「犯人みたいなしゃべり方だなって、思ったの。ごめんね」
おれもつられて笑う。
京介,「おれが"魔王"かよ。宇佐美みたいなこと言うなよ」
椿姫,「え? ハルちゃんに疑われてるの? ひどいな。浅井くんが犯人なわけないのにね」
京介,「まったく、宇佐美には困ってるよ」
椿姫,「気にしたらダメだよ。わたしは信じてるからね。浅井くんがいなかったら、広明も返ってこなかったかもしれないんだし」
京介,「おれはたいしてなんもしてねえよ。それより、いいかげん出かけようぜ」
椿姫,「そうだね、寒いしね」
おれたちは、互いに似たような笑みを携えながら、家を離れた。
;背景 セントラル街 夕方
京介,「とりあえず満足か?」
椿姫,「うん、化粧品なんて初めて買ったよ」
京介,「ちょっとだけ、クラスの女の子連中に近づいたな」
椿姫,「みんな、やってるもんね」
京介,「おれも厚化粧は好みじゃないが、目の下のクマくらいなら隠して欲しいかもな」
椿姫,「ごめんね、そういうの疎くて」
歩きながら雑踏を抜ける。
椿姫,「あ、ごめん、電話」
買ったばかりの椿姫のケータイにはたびたび着信があった。
椿姫,「……うん……わかんないよ……うんっ……」
手を添えて小声で話す椿姫は、不機嫌そうだった。
京介,「どうしたんだ?」
椿姫,「また家から。お母さんのバッグ知らないかって。そんなのわたしが知るわけないのに……」
椿姫,「まったく、わたしがいないとなんにもできないんだから……」
京介,「帰るか?」
椿姫,「ううん、まだ平気だよ」
すぐさま首を振った。
ハル,「おや? 浅井さんじゃないすか?」
背後から宇佐美の声がして、振り返る。
ハル,「おやおや? 椿姫もいっしょですか。これはこれは」
椿姫,「ハルちゃん、どしたの?」
京介,「よくばったり会うよな? おれのあとつけてんのか?」
ハル,「そんないきなり二人して詰問してこなくても。自分はバイトの帰りにちょっと、駅に寄ってただけです」
京介,「駅に? どこか行くのか?」
ハル,「いえいえ、証拠でもないかなと」
京介,「証拠だって?」
しかし、こいつは、知ってか知らずかおれをひきつけるようなしゃべり方をするな。
ハル,「あ、いえいえ。デート中に話すようなことでもありませんです、ハイ」
椿姫,「浅井くん、行こう?」
京介,「ちょっと待てよ。なんだよ、なにか犯人の足取りでもつかめたのか?」
ハル,「いいえ。まったく」
宇佐美は顔色一つ変えない。
京介,「お前、きのう、なにか話があるとか言ってなかったか?」
ハル,「え? いいましたっけ?」
京介,「……お前な」
ハル,「あー、なんか口走りましたね、自分」
京介,「もったいつけるなよ」
宇佐美はさらりと、けれど無表情に言った。
ハル,「はい、では言います。あなたが"魔王"です、浅井さん」
断言した。
あまりに突拍子もない言い方だった。
おれの右の頬がひきつっていく。
ハル,「あなたは前もって、駅のコインロッカーの鍵を複製しておいたんです」
京介,「……なんだと?」
ハル,「あの身代金を巡る追走劇のなかで、駅のコインロッカーに身代金が収められたことがありました。そのとき、わたしはあなたに、不審な人物が来ないかどうか見張っておいて欲しいと頼みましたね?」
京介,「ああ……たしか、椿姫がロッカーの鍵だけを持って街中を走り回ってたときだろ?」
宇佐美はうなずいて続けた。
ハル,「あなたは、前もって用意しておいたコインロッカーの鍵を使い、ようようと身代金の株券を手に入れたんです」
京介,「冗談もそのへんにしろって。駅の鍵を複製したって? おれが? いつ?」
ハル,「あなたは事件当日、仕事があるといって行方をくらましていましたよね? 鍵の複製なんて、その辺のお店で三十分もあればやってもらえます」
京介,「記憶にない」
ハル,「いや、盲点を突かれました。トリックそのものは単純ですが、まさか、信用していた浅井さんこそが、犯人だったなんて」
おれは、言葉に詰まった。
おれは犯人では断じてないが、宇佐美の推論をとっさに論破するだけの機転が利かなかった。
椿姫,「ハルちゃん、もういいよ。事件のことは、もうハルちゃんには関係ないでしょう?」
椿姫は、あくまでおれの味方のようだった。
椿姫,「なんか、やだよハルちゃん。いろいろ手伝ってくれたのはわかるけど、けっきょくハルちゃんは、なにも解決してくれなかったじゃない?」
ハル,「…………」
宇佐美は、無表情を崩さない。
椿姫,「せっかく、こうしてやなこと忘れようとして遊んでるのに……」
京介,「まったくだ。とっとと行こうぜ」
椿姫をうながしながら、軽く頭を振る。
少し、めまいがする。
京介,「おい、宇佐美。今日のことは忘れてやる」
ハル,「そすか。ありがとうございます。では最後に一つだけ」
椿姫,「ハルちゃん!」
ハル,「もし、わたしの言ったことに心当たりがあるのなら、すぐに自首してください。警察はすぐに証拠をあげるでしょう。近場の鍵屋さんを徹底的に洗うでしょうし、駅には監視カメラもあるんです」
京介,「その警察は動いていないんだろう?」
ハル,「ええ、ですから、残念でしかたがないんです」
京介,「話にならんな」
椿姫の手を引いた。
ハル,「…………」
椿姫,「じゃあね、ハルちゃん」
宇佐美は、軽く会釈して歩き去っていった。
椿姫,「気にしないでね、浅井くん……」
京介,「ああ……」
……宇佐美め、まだあきらめていなかったのか。
しかし、警察さえ出てこなければ、だいじょうぶだ……。
……む?
なにが、だいじょうぶなんだ?
深く考え込む。
……いや、おれは、浅井興業と総和連合に警察の手が入らずに済むことを願っているだけだ。
おれが、"魔王"であるはずがない。
そういえば、最近秋元氏のところに行っていないな。
椿姫,「どうしたの? だいじょうぶ、わたしはたとえ浅井くんが"魔王"でもいいよ?」
軽口のつもりだろうが、あまり笑えなかった。
椿姫,「さ、ご飯食べに行こう?」
椿姫は改めて手を差し伸べてくる。
おれに従順な椿姫。
気持ちを切り替えて、椿姫と楽しもう。
;背景 公園 夜
椿姫,「あー、すっごい、楽しかったー」
両腕を振り上げて、伸びをした。
こういう仕草も、以前の椿姫にはないものだった。
京介,「今日は一日遊んだな。満足か?」
椿姫,「うん、ご飯もおいしかったー」
京介,「金があるって素晴らしいだろ?」
椿姫は大いにうなずいた。
椿姫,「なんか見聞が広がるよね。いままでそういうの興味なかったけど、お金ってとっても大事だね」
京介,「金はさ、使いようによっては、どんなもんでも買えるぞ」
椿姫,「どんなものでも? たとえば?」
京介,「お前の気持ちとかな……」
冗談ぽく言った。
;/////////////////旧BADEND跡地/////////////
椿姫,「え? や、やだなあ、それにはお金なんていらないよ?」
京介,「あー、すまん、ギャグだよ。どうもおれのギャグは半スベりだな」
人気のない夜の公園で、笑いあう。
それなりに楽しかった。
おれが、もう少しまともな人間なら、こういう毎日の積み重ねで、椿姫に愛情を抱くのかもしれないな。
寂しい気持ちもあった。
椿姫と別れるのが、なぜか名残惜しい。
椿姫,「ねえ、浅井くん、明日は?」
京介,「お、またお誘いか?」
椿姫,「うん、ダメかな?」
……明日は、さすがにやるべき仕事がある。
椿姫,「浅井くんってお父さんのお仕事手伝ってるんだよね? それで忙しいんだよね? どんな仕事なのかな?」
まくしたてるように尋ねてきた。
京介,「興味あるのか?」
椿姫,「うん」
おれは少しだけ思案した。
仕事をする上で、長らく望んでいたことがある。
秘書……というとずいぶん偉そうだが、つまり助手のような人間が欲しいのだ。
ちょっとした書類をまとめたり、郵送に行ったり、メールをチェックしてもらったりと……細やかな作業を任せたい。
浅井興業の人間はダメだ。
実力はあっても、おれに従順なわけではない。
彼らは皆、おれではなく権三に忠誠を誓っているのだ。
そう遠くない将来、おれはおれの組織を持たなくては。
そういった意味で、椿姫はうってつけの人材といえる。
この闇社会で、女はそう表には出せないが、使い道はいくらでもあるだろう。
京介,「明日、ちょっといっしょに動いてみるか?」
椿姫,「え? どういう意味?」
京介,「手伝って欲しいんだよ」
椿姫の顔に当惑の表情が浮かぶ。
椿姫,「わ、わたしなんかでいいのかな?」
京介,「だいじょうぶだよ。お前は真面目で几帳面だから」
椿姫,「ほんと? うれしいな。でも、びっくりだな」
興奮して漏れた息が、寒さに白く染まっていた。
京介,「もちろん、誰にも言わないでくれよ?」
椿姫は目を輝かせて、おれの声に聞き入っていた。
椿姫,「ぜったい、言わないよ。約束するよ」
京介,「なら、明日また改めて連絡する」
椿姫,「必ず出るようにするよ」
京介,「必ずだぞ」
念を押すと、椿姫の顔が強張った。
京介,「明日おれは、学園を休む。でも、お前は学園だな。授業中でも電話に出られるか?」
椿姫,「え?」
さすがに、不安になってきたようだ。
京介,「おれはいままでけっこう休んでるだろ? たまに本当に頭痛がひどくて休むこともあるが、たいていはカイシャのためだ」
椿姫,「カイシャ……? お仕事のことだね……」
京介,「納得したか? おれにとって学園は、息抜きの意味合いしかない場所なんだ。仕事を手伝ってるってのは嘘で、あくまで、カイシャの仕事がメインなんだ」
椿姫,「知らなかった……すごい人だなって思ってたけど、そうなんだ……」
京介,「だから、電話があったら、すぐに出てくれ。それぐらいシビアな仕事でもある」
一歩詰め寄った。
京介,「約束できるか?」
椿姫は、息を呑んだ。
椿姫,「わ、悪いことしてるわけ、じゃないよね?」
京介,「当然だろ。法律に触れるようなことはしてないよ。悪いことなんて一つもないよ」
たまに犯罪すれすれのグレーなラインを踏むこともあるが、いまは教えなくていいだろう。
椿姫,「……えっと」
迷っていた。
けれど、ここまで話した以上、逃がすわけにはいかない。
京介,「こんなことを話すのは椿姫が初めてだ。正直なところ、いままで誰にも打ち明けたことがない」
最初は小さく、低い声でゆっくりと話す。
京介,「なんせおれみたいなガキが、社会人の真似事をしてるわけだからな。みんな信じないし、苦労なんてわかってもらえるわけもない」
徐々に口調のテンポを上げ、そのうち感情に訴える。
京介,「でも、お前は別だ、椿姫。縁あって仲良くなれた。誘拐っていう悲劇を通じてだけど、お互いに知りえた部分は多かったはずだ。なにより……」
声を張る。
京介,「ここ数日、楽しかった。正直あんまり人に心を許したことはないけど、お前は別だ。椿姫だから、打ち明けた。おれが秘密を打ち明けられるような人間は椿姫しかいない」
何度も名前を呼ぶことも忘れなかった。
椿姫,「…………」
椿姫は目を丸くして、浅い呼吸を繰り返していた。
椿姫,「そんなふうに思われてるなんて……」
椿姫,「うん……わかった……わたしも、明日、学園休んで電話待ってる……」
……これでいい。
別に、緊急で呼び出さなきゃならん仕事なんてないが、問題は、椿姫がおれの言うことをちゃんと聞くかどうかだった。
京介,「じゃあ、明日な」
椿姫,「うん、おやすみ……」
手を振って、別れた。
振り返ると、椿姫はしばらくその場に立ちすくんでいた。
そこに、小さな影が沸いて出てきた。
広明,「お姉ちゃーん……!」
弟だった。
椿姫,「広明、なにしてるの……!?」
広明,「お姉ちゃん、迎えに来たんだよ?」
おれは、姉弟のやりとりを遠巻きに眺めていた。
椿姫,「……まさか、また一人で?」
広明,「んーん。お父さんも、もうすぐ来るよ?」
椿姫,「どうしてお父さんといっしょに来ないの!」
椿姫がまた、ヒステリックな声を上げた。
椿姫,「お姉ちゃん言ったよね? もう、一人で勝手に出歩いちゃだめだって」
広明,「ごめん、でも、お姉ちゃん帰ってくるって言って帰ってこなかったから」
頻繁にあった電話のなかで、椿姫は帰宅時間を家族に告げていたようだ。
椿姫,「だから、何回同じこといわせるの?」
椿姫は、しゃがみこんで、弟に話しかけていた。
京介,「…………」
しかし、あの弟には手を焼くだろうな。
椿姫の気持ちもわからんでもない。
椿姫,「いい加減にして!」
広明,「なにがー?」
田舎の夜は、声の通りがとてもよくて、小さい声でも聞こえてくる。
椿姫,「心配してるの! 広明がまた同じ目に合うんじゃないかって。 どうしてわからないかな?」
広明,「だいじょうぶだよ! ボクはだいじょうぶだって! 一人で保育園から帰ってこれるよ? 一人でお姉ちゃん迎えに来たよ?」
椿姫,「……くっ」
椿姫の低いうなり声が響き渡った。
……立ち聞きもなんだし、そろそろおれは帰るかな。
気にならないこともないが、家族の問題は、おれにはどうしようもないことだ。
去り際、椿姫が言った。
椿姫,「そう……なら、もう、わたしも気にしないから……」
声には、いままでで一番暗い、押し殺すような響きがあった。
;ノベル形式
;椿姫視点
;背景 椿姫の家概観 昼
このところ大気がとても不安定で、深夜から朝方にかけて雪が降っていることもある。時間がたつにつれてアスファルトは乾き、椿姫が目覚めるころには、点々とした模様が路面に残っていた。
 椿姫は、心臓の高ぶりに身を任せ、いずれ置き去りにしてしまう住み慣れた我が家を、棒立ちになって眺めていた。
 足元で蟻が行列を作っていた。蛾の羽の切れ端に黒々と群れ、庭先に運び込んでいる。椿姫のなかでただれるまでに変化した純真さも、新しい春を迎えるための貴重な餌だったのか。突拍子もない誘拐事件が、家族への責任感が、京介への想いが、自分をふさわしい巣穴へと誘導していく。
玄関先から広明が出てきた。子犬のような足取りで、椿姫に迫ってくる。
広明,「じゃあ、出発」
拳を丸め、腰をかがめた直後、おもいっきりジャンプする。花のような笑顔で椿姫を下から覗き込んでくる。弟の仕草は素直に愛らしいと思う。
 これから広明を保育園に送り、その足で学園に向かう。いつもの日課だった。途中でおやつをねだられたら、コンビニに立ち寄るし、遊ぼうと言われたら時間の許す限りかまってやった。
幼い子供だった。わがままにつきあうのも、時間を費やすのも、姉として当然のことだった。
 今日は違う。学園をさぼり、京介の連絡を待つ。場合によっては、広明を迎えに行かないかもしれない。
 弟の手を引いた。脂肪がつまっていて柔らかかった。
広明,「お姉ちゃんの手、ぷにぷにしてるよね」
椿姫,「太ってるっていうの?」
口調が知らずきつくなる。
椿姫,「広明だって、ぷくぷくしてるよ。お菓子の食べすぎじゃない?」
広明,「うん、お姉ちゃんといっしょだね。ボク、お父さんに、椿姫にそっくりだって言われるよー」
椿姫,「そっくり……」
屈託のない弟の笑顔に、椿姫はどこか居心地の悪い気分だった。こういう笑顔をどこかで見ていたような気がする。鏡の前で、それも毎日、飽きるほどに……。
 なぜだろうか。弟のなにが、気に入らないというのか。
椿姫,「……行くよ」
歪んだ感情を抱えた胸から腹にかけて、汗が滴り落ちるのがわかった。
;背景 公園 昼
京介の朝は早いようだ。七時を過ぎたばかりだというのに、いきなり着信があった。
眼下で楽しそうに歌を口ずさむ弟を一瞥し、携帯電話を手に取った。
椿姫,「早いね、浅井くん」
京介,「なにか、まずかったか?」
問い詰めるような感情が伝わってきた。たまに声色が変わることはあったが、いまの京介は学園にいるときとは明らかに違っていた。
椿姫は気圧されるように口を開いた。
椿姫,「だいじょうぶだよ、いまから行けばいい?」
京介,「いま、外にいるな?」
椿姫,「え? うん……」
京介,「こんな時間に表を出歩いているということは、これから弟か妹を保育園に送るのか?」
すらすらと自分の行動を言い当てられて、狼狽した。
京介,「すぐにうちに来てくれ」
椿姫,「いますぐ?」
京介,「すぐだ」
心のどこかで警鐘が鳴っていた。こんなふうに不安が募るのは、"魔王"と呼ばれる犯人と密会したとき以来だ。拒否できる勇気も、また拒否するつもりもなかった。
椿姫,「わかった。急いでいくから、待ってて」
椿姫の返答に、京介は満足したように、ありがとうと言って、電話を切った。
広明,「お姉ちゃん、なあに?」
子供は本当に、人の顔色を読むのがうまいと思った。
椿姫はこれから言い出すべき言葉に喉を詰まらせた。けれど最近になって培った欲求に身をゆだねると楽になった。自分くらいの少女が、親や兄弟といるより、友達と過ごしたほうが楽しいと考えても、なんの不思議もないではないか……。
椿姫,「広明、ひとりで行ける?」
弟は、誘拐された。
椿姫,「行けるよね? きのう、一人でだいじょうぶだって言ってたもんね?」
誘拐の事実を知って、自分の迎えが遅かったせいだと椿姫は泣き喚いた。
椿姫,「お姉ちゃんちょっと、大事な用事があるから、ここでバイバイだよ」
迷いを胸の奥深くに押し込め、それまでの自分と決別する。
そんなに悪いことだろうか。弟を放り出して、大切な人の仕事を手伝う。学園をさぼっているという付録はついているものの、犯罪というほど大げさでもないし、人に軽蔑されるほどの愚行でもないと思う。ちょっとした冒険という程度ではないのか。
 そんなささいなことに、いつまでも気をわずらわせている椿姫は、不意に、自分がとてもちっぽけなものに思えて、腹立たしくなった。
椿姫,「じゃあね……帰りは迎えに来るから」
椿姫の心情など知りもしない弟は、小さく首を傾げた。
広明,「終わるの、お昼だよ? お姉ちゃん、ガッコでしょ?」
純粋な瞳に見つめられ、また冷や汗をかいた。
椿姫,「お姉ちゃんも、終わるのお昼だから」
小さい子供に追い詰められ、口が勝手に嘘をついた。それでも弟を迎えにいくと口にしたのは、椿姫の良心がうずいたからだった。
広明,「じゃあ、この公園で待ってるね。缶ケリして遊ぼう?」
椿姫,「うん……」
たまらず、目を逸らした。
;黒画面。
それから先は、息を潜めるようにして、京介の家まで向かった。電車のなかやセントラル街の人ごみに紛れると、ふと周囲の誰もが椿姫に目を向けているような不安に襲われ、終始落ち着かなかった。
;通常形式
……。
…………。
;背景 主人公自室 夜
; ※変更:朝
おれは椿姫を部屋に上げた。
出迎えると、椿姫はいままでになく暗い顔をしていた。
京介,「よく来てくれたな」
椿姫,「お邪魔します」
京介,「えーっと、お前が来るのは初めてだったか?」
椿姫,「ううん、二度目だよ……」
……そうだったか。
京介,「元気か? 急に呼び出して悪かったな」
椿姫は、いいんだよ、と力なく首を振った。
京介,「悩み事でもあるのか?」
椿姫,「え? なんで?」
京介,「顔に書いてある」
おれはいつの間にか不敵に笑っていた。
京介,「最近ちょっと、家族とうまくいってないみたいだな?」
椿姫,「……やっぱりわかる?」
悪いことをして見つかった子供のような、ばつの悪い顔をしていた。
京介,「ちょっと、いままでが、べったりしすぎてたんじゃないか」
椿姫,「かまいすぎたっていうこと?」
京介,「大家族だから大変なのもわかるが、さしあたってやることやってればいいんじゃないか? とりあえずここに来る前に、弟を保育園に送ってきたんだろ?」
椿姫,「……え?」
京介,「どうした? 送り届けなかったのか?」
椿姫は、黙ってうなずくだけだった。
……どうやら、おれの指示を優先して、弟をほっぽりだして来たみたいだな。
椿姫,「学園も、さぼっちゃったね」
京介,「やっぱりちょっと悪い気がしてるのか? すぐに慣れるぞ」
椿姫,「う、うん……慣れていいものなのかな?」
いいか悪いかなんて自分で決めればいいことだが、おれに従う以上、そんな小さなことで、いちいち気を揉んでいる暇はない。
いままでの真面目で常識的な学園生の椿姫では困る。
悪徳宗教の教祖と信者のような関係こそ望ましい。
教祖の言うことがどれだけ荒唐無稽でモラルを逸脱していたとしても、信者にとっては神の福音となって聞こえる。
椿姫には、信者となる素質があるように思えるがどうだろうか……。
京介,「なあ、椿姫。おれが、どうしてこういう仕事をしているか、興味ないか?」
不意に尋ねられて、椿姫は驚いたように顔を上げた。
おれは柄にもなく、自分自身について語ることにした。
京介,「いまでこそ、こんな裕福な生活をしているが、実はおれはとんでもなく貧乏な暮らしをしていたことがあるんだ」
椿姫,「……え? ほんと?」
ため息をついて、目を丸くした。
なにかの本で読んだが、人間は不思議と、相手の過去を知ると親近感を抱くものらしい。
椿姫には、もっともっとおれに近づいてもらわなきゃな。
京介,「中学にあがりたてのころかな。うちはそれまでそれなりに幸せな家庭だったんだが、ちょっとした事件から、なにもかもおかしくなったんだ」
椿姫,「……事件?」
京介,「自分で言っといてなんだが、まあ、その話は、ちょっと勘弁してくれ。頭痛の種なんだ」
椿姫,「わかった、ごめんね……」
おれは、少しずつ昔を振り返っていく。
京介,「話しても信じてもらえるかどうかわからないが……」
前置きして、切り出す。
記憶を、浅く巻き戻した。
過去をたどると、まぶたの裏のスクリーンには、いつも同じ光景が宿る。
うす暗い部屋で、おれは一人、沈んでいる。
京介,「北海道の片田舎」
京介,「牛の寝藁や餌が収納された納屋のすぐ隣に、おれと母さんが住む部屋があった」
京介,「真冬になれば気温は毎日氷点下だが、部屋の窓は二重じゃなかった」
京介,「牛の異臭が立ちこめる和室の畳には、ムカデやクモが、髪の毛や米粒を巡ってよく戦争をしていたな。北国なのに、小さいゴキブリを見たときは、さすがにひいた」
椿姫,「ど、どうして……そんな生活を?」
京介,「……父さんが、家を破滅させていたからだ」
椿姫,「お父さん?」
京介,「ああ、おれがよくパパっていってるのは、義理の親父でね。わけあって、養子に入ったんだ」
京介,「父さんは、すでにそのとき家にいなかった」
京介,「死んだのでも、蒸発したわけでもないが、莫大な借金を暴力団に作ってしまっていたんだ」
京介,「だから、おれは母さんと二人で逃げるように、居場所を点々としていたわけだ」
京介,「そして、最後に流れ着いたのが、いま言った豚小屋みたいなところだった」
椿姫,「…………」
京介,「部屋を貸してくれたのは、遠い親戚にあたる人だった。カンヌさんとか呼ばれてたな。そういう呼び方は地元では差別的な意味合いがあったらしいが、おれにはよくわからん」
京介,「路頭に迷っていたところを住まわせてもらってなんだが、カンヌは前科もちのろくでなしだった」
京介,「日雇いの仕事をしていたみたいだが、たまに稼いだ日銭をちらつかせては、母さんをいびっていた」
京介,「母さんも細々と働いていたが、小さな村でよそ者に与えられる仕事なんてたかが知れていた。けっきょくは、カンヌの言いなりになるしかなかった」
京介,「一番困ったのは灯油だった。田舎だと、信じられないくらい値段が跳ね上がることがある。鼻水が凍るような寒さのなかで暖が取れないっていうのは、死ねと言われているようなもんだった」
京介,「母さんはなにをさしおいても先にストーブの燃料を買い込んでいたが、日に日に足りなくなっていった」
京介,「一日に二時間だけ保障期間の過ぎたオンボロストーブに火をつける。そんなとき、おれは母さんと毛布にくるまって、いろんな話をしていた」
京介,「もっとお金があればいいのに……おれはいつもそんなことを言っていた」
京介,「新聞配達をしたいと頼んだが、母さんは許さなかった。早朝はとても冷えるとおれの体を気づかっていた。雪山を踏み分けての配達は、子供にはとてもきついものだからだ」
京介,「それでも灯油は減っていく。どうやら豪雪で村全体が供給不足に陥っていたらしい。一日二時間の幸福な時間は、半分の一時間になった」
京介,「おれは、中学のクラスメイトに……といっても学年全体で五十人もいない小さな学校だが……灯油をわけてもらえないかと頼んだ」
京介,「結果は、乞食とかいうあだ名がついただけで、なにも得るものはなかった。貴重な灯油を無駄づかいしているから足りないんだと、相手にされなかった」
京介,「無駄づかいなんてしていないはずだった。だが、ひょっとして、みんなは、もっと我慢しているのではないかと、少し反省しながら家に帰った」
京介,「言われてみれば、少しおかしかった。灯油の減りがやけに激しかった。母さんが、日中、こっそりストーブを炊いているのだろうかといやな妄想にも襲われた」
京介,「そして部屋に戻る直前、カンヌと出会った。ヤツは、おれの姿を認めると、突然怒り出し、禿げ上がった頭を振り乱して言った」
京介,「『誰のおかげでここに住ませてもらっているのか』。ヤツの手にはポリタンクがあった。おそらくおれの家から盗んだ灯油が、たっぷりと揺れていた」
京介,「おれはヤツを問い詰めた。熊みたいな大男でいつも酒で顔が赤らんでいた。だが口論をしていると、近所から人がやってきた」
京介,「カンヌはずる賢いヤツだった。外面と内面をうまく使い分けていた。外では身寄りのない親子を助けた善人として振舞っていた。当然、悪いのはおれということになった」
京介,「それでも、担任の先生に相談したことがある」
京介,「だが、そこでおれは、おれとおれの母親が、村の連中からどう思われているのかようやく知った」
京介,「母さんが、場末のスナックで働いているのが悪評の原因らしい」
京介,「たかがスナックだぞ? 売春しているわけじゃあるまいし。ど田舎の北海道弁で母親を、まるで女郎のように罵られた」
京介,「勢いでおれは母さんに、村を出て行くよう頼み込んだ」
京介,「でも、母さんは、少し疲れ過ぎていた。優しい人だったが、少し疲れていたんだな……どこにも行き場がなかったから、しかたがなかったんだな……」
京介,「…………」
京介,「ある日を境に、一晩中ストーブがこんこんと火を灯すようになった」
京介,「カンヌの態度も変わった。おれに媚びるようにモノを買ってくれるようになった。糞ガキと呼ばれなくなった。夕食を三人でともにすることもあった」
京介,「ガキのころのおれは、カンヌのような偽善者が、なぜ、おれたち親子を助けたのか、その理由を考えなかった」
京介,「おれは見た」
京介,「手足を押さえつけられて、悲鳴を上げる女の人を」
京介,「うちの部屋だった。学校を病気で早退したのがまずかったのかもしれない」
京介,「酒の匂いがひどくてむせた。一升瓶が中身をぶちまけて倒れていた」
京介,「それを飲んでいた大男が、丸裸の下半身を隠そうともせず、おれをにらみつけた。黄色く濁った目。岩みたいに角ばった顔。こぶのように隆起する腕の筋肉」
京介,「肉体労働で養われた屈強な体に、おれは恐怖に身がすくんだ。圧倒された。胃が飛び出るほど殴られ、倒れこんだら背骨が折れるほど蹴り込まれた」
京介,「母さんが泣いておれをかばった。ヤツは汚い言葉を浴びせて母さんの髪を引っ張った。そのまま酒臭い口を母さんに近づけながら、ぎらついた目だけおれに向けた」
京介,「――『きょうすけぇ、くやしいか!? なんまくやしいか!? くやしいなあ!? ぜんぶおまえらのせいだべ! 金さもってないおめえらのせいだべっ……!!!』」
京介,「ヤツはとにかく、まくしたてた。自分こそが、薄汚い牛小屋の支配者なのだと。嫌なら出て行けと、お前らは家畜だと。畜生をどう扱おうと勝手なのだと、勝ち誇っていた」
京介,「――『家畜のくせに文句たれるなら、おみゃあがはたらけぇっ。ああっ、きょうすけぇっ。おみゃあ、母さん食わしてやれるんか? 家借りて、学校いって、生活できるんか?』」
京介,「母さんが手をついて謝った。私たちが悪かったと。同時におれに強がった。私はだいじょうぶだと。さあ早く、ヤツに謝ってくれと」
京介,「おれは、母さんに従った」
…………。
……。
;背景 主人公自室 昼
椿姫は肩を震わせて、雷にでも打たれたかのように、呆然と立ちすくんでいた。
京介,「長くなったが、どう思った?」
椿姫,「…………」
椿姫は眉根を寄せて、つぶやいた。
椿姫,「ひどい人だなって……お母さんが、とても不憫で……」
おれは、しらけた気分になった。
京介,「あー、そういうのはいいんだ。ヤツはゲスで、母さんはかわいそう。それはたしかにそうなんだが、おれが言いたいのはな、椿姫……」
一息ついて言った。
京介,「あのとき、この部屋にある金のほんのわずかでも、持ってたらってことだ」
椿姫,「いや、でも、浅井くんは中学生だったんでしょう?」
京介,「セントラル街に行ってみろよ。どう見ても小学生の自称高校生がフードかぶって路上でアクセ売ってたり、イベントのチケットさばいてたりするぞ?」
椿姫,「それは……ここは大きな街だから」
京介,「なんにしてもおれには金がなかった。そりゃあ、少しは運も悪かったのかもしれないが、金がないから運も逃げていったんだ」
そのとき、椿姫が、思いついたように言った。
椿姫,「うちはだいじょうぶかな……?」
京介,「大変だと思うぞ。親父さんから愚痴でも聞いてないか?」
椿姫,「ううん、ぜんぜん……楽観してるのかな?」
京介,「知らんが、もしそうだとしたら、おれの話に少しでも感化されてくれるとうれしいな」
椿姫,「……うん、わたしが、家族を支えなきゃ。みんなわたしに甘えてるところあるから」
京介,「仕事を手伝ってくれれば、いくらか報酬は出せるよ。たいした額は出せないけど、その辺でアルバイトするよりは割がいいと思うぞ」
微笑むと、椿姫も頬を緩めた。
椿姫,「がんばるよ。浅井くんの話し聞いて、ちょっと家族とももう一度向き合ってみる」
京介,「……というと?」
椿姫,「ほとんど広明のことなんだけどね。あの子って、どう思う?」
京介,「さあ……よっぽどわがままに育ってるなあと思うこともあるが……」
椿姫,「そのとおりだよ。わたしが、甘やかしてたんだと思う」
京介,「あのまま大人になったら、逆にかわいそうかもしれんぞ」
椿姫,「保育園の先生にも同じようなこと言われたよ」
京介,「なら言わせてもらうが、正直、おれみたいな日陰もんからすると、ちょっと眉をひそめたくなるようなこともあったな」
腕を組んで、話を続ける。
京介,「なんで、叱らないんだろうってな。真剣に怒ってやったほうがいいんじゃないかとか思うわけだよ」
椿姫,「……最近は、ちょっと叱るようにしてるんだよ?」
京介,「夜、出歩いてたときか?」
おれは短くため息をついた。
……あれは、叱るっていうより、椿姫がただヒステリックにわめいていただけのような気がするが。
京介,「もうちょっと、心を込めたほうがいいんじゃないか?」
椿姫,「そう、かな? どうすればいい?」
京介,「どうすればいいって……」
椿姫,「わたし、あんまり誰かに怒ったことないから、それを相手にどう伝えていいかわからなくて」
京介,「感情に身を任せてみたらいいんじゃないか? 溜まってるもんをおもいっきりぶつけてやれば、相手が子供でもわかってくれるって」
椿姫,「うん……」
椿姫の目に、得体の知れない光が宿った。
椿姫,「やってみるよ」
おれを、じっと見据えた。
椿姫,「今度また、勝手に外に出歩いてたら、そのときは……」
自分に言い聞かせているようでもあった。
京介,「さて、話が長くなったな……」
椿姫,「うん、じゃあ、なにからすればいいのかな?」
京介,「お前って、パソコンは使えるのか?」
椿姫,「インターネットくらいなら」
京介,「とりあえずそこの資料に目を通してくれ」
おれは、テーブルの上に積んだ紙の束を指差した。
それは、総和連合系のビルのリストの一部だった。
ビルの管理業務は広範、多岐に渡るが、浅井興業のビル管理には定評がある。
椿姫,「こ、これ、全部……? 五百枚くらいあるよ?」
京介,「やることは簡単だ。一枚一枚目を通して、そのなかで、付帯設備のある物件を抜き出しておいてくれ」
椿姫,「付帯設備?」
京介,「プールとか駐車場とかだよ、運動場もか。抜き出し終わったら、その物件の名称と電話番号をパソコンに打ち込んでいって欲しい」
椿姫,「……けっこうかかりそうだね……」
京介,「夕方には終わるだろ」
椿姫,「夕方……」
言葉を詰まらせた。
京介,「なんだ? 用事でもあったのか?」
椿姫,「う、ううん、平気だよ……」
京介,「じゃあ、おれは向こうの部屋にいるから。わからないことがあったら呼んでくれ」
椿姫は、いそいそと書類に手をつけた。
;場転
……。
…………。
;SE 携帯
京介,「おい、椿姫。携帯、鳴ってるぞ」
午後になったあたりで、休憩がてら椿姫の様子を見に来た。
椿姫は携帯を手にしたまま、その場に固まっていた。
椿姫,「家からだ……どうしよう」
京介,「どうしようって、出ればいいじゃないか。学園に行っていることになってるんだろ?」
椿姫,「それもそっか……なに慌ててるんだろうね、わたし……」
話をしている間に、通話が切れた。
椿姫,「あ……」
京介,「かけなおすか?」
椿姫,「いいよ。どうせなんでもない用事だと思う。お父さんったら、わたしが携帯もったもんだから、意味なく電話かけてくるの」
そう言って、作業に戻った。
……なかなか、手際がいいようだ。
すでに、パソコンの画面には、建物の名前が羅列されていた。
京介,「いい調子だな」
椿姫,「そう? わたし、こういう単純作業向いてるのかも……」
京介,「助かるよ。やっぱり、椿姫に任せてよかった」
椿姫,「本当?」
うれしそうに目尻を下げた。
椿姫,「ねえ、浅井くん……」
京介,「なんだ?」
椿姫,「広明をね、昼に迎えに行くって、言っちゃったのね」
京介,「……ああ……」
椿姫,「公園まで迎えに行くことになってるんだけどね。さすがに帰るよね? わたしが来なかったら」
京介,「まあ、普通はな……」
椿姫,「だよね……」
京介,「……いいのか?」
おれは詰めるように聞いた。
仕事の途中で帰られるのは、おもしろくない。
けれど、椿姫はすでにおれの期待通りの人間になっていた。
椿姫,「ちゃんと終わらせてから帰るよ。広明は、ひとりでも帰れるからね」
椿姫,「わたし、ちゃんと働いて、ちょっとでも家にお金入れたい。そのほうが、なんていうのかな、家族のためだよ」
京介,「…………」
椿姫,「こういうとあれだけど、けっきょくお金があれば、家を出て行かなくてもすんだわけじゃない? 広明が誘拐されたとき、人にお金を借りずにすんだんだよ」
京介,「だいぶおれよりな意見だな」
口元が、つい、にやけていた。
椿姫,「わたし、浅井くんに出会って良かったな」
京介,「急になんだよ」
椿姫,「だって、浅井くんって、わたしにないものをたくさん持ってるんだもの」
椿姫も、おれにないものを……いや、おれにないものしか持っていなかった。
けれど、けっきょくは、おれのような俗物に歩み寄ってくる。
疑い、欺き、保身に走り、策略をめぐらせる。
それが、いいとか悪いとかではなく、誰でもそうなんだ。
おれは、おれのいままでの生き方が間違っていなかったのだと知って悦に浸っていた。
京介,「じゃあ、もうひとがんばりしよう」
椿姫,「うんっ……」
椿姫は、その後、持ち前の真面目さを十分に発揮してくれた。
帰る直前まで、迷いが吹っ切れたように、てきぱきと手を動かしていた。
…………。
……。
;背景 セントラル街 夕方
;ノベル形式
;椿姫視点
日が落ちるに連れて、急に冷え込んできた。セントラル街の雑踏にまぎれても、寒さは緩まない。
 学校帰りの中高生を、深夜番組のテレビカメラが捕まえてインタビューしている。見慣れた光景だった。マイクを向けられれば有頂天になる。椿姫も、京介に必要とされれば、カメラの前ではしゃぐ少女たちとなんら変わらなかった。
 歩きながら、ふと、通り沿いのショーウィンドウが目に入った。マネキンがハイブランドの洋服を着せられ、媚態を作っていた。
椿姫,「いいな……」
つぶやいてみた。本心からそう言えたのか確かめてみた。わからなかった。ただ、焦燥感が胸に募った。マネキンの手前、ガラスに映った椿姫は、自分でも変化に気づけるくらい、険しい顔つきをしていた。
 寒さに身をよじらせながら、地下鉄を目指した。
;通常形式
;背景 主人公自室 夕方
……。
…………。
椿姫が家を出てしばらくたってから、気づいた。
どこか見覚えのある日記帳。
椿姫が、後生大事にかかえている一品だ。
……こんな大事なもんを忘れるなんて。
日記を書ける人間は心に余裕があるそうだが、最近、あいつが日記を手に取っているのを見たことはない。
……とはいえ、さすがに不必要なものでもないだろう。
おれは、椿姫に電話をかけた。
すると、電波の届かない云々の、機械的なメッセージが返ってきた。
……電車の中か?
電源を切っているあたりが、椿姫らしいというかなんというか。
これからセントラル街に出る用事があるし、その足で送り届けてやるとするか。
コートを羽織って、表に出た。
目の覚めるような冷たい風がすぐにおれを出迎えた。
;背景 公園 夕方
;ノベル形式
;椿姫視点
かぜでもこじらせたのか。頭が重く、額から汗が滲んでいる。熱気の次は、悪寒が襲ってきて体温調節がままならない。椿姫はおぼろげな足取りで公園を歩いていた。
 糸がからまったような膝を、前へ前へと繰り出して、帰宅を急ぐ。
 自分は、なにを慌てているのだろうかと、もつれる足が地面を蹴る速度を緩めた。
 学園をさぼってうしろめたいのだ。
 いや、京介に認められて浮ついているのか。
抱え込んでいた様々な不安が、重石となってのしかかってきた。
 たとえば、宇佐美ハルという転入生。なんの疑いもなく友人として接した。するといつの間にか、ハルを毛嫌いしている自分が出来上がった。
 京介の話を聞いて、家族の借金というものがどれほど恐ろしいことかを思い知らされた。幸いにして転居先は京介が用意してくれたものの、貧しい生活が待っていることに変わりはない。父親が、もっと深刻に対策を練るべきではないのか。椿姫は息苦しくなった。なぜ、わたしばかりが悩んでいるのか……。
 そうして、椿姫の悩みの原因そのものが姿を現した。
広明,「あ、お姉ちゃん、やっときたー……!」
弟が、駆け足でこちらに向かって飛び込んでくる。
 当然のように、待っていた。
 寒さをものともしない、屈託のない笑顔。
 また悪寒に襲われた。さきほど街中のガラスに映った椿姫では、もう二度と、弟のような笑顔は作れないだろう。
悲しくて、腹立たしかった。椿姫は、自分が約束を破っていることをすっかり忘れ、広明をにらみつけた。
椿姫,「なんで帰ってないの」
鬱積した感情が椿姫の心の底にしたたり落ちる。その音が、闇の底で跳ね返って、椿姫の口で声となり、広明の耳へと滑り込んでいく。
椿姫,「困らせるんだ、そうやってお姉ちゃんを……」
;背景 セントラル街
;通常形式
……相変わらず、うっとうしい街だ。
;黒画面
地下鉄に乗って東区を目指す。
座席の端に腰掛けてまどろみながら、椿姫のことを考える。
椿姫は、見る見るうちに人柄を変えていった。
まっさらな半紙に墨を落としたように、ノンストップで崩れていった。
よく、何事も積み上げるのは難しくても崩すのは一瞬というが、そういうものなんだろうか。
椿姫がいままで培ってきた純真さや清潔さも、ひとたび金の問題が発生すればすぐになりをひそめてしまった。
つまりは、その程度のものだったんだ。
椿姫の善良さなんて、あっさりと崩れるようなちゃちなものだったわけだ。
これまで、たいしたものを積み上げてこなかった結果といえる。
たしかに、おれは椿姫に誘いをかけたし、不幸も続いた。
誘拐事件もあれば、莫大な借金に追われ家を出て行く羽目にもなった。
しかし、とおれは思う。
人間がそんなに弱くていいのかねえ……。
いつだって、搾取される側に問題があるんだ。
誰だって騙される方が悪いってことを知ってるんだが、それをおおっぴらに言うと、非難されるから黙ってるだけのこと。
おれの手は汚れているが、おれは正しい。
決意をあらたにして、眠気に身を任せた。
…………。
……。
;背景 公園 夕方
;ノベル形式
;椿姫視点
;雪効果
自制の回路にスイッチは入らなかった。ちらついてきた雪が、理性を凍結させていった。
椿姫,「これで何回目だと思ってるの。一人で出歩いちゃダメだって教えるのは」
ひどく酷薄な声で問うが、愚かな弟は椿姫の変化に気づいていなかった。
広明,「それより、聞いてよ。マサトくんがね、マサトくんってお友達がね、犬買ってもらったんだって。まふまふしてるの。ボクも欲しい。買ってー」
ぴくりと、こめかみで血管が脈打った。
広明,「ねえ、買ってー。チワワっていうの。買ってー」
椿姫,「……いくらすると思ってるの?」
広明,「知らない。高いの? コンビニのアイス全種類買うより高い?」
椿姫,「当たり前でしょう」
そんなこともわからないほど、甘やかしてしまったのか。
広明,「でも、お姉ちゃん、ずっと前ボクに、ゲーム機買ってくれたよ。すっごい高いって、みんな言ってた。うらやましいって言われたよー」
そういう自分は、もう、いないのだ。
椿姫,「お金、ないの」
広明,「嘘だー。お姉ちゃんの貯金箱みたよ。お札がいっぱいだったよー」
椿姫,「人の財布を勝手に見たらだめでしょう?」
広明,「えー? だって、ボクいっつもそのお金でおやつ買ってるよー」
椿姫,「本当は、いけないことなの」
かわいい弟だと思って、なんでも言うことを聞いていたのは間違いだった。
 これから先、椿姫一家には十分な貯蓄はない。もう親から小遣いなんてもらえないし、また、それを弟たちに振舞うこともない。
 皮膚に滲む汗が、雪混じりの風で急速に冷え込んでいく。
広明,「お姉ちゃん、缶ケリしよう」
椿姫,「やだ。寒いし」
椿姫の手が小刻みに震えていた。寒さからくる震えではないことは、あきらかだった。ある黒い衝動を必死になって抑えていた。それをやってしまったら、もうあとには引けない。
広明,「ねえ、やろうよー」
椿姫,「いやだって」
広明,「もし、やってくれたら、ボクなんでも言うこと聞くよ。だから、ほらっ」
小さな腕が伸びて、空き缶を突きつけられた。椿姫の闇が、一滴、また一滴と、器に落ちていく。もう、縁から溢れそうだった。
椿姫,「なんでも?」
広明,「うん」
椿姫,「ならわかるよね。何回もおんなじこと言ってるもんね」
心に蓋を落とすつもりだった。"魔王"によって開かれた暗い門を閉じようと、椿姫はすがるような思いで弟に訊いた。
椿姫,「わかるよね、広明」
広明,「なにかな、教えて? ボク、お姉ちゃん好きだよ。お姉ちゃんのいいつけ破んないよ、ぜったい。だから、遊ぼう。そして終わったら子犬買いに行こう?」
今、椿姫の胸のうちでどういうわけか、"魔王"と京介の声が重なった。
――どうしようもない坊やだ。
 その声に闇の滴が器から溢れ、即座に奔流となった。
 広明!
 衝動が弾け、燻っていた手のひらが、暴力を求めて風を切った。
 差し出されていた空き缶が小気味よい音を立てて飛んでいった。もう、破れかぶれだった。あとは波が浜辺に打ち寄せるように、弟の頬に平手が吸い込まれていった。
痛い。手首が悲鳴を上げる。広明のぷっくらとした頬。かわいいからよくキスをした。ぶった。ぶってしまった。我に返りたくなかった。音を立てて崩れるそれまでの自分。真面目でしっかり者の椿姫。完全に壊れてしまった。
 しつけのために手をあげた。言いわけが浮かぶ。家族なら許される行為ではないのか。むしろよくやったと、言う人はいうかもしれない。しかし、椿姫にとっては高層ビルから飛び降りるような惨事だった。
椿姫,「広明……」
恐る恐る、小さな弟に尋ねた。
 広明は地面に膝をついて、糸の切れた人形のように沈黙していた。
広明,「……お姉ちゃん」
ショックは計り知れなかった。手を上げた本人ですら後悔の念に押しつぶされそうなのだ。信頼する姉が暴力を振るうなどと、夢にも思わないはずだ。
広明,「……もう、なの?」
顔を上げた広明が、きょとんとした表情で首をかしげた。
 動揺に窒息しそうな椿姫には、ぶったの、と責められているように聞こえてならなかった。
直後、へらへらと緊張を緩めた顔が、椿姫の目に飛び込んできた。
広明,「相撲なの、お姉ちゃん……?」
――わけが、わからなかった。
 広明は、泣くどころか、やはり嬉しそうに、椿姫の膝に抱きついてきた。
 その無垢な笑顔がたまらなく嫌だった。いつもどこかで見ていた笑顔。椿姫は鬱々としたどす黒い燻りに火をつけた。勢いに身を任せ、もう一度弟に襲いかかった。華奢な胸板を突き、頬を張り飛ばす。足をかけて、地面に叩きつけた。一生分の凶暴さを吐き出すつもりだった。
広明,「えへへ、えへへ……」
それでも、広明は泥だらけになり、膝を擦り、雪に濡らした笑顔で立ち上がってきた。
 なぜ、泣かないのか。なにが、そんなに楽しいのか。どうして、疑わない、恨まない、泣かない? あからさまな虐めではないか。遊んでやっているんじゃない。言うことを聞かない子供をヒステリックに嬲っているのだ。わたしはお前が嫌いだ。無垢で、無知で、人を疑うことを知らないお前が、憎らしい……!
広明,「お姉ちゃん、もっとしよおぉっ」
語尾の伸びきった甘ったるい声。張られた頬を赤く腫らし、無邪気に尋ねてきた。
 どうやっても椿姫の悪意に満ちた叫びは届かなかった。この子は本当に頭の足りない子なのだろうか。わからなかった。なぜ、何度も殴られて、じゃれていると思えるのか。
広明,「どしたの、もう終わり? あれ、お姉ちゃん……?」
胸奥からこみ上げるものがった。
広明,「寒いの、お姉ちゃん?」
弟は、純真に、椿姫が寒いのだと信じている。
広明,「なんで、泣いてるの? どっか痛かった? ボク、やりすぎた?」
心底心配そうに、椿姫を見つめてくる。
 その目に、もう、限界だった。
椿姫は、悟った。
 弟は己を愛してくれる人だけを瞳に映して育った。これまで限りない愛情を与えていた姉が、自分を脅かすはずがないと信じきっているのだ。
 まるで、鏡のようだった。
椿姫,「広明っ……!」
雪が桜のように舞う。椿姫の心に落ちて、熱を冷ましていった。
;背景 公園
;通常形式へ(京介視点)
……。
…………。
意外な光景だった。
おれは途中から、椿姫とその弟のやりとりを眺めていた。
椿姫,「ごめん、ごめんねっ……痛くなかった……!?」
広明,「んーん、お姉ちゃんこそだいじょうぶ?」
椿姫,「……わたしは、ぜんぜん……」
広明,「だって、泣いてるよ? どっか痛いんでしょ?」
椿姫,「いいの、ごめんね、なんでもないのっ!」
椿姫は、きっと怖いくらいの信頼に責め立てられているのだろう。
広明,「お姉ちゃん、ボクが悪いの? ボクが一人でお外にいくのがそんなに悲しかった?」
椿姫は、頼りなげに首を振った。
おれは椿姫に、指図した。
感情に身を任せて、溜まってるもんをおもいっきりぶつけてやれと。
椿姫,「おねえちゃんが、おかしかったんだよ……」
その結果が、これだ。
どれだけわがままをしようが、椿姫の弟は椿姫の弟だった。
無知でうさんくさいほど純真な椿姫の家族。
広明,「ご、ごめん、ごめんね……ぼく、ボクっ」
椿姫,「ううん、広明は、なんにも悪くないよっ……わたしが嘘をついてたの」
椿姫,「広明との約束をやぶって、学園もずる休みしてたの。さっきだって、遊んでたんじゃなくて、いらいらして、広明をぶったのっ」
椿姫,「ごめん、ごめんねっ!」
まるで鏡を合わせたように、二人して泣いていた。
胸がうずく。
椿姫の人柄を、おれが本当はどう思っているのか、気づかされた。
気に入らないのではなく、憧れていたのではないのか。
幼稚に、嫉妬していたのではないのか。
だから、壊したかった。
……くそ。
関わり合いになるんじゃなかった。
椿姫は、おれがとうてい手に入れられない素晴らしいものを、大切に積み上げていたんだ。
それは、ちょっと風が吹いたくらいじゃびくともしない堅固な家だった。
広明,「ボク、もうぜったい、勝手に出歩かないよ」
椿姫,「そう……?」
広明,「うん、だって、お姉ちゃんといっしょにいたいもん。お姉ちゃんがお外連れてってくれるもん。お姉ちゃんが、ボクの頼みを聞いてくれなかったことないもん」
椿姫,「……っ……!」
椿姫が、顔にゆっくりと笑みを浮かばせた。
椿姫,「ありがとう。なんだか、とっても楽になったよ」
椿姫,「わたしはこれでいいんだね、広明」
椿姫,「誰も疑わないし、お金にも興味ないし、恋愛にも消極的」
椿姫,「それでも、わたしには、たくさんの家族がいるもんね。お父さんが買ってくれたダサいコート着るし、みんなが繁華街で遊んでるときに、わたしは公園で広明と缶ケリするの」
椿姫,「それで、いいんだよね」
椿姫,「ね、広明っ……?」
;背景 公園 夕方 雪
雪が強くなってきた。
おれはこのあとに控えている仕事すら忘れ、その場に呆然としていた。
しゃくぜんとしない。
これ以上、こいつらに感化されたら、おれがおれでなくなるような気がする。
;椿姫の好感度が2以上で以下の文章に
;===========================章节跳转=========================================================
けれど、もう少し、踏み込んでみたいという気持ちも否定できなかった。
引越しを控えた椿姫たちが、どう貧困を乗り越えていくのか。
金という問題を前に、それでも大切なものを培っていけるのか。
そして、宙ぶらりんになったおれの感情がある。
おれは、まさか、椿姫に必要以上に心を寄せているのではないのか……。
京介,「…………」
これ以上、関わるべきか……。
;選択肢
;椿姫と関わる。
;椿姫とは距離を置く。→本筋へ。
@exlink txt="椿姫と関わる。" target="*select1_1"
@exlink txt="椿姫とは距離を置く。" target="*select1_2"
椿姫と関わる。
椿姫とは距離を置く。
;椿姫と関わるを選んだ場合
;椿姫とは距離を置く、もしくは椿姫の好感度が1以下の場合、以下に
;此处进入椿姬线=======================================================================
京介,「…………」
もう、関わるのはやめておこう。
椿姫を助手にするのもやめだ。
あいつには、あいつに相応しい人生があるだろう。
一度決めると、もう迷うわけにはいかなかった。
日記は明日でもいいだろう。
踵を返し、駅に戻る。
姉弟は雪のなか、いつまでも楽しそうにじゃれあっていた。
;黒画面
…………。
……。
;背景 主人公自室 夜 
寝る前に顔を洗っていると、まるでひどい目にあったような顔をしたおれが鏡にうつっていた。
……まったく、椿姫には踊らされてしまったな。
もう夜の十時になろうかというのに、来客のようだ。
インターホンを覗いて、うんざりした。
ハル,「ちわす」
京介,「お前か」
ハル,「すみません、ちょっとお醤油貸してもらえませんかね」
京介,「醤油だあ?」
ハル,「ご近所なんですよ、実は」
京介,「嘘をつけ、このへんにお前が住めるようなアパートはない」
ハル,「いいえ、本当ですよ。ちょっとした知人のつてで、ある社屋の二階を間借りしてるんです」
……たしかに、この辺りには、表札がそのまま会社名になっているような家がいくつかあるが……。
ハル,「上がっていいですか? たいした用もないんですが」
京介,「帰るがいい」
ハル,「そこをなんとか。たいした用もないんですが」
京介,「ちょっとお前、あんまりカメラに顔を近づけるなよ。だいぶおもしろいことになってるぞ」
ハル,「お嫁にいけなくなってしまいましたね。責任を取って部屋に上げてください」
京介,「……わかったよ。五分で帰れよ?」
オートロックを開錠すると、宇佐美はひゃっはーとか言いながらエントランスに入っていった。
待つこと数分。
玄関のドアの向こうで足音がしたので、鍵とチェーンロックを外してやった。
ハル,「お邪魔していいですか?」
京介,「半開きのドアからこっちを覗くなよ、怖いな……」
ハル,「では遠慮なく……」
そそくさと足音も立てずにリビングに上がってきた。
京介,「で、なんだよ?」
ハル,「はい?」
京介,「急になんの用だと聞いている。話があるなら、携帯でもいいだろう?」
ハル,「椿姫がさっき、うちに来ましてね」
京介,「……っ……椿姫、が?」
ハル,「おや? 椿姫となにかありましたか? クンクン……」
京介,「ベッドの匂いをかぐな。何もねえよ」
ハル,「いや、驚きましたよ。玄関先でいきなり頭下げられましたからね」
京介,「ほー、最近の態度のことか?」
ハル,「ですです。こんな夜更けにですよ。うちの住所にしてもわざわざ学園に問い合わせたんだそうです」
京介,「よかったじゃねえか。仲直りできて」
ハル,「いやいや、自分も、ほっとしました。子供が帰ってきたんだから警察に連絡しろとかいうのは、よくよく考えてみれば酷な話でした」
京介,「考え直したのか?」
ハル,「ええ、椿姫たち家族が犯人の報復を恐れているというのに、無関係なわたしがしゃしゃり出るのは筋違いにもほどがあるな、と」
京介,「ふーん」
ハル,「それにしても、ホント浅井さんは罪な男だなと思って、今晩おしかけてきたわけです」
……やはり、椿姫は、宇佐美に嫉妬していたのだろうか。
ハル,「"魔王"様は恋愛とかするんですか?」
京介,「おれは"魔王"じゃねえよ」
ハル,「しかし、ここのところバイトも休んで"魔王"の足取りを追っていたんですが、ぜんぜんさっぱりでしてね」
京介,「もう、やめればいいじゃねえか」
ハル,「それでは、母が浮かばれませんから」
京介,「死んだみたいに言うなよ」
ハル,「ワハハ」
京介,「ワハハじゃねえから」
ハル,「いやいや笑いたくもなりますよ、浅井さんには」
ひとしきり笑ったあと、宇佐美の口元が急に引き締まった。
ハル,「必ず尻尾をつかんでみせますから」
京介,「そんならぎらついた目でおれを見られてもだな……」
おれはおどけて見せるが、宇佐美の顔はいっそう険しくなるばかりだった。
ハル,「今回の誘拐事件ですがね」
京介,「おう……」
ハル,「よく聞いてください」
京介,「なんの話だ?」
ハル,「犯人はどうやって、ケースのなかの株券を回収したのか、というお話です」
京介,「いまとなっては、意味がない話だな」
ハル,「ええ。自分もそう思って、黙ってたんですが、やはり、浅井さんにはお伝えしようと思いまして」
京介,「なんのために?」
ハル,「わたしは、ちゃんとお前の策を見破ったぞ、という宣言をしたいんです」
……だから、なんでおれにそんな宣言をするのか?
京介,「"魔王"に言えっての」
ハル,「まあまあ、もうめんどくさいから、聞くだけ聞いてやってくださいよ」
これ以上掛け合っても無駄だと判断したおれは、ひとまず口をふさいだ。
ハル,「まず、"魔王"はなぜ身代金を株券で要求してきたのか」
ハル,「前もお話ししましたが、一番の目的は持ち運びを楽にするためです」
ハル,「しかし、それだけなら、他の有価証券……たとえば小切手でもいいわけです」
おれは口をはさむことにした。
京介,「でも、小切手は現金化するときに足がつくだろう?」
ハル,「はい。株券もそうです、発行する会社が株券に通し番号を振りますから、誰がどこで売り買いしたのか警察が調べればすぐにわかってしまいます」
京介,「そうだな。小説でもなんでも、犯人が小切手や株券ではなく、よく番号の不揃いの現金を要求するのは、換金するときの危険を回避するためだろうな」
もちろん、手形なんかは闇で割ってくれる業者もあるし、株券にしてもたとえば善意の第三者を使って換金する手口もあるにはあるんだろうが、なんにしても警察には徹底的にマークされることになる。
ハル,「前提として、"魔王"は、五千万からの現金を欲していたわけではないと思います」
京介,「そのへんまでは、おれも考えてたよ。金が欲しいだけなら誘拐なんてしないだろ」
ハル,「つまり、"魔王"は、椿姫たちから奪い取った株券を換金するつもりはなかった。これは、つまりどういうことでしょう?」
探るような目で聞いてくる。
京介,「自分は金なんていらないが、椿姫たちには、金を吐き出させたかったってことだな?」
ハル,「その可能性は極めて高いです。だから、あらかじめ急落することがわかっていた銘柄を指定してきたんだと思います」
京介,「急落することがわかっていた?」
ハル,「そこは浅井さんに教えてもらいましたよね? ちょっとでも株に詳しい人なら誰でも予想できたって」
京介,「ああ……」
おれも、権三に教えてもらったわけだが。
ハル,「"魔王"は最悪、身代金を奪取できなかったとしても、椿姫の家が窮地に陥るよう周到に保険を打っておいたんだと思います」
京介,「もしそうだとしたら、恐ろしいくらい慎重なヤツだな。つまり、椿姫たちが土地を売った金を株に変えた時点で"魔王"の勝利だったわけだろ?」
ハル,「ですが、"魔王"はその後、約一日をかけて、身代金の受け渡しを巡る駆け引きを演じて、見事に株券を奪うことに成功しています」
京介,「そこは、よくわからんよな?」
ハル,「"魔王"にとっては、その一日こそが、"お楽しみ"の時間だったんだと思いますよ」
京介,「お楽しみ?」
首を傾げる。
ハル,「"魔王"は、椿姫の家から大金を奪うという目的のついでに、わたしと遊んでやってくれたんです」
京介,「おいおい、"魔王"様は、ずいぶんと余裕を見せるな。警察に捕まるかもしれないってのに」
ハル,「ですから身代金を株券にして保険を打ったんでしょうね。余裕のお遊びで本来の目的を逸脱しないように。なにか問題があれば、すぐにでも誘拐を中止して雲隠れするつもりだったんでしょう」
京介,「なんにしてもいかれてる男だが、宇佐美よ……」
今度はおれが尋ねる番になった。
京介,「なんでお前が、"魔王"に遊んでもらったんだ?」
ハル,「前にも言いましたが、"魔王"は、わたしを試してきたんだと思います」
京介,「だから、なんで、お前みたいな変な女を試すんだ?」
ハル,「わたしが、"魔王"の存在と過去の罪を知る、数少ない人間の一人だからです」
困惑していると、宇佐美は目を細めた。
ハル,「さらにいえば、"魔王"はわたしのことを憎んでいるのだと思います」
おれは舌打ちした。
京介,「どうせ、詳しくは話してもらえないんだろう?」
ハル,「すみませんね」
ちろと、舌を出した。
京介,「わかったから、話を戻そうぜ」
ハル,「はい、"魔王"はどうやって、身代金を奪ったのか」
京介,「おれがロッカーの鍵をあらかじめ複製してたんじゃなかったのか?」
にらみつけると、宇佐美は小さく笑う。
ハル,「違うんですか?」
京介,「たしかに、おれはお前に頼まれて、ちょっとの間だけ駅のコインロッカーを眺めてたわけだが」
ハル,「でしょう? そのときに、複製した鍵でちょちょっとやっちゃったわけですよ」
京介,「駅のロッカールームには監視カメラもあるわけだろう? 身代金を入れたロッカーの中身を出し入れしてるおれの姿が映っているわけだ」
ハル,「間抜けですね、浅井さん」
京介,「いい加減にしろよ。たしかにその可能性も否定しきれんことは認めるが、お前はもっと別の推測を働かせている」
ハル,「別の?」
京介,「もっと、もっともらしい身代金奪取の手口だ」
宇佐美は、深くうなずいた。
ハル,「確証はありませんがね」
京介,「それでいいよ、話せ。おれに対する数々の無礼はそれでチャラにしてやる」
ハル,「ありがとうございます」
直後、あごを引いて眉根を吊り上げた。
ハル,「事件が終わってから気づいたので、とても歯がゆいのですが……」
ハル,「あの日、あのときの犯人の要求には不自然な点がありました」
宇佐美は指を一つ立てた。
ハル,「犯人は、警察の介入をひどく恐れていましたよね?」
京介,「ああ……」
うなずきながら、椿姫から聞いた事件のあらましを思い起こす。
ハル,「"魔王"は、たかがわたしとの『お遊び』で、警察と戦うつもりなんてなかったわけです。警察の影でも見えれば、すぐにでも取引を中止したことでしょう」
京介,「それはわかったが……」
そのとき、なにか閃くものがあって、思わず目を見開いた。
京介,「それはおかしくないか?」
ハル,「なぜです?」
京介,「詳しくは知らんが、椿姫は一度、警官に職務質問を受けてるだろう」
ハル,「はい。南区の高級住宅街で」
京介,「あれは、アクシデントだったんだろうが……それでも……」
突然、おれは言葉に詰まる。
京介,「え……っ?」
喉をつまらせたように、続きの言葉が見当たらない。
ハル,「その通りです、浅井さん」
ハル,「"魔王"が、ケースから身代金を奪ったのはおそらく――」
;演出
;ev_haru_02の背景として、ev_tubaki_12をあてるような感じに。
ハル,「――あのときです」
ハル,「警察の介入を恐れているはずの"魔王"こそが、警察官に成りすましていたんです」
ハル,「アクシデントを装い、椿姫に激怒したふりをし、その後も市内を引っ掻き回してくれましたが、それもすべて陽動です」
ハル,「おかしいと思いませんか?」
ハル,「椿姫は、職務質問を振り払って逃げたんですよ? よく騒ぎにならなかったものです。よしんば騒ぎにならなかったとしても慎重な"魔王"が椿姫を許して、取引を続けるとは考えにくいです」
ハル,「そう考えると、いくつかの疑惑が線を結びます」
ハル,「"魔王"は、なぜ、アタッシュケースに株券を入れさせたのか?」
ハル,「持ち運びに便利なはずの株券を、またわざわざ大きなケースに入れる理由は、なんだったのか? 椿姫のあとを追いながら、ずっと疑問に思っていました」
ハル,「情けないことに、いま考えてみればおかしな話なんです」
ハル,「"魔王"は警察を警戒しているはずなのに、椿姫にケースなんて似合わないものを持たせ、よく警官が巡察する南区の住宅街を受け渡し場所に選んだんですから」
ハル,「その答えは事件が終わってからわかりました」
ハル,「サイズの大きい黒のアタッシュケースは、警察が職務質問のなかで、中身を確認してきても妥当と思われるものだからです」
ハル,「少なくとも、椿姫のあとをつけて、動向を探っていたわたしには、そう思えました」
ハル,「南区のような高級住宅街に、不審車両が公然と路駐しているんです。巡回中の警官が窓を叩いても無理はありません」
ハル,「わたしは、まんまと、椿姫が運悪く警官に捕まったのだと、信じ込まされたわけです」
ハル,「あのとき、警官は二人いました。一人が狼狽する椿姫に質問を浴びせていましたが、もう一人、おそらく"魔王"の仲間が車内を探っていました。ケースを開けて株券を取り出していたんでしょう」
ハル,「おそらく椿姫は警官の背格好も声も覚えていないことでしょう。"魔王"は椿姫の心理状態をよく推し量っていたといえます」
ハル,「かくいうわたしも、もっと注意して警官を見ておくべきだったんです」
ハル,「いまとなっては、制帽を深くかぶっていた程度にしか思い出せませんが、一人は、鼻が高く、外国人風だったような気もします」
ハル,「"魔王"にとっては、一番の正念場だったでしょう。その場に、本物の警官が出てきてもおかしくはないのですから」
ハル,「そう思って、つい先日、あの辺りの交番に迷子になったふりをして行ってみました。どうも巡回には定められた時間があるようですね。"魔王"はそういったところも入念に調べあげていたのかもしれません」
ハル,「ついでに聞いてみたところ、その交番の警官の方が、二人いっしょに町を巡回したことは、ここんところないそうです」
;背景 主人公自室
おれは、宇佐美の眼光の鋭さに、少し遠慮がちに言った。
京介,「……なるほど、いちおう裏付けは取ったわけだな」
ハル,「ええ……しかし、しょせんは当てずっぽです」
そして、宇佐美は、再び眉間に深いしわを寄せた。
ハル,「捕まえなければ、意味がありませんから」
まなざしは鋭いだけでなく、深い。
ハル,「"魔王"は、椿姫を……なんの関係もない椿姫を巻き込みました」
怨嗟のこもった、ぞっとするような目の色だった。
ハル,「赦されないと思いませんか、浅井さん――――?」
おれは、宇佐美の視線を受け止めて、逆に挑むように見つめてやった。
京介,「赦されないな、宇佐美――」
どういうわけか、心が冷めていった。
まるで、宇佐美の挑発を真っ向から受け入れてなお、余裕を示すように、堂々とした態度を取りたくなる。
もし、おれが、"魔王"だったら……?
ありえないと思いつつも、それも、悪くないなどと、不意に魔が差したように嗤ってしまった。
…………。
……。
;一度、タイトル画面へ。
……。
いいのか?
自分に問う。
ここで椿姫を選んだら、もうあと戻りはできないような気がする。
おれには野望もある。
宇佐美や"魔王"と呼ばれる凶悪犯との兼ね合いも気にならないでもない。
それでも、椿姫の力になってやりたいと思うのか。
椿姫につくす。
;背景 教室 昼
宇佐美がおれの部屋を訪れてから、しばらく何気ない日々が続いていた。
椿姫たちは無念ながらも家を立ち退き、いまはおれの家の近くのマンションの一室に住んでいる。
椿姫も家事に忙しいのか、最近では、あまりいっしょに時間を過ごすこともなくなった。
なにより、おれのほうから距離を置くようにしている。
栄一,「京介ちゃん、そろそろ部活しようぜ?」
京介,「いや、議題がないじゃん」
栄一,「そうなんだよなー、お前、邪神だもんな」
京介,「はあ……?」
栄一,「なんつーの? 前は花音だったじゃん? 復讐の相手がいないと、部活やる理由もないだろ?」
京介,「最近、花音も学園休みがちだしな」
栄一,「スケートだかなんだか知らねえが、ちょっと生意気なんだよなー、あのアマァ」
京介,「そんなにキレるなよ」
栄一,「いや、あいつは調子こいてるっての。ほら、CM出てんじゃん」
京介,「出てるな。なんだっけ?」
栄一,「あれだよ、アイスのCM。あと車な」
京介,「あー、見たことあるかもな」
栄一,「あいつさー、テレビ受けするっつーか、まあ、それなりにかわいいじゃん。手足なげえし」
京介,「だから、人気あるんだろうな。エージェントもついてるし、けっこうオファー来てるみたいだぞ」
栄一,「でもよー、ほら、実力はどうなんよ、と言いたいわけだよ。んな、人気取りみたいなことばっかやってんじゃねえよ、とか思うわけだよ」
京介,「おれも花音の実績は詳しく知らんが、人気と実力はある程度比例するもんじゃねえのかな?」
栄一,「だから、お前は甘いんだよ。よし、わかった。そこまで言うなら、オレがガツンと言ってやんよ」
花音,「エイちゃん、おはよー!」
ひょっこり顔を出した花音が、栄一の肩をどんと叩いた。
栄一,「や、やあ、花音ちゃん、今日も笑顔がまぶしいねー」
京介,「よう、花音。栄一がなんか言いたいことあるみたいだぞ」
栄一,「げっ!」
花音,「んー、なにかな?」
栄一は腹をくくったのか、ずいっと花音の前に歩み出た。
栄一,「か、花音ちゃん、大会近いんだよね?」
花音,「うん。今年はあと三つあるよ」
栄一,「世界大会だよね?」
三つあるうちのメインが世界大会というらしい。
花音,「それがどうしたの?」
栄一,「出れるの?」
花音,「出るよ?」
栄一,「いや、出るよじゃなくて……次回は枠が一つしかないらしいじゃない?」
花音,「うん、でも出るよ?」
栄一,「前回の世界大会は出られなかったじゃない?」
花音,「あれは、棄権だよ?」
栄一,「そうだよね、腰痛めてたんだもんね」
花音,「それがどうしたの?」
栄一,「次回の世界大会の日本選手の出場枠が一人しかないのは、花音ちゃんのせいじゃない?」
花音,「そうなの? なんで?」
栄一,「世界大会の出場枠はさ、前回の成績で決まるわけだよね」
花音は、ぽかんと口を開けながらうなずいた。
栄一,「もし、花音ちゃんが出てれば上位入賞確実だったわけでしょ?」
花音,「そだね」
栄一,「前回は三人も出て、そろいもそろってズタボロだったけど、それについてどう思う?」
花音,「あー、それ、どこかで同じインタビューされたことあるよ。なんとも思ってないよ。他の人がどれだけ負けても、わたしは勝つから。出場枠は一つで十分だと思うよ」
栄一,「それが、おごりなんだよ、花音ちゅわん!!!」
急に、恐怖の大魔王の存在でも言い当てたかのように、コワオモシロイ顔になった。
栄一,「花音ちゃんは、日本のフィギュアスケートの将来を担うとまで言われた超新星なわけでしょ!?」
花音,「言われたことあるね」
栄一,「なんで!?」
花音,「なんでって……目立つからじゃないかな。トリプルできるし」
栄一,「そうだよ、ジュニアのときからトリプルアクセルできたでしょ?」
……つーか、なんだかんだで、栄一ってけっこう詳しいのかな。
栄一,「キミは、去年のグランドシリーズも日本大会も制覇したのに、なんで腰とか砕いちゃうかな!?」
花音,「うん、テレビとかじゃ言ってないけど、日本大会の公式練習のときにどっかの選手にどーんされたんだよ」
栄一,「え、うそおっ!?」
花音,「ぶつかるのは、よくあることだよ。うちどころが悪かったんだねー。あのときはなんとか優勝したけど、終わってから大変だったねー」
栄一,「そんな他人事みたいに言わないの! とにかく、いまの日本のフィギュアは花音ちゃんにかかってるんだからね!」
花音,「うんうん、スポンサーの人にもよく言われるよ。三つあった枠が一気に一つになったもんだから、フィギュア人気そのものが心配されてるんだって」
栄一,「そんな裏事情はいいんだよ! ボクはキミに勝ってもらいたいんだよ!」
そこで、花音がにっこり笑った。
花音,「わかった。ありがとー、エイちゃん」
栄一の肩をぽんぽんと叩くと、背を向け、何事もなかったかのように机に突っ伏した。
栄一が、なにやら勝ち誇った顔をして言った。
栄一,「どうよ?」
京介,「いやいやいや、お前、励ましてたから最後のほう」
栄一,「ガツンと、へこませてやったぜ!」
窓の外では雪がちらつくことが多い時期だが、学園はいつだって暖かい。
;背景 屋上 昼
京介,「そういや、あったなー……」
ハル,「なにがすか?」
京介,「いやいや、去年花音が、腰悪くして世界大会行けなくなったことをいま思い出した」
花音,「どええ!?」
栄一,「いや、さすがにひくよ、京介くん」
京介,「あのときの権三……あ、いやパパのキレ……いや落胆ぷりったらなかったよな、花音?」
花音,「パパ、いろんな病院連れてってくれたもんね」
おれも、なぜか病院送りにされるかと思うくらい、殴られた。
椿姫,「残念だったよね。今年もちゃんとチケット取ってるから、応援行くね」
花音,「あ、取れたんだね」
椿姫,「栄一くんが、がんばってくれたみたい。電話受付開始から取れるまでコールしたんだもんね?」
ハル,「じ、自分のぶんのチケは?」
宇佐美が、なにやら焦った顔で手をあげた。
栄一,「ないよ。だって、宇佐美さんが転入してきたときには、もうチケット買ってたし」
ハル,「もう、売り切れすかね」
栄一,「当たり前だよ。今年からちょっと落ち込んでるけど、まだまだ女子フィギュアは国民的人気スポーツだから」
ハル,「そこをなんとか」
椿姫,「当日券は……無理かな……?」
栄一,「しょうがないな……ちょっとネットオークションで探してみるけど、席によっては五万とか十万とかするよ?」
ハル,「あ、じゃあ当日券で」
花音がおれの腕を取って言った。
花音,「兄さん、これから先の大会は全部来てもらうからね」
京介,「これから先っていうと?」
花音,「三つ全部だよ」
京介,「えっと、なんだっけ……NKH杯と、ファイナルと全国大会か? 全部日本でやるのか?」
花音,「今年は、ファイナルも日本だよ。兄さんのチケットは特別に用意してるからね」
京介,「え? ああ、家族だしな。親族待遇か?」
ハル,「わ、わたしのぶんの特別チケは!?」
花音,「ないよ」
ハル,「勇者待遇じゃないんだ……」
京介,「まあ、応援に行くのはいいけどさ」
椿姫,「わたし、垂れ幕作ってくからね」
ハル,「わたしも手を貸そう。こうみえて裁縫は得意なんだ」
そういえば、着ぐるみ作ってたしな……。
京介,「えっと、どうやったら世界大会に出場できるんだ? 枠が一つしかないっていうが」
おれにとって気になるのはそこだ。
花音は、いまだに一度も世界大会に出場したことがない。
やはり、一度くらいは出てもらわないと、箔がつかないというもの。
花音,「これから先の大会で全部勝てば、間違いなく選ばれると思うよ」
京介,「……そりゃそうなんだろうけどな」
栄一,「世界への切符はね、今回は全国大会の結果で一発決めするみたいだよ」
京介,「へー、じゃあ、なにか? 全国大会さえ勝てばいいんだから、他の二つの大会は、そんなに意味ないわけか?」
栄一,「いちおう、ファイナルの結果も考えるみたいなことになってるけどね」
椿姫,「こういうとプレッシャーかもしれないけど、テレビも新聞ももうほとんど花音ちゃんが世界に行くようなこと言ってるよね」
栄一,「この前のカナダで優勝したからね。期待も大きいんだよ」
京介,「まあ、おれとしては世界もいいけど、再来年のオリンピックで優勝を飾って欲しいな」
栄一,「お馬鹿だね、京介くんは」
京介,「あ?」
ハル,「まったくです」
栄一に馬鹿扱いされただけでもショックなのに、宇佐美の便乗がなお腹立たしかった。
栄一,「世界に出れないと、花音ちゃんの場合、再来年のオリンピックにも出られないんだよ?」
ハル,「まったくです」
京介,「は? 意味わかんねーよ。オリンピックは再来年だろ? 来年の成績で決めろって話じゃねえの?」
栄一,「そうでしょ? ボクもそう思うし、そういう声も多いんだけどね」
ハル,「まったくで……」
京介,「お前ちょっとうるせえんだよ」
宇佐美をどついて、栄一の語りに耳を傾けた。
栄一,「オリンピック代表選手の選び方は、前回のオリンピックが終わったときに決まったんだ」
栄一,「前のオリンピックのときがさ、ポイント制っていうやつで、とっても揉めたんだ。だから、今回、いろいろ悩んだみたいなんだけどね」
京介,「え? 誰が悩んだんだ?」
栄一,「オールジャパンフィギュアスケート連合」
ハル,「なんかゾクみたいすね。なんで横文字なんすかね。普通に日本フィギュアスケート連盟でいいじゃないですか」
栄一,「ダメなの! そういうの出したら怒られるの!」
ハル,「あ、はあ……」
栄一,「あー、なんの話だっけ?」
京介,「再来年のオリンピックの代表選手に選ばれるにはどうすればいいのかってこと」
栄一,「あ、そうだ。もちろん、京介くんの言うように、来年のいまごろの成績が重要視されるんだけどね。厄介な条件がいくつかあってさ?」
京介,「厄介な条件?」
まるでおれのおうむ返しを期待していたかのように、栄一が無知をあざ笑う顔になった。
栄一,「世界大会の出場経験が必要なの」
京介,「あ、そうなの? じゃあ、なにか? もし花音が来年の世界大会を逃したら、来年の成績がマックスハートだとしても再来年のオリンピックには出られないんだな?」
ハル,「マックスハートて……」
栄一,「いちいち若干スベりたがるよね……」
……うるせえな。
京介,「そりゃ、ちょっとまずいんじゃねえか? だって、次回の世界大会の日本選手の出場枠は一つだろ?」
栄一,「ひどいことにね」
京介,「たとえば花音以外に調子の出てきた選手がいても、世界大会に出たことないもんだから、オリンピックには出られない選手が続出するかもしれないじゃねえか」
栄一,「もちろん、過去二季以内の世界大会出場経験だけどね。日本は去年も一昨年も出場枠三つもってた強豪だったからさ。まさか今期がこんなことになるなんて思ってなかったんじゃないかな」
椿姫,「口はさんでごめんね。その規定って、取り消しになるかもしれないんだよね?」
京介,「だろうな。いきなり日本が弱くなったものだから慌ててるんだろ」
栄一は我が意を得たりと、偉そうに大きくうなずいた。
栄一,「花音ちゃんにしたって、前回は棄権したわけだからね。出場資格はあったんだから、まずだいじょうぶだろうね」
まあ、そんなもんだろ。
スポーツだ芸術といっても、人気商売なわけだからな。
数字の取れる花音をどこのテレビ局もスポンサーも押し出したいだろう。
ハル,「なんにしても、花音が全国大会で優勝すれば文句ないわけですよね?」
花音,「ん、そういうことだねー!」
花音は相変わらず、真冬の陽射しの照り返しみたいなまぶしい笑顔で、元気よく腕を振り上げた。
;```章タイトル
;第三章  悪魔の殺人
;黒画面
…………。
……。
;"魔王"アイキャッチ
まおう,「なにやら、お困りのご様子ですね」
久方ぶりに呼び出されたが、染谷は相変わらず眉間に深いしわを刻んでいた。
染谷,「だから、君を呼んだんだ」
まおう,「左様で」
染谷の瞳に媚の色が浮かんだ。
染谷,「浅井花音を知っているだろう?」
まおう,「ええ。私の妹ですよ」
冷たく笑うと、染谷は破顔した。
染谷,「面白い冗談だ。あんな人気選手が妹なら、さぞ鼻が高いだろう?」
まおう,「いえ、手のかかる妹でしてね。一度、身の程を思い知らせてやらねばと考えているところでした」
染谷,「ぜひ、そうしてもらいたいんだがね」
目を光らせ、顔をこわばらせて染谷は言った。
まおう,「詳しくお伺いしましょう」
染谷は息をつめて、おれの目を見つめた。
染谷,「瀬田真紀子という選手を知っているかね?」
まおう,「たしか、前回の世界大会に出場したとか……その程度ですね。あいにく芸術には疎いものでして」
染谷,「芸術!? フィギュアスケートが!? あんなものはただのショービジネスだよ。見世物小屋と変わらん」
はき捨てるように言う染谷に、しかし、おれはなんの感情も抱かなかった。
染谷,「瀬田は、うちが資本を出してるクラブの所属でね。前回はいろいろと手を回して世界にまで出させてやったんだ」
まおう,「なるほど。あなたに言わせれば、瀬田は子飼いの剣闘士のようなものですか。いいでしょう。私はあなたのそういった人の見くびり方に品のないところが好きだ」
染谷,「褒め言葉と受け取っておくよ。それで、その瀬田なんだがね……」
まおう,「ええ……」
染谷,「今シーズンは調子も出てるんだ。グランドシリーズのロシア大会では二位だったしね」
まおう,「しかし、浅井花音の人気には及ばないわけですか」
染谷,「ご推察痛みいるね。採点競技は人気が全てだよ。たとえ瀬田が同じ演技をしても、審判も観客も花音に点を入れるだろうね」
まおう,「実力はどうなんでしょう?」
染谷,「瀬田も技術の堅実さなら花音に遅れを取るもんじゃないらしいがね、華がないんだよ」
まおう,「華とは?」
染谷,「わかりやすいのはジャンプだな。花音はトリプルアクセルにくわえ、先のカナダ大会では四回転ジャンプにも挑戦している」
まおう,「成功したんですか?」
染谷,「両足で着氷して、さらにバランスを崩して手をついてしまったらしいな。危く史上初の記録が出るところだったよ」
まおう,「ほう、たしかに、大衆の興味を引く選手のようですね」
おれは苦笑しながら頭を振った。
まおう,「で、私になにをしろと?」
染谷,「わかっているくせに、ずいぶんと人が悪いな」
染谷は顔をゆがめ、おれに哀願するような口調で訴えた。
染谷,「高くつくのはわかっている。しかし、君ほど頼もしい男もいないんだ」
まおう,「非合法な手口がお望みなら、あなたにもお抱えの連中がいるでしょう?」
染谷,「ヤクザどもも、今回ばかりは無理だ。なにせ、浅井花音のバックに総和連合がついているのは周知の事実。報道こそ決してされないがね」
まおう,「……ふむ」
心に揺れるものはあった。
先の身代金誘拐事件は、ほぼおれの勝利と言っていい結果になった。
けれど、いくらか危い局面もあった。
椿姫の心境次第では警察も動いただろうし、セントラル街では宇佐美に腕をつかまれるところだった。
これ以上の『お遊び』は控えるべきなのだろうが、どうにも血が騒ぐ。
まおう,「暴力団が背後にいるのならば、逆にいえば警察が出てくることはなさそうですね」
染谷,「少なくとも、ヤクザがすんなりデカに泣きつくことはないだろうね」
染谷の声は期待に弾んでいた。
おれは染谷を見据え、心のなかで念を押した。
……高くつくぞ。
まおう,「近頃、頭痛がひどいのですよ」
染谷,「頭痛? 医者にかかったらどうかね?」
まおう,「医者では治せません。長年患っている持病でしてね」
染谷,「これは、驚いたな。初めて君の人間らしい一面を覗いたよ」
なにやら恐縮するそぶりを見せる染谷に、おれは意図的に笑みを作った。
まおう,「ご安心ください。お引き受けしましょう」
病状を理由に断られるかと思っていたらしい。
染谷,「いいのかね?」
しかし、すぐに狡猾な笑みを口元に携えた。
染谷,「花音は、君の家族なのだろう?」
冗談を言ったつもりらしい。
まおう,「家族と人間のクズとは、いくらでも両立します」
おれの顔があまりにも酷薄だったのか、染谷は目を丸くして口をすぼめた。
まおう,「私も救われない男でしてね。策謀を巡らし、人を陥れているとね、痛みが引くのです」
染谷,「救われんね。まるで他人の生気でも吸って生きているようなものじゃないか」
まおう,「まさに」
うなずいて、黒い笑いを交換し合った。
;黒画面
頭痛は、ひいていた。
その夜は、いつもよりはるかに穏やかに、春の陽だまりのような眠りに落ちることができた。
;背景 中央区住宅街 夕方
夕時を迎え、赤黒い地平線が、四角や三角の屋根に切り刻まれている。
花音,「兄さん、今日どうしてガッコさぼったの?」
京介,「お前こそなんだ、こんな時間に」
浅井興業の事務所があるセントラル街からの帰り、自宅マンションの前で花音とばったり出くわした。
京介,「練習はどうした? もうすぐ大会だろ?」
花音,「いまから行くよー、兄さんと一緒にね」
京介,「え? おれも?」
花音,「うん。たまには観ててよ」
京介,「いやいや、練習の邪魔をするわけにはいかんだろ」
花音,「いいから」
京介,「う、腕をつかむなっての」
花音,「いいからいいから」
京介,「お、おい! 抱きついてくんな!」
花音,「ロシアの挨拶だよ?」
京介,「うるせえ。近所の目ってもんがあるだろうが」
花音,「まったく兄さんは日陰っ子だなあ」
京介,「おれはお前と違って目立つのが大嫌いなんだ」
花音,「ほえー?」
京介,「ほえー、じゃねえよ。こんなところを、週刊誌にあげられてみろよ、大変なことになるぞ?」
花音,「そうかな? いままで一度もプライベートな写真取られたことないよ?」
京介,「あったんだよ!」
花音,「ないよー」
……あ、そういえば、記事になる直前に権三が編集部に殴りこんで、もみ消したんだったな。
京介,「いや、まあ、なかったわ」
花音,「変な兄さん。ほら、行くよー? 来ないともっとくっついちゃうぞー?」
京介,「……わかったよ、しゃーねーな」
渋々うなずいた。
花音,「あ、言い忘れてた。パパリンも来るって」
京介,「え? マジで?」
花音,「なんか兄さんにお話あるって言ってたよ?」
京介,「バカ、それを早く言えよ」
おれたちは、一路スケートリンクを目指した。
;背景 スケートリンク外観 夕方
花音,「じゃあね。休憩時間になったらいっしょにご飯しようね」
京介,「ああ……」
花音は、長い足を見せつけるように軽快に去っていった。
おれは客席に至る入り口を探して、巨大な施設のなかに向かう。
……と、そのときだった。
ハル,「ちわす」
京介,「なんだてめえ……!?」
ハル,「今日も冷えますねえ」
京介,「上着羽織れよ。ていうか、急に沸いてくんなよ」
ハル,「バイトはお休みですから」
京介,「そうか。よかったな。だったら一人で遊んでろ」
ハル,「ちなみに浅井さんは、今日の学園はなぜにブッチされたんですか?」
京介,「おれと会話を合わせる気がないのか?」
ハル,「あ、お仕事ですか、そうですか」
京介,「…………」
ハル,「怒りました?」
おれは太いため息をついて、これみよがしに舌打ちした。
ハル,「実は、なぜ自分もここにいるのかわからないのです」
京介,「記憶喪失かよ」
ハル,「いえいえ、しかし、記憶喪失の少女って、どうして美人で色白でいつも病院のベッドにいるような善人ばっかりなんですかね?」
京介,「美人で善人のほうが、死んだときにドラマ的に泣けるからだろうが。そんなことより、どっか行けよ」
ハル,「そういうわけにもいきませんでね。さ、行きましょうか」
宇佐美はおれに背を向けて足を施設に向けた。
京介,「あ、おい……!」
大会を間近に控えている今の時期は、一般客は来場できないはずだが……?
;スケートリンク客席
リンクでは、すでに何人かの選手が練習を開始していた。
衣装を着て滑走する選手も多く、さながら氷上に色のまばらな花が咲いたようにも見えた。
ハル,「うわ、広いっすねえ……」
すんなり入場した宇佐美。
ハル,「爆弾でもしかけられたらどうするんですかねえ」
京介,「お前、どうやって入ったんだ?」
ハル,「いや、別に、受付で事情を話しただけです」
京介,「事情だ?」
宇佐美に詰め寄ったそのとき、後方の客席から声があがった。
浅井権三,「俺が呼んだ」
振り向くと、見知った悪漢の姿があった。
取り巻きのヤクザ――たしか飯島とかいう名前のボディーガードを脇に従えている。
浅井権三,「お前が、宇佐美ハルか?」
ハル,「…………」
宇佐美は、どういうわけか、まるで能面のような無表情を顔に浮かべ、ゆっくりとうなずいた。
京介,「お養父さん、これは、どういう……?」
なぜ、権三が宇佐美を呼び出したんだ。
浅井権三,「つい先ほど、俺の家に一通の封書が届いた」
権三は、じっと宇佐美だけを探るような目で見据えていた。
浅井権三,「内容はざっとこうだ」
浅井権三,「浅井花音が日本代表に選ばれた場合、花音の母親を殺す」
瞬間、息が詰まった。
京介,「脅迫、というわけですか……?」
権三は、おれの問いには答えない。
京介,「しかし、そういった手紙が届くのはよくあることなのでは?」
花音のことだから、ファンレターはもちろんのこと、頭のおかしい人間から怪文が来てもおかしくはないだろう。
浅井権三,「黙れ、京介」
一瞥され、おれは身がすくむ思いだった。
権三の態度は、おれがなにか失態を犯したときのものだ。
すぐに思案する。
京介,「すみません……お養父さんのご自宅に届いたんでしたね」
考えてみれば、まずそこがおかしい。
花音の所属しているクラブではなく、なぜ、父親の自宅に宛てつけられたのか。
そして、この場になぜか宇佐美が呼び出されている。
浅井権三,「差出人は"魔王"だ。わかるな、宇佐美?」
ハル,「…………」
宇佐美は、押し黙って、首を縦に振った。
浅井権三,「"魔王"について知っていることを話せ」
ハル,「…………」
浅井権三,「どうした? 京介が言うには、お前と"魔王"はただならぬ因縁があるそうだが?」
ハル,「…………」
口すら開かない。
相変わらず、一切の感情が欠落したような顔で、じっと権三を見つめ返していた。
浅井権三,「おい」
ハル,「…………」
浅井権三,「口がきけねえのか?」
権三の傍らに直立していたヤクザが、一歩身を乗り出した。
それを手で制する権三。
浅井権三,「"魔王"を追っているのだろう?」
ハル,「…………」
浅井権三,「動け。尻尾をつかんだら俺に言え」
ハル,「…………」
浅井権三,「いいな?」
言い放つと、権三はおれたちに背を向けた。
取り巻きも権三の後に続いていった。
京介,「おい、宇佐美……?」
権三が去ると、不意にスケートリンクに活気が戻ったように、コーチの掛け声や選手の氷を切る音が耳についてきた。
……まったく、なんてことだ。
宇佐美に、権三の存在が露見したのもそうだが、またしても"魔王"だと……!?
今度は、花音への脅迫?
いったい、何が目的だっていうんだ。
京介,「宇佐美、なにぼーっと突っ立ってんだ」
ハル,「…………」
京介,「おい、こら。考えていることを少しは話せよ」
ハル,「……っ」
かすかにうめいた。
ハル,「い、いや……」
京介,「なんだ?」
直後、雄たけびが上がった。
ハル,「いやああ、びっくしたああああー!!!」
京介,「……は?」
呆気に取られるおれ。
ハル,「びっくしたー、おぉぉおぉぉー、びっくしたー!」
京介,「な、なんだなんだ、落ち着けよてめえ……!」
ハル,「いやいやいやいや、浅井さんっ!!!」
丸まった目が、自分は仰天していますと主張していた。
ハル,「な、なんなんすか、あの人は!? ええっ!?」
京介,「……だからおれの親父だってば」
ハル,「うそでしょうが!? だって、アレ、モノホンじゃないですか!? モノホンのコレモンじゃないですか!?」
しきりに親指で頬を切るような仕草を繰り返していた。
京介,「いや、親父だから」
ハル,「だって、パパリンとか呼んでたじゃないすか!?」
京介,「あ、ああ……」
ハル,「パパリンってなんすか!? パパリンってレベルじゃないすよ!? あれどう見ても親分じゃないですか!?」
京介,「……そうだな……」
ひょっとしてこいつ、さっきずっと黙ってたのは、権三にびびってたからなのか……?
ハル,「いやあ、死んだふりをしてなんとかやり過ごしましたけどねー。危なかったー。あの人絶対ひと殺したことありますよ」
京介,「やっぱりびびってたんだな?」
ハル,「……し、心外な。勇者とは勇気ある者のことです。相手がモノホンの親分でもびびったりしません」
おれは軽く頭痛を覚えながら、宇佐美に言った。
京介,「で、びびりながらも話は聞いてたのか?」
ハル,「ええ、まあ……」
京介,「どう思った?」
ハル,「ですから記憶喪失の少女は美人に限るな、と」
京介,「めちゃめちゃ記憶が飛んでるじゃねえか」
ハル,「え?」
京介,「"魔王"だよ。また"魔王"が暗躍してるってよ」
ハル,「それはまったく、笑い事ではありませんね。さ、詳しく話してください」
京介,「…………」
……こいつ、本当にだいじょうぶなのか?
;場転
練習に明け暮れる選手たちを尻目に、おれたちは会話を続けていた。
ハル,「いえね、今日の学園帰りにいきなり先生から言われましてね、浅井さんのお父さんが呼んでるって。ミステリでしょう?」
京介,「権三もいきなりだな……」
ハル,「権三さんというんですか。ますますパパリンから遠ざかっていきますね」
京介,「誰にも言うなよ」
ハル,「言えませんよ。しゃべったら東京湾に沈められてしまいますからね」
いまどきコンクリ詰めにされるようなことはないと思うが……。
京介,「それで、"魔王"のことだが……?」
ハル,「ええ。現時点ではなにもわかりません」
きっぱりと言う。
ハル,「権三さんの自宅の所在を知っている人物こそが、"魔王"です」
京介,「おおざっぱすぎるな。幹部組員はもちろん、権三と付き合いのある人間すべてが容疑者になっちまうぞ」
ハル,「ええ、ですから、わたしは"魔王"じゃありませんね」
京介,「んなことはわかってんだよ」
ハル,「さらにいえば、権三さんと花音の関係を知っていて、なおかつ花音が敗退すると得をする人物です」
京介,「なら、おれも"魔王"じゃないな」
ハル,「そうなんすか?」
京介,「もうこうなったらばらすが、花音の所属しているクラブは、おれの関係している会社が金だしてんだ」
ハル,「それが、浅井興業ですか? いわゆるフロント企業というヤツだったんですね? ヤクザが資金洗浄や、法律の目を逃れるためによく設立するという」
京介,「厳密にいえば金を出しているのは浅井興業じゃなくて、権三が持ってる会社の一つなんだが……まあ、それはいいとしておれが"魔王"じゃないことはわかっただろう?」
ハル,「そうですね。花音が負けたらなにかと損するのでしょうね」
京介,「いわゆる、面子も丸つぶれだしな」
ハル,「妹を脅迫してなおかつ、自分の母親を殺そうだなんて鬼畜にもほどがありますよね」
京介,「ああ……」
ひっかかるものがあって、口をすぼめた。
京介,「えっとな、その、母親なんだが……」
ハル,「なるほど、浅井さんの実のお母さんではないんですね?」
京介,「なんでわかった?」
ハル,「いえ、さきほどのお話では、権三さんはこう言われたのでしょう。浅井花音が日本代表に選ばれた場合、花音の母親を殺す、と」
うなずいて、宇佐美の話の先をうながした。
ハル,「花音の母親を殺すということですが、もしこれが、"魔王"の脅迫文そのものだったとしましょう。すると、少し表現が怪しいです」
京介,「……なるほどな」
ハル,「脅迫状が、権三さんに宛てられているのならば、文面は『お前の妻を殺す』となりそうなものです」
ハル,「ここで、たとえば『お前の妻』では文意が通らなかったとしましょう。すると、花音の母親は、権三さんの妻ではないということになります」
ハル,「母親だけど、妻じゃない、これはいかに……?」
京介,「わかった、わかった。愛人だったんだよ、昔のことだけどな」
ハル,「花音は連れ子というわけですか?」
京介,「いいや、権三と、その愛人の間にできた子供だ。ちなみにおれが権三の養子なんだ」
ハル,「ぶっちゃけ似てませんもんね。あなたと権三さんは」
京介,「花音と権三は血がつながっているけど……?」
ハル,「いや、その辺は、ギャルはかわいくなきゃみたいな恣意的なオトナの力が働いているわけでして、わたしにはなんとも……」
京介,「……ま、まあいい」
宇佐美に釘をさしておく。
京介,「このことはぜったいに言うなよ。花音はいまでも、自分が妾の子だなんて知らないはずなんだからな」
ハル,「わかってますって。東京湾が血の海になりますからね」
恐怖にがたがたと震える素振りをみせた。
ハル,「で、そのお母さんは、いまなにを?」
京介,「郁子さんと言うんだがな……」
おれはどうもあの人が苦手だ。
ハル,「おや? 花音ですね……」
ふと、宇佐美が後方の客席を振り向いた。
花音,「おーい、兄さん!」
手をふっていたので、おれも軽く手を掲げた。
花音,「あれ? うさみんもいっしょなの?」
ハル,「うむ。わたしもペンギンのはしくれだからな。氷が恋しくなったんだ」
ふざけたことを言いながら、宇佐美の視線は、花音の脇にいる人物に注がれていた。
郁子,「どうも、こんにちは」
穏やかな笑みを浮かべる。
郁子,「久しぶりね、京介くん。元気だった?」
京介,「ええ、郁子さんもお変わりなく」
ぎこちなく頭を下げる。
京介,「花音の調子はどうです?」
尋ねると、不可解な間をおいて、ようやく花音にあごを向けた。
郁子,「だって。どう、花音ちゃん?」
花音,「どしてわたしに聞くのかな? コーチから見てわたしはどうなのってことだと思うよ?」
郁子,「あら……?」
また、一息入れるような間があった。
郁子,「そうなの、ごめんなさいね」
なにやら困ったように目尻を下げて笑った。
花音,「わたしは絶好調だよ、兄さん」
不意に花音が取り繕うように言った。
郁子,「そうね、花音ちゃん」
花音,「え?」
郁子,「だから、好調よねって」
花音,「うん」
郁子,「だって、京介くん」
京介,「あ、はい……」
どうにも郁子さんのテンポには慣れがたいものがある。
ハル,「そんなことより夕飯の話しませんか?」
こいつはこいつで会話を乱す。
花音,「うん、お腹すいたー。テラスでご飯食べよー」
郁子,「花音ちゃん、七時からまたジャンプの練習ね」
花音,「え? また? 曲流して欲しいよ」
郁子,「そう……?」
ぼんやりとした顔つきになって、直後気を取り直したように言った。
郁子,「ヒルトン先生がそう言ってたから」
花音,「そうなんだ……じゃあ、やるよ」
郁子,「お願いね」
花音,「うん、だからわかったよ」
花音の顔に困惑を通り越して疲労の表情が浮かんだ。
郁子,「じゃあね、京介くん。花音も寂しがってるから、たまにはうちに顔を出してね」
京介,「……すみませんね、いつも忙しくて、なかなか挨拶にも行けませんで」
郁子,「そんな堅苦しくなることないのよ。私はあなたのお母さんじゃありませんけどね」
……当たり前だ!
思わず喉まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
郁子,「では、ごきげんよう」
……どうにも勝手が違うというか、調子が狂う。
いまにしたって一言多かったわけだが、それに気づいていないというかなんというか……。
花音,「さ、兄さん、ご飯ご馳走してー」
京介,「ああ……」
花音,「あれれ? ほんとにゴチなの? 珍しいなー」
ハル,「いやいやすみませんね、浅井さん」
ぼんやりと返事をしてしまったが最後、宇佐美のイソギンチャクみたいなもみ手が、目前に迫っていた。
京介,「貸しにしておくからな……」
;背景 スケートリンク外観
三人で夕飯をともにすると、すっかり辺りは闇に包まれていた。
ハル,「花音は夜遅くまで練習ですか。大変ですねえ」
京介,「九時くらいから筋トレしてランニングするみたいだな」
ハル,「ははあ、氷の上だけじゃなくて地面の上でもがんばらなきゃいけないわけですね」
京介,「あのちゃらんぽらんな性格の裏で、そりゃ血の滲むような努力をしてるんだろうな」
ハル,「そんな花音を陥れようだなんて、まったく、"魔王"は最低の人間ですね」
京介,「ああ……」
隣を歩く宇佐美が、ぼさぼさの髪から目だけを覗かせる。
ハル,「なんとしても、捕まえたいものですね」
京介,「またお前がしゃしゃり出るのか?」
ハル,「今回は警察も頼れないでしょう?」
京介,「む……そうだな」
"魔王"からの脅迫状は、権三宅に届いた。
権三はこれを挑戦状と受け取ったに違いない。
自らの力だけで、己に刃向かった愚か者を吊るし上げることだろうな。
ハル,「なにより、権三さんに動けと言われた以上、なんにもしなかったら東京湾ですからね」
京介,「いや、別に権三はお前に期待しているわけじゃないと思うぞ」
ハル,「それはわかっていますよ。現時点で"魔王"へのつながりがありそうなわたしを、とりあえず泳がせてみたいんでしょう」
……そんなところだろうな。
ハル,「警察を頼らせない辺り、椿姫のときと同じニュアンスを感じます」
宇佐美の顔が引き締まった。
ハル,「"魔王"はまた、わたしと『遊ぶ』気ではないかと」
京介,「しかし、今度はそう容易くはないだろうな」
ハル,「ええ。自分も雪辱を晴らします」
京介,「いや、お前はともかく、"魔王"は、権三以下、有象無象の極道たちを完全に敵に回したわけだろう? 警察とやり合ったほうがまだ良かったとおれは思うがね」
ハル,「よほど、自信があるんでしょうね」
京介,「お前も今回は自信ありか?」
ハル,「さあ……」
小首を傾げて、目の前のくそ長い髪の束を、いじりだした。
ハル,「ひとまず、明日もう一度、権三さんにお会いしたいですね」
京介,「……なぜだ?」
ハル,「封書が届いたときの状況なんかを詳しくお聞きしたいので」
京介,「伝えておくが、もう権三にびびるんじゃねえぞ」
ハル,「耐性はついていると思いますが、浅井さんも同行してくださいね。自分ひとりだと、ヘビににらまれた蛙になってしまいますから」
京介,「わかった。じゃあな」
宇佐美に別れを告げると、スケートリンクを後にした。
;背景 中央区住宅街 夜
京介,「……って、なんでまだついてきてんだよ」
ハル,「ですから、家が近くなもので」
京介,「本当かよ!?」
静けさに溢れた住宅街で、思わず叫んでしまった。
京介,「どこに住んでるんだよ?」
ハル,「ですからここをまーっすぐ行くと細かい路地がありますよね」
京介,「ああ……」
ハル,「その先を抜けると、コンビニがありますよね?」
京介,「あるな」
ハル,「ま、コンビニは、おいといて……」
京介,「関係ねえのかよ!」
ハル,「路地に入る前に信号がありますから、そこをひとまず右往左往……」
京介,「もういいよ右往左往とか。要するに教えたくないんだろ?」
ハル,「それなりに人間らしい生活はしていますんで、ご安心ください」
軽く頭を下げると、前髪が水面の葦草のように揺れた。
京介,「なんだかお前につきまとわれているような気がするな」
ハル,「ええ、自分は浅井さんのそばにいたいと常々思っておりますから」
京介,「気持ち悪いな……」
ハル,「明日は、学園に出られますか?」
京介,「出るよ」
ハル,「しかし、浅井さんがよくさぼられるのは、権三さんのお仕事を手伝っているからなんですね。そりゃ、学園なんて行ってられませんね」
京介,「誰にも言うなよ」
ハル,「もちろん言いませんが、浅井さんは本当に目立ちたがらないですね」
京介,「うるせえ」
宇佐美としゃべっていると、いつの間にか自宅マンションのすぐ手前まで来ていた。
ハル,「今度また、お邪魔させていただきますね」
京介,「来なくていいから」
ハル,「いえいえ、次はわたしの特技を披露しにうかがいますから」
京介,「特技だ?」
ハル,「座禅です」
京介,「お前が座禅組んでる様子を見て、おれが面白いと思うのか?」
ハル,「跳ねますから自分」
京介,「いいよ、気持ち悪いから」
ハル,「浅井さんは大のクラシック好きと聞いてますから、きっと満足されると思いますよ」
京介,「あー、うるさいもう失せろ」
ハル,「はい、おやすみなさい」
宇佐美を無視して、マンションのエントランスに向かった。
;背景 主人公自室 夜
……宇佐美と話してると頭がおかしくなりそうだな。
真面目に取り合わないのが一番なんだろうな。
顔を洗ってベッドに体を沈める。
一息ついて、今日起こった出来事をまとめようとしたときだった。
来客を告げる音色が鳴り響いた。
……また宇佐美か!
インターホンの画面を覗いて叫んだ。
京介,「しつけえんだよ!」
椿姫,「えっ! ご、ごめんなさい!」
インターホンの画面の向こうで、椿姫が身をすくませた。
京介,「……すまん、椿姫か」
椿姫,「ごめんね、忙しかった?」
京介,「いいや。なにか用か?」
椿姫,「ううん。ちょっとしたご挨拶だよ」
京介,「挨拶?」
ピンとくるものがあった。
京介,「引越しが終わったのか?」
椿姫,「おかげさまでね」
純粋そうな目に、思わず目を逸らした。
京介,「そうか。とりあえず上がっていけよ」
オートロックの玄関を開放して、椿姫を招き入れた。
;場転
椿姫,「お邪魔します」
なにやら四角い包みを差し出してきた。
京介,「そんな気を使わんでもいいのに……」
椿姫,「京介くんのおかげで、引越しもスムーズに終わったから。あそこって、この辺にしては奇跡みたいに安いんだね」
京介,「だな……」
椿姫,「今度、遊びに来てね」
京介,「ああ……」
曖昧にうなずきながら、決して椿姫の新居を訪ねることはないだろうと予感していた。
椿姫たちを田舎の家から追い出したのは、おれだ。
引け目を感じるほど弱くはないが、椿姫の前で友達然とした態度を取っていられるほど面の皮も厚くない。
椿姫は、他人だ。
ただの、金のない女だ。
椿姫,「えっと、お仕事、どうかな?」
京介,「もう手伝わなくていいぞ。ありがとうな」
冷たく言った。
椿姫,「それじゃ、おやすみ」
椿姫は、おれの声色にいつもと違うものを感じ取ったようだ。
京介,「おい、椿姫」
玄関で靴を履き始めた椿姫を呼び止めた。
おれはとっさに言葉を失った。
京介,「また、金のトラブルで困ったら相談してくれ」
なんの意味もなく、慰めにも自己満足にもならないことを口にしてしまった。
椿姫,「ありがとう。浅井くん」
呆然と、椿姫の後姿を見送った。
また、目まいがする。
吐き気すら覚える頭痛は、どういうわけか、決まったパターンにしたがって襲いかかってくる。
誰かを哀れんだり、同情したりすると、心が騒ぐのだ。
京介,「仕事をしよう……」
つぶやいて、ふらついた足取りのまま、書斎にこもった。
その晩は、意識がはっきりとせず、夢遊病者のように深夜の外出を繰り返した。
;背景 マンション入り口
寒さも手伝って、今朝は体も活動を拒否したかのように、がちがちに固まっていた。
花音,「さーむいねぇ」
京介,「おう、お前が迎えに来なかったら、確実にさぼってたわ」
栄一,「まったく京介くんが進級できてるのが、信じられないよ」
京介,「つーか、なんで栄一もいるんだ?」
栄一は、花音の肩に手を置こうとして、身長差に慌てだした。
栄一,「とにかく、ボクは花音ちゃんの専属コーチになったから」
京介,「ちょっとちょっと、わけわからん遊びはやめろよ」
栄一,「花音ちゃんも了解済みだから」
花音,「はい、コーチ」
コーチ呼ばわりされた栄一は、偉そうに胸を張った。
京介,「なんでそんなことになったんだ?」
花音,「きのう、エイちゃんと電話してたら、エイちゃんがけっこー詳しいことが発覚したの」
京介,「詳しい?」
栄一,「スケートだよ。ボクはね、ペットとスケートと三国志においては誰にも負けない知識を備えているんだ」
京介,「ふーん」
つーか、こいつら、電話とかしてるんだな。
栄一,「これからは二人三脚でオリンピック目指すんだもんね」
花音,「うんうん」
栄一,「花音ちゃん、学園にいるときは、ボクの指示にしたがうんだよ」
花音,「はい、コーチ」
栄一,「じゃあ、ボクのかばん持って」
花音,「ヤダ」
……いきなりダメじゃねえか。
;背景 学園教室 昼
栄一,「花音ちゃん、いつも寝てちゃダメなんだよ」
栄一のお説教が続いていた。
栄一,「スケートしかない人になったらどうするの?」
花音,「金メダル取ったらプロに転向するからいいの」
栄一,「だからダメなんだよ。フィギュアスケートはメンタルなスポーツだよ? 人間性を養ってこそ、観客を魅了するような演技ができるってもんじゃないか」
花音,「でも、のんちゃんエイちゃんよりテストの成績いいよ?」
栄一,「ボクはいいんだよ。男だから」
花音,「男だから?」
栄一,「男はね、糸の切れた凧のようなもんさ。それで女が苦労する」
やたらハードボイルドなことを言っている栄一。
花音,「まあ、わかったよ」
栄一,「そう?」
花音,「うん、おやすみ」
毎朝のことで、机に突っ伏す花音だった。
栄一,「ったくよー……」
栄一なりの憤怒の相で、おれをにらみつけてきた。
栄一,「どうなんよ、マジでこのアマは? ああっ? オメーの妹だろうが?」
京介,「まあ……人の話を聞かないことにかけては天下一品なものがあるが」
栄一,「こりゃマジでやべえよ、オレちゃんがコーチとしてビシっと決めてやんねえと、道を間違えるぜあのアマは」
京介,「いやいや、花音にはちゃんとした母親がコーチしてるじゃねえか」
栄一,「はあっ!?」
京介,「だ、だから顔ちけえんだよ、なんだよ……?」
栄一,「金崎郁子はもうとっくにコーチじゃねえよ」
京介,「は? お前こそなに言ってんだ?」
栄一,「花音のコーチは名将ジョージ・ヒルトンだろうが」
京介,「あれ? そうだっけ? おれの断片化された記憶では、たしか母親がコーチをしてるのが珍しくて、それで花音も注目を浴びて……」
栄一,「オメーの頭はどんだけ断片化されてんだよ。今シーズンからフィギュアスケート連合の要請でヒルトンが花音についてんだよ」
京介,「いや、だって、花音も郁子さん……ママのことをコーチって呼ぶぜ?」
栄一が、あからさまな侮蔑をこめて、深いためいきをついた。
栄一,「いいか、オメーのその要デフラグな脳みそにちゃんと書き込んどけよ?」
京介,「お、おう……」
栄一,「花音みてーに才能がありそうな選手はよー、連合の指示でそれまで世話になった地元の先生から、時期を見てたいてい海外の実績のあるコーチに移籍させられるんだよ」
京介,「ははあ、なるほどな……」
栄一,「でもよー、ガキのころからずっとお世話になってたわけだろ? 花音の場合は金崎郁子か? 愛があるわけだよ」
京介,「わかったわかった。コーチじゃなくなったからって、もうお払い箱ってわけでもないだろうな」
しかし、郁子さんも大変だな。
いきなり仕事を奪われたわけだからな。
その辺の経済的フォローはあるのかね……どうでもいいが。
京介,「で、そのジョージ・ワシントンってのはすごいのか?」
栄一,「ぬりいぃぃんだよっ! てめえ、わざと間違えただろうが!」
京介,「ぬるいとか言うな」
栄一,「ヒルトンはよー、半端ねえぞ。選手時代にオリンピックに二度出場してどっちも表彰台に上がってる。四十年くらい前の世界大会では金メダル、翌年も銀。引退してからは有名選手を次々に……」
京介,「あー、わかったわかったすごいすごい」
栄一,「ぬりいぃぃんだよっ!」
京介,「とにかく、その人に任せておけば花音も万全なわけだろ?」
栄一,「まあな」
京介,「じゃ、お前なんかぜんぜんいらねえじゃん」
栄一,「オレはともかくお前がそれじゃ話になんねえよ」
京介,「おれが?」
栄一はビシッと指を突きつけてきた。
栄一,「なんでテメーはそんなに興味ないんだ? 妹がオリンピック行くかもしれねえんだぞ?」
京介,「興味はあるってば」
栄一,「普通の親兄弟はよー、とにかく気が狂うくらい応援するらしいぜ? 娘がオリンピックに出るためなら学校だって辞めさせますってな勢いだ。コーチの指導に口はさむのもいるらしいぜ?」
京介,「だから、興味あるってば。あれだろ? スケートだけにスゲー、トぶんだろ?」
栄一,「…………」
京介,「…………」
栄一,「ぬ、ぬりいぃぃんだよっ!!!」
;背景 屋上 昼
京介,「わかったわかった、グランドシリーズってのは、いわゆる賞金戦で、選手権じゃないんだな」
栄一,「だから、必ずしも世界最強が決まるわけじゃないんだ。棄権する選手もいるからな」
昼休みになっても、栄一の説教は続いていた。
ハル,「なるほどですね。花音は今後そのグランドシリーズのNKH杯とシリーズ決勝戦であるファイナルというのを控えてるわけですね」
なぜか宇佐美も勉学に加わっていた。
京介,「で、今年最後に、日本最強決定戦である全国大会が行われるわけだな?」
ハル,「でも、世界大会は来年の三月ですよね? やけに間があきますね」
栄一,「その辺がアメリカとかと違うところでね、選手のコンディションにもブランクが出るってのに」
栄一は、なにやら我がことのように不満げな顔をしていた。
ハル,「で、もう一度聞きますが、世界大会に出るには、全国大会で優勝しなければならないんですよね?」
栄一,「いちおう、現状の取り決めではそうなってるね」
ハル,「では、たとえばグランドシリーズファイナルで優勝しても関係ないんですね?」
栄一,「昨日も言ったけど、いちおう考えるみたいな曖昧なことになってるみたいだよ」
ハル,「と、言いますと?」
栄一,「たしか、全国大会で、一位と二位の選手の得点差が一位の選手の十パーセント以内だったらとかそんな感じ」
ハル,「それは現実的に意味のある規定なんですかね?」
栄一,「あるよ、もちろん。けっこう僅差で決まることがあるからね」
京介,「ほう?」
栄一,「女子フィギュアはショートとフリー合わせて二百点いかないくらいだからね」
ハル,「なるほど、二位の選手と二十点くらいの差をつけなければ、世界への切符が確実とは言えないわけですね」
宇佐美がしきりにうなずく理由がようやくわかった。
ハル,「ファイナルで優勝すると、"魔王"のご機嫌もかなり悪くなるわけですか……」
京介,「しかし、考える、ってのが実に曖昧だよな」
栄一,「でしょ? なにかと腹黒いんだよねー」
もし、花音が全国大会で優勝するとしても、ファイナルを落としていた場合、二位の選手と大差をつけて勝たなくては、世界は怪しいってことか……。
京介,「で、花音のほかに、強豪はいるのか?」
栄一,「んー」
栄一はらしくない仕草で、いっちょ前に腕を組んだ。
栄一,「瀬田真紀子かねえ……今年になって調子いいのは」
京介,「ほほー、その人はどんくらいすごいんだ?」
栄一,「ま、花音の武力が90くらいだとしたら、瀬田は85くらいはあると思う」
ハル,「一騎打ちをしたら、ちょい危いですね」
栄一,「人気だけでいったら、花音の戦闘力が1500で、瀬田は5くらいなんだが……」
ハル,「圧倒的ではないですか、我が軍は。しかし、人気というのはちょろちょろ変動するもんでしょう?」
栄一,「瀬田もそこそこかわいいからねー。いままで注目されなかったのは、先の世界大会でわけのわからん負け方したからと、バックについてるスポンサーかな」
京介,「スポンサー?」
栄一,「よく知らないけど、瀬田は山王プリンセスホテル所属だよ?」
京介,「……っ!?」
……面倒なことになったな。
東区の開発の件で、ついこの間まで良好な取引を続けていた山王物産が相手か……。
京介,「そのスポンサーは、なんかやらかしたのか?」
栄一,「いや、もちろん噂だけどね。前回の世界大会でさ、金の力で瀬田を無理やり世界大会に出したとか……」
京介,「根も葉もない噂か?」
栄一,「いいや、なんで瀬田なんだっていう意見は多かったよ? 連合は経験を積ませるためみたいなこと言ってたけど、それにしたってもっといい選手はいたからね」
京介,「けっこう、いまでも騒がれてるのか?」
栄一,「いいや、もうぜんぜん」
おれもたいがい忘れっぽいが、世間もそういうことをすぐ忘れるんだろうな……。
花音,「みんな、なんの話ー?」
花音が、おれたちの輪に割って入ってきた。
栄一,「花音ちゃんのことを話してたんだよ?」
花音,「え? まだコーチごっこ続いてたの?」
栄一,「続いてるよ。君がその手に五輪をつかむまではね」
花音,「もう、飽きたよ」
栄一,「飽きるの早すぎるんだよ! 君には集中力ってものが……!」
花音,「四分は持つからだいじょうぶだよ」
四分は、フリースケーティングの演技時間……だったかな?
栄一,「たとえば、花音ちゃんはよく言われてるだろう? ジャンプは上手いけど、ステップシークエンスはどうなの?」
花音,「それは、おいおい」
栄一,「おいおいじゃないよ、こっちがオイオイだよ!」
花音,「だって、いまの採点方式だったらジャンプができれば他でちょっとミスしても平気だもん」
栄一,「だーかーらー!」
栄一,「極端にいえば、花音ちゃんは、ハドーケンができないのにショーリューケンばっかりうまくなっているようなもんなんだよ……!」
栄一コーチのお叱りはまだまだ続くようだった。
;背景 学園門 夕方
時間は午後四時を回ったばかりだった。
宇佐美がすぐさまおれを捕まえに来た。
ハル,「では行きましょう」
京介,「ああ……っと、権三の家だったな?」
ハル,「まさか忘れてたんですか? 昨日の話ですよ?」
京介,「昨日はいろいろと忙しくてさ」
ハル,「ほう、どちらへ?」
京介,「……いや、それも忘れたが……」
ハル,「一度、医者にいかれることをお勧めします」
……もう行ってるが。
京介,「言っておくが、失礼のないようにな」
ハル,「礼儀作法には自信があります」
京介,「そんな軽口かましたらマジで東京湾だぞ?」
やや緊張気味の宇佐美を連れて、南区に向かった。
;背景 南区住宅街 夕方
ハル,「同じ富万別市でもここは、静かな街ですねー」
整った歩道の両脇にそびえる樹木に、参道を歩いているような印象を受ける。
ハル,「まったく、こんなところを身代金の受け渡し場所に選ぶはずがないんですよね……」
京介,「恨めしそうな顔すんなよ、本当にお化けみたいだぞ?」
しかし、もし、宇佐美がもう少し富万別市の地理に明るかったら、"魔王"の手口に気づけたのかもしれないな。
ハル,「ものものしいくらいにリッチな街並みですね」
宇佐美の言うように、柵や門に囲われていない家を探すのが難しいくらい豪勢な建物が続いている。
京介,「白鳥の家もこの辺だぞ?」
ハル,「そういえば、ここ最近休んでますよね、彼女」
京介,「家庭事情が大変なんだろうな」
ハル,「ふむ……」
人生の勝者が住むに相応しい豪壮な建物と、豊かな緑を宿す大きな木々を尻目に、おれたちは浅井権三宅を目指した。
;背景 権三宅入り口 夕方
ハル,「うわ、これまたいかついすね。庭に池のある家とか初めて見ましたよ」
京介,「ちょっと黙ってろ」
インターフォンをコールすると、しばらくの沈黙の後、女中さんの声が聞こえた。
ハル,「やっぱり、神棚とか日本刀とかあるんでしょうねー」
どこかピクニックに行く前の子供のような顔をしていた。
;黒画面
京介,「京介です。宇佐美ハルを連れてきました」
;SE 棚の引き出しを押す音。
襖越しに呼びかけると、何かをしまったのか、棚を動かすような音が聞こえた。
浅井権三,「入